青黒い水の底

 

序、行き着けぬ場所

 

アダレット王都には漁港がある。海に隣接しているからだ。

だが、海は極めて危険な場所でもある。

故に、海に出る船は基本的に強固で。そして、出られるのは内海まで。これはどんな漁師にとっても鉄則である。

理由は、危険すぎるからである。

陸上にいる獣でさえ、危険すぎるネームドが多数いるのが実情だ。

海は、ただでさえ生物が巨大化するのである。

勿論駆除なんてしきれるわけがない。

内海で魚を捕る。

それが人間に出来る精一杯。

どこまでも広く広く続いている海の先に行きたい。

そういう願望がある事は、スールも知っていた。そういう物語は、たくさん存在しているからだ。

だけれども、幼い頃から釣りを嗜んでいて。

実際に漁師と会ったことがあるスールは知っている。

漁師達はスールに教えてくれた。

海に出るのは命がけ。

基本的に巨大な獣が出ない場所にしかいけない。

浅瀬や内海。

其処で網を使って魚を捕り、獣に襲われる前に逃げるのだと。

アダレットの王都を無心のまま歩く。

ようやく、ファルギオルが降らせ続けた長雨によって汚れた街の、掃除が一段落し始めている。

リディーとスールを見る周囲の目は完全に変わった。

あの雷神ファルギオルを倒すのに、最大貢献をした。

そして、英雄であると、国が太鼓判を押したからである。

ミレイユ王女は人望がある。

彼女が無礼は絶対に許さないという事を宣言したこともあり。

リディーとスールが。

ネージュのように、迫害されることはない。

ただ、明らかにスールを見る目が、前と違ってきているのは感じる。

周囲からは明らかな恐れが感じられ。

そして、スールを避けるものもいた。

雷神を倒した。

やはり錬金術師は恐ろしい。

そういう言葉を交わす者もいる。

やはり人間は、200年掛かっても何も変わっていないのだなと、スールは思う。ネージュが人間を見放したのも、無理はないことなのだろうとも思う。人間、特にヒト族は、迫害するべくしてネージュを迫害したのだろうとも。

