大罪は残りし

 

序、悪意の絵

 

最初に絵に入った時、背筋が凍るかと思った。即時でリディーはシールドを展開。精神攻撃を緩和するものだ。

周囲は真っ黒。

空は逆に恐ろしい程までに白く。

それが、余計に黒く染まった世界の異常さを際立たせている。

遺跡のような建物が建ち並んでいるのは、お父さんの絵と同じ。見て分かった。その遺跡には、美ではなくて。願望がねじ込まれている。それも、都合の良い願望が、である。

深淵の者が世界に関わり始めてから500年。

ようやく世界は秩序というものを手に入れた。

だが、その前は地獄だっただろう事は容易に想像がつく。

お母さんが亡くなった後、廃人化したお父さんの事もあって、孤児院に一時期いたのだ。

孤児院には、世界の犠牲者がたくさんいた。

あの孤児院が天国に思えるくらいの地獄が、拡がっていたはずの、500年前の世界。

それを、残っている遺跡から、勝手に都合良く解釈し。

素晴らしい文明が花咲いた最高の世界と勘違いしている。

一目で分かる。

絵としては駄作だ。

そしてにじみ出る願望が、レンプライアを大量に産み出した。

レンプライアに汚染されれば汚染されるほど、絵はおかしくなる。そしてある一点で絵の理を支配され。

そしてこんな風になるのだろう。

お父さんの絵も、こうなる寸前まで行っていた。

そう思うと、ハラワタが煮えくりかえりそうだった。感情が薄くなった今でも、リディーもキレそうである。スールは無言になっている。多分、とっくにキレている。

「リディー、精神干渉排除、代わりますわ」

「ありがとう。 お願いね」

ルーシャが拡張肉体を展開。

自身は精神干渉排除の魔術を展開する。

ルーシャは拡張肉体に戦闘を任せ、自身はこの世界に満ちている悪意から、皆を守る事に専念するつもりのようだ。

バランスとしてはいいだろう。

パイモンさんが、周囲を厳しい目で見ていた。

「駄作だな」

「同意です」

「錬金術は才覚の学問だ。 だが絵にまで才覚が及ぶとは限らぬ。 この絵は己の都合が良い妄想をそのまま形にしただけで、しかも影の部分を見ようとも隠そうともしていない」

一刀両断だが。

リディーも同意見である。

ソフィーさんは、悪意から身を守る精神干渉排除の外側にいるが、平然としている。まああの人は、大丈夫なのだろう。多分ドラゴンのブレスとか、手を振るだけで弾き飛ばしそうだし。

ティアナさんも、同じく。

ソフィーさんから、対応出来る装備を貰っているのだろう。

ソフィーさんが歩き出す。

続いて、一緒に歩き出した。

「レンプライアは……」

「少し前に騎士団が演習して片付けているから、そんなに強いのはいないはずだが」

マティアスさんが言う。

だが、その予想は外れるはずだ。

だって、ソフィーさんである。

絶対に、色々仕込んでくるに決まっている。

ほどなく、小山のようなレンプライアが現れる。唸り声を上げながら、溶けかかった巨体で、何かの呪文を詠唱しようとするが。

次の瞬間には、文字通り粉みじんになっていた。

軽快な金属音と共に。

その場に立っていたようにしか見えなかったティアナさんが、剣を鞘に収める。今の段階でも、動きを見きれないのか。

ソフィーさんがいるからはりきっているのだろうか。

いや、違う。

あのレンプライア、ソフィーさんを狙いに行っていた。

それでキレたのだ。

ぞっとする。

本物の狂信者というのは、こういうものだ。ソフィーさんに仇なすものは、それこそ親だろうが子だろうが斬り捨てる。理由なんて一切考慮しないし、ついでに躊躇する事もない。

今の、感情が希薄になっているリディーでさえも、怖いと思う。

黙々とレンプライアの欠片を集める。

一瞥。

荷車に乗せられたN/A。リディーとスールで作り上げた、究極の爆弾。

コレは出来れば使いたくないけれど。

レンプライアの王の実力次第では、使わなければならないだろう。その時、どんな惨劇がこの絵に起こるか。

駄作であっても、不思議な絵画。

貴重な存在であることには代わりは無い。

如何に愚かであっても、魂が籠もっていることだって事実だ。

壊したくないのは、本音だった。

声を上げたのはルーシャだ。

まるで、其所だけ光が差すように、花が咲いている。時忘れの花と呼ばれる。最高ランクの薬草の一つ。

ドンケルハイト同様、伝説になっている素材の一つだ。

丁寧に回収する。

お父さんの絵でもそうだったが、やはり不思議な絵画では、状態が悪くなるほど採れる品の質が上がる。

その仮説には間違いが無さそうだ。

だがどうしてなのか。

遺跡の中を進む。

真っ黒な水路の中透明な水が流れていて。庭園だったらしい事が分かるが。それ以上の事は何ともいえない。

何だか、美意識を優先して機能性を放棄した改造をされかけた、アダレットの王都を思い出して気分が悪い。

この絵を描いた人間は。

庭園王と、同レベルのメンタルの持ち主だったのかも知れない。

ソフィーさんが足を止める。

休憩の合図だ。半日ほど歩いていた。戦闘していないから、消耗はほぼない。皆、相応の錬金術装備を身につけている。歩く分くらいの回復は、全自動で行われている。

それはリディーもスールも、ルーシャやパイモンさんも同じ。

ソフィーさんは、ティアナさんにハンドサイン。

頷くと、彼女はかき消える。

今のリディーにも見切れなかった。

ルーシャと交代して、精神攻撃緩和のシールドは展開し続ける。

今後は自分がやると宣言。ルーシャには攻撃に回ってほしいからだ。ルーシャもそれで納得してくれた。

とはいっても、問題がないわけではない。

常時の消耗なら平気だ。今身に着けている装備なら消耗より回復が勝るので問題は無いのだが。問題は、二つ以上の魔術を同時に展開する場合だ。

どうしても消耗が大きくなる。

だが、周囲を見た感じでは。

この精神攻撃緩和を展開していないと。

そもそも戦闘が成立しないと見た方が良い。

きんと、鋭い金属音が響く。

また、大きなレンプライアが瞬殺されたのかも知れない。

ソフィーさんは、まるで最初からそこにいなかったかのいように消えたり、現れたり。もうどう移動しているのか分からない動きで、彼方此方に出現したり消えたりしていた。見回りをしてくれているのだろうか。

それとも、採取でもしているのかも知れない。

この人くらいになると、もう荷車を引く必要も無さそうだ。

この間、フィリスさんがほぼ何もしないで空間と時間をまとめて操作するのをみた。フィリスさんであれなら、ソフィーさんは更に凄まじいだろう事確実である。何か貴重品を見つけたら、手に触れることすらなく回収出来るのかも知れない。

無言でしばし休む。

スールに聞かれた。

「リディー、そのシールド、やっぱり展開していないとまずい?」

「うん。 シールドの範囲外に出ると、今の状態でも長時間は耐えられないと思う」

「……この世界の悪意、凄まじいですわね」

「レンプライアとはそういうものだ」

パイモンさんが話に加わってくる。

厳しい顔で周囲を見ていた。

「既に知っておるやも知れぬが、悪意の具現化したるものがレンプライアだ。 それが小さいとは言え世界のルールをそのまま食い尽くせばどうなるか、それは見ての通りという訳だ」

「酷い……」

「そうであろうかな」

ルーシャの言葉に、パイモンさんが静かに返す。

目には、あまり嬉しそうでは無い光が宿っていた。

「深淵の者が秩序を構築して500年。 儂なりに色々調べてきたが、それ以前の世界はこの絵よりも酷い状態だった。 強力な錬金術師か、錬金術師を有する勢力は文字通り何をすることも許された。 現在でこそ、人間の敵は、匪賊を除けば人間以外の存在だけになっている。 だが500年前より昔の世界は違ったのだ」

「……秩序が無いというのは、それほどまでに酷い事なのですの、パイモンさん」

「人間の自由意思とはいうがな、人間という生き物は結局の所、ごくわずかな個体を除けばエゴの塊なのだ。 自分で責任は取りたくないし、判断だって誰かにゆだねてしまいたい。 自立してものを考え、責任を取って行動できる個体もいる。 だが殆どの人間は、同調圧力にただ流されるだけだし、その同調圧力を作り出す個体の傀儡となるだけなのだよ」

それについてはリディーも同意だ。

実際「みんな」の醜悪さは、嫌と言うほど見てきた。

パイモンさんの言葉通りだとは思わないけれど。

概ね同意できる話である。

「それでも儂は守りたいと思ったから錬金術師になった。 だが、結局の所、儂に守られる事でのうのうとする人間が大半だった。 英雄は大半の場合孤独だ。 大きすぎる力を持った錬金術師もしかり。 助けた相手が助け返してくれる例など殆ど無い。 儂は見返りが無くても耐えられた。 だが、それでは駄目なのかも知れぬな」

マティアスさんが、俯く。

恐らくは、そういった悪意に晒され続けてきたからだろう。

フィンブルさんもしかり。

アンパサンドさんは、時々ソフィーさんの様子を見ていて。此方にはあまり気を向けていない様子だ。

今のうちにしっかり休んでおけ、という意味なのだろう。

オイフェさんはいつも通り影のよう。

会話には加わる意思も無さそうだ。

「だから儂にはこの絵はむしろ人間の心の原風景そのものに見えるな。 相応に年を重ねてきたし、人間はそういうものだとも割切っている。 だが、それでは……」

リディーとスール、ルーシャを順番に見ていくパイモンさん。

ルーシャは俯く。

リディーはそれを一瞥だけした。

スールは頷いていた。

「パイモンさん、それで、どうしてパイモンさんは怒らなかったの?」

「儂か? ふふ、儂は単純に妻と、妻が愛した故郷を守りたかっただけよ。 そう大した理由は無い」

「愛……ね」

「まあおかげで公認錬金術師試験を受けられるようになるまで、随分と年を重ねてしまったがな」

苦笑するパイモンさん。

ソフィーさんが、此方に歩いて来る。

アンパサンドさんが、頷く。

「周囲に問題は無いのですか? 特異点ソフィー」

「この周辺はね。 ティアナちゃんが戻ってきたら、また移動を開始するよ」

どうせ有無を言わさず、だ。

頷くと、ティアナさんが戻ってくるのを待つ。

何回か、斬る音がした。

レンプライアの大きいのを殺しているのだろう。

とはいっても、絵がこんな状態だ。

殺してもきりが無いだろうが。

程なくして、ティアナさんが戻ってくる。勿論返り血一つ浴びていない。ソフィーさんとハンドサインで何か会話している。

かなり複雑なハンドサインだったが。

意思疎通は出来ている様子だった。

「んじゃ出発」

ソフィーさんが手を叩く。

皆、また歩き出す。

水が流れる音がしている。

どうやら、水路らしい。水路には迂闊に近付かないのが鉄則だ。こんな状態の絵では、それこそ何が出てきても不思議では無いのだから。外で川に近付かないのと、同じ理由である。

