雷鳴の平原

 

序、ブライズウェスト

 

アダレットに生まれた人間は誰でも聞く。

二百年の昔。

恐ろしい雷神が、人間達に攻撃を開始した。

雷神の名前はファルギオル。

多くの騎士達が、その凄まじい力の前に倒れた。邪神の中でも最強と言われるファルギオルの力は圧倒的で、上級ドラゴンすらしのぎ。。幾つもの街が焼き払われ、もはやどうにも出来ないと思われた。

其処で二人の英雄が立ち上がった。

一人は先代の騎士団長。

魔族の中のレア種族である巨人族で。

アダレットの守護神として君臨してきた騎士の中の騎士。なお、寿命が長い魔族の、しかもさらに寿命が長い巨人族と言う事もあり、引退はしたが存命である。

もう一人は錬金術師ネージュ。

一部では、この名前を教えない事もあるらしいのだけれども。

最近は、その風潮は薄れてきている、らしい。

騎士団長率いる決死の覚悟を決めた騎士達と。

錬金術師ネージュは。

当時の国王が陣頭指揮を執り。

大きな被害を出す中、決死の戦いをブライズウェストで挑み。

そして、辺りを塵芥に化す戦いの果てに。

雷神を葬り去ることに成功した。

後は色々な話が付け加えられたりするが。

概ね、こんな感じである。

なお、具体的にどう倒したかは、ほぼ伝わっていない。

シスターグレースが人形劇で見せてくれたときも、その描写はなかった。

大雨の中、急ぎながらリディーは思い出す。

今回は、本当にヤバイと思って。

戦略級傭兵として現役で活躍しているドロッセルさんに声を掛けた。

やはり相当な金額を要求されたが。

大枚はたいて、来て貰うことには成功した。

だが、それでもなお。

戦力が足りるとは思えないのだ。

今でも、ブライズウェストは人が出来るだけ近寄りたがらない土地である。二百年をすぎてなお、雷神の恐怖は語り継がれているのだ。

更に言えば。

その雷神が、復活するという噂がある。

邪神の類は、倒しても復活するという話は確かに聞いた事があったが。

それでもよりにもよってファルギオルが。

ぞっとしない話だ。

三つ目の街で宿を取る。此処から、ブライズウェスト平原まですぐ近くである。

比較的雨が弱まってきているが。それでもここのところ、少しばかり雨が多すぎる気がする。

近くの川は囂々と凄まじい音を立てていて。

出来れば近寄りたくはなかった。

それほどに危ないと、一目で分かるほどの状態なのだ。

彼方此方で、災害も起きているかも知れない。

雷は近くで落ちると体が壊れるほどのダメージを受けることもあると聞いている。

ブライズウェストに赴くときには。

準備は必要だろう。

宿を二部屋とり。

男女それぞれ分けて止まる。

そこそこ大きめの宿場町だが。それ以上に気になったのは、駐屯している騎士が多いと言う事だ。

やはりファルギオルに備えているのだろう。

復活の噂は。

恐らく本当だ、と言う事だ。

そういえば、この街に入ってから、空き屋が目だった。

或いは、住民達にも。

自主的な避難が指示されているのかも知れない。

実際雷神が出た場合。

時間稼ぎさえ、騎士達では出来ない可能性が低くないのだから。

イル師匠とアンパサンドさん、ドロッセルさんとアリスさん、スールと一緒の部屋に泊まる。

少し手狭だけれども。

宿そのものが大きくないのである。

外はまた雨が激しくなってきていて。

雷の音に、リディーは思わず耳を塞いでいた。

怖い。

だけれども、これからブライズウェストに行くのだ。

正直、怖いなど言ってはいられない。

手を叩くイル師匠。

どうやらドロッセルさんとは知り合いらしく。

話をしているのを見かけたが。

内容については。聞こえなかった。

「現状、ブライズウェストは雷撃対策無しで行ける場所じゃないわ。 と言うわけで、常時これを展開します」

指を鳴らすイル師匠。

空中に浮かび上がったのは、球体からたくさん棒が生えている謎の物体だった。

何だろうあれ。

小首をかしげて見ているが。

まあ、見ていても仕方が無いか。

説明をしっかり聞く事にする。

「これは一種の避雷針で、空中で雷を集めて地面への直撃を防ぐわ。 これを四つ同時に、空中に展開する事で、雷撃を防ぐのだけれども」

「機械が展開されている範囲からは余り離れるな、機械には近付くな、ね」

「そうよドロッセル。 前に見せた事あったかしら」

「バカでも分かるわよ」

苦笑いするドロッセルさん。

スールは分かっていなかったようで、うんうんと頷いていたが。

アンパサンドさんが、その様子をしらけて見ていた。

「そうなると、あまり跳躍するのは好ましくない、ですね」

「そうなるわ」

「……機動力が殺されるのは面白くない。 何か対策が欲しい所ですが」

「不自由な中戦う事になるけれど、我慢して」

イル師匠にも、対策はないということか。

いや、雷がドッカンドッカン落ちている所に行って。

雷の被害を、限定的に消せるだけでもマシ。

そう思うしかないか。

ただ、イル師匠は、それぞれに靴につけるための道具を準備してきてくれた。靴にバッヂのようにつける道具で。

雷撃避けだという。

避雷針で吸収しきれなかった雷も。

これで受け流すことが出来るとか。

ただ体が横倒しになって、流石に肌に直に触れている場合は危ないらしいので。

注意するようにも言われた。

錬金術師として超の上に更に超がつくほどの格上である。

イル師匠が何を作ってきてもおかしくは無いが。

それにしても、ちょっと疑問が残る。

何だか、イル師匠にしては。

随分中途半端な気がする。

その気になれば、雷撃を完全防御する装備くらい作れそうなのに。

或いは、其処までの面倒を見る気は無い、と言う事なのだろうか。

いずれにしても、力不足は痛感している。

明日までに、強化用の装備品のアイデアを一つ出せと言われて。そしてイル師匠はさっさと寝てしまった。

ドロッセルさんも、壁際で毛布にくるまって休みはじめる。

二人とも、ドッカンドッカン雷が落ちているのに意に介してもいない。

流石に歴戦としかいいようがない。

リディーなんて、怖くておへそをどう隠そうとか、真面目に考えている程なのに。

スールでさえ、少し青ざめていて。

近距離に雷が落ちたときには、時々首をすくめていた。

流石にこの雨だと、多少の雨漏りもする。

部屋の中で、ぽちゃんぽちゃんと時々音がしているので。

それも気になった。

「獣の腕輪にナックルガード。 どちらも腕につけるものだよね。 そろそろ別の路線で行って見る?」

「ルーシャ、……はいないか」

「仮にいてくれても、教えたら何されるか分からないよ」

「あ、ごめん……」

スールの返事については。

今ではよくその意味が分かる。

イル師匠だって、寝ているけれど。その間に意識がないとは言い切れない。冗談抜きに、人間を止めているとしか思えないのだこの人は。

アリスさんも起きているし。

或いは全部報告されてもおかしくない。

アリスさんは、此方を一瞥だけすると。

さっきの雷避けの道具を、男性陣の部屋の方に持っていった。

さて、此処からだ。

どうするか、結構真剣に考えなければならない。

しばらく考えた後、ネックレスがいいかなという結論になる。

ただし跳んだり跳ねたりする事を考えると。

きらきらした奴は駄目だ。

マフラーのように首にある程度固定するか。

或いは服の下に忍ばせるものがこのましい。

ネックレスとなると。

鎖に加工を施すのは厳しいだろう。いや、鎖にして、首から外れないようにするのは良い工夫だと思う。

鎖の加工は流石に厳しいので、鍛冶屋の親父さんに頼む。少しずつ安定して作れるようになってきた、シルヴァリアとゴルトアイゼンの合金で問題ないだろう。

後は宝石だが。

幾つかの宝石については、作り方も分かるし。

原石も今までの不思議な絵画の探索で見つけている。

これらを磨けば。

魔力を蓄積するための貯蔵装置としての宝石は出来る。

宝石をガードするようにして、合金で包むとして。

その合金に、魔法陣を組み込むと良いかも知れない。

ただ、そうなると。楕円形に加工した宝石を包む合金のカバーに魔法陣を書くことになるため。

掘るための作業が、尋常では無く難しくなる。

ただ、合金の加工については、スールもかなり練習を重ねているので。

やり方を確立さえすれば。

多分行ける。

問題はとても小さいと言う事だ。ネックレスなのだから、まあ当然だろう。

「いっそ腕輪をもっと増やす?」

「ううん、この間の戦いでも、ネームドの尻尾の直撃貰ったでしょスーちゃん。 今後、戦いで腕が無事な保証は無いよ。 少しでも継戦能力を残すためにも、強化装備は体の彼方此方に分散させなきゃ」

「……それもそうか」

「いっそ、心臓を中心に守るために、強化魔術を彫り込んで、宝石にため込んだ魔力で増幅してみようか」

良いかも知れない。

メモをとって、しばしすると。

アリスさんが戻ってきて。

イル師匠が目を覚ました。

「何か思いついた?」

「は、はい。 こんなのはどうでしょう」

文字に起こし。

絵にも描いてみる。

文字の方は納得してくれたイル師匠だが。

絵の方は、何故か一瞬絶息した。

スールが苦笑いしている。

なんでだろう。

「ふーん、個性的な絵ね」

「えっ!? そ、そうですか」

「イル師匠、言わないでやってください……」

「個性的なのは良い事よ」

とにかく、これでいいから作って見ろと言われたので、良かった。まさかの一発OKである。

今後一発OKが続けば、その内レシピについても、自由に作って良いと言われるようになるかもしれない。

そうなれば、とても嬉しい。

アリスさんがイル師匠に何か耳打ち。

頷くと、イル師匠は咳払いした。

「出るのは明日の朝早くよ。 二人とももう寝なさい」

この雷の中でか。

イル師匠は平然と寝に入るし。アリスさんは壁に背中を預けて目を閉じる。

リディーとスールは毛布を被ると。

雷が落ちる度に、首をすくめて。

それでどうにか、必死に耐え抜いた。

怖いけれど、ネームドを間近にするよりはマシだし。

これからもっと恐ろしい場所に行くのだ。

せめてルーシャも一緒に来てくれていれば、多少はマシだったのだけれど。今回はいないのだから仕方が無い。

急ぎの用事だったのだ。

或いはこれも試験の一環かも知れないが。

いずれにしても、それも知らされていない。

判断は、どうにも出来なかった。

ともかく、どうにかして眠る。二人で手をつないで。毛布を被って丸くなっていると。雷が落ちても、ある程度耐える事は出来た。

スールが寝息を立て始めた頃には、リディーも何とかうつらうつらし始めていて。

そして眠りについた。

夢を見る。

お母さんの墓参りを、お父さんと一緒にしている。

お父さんは、お母さんが死んだ直後は、本当に悲惨だった。

お酒に溺れて。

完全に壊れてしまっていた。

鍛冶屋の親父さんが見かねて助けてくれたけれど。リディーとスールが教会でシスターグレースに保護されている間、お父さんが何処で何をしていたのかは分からない。家に、アトリエに戻った時には。

