一週間のサバイバル

 

序、地獄の始まり

 

時々騎士団が大規模な出動をしているのは、リディーも知っていた。最近はそれに同道する事もあった。

今回は騎士六人、従騎士二十人、傭兵四十人に二頭立て馬車四台という大所帯で。

一週間、獣を徹底的に狩る。

そんな過酷な任務だ。

そしてこれがアトリエランク昇格の試験その一でもある。

リディーとスールがセット扱いとは言え。

昇格のためにこれだけの騎士が動くのだ。

勿論試験のためでもあるが、大事な駆除作戦も兼ねている。

騎士達にしてみれば、昇格試験の方がついで。

此方は、騎士達の都合に合わせなければならない。

スールは相変わらず少し空気が悪い。

リディーとあまり目を合わせてくれない。

アンパサンドさんは、それを冷静に見て取ったようだが。

問題行動を起こすまでは、何も言うつもりはないようだった。

そもそも今回作戦指揮を執るのは、騎士団の方。

前にネームドと戦った時に出てきた人とは違う、口ひげを立派に蓄えた男性のヒト族騎士である。

アダレットでは、魔族騎士が主力となる事が多いので。

むしろヒト族騎士の方が珍しかったりする。

アンパサンドさんのようなホムの騎士は流石に例外中の例外としても。

ざっと見た中で、騎士の上層部は魔族が多く。

獣人族がその次に多いようだった。

ただ、今の団長と副団長はともにヒト族だという話だし。

この辺りは実力主義の結果なのだろう。

荷車のチェックを終える。

アンパサンドさんと、マティアスさん、フィンブルさんに声を掛けて、軽く話をする。

既にナックルガードは全員に配り終えてある。

更に、今回心強いことに、イル師匠のメイドであるアリスさんが来てくれている。

この人の実力は折り紙付きだ。

ちょっと無機質で怖いところもあるけれど。

戦いで、これ以上頼りになる人も、あまり思いつかなかった。

「ハンドサインはいつも通りで大丈夫ですか?」

「対人戦が想定される場合は切り替えたりするのですけれども、今回に関しては問題ないのです」

「分かりました。 スーちゃん、大丈夫?」

「うん」

スールは相変わらず対応が冷たいが。

少し拗らせている仲を、流石に戦場にまで持ち込むほど馬鹿では無いと思いたい。

そんな事したらアンパサンドさんに蹴り殺されかねないし。

何より多くの騎士や傭兵の命を危険にさらすことになる。

獣が如何にヤバイかは。

今までの討伐任務で。

リディーもスールも思い知らされているのだ。

一度城門を出て。

其処で、今回の指揮をとるお髭の騎士が自己紹介。

「あーあー。 我が輩はキホーティス三世である。 名誉な事に代々アダレット王家に仕える騎士の家系である。 以降よろしゅう」

見た目は尊大そうだが。

話しぶりからして、そこまで嫌な人ではなさそうだ。

それだけはまあ良いとするべきか。

それから、今回の作戦について説明を受ける。

まず街道を進み、途中に見かける獣を駆除。

大沼沢地帯に出る。

此処が非常に厄介で。

逃げ込んだ匪賊が確実に死ぬと言われている、凶暴な獣の住処と化しているという。

「沼地はぱっと見で分からない事も多く、しかも獣が潜んでいる場合、踏み込んだらまず助からない。 気を付けて進んで欲しい。 騎士や従騎士の中にいる魔術を使える者が、沼地の位置を特定はするが、それも絶対では無い。 その魔術を誤魔化してくる獣もいるのだ」

「予想以上に危なそうだね……」

「うん」

スールの反応は蛋白だ。

リディーは何かしてしまっただろうか。

ショックは少し受けているが。

しかしながら、ともかくだ。

連携して戦わないと。

死者を出してしまう。

「錬金術師殿には、沼地に片っ端から発破を叩き込んでいただきたい。 この沼地で大型化した獣が、ネームドとなって近隣の街を襲うケースが今までに何度も起きている。 今回はそれを事前に防ぐための戦略事業である。 よろしいだろうか」

「はいっ!」

「わかりましたあ」

「ふむ、とにかく頼むであるぞ」

キホーティスさんが、前進、早足を指示。

部隊が進み始める。

この間の対ネームド戦以来の規模だ。

しかも今回は錬金術師が二人しかいない。

アリスさんがいてはくれるけれども。

ネームドに襲われたらどうなるか。

ネームドはとにかくとんでもなかった。

あんなのとは、まだまともにやりあいたくない、というのが本音だ。もしも出てきたら、どうすればいいのだろう。

対応出来なければ、大勢殺される。勿論、最悪の場合全滅という可能性も出てくるだろう。

それだけは、絶対に避けなければならない。

森を抜けると、馬車を守るように隊列を展開。街道を少しはずれて進み始める。この辺りの街道は森で守られていないため、どの道剥き出しである。それならば、街道を使う方がまだ安全な、商人などに譲る。

そういう発想なのだろう。

騎士の家系と言っていたが。

この辺りは、何というか。

毛並みの良さを感じさせる。

口だけ良いことを言っていても仕方が無いが。

きちんと実行しているのだから、立派だと言えるだろう。

途中で獣が姿を見せるが、数の暴力で蹂躙。

流石に小物は、錬金術師がわざわざでなくても、これだけの戦力が揃っていればどうにでもなる。

また獣の腕輪は参加した騎士分の作成が済んでおり。

渡して使って貰っている。

いずれも非常に好評で。

騎士達の中からは、文句を言う者は出なかった。

良かった、と思うけれど。

スールは相変わらず無言で。

むしろ無関心にさえ思えた。

それがとても不安だ。

少し前まで、何とか上手くなろうと必死になっていたのに。

その熱意を、何処かに置き忘れてしまったかのようである。

才覚の差。

イル師匠の話していた、才覚の性質の違い。

それで苦しんでいるのだろうか。

でも、リディーだって才能が欲しくて手に入れたわけでは無いし。

文句を言われてもこまる、というのが本音だ。

いずれにしても、ナックルガードの常時体力回復もあり。

アリスさんに鍛えられていたこともある。

ずっと早足で行軍していた騎士団にも。

リディーはついていけるようになっていた。

これは嬉しい。

貧弱体質はリディーの悩みの種の一つだったから。

一つでも問題を改善出来たのは。

それは喜ばなければならないことだ。

王都からは街道が何本か延びているが。

その中で緑化されているのは、ラスティンにつながる一本だけ。

それ以外の全ては、森に守られていない。

そして、やはりというかなんというか。

最初に見えてきた街も。

森に守られて何ていなかった。

一度、此処で休憩にする。

干涸らびた畑だなあと、悲しい思いをしながら見ているが。

そもそも街の中ですら安全では無いのである。

畑仕事さえ命がけで。

税金どころでは無いのだろうなと言うのは、見ていて一目で分かった。

こんなのは、勘が鋭くなくても分かる。

キホーティスさんは、何人かの騎士と一緒に、街の長老の所に話しに行き。

そして戻ってきた。

「寄り道は無し。 この近辺に大型の獣、もしくは群れはでていない。 そのまま次の街へ向かう」

「キャンプ−、片付けーい」

副官らしい騎士が声を張り上げ。

いそいそと作業が進められる。

恨みがましい目で見ている長老。

待ってと声を掛けたくなる。

あの様子では、大物はいないにしても、街を脅かすレベルの小物の獣は、たくさんいるはずだ。

いちいち駆除していられない、というのだろうか。

そういう奴らは、大戦力が来たのをみて、距離をとって様子を見ているだろうし。

追いかけて殺すのは手間だとでもいうのか。

それが騎士のあり方なのだろうか。

最初見直したのに。

見下げ果てそうになる。

不意に、手を引かれた。

アンパサンドさんだった。

「仕方が無いのです。 今周囲にどういう獣がいるかは、騎士隊長もしっかり把握しているのです。 騎士団は極端な実力主義で、一部の例外を除くと、バカは入団できないのです」

「だったら何故!」

「荒野には幾らでも湧く程度の獣だからなのです。 殺しても、すぐに次が湧いてくるだけなのです。 此処にずっと関わっている間に、沼地では獣が巨大に成長している可能性があるのです」

ぐっと唇を噛む。

納得がいろいろいかないけれど。

理由があるのは、何となく分かった。

それと、バカという言葉に悪意があったので、何となくそっとマティアスさんの方を見たが。

やっぱり真顔になっていた。

まあそうだろう。

捨て扶持で騎士団に地位を貰っていると聞いている。

騎士団長達に稽古はつけて貰っているらしいが。

王族だから騎士一位になり。

実力主義社会の中で良い道具を貰い。

そんな恵まれた状況の中で。

怖いだの嫌だのぶちぶち文句を言っている。

それは、騎士団の中でも嫌われるか。

ただ、その辺りは、リディーにも分かるような気がしてきている。

リディーも、今スールと似たような理由で関係がこじれてきているからだ。

リディーだって才能が欲しかったわけじゃない。

スールと格差のある才能なんて欲しく無かった。

キャンプをたたみ終えると、また早足で進み始める。一部の部隊が後方に残る。その部隊には、魔族の騎士が残っていた。

魔術で姿を隠して、伏兵になっている。

なるほど、一応の処置はそれでもして行く、と言う事か。

見下げ果てそうになった自分を恥じる。

そして、次の街にたどり着いたころには。

残っていた部隊は追いついてきていた。

彼らはそれなりの数の獲物を荷車に載せていて。次の街で食事にする。肉は殆ど兎だったけれど。

基本的に荒野に住んでいる兎はみんな筋肉がムキムキで。

非常に堅い。

分厚い王都の城壁の内側で買われている家畜や野菜と違って。

過剰に逞しすぎるのだ。

兎でさえ、子供を殺す事があるという話だが。

外に出て、実物を見て納得がいった。

額から生えている鋭い一本角は人間を突き殺すのに充分だし。

その瞬発力も凄まじい。

なお角には強い魔力があるようで。

分けて貰ったので、少し嬉しい。

いずれ使い路があるだろう。荷車に乗せておく。

また、騎士隊長が、長老と話してきたようだった。

その間に、アンパサンドさんが、フィンブルさんも含めて話をしてくれる。

「現在、騎士団には騎士団長、副騎士団長の下に、八人の騎士隊長がいて、あのキホーティス氏は現時点でヒト族としては唯一の騎士隊長なのです。 現在47歳とヒト族で前線に立つには限界に近い年齢ながら、重ねてきた戦歴、経験に裏打ちされた剣の技、いずれも実力主義の騎士団で恥ずかしくないと言われる腕前なのです。 ただし年齢が年齢なので、恐らく数年以内には地位を退くとも言われているのです」