遠目に見るが。

水路に流れている水は澄んでいてとても綺麗だ。

逆に、それが故に。

真っ黒な周囲と。

真っ白な空。

そんな中にある透明な水は、とても異質であったが。

階段があるが、全自動荷車は、この程度の段差の移動を苦にしない。黙々と歩く。飛行キットを持ってくれば良かったと思ったが。そうもいかないだろう。そもそもアレは、外の遠くに行くために作ったのだ。

それにどうせソフィーさんの事だ。

飛行キットを持ち込んでいたとしても。何らかの理由で、それを使えないようにするか、空に巨大レンプライアでも放つか、どっちかしてきただろう。或いはもっと酷い事かも知れない。

「リディー、スー。 あれを見てくださいまし」

「!」

「何だろう、あれ……」

奥の方に見えるのは、巨大な蠢く何かだ。

それほど遠くは無い。

レンプライアの強いのかと思って少し警戒したが、それにしてはあまり何というか、敵意というか殺気というか、そういったものは感じない。いずれにしても、周囲に満ちている悪意の密度はあまり変わらなかった。

アンパサンドさんも、剣に手を掛けていない。

マティアスさんがぼやく。

「何だか薄気味が悪いな。 いくら悪意に食われていると言ってもこれはないだろ……」

「殿下、ぼやくな」

「分かってる」

フィンブルさんにたしなめられて、マティアスさんが黙る。

庭園らしい場所を抜けていく。迷路のようになっているが、植物は健在。みずみずしい薬草がかなりあるので、途中で採集していく。決して珍しいものばかりではなかったけれど。

ありふれた薬草でも、品質は非常に高かった。

深淵の者が、この絵を意図的に残している訳だ。

この試験が終わった後も、場合によってはレンプライアの王を、定期的に倒しに来なければならないかも知れない。

昔だったら、こう思っただろうか。

絵を真っ黒く塗りつぶすなんて描き手への冒涜だ、と。

だが今は違うと知っている。

お父さんのあの美しい絵だって、一皮剥けば狂気の塊展覧会場だったのだ。

この絵を描いた人が、それほど優れた描き手だったとは思えない。

あからさまに「自分が考えた最高に素晴らしい庭園」を見せびらかしている時点で、それは明白だ。

何より、レンプライアにルールを書き換えられてこうなったのだとしても。

それは要するに、最初からこの絵はこのようなものだった、と言う事だろう。

色彩が違えばいいかというと、そういう事は決して無い。

或いは、この不思議な絵画は、元々はとても美しい色彩に満ちた、美学の塊のような庭園だったのかも知れないが。

それは、あの庭園王が。

王都をそう改造しようとしたのと同じ。

人間の心なんてものは。

決して美しいものではないのだ。

ほどなく見えてくる。あのうごめいていたものが。

その正体を悟って、マティアスさんが呻いていた。

蠢いているのは、無数の裸体だ。

それも、おぞましい程にまでデフォルメされている。

それが多数、塔のように不自然な体勢で、まるでねじれるようにして大量に。

遠くから見えるわけだ。

なお色が真っ黒だったから、遠くからは正体が分からなかっただけ。

近づいて見れば、その正体は歴然だった。

淫靡な音と声も聞こえるが。

それ自体は、それほど大きくなかった。

人間四種族全ての男女の裸体が、絡み合って蠢き合っている様子は。いわゆるエロスなど感じるものではなく。

単純におぞましかった。

なるほど、多分これは、この絵の本質だったのだろう。

「自分で考えた理想の世界は、自分にとってもっとも根源的な欲望が許される場所だった、ということなのですね。 残念ながらヒト族らしい発想なのですが」

鼻で笑うアンパサンドさん。

恥ずかしくて、アンパサンドさんに顔向けできなかった。

ホムは人間四種族の中で、唯一性交をせず子を成す種族だ。このようにヒト族の基準で、根源的欲求を露骨に前に出されても、苦笑いしかないのだろう。

フィンブルさんは呆れていたし。

ルーシャは悲しそうに目を伏せて、頭を振った。

パイモンさんは無言で雷神の石を取りだしたが、ソフィーさんが一瞥。嘆息してしまう。これはこの不思議な絵画の重要な部分という事なのだろう。下手に傷をつけると、それでこの絵に何か深刻なダメージが入るのかも知れない。

お父さんの絵は、完全に侵食されきっていなかった。

それでも、あのようなおぞましい状態になっていた。

完全に侵食された不思議な絵画がどうなるのか。

よく考えなくても、分かるようなものだ。

不意にソフィーさんが言う。

「此処にいる面子は知っていたね。 ヒト族の故郷の世界について」

「!」

「その世界では、こういう思想があったそうだよ。 七つの大罪という、ね」

傲慢、怠惰、憤怒、貪食、色欲、嫉妬、物欲。

いずれも、適切な量を求めるのは自然だが。

ヒト族はいつもいつも、過剰に独占したがるものだ。

どれもが文明の存続には不可欠でもあるが。

過剰にそれが露出すれば、こうなるということか。

リディーは既に自覚している。性欲が自分から消えている事を。食欲も多分もうすぐなくなる。意識しないと、食事をしなくても気付かなくなる。宝石がほしいと思う事もないし、自分は偉いとも思っていない。凄い相手に嫉妬することもなく、怠けようとも思わない。

昔は違った。

人並みに恋はしたかったし、自分を常識的な存在だと錯覚して他を馬鹿にしていた。美味しいものを独占したかったし、宝石にも興味があった。勿論凄い錬金術師やお金持ちにも嫉妬していた。

だが、今の露骨なオブジェクトを見せられると。

人の心の奥底にあるおぞましい欲望がどういうものなのかよく分かって、苦笑いするしか無い。

それから解放された事に。

今は特に何も感じる事はなかった。

促されて先に進む。

マティアスさんが吐き捨てていた。

「この絵を描いた奴は色情狂かよ。 そりゃ俺様だってナンパ癖はあるが……」

「それは違うだろうね」

スールがびしりという。

しばし黙った後。

マティアスさんは、分かっていると、本当に悔しそうにぼやいていた。

 

1、大罪の庭園

 

騎士団が演習場にしているという事は、普段はさっきの悪趣味なオブジェは、人目に触れる事はないのだろう。

或いはソフィーさん達がレンプライアを管理して。

騎士達はごく弱いのだけを相手にし。

入り口近くだけで戦っているのかも知れない。

いずれにしても、多分これから次々と見せられるのだろうなと思うと。あまり良い気分はしなかった。

一度休む。

時間が随分掛かっているが、ルーシャの様子を見る限り、おなかはあまり空いていないようだ。

長期戦になる事を想定して、食糧も持ち込んでいるのだが。

まだおなかが減ったという様子も無い。

或いはこの不思議な絵画。

内部での時間の流れが、狂っているのかも知れない。

一応ルーシャに確認。

そうすると、無言でオイフェさんが時計を見る。

やはり半日以上経過しているが。

しかしながら、腹が減った様子も無いし、誰も消耗していない。何かしら、違う法則がやはり働いているのだろう。

休憩を終えて、先に。

複雑に入り組んだ庭園は、階段を上っていくと、やがてアーチ状の橋に出た。

こんな巨大な建造物、古代の遺跡にあるのだろうか。

そう思っていると、ソフィーさんが、無いよと答えてくれる。

思考を読まれているのか。

まあ、それもおかしくは無いか。

多分だが、思考は所詮脳の中で行われている何かだ。それをソフィーさんくらいの存在になれば。

読むことが出来ても不思議では無い。

橋の向こうには、もの凄い滝があって、澄んだ水が流れているが。

しかしながら、掛かっている虹は真っ黒。

色々な意味で、不可思議な光景だ。

気が弱い人は、見ているだけで狂ってしまうかも知れない。ある意味、レンプライアに食い尽くされる寸前だった、お父さんの絵よりもこの絵は狂気的だ。

橋を渡る最中、最大限の警戒をする。

ソフィーさんが何をしかけてくるか分かったものではないからである。

だが、案外ソフィーさんは何もしてこない。

本当に、レンプライアの王と戦うまで、道を開いてくれるつもりなのか。

いや、ひょっとして。

警戒し、心理的に疲弊させるつもりなのか。

この思考も読まれている可能性が高い。

ぐっと口を引き結び。

神経を研ぎ澄まし、周囲に気を配り続ける。

いずれにしても、あんなおおきなレンプライアに奇襲されると厳しいのは事実だ。騎士団が演習場にしていると言っても。流石にティアナさんが斬っていたような奴は、相手にしていない筈。

そうなると、試験のためにソフィーさんが手を加えた可能性が高い。

多分、レンプライアの王にも何かしているかも知れない。

お母さんが危ない。

そう思うと、やはり焦りがにじみ出そうになる。

だが、堪えろ。

この試験さえ突破すれば。

ソフィーさんだって。今までのような一方的な暴虐ばかりを加えてくるだけでは無くなるはず。

利で考えろ。

ソフィーさんにとって、斬り捨てるにはもったいない人材だと認識させろ。

それでスールもルーシャもお父さんも。お母さんだって守れる。

そのためには、手段なんて選んでいられるか。

また、何か見えてきた。

真っ黒なそれは、巨大な口に見えた。

反射的に得物に手を掛けるアンパサンドさん。まあ無理もない。地面から上向きに、半円状の口が突き出ていて。無数に生えた触手が、辺りにあるものをまさぐっては口に入れているからである。

さっき七つの大罪と聞いたが。

今度は貪食か。

この世界、食糧は足りない。

獣は幾らでもいる。だが穀物を育てるのは本当に大変だし、そもそも獣はどれも基本的に人間より強い。

強い錬金術師がいれば仕留めるのには苦労しない。

だが、騎士団や歴戦の傭兵でも、ネームドくらいが相手になると、それこそ部隊が壊滅する覚悟でやりあわなければならないし。

強い騎士でも、錬金術装備の助けが無ければ。

獣一匹相手でも苦戦は強いられる。

つまり、人間にとって、それだけ食糧が得づらい場所だと言う事だ。

あの口は。

見せつけるようにして、食物を貪り喰っている。なるほど、これが貪食の罪という訳か。

滅びた文明の美徳とか美的感覚とかは分からない。

ましてやあの、ヒト族の故郷の世界。

強烈な毒と、凍り付いてしまった世界を見て、ああなろうとは絶対に思わないし。ヒト族の先祖がろくでもない連中だったことは一発で分かる。

そんな世界でも、ヒト族の欠陥については自覚していたし。

それをどうにかしようとは思っていたのだろう。

だがこの様子では。

どうにもできなかったのだろうが。

アンパサンドさんが、自分を掴もうとした手を一閃。切りおとす。また即座に生えてきた手は、何事も無かったかのように、側に生えている植物をむしり取り、口に運んでいた。むしゃり、むしゃりと音がする。

