深奥の謁見
序、開始
スールと手分けして、レシピをまず確認する。極めて難しい素材ばかりだが。今ならやれると思う。
得意分野をそれぞれ見つけて。
そしてフローチャートを組んでいく。タスクは凄まじい数で、ハルモニウムやヴェルベティスを超える難易度という事もあり。大量の中間生成液が必要になるのは確定だった。
幸い、物資を納品した後の給金振り込みで、多少はお財布も潤っている。すってんてんに近かったこの間までと違って、コルネリア商会を利用して、タスクの圧縮を出来るのが救いだ。
時と、空間。
三傑が当たり前のように扱っていたもの。
それどころか、ソフィーさんに至っては、概念すら変更していた。
あれらはもう、自分には絶対に手が届かないと、リディーは思っていた事だったのだけれど。
今なら、一つずつ順番にこなせば出来ると思う。
まずは空間操作から。
実はコンテナには、多少未熟だが、この空間操作に近い技術が使われている。
またフィリスさんのアトリエも、空間操作を行っているものなのだという。ただフィリスさんのアトリエは、そもそも同じ空間操作でも、次元違いの技術が使われているそうだけれども。
まずは、一歩一歩だ。
見聞院などには、500年前以前の歴史に夢を見ている本がたくさんある。遺跡を見て、凄い文明があったのだろうと思い込んでいるものだ。
だが、違うのだ。
一番凄いのは、間違いなく三傑が揃っている現在。
そして三傑は、500年前以前のどの錬金術師でも、及びもつかない実力に到達している。
これからリディーは、スールと一緒に、その場所に行く。
当然すぐにはおいつけない。
だが躊躇う事は出来ない。
なぜなら、知ってしまっているからだ。
この世界には未来が無い事を。
そして、未来を打開するには。
誰かが、無理をしなければならない事も。
リディーは、昔は「みんな」だった。
自分の価値観から見て劣っている相手を探して馬鹿にし、醜ければ何をしても良いと考え。
そして虐められる方が悪いとか。
自分には常識があるとか。
そんな風に考える、典型的な「みんな」だった。
今は違う。
同じに戻る訳にはいかない。人間の醜さは、不思議な絵画で直接散々見てきた。そもそも人間の言葉という確実に伝わるものではなく。相手の心を直接覗くことで、その醜さを確認し。
自分が如何に愚かだったかも思い知った。
今後は世界のためにも。
また世界を人間が食い潰すのを阻止しなければならない。
スールは選ぶつもりのようだが。
リディーは皆を根こそぎ変えるべきだと思う。
だが、今まで見てきたデータでは資料が足りなさすぎる。人間を超越して、もっともっとデータを見なければ。
きっと正しい判断は出来ない。
それに、神ですら、意味が分からない回数の試行の果てに、事態の打開に至っていないのである。
世界に湧く邪神ではない。
本物の神が、だ。
そんな世界を打開するためには、やらなければならない。あの怪物ソフィーさんですら、どうにもできないのに違いは無いのだから。
黙々とタスクをこなす。お父さんに言われて、食事にするけれど。タスクを一つこなすのですら大変だ。
生活習慣が壊れるとまずいので、それぞれ声を掛けながら注意して作業をしていく。お父さんは黙々と自分の錬金釜でお薬を作っている。まだインフラの整備は彼方此方で、とくに辺境では進んでいない場所もあるだろう。お父さんが作るお薬は、騎士団には幾らでも必要だ。
この状況で一番危険なのは、三人揃って食事を忘れて、全員倒れる事なので。
それに備えて、対策はしてある。
タスクが一つ終わった後は、必ず周囲を確認することだ。
チャートを見ながら、タスクに×を付けて行くのだが。そのタスクには、リディーがやるかスールがやるか、実際にやってみてどっちが向いているか確認してから決めるかが、細かく書き込んである。
このチャートにアラーム機能をつけてある。
今のリディーとスールなら、これくらいは簡単。
バステトさんに毎回相談しに行っていた頃とは違う。勿論バステトさんとは今も良くしているけれど。
魔術に関する知識もついてきている。
これくらいなら、もう素で出来る。
鉱石を粉々にして、中和剤で変質させる。その後酸に入れて溶かし、更にアルカリを入れて中和。
濾過した後、水分を飛ばし。
固形化した後、じっくり熱を加えて変質させる。これに一刻。
じっくり変質させて、炉から出した後。品質を確認して頷く。何度か失敗したタスクもこれで完了。
空間への干渉は。本当に難しいが。
それでも、一つずつ、こうやって順番にこなして行く。
スールが都合良く丁度タスクをこなしたので、次のタスクを確認。リディー担当が少し長くなりそうだ。
お父さんは、もう少しでお薬の調合が終わるか。
ギフテッドもあって、この辺りももう素で分かる。今のうちに、夕ご飯を作っておく。スールは先に軽く仮眠を取って貰った。
お父さんが一段落した所で、家族三人で食事にする。
「腕が上がってきたな」
「この間、お母さんにコツを聞いて来たから」
「ああ、そういう事か。 確かに味が似ている」
時々、天海の花園に出向いているのだ。そして、お母さんの残留思念に料理のコツを聞いている。
直接触ることは出来なくても。
話はする事が出来る。
それだけで充分過ぎる程だ。
霊という存在もあるらしいが、実際に過去の死んでしまった人とは同義ではないらしいし。
限りなく幽霊に近いが、しかしながらきちんと話も意思疎通も出来る今のお母さんは。半分生きているのと同じだ。
だから物を教わることも出来る。
そしてそれが故に、離れるまでには、出来るだけ色々と甘えておきたいとも思うのである。
スールもその辺りは同じようで。
時々お母さんの所に出向いては、射撃を教わっている様子だ。
お母さんの教え方は、子供の頃と根本的に違うらしく。
より実践的で、より攻撃的な射撃について習っているらしい。
今のスールになら、全てを教えられる。
そうお母さんは言っているらしく。
前は基礎だけを教えていた所を、現在は奥義にいたるまで教えてくれるらしく。また、銃を使った応用的な戦術についても講義をしてくれるそうだ。
勿論スールも、そろそろ離れなければならない事は分かっている。
そろそろ社会そのものから完全に自分を隔離しなければならない。
今後どんなダーティーワークが来るか分からないのだ。
多分だけれども、アダレットが義務だけ満たしていれば何を言ってこないのも。とっくにリディーとスールが深淵の者に取り込まれていることに気付いているから、なのだろう。今後の余計な軋轢を増やさないためにも。上手くやっていくために、あまりがみがみは言わない。
そういう事なのだろう。
食事を終えると、後は様子を見ながら、タスクを処理し。そして眠る。
規則正しく動けるが。
眠って起きた後の充実感や。
美味しいごはんを食べた後の満足感は。
確実に薄れてきている。
既に人間を止めている自覚はあるが。それが加速度的に進行している印象だ。勿論、億の年数経験を積んでいる三傑に即座に追いつけるはずもない。だが、三傑が通った道を、確実に通ってはいる。
それを実感できる。
時間と空間。
どちらも突破することが出来れば。
賢者の石に手が届く。
恐らくこれは勘だが。ルーシャも同じような事を、今させられているかも知れない。最近はインフラ関連の仕事でかり出される事も減ってきた。数日前に、近場にネームドが出たと言う事でリディーとスールは騎士団と一緒に討伐に出たが、それも半日で終わって戻って来た。ルーシャもこの手の仕事は減っているはずだ。三傑が強めのをあらかた刈ってしまったというのもあるのだろうが。ほぼ間違いなく、賢者の石作成に関する準備を進めるため、三傑がアダレットと交渉していると見て良い。
翌日も、分担してタスクをこなす。
スールもレシピの読み方はもうすっかり理解しているし。
作業時にメモを取ることを絶対に忘れない。
昔の、本を読むのやだ、メモを取るのやだと喚いていたスールの姿は、完全にない。今のスールは、誰でも納得する一流だ。
勿論リディーも負けてはいられない。
魔法陣の書き方を、スールが覚え始めている今。
得意分野まで追い越されたら、立つ瀬が無い。
昔は努力もさぼっていたスールだったが。
最近は、ごく当たり前に、淡々と努力をするようになって来ている。
リディーが持っていた強みなんてもはやない。
それを意識しながら調合する。むしろ一度こなした調合を高い精度で再現出来るスールの技術は、リディーから見ても羨ましいものとなりつつあった。
まずは、ハルモニウムによる空間操作を始める。
コンテナの横に、扉を作る。
貰ったレシピによると、この世界とは少しずれた世界に、座標を指定して入ると言う。勿論その世界は此方とルールが違っているので、入るときに色々と気を付けなければならないし。
そもそもだ。
レシピを読むと、この世界は常に移動し続けていると言う。
その座標を割り出すのは困難で。
つまりこちら側の世界に扉を固定し。異世界の同一地点に飛べるようにする、というのが基本になる様子だ。
フィリスさんのアトリエはこれらの難しい技術を複雑に利用していて。
アトリエの邸内は、空間そのものに干渉して拡張し。
コンテナはこの異世界への扉を用いて。内部に山を丸ごと飲み込むほどの、広大な倉庫を作り上げている様子である。
なおレシピには指定された異世界の座標があったので、素直にその地点に出る。
完全に同じ異世界の座標を指定した場合、弾かれてしまうらしいので。
恐らくは、そのままやってしまって問題ないだろう。
ただ、魔法陣を組み込むには、高品質のプラティーンか、出来ればハルモニウム。しかもドアとなると、相応の量がいる。
インゴットを一つ引き取ってきて、親父さんにガワは加工して貰う。
そしてドアに魔法陣を刻み込んで。
あらゆる防備を敷いた上で。
ドアを開けた。
出たのは、ずらりと扉が並ぶ、廊下のような場所だった。生唾を飲み込む。多分此処が、深淵の者の本部。
その一部だろう。
此方に歩いて来るのは、見覚えがある魔族の戦士だ。多分パイモンさんの護衛として、雷神戦で見かけた人だろう。
やはり深淵の者関係者だったか。
「おお。 近々来るだろうという話は聞いていたが。 歓迎するぞ」
「あ、はい……」
「お久しぶりです」
頭を下げる。
周囲を見回すが、ずっと廊下が続いていて、無数の扉が並んでいる。これがまさか、全て何処かにつながっているのか。
生唾を飲み込んでしまう。
深淵の者が、どれだけ世界に強固に食い込んでいるのか。これを見るだけで、明らかだからだ。
「扉にはナンバーを振っているのだが、此処の扉にはないな。 後でプレートを用意させよう」
「ありがとうございます」
「此方だ。 軽く案内する」
魔族の戦士は、ある程度敬意を払ってくれている。
聞かされているからだろう。幹部候補だから、と。
まだ時間に関する錬金術は途中なのだが。招かれたからには、ある程度中は見ておきたい。
長い廊下を抜けると、空中を無数に行き交う廊下のような通路がある。複雑かつ立体的に交錯していて。
途中に、どうやって作ったのかよく分からない建物も多数存在していた。
話には聞いていた。深淵の者本部は、二大国の首都にも規模は劣らないと。
この立体的な作り。
広大な、どこまでも続く、不可思議な空間。
