薄皮の光
序、最後の武具
ヴェルベティスの中核素材を手に入れた今、スールは最後の。最終段階の装備を作らなければならない事は理解していた。
武具は既に発注済み。
普通の武具と違い、ハルモニウム製で、更に錬金術師用ともなると、すぐには出来ない。ハルモニウム釜と同じく、時間が掛かる。ハルモニウム釜用のインゴットは、既に鍛冶屋の親父さんに納入してある。
今、リディーがレシピを読んで、ヴェルベティスの作り方について解析してくれているので。
スールはスールで、武具を刷新した後の事。
ヴェルベティス装備についてどうするか。
錬金術装備についてどう刷新を掛けるか。
これらについて、考えなければならなかった。
じっくり話しあった結果、リディーはゆっくりギフテッドが目覚めていったのに対して、スールは一気に来たらしい。
故に反動が強烈だ、ということのようなので。
今は気にせず、そのままでいればいいという結論に落ち着いた。
スールも、少しずつ慣れるようにはしている。
ただ、声が四六時中周囲からするのは、どうしても気持ち悪い、と感じてしまう。そんな風に感じるのが問題なのだと、どうしても分かっているのにである。これでは、見かけで相手を判断し、場合によってはその全てを否定する「みんな」と同じだ。
それがまた腹が立つ。
自分自身に一番腹が立つので、怒りをぶつける矛先もない。
この間はそれでアンパサンドさんに大目玉を食らった。
少しずつでも良いから慣れるようにとも決めたのだから。今は、負担が少ない作業をしていくだけである。
作業をしている内に、時間が来たことを悟り。
リディーを誘って、鍛冶屋に行く。
家はお父さんがいるから大丈夫だ。熱心にお薬を調合しているが、来客には気付くだろう。
ハルモニウム武器を取りに行くことを告げると。
頷いて、そのまま調合に戻った。
作っている薬は霊薬と見た。
騎士団からの発注量が相当多いらしい。簡単に作れるお薬ではないので、出来次第納品して欲しいと言う話らしいのだが。
とにかく圧倒的な効果が騎士団でも絶賛されているらしく。
厳しい状況にある騎士団としては、幾らでも欲しい、というのが本音だそうだ。其所で、アルファ商会から直接買い付けるよりも錬金術師に発注し、少しでも予算の圧縮をしたいらしい。
らしいというので若干不確定要素だが。
しかしながら情報源がマティアスなので、多分正しいだろう。
鍛冶屋に到着。
親父さんが待っていた。
「おし、きたな。 お前達に、これを渡す日が俺の夢だったんだよ」
誇らしげにいう親父さん。
鍛冶屋には、客も他に来ていたが、嫌でも注目が集まる。特に雷神殺しの二つ名がついているリディーとスールである。
それも当然かも知れない。
まずはリディーから。
渡されたのは、ハルモニウムで魔術関連の増幅を行う部分を作成。更に打撃用に、全体的に重く作られている杖である。
「此奴の名前はブルームスパイラル。 お前のためにある、お前のためだけの杖だ」
おおと、声が上がる。
神域金属であるハルモニウムを贅沢に使い、その効果を全力で引きだしている杖。前衛には決定的に向かないリディーには、贅沢にも思えるが。
触った瞬間、リディーが少し笑ったのがスールにも分かった。
重さを感じないようで、振り回した後、にんまりと笑う。
「どう?」
「力がわき上がってくる。 マティアスさんやフィンブルさん、アンパサンドさんの気持ちが良く分かる」
「そっか……」
スールは、既にキャプテンバッケンの魂の銃を貰っている。
だが、それはあくまでキャプテンの銃。
スールのための銃が必要なのだ。
親父さんは、試し打ちはあとで家でやれと釘を刺した後。スールを呼んで、二挺の拳銃をくれた。
ハルモニウムで主に構築され。
弾丸をハルモニウムによる強烈な魔術強化で、極限まで増幅して撃ち出す。更に、数発の弾丸も貰った。
切り札用に、ということだ。
ハルモニウム弾。
名前を聞いただけで、くらっとくる。
インゴットが国宝になるような代物で作った弾丸である。その破壊力は、想像を絶する事は難くない。
受け取るのに、手が震えたが。
一旦触ってみると、あまりにも手になじむので驚いた。
馴染むどころか、まるで自分の一部だ。
体が熱くなる。
ああ、なるほど。
人斬りというのは、こういう感覚を楽しみたいと思ってしまう人なのか。色々納得がいった。
ティアナさんが相手が凶賊とはいえ、人を斬っているときに、本当に楽しそうだったのをスールは思い出す。
あの人は分かった上でキリングマシーンになっている。
スールは分かっているから、ああなってはいけないと戒める。
それでいい。
それにしても、凄い銃だ。二挺ある拳銃は、右手用と左手用にあわせて、わずかに重さなども変えているようだった。
「此奴の名前はスール・ザ・スターだ。 星をも貫くお前だけの銃だ。 自分の次に大事にしろ」
「……はいっ!」
その後、釜についてはもう少し掛かると聞かされる。
ハルモニウムの加工なのだ。
こればかりは仕方が無いといえるだろう。
いずれにしても、満足以外の言葉はない。最終的な武器は、これ以外にはないだろう。今後、ハルモニウムを飛躍的に品質強化出来たら、其方に移るかも知れないが。それはまた、別の話である。
アトリエに戻る最中、ばたばたと騎士団が走り回っているのが分かる。
何だかあきらめの表情や。
困惑している様子が分かった。
ミレイユ王女が、珍しく出てきていて。
魔族の騎士達が、周囲を固めていた。
騎士団の最精鋭だろう。
基本的にミレイユ王女は、王都から出て忙しく指揮を執っているイメージが強い。何度か直接顔を合わせたこともあるが、王城や王都よりも外で顔を合わせたことの方が多い印象がある。
一礼して道の端に寄り、通り過ぎるのを待つ。
ミレイユ王女は無言のままだったが。
騎士の一人が、此方に来た。
「リディー殿、スール殿だな」
「はい」
「なんでしょうか」
跪いたまま話を聞く。
それによると、どうやら近々大きめの仕事が来るかも知れない、と言う事だった。
この間、星彩平原の調査を急がせる要因となったものだろうか。
いや、それにしてはどうも妙だ。
いずれにしても、アトリエに戻った方が良いだろう。急いでアトリエに戻る。出来ればハルモニウム武器の試運転をしたかったのだが。
それはまた先の話になるだろう。
こればかりは仕方が無い。
スールもだいぶ落ち着いては来ている。
吐き出したのが良かったのだろう。
とはいっても、もう心の方に入った亀裂と、闇に染まった心はどうしようもない。スール自身も、それは良く理解している。
急いでどうにか出来る事でもない。
壊れてしまったものは仕方が無いと、ある程度諦めているスールだが。一方で、やはりこの力を試したいという黒い欲求もあるのだった。
リディーと一緒に、コンテナの在庫を確認。
お薬や爆弾を増やしておく。
この間の大型レンプライア戦で。とても嫌な予感がした。
不思議な絵画は、願望を具現化したプチ異世界である。
だから、心の闇は極限まで増幅される。
自己顕示欲なんて誰にだってある。
それが彼処までの怪物になったのだとすれば。
もしも光に満ちた世界の、裏側の闇が凝縮されれば。
お父さんの絵に、今アルトさんやプラフタさんが入って、レンプライアの駆除作業を進めてくれているという事だが。
何かとてつもなく恐ろしい事態が進んでいるという可能性があるかも知れない。
流石に現実にまで影響が出るとは思えないが。
不思議な絵画から、錬金術の高度素材を持ち帰る事が出来る事実がある現状。
向こうから、何かしらの邪悪が姿を見せてもおかしくないのだ。
調合を進めていると。
不意に外で、鐘がなった。
何か公式に大きな出来事があった時の連絡のため、王都全域に音が響くように作られている鐘である。
スールも何回か聞いた事があるが。
前に聞いたのは、確か。
ミレイユ王女が、王女として政務を行うと宣伝したとき。
要するに先代の庭園王から、権力が取りあげられたときだった。
あの時は、王都中がお祭り騒ぎになったから、よく覚えている。それだけ庭園王はアダレットの民から憎まれていたのである。
しばしして。
アトリエの戸がノックされる。
お父さんも地下から上がって来た。
ドアを開けると、息を切らせたマティアスだった。
「どうしたの、マティアス」
「スー、リディーもいるな。 ロジェもいるなら丁度良い。 重大な事件だ」
「事件?」
「親父が死んだ」
絶句。
庭園王は無能であり、王都に災厄しかもたらさなかった。これはどう客観的に見ても明らかな事実で。幽閉されたあとも、早く死んでくれればいいのにと、多くの声が上がっていた。
ただ、流石にミレイユ王女としても、実の父親を手に掛けたとなれば外聞が悪い。
幽閉し、相応の待遇はしていたはず。
まったく懲りずに毎日幽閉された離宮だか塔だかで喚いているという話は聞いたことがあるが。
それにしても死んだというのはどういうことだ。
「原因は心臓麻痺のようなんだが、どうにもおかしくてな。 親父は幽閉されてからも健康で、豚のように太っていたし、かといって太りすぎて健康を崩すような事も無かったんだ。 勿論医者もついていた。 それが、一晩で何の兆候も無く……だぜ」
「暗殺って事ですか?」
リディーがストレートすぎる聞き方をしたので。
周囲を慌ててマティアスが見回したくらいだった。
「今、専門家を呼んで調べて貰っている。 お前達のお師さんだ」
「イル師匠に?」
「……とりあえず知らせた。 それと、数日は出来るだけ動かないでいてくれ。 王城にも入れない」
「分かりました」
リディーが頭を下げる。
行こうとするマティアスに、スールは声を掛けた。
「ね、ねえマティアス」
「どうした、スー」
「その、悲しくはないの?」
「……親父はな。 もう少し幽閉が遅れていたら、アダレットの王都を守る城壁と森を、全部壊す計画を立てていたんだ。 全部庭園にして、美しい王都とやらにするためにな」
さっきとは、別の意味で絶句する。
要塞化されていたアダレット王都に、メルヴェイユなんて無意味にしゃれた名前をつけるだけでは満足せず。
非実用的な芸術的意匠を施し。
獣やドラゴンに対する備えを撤去し。
場合によっては、「美しくない」とかいう理由で、下水などの必須インフラまで排除しようとした無能王だ。
何をやってもおかしくは無いとは思っていたが。
其所まで愚かだったとは。
