永遠の牢獄
序、要塞へ再び
アンパサンドさんに現実を見せてもらったことで、少しだけ気持ちは楽になった。スールはこの辺り単純だと自覚もしている。リディーも、少しは気持ちが楽になったようだった。
恐怖に震えあがってばかりでは何も解決しない。
少なくとも、深淵の者という恐怖が側にいて。
リディーとスールを利用して何かをしようとしているという事は分かった。
しかしながら、成長を促しているのも事実のようで。
その通りに動く以上。
恐らくは、何もしてこないという事も分かった。
それならば。
力をつけるまで。
スールは、相手が望むとおりに動くだけだ。
それでリディーが傷つけられないのなら。
お父さんが殺されないのなら。
ルーシャが痛めつけられないのなら。
我慢くらいなら出来る。
リディーと一晩話し合いをして。
どうにか心は落ち着けた。
次の探索で勝負を付けたい。
ネージュが此方の様子見をしている事は分かってきた。それならば、相手だけではなく。此方もネージュを理解すれば。
歩み寄りは出来るかもしれない。
アダレットを俎上にするのでは、多分ネージュは動いてくれない。
むしろ怒るだけだろう。
だけれども、錬金術師として、世界の未来を話すのならば。
或いはネージュは動いてくれるかも知れない。
ファルギオルはどの道倒さなければならないのだ。
どのような手を使ってでも倒すのだ。
そのためには、ネージュの手を借りなければならない。
誘導されているのは分かっているけれど。
それでも、今は手段を選んではいられない。
あんな雷雨がずっと続いたら。
そろそろ各地で、致命的な災害も起き始めるし。農作物だって、根こそぎやられてしまうだろう。
もはや猶予はない。
荷車を引いて、エントランスに集まる。
やはり前回と同じメンバーが集まっていた。
イル師匠達はファルギオル戦に掛かりっきりという「設定」。もうそれについては、不審は持たない。
分かっているからだ。嘘だと。
それについては考えない方向で話を進めて行く。
それしかない。
「リディー、スール、何か案は思いついたのか」
「フィンブル兄、大丈夫。 今回か、次で決める」
「ほう、頼もしいな」
「任せて」
にっと笑って、ぐっと親指を立てて見せる。
スールは、少し心が軽くなってきたからか。心に余裕も出来てきている。リディーは苦笑いしているが。
少なくとも、怯えきって身動きも出来ない、という状態ではない。
ルーシャは少し心配しているようだが。
何とかなるだろう。
「それで、俺様は今回もいくの?」
「人質がいるから。 マティアス、ごめんね。 此方が最大限譲歩しないとネージュも納得してくれないと思うし」
「……あー、そうだよな。 すまん」
マティアスは残念イケメンだが、それでも前よりも印象はぐっと良くなってきている。
自分がミレイユ王女のスペアで、無能である事も理解していて。
それでも、最善手を常に取るように動けている。
これは凄い事だと、スールは思うのだ。
普通だったらそれでひねくれると思うし。
ミレイユ王女を恨んだりもする筈。
悪い大人にそそのかされて。
馬鹿な事をし始めたりもするかも知れない。
マティアスは、それらを一つもしなかった。
世の中には、悪い事をする度胸も無い、という言葉を口にするような人もいるようだけれども。
マティアスは、少なくとも。
必要に応じて、自分の首を差し出すという決意も出来たし。
戦闘では、壁になるべく最善の努力を尽くしてくれている。
これらのことが出来ている人間を、憶病とは言わない。
度胸が無いとも言わない。
或いは後の時代の歴史書では、無能王子とか言って笑われるのかも知れない。現在、アダレット王都では、実際にそう呼ばれて嘲りの対象となっている。
しかしながら、本当にそうなのか。
少なくとも、自分より下の存在を作って満足し、馬鹿にしてさもしい自尊心を保つ「普通の人間」よりも、ずっと立派だし勇気もある。
そうスールは判断していた。
最低でも。
昔のリディーとスールよりずっとマシだ。
絵に入る。
そして、開いている城門から中に。
呆れたように、ネージュは階段に座って待っていた。
「懲りないわねえ。 それで何」
「もう少し、話をさせてください!」
「別に良いけれど。 あれだけ色々教えてあげたのに、まだやるつもり」
「このままだと、未来が何もかも無くなってしまうから、やるつもりです!」
自分の事は良い。
少なくとも。周囲の、尊敬できる人達だけでも守りたい。
全員のためなんて、傲慢なことは言える実力じゃない。
少しずつ、守れる人を増やしたい。
そのためには、ネージュに教わらなければならないのだ。
ファルギオルを倒すための。
切り札となる方法を。
溜息を大きくつくネージュ。
その理由もよく分かる。
ネージュも同じだった筈だ。
「みんなのため」と思ったのかも知れない。
そしてその「みんな」に見事に裏切られた。
雷神を怖れていた人間達は。
雷神がいなくなったら。
今度はネージュが邪魔になったのだ。
頑強な城壁に守られていた、と言うこともあったのだろう。スールにも何となくだけれど、分かるのだ。
外で実際に獣と遭遇しなければ。
どれだけの恐怖か、分からないと。
錬金術師がいなければ、この世界が絶対に廻らないという事も。
だから、アダレットでは愚行に出た。
最悪の形で恩を仇で返したのも。「普通の人間」にとっては当たり前の行為だった、と言う事なのだろう。
当時の人間達を連れてくればこう言うだろう。
「怖かったから迫害した」「違うから排除した」「違う奴は気持ち悪い」「気持ち悪い奴には何をしても良い」。
それが「普通の人間」の「普通の考え方」。
スール自身がそうだったから、よく分かるのだ。
ヒト族は。
特にその傾向が顕著なはずだ。
魔族やホムは違ったかも知れない。だが、獣人族もヒト族と概ね同じような反応を示しただろう。戦闘意欲はヒト族より強いが、獣人族はヒト族と比較的考え方が近いからだ。そして不幸なことに。国政を壟断していたのは、当時は殆どヒト族だった。
ネージュは深淵の者にも関わって。
自分が如何に危険な橋を渡っているか知っていただろう。
馬鹿なリディーとスールと違って。
そして、それでもなお。
雷神と戦う道を選んだ。
アダレットなんて雷神に滅ぼされてしまえば良かったなどとは、口が裂けても言えない。
自分と同レベルの愚かな人間だけじゃない。
少ないけれど、尊敬できる人もいるのだ。
ネージュもそう考えていたかも知れない。
しかしネージュにとっての尊敬すべき人達は。
全て「普通の人間」に奪われてしまったのである。
しらけた目で見ているネージュに、リディーと打ち合わせたとおりに呼びかける。
「今、アダレットの役人には、たくさんホムが採用されています! 最高指導者の王女様も有能で、昔とは違います! 勿論今だけで、次の世代はまた愚かな事になってしまうかも知れないですけれど! それでも、未来を信じたいです!」
「……」
「外に出てきてとは言わないです! また、お話だけでもさせてください!」
頭を下げる。
こんな所に引きこもっている意気地無しとか。
心のない事を「普通の人間」は言い出すかも知れない。
自分達がネージュを追い込んだことを棚に上げて。
「普通の人間」ではない相手には何をしても良いし。
その結果歪んだら、責任を相手に押しつける。
それが「普通の人間」という唾棄すべき存在で。
スールも前はそうだった。リディーもだ。だがだからこそに、ネージュの苦しみと哀しみはよく分かるのである。
今でも、「普通の人間」から脱しきれたかは分からない。
それでも。
ネージュの意思を尊重し。
そして、協力だけでも取り付けたいのだ。
この人に人間がしてしまった、最悪の掌返しの償いだってしたい。史書にアダレット王家の愚行の限りを記すという事だけでは足りないだろう。
友達になるなんてのは、論外だ。
ネージュと、リディーとスールでは、あまりにも存在の格が違う。
話を聞かせて貰う。
それだけでも。何とか。
不意に、しらけた目をネージュがルーシャに向ける。
「ヴォルテールの」
「は、はいっ!」
「そこのと同じ気持ち?」
「……はい。 わたくしは、どちらかというと貴方への加害を行った者達に、媚を売った事で生き延びた者達の子孫ですわ。 だからこそ、双子の事は守りたいのです。 わたくしは双子のお母様……わたくしにとってのおばさまから、大事な宝物だと、双子をたくされもしましたわ。 だから……」
ルーシャは震えながら。
青ざめたまま。
俯いた。
「首を寄越せというなら、差し出しますわ。 わたくしよりも、双子の才能の方が上ですもの。 錬金術は才能の学問。 双子を守れるなら、わたくしの首なんて……」
「ふうん、アダレットより双子を優先すると」
「……」
ネージュは面白そうにルーシャを見ていた。
ルーシャは、本気だ。
生唾を飲み込む。
ずっと思い悩んでいた様子だったけれど、きっとこれが原因だったのだ。
怖かっただろう。
ルーシャが尊敬すべき先達であると、今のスールは思っている。昔は馬鹿にしていたが。馬鹿にしていた時代の自分を全力で助走をつけて殴りたいくらいである。ルーシャは、本当に。
命を賭けてまで、リディーとスールを守ろうとしてくれている。
本当に愚かだった。
涙が零れそうになる。
ネージュは、またもう一つ。
大きく嘆息した。
「ああもういいわ。 話だったらしてやるから、ひよっこ三人は来なさい。 残りは人質として其処で待機。 何かあったら即座に殺すわよ」
ネージュがかき消える。
腰砕けになるルーシャを、スールは慌てて支えた。
「ルーシャッ!」
「大丈夫、ですわ。 どうやらネージュは、ヴォルテール家の事も、其処までは恨んでいない様子ですわね」
「待てよ、ヴォルテールの人間まで死なせたら、俺様の立つ瀬がない。 頼むから、そういう事はやめてくれ」
マティアスが懇願する。
だけれども、ルーシャは力なく笑うばかりだった。
最悪の背信を犯した「普通の人間」に、媚を売ることで生き延びたヴォルテール家の子孫であるルーシャを。
