序、恐怖来る

 

幻想郷。

既に失われた伝承や怪異が住まう隠れ里。博麗大結界という仕組みで外から隔離された、日本の内陸にある理想郷とも言える場所だ。

そこには妖怪の山と呼ばれる富士山より巨大な山が存在していて。

その巨大な規模に相応しく、様々な妖怪が今も住んでいる。

その一つ。

すっかり落ち目になり、問題を起こしまくった挙げ句に未だに監査を受けている集団。天狗。

天狗は幾つかの階級に別れるが。

戦闘を担当し。

歩哨も務める白狼天狗という階級がいる。

別名木っ端天狗。

それだけでも、この天狗達が階級的にどういう存在か分かるのだが。それを不満とも思わず。

いつも生真面目。今でも生真面目に。

白狼天狗、犬走椛は、愛用の剣と盾を手に。山を哨戒していた。

椛は白い髪の毛をショートヘアにまとめ、猛々しい剣と盾を常に手にし。鋭い眼光で周囲に常に気を配っている。女の子の形を取る事が妖怪のスタンダードであるこの幻想郷では、それに習っているが。実の所、椛も妖怪としての自分の本来の姿は、忘れてしまった。椛はかなり若い世代の天狗で、この姿でいることが当たり前になってしまっているからだ。

椛は千里眼の能力を持っているが。

あくまでそれは、能力を持っている、というだけ。

格上の相手の事を見透かすことは出来ないし。

なんでも意図したものが見えるわけでもない。

多少、侵入者を見つけやすくなるくらいであって、それ以上でも以下でもない。

幻想郷では多種多様な能力を持っている事を妖怪が自慢することが多く、「何々をする程度の能力」と自称するのだが。

実際にはあくまで自称であって。

口にしている能力の半分も再現出来ないのが実情だった。

椛もそれは同じ。

自分の無力さは分かりきっている。

それでも真面目に哨戒任務を続ける椛は。だから狗だの何だのと言われる事を理解していたが。

正直な所。

それ以外に自分に出来る事も無いし。

真面目なこと以外に自分に長所がない事も知っていた。

実力も知れている。

そもそも木っ端天狗は天狗の下っ端も下っ端。使い捨ての兵士。

百名もいない天狗だが、それでも階級で組織をギチギチに縛り。

実力者を抜擢せず。

それでいながら「高度な情報化社会を構築している」などという事を、支配者である大天狗達は口にしているようだ。

それを決して良く想ってはいない椛だったが。

だからといって、自分が何をできるとも思っていなかった。

ゆえに、仕事を真面目にこなす。

それしか出来ない。

それが、真面目さを評価されることもある、椛の現実だった。

昔は、威勢良く上役に噛みついたことだってあった。

だが現実問題として、自分の無力さを思い知らされる事が何度もあった。

それに妖怪は成長が遅い。

人間は数年で、大妖怪を凌ぐ使い手になったりもするのだが。

妖怪はどれだけ頑張っても、何百年も掛けてそれでも成長しないことだってザラにある。

椛もそれは同じで、散々修練をしたけれども。上位の妖怪になるような予兆すらもない。

だから、半ば諦めている。

それでも、諦めきれずに未だに修練を重ねている。

そう思うと、自分を絶対に好きにはなれないし。

かといって、今の状況に満足もしていなかった。

忠誠心が高いと周囲の白狼天狗からも見なされ。

それだけが取り柄だと陰口をたたかれることもあるのだが。

それが全て事実だと椛は自嘲していたし。

事実になってしまっている自分を、嫌い抜いてもいるのだった。

山を見て回る。高度が低い場所は、既に守矢神社の領空となっていて、侵入すると確定で撃墜される。

後から来た勢力である守矢だが、既に山の妖怪達の殆どを勢力下に置いていて。天狗もそうなる寸前だった。

元々守矢の祭神は天津の武神と土着神最強の祟り神。

天狗程度で勝てる相手ではない。

ましてや、幻想郷は元々守矢のあった土地に存在していて。そこから500年前に幻想郷が作られたとき、そのまま逃げ込んできた者も多く。

守矢の降臨は、彼らにとってはまさに天啓だったのだ。

それに加えて、天狗が元々数と力に任せて、やりたい放題をしていたという事もある。

今では天狗は孤立し。

そして若手に至っては、独立して天狗の集団から離れ、山の麓で暮らし始めている者が少なくなかった。

見回る範囲が狭くなった。

それは仕事がそれだけ早くなることを意味もしている。

椛は戻ろうとして、屯所の一つに向かう。

途中。

全身を、恐怖が駆け抜けるのを感じていた。

昔この土地を支配していた鬼の気配ではない。

それよりも、もっと恐ろしいもの。

天狗に対する特攻効果持ちの存在。

それが、来ようとしている。

椛だって知っている。

それなりの年月生きているからだ。

それは、十年に一度ほど目を覚まして、天狗を蹂躙するだけ蹂躙していく。

鬼はその存在と相性が悪く、更には天狗が蹂躙されようとどうでもいいらしく。山を支配していた頃にすら、助けてくれた試しが無い。

支配者だった頃は普段は暴力ばっかり振るって支配を押しつけていたのに。肝心なときには助けて等くれなかったのだ。

ともかくだ。

やる事をしなければならない。

屯所に駆け込むと、大将棋という遊戯を山童としていた同僚に叫ぶ。

「天狗喰らいの気配だ!」

「なんだとっ!」

「間違いない! すぐに警戒を!」

椛自身は、鐘に走ると、決められた風に鳴らす。

連絡用に、鐘があるのだ。つり下げたタイプの鐘で、とにかく音が響くように大きい。寺にあるものほどではないが、それでも天狗の住んでいる集落である風穴全部に轟くほどの音は出る。

天狗は今や外では型落ちになった電話を使っているが。

それでは、緊急時にはどうにもならない事が分かっている。

だから鐘を使う。

高度な情報化社会とやらの現実がこれだ。

椛は冷や汗を流しながら、作業を行う。

歩哨としての作業を。

ガンガンガンと三回。その後、ガンガンガンガンと四回を短い周期で二回。それを繰り返す。それが、天敵の到来。その合図だった。

勿論、こんな音を立てていたら天敵の到来を招く。

それでも、椛は鐘を鳴らす。

それが義務だから、である。

同僚が、警戒をほっぽり出して逃げ出すのが見えた。

白狼はどうしても力が劣る天狗だ。

年若いというのはあまり関係がない。

木っ端天狗という名前の通り、下っ端の天狗だから弱い。

それだけの話である。

椛もどれだけ体を鍛えて真面目に頑張っても、全く強くならないことは分かっている。白狼の限界はそれほど上限値が低いのだ。

それが分かっていても、真面目に努力を続けている。

性分なのだ。

そして今も、である。

ひっと、逃げ遅れた同僚が悲鳴を上げるのが分かった。どうやら、もう遅いらしい。悲鳴と同時に重いもので殴ったような音。

それでおしまい。

妖怪は精神が破損すると死ぬ。

人間は肉体が破損すると死ぬ。

幻想郷でのルールだ。

地面に叩き落とされた同僚に、それが覆い被さるのが見えた。みちみち、ぶちぶち。鋭い悲鳴。助けて。椛を放って置いて逃げようとしたそれが、食われているのが分かった。

全部を食わない。

それが、その天敵が幻想郷の管理者。賢者といわれる最高位妖怪や神々から構成されたメンバーに決められたルール。

流石に肉体を破損しても死なないと言っても、限度がある。

腕を食い千切られ、羽根をむしられて地面でもがいている白狼天狗の同僚。

恐ろしい捕食者は体を起こすと。

食い千切った白狼天狗の腕をいとも簡単に咀嚼して飲み込み。

此方に来る。

椛は、目を閉じる。

深呼吸する。

そして、鐘を鳴らす。

その鐘を鳴らしている手を、がっと何かが掴む。

剣は飾りか。

盾はなにをしている。

分かっているが、抵抗できない。それがこの天敵の特徴なのだ。天狗にとっての文字通りの天敵。

天狗喰らいと、天狗が怖れる相手の能力だった。

振り回されて、壁に叩き付けられる。受け身すら取れなかった。普通だったら取ることが出来るが、この天敵が相手だと、全身の力が抜けてしまうのだ。

ずり落ちる椛は、それでも必死に顔を上げようとして。

首を掴まれ、ぐっとつり上げられた。

足をばたばたとさせるので精一杯。

「面白い。 天狗の一族はすっかり腑抜けだらけになったと思ったが、それでもまだこんなことを出来る者がいたのか」

「私を喰らったらさっさと帰ってください……っ!」

「ほう。 挙げ句に私に指示を出す。 それは素敵な行為だな!」

げらげらと、天狗喰らいが笑う。

全身の血の気が引くのが分かっていても、椛は何もできない。

視界の隅で、腕を食い千切られた同僚が、ぴくぴくと痙攣している。これは数年は動けないかも知れない。

振り回されると、地面に叩き付けられる。

二度、そうして。

全身の骨が砕けたような痛みが走った。

血を吐きながら、それでも首を掴んでいる天狗喰らいの触手を掴み。そして必死に剣を探す。

鐘を叩いているときに側に置いた剣だが、それでも運が良ければ近くにあるかもしれない。

剣がなくとも、他に武器があるかも知れない。

キャハハと、甲高い笑い声が上がった。

「いい、いいぞお前! 天狗にそんなに肝が据わった者がいるとは! すっかり腑抜けだらけになって、食いに行くのも億劫になっていたのになあ!」

「……っ」

「いいだろう。 お前は食わずにおいてやる。 それにしても、お前ほど負けん気の強い肝が据わった者を木っ端のままにしておくとは。 何か色々あったようだが、それでも天狗は相変わらず最先端だの組織力だのを自慢しながら、まったく昔と変わっていないようだな」

