最初のお仕事
序、つまづき
ロロナは額の汗を拭った。
ゼッテルの作成が軌道に乗り始めたからだ。箱に入れて成形した後、渇かして、そしてなめす。
なめした後は、何度か中和剤を重ね塗りして、紙そのものの質を上げる。
最後に、水分を飛ばしきると。文字を書くことも充分に出来る、手触りが良い紙に仕上がるのだ。
強度も申し分ない。
また、触っていて分かるのだが、工場製の紙と違って、ほんのり暖かい。これは魔力がたっぷりゼッテルに籠もっているからだ。
必要とされるゼッテルの量は膨大。今はまだ、その半分も出来ていない。
ただ、何度か近くの森に行き来して、必要とされる材料は採集を終えている。問題は、他の納品物だ。
ゼッテルを最初に全部仕上げるか。
それとも、炭と研磨剤についても、考えるか。
ロロナはゼッテルをなめしながら考えたが。どうも良い結論は出なかった。
気がつくと、夜になっていた。
仕込みもあわせて、今日だけで三十枚のゼッテルを仕上げた。最初の内は、ゼッテルの縁の処理が上手に出来ず、どうしても均一な紙として作れなかった。だが、参考書を見て、その通りに仕上げることで、何とかこなせるようになってきた。
どうにかゼッテルだけなら、納品は間に合いそう。
アストリッドが帰ってくる。
まだ明かりがついているので、驚いたようだった。
「なんだ、まだ起きていたのか」
「はい。 ゼッテルを仕上げていました」
「どれ……」
アストリッドはできあがったゼッテルを、何枚かつまんで確認していく。ぐうたらで怠け者でも、錬金術師としては超一流の師匠だ。緊張する。
アストリッドはしばらくゼッテルをめくって見ていたが、小さく嘆息した。
「まあ、この辺りで取れる素材では、こんなものだな」
「だ、駄目ですか?」
「泣くな。 まあ、私から見れば駄目だが、商売ものにはなるだろう。 今後は、もっと良い素材を厳選して、質を上げていかなければならないがな」
「はい!」
師匠が、そう言ってくれたのは嬉しい。
だが、ゼッテルを最初に仕上げきると言うと。師匠は、あまりいい顔をしなかった。
「それは危険だな」
「どうしてですか?」
「お前は生真面目に、私が言うとおり一つずつ作業をしている。 つまり、まだ炭も研磨剤も、手を付けていないだろう」
「はい、そうですけど」
もしもトラブルが起きた場合、まずいと、師匠は言う。
確かに。ロロナも、その事は考えていなかった。
「致命的なトラブルが起きても、日にちがあれば対応できる可能性が高くなる。 既に納品量の三割以上は出来ているようだから、一段落と判断して、次に掛かれ。 それと、完成品は万が一を考えて、コンテナに入れておけ」
あくまでアドバイスだから、どうするかはお前の自由だ。
そうアストリッドは言うと、寝室に直行した。本当によく寝る人だ。お風呂にも入らないのだろうか。
ロロナは頷くと、次の作業の準備に入る。
炭の準備はしていたのだ。
今、仕上げているゼッテルが終わったら、次は炭に取りかかる。炭が一段落したら、最後は研磨剤だ。
研磨剤は、作業リスクよりも、むしろ採取リスクが大きい。
どうもあのオルトガ遺跡は、行くのが怖い。
地上部分は大した危険があるわけではないと分かっているのだけれども。それでも、どうしてか、足が竦んでしまうのだ。
クーデリアは、どうなのだろう。
頭を振って、雑念を追い払う。
まずは、手元にある作業。それをこなしてから、次へ行くべきだ。
結局、夜半前に、今行っているゼッテルは、仕上げることが出来た。これで四割という所だ。
開始してから、二週間ほど。最初のペースでは危うかったが、今なら行けるかも知れない。
しかし。
翌日の昼には、その考えは、無惨に打ち砕かれることとなった。
唖然としたロロナは、炭に適当と書いてあった植物、アイヒェの末路をもう一度見つめた。
アイヒェは近くの森に群生している木で、薪として良く用いる。まるまると木の枝を広げる、オーソドックスなもので、ロロナが知る限り十種類以上が存在している、どこにでも生えている木だ。薪に用いるだけではなく、家の素材になったり、時には武器にも用いる。お酒を入れる樽にすることもある。生活に密着しているし、ロロナだってはじめて触るものではない。家事をしていれば、嫌でも触る程度の存在。
今までの経験通り、というよりも参考書に書かれている通り、乾燥している薪を拾ってきた筈なのだ。
言われたとおり、炉に投入して、蒸し焼きにし始めたのだが。
その途端にはじけて、割れてしまったのだ。凄い音がしたので、びっくりした。薪として用いているとき、こんな現象は起きたことがなかった。
これでは、売り物には出来ない。
国に納品するなんて、もってのほかだ。焦りが、体中をわしづかみにする。どうしよう。どうすればいいのだろう。おろおろしていると、師匠と目があった。
冷や汗を流して、泣きそうになっているロロナを、面白おかしく観察していたらしかった。
「し、師匠ー!」
「悪いが、資料は渡してある。 その中に答えはあるから、自分でどうにかしろ」
言い残すと、師匠はさも楽しいものを見たと言わんばかりに、寝室に戻ってしまった。昨日遅かったとはいえ、どれだけ眠れば気が済むのだろう。
だが、師匠はああなると、これ以上ヒントなどくれない。
というよりも、ここ二週間苦労していて、昨日と最初の、一回ずつしかヒントなどくれなかった。
後は失敗したりおろおろするロロナを、楽しそうに見ていただけだ。それか、出かけているか、寝ているか。
とりあえず、炉の火を止める。
本来、炭を作るのには、七日から八日かかると、参考書にはある。つまり錬金術では、その行程を大幅に縮めるだけではなく、品質も高めることが出来るのだ。ただし、技術が相応にいる。
慌てて、参考書を読み直す。
何か見落としているものはないか。
まず、どうしてはじけたのかが分からない。炭についての参考書は、そもそも種類がとても少ないのだ。
全部見直してみるが、トラブルシューティングの類は、殆ど書いていなかった。
嗚呼、どうしてだろう。
もちろん、イクセルから貸してもらっている本も目を通す。使い込まれている、とても良い本だ。料理についての知識も、読んでいると身につく。
しかし、参考になりそうな事は、書いていない。
今日は丸一日を捨てて、読書に費やすべきかも知れない。そう思ったのは、既に夕方を廻った頃だった。
夕食の準備をして、一旦頭をクリアにしようと試みるけれど。
上手く行かない。
はじけてしまったアイヒェは無惨な姿で、とてもこれ以上は行程を進められない。薪の方に混ぜながら、ロロナはごめんねと呟いていた。
もう一度、炭の作り方を復習する。
錬金術で炭を作る場合は、炉を用いるだけではなく、その中に充満させる蒸気に中和剤を用いる。
まず炉に炭にする木材を入れた後、中和剤を炉に投入。
徐々に熱を上げていって、中和剤が炉の中に充満するようにする。この中和剤を入れるタイミングについては、検証してみたが間違いはない。そうなると、間違っているのは、おそらく。
何度か考え込んだ後、他にもヒントはないだろうかと、もらった資料を総ざらいに見ていく。
夕食の時間も、ずっとその事を考えていた。
師匠は珍しく、何も話しかけてこない。普段はロロナをからかったり虐めたり、触ろうとしたり膝に乗れといったり、ろくなことをしないのに。
今日は珍しく、いわゆる空気を読むという行動をしてくれたのかも知れない。
しかし、その日のうちに、解決策は見つからなかった。
もはや絨毯爆撃しかない。
順番に、資料を見ていく。ようやくそれらしい記述を見つけたのは、読書を始めてから、三日目の事。
全く関係ないと最初考えていた道具の作成工程の過程に、記載があった。
「これだ……」
見つけ出した嬉しさからか、ロロナは思わず呟いていた。
既に夕食の後だけれども。やっと、光が見えた気がした。
資料には、こうある。
炭に関する失敗で侵しやすいのは、錬金術で行程を縮めているという事を、忘れがちだと言うことだ。
つまり、薪と同じ感覚で乾燥させてはいけない。
乾燥させるために、火を通すくらいの覚悟が必要になる。天日で干す程度では、適切な状態とはならない。
そう言うことだったのだ。
ロロナは大きくため息をついた。きっと炭の参考書を書いた人は、錬金術を知っているから。知らない人向けには、書いてくれなかったのだろう。
参考書に、紙を差し込んでおく。
そして、自分は、新しく得た知識を、そのまま試してみることにした。いずれ自分で参考書を書くときには。
炭を作る時に、もっと乾燥させなければならないと、記載する必要があるだろう。そんなときが、来るとは思えないけれど。
まず乾燥させる方法。
これも参考書を確認する。薪を炙るようにして焼くと良いとある。なるほど、これも炉を使うべきか。
慣れた人であれば、或いは。
そうなると、参考書にある行程を変えなければならない。
まず炉で薪を乾燥させる。これについては、方法も分かった。
その後一旦薪を炉から出して、冷やす。これについては、手探りでやっていくしかない。つまり、作業工程が増える分、必要時間も増えると見て良い。思った以上に状況が悪いことにロロナは気付いたが。こればかりは、どうしようもなかった。
諦めずに努力を続けていて、良かった。
ロロナは頷くと、早速翌日から。再構成した行程で、作業を開始したのだった。
1、トラウマの地へ
錬金術を本格的に始めてから、ロロナがアトリエを出てくる事がめっきり減った。勿論朝昼晩には、食事の準備で姿を見せる。その時、偶然を装って通りが掛かって、食事を一緒にしたりもする。
クーデリアは、食事の際に、状況も聞いている。
ゆえに、ロロナが本格的に躓いたり、それから立ち直ったことも知っていた。
予定行程より、かなり作業が遅れてしまっているが。まだどうにか挽回できる範囲内だとも。
ただ、予定していた、オルトガ遺跡への遠征が遅れに遅れている。それが不安をかき立てていた。
本当に間に合うのか。
間に合うとして、ロロナはやり遂げられるのか。
もし駄目だったら、その時は。
備えておかなければならない。ロロナを連れ出して、国家機密を守るために消そうとする連中から、命に代えても守り抜く。
勿論戦って勝てる訳がない。
初動と、どこに逃げるかが大事だ。或いは周辺の大国に、何か餌になる条件をちらつかせて、保護を頼むほかない。
いずれにしても、味方など一人もいない。
クーデリアは見ている。
近辺の店、その全てに、国の息が掛かっているのだ。ロロナは気付いていない様子だが、全員がこのプロジェクトに関わっている。
勿論、必要とあれば、密告も辞さないだろう。庇ってくれる人など、誰もいない。人間の情など、そんな程度のものだ。
元々アーランドは、修羅が集う土地だった。
今でこそ国情は安定しているが。それでも、やはり根付いているのは、極端な現実主義。ロロナが親友と思っている幼なじみのイクセルさえ、いや何よりクーデリア本人さえもがこのプロジェクトの末端にいる。イクセル自身がロロナを悪からず思っているのは知っているが、国に逆らって店を潰す覚悟まではないだろう。イクセルをいざというときの同士としては、カウントできない。
クーデリアは、アトリエの前を通り過ぎてから、広場に。
今日の自由時間はもう残り少ない。
広場の一角のソファに座ると、じっと手を見た。
