鍵の掛かった扉
序、それぞれの願い
ルーシャにとっては、それはありうる未来の一つに過ぎなかった。だから、それほどの驚きは無かった。
分かっているのだ。
双子があの魔人ソフィー=ノイエンミュラーの掌の上で踊らされていることは。最近は双子もわかり始めているようだけれど。結局どうにもならず、あんなに目を濁らせることになってしまった。
ルーシャがどうしようもないからだ。
力を必死につけているが、相手が悪すぎる。
ソフィーは深淵の者全てを相手にしても圧勝するほどの実力者だという話は以前から聞いていた。
だが、フィリスやイルメリアですら。ルーシャではとても勝ち目がない相手だ。どれだけの時間、天賦の才の持ち主が鍛え続けたら、彼処まで行けるのか。はっきりいって、想像もできない。
まだ双子は二人のすごさが本当には理解出来ていないようだが。
ルーシャには、フィリスもイルメリアも、邪神など指一本で倒す魔人にしか見えない。そういうものだ。
だから、他にも動く者がいる。
そう、今、アトリエに入ってきたその人とかだ。
「おじさま」
「ルーシャ。 兄貴を連れて来てくれるか」
「分かりましたわ……」
覚悟を決めて来た、ということだろう。
そう、今いるのは、叔父様。ロジェ=マーレン。既にヴォルテールの家を離れた者。
公認錬金術師の資格を持つ、昔は天才の名を恣にしていた錬金術師。
だけれども。
愛するおばさまを救う事が出来なかったことで、心が折れてしまった。
ルーシャもおじさまには随分よくして貰ったから。
とてもその出来事は悲しかった。
「ロジェ……どうしたんだ」
「兄貴。 アトリエを借りたい」
「どういうことだ」
「双子を魔人の手から解放する」
まあそうだろう。
誰もがそう考えるはずだ。
ルーシャだって同じ事を考えた。そして失敗した。とてもではないが、勝てる相手ではなかった。
あの魔人は、ルーシャの全力の砲撃を、シールドも張らずに受けた。ソフィー=ノイエンミュラーには、ルーシャの全力攻撃でも、しかも相手は無防備でも、かすり傷一つつけられなかったのだ。
アレはもはや、摂理から逸脱している存在だ。
そして、あの魔人ソフィー=ノイエンミュラーが。おじさまの行動を見過ごす筈も無い。恐らく何かしらの取引をしたのだろう。
ルーシャは、おじさまを見据える。
「勝算は、ありますの」
「全盛期の腕前くらいは取り戻したはずだ」
「……分かりましたわ。 ならば、わたくしたちをコテンパンにしてアトリエを乗っ取ったと言うことで、話を合わせましょう」
「助かる」
おじさまに頭を下げられるが。
これが、多分最後の希望だ。
恐らく勝負の内容は、B級昇格試験。そしておじさまがそれに勝てば。多分ソフィー=ノイエンミュラーは、双子に興味を失う。
それで、双子を呪われた運命から救う事が出来る。
或いはそれで、双子はやる気を無くしてしまうかも知れないが。
それでも死ぬよりはマシ。
今後、ソフィー=ノイエンミュラーの思惑通りに事が進んだら。双子は恐らく、確実に殺される。そうでなくても、恐らく近々、奴と同じような魔人になり果ててしまうはずである。
そんな事だけは。
ルーシャが絶対にさせない。
馬鹿にされていたって良かった。
笑われていたって良かった。
双子が錬金術師として半人前以下であることを自覚していなくても、それでも全然かまわなかった。
深淵の者に関われば、修羅という言葉も生やさしい、悪夢の世界に叩き込まれることくらい、分かっていたからだ。
これが最後の好機である。
お父様は多少不安そうにしていたが。
もしも問題があるのなら、とっくに殺されている。
それを告げると。黙り込み。そして、好きにするようにと、おじさまに言うのだった。
さて、ルーシャは演技をこれからしなければならない。
馬鹿馬鹿しい演技だが。
それでも、双子を救うためだ。
道化になるのは慣れている。双子が気付かなければ、それが一番良かったのだけれども。
アトリエを出て、ふと気付く。周囲が不自然すぎるほどに真っ暗。
そして、歩み寄ってくるのは。満面の笑みの、フィリス=ミストルート。恐怖が一瞬でルーシャの全身を鷲づかみにした。身動きはまったく取れない。
腰砕けに、へたり込んでしまう。
筋肉がまったく言う事を聞かない。ドラゴンとも戦った後だというのに。つまり相手はドラゴンなんて、問題にもならないバケモノだと言う事である。それを本能が理解してしまっている。故に身動き一つさせてくれない。相手の敵意を買わないように、である。
時間を飛ばしたように、いつの間にか至近にいたフィリスが、ルーシャと視線を合わせていた。
「ひょっとして、これが最後の好機だとか思ってる?」
頬をなで上げられる。恐怖の悲鳴が漏れかける。必死に飲み込むが、フィリスはにこにこと笑みを浮かべているばかりだった。
フィリスはソフィーよりは優しいと思っていたが。しかし、最近は少し認識を改めている。
暴力衝動と破壊衝動に関しては、多分フィリスがソフィーを上回る。
ソフィーは淡々と冷酷極まりないが。フィリスの方は暴力衝動を制御する気が無いように見えるのだ。
破壊の権化として。
自らを設定しているように見える程だ。
「どちらにしても、もう双子がソフィー先生の掌の上から逃げられる事はないよ。 仮に今回の試験でロジェさんが勝ったとしても、それはただ一時のことだけ。 全てが終わった後、また同じ事が繰り返される」
「……え」
「ルーシャちゃんもそろそろ使えそうだから、スカウトしようと思ってね」
勿論逆らうつもりはないよね、とフィリスは念押しをする。
唇を噛んで、必死に抵抗しようとするが、無理矢理引っ張り起こされた。
そのまま、手を掴まれ、引きずっていかれる。
闇の中、無理矢理歩かされるのは。
恐怖以外のなにものでもなかった。
呼吸を整えて、必死に、やっと声を絞り出す。
「何をさせるつもりですの……っ!?」
「そのか細い腕と少ない知識で、何かできるとは、自分でも思っていないんでしょう?」
「っ!」
やはり思考を全て読まれている。
恐らくは、何かしらの錬金術装備で、即座に目の前の相手が考えている事を理解出来てしまうのか。
それとも、もはや何かもっと別次元の事をしているのか。
「だったら此方においで。 人手不足でね、少しでも人が欲しいと思っているところだから」
「まさか、深淵の者に……」
「そういうこと」
「い、嫌ですわっ!」
絶叫して、手を振り払おうとするが、出来ない。
どういうわけか、言葉と裏腹に、足は動き続けるし。
体は逆らおうともしない。
死力を振り絞ってソフィー=ノイエンミュラーに立ち向かった時とは違う。あの時は相手に「戦う気」さえなかった。
今度は、フィリスが積極的に悪意を向けてきている。
イルメリアが言うには。フィリスとイルメリアをあわせても、ソフィーに及ばないという事だが。
それはあくまで次元が幾つも違う世界にいる存在だから、という事であって。
フィリスが弱い訳では無い、と言う事だ。
「双子をもてあそんで来た貴方たち! 双子の目をあんなに曇らせて濁らせてしまった貴方たちに手を貸すくらいなら、舌を噛みますわ!」
「舌を噛んだくらいじゃ死ねないよ。 試したことあるの?」
「ひ……」
「わたしもね、億年単位の記憶の中で、何度も壊れそうになった。 何度か死のうと試みた事もある。 でもね、もうちょっとやそっと、衝動的に体を傷つけたくらいじゃ死ねないんだよ。 興味を持って、どうやったら人間は死ぬのか、匪賊を使って色々実験してみたんだ」
フィリスは別に声に愉悦を浮かべている訳でも無いし。
何よりただ淡々と諭すように言っている。
ルーシャをこれから自分の側に引きずり込もうとはしているが。
ルーシャを痛めつけて遊んでいるわけではないのだ。
それだけでこのプレッシャー。
だめだ、何をやっても勝てる相手じゃない。
「はい到着」
円卓の椅子に座らされる。
自分の意思とは全く裏腹に。
駄目だ、体のコントロールまで握られている。
周囲には。
ルーシャでは及びもつかない、想像もできない恐ろしい魔人達が幾人も座っていた。
見覚えのある顔も少なくない。
だけれど、普段とは、まるで違う顔と気配だった。
「みなさん、紹介するね。 今度から深淵の者に入るルーシャ=ヴォルテールちゃん」
「ほう。 所詮はお抱え錬金術師のボンボンと聞いていたが、貴殿ほどの賢者が目をつけるほどになったのか」
そう口にしたのは。
赤い体をした魔族である。
魔族はヒト族より遙かに魔術に優れているが。それでも、考えられないほどの魔力が全身から立ち上っている。
「イフリータさんは、この子みたいなボンボン嫌いだったっけ」
「昔はな。 イルメリア殿をみて考えが変わった。 ボンボンで温室育ちでも、その後の環境次第で人間は成長すると知る事が出来たからな」
「ふふ、それは良かった。 仲良くやって行けそう」
「それはそうと、本人が望んでいないようにも見えるがね、破壊神」
意外にも若い声。
フードを被ったヒト族の魔術師。
シャドウロードか。
最近何度か王都で姿を見かけたが。普段とは此方もまるで気配が違う。それこそ、幾億の地獄を見てきたかのような目だ。
魔力も凄まじく、イフリータと呼ばれた魔族にまるで引けをとっていない。
「大丈夫だよシャドウロード。 わたしが見る所、ルーシャちゃんははいって言うから」
「ほう? 何故か破壊神」
「まず第一に、わたしの面子を潰したら、此処でそのままミンチになるから」
分かる。
フィリスはそれを何のためらいも無く実行するはずだ。
つるはし一本で山をも崩す。
矢一本でネームドを文字通り蹂躙する。
そういうバケモノである事は知っている。
勿論、その力がルーシャみたいな非力な錬金術師に向けられたら、どういう結果に終わるかも。
ルーシャは分かってしまっている。
「第二に、双子を守るためには、他に選択肢もないから」
「ほう。 どんどんそなたは邪悪になって来ているな」
「貴方ほどの魔術師に言われると光栄です」
「ふん、褒めておらぬわ。 公認錬金術師試験を受けたときには、あれほど未来に目を輝かせていたのにな」
シャドウロードが吐き捨てる。
