雷神を打ち砕け

 

序、不思議な絵の具

 

心が冷たくなってきているのが分かる。人間であろうと必死に引き戻そうとしているが、それは無理だとも分かる。

深淵を覗き込んだ。

はっきりその自覚があるからだ。

スールも明らかにおかしくなりはじめているし。

リディーも自分があからさまに変質し始めていることは理解している。

だけれども。

そもそも、「普通の人間」が如何にろくでもないかはリディーもよくよく思い知らされていた。

だからこれはこれで、良いのではないかとも思う。

ルーシャは悲しむだろう。

だが、錬金術は極めれば極める程人間では無くなる事ももう理解出来ていた。

世界の理そのものに触れていくのだ。

文字通りの超越存在になるのは避けられないし。

そうなればどのような形であるにしろ、人間ではなくなっていくのは、当たり前だろう。ましてや人間の中でももっとも排他的で独善的なヒト族から離れていくのは、むしろ良い事ではないのかとさえ思う。

散々ルーシャの事もお父さんの事も傷つけてきたはずだ。

「自分は普通でまとも」だから、「変な奴」には何をしても良い。

そんな理屈を抱くのが「普通の人間」。

今になって思えば反吐しかでないし。

そんな「普通の人間」の凶行を、「人間らしい行い」として認める気はさらさらない。結局の所、好き勝手に自分の凶行を正当化しているだけで、外を彷徨いている獣たちとまったく変わらないではないか。

調合を進める。

スールも腕が露骨に上がって来ていて、既に増幅板は出来ていた。

後は互いに交代しながら。

切り札となる、「世界の塗り替え」に必要な「不思議な絵の具」を調合していく。

邪神は確かに圧倒的に強い。

だがその強さは、「この世界に住んでいる」という事が理由になっている。

聞いた話では、邪神はこの世界の監視端末ということだった。

端末というのがよく分からないが。

いずれにしても、この世界に特化した存在。

つまるところ、この世界を離れてしまうと、弱体化は避けられない。それも、人間が勝てるレベルにまで、だ。

全盛期ファルギオルの実力は、前にリディーとスールが、文字通り蹂躙されたときとは桁外れだった筈で。

それでさえどうにでも出来たのだ。

前にネージュがファルギオルを弱体化させてくれていたおかげで。

200年後の今。

リディーとスールでも倒す事が出来る。

勿論二人だけでは無理だろうが。

深淵の者が許してくれる限りの人員を連れていけば。

きっと何とかなるはず。

作業が一段落。

後は精密な調合だけになった。

一つ一つの中間生成物を、それぞれ増幅板に載せ、極限まで「世界を構成する四つの力」の要素を引き出す。

そしてそれらを合成することによって。

小さな異世界である、「不思議な絵画」の世界を、擬似的に周囲に再現する。

小さいと言っても異世界。

世界の強度は弱いかも知れないが。

しかしながら、力尽くでは壊せない。

ルールを壊す事で小さな世界は壊れる。

つまり、今調合しているレシピ通りに。

雷神にとって不利な世界、というだけの要素を極限まで強化すれば。

それで充分なのである。

後は一日ほど、休憩も入れながら中間生成物を混ぜていくだけだ。

その間にスールに頼まれた事を処理。

どうもスールは魔術が使えるようになったようで。

魔力を増幅したい、というのだ。

其処で、今までに作ったネックレスの、魔力強化版をもう一つ作る。ただ時間がないので、話に聞いたコルネリア商会のサービスを使う。

ネックレスなんて、何個つけても変わりは無い。

だからこれでいい。

後は、スールが爆弾や薬を増やしているのを横目に。

黙々と調合を続けていけば良かった。

感情が薄くなり始めている。

それは分かった。

短時間で衝撃的なことを知りすぎた。

あまりにも怖い事を経験しすぎた。

ある意味心が壊れたのだろう。

だからリディーは、こうなった。深淵を覗いて、そして錬金術として、一段階上に行こうとしている。

ただ、格上のルーシャが深淵を覗いている様子が無いことから。

或いは、本来はもっと力をつけてから、こう言う深淵を覗く行動をとるのが普通なのかも知れない。

そう考えてみると。

深淵の者は、焦っているのか。

それとも何か理由があって、急いでリディーとスールを育てているのか。

よく分からないのが実情だ。

ただ、少なくとも、深淵の者はリディーとスールにファルギオルを倒させたがっている。

リディーとスールにも、ファルギオルを倒す理由がある。

利害が一致している。

それで、今は納得するしかない。

ほぼ丸一日掛けて。

レシピ通りに、世界の塗り替えを行う、不思議な絵の具が完成する。

何とかぎりぎり再現出来るまでに、実力が上がっていた。

だからできた事だ。

アルトさんの所に行き。実際に少しだけ使ってみる。

周囲が、ネージュの要塞を思わせる場所へと変わる。

幾つかの事を試してみる。

特にドナーストーンを爆破してみると、露骨すぎるほどに効果が現れていた。本来なら感電死するレベルの雷撃が走るのに。

ぴりっとも来なかった。

これならば。もはや、ファルギオルは手が届かない存在では無い。

それにしてもこの空間。

ひょっとして、ネージュの要塞ではないのだろうか。

アルトさんは、ふっと鼻で笑う。

既に絵の具の効果は、切れ始めていて。

アトリエに戻り始めていたが。

「ネージュはファルギオルを倒した空間をイメージしてあの要塞を作ったんだろうね、ほぼ間違いない。 理由は簡単で、それが自分が最も強くなれる空間だから、だったんだろう」

「……」

「アルトさんも、ネージュと一緒に戦ったんですか?」

「僕はあの戦いには出なかった。 必要がなかったというよりも、深淵の者もずっと強大な勢力だったわけじゃあない。 手が回らなかったのさ」

アルトさんは、深淵の者の中で、どれくらいの立ち位置にいるのだろう。

幹部クラスなのか。

或いは。

ただ、戦力を相対的に把握しているようなので。下っ端と言う事は無いだろう。ソフィーさんは次元違いとしても、他の三傑は深淵の者の幹部なのだろうか。イル師匠も、そうだとすると。

話を、聞かせて貰いたい。

でも、結局の所。

まず最初にやらなければならないのは。

あのファルギオルを撃退することだが。

アルトさんは大変な事になるかも知れない実験にも、嫌な顔一つせずつきあってくれた。この辺り恐ろしい存在であっても、筋は通すことは分かる。筋を通すと言う事を出来る人間は少ない。とても、だ。

