時の止まった要塞

 

序、入り口へ

 

分かりきっていた。

絵の入り口からして、既に強烈な拒絶があったのだ。簡単に中には入れる訳なんか無いという事は。

だが、実際に。

どうにか絵からの排除斥力を何とか中和できて。

絵の中に入って最初に見たのは。

要塞だった。

雷が落ちる中、巨大な城塞が。それこそアダレットの王都を上回りそうな城壁に守られた城塞が。

其処にはそびえ立っていた。

勿論扉は頑強に閉まっている。これは骨だぞと、フィンブルさんがぼやく。城壁の上からは殺気も感じる。

今回は、アルトさんとルーシャが一緒に来てくれている。

パイモンさんは雷の専門家という事もあり、プラフタさんのお手伝いだ。

リディーは、スールと一緒に、まずはこの城壁を突破するか。城門を開けるか。どちらかを、試すしかないと判断はしたが。

何から手をつけて良いか、分からなかった。

まずそもそもだ。

此処にネージュの残留思念がいるとして。

不思議な絵というものが、描いた人間の心を映すことは、今まで入った絵で嫌と言うほど分かっている。

つまりこの絵も同じ。

この絵は、徹底的に外の人間を拒絶する造りだ。

ネージュの怨念が立ち上るかのようである。

そして、怨念を責める資格なんて誰にも無い。

誰もが出来ない偉業を達成した。

文字通り国も、多くの人達も救った。

ネージュがいなければ、アダレットは滅びていた。

それなのに、アダレットがネージュに何を報いた。ネージュが怒るのも当たり前の話で、謝って済まされる問題でも無い。

文字通り、全てを賭けて戦っただろう。

守る価値があると思って、戦ったはずだ。

それなのに、守る価値なんて無かったのだ。

ここに入る準備をしているときに。ネージュに関する資料は見てきた。本当に、「普通の人間」が如何に醜悪かを、思い知らされ。そして恥ずかしくなるばかりだった。リディーもスールもそうだったのだから。

マティアスさんの話では、迫害を主導したのは腐敗した文官達だったという事だけれども。

実際には、ネージュのアトリエの周辺の住民は。

雷神を倒した直後から、今まで散々助けて貰ったネージュと口を利くことも避けるようになったと言う。

しかも、ネージュを冒涜するような「史書」の記述も山のように見られる。

自分達の蛮行を正当化するために。

「正式な歴史書」にて、ネージュを悪者に仕立て上げたのだ。

素行が悪かっただの。

増長して国を乗っ取ろうとしただの。

好き勝手なことが書かれていて。

思わず本を破りそうになった。

でも、本を焼く人間は人を焼く人間だ。そう、ネージュを迫害した連中と同じように。だからそんな事はあってはならない。

「スール、暴力以外で、とにかく進む事を考えないと」

「うん。 暴力で無理矢理此処を突破したら、きっとネージュの抵抗はどんどん激しくなるね」

「おいおい、そもそも物理的な壁があるのに、どうしろっていうんだよ」

マティアスさんがぼやく。

アンパサンドさんが咳払いした。

「まず具体案を。 騎士団の備品から、攻城櫓でも持ち込むのです?」

「攻城櫓……ううん、ちょっと待ってください。 今考えます」

「雷神を三傑が抑えてくれているといっても、そもそも異常な雷雨で、農作物も大きな打撃を受けているのです。 もたついている時間はないのです」

「……」

その通りだ。

だが、一つずつ解決していかなければならないのも事実なのである。

頭を下げる。

「ごめんなさい。 みんなの知恵を貸してください。 私とスーちゃんだけだと、多分この先、どう進めば良いか分からないです」

「……分かりましたのです」

「俺様に頭脳労働を期待するなよ……」

「殿下、そういう事をいうものではない。 意外な発想が、意外な突破口を開くこともある」

フィンブルさんのフォローは流石だ。

とにかく何もかも堅実で。

堅実だからこそ地味で強い。

アダレットはこの人を正式に騎士として雇って、部隊長を任せるべきではないかとリディーは思う。

アルトさんはによによ見守っているだけ。

ルーシャが、まず咳払いをした。

「ええと、ものは試しです。 相手と意思疎通を出来なければ、そもそも何も始まりませんわ。 呼びかけてみては」

「じゃあ、まずはやってみようか……」

気は進まないようだけれど、声が大きいスールが前に出る。

そして、リディーが耳打ちした通りに喋る。

「えーと、ネージュさん! 話をしに来ました! せめて、顔だけでも見せてくれませんか!」

返事無し。

まあそうだろう。

だから、話を続ける。

「雷神ファルギオルが復活して、アダレットが大変な事になっています! あなたの力をお借りしたいんです!」

知るか、といわんばかりに。

帰ってくるのは沈黙である。

まあそれもそうだ。彼女が受けた仕打ちを考えれば当然だろう。

だが、ネージュの残留思念がいるなら、此方の意思は伝わっているはず。この中でどんな姿になってどう過ごしているかは分からないが。聞こえてはいるはずだ。

多分ネージュは、この絵そのものになっている筈。

ネージュは不思議な絵画の描き手だったという話だし。

後でマティアスさんから聞いたのだけれども、この絵は晩年書かれたもの、だということだ。

だったら不思議な絵画の性質を理解していた可能性が高く。

恐らくは、あらゆる意味で引きこもるために、この絵を作成した可能性がある。

残留思念とはいうけれど。

アンフェル大瀑布の中で見た人達は、みんな生き生きと笑って暮らしていた。

あの悪習さえなければ。

あそこは、少なくともアンフェル大瀑布の住人にとっては過ごしやすい場所の筈だ。

世界から拒絶されたネージュが。

せめて、安らぎを求めて作り上げた城が此処なのだとすれば。

嫌でも侵入者には気付くだろうし。

何よりも、侵入者に呼びかけられたら、声も聞こえるはずだ。

スールにもう少し呼びかけて貰うが。

返事は無い。

要塞に、変化もなかった。

アンパサンドさんが嘆息。

「やむを得ないのです。 強行突破は止めた方が良いと言う事ですし、この城塞の周囲を探るのです」

「うちの王城より堅固そうだな……」

「多分実在したら、世界最強の要塞なのです」

「これだけで、俺様もう生きて帰れる気がしないんだけど」

肩を落とすマティアスさん。

どうやらレンプライアはいないようだし、二手に分かれる。アンパサンドさんとルーシャとオイフェさんは、周囲を偵察して貰う。

アルトさんはマティアスさんとフィンブルさんとともに、此処に残って貰う。もう少し、試行錯誤して見たいからだ。

ともかく、シールドが張られている可能性がある。

城壁を乗り越えたいが。その前に調査の必要がある。

まずは試してみる。

荷車の中にロープがあるので、それを出す。

その先に石を縛り付ける。

そして放り投げて、ロープを城内に。

しかしながら、案の定。

ボンと凄い音を立てて、石が吹っ飛び。

力なくロープが落ちてきた。

これは、無理矢理壁を登って侵入しても、多分あの石のように、吹き飛ばされてしまうだけだろう。

「あちゃー。 入るときに使った奴を試してみる?」

「今、石を爆破していただろう。 斥力とはまた別だねこれは。 恐らくは、爆発反応装甲という奴だ」

「爆発……なんですかそれ?」

「何かがぶつかった瞬間に、爆発する事でダメージを軽減する防御機能の事だよ。 高度なシールドには、たまに魔術として組み込まれている事があるんだ」

スールがアルトさんに気安く聞いてくれるおかげで、ある程度助かる。リディーは頷きながら考える。

やっぱり、どうにかして。

この城門から、招き入れられないと駄目だ。

外への拒絶は当然で。

無理に入ったら。

それこそ、とんでもない番犬でもけしかけられかねないからである。

城壁におそるおそる触ってみる。

城壁そのものは大丈夫だ。

城門は。

不意に、スールが手を伸ばして、リディーを引き戻す。

青ざめていた。

スールのこの反応。

勘で何か危険を察知したのだろう。

頷くと、城門に、おそるおそるその辺で拾った棒を伸ばして見る。

そうすると、城門から無数の棘が出て。

棒は瞬時にバラバラになってしまった。

ぞっとする。

背筋が凍る。

もしもスールが気付かなかったら、リディーは今頃、穴あきチーズだった。

「あ、ありがとうスーちゃん」

「それにしてもこれ、筋金入りだね。 マティアス、どうする?」

「俺様に聞く!? わかんねーよこんなん……」

「ふふ、仲が良いことだ」

程なく、アンパサンドさん達も戻ってくる。

城壁は完璧。場所によっては掘まであり。堀の中にはどう見ても肉食としか思えない巨大な魚がうようよ泳いでいたという。

その一方で、レンプライアは存在しないともいう話だった。

「城壁も強行突破は無理。 そもそも強行突破なんかしたら、ネージュがへそを曲げるのは確定なのです」

「参ったなあ。 せめて顔だけでも見せてくれれば」

「騒いでみるのはどうだ」

フィンブルさんが提案。

静かな世界が急に騒がしくなれば、興味くらいは惹けるかも知れない、というのだ。

確かに一利ある。

でも、リディーは考える。

何だか、嫌な予感がするのである。

ただ、時間がないのも事実。

ファルギオルがいつ戻ってくるか分からないし。

騎士団がまだ体勢を整え切れていないのも事実なのである。

もたついている暇はない。

何とかしないと。

「マティアスさん、呼びかけて貰えますか」

「え、だからなんで俺様!」

「いや、アダレット王家の人間が来たと思ったら、ひょっとしたらネージュも意識を向けてくれるかも知れないですし」

「おいおいおい……」

真っ青になるマティアスさん。

リディーが見たところ、今まで発動しているのは、全て自動トラップだ。そもそも、ネージュは此方が侵入していることに気付いていても、関わろうとさえ思っていない。

負の感情でもあっても。

相手に意識を向けて貰うには。

恨み重なるアダレット王家の人間が呼びかけるのが一番良いはずだ。何か、反応を引き出せる可能性が高い。

ただ、その反応が激烈になる可能性が高いので。

ルーシャにもシールドを展開して貰う。

リディーも、勿論シールドを展開した。

説明をすると、真っ青になっていたマティアスさんは、頭をかきむしりながら言う。

「分かったよ、分かりましたよ! 元々首を差し出すつもりで来てるんだ。 それくらいはしますよもう!」

「可能な限りは守るから、頼む殿下」

「ああ、分かってるよフィンブル。 骨くらいは拾ってくれよ……」

「マティアス、頑張って」

おや。

スールが少しずつマティアスさんへの評価を上方修正している事は知っていたけれど。こんな声を掛けるほど、意識が変わってきていたのか。

マティアスさんが呼びかける。

「えー、俺はアダレット王家の第二位継承権を持つ、王子マティアスだ。 200年前に先祖が犯した度し難い蛮行を謝罪するために此処まで来させて貰った。 せめて謁見だけでもしていただけないだろうか、賢者ネージュ」