確かにあり方は違うが、非常に広い世界だ。
スールに促されて、下の方を見ると。獣人族の眼帯をした兎顔の戦士が、ヒト族の子供達を引率している。
筋トレをして、基礎訓練をして、更には順番に戦い方を教えている様子だが。
全員に同じ事をやらせるのでは無く、マニュアルを見ながら適性を見極めている様子だ。
得意な武器を見いだして、それを伸ばさせる。武器が駄目なら魔術。魔術が駄目なら会計。何が得意なのか、冷静に見極めていく。その作業は真剣そのものだ。
競争もさせるが、それはそれとして、まずは得意分野を伸ばす。
そうして、一芸を身につけさせてからは。
その一芸をどう活用するかを、学ぶのだろう。
別の建物に入る。
ホムが教鞭を執っている。生徒は、ヒト族と獣人族、ホムが2対2対1くらいの割合で、子供と大人が雑多だった。
教えているのは数学のようだけれど、かなり難しい内容だ。すらすらとホムが解いているのに、獣人族は苦戦している様子である。
「此処は特別数学コースでな。 商人や、その補助をする人間にスキルを仕込んでいるところだ。 あの講師は、アルファ商会の現役商人だ」
「へええ……」
「凄い教育水準ですね」
「此処から一人前になって、各地で活躍している者は多い。 深淵の者も、何も皆が戦士という訳ではないのだ」
それから彼方此方見せてもらって。
用意して貰っているアトリエにも案内して貰う。
此処で、時間と空間を操作しつつ、賢者の石を調合するのか。
そう思うと、少し緊張する。
後は、帰り方について教わる。家に戻らないと、お父さんを心配させる。それに、帰れなくなってお母さんに会えなくなったら、お母さんまで心配させる。
帰り道は、覚えてしまえばそれほど難しく無く。
案内してくれた魔族の戦士に頭を下げて、そのまま家に戻った。
多分だが。時々ソフィーさんに拉致されるのは、あの異世界の、何処か別の場所なのだろう。
つまりハルモニウムで魔法陣を刻み込んで作っている異界への扉を。
ソフィーさんは、指を鳴らすだけで。身に纏っている装備などもあるのだろうが、開ける事が出来る。
それも扉の大きさだけでは無く。
周囲の空間を丸ごと巻き込んで、移動する事が出来る、というわけだ。
つくづく怪物じみているが。
そもそも特異点とまで呼ばれる怪物的な天才が、億年以上も経験を積み続けているのである。
それくらい出来るようになっても、不思議ではないか。
お父さんは少し心配した様子で待っていたので、何があったのか素直に話す。
じっと黙って聞いていたお父さんは。
無茶だけはしてくれるなよと、切実な様子で言うのだった。
分かっている。
お父さんにもお母さんにも、もう心配は掛けない。
スールはそう言った。
リディーも頷く。
「もう昔とは違うよ。 お父さんを悲しませることはしないから、安心して」
「……深淵の者が、どれだけ残忍な命令を下してくるかわからんのだぞ」
「お父さん。 深淵の者は、確かに残酷だよ。 でも、理不尽ではないよ」
分かっている。
リディーとスールには、理不尽で明らかに無茶な命令を散々下してきていた。それは、多分そうしないと、リディーとスールが錬金術師として大成することはなかったからだ。
空間操作に関する錬金術をもう少しレシピを見ながら道具を作成し。
時間操作に関する錬金術についても、同じように作業を進めていく。
もう少しだ。
少なくともソフィーさんが、お父さんやルーシャを人質に、リディーやスールを無理矢理屈服させることはなくなる。
そんな事をしたら、今後の事に。世界の詰みを打開する事に、大きな支障が出てしまうからだ。
実力的には簡単だろうが。
あの人は合理の権化。
合理的に不要と判断させることが出来れば、それで充分なのである。
ほどなく、時間の操作について、ある程度目星がつく。
裏庭を使って実験。
指ならして時間を止める、とまではまだいかないが。それでも、それなりの規模の装置を使えば。
ある程度の広さの空間の時間を止めることは、不可能ではなくなった。
さて、此処からだ。
空間操作についての応用を進めて、コンテナを拡張する。
既に用意されていた大きめの異世界の空間に、ドアをつなげる。内部には、とてつもなく巨大な倉庫が用意されていた。多分富豪の家数個分くらいの広さはあるだろう。フィリスさんのコンテナは山を飲み込むらしいが。其所までではないにしても、二人とお父さんで使うには充分だ。大量の棚もある。これは恐らく、深淵の者からのプレゼントだ。
お父さんにも入って貰い、内部で時間に関する装置を置いて、ものが腐らないように調整する。
お父さんも、もっと簡単な時空間操作はできるらしいのだが(コンテナに応用している技術だ)。此処までの規模は初めて見ると、素直に感心してくれた。
コンテナを統合。此方に、お父さんの物資も、リディーとスールの物資も、全て移してしまう。これで今後、コンテナに困る事はない。棚には札を貼って、此処には何を置く、というのを徹底もした。これで何が何処にあるか、困る事もないだろう。
ここまで来た。いよいよだ。賢者の石に取りかかる。
スールと頷きあう。そして、お父さんに告げた。
「行ってくるね、お父さん。 必ず、帰ってくるから」
「時間は空くかも知れないけれど、心配しないで。 絶対に戻るからね」
「ああ。 無理だけは、するなよ」
お父さんの心配も当然だ。だが、行かなければならない。そして、決着を付けなければならない。
ここからが。本番なのだから。
1、賢者の石を二人の手で
用意されたアトリエには、イル師匠が待っていた。アリスさんも、ぺこりと頭を下げてくる。
イル師匠の表情は、今までに無く厳しい。分かっている。恐らくは、イル師匠は、リディーとスールが、賢者の石を作り、深淵と謁見することを快く思っていない。だけれども、もう決めた。
三傑だけでは、打開できなかったのだ。
世界の詰みを。
世界が詰むのであれば、今まで積み上げてきた多くの人達の哀しみや努力も、全て無に帰すという事になる。
そんな事、絶対に許されない。
人間の愚かしさがそれを招くというのなら。
リディーは人間そのものを変える。
スールは、人間の中から、選別を進める。
どちらのやり方を、具体的にどう執行するかは分からない。或いはだけれども、それぞれのやり方を、状況に応じてこなして行くのかも知れない。
いずれにしても、「今回」世界に対してソフィーさんが取っている戦略を、まだ聞かされる立場にはない。
その立場に、賢者の石を作成すれば、辿り着く事が出来るのだ。
大事な人達を守るためには。それが、第一だ。
「此処まで貴方たちが来たのは始めてよ。 だからいつものように効率的かつ合理的には進められないかも知れない。 それは先に覚悟しておいてね」
「はい、イル師匠」
「お願いしますっ」
「……それでは、まずはアトリエの内部で、成果を見せて」
頷くと、言われた通りに作ってきた、時間停止の道具と。空間操作の道具について、それぞれ成果を見せる。
更には、空気を部屋から吸い出す装置。
身につけて、空気を纏う装置。
その空気を、部屋の外から引っ張ってきて、循環させる装置。
これらについて、全てを見せた。
空間操作とあわせて作る事になった道具類だ。イル師匠は、懐かしそうに、それらを見ていた。
「私とフィリスが賢者の石を作った時には、もっと装置が洗練されていなくてね。 貴方たちを育成するときのために、私が洗練したのよ。 どうやらすぐに使いこなせるようになっていて、安心したわ」
「イル師匠とフィリスさん、もっと劣悪な状況で賢者の石作ったんですか」
「そうよ。 ソフィーに至っては、センスだけで賢者の石を作ったらしいけれど。 私とフィリスには其所までの境地には至れなかったから、理屈を積み重ねて作ったわけ」
はあと、感心して溜息が漏れてしまう。
やっぱりこの人は、三傑と呼ばれるに相応しい人だ。
ソフィーさんはやはり異次元過ぎる。
イル師匠も凄まじい。ギフテッドも無いのに、賢者の石を作成する次元まで到達できるわけである。フィリスさんもイル師匠と同格なのだから、凄まじさはよく分かる。
一つずつ、順番に作業について教わっていく。
賢者の石のフローチャートを見せられるが。
今までに見てきたフローとは、まるで次元が違う、とんでも無い代物だった。これは正直、確かに誰も作れないのも納得である。
歴史に残る作成例はなし。
歴史に残っていない所だと、粗悪品を作った例はあるにはあるが、それは論外。実用レベルの品になると三傑しか作成者はいないそうである。
さもありなん。
こんなもの、例えレシピを公開したところで、作れる訳が無い。レシピの理解にすら、大半の錬金術師は至れないだろう。
そして残念だが。自分が分からないものをゴミと認識し。自分が分からない事を言っている相手をバカだと認識するのが「みんな」だ。
「みんな」の自己努力、自己責任では世界は救えない。
それをリディーは再確認した。
地獄で揉みに揉まれて、ようやく「みんな」を脱したリディーだ。スールもそれは同じである。
別に凄い存在になったわけではない。
ただ愚者から抜け出しただけである。
現実問題、今もこのフローを見て、タスクを一つずつ確認するので精一杯の技量しか存在していない。
三傑から比べれば本当に雑魚も良い所だし。
多分だが、プラフタさんとアルトさんも、双子なんかとは比べものにならない技量と知識を持っているだろう。
まずは材料を用意することになる。
アトリエの側に、専門のコンテナが用意してあった。
これもソフィーさんは、全部一人でやったんだろうなと思うと、ぞっとするが。ともかく、順番に作業をこなしていく。
レシピを見ながら、素材をまずコンテナに運び込む。
何往復かして、コンテナに素材を揃えたが。予備も必要になるだろう。
タスクを見る限り、とてもではないが、これを一発で突破出来るとは思えないのである。予備を用意するのは当たり前だろう。
イル師匠が、幾つかアドバイスをしてくれるので、それらを全てメモ。
なお、作業そのものは、手伝ってはくれないらしい。
まあ、そうだろうなとリディーは思ったが。
勿論不満は無い。今後の事を考えると、賢者の石くらい、作れなければ意味がないからである。
ただ、恐ろしい事を聞かされる。
「ルーシャね。 あの子も今、賢者の石の作成を始めているわよ」
「っ!」
「彼方にはプラフタがついているわ」
「……そうですか」
プラフタさんには安心感がある。確かに厳しい人ではあるけれど、根本的な所では良心的だ。
茶目っ気はあるけれど、何処かでひねくれているアルトさんや。
既にねじが外れているフィリスさんがサポートするよりは安心できる。
だけれど、ということは。
ルーシャは事実上一人で、賢者の石を作る、と言う事か。
それは色々と凄まじい話ではある。
ルーシャの実力はもう知っているつもりではあったのだが。流石と言うほか無い。
何か言いたそうにしていたが。
だが、イル師匠は、フローのチェックをリディーとスールと一緒に行うと、幾つかの講義をした。
それと、最初の内は、チェックをしてくれるという。
今のイル師匠の実力だと、それこそ時間操作や空間操作に、更に外側から。「上位次元から」らしいが、ともかく干渉できるらしい。
何しろ危険な調合だ。