「他の七人の隊長はみんな魔族なの?」

「魔族が五人、獣人族が二人なのです。 魔族は兎に角貴重な存在なので、騎士団でも大事にしているのです。 それに魔族達は権力欲がとても薄く、権力を持ってしがらみを持つ立場になる事を好まないようなのです」

「ふうん……」

無意味に権力ばかり欲しがるヒト族とは対照的だな、とリディーは思う。

スールはうつむき気味に話を聞いていて。

いつもの興味津々の様子は殆ど無い。

フィンブルさんが心配して何度か声を掛けたが。

大丈夫、と応じるばかりだった。

アンパサンドさんは何も言わない。

ただこの様子だと、スールが何か失敗した場合、何をするか分からない。沼地に蹴り込むくらいの事はしかねない。

ひやひやする。

アリスさんは、自主的に見張りに立ってくれていて。

見張りをしながらも、自分の愛剣らしい何だかものすごく禍々しい剣を手入れしていた。

あれは多分、生き血とかを啜ってパワーアップする剣に違いない。

見ているだけでぞくぞくする。

それにしても、騎士隊長が副官達と何か話し合いをしているが。

長引いている。

どうしたのだろう。

「王子」

「俺様が行っても聞かせてくれねーよ。 俺様が騎士団で何て呼ばれてるか知ってるだろ、アン」

「穀潰し、騎士団の恥さらし、姉に才能を全て吸い取られた役立たず、権力狙いのアホでさえ寄ってこない。などです」

「全部解説しないでもいいだろ! ……でもその通りだ。 だから、俺様に声を掛けられても困る」

「はあ。 ならば仕方が無いのです」

手を引かれ、リディーは一緒に騎士隊長達の所に行く。

騎士三位のアンパサンドさんだけなら、この会話に混じる資格は無いが。

今アトリエランク制度に参加している錬金術師のリディーが混じれば話は違ってくる、と言う事だ。

「うん、如何為された、錬金術師殿」

「随分話し合いが長引いているようですので」

「おお、心配させてしまったか。 実は、隣の街との連絡が数日前から途絶えているという話でな」

「!」

流石に慌てるが。

キホーティスさんは咳払いした。

「この荒野にある街では、珍しい話では無い。 今、一応念のため、快足を自慢にする部下に偵察に行かせている。 もしもまずいようなら、駆け足で救援に向かう。 今のうちに休んでおいて欲しい」

「分かりました」

そういうのであれば、仕方が無い。

慌てて敵の罠に掛かったり。

急いで駆けつけても、何も無かったりでは。

それこそくたびれ損である。

しばしして、伝令が戻ってくる。

騎士団が、第二戦速、を指示。

急いで動き出した。

第二戦速は、駆け足で。

戦闘時の全力疾走の次の速度だ。つまり、何かあったという事である。

嫌な予感しかしない。

そして、その予感は。

現地で適中していた。

 

1、荒野で暮らすと言うこと

 

それは、もはや元が何の生物か分からなかった。

分かるのは、いにしえの伝承に出てくるヒドラのように、首がたくさんあって。

蛇のようであり蚯蚓のようであり。

それでいながら体の分岐は滅茶苦茶で。

文字通り丘を丸ごととぐろを巻くほど巨大で。

傷ついているのにもかかわらず。街に火球を叩き込み。

弱々しいシールドが火球を弾くのを見ながら。

突入のタイミングを計っている、と言う事だった。

「ネームド、百股の火舌だ……!」

戦慄の声が上がる。

またネームドか。

前に戦った驀進の多眼という猪のネームドよりも、一回りどころか、とんでもなくでかい。

大きければ強いと言うことも無いだろうが。

その背中に生えている無数の棘や。

自分を隠すつもりさえない派手な斑模様からも。

あの存在に天敵などは存在せず。

誰に見つかろうが気にさえしない。

そういう圧倒的な自信が見て取れた。

ただし、見た印象ではやはり相当に傷ついている。

事前に何かと交戦したのだろうか。

だとしたら錬金術師だろうか。

わずかに悩んだが、即時で判断する。

「総員街に突入、シールドを張れ! 確か近所で駆除作戦を実施中の錬金術師殿がいるはずだ! その到着まで持ち堪える!」

「はっ!」

騎士達が隊列を組み直すと、傭兵達もろとも、街へと突入を開始する。

老朽化した城壁は今にも倒壊寸前。

獣よけのシールドも、撃ち抜かれる寸前だ。

こういう街にも、一応獣よけの城壁はあるのだが。

良くてシールドがあるくらい。

酷い場合は石を積んだだけだ。

街には年老いたヒト族の魔術師が一人いて、必死にシールドを張っていたが。

すぐに騎士団員達が、それに倣ってシールドを張る。

無言のままスールが、発破を手にしたので。

慌ててその手を掴む。

「待ってスーちゃん! レンプライアの欠片使うつもり!?」

「そうだけど」

「駄目だよっ!」

「じゃああのバケモノにどうやって致命打を与えるの」

声が詰まる。

また、相手があからさまに抵抗能力を測るためだけに、火球を放ってくる。

それだけで、街が覆い尽くされそうな巨大さで。

魔術師がついに限界になったらしく、倒れる。

騎士団員や傭兵達がシールドを張り直すが。

相手は余裕綽々だ。

街を襲って人間を喰らい。

傷を癒やすつもりなのだろう。

「彼奴にダメージを与えた錬金術師が来るって話だし、もう少し様子を見てみよう」

「そんなの……」

「お願い、もう少しで良いから……」

「……っ。 勝手にすれば」

アンパサンドさんがゴミでも見るような目で此方を見ていたが。

スールはついっと視線を背け。

リディーは申し訳なくて、アンパサンドさんの顔を見られなかった。

アンパサンドさんは、申し出る。

「もう少ししたら、自分がでるのです」

「君の話は聞いているが、いくら何でも無理だ。 あの大きさだぞ」

「何ら問題は無いのです」

「……時間を稼いでくれるというのなら、それも有り難いが……」

ぐわんと、凄い音がした。

シールドがいきなり強くなったことに巨大蛇が気付いたのか。

いきなり、川くらいもある尻尾を降り下ろしてきたのだ。

尻尾は七つにも八つにも分かれていて。

街の周囲にひびが入る。

ひいっと、悲痛な声が周囲に轟く。

獲物の様子はどんなかなと、ネームドが覗き込んでくるが。

その顔には、無数の目玉がついており。

その目玉は、いずれもが蛇のものとは違い。

人間の眼球に酷似していた。

そして、街の至近距離で、口を開けたネームドが。

一斉射撃を叩き込もうとして来た瞬間。

それが起きる。

巨大ネームドの全身が、一撃で爆発炎上。

更に岩がせり上がり、ネームドの全身を前後左右から押し潰したのである。

悲鳴を上げながら、もがくネームドだが。

リディーは見た。

今の恐怖の一撃は。

たった一本の矢が引き起こした。

起点となったのは矢一本。

それであの火力、と言う事だ。

「ふう、間に合った。 お待たせー」

ぱたぱた手を振っている姿が、丘の向こうから歩いて来る。

その人が、今のをやった犯人に違いない。

そして、瀕死のネームドが、まだ動く体を、無理矢理ひねって其方に向けようとしたときには。

その人は跳んでいた。

空中で矢を引き番えると。

放つ。

今度は雷撃と烈風が、巨大ネームドの全身を情けも容赦もなく蹂躙。

悲鳴さえ上げる余裕も無く。

その体は骨になっていた。

流石にこれでは、ネームドでもどうしようもない。

半ば岩に押し潰され。

そして骨にされてしまったネームドの墓標の側に降り立つと。そのもはや人外としか思えない存在。

恐らく錬金術師である人は、ゆっくり此方に歩み寄ってきた。

「数日前からこの街近辺でこのネームドの目撃報告があって、危険だから近付かないように、外出もしないようにと連絡はしておいたんです。 見つけたのがついさっきで、退治しきれずに街の近くにやってしまって申し訳ありません」

「い、いや。 流石は三傑が一角、フィリス=ミストルート。 恐るべき手際だ……」

三傑。

となると、この人が。

あのイル師匠と並ぶ最強の錬金術師の一角か。

更に言えば、名前からして。

あの恥ずかしい名前のお店を開いているリアーネさんの、自慢の妹なのだろう。

見た感じでは、多少背は低いけれど、極めて健康的な背格好である。イル師匠はちょっと心配なくらい痩せているし小さいけれど。フィリスさんは多少小柄なくらいで、極めて健康的な体であると一目で分かる。

「ともあれ助かった。 このまま交戦していたら、どれだけの被害を出していたか」

「それなら大丈夫ですよ。 実は最初の交戦時に、爆弾も仕込んでおいたんです。 とはいっても暗黒水って呼ばれる超猛毒を、任意で体内に拡散させるものだったんですけれどね。 もし何処かに逃げ込まれて見つからないようだったら、それで殺してしまうつもりでした」

