広がり始める闇

 

序、解決の糸口を探せ

 

アンフェル大瀑布の中にある村にまで戻る。その途中、危険地帯を通っているとは言え、ずっとぴりぴりした空気が漂っていた。

フーコは小首をかしげていて分かっていない。

でも、これは。

絶対に解決しなければならない問題だ。

この絵の中には、ドラゴンと人の共存という可能性がある。

でもそれは、ドラゴンにイケニエを捧げるという形で、恭順する形であってはならないはずだ。

恭順までは百歩譲っても。

イケニエは絶対に認められない。

村まで戻ると。

フーコに一旦戻って貰い、マティアスさんを問い詰める。

「マティアスさん、知っていたんですね」

「どうなの、マティアス!」

「……ああ。 俺も前にこの絵に入ったからな。 何の躊躇も無くイケニエになる村の「巫女」を見て、ぞっとした。 今回は、或いは倒せばと思ったんだが、そもそも倒しても駄目って聞いた時には、目の前が真っ暗になった」

「ふふ、しっているかい。 ドラゴンは、この絵の外……僕達の世界でも、世界に一定数が常に存在していると言われているんだ」

不意に話に入り込んで来たアルトさんが。

絶望的な事を言う。

それは、本当なのか。

それでは、例えドラゴンを倒せたとしても。

此処と同じというのか。

「勘違いしないで欲しい。 ドラゴンと言っても、積極的に人を襲いに来る奴から、射程距離内に入らないと襲ってこない奴まで、色々個体差がある。 外では優れた錬金術師達が、危険な性格のドラゴンを間引いて、現在の比較的安全な状況にまで持ち込んだんだよ、何百年も掛けて。 とはいっても、それでも時々ドラゴンは予想外の行動に出るし、被害も出るんだけれどね」

「……どうにもできないって言うんですか」

「さあね。 僕が知らない何か方法があるのかも知れない」

ルーシャを見る。

悔しそうに俯いていた。

この様子だと、ルーシャもやはり知っていたのだ。

ルーシャも最初からランクを与えられていたとは言え、低ランクからだった。つまりこの絵には入っている筈。

ならば、見たのだろう。

嬉々としてドラゴンに食われる「巫女」を。

絶対に。

これ以上、犠牲は出してはならない。

そう、覚悟を決める。

冷めた声で。

むしろ楽しそうにフィリスさんは言う。

この人、血は通っているのだろうか。

「で、どうするの?」

「村で、ドラゴンについて確認します。 その性質から何まで。 何か知っている人が、いるかも知れないので」

「それじゃあ手分けして聞き込みだね」

「フィリスさんもお手伝い、お願い出来ますか?」

きょとんとした後。

ふふっとフィリスさんは笑う。

「わたしは監視役だよ?」

「絵の中の存在とは言え、人命が掛かっているんです……! お願いします」

「んー、どうしようかなー。 試験は試験だしなあ」

「……っ!」

スールはどうしてだろう。

真っ青になって震えあがっていて、会話に参加してこない。いつもだったら、真っ先にブチ切れそうなのに。

ともかくだ。

今は時間が惜しい。

「それなら、他の人達、お願いします」

「分かったよ。 僕は手伝おう」

「俺様も、この村の可愛い子達がこれ以上殺されるのは嫌だしな。 手伝うぜ」

「自分も」

フィンブル兄は、無言で動いてくれたし。

ルーシャは無言のまま、オイフェさんと一緒に聞き込みにいく。

フィリスさんは、少し村から離れると、其処で座って笑顔で様子見。なお、レンプライアが後ろから襲いかかったが、振り向きさえせず裏拳一発で塵にしてしまった。一応レンプライアを処理してくれているので文句も言えない。

一瞥だけして、スールと一緒に聞き込みに行くが。

途中で聞いてみる。

「ねえ、スーちゃん、どうしてさっき黙ってたの?」

「ばかっ!」

「ど、どういうこと!」

「分かってなかったの!? フィリスさん、多分これ以上洒落臭い事いうようだったら、リディーとスーちゃん殺すつもりだったんだよ!」

青ざめて、立ち尽くす。

スールが此処まで怯えていると言う事は。

勘で察知していた、と言う事だ。

フィリスさんは、口の利き方がなっていないリディーに腹を立てていて。

場合によってはその場で塵にするつもりだった、と言う事なのだろう。

今更ながら。

膝が笑い始める。

あの人が本気になったら。

そう、ネームドをゴミのように蹂躙するほどの実力者で、しかも遊びながらそれをやるほどの人。イル師匠と同格の三傑の一角、破壊神とまで言われる程の人だ。屈強な人夫数十人分の働きをしているのを、インフラ事業の時見たではないか。それこそ、今のリディーとスールの首を折るくらい、瞬く間もなくやるはずだ。

「ご、ごめんなさい……」

「……こっちこそ、取り乱してごめん」

「まず今は、話を聞こう?」

「うん……」

スールを促して。

村の中で聞き込みを開始する。

順番に話を聞いて、少しでもドラゴンの情報を集めなければならない。

まずそもそも、どうしてドラゴンが、この村の人間をイケニエとして食らうようになり。この村の民もそれを受け入れたのか。

どうすれば対応策を講じられるのか。

死ぬのは怖くないのか。

いろいろ聞いていく。

そして聞けば聞くほどわかってくるのは。

対策の方法がない、ということだった。

そもそも話を聞くと、この村の民は、常に一定数が保たれているという。誰かが死ぬと、即座に村の中に別の新しい誰かが出現するというのだ。

聞いたばかりだ。

ドラゴンは常に世界に一定数が保たれていると。

この世界では、この人たちがそうだ、というわけだ。

ドラゴンと人間の特徴をそれぞれ持った結果。

こういうことになったのかもしれない。

そして皮肉にも。

村に同じ見かけの女性しかいないこともこれで説明がつく。ここの村の人たちは、互いに見分けがつくようだが。

どう客観的に見ても。

それほど大きな差があるとは思えないのである。

それでは死に鈍感になるわけだ。

火山が噴火して、村が壊滅したらさすがにどうにもならないだろう。

ドラゴンが死んだ場合がそれに該当する。

こんな世界は滅びてしまえ、というのはさすがに傲慢である。

だってこの村の人たち。

リディーが暑いを通り越して痛いと思うほどの灼熱の中でも。

みんな笑って楽しそうに暮らしているのだ。

価値観も。

生き方も。

何もかもが違うのである。

そういう異世界なのであって。

ドラゴンに定期的にイケニエを支える事には何の疑問も持っていないし。この村に住む人達にとっては、それが当たり前であって。不思議な事でさえない、と言うことなのである。