致命的な事にならないように、このアトリエも、超がつくような特別製に仕上がっているらしいし。
この人がある程度監視をするのも当然だろう。
なお、気がついて周囲を見回すと。
どうやら近付くことに制限が設けられているらしく。
見張りが遠くで検問を作り。
だれも近づけない状況を作り出していた。魔族の戦士が、空を飛びながら、チカチカひかる何かを振っている。
あれは関係者以外近辺を飛行禁止の合図らしい。
ちょっと、口の端が引きつる。
そんな注意が出るほどの危険調合、と言う事だ。気になったのか、スールが聞く。
「イル師匠。 もしも最悪の失敗が発生した場合、どうなるんですか」
「賢者の石は、本来混ざり合うことが無い世界の最高位に位置する要素を無理矢理混ぜ合わせて安定させたものよ。 それが失敗した場合、どうなるかは想像できないかしら」
「いえ、リディーとスーちゃんが死ぬ事くらいは想像はできますけれど……」
「そんな程度で済むわけ無いでしょう。 この辺り一帯が、空間もろとも消し飛ぶわよ」
言葉を失う。
確かにそれは、検問が設置されるわけだ。
「特に危険なタスクには、チェックをつけておいたわ。 ダブルチェックをしながら、徹底的に作業をしなさい。 私は主に、外側から事故が起きたときのための防備を担当するから」
「分かりました」
「それでは作業開始」
イル師匠に促され。講義も終わった所で、賢者の石の作成を開始する。
時間停止も此処からは用いて作業を行っていく。
まだ三傑のように、実戦で使えるほど時間停止に習熟はしていない。多分三傑は、時間停止を出来る装備を身につけているのか、それとも仕組みを完全に把握して、魔術で発動しているのか、どちらかなのだろう。
だから時間の停止も、ここぞと言うときに、二人で示し合わせて遣っていかなければならない。
ただ、コンビネーションに関しては。
二人は生半可な相手に負けない自信はついてきている。
勿論その自信は、世界の全てを知って得たものではない。それなりにコンビネーションで調合をしてきて、身につけた、というだけだ。
黙々と調合を開始。
釜は一つ。
素材の加工。すり潰し。釜の温め。濾過。炉の準備。全てを手分けして作業を開始する。
また空間操作によって、身に纏っている空気についても、常時気に掛ける。
細い筋が部屋の外に伸びていて。
あれで身に纏った空気を循環させているのだが。これが上手く行かないと、あっというまに窒息死だ。
イル師匠はイル師匠で、外でお仕事の最中だろう。防備だけは展開した後、もう姿を消している。ただアリスさんが、いざという時に備えてだろう。部屋の外で、休憩時に備えて準備をしてくれている。
それだけで、かなり心強い。
釜の表面に空気の壁を張る。
タスクを見る限り、今後は基本的に、素材を空気に触れさせないのが絶対条件になってくる。
非常に厳しい調合なのは、タスクの一つ一つが異次元に難しい事からも分かる。それも、コルネリア商会を利用する事は、恐らく許されない。時間も滅茶苦茶限られている調合が幾つかある。
異次元の才覚があれば出来るのだろうが。
多分、イル師匠やフィリスさんが賢者の石を作った時には。
時間を止めて、その調合に対応したのだ。
賢者の石を作った時のフィリスさんは、素の実力で上級ドラゴンを倒したという話を聞いている。
その時の実力を考慮しても、既に現時点でのリディーとスールよりも上。そしてイル師匠も、それに比肩していたことは疑いようがない。
額の汗が、空中に漂っていく。すぐに捕まえる。
空気がない空間だが、こういった不純物が釜に入ると大変だ。確認し次第、全て処理しなければならない。
二人で並んで、基礎になる素材を調整していく。
その中には、伝説の薬草であるドンケルハイトもある。
これを使うほどの調合だ。
賢者の石を作る事が出来る才覚の持ち主は、或いはソフィーさん以前にもいたのかもしれないけれど。
おそらくは、素材が揃うことがそもそも無かったのだろう。
スールに肩を叩かれた。
丁度、すり潰した鉱物を、これから振り分けようとしていた所だったのだが。気がつくと、体感時間で22時間が経過していた。流石にそろそろ休憩した方が良いだろう。
納品はしばらく先。国からの支援要請も、多分三傑が優先して受けてくれる。
それでも、時間は無駄に出来ない。
成果物をコンテナに移して時間を止める。
超短時間で劣化する中間生成物がたくさんあるので、こうやって常に時間を止める癖をつけるようにと、イル師匠に言われた。
イル師匠はこうも言った。
何でも効率的にやるのが最善だ。
前任者が失敗した事を、後任者も体で覚えるやり方で失敗させるのは、あまり賢いやり方では無い。
歴史に学ぶことで、失敗は避けられる。どうしても体で学ぶのであっても、貴重な素材を無駄にするやり口は許されない。
賢者の石は、三傑クラスの錬金術師だから簡単に作れるのであって。本来なら素材も揃わない。
だから、常にチェックを。
難しいタスクの時は、時間停止を効率的に使え。
講義の時に、特に厳しく言われた。そして今のリディーとスールは、言われた事は守れるようになっている。
コンテナに素材を移した後、隣の休憩室で、時間を止めたまま休む。休憩室では、アリスさんが同じ時間の止まった部屋にいてくれて。料理をしてくれた。
流石にイル師匠のメイドさんというべきか。
作ってくれた料理はスープだったが、とても暖かくて、おなかも一杯になる。お店で出てくる味だ。
栄養も量も充分。
問題は、食事でつく汚れとかだが。
それも隣のアトリエに入るとき、徹底的な汚れの除去を行うので、特に問題は無い。
六時間眠るようにと促され。そのまま言われた通りに休む。アリスさんは、しっかり六時間で起こしてくれるという。
その言葉を信頼し。
素直に休ませて貰う。
賢者の石が完成するまで、家に戻る気は無い。
それくらいの覚悟でいなければ、これはとてもではないが、作れる代物では無いと、よく分かっている。
ハルモニウムやヴェルベティスとも、更に異次元の難易度を誇る錬金術の奥義。
作るためには、色々と捨てなければならないのだ。
目が覚める。
きっかり六時間、という事である。
アリスさんはこれから交代で仮眠を取るらしい。アリスさんの姉妹だか兄弟だか分からないけれど、雰囲気が恐ろしい程似ている人が入ってきた。ともかく、この人に後は任せて、調合再開だ。
まだフローは一割も埋まっていない。
タスクの処理も、始まったばかりだ。
並行でこなさなければならないタスクも大量にある。
二人でこれだと、ルーシャはどうしているのだろう。泣いていないだろうか。いや、それは失礼だ。
ルーシャがどれだけ苦悩しながら、リディーとスールを守って、体を張ってくれていたのか。
もう知っているのだ。
だから、可能な限りの敬意を払わなければならない。
しかしながら、この場では、これは雑念だ。雑念は払え。
ともかく、今は何も考えず、調合だけに集中しろ。頭をクリアにしろ。調合だけをする機械になれ。
そう言い聞かせながら、作業を進める。
さっと手を伸ばして、失敗しかけていたスールの手を止める。危ない所だった。スールも気付いて。頷くと、作業に戻る。たまたま、一段落した所だったから気付けたけれど。貴重な素材を無駄にするところだった。
淡々黙々と作業をしていると。
空気を通じて、声が入ってくる。
また22時間作業が継続している、と。
ちゃんとタスクを処理したタイミングで声が入ってきた。この辺り、アリスさんの一族らしき人も、分かっているのだろう。
タスクを確認。確実に埋まってきている。
頷くと、成果物をコンテナに収める。
まだ釜は使ってもいない。
アトリエを出て。また時間を止めて六時間ほど休む。
休む前にアリスさんの同族らしい人に話を聞いたが、薄く笑われるだけだった。嘲笑された雰囲気は無く、相手に喋る権限が無いらしい。それならば、追求しては可哀想だ。素直に、見張りは任せる事にする。
続けて、また作業に戻る。
イル師匠は、多分外での監視か。或いは国のお仕事か。
堤防ももうそろそろ完成。そして完成の間際が一番危なかったりする。だとすると、フィリスさんかイル師匠のどちらかが貼り付きで見張るはず。
ようやく、釜を使う作業に取りかかる。
二人で示し合わせて。
一つずつ、順番に。
釜に素材を入れ始めた。
イルメリアは、監視システムを用いて双子の様子を時々見ながら、アダレット王都の内海を守る堤防の上に立っていた。双子の様子は、モノクロームのように掛けている監視装置で直に見る事が出来る。
そして、此処から遠隔で、上位次元からの干渉も出来る。
とはいっても、ギリギリまで手を出すつもりは無い。
双子の努力に、期待するだけだ。
勿論、双子が自分から聞いて来たような、最悪の事故になりかけた場合は即座に止める事になるが。
思った以上に双子は成長していて。
ひよっこのはな垂れの頃とは、素の動きがまるで違う。
ハルモニウム装備とヴェルベティス装備の身体強化をフル活用して。
徹底的に丁寧かつ慎重に作業を進め。最初の頃持っていた謎の「自分は上手い」という驕りを。「たくさんの調合をこなしてきた」という客観的に見ても納得出来る自信へと変えている。
また、それぞれの得意分野と苦手分野を綺麗に担当し分けていて。
リディーは最初に難しい調合を。
スールはそれを見て、同じ事を繰り返せばいいものを。
それぞれ言葉にしなくても担当しわけ、見事に動いていた。
二人はもう、立派な一流の錬金術師。
この国に三傑がこなければ、あの二人はただの三流のまま終わっていただろう。その代わり、人生に波乱もなく。父親に悪態をつきながら「普通」に生きたのだろうが。
三傑が来た事で、あの二人は「普通」から脱し。
母親の残留思念とも再会することが出来、父親とも和解を果たすことが出来た。
そのどちらが不幸なのかは、イルメリアには分からない。
目を細めたのは、大きめのが来ているからだ。
声を張り上げる。警戒。騎士達が警戒する中、イルメリアはシールドを展開。恐らく、体長にして四百歩分はある、巨大な双頭の魚が、波を蹴散らすようにして堤防に突貫してきた。
人夫達をひとのみに、というのだろう。
騎士達が、悲鳴を上げる人夫達が、海に落ちないように誘導。
アリスがいてくれれば、多少は楽なのだけれど。
まあそうもいくまい。
シールドで、波を全て防ぎ。更に、突貫してきた巨大な魚も、その場で叩き伏せる。文字通り壁にぶつかった魚は、その質量もあって、一瞬で頭が潰れ、後半身が逆立ちするように跳ね上がった。
波が文字通り、堤防を覆うように広がったが。
全てシールドが防ぎ抜く。
ほどなく、海には平穏が戻り。
巨大な魚が、痙攣しながら、浮かんでいるだけになった。
「回収を。 人夫に怪我人は」
「点呼の結果、問題ありません!」
「分かったわ。 誘導お疲れ様」
魚の死体は、騎士団の猛者達が引き上げて、引っ張っていく。あれだけの巨体だと、解体だけで一手間だ。出てくる寄生虫が、既に非常に巨大で危険な獣の可能性もある。解体も命がけである。
一応念のため、深淵の者から連れてきている護衛に、魔術を使って遠隔で指示を伝える。解体する職人達の護衛をせよ、というものである。すぐに動く護衛の戦士達。
彼らは彼方此方の環境が劣悪な孤児院やホームレスだった子供を引き取り、育成した者達。