腕力だけは、人並み外れている。
だが、それも活かせなければ、宝の持ち腐れ。こんな体になった事を、今でも恨んでいるクーデリアだが。
情けないことに、この人並外れた瞬発力を生かさなければ。いざというときに、大事な人を守れそうにない。
それには、訓練が必要だ。
狼なんぞに手こずっているようでは問題外。もっと強く。もっと速く。もっと的確に、動けなければ話にならない。
自宅に戻る。
黒づくめのエージェント達が、既に準備を整えて待っていた。
クーデリアの屋敷は広い。隅には、訓練用のモンスターも飼われている。その中には、近辺ではなかなか見られない、強力な個体も姿を散見できる。
エージェントの中には、クーデリアと同年代の若者もいる。
ただし、幼さが抜けきれない顔立ちと裏腹に、目は戦闘マシーンそのものだ。傭兵としての経験もあり、当然のように人を斬ったこともあるという。故に、黒服を着込んでいると、他の本職の生体殺戮兵器どもと全く雰囲気が変わらない。
お嬢にありがちな、講師と恋愛ごっこなどという事は、あり得ない。クーデリアは、身をもってそれを知っていた。
今日は、彼が講師だった。
家の中庭に出る。他の兄弟姉妹達とは、今日は顔を合わせていない。まあ、顔を合わせるだけ不快な連中だし、むしろ僥倖か。
まず念入りにストレッチをする。クーデリアの小さな体を生かすには、その速度を武器にするしかない。
体の筋肉をしなやかに保ち、いつでも動かせるようにする。
講師の少年は、グローブを両手に持った。今日は、切り札を生かせるようにするための訓練か。
「いいですか、お嬢。 お嬢は速いですが、まだまだそれを生かし切れていません。 思い切って突っ込んできてください」
「分かったわ」
「不意打ち、だまし討ち、何でもありです。 良いですか、お嬢はまだまだ、正攻法なんて口に出来るほどの技量じゃありません。 どんな手を使ってでも、相手に勝ちに行く事を考えてくださいね」
「……分かっているわよ」
半人前以下。
訓練の度に、それを思い知らされる。
ロロナは錬金術を勉強する度に、相当に腕を上げてきている。それなのに自分は。近くの森に出る度に、ロロナの護衛にはつく。ロロナを守りきる事は今の時点で出来ているが、それだけ。
今後、もっと過酷な護衛任務が来た時。クーデリアは、役に立つ事が出来るのだろうか。不安は大きかった。
訓練開始。
真正面から突っ込み、拳を叩き込む。
少しずつ速くなってきているが、まだまだ。講師は同年代。それなのに、実力差は天地だ。
「まだまだ、もっと!」
言われるまま、拳のラッシュを叩き込むが。
相手は軽々と捌いてくる。
それどころか、軽く蹴りを入れられて、すっころばされた。すぐに立ち上がるが、相手は容赦してくれない。すぐに至近に迫ってくる。
「足下ががら空きですよ」
「分かってる!」
言われなくても、理解できている。
だが、思考通りに、体が動いてくれないのだ。サイドステップやバックステップを多用して、フェイントも混ぜる。
しかし力の差は圧倒的。
まだまだ、とてもではないが、顔面に入れるには到らない。
実戦だったら、瞬殺されるレベルの相手なのだ。
軽く一刻ほどもスパーリングを続けて、それでもなお、進歩が見えない。口惜しいけれど、これが現実だ。
「どうぞ」
「ん」
冷たいミルクを差し出されたので、一息に飲み干した。
訓練はずっと続けるよりも、適度に休憩を入れると効果的だ。これは今までの膨大なデータの蓄積から判明している。
並んで座ると、講師は言う。
「思うにお嬢は、もう少し強い相手と、命がけで戦うべきですね」
「実戦を重ねて、力を伸ばせば良いと?」
「そうですそうです。 何なら、エージェント達とシュテル高地辺りにでも遠征してみますか?」
「時間があったら、考えて見るわ」
シュテル高地。
この近辺では、訓練場として名高い山だ。環境が厳しく、住み着いているモンスターも強い。
特に多く住んでいる山狼は、美しい白銀の毛皮が高く売れる上、肉もおいしい。ただし、国によって保護されていて、乱獲は禁止されている。この近辺にいる狼よりも三周りほど大きくて、単独でヒグマを倒すほどの戦闘力を持っているが、やはりそれでも人間には勝てないからだ。
他にも、ドラゴンが時々姿を見せることでも知られている。
ドラゴンも同じように、国によって保護されている。もしその気になったら、たちまち狩られてしまうからだ。ドラゴンは貴重な資源なのである。乱獲して絶滅してしまったら、意味がない。
更に言えば、流石に単独でドラゴンを斃す事は難しい。対抗戦術が確立しているから手安く狩れるのであって、一人の戦士が余裕を持って戦える相手ではない。そう言う存在もいるが、それは例外だ。
一人前になった戦士達が、まず足を運ぶ場所。
此処で、ドラゴンと遭遇する危険を考えながら、サバイバル技術を磨く。そう言う意味でも、クーデリアはいずれ、足を運ばなければならない所だった。
休憩を挟んで、スパーリング。
クーデリアの能力は若干発動までに面倒な条件がある。ただし、発動できれば、破壊力は充分だ。
しかしながら、スパーリングを続けていて、それが難しい事を思い知らされる。
「拳が軽い」
全力での一撃を、押し返される。
相手の斜め後ろに回り込んで放った一撃だったのに。旋回しながら蹴りで足下を狙うが、余裕を持ってかわされる。
能力発動どころでは無い。そう言う意味で、クーデリアが得ている力は、宝の持ち腐れだ。
一瞬注意がそれた瞬間、容赦なく回し蹴りを撃ち込まれた。
ガードの上からでも、痛烈に来る。吹っ飛ばされたクーデリアは、訓練場の外壁に叩き付けられて、ずり落ちる。
脳天が砕けるかと思った。
「まだ行けますか?」
「平気よ……!」
こんな程度の痛み。あの時に比べたら。
クーデリアは埃を払って立ち上がると。態勢を低くして、一気に訓練相手へ間を詰めた。そのまま、ラッシュを叩き込む。どれだけ捌かれるとしても、諦めるものか。
昼になった頃。
ロロナが、屋敷に来たと知らされた。
丁度訓練も終わったタイミングだ。
「良い実戦訓練の機会が来ましたね」
「言われるまでも無いわ」
この程度の訓練で呼吸を乱すほど柔ではない。というよりも、幼い頃に散々虐められて、タフになった。
クーデリアが心を乱すのは二つだけ。
自分の弱さを嘆くとき。
そして、ロロナに危険が迫ったとき。
これ以上、クーデリアは、弱みを作りたくなかった。
軽く身繕いして、屋敷の門に出る。ロロナは、ここのところ遅れを取り戻すべく奮闘していただろうに。
疲れた様子も見せず、にへにへと笑っていた。
この笑顔は、クーデリアにとってはまぶしい。こんな無邪気な笑顔を浮かべられる親友を、絶対に守り抜かなければならないと、その度に誓わされるほどに。
「くーちゃん! あのね、これから外に出たいんだけれど、いい?」
「いつでも大丈夫よ。 それで、どこに行くの」
「うん。 オルトガ遺跡に行ってみようって思ってるの。 どうにか炭が作れるようになったから」
緊張が、背中を駆け上がる。
ついに、この時が来たか。
「他には誰か声を掛けたの?」
「うん、イクセ君に来てもらおうと思って」
「ああ、彼奴ね……」
あまり良い印象がない相手だ。
ロロナの幼なじみの一人。近くのサンライズ食堂で、見習いコックをしている。ただ、このサンライズ食堂、元の店主が著しく腕に欠けていて、今では実質上イクセルが切り盛りしているはず。
連れて行って、大丈夫なのか。
「あいつ、サンライズ食堂実質上仕切ってるんでしょ?」
「ええと、仕込みとかは全部済ませてるんだって。 だから、きっと大丈夫だよ」
「ふーん……」
或いは、酒場としての機能に限定して、店を開けるのかも知れない。
あの店は酒も出す。
酒を飲んでいる時の食べ物は、多少まずくても、誰も気にしない。だから平気という考えなのだろうか。
まあ、クーデリアの知ったことではない。
途中、アトリエに寄って、荷車を回収。
これから出かけるという事か。
オルトガ遺跡のそばには、戦士が常駐しているキャンプスペースがある。其処で一泊してから、本格的に採集を実施。
そして、次の日の夜には帰るというスケジュールらしい。
オルトガ遺跡は、地下に危険な空間があるため、戦士が見張りのため常駐している。確かロロナの両親も、仕事として常駐作業をしているはずだ。
救護班もいる事が多い。
要するに、それだけ危険な場所なのである。
「今回は、フェストを取りに行くんだっけ?」
「それもあるけれど、出来るだけ色々採集しておこうかなって。 いつ何の役に立つか、分からないから」
「ふうん……」
少し、ロロナと話して聞いているが。
研磨剤を作るために、フェストは必要となる。
フェストはどこにでも転がっている石の一種で、簡単に砕けるため、研磨剤の素材としては重宝する。
問題は、遺跡近辺にあるフェストは、品質がお世辞にも良いとは言えないこと。
だから、相応の量は拾っていかなければならないだろう。
軽い鉱石であるフェストではあるが。荷車に積んだとして、帰り道はかなり重くなるはず。
大丈夫なのだろうか。
不安を感じるが。今は、あまりそれに触れてやるべきではないと、クーデリアは思った。
街の外門に出る。
今回は、オルトガ遺跡に行くので、街の西門から出る。西門からは、オルトガ遺跡が見えているのだが。
意外に距離があり、だいたい半日ほどは到着まで掛かってしまう。
門の所で、イクセルが待っていた。
此奴もアーランド人だ。戦闘用の装備くらいは持っている。ただし、手にしているのは、フライパンのようだが。
「それで戦うつもり?」
「これは戦闘用のフライパンだよ。 アーランドの料理人の中には、傭兵と二足の靴でやってる奴もいてな。 今のサンライズ食堂の主人もそれさ」
見せてもらうが、確かに分厚い造りだ。
アーランド人だから振るえるが、そうでなければ無理だろう。振り回すことさえ出来ないにちがいない。
それに、そう言うこともあると噂でだけなら聞いている。そういえば料理の腕が微妙なことで知られているサンライズ食堂の主人が、どうしてやっていけているのか。元傭兵で、なおかつ人脈を生かしていて客にしていると考えれば、矛盾は出ない。
納得はいった。
それに、三人なら、地上部分のオルトガ遺跡くらいなら、大丈夫だろう。
此奴もアーランド人だ。二人がかりなら、ロロナを守りきる事くらいは出来るはず。クーデリアは最悪、最終的には死んでも良いのだ。勿論、イクセルにも、巻き添えになってもらうが。
「行こう! 日が暮れちゃうよ!」
ロロナは今日も、明るい笑顔で言う。
この子に、現実は出来るだけ、見せたくない。
恐怖からだけではない。ロロナは思わず口を押さえていた。
オルトガ遺跡の周辺は、森が黒ずんでいた。
昔来た時は、あまり感じなかったのだけれど。何だか嫌な臭いもする。確か師匠の話では、昔の人だったら即死するような毒がたくさん遺跡から漏れているのだとか。本当なのだろうか、ちょっと分からない。
というのも、この辺りで取れる露骨に変な色をしたベリーは、サンライズ食堂でもたくさん出てくる。
変わった味がするのだけれど、むしろスパイスの一種だとみんな言っているくらいなのだ。
勿論、ベリーを食べておなかを下した人なんていない。
「こっちにもあるぜ」
