女王の転生

 

序、とどめの一撃

 

一般に思われているのと違う事であるが。

その隕石の落下は、あくまでとどめの一撃であった。元から衰退していた恐竜たちにとっては、それが最後の切っ掛けとなったのだ。

隕石が落ちてきたときには、恐竜たちは既に古い存在となっていた。

どれだけ強くても、それは同じ。

歴史上最強の肉体も、食糧の不足や病気、寄生虫、環境の激変には叶わなかったのだ。故に、隕石による環境の変化が、とどめとなった。

世界が長い冬に閉ざされたとき。

恐竜の歴史に、幕が下りた。それはさながら、この星の歴史上に君臨した、最強最大の生物に対する、鎮魂歌のよう。

およそ、6500万年前の出来事である。

 

飛び起きた山内陽菜乃は、しばらくぼんやりと周囲を見回した。

またあの夢だ。

いつもいつも見てしまう、不可思議な夢。

夢というのは、隕石が落ちてくるという物騒なもの。

周囲には、年老いた者達ばかり。

隕石のせいで、長い冬が来て。みな、ばたばたと倒れていくのだ。怖いと言うよりも、とても悲しい夢。

それは夢と言うには、あまりにもリアルで。いつも陽菜乃の心を、締め付けるのだった。まるで、肉親が死んでいく姿を見るかのように。

到来した地獄を前に、ただ無力に立ち尽くしてしまっているかのように。

目を擦りながら、一階に降りる。

既に母が、朝食を用意してくれていた。

「ひなー、早く食べなさい」

「んあー。 眠いー」

「相変わらず低血圧ね。 先に顔洗いなさい」

「そうするー」

ぼんやりとした頭をどうにか支えながら、洗面所に。顔を洗って、歯を磨いて、それから食卓に着く。

明日から、高校二年生だ。

春休みももう終わる。毎日、誰かと遊びに行ったり、家で遊んだり。非常に充実した毎日だった。

家でゴロゴロしている日は、結局一日も無かった。

さて、今日は何をして遊ぼう。いやいや、既にスケジュールはある。

顔を洗うと、だいぶさっぱりしてきた。朝食を感謝しながら食べる。母が陽菜乃にあまり五月蠅く言わないのは、遊ぶと言ってもあまり無茶なことはしないからだ。友達の中には、かなり危険な遊びをしている奴もいる。実際、高校くらいになると、補導ではすまないような事をしている奴もいるにはいるのだ。

そういう遊びには、陽菜乃は関わらない。

親はそれを知っている。

だから、遊ぶことに対して、あまりどうこうはいわない。

「今日も、何処かに行くの?」

「今日はね、美術館行こうかって思ってる」

「それなら、真理を連れて行ってくれる?」

「分かった。 真理は?」

まだ寝ていると言われた。

三つ年下の真理は、丁度生意気盛りの年頃だ。高校生の姉と一緒に美術館なんて、絶対行きたがらない。

ただ、今回の行こうと思っている美術館は、ちょっとばかりいつもと違う。

真理を呼びに行く。

陽菜乃に増して低血圧の真理は、朝には酷く弱い。春休みは、殆どいつも昼まで寝ているほどだ。

戸をノック。

年頃の女子だから、鍵も掛けているが。ドアをノックすれば、中には伝わる。

「真理ー。 起きろー!」

「……」

「恐竜展いくぞー。 起きろー!」

がさごそと、中で動く音。

もの凄く機嫌が悪そうな真理が、ドアの隙間から、顔を覗かせた。

此奴は、陽菜乃と一つだけ、共通している趣味がある。

それが、恐竜だ。

陽菜乃とは趣味の方向性が少しだけ違うが、幼い頃からこの件についてだけは、協調を取る事が出来る。

それ以外では、むしろあまり仲が良い姉妹とは言えないのだが。

「どうして昨日のうちにいってくれないの」

「だって、出かけるとき、寝てたじゃんか」

「……着替えるから、待ってて」

真理が、ドアの内側に戻る。

腕時計を見た。まだ、友達と待ち合わせるまでには、少しばかり時間がある。

今のうちに、スマホから、連絡を入れておいた。

高校生の中に中学生が混じるのも、また面白い。陽菜乃としても、大歓迎だ。

太陽みたいだと言われる陽菜乃に対して、真理はとにかく無口で、余計な事は殆ど喋らない。

真理が着替えて出てくる。

春休みの最後だからと多少は奮発してくるかと思ったのだが。ごく普通の、ワンピーススタイルだ。

パンツルックの動きやすい陽菜乃とは、そこからして違う。

「おー。 そいえば、背伸びた?」

「成長期だから」

「うんうん。 そのうち私より大きくなるかな」

「勘弁してくれる?」

本当に嫌そうに、真理は言った。

陽菜乃の身長は百六十六センチと、女子としてはかなり高めだ。真理はそれに対して、中二でやっと百五十に届いた。少し背が伸びたようだが、それでも中学時代に、百六十を超えることは無いだろう。