其処へ、リディーとスールの理屈を無理に持ち込んでも。

上手く行くはずが無い。

勿論、どう客観的に見ても、この関係はいびつだ。

是正しなければならない関係だ。

外の世界と違って、此処のドラゴンは必ずしも究極の害獣、というわけではない。むしろ世界にとっての神に等しい。

だが、会話は出来た。

対案があるならば聞こうとも言われた。

それならば。

村の人に負担も掛からず。

ドラゴンも満足する方法を考えつけば。

このいびつな搾取によって成り立つ世界を。

或いはどうにか出来る可能性も出てくるのではあるまいか。

スールが戻ってくる。

「リディー、どう? 収穫は……」

「ごめんなさい、こっちは駄目みたい」

「そう。 スーちゃんもあまり良い話は聞けなかったけど」

「詳しく何か教えて」

リディーは勘は鋭いが、頭そのものは自覚するほどあまり良くない。ならば話を聞いてみる価値はある。

自分が見つけられていないだけで。

何かヒントがあるのかも知れないからだ。

一通り話を聞いてみる。

ドラゴンは何が好きか。

一つだけ、それに相当するものがあった。

「イケニエ以外に何をドラゴンが食べているのかを聞いてみたんだけれど、主に溶岩だって」

「溶岩を好物にしている」

「そうみたい」

「……」

考え込む。

何だか妙だ。

溶岩なんて食べて、栄養になるのだろうか。

それはひょっとすると、神としての存在をアピールする行為なのではないだろうか。

この村の人達でも、この世界を覆い尽くしている溶岩には流石にひとたまりもない。

ドラゴンは溶岩さえ平気で食べる。

それ自体が、神の証明となっているのであれば。

何か、思いつくかも知れない。

神は村の人達に、平和な暮らしそのものを与えている。

事実、村の外に凶暴な獣は出るが。

村の中に押し入ってくると言う話は聞いていない。

レンプライアですら、村の中には侵入しない様子だ。

となると、恐らくドラゴンの神としての威光は絶対であり。その影響力は、この絵全てに及んでいると言う事だ。

ルーシャが戻ってくる。

話を聞いてみるが、首を横に振られた。

そうか、仕方が無い。

程なく、他の皆も合流した。話は一通り聞いたと言うことなので。

一旦フーコに話をして、絵から出る。

そしてエントランスで、軽く話をした。

まずはアンパサンドさんとフィンブルさんに。

「三日後にまたお願いします」

「分かったのです」

「俺はかまわないが……何とか出来るのか?」

「というか、次で最後ね」

フィリスさんの冷酷な宣告が入るが。

頷くしかない。

逆らうという選択肢は無い。

フィリスさん自身も、インフラ整備の作業で毎日忙しいのに、時間を割いて来てくれているのである。

そしてフィリスさんがインフラを圧倒的豪腕で整備することで。

どれだけの人が平穏に暮らせるか分からない位なのである。

出来の悪いリディーとスールのために、いつまでも時間を割くわけにはいかない。

当たり前の話である。

フィリスさんが行った後。

皆に、村で聞く事が出来た話を順番に聞いていく。

流石に状況が状況だからか。

マティアスさんさえも、今回は真面目に話をしてくれた。

しかしながら、そもそも村の人達は、状況を受け入れていて。

世界の理を、おかしいと思ってもいない。

ルーシャの表情からして。

ルーシャも対策は考えたはずだ。

どうにもならなかった、と言う事なのだろう。

「新しい情報はないね……」

「そういえば一つ、気になる事を聞いたんだ」

「えっ?」

「ドラゴンが話をしてくれたらしいんだが、溶岩は適温、人間の肉は冷たい。 冷たい食べ物をたまに食べるのもいいってな」

マティアスは、それをさらっと言ってから。

じっと見ているリディーとスールに気付いて、青ざめる。

「い、いや、すまん。 配慮に欠けるなとは思う」

「……ううん、マティアスさん。 他にも何か無い?」

「いや、俺様はこれくらいしか」

「自分が聞いた話では、ドラゴンは溶岩を好物にする以外にも、獣も普通に食べるそうなのです」

それはそうだろう。

アンパサンドさんの言葉には、あまり魅力を感じなかったが。

スールがそれに食いつく。

「そういえば、リディー、ドラゴンは、人間を美味しいって一度でも言ったっけ」

「!」

「人間を美味しいってドラゴンが食べるっていうような話、誰か聞いている?」

スールが見回すが。

誰もそれに応えはしない。

つまり、ドラゴンにとって。

人を食べると言う事は、単なる地位確認であって。

別に美味しいから食べているというわけでは無い、と言う事だ。

そして多分だけれども。

村の人達にとっても、他の形で地位確認を出来るのであれば。

何もドラゴンにイケニエを毎度捧げる必要はないのではあるまいか。

突破口が見えてきた。

一旦解散する。

エントランスから、荷車を押して引き上げる最中。ルーシャが、手伝ってくれた。珍しくアトリエまでついてきたので、何か話があるんだろうと思って、黙って待つ。もうルーシャに対する侮蔑は一切無い。

コンテナに回収した鉱石などを格納し。

フィンブル兄やマティアスさんが帰って、ルーシャとオイフェさんだけが残ると。

ルーシャは少し悲しそうな目で言う。

「本当に、どうにかするつもりですの?」

「ルーシャも……なんとかしようとしたんだよね」

「ええ。 わたくしの時はドラゴンを二日がかりで説得しようとしましたのよ。 しかし、相手は聞く耳を持ちませんでしたわ。 この世界はこれで上手く行っているのに、どうしてそんな話を聞かなければならない、と。 確かに正論ではありましたけれど、その後嬉々としてイケニエになった子のことを思うと」

ルーシャが顔を手で覆う。

オイフェさんが背中を撫でるが。

体を震わせているルーシャに。

掛ける言葉なんて、見つかるはずがなかった。

つまり言葉による説得は無理だ。

そういえば、以前ぷんぷん怒りながら、パイモンさんがエントランスから出てくるのを見た事があったが。

あれはひょっとして。

アンフェル大瀑布の真実を知ったからではないのか。

パイモンさんは、アンチエイジングまでして、出身の村のために尽くそうとしたほどの人である。

きっと、ドラゴンにイケニエを捧げるという行為に。

相当に思うところがあったのだろう。

他にも、あの悪習に怒りを感じた人はいたのだろうか。

フィリスさんは平然としていたが。

あの人は何というか、もう色々ねじが外れてしまっている印象を受ける。

と言う事は、だ。

いずれにしても、今まで、アンフェル大瀑布のいびつな関係を改善出来る可能性がある人はいても改善しなかったし。

改善しようとしてあがいた人もいたが、それでもどうにもならなかった。

そういう事なのだろう。

だが、突破口はあると思う。

ルーシャにも話を聞いて貰う。

「ドラゴンは地位確認のためにイケニエを食べているのであって、別に人間なんか食べなくても生きていける。 それは確認できたと思うの」

「それは、知っていましたわ」

「うん、それでどうするの?」

「ドラゴンは人間の上位に立ち、世界を管理する。 人間はそれに従い、ドラゴンを崇拝する。 この関係性が、アンフェル大瀑布の構造そのもので、これを壊してしまうときっと中に住んでいるフーコちゃん達みんなが死んでしまうと思うんだ」

思う、ではなくほぼ確実にそうなる。

あの絵を描いた人は、或いは。現実のドラゴンと戦い、そのあまりの圧倒的な強さに、恐怖を抱いてしまった錬金術師なのかも知れない。それを責めるのは無理だ。ドラゴンと戦える錬金術師なんて、世界中を探しても一握りだと聞いている。

「その関係を崩さずに、ドラゴンも満足して、村の人達も死なずに済む方法を探さないといけないと思うの」

「具体的には?」

「……ルーシャ、知恵を少し貸して」

「イルメリアさんではなくて、わたくしでいいんですの?」

頷くと。

目をまだ擦っていたルーシャは、嬉しそうに笑みを浮かべて、頷いてくれた。

さて、此処からだ。

現実世界と違い。

あの絵の中にいるドラゴン、フラン=プファイルは、会話も出来れば理性もある。それならば、できる事はあるはず。

時間は限られている。

勿論イル師匠にもレシピは見てもらうが。この考えは。間違っていないはずだった。

 

1、その世界にないものを

 

あの凍り付いた世界の絵画、氷晶の輝窟での出来事で。

リディーは知った事がある。

その世界に存在しないものを錬金術で作って持ち込むことにより。

その世界の住民は、驚いてくれることがある。

喜んでもくれたりする。

そういうものなのだ。

多分、逆の現象もあるだろう。

事実、不思議な絵画で回収している素材に、リディーとスールが、どれだけ助けられているか分からないのだ。

ルーシャに調合を手伝って貰う訳にはいかない。

そんな事をしたら、多分ルーシャがフィリスさんに殺されかねない。

あの人なら、オイフェさんごと、ルーシャの首を瞬く間に刈り取るくらいの事は、即座にやってのけるだろう。

それくらい恐ろしい人なのだ。

見聞院から借りてきた本を徹底的に調べる。

以前のノウハウを生かす。

バステトさんにも意見を聞く。

そして、今までに無く難しい魔法陣を書き上げる事に成功した。

玉鋼と呼ばれる、一種の金属があるのだが。

これをシルヴァリアとゴルトアイゼンの合金に混ぜ込むと、更に強度が上がることもはっきりした。見聞院で調べて、イル師匠にも確認した。

そしてこの玉鋼は、アンフェル大瀑布で余るほど採れる。

金属加工はイル師匠にもう完全許可を貰っているので。

アトリエで実施する。

そしてイル師匠に、レシピを見せに行く。

やはり何カ所かに指摘を受けたが。

概ね問題ないだろうと、許可を貰った。これならば、そう遠くない未来には見せに行かなくても、許可は得られるかも知れない。

インゴットが出来たので。

設計図通りに作る。

今回は深核の代わりに宝石を用いる。

永続的に力を発揮する必要はない。

普段は宝石に力をため込み。

使用するときだけ、宝石にため込んだ魔力を解放するようにすれば良いのである。

金属加工そのものは、インゴットを鍛冶屋の親父さんに頼んでやってもらうのだけれども。

中枢部分の加工は。

今まで習ったとおりに。

イル師匠の所に持ち込んで、二人で手分けして魔法陣を彫り込んだ。

時々イル師匠が横から的確な指示を出してくれるので。

すぐにその通りにする。

そうすると、完成度ががんとあがる。

或いは、だけれども。

イル師匠も、アンフェル大瀑布の事は知っていて。

心を痛めていたのかも知れない。

あの中で行われている事は、はっきり言って尋常じゃ無い。

あんな事は許されてはならないのだ。

勿論、現実の世界と。アンフェル大瀑布の世界では、あらゆる全てが違っている事だって分かっている。

無理な理屈を無理に押しつければ、悲劇しか起きないことだって分かっているつもりだ。

だけれども。

絶対に、あの歪んだいびつな関係は。

改善しなければならない。

地位確認のためだけに、命を奪う。

そんな事は、あってはならない。

これだけは、断言できる。

例えば、ドラゴンにとって、あの村の人達が他に換えようが無いほどの美味で。そして食べる事によって命脈が保たれる、とかならもはやどうしようもないと思う。あの世界はドラゴンと命が直結しているからだ。