探し始めてからすぐに、イクセルがベリーをたくさん見つけてきてくれた。
すぐに油紙に包んで、荷車の隅に入れる。
今の気候だと、数日は保つだろう。保存については、洗った後、暗いところに入れておく、くらいで大丈夫。
「それにしても、凄い色だね」
「こっちはコバルトベリーで、こっちが三色ベリーだ。 どっちも、サンライズ食堂のメニューには、隠し味で入ってるんだぜ」
「ふうん」
クーデリアは素っ気ない。
というのも、採集をわいわいやっている間、ずっと辺りを見張っていてくれているからだ。
多分気を張っていて、会話に入る余裕が無いのだろう。
この辺りは、かって遺跡に押し寄せる人達のために、街道も作られていた。今では、遺跡の表部分が全て探索され尽くしている事もあって、人通りは少ない。しかし盗賊や、工場から逃げ出した労働者が潜まないように、巡回の戦士もいる。
先ほどから、巡回の戦士とは、二度遭遇した。
二回目にあった人は、隻腕の大男で。とんでもなく大きなバトルハンマーを手にしていて、威圧感ももの凄かった。あれでは、狼など見た瞬間すっ飛んで逃げていくだろう。
「ベリーはもう良いよ。 移動しよう」
「何だ、調理次第じゃ結構美味いんだぜ。 油だって取れるしな」
「今日の目的は、研磨剤の材料だから」
「そういえば、そうだったか」
残念そうに、イクセルが腰を上げる。
イクセルは料理になると、目の色が変わる。更に、脱線もしがちになる。ロロナもそれを知っているから、最初から用心していたのだ。
クーデリアに促して、場所を移る。
街道から少しずれるだけで、荷車を動かすのが、こんなに大変になるとは思わなかった。うんせうんせと言いながら、荷車を引っ張る。今度は、クーデリアが押してくれる。イクセルが見張りだ。
昨日、キャンプについてから、腕相撲をしてもらったのだが。
クーデリアは、イクセルを数秒でねじり伏せた。
やはりクーデリアは、腕力に関しては既に同年代の男の子よりもずっと強い。ただし、戦士階級の、力の使い方を知っている相手に対しては、どうしても無理が出てしまう。そう言うことなのだろう。
それで、荷車を押す方に廻ってもらっているのだ。
ようやく、街道に荷車を戻す。
まだベリーや類をはじめとする森の素材を少し採っただけだから、荷車のスペースにも重量にも、充分な余裕がある。
調べてある。
フェストがあるのは、この街道を少し行った先だ。
「それにしても研磨剤か。 駄目になった食器を磨くときとかに、よく使ったな」
「師匠が作ってくれた奴?」
「いいや、確か工場のだよ。 不純物が混ざってて、気をつけないと食器を傷つけちゃうんだよなあ」
なるほど、やはり不純物は念入りに取り除かないと駄目らしい。
ロロナも、失格と言われないようにしなければと思っている。こういう話は、色々と参考になる。
半刻ほど行くと、到着。
崖の下のようになっている場所だ。
右手には、遺跡。
遺跡と言っても、未知の物質で作られていて、百年も野ざらしになっていても、びくともしていない。
元々は山に埋もれていたのだが、今では全て土が取り除かれて、むき出しになっている。故に、アーランドからも見ることが出来るのだ。
それに、遺跡自体が山のような大きさである。
未だに生きている事を誇示するように、時々遺跡の壁面には、筋状に光が走る。触ってみると、ほんのり暖かい。
昔、酷い目にあったのは、此処ではない。
確か、足場を上がった、上の方だ。
彼方此方に、多数の足場が組んである。遺跡自体に傷を付けるのは難しいのだが、それでも頑張って穴を穿ったり。或いは、へこんでいる所に横木を入れたり。もしくは、地面から櫓を組んでいったり。
ただし、それらの足場に、今ではモンスターが住み着いている。
勿論定期的に巡回の戦士達が片付けているのだけれど。それでも、何が心地よいのか、モンスター達は目を離すと、すぐに住み着く。
「それで、フェストは?」
「あ、うん」
クーデリアに言われて、辺りを探し始める。
フェストはとても軽い鉱石で、灰色をしている事が多いのだが。何しろ雨ざらしだ。土に半ば埋まっている事も多い。
川の側にある場合は、丸くなっている事もあるが。
この近辺には川も無いし、だいたいとがった形状のままだ。
辺りを探していくと、見つけた。
土に半ば埋まっていたので、掘り返す。こぶし大のフェストの下には、小さな虫たちがたくさんいた。
土を払って、虫たちにごめんねと呟く。
たくさん転がっている場所を見つける。
工場が出来てから、フェストを使って研磨剤を作ること自体が、減ってきているようだ。だから、これだけたくさんあるのだろう。
ただ見ると、質が良いフェストはあまりない。
歴代の錬金術師達が、拾い集めていったからだろう。長い年月、拾い続ければ、数も減ってくる。
「ロロナ、出来るだけ急いで」
「くーちゃん、どうしたの?」
見張りをしていたクーデリアが、いつの間にか拳銃を取り出していた。
見ると、上にいる。
アードラと呼ばれる、巨大な鳥のモンスターだ。
翼長は大柄な成人男性ほどもある。その巨体をゆっくりと風に乗せている、この辺りではどこでも見られる猛禽。
主に死肉を漁る性質を持っているけれど。
チャンスがあれば、赤ん坊を浚っていこうともする。事実、子供が浚われそうになる事が、年に何度かある。
実力は狼と大差がないので、戦士階級の子供達は、此奴を相手に、対空戦闘のイロハを学ぶのだ。
モンスターらしく、アードラの一族は、風を操る力も持つ。
上級の物になると、小規模の竜巻を起こすことも出来るらしいのだけれど。
まあ、今上空を旋回している奴は、大丈夫だろう。
「分かった。 くーちゃん、見張りお願い」
「急ぎなさい」
いそいそと、必要量のフェストをかき集めていく。
幸い、要求されている研磨剤は、大した量ではない。しばらくフェストを集めていけば、大丈夫だろう。
そういえば、イクセルはどこに行ったのか。
少し前から、姿が見えない。いくら何でも、この辺りのモンスターに遅れを取るとは思えないけれど。
心配なので、フェストを探しながら、呼んでみる。
返事はある。
いるらしい。ただし、姿が見えない。
荷車に、かなりの量のフェストを積み込んだ頃、イクセルが姿を見せた。どうやら、足場に上がっていたらしい。
「上の方に、卵がたくさんあるぜ」
「アードラの?」
「多分な。 アードラは卵も美味いし、雛も肉が軟らかいんだぜ」
「ロロナ」
クーデリアが、釘を刺してくる。
何も言われなくても、分かる。うんと小さいとき、同じような誘惑にかられて、この上に上がって。
そして、地獄を見ることになった。
今、此処で、こんな作業をしているのも、その時の出来事が原因の一つだ。
「戻ろう、イクセくん」
「え? なんでだよ。 卵採っていこうぜ」
「もうフェストは手に入ったし、充分だよ。 それに時間はいくらでも必要なんだから」
「あ、そうか。 怖いんだな」
ちょっとむっとした。
イクセルは歯に衣着せぬ言動をする事がある。ロロナの幼なじみなのだから、知っていて欲しいのだけれど。
事実、クーデリアは、どんどん視線が冷たくなってきている。
このままだと、クーデリアがキレる。
「あのね、イクセくん。 わたしとくーちゃんね、この上で前に大変なことになった事があるんだよ。 だから冗談でも、そう言うこと言わないで」
「あ、前に遺跡でどうこうっての、言ってたな」
「うん。 だから今日はもう、帰ろう」
「いや、だったらなおさら上がってみようぜ」
何を言い出すのかとばかりに、見る間にクーデリアの機嫌が悪くなっていくのが、ロロナには目に見えて分かった。
嘲笑うようにして、上空でアードラが旋回している。
仲間割れなどこんな所でしていたら、血の臭いをかぎつけたモンスターが、たくさん押し寄せてくるだろう。
「どういうこと。 巫山戯てるんだったら、ただじゃ済まさないわよ」
「要するに、この上が怖いんだろ? だったらそれは子供の時の話なんだし、今行けばその怖いのも解消できるだろ」
「あんたねえ、簡単に……!」
「だからこそだろ。 これから、もっとおっかない所にも足を運ぶだろうに、こんな身近なところに怖い場所なんか遺してたら、仕事なんかできねーぜ」
それは、そうかも知れない。
クーデリアは冷ややかな目で、ロロナを見た。
このままだと、二人が喧嘩になってしまう。それは嫌だ。ロロナとしては、クーデリアとイクセルには、仲良くしていて欲しいのだ。
幼なじみ同士が喧嘩するなんて、悲しい話だと思う。
「分かった、ちょっとだけ昇ってみよう」
「ロロナ!」
「確かに、この上で酷い目に遭ったのが、トラウマになっているのは事実だと思うから」
クーデリアは何か言いたそうにしているが。
しかし、にやにやとしているイクセルは、ずっと余裕を崩していない。ひょっとすると、クーデリアが譲ると思っているのか。
予想外の事態が起こる。
肩をすくめたクーデリアが、冷ややかに言った。
「分かったわ、少しだけよ」
「え……」
「急がないと、日が暮れるわよ」
クーデリアが、率先して足場の上がれる場所へと歩き始める。
下ははしごのようになっていて、足場があるのはその先だ。まずイクセルに上がってもらって、ロロナとクーデリアは、それに続いた。
荷車は一旦下に残していく。
盗まれるようなものは積んでいないし、物陰に隠しておけば大丈夫だろう。それにしても、クーデリアが此処で許可を出すとは、どういう風の吹き回しなのだろう。
いずれにしても、クーデリアの気が変わらないうちに、探索は済ませておきたい。
さっと足場の上に。
一番高いところは山のようだが、壁の全てが垂直になっている訳では無い。中には上を歩くことが出来る場所も多い。
彼方此方に、飛び散っている肉片や毛皮。
この辺りで倒された狼の死体を、他の狼やアードラが漁ったのだろう。きりがないと巡回の戦士達が嘆いているようだが、それも無理がない。
しばらく歩いていると、くぼみに出た。
縄が張ってある。立ち入り禁止と書かれているところからして、此処から遺跡の中に入る事が出来るのだろう。
流石にイクセルも、この遺跡内部がどれだけ恐ろしい場所かは知っているらしい。中に入ってみようとか、馬鹿な事は言い出さなかった。
「お前らが酷い目に遭ったのって、この辺りか」
「ええとね……」
「そっちよ」
クーデリアが即答。
記憶力が優れているクーデリアだ。多分信頼して良いだろう。ロロナは手を引かれるようにして、進む。
壁がじんわりと暖かい。どうやら地上部分より、この辺りの壁の方が、暖かいようだ。変な音がしている。見ると、壁の一部から、風が出ていた。生暖かくて、嫌な風だ。
足場が途切れている。
腐って落ちてしまった、というわけではなさそうだ。
この辺りの足場は、時々修繕が入る。その時に不要と判断して、撤去したのかも知れない。
もしそうだとすると、大回りになる。
「くーちゃん、どうしよう」
「どうしようもなにも、この足場の下」
クーデリアが腰をかがめると、見るように言う。
少しずつ、思い出してきた。
確か、この足場の辺りで遊んでいた。そうしたら、アードラが来たのだ。アードラそのものは別に怖くもなかったのだけれど。
二人で、もつれるようにして、落ちた。
体を強く打った。
いや、そうだったか。何か、違うような気がする。