ネージュが嫌っているのは、何となく分かっていた。
遠縁だろうが関係無い。
ネージュの関係者が皆殺しにされていくのを、ブルブル震えながら見ていたのだろうから。それは頭にも来るだろう。
ネージュと家族の関係は冷え切っていたようだが。
数少ない親友達が殺されていくのを、どうしようも無かったという事実もあるし。
状況から考えて、或いは積極的に存在を密告した可能性さえある。
「行くのです。 此処に留まるのが、仕事では無い筈なのです」
「アンパサンドどのの言う通りだ。 俺たちは大丈夫だから、行ってこい」
「ありがとう、アンパサンドさん、フィンブル兄。 アルトさん、此処、お願い」
「ああ、任されたよスー」
アルトさんは平然としている。
アンパサンドさん達だって、いつ殺されてもおかしくないのに、人質を買って出てくれている。
行くしか無い。
顔を上げると、階段の方へ。
リディーが先に歩き出したので、ついていく。
道はリディーが覚えてくれているのだろう。
ならば、ついていくだけでいい。
奥の方にあったテーブルのある部屋。
其処でネージュは待っていた。
「座りなさい」
「は、はい」
「失礼します」
ルーシャも、少し遅れて座る。
ネージュはしばし黙り込んでいたが。それは此方を観察しているのだと、スールにはすぐに分かった。
「深淵の者に監視されていると分かっても、なおも折れずに来るのは認めてあげるけれども。 雷神を倒したい理由は?」
「そんなの……決まっています!」
「やめなさいリディー!」
リディーが立ち上がろうとして、ルーシャに必死に引き留められる。
ネージュが此処では絶対有利。
もしも腕尽く、となっても100%かないっこない。
「守る価値なんてないわよアダレットに」
「今のアダレット王家は……あると思います」
「今のはそうかもね。 それで未来は? 私の時も、少なくとも騎士団にはあると思った事があったかしらね」
「先代の騎士団長は、貴方の名誉回復のためにずっと奔走していたそうです」
スールが、決めていたとおりに話す。
これは事実だ。
伝説ともなっている先代騎士団長は、通常魔族の倍の寿命を誇るレア種族、魔族の中の頂点とも言える巨人族だった。
何代にも渡ってアダレット王家を支え続け。
騎士団のシンボルともなっていた先代騎士団長は。
文字通りアダレットの盾であり剣であり。
弱き者の守護者として、本物の軍神として君臨し続けた存在だった。引退した今でも、人望は衰えていない。
ネージュも、恐らくそんな先代騎士団長だったからこそ。力を貸そうと思ったのだろう。
だが騎士団からさえ。
暗殺者が来た。
ショックだっただろう。
勿論腐った文官達のやったことだという事は、ネージュも理解していたはず。だが当時の王は無能な男で、腐敗文官達の横行をどうにも出来なかった。
いっそのこと、役人はみんなホムにした方が上手く回るのでは無いのか。
そうとすら、スールは思う。
だが野心が強いヒト族の方が、野心がまったくないに等しいホムよりも出世しやすいのは事実で。
実際の政治が得意なホムよりも、政治闘争が得意なヒト族の方が、社会で地位を得やすいのも事実。
ミレイユ王女が有能なホムの役人をバンバン抜擢している今のアダレットの方が異常なのだろう。
事実、次の世代になったら。
またヒト族の腐敗役人が、幅を利かせる世になるかも知れない。
ネージュの言う事は、正しい。
「それに其処の双子、そんな腕前で此処に来ていると言う事は、十中八九深淵の者の何かしらの思惑に踊らされているだけよ。 何が目的かは分からないけれどね。 彼奴らの中には、時間を止めるような錬金術師がゴロゴロいる。 私だって、余計な事を喋りすぎたと判断されたら、要塞ごと消し飛ばされるかもね」
「……それはないと思います」
「根拠は」
「スーちゃんとリディーは、無能でした。 本当にどうしようもないバカで、何も知らなくて……いや過去形じゃなくて現在進行形でそうです。 でも、深淵の者……多分其処に属している凄い錬金術師は、きちんと指導してくれています」
イル師匠は。
まあ間違いなく深淵の者所属者だろう。だけれども、あの人は本当に真摯にリディーとスールに教えてくれる。
それだけは、絶対に疑えない。
「これにも何か目的か理由があるのだとしたら……ネージュさんに酷い事はしないと思います」
「はあ。 まあ良いわ」
ネージュは指を鳴らす。
紅茶がやっと運ばれて来た。
そして、茶菓子も。
どうやら、深淵の者のことを知っても、リディーとスールが腰砕けになっていないと、判断してくれたのだろう。
だが、まだ此処からだ。
ネージュから、なんとしてでも。
雷神ファルギオルの攻略法を、聞き出さなければならない。
心理戦は、まだ続いているのだ。
1、雷神の記憶
ネージュに続いて歩く。お茶菓子をおなかに入れて、少しからだが暖かい。周囲はがらんどうの鎧達が固めている。この鎧達だって、多分生半可な騎士より強いだろう。
ネージュが固めた守りは。
文字通り鉄壁。
色々な種類の鎧がいるようだけれども。
その戦闘力は、どれもがあからさまに尋常では無い。
どうやらアトリエらしい場所に来る。
何だろう。
此処だけ、少し冷え込んでいるように思える。
それにだ。
奥には、イーゼルが並んでいて。キャンパスも散らかっている。
何だか、自宅の地下室を思わされる。
全盛期のお父さんも。
こんな感じで、絵を描いていたのだろうか。
「ネージュさんは、絵が好きなんですか?」
「絵画は内向的な趣味の極限よ。 小説なんかと同じでね。 映し出すのは自分の心そのもの。 勘違いされやすいけれど、善人や悪人というような概念じゃない。 ある程度以上の絵になると、人間の心の深奥を必ず映し出す。 「普通の人間」は内向的な性格を持つことを許さない傾向があるけれど、絵画に関しては寛容なのは何故かしらね」
肩をすくめるネージュ。
そして、顎をしゃくった。
真っ白なキャンパスがある。
何だろうと思ったが。
思わず次の瞬間、スールは小さな悲鳴を上げていた。
キャンパスが見る間に黒く染まっていき。
そして、シュッと音を立てて消え去った。
ネージュが指を鳴らすと。
虚空から新しいキャンパスが現れて。イーゼルに掛かる。文字通り此処はネージュの城だし。
それこそ、物理法則から何から何まで、自由自在という訳か。
「この城にレンプライアがいないのは今のが理由よ。 レンプライアは生じると同時に消える仕組みになっている」
「すごい、ですね……」
「その代わり、あの欠片が出る。 必要なら持って行きなさい」
奥にゴミのように積み重ねられているのは、レンプライアの欠片か。
それも極めて高純度の様子だ。
「驚かない様子を見ると、レンプライアの欠片を使って、錬金術の道具を極限まで強化する方法は知っているようね」
「はい、バトルミックスと呼んでます」
「何でも良いけれど、レンプライアの欠片はそもそも人間の意識の集合体の一種よ。 それを砕いたものが、どうして錬金術と親和性が良いのかしらね」
「えっ……」
スールが困惑する。
リディーが幾つか仮説を述べるが。
ネージュは全てを否定した。
ルーシャにも話を聞くが。
ルーシャも首を横に振る。分からない、というのだろう。
バトルミックスは、いざという時の切り札としてルーシャにも存在を知らせている。だが、仕組みは分からない。
そもレンプライアの情報自体があまり多く無いのだ。
今の時点では、どうしようもなかった。
或いは、イル師匠は真相を知っているのかも知れないけれど。
それを教えてくれとは、今の時点では言えない。
イル師匠は、まず考える事をさせる。
結論について、色々詳しく教えて指導をしてくれるけれど。まず最初に、自分が考える事を重視する。そういう人だ。
「……本当になんでこんな素人を深淵の者は私の所に寄越したのかしらね。 まあ正直どうでも良いけれども。 ともかく、もうこれ以上目の前をうろちょろされると面倒だし、そろそろ本題に入ろうかしら」
「……」
厳しい言い方だが。
ネージュが受けて来た事に比べれば、まだ優しいというのが素直な所だろう。
「そこのヴォルテールのは自分より才覚があるとか言っていたけれど、どうなのかしら本当の所。 深淵の者が本気になってこの要塞を攻め始めたら面倒だから釘を先に刺しておくけれど、あんた達に何が出来るわけ? ファルギオルが出て慌てて来た様子だし、その状況だとファルギオルを食い止めているのはどうせ深淵の者でしょう。 彼奴らならファルギオルを倒す事も難しく無いはずよ。 一体深淵の者は、貴方たちに何を期待しているのか、それが知りたいわね」
「……っ!」
「それを聞き出してきなさい。 納得のいく答えが返ってきたら、私がファルギオルを封印するときに使った戦術を教えてあげる。 邪神って奴はね、強いけれど進歩とかはしない存在なの。 今でも通用する筈よ」
これは。
最大級の、厳しい話が来た。
ほぼ確実に殺されると思っていた事を。
直接ネージュはついてきた事になる。
心でも読んでいるのでは無いかと、一瞬思ってしまった。それくらい、恐ろしい話だ。
生唾を飲み込む。
そして、ネージュは真っ白なキャンパスに向かうと、後は沈黙。もう帰れ、というのだろう。
リディーに腕を引かれた。
「スーちゃん、帰ろう」
「うん……」
駄目だ。
本当に、死ねと言われたのと同じだ。深淵の者との直接接触。しかも目的を直接聞いてこい。
こんないじわるな取引材料があるか。
ネージュにとっては、それはリディーもスールもどうなってもいいだろう。
にっくきアダレットの「普通の人間」達の子孫だ。
無茶苦茶をいうのも当然である。
だが、ルーシャが言うには。
ある程度以上の錬金術師は、深淵の者の事は周知の事実として知っている、という話であるし。
騎士団にいるアンパサンドさんも、同じような事を言っていた。
そして、どうしてリディーとスールが選ばれたのか。
これについては。
前から、確かに疑念はあったのだ。
よりにもよってどうして、リディーとスールが。
スールも、昔はド下手くその分際で、自画自賛ばかりしていたが。