若々しい姿が、恐らくはアンチエイジングの結果なのだと、ルーシャも理解出来た。
獣人族のレア種族であるケンタウルス族。
その巨体が、ルーシャを見下ろしてくる。
「それで破壊神。 この娘を深淵の者に連れてきて大丈夫なのか」
「しばらくはわたしが監視するから大丈夫ですよティオグレンさん」
「……そうか。 まあ良いだろう」
「それでは、顔見せはこれくらいで」
フィリスがパチンと指を鳴らすと。
既に、アトリエの前に戻っていた。
ひょっとして、一歩も動いておらず。
時間も経過していなかったのか。
ただ、あの恐怖が事実だった証拠に。
ルーシャは、粗相をしていた。
涙が溢れてくる。
自分の弱さに。
それ以上に情けなさに。
フィリスは、それについては一切触れずに、肩に手を置いた。それだけで、恐怖に発狂しそうだった。
「それじゃ、以降はよろしくね。 何かあった場合は、わたしから声を掛けるから、その通りに動くように。 逆らったら、双子がどうなるかは分かっているね?」
「ふ、双子は貴方たちにとっても……」
「残念だけれどねルーシャちゃん。 貴方の事を、わたし達は今まで過小評価してきたんだよ。 そしてルーシャちゃんが思った以上に出来ると判断した今、既に今までとは接し方を変えているの」
何の、事だ。
まて、つまり。ルーシャは、深淵の者の、もっとも凶暴なる破壊の権化に、目をつけられたと言う事か。
終わりだ。
全てが閉ざされた。
心が死ぬのを感じる。
「残念だけれど、目をつけたのはわたしじゃなくて、データを精査していたソフィー先生だけれどね。 まあわたしも、今の時点ではソフィー先生の判断が正しいと思うから、その方針に従うだけ。 ソフィー先生は、時間を局所的に巻き戻す事くらいなら、それこそ片手間に出来る。 それはつまり、ルーシャちゃんの前で双子を……」
「も、もう止めてくださいましっ!」
頭を抱えて、へたり込む。
震えが止まらない。
此方の弱みを完全に握っている相手には、どうすることも出来ない。
さっきまでの、全身を掴んでいる恐怖とは別種の。
そう、強く悲しい絶望と哀しみが、ルーシャを包んでいた。
粗相をした事なんてもうどうでもいい。
目の前で、幾らでも双子を惨殺してみせる。
そう言われたら、もはやルーシャには、抵抗する手段がない。そして相手はそれを出来るのだ。
ルーシャにとっては、もう、他に方法など無かった。
「逆らいませんわ、だから……」
「よろしい。 それじゃあ、「当初の予定通りに」、双子にヴォルテール家のアトリエが乗っ取られたと伝えるんだね。 此方は此方で対応するから」
「はい……」
「ふふ、それじゃね」
フィリスが消える。
周囲の人々が動き出す。
一度戻って着替え直すと。ルーシャは目を何度か乱暴に擦る。
思えば、オイフェも色々おかしかったのだ。
今も無言で手伝ってくれるけれど。
この子、何時からヴォルテール家にいた。
記憶を改ざんされているとしか思えない。一応幼い頃から世話をしてくれた記憶はあるのだけれど。
その割りには、素性がまったく分からないのだ。
元違法奴隷だとか。
或いはヴォルテール家に仕える家の出身者だとか。
そういう話があるのならまだ分かるが。
オイフェについては、まったくという程分からない。記憶が埋め込まれているし、それは完璧なのだけれど。
その他の経歴については、むしろルーシャが気付くのを期待しているかのように、空白なのである。
着替え終えると、外にさっさと出る。
道化を演じるのは得意だ。
それで双子に生きる気力を湧かせたくらいには。
心の傷に耐えるのだって得意だ。
双子が改心し立ち直ったときには驚いたし。むしろそれで、涙が流れるくらいには嬉しかったけれども。
それまでは、ずっと心の底から双子に軽蔑され続けていた。
双子を育てるための当て馬になる覚悟だってしていた。
勿論いつも心はズタズタに傷ついていたが。
それくらいは、最愛の母親を。おばさまを失った双子にとってみれば、どうということもないと自分に言い聞かせ。
耐え抜いてきていた。
だから、立ち直る速度には自信だってある。
今だって、心を切り替えるべきだ。
自分にそう言い聞かせる。
深淵の者に勧誘されたのだ。双子に、今後戦略的な立場から関与できる。双子の事を誰よりも知っているのはルーシャだ。だから、ルーシャからあまりにも無理なことに対しては、無理だと提案も出来る。
結果として、それは双子を守る事にもつながる。
きっと、ロジェおじさまは、ルーシャと同じように、当て馬にされる。
深淵の者が行動を見逃しているのはそれが故だ。
だけれども、ルーシャは双子を守るために、深淵の者にか弱いながらも関与は出来る筈だ。
雑草かも知れない。
だが、雑草には雑草なりの矜恃があるのだ。
既に双子のアトリエの前に立ったときには、いつものお間抜けなルーシャに戻っていた。もう、こっちの方が本当の自分になりつつある。
何時だろう、自分の人生を捨ててまで、妹分達を守ろうと思ったのは。
おばさまに頼まれたときだっただろうか。
結局、ルーシャもずっと人生を縛られ続けている。
そして今後も、それは変わらない。
ため息をつくと。
アトリエの戸をノックする。
リディーが顔を見せた。ルーシャは、不自然さを悟られないように。用件を告げるのだった。
1、意外なる挑戦
ヴォルテール家が乗っ取られた。
それもお父さんに。
スールはその話を聞いて、思わず唖然とさせられる。
ルーシャがいうには、お父さんがいきなりヴォルテール家に乗り込んで来て。そしてルーシャとルーシャのお父さんに錬金術の勝負を挑み。
圧勝したあげく。
アトリエの占有権を主張したのだとか。
そんな滅茶苦茶な。
思わず、スールも声を上げたが。
リディーは何かに勘付いたのか、ルーシャに席を勧めて、茶を出していた。あの様子、不自然な事にでも気付いたのか。
多分そうだろう。
そういえば妙だと、スールも感じる。
こっちは純然たる勘だ。
ルーシャがものすごく怖い目にあっただろう事を、なんでか分かるのだ。それは、多分お父さんがやったことじゃない。
誰が、ルーシャを脅したのか。
「ありがとうございます。 温まりますわ」
「まだルーシャのお茶には及ばないよ。 やっぱり良い茶葉使ってるの?」
「秘伝のレシピに沿っているだけですわよ」
「そう……」
多分、来るな。
そうスールが思って、時間はさほど掛からなかった。
ドアを開けて、お父さんが入ってくる。
無精髭はある程度剃っていて。
目の隈も落ちていた。
ある程度の身繕いはしてからこの家に来たらしい。妙な話である。
「二人ともいるな」
「お父さん……」
「もう戻ってきてよ! リディーもスーちゃんも気にしていないし、一時期は本当に勝手な事ばっかり言って悪かったと思ってる! だから!」
「そういうわけにはいかない。 お前達にこれ以上錬金術師をやらせるわけにはいかない」
何を、言い出すのか。
錬金術は、この理不尽な世界と戦うための武器だ。
みんなのため。
リディーと考えは違っているけれど。
それでも、みんなのためになろうと思って動くのならば、錬金術を失う訳にはいかない。
深淵の者と関わって、とても怖い思いは幾つもしたけれど。
だけれども、錬金術がなければ、今でもリディーとスールはどうしようもないはな垂れのひよっこで。
やっと一人前になったかと思える今の状態ですら。
天を仰ぐような駄目錬金術師のままだっただろう。
精神だってそうだ。
ルーシャをずっとバカにし続け。
マティアスをずっとバカにし続けていただろう事は間違いない。
今ではもう完全に反省している。
バカなのは自分達の方だったと、理解出来ているからだ。
お父さんにしてもそれは同じ。
「Bランクの試験について、既に王宮と交渉してきた。 俺と同じものを、俺より早く、高品質で作ってこい。 それができなければ、Bランクの試験は二度と受けられないように、という話もしてきた」
「えっ……」
「そんな、無茶苦茶だよ!」
リディーでさえ、抗議の声を上げる。
いや、待て。
やはりおかしい。
お父さんに其処までの権力があるとは思えないし。
そもそもリディーとスールは、少し前にレポートを提出し。それが高い評価を得たと聞いている。
そんな事で、大事な人材を、あのミレイユ王女が手放すとも思えない。
ましてや、今リディーとスールよりも上のランクをとっている錬金術師。ルーシャとパイモンさんを除くと、皆筋金入りのくせ者だらけだ。
給金を払えば、仕事をする。
そんな単純な理屈で動くリディーとスールを、ミレイユ王女が手放すとは思えない。
何処かおかしい。
勘が告げてきているが。
お父さんの本気になった表情は。
前に地下室に入ったとき以来だ。
あの時は、恐らく不思議な絵画と思われるものに吸い込まれて、本当に怖い目にあった。今になって思うと、あの時お父さんは、リディーとスールがどんな目にあったのかを正確に理解して。
本気で怒ったのだろう。
今も怒っている。
何に対してだろうか。
少なくとも、スールに対して怒気が向けられているとは思わない。
「期限は一月後。 そして作るべきものはこれだ」
「おじさま、これは!」
「……では俺は「自分の」アトリエに戻る」
ルーシャはため息をつく。
そういえば、少し遅れて、オイフェさんが来る。ルーシャの生活用品を、鞄に詰めていた。
現実逃避をしたいから、だろうか。
スールは、しばらく呆然とした後。
どうでもいい事を聞いていた。
「あれ、ルーシャ、ここに住むつもり?」
「おじさまが、わたくしに出ていくように言ったのですわ。 まあ、兄弟水入らずの時を久々に過ごしたいと思ったのでしょうけれども。 勿論貴方たちに塩も送ったのでしょうね、多分」
「……そうだったね」
そう。
ルーシャと、リディーとスールは従姉妹だ。
お父さんのお兄さんがルーシャのお父さん。
従姉妹というよりも、姉のような気もするけれど。
そう思えるようになってきたのは、最近の事。
今まで自分達がして来た仕打ちを考えると、あまり口にはしたくない事だったから。積極的にその話をするのは避けている。