深淵の者への忠義は篤い。
イルメリアは双子の様子も同時に確認していたが、思ったよりも順調だ。若干イルメリアとフィリスが賢者の石を作った時に比べると遅いが、まあ許容範囲内である。
人夫達が再び作業を始める。
フィリスが来た。最後の仕上げをしに来たのである。
軽く話をした後、フィリスが堤防に使われている鉱物の声を聞きながら、細かい調整をしていく。完成すればこの堤防は、二千年の時、アダレット王都を守るだろう。フィリスが作るのだ。少し短すぎるくらいである。実際には、もっともつだろうが、最低保障期間で二千年だ。
なおアダレット王都は、先代王がメルヴェイユとか名付けたが。その名前は、この間公式に廃棄された。
王都は一つ。故に「王都」だけでかまわない。
それがミレイユ女王の見解である。実際ラスティンは連合国家であり、ライゼンベルグは「首都」であるので、それで問題はない。
気取った名前なんて必要ない。
武門の国の王都なのだ。アダレット王都という、実用だけを考えた名前で一切問題はない。
平然と海にも潜るフィリス。
それを見て、驚く人夫を、護衛の騎士達が急かして土砂を運ばせる。土砂を運ぶのも、全自動荷車を誘導するだけなので、それほど過酷な労働ではない。給金も的確に払われている。
アルファ商会のボスであるアルファが、今回のアダレットへの干渉で、資産を殆ど失ってしまったと嘆いていたが。
その分はソフィーが保証するようだし。
何よりも、二大国がこれで両方とも安定したことになる。
今後は動きやすくなるだろう。
さて、後は。
「超越者八人体制」が上手く行くかどうか。
上手く行ったからと言って、この世界の詰みが本当に打開できる保証は無い。この間シャドウロードが言っていたらしいのだが。どうも上手く行った別の世界のケースを見る限り、素の状態の人間では無理なのではないか、という説が出てきている。
かといって、人間を改造するのは色々と問題も多い。
超越者八人になれば出来るのか。
何とも言えないとしか、イルメリアには言えなかった。
色々な案を、一億年にもわたる試行錯誤の中で出してきた。
様々なものを作り出してきた。
「創造」イルメリアと呼ばれるのに相応しい活動はしてきたつもりだ。それでも、世界の詰みは打破できなかった。
精神論は何の役にも立たない。
人間の可能性なんて信じるだけ無駄。
それは一万回この世界の終わりを見たイルメリアにも分かっているのだけれども。
それでも、何処かで信じてみたいと思って、色々な事をしている。だが、それが報われるのか、不安は消えない。
フィリスが海の中から戻ってくる。
どうやら、あと少し手を入れれば完成らしい。完成したら、もうこの堤防は文字通りの鉄壁となり。
例えば津波とかが来ても、弾き返すことが可能になる。巨大な獣が全力で突進しても、イルメリアがわざわざシールドを展開しなくても返り討ちである。
普段は、アダレットに其所まで肩入れしないから。
この堤防は、ミレイユ女王の死と同時くらいに崩壊して。アダレットが壊滅する切っ掛けの一つになる。
その場合、アダレットを再編成して、百年ほど掛けてまたラスティンと並ぶ二大国にしていくのだけれど。
今回、その必要は無さそうだ。
双子の様子を聞かれたので、順調と応えると。フィリスは、ぞっとするような事を言った。
「イルちゃん甘くなったね。 わたしが見ておけば良かったかなあ」
「フィリス、貴方……」
「イルちゃんと一緒にいる時、いつもわたしにはあんなに厳しかったのにね。 今は双子に対してあんなに甘い。 イルちゃんは真逆になったね」
「そんなつもりは……」
確かに、フィリスに対してイルメリアは、時々辛く当たったかも知れない。
フィリスはこんな状態だ。
今更嘘なんかつかないだろう。だからこそ、によによ笑っている様子が空恐ろしく感じる。
そんな感情、何処かに忘れたかと思ったのに。
口を引き結んでいるイルメリアをしばらく楽しそうに見ていたが。
フィリスも何処まで本気で言っているのかは分からない。
ただ冗談にしても、本気にしても。
フィリスがもし双子を見ていたら。今までとは比較にならない程の苛烈な試練に晒されていただろう。
それにフィリス自身も、自分が教師には向かないことを知っていたはず。
どうして、今更こんな。
フィリスは立ち上がると、空に手を伸ばす。
何をするつもりだと思ったが、ただ空の果て。
まだ見ていないものを、掴みたかっただけらしい。こんな時は、昔の天真爛漫だった時代が思い出される。
もうあの時は。
戻ってこない。
子供が大人になるように。
力を得た今は、昔とは違うのだ。そして、責任を得た以上、果たす義務だって存在している。
「超越者八人体勢が実現したら、イルちゃんはまずどうしたい?」
「三つの違う視点からの世界改革では、可能性を作り出せなかった。 八つにしても、作り出せるかどうか……」
「弱気だね」
「貴方はどうなのよ」
フィリスは、一度この世界を破壊し尽くすのもありかも知れないという。
やった事は、実は何度かある。
徹底的に打ちのめして、生物としての強靭さを増すという手もあるかも知れないと、ソフィーが結論。
他に手も無かったので、やってみたのだ。
だが、それでも上手く行かなかった。ただ世界が貧しく更に厳しくなるだけだった。
或いはやり方に手を加えるのもありかも知れないが。いずれにしても、今まで作り上げてきたものを無に帰すのは感心しない。
フィリスはそう考えているのを見抜いたか。肩をすくめる。
そして。何も告げずに、その場から消えた。
堤防は完成した。この内海は、アダレット王都を支える要として、当面上手く機能してくれるだろう。
だが比翼の精神がイルメリアには心配だ。ひょっとしてフィリスも、イルメリアとは別方向にすり切れているのではあるまいか。
嘆息すると、双子の様子を再確認。現時点では、上手く行っている。介入は最小限に。そうしないと、賢者の石を作る意味がない。
人夫達を引き上げさせ。最後の仕上げを終えると。文字通り鉄壁の堤防が完成する。
後は、ミレイユ女王の視察などで、事故が起きないように備えておけば良い。
腰を上げたイルメリアは、目を細める。
ソフィーが、多分また何か目論んでいることを察知したからである。
そろそろ、いい加減にしてほしいものだが。
いずれにしても、そろそろ。
この無限の悪夢からは、脱したい。それは、イルメリアの本音でもあった。
2、謁見へ
タスクの六割が終わる。
額の汗を拭いながら、リディーは残るタスクを確認。また、スールには、今までの中間生成物を確認して貰う。
現時点では問題はない。
問題があるとしたら、これからだ。
時間を止めて、瞬時にこなさなければならない調合や。
一瞬で痛んでしまう中間生成物が増えてくる。
基本的に時間を止め。
その中で活動し。
必要に応じて、一瞬だけ時間を動かしたりする。時間操作への習熟が、これから求められるのだ。
それに備えて、時間操作の技術を、スールと一緒に練習しておく。
タスク処理と並行するのは非常に難しいが。今まで多数の修羅場をくぐってきた経験が、短時間での成長を可能とする。
負ければ死ぬ。
当たり前の話。
そして、今生きている。
たくさんの屍を踏み越えてきたのだ。だからこそ、刹那の時間活用が如何に大事かはよく分かっているし。
戦闘中に都合良く覚醒できる事はまず無い事も知っている。
練習をこなして、先にしっかり基礎を作っておく。出来ればいきなりの実戦投入は避ける。
自分に言い聞かせながら、作業を行う。
額の汗は、互いに気付いたら、指摘する。自分でぬぐえそうにない時は、互いにフォローする。
連携しての調合をこなしながら。
少しずつ、確実にタスクをこなして行った。
大きめのタスクが来た。
複数の中間生成物を混ぜ合わせる。それも、時間を止めた状態で、一気に全てを投入する。
そして、可能な限りの短時間で混ぜ合わせ、安定させる。
口にするのは簡単だが。
実際にやるのは非常に難しい。今までの作業も難しかったが、これは桁外れの難易度である。
一旦此処がキーポイントになるだろう。
事実、イル師匠が印をつけてくれてもいた。
スールが鉱物の調整を行っていたので、一段落した所で声を掛けて、少し休む事にする。スールもかなり疲弊しているようだったので、一も二も無く頷いた。アトリエから出るときに、消毒し。
そして、手指がかなりボロボロになっている事に気付く。
難しい調合だけではない。
危険な薬物もかなり扱っているのだ。
ハルモニウム装備と、ヴェルベティスの服で異次元に基礎能力を上げていてもこれか。傷の回復を、お薬を塗り込んで加速させる。
本当の所、これは。
挑戦するのが早すぎたのではあるまいか。そうリディーは思いたくなる。
今更からだが傷つく事なんてどうとも思わない。戦闘では、もっと酷い怪我を散々してきた。周囲の人にも、同じような怪我をさせてきた。アンパサンドさんなんて、内臓がはみ出すような怪我を強敵との戦いでは日常的にしていた。
自分なんて、この程度で済んでいる。
そう考えて、しばし薬で傷が回復していくのを待つ。かなりの良い薬を使っている筈なのに、回復が遅い。
恐らくは、気がつかないうちに危険な中間生成物を、ある程度指に受けてしまっていたのだろう。
常時回復の装備もあって。
悪い意味で気づけなかった、と言う事だ。
色々と口惜しいが、今はそんな事よりも。先のタスクについてだ。フローは休憩用の部屋にも張ってあり。其所で、現在の処理状況も確認できるようにしてある。次の調合について、軽くスールと話しあって。やはりこれは難しいという結論に達した。
「このタスクだけは、二人がかりかな」
「いや、この先これと同レベル以上のものが幾つもあるみたい」
「うえ……」
「とりあえず、イル師匠が印をつけてくれているタスクについては、二人がかりでやることにしよう。 今までの中間生成物が全部無駄になったら、泣くに泣けないよ」
スールも頷く。
アリスさんが戻って来ていたので、食事を作ってもらう。栄養を第一に考えた食事だけれども。
それでいながら、リディーが作るのよりもずっと美味しいのは色々ずるい。
分かってはいるが、イル師匠の食事を常に作っているだけの事はある。イル師匠は手料理とかするようには思えないし。
或いは、この調合をするようになってから見かけるようになった、アリスさんと似たような姿の同族が、作っているのだろうか。
もしそうだとすると、休憩時間も考えると、同族がかなりたくさんいる事になるのだが。怖いので、考えない事にした。
まだ感情は残っている。
イル師匠やフィリスさんだって、感情らしいものを見せる事もある。
賢者の石を作ってパルミラに謁見しろ。
それがソフィーさんの指示。
超越者になるために必要な事。
勿論、それがなっても、完全に感情が消えて無くなるわけではないのだろう。三傑を見る限り。
だが、リスクが激甚なのも分かりきっている。
しかしもはや、引き返せない。
食事をさっさと済ませると、ベッドで横になる。眠っている内に、ぼんやりと夢を見た。
天海の花園で、お父さんとお母さんが静かに暮らしている。お父さんも残留思念になってしまっているという事は、何十年も後の話だろうか。残留思念だからか、若い頃のお父さんに戻っていて。
