未踏の闇世
序、海
海に関する不思議な絵画について調べるように。その依頼を受けたリディーは、まず見聞院に出向く。
資料を少しでも調べなければならないからだ。
大量の本をまず集めて。
海について、少しでも分かっている事を調べていく。
元々浅瀬でも、巨獣に襲われる事が多く。
非常に危険な場所である、という事でどの書物も一致している。一流の錬金術師が、為す術無く獣に襲われ食われたとか言う記述もあり。古い時代から、魔境の中の魔境だと、認識されていたのだとすぐに分かる。
勿論その脅威を胸に刻むのは大事だが。
もっと大事なのは。
まず足を踏み入れる方法だ。
海について調べていく。
まず海についてだが、水では無く塩水で満たされている。流石に誰でも知っていることだが、しかしその理由はよく分からないらしい。
先達が分析したところによると、川の水よりも更に海の水は栄養が濃いらしく。拡大して確認すると、たくさんの小さな生き物……獣がいるのだという。
この豊富なエサが。
あの巨体を支えている訳か。
もっとも、陸上の獣も、放置しておけば際限なく巨大化するわけで。
海にエサがいなくても、巨大に獣は成長するのかも知れないが。
フィリスさんが泡を纏って海に飛び込んでいるのを見たが。
あれについても調べて見る。
空気の定着は魔術として存在しているようなのだけれど。
理屈を見るだけで、思わずへの字に口を結んでしまうほど難しい。
理解出来なくはないけれど。
まずどうすべきか。
金属板に魔法陣を描き込むにしても、かなりの大きさが必要になるし。
何よりも、空気は濁るらしい。
確保した水槽の中で実験した錬金術師の記録が載せられているが。
この空気定着の魔術を使って、泡を作り。
中に小型の獣を入れて確認した所。
かなりの短時間で、獣は死んでしまった、と言う事だった。
勿論実験に使ったのは小型の獣で。
それでも短時間で死んだ、と言う事は。
ちょっとやそっとの空気では、複数人数が活動するのはかなり難しいという結論が出てくる。
そうなると、空気を常時供給するか。
それとも水中で活動しない、という選択肢が出てくるが。
しかし、今回頼まれているのは、海中という環境の調査なのである。
アダレットとしても、国家予算十年分なんて言われて、流石にそのまま無策で金を出すわけにはいかないし。
フィリスさんが言うには、根本的に手入れをしないと、いずれどうにもならなくなるという話らしい。
そうなってくると。
いずれは、大規模補修をしなければならない訳で。
やはり、誰かが調査をしなければならないのだ。
問題はもう一つある。
あの不思議な絵画があるエントランスに、機材を持ち込まなければならない事だ。
そもそも不思議な絵画そのものが国宝クラスの品であり。
今は錬金術師に、ミレイユ王女の提唱する国策で提供されているに過ぎない。
アレは本来。
リディーやスール程度の存在が、見る事すらかなわないほどの代物なのである。
スールがまた本をどっさり持ってきたので。
幾らかの本を渡して、返してきて貰う。
見聞院の本は、特定のルールに沿って格納されていて。片付けはスールでも簡単にできる。
それは有り難い話だ。
「リディー、何か分かりそう?」
「フィリスさんが泡を纏って海に入ってたでしょ?」
「うん。 あれ、獣とも水中でかなりやり合ってただろうね」
「それもあるけれど、調べて見ると、あの空気の泡、あっと言う間に駄目になるみたいだよ。 駄目になると、死んじゃう」
げっと、スールが呻く。
まあそうだよなあともリディーは思う。
そもそも、水中と陸上では環境が違いすぎるのだ。
それだけ空気は貴重だと言う事なのかも知れない。
家に閉じこもって暖炉を焚いていると、それだけで何か気分が悪くなることもあるくらいだし。
多分人間の体という奴は、空気に対してとてもデリケートなのだ。
だからこそ水中は魔境。
どれだけ泳ぎが達者でも、水中に入れば人間はただのカモ。
陸上でさえ、獣の脅威は度を超しているのに。
ただでさえ水中の活動が苦手な人間が、獣に対抗できるわけが無いのだ。
代替案を出していく。
会話は建設的に進めなければ意味がない。
「乗り物を使う?」
「エントランスに持ち込めないよ」
「それもそうか……」
「空気を常時供給できれば話は別なんだけれどね」
少し考え込むと。
スールはまた本を探しに行く。
本を読むのは苦手みたいだけれども。
本そのものを探すのは、持ち前の勘もあって、スールは得意なようだった。実際、駄目な本も持ってくるけれど。面白い本が確かに混じっている。
しばし集中して本を読んでいる内に。
面白い資料を見つけた。
浅い川で実験した錬金術師の記録だ。
水中での活動について、という論文で。
実際に、どのようにすれば水中で人間が動けるのかについて、詳しく記している。
記録そのものは、300年ほど前のラスティン。
どうやら写本らしく。
比較的本そのものは新しかった。
アダレット王都にも活版印刷をしてくれる機械技術者はいるし。
多分そういう人が写本してくれたのだろう。
研究について見ていくが。
やはり水中で人間が生きるには、主に二つの事をクリアしなければならない。
一つは空気。
そしてもう一つは、獣から身を守ること、である。
お風呂に入っていると、その内指先の肌がしわしわになってしまうけれど。
アレを例に出すまでも無く、元々人間は水の中で生きる生物ではないのだ。だからこそ、錬金術師は浅い川で実験をした。それでも、獣は寝ているときなどを見計らって、襲ってきたそうだが。
その実験記録に目を通す限り。
やはり空気の泡が非常に重要であるらしい。
常に入れ替えをしないと、徐々に意識が混濁していき、やがて死に到るという。
また、獣は泡なんて気にもせずにしかけてくる。
この二つから導き出される答えは。
まず第一に、水中では機動力が落ちることを意識する。
泡を纏ったまま歩いたとしても、それは同じだろう。
そして第二に泡は常に何らかの方法で入れ替える。
これについては、錬金術の資料を幾つか確認する。
空気を定着させる魔術はいくらでもあるのだけれど。空気を入れ換えるとまでなると、また相談しに行かなければならないだろう。バステトさんも、流石に其処まで専門的な術は知っているかどうか。
そして第三に。
さっさと陸に上がるか、大きな獣が入れない位置を探す。
其処を拠点とするためだ。
不思議な絵画ということで、或いは大きな獣はあまり多くはないかも知れないけれども。その代わりレンプライアが出ることは容易に想像がつく。
しかも水中が主体の絵となると。
レンプライアは大繁殖していてもおかしくない。
今回は、あくまで海を調査するために。
擬似的に作られた海の調査、という実験的な試みである。
躓いてはいられないし。
そもそもアダレットだって、無意味に高ランクに錬金術師を昇格させるつもりもないだろう。
既にイル師匠はSランクにまで昇格していると聞いているが。
逆に言えば、イル師匠のような人はSランクに相応しい。リディーとスールは、とてもではないがそうではない。
そんな事は自分でも分かっている。
まずは、確実に力をつけていかなければならないのだ。
また、スールがどっさり本を持ってきたので。
夕刻まで、ああでもないと意見を交わしながら、本を確認。気になるものをメモしていく。
そして、夕刻に二人で別行動。
今回は、スールに王宮での手続きと、フィンブルさんへの約束の取り付けを任せる。
代わりにリディーは、バステトさんに専門的な術の確認をしにいく。
この間、堤防を管理している街に行って、ルーシャに聞かされたが。
海の深さは、人間の背丈の数千倍だという。
勿論内海はそうではないだろうが。
それでも百倍以上だとか。
これから入る海の絵がどうなのかは分からないが。
一度、二人だけで軽く入ってみて、戦略を立てたい。
そのためにも、バステトさんに、アドバイスを受けておきたいのだ。
バステトさんは相変わらず気むずかしそうにしている。
話を聞くと、この間のファルギオル戦で、知り合いが何人か現役引退を余儀なくされたという。
そうか。それは悔しいだろう。
力が足りなくてごめんなさいと謝ると。
バステトさんは、大きくため息をつく。
「リディー。 お前は何一つ悪くは無い。 私が怒っているのは、この理不尽な世界に対してだ。 今回も、いやいつもそうだ。 真面目で才能もある奴がどんどん死んで行くのがこの世界なんだよ。 私より魔術の才能がある奴も、尊敬できる戦士もどんどん命を落としていった。 その一方で、匪賊みたいなクズはのうのうとのさばったりもしている」
顎をしゃくられる。
ぐるる、と不機嫌な声をバステトさんが出す。
猫の顔をした獣人族であるバステトさんも。獣人族らしい、戦士としての強い本能を持っている。
戦士としての第一線を引退した今も。
匪賊に殺された事が、親を失った原因になっている子供が多くいる孤児院を見ると。色々思うところもあるのだろう。
そしてさっきの言葉からしても。
魔術を積極的に教えてくれるのは、目の前で見てきた理不尽を。
少しでも減らしたいという意図があるのは、疑いが無い処だった。
「それで、今日の用事は」
「海に潜りたいと思っていて」
「死ぬぞ」
「はい。 そのままでは確実に」
頷くと、バステトさんは、幾つか教えてくれた。
魔術の専門家であるバステトさんだ。流石に色々と詳しい。そもそもバステトさんは、意識の一部を飛ばして、少し深めの湖の中を覗いてきたことがあると言う。
その結果は、おぞましいものだったそうだ。
「住んでいる獣の大きさが違いすぎる。 水があると言う事は、其処に住む生物はとてつもなく大きくなれると言う事だ。 しかもすばしこい。 獰猛で、貪欲で、更に陸上で生きるのとは関係無い姿形も採れる」
「……」
「水の中で動きにくいというのもあるが、もう一つ大きな問題もある」
「それは……」
暗いのだと、バステトさんは言う。
水は澄んでいるように見えるが、ある程度の深さまで行くと、陽の光は届かなくなっていくという。
それは、盲点だった。
確かに、あんまり検証した記録が無いのだ。
そういう話は、書物に残りづらいのかも知れない。
幾つか、順番に話をしていく。
そうすると、バステトさんはアドバイスをくれた。
