影は回る
序、業
これはまた面倒なのが来たな。
そう依頼内容を見たとき、私は思った。
今回は珍しく黒田経由からの依頼である。元々小学生で自作のPCを、しかもLinuxで組んでいるような黒田だ。
周辺の人間関係も変わっていて。
クラスでも、いつも無口でいる事が多い。
秘密基地ではボクっ子という面白いキャラを表に出しているが。
クラスではむしろ大人しい子、という印象を受けている生徒も多いことだろう。もっとも、それは如何に上っ面の交友関係をしているか、ということに過ぎず。結局の所、人間は他人を表面でしか見ていないことの証明なのだろうが。
で、だ。
公園で待っていると、そいつが来た。
少し前に都会から越してきたらしいのだが。
完全に男性の格好。
Tシャツにジーパン。スポーツシューズ。化粧などまったく縁のない雰囲気。
髪の毛までベリーショートにしている筋金入り。
何処かで草野球か何かしていそうな格好である。
そう、此奴は女子だ。
それも、背丈はかなり低いが、腰のくびれも胸も、どうあっても性別を主張している。黒田には話を聞いているが。
この中学三年生の石山妃愛乃は。
いわゆる性別が脳内で逆転しているタイプである。
目つきも鋭いが。
それはそうだろう。
都会でさえ色々とこういう子は生活が面倒なのだ。
どこの国でもそうだが。
「違う」という事はそも認められない。
「異常」と認識されるケースが非常に多く。
そして苦難を進む。
私だってそうだったのだ。
苦しみは嫌と言うほど分かる。
古くは、「左利き」ですら、その迫害の対象になった。無理矢理矯正させられて、性格が歪むケースがあった。
今では利き手が迫害の対象になるケースはないが。
こういったジェンダー的なものや。
性癖などは。
まだまだ当面。
迫害の対象になるだろう。
「あんたがシロか」
「ああ。 石山さんだな」
「そうだ。 学校だとどうしてもヒラヒラのスカート履かないといけないからな。 外だとこうやって、いつもの自分でいられるのが嬉しい」
「そうか」
依頼主と並んでベンチに座る。
私は三十分もつ飴を咥えると。
用件について訪ねる。
「私については黒田から聞いたと言うことだが」
「ああ。 彼奴は昔から、SNSで友達をしていたんだよ。 俺がこっちに来る時に、丁度住んでいるって話を聞いてな。 それで会いに来て、色々話しているうちに、あんたの話が出た」
「そうか」
やはりこれは結構ヘビィな依頼だな。
私はそう思ったが。
そのまま続けさせる。
「依頼内容について聞かせてくれ」
「うちの爺を黙らせて欲しい」
「ほう」
「俺の事をどうしても理解出来ないようで、毎度スカートを履けだの化粧しろだの五月蠅くてかなわねーんだよ」
なるほど。
それは大変だろう。
ちなみに此奴の家については事前に調べてあるが、コネの外にある。コネを伝っていけば到達は出来るが。
かなり遠回りになる。
「俺の事はもう分かってるんだろう」
「ああ。 だがどれくらい「男」なのかは聞いていない。 確認したいが、良いだろうか」
「よく分からないが、順番に話してくれるか」
「まず、ファッションなどに関しては男であることは分かった。 性的嗜好は?」
まさか小学生にそんな質問をされるとは思わなかったのだろう。
おもわず真顔になった石山は。
しばし黙り込んだ後。
言う。
「実は、ちょっと分からない。 女子が好き、といわれるとそうでもないし。 実際、水泳の授業とかで、クラスメイトにときめいたことは無い」
「では男子は?」
「それもなあ。 単に俺が恋をした事がないのかもしれない」
ふむ。
なるほど。
実際問題、脳内の性別が反転しているケースでも、それにはかなり段階がある。
性的嗜好からして反転しているケースから。
ファッションなどが反転しているケースもある。
それらを確認するために。
全てを細かく聞いていく。
「体に違和感は」
「それはある。 胸とか邪魔にしか感じない」
「なるほど」
順番に確認していくが。
大体分かってきた。
性的嗜好については、ほぼこの人はノーマルだ。恐らく性的嗜好の相手は男性だと見て良いだろう。
というのも、性的嗜好が女性の場合。
自分の体に対して、色々と面倒くさいコンプレックスを抱く要素が多い。
勿論違うケースもあるが。
それにしても、幾つかの質問をしていて、はっきり分かった。
この人は女性の体に性的欲求を覚えない。
一方で、身繕いなんかに関しては、女性的な要素は殆ど見当たらない。
多分最低限の、外に出るために必要な化粧でさえ煩わしく感じるはずだ。この人くらいの年になってくると、ませた子だと普通に化粧くらいは勉強を始めて、別人のように化けるケースもあるのだが。
いずれにしても、この人は。
そのケースには当たらない様子だ。
確認を終える。
色々と面倒なケースだなと、私は頭を掻く。
勿論完璧にでは無いが。
この人の人となりは、ある程度知る事が出来た。
ジェンダー論的に言えば。
女性でありながら、男性的な要素が強く。
かといって完全に男性でもなく、女性的な要素もある。
この人は身繕いなどは男性的だし。
思考回路も男性的だが。
かといって性的嗜好は若干こじれているとは言え女性的だ。
そしてこれらは。
レアケースではあるが。
恥ずかしい事でも何でも無い。
世の中では、未だに周囲と違う事は「おかしい」「治さなければいけない」「迫害されるのは当然」「迫害されても自己責任」と考えるものがいる。
これらの思考回路をもつ者の中には。
「社会的常識がある」とうそぶくものも珍しくない。
ジェンダー論がようやく叫ばれるようになった今でも。
社会の上層は、こういった多様性をまったく理解出来ない阿呆が多数のさばっているのが現状だし。
都会ですらもそう。
田舎に至っては。
この人が依頼に来たように。
手に負えない輩が大勢いる。
それに関しては、全くの事実だ。
人間の脳は石器時代から何の進歩もしていない。技術ばかりが奇形的に進歩してきている。
それは洋の東西を問わない。
西洋でも魔女狩りをしていた時代と、今であまり変わりは無い。
人種差別は未だに横行しているし。
スクールカーストという悪しき階級制度はたびたびの銃撃事件を引き起こし。
難民を奴隷扱いした結果、大混乱を引き起こし。
建前だけのまともな労働時間を実現した会社なんてごくごく一部。
それ以外はみんな日本同様、ブラック労働に喘いでいる。
対立がなくなれば新しい対立を作り出し。
差別する相手がいなくなれば、また作る。
そういう生物だ。
だからこそに、人間という生物には。
新しい支配者が必要なのだろう。
ただ、それは恐らく私では無い。
私は既存の人間の域を超えていない。
多分、このまま努力を続ければ、大人になった頃にはIQ200前後程度にまでは落ち着くだろうが。
その程度のIQをもった人間。
地球上に幾らでもいる。
私は自分の手が届く範囲内を支配しようとは思っているが。
流石に世界全土を支配できるとは思っていないし。
その全てを変えられるとも思っていない。
質問を終えると。
石山は嘆息した。
「論理的に喋ってくれるし、俺の事を変な目で見ないのは助かるよ。 家じゃ居心地が悪くて仕方がねえんだ」
「私の場合はちょっとばかり知能指数が高すぎてね。 それが母親による直接的な虐待につながった」
「!」
「精神病院に叩き込んでやったけれど、アレは今でも自分が正しい、キモイ奴を矯正してやったのに感謝されないのはおかしいとか喚いているそうだ。 奴を葬った事をまったく後悔はしていない。 だからというのも少し変だが、あんたの気持ちは多少分かるつもりだ」
凄まじい私の環境。故に歪んだ私の心。徹底的に傷つけられ、そして結果猛獣となった私。
それを知って黙り込んだ石山に対して。
咳払いを一つ。
このまま黙り込んでいても仕方が無い。
いずれにしてもアドレスを交換。
順番に作業をしていくしか無い。
「まず段階を追って偏見を取り去っていくしかない」
「具体的にどうするんだ」
「まず話を聞く限り、一番きつく当たっているのは祖父のようだな。 私の人脈から、その人物と直接接触する。 その後、色々と話を聞いて、出来るようなら周囲の現実を変える」
「現実を、変える?」
ぴんと来ないようなので。
説明をする。
まず、人間の主観というのは。
言葉では変わらない。
勿論気の持ちようだので変わるはずがない。
それについては、石山も頷いた。
自分自身のことだ。
「周囲とずれている」事は、はっきり把握しているだろう。
それは変えられるものではない。
頭が悪い「自称常識人」は、「気の持ちよう(苦笑)」だの「努力(失笑)」だので、「ずれている」事を治せるとか考えているケースがあるが。
そもそも価値観が他と違うことを。
どうして治さなければならないのか。
