渦を巻く路

 

序、包囲

 

ロロナは急いで革袋の水を飲み干した。既に周囲が完全に囲まれて、しばらく時間が経っている。

最悪なことに、側にいるのは、怯えきっているリオネラだけ。

クーデリアはいない。

リオネラの自動防御は強力だが、この数をしのげるとはとても思えない。今、外に出るのは、自殺行為だった。

真っ青になっているリオネラは、言葉もないようで、肩を掴んで震えている。

今、ロロナは。

アーランド近辺の森の最深部にいる。

周囲を囲んでいるのは、無数のドナーン。更に、どういうわけか、かなりの数のヴァルチャーも旋回していた。

獲物にありつけると、判断したからかも知れない。

どちらにしても、アードラの上位種であるヴァルチャーは、簡単な相手ではない。もしも見つかってしまったら、最後だ。

今回は、油断したとしか言えない。

巡回の戦士達も、こんな森の奥までは、中々来ない。ただ、クーデリアが簡単に倒されたとは思えない。増援さえ呼んできてくれれば、どうにかなるはずだ。

呼吸を必死に整える。

さっき、この小さな洞窟に逃げ込む際に、魔力を相当消耗した。

今はとにかく、脱出のために、力を回復しておかなければならない。それに、リオネラが足手まといになったままでは、逃げられるものも逃げられないだろう。

泣きたいのは、ロロナも同じ。

アトリエに戻った後、いくらでも泣けば良い。

アーランド人にとって、危機はごく普通のものだ。絶体絶命の危機を乗り切って、はじめて一人前になるという話さえある。

一応、発破の類も、荷車に積んでは来たけれど。

相手があの数では、どうしようもない。それにはっきり見たわけでは無いのだが、ドナーンの中に、上位種が混ざっているように見えた。

ドナーンは数が多いだけあって、様々な亜種がいる。

この近辺だと、緑色の頑強な鱗を纏い、ブレス能力を有するイグアノスや。全身が真っ赤で、炎に対する著しく強力な耐性を持つサラマンダーなどが有名だ。国有鉱山にも、上位種が住み着いているという噂があるけれど。幸い、今までは、遭遇したことがない。

更にこれらが長生きすると、場合によっては下級のドラゴンに匹敵するほどの戦闘力を得ることさえある。

ステルクがいれば、上位種がいても不安は無いのだろうけど。

やはり、心の何処かに、甘えがあったのかも知れない。

「リオネラ、落ち着いて。 今はロロナさんと一緒に、脱出する事を考えましょう」

「そうだぜ。 泣いてたって、モンスターどものランチになるだけだ。 泣くのは、あとでだって良いだろ?」

ぬいぐるみ達が、口々にリオネラを慰めている。

ロロナは、口を挟む必要もなかった。ただ、リオネラはずっとくすんくすんと泣いていて、気の毒極まりなかった。

とにかく、落ち着いてもらうしかない。

どうやって。

リオネラが、人を怖がっていることは、ロロナには何となく分かる。抱きしめたりしたら、逆効果になりかねない。

それにリオネラは。

こんな状況でも、家族の名を口にしたりはしなかった。勿論、恋人らしい人の名前も、口から出ない。

青ざめて、震えているのに。誰も助けを求める人がいないのだ。

リオネラは恐ろしいほど孤独なのだと、改めてロロナは思い知らされていた。

それと、もう一つある。

ロロナでも分かるくらい、リオネラの顔に書いてあるのだ。こんな筈ではなかったと。多分、何かの失敗をした結果だ。

考えて見れば、おかしかったのだ。

そもそもこの辺りは、これほどモンスターが群れる場所ではない。ロロナが確認しただけでも、五十はドナーンがいた。もう少し北に行けば、ドナーンの群生地もあるけれど、数は厳重に管理されている。

野良のドナーンが、まとめて何かしらの理由で、集ってきたという感触である。

耐えれば、或いは。

この異常事態に気付いた戦士達が、駆けつけてくるかも知れない。ベテランが五人もいれば、この程度のドナーンは蹴散らせる。

気付かれると厳しい。

包囲を敷かれて、波状攻撃でも掛けられたら。リオネラの自動防御が切れた瞬間、大量のドナーンがなだれ込んでくる。そうなったら、二人とも、瞬く間にミンチにされてしまうだろう。

リオネラの側にかがむと、洞窟の入り口を見たまま、ロロナはゆっくり話しかけていく。

「りおちゃん、状況を整理しよう」

「うっ……ぐすっ……」

「いい、まずわたしたちは、洞窟に追い込まれて、敵がそれを探してる。 敵の数は、ドナーンがざっと見積もって五十、ヴァルチャーが五ないし六、それに上位種らしいドナーンがいるかも知れない」

指折りで数えていくと、絶望的な戦力差だ。

ベテランだったら笑ってしのげるかも知れないけれど。火力はあっても防御が紙のロロナと、防御は出来ても戦闘慣れしていないリオネラでは、致命的。

クーデリアははぐれてしまったけれど、きっと来てくれる。

だが、クーデリアがいても、包囲を突破できるかどうか。

「こういうときは、支援を待つのが鉄則なの。 りおちゃんは、力を温存して。 自動防御は、命綱になるから」

「……」

泣きはらした目で、リオネラが見上げてくる。

今言ったことは本当だ。ただし、援軍の宛てがない籠城は、ただの自殺行為でもある。どうにかして、助けを求めなければならない。その方法が思いつかない。

ロロナはどうやったら助けを呼べるだろうと、必死に考えるけれど。今、敵の群れに見つかっていないことが、不思議な位なのだ。

喋ることさえ、危ない。

だから、言葉を選びながら、出来るだけ声のトーンを落とす。

「巡回の戦士達が、いずれ異常に気付くはず。 近場のベテランを集めて駆けつけてくれるか、或いはくーちゃんがベテランを呼んできてくれれば、形勢逆転。 きっと、もうすぐそうなるから」

「……ううっ」

「だから、泣かないで」

ロロナは、向き直ると、ハンカチでリオネラの涙を拭く。

ぐしゃぐしゃに泣きはらしていると、どんなに可愛い顔でも、歪む。リオネラだって、それは同じだ。

リオネラはロロナから見て、大人っぽい体つきと、とても綺麗に整った顔立ちを持っていて、羨ましい。

だけれど、戦士であるならば。

いつまでも泣いていないで、戦う覚悟を決めて欲しいとも思う。

アーランドの戦士達なら、そうリオネラを叱責するだろう。ただ、ロロナは、あまりアーランド戦士の中では強い方では無い。心も、体も。

だから、リオネラの悲しみが分かるのだ。

それに、何より。リオネラの孤独も、此処にいると分かってくる。だから、無理強いは出来なかった。

どうすればいいのか、最初から考えて行く。

確かに待ちの一手なのだけれど、それだけでは、助けが来るまでの時間が、大幅に伸びるだろう。

しかし、発破の類を使うのは自殺行為だ。

もしも発見された場合、一刻も持たないだろう。自動防御で入り口を防いで、ロロナが火力を総動員しても、敵を蹴散らし尽くせる筈がない。なだれ込んでくる敵に蹂躙されて終わりだ。

どうすればいい。

時間が過ぎていく。洞窟からこっそり覗き込むと、やはり相当数のドナーンが、周囲を探して廻っている。

動きが組織的で、ボスがいるのは確実だ。

これだけの群れを統率しているのだ。並のドナーンではないだろう。

いっそ、抵抗を諦めて、防御系の術式を洞窟の入り口に徹底的に張るか。いや、ロロナの技術では、難しい。

一応防御の術も使えるが、どう考えてもドナーンの突進を食い止めるほどの力を出せないのだ。

何重にも展開したところで、結果は同じ。

いずれ喰い破られて、なだれ込まれる。その時には、もうどうにもならない。

呼吸を整える。

頭は冴えているけれど。ロロナの知識と経験では、どうしても上手い手を思いつかない。震えているリオネラが可哀想だ。

力が欲しい。

ドナーン達が、一斉に顔を上げた。

何か来る。

姿を見せたのは、黒いドナーンだ。あんな体色の奴は、見たことが無い。その上、とんでもなく大きい。威圧感も凄まじい。

以前戦った大型ドナーンよりも、更に二回りは大きいのではないのか。

ロロナの背丈の四倍以上はある。

ちろちろと舌を出しながら、巨大ドナーンは、辺りを見回していた。あれに見つかりでもしたら、終わりだ。

幸い、少しすると、先に行ってしまったけれど。

そう長くは、見つからずに済ませられるとは思えない。

洞窟の奥に引っ込むと、ロロナは荷車を探る。何か、打開できるものが入っていないか。いや、無理だ。

持ってきた道具は戦闘用のものばかり。それは、味方の戦力が機能していて、はじめて意味が出てくる。

目を閉じて、精神を集中。

少しは魔力を回復しておきたい。リオネラは、いつの間にか泣き止んでいた。抗議するように、ロロナを見る。

こんな所に連れてきたロロナが悪いというのだろうか。

でも、危険があることは、リオネラも分かっていたはず。近くの森とは言え、油断しないで欲しいと、出るときにも言ったのだ。

まさか、これほどの数のモンスターに襲われるとは、ロロナも思ってはいなかったけれど。

むしろ、ロロナが気に病んでいるのは。

こんな時、何も出来ない、自分の無力さだ。少しはましになったと思ったのに、全く見当違いだった。

悔しくて、それ以上に悲しい。

自分が死ぬことはどうでもよいのだけれど。リオネラを、命を賭けてでも助ける手を見つけられないことが。

不意に、何か思い出す。

昔、このようなことがなかったか。

暗がりで、二人で膝を抱えて、何も出来ずに。そのまま。

頭を振る。

分からない。思い出してはいけないことのような気がする。今は、少しでも気丈でいなければならない。不安定な精神のリオネラを放ったまま、自分が落ち込んでいてはいけないからだ。

持ってきた携帯食料を取り出す。

硬く焼き固めたパイだ。遭難した時用に作ってきた。こんな時に使う道具では、確かにある。

「はい、りおちゃんの分」

「……いらない」

「いらなくても食べて。 次は、いつ食べられるか、分からないから」

リオはそれでも受け取ろうとしなかったけれど。

ぬいぐるみ達に言われて、渋々手に取った。どうにか泣き止んではくれたけれど、戦える状態ではない。

不意に、事態が動いたのは、その時だった。

大型ドナーンが、空に吼える。

そうすると、彼が率いているドナーンの大軍勢が、さっと身を翻し、移動しはじめたのだ。

思わずリオネラの口を押さえた。

罠の可能性が高いと思ったからだ。ドナーンの群れは、尻尾を立てると、走り始める。確かアレは、ドナーンが全力で走るときの態勢だ。移動しはじめたのは、ドナーンだけではない。ヴァルチャーも、見る間にいなくなっていく。

外の気配がなくなる。

しばらく、身を潜める。ようやく動く気になったのは、クーデリアの声が聞こえてからだ。

「ロロナー! リオネラー!」

「くーちゃんだ!」

思わず安堵の声が漏れてしまう。まさか、他人の声真似をするような器用さを持つモンスターではないだろうし、待ち伏せしてクーデリアを襲っても、彼女なら対応できるはずだ。

おそるおそる洞窟から顔を出す。

クーデリアと、何名かの戦士がいる。いずれもベテランばかり。不意を突かれても、充分に対応できるだろう。

向こうも、ロロナを見つけてくれた。

駆け寄ってくる。クーデリアは一瞬だけ、本当に良かったと安堵を表情に浮かべたけれど。人前で、やはり素の表情を見せるつもりはないらしくて、すぐに真顔に戻った。

「ロロナ! 無事で良かった! リオネラは!?」

「奥にいるよ。 やっと落ち着いたところ」

「そう。 無理に突破を図らないでくれて、良かったわ」

今、アーランドの街から、討伐部隊が出たところだという。

ステルクもその中に加わっているだとかで、ドナーンの群れを半分以下にまで削り、生息地に追い込むつもりだそうだ。勿論あのリーダーの大型ドナーンは、処分してしまうそうである。

