安全の価値
序、合同任務
以前獣狩りにでた大規模部隊と同レベルの部隊が、城門前に集結していた。病み上がりのルーシャだけではなく、フィリスさんもいる。
そして、それだけではない。
以前から何度か見かけている、嫌みなまでの美形青年錬金術師も混じっていた。
名前を聞くと、アルトというらしい。
さっそく若い女の子がたくさん押しかけてきているとかで、非常に迷惑だと笑っていたが。
何だかもの凄い違和感をスールは覚える。
この人を見ていると。
若いとはとても思えないのである。
何というか、よく分からない。
少なくとも、性欲に振り回される時期の若い青年ではない。言動も、時々何だか露骨におかしい。
美形にはまるで興味が無いスールだが。
リディーにも何だかおかしいという話はしておいた。
リディーは相応に美形が好きらしいので。
この何か妙な印象の人に引っ掛かると困るのである。
騎士団側からは、アンパサンドさんとマティアスが来ている。
フィンブル兄も、今回は普通に仕事として加わっている様子だ。
指揮を執るのは、以前も世話になった騎士キホーティスさんである。
見た目面白い人だけれども。
騎士としては、立派な人である。
「あーおほんおほん。 今回は、戦略事業の支援任務となる。 既に現地で活動している部隊の支援を行いつつ、安全経路を確保する」
ついにきたか。
今回、リディーとスールに求められるのは、活動中の人夫達を騎士団と一緒に守る事である。
傭兵も同じように仕事をする。
既に現地では、アダレットから伸びる街道の先にある街の一つを緑化する作業を行っているらしく。
また緑化のスペシャリストが来てくれていて。
作業を行っているとか。
だけれども、数人で緑化作業をできる訳がない。
其処で騎士団と傭兵部隊が、これだけの数でて護衛を行い、近付く獣を片っ端から駆除する。
また、その過程で、行き来する物資は、馬車で運ぶのだが。
その護衛のサポートも行う。
王都の周囲は森で囲まれているが。
それも、森をでてしまうと後は無法の荒野である。
森を伸ばし。街道を守って行く。
そして伸ばした森で街道を守りきり、隣の街にまでつなげる。
最終的には、全ての街道をそうやって守りたい所だが。
今回は、残念ながら。
近くにある宿場町を。
緑化して、守る作業となる。
集落の周辺を緑化すれば、それは獣に対する絶対防御壁となる。まあファンガスのような例外もいるけれど、いずれにしてもそれは例外中の例外。
警戒しなければならないのは、匪賊だけになる。
それだけでも、街の自警団の負担がぐっと減る。
更には、街の周囲を緑化すれば、それだけ安全範囲も拡がることを意味していて。
計画的に緑化できれば。
或いはその中に田畑を作ったり。
水路を引いて、安全に水を得られるようにしたりと。
様々なことが期待出来る。
森からも、豊かな恵みを得る事が出来るし。
比較的弱めの獣が住み着いてくれれば。
凶暴性が抑えられた獣を相手に、自警団が比較的安全な訓練をする事が出来るし。
何より食糧にもなる。
良い事づくめだ。
その代わり、緑化作業には、専門家の支援が必要な上。
貴重な深核を材料にした栄養剤も必要になってくる。
それも、地面に適当に撒いておけば良い、と言うようないい加減なものではなく。
専門家と相談しつつ。
順番にやっていかなければならない、という話だ。
いずれにしても、緑化作業がとても大変なのは、今まで荒野を見てきたから分かる。アダレットが国になってから500年。
緑化できているのは、万の人口を抱える都市周辺と、一部の街道だけ。
このことだけでも。
緑化作業が如何に大変なのかは、わざわざ説明しなくても分かる、というものだ。
しかも話に聞く所によると、錬金術大国とも言われるラスティンでも、状況は似たようなものだと聞いている。
この世界は。
人間には優しくないのである。
かといって、他の世界が優しいかは分からない。
ざわめきの森は、比較的優しい方だと思う。いつレンプライアに襲われるか分からない事を除けば。
そもそも氷晶の輝窟は、ヒト族が入って良い場所ではない。
彼処にはあれから何度か素材を得るために入ったが。
既にトカゲたちは、あの温度を上げる装置を納入した「聖域」に全て退避しており。
残っているのはたまに見かけるレンプライアだけになっていた。
また、フィリスさんが塞いだ壁は、完全にヒトだけではなくホムも獣人も魔族も通れないようになっており。
文字通り、完全に封鎖されていた。
あれを突破するのは無理だ。
いずれにしても、もはやあの世界には、本来はヒトは行ってはいけない。
そう考えてみると。
他の世界も、同じようなものなのかも知れない。
この世界が仮に地獄だったとしても。
人間は、或いは他の世界から追い出されて、地獄にいるのかも知れないのであって。
今、どうやって地獄で生きていくのか。
考えて行かなければならない。
キホーティスさんが、スケジュールについて説明を終え。その後、順次馬車がでていく。今回は馬車に貴重な物資が大量に積まれているようで、四台の馬車にそれぞれ錬金術師が即応できるようにと、配置が行われていた。また、ベテランの騎士も、馬車事に別れて護衛をしているようだ。
リディーとスールが割り当てられたのは真ん中三番目。
フィリスさんが先頭。
二番目をルーシャ。
あの嫌みな程のイケメン青年は、最後尾を守っていると言うことだ。
「早足!」
指示だけが飛び。
殆ど私語は飛び交わない。
此処はまだ森の中だが。
それでも例外的に人を襲うファンガスのようなのもいるし。
最前衛が攻撃を受けたら、すぐに対応をしなければならない。
大物は森の中には入ってこない事だけが救いだが。
逆に言うと、森から出ると、その時点で既に色々と危ないのである。
今向かっているのは、珍しく街道が森で守られている方向。
つまるところ、ラスティン方面の街道だ。
ただし、森で守られているのは、次の街までくらい。次の街もかなり周囲は怪しい状態である。
今回はその街の緑化作業を実施し。
水路を延ばし。獣が入り込まないように処置もする。
つまるところ、土木工事をしつつ。獣を排除し。緑化作業をたくさんやらなければならない、という事である。
難易度がいきなり上がりすぎのようにスールには思えるけれども。
その代わり、今まで見たことも無いような支援金が振り込まれていて。
要するに、そういう事だ。
責任に比例して、給金も出る。
ルーシャは少し前にDランクに昇格したらしいので。
今のリディーとスールよりも、たくさん貰っているという事になる。
だがそれは適切な給金だ。
錬金術師としての評価が一つ上がるだけで、これだけがくんと関わる仕事が危険になるのである。
それくらいは貰わないと。
はっきり言って、割に合わない。
まだこの辺りの街道は森で守られているけれども。せめて次の万の人口がいる街までは、しっかり街道を整備しなければならない。
今回は、次の宿場町を主体的に整備し。
更には、別方向に伸びている街道の周辺にでる獣の駆除。
可能なら、その街道の緑化についても調査する。
そういう話らしかった。
早足だが。
リディーはついてこれている。
体力が上がっていると言うよりも。
装備品の更改による効果が大きい。
ナックルガードを、合金で作り直したのである。
効果は劇的で。
さび止めの魔法陣を組み込まなくても良くなった分、能力を更に強化出来るようになった事が大きく。
更に一つ一つの強化魔術も威力が上がっていて。
スールも小走りしていて。
息一つ切れない。
周囲を警戒しつつ、ひょいひょい飛び回っているアンパサンドさんは。
地中などに潜んでいる獣がいる場合。
攻撃を誘発すべく、わざと動き回っている。
少し馬車から離れて見せているのも。
伏せている獣にとって、格好の獲物と見せるためだろう。
文字通り体を張って、陣列の最外縁を守っている。
今は森の中だが。
それでも、なお念のためという訳なのだろう。
フィンブル兄は、合金で更に新調したハルバードを見て、ご満悦の様子である。刃の部分だけではなく、柄も合金に新調した。なお流石にそのままだと盗んでくれと言っているようなものなので。柄は鍛冶屋の親父さんが皮を巻いて隠している。刃も普段はさび止めの鞘に収めていた。もうさび止めは必要ないのだが。
駆け足で急ぎ、次の街へ到着して、確認する。
城壁はしっかりしている。
ただし、その外側にある森は、今見るとまだ彼方此方隙が目だった。こう言う王都の至近にある街でさえこれなのだ。
少しずつ、やれることからやっていくしかない。
フィリスさんが、目つきの鋭い男の人と、何か話している。
騎士団の偉い人が敬礼しているところを見ると、偉い人なのだろうか。まだかなり若いように見えるが。
一旦馬車を整列させ。
皆が並んだところで、仕事を振り分けられた。
「あー、おほんおほん。 現在街から少し離れた地点に、ネームド「黒金の大角」が出てきている。 他のネームドが駆除された影響の様子だ。 これに対しては、ルーシャどの、リディーどの、スールどの、それにアルトどので当たって貰う。 騎士十名、傭兵十五名もこれに加わるように」
「はいっ」
「分かりました!」
フィリスさん以外の錬金術師全員が当たるのか。
まあ、妥当だろう。
ネームドの戦闘力は尋常では無い。まだバトルミックスは。実は少し前に、限定条件で使用を許可して貰ったのだけれど。できるだけ使うなとも言われている。
ルーシャはまだ病み上がりだけれど。
優秀なインファイターであるオイフェさんが側にいる。
多分リディーとスールよりは役に立つと思う。
問題はもう一人。
ただのスケコマシでないと良いのだけれど。
「残りの騎士と傭兵は、フィリスどのの指示の元、まずは用水路の整備から行う! 今回は緑化作業のプロフェッショナルが来てくれている。 緑化作業に関しては、まずはこの街に若干不足している水を補うところから行う! 用水路の一部が獣に占拠され、更には獣よけの設備も老朽化している! 如何にフィリスどのが手練れとはいえ、戦闘は避けられない状態だ! 皆、気を引き締めて欲しい!」
それぞれ戦力がどう分けられるかが、具体的に説明され。