少なくとも、お酒は抜けていたし。

ただし、もう何もかも信用できないという目にはなっていたが。世界を恨み、何より自分を憎んでいる目だった。

今になって思い出せば。

お父さんは、あの時、自分を呪い抜いていたのかも知れない。

お母さんを治せなかった自分を。

凄い錬金術師になると、時間を止めるわ、巨大な岩を小さなつるはしで瞬時に粉砕するわ、矢二本でネームドを木っ端みじんにするわの現実を、リディーも見てきている。お父さんに同じ事が出来るとは思えない。

全盛期のお父さんの腕前は見ていて覚えている。

今のリディーとスールでは全然及ばない。

だけれども、あれは。

病気のせいであって。

お父さんのせいではなかったはず。

どうしてお父さんは。

全て自分で抱え込んでしまったのだろう。

目が覚める。

朝になっていた。

少し雷も落ち着いていて、雨も小雨になっている。探索をするなら、今しか無いだろう。

幾つかの道具を、イル師匠が出してくる。

どこから出したのかは、よく分からない。

いや、フィリスさんもそうだったけれど。

高位の錬金術師は、本当に何をやっているのかよく分からない事が、しょっちゅうある。空間とか時間とか、弄り放題なのかも知れない。

「地図はアリスが書くわ。 貴方たちは、これをお願い」

「これは、何ですか」

「測定装置よ。 地図を作るための、正確な座標をはかる装置。 今回は、避雷針の範囲から外れず、獣からの襲撃を警戒しつつ、地図を作るのが目的になるわ。 貴方たちは、少しでも戦闘の経験を今回積むのよ」

「ひえっ」

スールが声を上げるが。

リディーは言葉も無いくらいに怖いと思った。

それから、男性陣と合流して。

油紙で守った荷車を押しながら、ブライズウェスト平原に出る。手練れの錬金術師が二人もいると聞くと。

街の歩哨も、行く事は止めなかった。

ただ、命知らずだとは、目に書いていた。

街から少し離れると、すぐに緑がなくなる。

水は多いはずなのに。

枯れ木と、岩と。

そして大きな獣たちしかいない。

「まずは駆除作業からか」

ドロッセルさんが、常識外れのサイズの大斧を担いで前に出る。彼奴の破壊力は、前に護衛を頼んだときに目の当たりにした。

大斧は見かけ通りの凄まじい威力で、ドロッセルさんはとんでもない重さだろうこれを、平然と振り回す。前にドロッセルさんと一緒に戦った時には、文字通り一人だけ桁外れの強さだった。ましてやナックルガードも渡した今、更に火力は上がっているはずだ。頼もしい。戦略級の傭兵なのだから、まあ当然なのかも知れないが。

荷車から、ルフトとレヘルンを取りだす。

この雨の中だと、フラムよりそっちの方が役に立つだろう。

わっと襲いかかってくる獣。

アンパサンドさんとフィンブルさんが構え、少し遅れてマティアスさんも構える。

アリスさんはあくまで接近された時に対処するつもりなのだろう。

イル師匠は、傘さえさしていない。アルトさんもだ。

多分必要さえないのだろう。

戦いが、始まる。

それは、雨の中。

凄惨を極めた。

 

1、血まみれ平原

 

巨大な亀が、突貫してくる。丸い甲羅を持っていて、そして口は凄まじいほどに大きく、尖っていた。

牙は見えないけれど。

あんな口で噛まれたら、一瞬で腕ぐらい無くなってしまう。

轟音と共に、ドロッセルさんの大斧が亀の甲羅に突き刺さるけれど。

しかしながら、亀はそれでも突進を止めない。

レヘルンを直撃させるが、それでもまだ止まらない。

何てタフな。

アンパサンドさんが、至近を横切るようにして、軽く斬る。

一瞬だけ隙を見せた亀に。

躍りかかったドロッセルさんが、斧に踵落としを叩き込む。

嫌な音と共に甲羅が爆ぜ割れ。

流石に今度は、亀も動かなくなった。

雨の中、呼吸を整える。

何度も支援魔術を使って皆を助けたが。

周囲の大量の獣の死体を見ると、はっきり言って肝が冷える。ブライズウェスト平原に入っただけでこれだ。

奥に進んだら、一体どうなることか。

「これはちょっと量が多いわね。 後で貴方たちの取り分は分けるわ」

「えっ? どういうことですか」

「こういうことよ」

荷車に積んでいた荷物の中から、小さな四角い金属の塊を取りだすイル師匠。

それを拡げると、ドアになる。

どうやって拡げたのか。

そして、ドアを開けると。

中は薄暗い倉庫になっていた。

もうこれだけで意味が分からない。フィリスさんが使っているアトリエのようなものなのだろうか。

「大体その通りよ。 高位次元に干渉して、内部に別の三次元空間を作り出しているの」

「心も読んでいるんですね」

「考えている事を当てているだけよ。 別にこれくらい、多少訓練すれば誰にだって出来るわ。 さ、男衆にドロッセル、獣の死骸を運び込んで。 内部は冷えているから、痛む事はないわ」

「うひい、マジかよ……」

真っ先に文句を言うマティアス。

殿下、とたしなめながら、フィンブルさんが獣の残骸を運び込み始める。

雨に濡れると、急速に痛む。

それは分かっているので、急ぐ。

血の臭いもある。

獣は放置していれば、どんどん寄ってくるだろう。作業は急がなければならない。此方の継戦能力も無限では無い。

不意にイル師匠が、手を振ると。

大きな剣が出現して、地面に突き刺さる。

悲鳴を上げながら飛び出してきたのは、口ががばっと全方位に開くモグラだ。奇襲を目論んでいたのだろう。

アンパサンドさんより反応が早かった。

剣が串刺しにしたので、流石に即死。

これも、死体入れ(仮)に運び込んでいく。

「フィリスがいれば少しは楽なんだけれどね。 あの子は今、スイッチ入ってるから」

「イル師匠、フィリスさんのアトリエ、山を幾つも飲み込んだって本当?」

「本当よ」

「うっそお……」

流石に青ざめるスール。

リディーも驚いたが。

実は、スールが負傷して寝ているとき。ツヴァイさんに案内して貰って、見せてもらったのだ。

コンテナは広大な空間が拡がっていて。

何処までも棚があった。

見た事も無い素材もたくさんあったし。

深核もゴロゴロ置かれていた。

石材や、ただの石らしいものから。

貴重そうな鉱石まで。

様々なものが山のように詰め込まれていた。確かに、山を幾つも飲み込んだというのも納得の、異次元空間だった。

獣の処理が終わる。

すぐにさっき貰った装置を、言われたまま地面に差す。

指示は的確で、間違えようがなかった。

アリスさんがてきぱきと動き。

イル師匠が、ゼッテルに筆を走らせる。

雨の中だろうと関係無い様子だ。

特別製のゼッテルとインクなのだろう。或いは、地図の情報を、自分にだけ分かるように書いているのかも知れない。

イル師匠が作業中は。

アルトさんが辺りを代わりに警戒していた。

ほどなく、動く。

別の地点に移動するが。

当たり前のようにコカトライスが歩いていたので、思わず悲鳴を上げそうになった。彼奴は獣の中でも別格だ。出来れば近寄りたくもない。

完全に無視して、イル師匠はすたすた歩いて行く。

コカトライスは此方を警戒するようにしていたが。

手を出しても勝てないと判断したのか、そっぽを向いて、去って行く。

すごい。

騎士団がいても、襲いかかってきたのに。

「辺りにある鉱石、黄色みが掛かった奴、拾っておきなさい」

「はい。 これですか」

「そうよ。 これはライデン鉱と言って、電気を蓄える鉱石よ。 ドナーストーンという雷撃爆弾の素材になるわ。 本来は雷が落ちないと出来ないのだけれど、此処はこう言う場所だから、高品質のものがいくらでもある。 集められるだけ集めておきなさい」

「はいっ!」

作業の合間に、可能な限り拾っておく。

その他にも、たまに岩陰などに、ちょっとだけ野草などが生えていた。アルトさんに聞くと、いちいち全て知っていた。

毒草、薬草、どっちも使い路がある。

図鑑を拡げるどころではないので、使えそうなものはもうその場で出来るだけ回収していく。

その間も断続的に獣の襲撃は続く。

壊れた橋があり。

怒濤のように、増水した川が流れていて。

さっきの亀が、もがきながら流されていくのが見えた。あれは、落ちたら絶対に助からない。

獣でさえあの有様だ。

やがて亀は、激流の中で大岩に激突。

砕けてミンチになって、バラバラに流されていった。

生唾を飲み込む。

恐ろしすぎる。

川の中は、巨大な獣で一杯だろう。あの亀の死骸は、あっと言う間に貪り尽くされて、何も残らないに違いない。

獣は人間を例外なく襲うけれど。

獣同士でも喰らいあう。

恐ろしい世界だと、体感するしかなかった。

そのまま、言われた場所に装置を突き刺し。

イル師匠がメモをとる。

そして、また獣を駆除しながら進む。レヘルンとルフトは山ほど作ってきたのに、在庫が少し心許ない。またざわめきの森と、氷晶の輝窟に行かなければならないだろう。ざわめきの森はもうスールもピーピー言わなくなったが。氷晶の輝窟に関しては、足を運ぶ事自体が色々気が進まない。

