光と影の王冠
序、国家としての区切り
イルメリアから上がって来た先代王関連の報告書を読んだミレイユ王女が苛立っているのを見て、側近達は冷や冷やしていた。最近は騎士一位に昇格し、更に難しい仕事にも連れて行かれるようになったアンパサンドは、会議の護衛をしながらそれを敏感に察知していた。
順番に議題が上げられ、それをミレイユ王女が捌いて行く。
書記のホムが忙しくメモを取り。そして、可決の印が押されると、書類を持っていく。
問題は三傑が持ってくるようなものを除くと、大きなものから小さなものまで様々。
普段に比べて、ミレイユ王女の頭のキレが少し鈍い様子で。それが怒りから来るのは明白だった。
ヒト族の心はホムに比べて兎に角巨大だ。
感情が薄いホムは、心も蛋白。
例えばホム以外の人間にとっては、子供が出来ると言う事は、それなりに大きな話らしいのだけれども。
そもそもホムは男女ともに同じような消耗をする上、そもそも他の人間ほど子供は未熟な状態で生まれない。
そも生活が安定した状態になると子孫を増やす。相手は安定した利害があればそれで良い。
そう考えるので。そもそも種としての違いが大きいのだ。
違いが大きいからこそ、感情の差も敏感に感じ取ることが出来る。ミレイユ王女は普段から冷静なリアリストだが。
それでも苛立っていることが、よく分かった。
確かに先代王が完璧な状況で崩御してくれたのは事実だけれども。そのアドバンテージを握られたのが気に入らないのだろう。そう、誰もが思っている様子だ。そのような話を、アンパサンドは何度も聞いた。
そもそも先代王はいるだけで社会の害になる男だった。あのようなヒト族がどうして王位に就けるのか、アンパサンドの理解はどうしても及ばない。そも権力など、適切な人間が握れば良いだけのこと。
血統だので決める事の意味が分からない。
能力で純粋に選べばいいのにと、アンパサンドは思うのだが。
社会の安定を考えると、血統による統治。
それも、権力に興味が強いヒト族による統治が好ましい。
そういう理由であるらしい。
魔族は個体能力が高いが権力に興味が無いし。獣人族はヒト族より若干知能が劣っている。
それを考えると、やはり現状はそのままで良いのだろう。
事実ホムが玉座についても、ヒト族は従うまい。
この国では、役人にようやくホムを採用し。権力闘争をせず黙々と仕事をこなすホムの有能さで、かなり政務の動きが良くなってきている。それも深淵の者の後押しが無ければ出来なかったらしく。
正直、国としてのアダレットはどうしようもないなと。
仕えている騎士でありながら、アンパサンドは思うのだった。
アンパサンドは、国家としてのアダレットに対する忠義は持っていない。
単純に生きるのに最適で。何よりこの世の理不尽と戦うのに一番都合が良い仕事が騎士だったから、此処にいる。
邪悪から弱者を守り。弱者の盾になれる仕事だから騎士をしている。
利害が一致しているならば裏切る気は一切無い。
少なくとも、ミレイユ王女は有能だ。
もっとも、ヒト族は年齢による頭脳の劣化が激しいとも聞く。
今は輝くような有能な指導者であるミレイユ王女も。
いつまで有能であるかは分からないが。
いずれにしても、深淵の者に声を掛けられた今。今後、移籍するか、それとも騎士との兼業を続けるかは少し悩ましい所である。
実の所、この世の理不尽と戦うつもりなら、深淵の者に所属するのは悪くない考えではある。
ただ、アンパサンドは、どちらかというとミレイユ王女や、マティアス王子の事は嫌いでは無い。
深淵の者は、所属すれば恐らく場合によっては、即時で殺せという命令を出してくることもあるだろう。ちなみにミレイユ王女はどのような言葉を使ってでもマティアス王子の愚行を止めろとは命令したが、本当に殺せとは言っていない。マティアス王子は本気でミレイユ王女を怖れているので、場合によっては殺せと言われたと告げるのが、最適だと判断しただけである。
それにマティアス王子はミレイユ王女と違って頂点に立つ器では無いが、悪辣では無い。殺そうとは思わない。
だから現時点では、深淵の者に所属はするつもりはない。
なお、調べて見た所、深淵の者に所属している騎士は相当数がいるらしく。なんと騎士団長からしてその可能性が高い。
まああのソフィー=ノイエンミュラーと様々な冒険をしたらしいし。
無理からぬ話ではあるのだろうが。
だいたいヒト族で、魔族の中でも屈指の力を持つ巨人族の先代騎士団長に匹敵するとまで言われる実力者なのだ。
生半可な存在ではないのは確実である。
ミレイユ王女の言葉は、会議だから荒々しい。武門の国だし、それで良いのだ。最近は、前よりも更に荒々しくなってきている。
「次の議題は」
「騎士団の追加要員についてです。 三部隊を追加し、副団長を新たに追加で一名任命できる状況が整いました。 追加部隊の騎士達と騎士隊長は既に選出済みです。 この機に、従騎士も更に人数を採用します。 傭兵などに現在スカウトを掛けており、相当数の応募が上がって来ているので、その中から選出します。 流石に流れでいつ死ぬか分からぬ傭兵よりも騎士への昇格可能性がある従騎士に魅力を感じる者は多いようです」
「ふむ」
「問題は追加の副団長です。 ミレイユ王女、此方が候補になりますが」
ヒト族の太った役人が候補リストを出す。
部隊が増えると副団長の負担が増えるという事で、副団長を二人置く体勢が組まれたのだが。
正直これは、単に組織拡大においてポストを増やしただけにも思える。
いずれにしても、勿論ミレイユ王女とは、何度か話し合いをしている筈。これは最終決定の認可を求めている行動である。
しらける話だ。
無駄に儀式的である。
無意味に時間ばかり掛かるし。処理に幾度も手間が入る。もっと簡略化すればいいものを。
野心というものはどうしてもアンパサンドには理解出来ない。
この過酷な世界で、協力しなければ生きていけないのは自明の理だ。それなのに、どうしてエゴで財や権力を独占しようとする。
そんなものがあるから、ネージュを迫害するような愚行にこの国は走った。
何故、直そうとしない。
「立候補している者は」
「現時点ではおりません。 副団長であるシャノンどのが余りにも傑出しているため、どうも尻込みしている様子もありますが」
「騎士隊長は魔族が殆どなのです。 皆、権力を好む者はおりますまい」
率直に言ったのは、ホムの役人である。現時点で、アダレットにおける最高位のホムである。
ホムらしいしゃべり方をするが、年齢は130歳を超えている。250年生きるホムとしても、壮年に相当する。アンパサンドから見てもかなり老けていると感じるが、ヒト族にはあまり見分けはつかない様子だ
苦虫を噛み潰しているヒト族の役人に。ミレイユ王女は、苛立ちを出来るだけ丁寧に隠しながら言う。
「その通り。 現状副騎士団長には有能なシャノンがいる。 騎士隊長の魔族達は皆横並び、唯一のヒト族騎士隊長のキホーティスはそろそろ引退の年齢。 かといって、マティアスはそもそも副騎士団長には向かない」
あっさりと牽制を入れる。まあそうだろうとはアンパサンドも思うが。
そもそもマティアス王子はかなり難しい立場に置かれている。
下手に高い地位をくれてやると、先代王のシンパがまたすり寄る可能性もある。
無意味な派閥闘争は、人材の消耗と対立の元だ。
ミレイユ王女の豪腕でも、取りこぼしは出てくる。
だから無駄な事は避けたいのだろう。
ただでさえ、この世界。
人材は幾らでも必要なのだから。
周囲からの風よけを買って出ているマティアス王子は、このままの地位で良い。或いは、捨て扶持では無く、そもそももっと別の、アホ共が寄ってこないような地位に据え置くべきか。
「アンパサンド」
「はっ」
ミレイユ王女の言葉に跪く。まさか呼ばれるとは思ってはいなかったが。アンパサンドは、ここのところ双子について相応の戦歴を上げている。騎士隊長候補に、という話はあったと聞く。だが、そもそも部隊指揮には向いていないという理由で固辞してきた。
だいたいホムが騎士をやっているというだけで、色眼鏡つきで見てくる輩は珍しくないのである。
下手な地位につくと、まずは部下を叩きのめして、実力を見せつけるような事から始めなければならない。
非合理的だ。
「副団長の内、一人はシャノンが務めている。 シャノンはどちらかというと武勇にて騎士団の二位を確立している者だ。 そなたはむしろ知にて騎士団の二位についてもらえないだろうか」
「それは、強制なのです?」
「……!」
ざわめきが起こる。
流石にミレイユ王女直々に、二段階昇進の話が出ているのに。しかもこんな重要な会議で。
断る流れは誰も想定していなかったのだろう。
といっても、ざわめいているのはヒト族の役人や騎士ばかりだが。
まずはそれを指摘すると。
皆、黙り込む。
「元々我等ホムには野心は無く、そして魔族は極めて能力が高い反面己の内にて自己を磨く傾向があるのです。 横並びの実力である現在の魔族の隊長達の中から選びづらいというのであれば、誰かヒト族を抜擢するべきではないのかと思うのです。 戦略級の傭兵に、適任者が何名か思い当たりますが」
「いや、副騎士団長ともなると、裏切らない人員を据え置きたい。 金に目が眩んで派閥闘争に荷担したり、利に釣られて裏切るような人間を置くのは困る。 傭兵の中には確かに優れた腕の者もいるが、彼らはあくまで利で動く。 故に騎士団長や、副団長には向いていない。 更に言うと、騎士団の上層部がヒト族で占められるのも好ましくない」
ミレイユ王女の言葉ももっともか。
もう一度、ミレイユ王女は言う。
「準備期間を設けよう。 どうせしばらくは騎士団に追加する人員の訓練や、戦力の調整などで時間が掛かる。 半年ほど後に、副団長に就任して貰えないだろうか。 余としてもそなたの実力を買っている」
「……分かりましたのです。 ただ、此方はご理解いただきたいのです。 ヒト族と違って、ホムは不正はしない一方、野心はないのです。 それについては自分も同じ。 自分にも、この理不尽な世界と戦いたいと言う願望はあるのですけれども。 しかしヒト族が大好きな政治闘争に巻き込まれるのはまっぴらごめんなのです」
はっきりいうと、ミレイユ王女は思っているだろうか。
だが、此処まで言っておかないと。
絶対にすり寄って来る輩が大勢出てくる。
だから、早い内に釘を刺しておく。
「現在の騎士団長はヒト族で、寿命や全盛期の実力を維持できる時間についても問題があるのです。 これらに関してはヒト族の二倍半の寿命を持つ自分が副団長につくことで、長期的な視野での安定にはつながると思うのです。 余計な政治的な横やりが入らないのであれば。 自分は副団長としての任を受けさせていただくのです」
「……その分騎士団長の負担が増えもするが、仕方が無い。 それに、正直な話、騎士団にホムをもう少し採用したいと思っていた所だ」
またざわめきが起きるが。
咳払いしたのは、当の騎士団長だった。
勿論こんな重要会議である。
参加しているに決まっている。