椛を離し、それが去って行く。

山の方に。天狗達が住んでいる方に。

触手の塊を生やした、巨大な魚。魚に申し分程度に手足を生やした者。

賢者との約定で、里には下りないこと。

里には存在も知られないこと。

それがルールになっている天狗の天敵。

いや、違う。

山の中に住んでいるニワタリ神と同じ。

人攫いの性質を持つ妖怪全般を掣肘するために、賢者が敢えて呼び込んだ古い古い時代の神。

海がない幻想郷で、それは妖怪達の恐怖を信仰として独自の形を為し。

今でも人食いの衝動を捨てられない妖怪を掣肘するために、時々山の中を徘徊して、妖怪を襲って回る。

れっきとした神格であるが。

幻想郷のエネルギー源とも言える、妖怪への人間からの恐怖は一切関係なく。

妖怪からの恐怖だけで自己完結している、文字通りの秘神のなかの秘神。

賢者であるマタラ神、摩多羅隠岐奈以上の秘匿された神。

外の人間達の間では、既に完全に原型が忘れ去られた。

だが、ある意味で完璧な意味での人間の味方とも言える神である。

椛は必死に呼吸を整えながら、何とか剣を手にとるが。その時には、既にその神は姿を消していた。

飛ぶ事は、当分出来そうにもない。

全身ぼろぼろで、翼も折れてしまっていた。

苦痛が全身を駆け巡り。

相手がじゃれただけだというのに。再生には時間が掛かりそうだった。

腕を食い千切られた同僚を揺さぶる。

あまり関係はないはずなのに、一緒に大将棋を打っていた山童はとっくに姿を消している。

相手は天狗だけではなく、「人をさらう」という特性を持っている妖怪に対する特攻能力を持っている神格。

賢者である八雲紫ですら手に負えない、文字通りの天敵。

天狗が怖れる程の相手だ。

山童ごときでは、逃げ出すのは無理もなかった。

意識が完全に飛んでいる同僚を見て、椛は大きくため息をついた。今も体がばらばらになりそうだが。

それでも必死に体を起こし、這って鐘の方に行く。

すっと、誰かが降り立つ。

そして、周囲を見回した。

「姫海棠はたて……」

「久しぶりね」

そいつは。

天狗の組織を離脱した若手。姫海棠はたて。若々しい、本当に若い鴉天狗だ。今風にツインテールに髪を結って、ミニスカートなんか履いている。

組織内で悶着があったと聞くが。天狗の組織の。特にマスメディアとしての腐敗を嫌って離脱した若手の一人。

明らかに昔より力が上がっている。前は、「名家のボンボン」と影で笑われる程度の、空回りするばかりの滑稽な若造だったのに。

てきぱきと応急処置をしていくはたて。

動きも的確で。椛が何をするまでもなく、応急処置はしっかりやってくれた。

遅れて降り立つ、守矢の麾下にいる妖怪達。

ぐっと歯を噛む。これでは制空権どころではない。

「永遠亭に運ぶ手伝いをすればいいんだな」

「お願いします」

「分かった。 早苗さまの親友である貴様の言葉だ。 天狗なんぞを助けてやるのは不愉快だが、それでも良いだろう」

腕を食い千切られて意識がない同僚を、まずは抱えると。一人が飛んでいく。

更に姫海棠は鐘を手に取ると、椛の代わりに三度、決まったやり方で鳴らした。

椛も、担がれると運ばれて行く。

自分を担いでいる妖怪は誰か知らないが、いずれにしても散々天狗に虐められた妖怪だろう。

あまり好意的ではなかった。

「離せ。 私はまだ動ける! この危機を知らせなければ!」

「遠くから姫海棠のが見ていた。 同僚はさっさと自分だけ逃げようとした。 他の天狗も、例外なく同じ事をしただろう。 そんな連中を、どうして助けようとする」

「それが私の仕事だからだ!」

「そうか。 だが命を削ってまでする仕事でもあるまい。 後で姫海棠のが話をつけるから、今は大人しくしていろ」

ぐっと歯を噛む。

この牙だって、そもそも武器として使う事もあるくらい、椛は己を戦士として定義していた。

他の白狼が殆ど不真面目に形だけの哨戒をしていたり。

いつも山童と大将棋を打って遊んでいたり。

そんな連中ばかりなのに。

天狗の組織に監査が入った後も、自分の仕事を黙々と続けている。

前は陰口ばかり浴びていたが。

今はどこか彼奴おかしいんじゃないのかと、天狗は明確に椛を異物でも見るかのように扱っていた。

椛にはそれしか出来る事がない。

だからそうしているだけだ。

勿論他人にそれを口にするつもりはないが。

いつの間にか、意識が薄れてきていた。

相手は撫でただけ。

それでもこれだ。

天狗が束になっても戦闘にすらならない。そういう能力を相手が持っている事もあるのだが。

それでも山で好き勝手をする天狗を掣肘するために、定期的に姿を現す恐怖の象徴だ。それだけ恐怖を信仰にして、力を増しているという事である。

それにしても、姫海棠の奴は大丈夫なのか。

彼奴は下に降りてから、今まで天狗が書いていたカスみたいな新聞とは全く違う、正確に情報を扱った極めてまともな新聞を書いていると聞いていたが。

なんというか、久々に間近で姿を見て、なんだか違和感を感じた。

あれは、本当に天狗か。

少なくとも鴉天狗だとは思えなかった。

最近ついに賢者に焼きを入れられて、天狗の組織を事実上離脱した射命丸文もそうだが。

なんだか鴉天狗とは違って、別のものとなったかのような。

気がつくと、永遠亭。

幻想郷で医療を一手に引き受けている、月の神の屋敷で、ベッドに寝かされていた。

しばらくは絶対安静と言われて。

結束バンドでベッドに固定もされていた。

悔しいが、もう何もできない。

犬走椛は、相も変わらずの無力さに、苦悩するしかなかった。

 

1、天敵襲来す

 

大天狗、飯綱丸龍(いいずなまるめぐむ)は鴉天狗を統括する存在である。

元々幻想郷がある地に存在した、それなりに信仰を集めた飯縄権現。それが彼女の正体だ。

青い服を着込んだ、長い黒髪が美しい女だが。

その性格は最悪の一言に尽き。

天狗を高度な情報化社会を構築しているとうそぶき。

問題が表面化して賢者や博麗の巫女による監査が入るまでは、腐敗した組織をだらだらと回していた元凶の一人だった。

実力も、天狗最強「だった」射命丸文には及ばず。

いざという時は、立場が下にいる射命丸をかり出すだけの仕事。

偉そうに地位だけは確保しているが。

書く新聞も三流以下。

天狗としての能力も決して高くなく。

とっくの昔に信仰も失われ。

そもそも諏訪の地に存在している大神格、現在の守矢の二柱には信仰という観点でも遠く及ばない。

それがめぐむの実情だ。

そんなめぐむも、それなりの年月を生きた大天狗である。

だからこそに。

叩き鳴らされる鐘の音と。

その意味には気付いていた。

全身の毛が逆立つ。

恐怖が、全身を掴んでいた。

家から飛び出してきた他の天狗達もそうだ。風穴と呼ばれる場所を中心に天狗は集落を構築しているのだが。

全員が、この音を知っている。

大慌てで右往左往し始める天狗達。中には逃げ出そうという者もいる。

支配者階級である大天狗まで、真っ先に逃げ出すわけにはいかない。

そうなったら、混乱はピークに達するし。

何より、今は監査が入っているのだ。

ここで大天狗が組織を見捨てて真っ先に逃げたりしたら、それこそ天狗という種族は今まで以上の強烈な監査で、身動きが取れなくなりかねない。

右往左往している天狗に、声を張り上げる。

「落ち着け! まずは天魔様に報告をする! お前達は迎撃の準備を!」

「か、勝てる訳がありません!」

「それでもだ! あ、あと、サーカスは中止! 動物園は閉鎖! い、いや何を言っている! 急いで迎撃の準備をしろ!」

他の大天狗も、麾下の天狗をまとめ始める。めぐむはすぐに天狗の長である天魔の所に急ぎ。

そして、あわてて頭を下げていた。

起きだしたばかりの天魔に状況を告げる。

天魔は、青ざめていた。

日本の天狗の長である存在だが。それでも天狗という時点で、勝てる相手ではないのである。

「今回も誰かが食われているのを、指をくわえて見ているしかないのか」

「残念ながら。 賢者の中にも相性が悪い者が多く、鬼も頼りになりません。 博麗の巫女は、妖怪同士のもめ事には興味を示しません」

「人攫いでは勝てない程度の能力、か。 我等の自己申告能力とは格が違っているものだな……」

「そうです。 とにかく天魔様もお急ぎを。 此処は、嵐だと思ってやりすごすしか……」

ずんと。

強烈なプレッシャーが来る。

一度鐘の音は止んだが、その後また何回か音が鳴った。

どういう事情かはわからないが、それでもあいつが迫っている事は確定だ。

名前すら失伝し。

それどころか発音すらできない。

姿だって人間型ですらない。

そんな程度の神格である。

人間の姿程度取れない妖怪なんて、幻想郷では下の下。

神格でも弱い者がいるが。

それでも、基本的に人間の形を取るのが此処でのマナーとなっている。

それすら出来ない存在なんかに、こうも怯えなければならないとは。

だが、全身が竦んで、呼吸すら危うくなりはじめていた。

恐怖は基本的に生物に備わったものだが。

これはもう、恐怖のレベルが違っている。ただ全身が竦んで強ばって、戦うどころではなかった。

「お、お急ぎを」

「分かっておる……」

「……」

めぐむ自身も、はっきりいって全身が震えて、即座に逃げ出したいくらいだったが。

保身のためにも、そうすることは出来なかった。

非常に悔しい。

前に奴が襲来したときは、いきなり天狗の集落をダイレクトに襲った。

そしてくだらん奴らだとか言いながら、数人を食い千切って。そして帰っていった。

当時はまだ永遠亭が幻想郷内で姿を見せていなかったから、回復は時間を掛けて行うしかなく。

腕や足を食い千切られた天狗が。悲鳴を上げてベッドでもがいている様子を。恐怖とともに見守るしかなかった。

今回は、違う。

多分奴は、何が天狗の組織に起きたか知っている。

だから、敢えていきなり風穴に来るのではなく。

哨戒が動いている山小屋の方から来たのだろう。

それにしても、真面目にまだ動いている白狼がいたのか。

それが驚きではあった。

天魔を連れ出し、外に出る。一応整列しようとしたらしい天狗達だが、既に完全に腰が引けてしまっている。

というか、バカでもこの猛烈なプレッシャーは分かる。

絶対に勝てない。

それが一発で分かる程だ。

射命丸がいた時。何回か面白そうにあいつは弄んで。それで、飽きると見向きもしなくなったっけ。

もう射命丸は賢者に取られてしまったし。

そもそもあのおぞましい神は興味をなくしている。

今回は、何人が囓られれば許して貰えるのだろうか。

そう思って顔を上げると。

凄まじい圧迫感が、空から下り着たる所だった。

それは魚に似ているが、ひれがあるところから触手を生やし。そして申し訳程度に人間の手足がついている。それも、無茶苦茶な付きかたで、「一応人間の姿を部分的に取っている」程度の意味しか成していない。

