結いのパステル

 

序、超越へ

 

体調を崩していたルーシャは、しばし寝込んでいた。あの黒い絵で見た人間の精神の世界。もっとも落ちた人間の心。

それは、ルーシャを酷く痛めつけていた。

最後の「傲慢」との戦いは、それほど辛くは無かった。リディーを助けるのに必死だったからだ。

だが、戦いが終わった後。

フラッシュバックで、心に襲いかかってくるのだ。

七つの大罪が。

その全てもが。そのあまりにもおぞましい姿と一緒に。体よりも、心への傷が大きかった。

思い当たる事があるものばかりだった。

ヒト族の故郷となった世界が滅びたことは知っている。その原因が、ヒト族の驕りにある事も。何が万物の霊長だか知らないが、いずれにしてもヒト族の先祖は傲慢な行動の果てに自業自得の滅亡を遂げた。

そして、今。

この、助け合わなければならない世界でも。あのようなおぞましい心を持っている。

レンプライアは確かに悪意だ。

ロジェおじさまの絵を汚した時のように。美しくあろうとする心まで剥ぎ取る。

だが、それによって、人間の真の姿が露出するとも言える。

七つの大罪か。

良く言ったものだ。

その七つの大罪を否定しながら実際には内心肯定し続け。そして挙げ句の果てに人間を無責任に持ち上げ続けて。

そして滅びたのがヒト族の世界なのだとしたら。その頃から、何も根本的にヒト族は変わっていない。

深淵の者本部に無理矢理連れて行かれて聞かされてもいる。

既にこの世界の創世神ですら。

九兆回に達するやり直しをしていると。

本当にどうしようも無いのは神なのか。

違うだろう。創世神パルミラは全能にも全知にももっとも近い存在だ。

人間はそのままでは可能性が無い。

それに関しては、今のルーシャは同意できる。だが、同意できると思っていただけだったのかも知れない。

本物の心の闇というものを、間近で見てしまった今となっては。はっきりいって、人間という生物も。ヒト族も。

信頼なんて、とても出来なかった。

オイフェが粥を持って来たので、食べる。

双子はどうしているか聞くと、オイフェは小首をかしげた。

「ご自分よりも双子の心配ですか?」

「わたくしは良いのですわ。 おばさまとの約束も守れなかった無能者。 それに、今だって現在進行形で何一つ出来ずにいる愚か者ですもの」

「そんな風に考えて貰っては困るね」

不意に、オイフェの口調が変わった。口調だけでは無い。声もだ。

オイフェの表情は変わっていない。

口から漏れているものだけが変わっている。表情は、いつもの鉄面皮のままである。

そしてこの声。聞き覚えがある。恐怖とともに、何度も体に刻み込まれてきた声である。

ソフィー=ノイエンミュラー。

思わず、熱いまま粥を飲み込んでしまっていた。

全身が硬直する。震え上がる。恐怖に、体が動かなくなる。もう、この声を聞くだけで、反射的に体が硬直する。

「双子はルーシャちゃんに手を出さないことを条件に深淵の者への協力を許可したけれど、個人的にはしょーじきその約束守るかどうか、迷ってるんだよねえ」

「……っ」

「ルーシャちゃんさ、双子を守るどころか、とうとう守られ始めていることに気付いている? まあ流石にこの状況で気づけていなければただのアホか。 直接口にもされてたような気もするし」

返す言葉もない。

そうだ。もうルーシャは。守るどころか、双子に守られ始めている。

最初から才覚は向こうの方が上だったのだ。

自分は優れているという驕りを捨て、真面目に錬金術に取り組み始めれば。

双子がルーシャを超えるのは当たり前だった。

錬金術は才能の学問。それはどうしようもない、揺るがしようが無い事実なのだ。ルーシャではどれだけ頑張っても、いずれは超えられた。

それについては悔いはない。

だが、守られる立場になるというのは、誇りに出来るけれども。そこまで割切るには、葛藤が必要だ。守っていた相手が自分を超えたとき。誇りだと喜べる人間は決して多く無いし。ルーシャだって、そうあろうとは思っているけれど。完全にすぐには体の方は受け入れられていたのか。

そうなのかは、はっきりいってよく分からない。

ソフィーの声で、オイフェは更に続ける。

「一つ、良い事を教えてあげようか。 賢者の石の作成をそろそろ双子が始める時期でね、正確には作成をあたしがさせるんだけれど」

「賢者の、石」

錬金術師だったら誰もが知っている錬金術の到達点。究極の一。

金を作り出す事も出来れば。最高の媒体にもなる、文字通り万能究極の存在。

三傑はどうか知らないけれど。

歴史上、賢者の石を作った錬金術師の記録は、残されていないはず。

三傑は作っている可能性があるが。少なくとも、見聞院に記録は無い。

勿論作ったと自称している者は幾らでもいるが。明確に、本物だと確認できる記録はない。

もしも完成品が何処かの遺跡に残っていたら、アダレットとラスティン、二大国両方で騒ぎになるだろう。

「賢者の石を作成すれば、その時には賢者の石を媒介に、深淵の中の深淵であるパルミラに謁見することが可能になる」

吐き戻しそうになった。

それは、つまり。三傑と同じような、バケモノになると言う事だ。

そもそも双子は、もう心が人ではなくなってしまっている。だが、三傑は更にその先に進んでしまっている。

震えが止まらない。

涙も。

見栄なんて、張る余裕すら無かった。

「もしも、双子を守りたいのなら」

文字通り。

レンプライアなど、比べものにもならない。極限まで凝縮された、悪意の囁きが、頭の中に響き続ける。

ルーシャの心を、たたき壊すようにして。

「ルーシャちゃんも、賢者の石を作るしかないね。 ハルモニウムとヴェルベティスを作ったルーシャちゃんなら、出来るかもしれないよ。 ふふ、もし作りたいと思ったのなら……イルメリアちゃんかフィリスちゃんに声を掛けるようにね」