今はそんな事はない。
自分が如何に未熟か、徹底的に思い知らされているし。
力量の程だってわきまえている。
何故、こんなへっぽこぴーな双子に、深淵の者なんて恐ろしい組織が目をつけたのかは。確かに知らなければならないかも知れない。
リディーが、手を握ってくる。
無言で、手を握り返す。
ルーシャが、言う。
「いざという時は、わたくしが絶対に守りますわ」
「駄目……」
「何を」
「お願い、ルーシャまで死なないで。 お母さんは死んじゃったし、お父さんはどうなったか分からない。 ルーシャまで死んだら、スーちゃんとリディーは、二人だけになっちゃうよ」
震えを抑えるのがやっとだ。
そういえば、高位の錬金術師達は、どうやって深淵の者の存在を知るのだろう。向こうが教えてくれるのだろうか。
一度、要塞のホールに戻り、皆と合流。
その後、絵から出る。
エントランスで、軽く話をした。
リディーが、説明をしてくれる。
「凄く厳しい課題を出されました」
「それは、錬金術に関連するものなのですか?」
「此処では、言えません」
アンパサンドさんが、それで察したのだろう。そうですか、と呟く。
そして、一旦解散とする。
さて、此処からだ。
覚悟を決めろ。
殺されるなら、その時はその時だ。ただ、苦しいのはいやだ。ファルギオル戦で、本当に酷い目にあったときは、体が引きちぎれるかと思った。あんな風な目には、何度もあいたくない。
だったら、毒を準備しておくべきだろうか。
死ぬとなったら、すぐに死ねるように。
たくさんもらった高純度なレンプライアの欠片だけをアトリエに収めると。
リディーと話す。
「毒、準備しておこう。 すぐに死ねる奴」
「スーちゃん……」
「内容次第では、本当に殺されるか、拷問されると思う。 きっとファルギオルよりも、ずっと残酷なやり方で。 そんなの、嫌だよ……」
「駄目。 きっとそんな覚悟でいったら、それこそ殺されるよ」
毒は駄目だと、リディーは言う。
怖くて、顔が歪んでいるだろうと、スールは思いながら。
外を見た。
降り注ぐ雨。
もうそろそろ、農作物も限界の筈。
各地の川だって、氾濫を起こし始めてもおかしくない。
井戸水だって泥みたいになって来ているのだ。
次で、決めなければ、多分後はない。
それならば、此処で死ぬのも。同じか。
「ネージュさんも、こんな思いをしていたのかな」
「とても怖い世界に足を踏み入れたことは、自覚していたと思う。 でも、スーちゃん、だからこそ信じよう。 イル師匠達は、きっと何か大きな目的で動いているって。 それに、ネージュさんの迫害に深淵の者が関与していたとは思えない。 ネージュさんが言っていたとおり、深淵の者はむしろ迫害をやめさせた側だと思う。 怖い組織だとは思うけれど、怖いだけの組織じゃないと思う」
「スーちゃんさ、今、立ってるのもやっとなくらい怖いの。 リディーは、怖くないの?」
「怖いに決まってるでしょ」
そうだよなあ。
そうとしか言えない。
少しだけ頭を冷やさせて欲しいと言うと、外に出る。
そして、雨樋の下で、アンパサンドさんに教わったうねうね動く奴をやる。
体の普段使っていない筋肉を徹底的に活用し。
実際の力を、フルに引き出す。
アンパサンドさんは、ヒト族の半分の上背で、回避盾なんてとんでもなくリスキーな戦いをし続けて、騎士にまで上り詰めている。
それをどうして出来たか。
ホムとはいえ、体の中に存在している筋肉を。
完全活用しているからだ。
そして、普段は使わないような筋肉をしっかり動かす事で。頭も少しはクリアになるかも知れない。
勿論筋肉は万能なんかじゃない。
でも、気分転換にはなる筈だ。
半刻ほど、続けていただろうか。こんなに長時間、これをやったのは始めてかも知れないけれど。
ともかく、気分転換にはなった。
アトリエに戻ると。リディーは、お母さんが読んでくれた絵本を。今になって見れば、錬金術師の家だから買えただろう高級品を、無心に読んでいた。これがリディーなりの気分転換と言う訳だ。
リディーを見る。
リディーは絵本をしまうと、頷いた。
さあ、覚悟は出来た。
行こう。
アルトさんのアトリエを訪れる。アルトさんは、どこから持ち込んだかわからない多数の本を、無言で読んでいた。
「どうしたんだい。 課題について、聞きに来たのかい? レシピだというのなら、見せてご覧」
「……課題について話を聞きたいのは正解です」
「ほう?」
「アルトさん。 深淵の者は、どうして私達を選んだんですか?」
敢えてストレートに行く。
これは、事前に決めていた。
そして、今回はリディーが話す。
それも決めていた。
アルトさんは、振り返りもしない。
読んでいるのは漫画のようだけれども。錬金術の難しい本も、周囲にはたくさん積み上げられている様子だ。
「ネージュか。 また面白い課題を出したものだね」
「深淵の者は、ある程度の錬金術師になればみんな知っているって話も聞きました」
「それはそうだよ。 実力がある程度以上ある錬金術師には、敢えて情報を流しているからね」
「!」
認めた。
やはり、予想は正しかった。
アルトさんは深淵の者関係者だ。
生唾を飲み込む。
此処からだ。
下手をすれば、一瞬で首を刎ねられる。最悪、考えるのも怖い拷問に掛けられて、頭を開けられたりするかも知れない。
「それにしても僕がどうして深淵の者だと思ったのかな」
「あらゆる全てがそうだと告げています。 状況証拠だけですけど。 ソフィーさんも、でしょう」
「ソフィーについては外れだ。 ソフィーは深淵の者には協力してくれているが、彼女自身が単独で深淵の者全てを上回るほどの規格外なんだ。 利害が一致しているから協力してくれているだけだよ」
絶句。
深淵の者は、ドラゴンや邪神すら食い止められる人材を有していると、話を聞いている。
深淵の者の、決して下っ端では無いだろうアルトさんが、こんな事を言う。ソフィーさんは、一体どれだけの怪物だというのだろうか。
改めて、分かった気がする。
ファルギオルなんて比べものにならない、あの炸裂するような圧迫感。
深淵に濁りきった目。
ソフィーさんは、邪神でさえ、格が違うと怖れて逃げる怪物だと言う事だ。
「利害って、どういうことですか」
「何でも教えて貰えると思ったら大間違いだよ。 当ててご覧」
「アルトさんのいじわる!」
「心外だな。 僕はむしろ優しい方なんだけれど。 ほら、指示はしていないんだから斬らない」
ようやく気付く。
後ろに、いつの間にか無表情な女の子がいて。
巨大な槍を振るい上げていた事に。
もし、アルトさんが止めなければ。
きっと槍が。そう、下手な剣より巨大な穂先の槍が。一瞬で双子の首を刎ね飛ばしていた事だろう。
槍を立てて休めの体勢に切り替えると。
溶けるように女の子は消える。
アルトさんは、完全に固まっているリディーとスールに、聞いた事もない怖い声。今までの、嫌みなまでのイケメンから出ていた甘い声では無い、文字通り深淵の魔物が出すような声で言う。
「首を突っ込んでいるのがこう言う場所だと覚悟は出来ているんだろう? 此方も500年間で色々と人間が如何に駄目な生物かはしっかり学習しているからね。 人材の確保には余念がないのさ。 そして此方の利益にならず、殺す必要があると判断したら、容赦なく斬る。 それだけだよ」
リディーが、完全に震えあがっている。
失神寸前だ。
当たり前だろう。
こんな殺気、ファルギオルの時に浴びて以来だ。
ぎゅっと、唇を噛む。
そして、リディーの腕を掴んだ。
意識を引き戻す。
「リディー、覚悟してきたんだよ! だから、しっかり! 話すのも、リディーがするって決めたでしょ!」
「……うん」
少しちびったのかもしれない。
でも、それを責める事はしない。
当たり前だ。
今の人、誰だか分からないけれど、人間とは思えなかった。流石にソフィーさんほどの凄まじさではなかったけれど。あんな使い手がこの世に存在するのだと、思い知らされてしまった。
スールだって、震えが止まらない。
だけれど、必死にリディーにしがみついて、覚悟を決める。
「世界の、ためですか」
「世界の、ねえ。 ちょっと違うかな」
「やっぱり、世界征服とかしようと思っているんですか」
「そんなくだらない事に興味は無いね。 というか、やろうと思えばすぐにでも出来るからね」
そうだろう。
リディーは敢えて、違う所から攻めている。外堀を埋めるという奴だ。少しずつ、落ち着いてきているのが分かった。
「少しだけですけど、深淵の者について調べました。 それで、思った事があります」
「拝聴しようか」
「深淵の者は、未来のために動いているのではありませんか」
「ほう……」
アルトさんが目を細める。
気配が変わる。
やっぱり、本気を全然出していなかったか。
声が怖くなった時の比じゃない。
リディーが、その場で倒れそうになるのを、必死に支える。これは、正解だ。だから、アルトさんは面白がっている。
「面白がっている」からちょっとだけ「地が出た」。
それだけなのだ。
必死に呼吸を整える。
今、至近距離に、ネームドがいると思うべし。勿論ネームドなんかとは比べものにならない相手だけれど。とにかく、少しずつ自分が理解出来る範疇に相手を落とし込んで、恐怖を押さえ込む。
リディーに、耳元で囁く。
そうしてくれと、言われていたから。
白目をむきかけていたリディーが、必死に立ち直る。
アルトさんは、じっと黙っていた。
「私とスーちゃんを、ネージュさんにあわせたのも、何か未来に関する事が理由なんですね」
「ふっ。 壁を越えて一気に成長したか。 やはりソフィーの見立ては正しかったようだな」
「壁……?」
「君達が知る必要はないことだ。 少なくとも今知る必要はない。 だが、そうだな、その勇気に免じて。 少なくともネージュが納得する答えは教えてあげようかな」
肩をすくめるアルトさん。
やはりただ面白がっているだけなのに。
此処がまるで獣のあぎとの中のようだ。
「我等の目的は、世界の打開。 そのためには、鍵がいる。 それだけだよ」