騎士と傭兵達がそれぞれ分けられる。
アンパサンドさんとマティアスは、護衛に来てくれた。
これは助かる。
マティアスは残念イケメンだけれど、一応力はあるし。それに壁役としてなら、相応に役に立ってくれる。
フィンブル兄も側にいてくれるので。
それは心強い。
此方の騎士達の指揮を執るのは。
魔族の騎士で。
全身が緑色で。角は頭の上で炎のようにうねっていた。
魔族の角はみんな違うのだけれど。
この人のように角の自己主張が激しい人は、寝る時大変だろうなあとスールは思う。
実は前に聞いてみたことがあるのだけれど。
基本的に角が邪魔にならないように眠るらしい。
うつぶせか、或いはベッドの横から角がはみ出るようにして、横になって眠るのか。
いずれにしても、慣れないと難しそうである。
ともかく、騎士一位らしい魔族の騎士オリアスさんと一緒に、一旦街から離れる。
森をでるとちょっとだけ草原があるが。
もうこの辺りは既に死地。
そして草原をでると。
一面の荒野だ。
遠くに川が流れているが、フィリスさんと行動する本隊はあっちに行く訳だ。大変すぎる。
川に大きくて危険な獣が住んでいるのは、もう嫌でも思い知らされている。
水路が駄目になっていると言う事は、そういうのと戦わなければならない、と言う事で。
如何にフィリスさんがついていても、一瞬でも油断したら即死だろう。
此方も、あまり状況は良くない。
スールが荷車を引いて。
リディーが少し後ろに。
左右をルーシャと、アルトという美形の錬金術師が守ってくれているが。杖とか、装備の類を一つも持っていない。
少し心配になる。
拡張肉体の類を使うのだろうか。
すっと、手を上げて、横に伸ばすオリアスさん。
警戒、の意味だ。
すぐに騎士達が、周囲に対して気を張る。
だが、想像を超える事態が、即座に起こった。
アルトさんが本をどこからともなく取りだすと。其処から、無数の剣が空に浮き上がったのである。
そして、周囲を守るようにして、地面に突き刺さり。
電撃が剣の間を走った。
「危ないよ、目をつぶって」
声までイケボか。
言われた通り、目を閉じた、次の瞬間。
閃光が、辺りを蹂躙し尽くしていた。
地面から飛び出した大型の蚯蚓が、ぴくぴくと痙攣しているが。あれはもう死んでいる。全身が焼け焦げているからだ。
「さ、流石だな……」
「いきなりBランク判定受けてるって噂聞いたが……」
生唾を飲み込んで、騎士達が呟いているのを聞いてしまう。
いきなりBランク。
それは凄まじい。
そして、実力もそれに恥じない事が今の一瞬で証明された。
三傑と言われているらしいイル師匠やフィリスさんほどではないにしても、それに近い実力では無いのか。
まさかこの人が、三傑最後の一人か。
「獣を解体後、東に行軍。 黒金の大角の縄張りはもう少し先だが、油断はせぬように」
「はっ!」
「以降私語禁止!」
解体を黙々としている騎士達。
今の蚯蚓、獣としては大きめだが、一瞬だった。
解体が終わり、処理も終えると。再び隊列は動き出す。グダグダ死地で喋っている余裕なんて無い。
夕方近くになって。
一旦キャンプを張る。
地面からの奇襲を防ぐために、ルーシャが結界を展開。
幾つかの資材を組み立てて、柵と櫓を建てる。
いずれも手際はてきぱきとしていて。
殆どリディーとスールが手伝う暇も無かった。
一度、組み立て中の櫓が傾いたが。
一瞬でアルトが放った剣の腹でそれを受け止めて。すぐに立て直す事が出来た。判断力も高い。剣自体も、見た目とは裏腹の凄まじいパワーを持っているようだ。
要するに、ツラだけのスケコマシでは無い、と言う事だ。
周囲への警戒態勢が整い。
天幕が張られ始めると。見張り班を除いて、漸く気を緩めることができる。
アルトという錬金術師が、丁度話しかけてくる。
「君達だね。 破竹の勢いでランクを上げている若手錬金術師というのは」
「いきなりBランクの人に言われても」
「ちょっと、スーちゃん」
「はっはっは、これは失礼したね。 僕はアルト。 君達は?」
知っているくせに、と思いながらそれぞれ名乗る。
リディーは相当なイケメン(しかもマティアスと違って出来る)を前にしてあたふたしているようで。
それが何だか無性に腹が立った。
何だか嫌な予感がしてならないのだこの人には。
「恐らくネームドとの交戦は明日になるだろう。 僕達の力が足りなければ、大勢死者が出る事になる。 それにネームドがもっている深核は、栄養剤の重要な素材だ。 出来れば確保したい」
「そういえば、緑化作業をしているフィリスさんは、深核を持ち合わせていないんですか?」
「持ち合わせているに決まっているだろう。 ただ彼女の在庫は勿論有料だ。 騎士団としても、コストを削減しつつ、存在するだけで大きな脅威になるネームドを駆逐しておきたいのさ」
そういうものか。
感心している様子のリディーに呆れながら。
スールは咳払い。
「疲れているので、これで」
「失礼します」
手を引いたので、リディーも何かおかしいと気付いたのだろう。そのまま、割り当てられている天幕に行く。
先に天幕に入っていたアンパサンドさんは、ナイフを磨いていた。ひょっとするとこれ、プラティーンか。間近で見て、今更気付く。或いは、漸く作れるようになった合金かも知れないが。
「早く休んでおくのです」
アンパサンドさんは此方を見もしない。
苦笑すると、黙々と相棒の手入れをしているアンパサンドさんの邪魔をしないように。二人とも、早々に天幕で休む事にした。
1、不可解なる錬金術師
それは巨大な牛だった。牛と言っても、背丈だけでスールの三倍はある。体の長さは更にその二倍半くらいだろうか。
それが全身に炎を纏い。
一対の角は黒光りしていた。
そして当然のように。
人間を見た瞬間、全速力で殺すべく、突貫してくるのだった。
分かっている。
ネームドとはそういう存在だ。
既に発破はしかけてある。
だが。
奴は発破の存在を知っているかのように、体勢を低くすると、体の周囲に三角錐のシールドを展開。
地面を抉りながら、驀進してくる。
タイミングを合わせて起爆するが。
これでは効果が殆ど見込めない。
爆炎を蹴散らすようにして突貫してくる黒金の大角。
レヘルンをまとめて投擲して、爆破。
冷気が奴を包むが。
ぬるいわと言わんばかりに、それも力尽くで突破してくる。
まずい、もう至近距離だ。
騎士団がシールドを展開しているが、これはぶち抜かれる。
そう思ったが。
すっと前に出たルーシャが、傘を開く。
同時に、複数の魔法陣が空中に展開。
巨大なシールドを出現させた。
準備はしていたのだろうけれど。それでも、今までルーシャが見せたシールドとは別次元の代物だった。
突貫してきた黒金の大角が、それに真正面から激突。
ぐわんと、大地が揺れた。
それほどの衝撃だったが、それでも首が折れない。一体どういう生物なのかと、ぼやきたくなる。
そして次の瞬間。
黒金の大角の腹に、多数の剣が突き刺さり。
そして爆裂していた。
アルトが本を開き。
其処から放ったものに違いなかった。
昨日、一瞬で大型蚯蚓を倒したアレだ。
竿立ちになって絶叫する黒金の大角に対して、騎士団が突貫。めいめいの武器を突き立てる。
振り払うように暴れようとする黒金の大角の額に、残像を作って跳んだオイフェさんが拳を叩き込む。
普通、人間の拳なんか獣には通じないが。
この人のは錬金術装備で強化しているのだろう。
一撃で、明確に黒金の大角が怯んだ。
更に、気合いと共にマティアスが剣を振りかぶり、首筋に降り下ろす。
即応した黒金の大角が、角で剣を受け止めるが。
真下に潜り込んでいたフィンブルさんが、首を真下から、ハルバードで突き上げる。
喉を貫かれ、絶叫する黒金の大角が、無数の魔法陣を出現させるが。
させるか。
リディーの支援魔術を受けたスールが突撃。
蹴りを叩き込んで、横っ面を張り飛ばす。
そして、ハルバードが刺さったままの喉から、大量に鮮血が噴き出すのを見ながら、ピンポイントフレアつきのフラムを目にねじ込み、跳び離れ、起爆。
爆裂。
流石に魔法陣がかき消される。
更に、全身に次々アルトが放った剣が突き刺さり。
騎士団も一旦飛び退くと。
飛び道具や魔術で、それぞれ徹底的に攻撃を浴びせかける。
そして、もう一つの目を、アンパサンドさんが抉り。
激高した黒金の大角が、アンパサンドさんに注意を向けた瞬間。
勝負はついた。
突貫したマティアスが。
無理矢理フィンブルさんのハルバードを、更に奥までねじり込み。同時にルーシャが、恐らく渾身の力を込めて、傘から光弾を放ったのである。
喉と心臓を同時に貫かれ。
大量に吐血した巨大牛はしばらく停止していたが。
やがて横倒しになる。
呼吸を整える。
あの突貫を止められていなければ。
多分蹴散らされていたのは此方だった。
ネームドとしてはあんまり強い方じゃなかったなと、内心で思う。
それでも、この戦力。
そもそも強いネームドなら、フィリスさんやイル師匠が駆除している筈で。残っていた此奴は消去法から考えても弱い方だったのだろうけれど。
それでも、とても手を抜ける相手では無かった。
戦況を見ながら、強化魔術を皆にかけていたリディーが、相当辛そうに息をついているので。
背中をさすって、周囲を見る。
大けがをしている者はおらず。
騎士団の面々は、既に巨大な牛の解体を始めていた。
オリアスさんが、それぞれ感謝の声を掛けてくれる。声を聞くと、意外に若々しい声だ。騎士団としては、俊英として扱っている人材なのかも知れない。
「奮戦流石だ。 我々だけでは多くの死者を出していただろう。 それでも倒せたかは分からないな」
「いえ、私達よりもルーシャやアルトさんの方が」
「あの二人は君達よりランクが上なのだから当然だろう。 自分の身の丈にあった活躍が出来ればそれでいいのだ。 君達は充分に身の丈に合った活躍が出来ていると思う」
「はあ、ありがとうございます」
褒めて貰ったのだとは思うが。
何だかちょっと釈然としない。
ルーシャは何だか、病み上がりとは思えない暴れぶりだったけれど。あの様子だと、今まではひょっとして、ズッコケキャラを演じて、リディーとスールの前では手を抜いていたのか。