死者は出ていないが、大軍に襲われて命からがら逃げ出した新人の戦士達が、何名か怪我をしている。

いずれも、既にアーランドに収容されて、治療を受け始めているそうだ。

リオネラに毛布を掛けて、女性の戦士が連れ出す。

彼女の視線は冷たい。

戦士として情けないと、顔に書いてある。だけれど、ロロナは、其処までは考えられなかった。

リオネラはアーランド人ではないし、戦闘経験だってそれほど多くない。

それよりも、だ。

「くーちゃん。 わたし……何も出来なかった」

「あたしだって同じよ。 あんたとはぐれたとき、どれだけ心配したか」

「どうしてわたし、無力なんだろう。 少しはましになったって、思ってたのに。 わたしがステルクさんくらい強かったら、りおちゃんをあんなに悲しませたり、くーちゃんを苦しめたりしなかったのに」

少しずつ、感情がわき上がってくる。

情けない自分が、本当に憎らしかった。それ以上に、悲しくて、悲しくて。

アーランドにどうやって戻ったか、よく覚えていない。ただ、気がつくと、ベッドで、枕に涙を吸わせていた。

二つの課題を突破して。

三つ目の課題も、三分の一はクリアできた。もう二つの内、魔女の秘薬も、既に生成法について、ある程度目処が立った。

少しは一人前になれたかと思っていたのに。

ロロナは、今更ながら。無力で、何ら出来ることがないただの子供だと思い知らされていた。

アトリエに出る。

ひんやりと冷たくて、誰もいない。師匠もおそらく、出かけているのだろう。

声を出して泣いて、少しは気分が晴れるのだろうか。

何度も涙を拭う。

一歩間違えば、リオネラを助けることも出来なかった。自分が死ぬ事なんて、何でもないのに。それでも他人を助けられないなんて、どういう無能だ。なんで、策の一つも、思いつかなかった。

怒るより先に、悲しい。

思考が堂々巡りして、どうしても先に進めなかった。

 

1、挫折の余波

 

どうしても、研究が手に着かなかった。

いつもだったらすぐに思いつくようなことが、出来ない。魔女の秘薬も、最後の調合の部分で手間取って、ケアレスミスを繰り返していた。

それでも、時間は容赦なく、遠慮も無く、経過していく。師匠が時々ロロナをからかっていくけれど。

今は、それに対して、怒る気力もなかった。

どうして自分はこんなに弱いのだろう。課題を二つ突破して、少しは強くなれたと思ったのに。

ドアがノックされる。

入ってきたのは、クーデリアだった。

ひんやりした牛乳を出されたので、二人で飲む。クーデリアは、ロロナが何を苦しんでいるのか、良く理解しているようだった。

「まだ、悩んでるのね」

「うん。 どうしたら、強くなれるんだろう」

「戦闘で言うなら、経験を積むしかないでしょうね。 あたしも、今は実戦を繰り返して、少しでもマシになろうとしているところだし」

「そう、だね」

リオネラについて、クーデリアは話してくれる。

あれから宿にまで連れて行ったけれど、少し落ち着いたようで、数日前からまた人形劇を始めている様子だ。

謝った方が良いのだろうか。

そう言うと、クーデリアは首を横に振った。

「あんたは悪くないでしょう。 むしろ、護衛でついていったのに、何も出来なかったあの子が悪いわ」

「でも、わたし、何も出来なかった」

「あんたはあの子を落ち着かせて、なおかつ助けが来るまで待つって最善策を選択できたでしょう。 パニックにもならなかったし、無謀な突破もしなかった。 結果、二人とも、無傷で生還できたのよ。 結果オーライよ。 事実、あんたを責めてる人間は、誰もいないでしょう」

そう言われると、つらい。

確かに結果は良かったけれど。それは、あのドナーン達に見つからなかったから、得られたものだ。

クーデリアとはぐれた時、無理に南に突破をしていれば、籠城することもなかっただろうに。

それに、戦略上の問題は他にもある。

荷車に積んでいた道具類の手数が、明らかに足りていなかったのだ。単純な戦闘しか想定していなかった。もっと、いろいろな道具類を、持っていくべきだった。近場の採取と油断しないで。

唯一、持久戦用に備えていたのが、圧縮したパイだけというのが、自分でも情けなくなってくる。

クーデリアには、話せることが多い。

彼女は、ロロナの涙を、面倒くさそうにハンカチで拭いてくれる。優しく慰めてくれるわけではなかったけれど。

それでも、自分がどう情けないかを話すだけでも、随分と落ち着いた。

「失敗だと思うなら、次に備えなさい。 実戦に普通次はないけれど、次が今回はたまたまあったんだから。 同じ失敗をしなければいいのよ」

そう、クーデリアに言われると、嬉しかった。

それから、二人で調合について話す。

やはり悩んでいたからか、どうしても出来なかった魔女の秘薬の調合の最後の部分が、すんなりと思い当たった。

そのまま、調合に入る。

複数の中間生成物を混ぜ合わせた後、中和剤を足しながら、水分を飛ばしていく。その時の温度は、極めて低めに保つ。

なおかつ、釜での作業はしない。

フラスコに入れて、アルコールランプで温めるのだ。そして、蒸発した分は蒸留装置代わりに、上に載せたフラスコと、途中の硝子筒で受け止める。

蒸留装置と呼ばれる仕組みである。

その中で対流させて、液化した分をためておいて、更に蒸留。何度かやっていくうちに、水分だけを飛ばすことが出来る。

更に、最後の行程で、一気に冷やす。

中和剤を使って、複数の毒素を馴染ませていた所であるけれど。水が主成分である事には変わらないので、こうすることで一気に成分が均一化する。

あとは暗いところにしばらく置いておいて、安定させれば完成だ。

一連の工程をこなすのが、さっきまではどうしても困難だった。

大がかりな蒸留装置を洗って片付ける。既に夕方を廻っていた。泊まっていくかと聞いたけれど、クーデリアは首を横に振る。

今は休むことよりも、進むことを考えろと、言うのだ。

「それより、最後の一つに手こずってるんでしょう?」

「うん。 まだ理論もどうすればいいか、よく分からなくて」

「それなら、気が上向きになってきた今が好機よ。 今なら何か思いつくかも知れないから、調べて見なさいよ。 あたしもアドバイスなら出来るから」

頷くと、ロロナは今夜、無理をしない範囲で研究を進める、場合によっては徹夜する覚悟を決めた。

まだ、悩みは晴れていない。

だが、クーデリアはロロナの窮状を理解した上で、アドバイスをしてくれた。側にクーデリアもいるし、今なら、少しはましに動けるかも知れない。

 

翌日。

ロロナは、少しは気分も晴れて、外に出た。

結局昨日、クーデリアは泊まって行ってくれたけれど。それでも、獣の像について、これといった案は浮かばなかった。

幻覚を見せることは難しくないのだけれど。

どうしても、狙った存在の幻覚を見せることは、出来ないのだ。今の時点では、やり方も想像がつかない。

魔術の類を使うなら簡単だけれど。

錬金術の骨子は、手順さえ踏めば誰にでも出来る、と言うことにある。

気分転換代わりに、まず出来た癒やしのアロマを納品してしまう。三十セットほど出来たので、今後の事を考えて半分ほどを納品した。忙しそうにしていたステルクではなくて、エスティが代わりに受付をしてくれた。

エスティはいろいろな仕事をしていて忙しそうだけれど。ロロナが来ると、嫌な顔一つせずに、仕事をしてくれる。

でもこの人は、何だか笑顔が作っているようで、其処だけが少し苦手だ。後はへいきなのだけれど。

「へえ、これは面白そうねえ」

「工夫次第で、お花とか、果物とか、いろいろな香りを出せます。 今回のは、近くの森で採れた、グリーンアップルの香りです」

「ふうん、マニュアルは?」

「準備してあります」

以前の発破の時に苦労したので、今回はクーデリアと話しながら、マニュアルも先に作ったのだ。

何度かマニュアルに目を通していたエスティだが。やがて頷くと、納品を受け付けてくれた。

あと数日ほど寝かせておけば、魔女の秘薬も出来る。

荷車を引いてアトリエに戻りながら、ロロナはそのマニュアルについて、どうしようか考えはじめていた。

後、少しずつ技術はついてきたので、以前子供の工作みたいな見かけだと言われた仕掛け発破の外装も、どうにかしたい。

見栄えの善し悪しと性能はあまり関係がないけれど、使う人が見て不安にならないようにする工夫は必要だ。

「あ……」

声を聞いて顔を上げる。

ロロナはこれでも耳が良いから、誰の声かはすぐに分かった。

リオネラだ。

凄く所在なさげに、此方を見ている。視線をそらそうとしたので、待ってと声を掛ける。

一言謝りたい。友達になったのだ。これ以上、不幸なことには、したくなかった。どうせ、近いうちに、会いに行こうと思っていたのだ。

「りおちゃん、その」

「……」

「リオネラ、良い機会よ。 謝りに行こうって、言っていたでしょう?」

「洞窟の中でガクブルしてたのに、呆れないで最後まで一緒にいてくれたんだぜ。 ほら、勇気出せ」

ぬいぐるみ達が、リオネラの背中を押す。

何も、謝って欲しいとは思わない。むしろ、ロロナの方が、謝りたい気分で一杯だった。

二人並んで、歩く。リオネラは真っ青になっていて、一度もロロナの方を見ようとはしなかった。

根気強く待つ。

アトリエについてしまった。

上がって欲しいと言う。クーデリアは、朝に帰ったので、今はアトリエの中には誰もいない。

「今、幻覚を造り出す道具を造っているの」

「そんな事が、できるの……」

「ううん、幻覚そのものは造れるんだけれど、どうしても犬とか、鳥とか、そういった具体的なものを任意には造り出せなくて」

「ロロナちゃん、凄いね……」

リオネラは、死んだ魚みたいな目をしていた。

せっかくすごくかわいいのに、なんてもったいないんだろうと、ロロナは思う。鬱屈した雰囲気は、整った容姿を台無しにしてしまう。

「わたし、何も出来なかった。 本当だったら、最初に大勢に襲われたとき、荷車を捨ててでも、りおちゃんの手を引いて、逃げるべきだったのに。 その後も、籠城するだけで、具体的な対策を、何も考えられなかった」

ごめんなさいと、謝る。

そうすると、リオネラは、顔を上げた。

薄笑いが浮かんでいる。それは侮蔑ではなくて。もう、リオネラは、どうしていいか分からないようだった。

「私、どうすればいいの? ロロナちゃん、私なんかに謝ってくれたけれど、役立たずで無能で、明日の命も危ない私は、ロロナちゃんに何を返せば良いの?」

「そんなこと無いよ」

やっぱり、今までロロナと、一度もリオネラは視線を合わせてくれていない。

だけれど、ロロナにとって、リオネラは友達だと思う。

それに、弱いから、友達失格なんて、あり得ない事だ。ロロナだって弱い。他のアーランド人が強いという事もあるけれど。

「わたし、りおちゃんと友達でいたいよ」

「……」

「ここまで言ってくれる奴、そういないぞ」

ホロホロが、リオネラの背中を叩く。

リオネラはやっぱり、それでも何も言えないようだった。だけれど、ロロナは、彼女が少しでも歩み寄ってくれることを、待とうと思った。

お茶を出す。

パイも出す。少しずつ味が良くなってきている。小麦粉を工夫し、中和剤の素材を工夫して。焼く温度も、普通にパイを窯で作る時とは変えている。試行錯誤で少しずつ味が上がると、それを全てメモして、残しているのだ。