「俺様もバカ王子と言われては来たけどな、親父の同類とまでは言われなかった。 そういう事だ。 俺様も姉貴も、親父に感謝なんか一度だってしたこたねえよ。 彼奴は母さんにも散々酷い事をしてきた外道だしな」
「……」
そういえば。
ミレイユ王女とマティアスのお母さんについては、聞いた事がない。
いずれにしても、口にもしたくないし。
口外できない事なのだろう。
ならば聞く事は出来なかった。
いずれにしても、この様子では、急いで星彩平原の調査を終える必要はなかったかも知れない。
お父さんは無言で外に出ると、数日分の食糧を買ってくる。
そして、リディーとスールを見回して言う。
「裏庭で多少の武器の素振りくらいなら良いが、爆弾類の試運転は避けろ。 この様子だと、何か大きな政変が起きる可能性がある」
「政変って……」
「クーデターだ」
「!」
最強の武器を手に入れて、大喜びと思った直後。
急転直下である。
だが、不思議と怖いとは思わない。
多分人間を止めてしまっている事が、大きいのだろう。
ギフテッドを得てから、スールはどんどん人間的感情が薄れているのを感じる。今でも、それに反発はあるが。
しかしながら、今回ばかりは良かったとも思う。
「いざとなったら王都を脱出する必要があるかも知れない。 ミレイユ王女の事だ、ヘタを打つことは無いだろうが……それでも気を付けろ」
「何をそんなに警戒しているの?」
「どうせ深淵の者が何かしたに決まっている」
お父さんの言葉には、強い不信感がある。
確かにその可能性もある。
そして、もしも深淵の者がミレイユ王女を排除しようとしたら。あり得ないクーデターが成功する可能性もある。
リディーとスールは、もしも深淵の者主導のクーデターが行われた場合。
荷担させられるのだろうか。
ともかく、確かに大人しくしている方が良さそうだ。
言われた通り、数日は大人しくする。
とはいっても、その間装備品の更改や、爆弾やお薬の作成は欠かさない。
お父さんに話を聞いて。
まだ作った事がないお薬については、どんどんレシピを見せてもらった。いずれも、其所までは難しく無い。
イル師匠に貰ったお薬も飲む。
やっぱりまだきついからだ。
多少は緩和されるが。
薬が効いている間は動きづらいし、やっぱり不安な時間は続いた。
閉じこもり始めてから四日目。
ドアがノックされる。
外にいたのは、イル師匠だった。アリスさんも連れている。
「揃っているわね。 重要な話があるわ」
頷き、アトリエに師匠を招き入れる。
お茶をリディーが出し。お父さんも席に着く。アリスさんがドアの側で見張りをする中。順番に説明を受ける。
まず今回の件は、暗殺である事。
対外的には、というか王城内でも庭園王の死因は「心臓麻痺」とされているが。実際には首から上を持って行かれているという。それも綺麗に、だ。首は発見されていないそうである。
そうなると替え玉の可能性もあるが。
それはないことをイル師匠が確認。
そう。イル師匠は、確認のために王城に呼ばれたらしいのだ。
「どうやって本人だと確認したんですか?」
「簡単に説明すると、空間の記憶を再生したの」
「空間の、記憶?」
「もっと高度になると、時間を巻き戻す錬金術になるのだけれど、その簡易版よ。 その場で何が起きたのか、過去に遡って映像を確認したのよ」
映像の中で、庭園王は無駄に大量の食糧を貪り喰い。医師の診察を受けた後は、見張りに怒鳴り散らした。早く此処から出せ、美しい王都を作る作業が終わっておらぬ、勅命であるぞとわめき散らしていた。
聞いているだけで見苦しい。
さぞや見張りも困っただろう。
だが、直後。
王の声が止まる。
そして、王の首がゆっくりずれて。
消えたそうだ。
血が噴き出したのはその後。首を失った死体が、後は残されていたそうである。
勿論、誰が斬ったのか。映像に残されて等はいなかった。
殆どそれだけで暗殺者の正体が分かった。
ティアナさんだ。
多分、そういった空間の記憶とか、更にそれより上位の次元からの攻撃を行い。愚王の首を刈り取っていったのだろう。
完全に人間を止めているあの人ならやりかねない。
ソフィーさんの信頼も篤いという話だし。イル師匠すら出し抜ける道具くらい、持っていてもおかしくないだろう。
「何を考えたのかは分かるけれど、口には出さないようにね。 いずれにしても、これで一つ決まったことがあるわ」
「なん、でしょうか」
「ミレイユ王女が正式に女王に即位する、と言う事よ」
「……」
そうか。事実上女王だったのだから、当然か。そしてイル師匠のこの言葉からしても、深淵の者はミレイユ王女を支援するつもりなのだという事も分かった。
即位については、今までは手続きが何だで色々あったらしいので、かなり後回しにされていたようなのだが。
先王が死んだのであれば、それも当然だろう。
頷くと、イル師匠は、これ以上は他言無用と言い残して戻っていった。
わざわざ警告していったと言う事は。一悶着あるのかも知れない。
それから程なくして、マティアスが来て。以降は自由に動いて良い、と言われた。そして、もう一つ、告げられる。
お父さんの絵の調査依頼である。正式なものだ。
今回はかなり本気での調査になるらしく、フィリスさんとアルトさんも来るという。レンプライアの掃除が終わっているという話なのに、それはまた随分と本気だ。ひょっとしたらソフィーさんが来る可能性まであるらしい。
ぞっとしない話である。
お父さんが顔を歪めるが。マティアスは、それに対して、表情を消すしかないようだった。
いよいよ、正面から、お父さんの絵に入る事が出来る。
そう思うと、少しだけ気分も楽だった。
1、天国の絵
王城は非常に警備が多くなっており、いつもより倍増しくらいに騎士がいた。入るときも手続きに時間が掛かった。普段は殆ど素通り出来るところでも、確認を要求されたりもしたくらいである。
エントランスに入ると。腕組みしてアンパサンドさんが不機嫌そうにしていた。見た感じ、殆ど寝ていない様子だ。
それはそうだろう。
茶番だと気付いている筈だ。
ミレイユ王女としては、王が不審死した、という件を表沙汰に出来ないし。対外的には天寿を全うしたという発表をするしかない。
それと同時に、首を失った死体を国民に公開することも出来ない。
錬金術で首は何かの方法で誤魔化せるかも知れない。イル師匠が呼ばれたのは、多分それもある筈だ。
騎士団には余計な仕事も増えた。
マティアスもそういえば疲れ切った顔をしていた。
間違えても女遊びの結果では無いだろう。
奥には、ルーシャとオイフェさん。
そして話通り、アルトさんとフィリスさんが来ていた。フィリスさんは可愛く手を振るけれど。
この人の正体を知っている今となれば、もうそのまま義務的に挨拶するしかない。
みかけで相手を判断する事の愚かしさ。
それをスールは嫌と言うほど知っている。
この人は、その典型例。
破壊神と呼ばれるに相応しい存在だと、見た目からは絶対に判断出来ないだろう。
「この面子で調査する必要があるほど危険な絵画なのか?」
「フィンブル兄、何か不安なの?」
「……ああ。 よりによってこのタイミングで、この面子を集める意味がよく分からん」
それもそうだ。
この絵に何かあると言うのか。
咳払いすると、フィリスさんが手を叩く。リーダーシップを取るという意味だ。
今回は監視役では無く。
ある程度本気で調査をする、と言う事か。
「はい注目。 今日から、最低でも一週間以内に、この絵の調査を終えます」
「随分と急ですね」
「みんな忙しいからね」
フィリスさんの言葉は、此処だけは正論だ。
確かに国王が「崩御為された」時期である。
インフラ整備で彼方此方を飛び回っているフィリスさんや。深淵の者の最高指導者であるアルトさんが、ここに来ているのだ。
余程の重大事が中にあるのだろう。
お父さんの絵が。
政治的な陰謀のエサにされようとしている。
中にはお母さんがいるのに。
感情が薄くなっている今でも
とてもそれは悲しい。
アルトさんが咳払い。そういえば、この人は先に調査をしていた筈だ。この面子を連れていくのには、何か意味があるのだろうか。
「露払いは終えてあるが、この中にいるレンプライアは今まで君達が入った不思議な絵画のレンプライアとは次元違いだ。 各自気を付けて欲しい」
「この間まで調査していた星彩平原では、最深部にコアらしき強力なレンプライアが存在していました。 雑魚がそれと同格か、それ以上という事ですか?」
「それについては報告書を見ただけだから何ともいえないけれども、まあ入ってみれば分かるよ」
アルトさんが肩をすくめる。
そして、リディーが前に出た。
スールも、覚悟を決める。
この絵は、お父さんの絵で。中にお母さんがいるのだ。今更臆するわけにはいかない。もしもお母さんが困っているなら。
絶対に助け出す。
絵に触れる。
前は、逃げ出すだけで精一杯だった。今度は違う。今度は、片っ端からレンプライアを蹴散らしてやる。
そして、覚悟を決めて入った絵は。
想像を絶する場所だった。
前に入ったときは。穏やかな世界だった。
正に天国と言うに相応しい場所。美しい草原に花々。遺跡を思わせる建物。其所に遺物としてレンプライアがいる。そんな印象を受ける場所だった。
今は、違う。
何だ此処は。
本当に、お父さんが描いた絵なのか。
絶句している所に、遅れてルーシャとオイフェさん、フィンブル兄が。続いてマティアスとアンパサンドさんが入ってきて。
少し遅れてアルトさんとフィリスさんが入ってくる。
立ち尽くしているリディーとスールを守るように、マティアスとフィンブル兄が展開する。
此処の異様さは、誰でも一目で分かるようだった。
血だ。
辺りが真っ赤に染まっている。
暑いわけでは無く、文字通り血のような赤に、周囲が染め上げられているのだ。思わず、生唾を飲み込んでいた。
「天海の花園……という絵で良いんだよな。 外から見た感じでも、こんな悪夢みたいな場所じゃあ無かったぞ」
「殿下」
「……」
すぐ口をつぐむマティアス。
スールも衝撃を受けていた。お父さんが描いた絵が、どうしてこんな事に。しばし周囲を見回しながら歩く。
この絵も、他の不思議な絵画と同様に、違うルールで動いている世界の様子だ。
どうやって浮いているのか分からない岩の塊がたくさんあって。
其所に花園や、水たまりが存在している。