荒野に住まう獣以下だな。

リディーはそう思った。

ソフィーさんに促され、進む。

途中、無数の鉱石が散らばっていた。いずれも高品質の原石ばかり。宝石に磨いたら、相当な高品質のものになるだろう。多分普通の人なら、売れば一生遊んで暮らせる品になる筈だ。

三等分して、荷車に積み込む。

作業時、皆無言だった。

マティアスさんとフィンブルさんは、見張りをしてくれている。気まずそうなマティアスさんに気を遣ってくれているのだろう。

マティアスさんはリディーやスールと違って、人間を止めているわけじゃあない。

あんな俗悪なものを見せられたら、それはうんざりするのも無理はない。

採集を終えると先に。

程なく、また見えてきた。

膨大な、真っ黒な金貨の山。

それを巨大な手が抱え込んでいる。

金貨と言っても、それぞれが人間よりも大きい。手が必死に抱え込んでいて、近付けば攻撃されるのは確実だった。

これが物欲か。

物欲に関しては、分かる気がする。

何でもかんでも独占したいという気持ちは、どうしても人間とは分離不可能だろう。欲望には限度というものがない。

何かしらの抑えが外れれば。

こうなるのも道理というわけだ。

放置して先に。

錬金術をやっていて、お金の大事さはよく分かった。昔は守銭奴気味だったスールは、もっと厳しい顔をしていた。

お金は一箇所で独占していても意味がない。

流して、皆で使ってこそ、ようやく意味を持ってくるものだ。

深層心理でこんなものが出てくると言う事は。

要するに、ヒト族は昔から、独占の害悪を理解していて。それでいながら、克服できずに世界を滅ぼした事になる。

あの極寒地獄で、必死に生きていたトカゲたちを思い出す。

こんな事をしでかした生物を恨むのは当然だ。ましてや万物の霊長を気取っていたとか。本当に恥ずかしくてならない。情けなくて、昔だったら涙が出てきたかも知れない。

だが、今は。

もうとっくに愛想を尽かした「みんな」が、どういう存在かを、再確認できただけだった。

更に、歩く。

だんだんオブジェクトの見える頻度が増えている。これは或いは、ソフィーさんが意図的にペースを配分しているのかも知れない。

リディーとスール、それに経験が多いパイモンさんはいい。

だがルーシャとマティアスは、これを見れば疲弊する。フィンブルさんだって、良い気分はしないだろう。

アンパサンドさんとオイフェさんは大丈夫だろうけれど。

それでも、元々ホムにしては激情家になるらしいアンパサンドさんは、あまり良い気分がしていない筈だ。実際さっき、自分を掴もうとした手を避けずに、斬り伏せていたのだから。

ソフィーさんが何も言わなかったのは、多分それくらいではこの絵にダメージがはいらないから、だろうけれども。

何か、無数に林立している。

嫌な予感しかしない。

近付くと、それが木などでは無いことが分かった。

どんどん絵の中で、高度が上がっているのが分かる。さっきから、坂ばかり上がっているからだ。

高度が上がろうと関係無く、石畳で作られ。庭園仕様である事には代わりは無く。水はどこから汲んだのかさっぱり分からないが流れている。池も噴水も、独自の美意識に沿って配置されている。

そんな中、無数に生えているのは。

目だった。

視神経がリアルすぎるほどの造形で、ルーシャが呻くのが分かる。

警戒する中、一斉に木のように空に向けて伸びていた無数の目が、此方を見た。そう、じっと見ている。

何か落ち度がないか。

自分より劣っていないか。

そういうのを必死に探して。相手を馬鹿にする手段を探すように。

その目には、見覚えがあった。自分を常識的だと考え、そうではないと思った相手を馬鹿にしていた。

昔のリディーとスールの目だ。

そうか、こんな目で、リディーとスールは。お父さんやルーシャを見ていたのか。

分かってはいた。

昔の自分を全力で殴り飛ばしたいと思っていた。

だが、それでも見せつけられると、腹に据えかねる。周囲を見回す。レンプライアはいない。

ティアナさんもいないけれど。多分近場にいるレンプライアを、片っ端から斬り殺しているのだろう。

あの人のことは、考慮に入れなくて良い。

どうせ全員がかりでも勝てないくらい強いのだ。あの人がやられることはまずあり得ないし。

あったとしてもソフィーさんがカバーするだろう。

それでも駄目な場合は、どの道全滅確定だ。

何も敵性勢力がいない事を確認してから、じっとじっとひたすらに此方を見ている目を一瞥し。ルーシャに言う。

ルーシャが、一番ダメージが大きいのは、見ていて分かったから。

「ルーシャ、大丈夫?」

「……」

「大丈夫、今度は私とスーちゃんがルーシャを守る番。 もう繰り返したりはしないから」

「マティアスも平気? つらかったらお薬出すから言って」

スールもマティアスさんを気に掛けている。

それはそうだろう。

この手の視線は、マティアスさんにも、散々向けられていたのだから。相当精神に応えるはずだ。

だが、マティアスさんは顔を上げる。

「大丈夫。 俺様はもう、姉貴の盾になるって決めてるんだ。 だから、もうこのくらいは、大丈夫だ」

そうか。

ならば、先に進もう。

頷いて、リディーはルーシャの手を引いて。スールはマティアスを促して、先へと進む。

気付いたが、どうやら螺旋状の構造をしている絵を、ぐるぐる廻りながら、だんだん中枢に向けて登っているらしい。

遠くすぎると見えないのだが。

或いは見えないように、魔術やレンプライアの力か何かで阻害しているのかも知れない。それとも構造そのものがとんでもなく巨大なのだろうか。

広い場所に出た。

ソフィーさんを一瞥。

によによしている所からして、どうやら此処も休憩を出来るような場所ではなさそうだなと、リディーは思い。

一瞬後にその予想は的中した。

不意に地面から、人型のレンプライアが生えてくる。

それが、何か偉そうな錬金術師のような形を取ると。

同時に棍棒を持った巨大な手が生えてきて。

レンプライアを叩き潰した。

思わず足を止めたが。

しばしして、まったく同じ光景が繰り広げられる。無言で、凄まじいまでの憎悪と、暴力を目にする事になった。

これが憤怒か。

憤怒は分かる。よく分かる。この世界に対する憤怒は、アンパサンドさんを見ていても分かるし。

リディーやスールも分かる。

だが、この世界をどうしようもしてなくしている最大要因は、恐らく獣でもドラゴンでも邪神でも、ましてや神であるパルミラでもない。

人間四種族だ。

人間の社会から完全に外れている深淵の者が秩序を作るまでが地獄だった事からも分かるように。

人間は、人間の最大の天敵なのだ。

恐らく今の人型、この絵を描いた錬金術師が一番嫌いな相手だったのか。それとも超えられない相手だったのか。

それを、こうやって叩き潰して。

憎悪を発散している、と言う訳か。

無言で口を引き結んでしまう。

理解は出来てしまうからだ。

頭を抱えてへたり込むルーシャ。悪意を遮断するシールドを、もっと強化しないと危ないか。

周囲から押し寄せてきている悪意は、一応遮断できているが。

目の前に、視覚情報として展開されると、全てを遮断するわけにもいかない。

いつソフィーさんが何かするかも分からないのだ。

耳目を塞いで進むわけにもいかない。

巨大な手が、棍棒で人型を粉砕しているのを横目に、さっさと通り過ぎる。明らかに叩き潰す手は喜んでいる。

満足だろうか。自分の願望の世界で、気に入らない相手を叩き潰して。

それは満足だろう。

実際に復讐の手段が無かったのなら、それしか手はない。そして弱者は、そうするしか他に復讐の方法は無い。如何に虚しいとしても。

それを馬鹿馬鹿しいと論じるのは強者の理論であり。そして強者はいつまでも強者ではない。更に言えば、そうやって弱者を馬鹿にしている強者も、ドラゴンや邪神の前にはどうにもならないのがこの世界だ。

きっとだが。

滅び去ったヒト族の世界でも同じだったのではあるまいか。

どれだけ強者を気取っても、災害や病気の前には何もできない。

それが現実だったのではないのだろうか。

でなければ。憤怒が七つの大罪に数えられることも無かったのだろう。

ルーシャの手を引いて、起こす。

ルーシャはかなり辛そうだが、手を引くと、大丈夫と返される。

広場を抜けて。また長い橋に出た。フィンブルさんがソフィーさんに、苛立ち混じりに声を掛ける。

「この悪趣味極まりない庭園はいつまで続く。 特異点」

「もう少しかな」

「……少し休憩を入れられないか。 ルーシャどのと殿下がかなり厳しそうだ」

「フィンブルさん、結構平気そうだね」

フィンブルさんは、視線をそらす。

怒りはかなり籠もっているようだが。この人はそもそも傭兵。マティアスさんに頼まれなければ。騎士になるつもりだってなかっただろう。

傭兵は十把一絡げの使い捨て。ドロッセルさんやフリッツさんのような規格外を除くと、それこそこれ以上無い程命が安いお仕事だ。

そんな仕事をしていて。

この世の闇を見ていない筈が無い。

また、同じような理由で、パイモンさんも。更にはホムでありながら騎士になって最前線にいるアンパサンドさんだって、耐性はあるだろう。オイフェさんに至っては、感情があるかさえ怪しい。

「休憩か。 わかった、次のを見終わった後かな」

「……良いだろう」

ソフィーさんは口の端をつり上げる。笑っているのではない。楽しんでいるのでもない。そう見せて、負荷を掛けているだけだ。

そう分かっていても。

神経に来るのは事実である。

ルーシャは顔色が真っ青。こんなあからさまに悪意しか無い世界で、その凝縮されたものを見せつけられつづければ。それは気分だって悪くなる。

「この世界、元は美しかったのでしょうか」

「言ったであろう、ルーシャどの。 これは駄作だ」

「……駄作でも、精一杯の美意識で飾ろうとしたのであれば……」

「今まで、不思議な絵画で何を見てきた」

パイモンさんの言葉は厳しい。

この人は普段は他人には比較的優しいが。今回は多分、相当に頭に来ているのだろう。ルーシャに対する言葉は容赦なかった。

「ある程度以上の芸術にするには、本人の心を叩き込まなければならない。 だがこの絵に描き込まれているのは、心と言うよりもむしろ都合の良い欲望だ。 駄作だったからレンプライアに此処まで好き勝手にされた。 レンプライアに好き勝手にされても形が変わっていないのは、最初から親和性が高かったからだ」