ぶつりと、何かが切れる音がして。

その場に、オイフェがへたり込んだ。

そして、オイフェが気付いたのか、立ち上がる。どうして自分が倒れたのか、気付いていないようだった。

小首をかしげてしばし考え込んでいたオイフェ。

自分が乗っ取られていたことに気付いていない。

或いはソフィーは、オイフェにこの機能を最初から仕組んでいたのかも知れない。

オイフェは尋常な人間ではない。

それくらいされていても、不思議では無い。

やがて、オイフェはルーシャの手元に視線をやった。感情のまったくこもっていない視線だった。

だが、あのソフィーの恐ろしすぎる声に比べれば、どれだけマシだろうか。

「お嬢様、食が進んでいないようですが」

「食べますわ」

少し冷えてしまっているが、栄養は充分だ。

掻き込むようにして粥を腹に詰め込む。あまり急いで食べると体に良くないけれども、今回は仕方が無い。

配膳をオイフェが下げると。

ルーシャは何度もため息をついていた。

どうしよう。

イルメリアかフィリス。

どちらかに頼めと言われたら、それはイルメリアに頼むしかない。一見すると厳しい様子だが、イルメリアはとても真面目で。狂気に抗っているようにも思える。

それに対してフィリスは、もう狂気に抗っていない。

抗うつもりがない。

狂気に馴染んで、平然としている。

そういう印象を受ける。あの破壊神には。

しばし休んで。体が動くようになってから、起きだす。早朝だが、既に人々はそれなりに行き交っていた。

港の方へ向かう人夫が多い。

内海を守っている堤防の工事が佳境らしく、土砂を外に捨てに行く人夫も、とれた巨大な魚を捌く職人も、どちらも必要らしい。

そういえば、最近魚屋に、新鮮な魚がたくさん入っているらしい。

勿論新鮮なうちに売れなければ、加工して保存食に切り替える。

この世界で、食糧を無駄にしている余裕は無い。

流石に早朝過ぎて、開いている店は存在しなかったが。

あてもなく彷徨う。

いつの間にか、オイフェがそばを歩いていた。

別に邪険にするつもりはない。

ソフィーが恐ろしい機能を仕込んでいたとしても。

いつも寡黙でまったく何を考えているか分からないとしても。

オイフェが何度も体を張ってルーシャを助けてくれた事実には変わりが無いのである。邪険にする理由は無いし、信頼も出来る。

どこに行くか、は聞いてこない。

ルーシャだって、何処かに行くつもりもない。

いつのまにか、丘の上の教会に来ていた。

おばさまの眠るお墓を綺麗にする。双子とロジェおじさまは気付いているだろうか。時々ルーシャも墓参りをしている事を。

お花を変えて。祈りの言葉を捧げると。

シスターグレースに会いに行く。

オイフェは教会の外で待たせた。

この教会も、どうせ深淵の者の息が掛かっている。そんな事は分かっている。

双子は知らないだろうが。

シスターグレースが来る前は、ここは立地の良さもあって、ろくでもない孤児院だったという。

パメラさんが姿を見せると同時に。

先代のシスター長は失踪。

同時に、問題があったシスターは、離散。

新しくシスターグレースが来て。何名か、出自が分からないシスターが一緒に赴任。以降は、ごくまっとうな孤児院に生まれ変わったという。

お父様に聞かされた話だ。

まだお父様が幼い頃だったらしいのだが。

その頃は、両親からもあの教会には絶対に近付くなと言われていたらしい。

それがシスターグレースが来てからというもの、荒んでいた孤児達はまるで生まれ変わったかのように素行が良くなり。

孤児院でスキルを学んで社会に出て、多くの貢献をするようになったとか。

シスターグレースが見かけとは裏腹に高齢であることはルーシャも知っていたが。

双子にこの話をするつもりはない。

これ以上双子に、精神的な負荷を掛けたくないからだ。

しばし躊躇っていたが。

シスターグレースの方から、声を掛けて来る。

「どうしたのですか、ルーシャ」

「少しだけ、相談したいことがあって」

「……話してみなさい」

「わたくしは無能な愚か者です。 それでも無能な愚か者なりに、大事なものを守りたいとも思いますし、出来るだけ立派な行いをしようとも思い続けてきましたわ」

これについては事実だ。

ヴォルテール家の腐った歴史をあまり良く想っていないのは、実はお父様も同じであるらしく。

ルーシャもその影響を受けた。

祖父の代までは、国と癒着してろくでもない事ばかりしていたヴォルテール家だが。

お父様とロジェ叔父様の時代に、その悪しき風習からは脱却。

運が良かった。

そうでなければ、深淵の者が本格的に膿だしを行って庭園王を幽閉したとき。

ヴォルテール家も、ただではすまなかっただろう。

「でも、もうわたくしの手では、どうにもなりませんわ。 人間としてのあり方を捨てるか、それとも諦めるか。 その二択しか、わたくしには……」

両手で顔を覆う。

悲しいのでは無い。

情けなくて、涙が出る。

無力でどうしようもない自分。ソフィーに言われた通り、もう守られる側に廻ってしまっている。

必死に勉強して、ハルモニウムもヴェルベティスも作った。

多分ヴォルテール家の関係者では、リディーとスールを除けば、ネージュ以来の快挙であるらしい。

お父様もそう言って、感涙していた。

だけれども、ルーシャの作るハルモニウムもヴェルベティスも。

恐らくギフテッドに覚醒している双子のものより数段質が劣ってしまっている。

これもまた、どうしようもない事実。

そして、才覚の学問である錬金術では。出来ないものは、どうしようとどうにもならないのである。

シスターグレースは、しばし黙って話を聞いてくれた。

それだけでも、随分と楽になった。

「ルーシャ。 貴方は人間という存在について、その年では信じられないほどに色々と見聞きして、自分でも経験しているのではありませんか?」

「……ヒトの心については、見てきたかも知れませんわ」

「それならば、より大事なものを優先すれば良い」

シスターグレースは言う。

年老いる体には問題があると感じた。

人間としては、年老いて死ぬのが自然だという事も分かっていた。

だが、この人材がいない世界。もしも若い人間を育成できる者がいなくなれば。技術は途絶えてしまう。

教会はちょっと気を抜けば、あっと言う間に腐敗する場所だ。

元々殆どの場合、教会の長にはヒト族が赴任する。

そしてヒト族は信仰とこれ以上無い程相性が悪い。

魔族は心の内に信仰を持つから、そもそも教会のようなシンボルを必要としない。獣人族はヒト族よりも考え方が単純だから、信仰もごく素朴だ。

だがヒト族は違う。

油断すると、すぐに金に結びつけて考える。

どう利用するかを考える。

わかり安い形がないと、どうしても信仰というものを保つ事は出来ないのである。

それはつまり、堕落ともっとも近い場所にあるという事。

ルーシャも、ヒト族の末路は知っている。

そして、ソフィーにあの真っ黒な絵で聞かされた。

七つの大罪といったか。

アレはそもそも、堕落をそのまま煮詰めたようなものだ。

そうか。シスターグレースは堕落した後続に任せるくらいなら、人間を捨てる事を選んだのか。

この人は元々超凄腕の傭兵だ。戦略級の傭兵なんて、そうそう滅多にお目に掛かれるものでもない。

膨大な経験を積んでいるからこそ。

この人は、人間を捨てる事を選び。そして後続の若者達を育てることに、心血を注ぐことにした。

人間を捨てたとはいっても。

この人は、決してバケモノの類ではない。

「今、この街には三名の超越存在が来ています」

頷く。

三傑のことだ。

どうせシスターグレースも深淵の者関係者だろう。それくらいは知っていても、不思議ではないし。

今更である。

「ですが、彼女らは一様に同じ人格の持ち主というわけではありません。 元々普通のヒトとは根本的に思考回路が違ったもの。 深淵に落ちた今でも家族の事は何よりも大事にしている者。 深淵においてなお、ヒトであろうとしているもの。 それぞれに、大事にしているものが違うのです」

シスターグレースの言葉は、良く耳に入ってくる。

わかり安いし。

押しつけるようでもない。

分からないなら、分かるようになるまで、丁寧に話してくれる。そういう話し方をしてくれる人だ。

「貴方にとって一番大事な事が、人間を止めなければ手に入らないのだとすれば。 それならば、もうするべき事は決まっているのではありませんか?」

しばし、長い間。

息を止めていた気がする。

ルーシャは大きなため息をつくと。

一礼して、教会を出た。

確かに、もう他にする事は無い。そして、曲がりなりにもハルモニウムとヴェルベティスを作成するのにも成功しているのだ。

三傑が出てからこの世界には大きな変化が生じたが。

本来ハルモニウムもヴェルベティスも、一世代に一人、作れるものが出るかどうかという超存在。

ハルモニウムのインゴットが国宝になる事からも分かるように。

今のルーシャは、手が届く位置にいるのだ。

後は古い時代のしばり。

そう、ヒト族がもっとも優れていて、万物の霊長だとか言う「傲慢」を離れる時。

あの絵の奥で戦ったではないか。

その思想の究極集約点と。

あんなものと一緒になっていいのか。良い筈が無い。だったら、古き七つの大罪とは、決別するときが来たのだ。

何度か顔をくしゃくしゃと擦る。その度に、ツインテールに結っている赤毛が揺れる。

髪なんか切ってしまってもいいかなと思ったが。

今は、それよりも先に、やる事がある。

敢えてフィリスの所に、ルーシャは向かう。なぜなら、フィリスが深淵に落ちつつも、家族を誰よりも大事にしている事を、ルーシャは知っていたからだ。つまり、自分には、むしろフィリスが近い事を。

移動式アトリエは、相変わらず小さなテントのよう。

ドアを叩くと。フィリスが、ひょこりと可愛らしく顔を出した。動作だけなら、とても可愛らしい。

「おはよう、ルーシャちゃん。 何の用事?」

「賢者の石を作成したいのですわ。 ご協力……願いたく」

「ふうん。 どうしてイルちゃんの所に行かずにわたしの所に来たの?」

「貴方が、家族を誰よりも大事にしているからですわ」

冷めた様子で鼻を鳴らすフィリスさん。

まあそうだろう。ルーシャの苦悩なんて、この人は。知る限り、億年単位も前に通り過ぎている。

一緒にするなとでも言いたいのかも知れない。

だが、フィリスは。アトリエに、ルーシャを迎え入れてくれた。

 

1、救出のために

 

昔話ではお約束になっている事が幾つもある。

例えば強くて格好良い騎士が助けるのは、いつも美しいお姫様だ。

だが、では聞きたい。

汚くて醜いホームレスには、救われる事は許されないのか。

顔が醜くて体が臭い人には、救われる余地はないのか。

スールは違うと応えられる。

例え相手が、生理的に受けつけない姿形をしていても。

助けを求めて来て。助けられるのなら。助けなければならない。

昔のスールだったら。見た瞬間、キモイとか近寄らないでとか言って、相手を蹴ったりしたかも知れない。

だが今のスールは違う。

そんな愚かしい存在では無い。

タスクを順番にこなして行く。その途中で、お城に物資を納品。この間、黒の地平線で回収してきた素材。それにネージュの要塞でも素材は回収した。納入する物資の材料は充分に確保出来ている。だからそれ自体は難しく無かった。今作っている、「結いのパステル」に比べれば、極めて簡単だ。

まず、黒の地平線に捕らわれている残留思念を救い出す。

お父さんは、また一つ、新しい不思議な絵画を描いてくれている。

見ると、穏やかな湖と、湖畔の別荘の世界だ。

緑が豊かで。

凶暴な獣もいない、静かで余生を過ごすにはもってこいの世界。レンプライアから身さえ守れれば、後は此処で過ごすのも理想だろう。

そう思えるほど、静かで優しい世界だった。

だが、お父さんもネージュと話していたが。

お父さんには、不思議な絵を安定させるだけの魔力が足りていない。

勿論、「王」がソフィーさんによって封印された今は。できたての不思議な絵画に強力なレンプライアが湧くとは思えないけれども。

それでも、処置は必要だろう。

時々進捗について打ち合わせをしながら、お父さんと一緒に不思議な絵の具を改良し。

それをベースに、残留思念の完全固定を行うための、道具を作る。

魔力を結晶化し、そして利便性を持たせる。

ネージュのように、不思議な絵画の研究に人生を注いでいた人ならば、簡単にできるかも知れないが。

ノウハウを聞かされて。

そしてハルモニウムを作れるようになった今ですら、難しいと感じる。

リディーと交代しながらハルモニウム釜を使い。休憩を挟みながら、タスクを順番に潰して行く。

時々地下から上がってくるお父さんと打ち合わせ。

昔はお父さんを軽蔑していたスール。もっと酷く嫌っていたリディー。

だが、今ではもうそれもない。

お互いの事をしっかり話しあって。

作業を的確に、無駄がないようにこなしていた。

お父さんは、もうこれ以上先には行けないとぼやいていた事もあったけれど。

不思議な絵画やお薬に限れば、まだ伸びしろがあるのでは無いかと、スールは思う。

賢者の石を作るのは厳しいと思うけれど。

それでも、少なくとも千切れた手足くらいなら簡単にくっつくお薬も作れるし。その質もどんどん上がっている。

お父さんの錬金術は。

スールから見ても、人を幸せに出来るものへと、既に昇華していると思う。

額の汗を拭いながら、またタスクをこなす。

ハルモニウムの小さな欠片を伸ばして魔法陣を刻み込む。

その全周に、六つの宝石を埋め込み。

そしてその中心部に、魔力をため込む性質を持つ鉱物を置く。極めて珍しい鉱物で、黒の地平線で採取してきたものだ。

此処に、リディーが暇を見て魔力を注ぎ込み。

そして、ある程度魔力が溜まったところで、中和剤につける。

中和剤は竜の血で作った最高品質のものである。

こうして変質させた鉱物を叩き潰し。

顔料と混ぜることで絵の具に変える。そしてその絵の具を使って、お父さんが不思議な絵に切り替える。

一週間ほど、無心で作業に没頭し。

互いに注意しながら、食事はしっかりとった。下手をすると、三人とも食事を忘れて、そのまま倒れそうだった。

実はスールとリディーに関しては、食事をもう必要としないかもしれないが。

お父さんは少なくとも違う。

だから、食事は取らなければならない。少なくとも、今の段階では、である。

お父さんが絵を描き上げた。

前にエーテルが足りなくて、補修をさんざんしなければならなかった、「天海の花園」と違い。

溢れるような魔力が感じられる。

使った顔料もいいし。

お父さんが、ハルモニウムをつかった錬金術装備を身につけている。それもあって、魔力がパンプアップされているからだ。

これならば、エーテルは充分だろう。

中に入って確認して見るが、不安定な要素はほとんど感じられない。

レンプライアも、ごくごく弱い存在だけしかいなかった。

素材もそこそこに良いものが採れるが。やはりレンプライアに汚染される方が、素材の質は上がるらしい。

ありふれたものしか、採取することは出来なかったが。

偵察した分には、護衛は不要だろう。

リディーとお父さんも呼んで、内部を調査する。これならば、心を傷つけた人が休むには、丁度良い場所に仕上がっている筈である。

それに、レンプライアはどうしても湧く。

騎士団が演習をするにも良いだろう。

これくらいの絵ならば、多分成り立ての従騎士が、演習代わりに入るのに丁度良い筈である。

勿論そのまま納品はしない。

始めて作った品だ。

まずは、アルトさんに見せに行く。何故アルトさんかというと、イル師匠が何処かに出かけていたからである。

多分堤防工事だろう。

アルトさんは、「湖畔」と名付けた絵を見ると、しばし考え込んでから、頷いてくれた。

「まあいいだろう。 僕から見るとあまりおもしろみはないが、良いんじゃないのかな」

「ありがとうございます」

「それで二人とも、この絵関連の作業が終わった後、また来るように。 二人だけでね」

口を引き結んだのはお父さんだった。

分かっている。

ソフィーさんと話した通り。

深淵の者に、正式に所属しなければならない。

これ以上、お父さんにもルーシャにも手は出させない。お母さんだってそうだ。それに、世界の詰みを打破しなければならないのも事実なのだ。

断る事は出来ない。

ならば、結いのパステルは、早々に完成させなければならないだろう。

お父さんには戻って貰う。不思議な絵画を描いた直後だ。消耗が激しいのだから、休んで貰いたい。お父さんは無言で頷くと、凄く眠そうな顔で、家に戻っていった。あの様子だと、二日くらいは寝たままかも知れない。