筋をきちんと通さない人間が、「普通の人間」を気取って、自分から見て下の存在を決めつけて嘲笑っている中。

この人は筋も通すし。

きちんと戦闘では最前線にも出てくる。

支援だって、手を抜いているとは言えしてくれる。

この人は深淵にいる人かも知れないけれど。

昔のリディーやスールよりずっとマシ。

それについての結論は。

その恐ろしい正体を知った今でも、変わる事は無かった。

「……あと少し、準備があります。 それが終わったら、ファルギオルとの戦いに出ます」

「そうか。 ではパイモンにも声を掛けておくよ。 君達の方でも、準備の終了を見越して、再出撃のスケジュール調整をしておくと良い」

「分かりました」

ぺこりと頭を下げると。

スールと一緒に戻る。

大雨が相変わらず降り注ぎ、雷がドカンドカン落ちているが。

どうしてだろう。

もう、まるで怖くなかった。

スールと途中で話を少しして。

アトリエに戻る途中で別れる。

リディーはそのまま王城に出向いて、モノクロームのホムの役人と話す。役人は、リディーの変貌に気付いているようだったけれど。

特に驚く様子は無かった。

寿命が長いホムである。

リディーのように壊れていく錬金術師は何人も見てきたのか。

それとも、或いはそもこの人も、深淵の者関係者で。闇に落ちている錬金術師は周囲に珍しくもないのか。

よく分からないが。いずれにしても、相手の反応は、昔よりも読み取れるようになって来ていた。

役人の話によると、今マティアスさんはいないらしい。代わりにアンパサンドさんを呼んでくれるそうなので。しばし待つ。

ソファに座って待つが。

その間、ずっと周囲の声が煩わしくて仕方が無い。

周囲の全てから聞こえる声が。

少しずつ、確実にクリアになって来ている。

それにともなって勘も鋭くなってきていた。

スールは論理的思考を身につけ始めていて。

最近では、昔は絶対にやらなかったメモ取りとかを普通にやるようになって来ているのだけれども。

或いはスールも。

この煩わしくて耳障りな声が、聞こえるようになるのだろうか。

最近はこの声のおかげで、すっかり眠りも浅くなってしまっていて。

時々感情が爆発しそうになる。

それが悲しくて、涙が流れることもあるけれど。

周囲に溢れていた恐怖にさらされすぎたせいか。

じっさいに涙が流れることはなかった。

その程度で腰砕けになるような軟弱さでは。

どの道この先生きていけない。

そう、体が判断したのかも知れなかった。

アンパサンドさんが来たので、話をする。頷くと、アンパサンドさんは、出撃の準備を整えてくれる、と言う事だった。

何でも前線の騎士団は、現在は三傑にファルギオルとの戦闘を任せ、布陣と災害対策に動いているらしい。

三傑の中でもフィリスさんは、災害対策を主体に動きを切り替えていて。

代わりにあのプラフタさんという人が、ファルギオル戦に参加。

今も激しい戦いをしている、と言う事だった。

「出撃準備と言う事は、切り札は出来たのですね?」

「はい。 ネージュ直伝の切り札です。 ファルギオルの戦力を、私達でも手が届く次元にまで落とせます。 必ず、殺せると思います」

「ふむ……」

「出撃の準備、お願いします」

頭を下げる。

そしてアトリエに戻った。

可能な限りの、装備品の更改を行う。

最初期に作った獣の腕輪も、今は更改を重ねて、かなりの強化が施されているし。そろそろ新しい装備品も身につけたい所である。

イル師匠は言っていた。

ネームドとやり合うには、最低でも四つか五つ。錬金術の装備が必要だと。

鍛冶屋の親父さんは言っていた。

そろそろプラティーンに手を出す事を考えろと。

現在は、如何に強化しているとは言え。

所詮プラティーンもどきの合金を作るのがやっとの状態。

そろそろ、どうにかしてプラティーンを作り。

その上の段階の装備品に手を出したい。

良く見かけるグナーデリングなども良いかも知れないけれど。

身を守るため。

攻撃を更に効率化するため。

もっと強力な装備品を身につけたい、とも思う。

帰り道、持ってきていたインゴットを、鍛冶屋の親父さんに渡す。フィンブルさんの武器を、これで強化して貰う。

更に、もう一つ。

対雷撃のコーティングを行う。

見聞院で調べてきた処置をすることで、雷撃を殆どそらすことが出来るのだ。

実はマティアスさんやアンパサンドさんの武具には、コレが為されていたらしいのだけれど。

前の戦いでは、ファルギオルがあまりにも凶悪すぎる雷撃を纏っていたせいで。

致命傷は避けられたものの、吹っ飛ばされるのは避けられなかった。

次は、ファルギオルは極限まで弱体化する。

対雷コーティングを施せば。

直接攻撃が可能になるはず。

蹴り技を得意とするスール用にも。スールのブーツにも、これを仕込もうと思っている。勿論本人同意の上でだ。

アトリエに戻る。

スールも戻ってきていた。

驚くことに、お父さんも来ていた。

地下室に行こうとするお父さんに。スールが必死に声を掛ける。

「お父さん!」

「……」

「これから、ファルギオルを倒してくる」

「無理だ。 あいつは200年前に、あのネージュが大きな犠牲を出しながらやっと倒したほどのバケモノなんだぞ」

スールは、リディーよりは症状が軽いらしい。

まだ、これほどの熱情が残っている。

リディーは、あの時。

アルトさんの護衛についていた人に殺されかけてから。

どうも感情が薄くなってきていて。

こんな風に、激高することはもう出来そうに無かった。

「お父さん、今までお父さんの哀しみも知らないで、勝手な事ばっかり言って、馬鹿な事ばかりして、本当にごめんなさい。 スーちゃんもリディーも本当にどうしようもないバカだった! ……だから、せめて見守ってて。 絶対に、この王都も、みんなも、あんな外道に踏みにじらせはしないんだから」

「……みんな、か」

「だから家にいて。 夕ご飯、一緒に食べよう」

「いや、メシは喰ってきた。 家には……いるつもりだ」

お父さんは、そのまま地下室に行ってしまう。

嗚呼と、スールが嘆いた。

顔を覆っているスール。

だが、リディーは。

其処まで悲しむ事は出来なかった。

スールを促して、準備を進める。薬。爆弾。装備品の更改。更にはコーティング作業。やる事はいくらでもある。

準備はどれだけしても足りない。

雷神を、手の届く範囲にまで引きずり下ろしたとしても。

準備不足だったら、負けるかも知れない。

確かに雷神は弱体化しているはずだが。

そもそもネージュが、今のリディーとスールとは、比べものにならない錬金術師だったことを忘れてはならない。

雷神が弱体化しているように。

これから戦うリディーとスールだって、ネージュより遙かに弱いのだ。ルーシャとパイモンさんを加えても並ぶかは分からない。アルトさんは、どうせ本気を出してはくれないだろう。

二人で手分けして作業をし。

夕食は、リディーが作った。

食事をしていて、気付く。

味が、あまりしない。

おかしい、いつも美味しいと思う味付けをしている筈なのに。スールは文句一ついわないのに。

そうか、きっとこれが力の代償。

どんどん今後、感覚も含めておかしくなっていくのだろう。

だけれども、悲しくは無い。

リディーが強くならなければ。

スールも、ルーシャも、お父さんも。他の人達も、みんな守る事なんて出来ないのだ。

ソフィーさんが何を目論んでいるかはまだよく分からない。鍵というのが、何のことか分からない。

はっきりしているのは。

あの人の想定を外れる動きを今はできない、ということ。

無茶な状況に対しても、立ち向かわなければならない、と言う事だ。

食事を負えると。

眠りまで調合を行う。

戦いの日時は既に決まった。

恐らく、決戦は。あのファルギオルに破れてから、丁度三週間の後になるだろう。

今度のリベンジマッチで。ファルギオルを封じるのではなく、殺す。そして禍根を断つ。

リディーにとっては。それこそが、今最も大事だった。

 

1、決戦の刻

 

王城の受付に、皆で集まる。

マティアスさん、アンパサンドさん、フィンブルさんにはそれぞれ、リディーとスールが作った装備品を配る。

獣の腕輪の更改を行ったことで、更に身体能力が上がっていることを告げ。

軽く体を動かして、感触を試して欲しいとも。

そしてフィンブルさんには、預かっていたハルバードを返す。

ハルバードは合金で更に強化され。

雷撃対策のコーティングも施した。

更に、皆に告げる。

決戦の場では、ファルギオルの力を極限まで弱める切り札を展開すると。恐らく、接触しただけで感電死することはなくなる。勿論素手で触ったりしたら話は別だろうが、少なくとも対策をした武具で触る分には、受けるダメージは致命傷ではなくなるはずだ。

念のため、オイフェさんにも装備を渡そうかと思ったが、ルーシャが首を横に振る。

あれ。

ルーシャが泣きはらしたような目をしている。

どうしたのだろう。

何かあったのだろうか。

深淵の者関連でペナルティでも受けたのか。もしそうだとしたら、少しばかり許せない。

パイモンさんが咳払いした。

「それで、その弱体化する道具というのは試験済みか」

「はい。 アルトさんと一緒に効果を確認しています」

「雷神めの動きを止めるのは三傑に任せるとして、弱体化をどれほど出来るかが課題になるな……」

「ドナーストーンで実験しましたが、殆ど効果を示しませんでした。 雷神は我々で手が届く範囲まで弱体化すると思います」

アンパサンドさんが咳払い。

頷いて、話を聞く。

「それでも接近戦組が直接しかけるのは最終手段にするべきなのです」

「はい。 接近戦組は、あくまで相手の足を止めることに最初集中してください。 マティアスさんはシールドを展開して、可能な限り防御を。 パイモンさんもそれでお願いします。 ただ、もう一つ切り札を用意してあります。 それを使った後は、接近戦をしかけても大丈夫です」

「おう、分かったぜ」

「心得た」

後は、そもそも接近する必要がないスールとアルトさん、ルーシャによって集中攻撃。オイフェさんはガードに徹して貰う。

バトルミックスには、高純度のレンプライアの欠片を使う。

今回は、ネージュのアトリエから回収してきた欠片を用いるが。

下手をすると、空間そのものが消し飛ぶ。

だから、加減についてはスールに任せる。

そしてスールは。

拳銃の真の力を引き出せるようになった。

実際に見せてもらったが。

今までの護身用にもならなかった拳銃と違って、お母さんから受け継いだ拳銃は、充分な打撃力を持つようになっている。

邪神の虚は確実につける。

前とは何もかも違うと言うことを、見せつける。

「あー、いいか。 邪神も二百年前の事で懲りていて、何か対策をしている可能性は」

「邪神には、そういう概念はないとネージュに聞いています」

「ふえっ!? そ、そうなのか」

マティアスさんに、咳払いして説明する。

邪神とは、どうやらこの世界に創造神が配置した監視端末らしいのだ。

そもそもどうして、そんなものが人間を襲うのかは分からない。

だけれども、世界に対して監視することに特化した存在だというのなら。

世界から切り離してしまえば、見るも無惨に弱体化するのは言うまでもない話である。それを説明すると、マティアスさんは納得した様子である。

フィンブルさんが、少し考え込む。

「だが油断は禁物だ。 可能な限りの速攻を心がけるべきだろう」

「はい。 それと、邪神にはコアというものがあるそうで、それを壊す事によって殺す事が出来るそうです。 前のネージュとの戦いでは、ファルギオルが強力すぎることが原因で、封印に追い込むまでしか出来なかったのだとか。 だからこそ、今回こそは殺して、悲劇の連鎖を断つつもりです」

フィンブルさんが眉をひそめるが。

しかしながら、これで悲劇を終わらせられるのなら。

リディーは、多少の代償など、何も惜しくない。

質問に対しては、全て応えておく。

終わった所で、手を叩いて、皆を見回した。スールは既にストレッチを終えて、邪神を殺す準備を整えていた。

「では、行きます。 今度こそ、この世界そのものに仇なす邪神を殺します」

「……ああ」

どうしてだろう。

フィンブルさんは、少し不愉快そうである。

その理由が。

リディーには、よく分からなかった。

 