もしもトラウマにアードラが関わっているのだったら。アードラ自体が今でも怖いはずだ。
別にアードラそのものは、何とも思わない。
足場の下を、覗き込んでみる。
下は、穴のようになっていた。遺跡に小さな溝が作られている。これは、ひょっとして。背筋に、寒気が走る。
「分かった?」
「まさか、あの中に落ちたの?」
「おいおい、そりゃ災難だったな」
「ロロナ、覚えていないようだから言うけれどね。 あの時は、たまたま熟練の戦士が近くにいたから、どうにかなったの。 今落ちたら、きっと三人とも死ぬわよ。 もっとも、あの溝小さいから、今なら落ちることはないと思うけれど」
あの穴は、おそらく遺跡の内部に通じている。
だとすれば、今生きているのは、間違いなく奇跡だ。
あの後、病気にかかって。どうにかアストリッドに助けてもらったけれど。それは、両親がアストリッドに感謝する訳だ。
今頃になって、足が震えてくる。
何だか暗いところで、クーデリアと抱き合ってがたがたと震えていた記憶があるのだけれども。
無理もない。
遺跡の内部と言えば、アーランドでも腕利きの戦士しか入る事が許されない魔境だ。住み着いているモンスターも、アードラやら狼やらなどは問題にもならない、魔界の住人とでも言うべき存在ばかり。
本当に良く生きていたものだと、今更ながらに自分の奇跡を喜んでしまう。
無言で、その場を離れた。
イクセルはそれでも、平然としていた。
「じゃあ、卵でもとって戻ろうぜ」
「あんた、言うことはそれだけ?」
「だってトラウマって、お前らの問題だろ?」
いけしゃあしゃあというイクセルに、クーデリアが拳銃を抜きかけたけれど、慌ててロロナが止めた。
こんな所で争っても、良い事なんて一つも無い。
「そ、それより。 上の方に行ってみようよ。 まだ時間もあるんだから」
「上の方?」
「ここに来る前に少し調べたんだけど、アードラの羽って、衣類の材料に使えるんだって」
これは本当だ。
アードラの羽を上手に加工すると、衣類に編み込むことが出来る。元々衝撃に強い羽なので、そうすると防具としての性能を上げる事が出来るのだ。もっとも、此処アーランドの凶猛な戦士達の攻撃の前には、文字通り気休めに過ぎないが。
せっかくここに来たのだし、回収くらいはしておきたい。実際に手に入れることで、今後のために役立てたいのだ。
勿論、今後の依頼で、服を作れとか、防具を作れとか、言われる事を想定しての事だ。時間を作って、あらゆる錬金術の勉強をしておいて。不測の事態には備えたいのだ。
「たまごはイクセくんが持っていっていいよ」
「オレは質が見たいだけだからな。 別にかまわねえよ」
「そうなの?」
口々に言いながら、はしごに手を掛ける。
遺跡の頂上部は見えない。
アーランドからは、てっぺんがどうなっているかは見えるのだけれど。流石にこの至近距離では無理だ。
ここに来るまでは、遺跡そのものが正直いやだったけれど。
どこが怖いのか分かったことで、少しずつ平気になりつつある。イクセルは、或いは。ロロナに、トラウマを克服させようとして、あんなことを言ったのかも知れない。
2、追跡攻防
案外、大胆な奴だ。
影からロロナを護衛していたアストリッドは、そう呟いていた。ぐいぐいと遺跡の上部に上がっていくロロナは、一度恐怖を克服すると、かなり大胆になるらしい。足場の上に上がると、手をかざして周囲を見る余裕さえ出来ている。
実のところ、最近遺跡の上部には。内部から這いだしてきた、危険なモンスターが姿を見せるようになってきている。
その都度アストリッドやステルクが駆除しているのだが。
それでも、時々、経験の浅い戦士が襲われそうになる。今、ロロナ達は、正にそれに近い状況だ。
アードラの群れが、上空を旋回している。
ロロナ達は、今その巣を漁っていた。主に羽を採っているようだ。今後の事を考えて、アードラの良質な羽を、少しでも多く手に入れておこうと言うのだろう。
ロロナはアードラの雛には、興味を見せていない。
イクセルに袖を引かれてはいるが。首を横に振っていた。
「可哀想だよ。 羽だけにしておこう」
「何だよ、美味いのに」
「美味しいものは他にもあるしね。 何もわたし達で今、この雛たちを殺さなくていいじゃない」
あの子らしい理屈だ。
羽を散々集めた後、ロロナは袋詰めしていく。此方に気付いているのはクーデリアだけか。
イクセルの坊やは、本職の戦士でもない。
ただし、プロジェクトに関与している一人である。今はその本命の作業をしているわけではないのだが。まあ、邪魔にはならないだろう。
「あら、出歯亀かしら」
「聞きずてならないことを。 そのつもりなら、アトリエでいくらでも機会はある」
後ろからの声に応える。
ここに来ているのは珍しい。
エスティ=エアハルト。
アーランドが誇る、国家軍事力級と呼ばれる戦士の一人。高速機動戦闘を得意としていて、少し前までは間諜をしていた。噂によると、邪魔な大国の要人を三十人ほど消しているという。
勿論、足など掴ませずにだ。
アストリッドとは同年代で、実力も近い事があって、どうしても意識し合う仲だ。昔は色々あったため、かなり親しく表向きは接しているが。その実、両者共に牽制し合う仲なのは、当然の成り行きだろう。
エスティが此処に来ていると言うことは。
また、オルトガラクセンから、何か這いだしてきたか。
「で、何が出た」
「兎よ」
「なるほど、あれか」
兎というのは、隠語だ。
通称うさぷに。兎のような姿をしたぷにぷにという意味である。
元々ぷにぷに族は、状況に応じて極めて柔軟に進化し、その姿を変えていく種族。中でも武闘派と呼ばれる存在は何種かいる。その全てが、生半可な戦士では手に負えないほどの実力者だ。
中には、この遺跡に匹敵するサイズの者もいる。
大絶滅の後に、どうやら誕生した種族らしいぷにぷにだが。多くの種が絶滅したニッチに上手く入り込んでいる有様はたくましい。
或いは、人類の後は。
ぷにぷにが、この世界の覇者になるかも知れない。
「お前がいると言うことは、まだ逃げている個体がいるのか」
「ええ。 貴方にも、気をつけてもらおうと思って」
「兎の一匹や二匹は敵ではない。 もっとも、まだロロナが相手にするには、かなり早いな」
頷くと、エスティはかき消える。
そのハイド技術は、この国随一と謳われた影の戦士だ。アストリッドさえ、暗殺前提で来られたら、かなり厳しいかも知れない。
ロロナ達は、危険も分からず、無邪気に採集を続けている。
この様子だと、アストリッドが、偶然を装って前に出なければならないかも知れない。
気付く。
いる。兎だ。
少し下の階層にいる。他の兎は、根こそぎ戦士達やエスティに狩り倒された様子だが。数匹が、残ってしまったらしい。
うさぎによく似ているぷにぷにが、どうしてこう高い戦闘力を得ているのかは、流石にアストリッドも分からない。
だが、このままだと、ロロナ達が巻き添えになる可能性がある。
今のうちに駆除が必要だ。
ざっと周囲を確認するが、今の時点で、三人の手に負えないモンスターはいない。一匹強いのがいるが、もし戦う事になっても、総力であらがえばどうにかなるだろう。
音もなく、アストリッドは移動する。
そして、相手が気付かない内に。獲物の背後に立っていた。
袋にアードラの羽を詰め終えると、ロロナは笑顔で、気を張っているらしいクーデリアに言う。
そろそろ、帰路につきたい。
「くーちゃん、戻ろう」
「ええ。 ただ、ちょっと面倒なのがいるけれど」
「え?」
「そういや、アードラ共がいなくなったな」
イクセルも、そんな事を言った。
冗談かと思ったのだが、二人の表情が、そうでは無いと告げている。
気付いて、顔を上げると。
あれほど舞っていたアードラ達が、ぴたりと姿を見せなくなっている。これはどういうことなのだろう。
いや、言われるまでも無い。
何かが近くにいるのだ。だから、怖がって逃げてしまった。
イクセルも、いつの間にか表情を引き締めている。怖いのは、「面倒なの」が、どこにいるか分からない事だ。
当然モンスターも知恵がある。
襲うときは、直前まで姿を見せないのが普通だ。食べなければ生きていけないのだから、当たり前の話。
アーランド近辺のモンスターは、特にそう。
人間という極めてリスクが高い相手を襲うならば、慎重すぎてもなお足りないくらいなのだから。
辺りに無数にあるアードラの巣。
雛が皆、声を殺して潜んでいるのが分かる。
ひょっとして、狙っているのは。ロロナ達ではなくて、この雛たちでないのか。クーデリアは、既に臨戦態勢だ。
イクセルも、いつものにやけた表情ではなく、既に戦士のそれに変わっている。
おろおろしているのは、ロロナだけ。
そして、唐突に。事態は動いた。
飛来した触手が、アードラの巣の一つを襲ったのだ。悲鳴を上げる雛を巻き取ると、軽々と運んでいく。
触手の先には、青黒い塊があった。
瞬く間に雛を口に入れると、咀嚼しはじめるそれは。
確か、ぷにぷにの一種。
正式名はロロナも知らないが、確か通称黒ぷにと呼ばれている種類だ。全身が青黒く、体の高さは成人男子ほどもある。形状は丸っこいが、それが故に、非常に巨大。実体は極めて獰猛なモンスターである。
動きは非常に速く、体の周囲に生えている触手を器用に使う。
また、軟体生物のようにみえるが、実体はかなり硬く。体当たりされると、骨が砕ける事も珍しくない。
野生の掟を、ロロナも否定するつもりはない。
分かっているのは、あの黒ぷにも、食べなければ死ぬと言うことだ。無言で、クーデリアが袖を引く。
黒ぷにはモンスターの中ではかなり強い方に属する。
硬軟を自在に切り替える体に、その早さ。残像を残して動くという話を、ロロナも聞いたことがある。
それだけではない。
見た事はなくて、両親に聞かされただけだが。空気を吸い込んで巨大化し、押し潰しに掛かってくる事まであるとか。
いずれにしても、こんな所で戦うのは、リスクが大きすぎる。半人前以下三人では、勝てる保証も無い。狼の群れよりも、黒ぷに一体の方が、数段格上の相手だ。
頷くと、一歩、二歩、下がる。
黒ぷには、此方に明らかに気付いている。
また触手を伸ばして、アードラの雛を捕食する黒ぷに。
むしゃむしゃと鋭い音がする。無数にある巣の中で、雛は声を出さずに縮こまって、恐怖の襲撃者が去るのを、ひたすら待ち続けていた。
ようやく、ある程度、距離が開く。
だが、黒ぷにを刺激するのは得策ではない。
下がるときに、アードラの巣材の枝を踏まないように、気を遣った。
ロロナだって、食事中の猛獣を刺激する事がどういう意味を持つかくらいは知っている。アーランド人なのだから、当然だ。
足場が脆くなっていて、ぎしりと大きな音がした。
冷や汗が流れる。
「驚いたな−。 あんな強いのが、這いだしてくるもんなんだな」
「巡回の戦士は」
「さっき見かけたから、しばらくは来ないわよ」
記憶力が良いクーデリアが、忘れたとは思えないから。きっと、ロロナに言い聞かせるために、わざと言ったのだろう。
イクセルを殿軍にして、声を殺して足場を降りる。
はしごを下りるときが、一番緊張した。
とにかく、遺跡から出てしまわなければ、安心できない。あんな強い相手がいるなんて、信じられない。
此処には、これからも安易な気持ちでは来られない。
本職を雇えるなら、そうした方が良いだろう。