「……そう、ですわね」

「歩くのだ。 もう少しで……この悪趣味な絵からも出られるはずだ」

頷くと、ルーシャは顔を上げる。

脂汗を掻いているのが分かるが。

それでも、ルーシャは人間なりに、この邪悪な絵に立ち向かおうとしている。リディーは。既に人間を止めてしまっていても。

その姿を、尊いと思った。

 

長い長い橋を抜けた後に、見えてくる。

驚いたことに、どうやら残留思念のようである。

レンプライアに食われても、この絵の描き手の残留思念は、死んでいないというのか。だが、お母さんが酷い事になっている現在の状況を思うに。

無事だとはとても思えないが。

小さな浮島のような庭園。

噴水があって。

小さな花壇が並んでいる。

美しい花が咲き誇っているが、何処か空虚だ。魔力の流れを見て分かったが、全て実物ではない。

土もだ。

驚いたことに、小型のレンプライアが、残留思念に群がっている。危害を加えているわけではない。

残留思念は、痩せこけた錬金術師だった。

栄養が足りているように見えない。露骨に力が感じられない、弱々しい姿だ。そして、見て分かる。

技量は充分以上にある事を。

身につけている装備も、プラティーンや、優れた品質の錬金術布で作られている。本人の実力は、一流と言って良い段階にまで行っていたはずだ。

だが、何だこの無力感は。

俯いているその錬金術師に、ひたすらレンプライアが世話を焼いている。残留思念とは言え、ネージュのもののように、実体を持っている様子だ。そして、さっきパイモンさんが言ったように。

この絵は、元からレンプライアと親和性が高かったのだろう。

「挫折から立ち上がれなかったのですわね……」

ルーシャが呟く。

ちょっとまずいかも知れない。

ルーシャは、どんどんこの絵に強い影響を受けている。さっきは何とか顔を上げて立ち上がった。

だが、この姿は。

錬金術師の残留思念は微動だにしない。

レンプライアがひたすら世話を焼いているが、まったく嬉しそうでは無い。

冷徹にみくだしているソフィーさん。

いや、冷徹なのでは無い。

ただ反応を観察して、情報として取得しているのだ。社会の上位に存在している深淵の者ですら持て余す完全な規格外。

もはや世界の外側にいる存在としての行動としては。

それはおかしくないのかも知れない。

いずれにしても分かった。

これが恐らく「怠惰」だ。

本人が怠けているわけではない。

挫折から立ち直れない事が恥なのでもない。

挫折から立ち直れなければ死ぬ。

だが死にたくない。

分かっているが、死にたくないのだ。

それが、怠惰という大罪の一つになってしまっている。それがこの光景なのだろう。何故大罪かというと、本人だけでは無く周囲の社会に影響を与えるからだ。

心にあまりにも大きなダメージを受けたとき。

立ち直れなくなることはある。

それは恥ずかしい事なのだろうか。そうとはリディーには思えない。

人間の心は壊れる。

リディーも、スールも、経験してきたことだ。

恐らく最初から壊れていたソフィーさんは例外として。フィリスさんやイル師匠も経験してきた事なのだろう。

レンプライアは害を為していないが、最大限に害を為しているとも言える。かといって、この人の挫折を見ていて、何となくわかった。

どうしてこんな絵を描いたかを。この人は、未来では無く。過去に夢を見たのだ。

この絵を描いた錬金術師は挫折した。理由は分からないが、この人が何百年か前に生きていたのだとすれば、理由は幾らでも考えられる。さっき「怒り」のオブジェを見た時に他の錬金術師らしき存在が叩き潰されていたが。

それだけが理由ではあるまい。

もしそうだったとしたら、未来に夢を見た可能性がある。

500年以上前。

深淵の者が世界に干渉を開始する前の時代には、色々と夢を見ている人が多い、と聞いている。

それはこの絵を描いた錬金術師も同じだったのだろう。

何が挫折の原因になったのかは分からない。

挫折を恥だとも思わない。

だがこの人は過去に夢を見た。見過ぎた。

その結果が、この絵だとすると。

それはやりきれないことだと思った。

この絵の支配権がレンプライアに移った後。少し、この残留思念に話を聞いてみたい。今は、レンプライアが絵の支配を完全に握っていて、この残留思念は、怠惰という鎖につながれている。

繰り返すが、リディーはそれを悪い事だとは思わない。

スールも、どちらかというと静かな目で見ている。

軽蔑している様子は無い。

不思議な絵画を描けるほどの錬金術師だ。相応の人物であったことは間違いないのである。

それが此処までの挫折をした。

理由が小さかった筈も無い。

むしろ、挫折した人を、ひたすら甘やかし。自分の養分にするレンプライア。弱者からむしり取り、肥え太る事を嬉々として行う「みんな」そのものに対して。リディーは強い憤りを感じる。

「行くよ」

ソフィーさんに促される。

頷くと、この絵の本来の主を一瞥だけして、歩く。

助けてあげたい。

技量をあげる事が出来れば、助けられるのだろうか。残留思念だ。しかもこの絵にこびりついている。

後で専門家に話を聞きたい。

ネージュだったら、何か分かるかも知れない。恐らく、この世界でも随一の、不思議な絵の大家である。

今は、ただ。

お母さんをまず助けるために。

先に進むしか無かった。

 

2、最大の大罪

 

どれだけ登ってきただろう。

果てしない螺旋の巨大な庭園を、登って登って。本当だったら、大きな山を、回るようにして登っているのだろうと、リディーは思う。

山登りほどの厳しさではないが。

それでも、時々厳しい地形はあった。

ソフィーさんは休憩を途中で入れてはくれる。

何だか感覚がおかしいなか、食事をする。

ティアナさんが時々戻ってくると。

ソフィーさんは、音を封じる魔術を展開。周囲に聞こえないようにして、話を幾つか聞いていた。

いずれにしても、良い内容ではないだろう。

食事を黙々と終える。

持って来た食糧はそろそろ半分を切る。長期戦を想定して、干し肉などを持って来ているのだが。

それもいつまでももつわけではない。

だが、食糧に関しては其所まで不安視はしていない。

もっと不安なのは、不意打ちと、ここから先の道程だ。

ソフィーさんの事だ。

いきなり不意打ちが掛かるのを、見逃して対応力を見ようとする可能性もあるし。或いはもっと悪辣な罠をしかけてくるかも知れない。

アンパサンドさんはそれを理解しているようで。

周囲に対して、徹底的な警戒をしてくれていた。

無言のまま、リディーはスールに頷く。

スールも、頷き返してきた。

この辺りは通じ合う。

だが、二人の道は、既に一緒では無い。

双子といっても、これからやろうとしている事は、完全に方向性が違ってしまっている。

それは既に分かりきっているし。

今更互いに話し合おうとも思わない。

世界の現実を見て。

それで決めたことだ。

互いに異論はない。

「これで、残るは一つか。 また悪趣味なものを見せられるのか、それとも……」

フィンブルさんが苛立ち紛れに言う。

アンパサンドさんが戻ってきた。マティアスさんが、代わりに見張りに立ったのだ。オイフェさんも。

そういえば、マティアスさんがオイフェさんを口説こうとするのは見た事がない。

ひょっとすると、一目で何かしら違うと察したのかも知れないが。

「アンパサンドさん、周囲に敵意はありますか?」

「いいえ、周囲に敵影はないのです。 不自然なほど綺麗に掃除されている……まあ間違いなくあの女剣士の仕業なのです」

アンパサンドさんも、ティアナさんから漂う凄まじい血の臭いは察しているのだろう。騎士として戦っている人なのだ。それも戦闘経験の蓄積は尋常では無い。ヤバイ相手かどうかくらい一目で見分けがつく。

横になって、眠り始めるアンパサンドさん。やはり誰にも寝顔を見せないようにして、隙を作っていない。

アンパサンドさんは、リディーとスールを最初は徹底的に嫌っていた節がある。

昔のリディーとスールは、それは嫌われて当然だったとも思う。

今は、どうなのだろう。

こうやって信頼していない様子を見せられると。

あまり距離を詰められるのがいやなのか、それともまだ嫌いなのかは、あまりよく分からない。

ただアンパサンドさんは仕事はしてくれるし。

戦いでは自他共に厳しいが。自分に一番厳しい。

この人は信頼出来る。

その考えには、代わりはない。

ソフィーさんは比較的長めに休憩の時間を取ってくれる。休憩だからといって、心は安まらなかったが。

少なくとも、魔力は殆ど全快の状態にまで持って行けた。

問題はルーシャだ。

今までの光景で、精神的に一番大きなダメージを受けていた。

かなり参っているようだが。

戦えるだろうか。

ルーシャはずっと唇を噛んだまま、一言も喋らない。

今なら分かる。

ルーシャは、人間ではなくなっていくリディーとスールを見て、一番悲しんで、どうにかしようと奔走してくれていた。お父さんもそうだとは見せていなかったけれど、影で同じ事をしてくれていたのだろう。

だからこそに。

こんな、人間という生物そのものをモロに見せられるような場所に連れてこられたら。

精神に大きな傷だって受ける。

ルーシャは人間的な精神のまま、此処までの実力を得られた希有な錬金術師だ。分類としてはイル師匠に近いのかも知れない。

いや、まて。

ひょっとして。

ソフィーさんをちらりと見る。

まさかとは思うが、今回の試験。

ルーシャを、リディーやスールと同じように。深淵に引きずり込むことも、ソフィーさんの目的の一つではないのだろうか。

「そろそろ行くよ。 準備して」

思考を中断される。

いきなり至近距離で、ソフィーさんがリディーの顔を覗き込んでいた。

流石に今の状態でもぞっとする。

立ち上がると、行軍の準備。

そういえば。この先はずっとずっと長い橋だ。

遠くには、無数の山頂と、其所から流れ出ている水が見える。そして、色がない虹も。

一つ、聞いておきたい。

「ソフィーさん、質問、いいですか」

「うふふ、なあに」

茶番かも知れない。

この人は、リディーの思考くらい、読めるのだろうから。

勿論ルーシャについては聞かない。

藪蛇になるし。

下手をすると、その場でルーシャの首を刈られかねない。

「この絵を描いた錬金術師の残留思念、何とかしてあげられませんか。 一度真っ黒に染まった不思議な絵画はどうにも出来ないという話については分かりました。 でも、あれでは不憫すぎます」

「ふーん、まだそんな余計な事考える余裕が残ってるんだ」

「……っ」

「ふふ、冗談だよ。 そうだね、この絵そのものはもう手遅れだけれど。 もしもレンプライアの王を倒す事が出来たら。 レンプライアの王が二度と再生出来ないように、処置をしてあげてもいいよ」