そうやって実績を積み上げて、錬金術で美味しいパイを作れるようにしていく。お客様に出せば、喜んで貰える。

最近は、トッピングのホイップも、錬金術で作れるようになってきた。料理については、パイ関係だけだけれど、一応基礎があるので、多少は楽だ。

甘いものが好きなのは、年頃の女の子なら、みんな同じだとロロナは思う。

やっと、少しリオネラも、雰囲気が柔らかくなってきた。

「また、此処に来ても、いいの?」

「うん。 そうしてくれると、嬉しい」

「ほら、リオネラ」

アラーニャが、リオネラに諭すように言う。

うつむいていたリオネラは。

ロロナに視線を合わせてはくれなかったけれど。小さな声で、なにもできずにごめんなさいと、言ってくれた。

そして、ずっと友達でいたいとも。

 

リオネラと仲直り出来た事は良かったけれど。

結局の所、ロロナが何も出来なかったことに変わりはなかった。どうにかして、少しは変わりたいと思うのだけれど。なかなか出来ない。

何かあの事件を、リオネラが知っていたことは、敢えて追求しない。恐らくは、やぶ蛇になるからだ。

それに、何か大きな裏がある事も、わかりはじめていた。

ひょっとすると。

いや、考えない方が良い。今は、錬金術師として、少しはいっぱしになる事が先。全ては、その後で良い。

魔女の秘薬の、中間生成物はまだ残っている。

この薬は、簡単に言うと、通常では混ざらなかったり、或いは打ち消し合ってしまう毒物を、一緒にしているものなのだ。

これを作った魔術師は、その固有能力で、強引に幾つかの要素を一緒にして、この奇跡の毒物を成立させていた。

基本的な部分で、この薬は、まず人間なり動物なりの、免疫能力を弱体化させる。

理論が難しくて細かい所はよく分からなかったのだけれど、要するに、本来あるべき守りの力をなくして、普段だったらあり得ない毒が体に入るようにするのだ。そうするためには、幾つかの毒物を、混ぜ合わせる必要がある。

自然では、それは起きえない。

起きえるようにしたのが、この薬の凄いところなのである。

そして、重宝された理由も。

生半可な毒なんか効かないアーランド人にも。この薬は、効くのだ。

文字通りの、魔女の秘薬である。

其処に、眠り薬なり、しびれ薬なりを混ぜ込むことによって、いろいろな用途の毒が出来る。

最初にできあがるのは、眠り薬。

次はしびれ薬も作るつもりだ。

後は、相手の体力を激しく奪い取る薬も作っておきたい。

即死させるような薬は、怖くて作れない。もし作るとしたら、それは本当に危険で、今のロロナが手を出す事はまだ出来ないだろう。

アトリエ地下のコンテナに降りる。秘薬を手にとって、確認。

どうやら、魔女の秘薬の第一弾は、できあがった様子だ。実験してみる。

成分を薄めて、自分で飲む。動物で実験するのも良いのだけれど、やはり作った責任もあるし、飲んでみるのが一番良い。

効果は絶大だった。

ベットの上に腰掛けて使ったから良かったものの。そうでなければ、その場で倒れていただろう。

気がつくと、アストリッドに見下ろされていた。

「ロロナ、もう昼だぞ。 飯作れ」

「……はい」

ぼやけていて、アストリッドがよく見えない。

起きようとして、何回か失敗した。無理矢理起きたのは、そのままだと悪戯されかねないからだ。

転びそうになる。

少しずつ、強烈な眠り薬を飲んだことを思い出す。これは原液を摂取したら、命が危なかったかも知れない。

少しずつ、体が元に戻っていくのは分かったけれど。

マニュアルには、危ないから、薄めて使うようにと書かなければならないと、ロロナは思った。

とりあえず、欠食児童と化した師匠を落ち着かせなければならない。自分で作れば良いような気もするのだけれど、言い出した師匠は絶対に聞かない。台所に立つと、包丁を持とうかと思ったけれど、止めた。今は、刃物を使わない方が良いだろう。

いつもの倍も掛けて、作っておいたパイを温めて、出す。

ミートパイだから、お昼ご飯にはなる筈だ。

まだ体がふらつくけれど。

師匠はその様子を見て、笑うことはなかった。ただ、テーブルに着くと、妙なことを言い出した。

「時にロロナ、お前は妹と弟、どちらが欲しい」

「急に、なんれすか……」

ろれつが良く回っていない。

パイを口に入れてみるけれど。大好物の筈なのに、あんまり味がしないような気がする。いや、下ごしらえはちゃんとした記憶がある。多分、舌まで、まだ寝ぼけているのだと見て良いだろう。

「お前、あのレシピの眠り薬を飲んだのか。 何倍に薄めた」

「十倍ですけれ、ろ……」

「ちょっと待っていろ」

何か、薬を出してくるアストリッド。

言われたまま、口にする。しばらくすると、ぐっと目が冴えてきた。多分、魔女の秘薬の成分を、中和するものだろう。

さすがは師匠と驚かされた。舌も、ろれつが回るようになってきた。

「少し成分を強く作りすぎたな。 それにしても実験で自分で飲むとは」

「その、責任を、きちんと取りたくて」

「次からは動物を使え。 狼くらい、近くの森で捕まえられるだろう。 それで、さっきの質問だが」

「ええと……そうですね」

あまり実感はわかないけれど。

ただ、両親はとても仲が良いし、いつ新しい家族が出来ても不思議では無い。二人とも、まだまだ充分に子供を作れる年なのだ。

もしも兄弟姉妹が出来るのなら。

「弟は元気そうで家の中が明るくなりそうですし、妹は一緒にお洋服を着て楽しめそうですね」

「ほう、それで」

「今は、妹かなあ」

アストリッドに、何故かと聞かれる。

そう言われても、何となくとしか言えない。まあ、アストリッドはそれ以上しつこくきいては来なかったので、まあよしとするべきなのだろう。

食事が終わる頃には、目もすっかり冴えていた。

マニュアルの整備をし直す必要がある。元々、マンドラゴラをすりつぶして毒素を抽出している、危険なものなのだ。

マニュアルの書き方についてアストリッドにアドバイスを受けようかと思ったけれど、断られる。くーちゃんにでも聞けと言われたので、そうしようと思った。ロロナがマニュアルを書くと、擬音だらけで、とても他の人には見せられないと言われてしまう。事実、メモは擬音だらけだ。ロロナにはそれでよく分かるのだけれど。

お薬の生成が一段落したし、次はいよいよ獣の像だ。マニュアルは、次にクーデリアと会った時に作れば良い。昨日癒やしのアロマを納品したばかりだから、まだ時間はある。ただし、そろそろ、獣の像をどうにかしないとまずい。

残りの日数は、半分をとっくに割っているのだ。

幻覚を見せる事だけなら、多分出来る。

幾つかの茸には、そういった成分があるし、抽出する手段も分かっている。皮肉なことに、この間ドナーンの大群に追いかけ回された時、採取できた材料の中に、必要な茸も混じっていた。

問題は、ただの幻覚では駄目だと言うこと。

この像を、くだんの魔術師は、自分のために用いていた。動物を飼えない彼女は、これを使って、犬や鳥、ドラゴンをペットにするリアルな幻覚を見たかったのだ。妄想では我慢できなかったのである。

この間までの、うち沈んでいた状態では、どうにもならなかったけれど。

今は、リオネラとも仲直りできたし、少しは頭も働く。

何か、ヒントは得られないものか。

そう思って、ロロナは外に出た。

挫折の余波は、まだ癒えていないけれど。

いつまでも、もたついてはいられなかった。

 

2、幻影と催眠

 

広場に出ると、リオネラがいた。どうやら人形劇をしているらしい。人だかりが出来ていた。

遠くから見ていると、一つ気付いたことがある。

人形達が動いている後ろで、リオネラがひらひらと動いているのだけれど。妙に動きが均一というか。同じ動作が繰り返されているのだ。

やがて、劇が終わる。

おひねりがたくさん投げられる。リオネラはあまり上手にお礼を言えないようだけれど。どうにか、おひねりを拾う事は出来るようになったようだ。これで、少しは生活も楽になるだろう。

お客が去った後、手を振って近づく。

昨日の今日だ。

リオネラも、逃げ腰にはならなかった。

さっそく、さっき魔女の秘薬を飲んで失敗したことを言う。笑い話になったから良かったけれど。

今更に気付く。師匠は良く、あれをピンポイントで中和する薬を持っていたものだ。まさか、ロロナのレシピを事前に見て、あっさり作ったのだろうか。だとすれば、凄い。

「そういえばりおちゃん、さっき見ていて気付いたんだけれど。 何だか劇の後ろで、同じような動作をしていたね」

「ああ、あれは催眠効果を作ってるんだ」

「催眠効果?」

「劇に集中させるには、それがいいの。 後ろでリオネラがひらひらおなじように動く事で、見ている人達の意識を、私達に集中させるのよ」

ホロホロとアラーニャが説明してくれる。

なるほど、そういうものなのか。

具体的に聞こうかと思ったのだけれど、リオネラは見る間に困り果てた顔になって行く。つまり、詳しくは知らないと言うことか。

だが、催眠か。

これは使えるかも知れない。そもそも幻覚というのは、何か其処にあり得ないものをみるものなのだ。

一度アトリエに戻ると、魔術師の本を引っ張り出してくる。

開くのには勇気がいるけれど。

やはり、もう一度、読み直した方が良い。

獣の像については、後半三分の一に、詳しく記されている。それを見ていくと、色々分かってくることがある。

催眠というキーワードを知った今となっては、なおさらだ。

元々、この魔術師は、像を媒体としていた。

像に魔術を掛けることで、実際にはあり得ない動物を、その場にいるように、自分に見せていたのだ。

ただ、この道具そのものは、既に散逸してしまっている。

昨日、魔女の秘薬をマニュアルと一緒に納品したとき、エスティが在庫を調べてくれたのだ。

現物を見ることは叶わなくなったけれど。

理屈は分かったのだから、手の打ちようはある。

魔術師は本当に有能な女性だった。この本の他にも、いろいろなものを残して、アーランドに貢献した。

実は、あの後王宮から図書館を調べる許可を得て。彼女について調べて見たのだ。

最終的におなかを痛めて子を産むことは出来なかったようなのだけれど。戦で親を失った子供を何人か引き取って、その全てをとても優秀な魔術師として育て上げたのだという。そのリストを見て驚かされた。ロロナも知っているほど、有名な魔術師の名前がずらりと並んでいたからである。

経歴だけではなくて、他にも分かったことがある。

彼女の魔術が、非常に多彩だったこと。

特に、精神に働きかける魔術は、固有能力もあって、極めて強力だったこと、などなどだ。

この狂気じみた手記の中身だけで、人は判断できない。

そう思うと、この本も、少しずつ見え方が変わってくる。優れた魔術師であり、多くの子供達を育て上げた一流の人も。

心の中に、悲しい鬱屈を抱えていたのだ。

幾つか、参考になりそうな記述を見つける。

催眠というキーワードを得たことで、今まで流していた部分が、頭に入ってくるようになったのだ。

メモを順番に採っていく。

何度も読み返した部分だというのに。

一つ着眼点を変えただけでこれだ。何だか情けないと思う。

やっぱりロロナは、まだまだ半人前なのだ。

レシピは、これだけではまだ出来ない。催眠について、専門家がいれば良いのだけれど。借りてきた本を見てみるが、彼女の弟子は、既に全員が鬼籍に入っている。入っていなくても、いずれも超がつくほどの有名人だ。ロロナ程度では、アポを取って会うだけでも、一月は掛かる。