不意に、柔らかいものを踏んだ。
振り返って、悲鳴を上げそうになる。
散らばっているのは、銀白色の残骸だった。その死体の一部を、踏んでしまったらしい。
こっちは、何だろう。
同じくぷにぷにの一種の亡骸のようだけれども。しかし問題は、非常に大きい上に、触手も太いという事だ。
これは怖い。
人間くらい、簡単に捕食できそうだ。こんなのが潜んでいるのか。
オルトガ遺跡の内部には、こういう訳が分からないモンスターがたくさんいるはず。だけれども。
こんなのが、遺跡から這いだしてきていると思うと。
恐ろしくて、この辺りは、うろうろ出来ない。
「……急いで荷車まで戻るわよ」
ロロナが恐怖に心臓をわしづかみにされている事を悟ってか。クーデリアが、促してくれる。
確かに急がないと危ない。
途中で、巡回の戦士が来たら、話しておいた方が良いだろう。こんなに危険そうなモンスターが這いだしてきているのなら。巡回も、ツーマンセルかスリーマンセルでやった方が良いかもしれない。
さっきの、巣が密集している辺りが見えた。
まだ黒ぷにがいる。満腹したのか、ようやく動き始めた様子だ。アードラの雛たちは可哀想だったけれど。弱肉強食の掟は、アーランド人なら、幼い頃から叩き込まれる自然の摂理だ。
此方に向かってくる様子は無い。
きっと、巣に戻って休むのだろう。
はしごを下りると、また銀白色の残骸が散らばっていた。正直これと戦う事になったらどうなるか。
怖いけれど、今は震えている暇が無い。
それに、一人だったら竦んで動けなくなってしまったかもしれないけれど。今はクーデリアもイクセルもいる。
既に、銀白色の死骸には、蠅が集りはじめていた。
やっと荷車の所まで戻ってきたときには、生きた心地がしなかった。
此処は危ない。
こんな危険な場所になっているなんて、思ってもみなかった。巡回の戦士を見つけたので、手を振って呼ぶ。
腰が抜けそうになっている事に気付く。
戦士の人が来る。顔が強ばっているのを見ると、きっとあの銀白色のぷにぷににも、気付いていたのだろう。
「お前達、良く無事に戻ってきたな。 今、丁度掃討作業が終わったところだったんだ」
「掃討作業、ですか? あの銀白色の」
「兎だ」
「っ!」
ロロナだって、アーランド人だ。それが本物の兎ではなく、符丁である事くらいは、即座に理解できた。
よりにもよって、うさぷにか。
クーデリアが青ざめるのが分かった。イクセルさえ、減らず口を止めて黙り込む。
噂に聞いている、兎に形状が似ている最強のぷにぷにの一角。のどかな名前と裏腹に極めて性格は凶暴で、生息地では年に何人か襲われて餌食になるという。動きも非常に速く、触手も力が強い。その上、非常に肉食性が強い雑色と来ている。
希にこれが都会の街に紛れ込むと、甚大な被害が出るのだとか。
アーランド戦士でさえ、相手をするときは本気になる相手だ。もしも遭遇してしまったらと思うと、背筋が冷たい汗で滝になりそうだ。
勿論、ロロナがどうにか出来る相手ではない。
クーデリアとイクセルもまとめて、遭遇したらちょっぴり小粋なおやつにされてしまっただろう。
「どれくらい兎はいたの?」
「騎士団の増援からの話によると、十五匹だ。 オレも一匹倒したが、二匹以上を相手にしていたらどうなったか、冷や汗がでるぜ。 巡回に死者が出なかったことだけが救いだな」
「十五匹も……」
「しばらくは、遺跡は閉鎖だ。 本格的に奴らが出てくる穴を潰さないと、危なくって近づけねえや。 よその国から来た盗掘屋とか馬鹿な連中が、オレらの目を盗んで最近餌になりに遺跡に潜ってやがってなあ。 そんなこんなで、人肉の味を覚えたんだろうよ」
巡回の戦士は、唾を吐き捨てた。
気持ちは分かるが、巡回の人達に被害が出なくて良かったとしか言えない。この人も相当な手練れだろうに、複数に襲われたら危ないと言っているほどなのだ。
「それと、帰り道、気をつけろ」
「ひょっとして、討ち漏らし?」
「騎士団の連中が来るまでは専守防衛がやっとだったからな。 大物以外は、逃した可能性がある。 もしも御前さん達に目をつけてたら、襲ってくるかもしれねえ」
あの黒ぷにが、一瞬脳裏をよぎる。
だが、まさか。
騎士団の人達も、今は巡回してくれているという。黒ぷには兎に比べれば、だいぶ実力が劣るはず。
包囲を抜けたとは、思えない。
キャンプスペースに戻ると、けが人がかなりいた。女性の戦士もいる。兎の触手で殴打されたらしく、右腕があり得ない角度に曲がっていた。苦しそうに呻く彼女の横で、回復の術式を使っている術者がいた。冷や汗を流しているところを見ると、相当な人数を治療したのだろう。
ロロナの母がいる。
遠くで、術者達に指示を出している。もしこんな所にいたことがばれでもしたら、どんな雷を落とされるか、分からない。
早めにキャンプを抜けて、帰路につく。
クーデリアが、リボルバーを廻して、弾丸の状態を確認していた。
「くーちゃん?」
「さっきの話、聞いていなかったの」
「それよりさあ。 不幸なのか幸運なのか、わからねえな」
イクセルが、脳天気なことを言う。
分からないと視線を向けると。幼なじみのコック見習いは、言うのだった。
「だってよ、今日を逃してたら、当分此処には入れなかったぜ。 そうなったら、多分課題どころじゃなかったんじゃねえの?」
「あ……」
その通りだ。
大きくため息をつくクーデリア。
これはひょっとすると。非常に危ない橋を、知らないうちに、幾つも渡っていたのかも知れない。
ようやく街道に出る頃には、夕刻になっていた。
風が気持ちいい。
後ろに見えるオルトガ遺跡は、全くいつもと変わりないように見えるのに。その周囲が、血なまぐさい修羅場になっていると、誰が予想できるだろう。
時々、騎士らしい人達とすれ違う。
魔術師もいる。
それだけ、大きな事件だったという事だ。
流石にドラゴンが出てくるようなことは無いだろうが、それでもしばらくは厳戒態勢となるのは確実。
一般人は、ひと月は入れないだろう。
それどころか、こうして生きている事に、感謝しなければならないかも知れない。
お日様が、地平の向こうに沈みはじめる。
ロロナが、気を緩めかけた、その時だった。
クーデリアに、全力で突き飛ばされる。地面に転がったロロナが見たのは、首を絞められつり上げられたクーデリアが、もがく姿だった。
怖れていたことが現実になったのだ。
「助けて!」
叫んだのは、此処が街道で、しかも騎士団の人達が、今は殺気だって行き交っているからだ。
触手の先には、明らかにさっきと同じ黒ぷに。
此方のことを覚えていて、付けてきていたのか。それも、騎士団の目まで盗んで。クーデリアが、何発か発射するが、ずぶり、ぬぶりと、黒ぷにの体に弾丸が潜り込むだけで、有効打にならない。
触手が数本、クーデリアの足を掴もうと蠢いている。足を掴まれてしまったら、引っ張られて、首を引き抜かれてしまう。クーデリアは必死に触手を蹴飛ばして、掴まれるのを避けていたけれど。いつまでもつか。
イクセルが仕掛ける。
横を通り抜けながら、戦闘用のフライパンを叩き付ける。ばちんともの凄い音がしたが、黒ぷにはクーデリアを離さない。
大口を、黒ぷにが開ける。
中には、もの凄い牙が並んでいた。
ぷにぷに族は、つぶらな目と、何を考えているか分からない口が、一見すると可愛らしいが。それは一種の擬態だ。
触手を伸ばせば鞭よりしなるし、口の中はこの通り。目だって本当は複眼かも知れない。
口の中に、クーデリアが数発叩き込むが、五月蠅いとばかりに振り回す黒ぷに。
地面に叩き付けられたクーデリアが、銃を放してしまう。
ロロナは勿論、その間詠唱しているが、間に合うか。
「このっ! 離しやがれ!」
もう一撃、頭上からきりもみに落ちてきたイクセルが、フライパンを叩き込む。だが、わずかに体を沈ませたくらいで、黒ぷには意にも介していない様だ。
このままじゃ。
クーデリアが、食べられてしまう。
それも、ロロナの身代わりに。
無理矢理に、詠唱を切り上げる。今切り上げるのは、術を暴発させる事を意味している。体が耐えられるかは分からない。
だが、自分が傷ついても。
今は、クーデリアを、助けたかった。
「止め、なさいっ!」
首を絞められ、何度も地面に叩き付けられたのに。
クーデリアが、ロロナの術を見て、叫ぶ。
そして、渾身を込めただろう掌の一撃を、上下から挟むようにして、触手に浴びせかける。
鈍い破裂音。
触手が、明らかに致命打を受けたのだ。
雄叫びを上げた黒ぷにが、ふくれあがる。
そして旋回しながら、上空に舞い上がった。あ、落ちてくる。そう思った時には、衝撃波に叩き伏せられていた。
息が、一瞬止まる。
視界が、真っ暗になった。
少しずつ、音が戻ってくる。
周囲も、見え始めた。
黒ぷにが、いる。勝ち誇って、雄叫びを上げていた。
クーデリアは。足を触手に掴まれて、ずるずると黒ぷにの口に引きずられている。しかし、その手に。
イクセルは。
姿が見えない。
クーデリアは意識を失っているようだけれど。
ロロナには、意図が読めた。
賭ける。
触手を引きずり、口にクーデリアを放り込もうとする黒ぷに。その口の中に並んでいる牙は、小さなからだなんて、一瞬でズタズタにしてしまうだろう。
だが、その瞬間。
クーデリアが顔を上げて、更に銃口を黒ぷにに向けていた。
「耐えられる、かしらっ!」
灼熱の光が、黒ぷにの口に叩き込まれる。
クーデリアの特殊技能だ。燃え上がる弾丸が、黒ぷにの口を、内側から焼き払う。悲鳴を上げて、クーデリアを放り出す触手。
口を開けて息をしようとする黒ぷに。
だが、その瞬間、隕石が落ちてくるようにして、イクセルが頭上から、渾身の殴打を叩き込む。
黒ぷにの内側に、明らかに紅い部分が見えた。
致命打を体が受けている。ロロナは、一つだけ、謝った。あの時、もっと上手に隠れていれば、貴方はこっちに興味なんて持たなかったのに。
殺さなくて、済んだのに。
杖の先端を、もがき、悲鳴を上げるモンスターに向ける。
そして、さっきの詠唱の続きを終えた事で。完成した術を、ロロナは撃ち込んでいた。
光の槍が、容赦なく黒ぷにの体を打ち貫く。
一瞬、悲鳴とともに体を蠕動させた黒ぷには。
次の瞬間には、雷にでも打たれたように、木っ端みじんに吹き飛んでいた。
街道の脇に止めてある荷車に背中を預けて、息を整える。
クーデリアはあれだけされたのに、まだ平気らしく。呼吸を整えると、ハンカチで顔を拭き始めていた。
「ロロナ、あんたは平気?」
「くーちゃんだよ、そういわれるのは! もう、心配したんだからっ!」
「あの馬鹿に、痛打を浴びせる好機を狙ってたのよ」
「やれやれ、本気で心配して損したぜ」
隣で、イクセルが冷や汗を拭っていた。
やっと騎士団の人達が来て、黒ぷにの残骸を焼きはじめる。何でも、そうしないと再生する事が、たまにあるのだとか。
可哀想とは、言っていられない。
一歩間違えれば、食べられてしまったのはロロナ達なのだから。
クーデリアは、打ち身の手当をてきぱきと済ませていく。骨は折れていないらしい。良かったと、何度もため息が漏れた。
「にしても、あんたの魔力、また強くなってるんじゃないの?」
「お母さんが凄いからだよ。 わたしは、鍛錬もそれほどしてはいないし」
「何も素質が原因とは思えないけれど」