そして、ネージュの迫害に対して罰を下せたのは。

深淵の者だったというのも、この世に対する乾いた視線を向けるに、充分な事実だった。

スールは変わりつつある。

それを自覚している。

目が濁っているとも言われた。

だけれども、何も知らずにヘラヘラ笑っていた自分を、今では殴りたいし。

昔の、平均的なヒト族と同じように「気持ち悪い相手なら何をしても良い」と考えていた自分を蹴り殺してやりたいとも思う。

だいたいそもそもだ。

ヒト族は己の住まう世界を焼き払い、氷に閉ざした大罪の種族だ。

恐らく他の人間。魔族、獣人族、ホムも、何らかの罪を犯している存在なのだろう。

だとしたら、なんでのうのうと、人間賛歌なんてものが出回っているのか。

スールは分からなくなりつつあった。

思考を閉じる。

周囲をぼんやり見て回っていたのも。

リディーが時間の掛かる調合に入り。

スールも、あらかたやる事を終えてしまったから。

ここのところ、殆ど休む事も出来なかったし。

交代で休もうと、リディーと決めた。

だから、今こうして、何も考えずにふらふらと歩いている。

どうせ家に戻ったら、今度はスールが長時間の調合で釜を独占することになるのである。

ちょっと小高い丘に上がり。

海を見る。

綺麗で、澄んでいて。

そしてあの中には、巨大な獣がたくさんいる。

海棲のドラゴンは、陸生のドラゴンとは桁外れの大きさと強さを誇るそうで。それこそ船なんか襲われたらひとたまりもないそうだ。

フィリスさんのような規格外が作る船ならどうかは分からないけれど。

それでも、そんな船は、世界に二つも三つもないだろう。

空も雲が殆ど無くて。

力尽きたように、青空が拡がっている。

数年分の雨を流し尽くしたのだ。

しばらくは雨は良いだろう。

騎士団はかなり忙しい様子で。

頻繁に城門から出入りを繰り返している。

やはり案の定、薬が足りていない。彼方此方で災害が発生しかけている。そして、大型の獣が機を窺って徘徊している。

何より、息をひそめていた匪賊が、またぽつぽつと姿を見せている。

それら理由もあって。

騎士団は、当面忙しい様子だ。

アトリエに戻る。

リディーが丁度調合を終えて、薬を荷車に積んでいる所だった。

頼まれたので、数のチェックを行う。

追加の注文がどんどん来ているので、次々に納品している。

各地での疫病流行を抑え。

負傷者を一刻も早く回復させるためにも。

薬は幾らでも必要なのだ。

「じゃあ、行ってくるね」

「荷車リディーが引くの?」

「うん、少しは力もつけたいから」

「そう、じゃあ調合してるからね」

リディーが荷車を引いて、アトリエを出て行く。あのお薬で、どれだけの人が助けられるのだろう。

治療をしないと、ちょっとした傷でも致命的な事態になることもある。

魔術よりも錬金術の薬の方が遙かに傷には良く効く。

魔術では出来ない事を錬金術では出来る。

どんなに強い魔術師でも、ドラゴンには絶対に勝てないけれど。

錬金術によって増幅することによって、それは不可能ではなくなるのだ。

イル師匠は少し前に戻ってきたので。

今後はまた、イル師匠に話を聞こうと思っている。

レシピはまだ一瞥くらいはしてもらいたい。

そろそろ、自分達でレシピを好きに作って良いと言われるかも知れない。

だけれど、いずれにしても。

勝手な判断は事故の元だ。

プラティーンの鉱石を。大枚をはたいて買ってきた鉱石を砕いて、炉で熱して。

念入りに熱量を調整して。

他の鉱物と分離する。

炉の火力も、もっと上げなければならないかもしれない。

そうなると、もっともっとお仕事をして。

最終的には、鍛冶屋の親父さんに、徹底的に手を入れて貰わないと行けないだろう。

黙々と作業を続ける。

何度も熱し、何度も冷やし。

鈍いプラティーンの輝きが現れ始めるのを確認。

鉱石から比べても、殆ど採れない。

プラティーンの鉱石が、もの凄く高価である事を考えると。

これだけしか採れない、というのは致命的だ。

更に、もっと上位のハルモニウムに至っては、当面作るのは不可能だろう。それは分かっている。

ハルモニウムは素材の希少性もあるが。

そもそも、技量的な問題で作る事が出来る錬金術師が殆どいないと、スールも聞かされている。

当然、今のリディーとスールには無理だ。

作業をしている内に、リディーが戻ってくる。

プラティーンの作り方自体は、一度イル師匠に見てもらっているので、これで問題は無い筈なのだが。

採れる量がこれしかないと。

今まで使っていた、合金を主体にまだまだ当面はやっていくしか無い。

或いは、プラティーンの鉱石が大量に採れる不思議な絵画でも探すか。

それとも、周辺地域で、鉱山でもないか確認するしか他に無い。

リディーと話ながら、出来たプラティーンを確認するが。

リディーさえ、苦笑いした。

「この質だと、イル師匠に10点とか言われそうだね」

「もっと質を上げていくと、どんどん量が減るだろうし……」

「交代して。 私もやってみる」

「じゃあ、スーちゃんはお薬作るよ」

また、追加で注文が来ている。

コンテナを覗くと、在庫はまだまだ充分。

素材については、あれから一度アンパサンドさん達に声を掛けて、採取に行って補充済みである。

しばらくは調合に専念できる。

一つ心配なのは。

お父さんがふらりと出ていって。

それっきり、という事である。

何処で何をしているのか、今度はまったく行方が掴めない。

街を出たという情報も入っていて。

心配でならなかった。

幾つかのお薬を仕上げた後。リディーが、横で額の汗を拭っている。

非力だから、熱したプラティーンをハンマーで叩くのに難儀しているようだ。

薬はもういいので、手伝う。

しばしして、どうにかほんのちょっとだけ出来たけれど。

やっぱり質については、ロクなものではなかった。

「イル師匠に、見せに行く?」

「うん。 アドバイスを貰わないと、これ以上は進歩しそうにもないね」

肩を落として、イル師匠のアトリエに。

イル師匠は、あれから更に険しい表情になっていて。

前以上に、笑顔が減っているようだった。

ルーシャを助けてくれたのは、本当に嬉しかった。

リディーとスールが未熟なせいで、ルーシャに大けがばかりさせているような気がするのである。

そして、現状のリディーとスールでは、ルーシャを救う事なんてとても出来ない。

本当に、師匠という以上に。

イル師匠には、頭が上がらないのが現実だ。

厳しい顔で、何かとても難しそうな調合をしていたイル師匠は、やはり背中に目でもついているのだろうか。

すぐに不肖の弟子どもの到来に気付いた様子だった。

「入りなさい」

「はい、失礼します」

「失礼します……」

「どうせプラティーンが上手く行かないんでしょう。 今調合が終わるから、少し待っていなさい」

ソファに並んで座って、調合が終わるのを待つ。

どうやらお薬を作っているようだけれど。

素材がもの凄い魔力を放っているのが、スールにも見える。

魔力がよく見えるようになったから。

イル師匠のアトリエに、もの凄い素材が大量に集まっていることは、何となくでは無く、視覚で分かるようになった。

あの薬、ひょっとして。

本当に死人を蘇生させることくらい、可能なのではないだろうか。

いくら何でも、と思ってしまうが。

しかしながら、それくらいイル師匠なら、出来ても不思議では無い。

程なく調合が終わり。

イル師匠が手洗いをした後、此方に来た。

そしてひょいとプラティーンを取りあげられて、言われた。

「10点」

「うわ、予想通りだったね……」

「イル師匠。 その、私達だとこれが精一杯で」

「プラティーンは極めて気むずかしい金属よ。 今後は更に念入りで、丁寧な調合が必要になるわ」

見本を見せるのが良いだろうと言って。

イル師匠が、あまり品質は良く無さそうなプラティーン鉱石を取りだす。

手際よく鉱石を粉みじんにすると。

炉に放り込んで。

もう何千回もやったかのように。

ぱっぱと作業を進めていく。

文字通り固唾を飲み込んでしまう。

これだけの手際。

一体どれだけの調合をこなしてきたのか、想像もつかない。

程なく、炉から出した鉱石を、ハンマーで叩いて分離させ。

それをもう一度炉に。

三回ほど同じ作業を繰り返し、そして鉱石を冷やしたときには。

美しい輝きが、そこに現れていた。

白銀色というのだろうか。

兎に角、天上の光のような美しさだ。

これぞプラティーン。

自然に採れる鉱石の中では、最高の品。

強度、軽さ、錆びにくさ、魔術への親和性、いずれもが最高レベル。

今使っている合金は、強度と錆びにくさだけはどうにかプラティーンに並べているけれど。

軽さと魔術への親和性は、どうしてもプラティーンには及ばない。

生唾を飲み込む。

イル師匠は、幾つかのアドバイスをしてくれたので。

スールはメモ帳を取りだして、慌ててメモをとった。

リディーもメモをとっている。

昔は聞くだけで、何となく勘で作業をしていたのだけれど。

今はスールも。

メモをとるのが、自然に身についていた。

「同じ程度の鉱石でも、加工次第ではこれだけのプラティーンを、この品質で取りだせるのよ。 覚えておきなさい」

「はい師匠!」

「ありがとうございました」

「良い返事ね。 ならば後は試行錯誤しながら、経験を積みなさい」

そのまま返される。

二人並んで歩きながら、帰路で反省点を色々と話しあった。

「イル師匠の手際が超人的なのは確かにあるけれど、やっぱり単純に私達が雑なんだと思う」

「そうだね。 スーちゃんから見ても、何というかイル師匠の作業って、すっごく細かかったし」

「そうなると、やっぱり作業ごとに、細かくチェックを入れるべきなのかな」

「そうだと思う」

アトリエにつくまで、ああでも無いこうでもないと話し合い。

そして、もう夕方になっていた。

リディーが夕食を作り始めたそのタイミングで。

ドアがノックされる。

スールが出ると。

マティアスだった。

「いやー、すまねえな。 ちょっと色々忙しくて、告知が遅れちまった」

「えっと、ひょっとしてアトリエランク制度の話?」

「ああ、そうだ。 飯作ってるのか? 一段落したらリディーも来てくれ」

「はーい」

マティアスにも食べていくかと聞くけれど。

首を横に振られた。

もう食べてきたらしい。

最近騎士団が殺人的に忙しいそうで。

食べられる時に食べているそうだ。

まあ、見ていれば忙しいだろう事はすぐに分かる。ただ、健康には良くないだろうとも想ったが。

リディーが作業を切り上げて、此方に来る。

咳払いすると、マティアスがスクロールを手渡してくれた。

確認する。

リディーとスールのアトリエを、Cランクのアトリエとして認める。

まず最初にそう書かれていた。

そして義務がまた一つ増える。

今度は何だろうと思ったら。

シールド発生装置、と言う事だった。

魔術によるシールドを発生させる装置で。レシピは記載されている。見た感じ、其処までは難しくは無い。

ただ素材として、相応に高度な錬金術金属がいる。

出来ればプラティーンが好ましいと記載されていたので。思わず溜息をついてしまった。

「あー、やっぱりプラティーン……」

「でもスーちゃん。 このレシピを見る限り、あんまりたくさんはいらないみたいだよ」

「あ、本当だ。 コアになる一部だけで良さそうだね。 それで、シールドなんてどうするの?」

「彼方此方の街の城壁に設置するんだよ。 獣程度なら普通の城壁でも良いんだが、ネームドのアウトレンジ攻撃とか喰らって、城壁が吹っ飛ばされたら、洒落にならない被害が出るからな」

大きな街だと、ドラゴンのブレスでも防ぎ抜くシールド発生装置が置かれている場所もあるのだとか。

多分イル師匠やフィリスさんが作ったんだろうなと、スールは思った。

「納入数は、一つだけで良いんですか?」

「他のCランク以上の錬金術師にも作ってもらっているし、何よりこれくらいの高度な装置になってくるとほとんどオーダーメイドに等しいからな。 たくさん一気に作られても、払う金がねーんだ」

「うわ、世知辛い……」

「本当に、200年前の出来事のツケが今になってこの国を蝕んでいるんだよ。 ネージュを大事にして、ノウハウをきちんと引き継いでいれば、ファルギオルが出てもすぐにどうにか出来ただろうに」

ため息をつくマティアス。

まあ国政には関わらせて貰えないようだけれど。それでも、マティアスなりに思うところも多いのだろう。

それと、任務があるらしいので、スケジュールを空けておくようにも言われる。

それについては分かっている。

ここしばらくは国からの任務は無かったけれど。

ファルギオルを倒したのだ。

討伐任務や。

或いはインフラ整備で。

声が掛かることはあるだろう事は、覚悟しておく。なお、一週間後という事なので、少しそれまでにやっておきたい事がある。何とか時間を調整して、対応しておきたい所だ。

マティアスが帰ると、まずはシールド発生装置について調合を開始する。

これが人々を守る。

人々か。ネージュを迫害したのも、また人々だと思うと。スールは複雑だった。

 

1、海の底は

 

今月分の義務を、まとめて王城に納入しに行く。

ちょっとだけ作れたプラティーンを使って、シールド発生装置を作った。シールドの魔術自体は、リディーがそのまま展開出来る程度の代物だし、別に難しく無い。動力にプラティーンを用いる事。それを錬金術で増幅すること。持ち運びが簡単で。モルタルなどを使って、城壁に埋め込める小型の品である事。場合によっては取りだして、メンテナンスができる事。