「そ、そうか。 流石ですな……ハハハ」

「うふふ。 それでは死体は引き取りますので、また」

可愛く手を振ると、フィリスさんはてきぱきと殺したネームドの処理を始める。

どこから出てきたのか、十人以上の屈強な傭兵が、その作業を手伝い始める。手際よく敵の残った部分を解体し、回収している様子だ。

いずれにしても、これでもうやる事はないか。

流石に今の戦いは想定外だったのだろう。

キホーティスさんは、予定を変更して今日の残りは休む事にし。

此処で全員を休憩させる。

第二戦速で走ってかなり疲れているし。

妥当な判断だろう。

そして、見ていると。

みるみるうちに、山をも取り囲む巨体だったネームドの残骸が消えていく。

まるで、何だろう。

驚天の奇蹟だ。

いや、錬金術そのものが、驚天の奇蹟を引き起こす技術だけれども。

それでも次元が違いすぎる。

多分イル師匠もあれと同じレベルの事が出来るのだろうけれど。

いずれにしても、ちょっと桁外れ過ぎる。

矢一本で、普通の魔術師だったら数日がかりで詠唱するような特大魔術を複数同時発動させ。

それを二回連続で放って、汗一つ掻いていない。

跳躍にしても異次元だった。

身体能力を極限まで上げているのだろうけれど、教会の屋根くらいまでは普通に跳んでいた筈である。

あれが。

三傑の実力か。

しかもあの様子では、本気なんてまるで出していまい。

イル師匠がもうAランクのアトリエになっていると言う話だったけれど、それもまた当然だと思うし。

本気になられたら。

一体どれだけの事を成し遂げられるのか、想像もできない。

休んでいる間。

マティアスさんに言われる。

「すごかったな今の……錬金術師ってのは、神々か何かの眷属か?」

「マティアスさん、女の人大好きですよね。 フィリスさん結構綺麗な……どちらかというと可愛い人でしたけれど、口説こうとか思わないんですか?」

「……ゴメン無理。 怖すぎる。 姉貴と同じか、それ以上の怖さを感じる」

「はあ」

なるほど、一応相手を見る目はあるというわけだ。

猛獣を口説こうとして、ぶちっと踏みつぶされるような愚は犯さないというわけで。

ましてやフィリスさんがあのリアーネさんの妹さんだとすると。

愛がもの凄く重いお姉さんがついてくる事もほぼ確定である。

あのお姉さんは先にアダレットで活動しているわけで。

バカ王子の話は当然聞いているだろうし。

妹を守るためには手段も選びそうにない。

とにかく物件としては重かろう。

それになんとなくだけれども。

はっきりいって、アダレットが総力を挙げても。今の戦いの様子を見る限り、フィリスさんに勝てる気がしない。

イル師匠も同じ程度の実力があるとすると。

今、三傑と呼ばれている状況を呼び込んでいるアダレットは。

余程危険な賭に出ているのではあるまいか。

雷神ファルギオルの話をこの間マティアスさんが話してくれたけれど。

それにしてもリスクが大きすぎる。

何かもっと大きな問題があるのではないだろうか。

「気付いた?」

不意に。

スールが話しかけてくる。

一瞬反応が遅れて、むっとむくれるスールだけれど。

リディーはちゃんと、遅れながらも笑顔を作った。

「う、うん、何が?」

「今の人、前に見たよ。 挨拶はしなかったけれど、城ですれ違ったこともあるかも知れない」

「よく覚えてるね。 流石スーちゃん」

「いや、そんな事はいいの。 あの人、スーちゃん達を一瞬だけ見て、それで何だか見透かしたようにしていてさ」

見透かされた。

そんな悪意みたいのは感じなかったが。

むしろ笑顔は太陽みたいだったし。

スールは、ふっと、何だか影のある笑みを浮かべる。

あれ、この子。

こんな笑い方したっけ。

ちょっとだけ。

背筋がぞくりとした。

「太陽って熱すぎて、何でもかんでも焼き尽くすって聞いた事があるよ。 あの人、その類じゃないの?」

「ま、まてまてスー。 一応三傑の噂は俺様も聞いているが、フィリスどのは彼方此方で騎士団がアンタッチャブルにしていたネームドや、危険なドラゴン、邪神までを退治してくれているって話で、多くの人が感謝しているんだ。 あんまりそういう事を言うと……白い目で見られるぞ」

「知らないよそんなの。 それに言葉飾らなくて良いよ。 白い目どころか、迫害されるんじゃないかってんでしょ」

「いや、流石にそれは被害妄想だ。 だいたいだな、むしろヤバイって噂なのは、三傑最後の……」

ぱんぱんと、手を叩く音。

キホーティスさんだった。

「皆、注目せよ。 街の被害状況を確認し、まとめた。 これより復旧部隊が到着するまで、この部隊は此処に留まる。 部隊の到着はおよそ一日後となる。 それまでは、ゆっくりするように」

「……とりあえず休むのです。 今からギスギスしていても仕方が無いのです」

「そうだな。 アンパサンドどのの言う通りだ」

フィンブルさんがなだめると、不満タラタラという雰囲気ではあったが、スールも従った。

人間の慕っている異性とは違うとしても。

やっぱりスールにとって、フィンブルさんは兄貴分として欠かせない存在なのだなと思う。

とにかく、言われたまま、復旧を専門とする部隊が到着するまで、ほぼ一日待つ。

予定は一日延びてしまったが。

そもそも物資はトラブルを想定して多めに持ってきているとかで。

不足する恐れはなかった。

 

翌日昼。

引き継ぎを終えて、街を後にする。

ますます荒野が酷くなる一方。

乾燥に強い植物が散見される事さえなくなり。

辺りは岩と、たまに川が見られるくらいの状況になっていた。

遠くには、連なる山脈。

アダレットとラスティンに明確な国境はなく。

「緩やかに所属している街」くらいでしか区別はつかないと聞いてはいるが。

これでは確かに国境どころでは無いだろう。

そんなもの維持できる状況では無い。

なにしろ重要拠点にさえ、昨日のみたいなのが押しかけてくるくらいである。アレを騎士団だけで討伐するとなると、一体どれだけの騎士が殉職することになったのか。想像もしたくない。

川に掛かっている橋は頑強で。

橋の左右には木も植えられていた。

これは川が本当に危ないから、なのだろう。

最悪の危険がある場所にだけは、徹底的な対策をしておく。

逆に言うと、一番危ないところにしか対策はできない。

その程度の事しか、今のアダレットにはできない。

そういう現実が、この橋からも見えてしまう。

橋は渡らない。

此処から川に沿って北上する。

上流に向かうのだが。

問題は、川に近付きすぎないようにする、という事である。

やはり川に住んでいる獣が危険すぎるから、というのが理由であるらしいが。

まあそれについては。

実際に川に住んでいるのが、本当に見た瞬間ヤバイと分かる獣ばかりだったので、身に染みてはいる。

黙々と行軍を続けるが。

騎士団に比べて、やはり傭兵は装備だけではなく、動きも若干雑多だ。

列を外れそうになる者が出て。

その度に騎士が慌てて引き戻していた。

休憩まで排泄の類は我慢しろ。

そんな事も飛び交っている。

確かにこんな荒野で、一人きりになったら、100%助かりっこない。それでも時々列を外れようとする傭兵が出てくるのは。

恐らくは、危険地帯を歩いていて。

悪い意味で慣れてしまうから、なのだろうか。

高い所で危険作業をするときも。

変になれてくると、命綱や、それに類する魔術を受けるのを忘れて。

落下死、と言う事態が絶えないそうだ。

人間は危険に麻痺する。

それを、実例を見て。

リディーは思い知らされていた。

これに関しては、人間四種族関係無いだろう。

上手に危険に対する感覚を麻痺させている例は、アンパサンドさんのようなケースなのだろうけれど。

あの人の場合は、色々とブチ抜けてしまっていて、とてもではないけれど真似は怖くてできない。

ほどなく、足を止めろと声が掛かる。

此処が、今回の討伐駆除場所。

グルムアディス大沼林だ。

林という割りには、殆ど木々はない。

そもそもこの土地は、グルムアディスという極めて人間に敵対的な邪神が縄張りにしていたらしく。

邪神そのものが手に負えない上。

住み着いている獣が際限なく巨大化して近辺の街を襲撃するため。

何度となくアダレットが討伐軍を組み。

その度に敗北してきたという忌まわしい土地だという。

此処で命を落とした騎士の数は百名を超えており。

戦死した王までいるそうだ。

若い頃のネージュと、先代騎士団長の活躍により、その悪夢の歴史には終止符が打たれたのだが。

それ以降も地形の関係上、此処には凶悪な獣が住み着くことが常態化し。

今回のように、定期的な駆除任務が行われる事になっている、ということだった。

早速前に出た、数名の騎士。

ヒト族の従騎士が目立った。

魔術を売りに騎士団に入った者達で。

「魔術専」と呼ばれているそうである。

騎士団というと、剣で華々しく戦う者達を想像しがちだが。

実際には優れた魔術の腕前でも、騎士団に入ることは不可能では無い。

試験の方法もかなり変わるらしく。

騎士団の隊長の中には、魔術専から隊長になっている人もいるそうだ。

ただやはりというか、騎士団は「直接戦闘力を重視する」傾向が強いらしく。

錬金術の装備などで増幅した分も込みとして。

「戦える」事が重視されるため。

後方支援の魔術しか使えない、という人材は、あまり評価されることがないというのも事実だそうである。

ともかく、その魔術専の従騎士達が、魔術を展開。

危険地帯を割り出していく。

ぽっぽっと音がしながら、朽ち果てた木が点々としている中に。

紫色に染まる場所が出てくる。

更に注意があると、キホーティス氏が言う。

「あれらは、生物の痕跡がある場所だ。 つまり何かがいたか、今現在いる場所に過ぎない」

「!」

「あれ以外にも罠になっている沼地はある。 きをつけられい!」

錬金術師殿方と、いきなり呼ばれて。

背筋が伸びる。

一つずつ、発破を放り込んで欲しいと言うのである。

スールが頷くと。

ピンポイントフレアがついている発破を、腕をくるくる回して投擲。

紫色の沼の一つに、丁度ピンポイントフレアが沼に発射される向きに、完璧に投擲して見せた。

「離れてください!」

「お、おうっ!」

直後。

沼から飛び出した、特大の巨大な蚯蚓のような生物が、見境無く発破を丸呑みにするのと。

発破が炸裂するのがほぼ同時。

沼地が大爆発し。

蚯蚓の残骸が、血と肉と一緒に辺りに降り注ぐ。

それだけじゃあない。

どうやら地下で今の沼地とつながっていたらしい沼地から、炎が噴きだし、あぶり出されたらしい蚯蚓のような生物が、火だるまになってのたうち回りながら逃げ出してくるが。

それを好機とみたらしい他の沼地の生物が。逃げ回っている蚯蚓を、ひょいひょいぱくぱくと食べてしまう。燃えているか何て関係無い様子だ。

ぞっとした。

何という魔境だ。

これでは匪賊が逃げ込んでも絶対助からないというのも納得である。

そして此処で巨大化した獣が、街を襲撃した場合、どれだけの被害を出すのかというのも。

想像したくなかった。

「お見事。 まずはさい先良し、と言う所だな」

「ええと、予定では二日ほどこの作業を続けるんですか?」

「そうなる。 獣の中には、勿論反撃を試みてくるものもいるから、錬金術師殿方は気を付けられよ」

「私はリディー、そっちは妹のスールです、キホーティスさん」

そうかそうかと、目を細めてキホーティス氏は笑う。

どうやら、やっと。

此方のことを、多少なりと認めてくれたようだった。

 