クーデリアが言うには、素質は必ずしも引き継がれるものではないのだとか。
その辺りは、ロロナにはよく分からない。
戦士としての本格的な訓練を受けていれば、話は違ったのかも知れない。実際、アーランド人として知っているべき事は身につけているけれど。専門的な知識については、ロロナは持ち合わせていないのだ。
騎士団の人達が来たので、事情聴取を済ませる。
来てくれたのは、あの怖い顔の騎士では無くて。ちょっとなよっとした、頼りない若者だった。
ただ、しゃべり方は多少紳士的だったので、安心できる。
「黒ぷにが遺跡から追ってきていたのか。 獲物を追って包囲網を抜けたのだとすれば、大した執念だ。 念のため、周囲の探索人員を増やしておく」
「お願いします」
一礼すると、荷車を押して、アーランドに戻ることにする。
少しだけ違和感があったけれど。
今は、そんなものを追求している余裕は無かった。フェストはかなりの量を調達することが出来たのだし、研磨剤をまず作って見る。
全てはそれからだ。
荷車を押しながら、二人と話す。
「そういえばくーちゃん、あの術、凄かったね」
「効率の悪い術よ」
話には聞いていたけれど、はじめて見た。
今日、黒ぷにに決定打を与えたのは、クーデリアの特殊な能力である。
クーデリアがいうには、敵との戦闘で、打撃を与えれば与えるほど、リミッターが外れる術なのだという。
今日使って見せたのは、第一段階。
触手に打撃を与えた事で、リミッターが外れた。ランクが上がると、もっと大威力の術を、弾丸に込められるのだとか。
「あたしみたいに体が小さくて、なおかつ未熟な戦士には、文字通り宝の持ち腐れと言っていいわ。 早く使いこなせるようになりたいけれど」
「くーちゃんなら、きっとすぐに出来るよ」
「しっかし疲れたなあ。 帰ったら食堂に来いよ。 今日は新鮮な食材も手に入ったし、おごってやるよ」
「本当? わーい!」
イクセルの料理は美味しい。
そう言ってくれると、とても嬉しかった。
アトリエに戻ると、まず荷車の中身を、地下のコンテナに移す。非常に冷たく保たれている上に、空気の流れが殆ど無い空間で、此処に保存しておけば殆どの素材はまず痛むことがない。
鉱石類は、外に放置しても大丈夫なものもある。
フェストは事前に参考書を見たところ、雨にさえ晒さなければ大丈夫だ。遺跡でも、或いは地面を深く掘れば、もっと質の良いフェストが手に入ったのかも知れない。
しかし今は、生きて帰ったことを、まず喜ばなければならなかった。
クーデリアと手分けして、荷車の中身をコンテナに移し終える。
「くーちゃんも、サンライズ食堂にいくの?」
「あんたが行くんなら、行ってあげてもいいわよ」
「良かった! きっとイクセくんも、首を伸ばしてまってるよ!」
きっと、クーデリアは無理をしている。
分かっているのだ。
見せてくれた箇所に痣は残っていなかったけれど。黒ぷにの猛攻をあれだけもらって、体が無事な筈もない。
ロロナに出来る事は。
きっと居場所が殆ど無いだろうクーデリアの実家で、苦しい思いをしてもらうのではなく。
回復が早くなるように、イクセルのところで、滋養のある美味しい食べ物を、口に入れてもらう事だけだった。
3、追い込みへ
フェストを、まずハンマーで砕く。
ロロナはあまり力がある方では無いので。柔らかめの鉱石を分解するにも、わざわざハンマーを使わなければならなかった。
それでも、力一杯金床にハンマーを振り下ろす必要はなくて。何回かフェストを叩いている内に、自然に割れた。
ある程度細かくしたら、乳鉢に移す。
ピンセットで不純物を取り除きながら、少しずつ潰して行く。参考書によると、時々適度に乾燥させるようにとある。
また、最後の錬金術としての過程もある。
しばらく無心に乳鉢ですりつぶしていくと。腕が痛くなってきた。これは、想像していた以上の、重労働だ。
時々休憩を入れながら、乳鉢のフェストをすりつぶしていく。
肩が凝るかも知れない。
気がつくと、夕方を廻っていた。今日は一日中、研磨剤をごりごりしているだけで終わってしまった。
悲しいが、これも仕事だ。
一旦手を止めて、夕食を作る。
アストリッドは、夕食を作り始めると。どこから戻ったのか、ふらっと帰ってきた。妙な違和感がある。何処かで嗅いだ臭い。
分からない。
今は追求しても、仕方が無い事だ。
「ロロナ、夕食は出来ているか」
「今作っています」
「そうかそうか」
アストリッドは、手洗いに直行すると。貯めておいた井戸水を遠慮無く使って、手をばしゃばしゃとやり始めた。
何か汚いものでも、触ったかのようだ。
昨日丸一日帰ってこなかったし、一体何をしていたのだろう。だが、師匠に話を聞いても、応えてくれないのが普通だ。今では、聞こうという意欲さえ失せていた。
二人でテーブルを囲んで、夕食にする。
ちらりと研磨剤の方を見るアストリッド。
「どうだ、間に合いそうか」
「ぎりぎりですけど、どうにかなりそうです」
「そうかそうか、それは良かった」
完全に人ごとだ。
この人だったら、どれだけ控えめに考えても、ロロナの半分以下の時間で、倍以上のクオリティで仕上げられるだろうに。
乳鉢に触りはじめるアストリッド。心なしか、いつもよりも少し作業が荒いように見える。
もっとも、アストリッドが作業を失敗する所など、ロロナは見たことが無い。ひっくり返したりはしないだろうと、最初から考えていた。
「まだ少し潰したりていないな」
「はい。 夕食が終わったら、もう少し擦ってみます」
「そうしておけ」
ふと、気付く。
珍しく、アストリッドは疲れている様子だ。
アストリッドはロロナを虐めたりからかったりする事を生き甲斐にしている様子なのに、今日はほとんど絡んでこない。それどころか、話す言葉も極めて短いし、必要な所だけで切り上げてもいる。
この間、とても怖い騎士の人と相対したとき、この人に守られていることを思い知らされた。
ひょっとして、万が一。
或いは、アストリッドは、ロロナを守るために、何かしてくれたのかも知れない。
いや、それは流石に考えすぎか。
いつもソファとかベットとかでごろごろ喰っちゃ寝ばかりしているのだ。仮にそうだったとしても、きっと気まぐれだろう。
ロロナは小さくあくびをすると、寝る前に、今の作業だけは仕上げてしまおうと思った。
それからは、毎日がかなり過酷な作業となった。ルーチンワークはこなし続ければ苦労が減ると聞いていたのに。実際にやってみると、とても大変だ。
いずれの作業も一通りこなせたことで、全てやってみるという選択肢が出てきたからである。
そして、期日が近い事を考えると。あまりもたついてはいられない。
毎日、家事を済ませると、すぐに作業に取りかかる。
まず一番最初にはじめたのは、失敗して苦労もした炭だ。アストリッドに言われたように、並行作業をしないのだったら、まず一番問題が生じそうな炭からやっていくのが一番のはず。
薪の量は、足りている。
炉で炭を蒸し焼きにしながら、ロロナは何かあった時のために、何遍も何遍も参考書を読み返した。
時々クーデリアが遊びに来たが。
あまり構って上げる事は出来なかった。ロロナが本気で錬金術に取り組みはじめている事に、クーデリアも気付いてくれたのか。時々差し入れだけ持ってきて、後はすぐに引き上げていった。
家事も、かなり厳しくなってきた。
時々、サンライズ食堂に足を運んでは、出来合いのものを買って帰る。悔しいのだけれど、自炊では時間が足りなくなりつつあるのだ。
師匠は料理に手抜きをすると、凄く怒る。
だから、場合によっては。自炊で済ませなければならない。
ただ、師匠に言われて、家計簿はつけている。
生活費が少しずつ、高くなっているのが、自分でも分かった。こういうときは、所詮居候の身であることがつらい。
ただし、ロロナには、両親の元に戻るという選択肢も、かってはあった。
両親がアストリッドを全面的に信頼している状況では、それももはや過去の話に過ぎないが。
幸い、アストリッドは裕福で、生活資金に困っている様子は無い。
以前クーデリアに聞いてみたが、知らないとはぐらかされた。きっとクーデリアは、アストリッドがどれくらいお金を持っているのかは、知っているのだろう。
一週間が過ぎた頃。
既に、残りの日数は、半分を切っていた。
ただ、悪いことばかりではない。
どうにか、炭だけは仕上がったのだ。此処からは、難易度が低いゼッテルと、難易度は低いけれどとにかく疲れる研磨剤を作っていく事になる。
炭を、全てアストリッドに見てもらう。
一瞥しただけで、アストリッドは言う。
「魔力量が少ないな。 これだと、せいぜい使えて隣の親父の炉で、金属を暖めるくらいだな。 二流品だ」
「そんなあ……」
「まあ、売り物にはなるだろう。 市販の炭よりは、まだましなできばえである事は、保証してやる」
そう言われると、沈んでいた気持ちも、少しは浮き上がる。アストリッドはそれだけ言うと、また眠ってしまった。そして、いつの間にか、外に出かけていた。いつ出たのか、全く分からなかった。
気持ちを切り替えて、ゼッテルの作成に移る。
今度は釜を使って、膨大なマジックグラスを煮込んでいかなければならない。火力を間違えると駄目だし、中和剤も相応の量が必要になる。
湯気も凄く出るので、窓を適度に開けておかないと、アトリエの天井がしけってしまう。
問題は雨が降っているとき。
そういうときは、時間が掛かる研磨剤の作業にシフトして、ロロナは黙々と、必要量へ向けて、努力を続けるのだった。
クーデリアは、ずっと不機嫌だった。ロロナに会って少しは気分を変えようと思ったのだけれど。アトリエに向かって歩いていると、アストリッドと正面から出くわした。
にらんでやるが、鼻で笑われる。
クーデリアには分かっていた。
あの遺跡で、黒ぷにを捕縛して、けしかけたのがアストリッドだという事は。勿論ロロナを鍛えるためである。
熊じゃああるまいし、基本ぷにぷには其処まで獲物に固執しない。兎だろうが黒だろうが、噂に聞くクアドラだろうが、同じ事だ。
「どうした、くーちゃん。 怪我は治ったのか?」
「おあいにく様、あの程度で死ぬほどヤワじゃないわ」
「何だもったいない。 ベットで看護されるのは、悪い気分じゃないぞ。 私はそんなへまはしないがな」
分かっていて言っているアストリッドに、クーデリアは心の内が燃え上がるのを感じていた。
看護なんて、されるわけが無い。
怪我だって、全部自分で直したのだ。
戻ったクーデリアを見た父が、最初に何を言ったか。兄弟達がくすくす笑う中、父はこう吐き捨てたのだ。
「あまり私に恥を掻かせるなよ。 たかが黒ぷに如きに、手傷を負わされるなど。 我が子とは思えぬ情けなさだ」
それから、丸一日以上。
徹底的に、エージェント達と組み手をさせられた。いずれもクーデリアより遙かに強い戦士ばかり。
何度も気を失って、その度に水をぶっかけられて、叩き起こされた。
別にそれは恨んでいない。
自分の才能のなさが恨めしい。アストリッドも知る理由で、クーデリアは並のアーランド人以上の瞬発力を手に入れている。それなのに、まだこの程度の力しかない。騎士団の精鋭と渡り合えるくらいにならなければ。
最悪の場合、ロロナを守れないのだ。
だから、クーデリアは、訓練という名のしごきに立ち向かった。