「鍵……」
「スーちゃん達が、鍵だって言う事ですか?」
「少し違う。 惜しいがね」
アルトさんは、目を細める。
そして、スールは悟る。
これ以上は、喋る気は無いと。
再び背中を向けるアルトさん。もう帰りなさいと、いつものイケメンボイスで言われる。さっきまでの圧迫感は、もう消えていた。
「ふむ、相変わらず漫画フラムは面白いな」
そう呟く背中からは。
これ以上の情報は、もはや引き出せそうに無かった。
2、カミソリの綱渡り
呼吸を整えると、アトリエに戻る。
情報を整理する。
リディーは熱を出して寝込んでしまったので、お薬を飲ませる。やっぱり少しちびったらしく、着替えするから見ないでと言われて。衝立を挟んで、それで話す。
「もう、間違いないね。 利用はされているけれど、多分建設的な目的ではあるんだと思う」
「うん。 でも深淵の者は、そのために手段を選ばない組織でもあるみたいだね」
「アルトさん、別人みたいだった」
「そうだね」
アルトさんに気があるのが目に見えていたリディーは、余計にショックが大きかったのだろう。
まあ気持ちは分かるけれど。
アルトさんは中身が老人だ。
見た目で判断する事を、明らかに不愉快がっている様子もあった。
リディーは見た目でアルトさんに熱を上げていた様子だから。
いずれにしても、アルトさんには拒絶されていただろう。
今日の内に。
一旦酷い目にあっておいて、良かったのかも知れないとさえ、スールは思う。危険な恋をネタにする物語もあるけれど。
そんなものは、現実では火傷ではすまない。事実、さっきは冗談抜きに、一瞬の差で首を落とされ掛けたのだ。
そういうものだ。
「ネージュの所に行こう。 もう、時間がない」
「分かった。 私、着替え終わったら王宮行ってくるから、スーちゃんはフィンブルさんに声を掛けてきて」
すぐに二手に分かれて動く。
リディーも怖かっただろうけれど。
スールだって怖かった。
ソフィーさんほど桁外れの怖さでは無かったけれど。アルトさんのあれもまた、深淵から這い上がってくる魔物のような怖さだった。
錬金術はやはり、極めれば極める程恐怖に近付くのだ。
イル師匠だって、きっと。
雨の中を走りながら、そう思う。
いずれ自分達も。
ルーシャも。
そう思うと、心も痛む。
だけれども、今は走る。アダレットの人達、なんて大げさな単位じゃない。少なくとも、自分の大事な人達のためだけにでも、走る。
フィンブル兄に声を掛ける。
いつも通り、三日後に。
次に勝負を付ける。ネージュから情報を聞き出し、対ファルギオル戦の全ての準備を整える。
ファルギオルが本当に健在なのかさえ分からなくなってきた。
だけれども、少なくとも。
この雨はどうにかしなければならない。
掌の上で踊らされているのははっきりした。
だけれど、まだ今は抵抗する実力もないし。
何よりも、掌がどれくらいの広さかさえも分からない。
だから、力をつけるしかない。
でも、手段を選ばない戦い方はしたくない。
それも本音だった。
リディーはどうなのだろう。
酒場で、フィンブル兄に声を掛けて。それですぐに帰る。
こんな日でも、コルネリア商会は普通に開いていた。錬金術の装備で、雨を出店に入らないように防いでいるようだった。
ざっと売り物を見るが。
素材で良さそうなのが幾つかあったので。
渡されている財布を開いて、中身を見る。
補助金は振り込まれているので、こういう所で使うのには抵抗もない。最近は、ラブリーフィリスで時々入荷されている本を買うこともあった。本が楽に買えるくらいにお金が振り込まれている、ということだ。
荷車は流石に持ってきていないので、外出用のリュックに素材を詰めると。
コルネリアさんが声を掛けて来る。
「そろそろサービスをするのです」
「あ、そういえば前に言っていた……」
「はいなのです」
かなりお金は掛かるものの。
物品のコピーをしてくれる、というのだ。
驚く。
それは確か。
噂に聞く、ごくごく希にホムが持っている複製能力。
コルネリア商会に、使える人材がいるのか。
「少しばかり高リスクになるのですけれども、どうしても増やしたいものがあるのなら、持ってくるのです。 お金と引き替えに、数日後には複製して見せるのです」
「分かりました……!」
そうか。それならば、頼みたい所だ。
情報は少しでも多い方が良い。
一つずつ、順番に聞いてみる。
何でもホム達は、この複製能力を「別系統の錬金術」と呼んでいるらしい。コルネリアさんもこの能力持ちだそうで、本来はこれよりずっと弱い力を男女のホムがそれぞれ使って、子供を作るのに用いるらしい。
ホムは商売が成功すると子だくさんになるらしいが、それはこの能力によるリスクが、体力の消耗以外にないかららしく。
またホム以外の三種族の人間の女性が、妊娠と出産というリスクを負わなければならないのに対し。
ホムは子供を文字通り「作る」ため、その辺りの危険がないという。
そもそういう事情からか、他の三種族に比べて性に対して極めてドライで。
ヒト族が恋愛に夢を見たり、獣人族が発情期がどうのこうのというのに対し。
ホムはもう淡々と、必要に応じて子供を作るそうだ。むしろヒト族はその辺りが面倒くさくないのかと、ホムとしては疑問だとコルネリアさんは言っていた。
情けない事に、最近ようやく知ったのだが。
王都を離れて小さな街に行くと。
産婆すらいないケースや、適正な魔術を使える人間がいないケースがあり。
子供を産むのが文字通り命がけになる事もあると言う。
ホムは身体能力で劣るものの。
子供を作ることに関しては、人間四種族の中では、最も低リスクで行える種族であるわけだ。
とはいってもホムはアンパサンドさんのような例外を除くと戦闘力がとても低いわけで。
やはり、ホムだけでコロニーを作ったりして暮らすのは無理がありすぎる。
他の種族と連携して、始めて力を発揮できると言う事だ。
ともかく、コルネリアさんの所には、この複製能力持ちのホムが複数いるという事で。ただし相当なリスクも伴うため。
簡単には出来ないし。
商売も、おとくいさん以外には解放していないという。
まあそれもそうだろう。
ヒト族だったらともかく、ホムの商人ともなると、エゴも少ないしリスクも考えて動くのだ。
従業員の消耗を考えると。
おいそれと、誰に対してでも使える能力ではないし。
商売に出来るものでもない、と言う事なのだろう。
説明を受けたのでメモ。
このメモも、最近始めた。
リディーがやっているのを見てはいたのだけれど。どうしてもメモを実際に取る気にはなれなかった。
しかしながら、そろそろメモをとって、しっかり頭で考えるというのを、やらなければならない。
ただでさえ、リディーは気付いていないようだけれども。
リディーが錬金術を行っている際に、妙な勘みたいなのを使い始めているのである。
多分厳しい状況で錬金術をしている内に身につけた技術なのだろう。
なら、スールもリディーの強みを少しでも取り込んで。
力を上げなければならない。
戦闘でバトルミックスを使う事だけを考えていれば良い状況はもうとっくに終わっている。
スールだって。
一人前の錬金術師として、恥ずかしくない力を手に入れなければならないのだ。
そのままアトリエに戻る。
リディーも帰ってきていたので、情報交換。
やはり役人は渋い顔をしていたそうだ。
そろそろ厳しい。
間違いなく。
この長雨だ。農作物が壊滅的な打撃を受けたら、どうなるかは考えたくも無い。
王都や、万を超える住民を抱える都市はどうにかなるかも知れないが。
小さな街や村は文字通り地獄絵図になる筈。
ラスティンだってそんなに蓄えはないだろうし。
文字通りアダレットは壊滅する。
大都市だけ守っていれば良い、というようは話では無いし。
ファルギオルは、直接暴れていなくても。
これだけの損害を周囲にまき散らす、と言う事だ。
話をした後、次にどうするかの相談に入る。
ネージュとのネゴシエーションを成功させる。
恐らくネージュが使ったのは、高度な錬金術の産物だ。それを使ってファルギオルと戦うには、当たり前だけれども時間もいる。調合とかを、ルーシャやアルトさんに頼るわけにもいかないだろう。
深淵の者の話を聞かされた以上。
何かの思惑があって、リディーとスールが使われているのは確実だと分かったが。
それでも、此処は。
真面目に話に乗らなければならないのだ。
「素材については、ちょっと私が見ておくね。 必要に応じて、不思議な絵画に入らなければならないかも知れないし」
「スーちゃんは必須の調合しておくよ。 爆弾とか薬とか、なんぼあっても足りないでしょ」
「うん、お願い」
「後で考えをすりあわせよう」
決めると、すぐに動ける。
この辺りは双子の強みだ。
今度こそ、勝負を決める。
王城のエントランスに集まる。
ネージュの絵画に入る前に、打ち合わせをする。
「今回で決めます。 農作物の被害もそろそろ限界の筈です」
リディーが言うと。
マティアスが頷く。
多分王族だし、状況は流れてきているのだろう。
間違いない。想定通りだ。
だからこそに、早く勝負を決めなければならないのである。
「ネージュを説得できそうなのです?」
「自信は……七割くらいです」
「はあ。 準備はしてきてそれですか?」
「はい」
リディーをじっと見るアンパサンドさん。
ベストを尽くしてそれだと言う事を理解してくれてはいるのだろうが。それでも七割だと少し分の悪い話だと思っているのだろう。
スールも見つめられる。
アンパサンドさんは厳しい人だ。
戦闘では自分にもっとも厳しいが。
しかしながら、戦略的にものを考えるという点でも厳しい。
だからスールに怖い事もさせる。
スールが起点になって、連携が崩れる可能性や。
全てが台無しになる状況のことを。
想定しているから、なのだろう。
「分かりましたのです。 では、今回で勝負を付けるつもりで。 ただ、どうしても無理ならば、引くのですよ」
「はい」
「分かってます!」
周囲にいるのは、ルーシャとオイフェさん。アルトさんとフィンブル兄。マティアスとアンパサンドさん。