「次。 こっちよ」

「はいっ!」

「えっ、此処って……」

「早くしなさい」

イル師匠の叱責は厳しい。

やれやれと、ドロッセルさんが肩をすくめた。

何しろ其処は坂になっていて、泥水が大雨に遭わせて、川のように激しく流れてきていたからである。

しかも坂の上には、多数の獣が集まっている。

此処を通ろうとする者を襲い、八つ裂きにしてやろうと待ち構えているのだ。

「じゃ、先陣切るよ」

「続くわ。 貴方たちも、私から離れすぎないように」

「やれやれ、相変わらずのじゃじゃ馬ぶりだ」

「五月蠅いわよ」

アルトさんに、イル師匠が短く返す。

どうやら昔からの知り合いらしいけれど。はて。

イル師匠については、年齢を聞いたけれど。アルトさんは、むしろイル師匠より年下に見えるくらいなのだけれど。

どれくらいから錬金術師をやっているのだろう。

お父さんをあからさまに越える腕前と。

ネームドを相手にしてもまったく遜色のない手練れぶりなのに。

この間スールが寝込んでいる間に聞いた話によると、いわゆる「三傑」ではないというのだ。

ならばこの人は。

一体何者だ。

ともかく、どっと濁流が流れ込んできている坂を駆け上がり。

一気に蹴散らしながら、進む。

身体能力が上がっているとは言え、かなりきつい状況だ。しかも、坂の上から獣が魔術をバンバン投げ込んでくる。

雷撃系の攻撃は、避雷針が吸ってくれるけれど。

他はそうも行かない。

ドロッセルさんは地面に激しい音と共に斧を突き刺すと。

辺りの岩を豪腕を振るって投げ始める。

崖の上にいる獣が、その岩が飛ぶ度に吹っ飛ばされ、明らかに怯むが。しかしながら、吹っ飛んだ獣は即座に他の獣の餌だ。

そして、十体ほどが吹っ飛んだ頃には。

あからさまに隙が出来。

真っ先にアンパサンドさんが。

濁流から飛び出している岩を上手に跳んで渡りながら、敵陣へと切り込んでいた。

相変わらずの凄まじい度胸である。

それにドロッセルさんとフィンブルさんが続き、更にマティアスさんも本当に嫌そうな、怖そうな顔をしながら続く。

「こえーし! 死ぬし!」

泣き言が此処まで聞こえる。

呆れるが。

正直な話、泣き言もぼやきたくなるのは、何となく分かる。だから、敢えて何も言わない事にする。

突破口を開いたアンパサンドさんに続いて、ドロッセルさんが突入。

当たるを幸い、敵を薙ぎ払い始める。

大斧を直撃させられた獣は、大半がその場で吹っ飛ぶか、ミンチに。

そこへ踊り込んだフィンブルさんが敵の数を減らし。マティアスさんがどうにか攻撃をガードする。

イル師匠が悠々と崖の上に上がり。

リディーとスールがそれにつづいた頃には、いつの間にかアルトさんも崖の上に上がっていて。

悠々と肩に掛かった水滴を払っていた。

辺りにはまだまだ雷が落ち続けている。

呼吸を整えながら、支援魔術を次々切り替え。

アンパサンドさんを、フィンブルさんを、マティアスさんを。状況に応じて支援していく。

不意にアリスさんが動いて。

間近を斬る。

何もいなかった筈の空間から鮮血が噴き出し、その場に大きなカエルが出現して、倒れていた。

保護色か。

そういう能力があると言うのは聞いていたが。

ここまで来ると、もう魔術の域だ。

いや、或いは本当に魔術なのかも知れない。

今の攻撃も、アリスさんはシールドごと敵の皮を喰い破っていた。

迷彩で近付き。

しかもシールドで守りにも余念がない。

隙が無い。

生物として、もう何というか、存在していけないレベルだが。此奴でも、この荒野では、ただの獣の一匹に過ぎないのだろう。

激しい戦いはまだ続き。

時々イル師匠やアルトさんも加勢してくれるが。

殆どは、リディーとスールが。

接近戦組と連携しながら、処理しなければならなかった。

坂の上での激しい戦いが終わった頃には、皆泥だらけ。傷も無数に出来ていた。アンパサンドさんでさえ、直撃こそ無かったけれど、細かい傷はたくさん作っている。何とか、体勢を立て直したい。

「リディー、其処に。 スール、其処に」

でも、イル師匠は容赦ない。

どんどん指示をして、作業を進めていく。

どうやら、極限まで体力を絞り尽くさせるつもりらしい。雨をもろに浴びているから、風邪を引きそうで怖い。

体力の自動回復がナックルガードでついているとは言え、これは正直な所。

かなり厳しいとしか、言いようが無かった。

 

やっと、一段落したのはもう暗くなり始めてから。

大規模な戦いだけで三回。そして、ブライズウェスト平原の半分ほどを回って、それで一旦宿に引き上げた。

残りの戦力を聞かれるので。

慌てて荷車を調べる。

ルフトとレヘルン、念のために持ってきたフラムも含めて、残り三割を切っていた。

「それでは駄目ね。 かなり無駄に使っている所があったし、それで足りなくなったのよ」

「ご、ごめんなさい……」

「イル師匠の剣、いいなあ……」

「これ、手入れから何から兎に角大変よ。 今は壊れないようになったけれど、昔は戦闘の度に壊れて、必死の思いで作り直していたんだから」

そうなのか。

イル師匠でさえそうだとすると。

今のリディーとスールには扱えないか。

がっくりと肩を落とすけれど。

ともかく、この後どうするか、決めなければならない。

一度、食堂に皆で集まる。

ぶっちゃけた話。

アルトさんとイル師匠だけなら、この後の作業も簡単ポンなのだろう。だけれども、少しでも負担を減らしてコストを下げるために、リディーとスールが来ている。コストカットに関する重要性は、この間キホーティスさんから聞かされた。それならば、相応の事はやらなければならない。

まず、物資が減っている事を告げると。

アルトさんはくつくつと笑った。

「ちょっと色々準備が足りないね。 まだ若いのだから仕方が無いけれど」

「アルトさんって時々おじいちゃんみたいですね」

「今更?」

「ちょっとまて! どこがだ!」

しらけているイル師匠と本気で狼狽しているアルトさん。

スールはもう当たり前のような目をしているし、リディーは困惑するばかりだ。そういう話はスールにされたが、この反応からして、本当だとしか思えない。

ただ、強いていうならば。

イル師匠よりは。

まだアルトさんの方が、隙があるかも知れない。

「ともかくだ。 そうなってくると、明日の探索でどうにか切り上げる。 それしかないね」

「ドロッセルの言う通りよ。 もう帰り道の事は考えなくて良いから、ブライズウェストで持ってきた発破類は全て使い尽くすつもりで戦いなさい」

「でも、大物が出てきたら……」

「バトルミックスを使うべき時が来たら使ってかまわないわ」

そうか、創意工夫で乗り切れ、と言う事か。

今日は雨に濡れて疲れた。

常時回復が掛かっていてこれだから。

或いは、下手をすると風邪を引いていたかも知れない。ともかく、体を綺麗にしてから、休む。

疲れ切っていたから、すぐに落ちる。

雷がまた激しくなってきていて。

時々叩き起こされたけれど。

隣にスールが寝ているので。

ある程度は安心して、また眠る事に専念できた。

 

翌朝。

雨が上がっていた。

雲は相変わらず分厚いし、雷も落ちているけれど。それでも、昨日よりは条件がずっと良い。

すぐに出る準備をする。

昨日大量に獣を駆除したにもかかわらず、まだ遠目にもかなりの数の獣が彷徨いていたけれど。

それでも、昨日行った地点にはいかなくても良いし。

縄張りが開いた分、獣はかなり移動しているはず。上手く行けば、戦闘を減らせるかも知れない。

指定地点に向かう。

ただ、獣がさっそく多数お出迎えだ。

中にはキメラビーストもいる。グリフォンと並ぶ初心者殺し。食肉目の体と蛇の尻尾を持ち、蛇の方にも頭があって、魔術を使いこなす危険な獣だ。ただし、皮は非常に強力で、便利な素材にもなる。