「ミレイユ殿下の言葉を捕捉するようだが、騎士団としても賛成だ。 戦いは強い戦士だけを集めれば出来る訳では無い。 文官との役割分担は必要だが、騎士団内部にも不正をしない数字を管理できる人間が欲しい。 ヒト族ではどうしても数字管理に不正が出てくる可能性があるし、数字管理に関してホムはヒト族を遙かに凌ぐし野心が無いと言う点での信頼性も高い。 ましてやアンパサンドは、騎士一位として、現在躍進中の「雷神殺し」と一緒に戦い、確実な戦歴を積み重ねている。 ドラゴン二体の抹殺、ファルギオル撃破のアシスト、邪神一体の撃破と、その戦歴は既に騎士隊長各位と並ぶかそれ以上だ。 私からも彼女を推薦したい所だ」
そうか、外堀を埋めてくるか。
しばし跪いたまま、話の推移を見守る。
やがて、騎士団長が、余計な横やりを入れてきた場合は女王に即時通報すると牽制を入れ。
剛直さで知られる騎士団長がそう口にしたからには、文官達も黙らざるを得ない。
最初の頃は、まだ若いヒト族の騎士団長と言うことで、あの手この手で籠絡しようというヒト族の文官もいたらしいのだが。
その全てをはねのけて、「堅物」と言われている現在の騎士団長である。
その言葉には、重みがある。
「ふむ、問題は無さそうだな。 それでは、半年後の副騎士団長の叙任、受けてくれるかアンパサンド」
「分かりました。 其所までのお計らい、光栄至極に存じますのです。 半年後の副騎士団長叙任、謹んで承らせていただくのです」
「うむ」
ミレイユ王女も或いは女王になった後の事を意識して喋っているのかなとアンパサンドはちょっと思ったが。
そのまま元の位置に戻る。
苦虫を噛み潰すような視線が飛んでくるが。
そもそもホムが不正をしない面倒な種族である事は、ヒト族ですら認めている。「何が楽しくて生きているのやら」とかいう悪口も聞くことがある。まあ快楽主義の傾向があるヒト族には、確かにそう見えるかも知れない。
だが悪いが、アンパサンドは今ある程度充実している。
高く天を目指す双子と共に、この世の理不尽と戦える力を手に入れつつあるからだ。
副団長になれば収入も増える。
シスターグレースに仕送りも増やせるし。
何より、不正の類を騎士団内から一掃できるはず。
そもそも、騎士団の予算には文官が噛んでいて、かなり風通しが悪い状態だった。
今後ホムであるアンパサンドが此処に食い込めば。
複雑だった金の流れを一本化し。
不正の余地がない体勢を作れる。
後は後継者のホムの騎士が必要になってくるが。
この辺りは、ミレイユ王女の仕事だろう。軍属文官とかの新しい地位を作るとか。まあ、いずれにしてもアンパサンドには関係無い話である。
恐らく、変な部分で文官が予算などに噛んできていた今までの状況よりも、風通しは良く出来る。
勿論監査機能は必要になるが、ホムが数字管理をするならば、不正は疑わなくても良いと言う利点もある。
勿論甘い汁を吸う者はいなくなるが。
不正に甘い汁を吸う輩がいる時点で、それは組織として駄目だし。
そんな輩がのさばれる組織は、いずれ腐って枯れ果てるのである。
その後、幾つかの話を終えた後、会議を終える。
いずれにしても、先代王が死んで良かったという事には、此処にいる全員が異論ない様子だ。
有能なミレイユ王女が、女王に即位することで。
アダレットは更に安定する。
三傑が現在かなり強烈に国政に圧力を掛けてきているが。
その結果、アダレットを覆っていた弊風は吹き払われた。
これは三傑を快く思っていない文官ですら認めている。
匪賊は消し飛ばされ。問題を起こしていた邪神は打ち払われ。人里に近付くドラゴンも、被害を出す前に処理され。
そしてインフラの整備も、ここ一年で百年分以上は進展した。
会議の場から出ていく者を見ながら、ラスティンでもこんな感じだったのだろうかと思うが。
まあそれは、実際に行ってみないと分からないか。
騎士団長に呼ばれたので、私室に出向く。
此方も用事があったので丁度良い。
以前貰い。そしてずっと愛刀にしていた短剣を返す。
これも愛着がある剣だが。騎士団には装備が足りていない。必要がなくなったのなら、返すのが妥当だ。
そして、双子に用意して貰ったハルモニウムの短剣を、騎士団長に見せた。騎士団長ジュリオは、ハルモニウム剣に触って良いかと聞いてくる。それほど、ハルモニウムは貴重なのだ。
頷く。
騎士団長は短剣を受け取ると。しばし目を細めて眺めた後、返してくれた。
「私の剣もかなりの業物だが、これもなかなかの品だ。 大事に扱って欲しい」
「分かりましたのです。 必ずやこの剣にて、双子を守りきるのです」
「うむ……」
それで、用事は。
しばし待つと、騎士団長は引き出しから何かを出す。
小さな細工物のようだが。
見て、正体を理解して、嗚呼と納得した。
最初から、アンパサンドの副騎士団長就任は決まっていたのか。
副騎士団長は勲章をつけるのだが。
ホム用に小さくしている勲章だ。
多分特注品だろう。
「半年後に、これをつけて貰う。 ミレイユ王女も、騎士団の風通しを良くするために、高位の人材に騎士団が納得出来る実力のホムが欲しいと思っていたのだ。 魔族も不正をしないという観点では信頼出来るのだが、魔族に書類仕事をさせるのはあまりにも人材の無駄だという声が大きくてな」
「分かりました。 自分の全力を尽くさせていただくのです」
「君は少しばかり双子に厳しすぎる教育をしたようだが、その代わりに双子は稲妻のような勢いでAランクまで駆け上がった。 今後も期待している」
「はっ」
敬礼をかわすと、騎士団長の部屋を出る。
シャノン副騎士団長に敬礼して、そのまま騎士団の寮を出る。あまり好意的では無い視線を向けているヒト族の騎士が何人かいたが。視線を向け返すと、慌てて視線をそらす。
それはそうだ。
ミレイユ王女が直々にああいうことを言ったのだ。
もし面と向かってアンパサンドに不満を零したら、それこそミレイユ王女に対して不満を零すのと同じである。
これだからヒト族は。
ため息をつく。
どうしてこう、野心という余計なもので、世界をかき乱すのか。ただでさえ過酷な世界なのだ。
それこそそれぞれの長所を生かして生きていけばいいのに。ヒト族の野心は、悉くそれを阻害している。
王城を出て、寮に戻るまで、あまり気分が良くない視線は断続的に飛んできた。
副騎士団長になれば、もっとこの視線は増えるだろう。
半年で慣れろという意味もあるに違いない。
嘆息すると、アンパサンドは。
さっさと眠る事にした。
1、武の王冠
まだ残っている竜の鱗の中から、特に良いものを選抜して。聞こえる声を上手く拾いながらハンマーを振るう。
スールがギフテッドに目覚め。
リディーのギフテッドもどんどん強くなっている今、
鉱物の加工は、かなり楽になってきている。
ハルモニウムの加工は尋常ではなく難しいのだが。
それでも何度も挑戦して、質を上げてきているのだ。ましてや今回は王室からの依頼である。
手は抜けないし。
それに、今後ヴェルベティスを作って、最終的な防具を作る時。
その最強に見合った金属も、必要になってくる。
「リディー、中和剤上がったよ」
「ありがとう、スーちゃん」
「次は蒸留水の質を上げておくね」
「よろしく」
もう少しでハルモニウムの釜も上がってくる。ハルモニウム釜が上がったら、いよいよヴェルベティスに挑戦するつもりだが。
同時に、更なる錬金術の向上も試して行かなければならない。
現在、ものを薄く空気の膜で覆う魔術を練習しているのだが。
とにかくこれが繊細で、難しい。
この魔術を使いこなせるようになった後は。
ものを空気から隔離する魔術を使えるようになる必要がある。
どんな素材も、不純物は少ない方が良いのは道理。
最高品質の錬金術の産物は。
基本的に、空気が存在しない空間で作るという話も、見聞院で見た。イル師匠も、恐らくは空気遮断の魔術を使いながら、調合をしているのだろう。
イル師匠がギフテッドを持っていないとすれば。
恐ろしい程の経験値を頼りに、それらを行っている筈で。
それは賢者と呼ばれる程の存在になる筈である。
なお、リディーの隣では、お父さんが無心に調合をしている。お城にも時々出かけている。
壊れる寸前だった、お父さんの絵を修復するためらしい。
更に質を上げた不思議な絵の具を作っている様子で。
レシピについては、後で教えてくれる、と言う事だった。
戦闘で使う、空間の塗り替えに用いる不思議な絵の具とは、品質が二段階は違うようだが。
それもそうだろう。
小さな異世界を作り出す程の品だ。
一時的に別世界に切り替えるだけの不思議な絵の具とは、ものが違って当たり前である。
「少し出る」
「遅くならないようにね」
「ああ、分かっている」
バスケットに色々詰め込むと、お父さんが出かけていく。いつの間にか、夕方になっていた。
これからお城で徹夜作業かな。
そう思ったが、声は掛けない。
お母さんの残留思念と、理想の我が家がコアになっているお父さんの絵だ。
お父さんの絵の中で、お母さんはまだ擬似的に生きているに等しい。勿論触ったりはできないだろうが。
それでも、お母さんを助けるためだ。
お父さんはどれだけの無理でもするだろう。
二回、お母さんを死なせる事があってはならない。
そうお父さんも、必死になっているのだ。
止めることも、茶々を入れることも、絶対に許されない。
「炉に入れたら交代ね。 温度はスーちゃんが管理するよ」
「よろしく。 じゃあ、私は少し休むから」
「合点」
姉妹の連携も、以前より更に良くなった気がする。
二人ともギフテッドが使えるようになったからだろう。素材が教えてくれるのだ。次はどうしてほしい、と。
これはとても便利な能力である。
使いこなせれば、だが。
ただ、周囲の素材がずっと無差別に喋っているので。その中から、必要な声を聞き出す必要があるのが難しい。
それに、こんな状態では。
精神を病むのも、仕方が無いとも言える。
少し甘いものを食べて休憩。
炉からインゴットを取りだした頃には、夜になっていた。
一旦冷やしたハルモニウムのインゴットをかち割り、不純物を取り除くと再び炉に。そろそろ燃料が心許なくなってきたか。燃料を調合しておく。勿論普通の薪なんか使わない。火力がとてもではないが足りないからだ。
ハルモニウムの声が聞こえる。
とても複雑な声で、重なるようだけれども。
美しく歌うようでもあり。
それでいて狂気を孕んでいるようでもあり。
まるで海に誘き寄せて、ヒトを喰らう怪物のようだ。
ハルモニウムの武器を手にしたとき、人斬りの気持ちが良く分かった。確かにこんな武器なら試してみたくもなる。
そんな危ないハルモニウムだけれども。
使いこなせなければ、この先にはいけない。今後も無理難題が降りかかってくると思えば。
このくらい、どうと言うことも無かった。
「こんな所かな……」
何度か、炉に出し入れを繰り返し。不純物を徹底的に取り除いた後。
リディーは呟く。
少なくともハルモニウムは満足しているようだ。スールに視線を送ると、少し妹は考え込んでいた。
「ねえリディー。 これを登録してきて、今までのハルモニウムを引き取ってきて。 それでどうする?」