「まず空気を纏って固定する魔術。 これは簡単だが、問題はそれだけだと短時間で命を落とす。 そこで、空気を何かしらの方法で持ってくる必要がある。 それは魔術の領域を超えている。 師匠にでも相談しろ」
「はい。 分かりました」
「次に灯りだ。 周囲の全周を照らすくらいの灯りが必要になる。 そもそも海の中の地形もフラットではないだろう。 下手をするとクレバスに真っ逆さまだ。 暗い中を行動するにしても、一寸先も見えない状況だと、大きめの獣に一口で食われて全滅という可能性を捨てられない」
ぞっとする話だが。
確かに、そうやって備えておかないと危ないだろう。
頷いて、メモを追加。
後は技術的な話を聞いていると。
シスターグレースに呼ばれた。
「お夕飯にします。 バステト、準備を」
「はい。 今伺います」
「リディー、貴方も来なさい」
「え、でもスーちゃんが」
スールについては、バステトさんが使い魔を飛ばして、連絡してくれるという。まあスールも一人で夕食を作るような真似はしないだろうし、此処は甘えてしまうのが吉だろうか。
何か材料がいるかと確認。
お金はあるのだ。
少しでも、孤児院を兼ねている教会のためになる事をしたい。
この世界の神様が、どうしてこんな理不尽を放置しているのかは別に今はいい。
此処でしか生きていけない子供達がいるし。
シスターグレースは、そんな子供達にスキルを仕込んだ上で、生きていけるようになるまで面倒も見てくれる。
リディーもスールも、本当に一番大変だったときに面倒を見てもらった身だ。
多少の恩返しはしたいのである。
「それならば、買い出しをお願い出来るかしら」
「はい。 あと、フリッツさんとドロッセルさんはどうしましょう」
「二人は今、どちらも騎士団に頼まれてそれぞれ別の方向で仕事をしています。 まだ数日は戻って来ないでしょう」
「分かりました」
そうだ。
まだ災害復旧で、騎士団は相応に忙しそうにしている。
戦略級の傭兵ともなると。
各地で引っ張りだこだろう事は想像に難くない。
年長の子供達と一緒に、買い出しに行く。
もうすぐ教会を出る子供達は、年齢では無く、基本的にスキルを身につけた事が基準になる。
例えば、ホムのお店などで働く場合には、ヒト族のお店で働くよりも、スキルを重視した実践的な人間が要求される。
また騎士団などでは、戦闘能力が重視され。まず戦えることが採用条件になる。
そう言った場所で、暮らせていけるスキルが身につくと。
教会を離れる事になる。
年は様々だけれども、10歳ほどで教会を出て、今アルファ商会で下働きをしている獣人族の子もいるらしく。
その子は魔術が使える事を見込まれて、雇われたそうである。
教会にお金を入れてくれるほど稼げているそうなので。
下働きと言っても、かなり評価されているのだろう。
何人かと一緒に、買い出しに出て。
そして、呼ばれて来たスールと一緒に、教会で夕ご飯を食べる。
しばらく暖かい時が流れる。
シスター達はみんな料理が上手だし。
何より、良い食材が入らなくても。料理でカバーできるだけの力を持っている。
子供達はみんな満足そう。
あまり良くない孤児院だと、子供が酷くて悲しい扱いを受けている事もあったり。荒んでいる事も珍しくないらしいけれど。
近年はそういう孤児院は減っているらしいし。
この教会で、そんな荒んでいる様子の子供はいない。
シスターグレースが如何にスペシャリストとして高い技量を持っているのか。それがよく分かる。
夕食が終わった後。
二人揃って、別室に呼ばれる。
シスターグレースは、音避けの魔術を掛けると。
咳払いした。
「ロジェさんの目撃報告が入りました」
「えっ!?」
「お父さんは何処に……」
「それが……」
アダレットの第二都市。人口一万を少し超える街にて、公認錬金術師の所で手伝いをしているのを目撃されたというのだ。
一体何を考えているのだろう。
長く働く様子は無かったが。
アトリエの主は、自分と同じくらい出来ると言っていたとか。
この公認錬金術師も、そもラスティンで難しい試験を突破している人で。近年の状況変化に伴って、ラスティンから招聘された人だから。相応の凄腕だろうに。
「無事だったのなら良かったよ」
スールが胸をなで下ろす。
昔とは態度が雲泥だ。
実はリディーも意見は同じだけれど。此処は黙っておく。帰ってきて欲しいけれど、何か目的があって動いているのだろうし。
何より、深淵の者にちょっかいを出したりするような自殺行為に出ていないことが分かっただけでマシだ。
「とにかく、ロジェについてはまた何かあったら情報が行くようにします。 二人とも、ロジェは難しい状況にある事を忘れないであげなさい」
頭を下げて、礼を言うと。
教会から帰る。
さて、今日は寝る前に、レシピを考えておきたい。
帰り道に、まとめた話をスールとしながら。
どうするか、考える。
そしてレシピが出来たら、イル師匠に相談。
一週間以内に。
モノにしなければならない。
1、水底への挑戦
イル師匠の所に出向いて。
二つの道具について、まず意見を聞く。
一つは、空気の泡を発生させる装置。水の中に入った後、これを自動で起動させ。周囲の水を押しのけることによって、一緒に入った人達が行動できる空間を作る。
仕組みとしては、シールドをまず魔術で発生させ。
そのシールドの内側にある水を、外に押し出す。
二つの魔術を組み合わせる難易度が高いものだが。
どうにか作れるようになったプラティーンを基盤に魔法陣を組み込み。
更に荷車にセットすることで、荷車を中心とした陣形を組んで移動する事を基本に、水中での行動を可能とする。
もう一つはランタンである。
とはいっても、海の中が想像以上に暗いことは容易に想像がつく。
使い魔の使い方も教えて貰ったけれど。
それについては、別にリディーがそのまま魔術として使えば良い。
問題は暗い事を解消する必要がある、と言う事で。
以前教えて貰った空中避雷針のレシピを参考に。
常時浮遊する実体と。
其処に、非常に強烈な光を発する魔術を仕込む。
これで、水中を快適、とまではいかないにしても。なんとか歩けるだけの体勢は整うはずだ。
そして、もう一つ。
最大の問題をクリアしなければならない。
説明して、レシピを見せると。
イル師匠は頷いた。
「後一歩という所ね。 レシピの此処と此処は直しなさい。 もうちょっと頑張れば、もう私がレシピを見なくてもよいわ」
「本当ですか!」
「ありがとうございます!」
「……それでもう一つというのは、空気の供給ね」
流石はイル師匠だ。
そして、イル師匠は出してくる。
小さな石のようなものだった。
「これはエアドロップといって、高圧縮した空気が入っているわ。 水を垂らすと、空気が外に出てくる仕組みよ。 これを開発した錬金術師は、口に入れて海の中を移動しようと思っていたらしいけれど、言う間でも無くそれは自殺行為だから絶対にやっては駄目だからね?」
「はい、分かっています」
「よろしい。 エアドロップの本当の使い方は、空気の泡のシールドを作るとして、その中で常に新鮮な空気を供給する事よ。 そしてもう一つ問題が出てくる」
頷くと。
イル師匠は、指をパチンと鳴らした。
どうやらそれだけで、複数の魔術を発動させたらしい。
詠唱もしていないのに。
シールドが発生して、リディーとスール、更にイル師匠を包む。
そして、いきなり耳がきーんと鳴り始めた。
「!?」
「あまり良い気分はしないでしょう」
「はい、コレは一体……!?」
「気圧というものよ」
もう一度指をイル師匠がならすと。
シールドが解除され。
一気に楽になった。
スールがへたり込んで、激しく咳き込んでいる。
イル師匠が、順番に、丁寧に説明をしてくれた。
「空気は見えないけれど、水と同じように常に存在しているものなの。 そして、空気は濃かったり薄かったりする。 これは高い山に登ってみればすぐに分かるわ」
「は、はい……」
「そして空気は濃すぎても害になる。 つまり、常時さっきの空気のシールドから空気を放出しつつ、空気を追加しなければならない。 そういう事よ」
なるほど。
実例込みで教えてくれるのは、とても有り難い。
メモを早速とる。
そして、エアドロップのレシピについて確認。
もう一つ重要な、最初に空気を纏うシールド発生装置のレシピについても、手を入れる必要がある。
魔法陣の修正が必要だ。
もう一つ、聞いておきたい事がある。
「錬金術の布についてなんですけれども」
「その服、相当に思い入れがあるんでしょう?」
「はい。 でも、ヴェルベティスが作れるようになったら、せめて裏地には仕込みたいかな……って」
「ヴェルベティスはね、元々生半可な金属より切れ味が鋭いくらいで、下手に触れるだけで出来が悪い場合は指が飛ぶくらい危険な代物よ」
ぞっとすることを言われるが。
イル師匠は、咳払いした後、ちゃんとアドバイスをくれる。
「強い魔力を含んだ布であったら、まずはモフコットあたりから目指しなさい。 獣から刈った羊毛を加工して、布にするときに魔力を込めるようにする事で、布自体に強い防御効果や、場合によっては身体能力強化を付与できるわ。 ベルヴェティスは少なくともハルモニウムを作れるくらいの実力が要求されるし、貴重な素材も必要になるけれど、モフコットくらいなら今の貴方たちにならすぐに作れる筈よ」
「はい、調べて見ます」
「よろしい。 それと、このおなかをガードする装備。 発想は悪くないわ。 ベルトでフィリスが似たようなものを作っていたのを思い出すわね」
そうか、やはりおなかを守る事の重要性は、誰もが思いつくのか。フィリスさんが昔作ったのだとしたら、発想も間違っていないのだろう。
とりあえず、必要な事は全て聞いた。
此処からは、アトリエに籠もって、調合の時間だ。
手分けして動く。
まず、プラティーンのインゴットを作る。
お金はあるので、コルネリアさんの所で、前に作ったインゴットを増やして貰う。お金は掛かるけれど、これは必要な出費だ。まだプラティーンはかなり作るのに時間が掛かってしまう。
他の道具類を作る時間を圧迫してまで、費やすほど時間は余っていない。
その間に、まずはエアドロップを作成する。
エアドロップは、複数種類の鉱物をすり潰し、其処に何種類かの薬草を混ぜ込むことによって丸薬のようにして作り出す。