外の人間の勝手な理屈で。

平穏な生活を破壊するなんて事が、あって良いはずがない。

だがそうでは無い事も分かっている。

突破口は、今回は幸いあるのだ。

休憩を互いに入れながら。

リディーとスールで、加工を続ける。

凄まじく複雑な魔法陣で。

更には機械的な機構も盛り込んでいる。

鍛冶屋の親父さんに部品を頼んでいなかったら、とてもではないけれど、この短時間で完成させることは出来ないだろう。

お金もほぼすってんてん。

だけれども、今回のお仕事には。

それでもなおやる価値がある。

そう、リディーは思うのだ。

スールも思ってくれている。そう、信じたい。

徹夜になるが。

そんな事は気にしていられない。イル師匠お手製の人間用栄養剤を飲んで、無理矢理体を動かす。

ほどなく、鍛冶屋の親父さんの作った部品が届いたので、組み合わせる。

仕組みは、こうだ。

全体的には、大きめの箱くらいの作りになっている。

ドラゴンが食べる肉を入れるために。

かなり大きな造りだ。

そして中には、二枚の板が入っていて。

これによって、温度を急速に調整する。

外には手回し式のハンドルがついていて。

二つの板を接近させたり、遠ざけることが出来る。

そう。板には魔法陣が刻まれていて。

多数刻まれている魔法陣の中に。

効果の強弱をつけるものがあるのだ。

実際の使用時は、金属製の皿を中に入れ。これに肉を載せる事になる。

早速試験。

獣の肉はいくらでもあるので、イル師匠立ち会いの下、早速道具を使って調査をして見る。

此処で問題なのは。

人間にとって美味しく感じる、「肉を焼く」でも「肉を温める」でもない。

「凍った肉」や、「冷たい肉」を作る事だ。

世界のルールが根本的に違っているのである。

ましてや生物としても違っているのだ。

嗜好が違うのは当然の話で。

人間相手には、絶対に使えない道具である。

何度か調整を行う。

冷えすぎたり、逆に全然冷えなかったりするので。

魔法陣に微調整を入れる。

その度に分解したり組み直したりするので。

色々と大変だった。

カチンカチンに凍った肉から。

よく冷えた肉まで。様々な冷え具合に、肉を調整出来るようになったので。まずは問題ないだろう。

そしてこのハンドル式の調理をする仕組み。

人間には扱えても。

ドラゴンには扱えない。

ドラゴンは絶対強者であるが。

人間も、そのドラゴンに対して奉仕が出来る。命を捧げるという、最悪の方法以外で、である。

更に言えば、ドラゴンに対する奉仕という事を定期的に行う事によって、現状の関係だって崩れない。

そういう仕組みを、新たに作れるのだ。

試運転を繰り返す。

冷凍肉ははっきり言って食べられたものではなかったが。

それはドラゴンに対してはどうかは分からない。

何しろ溶岩を食べているような生物だ。

嗜好だって全く違っているはずで。

試してみる価値は充分にある。

もしも駄目だった場合は。その時は、フーコが食べられてしまう。そう思うと、気合いはどうしても全身にみなぎった。

二日で、何とか仕上げる。

完成させて、イル師匠にまあ良いだろうと言われたときには。

その場に崩れ落ちてしまった。

意識が消し飛ぶ。

半日くらいは寝て。

それからだ。

もう、何も考えられなかった。

 

それにしても、面白い発想をする。

イルメリアは、素直に感心して、双子が作った「肉冷やし機」を見ていた。

実は、一万回以上繰り返した周回でも。

双子がこれを作ったのは初めてである。

いつもアンフェル大瀑布の理に打ちのめされ。

それ以降、戦うための覚悟を決めて、奮起していた。

それでやっと、数秒間ファルギオルに対して持ち堪えることが出来るようになっていたのだが。

今回は、今まででもっとも成長が早い。

その上、この時点で、アンフェル大瀑布の問題を解決できたとなると。

或いは、光明が見えてくるかも知れない。

ただし、そもそもファルギオルの復活まではそう時間もない。

アリスがてきぱきと力尽きた双子をベッドに運んで、寝かせる。

完全に寝入っている双子は、抱え上げられたくらいでは、目を覚まさなかった。

時が止まる。

時を止めると言っても、色々なやり方がある。それを、自分でも出来るようになってから、イルメリアは知った。

このやり口は。

振り返ると、フィリスだった。

見ていたのだろう。

それなのに、フィリスは言う。

「イルちゃん、どんな様子?」

「どうもこうもね。 今までに無い程成長が良いわよ。 一旦状況固定を考えても良いんじゃないのかしら」

「ソフィー先生が納得しないよ」

「……そうでしょうね」

フィリスの目は、ソフィーほどでは無いが、深淵に濁りきっている。

見ていられない。

あんなに優しい子だったのに。

悪に対して怒れる子だったのに。

情緒不安定な所は確かにあったけれど。それでも、此処まで闇に深く染まるなんて、考えてもいなかった。

この繰り返される地獄が。

フィリスを変えてしまった。

賢者の石なんて作るべきじゃなかったかも知れないと、イルメリアは思う。だけれども、それでもだ。

今でも、フィリスはイルメリアの比翼。

失う訳にはいかない相手だった。

「肉を冷やすか。 ドラゴンの嗜好を研究して、面白いモノを作ったものだね」

「様子を見ましょう。 これで上手く行かないようなら、きっとファルギオル戦もうまくいかない。 でも、上手く行くと私は見ているわ」

「イルちゃんの見立て、当たるかなあ。 わたし、正直双子もうあんまり信用していないんだよね。 いっそのこと洗脳でもするべきじゃないかって思い始めていてさ」

イルメリアが目を細めると。

くつくつとフィリスは笑う。

冗談だ、というが。

冗談では無い事は、フィリスを一番よく見てきたイルメリアが知っている。

ソフィーほどでは無い。

あいつは、文字通りその気になれば、アダレットそのものを消し飛ばすし。それでなんの痛痒も覚えない。

それほど壊れてしまっている。

フィリスにはまだ理性がある。

少なくとも、イルメリアと会話できるくらいの理性は残ってくれている。それは、客観的な事実だ。

世界を掌の上で転がしているソフィーとは違う。

この世界の愚かな人間達に対しては、イルメリアだって思うところがある。

だがそれでもなお。

彼処まで深い深淵に落ちたいとは思わない。

それだけだ。

「まあ、今回はイルちゃんに任せるよ」

「そうして頂戴」

「じゃね」

フィリスが消える。

時間が止まっていたことなど気づきもせず、双子は眠っている。そういえば、この双子に、時間を止める所を見せたな今回は。

そう思いながら、イルメリアは、肉冷やし機を見つめる。

もう少し、手を入れた方が良いのではないか。

そう思う。

まだ若干完成度が足りない。

勿論、現状の双子の力量ではこれが精一杯。余計な事をしたら。ソフィーが何をするか分かったものではない。

だが、一度一度。

繰り返しているとはいっても。

全ての周回を、大事にしたいのだイルメリアは。

双子は生きている。

愚かであっても。

馬鹿な子供であっても。

それでも成長しようとしている。

それならば、先達として見守るのが義務では無いのか。そう、思うのだ。

アリスにこの場は任せ。

一度深淵の者の本部に出向く。

今、ラスティンで主に活動しているイフリータが来ていたので、軽く話をする。イフリータはかなり忙しそうだが。

見慣れた光景だった。

此奴も深淵の者の最古参幹部。

状況は知っているが。

双子に対する印象は、あまりよくないようだ。

なお周回の中で、アダレット騎士団の援軍としてファルギオルと戦ってくれたこともあるが。

双子を守りきる事は出来なかった。

周回の度にマシになって来ているとはいえ。

それは蓄積したノウハウがあるからで。

最初の頃の周回の双子は、本当にとにかく酷かった。ファルギオル戦までに命を落としたことも、何度もあった。

「それで「創造」イルメリアよ。 何をしに来たのだ」

「資料を見に、ね」

「貴方ほどの賢者がか」

「私も、流石に全ての物事を常時記憶できているほどじゃないのよ」

軽く手を振ると、その場を離れる。

そして見聞院本部の三倍ほどの規模を持つ、深淵の者の書庫に入る。勿論イルメリアは顔パスである。本来なら此処は、深淵の者の最高機密なのだが。今はもう、最高幹部同然なのだから。

幾つかの資料を見ていく。

アンフェル大瀑布のドラゴンについて、徹底的に調査をしていく。

全ての周回での行動、言動など。

更に絵を描いた錬金術師の経歴など。

徹底的に洗い直す。

時間を止めて作業をしたので。

体感時間は数時間ほどだが。実経過時間は一瞬だ。全て確認し終えて、頷く。双子に、もう一つくらいアドバイスがいるだろう。

アンフェル大瀑布を描いた人間は。

ドラゴンに対する敗北主義を叩き込まれた錬金術師である。

この双子の推察は当たっている。

実際、経歴を見ると。

最高と自分で信じる面子と一緒にドラゴンを退治に出向き。

見事に返り討ちに遭った錬金術師だ。

なおその凶悪なドラゴンは、深淵の者で処分したが。

ドラゴンの恐怖を心身に叩き込まれた錬金術師は、何とかドラゴンに許されて生きる道を模索した。

そんな事。

絶対にドラゴンはしないのに。

絵の中でなら、自由ではある。だが、だからこそだろう。

いびつな世界が出来上がってしまったのだ。

自分のアトリエに戻ると。

丁度騎士団の隊長が来た所だった。

アドバイスを幾つかするが。

隊長である魔族は。ベッドに双子が寝ているのを見て小首をかしげた。

「賢者イルメリアよ。 アレは確か……」

「ええ、私の弟子よ。 少し難しい調合を徹夜でやったから、力尽きて寝ているところ」

「自分の寝床を貸すか。 随分と優しい師匠だな」

「……だったら良かったのだけれどね」

そう。

優しかったら、こんな運命からは絶対に救い出している。

確かに詰んでいる世界と戦いたいと願った。

だが、その結果はどうだ。

自分の認識が如何に甘すぎたか、思い知らされただけだ。

パルミラが無能なのでは無い。

奴は良くやっている。むしろ頑張りすぎるほどに頑張っているほどだ。

ソフィーが無能なのでもない。

奴は頭に来るほど有能だ。毎度毎度、確実に最善手を打ってくる。手段を選ばないからこそ、奴の力は圧倒的なのだ。

駄目なのは。

この世界に暮らしている人間四種族そのもの。

世界の仕組みが過酷なのも。

人間四種族が無能なのが、そもそもの原因ではないか。

疲れ果てて、死んだように眠っている双子を一瞥だけすると、隊長にアドバイスを続ける。

もう少しで、あの双子をファルギオルとの戦いに赴かせなければならない。

もし其処を越せなかったら。

何処をどう改善して良いのか、正直思いつかない。

今回は、アンフェル大瀑布の問題を具体的に解決する所まで、双子は上手く成長できている。

今までの馬鹿な子供のままファルギオルに突貫して、そのまま返り討ちに遭っていた状況とは根本的に違う。

それならば。きっと。

イルメリアは信じる。

今度こそ。

絶対の壁を、双子は打ち破れるのだと。

 

2、竜の食卓

 