女子の身長は、高校に入るともうあまり伸びなくなる。

勿論個人差はあるが、真理は多分、百五十五を超えることが無いだろう。一方私は、今年に入ってからまた一センチ伸びている。大学に行く頃には、百七十に届くかも知れない。

女子は大きすぎると、色々と不利な場合もあるが。

陽菜乃は運動神経も自信があるし、一応勉強もそこそこに出来る。ルックスは自分ではよく分からないが、相応に良いらしい。

だから、未来をさほど悲観はしていない。

適当に準備を整えると、家を出る。

今日は春休み最後の日。

今年の冬は寒かったが、春になるとぐっと気候も優しくなってきた。過ごしやすい空気の中、優しい風がながれていく。

「今日は何人来るの?」

「えーとね、三人。 みかことよっちと、あとさなちゃん」

「ふうん」

声がしらけている。

陽菜乃は知っている。真理が陽菜乃の友達を、酷評していることを。

だが、気にしない気にしない。

いちいち腹を立てていては、出来る事も出来なくなる。

駅に行くと、みかことさなちゃんが待っていた。

みかこはかなり茶色っぽい髪をしていて、活動的な子だ。百メートル走では陽菜乃とタイムを競うほど。

ただ、陽菜乃は天文部なので、陸上部のみかこは少し肩身が狭いという噂も聞いたことがあるけれど。

陽菜乃はそれでも、気にしないでいつもぶつかっていく。

さなちゃんは典型的な文学少女。

いつも難しい純文学を読んでいる。貸してくれた本を読んだこともあるのだが、難しくてほとんど理解できなかった。

あと、此処にいないよっちは、男の子だ。

男子の中ではおとなしい方で、次の駅で合流してくる。美術館は三駅先だ。

よっちはあまり乱暴ではないので、女子の中でも比較的浮くことなく話す事が出来ている。

ただおとなしすぎて、見ていて不安になる。

いわゆる草食系というのとは、また違う。何というのか、何かあったら女子をおいて逃げ出しそうな雰囲気なのだ。

「よーっす!」

「おはよー!」

「おう、真理ちゃんも一緒かー」

「おはようございます」

男子みたいな笑顔で頭をぐりぐりしようとしたみかこの手から、さっと真理が逃れる。真理の髪はさらさらな黒で、触りたくなる気持ちは分かるが。

みかこのスポーツばっかりやっている汗臭い手で触られるのは嫌だと、真理は以前言っていた。

失礼な話だとは思うが。

まあ、デリケートな年頃だし、仕方が無い。

「よっちは隣の駅にもう来てる?」

「うん、メール来た」

私がメールを見せる。

基本的に、集まるときは陽菜乃が司令塔だ。メールを数人分捌くくらいはお茶の子さいさい。全員のメール内容を把握しながら進めていくのはそれなりにテクがいるのだが、熟練の技に掛かれば簡単だ。

電車が来たので、わいわいと連れだって乗る。

「それにしても、ひなの。 恐竜展って、珍しい所行くんだね」

「それがねー。 恐竜の学説って、数年ごとに変わるから、同じような復元模型って、まずみられないんだよこれが。 恐竜展をしっかりやっている所に行くと、毎回違うのが見られるから、楽しいよー」

「ふうん、そう」

「恐竜ってよく分からないんだよね。 ティラノサウルスくらいは知ってるけど」

まあ、それなら誰でも知っているだろう。

おそらく戦闘能力という点で考えれば、地上の歴史上最強の存在。より大きな肉食恐竜も存在していたが、ティランノサウルスはそのバランスから考えて、オールラウンドに優れた捕食者だった。

あまり興味が無さそうなみかこだが。ここからが腕の見せ所だ。

「最近は、こんなのも考えられてるよ」

見せたのは、近年主流になってきた、羽毛で体を覆っているタイプの恐竜だ。

スマホでは、画像の検索が容易に出来る。

「うっわ、派手だね」

「これはユタラプトルね。 殆ど鳥と変わらないでしょ? ずっとずっと大きいけど」

「はー、凄い。 動物園で見てみたいな」

「あははははー。 映画みたいにならないといいけど。 暴れ出したら、捕まえられないよ、こんな凶暴な奴」

安易にみかこが言うので、傑作パニック映画の例を上げる。

トンネルを抜けると、次の駅に到着。最初に車両の位置を指定していたので、すぐによっちが乗って来た。

よっちは背も平均より低い。陽菜乃よりも、五センチ以上低いほどだ。

しらけた目で真理がよっちを見ている。そういえば此奴は、軟弱な男が大嫌いだと、以前から広言していた。

一方で暴力的な男も嫌いだというのだから、趣味が五月蠅い事である。

「おはよう」

「よっち、例のもの、持ってきた?」

「うん、此処にあるよ」

非常におとなしそうな眼鏡男子のよっちは、男子のグループで影が薄かったので、陽菜乃がスカウトして引っ張ってきた。

不思議な事に、同じような文学系のさなちゃんではなくて、運動にしか興味が無さそうなみかこに気があるようなので、面白い。みかこの方は、まるでよっちに興味が無いようなので、それはそれで可哀想ではあるが。