自分たちは絶対正義で。
周囲はそれに合わせなければならない。
マジョリティは絶対正義で、マイノリティは悪。
そういった傲慢な思考が。
今、社会から大量のドロップアウトする人間を作り出している。
それが理解出来ない人間は。
全て老害との烙印を押されても仕方が無いだろう。
そしてこの場合。
間違っているのは、「ずれている」人間では無い。
「ずれている」事を悪と認定し。
周囲に合わせることは当然だと考えている。
「自分を正義だと思っている」歪んだ「常識」という主観である。
その主観を曲げるためには。
説教だの説得だのでは無駄だ。
ましてや老人にまで年を重ねた人間である。
主観なんか簡単に変えられるわけがない。
そういう場合には。
現実を変えて。
自分たちの「常識」がおかしい事を、理解させなければならない。
現在は「常識」こそが狂ってしまっているが。
それを理解出来ない限り。
石山のような人間は。
永久に迫害され続けるだろう。
だから、まずは。
その主観から、現実を変えることによって。
変革しなければならないのだ。
「凄いな。 それで、具体的にどうすればいいんだ」
「仕事は私がやる。 定期連絡を入れるから、それに合わせて行動してくれればそれで構わない」
「そ、そうか」
「何か」
頼もしいなと、苦笑いする石山。
何だか、始めて険しい表情が和らいだ気がした。
石山は私を見るまでも。
見てからも。
ずっと口を引き結んで。
相手を射殺すような目つきだった。
それはそうだろう。
「お前の人格は間違っている」
「矯正しなければならない」
そうずっと、周囲から言われ続けてきたのだ。
それは人格の全否定。
周囲と違っている事は悪だから。
治さなければならない。
悪は痛めつけても良い。
世の中には、なんと「虐めは動物もやるから正しい行為だ」等という理屈を振りかざす、脳みそが空っぽの輩もいるが。
私が権力を握った暁には。
そいつらは全員裸でジャングルに放り込む予定である。勿論武器も持たせない。
其処で思い知ると良いだろう。
動物が弱肉強食しているのだから。
人間もするべきだ、という理屈の意味を。
自分は高みから見物しておいて、好き勝手な理屈をほざくことは許されない。
弱肉強食が、と口にするなら。
弱者を救うための医療も。
教育も。
身を守るための武器も。
全て無い場所に行き。
其処で生き残って見せろ、というのが私の素直な言葉である。
いずれにしても。
石山に非はない。
非があるのは周囲だ。
それならば、私は。
協力する用意がある。
「今日は戻れ。 私は帰り次第、作業を開始する」
「……最初は半信半疑だったが、正直今はあんたに頼んで正解だったように思えてきているよ。 子供とは思えねーわ」
「そうか。 そう言ってくれると嬉しいな」
「頼む。 俺ではどうにもできないんだ。 依頼達成率100%だって話も、ちょっと話しただけで本当に思えてきた。 頼むぞ」
頭を下げられる。
私は頷くと。
帰路に。
さて、まずはコネの構築。
そして、迫害をしている人間への接触からだ。
1、ジェンダーの壁
人権。
古くから概念だけは存在し。
実際には存在などしていないもの。
ある意味法と似通っている。
現在でも、社会では奴隷を求めている。
つまり人権など無く、際限なく労働し、都合良く壊れる労働力のことである。事実ブラック企業は、これを堂々と行っているし。
そして何もこれは。
この国だけの話では無い。
西欧では、どの企業もまともで。
労働時間は守られている、等という妄想を一部の知識層がまき散らしていた時代があったが。
そんなものは大嘘だ。
実際には、今はどこの国でも。
異常な労働がどんどん常態化しつつある。
景気が良い中共やインドでさえ。
過労死が社会問題として大きくなり始めており。
そのほかの国に至っては。
単にもみ消されているだけの状態だ。
良く日本に来た労働者が、この国の労働実態がおかしいと口にするケースがあるが。
その労働者は、そもそも多数の言語を操り。
よその国に来るほどの、エリートだと言う事を忘れてはならない。
つまりエリートがおかしな労働をしている、というのを彼らは問題視しているのであって。
彼らの国でも。
底辺労働者は大して変わらない悲惨な状況にいる。
人権なんてものは。
とにかく社会上層からして見れば、奪いたくて仕方が無いものだし。
社会下層にとっても。
他人からむしりとりたいものなのだ。
結局の所、人間は。
法を未だに使いこなせていない。
法治国家などと呼べる存在は、地球の何処を見渡しても存在しないように。
結局人権も。
今の時点で。
どこの国にも存在し得ないのだ。
理由としては、法治では無く。
人治が結局の所国を動かしているのが要因だろう。
私も最終的には、私個人にて支配を行うつもりだが。
それはそうしなければ、社会は動かせないからである。
そして人権の問題の中には。
マジョリティとマイノリティの対立。
そしてジェンダー。すなわち精神的な性別というものは。
この権利関連では。
非常に問題になりやすい。
実際問題、今私が解決に動いている石山の周囲だって。
周囲に比べて、目立った「悪党」ではない。
つまり、「差別」や「偏見」は常態化しているものだ。
人間という生物は、基本的に自分より下の存在を作りたがるものであって。なんだかんだ理由を付けて、他の人間を見下して楽しむ。
場合によっては、虐殺の理由にさえする。
石山がいるのはそういういばらの野。
私は、自力でそのいばらの野を脱出し。
実力で、「常識人」を気取り迫害を正当化していたあのクズを叩き落として、生きるための場所を確保した。
石山にはそれが出来る実力が無い。
自分を隠す能力も無い。
だが、それは恥ずべき事か。
弱ければ死ね、などと口にする人間は。
病院にも行かず。警察にも頼らず生きてみろ。
弱い存在を守る事が出来たから。リソースを確保し。人間という生物は発展することが出来たのであって。
石山のようなマイノリティに所属する人間も、きちんと周囲と対等になり。
「ずれていることは悪」などと口にするカスが「常識人」を気取らなくなってから。ようやく人間は進歩できるとも言えるだろう。
メールを彼方此方に送っていると。
黒田が来る。
学校での黒田と。
秘密基地での黒田は。
随分と雰囲気が違うが。
私と話している、という事だけで。
周囲は黒田に対して、一線を引いて対応しているのが分かる。
まあ今に始まった事じゃ無い。
私は畏怖されているので。
それで充分だ。
実際問題、私がホンモノの暴力を振るう所を目にした奴は、皆恐怖にすくみ上がっているし。
私の前で悪さをしたら。
その場で死ぬと思ってもいるようだ。
なおこの学校にも裏サイトがあるが。
その内容も私は把握している。
だから影で誰が何を言っているかも。
全部知っている。
そういうものだ。
「どう、石山さん」
「周囲の頭がカチコチで面倒だな。 まずはこの爺からどうにかしなければならないだろうが」
「おじいちゃんキラーのシロでも難しいの?」
「そういうな」
おじいちゃんキラーか。
黒田は私の事をそう呼ぶが。
老人ほど扱いが面倒くさい相手もそうはいない。
凝り固まった頭に。
自分は正しいと考えている思考回路。
この辺りは他の人間と同じだが。
老人の場合は、更にそれが年老いることで面倒かつ強固になっている。それが厄介なのである。
実際問題。
若者の主観を、変えるだけでも大変なのだ。
老人の主観を変えるとなると。
その苦労は想像を絶する。
アニメなんかで、説教だの説得だのであっさり相手がなびいたりするが。
アレを見ていると、二次元に引っ越したくなる。
実際問題、あんな風に頭ごなしに言葉をぶつけて、相手が意識からして変わったりする事はあり得ない。
現実を変えて。
初めて相手は認識を変えるのだ。
それは何度も仕事をしてきて。
嫌と言うほど私も理解している。
「さて、突破口は大体見つけた。 まずは接触を取らなければならないな」
「コネが広いと色々便利だね」
「その代わり処理しなければならない案件も大変だ。 今も並行で24ほど処理している」
「へえ」
マルチタスクで作業をする事が多い黒田も。
流石にそれには驚くのだろう。
ただ、あまり感情の起伏を、黒田は見せない。
秘密基地ではもうちょっと感情豊かに振る舞ってはくれるのだが。
ここ数日は、私も秘密基地に行けていない。
「何か変わったことがあったらすぐに連絡してくれ」
「分かっているよ」
「ん」
手を振ると、立ち上がる。
今日の授業は終わっている。
帰り道、ある老人に会うアポを取った。
今問題になっている石山の祖父の友人である。
石山の一家は、元々かなりの偏屈で。そもそも石山の父が都会に出たのも、その祖父との対立が原因らしい。