予定の期日。

集まった面子は、また違っていた。

アンパサンドさんとマティアスさん。フィンブルさんはいつも通りだが。

ルーシャと、パイモンさんがきている。

フィリスさんはいるが、今回も戦力になってはくれないだろう。しかしながら、歴戦の錬金術師であるパイモンさんがいるのは、心強い。

ただ、やはりアンフェル大瀑布で、嫌なものをみたのだろう。

険しい顔をしていた。

パイモンさんは強烈な雷撃の使い手だ。

道中は、ほぼ心配しなくても良い筈だが。

「あの、パイモンさんも……」

「胸くそ悪い竜めの話を聞いたのであろう? わしも目の前で見たよ。 あの世界の民が、自分から食われる有様をな」

「……やっぱり許せない」

「スーちゃん」

手をとって。ぎゅっと握る。

スールは青ざめていたが。

それでも、頷いた。

もし此処で乱暴な手段に出てしまったら、全てが駄目になってしまうのである。何もかもが、だ。

そのアンフェル大瀑布の世界にとって。

ドラゴンは。あの赤いフラン=プファイルは神と同一の存在。

神と言っても、世界を創造したものではない。

世界そのものの神だ。

神の体内に世界があるようなもので。

フラン=プファイルを殺す事は。自分の価値観念を押しつけて、あの絵の中で生きている人達を皆殺しにするのとまったく同じ事だ。それを受け入れろと、言えるか。リディーには言えない。

「切り札を持ってきました。 これから説明します」

咳払いした後、皆に説明。

更にイル師匠の用意した切り札についても、話をする。

しばらく皆無言で聞いていたが。

最初に頷いたのは、アンパサンドさんだった。

「分かったのです。 やってみる価値はありそうなのです」

「アンパサンドさん!」

「最初あった時にはどうしようもないアホの双子だと思っていたのですけれども、随分成長したのです。 三日で対案を準備してきたことは素直に凄いと認めるのです。 もしも駄目ならば、諦めるしかない。 その時は、戦う事はしない。 それでいいですね?」

「……はい」

悔しいが。

その時は認めるしかない。

アンフェル大瀑布の仕組みは変わらず。

相変わらず村の人々は定期的にイケニエをフラン=プファイルに捧げ。

そして一定数が常時村に存在し。

灼熱の平穏が保たれ続けるのだ。

ドラゴンの庇護下で。

さあ、此処からだ。

勝負を付けるぞフラン=プファイル。貴方は間違っていない。確かにそういう理もあるだろう。

だが、そうでない理も成立しうることを見せてやる。

リディーは自分を鼓舞した。

スールは、それを見て気づき。

そして手を採って頷く。

二人なら、絶対に越えられる。例え相手が、どんなバケモノだろうと。

勿論そんな事は絶対にない。

分かっている。

一人前にようやくなるかならないかの力量しかないリディーとスールだ。だからこその鼓舞だ。

分かっているからこそに。自己暗示を掛けるのだ。

アンフェル大瀑布に入る。

既に暑さ対策は出来ているらしいパイモンさんは何ら問題無さそうだ。元々此処のレンプライアには雷撃が良く通る事も分かっている。

そういえば、どうしてなのだろう。

或いは、ひょっとしてだけれど。

悪意である事に、何か関係しているのだろうか。

以前の氷の洞窟のレンプライアには、とても氷が良く通ったし。

今回は雷撃が良く通る。

何か理由があるのだとしたら。

それはきっと、ろくでもない理由なのだろう事は、想像がつく。何しろ、レンプライアは悪意なのだという話なのだから。

まず村に行く。

フーコはすぐに来た。

見分けはつかないが、フーコだと名乗られるので、そう信じるしかない。ちなみに他の村の人達の名前も、似たようなものばかりで。フーカとかフーヨとか、そんなのばかりだった。

この辺り、或いは。

絵を描いた錬金術師が、どうでも良いと考えていたのだろうか。

だとしたら、この絵の主役は。

やはり、ドラゴンだと言う事で、間違いないのだろう。

その仮説は、村の人達が、みんなどれも似たかよったかの姿ということでも補填できる。いずれにしても、描き手が余程強い衝撃を、ドラゴンに受けた。

それは間違いの無い処だ。

「みなさん、待っていましたよ!」

「フーコちゃん、あれから特に何も起きていない?」

「はい。 ドラゴンは待ってくれています」

「そう……」

胸をなで下ろす。

多分だけれども。この絵を描いた人が、共存を考えていた事が、有利に働いたとみるべきなのだろう。

ドラゴンは人をイケニエとして欲する以外は理性的だ。

だからこそ。

つけいる隙がある。

命が掛かっているのだ。

例え絵の中の世界の、かりそめの命であったとしても。

何が変わるというのか。

まずは状況を確認。

此処はただでさえ危険極まりないのだ。

フーコの話によると、数回の探索時にレンプライアを片付けたこともあって、ここ最近は大きいのを見ていないという。小さいのばかりで、自分達だけでも対応出来る範囲だとか。

やはり定期的な駆除が必要になるのか。

頷くと、まずは持ち込んだ装置を見せて。

使い方を説明する。

小首をかしげていたフーコだが。

実施してみせると、すぐにやり方は覚えてくれた。

原始的な生活をしているからと言って、頭が悪いわけでは無いのだ。

とはいっても、思考回路が違っているというのは、色々厄介極まりない。イケニエなんて悪習を、何ら疑問にも思っていない。文化の違いというよりも、それが当たり前なのだろう。

そして実際にドラゴンという絶対者が存在するのである。

ドラゴンを殺す事は、この世界の滅びを意味もしている。

それでは、確かにイケニエという行為に、説得力が出てくるのも、また仕方が無いのかもしれない。

ただしそれはそれ。

今回は、打破のために来た。

使い方も教えた。

後は、途中で適当な肉を調達していけば良い。外の獣を使わないのは、口に合わない可能性があるからだ。

人の味の好みは個体差がかなりあるし。

地域差もある。

フィリスさんに聞いたのだけれど。

旅先では、それぞれ色々な味の食事を楽しむのだという。

口に合わないものもあるけれど。

それは巡り合わせが悪かった、というだけの話。

現地の人達の口にはあっているのだから。

料理としてはそれが正解。

当たる当たらないも含めて。

食べる事を楽しむのだとか。

とても怖い面もある事は、よく分かっている。フィリスさんは、もう人間の理を外れているかも知れない。

だが、その言葉には間違いが無いだろうし。

参考にもさせてもらう。

それくらいしたたかでなければ。

もはや、どれだけ訳が分からないと重ねても過言ではない状況で。

やっていくのは、無理だ。

作戦も皆に説明した後。

村を出る。

途中で、見かけたレンプライアは、片っ端から片付ける。今回はパイモンさんがいるので、とても助かる。

近付くだけで切り裂かれる厄介な鎧のレンプライアも。

遠くから大火力の雷撃で吹き飛ばしてしまえば何の問題も無い。

ドナーストーンを改良して、ああできないだろうか。

そう考えていると。

アドバイスを貰った。

早速メモをとる。

スールは理解出来ていないようだったが、それも含めて丁寧にパイモンさんは、キャンプで教えてくれたので。

とても助かった。

後は、時間が出来たら、レシピを作って、イル師匠に見てもらうと良いだろう。

思いついたのは、自律移動型の雷撃爆弾で。

相手に対して、自動的に数回の攻撃を自動で行ってくれる代物だ。

もし実現すれば、かなり役に立つ。

まずは、順番に。

一つずつ、目の前の事から片付けていかなければならないのだけれども。

溶岩の川の上の橋を慎重に渡る。

此処で装置を落としでもしたら、洒落にならないからである。

渡りきった後は、思わず溜息が漏れたが。

すぐに上空から、レンプライアの奇襲を受ける。

ルーシャが傘を展開。

シールドで弾き返すが。

危ない所だった。

無言でスールがドナーストーンを放り込んで、爆破。

フィリスさんが、何かメモをとっていた。

多分減点だろう。

まだ注意が足りない。

ハンドサインでやりとりし、できるだけ音や気配を減らしながら動くような場所で。油断するような状態では、話にならない。

その通りで、返す言葉も無い。

ルーシャに目礼すると。

先に進む。

もう少しで。

あの火竜、フラン=プファイルの居場所だ。

 

フラン=プファイルは、行儀良く座って待っていた。

元々エサに困る事などないのだろう。

溶岩を食べているという話だし。

他にも獣も食べているという事だ。

赤い体のドラゴンは、巨大であるという以上に。圧倒的な余裕のようなものさえ感じられた。

この辺りも、外のドラゴンとは違うのだろう。

外では、ドラゴンは圧倒的だが。

最強では無い。

錬金術師によっては狩る事が出来るし。

邪神という更に危険な存在もいる。

この絵の世界では、この火竜こそが絶対者であり、頂点の中の頂点に立つ存在なのである。

余裕のある態度も、当然だと言えた。

外来種がこのドラゴンを打倒することがあったとしても。

それはこの世界の終わりを意味する。

そういう意味でも、ドラゴンは余裕なのだろう。

世界こそ我。我こそは世界なのだから。

死ぬときは死ぬときと、それこそ笑って受け入れるに違いないと、見ていて感じた。悔しいけれど、この世界の王者は確かにこのフラン=プファイルだ。恐らく、この世界が続く限り永遠に、だろう。