「とりあえず、部屋はどうしようか。 ベッドは……ごめん、お父さんの使ってくれる?」
「かまいませんわ。 少し大きめのベッドですし、オイフェと一緒に寝ますわ」
「ルーシャ、お嬢暮らしでしょ。 この狭い家で耐えられる? 悪いし、わたし達で宿借りようか?」
「野営もしているのに何を今更。 平気ですわよ」
それもそうか。
ルーシャは見た目よりずっと逞しい。
戦闘でも、判断が速いし。
動きだって悪くない。
むしろリディーとスールのミスを、積極的にカバーしてくれたり。相手の大技を最初に受けてくれたり。
それで随分と戦いやすくもなる。
お嬢とは言え。
本当の箱入りという訳でも無いのだ。
てきぱきとオイフェさんが荷物を展開して、一部をルーシャの空間にする。
多分コレが何かの嘘だと言う事は、リディーも悟っているのだ。
スールにはそれが何となく分かる。
だから、スールは黙っている事にした。
藪をつついて蛇を出しても仕方が無い。
どうせ深淵の者がらみだ。
お父さんが無茶苦茶を言って、王宮がそれを受け入れたと言う事は。十中八九そういう事である。
ミレイユ王女も、流石にあのソフィーさんには逆らえないだろう。
あの人に逆らったら。
多分アダレットが、一刻も掛からず更地にされるはずだ。
さて、レシピを見る。
うっと呻く。
これは、かなり難しいものだ。
まず作るのは薬だが。多分ドラゴン戦で、フィリスさんがアンパサンドさんに対して使ったものよりは劣るにしても。いずれにしても、市販品では及びもつかない神域の薬と見て良いだろう。
素材にしても、最上位クラスの薬草を用いる事になる。
こんなもの、不思議な絵画の中でも。
いや、待て。
確か、あった気がする。
コンテナをあさると、見つかる。ただし、ほんの少しだけだ。
そう、最初に地下室にあったあの絵に入った時。
見つけた薬草の一つ。
こんなに凄いものだったのか。
コンテナの中でみずみずしさを保ち続けていた薬草は。
しかしながら、失敗したら後がない分量しか存在しなかった。
かといって、今はいる事が出来る不思議な絵画でも。
この薬草と同じものは確認できていない。
稀少な薬草がたくさんあるネージュの要塞にも、多分これは存在していないはず。
それにしても、お父さんがこれを選んだというのは、色々作為的だ。
お父さんはお母さんを錬金術で助けられなかった。
コレを作るくらいの実力はあったはず。
それでも助けられなかった病って、一体何だったのか。
ルーシャは、オイフェさんと一緒に、生活用具を並べ始めているので、話しかけるわけにも行かない。
いずれにしても、一月という期限。
しかもお父さんよりその中で早く完成させろと言う無茶ぶり。
これは、一秒も無駄にする事は出来ないだろう。
今回は、幸い材料は全て揃っている。
その代わり、技量が足りない。
幾つかのお薬を作った上で、最終的に挑戦する、と言う形にしなければ。きっと上手くはいかない。
お薬も、もっと高度なものを作らなければならないと、そもそも思っていたのだ。
軽くリディーと話す。
「レシピを見る限り、これもの凄く難しいよ。 お父さんだって、ギリギリになるんじゃないのかな」
「それに、話が本当だったとして、ルーシャのアトリエって今Bランクでしょ。 それをお父さんは伸したわけ?」
つまりお父さんにはBランク試験合格を出来る実力と、それに裏付けられた自信があるという事でもあるのだろう。流石に深淵の者の圧力が掛かったとはいえ、そうでもなければミレイユ王女がはいとは言わないはずだ。
公認錬金術師だという話は聞いていたが。
腕の錆を落とすと此処までなのか。
確かに全盛期のお父さんは凄い動きをしていた記憶はあるけれども。
ともかくだ。
薬草を何種類かコンテナから取りだす。
今までは難しくて作れなかった、高度なお薬から試して行く。
傷薬とか、化膿止めとか、疫病の特効薬とか。
そんなものは、もう片手間に作れる。
今はもう、千切れた腕がつながるくらいの薬だったら作れるようにはなっているのだ。綺麗に斬られた場合だけだが。
流石に手指を再生するような薬は作れないが。
お父さんが試験の課題に出してきたのはそういう薬である。
逆に言うと。
これを作っただろうお父さんでも。
お母さんは助けられなかったと言うこと。
一体、お母さんは。
どんな病気にかかった。
流行病では無かった、という話は聞いている。後で聞いたが、人間である以上どうしようもない病だったという話でもある。
だがそれは一体何なのだろう。
手分けして動く。
まず、リディーが、ルーシャのアドバイスを受けながら、新しい薬を作る。
その間にスールが、まずはコルネリア商会を見に行き。
続けてラブリーフィリスを。
そして更には見聞院。
最後に、フィンブル兄に声を掛けて、ネージュの要塞を見に行く。彼処には珍しい薬草がたくさんある。ひょっとしたら、探せば予備になるような薬があるかも知れない。一応戦闘の実績は積み上げてきてはいるが。それでも万が一の時のために、護衛は欲しい。騎士団にいるマティアスさんとアンパサンドさんに来て貰うのは気が引ける。騎士団がどれだけ忙しいかは、見ていてよく分かっているからだ。
すぐに外に。
コルネリアさんは、セールだとかで、店の前に行列ができていた。数人の使用人らしい人が働いていて、行列をてきぱき捌いている。
買い取りも当然やっているようで。
傭兵が持ち込んだものを、その場で鑑定などもしているようだった。
もっとも、盗品が持ち込まれるのはこう言う場所でもある。
最近は、騎士団員らしい人が護衛に目を光らせていて。
ゴロツキの類は怖くて近づけないようだったが。
列が捌けたところで、在庫を見せてもらう。
コルネリアさんは、惜しげ無く素材を見せてくれたが。
そもそも、高級品を扱うアルファ商会と、庶民でも買える品を扱うコルネリア商会。アルファ商会の傘下とは言え、そういう意味で棲み分けはしているのだ。逆に言うと、極端な高級品は無い。
フィンブル兄から見ても、珍しいものは無さそうだ。
ただ、プラティーンのインゴットは回収しておく。
これでフィンブル兄の武器を新調したいと思っているから、である。
勿論この場でその話はしない。
「ところで、この辺りでこういう服を着ているホムの集落を見た事はないのです?」
「こう言う服?」
不意に、コルネリアさんが話を振ってくる。
ある程度の力量の錬金術師や傭兵に話をしているらしいのだけれど。
どうもコルネリアさんはお父さんを探しているらしく。相手の力量によって、情報を買えているらしいのだ。
コルネリアさんは、普段は一目でホムの商人と分かる姿をしているのだけれど。
そもそも、この人はソフィーさんと一緒に戦ったこともある超武闘派で。
戦闘衣は此方になるのだとか。
見せてもらうと、まるで見た事がない様式だ。
小首をかしげてしまう。
「お、珍しい服だね」
声を掛けてきたのはドロッセルさん。
彼女はインスピレーションでも受けたのか、せっせとメモを取り始める。
ドロッセルさんの実力も知っているからだろうか。
コルネリアさんは、頷くと話を続けた。
「自分は昔から、お父さんを探して旅をしているのです。 前はラスティンにいましたが、今はこうしてアダレットに来ているのです。 どうやら、アダレットの一部に、これに似た服を着た者達が住まう集落が存在していて、そこに独特の文化を持つホムがいると聞いているのです」
「……何だか事情が複雑そうだね」
「もしもお父さんを見つけてくれたのなら、相応の礼はさせていただくのです。 お願いしますのです」
ぺこりと頭を下げられる。
コルネリアさんといえば、アダレットでも相当に稼いでいる著名人である。
この人がこんな風に低姿勢に出ると言うのは、相当なことだ。
勿論いつも世話になっているスールに異存は無い。
フィンブル兄も、ドロッセルさんも同じなようだった。
続けて、ラブリーフィリスを見に行くが。
生憎薬草は在庫切れ。
お魚や毛皮は幾らか入っていたが。どちらも今はあまり必要だとは感じない。ただ、本に使えそうなのが幾つかあったので、購入していく。本はもう高い買い物ではなかった。
「最近は、リディーちゃんとスールちゃんが本をどんどん買って行ってくれるわね。 これでフィリスちゃんに可愛い服を買ってあげられるわ」
「フィリスさんに、買ってあげるんですか?」
「ええ。 フィリスちゃん、ああ見えてセンスがないから、放っておくと変な服ばっかり買ってくるし作るのよ。 だから私が買ってあげているの」
あの恐ろしい破壊神が。
まあ、多分この人はフィリスさんにとっては大事なお姉さんなのだし。本人も嫌がっている様子は無い。
それで良いのだろう。
多分。
そのまま、城の地下エントランスから、ネージュの要塞に。勿論ネージュに咎められることも無いし。
要塞の入り口も固く閉ざされている。
そういえば、後で調べたが。
ネージュに関する当時の記録は、殆どが酷く改ざんされていて。
ネージュに対する人格攻撃が、殆どの文書で展開されていた。胸くそが悪くなるほどに。
最近史書の見直しが行われ。
ミレイユ王女が、ネージュに対する評価を改めさせたが。
これは、例のネージュとの取引の結果である。
ネージュはそれで満足し、納得はしてくれたけれども。
しかしながら、問題は人間の方で。
やはり歴史学者の中には、ネージュは魔女だという主張を変えずに、史書に書かれているのだからそれが正しいと強弁するものがいたらしい。
これらの話はマティアスから聞いたのだけれど。
ネージュには聞かせられない話だ。
何というか、あまりにも情けない。
悲しい。
本人に会ってきた者が言っているのに。
何が史書か。
黙々と、薬草を採取。フィンブル兄には周囲を見張って貰うけれど。その間に、片手間に話をする。
「さっきのコルネリアの話、どう思った?」
「何だかきな臭いね」
「……ああ、そうだな」
「ホムの中に、ものの複製が出来るレアな人がいるのは知ってる。 コルネリアさんもその一人らしくて、話によるとコルネリアさんのお父さんもその一人だったらしいんだけれど……なんかおかしいんだよね」
そう。
どうしても話を聞けば聞くほど変なのだ。