魚の感情が見えない目もあるが。

そのおぞましい姿は、異国で最近作られたと言う神々を思わせるものだ。

ずんと、降り立つ神。

発音も出来ないその神は、どういう理由かはよく分からないが。海にいる鯖という魚に似ているらしい。

というのも、めぐむも鯖は見た事がないし。

どうして鯖の姿をしているのかは分からない。

ただ、昔外の世界で人間が天狗避けとして鯖を使っていた事は知っている。

そもそも天狗は山の妖怪。

海の魚である鯖とは縁がないし、食べたいとも思わない。

確か鯖は元は神への捧げ物であったらしく、天狗が人をさらったときは鯖を捧げて神に救出を請うたり。

鯖そのものをさらった人間が食っていたと叫ぶ事で、天狗が嫌がるようにしていたという事だが。

じつのところめぐむにはぴんとこない。

五百年前に幻想郷が作られて以降、幻想郷で暮らしている妖怪は多く。現状では、天狗の七割ほども、幻想郷で生まれた個体だ。

そういった個体は、鯖の存在そのものを知らない。

ただ、この神の姿だと言えば。

震え上がるかも知れなかったが。

触手を撓ませて、鯖の神が周囲を睥睨する。

天狗達は、恐怖で腰が抜けるもの。

もう恐怖で笑い始めているもの。

土下座して、ぴくりとも動かないもの。

完全に、戦うどころではなかった。

全長七メートルくらいだろうか。この鯖の神は。

前に、鬼の顔役である伊吹萃香が、この神の前に出た事があった。だが、その瞬間真っ青になり、道を空けた。

あの萃香が、である。

勿論今も鬼は、人攫いの属性を持っている。

今の鬼が人攫いをしていなくても、それでも苦手なのだろう。

要するにそれほど相性が悪い相手、という事であって。

天狗が束になっても勝てない萃香があの有様だという事で、天狗達は更に恐怖したのをめぐむは覚えていた。

めぐむ自身も、下手に興味を惹かないように、ただ土下座をするしかない。

悲鳴が上がる。

触手が天狗の一人。鼻高天狗に属するものを、絡め取ったのだ。まあ、人間の姿になっているが。

そして、口に運ぶと、いとも容易く腕を食い千切った。

鮮血が噴き出し、ひいっと周囲から声が上がる。

ばりばりと腕を喰らう鯖の神。

発音も出来ないそいつは、ごくりと喉を鳴らして食い千切った腕を飲み込むと。痛みから気絶している鼻高天狗を放り捨てた。放り捨てた先には誰かの家があり、半壊する。それに抗議することもできない。

「まずい」

「お、おゆるしを」

「相変わらず腑抜けているようだな天狗ども。 話には聞いていたが、若い天狗がだいぶ消えているようだのう」

「……」

けけけと笑う鯖。

鯖の体から、無作為に生えている手足が、逆に恐怖を誘う。

そして、鯖の神は言う。

「あの射命丸もいなくなっているようだな。 ここに来る前に聞いた通りよ。 すっかり腑抜けた上に、監査が入っても何もお前達は変わっていないようだな」

「お、お言葉に反論もできません」

「つまらんなあ。 適当に囓るか」

生唾を飲み込んだが。

めぐむが理性を保っていられたのは、それまでだった。

奴の触手が、めぐむを絡め取ったのである。

少し前にめぐむは、異変とよばれる幻想郷の大規模問題の主犯となり。

その時に、天狗の全戦力がたった人間四人に蹂躙されるという恐怖を目の前で味わった。

相手には歴代最強と言われる当代の博麗の巫女がいたというのは確かに事実としてあるのだが。

それでもあまりにも悲惨な結果だった。

その時も、散々酷い目にあわされた。

元々天狗としての威を示すためにあの異変を起こしたし。それで殴られるのも大天狗の責務だった。

それは分かっていた筈なのに。

どうしてか、全身が恐怖で震えて止まらない。

あっというまに、鯖の口の側にまで持ってこられていた。

抵抗しようにも、怖すぎてできない。

前の異変の時は失禁までしたが。

今回は、そんな事すら分からないほど、縮み上がってしまっていた。

「お、お、お助け、お助けを!」

「私に指示を出すつもりか。 それにしても何とも情けない指示だな。 ふっ、どうやら天狗の組織の腐敗は、やはり上から来ているようだな。 そんな事だから若い天狗どもに離脱されるのだろうよ」

「か、かじるのは約定通りにお願いします!」

「指示をするなと言っておるだろうがこのド低脳がァ!」

触手一閃。

地面に叩き付けられる。

凄まじい破壊力で、めぐむは全身の骨が複雑骨折したかと思った。

更に何度も地面に叩き付けられる。

意識が飛んでいた。

それも、恐怖ですぐに意識が戻ってくる。全身のあらゆる穴から血が流れ、涙も、口からよだれも流れているのが分かった。

「お前は、本当にまずそうだな」

「お、おゆるしを……」

「高度な情報化社会はどうした。 それで私に反撃してみろ」

「ひっ……」

そんなもの。

他の勢力へのお題目に決まっている。

そうやって自分を偉そうに見せる事で威を確保する。そもそも威をどう確保するかが幻想郷でのルール。戦略である。

天狗の場合は、情報を扱うと言う事で、その威を確保した。

実際には学級新聞に等しい事はめぐむだって分かっているし。

自作自演で事件を起こしてそれで新聞記事を書いたり。

それを幻想郷のためだとうそぶいたりもする。

ときにはプロパガンダ記事まで書く。

既に賢者達に止めさせられたが、他の妖怪への取材と称した暴力と嫌がらせも、全て天狗の威を示すための行動だった。

勿論嫌がらせをすること自体が楽しかった事もある。

情報という力は天狗が想像していたよりも遙かに大きく。

それを振り回すことで特権階級になったような気分を味わう事が出来る。

それは、全くの事実だった。

それが分かっていながら、めぐむは止める事が出来なかった。

依存性が強い薬物のように。

情報を扱うというのは、それだけ心をおかしくするのかも知れなかった。

ぽいとめぐむは放り捨てられたのが分かった。

放り捨てると言っても、人間で言う全力投球くらいの火力は出る。

思いっきり地面に叩き付けられて、バウンドしたところまでは覚えている。だが、それで記憶は途切れた。

 