あり得る話だ。
ただそれに関しては、リディーとスールに責任がある。
此方では、何も言うことは無い。
アルトについては、もはや実力は明白だ。
あの剣は、多分イル師匠の使っていた拡張肉体と同じだろうけれど。
本から呼び出していた所から見て。
或いは何か、召還魔術とか。
物体の実体化とか。
そういう高度な魔術を、錬金術の装備である本で行っているのかも知れない。
いずれにしても、今のリディーとスールでは、足下にも及ばない凄腕だと言う事ははっきりした。
黒金の大角の片付けが終わり。
骨まで綺麗に回収し終えると。
一旦キャンプで交代で休憩。
周囲の獣が寄ってきていたので、これも全て駆除しておく。
獣は駆除できるときに、駆除できるだけ処理する。
何しろ荒野から際限なく湧いてきて。
放置しておくと幾らでも強くなるのだ。
そしてどれもが例外なく人間を襲う。
駆除はしなければならない。
今、丁度ネームドが消えて、安全地帯が大きく拡がった所である。できる限り獣は駆除すべき。
当然の理屈だ。
昼過ぎに、周辺の獣もあらかた駆除が終わったので。
一度街に戻る。
どうやら其方でも、水路の方の作業があらかた終わったらしく。人夫も繰り出して、水路の作成に移っていた。
驚いたのは、フィリスさんだ。
凄まじい動きで、二十人分、いや三十人分以上は一人で動いている。
人夫達が唖然とするほどで。
更には、一人で小さなつるはしを振るっているだけなのに大岩を速攻で砕いたり。
或いはどう崩れるか分かっているようで。
土砂崩落が起きる地点に行っては、人夫を退避させ。
文字通り八面六臂の活躍を見せていた。
それを手をかざして、他人事のようにアルトさんが言う。
「流石は破壊神フィリス=ミストルート。 ラスティンのインフラを一年で百年分整備したというだけのことはある」
「百年分!?」
「見て分かるだろう。 本当のことだよ。 まあ流石にスペシャリストの支援も受けての結果だけれどね」
顎が外れそうになるが。
確かに何というか、土砂が遠慮してどいているというか。大岩が自分から壊されているというか。
凄まじい戦闘力の戦士を見るよりも。
ある意味凄まじい光景が目の前で展開されている。
「この様子だと、水路の方は今日中に整備が終わるね。 明日からは恐らく緑化作業の方になるだろう。 それについては、多分君達が活躍しなければならないだろうから、覚悟した方が良いだろうね」
「私達が、ですか?」
「どういうこと?」
「騎士団はコストカットをしたがっている、という話をしただろう? フィリスも勿論栄養剤をもっているが、彼女から買うとなると相当な出費になってしまうんだよ。 そして栄養剤に必要な深核は今其処にある。 一番コストが安い錬金術師は此処にいる」
そう言われると。
確かにその通りだ。
ただ、その通りであっても。
何だか無性に腹が立つ。
この人は、何だか色々見透かしているような気がする。いや、気のせいじゃない。勘が告げているのだ。スールにとって、武器になる数少ないもの、勘が。魔術が殆ど使えないのに、どうしてか備わっている勘は。スールにとって大事にしなければならないものであり。
決して勘が告げている警戒を、解いてはならなかった。
街に入り、整列を終えると、もう夕方だった。
街の外の森にキャンプを張り、今日は其処で休む。人夫達は宿で。リディーとスールも、キャンプで休む事にする。
特別扱いはされる謂われは無い。
むしろ、戦士では無く、力仕事に来ている人夫達が、宿を使うべきだろう。
なお、この街からも、人夫として仕事にかなりの人数が参加しているようだけれども。それでも、人は足りないのだ。
流石にネームドとの戦闘をこなした直後だ。
疲れもたまっていて、すぐに眠る事が出来た。
近いうちに、見張りもこなさなければならなくなるだろう。
その時は、その時。
今はまだ、甘えさせて貰う。
少しずつ、厳しい環境に慣れていって。
できる事を増やしていかなければならない。
翌朝。
顔を洗って。そして気付く。水路が、既に出来上がっていた。顎が外れそうになるが。殆ど一晩で、フィリスさんがほぼ単独で仕上げてしまったらしい。
獣よけの設備も万全。
これから、この街の人達は、安全に水を得る事が出来る。
勿論生水を飲むことは自殺行為だから、湧かさなければならないけれど。
そもそも水を安全に得ると言う事がとても贅沢なのだと、リディーもスールも既に知っている。
この街には、その贅沢が来た、と言う事だ。
そして、集合すると。今日はフィリスさんが連れてきた、若い人が話を始める。
「おいらはオスカー。 緑化作業の方にはちょっとした実績があって、今回ここに来ている」
「……」
まだ若いのに、実績、か。
だけれども、フィリスさんの大暴れぶりを見ていると、この人も何か特殊な存在なのではないかとは感じる。
いてもおかしくはないだろう。
桁外れの怪物は。
何しろリディーとスールの前にも、イル師匠と、フィリスさんというバケモノが二人いるのである。
この人も、その同類であっても何ら不思議では無い。
「アダレットはちょっと緑化作業の進展が遅れているようで、おいらとしてはみんな困っているんじゃないかって心配だ。 噂には聞いてはいたが、実際に足を運んでみて此処まで酷いとは思わなかった。 これから数年間は貼り付きで緑化作業をさせて貰うとするよ」
「感謝する。 皆、このオスカーどのは、ラスティンにて膨大なインフラ整備の実績を積み重ねてきた俊英だ。 植物についての知識は、恐らく右に出るものはいないだろう」
キホーティスさんが側で持ち上げるが。
まあ実績については、見せてもらうしかないか。
その後、持ち場についての話をされる。
まず人夫とフィリスさんが、土を作り。
草原地帯を森に変え。
荒野も森にする作業に取りかかる。
これらの作業を終えると、この街は森でしっかりガードされる事になる。森の管理が必要だが、それは街の人達の責任だ。
オスカーという人は。此処から各街道を順番に緑化していくという話だが。
個人的には街をまず森で守るのが先では無いのかと思ってしまう。
だが、それを先読みしたように。
オスカーさんはいう。
「此処まで酷い現状だと、まずは「通路」を確保して、人々がいざという時に逃げられる状況を作るしかない。 森で街を守る前に、何かあった場合、難民が退避できる経路を作らなければならない状況だ。 二百年前に錬金術師を迫害するという事件が起きて、それから混乱があったらしいが……その時のツケが、今になって来ていると思ってくれると嬉しい
どちらかと言えば温和そうなしゃべり方なのに。
言っている事は厳しめだ。
或いは、相当に酷い状況を見て、本当に頭に来ているのかも知れない。
ともかくだ。
フィリスさんが太鼓判を押す程の人なら、相当な実績の持ち主と言う事で間違いは無いのだろう。
フィリスさん自身がそも得体が知れないし。
何を目論んでいるかは分からないけれど。
少なくとも安全な水路は作ってくれた。
その分は、信用しなければならない。
そして、持ち場について。
割り振られた。
フィリスさんに、例の謎アトリエに連れて行かれる。内部では、既に何人かの手練れが行き交って、作業をしていた。例のホムの子もいて、ゼッテルに何か書いて、周囲の人と話をしているようだった。
「ツヴァイちゃん、在庫の方は?」
「特に問題は起きていないのです。 資材の補給については、例のごとくアルファ商会に?」
「うん、それでお願い」
「分かりましたのです、お姉ちゃん」
おお、本当にお姉ちゃんなのか。
ホムがヒトをお姉ちゃんと呼ぶのは珍しい光景だ。フィリスさんの言う通り、余程の事情があったのだろう。
釜を貸してくれるというので。
使わせて貰うが。
何だこの釜。
隣でリディーも絶句する。
これ、多分。
ハルモニウムだ。
「栄養剤の作成をお願いするね。 とりあえず、このレシピに沿って作ってくれればかまわないからね」
「は、はい。 分かりました……」
「わたしはこれから外で土木作業と獣の駆除を一緒に行うから、二人の手伝い出来ないからね。 もし分からない事があったら、ルーシャちゃんかアルトさんに聞いてね」
「あの、良いですか?」
手を上げて聞く。
フィリスさんは笑顔だったが。
さっさとしろと、無言の圧力を掛けてきている。
ぞくりと背筋に悪寒が走った。
リディーはまだ言葉でしか分かっていないが。
スールには違う。
この人は、見た目通りの無邪気で優しい人なんかじゃないことくらいは、もう体の方が認識している。
「あの、オスカーさんってひとは……」
「自分で喋っていたとおりの人だよ。 強いていうなら、そうだね。 ギフテッド持ち」
「!」
ギフテッド。
確か、ものの声が聞こえるというあれか。
ものの意思に沿ってものを変質させる錬金術にとって、このスキルを持っている人間は文字通り至宝と聞く。
フィリスさんも確かそうだと聞いているが。
「わたしは鉱物を中心に基本何でも。 ソフィー先生はあらゆるなんでも。 オスカーさんは植物と喋れる感じ」
「それって、錬金術師になれるんじゃ」
「なれるよ確実に。 それも超腕利きになれるだろうね。 でも、オスカーさんは錬金術とどうも距離を置きたいらしくてね。 でも、植物と会話が出来るっていうだけで、すごく役に立てるから。 実際、あの人がわたしのインフラ構築作業で、どれだけ手伝ってくれたか分からない程だよ。 じゃ、時間も押してるから、後は頑張って」
片手を上げてフィリスさんはアトリエをでていく。
しばし無言だった。
先に口を開いたのは、真っ青になっているリディーだった。
「す、凄い世界にいる人なんだね……」
「リディー、やっぱり何だかおかしいよ色々」
「……」
俯くリディー。
こんなのはおかしい。
それは言われなくても分かる。
周囲にいるのは魔人の群れ。イル師匠からして、普通の人間とはあまりに隔絶しすぎている怪物だ。そしてオスカーさんという人も今加わった。
錬金術師になれば一流確定と、あのフィリスさんが。
多分、本物の破壊神と遜色ない破壊の権化が口にしているのだ。