まずコルネリアさんが、どうして故郷を知らないのか。
旅先で生まれた子供なのか。
旅先で、片親だけいきなりいなくなるというのは、どうも妙だ。
そもそもホムは極めて合理的な思考をする種族として知られていて。生活が安定してから子供を作ると聞いている。
旅先で考えなく子供を作って。
片親だけ失踪。
その後、どうやって生きてきたのか。そもそもその辺りがおかしい。故郷で父親が失踪したとしたら、どうして故郷を知らないのかもおかしい。
ホムは人間より二倍半も長生きだけれども。
記憶力は人間よりずっと良い。
アダレットの何処に故郷があるかなんて大事な事、忘れる筈も無い。
まあ、多分複雑な事情があるのだろうなとしか、結論は出来なかった。
「ましてやコルネリアは相当な腕利きだと聞いている。 金もある。 それだったら、傭兵でも雇うか、見聞院でも漁れば良いだけのこと」
「そうだね。 フィンブル兄はどう思う?」
「さてな。 推論しか出来ないが、何か大きな隠し事があるのだろう」
「……本当は知っていたりしてね」
薬草を集め終わったので、果実に移る。
木を登って、みずみずしい果実を集めていく。
見た目が美味しそうでも毒があるもの。
毒がありそうな見た目でも薬効があるもの。
様々だが。
もう流石に、この辺りは図鑑を見なくても分かる。
一応、ランクCまで来ているのだ。
そしてこれからランクBの昇格試験を受けようとしているのである。これくらいできなければ、話にならない。
「もう良いよ、上がろう」
「うむ。 手際が良くなってきているな、スー」
「そりゃあそうだよ。 如何にスーちゃんが駄目な子でも、これだけやれば覚えるよ」
「……そうだな」
不思議な絵を出る。
一瞬ネージュの視線を感じた気がしたが。
多分監視者に対する警戒のものだろう。
見かけは子供になっていたが。
そもネージュは大人への嫌悪感から、残留思念を子供の姿にしたのである。中身は子供ではない。
今更話したいとも思わないだろうし。
そのままにしてそっとしておくのが良いだろう。
アトリエに戻ると。
ルーシャと相談しながら、リディーが作業を進めていた。更には、手際が良いことに、フローチャートも作っていた。
流石に霊薬。
今までに作った薬とは、まるで桁外れの内容だ。
生唾を飲み込むが、フィンブル兄は顎をしゃくると、その場をさっさと離れる。此処にいても邪魔なだけだと知っているからだろうか。
コンテナに荷物をしまいながら、本を渡す。
本は増える一方だが。
一冊でも多くあった方が良い。
元々高級品だ。
本を作る人に、お金が流れる方が好ましいし。
それに、お金が流れることの重要性は、スールもこの間布を作る過程で学習した。
また、薬を作る過程で。
薬を濾すために、高精度の錬金術の布が好ましいという記述もレシピにある。
いずれにしても、今までの全ての技術と知識を総動員しなければならないだろう。
「これは、難しいよ。 お父さん、これ昔作ったんだね」
「もし市場に出せば、貴族の豪邸が軽く建ちますわ」
「そうだよね……こんなの生半可な錬金術師に作れないよ」
「でもさ、そうだとすると、どうしてお母さんは助からなかったの?」
ルーシャは唇を引き結ぶ。
そして、少し悩んだ末に言った。
「癌というものをご存じですの?」
「いや、何それ……」
「厄介な病気なの?」
「簡単に言うと、生き物の体が、おかしくなる病気ですわ。 それも、本来だったら絶対にならない状態になる病気。 しかもおかしい状態が、正しい状態よりも強く、体を侵していくのですわ」
ぞっとする。
何だか、人間の社会そのものみたいだ。
放置しておくと、すぐに匪賊が湧く。
どうしようもない連中が、好き勝手を始める。
この間、アンパサンドさんが見せてくれた路地裏の教会。彼処だって、深淵の者が守っていなかったら、きっと人身売買を好き放題やる邪悪な施設と化すか。犯罪組織が好き勝手に手を入れる場所になっていただろう。
お母さんの体は。
そんな状態になっていたのか。
「癌は厄介な病気で、良い薬ほど効かないのですわ。 摂理に沿った範囲内では、癌を治せる薬はないと聞いています」
「ど、どうしてそんな事……知ってるの」
「おじさまはああなってしまったでしょう。 二人とも、あの時泣いてばかりで、周囲なんて見えていました?」
「……」
今度はスールが唇を引き結ぶ番だった。
そうだ、あの時。
スールは無力な子供のままで。リディーも同じ。見かねた鍛冶屋の親父さんが手をさしのべてくれなければ。
タチの悪い大人に、好きかってされていたかも知れない。
「おばさまの周囲で流行病が出た様子が無かったことから、うちで遺体を改めさせていただいたんですわ。 そうしたら、体内に癌特有の病巣が。 聞けばおじさまが医療魔術師に診察を頼んだのは初期段階だったとか。 若いうちは兎に角癌は進行も早く、おばさまの場合はもっとも進行が早い最悪のタイプだった様子ですの。 酷い場合は脳もおかしくなってしまうのですけれども、幸いそれだけは無かったのが救い……ですわね」
「教えてくれても良かったのに……」
「リディー、それは違うよ。 スーちゃん達、それを受け入れられる状態だった? 昔はルーシャの事、徹底的に馬鹿にしてたの忘れた?」
「……っ、ごめん」
リディーが素直に謝る。
スールもこれに関しては完全に同罪だ。
自分達がバカだったから。
お母さんがどうして、どんな風に命を落としたのかも、真相を詳しく知ることが出来なかったのだ。
これに関しては完全に自業自得だ。
そして、思い知らされる。
多分、このお薬では、摂理の範囲内でしか、人を助けられない。
生半可な病気とかは絶対に治る。
手足もくっつくだろう。
だけれど、癌のように、人間を絶対に殺す病気に対しては、文字通り手の打ちようが無い。そういうものに対しては、恐らくはもはや摂理を超越した力。
そう、ソフィーさんを一とする魔人達。三傑が使っているような力が、それぞれ必要になる筈だ。
大きな溜息が出る。
ともかくだ。
まだ今の実力では、摂理の範囲内で人を治す薬でさえ、まだまだ手が届くか分からない状態。
魔人達の掌の上で、好きかってされるのも仕方が無いとも言える。
嫌と言いたいなら。
力をつけるしかない。
勿論スールが本当に弱い立場なら、嫌という権利はある。
だけれども、スールも、それにリディーも。
まだまだ伸びる立場だ。
才能の学問であり。
深淵を覗き込めば力が得られる学問である錬金術で。
更に上を目指せる状況だ。
三傑に並んだときに。
思いっきり文句を叩き付けてやれば良い。
だけれども、そもそも。
文句を言うにしても、あの三傑が、摂理に沿った思考をしているかどうか。イル師匠は、ともかく。フィリスさんは、もはや人間と思考が著しく乖離しているようにしか思えないし。
ソフィーさんに至っては、多分完全に思考回路が人間を超越してしまっている可能性が高い。
深淵をちょっとだけでも覗いたスールでさえ。
自分がおかしくなっているのを感じるのだ。
ソフィーさんなんて、多分深淵の深奥にまで達している可能性が高いし。
そんな状態で、人間的な思考など。するとはとても思えない。
溜息を零すと。
まずは、フローチャートに沿って、やるべき事をやろうとリディーに提案。
頷いたリディーは、まず技術的に出来ない事はイル師匠にアドバイスを受けつつ。一つずつ、タスクを処理するべきだと論理的に言った。
その通りだとスールも思う。
お父さんとの真剣勝負が。
今、此処に始まった。
2、霊薬
ルーシャ自身に作業をして貰う訳にはいかない。だけれども、アドバイスを受けること自体は問題ないはずだ。
ただ、妙だ。
ルーシャはスールから見ても、何だか隠し事をしているかのように見える。勘が告げている。そしてスールの勘は当たるのだ。
何かあるのは確定だが。
それはそれ。
今はお父さんに勝つことを考えなければならない。
そもそも、深淵の者がお父さんを放置している、と言う事は。何かしらのもくろみがあると言う事なのだろう。
何にしても、負ける訳にはいかない。
全盛期のお父さんの実力は本当に凄かった。
だけれど、今は。
その実力を超えないと、先に進むことは出来ないのだ。
お父さんは癌のことを知っているのだろうか。
ルーシャに、蒸留水の精度を上げながら聞くと。
頷かれる。
知っている、と言う話だった。
錯乱状態が収まったあと、一年ほどしてから話をしたと言う。その頃のお父さんは、確か廃人状態だった筈。
だけれども、お母さんに関する話だ。
聞いていなかったとも思えない。
それにしても、大胆なことをする。
よりにもよって、お兄さんであるルーシャのお父さんの所に喧嘩を売りに行き。
アトリエを乗っ取る、か。
ルーシャだって、実力を積み重ねてBランクのアトリエにまでなっているのである。錬金術の腕前でそれ以上である事を示せば。
まあ試験官としては、適正と言う事になるのだろうが。
もし一歩間違えば、ソフィーさん辺りに殺されていたはず。
或いは、だけれども。
お父さんはお父さんなりに。
リディーとスールを救うために、今まで深淵の者に対して、接触を繰り返していたのかも知れない。
だとすると、本当に危ない目にばかりあわせていた訳で。
申し訳ないという言葉以外は、出てこなかった。
高精度の蒸留水が出来たので、仕事をリディーに代わる。
今度は、中間生成薬を温め。
現在準備できる最高の中和剤。
ネージュの要塞からとってきた薬草をすり潰して、不純物を取り除き。其処に蒸留水を入れ。魔法陣の上で魔力を充填させたものを使って、混ぜ合わせる。
温度もレシピ通りに、完璧に揃えなければならない。
中間生成液ごとに温度が違う。
不純物が混ざっていては駄目。
非常に厳しい調合だが。
やるしかない。
こう言うとき、勘がものを言うが。
駄目な場合は、手が止まる。
呼吸を整え直して、確認をする。主に温度調整は湯煎でするのだが。温度調整が上手く行っていない場合、内部までしっかり温まりきっていない事が殆どである。試験管やフラスコに入っている中間生成薬をクルクルと振るい。
温度を均一化させ。