これらを総合すると。

煉瓦に偽装し、シールド発生装置としての機構は内部に組み込んでしまう。

盗難などを防ぐためにも、これがベストだった。

お薬の類も全て納品し。

更に騎士団用の装備も納入し。

これで納入物はおしまい。

後は二日後にある、騎士団の任務に同行するだけだ。

ただ、任務の内容はまだ聞かされていない。

これは恐らく機密もあるのだろう。

リディーとスールに出来るのは、どんな任務にでも対応出来るように、準備しておくことだけ。

それだけだ。

「はい、納入受けつけました。 今回も素早い納入ですね」

「いえ。 それではよろしくお願いします」

ぺこりとリディーが頭を下げる。

こんなに早く納品できるのも、リディーががっちりスケジュールを組んでいるからで。スールだったらこんなには出来なかっただろう。

錬金術は少しは出来るようになってきたかも知れないけれど。

根本的な所がやっぱりまだまだ駄目だ。

頭を振って、雑念を追い払うと。

アトリエに戻る。

途中、鍛冶屋の親父さんの所で、銃弾を補給していく。

スールの銃が、戦闘で使い物になるようになったと聞いて、親父さんは喜んでいたけれども。

それと同時に、銃弾の扱いにはくれぐれも気を付けろとも、念を押された。

それは分かっている。

流石に至近距離で撃ったりしたら、たかが拳銃弾でも死ぬ。

よくあるのが、ジャムった時に、銃口を覗いたりして。暴発して、そのままあの世行き、というケースで。

それについては、お母さんに最初に銃を習ったときから、教わっている最中毎回必ず。絶対にやらないようにと、徹底的に釘を刺されていた。

アトリエに戻った後。

裏庭で、幾らか試し打ちをする。

ファルギオル戦で、やっと安定した遠距離攻撃手段を手に入れたスールである。

銃の扱いについては練習を続けてきたけれど。

今後はもっと精度が高い銃撃と。

二丁拳銃を使った高速での精密射撃が必要になる。

スールの性格からしても。

機動力で攪乱しながら、相手に確実にダメージを蓄積させていき。

そしてバトルミックスで大きいのを叩き込む為の布石にする。

それが一番だろうと思う。

お母さんの銃は。

あくまで保険。あくまでお守り。

本当に相手にとどめを刺すのは。

スールにとっての切り札である、バトルミックスでやるべきだ。

お母さんも、そう願うだろう。

いつまでも娘が、自分の遺産に頼りっきりという状態は、好ましいとは思わないはずである。

移動しながら、何度も的に向けて撃つ。

立ったまま撃つのではなく。

敢えて横っ飛びしながら撃ったり。

バックステップしながら撃ったり。

動きながら、正確に的に当てることを意識しながら、練習をする。

多分だけれども。

アンパサンドさんに教わった、あのうねうね動く奴で。今まで使わなかった筋肉を、しっかり使っているのが効いているのだろう。

銃撃の正確さは。

今までに無く上がっていて。

かなり全力で走りながらでも。

的には命中させることが出来る。

ただ、もしも今後銃を使っていくのなら。

手数を稼がなければならないので。

的に当てる、だけではだめだ。

大量に弾を叩き込みつつ。

その全てを当てる。

それくらいの事が出来なければ、拳銃をメインウェポンとして活用していく事など、到底無理だろう。

しばし練習した後、アトリエに入ると。

リディーがもうご飯を作ってくれていた。

黙々と食べる。

言いたいことははっきりしている。

お父さんの事だ。

本当にどうしたのか。

この間、ファルギオルを倒す前に顔を見て以来。ずっと帰ってきていない。

本当に何処で何をしているのか。

そもそもお父さんは、どうしてこう徘徊するようになってしまったのか。

話ができなければ。

何を考えているのかも分からない。

勿論話をしたところで、何を考えているか分からない場合もある。でも、だからといって、それで相手を軽んじることがあってはならない。

あの氷の洞窟で。

灼熱の世界で。

スールはそれをはっきりと理解したし、思い知らされた。

食事を終えると。

リディーが言う。

「やっぱり間違いないみたい。 さっき聞いて来たんだけれど、お父さん王都を出たみたいだよ」

「前も、何度か出ていたみたいだね。 何処で何をしているんだろう……」

「深淵の者に、変なちょっかいとか出していないと良いけど」

「!」

そうか。

その可能性を失念していた。

スールは思わず口を押さえてしまう。

ある程度以上の錬金術師なら、深淵の者の存在は知っている、という話はスールも聞いた。お父さんも知っていて不思議じゃ無い。

そしてリディーとスールは、現状深淵の者の掌の上で転がされているのと同じ。

まさか、それに不満があって。

深淵の者と、単身ネゴをしようとしているのだとしたら。

それは、正に自殺行為だ。

絶対に勝てっこない。

お父さんは、全盛期には腕が良い錬金術師だったかも知れないけれど。

深淵の者には、あのソフィーさんがいるのだ。

あの人に対してちょっかいなんて出したら。

それこそ、その場で殺されるだろう。

ファルギオルを殺した今だからよく分かる。

ソフィーさんの実力は、ファルギオルなんかとは比べものにならない。

多分人間の領域を、遙かに超えてしまっている。

もしも、リディーとスールを守るために、深淵の者と事を構えようとしているのだったら。絶対に止めなければならない。

死ぬだけだ。

それだけは、嫌だ。

感情が薄くなってきている自覚はスールにもある。

だけれど、震えが足下から上がってくるのが分かる。

リディーも、俯いていた。

「お父さん、どうにかして連れ戻さないと」

「でも、居場所も分からないんだよ」

「……」

「もう、やだ……」

せっかく美味しいご飯だったのに。

何もかも台無しになった気分だ。

スールは俯いたまま、本音を零してしまう。

せっかくファルギオルを倒したのに。

もしもお父さんが死んだりしたら。

せっかくの、必死の勝利が。

全て台無しになる気さえする。

しばし気まずい沈黙が続いたけれども。それを破ったのはリディーだった。やっぱり根本的に憶病なスールよりも、リディーの方がこう言うときは動ける。

「まだ、決まったわけじゃ無いから、落ち着いてスーちゃん。 これから、お父さんをどうにかして説得する方法を考えよう」

「うん……」

「時々お父さんはアトリエに帰ってくるし。 その時に、今度こそ、腰を据えて話そうよ、ね」

「分かってる」

それしかない。

ただ、リディーとスールが、非常に危ない場所にいるのは事実なのだ。お父さんは、或いは。

深淵の者にとって、都合が良い人質なのかもしれない。

確かにお父さんとルーシャを抑えられたら。

リディーとスールは、もう両手を挙げて降参するしか無くなるし。逆らうという選択肢も消失する。

現在は力が無いから逆らえない。

だけれども、もしも今後力をつけていったら。

深淵の者は、どう動くか分からない。

その時までに。

どうにか、お父さんとルーシャを、守る方法を考えなければならない。

それが当面の課題だろう。

後は二人で、申し合わせて立ち上がり。遠出のための準備を、しっかり確認しておく。

散々遠出はしてきた。

今では遠出はまったく苦にならない。

今回は誰と一緒に行くのかは分からないけれど。それでも、恐らく困る事はないだろう。

問題はネームドなどとの交戦が発生する場合。

ファルギオルに勝てたのは、相手が極限まで弱体化していたからで。

恐らく強いネームドには。リディーとスールが戦った状態の、極限弱体化ファルギオルよりも強いのがいる筈だ。

そういうのとぶつかって、慢心して死ぬ事だけは避けなければならない。

だから爆弾もお薬も準備。

そして、少し悩んだのだけれど、ネックレスをもう一つ、それぞれに配ることにした。

増強できる能力の倍率が高いのが理由である。

宝石による力の増幅効果が大きいので。

皆に配れば、以前イル師匠が言っていた最低条件。

ネームドとやりあうときには、最低でも四つか五つの錬金術装備を身につけろ。その条件を、クリア出来る。

今までは、単純に護衛についてきている人達が強かったから、その条件を達成していなくても何とかなっていた。

それだけの話である。

今後は自衛できて。

それどころか、周囲を守れるようになる。

それが絶対条件だ。

もしもお父さんが、リディーとスールのために無茶をしているのだったら。心配しなくても良いくらい成長した所を見せる。

それで解決できるかもしれない。

少しだけ、スールの頭の中にも、光明が点る。

今は、それを温めていくしか無い。

二日はあっと言う間に過ぎ。

指定通り、城門に集まる。

来ているのは、アンパサンドさんとマティアス、フィンブル兄。ルーシャとオイフェさん。

それと、久々に顔を見るフィリスさん。

それだけだった。

フィリスさんは土砂災害対策で引っ張りだこだったと聞いているのだけれど。一段落したのだろうか。

そう思ったのだけれど、違った。

フィリスさんが手を叩く。

「はい、今回は近場の街にて、インフラ整備をします。 主に作業はわたしがやるから、皆は周囲の警戒と、人夫の護衛をよろしくね」

「えっと、近場ってどの辺りですか?」

「話は最後まで聞くように」

笑顔のままフィリスさんがいう。

思わず悲鳴を零しかけて、何とか飲み込むことに成功した。

フィリスさんは、どうもリディーもスールも良く想っていないらしい。それについては、何となく分かる。

どうしてそうなのかは分からない。

はっきりしているのは、この人の機嫌を損ねたら、その場で殺されると言う事。それも、これ以上もないほど残酷に、だ。

リディーとスールが殺されるならまだいい。

下手をすると、ルーシャやお父さんが殺される。

逆らう事は。

絶対に出来ない。

「今回はちょっと特殊なお仕事でね。 内海を外海と隔てている、堤防の手入れをする事になるの」

「!」

「うふふ、というわけでわたしにしか細かい所はできないんだなこれが。 みんなは主にわたしが処置した土砂とかを、人夫が運び出す護衛ね。 意味は、これでわかったね」

言葉も無い。

アダレット王都は海に面しているが、それは入り江で。

内海と外海を、堤防で区切っている。

その堤防は、大きな犠牲を出しながら、アダレットが国策で作ったもので。色々と伝承が残っている。

堤防を作り上げた王が、「堤防王」として未だに名前が残っている程で。

堤防王は、下手をすると初代の武王に次ぐほどの名声を持っている。

アダレットの民なら、子供でも知っている有名人だ。

逆に言うと、200年前の錬金術師迫害前。

そもそも海に近付くことそのものが禁忌だった時代に。内海を漁が出来る安全な場所にした功績はとてつもなく大きく。

更に言えば、内海には大型の獣も存在しないため。

一部では、なんと海水浴なんて贅沢な事が出来る。

もっとも、それでも監視が常に必要な事に変わりは無く。

年に何度か、内海に入り込んで来た獣の駆除を、騎士達が総力戦態勢で行うし。

また、それでも駆除しきれなかった獣によって。

被害もまた出るのである。

今回は、フィリスさんという、インフラ整備の恐らく世界最高の達人が出てくれる。しかもこの人、多分ドラゴンくらいはものともしない実力の持ち主だろう。確かに、サポートがあれば充分。