所々からは、滝も見受けられる。
水が何処に落ちているのか分からないし。
何より、それだけの水がどうやって湧いているのかも理解出来ない。
はっきりしているのは、こんな真っ赤な、血に染まった場所では無かった、という事である。
前に入ったときは、レンプライアが怖くて震え上がっていたけれど。それでも美しい場所だと言う事は印象に残っていた。
どうして、こんな事に。
フィリスさんが空中に指を走らせると、周囲の地図が映像となって浮かび上がる。
先行して調査しているときに作ったのだろう。
詠唱もせずに魔術を発動したのを見て、今更驚くこともない。
錬金術の道具による補助の結果だろうから。
「アルトさん、周囲の警戒をお願いね」
「任されたよフィリス」
「それでは説明」
フィリスさんは明らかに楽しんでいる。リディーとスールの様子を、である。
悔しいけれど、何もできない。
確かに周囲から感じる気配が異常なのだ。
星彩平原の時も、異様にレンプライアが強いと感じた。
だが此処のは。
ネームドが大量にいるような。
まるでドラゴンの巣穴の中にいるような。
そういう、得体が知れない恐怖を感じる。
「不思議な絵画を幾つか見てきたと思うけれど、これがレンプライアに汚染された成れの果て。 正確にはその一歩手前かな」
「どういう、事ですか」
「この絵はね、中途半端な完成度のまま放置されていたの」
フィリスさんは目を細めて、淡々と説明する。
確かにその通りだ。
お父さんは精神に大きな傷を受け。この絵を完成させるまでに、随分と手間取ってしまっていた。
「不思議な絵画は小さな異世界。 バランスが取れて始めて、その世界の中で小さな世界としてのルールが成り立つんだけれども。 この絵の場合は、そのバランスが成立していなかったんだね。 結果として、害虫が大量に湧いて、世界そのものを蝕んだ」
「元に戻す方法はありませんか」
スールは、自分でも分かっているけれど。
かなり強い口調で言う。
この人達は。
深淵の者は。そしてソフィーさんの意思を汲む人達は。
分かっていて、この状態を維持しているはずだ。
リディーとスールを人材として育て上げて。そして世界の詰みを打破するための人材にするために。
此処はそのために利用されている。
如何にバカだって。
スールにもそれくらいはもう分かる。
お母さんを今人質に取られていることも。
この絵にお母さんの残留思念がいるなら。
今、きっと凄く苦しんでいるはずだ。だから、もしも嫌がらせをしたいのなら、さっさと済ませて欲しい。
「落ち着いて。 順番に説明するから」
だが、平然とフィリスさんは流す。
目には明らかな愉悦も浮かんでいる。
焦れ。そして、それでもなおも輝きを見せろ。先へ進んで見せろ。そう目が告げている。怒りが沸騰しそうになるが。しかしながら、ブチ切れても勝ち目がある相手では無い。文字通り、子ネズミと上級ドラゴン以上の力の差があるのだ。しかも油断も一切していない上級ドラゴンである。
「この世界が完成したのはつい最近の事なんだけれども、それによって世界の構造が完成して、一気に悪意が力を増した。 そう、レンプライアだね。 レンプライア達はこの世界のルールを食い荒らし、自分達のルールに染めようとしている」
後ろで凄い音。
気がつくと、今まで見たことも無い大きなレンプライアが。とんでもない大きさの剣で串刺しにされ、消えていくところだった。
アルトさんが、何事も無かったかのように、剣を消す。
本当に手を抜きまくっていたんだ。
それが分かって、実に腹立たしい。
「この絵には、守護者とも言える存在がいるけれど、それが却ってまずかった。 絵が未完成な状態の時から、守護者と戦って性能を上げていたレンプライア達は、絵の完成と同時に絵に対して大攻勢を掛けた。 結果、今この絵の世界は、悪意に染め上げられようとしているの」
「それで、どうすればいい」
フィンブル兄が頭を掻く。
理屈は分かったとしても。
それでどうすれば良いのかの説明が、今まで出ていないからである。
フィリスさんは肩をすくめた。
「とりあえず、複数存在していたコアの所在は突き止めてあるから、一つずつ潰して行く事だね。 合計五つを潰せれば、この絵は綺麗な状態に戻せると思うよ」
思うじゃ無くて、そうなのだろう。
フィリスさんは知っている筈だ。
だが、それは敢えて言わない。
ともかく、コアが何だ。叩き潰してやる。此方には、ハルモニウムで作った武器が加わっている。更に戦力は増している。
更に言えば、不思議な絵画は、多少傷つけても再生する。
あまりにも苛烈に傷つけすぎると壊れてしまうと思うけれども。
だけれども、ともかく。
守護者、つまりお母さんの残留思念が、いつまで無事か分からない。だったら、やるしかないのだ。
地図を動かして、最初のコアの位置をフィリスさんが指定してくる。
見ると、浮島とでもいうのか。浮遊している岩に橋が渡されている。壊れかけているようにも見える。
少し不安だ。次は飛行キットを持ち込むべきかも知れない。
「時に、どうして一週間なのです」
「ああそれはね、一週間でこの絵はもう元に戻らなくなるから」
「っ!」
「レンプライアに完全に食い尽くされると、絵は真っ黒に染まって、そして元には戻らなくなる。 何処かで聞いた事があるんじゃ無いのかな」
そう言って、フィリスさんは此方を見る。
唇を噛んだ。
そんな話をされて、黙っていられるわけがない。
何が相手だかしらないが。
今日、決着を付けてやる。
手を掴まれた。
アンパサンドさんだった。
「スール」
「……ごめんなさい」
「分かれば良いのです」
問答無用でビンタではなかったのだ。アンパサンドさんも或いは、この状況に怒りを覚えているのかも知れない。
フィリスさんの言う通り一週間ギリギリにやれば、この絵は多分もたない。つまり無理してでも作業を前倒しにしろと強要されている。それも、お母さんの命を人質に、である。
アンパサンドさんがどこまで事情を知っているかはしらないが。
リディーとスールの様子を見て、尋常では無いことくらいは理解しているのだろう。それだけで、スールは充分だ。
隊列を組み直し、進む。最後尾はアルトさんに任せ。真ん中に四つの荷車で車列を作り。それを中心に進む。最前衛はアンパサンドさん。その後ろにマティアスとフィンブル兄。スールとリディー、オイフェさんとルーシャはその後ろ。荷車の最後尾には、フィリスさんが座って、お肉を貪っている。
頭に来るほどの余裕だが。
まあこの人にとっては余裕なのだろう、これくらい。
分かるからこそ苛立つ。
隊列を組んだまま進む。中空から、翼を大きくはためかせながら、何かが降りてくる。あんな形状のレンプライア、初めて見る。
いや、レンプライアではないのか。
何か得体が知れないそれは、巨大な蚯蚓のような体にたくさんの足が生えていて、翼を持っていて。遺跡のような建物に掴まると、上を向いて何かの楽器のように鳴いた。敵意は、ないのだろうか。
距離を取ったまま急ぐ。
獣のように、仕掛けてくる訳では無い。
ふと気付く。
橋の下を見て、ルーシャがひいっと小さな悲鳴を上げる。
ぼこぼこと泡立つような、絶妙に腐敗した肉ににたピンク色の雲に。大量の目が浮かんでいて、此方を見ている。
不意に、空に口が出来た。
口から漏れているのは、何かの繰り言だ。
意味すら分からない繰り言を述べ終えると、口はげらげら笑いながら消えていった。口から見えている歯が、兎に角汚かった。
何となく分かってきた。
これは、狂気そのものだ。
お父さんの狂気なのだろうか。
いや、違うような気がする。
レンプライアではないのだろう。レンプライアは悪意。悪意と狂気は、似て非なるものだからだ。
震えるルーシャの背中を、リディーがさする。
ルーシャは、吐き戻すのを必死に堪えていたが。ぐっと顔を上げた。妹たちの前で、情けない顔は出来ないと判断したのだろう。
嬉しい。
正直心細いのだ。心がおかしくなっている今でも。
不意に耳が出てくる。
文字通りの意味だ。
耳には無数の触手が生えていて、凄まじい勢いで目の前を横切っていった。何の意味があるのか。それすらも分からない。
ほどなく橋を渡りきる。
荷車の中を確認。
さっき見た感じだと、もう少し橋を渡らなければならない。浮島を歩く。
嗚呼、覚えがある。
多分此処、最初に迷い込んだところだ。
真っ赤に染まってしまって、血だらけに見えるけれど。何となく見覚えがある。あの時は怖くて震えるしか出来なかった。
もしあの時、今の光景を見せつけられていたら。
多分そのまま廃人になっていただろう。
いきなり地面から草が伸びる。その先端には巨大な眼球がついていて、こっちをじっくり見つめてくる。
少しずつ分かってきた。
敵意がないというよりも。これは。
世界のルールがにじみ出している。
人間の精神は、狂気の薄皮の上に乗っているだけのものだ。
不思議な絵画というのは、人間の内面世界を利用して、プチ異世界を作り出す技術。
お父さんの狂気では無い。
これは多分、人間の精神が均衡を崩したときに、具体的にどういうものが現れるかを、示しているのである。
だから攻撃してこない。
アルトさんもフィリスさんも攻撃しない。
アンパサンドさんも、変なものがでる度に警戒はしているが。攻撃をしてこないので、反撃はしない。
そうなると、レンプライアは本当に、殆ど掃除されてしまっている、ということなのだろう。
さっきアルトさんが片付けたのは、数少ない生き残り。
コア以外のレンプライアは、今までこの絵に入っていたアルトさんやプラフタさんが。殆ど片付けている、と考えて良さそうだ。
そうなると、この凶悪な気配。
コアは一体一体が、それだけ強いという事か。
橋を渡っていると。
不意に、辺りが隆起して、いきなり放り出される。
腰を打つような無様はせず、すぐに受け身を取って立ち上がるが。
其所は、まるで凍り付いた湖のように。
一面の、何も無い空間が拡がっていた。
むしゃり、むしゃりと。何かを食べている音がする。
今まで散々見てきた兵士型のレンプライア。
ただし、桁外れに大きいそれが、地面を貪り喰っている。そして、その全身には、赤黒い血管のようなものが浮き上がっていて。鎧状の部分の上にまで這い回っていた。
世界を、食っている。
つまり、この世界を殺そうとしている。
瞬間的に頭が沸騰する。