そして、混ぜ合わせる。
レシピはかなり細かいが。
言われた通りにやればきちんと出来る。
冷や汗が流れる中、タスクに×をつけ。
次の段階に進む。
リディーが、超高純度まで濾した中間生成液を作るのに成功。モフコットを使用したのだけれども。
魔法陣を複雑に織り込んだ特別製で。
あらゆる全ての不純物を取り除いたのだ。
これで、このモフコットはもう使えないが。
しかしながら、濾過に使うモフコットという実績は残してくれた。ごめんねと言いながら、焼却処理。
次のステップに進む。
勿論すぐに上手く行くとは限らない。
元々大した腕前では無いのだ。
何度も失敗して、足踏みするタスクもある。難易度が高い中間生成液は、全てコルネリア商会に登録してきた。
お金は掛かるが。
此処で負けると、多分取り返しがつかない事になる気がする。
だったら、此処で負ける訳にはいかないのである。
またタスクを一つ潰す。
既に十日が過ぎていた。
交代で休みながら、ルーシャのアドバイスも受けて、作業を進める。間近でルーシャのアドバイスを聞いてみると、よく分かる。
ルーシャの方が、まだずっと知識も実力もある、と言う事が。
この試験を仮に受かったとして。
Bランクになってルーシャに並ぶとしても。
それは単に制度上の問題で並んだと言うだけの事。
まだまだルーシャの方がずっと上手いという事は、スールには分かっているし。今では、そのアドバイスも素直に聞くことが出来る。
つくづく昔の自分を殴りたい。
だが今は、その気持ちを抑えて。
説明を聞き。
メモをとり。
作業を一つずつ処理していく。
リディーが起きだしてきた。外で、井戸水で顔を洗っているのを横目に。ルーシャを誘って、外に出来合いを買いに行く。
今は講義を受けていたのだが。
そろそろリディーが起きてくる頃だと思って、目を離せないような調合はやめておいたのである。
出来合いとしては、適当なパン類を買っていくが。
ルーシャが、思った以上に街の人達と、良好な関係を構築しているのに驚いた。
アトリエヴォルテールが大繁盛しているのは知っていたが。
単に腕だけが原因では無かった、と言う事だ。
どうやら、細かい頼み事まで、かなり丁寧に処理しているらしい。
自分の仕事ではないと判断した場合は専門家も紹介するし。
理不尽な文句も、笑顔で受け入れる度量を持っている。
なるほど。
この国で現時点で一番のアトリエは、多分アトリエヴォルテールだ。
実力という点では、三傑が開いているアトリエが天地の差で上だけれども。しかしながら、人々の信頼を得ている、と言う点ではそうだろう。
人々というものに、スールは非常に不審を覚えているけれども。
ルーシャも、ネージュの末路は見ている。
不審を覚えていない筈が無い。
それでもこうやって振る舞えると言う事は。
それだけ人間的に出来ていると言う事だ。
出来合いもおまけして貰ったので、そのまま帰る。帰り道で、軽く話す。
「スーは勘に頼りすぎですわ」
「うん、それは分かってる。 どうしても細かいところで、勘に頼る癖があって……」
「もっと細かく理論を理解すれば、きっと悪い癖も直せると思いますけれども」
「頑張るよ」
今は、くどくどいわれる苦言もしっかり受け入れられる。
アトリエに戻って、食事。
オイフェさんが、リディーと一緒に食事を作ってくれるかも知れないけれど。
今は料理という点でリディーに負担を掛けたくないのだ。
オイフェさんには、料理なんか良いので、サポートを頼みたい。洗濯とか掃除とか。
錬金術師のアトリエで働いているだけあって。
オイフェさんはその辺り心得ていて。
それどころか、コンテナの整理までしてくれていた。
あまり良い印象がない人だけれども。
言わなくても、殆ど完璧にやってくれる事も多いので。ルーシャはいつも楽だろうなと、感心してしまう。
それと、そばで見ていて思うが。
この希薄な感情。
何となく、ホムを思わせるのだ。
気のせいだろうか。
「ねえ、リディー。 教会にホムの子いたよね。 仕事が決まっていないようなら、助手として雇おうか」
「あ、同じ事スーちゃんも考えてたんだ」
「この間コルネリアさんに聞いたけれど、ソフィーさんもコルネリアさんに助けて貰ってたし、フィリスさんもツヴァイさんに助けて貰っていたらしいじゃん。 ひょっとするとだけれど、錬金術師の助手として、ホムってすごく優秀?」
何故ホムなのかは、言わない。
オイフェさんに流石に失礼だと思ったからだ。
まああの人の場合、気にすることさえ無さそうだけれど。
何があっても感情一つ見せてくれないし。
ホムより下手すると感情が薄いかも知れない。
あの人に比べると、アンパサンドさんが激情家に思えるほどである。
そして、二人同時に思い浮かべたのだろう。
イル師匠の所にいるアリスさん。
あの人も、どうしてかホムを想起させるのだ。
ホムは感情こそ薄いが、計算が得意で、手先も器用だ。何より不正をしようという発想そのものがない。
役人や商人としての適正は、ヒト族を遙かに超える。
これについては実際に見て知っているが。
或いは、こういう支援役として、文字通り最高の人材なのではあるまいか。
ルーシャが咳払いしたので、調合に慌てて戻る。
ルーシャ自身も、オイフェさんと話しながら、コンテナを整理してくれている。
アドバイスを求められれば、全て答えてくれるし。
その返答も、殆どよどみなく。
文字通り立て板に水だった。
必要な場合は、すぐに見聞院に行って、書物をとってきてくれる。今は居候の身だからと、ある程度の雑用までしてくれるが。
ズッコケキャラどころか、少なくともスールは論外として、リディーよりも細かいとこっろでしっかりしている位だ。
お父さんと二人で、とっくの昔から錬金術師として働いていたから。
それも、恐らく嫌な政治の世界も目にして来たから、だろうか。
ネージュの事件の時に生き延びた後も。
ヴォルテール家は、非常に厳しい状況下で、生き残ってきたと、後で調べて知った。
国が約束に従って、ネージュ関係の資料を公開したので。
それに伴って、ヴォルテール家関係の情報も出てきたのである。
それを見る限り、あらゆる口に出来ないような汚い事をして生き延びてきた様子で。逆に言えば、相当に気を遣いながら必死に生きてきたとも言える。
怖かったのだろう。
ネージュの迫害される過程を見て。
何しろ、雷神を倒したほどの錬金術師に対しても、迫害をするのである。「みんな」という奴は。
それに対して上手くやっていくには。
それこそ血反吐を吐く苦労が必要だったのは疑いない。
調合を続けて、タスクをまた一つ潰す。
ペースが上がって来ているが。
それでもまだまだギリギリ出来るか出来ないか、だ。
完成品が出来たとしても、実験している余裕は無いかも知れない。
出来れば、動物実験をしたい事もある。
ある程度は余裕を持って作業をしたいが。
しかしながら、スケジュールがカツカツなのも事実。
お父さんは、これを一月で、単身でこなせるのだとしたら。
それは何というか、あらゆる意味でまだリディーとスールが及ぶ存在では無い。冷や汗を拭いながら、またタスクを潰す。
タスクによっては、三日を要するものもある。
何度も溜息が零れるし。
その度に、一度気合いを入れ直す。
集中が途切れると、それだけミスをする確率が上がる。
コルネリア商会に中間生成液を何種類か登録しているので、失敗してもお金で取り返せるけれど。
しかしながら、お金だって有限なのだ。
幸い、国が気を利かせてくれたのか。
試験の間は、義務を免除してくれる、と言う事だった。
これだけは有り難い。
試験と同時に、一週間の外征とかあったら、それこそ詰むところだった。
また、愚痴を言う相手として。
ルーシャがいてくれるのも有り難い。
ベッドもいつもオイフェさんがふかふかに仕上げてくれているし。
本当に助かる。
食費なんて今更気にならない状況だし。
二人分くらいの生活費なんて、それこそもう誤差の範囲内だ。結局アトリエを出たおじさんの宿代も含めて、今は気にしなくても平気である。
十五日が経過。
タスクは七割少しを消化。
一応ペースとしては悪くは無いのだが。
此処から難しい処理がたくさん待っていると思うと、決して残りタスクだけで判断して良い事では無い。
「スー、このタスクは、リディーに任せた方が良いですわ」
「え、此処?」
「これ、かなり難しいですわよ。 勘に頼ると失敗しますわ」
「ん、分かった……」
少し口惜しいけれど。
リディーと交代する。
逆に勘が必要と判断される場合は、ルーシャがそうアドバイスをしてくれて。リディーと交代する事もあった。
ただ、リディーはやっぱりものの声が聞こえてきている。
明らかに動きが良すぎるときがある。
勘でどうにか差を埋めたいが。
しかし、どうしても駄目なときは駄目。
それが悔しくて。
スールは、時々無言になってしまう。
これが、酷い亀裂を産まなければ良いのだけれど。
そう考えるけれど。
今は、兎に角手を動かす時だ。
更に五日が過ぎ。
試験開始から二十日経過。
残りタスクは五つ。
だが、このどれもが。
今までとは比較にならない難易度なのは確実だった。お父さんだって、いつ仕上げてくるか分かったものじゃない。
ここからは、寝る時間もないと覚悟するべきだろうか。
今までは、ルーシャが持ち込んでくれた人間用の栄養剤である程度誤魔化してきたが。
しかし、それでは精度が落ちる。
時々眠らなければならない。
どうすればいい。
しばし逡巡するが。
だが、リディーの方が、今度は声を掛けてきた。
「スーちゃん。 先に、どっちがどのタスクを処理するか決めて、作業が被るときにはその間に寝ておこう」
「うん。 それしか無さそうだね」
「ごめんルーシャ、出来合いとかの補充頼める?」
「私がやっておきます」
不意に知らない声。
滅多に聞かないオイフェさんの声だ。
オイフェさんが喋るのは、あまり見ないのだけれども。だから、一瞬誰の声だと思ってしまった。
ともかく頼めるなら、頼む。
黙々とオイフェさんが出ていくので、ほっとした。
「ルーシャ、オイフェさんって、ルーシャと一緒の時も殆ど喋らない感じ?」