だが、堤防の外は文字通りの魔境だとも聞いている。

護衛に関しては、本当に気を遣わなければ危ない。

それは、スールにさえ分かる程度の事だ。

「戦力が少なすぎるのです」

ずばりアンパサンドさんが言う。

確かにその通りだ。

現在騎士団は各地に散って、過酷な任務の真っ最中。この仕事に人員を廻せるとはとても思えない。

イル師匠も毎日いる訳では無く、時々空飛ぶ荷車みたいなのに乗って、何処かにすっ飛んでいく。

アンパサンドさんだから、フィリスさんに堂々ともの申せるわけで。

実際、隣でマティアスはびびりまくっていた。

「ああ、それなら大丈夫。 わたしの知り合いの手練れが、それなりの数もう来てくれているから」

「……分かりました。 信じるのです」

「うふふ、じゃあれっつごー!」

フィリスさんは楽しそうだ。

そのまま、城門を出て、森の中を行く。

入り江になっている堤防に注いでいる川は、確か森を出た後。川に沿って海に向かい。その近くにある街の側を通っている筈。

この川の出口にも、大きな柵が張られている筈で。

或いは、そのメンテナンスも今回は行うのかも知れない。

川の近くを歩いていると。

もの凄く荒れている、という印象を受けた。

長雨による水量の増加で、川が暴れたのだろう。

幸いもう土は乾いているようだけれど。

川の縁の辺りは、おぞましい抉れ方をしている場所が幾つもあった。多分、今後時間を掛けて補修するのだろう。

下手をすると、こういう所から、水害が起きるからである。

獣は今の時点では殆どしかけてこないが。

川には近付きすぎないようにと、森の中で話はされている。

言われなくても分かっている。

川の中にいる獣は、陸の獣とは桁外れなのだ。

前にも実物を見たし。

絶対に不用意に近づきなんてしない。

海水浴なんて出来る内海がそも例外なのであって。

本来、川も海も。

人間が近づける場所ではないのだ。

フィリスさんはかなり速く歩いているが。

幸い今は、それに追いつくことは難しく無い。

問題は獣の襲撃だが。

現時点では、それも確認されなかった。

ほどなく、海の側の街が見えてくる。

広義では、アダレット王都の一部。出城のような役割を果たしている街だ。規模は人口800人ほど。

一度だけ足を運んだことがあるが。

殆ど滞在することは出来なかった。

なお、港には城壁が作られている。

此処は内海に面しておらず。海の獣に対抗する手段が無いから、である。

海に近い事もあって、この街は堤防の管理と、河口の管理に殆ど特化している文字通りの最前線。

殆ど子供の姿を見ることも無く。

暮らしている人の中には、手指を欠損している人も珍しく無かった。

それはそうだろう。

この街が、非常に危険な場所だというのは一目で分かる。

内海と外海は、そもそも色からして違う。

そして、この辺りは潮風の影響も強く。

自給自足できるだけの作物も作れないし。そもそも、危険な場所が多すぎて、畑など作る余裕が無いのだろう。

食糧は基本的に外側から運び込んでいる様子で。

街を守っている森も、極めて貧弱だった。

こんな王都の近くなのに。

何だか、溜息が零れてくる。

フィリスさんはひょいひょいと、はしごも使わず、見上げるような高さの城壁に当たり前のように身体能力だけで跳び上がると。

手をかざして、周囲を確認。

流石にこの人に関して、もう驚くことは無い。

あれくらいは出来て当然だろうとも思う。

何しろ、ファルギオルと、速度で互角以上に渡り合っていたのだから。

しかも今考えてみると。

あれは恐らく、手を抜いていた可能性も高いとスールは思う。

かなりの数の荷車が、堤防の辺りに用意されている。フィリスさんが、壁からひょいと飛び降りてくる。

勿論怪我なんてする筈も無い。

「すぐに取りかかれそうだね。 じゃあ作業を開始するから、海側に展開。 獣の襲撃から人夫を守って」

「分かりました」

リディーは何も言わず、そのまま歩き始める。

マティアスは、おいおいとぼやいたが。

しかし、人夫はみんな出稼ぎに出てきている、戦士では無い普通の民ばかりだ。

守らない訳にもいかないと思ったのだろう。

すぐにリディーの後を追う。

なお、堤防の近くには、どうみてもただ者では無い傭兵が数人いて。いずれもが、一目で分かるほどの凄まじい使い手ばかりだった。

これが、フィリスさんの言っていた、「知り合い」達なのだろう。

十中八九深淵の者関係者と見て良さそうだ。

先に、皆には装備品は配ってある。

作業の音頭に関しては、フィリスさんがとるのかと思ったが。

傭兵の中にいた、魔族の戦士が、手を叩く。

どうやらこの人が、人夫達を指揮するらしい。

「これより、大量の土砂が運ばれてくる。 それを皆で、指定の位置まで捨てに行って欲しい。 全自動式荷車の使い方は知っているか」

「はい、問題ありません」

人夫達の返事に頷くと、魔族の戦士は、予定通りに、と指示。

そうだ、全自動式荷車。

こういう所で使われているのは初めて見る。

確か、追従や停止などの機能がついていて。更に事故を避けるために、自動停止機能までついているという。

力がない子供や老人でも簡単に扱えるため。

貧しい民でもこういう力仕事に参加できる、非常に便利な品だと言う。

近年爆発的に普及しているらしく。

今後は、空飛ぶ荷車とあわせて、更に普及するだろう事は確実だとか。

勿論、リディーとスールにも話は振られる。

「フィリスどのから話は聞いている。 貴殿らが護衛の錬金術師と騎士だな」

「はい。 お願いします」

「うむ、此方こそ頼りにさせて貰う」

魔族は基本的に真面目だが、この傭兵もそれに変わりは無いようだ。

まず持ち場について説明を受ける。

そもそもこの場所自体が、普段は封鎖されている状態で。

まあ理由は当然、獣がいつ襲撃をしかけてくるか分からないからだ。

フィリスさんがこれから単独で堤防の上で作業をするが。

それでも、獣よけの封鎖を解除する瞬間に隙が出来るし。

何より外海の獣の危険度が段違いのため、瞬間の隙でさえ油断は一切出来ない。

そう説明を受ける。

この辺りは、知っているけれど。

再確認する必要がある。

だから、スールは何度も頷いていた。

何しろ、深淵の者で働いているだろうこんな強そうな魔族の戦士が、一切油断をしていないのである。

どんな獣が出てくるか、知れたものではない。

スールは水際で、ルーシャと一緒に獣に対応。これは恐らく、ルーシャがガードを、スールが勘で敵の攻撃を察知して備えるためだ。一応、何が得意で何ができるかは説明したら、即座に持ち場を割り振られた。

リディーは少し下がって、けが人が出た場合の対処。

オイフェさんとマティアスはスールとルーシャの少し後ろで待機。

そしてアンパサンドさんはフィンブル兄と遊撃。

土砂を捨てに行く、街の外側の方は、別の部隊が守りを固めているらしく。

其方は必要ないそうである。

まあ、それならいいだろう。

スールは、堤防の外側。外海を見る。

まるで引きずり込まれるような、真っ黒だ。

「スー。 あの海、深さはどれくらいだか知っていますの?」

「いや、分からないけど」

「人の背丈の数千倍、だそうですわよ」

「え……」

それって。

高山地帯と同じくらい、と言う事か。

一応、何カ所かに非常に背が高い山があるとは聞いた事がある。だけれども、海はそもそも、全てがそんな深さなのか。

シールドを展開し。

そして海を見張りながら、ルーシャは言う。

「幼い頃、スールが好きだった海賊話、覚えています?」

「うん。 彼方此方に出かけていって冒険する奴だよね」

「あれ、全部大嘘ですわよ」

「……分かってる」

嘘だとわかり始めたのは、屈強な船乗り達でさえ、絶対に外海に出ないと知ったときからである。

基本的に獣が危険すぎて出られないのだ。

アダレット王都の側にある内海でさえ、たまに非常に危険な獣が出て、専門の騎士団が駆除するが。

ぞっとするほど巨大なのが水揚げされて。

こんなのが海にはいるのかと、唖然とさせられる。

そして、最初に、あまりにも巨大な獣を見た時。

海賊譚は嘘だと思い知らされた。

曰く、冒険をし。

彼方此方から宝を見つけ出す。

悪党ではあるが勇気を持ち。

決して不必要な殺戮はしない。

そんな夢のある存在は。

いるわけがない。

匪賊の実物を見てから、その考えが嘘では無いこともよく分かった。

この世に義賊なんてものは存在しない。

己のポリシーに沿って、義を持って行動する賊なんて、夢物語に過ぎない。

幾つもの現実を見て、子供は大人に無理矢理させられる。

そう、あのお化け達の森で。

教えて貰ったように。

今ではスールも、海賊なんてのはこの世界に存在しないし。

もし存在しうる環境だったとしても、匪賊と同等の残忍な外道だっただろうとも思う。

フィリスさんが指示を出したのだろう。

荷車が来て、大量の土砂を捨てて、戻っていく。

本当に翼がついて飛んでいる。

金属の翼で、羽ばたくような事は無いので。恐らく高度な浮遊魔術を使っているのだろう。

あれは確かに、使えたら便利そうだ。

人夫が作業を開始。

さて、此処からは。

一秒だって気を抜くことは出来ない。

 

2、海に住まう者

 

フィリスは堤防の上を歩いて確認しながら、コレは酷いと、何度か呟いていた。

この堤防は、相当な犠牲と労力の末に作ったのだろう。だが、メンテナンスについて、あまりにも考えていない。

堤防の幅は、歩幅にして十歩ほど。

外海と内海をしっかり隔てている。

錬金術によって土砂を運び入れ。

ポンプを使って一度全ての海水を外に出し。

そして一部だけ、海水が出入りするようにして。後は可能な限りの頑強な素材で固めたのだとは分かったが。

その素材が、土由来のものだということも、すぐに分かった。

まあ恐らく、ブロック化した上で組み立てたのだろう。

そもそも内海のギリギリ外側に堤防を作る事自体が相当な難事だった筈で。被害も洒落にならなかっただろう事は想像がつく。

そして今の港から入り江にさしかかる内海は、アダレットの重要な食糧源となっているし。

獣の駆除に力も入れているようだが。

これははっきりいって、根本的な対策が必要だ。

今までの周回では、此処を本格的に調査する必要がなかった。

ある理由から、アダレット王都は数百年以内に放棄するからで。

こんなものを残しておく必要がなかったからである。

しかし。リディーちゃんとスールちゃんが上手く行く可能性が出てきた今。

今後あの双子をどうするかはさておき。

この堤防そのものは、しっかり残す必要がある。

そして、調査してみて分かったが。

これは放置しておいたら。

後十年もたずに崩壊していただろう。

その時には、大規模な災害が起きていたに違いない。

そういえば、アダレットでは毎度の周回でこれから十年後前後に騒動が起きていたが。あれは、獣が大侵攻を掛けてきたからではなく。

堤防が根本的に駄目だった、と言う事か。

やむを得ない。

深淵の者が現在管理している、装甲船二番艦を使うか。

更に補強したあれなら、内海も外海も、しっかり作業をする事が出来る。

もっとも、アダレットにアレを持ち込むとなると。

色々アダレット側が五月蠅そうだが。

それはソフィー先生にでも話して、黙らせるしか無い。

堤防を全て歩いて。

途中たまにしかけてくる身の程知らずの獣は、其方を見さえせずに、裏拳一発で粉々にする。

海に落ちた巨獣は。

一瞬で同胞に群がられ。

瞬く間に赤い海が拡がっていくが。

それこそどうでもいい。

フィリスにとっては、堤防の状態確認と。

とりあえずの応急処置の方が重要だった。

何しろこの世界では。

獣は際限なく。

幾らでも湧いてくるのだから。

他の世界では違う。

例えば現在極寒地獄になっている、ヒト族の生まれた世界。彼処では、獣の数は有限で、殺しても湧いてくる事はないことが分かっている。獣は非常に貴重な存在で、極寒の世界の中、必死に生き抜いているとも。

あのような世界で、獣を身を守るため以外の理由で殺す事は文字通り最大の悪逆だろう。

だが、今いるこの世界では。

獣は人間を管理するために存在している装置の一種に過ぎない。

だから、むしろ積極的に駆除をしなければならない。

心苦しい話だが。

一通り歩き終わり。

堤防の構成材料の声を聞いて、なるほどと頷く。

堤防の構造は全て把握した。

此処からは、かなり本格的な作業をしなければならない。

硬化剤を用いるにしても、やはり装甲船二番艦を持って来ないといけないだろう。しかも堤防の外側のメンテナンスは、本格的にやり始めたら一月では足りないだろう。時間停止を用いても、相当な手間暇が掛かる。

いっそのこと。

この堤防、一度壊すか。

そう考えたが、考え直す。

コレは恐らくアダレットのシンボルにもなっている。

今までの周回では、アダレット王都はその内放棄していたこともあって、あまり気にしていなかったのだが。

今回はそうも行かない。

双子を制御し。

利用していくためにも。

この堤防を。

アダレットにとって重要な蛋白源である魚を捕ることが出来る巨大ないけすであるこの場所を。

安易に破壊するわけにはいかないのだ。

いずれにしても、土台が駄目になっているので、かなり根本的な所から、作業をしなければならないだろう。

こんないい加減な工事、一体誰がやったのかと、叱責してやりたいくらいだが。

しかしながら、フィリスも億年以上の経験を積んでいるのだ。

そのフィリスの考える「立派な工事」を基準にしていたら。

全てが駄目になる。

それは分かっているので。ぐっと怒りを飲み込む。

ただでさえ、双子をどうするかで、イルちゃんと意見が対立しているのである。これ以上、面倒事は抱えたくなかった。

今日分の作業は、一旦終わらせる。

堤防を管理している出城になっている街では。

既に何度か戦闘が起きたようだが。

まあ被害は出ていないだろう。

獣はフィリスが威圧しているし。

身の程知らずの阿呆も、どちらかというとフィリスに引き寄せられている。

街の方には、雑魚しか行っていない。

その雑魚も、深淵の者の戦士達が基本的には片付けているし。

一人前くらいの実力にはなった双子と、ルーシャちゃんもついている。

それならば大丈夫だろう。

作業を切りあげ。

堤防の上を歩いて戻る。

此処も緑化してしまえば、多少はメンテナンスが楽になるか。

いや、いっそのこと、堤防を二重構造にし。壁を二枚作り、内側に空洞を作る。

更に堤防上部を緑化。

内部をブロック構造化し、メンテナンスを可能な構造にすれば。

万年単位でもたせる事が可能だ。

だが、それをやるには。

一度この堤防を壊すくらいの覚悟と。

何より、アルファさんが泡を吹くほどの出費が必要になる。

長年掛けて膨大な資産を蓄えてきているアルファさんだが。

今回の作戦のために、アルファ商会は相当な出費を強いられているし。これ以上の無茶はさせられない。

かといって、アダレットもそもそもファルギオル撃退作戦と、各地のインフラ整備作業、そしてファルギオル戦の後始末で、カツカツの状態だ。アトリエランク制度を導入し、コストの圧縮をしてもなおも厳しい状況だろう。