鯖の神が、天狗の集落を襲撃している。

だからといって、もう出来る事はない。

射命丸文は、既に自由の利かない身だ。

新聞は好きに書いて良いと、賢者八雲紫に言われた。

ただし、その新聞は紫だけが読むとも決められた。

頭の中に色々細工をされ。

自殺もできなければ、その命令に逆らう事もできないようになった。勿論他の妖怪に、理不尽な暴力を振るうことも。

スペルカードルールでの戦闘は許されたが。

それだけだった。

幻想郷最速を自称する快足で、現地に向かうが。

確かにスクランブルを掛けてくる天狗もいない。あの犬走辺りは五月蠅く出て来そうなものなのだが。

夜明けの山は恐ろしく静かで。

人攫いの性質も持つ者が珍しく無い山の妖怪達が、息を潜めているのは明らかだった。

「む……」

もう天狗では半分なくなってきている自分でも、まだプレッシャーを感じる。

そう。文は、既に純粋な意味の天狗ではない。

八雲紫に好き勝手に体を弄られるより少し前からだ。

本気で情報と新聞に向き合い始めた姫海棠はたてをみて、色々と思うところがあって。それから。

外から、手段を選ばず情報を集める記者の概念が、文に入り込んだ。

それは天狗とは微妙に違うもので。

文の妖怪としての性質を変容させた。

今では、あの鯖の神と戦えるかも知れない。

だが、それでも、様子を見ようと歴戦の勘が告げる。

文はまだ若い行者風の娘の姿をしているが、実年齢は千才を越えている。千年の戦闘経験が、危険であると告げていた。

他の妖怪も、これくらい生きているものは珍しくもないが。

天狗最強の戦力として、最前線で千年戦い続けて来た文は、蓄積経験値が他とは違っている。

高度を落とすと、集落の様子を窺う。

誰かがぶんなげられたな。

そう思って、影から伺うと。

どうやら、散々いびられたあげく。大天狗、飯綱丸龍が放り投げられたようだった。

昔の上司だが、どうでもいい。

実力は文より下だったのに、ずっと大天狗として居座り続けて。ただ偉そうなだけで不快きわまりない奴だった。

放り投げられてバウンドして、への字になって伸びている様子はちょっと痛快ではあったが。

あれは他人事ではない。

他の天狗は既に恐怖で気絶したり失禁したりしているようだが。

これは他の大天狗でも、まともに受け答えは出来そうにないなと、文は物陰からそう感じていた。

鯖の神、か。

天狗という存在から外れ。

賢者である紫の事実上の式神とされてしまってからは、色々と賢者の所有する文献を調べて見た。

あの鯖の神についても知っている。

あの神は、元々日本の神でもなければ、外来の神でもない。

そもそも天狗避けとして、神に捧げられる食物として鯖があり。いや、その食物の発音が鯖に似ていたという説もある。

いずれにしても、いつの間にか天狗を防ぐ方法として、鯖が人間に定義されるようになっていった。

結果として、それが信仰と成り。

いつしか、幻想郷に入り込んで来たのが、あの神。おそらくだが、元々神への捧げ物を司る、名前も失われた神がベースになっている事は間違いない。

その神は、「人攫いでは勝てない程度の能力」を有し。

時々なまはげよろしく、山を威圧しながら動き回り。人攫いをおこなう妖怪を震え上がらせ。

そして更に力を増していき。

今ではあのような姿となっているというわけだ。

紫は相性が最悪で、戦えたものではないという話だ。

今ではその紫の走狗になってしまった文も、それは同じようなものだろう。無言で様子を窺う。

不意に、奴が此方を見る。

「いるな射命丸。 出てくるが良い」

「……見つかりましたか」

流石に神か。

それが以下にいびつに信仰が歪んだものでも。今、山の妖怪の多くから得ている恐怖という名前の信仰は本物だ。

妖怪が時々人食いを称して、里にいる人間共を怖れさせ。その畏怖を信仰として取り込むようにして。

此奴は幻想郷に数多いる妖怪から恐怖を吸い上げてここまで強くなっている。

近くで見て分かる。

何度も囓られた相手だが。

その時は。まるで本気を出していなかった。

名前もよく分からない古代神格だ。

力さえ取り戻せば、この実力も納得である。無作為に体から生えている手足が、不気味さを加速させている。

生唾を飲み込む文。

昔は幻想郷に怖れる者無しとうそぶいて、やりたい放題を尽くしたトリックスターだった文だが。

今では首輪をつけられて、同時に自分の器もわきまえた。

自分では勝てない相手がいる事もはっきり自覚しているし。

目の前にいるのがそうだとも、分かっていた。

「ふむ、狡猾の権化だった貴様が、随分と素直になったではないか。 自分の力の程をわきまえたか?」

「悔しいですがそうなります。 ちょっと火遊びが我ながら過ぎましてね」

「ふっ、天狗の組織を乗っ取ろうとしていたことか?」

「そんな事を考えたこともありましたね。 今ではもう昔の話です」

震え上がっている天狗達の中で、とんでもない暴露をされるが。別に暴露されてもなんでもない。

既に文は賢者の直下にいる。

つまり、ここにいる連中は「元同僚」「元上司」であって、他人である。

新聞作りだって、今は既に紫が用意した山小屋で行っている。引っ越しも済ませた後である。

それに、だ。

そもそも文の叛意は、天魔も知っている事だった。

だから、今更でしかないのだ。

「壮観ですね。 やりたい放題を尽くしていた天狗が、こうもひれ伏して蛙の群れのようであると」

「ふっ。 洒落臭い口を利く」

「それで、私をどうするつもりですか」

「……お前は天狗では無いし、いっそのこと頭から全て食ってしまっても良いのだが」

冷や汗が流れる。

確かにこの鯖の神は、天狗と契約している。

一度姿を見せて、天狗一体あたり食って良いのは腕足のどちらか一本まで。

或いは腹の内臓までと決められている。

妖怪なら再生出来る範囲でなら食って良いという事で。

これは人攫いという性質を持たない賢者がこの神と交渉して決めたことだ。

これ以上幻想郷のバランスを崩す因子があってはならない。

それ故に決めたことなのであるが。

それはそれで、今文に不利に働いている。

逃げに徹すれば、できない事はないか。いや、それでも厳しいかも知れない。

幻想郷最速なんてのは、言うまでもなく自己申告だ。

空間転移を普通にこなす現在の博麗の巫女や。

他にも幾らでも強者がいる今。

天狗最速であっても。

幻想郷最速を気取るつもりは無い。

ただ、相手は何を考えているかまったく分からない。

「ふむ、ではこうしよう。 お前は何をしにここに来た。 それを包み隠さず話せ。 そうすれば私は今回は帰るとしよう」

「おや、健啖な貴方にしては随分と優しいですね」

「喰う分は既に喰っておる。 それだけの話だ」

「……」

確かに手足を食いちぎられて息も絶え絶えの天狗が何名かいるようだ。

それに、ここに来るまでの経路もおかしい。

この鯖の神は、如何に妖怪に恐怖を与えるかを主軸に、今までは動いていた。

天狗に対しては、前兆もなく本拠を急襲する事で、恐怖を示す行動をいつも取っていた。

それなのに、今回は天狗の警戒網を破るように真正面から仕掛けていた節がある。一体何が目的だ。

そもそも今回の事も、射命丸は紫にけしかけられてここに来ている。

古巣を見てこい。

そう言われた。

鯖の神の気配はすぐにわかった。やはり天狗を止めているからか、昔ほど絶対的な圧は感じなかったが。

それでも今、丸ごと囓られる可能性があると思うと、やはり恐怖はわき上がってくる。

前に一歩出る。

進むと決めた。

文は、もう鳥籠に入れられた鴉だ。実質上、ほぼ何もできないに等しい。今までの行為の結果だと言う事は理解している。

それだけ好き勝手に、トリックスターとして暴れすぎたのだ。

だからせめて。鳥籠の中でだけでも進む。

自分の意思で動ける範囲で動く。

そう決めている。

「私は、賢者に此処を見て来るようにと言われています」

「ほう……」

「賢者の意図までは分かりません。 私には、それを知る権利がありませんので」

「ふっ。 以前の隠しきれない自身の力への驕りが消えたな。 以前の貴様は、天狗最強の力を持っているのに、どうしてこうも地位が低いのかという不満が全身からあふれ出ておった」

そうだな。

そんな事もあったか。

つい最近の筈なのに、随分と昔の事に思えて来る。

そしてそれは全くの事実だ。

この鯖の神は、天狗への特攻存在といっていい。

そもそも、天狗にとっては人攫いは死活問題だ。子供を他の生物のように作る天狗もいるが、夫婦を作る事は珍しいし。夫婦になっても何十年に子供が一人生まれれば良い方。性欲が人間や兎のように強くない上に、繁殖力も低い。これが肉を持つ生物から逸脱した代償なのかも知れないし。古くに妖怪が増えすぎないように、神々が何か仕掛けをしたのかもしれない。

だから天狗は主に、山で生活しているような変わり者の人間をさらってきて、天狗に……同胞にするのだ。そうすることで、少なすぎる個体数を補う。

この辺りは、天狗という妖怪の原型となった存在の一つ。人間の修験者達も要因であるらしいのだが。

そこまで詳しく、文も踏み込もうとは思わなかった。

しばし、鯖の神は文を見ていたが。

やがて、見せつけるように。

そろりそろりと逃げだそうとしていた天狗の一人を捕まえ。聞き苦しい悲鳴を塞ぐようにして、全身を触手で拘束。

無造作に、口に運んで。

右腕を器用に食い千切っていた。

ばたばたともがいていた天狗が、しばししてぐったりと動かなくなる。苦痛と恐怖で失神したのだ。

つまらなそうにそれを放り捨てると、鯖の神はいつの間にか文の側にいた。

こんなに早く動けたのか。

それは、速度自慢の天狗の畏怖を集めているだけの事はある。

それに元々古代神格だ。

それくらいの力はあっても当然なのだろう。

げふりと、同胞を喰らった息を吐きかけてくる。

不愉快には思ったが、怒りは沸かなかった。同胞では無く、もうもはや元同胞だから、なのかも知れなかった。

「ふっ。 見苦しく恐怖に駆られて逃げ惑う天狗が一番うまいのだがな。 お前はさっぱりうまそうではない。 ずっと前からな」

「恐縮です」

「……まあ腹は膨れた。 満足もしたし、私は行くとする」

文はわざと大げさに一礼してみせる。

風に消えるというのか。

本当に、いつの間にか鯖の神が消えていなくなっていた。数人が手足を食い千切られた様子だが。約定に従って殺す事まではしないようだ。徹底的に畏怖を叩き込む目的で、ここに来ている。

そして実際の天狗の肉体よりも、恐怖を食いに来ている。

そういう意味で、怖れられる荒神としての仕事を、徹底しているのかも知れなかった。

文は、腰が抜けたり、わんわん泣いている元同胞を冷たい目で見やると、その場を後にする。

新聞を書こう。それが例え、八雲紫しか読まないものだとしても。

そう、惨劇の跡を見て、天敵と話して。考えていた。

 

2、元天敵

 

姫海棠はたては、元々は名家のボンボンだった。その頃はどうしようもないクソガキだったと、今では自分を戒めている。

周囲の空気に当てられて新聞と言う名の妄想作文を作り。

身内のコンテストで一位を取ることばかり考えていた。

だが、そもそも自作自演で事件を起こして、それを記事にするような天狗が大勢いること。

天狗全てが、そもそも他人を痛めつける道具として新聞を作り、面白半分にそれを公開している事。

それらが分かってから、何もかもが疑問に思えた。

両親にそれらの件で暴力を振るわれたのが決定的な切っ掛けになったが。

それでもいずれ、天狗を抜けていたかも知れない。

天狗を抜けた事で、はたては何か自分に変化が起きたことを悟っていたが。

それについて、追求するつもりはない。

いずれにしても、今は本当に真実を探しだし。

そしてそれを届けること。

それを目的にして、新聞を僅かな同志と作っていた。

元同胞からは、つまらん新聞と斬って捨てられているようだが。

面白いかも知れないが、嘘だらけで。他者を傷つけてけらけら笑っているような連中の新聞と自分のものを比べるつもりはないし。

身内で完結している新聞が、如何にくだらないかも今は良く知っている。

えてして、外の世界の新聞も、そうなっているそうだ。

或いは自浄作用なんてものは働かないもので。

新聞も、それを作る者も。何かしらの理由で特権的に保護すると、あっと言う間に腐れ果てるものなのかも知れなかった。

ともかく今は、優先順位が高い事からこなして行く。

守矢にまず話を通す。

現在妖怪の山の頂上部分以外は、殆どが守矢の制圧下にあり。制空権もほぼ抑え込まれている。

はたては守矢の風祝であり、巫女のような存在である東風谷早苗と親友であるが。その主神である天津の武神と古代の祟り神の頭目とはそうではない。

余計な貸しを作らないためにも、筋は通さなければならなかった。

鯖の神の到来はすぐにわかった。

だから、負傷者の救出のために、即座に話をつけにいった。

元同胞には良い思いがないけれども。

それでも。出来る範囲で、苦しむ存在を出したくない。

それは当たり前の倫理としていつの間にか身に宿っていた。

昔は間違ってもこんなことは考えなかったのに。

それについては、別にどうとも思わなかった。

そして、鯖の神が襲撃を開始すると同時に。許可が下りたはたては、監視役の守矢の麾下の妖怪と共に天狗の領域に踏み込み。

負傷者を背負って、幻想郷の医療施設である永遠亭と何度も往復した。

元々監視役は、皆天狗に恨みがある妖怪ばかり。

長く虐げられたり。縄張りを奪われたり。

だから手伝ってはくれなかった。

だが、何度も血まみれになりながら。もう同胞ともはたてを思っておらず、裏切り者とまで喚く相手もいる中。

それでも医療施設に運ぶはたてを見て、思うところもあったのだろう。

途中からは、瓦礫をどけて負傷者を引っ張り出したり。

或いは、喚く天狗を威圧して黙らせたりと。

作業を円滑に進むように、手伝ってくれた。

それだけで。はたてには充分だった。

最後の一人を、永遠亭に運び込む。

両親は揃って気絶していただけだったので、放置。

もう両親に対して、これといった感情は無い。

たまに会いに行くと、口を揃えて今やっている事はよくないことだの。頭を下げて皆の中に戻れだのしか言わない。

新聞記者が真実を歪めて、取材の過程で罪もない者を悲しませたら、それは立派な罪業だ。

それを理解もせず。

身内の体面だけ気にする両親の言葉は、もう右から左に流れるだけ。

だから、気絶しているだけなら。

それでいいとしか思わなかった。

永遠亭で、軽く話を聞く。

永遠亭の主であり、古代神格の一柱。それも極めて強力な知恵の神である八意永琳は。負傷者を運び込んだはたてに対して、あまりいい顔をしなかった。長身の美しい女の姿をしている永琳は、故に怒ると普通に恐ろしい形相になる。ただ今日は、それほど怒ってはいないようだったが。