回復魔術が常時発動する装備も渡してはあったのだが。それでも取り切れないくらい疲弊していたと言う事だ。

今後不思議な絵画を描くときは、気を付けなければならないなと、スールは思った。

不思議な絵画「湖畔」は、お城に納品する。

これについては、お父さんと話し合っての結果である。

そもそも、レンプライアが常時湧く以上、個人で所有しておくのはあまり好ましい事では無い。

弱いレンプライアばかり湧くとしても。放置しておけば強くなるし。引き継ぎが行われないまま地下倉庫にでも放置されたら、最悪の事態を招きかねないからだ。

受付の役人は、モノクロームのホムでは無かったが。しかしながら、不思議な絵画については聞いた事があったのだろう。

すぐに上位の役人を呼びに行った。

今日はあのモノクロームのホムの役人はいないらしく。

大臣らしいヒト族の役人が来る。

ナマズ髭のおじさんだが、決して傲慢不遜ではなかった。恐らくSランク内定している錬金術師が相手だから、だろう。

ミレイユ女王に、しっかり教育されているのかも知れない。

「これが不思議な絵画。 ふむ……」

「地下のエントランスにお願いします。 扱いについては、他の絵画と同じですが、まだ出来たばかりの不思議な絵画ですので、内部には「弱い」レンプライアが湧きます」

意味は伝わっただろうか。

今、騎士団は増員したてで、質の低下に困っていると聞いている。

鷹揚に頷くと、大臣は何人か錬金術の知識があるらしい役人を連れて来て、話をしていたが。

ほどなく咳払いしながら戻って来た。

「あー、おほんおほん。 それでは有り難く受け取らせて貰う。 納品、ご苦労であったな」

「はい。 それでは」

「丁寧な保管お願いします」

リディーに続けてスールも頭を下げる。

余計な事を言ったかな、とスールは思ったけれど。

リディーに、城を出た後何も言われなかったので。特に問題はなかったのだろう。

アトリエに戻ったのと、丁度同時に。

マティアスが歩いて来るのが見える。

ちょっと窮屈そうに、皮鎧から騎士鎧に替えたフィンブル兄が、一緒について歩いて来ている。

従騎士の勲章では無い。

というと、実力を見込まれて、最初から騎士採用された、ということか。

前は確か、誰でも従騎士からだったはずだが。

人数を増やしたことで、騎士団は質の低下に悩まされていると聞いている。或いは、ミレイユ女王が、今回の件で丁度良いと、実力者を抜擢する仕組みを作ったのかも知れない。いずれにしても、フィンブル兄は騎士三位として、今後は独立してミレイユ女王の影として盾として動く、マティアスの腹心となるわけだ。

「おーっす。 丁度城から帰りか?」

「マティアスさんは、お仕事ですか?」

「そういうことだ。 アトリエで話そうぜ」

皆でアトリエに入る。

換気が足りないので、ちょっと絵の具の臭いが強い。リディーが窓を開けて、スールは換気のために作った道具を発動。

風の魔術を起こして、外と空気を満遍なく入れ換えるもので。

バステトさんと相談して、弱い弱い風の魔術を起こす魔法陣を学んだ。

スールも、魔力を得たのだ。

いつまでも、魔術はリディー頼みではいけない。

こういう簡単で、しかも利便性が強い道具からと思って、始めたのである。

なお形状はキノコに似ていて。

赤いキノコの傘の部分から風がよわいよわい竜巻のように渦巻いて。外と空気を入れ換えていくのだ。

心地よい風が、絵の具の強い臭いを外に捨てていく。

夏場、涼しいかも知れないな。

そう思いながら、スールは二人にソファを勧める。このソファも、少し弄った。魔術が使えるようになったので、少し反発するように仕込んでみたのだ。その結果、とても座り心地が良くなっている。

そうしている内に、リディーがお茶を淹れてくれた。

「もうほぼ完璧に連携できているな」

「フィンブル兄、おつきの仕事正式に始めたの?」

「まあ騎士になったからにはな。 それにそもそも、「閣下」はかなり立場的に危うい状態だ。 俺は閣下の護衛だが、アンパサンドどのは公認スパイだ」

「へえ……」

マティアスが居心地悪そうに頭を掻く。

まあ、アンパサンドさんは最初からそういう所はあった。だから、マティアスも「アン」と愛称で呼んではいても、終始怖がっていたのだろう。アンパサンドさんも、自分の役割を理解して、怖がられるように振る舞っていたのが今になって見れば分かる。

お茶を飲んで一息つくと。

スクロールを渡してくるマティアス。

開いて確認する。

Sランク昇格の通知だった。

長かった。

とうとう、Sランクだ。一応これで、お母さんに報告にはいける。でも、その前にやらなければならない事がある。

それと、義務についても確認する必要がある。

「ええと……今後国家危急の際には、最前線で騎士団部隊の指揮を執る権限を認める?」

「それなんだけれどな。 あのファルギオル戦での反省を踏まえて、姉貴が会議で通した内容なんだよ。 武門の国なんていっても、騎士だけじゃドラゴンにも邪神にも勝てないし、ネームド相手でも大きな被害を出す。 それならば、錬金術師に危険な相手の場合は、いっそ最初から部隊の指揮権を渡すって話になってな」

なおその部隊は、一部隊だけ特別編成されているという。

その内アンパサンドさんが責任者になるらしいのだが。

基本的に魔族の隊長と、騎士九名、従騎士二十名で編成される予定らしい。(アンパサンドさんの就任は半年後だが)副団長が責任者になると言う事は、アダレットの本気ぶりが窺える。

確かに、今までがおかしすぎたと言えばそれまでなのだが。

今回の件を通すのは大変だっただろう。

アダレットは、ネージュを国家レベルで迫害し。それ以降も錬金術師を軽視する政策を採り続けた。

ミレイユ女王の代に入ってから全てが変わった。

勿論、彼女だけの力ではない筈だ。

深淵の者が影から相当にバックアップしているのだろうなとも思った。

「勿論死者が出た場合は責任も取らなければならない。 それについては、理解してくれよ」

「分かってる。 スーちゃん達が出るときは、一人だって死なせはしないよ」

「頼もしいぜ」

「マティアスは、今後戦いには出てくれないの?」

少し考えた後。

マティアスは、頷いた。

戦いには出ると言う。

基本的に、今後危険な相手が出現した場合は、マティアスが前線に。ミレイユ女王が総指揮を、という方法をとるらしい。

更に言うと、インフラ工事関連が完了したら、三傑は一度アダレットを離れるらしい。

三傑がアダレットを離れれば、当たり前だがアルトさんとプラフタさんもいなくなる。それに、パイモンさんも故郷に戻るはずだ。

リディーとスール、ルーシャだけしか残らない。

正確には、殆ど全員が、拠点を深淵の者に移すだけだろうし。

リディーとスールも、本籍はそちらになる。

ルーシャももう粉を掛けられているはず。

アダレットとしては、危急時の人員を確保するのに必死だろう。ミレイユ女王は、それを理解しているのかも知れなかった。

「というわけで、まだ当分は声を掛けられたら護衛には出るから安心してくれ」

「うん、頼りにしてる」

「スーも素直になったなあ」

「そう? むしろ今はさ、自分が静かすぎて、ね」

フィンブル兄が、敢えて茶を口に入れた。

多分意味を知っているから、なのだろう。

ともかく、Sランクで増えたのは責任だけ。勿論その責任も、今ならこなすことは出来る。

流石に邪神が相手になるとまだ厳しいが。

リディーとスールの実力はまだ伸びる。

これについては、実力の上限をまだ感じていない。客観的な事実である。まだ伸びるなら、その内強烈な弱体化をかけなくとも、邪神とやり合えるようになる筈だ。

ただし、本音を言えば。

Aランクでも結構負担が大きかった事もある。

Sランクでの追加負担が、事実上強敵との戦闘でかり出される事だけになったのは有り難い。

「それじゃ、俺様上がるわ。 出るときは早めに声かけてくれな」

「ねえマティアス、ルーシャとパイモンさんは合格したの?」

「それは機密だから言えない。 本人に聞くんだな」

「それもそうか」

マティアスとフィンブル兄を見送る。フィンブル兄はあまり機嫌が良く無さそうだったけれど。

騎士鎧は、思ったよりずっと馴染んでいた。

お父さんは地下室で寝ているのを確認。

今のうちに、タスクを潰しておく。

負担が思ったより増えなかったこと。

それに、もうすぐすってんてんに近かった資金が振り込まれることを考えると、少しばかりありがたい。

作業をまた黙々と進める。

予想通りというか。

お父さんは、夜中近くになるまで起きてこなかった。

 

結いのパステルは、ネージュに聞かされたとおり、超圧縮した魔力そのものである。固形化し、扱いやすくしたものと考えるとほぼ間違っていない。任意に魔力、要するにエーテルを与える事によって、絵の中に生きている残留思念を固定化安定化させる。場合によっては、移動も可能にする。

実の所、残留思念の実力次第では、不思議な絵画間の移動は難しくはないらしい。

これは前お母さんがやっていたようだし。

ネージュも他の不思議な絵画の事を把握していたこともある。

それらからも明らかである。

お父さんと話し合い、タスクを潰し、内容を確認しながら作業を進めていく。どうせソフィーさんがじきに無理難題を口にしてくる。

それまでに、やる事はこなしておかなければならない。

お父さんも、リディーとスールが焦っているのには気付いている様子で。それで、多少の無理はしているようだった。

役人がアトリエに来る。お父さん宛だったから、多分お薬だろう。応接しているのを横目に調合を進める。

最近は換気装置を定期的に使っているので、絵の具の臭いも籠もらなくなっている。

役人も嫌そうにはしていなかった。

四半刻ほどで役人は戻る。

お父さんはやれやれといいながら、話をしてくれた。

「「湖畔」な。 確認したが、いつもの振り込み金額を次だけ倍額にすることで決まったよ」

「んー、思ったより安い?」

「内部で其所まで良い素材が手に入らない事や、レンプライアの駆除が結局は必要になるのが原因らしいな。 ただ、見習いの従騎士や、有志の傭兵に対する訓練施設としても使用したいらしい」

まあ、それくらいなら。あの黒の地平線に取り残された錬金術師も困る事はないだろう。

湖畔にある別荘は、そこそこ広い施設になっているが。内部には盗んでいくようなものは特にない。

不届きな考えを起こす傭兵などはいるかも知れないが。

強盗しようにも盗るものがないし。

そも残留思念を殺すのは難しいだろう。

残留思念が静かに暮らすためだけの別荘である、と言う話は役人にしてあり。入る場合には周知するようにもマニュアルには書いてある。

不思議な絵画で問題を起こせば、色々面倒な事になる。何しろ価値が国宝級だから、である。

それを考えれば。流石に内部でバカをする輩はいないだろう。

問題は、不思議な絵画そのものを盗もうとする輩だが。

それについては、強力極まりない防犯魔術、勿論錬金術で超強化済みのものが掛かっているので大丈夫だ。

今回役人が来たのは、お金の支払いと、お薬の要求。それに「湖畔」に関する扱いの確認で。

役人は懸念していたという。

「他の絵では基本的に錬金術師が一緒に入ったから良いんだが、「湖畔」は素人向けだというのをあの役人は気にしていてな。 色々と聞かれたよ」

「なら、結いのパステルを活用する?」

「……どう活用する」

「ガーディアンでも作ろうか」

ふむと、お父さんは唸る。

そもそも内部の管理が面倒なら、ガーディアンを作るのは手だ。ネージュの要塞では、強力なガーディアンが守りを固め、何よりネージュ自身がレンプライアを独自の方法で駆除していた。