しかしながら都会での生活で失敗。
更には離婚。
娘だけ連れて戻ってきた、という事が色々な伝手から分かった。
これだけでも色々と問題なのだが。
そもそもその娘が。
ジェンダー的に、頭が古い人間からは理解出来ないタイプだったことも、火に油を注いだ。
勿論都会でも色々と石山は苦労していたようだが。
此方に戻ってきてからは。
もう耐えられない、という状況らしく。
相当にストレスをため込んでいるようだ。
一方で石山の祖父は、こんな風に娘がなったのは教育が悪いとか。石山の父に連日どなりちらし。
石山に対しても、女らしくしろとか、毎日頭ごなしの説教をしているらしい。
石山はぐっと黙って聞いているが。
それは家を追い出されたら行く場所が無いから、である。
自立できるようになるのもずっと先。
それに、都会でかなり酷い目にもあったらしく。
正直な所、貧乏生活にはトラウマもあって。
祖父の言う事には、逆らえないのだそうだ。
なお、祖母も祖父と同レベルの偏屈らしく。
孫を「正常に」教育しようと。
色々と余計な事ばかりしているらしい。
この辺りは、周囲のフィルターを抜きに構築した情報だ。
で、今回。
珍しい、石山の祖父の友人と会って。これらの情報がきちんと正しいかを、確認するのである。
途中の公園で待ち合わせ。
ゲートボール仲間の、更に友達なので。
そのゲートボール仲間にも、一緒に来て貰っている。
軽く公園でゲートボールをした後。
石山一家について聞く。
そうすると、色々と。
まああまり知りたくも無いような事が分かってきた。
そもそも石山の祖父は、七人兄弟の末っ子で。
全員男所帯の末という事もあって、それはもう時代錯誤的な教育を施されて育ったそうである。
しかも兄たちは皆年が離れていて。
そして、全員。
インパール作戦で命を落とした。
「インパール言ってもわからんか、すまんな」
「いいえ、知っていますよ。 無能で上層部からウケが良いだけの牟田口中将が無謀な作戦を決行した結果、大敗北をした作戦ですね。 撤退戦も含めて、悲惨な逸話が多数残っています。 私も読んだことがありますよ」
「ほう、噂には聞いていたが、小学生とは思えぬのう」
「だろう。 この子はこの街をいずれ引っ張ってくれるって前にも話した通りだよ」
感心している相手だが。
今時この程度の情報、検索すればすぐに出てくる。
インパール作戦は、本当に首脳部が無能で、補給を軽視したらどうなるか。その見本のような例で。
これで死んだ将兵は、牟田口に殺されたも同じである。
この牟田口とかいう無能は戦後まで生き残り。
しかも死ぬまで反省することも無く、部下が無能だったから作戦は失敗したとか主張し続けていたという。
文字通りのクズである。
社会で出世する奴は、必ずしも有能とは限らないが。
上層部にウケが良いだけの奴を出世させるとどうなるか。
その見本のような事例だろう。
驚くべき事に、この無能を擁護する声もごくごく一部ではあるらしいが。
そして今の社会では。
此奴と同様の、上層部からウケが良いだけの奴を「仕事ができる」と称して、仕事を任せた結果。
会社が傾くケースが多発している。
人間は。
生物として学習などしないのだ。
「石山さんはインパールで死んだ兄貴達の事をみんな自慢に思っていてなあ。 男とはかくあるべしと、ずっと若い頃から言っていたよ」
「そうですか」
故人を自分の脳内で神格化するのは勝手だろう。
ましてや年の離れた兄貴達は、それこそ第二の親のようなものだっただろう。
そして、インパール作戦で戦死した兵卒達が、悲劇の主であることもまた事実だ。
だが、その死を自分の良いように認識し。
ましてや家族に押しつけるというのは。
あまり感心しない。
彼らは頑張っただろう。それは事実だ。
だが無能な作戦指揮で殺されたも同然である事も忘れてはならないのだ。
神格化は色眼鏡を掛けて見るのと同じ。
自分で満足するのはいいだろう。
だが他人にその神格化を共有させようとすれば、悲劇が生まれるだけだ。
「息子さんとの対立も、それが原因で?」
「ああ、そのようだねえ。 息子さんも男らしくしろと言われる度に反発していたし、喧嘩も絶えないようだったね。 ただ体が強い方じゃ無くて、いつも石山さんに殴られて泣いていたけれどね」
それは。
都会に逃げるのも当然か。
成人すると同時に、石山の父は都会に逃げ。
それをずっと。石山の祖父は罵っていたという。
兄貴達に合わせる顔が無い。
一族の恥だ。
そんな風に言っていたそうだ。
そして、帰ってきてからも。
非常に辛く当たっていたという。
なるほど、大体見えてきた。
「ちなみに、その石山さんの奥さんは具体的にどういう人なんですか?」
「かなりの偏屈ものでねえ」
「でしょうね……」
話を聞く限り。
まともな神経の人間ではやっていけるとは思えない。
聞く所によると、やはりかなり古い考えの人間で。
それでぴったりと石山の祖父と話があったらしい。
まあそうなると。
家に居場所も無くなる。
石山の父が逃げ出したのも当然か。
都会で上手くやれていれば、それでもマシだったのだろうが。
残念ながら。
残虐な経済社会は。
彼を都会には置いてくれなかった。
やがて妻も失い、負け犬として逃げ帰った石山の父を待っていたのは。
更に自分が正しいと確信し。
暴君と化した石山の祖父。更に祖母。
そして、その凶刃は。
現在孫である石山に向いている、と言う訳か。
別に先の大戦の正義だのを論じるつもりはない。そも国家間の戦争なんぞに正義なんて存在しない。
だが、石山の祖父の理屈を崩すには。
少しばかりその辺りに踏み込む必要がある。
というよりも、これらの話で見えてきたことがある。
崩すには。
少しばかり方法がいる。
ゲートボールを続け。
そして正確無比なショットで、何度も相手を感心させながら。
私は話を聞きだしていく。
夕方になる頃には。
充分な情報が集まっていた。
翌日。
石山の家に直接出向く。
二つほど隣の街にある家だが。それなりに裕福な様子だ。敷地としては、私の家と同じくらいか。
この街は、私の住んでいる街よりも少しばかり都会に近く。
その分地主が少ない。
これだけの土地を持っていると言うことは。
相応の金持ちだ。
財力だけなら、私より上だろう。
まあ正直な話。
どうでも良いことだが。
チャイムを鳴らすと、不機嫌そうな声がした。どうやら、石山の祖父らしい。石山の友人で、遊びに来たと話すと。
ドアを開けてくれた。
妖怪黄色パーカー。
その名前は、此処でも知れ渡っているらしい。
じっと見上げる私を見て。
石山の祖父は、流石に身じろぎしたようだった。
「お前は。 聞いた事があるぞ。 この辺りで、警察でも手に負えないような事件を解決している子供がいると。 お前、だな」
「よくご存じで。 シロと呼んでください」
「……孫に何の用だ」
「遊びに来ただけですよ」
しばし、視線が火花を散らすが。
相手も流石に青ざめている。
私の目が。
ドブのように濁り。
目の奥に地獄が宿っていることを。
悟ったのだろう。
戦争に参加していなくても。
戦争を知っている世代だ。
戦後の混乱も。
物心つく頃には経験しているはず。
この国は、60年代くらいまでは、本当にカオスの時代をたどっていた。どれくらいカオスだったかというと、テロリストが銀行を襲撃し、「総括」と称して内部リンチを行い、しかもテロを輸出までしていたほどだ。
その頃には、私のような目をした人間も珍しくなかったはずで。
私の目を見れば。
恐怖を本能的に喚起されてもおかしくない。
奥の間に行くと。
顎をしゃくられる。
菓子を渡す。かなり高級な和菓子だが、まあこの程度は小遣いから何度でも出せるし、将来への投資と考えれば安いものだ。
面倒くさそうにベットに転がっている石山の部屋に入ると。
部屋の戸を閉じた。
和室だ。
それも、非常にものが少ない。
いわゆる「ミニマリスト」とかいう言葉があるらしいが。
そうとは思えない。
貧しい生活を都会で余儀なくされたのだ。
なお、ショートパンツにTシャツという格好で。
石山はぼんやりとベットに転がっていた。ふてくされて寝ていたのだろう。
声を掛けて、やっと気付いたようだった。
「な、何だ。 あんたか」
「色々調べさせて貰ってな」
「いきなり家に乗り込んでくるとはな。 あの爺が良く家に入れたな」
「老人のコミュニティ網はあらかた把握しているんでな。 数人もたどればたどり着けるんだよ」
ベットの上で体を起こし。片足を立てて座る石山。靴下も履いておらず、全体的に野性的だ。
多分都会では。
男子より女子にもてたのではないだろうか。
ただ何というか。こういうポーズを取っているのを見ると、やっぱりかなりジェンダーが不安定なのを感じる。