沼を順番に爆破していく内に。

少しずつ分かってくる事がある。

どうやらこの大沼地地帯。

地下で沼同士がつながっているケースだけではない。

一つの沼を爆破したら、いきなり地盤が崩落し、枯れ木が傾くようなケースまであった。つまり地下に広大な空間が存在している、ということだ。

つまるところ地盤が極めて不安定で。

危なすぎて足を踏み入れられない、という事である。

沼に引きずり込まれて食われるどころか。

いきなり足下が崩落して、砂地獄より酷い底なし沼行き、という可能性さえあるのだから。

これでは足を踏み入れられない訳である。

順番にスールに発破を投げ込んで貰い。

沼地を処理する度に、出てくる獣も駆除する。

リディーは支援専門で動くが。

いずれにしても、的確に動けているとキホーティスさんは褒めてくれた。丁度リディーとスールくらいの娘がいるらしい。この人はかなりの年配だし、遅くになってで来た子供となると、余計に可愛いのだろう。

「うちの娘もできれば騎士団に入って貰いたいのだが、中々難しくてなあ」

「その、本人が望むようにしてあげるのが、親として一番良いやり方だと思いますよ」

「……そうか」

残念そうにするキホーティスさん。

騎士団に入るのは大変だし。

何よりすごいエリートコースだ。それに関しては間違いない。

騎士団長ともなると、国の幹部。

しかも伝説的な巨人族の先代騎士団長が退いて、今はヒト族の騎士団長になっているわけで。

次代の騎士団に入れば、ヒト族でもトップを狙える可能性が高いのである。

そういう意味もあって、娘さんには騎士を目指して欲しかったのだろう。

何しろ、代々騎士の家柄、というのだから。

「準備整いました!」

「よし、次の沼、爆破! 総員備えよ!」

スールは今のところ。

口数は少ないけれど、きちんと仕事はしてくれる。

発破の投擲に関しては誰よりも正確で。

完璧にピンポイントフレアが沼に向くように投げ込んでくれている。一度も外していない。

どれだけ練習したのか。

勘があると言っても、ぶっつけでは限界がある。

スールは自分を明らかに過小評価している。

確かに投擲の技術という点で、スールに勝る人間はいるだろう。

だが錬金術師に限定すると。

此処まで見事に、しかも向きまで指定して投げられる者は、そうはいないはずだ。

次の爆破。

沼が吹き飛び。

予想もしない場所から火柱があがるが。

何も住んでいなかったのか。

単に沼地が燃やされるだけに終わった。

だがそれは、安全圏が確保されたという事も意味するし。

逆に言えば。

だからといって、敵の巣をつつかなかった、と言うわけでもない。

わずかに時間をおいて。

巣に衝撃を与えられたとでも判断したのか。

口がたくさんある兎のような生物が(しかも全部縦に裂けている)、ぬっと不愉快そうに沼の一つから顔を出した。

そしてそいつが這いだしてくると。兎のようなのは頭部だけで。全身はむしろ巨大なナメクジに似ていることが分かった。

雄叫びを上げる巨怪に。

キホーティスさんが手を降り下ろし。

先制攻撃が徹底して行われた。

 

2、掃討作戦

 

荒野を掘り返し。

土砂で安全を確保した沼地を外側から埋めていく。

しかしながら、リディーが見たところ、あまり意味がないように思える。

そもこの広大な沼地。

恐らくだけれども。

水がどこかしらか流れ込んできている。

それがある限り。

近くの荒野から、如何に乾いた土砂をどれだけ放り込んだところで、何の意味もないと思うのである。

リディーからそう説明する。

実は、騎士団でもある程度はわかっているらしいのだが。

それでもそのどうにかする手が見つかっていないので。

仕方なく、対処療法をしているそうだ。

しかも今回は比較的上手く行っている方。

出てきた獣の駆除はできているし。

人員に死者は出ていない。

負傷者はでているが。

これは許容範囲の内だという。

とにかく、見た目が普通の足場になっている所も、沼地になっている可能性が極めて高い事もあり。

片っ端から荷車で土砂を運び。

埋め立てる。

その荷車も、噂に聞いている全自動の奴だ。

触らずに勝手に移動して。

勝手に追従し。

大量の土砂を運んでくれる。

同じ錬金術師がコレを作ったとは信じられない。

色々なタイプがあるらしいのだが。

これはアルファ商会が取り扱っている品だそうで。

地域や国によって、まるで違う形態のものが見られるそうである。もっとも、性能についてはどれも同じだとかで。

錬金術師の性質が強く出るのだそうだが。

ともかく、埋め立ての間は、危険がないかを確認し続ける。

爆破して、獣に下から奇襲される危険がないと判断された場所を埋めては行くのだが。

スールが何を思ったか、岩を投げ込んでみると。

それはあっさりずぶずぶと沈んでいく。

駄目じゃんとスールがぼやくが。

そんな事は分かっていると、騎士達も。恐らくこの作戦に初参加では無い傭兵達も、皆口をつぐんでいた。

何だこれ。

地獄か何かで行われる、亡者の強制労働か。

夕方近くに作業は一度終わり。

沼地から距離をとってキャンプにする。

余力は充分にあるが。

流石に訳が分からない姿にまで変わっている獣たちの肉を食べるのは気が引けるのか。周囲の荒野にいる兎や山羊の肉を食べる事にする。

それならば、まだ人間の食べ物に近い。

沼地で採れた肉に関しては。

殺した後は焼却処分し。

皮や牙などの使えそうなものだけは回収はしていた。

食事を終えると。

交代で休みに入る。

逆にいうと、交代で見張りもすると言う事だ。

フィンブルさんもその見張りに加わる。

アンパサンドさんも、マティアスさんもである。

「フィンブル兄、スーちゃんも」

「まだいい。 体力があっても、集中力がもたないだろ」

「やってみなければ……」

「駄目だ。 良いか、一瞬の油断で人が死ぬんだよ。 お前が死ぬなら兎も角、下手をすると他の奴もな。 訓練をきちんとしてからだ」

フィンブルさんは流石にスールの扱いがうまい。

ぐうの音もでない様子で、スールは天幕に引っ込む。

リディーは少し厚着をして(支給品のコートをちょっと分けて貰って)、キホーティスさんの所に行く。

まだ灯りが煌々とついていて。

倒した獣のサイズや、数について。明日からどうするかなどを話しあっているようだった。

「おや、錬金術師殿。 こほん、リディーどのだったな。 如何為された」

「はい。 今やっている埋め立ては対処療法で、何の解決にもなっていないと思うので、根本対策を何かできないかと思いまして」

「対策か。 今日の奮戦で信用できると判断したから話しておこう。 根本対策などと言うのはしようがないのだ」

「えっ……!?」

悔しそうに眉を下げるキホーティスさん。

ネージュがこの地にいた邪神を倒した時に。既に分かっていたことなのだという。

簡単に説明すると、この近くにある川から、地下にパイプのように水が流れ込んでいて。それがこの沼地を広範囲に拡げる要因となっていると言うのだ。

「勿論川をせき止めたり、流れを変えたりすれば或いは今の沼地をどうにか出来るかもしれない。 しかしそうなれば、今度はどこにどんな形で危険地帯が出現するか知れたものではないのだ」

「……」

「この件に関しては、アダレットに数少ないながらも関わってきてくれた錬金術師が、二百年も掛けて対策を考えてくれて、どうにもならなかったことなのだ。 結論としては、他にやる事がいくらでもあるし、今は被害を小さく演習をできるならば、その方が望ましいとして、此処が残されている」

「そ、それでは、ネームドが湧くというのは」

嘘だと、キホーティスさんは言う。

話によると、ネームド寸前まで成長した獣が確認されたことはあるそうだが。

ネージュによる掃討作戦以降。

此処から発生したネームドが、実際に街を襲った記録はないという。

逆に言うと、ネームド発生の前に「対処療法」を成功させていると言う事で。

むしろ成功例なのだそうだ。

思わず言葉を失ってしまう。

今日だって危ない場面が何度もあっただろうに。

それでも成功例で我慢するしかない。

それが荒野の現実、と言う事か。

肩を落として戻る事にする。

フィリスさんだったか。

あの人だったら、どうするのだろう。

一瞬で、沼地そのものを焼き払ってしまったのだろうか。

あの人くらいの錬金術師になるとできそうだけれど。

それでも根本的な解決にはなりそうにもない。

大きくため息をつくと。

スールがもう寝ているのを確認して、隣で眠る。

だが、スールは眠っていなかった。

「また自分だけで何かしてきた……」

「あ、ごめん……」

「何かしに行くなら声かけてよ。 それともスーちゃんなんか、声かける価値も無いって事?」

「ごめん、違うよ……違うよ」

そんな風に言われると。

悲しくなってくる。

確かに配慮が足りなかったかも知れないけれど。

でも、きっと退屈な話だと思ったのだ。

とにかく、何が起きたのかは話をしておく。

そうすると、多分そうだろうねと、スールはぼやく。

勘が鋭いスールだ。

この沼地の危険性とからくりについては。

とっくに理解していたのかも知れない。

だが、別の事も言われる。

「あのフィリスさんって人の噂聞いた?」

「いや、余り詳しくは」

「アンパサンドさんによると、通称破壊神」

「は、破壊神!?」

何その物騒な渾名。

しかも悪口では無くて、本人が受け入れている渾名だという。

何でもフィリスさんは、ラスティンでのインフラ整備で実力を示し、頭角を現した錬金術師らしく。

壊滅状態だったらラスティンのインフラを殆ど単独で整備し直し。

首都近辺の荒れ果てたインフラを復旧させ。

多数のネームドや凶暴な上級ドラゴン、邪神までをも屈服させ。

そして何より。

凄まじい破壊力で知られているとか。

つるはし1丁で岩山を崩すとかいう話がスールの口から出てきたときは、まさかあと笑いかけたが、

スールの顔は笑っていない。

引きつった。

本当、なのか。

「多分イル師匠が言っていた、鉱物の声が聞こえるってあの人のことだよ。 ラスティンのインフラを回復させる途中で、岩山を何個もつるはしだけで粉砕して、道を無理矢理作ったんだってさ。 それでついた渾名が破壊神」