それでは間に合わないだろう。

しばらくアトリエの中をうろうろして、考えをまとめる。

歩いていた方が、考えやすいのだと、最近知った。

意を決して、また外に出る。知り合いの魔術師に、話を聞こうと思ったからだ。まずは母から。

ロロナの母は、普段はおっとり者だけれど、戦場に出ると人が変わる。

今日は、オルトガ遺跡の警備をしている日だから、雰囲気が違う。父はオルトガ遺跡に潜っているとかで、駐屯地にはいなかった。

ロロナを見ると、母は険しい顔をした。

仕事場に、用事がない限りくるものではない。彼女は、よくそう口にする。

「ロロナ、今は仕事中よ。 分かっているでしょう? 遺跡に潜んでいるモンスターは、この近辺にいる連中とは訳が違うって。 ドナーンの群れ程度に苦戦する貴方は、まだ此処には来てはいけないの」

「うん、ごめんなさい。 お仕事で、聞きたいことがあって」

「どういうこと? 自力で解決できる問題ではないの?」

「魔術師で、催眠を得意とする人を知らない?」

母は腕組みする。

部下達は、隊長の娘と言うことでロロナを通してくれたけれど。本来此処は、アーランドでも最も危険な場所の監視所だ。森の中に砦がある訳では無く、単なるキャンプだけれど。

集っているのは、ロロナも知る、現役の一流戦士ばかり。

この間のドナーンの群れによる襲撃の際も、此処から人員を割いて、対応をしたと聞いているから。余計に母は機嫌が悪いのかも知れない。

「アンダルシア、いる?」

「はい。 隊長」

呼ばれて出てきたのは、ロロナとあまり年が変わらなそうな女の子の魔術師だ。三角帽子をかぶり、青黒いローブを着込んでいる。

見た感じでは、完璧な後衛型の魔術師だろう。身体能力が高そうには見えない。

ただし、アーランド人だ。実際には、どれだけの腕があるかは分からない。目つきも鋭くて、ロロナなんかとは比べものにならないほどの修羅場をくぐっているのは、明らかだった。

「この子に、催眠について教えてくれる?」

「催眠でありますか」

「そうよ。 時間が掛かるようなら、書籍や識者を紹介して」

「分かりました。 任務を実行するのであります」

しゃべり方も硬い雰囲気だ。魔術師はどちらかと言えば、アーランド人の中でも自由な人が多いと聞いているけれど。こんな軍人気質もいるのか。

或いは、母がそう鍛え上げたのかも知れない。

母の邪魔になると行けないので、野営地の隅に行く。催眠について、其処で軽く話してくれた。

「催眠は、脳を誤魔化す技であります」

「脳を、誤魔化す?」

「元々、人間の脳というのはいい加減で、気分次第でありもしないものが見えたり、本当にあるものが見えなかったりするものなのであります。 幽霊などはその典型例なのであります」

幽霊というキーワードだけで怖いロロナだけれど。

アンダルシアは、それからも話を続ける。

彼女によると、実際に幽霊と呼ばれる存在はいるにはいるらしい。ただし、その殆どは、人間のいい加減な脳による錯覚なのだとか。

「つまり、催眠は、脳を誤魔化すこと、なの?」

「そうなのであります。 人間の脳は、目や鼻、耳を介して、いろいろな情報を得て、それを元に周囲を判断するのであります。 つまり、催眠は、それを意図的に混乱させる事で起こすのであります」

「へ、へえー……」

それは、凄いことを聞かされた。

なるほど、でも今の話で、何となく分かった気がする。参考になりそうな本も、教えてもらった。

さっそく、本を買いに行く。

まだ資金はある程度ある。本は幾つかのお店を廻ったけれど、流石に置いていない。ティファナの店に行くと、取り寄せは出来るという。

ただし、少し時間が掛かると言うことだった。

時間は、容赦なく、削り取られていく。

本が来るまでには。

どうにか、レシピをくみ上げたい。

 

既に、課題達成まで、一月を切った。

ステルクに同行を頼んで、来た此処は、旅人の街道である。アーランドの国境付近にある、交通の要所だ。今回はクーデリアとステルクだけで足を運んでいる。

リオネラも誘ったのだけれど。

彼女は嫌な思い出があるとかで、此処には来たがらなかった。

魔女の秘薬を納品してから、しばらく日が経っている。ステルクもそれを知っているらしく、途中で聞かれた。

「仕事は順調か?」

「何とか目処が立ちました。 ただ、足りない素材が幾らかあって、この辺りの村で買うか、後は採取していこうと思います」

これは本当だ。

まず必要なのは、茸類が何種類か。近くの森でも手に入る幻覚発生用の茸も良いのだけれど。

この辺りには、固有種の、強力な毒茸がある。それを用いる。

勿論使用には、注意が必要となる。

ロロナが組んだ理論は、大まかにはこうだ。

まず、獣の像には、意識をもうろうとさせる薬を埋め込む。この薬は、以前作った癒やしのアロマと同じく、気化させて吸うようにする。要するに、ろうそくと同じ原理で、芯に火を付けることで熱し、蒸発させて周囲に気体化させるのだ。

勿論、強力すぎると危険なので、何度も実験をして、意識がもうろうとするだけに留まるよう調整をした。

次は、幻覚作用をもたらす薬が気化するようにする。

これについては、薬の層を分けることでクリアした。

気化温度も変えている。

つまり、まず意識がもうろうとする薬が気化する。それが溶けて次の層に掛かると、幻覚が見える薬が気化するのだ。

この幻覚作用剤は中毒性がある場合が多く、危険性が高い。それをクリアするために、中毒にならないほどの量で幻覚をみるために、最初の薬で人間の脳の抵抗力を弱める。

問題は此処からだ。

そのままだと、特定の幻覚を見ることは出来ない。それぞれが、勝手な幻覚を見てしまう。

くだんの魔術師は、単純な魔術を組み合わせて、これらをクリアした。ロロナの場合は、香りと音で、それをクリアしたい。

それには、この近辺にある素材が、必要なのだ。

クーデリアは、既に臨戦態勢に入っている。

ステルクは若干余裕があるけれど。この街道は、噂通りの危険地帯の様子だ。見ていると、空をヴァルチャーが平然と舞っているし、遠くではグリフォンが堂々と寝転んでいる様子も見受けられる。

それに、耳ぷにと呼ばれる、黄色いぷにぷにの姿も見受けられた。

この耳ぷには、一説にはあの悪名高い「兎」こと、うさぷにの幼体とも言われているけれど。この辺りにうさぷにが出たという話は聞いていないので、或いは亜種なのかも知れない。

このぷにぷには、黒ぷにに比べるとだいぶ小さいが、かなり肉食性の傾向が強く、人間を見ると積極的に襲いかかってくる。

全身から生えている触手は十本を超えており、これを鞭のようにしならせて叩き付けてくるだけではない。自分が高速移動するのにも用いる。この動きがかなり速くて、はじめてロロナが見た時には、随分驚かされた。

更に問題なのは、名前になっている「耳」だ。

体の上部にある一対の器官で、これが角のように硬い。場合によっては、この耳を使って体当たりをしてくる場合があり、直撃をもらうと見習いのアーランド戦士の場合、骨が折れる事もある。

今の時点では、さほどの近くにはいないけれど。

いつ襲いかかってきても不思議では無いだろう。気を引き締める必要があった。

木陰などを探って、茸を調べる。

木の幹に生えているものもある。どの茸が役に立つかは分からないし、片端から採取していく。

街道とは言うけれど、少し離れれば森だ。歴代の錬金術師達が、栄養剤を作って、土地を緑化してきたのである。土地の力を強め、植物が力強く育つように改良してきた結果、此処はこうも豊かな森の幸に恵まれている。

街道になっているのも、それが理由の一つ。いざというときは、食糧が簡単に得られるからだ。

ただ、ステルクが、話してもくれる。

「この近辺は、国境にも近い。 緑化が積極的に進められたのは、アーランドにそれだけの力があると、周辺国に見せる意図もあった」

「政治的意図ってやつですか?」

「そうだ。 今だ人類が世界の覇権を確保し切れていない今、国家同士で争うのは愚の骨頂だと、アーランドでは歴代の戦略としていてな」

「ふえー」

ある程度の力があれば、それは抑止になる。

アーランドの戦士は各国で怖れられているが。こういった緑化政策に力を注ぐだけの知恵もあると示せば、それだけの牽制にもなるのだとか。

だが、ロロナには、まだ何か裏があるように思えてきた。本当に、それだけなのだろうか。

いずれにしても、知るのは後でも構わない。

どっさりとったいろいろな茸を、荷車に積む。紅かったり青かったり緑色をしていたり。正体が分からない茸や、明らかな毒物も多い。帰った後、図鑑を見て調べていけば良い。油紙で包んだ後、環境保全の魔法陣が書かれたゼッテルで更に覆う。

こうすることで、真夏でも数日は平気で保つ。

ただし、アトリエに戻った頃には、少し品質も落ちる。もっと何かしらの工夫を今後は凝らしていきたい。

荷車には、フラムや緊急時の食糧だけではない。

他にも、色々と積んできた。

この間クーデリアに言われたように、いつ何が起きるか分からないからだ。出来るだけ、不測の事態に対応できるようにしておきたい。普通次はない実戦で、今回はたまたま生き延びることが出来た。

だから、次は同じミスをしない。

ロロナの技量で出来る錬金術の技法は、少しずつ試している。その過程で出来た道具は、意外に馬鹿にならない。

それらを出来るだけ持ってくることで、対応力を上げているのだ。

いずれこの荷車も改良したいと思っている。

もっと大きくして、積み込める量を増やす。そして、最終的には、自走できるようにしたい。

草や木の実も、積み込んでいく。

サワーアップルがかなりある。しっかり熟した実はあまりないけれど。果物は枝からもいでも、かなり日持ちする。

ステルクに手伝ってもらって、収穫を進めた。

高い所になっているリンゴは、手を伸ばしても採れないからだ。はしごは流石に持ってきていないので、木を登って採るのだけれど。その場合、周囲を警戒してもらわないと、大変に危ない。

ひとしきり、辺りを廻って、素材を回収する。

ステルクが目を光らせてくれているからか。モンスターは今のところ、近づいては来ない。

「後は、なにがいるんだ」

「この近くの村で売っているんですけれど、蛇の牙です」

今回必要とするのは、猛毒の蛇の牙。

ただし必要なのは、むしろ毒の方だ。蛇そのものを捕まえれば良いのだけれど、確かモンスター扱いされていて、乱獲すると捕まってしまう。当然蛇の毒を採るには、捕縛しなければならない。

それが難しい。

来る前に調べたところによると、この辺りの村の人々が穴場を知っているらしいのだけれど、皮が美しい上に、毒も使い道があるとかで、よそ者には教えてくれないのだ。

しかも近辺はいろいろなモンスターの巣窟で、下手に探し廻れば体力を消耗する一方だ。ひょっとして。

此処をアーランド人以外が通るためには、護衛がいる。

その料金を稼ぐために、モンスターを野放しにしているのか。

いや、それは流石に考えすぎだろう。

ひょっとしたら違う理由かも知れないけれど。

「それなら、彼処に見える村が最適ね」

「ほんと? くーちゃんは、来たことがあるんだっけ」

「この間修行にね。 彼処にあるフロワロ村は、たしかモンスターの体素材を扱っているはず。 一泊したときに、売り物を調べたのだけれど、確か蛇もあったはずよ」

クーデリアが指さしたのは、風車が回っている牧歌的な村だ。

親友をしていて長い。クーデリアの記憶力はロロナが一番知っている。疑う理由はない。すぐにステルクを促して、そちらに向かう。辺りは見晴らしが良くて、モンスターが襲撃してくる気配はない。