ああいう仕組みを、内部に後付で作れるかも知れない。

結いのパステルそのものは強大な魔力の塊に過ぎないが。

そも不思議な絵画の世界は、それぞれの心の世界に等しい。

ならば。其所では様々な応用が聞く。

残留思念の固定化が可能なら。

ガーディアンの構築も可能なのではあるまいか。

問題は、稼働するための仕組みだが。

リディーがそれについては考えると言ってくれたので、任せる。お父さんも頷くと、また手分けして作業に戻った。

黙々と、作業を続ける。

時々、お母さんの事を考える。まだ時間は充分にあるはず。そして残留思念とは言え人命が掛かっている以上、失敗は許されない。

順番は決まった。

むしろガーディアンの作成という発想は、僥倖だったかも知れない。そも、実験は失敗が許されなかったのだから。

まずガーディアンを作る。これで結いのパステルの試運転を徹底的に行う。

その後ノウハウを反映し、黒の地平線にいる残留思念を救助して、湖畔に移動して貰う。

そして最後に。お母さんの残り時間を延ばす。

最後に関しては、永続で延ばしたい。

元々お母さんは優れた騎士だった。お母さん自身の力を戻せば、触ることはできないにしても。

レンプライアに対しては、駆除くらいは出来る筈。

お母さんが対応出来なくなったのは、色々な諸要因があったからで。力を取り戻せば、あの「天海の花園」のガーディアンそのものになる事が出来るはずだ。それならば。安心である。

お父さんが、不思議な絵画を完成させるのに使った、超高密度魔力が籠もった不思議な絵の具をベースにして。

結いのパステルを作り上げるまでに一週間。

その三日前に、タスクを見てアンパサンドさんとフィンブル兄、マティアスにも声を掛けておいた。

ルーシャにも声を掛ける。

ルーシャは、少し様子がおかしかった。

黒の地平線で非常に辛そうにしていたし、行かないという手もある。だけれども、ルーシャは静かに首を横に振った。行くというのである。ならば、止める事は出来ない。

それにしても、何か疲れ果てているように見える。

何かあったのだろうか。

ルーシャが行くというのなら、戦力も充分。昔も強かったが、今のルーシャは充分以上に頼りになる。とっくにルーシャのお父さんを超えているだろう。

黒の地平線も、普段は騎士団が演習に使っていると聞く。この間のような大きいレンプライアばかりが出ると言うことはないだろう。

最後のタスクを処理。

出来上がったのは。

クレヨンのように固めた、不思議な絵の具だった。

後はこれで、絵の中にて魔法陣を描けば良い。描く魔法陣についても、入念にリディーが検証済みである。魔法陣を描くのは、強い魔力を内蔵した石材だ。この間、黒の地平線で入手した。

これを不思議な絵画に持ち込み、魔法陣を描いて埋め込むことで、様々な効果を発生させられるはずである。

どうにか、間に合った。

カラフルなパステルは、一見すると子供用のお絵かき具(ただし実際のパステルは相応の高級品である)にも見える。

だがこれは、リディーとスールが、アドバイスを受けながら。お父さんの助けも借りて作った、最高の道具の一つである。

まず最初の実験にはお父さんにも来て貰う。ガーディアンがどうなるかは分からないが、暴走の時に備えて戦闘メンバーも連れて行く。

予定通り、皆はお城に集まってくれていた。

ソフィーさんが何を言い出すか分からない今。

こうして、この面子で集まるのも。

いつまで続けられるか、分からなかった。

 

2、小さな世界の改変

 

不思議な絵画、湖畔へと入る。

既に他の人も入った形跡がある。アダレットにはどう使うかを説明してあるし、別荘付近には近付かないようにとも話はしてあるが。

人の立ち入った形跡を見る限り。

どうやら、指定は守られているようだった。

不思議な絵画に入れば、法則が違う異世界であると言う事は一発で分かるのである。この湖畔にしても、美しい森と緑が拡がり、静かで穏やかな湖がある。この時点で、現実とは違いすぎる。

多分この湖で、ひらひらの布を着て遊ぶ事も出来るだろう。

富豪などは、自宅の庭などに水たまりを作って、そんな感触で遊ぶ事があるらしいのだけれども。

基本的に水場が如何に危険かは誰もが知っている。

この穏やかな絵で無ければ、出来ない事だ。

また、レンプライアがいるという事も忘れてはならない。

そういえば、キャプテンバッケンの絵でも、海中にはレンプライアは出てこなかったけれども。

あれはどうしてなのだろうか。

ともかく、レンプライアの性質については後回しだ。

まずは予定通り、別荘に。

別荘の中には、最低限の生活器具しかなく。しかしながら、最低限のものは、全て揃っている。

残留思念が引っ越しをするには、充分だろう。

皆にも見てもらう。

生活をするのに良さそうかどうかを聞いてみると。流石に王族であるマティアスは、難色を示した。

「ちょっと狭すぎねーかこの小屋……宿とかだと俺様も耐えられるけれど、此処で暮らすのは嫌かなあ」

「閣下。 皆、これくらいの家で暮らしているのが普通だ。 むしろ獣に襲われる可能性が無いと言うだけ、随分と環境が良い。 生活のために必要な設備も整っている、もっと貧しい生活をしている民からすれば贅沢すぎる程だ」

「そうか、そういうもんなのか。 確かに俺様、贅沢だったかもしれないな」

「……わたくしも、少し手狭に感じますけれども。 ただ、雰囲気は良いですわね」

ルーシャはそう言ってくれるか。

ちょっと嬉しい。

アンパサンドさんは、問題なしと一言だけ。オイフェさんは家の中を見て回って、必要なものはそろっているとだけ言ってくれた。

それならば、これで充分だろう。

石材を荷車から降ろすと。

先に指定していた魔法陣を、皆の立ち会いの下で描く。

結いのパステルそのものは、強い魔力を補給すれば、幾らでも使う事が出来るので。別に慌てることも無い。

不思議な絵画の基本法則に多少干渉する事になるが。

基本的に不思議な絵画には、外部から干渉する事が珍しくもない。お父さんも、自分の絵を随分と補修していたし。そういうものだ。

内部から干渉する事だって、ある意味レンプライアがやっているわけで。

今更である。

淡々と魔法陣を描く。

複雑な魔法陣を、リディーの指示で描いていく。スールもそろそろ、これくらいは出来なければならないからだ。

彫るのは得意だが。

パステルを使って描くのはそれほど得意ではない。しかもこのパステルでの作業、ミスが許されない。

石材は幾らか積んで来ているが。

強い魔力を持った高品質の石材は。

そうたくさんあるものでもないのだ。

ほどなく、魔法陣が光り始める。

動くだけでは安心できない。

先に皆には説明してあるので、すぐに皆備えて動いてくれる。周囲を固めて、襲撃に備える。

姿を見せるのは、鎧姿の兵士達。

ネージュの要塞を守っていたガーディアンを参考にさせて貰った。いずれもが寡黙に守りの仕事をこなす。

この湖畔では、レンプライアが現れた場合駆除する役割と。

もしもガーディアンが倒された場合、時間を掛けて修復する機能。

更に人間がこの別荘に近付いた場合、警告、監視する機能を盛り込んだ。また、別荘から何かを盗み出そうとする者が出た場合は、拘束して騎士団に通報する機能もついている。

これだけでかなり複雑な魔法陣になったので。上手く行っているかはかなり不安なのだが。一つずつ試して行く。

騎士団の人間が窃盗を働くとは思えないが。

一応、騎士団長に通報が行くようにはしてある。

騎士団長まで腐敗してしまったらどうしようもないが。

現時点でその恐れはないし。

何よりも、そもそも此処には盗むものがない。

ほどなく出現した鎧姿のガーディアンは、三十体に達する。これに対して、機能試験をしていく。

一つずつ、皆と一緒に試して行く。

いきなり攻撃をしてくるような機能は盛り込んでいないが。

それでも、レンプライアと戦えるくらいの実力は必要だ。

武器は槍を主体に、それぞれが小型のクロスボウを腰に付けている。正式な装備としては、生半可な傭兵よりも重武装だ。使い捨ての傭兵が、高い武器を買えないという事情もあるのだが。

湧いていた小型のレンプライアを誘導して、戦わせてみる。

ガーディアン達は素早くとても綺麗に連携して動くと。

レンプライアを、またたくまにずたずたにしてしまった。

基本的に十体一組で動き。

一組が別荘を守り。残り一組が巡回を実施し。残り一組が補充要員として待機するようにしている。

それらの動きも、きちんと行うかを確認。

お父さんが一つずつ機能を試しながら、頷いた。

「これ、オネットの家の周囲にも配置できないか」

「この実力だと、中型以上のレンプライアを相手にするのは厳しいと思うけれど……」

「そうか。 戦闘タイプのガーディアンにした方が良いか」

「うーん、ちょっとその場で思いつきの変更を加えるのはあまり賛成できないかな」

スールの言葉を聞いて、ルーシャが驚いている。

昔だったら、スールの口からこんな慎重な言葉が出るとは思えなかったのだろう。

いずれにしても、二刻ほどかけて、きちんと全ての機能を実験していく。

なお騎士団長には、事前にアンパサンドさんから話が行っているので。騒ぎになるような事も無かった。

機能はいずれもが問題なし。

強い魔力を帯びた石材は、この絵の中核である別荘の側に埋める。これで魔力の自動充填もされるはずだ。

次。

いよいよ此処からは。

失敗が絶対に許されない作業になってくる。

「湖畔」を出ると、「黒の地平線」に入る。

黒い遺跡と白い空。

相変わらずの不可思議な世界だが。前に比べると、悪意が段違いに弱まっている。本当にソフィーさんが、丁寧に処置をしてくれた、と言う事なのだろう。悔しいけれど、感謝しなければならない。

不思議な絵が汚されるのは。お父さんがしている仕事を汚されるようで。今は、あまり気分が良くないのである。

レンプライアも、前に見たような超巨大なのはいない。

また、あの悪趣味な「七つの大罪」のオブジェも、既に存在していなかった。

「傲慢」が封印されたことで。

恐らくは、活性化を止めて、動けなくなったのだろう。或いは、絵そのものに溶け込んだのかも知れない。

それでも、レンプライアは時々襲撃をしかけてくるが。

どれも、現状の戦力であれば撃退は難しく無い相手ばかりだったので。順番に全て片付けてしまう。

ただ、今回は戦闘が苦手なお父さんがいる。常にそれを意識して、お父さんを守りながら動かなければならない。

レンプライアの欠片を回収しつつ。

所々で素材も回収する。

やはりかなり良い素材が採れる。

今回は、ルーシャと二等分だ。

パイモンさんは、流石に今回の仕事に呼ぶには戦力的に贅沢すぎるだろう。他にも仕事はいくらでもあるのだし、其方に回って貰ってほしい。

羽の生えた鎧のレンプライア。

そう、周囲に竜巻を纏っていて、近付くだけで傷つくあいつが、数体姿を見せるが。

スールは空中に躍り上がると。

躊躇無くメテオボールを叩き込む。

更にルーシャが砲撃を浴びせて。

そもそも近付かせない。

粉々になったレンプライアから欠片を回収。レンプライアの欠片は、幾らあってもいい。危険物ではあるが。

ギリギリの戦闘では、この上ない切り札になるからだ。

ほどなく、「怠惰」のオブジェクトがあった地点に到達。

悪意に対するシールドを張っているリディーを見るが、消耗はごくごく小さいようだ。そもそも此処までで、大きな戦闘を経験していないのだから当然だろう。

庭園の一角。

ベンチに、そのくたびれた姿は座っていた。

この絵を描いた錬金術師の残留思念。

近付くと、顔を上げる。

くたびれ果てた、窶れたおじさんだった。

美少女やイケメンだったら助けるが、汚いおじさんだったら助けない。

そんな価値観を、昔もっていたかも知れない。

バカか。

そんな風な事を考えていたから、ヒト族は己の世界を滅ぼしてしまった。それが今ではよく分かる。

この人も、勿論救わなければならない。

救えない人はどうしてもいる。だが救える範囲にいる人を救わなくて、何がSランクの錬金術師か。

声を掛ける。

相手は、落ちくぼんだ目で、リディーをじっと見つめていたが。やがて、返事をしてきた。

あまり人と話慣れていないのか。

それとも、何かの理由で、自信を失ってしまったのか。

か細く、弱々しい声だった。

この人だって、不思議な絵画を描いたほどの錬金術師なのだ。このように弱々しくなったのには理由があるのだろう。

順番に、聞いていかなければならない。

「君は……君達は……この絵をレンプライアから取り返してくれた人達だね……」

「錬金術師、スール=マーレンです」

皆にも自己紹介をして貰う。

スールの意思を理解しているからか。

皆、相手を蔑視することもなく、声を荒げることも無かった。

ネージュも、この世界に愛想を尽かして不思議な絵画に閉じこもったが。

それを責める資格は、すくなくともこの世界に生きる者には無い。国を挙げて迫害をしかけておいて、偉そうに説教とか、一体何様か。そんな事だから、万物の霊長とか言う噴飯ものの自称をしたあげく滅びるのだ。