「……」

「罪を償いたいとも思っている! どうか、姿だけでも見せて欲しい!」

マティアスの呼びかけにも。

沈黙だけが帰ってくる。

駄目か。

ならば、どうすればいいだろう。

そう考えた、矢先だった。

大地が揺れる。

勿論此処は不思議な絵画の中だ。外で地震が起きた訳では無いだろう。どうやら、予想通りの展開になったらしい。

「帰れ」

一言だけ、声が聞こえた。

幼い女の子の声だった。

そして、気付くと。

皆、絵の外に放り出されていた。

がっくりするマティアスさん。

アルトさんは、けらけら笑っていた。

「はっはっは、これはお冠のようだ。 ネージュを敢えて怒らせて様子見をしようという判断は間違っていなかったと思うが、向こうは予想以上に怒っているようだね」

「いや、予想よりは怒っていないと思います」

「ふうん。 リディー、理由を聞かせてくれるかい?」

「もし本気で怒っていたら、多分ミンチにされていたと思います。 少なくともシールドに対して直接攻撃はあった筈です」

実のところ。

リディーは、アルトさんが実力を殆ど出していないと疑っている。スールもそう思っている様子だ。

あの状況。

もしも最悪の事態になっていたら。

アルトさんも動かざるを得なかった。

「マティアスさん、もう一度お願いします」

「ええっ!?」

「ネージュは反応しました。 そして、多分思ったよりは怒っていないと思います。 首を寄越せとは言わない可能性が高いです」

「……だから、呼びかけ続けろと」

頷く。

大きな溜息をマティアスさんがつく。

これは、何度も何度も絵から放り出されるのを、覚悟しなければならないかも知れない。

今までに入った不思議な絵画とは格が違う完成度だと言う事は分かりきっていた。だけれども、此処まで侵入者への介入力が強いとは。

ともかく、まずは絵に入る所から。

これは、自動トラップを何とか無効化して、先に進める。

問題は此処からで。

物理的に塞がれている場所を。

どうしようもないのである。

トラップだったら、何とか出来るかもしれないけれど。

この先は下手をするとプラティーンで出来た壁、といっても良く。

しかもそれを無理矢理に壊したら、絶対にネージュは口を利いてなどくれるはずがないのである。

ファルギオルを何とかするためにも。

ネージュに話は聞かなければならない。

心底嫌そうな顔をしながら、またマティアスさんが城壁の前に立つ。ルーシャとリディーがシールドを張る。

他の皆は、周囲を警戒して貰う。

どんなことが起きるか分からないからだ。

「200年前の王家の者達の不始末については、良く知っている! まず謝罪をするだけでも許して欲しい! 直接顔を合わせて話したい! 賢者ネージュ、顔を見せて貰えないだろうか!」

「……」

マティアスさんは、苦虫を噛み潰しているようだったが。

やがて、流れるように綺麗な動作で。

土下座していた。

「お願いします!」

しばしの沈黙の後。

城門が開く。

呆れたような声が帰ってくる。

「ファルギオルに余程苦労しているようね。 勝手に入ってきなさい」

やはり幼い女の子の声だ。

確かネージュは享年50歳代だったと聞いている。この声は、どういうことなのだろう。

ともかく、招かれたのだから、強固な要塞の中に入る。

マティアスさんは、顔をハンカチで拭きながら、何度もため息をついていた。

 

1、凍結した時の宮殿

 

城門を抜けると、一旦広い空間に出る。

城の基本。

内部は迷路。

入り口は、四方八方から攻撃できる仕組みになっている。

驚いたのは、鎧を着た人影が無数にいて。

それが、弓に矢を番えていることだ。

広い空間の左右には、立体的に通路が拡がっており。文字通り、四方八方から攻撃を仕掛けることが可能な仕組みになっている様子だ。

レンプライアの姿はない。

或いは、それだけ高度な不思議な絵画、と言う事なのかも知れない。

あれは悪意が形を為したものだと聞く。

ネージュほどの錬金術師なら、レンプライアが生じない不思議な絵画を描くことも、難しく無いのかも知れなかった。

「其処にて止まれ」

高圧的と言うよりも。

嫌悪に満ちた声だ。

いずれにしても、下手な事をすれば一瞬で全員ハリネズミだ。これでは、動きようがない。

アルトさんだけは余裕綽々だが。

まあこの人は実力を隠しているんだろうし。この程度の戦力差、ひっくり返すのは難しく無いのだろう。

あの鎧達には、中に人間が入っているとは思えない。

錬金術で作り上げた、恐らくは擬似的な生命体と判断して良い。

詰まるところ、ネージュがやれといったら即座に此方を殺しに掛かってくる筈。

正面に、大げさすぎるほどの階段がある。

その上から姿を見せたのは、十に満たなそうな、幼い女の子だった。

黒い髪の毛に、利発そうな目。

ただし、目の中には、強烈な拒絶の意思が宿っていた。

階段の途中で立ち止まったネージュは。

腕組みして、青ざめているマティアスを見下ろす。

「ふうん、あの自称武王の面影が確かにあるわね。 私と騎士団長に全部ファルギオルの対策を丸投げした分際で、多くの騎士が死んだ責任を私に押しつけた低脳のね」

「賢者ネージュ、知っている。 200年前の王は、無能な文官達に国政の壟断を許し、騎士団長にファルギオルと戦う際に全権を与えるまで、随分と判断に時間を掛けたと聞いている。 貴方にもさぞ不快な思いをさせたと思う」

「不快な思い、ですって!?」

笑顔をネージュが引きつらせるのが分かった。

まずい。

リディーにさえ分かる。

相手がキレそうになっている事は。

「ラスティンからの救援の使者を追い返すわ、私に対して散々暴言を吐いたことは別にもうどうでも良いわよ。 暗殺者を送り込んできたことはどう説明してくれるのかしらね、それも十人も」

「暗殺者っ!?」

「さ、流石にそれは聞かされていない。 本当だったら、本当に申し訳ない。 先祖の不徳を、恥じるばかりだ」

唖然としているスール。

まあそうだろうなとリディーは思う。

迫害、というのが。周囲の人間達によるものだけだとは思えないのだ。

王都を追い出され。

そして寂しい余生を送ったと聞くが。

功労者に対して、そのような行動を行う王である。

どうせファルギオルを倒したネージュを怖れて。

消そうとしたことだろう。

暗殺者十人は、むしろ少なかったと思う。

これ以上やったら、キレたネージュが攻めてくるとでも思ったのだろう。

ネージュが指を鳴らすと。

凍り付いた生首が、十個。落ちてきた。

ルーシャがひっと小さな悲鳴を漏らす。

リディーも、吐き気がこみ上げてきた。

凄まじい形相をした暗殺者達。

匪賊崩れらしい者から。

騎士だったろう者まで。

顔ぶれは様々だが。

これは、罪の証だ。

「それだけじゃあない。 王都にいた私の親戚や一族が「不審死」したけれど、あれもお前達の仕業でしょう」

「恐らく、そうだと思う。 返す言葉も無い」

「そうか。 今日はならば帰れっ! これだけの事をしておいて、まだ何か話そうというのであれば、それはもはや人とはいえないわね」

ネージュが手を振ると。

鎧の人影達が、威圧的に弓矢を引き絞った。

此処は、一度引き上げるしかない。

アンパサンドさんが、ささっと生首を回収していた。ネージュは、とにかく冷たい目で、此方を見下ろしていた。

「其処の三人」

「は、はいっ!」

「何ですかっ!?」

「アダレット王家なんかに仕えていると、いずれ私のようになるわよ」

ネージュの姿が消える。鎧達は、いつしかけてくるか分からない状態。これでは危険すぎる。

一旦、絵から出た。

城門はもう閉じてはいなかったけれど。これは、積極に手間暇がとても掛かりそうだ。呼吸を整えながら、エントランスで話をする。

アンパサンドさんが、先に切り出した。

「この首、持ち帰って調べるのです。 防腐の魔術を掛けた後、アダレット王家の記録と照合するように、申請するのです」

「あ、それ俺様がやるよ」

「……」

「本当だって! 気味悪いけど、仕方が無いだろ」

アンパサンドさんから、生首十個が入った袋を受け取ると、マティアスさんは頭を下げる。

「すまん。 ほんっとうにすまん。 ネージュに対して先祖がやったことで、本当に迷惑を掛ける」

「マティアスさんのせいじゃないですよ」

「うん……こればっかりは、そうとしかいえないね」

もう一度頭を下げると。

マティアスさんは、アンパサンドさんと先に戻っていった。

フィンブルさんがため息をつく。

「これは骨だぞ。 まず信頼関係を構築しないと、話どころでは無いが……相手との交渉が成立する状況じゃあない。 あの雷神の力は俺も間近で見たから、それを倒したネージュに恐れを抱くのは分からないでもないが、どうしてこう無能な為政者というのは、最悪の手だけを選んで打つのか……」