「……」

「あの人なら多分どうにでもなると思うよ。 なんであの人がどうにかしないのかはよく分からないけれど。 或いは此処がアダレットで、ラスティンではないから、なのかも知れないね」

自嘲的にぼやくスール。

無言で少し考え込んでしまう。

岩山をつるはし1丁で粉砕するほどの力の持ち主となると。

確かに水脈などの流れを見きり。

岩盤を粉砕して。

沼地に水が流れ込むのを止めるのも、可能なはずだ。

それなのにどうしてフィリスさんはやろうとはしない。

何かしら理由があるのか。

それとも。

ともかく、今フィリスさんはいないし。

何より、他人任せで何かをしようとするものじゃあない。まずは自分でやってみて、駄目な場合に相談をするものだ。

そうスールにも自分にも言い聞かせ。

今日は寝ることにする。

翌日は、朝日が出る前から起きだし。

朝方の見張りをしていた人達と交代すると。

彼らが眠りに入るのを横目に、軽く体を動かして、これからの戦いに備える。全員が起きだしてからが、駆除作戦の第二段階開始だ。

キホーティスさんが、昨日より若干くだけた感じで気さくに話しかけてきたので。

スールが聞いているのを確認した上で、確認して見る。

「やはり今までいた錬金術師にも、此処をどうにかしようとした人はいたんですか?」

「ネージュ以降しばらく錬金術師にとっての冬の時代……そしてアダレットにとっても冬の時代が続いたから、その時期のことは考慮しないとして。 慌ててアダレットが錬金術師の誘致政策を徐々に開始して、先代王がそれをまた逆行させようとして、ミレイユ王女に幽閉されてと、とにかくアダレットでは政策の混乱が続いてな。 その間も、アダレットを見捨てずにいてくれた錬金術師達には苦労を掛けて、騎士団では常に頭を下げっぱなしだったと聞いている。 ネージュの件も、騎士団では皆あれほどの国家貢献者を迫害なんてとんでも無いと言う声が主流だったそうだが……」

文官と武官の対立か。

確かに、一緒にネージュと戦った先代騎士団長はカリスマだったし、当時の騎士団はそう考えて動いていただろう。

だが、逆にそれがまずかったのかも知れない。

リディーは、ちらっとだけスールを見る。

スールならこんな風に言うだろうか。

ファルギオルさえ倒したネージュが。

権力まで持ったら。

手に負えなくなると判断したのでは、と。

うっすら笑ってみせるスール。

最近加速度的に闇が増してきているが。

多分今のリディーの考えを読んだのだろう。

ちょっと怖かったけれど。

多分読みは当たっているはずだ。

「そんな混乱の中、研究を何人かの錬金術師が継続して続けてくれて。 結論として、下手に水の流れを止めたりせず、むしろ危険地帯を此処に留めておいた方が良いと言う論文が、109年前に提出されている。 それが鶴の一声となって、今まで対処療法が続いている状態だな」

「……」

「此処は街から遠いし、いずれは森で覆ってしまう予定だ。 もしも森で覆ってしまえば、獣たちも森を傷つけるような行為は避けるようになる。 ネームドですら、それに変わりはない。 ただ、街すら森で守れていない現状、此処を緑化できるのはいつになるのか、知れたものではないが……」

「そう、ですね」

言葉も無い。

各地の小さな街は、いずれも獣にさえ。そう、ネームドでさえない普通の獣にさえ脅かされ。

守る戦士の数も足りていない。

食糧さえ十分ではなく。

痩せこけた人々の姿も目立った。

そんな中、この沼地をどうして緑化なんてしていられよう。

確かに危険地帯として、街から離れた場所にあるこの沼地は、適切な場所なのかも知れないが。

それはそれで口惜しい話ではないかと、リディーは思う。

ともかく、今日も作業を開始する。

また魔術で危険地帯を調べるが。

昨日土砂で埋めた箇所がまた、何カ所か光っている。

やっぱり。

分かりきっているが、きりが無い。

同じように、ピンポイントフレアつきの発破で吹き飛ばして行くが。

出てくる獣はどいつもこいつも異形ばかり。

食用どころか。

口に入れたらどうなるか、見当もつかないほどおぞましい者達ばかりだった。

昨日開いた縄張りに、どんどん入り込んでいるのだろうけれど。

それにしてもきりが無い。

一戦ごとに少しずつ相手を引きずり出して処理を続け。

沼全員で、めぼしい反応を全て潰してしまう。

この様子だと、定期的に処理をしているのだろう。

騎士団員のうんざりした様子。

傭兵達のまた此処かよと言う顔。

それらの全てに合点がいった。

此処はむしろ。

他の荒野の危険地帯に比べると、安全な方なのだろう。

勿論錬金術師による支援があっての話ではあるのだが。

そろそろ爆弾がなくなる。

スールがそう告げてきた。

そして、予定通り、一週間+一日の行程の、折り返しが来ようとしている。それならば、もう此処に固執する必要などない。

引き上げるべきだ。

また意味のない埋め立てをし。

キャンプに引き上げて、今度は拗ねないようスールと一緒に天幕に行く。

天幕を覗くと。

其処は修羅場になっていた。

話をしていたキホーティスさんだが。

指揮を執っているときとは別人のように険しい顔をしていた。

「これでは訓練になっていません! 此処までここに住んでいる獣が弱いのはあまりにも異常すぎます!」

「とはいうが、訓練は他主導で行われてもいる。 ネームドに成長する前の獣の駆除はできたのだし、死者も出していない。 今回はこの成果で満足して引き上げるべきだと我が輩は思うがな。 何よりもう物資が足りぬ」

「物資など獣を狩ればどうにでも」

「精神論で腹は膨れんし、消耗物資は補えぬよ。 そう都合良く、丁度良い獣が出てきてくれるとでも思うのかね君は」

痛烈なものいいだ。

なおキホーティスさんに噛みついていたのは、まだ若い騎士だが。騎士である。俊英で知られる人物なのだろう。ヒト族で若くて騎士なのだから大した物だ。マティアスの場合は、アレは捨て扶持だし。