ただ、見ていて少しずつ分かってきたが。
石山は、やはり恋愛対象が男だ。
細かい仕草などで、分かるものなのである。
一方、男の要素もかなり多い。
この辺り、都会でも苦労したのは間違いないだろう。
二次元の世界だったら、或いは。
変わり者、くらいで済まされたかも知れないけれど。
残念ながら現実世界では。
変わり者は、そのまま迫害される運命にある。
「それで、調査はどうなんだ」
「幾つか分かってきたが、古い資料がある倉庫なんかの場所は知っているか?」
「そんなものを調べてどうするつもりだ」
「人間にはオリジンってのがあってな」
何だそれ、と聞き返されるので。
順番に説明する。
人にとっては、その性格を決める原典のようなものが存在する場合がある事。
石山の祖父に取っては、戦争で勇敢に戦って死んで行った兄たちがそうであること。
そして、恐らくだが。
凝り固まった思想は。
その兄たちへの幻想を砕かない限り。崩れる事は無い、という事である。
「前の戦争って、70年も前の奴だろ。 授業で習ったけど」
「そうだ。 その時に全員兄たちは死んだ、らしい」
「70年も前の戦争で、どうして俺が今苦しめられなければならないんだよ」
「人にとって何が大事かは、それぞれ違う。 自分が一番分かっているんじゃないのか」
そういうと。
石山は口をつぐむ。
大事なものを否定され。
周囲からずれていることをからかわれ続けた。
人格否定もされてきた。
その石山である。
何が大事かが人によって違うと言う言葉は。理解しやすいはずだ。むしろこれを理解出来ない人間の方が多い現実を考えれば、石山は良く出来る方だとも言える。
「それで、どうすればいい」
「問題になっているのは、「勇敢に戦って死んで行った兄貴達」が神格化されている事だ」
「そうなのか」
「そうだ。 「勇敢に戦って死んで行ったこと」は事実だろう。 彼らの敢闘があって、今のこの国があるのも事実だ。 だが、より重要なのは、彼らもまた「人間であった」事なんだよ」
そう。
人間を神としてしまった事で。
それに対する客観視や冷静な判断などが。
全て沈黙してしまっている。
それが問題なのである。
「恐らくだが、あんたの祖父は意図的に「兄貴達」の情報には触れないようにしている筈だ。 何処かに不可侵領域がある」
「何となく言いたいことが分かってきた」
「家の中は歩きづらいか」
「……正直な」
自分の事を俺と言うだけで、正座させられて説教が飛んでくる。
父はもう何も言い返せない様子で、朝から晩まで畑仕事。
誰も守ってくれない。
そんな状況では。
何もかも嫌になっても仕方が無いかも知れない。
だが、踏ん張り時は今だ。
「それなら、私を案内する、というのを口実にしろ。 そうすれば、私の事は知っているあんたの祖父は、多少は遠慮するだろうよ」
「色々噂は聞いているが、本当なのか」
「だいたいな」
「……」
ちょっと引き気味の石山。
言動を見ると可愛いところはあるのだが、その辺りはあくまで「子供のかわいさ」であって、女子としてのかわいげではない。
色々とややこしいジェンダーが。
彼女自身も苦しめているのは事実だろう。
だからといって、それを「矯正」するのが正しいなどと言う寝言を垂れ流す人間と同調していては意味がない。
まずは、壁を壊す。
全てはそれからだ。
2、夢の先
妖怪黄色パーカーが、家の中を歩いている。
石山の祖父は、それを見てあまりいい顔をしなかった。しかも妖怪黄色パーカーのコネの広さも知っている筈だ。
下手に手を出せば。
どんな有力者から、予想外の攻撃が飛んでくるか分からない。
既に私が潰した人間の事も聞いているはず。
社会的に抹殺した相手も何人もいる。
今でも精神病院の隔離病棟で震えあがっている奴もいる。
私は将来のこの街を担う人材と期待もされているが。
同時に畏怖の対象である。
だから、なにもいわず。
ただじっと。
陰気な目で見つめているだけだった。
さて、個人的な意見だが。
更に問題が大きいのが、石山の祖母だと思うのだが。
今の時点で姿は見えない。
周囲を見回すが、それらしい影もない。
一体何処にいるのか。
一旦外に出る。
敷地を見ていくと。
錦鯉を飼っている池があった。
とはいっても、それほど高級な錦鯉ではなさそうだ。
ものによっては、錦鯉は凄まじい値段がつくのだが。
この警備の甘さ。
何よりあまり美しく手入れされていない様子。
監視カメラなどのなさ。
いずれもが、この鯉が。
趣味の領域に留まっていて。
大した代物では無い事を裏付けている。
ざっとみた感じでは。
多分、値段はついても数万程度だろう。
殆ど普通の鯉と変わらない代物だ。
歩いて行くと。
昔は庭園だったらしい場所に出る。
そこそこ広い家だ。
更に、この様子からして。恐らくは、江戸時代からずっと栄えている家なのだろう。それも商人では無く武家として。
近隣ではそこそこの力を持った旗本の家だった、と考えるのが自然だ。
だが、正直な話。
今の財産を考えると。
何処かで没落したのだろう。
今だって、跡継ぎの石山と関係をこじらせている状態だ。
この家の将来は。
あまり明るいとは言えない。
ましてや石山の祖父は、頭が固い。
下手をすると。
何もかもが、台無しになってしまう可能性もあるだろう。この家も、相続放棄されて、更地になるかも知れない。
それはそれで。
もったいない話だ。
「手入れはあまりしていないようだな」
「分かるのか?」
「このタイプの庭園は、繊細な手入れが必須なんだよ。 最低限の手入れしかしていない様子だ」
周囲を見回すが。
石山はぴんと来ていないようである。
この様子だと。
手入れをしているのは祖母か。
不意に視線を感じたが。
一瞬。
どうやら、母屋の方かららしい。
家に隣接する母屋は、二階建てと、母屋にしてはそれなりに大きい造りだ。中もかなり広いだろう。
今は、祖母が住んでいるのだろうか。
「ヘルパーなんかは使っているのか」
「まだ介護はいらないレベルらしい。 時々市の人間が検診に来るけどな」
「ふうん……」
視線を感じたのは。
あの母屋の二階からだ。
此方の存在に気付いて。
観察していた、という所か。
恐らくだが。
祖父よりもあの祖母の方がくせ者だと個人的には考えている。ただし、まだ論理がそれにつながっていない。
論理をつなげてから。
話を進めて行かなければならないだろう。
私だって万能じゃあないし。
私より頭が良い奴はこの世に幾らでもいる。
だからこそ、失敗は二度と繰り返さないようにしなければならないし。
他人の悪い所は見て学習していかなければならない。
勿論私自身に関しても。
気付いた欠点は出来る範囲で是正するつもりだ。
だが、どうにもならない部分はどうしてもある。
そればかりは、どうにもならないが。
「倉庫はこっちだ」
「……」
倉庫というと。
このくらいの屋敷だ。
独立したかなり大きなものかと思っていたのだが。
意外な事に、かなり小さな、トタンの奴である。
それこそ二十万から三十万もあれば建てられそうな奴、といえばわかるだろうか。まあ相応に頑丈そうではあるが。
周囲を見てまわるが。
特に警備装置などはついていないようすだ。
というか、鍵さえ掛かっていなかった。
石山が開けて。
中を見る。
「埃っぽいだけだぞ」
「いや、そうでもない」
「?」
中に本棚がある。
並べられているのは、明らかに戦前の本だ。ざっと見てみるが、文字からして現在のものとはかなり雰囲気が違う。
ふうんと鼻を鳴らしたのは。
意外な本がかなりあるからだ。
「これ、漫画!?」
「そうだな」
そう。
戦前にも漫画はあった。
今とはかなりスタイルが違い。
一枚絵に解説がついていく、というタイプが主流だが。
これらの作品の絵はその分迫力が満点。今開いた本も、日本の戦闘機について、非常に格好良く、浪漫の溢れる絵が描かれていた。ただ流石に年を経ているからか、かなり色あせてしまっているが。
文字も一応読める。
頷きながら読んでいく。
「昔はこんな風に書いていたんだな」
「そうだ。 心躍るか」
「単純に格好いい」
「そうか」
この辺りは、やはりジェンダーの要素が絡んでくるのだろう。ミリタリ趣味をもつ女性もいるが。
石山はそうではないはず。
単純に格好いいと言い出すことは。
つまり、趣味嗜好が一致すると言う事だ。
頷くと、順番に見ていく。
戦車の本もある。
もっと古い本もあったが。
これは文字だけだ。
恐らく、これが。
目的のものだろう。
不意に、後ろから足音。
和服でガチガチに固めて。
あまり好意的な視線では無い石山の祖父が、様子を見に来たのだ。
「何をしている」
「埃を被らせておくには惜しい在庫ですね。 これなどは、博物館に飾っても良いくらいの本ですよ」
「……」
口をつぐむ石山の祖父が。