大雨の中、走る。

空中に自動展開する避雷針は以前と同じ。雷撃を防ぐ靴も前と同じだが。前よりもずっと体が軽く感じた。

貧弱だったリディーだが。

とにかくここのところ、徹底的に鍛えられたこともある。

走る事はまったく苦にならなくなっていたし。

今も雨の中、雷が落ちているけれど。怖くも何ともない。

肝が据わったと言うよりも。

驚いたり、怖がったりする必要がないものに対して。

恐れを抱く必要がないと、体が判断したと思って良さそうだった。

アダレット王都を守る森を抜けて、街道に。そのまま走り続ける。時々騎士団に物資を輸送している馬車を追い越す。

馬車は別に急いでいる風でもなかった。

騎士団だけではなく傭兵もいるし、規模は千人くらいだろうか。

千人となると、食事だけでも相応の量になる。

馬車がたくさん行き来するのは当然の話で。早くこの戦いを終わらせなければ、疫病とかも流行る可能性が高い。

一つ目の街を走り抜ける。

騎士団が布陣していたが、コレは多分最終防衛線だろう。

なお、住民は既に避難を終えているようで、家の中に気配はなかった。

そういう気配も、いつの間にか読めるようになっていた。

そのまま無言で走り抜ける。

二つ目の街。

同じように、騎士団が布陣していた。キホーティスさんがいたので、通り過ぎながら、挨拶。向こうも気付いて、敬礼してきた。或いは、既に状況を知っているのかも知れない。

錬金術師がいなければ。

アダレットは守れない。

200年前の人間達は。

そんな事も分からなかった。

恩を受けた人間には。

相応の礼をしなければならない。

200年前の人間達は。

その程度の事も出来なかった。

今、そのツケが、ファルギオル復活という最悪の形で、アダレットに降り注ぎ。そして恐らくは、深淵の者に利用されている。

深淵の者は、今後どんどんリディーとスールに恐ろしい試練をぶつけてくるのだろうか。

それとも、ファルギオルを倒した事で、ある程度満足するのだろうか。

鍵とは何か分からない以上。

現状では、悔しくとも従うしかない。

雨の中走り抜けると。

ついに騎士団の本隊が見えてきた。

三つ目の街をそのまま本陣にして布陣している。ブライズウェストは、凄まじい雷撃が飛び交っていて。

どうやら見た感じでは、現在絶賛戦闘中に見える。

見た感じでは。

本当はどうなのかは分からない。

あのソフィーさんが、雷神ファルギオルに劣っているとはとても思えないから、である。

到着すると、ミレイユ王女が馬に乗ったまま来る。

一月近い滞陣の筈だが。

少なくとも、疲れている様子を周囲に見せてはいなかった。

「貴方たち、状況は聞いています。 少し休んでから、すぐに前線へ」

「分かりました」

「……ファルギオルを倒すための手段を、本当に準備できたのですね」

「はい」

即答に、ミレイユ王女は一瞬だけ感情を動かした様子だが。

それで良い。

宿を借りる。

中には騎士団の戦士達がいたが、魔術師も何人かいて。リディー達に、回復の魔術を掛けてくれた。

体力だけの回復でも有り難い。

殆ど消耗はしていないとはいえ。

出来るだけベストの状態で戦いたいからだ。

如何に弱体化しているとは言え、相手はあの雷神ファルギオル。どんな事故が起きるか分からない。

不確定要素をねじ伏せてこその勝利。

勝つ側に理由はなくとも。

負ける側には必ず理由がある。

この間、見聞院で読んだ本にそんな事が書かれていた。

その本自体は、いわゆるただの戦記物だったのだけれど。

その言葉は真実だなとリディーは思ったし。今後は身に刻んで行こうとも思っていた。

だから、負ける理由になりうる要因は。

徹底的に潰さなければならないのだ。

回復を済ませた後。

最後の打ち合わせをする。

ここから先は、生きて帰らない覚悟で戦う。そもそも、深淵の者の掌の上で踊らされているとしても。

邪神ファルギオルは絶対に倒さなければならない相手だ。

もしも倒せなければ。

この雨による大凶作で、どの道アダレットは滅ぶ。今回が、最後の機会。これを逃したら、もはや再起の可能性は無い。

今のアダレットは、少なくともミレイユ王女ががっちり政治をしてくれるおかげで。

先代の庭園王のような愚物が仕切っているわけではない。

それに悔しい話だけれど。

アルトさんがいうように、そもそもアダレットは本来こんな年月もつような国じゃあないし。

アルトさんの言葉を信じるなら。

深淵の者の力は、昔よりずっと強くなっている。

深淵の者が未来のために動いているというのなら、アダレットは今後もっと良くなるはず。

勿論鵜呑みにはできない。

だから、力をつけるのだ。

そして力をつけるためには。

ファルギオルは、必ず倒さなければならない。

最終確認を終えると、宿を出る。

外は彼方此方が長雨で沼のようになっていて、非常に危険な状態だった。普段は何ともないような溝が、そのまま死の罠になるような状態である。

何よりこの水量。

近くに雷が落ちたら、尋常では無い損害が出る。

パイモンさんが前に出ると、詠唱。そして、術式を展開した。

ドーム状の光の壁が展開される。

「これで更に雷撃を弱められるはずだ。 ただし、あまり早くは動かせぬぞ」

「有難うございます」

「パイモンさん、後でこれ教えて?」

「かまわぬが、それは戦って勝った後だ」

軽口をパイモンさんが叩いたので、無理矢理にマティアスさんが笑った。誰も笑わないが、フィンブルさんだけは、あわせて苦笑だけした。

そのまま急ぐ。

少し様子が気になるのがルーシャだ。

戦場が近付けば近付くほど、どんどんくらい表情になっている。

何かあったのかも知れない。

でも、今聞く事は藪蛇だ。

勝率を下げることは、ほんの少しでも行いたくなかった。

ほどなく、ブライズウェストに到着。

途中何度か、川のようになっている場所があって。迂回したりしなければならず。少し到着が遅れてしまったが。

見える。

プラフタさんとイル師匠が、ファルギオルと絶賛戦闘中だ。

プラフタさんは、一対の巨大な腕のようなものを浮かせ。更に大量の魔法陣を展開して、ファルギオルと交戦。真正面から、一歩も引かずに戦っている。

イル師匠が此方に気付き。

次の瞬間には、もう目の前にいた。

「貴方たち、例のものは」

「はい、ばっちりです!」

「そう。 じゃあ、ファルギオルの動きを止めるわよ。 それにあわせて、しっかり奴に対して、切り札をぶち込んでやりなさい!」

「分かりました!」

元気よく応えたのはスールだが。

スールの身からは、隠しきれない殺気が迸っていた。

ファルギオルを殺す。

スールも、やはりおかしくなってきている。

作る道具に、殺意が増していると思っていたのだ。

だが、それがスールの身につけた強さなのだとしたら。リディーはそれに対して、何もいう資格は無い。

足を止めて、プラフタさんと殴り合っているファルギオルへと走る。

ファルギオルは凄まじい速度で動き回りながら、とんでも無い雷撃をプラフタさんに叩き込んでいたが。

全て防ぎ抜かれていた。

いきなり、目の前に剣が突き刺さる。

手を横に。

止まれ、というアンパサンドさんの合図だ。

絵の具はリディーが扱う。

そう事前に決めている。

いきなり、目の前にファルギオルが出現。

無数の雷撃をプラフタさんに浴びせながら、剣を振るい上げる。

「いつぞやの双子か……! 我にこのような屈辱を味あわせおって、絶対に許さぬぞ小虫が……!」

屈辱。

一体何のことだ。

だが、振り上げた剣が、アリスさんの輝く剣に受け止められ。

直後、飛来した無数の剣が、ファルギオルの全身を串刺しにする。

こんな程度でダメージを受ける奴じゃない。

それは分かりきっているからこそ、即時散開。

そういえば、ソフィーさんは。

いや、いなくても疑問はない。あの人は、そもそもこのファルギオル関連の出来事を、裏で操っている可能性が高いし。それにリディーが気付いている事を、恐らくもう知っている。

悔しいけれど。

今はその悪辣なやり方に乗るしかないのだ。

絵の具は、文字通り半液体状のもので。

特定の魔術を唱えながら、握りつぶすことにより。

周囲100歩四方ほどを、別世界へと塗り替える。

既にイル師匠には、さっき話したときに伝えた。

プラフタさんは、100歩以上離れている。

だったら、これで。

逃がさない。

ぐっと絵の具を握りつぶしながら。

リディーは、詠唱を終えていた。

「新しい世界よ、顕現せよ!」

雨が、消える。

泥だらけの、沼地のような地面も消える。

周囲に拡がっているのは。

まるで音がしない、要塞のような場所。壁と天井と床。巨大な建物、それこそアダレット王城よりも巨大な建物の一室に見える。

其処に、全身串刺しになったファルギオルと。

リディーとスール。ルーシャとパイモンさん。アルトさん。

前衛のマティアスさん、アンパサンドさん。フィンブルさんと、それにオイフェさんが。

皆、展開を終えていた。

リディーとスール、それにアルトさん以外の全員が、多少なりと驚いていたが。

一番驚いていたのは、剣を吹き飛ばし、自由の身になったファルギオルだった。

「こ、この空間は……! あの忌まわしきネージュの!」

がいんと、音がした。

リディーが拳銃を撃ったのだ。

今までと違う。

ファルギオルに直撃し、そしてその顔面に、確実な傷を穿っている。しかもこの拳銃、連射と速射が効くのである。

ルーシャさえ、今の威力に驚いていたようだった。

捨て身の接近戦と、爆弾の投擲しか戦闘手段がなかったスールが。

今、ついに遠距離射撃という攻撃手段を身につけたのである。

そしてもう一つ。

今の攻撃で、はっきりしたことがある。

ファルギオルは避けられなかった。

それどころか、喰らった傷が再生していくのが、恐ろしい程遅い。前はバトルミックス最大強化ルフトで受けたダメージすら、一瞬で回復していたのに。傷が治るのに、十数秒も掛かっていた。

これだけで。

どれだけファルギオルが弱体化したのは、いうまでもなく。

目に見えるほどだった。

「お、おお、おのれええええええっ! ま、またしても、またしても我をこのような巫山戯た空間に閉じ込める暴挙に出るか! 卑劣なる罠にて、貶めるか!」

「黙れただの端末!」

「な……!」

「どうして貴方が人間を攻撃するのかは分からない。 でも、貴方がただの世界を監視するための端末だって事は分かってる! 人間を攻撃する理由は分からないけれど、それだったら人間より偉いわけでも、貴方が偉いわけでもない! 貴方はドラゴンのフリをしたただのトカゲが、何かの間違いで力を持って偉いと勘違いしただけの存在! そんな存在が偉いわけがない!」

スールと、リディーが、口々に言うと。

邪神は一瞬黙り込んだ後。

憤激した。

全てが図星。

恐らくは、この邪神は、自我を持ってしまったのが失敗だったのだろう。

ただ監視だけをしていればよかった。

人間を攻撃する理由は分からないけれど。本来の目的どおりの存在だったら、此処まで過剰な攻撃など必要なかったはず。

それが、あからさまに分不相応な自我を得て。

その結果暴走した。

その結末が、この哀れな。

滑稽な。

自分を強いと思い込んだ愚かな存在。

まるで普通の人間のようだ。

自分より弱い存在を痛めつけて悦に入っている、普通の人間が。今のファルギオルと、まんまそっくりだった。

弱いと思っている存在に反撃されて、激高するところもそっくりだ。

或いはファルギオルほど、普通の人間の精神にもっとも近い存在はいないのかも知れない。

「おのれ……! もはや貴様らなど、欠片も残さず焼き尽くしてくれる! 絶対に、絶対に許さぬぞ!」

「最初から殺すつもりのくせに、随分と勝手な言いぐさなのです」

「ああ、アンの言う通りだ。 お前の底は見えたぜファルギオル! お前は雷神なんかじゃねえ、単なるつまらん薄っぺらなアホだ! 俺様以上のアホだな!」

「力を振り回すだけの幼児に等しい愚かなる存在を、神と呼ぶのは無理があるな。 ファルギオル、低俗で敬意を払うに値せぬ貴様を此処で葬る!」

アンパサンドさんも、マティアスさんも、フィンブルさんも。

それぞれ口々に、ファルギオルの全てを否定した。

これは殺しあいだ。

そして、相手が冷静さを欠くほど、勝率は上がる。

故に当然の戦術である。

スールが構える。

リディーも、その隣で構えた。

他の皆も、戦闘態勢を取ると同時に。

完全にプライドを粉砕されたファルギオルが、聞き苦しい絶叫を上げ、剣を降り下ろしてくる。

死闘が。

開始された。

 