これに水を足すと、爆発的に空気を産み出す。
しかしながら、あまりにも水の量が多すぎると、さっきのシールドの中で起きた事よりも、更に酷い事になるのはほぼ確実。下手をすると、命が危ないかも知れない。
エアドロップそのものは、はっきり言って作るのはそれほど難しくも無かった。
ありふれた鉱石ばかり。薬草もそう大したものはない。
二人だけでネージュの絵画に出かけていって。
ちょっと素材を回収してきて、それで充分に揃った。
ネージュの要塞はもう中には入れてくれそうに無いけれど。
そも要塞の外に拡がっている空間にもレンプライアはでないし。
堀以外には獣もいない。
もの凄く平和で、静かな世界だ。
ネージュの命令を受けたらしい命を持った鎧が、調合に必要らしい素材を回収しているのを見かけるけれど。
彼らはリディーとスールを見ても襲ってくる事はなく。
外の世界よりも、とても安全である事が一目で分かる。
こんな所に住んでいたら。
人は心安らかになれるのだろうか。
そうとさえ、思ってしまった。
エアドロップを作成した後。
それを一旦合金の箱に入れ。
少しだけ水を垂らして、どんな風に空気が出てくるかを確認する。空気については、危ないので、捕まえてきた小さな兎(フィンブルさんに手伝って貰った)を実験材料にして、大丈夫かどうかを確認。
幸い、何の問題も無く。
シールド内に満ちた空気が、兎を殺すような事はなかったし。
リディーとスールが吸っても平気だった。
これなら、大丈夫だろう。
後は、箱を操作して、空気が一度に出過ぎないようにする。強度だけならプラティーンに迫る合金だ。ちょっと空気に内側から押されたくらいでは壊れない。
続けて、装置類を順番に作っていく。
まずランタンだが。
これについては、避雷針を前に作ったので、難しくは無い。ましてや灯りを発生させる魔術は、殆ど基礎みたいなものだ。
本人が使うとなると素質が関わってくるらしいけれど。
錬金術で発動させるなら、さほど難しい魔法陣も必要ない。
更に言えば、避雷針を作った時に、その信頼性は既に確認済みである。
しかもイル師匠に太鼓判を貰っているレシピ。
作って見ると、非常に便利だ。
自動で自分の上を飛んでくれて、しかも周囲を照らしてくれる。ランタンを持つ必要がない。
かなり高級な品になるけれど。
上空から奇襲される可能性がある場所以外では、相当に役に立つはず。上空から奇襲される可能性がある場合は、シールドが必須になるが。そもそも人間にとって上は死角なので。
危険な飛行生物や、上空からの奇襲が想定される場所では、常にシールドを準備しておくのが当たり前なのである。
街の外を歩いて、使用感を試してみる。
一応アダレット王都にも、魔術の灯りを灯す街灯があるのだけれども。
それより遙かに明るくて、まるで昼間になったかのようである。
ちょっと驚く通行人もいた。
だが、これに目をつけたのは。
むしろコルネリア商会だった。
コルネリアさんに呼び止められる。
「その浮遊する灯り、面白そうなのです。 もうレシピはラスティンの本部に登録したのです?」
「えっ? いえ……」
「ならば登録の代行をするのですよ。 ラスティン首都のライゼンベルグでレシピ登録をすれば、そのお金は二人に入るのです。 いっそのこと、販売ルートを此方に任せてくれれば、手数料も支払うのです」
スールと顔を見合わせる。
今までもお薬を騎士団に納入してはいたが。
金食い虫になっていたコルネリア商会から、逆にお金を貰えるというのは、とても有り難い話だ。
一も二も無く受ける。
こういう所からも。
少しずつ実力がついてきたのが分かって、嬉しい。
続けて、プラティーンのインゴットから、シールド発生装置と、空気定着装置改を作り出す。
これは気圧を測定して、気圧が高くなってきたら空気を放出するように魔法陣を追加したものだ。
その分必要なプラティーンインゴットは増えたが。
そもそも、空気という文字通りの生命線が、これほど気むずかしいとは思っていなかったし。
これ以上もないほど扱いづらいとは知らなかったので。
必要な出費である。
黙々と魔法陣を二人で彫る。
時間は容赦なく過ぎていく。
お父さんはどうにか無事。
それが分かって、リディーは少し心に余裕ができたのかも知れない。スールと時々雑談しながら。
確実に道具を仕上げていく。
ある程度で、もうスールだけに加工を任せてしまって問題ない、と判断。
内臓ガードと名付けた、おなかを守る装備品を作る。
この間、海からの防衛線で手に入れた、獣の鱗を見て思いついた防具だが。
肝心の鱗そのものは使えなかったものの。
おなかを守るのには、鱗状の形状は最適と言う事がわかったので、利用はする。
ただし、大きすぎると、動く時に邪魔になってしまうので、柔軟性も必要になってくるし。サイズは小さい方が好ましい。
以前フィリスさんがベルトで作ったという話を聞いて。
理にかなうと思った。
そこで、ベルトに引っかける形で、ガードを出来るようにする。
まず強力な獣。ネームドの毛皮を用いる。
ネームドの毛皮は強い魔力を秘めているのでうってつけだ。これをベースにして宝石を包む。
宝石は以前フーコと火竜の世界で散々原石を見つけてきたので、特に問題はない。
ネームドの毛皮には増幅の魔術。
更に宝石に身体能力を強化する魔術を刻み込み。
宝石がちょっとだけ露出するようにして、毛皮で包む。
この露出はリディーなりのおしゃれだけれども。
ただ、宝石が露出していると、盗人に目をつけられる可能性もあるので。見た目、ガラス玉程度に見えるように、工夫はしておく。
更に、これをベルトに固定するためのフックを作るが。
このフックには、ネームドの毛皮を細く切って作ったヒモを用いる。
これによって、ナイフで切ったくらいではとてもではないが歯が立たない強度にする事が出来る。
仕組みは簡単だけれど。
効果は絶大だ。
勿論値段は張るけれど。マティアスさん、アンパサンドさん、フィンブルさんと。リディーとスール。後一人。
例えば、今度は海という危険な場所に行くので、ドロッセルさんに出来れば声を掛けたいけれど。
それくらいの人数分くらいなら、今の力量ならさほど無理せずにも作れる。
ルーシャともそろそろレシピについて情報の交換をしたい。
ルーシャは今Cランクで、Bランクの試験を受けている最中らしいので、もう少しで追いつく所だけれど。
どうやら相当に苦戦している様子で。
何か助けになるかも知れない。
そう思って、六つ分の「内臓ガード」を作った後、ルーシャのアトリエを見に行くと。
ルーシャは鬼気迫る顔で調合を続けていた。
声を掛けるのは悪いと思ったので、使用人に話をして、帰ることにする。
何だか、ルーシャは最近笑顔が減った。
戦闘ではとても頼りになるし。
何度も命を助けてくれた。
だけれども、ルーシャには笑っていて欲しいし。
側にいて欲しい。
なんであんな風に馬鹿にするようになってしまったのか、自分でも悲しくてならない。幼い頃は、ずっとルーシャをお姉ちゃんと慕っていたのに。
ともかく、情報交換は、不思議な絵の探索後でも別にかまわない。
何より、今度入る絵は、ネージュの要塞同様、他の錬金術師が入っていない、という話である。
どうせ最初の探索後には反省会も必要になるだろう。
その時に、話せば良かった。
アトリエに戻って、装備やお薬などを確認。
昔は作るのに一苦労だったナイトサポートは、もうスールがぱぱっと量産してくれるようになっていた。
騎士団に納入するナックルガードも、スールは手慣れた様子で、片手間に作ってくれる。
思うに、細かい作業は兎も角。
何度か繰り返したものに関しては、スールは非常に上手に作れるのかも知れない。
リディーは、どうなのだろう。
ふと、スールを見て。そして不意に心配になる。
敵に対しての攻撃性が増しているのが目に見えて分かるのだ。
リディーだって、おかしくなりはじめている自覚はあるが。
スールはわかり安く、戦闘では凶暴になって来ている。
リディーは。
どうおかしくなってきているのだろうか。
少なくとも、もうリディーは。ネージュと話したいまだからこそだが。「みんなのために」という言葉を、素直に口から発する事は出来ない。
「みんな」が、「違う」「怖い」と言う理由で救国の英雄であるネージュを迫害し。
何より死にまで追いやった事が、ファルギオルの再臨と暴虐を食い止められない元凶になった事を思うと。
もう、周囲を一切信用できなくなってきているのは事実だった。
リディーはそういう風におかしくなっているのか。
だとしたら。
おかしくなって良かったと思う。
今後、リディーは。
ただ自分が信じるもののためだけに歩きたい。
その信じるものの中には。
少なくとも、「みんな」を自称する人間は。
きっと含まれていない。
ぼんやりとしていると、スールに呼びかけられた。
一瞬意識が飛んでいたので。
すぐには対応出来なかった。
「リディー!」
「……どうしたの?」
「……何でも無い」
「うん、何でも無いよ」
二人で、チェックする。次の探索に必要な道具類。実験も済ませてある。後は現地での実践。
いつもやってきた事だ。
そしてこれからもやっていく事。
なにも不都合は無い。
スールはさっき、何をあんなに顔をくしゃくしゃにして慌てていたのだろう。
それがどうにも、分からなくなりつつあった。
2、深い深い闇の底
お城のエントランスに、時間通りに集まる。
いつもと装備が刷新されていることに気付いたのか。マティアスさんが、真っ先に声を掛けてきた。
「ようリディーとスー。 またご機嫌な道具を作ったのか?」
「うん、きっと驚くよ」
「俺様、今日遺書書いてきたんだ」
さらっと言うマティアスさん。
唖然としているフィンブルさんの前で、マティアスさんは死んだ目で、もう自棄になっているのかはつらつと言う。
「何か海の中に放り出されるんだろ今度の絵。 俺様今度こそ死んだわ。 この間だって、国家予算の十倍って口にしたら、姉貴に踵落とし貰って、頭がくだものみたいにはじけるかと思ったんだぜ。 姉貴って俺様より力持ちでさ、城の床が凹んで大変!」
「殿下、少し休んだ方が良いのではないのか」