しかし、それも過大評価か。

冷静なキホーティスさんの返しの方が、どう考えても正しい。

「あの、すみません」

「取り込み中だっ!」

「非礼はよさんかっ! 相手が錬金術師殿である事を忘れたか、たわけっ!」

顔を真っ赤にした若いヒト族騎士に対して、キホーティスさんは剣に手まで掛けた。温厚そうでひょうきんそうな人なのに。

流石に青ざめて下がる若い騎士を凄まじい鋭い目で一瞥だけするキホーティスさん。

どこかで侮っていたかも知れない。

この年で前線に出ていて。

隊長までやっているヒト族騎士だ。

修羅場をくぐっていない筈も無いし。

歴戦でないはずもない。

縁故採用が通用するほどあまい世界では無いし。マティアスのような例外(王族故の捨て扶持採用)でも、冷遇されている場所だ。

実力主義が基本の騎士団においては。

衰えるという事は。

それは引退を意味しているのだろう。

「パンセル、少し下がって休んでおれ」

「……は。 すみません」

「錬金術師殿方、見苦しいところを見せたな。 まずは座られよ」

ちょっと居心地が悪いが、席に着く。

そして、挙手一番に、引き上げるべきだという話をしたのだが。

実はキホーティスさんも、その話をしていた所だった、という。

「ところが若手の跳ねっ返りが反発をしてな。 先のような口論になっていた所よ。 情けない所を見せたな」

「いえ、そんな」

「心配せずとも引き上げはすぐにでも行う。 近くの街まで戻り、後は街道沿いに首都にまで撤退する。 以上だ」

何だろう。

もやっとした。

スールが今度は挙手する。

「隊長さん、良いですか?」

「何かなスールどの」

「すっごい嫌な予感がします。 すぐに、じゃなくて即座に逃げるようにしたほうが良いと思いますよ」

「えっ」

思わず声を上げたのはリディーである。

がたりと腰を上げたのは、何人かの騎士だ。

スールの勘の鋭さについては話はしてある。

だけれど、スールは今までそんな事、リディーにも言わなかった。

何か危険を感じているのだろうか。

「前にネームド見た時の、ビリビリくる感じがするんですよ足下から。 下手すると、駐屯地丸ごとやられますよ」

「……! すぐに魔術を展開! 総員撤退準備開始!」

「急いでください」

半笑いのスールの手を引いて、すぐに天幕の外に出る。

どうして話してくれなかったのか問いただすと。

今気付いたと、しれっと言われる。

絶対嘘だ。

いや、それは違うのかも知れない。

だが、あの騎士が言っていたことは、ある意味で正しかったのか。

敵が弱すぎる。

何かおかしいと。

そしてその理由は。

既にヤバイのが潜んでいて。

そいつが獣を食い荒らしていたから、だったのではないのだろうか。

そして獣がいなくなってきている今。

そいつが狙うのなど、決まっている。

ぽんぽんぽんと、鐘が鳴らされる。この回数は、緊急時、徹底準備、の順番だ。魔術が使える騎士達が、防壁を展開しているが。

天幕の片付けが終わり、馬車への積み込みを始めている時には。

既に慌てた様子の、物資を放棄して逃げろに代わっていた。

泡を食っている騎士達。

馬車を次々進発させる。

その馬車の一つが。

真下から「何か」に食いつかれ。

地面の下に引きずり込まれた。

御者は空中に放り出されたところを、どうにかキホーティスさんが救助したが、尋常な相手じゃないと一目で分かる。

地面の下に引きずり込まれた馬車。二頭立ての馬。

丸ごと貪り喰う音が聞こえる。

急いで撤退。叫ぶキホーティスさんの声が、何処か虚しく聞こえてくる。

あの馬車には、かなりの食糧も積み込まれていたはずだ。

傭兵も騎士達も、もはや駐屯地も陣地も何も無く。

慌てて逃げ始めていた。

それでもある程度の秩序を保っていたのは確かだが。

ぺっと馬車の残骸が吐き捨てられて。

それが地面に落ちてくるのを見ると。

誰かが恐怖の絶叫を挙げ。

それが一気に全体に拡がった。

そうなると、もう騎士も傭兵もない。

どっと皆逃げ始める。

ネームドに奇襲を受けるというのは、こういうことだと。今、リディーは、知る事になった。

最後尾の馬車が、また下から襲われる。

高々と、何か巨大な手に掴まれたかのように。

馬車が空中に浮かび上がる。

食らいついているのは、あれは何だろう。

御者は必死に飛び降りたが。

悲痛な声を上げる二頭の馬ごと、馬車と荷が、丸ごと地面の下に引きずり込まれ、ばりばりと凄まじい音と一緒に食われ始めた。

何だ。

どうすればいい。

必死に頭を巡らせる。

ネームドは桁外れな生物ばかりだった。

いや、生物と呼んで良いのかさえも分からないような連中ばかりだった、というのが正しいはずだ。

いずれにしても、まともに戦おうとしてもやられるだけだ。

どうにかするしかない。

「スーちゃん、あの穴に発破、できるだけ!」

「ルフトでいい?」

「何でも良いから!」

「ふーん。 じゃあぽい」

それでも正確に、一旦足を止めると、自分達用の荷車に残っていたルフトを、馬車が引きずり込まれた穴に放り込むスール。

六つ同時に放り込まれたルフトは爆裂。

しかも穴の中という閉鎖空間だ。

充分に内部で猛威を振るったはずで。竜巻が引き起こされ、それに絶叫が重なるのが聞こえた。

その間に、逃げ遅れた傭兵達が逃げてくるが。

此方を見つけたフィンブルさんと、マティアスさんが合流してくる。

アリスさんは何をしているんだろう。

そういえば、姿が見えなかったが。

アンパサンドさんは、傭兵の撤退を支援しているのが見える。あの様子だと、最後の一人が逃げ切るまで、こっちで時間を稼ぐ必要がありそうだ。

揺れ始める。

まずい。

そう判断して、すぐに下がってと叫ぶ。フィンブルさんとスールが協力して荷車を押して、その場を離れた瞬間。

マティアスさんの至近を。

何か、すごいものが掠めていた。

ようやく、至近で見て、正体が分かった。

それは、四つ重なった、牙だ。

虫の中には、後ろに牙がついているハサミムシという種類の生物がいるけれど。多分このネームドはその超特大変異版。

がちがちと凄い音を立てている牙は。

馬の血に塗れ。

そして獲物を食い損ねたことで、猛り狂っていた。

しー。しー。

必死にマティアスさんに向けて動作する。

完全に青ざめて固まっているマティアスさんは、だらだら冷や汗を流しつつ、こくりと頷く。

多分此奴。音を頼りに攻撃を仕掛けてきている。

今のも、ルフトを投げる前の音と。

移動音を頼りに仕掛けて来ていた。

今までは、一番大きな音。

つまり馬車を狙ってきていたのに。

急に此方を狙ってきたのは、それは故だ。

傭兵達が周囲でばたばた逃げ回っているのには、ハサミムシのバケモノは見向きもしていない。

コレは恐らく、今の能動的な攻撃に対して反撃しようと思って出てきたからで。

攻撃を仕掛けるのは逆効果だ。

その瞬間。

ハサミムシの、ご自慢だろう牙の一つが、消し飛んでいた。

着地したのはアリスさんである。

無表情で。

今のも、音一つ立てなかった。

絶叫しながら、地面にもぐろうとするハサミムシから、更に牙をもう一つ持っていく。これで牙は三重になったが、そういう問題ではあるまい。

アリスさんは音も無く動きながら、更に斬り付けに掛かるが。

其処までだった。

ぐっと地面が盛り上がり、

正体を見せるハサミムシ。

どうやら、音だけでは無理と判断したのだろう。

同時に、リディーは撤退を指示。わっと逃げる。

相手が手の内を全て見せるまでは、そうするべきでは無いと判断していたのだが。

相手がしびれを先に切らしたのだ。

好機は今しか無い。

マティアスさんも、逃げ始める。

傭兵の撤退支援を終えたアンパサンドさんが此方に来るが、ステップしながら目を細めている。

何だアレは、と言いたげだ。

同じ事はリディーも言いたい。

もはや昆虫とはとても思えない姿をしたそれは。

確かにハサミムシなのではあろうが。

全身が極大まで肥大化し。

地中で暮らすためか全身がおぞましく淡く輝いており。

全身に多数の目と口があって。

そしてぶよぶよながら弾力性の高そうな皮膚と。柔軟性が高そうな体。地中でも進める多数の無茶苦茶に生えた足。

そして何より、背中にある巨大な本命らしい口と。

見た瞬間、土下座をして命乞いをしたくなるような怪物になっていた。

びりびり次元違いの魔力を感じる。

とても勝てる相手じゃない。

パイモンさんとルーシャがこの場にいて、やっとどうにかなるかという相手だ。近くにフィリスさんがいるなら、騒ぎを聞きつけて来てくれるかも知れないけれど、それにしても時間は稼がなければならない。

かちんと、短い音。

ネームドが牙を鳴らしただけ。

それだけで詠唱が完了したことを。

リディーは、上空に出現した、百を超える火球を見て知った。

瞬時に、殺意の塊に等しい火球の群れが降り注いでくる。

吹っ飛ばされる。

悲鳴を上げて、地面に叩き付けられる。

荷車が横転。

単に制圧火力をぶちまければ良い。

ハサミムシはそう思ったようで、第二射を即座に打つつもりのようだ。また、牙を鳴らそうとしているのが見える。必死に立ち上がろうとするが、マティアスさんでさえ今のでぼろぼろだ。

力が。

違いすぎる。

体勢を立て直した騎士達も、撤退の銅鑼を鳴らし続けている。

ネームド戦は想定していないし。

装備も人員も足りていない。

だから引け。

そういう判断なのだろう。

分かっているが、このまま引けば、多分此奴は近くの村とか街とかを襲って、人間を食い尽くす。

さっそく敵の至近に躍りかかっていくアンパサンドさんだが。

ハサミムシはなんと全身から二十以上のハサミ(正確には交差した棘状の骨?)を生やすと、それで一斉に地面を突き刺してきた。

初動から突き刺さるまで、流れるようにまるで隙が無い。

アンパサンドさんが舌打ちして、間合いから外れるが、追撃するようにまた無数のハサミがハサミムシの体から出現し、一旦打ち上げられた上空からアンパサンドさんを追う。いずれも回避できているが、紙一重だ。そしてハサミムシは、それを全自動で魔術制御している。早い話、アンパサンドさんを近付かせない方法を、一瞬で判断したと言う事だ。

更に、別方向から斬りかかろうとしたフィンブルさんとマティアスさんを、鬱陶しそうに尻尾を振るって、二人まとめて吹っ飛ばし。

アリスさんが二人を受け止め、数十歩分はずりさがる。

双子を守る者は。

もう何もいない。

ゆっくり向き直るハサミムシ。

背中の口が、がちん、がちんと威圧的に鳴り。

一瞬早くスールが残っていたルフトを投げつけるが。

それらは空中で、溶けるようにして消えてしまった。

冗談だろう。ぼやきたくなったが、残念ながら事実だ。空中に酸を展開したらしい。酸で作るルフトを、一瞬で溶解させるほどのものをだ。

「やるしかない……」

スールが、最後のピンポイントフレアフラムを掴むと立ち上がる。

駄目だ。

まだイル師匠の許可は得ていない。

そう諭すけれど、スールはレンプライアの欠片をフラムに塗りたくり始める。

確かに、此奴は今まで見てきたどのネームドよりも次元違いの相手だ。同じネームドでも、驀進の多眼とかと雲泥の差があると見て良いだろう。イル師匠は言った。最強クラスのネームドは、弱めのドラゴンより強い。

きっと此奴が。

多分それだ。

「駄目、スーちゃん! まだ許可が出ていないって事は、イル師匠からみても危険すぎるって事だよ!」

「じゃあ死ねっての!?」

「そうじゃなくて」

「じゃあ手は? どうやって生き残る? 前衛は近づけもしないし、もう彼奴は至近距離なんだよ」

その通りだ。

だからこそ、今は。

放り投げる。

ハサミムシがそれをかき消すが。

その時には、リディーはスールの手を引いて、走っていた。

悠然と追ってくるはさみ虫。

併走して攻撃を仕掛けようとするアンパサンドさんには見向きもしない。メインアタッカーがリディーとスールだと見きっているのだ。アンパサンドさんの戦闘スタイルも、だろう。