最後の一人をベッドに寝かせると。

まず飛んできたのは小言だった。

「その血と泥で汚れた不衛生な服を、急いで着替えなさい」

「分かりました。 戻って着替えてきます」

「優曇華」

「はい」

呼ばれて、すっと現れるのは玉兎。とはいっても、人間に兎の耳だけ生やしたような姿の者だ。

優曇華と呼ばれているが、名前は正確には鈴仙。しかも漢字は当て字らしい。

月に住まう兎の妖怪にして、月の都の奴隷兵士。

月から逃げ出してきた脱走兵。

前はとにかくどうしようもなくへたれていて、その優れた戦士としての力量もさび付いていたのだが。

最近は何があったのかすっかり落ち着いて、言動もしっかりしてきていた。

外の世界での学生服というものに近い服をいつも着ている優曇華だが。

背筋もしっかり伸びて、言動も落ち着いている。

間近で見ると、やはり何かあったのだろうと、考える他はない。

「風呂をかしてやりなさい。 その間に服の洗濯を。 それと、医療の基礎知識について教えておいて」

「分かりましたお師匠様」

ぺこりと綺麗に一礼すると。鈴仙は視線でついてくるように促す。

永遠亭は見かけは古くさい建物だが、中身は時空間を弄くった超高度テクノロジーの塊である。

知らない人間が中を彷徨くと、確定で迷う。

案内して貰った先に風呂がある。

檜の立派なものだが。

それも、檜なのかは本当は分からない。

「服は其処に入れておいてください。 洗濯しておきます」

「ありがとうございます。 皆は大丈夫ですか」

「大丈夫です。 あの程度で死ぬほど、天狗は柔ではないでしょう」

「……」

その通りだ。

ストレスに弱いと聞く鈴仙。そのストレスは耳に出るらしく、前はいつもくしゃくしゃになっていたし。

森の中で、一人で泣いている姿を時々見かけたと言う事だが。

今は耳はぴんと伸びていて。

冷たい硬質の美貌に変わりつつある。

昔はみんなそういう事情もあって舐め腐っていたらしいのだが。

今では、もう鈴仙を舐めて掛かる者は一人もいない。

今まで何かの枷が、鈴仙のメンタルを貧弱に貶めていたのだろう。

それがなくなった今となっては、彼女に残っているのは精鋭兵士としての技量。

周りから舐められていた昔と違って、この永遠亭の周囲に拡がる迷いの竹林に住まう妖怪も、今では鈴仙と戦う事は避けたがるようだった。

風呂を借りる。

実の所、妖怪の新陳代謝は他の生物ほど高くないので、服の洗濯などはほとんどしなくても良いのだが。

今回は派手に汚れたので、風呂を借りる。

しばらく風呂に浸かってすっきりとすると。

風呂から上がって、もう洗濯が終わっていた服を着させてもらった。驚くべき事に、新品同様だ。

これも月のテクノロジーによるものなのだろう。

今度取材したいな。

そう思いながら、服に袖を通し。

そして待っていた鈴仙と、別室に行く。

鈴仙が、怪我人の運び方などについて説明してくれる。プロジェクターを使っての本格的なものだ。

はたては妖怪に対する接し方しか知らなかったから、それを真面目に聞いて。時々メモを取った。

「なるほど、そもそも怪我人は水平に保って、揺らすことも厳禁なんですね」

「そうです。 担架というものを使って、こうやって運びます。 また、不衛生な着衣で怪我人に触れる事も厳禁です。 今回は妖怪だったので良かったのですが、人間の負傷者を運ぶ時は気をつけてください」

「分かりました。 そういう事があった場合には、気を付けます」

「それと怪我人の処置ですが……」

基本的な医療について学ぶ。これでも基礎知識はあったつもりだったのだが、専門家の話を聞いて所詮素人知識だと思い知らされた。

普通の医療についての基礎知識のイロハを教えられる。

呪いを持った相手に対する知識も、だ。

止血のやり方などを説明される。それをメモして、すべて覚えておく。

消毒のやり方なども。

なるほどと考えて、一度挙手していた。

「この辺りは、里に情報を配っても大丈夫ですか?」

「いえ、やめておいてください。 現時点で幻想郷の賢者達は、里の医療技術があまり進歩することを望んでいないようです」

「分かりました。 それについての理由はわかりますか?」

「いえ。 仮説はありますが、仮説を話しても意味がないでしょう」

頷く。

そうか、駄目か。

だとすると、妖怪の間で妖怪向けにこの知識は周知すべきか。

呪いについての対処法も確認する。

呪いというのは何種類もある。

例えば呪詛。

呪詛というのは怪しい呪いの類ではなく、誰もが使えるものだ。

言葉によって、相手の心を傷つけるものであって。

非常に危険で、長くその存在を縛る。

人間の場合は、呪詛によって一生を滅茶苦茶にされることも珍しく無いと聞いているし。

妖怪だって、集団内でのルールという呪詛で、縛られるケースが珍しく無い。

かくいうはたてもそうだったので。

今では、これの恐ろしさは身を以て知っていた。

今回鈴仙が解説するのは、妖怪などが使う精神への直接攻撃である呪いである。

精神生命体である妖怪には、そのあり方を根本的に否定したり、本体とも言える精神に対する呪いは非常に危険なもので。

それこそ、下手な濃度の呪いをまともにくらったら、死の危険性が見えてくる。

何百年も生きるからこそ、妖怪にとっての死は本当に恐ろしいものなのだ。

肉体はどれだけ壊されても、時間さえ掛ければ復活できるが。

心を壊された場合。

人間よりもずっと弱いのが妖怪と言う種族なのである。

淡々と鈴仙が、高密度の呪いの特徴や、それに対する方法を説明してくれる。呪いを受けた妖怪に対する応急処置についても。

メモを取る。

それについての新聞を書いて良いかと聞くと、駄目だと言われた。

人間の中には、この呪いを使って妖怪に対策している者がいるらしく。

それに妖怪が対策を身に付けると、幻想郷のバランスが著しく崩れるのだそうだ。

なるほど、賢者公認で新聞を書いているはたてにだから話しているのだろう。

いつか、もっと幻想郷の状態が良くなったら、新聞にしてもいい。

そういうことなのだろう。

今の幻想郷はカオスそのものだ。

だから、バランスを取るために賢者は四苦八苦している。

その負担をこれ以上増やさないように。

そういう意図も、あるのかも知れなかった。

八意永琳は冷徹な存在だが。

冷徹なりに、このちいさな楽園のことを考えてもくれているのだろう。

取材相手にNOと言われたら、絶対に記事にしない。

それがはたてのやり方だ。

だから、素直に頷いて、記事にするのは諦める。

それだけである。

一通り話を聞く。途中で幾つか自分からも質問をする。鈴仙は鬱陶しがる事もなく、丁寧に答えてくれた。

これは恐らくだが、医療についても最近真面目に勉強しているのだろう。

他者に教えるには三倍の知識がいると聞く。

八意永琳は、鈴仙が教えられる状態にあると判断して、この講義をさせた。そう判断して良かった。

「以上です。 あくまで教えられるのは応急処置ですが」

「分かりました。 以降、此方で工夫をします」

「お願いします」

礼をして、講義を終える。

昔は、自分より知識がある相手は、漠然とむかついていた記憶がある。

愚かしい話だ。

人間もそうらしいが、見下している相手が自分より知識があると、基本的にそれを否定したくなるものらしい。

そもそも自分が知らない事を知っているのなら、それは尊敬するべき事なのだと今ははたては考えているが。

昔の、天狗の集団に混じって、妄想作文を書いていた頃は違った。

猛省すべきだと思う。

そして、猛省すべきだけではなく、行動に生かしていかなければならなかった。

 