「大丈夫大丈夫。 姉貴の言う事を聞かなかったら確実に殺されるし、それだったらまだ生き残る可能性がある所に行く方が良いから!」
重症だなとリディーは思ったが。
しかしマティアスさんは、ある意味前向きだ。
ルーシャが大きくため息をつく。
隣では、無言のままオイフェさんが突っ立っていた。
今日は、皆に加えて、ドロッセルさんに来て貰っているが。
しかし、本当に都合良く間に合ったのだろうか。
深淵の者が手を回したのでは無いのだろうか。
そう思えてならなかった。
今日のお目付はフィリスさん。フィリスさんとドロッセルさんは、前にも聞いていたが、一緒に戦い抜いた仲らしい。フィリスさんは何とも思っていなさそうだし。ドロッセルさんは、心配の一つもしていないようだった。
「海かー。 湖だったら、装甲船にのって、フィリスちゃんと一緒に潜ったんだけれどね」
「装備がしっかりしていないと危ないですからね。 わたしもこの間海の中で堤防直したんですけど、時々冷や冷やしましたよ」
「うっそだあ」
「うふふ」
嘘を見抜かれて笑ったな。
そうリディーは思ったけれど、あえて口にはしない。
アンパサンドさんが咳払い。
姿勢を正すと。
今回持ち込んだ装備について説明をする。
まず絵に入る前に、シールドを展開。ついでに空気を定着させる。
そして絵に入った後は、エアドロップを起動。
常に新鮮な空気が、シールド内に供給され。
そして多すぎる空気は、シールドの外に出るように調整する。
なおこの時展開するシールドは、水を防ぐ以上の事は出来ないので、戦闘に関しては基本的にガードが主体になる。道具、特にドナーストーンを主体に用いていくことになる。
リディーとルーシャはシールド担当。
他の皆は、泡のシールドを突破した獣を、秒で仕留める。
それを意識して欲しい。
そう説明すると、皆頷く。
一応空気シールドの範囲は、それなりに広くしてある。
大きすぎる乗り物はエントランスに持ち込めないので、これは仕方が無い。不思議な絵は国宝だし、この警備が厳しいエントランスから持ち出すのは色々厳しいし。
ともかく、これから入る事にする事を告げる。
マティアスさんが精神的にかなり参っているようだけれど。
フィンブルさんがサポートしてくれると此処は信じる。
楽しそうにしている海賊達の絵に触れる。
次の瞬間には。
世界が、いきなり変転していた。
今までの不思議な絵画の比じゃない。
文字通り、世界がぐるんとひっくり返ったかのようだった。
何が起きたのか分からないうちに、灯りが点る。
シールドは起動。
息は出来る。
点呼。
全員いる。
そして周囲は、既に真っ暗。灯りがなければ、何も見えないだろう。。まずは、事前に想定していたとおり、使い魔を飛ばす。一応灯りは複数用意してきた。しかも、シールドのギリギリに飛ばしている。これは明るい側から暗い方はよく見えなくなるからである。少しでも戦力差を補うためだ。
全てはイル師匠と話して決めておいた事である。
まず最初にやるべき事は。
使い魔を海上まで飛ばして、陸地を探す事だ。
そこを拠点に、海を調べる。
「ごめんなさいアンパサンドさん。 狭い場所で大型との戦いをさせてしまいます」
「そう思うなら、さっさと陸上を探すのです。 或いはもっと戦いやすい環境に切り替えるか」
「はい」
容赦の無い言葉だが。
これはアンパサンドさんだけではなく、全員に危険が及ぶから、の言葉である。
それくらいはリディーにも分かっているので、何も言うつもりは無い。
アンパサンドさんは厳しい人だけれども。
彼女は自分にも誰よりも厳しい。
そうでなければ、回避盾なんてリスクが最悪の戦闘スタイルを続けていられない。
まず、最初の予定通り、使い魔を飛ばす。
その間ルーシャだけがシールドを張る事になるので、緊張が高まる。
灯りが照らしている範囲だけでも、相当な数の巨獣が見えているのだ。此処が内海である事を祈るしかない。
「今のところ殺気は感じないのです」
「急ぎます」
海底とはいえ。地下からしかけてくる獣がいるかも知れない。
どんどん使い魔を浮上させる。形は四角錐なので、獲物と思われることもないだろう。
その間は動けない。
灯りに興味を持ってくる獣はいるようだけれど。
定期的に海中にドナーストーンを放り込んで起爆させ、追い払う。
大きいのが興味を持つ前に。
早めに移動しなければならない。
「使い魔、海上に出ました!」
「陸地は」
「……あります、小さめの島! 船……停泊していますけれど、壊れています」
「絵に描かれていた海賊船だね。 でもなんで壊れてるんだろう」
あくまで脳天気なフィリスさんの言葉。ドロッセルさんは最後の保険。大物が仕掛けて来たときのため、待機して貰う。
でも、彼女は此処にいる面子のなかでフィリスさんを除くと唯一、別に何があっても問題なく生還出来る。故に余裕なのだろうとも思う。
ちょっとエゴイスティックだとも感じるけれど。
それを言い出したら、多分みんな大なり小なりそうなはずで。
完全にエゴを排除できた人間がいたら。
それは超人か魔物だ。
そこまで思って、気付く。
ひょっとして、ソフィーさんは。
そんな領域まで達しているのではあるまいか。数回しかまだ会っていないが、それでもその推察は間違っていない気がする。
ぞっとする。
本当に、怪物の掌の上で転がされているのだと、思い知らされてしまうし。
何よりも、此処から生きて帰らなければならない。
絵では楽しそうにしていた海賊達だが。
この絵のなかでは、実際にはどうなっていることか。
愉快で話が分かる、芯も持ったピカレスクロマンの海賊だったらいい。
此処は不思議な絵画だ。
そんなあり得ない存在がいても不思議では無い。
そもそも法則が異なる世界なのだから。
賊が常に凶悪という訳でも。
匪賊のように人を食ったりする訳でも無いだろう。
ともあれ、使い魔を少し海上から高い位置に飛ばし。視界をある程度共有しながら、移動を開始する。
海底にも深い溝がある可能性はある。
使い魔の移動速度と、海上に出るまでの時間を換算する限り。
幸い、此処は内海だ。
あまりにも非常識すぎる獣はでないと信じたい。
アンパサンドさんに言われて、マティアスさんが剣を地面に突き刺し、わかり安く大きな溝を掘っていく。
力自慢の(ミレイユ王女は更に上らしいが)マティアスさんだ。
柔らかめの海底の岩盤に傷をつけるくらいは問題も無いのだろう。
フィリスさんが、時々良い岩とか、珊瑚の類とか。或いは真珠を持っている貝。動きが遅い魚などを教えてくれる。
言われるままに捕まえて。
荷車に乗せていく。
一抱えもある魚も珍しくない。
二連結にしている荷車も、もう作ってからだいぶ時間が経つし。
そろそろ改良を加えて、全自動式にしたい所だ。
この探索が終わったらそうしよう。
そして、全自動式にした後は。
飛行キットのレシピを入手して。
空を飛べるようにもしよう。
それで探索がぐっと楽になるはずだ。
かなり光が届くようになって来たので。
灯りを一旦消す。
そうすると、海面が頭上に見えてきた。
かなり浅いが、それでも水深はリディーの背丈の三十倍から四十倍というところだろうか。
出来るだけ急いで、砂浜に通じている地点か。
或いは陸にでられそうな場所を、見つけるしかない。
灯りは今の時点では必要ないだろう。
周囲に最大限の警戒を続けながら。
できる限り気配を消して、そろりそろりと歩く。やはり遠くに、とんでも無く巨大な獣が、悠々と泳いでいる。
あんなのに襲われたら、総力戦になるし。
勝てたとしても消耗しきって、撤退しなければならなくなる。
そんな事になったら、ここに来た意味がなくなる。ドロッセルさんがいても同じ事だ。
ともかく、急ぐ。
「こっちは駄目だな。 崖になっているようだ」
フィンブルさんが言う。
一番目が良いフィンブルさんの言葉だ。使い魔と視線をリンクして、良さそうな場所を探すしかない。
少し島への移動経路を変えて進むが。
しかしながら、いきなり。
殆ど瞬くような速度で、尖った魚が突貫してきた。
ルーシャよりも先に、オイフェさんが動く。
彼女が凄まじい勢いで、手刀で海底に叩き落としたそれは。
長槍のように尖っていて。
殺意の塊のような形状をしていた。
大きさはリディーの背丈ほどもある。
フィンブルさんがぼやく。
「これは、たまに網に掛かる奴だな。 海中ではこんなに速く動くのか」
「攻撃性も高く、あの位置から此処まで飛んでくると言う事でもあるのです」
「全方位警戒してください」
まだぱたぱた暴れている魚をマティアスさんが真っ二つにすると。
荷車に乱暴に放り込む。
あんなのに周囲から波状攻撃でもされたらたまったものではない。空気を封じているシールドの強度は、移動速度との兼ね合いもあって、あまりあげる事が出来ない。獣も自由に入ってこられるという事を意味している。
また、尖った魚が飛び込んでくる。
それも二回連続。
ルーシャがシールドを展開するが、魚はシールドに突き刺さった。
ルーシャのシールドは、ある程度自壊することで、致命打を避ける仕組みになっているようなのだけれど。
それでもこんなサイズの魚が、半ば貫通するなんて。
流石に魔境で生きているだけの事はある。
ドロッセルさんは即応していて、もしルーシャのシールドがもたなくても、多分対応してくれてはいた。しかし、それでもひやりとした。
もう一方から飛んできた魚は、一瞬でアンパサンドさんが首を叩き落とし、更に通り過ぎた瞬間に海底に蹴り落とした。
その結果、荷車に胴体だけがぶつかり。
頭が高速で海底に突き刺さった。
そう、海底に突き刺さるほどである。これは下手な金属製の剣よりも、危険なのではあるまいか。
予想は当たる。
移動しながら、この魚の警戒をしなければならず。
そして、六回に渡って襲撃を受ける。
昔だったら、スールと抱き合ってぴーぴー泣いていたかも知れないが。
今は恐ろしいとは感じても。
心を折られるような事は無かった。
ドロッセルさんも、本当に危ないときは動いてくれたし。本当に料金分の仕事はしてくれる。
冷静に、丁寧に敵襲に応じながら、島の近くまで移動。
「此処も駄目だ。 先にクレバスがある」
「ありがとうございます、フィンブルさん。 もう少し東に迂回しましょう」