其所に双子で会いに行くと、親子と言うよりも、兄弟姉妹みたいに見えるのだった。
他愛もない話をする。
何を食べた。
どんな調合で失敗した。
お薬を作って、それで誰を助けた。
王都の人達は、みんな幸せにくらしている。
にこにこと微笑んで聞いてくれるお母さん。お父さんは、咳払いすると、色々とアドバイスをくれる。
今は、そのアドバイスも素直に受ける事が出来る。
嗚呼。なんと幸せな世界だろう。
でも、本来だったらあり得ない光景だ。これが見られるだけでも、リディーとスールは恵まれすぎているのではあるまいか。
そもそも死んだ親と会う事が出来るという事だけでも、驚天の奇蹟なのである。
リディーは。まだ、甘ったれではないのだろうか。
目が覚める。
ぐっしょりと汗を掻いていた。幸せな夢を見ていたはずなのに、どうしてなのだろう。体の状態を確認する。傷は既に回復していた。回復に時間が掛かったと言う事は、よほどに危険な中間生成物なのだろう。今後は更に、扱いに気を付けなければならない。
一旦部屋から出ると、軽く体を動かす。
少し遅れて起きて来たスールも、並んで体を動かす。
周囲には人はいない。
そもそも、通路を外れると奈落へ真っ逆さま。立体的に通路が交錯していて、とてもこの世とは思えない場所だ。
遠くに見張りがいるが。
ルーシャも、こんな感じの場所で、今賢者の石を作っているのだろうか。
だとしたら、心細いだろう。早く何とかして、終わらないだろうかと、心配になってしまうが。
今はそれよりも先に、まずは自分達の事から。
ルーシャの所には、プラフタさんがついてくれていると聞いている。それならば、リディーやスールがついているよりも、ずっと安心度は高い。あの人は、とても良心的な人だった。
厳しい部分もあったが、それ以上に優しさが目だった。
だから、信頼する。
地獄を散々見てきて、それでも優しくあれるというのは、本当に大事な事だと思う。だからこそに、リディーは。自分と違う考えの持ち主であっても、信頼しなければならないのだ。
自分に言い聞かせながら、調合に戻る。
まずはコンディションをベストに保つと。スールと綿密に打ち合わせてから、調合に取りかかる。
時間停止から、解除。
そして、一気に全ての中間生成物を混ぜ合わせる。
凄まじい勢いで色が変わる。
「スーちゃん!」
「うんっ!」
時間停止。
呼吸を整える。凄まじい勢いで色が変わっていき、その内紫色になる。その瞬間に、更に別の中間生成物を足す。
粉状のそれをばらまいて。そしてまた時間停止解除。
更にかき混ぜていくと。
激しく反応していた中間生成物が、やがて落ち着いてきた。呼吸を整えながら、順番にタスクに書かれている要件を確認。
どうやら、成功らしい。
乾いた笑いが漏れてくる。これ一つにしても、時間停止が無ければとても出来たものではない。
丁寧に釜から中間生成物を取りだすと。黄金色に輝くそれを、コンテナに格納。
今後、ミスをする分も含めて多めに作ったが。
それでも、足りるかどうかは微妙だ。
また、一度休む。
此処からのタスクは、また少し難易度が下がるが、長期戦になる。この疲れを残しておきたくはない。
お父さんは無事かなと思ったけれど。アリスさんが、話をしてくれる。
「ロジェ様であれば、現在私の兄弟姉妹が、世話に出向いています。 何ら問題は起きていないと報告があります」
「そう。 それは良かった……」
スールが胸をなで下ろす。
リディーはそこまで楽観的にはなれない。
これは要するに、人質に取られているのと同じだ。確かに世話をしてくれてはいるだろうけれども。
リディーとスールが余計な事をしたら。
お父さんが何をされるか何て、言うまでも無い事である。
一休みしてから、調合に戻る。
まだまだ、難しいタスクは、山のように残っている。
失敗するタスクが増えてきた。
疲れが取りきれない。材料についてはまだ大丈夫。また、中間生成物がカツカツのタスクについては、やり直す必要も生じる。それも含めての「一月」なのだろうけれど。それにしても厳しい調合だ。
失敗したら、一旦休憩。
それをスールと話し合っているので。失敗を責め合うようなことは互いにしない。失敗してしまったら、どうして失敗したのかを確認し。そして、次の成功につなげる。それでいいのだ。
昔だったら、絶対にこんな風には考えられなかった。今は、それだけ技量が上がっているという事である。
今回の失敗で、指が吹っ飛びかけた。
使っていたのが鋭い鉱物片で、それを潰しているときに、やってしまったのである。
この鉱物片、中間生成物の一種で。元のものに、幾つかの薬品を掛けて変質させている最中だったのだが。
その途中で、恐ろしく堅くなる瞬間があるのだ。
そのタイミングで、潰さなければならないという面倒くさい処理が必要で。
処理中に、手が滑った。
集中力が切れていた。それに、血を浴びた分の鉱物は作り直しである。色々と神経が参ったが。兎に角一旦タスクは中断。
血で汚染してしまった鉱物片は廃棄。
怪我の手当と。それと、血で周囲が汚染されないように処置をして。それからアトリエを出た。
指がぶらんぶらんになっていたが。
痛みはカットしたので、作業に支障はでなかった。
部屋を出てから、お薬をねじ込んで、指をつなげる。回復するまで、少し時間が掛かる。スールがアトリエに戻り、事故現場を丁寧に確認してきてくれた。人血が材料に混じるなんて論外。
埃ですら混じらないように作業をしているのだ。
当たり前の話である。
間もなく戻って来たスールが、指で丸を作る。頷くと、用意された食事を取って、反省会をする。
失敗の要因と、次に上手くやるための方法を話し合い。
タスクに書き加えた。
そして、休憩後。指がきちんと動く事を確認してから、作業に戻る。さっきの失敗に対する動揺は無い。
今度は、ペンチなどの器具を使って、さっきのタスクを二人がかりでこなす。一人でやるには厳しい。そう判断したから、である。
今度は、上手く行く。失敗は成功の母だ。問題は、資源が限られていることで。一度の失敗で、問題点を全て洗い出さなければならない事だが。それも、今の実力であれば出来る筈だと、言い聞かせる。
客観的に見て、出来る。それが重要なのである。
また二手に分かれて、タスクを処理に掛かる。
そろそろ八割だ。難しいタスクも増え、失敗も増えてきた。致命的な失敗はまだ一つもしていないが。
それでも、次の休憩時に話し合うべきだろう。
失敗が増えていると言う事は、疲れが溜まっている、という事であって。疲れを回復させるには、休みを増やすしかない。
時間が停止した空間で休んでいるのだから、外とは時間の感覚が違ってきているというのも、疲れの一因かも知れない。
時間の停止、停止解除にも。かなりの魔力を消耗するのである。
二人で話し合いながら、時間の操作は行っているが。
スールには負担が大きいし。リディーにだって楽では無い。
実際にやってみて、こんな事を指鳴らすだけでやっているイル師匠の恐ろしさがよく分かったが。
それをぼやいている場合では無い。
あと少し。言い聞かせながら、タスクを処理。顕微鏡を使って、極限まで不純物を取り除いていく。
勿論ギフテッドもフル活用する。
ギフテッドに警告されて、調べ直してみると。ゴミが混じっているというような事が一度や二度では無い。まあ、ギフテッドに目覚めてからは、いつもこれが当たり前だったから、感覚が麻痺しているというのもあるのだけれども。
それにしても便利な力だ。同時に怖くもある。
不純物の除去、完了。
ゴミはゴミで分けて捨て。中間生成物は時間が止まったコンテナに格納する。スールも、丁度良いところまで来た。
声を掛けて、休む。
まだ余裕がありそうだったけれど。スールも失敗が増えているのは気付いているのだろう。切り上げて、休憩にした。
その間に話をしておく。
同意は得られる。実際、スールももう一流の錬金術師だ。そんなスールでも、この調合はおぞましく危険だという事は分かっている。
一度、疲れを徹底的に取るべきだろう。
その結論に達し、眠れるだけ徹底的に眠る事に決めた。アリスさんにもそれを話すと。時間が止まった休憩室で休む。
どれくらい休んだのかは分からない。
いずれにしても、時間が止まった部屋で休んでいるのだから、外とはあまり関係がない。起きだすと、疲れはまだ少し残っている。体を動かして、ほぐして。また眠る。そうやって、疲れを無理矢理全て除去した。
さて、後のタスクはチェックがついているものばかりだ。
此処からはいずれにしても、失敗は許されないと思うべきである。
うねうね動く例の運動をこなしてきたスールが、部屋に戻ってくる。頷きあうと、最後の調合をする覚悟で、アトリエに戻る。
さあ、此処からだ。賢者の石を作る前段階の、深紅の石を作り上げ。それをベースに、賢者の石を作成する。
三傑だけが恐らく成功している賢者の石の作成。これから、それに王手を掛けることになる。
ルーシャは上手く行っているだろうか。
今までのタスクには、もしも失敗した場合には、体が粉々になってしまうような危険なものも含まれていた。
ルーシャが悲しい目にあっていないかは、祈るしか無いと言うのが実情だ。
外の事を、知るすべが無い。
このアトリエから出ることは出来るが、あくまで気分転換だけ。深淵の者本部から出ることも、内部を歩き回ることも許可されていない。
途中、イル師匠が一度来た。
そして、中間生成物をチェックしてくれた。
だが、それだけ。
信頼してくれているのか。それとも、忙しすぎて、直接は中々来られないのか。それはよく分からない。
分からないけれども、やらなければならない事は決まっている。もうイル師匠に頼りっきりの段階は終わっているのだから。
休憩して、気力は充分。
高難易度のタスクに取りかかる。
どれもこれもが極めて難しい。失敗したら死ぬ事も覚悟しなければならない、高難易度調合ばかりだ。それも、どんどん難易度が上がっているように思える。リディーが得意な分野と、スールが得意な分野を手分けして処理することには変わりは無いが。それも、何処まで今後通じるか。
更に数日を掛けて、深紅の石の作成に取りかかる。
見えた、かも知れない。
体の中が熱い。
そして、その時は、来た。
アトリエにイル師匠が迎えに来る。
休憩室で、ぐったり寝込んでいるリディーとスールを見て、イル師匠は呆れるでもなく、驚く様子も無かった。
「お疲れ様。 出来たものを見せて頂戴」
「はい……」
「まずこれを飲みなさい」
人間用の栄養剤を貰う。イル師匠の作った奴だ。飲んで見ると分かるが、まだまだリディーの作ったものとは質が桁外れだ。
前に100点満点で採点をされていたが。
今なら分かる。
あれは恐らく。イル師匠が、リディーとスールと同じ年だったときの技量と比べての100点満点。
心を折らないために、そうしてくれていたのだ。
現状の実力でも、イル師匠の作るものと、リディーとスールの作るものでは、文字通り天地の差がある。
100点満点だと、多分小数点になってしまうはずで。
その辺りは、イル師匠はずっと研究していたのだろう。
一万回の周回の中で。
どうやってリディーとスールと接すれば良いか。嫌と言うほど、把握していたのかも知れない。
今は踊らされていることを承知で。