絶対に、何か交換条件があるな。

そう思っていると、ソフィーさんはさっそくそれを提示してくる。

「ただし、二人には深淵の者に正式加入して貰う」

「じょ、条件……追加でいいですか」

「何?」

「もう、お父さんにも、お母さんのいる絵にも、手を出さないと約束してください」

勿論、ソフィーさんがそんな約束を守る保証は無い。

だけれども、ソフィーさんは人材を欲しがっている。

この絵を突破したら。また何か無茶な課題を寄越されるかも知れないけれど。

それでも、この条件だけは死守したい。

フィンブルさんが、武器に手を掛ける。アンパサンドさんが、目を細める。止めようかと思ったが、止めようとした様子だ。

ソフィーさんの後ろには、いつの間にかティアナさんがいる。

一触即発の気配を察したのだろう。

勿論やりあって勝てる相手では無い。

特にソフィーさんも同時に相手にした場合、この世界の人間全部が総掛かりでも、いやドラゴン全てを同時にぶつけても、勝てるかは分からないと思う。勿論今此処にいる面子だけでは、絶対に勝てない。

一瞬だけ、冷や汗が流れる時間が過ぎ。

そして、ソフィーさんはによによと笑ったまま言う。目は一切笑っていないが。

「面白い。 そんな条件でいいなら」

「……っ」

「ルーシャ、抑えて」

何か言いたそうにするルーシャを抑える。

気持ちは分かるが。此処は我慢だ。

「まあいいかな。 約束してあげる。 ついでに良い事を教えてあげるよ。 レンプライアの王が今は活性化しているから、七つの大罪も顕在化しているんだよ。 永久封印すれば、あの残留思念はあの場でぼんやりしているだけになる。 ネージュ級の錬金術師なら、何か対策を知っているかもね」

嘘だ。ソフィーさんも知っている筈だ。

だが、それについては何も言わない。

頷く。

これ以上の譲歩を引き出すのは難しいだろう。だから、それでいい。これ以上は、今は無理だ。

促されて、歩き出す。

フィンブルさんは、相当に頭に来ているようだが。パイモンさんが声を掛ける。

「フィンブルよ。 その怒りは、この先にいるレンプライアの王にぶつけるんだな」

「ああ、分かっているパイモンどの」

「儂も頭に来ているのは同じだ」

「……ありがとう」

無言で歩く。

長い長い橋だった。

あり得ない構造だ。石橋で、支えも無く、こんな長い橋が成立する筈も無い。それでもこの石橋は存在している。

坂にもなっていない。

多分だけれども、螺旋にずっと登ってきたこの絵の世界の庭園の。

今は頂上部分。

その中心に、この橋を使って進んでいるのだろう。

橋の広さは相応にあるのだが。

もしも実際にこんなものを作ろうと思ったら、多分三傑なみの実力が無ければ無理だ。

グラビ石という浮かぶ力を作り出す鉱石があるが。

それを相当量つぎ込まなければならないだろう。

遠くに、何かが見え始めた。

それが、そびえ立つような巨大なレンプライアで。

閉じ込められていることに気付く。

どうやら、間違いない。

あれが、今回の「試験」のターゲットだ。

残る大罪は傲慢。

どんな姿を見せつけられるのか。

正直、うんざりしているが。それでも、見て、そして戦わなければならないだろう。

アンパサンドさんに言われる。

「見た感じ、二百歩四方ほどの足場なのです。 リディー、あの足場全体に、悪意を遮断する魔術の展開を」

「分かりました。 やってみます。 その代わり、支援魔術にはかなりの呪文詠唱が必要になります」

「……その分の支援は、わたくしが」

ルーシャの様子がかなり辛そうだが。

それでも、今は戦力として当てにするしかない。

歩き、近付いていくと。

そのレンプライアが。

今まで見た中で、間違いなく最強であることは、戦う前から分かった。

腕が四本ある、巨大な何か得体が知れないもの。

力も凄まじく、ビリビリと感じる。

アレを何ら苦労せず封印しているのは、間違いなくソフィーさんだろう。その凄まじい力が、あのレンプライアを相対として、逆に分かってしまう。

橋が、終わった。

轟音が響く。

地鳴りのようだが。それがレンプライアの威嚇の声だと言う事は、よく分かった。生半可な使い手なら、この声を聞いただけで、廻り右するか。最悪失神していただろう。

近付いてよく観察すると、その背中には翼があり。

それも三対も無駄に生えている事が分かった。

そして頭の上には、王冠のようなものが。

体中には、無数の勲章のようなものが。

顔はおぞましいほどの異形だ。

ヒト族の端正な顔だけではない。

その周囲に、たくさんの目がついていて。口もたくさんある。あの口全部で、同時に詠唱をしてくるのだろうか。

太い腕は、まるで彫刻のように美しい。

なるほど、そういう事か。

あのレンプライアそのものが「傲慢」。

己の姿をひたすらに、「偉い」とされる要素で固めに固めていると言う事だ。それが、やり過ぎて異形になってしまっているという事に、本人だけが気付いていない。何もかも、「偉そうに見える」要素をぶち込みにぶち込んだ結果。その姿は、見るだけでおぞましい怪物以外の何者でもなくなった、というのがあの姿か。

乾いた笑いが漏れる。

最悪まで落ちた人間の姿がこれだ。いや、人間の心の最深部こそが、正にこれなのだろう。

七つの大罪か。

何となく、今までのものと。

そしてこの「傲慢」を見て。

滅びたヒト族の世界で忌避された理由が分かった気がする。

鏡だからだ。

滅びた世界にいたヒト族にとっては、自分にとってもっとも都合の悪い姿を、鏡で見せつけられるのが、とても嫌な事だったのだろう。

だから大罪としたのだ。

「さて、準備はいい?」

「……はい」

「それじゃ、頑張ってね」

ソフィーさんが指を鳴らす。

同時に。

周囲の空間が、隔離された。

 

封印されていた「傲慢」が、四本の腕を振り上げて雄叫びを上げる。それだけで、凄まじいプレッシャーが全身を叩く。だが、悪意を緩和するシールドを展開し。戦闘できるようにする。

同時に、詠唱開始。

まずは、皆の身体能力強化だ。

大丈夫。

今の、リディーのための杖と。ヴェルベティスの裏地。それに錬金術の装備品と。お父さんが用意してくれたネックレス。

これだけあれば、出来る。

言い聞かせながら、真っ先に突貫したアンパサンドさんと、それに少し遅れて突撃するフィンブルさん、マティアスさん、それにオイフェさんを見送る。

最初にしかけたのは、アンパサンドさんだが。

ぐにゃりと歪んだように動くと。

レンプライアの王「傲慢」は、アンパサンドさんの攻撃を、悉く回避した。

今までにないケースだ。

同時に、ルーシャがシールドを全開にする。

周囲に、極太の雷が、立て続けに降り注いだ。

ルーシャもヴェルベティスの服を裏地に仕込んでいたようだが。それでも、一瞬でシールドの負荷が限界に達する。

まずい。

想像以上の魔力だ。

スールに目配せ。

頷いたスールは、高々と掲げると。

不思議な絵の具を握りつぶし、世界を塗り替える。

不可思議そうにそれを見たパイモンさんだが。すぐに納得した様子だった。

周囲は。

お父さんの絵に切り替わっていた。

そう、美しい天国そのもの世界に。

相手が人間の心そのものだったら。

その心の上澄みの、もっとも美しい部分だけを抽出した世界で相手をしてやる。

大半の人間、つまり「みんな」は、そのおぞましい心を隠そうともしない。なぜならば、自分を「正しい」と信じ切っているからだ。

絶叫するレンプライアの王。

あからさまに力が落ちているのが分かる。

そうだ、当たり前だ。

此奴は人間の「そのままの姿」。

お父さんの絵は、こうあろうとする「理想」の終着点。

相容れる筈が無い。

人間の剥き出しの欲望を抑え込む絵とは相性が最悪であるし。何よりも、「みんな」。普通の人間が嘲弄し、敵意を剥き出しにする存在でもある。なぜならば、「みんな」にとって、こういう美しい心は、再現出来ないものだからだ。

自分が持っていないものをねたみ。

到達できないものを憎む。

それが「みんな」だ。

レンプライアは「みんな」そのもの。

だったら、人間の理想を擬似的とは言え再現したこの絵は、正に天敵に等しい存在である。

レンプライアの王「傲慢」は、レンプライアの中のレンプライア。

動きが露骨に鈍った顔を、アンパサンドさんが横一文字に切り裂いていた。鬱陶しがって振るう腕に、マティアスさんが剣を気合いと共に降り下ろし、一刀両断する。更にフィンブルさんが、脇腹を抉りぬく。

揺らいだ所に、顔面にコンビネーションブローを叩き込むオイフェさん。更に、渾身の蹴りを連続で叩き込み、跳び離れた。

皆が離れた瞬間。

今度はお返しとばかりに、パイモンさんが雷神の石。それも、もの凄く大きな奴で、全力での火力を投射する。

全身を瞬時に火だるまにされ、絶叫する「傲慢」。

其所へ、跳躍したスールが、メテオボールを叩き込んでいた。

空気の壁を八枚ぶち抜いたメテオボールが。

レンプライア「傲慢」の上半身を消し飛ばす。

だが、まだだ。

相手の力は邪神並み。

最初の攻撃だって、そもそも本気ではなかった可能性が高い。今まで戦った邪神二体から考えて、こんな程度で済む筈が無い。

皆、それは分かっている。

だから、スールが着地した時には、パイモンさんが第二射を。

ルーシャがシールドの張り直しを終えていたが。

それが、唐突に来る。

下半身だけ残っていたレンプライアが、急激に変貌。肉の塊がぶくぶくと膨れあがり、そして真っ白の上半身を作り上げる。

今までのゴテゴテした異形ではない。

美しい六枚の翼を持ち。

そして端正なヒト族の顔。

魔族の強靭な肉体。

鋭い獣人族の爪と牙。そして、恐らく見えはしないが、ホムの高い計算能力も取り込んだのだろう。

レンプライアは悪意の具現化。

他の不思議な絵画世界にも干渉しうると言う王「傲慢」だ。人間の強みを丸ごと取り込めても、おかしくはまったくない。

下半身も、美しい白い姿に切り替える。

戦闘形態と言う訳か。

雄叫びを上げるレンプライア。

同時に、周囲が押し潰される。

地面が、めり込む。

辺りの遺跡が、へし砕かれる。

此方の動きを封じ、自分だけ好き勝手に動くつもりか。そうはさせるかと顔を上げる。無理矢理に詠唱を完了させ。皆の身体能力を極限まで上げる。

だが、その瞬間。

極太の光の束が、叩き付けられるのが分かった。

さっきの火力の比では無い。

ルーシャが、リディーを突き飛ばす。

駄目。

叫ぼうとしたが。ルーシャは、静かに笑った。

シールドがぶち抜かれ。

光が、その場を蹂躙していた。

叫びは、届かない。

跳躍。

高く飛んだスール。この状況でも。

叩き込むメテオボール。

だが、すっきりとした姿に変わったレンプライア「傲慢」は、メテオボールを受け止めて見せる。

そして、スールに投げ返す。

空気をぶち抜いて迫るメテオボール。

思い切り直撃し、吹っ飛ばされるスールは、おかしな方向に体をねじ曲げられているように見えた。

後ろから、「傲慢」の顔面を唐竹にたたき割るマティアスさん。

腹にハルバードをねじ込むフィンブルさん。

だが。頭は溶け。腹に穴が開き。

体が不自然にねじれて、瞬時に傲慢の体が再生する。

右腕、左腕がそれぞれ振るわれ。マティアスさんとフィンブルさんが、それぞれ前後に吹き飛ばされる。

受け身すらとれていない。明らかに、一目で分かる致命傷。

凄まじい押し潰すような圧力の中、それでもアンパサンドさんがしかける。

首筋を切りつけると、全身を一気にねじり斬るようにして、想像を絶する数の斬撃を浴びせたようだったが。

それでも、全身から血を吹いても。

「傲慢」は平然とし。

そして、アンパサンドさんのいた場所に、足を踏み降ろしていた。

避けられたようには見えない。

オイフェさんが、ドロップキックでその両足膝を横から打ち砕くけれど。それこそ重力を無視して平然としている「傲慢」は。オイフェさんを、そのまま体に取り込み、上下から押し潰してしまった。