フィリスさんの声がした。
「この空間を隔離したから、思う存分戦ってね。 じゃ、頑張って」
そうかそうか。
やっぱり、戦う気はゼロというわけか。アルトさんもいない。
だが、はっきりいってむしろ有り難い。リディーとスール達だけで彼奴は殺したい。
お母さんがいる、お父さんの絵を喰らうレンプライア。絶対に許さない。
アンパサンドさんがハンドサインを出すと、真っ先に突貫していく。
雄叫びを上げながら、それに続く。
五月蠅そうに体を起こした兵士型レンプライアが、此方を見る。顔面に当たる部分に巨大な一つ目。
何かしらの異形が発生していると言う事か。
それともコアになるために進化していると言う事か。
どっちにしても絶対に許さない。
アンパサンドさんが真っ先に斬りかかる。相手の反応速度も尋常ではないが。それでもアンパサンドさんは、凄まじい槍捌きをかわしきる。
代わりに割って入ったマティアスが、シールドを至近距離で展開。
シールドバッシュの要領で、相手を押し戻し。
側面に回り込んだフィンブル兄が、兵士型の脇腹にハルバードを突っ込む。
だが、残像を抉っただけ。
上空に出た兵士型が、一つ目から無数の光弾を放ってくる。
とっさにシールドを張ったリディーだが、それも数発で貫通された。ハルモニウムの杖で増幅されているのにもかかわらず、である。既に詠唱を終えていたルーシャのシールドも負荷が酷い。
冗談抜きに。今までのレンプライアとは出力が違う。
至近距離に降り立った兵士型レンプライアが、槍を振るってくるが、それを無言で動いたオイフェさんが抱え込むようにして受け止め、至近からルーシャが砲撃。直撃。だが、頭が消し飛んでも、兵士型は即時再生。其所へ、リディーが杖を振るい、魔術を発動。身体強化の魔術を展開する。
次の瞬間には、兵士型の速度を上回ったマティアスと、フィンブル兄が、交差するようにして兵士型の体をおのおのの武具で貫き。
更にアンパサンドさんが、空中機動を利用して、レンプライアの腕に集中攻撃し、斬り弾き飛ばす。
其所へ、スールが連射連射連射。
スールのための銃、スール・ザ・スターの火力は凄まじい。反動も凄まじいが、それ以上に馴染む。
徹底的に飽和攻撃を浴びせるが、それでも兵士型レンプライアは怯まず、形状を変える。触手を全身から伸ばし、周囲を薙ぎ払う。
跳び離れたところで、形態を更に変化させる兵士型。
見る間に背が伸び、腕が増え、そして十を超える武具が、不規則な軌道で降り注いで来た。
お前にだけは、絶対に負けるか。
絶叫しながら、スールは銃を連射しつつ、前衛組の援護を。リディーが、皆に支援魔術で身体能力強化を掛ける。スールの新しい杖の威力は絶大で、何倍に身体能力が跳ね上がっているか分からない程だ。
斬られても再生し、更に強くなる兵士型。砲撃を浴びせ。爆弾を放り込み。殴り、殴られ。果てしなく戦いが続くかと思ったその時。
マティアスが、フィンブル兄と頷きあうと。息を合わせて、地面を蹴る。
無数の武具がそれを迎え撃つが。
だがその時。スールが、奴の顔面に、フラムを放り込み。バトルミックスで、極限まで火力を増幅。爆破していた。
動きが止まった兵士型の全身を、瞬時にマティアスとフィンブル兄が切り刻み。怨嗟の声を上げながら、兵士型が消えていく。ボトボトと落ちる宝石。中には、双色コランダムもあった。
呼吸を整えながら顔を上げる。周囲が、橋に戻っていく。ぱちぱちと、フィリスさんが手を叩いている。
満面の笑みだ。見かけだけなら、とても可愛らしい、優しそうな笑みだ。
「よく頑張ったねー。 じゃ、次行って見ようか?」
返す言葉は無い。いずれにしても、今戦って分かったが、もう此処のレンプライア達はレンプライアの域を超え始めている。
ルーシャに促されて、レンプライアの欠片を集める。
触った瞬間、ぞわりときた。
凄まじい密度だ。
これが、悪意なのか。
悪意の具現化たるレンプライアの欠片。その濃密なものともなると、これほどの凄まじさなのか。
そして、この悪意。
何かに似ている。
そうだ。
最近身近になった、深淵そのものだ。
わずかに違う。
だが純粋に煮詰めた悪意というものは、此処までもおぞましく。そして力そのものになりうるのか。
知恵の結晶であり、煮詰まった存在が深淵だとすれば。
此処にある悪意の結晶たるレンプライアは、深淵にごく近しい存在なのではあるまいか。
手当を手早く終わらせて、すぐに先に進む。
周囲の悪夢のような光景はまるで歪んでいない。さっき戦った彼奴は尖兵にすぎないのだ。
此処の侵略を終わらせ。
此処を天国のような場所に戻すには。
まだフィリスさん達の話を信じるなら、四体。今の奴か、それ以上のを倒さなければならない。
心が燃え上がる。
この邪悪さを実感した今は。それに対して、恐怖を覚えることは無かった。
2、レンプライアの王達
両手が鎌になり、下半身が蛇のようなレンプライア。兵士型同様、今まで散々戦って来た。兵士型と同じように、おぞましいまでに巨大化したそれが、次のコアだった。
奴に辿りつく途中、大きいのが何回か仕掛けて来たが。その全てを、アルトさんかフィリスさんが、瞬く間に沈めてしまう。
露払いはしてくれている、という訳だ。
そして、「王」とも言えるレンプライアの前に出ると。
指を鳴らして、空間を隔離してしまう。
本当に、計画通り事を進めているのだと分かるし。
もう、それを隠すつもりもないのは明白だった。
地面をおぞましい咀嚼音と共に喰らっているレンプライアは、ゆっくりと振り返る。ルーシャが、生唾を飲み込んだのが分かった。
体の前面が開くようにして口になっていて。
顔に当たる部分には、無数の目が植え込まれていたからである。
悪意が凝縮されると、このような姿になるのか。
ハンドサインが出る。
今度はちょっと、さっきと戦術を変えるつもりらしい。頷くと、全員が散る。
同時に、降り下ろされたレンプライアの鎌が。
不自然すぎるほどに伸び。
地面を真っ二つに穿っていた。
更に、振り回された鎌が、ルーシャのシールドとぶつかり合い、一気に削り取って行く。
敵の腕を、アンパサンドさんが切りつけ、一気に削って行くが。
彼女が珍しく大慌てで飛び退く。
なんと、腕ごと、鎌が斬り伏せに掛かったからである。
勿論鎌は自分の腕を切断したが。
平然と切りおとされた鎌が、切断面に戻っていく。
「何だよあのリーチ!」
絶句するマティアスさん。
あの腕は伸縮自在。鎌は好き勝手に伸びる。更には再生速度も尋常では無い。早い話が、好きなところから好きなように攻撃でき、攻撃を食らっても即時回復出来るという訳だ。何処までインチキなのか。
再びハンドサインを出すと、アンパサンドさんは相手の懐に潜り込みに掛かるが、奴の動きは迅速で、ぬるりと蛇のような下半身を利用しつつ動き、体を振るって何かを撒いていく。
「下がれ!」
アンパサンドさんの言葉と同時に、突貫しかけていたフィンブル兄が足を止め、慌ててマティアスさんも下がる。
爆発。紅蓮の、いや真っ黒な炎が、辺りを舐め尽くす。
今の粉が、発火したのは明らかだ。
あの再生力の上、近接戦を封じる技まで持っているのか。リーチが長いという事を、完全に克服しているというわけだ。
スールの側に降り立ったアンパサンドさんが、若干乱暴に顔を擦る。
まずい。少なくとも、スールにはこんな奴、どうすれば攻略できるのか、さっぱり分からない。
戦意は落ちていない。此奴を殺さなければならないとは思う。
だが、それと此奴を倒す現実的な方法については話が別だ。
アンパサンドさんが難しいハンドサインをだすと、リディーが頷く。スールも内容を見て、顔をしかめたが。とにかくやるしかない。
降り下ろされる鎌。
雄叫びと共に、鎌を剣で受け止めるマティアスさん。更に、鎌を上から断ち割りに来るレンプライアだが。
フィンブルさんが、下の鎌を蹴って跳躍。
上の鎌を、迎撃にかかる。
ひゅっと鎌が引っ込んで、フィンブルさんを突き刺しにいくが。それをルーシャがシールドで防御。鎌がシールドに突き刺さる。
そして、もう一つの鎌は。降り立ちながら、フィンブルさんが。
マティアスさんと一緒に、挟むようにして、押さえ込んだ。
オイフェさんが突貫。粉を撒きはじめるレンプライア。
だが、其所へ。
スールが渾身の力を込めて、中空に躍り上がると、メテオボールを叩き込む。
更にリディーが、スールに身体能力強化の魔術を掛ける。
メテオボールの直撃で体を抉られても、レンプライアは慌てる様子が無い。躊躇無く爆破しオイフェさんを遠ざける。そして、爆炎の中、光が瞬く。
前面に開いている口から、無差別に無茶苦茶に光弾を発射してきたのだ。辺りが爆裂し、光弾の幾つかはスールにも向かってきた。
死ね。
確かにそう言われた気がした。
だが、その寸前。
相手の懐に潜り込むことに成功したアンパサンドさんが、レンプライア顔面の無数の目を、一瞬で全て潰し。飛び退く。
立て続けに爆破しようとするレンプライアだが。
させない。
光弾による爆破を突破したスール。
防御強化の魔術に、リディーが切り替えたのだ。そして、レンプライア蛇型が一瞬アンパサンドさんに注意を向けた瞬間を狙い。
至近距離から、もう一度メテオボールを。
それも上から下に向けて、全力で蹴り込んでいた。
文字通り、破裂するようにして。
蛇型レンプライアが、脳天から下半身に至るまで、膨れあがり、爆発する。
思いっきり爆発に巻き込まれたスールだが、受け身はかろうじて取る事が出来た。
呼吸を整えながら、体の傷を確認していく。
空間の隔離が解除されているのは見える。と言う事は。今のは死んだと言うことだ。ルーシャが駆け寄ってきて、薬を塗り込み始める。
無茶苦茶だと、ルーシャはアンパサンドさんを見たが。
そのアンパサンドさんも、爆発を至近で受け。相手の攻撃を見きるために真っ先に突貫して。当然傷だらけである。
ぐっと文句を飲み込んで、手当に戻る他なかった。
「はいお疲れ様。 次行って見ようか」
ぱちぱちと手を叩くフィリスさん。その背後から、上半身だけのレンプライアが音も無く襲いかかるけれど。裏拳一発で塵にしてしまう。もう弓さえ使っていない。
今の奴だって、星彩平原にいたかなり強いレンプライアを更に上回りそうな実力を感じたのに。
本当に、まだ考えられないくらい、三傑との力の差があるのだと、思い知らされてしまう。
何とか、歩けるようになった。