「よく分からないけれど、何かまずい?」
「いや、今までに比べて劇的に質が上がっているわけじゃないからさ」
「……」
それも、そうか。
確かに良いハルモニウムが出来たが。
わざわざコルネリア商会に登録しに行くほどでもないか。
ならば、このインゴットから、王冠を二つ造れば良い。
二つ王冠が必要だ。
一つはミレイユ王女の分。これは、光をイメージしたものとする。
もう一つはマティアスさんの分。これは影をイメージしたものとする。
デザインについては、話しあった後。
イル師匠のアドバイスも受け。
更にアルトさんから、見聞院でお勧めの本も教えて貰って。それを借りてきて。数百年間に出現した色々な「冠」を研究して、作った。
完成デザインについては、アルトさんにもイル師匠にもお墨付きを貰っている。
ミレイユ王女用の王冠は、武の国アダレットに相応しい、見るからに勇壮で、かつ実用的なもの。
貰ったレシピには、デザインまでは入っていなかったから。
これで文句は出ないだろう。
問題は、ミレイユ王女が気に入るか、だが。
打ち合わせがいるかも知れない。
いずれにしても、これは明日、王城で実際に見せて、それからだろう。
ハルモニウムは打ち直しが難しい。
デザインが気に入らないと言われたら、それは直さなければならない。王族の依頼なのだから、当然の話だ。
問題はマティアスさんの王冠だが。
そもそも接待用のものであるし。
マティアスさんは、あくまで影で無ければならない。故に、ミレイユ王女のものよりも、あらゆる意味で控えめにならなければならないだろう。
これも要相談か。
かなり考え抜いた上にデザインを練ったのだが。
いずれにしても王族に納入するのだ。どっちにしても、素人のデザインでは、そのまま作っては駄目だろう。
もう良い時間だ。
今日は此処までにして、休む事にする。
栄養剤を入れようかと思ったが、それは止めておく。その代わり、かなりがっつりと栄養は取った。
甘いものを入れたのは、脳の疲れを取るため。
しっかり歯も磨く。
そうしないと、無駄な治療をしなければならなくなるからである。
無心で休む。
起きだす。
この辺り、自分が機械的になって来ているのが分かる。スールも同じだ。スールはこの間、お父さんの絵の中でふつんとキレたようで。もうそれについて、反発するのは止めた様子だ。今は副作用を機械的に抑えながら、少しずつギフテッドと仲良くやっていく着地点を自分で探しているようだし、それについては口出ししない。
朝ご飯を作っていると、疲れきった様子のお父さんが帰ってくる。やはり徹夜で作業をしていたのだろう。
進捗を聞くと、無言で七本指を立てられた。
後三割か。
朝ご飯を食べるように促す。お父さんは疲れきっている様子だったが。それでも無理矢理にでも食べて貰った。
お父さんまで死んだりしたら。
リディーもスールも生きてはいられない。
人間から外れてしまった今でも。
そういう情はある。
フィリスさんが、リアーネさんやツヴァイに同じように情を抱いているのと同じだ。
お父さんが食事を取って、ベッドに直行するのを見届けてから。鍵を掛けて、王城に出かける。
一応数日は喪に服す雰囲気があったが。
今は皆顔が明るい。
あの庭園王が死んだ。
口に出して喜ぶわけにはいかないが。
皆、それでうきうきしているのは分かった。
アダレットでどれだけ庭園王が嫌われていたのかがよく分かる。まあ、無理もない。税金も尋常ではなく高かったし、その税金も大半が無駄に使われていたのだから。
王城の警備も、以前に戻っていて。
入るのに、手続きで時間を取られるようなことは無かった。
受付で、モノクロームのホムの役人に事情を話す。この人がいてくれて助かった。いつもいる訳では無いからだ。この人は、リディーとスールの納品受付を兎に角丁寧に対応してくれるので助かる。ホムだから不正する疑いもないし。
「事情は分かりました。 とりあえず、此方が陛下、此方が殿下……と」
「もう陛下なんですか」
「おっと、まだ公式にそう呼んでは駄目なのです」
「あ、分かりました」
まあ事実上の公式だったのだが。
その辺りは、何というか面倒くさい暗黙の了解、という奴なのだろう。まあ確かに、仕方が無い事ではある。
「王冠ともなると、国で雇っている芸術家などにも見てもらうので、丸一日はかかると考えて欲しいのです。 勿論駄目出しが出る可能性もあるので、それは覚悟して欲しいのです」
「分かりました」
「ただ……このデザインは、自分は好きなのですよ。 どちらもお二人にぴったりだと思うのです」
そう言って貰えると嬉しい。
頭を下げて、家に帰る。
お父さんは前後不覚に眠っていたので、少しお菓子を焼いて、シスターグレースの所に出向く。
孤児が増えていた。
他のシスターに聞いたが、どうやらインフラ整備が進展した結果、幾つかの辺境の街から、受け入れきれない孤児を実績があるシスターグレースの所に引き渡されたらしい。シスターグレースの孤児院では、それぞれにあったスキルを習得させて、即座に社会で生きていけるように教育してくれると評判である。勿論シスターグレースの所に残り、教育係になるという選択肢もある。久々にパメラさんが来ていて、シスターグレースと話をしていたが。魔術で音を遮っているため、何を喋っているかは分からなかった。
しばしして、シスターグレースが来たので、お菓子を渡す。
「まあ、ありがとう。 これはとても美味しそうね」
「少し時間が出来たので、焼いてきました」
「私達はもう食べたので、みんなで食べてくださいっ」
「そう。 忙しいのね」
無言で頷く。
勿論違う。
人間から外れ始めているリディーとスールが子供達と接しても、あまり良い影響は与えない筈だ。
見ると、新しく来た子供達には、強い猜疑心に目を光らせている子も。哀しみに心がおかしくなっている子もいる。
辺境でも匪賊の駆除が徹底的に進められ。
ネームドもドラゴンも危険な個体は殆ど刈り取られても。
それらに親を殺された子はどうしようもない。
本職に任せるしかない。
ふらふらと歩きながら、お母さん、お父さんと呟いているホムの女の子を、シスターの一人が抱きしめて、なだめながら連れていく。何も見えていない様子で、痛々しいことこの上なかった。
「それと、此方お願いします。 今までお世話になったので」
「ありがとう。 助かります」
お布施も少ししておく。
今、お財布には少し余裕があるので、世話になった分くらいは恩返しはしておきたいのだ。
信仰関係無しに、此処がもっとも凄い孤児院の一つであることは、リディーもスールも知っている。
シスターグレースがいる限り大丈夫だという事も。
バステトさんに軽く挨拶してから帰る。
途中、堤防の方を見る。どうやらフィリスさんが本格的に手を入れ始めたらしい。前にリディーとスールが取ってきた、深海のデータを使っているのだろう。かなり本格的な魔術を展開しつつ。フィリスさんと。遠目に見る限りイル師匠も連携して、大規模で大胆な工事をしている様子だ。
騎士団も参加しているが、多分二人の超越者が仕留めただろう船より巨大な魚をせっせと運んでいる。
港で解体して保存食に変えるのだろう。鱗や皮などは、武具の素材になるかも知れない。
かなりの数の全自動荷車も動いていて。
シールドで守られているとは言え、おっかなびっくりで人夫が働いているのが見えた。
雇用は創出されるし。
更に仕事自体も厳しくはない。
二人は色々と人間を超越しているが。
あの堤防は、あと数十年もたなかったと言う話だ。あの作業が、関わる人間全てを幸せにしているのも事実。
勿論あの二人のことだから、人夫を事故死などさせないだろう。
頷くと、アトリエに戻る。
アトリエに戻ると、後はしばらくヴェルベティスのレシピを調べて、準備を色々と進めていく。
お父さんが起きだしたのは夕方少し前。
食事を取って貰った後、お風呂に無理矢理にでも入って貰う。
ここ数日徹夜が続いていたし。
このままでは体を壊すと判断したからだ。
お父さんを無理矢理休ませると。
夜、適切な時間までヴェルベティスの研究を続ける。二人の作業は、いつの間にか。以前より遙かに、息が合うようになっていた。
今までは人間であることが足枷になっていた。
その足枷が外れたのは。
実績からして、明らかだった。
王城に出向き、レシピを受け取る。
モノクロームのホムの役人と一緒に、かなり険しい顔をした、獣人族の男性がいた。珍しい獅子顔である。獅子顔の獣人族はかなりレアなのだが。十万からなる人間が住む王都だ。いても珍しくない。
「この方は芸術顧問なのです。 レシピを見て、幾つか話をしたいということなので、連れてきたのです」
「よろしくたのむ」
芸術顧問か。
口うるさいのかなと警戒したが。応接室で始まったのは、王冠のデザインの最終チェックだった。
開口一番に、芸術顧問さんはこれで大体は大丈夫、という話をしてくれた。それはとても有り難い。
だが同時に、細かい部分で、幾つか説明を受ける。
「王冠はわかり易い象徴でなければならない。 このデザインは優れているのだが、この辺りを少し直して欲しい」
そして、幾つか細かいデザインについて調整する。
頭に被ったときに、落ちにくくなるようにというような意図でバランスを取る調整もあったので。ちょっとだけ驚いた。この手の人は、芸術的である事にこだわるため、非実用的なデザインを採用しがちなイメージがあったからだ。
或いは、ミレイユ王女が、そういうのは追い出したのかも知れない。
「……このくらいで良いだろう。 これで作ってきて欲しい」
「あの、良いですか?」
「何だろうか、錬金術師スール」
「はい。 これって、ミレイユ王女とマティアス……王子も納得している感じでしょうか」
頷く獅子顔の芸術顧問。
その辺りは、既に二人とがっちり話あっているという。
ただ、一つ面倒な事があるかも知れない、と言っていた。
それが何かは分からない。
だが、先代王の愚行の結果、新しく王冠を作らなければならなくなったのだ。その面倒が、多分武力も関係することなのだろう事は容易に想像できる。
いずれにしても、デザインの許可は貰った。
後は作るだけだ。
アトリエに戻る。
必要量だけ、ハルモニウムを切り分ける。この作業が、兎に角凄まじく大変なのだが。兎に角順番にこなして行く。
ハルモニウムの声を聞きながら、デザインを見つつハンマーを振るう。
武器などは流石に無理だが。
装飾品は散々作ってきたのだ。
細かい細工などは、リディーもスールも出来る。
流石に釜などの、超級の精度が必要になるものは作れないが。それは鍛冶屋の親父さんに頼めば良い。
リディーがミレイユ王女の。
スールがマティアスさんのを作る事に決めて。
二人で黙々とハンマーを振るった。
宝石も幾つか埋め込むが。
宝石なんか別に今までの戦いで、レンプライアがぼろぼろ落としている。高品質のものだってたくさんある。
宝石なんて、今更高級品でもなんでもない。
お父さんが、また出かけていく。
お父さんの方ももう少し。