リンリンと、大きな音。

馬車が来るのが見えた。護衛を伴った行商団だ。周囲を囲んでいるのは、アーランド戦士と、他にも辺境出身らしい戦士が数名。

モンスターも、流石にあの強力な集団に仕掛ける勇気はないらしい。グリフォンも、すぐに道を空ける。

好物である馬がいるのに。

それ以上のリスクが大きすぎると、分かっているのだろう。

黄色い耳ぷにが蹴散らされて、逃げるのが見えた。

日常の光景を横目に、村に。フロワロ村というのは、周囲を四重の柵で覆って、なおかつ見張りの櫓を四方に建てている、この地方としてはさほど武装が厚くない村だ。おそらく、戦士達の実力に自信があるのだろう。

実際、歩哨に立っている戦士は、どちらも強そうだった。一人は女性戦士で、体を浅黒く焼いていて、非常に大きな刃がついた槍を持っている。もう一人は大柄な男性戦士で、筋肉が凄くて、背中に大剣を差していた。

入り口で、クーデリアが話をしてくれる。

「アーランド王都から来たわ。 買い物をしたいのだけれど」

「今、盗賊団が出て多少物騒でな。 身分を明かせるものは何か持っているか」

「私が見せよう。 これでどうかな」

「これは失礼しました。 騎士どのでありましたか」

ステルクが騎士団の証明書を出してくれたので、歩哨が揃って敬礼した。何だか恐縮してしまう。

村の中に入ると、豚が走り回っているのが見えた。一人、村の戦士が監視でつく。まだ若々しい女性戦士だけれど、食肉目のようなしなやかな筋肉で身を包んでいた。かなり強そうだ。

アーランドでは、豚の放し飼いはなくなったけれど、この辺りではまだやっているのか。糞もかなり転がっているかなと思ったが、それは綺麗に掃除している様子だ。水が汚れるから、かも知れない。

錬金術師が文明を持ち込むまでは、豚が掃除を請け負っていた。

だから疫病も流行りやすかった。屈強なアーランド戦士は滅多な病気には負けなかったけれど、奴隷達はばたばた死んでいった。

だから、今は。アーランド王都では、工場で家畜の世話を一手に行っている。

しかし、少し外に出て、領土内の村に入ると、こういう光景は珍しくない。毛だらけの猪に近い豚が、放し飼いにされているのは。戦士達が、油断しないようにするためでもあると、聞いている。

油断すると、子供を襲ったりもするのだ。

此処は、アーランド王都と、他の周辺国の中間のような場所だ。

「こっちよ」

「凄いね、構造覚えてるの?」

「あたしもコネを増やしておきたいからね。 商売を通じてコネを作れれば安いものだし、何かを覚えておくことに損は無いわ」

「ふむ、立派な心がけだ」

ステルクが、堅物そのものの表情で頷く。

前ほど怖くなってはいないけれど。子供がステルクを見て、距離を取るのが何度か見えた。

どうやら、怖いのはロロナだけではないようで、少し安心した。

村なので、市場や物産展のようなものなどはない。奥に村長の家があって、其処で物資を管理しているのだ。女戦士が、村長に耳打ちする。陰険そうな村長が、ステルクを誘って、奥に。

ロロナは売り物を、女戦士から見せてもらった。

欲しいものを言うと、女戦士は目を光らせる。

「あんた、錬金術師か」

「うん、そうだよー」

「やっぱりな。 あんたみたいなかっこうした奴が、前にも来たことがあるからな」

多分、師匠のことだろう。

師匠が非礼をしなかったか聞いてみたけれど、覚えていないと言われた。胸をなで下ろす。怪訝な顔をされたので、誤魔化しておいた。

木箱を出してくる女戦士。中にはたっぷりと、売り物が詰め込まれている。果実などが殆どだが、獣の毛皮や肉、内臓の燻製などもある。

蛇の牙もあった。どうにか順調に、素材は入手できている。蛇の毒腺はないかと聞いたが、首を横に振られた。毒腺があれば牙なんていらないほどなのだけれど。こればかりは、仕方が無いだろう。

幾つかの素材を買い込んで、荷車に積み込む。

蛇の牙は、これで充分だ。

一応、素材は揃っただろうか。後は、レシピを完成させて調合していけばいい。理論が間違っていなければ、出来るはずだ。

ステルクが戻ってきた。

あまり嬉しそうにはしていない。生真面目なステルクの事だから、賄賂でも渡されそうになって、激高したのだろうか。

「ロロナ君、クーデリア君。 急な任務が入った。 公式なものではないが、騎士としては見過ごせん」

「モンスター退治ですか?」

「いや、密猟者狩りだ」

どうやら、村での狩り場に、誰だかよそから入ってきた人間が来ているらしいのだ。何度か警告したのだが、その度に逃げてしまうと言う。

手口から言って、アーランド戦士ではないだろうと村の者達は言うが。現場を見てみないと何とも言えないと、ステルクは言うのだ。

つまり、帰りは護衛できないという事か。

「手伝いましょうか?」

「いや、やめておいた方が良いだろう。 犯罪組織が絡んでいる可能性もあるから、その場合は恨みを買う。 君のような年で、よその国とは言え犯罪組織に目をつけられると、色々と面倒だ」

クーデリアが、袖を引く。

ロロナは少し心残りだったけれど。引き下がることにした。

犯罪組織を敵に回すのが怖いと言うことは、確かにある。だけれど、それ以上に。ステルクに、仕事に首を突っ込むなと言われている気がしたからだ。

やっと少しずつ、ステルクはロロナを信頼し始めてくれたようなのに。こんな些細なことで、余計な事をして、信頼を崩したくない。

それならば。

「ええと、これを持っていってください。 傷薬と、フラムです」

「ふむ、何かの役には立つか。 預かろう。 使わなかったら、必ず返す」

「いつもお世話になっていますから、大丈夫です」

「帰りは、余計な寄り道をしないように。 モンスターが増えているというような事はないが、念のためにな」

頷くと、ステルクと分かれて、村を出る。

ステルクは、早速村の若い戦士達を集めて、密猟者の捕縛作戦をはじめるようだった。確かに、村の狩り場を荒らされるのは、死活問題だ。下手をすると、国に対する信頼を損ねかねない。

村の周囲には、畑も広がっている。

森で採れる獣も、あれら作物と同じくらい重要な収入源だ。しかも森にいる獣は、近辺の住人が数を管理している事が多いのである。

それを勝手に奪うのは、畑を荒らすのと同じ事だ。

アーランド王都近くの森でも、住んでいる動物の数は管理しているのだ。人間が好き勝手に動物を殺していたら、森がやがて死んでしまう。

アーランド人なら、誰もが知っていること。

確かに、手口から言って。アーランド人ではない可能性が、高そうだ。

街道に戻った後、出来るだけ急いで南に向かう。

さっきまでと違って、モンスターに遭遇すると、かなり危険だ。村を出てからは、クーデリアも一言も喋らない。

それだけ、緊迫した状況、ということだ。

ベテランのアーランド戦士が一人でもいれば話は別だろうけれど。今の状態は、お世辞にも安全が確保できているとは言いがたい。

影の向きを見て、方角を確認しながら、街道を急ぐ。

夕方までには、アーランド王都が見える位置にまで行きたいけれど。

がらがらと、荷車の車輪が音を立てる。

キャンプスペースまで、もう少しだ。最悪、行商人の車列と一緒になれれば楽だったのだけれど。

キャンプスペースは、見張りをしている戦士だけで、護衛に雇えそうな人はいなかった。勿論、行商人はとっくにアーランドに着いた後だ。

ステルクを待つという選択肢もあったかも知れない。

だけれども。今は、一刻一秒が惜しい。研究して、実験して、試行錯誤する時間を考えると、とてもではないがもたついている暇は無い。前二回の課題に比べても、今回は時間があまるかどうか、分からないのだ。

クーデリアが戻ってくる。

さっきまで、キャンプスペースの戦士達と話し込んでいたのだ。

「ロロナ、少しまずい事になったわ」

「どうしたの」

「例のドナーンの群れなのだけれど。 討伐されて壊滅した後、また集まりはじめているらしいの。 今のところ何処かを襲うような事はないらしいのだけれど、今朝も十頭ほどが、近くで群れを作っているのが目撃されたらしいわ。 普通のドナーンだけなら問題は無いのだけれど、大きいのが数頭混じっているとか」

「ええっ!?」

側にクーデリアがいるけれど、二十頭以上に襲われたらかなり危ない。

十頭ならどうにかなりそうだけれど、ぎりぎりだ。

「しばらく待つわよ。 夕方になったら、討伐の部隊がくるらしいから、其処からアーランドへの護衛を割いて貰えるよう交渉したわ」

「うー、夕方まで動けないって事?」

「そう言うことになるわね」

それでは、ステルクを待った方が良かったか。

また判断ミスをしてしまった事になる。でも、ならばこそ。これ以上判断ミスを重ねる訳にはいかない。

ベテランのアーランド戦士が、此処には何人かいる。

ドナーン程度なら、どうにでもなる腕の持ち主ばかりだ。確かに、下手に動くのではなくて、此処にいる方が、ずっと安全だ。

仕方が無いので、荷車の整理をして、時間を潰すことにする。

必要な素材は、先ほどかき集めて、どうにかそろえる事が出来た。クーデリアにも手伝ってもらって、数を確認。

充分な量が揃っている。

お金も、若干の余裕がある。後は、レシピどおりに行くかだ。

「それで、結局、どうやって任意の幻覚を見せるつもり?」

「ええと、ね」

擬音を交えながら、説明していく。

要するに、イメージをさせることが重要なのだ。其処で、像そのものを、犬にしたり鳥にしたりする。

更にそのイメージを固定するために、臭いを使う。

毛皮や鳥の羽を集めておいたのは、そのためだ。

「なるほど、幻覚のイメージを、視覚と嗅覚で補うと」

「本当は聴覚も使いたかったんだけれど、それは方法が考えつかなくて」

「ふうん」

「とりあえず、戻ったら試してみるよ」

時間が、こういうときに限って、すぐには過ぎていかない。

食糧として持ってきた、圧縮パイを出す。何度か工夫して、蜂蜜を練り込んだりすることで、かなり食べ物として立派になってきた。焼き菓子のような食感を出しつつ、栄養を保全することに成功もしている。

ただし、やっぱり焼きたてのパイに比べればまずい。

料理して作ったパイには、とうてい及ばない。

まだまだ練習と工夫が必要だ。

荷車に背中を預けて、二人で並んで食べる。今回は、本当にさんざんだ。どうしてこんな事ばかり起きるのだろう。

キャンプスペースに、誰か来た。

見ると、旅芸人のようだ。リオネラではなくて、見たことが無い人である。アーランドで公演をするために来たのかも知れない。そこそこ年配で、恐らくは手品師か何かだろう。くたびれた雰囲気で、戦士達に説明を受けて、キャンプスペースで待つことを了承してくれた。

戦闘力もあまり無さそうだし、旅は大変だっただろう。

旅芸人は、此方に来る。

他に旅人はいないのだから、当然か。

気さくに挨拶してきたので、笑顔で此方も応じる。クーデリアは頷いただけだった。軽く話をして、情報交換。

やはりアーランドの人ではないらしい。

「イリシュガルから来たのですが、此処はとにかくモンスターが多くて、移動にも一苦労ですね」

「イリシュガル?」

「大陸北東部の大国よ。 人口はアーランドの十倍はいるわ。 確か最近小さな国を二つ、立て続けに下して、更に勢力を伸ばしているとか」

「確かに勢力伸長甚だしいですが、急速に暮らしづらくなってきていましてね」

旅芸人がいうには、武断主義が横行した結果、税が高くなる一方なのだという。

そればかりか、軍人の地位が著しく上がった結果、横暴をする者も珍しくないのだとか。庶民の生活は苦しくなる一方で、征服した国の民も反乱を繰り返しており、無理な鎮圧でかなり多量の血が流れているそうである。