襲いかかってくる獣の群れ。

とにかく、突破しないことには始まらない。

バトルミックスを使うには条件を幾つもクリアしなければならない。

アンパサンドさんが真っ先に敵中に踊り込んで暴れ始める。

隙を見せた敵に、それぞれ皆が攻撃を叩き込み。

リディーは間断なく戦況を見ながら、強化魔術を切り替えて行く。

広域回復魔術をもう少しで覚えそうなのだけれど。かなり難しくて、この間考えたネックレスを作って、支援をして貰わないと厳しいかも知れない。

錬金術師は魔術師の上位互換。

魔術師では突破出来ない出力差を、覆せる存在だ。

だから、それを駆使して戦う事を考えなければならない。

「リディー!」

必死に支援魔術を切り替えながら戦っていると。

スールの警告の声。

必死にシールドを張るが、思いっきり吹っ飛ばされた。

地面でバウンドして、岩に叩き付けられ、ずり落ちる。

見ると、大きな……何だかよく分からない生き物が、舌を伸ばしてリディーを殴打したようだった。

しかも、体の二十倍は舌が伸びている。

何だあのアウトレンジ攻撃。

しかも、詠唱を半端にしたとは言え、錬金術の装備でシールドも常時展開しているリディーを、一撃で吹っ飛ばした。

必死に立ち上がろうとするが、また舌が飛んでくる。

絡め取って、食べるつもりだ。

だけれど、スールが舌と入れ違うようにしてフラムを相手の口の中に放り込み、完璧なタイミングで起爆。

頭が吹っ飛んだ何か良く分からない生物は。

舌も千切れ飛び。

凄まじい勢いで、唸りながら地面を打ち据えていた。

地面がえぐれるほどの凄まじさで。

ぞっとする程の威力だった。

口の中がどういう構造になっているのか分からないけれど、あの舌は場合によっては敵を貫く必殺の武器だったのだろう。

頭は打っていない。

呼吸を整えながら、何とか立ち上がる。

詠唱が、嫌に重く感じた。

フィンブルさんに支援魔術を掛けて。

同時に、一気にフィンブルさんが、躍りかかってきた小型の食肉目を貫く。口から後頭部に抜けたハルバードを、力任せに引き抜くと。辺りに血がぶちまけられる。

イル師匠が動く。

すっと手を振ると、無数の剣が出現。

辺りにいる獣を、悉く串刺しにし、更に雷撃が走る。

慌てて跳び離れるアンパサンドさん。

それだけヤバイ雷撃だったのだろう。

事実、剣に貫かれた獣は、悉く息をしていなかった。

「トリアージ! 急げ!」

フィンブルさんが叫んで、リディーも手当を受ける。

呼吸が荒くなっている。打ち身だけなら良いけれど、骨が折れていないか、念入りに調べられた。

体中痛くて、涙が出そう。

だけれども、これはとっさの判断を出来なかった自分が悪いのだから、甘受するしかない。

一通りの手当が終わったら、すぐに次へ。

地図はまだ出来ていない。

アルトさんは笑みをずっと浮かべ続けているし。

アンパサンドさんも文句一つ言わない。

此処が非常に危険な場所で。

地図を作るのに、大きな意義があるというのが理由だろう。

マティアスだけが、ぶーぶー文句を戦いのたびにぼやいていた。

「こえーし! もう俺様泣きそう!」

「ミレイユ王女は血染めの薔薇竜なんて言われているのに、君はまた随分と軟弱だね、マティアス」

「うっせえアルト!……その通りだよ畜生!」

でも、自分の弱さを認められるのは凄い。

雨の中、マティアスは顔を乱暴に拭う。

今の戦いでも必死に獣を斬り倒していたが。キルカウントは、そもそも相手を殺す事を想定していないアンパサンドさんとリディーを除くと、最低だったと思う。

力仕事しか役に立っていない。

アンパサンドさんにもそう言われていた。

早い話が独活の大木。

自分でもそれを自覚しているから。

王族と言う事を、殆ど口にしないのだろう。

たまにスールが暴言を吐いたときに、抗議はしていたけれど。

最近はそれも、ある程度受け入れている節がある。

リディーはマティアスさんが嫌いだ。

一番駄目だったときのお父さんにそっくりだからだ。

だけれど、今は少しずつ変わってきている。

好きかというと好きでは無いけれど。

理解は出来はじめていた。

姉に才能を全部吸い取られた、という評は的確極まりない。それも自分で理解出来てしまっている。

だとしたら、さぞや辛いと思う。

恐らく魔郷だろう王宮の中では、そんなマティアスさんに取り入って、悪辣な行為をしようとする役人もいる筈。

周囲には、ろくでもない女の子ばかり寄ってきたはずだ。

或いは、あのナンパ癖。

本当にろくでもない女の子ばかり見てきたから。

少しでもマシなのがいないか、探しているから、の可能性も決して低くは無い。まあ、本人に聞いてみないと分からないけれど。

人を外側だけから決めつけることの危険さを。

リディーはこの間の、ルーシャとの一件で思い知った。

本当に、ヒト族はどうしてこうなのかと。

自分の愚かささえ呪った。

マティアスさんに対しても同じ事をしないように、気を付けなければならないだろう。もしも同じような事をしていたら。

今までの愚かな自分達と同じなのだから。

いつか、マティアスさんとはきっちり話をしておきたい。

今は悪い所ばかり目についているけれど。

それでも、ルーシャのこともある。

相手がバカだったら迫害して良いとかいうのは。

あの世界を焼き滅ぼし氷に包んでなお万物の霊長を自称していたヒト族達と同じレベルの思考だ。そうなってはいけないのである。

体勢を立て直してから、ブライズウェスト平原を回る。

いきなりドロッセルさんが前に出ると、斧を振るう。

また透明な相手がいたらしい。

一発で首を刎ね飛ばされたそれは。

何だか、直立して歩くナメクジのような姿をしていた。

しかも目の辺りが虹色に光っていて。

一度迷彩が解除されてからは。強烈にグロテスクで。虫がまだ苦手なスールは、口を押さえて蹲る始末である。

流石にアンパサンドさんが叱責する。

「そろそろ克服するのです、それ」

「足が多いのとか気持ち悪いのとかそういうのやだああ!」

「うだうだ言わずに解体するのです」

「ひっ」

自分が解体されるのかと思ったらしいスールが悲鳴を上げるが。

アンパサンドさんがスールの首根っこを掴むと、引きずっていって、まだうねうねしているナメクジもどきの至近に放り投げる。

イル師匠は冷酷に解体の準備を進めていて。

アリスさんとドロッセルさんはこっちを見てもいない。

フィンブルさんは流石にちょっと気の毒そうにスールを見ていた。いつもフィンブル兄と慕ってくれる相手だ。

だが、それは甘やかすことになると判断したのだろう。

視線をそらして、敢えて鬼になるようだった。

てきぱきと木を組み立てて、死体を釣り始めるアンパサンドさん。

ナメクジの目らしい場所からは、強烈に長い寄生虫が出てきたので、スールはその場で白目をむきかけた。

見かねてリディーが助けに入ろうとするが。

アンパサンドさんが視線だけで追い払う。

そして、スールは泣きながら、解体作業を一人で行い。ナメクジの体内から寄生虫が出てくる度に、ひゃんひゃん悲鳴を上げていた。

仕方が無い。

ショック療法だ。今後、虫の類は、スールに全て解体させるしかないだろう。

実際、虫を見て腰が引けるようだと。

今後戦闘でも影響があるかも知れないのだから。

まだ、地図は残っている。解体が終わって、スールが完全に泣いているのをしらけた目で見ながら。

イル師匠が作業を続けると宣言した。

 

2、雷神の裾野

 

アリスさんが、至近に躍りかかってきた、蛇の左右から蜘蛛足がたくさん生えているような獣の首を刎ね飛ばす。

また激しく雨が降り始めていて。

獣がそれに紛れて、多数接近してきていたのだ。

荷車から発破を取りだし、放り投げる。もう、在庫にかまってはいられない。走りながら、ドロッセルさんが叫ぶ。

「突貫! 突破!」

「遅れたら死ぬわよ」

「殿軍は自分がするのです」

もうハンドサインを飛ばしている余裕も無く、吠えるようにしてやりとり。

流石は戦略級傭兵。

ドロッセルさんはあからさまにマティアスさんやフィンブルさんより強い。アリスさんに並ぶかも知れない。

手当たり次第に敵を斬り伏せながら退路を作り。

アンパサンドさんが多数の敵を引きつけているのを横目に、撤退支援を続けてくれる。

そして、双子が荷車を引いて抜けきると。

豪雨の中。

魔術による爆撃のように雷が落ちるのを意にも介さず。

大斧を振るって。

不死身の魔人のように、獣を斬り伏せ続ける。

そこにバトルミックス。

最後の発破をまとめ。

レンプライアの欠片を塗りたくる。

それを見て、アンパサンドさんが残像を作って姿を消し。

ドロッセルさんも、圧力を増した敵を無理矢理防ぎ続ける。

イル師匠がシールドを展開。

直前。

スールが、発破を投擲していた。

雷の直撃と被ったので。

鼓膜がおかしくなるかと思った。

気がつくと、その場には木っ端みじんになった獣の残骸が大量に落ちていて。雨がその死骸を洗い流し続けている。

またイル師匠が不思議空間への入り口を開け。

獣の死体を運び込むが。

ほとんど五体満足なものはおらず。

バラバラだったり。

黒焦げだったりした。

スールはどうもあのナメクジもどきの解体以降、すっかり神経に来ているらしく。さっきからゲーゲー吐いている。

リディーは少し気の毒かなとも思ったけれど。

これはスールのためだ。敢えて我慢して貰う事にする。

また、イル師匠の指示通り、器具を持って測定を行う。

その間押し寄せた敵の残党は、アルトさんが殆ど一方的に駆逐してしまったので。何もする事は無かった。

大雨がますます酷くなっている。

発破の在庫もほぼ尽きた。

何とか測量は終わったけれど。

これでは、また来た時、地図が変わっているかも知れない。川の様子がおかしすぎるのだ。此処で長く暮らしている筈の獣たちが、流されているのを何度も見た。そして水の猛威の前には、巨大で凶暴な獣たちでもひとたまりもないのである。