「ネージュについては、実のところラスティンから声が掛かっていたという記録もあってね」

アルトさんがいう。

あれ。

そういえば。

ネージュは、「三人」といった。多分リディーとスール、それにルーシャだ。アルトさんは、ネージュと面識があるのだろうか。

まさか。

いや、この人の得体の知れなさを考えると、あっても不思議では無い。

「恐らく当時のアダレット王は、ネージュがラスティンに回って、アダレットに敵対行動をとることを恐れもしたんだろう。 馬鹿な男だ。 何でもかんでも自分の基準で考えるからそうなる。 記録に残るネージュは物静かな優しい女性で、錬金術に関しては優れていたが、周囲が気味悪がるほど野心を見せない人物だったというのにね」

「アルトさん、すごく詳しいですね」

「本人に会ったことがあるみたい」

「ははは、さあね。 それでは一度引き上げよう。 いずれにしても、今日もう一度行っても、ハリネズミにされるだけだ」

それは完全に同意だ。

しかし、スールが突っ込んだように、やはりアルトさんはネージュに対して詳しすぎる。やっぱりこれ、本人と面識があるのではないのか。そして、アルトさんは、アダレット王家に干渉されないだけの力を持っていると判断するべきなのか。それこそ、「三傑」のように。

不意に、あのソフィーさんの恐ろしい笑顔を思い出して、背筋が凍りそうになる。

促して、解散。

帰り道、ルーシャとスールと、リディーは三人で歩いた。身体能力の強化もあるし、もう荷車の手伝いはして貰わなくても大丈夫だ。外は雨が激しいが、今回は殆ど収穫もない。油紙を直す必要もなかった。

雨の中、ルーシャが言う。

「賢者ネージュ、とても寂しい目でしたわ」

「ルーシャ、何か打開策はありそう?」

「錬金術を極めると、どうしても人間からどんどん離れていく。 そう聞いたことがありますけれど。 ネージュは人のまま、力を得る事が出来た。 それが却って、不幸だったのかも知れませんわね」

「……」

人のまま力を得ることが、不幸。

確かにそうなのかも知れない。

ともかく、これから作戦会議だ。

ルーシャとも別れて、アトリエに。

軽くスールと話す。

スールは腕組みする。

「それで、どうしよう。 道具でどうにかできる状況じゃないし。 あれだけ怒らせてると、ねえ」

「まず、マティアスさん達の分析結果を待とう」

「それもそうか。 本当に暗殺者を送り込んでいたのだとすると、それに対して話が出来るもんね」

「それと私、これから教会に行ってくる」

スールは頷くと。

調合して、爆弾やお薬を増やしておく、と言っていた。それは助かる。消耗品を日頃から増やしておけば、いざという時にすぐに動く事が出来るからだ。

スールは最近、黙々と調合をする。

昔はまた上手になったとか、馬鹿な自画自賛をしていたのだけれど。

最近はそんなこと、絶対に口にしない。

多分だけれど、思い知ったからだと思う。

自分が如何に未熟で、バカだという事を。

リディーもそれは同じだ。

教会には、多分怖がっているだろう子供達のためにも、お菓子を持って行く。いずれも余ったお金で買った出来合いだけれど。

教会で暮らしている子供達は、みんな訳ありである。あまり贅沢も出来ない。

喜んでくれるはずだ。

教会に着くと、大雨の中。空にシールドを展開して、バステトさんがお掃除をしていた。鋭い目で見られるので、一礼。軽く話をする。

今日は魔術についての相談では無いと説明して。

それから、シスターグレースの所に出向く。

やはり教会の中はひんやりと冷えていた。

流石に現役を退いたシスターグレースは、今回の戦いには出なかった様子だ。或いは、最後の守りとして、王都に残ったのかも知れない。

孤児院の子供達には避難先もない。

誰かが残らなければならないのだ。

「シスターグレース」

「リディー、無事で何よりです。 雷神との戦いは苛烈だったと聞いています」

「はい。 生きて帰れたのが、本当に不思議なくらいです」

自嘲混じりに言う。

実際問題、どうして生きて帰れたのか分からない。

ソフィーさんが助けてくれたという話だけれど。どうやってあの状態から助けたというのか。

しかもファルギオルにお帰り願ったとか。

あらゆる意味で分からないけれど。

とにかく、一つずつ。

片付けていくしかない。

まず、お菓子を渡して。

怖い思いをしている子供達にと、差し入れ。

シスターグレースは、何人かいる手伝いに、子供達に配るようにと指示を出し。

そして居住まいをただした。

ネージュの話をする。

どうすれば、相手が話を聞いてくれる状態になるか。今のリディーでは、少し対応が難しすぎる。

しかも、ネージュはファルギオルを。しかも全盛期のファルギオルを倒した錬金術師だ。リディーやスールが戦った復活したての病み上がりとは違う。どうすればいいのか、分からない。

話を一つずつ進めると。

シスターグレースは、きちんと聞いてくれた後。

順番に話をしてくれた。

「まず第一に、ファルギオルとの戦いにネージュの知識が必要であるという事と、ネージュとの対話を行う事は、切り離して考えましょう」

「……っ!」

「良いですか、今焦ると、恐らく次の戦い……ファルギオルの次の攻勢に対して、対応が間に合わなくなります。 まずは窮状を訴えるのでは無く、ネージュに対して相手の不満を解消することから始めなさい」

なるほど。

まずネージュは、そもそもとして、アダレットに対して徹底的な恨みを持っている。

強大な心の壁も同然の、あの要塞を見ても明らかだ。

誰もいないところで。

静かに過ごしたい。

それがネージュの望み。

そして恐らく、ネージュは誰も必要としていない。

それはそうだろう。

アダレットは元々、武門の国と自称していた国家だ。ヴォルテール家を除くと、錬金術の家系も殆ど無かったと聞いている。

それならば、ネージュを懐柔するとき。

アダレットがどんな手を使ったのかは、大体想像がつく。

恐ろしく腹立たしい話だが。

今まで孤独に錬金術をしていて。黙々と自分に出来る範囲での人助けをしていたネージュに対して。

それこそ、今まで味わったことがないような「優しさ」をぶつけたのだろう。

孤独に生きてきた人だ。

それに対して、少しでも報いようと考えてしまっても、おかしくは無かった。

そして、それが嘘だったと、すぐに悟らされる事になる。

生涯の研究だっただろう不思議な絵に関する技術。

多分ファルギオルを仕留めた技術だ。

それを利用されるだけ利用され。

用済みになったら捨てられたのだから。

先代の騎士団長が怒るのも無理はない。

今、先代の騎士団長に接触する手段は無いから、その辺りはマティアスさんやアンパサンドさんに聞くしか無いとして。

それを、どうにかしない限り。

まず、ネージュを翻心させることは無理だ。

そもそも手酷い裏切りを受けているというのなら。

どうにかして、その不審を取り除かなければならない。

リディーとスールは。

大丈夫なのだろうか。

正直な話、ミレイユ王女は怖い人だ。

リアリストでもある。

だけれども、あの人は無能じゃあない。

アダレットが、長年のツケをため込んでいて。

錬金術師に頼らなければ、どうにもならなくなっていることくらいは理解出来ている筈である。

少なくとも、今のアダレット王室は信用できる。

そこから、攻めるしか無い。

「分かりました。 それで何とかしてみます」

「それとリディー」

「はい?」

「少し、心に陰りが見えます。 大丈夫ですか?」

見抜かれた。

生唾を飲み込む。

リディーも分かっている。最近、何だか周囲から、かすかに変な声が聞こえる。心に、黒い染みも広がり始めている。

「……分かりません。 でも力がなければ、何もできません。 この闇みたいなの、錬金術が出来るようになればなるほど、拡がるような気がします」

「そう、ですか」

「失礼します」

頭を下げる。

子供達とは、どうしてか、今日は。

顔を合わせたいとは思わなかった。

 

アトリエに戻る。

スールは調合を進めていて、爆弾だけではなく、インゴットも作っていた。そろそろプラティーンを作れという話も鍛冶屋の親父さんにされたと聞いている。確かに、先をどんどん目指していくべきだろう。

スールはなんというか、一度やった事を繰り返すのが上手だ。

新しいものを思いつくのは、リディーの方が得意なのだけれど。同じものをどんどん上手に作っていくのは、スールの方が上かも知れない。

理屈さえ理解すれば、どんどん作る物の質を上げていくので。

スールは自分が理解していない強みをいつの間にか手にしているとも言える。

ただ本人はそれに気付いていないようだし。

敢えて触れないことにする。

スールは錬金術について、相当苦しんでいる。

だから、リディーが下手な事を言わない方が良い、と思うのだ。

「リディー、どうだった?」

スールが、炉から赤熱したインゴットを取りだしながら聞いてくる。

シスターグレースに言われた事を応えると。

なるほどと、スールはいうが。

本当に何か案があるのだろうか。

ともかく、三日後にまたネージュの要塞に出向く事にする。それは決めておく。今日中に、手続きなどは済ませておく。

移動中などに、色々考える。

ネージュはどうして子供の姿になっていたのか。

多分だけれども。

大人の世界が腐りきっているから、嫌になったのだろう。

その辺りは、正直分かる。

腐り果てた人間がどうなるかは、匪賊という実例を見てよく分かった。

最終的に、腐りきった人間はああなる。

そしてネージュは。

全ての人間が、ああ見えている。

だけれども、錬金術師に対しては、同情的な言葉を向けてきた。それを考えると、錬金術師の話は聞いてくれるかも知れない。

今度はマティアスが前に出るのでは無く。

リディーが話をしてみるか。

王城で手続きを終わらせて。

ちょっと怖いけれど、フィンブルさんのいる酒場にも顔を出す。

帰り道、イル師匠のアトリエを覗いてみたけれど。

やはり帰っていない。

前線でファルギオルを抑えてくれているという話だけれども。あんなのを、本当に抑えられるのか。

しかし、あのソフィーさんという人の。

炸裂するような圧迫感を考えると。

出来ても不思議では無い。

三傑などではない、ということはわかった。

フィリスさんも怖かったけれど。

ソフィーさんの恐怖は、何というか次元がもう違っていた。多分ソフィーさんより怖い生命体は存在しないと思う。

でも、それでも。

ともかく、急がなければならない。

ファルギオルを倒す。

アダレットは、そうしないと滅ぶ。

はっきりいって、今は「普通の人間」が如何に愚かかは、リディーも身に染みて分かっている。

自分がそうだったのだから。

でも、アダレットには、尊敬できる人もいる。

そんな人達を死なせる訳にはいかない。

それがリディーの本音だ。

アトリエに戻る。

雨を拭っていると、スールが言う。今度は、お薬を作っていた。

「リディー、次の最初、スーちゃんに話させてくれる?」

「うん、良いけれど。 何を話すつもり?」

「あの人……ネージュさん。 きっとだけれど、錬金術師にはある程度は心を開いてくれると思う」

「その結論は同じだね」

そうなると。

ある程度、話すのが好きなスールの方が向いているか。

「でも、何を話すつもり?」

「それなんだよね。 今考えてたんだけれど、ネージュさんへの迫害、アダレットの人がみんな荷担したも同じなんだよね」

「うん。 だからアダレットの人達のために、何て口にしたら、多分その場でキレられると思う」

「ちょっと今晩中に、どうやって攻めるか考えよう」

頷く。

スールは、理解さえすれば、きちんと話を順序立てて組み立てられる。

それから調合をしながら。

どうやって鉄壁の牙城を崩すのか。

一晩、ずっと話しあった。

 