「……海の中が厄介だと言う事は知っていたし、漁師達の話も聞いていたつもりだったんだがな。 やはり話半分だったんだろう。 海に落ちたらまず助からないという言葉は、これを見る限り本当だな。 しかもこの絵の世界は、まだ手心が加わっている可能性が高いんだろう?」
フィンブルさんが牙を剥いて周囲を見る。ドロッセルさんが苦笑い。多分湖に潜ったという話からして、その時の状況と比べているのだろう。
一瞬も油断できない場所。
そう態度で示すことで、周囲に警戒を促している。
クレバスを迂回して、巨大なクラゲが泳いでいるのを横目に行く。
海中産の亀らしいのが、そのクラゲを一瞬にして捕食。
人間の数倍はありそうなサイズだったのに。
横殴りに一口である。
ぞっとするが。
今は相手にしていられない。
クレバスを抜ける。
上り坂になっているので、そのまま移動し、ほどなくどうやら海岸に出られそうな場所だと判断した。
まず海岸に出てから。
その後は、来る途中の経路に、剣で溝を掘りつつ。
何カ所かに、持ち込んである杭を打ち込んでいく。
これは最短経路を先に確保しておくためで。
イル師匠とも、事前に打ち合わせはしておいた。
何かあった時のためにも。
どうせ島に上がってからが本番なのだろう事も考えて。
島までの経路については、しっかりと何も考えずとも、移動出来るようにしておくためである。
「息が苦しくなったりはしていないですか?」
「問題ない」
「大丈夫なのです」
「……探索を続けます」
ヒト族であるリディーは大丈夫。
獣人族であるフィンブルさんも、ホムであるアンパサンドさんも平気。
魔族の戦士が来ていたら、また話を聞かなければならなかっただろうけれど。今此処にはいないので気にしなくてもいい。
ただ今後の事を考えて。
少しでもデータは増やしておいた方が良いだろう。
最初に絵の中に出現する地点まで戻った。
ほぼ直線で、あの島まで行く事が出来る。最初に彫った溝の方は、×印をつけておく。これで間違うことも無いだろう。
一度、絵の外に出て。
シールドを解除。
ひっきりなしに、あの剣のような魚の襲撃を受けたこともある。
あと、水に濡れてはいるけれど、かなりの数の鉱石も手に入った。
乾かしてみないと何とも言えないけれど。
これ、プラティーンの鉱石ではないのか。
だとしたら、有り難い話である。
軽く、外で反省会をする。
最初にアンパサンドさんが、提案。
「他の錬金術師への注意喚起を幾つかした方が良いのです」
「はい。 受付で話してみます」
「それとさリディー、あの灯り。 多分だけれど、いる場所を教えているようなものだし、もっと離した方が良くない?」
「……でもそうなると、水中になっちゃうね」
それがネックだ。
前の避雷針も、雨の中で使う事は想定していたから、耐水性は持っている。それも結構な強さで、である。
しかしながら、海の中に放り込んで無事かどうかは何とも判断が出来ない。
今回はまだ余力がある。
一旦島にまで出て。
其処で状況確認するまでは、探索を進めておきたい。
ドナーストーンもまだまだ在庫があるし。戦利品を積み込んでいる荷車にも、まだ充分な余裕がある。
いずれにしても、初探索のチームがレポートを出すまで、次の錬金術師が入るような事は多分ないだろう。
事前に誰かが入った形跡はあるが。
すぐに引き返したか。
或いは、アドバイスなんて必要ない実力者とみて間違いなさそうだし。
そのまま、もう一度絵の中に。
幸い、植え込んだ杭と、溝は、きちんと残っていた。
杭に関しては、合金を用いているので、ちょっとやそっとでどうにかなるほどヤワではないし。
壊れることは、気にしなくても良いだろう。
移動開始。
やはり、立て続けにあの長槍のような魚が襲ってくる。全方向を、常に警戒しなければならなかった。
それに現時点では襲ってこないが、巨大なクラゲや大亀もいる。
此奴らも、近付きすぎれば襲ってくるだろう。
リディーの至近。
シールドでかろうじて弾くが。
一瞬反応が遅れていたら、顔面に魚が突き刺さっていた。
流石に冷や汗が出る。ドロッセルさんが前に出てくれてはいたが。それでも、冷や汗が出るのに変わりは無かった。
本当に殺意が高い生物だ。
こんなのがうようよいて。
しのぎを削っているのだとしたら。
しかも大きさからして、大して強い方の獣でもないだろう。それは、人間なんてお断りになるわけである。
呼吸を整えながら、移動を続ける。
魚を三十匹ほど返り討ちにした頃だろうか。
やっと、最短経路での。
上陸に成功していた。
砂浜に上がる。
海岸には、滅茶苦茶に壊された船。わかり安い髑髏のマークを掲げていて。大砲も載せているようだった。
おーとドロッセルさんが手をかざし。そして人形劇に生かすのか、メモをとっていた。
大砲は確か、そこそこ大きな街などでは、防衛用の兵器としておかれているらしいのだけれども。
高価な割りに火力が微妙で。
何処の街にもある、と言うわけではないようだ。
陸上に上がった所で、どうせレンプライアがウヨウヨいるのは避けられないだろうし。
周囲を警戒しつつ、まずは船を確認する。
難破したのか。
そういえば、磯の辺りで、座礁している。
あれでは復旧は難しいだろう。
しかも、壊れてから相当時間も経っている。
船には竜骨という、背骨に相当するような場所があると聞いているが。
それもあの様子では駄目になっていること疑いない。
「よう、俺の島に何か用か?」
いきなり掛かる声。
そこにいたのは、わかり安いラフな格好をして。腰にサーベルと拳銃を差した、いかにもピカレスクロマンに出てきそうな海賊。
ただし、白骨だった。
白骨が喋っている。
昔だったら、スールは泡を食ってそのまま逃げようとしただろうが。
今は、そこそこ平気なようである。
警戒する皆の前に、白骨は余裕の体で歩いて来る。
不意に、真横から飛びかかってくる小さなレンプライア。一番小さい、小型の球体みたいな奴だ。
それを目にもとまらぬ速さで斬り伏せ、更に撃ち抜く海賊骸骨。
ひゅうと、口笛を鳴らしたつもり、なのだろう。
骨の間を、何か風が吹き抜けたように聞こえた。
「カカカカッ、相変わらず何処にでも湧いてくるなこの黒いの!」
「貴方は?」
「俺か? 俺はキャプテンバッケン。 七つの海を股に掛ける、火あぶり海賊団の船長よ!」
「海賊……」
アンパサンドさんが目を細める。
騎士と賊は敵同士だが。
まあ絵の中でまで対立することもないだろう。それに、何より相手がどんな賊なのかも分からない。
匪賊同然の輩なら殺す必要があるが。
そうでないなら、別に命の取り合いなど必要では無い筈だ。
なおドロッセルさんは平然としているが、実力故の余裕だろう。
「おー。 お前は何か前に来た奴に似ているな。 そこのちっこいの二人!」
「?」
「いや、ホムのほうじゃねえ。 お前達だ」
「私と、スーちゃんの事ですか?」
そういえば近づいて見ると分かるが、このバッケンと名乗る海賊、かなり背が高い。まあちっこいのと言われるのも仕方が無いか。
バッケンはカカカと特徴的に笑いながら、友好的に近付いてくる。
「よーし決めたぞ。 お前達、これから俺の子分CとDな!」
「ええと、子分AとBは……」
「ずっと前にこの島を訪れたのが二人いてな。 何かそいつらと雰囲気が似てるからよ、子分CとDだ。 子分Aの方は、たまにまだ遊びに来るんだぜ!」
錬金術師、だろうか。
一瞬フィリスさんを見たが。
バッケンの言動を見る限り、多分フィリスさんではないだろう。
ソフィーさんとも思えない。
そうなると。
誰かが絵のなかに入った事がある、と言う事か。
だとすると、相当な腕前の錬金術師の筈だ。この絵が国宝として飾られる前に入ったのか、それとも。
よく分からないけれど。
兎も角、今は順番に話を聞いて。
状況を処理していくしか無い。
「あの船が、バッケンさんの、ですか?」
「ああ。 この島に伝説の宝がある事は知っていたんだが、多分船がもう限界だったんだろうな。 部下達も殆どここに来るまでにやられちまって、七つの海を股に掛けた海賊であるこのバッケン様もこの様よ。 まあ海賊家業は思う存分やれたし、何も気にすることはないけどな! カカカカ!」
「随分と脳天気な海賊なのです」
「んー? お前は騎士か。 ホムの騎士なんて初めて見るな。 しかも結構出来ると見た」
アンパサンドさんが目を細めるが。
バッケンにやり合うつもりは無い様子で、ほっとする。
今の動きを見る限り。
バッケンはかなり強い。更に、島の状況も分からない。今、戦うのは得策では無い。
「海岸で話し込むのも何だ。 俺が使ってるキャンプがある。 其処で話すとしようや」
促されて、ついていく。
今までの他の不思議の絵画でもそうだったけれど。
今回も、まずは住人と話をする。
全ては、其処からだ。
3、バッケンと不思議な島
キャンプは見た目よりもずっとしっかりしていて、色々な機材などが揃っていた。
不思議な絵を外からみても。
多分この絵を描いた錬金術師は、海に出たいと言う強いあこがれを持っていた人物だったのだろう。
だけれども、海に出られる船なんて。ましてや外海に出る船なんて。生半可な錬金術師に作れるわけが無い。
七つの海、なんてバッケンは言っていたけれど。
そんなもの、聞いた事もないし。
海賊を題材にしたピカレスクロマンは読んだことこそあれど、見た事がない単語である。
きっと、それくらいの海があると空想して。
その空想が、バッケンに引き継がれているのだろう。
そも、内海を移動するのがやっとの人間である。
海岸線の集落が脆弱な武装しかしていない、と言う事は無く。
何かしらの理由で海岸線に集落を作る場合。強大な海の獣に備えて、ガチガチに守りを固めているのが普通だとリディーは聞いている。
たかが船一つに乗った戦力程度で。
簡単に攻略できるほど甘くは無いだろう。
ましてや船なんて高級品。
賊ごときに入手は無理だ。
たとえば、である。
大規模な商人が、荒くれを束ねて。
交易をしつつ、探索もして、場合によっては海賊にもなる。
そんな無頼が出来るくらいに、海の獣が弱かったのなら。或いは海賊という商売は成り立ったかも知れない。
これについては持論では無く。
海賊について書かれた本の後書きに、作者が書いていたことだ。
浪漫と現実は違う。
その作者は、こうも書いていた。