疲れが取れたリディーは、スールと一緒に、賢者の石を取りだす。
賢者の石。
ついに完成したのだ。
美しい赤黒い石で。これが全ての媒体に応用できる究極の素材だという事は、リディーにもスールにも一目で分かった。
ギフテッドがあるから、声も聞こえる。
何にでもなれるよ。
どんな媒体にもなるよ。
神様にだってあえるよ。
さあいってごらん。ぼくは夢の媒体だよ。そう、賢者の石は、使え使えと促してくるのだった。
「……79点ね」
「うわ、凄い高得点!」
「嬉しいです、イル師匠っ!」
「……これは100点満点として、私とフィリスが最初に一緒に作った時を100点としての採点よ」
イル師匠は少し寂しそうに笑ったけれど。
それで充分だ。
すぐに来るようにと言われたので、片付けをする。賢者の石を完成させた後、ぐったりして、寝こけていたのである。だが、同時に体の中から灼熱の溶岩のような魔力がわき上がってくるのを感じる。
多分賢者の石を作る事で。何かが決定的に変化したのだと思う。
片付けが終わると、イル師匠が、アトリエを外側から時間凍結する。それも、リディーとスールが使っている時間操作よりも、上位次元からの時間凍結である。仕組みも見ていてよく分からなかった。
いつも指パッチンで止めているのとは、別のやり方だと見て良さそうだ。
つくづく次元違いだなと思うが。
それはそれとして。いよいよこの時が来た。
もう、別れは済ませてある。
やるべき事は、全てこなした。だから、悔いはない。社会から外れる事になる。それどころか、多分世界の理の外に出る事になるだろう。
賢者の石は、ヴェルベティスとモフコットで二重に包んで持って来ているのだが。それでも暖かみが手の中にある。スールが側について、落とさないように気を付けて見張ってくれているが。
この奈落の底が見えない空間で落としたらどうなるかは、あまり考えたくない。
先に行くイル師匠に、深淵の者の猛者達が敬礼して、道を空ける。皆、何が起きたかは理解しているようだ。
少し肩身が狭い。
だが、いずれにしても。複雑な通路を行く間、蔑視される事は無かった。かといって、自慢する気にもなれなかったが。
黙々と歩き。そして、階段を上り。空間がどう見てもつながっていないような場所を歩き。長い廊下を抜けると。
いつの間にか、広い空間に出ていた。
ずらりと並んでいる、桁外れの使い手達。人間四種族全てが揃っている。
何となくそうだろうなと思ってはいたが。パメラさんやオスカーさんもその中にいる。最上座にはアルトさん。左右に並んでいるのは、ソフィーさんとプラフタさんだ。ルーシャの姿はない。賢者の石が出来たのは、リディーとスールが先だったのだろうか。
跪くように言われたので、素直に従う。
此処でああだこうだ言っても仕方が無い。まずは、やるべき事を順番にこなさなければならない。
全ては、それからである。
イル師匠が、皆に宣言。
「賢者の石が完成したわ。 これで三例目ね」
「素晴らしい。 これで超越者はまず五人か」
「……リディー、スール。 顔を上げて」
イル師匠の言葉のまま顔を上げると、魔法陣が準備されていた。複雑すぎて一瞬では何が書かれているのか分からなかったが。よく読むと、神への謁見を行うためのものだと分かった。
神と言っても、世界そのものの意思。
深淵の中の深淵だ。
パルミラ。
教会で信仰されている神だが。
その存在は、深淵の深奥に住まうものであり。この世界が意思を持った存在でもあるのだと聞いている。
世界各地に配置されているパルミラは端末に過ぎず。その実力は、アリと巨獣どころか、人間と、人間の髪の毛の先の、顕微鏡で無ければみられないほどの一部と比べてもまだ差があるほどだとか。
賢者の石を作成したことで、魂が強化されていること。
此処にいる者達は、皆アンチエイジングや肉体強化処理を受けていること。
そうでなければ、パルミラを見ただけで精神が死ぬ事。それらを告げられた後、イル師匠が確認を取ってくる。
「もう引き返せないわよ。 良いわね」
「……退路なんて、最初からないじゃないですか」
スールが口を尖らせる。
リディーは、それをたしなめる気にはなれなかった。
分かっている。
リディーとスールにとっても、一番大事なものを守る事が出来た。それは事実だ。もしも三傑の関与が無ければ、お父さんが立ち直ることもなかったし。お母さんの残留思念も人知れず消えてしまっていただろう。リディーとスールは三流以下の錬金術師として、どうしようもないくだらない人生を送り。自分を常識人だと思い込んで、自分から見て「下」の存在を今でも嘲笑っていたに違いない。そう、「みんな」のままだった。唾棄すべき「みんな」の。
だけれども、その代わり払った代償は人生そのもの。
リディーとスールは、今後完全な意味で人間ではなくなる。そしてそれを主導したのは三傑、特にソフィーさんだ。
冷酷なソフィーさんは、双子が何度死んだところで、意にも介さなかっただろうけれども。
イル師匠は違った。それは、肌で感じる。
だからこそ。人間を止めても、完全に何か違う者になる訳では無いと、今は信じる。信じて、先に進む。
どうせこの世界は詰んでいる。
お父さんの思いも。お母さんの哀しみも。全てが消えて無くなるよりは。
犠牲を払ってでも、この世界を守り抜く。詰みを打開する。その方が、大事なはずだと、リディーは思う。
その犠牲が自分である必要は、ある。錬金術は才能の学問だ。こればかりは、どうしようもない。
たまたまリディーとスールに才能があった。
それだけで、充分過ぎる理由だ。
そして現状可能性がない詰みの打開。可能性を作る事が出来るのであれば。リディーとスールが、人を止める事には。
そう、間違いなく意味がある。
リディーは、そう、淡々と言った。
イル師匠は頷く。同時に、何をすれば良いか教えてくれた。リディーとスールは、二人で作った賢者の石を、魔法陣の中央に置く。
そして、魔法陣が作動。
世界が、塗り変わり始める。
凄まじいプレッシャーが、上から降りてくる。誰かが、呟くのが聞こえた。
「これで三度目だな……」
そうか、その人にとっては三度目なのだろう。いや、恐らく三傑にとっても三度目、なのかも知れない。
この時点で世界の固定が行われて。
賢者の石を他人が作るところは、見ていないのだろう。
意識を保っているだけで精一杯だ。
光が、これほど強烈な圧力を持っているなんて、始めて知った。恐ろしい。光とは、こうも恐ろしいものだったのか。
呼吸を必死に整える。
広間に、なにかが顕現しつつある。
宇宙そのものの意思。この世界を大まじめに詰みから打開しようとしてくれている存在。パルミラ。
教会ではその姿を描写しないことにしているらしいが、子供のような姿をしていると聞いたことはある。
だが、それも風聞。
この凄まじい圧力を感じる光。
一体どのような姿か。
顕現した。
それが分かったので、顔を上げる。そして、言葉を失っていた。
杯の上に姿を現しているそれは、四枚の翼を持つ、ヒト族の子供に見えた。しかし細部が色々違っている。あくまで姿がヒト族の子供に似ているだけ。あり得ない髪の色も、何よりも発している次元違いの魔力も。何もかもがヒト族とは違いすぎる。人間とは根本的に決定的に違うのだと、一目で分かってしまった。
ソフィーさんですら、この超越的存在に比べればまだまだ。
それが分かる程だ。この世界で無敵だろうソフィーさんですら、パルミラ本人と敵対したら、ひとたまりも無くひねり潰される。
その事実だけが、目の前にあった。
そして幸いなことに、パルミラは人間四種族に対して友好的な神だ。それだけは、本当に幸運なことだったと思う。
もしもパルミラに少しでも悪意があったのなら。
人間四種族は、そもそも滅びていたのだろう。
この世界を用意されることもなく。用意された後も、生き延びる事は出来なかった。
深淵の者とパルミラと。それに三傑が緊密に連携してきたからこそ、人間四種族は生きていられるのだと。
リディーは悟らされていた。
「ふあーあ。 おはようソフィー。 賢者の石新規作成者は三度目……かな」
「この後更に二回続くよ」
「まあ起きる分にはかまわないよ。 ソフィーは基本的に転機にしか起こさないし」
転機にしか、起こさない。
そうか、やはりこの人は、もう素で賢者の石をホイホイ作れるレベルなんだ。それはそうだろう。
だが、転機には起こしている、と言う事か。それもまた、色々と異常な話だ。
パルミラの意識が、此方に向けられる。
それだけで、絶息しそうだった。
「今までで一番才覚がないね。 無理矢理才覚を引っ張り出した、というところかな」
「多分次……いや最後の子が一番才覚に欠けると思うよ」
「まあ仕方が無いかなあ。 さて、名前はリディーとスールか。 リディー、何を望む?」
声を掛けられた。
それだけで、今までなら発狂していたかも知れない。凄まじい圧力に脂汗を流しながら、必死に顔を上げる。
「この世界の「みんな」の変革を」
「ふむ、平均的な精神性の持ち主に強い不満があるんだね。 まとめて変革したいと願っていると」
「っ、はい……」
「まあやってみると良いんじゃないのかな。 私としては、どのような方法であっても、人間達が詰みを打開できれば良いと思っているからね」
そうか。だからソフィーさんと話が合うわけだ。
この神は、違う観点から人間を見ている。勿論それは善意なのだろうが。あまりにも高次元からの善意だから、人間から見れば、狂気にしか感じ取れないのだ。深淵の深奥にいるのも納得である。
其所は、そもそも知恵の究極集約点。
人間が本来はたどり着ける場所ではないのだから。
そしてスールに、今度は問いが投げかけられる。
「スールは、何を望む?」
「みんなの変革を。 でも、リディーとは違う……」
「選別をしたいと。 ふむふむ、双子の姉妹で方法論が変わってくると言うのもまた面白い。 良いんじゃないのかな。 現状では可能性がない。 特異点として全てを統括する、新しい方法を模索するために破壊する、創造する。 これに加えて、変革と選別が加わるとなると、手札が増えるものね」
パルミラは素直にスールの言葉も受け入れる。思考も相手が読んでいるから、会話がスムーズだ。物わかりが良い、というよりも、この神にはタブーが存在していない。どんな手を使ってでも、実用的ならかまわないという思考なのだろうと理解する。
それはとても怖い事なのだろうが。
しかしながら、現実問題として、ふつうの人間だけでは解決できない問題に直面している今。
柔軟に考える事が出来。
人間側からの提案を最大限柔軟に受け入れてくれるこの存在は。
とても便利なのだと、実感できた。
それにしても神なのだなと思い知らされる。本当に、道徳とか倫理観念とか、そういうものとは完全にかけ離れた所にいるんだなと知るばかりである。
神はあくまで神。
人間とは違う。
その強烈すぎるプレッシャーの中で強制的に理解させられる。
神が求めているのは、人間四種族が自立意思を持ってそれぞれ活動し、互いの種族を尊重して生きること。
なぜならば、この世界。
この星を出れば、他にも文明が存在しているのだ。
それら文明の人間と仲良くやっていけるのか。
残念ながら、今の段階では不可能だ。
接触しただけで、総力での殺し合いに発展するだろう。