残留思念とは言え、お母さんに会えるとなれば。無理もするのは分かる。だから、無理しすぎないように、支える事しか出来ない。
それに比べれば、王冠なんて。
ささやかなものだと思う。
国の象徴、か。
先代王が滅茶苦茶にした国の威信を回復しなければならない、か。
ミレイユ王女は充分以上に良くやっている。物理的な王冠なんて、必要がないと思うのだけれども。
それでも、やはり象徴は必要なのだろうか。
必要なのだろう。
無言で、声を聞きながら作業を進める。細かい部分を仕上げていくのが大変だ。ハルモニウムの硬度は尋常では無い。嫌だ、とハルモニウムが拒否すると、途端にまったくびくともしなくなる。
なだめながら、少しずつ直していき。
そして修正が終わった所で、もう一度様子を聞く。ハルモニウムが文句を言う場合、大体其処に何か問題がある。気泡が入り込んでいたり、薄くなりすぎていたり。頷いて、丁寧に直す。
いずれにしても、神経を凄まじく削る作業だ。
二日掛けて、進捗は五割ほど。
お父さんが帰ってきて、気付くと半日経過していたこともあった。お父さんもかなり窶れているが。
それでも、そもそも戦闘が得意ではないお父さんだ。
出来る事は限られているし。
錬金術師としての出来る事の粋を尽くしている事も分かる。
止める事は出来なかった。
無言での作業が更に四日続く。
進捗九割からが長かった。ハルモニウムから聞こえる声を聞きながら、ルーペを片手に徹底的にチェック。更に、設計図を見ながら、何度も何度も寸法を測った。本当に心を込めて作る。
装飾品として、身を守るための防御も出来る代物だ。
実用性はあるのだと、言い聞かせて作る。
身を飾るためだけのものではないと、何度も自分に言い聞かせる。
勿論血税をドブに捨てているわけでもないとも。
何とか、一週間がかりで完成させる。
最後のハンマー入れが終わったのは、リディーもスールもほぼ同時。
終わると、二人ともへたり込んでしまう。
疲れ果てた。
納品は明日でも別にかまわない筈。
無言でベッドに這いずりこむ。眠りに落ちると、後はもう闇に掴まれたように、何も考えられなくなった。
それでも。
起きると、ぱちんと意識が戻ってくる。
時間もどれくらい経過したのか、分かってしまう。
ああ、人間を止めているな。
そう、静かにリディーは思った。
もう、逃れられない。
2、即位の前に
王城に王冠を届ける。宝石は使っているが、最小限。あくまで武の国の王が身につけるための王冠と。その影となる盾の意匠をかたどった王冠。二つの王冠を見て、役人はハンカチごしに触りながら、何度も感心した。
「実を言うと、最初二人がここに来たときは、内心ではまだまだだなと思っていたし、ここまで行けるようになるとも思っていなかったのです。 今、素直に感心しているのですよ。 これは芸術にはそれほど詳しくない自分でも分かるのです。 素晴らしい品なのです」
「ありがとうございます」
「納品、お願い出来ますか」
「ちょっと待つのです」
獅子顔の人が言っていたことだろうか。
しばし待つと、マティアスさんが来る。アンパサンドさんもいる。
応接室に移動すると。
久しぶりに至近で見る。ミレイユ王女が、其所で待っていた。
無言で、跪く。
礼儀くらいは、近年はわきまえたつもりだ。ミレイユ王女の事は素直に尊敬してもいる。廻りが見えるようになってきてから、この人が如何に凄いかは、よく分かるようになったからである。
もしも先代王の後。深淵の者の後押しがあったとは言え、この人がしっかり動かなかったら。
アダレットは文字通り地獄になっただろう。
匪賊だって激増しただろう。
街の中に入り込んできたかも知れない。
ネームドやドラゴン、邪神の脅威も今以上だった筈だ。
それどころか、内海を守っている堤防が耐用年数の限界を迎えて崩壊したら。
外海の、バケモノのような巨大な獣たちが、王都に直接乗り込んで来ていた可能性が高いのである。
今は、何もかもが改善している。
深淵の者の力は大きい。
だが、その深淵の者とある程度上手くやれているのは、間違いなくこの人の手腕である。ソフィーさんを一とする超越級錬金術師と上手くやるなんて、普通の人間では無理だ。最悪、深淵の者が傀儡の王を立てて。
この国は、発展も衰退もせず。
そして深淵の者も戦略的意義を見いださず。
この国は滅びていたかも知れない。
ミレイユ王女は手腕を発揮して、深淵の者と渡り合ってくれている。この国の人々は、それでどれだけ救われたか分からない。
孤児院に来る子らは、貧しくて辺境の街などで育てられなくなったり。
或いは匪賊に襲撃されて、親を失った者達だ。
リディーとスールもシスターグレースの所にいたことがあるからよく分かる。
そしてそんな可哀想な子らも、この人がいなければ。機会さえ得られなかった可能性が高いのだ。
この人がいてくれたから。
アダレットは少しはマシになっているのだと。リディーもスールも、意見は一致していた。
役人が王冠を、ハンカチで包んだままミレイユ王女に差し出す。
鷹揚に頷くと。
ミレイユ王女は、王冠を吟味した。
「ふむ」
「如何なのです」
「身につけることで身を守る魔術、それも最高位に近いものが自動発動。 更に意匠も武の国の王が身につけるに相応しい、か。 装飾も充分な出来だ。 即位の儀まで、厳重に保管するように」
「はっ」
恭しく受け取ると。
役人は戻っていった。
役人が戻ると、ミレイユ王女は多少居住まいを崩した。
「二人とも良くやってくれたわ。 あれならば、充分過ぎる性能よ。 ごてごて黄金や宝石で飾り立てた王冠などこの国にはいらない。 王者が武を持って立ち、弱者を守る最強の剣と盾である事を示す象徴である事を示すものであればいいの」
「ありがとうございます!」
「ますっ!」
「後は、マティアスの方ね」
びくりと、マティアスさんが青ざめた顔で俯く。
やっぱりミレイユ王女が呼んだと言うことは、何かあると言う事なのだろう。
それに、マティアスさんが、青ざめているのが分かる。
ミレイユ王女を怖がっているのだ。
今はすっかり何処に出しても恥ずかしくない騎士に成長しているマティアスさんだけれども。
それでもミレイユ王女は、そもそも最初からそうだった。
絶対に逆らえない相手として、身に恐怖が染みついている。
だから、今でもそれはぬぐえない。
何だか気の毒な関係だなと、リディーは思った。
実の姉弟なのに。
先代王が、ろくでもない家庭を構築していたことは、リディーも既に知っている。この間、天海の花園で聞く機会があった。
王としてだけでは無く。
一人の父親としても最低のクズだったのだ。先代の庭園王は。
「マティアス、双子とアンパサンドを連れて、例の場所に行きなさい。 あの人が待っているから」
「ほ、本当にやるの……?」
「当たり前でしょう」
「はい」
がっくり項垂れるマティアスさん。
何だか危険な事に巻き込まれる事は良く分かったが。アンパサンドさんの表情を見る限り、命のやりとりは無い様子だ。
すぐに出ると言うので、アトリエに一旦戻って準備をする。
近場だというので、飛行キットは必要ないだろう。全自動荷車を使って、それで出向くことにする。戦闘を想定するかも聞いたのだけれど、必要ないと言われた。
ならば、フィンブルさんにも声は掛けなくて良いかと思ったのだけれど。
フィンブルさんは、マティアスさんの方から声を掛けていたようで。
城門に集合したときには、いた。
五人だけでのお出かけだ。
外に五人だけで出るのは、あまり多く無い。
黙々とアンパサンドさんが手続きをするのを横目に。
マティアスさんが、説明をしてくれる。
「見届け人を頼みたいんだ」
「見届け?」
「誓いの儀式をこれからやるんだ。 王位に就く者に対して危害を直接間接関係無しに一切加えず、なおかつ王位に就く者が命を落とすまで守り抜くという誓いだ。 王族が一人即位するときに、子供達では無く兄弟などがいる場合、大体やる儀式だな」
「へえー」
スールが感心する。
見た目だけは、だが。
スールの心はもうとっくに深淵に落ちている。
ただ、人間らしく振る舞っているだけだ。
マティアスさんもそれには気付いている様子で。苦虫を噛み潰したような顔をしていた。フィンブルさんも。フィンブル兄と慕ってくれたスールが、変わり果てた事は気付いている様子で。あまり機嫌はよくないようである。
手続きが終わったので、王都を出る。
しかし、そのまま壁沿いに森の中を進む。
流石に城門のすぐ側だ。
見張り櫓などから、従騎士が合図をしてくる。それに対して、逐一答えながら進む。此処は森の中ではあるが、人の目も届く。
まあ当たり前の話で。
森の中は幾ら安全といっても、たまに人を襲う獣も出るし。
ドラゴンなどが森の上空を飛んで接近して来る可能性もあるのだから、見張りがいるのは当たり前である。
ああいう見張り櫓には、アードラが襲いかかる事もあるらしく。
武装した従騎士や騎士が詰めているのは当たり前だとも言える。
とはいっても、ここしばらくは、王都に獣が直接襲来した、という話は聞いたことが無いのだが。
しばらく行くと、森がかなり深くなる。
城壁もかなり頑強になっていて。
一部は苔むしているほど古くなっていた。
橋を一度渡る。
王都の下水が流れている川なので、かなり酷い臭いがしていたが。
この下流に、昔作られた浄水設備が存在していて。
その重要性を理解しているのか。
獣も、その浄水設備にだけは手を出さないらしい。
歩きながら、アンパサンドさんが教えてくれる。
前に森の出口辺りにある川で作業をした事があったが。
それとはまた別の設備らしい。
アダレットも、500年の歴史を持つ国だ。
途中で錬金術師への迫害という愚かしい行為が行われはしたが。
それはそれとして、こういった錬金術の技術を尽くした設備は存在している。
なお先代王は、城壁も森も壊すつもりだったらしいので。
もしそれが実行されていたら。この浄水設備も、当然破壊されていたことだろう。
情けなくて言葉も出ない。
国の上に立つ人間が愚かだと。
本当に国は傾くのだと、よく分かる。
「この辺りは、自分も来た事がないのです」
「殿下、森が一層深いように思えるが……」
「ああ、あの人が住んでいるからな。 まあ家は幾つかあるんだが」
「あの人?」
王族が、此処まで敬意を示す言葉を発するとは。フィンブルさんも、不思議がっていたが、リディーはぴんと来た。
一人だけ、該当する相手が思い当たるのだ。
そしてそれは適中した。
まもなく、城壁の影になり。
深い深い森の中に建つ、一軒家が見えてきた。ただしそれは、とてつもなく巨大な家だったが。
比較的新しい家だが。
森を壊さないように、注意深く作られている。
一通りの生活設備は整っているらしく。何名かの騎士が、働いているのが見えた。いずれも年老いた騎士ばかりだ。現役を引退しているなと、リディーは分析したが、それはそれである。
騎士の一人が、マティアスと敬礼をかわす。
社交辞令は抜きで、すぐに本題に入る。
「これは王子殿下」
「おう。 あの人はいるか」
「はい。 すぐに呼んで参ります」