そもそも、フーコ達を見る限り、この世界には生殖の概念さえあるかどうか怪しい。

このドラゴンは永遠存在として此処に君臨し続けるのだろうし。

フーコ達は勝手に同じ数が常に補充され続ける。

歪んでいびつな、まさに狂った永遠の連環だ。

だがフーコは、笑顔でこの世界で生きているし。不満そうにもしていない。外の世界の価値観を持ち込んで、勝手に滅茶苦茶にする事は。

それこそ、その狂った永遠の連環にも劣る行為ではないのだろうか。

だからこそ、その法則を壊さない程度の範囲内で。

妥協を求めるのである。

やはり、頭の中に、フラン=プファイルは直接話しかけてくる。

言葉は穏やかでさえあり。

故にむしろ頭に来る。

「約束通りに来たようだな。 対案は用意できたか」

「はい」

「ほう。 ではそれを見せてみよ」

「フーコちゃん、お願い」

まず、荷車から。その辺で仕留めた獣の肉を降ろす。絵の中にも獣はたくさん生活している。

レンプライアも、獣は相手にしていない様子だ。

その中から、かなり大きめの獣。

人間の肉と同じくらいの質量があるものを選んで、既に捌いてある。

そして、作ってきた装置。

「肉冷やし機」に、肉を入れた。

この装置によって、肉の温度を自在に調整出来るのだ。

この世界では、フーコ達人間とドラゴンの関係の地位確認が行われる。それがイケニエだ。

だが、ドラゴンは別にイケニエで食べる人間を美味しいと思っていないようだし。

単に肉が冷たくて良いと考えている様子だ。

それだったら。

冷たい肉だったら、何でも良いのではないのか。

それがリディーの結論。

イル師匠も、可能性はあるかも知れないと言ってくれた。

ならばそれに賭ける。

分の悪い賭では無い筈だ。

勿論冷やした肉なんて、リディーは食べた事もない。おなかに虫が高確率で湧くだろうから、怖くてそんな事はできない。

だが超越種であるドラゴンが、そんな貧弱なはずもないし。

何より肉を捌いているとき、寄生虫は一切見なかった。

大体、普段から、そのまま獣を食べているようだし。

寄生虫なんて気にする必要もないだろう。

この装置は、敢えて重労働になるように設計した。

苦労しながらハンドルを回しているフーコ。

興味深そうにそれを見ているフラン=プファイル。

やがて仕上がったので。

肉を装置から出す。

まずは、人肌より少し冷たい程度にまで冷やした肉だ。

いきなりキンキンに凍らせると、多分びっくりさせる。相手の好みを見ながら、肉を冷やせるように、装置も調整したのである。

フーコが疲れているようなので、少し休んで貰う。

そして、その間に、肉をフラン=プファイルに試食して貰った。

がつがつと肉を食べていたドラゴンだが。

やがて、ふむと鼻を鳴らすのだった。

「これは面白いな。 肉が此処まで冷たいというのは初の感触だ」

「どうですか。 これを、人間の代わりにしていただけませんか?」

「面白い事を更に聞く。 確かに悪くない味だが」

「見てください。 フーコちゃんは、この悪くない味を作るために、凄く苦労をしています。 貴方がフーコちゃんの上位存在であることは、揺るがない事実です」

しばし考え込むドラゴンだが。

注文をつけてくる。

「もう少し暖かい方が個人的には好みだ」

「分かりました。 出来ます」

「出来るのか」

「そういう装置です」

疲れている所申し訳ないのだが。

フーコに頼む。

思った以上にフーコは頭が良くて、装置の使い方はすぐにマスターしてくれた。肉については、周囲に幾らでもある。此処の獣は、はっきり言ってブライズウェストにいたような連中に比べると雑魚も良い所なので、狩るのに苦労はまったくしない。油断すると何があるか分からないから、狩るのに手は抜かないが。

今度は適当な大きさの鹿を狩ってくると。

捌いて肉を取りだし。

肉冷やし機に入れる。

フーコには、重労働になるが、働いて貰う。これは、フーコが働く事に意味があるのだから。

やがて、先ほどよりも少し暖かいくらいにまで肉を調整する。

相手が我が儘を言いまくることは覚悟していたので。ばてていたフーコには、人間用の栄養剤を飲んで貰う。

まだ長期戦になる可能性が高いのだから。

フラン=プファイルは今のところ、新しく見るもの。

肉冷やし機に、興味津々である。

この興味が失せる前に、勝負を付けなければならない。

また、この火竜は。

どうやら、絵の中の人間であるフーコ達と、リディーやスールらヒト族を、別の生物とみている様子で。

此方を食べようという気も見せない。

色々追い風になっている。

その追い風が途切れない内に。

勝負を付けなければならないのだ。

むしろ相手が面白がっている内に、さっさと勝負を付けてしまわないと。絶対にフーコが食べられてしまう。

冷や汗が流れる中。

調理が終わり。

疲れているフーコにお疲れ様と言いながら、冷やした鹿肉を出す。

フラン=プファイルはさっきのが良かったからか、喜んで食べ始めるけれど。

ここからが、緊張の一瞬だ。

人間と同じくらいの肉塊をぺろりと平らげるのを見ると。

パイモンさんが、舌打ちする。

大体理由は分かる。

こんな感じで、目の前でイケニエを食われたのだろうから。

ルーシャも同じだ。

目を背けて。じっとしている。

無表情なオイフェさんとの温度差が強烈で。このままフーコをイケニエにさせるのは、絶対に許されないとリディーは思った。

程なく、この世界の王である火竜は言う。

「ふむ、先より更に悪くない。 それに、人間が我に対しての奉仕を行っているのも充分に確認できる」

「では……」

「まだひと味足りんな」

「具体的に、どうすればいいですか?」

勿論笑顔は絶対に崩さない。

此処はそもそも、法則からして絶対的に異なっている世界なのだ。相手が言っている事に分があるのである。

そしてこの世界を壊してしまえば、フーコ達もみんな死んでしまう。

此処に集った面子であれば、フラン=プファイルを倒す事は可能かも知れない。

だが、それでは。

意味がないのだ。

氷の洞窟の世界で、トカゲの王と会ってよく分かった。

不思議な絵の世界では、リディーやスールの方が異物なのだ。

ざわめきの森では、人間にとても優しいお化け達がとても良くしてくれたけれど。

本来は、これくらい違っているのが当たり前で。

それにあわせるには。

リディー達の方から譲歩するのが当然なのである。相手の家に勝手に入っているのも同じなのだから。

相手の家に勝手に入ったあげく。

自分の理屈を押しつけるなんて、それは傲慢の極みではないか。

あげく勝手に相手の家を破壊して、何の正義を気取るというのか。

そんなものは。

自己満足の末に、大量殺戮をするのと、なんら代わりは無い。

「味が少し違う。 そうさな、温度は今のでいい。 アレは狩れるか」

「……やってみます」

フラン=プファイルが顎で示した先にいたのは、巨大なムシだった。

カブトムシに近い姿をしているが。いずれにしても、多分肉食だろう。

スールが青ざめているが。

リディーが頷くと、ゆっくりと、覚悟を決めて頷いた。

マティアスさんが、フォローはしてくれる。でも、スールの覚悟は堅い。

「スー、無理はしなくて良いんだぜ」

「いや、やる。 お化けだって克服できたんだもん。 虫だって、いつかは克服しなきゃいけないんだから」

「そうか、偉いな」

「何さ! 王子様だからって偉そうに! 偉いのは分かってるけど、何か腹立つ!」

ぷいぷいむくれるスールを促して、巨大カブトムシを狩る。

相手は動きも装甲も、正直どうと言うことも無い。魔術を使って多少反撃をして来たが、それくらいだ。

即座に倒して、吊して捌く。

パイモンさんや、ルーシャが手を出す必要もなかった。前衛と、リディーの支援魔術、スールのフラムだけで充分だった。

巨大な虫の捌き方について、アンパサンドさんが講義をしてくれる。

虫は殺しても長時間動いている事が多く。

大きい場合は力も強いので、気を付けなければならない。

そういう説明も受けた。

関節に沿って切りおとし。

大量の体液と、意外と白身で美味しそうな肉を取りだしていく。

本来なら火で炙るのだが。

今回はそういう事はしない。逆に冷やす。

内臓とかは、思ったよりずっと少ない。

また、骨もないのが面白かった。

虫を細かく解剖したことがなかったから。大きな虫型の獣を、丁寧に解体するやり方について解説を受けるのは、色々と新鮮だ。

スールは完全に真っ青になっていたが。

吐いたら殺すとアンパサンドさんに言われて。

それで、真っ青のまま、必死に手を動かしていた。

殻を剥くようにして。

虫の外骨格を切り開き。

そして、肉を取りだす。

そういえば、海老や蟹と感覚がかなり似ている。

アンパサンドさんは黙々と作業をしていたが。フィリスさんが教えてくれる。

「虫はね、海老や蟹とは生物として結構近い所にいるんだよ」

「え、そうなんですかっ!?」

「そうだよ。 蜘蛛なんかもそうだけれど、節足動物、という枠組みに入るの。 だから味も似ているんだよね」

「……」

スールが、海老やら蟹やらを美味しい美味しいと食べているのを思い出したが。

隣でスールが、真っ青になって、気絶しそうになっている。

吐いたら殺す。

もう一度アンパサンドさんが言ったので。

涙目のまま、作業を続けるスール。

アンパサンドさんは、殺すと口にしたら本気で殺す。これについては、今まで見てきているからスールにも分かるのだろう。

リディーも少しだけ同情したけれど。

こればかりは、正直どうしようもない、というのが素直な所である。

ともかく、虫肉を必要量回収出来たので。

肉冷やし機に入れて、フーコに冷やして貰う。

コツを覚えるのも早いフーコは。すぐにさっきと同じ温度にまで、肉をきっちり冷やしてくれた。

がつがつと食べ始めるフラン=プファイル。

流石に疲れ果てて、目を回しているフーコには、横になって貰う。

さあ、どうだ。

今度こそ、満足したか。

フラン=プファイルを見る。

フーコは一生懸命奉仕しているし。こっちだって、最大限の妥協をしている。其方の理屈に沿って動いてもいる。

この世界には、この世界の法があるとしても。

改善出来る点はそうするべきだ。

ドラゴンとの共存の健全な形が、捕食。イケニエというのは、やはり絶対に間違っている。

かといって、この世界では、ドラゴンが人間の上位存在だというのは絶対だ。

その絶対の中での妥協案。

認めて欲しい。

もう、祈るしかない。

でも、多分だけれども。リディー達がいた教会の神様が、あの氷の世界のトカゲの王の話どおりの存在だとすると。

祈ったところで、どうにかしてくれるかはかなり怪しいと思う。

それでも今は。

祈るしかない。

何に。

それも分からない。だからこそ、悔しくて仕方が無い。シスターグレースは、思えば基本的に、あらゆる全てを現実的な観点に落とし込んで教えてくれた。生き抜く術なんかも全てそうだった。