丸二日、殆ど食事もしていなかった事に、気付いたのは。最後の相手と戦い終えた後、粗末な食事を出されてからだった。
それからは、全部自力で何とかした。
自分については、だから恨んでいない。クーデリアが不愉快なのは、非常に危険なモンスターを、ロロナを鍛えるためだけにけしかけさせたこと。あの戦いで、ロロナが死んでいても、おかしくはなかったのだ。
金だけは与えられている。
最近ロロナは、家事をするのも時間が惜しい有様な様子だから、サンライズ食堂で出来合いを買って持って行っている。
だから、少しはましな食べ物を差し入れる。それしか、出来ない。
「時に、くーちゃんに一つ良いことを教えてやろう」
「何よ……」
辺りの通行人が、露骨に避けて通っている。
知っているのだ。アストリッドが、この国でも屈指の使い手であることを。そして彼女が楽しんでいることを。
猛獣は、楽しみを邪魔されると、怒る。
アストリッドを怒らせたいと思う戦士なんて、この国には殆どいない。いたとしても、潜りだけだ。
「おそらくロロナは、今回の課題は突破できるだろう」
「それが、何だってのよ」
今回は、ロロナが課題を突破できるだろう。それは、クーデリアも思っている。
しかしその先は、前途多難だ。
最初の課題からして、三ヶ月を殆どフルに使って、どうにか出来るような有様なのだ。今後難しい課題を出されて、ロロナが本当に突破できるのか。クーデリアには、かなり怪しく思えている。
だから、備えなければならないのだ。
最悪の場合、どうにか手を組めそうなのは、ロロナの両親だけ。
此奴を含めて、街の全てが敵に回るとみて良かった。
「次の課題は、今のままでは落ちる」
息が、とまるかと思った。
此奴はつまり、次の課題の内容を、知っているという事か。知っていれば、或いは、対策が出来るかも知れない。
だが、予想の外から、答えが返ってくる。
「作業内容自体は難しくないのだがなあ。 問題は、錬金術に用いる素材だ」
背筋に寒気が走ったのは、きっと気のせいではない。
理由は、すぐにクーデリアにも分かった。
そうか、それで此奴は。
無茶をしてまで、ロロナに黒ぷにをけしかけたのか。
「くーちゃんは聡明だ。 せいぜい、当日まで、体を鍛えておくんだな。 このままでは、ロロナを守りきるのは不可能だぞ」
唇を噛んで、高笑いして去るアストリッドを見送る。
もはや、休んでいる暇も無い。
どうにかして、ロロナを。それ以上に、自分自身を、徹底的に鍛え上げなければならない。
どうすればいい。
今でも、戦闘訓練に関しては、充分に恵まれた環境にある。
それならば、エージェント達が言うように、実戦経験しかないか。しかし、実戦を積むに、適した場所なんて。
ある。
一つだけ。
頷くと、クーデリアは。ロロナのアトリエに差し入れだけして。一人、城門へと向かったのだった。
ロロナは気付かなかった筈だ。
いや、気付かせてはならない。
城門を出ると、しばらく無心に歩く。近くの森に入ると、その深部へ、迷いなく足を踏み入れた。
この森でも、最深部には、相応のモンスターが放たれている。
アストリッドのあの様子では、おそらく苛烈な戦闘が予想される場所に、次の期の課題に必要な素材があるはず。
何処かは分からない。
まさかシュテル高地ではないだろうが、それ以外にも何カ所か、危なそうな場所には思い当たる。
巡回の戦士に身分証を見せながら、ひたすら森の奥に。
足を止めたのは、数頭の狼に囲まれていることに、気付いたからだ。
肩慣らしに丁度良い。
「今日のあたしは、機嫌が悪いわよ……」
他の兄弟達よりは、少なくとも強くならなければならない。
負ければ死ぬ状況で、徹底的に自分を鍛え抜く。一人の戦いの場合は、一手のミスが容易に致命傷になる。
だから、むしろ都合が良い。
最後に、ロロナのことを考える。
それだけで、勇気もわいた。
クーデリアは身を低くすると、それこそ躍りかかるように、狼の群れに間を詰めた。
何だろう。
クーデリアが差し入れを持ってきたとき。妙に、空気が張り詰めていたような。しかし、ロロナには、どうしてかは分からなかった。
調合も大詰めである。
炭については、早めに納品してしまった。もしもを考えると危険だから、早めに精査してもらったのだ。
どうしてだろう。今回も怖い顔の騎士の人がいた。
或いは、ロロナの受けているこの課題の、担当になっているのかもしれない。相変わらず怖くて、声を聞くだけでびくびくしてしまう。
ただ、騎士の人は。
品質には問題が無いし、必要量には充分達していると言ってくれた。
生真面目そうな人だし、嘘は言いそうに無い。
後は、予定通りに、作業を進めるだけだ。
ゼッテルと研磨剤も、その時できあがった分量を、納品してある。此方についても、後は必要量を作るだけだ。
黙々と、作業を続ける。
徹夜だけはしないように、気をつけなければならない。
効率が却って落ちてしまうと、何度も聞かされていた。
それでも、確実に睡眠時間は減ってきている。
歴代の錬金術師達は、本当にこの量を、一月でこなしていたのだろうか。もしそうだとすると、ロロナは凄いとしか言えない。
勿論並行作業でやっていた、という事はあるのだろうけれど。
それにしても、生半可な事ではなかった。
額の汗を拭うと、釜を掻き回す。
外は小雨になり始めた。
窓を開けて、時々アトリエの天井に籠もった蒸気を逃がす。ゼッテルはどうにか目処がついた。
失敗した分を含めても、このままのペースで作業していけば、間に合う。
時間も、多少の余裕がある筈だ。
疲労が溜まってきた自覚がある。
少しソファに横になると、ぼんやりした。此処からは、かなりの時間、待たなければならない。
むしろ、寝ておくとしたら、今しか好機は無い。
しばらくうとうとして。
気付くと、雨脚が強くなり始めていた。
窓を閉めて、釜を掻き回す。良い感じで、繊維がほぐれたゼッテルが、釜の上の方に集まりはじめていた。
掻き回す速度を変える。
ゆっくり、ゆっくり。言い聞かせながら、手を動かした。
容器にゼッテルを移した後、釜の火を止める。
このゼッテルが完成すれば、後は研磨剤だけだ。外は雨も降っているし、おそらく乾くまで、相当な時間が掛かるだろう。
時々、軽く火で炙る必要があるかも知れない。
疲れが溜まってきているからか、また眠くなってきた。目を擦って、あくび。いつの間にか師匠が戻ってきていて、思わず咳き込んでしまった。
「師匠、いつ戻ったんですか!」
「ついさっきだ。 仕事からな」
「……」
何の仕事だろう。
じっと見つめるが、やはり師匠は応えてなどくれない。
あくびが可愛かったとか言われて、ロロナは怒ったが。笑いながら、師匠は自室に引き上げてしまった。
ゼッテルの状態を見ながらだから、今日は熟睡できない。
ソファに横になると、ロロナはわざと寝苦しくなるように、枕も毛布も使わずに目を閉じた。
元々睡眠に関してデリケートなロロナは、野外以外では、こうするとあまり長くは寝られない。
野外では平気だ。
両親に散々鍛えられたので、むしろよく眠れるくらいである。
時々起き出して、ゼッテルの状態を確認。
外の雨は、いつの間にか止んでいた。
ただし、湿気は多かったので。ゼッテルが仕上がるまで、普段の倍も掛かってしまったが。
安易に天日に干すと、品質が落ちてしまう。
ゆっくり乾燥させていかなければならないゼッテルは、慣れない内は大変だ。或いは、今のロロナには、これくらいで丁度良いのだろう。
錬金術らしい、凄い道具なんて、作れるのはきっとまだ先。今は手順が単純で、行程も難しくない作業を、黙々とこなして、力を付けていくしかない。反復作業を行っていくことで、錬金術そのものに馴染んでいくのだ。
ローラーを取り出すと、ゼッテルをなめしはじめる。
まずは、このゼッテルを、どうにかしよう。
全ては、それからだ。
言い聞かせながら、ゼッテルを仕上げていく。
必要量に達したのは、丁度期限の二週間前。
必要量が完成すると同時に雨が止んだ。
何だか、天気まで、ロロナの作業を邪魔しているかのようだった。
後は、研磨剤。
研磨剤も、既に七割に達している。ただし、此方は非常に手が疲れるので、手元が狂うことを怖れなくてはならない。
万が一が怖いので、ゼッテルは先に納品してしまう。
そして後は、ひたすらに研磨剤を、乳鉢ですりつぶして作り続けた。
指先がマメだらけになったのは、必然の結果だったかも知れない。
杖の振り方や、術の唱え方は、ロロナも両親に聞いて学んでいる。だから、それらの行動で、手にマメが出来るほど柔ではないのだけれど。乳鉢で研磨剤を造るべく、フェストをすりつぶし続けるとなると、話が違ってくる。
力が余計に入ってしまったり、或いは足りなかったり。
乳鉢を握る手が、震えているのが分かる。
手が痛いし、何より集中力が続かなくなってきているのだ。
残り四日。
まだ、納品の必要量には、達していない。今作っている分が終われば、後は少しなのだけれど。
ふらりと、クーデリアがアトリエを訪れる。
ロロナを見て。互いに絶句したようだった。
ロロナは目の下に隈を作っている。ここ数日、作業がずっと研磨剤の作成ばかりになっていたからだ。
というよりも、トラブルも多かった。
フェストを割ってみたら、中に虫さんの卵がびっしり入っていたり。それは元に戻して、庭の地面にうめておいた。素材としてはもう使いものにならないし、何より虫さん達には何の罪もないからだ。同じような環境にしておけば、きっと卵からふ化できるだろう。
他のフェストは、中身が完全にしけってしまっていたものもあった。
これは一旦火で炙って乾燥させないと、そもそも乳鉢ですりつぶす段階に行けず、余計に手間が掛かってしまった。
そんなこんなで、手間暇が大変に掛かって。
目の下に隈ができるほど、ロロナは疲弊してしまったのだった。
納品まで、最低でも予備日は一週間確保したかったのだけれど。途中で丸一日、アストリッドに休めと言われた日もあったので、此処まで時間が押してしまった。
クーデリアはというと、体に傷が増えている。
ちっちゃくて可愛いクーデリアの手や頬には、無数の細かい傷がついていた。クーデリアはロロナにばれていないと思っているようだけれど、服の下にも痣や大きな傷が出来ている様子だ。
「くーちゃん! 何処行ってたの!?」
「ちょっとね。 本気で修行してきたの。 そういうあんたこそ、何よその有様。 ちゃんと寝てるの?」
「う、うん……」
期日まで、残りは殆ど無い。
それはクーデリアも知っている事だ。だから、今から休めとは、流石にクーデリアも口にはしなかった。
差し入れをしてくれたので、それだけは有り難くもらう。
一旦手を休めて、食事にしたが。
クーデリアは、ロロナの窮状を、全て見抜いている様子だった。
「お風呂には行った?」
「昨日は行けてない……」
「なら、食べた後すぐに行くわよ。 見たところ、残りちょっとで、まだ数日はあるんでしょう? お風呂に入って、効率を少しでも上げた方が良いわ」
「そう、だね……」
そう言う考え方が、思いつかなくなってきていた。
クーデリアの存在は、やはりロロナにとっては有り難い。
この近辺では、お風呂は銭湯に行く。湯船に浸かるタイプのお風呂と、サウナ形式のものがある。