多分、此処の騎士達は、皆何をするのか分かっているのだろう。様子は落ち着いたものだった。
程なくして、姿を見せるのは。
年老いた魔族。ただし、背丈は普通の魔族の倍もある。頭には鋭い一双の角が生えていて。剥き出しの上半身も、顔も角も。向かい傷だらけだった。
背中から生えている翼も、酷い傷がたくさん残っている。
子供が見たら、それだけで大泣きしそうな凄まじい形相である。
そう、この人が。
生ける伝説である、先代騎士団長だ。
魔族のレア種族である巨人族であり。通常の魔族の倍に達する寿命を生かして長い間アダレットを守護してきた、文字通りの伝説。
流石にそろそろ年齢的に限界が近いが。
各地で伝説的な戦果を上げてきた、英雄の中の英雄。
ネージュと一緒に戦い、ファルギオルを封印したのも勿論この人である。
現在の騎士団長は、ヒト族でありながらこの人と互角の技量を持っていると言う事で話題になっており。
年齢的にもう限界に近いこの人が。
未だにそれだけの、凄まじい影響力を持っていることが良く分かる。
家が大きいのも当然だ。
ヒト族の四倍も上背があるのだから。
「おお王子殿下。 大きくなられましたな」
「い、いや俺様と騎士団長、前にあったの二年前だし。 流石に俺様、もう背伸び無いし」
「ハハハ、そういう意味ではありませんぞ。 剣腕を磨きに磨きましたな。 姉君には及ばないものの、もう充分に立派な騎士だ」
「……」
声は体の大きさに比べると、むしろ静かでさえある。
先代騎士団長、ルキフェルは、年老いてはいても今だ圧倒的な力と魔力を身に纏っている様子だった。とはいっても、錬金術の装備を最小限しかつけていない様子で。この人であっても、今の状態では、流石にドラゴンや邪神と渡り合うのは厳しいだろう。
この世界は。
そういう過酷な場所なのだ。
咳払いすると、マティアスさんは続ける。
「そ、それでな。 例の儀式をしに来たんだ」
「……まあ残当でしょうな。 ミレイユ王女は王の器だ。 即位するなら、あの方が相応しい」
「その通りだ。 俺様も、佞臣どもに変な派閥を作られると困るし、しっかり儀式をしておいて反逆の意思が無いことを示しておかないといけない。 儀式、頼めないだろうか」
「錬金術師はいるようですな。 良いでしょう。 アダレットの繁栄を願う殿下の意思、受け取りました。 儀式に掛かりましょうぞ」
先代騎士団長が歩き出す。
それに続いて歩くが。流石に歩幅が凄い。かなり急がないと、ついていくのは困難だった。
森の中の、更に奥へと進んでいく。
城壁に沿って進んでいる筈なのに。
何だか、更に鬱蒼とした森の中に入っていくようで、少しだけ緊張する。まだ緊張なんて概念が自分の中に残っていたことにも驚く。
「この辺りは……?」
「錬金術師、若いのにかなりの腕前と見た。 名前は」
「リディーです」
「スールです」
そうか、と頷くと。
先代騎士団長は話してくれる。
そもそもアダレットは、武王と呼ばれる男が建国はしたが。建国後しばらくは、各地に勢力を伸ばし。都市国家を少しずつ傘下に収めながら、獣と戦うくらいの事しか出来なかったという。
王都とも呼べる場所を見つけたのは、先代騎士団長が就任した直後。
要するに此処のことだ。
すぐ側に死地とも言える海があるので、最初は渋る声もあったらしいが。この森の存在が大きかった。
森を守りに使いつつ。
浅瀬が続く内海を守れるなら、十万の民を支える都市を作る事が出来る。
そういう話が持ち上がり。
各地の都市から人員を集めて、都市造りが始まったという。なお、二十年ほど掛かったそうである。
とはいっても、話がうますぎる。
多分深淵の者による安定政策の一つだったのだろうなと、リディーは思ったが。
騎士団長は、その辺りは口にしなかった。
「この辺りは、王都を建築した王が、まだ若造だった頃の儂とともに視察した場所でな」
木々が途切れて。
美しい花畑が現れる。
思わず、息を呑んだ。
これは文字通りの秘境だ。こんな美しい場所が存在していたのか。しかも獣も存在していない。
ふわりと舞い降りてくるのは、邪神。姿は人型だが。目は青く、瞳孔が存在していない。背中には蝶のような翼があり、全身には炸裂するような凄まじい魔力を纏っていた。ただし、放出はしていない。接近するまでは気づけなかった。
前に聞いた、下位の邪神。いわゆるエレメンタルと言う奴だろう。
思わず身構える。こんな王都の近くに、邪神が。しかし、敵意は無い様子で、じっと此方を見ると。それだけで去って行った。
「この森の守護者だ。 邪神の多くは人に攻撃的だが、ごくごく希にああいう攻撃さえしなければ人を襲わない者もいる。 この森は、あの邪神によって作られたものを、我等が長年掛けて拡張してきたのだ。 だからこの周辺は森がとても濃い」
「……そうだったんですね」
「表には出来ない歴史だ。 そなたらは殿下が連れてきた錬金術師。 知る権利はあろう」
そうか。
先代王がもしも、王都を守る森を排除しようとしていたら。
あの邪神とぶつかった可能性が高いのか。
もしその時には、深淵の者も助けて等くれなかっただろう。騎士団だけで排除できるような相手でもない。
先代王もろとも、アダレット王都は滅びていた可能性が高い。下位の邪神は、最低でも中級のドラゴン以上。ヴォルテール家だけでどうにか出来る相手では無い。下位でも、王都を滅ぼすには充分な実力があるのだ。
なるほど、先代王が幽閉された理由がよく分かった。邪神の脅威も分からないような阿呆である。
むしろ、つい最近まで首がつながっていた方がおかしい、という事だ。
「それにしても今回はヴォルテール家ではないのですな、殿下」
「今、多くの錬金術師が王都に来ている事は知っていると思う」
「凄まじい気配は多数感じますな」
「姉上の政策で、未来を支える人材の育成をしているんだ。 此奴らは、その育成計画の結果。 ハルモニウム作れる人材にまで育ったんだぜ」
そうかと、目を細めて先代騎士団長は此方を見る。
かなりひやりとした。
好意を向けてきてくれているのは分かるが。
巨人族と言えば、やはり存在だけでプレッシャーが凄まじい。
「だから、ヴォルテール家と王家の癒着を今の世代でどうにかしようとも、姉上は思っている様子なんだ」
「うむ、名君に育ちましたな」
「自慢の姉だよ」
マティアスさんは寂しそうに笑う。
そして、儀式を始めると、宣言した。
先代騎士団長と、マティアスさんが向かい合う。ハルモニウムの剣を抜くマティアスさん。
魔術によって、手元に大剣を転送する先代騎士団長。
その巨大な背丈に相応しい、凄まじい剣だ。しかもハルモニウム製である。
ネージュが作ったのだろう。
そして、この剣を手に。
ネージュと肩を並べて、ファルギオルと戦ったのだ。
伝説の存在が、伝説の剣を手にして、今リディーとスールの前に立っている。
アンパサンドさんが目を細める。
フィンブルさんも、固唾を飲んで見守っている。
「儀式の言葉は覚えていますな」
「ああ。 始めてくれ」
「わかり申した」
ぐっと、騎士としての敬礼をする二人。
そして、剣を二人とも、天に掲げた。
「始まりの乙女よ見よ。 我が名はルキフェル。 この国アダレットの、誇り高き守護者である」
空が曇り始める。
魔術によるものだ。この剣、本当に凄い。先代騎士団長の魔力を、何十倍にも増幅している。流石はネージュ。ハルモニウムの品質も、リディーとスールが作るものよりも、ずっと良い様子だ。
間もなく、一筋の雷が、先代騎士団長の剣に落ちる。
剣が雷撃を帯びる中。剣をゆっくりと、先代騎士団長が八相に構えた。
マティアスさんは、それに対して、剣を掲げたまま。
目を閉じるマティアスさん。
「今我は、野心を封じる者に守護を与える。 始まりの乙女よ、見届けよ」
「我はマティアス。 この国の王子である。 しかしながら我は此処にて野心を捨て、王位継承を、王候補が死ぬまで放棄するものとする。 我は王候補をあらゆる手段を持って守り抜くことも誓う」
「守護と誓いを見届けよ」
「守護を受ける。 誓いを受け入れよ始まりの乙女」
ひゅんと、剣が振るわれた。
先代騎士団長が、凄まじい手並みで、マティアスさんを斬るようにして振るったのだ。勿論、斬ってはいない。
寸前を掠めただけである。
「これにて野心は断たれた」
魔法陣が浮かび上がる。
なるほど、これも魔術の詠唱に組み込んでいるのか。頷いて、メモを取る。普段邪神が住んでいる場所を利用して、強制的に誓いを体に刻み込む、と言う訳だ。
マティアスさんはしばし冷や汗を流していたが。
程なく、先代騎士団長が、儀式は完了したと呟くと。
炸裂するような圧迫感は消えていた。
先代騎士団長が、剣を手元から消滅させる。
同時に、マティアスさんも、剣を鞘に収める。
そして、深々と、先代騎士団長に頭を下げた。
帰り道を歩く。
さっきの邪神が、また花園に戻ってくるのが見えた。花園の真ん中で、そのまま浮いている。
視線は、恐らくだが。
アダレット王都に向いているのだろう。
人間が愚かしい行為に出れば、或いは攻撃するつもりなのかも知れない。
アダレット王家は民に知らせていないが。
しかしながら、王都はずっと邪神によって監視を受けていた。
或いはこれも深淵の者の采配なのだろうか。
確かに邪神の監視というのは。
暴走するかも知れない権力の掣肘としては、これ以上もない代物だ。
先代庭園王のような度が外れたバカが王座に就かない限りは大丈夫。
そういう事だったのだろう。
「それにしても、儀式を受けてくれて助かったよ」
「殿下が成長為された故に。 勿論二年前であったら受けませぬ」
「ハハ、そういう人だったな」
「……儂はもうそう長くはないでしょう。 儂の後を継いだジュリオのいう事を良く聞いて、アダレットを頼みますぞ」
騎士団長はそう言うと。
家に戻る。
勿論あの家に住んでいるのであって、王都に来ない、というわけではないらしいのだけれども。
これほどの人材、深淵の者が取りこぼすとは思えない。
きっと深淵の者のスカウトは、断ったのだろう。
あくまで人として、アダレットの盾となり剣とならん。
弱き者を守る騎士とならん。
そうあろうとした、生ける伝説。
勿論その言葉を守るのは非常に難しかっただろう。だがあの人は、それを生涯を掛けてやり遂げた。
ただし、騎士としての行動しか取らなかった。
愚王の時は国政も荒れただろう。
騎士以上の事はしなかったからだ。
それが良い事なのかは、リディーには分からない。あの人はきれい事を命がけで実施し続けてはいたが。
たくさんの命も取りこぼしてきただろうし。制度以上の事をして国を乱すこともしなかったから、逆説的に言えば佞臣を排除することも出来なかった。良くも悪くも、どれだけ強くても騎士の域を超えない人だったとも言える。
リディーは。スールとともに。
錬金術師としての枠組みも、もう超えてしまっている。
今の儀式に立ち会えたように、今後の事を考えると、世界への影響力も、尋常では無く大きくなる。
アンパサンドさんに促されて、帰ることにする。