フィリス一人でやれば出来ない事もないのだが。

彼方此方のインフラ整備作業で声が掛かっていて、それどころじゃあない。

堤防を歩いて、二度襲いかかってきた獣を、見向きもせずに赤い霧にすると。

一旦街に。

防衛作戦を展開していた戦士達に、今日の作業の終わりを指示。

そして、堤防の守りに使っている、分厚い扉を閉じさせた。

この扉を開けることさえ命がけ。

そう、街の者達は顔に書いている。

まあ気持ちは大いに分かるが。

これは何とかしないといけないだろう。

双子は。

双子だけでは無く、ルーシャも、連れてきている騎士二人も、相当に消耗しているようだった。

襲いかかってきた獣が相当に巨大だったようで。

何体かが吊されて、街の人々がわいわいと捌いている。

まあ、フルスハイム側の湖でも、意味不明なほど巨大な獣が泳いでいるのを。装甲船二番艦から、フィリスも見た。

外海の獣となれば。

雑魚でもこのサイズになるのは、仕方が無いと言えば仕方が無い。

護衛の戦士が敬礼をして来たので、頷く。

「お疲れ様です、フィリスどの」

「被害は」

「負傷者が三名。 街の住人に被害は出ておりません」

「薬については指定の物を使ってください。 それと、襲撃の内容については後でレポートを提出してください」

指示を出すと、後は双子に、今日の作業は終わりなので休むように指示。

そして、自身は宿に。

一室を自分用に借りていて。

其処に魔界への入り口を作ってあるのだ。

魔界に入ると。

まっすぐに最深部に。

見回すが、今はルアードさんはいないか。

その代わり、シャドウロードがいたので、声を掛ける。

若い肉体の方が動きやすいとかで。

既にシャドウロードは、フィリスと同じくらいの年齢までアンチエイジングしていた。この様子だと、終焉の時までこの姿で通すのだろう。

面白い事に、この人は周回の度に固定する年齢を変える。

一番面白かったのは、幼児にまでアンチエイジングした時だったけれど。

その時は、暗殺をしやすいから、という理由だった。

アグレッシブに動き回って、深淵の者の邪魔になる存在を、片っ端から殺していたものである。

今回のシャドウロードは、主にサポート主体で動く事に決めているらしい。

周回の度に、もっとも変化が著しい人で。

この人を見ているのは、フィリスにとっては楽しい事でもあった。

「フィリス、如何したのか」

「会議が必要です。 幹部を集めて貰えますか?」

「例の堤防の件か」

「はい」

頷くと、シャドウロードは手配してくれるという。

とはいっても、最低限の幹部を集めるだけでも、数日はかかる。

その間、フィリスは。

応急処置をして、堤防の寿命を数十年くらいは延ばさなければならない。

 

翌日も、堤防の応急処置を進める。

周囲に空気の膜を作り出す魔術を展開。

これについては、道具で極限まで強力にすることにより、一種のシールドとしても作用する。

なお、空気というのは、想像以上に濁るのが早く。

フィリスの背丈の五倍ほどの直径の球体を作り出しても。

内部で活動できる時間は、それほど長くは無いのが実情だ。

なお、混乱させないように、先に「今日は潜る」と伝えてあるので。

双子は慌てていない。

まずは内海から。

硬化剤を荷車に積んで、一緒に潜る。

そして、かなり痛んでいる事を確認しつつ、彼方此方を補修していく。壊れてしまっている場所は、石材を仕込んで、硬化剤で固めていく。

手早くやっていっても、なにしろ長大な堤防だ。一日で終わる作業では無い。

昨日の時点で、堤防の何処が痛んでいるかは分かっていたから。作業そのものはそれほど苦労しなかったが。

応急処置に過ぎないことは分かっているが。

それでも汚れを落としつつ。

痛んだ石材を補強し。

硬化剤を塗り。

場所によっては、プラティーンでの補強を掛け。

そして何より、土台が駄目なので。その辺りは、錬金術で極限まで強化した、重力発生の装置を用い固定する。

全ての作業を終えて、内海から上がる。

獣が作業後を面白がってつついていたが。

基本的に、その辺りの獣がどうにかできるような柔な造りにはしていないし。

時間停止も利用しているので、硬化剤についても心配は必要ない。

フィリス自身は、既に一月くらいは連続稼働しても何ら問題ない人外の肉体になっているので。

本来は休憩は必要ない。

ただ、それでもイルちゃんが心配するので。

時々休憩はするようにしている。

人間なんてさっさと止めれば楽になるのに。

それをしようとしないイルちゃんは、考え方が違う。

だが、その違う考えを尊重するのもまた大事なので。

フィリスは、イルちゃんとやっていくためにも。ある程度は、妥協していくようにしていた。

海から上がると夕方。

少しずつ、大胆になって来ている外海の獣が、襲撃回数を増やしてきていると、戦士達から報告を受ける。

レポートを出して貰い。

皆に休んで貰う。

スールは獣に腕を食い千切られ掛けたらしく。

ルーシャが、きっとフィリスを睨んでくる。

睨まれても怖くも何ともないが。

この子はなんとソフィー先生に、単独で仕掛けに行ったらしい。

多分何処かで、怒りで頭の枷が外れてしまったのだろう。

良い事だ。

頭の枷が外れると、力というのは爆発的に上がるケースが多い。

意外に、この子も鍛えれば、思わぬ所にまで到達できるかも知れない。

ソフィー先生は、双子を育てるための当て馬程度にしか考えていないようだが。それだと少しもったいないかなと、フィリスは思い始めていた。

もう一日掛けて、内海の側の応急処置を完了。

本格的に補強をするには、やはり一月は掛かるし、アダレットの国家予算十年分以上は平気で食い潰すことになる。

そんな蓄えがアダレットには無い事もフィリスは分かっているので。

現実的では無い。

アルファ商会にお金を出して貰うにしても。

文字通りすってんてんになるのがオチである。

流石に、深淵の者を金銭面から支えているアルファ商会を破産させるわけにはいかないので。

この辺りは、考えながら作業をやっていかなければならない。

さて、次は外海側だ。

一応魔界に顔も出すが。

まだスケジュールの調整が上手く行かないとかで、会議が出来る状況は整わない。

まあフィリスがインフラ整備から外れている分、プラフタさんやソフィー先生が動いているので、これは仕方が無いと言える。

深淵の者も、今ほど強固にこの世界に介入できるようになったのは、比較的最近の事で。

昔は此処までの介入力は無かった。

人材を補うために、ホムンクルスの本格投入を開始してはいるのだが。

それでも足りないのが現実である。

結局の所、深淵の者も、世界の第三勢力に過ぎず。

ソフィー先生を一とする規格外がいてこそ、の組織に過ぎないし。

そのソフィー先生も全能では無い。

レポートを確認しつつ。

魔界にある自室で外海の応急処置について考えていると。

イルちゃんが来た。

「フィリス、ちょっといいかしら」

「うん? どうしたのわざわざこっちにまで」

「例の絵の件よ」

「ああ、あの絵ね」

例の絵。

これより、双子に「バカンス」と称して調査させようと思っている不思議な絵画である。

「人間が外海に出られる世界」をイメージして書かれたその絵は。

あり得もしないピカレスクロマンに登場するような海賊が、夢のような冒険をしている絵で。

まあ夢を見るだけなら良いのではと、フィリスも苦笑したくなるような代物だった。

匪賊の現実を見ていると。

海賊というものが存在したとしても、恐らく人間と呼ぶには無理がありすぎる鬼畜外道になっただろう事は想像に難くない。

「少し手を加えて、サポートの人員を内部に加えたわ」

「うん? 確か思念だけで動いているバッケンとかいう海賊がいなかった?」

「その海賊に、思念だけで無く、肉体も与えてみたのよ。 同時に絵も補強して、内部世界の強度も上げておいたわ」

「別にかまわないけれど、内部に放し飼いにするドラゴン対策?」

首を横に振るイルちゃん。

そして、寂しそうにフィリスを見た。

「少しでも双子の糧になるように、と思っての事よ」

「そのままでも糧にならない?」

「鞭が多すぎると言っているの。 試練だけ与え続けても、双子は潰れてしまうわよ」

「そうかなあ」

小首をかしげる。

今まで一万回強、双子の育成には失敗したが。

優しくした周回で、上手く行ったわけではなかった。

むしろ調子に乗らせたあげくに。

ファルギオルに黒焦げにされることの方が多かった気がする。

確かに厳しくしすぎても、潰れてしまう可能性があるかも知れないが。実際問題、厳しくやっている今回で、始めてファルギオルを双子は突破出来たのだ。

ファルギオルを突破した所で、またソフィー先生が事象の固定を行ったらしいし。

またかなり厳しい試練を設けたところで、問題ないようにフィリスには思える。

それを察したか。

イルちゃんは、大きく嘆息した。

「フィリス、貴方ね。 もう人間をモノか何かと思い始めていないでしょうね」

「思ってるけど」

「……っ」

「イルちゃん。 今までの世界の終焉を見てきたでしょう? 愛情を注いで人間は変わった? 道理を説いて人間が変わった?」

みるみる真っ青になるイルちゃんに。

フィリスはむしろ静かに語る。

あのパルミラでさえ。

9兆回の繰り返しを経て、一度も人間を自立させることが出来なかった。

ソフィー先生でさえ24万回近くを繰り返し。

結果は同じ。

フィリスとイルちゃんはまだ一万回程度だけれど。

それでも同じ事だ。

フィリスは、素の人間にとっくに見切りをつけている。

今後人間に対して、根本的な概念の破壊を行う必要がある。

それが結論だ。

知的生命体そのものに欠陥がある。

今までフィリスは人間を見てきて、そう結論せざるを得ない。

まともな人間がいないとは言わない。

苦楽を共にして来た人達は、立派だったけれど。

同時に、それを遙かに超える数、とても立派とは言い難い人間達を見てきた。

そして世界には、駄目な人間の方が遙かに数が多く。

そいつらが世界を最終的には滅ぼすのだ。

どれだけ完成された社会システムでも駄目。

どれだけ完成された倫理観念を浸透させても駄目。

どんなに優れた統治者が君臨しても駄目。

要するに人間という生物。いや、知的生命体がそもそも欠陥品なのであって。それを是正するには、ちょっとやそっとの改革では駄目。

ましてや、人間に感情移入すれば。

それだけ未来の打開は難しくなる。

イルちゃんは人間性を保ったまま、世界を変えたいと思っているのだろう。

フィリスは、もうそれは無理だと判断している。

それだけだ。

「フィリス……」

「イルちゃん、泣いたって何も解決しないのは、今までの終焉を見てきて分かっているんじゃないの?」

「私が泣いているのは……!」

「わたしが狂ってしまったから?」

笑みで答える。

確かにフィリスは狂ったかも知れない。

だが、この狂気の世界は。

むしろ心地よいくらいだ。

ともかく、堤防については、早めに何かしらの対策を練る必要がある。イルちゃんと無駄話をしている暇は、そんなにはない。

喧嘩別れをするつもりはないが。

だが、イルちゃんとは、もはや決定的に。

目指すところが違っているのも、事実。

そして、同じ事を考えている人間だらけでは。

この詰んだ世界を打開できないのも、また事実だった。

 