「ええ。 年に何度か喋るか喋らないか、ですわね」
「仕事は凄く出来る人だけれど、もう少し会話を試みないの?」
「喋る事自体が嫌いだと以前言われた事がありますわ」
ああ、そういう。
それでは仕方が無いか。
ただ、それだけではどうにも説明がつかない気がする。
ともかく、タスクの処理について話しあった後、それから一気に最後の処理に向けて動く事にする。
まだ、中間生成液に、ナンバーを振って、混ぜたり分離したり濾過したり凝固させたり、そういう段階だ。
今扱っているものに薬効成分はない。
霊薬を仕上げるには、まだまだ時間が掛かるし。
仕上がるまでは霊薬では無いのだ。
そう言い聞かせて、作業に戻る。
オイフェさんが出来合いを買ってきてくれた。その間にルーシャが、消耗品を補充してきてくれた。
リディーもスールも気付いていない、消耗品の消費にルーシャは気付いていてくれて。
此方が助かった程だ。
こういうのは、家の中にいるから却って駄目で。
第三者の視線が入って、やっと気付けるのだろう。
やはり、お手伝いさんを雇うべきか。
そう、スールはまた思う。
ホムは、寿命が人間の二倍半。
真面目だし、不正もしない。
きちんと教えれば、一生リディーとスールを手伝ってくれるし、リディーとスールが死んだ後は、他の錬金術師の所で働けるはず。
タスクを一つ処理するのに二日。
どんどん難易度が上がる中。
集中力を保つのが困難になってきた。
ほぼ同時に、もう一つのタスクを処理する。
これで残り三つ。
その間、スールは眠らせて貰うけれど。
余程疲れが溜まっていたのか。
丸一日、ほぼ眠ってしまった。
慌てて飛び起きたが、引き継ぎをすると、今度はリディーがベッドでばたんきゅうである。
今度はスールの番か。
呼吸を整えると。
調合に取りかかる。
要所ではルーシャのアドバイスを受ける。ルーシャはこのレベルの薬を作った経験があるらしく、難しい段階に入っても、的確なアドバイスをくれる。
指先が震える。
ほんのちょっとの失敗で、霊薬がただの生ゴミになってしまうのだ。
恐怖も当たり前である。
だが、それでもやり遂げなければならない。
そうだ。
やっと、お父さんと、ちゃんと向き合える機会が来たのかも知れないのだから。今まで、お父さんはずっとリディーとスールを遠ざけてきた。
昔は、リディーは明確にお父さんを嫌っていたし。スールもお父さんを馬鹿にしてきた。
昔の自分達を殴りたいのは今はおいておく。
この機会を逃したら、きっともうお父さんとわかり合う機会は無い筈だ。
頬を叩くと。
湯煎の確認をし。
今度は炉を用意する。
炉に液体なんか入れたら一瞬で蒸発してしまうのが普通だが。
この霊薬に関しては、そういうわけでもない。
要するに、摂理の範囲内とは言え。
普通の薬品の認識からは、外れる品だと言う事である。
勿論温度については徹底的に吟味。炉の温度も、中間生成液を入れる際に、徹底的に調べ上げる。
作業をこなしている内に、数刻が消し飛ぶ。
それでも、何とか集中力を保ちきった。
ほどなく、炉から中間生成液を引き上げる。
煮立つことも無く。
まるで溶岩のように、どろっとした赤熱した液体。
錬金釜に満たした中間生成液の中に入れると、凄まじい反応を起こして、一気に色が変わる。
錬金釜の上部には魔術を展開。
蒸気を押し返す魔術である。
これをやらないと、文字通りアトリエが爆発する。
釜に関しては気にしなくても良い。
この程度の蒸気で爆発するほど脆いものではないからだ。
しばしして、温度が落ち着いてきたところで、中間生成液の状態を確認。何とかタスクの処理完了。
起きだしてきたリディーと交代。
あと少し。
引き継ぎをして、出来たものを見せる。
頷くと、リディーはすぐに作業に取りかかってくれる。
ルーシャも少し仮眠を取ると行って、となりのベッドに直行。ずっと手伝ってくれていたのだし、少しくらい休むのも当たり前だ。
スールは、いつの間にか落ちてしまっていて。
起きだすと、数刻が経過していた。
ルーシャはとっくに起きだして、リディーの補助に回っている。
オイフェさんが掃除をしているのを見て。
スールは頬を叩いていた。
あと二つのタスクが、最難関。
残る時間もあまりない。
だから、此処を一気にこなしてしまわないと。
先が見えないのだ。
大きく深呼吸してから。
ゆっくりと起きだす。
準備してある出来合いを食べて、外で顔を洗い。裏庭で、アンパサンドさんに教わった動きをし。銃の試射をして。
完全に気分転換が出来たところで。
アトリエに戻る。
どうやら、最後のタスクになったらしい。
後は、残る全ての中間生成液を。一気に釜に投入するだけだが。
それぞれの中間生成液に温度設定が必要で。
全部を同時に投入する必要がある。
コレが終われば。
全ての命を摂理の範囲内で病魔からも欠損からも救う神薬。神秘の霊薬の完成だ。
残る時間はない。
湯煎を手分けして進める。幾つかの中間生成液は、非常に作成難易度が高いので、コルネリア商会に持っていく。
残り時間は少ないが。
此処で焦れば、全てが台無しである。
勿論負ける訳にはいかない。
お父さんが何処まで作業を進められているかは分からないが。少なくとも、此方には手数が二倍、いや三倍という利点がある。実力でこっちが劣っていても、それだけは勝っている。ましてやお父さんは、コルネリア商会を利用して、失敗をフィードバックという手も使えないだろう。
実力差を埋めるには。
あらゆる手段を用いていくしかない。
湯煎完了。
後三日。
一気に錬金釜に、死ぬような目で作り上げた中間生成液を、全て投入する。投入はリディーとスールで一気に行うのだが。
投入後、間を置かずに一気に混ぜ合わせる。
対流が上手く行くように、ただぐるぐる混ぜるのでは無く。
引き上げるようにして、棒を動かして。複雑に錬金釜の中で、液体が動くようにして混ぜるのだ。
しばし待つ。
永遠の時が流れるかと思うほどの時間が流れた後。
激しい反応が始まった。
虹色の、見るからにおぞましい液体だった神秘の霊薬の元が。ぼこぼこと激しく泡立ち始め。
そして、スールでも凄まじいと感じる魔力が放出される。
この魔力放出は、余計なものを一気に輩出するような作用で。
故に、放出されていく魔力そのものは、とても禍々しかった。いわゆる霊が集まるかも知れないが。
そんなのはどうでもいい。
お化け嫌いだったスールだけれど。
あの愉快で優しいお化け達の森で、それは過去の考えになった。
出来た。
そう実感するスールの前で。
釜の中にあった元神秘の霊薬の沸騰が収まり。
そして、とてつもない透明度の。
美しく、甘い香りがする液体が出来上がっていた。
これぞ、神話に残る神の飲み物。
神秘の霊薬である。
さっそく、全てを回収。一部をコルネリア商会に登録する。そして、実験。少し怖いけれど。
スールは調理用の大型ナイフを持ってくると、自分の腕をばっさりと抉った。
大量の鮮血が噴き出すけれど、別にもうどうでもいい。
神秘の霊薬を塗る。
あえて、骨まで行くように切ったのに。
痛みも。
切られた肉も。
一瞬で元に戻り。それどころか、体内から血まで復活していくようだった。疲れも溶けるように消えていく。
これが、まさに摂理の限界の薬というわけか。
リディーにも試してみる。
頼まれたので、やる。テーブルの上で腕まくりしたリディー。その腕に、思いっきりハンマーを降り下ろす。
勿論複雑骨折だ。ぐしゃっと、酷い音がした。
ルーシャの方が目を背けたくらいで。
むしろリディーは、平然としている。これは、戦闘で散々気を失うほど、痛い思いをしたからだろう。
神秘の霊薬を塗り混む。
一瞬で、グシャグシャになった腕と。複雑骨折した箇所が、回復していくのが分かった。
確認をして貰う。
「握力問題なし。 指先までしっかり動くよ。 筋肉に痛みも残っていないね」
「よし、完成っ!」
拳を突き上げる。
ルーシャは、少し悲しそうにリディーとスールを見ていたが、どうしてだろう。理由はよく分からない。
ただ、動物実験をしている余裕は無いし。
何よりも、今回は絶対に上手く行っているという自信もあった。
ならば、これでいい。
これでいいのだと、スールは言い聞かせていた。
3、長き時を経て
即座に、神秘の霊薬の完成品を指定量。完璧に蒸留水で洗った硝子瓶に移して、王城の受けつけに行く。
落とさないように、全自動荷車に積んで。更に、モフコットで包んで、である。
全力でアダレットの大通りを走り抜ける。お父さんだって、もう完成させていてもおかしくないのだから。後は時間との勝負だ。
大丈夫。
お父さんは一人で頑張った。
それが出来る人だ。
リディーとスールは、二人でやっと出来る駄目な子だ。
だけれども、二人で出来る強みを全力で生かした。
だから今回はお父さんに勝てる。
自分に言い聞かせながら、スールは走る。通行人に荷車がぶつかる恐れはないが、緊急回避機能が働いて、瓶が割れる可能性があるので、モフコットで何重にも包んだのだ。
王城に飛び込む。
受付を大慌てで呼ぶと。
モノクロームをしたホムが、姿を見せてくれた。いつも頼りになる役人だ。
「試験の結果の納入なのです?」
「此方です」
「む……ふむ」
ホムは魔術が殆どの場合使えない。
だけれども、これが凄いものだと一目で分かったのだろうか。硝子に入った、透明な液体にしか見えないはずだが。
そして、直後。
無精髭だらけのお父さんが、姿を見せる。
乱暴にテーブルの上に置いたのは。
同じように、硝子に入れられた、美しい無色の濁り無き液体だった。
凄まじい魔力を感じる。
やはり、僅差だったか。
「此方も納入を頼む」
「……分かりましたのです。 明日、結果は伝えるので、待つのです」
「いや、もう結果は分かった。 俺の負けだ」
お父さんは、そう呟くが。
ホムの役人は、モノクロームを直す。
「決めるのは我々の指定した試験官なのです。 僅差で貴方の方が遅れたのは事実ですが、ロジェ=マーレン。 しかしながら、これはそもそもそこにいるリディー=マーレンとスール=マーレンの試験。 其処までの事は言わずに、静かに結果を待つのですよ」