先代騎士団長の家で働いている老騎士達に礼をすると、そのまま来た道を引き返す。城壁に沿って歩くのだから、迷いようがない。
「マティアスって、やっぱりあの人に剣の稽古つけて貰ったの?」
「いやいや、流石に死ぬって。 ……二三回、剣は見てもらったけど、それだけだよ」
「今なら良い勝負出来るんじゃない?」
「勘弁してくれよ。 錬金術の装備がなきゃ、一呼吸で唐竹だよ。 あの人、まだまだ素の力だったら、此処にいる全員あわせたより強いぜ。 寿命だって、多分後数十年はあると思うし……感覚が違うんだよ」
まあ、逆説的に言えば、それだけ錬金術の装備が強いという事か。
王城に戻ってきた。
守衛に、今日は早いですねと言われたので。苦笑い。
アンパサンドさんが手続きをしてくれるので、軽く話をする。
今回の件は当然口外無用である事。
まあそれはそうだろう。
今後、マティアスさんは、ミレイユ王女の風よけになるのだ。王子と言うのも多分表現を変える事になる。
ミレイユ王女が即位すると、ミレイユ女王になるとして。
今後のマティアスさんは、恐らくマティアス王弟だろう。
色々呼びづらくなるな。
そう、思っている内に手続き終了。
今日は立ち会うだけだ。
ここのところ、厳しい仕事が多かったから、こういう楽な仕事があるととても助かる。後は、そのまま流れで解散。
解散前に、フィンブルさんが咳払いした。
「殿下。 俺が立ち会っても良かったのか」
「……実はな、今後アンには昇進の話が来ているんだ。 騎士団の副団長にな。 騎士団を拡大する過程で、副団長を二人に増やすって話が出ていて。 戦歴からしても、それにそもそも経理仕事が出来る騎士が欲しいって話もあって、アンが最適だって事になった」
「!」
「俺様は今後王弟として、正式な騎士ではなくなる。 代わりに専属の護衛騎士として、ブル、お前を雇いたい。 頼めないだろうか」
確かに、フィンブルさんなら適切だ。
忠勇無双。寡黙で余計な事はしない。
勿論、傭兵として、相応の名誉欲はあるだろう。
だが、王弟の専属護衛騎士だ。
これ以上の名誉はない。
それならば充分過ぎるだろう。リディーは頷く。スールは小首をかしげたが。しかし、それが最適だと納得したのだろう。
「分かった。 殿下、それでは俺も覚悟を決める。 確か、次の騎士の試験は来月だったな」
「今のブルだったら大歓迎だろうよ。 騎士団も人員を増やしたせいか、騎士の質が全体的に落ちているからな。 多分最初から騎士待遇で採用してくれるはずだぜ」
「……楽しみだ。 言葉遣いも変えなければならないか」
「いや、俺様の前では、今までと同じで良い。 俺様あんまり頭が良くないからな、自分が偉いとか勘違いすると困るんだよ。 俺様にしっかり苦言を言ってくれる奴がいないと駄目なんだ」
アンパサンドさんと、フィンブルさんを、そういってマティアスさんは見た。
リディーとスールも。
そして、頭を下げられる。
「今回は助かった。 今後も、頼む」
断る理由は無い。
正直、今のマティアスさんは、王のスペアではなく。王になれると思う。
だけれど、本人が選んだ道。
それに、王としての適正は、明らかにミレイユ王女の方が優れているのだ。これが一番良い道だろう。
騎士としての最敬礼を、アンパサンドさんが取る。
それにフィンブルさんも習った。
リディーとスールは、錬金術師として、最敬礼をする。
絆という言葉は空虚だが。
利害は少なくとも、この場では完璧に一致している。
これでいい。
そう、リディーは思った。
3、即位
鐘が鳴らされる。
重要な出来事を知らせるためのものだ。王都中に鐘が鳴り響き。多くの民が、道に出てくる。
数名の騎士に護衛された、重要事を知らせるための専門の役人が、声を張り上げながら歩く。
「ミレイユ王女の即位の儀が三日後に正式に決まった! ミレイユ王女が先代の作り上げた弊風を吹き払い、王都ばかりかアダレット全域に光と祝福を拡げてくださっているのは周知の事実である。 今、此処に王女は名実共にアダレットの最高位に登られる。 祝福せよ」
わっと声が上がっている。
リディーとスールもアトリエから出て、歓喜する民草を見ていた。
しらけてはいたが。
ミレイユ王女が即位するのはめでたい。
だが、もう「みんな」に対する不信感はどうしようもない所まで来ている。
此奴らはちょっと揺らせばすぐに悪意に染まり。
そしてやがて世界を滅ぼす。
神そのものが、どれだけ苦心してもどうにもならなかった要因こそ「みんな」。
「みんなそうしているから」というくだらない理由で悪行を正当化し。自分の目から見て気持ち悪ければ何をしても良いと考え。自分の価値観と違っていればどんな仕打ちをしても良いと本気で考えている連中。
「みんな」なんて大嫌いだ。
アトリエに戻る。
翌日には、ハルモニウム釜が来る。
お父さんにはその話をしてあるので、今はアトリエの模様替えの最中だ。今、二つある釜を三つに変える。
そうすることで、釜を三つ同時に使い、更にアトリエの回転率を上げることが出来る。
お父さんは自分の才能はもう限界だと言っているけれど。
それでもAランクのアトリエ相当の待遇は受けている。
つまりそれだけの凄腕という事だ。
リディーとスールもAランク待遇なので。
丁度Aランクの錬金術師が、三人同時に釜を使えるようになる、という事を意味もしている。
もっとお金に余裕が出てきたら、ハルモニウム釜を三つの体勢にしても良いかも知れないけれど。
今はちょっと現実的では無い。
もう少し腕を上げたら。
そう、Sランクのアトリエに昇格して、ネージュに並んだら。
それも良いかも知れない。
お父さんとスールは掃除が苦手なので、ルーシャにオイフェさんを借りて、二人で掃除を黙々とこなす。
オイフェさんはこういうのは得意らしく。説明さえきちんとすればしっかり掃除をしてくれる。
細部まで殆ど一切合切なにも見逃さないので、隅々までとても綺麗にしてくれるのが嬉しい。
スールは裏庭でうねうねと動く奴をやるし。
お父さんは地下で研究を続行。
もうお母さんの絵は修復が終わったらしいのだけれど。
若干安定性に欠けるそうだ。
入る分には問題が無いらしいのだが。
お母さんの残留思念が、形を保てるかかなり不安らしい。
それで、更に何とか改良をしたいと、今頑張っているそうである。
それならば、掃除を手伝えとは言えない。
また、絵が完成していても、流石に即位の儀が終わるまではお城には入れない。残念ながら、お母さんに会うのはもう少しお預けだ。
掃除と模様替えが終わる。
元々この家は広いのだ。釜を三つ置くくらいのスペースは充分にある。最悪の場合、裏庭を潰せば良い。
こんな良い家に住んでいながら、昔は貧乏生活と勘違いしていたのだから、本当に度し難かった。
スールは、昔の自分を全力でぶん殴りたいと何度か呟いていたが。
リディーも同意である。
本当に何も分かっていないバカだったんだと、今になると思う。だからこそ、バカにもどってはいけないのである。
スールとお父さんに、見てもらうが。
二人とも模様替え後のアトリエに不満は無さそうで、少し安心した。
オイフェさんはずっと無表情なので何とも言えないが。意見を求めてみると、意外にも答えてくれた。
「利便性でいうならば、此処のソファは彼方に移した方がよろしいかと。 導線が阻害されています」
「どれどれ、ああ確かに……」
「じゃあお父さん手伝って。 移動させよう」
「まあ仕方が無いな」
リディーとお父さんで、ソファを動かすと。確かに誰も文句がない状態になった。
話によると、空間を操作して内部を更に広くすることも出来るらしいのだけれども。それはまだリディーにもスールにも荷が勝ちすぎる。
外でも掃除が始まっている。
ミレイユ王女は慕われているし、誰かが自主的に始めたのだろう。極めて有能なミレイユ王女の即位の儀が行われると聞いて、喜んでいないのは一部の佞臣や、後ろ暗い仕事をしている連中くらいだ。
外はお祭り騒ぎになっているが、その一方で散らかってもいない。
不思議な喧噪と秩序の中。
即位の儀が行われた。
王都で一番広い広場にて、台が設けられ。
ミレイユ王女が、その台に上がる。
武門の国だ。だから、ドレスでは無い。その場で実際に戦闘が出来る、鎧姿である。この辺りは伝統で、武王の時代から、女性の王でも同じようにして鎧姿で即位の儀を行って来た。
他ではどうするかは分からない。だが、この国では、王は即位の際、自分で王であることを宣言する。
そして、自ら、冠を被る。
これは武力にて周囲を従えた武王からの伝統であるらしい。
良く通る声で、ミレイユ王女が、ミレイユ女王になる事を宣言すると。
楽団が楽器をならす。
勇壮な音楽である。
そして騎士達が剣を掲げる。現在の騎士団長が最前列。副騎士団長がその左後ろに。騎士隊長達が、ずらっと並んでいた。
見た顔もたくさんある。各地でのインフラ作業で、一緒に仕事をしてきたのだ。
そういえば、キホーティスさんはそろそろ引退するらしい。後続には、ヒト族の若い俊英と呼ばれる騎士が入るらしい。
今回増員にあわせて騎士団ではかなりの改革を行うらしく。
流石に即位にあわせてそれをお披露目はしないらしいが。幾つかの噂は、リディーの所にも届いていた。
音楽が終わった。
先代王が最低のクズだった事もあって。勿論「みんな」にとって叩きやすい相手だった事も更に大きな要因となって。
歓喜の声が爆発した。
パレードの類はやらない。ただ、これから二日くらいは、お祭り騒ぎが公認で許される。騎士団は忙しくなる。
皆浮かれているときに、専門で悪さをする輩が増えるからだ。
そして、リディーとスールはマティアスさんと話をして、許可を貰っている。
即位の儀が終わるのを見終えると、すぐに城門に。
かなり人がたくさん行き交っている中。
隅っこの方で、マティアスさんとアンパサンドさん。フィンブルさんと、ルーシャとオイフェさんが待っていてくれた。お父さんも遅れて来る予定だ。
そう、今度こそ。
お母さんに会いに行くのである。
残留思念だ。
それも、一度レンプライアに食われ掛けた。
だからどこまでお母さんなのかは分からない。だけれども、きっとお母さんは、しっかり残留思念として頑張ってくれていると思う。
即位の儀が終わっても、王城の周辺が落ち着くまで少し時間が掛かる。今が一番危険だから、である。
その辺。アンパサンドさんやマティアスさんは詳しい。
今のうちに、話をしておきたかった。
即位の儀で、後ろの方で護衛をしていたアンパサンドさんと。後ろの方で文官に混じっていたマティアスさんは。いずれも着替えてから此方に来た様子で、ちょっと忙しかったらしい事が見た感じでも分かる。
アンパサンドさんはそもそもホムの騎士が極めて珍しい事もあり。
三百年前くらいに即位の儀に参加したホムの騎士の話をわざわざ見聞院から取り寄せて、格好を似せたという。
そんなのどうでも良い気がするのだが。
まあ、そんなくだらない事で批判を喰らう方が余程アホらしいので。
「前例」を上手に利用したと言う事で。アンパサンドさんも納得している様子だった。