よっちが取り出したのは、携帯ゲーム機だ。

ただし、ネットワークを介して、美術館の中で説明を受けるために使う。やり方については、よっちが事前に予習してきてくれていた。

美術館に着くまで、電車に揺られて二十分。

駅から更に十分歩く。

だが、都心にある美術館としては、近い方だ。それに、朝家を出たときに比べて、日差しが断然気持ちよくなってきた。

これなら、外ではしゃぎ廻っても楽しそうだ。

だが、今日の目的は、あくまで美術館。

恐竜展を見る機会はあまりない事を考えると、気まぐれな女子高生の陽菜乃であっても、目的は見失わない。

美術館は比較的大きなもので、歴史的にもかなりしっかりしている。

中はひんやりとしていて、空気もかなり澄んでいた。学割なので、料金も安い。中に入ると、いきなり最初に映り込んだのは。

巨大な隕石の絵だ。

恐竜を滅ぼした、巨大隕石の想像図とある。

「うわ、直径十二キロだって」

すっとんきょうな声を、みかこが上げた。その隣で、冷静にさなちゃんが、十二キロがどれくらいか計算している。

この隕石の大きさにも、いろいろな説がある。

陽菜乃が知る限り、十キロから始まって、十二キロ、十五キロ、二十キロなどなど。最近、それがどうもメキシコの辺りに落ちたらしいと言うことが分かってきた。凄まじい破壊力の隕石が、とんでもない規模の大津波を引き起こし、環境を激変させて。

地上の生態系を、一変させてしまった。

恐竜は、それでとどめを刺された。

「こんなの落ちてきたら、ひとたまりもないね」

「それがねえ。 これが落ちてきたときには、もう恐竜は衰退して、長くは保たなかったってのがわかってるの」

「そうなの?」

「うん。 隕石が落ちてきたのは六千五百万年前くらいだけど、その何十万年か前くらいに、インドで大噴火が起きてて、それで南半球の生態系が壊滅したりしてるから」

あくまでそれは仮説の一つではあるのだが。ただ、はっきりしている事として、隕石が落ちてくる前から、地球規模の大異変が連鎖していたのだ。

恐竜はとても体が大きかった。

それが、仇にもなった。

今でも、体が小さな生物は、生態サイクルを早く廻して、環境の変化にも適応しやすい。人間以上に体が大きく、生態サイクルを廻すのに時間が掛かっただろう恐竜は、致命的な環境の変化に、対応できなかったのだ。

ただし、恐竜が全て滅んだわけではない。

近年の研究では、鳥が恐竜に極めて近い事も分かってきている。

それに。

それだけではないのだ。

さなちゃんに、よっちが携帯ゲームから説明を出して、聞かせている。

真理は。

少し離れたところで、巨大隕石の図を、じっと見つめていた。

陽菜乃と真理とで、決定的な差があるとすれば、此処だ。巨大隕石を、どう思っているか。

真理はこの巨大隕石に、拒否反応を示す。

見るのもいや、というのとは少し違う。とにかく、ひたすらに怖いようなのだ。隕石の話を振っても、じっと黙っている。

そして、何も語ろうとはしない。

無理もない。

なにしろ、真理は。

「あれ? 真理ちゃん、どうしたの?」

みかこが気付いた。

真理の手を引いて、隕石の図の前から引っ張り出す。顔が青ざめているのが分かった。あんなにリアルな隕石の図は、さぞや怖い事だろう。

「ほら、行くよ」

「……分かった」

やっと我に返った真理が、図の前から離れる。

せっかく春休み最後の日に来たのだ。新学期前の最後の休みを、楽しまなくては損ではないか。

それから、古き時代に本当に生きていた恐竜たちの化石を、見て廻る。

復元図も。

ティランノサウルスと、トリケラトプスの対決図の前に来た。今回の恐竜展の目玉。迫力ある二大恐竜のにらみ合う様子は、さながら怪獣大決戦。

だが、陽菜乃と真理は、顔を見合わせて、苦笑いするばかりだ。

「だいぶ近くはなってきたね」

ぼそりと真理が言う。

陽菜乃も、頷く。

いつ頃からだろうか。陽菜乃も真理も、自覚するようになったのだ。自分の中に、訳が分からない記憶がある事に。

それが、白亜紀を生きた、恐竜のものだと。

気付いたのは、二年前。

こんなオカルトな話、誰かに話せる筈もない。

両親にさえ話していない、真理との秘密だ。

みんなが呼んでいる。

我に返った陽菜乃は、笑顔を作ると、真理の手を引いて、皆の所に小走りで急ぐのだった。

 

1、非日常到来

 

ティランノサウルス。

文字通り、恐竜の王。圧倒的な戦闘力を誇った、地上最強の肉食恐竜。そして、歴史上最強の陸上肉食動物でもある。

顎の力は、最近では八トンとも言われている。鰐や鮫さえもしのぐ、文字通り圧倒的なパワーだ。

実際の所、賢さならユタラプトルの方が上であったようだし、体格的にはティランノサウルスに近い肉食恐竜はいくらでもいた。

だが、最後の時代に大繁栄しただけあり、その生物としての完成度は、比類無きものだったのだ。

ただし、あまりにも完成度が高いことが、却って徒になってしまった。

環境の大激変に、耐えることが出来なかった。

ぼんやりしていた陽菜乃は、気付く。

既に放課後だ。

勉強はそこそこ出来るといっても、気力は無限とはいかない。新学期が始まってから二週間ほど。

今年は三年という事もあり、受験に力を入れなくてはならない。

進学を希望している陽菜乃にとって、今年は最初から、忙しい事も目に見えていた。しかし、まさか最初からこれほど飛ばすとは、思っていなかったのだ。

その場にいる全員が、グロッキーになっている。

毎日かなりスパルタで勉強を仕込まれているからだ。

部活はとっくに引退。

楽しく部活をしている、就職組のみかこが、ある意味羨ましい。中堅所の大学を目指す陽菜乃は、このまま全精力を吸い取られてしまうのではないかとさえ、思い始めていた。とにかく、教室にいる全員が、ゾンビのようだ。