この人だってそう。

不思議な絵画を描くほどの錬金術師が、此処までの事になって、残留思念となり絵に留まっているのだ。

余程の事があった、と考えるべきだろう。

勿論要求次第では応じられないが。

少なくとも、この危険な世界ではなく、安全な家を用意することは出来る。

そしてそれにはスールにも利がある。

現状の結いのパステルでお母さんを助けられるかどうか、見極められるからだ。

説明を終えると。

錬金術師の残留思念は、しばし黙り込んでいた。

そして、ぽつぽつと話し出す。

錬金術師の名前はアデルバルト。

聞いた事もない街の出身者だった。アンパサンドさんとフィンブル兄を見るが、首を横に振られる。

ということは、既に滅びた街なのだろう。

不思議な絵画そのものは値打ちものとして、この人が亡くなった後に持ち出され。

その内使い方も価値も分からなくなり。

何処かの倉庫に放り込まれ。

真っ黒に染まってしまった。

そういう所だろうか。いずれにしても、この人が魂を込めた絵画が、酷い扱いをされたものである。

駄作であろうと、如何に自分の願望を絵にしたものであろうと。

描いた人間にとって、そんな扱いが嬉しいわけがない。

アデルバルトさんは、淡々と話してくれる。

「僕は大した才能もなくて、街でほそぼそと錬金術師をしていたよ。 何しろこの容姿で、しかも気弱そうだろう、街の人達は僕を都合良く利用してね。 薬や強い獣の退治が必要な時にはゴマをすって、それ以外の時は陰口大会さ。 誰かを助けても感謝はされることもなく、むしろ遅いとか怒鳴られる事の方が多かった。 そして……すり減っていた僕の前に、彼奴が現れたんだ」

悲しい話だ。

昔だったら、キモイオッサンの泣き言呼ばわりしていたかも知れない。

だがそんな風な言い方をしていたから、ヒト族の世界は滅びた。

今のスールは、それを理解している。繰り返すが、美少女だろうがキモイオッサンだろうが、容姿で助ける助けないを選別する方がおかしい。

むしろ、そんな風に考える奴を選別して駆除する。

その作業が必要では無いのだろうかと、スールは考えている程だ。

「彼奴はあからさまに容姿が優れていて、喋るのも得意だった。 でも、一目で分かったよ。 錬金術師としての実力は僕よりも明らかに、いや遙かに劣るって。 街であっと言う間に人気者になった彼奴は、僕を排除する方向で動き始めた。 山師だったんだろうね」

あらゆる不正がでっち上げられ。

街中の女を独占したそのツラがいい山師によって。

アデルバルトさんは街を追い出された。

とぼとぼと、荷車とわずかな資産。そしてこの絵を持って逃げている途中。

振り返ると、街が燃えていたそうだ。

「ネームドだよ。 君達くらいの錬金術師なら、どうにでもなる程度の相手だっただろうけれど、あの山師と、街の自警団では致命的な相手だった。 街は瞬く間に焼き尽くされて、ほとんど皆殺しさ。 慌てて戻った僕は、必死に戦ってネームドを倒した。 だけれど、真っ先に逃げ出した山師が街の財宝をあらかた持ち出してしまっていた上、自警団は全滅してしまっていた。 街の人間も、十分の一も残っていなかった」

後は悲惨だったという。

生き残った人達を、必死に手当てして回ったけれど。誰も彼もが、役立たず、どうして遅れたと、アデルバルトさんを罵ったという。

そして呆然としているアデルバルトさんに、早く助けろと、居丈高に怒鳴り散らしてきたそうである。

ショックだった。

そう、アデルバルトさんは静かに嘆息した。

「やがて、街を一度捨てて、隣街に逃れる事になった。 街道を行く途中に、あの山師の死骸が見つかったよ。 どうやら獣に襲われたらしくてね。 要するに、獣から自衛さえできなかった程度の腕前だった、ということさ。 街の生き残った女の人達は、みんなが揃って僕を責めた。 この人でなし。 お前が役立たずだからこの人が死んだんだってね」

「それはどう考えてもその街の者達が悪いのです」

「同感だな」

アンパサンドさんとフィンブル兄がフォローを入れる。

スールも同意だ。

だが、集団になると。

特にヒト族は、愚者の群れと化す。

その街はヒト族を中心とした街で。しかもネームドの襲撃で、自警団のボスをしていた魔族の戦士も亡くなったらしく。もはや烏合の衆は、まともな判断力も残していないようだった。

そしてスールは、頭を振る。

今後マティアスは、そんな愚かな人達を相手にしていかなければならないのだ。

盾になると言う事は、そういうこと。

ミレイユ女王の盾となって生きるという事は。そんな愚か者達を、どうにかして掣肘し。場合によっては逆恨みも自分で受け止めなければならない。

大変だろう。

アンパサンドさんとフィンブル兄に、支えて貰えるのは良かったと思う。

孤独では、とても耐えられるとは思えない。

アデルバルトさんは更に言う。

「隣街に辿りつくまで、多くの獣に襲われ、匪賊にも襲撃されたよ。 それでもどうにか全員守りきった。 疲れ果てている僕は、隣街の人達に状況を説明して。 そして、安心した瞬間だった。 刺されたのさ、後ろからね」

あの山師に惚れていた女の仕業だった。

倒れたアデルバルトさん。

街にはあまり腕が良くない錬金術師もいたけれど。

その人も間に合わなかった。

一応手当はしてくれたらしいが。

そもそも助けた街の人達の証言が、あまりにもアデルバルトさんの言葉と一致していない事もあって。

手当はおざなりだったらしい。

「君達くらいの錬金術師がいてくれたら、助かったかもしれないね。 いずれにしても、僕は薄れる意識の中で、思ったんだ。 一体何のために生まれてきたんだろうって」

リディーはじっと俯いていた。

多分、「みんな」の邪悪さを、再確認したからだろう。

スールも許せないと思った。

恩知らずで恥知らず。

だが、死んでしまえとまでは言えない。

それでは、クズのツラだけ良い山師と同じだからである。

更に、アデルバルトさんは、絵の中に残留思念でいつの間にか移り。更なる死体蹴りを其所から目撃したという。

結局の所、街に来た山師が英雄扱いされ。

アデルバルトさんは役立たずのクズだったという結論に落ち着いたという。

何故その状況でそうなるかは分からないが。

多分余程女をたぶらかす手管に長けていたのだろう。その山師は。

反吐が出る。

アデルバルトさんの私物は全て売りさばかれ。死体も無縁墓地に捨てられたという。

そして、最後の魂を込めたこの絵も。

捨て値で売りさばかれた。

どうやらその街の錬金術師は。不思議な絵画の存在さえ知らなかったようで。興味さえ見せなかったそうである。

買い取ったのは流れの商人。捨て値で、だそうである。

ただ錬金術師の描いた絵だ。何か価値があるかも知れないと思った物好きが買った、というわけだ。

しかしそれもいずれ忘れ去られ。

やがて流れ流れて、何処かのアトリエに放置された絵はこの状況になったと言う。

「僕だって、この絵が駄作だって事は分かっているさ。 だが、ツラがまずくて雰囲気が暗いというのは、そんなに悪い事なのかな。 僕は皆を助けるために、己の全てを使い切ったよ。 それなのに、どうして刺されなければならなかったのかな」

「……この絵を、離れよう、アデルバルトさん。 それが出来る準備はしてきました」

結いのパステルの説明をする。

そして、フェアでありたいと思ったから。

スールは自分達の目的の説明もした。

お母さんを助けたいのだと。

実験は、既に「湖畔」にて行っている。魔法陣さえ間違わなければ、絶対にきちんと動作してくれると。

だが、人体実験(残留思念だが)はこれが初めてになる。

もしも失敗したら。その時は、スールは謝っても謝りきれない。

そう説明して、誠実に頭を下げると。

アデルバルトさんは、静かに笑った。

「ありがとう。 僕の絵のせいで、色々酷い目にあっただろうに、其所までしてくれるんだね。 良いよ、やってほしい。 僕も、自分の酷い人生そのものであるこの絵からは、もう離れたいと思っていた。 失敗して、消えてしまったとしても……悔いはないよ」

「最善を尽くします」

スールは頷く。

そして、周囲を、皆に固めて貰った。

ルーシャが側で、拡張肉体を展開。念入りにシールドを張って、残留思念とスールを守ってくれる。

リディーが言ったとおりに魔法陣を丁寧に書いていく。

石材は、さっき更に補充した。

だから、一度や二度は失敗しても大丈夫だが。問題は魔法陣を書き間違えて、それがしかも発動した場合だ。

何が起きるか分からない。

それだけは、避けなければならない。

まず順番に作業をする。

アデルバルトさんの残留思念に力を与えて、存在を強固にする。

これ自体は、この後お母さんにしようと思っている事と同じだ。

続いて、湖畔へ一時的に世界をつなげる。

お母さんくらい強い自我があると素で出来るようなのだけれど。アデルバルトさんには厳しいだろう。

だから、此方でお膳立てをする。

そして続けて、この世界。黒の地平線から、アデルバルトさんがいなくなった事を補填する。

具体的には、絵のエーテル量がぐんとさがるので。

それを補填する。

ただでさえ真っ黒になるまでレンプライアに食われた絵だ。

もしも世界が崩壊したら、何が起きるか文字通り分からない。絵の外の世界に影響があるかも知れない。

そんな事は許されない。

そして最後に。

湖畔に出向き、アデルバルトさんの残留思念を、其所に固定化する。

作業は二段階に分けて行う。

最初の三つはこの黒の地平線で。

最後は湖畔で、である。

お父さんも、魔法陣を描く際に、補助をしてくれた。最後の一筆を入れる前に、入念に調べてもくれる。

お父さんも、アデルバルトさんが辿った運命については、相当に思うところがあるようで。

全面的に協力してくれたのは有り難い。

ほどなく、魔法陣が完成。

アデルバルトさんだけが。この絵の中で、まず色彩を取り戻していく。くたびれた姿のままであったが。

強い魔力が立ち上っているのが見て取れた。

「ありがとう。 凄く楽になった。 此処から離れる事も出来そうだ」

「少しだけ、向こうで待っていてください」

「ああ。 分かっているよ」

空間の穴が開き。

湖畔とつながる。

シールドを展開していて正解だった。凄まじい数のレンプライアが押し寄せてくる。これは、しばし総力戦をしなければならないだろう。空間の穴が塞がるまでは、そしてこの絵の補填が終わるまでは、持ち堪えなければならない。