間違いないだろう。
ともかく。
レシピを見る。
恐ろしく難しいが、何とかできそうである。
アトリエからは外が見えるようになっていて、なるほど、外からこのアトリエを奇襲するのは不可能、と言うわけだ。
そして働いているのは、皆いずれ劣らぬ手練ればかり。
皆、騎士と遜色ないか、それ以上と一目で分かる人達ばかりだ。
それに混じって、まったく物怖じせずに、ああだこうだと管理しているツヴァイという名前のホム。
あらゆる全てが、違和感の塊だ。
ともかく、回収してきた素材を使って、栄養剤の作成を始める。
栄養剤と言っても何種類もある。
今回要求されているのは、土を最初に作るときに使うもの。
荒野に雑草を根付かせるためのものだという。
レシピ通りに手を動かし。
時々、ルーシャに聞きに行く。
ルーシャがいないときは、アルトさんに聞く。アルトと呼び捨てするのは止めた方が良さそうだ。あの人も、明らかに見た目通りの存在では無い。
ルーシャの説明はとにかく丁寧だった。
アルトさんの説明は、何というか、もの凄く論理的だった。論理的すぎて、時々分からなかった。
説明としてスールにはルーシャの方が向いているが。
アルトさんの説明は、むしろリディーの方に向いているようだった。
ともかく、貴重な深核を用いるまでの作業。
土が喜び。
雑草が生えるための栄養を作っていく。
非常に酷い臭いが途中でるが。
それを換気する仕組みも、このアトリエにはついているようだった。色々な意味でいたれりつくせり。折りたたみが出来て、運ぶ事が容易で。リディーとスールのアトリエ以上に機能が充実していて。ついでに釜は多分ハルモニウム製。
あらゆる意味で異次元過ぎる。
リディーも、真っ青になって調合しているが。
更に、アドバイスを受けるときに、色々とんでもない話を聞かされる。
すごい栄養剤を作る時は、中和剤さえ深核を用いる。
それを聞いてぞっとする。
あの「人工太陽」の超劣化版。
それでさえ、そのくらいのものは必要とした。
フィリスさんが一体どんな事業を行って、人々をたくさん救ってきたのか。あの人は怖い人だけれども。その実力と。
あの人に救われた人が、たくさんいることは。
間違いの無い事実だ。
例えフィリスさんがどんなに怖い人であっても、その事実は変わらないし。救われた人は今も生きているのである。
順番に作業を行い。
発酵を促進させ。
やがて臭いが一段落する。
中和剤によって変質した土の栄養が。
元の何倍。
いや、何十倍にも強くなり。
そして、深核をわずかに混ぜたことによって。
土に強大な魔力を含ませるための薬に仕上がったのである。
ルーシャにもアルトさんにも見てもらう。ルーシャは良く出来たと言ってくれたが、アルトさんは目を細めた。
その目の細め方を見て。
何となく違和感の理由がスールにも分かった。
この人。
何だか老人みたいな動作を、時々するのだ。
しゃべり方にしてもそうだ。
この人、ひょっとして。
パイモンさんと同じような、アンチエイジングをしているのではあるまいか。
「ギリギリ合格、かな。 まあ要求されている用途には充分だとは思うよ」
「ごめんなさい、力が足りなくて」
「その年でそれだけ出来れば充分だよ。 僕と、僕と一緒に組んでいた錬金術師はね、君達くらいの年の頃には、文字を読むのがやっとだったくらいなんだから」
「えっ……」
ふっと、笑ってみせるアルトさん。
やっぱりこの人。
見かけ通りの年じゃあないな。
リディーはそう指摘しないと絶対気付かないだろうけれど。間違いない。この人、多分実際には老人だ。
ともかく、Bランクの錬金術師に合格を貰ったのだからこれで良いだろう。
外に出て、フィリスさんにお薬を納品しに行く。
既に相当な面積が耕されていて。
しかもそれでいながら、人夫が襲われるような事も無い。
一度、大きめのアードラが来たようだが。
フィリスさんが即応。
一瞬で叩き落として。
何事もなかったかのように、開墾作業に戻っていた。
とはいっても、土は乾燥しているし、栄養もない。栄養剤を入れないと、種を植えて水を撒いても、何にもならないのだけれども。
だから、栄養剤をもっていくと。
フィリスさんは顔を上げた。
「どれ、見せて」
「はい、これです」
「アルトさんには、ギリギリ合格言われましたっ」
「ふーん」
フィリスさんはいつもにこにこしているけれど。今日はちょっと様子が違う。戦略事業をしているからだろうか。
ぴりぴりした空気。
何より、目つきが非常に鋭かった。
「本当にギリギリだね。 まあ、どうにか使えそうだから良いけれど」
「……」
「この十倍の量、調合をよろしくね。 これから作業を続けていくから」
「は、はいっ!」
突っ返されたような感覚を受けたが。
一応、合格は貰えたのか。
フィリスさんは、もう此方を振り返りもせず、作業を続けている。栄養剤はそのままオスカーさんの手に。オスカーさんは、土に植物の種をまきながら、栄養剤を手慣れた様子で土に混ぜ込んでいた。
さて、此処からはずっと栄養剤の調合か。
アトリエに戻る。
スールは思わずぼやいていた。
「まだやっぱりスーちゃん達半人前じゃん」
「……そうなのかな」
「分かってるよ。 騎士団のこんな大事な任務に連れてこられてるんだから、半人前はもう卒業してるって事は。 でも、一人前でもないよね」
「スーちゃん、そうやってぼやいていると……」
分かっている。
イル師匠なら、ぼやく暇があったら練習しろ、手を動かせと言うだろう。
此処にイル師匠はいないけれど、見ているかも知れない。あの人だったら、やりかねないのだそれくらいのことは。
また、獣が出る。今度は大きめの猪だ。
アンパサンドさんが出ると、顔に蹴りを叩き込み。更にナイフを鋭く振るいながら、後方に着地。
即座に振り返った猪に、騎士団が殺到。
抵抗する暇も与えずに、その場でミンチにしてしまう。
すぐに解体作業を始めるが。
見ている暇は無い。
今、できる事は。栄養剤を作る事だけなのだから。
2、半人前と一人前の境界
土にまみれてフィリスさんがアトリエに戻ってくると。
お風呂があるらしく。其方に直行する。
何でも後付で作ったらしいのだが。
あるなら教えて欲しかった。
一日中栄養剤を調合して。
しかも材料が材料だから、ずっと緊張のし通しだった。またネームドを狩りに行かなければならないかも知れない。そう思うと、手が震えてしまうのだ。
ルーシャはもう目の前で手を抜いていない。
アルトさんに至っては、そもそも見かけと年齢が絶対に一致していない。
そんな二人の支援を受けてなお。
弱めのネームドが相手でも、荷が重いのである。
焦りが募るけれど。
それでもどうにかしなければならない。
お風呂から上がってきたフィリスさんは。
いつものにこにこも浮かべておらず。
あのツヴァイというホムも交えて、会議を行うと言った。すぐに手練れらしい傭兵か何だかよく分からない人が、ルーシャとアルトさん、それにオスカーさんと騎士団の重要メンバーを呼びに行く。
騎士団のメンバーは、フィリスさんと仕事をした事があったのだろう。
アトリエに入っても、驚く様子は無かった。
最初ここに入ったら、絶対驚く。
だから、もう何度も入っているのだろうと、すぐに推察は出来た。
「進捗について会議を始めます。 キホーティスさん、進行は任せます」
「うむ。 現在開墾作業の進捗は75%というところだ。 そして今草を植える作業に既に取りかかっている。 このままいけば、恐らく明日中に、予定の地点に草を植えきることが出来るだろう。 草はすぐに生長し、一度火を入れる。 その後、灰を土に混ぜ、長期的に大きくなる植物を植え込む」
「それなんだが、おいらの見たところ、土の様子が想像以上に悪い。 リディーとスール、悪いけれど、もっと栄養剤を作ってくれるか」
「ええと、そうなると……」
フィリスさんが機嫌悪そうに咳払い。
ひっと、リディーがすくみ上がった。
ツヴァイさんがフィリスさんに目配せするが。
スールでなくても分かるくらい、フィリスさんは機嫌が悪かった。
「近辺のネームドは」
「ネームドを更に狩ると!」
「どの道狩らなければいけないですから」
「……そうですな、恐らく縄張りを動かしているとして……瞠目の大顎というのが近場にいますが、これは少し強めですぞ。 アルト殿がいても倒せるかどうか」
ふっと、アルトさんが鼻で笑う。
ルーシャがむっとしたようだったが。
アルトさんは、少し皮肉めいた笑みを浮かべていた。
「まあ倒す事は問題ないよ。 僕だけでもね。 ただ、死者が出る可能性は大きくなるだろうね」
「……瞠目の大顎は、巨大に進化したトカゲですな。 交戦記録が少なく、あまりパーソナルデータは詳しくは分かっていないのですが、毒を持っているという噂も」
「それでは、明日の朝居場所と縄張りの調査を。 斥候には手練れを出してください」
「ああ、分かりました。 此方で手配をしておきます」
進行は任せているが。
会議の主導権はフィリスさんが握っている。
これは騎士団としても、あまり面白くないんじゃないのかと、スールは思ったけれど。
騎士団としては、フィリスさんを怒らせたら、戦略事業どころではなくなると知っているのだろう。
それにフィリスさん。
自分が主導して仕事を始めた途端、雰囲気が変わった。
戦士というか何というか。
容赦のないものを感じる。
これはひょっとすると、フィリスさんは本来こういう感じなのか。或いは鍛冶屋の親父さんのように、仕事になると完全に「切り替える」タイプなのかもしれない。
後はツヴァイさんが、細かい進捗について説明。
数字が並べられていたが。
把握しているのはどれだけの人数いたか。
実際、眠そうにしている面子もいたので。
ちょっと同情してしまった。
数字の説明が終わると、会議は解散となる。
さっとみんな散ったのは、或いは仕事モードのフィリスさんが怖いから、かも知れない。まあその気持ちは分かる。
コンテナからフィリスさんが出てきたのは、もの凄く大きな骨付き肉だ。
火で炙ると、むっしゃむっしゃと食べ始める。
凄まじい肉食ぶりで。
思わず生唾を飲み込んでしまった。