「はい、今日はここまで。 帰ったら復習しておくように」

ホームルームもそこそこに、皆が帰っていく。

というよりも、寄り道する余裕も無い、というのが事実か。

三年が大変だという話は聞いていた。

「さなちゃん、平気−?」

「一応」

運動神経がいい陽菜乃でさえ、グロッキーになるほどだ。

どちらかといえばか弱い系のさなちゃんはさぞやと思っていたのだが。意外や意外、かなり平然としている。

どうやら前々から着実に受験対策をしていたらしく、授業にもある程度余裕を持ってついていけているようだ。

この様子だと、大学受験突破最初は、さなちゃんかも知れない。

寄り道しないように帰れと学校に言われているが、こんな時にも寄り道する奴はいるにはいる。

陽菜乃は、一応家にまっすぐ帰ることにしているが。

まあ、授業が終われば、元気が復活する気持ちについては、分からないでもない。

よっちが勉強道具をまとめている。

時々情報交換をして、受験に備えているが。よっちはガリ勉言われるだけあって、そこそこ良さそうな大学に行けそうな雰囲気だ。

帰り道を、黙々と歩く。

普段は誰とでも仲良くなりたいと思うし、誰かを見かけたらかならず挨拶をする。

陽菜乃は人間が好きなのだ。

だから、挨拶をしたとき。

ぎょっとした顔で見つめられると、驚く。

陽菜乃が挨拶をした相手は、背格好も年も恐らくは同じくらいの女子。向こうの方が若干スレンダーで、何というか体が引き締まっている。天性のバネだけに頼っている陽菜乃に対して、論理的に磨き抜いた体という印象を受ける。

体もこの時期なのに小麦色に焼けていて、動きやすいジャージでランニングをしていたらしい。

笑顔のまま会釈をして通り過ぎようとすると。

うしろから声を掛けられた。

「おい」

「え?」

「ひょっとして、私が見えているのか」

ジャージの子は、足を止めて、此方に振り返っていた。

見えているもなにも。

おかしなのに捕まったかなと思って、振り返って。そして、気付く。影が存在していない。

今、丁度二人の向こう側に、明かりがついたばかりの照明灯が、ウドのように立ち尽くしている。

光が届いて、出来るはずの影が。

ジャージの子の足下には、存在していないのだ。

「お前、何者だ」

「え、えと……」

やばい。

本能的に危険を感じた陽菜乃は、後ずさる。

相手が何者だろうが、全速力で走れば、そうそう追いつかれない自信はある。素早く計算。

此処から駅までは、四百メートルほど。

交番までは、其処とほぼ同距離だ。

年格好が同じくらいの相手だが、見た感じ鍛え方が違う。鍛えていない陽菜乃とでは、多分発揮できる戦闘能力が段違いの筈だ。変な拳法とかを習得している可能性も、低くはないだろう。

幸い、今の時点で、逃げるのには困らない。

走るだけなら、この子だって、陽菜乃には簡単には追いつけないはずだ。髪を流したままにしているのが、若干面倒。走るとなると、ジャマになる。ポニテにするにも、そんな余裕は無い。

「ちょ、よく分からないけど、まずは話そう? 私は陽菜乃。 普通の高校生だよ」

「そんな事は聞いていない。 お前が何者かと聞いている」

まずい。

前世が戦士だとか、因縁がどうのこうのとか、そんなことを言い出したら、死を覚悟しなければならない。

もう少し、頑張ってみよう。

それで無理なら、全力で逃げる。

自分に言い聞かせると、少し立ち位置を変える。もしも飛びかかってきたら、逃げる態勢に入れるようにするためだ。

こんなところで小ずるく計算するくらいなら。

最初から、誰にも彼にも挨拶して廻らなければいいのに。そんな風に思っていた時期もあるけれど。

でも、やっぱり陽菜乃は人間が好きなのだ。

「言い方を変える。 お前は、何の生物だ」

決めた。

逃げよう。

飛び退いて、全力疾走を開始。追いつかれたら、刺されても不思議では無い。向こうは不意を突かれた筈で、上手くすれば二三十メートルは稼げたはずだ。

だが。

分かる。すぐに、追いついてきた。

これでも、国体でそこそこいい記録を残したこともあるのだが。相手は化け物か。男子だったら兎も角、女子にこれだけハンデを付けて追いつかれるなんて、思ってもみなかった。