人間用の栄養剤を飲んで、どうにか体調を整える。ルーシャは精神力の疲弊が酷い様子なので、しばらく荷車に乗ってくれと頼み。隊列を組み直すと、先に進む。まだ、三匹残っているのだ。
荷車には無数の宝石や貴重な錬金術の素材が散らばっているが。
宝石を除くと、どうも薬草類が目立つ気がする。
これは或いは。
お父さんが、お薬専門の錬金術師だから、なのかもしれない。
この絵はお父さんの心そのものを示しているものだ。
だからこそ、此処には薬草が多いのだろうか。
ひょっとすると、だが。
究極の薬草と言われる、ドンケルハイトもあるかも知れない。
見聞院で色々調べている内に見つけた記述にあった薬草だ。今まで見てきた薬草とは違い、文字通りの神域の薬草。
邪神がいるような森や。
或いは何かしらの理由で、自然発生した森など。
ごくごく一部の、秘境としか言えないような場所にしか存在しない薬草の中の薬草。もしも見つけることができれば。
摂理を超えた回復を促す薬や。
或いは、錬金術の究極奥義とも言われる。
賢者の石を、作る事が出来るかも知れない。
呼吸を整えながら、自分の状態を確認する。メテオボールの調整もする。メテオボールは非常に頑丈で大丈夫。スール・ザ・スターにも、今のうちに弾丸を装填しておく。六連式のリボルバーであるスール・ザ・スターは大口径の拳銃で、弾丸一つずつもとても大きいが。これ以上なく手になじむので、重さはもう感じない。
また、大きめの浮島に出た。
真っ赤な泉が湧いていて、おぞましく形を歪めた魚が泳いでいる。
この絵を元に戻したら。
食べられる魚に戻るのだろうか。
真っ黒になってしまったら取り返しがつかない、という話は聞いているが。この絵はまだ真っ黒にはなっていない。
レンプライアはまだ好き勝手をしきってはいないということだ。
アンパサンドさんが足を止める。
皆、それにあわせてぴたりと止まった。
何か、植物が絡まり合って、蠢いている。
何となく、それが冒涜的なものだと分かって、スールは反射的に植物を撃ち抜いていた。あれは尋常な木ではないし。許されるべきものでもない。
撃ち抜かれた植物は、一瞬でバラバラになり。
薔薇の花のような赤い花びらをまき散らしつつ。けたけた笑いながら、空に溶けて消えていった。
怒りが、膨れあがる。
だが、リディーに手を握られて。それで、少し落ち着いた。
どこまで、この絵を汚せば気が済むのか。
アンパサンドさんは、油断なくまだ周囲を見ている。どうも嫌な予感がする様子だ。それは、すぐに現実となった。
空間が、割れる。
そして、其所から、何か巨大な目が、此方を覗いている。
ずるりと、落ちてくる塊。
それは、球体型の。
レンプライアとしては一番弱い。外でよく見かける獣、ぷにぷにに似たものだった。ただし、今ずるりと落ちてきたのは、文字通り桁外れの大きさだったが。
不定形のそれは地面で形を変えると、お母さんを侮辱したような姿の人型を、頭の上に作る。
多分この絵の中枢が、お母さんの残留思念だという事。
それを今、レンプライアが食い荒らしていることの証左なのだろうが。
頭が瞬間沸騰しそうになる。
指を鳴らすフィリスさん。
此奴が、三匹目か。
すっと、アンパサンドさんが、手を横に出す。
どうして。叫びたくなったが。アンパサンドさん自身が、ゆっくり前に出る。冷静さを欠くものを、初見殺し技を持つ可能性が高い相手に、突貫させるわけにはいかない。それを察して、スールは歯がみした。
その通りだ。
だが、此処は。突貫させて欲しかった。
アンパサンドさんがかき消える。
同時に、辺りの空間が歪み。無数の笑い声と共に、白い手がどこからともなく伸びてきた。それらの全てには拳銃が握られていて。
そして、一斉に発射される。
此処まで、お母さんを冒涜した戦い方をするのか。
「連携を崩すためだよ!」
リディーが叫ぶ。
シールドを張る。
やはり敵の攻撃の出力が高い。シールドが見る間に消耗していく。マティアスさんも、シールドを展開して、二重に守りを固めるが。
これはいつまでもつかわからない。
アンパサンドさんは、残像をたくさん作りながら、敵の至近にゆっくり近付いていき。そして、歪んだお母さんのような像を、滅多切りにする。
鮮血が噴き出して。
お母さんの声のような、しかし確実に違う絶叫があがった。
りでぃー。すーる。
声が聞こえる。
たすけておくれ。いたくてかなわないよ。
そんな声がする。
頭の中に、ガンガンと響く。此奴は、火力そのものは大した事がないが、精神攻撃に特化している、というわけか。
いや、違う。
耳を塞いで、必死に目を閉じて耐えていたスールが顔を上げると。ルーシャも加わって、シールドを張るのが見えた。
そして、凄まじい太さの魔力砲を、レンプライアがぶっ放すのが見える。
マティアスさんも加わって、三人がかりでのシールドが、相討ちになって吹っ飛ばされる。
だが、その時には、既に。
オイフェさんと、フィンブル兄が。アンパサンドさんと一緒になって、レンプライア本体の体に切りつけ、そして拳を叩き込んでいた。
アンパサンドさんはどうしても火力がたりない。
だが、接近戦に無理矢理持ち込み、追い詰めることによって、切り札を引きだした。
手の内さえ分かってしまえば、もうどうしようもない。
おかあさんを馬鹿にしたこと。
後悔させてやる。
リディーが防御強化の魔術を掛けてくれる。スールは突貫しながら、銃を乱射。全ての弾丸を直撃させ、総攻撃にあって崩れている相手の。崩れかけたお母さんらしき像に、全力で飛び膝を叩き込んでいた。
ひどいよすーる。
なんでおかあさんにそんなことを。
そんなおぞましい言葉に、スールは吠え返していた。
「お母さんは最高の騎士で戦士だったんだッ! お母さんがそんな泣き言言うかあッ!」
ありったけの弾丸を、至近から叩き込む。
悲鳴を上げながら。
冒涜の権化は、消滅していった。
アンパサンドさんが有無を言わず撤退を一旦指示。従うしかない。だが、今日中に勝負も付ける。
ここ数日動けずにいた分、お薬や爆弾などの物資は豊富にある。
後二回、あの腐れ忌々しいレンプライアの巨魁を仕留めるには充分な筈だ。
応接室で、一旦休憩にする。
その間に、手当を済ませる。
フィンブル兄が、声を掛けて来た。
「スー。 怒りを抑えろ。 勝てる戦いにも勝てなくなる」
「ごめん、フィンブル兄。 その通りだけれど。 お母さんや、お父さんの絵を馬鹿にされているのを見ると、どうしても」
「……気持ちは大いに分かる」
「ありがとう。 それと、ごめん」
唇を噛む。
さっきのような奴がまた出てきたら、やっぱり精神が沸騰するのは避けられないと思う。
相手は悪意の塊だが、多分リディーとスールをピンポイントで狙って来ている訳ではないと思う。
絵のコアになっているお母さんの残留思念が、それだけ危険な状態だ、という事である。
レンプライアに侵食され。
そして、リディーやスールの名前がレンプライアの口から出てくるような状況である。安全なはずがない。
フィリスさんが取りだしたのは、何かおぞましい色をした薬だった。
有無を言わさず、ルーシャに飲ませる。
抵抗しようとしたルーシャだが、耳元に何か囁かれると。真っ青になって、抵抗せず受け入れる。
嗚呼。
やっぱりルーシャは、リディーとスールが知らないところで、酷い目に。本当に酷い目にあわされているんだ。
そう思うと、悲しくてならない。
咳き込んでいるルーシャに、リディーが聞く。
「大丈夫?」
「大丈夫、ですわ。 酷い味……」
「精神力回復のお薬だよ。 味だけで副作用を抑えているんだから、感謝して貰わないとね」
「……」
フィリスさんの話によると、本来は肉体の方に多大な負荷を掛けるという。それを改良して、味は酷いが精神力を回復し、肉体に負荷を掛けないように調整してあるものなのだとか。
「コスパを考えなくてもいいなら、肉体も精神も回復するお薬は作れるんだけれど、それをホイホイ出すわけにはいかないかなー」
「……ありがとうございます。 助かりましたわ」
「んーん」
明らかに愉悦に満ちているフィリスさんの目。
この人も、壊れてしまった被害者で。
いずれリディーもスールもこうなるんだ。
まだ残っている心が、激しい抵抗をしているのが分かるが。もうそれも、近いうちになくなるだろう。
しばしの休憩の後。
また、天海の花園に入る。
さっき、あの冒涜的なレンプライアがいたところまで進む。五分の三は片付けた筈なのに、周囲が変わる気配がない。
騙されているのだろうか。
いや、そうは思えない。今までも、レンプライアを倒せば倒すほど、その不思議な絵が過ごしやすくなるのは実感できていた。
レンプライアは定期的に湧くようだけれども。
それはそれで、駆除さえすれば抑えられるのも分かってはいる。
だから、多分だが。
一番奥にいる、一番強い奴を倒しさえすれば。
この絵は、元に戻るはずだ。
しかしこの有様、まるで地獄ではないのか。前に入ったときは、天国のような絵だったのに。
悪意によって、こうも世界というのは変わるのか。
いや、何か違うような気がする。
本当に悪意によって変わっているのか。
階段に出た。
ずっとずっと、高くへ登っている階段だ。
赤黒い空へ伸びる階段は。
まるで地獄の底へ通じているかのようで。
上下が逆になっていて。
自分が、上がっているのではなく、下がっているのではないかと錯覚させるほどに、おぞましかった。
荷車については問題ない。
この程度の階段だったら、余裕を持ってついてきてくれる程度の踏破性は持っている。そうでなければ、外に持ち出せない。
階段の左右には、生首のようなものがたくさん飛び交っていて。
それは恐らく、お父さんが今まで見てきた人の顔なのだろうと思った。
いずれも歪んでいて。
けたけたと笑っている。
耳を塞ぎたくなるような、汚い言葉も飛び交っていた。
「あの錬金術師、騎士とくっついたらしいぞ」
「王宮も必死だな。 無能な王のせいで王都が危ないから、少しでも戦力を補強したいのは分かるが、よりにもよって錬金術師との政略結婚とは。 有望な騎士であるらしいのに、可哀想になあ」
「何、体の相性が良ければ大丈夫であろう。 所詮は戦いの事しかしらぬ猪よ。 我等が手綱を取っておれば大丈夫だろう」
「後は適当な所であの無能王が退位してくれれば理想的だ。 残った王族は姉も弟もどちらもまだ子供。 掌握するのは容易かろう」