もしも、そんな一軍事単位としての海賊が存在しうる世界だったら。海賊は時には軍に、時には商人に、そして時には最も残虐な賊になっただろう。何処にでも移動出来るのだから、エジキにする相手に遠慮する必要がないからである。
匪賊ですら、襲った集落の人間を全て食ってしまうような事は滅多に無い。獲物を食い尽くせば後が無いからだ。
だが幾らでも移動出来る海賊が実在したら。
それは残忍非道の代名詞になるだろう、と。
幸いにもと言うべきなのか。
リディーとスールが住んでいる、この絵の外の世界では。海は危険すぎて、アルファ商会でさえ外海に出られるような船を用意できる状態ではない。
従って海賊など存在しないのだ。
キャンプで、さっき仕留めた魚を焼いて食べる。
バッケンは酒を飲んでいたが、骨なのに零れていない。飲んだ酒が何処に行くのか良く分からない。
マティアスは下戸らしく。バッケンの酒にはフィンブルさんがつきあっていた。アンパサンドさんはドロッセルさんと周囲を警戒中。
さっきもレンプライアがいたように。
案の定、この世界にもレンプライアはいるようなのだから。
そして、どういうわけか、バッケンはルーシャに殆ど興味を見せない。
アンパサンドさん達とは別方向を、オイフェさんが警戒。
ルーシャは、どうも男同士が酒を飲んで騒ぐのを見て、あまり好感を覚えないらしい。
或いはルーシャのお父さんが、国の高官を飲み会で接待しているのを、昔から見ていたから、かも知れないが。
「カカカカ! そんなヤバイ雷神を倒したのか!」
「倒したのは主にそこの双子と、その赤毛の錬金術師だ。 ただ、相手の力を極限まで弱体化させて、やっと勝負になった状態ではあったが」
「それでも大したもんだぜ! 或いはお前さん達なら、向こうの入り江に住み着いたのをどうにか出来るかも知れないな」
「!」
何か、いるのか。
バッケンはお酒が何処に行っているのかさっぱり分からないけれど。
それでも、気持ちよく酔って赤くなりながら言う。
「俺様が宝を隠して、子分共が来て、それからしばらくしての事だ。 島に厄介なドラゴンが流れ着きやがってな」
「ドラゴン!?」
「それも海棲の奴な。 知ってるかもしれないが、海棲のドラゴンはデカイし厄介なんだぜ。 それに海棲のくせに普通に空も飛びやがる」
ぞっとする。
ただでさえ、恐怖の権化に等しいドラゴンだ。
隣で話を聞いていたマティアスが、もう顔に帰りたいと書いている。
フィリスさんは、ちらりと奥の方を見た。
或いはドラゴンの気配を察知したのかも知れない。会話には殆ど加わってこないが。この人、或いは感覚だけで、既にこの絵の全てを把握しているのかも知れなかった。それくらいは出来ても不思議では無い人だ。
「俺はこんな体になっちまったが。 この島は、海賊の夢の果ての島として、今後も守って行きたいと思ってる。 どうせこの世界に海賊はもう俺しかいないし、何より見ていれば分かるが、どうせお前達の世界にも海賊なんていないんだろう?」
「!」
「其処の赤いの、ずっと俺を警戒しているな。 俺があり得ない存在だってのは、それだけで分かるんだよ」
ルーシャに初めてバッケンが話しかける。
なるほど、それで話しかけなかったのか。
バッケンは楽しそうに笑っている愉快な海賊だが、それでも知能は劣悪ではないという事だ。
観察力も優れている。
此処が、閉じられた小さな世界で。
自分があり得ない存在だと言う事も、理解出来ているのだろう。
「流石の俺もドラゴンにはかなわん。 見たところ、腕利きの騎士が二人、傭兵、更に錬金術師が三人……あっちのは更に桁外れのようだが。 ともかくそれだけの戦力がいるなら、ドラゴンをどうにか出来ないか。 アレはあからさまな異物だ。 この島に、子分AとBが戻ってきた時に、あんなのがいたらあまり面白くない事になりそうだからな」
「分かりました。 少し調べて見ます」
「おっ、即断か。 とりあえず、居場所については教えておくが、かなり獰猛な奴だから気を付けろ。 下手をすると、一瞬で遠くからズドン、だぞ。 ドラゴンのブレスの恐ろしさは、お前達は……その様子ではまだしらねえか。 俺の船程度なら、一撃で木っ端みじんだな」
カカカとまた笑うバッケン。
ドラゴンの恐ろしさは、再三叩き込まれてきている。
そして、そろそろ戦う事があるかも知れないと、覚悟もしていた。
それならば、今がその時、と言う事だ。
呼吸を整えると、バッケンに頷く。
居場所を教えて欲しいと。
先にここに来た子分AとBというのにもちょっと気になる事があるのだが。
今はそれよりも優先度が高い処理事項として、ドラゴンがある。
どうやったのか分からないけれど。
もしも不思議な絵画にドラゴンが入り込んだのだとしたら。
それは絶対に駆除しなければならない害獣だ。
あのフーコと火竜の世界にいた、話が通じるドラゴンなんてのは、例外中の例外なのである。
基本ドラゴンには知能はなく。
そして人間がある程度近づいて来たら、ものにもよるが問答無用でしかけてくるのが当たり前。
どんなに大人しいドラゴンでも。
近付けば攻撃は絶対にしてくると、リディーも聞かされている。
スールが立ち上がった。
「バッケン船長、案内お願い出来ますか?」
「お、やる気だな子分D。 じゃあ早速いくとしようか」
「はい」
「こっちだ。 油断だけはするなよ」
酒を入れていても、流石に自称七つの海を渡った海賊。
歩いていて殆ど隙は見えない。
マティアスさんが青ざめているのは、多分下戸で、酒の臭いだけで気分が悪くなったかだろう。
「マティアス、大丈夫?」
「ああ、気を遣ってくれて済まないな。 情けないだろ、武門の家の男が、酒にこんなに弱くてよ」
「何言ってるの。 お酒は個人によって飲める量が全然違うし、マティアスちゃんと立派に騎士してるじゃん。 お酒が飲めないくらいで、価値なんて落ちないよ」
「そう言ってくれると助かるぜスー。 最初に宴会に出された時なんて、俺様が飲めないのを散々からかわれたからな。 飲めないのもあるんだが、それもあって今も酒が苦手でしょうがねえ」
アンパサンドさんが、黙るように口元に指を当てる。
見るとバッケンも、いつの間にか注意深く周囲を見回している。
見晴らしが良い場所から、いつの間にか色々な木が生えている密林に出ていた。普通安全なはずだけれど。
不思議な絵画の世界は。
外とはルールが違う事が多い。
フィンブルさんも、動けなくなるほど飲んでいた訳では無い様子で。
既にハルバードを構えて、戦闘態勢に入っている。
わっと、森の中から飛び出してくるレンプライアの一団。
いずれも、今まで見てきた奴より大きい。
どんどん凶悪なレンプライアになっている気がするが。
それは恐らく、危険度が高い絵に、ランクの上がった錬金術師をいれるように調整しているからなのだろう。
この絵はそもそも。
あり得ないと分かりきっている事を書いた絵だ。
作者のどこかに、強い怨念というか。海に対する憧れに対する憎悪というか。どうにもならない事に対する怒りというか。
そういう負の思念があるのだろう。
だから、レンプライアも強くなる。
真っ先に前に躍り出たアンパサンドさんが、木々を蹴って立体的に動きながら、レンプライアの注意を惹く。
スールが横っ飛びに連射連射連射。全弾見事に当てて、しっかり敵を削りつつ。
敵の動きが止まった所に、ルーシャが射撃。
更にマティアスさんとフィンブルさんが突貫し。敵を順番に切り裂いていく。
リディーは即座に詠唱完了。
複数の装備品の助けで、身体能力強化の魔術は、殆ど詠唱無しで撃てるようになった。前線で戦っている皆に、即時で切り替えながらかけていく。戦況をそれで、一気に有利に出来る。
鎧の奴だけには絶対に近付かない。
あれは周囲に、敵を切り裂く風のフィールドを纏っている。
「やるじゃねえか、カカカッ!」
バッケンが、兵士のようなレンプライアの槍を軽々サーベルで捌くと、至近距離で頭を撃ち抜く。
それで泥になって消えるレンプライア。
前に躍り出たオイフェさんが、大きめの魔術を撃とうとしていたレンプライアの顔面に拳を叩き込み。
その拳は、頭を粉砕していた。
スールが放り込んだドナーストーンがとどめになり。
レンプライアが全て溶けて消える。
すぐに残骸を回収。
やはり相当な高純度だ。
ネージュのアトリエで廃棄されていたものほどではないが。
此処のレンプライアはかなり強い。油断すると、火傷ではすまないだろう。場合によってはバトルミックスも必要か。
フィリスさんは。
見ると、彼女の周囲には、木っ端みじんにされたレンプライアが散らばっていて。
無惨な有様だった。
何をしたかも分からないうちに殺されたのだろう。
ドロッセルさんの周囲も同じ。まあ彼女は戦略級傭兵。一方からのレンプライアを、全て片付けてくれていた。
「こっちは終わったよー」
「トリアージ」
酒も既に抜けているらしいフィンブルさんが呼びかけ。
けが人が出ていないか確認。
マティアスがちょっと槍での一撃をもらっていたけれど。
装備品でガチガチに固めている事もあって、少し鎧の上から打撃を貰ったくらいである。回復の魔術をリディーが唱えて、それで終わり。これも最近覚えたものだが。まあ軽めの手傷くらいなら、薬を使うまでもない。
そのまま、無言で密林を移動。
やがて、小高い丘に出た。
伏せるように、バッケンが指示。
頷いて、伏せ。
そして、丘の向こうから、ぞっとする光景を見せつけられる。
それは、想像を絶する存在だった。
巨大な蛇のようであるが。
ひれが体についている。
ゆったりと入り江に我が物顔で寝そべっているそいつは。とてもではないが、他の獣とは比べものにならなかった。
大きい。
体の大きさの問題では無い。
感じるプレッシャーが尋常じゃあ無い。
流石に雷神ほどではないが。
下手なネームドなんて、アレに比べたら雑魚も良い所だ。
促されて、一旦入り江から距離をとる。
下がるときも、冷や汗がダラダラ出た。
怖いなんてものじゃない。
あんなのにもし海の中で襲われでもしたら、それこそ一巻の終わりだ。即時撤退を決断しなければならないだろう。
森を抜けて、キャンプまで戻る。
途中、誰も口を利かなかった。
アレはこの世界の最大級の異物。
レンプライアは、まだこの異世界のルールに沿って出現している「敵」ではあるが。