みかこだって、そこまで早くはないだろう。

「まて。 逃がすと思うか。 いや、別に襲わないから、とまれ」

声がついてくる。

生きた心地がしない。そのまま、全力で交番に飛び込む。

血相変えて飛び込んできた陽菜乃を見て、警官達が中腰になる。指さした先には。誰も、いない。

「どうしました」

「へ、変質者に追われて!」

「ちょっと表見てきて」

ベテランの警官が言うと、すぐに若いのが何人か、表に出て行った。

呼吸を整える。

本当に生きた心地がしない目にあったのは、久しぶりだ。

すぐにどんな奴だったのか聞かれたので、見たとおりに応える。よく覚えていたから、すらすらと言えた。

見た感じ、健康的な人だった。

可愛いという感じではないけれど、凛とした雰囲気があった。男よりも、同性にもてるタイプかもしれない。

陽菜乃の言うとおり特徴をまとめていく警官。やがて、若い警官達が、戻ってきた。そんな奴はいなかったという。

まあ、そうだろう。

家まで送ってくれるというので、言葉に甘えることにした。交番の外をおそるおそる覗くが、あいつはいない。

一体あれはなんだったというのか。

結局、家まで、ぎゅっと身を縮めて過ごした。タクシーで送ってもらったが、本当に今日は死ぬかと思った。

覚えた事を、半分くらい忘れてしまった気がする。

自室に戻ると、ベットに倒れ込んだ。もう今日は、そのまま眠ってしまいたい。そうすることで、嫌なことを忘れたかった。

 

翌日。

やはり、道行く人に挨拶しながら、陽菜乃は学校へ向かう。

あれが誰だったかは分からないが、いきなり出くわすことはないだろう。昨日通った路は、念のために使わないことにする。

ああいう人もいる。

だけれど、基本、人間は嫌いじゃない。

出来るだけ仲良くしたい。そう考えているから、陽菜乃は外向的な態度を崩さない。これからも、それで少しは良いことがあると嬉しいのだけれど。

影が存在しなかった、あの変質者は。学校に着いてからクラスメイトに聞いてみたが、誰も知らないと言う。

陽菜乃に追いつけるほどの脚力となると、この近辺の学校でもそうそうはいないはず。ジャージを着てジョギングをしていたから、多分運動部。しかも今の時期でジョギングと言うことは、大学生か、もしくは一二年か。

あのすらっとした体つきは洗練されていたから、一年という線はなさそうだ。しかし大学生というにも、ちょっと違う気がする。

みかこにも聞いてみるが、知らないと言う。

「短髪で良く焼いている子ねえ。 覚えがあるのは何人かいるけれど、あんたに追いつけそうとなると、ちょっとね。 それも電波な雰囲気なんでしょ?」

「うん、探してみてくれる?」

「そいつに追いかけ回されたっていうのに、なんで?」

「だって、どこの誰か分かれば、話の糸口が見つかるかも知れないし、何より対策も立てやすいし」

どこの誰かと分かれば、或いは有名人だったら。

手口を割り出せるかも知れない。

或いは弱みを掴めれば、二度と近づかないように、いえる可能性もある。

どちらも取りたくは無いけれど。あの雰囲気からして、会話が普通に出来るとは、思えなかったのだ。

陽菜乃はこの学校の生徒なら全員知っているから、あの子が此処にいるという心配はしていない。

だが。

それが、甘かった。

昼休み、勉強疲れの頭を癒やそうと思って、屋上に出た。

そうしたら。

腕組みしているそいつに、いきなり真正面から出くわしたのだ。間違いない。昨日の電波娘だ。

他の生徒達は、此方を見ていない。

弁当を食べていたり、涼んでいたり。いずれにしても、陽菜乃とそいつの距離は三メートルも無い。

ナイフを出されたら、逃げ切れる自信はなかった。

そして、そいつの足下には、やっぱり影はなかった。

悲鳴を上げても、この距離だったら、ナイフが心臓を貫く方が早いだろう。冷や汗が背中に滝を作るのを実感しながら、陽菜乃は必死に頭を動かす。さあ、どうする。ドアを盾にして、逃げるか。

いや、それはまずい。

昨日の今日だ。逆上した電波娘が、辺りの子達を、手当たり次第に襲うかも逸れない。

「あれ? 陽菜乃さん?」

不意に、横から声。

横目で見ると、よっちだ。よっちは、電波娘を見ても、小首をかしげている。

「知らない人だね。 知り合い?」

「う、うん……」

最悪だ。

よっちを人質に取られたら、どうしよう。この電波娘の様子からして、何をしでかすか、わからない。

「襲うつもりはないと言っているだろう。 もっとも、正体を特定するまで、逃がす気もないが」

電波娘が、今日初めて口を開いた。

陽菜乃は、声も出ない。

いや、此処は、声を出すべきだ。少しでも会話して、相手の動揺を誘えれば、或いは、チャンスも生まれるかも知れない。

「正体って、何よ。 よっち、離れて! そいつ、昨日の……」

「お前、変な夢を見るだろう」

不意に、音が消える。

確かに、それはある。

恐竜に関する、妙な夢。真理に到っては、隕石を酷く怖れもする。陽菜乃は確かに、昔からおかしいとは思っていた。

どうしてこんなに恐竜が好きなのか、どうしても説明がつかないからだ。

「それに、自分には似つかわしくない嗜好がある筈だ。 私の場合は、烏賊が好きで好きでしょうがない・ 烏賊が海からいなくなる夢を見ると、悲しくて目が覚めてしまう」

「……」

聞いたことが、ある。

確か白亜紀の大規模絶滅の原因の一つが、海洋資源の枯渇だ。

当時、海で大変に重要な食糧資源だった烏賊が、激減している。おそらく、インド亜大陸近辺での大規模噴火や、とどめとして落ちてきた隕石による環境変動の影響だろう。

その結果、アンモナイトが、絶滅した。

アンモナイトは、烏賊を主食にしていたのだ。

そして、連鎖的に、海の生物が大量絶滅している。アンモナイトをエサにしていた大型の海中生活者達は、根こそぎといっても良いほどに、絶滅に追い込まれてしまった。その一方で、烏賊は絶滅を免れて、現在まで生をつないでいるのだから、皮肉な話である。