一瞬だけ表情を和らげるのを。
私は見逃さなかった。
間違いなくこれは。
彼のものだ。
それも、兄たちに買って貰ったものだろう。
「娯楽が少なかった子供時代、これらの本は貴方にとっての宝だった、違いますか」
「……だったらどうした」
「しかし、これらの本を読むことは、良く想われなかった」
「?」
小首をかしげる石山。
分かっていないらしい。
石山の祖父は、戦争をやっていた頃は、幼児だったのだ。
そして、優しい兄たちの記憶だけが残った。
しかし、戦後。
日本は歴史上、類を見ない厳しい時代を迎えることになる。
その中で、彼が味わったのは。
兄たちの否定だ。
勿論これらの本も、読むことを良しとはされなかっただろう。戦争そのものが悪だという意見については、私も同意する部分がある。
だが、単純なミリタリ趣味まで否定したり。
こういった兵器そのものを楽しむ事は。
それは悪なのだろうか。
近年では、ミリタリ趣味はかなり社会的に認知され始めている。
それは大いに結構な話だと思う。
何を好こうが個人の自由。
それを縛るのがおかしいのだ。
勿論それが殺人や他人の権利侵害に直結するなら問題だろう。だが、それは本当にそうなのか。
これらの、子供向けに書かれた本が。
軍国主義的だとか。
戦争を賛美しているだとか。
そういった話に結びつくのは。
恐らくおかしい。
私は単純にそう感じるが。
「戦争を知らない世代に、何が分かる……」
逆鱗を敢えて踏み抜いた。
石山の祖父は、ひくひくと青筋を浮かべている。
だが、私は。
涼しい顔だ。
「今日は引き上げます。 ただ、覚えておいてください。 異端の苦しみを背負っているのは、何も貴方だけじゃあ無い」
「自分もそうだというのか」
「ええ」
即答。
当然だ。
私は異端と親に決めつけられ。
異端には何をしても良いという理屈で、虐待まで受けたのだ。
私は異端である。
石山もそういう点では同じだ。
だから、今回の件に関しては。
これを見ただけで、大体話をどう解決して良いかは、分かってきた。
気まずそうに視線をそらす石山祖父。
私は、この老人が来るまでに。
既に目的の本は、スマホで撮影を終えていた。
そして、もう一度。
忠告しておく。
「これらの本は、歴史的に価値のある資料です。 一度手を入れるか、それとも博物館に寄付するか。 考えた方がよろしいかと」
「……」
不愉快そうにする石山祖父。
石山はずっと不快そうにその様子を見ていたが。
手を引くと。
玄関に出る。
そして、小声で耳打ちした。
「さっきの本、少しばかり解析する。 恐らくこれから数日以内に、祖母の方が何かアクションを起こす可能性がある。 あの倉庫は気を付けて見張ってくれ。 もしも本を捨てようとかしたら、絶対に止めろ」
「な、どういうことだよ」
「後でメールする」
「……分かった」
家を出る。
また視線を感じた。
石山の祖父は、恐らくあの倉庫をしばらく見張るだろう。それはそうだ。大好きな兄たちは、彼にとってもはや信仰の対象だったのに。
世間ではそうではなかった。
恐らく、今では誰もが忘れているだろうが。
彼は忘れていなかったに違いない。
家に黙々と帰る。
父は、ソファに転がって。
青ざめた顔のまま、タオルを顔に乗せていた。
「シロ、戻ったのか」
「体調良く無さそうだね」
「食欲が無い……」
父は露骨に痩せてきている。多分だが、あのカスを家から追い出してから、三十キロは痩せたのではあるまいか。
今ではすっかり骨と皮だ。
このままだと、普通の運動にも支障をきたすようになると見て良いだろう。それは悲しい話だと思う。
役所による更正プログラムは上手く行っていないようだ。
少なくともこの有様を見る限り。
そろそろ精神病院で、専門家に見せないとまずいだろう。
精神の衰弱は肉体にダメージを与える。
此処まで体が弱ると。
どんな病気を併発してもおかしくは無いのだ。
食事も最近はかゆばかり。
たまにゼリーなども食べているが。
殆どしっかりした食物は口に入れられないようだ。
「かゆ作るよ。 肉をちょっと入れるけれど、大丈夫?」
「……」
「そう。 じゃあ作るわ」
「シロ。 何だか危ない事をしているみたいだけれど、大丈夫か」
知っていたのか。
まあ知っているだろう。
私の評価は二分されるはずだ。
妖怪黄色パーカーとして怖れられるか。
この寂れた街に差す光として褒め称えるか。
その二極化の筈である。
この街の最上層権力者達の何人かにコネを作っている事で、私は大人にも一目置かれている。
そして、私が快刀乱麻に様々な問題を解決し。
その中には、覚醒剤の密売を摘発したり。
詐欺をやっている会社の裏帳簿を暴いたりといった。
非常におおきな、子供の域を超えている活躍が含まれていることも。
この街や。
周辺の街では。
良く知られているだろう。
それならば、噂は更に広まるし。父の耳にも当然入るだろう。
かゆを手際よく作る。
父は黙々と食べるが。
やはり、食欲は全く無いようだった。
「味は薄くしてあるけれど、食べづらい?」
「……いや、大丈夫だ」
「卵を少しいれているから、栄養はしっかりつくはず。 お代わりも作れるよ」
「すまない。 食べきるだけでやっとだ」
会社に体を壊され。
あのカスに心も痛めつけられた父は。
今はもう廃人のようだ。
嘆息すると。
父を寝室に送って、寝かせて。
自身は、スマホで撮ってきたあの書物について、確認を始める。
やはりというかなんというか。
文集である。
今の時代の文字と。
戦前の文字は。
まるで別物だ。
崩し方とかが異なっているため、殆ど今の人には読むことが出来ない。
これが明治期や、江戸後期になってくると、更に読みづらくなってくる。専門家でないと読めないほどだ。
だが、この書物は。
事前知識がある私には、何とか読むことが出来る。
読んでいくと、分かってきたことがある。
これはどうやら。
何人かいた石山の年が離れた兄たちの一人。
恐らく末の一人だろう。
彼が残した、卒業文集だ。
最後にくすんだ写真が載せられていたが。
当時を思わせるように。
皆頭を坊主に刈り込んでいる。
女子はいない。
当時は共学は珍しかったのだろうか。調べて見ると、そもそも学校の編成が違っていた様子である。当時の中学校は現在の中学校とはまるで別物だったのだ。
また、独特の文化も多数あったようで。
ちょっと解読に苦労させられる場面もあった。
しばらく読んで見たが。
なるほど。
この青年は、これから国が戦争に向かうと言うことを、決して喜んでいない。
当時は戦争万歳ムード一色だった、等と言うことはなかった、という証言は結構あるのだが。
勿論表向きは色々と戦争について行かなければならない、祖国のためにと書いているのだが。
行間に、気が進まない様子がどうしても浮かんでくるのである。
巧妙に隠してはいるが。
分かるのだ。
更に、石山の祖父の名前も出てくる。
かなり幼い弟がいて。
心配だ、と書いている。
何が心配だかはいうまでもないだろう。
戦況の悪化は、大本営発表をしていた頃にはもう誰の目にも明らか。「転進」と称して、全面敗走を続けていたことくらいは、皆知っていたはずだ。
無能な補給計画と、精神論でものごとを片付けていた上層部。
今のブラック企業とまったく同じ構造が。
前線で工夫しながら死力を尽くしていた兵士達を。
すりつぶすようにして浪費し。
多くの人材を無為に死なせていった。
そういう意味では、日本は今とまるで何もかも変わっていない。
この文集は、1930年代後半に書かれたものだが。
そうなると、石山の祖父の一番末の兄は。
恐らくインパール作戦で死んだときには、本当に若かったはずだ。学徒動員された兵士達ほどでは無いにしても。
無念だっただろう。
そして石山の中で。
神格化されたのも。
当然だったのかも知れない。
だが。
この文集を読むと。
その末の兄の人間としての苦悩が浮かび上がってくる。決して彼の話だけが書かれている文集ではないのだが。所々で出てくる文章には、それが明確に浮かび上がってきているのである。
なお、本当に好戦的な文章を書いている者もいる。
かの手塚治虫も、戦争中には非常に好戦的な文章を書いていたらしいという話もあるので。
珍しくも無い事なのだろう。
嘆息すると、メールを送る。
大体、突破口は見いだせた、と思う。
「文集についてだが、解析は出来た」
「早いな! 本職の科学者かよ」
「科学者はこういうのを解析はしないが、まあそれはいい。 内容を見る限り、あんたの祖父の末の兄の文集だな。 まだ戦争が始まる前だが、二次大戦がもう起きるのはほぼ確定している状況で書かれたものだ。 インパール作戦で死んだときは、まだ若くて、非常に無念だっただろうな」
「何だそれ」
詳しく、順番に説明していくと。