奴はそれですらない。
文字通りの異分子であり。
存在していてはいけない存在だ。
キャンプで、しばし無言で過ごす。バッケンも、茶化すつもりはないようだった。
「見て分かったと思うが、放置していてはいけない相手だ。 彼奴はあの入り江で動かないが、いずれにしても近付いたら確実にしかけてくる。 それに入り江から動かないといっても、いつまで大人しくしていてくれるかさえもわからん。 残念だが今の俺には彼奴を倒す武力が無い。 俺の宝を譲る。 退治を頼めないだろうか」
「……やってみます」
即答とはいかなかった。
答えるまで、たっぷり逡巡が必要だった。
雷神を倒したばかりである。
苛烈な戦いだった。
本当に、勝てたのが不思議なくらいの。
そして雷神は、極限まで弱体化させて、やっとどうにか出来るレベルだった。別にリディーとスールが強いわけでも何でも無い。
ドラゴンとやりあうのであれば。
相応にまた準備を整えなければならない。
海棲ドラゴンの生態を調べ。
対応するべく装備も人員も整え。
それでも犠牲が出ることを覚悟しなければならない。
誰でも知っている。
普通の人間では、何をやっても絶対にドラゴンは倒せない。
錬金術師の力で、極限まで能力を増幅して、やっと倒せるのがドラゴンという超越存在なのだ。
あの極限弱体化ファルギオルは、異常な再生能力を除けば。ドラゴンより強かったとは思えない。
ましてや強いと言われる海棲ドラゴンである。
「今日はここまでだね」
ドロッセルさんの鶴の一声。
頷くと、皆腰を上げる。
認識は一致している。
一傭兵であるフィンブルさんだって、ドラゴンの恐ろしさは知り尽くしているのである。当然の結論だと言えた。勿論キャプテンバッケンも、文句は一つも言わなかった。
「また来ます」
「おう。 出来るだけ早くな」
「はい」
バッケンに頭を下げると、リディーは絵をでる。
不思議な絵画の唯一良い所は、この絵を一瞬ででられる事だ。
ドラゴン戦でも。
気絶している者がいなければ。一瞬で離脱できる可能性もある。ただ、ブレスの直撃なんか貰ったら、そんな余裕はとても無いだろうが。
エントランスで、しばし無言になったが。
顔を上げる。
まず、現実的に対応策を練らなければならない。
この件、とても作為的だ。
ドラゴンが不思議な絵の中に勝手に湧くなんて事あるのか。レンプライアの一種には見えなかったし。あれは多分外から持ち込まれたものだ。どうやってやったかは分からないが。
もしもそうだとしたら。
深淵の者の仕業ではないのだろうか。
それくらいしか、出来る存在が思い当たらないのである。
「次の探索までに、ドラゴン戦の対策をしてきます。 また声を掛けますので、その時はお願いします」
「この絵の探索、試験の前段階なんだろ。 無理はすんなよ」
「いえ、そもそも海の調査がこの試験の本番なので……入り江にドラゴンがいるうちに何とかしないと」
「あ、そうか……」
マティアスさんが、頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。
どうにもならない事を悟ったらしい。
流石に、複数のドラゴンが持ち込まれているとは思いたくはないが。
いずれにしても、兎に角彼奴は倒さなければならないのだ。
一旦これで解散する。
解散するやいなや、フィリスさんはいなくなっていた。
ドロッセルさんには声を掛ける。
この絵の探索の間は、ドラゴン戦のこともあるので、常に同道して欲しい。
そういう話をしておきたかったからである。
声を掛けられた理由は分かったのか。
ドロッセルさんは、アトリエまでつきあってくれた。
途中まではルーシャも一緒だったけれど。
傘をしきりに見ていた。
「力が……足りませんわね」
「え、まだ私達より強いよルーシャの方が」
「そういう話ではなくて、傘の出力の問題ですわ」
「ああ、まだ不安なのか」
スールが納得したように頷く。
ルーシャはリディーとスールを守ろうとするから、いつも力に枷を掛けてしまっている。故に本来の力が出せずにいる。
昔よりは、これでも力を出せている……そう、リディーとスールが不遜な態度をとって、苦しめていた頃は、もっと力の制限が強く掛かっていた。今はもう、しっかり態度も改め、和解も果たした。だからルーシャは、本来の力を前より出せている。
それでも、やはり守るために力と意識の集中を欠いているのは否めない。
これは、リディーとスールに共通した認識だ。
要するにリディーとスールが不甲斐ないのが原因である。もっと強くならなければならない。ただそれはそれとして、話をすれば少しは気晴らしになるかも知れない。
「傘、自動で動くように出来ない?」
「拡張肉体の事ですの?」
「うん。 防御だけを担当する傘と、攻撃は自前で何か別でやるとか。 拡張肉体あると、アルトさんの戦い方見てもかなり便利だと思うし」
「……そうですわね。 全自動シールド発生装置については、考えておきますわ」
アトリエまで別れる。
オイフェさんは意外と気が利かないので、この辺りはルーシャが四苦八苦しなければならないのだろう。
アトリエで、ドロッセルさんと契約書を書く。
出来るだけ良い植物の繊維で作ったゼッテルを出してきて。
そして一つずつ話をしながら、まず黒板に契約内容を書く。
相手は戦略級傭兵。
基本的に、戦力が戦略級であるからこその呼び名であり。
場合によっては戦略単位での指揮も執る。
故に高いお金を取られるのは当たり前で。
契約もしっかりしなければならないのも、また当たり前の事だった。
一つずつ丁寧に項目を確認し。
そして最後にやっとお金の話になる。
すごく高い金額が提示されたが。
その代わり、どの絵に入るときも同行してくれる、と言う事で。
つまり堀以外で獣がでないネージュのアトリエ以外でも、採取を容易にできる、と言う事だ。
ただし、契約は「海」の絵を調査するまで。
それが終わったら、契約は廃棄する。
また契約も、最大で二ヶ月まで。
それ以上は、流石に今の経済力でも、無視出来ない出費になるからである。
スールが頭を抱えて、金額を見ている。
ドロッセルさんは、小さくため息をついた。
「そもそも戦略級傭兵はね、街なんかの戦略単位を守るためとか、傭兵団や騎士団部隊なんかを指揮する仕事をするの。 このお金は当然だと思って」
「確かに、今回も一方向の敵を完全に食い止めてくれましたけれど」
「契約自体では、作戦の指揮も執るけど。 立案も含めて」
「えっ……」
必死に勉強しているとは言え。
戦略も戦術も、リディーはまだまだ苦手だ。
如何に相手を苦しめて殺すか。
それだけを考えるのがそも苦手なのである。
戦略も戦術も、基本はそれだ。
味方の犠牲を小さく。
敵の犠牲を大きくするには。
如何に相手が嫌がる事をして。
そして徹底的に叩き潰すか。それが、最も大事になってくるから、なのである。これについては、イル師匠の所で散々叩き込まれたし。
シスターグレースにも教わった事だった。
ただ、ドロッセルさんにその契約も頼むとなると。
更に契約金額が跳ね上がる。
流石に口を引き結んで、今回は引き下がることにする。
或いは、Bランクにまで昇格したら、ドロッセルさんを常時雇えるくらいの経済力が身につくのかも知れないけれど。
「フィリスちゃんはさ、少人数で各地の崩壊したインフラを修復しながら、ライゼンベルグに試験を受けるために向かっていたんだよね。 だからだろうけれど、作業報酬をたくさん貰っていて、それで今の私より格上の戦略級傭兵も雇っていた。 流石にもうその人は引退したけれど、フィリスちゃんはそんな戦略級傭兵も太鼓判を押す成長速度で、見ていて凄いと何度も思ったよ。 比べる相手が悪すぎるのは仕方が無いけれど、ちょっと二人はフィリスちゃんより成長が遅いね」
「ご、ごめんなさい……」
「返す言葉もないです」
「流石にあの子がスペシャルなのは分かってるけれど、今の二人は実力よりも大きな評価をされているって端から見ても思うね。 命を落としたくなければ、もっと頑張らないと駄目だよ」
厳しい駄目出しだが。
返す言葉も無いので、黙り込むしか無かった。
後は、黒板に書いた契約書を、ゼッテルに書き写し。
そして双方でもう一度確認。
文章は可能な限りシンプルに。
更に短く区切って箇条書きをする。
これがトラブルが起きにくい契約のやり方だという。
契約書の写しを取り。
そして共有して、契約は終わりだ。
なお保存の魔術を掛けたので、手を入れればすぐに分かる。
頷くと、ドロッセルさんは契約書を受け取ってくれた。
ドロッセルさんは夕食は自宅で取ると言うことで。そのまま帰って行く。
契約書を見て。
スールがもう一つため息をついた。
「お高いよ、流石に……」
「でも仕方が無いよ。 ドロッセルさんが言ったとおりだもん」
「過大評価か……」
「うん」
少し、話しておきたいことがある。
夕食を作りながら、話をする。コンテナへの格納は、スールに任せてしまう。
「ねえスーちゃん」
「んー」
「大事な話があるの」
「うん」
料理をしながら、続ける。
大事な話だけれど。
確認に近い事だからだ。
「国一番のアトリエになる。 その目標は、今も変わっていないよね」
「うん、それは変わっていないつもりだよ」
「でもさ、国一番になって何するかを決めた?」
「……うん」
スールは答えてくれる。
多分、もう結論は。
違っている筈だ。
「私ね、みんなのために仕事をする錬金術師になりたいって思ってたの。 実際今でも、錬金術によるインフラ整備や獣の駆除で、どれだけの人が救われているか分からないわけでしょ。 確かにソフィーさんやフィリスさんは怖いけれど、それでもあの人達の行動が、どれだけの人を助けているか分からないもの」
「そうだね。 続けて」
「でもね、ネージュの話を直接聞いて思ったんだ。 本当に「みんな」をそのまま守って意味があるのかなって」
言葉が途切れる。
それは、双子だからこそ。
身内だからこそ出来る話だった。
「みんなって言うけれど、はっきりいってそのままだと「みんな」って醜いよ。 尊敬できる人はいると思うけれど、そういう人はごく限られていると思う。 もしも錬金術を使って何かできるんだったら、それは「みんな」を変える事なんじゃないのかな」