「幼い頃から不思議で仕方が無かったがな。 このような体になるときに、ある相手から説明を受けた。 私の元の生物は、モササウルスだとな」

モササウルス。

海中で無敵を誇った、最強の捕食者の一角。

体長は十五メートルにも達し、高い遊泳力を駆使して、海の中を我が物顔に泳ぎ回った怪物。

陸の王者がティランノサウルスだとすれば。

海の王者は、このモササウルスだ。

「やはりその様子からして、間違いないか。 お前はもしや、自分が何だったのか、自覚しているのではないのか?」

「陽菜乃さん、この人、何を言ってるの?」

「よっち、悪いけど……」

「放課後、また来る。 その時、お前が何者なのかを、聞かせてもらう」

無造作に陽菜乃の後ろのドアを開けると、モササウルスだと名乗る女子は、その場を離れていった。

あんな女子生徒、この学校にはいない。

しかし、どうやって潜り込んだのか。やはり女子大生か。しかし、どうやって陽菜乃の学校を、特定したのか。

それは、制服からか。

いろいろな事が起きて、頭が混乱してしまっている。すぐには、正しい回答が導き出せない。

我に返ったのは、よっちに肩を叩かれたからだ。

「陽菜乃さん、大丈夫?」

「う、うん……」

「あの人、何だろう。 変なことばかり言っていたけれど。 あの人に追いかけ回されたの?」

「そう、だね」

おかしな事が、幾つもある。

あの電波娘が言っている言葉は、妙に論理的だったのだ。

頭がおかしい人は、話を聞いていると、すぐにそれだと分かる。昨日の時点では、電波娘はそうだと思ったのだが。

今日、話を聞くと。

パズルのピースがあっていくような、妙な感触に包まれたのだ。確かに陽菜乃は、変な夢を見る。

妙な嗜好を持っている。

全てが当てはまっているのだ。

変な夢くらいなら、別に問題は無いだろう。

陽菜乃の場合は真理ともども、それが露骨に嗜好にまで影響しているのが問題だ。前からこれに関しては、おかしいと思っていた。

「どうするの? 警察、呼ぶ?」

「ううん、大丈夫」

「それなら、みんなで一緒に帰ろうか? 陽菜乃さんには世話になっているし、それくらいは構わないよ」

首を横に振った。

何だろう。

どうしてかは分からない。あの電波娘と、いちどしっかり話す必要がある。

そう、陽菜乃には思えはじめていた。

 

2、転生のもの

 

学校を出ると。

門柱の所に、あの電波娘が待っていた。あれから話をいろいろ聞いてみたが、やはり近場の高校生に、該当する者はいない。

そうなると、やはり大学生か。

或いは、もっと別の理由で、見つからないのか。

「警察を呼んだり、仲間と一緒に下校してくるかと思ったが」

「話が、したいんじゃないの? モササウルスさん」

「私の名前は春山萌梨(もな)だ」

野性的な風貌の割に、随分と可愛らしい名前だ。名前負けという言葉があるが、この人の場合は、逆の意味で作用するに違いない。

来るように、促された。

首を横に振る。

話は聞く。

だが、妥協はそれまでだ。

「まだ、貴方のこと、信用したわけじゃないから」

「分からず屋だな。 随分外向的な性格のようだが、或いはその一方で極めて頑固、という事なのか」

「そう言う問題じゃないから。 自分をモササウルスなんていう人にほいほいついていって、へんな宗教団体のセミナーにでも参加させられたら、たまらないから」

「もっともな懸念だ」

下校していく他の生徒達が、不思議そうに此方を見ていた。

陽菜乃も大学受験を控える身。それもこの学校では、かなりの有名人だ。今回に限っては、悪いことに、であるが。

「何故、私の影がないと思う」

「それは、分からないよ。 この世のこととは、思えない」

「その通り。 この世のことでは、ないからだ」

萌梨が言うには。

そもそもこの場にいるのは、一種の立体映像で。元の体は、別の所にあるのだとか。その時点でもはやついて行けない世界だが、確かに影がない事については、一応の説明がつく。納得は行かないが。