不意に、好き勝手をほざいていた生首共が真っ二つになる。
どうやら、堪忍ならなくなったマティアスが、斬り伏せたらしい。
げたげた笑いながら消える生首。
そうか、マティアスでさえ、今のは看過できなかったか。
「すまん、リディー、スー。 彼奴らの顔見覚えがあってな。 昔、姉貴の後ろ盾になってくれた深淵の者の幹部に粛正された役人だ。 俺様を担ぎ出して、傀儡の王に仕立てようとしていた連中だ。 今はどっちも左遷されて地方で厳しい監視を受けながら事務作業を細々とやってる」
「気にしていないよ、あんなの」
「……」
「此処にその姿が出てくるって事は、お父さんが今の会話聞いてたんだろうね。 お父さんの方がもっと苦しかったと思う」
深淵の者も、ソフィーさんが食客として加わるまでは、大局は動かしていたものの、其所まで細部にいたるまでの影響力を持っていなかったと聞いている。
匪賊が世界から大量に消えたのも、比較的最近の話だという。
分かってはいるのだ。
どれだけリディーとスールに非人道的な事をしていても。
ソフィーさんが、世界にどれだけの良い影響を与えているかは。
世界の詰みを打開しようとしているのも本当だろう。
二十万回以上も世界の終わりまで繰り返して、億年単位で試行錯誤をしているというのも。
だからこそ、だからこそだ。
その圧倒的な力に踏みつぶされる人もいるし。
世界そのものである「みんな」をどうにかしなければならない。
「みんな」の心こそ、この醜悪な世界。
レンプライアは悪意と言うよりも。
むしろ、人の心が形になったもの。
人の心の美しい部分がこの不思議な絵画を作っているのであって。
普遍的平均的な心が、レンプライアとなって。
あの邪悪な行動を、平然と口から垂れ流しているのではないのだろうか。
あくまでスールの推察だ。
それが事実なのかは。
まだ理解するには、力が足りない。
階段を上がりきる。
長い階段だったが、疲労は殆ど覚えていない。むしろ、体調そのものは少し良くなっている。
体にたくさんつけている、錬金術装備。それもハルモニウム製のおかげだろう。回復力が、疲弊を上回っているのだ。
周囲を見回すアンパサンドさん。
かなり広い空間に出た。
中央には、おぞましい真っ赤な池がある。数体の大型レンプライアがいたが、フィリスさんが紙屑でも引きちぎるように、矢を放って粉々にしてしまった。
気配が伝わってくる。
多分、いる。此処に、四匹目がいると判断して良いだろう。だが、何処だ。アンパサンドさんが、目を細めた。
どうやら見つけたらしい。
「接近戦は厳禁なのです」
「!」
そうか、あの鎧の奴か。
周囲に常にかまいたちを纏って、近付くとそれだけで傷つけられてしまう。空も飛ぶ厄介なレンプライアだ。
だが、何処にいる。
アンパサンドさんが、走れと絶叫。それで理解した。平原の真ん中に向け、走る。同時に、階段を追い越すようにして、巨大な鎧レンプライアが姿を見せる。
此奴が。四匹目か。
フィリスさんとアルトさんにかまいたちを放って攻撃を仕掛けた鎧レンプライアだが。二人がかき消えて、レンプライアとの位置がずれる。
ああ、時間を操作したな。或いは空間も。
そう思った次の瞬間には。
フィリスさんが指を鳴らして。
隔離空間に飛ばされていた。
うなりながら、鎧レンプライアが振り返る。
その全身には、禍々しい黒い風が纏わり付いていて。兜の中には、無数の光が宿っていた。
鎧そのものも禍々しく。
プレートメイルというよりも、もはや全身から棘が生えていて、何か得体が知れない異物にしか思えなかった。
翼も二対ある。
その翼を凄まじい高速で羽ばたかせながら、ホバリングしている鎧レンプライアは。
奇声を突如上げた。
シールドを念のためにリディーが展開していなかったら、それだけで全滅していたかも知れない。
辺りが、いきなり破裂する。
そう、内側からいきなり炸裂したのだ。地面も、その辺りにある石も。
人間があんなものを喰らったら、どうなるのかは想像もしたくない。
かといって、接近もできない。
遠距離だと、広域攻撃を躊躇無くぶっ放してくるだろうし。しかもあの鎧、凄まじいまでに頑強なのだ。
砲撃を当てるにしても、あの動き。
当たってくれるかどうか。
また、奇声を上げる鎧レンプライア。
シールドの負荷も大きい。
魔術で内側から爆破しているのか。
それとも、何か他の方法なのか。
解析している余裕は無い。ともかく、一気に仕留めるしかない。
一瞬だけ、時間を稼ぐ。
ハンドサインを出すと、アンパサンドさんがかき消える。頷くと、フィンブル兄も、少しだけ遅れて、心底いやそうな顔をしながら、マティアスが続く。突貫しながら、アンパサンドさんが投擲したナイフ。
見事に、兜の中に吸い込まれる。
しかし実体があるかは微妙なようで、兜を貫通したらしいナイフだが、ほんの一瞬だけレンプライアが驚いただけだ。
続けてフィンブル兄が、ハルバードを。
踏み込みながら、マティアスが剣を投擲。
どっちもハルモニウム製の刃だ。
いずれもが、見事に鎧レンプライアの黒い風を引き裂き、体に突き刺さっていた。
だが、それでも、間に合わない。
ルーシャが詠唱を続け、リディーが魔術の威力を増幅させる魔術をルーシャに展開。更に、スールが、中空に躍り出て、メテオボールを叩き込む体勢に入るが。
その次の瞬間には。
奇声を放とうと、鎧レンプライアが体を傾ける。
だが、かなわなかった。
オイフェさんが音も無く突貫し。
体をズタズタに引き裂かれるのも躊躇せず、鎧レンプライアに渾身の蹴りを叩き込んでいたからである。
吹っ飛ばされ、地面に叩き付けられ、二度バウンドするオイフェさん。
もう、時間はない。
雄叫びを上げながら、スールがメテオボールを蹴り込む。空気の壁を五枚ぶち抜いて、鎧レンプライアに直撃。
更に、ルーシャが拡張肉体も全部展開して、傘から全力での砲撃。
二つの大火力攻撃を受けて、鎧レンプライアが殆ど消し飛ぶが、まだわずかに一部が残り、見る間に黒い風を纏って、再生していく。
だが、今の蹴りの反動を使って上空に躍り出たスールが。
そのまま、束にしたオリフラムを放り込み。更にバトルミックスで火力を極限まで上げていた。
鎧が、文字通り。
超高熱で、融解するのが見えた。
爆裂し、何もかもが消し飛ぶ。鎧レンプライアから宝石もこぼれ落ちたようだが、灼熱の地面に飲み込まれてしまい、回収は出来そうに無かった。
着地。
すぐにオイフェさんに駆け寄る。隔離空間が消滅していく。リディーが、冷静に状態を確認。
手酷い傷だ。
すぐに薬を塗り込んでいく。一部は内臓がはみ出していたが、消毒して縫い合わせる。アンパサンドさんが、てきぱきと手当の補助をしてくれる。その間、フィンブル兄とマティアスは、周囲の警戒。ルーシャは、回復の魔術をずっと、全力でオイフェさんにかけ続けていた。
呼吸を整えながら、リディーが言う。
「撤退する? オイフェさん、これ数日は絶対安静だよ」
「……っ」
スールは、唇を噛む。
これは、駄目だ。
もう猶予時間がない。オイフェさんが動けないのも事実。つまり次の戦いは、戦力が減った状態でやらなければならない。
フィリスさんは、石に座って、によによと笑いながら此方を見ている。どう判断するか、興味深いと考えている様子だ。
深淵に落ちるというのは。
此処まで人を壊すのか。
リアーネさんや、ツヴァイから、昔のフィリスさんの話は聞いた。
ちょっと憶病だったけれど優しくて。不正を許せない心と勇気も持っていて。心は少し不安定だったけれど、それでも。
今の、深淵そのものの。完全に壊れた人では無かった。
オイフェさんが目を開ける。
何とか応急処置は済んだ。しかしこれは動ける状態にない。もう一度、撤退するかと、リディーが聞いてくる。
アンパサンドさんは咳払いした。
「猶予期間がないのは事実。 そして残るは一体。 此処で撤退すると、恐らくその一体は今よりも更に強大化しているのは確実なのです。 絵を元に戻すつもりならば、今しか好機はないのです」
「……」
「行きましょう」
ルーシャが言う。
震えながらも、オイフェさんを担いで、荷車に乗せる。
そして、きっと、アルトさんと。そして、岩に座って様子見しているフィリスさんを見た。
「オイフェを頼めますか」
「僕はかまわないが……物資は平気かい?」
「なんとでもしますわ」
「ふうん」
アルトさんは、頷いてくれる。フィリスさんは、岩に座っていたと思うのに。いつの間にか、側にいて。
そして、オイフェさんに触って、診察をしていた。
「ふむ、命に別状は無し、と。 まあ、此方は判断を任せるよ。 ただ、言っておくけれど、次の探索を判断した場合、途中にいる大型レンプライアを処理出来るかは分からないけれど」
「どういうことですか」
「人数が揃わないって事だよ。 今アダレットの王位継承関連で大変な事になっているのは、皆知っているでしょ?」
その通りだ。
そもそも、此処にこの面子が集まれているだけでもおかしい。王城に入るときにだって、いつも以上の時間が掛かった程なのだ。
「ま、好きに選ぶと良いんじゃないのかな」
「やはり行きましょう、リディー、スー」
「ルーシャ、いいの」
「……はい」
ルーシャが、何度も顔を拭っている。
凄まじい怒りと哀しみを感じる。それを受けても、何とも思わないフィリスさんの冷酷さも分かる。
その冷酷さが必要な事も。
リディーは、頷いた。
「分かったよ。 フィリスさん、アルトさん。 最後まで行きます。 お母さんを、一刻も早く解放してあげないと」
「了解、と」
フィリスさんが視線で示す。
更に階段が続いていて。
高い所に、なにか家屋のようなものが見える。そして、その家屋の正体を知って、スールは思わず、ああそうだろうなと呟いていた。
遠くからでも分かる。
あれは、うちだ。
3、冒涜の家
荷車の一つをアルトさんに譲り。其方でオイフェさんを預かって貰う。階段を黙々と上ると。
薔薇園にでた。
見た感じ、地獄のような赤に染まっていなければ、さぞや美しい薔薇園なのだろうと分かる。
周囲にはみずみずしい果実が実っているだろう木や。
美しい草花も茂っていた。
勿論今は、地獄そのものの赤に染まっていて。
醜く歪んで、グロテスクなまでに狂っていたが。
恐らく、最後のは。
家にいる。