「……スーちゃんはさ、尊敬できる人だけでも守りたいって思っていたんだ。 リディーは、みんなを守りたいと思う代わりに、そんな風に考え始めていたんだね」
「スーちゃんの考えも間違ってはいないと思う。 でも、尊敬できる出来ないは何処で線引きをするの?」
「そうだよね。 確かにそれぞれに接してみないと、分からないもんね」
しばし、気まずい沈黙が流れる。
そして、沈黙が過ぎた後。
料理を配膳する。
スールもコンテナへの格納を終えていた。
夕食を静かにとる。
何だか、流石に少し気まずかった。
スールが、みんなのためになんて事を、本気で考え始めていることは、とても大きな進歩だと思う。
だって、そもそも昔はリディーもスールも。
「相手が普通で無ければ何をしても良い」と考える、「平均的な人間」だったからである。
みんなというのは、当たり前の事だが。
二人で言葉を確認するまでも無く。相手が普通だろうが何だろうが、関係無い。
例えば昔の双子だったら。
ルーシャやお父さんは、そのみんなには含まれず。
当然排除の対象になっただろう。
相手がどんな哀しみを抱えていようが知った事では無く。
むしろ笑い飛ばしたに違いない。
それが「平均的な人間」だからだ。
だが、今はもう違う。
そんな愚かしい者達と同じにはならないと、共通認識を決めている。
しかしながらその共通認識には、今決定的な終着点の違いが生じていることが、確認できた。
リディーは、「みんな」を、たとえ洗脳してでも変える必要があると思い始めている。
事実誰もが筋を通して生きている訳でも無い。
「普通」ではない相手を痛めつける事を嬉々として行い。
またどんな悪事も平然と正当化して、邪悪の限りを尽くす。
それが「平均的な」人間の側面だ。
それを変えなければならない。
だが精神論だの仕組みだのは無意味である。
生物として駄目なのだ。
だから、生物として切り替えなければならない。
リディーが目指しているのは其処だ。
それに対して、スールは選別を選んだ。
もう「みんな」の中に、「平均的な人間」は含まれていない。
敬意を払うべき相手だけが「みんな」であり。
それ以外に対しては、もはやどうなろうと知った事では無いと、考えを決めてしまっている。
双子であっても違う人間だ。
考え方がまったく同じだったら。
それは双子であっても、もはや違う人間とは言えないだろう。
ましてやリディーとスールは二卵性。
スールは運動が得意だし。
リディーは論理的思考の方が得意。
それを考えると。
やはり、一度しっかり話をしておいた方が良いと思ったのは、正解だった。
食事を終えると。
スールは、沈黙を破った。
「まだ、力が足りないね。 それに、終着点が違うって言う事は、最終的にスーちゃん、リディーと殺し合いになるのかな」
「そんなの、嫌だよ」
「スーちゃんだって嫌だよ!」
「……妥協点、考えるしか無いね」
大きな溜息が同時に漏れた。
このことだけは。
殺し合いだけは避けたい。
この結論だけは、共通している。それは良い事なのだと思う。しかしながら、もしもこのまま力がついていくと。
悲劇の結末を、避ける事はきっと不可能だろう。
「明日朝一番に見聞院に出かけて、ドラゴン狩りのための資料を集めよう」
「ドラゴン倒せる錬金術師って、世界でも上位に食い込んでくるんでしょ? フィリスさんは確実にその一人だろうけれど、本気で手伝ってくれるかなあ」
「無理だね」
「そうなるとバトルミックスを主軸に戦術を考えるしかないね」
気が重いが。
やはり結論はそうなるか。
さあ、これからが正念場だ。
そもそもドラゴンを倒せると言う事は、錬金術師として一人前から、一流になる事を意味している。
Cランクというのは。
恐らく錬金術師としても、かなり優れている事を意味しているはずだ。
ならば、そのランクに相応しい実力を身につけなければ。
最終的に目指す所に辿りついたとしても。
きっと力の使い方を誤ってしまう筈である。
その悲劇を避ける為には。
力をつけ。
知識を増やし。
試行錯誤を重ねていくしか無い。
時間は、無限にあるわけではない。
フィリスさんとさっきドロッセルさんに比べられたが。
あの人は、元々スペシャルだった上に、非常に大きな事業にガンガン関わって鍛えられていった、と言うわけだ。
それだったら、リディーとスールはまだまだ成長が遅いと言われるのも、仕方が無いのかも知れない。
今日は、ゆっくり休んで、本番は明日からだ。
あの微笑ましい海賊がいる愉快な島から。
邪悪なドラゴンを、少しでも早く追い出さなければならない。
4、錆をとるために
何をやっても駄目だった。
ロジェは今でもよく覚えている。
天才などとうぬぼれていた覚えは無い。
しかしながら、何処かで自分は天才だと思ってしまっていたのだろう。
ライゼンベルグで厳しい試験を突破して。
公認錬金術師になって、アダレット王都に凱旋した。
その時にも、あまり考えていなかったから。
ヴォルテール家に、血の雨を降らせるところだった。
兄に言われた。
お前は肝心なところでものを考えていないなと。
その通りだと反省した。
そして、思い知らされることになる。
妻オネットが大病になった。
後で知ったが、それは流行病などではなかった。
だが当時はそれさえ分からず。
効きもしない薬を作っては。オネットの病状が悪化するのを見て、自信を根底から覆されることになった。
そしてその時に思い知ったのだ。
根拠の無い自信をずっと抱いていて。
それが力になっていたのだと。
やがてオネットが命を落として。
ようやく悟ることになった。
才能はあるかも知れない。
だが噂に聞く特異点のようなスペシャルでも無いし。
伝説に残るネージュのような勇者でも無い。
ただの、ちょっと小器用なだけのバカだったのだと。
それ以来、指が震えて調合が出来なくなった。
酒にも溺れた。
オネットの忘れ形見である双子に暴力を振るうほど落ちはしなかったが。それでも、自棄になって毎日を過ごした。
絶望の中、更なる絶望を見る。
双子が、あの特異点に目をつけられ。
掌の上で転がされているという、悪夢のような現実だった。
特異点の噂だけは知っていた。
恐らく、世界史上最強の錬金術師。邪神すらも単独で倒すという、文字通り錬金術と言うものの概念を根底からひっくり返しかねない怪物。
何とかしなければと挑んではみたが。
悉く押さえ込まれてしまった。
ならば。奴の計画を崩すためには。
もう双子の錬金術師としてのプライドを揺らすしか無い。
双子にはある程度の錬金術師としての才能があるのは分かっていたが。
それでも所詮は乗せられているだけ。
お膳立てをされているだけ。
根底を揺らしてやれば。
実力の程を思い知って。結果として、あの特異点の恐怖からも逃れられるはずだ。
だからロジェは、まずさび付いた腕を、鍛え直すことにしたのである。
今、手伝いをしているのは、公認錬金術師の一人。アダレットの人口一万都市の一つで、アトリエを開いている錬金術師である。
アダレットに請われて来てくれた人物で。
まだ若いのに、全盛期のロジェを超える実力だ。
昔、これくらいの実力があれば。
ロジェだって、オネットを死なせなくても済んだのかも知れない。
そう思うと。
手伝いをしながら、昔の自分を全力で殴りたくなる。
だがそれをぐっと堪えて。
作業をひたすらに続け。
錆を落としていく。
ロジェよりも十も若い錬金術師は。
ロジェが年上で経験豊富だと言う事もあってか。さんづけで読んでくれる。出来た存在である。
なおまったくもてないが、それはこの男性錬金術師が、お世辞にも美男子とはいえないからだろう。
顔さえ良ければ。
そんな声を周囲で聞く。
馬鹿な連中だとロジェは思うが。
それを口にしなかった。
本人も気にしている様子は無い。
であるからこそ、わざわざ錬金術師が差別されている面もある、アダレットに足を運んでくれたのだろうが。
「ロジェさん、この中和剤流石ですね。 次はナイトサポートをお願いします」
「はい。 この素材で作れるだけ、ですね」
「その通りです。 僕は少し街長と話してきますので」
「では仕事をやっておきます」
良い腕の錬金術師だが。
街長とは必ずしも良くやれてはいないらしい。
だがラスティンでも、公認錬金術師と街長が上手く行かないケースもあるらしいので。これは仕方が無いのだろう。
釜は二つあるが。
一つはお古のものである。
だが、それくらいで丁度良い。
黙々とナイトサポートを作る。
もっと高度な薬も作れるけれど。
少しずつ、確実に錆を落としていかなければならないのである。今は、こうやって、基礎からやり直しだ。
夜遅くになって。
アトリエの主が戻ってくる。
飲めるわけでも無い酒を飲まされて。
うんざりした様子だった。
「ナイトサポート、上がっていますよ」
「ああ、助かります。 アトリエランク制度には参加していないんですが、一応これだけは絶対に作って欲しいと言われていましてね。 他にも幾つか作りたいものがあるので、助かります」
「いいえ」
「ロジェさんは腕を取り戻している最中と見ます。 昔はもっと高度な薬も作れたんじゃ無いんですか」
見透かされているか。
苦笑いすると。
錬金術師は、酔い覚ましを飲み干す。
「良いんですよ。 手酷い挫折をしても、立ち上がろうとしている。 立派じゃないですか。 僕の両親は結局最後まで立ち上がれませんでした。 若い頃に挫折を経験しなかったのがまずかったんでしょうね」
「……」
「腕を取り戻すまでで良いので、此処にいてください。 頼りにさせて貰いますよ」
良い人だ。
もう少し、自分が身の程をわきまえていて。
そしてこの人くらい、謙虚で。
何より、根拠の無い自信で自分を支えていると、気づけていたら。
あんな醜態の数々を見せる事もなかったのに。
酒に溺れて。
双子を悲しませることも無かったのに。
いや、そもそも。
オネットを死なせる事だって、無かっただろうに。
今はただ、腕を磨くのみ。
双子を、あの特異点の魔の手から解放する。
その目的を果たすまでは。
何があっても、ロジェは死ぬわけには行かなかった。
(続)
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