この絵に対している、いつもの面子だ。
今回で勝負を付ける。
気合いを入れて来たリディーとスールのことを、アンパサンドさんは認めてくれたのだ。だから頑張る。
頑張るだけではなくて成果も出さなければならないけれど。
まずは、自分に気合いを入れる。
深呼吸した後、絵に踏み込む。
そして、要塞の正門をくぐった。
あくびをしているネージュの姿が見える。
フリだなと、すぐにスールは看破。
明らかに、此方を苛立たせるためにやっている。勿論ネージュにとっては、アダレットなんてどうなってもいい、というのも理由の一つだろう。
ネージュはまだ。
此方に対して、話をしてくれているだけの状態。
切り札は開示してくれていないのだ。
信頼を得られてなどいない。
その証拠に、リディーとスールが精神的に追い詰められるような話ばかりしてきている。
それは間違いなく、リディーとスールを試すと同時に。
必要とあれば追い出すためだ。
「しつこいわね。 それで?」
「話をさせてください」
「ふーん。 まあいいわ。 ひよっこ三人、きなさい。 後は人質で」
「はい」
アンパサンドさんに目配せ。
どうせこの城は、ネージュのおなかの中も同じだ。誰かが動いたら、即座にネージュに察知される。
勝手な行動を誰かがしたら。
多分全員がその場で殺される。
ネージュにはそれくらいの力はある筈で。
絶対に余計な事をすることは許されない。
いつもの机のある部屋に通される。
鎧が、お茶とお菓子を配膳してくれたけれど。
やはり中身は、あからさまにがらんどうだった。
「それで。 深淵の者は貴方たちみたいなひよっこに、何を期待していると」
「深淵の者が、組織として未来を指向しているという話をされました」
「……驚いたわね。 殺されずに、それを聞き出せたの」
「はい」
リディーは、震えを押し殺しながら、一言ずつ選んで話をしていく。
というか、今話している内容だって。
下手をするとアルトさんに筒抜けである。
そしてアルトさんの判断次第では。
殺される。
「何かの鍵として、私達を使うつもりの様子です。 それ以上の事は、聞き出すことが出来ませんでした」
「未来ね……」
「はい」
ネージュが考え込む。
子供の姿はしているけれど。
やはりその動作は、子供のそれではなかった。
しばしして、ネージュは言う。
「深淵の者が世界征服なんて目論んでいないことは知っていたし、各地でドラゴンや邪神を狩っているのが不思議ではあったのよね。 事実私がファルギオルと戦った時、支援を申し出てきた深淵の者の凄腕達も、目的については口にしなかった。 或いは、当時はそもそも世界を単によくする事だけを目論んでいて、何かしらの材料を得たことで、未来を指向するようになった?」
「分かりません。 この情報を聞き出すだけでも、殺され掛けたんです」
「そうでしょうね。 あの組織は基本的に、全体の利益で考えるから。 有害と判断したら、王でもある程度力のある錬金術師でも容赦なく殺すからね」
「考えたんです。 もしも、この世界に未来がないのだとしたらって」
ネージュが少しだけ驚いたようだった。
ルーシャもこっちを見て、驚いている。
アルトさんは超然としている人だが。
あの人が、大まじめにあんな行動をするのは何故か。
考えられるのは。
このいびつな世界に。
本当の意味で、未来が微塵もないのだとしたら。
場所によっては現在さえないはずだ。
今いるアダレットだって、無理矢理維持しているけれど。それもいつまで続くのか。それも分からない。
何百年ものスパンでものを考えているとして。
何かしらの方法で未来を見られるとか。
何か別の理由で、未来がないことを知っていたら。
大まじめに、何か企むかも知れない。
「掌の上で転がされていることは分かっています。 でも、もしも私達が動く事で、その未来の可能性を少しでも作れるのなら、動きたいです」
「双子のもう片方も?」
「はい。 二人で話して決めたことです」
「ふーん」
ネージュはその気が無さそうな返事だが。
多分違う。
しばし、考え込んでいる。
これまでにない手応えだ。行けるか。
だが、ネージュは、なおも言う。
「分かったわ。 深淵の者の思惑については、恐らく聞き出してきた情報で間違いないでしょうね。 それに乗って見ることで、此方にもデメリットはない」
「じゃあ……」
「最後に一つ。 自分達が人間ではなくなるとしても、その思惑に乗るつもりはある?」
ネージュの言葉は。
酷く冷徹で。
突き放すようだった。
「もう知っているわよね。 錬金術は才能の学問。 知恵の学問。 そして知識というものは、深淵そのものよ。 深淵を覗けば深淵に覗き返されるのは当たり前の話で、深淵の者が鍵として……どういう意味だかは分からないけれど、切り札として貴方たちを使用しようとしているのなら。 多分二人とも、いずれ人間ではなくなるわよ」
むしろこの言葉。
側で完全に血が引いている顔で此方を見ているルーシャに向けられているのかも知れない。
言葉には揶揄の要素もなく。
そして、むしろ哀れみがあるようにさえ思えた。
「少し待ってあげるわ。 だからその間に考えなさい。 例え人間を止めてでも、その未来とやらを作る鍵になる覚悟があるのかどうか」
ネージュが、最初からいなかったかのように消える。
スールは、吐き気が一気にこみ上げてくるのを感じた。
今食べたお菓子も、飲んだお茶も、とても美味しかったのに。
それが泥にでもなったかのような気分だ。
「スー!」
「だ、大丈夫、大丈夫……!」
何処かで、分かっていたのかも知れない。
リディーはおかしくなりはじめている。
スールも、心の奥に、黒い染みみたいなのが出来はじめている。
何だか、時々おぞましい凶暴性が誘ってくるのだ。
どうやって敵を殺すか。
効率的に敵を殺すにはどうすればいいか。
そんなことばかり考えてしまう。
今のネージュの言葉が決定打になった。いずれ、力を更に伸ばしていけば。
リディーもスールも。
多分人間じゃなくなる。
考えてみれば、イル師匠だって、そうなのだろう。あの人は、丁寧に指導はしてくれるけれど。振るう力は、もう人間の領域をとっくの昔に超越している。フィリスさんは、人間から足を踏み外していることを隠そうともしてない。
ソフィーさんに至っては。
もはや、人間どころか、生物であるかさえも怪しい有様だ。
先達の恐ろしさを叩き込まれているからこそ分かる。
そしてネージュは、きっと既に。どうにかして、リディーとスールが、先達の恐怖を見ている事を、知っていた。
そしていずれああなると、釘を刺してきた。
ネージュは多分、最後まで人のままだった、のだろう。
もしもそれ以上の存在になっていたら、多分深淵の者に加入していたはずだ。
或いは、人を辞めるのが嫌だったのかも知れない。
そしてネージュを責める資格なんて。
誰にもない。
「お、おえっ! げほっ!」
必死に吐き気を堪える。
リディーも、口を押さえたまま、じっと蹲っている。
震えているのは、恐怖からだろう。
多分ソフィーさん辺りだったら。これで笑っていたのかも知れない。あの人は何となく勘で分かるのだけれど。天性の存在だ。最初から壊れていたからこそ、彼処まで行けたのだろう。
ルーシャはもう泣いていた。
「し、深淵の者に交渉して、わたくしが代わりに!」
「無理だよ! ルーシャが「鍵」だかに丁度良いんだったら、最初っから深淵の者はそうやって動いているはずだもん! リディーとスーちゃんである必要があるんだよ! もう、逃げられない!」
「怖いよ……」
リディーが呻く。
背中を撫でようとして、自分の手も震えている事にスールは気付いて。
また吐き気がこみ上げてきた。
これが、ネージュの最後の試験だ。
コレを突破しない限り。
ネージュは絶対に、切り札について教えてくれる事など無いだろう。
思い出せ。
尊敬できる人たちの事を。
スールは、自分に言い聞かせる。
駄目だ。
怖くて、それでもどうにもなりそうにない。
人間では無くなる。
告げられたその言葉はあまりにも強烈すぎて、その言葉だけで脳内が真っ黒に塗りつぶされそうだった。
ルーシャも泣いている。
どうにも出来ない自分の非力を呪っているのは確実だ。
ネージュは一目でルーシャがどういう存在にいるのかを見抜いて。
此処に招いたのは確実だ。
嗚呼。
流石は200年を経ている錬金術師。
老獪さでは、勝てる訳がない。人間観察についても、明らかに優れている。ネージュは即座に見抜いたのだろう。
リディーとスールが、どうしようもないと。
素質は知らない。
スールは、昔は自分は出来る子だと思い込んでいたが。そんな事はないと、今ははっきり理解している。
だからこそに、ネージュは揺さぶりを掛けてきた。
人間を止める覚悟があるかと。
これ以上進めば、二人とも壊れる。
それを、ネージュは見抜いているのだ。
震えながら。
リディーが、スールの手をとった。
ぎゅうと、リディーの弱々しいはずの手が、力を込めて握りしめてくる。
リディーは震えながらも、必死に顔を上げた。
唇を噛みしめている。血が出そうな程に。
顔色は死人のように青ざめているけれど。
それでもリディーは。立ち上がると。スールの背中を撫でた。
「大丈夫、お姉ちゃんが、側に、いるから」
「……っ!」
「リディー、もう無理は……」
「ルーシャも、本当に、有難う! 私達のために泣いてくれて、本当に嬉しい。 だけど、だけどもう、逃げ道なんてない! そのまま泣いていても、ファルギオルにアダレットは滅ぼされる! 下手な事したら、お父さんもルーシャも深淵の者に、これ以上もないほど確実に残酷に殺される! だったら今は、力を、力をつけるまで……」
耐えるしかない。
そう、リディーは言うと。
押し黙り。
スールの手を握ったまま。自分に言い聞かせるように言う。
「私が、スーちゃんも、みんなも守るんだから……」
小さな悲鳴が漏れそうになる。
リディーの目が。
ああ、リディーの目が。
みるみる濁っていく。
一目で分かるほど、濁っていく。
頭がぐらんぐらん揺れる。