2、決戦

 

絶叫したファルギオルが、金色の剣を振り回す。その一撃に、真っ先に躍り出たマティアスさんが、シールドを展開。押されつつも、その一撃を防ぎ抜く。

やはりだ。

前とは、比べものにならないほど弱体化している。

だが、マティアスさんも、こんなのは何度も受けられないだろう。

ファルギオルの左側に回り込みながら、スールが銃弾を乱射。ファルギオルの全身に弾丸が食い込む。

ルーシャは少し飛び退くと、傘から光弾を連射する。避けるファルギオルだが。

文字通り雷の速度で避けていた以前とは、比較にならない程遅い。

リディーは詠唱開始。

最大級の魔術をぶち込む。

その至近に、ファルギオルが出現するが。

無言で動いたオイフェさんが、顔面に渾身の拳を叩き込み。更に、脇腹にフィンブルさんがハルバードを突っ込んでいた。

「ぎゃあああああッ!」

見苦しい悲鳴。

相手より強ければあれだけ調子に乗っていたのに。

自分が少し傷ついたらこれか。

相手に敬意はまったくなく。

そして冒涜することを何とも思わない。

こんな幼稚な存在に。

この世界は蹂躙されかけたのか。

いや、現在進行形でそうか。

だって、此奴と普通の人間の精神は、殆ど変わることがない。「自分から見て劣っている相手」に、「何をしても良い」と考えるのが普通の人間だ。ファルギオルのやっているのは、まさにそれなのだから。

リディーは詠唱を続けながら跳び離れ、回復が追いつかないファルギオルが絶叫するのを横目に。スールがルフトを投げ込むのを見る。

ファルギオルはハルバードが刺さったまま即応、剣で切り捨てるが。

それはそもそも、ただのルフト。

意識をそらした瞬間、アルトさんが放った無数の剣が、ファルギオルの全身に突き刺さり、そしてその表皮にひびを入れる。

最初に遭遇したときの圧迫感などない。

だが、ファルギオルも、意地を見せる。

凄まじい雷撃が、その体から迸り。

一瞬後に、この空間全てを蹂躙していた。

とっさにシールドに切り替えたが。

それでも吹き飛ばされかける。

動きは捕捉できる。前は稲妻そのものだったのに。

攻撃も受け止められる。此方の攻撃も通る。

攻防走揃って此処まで衰えながら。

まだこんな攻撃を放つことができるのか。

「侮ったなあ、にん……」

最後まで言えなかった。

ファルギオルの頭に、ナイフが突き刺さっていたからである。それも目に当たる部分に、だ。

抜こうとするファルギオルだが、ナイフがかき消え。

残像を作って動いたアンパサンドさんが、ナイフを両手に、ファルギオルを冷たい目で見下していた。

見上げている、というにはおかしい。

今の攻撃を。

回避したのか。

無言で、アンパサンドさんに続く。アンパサンドさんに、奇声を上げて剣を振るい上げたファルギオルが、全身から雷撃を放出する中。

シールドを展開して、防ぐパイモンさんを盾に。

スールがフラムを放り込む。

炸裂したフラムが、ファルギオルの足を一本爆破。吹き飛ばしていた。

絶叫しながら、ファルギオルは、突き刺さったままのハルバードを引き抜こうとするが。顔面に思いっきりアンパサンドさんの靴裏が入る。

手数が違いすぎると判断したのだろう。

此処で、ファルギオルが新しい手に出る。

「おのれ人間共がああああっ!」

絶叫しながら、周囲に雷の球体をまき散らし。

それが、形をとりながら。

それぞれ、人間大の獣になって行く。

こんな隠し玉を持っていたのか。

或いは、イル師匠達と戦っていたときには、作る瞬間に潰されていたのかも知れないが。此方の実力を、相手も見切り。

作っても対応出来ると判断したのかも知れない。

手数で押しに来るファルギオル。

だが、弱体化は否めない。

ルーシャが弾幕を作って、無数の雷撃の獣を押し返しつつ。

フィンブルさんがいつの間にかファルギオルの背後に接近。

抉りぬくようにして、ハルバードを引っこ抜いた。

勿論傷をそのまま更に拡大し、酷くするための行為である。

体がぐらつくファルギオルの顔面に。

攻勢に転じたマティアスさんの剣が叩き込まれる。

絶叫しながら、剣を滅茶苦茶に振り回すファルギオル。

衝撃波が周囲を消し飛ばすが。

それは、せっかく作った手駒を、幾らか削ってしまうことも意味していた。

ファルギオルが顔を押さえている間に。

リディーは詠唱を完了。

そして、床に手を突く。

魔術を発動。

ネックレスの増幅効果で発動した高難易度魔術。それも、もはや人間の出力では追いつけないレベルまで増幅している。

高位の錬金術師なら、更に火力を上げられるのだろうが。

今のリディーにはこれでベストである。

全員に、対雷シールドを展開。

それも最大出力で、である。

本来だったら、ファルギオルの雷撃に紙くずの様に貫通されるだろうが。

だが、今なら。

オイフェさんが無言でファルギオルの懐に潜り込むと。

コンビネーションブローを叩き込み、即座にバックステップ。

あからさまに、無理矢理ハルバードを引っこ抜いた傷口が、更に醜く、大きく拡がった。ファルギオルが苦痛の声を上げる中。

フィンブルさんが、その背後から斬り付け。

更に、左側に回り込んでいたスールが、拳銃を乱射。前は意にも介さなかっただろう攻撃を、必死に盾で防ぐファルギオルだが。

さっきの全周囲攻撃もあって。

展開していた雷の獣たちが、既にルーシャの弾幕に制圧されているのに気付くのが遅れたのが、致命的な結果を生む。

巨大な剣が。

アルトさんが召喚した巨大な剣が。

文字通り、上空から飛来して、ファルギオルを。

標本の虫同然に串刺しにする。

斜めに突き刺さった剣は。

ファルギオルの盾を持った右手を消し飛ばし。

体を文字通り、半分にしていた。

リディーの額の血管が破れ、血が流れ出ている。精神負荷が大きすぎたのだ。

これは短期戦だと言う事も分かっている。

何より、この絵の具の力。

長時間はもたないのだ。

総攻撃を。

叫ぶ。

ファルギオルは必死。全力で再生しようとするが、させない。マティアスさん、オイフェさんが、纏わり付いて徹底的に打撃剣撃を浴びせかけ。更にアンパサンドさんがハラスメント攻撃を仕掛けて徹底的に気を削ぐ。

必死に振り回そうとする剣だが。

その剣先を、フィンブルさんが押さえ込んだ。

流石に幾らリディーがフルパワーで雷撃を押さえ込んだと言っても。

相当にダメージが来るようだが。

歯を食いしばって、耐えるフィンブルさん。

雷神が、恐怖の声を上げるのを、確かに聞いた。

「な、なんだ貴様らは! あれほどの恐怖を見せつけてやったのに! どうして、どうして此処までやろうとする!」

「この空間にいるお前など、以前戦った邪神の半分にもみたぬわ」

冷徹な言葉と共に。

パイモンさんが指を鳴らす。

同時に皆が飛び退き。

床から突きだした杭のようなものが、ファルギオルを滅多刺しに貫き、そしてその場に完全に固定した。

そして、準備は整った。

「スーちゃんっ!」

「おっけい!」

スールが、取りだしたるは。

ルフトを束ねに束ねた、今回のとどめとするべく作り出した、究極の風爆弾。それを見て、流石にファルギオルも危険を悟ったのだろう。

恐らく無理矢理に。

遠隔で、その金色の剣を手を触れずに操る。

フィンブルさんに抑えられていたのをはねのけ、空中に引っ張り上げると。

スールに向けて飛ばした。

だが、その最後の一撃を。

完全に読んでいたアンパサンドさんが。

上空からの蹴りを叩き込むことで、軌道をそらし。

そして、スールの頬を少しだけ掠めた金色の剣は、床に突き刺さり、火花を散らしながら弾かれ、飛んで行った。

絶望の声をファルギオルが上げる。

「わ、我の剣が! このような小虫も仕留められぬのか!」

その情けない繰り言には一切返さず。

スールが、究極ルフト改を投擲。

同時に、シールドを張れる者が、全員でファルギオルの周囲にシールドを展開した。勿論ファルギオルを守るためなどではない。

ファルギオルに、風爆弾の威力を乱反射させ、増幅させて叩き付けるためだ。

もはや抵抗する手段すらもなく。

串刺しになったまま、必死に再生しようとするだけのファルギオルの至近で。

風爆弾が。

バトルミックスで極限まで増幅されたあげくに。

炸裂した。

それは、もはや風と呼べる代物では無かった。

白く輝き。

触れた全てを溶かすようにして、ファルギオルの全てを粉々に打ち砕いていった。

絶叫するファルギオルの声が消えていく。

やがて、風が収まると。

その姿は。

もはや微塵も残っていなかった。

 