人間はそういう生物だという理屈は成立しない。なぜならば、この世界の人間四種族は、滅びから救われて此処にいるのだから。
しかも、その際に他の生物もまるごと巻き込んでいる者達もいる。ヒト族と獣人族のことだ。自分達の世界を丸ごと潰しておいて、今更どの面下げて自主性がどうのこうのとほざくか。
そんな事をしておいて、今更人間らしい生き方だとか、人間も獣の一種なのだから仕方が無いだとか。腐った理屈を口から垂れ流すことは許されない。
知的生命体にまで成長したのなら、責務を果たせ。そしてそれは自立意思で行え。そして手助けは最大限するのだから、可能性がないなら作り出せ。
それが、この地獄が生まれた理由。
そもそも地獄で無ければ、人間四種族は、ともに手を取り合って生きる事を考えることさえしなかった。自分より弱い他種族を滅ぼすか、奪い合うことしかしなかったのだ。
種族間の闘争だから仕方が無い、ですまされるのは獣までだ。
知恵を使って生きる事を覚えた生物が、獣と同じように振る舞う事は許されない。都合良い時だけ人間も獣だと宣うのは、それは要するに獣と同じように扱うべきであるという言葉を肯定することに他ならない。
パルミラには、色々と思うところはある。素晴らしい神だとは一概にはいえない。ソフィーさんと話が合う時点で、危険な存在だと断言することだって出来る。
だが、逆らう事は考えられない。
悔しいけれど、確かにパルミラのいう事は正論だ。従うほかは無い。
「それじゃあ、力の上限を引き上げておこうね。 後は努力次第だよ」
ぱちんと指を鳴らすパルミラ。
賢者の石を作成している過程で、体の中が温まっていたリディーだが。その熱が、更に強烈になった感触がある。
同時に生物としての機能が、完全に失われていくのも感じた。
世界から切り離された。
知的生命体が獣とは違う振る舞いを要求されるように。
超越者はみんな、つまり普通の知的生命体と違う振る舞いを要求される。
それを、体に直接叩き込まれていく。
パルミラからは悪意は感じない。
隣で、床でのたうち回って苦しんでいるスールに手を伸ばそうとするが。全身がひび割れるようにして痛んで、悲鳴さえ漏らせなかった。
程なく、体が再構築されるのと同時に。
パルミラが言う。
「じゃあ、この時点で世界を固定で」
「すぐにまた呼び出すことになると思うけれど」
「んーん、かまわないよソフィー。 ソフィーが私を呼び出すときは、基本的に詰みを打開する重要転換点だし。 そもそも時間の感覚は私と超越者と人間とで、それぞれ違いすぎるからね」
パルミラが消えていく。
凄まじいプレッシャーが全て無くなると同時に、スールは盛大に床に吐き戻していた。
多分、以降は完全に食事が必要なくなるか。いや、多分排泄の方が必要なくなるとみて良い。
取り込んだ栄養は完全に無駄なく自分のものになる。
それはすなわち。
獣とは完全に切り離され。獣と混ざる部分もあったヒト族とも、完全に違ってくるという事だ。
呼吸を整えながら、スールの背中をさする。
スールは完全にパニックに陥っている様子で。周囲に対して、恐怖の目を向けていた。精神がリディーより脆いんだから仕方が無い。あんなものに直接接触して、発狂しなかっただけでも凄いくらいだ。
しばしして。気がつくと、別の部屋で寝かされていた。
イル師匠が側についていてくれた。それだけで、随分安心したが。しかし、その安心もほぼ一瞬で収まった。
「ようこそこちら側に」
「……」
「イル師匠……」
「分かっているだろうけれども、私も貴方たちも、もう人間ではないわ。 今後は超越者として活動する事が求められる。 それを覚えておきなさい」
イル師匠は、億の時を費やして、リディーとスールを超越者にまで育て上げるべく、試行錯誤した。
本来なら嬉しくて跳び上がるのではないかと思うのだが。まったく嬉しそうには見えない。
超越者だから、だろうか。
いや、これは違う。
多分イル師匠は、ずっと快く思っていなかったのだ。
だが、イル師匠は、「ありのままに人間が滅びる」事もまた望んで等いないだろう。それについては、見ていてよく分かった。
頭がどんどん冴えてくる。
どれだけ力がついたかも分かってくる。
勿論、何百倍なんて倍率は掛かっていない。今後、更に鍛え上げていかなければならない段階だが。
それでも、以前とは比較にならない。
才覚の上限値が上がったのだ。だから、もっと凄い錬金術を試せるようになる。そういう事である。
何となく分かった。賢者の石の話からして、人間時代のイル師匠やフィリスさんの七割強程度しか才覚が無かったリディーやスールだけれども。
今後は努力次第で、今のイル師匠やフィリスさんに並ぶほどの力を得ることも可能になるのだろう。
ただし、大まじめに努力を重ねた上で。
天文学的な時間、研鑽を続けなければならないのだろうが。
「今回、ルーシャと、もう二人の超越を試みる事になっているわ」
「アルトさんとプラフタさんですか」
「察しが良くていいわね。 アルト……いやルアードという本名で呼んだ方が良いかしら」
深淵の者の長。
500年の時を経て、この世界に秩序を作りし者。
ある意味、この世界にとっての最大の偉人だ。寿命だけなら、既に克服し。人間の世界をしっかりまとめ上げ。存在すらしなかった秩序をもたらしたという意味では、それがどれだけ凄い事かよく分かる。
イル師匠は更に語ってくれる。
ルアードは、生来的に様々な内臓が機能していなかった。その悪影響は多数存在していたが。
その一方で。野心というものが存在しないという、ヒト族にしてはとても珍しい性質を持つことに成功していた。
プラフタさんも完璧なように見えて、元々欲求が極めて薄いヒトであったらしい。幼い頃から二人で生きてきたのだが。それは単純に性格があったというよりも。そもそも、普通の人間とは、意識しない地点で違っている、というのも大きかったのだろう。
だから二人は世界の命運を巡って争いもしたし。
そしてルアードはそもそも、500年を掛けてこの世界に秩序を作り。腐敗もしない組織を作ることに成功した。
深淵の者は、この世界に対する監査組織に等しく。
ドラゴンや邪神の恐怖から、弱者を守ってきた存在でもある。
ヒトらしい生き方には反しているかも知れない。
だが、深淵の者が存在しなければ。
今だ世界には二大国どころか。安定した大都市すら存在していなかっただろう。失われてしまった技術も、多数存在していたに違いなかった。
此処からだ。
此処からは、リディーとスールも、主体的に世界の変革に関わる。ついに、この世界を蝕んでいる最大の元凶、「みんな」を変える時が来たのだ。
リディーは唇を噛む。
嬉しい事ばかりでは無い。だけれども、やらなければならない。
人間の未来に可能性がない以上。
手段を選んではいられない。それについては、全くの同意なのだから。
3、絶望の壁
冷や汗が流れる。このタスクをこなすのは、七度目。そして、その内六回で、ルーシャは右手を根こそぎ失っていた。
その度に、側でアドバイスをしてくれるプラフタが、時間を巻き戻して治してくれたけれど。だが痛みまでは消してくれなかった。
賢者の石は。
今のルーシャには、少し難しすぎる。
だが、作る事が出来る可能性はある。だから、プラフタが側について、ルーシャを指導して作らせる。
そういう理屈なのだという事は分かっていたが。
実際に絶望に向き合ってみると。壁に叩き付けられる卵になった気分だった。
壁を突破出来る気がしない。
今までも無茶な戦いを散々してきた。双子を守るために、死力を振り絞ってきた。だけれども、今回は。
涙を流しながら、必死に調合を続ける。
此処からだ。
本当にデリケートな処置で。ちょとでも失敗すれば、腕ごと消し飛んでしまう。呼吸を整え直しながら、丁寧に、丁寧に処置していく。
ギフテッドなんて、ルーシャはもっていない。
だが、あのイルメリアも。プラフタも。ギフテッドは持っていないらしい。
それだけレアな才能なのだという事だ。
双子がギフテッドを手にしてから、露骨に心身の体調を崩した事を、ルーシャは今でも心苦しく思っている。
双子を救えなかったのは自分だとも。
だからこそ。
もしも、賢者の石を作成し、パルミラに謁見することがかなったら。
守護を司る存在となりたい。
他の超越者達は、どうせあらゆる手段を選ばず世界の詰みを打破しようと考えている筈だ。双子だって、それは例外では無いだろう。
双子は怒っていた。
あまりにも愚かしい人間の歴史を見て。
ルーシャだって怒ってはいたが。
それ以上に、悲しかったのだ。余りにも愚かしい人間を。万物の霊長などと自称する愚劣さが。
だからこそ、そんな人間を守護できる存在になりたい。
そう思い、必死に賢者の石に挑む。
腕が吹っ飛ばされた時の痛みは、今までに感じたことが無い程のひどさで。心に深い深い傷が出来たが。
それでも、やるしかない。
このままでは、双子はバケモノのまま、誰も抑える事がない。ソフィーはバケモノを嬉々として泳がせるだろうし。イルメリアやフィリスだって、その辺りは同じ筈だ。イルメリアは双子に同情はするだろう。だが、そこまで。フィリスは完全に放任主義。同格の誰かが止めなければ。それこそおじさまにもおばさまにも会わせる顔がないのである。
丁寧に、丁寧に。
そして、最後の一押し。
爆発は、しなかった。反応が始まり、やがて激しく金属が色を変えていき。そして、収まる。
時間を停止させ。
そして、何度も深呼吸した。
タスクを、突破した。
プラフタに休むように言われ、そして気が抜けて、その場で倒れかける。朦朧としたままプラフタに抱えられて隣室に。横になっていると、プラフタの部下らしいホムが、伝令に来た。
何か話していたが。頷くと、プラフタは伝令を返す。ぐったりしたままのルーシャに、プラフタは感情の籠もらない声で言う。
「今、双子が賢者の石を完成させました」
「!」
「これから私はパルミラの召還に立ち会ってきます。 貴方は此処で休んでいなさい」
「まっ……」
立ち上がろうとするが。
ベッドの左右から、触手がにゅいと音を立てて伸びると、一瞬でルーシャを拘束していた。
こんなギミックが用意されていたのか。
そういえば、腕を失ったとき、時間を戻して対処してくれたプラフタだが。痛みで七転八倒しているルーシャをベッドに運んだ後、何かが拘束していたような気がする。これだったのか。
こんな仕組みがあったなんて。
いずれにしても、触手のパワーは尋常では無く、ルーシャが動ける状態ではない。
唇を噛んで、忸怩たる思いの中じっとしていると。
プラフタが戻って来た。多少、疲弊しているようだった。
一緒にいるのはイルメリア。
実は、ルーシャはイルメリアが大嫌いだ。
逆恨みであることは分かっている。だが、双子にどうなるか分かりきった上で錬金術を教え。
結局人間を止めさせた直接の元凶はイルメリアだとルーシャは思っている。
勿論それは違う。
実行の青図を書いたのはソフィー=ノイエンミュラーだ。だが、それは、どうしても割り切れない部分だった。
「双子が超越しました。 以降はイルメリアに指導を代わります」
「……っ」
「それではイルメリア。 後はお願いします。 終わっているタスクについては其所のフローを見てください」