大量の鮮血がぶちまけられる。

傲慢の指先が光る。

雷神の石を再発射しようとしたパイモンさんが、消し飛ばされる。

呆然と立ち尽くすリディーは、それでも屈せず、顔を上げるけれど。もう、至近に「傲慢」は迫っていた。

此処まで、なのか。

手が伸び、リディーを掴む。辺りには、皆だった肉塊が点々と散らばっている。リディーを、苦も無く握りつぶす「傲慢」。

けたけたと、声が響いた。

待て。

おかしい。

何故、殺されて意識がある。

顔を上げる。

凄まじい乱戦は、まだ続いていた。皆、頭を抱えて、脂汗を絞っているが。それでも、戦っている。

死んでいない。

今のは幻覚。

いや、違う。悪意に対する中和をしているのをリディーと見て。全力で「傲慢」が、悪意を叩き込んできたのだ。

その悪意による錯覚が。今の光景だった、と言う訳か。

そんなものに。

負けてなるものか。

「ぁあああああああああっ!」

叫ぶ。全力で、魔力を全身から絞り出す。

同時に十以上の魔術を周囲にぶちまけつつ、人間の歪んだ美意識を形にしたような姿で暴れ狂う「傲慢」。

だが、アンパサンドさんが、全力で相手に接近戦を挑み続け。

そして、作ってくれる隙に、マティアスさんとフィンブルさん、オイフェさんが果敢に挑み続けている。

ルーシャは、限界だろうに、それでもシールドを張り。拡張肉体をありったけ展開して、シールドを割られてもどんどん次を張り直している。パイモンさんとスールは、苛烈な火力投射を続けている。

それでも「傲慢」はまだ余裕があるようだが。

だったら。

詠唱を更に進める。

「傲慢」が此方を見て、更に悪意の圧力を強めてくる。現実を正確に認識させないつもりだ。更に言えば、今悪意を中和しているリディーさえどうにかすれば、他の皆も、何もできない状態に出来ると判断しているのだろう。

馬鹿な奴。

リディーは、詠唱をくみ上げながら、そう呟く。

今、「傲慢」は気づけていない。

自分が、そのまま弱点を晒したと言う事に。

詠唱を極限まで絞り上げる。額の血管が破れて血が噴き出すが、それこそどうでもいい。全ての魔力を絞り出すと。

リディーは、杖を回転させ。

そして、地面をついた。

一気に、悪意を封じる術式を、敵に。傲慢そのものに収縮させる。

「傲慢」が動きを止めた。

鏡によって、人間の醜さを見せつけてきた「傲慢」。

だったらその醜さを、逆に見せつけ返してやる。

そもそも、「みんな」はどうしてもああも醜態をさらし続ける事が出来るのか。それは、自分という存在を「正義」だと勘違いし。己が「正しい事をしている」から、自分の価値観にそわない相手や、「醜い」相手に何をしても良いと思っているからだ。

だったら鏡を突きつけてやり。

自分がどれだけ醜悪かを、見せつけてやればどうなるか。

他のレンプライアだったら効くかは分からない。

だが、「傲慢」は明らかに邪神レベルの力を持ち、あからさまな自我を持つにまで到達しているレンプライアだ。

だったら。

絶叫するレンプライア。

それはそうだ。傲慢によって、驕り高ぶった己の浅ましい姿を、直接叩き込まれたのである。

全身が冷えていくのが分かる。

無茶苦茶な魔術を無理矢理展開したのだから当たり前だ。だが、ヴェルベティス装備と、ハルモニウムで作ったリディーのための杖がある。

この程度。

負けるものか。

スールが残像を作って戻ってきて、N/Aを荷車から取りだす。

頷いた。それしか、手は無いだろう。

相手の動きを止めていられる時間は、ほんのわずか。

今のリディーの魔術が尽きたら。

一気に悪意が押し返されて、皆動けなくなる。

勝負は一瞬。

この残り少ない時間で。

とどめを刺すしか、勝ち目は無い。

だが、なおもレンプライアの王「傲慢」は意地を見せる。

全身を更に膨れあがらせ、腕を増やし、目を増やし、翼も増やし。そして頭の上に、何やら輪のようなものを浮かべる。

全身は輝き始め。

そして声が聞こえる。

「我こそが、唯一絶対のものである」

悪意を、ピンポイントで押し返してきたのか。

頭が痛い。不協和音がガンガン響く。集中を乱し、この精神攻撃返しを、一気に押し破るつもりか。だが。

皆の総攻撃が、レンプライアの王「傲慢」を一気に責め立てている。

勿論、もがき苦しみながらも、「傲慢」は激しい攻撃を仕掛けてきてはいる。

周囲には間断なく雷撃や火球が降り注ぎ。雹が雨霰と降り注いでいるが。

しかし、アンパサンドさんが瞬時に「傲慢」の顔面を切り刻み。マティアスさんとフィンブルさんが息を合わせると。

傷だらけの全身の総力を振り絞って、連携して回転しつつ「傲慢」の全身を、瞬時に切り刻みつつ。

二人揃って、十字を描くように、頭上から真下に斬り下げる。

更に、オイフェさんが高々と跳躍すると。空中機動で加速し。心臓にあたる部分を、蹴り砕きぶち抜く。

それでも再生しつつ、ピンポイントでリディーに精神攻撃を仕掛けてくる「傲慢」。

いい加減にせい。

叫んだパイモンさんが、周囲に魔法陣を展開。

魔法陣からせり出してくるのは、巨大な雷神の石、合計六個。パイモンさんも相当に精神力を消耗しているようだが。それでも、無理矢理に魔力を絞り出し、全火力を展開。相互干渉して威力を増幅した雷神の石が、天から文字通り神域の雷撃を叩き込む。瞬時に炭クズになる「傲慢」。だが、それでも、炭クズの全身をぶち抜いて、端正な顔だけで復活する。顔の周囲には、無数の触手が蠢いていた。

押される。

リディーの精神に穴が開き始めている。

膝をつく。杖にすがる。だが、まだだ。あと少し。皆が、絶対にやってくれる。やってくれるはずだ。

「みんな、離れてっ!」

スールが叫ぶ。

だが、突貫する影。

アンパサンドさんだ。

端正な顔の頭から生えている無数の触手が、スールに向かう。その全てを、一瞬でアンパサンドさんは切り裂く。

見ると全身傷だらけ。骨が見えているほど切り裂かれている場所もある。

それはそうだ。あんな相手に、ずっとインファイトを挑んでいるのだ。当たり前の話。だが、その闘志も動きも鈍っていない。

ぐっと、更に悪意の圧力が強まる。

リディーが押し負けたら、一瞬でこの場は悪意に塗りつぶされて、そして皆まともに前も見えなくなる。

さっきリディーが見た幻覚のようなものを見せられ。

一方的になぶり殺しにされる。

それだけは。

絶対にさせるか。

アンパサンドさんが、気にくわない「傲慢」のにやけ面に飛びつくと、右目に短剣を突き刺し、眼球をえぐり出す。

触手がアンパサンドさんを狙うが。

紙一重でかわし、飛び退く。

目を瞬時に再生する「傲慢」。

それに、今の触手は、アンパサンドさんを掠り、高々と空に跳ね上げていた。口を開き、光弾を集中させていく「傲慢」。もう前衛組は、総力での攻撃の結果動けないし、パイモンさんも品切れの様子だ。

だが。

今の瞬間、右目が無くなったその死角に潜り込んだスールが。

N/Aを「傲慢」の膝元……というか、首元か。ともかく至近に放り込んでいた。

勿論、レンプライアの欠片を塗りたくってある。

勿論触手で払いのけようとするレンプライア「傲慢」だが。この時、一気にリディーは、残る全ての力を込めて、悪意を相手に押し返す。その手を、ルーシャが取るのが分かった。爆発が至近で幾つも起こる。シールドを解除し。その分の魔力を、リディーに回してくれたのだ。

深呼吸。残った力を、全て叩き込む。

悲鳴を上げて、完全に悪意を押し込み返された「傲慢」が絶叫する。

N/Aは触手に払いのけられることも無く。もはや動けない前衛組を守るために、パイモンさんが「傲慢」の周囲にシールドを展開もする。

チェックメイトだ。

スールがバトルミックスを展開。

N/Aを炸裂させる。

見苦しい悲鳴を上げる「傲慢」を。

光が包んだ。

それは、爆発と言うよりも。もっと優しい、それでいながら一切合切の抵抗も許さない。

何というか、浄化という言葉が一番近かった。

全てを消滅させる光だから、だろうか。勿論空間や時間というものは消滅させられないだろうが。

少なくともこの世界に実体があるものや、魔力の類は全てが消し飛ぶ。傲慢が、文字通り食われながら、消えていくのが分かる。

シールドがミシミシいっているのが分かるが。なんとか耐えられるはずだ。

一点に収束するように設計した爆弾である。そうでなければ、危険すぎて使う事が出来ないからだ。

ふつりと、悪意の圧力がきれた。

同時に、周囲の楽園のような光景が、消えていく。

不思議な絵の具の効力が切れたのである。周囲が、黒の世界へと戻っていく。

今回も、ギリギリだったか。余裕を持って勝てないものだなと、リディーは苦笑いする。

むしろ、ソフィーさんの調整能力の凄まじさを、褒めるべきなのだろうか。其所は、正直よく分からないが。

「トリアージ! 急げ! くそっ、一人も死なせるなっ!」

フィンブルさんが叫んでいるのが聞こえる。かなり状態が危ない人がいるのだろう。口調に焦りが感じられる。

周囲は、また黒い世界に戻っていた。

一度食い尽くされると、もう元に戻ることは無い。

そうなのだろう。

だけれども。

どうしてだろうか。少し、世界の空気が、柔らかくなった気がした。

やりとげた。

少なくともお母さんの消滅は、すぐには起きない。

そう悟った瞬間、リディーは、意識を失っていた。

 