2、アダレットの闇

 

エントランスに集まる。前回と同じメンバーである。パイモンさんはまた前線にお呼ばれが掛かっているのだろう。イル師匠やフィリスさんはずっと対雷神ファルギオル。そしてソフィーさんも。

代わりの監視役として、アルトさんが来ていると見て良い。

まず最初に、皆が集まってから。

口を開いたのは、マティアスさんだった。

「色々調べてきた。 先代騎士団長にも会ってな。 そうしたらもう、本当にろくでもない事ばっかり分かって俺様泣きそう」

「殿下、情けない事を言われるな」

「ああ、分かってるよもう。 まずあの暗殺者の首だが、ネージュが言う通り本物だったよ。 半分は匪賊に魔術で強化を施し洗脳した奴。 残るのは、騎士の中で汚れ仕事を担当している奴だった。 魔術で解析して分かったんだが、何人かは先代騎士団長が覚えてた」

「うっわ、最悪……」

スールが言うが。

面目ないと、マティアスさんが頭を下げる。

普段だったら、スールに言い過ぎだと咎めたかも知れない。

しかしながら、正直リディーもこれに関しては完全に同意見だ。アダレットは、ネージュに対して責任をとらなければならないだろう。

ファルギオル撃退の最大功労者に対して。

何一つ報いなかったのだ。

その報いを受けるのは当たり前である。

何かをして貰ったら、報酬を払う。

子供ですら知っている事を。

国家という最大単位がしなかったのだ。

それどころか、恩に対して仇で報いた。

そんなんじゃあ、アダレットがおかしくなるのも、当たり前だと言えた。先代騎士団長は良識的な人物だったと聞いている。さぞや宮廷内の愚かな「普通の人間」達には、頭を痛めていたに違いない。

「いずれにしても、公式の謝罪はネージュにするのです」

「ああ、分かってる。 それに、ネージュの親戚関係の不審死だが、これもやはりアダレット王家が……正確には実行犯は、当時の文官の権力者何人かだ。 ネージュの少ない親友達をはじめ、ネージュに必ずしも好意的では無かった両親、兄、妹、従兄弟まで殺されている」

「何それ、無茶苦茶だよ!」

「ああ、無茶苦茶だ。 ネージュはヴォルテール家の遠縁で、先代騎士団長はヴォルテール家を守るので精一杯だったようだ。 ネージュの一族を消した連中は、ヴォルテール家まで潰そうと考えていたようだが、もし実行されていたら、もうアダレットは存在していなかったかも知れないな」

それはそうだ。

ネームドの戦闘能力と、騎士達の実力。

それだけでも、あれほどの差があるのだ。

錬金術の装備と、錬金術師がいないと、上位のネームドには到底対抗できない。それも、手練れ。今のリディーやスールより格上の、最低でもパイモンさんくらいの実力がないと話にもならないだろう。

バトルミックスというインチキが使えるから、リディーとスールは火力を出せているだけで。

今でも、周囲にいる錬金術師はみんなリディーとスールより格上だ。

そのくらいは。

幸い、現在は。正確に把握できている。

「ただ、不可思議なこともあってな。 それらの行動を行った文官達が、直後に全員不審死を遂げている。 魔術などの痕跡も無し。 錬金術排除を声高に叫んでいた連中は全員が消えた。 先代騎士団長はそれで勢力を盛り返し、どうにかネージュのこれ以上の攻撃を辞めさせるのと、ヴォルテール家への保護を成功させたようだ」

「……」

あれ。

アルトさんが、懐かしそうに目を細めているのを見てしまった。

何だか、見てはいけないものを見たような気がする。

スールは気付いていない様子だし、藪蛇になるから口にはしないけれど。

それでもこれは、色々とあらゆる意味でおかしな事になっている。アルトさんが何者かは分からないが。

ひょっとしてこの件。

ネージュの側について、何かしていたのではないのか。

だけれど200年も前だ。

アンチエイジングの技術については聞いているが。

それにしても、度を超している気がする。

「それについても、俺様からネージュに正式に謝罪するつもりだ。 首を寄越せと言われれば、そうする。 お前達はどうだ」

「……ネージュと話していて気付いたんだけれど、ネージュはスーちゃん達とは会話してくれたんだよね。 それで、ネージュに、力を貸して欲しい、と言う事と。 話をして欲しいと言う事を、分けて話をしてみようと思うの」

「要するに困っているから力を貸してくれとはいわないのだな」

「うん、フィンブル兄」

スールはちゃんと理解出来ている。

フィンブルさんも、この辺りは理解が早くて助かる。この人は戦士たれと心がけている人だけれども。

或いは、戦士の規範たれと考えて。

余暇で色々と勉強をしているのかも知れない。

獣人族の方がヒト族より真面目だと聞いた事があるが。

その成果なのだろう。

「分かった、それについては任せる。 兎に角、一秒でも時間が惜しい。 ネージュと話すのは、多分俺様じゃあ無理だろう。 スー、頼んで良いか」

「うん、分かった。 悪いのは全面的に此方だって、認めても良いんだね。 後でスーちゃん達も、余計な事をしたとかで、アダレットに処分されたりしないよね」

「そんな事、出来るわけが無いから安心してくれ。 今、ただでさえ三傑がこっちに来てるんだぞ。 三傑の実力は、一人ずつでもアダレット全軍より上って言われるくらいなんだ。 彼奴らの機嫌を損ねるような度胸は、流石に姉貴にだってねーよ」

「分かった。 信じるからね」

はあと、ルーシャがため息をつく。

ヴォルテール家の関係者であるルーシャとしては、とても気が重いのだろう。下手をすると、ルーシャは今頃存在していなかった。それがよく分かったのだから。

そして恐らくだけれど。

嫌な事ばかり思い当たってしまう。

多分だけれど、騎士団と関係強化を行うことで。

ヴォルテール家は生き残ったのだ。

アダレットにネージュの関係者が皆殺しにされる中。

ヴォルテール家だけをどうにか騎士団が守れたのも。

先代騎士団長が、文官達と対立していた、というだけではない。

騎士団とのパイプが太く。

騎士団が本気で反抗したら、対応出来ないことを知っていたからなのだろう。

ただ、それでも騎士の一部が暗殺者に仕立てられていたことを考えると。

騎士団も当時から一枚岩ではなかったに違いない。

アンパサンドさんは無口のままずっと口をつぐんでいる。

苛立っているのは明らかだった。

だけれど、不意に言った。

「リディーさん。 勘違いしているですよ。 あくまで自分は、自分の運命を自分で掴むために力を得て、騎士になったのです。 騎士団長を尊敬しているからとか、先代騎士団長を尊敬しているのが理由ではないのです」