ちなみに後者は、奴隷として連れてこられた人達が持ち込んだ文化だ。アーランド人をはじめとする辺境の民は、最初水で体を洗っていたのだけれど。錬金術師が文明を持ち込んでからは、お湯に変わった。
今では工場の廃熱を使って、地下水をお湯に変えて、銭湯に供給しているので。お風呂そのものは、大変格安で済ますことが出来る。また、この廃熱で温めたお湯で作ったゆで卵は、アーランドのどの食堂にもある定番メニューだ。
基本、二日か三日に一度はお風呂に入るのが、この辺りの文化だけれど。
昔は一月に一回が普通だったというので、衛生観念も全く違っていたというのが、事実だろう。
食事をさっさと済ませる。
こんな時、パイを作る事を禁止されてしまったのがとても痛い。
お風呂に入る前に、クーデリアに振る舞いたかったのだけれど、それも出来なくなってしまった。
師匠は今、寝室で眠っている。
多分お風呂から戻るくらいまでは、ずっと眠ったままだろう。
一度クーデリアはおうちに戻って、お風呂の道具類を持ってきた。銭湯で合流。おうちにお風呂があるクーデリアなのだけれど。
裸のつきあいという奴で、ロロナとは昔から、一緒のお風呂に入ることがよくあった。
ちなみに昔は混浴が普通であったらしいのだけれど。
今では、そもそも男女では、違う店を利用する。
さっさと服を脱いで、お風呂に入る。今日はゆっくり疲れを取るべきだとクーデリアがいった事もあって、湯船を採用した。
溶けるように気持ちいい。
隣にいるクーデリアは、何も言わなかった。
ロロナも、クーデリアの体が傷だらけである事については触れない。クーデリアは、いつもは明るくてちょっとお間抜けな貴族のお嬢様という雰囲気だけれど。それがある程度、作ったものだという事は、ロロナも気付いている。
何か、隠しているのだろうとも思っている。
だけれども、クーデリアはロロナの大事な親友。かけがえのない存在だ。だから、自分から話してくれるまで、待っていようとも思っていた。
その後、背中を洗いあって、ながしっこする。
もう一度湯船に入ると、生き返るようだった。疲れもかなり取れた。手のマメがちょっとしみるけれど。それ以上に、疲れが取れたのが大きい。
「後はあたしも手伝うから、一気に片付けるわよ。 今日は徹夜ね。 終わったら、ゆっくり休みなさい」
「ふあい……」
溶けているので、声まで締まりがなくなっている。
それにしても。周囲は背が高い女性が多い。みんなスタイルもいい。羨ましいなあと、ぼんやりロロナは思ったけれど。ロロナ以上に体型が貧弱で、なおかつそれを気にしているクーデリアの前で、口には出せなかった。
年か。
ぼんやりと、体をふきながら思う。
今は、ロロナがクーデリアより一歳年上だ。とはいっても、さほど誕生日は離れていないから、じきに年は追いつかれる。
いずれ、年を取りたくない時期も来る。
それは、あまり遠くないときなのかも知れない。そうなったら、クーデリアとの些細な年齢差なんて、どうでも良くなるだろう。
銭湯から出て、ぽかぽかしたままアトリエに戻る。
此処で眠気に負けるようでは駄目だ。
アトリエに戻ると、クーデリアと並んで、冷たい井戸水を一気に呷って目を覚ます。そして、作業に取りかかった。
ラストスパートだ。
クーデリアが手伝ってくれるというので、雑務だけやってもらう。見ていると、非常に手際が良くて、てきぱきと終わらせてしまうので、凄いと思った。ロロナだったら、二倍は時間が掛かる。
フェストを砕いて、研磨剤を作っていく。
微細に砕いた後、中和剤を霧状にして振りかけて、そしてまた混ぜる。こうすることによって、研磨剤で磨いた物質に、魔力を移し替えることが出来るのだ。錬金術で作った研磨剤が、工場産では真似できない特色を幾つか備えることが出来、故に少し値段も上がる。
この国には、魔術師もたくさんいるけれど。
故に、だからこそ。
魔術の籠もった道具と相性が良い錬金術は、もてはやされる。このアトリエの価値を、見せていかなければならない。
できた研磨剤を瓶詰めして、ラベルを貼る。
蜂蜜入りのミルクをクーデリアが作ってくれたので、一気に飲み干す。時々、クーデリアに話を振った。クーデリアは眠気を防ぐためだと分かっているのだろう。いちいち、応えてくれた。
体力がロロナよりあるのだし、当然かも知れないが。
しかし、もうかなり夜も遅い。眠くても、おかしくはないのに。ロロナのために頑張ってくれて、嬉しい。
「黒ぷに、手強かったね」
「あんなのが、オルトガ遺跡の中にはわんさかいるのよ。 いずれ足を運ぶ時には、蹴散らせるくらいじゃないと、話にならないわ」
「騎士団の人達くらいじゃないと駄目かなあ」
「騎士団の中でも、強い奴は桁違いよ。 貴方が怖がってた男、あれもその一人」
あれ。
確かに、クーデリアにそう言う話はしたけれど。いつのまに、其処まで調べたのだろう。頭がよく働かない。
クーデリアは賢いし、人脈も持っている筈。
それを使って、調べたのかも知れない。
咳払い。
師匠が、カンテラを持って、後ろに立っていた。
「徹夜は止せと言っただろう。 ……もう、終わるところか」
「はい、これが終われば、最後です」
「そうか。 くーちゃんも今日は泊まっていけ。 これから帰るのは酷だろう」
いつもだったら、くーちゃんと言うなと反発するクーデリアは、何も言わなかった。言い返すだけの力が、もう残っていなかったのかも知れない。
最後の力を込めて、作業を行う。
乳鉢を炙るのは、中和剤の水分を飛ばすためだ。
こうすることで、ぐっと研磨剤をすりつぶしやすくなる。
何度かため息をつくと、手を止めた。
ルーペを使って、材質を見る。均一にすりつぶされたフェストは、充分に研磨剤として役立つはずだ。
瓶に収めて、ラベルを貼る。
完成だ。これで、やっと、最初の課題が終わった。
ベットまで歩く余力が無い。クーデリアが隣で支えてくれたのが分かった。気がつくと、もうベットで寝ていた。
クーデリアは、貴族のお嬢様なのに。
床で転がって、其処で毛布を被っていた。
既に、朝日が部屋に差し込んでいる。
ロロナはクーデリアに礼を言いながら、起きないように慎重に、ベットに移すと。自分は、瓶を詰めた荷車を引いて、城に向かったのだった。
4、はじめての成果
アーランド王城地下。
プロジェクトMの進展を確認する会議が行われる。今回は関係者全員が参加していた。無論その中には、イクセルやティファナの姿もある。鍛冶屋の親父であるハゲルも、その巨躯で席の一つを埋めていた。
クーデリアはむっつりと黙り込んでいた。
目の前では、提出品の品質についてのレビューが行われている。
「現時点では、工場での生産品よりはましという程度の品質に過ぎませんが、特筆すべき点が一つございます」
眼鏡を直しながら、報告しているのは大臣であるメリオダス。
表向き、この大臣がアトリエを潰す計画を立ち上げたと言うことになっているのだが。実情はこの通りだ。
文官の地位が低いアーランドで、此処までの地位を築き上げた男だ。王との関係は、実のところ極めて親密。
今回の計画でも、喜んで汚れ役を買って出たと、クーデリアは噂で聞いていた。
「どの品も、込められている魔力が、極めて強力であると、監査を行った魔術師達が、口を揃えています」
「ふむ、アストリッド。 君の意見を聞かせて貰えるかな」
「はい。 この魔力は、ロロナの生体魔力を反映しています。 私は実のところ、生来魔力があまり強くありません。 当人は気付いていませんが、魔力に関してだけなら、既にロロナの方が上です」
これは驚いた。
クーデリアも知らなかったことだ。
アストリッドは天才的な実力者であるが、生体魔力だけはさほど強くなかったのか。魔術に関しても天才的な実力を持つと聞いていたが、それは制御能力でカバーしている、という事なのだろう。
「八年間の仕込みの成果であるな」
「御意」
アストリッドが短く答えている。
これに関しては、事情を知っているクーデリアは、恨むほかない。クーデリアにも、無関係のことではないからだ。
「ならば、今回の課題は突破として良いであろうな。 次に掛かれ」
「分かりました。 予定通りに、課題を進めるとします。 次の課題は、国有鉱山で用いる、発破類の作成となります」
発破。
爆弾のことだ。錬金術とは関係が深い。
確か、爆弾の原料となる火薬そのものが、錬金術によって発明されたとか、クーデリアは聞いている。
この発破類も、現在は工場で大量生産されているそうだが。
しかしやはり品質面で問題があるそうで、労働者達にも不評であるらしい。
「発破に関してはさほど難しくもないのですが、素材そのものが予定通り、現在では廃鉱山でしか採れません。 確保には、廃鉱山に潜る必要があります」
なるほど、そう言うことだったか。
廃鉱山は今、悪魔と呼ばれる謎の生命体に満ちており、大型の肉食モンスターが群れを成して住み着いているとも聞いている。
現時点では、ロロナに手を貸すことが許されている人材はさほど多くない。
確かにこのままでは、アストリッドが言うとおり、次の課題は突破できないだろう。
ハゲルが挙手する。
「多少の素材については、此方で販売しても良いですか?」
「多少であれば、良いだろう。 調合について練習させる必要もある」
「分かりました。 調達については、此方でどうにかします」
「私も手を貸して良いでしょうか」
意外な人物が、手を上げた。
ステルク。
この国でも上位に食い込む使い手の一人。今回は、ロロナに対して、仕事を直接渡したり、受け取ったりする役割を果たしている。
勿論周囲は難色を示していたが。王は、鼻を鳴らした。
「ステルクよ。 情に流されるようでは駄目だ。 そのままでは、プロジェクトMが破綻するが、どうするつもりか」
「それであれば、リミッターを自らに掛けようと思っています。 手段は、既にアストリッドが用意してくれました」
腕輪を、ステルクが取り出す。
淡い魔力の輝きを帯びていて、見るからに禍々しかった。
かなり腕力も速度も落とすものだと、ステルクが説明する。今回は鉱山にいるモンスターの実力を考えて、最大限までリミッターを掛けるのだとも。
「ふむ、生真面目なお前の事だ。 まさか、途中でリミッターを解除する、などと言うことはしないだろう」
「御意」
「よし、プロジェクトMの意義を忘れるな。 目的は、課題を達成させる事ではないのだと、肝に銘じておけ」
王が立ち上がったので、全員がそれにならう。
アーランドの栄光を皆で唱和すると、その場で解散になった。
クーデリアについては、叱責されることもなかった。とるにも足らないことだと、判断されているのだろう。
鉱山にいるモンスターは、近くの森などにいる者とは比較にならない。
今回潜るのがどの辺りまでかは分からないが。それでも、しっかり鍛えておかなければ、生還は難しいだろう。
場合によっては、王は容赦なくロロナを処分する。
あまり長い時間、もたついてはいられないからだ。並行で、サブプロジェクトを進めているという噂もある。
生き延びるためには。
クーデリアが強くなることだ。
城を出ると、まっすぐアトリエに向かう。
ロロナの顔を見ておきたい。
その後は。
自宅に戻って。極限まで、己を鍛え上げる。
明日、生き延びるために。
(続)
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