酷い話だと思ったけれど。

アーランドも他人事ではない。

ロロナもよく知っている。昔のアーランドも、そういう状態だったという事は。錬金術師「旅の人」が来てくれなければ、一体どうなっていたことか。

今、この大陸は、人がみんな協力していかなければいけないのに。

そんな風に無理に統一しても、きっとすぐ瓦解してしまうだろう。悲しい事だ。

旅芸人が、キャンプ常駐の戦士に呼ばれて、向こうに行く。

クーデリアが咳払いした。

「話半分に聞いておきなさい」

「くーちゃん?」

「イリシュガルかは分からないけれど、何処かの間諜の可能性もあるわ。 アーランドはそれだけ警戒されている国なのよ。 あんたは知らないだろうけど、戦場でアーランド戦士が敵についたら迷わず逃げろって言葉さえあるそうよ」

勿論、今でもアーランド戦士が、様々な戦場で暴れ回っていることは、ロロナだって知っている。

腕を磨いた若者は、各地の戦場に出かけていって、外貨を稼いで戻ってくるのだ。

確かに、すぐに話を鵜呑みにするのは、危険かも知れない。

もしも間諜だったら、人の良い笑みを作るくらいは、簡単だろう。まずは信じてみたいけれど。

ロロナだって、幼児ではない。

何でもかんでも人の言うことを信じると言うことが、どういう意味を持つかは分かっている。

まずは信じてみたいけれど。

頭を振る。くーちゃんの言うことも、無碍には出来なかった。

それからしばらくして、数人の戦士が姿を見せる。

流石に待ちくたびれた。もう、日はむこうの山に、沈もうとしている。警戒していた戦士達も、ほっとした様子で、来てくれた討伐部隊に話をしに行った。

討伐部隊には、キャンプで立ち往生しているロロナ達を、アーランドまで連れて行く護衛も含まれていたので、彼らと一緒にキャンプを後にする。

荷車の影が、だいぶ長い。

旅芸人は護衛の戦士に何度か話しかけていたけれど、殆ど相手にされていなかった。警戒されているのだろう。

ロロナは話しかけられる度に応じていたけれど。

クーデリアの言うことが頭に引っかかって、あまり信じようという気にはなれなかった。

すぐに日が沈んで、星が見え始める。

幾つかの星座はすぐに見つけた。楽しむためではなくて、方角を確認するために見ているのだ。

街道とは言え、夜中だ。

星が出始めるような時間になれば、どうしても方角は分かりづらくなる。アーランドが見えてくるまでは、そうやって逐一方角を確認する。この辺りの細かい技は、両親にしっかり鍛えられた。

クーデリアも側で、方角確認を精査してくれる。

アーランドまで、もう少し。

小高い丘を越えると、ようやくアーランドの灯が見えた。

大幅に時間はロスしてしまったけれど、どうにか辿り着いた。城門をくぐると、ようやく一息。

アトリエに直行して、荷車を片付ける。

一礼した旅芸人は、何処かの宿に向かうようだった。お金もないだろうし、きっと色宿だろう。

「くーちゃん、泊まっていく?」

「そうさせてもらうわ。 その前に、荷物を片付けたら、お風呂に行こうかしら」

「さんせーい」

この疲れ切った状態で、師匠にいじくりまわされるのは勘弁して欲しい。

ただでさえ、これからレシピを仕上げて、任意の幻覚を見せる装置などと言う難しいものを作らなければならないのだから。

 

3、一つの壁

 

やはり、簡単にはいかない。

ロロナは実験を繰り返しながら、それを思い知らされていた。

幻覚が見える段階までは上手く行った。しかし、やはりどうしても、上手に任意の幻覚を見ることが出来ないのである。

ロロナが作ったガワは、市販の木彫りのお土産を少し工夫したもの。

背中にくぼみを造り、其処に蝋と混ぜ込んだ薬剤を複層に入れている。火を付けると、薬剤が溶け出して、幻覚を見ることが出来る、というものだ。

犬の像を造っても、中々犬の幻覚には到らないのだ。

臭いや、視覚での工夫はしたのだけれど。

やはり音も必要なのだろうか。

しかし、どうやって、犬の鳴き声を出すべきなのかが分からない。

魔術を使って音を定着させることは難しくない。

だけれど、それは錬金術としては、著しく意味がない行為だ。手順を間違えずに進めれば誰にでも出来る。

それが、錬金術の強みなのだから。

しばらく、頭を捻って考える。窓を開けたのは、空気を入れ換えるためだ。この薬は中毒性がないように量を厳格に量っているし、アーランド人はその程度でどうにかなるほど柔ではない。ロロナだって、多少の薬くらいなら平気だ。

しかし、それでも念のため。

外の空気を取り入れると、やはり気持ちいい。

深呼吸して、気分を入れ替えた。

参考書は、既に徹底的に読み返している。クーデリアにも手伝ってもらって、関連がありそうな場所を探っているのだけれど、新しい発見が殆ど無い。

もはや、残りは三週間を切った。

どうすれば、任意の幻覚を見せられるのだろう。

色々試してはいる。だが、なかなか上手く行かないのだ。

犬の臭いと即座に分かるかどうかは、人による。たとえば、外で戦士として経験を積んでいる人は、即座に狼の臭いと理解できるだろう。

ただし、労働者階級にそれを求めるのは酷だ。

鳥やドラゴンも同じだろう。

しばらく悩んだのだが。顔を上げたのは、咳払いを聞いたからだ。振り返ると、アストリッドが腕組みしていた。

「随分手こずっているな」

「師匠、何か良いアイデアは」

「ない」

即答されると、へこむ。

ロロナとしても、かなり考え込んだ末なのだ。師匠には、少しは手伝って欲しいのだけれど。

ただ、師匠はここのところ、アトリエに殆ど帰ってこない。

何処で何をしているのかよく分からないけれど、きっと忙しいのだろう。そう納得して、怒らないことにする。

「具体的なヒントは出せないが、そうだな。 お前は少し、視点を変えることが必要なのではないのか」

「視点、ですか?」

「そうだ。 たとえば、その不細工な犬の像だが。 それに全てを詰め込むのは酷ではないのかな」

何だか、その言葉を聞いたとき。

天啓を受けたような気がした。

そうか。確かに、何もかもを一点に詰め込むのがまずかったのだ。

催眠の仕組みは勉強した。

更に言えば、今置いているこの像は、その起点となりうる。しかし、オールインワンの道具にするには、向いていないかも知れない。

ぺこりと師匠に一礼。

アストリッドは小さくあくびをすると、自室に引き上げていった。最近師匠の部屋からは死臭みたいな変な香りがするのだけれど。それを追求する勇気は、流石にロロナにはなかった。

しばらく考えた後、リオネラの所に行く。

ヒントが固まりつつある。

 

広場で、リオネラは人形劇を行っていた。

あの包囲された事件からしばらく引きこもっていたリオネラだけれども、最近はようやく広場でまた人形劇を行ってくれるようになった。

時々ロロナも、気分転換に見に行くのだが。

今日は少し目的が違う。

クーデリアと広場で会ったので、少し催眠について話をする。オールインワン型の道具にしないとロロナが言うと、クーデリアは頷いてくれた。

「良いアイデアじゃない」

「ありがとー! それで、どんな風にしようか、今悩んでるの」

「そうねえ。 外付けで何か装置を付けられるのなら、大がかりなものがいいのだけれど、流石に部屋を丸ごと改装とかになると、時間が足りないわね」

その通りだ。

其処で悩んでいる。

リオネラがヒラヒラと舞ながら、アラーニャとホロホロがその左右で飛び回っている。見ているとおじさま方はリオネラのお胸やおへそばかり見ているけれど、子供達はぬいぐるみに夢中だ。

何だか、人によって見ているものが違うのだと、一目で分かってしまう。

逆に言えば。

そうか、そういう手があったか。

劇が終わって、リオネラがおひねりを集め始める。この時も、礼をしているぬいぐるみ達に子供は夢中だけれど。

きわどい格好をしているリオネラに夢中になっているのは、やはりおじさま達だ。

たとえば、リオネラが、もの凄く地味な格好をしていて、或いは何処かに隠れていて。ぬいぐるみ達だけが踊っていたら、どうなるだろう。

それはそれでお客さんは来るだろう。

ただし、客層は限られるはずだ。ぬいぐるみよりも女の子の体に興味津々な人達を集めるための戦略が、リオネラの服装だとすれば。

催眠という限定された状況においては、逆の手が採れるかも知れない。

クーデリアに、順を追って説明していく。

ロロナは絵が得意だから、これはむしろ天の助け。

おひねりを拾い終わったリオネラに手を振って、呼ぶ。彼女も催眠については知識があるはずだ。

話をしてみると、しばらく視線をさまよわせた後に、小声で言う。

クーデリアのことが怖いのかも知れない。

「う、うん。 でき、ると、思う」

「そっかあ! ありがとう、りおちゃん!」

「うん。 や、やくにた、てて、嬉しい」

声が震えているし、まだロロナの事はあまり見てくれないけれど。

リオネラは、少しずつ、ロロナの言葉に応えてくれるようになりはじめている。それだけで、ロロナは嬉しかった。

早速、アトリエに戻って、作業に取りかかる。

動力については、ネジか何かでいいだろう。更に言えば、像に火を灯す方式が、思わぬ方向からだが、意味を持ってくる。

動力のネジについて動作を確認。

その後、ネジに棒を接続。ネジさえまいておけば、自動で動くようにする。

少し値段は張るけれど、これくらいは仕方が無い。それに、悩んでいる間の作業で、国から依頼されている道具類を幾らか作って納品している。どうにかだけれど、お金はある。

地面に固定した土台から伸びている棒が、自動で廻るようになるのを確認。

「もう一つネジを組み合わせると、更に長く回せるわよ」

「うーん、どうしよう」

「悩むくらいなら、まずは、完成させてみましょうか」

「そうだね!」

クーデリアの言うように、まずは長いゼッテルを用意した。

もうゼッテルはかなりの量を作ってきた。納品する以外にも使い道があるので、素材が余ったらゼッテルを作っていることも多いのだ。

魔力を強くしみこませたゼッテルは、色々と応用できる。

今回も、ロロナは敢えて薄く作ったゼッテルに、絵を描いていく。かなり手間暇が掛かる作業だけれど、二日もあれば充分だろう。

更にその間、図面を書いて、クーデリアにもう一つの装置を組んでもらった。基礎部分はとなりのおやじさんの所に持ち込んで、そちらでやって貰う。勿論お金は払っての作業だから、完成度は申し分ない。

徹夜になりそうだったけれど。

クーデリアは、残ってくれた。

ロロナがここのところ、先が見えない苦闘を続けていたことを、知っているからだろうか。

途中、蜂蜜入りのミルクを入れてくれたので、一緒に飲む。

「いつか、りおちゃんも、一緒にこんな風にお仕事をしたいね」

「あの料理小僧は?」

「ええー? イクセ君は男の子だし……」

クーデリアが微妙な顔をしたけれど。理由は良くロロナには分からなかった。

少し休憩を入れて、夜半から作業を再開する。

獣の像に関しては、もう手を入れずにも問題が無い。というよりも、薬剤さえ補充すれば、半永久的に使える。

先ほど作った棒に、ゼッテルを組み合わせた。ネジがついている可動部分に前端を、後端をもう一本の棒に。

そして、ネジを巻いて、動かしてみる。

長く長く綴ったゼッテルの後端には紐を結びつけ、最終的にはそれがほどけて落ちるようにする。

そうしないと、ネジが巻ききったときに、ゼッテルが破けてしまうからだ。ただし、ネジの調整が終わったら、しっかりゼッテルの後端は、棒とくっつける。

像に火を入れて、ネジを巻いて。

調整。

更に調整。

二日が過ぎた。二人でお風呂に行った後、調整を更に繰り返す。やはりネジについても、燃焼速度についても検証がいる。絵についても、もっと書かなければならないと、ロロナは思い知らされる。