どっと押し寄せてくる悪意。

レンプライア達に、スールは躊躇無くありったけの爆弾を放り。

ルーシャが砲撃。

近付く相手には、フィンブル兄とマティアスが容赦の無い剣撃を浴びせ。お父さんの守りは、リディーががっちりやってくれる。

どんどん押し寄せてくるレンプライアだが。

全部まとめて蹴散らしていく。

此処の王であった「傲慢」に比べれば、ゴミかカスに等しい相手だ。はっきりいって、数を揃えても。

前のような、死を覚悟するような戦いでは無い。

油断さえしなければ大丈夫だ。

アンパサンドさんが、もう残像すら作らず。空中に無数の線を描きながら、敵を切り刻んでいる。

致命打にはならないが、動きを止めたところを、確実に他の皆で仕留めていけばいい。

スールもメテオボールを蹴り挙げると。

空中に躍り上がって追いつき。

一番大きい下半身が無いレンプライアに、渾身の一撃を叩き込んでやる。

射線上にいたレンプライアごと、まとめて全て消し飛ばすメテオボール。

人間の悪意、か。

アデルバルトさんの守ろうとした連中も。こんな悪意を、アデルバルトさんに叩き付けていたのだろう。

そして昔は、リディーとスールも。

穴が塞がる。

次の段階に移行。絵の補填が開始される。

其所で気付く。結いのパステルが、かなり弱まってきている。

これは、どの道一度外で補充しなければならないかもしれない。

穴が完全に塞がった事で、レンプライアももう無意味と判断したのか、それとも本能的な行動なのか。

さっと潮が引くように引き始める。

石版を埋めると、補填がきっちり済むか確認が終わるまでその場に残る。

同時に、今のうちに怪我人の手当もしておく。

多少フィンブル兄が手傷を受けていたが。それも大したものではない。

あれだけの数のレンプライアを相手に、この戦果。

やっぱりみんな強くなっている。

フィンブル兄も、一発で騎士採用されるわけである。

そこは、少しだけ安心できた。

程なく、絵の補填作業も完了する。

頷くと、すぐに黒の地平線を出て。そして湖畔に移動。

座り込んで待ってくれていたアデルバルトさんを、別荘に案内。別荘を見回すと、アデルバルトさんは、涙を拭い始めた。

「ありがとう。 僕は生きた証として、あの駄作しか残せなかった。 だけれども、君達は僕を人間として扱ってくれて、尊厳も守ってくれた。 この絵は僕が必ずレンプライアから守り抜くよ。 これでも、此処にいるレンプライアくらいなら、この頼もしいガーディアン達と一緒なら余裕で守り抜けるさ」

「……」

スールは頷くと。

ガーディアン達のボスとして、アデルバルトさんを登録。

そして、アデルバルトさんの存在を。

此処に固定化した。

 

3、夢の最果て

 

湖畔の絵を、アデルバルトさんに見送られながら出る。そして、結いのパステルに魔力を充填する必要がある旨を説明し。

一度応接室を借りて休む事にした。

アンパサンドさんは、一緒に休憩しない。

あの絵についての資料を調べてくると言って、すぐに応接室を出ていく。半年後の副騎士団長だ。ある程度の融通も利くのだろう。

最初にため息をついたのは、マティアスだった。

「俺様もさ、残念イケメンって言われてるけど。 あのアデルバルトっておっさんの事を考えると、色々他人事じゃねえわ。 彼処まで報われない人生は……あまり人目に触れないだけで、結構あるんだろうな」

「マティアスは、ああいう人を見たらどうする?」

「助けるに決まってるだろ。 俺様だって、可愛い女の子だけ助けるような外道じゃねーよ。 何というか……上っ面だけで相手を判断する人間が、どれだけ醜いかは知っているつもりだったよ。 同調圧力ってのがどれだけくだらねーかも理解しているつもりではあったよ。 だけどあのおっさんの人生は……悲しすぎるだろ」

「その心を忘れるな、閣下」

「ああ。 絶対に忘れねー」

マティアスはずっと黙っていたけれど。

多分本当に頭に来ていたのだろう。

それに、アデルバルトさんも、残留思念になってまで嘘をつけるとは思えない。絵が黒に染まった経緯から考えても。

恐らくは、全て事実だったのだろう。

ヒト族は。己の世界を、他の動物も全部巻き添えにして滅ぼした時から、何一つ変わっていない。

他の人間も同じだ。

人間四種族、そのものを変えなければならないのだ。

リディーとは今後の方法論が違う。

だがこのような例を見て、もはや放置は出来ない。これ以上、万物の霊長だのと言うような寝言を口にする輩が出てこないようにする。

それが、スールがやらなければならない絶対の事の一つだ。

少し休憩したので、お父さんの立ち会いの下、結いのパステルに、リディーが魔力を注ぎ始める。

ルーシャもそれを手伝う。

魔力が増えたとは言え、魔力量そのものは決して多く無いスールは、その作業だけ参考にさせて貰う。

もっと腕が上がったら。

或いは同じ事が出来るようになるかも知れないから、である。

アンパサンドさんが戻って来た。

どうやら、黒の地平線についての資料を持ってきたらしい。

それによると、アデルバルトさんの名前は残っていなかったが。

「事故で行き倒れた錬金術師の私物を安値で買いたたいた」という記録が残っているそうである。

何が行き倒れか。

アンパサンドさんは、ため息をつくと。もう一つの資料を見せてくる。

それは、既に滅びた。ラスティンに存在した、小さな街のものだった。アダレットとラスティンは交流がある。互いの国で戦争どころではないから、である。

その資料の一つに。随分前に滅びた小さな街のものがあり。

名前は、先にアデルバルトさんが口にしたものと一致していた。

思わず頭を抱えたくなる。

しかも、それが滅びた経緯についても。

完璧に一致していたのである。

「英雄の足を引っ張った無能なるアデルバルトなる錬金術師が街を滅ぼした、だそうなのです。 資料については、本人の話を聞いた上で、更新を請求しておくのです」

「……アンパサンドさんも、結構怒ってる?」

「当たり前なのです」

「そうか、良かった」

頷くと、アンパサンドさんは早速作業に出向く。

それにしても、歴史にまで貶められるとは。

本当に人間とはどうしようも無い生物だと、再確認させられるばかりである。これでは世界の詰みが打開できない訳だ。

程なく、結いのパステルの魔力充填が終わるが。

リディーもルーシャもへとへとだ。

少し休憩する。

お母さんの状態が心配ではあるけれど。お父さんのしてくれた処置を信じる。絶対に、しっかりやってくれているはずだ。

そう信じて、休憩して、皆が回復するのを待つ。

書類の申請を済ませてきたアンパサンドさんが戻ってくる。

ラスティンとのやりとりや、見聞院とのやりとりがあるから、すぐに資料が更改されるわけではないだろうが。

クズを英雄扱いし。

英雄の名誉が貶められる愚かしい歴史は、これで塗り替えられる。

しばし、無言が流れたが。

ルーシャが、ふと言った。

「スー。 もしその現場にいたら、どうします?」

「錬金術勝負を挑んで、山師の化けの皮を引っぺがすかな」

「相手が「みんな」を味方につけていたら?」

「殴ってでも目を覚まさせる」

過激な方法だが。

そも多数派が正しいという思想の方がおかしいのである。多数派でも間違っているときは間違っている。

ましてや容姿で相手を決めつけるなど。

これ以上無い程くだらない事だ。

そういう事をして、ましてや破滅に向かおうというのなら。

ぶん殴ってでも目を覚まさせて。

そして性根をたたき直す。それ以外に、手はあるだろうか。

リディーに、同じ事をルーシャが聞く。

リディーはためらいなく言う。

「私だったら、その山師をぼこぼこにして化けの皮を剥いで街から蹴り出すかな」

「貴方まで……」

「殺さないだけマシだと思って貰わないと」

ルーシャが悲しそうに目を伏せる。

だけれども、スールもそれは手としてはありだと思う。いずれにしても、そもそも上っ面だけ良くて、「コミュニケーション能力」だけ優れている輩を優遇すればどうなるか何て、少しでも考えれば分かる事。

それを考えて分からないのだから。

力尽くで分からせるしかないのだ。そういうものである。

「そろそろ、休憩は充分だろう」

空気の悪さを察したか、フィンブル兄が促してくる。

準備を整えたことを確認すると。

天海の花園へ、今度こそ向かう事にした。

 

天海の花園は相変わらず美しい場所で。レンプライアの数も、目だって減っていた。これは恐らく、騎士団がかなり頻繁に演習をしに入っているからだろう。幾らでも湧くとは言え、潰せば消えるのである。

天国とは、こう言う場所なのだろうか。

だが、一皮剥けばどうなるかは、前に見て理解している。

途中、レンプライアを見かけ次第潰しながら、奥へ。

もう大した相手はいない。

だが、それでも不意を打たれればどうなるかは分からない。皆には、最大限の注意を払って貰った。

此処では、強烈なレンプライアと苛烈な連戦をしたのだ。

その時の記憶もある。あの時も、本当に酷い目に会った。レンプライアは弱い相手ではない。

ネームドにまで成長した獣に比べると劣るが、それぞれの性質も厄介だし、魔術に関してはかなり高い能力も持つ。

散々不思議な絵画で戦いを続けて来たのだ。皆経験は積んでいるし、油断はしていない。

この絵が壊れかけたときは、本当に大変だったし。

この絵の世界が元に戻ったとは言っても。あの時の過酷な戦いの記憶まで消えるわけではない。

浮島の間に渡る橋を進みながら、時々お父さんの事も気にかける。

戦闘力がないお父さんが奇襲を受ける事が一番危ない。今此処にいる弱めのレンプライアでも、危険な場合があるだろう。

後方支援であればお父さんはそこそこやれるけれど。

それでも、攻撃魔術とか使えるわけではない。

しかし、お父さんの作るお薬は、今までにたくさんの騎士達を救ってきているし。

病に苦しむ人達だって救ってきている。

戦闘で役に立てないと言う事は。

役に立たないと言う事とは、別の話なのだ。

やがて、家が見えてくる。

お父さんが目を細めた。

周囲に展開して、レンプライアを完全に駆除。薔薇園は美しく戻っていて。そして、とても香りも良くなっていた。

なるほど、美意識が洗練されきると。

安全さえ確保されれば、此処まで美しい場所になるのか。

スールも安心したけれど。それよりも、まずはお母さんの安全確認だ。

咳払いすると、マティアスが言う。

「家族だけで行ってきな。 外に何が出ても絶対に通さねーからよ」

「ありがとうマティアス。 頼りにしてるよ」

「お父さん、行こう」

「ああ。 皆、すまない。 外の見張りを頼む」

頭を下げるお父さん。

戦闘力がないお父さんは、こう言う場所で護衛を受ける時には、「余計な事をしない」以外に出来る事がない。

戦闘も適性が強く出るものだ。

それはアンパサンドさんに言われたこともあるし。スールも自分で見ていて学習してきた事だ。

お薬を作れるお父さんは充分な社会貢献が出来る。

こういった場所でお父さんのような戦闘力を持たない人を護衛する事も、戦闘が出来る人間の大事な仕事だし。

何でもかんでも出来る人材よりも。

スペシャリストの方が社会に役立てるのもまた、事実なのである。

家の扉に、お父さんが手を掛ける。

しばし躊躇った後。

開けた。

綺麗になっている家の中で。

半透明になっているお母さんが、微笑んでいた。

良かった。間に合ったのだ。

残留思念になっているお母さんに、まずはただいま、という。

お母さんは、お帰りと。三人を迎えてくれた。

話したいことはあるけれど。

まず、此処に来たと言うことは。Sランクに昇格したことを報告しなければならない。お母さんは、もういつ消えても大丈夫なように、覚悟はしているらしく。Sランクに昇格して、この国で一番の評価を受けたことを、素直に喜んでくれた。