「お姉ちゃん、間食はリア姉に怒られるのです」
「大丈夫、食べた分は動いてるから。 ツヴァイちゃんの方は、無理言われたりしていない?」
「それは平気なのです。 数字の管理については、みんな理解してくれているのです」
「そう、それは良かった」
やっとフィリスさんの優しい笑顔が見られた。
家族の前では、ふだんのにこにこ顔が戻ってくる、というわけだ。
でもこの人も職人肌なのだなと、今日の作業で思い知らされる。
その後は、片付けをして。
翌日に備えて、早めに眠った。
このアトリエでの寝泊まりは流石に許して貰えなかった。というか、いくら何でも空気が悪い。
外の天幕で、やっと一息つけたくらいである。
「マティアスの台詞じゃないけど、怖かったよ」
「スーちゃんも?」
「フィリスさんが怖い人だってのは分かってたけど、鍛冶屋の親父さんと同じタイプだねあれ。 切り替わると本気で怖いよ」
「うん。 でも、妹さんの前では本当に優しいお姉ちゃんなんだね」
アンパサンドさんが戻ってくる。
どうやら騎士団の方で、斥候を決めていたらしく。
それでアンパサンドさんの担当地区が決まったらしい。
斥候は基本的に手練れがやるもので。
しかもこの間の黒金の大角より格上のネームドとなると。
出せる人員は限られてくる。
騎士団の損耗率を考えると。
損害は少しでも抑えなければならないのだ。
「お帰りなさい。 アンパサンドさんも明日早いの?」
「日の出前には出るのです。 その代わり、今日の見張りは免除なのです」
「ああ、それはまあ、そうですよね……」
「アンパサンドさん。 あのツヴァイってホムについて何か聞いていません?」
スールの無神経さを咎めるリディーだったが。
アンパサンドさんは、特に隠すことでもないと思ったのだろう。普通に話してくれた。
目の前で匪賊に、家族を食われたらしい。
しかも街の中で、だ。
治安が悪い街の出身で。
公認錬金術師が交代するまで、その治安の悪化が回復出来なかった。
治安の悪化に伴い匪賊が街の中に入り込み。
浮浪者や、社会からはじき出された人達を襲って、喰らっていたそうである。
その中に、商人として失敗したツヴァイさんの両親もいた。
目の前で生きたまま両親を解体されて喰われて。
偶然助け出されたものの。
助かったのはあの人だけだった。
心に深い傷を負った彼女を、フィリスさんは受け入れて。今は家族として、一緒に暮らしている、と言う事だった。
聞いているだけで、言葉を失う。
「治安の悪い街だとよくあることなのです。 匪賊はアダレットでもラスティンでも、どんな街でも、見敵必殺。 その理由が分かりましたか?」
「……」
リディーが口を押さえて、真っ青になっている。
スールも気を失いそうだった。
ため息をつく。
そんなんになるなら、最初から聞くなと、アンパサンドさんは厳しく言い。
さっさと横になると、眠ってしまった。
少なくとも昔のフィリスさんが、優しい人だったと言う事も分かった。だけれども、修羅になった理由も分かった気がする。
ツヴァイさんはフィリスさんの妹扱いされている事からも、多分ホムとしてもかなり年少の筈。あからさまにリディーやスールより年上のアンパサンドさんよりも、かなり年下だろう。
ホムは見た目で性別や年齢が分かりづらいから、コレばっかりは推察するしかないが。
匪賊はそんな幼い子の前で、両親を生きたまま食うような連中だ。
生かしておいて良いわけがない。
確かに匪賊に落ちたら復帰は不可能。
殺すしかない。
それもよく分かった。
吐き気を堪えて、真っ青になったまま横になる。
人間は、落ちるところまで落ちる事が出来る。
前に匪賊の住処を調べて。
その所行を知ったとき。
知ったはずだったのに。
その被害を受けた人がいるのを改めて見せつけられると。やっぱり心に来る物がある。
その晩は、ずっとうなされ続ける事になった。
匪賊には、ヒト族がもっともなりやすい。
そう、世界を焼き尽くし。
氷の世界に変えてしまったように。
一歩間違えただけでヒト族はすぐああなる。
自分達だって。
ルーシャに対して、似たような事をしていたではないか。
悶々としている内に。
朝が来る。
顔を洗う。
リディーも、相当に参っていたようで。目の下に隈を作っていた。
ともかく、今日も調合。深核がなくなるまで。栄養剤を作り続けなければならない。
栄養剤は幾らでもいる。
せめて、この街に住んでいる人達だけでも、少しでもマシに生きられるように。
リディーとスールは、出来る範囲内で、できる事をしなければならない。
それは、思い知らされた。
調合を続ける。
途中でルーシャに止められた。
食事を一緒にする。
ルーシャは外で見張りに協力しているらしく、獣を追い払っているらしい。ルーシャが栄養剤を調合すれば良いのにと一瞬思ったが。先回りして言われた。
「アダレットの国策でアトリエランク制度を実施しているのを忘れてはなりませんわよ二人とも。 基本的に新人をどんどん育成する方針でこの国策は進められていますのよ」
「それは、分かるけれど……」
「今二人は、栄養剤を作れるところまで腕を上げていると判断されているのです。 だから外で凶暴な獣から人々を守るのは、わたくし達先輩に任せなさい。 二人は錬金術師としての腕を上げることに専念するのですわ」
「はあ、うん……」
栄養剤も貰う。植物用のではなく、人間用の奴だ。
とにかくおっそろしくまずいけれど。
目は冴えるし、力は湧いてくる。
ただ、これは力の前借りだなとも思ったので。
とにかく今日中に、出来るだけの栄養剤を作ってしまう。
昨日に比べるとかなり効率は上がったが。
フィリスさんも、オスカーさんも、あまりいい顔はしなかった。
出来は良くないのだろう。
或いは甘やかすのは良くないと思っていると言う事か。
どちらにしても、まだまだだと言うことははっきり分かったし。もっと精進していかなければならない。
今日は会議も軽めに終わった。
どうやら瞠目の大顎については発見できたようだが。
縄張りについてまだ調査中らしく。
しかけるにはまだ日数がいる、と言う事だった。
まあ確かに、ネームド複数に襲われるのはぞっとしない。ましてや、弱くないネームドが相手になるとすれば、なおさらだ。
栄養剤を撒いた地域は、既に草の芽が出始めている。
あれが緑の野になった時、一度焼く。
緑化作業は、想像以上に時間が掛かる。
それがよく分かった。
だが、これだと、今後義務が増えていくと、時間が足りなくなるかも知れない。
そういう不安も感じた。今回の作業にしても、一週間以上は軽々掛かる。獣狩りの仕事もセットだとしても。
今後義務が増えていくと。
ほぼ自由時間はなくなる可能性もある。
それは少し困る。
やはり、もっと腕を上げて。
効率よく調合をして行かなければ駄目か。
額の汗を拭いながら、リディーと交代して、調合に入る。
しばらく釜の様子を見ていると。
落ちそうになるので、慌てて自分を引き締め直す。
今回の仕事。
厳しい事は分かっていたが。
想像を遙かに超えて厳しいかも知れない。
覚悟は、色々としておかなければならなかった。
翌日の夕方。
栄養剤の材料になる深核が切れた。
あの巨大牛からとれた深核がちょうど尽きたのである。
そうなると、またネームドを狩りに行かなければならないか。兎も角、作った分の栄養剤は全て納品する。
オスカーさんは、少しずつ品質は上がっていると言ってくれたけれど。
まだまだだとも言うので。
厳しいなあと感じる。
植物と話している光景も見かけた。
事前にギフテッド持ちだと聞いているから、特に思うことはないけれども。もしも事前知識がなかったら、吃驚したかも知れない。
いや、言い直さなければならないだろう。
少し前だったら、多分おかしな人だとか、危ない人だとかレッテルを貼って、差別していただろう。
ルーシャの一件。
更にはあの氷の世界の一件で思い知った。
自分達がどれだけ愚かだったか。
平均的なヒト族そのものだったか。
一緒になってはいけないと、今は戒めている。
だから、ああはならないと。エゴのために世界を焼き尽くしておいて、平然と万物の霊長を名乗るような愚劣な存在にはならないと決めてはいるけれど。それでも、自分を常に戒めなければならないとも思う。
その日の会議で。
進捗について聞く。
予定の地点の開墾は完了。
後は栄養剤を投入し、森を拡張整備して、街の防備が完成する、と言う事だった。更に出来れば、隣街までの街道も整備したいとオスカーさんは言っていたけれど。騎士団は渋い顔をした。
人員を出せるか分からない、というのだろう。
そして、続いての仕事として。
話題になっている瞠目の大顎の処理が上げられた。
縄張りについての解析が終了。
この巨大なオオトカゲは、殆ど縄張りについて興味が無いらしく、のしのしと決まった地点を歩き回るだけだという。他のネームドの縄張りが変わった事にも興味がまったく無い様子だと言う報告が上がっていた。
それだと無害にも思えるが。
視認した相手に関しては、相手が何だろうと見境無く攻撃を加えるらしく。
過去に騎士団も被害を受けているのだとか。
しかも巡回ルートには、街道の近くも含まれており。
人間に対する潜在的な危険は決して小さくない。
ならば倒さなければならない。
基本的に良いネームドなど存在しない。
いるとしたら死んだネームドだ。
さっそく駆除のための討伐班が組まれる。栄養剤の調合が終わった後、少し発破は増やしてあるが。
少し心配だ。
限定条件付きでバトルミックスの使用許可は出ているが。
その限定条件が色々と厳しい。
今回も、使えないと思った方が良いだろう。
「フィリスどの、開墾が終わっているならば、此方の手助けを」
「却下で。 街道の方の様子を確認と、出来るようなら其方の開墾も行います」
「し、しかし」
「話に聞く敵戦力ならば、充分でしょう。 そも街道の整備を散々さぼっていたから、今こんな事になっているんです。 ラスティンでも同じ事が起きていましたが、この国でも本当に何をしているのだか」
フィリスさんは。
そういえば、ラスティンで、1年で百年分のインフラ整備をしたとか言う話を聞かされたばかりだ。