「……」
お父さんは無言でお城を出て行く。
声は、掛けられなかった。
咳払いする役人。
「気にする事はないのです。 結果は明日伝えるのですよ。 それと、これはあくまで個人的な話なのですけれども」
「あ、はい」
そういえば、この人は、誠実な仕事をしてくれるホムの役人という事しか知らない。
会話を振られることは滅多にないので、自然に背が伸びた。
「自分も父親ではあるので、ロジェ殿の気持ちは少しだけ分かるのです。 この試験の結果が届いた後、きっとロジェ殿は話を聞いてくれるのです」
「……」
「昔は、ロジェ殿は優秀な錬金術師で、此処に何度も優れた品を収めに来てくれたものなのです。 先代王の時代ですが、それでもロジェ殿はやる気を無くした役人と腐敗が蔓延る中でも、真面目に仕事をしてくれたのです。 当時は自分も酷い腐敗に気分の悪い思いをしたこともあったのです。 それでも、ロジェ殿の真面目な仕事に対する態度は、見ていてとても感心したのです」
そうか、昔のお父さんはそんな真面目な人だったのか。
そして、真面目なことは。
この人が見ていてくれた。
ヒト族とは寿命が二倍半も違うホムだけれども。
だからこそ、なのかも知れない。
「ロジェ殿が元に戻ったら、その時はしっかり話し合いをして欲しいのです。 アダレットは、一人でも多く人材を欲しているのですよ」
「わかり……ました」
頭を下げると、全自動荷車を連れて、アトリエに戻る。
お父さんは。
元に戻ってくれるだろうか。
それについては、分からないとしか言えない。
お母さんがいなくなって。
お父さんが壊れた。
その前のお父さんは、怒るときは怖かった。でも、優しいときは優しかった。少なくとも、他のお父さんと違うようには見えなかった。
まずアトリエに戻ってから、結果を待つ事にする。
話を聞くと、頷いて、ルーシャは荷物をまとめ始めた。オイフェさんは、宿にいるルーシャのお父さんに声を掛けに行く。
いや、今更だ。
叔父さん、というべきか。
お父さんがちゃんと戻ってきたら。
また従姉妹としてルーシャと接したいし。
家族ぐるみでつきあって行きたい。
もともとお父さんの事を、自慢の弟だと、ルーシャのお父さんは言っていたと聞いている。
今回の件の片がついたら。
きっと、それでどうにかなるはずである。
今はそうやって、敢えて楽観しないと。
とてもではないけれど、精神の均衡が保てなさそうだった。
ただでさえ、最近は精神が不安定で。
リディー共々、頭のねじが外れ始めている。
このまま行ったら。
きっとリディーもスールも、三傑と同じような闇のサイドに落ちる。
だけれども、それでも。
守りたいものくらいはあるのだ。
荷物をまとめたルーシャが、ちょっとしたごちそうを作ってくれた。若干ちぐはぐな内容だったが、充分に美味しかった。
「明日の朝には、結果も来る筈ですわ。 そうなったら、わたくしはアトリエに戻ります」
「もっといてくれてもいいんだよ、ルーシャ」
「そうだよお姉ちゃん」
「そう呼んでくれたのは何年ぶりでしたっけねスー。 嫌みでわたくしをそう呼ぶことはありましたけれど」
ルーシャが目を擦る。
きっとルーシャにとっても。
これは、人ごとでも無い。お母さんのことを、おばさまと呼んで、とても慕っていたルーシャだ。
責任感も強く真面目で。
だから自己犠牲の精神に身を置くことも辞さなかったし。
馬鹿なリディーとスールのために、道化になる事も厭わなかった。
本当に今では。
頭が上がらない。
バカだった自分達にとって、シスターグレースに次ぐ恩人なのだから。
その晩は静かに眠る事ができた。
疲れがとにかく溜まっていたからだろう。
やれることはやりつくした。
そして、そもそもとして、あの霊薬は、コルネリア商会に登録もしてある。
だから今後の戦闘で、大きな力になってくれる。
後は、ルーシャも使い始めている拡張肉体や。
もっと上位の基幹素材。例えばハルモニウム、ヴェルベティスなどへの挑戦を果たせれば。
更に先に行くことを考えられる。
色々考えている内に。
既にスールは眠りに落ちていた。
翌朝。
一番に外で掃除をしていると、マティアスが来る。久しぶりに顔を見た気がする。そういえば、ほぼ一月缶詰で。騎士団と連携して動く事はなかったのだ。
「よー、スー。 リディーはいるか?」
「うん、奥に。 お手紙?」
「そうだぞ」
「ちょっと待ってね」
てきぱきと周囲を片付けてしまう。ルーシャに掃除のコツを教わって、家の前くらいは自分で掃除できるようになってきたのである。そして、繁盛しているアトリエヴォルテールも、毎朝きちんと掃除していると言う事は聞かされたのだった。
ネージュの頃から。良い事でも悪いことでも、ヴォルテール家は生き延びるための努力をしてきたのだろう。
今ではもう、スールには「みんな」は笑顔を浮かべているようには見えないが。
少なくとも、当たり前のように、「みんな」と接してきたアトリエヴォルテールの経験は、ルーシャに引き継がれている。
だから、その言葉を少しでも聞いて。
ちょっとでも役には立てたいと思うのだ。
同じやり方をしようとは、微塵も思えなかったが。
ほどなく、掃除が終わったので。マティアスに入って貰う。リディーが朝食を準備していたが、作業はオイフェさんが代わった。
「はい、じゃあこれな。 内容を確認してくれ」
「ええと、Bランクへの昇格を認める」
「……」
「おい? 嬉しそうじゃ無いな」
いや、やったという言葉は確かにある。だけれども、これからが大変だから、である。
まずBランクに昇格した後について。
今までの義務に加えて、一定品質のプラティーンを納入するように、とあった。
品質に関しては、何人か街にいる鑑定が出来る人物に頼むように、ともあり。その中には、鍛冶屋の親父さんの名前もある。
なるほど。
確かに騎士団にとって、目玉が飛び出るほど高いプラティーンは。
アルファ商会で買うよりも、錬金術師に作ってもらった方が安くつく、と言う訳か。
三傑はいつまでもいてはくれないだろうし。
少なくともこうやって、人員の強化、其処から得られる物資の充実を図っていかないと。
投資した意味がなくなる。
人員はそこら辺に生えているものではなく。
育成するものだ。
この辺りを理解出来ていない馬鹿がいるらしいが。それは昔のリディーやスール以下の馬鹿である。
ともあれ、鍛冶屋の親父さんが満足できるプラティーンを作らなければならない、と言う事だ。
そしてそろそろ合金製の装備からも卒業したいし。
プラティーンをもっと量産もしたい。
最高位錬金術金属であるハルモニウムを作るには。
プラティーンを簡単に作れるくらいでないと、話にもならないだろうから、である。
また、義務としては。
あまった装備品や生成物を、引き取るというものもあった。
これは現在、リディーやスールが使っているもののうち、型落ちになった装備。これを騎士団の方で引き取ってくれる、という事らしい。勿論インゴットや布も、と言う事だろう。
錬金術製の装備品は、元々尋常では無く値段が張る。
今は騎士にしか装備は行き渡っていないと聞くし。
従騎士にも装備品が行き渡れば。
生存率は格段に上がるはずである。
ならば、騎士団がそういう判断に出るのも、不思議では無いと言えるか。
頷くと、マティアスに分かりました、と答える。
マティアスは周囲を見回したあと、耳打ちしてきた。
「また不思議な絵が解放されたから、そこに入れるようにはなったんだが、兎に角これが厄介でな」
「厄介、ですか」
「そうだ。 なんつーか、入れば分かる。 実のところ、それほど危険な不思議な絵ではないんだが……とにかく精神を削られるんだよ」
「……」
それは、危険なような気がするが。
勿論レンプライアはたくさんいるんだろうし。
精神攻撃を受けているときに、レンプライアにおそわれでもしたら、それこそ死者が出てもおかしくない。
最近はレンプライアに苦戦する事は減ってきているが。
どうもレンプライアは、不思議な絵によって強さが全然違うようだし。
いきなり桁外れのが出てきても、何ら不思議ではないのだ。
「というわけで、覚悟だけはしておいてくれな。 それと、その前後に大きめの仕事が来ると思うから、外出の準備はしておいてくれ」
「はい、大丈夫です」
「……頼むぞ。 頼りにしているからな」
手をヒラヒラ振ると、マティアスは帰って行く。
ルーシャもそれを見送ると。
朝食だけ一緒に食べて。
それで帰って行った。
さて、後はお父さんだ。
アトリエヴォルテールから、直帰してくれるとはとても思えない。少し間を置いてから、アトリエヴォルテールに様子を見に行く。
修羅場になっていないと良いのだが。
見に行くと。
意外に静かだった。
ルーシャが外で周囲を見回していて。此方に気付くと、手招きしてくる。耳打ちされた。
「おじさま、やはりもう何処かに出たようですわ」
「やっぱり……」
「嫌な予感しかしないよ」
「どうします?」
ルーシャに言われて、考え込む。
実は、さっきマティアスに話して、城門からお父さんを出さないように、頼んではある。
多分お父さんも今朝まではアトリエにいたはず(結果を知るためにも)だから、アダレット王都にはまだいると見て良いだろう。
だけれど、その後が。
どうなるか、分からない。
首をくくったりしなければいいのだけれど。
そう思って、ぞっとした。
お父さんは、お母さんを喪ってから、精神の均衡を崩した。
そして多分だけれど、リディーとスールが、深淵の者に関わって。好き勝手にされていることも知っている。
自殺行為に出ても、おかしくは無いはずだ。
「手分けして探そう。 ルーシャも手伝って」
「分かりましたわ」
「私は教会に行ってみる。 スールはフィンブルさんに声を掛けて、彼方此方見て回ってきて。 お酒飲みに行ってるかも知れない。 ルーシャはお父さんが行きそうな所を見て回ってくれる?」
「合点」
頷くと、三人ですぐに手分けして探し始める。
当然、すぐには見つからない。