呼吸を整えながら、立ち上がる。

一つ、言われていた事がある。

邪神はコアを砕かないと死なない。

そして、ファルギオルは消し飛んだが。本当に死んだのかは、まだ確認できていない。

あれだけ弱体化したところを、木っ端みじんにされたら、無事で済むわけがない。それは確定だ。

少なくともネージュと同じく、数百年の時間は稼げたはず。

だが、何だろう。

この嫌な予感は。

顔を上げる。

その予感が、適中したことを悟る。

金色の剣が。

凄まじい勢いで、此方に飛んでくる。

あれが、ファルギオルのコアだ。

ルーシャが、躍り出ると。

フルパワーでシールドを展開。

だが、金色の剣は、シールドを貫いていた。

ルーシャのおなかに突き刺さる金色の剣。更に、雷撃がルーシャの体を蹂躙する。

「ルーシャっ!」

思わず絶叫する。それを嘲笑うように、ファルギオルの笑い声が響く。

そして、金色の剣から触手が生え、少しずつ、体積が増え始めている。

まずい。

この状態から、再生する気か。

しかも、絵の具の効果時間は、少しずつ近づいている。

もしも絵の具の効果が切れたら。

その時には、完全に形勢逆転だ。

「まずはその赤いのから、消し炭に変えてくれよう! 調子に乗ったのが徒になったな人間共が!」

けたけたと笑いながら、ファルギオルが更に剣先を押し込む。

ルーシャは悲鳴一つ上げない。

それどころか。

金色の剣を掴む。

意図は、嫌になるほど分かった。

だが、絶対にやらせない。

最初にフィンブルさんが動く。

金色の剣を掴む。

まだリディーの魔術は効いている。だが、それでも、この状態でだ。雷撃でのダメージが凄まじい筈だが。

それでも、無理矢理引き抜いた。

放り投げる。

倒れ伏すルーシャを、リディーが抱き留めるのと。

スールが、ほとんど神業に等しい乱射を、ファルギオルコアに叩き込むのは殆ど同時。剣から再生しようとしていたファルギオルの触手やら何やらを、まとめて木っ端みじんに消し飛ばす。

だが、余程コアの強度に自信があるのだろう。

ファルギオルの声には、打って変わってさっきにはなかった余裕が溢れていた。

「感じるぞ。 この忌々しい空間、間もなく壊れる! そうなれば我は即座に全身を再生出来る! お前達など、瞬く間も与えず焼き尽くしてくれよう!」

「根性見せろ、俺様ァっ!」

浮き上がり、空中に逃れようとする金色の剣を。

マティアスさんが、渾身の一閃で地面に叩き落とす。

そして、其処へ更に上空高くから、オイフェさんがストンピングをぶち込む。

これでもか。

だが、金色の剣は罅さえ入れど。それでもなお壊れない。

むしろ余裕の声は増すばかりだ。

「このファルギオル、コアの強度は他とは違うぞ! ネージュはこのコアさえも砕いて見せたが、お前達には無理なようだなあ!」

「それはどうであろうな」

「ふん、大言壮語はやってみせてから吐け虫が!」

浮き上がろうとしつつ、周囲に雷撃をブチ撒ける金色の剣。皆離れるしかない。

スールが走っているのが見える。

空間が揺らぎ始めているのも分かる。

絵の具をもう一度展開する事は出来るが。

展開する間に、ファルギオルは再生を完了してしまうだろう。

つまり勝ち目はない、と言う事だ。

ルーシャをよこたえると、詠唱。

のこる全ての力をつぎ込む。

魔力を使い果たし。

廃人になる覚悟で、詠唱を開始。

これが、最後の一撃になる。

だが、それを悟ったからか、ファルギオルは浮き上がり、そしてリディー向けて飛んでくる。

そう来ると。

思っていた。

地面に手を突いて、展開したのは。

ただの。

極限まで強化したシールドの魔術である。

それを、ファルギオルは貫いた。

そう、貫く止まりだった。

身動きが取れなくなり。

ついにファルギオルは、心底からの恐怖の絶叫を上げた。スールが二つ目の、究極風爆弾を手にしているのを見たからである。

雷撃を放とうとするが。

アンパサンドさんが、さっきオイフェさんが全力でストンピングを入れた罅に、フルパワーでタックルを叩き込む。

それが、金色の剣をねじ曲げた。

フィンブルさんがアンパサンドさんを抱えて飛び退き。

更に、アルトさんが放った無数の剣が、ファルギオルの周囲に突き刺さる。完全に動きが封じられるファルギオル。

パイモンさんが叫ぶ。

「今じゃ、やれい!」

「任せてっ!」

スールが投擲する究極ルフト改。

炸裂する瞬間。

ファルギオルを包むようにして、ドーム状にシールドを張るパイモンさん。

ファルギオルは誤った。

剣にコアを集中させるのでは無く。

逃げに徹していたら。

つまり雷か何かになって、この空間が壊れるまで、逃げまくれば。

此方も、前回と同じ結果。

数百年後に完全討伐を先送りすることしか出来なかっただろう。

だがファルギオルは、自分にとっての最大の武器である金色の剣に、あまりにも信頼を置きすぎた。

剣士にとって剣は魂だとか聞くが。

それを勘違いしたのが、ファルギオルの運の尽きだった、といえる。

「ま、まてっ! 我はファルギオル! 貴様らの知りたい知識もある! 最強の力も授けてやれる! だ、だから、やめ……!」

「消し飛べ」

スールの死刑宣告は。

あまりにも、静かに、崩壊しつつある不思議な世界で響いていた。

ドーム状のシールドの中で。

炸裂する究極ルフト。

一瞬置いて、シールドがぶち抜かれる。

だが、もうファルギオルの気配は感じない。

今の瞬間で、コアが完全に砕かれたのは確実だった。

封印では無い。

全盛期ファルギオルの実力は、こんなものではなかっただろう。だからこその勝利だったとも言える。

しかしながら、勝利は勝利。

ネージュが果たせなかった事を。

ついにやりきることが出来たのだ。

シールドをぶち抜いた風は、不思議な空間の天井をブチ抜き、空に空に、まるで白い光の矢のように、飛んで上がっていく。

そして、ほどなく。

不思議な空間は、完全に消え去っていた。

雨は止んでいる。

周囲は泥沼のよう。

そして、現実として。

意識を失い、腹部に重傷を負ったルーシャという現実は変わっていない。

即座にアリスさんが駆け寄ってきて、状態を確認。荷車を持ってくるとルーシャを載せ、揺らさないようにして運んでいく。

任せてしまって、良いのだろうか。

泥沼にへたり込んだまま、リディーは呆然としている。

フィンブルさんが、頭にぽんと手を置いて、言ってくれた。

「見事だった。 もはやお前達を、半人前と呼ぶ事が出来る奴はおらんさ」

笑顔を、返せただろうか。

そのままリディーの意識の糸は。

ふつりと切れていた。

 

イルメリアは拾い上げる。

邪神はコアを砕いて殺すと、高品質の素材を落とす事が多い。ファルギオルも例外では無かった。

これは石、か。

ただの石では無い。

雷という存在を、究極まで圧縮した。それこそ最強の切り札となり得る素材だ。使い路はありとあらゆるものを想定できる。

双子に後で届けてやるとしよう。

これは、戦利品として申し分のない品だ。

そして、イルメリアは、後始末を終える。

空中に残っていたファルギオルの残骸。

コアを砕かれて、拡散しつつある力を全て吸収し尽くす。そして、大きな溜息をついた。これで、完全にファルギオルは死んだ。

普段の周回では、ソフィーが次元を圧縮して、文字通り消滅させてしまうのだが。

正規の手順を踏むと、こうも面倒くさい。

更に言えば、双子は完全に倒したと思っていただろうが。

こうやってわずかな残滓が残っていた以上。

ネームドが周囲に無数に湧いただろうし。何より数千年後には復活も果たしただろう。世界の監視端末に過ぎないが。

逆に言うと、だからこそ強靱な存在でもあるのだ。

それもコレで終わった。

後ろから声が掛かる。

振り返らずにも分かる。

ソフィー=ノイエンミュラーだ。

「イルメリアちゃん、お疲れ様。 此方の損害は」

「ルーシャが重傷。 だけれども、私が助けてみせるわ」

「死なせてもいいんじゃないの?」

「心にもない事を言わないで」

ソフィーがルーシャを活用する事を考えていることは、イルメリアにも分かりきっている。

当て馬として。

ルーシャの弱みを完全に握り。

今後も双子を操作するための駒として活用するつもりだ。

双子が育ったら。

今度はルーシャを弱みとして、双子を操作するつもりかも知れない。

つくづく。

とことん。

反吐が出るほど不愉快だ。

だが、ソフィー自身が自分に都合が良い世界を作ろうとしているわけでもないし。知的生命体の可能性を模索している存在だと言う事も事実。

あらゆる実験に真摯に取り組み。

場合によっては、可能性を信じて何も干渉しない周回もあった。

その悉くにて人間が期待を裏切った。

故にソフィーが採る手段は冷酷になっている。

もしも人間が、もっとマシな生物だったら。

ソフィーは或いは、とても暖かい慈愛の存在として、世界に君臨して、崇拝の対象になっていたかも知れない。

結局の所、人間という生物が。

知的生命体の共存というものの可能性が。

あまりにも駄目すぎることは、イルメリアにだって分かっている。

だからこそ、悔しいけれど。嫌だけれど。もはや従うのは罪悪感さえ覚えるけれど。それでもソフィーに従わざるを得ないのである。

ソフィーは。相変わらず淡々と言う。

「では、計画を次の段階に。 ん、良い空だね。 それで、ファルギオルの置き土産がその石?」

「ええ。 素晴らしい品だわ」

「そうだね。 双子にあげておいて」

「……そのつもりよ」

計画は次の段階に進む。

次は、双子に父親との問題を解消して貰う事になる。

それは双子にとって、今まで以上の問題にもなる。

既に双子は、父親……ロジェの事を憎んではいない様子だが。逆に今度はロジェが、双子に対して絶望を抱いてしまっている。

深淵に引きずり込まれた双子。

そして、何もしてやれなかったこと。

多分このままだと、ロジェは数年以内に衰弱死するだろう。

既に無力感で、いつ自殺してもおかしくない状態だ。

ファルギオルとの戦いの偽装を解除したから。

アダレット中に晴れの空が広がりつつある。

一気に水害が解消され。

農作物も元気を取り戻すだろう。

ソフィーはいつの間にかいなくなっていた。

大きくため息をつくと、戻ってきたアリスに告げられる。

「手術の準備が整いました」

「分かったわ」

「状態はよくありません。 内臓は幾つか破損し、体内からかなり重度の火傷が……」

「それくらいならどうにでもなるわ」

普通だったら助からない。

だが、エリキシル剤を一とした、摂理を越えた回復薬も、今やイルメリアの手に掛かれば難しいものではない。

ソフィーの凶行は頭に来るが。

彼奴がやっている事が正しいのも事実で。

それは悔しいが認めざるを得ないのである。

扉を通って深淵の者本部に。

既に無菌室にて、オペの準備が整っていた。

何名かの、医療用に特別に作られたホムンクルスのサポートを受けながら、ルーシャの手術を開始する。

勿論失敗はしない。

現状復帰には、しばらく掛かるだろうが。

まだルーシャに死んで貰っては困るのである。

ルーシャは苦しそうにはしていなかった。

話を聞く限り、ファルギオルの最後の悪あがきからリディーを守ったのだ。それは満足だろう。

思わず口をつぐんでしまう。

この子は、昔のイルメリアと同じ立場だ。

フィリスを育てるために用意された。そう、イルメリアは後で聞かされた。そして絶望した。

あんなに無邪気で天真爛漫だったフィリスが壊れて。

そして、今では破壊神としか呼べない存在になっているのを見て、誰よりも悲しく思っている。

だがイルメリアは人間であることを捨てるつもりはない。

今後どれだけ苦しくてもだ。

手際よくルーシャの生命維持を確保。内臓を一つずつ修復していく。もはや人間とはかけ離れた技術で。本来だったら絶対に助からない命を救う。そんな事をしているのに、人間を自称するのは滑稽だ。そう笑う者もいるかも知れないが、知った事か。