覚悟は、元から決まっていたのだろう。

そもそも、お母さんは、リディーとスールが育つのを見ずに命を落とした。

その残留思念が、不思議な絵画の中で存在していられるだけで、本来はとても幸運なのかも知れない。

そう割切れば、確かに覚悟も決められる。

お父さんが咳払いする。

「それで、オネット。 君の存在をこの場に固定できる。 既に、様々な実験は実施済みだ」

「……それは、とても苦労したのではないの?」

「俺だけだったら無理だっただろうな。 もう俺を双子は超えた。 だから苦労している様子は無かったよ」

「そう……」

嘘は言っていない。

お母さんは、恐らくだけれども。残留思念となった自分の時間を延ばすくらいなら。現実を必死に生きている人達の助けになってほしい、という考えなのだろう。

勿論スールもそれは分かる。

お母さんは怒らせると怖かったけれど。

一方で、弱者の盾となる騎士として、これ以上無い程立派な人だったのだ。

戦いに出ているときのお母さんは非常に厳しい性格だったらしく。

或いはアンパサンドさんと、大差無い、きつい言動をする人だったのかも知れない。

でも、お母さんはおうちでは、悪戯さえしなければとても優しかった。そういう風に、幾つもの面を人は持てるものなのだろう。

すぐに作業に取りかかる。

結いのパステルへの魔力の充填はとっくに終わっている。

石版もある。

リディーが指示して、その通りにスールがパステルを動かしていく。魔法陣は、先に実験して効果があったものをそのまま用いる。

だから難易度は決して低くは無いが。

絶対に油断は出来ない。

線を一本ずつ引きながら、丁寧に内容を確認していく。お母さんの存在安定化。それだけが、絶対に重要だ。

作業の間、お父さんはお母さんと、色々話していた。

集中して魔法陣を描いているので、内容までは耳に入ってこないけれど。きっとあまり良い話ではないだろうなと、スールは勘で思った。

その勘はあたる。魔力が見え、使えるようになって来てからは、更に冴え渡るようになっている。

同時に今は。ちょっとやそっとの事では、集中力も途切れないようになっている。

お母さんを助けるためだ。

外で、レンプライアと戦闘しているようだ。一度手を止めて、外を見るが。見た感じ、加勢しなくても問題は無さそうである。

作業に戻る。リディーに時々アドバイスは受ける。今は、スールもそのアドバイスを、素直に聞けるようになっていた。

「大体……こんな感じかな」

「待ってね、確認する」

リディーと魔法陣をダブルチェック。

お母さんの存在を安定させると言っても、幾つかの魔術を順番に発動していく事になるのである。

しかも、出力が桁外れだから、そのどれ一つでも失敗すると大変な事になる。

丁寧に確認。

石版が割れたりしていて、魔法陣が発動しないような、初歩的なミスも考慮に入れて、徹底的にチェック。

リディーが問題なしと言ったので。スールも、他人が描いた魔法陣だと考えて、もう一度チェック。

そして、問題なしと判断し。

最後の線を、すっと追加した。

同時に、家が輝き出す。

光り輝く家の中で、お母さんが淡い、それでいながら優しい光に包まれる。少しだけ、不安になった。

このまま、天に召されてしまうのでは無いのだろうか、と。

だけれども、お母さんは消滅しない。

自分の手を見ていたが、やがて頷くと。その手に二丁拳銃を出現させる。相変わらずこの絵の世界の住人であって、触ることは出来ないようだけれども。

無言でお母さんは家を出ていくと。

また出現したレンプライアに、弾丸を叩き込んでいた。

早撃ちの上に、狙いが恐ろしい程正確だ。銃を使って戦う戦士としては、スールよりまだ上かも知れない。

滅多打ちにされたレンプライアが、無念そうに呻きながら聞いていく。

リボルバーから薬莢を排出した二丁拳銃だが。排出された薬莢は、そのまま溶けるように消えていった。

お母さんは今、この絵のガーディアン。

法則であって、実体は無いが。その代わり、この絵に害を為す悪意の権化レンプライアには、それこそ神の鉄槌を下す事が出来る。

驚いたように見ている皆。お母さんは、ルーシャを見つけると。優しく微笑んでいた。

「ルーシャ、立派になったわね」

「お、おばさま……」

「ありがとう。 本当に我が儘で駄目な子達だったのに、貴方が命がけで守ってくれたおかげで、本当に立派になったわ。 錬金術師としても、戦士としても……」

感極まって泣き出すルーシャ。

ルーシャも、本当に酷い目に会ってきたし。遺言を守らなければならないという負い目もあったのだろう。

お母さんの全身からは、とても強い魔力が立ち上っている。

ああ、良かった。

上手く行ったのだと、スールは確信できた。これで、この絵のガーディアンはお母さんである。生半可なレンプライアには負けない。負ける要素が無い。そしてお母さんは消える事もない。

お父さんも、目を細めて暖かい光景を見守っている。

良かったと、リディーが呟いているのが聞こえた。

 

また、いつでも遊びに来て頂戴。この絵にいるレンプライアは全て掃除しておくから。そう、お母さんは言った。頼もしいし、その言葉が実行されることは疑いが無い。お父さんが徹底的に絵を補強したし。結いのパステルによって、お母さんは絵のガーディアンそのものとなった。

残留思念ではあるけれど。多分人として老いて死ぬことを選ぶだろうお父さんよりも、ずっと長くその場に。

いや、お父さんも。

最後の後には、あの絵の中に、残留思念として。

その時のために、結いのパステルは残しておかなければならないか。

後、問題がありそうな絵については、結いのパステルで修正をしていく必要があるとも思う。

エントランスで考え事をしていると。

アンパサンドさんが、側で咳払いをした。

「スール。 聞いているのですか」

「あっ、ごめんなさい。 アンパサンドさん、ちょっと集中していて」

「仕方が無いのです。 ……本来は死人が生き返るなんてことはこの世には起こりえないのです。 それを成し遂げた後なのだし、少しは大目に見るのです」

アンパサンドさんが優しい。

と言う事は、アンパサンドさんも、あまり悪い気分はしなかった、と言う事なのだろう。だけれども、咳払いすると、その後しっかりアンパサンドさんはスールを叱った。少しは大目に見るとはいったが、叱らないとは言っていない。いつもよりは厳しくない言葉だったが、やっぱり怒られることに代わりは無かった。

勿論自分が悪い事は分かっているので。お叱りは甘んじて受け入れる。

昔だったら反発していたかも知れないなと、ちょっと思ったけれど。

なおアンパサンドさんの説明の内容は、いつも通り。レポートを出すこと。結いのパステルは有用だと思われるので、レシピを見聞院を通してラスティンに登録しておく事。現物は出来ればもう少し作って国に納入すること。

結いのパステルについてはマニュアルも欲しいと言う。

納入関係の書類はアンパサンドさんが作ってくれるという事なので。

後はレポートと、マニュアルの作成か。

結いのパステルをちらりと見る。

応用力が試される、非常に難しい道具だ。使う場合は、少なくともSランクに到達している錬金術師。要するに、本来なら一世代に一人出るか出ないかの一流錬金術師でないと無理である。

それも書き加えておかないと危ない。

悪用は、幸いしようがないか。

そもそも、不思議な絵画に入って作業をするという時点で、かなりハードルが高い。アダレットに不思議な絵画を集めていると言うことは、恐らく深淵の者が今後ガチガチに守りを固めるはず。

盗賊の類が侵入する余裕はないだろう。

エントランスで話を終えた後は、解散。ルーシャはまだハンカチで目元を拭っていたが。それも、オイフェさんに促されて、帰って行く。

今回は無駄足だった訳では無く、貴重な薬草や鉱石も、黒の地平線でかなりの量を回収出来ている。

また水路からは、綺麗に澄んだ水も回収した。

後で少し調べて見るが。

多分この純度だと、そのまま蒸留水と同じように扱える筈だ。魔力も含んでいるかも知れない。

危険なレンプライアが多数いるとしても。三傑が放置しておくわけである。

これだけの素材。それこそ邪神がいる森の深部や、他にも世界でも限られた場所でしか取る事が出来ないだろう。

お父さんは、先に上がって貰う。

二人だけで、今後の事をちょっと話したいと説明。そうすると、あまり遅くならないようにと、お父さんは釘を刺してから帰って行った。子供扱いしてと、昔は怒ったかも知れないが。

今は素直に、心配を受け入れる事が出来た。

お父さんに荷車を任せてお城を出ると、二人で教会に向かう。シスターグレースにお礼も言う。お母さんのお墓も掃除する。

だけれども、目的は。

二人っきりで、丘から内海を見る事だ。

内海を守っている堤防は、既に九割工事が完了している様子で、鈍い光が此処からも見える。

非常に強力なシールドが、外海に住まうバケモノ達から、巨大ないけすになっている内海を守っている様子だ。

そして、驚くべきものも浮かんでいた。

恐らくあれが、フィリスさんが使っていたという船だろう。

ドロッセルさんがいっていた、空を飛び、水に潜り、邪神や上級ドラゴンとも戦った神域の創造物。

うろ覚えだが、装甲船二番艦とか何とか言っていたか。

その船が、再び沈んでいく。多分内海に、危険な獣が潜んでいないか調査し。いるようなら駆除するためなのだろう。

わいわいと港で騒ぎになっている。

まああんなものが港に浮かんでいたら、騒ぎにもなるだろう。

大きさからしても、多分内海に浮かんでいる一番大きな船よりも大きいし、強そうである。

一部の者は、あれが深淵の者の事実上の所有物で。

ラスティンから来た存在だという事を知っているだろうから。それこそ冷や冷やだろうなと、スールは思った。

手をかざして喧噪を見ていたが。

やがてそれも落ち着いたので。二人でたまに静かにしたいときに使っていた、坂になっている場所に座る。

此処からだと、アダレットが一瞥できるのだ。

元々機能美の塊だったアダレットは。

先代王が滅茶苦茶にしかけたが。今は、また機能美を取り戻すべく、再建が彼方此方で始まっている。

確かに芸術は大事だろう。

事実、芸術の心が無ければ、お父さんが不思議な絵画を完成させる事もなかったし。何よりも、お母さんと二度と会えなかった。

だけれども、先代王は芸術を現実に優先しようとした。その傷跡が、彼方此方に残っていて。それがとにかく見苦しく、悲しかった。

あれを直していくのは。

三傑では無く、多分リディーとスール、それにルーシャの仕事になる筈だ。

顔を叩く。

リディーも、頷いていた。

これから、挨拶回りをしようと思っている。

今後も連携していくマティアスとフィンブル兄、アンパサンドさんは別に必要ないだろう。シスターグレースや、顔を合わせることになるパメラさん。それに、今後は王都に定住するつもりらしいフリッツさんとドロッセルさんもかまわない。