仲間の天狗達の所に戻る。

まず最初に行ったのは、担架の作成だ。

仲間達に話を聞かれる。

「なんだこれは。 棒の間に布を通す?」

「永遠亭で説明を受けました。 そもそも怪我をした者は、水平に保って動かさないのが基本だそうです」

「そういうものなのか」

「はい。 それで……」

集めた仲間に、話を順番にしていく。何しろこれを説明したのは、八意永琳から指導を受けた鈴仙である。

だとすれば、信頼すべきだろう。そう仲間も、考えたようだった。

「こんなものを使わなければならないとは、なんとも脆弱な話だな」

「妖怪としては脆弱な話ですが、そもそも怪我をした場合は、我々も脆弱になる事を忘れてはなりません」

「確かに、それはそうだ。 我々も何度も覚えがある」

此処に混じっている唯一の白狼天狗が言う。

天狗の組織の腐敗を嫌って離脱した集団である此処は、皆が脛に傷を持っている状態である。

だから白狼天狗も、同じように傷を抱えている。

この若手の白狼天狗は、使い捨ての兵士として使われる事を本当に悲しんでいた。

そして今も、そんな境遇に甘んじている同僚の犬走椛を心配しているようだった。

担架を作成したあとは、消毒の仕方、訓練を皆で行う。

人間にはやり方を教えないように。

そう念も押す。

呪いに対する対策は、身内でも共有しない方が良いだろう。

そうはたては考える。

今、同志である皆だが。

考えが一枚岩にはなりきっていない。

人間に対して、呪い対策を悪用する可能性がある。何よりも、周知はするなと言われているのだ。

これは或いはだが。

ある程度分かった上で、はたてを泳がせているのかも知れない。

本当に記者としてのプライドを持ったのか。

相応の行動を出来るのか。

だとしたら、監視をしていることだろう。

それを思うと、身が引き締まる思いだ。

「意外とコツがいるな」

「今回の一件のように、相手が妖怪で、死者が出る可能性がある場合以外は、今までと同じやり方でかまいません」

「担いでいく、だな。 分かった。 時々訓練をして、身につける事にしよう」

頷く。

はたては今回の鯖の神については、新聞にすることも、口外も不要と説明。

そして、皆を解散させた。

さて、此処からだ。

永遠亭にもう一度行く。

傷から早めに回復した犬走椛が、憮然としながら治療を受けていた。こんな所に縛り付けられるほど柔ではない。

そう何度か零したらしく。それもあって、ベッドに拘束されている様子だ。

はたてをみると、椛はあまりいい顔をしなかった。

天狗の組織を抜けた裏切り者。

それくらいに考えているのだろう。

別にそれでもかまわないとはたては考える。

相手の集団がどう思おうと、どうでもいい。

ただ、生真面目な椛は、あのままの天狗の集団に混じっていると、いずれ潰れてしまうのではないか。

別に自分達の仲間に合流しろというつもりはない。

ただ、天狗の組織は抜けてしまっても良いのではないか。そう思っていた。

「何をしにきましたか、姫海棠の」

「減らず口をたたけるという事は、それなりに回復しているようね」

「おかげさまで。 助けてくれたと言う事で、それには感謝しています。 私だけではなく同胞も」

手足を食い千切られた天狗の中には、まだ意識が戻らない者もいる。

ただし、それはそれとして、命に別状はないそうだ。

あの鯖の神は、天狗にとっての災害そのもの。

あの神を恨んでも仕方がないし、対抗しようと思ってもいけないのだろう。それが天狗という集団に縛られたものの限界だ。

ただ、椛は今筋を通した。

裏切り者だろうが、礼を言った。

それだけで、はたてには充分だ。

「元気そうだから行くわ。 無理をしないようにね」

「私は別に無理などしていません。 貴方こそ、新天地では色々な苦労があることでしょう。 あり方を一度失った妖怪は、消えてしまう事もあると聞いています」

「問題ないわ。 力自体は、以前より確実に上がっているもの」

「そうですか……」

これは本当だ。

今までは鴉天狗という枠組みで、どうしても力の上限値が存在した。

あの射命丸も、その枠組み内でしか力を発揮できなかった。

それは明らかである。

だが、今のはたては違う。いや、前と同じであってはそもそもいけないのだ。その自覚を強く持っている。

或いは、だが。

はたてに入り込んで来たこの新しい力。

外では失われてしまっただろうものは。

ひょっとしたら、とても強い概念だったのかも知れない。

なんでこれが外で失われてしまったのか。

或いは、小耳に挟んだ事があるように。

外の世界の精神文明が、限界寸前まで荒廃してしまっている事が理由かも知れない。だとしたら、悲しい話だった。

鈴仙に一礼して、皆の所に戻る。

鈴仙は、一つだけといって。呼び止めて話をした。

「鯖の神ですが、貴方方の所には姿を見せませんでしたか?」

「はい。 興味すらもたなかったようですね」

「……分かりました。 お師匠様に伝えておきます」

「よろしくお願いします」

鈴仙とも、もう少し良い関係を構築したいな。

そうはたては思う。

早苗とため口で喋るようになってから、ぐっと距離が縮まった気がしたときのことを思い出す。

急速に守矢の神の影響を受けて冷徹になって来ている早苗だが。

時々、まだ生身の部分の、戦闘を嫌う性格が出てくる時がある。

そういうときの根元の邪悪では無い部分が、はたては好きだったし。

それを他の皆が知ってくれれば、もっと良いのにと思う。

舐められると厄介だから、絶対に言うなと早苗には言われているが。

そもそも舐める舐められないで回している社会というのは、健全なのだろうかと感じるのだ。

ともかく、皆の所に戻る事にする。

戻ってから、幾つでもやる事はある。

そう考えたから、だ。

新聞記者に、本当の意味でなった今。

やって良い事と悪い事の区別は付くし。

それにそって行動する事も、出来るようになっているのだった。

 

3、トリックスターと災害の跡

 

新聞を作ることに関しては制限無し。

その代わり、新聞を作っても読む相手は妖怪の賢者だけ。

鳥籠に入れられた射命丸文は、首を何度か押さえながら、空を飛ぶ。

自殺防止。

命令以外の行動は禁止。

他にも幾つもの枷が精神に仕込まれている。そして精神に仕込まれた枷は、妖怪である以上どうにもできない。

だから、その範囲内で動くしかない。

快足を生かして、周囲を調べて回る。鯖の神は本当にどこから現れるかも分からないし、そもそも何処に普段は眠っているのかも知れない。

眠っている場所は恐らく賢者なら知っている。

だが。そもそもバランサーとして鯖の神は重要だと考えているのだろう。賢者がその事を話題にすることはなかった。

今回の件について、彼方此方取材して回る。

強引な取材も禁止された。

それもあってやりづらいが。

守矢の二柱に許可を得るまで何回か神社に赴き。

嫌そうな顔をしている二柱に、何度も頭を下げて、取材許可を得た。

行動については紫も知っている筈だが。

放置したと言う事は、別にやってもかまわない、ということなのだろう。

なお、強引に新聞を他者に見せようとしたときは。1秒ごとに人間が何万年分かで味わう苦痛を受け。

以降永久に。地獄に落ちても。それが毎秒続くという。

そもそも新聞を他者に見せるという行動自体が出来ないが。何重にもセーフティが掛かっているわけで。

紫が本気でブチ切れて。

文はその怒りを全力で叩き込まれた事を、嫌になる程理解していた。

妖怪の賢者の中ではもっとも格下で、パシリ同然に使われている。

そういう事は知っていたのだが。

それでも賢者は賢者。

妖怪の中の妖怪である。

それくらいの事は出来て同然だし。

釈迦の掌の上の孫悟空に等しい状態であるにも関わらず、それを理解出来ていなかった文にも責任がある。

だから、もう。

罰は、甘んじて受ける事にしていた。

彼方此方を調べ。更には、二柱の許可証を見せて。相手に話を聞く。射命丸の取材と言うだけで嫌がる者もいたが。

だが、本当に取材内容があの日何があったか聞くだけ。

暴力も振るわなければ、必要のある範囲内でしか話は聞かず。

別に他人が知っても良いことだけしか聞かない。

それを知った後は、ある程度はどの妖怪も話をしてくれた。

勿論文の方も必死だ。

下手をすると首が本当に飛びかねない……いやもっと酷い目にあう。

紫を本気で怒らせたとき、殺され掛けたが。

あの時の痛みは、正直思い出したくもない。

丁寧に取材をして、情報を集めていく。

もう驕りは、心の中から消え去っていた。

ある程度情報を集めたところで、迷いの竹林にも出向く。

永遠亭で話を聞いて、取材を終えて。

出ていく所で。ばったりと、正面から藤原妹紅に出会った。

正体がよく分からない、不死の人間。美しい長い長い銀髪を持ち。それでいながら粗野な格好をいつもしている。今もモンペなんか履いている。

百数十年だか前に、生意気だと襲いかかった鴉天狗の群れを鎧柚一触に焼き払った幻想郷では現博麗の巫女に次ぐ実力を持つ人間。

なお、文とは犬猿の仲だったのだが。

今はどうしてだろう。

不快感は、あまり感じなかった。

妹紅は鋭い目で見ていたが。

やがて、ふっと口の端をつり上げた。

「その様子だと、鳥籠にでも入れられたか?」

「お察しの通りで。 どうやら年貢の納め時という奴のようでしてね」

「ふん……」

「取材をさせて貰ってもいいですか? 答えたくないことは言わなくても全くかまいません」

しらけた目で此方を見ている妹紅。

まあ、いい。

今までの所業が所業なのだ。そういう風に警戒されるのも、当然だろう。

「それで?」

「この間、強い神の気配を感じませんでしたか?」

「ああ、あれか。 天狗の天敵のあれだろう」

「そこまでご存じであれば話は早い」

知っていたか。まあ知っていても、不思議では無いだろう。

現在は、新聞を紫しか読まないこと。

更には嫌だと言う内容は記事にしないこと。

これらを説明すると、妹紅は呆れた。

「お前、それは全身を縛られているようなものではないのか」

「そうです。 ただ、正直殺され掛けた後ですから、生きているだけでも可としないとなあと思っています」

「……それでにやついていられる貴様の精神がよく分からん」

「恐縮です。 得体が知れないと思って貰う方が、私には色々好都合なんです」

ふふふと笑う。

妹紅は、一切笑わなかったが。

沈黙が流れた後、軽く話してくれた。

「別に邪悪な気配の類は感じなかったな。 人間に仇なす悪神の類は、どうしても感知できるんだが」

「ほう」

「あれは悪神の類ではないということだ。 外の世界では護法神という強い力を持つ人間の守護神格がいるが、それに近い性質を持っているんだろう。 あくまで性質はそれに近いと言うだけだ」

なるほど、それは納得が行く。

そもそも、である。

例えば、毘沙門天。現在命蓮寺で本尊に据えているあの神格も、天の邪鬼を踏みつけた姿で木像とされる事がある。

早い話が悪鬼に対する特攻効果を持っていると言う事で。

悪鬼には、それこそ強すぎる光に見えてしまうだろう。

天狗には、もはや知識の埒外にある外界の魚。

それに人間の手足が生えたおぞましい姿になるのも、それは納得が行く。

ひょっとすると、あの神。

天狗以外には、別の姿に見えているのか。

可能性は、否定出来なかった。

「気配の生じた位置などは分かりませんか」

「ノーコメント」

「……分かりました。 それについては記事にしません。 次の質問です。 貴方は、あの神と接触したことが?」

「それもノーコメントだ」

なる程ね。

文より年上であるらしい妹紅だ。感情を表に出すこともない。というか、腹の探り合いなら文より上か。

そもそも相当な激情家らしいのだが。最近は人里にいるハクタクの獣人と相応にいい関係を構築できているらしく。

それで精神も落ち着いている様子だ。

精神的な意味でのアキレス腱なのだろう。

もしもあのハクタクの獣人を殺したら、それこそ怒れる炎の塊となって、何もかも焼き尽くしに来るだろう。

だが、そもそもハクタクなんて高位霊獣の獣人だ。麒麟などと並ぶ最高位の霊獣の一つである。

獣人となって弱体化していても、実際の戦闘力は凄まじい筈で、あっさり殺せる相手でもあるまい。

不遜なことを考えたが、それは後回し。

それに今の口調、話の内容からして。妹紅はあの鯖の神を脅威認定していない。

ということは、本当に人間には害を為さない存在なのだろう。

天狗だけを殺す神か。

そう考えると、確かに妹紅の言動にも納得が行く。

「分かりました。 取材、ありがとうございます」

「精々喰われないようにするんだな」

「分かっていますよ」

普段は、約定によって手足一本だけ食い千切って、天狗を怖れさせるだけ怖れさせて帰っていく鯖の神だが。

度を超した悪さをする天狗が出ると、文字通り頭から囓って本当に喰ってしまう。

文は今まで二回、そうやって喰われてしまった天狗を見ている。

いずれも文以上に悪辣な取材をしていた天狗で。

その内一回は、先代の飯縄権現だった。

相性もあるだろうが、大天狗クラスでもひとたまりもなくエジキにされてしまうと言う事である。

幻想郷の賢者達も、懲罰するのが面倒くさい場合は、あの鯖の神に任せてしまうのだろう。

そして喰われてしまった天狗は、文以上の速度を自慢している者もいた。

速さなんて、あいつの前では何の役にも立たないと言う事だ。

地底にいる古明地姉妹の妹のように、速さというのが全く意味を成さない能力を持っているのか。

それとも天狗に対する特攻効果を生かして、速度を無視して動く事が出来るのか。

ちょっと其処までは分からなかった。

軽く博麗神社も見に行く。

今代の博麗の巫女。幻想郷の守りの要である博麗大結界の管理者である博麗霊夢は、この間の第二次と言われる畜生界との苛烈な抗争で疲れたようで、横になっていた。だがそれでも、文の到来には気付いたようだったが。