イルメリアは人間だ。

「破壊」の権化になったフィリスをサポートするべく、「創造」を担当しているが。

それでも人間であることを止めるつもりはない。

寿命がなくなろうが。

不老不死になっていようが。

その心は人間のつもりである。

ほどなく、手術が終わる。ルーシャは本当に双子が好きで、双子を大事に思っている。だからこそに、命を賭けて双子を守る事を、なんのためらいもなく行えた。

眠ったままのルーシャを、ヴォルテール家に届けさせる。

手を洗って汚れを落とした後。

イルメリアは思う。

この茶番。

血塗られた永遠の輪転は。

いつ終わらせることが出来るのだろう、と。

 

3、雷神の死と

 

目が覚めると。そこはブライズウェスト側の村だった。まあ、アトリエまで運ぶ余裕はなかっただろうし、当然だ。

最初はどこだか分からなかったけれど。

リディーは魔力を使い果たしただけ。

歩くことも問題なかったし。

外に出てみれば、水が既に引き始めていて。前に見たことがある光景だったので、すぐに分かった。

ただ、騎士団が総出で、水の処置をしていたが。

魔術を使えるものもいるし。

錬金術の道具も使っている。

川にどんどん水を流し込んで。

過剰な水を海にまで押し出す。

空には雲一つない。

本当にファルギオルは死んだんだなと。その時やっと思い知ることが出来た。

ネージュが弱らせてくれていたからだ。

全盛期のファルギオルだったら、とてもではないけれど手に負えなかっただろう。

復活したての病み上がり。

そして究極までの弱体化。

それだけ条件が重なって。

やっと殺す事が出来た。

まだまだ一流には遠すぎる。

それを、リディーは自分に言い聞かせながら、スールや、他の皆も探す。

「よう、起きたかねぼすけ」

「マティアスさん」

振り返ると、マティアスさん。側にしらけた目のアンパサンドさん。

一番最後まで寝ていたという。

まあ、魔力を最後の最後まで絞り出したのだから当然だ。

会ったのならば、当然聞く事がある。

「ルーシャは?」

「イルメリアどのが連れていって、助けてくれたそうだ。 もう王都に帰っている、って話だぜ」

「そう……良かった」

「どう見ても助かる傷ではなかったのです。 摂理を越えた回復を促す技術。 やはり尋常な存在ではないのですよ」

アンパサンドさんが冷たいことをいうけれど。

確かにその通りなのだ。

ファルギオルの金色の剣が突き刺さり。

更に雷撃が全身を焼き尽くしたのだ。

普通だったら、即死しなかっただけで。

苦しみに苦しみ抜いて死んだはずである。あんな状態からどうやって助けたのか、見当もつかない。

だがイル師匠ならやってくれる。

その信頼感も確かにあったので。安心して、胸をなで下ろすばかりだった。

パイモンさんは、さっそく声を掛けられて、各地の災害復旧に出向いているという。アルトさんやプラフタさん。

そしてあのソフィーさんも。

フィンブルさんは、村周辺の復旧のための土木工事に既に参加。オイフェさんは、ヴォルテール家に戻ったそうである。

「とりあえず、少し休んどけ。 それだけの活躍はしたんだからよ」

「はい。 それで、スーちゃんは」

「彼奴なら、何か思うところでもあったのか、外でぼーっとしてたぜ」

「そうですか……」

アンパサンドさんに促されて。

そのまま部屋に戻る。

粥を作ってくれたので食べる。あまり美味しくは無かったけれど、栄養は豊富だろう事は良く分かった。卵も入っているのが嬉しい。

「手伝いは、しなくても良いんですか」

「他の一線級が全員仕事をしてくれているので問題ないのです。 今はとりあえず、休んで回復する事。 それと、王都に戻ったら王城に顔を出すのです。 今回は試験どころではなかったですけれども、功績を認めてCランクに昇格だそうなのです」

「そうですか……」

「嬉しくないのは分かるのです。 自分も、これから騎士一位で、王子に並んだのです」

アンパサンドさんも、あまり嬉しくは無さそうだ。

そもそもこの人、指揮官向きじゃあない。

というよりも、ホムという種族が、軍事に向いていないし、軍指揮官にはもっと向いていない。

多分騎士一位というのは、この人にとっての最高位だろうし。

それで充分なのだろう。

今回の功績が認められた、というのは嬉しいだろうけれども。

それでも気分は複雑なのだろうか。

休めと言われたので、後は言葉通りに、しばらく無心に眠る。

ファルギオルは死んだ。働くのは、他の錬金術師達でも出来る。最前線でファルギオルとの戦いにて全力を絞り尽くしたリディーとスールには休む権利がある。

アンパサンドさんはそう言ったが。

確かにその通りだ。

それから、翌朝まで眠る。

スールは戻ってきていて。石を見せてくれた。

見るからに、とんでもない魔力を秘めている石だ。

「イル師匠に貰ったの。 邪神を殺すと、たまにこういう凄い素材を落とすんだって。 多分これはその凄い素材だね」

「見た事がない素材だよ、それ」

「うん。 イル師匠も殆ど見ないって。 帰ったら、図鑑を見て調べて見よう」

「そうだね」

スールは無理をして元気に振る舞っている。

リディーも、無理をして笑顔を作っている。

しばらく笑った後。

二人とも、殆ど同時に黙り込んでいた。

涙は流れてこない。

少し前まで、二人して激情に駆られて。怖くて。散々泣いていたのに。

やっぱり、深淵を覗いてしまったからだろうか。涙が、出なくなっていた。

「ルーシャがあんなになって、それでも助かったって。 ルーシャを守れなかったの、明らかにリディーとスーちゃんのせいだよね」

「……うん」

「弱いね……」

「そうだね」

口惜しくて。

ハラワタが煮えくりかえりそうだ。

それでも、なお涙は流れてこない。

ルーシャのあの献身。

尋常な覚悟でできる事じゃない。自分達だったら、できたか。いや、恐らくだが、絶対に出来なかった。

「まず、王都に戻ろう」

スールに言い聞かせる。

返事が来るまで。

たっぷり時間が掛かった。

 

マティアスさん、アンパサンドさん、フィンブルさんと、王都に戻る事にする。ちなみに持ち込んだお薬は、全部騎士団にその場で譲渡した。これからどうせ幾らでも必要になるのだから。

騎士団にはホムの役人も来ていて、契約書をその場で作ってすぐに受け取ってくれた。もうミレイユ王女は王都に戻ったようで。現場の指揮官である魔族の騎士隊長が、大喜びしてくれた。