多分、スールの目だって、濁り始めている筈だ。
だって、リディーを一人で戦わせる訳にはいかないのだ。絶対に、絶対にこれ以上、家族を失うわけにはいかない。
だったら。
人間なんて。
辞めてやる。
深呼吸をすると。
席に着く。もう、泣いているのは、ルーシャだけだった。
嗚呼。今、深淵を覗き込んでしまったんだな。そう、スールは悟った。これから、どんどん深く覗き込むんだな。そうとも悟った。心に点っていた小さな黒が。どんどん拡がっていくのが、体感できた。
3、神殺しの技
ネージュが戻ってきた。
そして、リディーとスールを見て、無言で席に着く。絶叫したのは、ルーシャだった。
「人でなしっ! 絶対に、絶対に許しませんわ!」
「保身のために私の一族を見捨てて親友達も見捨てて自分達だけ賄賂で命を買ったヴォルテールの末裔に、人でなし呼ばわりされる覚えはないわね」
「双子に何の責任があるんですのっ! 双子をこんなめにあわせるくらいだったら、わたくしをそうしてくださいましっ! わたくしだったら、どれだけ痛めつけても、殺されたってかまいませんわ!」
「泣きわめくな見苦しい。 貴方の命なんか、何の価値も無いわよ。 せいぜい其処の双子を育てるために、深淵の者が利用する程度のものよ」
絶句するルーシャが、席に崩れ落ちる。
その通りだと言うことを、悟ってしまったのだろう。
酷い。
本当に悲しい。
だけれど、その気持ちは何処かでふわふわとしていて。
何だか、心の奥底に届かなかった。
大きくネージュがため息をつく。
「どうやら、深淵に進む覚悟は出来たようね。 ならば、もう此方としても言う事はないわ。 対ファルギオルの必勝戦術を教えてあげる」
リディーが顔を上げる。
目が濁り始めている。
スールにも分かる程に。
スールも、何処か無感動に、顔を上げていた。
心に拡がり続ける闇。
加速度的に濃さを増している。
だからだろうか。
ネージュを憎いとは、まったく思わなかった。むしろ、対雷神の必勝戦術に、興味さえ感じ始めていた。
「ファルギオルを倒す方法は、他の邪神と同じ。 邪神にはコアと呼ばれるものがあって、それを砕く事よ。 問題はファルギオルは他の邪神と比べても桁外れの存在で、そのコアは雷と同じ……つまり全身を砕ききらないと倒せない、と言う事ね」
「あの回復力を上回るダメージを与え続けなければならない、と言う事ですか」
「……残念ながら、深淵の者の手練れ達でさえ、それは難しいようだったわ。 或いは、歴史上最強の才覚を持つ錬金術師が、最高の条件下で経験を積み重ねれば、それも可能かもしれないけれども」
ルーシャが、びくりと震えた。
身に覚えでもあるのだろうか。
ともかく、話の続きを聞く。
「ファルギオルと戦った時の私は37歳。 当然そんな経験もなかった。 ドラゴンを倒した事はあったけれど、それはアダレットの貴方たちにとっての先代騎士団長と連携しての戦いだった。 力の差が余りにもありすぎる。 故に、その力の差を埋めるための方法が必要になるのよ」
ネージュが指を弾く。
瞬時に。
要塞の中だった周囲が、花畑に変わっていた。
思わず周囲を見回すが。
今度は海の上に出る。
続けて大雨の中。
次々と変わった後。要塞の中に戻ってきた。
「今のは幻覚でも何でも無い。 これこそが、対邪神の切り札。 「世界の塗り替え」よ」
「世界の……塗り替え?」
何だろう。
ぞくりと、歓喜が心の中で鎌首をもたげる。
さっきの衝撃的な発言で、スールは確実に何かが変わった。
変わった部分が、明確に興味を持っている。
邪神を殺す方法を。
貪欲に求めている。
「邪神という存在はね。 そもそもこの世界の創造神が、世界を監視するために世界に配置した端末に過ぎないの。 創造神自身もいるけれど、そいつの本体は高位の世界に存在していて、この世界でたまに見かけられる創造神は端末に過ぎないらしいわ。 そして世界を見張るために作られた端末よ。 そこが、邪神の弱点になる」
ネージュの言葉から、耳を離せない。
リディーも、じっと黙って話を聞き続けていた。
「世界を見張るための端末よ。 だったら、その見張る端末を、切り替えてしまえば良いのよ。 今のようにね」
「……具体的なやり方を教えてください」
「レシピは其処よ」
手元に、複雑なレシピがいつの間にか置かれている。
理屈は難しすぎて何となくしか分からない。
だけれども、一つ分かる事がある。
リディーが、先に言った。
「擬似的に不思議な絵を作って、其処に相手を閉じ込める、と言う事ですか」
「……深淵を覗いたら、急に物覚えが良くなったわね。 簡単に言うとそういう事。 本来の不思議な絵ほどの強度はないけれども、文字通り邪神にとっては究極の必殺兵器になるわ。 深淵の者からこの話を聞かされたときは驚いたけれども、元々不思議な絵の描き手である私に、これの再現は難しく無かった」
ネージュは言う。
調子に乗っているファルギオルを、雷が力を発揮できない空間に閉じ込め。
そして一気に攻勢を掛けた。
それでも全盛期のファルギオルの戦闘力は凄まじく。
ネージュと先代騎士団長、騎士団の精鋭、深淵の者から派遣された精鋭達が連携して、ようやくコアの封じ込めに成功。
それで時間切れ。
ファルギオルを封じることには成功したが。
其処までだった。
もう一度同じ事をする戦力は残っていなかったし。
極限まで弱体化したファルギオルは、世界に拡散し。もはや追うことは不可能になってしまった。
そして200年。
拡散していたファルギオルは、ゆっくり時間を掛け。
元に戻った、と言う事か。
なるほど、理解出来た。
それならば、確かに勝ち目は生じてくる。
現時点でファルギオルは、バトルミックスつきのルフトを束にしてぶち込んでも再生力が上回る。
それくらいの圧倒的な力の差がある。
だが、その力の差も。
このレシピ通りに、世界を塗り替えれば。
埋める事が可能になるはずだ。
むしろ邪神という超絶の存在だからこそ。この世界の塗り替えを使えば、その強さが徒になる。
この世界の監視端末だというのなら。
この世界に特化した存在なわけで。
それが一気に世界から引きはがされれば。
それは対抗策もなくなるのは、当たり前だと言えた。
「ふん。 何となく深淵の者のもくろみが読めたわ。 連中が作りたがっている未来というのは……いや、止めておきましょう」
ネージュは立ち上がる。
そして、告げた。
「ファルギオル戦では、どれだけ力を封じても、どれだけ追い詰めても、油断は絶対に禁物よ。 相手は文字通り雷の神。 逃げられるわ」
「……分かりました」
「そのレシピを持って帰りなさい。 そして、二度と此処には来ないで。 素材の類は外に生えているから、それ持っていくのはいいけれど、要塞の中には二度と入ってこないようにして頂戴」
リディーと二人。
頭を下げる。
そして、まだ涙を拭っているルーシャを促して。
その場を離れた。
余程の事があったと悟ったのだろう。
合流すると、フィンブル兄は、歯を剥いて唸った。アンパサンドさんさえ、眉をひそめた程である。
「スー。 何をされた」
「大丈夫、フィンブル兄。 ちょっとふわふわするけど。 あと、ファルギオルを倒せそうだよ」
「……本当、だな」
「うん」
そのまま、一旦要塞を出る。
門が閉じる。
ネージュは見送りにもこなかった。
ネージュが言っていた通り、要塞の外は美しい緑が拡がっていた。最初来た時は、こうではなかった気がする。
或いは、今までは戦闘モードで。
これはこの絵の、本来の姿。
豊かな緑の中で、静かにただ時を過ごしたいと願った。
もう一つの、この絵の姿なのかも知れなかった。
荷車を引いてきているのだ。
採取をしていく。
黙々と採取を進めて。
そして、荷車が一杯になった所で引き上げる。
そういえば、マティアスは。
凄く険しい顔をしていた。
「どうしたの」
「お前……どう、したんだよ」
「深淵をモロに覗いたみたい。 リディーもね」
「意味がわかんねーよ! アホみたいに笑ってたのに、なんでそんな、快楽殺人鬼みたいな目になってるんだよ!」
珍しくマティアスが怒っているようだが。
アルトさんが、肩を掴んだ。
「マティアス、その辺にしておけ」
「……!」
怒鳴り返そうとしたらしいマティアスだけれど。
アルトさんから放たれている殺気が、それをさせなかったのだろう。それはそうだ。この人は、多分深淵の者の幹部か何か。
さっきネージュが言っていた。
人間を止めた錬金術師の一人なのだろうから。
人間が、どうにか出来る相手では無い。
「遠くからソフィー=ノイエンミュラーを前に見た。 彼奴、人間だとはとても思えなかった」
「そうだね。 錬金術は深淵と密接に関わる学問だ。 極めれば極める程人間から遠ざかっていく。 ソフィーは凄まじい達人だ。 後は分かるな」
「……そんな恐ろしいものに頼らないと、生きていけないんだな」
「そういうことだ。 そして、どうやら切り札を手に入れたようだし、希望も見えてきた」
フィンブル兄にアルトさんが応えるが。
嘘つき、としか言葉が出てこない。
心の中で呟くだけだ。
口に出さない。
力をつけたら、その時に判断する。
何を企んでいるのかは分からない。
でも、何というか。
作ろうとしている未来が、深淵の者だけに都合が良い未来だとはどうしても思えないのである。
社会に害を為す存在を積極的に排除している事も分かっている。
多分だけれど、シスターグレースのいる教会だって、深淵の者が支援しているのではあるまいか。
だとすれば、リディーとスールも、知らないうちに深淵の者の助けを受けていた訳で。
それによって助けられた人は。それこそ数限りないだろう。
安易に否定は出来ない。
だけれども、肯定するわけにも行かない。
これほどの秘匿性をどうして持ちながら行動しているのか。
少なくとも利用しようというのなら。
利用される側にも、知る権利は勿論ある。
ファルギオルは思惑通り倒す。
だけれども、力をつけたら。
その理由を聞かせて貰う。
理由次第では、死んだって協力するものか。