ひたすらに怖いけれど。

それでもどうにかするしかない。

必死にブライズウェストを抜けて。

そして宿まで戻る。

だけれど、本番は此処からだった。

「王子、手伝うのです」

「あー、ひょっとして、獣の分別とかそういうの?」

「そういうのです」

勿論、アンパサンドさんは容赦なくスールの首筋を掴んでいた。力のかけ方のコツがあるのだろう。

スールは逃げる事も出来なかった。

腕力はスールの方が上、と言う話だったのに。

「イル師匠、コンテナは……」

「アトリエに戻ってからは、私とアリスだけでコンテナに戦利品を格納するの。 この意味は分かるわね」

「うっ、それは……」

「手伝う必要はないわ。 貴方たちにはレポートを書いて貰うのだから」

ああ、やっぱりか。

これが試験だった、と言う事か。

ブライズウェストみたいな異次元に危険な場所に出向く。ひよっこの錬金術師がやっていいことではない。

超一流の支援があっても、下手をすると死ぬ場面が幾つもあった。

流石にかなり参っている様子のスールを助けようかと思ったのだけれど。

無用、の一言でイル師匠に斬って捨てられる。

宿で暖かい飲み物を何か飲んでいるドロッセルさん。

聞いてみると、携帯用のスープだという。

普段は乾燥させて固めておき。

お湯を作りさえすれば飲む事が出来る。

ただ基本的に傭兵がそれぞれのレシピで作るものなので。

慣れていないととても食べられるものではないともいう。

平然と食べられるようになると傭兵一人前、らしい。

フィンブルさんも、顔色一つ変えていないドロッセルさんを見て、流石だと呟いていたが。

そんなに凄い味なのか。

暖かいものだということで、少し興味はあったのだが。

アルトさんは、くつくつと笑う。

そういえばこの人も、乱戦の中で殆ど傷も受けていない。

イル師匠と同格の規格外だと思うのだが。

そういうそぶりもまた見せなかった。

「スーは虫が苦手なんだね。 意外だったよ」

「昔悪戯をして、それでお仕置きで物置に閉じ込められて、虫が一杯で……それから虫が駄目になったみたいです」

「そうか」

「アルトさんは、苦手なものはないんですか?」

ある、と。アルトさんは言った。

少し真面目な表情になる。

それでも口の端は笑っていたが。

「本当に苦手なものが無い者、失敗しない者なんて存在しないよ。 神々が存在したとしても、それに変わりは無いだろうね。 つまり神でさえ失敗はする、ということさ」

「神って、彼方此方にいるって言う」

「邪神もそうだが、君達はそもそも知っているんじゃないのか」

「!」

そうだ。

あの氷の世界で、神についての話は聞いた。

あの様子だと、嘘をつかれているとも思えない。

イル師匠が言ったように。

人間四種族が、自然にこの世界に発生するのは不自然すぎる。神の関与があったとしか思えない。

だとしたら、神はヒトを助けるという点で。

既に失敗をしたのでは無いのだろうか。

しばしして。

めそめそ泣いているスールと。

心底気の毒そうにしているマティアスさんと。

厳しい目で見ているアンパサンドさんが戻ってくる。

どうやら虫や内臓も、全部スールに解体させたらしい。今回はリディーが大きな手傷を受けたこともある。

それに、そろそろ夜の見張りもさせるという話をアンパサンドさんはしていて。

スールはめそめそを止めなかった。

まあそうだろう。

だいたい、泣いて許してくれる相手では無い。

他人に厳しいが、それ以上に自分に一番厳しいアンパサンドさんである。

今後生き残るためにも。

スールには厳しく接する必要があると、判断しているのだろう。

「イルメリアどの。 これからどうするのです」

「地図は出来たし、明日の朝には帰路にはいるわ。 レポートは双子に書かせるから、騎士団の方からも提出してね」

「わかりましたのです」

「やれやれ、大変そうだね」

温まったらしいドロッセルさんが来て、濡れている荷物なんかを手際よく暖炉の前に運んでくれる。

外がこんなだ。

宿の主人も、文句は言わなかった。

むしろ、ブライズウェストの獣を大量に駆除してきてくれたと言う事で。

感謝されたほどだ。

イル師匠はそれからも、まだ少しアンパサンドさんと話していたが。

どうやら獣の肉類は、この街に譲ってしまうらしい。

全て燻製にして。

譲渡してしまう、と言う事だった。

燻製にすれば肉はかなりの長時間もつ。

いざという時の非常食になる。

燻製する事で美味しくもなるし。

最悪の場合は、携帯して逃げるのにもとても便利。良い事づくめだ。

「それなら、王子と街の長に話をしてくるのです。 肉を出す準備をしていて欲しいのです」

「分かったわ。 スール、手伝いなさい」

「なんでスーちゃんばっかり!」

「肉の中には虫のもあったでしょう。 もう貴方はそろそろ克服を始めなければならないわよ。 虫には貴重な調合素材になるものもあるの。 最低でも触れるようにしなさい」

くすんくすんと泣いているスールだが。

こればっかりは助けようがない。

困り果てているリディーの前で。

街長を連れて来たアンパサンドさんと、まるでその従者のようなマティアスさん。本当は立場は逆なのだが。

街長は、どうもそう勘違いしたらしく。

「ホムで騎士をしている立派な人」アンパサンドさんにへこへこしていた。マティアスさんの悪名も、流石に王都から幾つか離れたこの街にまでは届いていないらしい。

「これだけ大量の肉をお譲りいただけると!」

「この様子だと、今年は不作になるのです。 きちんと街で決まりに従って分け合うのですよ」

「は、はいっ! ブライズウェストに集まっている危険な獣を大量に駆除していただいたばかりか、この厚恩! 生涯忘れませぬ」

「騎士としての仕事をしているだけなのです」

何だか真面目そうな獣人族の街長が、ばしっと頭を下げるので。

アンパサンドさんも閉口したのか、さっさと切り上げる。

後は街の人間がわいわいやってきて。

燻製に加工した肉を、みんなもっていった。

まあ、あんなにあってもいらないし。

どうせこの街の農作物は、この長雨だと大半が駄目になってしまうだろう。

ゾーバとかのまずいものなら何とか実るかも知れないが。

それだけではとてもくらしていけまい。

今のがなければ。

餓死者が出ていたかも知れない。

それから、男女で別れて部屋に入り。

イル師匠が、軽く話をする。

スールはまだ目を擦っていたが。

イル師匠が咳払いをすると、背を伸ばして、リディーと並んで座った。この辺り、躾がもうされてしまっている。

「獣についての講義よ。 必要だと思ったらメモをとりなさい」

「はいっ」

「はい……」

「ではまず基本から。 この世界は荒野が基本で、獣は森に入ると大人しくなる。 森はそれだけ貴重な存在、と言う事よ。 獣は放置しておくと際限なく大きくなり、人間も例外なく襲う。 そして、ある条件が整うと、獣はネームドになる」

その単語が出た瞬間。

ドロッセルさんが、少し此方を見たが。

すぐに視線をそらす。

アンパサンドさんは濡れてしまった装備品を乾かし始めていた。

ナイフも拭って、綺麗にしていた。

ただ、それだけでは今回は足りないと判断したのだろう。

ナイフに砥石を当てて磨き始めている。

「リディー。 その条件とは何だと思う」

「わかりません……」

「スールは?」

「わかりません」

まあ分からなくても仕方が無いと、イル師匠は言うと。

黒板を出してきて、図を書き始める。

ちょっと可愛い絵だった。

「これが邪神。 ドラゴンをも上回る、本当に選ばれた錬金術師にしか対応が出来ない規格外の怪物達よ。 そして彼らは本当の意味で神。 ドラゴンは体内に竜核というものを持っているけれど、邪神はネームドのものとは比較にならない濃度の深核を持っているのよ。 もはや神核とでも言うべきね」

「ネームドと同じ、ですか!?」

「他にも、とんでもなく高価な素材を核にしている事もある。 これはネームドと同じよ」

「……まさか、同じ存在と言う事なんですか」

「いいえ」

リディーの推理は外れた。

そのまま正座して、話を聞く。

錬金術師が描かれる。多分これは、フィリスさんだろう。特徴を良く捉えていると思う。でも、手にしているのは杖だ。

そういえばフィリスさん。

弓矢で魔術を発動していたけれど。

あれって、ひょっとして、矢に魔術をわざわざ込めて。

それを放つという二段階の動作を行っているのではあるまいか。

もしそうだとすると、本来は杖がメインウェポンで。

普段は、以前ネームドを蹂躙して見せた以上の火力を、ゆうゆうと振るってみせるのではないのだろうか。

そう考えると。

ぞっとしてしまった。

アレでも力を抑えているというのなら。

破壊神の本当の実力がどれほどなのか、見当もつかないからだ。

「錬金術師が邪神を倒す。 まあフィリス級の錬金術師なら可能よ。 彼処まで行かなくても、パイモンくらいの錬金術師が複数集まり、弾よけの前衛が高度な錬金術の装備で身を固めれば、条件が揃えば倒せるわ」

「パイモンさんが十把一絡げ扱いですか」

「間違えないように。 パイモンはすぐれた錬金術師よ。 でも、邪神の実力が異次元だというだけよ」

イル師匠の言葉は、適切に間違いを指摘してくる。

そして、邪神の絵に、×が付けられ。

地面や空気中に、ひらひらと何かが拡がる。

「邪神は死ぬと、その力が拡散する。 一部は緑の沃野を作り出す。 たまに世界に存在している森なんかは、邪神が現在進行形で住んでいるか、もしくは過去に倒された結果生じたものよ。 要するに栄養剤を撒くというのは……分かるわね?」

「はいっ!」

「?」

スールはぴんと来ていないようなので。

後で詳しく説明するとする。

イル師匠は、更に話を進めた。

「全ての邪神の力が、地面にしみこむわけじゃない。 その力の多くは、獣の体内に蓄積されていくの。 そして、やがてその力は、獣を変質させていく」

「!」

「そう。 そしてネームドになるのよ」

なるほど、納得がいった。

ネームドはあまりにも異形の姿をしているケースが多かった。どいつもこいつもバケモノ以外の何者でも無かった。

だがそれは。

我が物顔で世界を闊歩する邪神の力を取り込み。

それに影響されたというのであれば、色々納得も出来る。

あの理不尽な強さも、である。

そして、深核が体内にあるのも納得出来た。

邪神の力を取り込んでいるのなら。

当然その邪神の力がコアになって。

いつの間にか、主要な内臓の代わりを果たすのだろう。

「ではここからが本題よ。 まずおかしな事がブライズウェスト平原にはあるわね」

「……」

「あっ!」

気付いたのはスールだ。

スールも一応話は聞いていたようだし。

勘はスールの方が鋭いのである。

「確かブライズウェストって、伝説の先代騎士団長とネージュが、ファルギオルを倒した場所だって」

「あっ! そうだよね、その割りに……」

「そうよ。 ブライズウェストには緑がない」

イル師匠は、その場に爆弾を投下する。

つまり、早い話が。

ファルギオルは死んでいないのである。

「邪神は死んでも、時間が経てば復活する事があるの。 基本的にこれはどの邪神もそうで、邪神は復活したての弱体化している状況を狙うことが多い。 ただ、流石の邪神も、森を傷つける事はしないわ。 余程の事が無い限りね。 でも、それにしたって、基本的に邪神が復活するまでには、その場所は森になっている事が多い」