其処に相手の油断がある。

詠唱をしながら、走る。

アリスさんがしかけるが。

ハサミムシが瞬時に展開した、およそ三十枚はあるシールドが、アリスさんの剣撃すら弾き返した。

こっちも当然警戒しているか。

だったら。

跳躍し、頭上からハルバードを投げつけるフィンブルさん。

面倒くさそうに尻尾を振るって払い落とすハサミムシだが。

その瞬間。

マティアスさんが、走り。

その体の一部を、文字通り抉り跳ばしていた。

ナックルガードの完成により。

魔術強化が出来るようになって。

身体能力強化と。

更に速度強化を同時に掛け。

さっきとは別物の動きになって貰ったのである。

思わず揺らいだハサミムシに、反転してアリスさんが斬りかかる。

全周囲にシールドを張るハサミムシだが、それが却ってまずい。体勢を立て直した騎士団が、此方の様子を確認したか、支援に戻ってきたのである。

「総員放て! 足止めしろ!」

無数の矢と魔術が、全周展開して薄くなっているシールドを乱打し、一部が貫通する。

五月蠅そうに反撃に出るハサミムシに、決定打となる一撃が突き刺さる。

上空から降り注いだ矢だ。

そう、あのフィリスさんの矢。

やはりまだ近くにいてくれたか。

岩隗に押し潰され。

初めて苦痛の絶叫をあげるハサミムシを。

更に氷塊が雨霰と襲う。

もはや言葉も無く、押し潰されていくハサミムシの口に、スールはレンプライアの欠片をぬぐい去ったピンポイントフレアフラムを放り込んでいた。

爆発が、直接ネームドの体内に叩き込まれ。

それでもハサミムシは動いていたが。

更に二本目の矢が横殴りに叩き付けられると。

灼熱が全身を瞬時に蹂躙し、更に稲妻の如き雷撃がハサミムシを内側から吹き飛ばしていた。

濛々たる煙。

慣れたもので、騎士団が下がれ、と声を掛けて来る。

相手はネームド。

異常な生物だ。

これだけやっても、死ぬとは限らないのである。

内側から爆裂して死なない生物とはこれ如何にとも思ってしまうけれども。

事実あり得るのだ。

リディーは、下がってと叫ぶ。

ハンドサインはこの煙幕では届かない可能性がある。

ハルバードを拾い、下がってくるフィンブルさん。

アンパサンドさんは、敢えて棒立ちになっている。

最悪の場合、囮になるつもりなのだろう。

リディーも、此処で見極めて、味方を支援しないと。そう思って、最後まで踏みとどまっていると。

影が、できた。

顔を上げると。

体が吹き飛ばされ。

尾っぽだけになり。

それも殆ど形を残していないにもかかわらず。

ハサミムシの残骸が、リディーにめがけて。まだ少し残っていた牙と。リディーを一瞬でミンチにするには充分な口を、叩き付けようとしていた。

音も無く、こんな近くまで来ていたのか。しかも、どう考えても生きている筈が無い状態で。

ネームドを侮りすぎた。

ゆっくりゆっくり、落ちてくる絶対的な死が見える。

駄目だ、誰も間に合わない。

マティアスさんは下がりすぎていたし。フィンブルさんは遠すぎる。

スールは激戦でフラフラ。

アンパサンドさんは、なんと同時にまだ生きていた多数の足に襲われていた。回避に精一杯の様子である。

バラバラになっても、まだ動くのか。

これは、生物という概念で相手を考えたリディーの方が負けだ。

シールドを張ろうにも、間に合わない。

終わった。

素直に目を閉じて、死を受け入れようとした瞬間。

雄叫びと共に。

割り込んできたのは、キホーティスさんだった。

多分隊長という立場の上級騎士に渡されている錬金術の装備。盾の出力を全力に上げる道具。

ただし見た感じ、命も盛大に削る……を用いて。

リディーをミンチに喰い破ろうとしたハサミムシの残骸を塞ぎ止める。

「総員突貫! 敵残骸を屠り去れ!」

わっと、散っていた騎士団と傭兵達が躍りかかり。

まだ動いていた敵の残骸。

内臓までもが独立して動いていたが。

それを一つ一つ叩き潰していく。

巨大なワームのようなハサミムシの残骸も、我に返ったマティアスさんが先頭に、滅多切りに斬り伏せ。

やがて残骸がなくなるまで切り刻み、動かなくなった。

呼吸を整える。

膝から崩れ落ちるリディーを見て。

盾を地面に突き刺しながら、キホーティスさんはぼやく。

「まだまだですな、リディーどの。 彼処で出せる切り札くらい用意しないと、もっと色々な獣と今後戦う時に対応出来ませんぞ」

「ご、ごめんなさい、腰が……」

「撤退支援のおかげで、此方は体勢を立て直す事が出来ました。 それで良しとしましょう」

見ると、キホーティスさんの手は。

ぐちゃぐちゃに骨折していた。

あんなのの攻撃をモロに食らったのだ。

錬金術装備の支援があったとしても、それはそうなっても不思議では無いだろう。

思わず涙が出そうになるが。

手当を始めなければならない。

失った二台分の馬車の荷物はもう仕方が無い。

残っていた馬車にあった薬を使い。

トリアージから。

けが人を分類すると。

怪我が重い人から、順番に手当てしていく。

傷が痛むか、ではない。

傷が深い順番に、だ。

幸いというか。

今のとどめとなった一撃を放ってくれたフィリスさんが、手を振って駆けて来るのが見えた。

彼女は魔法のように、懐からテントを取りだして拡げると。

中に入って、荷車を出してくる。

今、そのテントは。

ハンカチのように拡げたように見えたのだが。

荷車にはお薬が満載されていて。

一緒に出てきた手練れらしい戦士達十人ほどと、てきぱき手当を始めてくれる。

「嫌な予感がして戻ってきたんだけれど、正解だったね。 間に合って良かった」

「これは……」

キホーティスさんは、腕を捨てる覚悟で、最後の特攻を掛けたはずだ。

だが、無惨に壊し尽くされていたその腕も。

まるで奇蹟のように傷が溶け、骨折も消え、治っていく。

同じ傷薬でも違いすぎる。

リディーとスールが作るナイトサポートは、人間に理解出来る範疇のお薬。

この人。恐らくイルメリア師匠もだけれど。この人が作るお薬は、もはや神話に出てくる神々の秘薬だ。

「これで引退かと覚悟していたのだが……流石は三傑の一角だ。 動くどころか、痛みも残っておらぬ」

「いやいや、わたしなんてまだまだですよ」

「更に他二人は凄いと……」

「ええ、まあそんなところです」

言葉を濁したが。

フィリスさんは残像を作ってぬるぬる動きながら、けが人を爆速で手当てしている。リディーも起きて手当てしようと思ったけれど。

いつの間にか、スーちゃんと一緒にけが人の列に並ばされて。

手当を受けていた。

更に、どこから出したのか。

複数の荷車を追加で提供され。

一度討伐部隊は引き上げる事にする。

いつもレポートには四苦八苦するが。

これはどうかいていいものか。

いずれにしても失格だろうなと、リディーは苦笑いしかでない。結局フィリスさんに助けて貰ったのだ。

情けなくて。

悔しくて。

言葉も出なかった。

それからは、翌日に歩けるようになるまで、荷車で運ばれて。

翌日からは、帰路を歩いた。

スールもずっと黙りこくっていた。

悔しくて、何も喋る事が出来ないのかなと思ったけれど。

予想は当たっていた。

途中、思い切り小石を蹴飛ばしているのを見た。

自分の弱さに対する怒り。

それが、無言になってでている。

リディーも今は同じだ。

自分の弱さが腹立たしくさえある。

やっと王都の城壁が見えてきたとき。

何だかもう終わりなのかなとさえ思った。

帰路では獣との戦闘も殆ど起きなかったが、実は起きていたという話を聞かされる。どうやら、それにさえ気づけなかったらしい。比較的余裕があるアンパサンドさん達が対応してくれていたそうだ。

城門で解散。

キホーティスさんが、咳払いして、説明をしてくれた。

「今回は、ネームドによる想定外の襲撃が二度あったものの。 どちらも想定外の支援者の援護で撃破する事が出来た。 そもそもネームドの事前情報は無く、戦闘を行う前提装備もしていなかったこともある。 これについては、我が輩の方からレポートを出しておくので、諸君は気にしなくても良いだろう。 本来の目的である沼地に住まう獣の処理に関しては、充分な成果を出す事が出来た。 成果の一部は、残念ながらあの憎らしい虫めに食われてしまったが……」

はははは、と笑いが起きる。

いや、笑い事では無い。

合計で四頭もお馬さんが食べられてしまったし。

貴重な資材で作った馬車も二両失われてしまったのだ。

今は笑いでもしないと。

やっていけない、ということなのだろう。

「錬金術師殿達は、無理な状況で未熟でもあるのに良くやってくれた。 二人ともまだ成人するや否やの年齢でこの任務、さぞや厳しかっただろう。 我等が今生きているのは、最後に支援に来た三傑の一人、破壊神フィリスどののおかげでもあるが。 撤退判断と時間を稼いでくれた二人のおかげでもある。 皆、感謝を欠かさぬように」

「ありがとう、助かったぞ!」

「今後も何かあった時には頼む!」

揶揄、ではない。

本当に感謝してくれている。

ちょっと、どういう顔をしたら良いか分からない。

ポンコツと言われる方が慣れていたし。

そうとしか思われていないと思っていたから、である。

「先に言い渡しておこう。 最後のネームド戦での早い判断につながったこともあるし、第一次試験は合格とする。 これについては確定事項だ。 我が輩が責任も持つ」

「うそ……」

「いいの?」

「何、試験の全件は我が輩が渡されておる。 誰も文句を言うものはおらんさ」

そうか。

どっと力が抜けるのを感じた。

いずれにしても、力尽きる寸前だったのは事実だった。

後はアトリエに、マティアスさんとアンパサンドさん、フィンブルさんに送り届けて貰う。

アリスさんは、いつの間にか。

多分結果を報告するためだろう。

いなくなっていた。

アリスさんも、戦闘時には随分役立ってくれた。

ただ最後の瞬間、いなかった気がする。

あの時、何をしていたのだろう。

ただ、あれだけの手練れが、手を貸してくれていた、というだけで充分。これ以上は望めない。

次の試験はどうせまたマティアスさんが告知に来る筈。

それまで、ただ疲れを癒やすため、眠りを貪りたい。

食事をする余裕さえも無く。

体を繕う余裕さえも無い。

ただ泥のように。

やっと入った安全圏で。

リディーは、ふてくされているように膝を抱えているスールと。

ならんで、ひたすら眠りを貪り続けていた。

 