3、戦い終わりて

 

気がつくと、城の応接室で寝かされていた。手当は済んでいる様子である。

ルーシャの状態がかなり酷い。リディーを守るために、かなり無茶をしたのだろう。まだ意識が戻っていない様子だ。

スールは既に起きていたが。

左足に、包帯をかなりきつく巻いていた。

恐らく、足の骨を複雑骨折していたのだろう。だが、それでも治るような薬は準備してあったはずだ。

アンパサンドさんがいない。

まさか、と思ったが。

頭に包帯を巻いたマティアスさんが戻って来て。そして、開口一番に言ってくれた。

「アンなら命を取り留めた。 特異点ソフィーが薬を出してくれてな」

「……そうですか」

「代償は相応のものを要求されたがな。 それはもう仕方がねーよ。 未来の騎士団副団長を失うわけにはいかないからな」

マティアスさんの表情からして。

恐らくは、正式な深淵の者所属を要求されたなと、リディーは悟る。

パイモンさんは、腕組みして座ったまま、目を閉じていた。回復に集中しているのだろう。

心配してルーシャの様子を確認。

心臓も動いているし。呼吸もしている。どうやら、此方も大丈夫ではあるようだが。

あの後、何があったのかを聞く。

スールは首を横に振った。

体中滅茶苦茶になっていて、レンプライアの王「傲慢」倒すと殆ど同時に意識を失ってしまったらしい。

パイモンさんも、意識が朦朧としていて、よく覚えていないそうだ。

オイフェさんは、ルーシャがこんな状態では、そもそも口を開かないだろう。

覚えていたのは、フィンブルさんだけだった。

マティアスさんを一瞥すると。頷きあってから、教えてくれる。

「戦いの後、応急手当を済ませると、ソフィー=ノイエンミュラーが何か術式を掛けて、黒いブロック状のものを生成していた。 恐らく、あの絵は今後も消えないのだろうが、そのブロック状のものが出来るのと同時に、周囲から感じる強烈な悪意が露骨に弱まったのを感じた」

「封印した、と言う事なんでしょうか」

「不思議な絵画は一度黒く染まると元に戻らない、王は何度でも復活する、そういう話であっただろう。 かといって、あの絵にはお前達でも一目で分かる高品質の素材がゴロゴロとしていた。 恐らくだが、絵を失う訳にもいかないし、かといってお前達に恩を売る必要もある……という事なのだろう」

「……フィンブルさん、流石ですね」

鼻を鳴らすフィンブルさん。

精悍な犬顔の頭を、ぼりぼりと掻く。

痒いのでは無く。余程、自分の無力に腹を立てているのだろう。

だが、この人も深淵の者に所属はもうしている。

ソフィーさんを個人的に嫌っていても。

深淵の者が、この世界に果たしている巨大な役割は、しっかり理解している、という事でもあるのだろう。

程なく、アンパサンドさんが運ばれてくる。

運んできた従騎士二人は、何も言わずに出ていった。

アンパサンドさんも、目を覚ましていない。鎧は脱がされ、体中包帯だらけ。リネンを着せられた姿は、兎に角痛々しかった。

これは、戦いが終わった直後、どんな状態だったかは、知らない方が良いだろう。

手指も数本欠損していてもおかしくなかったはずだ。

だが、それでもこの人は。

今までの邪神ほど力を軽減できておらず。

凄まじい悪意の力と、圧倒的な広域制圧力を最後の最後まで展開し続けた「傲慢」に対して。

一歩も屈せず、インファイトを挑み続け。

そして注意を惹くことで、他への被害を徹底的に打ち消してくれていた。

本物の騎士だ。

厳しい人ではあるけれど。

それでも、この人がホムである事で、馬鹿にする奴は騎士失格だろう。だけれども、この人のようになれる騎士なんて、殆どいないはずだとも思う。

しばしして。

ルーシャが目を覚ます。

かなり頭が痛むようで、寝ているようにオイフェさんに言われて。素直に従う。オイフェさんが自主的に喋る事は珍しい。だからこそに、従わなければならないとも、ルーシャは思うのだろう。

リディーはもう大丈夫だ。

歩いて帰るくらいは出来る。

スールを見るが、そっちも大丈夫そうである。

後は、薬の在庫を確認。

かなり減っている。

恐らくだが。リディーとスール、ルーシャとパイモンさん。前衛組の実力をソフィーさんは一目で見きり。途中でレンプライアとの戦闘をさせると、ぎりぎりの戦いにならないと判断したのだろう。

だから、道中ではあくまで精神攻撃に徹し。

物理的な脅威は、ティアナさんに駆除させ続けた。

何もかも計算の内。それも、的確に計算通りに作戦を成功させた。

いや、まて。

ひょっとして、今までの何度も繰り返している発言からして。

もう何度か、この件も繰り返しているのか。

レンプライア「傲慢」に敗れた世界が、何度もあったのだろうか。

スールが、肩を叩いた。

今は考えても仕方が無いと、無言での視線が告げていた。

頷くと、少し横になって休む。

スールの言う通りである。

今は、少しでも、力を回復する事に務めなければならないし。休憩した後は、出来るだけ急いでこの部屋を開けなければならない。

一刻ほど、横になって休んで。

アンパサンドさんが目を開ける。

神域の薬を使って、それでなお、一刻以上意識が戻るのに時間が掛かった。

普通だったら絶対に死んでいたはずだ。

それでも命を取り留め。しかも一刻で意識が戻った。

アンパサンドさんは、手を握ったり開いたりしている。この様子では、やはり手指を欠損した記憶があるのだろう。

声を掛けると。

アンパサンドさんは、頷いた。

「もう大丈夫なのです。 むしろ体が温かい位なのですよ」

「……それじゃあ、解散、ですね」

「レポートは出すように」

「分かっています」

釘を刺される。真面目に受け応えると、アンパサンドさんは、少しだけ考え込んでから、こっちを見た。

そして言う。

「多分戦闘力だけなら、二人揃ってネージュに並んだのですよ」

「えっ」

「……ありがとうございます」

驚いているのはスールだが。

リディーは、それは静かな事実として受け取った。アンパサンドさんは、リップサービスなどしない。客観的に自分も他人も見る人だ。この人がそういうと言う事は、多分事実なのだろう。

アンパサンドさんの乗った担架を、ひょいと担ぎ上げるマティアスさんとフィンブルさん。

二人も決して無傷では無いのだが。

「ブル、試験の対策はどうだ」

「後は受けるだけだ。 先達から既に色々教わっている」

「そうか。 頼むぜ、俺様は一人じゃ何にも出来ないからな。 アンとブルがいてくれないと困るんだよ」

騎士団の寮に移動するのだろう。

アンパサンドさんも、後は回復待ち。応接室を使う理由は無い。

ルーシャも、少し立ち上がるのに苦労したが。

オイフェさんが肩を貸して立ち上がると。

荷車に乗せられる。

後は、オイフェさんが全自動荷車を動かして、帰って行った。

パイモンさんが咳払いする。

「それでは儂も失礼する」

「パイモンさん。 最後の雷神の石、凄かったです」

「いや、アレは結局、「呆れてものが言えない」規模のもので、結局儂には限界を超えられないという事がよく分かったよ。 Sランクの称号は受け取るつもりだが、それはそれだ。 以降は深淵の者の指示をたまに受けながら、故郷で隠棲するつもりだ」

そうか。パイモンさんは、ラスティンに帰ってしまうのか。

ただ、もうしばらくはアダレットにいるという。

アダレットも、色々あってまだ完全に安定しているわけでは無い。もうラスティンは、主要都市の安定と。主要なインフラの強固なネットワークを「ここ数年」で完璧に仕上げたらしいのだけれど。

アダレットは、そうもいかない。

しばらくは、錬金術師が幾らでも必要だ。

フィリスさんが一人で、一年で百年分働くとしても。それでもインフラがどうにもならないほどにアダレットの状態は良くない。

それは、彼方此方を見てきてリディーもよく分かっている。

まだ、深淵の者が、パイモンさんに隠棲は許してはくれないだろう。

もしもリディーが、アルトさんの立場だったとしても。

パイモンさんには働いてほしいと思う。

部屋には、スールと二人だけ残った。

結局使わずに済めば良いと思ったN/Aは使わざるを得なかった。そして、あの破壊力。

出来れば普段は絶対に使わないようにしなければならない代物だ。

試験する余裕が無かったから分からなかったけれど。

あれはもう、人間が手を出して良い領域の爆弾ではない。

元は違う爆弾だったのかも知れない。

少なくとも、今見聞院にレシピが広まっているN/Aは、生半可な錬金術師には再現出来ない代物である一方。

生半可な輩が手を出したら、破滅しか無い超危険物でもある事がはっきりした。

スールに促されて、頷いて立ち上がる。

部屋の掃除を軽く済ませた後、部屋を出る。

役人が来たので、もう全員部屋を後にしたことを話すと。頷いて、掃除夫を呼んだようだった。

これで、Sランクのアトリエ。

国一番だ。

勿論、それが虚しい称号だという事は分かっている。ソフィーさんがいる時点で、国一番も何もあったものではない。

それでも、これで。

お母さんに報告に行ける。

ただ、ソフィーさんが、これで終わらせてくれるはずがない。

まだ何かある筈だ。

受付で、声を掛けられる。

モノクロームのホムである。ずっと世話になった役人だ。

幾つか話をする。

多分Sランク試験という事は、この人も知っていたのだろう。試験を突破出来ただろうと話すと。

自分の事のように喜んでくれた。

「多数怪我人が出ていたから心配していたのです。 合格出来たと思えるのであれば、良かったのですよ」

「有難うございます」

「今後も、薬も装備も爆弾も、幾らでも必要なのです。 頼むのですよ二人とも。 アダレットの未来は、二人の双肩に掛かっているのです」

苦笑は、しない。

この人は、多分深淵の者に所属していない。

それが分かってしまった。

今のリディーとスールの双肩には。

アダレットどころか。

この世界そのものが乗せられてしまっているのだ。

後は、疲れた体を引きずって、家に帰る。お父さんは、黙々と錬金釜に向かっていた。お薬を増やしていたらしい。

多分、負傷して戻ってくる事を想定していたのだろう。

リディーとスールの姿を見ると。心配していたと声を掛けてくれた。

そうか、前だったら絶対に素直に受け取れなかった言葉だ。

本当に心配していたのだろう。感謝をする。

だが、お父さんはきちんと引き締めてもくれた。

「レポートがあるなら、早めに済ませてしまえ。 今のうちにやっておかないと、後が面倒だ」

「うん。 お父さん、食事、最初にとってもいい?」

「……まだ夕方だが、その様子では仕方が無いな。 出来合いを買ってくるから、其所でまっていなさい」

調合を切り上げると。

お父さんは出来合いを買いに行く。

美味しいものではないけれど。

そもそもリディーが、もう疲弊しきっていることを、お父さんは見抜いたのだろう。

常時回復の錬金術装備を身につけていても、まだまだ回復が全然追いつかない。それについても、見抜いたはずだ。

三人で夕食を囲む。

軽く、黒い絵の中で、何があったか話した。

七つの大罪について話をすると、お父さんは厳しい表情で眉をひそめた。

「どれも、本来なら社会を構成するために必要な要素だな。 だが、強くありすぎるとエゴの怪物が出現してしまう。 確かに人の心の映し鏡である不思議な絵画が、もっとも汚染されれば。 そういったものが出現しても不思議ではない」