「伝説は嘘だった、と言う事ですか?」

「違うわよ。 ネージュと先代のアダレット騎士団長は、邪神を別の世界に放り込んで閉じ込めたの」

「……まさか、不思議な絵画!?」

その通りだと、イル師匠は満足げに頷いた。

そして、その絵画も見つかっているという。

血のように真っ赤に染まっていて。

内部には危険すぎて踏み込めないそうだ。

イル師匠なら入れそうな気がするのだけれども。それは恐らく、気のせいなのだろう。

「ファルギオルは大幅に弱体化したものの、絵に封印されたことで、力がゆっくりとブライズウェストに漏れていった。 そして今、その力が荒れ狂っている」

「あの大雨は……」

「そうよ。 全てがファルギオルと言っても良いわね」

なんと。

そんな桁外れの存在なのか。

昔話に、この地域を焼き尽くすところだったとあるらしいが。

それは誇張でも何でも無い、と言う事なのか。

恐怖で背筋が震えあがる。

怖い。

でも、話は最後まで聞かなければならない。

「充分な力が集まった時点で、ファルギオルは不完全体とはいえ、この世界に再び現れるでしょうね。 獣たちはどうして集まっていると思う」

「まさか、ファルギオルの力を吸収して、ネームドになるため、ですか」

「その通り。 実際ブライズウェストには、フィリスや三傑のもう一人が何度も足を運んで、大物を既に駆除して回っているのよ。 それでもまだあれだけの獣がいる、と言う事ね」

絶句する。

隣でスールが青ざめて震えあがっていた。

それは分かるけれども。

それよりも、これは国家的な危機では無いのか。

三傑が集まっても、あの伝説のネージュがやっとの事で対処した雷神を、本当にどうにかできるのか。

リディーには、分からなかった。

「覚えておきなさい。 戦いには情報が必要よ。 そして今回地図を作ったのは、対ファルギオル戦を想定しての事。 総力戦の時、いい加減な地図を頼りに戦う訳にはいかないわよね」

「それは……」

「……」

「貴方たちの働きで、ブライズウェストの地図は完成したわ。 後は、ファルギオル復活……そう遠くない復活に備えて、準備を進めていく事ね」

講義終わりと、イル師匠が締める。

そして、真っ先に横になって寝始める。

ドロッセルさんも、肩をすくめると、横になる。

リディーは、思わず聞いていた。

「ドロッセルさんも、邪神と戦ったことはあるんですか?」

「あるよ」

「うそっ!」

「自分で聞いておいてそういう事を言う? ああ、聞いたのはリディーか」

けらけら笑うドロッセルさん。

彼女の話によると、昔フィリスさんと一緒に行動していた時期があるらしい。その時に、邪神と戦ったそうだ。

話を聞きたいので、今度はドロッセルさんの前に、並んで正座する。

ドロッセルさんも、軽く話してくれる。

エルエムと呼ばれる、一対の邪神との戦いについて。

空飛ぶ船で、要塞化されている空飛ぶ島に突入し。

苛烈な邪神の砲撃をかいくぐりながら接近。

シールドと装甲をギリギリまで削られながらも、近接戦闘に持ち込み。

一気に倒しきったという。

思い出したくない戦いだなあと、半笑いでいうドロッセルさんだが。そんな風に言うと言う事は、余程厳しい相手だったのだろう。

それよりも、空飛ぶ船。

空に浮かぶ島。

そんなものを平然と話に混ぜてくる。

フィリスさんが、如何に異次元の世界を冒険していたのか、何となく分かる気がしてきた。

多分イル師匠も、それにつきあって彼方此方を旅していたのだろう。

恐ろしい話だと思う。

ちなみに、アンパサンドさんは邪神との交戦経験はないそうだ。その後聞きに行ってみるが、フィンブルさんは見たこと無し。マティアスさんは、遠くから見たことだけはあるらしい。

上級ドラゴンも見た事があると言っていたし。

或いは王族に対する英才教育の一環なのかも知れない。

ひょっとしてだが。

マティアスさんがこんなに恐がりなのは。

本当に怖いものを、知っているから、なのかも知れなかった。

部屋に戻ると。

スールは色々疲れ切ったのか。もう寝ていた。

毛布を妹に掛け直すと。

リディーももう休む事にする。

流石に疲れ果てた。

更に、これから大雨の中、帰路を行かなければならないと思うと、色々とうんざりしてしまう。

それでも、まずはアトリエに戻って。

レポートを書かなければならなかった。

 

3、伝説

 

アトリエに戻って。

やっと一息つく。

少し休憩した後、レポートをスールと一緒にまとめて、イル師匠の所に出向く。チェックをして貰った後、イル師匠に言われた。

「もういいでしょう。 今後は、この用紙の規格は使って良いから、自分達だけでレポートを出しなさい」

「! はいっ!」

「分かりました!」

これは、レポートに関しては、一人前として認めて貰ったと言う事か。

ちょっとではなく。

尋常では無く嬉しい。

ブライズウェストの地図については、イル師匠が提出するそうだ。まあそうだろう。作っていたのは、実質イル師匠。リディーとスールは。ついていっただけ。それも、イル師匠とアルトさん、それにドロッセルさんがいなければ、確実に死んでいただろうから。

ドロッセルさんの家には帰った後に様子を見に行ったのだが。

また嬉しそうに笑いながら凄くリアルな人形を作っているおじさんを、スールがその場で回れ右して逃げ出しそうに怖がっていて。

引き留めなければならなかった。

そういえば。

今度教会で、人形劇をやってくれるらしい。

家族そろって人形劇一家らしいので。

そうなると、息のあった人形劇が見られるのかも知れない。

ドロッセルさんのお母さんも。生きてこの街にいるので。

それだけは、ちょっと。

いや凄く羨ましかった。

レポートは提出し。

その後は見聞院に。

恐らく、近いうちにファルギオルとの総力戦がある。ファルギオルに関する資料が、少しでも欲しい。

スールにも手伝って貰い。

今まで得てきた情報を全て提出して、本を閲覧する権利を見聞院に貰う。

ファルギオルの伝説はいくらでもある。

それらの中で、英雄戦記にされているものは全てパス。

スールはそういうのを見たがったが。

違う。

これからファルギオルと戦うのだ。

殺し合いをするのである。

先代騎士団長を神格化したり。

その後のネージュに対する迫害を色々緻密に描写しているような話はいらない。

具体的にファルギオルがどんな姿をしていて。

そしてどんな風な行動をして。

実際にどれくらいの攻防が出来るのか。

それを知らなければならないのだ。

出来れば騎士団の報告書が良いのだが、流石に最高機密か。それでも、幾つか、それっぽいのは見つけてきた。

適当な本数冊を借りると、一旦イル師匠のアトリエに行き。

ライデン鉱を用いて作る、ドナーストーンについて、イル師匠に教わる。理論だけを聞いて、後は自分で作るように言われたので。やってみる。

散々発破を作ってきたから、だろうか。

正直な話、それほど難しくは無かった。

城門の外で試運転もして見たが。

直撃させれば、雷が至近で爆裂したくらいの火力は出る様子である。

これはひょっとすると、或いはレヘルンで凍らせた後、ドナーストーンを叩き込んでやれば。

効果を倍増できるかも知れない。

戦闘で試してみよう。

メモをとると。礼を言ってアトリエに戻り。

ファルギオルについて調べ始める。

スールは寝ていたが。

ちょっと最近立て続けに酷い目にあっていたので、良いとする。後で要点だけを一緒に見れば良い。こういうのは、リディーの仕事だ。スールはその優れた勘と、勇敢さを生かして、戦闘で頑張ってくれればかまわないのだ。

まず容姿だが。

黄金に輝く剣を持ち。

二本の腕と四本の足。

鎧を着た昆虫を思わせる姿をしているそうだ。

この姿だけでスールが逃げだそうとしないか不安だ。

その一瞬だけで、此方が壊滅する隙になりかねないのだから。

幾つか、ファルギオルの姿を具体的に描写している資料を調べ。

そして像を造ることを考える。

スールは虫がまだ駄目だ。

お化け嫌いはだいぶ克服できてきたが。

虫に関してはまだまだである。

だから、事前にファルギオルの姿になれさせておかなければならない。

皆に被害を出さないためにも。

これは粘土か何かで造れば良い。

絵に関しては正直独特だといわれるリディーだけれど。

アクセサリ類でその手の事を言われることは無い。

造形に関しては、心配をしなくても良いはずだ。

軽く粘土を使って、ファルギオルの姿を再現する。

スールが寝ている間に出来た。

彩色もしておしまい。

確かにかなり虫に似ている。四本の足もそうなのだが、節くれ立った関節部分が、いずれも虫の特徴を示しているのだ。

ただ、胴から出ている足は四本だけ。

虫は三つの体節に別れる生物だが。

その中で、足が生えているのは胴だけである。

此処は虫と違う。

しかし、蜘蛛でもスールはきゃあきゃあ泣くので。

言い含めて、事前にしっかり慣れさせないと危ない。そうファルギオルの像を造ってから、確信は出来た。

さて、ファルギオルの能力についてだ。

邪神の中では珍しく言葉を発するそうだが、人間の事は基本的にどの種族もゴミとしか思っていないらしく。

集落を一瞬で爆散させた記録が残っている。

森に守られていなかったのだろうが。

それでも集落ごと一撃。

思い出す。

イル師匠の話を。

錬金術はその気になれば、アダレット王都を一瞬で吹き飛ばすことも出来る学問なのだと。

つまり、そういう力を使わないと。

ファルギオルには対抗できない、という事である。

火力に関しては、多分文字通りアダレット王都を一撃で消し飛ばす事も可能なのではあるまいか。

ぞっとする話だ。

攻撃をまともに受けてしまったら、ひとたまりもないだろう。

ファルギオルとの戦闘記録をまとめていく。

アダレットにいた山師のような錬金術師は、まるで手も足も出ず、一瞬で炭クズにされたという。殆どがそれを見て逃げだそうとし、そして背中から焼き払われてしまったそうである。