また、深淵の者に今後は所属することになる。

ソフィーさんに、強制的に入るように言われたが。いずれにしても、それ以外の選択肢は存在しなかった。

だから、その事については恨んではいない。

深淵の者関連で、アルトさんやプラフタさん、イル師匠やフィリスさんとは、散々顔を合わせる筈。コルネリアさんや、リアーネさんやツヴァイとも、それは同じだ。そろそろ、ツヴァイちゃんと呼びたい所ではあるが。あの子、実はかなり気むずかしくて人見知りの様子なので、そう呼ぶことを許してくれるかどうか。

今後は、必ずしも良く会うかわからない人に、挨拶回りをすることに決めて、順番に街を回る。

鍛冶屋の親父さん。パイモンさん。モノクロームのホムの役人。そういえば、この人は名前を聞いていなかった。他にも糸繰りや機織りのお店。近所の人達。

だいたいの人に挨拶回りを済ませると、夕方になっていた。

赤い夕陽が、アダレットの内海を照らしている。

船が何事もなかったかのように浮上してきていて。それどころか空に浮き上がると、何処かへ飛んで行った。ラスティンに戻るのだろう。わいわいと声が上がっていたが、それも当然。

今のリディーとスールから見ても、凄い光景だ。

そして恐らくだが。これが人間として見る、最後の驚くべき光景になるだろう。

勘は当たる。

用事が終わったので、覚悟を決めてアルトさんの所に出向く。結いのパステル関連の事が片付いたら顔を出すように言われていた。深淵の者の長の所に出向くのだ。碌な事がないのは分かっていた。

予想通り、ソフィーさんが待っていた。

指をソフィーさんが鳴らすだけで、周囲が真っ暗な空間になる。

唇を引き結ぶリディーとスールに、ソフィーさんは言い渡した。

「これから、アトリエと錬金釜を貸すから、賢者の石を作るように。 その前に、このレシピを見て、道具を作っておいて」

手元に、レシピが数枚来る。

ぞっとするような難易度だが。今なら、何とか理解出来るレシピだ。そしてその内容は。時間と空間の操作。

最高精度の調合を行うために、必須の技術だという。

センスがある場合はこれらが無くても出来るらしいが。普通は無理。フィリスさんと、イル師匠も。時間と空間の操作を用いて賢者の石の作成に成功したのだと、ソフィーさんは言う。

「まずは深淵の者の所属初仕事として、それをやってもらおうかな」

最初から決まっていただろうに。ソフィーさんは、そんな事を、慈悲の欠片も無い顔で言うのだった。

 

4、黄昏

 

深淵の者本部。既に、幹部が全て集まっていた。幹部が全て集まる規模の会議は久しぶりである。

ソフィーが招集したのだが。

食客、外部顧問という形になるソフィーも、あまり横柄に振る舞う事は出来ない。というか、しない。

大事な話がある時にだけ、こうやって人を集める。

それを知っているからだろう。誰も、ソフィーに文句を言う者はいなかった。

こういった会議では、最初にもっとも重要な議題を扱う。

そうやって精神を引き締めるのである。

ソフィーも、そのやり方を、今回も踏襲した。

「双子が賢者の石の作成を出来る実力に到達しました」

「おおっ!」

声を上げたのはイフリータである。

この世界の仕組みと理不尽を最も憎んでいた、赤い体を持つ魔族は。怒りそのもののような体色同様の激情家だが。今は、着実に事が進んでいる事を、本気で喜んでいるのが分かった。

ティオグレンも、同じように頷いている。

ケンタウルス族の長として。最強の獣人族である彼も。パルミラ信仰をしている獣人族の村を管轄しつつ、其所から人材を深淵の者に取り込んでいる。

人材は幾らでもいる。

それをいつもルアードが口にしているから、皆人材の育成には熱心だ。

一部の相手。例えば双子のように、徹底的に鍛え上げないと駄目な人材以外は、むしろ長所を伸ばすやり方で、丁寧に育成を行っている。そして人材の到達点を見極めると、それ以上は無理をさせず、その時点で出来る事をやらせる。

応用が出来なければ駄目だとか。

教えなくても出来なければ駄目だとか。

そう言った寝言は言わない。

きちんと教えれば、一つの事については極められる者もいるし。一つに特化している人材の方が、何でも中途半端に出来るような輩よりもずっと役に立てるのである。

だからこそ。スペシャリストの誕生は好ましい。

「恐らく一月は掛かるでしょうね。 それともう一人……」

ソフィーが顎をしゃくると。

真っ青になっているルーシャちゃんが、この場に入ってくる。フィリスちゃんが、うふふと楽しそうに声を上げ。イルメリアちゃんが、唇を引き結んで無表情になる。

「ルーシャちゃんも、同じように賢者の石を作成して貰います。 双子の倍は時間が掛かるかな……。 プラフタ、手伝ってあげてくれる?」

「分かりました。 しかし驚きました。 この子が、此処まで育つとは……」

「仮説だがね」

仕事を一旦切り上げて会議に出てきたシャドウロードが、咳払いする。

彼女は、ルーシャを容赦の無い目で見ながら言う。

「今まで貰った他の世界のデータを見る限り、どうも叩けば叩くほど伸びる者と、そうでない者がいるらしいんだよ。 無論精神論とかそういうのではなくて、単純にそういう性質であるらしい。 その正体は恐らくだが、遺伝的な特性で、ごく希に現れるもの……しかも今まで着目していなかった部分に出るんだろうね」

「彼女はそうであったと」

「恐らくは。 命に替えても守らなければならない双子を守るために、必死に努力を続けるだけでは無く、「あらゆる意味で」ストレスを受け続け、それでも死ななかったことが、現在の実力につながっているんだろうさ」

そういって、シャドウロードはソフィーを一瞥する。

散々虐めて、こんなになるまで壊して。

そう責められている気がしたが。

肩をすくめるだけだ。

世界の詰みをどうにも出来ない状態だ。

手段なんぞ選んでいられない。

もともとソフィーは、世界の理の外側にいた存在といえる。生まれながらにギフテッドを持ち。強い魔術の力も最初から持っていた。多分突然変異だったのだろうけれど。いずれにしても特異点である。これは驕りでは無く、単なる客観的事実である。自慢するつもりもない。

「プラフタ、それとルアードさん」

「うむ。 今後我等も、この体にて、賢者の石を作成する」

「お……おお!」

興奮した声が上がった。

カリスマであるルアードだが。そもそも今までは様々な要因もあって、賢者の石を作る事が出来なかった。

だが、錬金術を使えるように調整した新しい体。

それに、ようやく仲直りすることが出来た500年の時を経た比翼であるプラフタの存在もある。

そしてプラフタは、ついに今までの試行錯誤の結果、概念を変更するという驚天の技術によって、錬金術が出来るヒトの体を取り戻した。

二人が揃っていれば。賢者の石は作れる筈だ。

「今まで三人だった超越者が、一気に五人増えるという事なのです?」

「そういうことだよアルファさん」

「素晴らしい。 ただ、アルファ商会はそろそろ金欠で死にそうなのです」

「ふふ、ごめんなさい。 ……少し地下の深くに金鉱脈があるのを見つけてね、其所の権利を全て譲るから許して貰えるかな」

頷くアルファさん。

まあ、再建策があるのなら、この人は文句を言わないだろう。

さて、此処までで重要議題は終わりだ。

ルーシャには、末席に座って貰い。順番に以降の議題をクリアしていく。

毒薔薇の報告はごく穏当だ。

既に苛烈な作業は終わっているのだから当たり前か。

「アダレットですが、ほぼ腐敗官吏の掃除は終わりました。 抜擢した若手についても、監視は続けています」

「次」

「ラスティンですが、ライゼンベルグでの人員管理は佳境です。 元々連合国家という事もあって、役人は非常に権力が弱く、その分不正に弱いようですね。 全員を粛正するとライゼンベルグが崩壊してしまうので、少しずつ切り崩しと浄化作戦を行っていますが、後10年は掛かるでしょう」

「ふむ、やむを得ぬか。 パメラ、そのまま続けてくれ」

ルアードの言葉に頷くと、パメラは席に着く。

見知った顔が深淵の者幹部だと最初に知ったとき。ルーシャちゃんはどう思ったのだろう。それがソフィーには興味深いが。まあどうでもいいか。

続けて、オスカーが席を立つ。

「アダレットのインフラ整備だが、あらかた完了したぜ。 ただし主要街道だけだ。 おいらから見ても、現状がちょっとばかり酷すぎる。 末端部分へのインフラ構築は、まだ数年はかかると見ても良い」

「そのまま頼めるかな」

「ああ、おいらも植物たちが喜ぶ世界になってくれれば嬉しいから手伝うけどな。 ただな、植物に悪さをする奴がどうしてもいる。 それは、深淵の者でどうにかしてくれよ」

「うむ、それについては周知を徹底する。 問題は、緑化が済んだ直後は言う事は聞くだろうが、世代を跨ぐとどうしても……と言う事だな」

会議は徐々に優先度が下がっていくが。

それでも、重要な事ばかりが扱われる。

間もなく最後の議題が終わり、会議が解散。皆、めいめい持ち場に戻る。深淵の者幹部は皆忙しい。

人間を止めていても、それに代わりは無いのである。

シャドウロードが、ルーシャちゃんとソフィーを呼び止めた。

「特異点。 それと其所のひよっこも聞いていけ。 まだ検証段階なんだが、先に報告しておこうと思ってね」

「お願いします」

「多分だが、今世界にいる人間達は、なんぼ鍛え抜いても無理だよ。 上手く行ったケースを検証したんだが、共通して「変化」が加えられている」

「……問題はどう変化を加えるか、と」

頷くシャドウロード。

例えば、魔族の故郷の世界。其処に住まう知的生命体は、「唯一神」に都合良く改良され、永遠に「光を崇める」存在として作り直されていた。其処まで行くと生命体と言うよりも装置に近い気がするのだが。よく分からない。

そしてもう一つ。

ホムの故郷の世界なのだが。

その世界の人間達は、壊滅的な世界を生き抜くために、強くなるように己の体を改造した節があるという。

その改造された体の持ち主達は、様々な種族に分岐し。

元が同じ人間だったから、破滅を共に乗り越えた後、一緒に生きる事が出来ているようなのだ。

其所まではソフィーも大まかには知っているのだが。

なるほど。専門家が、何かしら手を入れないと絶対に無理と言ってくるか。

ならば、検討の余地はあるだろう。

ルーシャちゃんを一瞥。

この子もモノになれば、超越級錬金術師は八人になる。

それぞれ違った観点から意見を出し合い。そして今まで無かった意見を実行できる段階にまで行けば。

世界の詰みは、打破できる。

人間の可能性なんてものは有限だが。だったら可能性を増やしてやれば良い。

最低でも五人と思っていたが。八人の超越者を用意できれば。更に可能性は増える事になる。

さて、此処からだ。

ソフィーはほくそ笑むと、土気色の顔色をしているルーシャちゃんを連れて、アトリエを案内した。

賢者の石をつくるための、特別製のアトリエを。

既にプラフタが待っている。

ルーシャちゃんは、これから此処で。過酷な戦いに臨むのだ。

 

(続)