「もういいだろう。 引き上げるぞ」
フィンブル兄が不機嫌そうに言う。頷くと、そのまま絵から出る。
素材は相当な高品質で。
絵の完成度を示すかのように。珍しいものや、見た事がないものもたくさんあった。要塞の中にさえ入らなければ、ネージュもこの状態を解除はしないだろう。今後も何回か、足を運ぶ事が出てくるかも知れない。
一度アトリエに戻る。
レシピを拡げる。
今まで見たレシピの中でも、最高難易度と言って良いはずだ。
装置でさえない。
一回使い切りの道具。
つまるところ、切り札の中の切り札。
安易には使えないし。
しかも使った戦いでは大赤字確定。
だけれども、邪神とやりあうのだ。
それくらいは覚悟しておかなければならないだろう。
全盛期のファルギオルを、倒せたほどの力だ。
逆に言うと、今のスールよりも遙かに格上のネージュとはいえ、それが精一杯だったとも言える。
絶対では無いし。
ましてや、これは出発点に過ぎないと言う事も分かった。
調合を開始する。
不思議な絵画は、内部に「異世界」を作り出す絵だが。
その基幹となるのが、「不思議な絵の具」である。
これは世界の根幹に関わる代物で。
複数種類の、極めて高度な生成物に。
魔術を何十倍にも増幅して練り込み。
それを更に複雑な行程を経て、調合することによって、やっと完成する。
しかしながら、この不思議な絵の具そのものは、ある程度の力がある錬金術師なら手が届く代物。
ドラゴンに勝てなかった、アンフェル大瀑布の描き手である錬金術師だって、この絵の具は調合したのだ。
勿論今のリディーやスールよりは格上だっただろうが。
それでもドラゴンに勝てない程度の錬金術師でも出来る調合だ。
邪神の頂点と真正面からやりあえなくても。
この調合くらいは出来る筈だし。
出来なければ話にならない。
今までよりも更に高品質のシルヴァリアとゴルトアイゼンの原石が手に入っていた。それだけではない。
事前に調べていた、合金の品質を上げるために必要なもの。
例えば水。
そういったものに関しても、更に良いものがあった。
或いはあのネージュのアトリエは。
ネージュがもはや外の人間に見切りをつけ、完全に閉じこもるための要塞と言う側面だけではなく。
本人が好きなだけ錬金術を楽しむため、という側面もあったのかも知れない。
もしそうだとしたら。
好きな事を好きだと言うことさえ。
当時のアダレットでは死に値したという事になる。
そうか。
確かに、そんな国が。
五百年も続く訳がない。
ネージュが言ったとおり、恐らくは深淵の者によって延命を続けられている、と言う事なのだろう。
ミレイユ王女も、或いは先代の無能な「庭園王」(最近は蔑称としてそう言われるようになっているそうだ)を幽閉するために、深淵の者に大きく力を借りていたのかも知れない。
アトリエランク制度に深淵の者が関わっていることくらいは、今までの情報からスールにさえ見当がつく。
合金はスールが作る。
その間に、リディーは中間生成薬を作り始めていた。
レシピに沿って作っていくのだけれど。
この難易度が尋常じゃあない。
フローチャートを書いてみたが、複雑すぎて、数個の黒板に、分けて書かなければならなかった。
ともかく、時間もない。
「リディー、これ、理屈分かる?」
「うん。 ある程度は……」
「ごめん、スーちゃんふんわりとしか分からない。 出来れば、少しで良いから教えてくれない」
「かみ砕いて言うと、そうだね。 世界の根幹に袋を作る感じ」
世界の根幹に袋。
そうか、その袋の中に、異世界を作るのか。
今作るのは、世界の外側に、袋の「外側の皮」を作る作業であって。
その材料を作っている、という状態だ。
チャートにあるタスクについて、リディーが説明してくれる。
「まず、此処までの素材が、そもそも非常に世界の根幹に関わっているものなの。 これらの要素を高純度で抽出して、魔術で増幅する」
「どうして世界の根幹に関わっているの?」
「この世界には四つの要素、というものがあるでしょ」
「地水火風だっけ」
リディーは首を横に振る。
そういえば、少し動きがきびきびしている。なんというか、目が濁ってから、掛かっていた枷が外れた印象だ。
「この世界は普通の人間では感知する事も開ける事も出来ないけれど、薄い袋のようなものに包まれていて、それがこの世界の本質なの。 その世界はたくさんいっぱい存在していて、条件が整えば、あの氷の洞窟みたいに。 別の世界……例えばヒト族の先祖が暮らしていた世界につながったりもするんだよ」
「いつの間にそんな難しい話を」
「いっぱい本読んだよ。 深淵の者が動いて世界に秩序を構築する前から、錬金術師達には周知の事実だったみたいだね」
「……なるほど」
少しずつ分かってきた。
リディーはなおも言う。
「この素材達は、世界に存在する大きな四つの力。 強い力、弱い力、重力、電磁力をそれぞれ代表するもので、それに神の力が作用しているこの世界で、魔術に寄って増幅することで、本来とは遙かに異なる大きな力を引き出すことが出来るようなの。 或いは、他の世界では使い物にならないかも知れないけれど」
「ふむ……」
「不思議な絵画は、そんな絵の具を利用して、世界という大きな袋の更に外側に袋を作って、小さな世界を作り出す技術。 そしてその小さな世界の中に、自分の理想を練り込むの。 そうなると、更に一段階難しい作業になるんだけれど……このレシピは、そんな「袋の材料」の中に、「この世界とは違う法則」をねじ込むもの。 そして、その袋で、周囲を覆うために、ぶちまけるためのものなの」
そういうことか。
それによって、ファルギオルは身動きが取れなくなる。
それどころか、この世界に最適化している体は、まったく動かなくなるも同然、と言う事か。
最盛期ファルギオルと今のファルギオルでは、それこそ天地の差があった筈。
だけれども、ファルギオルだってどんどん力を取り戻していくかも知れない。
なるほど、急がなければならない訳だ。
それに、世界の根幹に触れる錬金術ともなると。
それは大きな力を持っている。
そう、深淵に触れなければ、触れないような。
後は、無言になった。
まず合金を作る。
大きな皿状に、鍛冶屋の親父さんに加工して貰う。
こんなに大きくしたのには理由があって。
尋常では無く複雑な増幅魔法陣を描き込まなければならないからだ。
魔法陣については、レシピに記載されているので。二人で精査しながら、丁寧にインクで書き込み。その後、彫り込んでいった。
彫るのはスールがやる。
その間にリディーが、素材の要素を抽出していく。
見た事がない機材を、リディーが買ってきた。
どれも、錬金術の高度なもので使うらしく。
乳鉢や遠心分離器よりも、更に難しいものらしい。
既にリディーには、コルネリアさんが始めてくれた「サービス」については話してある。場合によっては、利用した方が良いかも知れない。
丸一日かかっても。
魔法陣は彫りきれなかった。
こんなに凄い魔法陣は初めてだ。
こんなのを、ある程度の錬金術師は、みんな出来るのかと感心してしまうが。多分違う。リディーとスールがへっぽこなだけだ。
そのまま作業を進めていくが。
時間が、容赦なく過ぎていく。
後ろでは、タスクが着実に埋まって行っている。
リディーは様子がおかしい。
何というか、知っているかのように、素材に手を伸ばして。
それからはっと気付いたようにして、素材を見ている事が多い。
中間生成物にしても同じ。
やはり、リディーに何かあったと見て良い。
そしてスールにも同じ事は起きている様子で。
金属に魔法陣を彫り込む際に。
勘が驚くほど的確に働く。
魔法陣が掘り終わる。
同時に、出来合いを買いに外に出た。
そして、リディーが作業を進めているのを横目に、魔法陣のチェックを開始。インクを落として。きちんと掘られているか。
動作するかを、順番に見ていく。
丁寧に隅々まで調べていくが。
今までとは比べものにならないほど、ミスが少なかった。
やはりおかしくなっている。
そしてそのおかしさは。
多分錬金術のために、必要なおかしさなのだろう。
汗を拭いながらチェックを進める。
リディーは淡々と作業をしていて。
此方の助けが必要なようには見えなかった。スールは、そうもいかない。声を掛けて、二重チェックを行う。
その間に、少し眠る。
リディーがチェックを終えた頃に、起こされて。
そして交代で、リディーが眠った。
スールが気付いていないミスは、殆ど無かった。
頷くと、ミスを取り除き。
レシピを見ながら、魔法陣を起動。
動作確認をする。
魔力が通るのを確認。
あれ。
いつのまにか、スールにも。
魔力がこんなにはっきり見えるようになっていた。
これはひょっとすると、魔術を意識した道具を、スールも使えるようになるかも知れない。
例えばパイモンさんが使っている雷神の石のようなものを。
それに、スール自身が魔力を使えている。
今まで何の役にも立っていなかったお母さんの拳銃に。
或いはこれで、価値を持たせられる可能性はある。
もしも、まともに拳銃に火力が備わるようになるのなら。
当てる自信はあるのだ。
ダメージソースとして、活用が見込める。
今まで、無理に接近戦を挑んでは、大けがばかりしていたのだ。
それもかなり減らせるはず。
じっと、拳銃を見る。
気付く。
魔力を通す事が出来るようになっている。そういえば、言っていた様な気がする。お父さんより、お母さんの方が戦闘では強かった。
お母さんには錬金術の才能はなかったが。
素の魔力そのものは、お母さんの方がずっと上だった、と。
引退後も、教導でいいからと、騎士団から復帰要請が出ていたほどだと聞いている。
だとすれば、あり得る話だ。
「……」
上庭に出ると、集中して。
構える。
銃に魔力を通す。
裏庭にある的を撃つ。
駄目だ。威力は変わっていない。ただ魔力を、しかも付け焼き刃のちょっとやそっとの魔力を通すだけでは駄目か。何かの魔術に変換していた可能性は。あるかも知れない。拳銃の手入れについては聞いている。
というか、拳銃は気むずかしい武器で。