更に、萌梨は恐ろしい事を言い出すのだった。

「どのみち、お前の平常は、じき崩壊する」

「何それ……」

「というよりも、良くも保っていたな。 明確に、自分とは違う生活の記憶が残っていて、どうして人間としての人格に影響が出ていない」

言われてみれば、確かにおかしな事もある。

陽菜乃の中にある妙な記憶は、隕石だけではない。

恐竜が大好きというのも、それに影響しているはずだ。

見た事も無いはずの記憶。昔は、アニメか何かの記憶が、ごっちゃになっているのではないかと思っていた。事実、人間の記憶は、極めていい加減な代物だと聞いているからだ。

うつむく陽菜乃に、萌梨はついてくるように指示。

しばらく考えたが。

ついていくことにした。いざとなったら、逃げるしか無いだろう。

「どっかの建物に入るとか言われたら、逃げるからね」

「会合は、公園で行う」

「公園?」

「同じような境遇の者達が集まっている。 今の時点では、大きなトラブルはないし、別に他の記憶保持者と争いにはなっていないが。 それでも、同じような状況の者同士、顔くらいは合わせておいた方が良いだろう」

確かに、その通りかも知れない。

だが、詐欺師の類は、真実に嘘を混ぜていく事で、少しずつ相手の心に潜り込んでいくと、陽菜乃は以前聞いたことがある。

実際、その通りの筈だ。

ならば、油断は出来ない。

公園とやらは、意外に近くだった。

集まっているのは、陽菜乃と同年代に思える男女が数名。女子と男子が、綺麗に半々に別れている様子だ。

影があるのは半数ほど。

つまり、此処にいる連中の半分は、萌梨と同じ、という事か。少なくとも、最低限の条件は満たしているという事だ。

オカルトなど信じてはいない。

だが、影がないのは事実なのだ。それに、公園に屯しているのに、遊んでいる子供達は、此方に見向きもしない。

そういえば萌梨に目をつけられたのも、向こうに気付いたから、ではないのか。

話している時に、ようやくよっちも萌梨に気付いた様子だし、何か他にも、おかしな事があるのかも知れない。

「モナ、その子は?」

「多分肉食恐竜」

「え……」

「何だ、曖昧なの連れてきたねえ」

ベンチに腰掛けて足をぶらぶらさせているのが、多分リーダー格だろう。背はあまり高くなくて、陽菜乃から比べると、多分頭一つ分違っている。格好も、どちらかといえばフリフリのヒラヒラ。あまり外を出歩く格好には見えない。

髪型も、今時ツインテにしている。

もっと幼い頃なら兎も角、明らかに高校生以上の様子だから、或いは。何処かのマニア系のサークルか何かに所属している子かも知れない。

格好も制服ではないから、或いは大学生か。

「そう警戒しなさんなって。 別に私達も、変な記憶がある者同士で集まってるだけで、変な敵とかと戦ってる訳じゃないから」

「……それで、私が肉食恐竜って?」

「私の仲間はね、三十人くらいいて、この場にいない子も結構いるんだけれど。 色々研究して、分かってきている事があるんだよ」

リーダー格が言う。

記憶の保持者の生物が、今の時点で被っていることはないと。そして、彼女が言うには、最大級の存在の、記憶が残る可能性が高いとか。

それでか。

陽菜乃も恐竜が好きだから知っている。

肉食恐竜は、メスの方が大型になる傾向があったらしい。大型の上に強くなることが多かったそうだ。

ティランノサウルスも例外ではない筈。

確かに、リーダー格の話は、筋が通っている。

ただし、彼女の話の土俵に、乗るつもりはない。モササウルスだなんて名乗る人の仲間だ。まとめて頭がおかしい可能性も低くない。

はて。

何故、今。ティランノサウルスが、頭に浮かんだのか。

「で、貴方は何の記憶持ち?」

「知らない。 隕石については、印象に残ってるけれど」

「恐竜を絶滅させたって言われてる奴? 6500万年前の」

「多分そうだと思う」

そういえば、此奴らには言うつもりは無いが。確か、真理も同じような記憶を持っていて、随分それに苦しめられているはずだ。

勿論、そんなことは言わない。

やぶ蛇になるからだ。

こんな変な連中に目をつけられるのは、陽菜乃だけでいい。真理まで目をつけられたら、それこそ何が起きるか、知れたものではない。

此方の思惑を知ってか知らずか。

ツインテのリーダー格が、部下らしい男女を見回す。よく見ると、まだ中学生くらいの子も、混じっているようだ。

「そうなると、インド亜大陸か、北米かな」

「トロサウルスもティランノサウルスも、まだ見つかっていないよね。 同種の生物は確か記憶持ちには存在しないとか聞いてるけど」

口々に言い始める連中。

青ざめている陽菜乃は、やっぱり此処から逃げ出すべきかなと、何度も思った。確かに萌梨は生半可な足の速さではなかったが、他までそうとは限らない。これでも、脚力には自信がある。

この辺りの地理については、しっかり把握もしている。

交番に逃げ込むのは、さほど難しくない。

時々、公園の周囲を確認する。

逃げ出すなら、周囲の状況を、しっかり確認しておいた方が良いだろう。

「とりあえず、記憶がはっきりしないのなら、まだみんなとしっかり話す事も無いんじゃ無いのかな。 ただ、これからがんがん記憶は戻ってくると思うから、電話番号だけ教えておくわ」

「え? どういうこと?」

「異生物の記憶持ちは、基本的に、ある一定年齢まで、曖昧なままなんだよねえ。 私の場合はユタラプトルなんだけれど、十六までは殆ど記憶がはっきりしなくて、それから急にユタラプトルの記憶がしっかり出始めた感じ。 それと同時に、人間としての人格が、圧迫されてね。 随分苦労したよ」