なおホムは基本的に化粧の類をほぼしない。今回は即位の儀という事もあって、ミレイユ女王も他の女騎士も、相応の化粧はしていたのだが。前のホムの騎士も化粧はしなかったらしく。アンパサンドさんもそれにあわせたそうだ。恐らくだが、ホムは他種族から見て見分けがつきにくく、化粧をしてもあまり栄えないから、というのが理由であるらしい。その代わり、普段の騎士鎧よりも、華美で非実用的なものを着せられたらしいが。
お父さんが合流。
騎士団に仕事を頼まれて納品していたらしく、かなり急いで来たことが分かった。きちんと錬金術師の正装をしているが。これはお母さんに会えるのは、お父さんでも嬉しいから、なのだろう。
そのまま、この面子で軽く浮かれている街を見て回る。
騎士がかなり多く、アンパサンドさんが話をして、周囲の警戒や状況確認をしてくれた。やはり相当数の悪党がいる様子で。騎士団が先手を打って大物を次々に捕まえているため、現在は小悪党を中心に捕縛を勧めているという。
彼方此方に魔術での監視網を敷いており。
それによって、泥棒の類の捕獲は容易に進んでいるようだが。
何しろ今回は騒ぎの規模が規模だ。
騎士団は増員を更に進めるべきだと、アンパサンドさんが話した獣人族の騎士はぼやいていた。
以前は更に大変だったのだろうなと、リディーは彼らに同情するしか無かった。
スールは祭に若干興味があるようだが。珍しいものが売っているわけでも無い。
大道芸の類はやっているが、いつもアンパサンドさんの超絶体術を見ているので、今更驚くこともない。
むしろコルネリア商会やラブリーフィリスも、今日はセールで安物の在庫を放出しているので、いつもより見所がないくらいだった。
昔だったら、雰囲気で楽しくなったかも知れないが。
今はもうそれもない。
ある程度見て回ったら、時間が余る。
教会を見に行くと、人形劇をやっていた。どうやらフィリスさんを主人公にしたものらしい。
フリッツさんとドロッセルさんが人形を動かし、そしてシスターグレースが読み上げをしている。
フィリスさん。
閉ざされた鉱山の街で生まれて。空を見たいと願っていた普通の女の子だった。
それが現れた特異点の錬金術師に才能を見いだされ。
世界を巡る旅に出かける。
人形劇でさえ、その過酷さがよく分かった。
彼方此方でインフラ作業をしながら、一人前の錬金術師の資格と見なされるための試験を受けていって。
色々な人をインフラ整備で助け。
多くの邪悪を退け。
そして立派な一人前の錬金術師になりました。
めでたしめでたし。
そうか、人形劇としては、それでいいのだろう。深淵を覗いた今のフィリスさんが破壊神と呼ばれている事なんて、子供達に伝える必要などない。
人形劇は難しい。
見る度に分かる。
一度に出せる人数は限られる。人形の操作も演技も難しい。演者だって、一人で何役もこなさなければならない。
そして何よりも。
愛情が籠もっていなければ、人形は答えてくれない。
この辺りは、芸術全てに共通した話なのだろう。
わっと浮かれている子供達。
彼らの心を、人形劇は鷲づかみにするのに充分だったようだった。
そういえばお菓子作りは頼まれなかったなと思ったが。ルーシャのお父さんが、使用人にお菓子を配らせているのを見た。
あの人も厳しい立場だろう。
娘が自分を超えてくれたことは、誇りだ。そう言える親は、きっとそんなに多くは無い筈だ。
むしろ周囲には、十代の娘に追い越されたと、嘲弄されるはずである。
相手に弱みがあれば、嬉々として噛みつきに行く。それが「みんな」という存在であり。社会の地位の高低に関係無いのだから。
今は、こうしてせっせと彼方此方で根回しの途中、というわけか。
ルーシャと、ルーシャのお父さんの目が一瞬だけあう。
互いに頷いていたようなので。
どうやら、あまりこじれてはいないらしい。
それならば、もう何も言うことは無いだろう。
時間も丁度良い。
皆と一緒に、王城に出向く。
当然、手続きには時間が掛かった。だが、王城に入ることは出来た。
儀式の類はもう幾つか廃止するらしいと、途中マティアスさんが話してくれる。
そもそも時間と人員の無駄だし。
騎士団は今でも人員不足に苦しんでいる。
王が即位したと言う事だけを示せばいいのであって。
王はその後は、施政で自分を示して行けば良い。
政治というのは実行であって。権力を奪い合うことでは無い。
ヒト族は勘違いしやすいのだが。政治というのは、そもそも税金を分配して、最大多数の幸福を作り出す事。そのために国家というものは存在している。それが出来ないのなら、王にも役人にも存在する意味がない。
それが、ミレイユ女王の言葉だそうだ。
確かに納得がいく。
後は、どれだけミレイユ女王が、歪まずに進めるか、だが。
それについては、もうリディーにもスールにも、分からないとしか言えなかった。
エントランスに到着。
お父さんが咳払いした。
「まだレンプライアは多く無いはずだが、完全に駆逐された訳では無い。 気を付けて欲しい」
「ねえ、お父さん。 レンプライアを完全に駆除する方法はないの?」
「ない」
即答される。
スールは、それを聞いて目を伏せるが。
お父さんは、大きくため息をついた。
「芸術は人の心の映し鏡だ。 魂を込めた完成度の高い芸術ほどその傾向が著しく強くなる。 光を描けば闇だって濃くなる。 善意を描けば悪意だって生じる。 レンプライアはだから永遠に生まれ続ける」
「ネージュは……押さえ込む方法を知っているみたいだったけれど」
「俺も、理論的には分かる。 だが、それは今Sランクのアトリエを経営しているような錬金術師が、それこそ不思議な絵に住む覚悟でやる事だ。 定期的に不思議な絵を回って、駆除をするしかないのが現実的だな」
「……そろそろ、行くのですよ」
アンパサンドさんに促される。
あまり時間はない。
それはリディーも分かっている。スールも分かっている筈だ。
お父さんが修復した不思議な絵の中に。
今、入る。
天国は、再現されていた。一皮剥いた狂気の世界は既に姿を消し、息を呑むような美しい光景が再び広がっている。
レンプライアもかなり落ち着いている様子で。小さいのがたまに見かけられるくらい。ただ、妙な気配を感じる。
何だか嫌な予感がするが、其所へ踏み込むのは後で良い。調査は後ですれば良いのだから。
黙々と、美しい花園と、遺跡と。浮かぶ島々の中を行く。
目を細めてお父さんが周囲を見回している。
自分が理想とした世界に入るのが、まぶしいのだろうか。
コアにまで成長したレンプライアを悉く討ち滅ぼしたのだ。
周囲は静かで。
小さなレンプライアなんて、リディーとスールが出るまでも無く、前衛組が処理してしまう。
お父さんの護衛には気を遣う必要があったけれど。
それ以外は、特に何もする必要もなく。
念のために周囲を警戒しながら。
黙々と歩けば良かった。
ルーシャが眉をひそめたので、話を聞いてみる。
「どうしたの」
「見てくださいまし。 花が……」
「あっ……」
一目で分かった。
この間。狂気の園と化していたこの絵の時とは、見かけられる素材の品質が段違いで落ちている。
まさかとは思うが。
不思議な絵画では、状況が悪くなるほど、入手できる素材の品質が上がる傾向があるのだろうか。
他の絵についてちょっと考えてみる。
環境が過酷だったり。
レンプライアの侵食が強烈な絵ほど、確かに良い品質の錬金術素材が手に入った傾向が強かった。それは認めざるを得ない所だ。
ひょっとすると、だけれども。
コアになるレンプライアが、猛威を振るっているくらいの絵でない場合。
最高品質の錬金術素材は、手に入らないのではあるまいか。
もしそうだとすると、此処には。
いや、別にそれで良い。
此処にお母さんの残留思念がいるのなら。
過ごしやすい場所であった方が良いに決まっている。
何でもかんでも、そう都合が良い場所があって良い筈が無い。あっても良いかも知れないけれど、そんな場所は大きな歪みに支えられている。
見たばかりでは無いか。
この美しい楽園の、一皮剥いた裏の顔を。
お父さんだって、あんな狂気の園を描きたいと思ったはずがない。
この絵を汚す輩は絶対に許さない。
スールは本気でキレていたが、リディーだって同じだ。
錬金術の高品質素材は、それは欲しいに決まっている。
だが、この絵にしても他の絵にしても。
意図的にレンプライアに汚染させることは、あってはならないのだ。
自分の出番がない駆除作業を何度かすると、もう目につく範囲内にレンプライアはいなくなった。
何だか妙な気配があるのは気になるが、敵意では無い様子だし。人間に対する悪意だとも思えない。
今は放置。
お母さんの安全確認が最優先だ。
「覚悟だけは、しておいてくれ」
お父さんに言われて、頷く。
そもそも、ネージュのような不世出の錬金術師でさえ、不思議な絵の中に閉じこもるためには、相当な技術を必要とした。事実社会そのものが嫌になったネージュは、子供の姿になって今でも不思議な絵の中で暮らしている。彼女を外に引っ張り出そうとすることは、文字通り傲慢である。何しろ、社会全てを上げて彼女を迫害し、殺そうとしたのだ。彼女には恨む権利もあるし。社会から距離を置く自由だってある。
お母さんは、どうなのだろう。
同じ残留思念でも。
あそこまで完璧に、本人を再現出来ているのだろうか。
多分触れないだろうと、前にお父さんに聞いたが。
それはいい。
お母さんに会うことが出来るだけで、それでもう充分だ。
家が、見えてきた。
美しい薔薇園の中に、ぽつんと建っている。
周囲を見る。
この薔薇だけは、品質が素晴らしい。少し回収していきたい。何かに使えるかも知れないからだ。
ふと、気付く。
聞こえてきた。
懐かしい、鼻歌だ。
お母さんはお世辞にも歌が上手じゃ無かった。そもそも騎士としてずっと生きてきたらしい。
騎士は戦闘の本職で。事前に傭兵として相当な実績を積んでいたりとか。或いは王族でもないかぎり、従騎士から開始、というのが普通である。お母さんも当然従騎士から開始して、騎士に若くして成り上がったらしい。
お母さんの時代、騎士の仕事は今とは比較にならない程過酷だったはずだ。三傑も来ていなかったし、多分あの庭園王の時代だったのだ。それこそ無能な王に足を引っ張られて。伝説のあの先代騎士団長が率いていたとしても、苦労は絶えないだろう。
お母さんは料理は出来たけれど。それも苦労して身につけたものらしい。裁縫だって、散々苦労していた。
だから、そんなお母さんが四苦八苦して作ってくれた今の服は、デザインを絶対に変えるつもりはない。
駆け出しそうになる足を押さえる。
アンパサンドさんがハンドサイン。
周囲の警戒に当たってくれると言う事だ。
気を利かせてくれるという意味でもあるだろう。
頷く。
本当に感謝しかない。
アンパサンドさんとは、種族の違いもあって考えも違う。同じ人間でも、四種族では考え方がかなり違う。ホムと魔族は、特にヒト族との考え方の違いが大きい。そんなホムであるアンパサンドさんも。今日は気を利かせてくれた。
スールの手を引いて、ドアに手を掛ける。
ドアが開く。
中に入る。