ルーシャも、リディーとスールの家だと悟ったらしく。口を閉ざして、拳を固めている。此処を陵辱するなんて許せない。
そう思っているのだろう。
だけれども、そもそもレンプライアとは何なのか。
意思があるようにも思えない。
悪意というなら、相応の知能を持っていそうなのに。とてもそうだとは思えないのである。
やはりこれこそが普遍的な、普通の人間の思考そのものだ。
その仮説は、どんどんスールの中で強くなって行く。
ほどなく、アンパサンドさんが足を止める。
「此方に気付いたようなのです」
「今までのパターンから考えると、あの下半身がないデカイ奴か?」
「恐らくは」
マティアスの問いに、アンパサンドさんが頷く。
殆ど同時にフィリスさんが指を鳴らして、空間を隔離する。
此奴を倒せば。この世界は元に戻る。
そう言い聞かせながら、深呼吸する。
だが、その冷静さは吹き飛びそうになる。
現れたのは、確かにいつものとは比較にならない程巨大な、下半身がないレンプライア。それも頭にごてごて装飾がついている手強い奴。
そいつは、腹の中に家を抱え込み。
そして、その中に、意識がないお母さんの姿が見えたのだ。
お母さんの姿は、肖像画で知っている。
だからこそ、お母さんの事は分かる。
ずっと会いたかった。
ずっと話をしたかった。
もう死んでしまっていることは分かるけれど。残留思念があるのなら、話を一回でもいいからしたかった。
それなのに。それだというのに。この仕打ちだというのか。
今までにないほどの怒りが、心の中で燃え上がり。
その次の瞬間。
ふつりと、何かが切れた。
そして、心が驚くほど静かになった。
ハンドサインを見る。基本的に、いつもと同じだ。相手に攻撃をさせず、削りきる。おなかの中にある家とお母さんは傷つけないで、外側だけを剥がす。頷くと、恐ろしい程静かな心で、スールは走り出す。
腕を振り上げる巨大レンプライア。
だが、降り下ろさない。
振り上げただけで、周囲の地面が隆起し。
そして、杭のように尖った岩が、無数に突きだしたのである。
とうとう、腕を振り上げると言うだけで。
こんな広域魔術を発動できるようになっているのか。
それだけじゃあない。
かろうじて、今の一撃で吹っ飛ばされつつも、何とか無事だったスールが見たのは。上空から降り注いでくる無数の拳だった。
まさか、あれ全部が。
地面に直撃して攻撃しつつ、同時に魔術を発動するのか。
まずい。守勢に回ったら死ぬ。
有無を言わさず、オリフラムをまとめて放り込み、バトルミックスで最大火力で爆破する。相手は多少揺らぐが、シールドが今の一撃を防ぎつつ。
そして、次の瞬間には。
無数の拳が、地面に突き刺さっていた。
吹っ飛ばされる。
滅茶苦茶に叩きのめされ、地面に打ち付けられる。
やはりだ。
拳が地面に突き刺さると、周囲に衝撃波を発生させるらしい。一発でも地面に届かせると、もうまともに身動きできなくなる。
相手の動きが鈍る。
今、バトルミックスを叩き込んだ位置に。
マティアスが渾身の一撃を叩き込んだのである。更に、一瞬遅れてフィンブル兄も。
二人の一撃が、レンプライアの顔面に突き刺さる。
叫びながら、更に腕を振り上げようとするレンプライアだが。
今度はさせない。
アンパサンドさんが、腕の関節を狙って、数百回、或いはもっとか。空中機動を利用して、凄まじい斬撃を叩き込む。
一撃一撃は軽くても、ハルモニウムの刃だ。
レンプライアの腕が、見る間に削られ、関節が揺らぐ。
全身から魔力を放とうとするレンプライア。
其所に、ルーシャが全力での砲撃を叩き込む。
見ると血だらけで、立っているのもやっとという様子だが。
残った最後の力を全てつぎ込んでくれた様子だ。
それならば。
負けられない。
立ち上がると、冷静に見極める。
相手にインファイトを挑んでいるアンパサンドさんと、一旦跳び離れて次の攻撃機会を狙っているマティアスさんとフィンブル兄。
リディーはアンパサンドさんに身体能力強化の魔術を展開中。
ならば、スールがするべき事は。
メテオボールを取りだす。
纏わり付かれて鬱陶しそうにしているレンプライアが、吠える。
それだけで、上空からまた無数の拳が降ってくる。
次にあれを着弾させたら終わりだ。少なくとも、完全に魔力を使い果たしているルーシャは死ぬ。
そんな事。
絶対にさせない。
中空に躍り出ると。
さっきルーシャが砲撃した場所に。
寸分の狂いもなく。完璧に制御して。
渾身のメテオボールを叩き込む。
足に凄まじい負荷が掛かったのが分かったが、そんな事はそれこそどうでもいい。全魔力、全体力を注ぎ込んで、渾身の一撃をぶち込む。
フィニッシャーとして、バトルミックスは使えない。
彼奴の体そのものを消し飛ばしてしまう。そうなったら、多分この不思議な絵の世界そのものが崩壊する。
お母さんは消滅し。
理想のうちだって消し飛んでしまうだろう。
させるものか。
うなりを上げ、真っ赤に燃え上がりながら飛ぶメテオボールは。空気を蹴散らしながら、再びシールドを張ったレンプライアに直撃。一瞬の均衡の後、レンプライアのシールドをぶち抜いて、頭を木っ端みじんに消し飛ばす。
同時にスールは、空から降り注ぐ拳の直撃を受け、更に杭だらけの地面に叩き付けられていた。
いや、違う。
串刺しになったと思ったが、違った。
フィンブル兄が、抱えて飛び下がっていた。
「王子っ!」
「応っ!」
見える。
着地したマティアスが、深く腰を落とし、剣を鞘に収めて構えを取る。
確か鞘の中で刃を走らせて、加速させる技術。
相手の守りが弱いときにしか使えない剣術だと聞いているが。
今なら、出来る筈だ。
渾身の一撃を、踏み込みながら繰り出すマティアス。
綺麗に、巨大レンプライアめの左半身が消し飛ぶ。
更に、アンパサンドさんが、それにあわせて突貫。
さっきまで、執拗に攻撃を浴びせていた敵関節部へ更に攻撃を集中。一気に切り飛ばしていた。
揺らぎながらも、更に悪あがきをするレンプライア。
頭も左半身も右腕も失いながら、更に形態を変化させようとする。
そこへ、リディーが飛び出す。スールも、震えながら。
鍛冶屋の親父さんに貰った弾丸を、装填する。
ハルモニウム弾だ。
もう、マティアスも、アンパサンドさんも、フィンブル兄も、動ける状態じゃない。拳も、着弾寸前。
構えると、放つ。
リディーが、地面に手を突き。
巨大レンプライアの全身に、シールドを展開。動きを阻害。
そして、スールが放った弾丸が着弾する瞬間。
その位置だけを、シールド解除した。
今の杖が無ければ。
とてもではないが、出来ない妙技であっただろう。
いずれにしても、再生しようとする巨大レンプライアの中に飛び込んだハルモニウム弾は。
相手の体内で無茶苦茶に跳弾し。
絶叫する巨大レンプライアの体を、完膚無きまでに粉砕した。
家は。
お母さんは。
ぼろぼろになっている家は見える。
嗚呼。
でも、お母さんさえ無事なら。
そのスールの願いを嘲笑うように、凝縮したレンプライアが、家を押し潰そうと全力で残った力を収束させていくのが分かる。
否。
この世界のコアを食おうと。
お母さんを守っている家を、押し潰し食い潰そうとしているのだ。
リディーがシールドを全解除。
空から降り注ぎつつあった拳は消えているが。もうスールは動けない。魔力のひとかけらも残っていない。
ルーシャも倒れている。意識がない。
皆傷だらけの中、リディーは足を引きずりながら巨大レンプライアの元に歩いて行くと。杖を振るって、レンプライアの体を、粉砕。振り抜き、吹き飛ばす。横殴りに、抉り飛ばす。
黒い肉塊が飛び散り、その度にレンプライアが悲鳴を上げる。
レンプライアが集まり、魔法陣を出現させる。
リディーを杭で貫こうというのだろう。
だが、それこそリディーの待った瞬間だった。
露出した家に手を突くと。
リディーは、シールドを展開。自分をシールドの外に、家を無理矢理隔離したのである。これが、決定打になった。
絶叫しながら溶け消えていく巨大レンプライア。
だが、最後の仕返しとばかりに、リディーに対して、しっかり魔術は発動していく。
リディーの体を抉りながら、中空に吹っ飛ばす杭。
地面に受け身も取れず叩き付けられたリディーは、身動きしない。
けたけた。
笑いが聞こえてくる。
くだらぬ。
妄想によって作り出されたこのような家。
命を賭けて守る価値などあろうか。
気持ちが悪い。ああ気持ちが悪い。
自分の殻に閉じこもって、自分の理想の中だけに天国を作って。それで満足しているただの気色が悪い輩。
気持ち悪いお前に生きる権利なんぞない。
存在するだけで不愉快だから消えろ。
げたげた。
笑いが、徐々に収まっていく。ほどなく、空間隔離が解除されるのが分かった。
ぼんやりと、戦いの後を見やる。
少しずつ、世界から赤が消えていく。
血に塗れていた世界が。
少しずつ優しい色彩に戻っていく。
そう、最初にこの絵に入った時の色彩に。
今の言葉で確信できた。
やはりレンプライアは。
「みんな」が普通に持っている心そのものだ。見た目が気持ち悪いから迫害して良い。見た目が気に入らないから殺して良い。相手が気持ち悪いから何をしても良い。そう考え、そして自分の思考にあわない相手に対しては徹底的な攻撃を繰り返す「みんな」。
昔、自分がそうだった。
誰の心にもあるそれが。レンプライアとなって、不思議な絵画に湧き。
美しい心の上澄みによって作られた不思議な世界を食い荒らしていくのだ。
絵の上っ面だけ見て、それで素晴らしいとか感動して見せる輩は。
その絵に込められたその人の願いなんてそれこそどうでもいい。
どれだけの技巧が込められていようと、どれだけの愛情が込められていようと、どうでもいいのが「みんな」だ。
そしてそれを正当化さえする。
故に、「みんな」と一緒になってはいけない。
人間という生物は、すべからくして。
そこまで考えたところで、意識が途切れた。
暗闇の中に落ちたスールは、みんなという存在を、心の底から呪い抜いていた。過去の自分も含めて。
意識が戻る。
フィリスさんとアルトさんが手当をしてくれたらしい。まだ少し体は痛むけれど、欠損はしていないようだった。少しずつ、体の状態を確認する。見張りに立ってくれているアルトさんと、アンパサンドさんの姿が見えた。
アンパサンドさんだって、相当に無理をした筈なのに。
それに、どうして絵から出なかったのか。