逆に言うと、百年分のインフラ整備を、ラスティンがさぼっていたと言う事で。
インフラ整備の鬼とも言えるフィリスさんからして見れば、それは面白くないに違いない。
問題が生じたとき。
難民が逃げるための街道がいる。
そういう話もあったから。
街道を整備するのは急務、というのだろう。
「この街道の整備については、手持ちの栄養剤を使うので、その分の代金は請求させていただきます」
「待たれよ、フィリスどの。 流石に我が輩の権限では、其処までは……」
「大丈夫、わたしがミレイユ王女に話します」
「そんな無茶な」
キホーティスさんが青ざめているが。
フィリスさんの評定は厳しい。
ともかく、これはまずい。
スールは少し躊躇った後、発言する。
「あ、あの。 騎士団との連携が崩れると、この後あまり良くない事になるんじゃないですか」
「……続けて、スーちゃん」
「うっ」
「続けなさい」
フィリスさんの目が怖い。
怖い人だと言う事は分かっていたけれど。
想像以上だ。
リディーはすくみ上がっているし、何とかするしかない。生唾を飲み込むと、一言ずつ、言う。
「明日中に、瞠目の大顎を仕留めてきて、それで栄養剤を作れば……何とかなりませんか」
「出来るの?」
「……何とかします」
「ふうん、じゃあわたしとしては一日だけ待つね。 それ以上は待てないよ。 こういうインフラ整備は、一日のロスがとんでもない損害につながったりするの。 覚えておいて」
厳しい発言だが。
しかし、それでも譲歩を引き出せたのは大きい。
会議が終わり、冷や汗を拭っているキホーティスさんが話しかけてくる。フィリスさんは、既に街道の方を見に行ってしまっていた。
「いや、本当に助かった。 騎士団はカツカツの予算と人員で何とか動いている状態なのだ。 確かにフィリスどのならば、王女殿下を説得は出来るだろうが……その後の国家予算の圧迫は無視出来ないものとなる」
「栄養剤、そんなに高いんですか」
「我々の給金一年分を軽く超える。 そうだな、隊長クラスの騎士の給金三年分だな」
「ひ……」
騎士はかなりの高給取りと聞いている。
錬金術の道具は、いずれも相当に高価なことは分かっている。例えばハルモニウムなんかは、国宝になるほどだ。
プラティーンのインゴットで屋敷が建つという話だし。
栄養剤の価格が、それだけしてもおかしくない。
極貧だと思い込んで、カツカツの生活をしていた経験があるから分かる。
とてもではないけれど、そんな出費を続けていたら、騎士団も出血死してしまうだろう。
ましてやフィリスさんは、インフラ整備に関しては、鬼のような厳しい人だと言う事も良く分かった。
王女に対して、強引に話を通す事だってやるだろうし。
もし拒否されたら、ラスティンから手を引くと言い出しかねない。
三傑の一人というだけではなく。
フィリスさんは間違いなく、インフラ整備のエキスパート。
恐らく現在世界最高の、インフラ整備の達人だろう。
そんな人にそっぽを向かれたら。
ラスティンの国策が、根底から瓦解してしまう。
それは、キホーティスさんもおなかが痛いだろう。
「ともかく、明日は頼む。 此方も可能な限りの人員を討伐に回す」
「分かりました」
「スーちゃん、安請け合いは……」
「うん……ごめん、でもなんとかしないと」
リディーの言うことの方が正論だ。
これは安請け合いできる事では無い。
アルトさんやルーシャに頼るばかりでは駄目だ。
リディーとスールが、いつも以上の力を出さないと。
言ったからにはやれ。
そうフィリスさんの目は告げていた。
非常に厳しく、怖い目だった。
もし上手く行かなかったら。
今後、フィリスさんがわたし達に向ける目は、非常に厳しいものになるだろう。或いは、機会を見て消されるかも知れない。それくらいはしかねない人だと言う事は、もう分かっている。
あの人の威名、破壊神というのは誇大でも何でも無い。
未整備のインフラというものを徹底的に破壊する。
本物の破壊神だ。
勿論人間がどうにか出来る相手では無い。
あの人の実力は、完全に人間を超越している。そして、何となく分かってきたことがある。
錬金術は。
ひょっとすると、極めていけば行くほど。
人間から乖離していくのではないのだろうか。
ぞくりと背中に悪寒が走る。
何かに見られているような気がした。
とにかく、今日はもう早々に休む事にする。明日は決戦だ。あの巨大牛より格上のネームドを相手に、やりあわなければならない。
リディーはずっと真っ青。
スールだって、意識がいつまでもつか怪しい。
天幕に入ると、倒れ込むようにして、寝込んでしまう。
何だか全身が重い。
もの凄い強烈なプレッシャーを浴び続けたから、だろうか。
フィリスさんの発している圧力は、文字通り全てを破壊する者のものだった。
あれを、どうにかして。
納得させなければならないのだ。
ルーシャが、毛布を掛けてくれているのに気付く。
ありがとうの一言も言えない。
そういえば、あの会議の時。
余裕綽々のアルトさんとは裏腹に、ルーシャも真っ青だったっけ。相当に怖かったのは確実だ。
ルーシャはまだ人間だ。
年齢も実体が定かでは無いアルトさんとは違う。
アルトさんは多分フィリスさんと同じ側の存在だと思うが。
ルーシャはまだこちら側だ。
いや、本当にそうか。
もしこのまま技術を伸ばしていけば。
いずれ、リディーが多分先に。
そして、続いてスールも。
人間では、無くなるのかも知れない。
思わず身を縮めてしまう。
文字通り、全てを破壊する者の炸裂するような圧迫感を側に覚えて。それでいながら、まだ生きている。
それが奇蹟に思えた。
明日、ネームド狩りに失敗したら。
本当に殺されるかも知れない。
ぎゅっと身を縮める。
覚悟を決める。
とにかく、絶対に。
勝たなければならなかった。
早朝。
行軍を開始する。
やはりフィリスさんは街道の整備に入り。
色々考えながら、オスカーさんは土いじりをしているようだ。
既に出来上がった土を、まだ出来ていない場所に移したり。草の成長を見て、栄養剤を足したりしているようである。
栄養剤は既に作れるだけ作って渡してしまった。
栄養剤が尽きると。
フィリスさんが持っている、リディーとスールが作るのとは比べものにならない品質のものを投入しなければならなくなる。
そうなれば、国家予算を強烈に圧迫することは確実で。
騎士団員が命を賭けてここに来ている事が、更に重く重くなる。
アダレットは今までの仕事で分かったが、はっきりいって大した国じゃない。
ラスティンも多分そうだけれど。
匪賊なんてものがまだ存在していて。
街道どうしも安全に通れない。
そんな程度の国に過ぎない。
王都は安全だが、それだって500年もかけて作り上げたものだ。それも錬金術師達が、である。
そんな錬金術師を迫害し追放する程度の国。
200年前に、あのネージュを迫害していなければ、この国はもっともっとマシになっていたはず。
そんな程度の国だ。
そもそも先代の王様からして、庭園趣味に大事な国家予算をつぎ込み、要塞化されていた王都を駄目にしたような無能。ミレイユ王女が実権を握らなければ今頃どうなっていたか分からない。
である以上、この国は脆い。
文字通り砂山の上に立てた旗のように。
だから頑張らなければならない。
リディーは青ざめているが。
スールも多分同じだろう。
ルーシャが時々、心配して声を掛けて来るが。
大丈夫と応えるしかなかった。
ほどなく、予定地点に到達する。
瞠目、というくらいだ。
事前に話を聞いているが、何でも額に巨大な第三の目があるらしく。これを活用して強烈な攻撃をしてくるらしい。
つまるところ、その目をどうにかしない限り。
多分勝ち目は無いという事だ。
岩場を利用して、布陣。
ルーシャとオイフェさんが左側に、右側にリディーとスールが。
アルトさんは、少し下がって、奇襲に備えた。或いは、交戦の様子を見て、最善のタイミングで介入するつもりかも知れない。いずれにしても、この人が手を貸してくれないと、多分勝てない。
発破は敷設したが。
それもどれだけ効果を示してくれるか。
ほどなく、見えてきた。
想像していたのと、違う。
ぞっとした。
まず足が左右に四対、八本。体は非常に長く、前に見た丘を囲むような巨大な蛇のネームドを思わせる。
口はなんと二つあり、上下に二つあるだけではなく。下の口からは、四本も舌が出ていた。
背中には巨大な背びれのようなもの。
そして噂通りの第三の目。
しかもこの目。
巨大で、しかもおぞましい程に青黒かった。
もうあれは、トカゲというよりも。
怪物だ。
生物と呼んで良い存在だとは思えない。震えが来る。足がガタガタ言っている。相手は既に此方に気付いているようで。
足を止めると。
咆哮した。
どん、と空気が押し出されて、此方に流れてくるのが分かった。咆哮だけで、辺りの空気をぶっ飛ばした、というわけだ。
そして、額の目に光が宿り始める。
まずい。
発破を敷設した地帯から遠すぎるし。
何よりも、あの距離から放たれても、多分此方を充分に蹂躙する火力がある、という自信があるのだろう。
飛び出して、レヘルンをありったけ放り投げる。
一瞬早く爆裂。
もう敷設していた発破も一緒に爆破してしまうが、これは仕方が無い。
額から放たれた光が、辺りに滅茶苦茶に拡散するが。
着弾地点で、おぞましい爆発がそれぞれ巻き起こっていた。
霧で光線の類は拡散できる。
そういう話は聞いていたが。
試してみるものだ。
だが、霧をぶち抜いて、更にもう一つ瞠目の大顎が咆哮。
それだけで、霧が全て消し飛ばされ。更に、第二射の準備も、終わっているようだった。
あれが直撃したら。
終わる。
飛び出したのはアンパサンドさんだ。
鬱陶しいと言わんばかりに、だんと、足を一本踏み降ろすオオトカゲ。それが詠唱になっていたらしく。
トカゲの周囲全域が。
いきなり吹き飛ぶようにして、巨大な錐が飛び出していた。
もう一回、踏み降ろされる足。
まずい。逃げて。叫ぶが、同時に、辺り全域が吹っ飛ばされる。
冗談じゃない。
ネームドとしても、前のと格が違いすぎる。