縁側に寝ていた霊夢は、身を起こす。

目つきが鋭すぎなければ、つけている赤いリボンも巫女服も似合う、そこそこ綺麗な娘なのに。

隠しきれないたぎる戦意と荒々しさが、それらを全て帳消しにしている。

大弊だかなんだかいう棒を手にとり、立ち上がる霊夢。

それに対して、文は静かに境内に降り立っていた。

「何。 強引な取材はお断りよ」

「これでどうでしょう」

地面に天狗の団扇を降ろして、両手を挙げてみせる。

霊夢は一切油断しない。

昔は文の方が強かったが。今でははっきり言って霊夢の方が数段実力が上だ。

人間の成長はかくも早い。

とはいっても、人間の衰えもまた早い。

今の時点で、霊夢は人間で。

二十歳を過ぎれば、急速に衰えるのでは無いのかと、文は睨んでいるが。

それに対して、今代最強にて幻想郷の切り札である霊夢を失う事を恐らく可としない紫が、何か手を打っている可能性もある。

いずれにしても、まだ分からない話ではあるが。

「何それ。 抵抗しないって事?」

「残念ながら、暴力を伴った取材は一切出来ないようにされていまして」

「ああ、紫に仕置きされたらしいわね」

「今ではすっかり籠の鳥ですよ」

へらへらと笑ってみせる。霊夢は呆れた。

それでいい。

呆れているくらいの方が、文としても色々やりやすいのだ。

「話だけでも聞かせて貰えませんか?」

「何の話よ」

「少し前に、強い神が山に現れた事をご存じで」

「ああ、気配があったわね。 邪悪な気配ではなかったから放置しておいたけれど」

やっぱり知っていたか。

此奴の勘は常識離れしていて、この間の第二次侵攻と言われる畜生界との大規模抗争でも。

ただ一人、真っ先に真相に辿りついたと聞いている。

恐ろしい事に、地獄の鬼の顔役が主犯だったらしいのだが。

文は既に取材を許可されていないし。

組織としての天狗はその件に関して完全にだんまり。

つまり、幻想郷がひっくり返りかねない規模の異変だったということだ。

あの幻想郷最強の鬼、萃香が動いていたという話もある。

余程一歩間違うと大変な事になる事態だったのだろう。

首を突っ込まなくて良かった、と思うのと同時に。

取材したかったなとおもう気持ちもあった。

「他に何か気付いた事はありませんか?」

「別に。 ああ、天狗が何体か気配が小さくなっていたけれども、どうでもいいわ」

「ははは。 なるほど、ありがとうございます」

一礼すると、その場を離れる。

そして、自宅に戻った。

 

文の自宅は、人里の離れに建っている。

前は妖怪の山の風穴に、他の天狗と共にあったのだが。現在は強力な結界で監視された中に家があり。

文字通り針のむしろに座っている状態だった。

ただ、現時点では耐えられる。

現時点では。

やはり文も妖怪なのだ。あり方をこうやって制限されると、常時ダメージが入っているようなものである。

だが、それは今まで天狗が他の妖怪にやってきた事でもある。

今は少し落ち着いて来ているから。

それが分かっていた。

コピー機を使って、新聞を印刷する。

校正のためだ。

印刷した新聞を校正して、赤ペンで修正していき。それを見て、更に新聞の文面などを修正する。

修正が終わったら、また印刷。

一連の手作業は素早く行う事が出来るが、機械の性能が追いついていない。外の世界に比べて。幻想郷にある機械は、どうしても性能が劣るものなのである。

無縁塚という幻想郷と外の境界が揺らいでいる場所があり。

そこに流れ着く人間の機械を。幻想郷の技術者集団である河童が手入れして、天狗に高値で売りつける。そうして天狗は、外のテクノロジーを手に入れているのだが。

その仕組みも今は変わってしまっていて。

賢者がガチガチに監視している中、もののやりとりは行われている。

強い妖怪が、弱い妖怪を痛めつけすぎたのだ。

しばらくは息苦しい状況が続くだろう。

ただ、新聞がどれだけ制限された状態でも作れる。

それだけでも、文には嬉しい。

無言で新聞を印刷して、修正し。それを四度繰り返すうちに、日が暮れて。そして朝になっていた。

出来た新聞を何度か眺めて、校正の余地無しと判断。

不思議な話だ。

前は、自分でも、自分の新聞が三流以下のポンコツだと言う事は分かっていた。情報の正確さだけが、文の強みだった。

だが今は、昔の新聞が少しずつ気にくわなくなってきている。

姫海棠の作っている新聞のようなものを作ろうとは思わないが。

それでも、新聞の品質を上げたいと考え始めている。

それは他ならぬ自分のためだ。

今の文にとっての最後のよりどころが新聞である。

だから、これだけは。とても大事に扱いたい。

そういう考えに、間違いはなかった。

新聞をしまおうとして、舌打ち。

気配を感じたからだ。

よりにもよって、橙である。

八雲の姓すら名乗ることを許されていない、式神の式神。猫又の式神である。

愛くるしい子供の人格を持っているが、大した実力はなく、文の敵ではない。

此奴を送ってきたと言う事は、早い話が文の出方を見ているということで。隠し事でもしようものなら、即座に殺すつもりだろう。

分かっている。

笑顔を引きつらせながら、文はにこにこ屈託がない笑みを浮かべている橙に相対する。

「文ちゃん、新聞出来たみたいだから受け取ってきなさいって」

「ああ、分かっていますよ。 此方になります」

「わ、新聞、あったかいね」

「刷り立てですので」

お芋焼いて良いと聞かれたので、ふつりとキレそうになるが。なんとか笑顔を保って対応する。

というか、このガキには。

新聞なんて、芋を焼くもの程度の認識しかないのだろう。

まあそれはそうか。

今まで天狗の新聞なんて、身内以外ではそう扱われていたのだから。

何が高度な情報化社会か。

何が幻想郷のシステムの一環か。

滑稽すぎて言葉もない。

「紫さんには大事な新聞です。 きちんと傷つけないように届けてください」

「紫さまの? わかった、大事にするね」

「お願いします。 もしも破ってしまったりしたら、また刷るので戻って来てください」

うんと素直に頷くと、橙は紫が作り出す空間の裂け目、通称「隙間」に消える。

嘆息すると、文は赤線を引いたボツの新聞を全て外に持ち出し、焼き払っていた。

飛散しないように、徹底的に焼かなければならないから。ドラム缶を持ち出して、その中で妖術の強火で焼却する。

家の中には結界があって、間違っても里の悪戯小僧とか、雑魚の妖怪とかは入る事ができない。

新聞のデータを盗まれることもないだろう。

新聞のなり損ないを焼き尽くすと、ようやく人心地ついた。

あの新聞には結界を生じさせる妖術が掛かっていて、八雲紫以外が読もうとすると一瞬で燃え尽きるようにもなっている。

だから、橙が扱いを誤っても大丈夫だ。

それにしても文ちゃんか。

同じ式神になったと言う認識なのだろうが。本当に不愉快である。しかもあいつは、何だか何だで紫や、その式神である藍に猫かわいがりされている。

ぶん殴りでもしたら、どうなるか分からない。

嘆息すると、思い通りにならない事ばかりの現世に対して。

無言の、やりどころがない怒りを飲み込み。

そして眠る事にした。

 

夢を見た。

下剋上を為して、天狗の組織を乗っ取った夢。そもそも最強の実力者であるのに、どうしてずっと下っ端だったのか。

トップに君臨して当然では無いか。

そう思いながら、今まで大天狗などと調子に乗っていたやつばらを顎で使う。

その中には、上司である飯綱丸龍の姿もあった。

夢だ。

自分でも分かっている。

虚しいことだ。

既に天狗の組織からは離れた。今更こんな夢を見て何になるというのか。本当にばかげたことだ。

また、別の夢を見る。

夢とはそういうものだ。脈絡もなく、コロコロと場面も入れ替わる。

今度は、天狗を離れて、自分が主導して報道組織を作った。だが、それは時期が悪かった。

他の天狗が全て攻めてくる。

天狗最強の名も高い文だが、それでも全部まとめて勝つのは無理だ。激しい戦いの末に敗れて組み伏せられ。

そしておぞましい拷問を加えられ、尊厳を徹底的に陵辱もされた。

別の夢を見た。

幻想郷が瓦解していく。

何があったのかは分からない。

何処かの異変で、博麗の巫女をうっかり殺してしまったのかも知れない。或いは他世界との問題で戦死させてしまったのだろうか。

可能性は、大いにある。

いずれにしても、博麗大結界がほころび始め。

あわてて次の世代の博麗の巫女を探す必要が生じる。

外の世界で探すわけにはいかない。人里の中から適任者を見繕うしかない。

妖怪退治屋の子孫が暮らす人里だが、それでも適任者となるとそうそう見つかるものでもない。

やっと見つけた適任者はまだ幼い娘で、親の記憶を消して強引にさらう事になった。

泣いている娘をみて、紫が大きく溜息をつく。

こいつは戦闘には向かない。

博麗大結界の管理の仕方を大急ぎで仕込め。

そうして、文も協力して。ただの人間の子供に苛烈極まりない訓練をさせる。親に会いたい。そう泣く子供に、折檻のようなやり方。外では虐待というのだったか。そういうやり口で、教育を進める。

急がないと、博麗大結界が瓦解し。

その結果、幻想郷は破滅する。

まだ外で知られているような妖怪はいいだろう。だが大半の妖怪は、博麗大結界が消滅した時点でおしまいだ。

あわてる紫を見て笑うどころじゃあない。

霊夢があまりにも強い事もあって、誰もが油断していた。普段は博麗の巫女の後継者くらい、目星をつけておくのに。

今回はそれを怠った。

否。

恐らくだが、あまりにも忙しすぎて、それを先送りにしていたツケが出て来てしまった。そういうことなのだろう。

ため息をつく。文にとっても、これは人ごとでは無いからだ。

戦闘のやり方も教えるが、やはり紫の見立ては正しく、全くスペルカードルールどころではなかった。

強い妖怪はこれで新しい博麗の巫女に興味を持たないだろうが。

それはそれとして、逆に問題も生じてくる。

異変が発生したとき、誰が対処するのか。

博麗の巫女と同時に、相棒として活躍していた霧雨魔理沙も失踪した。多分もう死んでいるとみて良い。

そうなると、守矢に更に借りを作る事になるか。

もしくは乗り気では無いだろう藤原妹紅に頼むしかなくなる。

それでは意味がない。

二人とも純粋な意味での人間とは言い難い。

異変を解決するのは、あくまで人間の代表者でなければならない。それが、幻想郷の大原則なのだから。

夢が覚める。

頭を振って、文は起きだしていた。

こう考えてみると、幻想郷は問題だらけ。不安要素だらけなんだなと、そう思う。

この間の畜生界の第二次侵攻で動いた地獄の顔役も、幻想郷がまとまらないならいっそ自分がと動いたようだし。

それだけ問題は表面化している、ということだ。

外に出て、日光を浴びる。

山と違って、空気がよどんでいるような気がする。端とは言え人里だから、一応人間に扮しなければならないのも面倒だ。

何もかも。

滅茶苦茶になってしまえば良い。

少し前までは、どこかでそんな事を文は考えていた。

何もかもが気に入らなくて。

力で天狗最強になってからは、より暴虐は加速していたと思う。恐らくだが、幻想郷が瓦解しても生きていける自信もあったのだろう。

今はそんなものはない。

外にいる連中は、幻想郷にいる妖怪なんて問題にもしない。

大した能力者でもない外の世界の一サイキッカーですら、幻想郷を崩壊に追い込みかけるほどの力を持っている。

外の神々の実力はそんなものは鼻で笑うほどで、中には妖怪そのものを良く想っていない者だって多いのだ。

空をじっと見つめる。

もう彼処は、文の場所では無い。

そして自称でも。

もう最速などと、名乗れなくなっていた。

 