3、強大なる獣

 

四日目。

内海の方の堤防での作業を終えたらしいフィリスさんが、また海に泡を纏って潜っている。

作業をしているらしいのは、荷車が時々自動で飛んできて。

土砂を捨てていくので分かる。

だけれども、それ以外はさっぱり分からない。

時々堤防の上に上がってきて、何か道具を使ったり確認したりしているけれど。

正直、それを観察している余裕が無いのだ。

血の臭いに引き寄せられているから、か。

それともフィリスさんが、此方にかまうつもりがそもそも無い事に気付いたか。

獣の襲撃が。

加速度的に増えてきているのである。

スールは悟る。

また来る。

「大きいのが来ます!」

「人夫は下がれ! 総員シールド展開!」

魔族の戦士が、率先してシールドを張る。錬金術の高度な装備を身につけているらしく、凄まじいシールドが展開される。

ルーシャとリディーもシールドを展開。

だが、海を文字通り押しのけるようにして現れた獣は。

今までとは桁外れの大きさだった。

シールドを押し流すようにして、一気に街の中に突入してきたそれは。

魚と言うには巨大すぎ。

手足らしいものが六対もあって。

目も左右に三つずつある。

口は巨大で、家を丸呑みにしそうなほどである。三重に展開された分厚いシールドごと押し込んで、街の中に乱入してきた。

「堤防の戸を閉めろ! 人夫は下がれ! 街の外まで逃げろ!」

五月蠅いと言わんばかりに、巨大な体でタックルしてくる巨獣。魔族の戦士が、冗談のように吹っ飛ばされる。

駆けつけてきたマティアスが、シールドで魔族の戦士を受け止め。

アンパサンドさんが、体格差をものともせずに突貫。

左側の目を、全て切りつけながら、飛び退く。

獣は気にもせず、背中を左右に開く。

其処から出てきたのは、無数の蠢く触手だった。

動きは鈍いが。

触手が蠕動すると、周囲に無数の魔法陣が展開され。

一斉に氷の槍が降り注いでくる。

そう、こいつは頑丈さとパワーで、押し潰しに掛かってくるタイプだ。そしてそれが異次元だから、速さなんて必要ないのである。

だけれども。

陸に上がったことを、後悔させてやる。

走って氷の槍を避けながら、スールはフラムを取りだす。

それを見て、リディーが頷く。

ハンドサインを出す。

殆ど間断なく、全周囲に氷の槍を無差別攻撃してくる巨獣だが。

攻撃は余技に過ぎないらしい。

一度、シールドを破らないと無理だ。

氷の槍をかいくぐって、ルーシャが至近に。

全力で、傘から光弾をぶっ放す。

だけれど。至近からの攻撃が、モロに弾き返され。更に、体を揺するだけで、ルーシャが押し潰されそうになる。

フィンブル兄が即応。

ルーシャを抱えて飛び退き。

代わりに踊り込んだオイフェさんが、フルパワーでの拳を叩き込むが。

コンビネーションブローは全てシールドに防ぎ抜かれる。

あれを抜かないと無理か。

仕方が無い。

手を変えようと思った瞬間。

足を取られて、転び掛ける。

なんと、巨獣の放った氷が、既に地面を凍り漬けにしている。どれだけの低温の氷の槍を放っているのか。

更に、無尽蔵に槍を放ってくる巨獣。

凍らせ、動きを鈍らせたところで、パワーで叩き潰すつもりだ。

アンパサンドさんは上手に攻撃を避けながら、目を狙って一撃を入れ続けているが。それでも駄目だ。相手の装甲を破れていない。視界を塞げてはいるが、それだけ。

何とか体勢を立て直すと、一旦バトルミックスフラムを叩き込む。

シールドを展開する巨獣だが。

極限まで強化された、ピンポイントフレアによる熱線は、それを貫通した。

全身を貫かれ、始めて悲鳴を上げ、隙を作る巨獣に。

フィリスさんが連れてきた傭兵達が一斉に斬り付け、ずたずたに切り裂く。魔族の戦士も攻撃に転じ、凄まじい雷撃を叩き込む。

巨獣は悲鳴を上げながらも、触手を振るって、纏わり付いている戦士達を払いのけ。

そして今度は、触手を地面に突き刺した。

まずい。

「リディー! シールドッ!」

「うんっ!」

リディーが地面に手を突き、シールドを展開。

次の瞬間、凍り付いている地面全域に、凄まじい雷撃がぶち込まれていた。

しかしながら、即応したリディーが、シールドで巨獣を包んだことにより、雷撃はこっちまで通らない。

巨獣が吠え猛り、シールドをぶち抜く。

多分、今のは必殺のコンビネーションアタックだったのだろう。

だが、それもぶち抜いた今こそ、勝機だ。

もう一つ、フラムを取りだす。

それも束にした奴だ。

巨獣は吠える。スールを敵として認識したのである。

だが、決定的な隙が、それによって生じた。

ルーシャが放った光弾が、目の一つに食い込み。シールドを発生させる暇さえ無く巨獣を貫く。

更にフィンブル兄とマティアスが、息を合わせて、敵の触手をまとめて薙ぎ払い。

アンパサンドさんが、激しい戦いで泥濘化した地面を、敵の残った目の一つに投げつけていた。

絶叫しつつ、巨獣がスールに向き直ろうとする。その視界が殆ど塞がれているというにも関わらず。

それこそ、勝機。

これだけの手数がある中、スールに注意を払い続けた事が、致命傷になる。

時間を掛けて、フルパワーで詠唱していた魔族の戦士に。

リディーが、魔力強化の魔術を掛けていたのである。

魔族の戦士がぶっ放した光弾は、まるで光の束だった。

光の槍に、文字通り串刺しにされた巨獣は、しばし停止し。

やがて体に大穴を開けたまま、横倒しに倒れる。

びくりびくりと痙攣している。まだ油断は出来ないが、致命打を与えたのは確実だった。

「負傷者! いるならトリアージ!」

「外に逃げた人夫の安否確認!」

鋭い声が飛び交う。

同時に、アンパサンドさんが、相手の急所をぐさぐさ刺して、死んだかを徹底的に確認。

外に飛び出していったフィンブル兄が、叫ぶ。

「外にも獣だ! 急いで来てくれ!」

無言で飛び出す。

幸い、堤防側の方は、即応して戸を閉めてくれたおかげで、これ以上の獣の襲撃は防げていたが。

街の外に逃げた人夫達の方は。

護衛についていったわずかな戦士が、十体以上の中型の獣を、必死に防ぎ止めている状況だった。

「アン、外を頼む!」

「分かりましたのです」

アンパサンドさんが残像を作ってかき消える。

魚に近い姿をした巨獣だ。徹底的に殺さないと危ないと判断していたのだろう。実際魚は生命力が強く、真っ二つにしてもバタバタ暴れる事があるくらいである。

アンパサンドさんと入れ替わりに、マティアスが躍り出て。

気合いと共に、巨獣の首を刎ね飛ばし、更に体を真っ二つに切り裂く。

力だけは大したものだと言われていたが。

最近は昔よりずっと勇気が出るようになっているようだし。

もう力は明確な長所になっている。

そろそろ、マティアスの力を生かせる装備品を造るべきなのかも知れない。

街の外に出ると、獣の駆除に取りかかる。

中型の獣ばかりだ。

アンパサンドさんが、既に飛び込んで、注意を引き始めている。襲われていた人夫には、幸いまだ死者はいない。

立て続けの戦闘にもかかわらず、まったく躊躇せず飛び込むアンパサンドさんの体力と胆力に舌を巻きつつ、拳銃を取りだし乱射。今のスールなら、充分に相手に手傷を負わせられる。

コレなら、今の戦闘での負傷を考慮しても、フィリスさんの派遣してくれた戦士達と、ルーシャと連携すればどうにでもなる。

どっと、戦士達が場になだれ込む。

獣の一体が、せめて少しでもと思ったのだろうか。

子供を襲おうとするが。

リディーが、的確に反応。飛びかかった獣を、シールドで弾き返す。

戦力が整うと。

後は、一方的な戦いになった。

 

呼吸を整えながら、堤防側の扉をまた開ける。

既に氷は溶かしたし。

負傷者の手当も終えた。

倒した獣は全て片付けて、肉などの処置も終わった。

巨獣の方は、内臓から寄生虫が山ほど出てきて閉口したけれど。

前のように、虫は見るだけでもいや、という状況では無くなっている。克服できたとまでは言わないが。少なくとも、触るだけでピーピー泣くような、昔のスールと同じではない。