広域攻撃で騎士達を殆ど行動不能にした上、更に必殺の光弾を放とうとするオオトカゲだが。
その至近に、アンパサンドさんが躍り出る。今のを回避していたのか。流石という他ない。
そして、下の口から生えている舌を一本、見事に切りおとしながら着地。
猛ったトカゲが。足で払うが。それで一瞬だけ、体幹がずれる。
躍り出たフィンブル兄とマティアス。
二人とも傷だらけだ。
更に、支援するように、ルーシャの傘から、収束した光弾が放たれる。
薙ぎ払うようにして、第三の目から光を放とうとするトカゲだが。
その瞬間、その頬に、オイフェさんが拳を叩き込んでいた。それも二十発ほど、一瞬で、である。
ぐらりと揺らめき、あらぬ方向に光弾をぶっ放すトカゲ。
フィンブル兄が、第三の目にハルバードを突っ込もうとするが、吹っ飛ばされる。尻尾が擦ったのだ。あの長さで、あんなに柔軟に、しかも早く動くのか。
続けてマティアスが、リディーの支援魔術を受けて、大上段から斬り降ろすが。
軽く肌を割いただけ。
嘘だろと顔に書いたマティアスが、トカゲが五月蠅いと払った手に吹っ飛ばされて、地面でえぐい音を立ててバウンドした。
だが、その時である。空から降り注いだ無数の剣が、トカゲに突き刺さり、爆裂する。
アルトさんだ。
流石にコレには、オオトカゲも悲鳴を上げて、転がる。
燃えさかっている体を、どうにか消火しようとしているが。
それが決定的な隙になる。
ルフトを束ねて。
そして、レンプライアの欠片を塗りたくる。
条件は満たした。
使わなければ死人が出る。
敵に確実に当てられる。
敵が決定的な隙を晒す。
自分が冷静に判断出来る。
それらが、条件だ。そして満たした以上、今は使わなければならない。
突貫。
リディーが支援魔術を掛けてくれる。
更に、立ち上がろうとした瞠目の大顎の横っ面を、オイフェさんがフルパワーでの拳でぶんなぐり。
その揺れた先に残像を作って出現したアンパサンドさんが。
ナイフで目を抉りながら空中に躍り上がる。
勿論、オオトカゲはアンパサンドさんを追い。
第三の目から、光弾を放ちに掛かる。
騎士達が、さっと離れるのを見て。
やっと自分の失策に気付いたようだが遅い。
かっと口を開いた其処に、ルフトをまとめて投げ込む。
同時に、尻尾が振るわれ。
スールを直撃していた。
体がくの字にへし折れるかと思うほどの衝撃が来て。文字通り吹っ飛ばされ、三回地面でバウンドする。
受け身どころでは無く、吐血するが。
しかし、同時に起爆ワードを唱えていた。
爆裂したのは、風だ。
文字通り、そこに殺戮の竜巻が巻き起こっていた。
首から上を全て吹き飛ばされた瞠目の大顎が、しばし竿立ちになった後。
周囲に血の雨が降り注ぎ。
そして、地響きを立てながら倒れ付す。
大量の鮮血が、地面でボロぞうきんのように転がっているスールの所まで流れてきた。
激しく咳き込む。
今の一撃、多分ルーシャがかなりダメージを殺してくれたけれど、それでも全身の骨が折れたかと思った。
頭を庇うので精一杯。
何度も血を吐いていると、意識も怪しくなってくる。
ルーシャとリディーが駆けてくるのが見えた。
手当は任せるしかない。
徐々に視界が暗くなっていき。
そして、意識を手放していた。
意識を手放すと言っても、完全に気絶できる訳では無く。
闇の中に落ちるような感触だった。
何か得体が知れない沼のようなものから触手のようなものが伸びていて。
真っ暗な中に、スールを引きずり込もうとしている。
気持ちが悪いのに、漠然とそんなイメージだけが浮かんでは消えて。
そして抵抗さえ出来ない。
時々、何か周囲で叫んでいるのが聞こえるけれど。
或いは気のせいではなく、途切れがちな意識が、本当に発せられている言葉を拾っているのかも知れない。
死んだのかな。
そうも思ったけれど。
スールは多分死んだら地獄行きだ。教会で教えている地獄かは分からないけれど。ほぼ間違いないだろう。
ということは、まだ死んでいないという事だ。
笑おうとして失敗する。そんなことさえ出来ない程、意識が散漫になっていたし。
何より、自分の体の事さえも、殆ど分かる状態ではなかった。
どれくらい、時間が経っただろう。
目が覚めた。
既に、フィリスさんのアトリエに運ばれていた。
手当はされている。
ナイトサポートも使ったらしい。
まあ、当然だろう。
体中が酷く痛いけれど。
あんな攻撃をモロに食らって、死んでいないだけまだマシだ。
それに、攻撃のタイミングが遅れたら、空中で隙をわざと晒したアンパサンドさんが消し飛んでいた。
騎士団もあの錐を繰り出す魔術で半壊していたが。
まだあの時点で、死者は出ていなかった、と思いたい。
呼吸を整えるけれど。
その時、やっとリネンを着せられていることに気付く。
はあと、情けない声が漏れた。
体を動かそうとするけれど、出来ない。
痛いというのは、こういうことだと体に叩き込むようにして。全身に凄まじい鈍痛が走っている。
痛いのは我慢できるとか、そういう話では無い。
内臓の全てが。筋肉も。それに骨も。
全てが痛みを訴えていた。
そしてこれはシスターグレースに聞かされたのだけれど。
痛いというのは、体がダメージを教えてくれているのだという。
要するに、体中がバラバラになる所だったのだ。
呼吸する度に痛むので。
流石に閉口する。
しばし何とか起き上がろうと無駄な努力をして。それが無理だと言う事を結論。側を見ると。無表情のオイフェさんがいて、水を飲ませてくれた。
口の中が凄くいたい。
要するに、口の中もズタズタに切っているという事か。
歯が欠けていないだろうなと、不安になったけれど。
オイフェさんは無表情で無言なので。
何も教えてくれなかった。
「栄養剤……どうなった?」
「リディーさんが泣きながら調合していました」
「そっか……」
元々栄養剤はえげつなく難しかった。
調合の主体はリディーで、スールは勘がいる場所くらいでしか役立てていなかったけれども。
泣きながら調合と言う事は。
リディーも相応の打撃を受けていた、と言う事か。
あいつ、瞠目の大顎、強かった。
長期戦になったら、絶対に勝てなかった。
それと、ルフトを束ねて火力を上げる発想は、我ながら悪くなかった。ルフトアイゼンとでも名付けるべきだろうか。
フラムやレヘルンも同じように出来るはずである。
勿論一つずつの作成コストは大きくなるが。
置き石戦法での活用も。
更には敵に投擲しての活用でも。
大きな効果が見込めるはず。
大型フラムのピンポイントフレアつきなんて、どれだけの火力をたたき出すか、想像も出来ない。
作って見たいと思うけれど。
指先まで動かすと痛い現状では、正直どうにもならないだろう。
また、いつの間にか意識を失っていたらしく。
リディーが調合をしているのが見えた。
ルーシャが今度は手当をしてくれていた。
意識が戻ったのに気付いたようだけれど。
それについて、何か言うことは無かった。ルーシャが守ってくれたのは、言われなくても分かっていた。
「ルーシャ、助かったよ。 ありがとう」
「まだ喋っては駄目ですわ。 全身バキバキのボロボロだったのですわよ」
「そう、だろうね」
「喋らない」
口を塞がれる。
ルーシャは相当にお冠の様子だった。
これでは、或いは。今までリディーとスールがバカな事をする度に、ルーシャはいつも冷や冷やして、心臓が止まりそうになっていたのだろうか。だとしたら、本当に情けない限りだ。
飲み薬を、ゆっくり飲まされる。
外傷の方はナイトサポートでどうにかしたらしいのだけれど。
体の内部の傷などは、どうにも出来ない状態で。
お薬を飲むことで、どうにか回復させるしかないという。
排泄はその場で垂れ流しと聞いて、流石に青ざめたが。
おむつはきちんともうつけてあるとか言われて、余計にげんなりした。
恥ずかしいけれど。
見透かしたように言われる。
「こういう手当を受けるのが恥ずかしいと思うなら、もうあんな自殺行為は止める事ですのよ」
反論は許されなかった。
飲み薬は恐ろしくまずかったけれど。かなり体が楽になる。フィリスさんがわざわざ出してくれたらしい薬で。
要するに神域の薬、というわけだ。
そして、粥を食べさせられる。
まずは液体に近いものから。
ただし栄養はばっちり入っていなければならない。
結論としては、粥しかない、というわけだ。
理屈としては分かるけれど。
粥なんて食べるのは、いつぶりだろう。
リディーが栄養剤を持って、外に出て行った。
ルーシャも、それについて一緒に出ていく。オイフェさんは話してくれる方ではないので、気まずい沈黙が残ったが。
意外な人が側で話してくれた。
ツヴァイさんである。
「仕事が一段落したので、軽く話をするのです。 喋るのは禁止です」
「……」
仕事が一段落したと言いながらも、ツヴァイさんは手元のボードで、素早く色々計算を続けている。
数字に強いホムとは言え。
何というか、凄い経験を積んでいるというのが一目で分かる。
日常的に数字を徹底的に管理して。
嫌と言うほど数字を見続けている、という感じだ。
それでいながら、数字を処理するのを嫌がっていないので。恐らくは、数字そのものが好きなのだろう。
戦いの後の事を話してくれる。
かなり大きな深核が採れたということ。
騎士団員や傭兵には重傷者も出たが、一番の重傷がスールだったということ。幸いなことに、手足を失ったり、引退に追い込まれた人もいなかったそうだ。
それで、ちょっとだけほっとした。
倒したネームドの死骸は、何等分かにしてやっと運び込む事が出来たほどで。
もしも騎士団だけで戦っていたら、どれだけ損害が出たかと、キホーティスさんは青ざめていたそうだ。
今までそれほど大きな被害を出していなかったネームドだったのだが。
それは運が良かっただけ。
実際には、もしまともに隊商などが襲われていたら壊滅は免れず。
討伐の優先順位を低めにしていたのは、騎士団の落ち度だったと、キホーティスさんが悔やんでいたらしい。
確かにおぞましい強さだったが。
そもそも格下の黒金の大角が放置されていた事からも。
ネームドの駆除なんか、とても手が回っていないことが分かる。