もしも神様に身をゆだねろというのなら。

それは此処で行われている、イケニエと何ら変わりが無い気もする。

思考がめまぐるしく動く中。

ついに、フラン=プファイルが結論を出した。

「うむ、これでいいだろう。 巫女の奮闘も充分。 この味なら、我も満足だ。 味に飽きたら、別の獣にすればいい。 何も別に美味いわけでも無い人間を食す必要もあるまい」

「……っ!」

「これからは、巫女にはその装置を用いての調理を行って貰う。 それでかまわぬ。 装置の状態保全は我が行おう」

やった。

言葉もない。

涙が溢れてくる。

絶対的に相容れない存在と、妥協をする事が出来た。それが、これほど嬉しい事だった何て。

目を回しているフーコを担いで、荷車に乗せるフィンブルさん。

ぽんとリディーの隣でぼんやりしている様子のスールの頭に手を置くと、良かったなと言う。

そういえば、前にスールに、激励の言葉を掛けていた。

それが報われたのだと思うと、本当に涙が止まらない。

「外の者よ、剥落した古いものだが、我が鱗を譲ろう。 その辺りに落ちているから、持っていくが良い。 お前達の世界にいる「ドラゴン」のものと変わらぬ筈だ」

「はいっ! ありがとうございます」

「それにしても、そなたはどうして此処までする。 この世界とそなたの世界では、前提条件が異なっている。 命の価値もな。 上手く行っているものを壊せば、それで全てが瓦解すると思わなかったのか?」

流石超越種。

頭の中も覗いて。

しかも、外の世界がどうなっているかまで把握していたのか。

唇を引き結ぶと。

涙を拭った。乱暴に目を擦ってから、言う。

「どうしても、食べる食べないの関係になる存在はあると思います。 でも、食べなくてもいいなら、殺さなくてもいいのではないかと思うんです。 害になるから獣は駆除しなければならないのが私達の世界です。 でも、害にならないのなら……」

「面白い奴だ」

「……」

「そなたらは我にうまいものを提供した。 そして必要な上下関係も崩さなかった。 故に我は譲歩しよう。 今後も傲慢な考えを持たず、相手を尊重する事を忘れる事なかれよ、異界の人よ」

頭を下げる。

色々思うところはあるが、フラン=プファイルの言葉は正論だった。返す言葉も正直無かった。

確かに、リディーとスールは必死に。

この世界の理を否定しようとしていたのかも知れない。

荷車で完全に目を回しているフーコを見て、今後は彼女が殺される事はないと知るだけで、報われたとも思うが。

その一方で、もっとどうしようもない理で支配されている不思議な絵も存在するのではないかと思うと。

今から背筋が凍る思いである。

村まで戻る。

そして、フーコの体力が回復するのを待ってから。

村の人達に集まって貰った。

やはり、ぴんと来ないようだった。

「巫女が食べられなくてもいい?」

「はあ。 肉を冷やして捧げれば良いから、誰も死なずに済む」

「それが今までと何が違うの? 他の生き物を代わりに殺してドラゴンに捧げるだけだよね?」

「重労働が加わるだけだね」

アンパサンドさんが冷えた目で見ているが。

これがこの世界での、普通の考え方だ。

だから、順番に。

丁寧に説明していくしかない。

自分達の考えを、違う考え方が普通である上、合理的に成立している世界に持ち込んで。好き勝手にするほど、傲慢で身勝手なことは無い。

氷の洞窟の世界で、嫌と言うほど体に叩き込まれたことだ。

フーコは言う。

「ドラゴンは喜んでいましたよ」

「フーコ、そうなの?」

「はい。 美味しいお肉を食べられて、別にまずい人肉を食べて地位確認をしなくてもよくなったといっていました!」

「そうか、それなら……」

やはり、この世界の住人の視点からも、旨みが無いと駄目か。

メモをとっておく。

また、ろくでもない世界に入り込む事があった時。

対応するには、色々考えなければならない。相手の世界に入り込んで、その立場で思考する事も必要なのではないのか。

今までそれが出来ていたとは思いがたい。

それならば、今後は。

より心がけていかなければならないだろう。

あれ。

何だか、心の奥に、黒いものが拡がる気がする。

ふと振り向くと。フィリスさんが、リディーの目を覗き込んでいた。そして、にんまりと笑う。

「近付いたね、深淵に」

背筋が凍るかと思ったが。

次の瞬間には、フィリスさんは時間を飛ばしたように。

また離れていた。

 

3、死闘の後始末

 

ある意味、強力な獣や、ネームドとの戦いよりも緊張したかも知れない。ドラゴンの鱗を貰って、それはとても嬉しかった。これがハルモニウムの素材だと言う事は知っているからだ。

勿論、今の技量では、とてもハルモニウムなんて作れっこない。

でも、いずれの未来を考えれば。

これはとても嬉しい事である。

笑顔で手を振るフーコに手を振り返して。

絵の世界を出る。

ため息をついたのは、パイモンさんだった。

「若いというのは良い事だ。 体だけ若返らせても、彼処まで柔軟な発想を思いつくことはついにできなかった。 わしは目の前で、イケニエが食われる有様を見ている事しか出来なかった」

「それをいうならパイモンさん、わたくしも同じですわ。 でも、これでもう、あの悪習はなくなるんですのね」

「俺様も、もう二度とあんなものを見ないでいいと思うとせいせいする」

マティアスさんからは、珍しく本気での憤りを感じた。

だが、リディーは咳払いする。

「あの世界は、結局ドラゴンが神様なんです。 妥協するところを、見つけるしか他に無かった、と思います。 私とスーちゃんはたまたま良いお師匠様に恵まれた。 それだけです」

「そうだな……」

疲れた声で、パイモンさんが先に引き上げると言う。

ルーシャも、少し疲れた様子で、オイフェさんに支えられるようにして、帰って行った。

アンパサンドさんに、念を押される。

「レポートは出来るだけ早く出すようにするのです」

「はい、分かっています」

「アンパサンドさん! 師匠が、レポートはもうスーちゃん達だけで作って大丈夫って、太鼓判くれたんだよ!」

「そうですか。 それは何よりなのです」

ガキが。

そうアンパサンドさんが言っている気がしたが。

気にしない事にする。

勘が良いスールが、馬鹿にされたように思っていないようだから。多分リディーの気のせいだろう。

フィリスさんはいつの間にかもういない。

そうなると、後は、帰ってレポートを書くだけだ。

これで、Dランクに昇格、だろうか。

ますます責任が重くなるのは確実。

もっと厳しい仕事にも、かり出されるだろう。

それに、少し気になる。

フィリスさんに言われた事だ。

深淵に近付いた。

そう言われた。

確かに、心の奥底に、何か黒いものが生じた気がする。あれが、深淵のひとかけらなのだろうか。

イル師匠がいつか言っていた気がする。

知識は深淵だと。

深淵を覗き込めば、深淵に覗き返される。

酷い場合は、深淵そのものになり果ててしまう。

まるで、身近にそんな人がいるかのように、イル師匠は語っていた気がする。まさか、フィリスさんが。

可能性は低くない。

もしそうだとしたら、今、イル師匠は、最大の親友が壊れてしまったところを見続けていることになる。

そして、今後力を得ていけば。

心の中で、この黒い染みがどんどん拡がって。

やがてリディーも。

スールは、そんなリディーを見て、どう思うのだろう。

泣くのだろうか。

それとも、手を伸ばして。

もろともに深淵に。

「おい」

フィンブルさんに声を掛けられて、我に返る。もうアトリエについていた。荷物をコンテナにしまい。そしてフィンブルさんにお礼を言う。しばらく頭を掻いていたが、フィンブルさんは言う。

「目がおかしかったぞ。 まるで……目の中に、ドブ沼でもあるようだった」

「えっ……」

「フィンブル兄、リディーは、その、疲れていただけだよ」

「そうだと信じたいがな」

フィンブルさんが帰ると。

気まずそうに、スールが俯く。

この様子だと、余程酷い状態だったのか。全身に怖気が走るのを感じる。本当に、深淵に。

もう片足を引きずり込まれ掛けているのか。

フィリスさんの言葉が、頭の中で、何度も残響する。思わず、悲鳴を上げて蹲りそうになる。

必死に耐え抜くが。

頭の中がくらくらした。

これが深淵。

力。

恐らく一人前になると、錬金術師はこの力に、向き合わなければならなくなる。つまりリディーは一人前になりかけているということだ。そして今後、この黒い染みは、どんどん大きくなっていって。