フィンブルさんに声を掛けて、手数を増やした後、探して回るけれど。どうも城門で、追い返されたという事以外は分からなかった。
しかし、危ない場所に足を運んでいる様子は無い。
夕方、一度集まる。
教会のお母さんのお墓には、花が供えられていたらしいけれど。
それだけ。
つまり行き違いになった、と言う事だ。
錬金術で探せないだろうか。
いや、厳しい。
お父さんの実力は、二人がかりで、しかもルーシャも加えて、やっとどうにかわずかに凌駕出来たくらいの次元にいる。多分Bランクどころか、Aランクのアトリエを任せられうる相当の実力だと推察できる。流石に三傑には及ばないだろうが、少なくとも公認錬金術師の名にふさわしいもののはずだ。
追跡を何らかの方法でしようとしても。
防いでくる可能性が高い。
物理的に探すしかない、と言う事だ。
念のために、アトリエにも戻って見るが、いない。
そうなると、何処だろうか。
困り果てて、何処を探すかと話していると。
不意に声が掛かる。
魔族の騎士だった。隊長の勲章をつけている。前に何度か見かけたことがある。インフラ整備作業で、指揮を執っていた人である。
敬礼をされたので、敬礼を返す。
ちょっとぎこちないが。
「ロジェ殿の事を探していると聞いてな」
「はい。 お父さんの事を知っているんですか?」
「知っているも何もな。 我々の中で、次代の隊長とみなされていたオネットを連れていった男だ。 それは有名人だ」
苦笑いする魔族。
こんな風に魔族が笑うのを、スールは初めて見た。
ホムほどではないが魔族は真面目で、とにかく感情をヒト族には少なくともわかり安くは見せない。
ホムと違って感情はしっかりあるし、激情家もいるらしいのだけれども。それでも、淡々と己の中の信仰に生き。淡々と己のするべき事をしていく。そういう種族が魔族だという印象はある。
となると。
オネット、つまりお母さんは。
それだけ騎士団で期待されていた人物だった、と言う事か。
「もしもロジェ殿が最後に行く場所があるとしたら、思い当たる場所がある」
「えっ!」
「お、お願いします! 教えてください!」
「ああ。 彼方に小さな丘があるだろう。 庭園趣味の先代王が、あの辺りに石ばっかり積んで役にも立たない庭園にしようとした場所だ。 彼処は昔とても綺麗な丘でな、ヒト族が言うプロポーズを、彼処で受けたとオネットが言っていた」
その丘なら知っている。
先代王が無茶苦茶にしてしまって、今ではすっかり荒れ果ててしまっているけれど。
昔は綺麗だったのか。
お礼に頭を下げると。
すぐに丘に飛んでいく。
既に夕焼けが其処を染めている中。お父さんは、酒瓶を片手に、座り込んでいた。
辺りは瓦礫だらけ。フィンブル兄が顎をしゃくって、ルーシャを連れていく。ルーシャも頷いて、後は任せると視線で言って。そしてその場を離れた。
向き合う、時が来た。
ずっと現実を無視してきた。
良いお父さんだった。甘いだけでは無く、ちゃんと厳しいときは厳しかった。お母さんを心の底から愛しているのが幼くても分かった。
お父さん。
声を掛ける。
振り返らず、お父さんは。
その場を動かなかった。
4、戻ってきて
お父さんは酒瓶を手にはしていたが。
結局お酒を口にはしていないようだった。
少なくとも、お酒の臭いはしない。
それにしても、昔は綺麗な丘だったというのに。酷い有様だ。瓦礫だらけで、それも完全に放置されている。
先代王は芸術家を気取っていたらしいけれど。
綺麗な丘を滅茶苦茶にして。
それで何が芸術家なものか。
見ていて、怒りさえ浮かんでくるけれども。
しかし、それでも、今はお父さんの方が先だ。
お父さんを挟んで座る。
お父さんは、何も言わなかった。
「お父さん、今までたくさん酷い事言ってごめんなさい」
「……」
「ずっと言いたかったんだ。 二人とも、もうお父さんの事悪く何て思ってない。 だから、帰ってきて。 また、三人で暮らそう」
「……」
お父さんは返事をしてくれない。だから、幾らでも辛抱強く待つ。壊れた心は、ちょっとやそっとじゃ治らない。
そんな事は、もうリディーもスールも知っている。
やっと、お父さんが口を開いたのは。
四半刻もした頃だった。
そろそろ日が沈み始めている。もう夕方が、終わろうとしている。
「何でも出来るつもりだった。 俺は何処かで勘違いしていた。 兄貴は秀才と言われていたが、俺は天才と言われていた。 天才だなんて思っていないつもりだったが、何処かで天才だと思い込んでいた」
聞くべき時だ。
そう思ったから、静かに聞く事にする。
お父さんは、酒瓶を開けると。
中に入っていたお酒を、地面に全部捨てた。お酒の臭いがかなり強い。これだけで、酔いそうだ。
「公認錬金術師試験をラスティンで受けた。 受かって、俺は更に調子に乗った。 オネットも俺と一緒になってくれて、お前たちも生まれて。 俺には何もできないことはないとさえ思っていたんだろうな。 だから調子に乗っていた俺に罰が降った。 俺はオネットを喪って、お前達を孤独にした」
酒瓶を放り捨てるお父さん。
もう、いらないというのだろう。
お父さんは、此処で。
あの酒瓶と、決別するつもりなのだ。
「俺はな、地下室でオネットともう一度会いたいと思って、オネットの残留思念が籠もる絵を描いた。 だがどうしても、絵は俺を受け入れてくれなかった。 俺は思い知らされた。 俺の力量じゃあ、不思議な絵画を完成させることは出来ないってな。 二度目の、完璧な挫折だ。 オネットを死なせて、そして最後の賭にも負けた。 俺は、何もできなかった」
今、お父さんは。
出来ない事を知っている。
錬金術は才能の学問だ。
だから、出来ない事はどうしても出来ない。
それは分かっている。
故に、お父さんが何処かで自分を天才だと思っていた事や。何処かで万能感を持っていた事が。災いしたのである。
「挙げ句の果てに、深淵の者がお前達に目をつけた。 もう、俺には打つ手がない」
「いいよ、それでも」
「……」
「もうこれ以上、家族を喪いたくない。 だから、家に戻ってきて」
二人で、お父さんの手を握る。
お父さんは、無言のまま口を引き結んでいた。
「……役立たずだが、良いんだな」
「役立たずな訳ないでしょ。 スーちゃんとリディーとルーシャが、力あわせてやっとあの霊薬作れたんだよ。 お父さん、あれ一人で作ったんでしょ」
「お父さんがいてくれたら、それだけで心強いよ。 だから帰ってきて」
「……」
三人で、帰る。
いつぶりだっただろう。アトリエに、三人で帰ったのは。
ロクに口も利いてくれなかった。
だけれど、リディーが夕食を作ると。
久々にお父さんは食べてくれた。
「まだまだだな。 オネットの足下にも及ばん」
「分かってるよ、そんな事」
「お母さんのパンケーキ、絶品だったもんね」
「ああ。 ……少し、話があるが良いか」
食べながら。
お父さんは少しずつ話してくれる。
研究をしていたそうだ。酒に溺れながら。ぼんやりと、頭の中でイメージを組み立てていた。
未完成品の不思議な絵画について。
調査の結果、最後の一点が足りない。
多分、不思議な絵画そのものは出来ている。しかし出来ていないのは、入り口では無いのかと、お父さんは考えているらしい。
「お前達はあの地下室にある不思議な絵画に入ったな」
「うん。 中にレンプライアもいたし、あんまり放置は出来ないと思う」
「……だろうな。 俺の負の思念はあの中に山のようにしみこんでいるはずだ。 オネットの残留思念が苦しんでいるんじゃないかと、気が気じゃ無かった」
「お母さんだったら大丈夫だと思う。 もの凄く強かったんでしょ」
お父さんは首を横に振る。
そうなると、いつまでも持ち堪えるのは無理、と言う事か。
いや、違うと言う。
「レンプライアはな、コアというものがあって、それを打ち砕かない限り幾らでも湧いて出るんだよ。 オネットが幾ら強くても、際限なく湧いてくる相手にはどうしようもない」
「じゃ、じゃあどうするの」
「不思議な絵画の不完全な入り口を修正するのが第一。 俺が中に入って、コアを探し出すのが第二。 最後にコアを破壊する」
何となく聞いていたが。
要するに。
ひょっとして。
あの時、地下室の絵の中で見た女の人。
お母さん、だったのか。
もしそうだとしたら。
ネージュの残留思念と同じように。
ずっといてくれるかもしれない。
本物の錬金術師であり、ここ200年でも上位に食い込んでくるだろう実力者であったネージュが描いた不思議な絵画だ。残留思念が、あれだけ強固だったのは当然とも言えるけれど。
しかしながら、実力が足りないお父さんが描いた絵なら。
なるほど、それでか。
焦りと、それにリディーとスールが深淵の者に好き勝手にされているという事実。
どちらにも板挟みにされて。
お父さんは身動きできなかった、と言う事か。
リディーが、少し考え込んだ後に言う。
「深淵の者の方は心配しないで」
「リディー!」
「ソフィーさんはおっかない人だけれど、私達を殺そうとは思っていないと思う。 何かに利用するつもりだろうけれど、使い捨てにするつもりもないと思う。 きっと怖い事を始めるつもりだけれど、その時は……」
リディーの目は濁っている。
スールの目だってそうだろうけれど。
「まだ、力が足りない。 だけれど、絶対に好きにはさせない」
「スーちゃんだって、好きにさせるつもりは無いよ」
「お前達は、あの魔人の恐ろしさを知らない」
「知ってるよ。 深淵の者の全てを上回るって話だもん」
絶句したお父さんが。
そして、俯いた。
「だから、もう焦っても仕方が無いよ。 それよりもお父さん、絵の方の研究に集中して」
「お母さんに会えるかも知れないんでしょ。 だったら、会いたいよ」
「……お前達」
「大丈夫。 私もスーちゃんも、もう昔のどうしようもない頭の悪くて何もできない馬鹿な子供じゃない。 お膳立てがあったけれど、それでもドラゴン倒して、Bランクにまで上がったんだよ」
しばし俯いて震えていたお父さんは。
ほどなく、言った。
頼むぞ、と。
(続)
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