丁寧に手入れしないと、すぐにへそを曲げて弾が詰まったりする。
本格的な手入れは鍛冶屋の親父さんに頼んでいるけれど。
メンテくらいは自分で最近は出来る。
ちょっと分解して調べて見るが。
どうも拳銃に魔術が仕込まれているらしい。
驚くべき精密さで、内部に多数の魔法陣が見られた。
少なくとも今のスールに出来る彫り込みじゃない。
やっとしたら、機械技術と錬金術、双方に知識がある人物だ。
お母さんが愛用していたのだとすれば。
この銃、しかも二丁。
騎士団がどこからか手に入れた、もの凄い高レベル錬金術による産物なのではないのだろうか。
目を細めて、魔法陣を確認する。
魔力を通すと、どうやらリミッターが解除されていくらしい。
魔力が少なすぎて、多分リミッターの解除が最後まで届かず。
銃の力を、まるで発揮できていなかった、というのが今までの真相のようだった。そうなると、リディーの魔力が何だか溢れている今。
増幅したら、或いは。
思わぬ一撃を放てるかも知れない。
それも速射で。
勿論、一発で相手を粉々にするような火力はそれでも期待出来ないだろう。ネームドを瞬殺していたフィリスさんの矢のような異次元火力は、出せないと思った方が良いと思う。
それでも、少なくとも敵のシールドに負荷を掛ける程度の火力が出せれば。
連射して、数十発を一箇所に叩き込めば。
敵に致命傷を与えられる可能性も高い。
どうせファルギオル戦に、前と同じ戦力で行っても仕方が無かったのだ。
リディーに相談するとする。
二つ目の切り札。
それはスールが火力ソースとして、バトルミックス以外で使い物になる、という事だ。
コレに加えて、リディーが何かもう一つ、芸を覚えれば。
ファルギオルに対して、手が届くかも知れない。
それにしてもこの魔力。
深淵を覗いた影響、なのだろうか。
そういえば、疲労がひどい気がする。眠ったはずなのに。今まで使っていなかった魔力を、全身から放出しているから、なのだろうか。
いや、それもおかしい。
魔力は見える。
それに、魔力も通せる。
だけれど身体能力が上がっている気がしない。
魔術を利用して身体能力を上げる者は幾らでもいるらしいのだけれど。
それが出来るとはとても思えない。
これは、ひょっとして。
お母さんから引き継いだ才覚が。
何かしらの理由で封じられていて。
今頃になって目を覚ましたのだろうか。
だとしたら、遅すぎる。ずっと役に立てていないって苦悩していたのに。どうして今頃、なんだろう。
そして、深淵を覗いたからか。
もう、涙は、流れてこなかった。
4、決戦に向けて
ブライズウェストにてあくびをしているソフィーの所に、報告が順番に舞い込んでくる。一つ目の報告は、ロジェを確保し。記憶を消した上で、強力な眠りの魔術を掛け。そしてファルギオルが死ぬまで。つまり双子のエサを処理し終えるまで、起きないようにすること。
二つ目は、双子がネージュより。
世界の塗り替えの技術を教わった事。
交代で状態維持のために、イルメリアちゃんとフィリスちゃんと、ブライズウェストに留まっているのだけれども。
そろそろ、良い頃だろう。
ファルギオルが弱すぎると、双子のエサにならない。
双子が作りたての世界の塗り替えでは、ファルギオルをやっと倒せる、くらいの状態が望ましい。
丁度状態の固定をしたばかりだ。
別にファルギオルに双子が殺されても一向にかまわない。
あの壁を越えた状態からやり直せるのだから。
既にソフィーは、もう一億年や二億年くらいの時間を過ごすことなど、何とも思っていない。
世界の終焉を、何をやっても止められない以上。
今更焦っても仕方が無いのである。
人間は愚かだ。
放置しておけば、必ず資源を使い果たしたあげくに、共食いをして滅びることになる。自称知的生命体とは思えない愚かさだ。創造神が何をやってもそれを食い止められなかったように。
フィリスちゃんは洗脳をしてしまってはどうか、という提案をして来る事もあるのだが。
それは却下。
そもそも、このようなことをしているのも。たった四種族で一緒に生きていけないなら、多数の知的生命体が暮らす宇宙で、生きていける訳がないから、である。助けたからには責任をとる。
ペットを飼うのではないのだ。
そういう責任感がパルミラを動かしているし。
それについてはソフィーもよく分かる。
だから協力に関しては、手を惜しまない。
ただしソフィー流のやり方でやらせて貰うだけだ。
困惑した様子で、伝令が来る。
雨の中、ルーシャが歩いて来るという。たった一人で。オイフェも連れていないと言うことだった。
まあ何をしたいのかは分かる。
だから、どうでもいい。
そろそろ再教育が必要だと思っていた頃である。
ルーシャが姿を見せたのは、間もなくだった。
無言のままルーシャは、背中を向けたままのソフィーに傘を向ける。
「もう貴方のおぞましい計画に双子を巻き込まないでくださいまし」
「あたしに言ってる? ひょっとしてだけれど」
「ソフィー=ノイエンミュラー! 深淵から来た邪神よりも邪悪なもの! 貴方以外の誰にこんなこ……」
ルーシャが崩れ落ちる。
珍しく、真顔になっているティアナちゃんが、その後ろに立っていた。
上下両断されたルーシャは即死。
剣を振るって血を落とすと。雨の中、ティアナちゃんは吐き捨てる。
「低脳。 ソフィーさまに何をほざく」
「ティアナちゃん。 それを斬っては駄目だっていったよね」
「だってソフィーさま! この低脳が! よりにもよってソフィーさまを!」
「気持ちは分かるけれど、これは大事な駒なの。 だから、次からはやったら駄目だよ」
時間を巻き戻す。
今のソフィーには難しくも無い技術だ。
ただし、世界そのものの時間を巻き戻すのは少しばかり難しい。ある程度の準備がいる。更に言えば、巻き戻せる時間も限られる。
自分自身が一人だけ過去に飛ぶ事は出来るけれど、それはいわゆる「存在の矛盾」を引き起こすので、長時間は世界にとどまれない。
この技術は、主に世界の終焉に、知識と物資を輸送するために用いているものだ。
世界そのものを平然と何千年も巻き戻す事が出来るのは。
世界そのものであるパルミラ本体だけである。
呆然と立ち尽くしているルーシャ。斬られる前の記憶も埋め込んでおいたのだから、当たり前だろう。
傘を取り落とし。
大雨の中へたり込む。
ティアナちゃんが、ふんと鼻を鳴らすと、ルーシャの背中を蹴飛ばした。
泥の中に突っ伏すルーシャ。
「今、斬られたことは分かっているね。 まだ、恐怖の仕込みが足りなかったかな」
「おだまり……なさい。 あんなに可愛らしかった双子の目が、ドブ沼のように濁ってしまいましたわ! 絶対に、絶対に……許せない!」
「駒だから生かしているって理解出来ない?」
「例え差し違えてでも!」
またティアナちゃんが斬ろうとするが、笑顔で制止。
立ち上がったルーシャが、傘から光弾をありったけ放ってくる。ソフィーは、避けずに、それを全弾。
勿論防御もせずに受けきった。
ファルギオル戦の時より火力が上がっている。
必死に調整して、自分にできる限りの強化改造を施したのだろう。
でも、それでもだ。
ファルギオルにも届かないし。
勿論ソフィーにも通用しない。
光弾が止まり。ルーシャが真っ青になって立ち尽くしている中、肩をすくめてみせるソフィー。
勿論無傷だ。
「それで終わり?」
「まだまだあっ!」
再び、ルーシャが無理矢理魔力をひねり出しながら、光弾を撃ちだしてくる。
ソフィーは歩きながら、光弾を防御せず、そのまま進んでいく。そして、光弾の巻き起こす爆炎を吹き飛ばしてルーシャの至近に出ると。
首を掴んで、つり上げた。
足をばたつかせて、必死に抵抗するルーシャだが。ちょっと力を入れただけで傘を取り落とす。
意識が落ちない程度に締め上げながら、ゆっくり言い聞かせる。
「この世界はね、どうしても詰んでいるんだよ。 実際に24万回近く見てきたあたしが言うんだから間違いない。 あたしが介入しようが介入しまいが関係なくね。 人間はこのままだと、確実に滅びる。 未来の可能性は、0%なんだよ」
「……っ!」
「だからあたしは手段を選ばない。 あの双子を育てきれば、ひょっとしたら那由多以下かも知れないけれど、人間を生存させる可能性が出てくるからね。 まああたしだけ生き残るのは容易だけれど」
手を離し。
落ちたルーシャは、受け身も採れなかった。
激しく咳き込むルーシャに、言う。
ルーシャは爆弾を取りだすが。
そんなもの、指を鳴らすだけで、世界から消失させた。
唖然としているルーシャは。ソフィーの言葉を、硬直したまま聞く。
「なんでルーシャちゃんを洗脳しないと思っているのかな? そうやって無様にあがいてくれればあがいてくれるほど、双子は此方のもくろみ通りに動くからだよ。 あの双子の側には、客観的に双子を見られる「普通」が必要なの。 そしてルーシャちゃんはその「普通」にもっとも適している。 貴方はね、双子の守り手だけれども。 あたしにとっては都合の良い道化なんだよ。 これまでもそうだったし、これからもずっとそう」
完全にルーシャの心がへし折れたのが分かった。
顎をしゃくる。
ルーシャの両腕をとり。傘も拾い。
深淵の者の戦士達が、ルーシャを連れていった。
敗北感に打ちのめされていれば良い。
どの道、あの娘は、双子を守るという選択肢以外がない。ならばファルギオルと、双子と一緒に戦うしかないのだ。
その後もコントロールは容易である。
守るものがある人間は。強くなることもあるが。その一方で、巨大な弱点も出来るのだから。
さて、計画は次の段階に移る。
今まで準備してきた次以降のエサは、そもそも双子にぶつけられなかった。それらも、順番にぶつけていく段階に来た。
そして双子が賢者の石を作った時。
世界に超越級の錬金術師が五人揃い。
世界の詰みを打開する可能性がようやく生じる。
この世界の未来。
ソフィーは深淵から、それを作る。
(続)
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