「助かる。 今は幾らでも薬がいる。 それが何の薬であろうと同じ事だ」

「アトリエに戻った後、作れるお薬は作れるだけ作ります」

「頼むぞ。 そして有難う。 ファルギオルを倒した若き英雄達よ」

英雄か。

勿論その場では笑顔で応対するが。

しかし、違う。

英雄なんかじゃない。

不思議な絵の具の技術を完成させたのは、多分深淵の者。それを洗練させたのはネージュ。要するに、双子がやったのはコピーのコピーである。

戦闘だって、アルトさんを筆頭に、皆に助けて貰わなければ絶対に勝てなかった。

特にルーシャが守ってくれなかったら、リディーは確実に真っ二つだっただろう。

流石に真っ二つにされていたら、イル師匠だって助けられなかったに違いない。

自分達は。

英雄なんかじゃない。

帰り道を歩く。

水は急速に引いているが。

隣で歩いているスールも、笑顔を取り繕っていた。

「この様子だと、気を付けないと疫病が流行るな」

「井戸が水没した場合が最悪なのです。 幾つかの村では、既に報告例が挙がっていると聞いています」

「アン、もう同格になったんだし、ため口で良いぜ」

「……流石にそれはまずいのです」

マティアスさんは、この辺りとても気さくだ。

多分自分は王にはなれないし。

そもそも向いていないことを知っているから、なのだろう。

ミレイユ王女という圧倒的な存在に才覚を吸い取られ。

影に追いやられた無能の権化。

だからこそにできる事を出来る範囲内でやる。

マティアスさんは、それを実際にやっている。

王族と呼ばれるほどの事は出来ていないし今後も出来ない。

だからせめて騎士として盾となる事を最大限に続けていて。

王族では無い目線で物を見るように必死に努力している。

同じ状況に置かれた時。

同じ事が出来る人が、どれだけいるだろうか。

勿論無能という大前提はある。これについては、リディーも擁護しきれない。

だがマティアスさんは、無能である事を自覚して、足を引っ張らないように最大限考えて動いている。

それもまた立派だ。

リディーも、最初にあった時は大嫌いだったけれど。今は別にそんな事もない。

少なくとも。

この人を指さして笑える人は、そんなに世界にはいない。それが結論だから、である。

アンパサンドさんが咳払いして、話を振ってくる。

「二人とも、レシピはあるので、帰った後たくさん疫病の特効薬や化膿止め、後は人間用の栄養剤など、色々薬は作ってもらうのです」

「はい、分かっています」

「それにしても、綺麗な空だ。 ファルギオルの凄まじさが、逆の意味でよく分かる」

フィンブルさんが言う通り。

空は本当に、ずっと曇り続けていた状態とは思えない。

ほどなく、王都が見えてきた。

森さえ生き生きとしているように見える。

久しぶりに差し込んできた優しいお日様の光。

元気になった植物たち。特に農作物は、これから元気を取り戻してくれると信じたい所だ。

ギリギリだっただろう。

もっと長引いていたら。未曾有の凶作がアダレットを襲っていたにちがいない。

そうなっていたら、多分雷神がわざわざ殺して回らなくても、アダレットは崩壊していた筈だ。

それに、である。

深淵の者がそもそも何を目論んでいるのか。

鍵とは何なのか。

バトルミックス程度の火力、イル師匠やアルトさんを見ていると、深淵の者が喉から手が出るほど欲しがるとも思えない。

リディーとスールが、どうして目をつけられたのかが分からないのだ。

これから突き止めていかなければならない。

未来と言っても、よく分からない。これから未曾有の災害でも起きるのか、それとも。

いずれにしてもはっきりしている事は。

力が足りなさすぎる、と言う事だ。

このまま踊らされるのは嫌だ。

このまま行けば、お父さんもルーシャも危険にさらされる。

これは確定事項である。

ルーシャだって、今回は本来助かりそうにもない重傷を受けたのだ。

もしも深淵の者が、「此処で殺しておいた方が良い」とでも判断していたら、そのまま死んでいただろう。

同じ程度の負傷をした時に。

助けられる程度の技量は絶対に必要である。

城門で解散。

後は、酷く臭う王城の道を歩く。

晴れたからって、ずっと雨が降っていて。道という道が汚れきっていたという事実に変わりは無い。

さっそくミレイユ王女が手配したのか、騎士団が先導して清掃を開始しているが。

これは清掃しないと、疫病が流行るからだ。

リディーとスールだって、疫病にやられるかも知れない。

ただでさえファルギオルと、命を削ってまで戦った直後なのだ。

体は弱り切っている。

急いでアトリエに戻ると。

蒸留水を使って手洗いうがいを済ませ。

在庫にあるお薬を、すぐに王城に納品しに行く。

ナイトサポートも、手持ちはあるだけ使ってしまった方が良いだろう。材料はまだまだコンテナにあるからだ。

レシピをすぐに受け取った後は。

スールに中心でお薬を作ってもらい。

リディーはアンパサンドさんやフィンブルさん、それにマティアスさんと一緒に連携して、不思議な絵画の中。特に幽霊達の森や、ネージュの要塞に行って、高品質の素材を集めて来たい所である。良い素材は幾らでも必要だからだ。

今の実力なら、スールがいなくても、充分見て回れるだろう。

王城に着くまでにその話を済ませ。

ありったけのお薬を納品した後に。

素材を大量に取りに行くために、護衛の申請をする。

受付はいたが、かなり不慣れなヒト族の若い役人で。

手際が悪く。

ベテランがだいたい現場に出払っているのが、一目で分かった。

少し待たされる。

スールが苛立つかと思ったのだけれど。

思ったよりもずっと冷静だ。

「スーちゃん、落ち着いてるね」

「うん。 焦っても仕方が無いし、この無駄な時間を使って少しでも休んでおきたいし」

「ふふ、変わったね」

「次にファルギオルと同レベルの相手と戦う時、どうやって殺すのかも考えておきたい」

そうか。

やっぱり、スールも。

リディー同様、壊れ始めているのか。

リディーが、周囲のものの声が聞こえはじめていると言ったら、スールはどう反応するのだろう。

激高するのだろうか。

それとも、自分も聞こえはじめていると返すのだろうか。

いや、調合の手際を見る限り、まだ聞こえていないはずだ。

王城のエントランスには、忙しそうに人が行き交っていて。待たされている人も相当に多いようだったが。

流石に貴重な戦略物資であるお薬を大量に納入しに来たからか。

そして戦略級の仕事をする錬金術師だからか。

他の人よりは待たされなかった。

優先しないと、戦略級の作業が滞るから、というのが理由だろう。

さっきの、不慣れそうなヒト族の若い役人が、大量の紙束を持って戻ってくる。

ホムの役人はこの辺りとても優秀なのだなと、どうしても客観的に分かってしまう。

権力欲や、相手にごますりするだけで出世する。

そういう仕組みは、どんどん何とかしなければならない。それを、この様子を見ていても分かる。

「ええと、まずは此方を」

あたふたしながら出されるのは、レシピ。

そしてリスト。

このレシピの薬を、これだけ作って欲しい、というものだった。

なお此方は、持ち込んだお薬をリスト化している。

レシピも目を通したが。

どうにか作れるものばかりで助かった。あからさまに身の丈に合わないものを要求される可能性も想定していたのだ。その場合はイル師匠の所に行って、相談しなければならなかっただろう。

これならば。

そうしなくても良いから、時間を短縮、節約できる。

「それと、マティアス王子、アンパサンドどのは二日後に動けるという事です。 迎えに行く際に、アトリエランクについての話があるとか」

「分かりました。 有難うございます」

「報酬金は後で届けさせます」

幾つかの書類にハンコを要求される。

ハンコといっても、魔術によるもので。

本人の魔力を識別し、後で照合することが出来る。誤魔化すためには超高度な魔術が必要になってくる上、王宮で使っているような書類には、錬金術の処置がされているのが普通である。

要するに生半可な魔術師にはそもそも突破の可能性がなく。

タチの悪い錬金術師でも腐敗官吏に荷担しなければ、絶対に突破出来ない。

そしてその手の連中は、片っ端から深淵の者が消してしまうだろうし。

今は書類改ざんなんてやろうとしても出来ないだろう。

とはいっても、今押印した書類の幾つかは、本当に重要な局面での判断が要求される際に、用いられるものばかりだったようだ。

それはそうだ。

こんな高度錬金術の施されたゼッテル。

そうそう作れる錬金術師もいない。

重要書類くらいにしか、用意は出来ないだろう。

作ったのは多分ルーシャのお父さんだなと思ったけれど。

それは口にせず。

待っている他の人の事も考えて、手続きが終わった後はすぐに戻る。

鍛冶屋の親父さんが、豪快に汚泥を荷車に積み込んでいるのが見えた。荷車はすぐに人夫が運び出していく。

王城の外の荒野にまで一旦運んで、其処で焼却を経てから捨てるのだろう。

似たような、酷い臭いを立てている荷車が、多数行き交っているのが見えた。

また、水を吸い出す機械が彼方此方で動いていて。

まだたくさんある汚い水たまりを、処置している様子だった。

この水も、外の荒野に捨てに行くのだろうと思った。

親父さんが手を振って来る。

「おお、二人とも、やり遂げたな」

「はい、ありがとうございます!」

「親父さんのおかげだよ」

「ふん、何を言っていやがる。 まだまだお前達の技量じゃ、俺の最高傑作を使いこなすには足りねえよ」

ガハハハハと笑う親父さん。

本当に機嫌が良さそうだ。

だが、不意に表情を改めると。

周囲で働いていた人夫や傭兵達に。

声を張り上げる。

「おい、お前ら! ファルギオルを倒す中核戦力になったのはこの双子だ! お前達がいつも馬鹿にしていたこの双子だぞ」

「……」

ひそひそと声が聞こえる。

マジかよとか、本当か、とか。

嫉妬と嫌悪の視線もあったが。親父さんが一睨みするだけで、すぐに消えた。この人を怒らせたら、もうまともな仕事なんて来るわけがないのである。武器だって、一度壊したら、取り返しがつかない。

少なくともアダレット王都には、この人以上の腕の鍛冶屋は存在しないのだから。

「以降は敬意を払え」

親父さんの声は低く、怖かった。

愉快な親父さんだけれど。

荒くれ達を腕尽くで黙らせる実力も持っている。それが一目で分かる、そして味方をしてくれることも分かる。

ただ、リディーは思う。

この人さえ、深淵の者の関係者では無いのかと。

それが下衆の勘ぐりであれば良いのだが。

もう、何も信用できないと思い始めている自分がいるのも、事実だった。

アトリエに戻る。

薬の材料と、作る薬について確認。

すぐに二人で手分けして、まずは蒸留水から。そして優先度が高い薬から。順番に作っていく。

この量の薬なら、二週間もあれば作りきれる筈で。

疫病の蔓延を抑えるための最も優先度が高いお薬を最優先すると。

素材をかなり消耗するものの。

恐らく三日くらいでいけるだろう。

今、現在進行形でお薬がたりない。

だから毎日、出来たお薬を順番に納入した方が良いはずだ。その時に、追加でのお薬の注文も、受けられるようなら受けるべきである。

疲れはまだ取れないが。

調合の難易度はそれほど高くは無い。

昔に比べれば、手際は比較にならない程上がった。

ようやく一人前というレベルに過ぎないけれども。それでも、二人だけでやっていた時とは比べものにならないほどだ。

釜は一つしかないので。

適当なタイミングで交代して休みながら、作業を続けていく。

第一弾の薬が出来たのが、夕暮れ。

食事については、炊き出しもしているようだが。

今日は他の人たちの事も考えて。

コンテナに入っている干し肉などを使って、食事を作る。自分で用意できるのなら、炊き出しがないと厳しい人の事を考慮するべきだ。そう考えたからである。

食事を作っている間には、スールに調合をしてもらい。

調合が終わった後は、二人でようやくちょっとした休憩を取ることが出来る。

「井戸の水、だいぶ濁りが収まっていたよ」

「でも、しばらくは蒸留水の作成効率が凄く落ちそうだね」

「うん。 それとね、プラティーンの鉱石がコルネリア商会に売ってた」

「そう。 買ってきてくれる?」

もう買ってきたと、スールが見せてくれる。

確かに、前にイル師匠に見せてもらったものと同じだ。

プラティーンは加工も難しいが。

今まで使っていた合金と違って、手を加えなくてもその性質全てを備えている。

軽い。

錆びない。

魔術との親和性が高い。

これらが極めて高レベルでまとまっている。今まで手間暇掛けて、シルヴァリアとゴルトアイゼンの合金を作り、それで近づけようとしていた到達点に君臨している。特に軽いというのが大きく。これはシルヴァリアとゴルトアイゼンの合金では、どうしてもクリア出来ない問題だった。