「えっ、そうなんですか」

「あ、ああ。 前にアンに聞かされたよ。 この理不尽な世界と戦うために騎士になったってな。 それが一番現実的な方法だったんだと」

「そういう事です。 騎士団に入ってみて腐敗しているようだったら、多分傭兵になっていたのです」

そうか。

今の騎士団は、この気むずかしい人が、満足する程度にしっかり回っている、と言う事なのだろう。

いずれにしても、実力の無い人が騎士を気取っている様子はないようだし。

マティアスさんにしても、捨て扶持で与えられているのは騎士一位。隊長でも副団長でもない。

騎士団では、実力主義が第一で。

それでアンパサンドさんも、ホムで騎士になったと言うことで、相応に周囲から尊敬されているのだろう。

とはいっても、騎士団内部での扱いがどうなのかはよく分からない。

今のアンパサンドさんの実力から言って、騎士一位になっていないのも、或いは何か後ろ暗い事情があるのかも知れなかった。

話を他にも幾つかし。

打ち合わせを済ませると。

ネージュの要塞の絵に入る。

城門は開いている。

内部に入ると、前回とほぼ同様の状況になった。

弓矢を構えている、無数の人型。

そして、腕組みして、階段に立っている幼い姿のネージュ。

スールに目配せ。

頷くと、スールが前に出た。

「ネージュさん! 色々調べてきました! 貴方の言ったとおりでした! アダレット王家は、公式に謝罪をしています!」

「公式に謝罪ね」

「アダレット王家の王位継承権持ちとして、何でも謝罪は受けるつもりだ。 首を寄越せというのなら、今この場で刎ねてくれ」

「お前なんかの汚い首なんかいるか! 私の宮殿が汚れるわ」

ネージュが突っぱねる。

ただ、これは好機ではある。

マティアスさんを殺さなくてもいい、という事になる。

まずは、一段階だ。

それから、順番に。

判明した事実を、スールが告発していく。

実行者についても判明しているので、それについても話をしていった。

具体的な犠牲者の名前と。

殺すように命令した高級文官。

指示を出していた汚職官吏は全員がヒト族で。

ああとしか思わない。

ホムの役人と比べて、ヒト族の役人は我欲を優先してろくでもないという話は今まで聞かされてきているけれど。

実例を見せられてしまうと。

思わず頭を抱えたくなるのは、なんといって良い物か。

「不可思議なことに、この下手人共は全員、謎の不審死を遂げています。 それも皆苦しみ抜いて死んだようです」

「……そうでしょうね」

「?」

「もう良いわ。 とりあえず罪の告発に対する調査はそれくらいかしら?」

ネージュも若干うんざりし始めている。

無言でリディーは様子を見ているしか無い。

ルーシャは傘をいつでも構えて、シールドを展開出来るようにしているけれど。

ネージュが作った不思議な鎧と、それが装備している弓矢だ。

防げるとは、とても思えない。

数、地理、戦力。全てが絶望的だ。

アルトさんが本気を出せば話は違うだろうけれど。

この状況ではどうしようもない。本気を出してくれなんて、口が裂けても言えない。

「本当にすまない」

マティアスが土下座する。

沈黙が場を支配。

ネージュが、溜息をついた。

大きく。

「そうね、私の要求はその事実を史書に記す事ね。 しっかりと。 この絵の中からも、それが行われているかどうかくらいは確認できるわよ」

「……分かった、それが要求であるのなら飲む」

「飲まれても、もう死んだ私の友人や、私を鼻つまみ者扱いしていた家族はどうにもならないけれどもね」

「本当に……すまない」

王族が、此処まで出来るのか。

多分、アダレットの立場上、ミレイユ王女に同じ事はさせられないのだろう。

落としどころという奴だ。

リディーも少し気の毒になって来た。

さて、此処からだ。

少しずつ、ネージュの敵意を削って行かなければならない。

「ネージュさん、話がしたいの。 貴方の記録、殆ど残っていなくて! 今のアダレットは、ラスティンから凄い錬金術師を招いて、しっかりインフラ整備したりしていて、ずっと良くなっていて! スーちゃんやリディーみたいなひよっこにも、補助金を出してくれるくらいはよくなっているの! もっと上手になりたいから、色々お話を聞きたいって思っていて!」

「……」

「話くらいは、聞かせて?」

ネージュの目は冷たい。

此奴は今の状況で、何を言っているんだ。

そう告げているかのようだった。

スールは必死だが。

心に届いているようには見えない。

ネージュが孤独だったら、それはそれである程度つけいる隙があったかも知れない。見た目通りの子供の精神で、それで寂しいようなら、或いは。

だがここは、何もかもに嫌気が差したネージュが、自分が閉じこもるために作り上げた世界だ。

ネージュは大人であると言う事も嫌になった。

周囲に人間がいることも嫌になった。

だからがらんどうのでくの坊をたくさんこしらえて、周囲に配置。

要塞を作って、敵が来るなら押し返す作りにもした。

此処はネージュの安息の土地。

人間であるときは得られなかった、最後の楽園だ。

友人もいたようだが。その友人達も皆殺しにされたネージュにとって。

此処以外に、行く場所なんて無かったのだろう。

或いは、決定的になったのは、暗殺者を送り込まれたことかも知れないが。

それはそれ。

いずれにしても、ネージュの心は。この要塞を見ればみるほど分かってしまう。

「そこのひよっこ三人。 貴方たちだけ来なさい」

「!」

「そこにいるタヌキには残って貰うわ」

「ふふ、僕のことかい」

アルトさんが肩をすくめる。

余裕があるところを見せているが。

実際余裕なのだろう。

あの人は、恐らく三傑に匹敵するか、それに次ぐくらいの実力者。プラフタさんの謎についても教えてくれたし。

多分、この程度の障害。

自力でどうにでも出来る筈だ。

そしてマティアスさん達は人質代わり。ネージュに何かあったら、即座にがらんどうの鎧達が動く、という事か。

要塞の内部は複雑に入り組んでいる。

広い部屋が幾つも開いているが。

いずれもが、よく分からない数式がたくさん浮いていたり。

彼方此方に錬金術の試作品らしい、見た事も無い道具が散らばっていたりした。

それを物言わぬ甲冑達が、黙々と片付けている。

ネージュがそれだけ散らかす、と言う事か。

比較的開いている部屋に出たので、一緒に入る。

ネージュはその間、口を一切聞かなかった。途中、リディー達は順番に名乗ったが、それにも殆ど無反応だった。ただ、ルーシャの名前を聞いたとき、ちょっとだけネージュの目が冷えたが。

ルーシャが少し居心地悪そうに、咳払いする。

「ネージュさん、その。 此処に一人で、寂しくありませんの?」

「余計なお世話よ。 此処に追いやったのは貴方たちでしょう」

「うっ……」

「ヴォルテール家が今まで存続していて何よりだわ。 保身に全力を注いで、文官にも相当な賄賂を送っていたものね。 私の一族が皆殺しにされるのもそのまま黙って見ていたようだけれど、それで助かって今どういう気分? まあ私も、友人達は兎も角、一族には鼻つまみ者扱いされていたから、正直どうでも良いけれどね」

やさぐれている。

そうとしか言えない。

ネージュの心は、本当に閉ざされてしまっている。

見かけ通りの子供だったら、対応は可能だっただろうが。彼女は大人というものをそもそも嫌悪して、子供に戻ったのだ。

子供の姿になったところで。

此方への憎しみを向けていることに違いはない。

長いテーブルに着く。

がらんどうの鎧達が、紅茶を配膳してきた。

普通に暖かくて美味しい紅茶だ。

そういえば、どうしてがらんどうの鎧なのだろう。これもひょっとして、ネージュに対する突破口になるのではあるまいか。

とにかく、少しでも話す事だ。

これは事前に話して決めている。

話をすれば、相手のことが少しずつは分かるようになる。

そうすれば、少しでも理解は出来る。

理解出来れば、相手とも距離を縮められる。

「今、凄い錬金術師がアダレットに来ているといったわね。 どうせ深淵の者関係者でしょう」

「深淵の、者?」

「え?」

困惑してルーシャを見るが。

ルーシャは真っ青になっていた。

口が裂けても言う訳にはいかない、という顔だ。

ネージュはいじわるそうに笑う。

「やっぱりね。 そっちの二人は知らないようだけれど、ヴォルテール家の者ならまあ知っているでしょうね」

「何ですか、その深淵の者って……」

「本当にド素人ね。 そもそも、この世界に二大国なんてものがどうして生じたと思っているのかしら。 各地にいる凶悪なドラゴンや邪神が、どうして食い止められていると?」

「そ、それは……」

そういえば、妙だ。

アダレットの初代王は武王と呼ばれていた豪傑だったとは聞いているが。

そもそも500年くらい前までは、小さな都市が、獣やドラゴンの襲撃に怯えながら、各地に点在しているだけだった、と聞いている。

フィリスさんに聞かされたのだけれど。

そういった都市の残骸が、遺跡になって彼方此方に残っているそうだ。

現在の二大国も、そもそも都市国家の連合政権に過ぎず。

それがどうしてこうも長く続いている。

アダレットの王も、無能な者はさっさと排除されている様子だし。

ラスティンでもそれは多分同じだろう。

「掃除屋がいるのよ。 この世界に秩序を作る掃除屋がね。 通称深淵の者。 ある年月を超越した錬金術師を頂点として、超絶の使い手が揃い。 各地で世界の秩序を築くために暗躍する者達。 アダレットもラスティンも、内部には公認スパイが大勢いて、現時点ではほぼ支配権を握られているとも聞くわね」

「ネージュさんは、どうしてそんな事を」

「あの王子は知らないようだけれども、騎士団と私だけでファルギオルを倒したとでも思っているの?」

「!」

まさか。

とにかく、よく分からない。

ルーシャがそんな真っ青になると言う事は。

余程の組織なのか。

各国に公認スパイを配置するということは。

そうなのだろう。余程凄まじい規模と力を持つ組織、という事になる。そんなとんでもない組織が、存在しているのか。

ぞっとする。

ひょっとして、三傑も。

「今回は比較的余裕があるようだったけれど。 前にファルギオルが攻勢を掛けてきたときには、騎士団が最初の戦いで半減するほどの被害が出てね。 街も幾つも焼き払われていった。 其処で深淵の者も見過ごせないと思ったのでしょう。 私に幾つかの技術提供を。 更にはファルギオルとまともに戦えるほどの実力者を配置してくれたわ。 彼らが、貴方たちにとっては恐らく過去の存在だろう騎士団長と連携して戦ってくれている間に、私は切り札を作った。 そしてファルギオルを封印した」

「倒したのではなく……」

「私の実力では封印が精一杯だったわよ。 まあおかげで彼奴は逆恨みして、今になってまた現れたんでしょうけれど」

茶菓子が出てくる。

とても甘い。それ以上に溶けるように美味しい。

錬金術師として、ネージュが超格上であることはよく分かる。このお菓子も、錬金術で作っているのだろうから。

こんなの、リディーにはとても作れない。

「その様子だと、私が作った切り札については、記録に残っていないようね」

「はい。 すみません……」

「私の時代には、汚職官吏の駆除はしても、アダレットの国政にはまだそれほど派手に食い込んでいなかったようだし。 仕方が無いかも知れないわね。 汚職官吏の不審死、深淵の者によるものよ。 目に余る、世界にとっての害になると考えたのでしょう」