前にアンパサンドさんに鍛えられたから、というのもあるだろう。

いずれにしても、獣の肉は燻製にし。

皮は分けて貰った。

巨獣の皮は生臭かったけれど。

剥いでみると、かなり頑強で。特に鱗は非常に鋭く頑丈。強い魔力も帯びている。素材として、活用出来そうだった。

フィリスさんが戻ってくる。

激戦で気付かなかったが、もう夕方だ。

リディーに休むように言われて、頷いて街の外に出る。

マティアスが、住民の代表の抗議を受けていた。

「殿下、あんな凶暴なのが何度も入り込んだら、街は壊滅してしまいます! 騎士団からもっと人員を割けないのですか!」

「申し訳ない。 今、騎士団は大半が出払っていて……」

「堤防がかなり危ない状態になっているのは分かります! しかし我々にも生活が……!」

騎士団がカツカツなのはスールも知っている。というか、状況から見て誰にでも分かるはずだ。

あれは抗議では無くて、言いがかりに近い。

いくら何でもあれは無い。

文句を言いに行こうとするが。

アンパサンドさんに手を引かれる。

アンパサンドさんの手は相変わらず小さいけれど。ぐっと握りこんでくる力には、強い意思が確かにある。

「其処まで。 あれが王子の仕事なのです」

「でも、そもそもあの人達が」

「いいのですよ。 そも王子が望んでやっている事なのです」

「……っ」

それは、そうかも知れないけれど。

腑に落ちないというか。

色々と気分が悪い。

王族の光の部分を代表するのがミレイユ王女だとすれば、影を象徴するのはマティアスだ。

そしてマティアスにはああいうことを言いやすい、というのもあるのだろう。間違っても、ミレイユ王女にあんな事は言えないのだから。

本音を引き出せる。そういう強みは確かにあるのだ。

道化役をあえて買って出る。

それしかできる事がないから。

ルーシャもそうだけれど。

生半可な覚悟でできる事では無い。

ルーシャといいマティアスといい。

本当にスールは、どうしてこう、本当に馬鹿にすべき相手では無い相手を馬鹿にしていたのだろう。

それが普通の人間だったと言う事で。

本当にどうしようもないと、嘆くほか無い。

理不尽な抗議をしばらく受け続けていたマティアスだけれども。

流石に全員の無事と。

フィリスさんがぱっぱと治療を済ませてくれると。

これ以上の文句を言えないと判断したのだろう。

俯いて、作業に戻った。

フィリスさんが超越級の錬金術師だろうと言う事は分かるのか。

多分、見た瞬間逆らう気が失せるのだろうと言う事は分かる。

まああの堤防の上に行って、平然と巨獣達を返り討ちにしながら作業をしたり。

あげく深さも分からないような海に平気で潜ったりしているのである。

アダレットにいたどんな錬金術師……ネージュも含めて……よりも凄い。それは一目で分かる事だ。

これ以上は文字通り虎の尾を踏む。

そう判断しただろう事は、見ていて分かった。

色々釈然としないが。

フィリスさんは、反論を封じるかのように。

笑顔で手を叩いた。

「みんなー、集まって」

逆らうという選択肢は無い。

多分海の中でも相当にたくさんの獣を殺してきただろう、インフラ整備の世界的な権威は。

笑顔のまま、血に染まっているだろう手を可愛らしくあわせて説明してくれる。

「とりあえず応急処置は明日までで終わるからね。 ただ、本格的に作業をするとなると、わたしが一ヶ月は貼り付かないとならないかな」

「フィリスどの程の方が一ヶ月も」

「そうだよフィンブルさん」

「ふむ……」

フィンブル兄が堅実な武人である事を知っているのか、フィリスさんは対応が丁寧である。

考えてみれば、フィンブル兄は誰にでも誠実な態度を崩さない。

荒くれ揃いの傭兵には珍しい性格だ。

或いは、フィリスさんも、くせ者ばかり相手にしてきたから、こう言う人には敬意を払いたくなるのかも知れない。

ちょっとだけ、そんな事を考えてしまった。

「とりあえず明日の作業が終わったら、応急処置は終わるけれど。 あの堤防、一度本格的に直さないと駄目だから。 マティアス王子、お姉さんに伝えておいてね。 ええとね、軽く計算したけれど、アダレットの国家予算の十年分くらい掛かるかな」

「はいいっ!?」

「うふふ、でも王都を外海の脅威から守るにはそれくらいは必要だからね。 今の状態だと、明日の補強工事が終わった後でも、五十年もてば良い方かな……。 それと工事は一気にやらなければならないから、何とかする方法を考えるように言っておいてね」

「俺様、帰ったら姉貴に殺されるの?」

肩を落として泣きそうな顔をするマティアス。

情け無さそうだけれども。

実際問題、この後マティアスが受ける理不尽な仕打ちを思うと、同情しか湧いてこない。本当に、理不尽を引き受けることに特化しているんだなと思う。

フィリスさんも、それを見抜いた上で言っているのだろう。

それから、フィリスさんは、てきぱきと戦士達と一緒に、壊れた家などを直してしまう。凄まじい手際で、あっと言う間に壊れた家などが直って行く。住民もこれには言葉も無い様子で、文句を以降言う者もいなかった。確かに、これでは文句など言いようが無いのも事実である。

しばしして、宿の準備が整う。

元々砦のような役割を果たしている街なのだ。

宿はたくさんある。

宿の主人は、強面で、隻眼の大男だったけれど。

流石にあの巨獣。

そしてフィリスさんの単身での活躍。

どちらも顎が外れるしか無かったのだろう。

落ち着き無く。

ずっと口を引き結んで黙り込んでいた。

ルーシャと分け合った獣の体を本格的に確認する。生臭さがとれれば、この強靱な鱗、そのまま装備品に加工できそうである。

スールにも魔力が見えるようになっている。

それが今はありがたい。

暖炉で温まりながら、軽くリディーと話をする。

「この鱗、どんな風に加工しようか」

「ちょっと鋭くて危ないけれど、縁はどうにかすれば使えそうだね。 スーちゃんはどんなアイデアがあるの?」

「そうだね、例えば、縁をこうやって覆って、魔法陣を刻んで、穴を此処に開けて……」

今までの戦闘を見ていて気付いた。

おなかを敵が狙って来る事が多い。

人体急所の一つだ。

当たり前である。

ならば、最初におなかに。服の下に、ガードできるように装飾品を仕込むのはどうだろうか。

勿論素材はこの鱗じゃ無くてもいい。

強めの獣の毛皮でも、同じ役割を果たせるだろう。

暖炉にルーシャも来る。

パンを貰ったと言う事で、分けて貰う。

あんまり美味しいパンでは無かったけれど。

文句を言っている余裕は無い。

「そういえば二人とも、そろそろ錬金術の布については勉強していますの?」

「あ、そうか。 でもこの服、お母さんが作ってくれたんだよね」

「うん。 変えるのは抵抗があるかな……」

「そうは言いますけれども。 例えば最高位の錬金術で作った布、ヴェルベティスの性能は生半可な錬金術装備数個分に匹敵しますわよ」

そうだ、確かにそう聞いている。

だが、まだ粗悪品のプラティーンをちょっと作るのがやっとである。

布については殆ど知識が無かったし。

ちょっと厳しい状況かも知れない。

「ハルモニウムを、防具に利用できないのかな」

「この間貰ったドラゴンの鱗を利用して?」

「うん。 何ならドラゴンの鱗をそのまま使っても……」

「バカ仰い。 ドラゴンの鱗のままでは、性能の一割も引き出せませんわ」

ルーシャの言う通りだ。

ちょっと考え込む。

確かに、錬金術の装備品だけで身を守るのには、限界がある。

イル師匠も、着ている服は多分ヴェルベティス製。それも最高品質のものと見て良いだろう。

ヴェルベティス製の服を着ていると、弱体化していない雷神とまともにやり合うくらいの能力が出せる可能性が出てくる。

そういう事だ。

勿論イル師匠が桁外れに強いのもあるのだろうけれど。

それでも、ヴェルベティスによる基本性能の引き上げは、必ずある筈。

「ちょっと調べて見るね」

「それが良いですわ。 それと、その鱗、調べて見ましたけれども、防御魔術とは親和性がよくありませんわ」

「え、そうなの……?」

「多分鱗自体に最初から、あの獣由来の魔術がしみこんでいるせいでしょうね。 残念ですけれど」

そうか。

鵜呑みには出来ないけれど、後で詳しく調べた方が良いだろう。リディーも同じ意見の筈だ。

まあ、スールは魔力がやっと見えるようになってきた段階。

魔力そのものだって、散々装備品でパンプアップして、やっと何とか使い物になる状況である。

魔術をバンバン使っていたルーシャの言う事に、反発する気は無い。

素人と玄人の差を甘く見るほど。

流石にスールも、素人では無かった。

一晩休んで、翌日の作業に入る。

フィリスさんは、大きめの空飛ぶ荷車をどこからか持ち込んでいて。それに見た事も無い道具を山ほど積み込むと、海に何のためらいも無く出かけていった。

街の人達は、海側の扉を開けるのには抵抗もあったようだけれど。

一人で何の躊躇も無く出かけていくフィリスさんを見て、流石に文句を言う気にもなれないのだろう。

何より昨日の怪我に対する処置の速さ。家の修復。

いずれも文句など言いようもなく。

そして一人で海に出て、平然と巨獣をなぎ倒し、生還してくるフィリスさんを見て。

もうこれ以上、文句など言う事は出来ないのだろう。

また大量に荷車が土砂を運んでくるので、それをすぐに捨てに行く。

そういえば、今日で作業が終わりだから、だろうか。

新しい戦士が何人か来ていて。

街の外に捨てられている土砂を、回収して何処かに運んで行っていた。何処に運んでいるのかは分からないが。

ともかく、護衛を続け。

やはり大胆になって来ている獣を、何度も押し返し、倒す。

大きいのが間断なくしかけてくるので、かなり怖い。ルーシャとリディーが位置を交代。最前線のシールド役は、何回か位置を変えて、それでどうにか凌ぐ。正直色々と冗談じゃあ無い。