「把握したわ。 貴方もこれから賢者の石を作るんでしょう」
プラフタが静かに笑う。
それは、ぞっとするほど悲しい笑みだった。
「何、もう既に一人作るのを見届けています。 そう苦労はしませんよ」
「それに人の体を取り戻し、膨大な経験を積み重ねた今なら、かしらね」
「そういう事です。 それでは」
プラフタが部屋を出て行く。
触手が拘束を解除。
ベッドから転がり落ちたルーシャは、冷たい床で、激しく咳き込んでいたが。イルメリアは冷たい目で見下ろすばかりだった。
「タスクの処理状況を見る限り、最大の山場は深紅の石の作成ね」
「……此処でわたくしが、以降の作業を拒否したらどうなるのです」
「その場合は拷問してでも以降をやらせることになるわ。 ……そもそも双子がこのままだと野放しになると、困るのは貴方でしょう」
「……っ」
涙が零れてきた。
全てお見通しという訳か。ため息をつくと、イルメリアは諭してくる。フィリスよりは、人間らしい反応だとルーシャも思う。
「悔しいのは分かるけれど、今は現実に対応出来る力をつけるのが最優先事項よ。 貴方は恐らく、本来だったら超越者になどなれない才覚しか持ち合わせていなかった。 何が貴方を此処まで伸ばしたのかは、私にも良く分からない」
「……それは、きっと」
「精神論ではないわよ。 モチベーションで人間の能力は一割程度しか上がらない」
その通りだ。
精神論なんぞ何の役にも立たないことは、今までの死闘の中で、ルーシャ自身が一番よく分かっている。
思いの力なんぞ何の役にも立たない。
そんなものが役に立つならおばさまは死ななくても良かったはずだ。おじさまはすり切れるまで、最高の薬を調合し続けたのだから。
「立ちなさい。 このままだと、これから作業を開始するプラフタとルアードにも賢者の石作成を抜かれるわよ」
「分かりましたわ……」
「貴方は本来、此処に立てないのに立っている。 それはとても素晴らしい事だと自覚しなさい」
驚いた。
評価されているとは思わなかった。
だが、嫌いな事に変わりは無い。
そのまま、作業に戻る。それからも、散々失敗を繰り返し、指が吹っ飛び、腕ごとなくなり、酷いときには顔面がまるごと消し飛ばされた。
その度に時間をイルメリアが戻して対応したが。
痛みまでは消えなかった。
失敗の度に一度休み、そして作業に戻る。
酷い痛みが、どんどん精神を削り取って行く。途中、長時間の休憩も取ったし、美味しい食事だって何度も食べた。
オイフェを連れてきて貰って、好みの茶も淹れて貰った。
この辺りの事は、同じお嬢だから、だろうか。
イルメリアも理解があるようで、贅沢を言うなとか、そういう厳しい発言はしなかった。だが、それでも。
ルーシャを甘やかすことも無かったが。
イルメリアの指示は的確で、とにかく作業だけに集中できるようになっていった。失敗の傾向から、何処がまずいかも、すぐに把握したらしい。悪い癖を丁寧に補強してくれる。必死に努力していく過程で、悪い我流が身についてしまっていたルーシャにとって。こういう指導をしてくれる存在はとても有り難かった。というか、双子はこんな怪物に教わりながら、あれだけ伸びるのが遅かったのかと、小首をかしげてしまう。自分より明らかに才覚は上だと思っていたのだが。
深紅の石作成に辿りついた時。
既にルーシャは、本来であれば五十回は死んでいた。
痛みは全身に刻まれ、恐怖さえ感じるようになって来ている。
それでも、まだやる。双子を、二人きりにはさせておけない。おばさまとの誓いを、破るわけにはいかない。
双子は危険な思想を持ち始めている。
だったら、それを抑える者が絶対に必要なのだ。
人間が愚かである事は同意する。全面的に同意できる。だが、双子は場合によっては、種族単位での洗脳や、極端な選民思想を実施しかねない。それから人間を守る者が必要だ。
呼吸を整えながら、何とか深紅の石を作成。
二ヶ月はかかるだろうと言われていたらしいのだが。
既に、時間を止めている間の作業を含めて、三ヶ月以上が経過しているらしい。外では数日しか経過していないようなので、いびつではある。三ヶ月分余計に年を取ったとも言えるが。
どうせパルミラに謁見してしまえば、そんなものは関係が無くなるのだ。
双子は深淵に心が落ちてしまっている。
ルーシャだって、多分影響は皆無だとは言えないはずだ。
だが、それでも。
超越者になったとしても、ヒトの観点は捨てたくないのである。可能性がないと、分かりきっていたとしても。
深紅の石が仕上がる。
イルメリアは一瞥だけして、目を細めた。好意的な視点では無い。多分今まで見た中で一番酷い深紅の石だ、とでも思っているのだろう。休むように言われて、その通りにする。反発はあるが。指示はいちいち的確。反発があるから逆らうとか、そんなバカ丸出しの行動はしない。
人間が愚かだと思うし。「みんな」と一緒ではいけないと思う点では、ルーシャも双子と意見が同じなのだ。
見かけだけで相手を判断したり。価値観が違う相手に何をしても良いと思うような存在は唾棄すべき相手。
それについては、ルーシャも意見を違えない。
如何に相手が気に入らなくても。的確な判断で、正論を言っているなら従うべき。それがルーシャの結論である。
しばし休んで、やっとなんとか少し疲れが取れる。
全身ぼろぼろだが、何とかまだやれる。
イルメリアが、作業を促そうとしたとき、伝令が来る。獣人族の、屈強な戦士だった。
軽く耳打ちをしているのが聞こえる。
どうやら、最後になったらしい。
伝令が戻っていく。咳払いすると、イルメリアは言う。
「聞こえていた通りよ。 プラフタとルアードが、賢者の石を完成させたわ。 プラフタは未来、ルアードは現在を司るつもりのようね」
「……」
「さあ、立ちなさい。 貴方が何を望むのかは大体検討がついているけれど、貴方にはまだそれをなす力がない。 あのソフィー=ノイエンミュラーだって、賢者の石を作る時には、作業自体は一人でこなしたとは言え、プラフタに補助を受けていたそうよ。 後は貴方次第。 最後まで、やり遂げなさい」
「分かって、いますわ」
ルーシャは何度も涙を拭う。
どうして此処にいるのか分からない才覚のなさ。
必死に誓いを守るために走り続けてきた。
そして今は。
人外となり果てた双子の、最後のストッパーになるために。己の全てを捨ててまで、挑もうとしている最後の壁。
この壁を越えてしまえば。
もう同じように人外になる。
だが、それでもヒトとしての心までは捨てないつもりだ。どれだけこれから絶望を見るとしても。どれだけこれから破滅を直視するとしても。ルーシャは、負ける訳にはいかないのだ。
最終段階に入る。
賢者の石の完成まで。
あと少し。
その少しの壁が、恐ろしく高かった。
賢者の石を完成させた後。
全身に凄まじい反動が来た。今までの無理が一気に襲いかかってきたのだ。体中が内側から引き裂かれるかのよう。痛みが全ての神経を痛めつけているかのよう。全身に釘を打ち込まれているかのよう。
あらゆる苦痛の形容をもってしても、ルーシャの全身を襲っている痛みは、例えられなかった。
ベッドで悶絶しているルーシャを一瞥すると、イルメリアはしばらく休むようにとだけ言い残して、部屋を出て行く。更に、賢者の石そのものも、上位次元からの空間干渉で封印したようだった。
血迷ってルーシャが破壊したりしないようにとの処置なのだろうが。
それにしても、本当に徹底的に先手を打ってくる。
涙が止まらない。
胸をかきむしって、何度も血を吐いた。無理に回復を続けた結果、全身がもう滅茶苦茶になっている。時間を戻して体だけは治したが、神経が内臓が痛みを覚えている。だから、吐血くらいする。
胃が空になるまで吐き戻す。
その後は、ひたすら胃液だけをはき続けた。
喉が焼け付くようだけれども。
必死の思いで耐え続ける。
双子は多分、此処までの苦労はしていないはずだ。才覚はもう双子の方が上だったのだから。
そして錬金術は才覚の学問。
本来、ルーシャは賢者の石に触れる事さえ許されない状態だったのだ。
それなのに、賢者の石を作り上げた。
その反動だと自分に言い聞かせて、必死に耐え抜く。意識が何度も飛んだ。ベッドは血と吐瀉物だらけ。もうお嬢様を気取っている余裕など、欠片もありはしなかった。
気がつくと、オイフェが来ていて、ルーシャをリネンに着替えさせ。そして吐瀉物も綺麗にしてくれていた。
錬金術の装備だけはそのまま。
回復力を上げるためだろう。
殆ど湯だけの粥をくれたので、半身を起こして飲む。胃が滅茶苦茶になっているようで。酷い痛みを感じた。喉も痛い。カミソリをそのまま喉に押し込まれているかのようだ。それでも、少しずつ栄養を摂取していく。
「オイフェ」
「如何なさいましたか、お嬢様」
「今まで、有難う」
「これからもお仕えいたします」
そうだろうな。
ソフィーがオイフェに何か仕込んでいるのは分かっているが。それでも、オイフェの忠義そのものは本物だ。だから、ルーシャが信じなければならない。
もしもルーシャが余計な事をしたら、今後は双子だけでは無く、オイフェも殺されるかも知れない。
絶対に、させない。
ルーシャが有用な存在だと、ソフィー=ノイエンミュラーに。あの特異点に、思い知らせなければならない。
そのためだったら。
どんなことだって。
また眠って、そして起きて。少しずつ、栄養を体に入れていく。一週間以上が過ぎているだろうが。此処は時間を止めた空間。外では一瞬も経過していないだろう。やがて、自分で作った神秘の霊薬を飲み始めるようになると。体は一気に回復した。だが、ひび割れた精神だけはどうにもならなかった。
賢者の石を作り上げたことで、体中が滅茶苦茶になった。その体には、心も含まれている。
これは、双子も無事では済まなかっただろうなと、ルーシャは冷静に分析していた。冷静に分析出来てしまった。
賢者の石を取りだす。
そして、部屋を出る。触れるように、空間の封印が解除されていた。つまり、イルメリアはルーシャの七転八倒を見ていたと言うことだ。悪趣味だけれども、ルーシャでもそうしただろう。
時間停止を解除。部屋の外に出ると、見張りの魔族がいたので、案内を頼む。頷くと、魔族の戦士は、ルーシャを儀式が行われる部屋へと案内してくれた。
「賢者の石を特異点が作ってから、深淵の者は一気に強くなった。 世界の隅々まで影響力を持てるようになった。 それまでは、二大国を作って維持するので精一杯で、殆ど対処療法だったからな」
懐かしそうに魔族の戦士は言う。
相当な古参なのだろう。
連れて行かれた先は、広間で。巨大な魔法陣が描かれている。そして、表情が完全に消えたリディーとスールも含めて。
深淵の者の幹部が勢揃いしていた。
唇を噛む。
これから、想像を絶する恐怖を体験することになるだろう。
だが、負けるものか。
他の誰にも出来ないのだ。だからルーシャがやるしかない。
魔法陣の中央に、賢者の石を置く。
パルミラが降臨する。
以降の問答はよく覚えていない。
だが、はっきりしている事はある。
ルーシャは本来だったらあり得ない存在でありながら。
あり得ない場所に立ったのだと。
(続)
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