そうか。

そんな恐ろしい組織が存在しているのか。

勿論、外では喋らない方が良いとも言われる。

それはそうだ。

そんな事、おおっぴらに口にしたら。

多分消される。

ルーシャの反応を見ていても分かる。

ルーシャは知っていたと見て良い。

そして、その恐ろしさも。

何かしらの形で、身に染みているのだろう。

深淵の者、か。

世界に秩序を作ってはくれたが。人間に対して、決して優しい組織でもない、というのは確定だろう。

二大国を作り。

ある程度の秩序を作ってくれている。

そして、危険なドラゴンや、邪神も駆除してくれている。

それだけで、どれだけの人達が助かっているか、分からないくらいだ。

しかしながら、その管理は厳格極まりなく。

不要と見なせば即座に消す。

それくらいのことはする組織でもあるのだろう。

震えが来る。

きっとリディーとスールは。

今までネームドの尾の側で、タップダンスを踊っていたに等しい状況だったのだろう。ルーシャはきっと、そういう意味でも心配して、心を痛めていたはずだ。

「今日はもう帰りなさい。 少し頭を整理する時間が必要でしょう」

「……はい」

「ホールで待たせている連中に、深淵の者のことは話さない方が良いわ。 関係者が何人かいるから」

「!」

次の瞬間。

皆、揃って、絵から放り出されていた。

乱暴だなあと、スールが起き上がりながらぼやく。リディーは慌てて、スールに這い寄ると、口を塞いだ。

マティアスさんに、深淵の者って知ってる、とか言い出しかねなかったからだ。

ルーシャもそれを見て、ほっとした様子である。

ネージュの反応からして、確信できたことがある。

アルトさんは。

深淵の者関係者だ。

それも多分、生半可な関係者じゃないだろう。

あの三傑に近いと推察される実力に加え。

あの時。

最初にネージュとあった時。声を掛けられなかった。さっきも、ネージュはアルトさんには声を掛けなかった。

ひょっとして面識があるのか。

あるのだとすれば。最低でも200歳以上。200年前に生まれたとも思えないし、もっともっと年上だろう。

そして、ネージュは言っていた。

関係者が複数いると。

ルーシャも深淵の者を知っていたと言う事は、ある程度の事は分かっていると見て良い。何よりも、そもそもだ。

イル師匠が時間を止めて見せた。

雷神と戦えるような人材を多数有しているような組織となると。

それくらいのことは出来る錬金術師が、多数いると見て良い。

つまり、だ。

今後、どこで何を喋っても。

安全などはない、という事である。

あらゆる全てが把握されている。

そう考えて動かなければならないかも知れない。

これは、恐らくネージュがリディーとスールに掛けた呪いだ。もしも、これを越えて来るのなら。

また話をしてやる。

そういう事なのだろう。

スールも、しばらく不思議そうにしていたが。勘が鋭いのだ元々。ようやく意味に気付いたのか、震え出す。

「どうした、何か聞かされたのか」

「い、いえ。 大丈夫です、フィンブルさん」

「そうか。 何かあったら、遠慮無く言ってくれ。 俺に出来る範囲であれば力になる」

「ありがとうございます」

頼りになるけれど。

フィンブルさんでは、多分助けにはならないと思う。

最悪のケースを考える。

三傑は全員その深淵の者。

アルトさんも。パイモンさんも。

ドロッセルさんや、フリッツさん、シスターグレースも。更には騎士団が、全部丸ごと掌握されている。

そうなると、何となく、線が。今まで不可解な出来事ばかり起きてきた事に、線がつながっていくような気がする。

ひょっとしてリディーとスールが巻き込まれているこの恐怖の宴は。

深淵の者の掌の上で。

ずっと執り行われているのではあるまいか。

深淵の者が何を目的としているのかはわからない。

ダーティーな手を使ってでも良いから、この乾ききった世界に秩序を作る事なのだとしたらまだいい。

何か、恐ろしい事を目論んでいるのだとしたら。

抵抗する手段がない。

イル師匠一人にだって、何をしても勝てる気がしないのである。

ましてやソフィーさん。

雷神にあっさり「お帰り願う」上、あの地獄で全員を救出してのけるような、邪神以上の怪物である。

あんな人が、もし敵に回ったら。

思わず吐き気がこみ上げてきたが。アンパサンドさんに見下されているのに気付いて、必死に堪える。

「様子がおかしいのです。 ネージュに何か聞かされたのですか?」

「だ、大丈夫ですわ。 ご心配なさらず」

「大丈夫かどうかは一目で分かるのです。 何かこの場で言うと都合が悪いことを聞かされたとしか思えないのです」

「アン、みんな吐きそうだし、その辺に……」

アンパサンドさんは無言でマティアスさんを見て。

マティアスさんは萎縮して、口を閉じた。

怖い。

「まあ信頼しろなんて薄っぺらなことを言うつもりは無いのです。 ともかく、今日はどうみてもこれ以上の調査は無理。 ただ分かっているのですね。 時間は、あまり残されていないのです」

「……はい」

「アンパサンドさんは、違いそうだね」

「何がなのです」

スールが、何でも無いという。

バカと、思わず叫びそうになった。

そして気付く。

アルトさんが、目を細めて笑っていることに。

これは、確実に気付かれたと見て良い。

漏らしそうになった。

アンパサンドさんが違うと言うのは同意だ。この人の性格上、もしも深淵の者関係者だったら、もっと違う揺さぶりを掛けてくるはず。今のはスールがおっちょこちょいだっただけ。

アンパサンドさんには、話しても良いかも知れない。

しかし、はっきりしているのは。

やはり、しっかり情報を整理して。

活路を見いださなければならない。

それだけだった。

一度解散してアトリエに戻る。

まったくレンプライアを見かけない事だけは嬉しいのだけれど。それ以上に、あまりにも。

今までの不思議な絵画とは比べものにならないほど、恐ろしすぎる絵だと、リディーは思った。

 

3、どうにか鉄柵をこじ開けろ

 

ずっと無言だった。

今後、下手な事は口に出来ない。

それを理解出来てしまった。

深淵の者。

そんな組織が実在するのであれば、色々と不可解な事に説明がついてしまうのである。そしてほぼ確実に、三傑もアルトさんも、関係者だと見て良い。アダレットの先代王を幽閉するのにも、多分一枚以上は噛んでいるだろう。と言う事は、ミレイユ王女も存在は認知しているか。

あっち側かも知れない。

掌で踊らされている。

それは確実だ。

ネージュが嘘をついている可能性はまずない。

というか、今まで周囲に蠢いていた違和感が、全て説明できてしまうのである。得体が知れない巨大な存在がいることは分かっていたのだ。

そして、それが決して味方では無い事も。

敵ではないだろう。

少なくとも世界の敵ではない。

でも、リディーとスールの味方かと言われると。

違う。

ソフィーさんだけでも、あまりも恐ろしすぎて、もう何も考えられないくらい怖いのに。他の人も、みんなグルだったと考えるだけで。

怖くて、呼吸困難を起こしそうだった。

スールも真っ青になったまま。

ドアをノックされたとき、二人揃って思わず悲鳴を上げてしまったが。

そもそも、考えてみれば、フィリスさんも、何の障害もなくアトリエに入ってきていたのだ。

今更である。

ドアから入ってきたのは。

ルーシャだった。

「ルーシャ……」

「もう、用心しても無意味なのは分かっていますわね」

「うん……」

「どうにもならないよ」

泣きそうだ。

ルーシャは頷くと、周囲を見回してから、話してくれる。

「深淵の者の話は本当ですわ。 というよりも……ある程度以上の実力を持った錬金術師は、皆存在を知っていますわ」

「うん。 今までおかしいと思っていた事が、そういう組織があると仮定すれば、全て説明できるもん」

「ルーシャ、下手な事喋って大丈夫?」

ルーシャは哀れみの目でリディーとスールを見ていたが。

それでも、頷いた。

「わたくし達全員は、とっくの昔に監視下にありますわ。 今更警戒しても仕方が無いし、無用なことをしたと判断したら即座に殺されますわよ。 覚悟は出来ていますし、もうかまいませんわ」

「ちょっと、ルーシャっ!」

「静かに。 落ち着いて聞いてくださいまし」

そういえば今日は。

ルーシャはオイフェさんを連れていない。

まさか。

オイフェさんも、ということか。

監視役ということなのだろうか。

あの異常な無機質さ、おかしいとは思っていたけれど。そうだとすれば、確かに説明はつく。

「良いですか。 今はとにかく、力を蓄えるしかありませんわ。 わたくしに言えるのは、それだけです」

「……ルーシャは」

「わたくしは才能でも貴方たちにも及びませんし、いずれ追い越される定めですわ。 錬金術は残酷で、才能が全ての学問ですもの。 でも、まだ力が上の間は、全力で貴方たちを守りますわ。 それが……おばさまとの約束ですもの」

「お願い、無理はしないで」

首を横に振ると。

ルーシャは、もうこれ以上は無理だろうと判断したのか。

アトリエを出て行った。

頭を抱えるしかない。

分かってしまった。

恐怖そのものが。

今まで想定していた規模とは、桁が三つも四つも違っていたことを。

その場で吐きそうになる。

アンパサンドさんは多分あの様子だと無関係だと思うけれど。多分マティアスさんは知っているだろう。

この街の有力者、みながそも深淵の者関係者かも知れない。

そういえば、この街に匪賊が入り込まないのも不思議と言えば不思議だ。

匪賊は見かけだけは人間なのだ。

実際、治安とかが駄目な街では、匪賊が入り込んで害を為すとも聞いている。

深淵の者が動き。

匪賊を水際で皆殺しにしているとすれば。

全ては説明がついてしまう。

水を飲んで、とにかく気持ちを落ち着かせる。このままだと、壊れてしまう。深呼吸を何度か繰り返して。

少しずつ情報を整理する。

それにしても、ネージュと仲良くなるどころか。

とんでも無い爆弾を投下されて、此方は精神が崩壊寸前である。

スールはへたり込んでいて、腰が抜けている様子なので。リディーが何とか、雨の中出来合いを買いに行く。

騎士団の負傷した部隊が戻ってきていて。

再編成して、また出ていくようだった。

食い止めてくれている、という話だが。

騎士団はどれだけ動いているのだろう。

正直な話。ソフィーさん一人で充分な気もするのだが。

その辺りは、もはや疑う事さえ許されないのだろう。もしもおかしな行動をしたら、その場で首を刎ねられる。

そういう状態なのに。

単に今まで気づけていなかった。

それだけだと言う事だ。

リディーとスールは、やっと最近自分達がバカだと自覚できたが。

現実は、その遙か上を行っていた。

この世は、これほどに恐怖に満ちていたのか。それを単に知らなかっただけ。いつでも握りつぶすことが出来る相手の掌の上で。ただ無様に踊っていただけ。それがリディーとスールの現実だった。