「荷車を飛ばす飛行キットだっけ。 これのレシピも見聞院で買えるみたい。 今後の事を考えて、買っておこう」

「そうだね。 荷車を引くの、大変だったでしょ」

「うん。 それに荷車に命令を出すと、自動でついてきてくれるみたいだし、すごく負担が減ると思う」

話あっている内に、食事も終わる。

味が、どんどんしなくなってきている。

スールも味については何も言わなかった。

人間ではなくなってきている。

それが露骨すぎるほどだ。

だけれども、それをもう嘆いていても仕方が無い。下手をすれば、お父さんごと、一瞬で握りつぶされてしまうのだ。

深淵の者にはまだ逆らう事は絶対に出来ない。

力をつけて。

経験を積んで。

文句を言うのは、それからだ。

地下室に様子を見に行くが。お父さんはいない様子。何をしているのかは分からないけれど。

きっと、何か目的があって動いているのだろうと。

今は建設的に考えるようになっていた。

「しっかりお父さんと話したいね」

「うん……」

後は、眠る事にする。

激しい戦いを経て。

まだ体は本調子ではない。

やらなければならないことは、それこそ幾らでもあるのだけれども。焦っていてはその一つとして出来なくなってしまう。

だから、今はしっかり休む。

その判断は、リディーにも出来るようになっていた。

 

4、バカンスと銘打って

 

既に深淵の者本部。通称魔界には、深淵の者幹部があらかた集まっていた。

ルーシャを家を送り届けたイルメリアは、自分の席に着く。

大きな一歩が踏み出された。

これから会議をして、今後の予定を再確認しなければならない。

周囲の時間をソフィーが停止させる。

無駄な時間を取るわけには行かない。

今、皆相当に忙しいのだ。

時間など止めてしまい。

その後、それぞれが個別に動けるようにする。

つまり自分達だけ時間を多く他人より持っている訳で。

この辺りも、深淵の者の絶対優位性を揺るがないものにしている理由だった。

なお、時間を止められるレベルの錬金術師は。

現時点では、深淵の者以外には一人もいない。

会議を主導していくのはルアード、つまりアルトだが。

淡々とした報告が続くので、聞いているだけで良かった。

ファルギオルの撃破。

予想通りの双子の成長。

そして今後の成長計画のフローチャート。

それらが、立体映像込みで示される。

激情家で知られるイフリータが、大いに頷いている。此奴も、万回繰り返してもどうにもならなかったファルギオル戦の話を。時間が戻る度に嘆いていた一人だったし。今回の結果は、自分の事のように嬉しいのだろう。

「僕からは以上だ。 それぞれ続いて報告して欲しい」

「それでは私が」

毒薔薇が立ち上がる。

アダレットでの工作を担当している此奴は、ここのところ汚職官吏の芽を摘むだけで良いと、楽そうにしていたが。

会議で率先して発言することは滅多になかった。

それが、率先して動いたと言う事は。

何かあった、と言う事だ。

「今回の一件で、ファルギオル撃退作戦を最前線で指揮を執ったミレイユ王女の、アダレット国民からの支持はうなぎ登りになっていますが。 しかしながら、ミレイユ王女が長く王都を留守にしていた隙を突いて、旧派閥の残党が動いているのを確認しました」

「旧派閥というと、あの庭園王の」

「はい。 先代王の無能さを利用して、私腹を肥やしていた一団です。 不正に取得した財産はあらかた没収しましたが、まだコネを利用して、腐敗商人の一部と結託し、何やら目論んでいる様子です」

「面倒くさいな。 消すか」

毒薔薇が、その苛烈な意見に首を横に振った。

此奴らは、腐敗官吏ではなければそこそこに能力があるため、実際に汚職さえしなければ使い路があるというのである。

甘いという声も上がるが。

しかし、アダレットは当面災害復旧と、多少なりとダメージを受けた騎士団の復興で忙しく。

此処で粛正をしている余裕は無い、と毒薔薇は言い切った。

ふむと鼻を鳴らしたのはイフリータである。

「寄生虫共でも、使い路がある内は生かしておけと」

「そういう事です」

「その甘い考えが、先代の時の腐敗を産んだのではあるまいか」

「イフリータ」

アルトがたしなめると。

イフリータは口を閉じる。

イフリータは最古参の幹部だけあって、アルト、つまりルアードには絶対の忠誠を誓っている。

その忠義は、イルメリアから見ても絶対。

何があっても、イフリータが裏切る所は想像できなかった。

魔族は元々、信仰の形も人間とは違う。

内なる信仰を大事にする、と考える種族で。それはどうやら、パルミラに救われて此方の世界に来る前からそうだったらしい。

「悪魔としての仕事」も、単に神にそう言われたからこなしていただけらしく。

それ故に、滅ぼされそうになったときは理不尽さに慟哭した、というわけだ。

仕事をしていただけなのに。誰よりも真面目に、貴方が言ったとおりにしただけなのに。どうして滅ぼされなければならないと。

とはいっても、イルメリアから言わせると、其処が兎に角危ういとも思う。

ヒト族が欲望が強すぎ、獣人族が戦闘に重きを置きすぎ。逆にホムが殆ど自分の身を守ることに頓着しないように。

魔族は生真面目すぎて、柔軟性に欠ける。

人間四種族はみなこんな調子で致命的な欠陥を抱えているわけで。

世界の破滅には、この欠陥がそれぞれ相互作用し、暴走を引き起こしてしまうのだ。

「毒薔薇。 君に任せても大丈夫か」

「以前と違って、アダレットの王宮はほぼ完全にコントロール下にあります。 早めに芽を潰しておけば問題は無いかと」

「そうか。 では任せる」

「お任せを」

続いて立ち上がったのはシャドウロードである。

アンチエイジング処置で更に若返って、イルメリアと同年代か、更に若くさえ見える。

錬金術の才能はないが。

この世界最強の魔術師の一人である。

深淵の者から支給されている装備類を身につける事によって、その力量は普通に対高位の邪神戦でも通用する。

何より存在そのものが書庫とさえ言われる豊富な知識と。

それ以上に狂気的なまでの継続作業を淡々とこなせる精神力から。

比較的深淵の者幹部では新参にもかかわらず。

尊敬を集めている者だ。

「ソフィーどのの支給してくれた装備類を用いて、ヒト族の故郷の世界に侵入。 データを回収出来るだけして来た」

「おお。 それで解析は」

「現状では解析を始めたばかりだ。 書物は殆ど残っておらず、情報も見たことが無い規格で、しかも壊れているものばかり。 まあ、この世界が終わるまでには全て解析して見せるとも」

「うむ……」

シャドウロードはとにかく実直だ。

此処でシャドウロードに仕事を任せることは、采配としては恐らく完璧なものになるだろう。

幹部がそれぞれ進捗を話して行き。

最後にソフィーが立ち上がる。

「続いて双子に、「海」の攻略を行わせます」

「ふむ、予定通りだが……何かひと味を加えるのかね」

深淵の者に属する錬金術師、ヒュペリオンに、ソフィーは頷く。

嫌な予感しかしないが。

それは即時で適中した。

「フィリスちゃん、アレを」

「はい」

フィリスが映像で展開したものを見て。

思わずイルメリアは立ち上がりかけていた。

よりにもよって。

海棲ドラゴンだ。

ドラゴンは、陸上のものよりも、水中に住まうものの方が強くなる傾向がある。例えば、ラスティンの第二都市であるフルスハイムを壊滅させかけたのは、上級ドラゴン。その上級ドラゴンは、水棲ドラゴンだった。

奴は竜巻を引き起こして、巨大な湖をまるごと掌握。

津波で、フルスハイムを一気に壊滅させようと目論んでいた。

もう少し、処理が遅れていたら、フルスハイムは滅びていた。

人口一万の都市を一瞬で消滅させる怪物。

それが上級ドラゴンだ。

そして、後から聞かされている。

奴も、ソフィーが用意した、フィリスを育てるためのエサだったと。目の前が真っ暗になる。

あの時の事を、思い出したからだ。

「次の双子のエサに、これを使用します」

「確か、ソフィーどのが捕獲していた個体だったな。 珍しい小型の水棲ドラゴンだと聞いていたが」

「小型でも実力は相応ですよ。 少なくとも、今の双子よりは上です。 極限まで弱体化させたファルギオルを倒したくらいで慢心されても困りますのでね。 次は此奴と、不思議な絵の中で戦って貰います」

「ふむ……確かにそれくらいのスパイスは必要か」

何故納得する。

ヒュペリオンの言葉に、頭がクラクラした。

ソフィーはまだまだ、容赦をするつもりは微塵もない。

確かに双子はフィリスに比べると成長が格段に遅い。イルメリアよりも遅い。それは分かっている。

だが、此処まで痛めつけすぎると。

潰してしまうのではあるまいか。

しかし、効果的な反論も見つからない。

口惜しいが、やらせるしかないか。

会議が終わる。

フィリスを呼び止めると、軽く話をする。

「フィリス、貴方はどう思うの」

「どうって。 イルちゃんは、これくらいしないと双子を上手く育てられないって思わない?」

「思わないわよ」

静かな怒りを込めて返すが。

フィリスは涼しい顔だった。

「やっとファルギオルを越えられた所だし、一息つきたいのも分かるけれど。 あの双子、このままだと腐るよ」

「このままだと潰れるわ!」

「わたしはそうは思わない。 ソフィー先生が必ずしもいつも正しいとは思わないけれど、今回は賛成かな……」

「じゃあ条件。 助っ人を容認して貰えるかしら」

フィリスがしばらくは双子の監視役につく。

そして生殺与奪の権限も握る。

だから、此処ではフィリスに話をしておかなければならない。

「助っ人ねえ。 ドロッセルさんに頼むの?」

「そうよ。 もう一人は欲しいけれど、貴方は許可しないでしょう?」

「うん。 元々かなり強めに調整したホムンクルスのオイフェも側に付けているし、これ以上は戦力過剰かな」

「……」

フィリスは。

世界の終わりを何度も見る度に、何度も泣いた。

元々賢者の石を作りあげた頃には、既に壊れていたけれど。そのうち、イルメリアが必死に耐えている闇への誘惑に、もう抗うのが馬鹿馬鹿しくなったらしかった。

今でも、優しい所はある。

家族に対しては、優しいままだ。

だがもう昔の優しいフィリスはいない。今此処にいるのは、破壊神だ。

唇を噛む。

世界が詰んでいるのは事実だが。

しかし、これ以上の非人道的行為は。どうしても、イルメリアには認められるものではなかった。

 

(続)