メールの向こうで、石山が絶句しているのが分かった。
適当に授業を受けていると。
やはり分からないのかも知れない。
当時総力戦態勢が敷かれていて。
国中が地獄だったことを。
末期では学生さえ戦争に動員され。
多くが知らない土地で、命を散らしていったのである。
しかも、相手は物量にしてもテクノロジーにしてもどうしようもない相手。善戦できた方がおかしいのだ。
更に、有能な敵に加えて無能な味方上層部。
善戦はしたし、敢闘もした。
だが、彼らが人間として生きたいと願っていたし。
そして無能な軍上層部にすりつぶされたのも。
また事実なのだ。
「そんな……悲惨な事が起きていたのか」
「起きていたんだよ」
「話半分にしか聞いていなかったから、知らなかった」
「更に、戦争が終わった後に、その兄貴達の事を全否定されてみろ。 それは偏屈にもなるだろう」
石山も黙る。
そして、少し時間をおいてから。
メールを送ってきた。
「ちょっと気を付けて、物置を見張る」
「何か思い当たる事があるのか」
「うちのババア、何か様子がおかしいんだよ。 爺を明らかに物置に近づけないようにしていやがる」
「何かアクションを起こそうとするなら、数日以内だ。 気を付けて見張れ。 私も、タイミングを見て仕掛ける」
さて、此処からだ。
石山の祖父がこじらせてしまった原因を取り除けば。
現実を変える事が出来る。
現実を変えれば。
孫や子供への冷たい当たり方も。
少しは改善される可能性が出てくる。
問題は潜んでいる毒蜘蛛を。
一秒でも早く。
黙らせなければならないことだ。
プランを練った後。
何人かにメールを送る。
やっておくべき事は。
全て事前にすませておく。
当たり前の話だ。
3、海の向こうの
早朝。
いきなりスマホがなる。
私は既に起きて、外でストレッチをしていたので。そのまま確認。どうやらメールらしい。
慌てた様子で。
石山からメールが来ていた。
「ババアがおかしな事をしてる! 物置を処分するとか言い出して、業者に連絡をしていやがった!」
「祖父は?」
「気付いていない! ちょっとまずい。 どうしたらいい」
「業者の名前は分かるか」
すぐに調べてくれた。
そして、私はほくそ笑む。
大体予想していた通りの動きだ。すぐにコネのある人物にメールを送る。
誰かというと。
その業者の社長である。
この辺りの、廃品回収業者の社長で、ゲートボール仲間の友人の友人だ。関係性はかなり薄いのだが。
昨日のうちに、アポを取っておいた。
そして、丁度良い機会だ。
学校に出る少し前に。
メールを送っておく。
「石山の家から廃品回収の仕事が来ているかと思いますが、家督相続に関わっている面倒な案件です。 石山の当主である弘庸氏に連絡をしてください」
「どうしてそんな事を知っているんですか!?」
「私の話は聞いているはずです。 下手をすると大損になりますよ。 作業開始前に連絡を入れてください」
「分かりました」
相手が敬語なのは。
大口の仕事先に、何人か私のコネ持ちがいるからだ。
此方としても態度を横柄にしないで、相手のスムーズな対応を引き出す。
そして、ここからが肝だ。
石山の家の周囲に住んでいる何人かに。
メールを送っておく。
「警察沙汰になるかも知れないので、気を付けておいてください」
「何が起きるんだい」
「石山の家でほぼ確実にトラブルが。 放火かも」
「な!」
流石に私のメールである。
無視もできないし。
冗談でもないと悟ったのだろう。
これで良し。
後は石山にメールを送り直す。
「手は打った。 これからやる事は幾つかあるが、まずは倉庫にババアが火を付けないように監視」
「学校は休むべきか」
「そうだな。 生理痛か何かで理由を付けて休めないか」
「あまり気は進まないが」
というか、私が提示した理由を聞いて、多分向こうは真顔になった事だろう。
ジェンダー的にややこしい状態になっている石山にとっては、ちょっとばかり地雷案件だったかも知れないが。
しかし、それでも此処は我慢して貰う。
「それにしても、どうしてババアを監視する必要が」
「分からないのか」
「分からない」
「あのババアはな、あんたの祖父の弱みを握って今まで好き勝手をしてきたんだよ。 あの倉庫がどうして埃を被っていたと思う。 祖父に取っては、何より大事なものが入ってるのに」
そういえば不審だと、石山も気付いたようだ。
此処で順番に説明していく。
そもそも、石山の祖父は。
戦後、大好きなを通り越して、神格化している兄たちを社会全部から全否定される事で、性格を著しく歪めながら育った。
その点では私や石山と同じ異端者だったのだ。
多分彼は、親の目を盗んで。
兄たちがくれたあの本や。
それに文集を読んでいたのだろう。
無邪気に。
その時だけは、薄らぼんやりとしか覚えていない兄たちが、戻ってくるような感覚さえ覚えて。
だからあの倉庫の中には本棚まであって。
綺麗に整えられてまでいた。
問題は。こじらせた結果。
それが大人になってまで続き。
そして結婚した後は。
何かしらの理由で。
弱みを握られた。
後は、更にこじらせた祖父を。ババアが後ろから操っていた。
そういう事だ。
「な、何だよそれ……」
「おかしいと思わなかったか。 家の中を見て回ったときに、すぐに気付いたぞ。 ババアが家事の類をしている様子が無い。 体を壊している風でも無いのにだ」
「そういえば……」
「仲が良いわけでもないだろう、あんたの所の祖父とババア。 それなのに、基本家事はあんたの父か、祖父が全部やっているんじゃ無いのか」
返事は沈黙。
というか、恐らくだが。
石山も押しつけられていたのではあるまいか。
「業者については黙らせた。 そうなると、あのババアは今までの地位を確保するために、倉庫そのものを抹消する可能性が高い。 とにかくやるとなったら恐らく数時間以内と見て良いだろう。 もう動き出しているかも知れない」
「あ、なんか電話来た。 祖父が出てる」
「そうなると、すぐに動くだろうな。 倉庫に先回りしておけ」
「分かった!」
さて、此処からは恐らく分刻みで動く。
そうすると。
案の定だった。
「正気かあのババア! 倉庫の周りに何か撒いてやがる!」
「よし、大声挙げろ。 それで取り押さえろ。 出来るか?」
「やってみる!」
メールは以降途切れた。
それはそうだろう。
そこからは大立ち回りになっただろうから。
昼少し前。
メールが来た。
警察にいると言う。
勿論石山からである。
「変なもの撒いているババア取り押さえようとしたら、凄まじい叫び挙げやがって。 俺が「灯油」を撒いたことにしようとしやがった、あのババア!」
「それで?」
「「灯油」の缶からババアの指紋しか出なかったこと、その場で俺が手袋していなかったこともあって、警察がババアに今聴取してる。 案の定暴れる暴れるで、手に負えないらしい」
「怪我はしなかったか」
したらしい。
流石に金持ちの家に潜り込み。
数十年寄生虫を続けた、筋金入りの毒蜘蛛だ。
それは暴れるし、怪我も平気でさせるだろう。
相手が孫だろうと関係無い。
この手の輩に。
まともな良心なんてある訳が無いのだから。
「祖父はどうしている」
「ババアが勝手に倉庫を撤去しようとしたことを業者から聞いてブチ切れてた。 あげくに「灯油」で燃やそうとしたのを知ってからは、りえんするとか言ってる。 りえんって何だ? 後、灯油って前から思ってたんだが、何に使うものなんだよ」
「離縁というのは離婚のことだ。 灯油は、そうだな。 ガソリンより燃焼力が低い燃料だと思ってくれればいい」
「ああ、なるほどね」
離縁か。
やっと石山の祖父も目が覚めたのだろう。
まあ当然だろうが。
ババアにして見れば。
今まで、相手を操るために使っていた大事なアキレス腱だ。
奪われるわけにはいかない。
何十年も、好き勝手に過ごすために必要だった代物だ。
もし自由にされたら。
それこそ、今までの苦労が台無しになる。
それだったら、全て燃やし。
後は全部いらない孫娘にでも責任を押しつければ良い。
そうすれば、寿命が尽きるくらいまでは、それこそ好き放題に過ごすことが出来るのだから。
後の事なんか知ったことか。
それがババアの考えだったのだろう。
すぐにその辺りは洞察できたので。
先に手は打ったのだ。
それから、細かい話が入ってくる。
案の定近所の連中がすぐ駆けつけ、狼狽したババアは、全部孫がやろうとしたとわめき散らしたそうだが。
倉庫を勝手に撤去しようとしていたことがばれると。
開き直って泣き始めたそうである。
警察が到着し。
石山とババアを両方連行。
石山も連れて行くのは、ババアの言い分も確認しなければならないからである。
だが、結論はすぐに出た。