もっと実力がつけば。

フィリスさんと同じ事が出来るようになるのだろうか。

もしそうなったら。

ふと、思う。

この世界には、苦しんでいる人がたくさんいる。誰も彼も全員を救うことは出来ないかも知れない。

だけれども。

迫害されたネージュ。

氷の世界で小さな居場所を守り続けているトカゲの王。

灼熱地獄でドラゴンとの共存を必死に続けてきたフーコとその一族。

ああいう人達。

少なくとも、救うべき価値がある人を、救える力は手に入るのではないのだろうか。

また獣が飛び出してきて、シールドにぶつかってくる。今度は頭に角が生えている、巨大な魚のような奴だ。

シールドを角が貫通してつき刺さるけれど。

飛び出したマティアスが、一刀両断に頭を叩き落とす。

それほど大きな獣では無かった事が幸いした。

マティアスの斬撃もタイミングが完璧だった。

胴体部分は海に落ちて。

瞬く間に獣が群がり、バリバリムシャムシャと凄まじい音を立てて食べ始めた。頭は回収し、シールドを張り直す。

海は本当に修羅の世界。

あんな場所で生活している生物の気が知れない。

まだまだ荷車が土砂を運んでくるのだ。

あの土砂、どういうものなのだろう。

堤防の駄目になった部分なのだろうか。

分からないけれど。

ともかく、雑念は少しでも払った方が良さそうだ。

獣の襲撃の度に、人夫には一旦下がって貰って、処置をしなければならない。獣の頭を解体するのは、フィリスさんが連れてきた戦士達に任せる。

あの角、凄い魔力を感じる。

もしも貰えたら、何か使い路があるかも知れない。

「集中して。 複数の殺気が狙っていますわ」

「うん、分かってる。 ありがとう、ルーシャ」

「……」

ルーシャは口をつぐむと。

海に油断無く視線を向け直す。

少しルーシャの態度も変わっただろうか。此方の態度が変わったから、だとは思えない。何かあったのかも知れない。

ともかくだ。今は油断が即死につながる。気を張り続けないといけない。

いずれにしてもはっきりしたのは。

海が、とてつもなく危険だと言う事。

再確認させられた。

これは、命知らずを自称する漁師達でさえ、堤防にさえ近付きたがらない訳だ。そして昔好きだった、海賊が活躍するピカレスクロマンが大嘘だと言う事も。分かってはいたが再確認させられる。

また、凄いのが飛び出してくる。

シールドでは防ぎきれない。

リディーが指示を出して、迎撃を開始。

今度はたくさん触手が生えた、蛸が更に禍々しくなったような巨獣だ。多数の目が全身についていて。触手を振るいつつ、数十の魔術を同時展開してくる。

これがネームドでは無いのだろうと考えると。

外海に船なんか出したらどうなるか、一発で分かる。

戦闘開始。

犠牲者も出させないし。

こいつも、海に生かして返すわけには行かない。

 

4、青い海の果て

 

堤防の応急処置作業が終わった翌日。

リディーとスールは、王宮に呼び出される。

特に不都合の類は無かったはずだ。

だけれども、緊張する。

英雄としてもてはやす風潮はあったにはあったが。

ミレイユ王女は冷静で。

実際に雷神を食い止めていた三傑や。

体を張って雷神の侵攻に対応した騎士団。

更には、その後の災害復旧に奔走した騎士達傭兵達一人ずつに称賛の声を掛け。リディーとスールだけを特別扱いする事も無かった。

昔だったら、バカみたいに調子に乗っていたかも知れないが。

そもそもネージュに不思議な絵の具の事を教えて貰わなければ、雷神を倒す事なんて絶対に無理だったのだ。

今では、相応に謙虚になれているつもりである。

少なくとももはや自分は凄いとか。また上手くなったとか。そんな寝言は頭の中には無い。

しばし受付で待たされる。

そして、困惑した様子で、役人が来る。もう少し待って欲しい、というのだ。

来た役人が、たまに受けつけにいる若い不慣れなヒト族という事もあって、不安が更に後押しされる。

ミレイユ王女はまだ各地を災害復旧のために飛び回っているという話だし。王宮が機能不全に陥っていないと良いのだけれど。

そう思っていると。

いつもは見かけない、勲章をつけたヒト族の老人が姿を見せる。

どうやら大臣の一人らしい。

元騎士隊長、という所だろうか。

顔にあるもの凄い向かい傷といい。

歴戦の強者の風格があり。

相手を容赦なく見定める、鋭い光が目には宿っていた。

「君達が雷神を仕留めた錬金術師だね」

「はい。 リディーです」

「スール、です」

「うむ。 わしは防災大臣のバズラルムという。 ミレイユ王女殿下の言づてを預かっているので、下のエントランスに来て欲しい」

なるほど、此処では聞かせられない話か。

頷いて、ソファから立ち上がり、エントランスに行く。

いつの間にか、アンパサンドさんがいて。周囲を警戒していた。

此処はお城の中なのに。

びりびり嫌な予感がするが。

それはすぐに現実のものとなった。

不思議な絵画が陳列されているエントランスに出る。たくさんの不思議な絵画があるのだけれども。

奥の方に、音を防ぐ魔術で守られた一角がある。

絵から丁度今、パイモンさんが出てきて。挨拶してすれ違う。フーコ達が火竜と住んでいる絵だ。どうやら鉱物資源を回収しに行っていたらしい。何人かの騎士も護衛が終わってほっとした様子だ。

いずれにしても、今は話している時間もない。

大臣は、既に防音区画で待っていたし。

待たせるわけにも行かなかった。

アンパサンドさんは防音区画の外で待機。周囲に鋭い視線を向け続けている。

「さてと、本題に入ろうか。 君達は既に聞いているかも知れないが、アダレットに面する内海……それを外海の巨獣どもから守っている堤防が、根本的なメンテナンスを必要としている。 三傑の一人フィリスどのから正式に依頼があってな。 しかも、アダレットの国家予算の十年分は最低でも掛かる、というとんでも無い話で頭を痛めている」

「それ、目の前で聞きました……」

「マティアス……王子が、青ざめてました」

「そうであろうな。 王子殿下から話が上がって来たときには、正直わしも立ちくらみを起こしかけた」

それはそうだろう。

雷神対策。

それにこの記録的な長雨の後始末。

ただでさえ、アダレットの国庫はすっからかんに近い状態の筈。

勿論雷神を倒した事により、来年以降は多少は余裕が出てくるだろう。

三傑が、今まで倒せもしなかったネームドを散々駆除しているという話も聞いている。彼方此方の街で、畑を拡大したり。道を整備したりして。経済活動が活発になるだろう。ただしそれは、あくまで来年以降は、だが。

200年前の愚行のおかげで。

アダレットは未だに、多くの負債を抱えてしまっている。

ラスティンもかなり酷い状態のようだが。

それ以上にアダレットが酷すぎるのだ。

この堤防の問題だって。

錬金術師を迫害するような愚行を犯していなければ。毎年少しずつ整備したりして、ちょっとはマシになっていた筈である。

「そこで、調べて欲しい絵がある。 これは依頼の一部で、もしこれを突破したら、Bランク昇格の試験を受ける資格を与えようと思う」

「!」

Bランク。

そうなると、高位の錬金術師として認められる、と言う事。

なるほど、流石にBランクともなると、明確にボンクラとは線引きをする、というわけか。

スールとしても、今の実力でCランクというのは過剰ではないかと思っているので。

むしろそれくらいで丁度良いと感じる。

リディーは頷く。

スールも、少し遅れて頷いていた。

「分かりました。 調査、してみます」

「うむ。 アダレットの方でも、何とか予算圧縮をしなければならないと考えていてな、情けない話だが。 今回の応急処置だけでも、相当な金を三傑に対して払っている状況で、国家予算の十年分などという金はとても出せぬ。 海についての具体的な情報は知っているかも知れないが実際には無きに等しい。 何しろ外海に出た船など、生還出来る訳がないのでな……」

「分かります」

「うむ……」

浅瀬を行く船でさえ、とんでも無い巨獣に襲われて。あっと言う間に転覆、船員は皆殺しというケースが珍しくもないらしいのである。

アダレット王都に面している内海は。

たまに事故が起きるくらいで。

それだけ安全、という事である。

海産資源も確保するために。

アダレットでは、王都を守る堤防は、死守しなければならないのだ。

大臣に連れられて歩く。

そして、ついた絵は。

昔読んだような海賊が、勇ましく右手で剣を振りかざし。左手には宝が入った箱を抱え。そして巨獣達を蹴散らし、海を冒険している絵だった。

嗚呼。

海への憧れ。

ありもしない海賊冒険譚。

それに関する夢を詰め込んだ絵だと、一目で分かってしまう。

「この絵はかなり特殊で、入るといきなり海中に放り込まれる、と言う事だ。 まずは海中を移動出来る手段を手に入れてくれ。 擬似的に再現されているとは言え、此処は海の世界。 内部を調査して、可能な限りの情報をレポートとして提出して欲しい」

「ええと、私達だけ、ですか?」

「ヴォルテール家のルーシャ嬢と、それに気鋭の錬金術師アルト殿にも同行して貰う予定だ。 三人からのレポートを確認し、少しでも予算を圧縮できないか、会議を行うつもりでな」

なるほど。

いずれにしても、まずは水中で活動する道具の作成、からか。

流石に外海ほどの巨獣がいきなりお出迎え、と言う事は無いだろう。

何しろ海についての微笑ましい夢を形にした絵画なのだ。

だが、コレを書いた錬金術師も。こんなあり得ないピカレスクロマンなんぞが夢想に過ぎないことは理解している筈で。

海の中を行くのであれば、相当に危険なはずだ。

準備と、イル師匠への相談が必要である。

「分かりました。 準備が出来次第、調査させていただきます」

「うむ。 頼むぞ」

大臣が戻っていく。アンパサンドさんも、それについてすぐに姿を消した。

それにしても、大臣が直接話に来るとは。

今腕を上げているリディーとスールを、それだけ国でも重視している、と言う事なのだろうか。

いや、違う。

三傑が桁外れ過ぎるから。

何とか人間の範疇にあるリディーとスールを、上手く活用しようと思っているのだろう。

雷神とガチンコでやりあっていたイル師匠とフィリスさんの事は、騎士団でも目撃していたはず。

既に人間がどうこうできる相手では無いことも理解しているだろうし。

何より深淵の者の事もある。

安易に依存する訳にもいかないし。

どうにかネゴをして行くのに、必死というわけだ。

とはいっても、あの大臣もそんな必死なふりをしているだけで。深淵の者の所属者かも知れない。

「お金かなりあるし、今回の探索は専属でドロッセルさん雇おうよ」

「うん。 でもさリディー、その前にまず海の中を移動する手段だね……」

「そうだね。 海の中でも動ける、くらいだと非現実的過ぎるから。 例えば海の中を移動出来る乗り物とか、或いは魔術で泡を作って、体の周囲に固定するとか……」

「戻って資料を調べて、それからイル師匠に相談だね」

頷くと、一旦アトリエに戻る。

海は遠大だ。

同時に人間が踏み込める場所ではない。

今、スールは。

其処に。

仮の世界とは言え。

足を踏み入れようとしている。

 

(続)