少し模様替えをしたから、今の家とは違う。錬金釜も一つしか無い。台所に向かっている後ろ姿。
間違いない。
お母さんだ。
「お母さんっ!」
スールが叫ぶ。
リディーは、無言のまま手を伸ばし。そして、お母さんに触れようとして。手がすり抜けるのが分かった。
嗚呼。分かっている。
お父さんの言う通りだ。
お母さんが振り向く。へたり込んでいるリディーに、記憶の中にある優しい笑みを浮かべてくれた。
「リディー。 スール。 それにロジェ」
「オネット……」
「ずっと見ていたわ。 絵の中に入ってきたなって分かっていたの。 二人のことを見る事も出来た。 でも、体は自由にならなかったし、レンプライアはどんどん湧いてくるしで、殆ど此処から動けなかったのよ。 たまに動けるようになったと思ったら、もう二人とも絵から帰ってしまっていたり、ね」
もう触ることが出来ないお母さんは。
その場に確かにいた。
お父さんと二人きりにさせてあげるべきだろうか。いや、そういうわけにもいかない。外には弱いとは言えレンプライアも湧くのだ。
「お母さん、ごめん。 苦しかったよね」
「ううん、あの程度何でも無いわ。 騎士団で現役の騎士をしていた時は、もっと苦しいことも悲しい事もたくさんあったもの。 それよりもロジェ、すっかり窶れたわね」
「……すまない」
「駄目よ、きちんと食べないと。 私が料理を覚えたのも、貴方が不摂生ばかりしていたからなのに」
そうだったのか。
だが、ともかくだ。
今は、お母さんの声が聞けるだけで嬉しい。
残留思念で触ることが出来なくても、側にいるだけで嬉しい。
厳密には、本当のお母さんでは無いのかも知れない。
だが、ネージュは明らかに本物のネージュだった。
だったら、お母さんだって。
少しだけ、時間を貰えただけ。外で見張りをしてくれているみんなだって、いつまでも此処にいるわけにはいかない。アンパサンドさんは副騎士団長への昇格の話が来ているし、当然引き継ぎで覚える事もあるだろう。マティアスさんは、今後更に王の影としての仕事を覚えていかなければならないし。最悪の場合、女王のスペアとして国政を見る為の準備もしておかなければならない。
だから、出来るだけ。
急いで話をする。
錬金術師として、もう少しでこの国の一番になれること。
約束を果たせそうなことを伝えると。
お母さんは目を細めた。
優しい笑顔だった。
「そう。 良かった。 人を幸せにする錬金術師になってね。 私の一番大事なリディーとスール」
「おかあさん、あのね」
「なあに」
スールが、少し躊躇った後。言う。
お母さんに、助言を聞きたいと。
拳を固めている。まあ、腹に据えかねているのだろう。それは、リディーも同じではあるのだが。
「スーちゃん、思うんだ。 みんなをたくさん見てきた。 どれだけ醜いのか、よく分かった。 お母さんも、騎士としてみんなを見てきたんでしょう。 どうやって、割切っていたの?」
「スー……」
お父さんが悲しそうに言う。
だが、リディーも、お母さんの意見は聞きたい。
ふっと、目を伏せるお母さん。触れないけれど。その手が。まだまだお母さんより小さいスールの頭の上に乗った。
今更気付く。
左手の小指が少し短い。戦いで欠損したのだろう。
「いい、スー。 確かに多くの人はとても醜い心を持っている。 私も騎士として現役の時は、本物の悪党と邪悪をたくさん見てきたし、たくさん撃ち殺してきた。 でもね、スー。 もしも可能性があるのなら、試してみたい。 私は、そう思うの」
「……」
「もう少しで、この国一番の錬金術師となるのでしょう。 それまで頑張って。 次は、その時に報告しに来て」
スールは無言で頷く。
リディーは、そうかと思った。
お母さんは血の雨の中で生きてきた戦士だ。騎士として、彼方此方の仕事場で、怖気が走るような人間の業を嫌と言うほど見てきただろう。
でも、お母さんは可能性を信じたいと言った。
それは、奇しくも。
二十万回以上も人類の破滅を見ながらも、まだ諦めていないソフィーさんと同じ結論だった。
口を引き結ぶリディー。
分かった。
お母さんがそういうのなら。
スールを連れて、家を出る。お父さんと、少しだけで良い。お母さんを、二人きりにさせてあげたかった。
一番お母さんを喪って苦しんだのは。
お父さんなのだから。
4、終焉の始まり
咳き込むオネットを見て、ロジェは懸念が適中したことを悟っていた。残留思念が咳き込むなんて、尋常な事の筈が無い。
触れる事はもう出来ないけれど。
もう一度、ロジェはオネットを失う。
このままでは、確実に。
出来る事は尽くした。
技術の粋を詰め込んで、この絵を修復した。レンプライアの駆除は、双子と一緒にやっていけばいい。今のこの絵に出るレンプライアは大した連中じゃない。今双子の護衛をしている凄腕ほどではなくても、十分対処できるはずだ。
問題は、この絵のコアであるオネットに。
過大な負荷が掛かっていること。
人格を持つコアというのは、ネージュ級の錬金術師でも無ければ、再現はできないものなのだ。
ネージュ級の実力になど到底たどり着けないロジェでは。
勿論無理だ。
悔しいが、ロジェに出来るのは此処までだ。
「ロジェ。 私は、後どれくらい、意識を保っていられるかしらね」
「分からん。 俺は所詮、此処までの腕だ。 双子がこの国一番……といっても、虚しい言葉だが。 Sランクのアトリエに昇格して、此処に錦を飾るまでは何とかもつと信じたい」
「そう。 貴方ほどの錬金術師でも、そうなのね」
「錬金術は才能の学問だ。 悲しい話だが、俺はこれ以上にはいけそうにない」
他にも出来そうなことは全て試した。
見聞院の本も調べたし。
あのソフィ=ノイエンミュラーにも土下座してみた。
だが、ソフィーは冷酷にも言ったのだ。
それが利になるのなら、考えてあげると。
それは、あの特異点にとってはそうだろう。世界をマクロの視点で常に見ている怪物にとっては。
一つの絵の中にある残留思念を守るために。
多くの犠牲を払う等という選択肢は最初から論外。
双子を奮起させて、人材として活用出来るのなら、その提案を呑むかも知れないけれども。そんな事は、絶対にさせられない。
あり得るとしたら。
双子が、ロジェを遙かに超える高みに行き。
オネットが、ただの画像と化す前に、何とか今の状態を固定する事だけれども。
そもそもこの間の大規模侵食で、オネットの残り時間は大幅に削られてしまった。今こうして、まともな会話が出来ているだけでもおかしいくらいなのである。前は多分、触ることは出来なくても、レンプライアと戦う位は出来たはずだ。今はそれさえ出来るか怪しい。
「ロジェ」
「……」
「守ってあげられなくてごめんなさい」
「俺こそ、君を救えなくて、本当に後悔している」
ロジェの頭の上に、オネットが手を置く。
笑顔は、崩していなかった。
もう、何があっても恨む事はない。
そう、オネットは言ってくれているのだ。
オネットが掛かった癌という病気は、おぞましく苦しいものだと聞いている。摂理に反しない範囲の薬しか作れないロジェには、対策できる代物ではなかった。そんな、最悪の苦しみの中に置かれたオネットを、どうにも出来なかった。
そして今。
双子の成長した姿を見ることが出来たが。
それ以上は何もできないオネットに対して。
ロジェは何もする事が出来ない。
唯一今後できるのは。
贖罪のための、薬を可能な限り作る事だけだ。
家を出る。
双子が待っていた。そもそも、此処にいる面子を、長時間拘束している余裕がアダレットにはない。
帰ることになる。
帰りは一瞬だ。絵からすぐに出て、そしてエントランスに。面倒な手続きを経て王城を出ると、後は解散となった。
双子に、少し遅れてから帰ると告げた後。
ロジェはイルメリアのアトリエに向かう。
イルメリアなら、或いは。
何か方法を知っているかも知れない。
ロジェは知っている。イルメリアは他の三傑と違って、ギフテッドを持っていない。双子が苦悩しているときに、相談に乗った経緯がある。
イルメリアは超越的錬金術師だが。
同時に恐らく、もっとも三傑の中では人間に近い。
或いは、何か知っているかも知れない。
イルメリアのアトリエに出向くと、彼女は丁度怪我人の手当をしているところだった。酒を飲んだ酔っぱらい同士の喧嘩による怪我人だが。ヒト族が喧嘩を売った相手が魔族だったので、大けがになってしまったのだ。
「こんな事で命を落としかけてどうするつもり。 反省しなさい」
「すみません……」
「貴方も。 下手をすると人を殺すところだったのよ」
「済まなかった。 三十年ぶりの酒でな……」
魔族の傭兵らしき人物も、申し訳なさそうにしている。まあ、誰でも今回の即位が如何にこの国に希望をもたらすかは分かっている。とはいっても、はめを外しすぎるのは褒められた行為では無い。
二人が事情聴取のために騎士に連れて行かれると。
椅子に座り直したイルメリアは大きく嘆息した。
「ロジェね。 入ってきなさい。 用事は何かしら」
「オネットを助けたい」
「……不思議な絵画については専門外よ」
「それは嘘だな」
無言のままのイルメリアに、ロジェは告げる。事実、イルメリアは表情こそ変えなかったが。
鼻を鳴らした。
察しろと。
残念ながら断る。
「双子をソフィー=ノイエンミュラーが好き勝手にしようとしていることはもうどうしようも無い。 此処もどうせ覗かれているんだろう。 だからこそいうが、双子の心を保つには、オネットが必要なんだ」
「……はあ。 ソフィー=ノイエンミュラーに頼んで断られたんでしょう。 それならば、私が勝手に助けることは不可能よ」
「何かヒントだけでも貰えないか。 自力で出来るだけはしたい」
「ヒントね」
しばし、考え込んだ後。イルメリアは言う。
「エーテルが足りないのよ」
「!」
「恐らく双子は自力で気付くでしょうけれど、それまでには時間が足りない。 時間稼ぎをするためには、貴方の絵にはエーテルが足りない事を自覚しなさい」
エーテル。
大気中に満ちる魔力の素。
頷くと、ロジェはイルメリアのアトリエを後にする。どのような書物にも書かれていなかった事だ。
そうか、確かにロジェの魔力では、不思議な絵の具の出力が足りなかったかも知れない。
ロジェとネージュの差を考えてみると。恐らく違うのは才能以上に魔力の出力だ。
ロジェは魔術こそ少しは使えるが、戦闘用の魔術が使えるほどではない。だからコアが安定しない。それならば、手はあるかも知れない。
王城に出向いて、幾つか手続きをする。
そして、後はアトリエに戻ると。先に戻っていた双子に言う。
「錬金術の装備を貸して貰えるか」
「良いけど、お父さんどうしたの? 付け焼き刃で扱えるものじゃないよ」
「それでもかまわん」
「……戦わないって言うのなら」
スールとリディーに、それぞれ頷く。
そして、魔力を極限まで増幅させる装備を借りた。
後は、時間を稼ぐ。
双子が、せめて。
大望を果たすまでの時間を。
(続)
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