調べたら、灯油缶から指紋がババアのものしか出なかったこと。そもそも石山が灯油の存在を知らなかったこと(灯油ストーブを使ったことも無かったらしい。 警官に灯油って何に使うんだか良く知らないんだが、何をどうするんだと真顔で聞いたそうだ)から、即座に嘘がばれ。
今聴取の真っ最中だそうである。
それにしても、醜悪な。
弱みを握った相手を、数十年顎で使い続け。
恐らく財産も相当好き勝手にしたのだろう。
警察がすぐに調べるはずだが。
財産を私物化して。
やりたい放題していたことは、ほぼ確実と見て良い。
この手の人間を見ていると。
私の母親のことを思い出す。
母性信仰なんて言うまやかしは。
こういうクズが実在する事を確認する度に、反吐を吐きたくなってくる。
実際問題、自分の子供に責任を押しつけて。
自分の安泰を選ぶ親なんてそれこそ掃いて捨てるほどいる。
今回の石山のババアの場合もそれと同じ。
「出来が悪くて」「一族の恥」である孫娘はいらないから、責任を全部押しつけようと、即座に考える辺り。
このババアも、人間の醜悪な部分を煮詰めた存在だと断言して間違いなかったが。
そもそも人間に美しい部分なんてあるのか。
私には、疑問に思えてならなかった。
いずれにしても。
次にメールが来たのは。
夕方を過ぎて。
夜中だった。
「やっと解放された。 ババアが兎に角ある事無い事でっち上げて、その度に聴取されて、たまったもんじゃなかったぜ」
「お疲れ。 それで?」
「警察の方でも、手を焼いてるみたいだな。 もうまともに会話が成立しないし、暴れまくるしで。 こんなバケモノが近くに住んでいたなんて、ぞっとしないぜ」
「あんたの父親は?」
一応迎えには来てくれたらしい。
祖父は流石にショックだったらしく。
家で珍しく飲んでいるそうだ。
無言のまま飲んでいるが。
空気から近寄りがたく。
父もそっとしておけ、と言っているらしい。
そうか、としか声が出ない。
まさか、今後も自分が全てを掌握するためだけに、あれだけの無茶苦茶をやろうとしていたなんて。
今更愛も何もないだろうが。
それでも、ショックだったのだろう。
毒蜘蛛に等しい本性を見せられて。
更に自分の弱みを全部握られていたことを今更自覚して。
それでショックを受けなかったら。
精神がワイヤーロープ並か。
或いは単純に人間では無いだろう。
「年も年だ。 飲み過ぎないように、気を付けておけ。 もしも様子がおかしいようなら、すぐに119番だ」
「分かってる。 急性アル中だろ」
「思っている以上に危険な症状だ。 場合によっては胃を洗浄しなければならなくなるケースもある。 今どれくらい飲んでる」
「一升瓶を傾けてるだけだな。 そんな浴びるようには飲んでいない」
ならば大丈夫か。
嘆息すると、二本目に手を出さないように、気を付けて見張るようにだけアドバイスして。
そして一旦やりとりを終える。
だが、まだ話し足りないのか。
石山はメールを入れてくる。
「何だか大変だったが、今後俺はどうなるんだ?」
「次の休みにでも私が言って、あんたの祖父と話す。 それで多分どうにか解決できる筈だ」
「……本当、なのかよ」
「任せておけ」
石山は多分。
あの男子っぽいポーズで、スマホを弄ってるんだろうな。
そう思うと。
ちょっと苦笑いである。
ちなみに、学校での評判は既に確認しているが。
やっぱり男子よりも女子にもてるようである。男子からは、動きとかが男っぽすぎるという理由で、友達は多いのだけれど恋人に、とは思えない、とかいう生々しい意見が出ていた。
これらはコネをたどって話を聞いてみたり。
学校の裏サイトを見たりして確認した内容だが。
まあ分からないでも無い。
ジェンダー論が発達してきている今だが。
それでも、普通に暮らしている分には。
そうやって、無邪気に接するのが人間であり。
拒絶反応を示さないだけマシだろう。
ただ石山は今後も苦労する事確定だ。それは断言しても良い。
いずれにしても、私が行く前に、県外の心療内科に診察を受けに行くように石山には言ってある。
多分、医師の診断書があれば。
話はもっと簡単に進むから、である。
世の中には、医師を信用しないで、自分の信じるオカルトを押しつけようとするバカがいるが。
流石に石山の祖父はそこまで酷い人物ではないようだ。
それについては既に確認してある。
後は。
準備を徹底的に済ませて。
全て整い次第。
王手を掛けて、終わりだ。
またメールが入る。
石山かとおもったら、違った。
黒田だった。
「小火騒ぎがあったって?」
「何処で聞いた」
「何処も何も、結構拡がってきているよ。 シロが出たし、多分何か起きるだろうと思っていたから、情報を見ていたんだけれどね。 石山さんの近くに住んでいる人が、SNSで画像まで載せてる」
「まあお前だから言うが、錯乱したババアが、自分の私物と思っている石山家の財産を独占するために、トチ狂って火を付けようとした。 それだけだ」
それだけって、と黒田は苦笑。
まあ私と一緒にいると。
それくらいのびっくりは。日常茶飯事だから、もう驚くことも無いのだろう。
実際問題、結構とんでも無い話なのだが。
私の周囲では、とんでも無い話がしょっちゅう起きるのだ。
「石山さんはどうにかなりそう?」
「ああ、何とか出来そうだ」
「石山さんね、私の数少ない理解者だったから。 今ってさ、昔ほど酷くはないけれど、それでもオタクに対して風当たり強いでしょ。 二次元の美少女とか美少年とか好きな人は人間じゃ無いみたいな発言をする人もいるし。 私みたいなパソコンを自作する人間なんて、怖くて趣味を外じゃ口に出来ないしね。 石山さんは、数少ない理解者の一人だったから、ね」
「恐らくだが、阻害される痛みは良く知っているから、だろうな」
石山とじっくりは話していないが。
ジェンダーのずれで、相当な苦労をしている事は間違いない。
しかも現在進行形で、だ。
石山は極力目立たないようにはしているようで。
学校でイジメのターゲットなどにはなっていないようだが。
背はそれほど高くなくても、メリハリの利いた体型はどうしても目立つし。
男子にして見れば、女子にしては無防備な石山の行動には、どうしても目が行くだろう。
一方女子にして見れば。
自分たちとずれた存在が、男子に媚を売っているように見えて、面白くない、というケースにも簡単に発展する。
恐らくだが。
石山は相当にいつも神経を使って学校で授業を受けているはずで。
ストレスも尋常では無いだろう。
一人称にしても、無理矢理私、とかにして話をしているかも知れないし。
或いは、地蔵のように極端に静かにしているかも知れない。
何にしても、学校はストレスしか感じない場所だろう。
苦労が忍ばれる。
私みたいに自衛のための武力を身につけていれば、どうにかなるかも知れないが。
石山は性格こそアレだが。
別に武術とかには興味はないだろう。
ましてや、中学以降になってくると、男子と対等以上に渡り合うには、相当に体を鍛えないと難しい。
それこそ、生活時間のかなりを武術に回さなければならないわけで。
其処までの情熱を掛けられるのは。
余程の一部だけだ。
石山さんをよろしく。
黒田に念を押されたので。
頷くと、今日はもうメールを見るのを止める。
とりあえず、今日はここまで。
私の精神力にも限界がある。
黒田も分かっているだろう。
私も阻害された側だ。
黒田はあまり家族の話をしないが。
多分彼奴も。
いや、やめておこう。
それに私は、運命に打ち克った。
あのカスを精神病院の隔離病棟に放り込んで、一生外に出さないようにして。そして末路も狂死しか無いという状態にして。
勝ったのだ。
だから、それでいい。
目を閉じる。
だが、何だろう。
赤い何かがこみ上げてくる。
怒りだろうか。
それとも、哀しみなのだろうか。
いずれにしても、私は。
同類を作るつもりも無いし。
苛烈な運命にある自分の事を誰かに打ち明けて、慰めて貰おうとも思わなかった。
4、はぐれもの
準備が全て整っていることを確認し。
私は石山の家に行く。
石山の祖父は、青ざめていた。
かなり痩せている。
それもそうだろう。
あれだけの事があったのだ。
あの後、警察から色々な情報が出てきたという。
石山の祖父の方でも、幾つかの通帳を確認した結果、4000万以上の金が、使途不明で消えていた事が発覚。
警察で調べたところ。
あのババアが、勝手に怪しげな先物取引につぎ込んでいたことが判明。
案の定、大半が回収不能だそうである。
流石にその程度で傾くほどの資産ではないらしいが。
残念ながらそれだけで被害は終わらず。
それ以外にも、勝手な用途で使われていた金が多数あり。合計で億を超えていたらしく。
不動産やら株券やらで。
滅茶苦茶な有様だったらしい。