更に大雨の中だ。

雷撃は通常よりも更に火力を発揮し。

戦う者達を苦しめた、ともある。

騎士団も甚大な被害を出したと書かれているが。

先代騎士団長がいた頃の騎士団は、それこそ全盛期だった筈で。今より戦力が劣っていたとは考えにくい。

そうなると、騎士団のシールドを、容易くファルギオルは貫通し。

攻撃を受けてもびくともしなかった、と考えるのが正しいだろう。

防御に関しても、異次元だというのは間違いなさそうだ。

ネージュが具体的にどう倒したかの記録はないだろうか。

見つからない。

先代騎士団長の手記などがあれば良かったのだけれど。

どうせあっても検閲されているはずだ。

記録の中に、斬りかかった騎士が逆に感電死した、というのがあった。

ひょっとすると。

雷神というだけあって、或いは全身が雷の塊も同然なのかも知れない。もしそうだとすると。

接近戦は、自殺行為だ。

少し考える。

雷を散らすには、やはり何かしらの方法がいる。

イル師匠が使っていたあの道具。

作り方を教わるしかない。

更に言えば、いつもスールがやっている接近戦、あれも厳禁だ。

見ると、かなり素早く動くという記載がある。

相手に攻撃を仕掛けようとした部隊が。

一瞬で背後に回られ。

まとめて薙ぎ払われたという記録が残っている。

この記録が正しいとなると。

雷神の名のごとく。

雷のように動けるという事も意味しているだろう。

攻防共に最強。

更に速度まである。

人間の言葉を話せる程度の知能もあるとなると。

もし戦うとなれば。

一瞬で畳みかけて、反撃の機会を与えずに倒すしか無い。しかも相手は、人間を逆恨みして猛り狂っているのだ。

バトルミックスを使ったとして。

出来るのか。

そもそも、相手に当たらない。

それとも挑発してみるか。

それほど強いと言う自信があるのなら、おそれずに避けてみろと。

いや、そんな挑発に乗るほど阿呆ではないだろう。

乗ってくれるかも知れないが。

乗ってくれないと勝負が成立しない、というような賭は避けるべきだ。

この辺りは、散々座学で習ったし。

今更疑うつもりもない。

スールが起きだした。

目を擦っているが。やがて思い出したのだろう、聞いてくる。

「リディー、何か見つかりそう?」

「多分まともにやりあったら、イル師匠やフィリスさんでもない限り、一瞬でめちゃめちゃにされて終わりだと思う」

「そりゃそうだよ。 あの先代騎士団長と、伝説のネージュが手を組んで、やっとどうにかできた相手だもん。 スーちゃん達がどうにか出来る訳ないじゃん」

「……何か大きな事に巻き込まれてるってスーちゃん言ったよね。 多分近場でほぼ確実に起きる一番大きな事って、ファルギオルの復活じゃないのかな」

眠気が一瞬で消し飛んだらしいスールが。

真っ青になっていく。

震えているのが一目で分かる。

勘が鋭いスールだ。

最悪の可能性。

ファルギオルと、最前線で戦わされる事について、可能性を思い当たってしまったのだろう。

「調べたけれど、攻防共に完璧に近いし、しかも稲妻みたいに動くって話だよ。 バトルミックスでも使わない限り、傷一つつけられないんじゃないのかな」

「そもそもそんなに速いんじゃ何やっても当たらないじゃん! どうやってネージュはそんなの不思議な絵画に放り込んだんだろう」

「資料がないよ……」

「困ったね」

攻防完璧、速度も人間が対応出来る次元でない。邪神と言うだけでドラゴンよりも強いと言う話なのに。その最高位存在である。

人間がどうにか出来るはずがない。

本当に一体、なにをどうやって倒したのか。

そしてスールの前に。

まずファルギオルの像を出す。

ひいっと案の定悲鳴を上げるスール。

「な、なな、なにこの気持ち悪い虫!」

「これが雷神ファルギオルを出来るだけ正確に再現した姿だよスーちゃん。 戦場で見た時、これを見て腰が引けたら、その瞬間負けるでしょ。 だから、今のうちになれておいて」

「やだやだやだあ!」

「みんなを死なせる気!?」

珍しくリディーは大きな声を出していた。びくりとしたスールが、しばし俯いていたが。

やがて。神妙に頷いた。

これでいい。

まずは、第一の関門は突破出来た、という事になる。

次だ。

まず、ファルギオルの攻撃をしのぎ。

更には足を止めなければならないだろう。

多分だけれど、アンパサンドさんだけではとてもではないが凌ぎきれないはずだ。

あの人は魔術まで回避する事があるが。

多分攻撃の前兆を察知して、それで回避しているのだと思う。歴戦に次ぐ歴戦が、それを可能にしているのだ。

とはいっても相手は雷神。

寝起きで弱体化しているといっても。

広域攻撃くらいは簡単に使いこなしてくるはず。

シールドを。

ルーシャに任せっきりとはいかないだろう。

雷撃を防ぐシールドがまず必要になる。

イル師匠に、避雷針の作り方を教わらなければならない。

それも錬金術で、命一杯強化する必要があるだろう。

続いて、その直接攻撃に対する防御だ。

黄金に輝く(多分雷撃を纏っているからだろう)剣を振るって、騎士団や木っ端錬金術師を鏖殺したという記録が残るファルギオルだが。

これに関しては、ルーシャに聞いて、シールドについて勉強していけば良いはずだ。

現状のシールドでは問題にもならないはず。

せめて金色の剣の一撃を、数秒でも防げないと、話にさえならないだろう。

生唾を飲み込む。

やはりとんでも無い怪物を相手にしているのだと、思い知らされてしまう。

地域全域を焼き尽くしかねなかった怪物なのだ。

当たり前だが、戦うには相当な覚悟がいる。

そういう話だ。

泣きながらファルギオル像を触っているスールは一旦無視。詳しい戦術の打ち合わせは、イル師匠と行う。

防御の後は足を止めることを考えなければならない。

稲妻のような速度で動くとなると。

シールドを展開しても。

後ろから斬り付けてくる可能性が大いにある。

どうにかして防がないと。

そもそも死んだ事さえ認識出来ないまま、戦いが終わってしまう可能性も充分以上にあるのだ。

どうやって足を止める。

何かのトラップを使うか。

考えている内に、雨が止む。

レポートの結果について、報告が来たのは、それからだった。

 

やはりマティアスさんが、スクロールを持ってくる。

今回の試験については、第一段階を既に突破、と言うことで良いそうだ。

何でもEランクの試験は、それぞれの錬金術師にあわせて第一段階を設定しているそうで。

今回は、緊急任務に対して。

適切に動けるか、という試験内容だったそうである。

そして、リディーとスールは適切に動けた。

そういう話だった。

「正直、俺様も驚いたよ。 同時期にGランクから始めた連中は、まだFランク辺りで足踏みしてるのにな」

「そうなの?」

「ああ。 基本的に最初からVIP待遇のハイランク錬金術師と、下っ端の錬金術師で両極端だ。 だからお前達は、噂になっている、というわけだよ」

「それよりリディー! この気持ち悪いの、いつまで触ってればいいの! もうやだあ!」

後ろでスールが泣き言を言っているが、無視。

そのまま続けて貰う。

「あ、あれ良いのか?」

「はい、続けてください」

「お、おう。 それで第二試験だが、また不思議な絵に入って貰う。 今度はちょっと厄介でな……」

「……」

今まで。

厄介では無かった不思議な絵なんて、あっただろうか。

小首をかしげるが。マティアスさんは咳払い。

アンフェル大瀑布という名前を告げた。

確か瀑布というのは大滝の事である。でも、ざっとエントランスで不思議な絵を見て回った時、滝なんて描かれた絵はあっただろうか。

「まあ多分驚くと思うぜ。 俺様も他の錬金術師について一回入ったんだが、今までの絵とはあらゆる意味で色々違うんだ」

「危険じゃ、ないですか」

「いざという時はすぐに外に出ることを意識してくれ。 それくらいには危ないな」

「……分かりました」

不思議な絵の利点は。

普通だったら絶対助からない状況でも。

一瞬で外に出られることだ。

それだけは、非常に有り難い。一瞬後に首を刎ねられているような状況でも、助かるからである。

勿論それが恐怖につながったりはするだろうが。

それでも何とか戦う事は出来る。

例のごとく、事前に連絡を入れるようにと言い残すと、マティアスさんは戻っていく。街でフラフラナンパでもするのかと思ったのだが。色々あれから騎士団の人に話を聞いてみた所、マティアスさんはあまり有能では無いけれど、それでも前線には立つし、仕事も言われた通りやるという話である。

戦闘でも与えられた良い装備を生かして前線で粘るし。

何より基本的に、どんなに怖がっていても逃げ出すことはない。

撤退の時は最後尾で味方を守るし。

騎士としての最低限は、きちんと果たせているという。

それならば、良しとするべきなのだろうか。

正直、リディーにはよく分からないが。

「も、もう無理……」

スールがへたり込んで真っ白になっている。

とりあえず放置しておきたいが。

一度引きずって、一緒にイル師匠の所に行く。

ファルギオル戦の戦術について、色々確認しておきたいのである。戦略については、もう現時点ではどうしようもない。

とにかく、話を聞いて。

準備をしていく以外にはないのだ。

空模様は怪しい。

雨は止んだけれど。

またいつ降り出すか、まったく分かったものではない。

スールはさっきまで触っていたファルギオル像が余程怖かったのか、腰が引けている有様だし。

それでいいのかとも、ちょっと心配になる。

ただ、スールなりに勘で理解しているのかも知れない。

この姿の怪物。雷神ファルギオルが。

とんでもないバケモノという事は。

バケモノの姿をかたどったものでさえ怖い。

実際魔除けは、バケモノの姿をかたどることがあると聞いた事がある。

より高位のバケモノの姿を見せることで。

下位のバケモノを追い払う、という思想だそうだ。

アダレット王都では殆ど見かけないが。

或いは、地方の街に行けば、見られるのかも知れない。

教会もアダレットとラスティンでは結構違うと聞いている。

フィリスさんのように、世界中を旅、とまではいけないだろうけれども。或いは彼方此方を見て回るのも、またありかも知れない。

イル師匠の所に出向くと。

騎士団の偉そうな人が来ていて、話をしていた。

魔族なので、イル師匠のこぢんまりとまとまったアトリエの中では窮屈そうだが。話を終えると、扉が自動的に拡大して、魔族の騎士は苦労せず出ていった。隊長クラスの騎士のようで。キホーティスさんと同じ階級章をつけていた。