考えながら、何とか体を起こそうとして、二度失敗し。三度目で、側にあった荷車を掴んで、やっと起き上がることが出来た。半身だけだが。
リディーとルーシャ、フィンブル兄が寝かされている。多分消耗がひどすぎて、まだ目を覚ましていないのだろう。魔力を見る感じ、みな生きている。致命的な打撃も受けていない様子だ。
リディーは、最後の敵の攻撃で、体を抉られていたような気がするが。
多分フィリスさんが、その辺りどうにかしてくれたのだろう。
いずれにしても、生きているし。容体も安定しているのが分かった。
オイフェさんが歩いて来て。
アンパサンドさんに報告している。
殆ど彼女の声は聞くことが無いのだが。
今日は普通に聞こえた。
多分、耳が研ぎ澄まされているから、だろう。
「周囲にレンプライア確認できません」
「了解したのです。 少し休んでいるのです」
「はい」
荷車の影に座り込み、休みはじめるオイフェさん。いつの間にか、側でフィリスさんが、此方を覗いていた。
「よかったねえ、間に合って」
「フィリスさん」
「んー?」
「助けてくれて、ありがとうございます」
最初に礼は言いたかった。
フィリスさんは、にんまりと笑み、続けろと促した。
「お母さんは無事ですか?」
「ああ、それは大丈夫。 無事じゃなかったら、この絵の世界は崩壊しているからね」
「話したいです」
「駄目。 廻りの損害、見て分からない? それに修復が必要だから、それが終わってからかな」
やはりコアにまで侵食されていたことで、この不思議な絵の世界は、回復力を超えたダメージを受けているという。
調査してレンプライアを全て駆除した後。
一旦絵を出て、お父さんに修復を頼むのだとか。
修復が終わった後、またレンプライアは湧くが。しかしながら、根本的な処置が終わった後だ。
それほど強力なのはでないだろうと。フィリスさんは言う。
だが、目が笑っている。
嘘だなと、スールは判断していた。
まだ何か、この絵を人質にするつもりに違いない。
もっとリディーとスールを成長させるために。追い込んで、徹底的に地獄をねじりこんで。
全ての力を引き出させ。
世界の詰みを打開するためだ。
唇を引き結んだスールを見て、フィリスさんは可愛い笑みを浮かべている。分かりきっていると、表情が告げている。
ほどなく、皆が目を覚まし始める。
スールも、何とか立ち上がり、周囲を見回した。
彼方此方酷く傷ついているが。
美しい薔薇が咲き誇り。
澄んだ泉には魚が気持ちよさそうに泳いでいる。
風は優しく。
そして雲が空に。青空を汚さない程度に浮かび。
遺跡のような建物は白磁の美しさを、緑を汚さない程度に慎ましく点々と存在している。最初に入った時と同じだ。
此処は、楽園に戻った。
完全な楽園など存在しない事など分かっている。だけれども、それでもいい。此処に限定的であっても。楽園は存在している。それでいいのだ。
ふと、気付く。
美しい花が落ちている。
これは、恐らく間違いない。ドンケルハイトだ。
みずみずしい赤い花は。ただ一つだけ。巨大レンプライアが残していったのだろう。深淵からもたらされた秘宝。
コルネリア商会で、増やして貰おう。
涙が出る。
どうしてだろう。
あの時、ふつりと何かが切れてから。もう、感情は消えて無くなったと思った。というか、今も現在進行形で、どんどん何かが削り取られているのが分かる。それでも、この花は尊いと思った。
目を擦る。
そして、皆と一緒に、一度絵を出る。
お父さんが、エントランスにいた。まだやっと動ける状態になったばかりのリディーとスール、他の皆を見て、申し訳なさそうにした。
フィリスさんが、笑顔のまま言う。
「それでは、再修復よろしく」
「……分かった」
お父さんは、反論も、恨み事も口にはしなかった。
ルーシャに、ドンケルハイトが手に入ったことを告げる。勿論コルネリア商会に登録して、増やして利用するのだ。
目を見開いたルーシャに、笑顔を作る。
「ありがとう。 ルーシャがいなければ、きっとお母さんを助けられなかった」
「……スール。 もう、手遅れですのね」
「多分……」
「わたくしが、不甲斐ないばかりに」
顔をくしゃくしゃにするルーシャ。
でも、彼女に責任は無い。
責任があるのだとすれば。
限りなく全能に近い、この宇宙そのものでもどうにも出来ない程愚かな。「みんな」そのものだ。
レンプライアがぼろぼろ零していたあの言葉。正に「みんな」の本音そのものだったではないか。
いつでも自分より下に置ける存在を探し。
そして見つけ出したら嬉々として殴る。そして自分を常に正当化し、間違っているとは微塵も考えない。
スールもそうだった。
だからこそ、スールは。
「みんな」を選別しなければならない。
リディーは、「みんな」を変革しようとしているようだが。
それとは方法論が違ってくる。
これからは、具体的にどうやってそれを為すかだ。
ソフィーさんと協力はしなければならないだろう。だが、走狗になるつもりは無い。多分、それについてはフィリスさんもイル師匠も同じの筈だ。
やっと、スールはスタート地点に立った。
それを今感じている。
リディーも同じだろう。
アトリエに引き上げてから、後は無心に眠る。
丸一日。
二人とも、目覚めることは無かった。
4、即位に向けて
ドアをノックする音がする。
もう昼近くだ。
起きだして、何とかドアに向かい開けると。アンパサンドさんだった。アンパサンドさんも、疲れが取れきっていないように見えるが。それでも、スールを見て、小さく嘆息した。
「ドアを開けるなら、もう少ししっかりした格好をするのです」
「……ごめんなさい」
「さっそく、国からの仕事なのですよ」
頷く。
リディーも起きだしてきたので。二人ともパジャマ姿のまま、話を聞く。
スクロールを受け取る。
スクロール自体はいつも受け取っているが。これは使っている紙からしても、相当な高品質なものだ。
余程の依頼と見て良いだろう。
「ええと、王冠の作成……!?」
「中で話すのです」
アンパサンドさんがドアを閉じ。
そして、家の中で話す。リディーが杖を取ってきて、魔術を展開。家を遮音フィールドで覆った。
ソフィーさん達のような規格外には無力でも。
それでも、普通の人に聞かせられる話では無い。シールドは張らなければならない。
「先代王、つまり庭園王が崩御したことは知っていると思うのです」
「はい。 マティアスさんに聞きましたし、それでお城も色々大変そうでしたし」
「……先代王がこの国で為した悪行の数々はわざわざ数えるまでもないのですけれども、その中の一つ。 歴代に伝わっていた王冠を、「美しくない」という理由で廃棄したというものがあるのです」
まあ正直な話、王冠なんぞどうでもいいと思うのだが。
話によると、その王冠、高純度のプラティーンで作られていた国宝であったらしく。それを美意識から廃棄した(それも海に捨てさせたらしい)先代王の行動は、褒められたものではないだろう。
「デザインは此方で。 素材は、ハルモニウムで。 鍛冶屋には頼まず、加工をして欲しいのです」
「ハルモニウム製……」
「元々の王冠は、アダレット創設の時期に作られたもので、王権の象徴だったものなのです。 先代王の作った黄金製の悪趣味な王冠よりは、武の国の王冠として、ハルモニウム製の方が好ましいのです」
確かに、それはある。
そしてレシピを見る限り、自動でシールドを展開する魔法陣も刻まれている。
王冠としても、兜に近いデザインで。武の国の主が被るのに相応しい代物だろう。
頷く。
ハルモニウムを装備品に加工するのは前からやっていたし。それに、更に力がついた今、もう少し基幹とするハルモニウムのインゴットの質を上げて欲しい。
報奨金を見る限り、さほどの負担にはならない筈。
頷くと、二人で依頼は受けた。
「それと、予備も兼ねて、二つ作って欲しいのです」
「それはかまわないのですけれど、マティアスさんもつけるんですか?」
「ミレイユ王女が、女王として即位した後。 忙しくて来客に対応出来ないときに、接待をするケースが想定されるのです。 その場合……滅多にないでしょうが。 その時のために、作っておくのです」
「……マティアス、今なら良い王様になれると思うけどな」
ぼそりとスールが呟くと。
アンパサンドさんは、咳払いした。
「その類の言葉は、二度と口に出してはならないのです。 国家の頂点は一人である方が好ましいのですよ。 今は深淵の者がしっかり抑えているとは言え、王宮内では少し前まで聞くもおぞましい権力闘争が繰り広げられ、無駄な人材の喪失と、それ以上に無駄な予算の浪費が行われていたのです。 風通しが良い仕組みは必要ではあるのですけれども、頂点に立つ女王ミレイユは絶対である事が好ましい。 マティアス王子は、確かに昔とは比べものにならないほど成長為されたけれども、本人が権力を得ないことを望んでいるのです。 自分はあくまでスペアでいいと」
分かる。
今後もマティアスは、ずっと風よけでいるつもりなのだろう。
ミレイユ王女は。今後も優れた治世を敷くだろう。悪評はマティアス王子が引き受ければ良い。
マティアス王子の真意は。
近しい者だけが知っていれば良いのだ。
「それでは。 丁度それが完成する頃に、あの不思議な絵画も修復が終わる筈なのです」
「……分かりました」
この言葉、勿論交換条件、という意味だろう。
アンパサンドさんはリアリストだが。冷酷では無い。彼女が考えた事ではあるまい。
ともかく、まずは目を覚ます所からか。
それに、材料も揃った。
ヴェルベティスの作成にも取りかかりたい。
一つずつ順番にこなし。
最終的には、ソフィーさんに何もかも好きに蹂躙されるのでは無く。意見を出して、話を出来る所まで力をつけたい。
ソフィーさんは確かに正しい。
だが、必ずしも正解が一つとは限らないし。
ソフィーさんが人材を望んでいると言う事は。要するに、ソフィーさんだけでは、この世界の詰みを打開できないという事でもあるのだから。
まず顔を洗うと、裏庭で軽く運動して。
そして、調合に取りかかる。
もうAランクのアトリエになったのだ。王室関連のお仕事が来ても不思議では無い。
今は、ただ。
目の前にある仕事を。
可能な限り、完璧に仕上げる。それだけだ。
(続)
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