途中で顔料を追加。ゼッテルも。

長い長いゼッテルを、調合して作る。

目的が見えると、作業はこうも早くなるのか。方向性が与えられると、ロロナはこうも動けるのか。

途中で、何度かサンライズ食堂に行って、食事を仕入れてくる。目の下に隈ができているとイクセルに言われて、慌てて顔も洗った。

少しずつ、目標に向けて、動いていく。

実験。

失敗。

一度では、上手く行かない。ネジが上手く動いてくれない事もある。調整を続ける。像の火が燃え移ってしまっては大変だ。だから、安全対策も、しっかりしなければならない。微調整。そして実験。

上手く行く。

初めての成功。歓喜の声を上げるには、まだ早い。二度目の同じ実験では、上手く行かなかった。

メモを取りながら、失敗点を確認して、確実に詰めていく。

最終実験を開始したのは、期限の七日前。

既に、ギリギリのタイミングだった。それが終わったとき、ロロナは床に崩れるように倒れ伏してしまった。

クーデリアも、何度か家に帰ってはいたけれど、ずっと作業につきあってくれていたも同じだ。

いつの間にか、二人で並んで、ベッドで寝ていた。

師匠が珍しく、気を利かせてくれたのだろうか。

分からない。

分かっている事は。これから、納品できる。それだけだ。

身を起こすと、もの凄くだるかった。マニュアルはどうにか仕上げてあるが、今回はとにかく大がかりでなおかつ特殊な道具だ。納品して、現地で実証をしてみせる必要もある。

井戸水を飲んで目を覚ますと。

ロロナは頬を叩いて、荷車に獣の像と、周辺の道具一式を積む。

外に出ると、おひさまがとてもまぶしかった。

 

受付で待っていると、エスティが来た。

さっそく、実験をして欲しいと言うのだ。

今回、実験を求められる可能性が高いと判断したロロナは、「獣の像」を十個ほど用意してきた。

ネジと棒とゼッテルを利用した基幹装置については一つしか備えが無いが、獣の像じたいは量産が可能な程度のものなのだ。

「随分と大がかりな装置になったわね」

「はい。 本当は獣の像だけで済ませようと思ったのですけど、魔術を利用しない場合、オールインワン型にするのは無理でした」

「錬金術も、万能ではないのね」

「その代わり、誰にでも使えます」

手順さえ分かっていれば、だけれど。

実際ロロナも、いろいろな先人の知恵と、専門家の話を聞きながら、やっとの事で仕上げることが出来たのだ。

師匠だったら、簡単だっただろうに。

或いは、オールインワン型に仕上げることも出来たかも知れない。

だけれど、あの人は一度嫌だというと、絶対にてこでも動かない。今更、この過酷な課題に、ロロナの代わりに取り組んでくれたりはしないだろう。

まず、マニュアルをエスティに説明する。

必要とするのは、密閉された部屋。

窓がある場合は、カーテンで暗くするのが望ましい。

適当な部屋があると言うので、案内してもらう。確かに入ってみると、少し埃っぽいが、丁度良い大きさだ。

エスティにも手伝ってもらって、一連の設備を設置する。

まず机を置いて、椅子も。

机の上に、獣の像。そして、机と椅子の間に、棒を二本立てる。この棒は、ゼッテルをスクロールのように巻き付けてあるのだけれど。少しだけ巻ほぐして、丁度二歩分くらいの間を取る。

幻覚を見せたい人を、椅子に座らせる。

そして、獣の像の、ろうそくのように固形化した薬剤から伸びている芯に火を付ける。

その後は、ゆっくりネジを巻いて、かちりと音がしたところで止めて、離す。

後は、ネジが周りはじめて、ゼッテルを巻き取りはじめる。

ロロナは部屋を出る。

エスティは相当な使い手だと聞いているけれど、これはおそらく通じるはずだ。部屋の外で待つ。

ただし、上手く行かなかったら、後がない。

ティファナや隣の親父さん、イクセルやリオネラにも、実験には立ち会ってもらったのだ。きっと上手く行く。

どきどきしながら、部屋の外で結果を待つ。

しばらく、外で、不安に包まれながら、ロロナは待ち続けた。

 

4、魔術と技術

 

エスティは、さてどうしたものかと思った。

部屋に充満していく薬物の香り。少し、犬の臭いが混じっている。更には、かちかちとずっと続いているネジの音。

そして、巻き取られ続けているゼッテルには。

途中から、犬の絵が描かれはじめた。

ゼッテルの向こうには、ろうそくの明かり。

明かりに照らされて、ロロナが書いたと一目で分かるかわいらしい犬が歩いている。複数のゼッテルに書かれた絵が連続で前を通り過ぎることによって、歩いているように見えるのだ。

まさか、これで終わりではあるまいな。

しかし、事前の説明だと。

不意に、犬の鳴き声がした気がした。

少しずつ、周囲の光景が曖昧になってくる。犬をずっと見ていると、幻覚が見えるのが早いとマニュアルにあったので、騙されてやるかと思い、犬を見つめる。

不意に、絵から犬が飛び出した。

そして、周囲に、たくさん人なつっこそうな犬が集まりはじめた。

わんわん。愛くるしい犬が、声を上げる。たくさん群れてくる。

ああ、なるほど。

仕組みは分かった。確かに、これなら任意の幻覚を見ることが出来る。

しばらく幸せな気分で、椅子に座っていたが。やがて、かちりとネジがとまる音。そして、絵が動きを止めたのか。

犬が、溶けるように消えていった。

頭がぼんやりする。

何度か目を擦っているうちに、意識が戻ってくる。

催眠の類には、対応できるように訓練していたから、判断は出来たけれど。これはかなり強力だ。

ひょっとすると、応用次第では。

いや、それはロロナにやらせるのは酷だろう。やらせるにしても、もっと彼女が大人になってからだ。

ただし、仕事だし、今回のマニュアルは解析させる。錬金術以外で応用できる場所があったら、どんどん使って行くことになるだろう。拷問よりも、よっぽど穏便に情報を引き出せるかも知れない。

部屋を出る。

不安そうに待っていたロロナに、笑顔を向ける。

「面白いわねー。 これ、量産したら、見世物小屋か何かなら、ちょっとした人気になるかも知れないわよ」

「う、上手く行ったんですね! よかった……」

とても分かり易い動きで、胸をなで下ろすロロナ。

この子は可愛い。

屈強で、それが故にどこかひねているアーランド人としては、珍しいほどのまっすぐな子だ。

さっそく、九セットの獣の像と、基幹装置を受け取る。そして、マニュアルも受け取って、ざっと目を通した。

幻覚をもたらす薬剤には、中毒性がないものを使っているとある。

また、基幹装置は作成にかなり時間が掛かるが、獣の像じたいは量産が可能で、使い終わった後はロロナに言えば薬剤の補充もして、半永久的に使えるという。

なるほど。それならば、充分だ。

ざっとマニュアルをめくって、確認する。

全てが、催眠で幻覚を誘導するように仕組んでいるのだと、エスティには分かった。ネジの音さえ、単純な音をずっと聞かせることで、催眠の誘導に役立てているのだ。相当に考えて作られている装置である。

大したものだ。

「これは、今後注文をするかも知れないけれど。 犬以外も大丈夫なの?」

「はい、鳥や蛇も。 ドラゴンは、今はちょっと……」

「大丈夫よ、まずはこれと同じものを注文して、場合によっては他も考える事にするから」

少し気になった事があるので、聞いてみることにする。

確かこの元になった道具は、リアルな幻覚を造り出すものだった。それに対して、ロロナが再現した此方は、どちらかというとファンシーでキュートな幻覚を見ることになった。違いは、大きい。

聞いてみると、ロロナは少しばつが悪そうに言う。

「その、借りていた魔術書を読んでいて、思ったんです。 この本を書いた人は、きっと誰かに包んで欲しかったんじゃないのかなって」

「……」

老境に入って、ペットに依存する人間は少なくない。

その理由の一つは、孤独だ。

何よりペットは、喋ることがない。人間と接しているよりも煩わしくないという事もあるけれど。

ロロナはそれを、孤独と解釈したのか。

「それなら、優しい夢を見せてあげたいなと思ったんです」

「そう……」

まあ、ロロナの書く絵が、ファンシーだという事も、あのような幻を見た原因の一つなのだろう。

いずれにしても、合格は今回もほぼ決定だろう。

前に納品された魔女の秘薬や、癒やしのアロマも全く問題ない品質である事が分かっている。

流石に、八年掛けて仕込まれただけの事はある。

これはこの後二年少しで、何処まで伸びるか。末恐ろしくさえあった。

ロロナを帰すと、エスティは報告書を作るべく、自室に行く。受付をしているのは、ほんのわずかな時間。

実際には、エスティは報告書をまとめたり、外で仕事をしていることの方が多い。

持ち前の身体能力で、報告書は一気に仕上げてしまう。思考も加速させることが出来るので、決して難しい作業ではない。

仕上がったところで、王の所に持っていく。

納品された道具類は、既に地下の倉庫へ移した後だ。

王は玉座で退屈そうにしていた。

少し前に、ドナーンの大群を討伐したのだけれど。王の出番がなかったのだ。リミッターを外したステルクが、騎士達と一緒に張り切りすぎて、殆ど片付けてしまったのである。それから王は、しばらく機嫌が悪い。

斬りでがある獲物を根こそぎとられてしまったからだろう。

「何か」

「プロジェクトMの三期課題が終了しました。 此方、レポートになります」

「うむ……」

後で正式に会議は開くが、まずは王に提出するのが、ルールとなっている。

しばらくレポートに目を通していた王が指を鳴らすと、メリオダスが来る。王宮の奥深くでは、大臣は王の忠実な側近だ。王宮の比較的表の部分、外向けの廊下などでは、王に対する不満を公然と口にしてもいるが。こういう場所では、実際の関係を見ることが出来る。

「メリオダスよ、どう思う」

「ふむ、素晴らしい。 発想力と言い、それを実際に組み立てる構想力と言い、十四才という年齢を遙かに凌いでいるスペックだと言えます。 多少不格好な完成品が多いですが、品質は申し分ありません」

「ただ、毎度苦労している様子なのが気になるな」

「それについては、アストリッドから報告が上がっています。 楽に課題を突破させると頭が悪いロロナは増長する可能性があるので、いつもギリギリになるよう調整しているとか」

噴きそうになった。

確かにアストリッドならそうするだろう。そして納期に追い回されて涙目になる弟子を見て、毎度鼻の穴を膨らませて喜ぶというわけだ。プロジェクト上の戦略という以前に、明らかに楽しんで弟子を虐めている。

エスティは、ロロナに悪い印象がない。

だから、アストリッドという最悪の師匠を得たことを、いつも気の毒に思ってしまう。ただ、アストリッドの性格が彼処まで歪んでいる事情もよく知っているので、責める気にもなれないが。