イル師匠に、入りなさいと言われたので。

まだ半泣きのスールを連れて入る。

そして、分析したファルギオルについて話すと。

一瞬だけ、イル師匠は驚いたようだった。

「良い事だわ。 いずれ戦う相手の対策を今から練っておくのは、立派な心がけよ」

「ありがとうございます!」

「それで、どうしてスールはそんななの」

「それが、ファルギオルの姿を見るだけで腰が引けるとまずいと思ったので、ファルギオルの像を造って、慣れるために触らせていたらこうなって」

呆れ果てた様子で、頭を振るイル師匠。

それから、幾つかの話を聞く。

順番に、メモをとっていく。

時々スールが鋭い質問をするけれど。

それも立て板に水で、イル師匠は捌いて行った。

この辺りは流石という他ない。

「他には?」

「いえ、ただ……まだとても勝てる相手じゃないなって思うだけです」

「もしファルギオルが現れたら、私とフィリスも戦うから、まずは身を守ることを第一に考えなさい。 足止めは私とフィリスがやってあげるわ」

「はい……」

それでも、だ。

相手は最高位の雷神。

何があるか分かったものではない。

あらゆる対策はしておきたい。

幾つかの、難しいレシピを貰った。どれもこれも、とても難しくて、今の状態では再現するのがやっとだ。

それと金属加工の完全許可を貰った。

スールも含めて、自宅でやって良い、という許可だ。

これでイル師匠の所で、貴重なイル師匠の時間を取らなくても良くなった。

良い事である。

イル師匠が非常に忙しいことは。

当然知っていたから、だが。

ともあれ、一度アトリエに戻る。

アンフェル大瀑布というのがどういう場所かは分からないが。マティアスさんは危険だと言っていた。

ならば、色々と対策はしなければならないだろう。

何をどう対策すれば良いのかは分からないが。

いずれにしても、最悪の場合は入ってすぐに撤退し。

そしてそれから、対策を練る必要が生じてくるかも知れない。

スールが、聞いてくる。

「ね、ねえリディー。 またあの怖いのに触らないといけないの?」

「とりあえず今日はフィンブルさんに不思議な絵の調査について話してきて。 明後日でいいかな。 私は騎士団の所に行って、話をしてくるよ」

「あ、うん」

「それと、人形劇があるらしいから、明日見に行こう」

教会で慰安目的で人形劇をしてくれていると、ドロッセルさんがいっていた。

ドロッセルさんは脚本を主に担当し。

あの怖い高笑いおじさんが人形を主に作っているそうだ。

あのおじさんは怖かったが。

作られている人形達は、人の形をしたものから、悪役らしいドラゴンまで、色々揃っていて。

どれも尋常では無い完成度だった。

人形劇は一度に出せる役者が限られるから。

かなり難しいとドロッセルさんも言っていたけれど。

きっと楽しい劇になるはずである。

「分かった。 すぐにフィンブルさんに声を掛けて来る」

「行ってらっしゃい」

二人で手分けして動く。

帰った後は、またずっとファルギオル像に触っていて貰うという話は、此処では敢えてしない。

その方が多分精神衛生上良いからである。

後は、貰ったレシピの中から。

手が届きそうなものから順番にやっていくしかない。

そして、来るべきXデイには、最低限の対策を出来るようにする。

それが今。

リディーに出来る、最低限の事だ。

少しでも生き残る確率を上げる。

多分逃げても。

ファルギオルにもしフィリスさんとイル師匠が負けたら。

この国全部が焼き払われる。

何処にいたってどうせ助からないだろう。

森を傷つけずに、王都を丸焼きにするくらいの事は、して来てもおかしくは無い相手なのだから。

騎士団の受付に行くと。

以前一度だけ見かけた、すごい怖い鎧の人がいた。あの人、もの凄い剣の使い手だったけれど。今日はどうしてか、槍を手にしている。訓練の帰りらしく、騎士達は皆へとへとだった。

受付に立っている従騎士に話をして。

マティアスさんとアンパサンドさんに、話を伝えて貰う。

後は、待つだけで良い。

アンフェル大瀑布というのがどういう場所かは分からない。

ただ、情報がゼロだ。

ともかく、一度行って見るしか無い。

その上で判断するべきだと、リディーは思っていた。

 

4、無力感

 

ソフィー=ノイエンミュラーの話は、ロジェも知っていた。

特異点とまで呼ばれる、歴史を変える錬金術師。

単独で上級ドラゴンに圧勝する。

錬金術師として、史上最強の声さえある。

そんな存在だと。

だが同時に。

深淵をあまりにも深く覗き込みすぎて。

帰ってこられなくなった存在だという話も、聞いた事があった。

ブライズウェスト平原で何があったのか、良くは覚えていない。多分だけれども、記憶を消し飛ばされたのだ。

それでも分かる事はある。

あのソフィー=ノイエンミュラーは、尋常な存在では無い。

雷神ファルギオルなど、まるで小虫に過ぎないほどの。

この世界そのものを壊しかねないほどの力を持ってしまった、文字通りのイレギュラー中のイレギュラー。

いてはいけない存在。

それが彼奴なのだと、ロジェは悟っていた。

だが、どうにもできない。

口惜しいが、手が動かないのだ。

妻を失った。

双子の母であり。騎士団から嫁いでくれたオネット。

助けられなかった。

ラスティンで公認錬金術師圏を突破した自分に、治せない病などないと思っていたのに。どうにもできなかった。

後から聞いた話によると、流行病などではなく。もっと致命的な、本来摂理を曲げないと対処さえできないという凶悪な病だったらしいが。

それでも、対処できなかったのは事実。

何処かに、幼児的な万能感があったのかもしれない。

それを、木っ端みじんに。

徹底的に打ち砕かれた。

だからどうしようもない。

あれ以降、まともに調合も出来なくなった。

酒を飲んで、己を罵ることしか出来なくなった。

かろうじて双子に手を上げることはなかったし。

調合器具を壊したりすることもなかったが。

酒を飲んで、自己嫌悪に浸るだけの男になってしまった。それが自分でも、情けなくて仕方が無かった。

兄貴が時々様子を見に来て。

もう稼いでいる姪が、時々支援のお金を入れてくれるけれど。

娘達に、その気になればもっと楽な生活だってさせてやれたはずだし。

錬金術だって、イルメリアのような超越的な錬金術師では無く。

身の丈に合った自分で教えられたはずだ。

それらが全て台無しになったのも。

自分が不甲斐ないからだ。

悶々としている内に。

声が聞こえた。

オネットの声だ。

この世界は、星空の下みたい。とても綺麗で、住んでいる者達もみな夢があって素晴らしいわ。

そんな無邪気な言葉。

オネットは戦いになると鬼神のように強かった反面。無邪気なところがあった。

騎士団からも、子育てが一段落したら、教導役でかまわないから復帰して欲しいと何度も打診があったほどの戦歴の持ち主で。

事実、あの病気さえなければ。

双子が手が掛からなくなったくらいで、騎士団に戻り。

隊長になっていたかも知れない。

何故。

あの病気が起きてしまったのか。

双子には流行病と教えているが。

実際には違う。

人間を蝕む最悪の病気が。なんでまだ若いオネットを襲ってしまったのか。神に慈悲はないのか。

地下室で、ぼんやりと酒瓶に手を出し。

それが空になっている事に気付く。

新しい酒を買いに行こうかと思ったが。動く余力さえなかった。

「オネット……」

呟く。

必死に、色々自分なりに動いてみた。

イルメリアとフィリスにあってもみたが。

一目で分かった。

どちらも人間の範疇から既に外れてしまっている。

そして必死に足跡を追って見つけたソフィー=ノイエンミュラーに至っては。

もうあれは、邪神ですらすっ飛んで逃げるバケモノだった。

「俺には、何もできない……」

妻を亡くした後。

この世で最も大事な宝石である双子さえ守れない。

双子が、イルメリアとフィリス、そしてソフィー。この「三傑」によって、地獄に等しい場所に誘いこまれ。地雷原でタップダンスを踊っていることは分かっていた。それくらいの鼻は利くのだ。

だから、ずっと調べて廻り。

時には殴られながらも情報を集め。

そして双子を守るためには、どんなことでもしてきたが。

結局分かったのは。

自分には何もできないという事実だけだった。

錬金術師は才能の学問だ。

そしてその才能が、自分には備わっていない。

実家にいた頃には天才なんて言われたが。

世の中には上には上がいる。

もはや、為すべき事がないことを、ロジェは知っていた。

それでも死ねない。

今ロジェが死んだら、双子を守る、頼りないにしても最後の盾がなくなってしまう。

双子は自覚できていないが、自分達が思っている以上に子供だ。

情けない事に。

そんな子供さえ、ロジェは助けられない。

ソフィー=ノイエンミュラーの目を見た瞬間に悟ってしまった。

既に全ては。

あのバケモノの掌の上にあると。

例え全盛期の実力を取り戻し、総力をつぎ込んだとしても。

ソフィー=ノイエンミュラーには、傷の一つもつけられないと。

嘆きは地下室から漏れない。

ただロジェは、己の無力にうちひしがれるしかなかった。

 

(続)