「お父さんの絵は、まだあれでも汚染されきっていなかったんだって、あの絵を見てよく分かったよ。 本当に落ちるところまで落ちると、原初的な欲望が剥き出しになるんだね」

「それで、錬金術師の残留思念は、助けてやるのか」

「……そうするつもり」

パイモンさんは、あの黒い絵を見て、駄作だと即座に断言した。

リディーもそれについては同感である。

だけれど、あの錬金術師に罪は無い。

駄作だろうが、不思議な絵画を仕上げたほどの人だ。

黒く塗りつぶされようが、それでもごく一部の錬金術師にしか手が届かない不思議な絵画を完成させた才覚の持ち主だったのだ。

残留思念になってまで、あの絵に留まっているのは。

悲しいから、口惜しいから。

そしてあの人は、甘やかすレンプライアに対して、何も反応していなかった。

誰かが、救わなければならない。

ソフィーさんが何かを今後言い渡してくるのは確実。お母さんは時間稼ぎが出来たが、どうにかして根本対策をしなければもたない。

とりあえず、まず最初に、ネージュに会いに行くところからだ。

ネージュが会ってくれるかが最初の関門だが。

お母さんの件についても相談は受けたい。ネージュの絵には、専門家であるお父さんも来て欲しい所だった。

軽く話しあっているうちに、夕食も終わる。

少し力が戻って来たので、レポートを仕上げてしまう。草稿を書いている間に、スールがコンテナをチェック。

ドンケルハイトを一とする、本来だったら手に入らない素材の幾つかを見て、メモを取っていた。

或いは死人を蘇生させる次元のお薬も、今であれば作る事が出来るかも知れない。

レポートが仕上がったので、スールとダブルチェック。

一晩眠って、翌朝には出しに行く。

これで、後はSランクアトリエの昇格の話を受けるだけ。

試験に落ちることはまずあり得ない。

むしろ、これからこなさなければならない事に関して、不安の方が大きかった。

 

4、不思議な絵画の深奥

 

Sランクのアトリエ昇格の連絡は、なかなか来なかった。むしろ、レポートを出しに行った時申請した、アンパサンドさんとマティアスさんの護衛の日時の方が先に来てしまったくらいである。

いずれにしても、フィンブルさんにも声を掛け。

お父さんも連れて。

六人で、ネージュの要塞に出向く。

お父さんもこの絵には入った事があったのだろう。

懐かしそうに目を細めて、周囲を見ていた。

アンパサンドさんが、絵に入る前に注意を促していた。ネージュはあれでかなり気むずかしいと。

もう一度の話に応じてくれるかは分からないし、気を付けるようにとも。

それは分かっている。

リディーだって、ネージュの立場だったら、断るかも知れない。

ともかく、要塞の入り口に立つと、中に呼びかける。

残留思念について、話がしたいと。

もう此処には来るなと言われたけれど。どうしても大事な人を助ける必要が生じて。知恵を借りたいのだと。

しばし、待つ。

沈黙だけしか帰って来ないけれど。此処はネージュの空間だ。悪態とかをつくことは許されない。相手に全て把握されているし。何よりも、ネージュという偉大な錬金術師の尊厳を全て破壊したのはアダレットの民だ。ネージュの恨みも、アダレットへの不信も、嫌と言うほど分かる。

かなり待ったが。

やがて根負けしたのか。

要塞の扉が開く。

そして、複数の鎧の兵士が、威圧的な足音と共に出てきて、此方を囲む。そして、最後にネージュが、自分自身の足で、姿を見せた。要塞からは出ずに、その中に留まったが。

「面倒事はごめんよ。 さっさと話しなさい」

「不思議な絵画に取り残された残留思念を安定させる方法について、技術的な話を聞かせて貰いたいんです。 それだけ聞かせて貰えれば、すぐに帰ります」

「……ひょっとして、干渉力が弱まった黒く染まった絵に関係している事か」

「!」

流石だ。

此処にいながら知っているのか。

確かにあの黒い絵からは、他の絵へ悪しき影響が漏れていた、と言う話だが。ネージュもそれは把握していたと言う事か。

そうなると、不思議な絵画が黒く染まることは、想像以上に危険な事なのかも知れない。一つが黒く染まれば、連鎖的に他も染まっていく可能性がある。

それは、困る。

どの絵も、それぞれ描いた錬金術師の心の映し鏡だった。

それに氷の世界の絵に至っては。

彼処は、ヒト族の故郷が罪を犯した世界とつながってもいる。

彼処が塗りつぶされることなど、絶対にあってはならないだろう。

顎をしゃくる。

お父さんが頷いて、前に出る。

専門的な話を始めるので、メモを取る。その間、ずっとアンパサンドさん達は、周囲に対して睨みを利かせ、護衛を続けてくれていた。

「なるほど、やはりエーテルが足りないのか……」

「貴方の気配で分かったけれども、恐らく貴方の絵にいる残留思念そのものは、既に安定状態にある。 問題は安定して弱って行っている事。 それを覆すには、不思議な絵画の中で、直接高濃度のエーテルの凝縮体を使う必要がある。 レシピはくれてやるから、勝手に使うといい」

紙切れが落ちてくる。

受け取ると、思わず呻いた。

今でさえ、理解出来るかかなり厳しいレシピだ。流石にネージュ。戦闘力だけなら並べたかも知れないけれど。

まだこの人の方が、リディーやスールよりずっと上の錬金術師である事は確実だ。

いずれにしても、帰ってから。

お父さんと連携して動く必要がある。

後は黒い絵の方に残っている残留思念の方だが。それについては、ネージュが厳しいと言った。

「そもその黒い絵は数百年は経過しているはずよ。 其所に捕らわれた残留思念となると、引きはがすのは厳しいし、今の状態で安定してしまっている可能性が高い」

「そんな、何か手はありませんか」

「あるにはある」

新しく不思議な絵画を作り。

其所に説得して移動して貰う、という事らしい。

ただし、相応に覚悟はいると言う。

さっき貰ったレシピを応用すれば、残留思念の安定は出来る。それを利用して、残留思念の移動も可能になる。

黒い絵からまず切り離す。

残留思念を安定させる。

そして別の不思議な絵に住んで貰う。

その三つを、こなす必要があるという事だった。

もちろんだが、重要なのは此処からで。

そもそも残留思念を説得する必要もある。あの黒い絵に捕らわれている残留思念に、其所までする必要があるのかと聞かれて。

リディーはあると応えた。

「あの人は充分過ぎる程苦しんだと思います。 あの人くらい助けられなくて、今後の大望何て果たせません」

「……そうか。 好きにするといい」

ネージュは、後は勝手にしろと言い残して、要塞に戻っていく。

頭を深々と下げた。

最後まで此方に武器を向けながら、鎧の兵士達も戻っていく。護衛の皆は、兵士達がいなくなるのを見計らって、すぐに絵から出るように促した。

皆で絵から出る。

アンパサンドさんが、咳払いした。

「ネージュのいう事は正論なのです。 本当に、其所までの手間を掛けて、あの黒い絵の残留思念を救うのですね?」

「アンパサンドさん。 多分今後、深淵の者に協力して動かなければならなくなると思います。 そして今後行う事業は、人を助けるという意味でも、もっともっと難易度が上がると思います」

「リディーの言う通りだよ。 スーちゃんも思うけれど、あの人くらい助けられなくて、今後の事は出来ないと思う」

「そう、ですか。 Sランクアトリエの試験結果は、まもなく届く筈なのです。 その後はまたしばらく忙しくなる可能性も高い。 もしも人助けを本気でするつもりなら、急ぐのです」

頷く。

後は、その場で解散。

アトリエに戻って、三人でレシピを囲んで話し合う。

お父さんは流石に専門家だ。レシピを読み解いて、わかり安く黒板に描いてくれる。それをゼッテルに写し取り、拡げていくと。相当な巨大レシピになった。

名付けて結いのパステル。

絵の中に存在する残留思念に対して、安定化を行う道具。

同時に、少し調合を変えることによって、残留思念の絵からの切り離しや。再固定も可能になる。

ただし残留思念への説得が絶対不可欠になるが。

材料に関しては、それほど難しいものはいらない。

不思議な絵の具の材料と。

後は超高密度の魔力が必要になってくる。

エーテルというのは、魔力の素みたいなものの事なので。

これに関しては、今のリディーが、全力を振り絞れば解決する事はそれほど難しくはない。

調合については試行錯誤がいるが。

今まで作ってきたハルモニウムやヴェルベティスに比べればどうと言うことも無いし。

多分、今までお母さんのいる絵を修復していたのだろう。

お父さんが、エーテルの固定化技術についてはかなり研究してくれていて。

レシピについて、かなり捕捉を入れてもくれた。

これならば、出来る。ただし、一週間はかかるが。

今後、ソフィーさんが動くと、多分身動きが取れなくなるほど厳しい状況が来る可能性が高い。

時間は想像以上にないと思わないといけない。

すぐに手分けして動く。

それに、お父さんには。黒い絵の話をして。あの錬金術師の残留思念が過ごしやすい、穏やかな新しい不思議な絵画も描いてほしい。これについては、快くお父さんは引き受けてくれた。

あの究極の孤独にいた錬金術師を。

救えるだろうか。

救えなくて、この世界の詰みなんか打破できるか。

そう言い聞かせると、リディーはレシピに目を通して。まずはフローチャートから作り始める。

タスクはざっと百を超えるが。

難易度そのものはハルモニウムほどではない。

時間さえあれば、行ける。

頷くと、順番にタスクを処理し始める。三つある錬金釜を使って、効率よく三人で動く。

お母さんを救う。

そしてあの黒い絵の錬金術師も救う。

時間との勝負が。今、始まった。

 

(続)