4、蹂躙の神の正体

 

幻想郷には併設して幾つもの異空間がある。仙界と呼ばれるものだったり、或いは別のものも。

その一つ。

後戸の国と呼ばれる異空間に戻って来た者がいる。

そう。

少し前に、天狗の集落を蹂躙した存在。鯖の神だ。

鯖の神は、見る間に姿を変えていく。

やがて、それは人型となり。

使役している二童子と呼ばれる、自分の力を増幅するための生体デバイスに促して。椅子を用意させた。

此奴らの後継者もそろそろほしい所だが。それを兼ねて起こした異変は上手く行かなかった。

だが、これらは元人間だ。

そろそろこの仕事から解放してやりたい。

既に人ならぬものとなっているとしても。解放してやれば、時間を掛ければ元に戻る。

此処にいたことも。

生体デバイスになっていた事も忘れる。

後は人間として生きていくのを、賢者として支援すれば良い。

問題は寿命だが。

外なら兎も角ここ幻想郷だったら。寿命が非常に長くても、別に周囲は驚くことはないだろう。

空を飛ぶ人間だって、幾人もいる場所なのだから。

食事を童子が用意しようとしたので、不要と告げる。

賢者、摩多羅隠岐奈。

それが鯖の神の正体であった。

正確には、少し違う。

そもそも、絶対秘神の通り名のまま。その伝承が意味不明で、文字通り何が何だか分からないのが摩多羅隠岐奈の特徴だ。

古くに失伝した特徴も多い。

その中の一つ。

摩多羅隠岐奈と分離した信仰となり。いずれ鯖を用いた天狗避けになっていった存在。それが、鯖の神なのである。

多数の側面を持つ神は存在しているが。

摩多羅隠岐奈もその一柱なのだ。

対外的には、外で行われていた天狗避けの行事が神格化したもので。それが古代神格と一体化して、幻想郷に入ってきたとしている。

天狗達にもそう情報を流している。

正しい情報を掴むことに定評があるあの射命丸もそれを信じていて、疑っていない。

鯖の神の正体を知っているのは、幻想郷でも賢者の何名かだけ。

元々増長しやすい天狗達を掣肘するために、早めに手を打った結果。古くにあって一人歩きしていた側面に着目。

外にて信仰が残っていた自身の一部を、幻想郷に、更には自身に取り込んだのだ。

それが鯖の神の正体であり。そして摩多羅隠岐奈の側面でもあった。

元々分離していた力を取り込んだに等しいので、抵抗はまったくなかった。

なお、以前の異変で摩多羅隠岐奈は主犯となり。

その時はスペルカードルールで射命丸と交戦した事がある。

その時に「天狗避け」の力を使ったこともあるが、それはあくまで「天狗避け」。天狗殺しではない。

人間達の願いから生まれた、人攫いの天狗を倒してほしい。

そういう強い願いが、鯖の神の特性であり。

故に「人攫いでは勝てない程度の能力」という超特化型の能力へと変化しているのである。

そして今までも、眼に余る所業をしている天狗は、この鯖の神の能力で喰らってきた。

今回も、真っ先に逃げようとしたり。

仲間を盾にしようとしたような天狗を片っ端から仕置きしたが。

その一方で、この姿を取る必要はなくなるかも知れない、とも感じている。

若手の天狗達が、やっと自浄作用を働かせようと奮戦している。

その結果、天狗ではなくなりつつあるかも知れないが。

それはそれでかまわない。

妖怪と言うのは、時代とともに変化していくものだ。

そもそも天狗だって、中華ではまったくの別物。

彗星を妖怪として認識したものであり。

日本の天狗は独自の存在である。

その歴史は千数百年程度で、妖怪の歴史で言えば飛頭蛮よりも短いくらいである。

別にそれが劣っているという事はない。

妖怪も神も、姿が信仰によって変わっていくものなのであって。

それが自然な事。

だったら、時代に合わせて堕落しないように努力していけばいい。

少し前までの天狗達は、それを怠っていた。

だから時々仕置きをしていたのだが。

数名の天狗の手足を喰らった事で、腹は膨れている。

しばらく目を閉じて考えていたが。

やがて童子の一人である「舞」に、指示を出していた。

「今回の一件について、紫は既に調査をさせているはずだ。 紫の所に出向いて、情報を貰ってくるように」

「はい、分かりました」

すぐに童子が行く。

童子は性質上絶対服従であり、それも痛々しい。

この童子達は力の増幅のために必要な存在。

そもそも人として暮らしているのを拾ったのではなく。人として行き倒れ、死にかける寸前だったのを拾ってきている。

とはいえ、このような人形同然の事をさせているのはやはり心が痛む。

近いうちに。

やはり後任を探すべきだろう。

そう、隠岐奈は思った。

しばらくうたた寝を楽しむ。

神格、それも古代神格である隠岐奈には、厳密な意味での食糧など必要ないし、排泄もしない。

必要なのは信仰だけ。

普段はそれすらも必要がないのだが。

たまにああやって天狗を喰って力を補うし。なんなら普段はあまり表にでないが、色々な行動で信仰を集めてもいる。

それで腹は膨れるし、地獄の猛者共とやり合える力も充分に確保できているので。

普段は全く動く必要がなかった。

やがて舞が戻ってくる。

跪いた舞が差し出してくる新聞を受け取る。ほう、これはこれは。

もはや紫しか読まなくなったという射命丸文の新聞ではないか。

あまりにも悪さが過ぎるから、ついに仕置きされたと聞いているが。

まさか手下として先に抑えられるとは。

前から目をつけていたという話はあったが。

式神にするよりも、遙かに強硬的な手段を採ったと言う事は、恐らく紫の逆鱗をフルスイングで撃ち抜いたのだろう。

愚かな事だ。

頭が良くても、おろかな者はいる。

なお、隠岐奈自身もそれが自分に当てはまらないとは思っていない。

自分が頭が良くて賢いと思い出すと、どんな存在でも堕落する。

そんなことは、隠岐奈でも分かっていた。

人間は未だに分からない者が多数いるようだが。

なんとも哀れな話だった。

この新聞は写しだな。

そう判断した。

それも、かなり高度な妖術を使っている。この様子だと、もとの新聞は特定の存在……多分紫以外が読むと焼け落ちるようになっているのだろう。

紫級の最高位妖怪が使う妖術で、それをどうにか防いでいると。

まあ、あのトリックスター気取りには丁度良い仕置きかな。

そう思いながら、頬杖をついて新聞をめくり。数分で文字の全てを完全に暗記し、把握していた。

「よい。 紫の所に戻してくるように」

「はい」

再び舞が行く。

二童子のどちらかは、余程の非常時か、休憩時以外は側に置いている。

側にいないときの人格は、隠岐奈の気分次第で決めているが。

そもそも半分以上死んで……脳が特に破損が酷くて完全に潰れていた状態から童子にした経緯がある。

魂は体に留まっていたが、それも少し遅れたら体から離れてしまっていただろう。

だからもとの人格は、隠岐奈にも分からない。

それもまた、悲しい話だった。

そのため、ベースになる人格は、わざわざ式神を飛ばして聞き取りをし。可能な限り生前のものを再現するようにしたのだが。

それもどこまで出来ているかは分からない。

恐らくは再現出来ていると思いたい所だ。

やがて紫からの言づてを受け取った舞が戻ってくる。

そして、耳元に囁いた。

「紫様は、天狗については近いうちに天魔の交代が必要だと考えているようです」

「ふむ、今は色々忙しいが……それが片付いてから、になるだろうな」

「はい。 同じ意見のようでした」

「分かった。 二人ともさがって休め。 後戸の国から出なければ、後は好きにしていてかまわぬ」

「舞」と「里乃」がそれぞれ礼をして、隠岐奈の前からいなくなる。

さて、まだ隠岐奈には仕事がある。

多数のデータを術式で展開。

幻想郷の状態を確認する。

少し前は、地獄にいる鬼の顔役……幻想郷にいたこともあり、旧地獄と呼ばれる無人地帯を作る原因となった大物が。幻想郷を憂うほどに、状況がカオスだった。

現在は懸念されていた守矢の伸張が一度停止。

守矢の二柱は牙を研いで部下を増やし組織化しているものの、それ以上の動きに出る様子がない。

他の勢力の殆どは脳天気そのものだが。

切れ者である聖徳王は状況を見て、まずは部下の道士見習いを増やそうと動いているようだし。

同じく切れ者の命蓮寺の住職は、いざという時に備えて対守矢の大連合を組めるように、コネの構築に余念がない。

これなら、自分がしゃしゃり出なくても大半の問題は大丈夫だろう。

近年は畜生界の勢力が幻想郷を欲しがって出張ってくる事が多く。この間の異変では、畜生界にある五つの勢力の内、三つまでもが競って進出を狙っていた。あんな世界のルールを持ち込まれたら最悪だ。

最悪の場合は隠岐奈が出ることも想定していたのだが。結局コネを作る程度の事しか畜生界の者達はなしえず。

更には、畜生界の顔役達をくだんの鬼の顔役が叩きのめして手を引かせたこともある。

最大懸念事項であった饕餮すらも鬼の顔役には手も足も出ず。

それを見ていて、苦笑を禁じ得なかった。

幻想郷は、恐らく今後はコネの時代に突入していく。守矢と対守矢の実力が拮抗すれば、それはより鮮明になるだろう。

だから、それぞれの個々人により注目していかなければならない。

それは外のように。

超破壊兵器が周囲を威圧して、無理矢理戦争を抑止するよりも、余程ましな状況であろうと思うし。

最悪の場合守矢が幻想郷を支配したとしても。

外ほど酷い事にはならないだろうという確信もある。

紫は幻想郷が変わる事を非常に嫌悪しているようだが。

彼奴は妖怪も神も変わっていくものだという事を忘れてしまっているかのようである。

幻想郷だって、ずっとこの姿のままではなく、

昔は妖怪が軽率に人を殺している場所でもあったのに。

いずれにしても、今回はもう出番もない。

天狗の組織の腐敗。

だが、そんな中でもあがこうとするもの。

新しく立ち上がろうとする若手達。

それらを確認も出来た。

ならば見守るとしよう。賢者らしく。

隠岐奈は。警戒している相手の動きに呼応する警報を幾つか設置しておくと。それに安心して、眠りにつくことにした。

 

(終)