4、動き出す特異点

 

アリスがイルメリアのアトリエに戻ってくる。

頷くと。

既にツーカーの仲であるアリスは、即座に意図を察した。

「採点は此方のレポートに」

「どれ」

見せてもらう。

戦闘判断。リディー17点、スール17点。

やはり此方の才能はスールの方が格段に上。

徹底的に仕込んでも、勘でスールが上回ってくる。だから、スールには調合を中心にリディーには座学をやらせているのである。それぞれ苦手分野を埋めるために。リディーはあれだけ勉強して、やっと判断でスールと互角程度、とも言える。

勿論100点満点だから未熟も良い所だが、正直あの二人のスタートラインで、此処までできるようになっていれば充分すぎるくらいである。

戦闘実績、リディー15点、スール13点。

今回はスールに大きく減点が入っている。

戦闘時に自分を殺せていないからだ。

自分の感情を優先して、味方の被害を増やしかねない言動をしている。

これはまずい。

最後にネームドの攻撃を察知したことを加味しても、大きな減点をせざるを得ない。また、発破の使い方がどれだけ見事であっても、減点は免れない所だ。残念極まりない話ではあるが。

戦闘結果、リディー16点、スール16点。

大きな減点はあったが。

やはり前線任務に関しては、スールの方が適性が高い。

リディーは典型的な後方支援型で。

最悪、研究室に籠もってずっと皆のための道具だけ作っていれば良い、くらいの才覚である。

だが、勿論戦闘ができない錬金術師は勘も鈍る。

だから戦闘に出しているのであって。

多少無理をしてでも。

経験を積んで貰わなければならないのだ。

騎士団の判断、合格。

まあこれについては、妥当だろう。

そもこの任務は、騎士団で恒例として行っているもので、凶悪すぎる獣がでない場所で、比較的安全に演習を行う、というものだ。

今回それに関しては、双子は充分以上にやれた。

それどころか、予期せぬネームドとの戦いでも、足を引っ張ることはなかったし。

早期徹底の判断のおかげで、死者を出さない結果にもつながった。

騎士団としては、貴重な人員の減少を防ぐばかりか。

ベテランであるキホーティスの引退も防げたと言う事もあって。

それこそ花丸を双子にあげたいに違いない。

まあ妥当だな。

頷くと、下がって休むようにアリスに指示。

自身は、アトリエの奥にある扉を使い。

深淵の者本部に向かう。

定期会議があるのだ。

出向くと、ソフィーはいない。

その代わり、プラフタとシャドウロードがいる。

ルアードは既に姿を変えて、アダレット王都で活動を開始している。多分次の試験くらいから双子と連携して動くはずだ。

他の幹部は、特に大物はいなかった。

各地で動いているか。

こんな中間報告に、わざわざでる必要もないと判断したからだろうか。

だが、である。

プラフタから、驚くべき事を聞かされる。

ソフィーの師であり。

バケモノを育ててしまったと時々嘆いているいにしえの大錬金術師は。

イルメリアが悲しむ事を知った上で。そう言う。

「ソフィーが表に出る事を決めました。 どうやら今回、早めの干渉をした方が「面白そう」だと判断したようです」

「面白そう……ですって!」

「落ち着けイルメリア。 暑くてかなわん」

シャドウロードが腕組みしたままぼやく。

どうやらイルメリアは瞬間沸騰していたらしい。

呼吸を整える。

二人に当たり散らしたところで仕方が無い。

そして、妙だと思っていた事に結論が出る。

どうしてロジェが、ソフィーを探していた。

あれはひょっとして。

ソフィーが面白がって、情報を自分から流したから、ではないのだろうか。

「そもそも! ファルギオルがでるまでは、裏方をしている筈でしょう! どうして急に!」

「理由はこれですよ」

「……」

資料が配られる。

それによると、今までそれほど着目されていなかったロジェの経歴についてまとめたものだった。

ロジェの経歴については調べた。

関係者の記憶を覗くまでして、徹底的に調査までした。

だがこの資料は。

先祖まで遡っている。

「ロジェが不思議な絵画制作者だという事は知っていたけれども、まさかこれは……」

「ロジェはネージュの子孫ですよ。 ネージュとの特徴的な遺伝子一致が見られます」

「……」

ネージュは孤独に老後を過ごしたと聞いている。

確か夫もいなかったはず。

気に掛けていたのは先代のアダレット騎士団長だが、あれは巨人族だ。

そしてネージュは、追われるように王都をでてから。

すぐに命を落とした。

だが、この遺伝子情報は。

ネージュの一族の末裔か。

それとも。

はっと、思い当たる。

「まさか、遺伝子情報の移し替え!?」

「ええ」

「……やられたわね。 そういえば、あるんだったわ」

拳で机を叩く。

ぎりぎりと奥歯を噛んでいた。

この世界には人間の絶対数が足りない。創造神は、そのため足りない遺伝子が近親交雑で弱体化しないために幾つかの手を打っている。

その一つが。

遺伝子情報の移し替えである。

数が少ない魔族や。元が1人だったホムなどはこれによって相当数が「産み出された」と聞いているが。

要するにそれは。

世界規模で無作為に行われる。

本来だったら死ぬ運命だった子供に対しての、遺伝子のチェンジリングである。

優秀な遺伝子を死の原因となり得た遺伝子と差し替え。

再び世界に戻す。

それを機械的に、何ら考えもせず無作為に行う。ただし同年代では行わない。

このため、遺伝子情報を調べてみると。

別の時代に同じ人間が、出現しているケースが散見されるのだ。

なお、「この後の時代」にも、この仕組みは機械的に機能を続ける。

創造神が、「平等」であることを示すように。

レポートの結論からすると、双子の祖母がネージュと同一遺伝子を60%持っていた。

こういった部分的な遺伝子欠損のチェンジリングを、ハーフチェンジリング。全ての遺伝子チェンジリングを、全チェンジリングと呼んでいる。

全チェンジリングは滅多に起きないのだが。

腕がない、目が見えないなどの遺伝子欠陥を持った子供に対しては。

胎児が形になる前に、このチェンジリングが。特にハーフチェンジリングが起きる事が多い。

ロジェ兄弟が揃って優れた錬金術師だったのも。

この60%のネージュの血が。

強く影響していた、というのが大きいのだろう。

勿論、双子にも、だ。

まずい。

イルメリアは呟く。

この事実に気付いたソフィーがどう動くか分からない。

或いは、単純にネージュの血を再現しようと考え出すかも知れない。

今まで、遺伝子合成して作り上げた天才錬金術師は、いずれも上手く行かなかった。これはどうしてかはわからないが。兎も角駄目だった。遺伝子操作だけではなく、交配まで操作して作り上げたケースでも駄目だった。

遺伝子プールを調べていたソフィーも、ネージュの60%がハーフチェンジリングされていたとは思っていなかったのだろう。

今回動いていると言う事は。

何をいつやらかしてもおかしくない。

「座りなさいイルメリア」

「プラフタ、双子が心配よ。 お願いだから行かせて」

「もしソフィーがその気になったら、双子どころか今頃アダレット王都が塵芥だろうよ」

「……っ」

シャドウロードの言葉ももっともだ。

声だけは若いが。

一度年老いた威厳はどうしてもある。

この辺りはアンチエイジングを駆使したパイモンと同じか。

「ともかく、我々の中でソフィーの戦力は圧倒的だ。 そして悔しいが、ソフィーこそが、この世界の終焉を打開できる可能性を持つ人材でもある。 イルメリア、お前もその一人だ。 忘れてはいないだろう」

「……」

「ならば今が我慢しろ。 むしろ今までソフィーは、よく状況を泳がし、双子を自由にしてくれたとも言える。 今回は二度のネームド戦でも死者を出さず、フィリスの支援到来まで持ち堪えたと言う事もあって、双子を見るのが楽しみなんだろう。 いきなり無体なことをしたりは……」

する。

あいつは、何をしてもおかしくない。

そう言おうと思ったが。

できなかった。

理由は簡単。

後ろに、ぞっとするような。

同じく世界の終焉を見てきた存在の筈のイルメリアでさえ。

恐怖で動けなくなるほどの、圧倒的気配が生じたからである。

ソフィー=ノイエンミュラー。

戻ってきたのだ。

「うーん、興味深い話をしているねえ。 イルメリアちゃん、あたしにも聞かせてくれるかな?」

「き、いていた、でしょう」

「そうだったね。 うふふ」

イルメリアの頭を掴むと、ソフィーはそのまま隣の席になれなれしく座る。

そして、頭から手を離さないまま、言った。

「双子の父親であるロジェを泳がせた結果、ネージュの血統の生存を確認。 今まで確認できなかったのは、恐らくは巧妙な偽装があったから、と思われる」

「巧妙な偽装とは……」

「決まってる。 あたしという絶対捕食者から身を隠すため。 ふふ、でもちょっとロジェさんの危機感を煽って正解だったかな。 巣穴をつつくと、獣ってのは必死になるんだよ」

手を離すソフィー。

だが、頭蓋骨には、凄まじい痛みが残っていた。

余計な事をしたら殺す。

ソフィーは、笑顔のまま。

指の力だけで、イルメリアにそれを伝えたのだ。

そしてイルメリアには。

逆らう選択肢など存在しなかった。

咳払いすると。

ソフィーは威圧的に声色を変え、皆を見回す。

「計画を少しばかり前倒しに進める。 双子の成長は予想を超えて早い。 失敗した場合も、今回のやり方は次回に引き継ぐ」

「ラージャ」

「了解……」

「ソフィー、貴方。 双子の人生をもてあそぶのはもういい加減に……」

肩をすくめるソフィー。聞く気は無い、という意味だ。

プラフタは、ただ悲しそうにしていた。

自分が起こしてしまった怪物。

後悔するのは当然だろう。

しかしこの魔物なくして、この世界の終焉は打破できない。

全能に極めて近い神にさえどうにもならないのだから。

 

(続)