アストリッドの師匠は、非常に極端な特化型錬金術師だった。

普通の錬金術は、ほぼ出来ないに等しく。そのため、国のために随分裏で尽くしたにもかかわらず、周囲から孤立して、寂しい人生を送った。

アストリッドにしてみれば、いろいろな理由があって、親以上の存在だった人が、迫害されたのである。

あのように歪むのも、無理はない。

「次の課題はどうする」

「もう次の課題の話ですか? 確かに納品されたものを確認する限り、課題は合格として良いでしょうが……」

「どう思う」

もう内容を見てきたのか。

或いは、既に幻覚の効果を試しているかも知れない。エスティがメリオダスを憎めないのは、この辺りの手回しの良さがある。

前線で戦うエスティらが、全力で暴れ回ることが出来るのは。メリオダスが、バックアップしているからだ。

戦えない人間が、どうすれば戦士が中心のアーランドで役に立てるのか。この大臣はそれを理解した上で、しっかり立ち回っている。有能な人間は、アーランドでは尊敬されるのである。

「予定通り、耐久糧食の課題で問題ないでしょう」

「やはり、そうなるか」

来たか。

今後の戦略を考えると、そろそろロロナに実戦で役に立つものを作らせる時期が来ている。

そして、ロロナの発想力は、三回の課題で充分に見ることが出来た。使っている技術はどれも既存のものばかり。

だが、その組み合わせが面白いのだ。

技術もついてきているし、そろそろ新しいものにも挑戦できるはず。

「エスティ、次の会議に向けて、書類を整備せよ」

「分かりました。 直ちに」

一礼すると、エスティはその場を後にする。

ロロナに対する負担はますます大きくなっていくけれど。今回の件で、確信できた。きっとあの子は、やりきれる。

とりあえず、今日は気分が良い。

少し奮発して、高めのお酒でも飲もう。そう、エスティは決めた。多少はめを外すくらいは、良いだろう。

職人通りを歩きながら、エスティは、ロロナの将来が楽しみだと思った。

 

5、壁を一つ越えて

 

ロロナは、納品が終わると、疲れ切った体を引きずって、アトリエに戻る。

一休みしてから、次の日は、きちんと身繕いして、お外に出た。

今回の件で話を聞くことが出来た人に、礼をして廻ったのだ。殆どの人は捕まえることが出来たのだけれど。

ただリオネラだけは、中々居場所が分からなかった。

また宿を移ったらしいのだ。

何か嫌なことがあったのかも知れない。ここ数日は、広場で公演もしていないという事だった。

クーデリアの家に向かったのは、相談してみようと思ったからだ。

アトリエに戻ったとき、師匠にクーデリアはもう帰ったと聞いた。帰ったのなら、疲れも溜まっていることだろうし、家だろうと思ったのだ。

結果的に、それは当たった。ただ、いきなりトラブルが起きていた。

家の入り口で、いきなり怒鳴り声を聞いて、ロロナは身を竦ませた。

「ふ、巫山戯るなっ! オレがお前に負ける訳ないだろっ! どんなズルしやがった!」

聞こえてきた声には、覚えがある。

クーデリアの兄の一人だ。確か半年ほどしか離れていない兄で、同じように英才教育を受けているはず。

魔術も発展しているアーランドでは、男女での戦闘力差は殆ど無い。

ましてやクーデリアが如何に凄まじい努力をしているかは、ロロナも知っている。いつかは追い越すだろうと思っていたけれど、予想よりずっと早かった。

こっそり門から奥を覗き込むと、顔を真っ赤にしたクーデリアの兄の一人、確かラーベルトという男が。無言で立ち尽くすクーデリアに食ってかかっていた。長身で端正な顔立ちをした金髪の男だが、それが故に怒りで歪んだ顔はとても醜い。

間に入ったのは、屈強な老戦士。長大な槍を手にしている。勿論訓練用のものだけれど、迫力は尋常では無かった。

「おやめなさい、ラーベルト様」

「止めるな、アルフレッド! インチキに決まっている!」

「いいえ、今の結果は順当な実力差によるものです」

ぴしゃりというアルフレッド。

ロロナも、クーデリアの家族には良い印象がない。だから、思わずガッツポーズをしてしまった。

「お前まで、そんなことを言うのか! おのれこの卑怯者、どうやって我が家のエージェントをたらしこ……」

「歯を食いしばられよっ!」

激高したラーベルトが剣を抜こうとしたが。

その瞬間、アルフレッドが、その巨大なこぶしをラーベルトに叩き込んでいた。回転しながら飛んでいったラーベルトが、地面で三回バウンドし、顔面から壁に叩き付けられる。

ぐしゃあとか、べきゃあとか、凄い音がした。

あの様子だと、骨も何本か折れただろう。

「う、うわー……」

思わず、声を上げてしまった。

はじめて見た。

あれが、愛の鞭という奴だ。ものすごく男臭くて、理解できない世界だった。でも、どこか羨ましい。あんな風に本気でぶつかり合えるのが、男の人なのか。

血だらけになって壁からずり落ちていくラーベルト。エージェント達が、運んでいく。付き添って歩きながら、アルフレッドが言う。まあ、あの程度の怪我なら、アーランド人なのだし何日か寝ていれば直るだろうけど、その辺りはお金持ちのご令息だからの扱いだろう。

「見苦しい! 貴方の三倍半は努力していたクーデリア様に、追い越されたのは当然のことでありましょう! 今日からはこのアルフレッドめが、貴方の性根を徹底的に鍛え直します故、そのおつもりで!」

「ひ、ひいっ!」

「クーデリア様は確かに半人前ですが、修行をさぼっていた貴方は今、その半人前にすら追い越されたのです! 今日からまずそれを認識していただきます!」

わいわいと、エージェント達が行く。

咳払いを耳元でされたので、思わずロロナは背筋をただしてしまった。冷や汗を流しながら振り返ると。

確か、クーデリアと同じ年くらいの、エージェントだった。

「お嬢のお友達ですね。 のぞき見は趣味が悪いですよ」

「え、えっと、その。 入り、づらくて」

「お嬢を呼んできましょう。 しばしお待ちを」

クーデリアは訓練着のまま、此方に来た。

打撃を緩和する魔術が掛かっているけれど、それでもアーランド人の強烈な一撃を受ければ、とても痛い。そんな程度の服だ。

エージェントは戻っていく。

多分、今の事を。クーデリアの輝かしい戦果を、フォイエルバッハ卿に報告するのだろう。それが何を意味するかまでは、ロロナにも頭が回らない。

「やったねくーちゃん!」

「複雑な気分よ。 彼奴がさぼってるのを見ながら、ずっと努力してきて。 それでも、勝ったのは今日がはじめて。 ただ、今の実力差なら、ちょっとやそっとの事で追い越される気はしないけど」

「そうなの?」

「訓練で、対人戦で勝ったのが、そもそもはじめてかも知れないわね。 まだあたしは、この屋敷にいるエージェントの誰よりも弱いわ」

自嘲的に言うクーデリア。

いつもあんなにしっかりものなのに。こんなに弱みを見せてくれる事もあるのか。何だかロロナは、痛々しいと思うのと同時に。それだけ信頼してくれているというのが分かって、嬉しかった。

着替えてもらって、リオネラを探しに行く。

お礼を言いに行きたいと言うと、クーデリアは眉をひそめた。

「そういう所は、何だか真似できないわ」

「え? どうして?」

「何でもない。 何か、話は聞いてないの?」

「宿で聞いたんだけど、静かな所の方が落ち着くって、時々言ってたって」

クーデリアは、少し考えて、頷く。

どうやら、居場所に見当がついたらしい。

二人で向かったのは、騎士団の寮だ。

街の外れにあって、一つずつがセーフハウスも兼ねている。屈強な護衛が行き来していて、生半可な実力では、近づくことも出来ない。

ステルクがいたので、手を振って呼んでみる。

何度か護衛をしてもらった結果、もう笑顔で接することが出来るようになってきた。ただし、時々、まだ怖いなと思うけれど。

「どうした、二人揃って」

「りおちゃんはいませんか?」

「リオネラ君か? ここには来ていないが」

「空振りだったか……」

クーデリアが残念そうに言うけれど。ステルクは、咳払いした。

居場所なら、見当がつくという。

元々精神的に不安定な事もあり、宿を紹介したのだという。すぐ側に、回復術を専門としている魔術師が住んでいる戦士宿で、一種の病院のような機能を有しているのだとか。中はとても静かで、穴場だそうだ。

丁寧に礼をして、そっちに向かう。

クーデリアは、ため息をついた。

「あんたもマメねえ。 一人になりたいんだろうし、放っておけばいいじゃない」

「でも、りおちゃんのおかげで、この間の装置を思いつけた部分もあるんだよ。 だから、お礼は言いたいな」

「分かったけど、あんまり追い回すと、却って逃げられるわよ。 相手が嫌がったら、すぐにやめなさいよね」

クーデリアの苦言ももっともだ。

ただ、リオネラは本当に心配なのだ。うすうすとロロナは勘付いてきている。彼女の周辺環境があまりにもいびつであると。ロロナが定期的に接していないと、本当に壊れてしまうのではないかと思って、気が気では無いときがある。

「くーちゃん、りおちゃんって、どうしてあんなに視線を怖がるんだろう」

「確かに旅芸人としては珍しいわよね。 でも、対人恐怖症の年頃の娘なんて、珍しくもないでしょう」

「うーん、でもアラーニャとホロホロとは、普通に話してるんだよね。 なんというか、喉に骨が引っかかってるみたいな、嫌な感じがあるの」

そうこうしているうちに、ステルクが教えてくれた宿に着く。

側に、回復術の大家である魔術師が住んでいる。彼女はアーランドにおける魔術師でも十本の指に入るほどの有名人で、今日も治療を受けようと並んでいる人がかなりの数見受けられた。

隻腕だったり足が無い戦士も見受けられる。

腕のいい魔術師の治癒を受ければ再生可能だとは聞いていたけれど。その現場を見るのは初めてだ。

いずれ外で戦っていれば、ロロナも世話になる事があるかも知れない。アーランド人なら、指の一本や二本、欠損してはじめて一人前という言葉さえもある。痛いのはいやだけれど、この場所は覚えておこうと、ロロナは思った。

リオネラは。並んでいる中にはいない。

宿の方は、三階建ての石造り。中に入ってみると、消毒薬の臭いがした。

静かにと、壁紙が貼られている。

魔術師の弟子らしい、清潔な白衣を着た人が行き交っているので、本当に医療施設のようだ。

一人を捕まえて、リオネラを知らないか聞いてみる。

そうすると、三階にいると言われた。三階は、体の傷ではなくて、静かな環境で心を落ち着けたい人の場所なのだという。

クーデリアと、顔を見合わせる。

「引き返した方が良いんじゃないかしら」

「……そう、なのかな」

「手紙でも書いてみる?」

リオネラは、一体何の鬱屈を抱えているのだろう。

あれだけの戦闘技能を持ちながら、実際の戦闘で活かせていないリオネラ。彼女が抱える闇は、そのちぐはぐさに由来しているようにしか思えない。

一度アトリエに戻り、ゼッテルを引っ張り出して、手紙を書く。

「この間のりおちゃんの話で、大きなヒントが得られました。 おかげで、今回の課題も無事に納品出来ました。 ありがとう」

悩んだが、文面はそれだけにする。

実は、また会いたいと書いたら、受付の人に駄目と言われたのだ。理由は分からないけれど、相手を励ますような言葉や、急かすような言葉は厳禁なのだという。

後ろ髪を引かれる思いだ。

あと数日で、次の課題が始まる。今回の課題については、思い残すこともない。きっと大丈夫だろうけれど。

クーデリアに、食堂に行こうと言われた。

こういうときは、甘い物でも食べるに限ると。

頷くと、ロロナは宿を後にする。

リオネラはきっと手紙を読んでくれる。そして、また元気な顔を見せてくれる。

そう、ロロナは、自分に言い聞かせた。

 

(続)