雷神ファルギオルの脅威は事実だろう。

だけれども、それさえも掌の上のような気がしてならない。

出来合いを買う。

そして、アトリエに戻る。

へたり込んでいたスールを何とか椅子に座らせて。一緒に食事にする。そもそも食べないと、まともに思考する事も出来ない。勿論さっき不思議な絵画の中で食べたけれど。先ほどからの精神消耗が激しすぎて、そんなものはとっくに燃え尽きていた。

おいしくもない。

当たり前だ。

これだけ長雨が続いていて。

物資もかなり厳しい状態になっているのだから。

しばらくもぐもぐと口だけを動かして。

おいしくもない出来合いを食べると。

完全に目が死んでいるスールに、話しかける。

「スーちゃん」

「うん……」

「ファルギオル、どうにかしないと」

「分かってる」

しばらく沈黙が流れる。

ネージュが知っているなら。恐らく深淵の者も知っているはずだ。

だけれども、深淵の者にアクセスする方法なんて分からないし。例えばアルトさんに、直接深淵の者に関係しているのか、とか聞いたら。多分その場で殺されると思う。勿論物理的な意味でだ。

匪賊なんて問題にもならない。

ドラゴンや邪神をも上回る脅威。

それが深淵の者だと思って間違いないと思う。そしてそれは、この世界の秩序にもがっちり食い込んでいるのだ。

ソフィーさんは恐ろしいが、或いは深淵の者には更に恐ろしい人がいるかも知れない。怖くて、体の震えが止まらなかった。

ネージュはこれでも来るかと、笑って見ているのだろう。

勿論深淵の者について、リディーとスールが知った事だって。深淵の者には既に知られている筈だ。

ある程度の実力を持つ錬金術師は皆知っているという話だけれども。

それでも、何らかのペナルティがあるかも知れない。

ネージュの絵が焼かれたりしないか。

それが不安でならなかった。

今日はもう無理だ。

そう判断して、スールを促して、早めに寝る。

お父さんは帰ってこない。

何をしているのかと憤るよりも。

明らかに、心配の方が、今は勝っていた。

 

一晩寝ても、不安は消えない。当たり前の話で、今まで以上の爆弾が投下されたも等しいのである。

何もかも。

廻りの誰もが信じられない。

その恐怖は、心身を打ちのめすのに充分だった。

ファルギオルを倒すのは絶対。

だから、動かなければならないけれど。

深淵の者がそれに噛んでいるとなると。

或いは、リディーとスールがファルギオルを倒す事に、何か意味があるのかも知れない。それも世界的な規模での。

ファルギオル自体は。

或いは、深淵の者の戦力では、一瞬で始末できる程度の物でしか無いのかも知れないし。もしそうだとすると、どうすればいいのだろう。

しばらく俯いていると。

裏庭でいつものうねうね動く奴をやっていたスールが戻ってくる。

雨がまだ降っているのだけれど。

雨に当たらないように、上手に工夫してやっていたらしい。

アトリエの中だと、機材に触れて落としたりしかねないので、裏庭でやることにしているようだけれど。

精が出るなあと、感心してしまった。

「リディー、考えよう」

「うん……」

スールに手を引かれるのは。

時々あることだ。

そして、リディーもお姉ちゃんだけれども。

誰かに助けて欲しいとは時々思う。

双子なら。

互いに助け合うものではないのか。

スールは恐がりだけれど。

一線を越えたとき、それでも戦う勇気に関しては、多分リディーより上だと思う。

冷静な判断力には欠けるかも知れないけれど。

それは羨ましい話だった。

「スーちゃん、まずはどうやって攻める? アダレットの人達を、では多分ネージュの心は動かないと思うよ」

「うーん……」

「でも、誰にももう相談は出来ないね」

「相談はしたでしょ。 シスターグレースから聞いた言葉に、間違いは無いと思うけれど」

確かに。

それは同意できる。

例えシスターグレースが深淵の者に噛んでいたとしても。

あの人は、聞かれたことには誠意を持って応えてくれる人だ。立派な大人だと判断して良い。

深淵の者という組織の恐ろしさは分かったが。

所属している人が、みんな人外の者とは限らないし。

シスターグレースが所属していたとして。

必ずしも常に非人道的にものを考えるとも思えない。

ならば、そのアドバイスを元に。

やはり、順番にやっていくしかないだろう。

「プレゼント作戦は?」

「見た目は子供だけれど、あの人中身はおばあちゃんだよ。 ぬいぐるみとかだと、多分怒られると思う」

「うーん、そうなると……友達の遺品とか、かな」

「……」

そうだ。

マティアスさんが、短期間で調べてくれていた。

ネージュには少ないながらも友達がいて。

迫害に巻き込まれて命を落としている。

何かしらの情報が無いだろうか。

ならば、まずはそれが一つ。

もっと、だめ押しになるものが欲しい。

ドアがノックされる。

二人とも跳び上がりそうになったが。

ドアを開けたのは、アンパサンドさんだった。

相変わらず口をへの字に結んで、気むずかしそうな顔をしているけれど。この人が誰よりも立派な、弱者の盾たる騎士であることを、リディーはもう微塵も疑っていない。スールも同じだろう。

「アンパサンドさん、どうしたの?」

「二人ともいるのですね。 何やら様子がおかしかったので見に来たのです」

「それは……」

「うん、ごめんなさい。 ちょっと話せない」

アトリエに入って貰う。

合羽を着て来たアンパサンドさんは、撥水性の強い素材らしいそれをはたいて雨水を落とすと、アトリエに入って、見回す。

目を細めているのは、やっぱり家庭環境とかを観察しているのだろう。

この人の戦闘スタイルには観察が必要不可欠で。

計算を得意とするホムにも噛み合ってはいる。

致命的な欠点である身体能力の低さも努力で補っているので。

騎士として、既に一人前になっているし。

戦闘では、とにかく頼りになる。

「ネージュに何を言われたのです」

「……」

「その様子だと、どうせ深淵の者の事でも言われたのですね」

「!」

絶句。

この人も、知っていたのか。

ため息をつくアンパサンドさん。

考えてみれば、ある程度以上の力を持つ錬金術師はみんな知っている、というような組織だ。

この人は騎士二位で、アダレットでも結構偉い騎士になる。

知っていても不思議ではない、だろう。

「深淵の者は、確かに何を考えているか分からない所がある組織で、何より非常に強大なのです。 しかしはっきりしている事は、基本的に何処の国家でも出来ない事をしてくれている、と言う事なのです」

「ええと、ドラゴンや邪神を倒したり、汚職官吏を成敗したり……」

「そうなのです。 勿論彼らが正義の味方、などと言うことは言わないのです。 ただはっきりしているのは、彼ら深淵の者は、どうやら全体の利益になる事を前提に動いている、と言う事なのです」

理由が分からない匪賊の壊滅や。

犯罪組織の消滅など。

深淵の者の手による行いはアンパサンドも幾例か知っていると言う。

従騎士時代から噂は聞いていたらしく。

例えば、汚職官吏と通じていて騎士団でも迂闊に手を出せなかった犯罪組織が、汚職官吏ごと丸ごと殺されたりとか。

街の近くまで侵攻していたネームドが、一晩で切り刻まれていたりとか。

アトリエランク制度が始まる前から、そういう事は何度もあり。

その度に、対応に出ていた騎士団で、「深淵の者がやったらしい」という噂が流れていたそうだ。

「本来、アダレットはこんなに長持ちする国家ではなかったのです。 200年前の愚行を例に出すまでも無く、人間が運営する国家なんて、500年もまともではいられるはずがないのです。 深淵の者は多分国家中枢に噛んでいる。 騎士団にも、公認スパイがいるという話もあるのです。 誰かは知っていますが、危ないから教えないのです」

「アンパサンドさんは、その……」

「怖くないか、ですか?」

「はい」

先読みでもされているかのように言われる。

正直な話、この人には、リディーの頭では勝てない。

勿論武勇では、騎士団長や、本当に強い魔族の騎士には勝てないだろう。

だけれども、部隊を勝たせるという点では。

この人は騎士団屈指の人材の筈だ。

ただ非常に脆くもあるので。

投入には勇気もいるだろうが。

「そんなもの、怖いと思ってもどうしようもないのです」

「……」

「恐らく今回の茶番、ファルギオルの復活から何から、深淵の者が手を引いているのでは無いかと自分は思っているのです。 それには何か理由がある……。 状況を見る限り、リディーさん、スールさん。 貴方たちの成長が、その理由の一つであるだろう事は、確実なのです」

である以上、と。

アンパサンドさんは言葉を切った。

「ならば、ネージュからの情報を引き出すという過程を辿る限り、深淵の者が貴方たちに害を為す事はないのです。 人間が作る組織はどうしても無能な者が重要なポストについたり、感情論で愚行をしでかすものですけれども。 どうやら深淵の者を運営しているのは、精神的な超人らしいのです」