そして、フィリスさんのように。

残虐な行為でも、平気で出来るようになって行く。

三傑の最後の一人は、フィリスさんの比では無い怪物だという話も聞いている。

そんな風になっていくのか。

「もういいよリディー! もう休んで!」

スールに言われて、頭がクラクラする中、ベッドに押し込まれる。

しばらくぼんやりしていると。

泣きながら、レポートを作っているスールが見えた。

嗚呼。

スールもきっと、このまま錬金術師としての道を究めていくと、心にこの黒い闇を抱えることになる。

その時、スールは耐えられるのだろうか。

そうとはとても思えない。

こんな凶暴な力。

存在するだけで、心を汚染していくもの。

知恵は力。知恵は深淵。力とはすなわち深淵なり。

何処かから、そんな声が響く。そして、それをどうしても否定出来ない。真実だと理解出来てしまうからだ。

「リディー、レポートのチェックお願い」

「うん……」

スールに言われて、レポートをチェック。

酷い出来だ。

こんな内容では、イル師匠に怒られてしまう。せっかく出た作成の許可も、取り消されてしまうかも知れない。

修正点を指摘。

スールは無言で、直し始める。直しながら、スールは言う。

「一歩間違えればみんな死んでたんだね、今回も」

「でも、誰も死なせずに済んだよ」

「村の人達言ってたよ。 獣を殺すのと何が違うのかって。 やっぱりあの世界にとって、本当に正解だったのか、分からなくなってきた」

「フーコちゃんは、認めてくれたよ」

そうだ。

あの世界に、命を大事にするという概念はない。特にあの世界の人間は、此方の世界のドラゴンのように、常に一定数が存在するのだ。食われてもすぐに補充される。そういうものである以上。

命の価値が違うのは当たり前だ。

だから、余計なお世話だった。

そうなのかも知れない。

今になって、そうとさえ思えてきた。

だけれども、やった事には一人だけでも賛同してくれた。個性がある知的生命体が、それぞれの命を何とも思っていないというのは、異常だと思う。そう思って行動したことには、ほんのわずかな光だけでも点ってくれた。

目を擦りながら起きる。

レポートをチェックして、スールにも再チェックして貰う。

その後は、しばらく休んでから。

疲れをとった後、王城にレポートを提出しに行った。

いつも同じ役人がいるわけではないから、手続きも常にすぐに済むわけではないけれど。

今回はたまたま手際が良い人がいて。

てきぱきと片付けてくれた。

結果は数日後だという。

数日後となると、少し時間が空く。

納入用の発破やナイトサポートを補充しておくのが良いだろう。或いは、何かしらの仕事が来るかも知れない。

それと、ペンダント。

今までは温度安定のものだけを作っていたけれど。

今度はその出力を生かして、防御強化や、筋力強化のものを作っていきたい。

例えばアンパサンドさんに、筋力強化のものを渡したら。何倍も回避盾として活躍してくれるはずで。

リディーに魔力増幅のものをつければ。

前からこつこつ勉強していた広域回復の魔術を実現できるはず。

話し合いながらアトリエに戻り。

その後は手分けして動いた。

リディーはとにかく合金を作る。

スールはナイトサポートと、納入用の発破を作る。

錬金釜は一つしか無いので。

互いに手持ち無沙汰にならないように、連携しなければならなかったけれど。

その辺りは双子。

連携については、それほど難しくは無かった。

幸い、宝石は上位種レンプライアを殺した事で、ごっそり得られている。品質についても問題は無い。

かなりペンダントの作成コストは圧縮できる。

次のランクになると、更に厳しい任務が来るのは容易に想像できるし。

それならば今のうちに。

出来るだけ、戦いの経験と。

それ以上に錬金術の技術を。

上げておかなければならなかった。

「ナイトサポート、上がったよ」

「丁度良いから、イル師匠に品質見てきてもらって」

「合点」

「さて……」

合金が出来たので。

リディーは鍛冶屋の親父さんの所に持ち込みに行く。

また鎖かと言われるかと思ったけれども。

鍛冶屋の親父さんは、何も言わずに仕事を引き受けてくれた。この辺りは、本職だからだろう。

出来た合金のインゴットも見て。

しばらく唸った後、話をされる。

「これ、幾つか納入してくれるか」

「買い取ってくれるって事ですか?」

「ああ。 この品質なら、そろそろ市販品に混ぜても大丈夫だろう」

「ありがとうございます!」

この人が認めてくれたと言う事は。つまり、それだけの品質に到達できた、という事である。

しかもこの人のお店に並んでいる装備は、一線級で使える物ばかり。出入りしているのが歴戦の猛者達である事からも分かるように。置いている装備にしても、騎士団に納入しているという噂もある程だ。

「コレ一個で、鎖の加工をただでやってやる。 丁度それくらいの価値がある」

「分かりました、すぐにもう一個作ってきます」

「ああ。 それとな、そろそろプラティーンを作る事も視野に入れろ」

生唾を飲み込む。

ついに来たか。

合金ではなく。

自然の鉱石から作れる、最強の金属。

ドラゴンの鱗から作る、文字通り神域の金属であるハルモニウムを除けば、最高の存在。錆びず、強靱で、それ故に恐ろしく高価な代物。

「この合金は良い品だが、これで満足していると先はねえぞ。 基本的に天辺を目指すくらいで丁度良いんだ」

「……」

てっぺん、か。

心の中に拡がり始めている黒い染みを思うと。

複雑な気分だ。

それでも、どうにかしなければならないのは事実。そして力を高めれば、もっと心の中に黒いものは拡がっていく。

頷いて、そして帰る。

親父さんは、おかしな奴と思っただろうか。

でも、確かにてっぺんを目指す。

つまり国一番のアトリエを目指すのなら。

当然、今後は。

この恐ろしい力とも、つきあって行かなければならないのである。

錬金術は夢の技術かも知れない。

だけれども、何でも出来るからと言って。

それを無制限に使ったらどうなるか。

例えばアンフェル大瀑布で、自分の我が儘を強引に通したりしていたら。

それこそ、何が起きていたかわかったものじゃない。

アンフェル大瀑布の世界そのものが崩壊して。

フーコ達も、みんな死んでいたかも知れないのだ。

力を扱う責任の重さが。

やっと分かってきた気がする。

今までは、恐ろしい力を得た人達を見る、という段階に留まってきた。はっきりいって、リディーとスールには、そんな大した事は出来なかったから、である。

だけれども。

これからは、自分達が、恐ろしい力を持った人になるのだ。

それを考えると。

とても安楽で何て、いられなかった。

アトリエに戻ると。

スールはいなかった。イル師匠に、何か言われているのかも知れない。

その代わり。

違和感がした。

周囲が灰色になったような、恐ろしい空気。

いや、違う。

外を歩いている人達が止まっている。時間が停止している。イル師匠がやったように。いや、それともちょっと違う。

背筋を、恐怖が這い上がった。

足音が、後ろからする。アトリエの扉の鍵は、しめたはずだったのに。

後ろから、ぐっと抱きしめられる。それも、もの凄い力で、締め上げられるかのように。

恐怖でリディーは、息が出来なくなるかと思った。

「うん、どんどん濁っていて良い感じだね」

「フィ、フィリス、さん……!?」

「少し静かに聞いて。 これからリディーちゃんはどんどん深淵に染まっていくことになる。 それに比例して、どんどん力も上がっていく。 多分その内、後天的にギフテッドに目覚めるとも思う」

呼吸が出来ない。

前に、スールがフィリスさんと話しているのをみたことがあったが。

こんな事を、されていたのではないのか。

頭の中に、声ががんがんと轟く。

教会の鐘を至近で鳴らされているかのようだ。

「だけれども、疑問に思わない? あまりにも都合が良い環境で、あまりにも都合が良い成長を遂げられているって」

「そ、それは」

スールが再三言っていた事だ。

リディーも、勘付き始めていた。

あらゆる全てがおかしいと。だけれども、フィリスさんの口から、直接それが聞かされた事になる。

怖くて、フィリスさんの方を見られない。

上位種レンプライアに、至近距離で腕を振るい上げられた時なんて、比較にもならない程の死の臭いが、側でしていた。

「勿論こんな都合の良い状況には目的があるんだよ。 誰も、リディーちゃんとスールちゃんみたいな手間が掛かる子に、此処まで無駄な力を注ごうなんて思わないからね本当だったら。 だけれども、こうしている。 それだけ大きな力が周囲で動いていて、二人はやらなければならないことに立ち向かわなければならない。 それはしっかり認識しておいてね?」

「ど、どうして、私達なんですか……」

「教えない」

ふっと、充満していた殺気が消える。

そして、無邪気な笑みを浮かべるフィリスさんが、側に立っていた。

だけれど、気付く。

目は一切笑っていない。

漏らすかと思った。

「イルちゃんがね。 貴方たちのためにいつも苦しんでいるんだよ。 だから発破をちょっと掛けているだけ。 ふふ。 あ、今のは余計だったかな」

頭を掴まれる。

いや、と言う言葉を発する間もなく、考えられないほどの魔力が流れ込んできて。

そして、リディーは。

ちょっと前に言われた言葉を、すっかり忘れてしまった。

へたり込む。

冷や汗が、背中を滝のように流れているのが分かった。

そして気付くと。

フィリスさんは、もう其処にはいなかった。

改めて、思い知らされる。

あの人は、もはや魔人と呼ぶべき超越存在であって。錬金術と言う枠組みを完全に超越している。

その恐ろしさは、多分ドラゴンや邪神ですら及ばない。

アンフェル大瀑布のフラン=プファイルは、ルーシャとパイモンさんもいた状態だったら、勝ち目が「あったかも知れない」。だが、フィリスさんなら、それこそ一人で、デコピン一発で倒していただろう。

スールが戻ってくる。

そして、へたり込んでいるリディーを見て、気付いた様子だ。

勘が鋭い子だ。

気付くだろう。

「リディー!」

「だ、大丈夫、大丈夫……」

スールに抱きしめられて、一気に気が抜けたのか。腰が抜けて、完全に動けなくなった。またベッドに運ばれて、押し込まれる。

何だかこれだと、病弱みたいだ。

ナイトサポートの品質について確認すると、むっとむくれるスール。それどころじゃないと言いたいのだろうか。でも、今後は多分だけれど、もっともっとフィリスさんは圧力を掛けてくる。