騎士団の損耗率から考えても、もっと危険な相手から優先しているのが分かるので。
責める事なんて、とても出来なかった。
「お姉ちゃんも、前は無理ばっかりしていたのです。 その度にイルメリアさんが泣いたりしていたのです。 リア姉も、どんどん人間離れしていくお姉ちゃんに、心を痛めていたのです」
「……」
「今はゆっくり休むのです。 数日で動けるようになるので、そうなったらその分は働けば良いのです」
ツヴァイさんはそれだけ言うと。
また仕事に戻った。
見せてもらってはいないのだけれど、このアトリエには巨大なコンテナまで入っているらしく。
時々、数人の手練れが中に入っては。
荷車を使って、大量の物資を搬出していく。
うちのアトリエよりも、積載量は相当に多いだろう。
そう思っていたが。
山を丸ごと幾つも飲み込んだとかいう話を聞かされて。
真顔にならざるを得なかった。
それはそうだ。
まさかそれほどとは。
そもそも、ハンカチのように折りたためる時点で色々凄いのに。
想像を絶する世界である。
言われたままゆっくり休み。
薬も飲んでいる内に、痛みも激減していった。ただし、痛い事には変わりは無く。もっと酷い状態になっていただろうルーシャのことを思うと、心が痛んだ。
喋っても良いと言われたのは三日目からだったが。
喋る度に咳き込んだので、リディーを心配させた。
四日目には半身を起こして、排泄は自分で処理して良いと言われ。
五日目からは、歩いて良いと言われた。
まだ病み上がりだが、アトリエを出て外に出ると。もう草を植えていた辺りには低木が生え始めていた。
成長が早い植物を使っているらしい。
急ぐ場合は、余所から木を植え替える事もあるらしいが。
そういう事をすると、土にも木にも良くないという話を、働いている人夫達に、オスカーさんがしていた。
ともかく、今日から少しずつ、寝ていた分を取り戻していかなければならない。
まだ、この戦略事業。
終わってはいないのだから。
4、暗雲
街の周囲を緑化し。
街道の緑化を開始した時点で、パイモンさんと、もう一人若い錬金術師が来た。多分リディーとスールより先に、アトリエランク制度に参加した人だろう。それと入れ違いに、ルーシャと、リディーとスールが戻る。
あの若い人はともかくとして。
パイモンさんは、多分ルーシャとリディーとスールをあわせたくらいは強いはずで。
そう考えてみると、多分トレードとしては丁度良い感触だろう。
それにあわせて、騎士や傭兵も、二十人ほどが入れ替わるようだった。
確かに此処に何ヶ月も貼り付きで仕事をするのはぞっとしない。
深核は少しだけ分けて貰ったけれど。
それだけだった。
帰りはしばし無言で歩いたが。
王都側の森に入ってから、ようやく口を開く。
流石にスールも、もう外が如何に危ないかは、よく分かっているし。
ハンドサインもしっかり理解した。
だから、安全圏も、きちんと肌で理解している。
「そういえばルーシャ、Dランクの試験って難しかったの?」
「……あまり思い出したくありませんわ。 今Cランクの試験をしていますけれども、それより難しいかも」
「え……」
「恐らくですけれども、Dランクがふるいになっているのですわ。 突破出来ない人間には、何をやっても無理というラインでしょう。 わたくしが突破出来たのは、運が良かっただけですわよ」
そうか。
そんなに難しいのか。
今Eランクだから、その内Dランクの試験は受ける事になる。
覚悟は決めておいた方が良いだろう。
次に入る絵についても聞いてみるけれど。
それについては、教えてくれなかった。
まあ、試験にならなくなってしまうだろうし、それはそうか。
空が曇ってきた。
一緒に帰る部隊を率いていた騎士オリアスさんが、駆け足を指示。
皆、少し急ぎ始める。
城門に入った頃には、少し降り始めていて。
これから本格的に降るぞと、空が自己主張していた。
解散となる。
「はー、今回も怖かった。 ヤバイ獣ばっかり最近相手にしてる気がする」
マティアスはいつも通りだ。
アンパサンドさんはしらけた目でそれを見ていたが。
やがて、一人ふらりと消えた。
フィンブル兄は、良く斬れるとハルバードを褒めてくれたが。それでも、まだ足りないとも言ってくれた。
「強いネームドの噂は聞いていたが、正直噂以上だった。 お前達も気を付けろ。 まだまだ強いネームドは上がいる筈だ」
「はいっ」
「今回も助かったよ、フィンブル兄」
「良いって事よ。 だけどな、出来れば……無理はしすぎるなよ」
ルーシャは傘を差すと、無言でオイフェさんと一緒に帰って行く。
何だか今回の事を怒っているようだったけれど。
正直返す言葉もないので。
こればかりは仕方が無かった。
後は、二人で家に帰る。
アトリエについた頃には本降りになっていて。荷車にかぶせていた油紙を、急いではたいて水を落とさなければならなかった。
そして、驚いたことに。
お父さんがいた。
お父さんはリディーとスールを陰気な目で見ると。
酒瓶を片手に、地下室に行ってしまう。
お酒を飲んでも暴力を振るったりはしないお父さんだが。
何か余程の事があったのだろうか。
最近は、殆ど飲まなくなっていたのに。
外で雷が落ちて。
思わず首をすくめる。
「ちょっと、今のすっごく近くなかった!?」
「そういえばスーちゃんが寝ている間、雨が多くなっていたんだよ凄く。 その度にオスカーさんが色々してた。 土を育てるには、適度な水が必要だとかで、水が入り込みすぎないようにとかって。 フィリスさんと協力して何かしていたよ」
「へえ……」
「雷もドッカンドッカン落ちてた。 遠くの方、まるでドラゴンが空からブレス吐いてるみたいに、雷がどかどか落ちてたよ」
そうか。
それはさぞや恐ろしい光景だった事だろう。
生唾を飲み込むと。
とりあえず、もう普通のものを食べて良いと言われているので。普通にリディーが料理してくれた食事を口に入れる。
しばし休んでいると。
アトリエの戸がノックされた。
今、別れたばかりのアンパサンドさんだった。
「あれ、アンパサンドさん。 どうしたの?」
「どうもこうもないのです。 二人とも、少し急ぎの用事なのです。 まったく、片方は病み上がりだというのに」
苛立っている様子のアンパサンドさんに、リディーがひっと小さな声を上げる。
まあ、この人は元々闇が深いし。
仕方が無いと言えば仕方が無いのか。
すぐに来いと言われるので、一緒にお城に向かう。
雨は激しくなるばかりで。
傘を差していても、外には出たくない状況だったけれど。
わざわざ呼ばれたと言うことは。
何かあった、と言う事だろう。
お城にはイル師匠が先に来ていて。
遅い、と文句を言われた。
流石にコレばかりは仕方が無いと、アンパサンドさんが庇ってはくれたけれど。師匠はあまり機嫌が良くない。
或いはイル師匠も、急に呼び出されたのか。
いつも納品を受けてくれるモノクロームのホムが来て。
応接室らしい場所に案内してくれる。
傘は預けたが。
其処には、アルトさんも来ていた。
むっとした様子のイル師匠と。
苦笑いしている様子のアルトさん。
てか、アルトさんは確か現場に行っていたはずだけれど。どうして此処にいるのか。
「僕も呼ばれてね。 手練れと交代して戻ってきたんだよ」
「アルトさん並みの手練れですか!?」
「そういう事」
ぞっとしたが。
そんな人がいる事よりも。それよりも先に、まず此処に集まっている面子が問題だ。イル師匠が来ていると言う事は、ロクな事が起きていない事を意味しているからである。
ほどなく、姿を見せたのは。
頭のはげ上がった、ヒト族の偉そうな人だった。多分階級章からして大臣だとは思う。
「いや、すまないね。 君達に急ぎで頼みたい事がある」
「ブライズウェストね」
「ああ、その通りだ。 獣が集まり始めているから、駆除と調査をお願いしたい。 それと、出来れば地図も作ってきて欲しいのだが……」
「分かったわ」
話が見えない。
大臣が行った後、イル師匠が話してくれる。
「ここのところの雷雨、ブライズウェストが発生源なのよ。 何かあってからでは遅いから、調査を頼みたいというのでしょうね。 手練ればかり集めて」
「あ、あの私達は」
「おまけ」
「……」
涙目になるリディー。
それよりもだ、気になることがある。地図を作るとはどういうことか。
ブライズウェストは確かあの雷神ファルギオルとの決戦場になった土地の筈。
どうして地図がない。
スールの疑問を先読みしたように、イル師匠が言う。
「危険すぎて踏み込めないのよ。 最近知り合いの手練れが、住んでいる大型のネームドはあらかた駆除してきたけれど。 それでも騎士団には苦手意識があるんでしょうね」
「それで僕達と精鋭を少しだけ派遣して、正確な地図や、獣の数を調べたいという所なんだろう」
アルトさんが肩をすくめる。
ああ、なんだろう。
また、終わった感が凄い。
アンパサンドさんは来てくれる。マティアスも来てくれるらしい。
フィンブルさんには、悪いけれどひとっ走りして、手助けを頼むか。後は、ちょっと手持ちが暖かいから。頼みたい人がいる。
「ねえリディー。 あのさ、今お金があるから、ドロッセルさんに声かけられないかな」
「……ちょっと相談してみた方が良いかもね。 雇えそうなら声は掛けて来る」
「スーちゃんフィンブル兄に声かけてくるから、そっちはお願い」
「それじゃあ、一刻後に城門で集合ね。 相手が無理なようだったら、諦めてさっさと行くわよ」
忙しい話だが、仕方が無い。
兎も角やるしかない。
生きて帰るためにも、準備は可能な限りしなければならないが。
それでも生きて帰れるかどうか。
ただイル師匠が一緒にいるのは嬉しい。かなり心強い。アルトさんは得体がしれないけれど。
しかし、考えてみれば、イル師匠だってどうせ何か目的があってリディーとスールに近付いているのだ。
信用しすぎるのは、危険か。
いずれにしても、今は目の前の危機を乗り切ることを考えなければならない。
すぐに二手に分かれて動く。
今度こそ。
生きては帰れないかも知れない。
(続)
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