小さな手に息を掛けて、温めるアンパサンドさん。

顎をしゃくると。

合羽を被り直し、ついてこいと促す。

言われるまま、外に出る準備をして、ついていく。

アンパサンドさんは、ガンガン歩いて行って。

やがて、シスターグレースのいる教会じゃない。

裏路地にある、小さな汚い教会に出た。

働いているのは、獣人族の小柄な中年女性で。雨の中、アンパサンドさんが来たのに気付くと、頭を下げる。

此処は、この人しかシスターがいないのか。

幾つかの話をしていたが、特に問題は無い様子で。頷くと、アンパサンドさんは戻ってくる。

丁度入れ違いに荷車が来て。

従騎士が、食糧らしいものを渡していた。貧しい格好の子供達が出てきて、わいわいと中に運び込んでいく。

「スールさんは、見た事がありそうですねこう言う場所。 リディーさんは、此処まで王都の暗部に来るのは初めてですか?」

「あ、はい……」

「違和感を感じませんか?」

「……はい」

そうだ。言われるまでも無くおかしい。

この周囲。

斬り付けるような嫌悪感と排除の意思が、向けられてきている。

そもそもこんな貧しい生活をしていて、心が貧しくならない筈も無い。

この小さな教会を襲い。

援助物資を奪おうとする輩だって、出るだろう。

だけれども、まるで何かに守られているかのように。

此処に近付こうという者はいない。

騎士団も、巡回を回す様子も無い。

ファルギオルに対する戦線に大半が出払っているとしても。

だからこそ、こう言う場所には、巡回を回すだろうに。食糧支援をするだけだ。

しばらく遠くから伺うが。

誰も教会にちょっかいを出す様子は無い。

腐敗した孤児院や救貧院は、子供を売りさばいて利益を上げたり。子供を虐待するのが当たり前だと聞く。教会は孤児院や救貧院を兼ねているとも聞く。

あんな小さくて。

貧しそうな教会が。

どうしてやっていけているのか。

「あの教会には噂があるのです。 忍び込んだ賊が、翌日にはみじん切りにされて路地に捨てられていたとか。 孤児を売買しようとシスターになった女が、翌日には上下二つに切られて捨てられていたとか。 そしてそれは噂では無く、実際に起きている事を、少し前に記録を見て確認したのです。 この辺りのならず者も絶対にあの教会には近付かないし、関係者だと言うだけで怖れて逃げるのです」

「深淵の者の仕事……ですか?」

「間違いないのです。 あのような治安が行き届かない小さな教会を守るような面も持っている。 深淵の者がそういう組織である以上。 今は、怖れるより先に、まずは力をつけて、動きを見ることに注力する方が良いのです」

そうか。

そういうものなのか。

少しだけ、心が楽になった。

そのまま、貧民街を抜けて、大通りに出る。

アンパサンドさんは任務に戻ると言うことなので、頭を下げてアトリエに帰る。

かなり、気持ちが楽になった。

これならば、少しは思考に柔軟性も戻るかもしれない。

とにかく、ネージュの心をどう開くか。

どうやってネージュに雷神に対抗する方法を教えて貰うか。

その二つだ。

時間はないが、できる事は全てやっておきたい。

「スーちゃん、あのさ、私今から王城に行ってくる」

「うん。 マティアスに話聞くの?」

「スーちゃんはさ、ルーシャと何か対策がないか、話をしていてくれる?」

「合点」

そのまま、その場で別れる。

雨の中、小走りで行く。

まず、ネージュの哀しみを知らなければ行けない。

そして、ネージュの心に触れなければ行けない。

今までの不思議な絵画も、思えばそうだった。

違うルールの世界で。

其処に生きている存在に、話を聞いて、学ぶ場所だった。

恐らくは、ネージュの絵も同じ。

ネージュと話をして、そしてしっかり理解出来たときにこそ。きっと雷神を倒した方法を教えてくれる。

雷神を倒さなければ、いつまでも雨が続いて、アダレットは大凶作に見舞われることになる。

そうなれば、多くの人が苦しむ事になる。

いつまでも足踏みはしていられない。

王城の受付で、手続きをする。幸いマティアスさんはいたので、話をする。機密だから、王子に話した方が良い。そういう事だ。

マティアスさんは難しい顔をしたが。

しばらく悩んだ末に。

分かったと、頷いてくれた。

後は、次に絵に入るまでに、此方もやれることを全てやっておかなければならない。

雷神を恐れ。

深淵の者を怖れているばかりでは。

何も変わりはしないのだ。

雨の中を走る。

これから皆で話しあって。打開策を、割り出さなければならなかった。

 

4、切り札はまだ

 

ミレイユ王女は、ブライズウェストそばの街で、まだ陣を張ったまま過ごしていた。

王都に戻る訳にもいかず、色々と不自由だが仕方が無い。

騎士団の犠牲者が最小限で済んだことや。

負傷者も回復が進んでいることが幸いだが。

問題はブライズウェストで、三傑がまだファルギオルと交戦していること。

否。

交戦しているので近付くな、と言われていることだ。

実際凄まじい雷が飛び交っているので、安易に近づける状態ではないのも事実なのだけれども。

しかし、どうもおかしい。

騎士団の面子にはこんな話は出来ないが。

何か茶番につきあわされているのではないのだろうか。

三傑がそろって深淵の者の幹部である事くらいは分かっている。

何とか調べ上げたことだ。

深淵の者と正式にコンタクトをとることに成功したのは数年前の事だが。

それ以降、深淵の者の動きの不可解さには、常に頭を悩まされている。

アダレットやラスティンよりも、何か優先しているように思えてならないのである。嫌な予感がする。

怖気が走るような、醜悪な宮廷闘争で、随分支援を受けた。

年ばかり重ねた無能で貪欲な官吏や。

野心ばかり先行し、出世のために何でもするような輩を排除し。

能力のある人材を抜擢して。

国を改革するのに、随分手を借りた。

だがそれさえも。

深淵の者には余技に過ぎないように思えてならないのだ。

今だってそう。

本当に三傑は、戦っているのだろうか。

「伝令!」

「如何したか」

天幕に騎士が駆け込んできた。

すぐに話を聞くが。

どうやら、三傑の一人イルメリアが戻ってくるつもりらしい。少し休憩したら、また出撃するそうだ。

「分かりました。 休憩のための天幕を確保しなさい」

「はっ! 直ちに」

「陛下もしばしお休みになられては」

「無用」

配下の騎士の言葉に、即答。

実際、前線で指揮を執ってはいるが。既に騎士団は事実上動いていない。ブライズウェストを囲んで、そのまま動けない状態だ。

たまに獣がしかけてくるので、それに対策するだけ。

それも大した獣はいない。

どうやら事前に三傑が、手近な所にいる大物はあらかた片付けてしまったらしいのだけれども。

騎士団が苦労している相手を、それこそ片手間に処理してしまうのだ。

やはりアダレットとしては、危険視せざるを得ない。

彼らが翻意したら、それこそ一晩でアダレットが消し飛んでしまう。

それを、周囲の騎士達は理解していない。

間もなくイルメリアが戻ってきたらしく。

天幕でふて寝を始めたらしい。

護衛をつけておくように、と指示をして。

ミレイユは、しつこい騎士の言葉を聞き流せなくなり。

少し休む事にした。

雷の音は相変わらず凄まじい。

ソフィーが現れてから。あの雷鳴はずっと収まっていない。

三傑最後の一人、ソフィー=ノイエンミュラーが次元違いの実力者だという事は知っていたが。

ファルギオルでさえこうも簡単に押さえ込まれているのを見ると。

もはや言葉も無いのが事実だった。

また伝令が来る。

軽く居住まいを正して、話を聞く。

どうやら王都の方でも動きがあったらしく。

ネージュの絵に入った双子が、突破口を開き。ネージュとの会話を始めているという。上手く行けば、ファルギオルを撃破する可能性が出てきた、とも言う事だった。

伝令を下がらせ。

思う。

本当に、そうなのだろうか、と。

ソフィーがその気になれば、雷神なんてすぐにでも倒せるのでは無いのか。その疑念が、どうしても消えない。

杞憂なら良いのだが。

どうにも、そうとは思えないのが実情だった。

 

ロジェは何となくだけれども、ファルギオルの倒し方に心当たりがあった。

そして、それが故だろう。

今組み伏せられて。

剣を突きつけられている。

殺気が凄まじすぎて。

身動きすら出来なかった。

恐怖云々の話では無い。体が本能的に、動く事を拒否してしまっているのである。目の前にいる存在が。あまりにも危険だと言う事を、嫌でも理解せざるを得ない。

ブライズウェストに行こうとして。

途中で捕まった。

周囲には手練れらしい魔族の戦士が数名いるが。

一番危ないのは。

縛り上げたロジェの背中を踏みつけている、ヒト族の女だ。見覚えがあるような気もするが。とにかく、発している殺気と血の臭いが、尋常では無かった。

「斬りたいなー。 まあソフィーさまが駄目だって言ってるから仕方が無いけどさ」

「ティアナどの」

「分かってる。 それに後でもっといいもの斬らせて貰えるみたいだし、我慢しないとね、うふふ」

たしなめる魔族の戦士に、ティアナと呼ばれた女は笑って応える。

完全にいかれている。

本当に強い戦士の中には、人間を精神的に止めてしまっている者がいる、という話は聞いたことがある。

強くなるために人間性を捨てたような者で。

古い時代には、薬物を使って、その状態を作り出す事があったのだとか。

たまに、人間の中にはシリアルキラーという危険な存在が出現するが。

この女は、先天的なのか後天的なのか。

分からないけれども。

シリアルキラーで。

そして、それこそドラゴンとも戦えるような次元の剣士。

勿論素の身体能力だけでは無理だろう。

それだけの錬金術装備を与えられていると言う事で。

強大な錬金術師が背後にいることは確実だった。

「あーめんどくさい。 後どれくらいコレ見張ってればいいんだっけ」

「後二週間ほどです」

「はあ。 あの双子も斬りたいなあ」

「なりませんティアナどの」

双子。

間違いない。リディーとスールも此奴は目をつけていると言う事だ。何とかしなくては。そう思うのに。

やはり動かない。

どうしても本能は正直だ。

巣穴をつつかれた獣は必死の反撃に出るという話もあるけれど。

この場合、相手が強大すぎて。

もはや反撃どころでは無い、即座に退却を選ぶという状況。しかもこのシリアルキラー。もしロジェが不審な動きを見せれば、即座に何のためらいもなく斬るだろう。

口惜しくてならない。

何もできない。先手先手を打って相手に動かれる。

もはやどうしようもない。

双子のために、せめてこの衰えた身でも何かしたいと思うのに。それさえ許されない。

天は我を見捨てたか。

どうしてこうも苦難ばかり。

雨が降り注ぐ中。

殺気は相変わらず。

ロジェの全ての動きを、封じ続けていた。

 

(続)