イル師匠は厳しい中に優しさを感じるけれど。

フィリスさんは、優しさを装って裏には殺戮の権化としての姿が確かにある。

あの時間止めだって。

その気になれば、自分だけ止めることも簡単なはず。

つまり、リディーとスールなんて、その気になれば秒で二人とも殺せる、いや秒すら必要ないと言う事なのだ。

怖くて、震えが止まらない。

その日は熱が出てしまった。

スールに料理が出来る筈が無いので、出来合いを買ってきて貰う。それと、イル師匠を呼んで、風邪薬を貰う。お金は勿論払った。

一日寝ていれば良くなる、と言う事だったけれど。

多分イル師匠は、何が起きたのか悟ったのだろう。

それ以上の事は、一切言わなかった。

翌日からは、言われた通り動けるようになる。

だけれど、心の中に出来た黒い染みが、確実に拡がっていくのが分かる。夢の中にまで、それが出てくる。

悲鳴を上げたくなるが。

そんな事をしたって、どうにかなる話でもない。

既に力は解き放たれてしまった。

そして今後生きていくためには。

この力と上手くやっていく事が、どうしても必要なのだ。

更に、である。

フィリスさんの予言は当たった。

少しずつ、何かの声が聞こえるようになりはじめたのである。

地下室からの声では無い。

他のありとあらゆるものから、である。

微弱だが。

確かに聞こえる。

合金に魔法陣を彫り込んでいる時。

わずかに聞こえる声が、教えてくれる。良いよ、とか駄目だよ、とか。

何となく分かる。

これは絶対に勘じゃない。

魔術を使える人間としては珍しく、リディーには殆ど勘が備わっていないのである。いきなりこんな事になるはずがない。

間違いなく、フィリスさんが言っていたギフテッド。

その萌芽だ。

人によっては、これが生まれた時から聞こえるのか。

恐怖しか感じない。

力とは、狂気そのものだ。

リディーは、それを、体を持って思い知らされていた。

 

4、来るべきその時

 

ミレイユ王女が会議を終えて、自室に戻ろうとしたその時である。

時が止まる。

ああ、来たなと悟ったが。

既にそれは、目の前にいた。

ソフィー=ノイエンミュラーである。

一瞬前までいなかったのに。

これでも、武芸に覚えがあるミレイユだが。それでも、此奴には何をやっても勝てる気がしない。

しかも念のためなのだろう。

護衛に、とんでもないのを連れている。

ソフィーの後ろにいる短髪のヒト族の女は、童顔に無邪気な笑顔を浮かべているが。宮廷闘争の中でも見たことが無いほどの危険な狂気と。騎士団の敵を殺し慣れている騎士達の中でも嗅いだことがないほどの血の臭いを感じる。

何となく、覚えがある。

鏖殺と呼ばれる匪賊殺しがいるという。

そいつが現れると、もはや匪賊は逃げる事も許されず、ただただ皆殺しにされていくだけ。

故に匪賊は、鏖殺の噂が流れるだけで、必死に逃げ出し。

しかしながら、逃げてもそのまま鏖殺されてしまう。

ここ数年で、鏖殺によって消された匪賊は千を軽く超えているとさえ言われている。それほどまでに、鏖殺の恐怖は轟いているのだ。

此奴がその鏖殺で、間違いないだろう。

「ミレイユ王女、お久しぶりですね」

「定期的に話をしているような気もするけれど。 それで如何なる用事かしら」

「雷神ファルギオルの正確な復活日時が確定したので連絡ですよ」

「!」

多分だが、違う。

確定したのではない。

確定させたのだ。

ソフィーの目は相変わらず深淵そのもので。此奴が戦えば、すぐにでも雷神を殺せる事なんて、分かりきっている。

それなのに此奴は。

どうして無理矢理な育成計画を立てて。

膨大な国家予算までつぎ込んで。

雷神抹殺のための準備を、アダレットぐるみで行わせているのか。それが、どうしても分からない。

探ろうにしても無理だ。

どんな腕利きの密偵でも、此奴相手にかなうはずがない。

単独で上級ドラゴンを殺すような奴だし。

隙を見せたことは一度もないと、手練れの密偵が揃って報告してきている。そればかりか、密偵はそれぞれ後ろに回られて、「遊ばれて」いるという。歴戦の密偵達が、子供扱いなのだ。

「復活は二週間後。 恐らく時間は正午過ぎ。 出来るだけ早めに準備を整えておいてください」

「……分かったわ」

「それでは」

最初から何もいなかったように。

ソフィー=ノイエンミュラーも。

付き従っていた鏖殺も。

いなくなっていた。

呼吸を整える。

時間が止まっていた間、蚊帳の外にいた侍女達が、慌てて駆け寄ってくるが。何でも無いと、はぐらかす。

さて、此処からだ。

ソフィー=ノイエンミュラーは何を目論んでいる。

分かっているのは、深淵の者はソフィー=ノイエンミュラーに全面協力体制をとっている、と言う事。

何しろ首領であるルアードが出てきているほどなのだ。

アルファ商会も、相当な金を動かしていて。

アダレットの国家予算十年分に達する金が動いたのではないか、という話さえ出てきている。

勿論経済の表面には出てきていないが。

深淵の者とアルファ商会が密接につながっている、どころか。アルファ商会のトップであるアルファが、深淵の者幹部である事はとっくに調べがついている。とてつもない巨大な何かが、蠢いているのだ。

唇を噛むと、歩く。

例え相手が何者であろうと。

アダレットを守りきらなければならない。

無能な先代王を幽閉するのに協力してくれた恩はあるが。だからといって、好き勝手をさせるわけにもいかない。

更にソフィー=ノイエンミュラーほどではないにしろ。三傑の残り二人、イルメリアとフィリスも相当に厄介だ。本当に、どうして此処までの凄まじい力が、アダレットに集まっているのか。

大臣の一人が来て、耳打ちされる。

頷くと、眠るのは中止して、会議に戻る。

また、やる事が出来た。

雷神復活に備えて、準備はしている。それに対して、幾つか決定的な証跡をとる必要が出てきている。

ソフィー=ノイエンミュラーは恐らく嘘をついていない。

だが、此方でも、やるべき事はあるのだ。

会議をしたあと。マティアスを呼んで、双子にスクロールを届けさせる。

そして、騎士団に。

総力戦の準備を開始させた。

今はまず。

雷神ファルギオルを仕留めなければならない。

 

リディーはマティアスさんからスクロールを受け取り、内容を確認する。

Dランクに昇格。

今後義務として、以下のものが追加される。

騎士団の騎士用に、錬金術で作った装備品の納入。毎月五つ。

以上である。

この装備品には、最低限以下の機能を必要とする。防御力の常時強化。身体能力の常時強化。

読み終えると、頷いていた。

この機能なら、ナックルガードで充分だろう。

たくさん作ったので、かなり慣れても来ている。材料だってたくさんある。金属に魔法陣を彫り込むのも慣れた。

それにこのナックルガード、汎用性が非常に高い。

シールドの常時展開、身体能力の常時強化の他には。体力の常時回復と、魔力の底上げで良いだろう。

ナックルガードの変則レシピはたくさんつくってあるので。

それに沿ってやるだけ。

スールと手分けすれば、すぐに出来る筈だ。

「分かりました、マティアスさん。 これなら簡単だと思います」

「心強くなってきたな。 だけれど、悪い連絡があるんだよ」

「何?」

「すぐに試験だ。 それも危険な奴」

もう一つ、スクロールを渡される。

レシピが記載されていた。

雷撃を集めて。

その数値を記録する装置らしい。作れないものではないが、これは恐らくだが。

「これって……」

「そうだ。 あのおっそろしいブライズウェストに設置してくること。 それが試験内容だ」

単純な試験内容だが。

問題は、錬金術師の補助が恐らく一人だけ。それもルーシャだけしか出せないだろう、という事だった。

ルーシャは確か昨日Cランクに昇格したと聞いた。そうなると、Dランクの錬金術師と、Cランクの錬金術師を一緒に出すというので、コスト的には限界なのだろうとも思うが。しかしながら、前にブライズウェストに赴いたときに比べて、飛躍的に力が増しているわけでもない。

これは、本格的な準備が必要だ。

今、ネックレスを人数分用意するべく、頑張って二人で手分けしている所だ。

ルーシャとオイフェさんは必要ないだろうけれど、できるだけ急がないといけないだろう。

最悪アンパサンドさんとリディーの分だけでもいいか。

後出来れば、イル師匠に話を聞いて、雷撃避けの装備を借りたい。あれがないと、ちょっと危なくてブライズウェストには足を踏み込めない。

大体雷神の復活が近いと聞く。

この装置の設置意図なんて、分かりきっている。

覚悟は決めなければならなかった。

「雷神ファルギオルが、もう復活するんですね」

「噂によると、二週間先だって話だ」

「そんなに近いの!」

「そうだぞスー」

笑おうとして失敗するマティアスさん。

それはそうだ。

ファルギオルとの戦闘記録は見た。騎士団も記録的な被害を出しているし、その恐ろしさは騎士団にも語り継がれているはず。

幾ら山師同然の連中とは言え、錬金術師をまとめて薙ぎ払うようなバケモノである。

下手をすると、それと戦わなければならないのだ。

四日後に出る約束を取り付けると。スールに、フィンブルさんに声を掛けてきて貰う。あと、予算がごっそり振り込まれたので、ドロッセルさんにも来て貰う事にする。これで戦力はどうにかなるか。

あと、自身はイル師匠の所に行く。

雷撃対策が出来ないと、彼処にはもはや入り込む事も出来ない。

最悪ネックレスを放置してでも、雷撃対策の装備を作らなければならない。

さて、ここからが勝負だ。

時間は、一秒でも無駄に出来ない。

リディーは頬を叩く。

いつまでも、恐怖に打ち震えてはいられない。

また雨が降り出す。

怖くてまだ膝が笑いそうだけれども。

それでも、走らなければならなかった。

 

(続)