とりあえず、無駄に使われていた資産を必死に回収に走ったのは、石山の父。
私も裏で手を回した。
その結果、先物取引に放り込まれた4000万はどうしようもないにしても、他の被害額1億3000万ほどのうち、1億1000万ほどを回収することには成功。
どうにか一息は付けたそうだ。
まあ、1億3000万が根こそぎ失われても、それでも何とかなる程度の資産はもっていたようだが。
それでも、あまり嬉しいことでは無かっただろう。
それに、石山の祖父は、私が裏で手を回して助力したことを知っていたらしい。表情からそれを読み取れた。
伊達にこの近隣での、トップクラスの資産家にコネをもっていない。
銀行は一般預金者をゴミと呼ぶような連中だが。
逆に資産家に対しては、靴の裏を舐めるような行動でも平気で取る。
金さえ稼げれば、命なんてゴミとも思わないような連中だ。
ある意味御しやすいし。
人間と思わなくても別に何ら問題ないので、扱いやすくもある。
資産家が動けば。
銀行は従順な犬のように腹を見せる。
プライドなんて備えていないのだから、当然である。
石山に会いに行く。
石山も、少し疲れた様子だった。
大体理由は分かる。
ババアが逮捕されてから、色々学校で大変な目に遭ったのだろう。
大人しく振る舞っているから。
余計にその風当たりは強くなる。
話を聞いてみると。
案の定だった。
「いつもは俺の陰口だけ言ってるグループが来て、犯罪者なんだって、とか笑って言いやがった。 机蹴倒して立ち上がったら、悲鳴上げて逃げて行きやがった上に、暴力を振るわれそうになったとか教師の前で泣いて見せてな。 白々しいったらありゃしねえぜ」
「それで?」
「教師が妙に物わかりが良くてな。 あれ、あんたが手を回したのか」
「さあ」
それについては。
私が裏にいる、という噂だけは流した。
最近は、妖怪黄色パーカーの噂を聞くだけで、縮み上がる奴も少なくないと聞いているし。
その教師もそうだった。
それだけだろう。
「学校では前から陰口大会のターゲットだったが、もううんざりだ。 前の学校でも散々だったが、どうしてこう学校ってのは陰湿な虐めのオンパレードなんだよ」
「会社だって同じだ」
「……」
「人間はそもそも石器時代から陰口大会が大好きなんだよ。 特に女子はな」
溜息を零す石山。
女子だとさめざめと泣いたりするのだろうが。
石山は色々とジェンダー的にややこしい。
案の定だが。
心療内科で確認してもらった所。
いわゆるトランスジェンダーである事がはっきりした。
重度のものではないが。
やはり幾つかの部分が、性別逆転しているという。
「悪い」
石山が立ち上がる。
これから家族会議だ。
立ち会って欲しい、というのである。
頷くと、ついていく。
居間には、腕組みして青ざめている石山の祖父。
居心地が悪そうな石山の父。
そして、石山が後から座る。
私は少し迷ったが、石山の祖父が、立ち会いをしてくれといったので。遠慮無く座らせて貰った。
茶をもってくるのが石山の父である辺り。
この家の権力図が分かる。
何というか。
いびつというか。
闇が深い家だ。
最初に発言したのは。石山の祖父だった。
「今回の件は色々とすまなかったな。 あんなのと長い間連れ合いになっていたかと思うと、自分が恥ずかしくてならん」
「いえ。 困ったときはお互い様ですので」
「……それで、わざわざ来たと言うことは、何かあると言う事だな」
「ええ」
視線を送ると。
石山が、診断書を出した。
見る間に石山の祖父が、青ざめる。
その内容を見ている内に、わなわなと震えるのが分かった。
「な、何だこれは」
「石山妃愛乃さんの脳は男性です。 正確には一部が、ですが。 いわゆるトランスジェンダーという奴です」
「病気と言う事か!」
「違います。 診断書を見てみれば分かりますが、他の人と少し違うだけです」
幾つかの項目に分かれているが。
やはり石山の性的嗜好は男性。
だが、それとは別に。
脳の要素に、男性の部分が幾つかある。
この辺りは非常に面倒で。
私としても、コメントは正直難しい。
青ざめている石山の祖父。
なお、発言権が無いらしい石山の父は、ずっと黙り込んでいる。今回の資産回収で相応に頑張ったのだから、もう少し認めてあげても良いだろうに。
「こ、こんな。 こんなことが」
「普通と違う。 そのつらさは、貴方も知っている筈ですが」
「何を言う!」
「戦後、貴方が尊敬する人達がどのように扱われたか、忘れましたか?」
真っ青になる石山の祖父。
声も出せず。
そのままフリーズする。
そして、私は。
その文集を出した。
正確には。
日本語訳したものだ。
あれから隙を見て、他の文集も全て送って貰った。なんと兄弟分全部が揃っていた。
いずれも翻訳は大変だったが。
石山の祖父の兄たちの書いたと思われる部分だけ。
日本語訳している。
震えながら、座り込む祖父。
声に上げて読むのは罰ゲームに等しいので。
読むように促す。
「どのみち読めなかったんでしょう。 全て翻訳しておきました。 目を通してみてください」
「し、しかし、これは」
「戦場で果敢に散った貴方の尊敬する人達は、人間だった。 それを理解してください」
もう一度。
念を押す。
そもそも。
戦後すぐ。
石山の祖父は、物心がやっとついた頃。
学校の卒業文集なんて読めなかっただろう。
文字をしっかり読めるようになった頃には。
神格化されたその文書は。
物置で大事にしまっていたはず。
いや、大事にしまって。
取り出すことさえ、出来なかったはずだ。
あの場所は、石山の祖父に取って、一種の神殿だったのだ。神殿は、荒らしてはいけないものなのである。
だから、あのババアにつけ込まれた。
あのババアは、的確にその神殿を理解すると。上手に持ち上げて取り入り。石山の祖父の心を掌握。
後は好き勝手に振る舞い。
自分だけ贅沢をし。
自分の全てを認めさせ。
そしてあの年になるまで。やりたい放題の限りを尽くした。
後数年もしたら。
この家は食い潰されていたかも知れない。
そういうバケモノだった。
「戦後、軍人はこの国では人間扱いされませんでした。 その哀しみは、貴方が一番よく分かっているはずです」
「……」
「トランスジェンダーも同じ事。 人権先進国などと称している国でさえ、まだまだ差別は当然のように残っています。 この国でもそう。 まず、家族である人間が、理解を示すべきではありませんか?」
「……正論だな」
正論は。
正しいから、正論なのだ。
最近不可思議な寝言が流行っている。正論しか言えない、とかいうものだ。
ばからしい話で。
正論を聞く事が出来ないような組織や人間は衰退する。それだけだ。この国の企業がブラック企業だらけになっているのも、正論をきちんと聞ける人間が、上層に座っていないからだろう。
「貴方の大事な人達は、神でも悪魔でもありません。 分かりましたか」
「……そうだな。 みんな、生きた人間だった。 やっと、本当の兄たちに触れた気がするよ」
「ならば。 戦後の不当な扱いについて分かるはずです。 そして、今貴方の家族に対しての扱いが如何に理不尽かも」
黙り込んだ石山の祖父。
そして、かなり長い時間を掛けた後。
分かった、と言った。
家の外に出る。
石山は、ベリーショートにしている髪をわしゃわしゃしながらいう。ジェンダーはともかく、実はこの人、ウイッグでもつけたら周囲がすぐに振り返りそうなくらい、顔の土台がいい。
雰囲気で男っぽくなっているが。
それはあくまでそれだ。
「有難う。 あの偏屈は、嘘はつかないんだ。 分かったと、それも他人のあんたの前で言った以上、今後俺に辛くは当たらないだろうよ」
「それは何よりだ」
「……感謝している」
渡されたのは。
白いナイフだった。ペーパーナイフだが、鞘まで真っ白である。
「ナイフを手作りしたのか」
「ナイフだけはちょっとその、市販品を。 鞘とかは手作りした」
「まあいいだろう。 これはこれで面白い」
受け取る。
石山はちょっとだけ恥ずかしそうに、視線を背けた。
「しっかし凄いな。 俺じゃどうにもならなかったのに。 あの変わり者の黒田がぞっこんな訳だぜ」
「いいや、今回は運も良かった。 それにあの老人の物わかりも良かった。 二重に助けられたよ」
「……今後も、何かあったら頼む」
「ああ」
握手をすると、その場を離れる。
こうやって。
「違う」が受け入れられるのは、滅多に無いのが現実だ。
今後も、「違う」を悪として認識する人間は多数出るだろう。「矯正可能」だと考えて、無理を押しつける下郎も。
私は、そんな現実を変えなければならない。
ふと、見上げると。
雨が降り始めていた。
(続)
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