ツインテのリーダー格が、けらけら笑った。

此奴は、ユタラプトルか。

あまり想像できないが。

ラプトルと呼ばれる恐竜の中でも最大級で、高い知能を持ち、すぐれた戦闘力を誇った怪物のような恐竜。

当然群れで狩を行い、当時としてはもっとも強力で、効率の良い狩をしただろう肉食恐竜だ。

ただし、ティランノサウルスとは生息した時代が違っているから、遭遇する事は無かっただろう。

恐竜マニアの中でも人気のある存在だが。

もしも自分がユタラプトルだなどと自称する存在が、ツインテのフリフリだと分かったら、ファンは皆怒るのではないか。

此方の思惑を見透かしているように、ツインテの子は、にやにやと笑っていた。

「じゃ、今日の定時会合は解散」

「……?」

「解散だよ。 もしも記憶が戻り始めて苦労するようなら、連絡してくれればそれでいいからね。 多分食生活から、まず変わってくるんじゃないのかな」

嫌なことを言われた。

ぞろぞろと去りはじめる、自称変な動物の記憶持ち。

一番最後に残ったのは、陽菜乃と萌梨と、ツインテの子だけだった。

「亜暢(あのん)、一つだけいいか」

「どうしたの、モナ」

「いいのか、此奴には教えなくて」

「今の時点では、まだいいっしょ。 どうせ教えたって、対処なんて出来ないだろうし」

何の話だ。

無言のまま立ち尽くしていると、咳払いする萌梨。

「話すが、いいか」

「まあいいけど。 あまりお勧めはしないよ?」

「……記憶が戻りはじめると、食生活にも影響が出るって話はしたな。 肉食恐竜だったら当然肉が好きになる。 私の場合は、今までは別に好きでも無かった烏賊が手放せなくなった。 家にはスルメをたくさんおいている。 そうでないと、苛立って仕方が無いからだ」

「へ、へえ……」

それは難儀なことだ。

確かに高校時代を過ぎるくらいから、女子の嗜好は必ずしも甘い物ばかりを好む方向ではなくなると聞いている。

スルメが大好きという、おっさんみたいな趣味の子がいても、不思議では無いだろう。

別におかしな記憶がどうのという事は、関係無いはずだ。

「それで、此処からだが。 噂によると、私達の中には、それをこじらせる奴がいるらしくてな」

「こじらせる……?」

「場合によっては、生きた動物しか受け付けなくなるそうだ」

何を馬鹿な。

そんな異常性癖が目覚めでもしたら、まともに生活なんてできなくなってしまう。はっきりいって、冗談じゃあない。

「その噂、どこから聞いたの」

「こうやって集まるようになる前は、私と亜暢だけが、情報をやりとりしていた。 ネットを介してな」

その頃、何人か似た境遇の人間と知り合ったらしいのだが。

その何人かが、原因不明の失踪を遂げているという。

「変な者と戦っている、というような事は無いと言ったが。 それも、今後は正直、どうなるかわからん」

脅かすように、萌梨がいう。

「記憶の融和反応の苦労は、私も亜暢もよく知っている。 もしも何かあったら、即座に連絡しろ。 多少は相談に乗れるはずだ」

 

訳の分からない会合から戻る。

思ったほど時間はロスしなかったが。それでも、あまり良い気分ではない。勉強したことも、かなり頭から抜け落ちてしまった。

一応、中堅所程度の大学を目指している陽菜乃としては、今のうちからもう少し勉強をしておきたい所だ。

あれは一体何だったのか。

電波な妄想を共有するサークルにしては、妙な点が散見された。友達からメール。今日の変な会合に参加したことは、もう知られているらしい。

変なことされなかったか。

金とか要求されなかったか。

聞かれたから、大丈夫と応えておく。

実際、このツボがあればとか言われて、何十万とか請求されていたら。その場でバックして、逃走していた。

それにしても、モササウルスの次は、ユタラプトルと来たか。

そうなるとその内プテラノドンやアンキロサウルスが出てくるかも知れない。そうなると、色々面白い。

いや、話を聞いていないだけで、あの中にいたかも知れないな。

くつくつと、笑ってしまう。

勉強道具を広げて、今日の復習。しばらく勉強して、やはりかなり忘れてしまっている事に気付いて、頭を抱えた。

とにかく、復習をしっかりしておけば、勉強の効率は随分違ってくる。

今日分の復習を終えた頃には、夜中の九時半を廻っていた。背伸びして、一階に降りる。両親はまだ帰ってきていない。

居間では、真理がテレビを見ていた。

恐竜を題材にしたクイズ番組だが。さっとみただけで、ろくなもんではないと、分かってしまった。

使われている定説が古い。

復元図が、露骨に手抜き。

酷いところでは、恐竜の名前まで間違っていた。

「あんた、良くこんなの見るね」

「環境音楽」

「ああ、なるほど」

テレビ局で大物扱いされている司会者が、面白くも何ともない解説をしているのを見ると、反吐が出る。

普段はこんなにテレビに毒づくことはない。

人間が好きな陽菜乃は、芸能人も嫌いじゃないからだ。

だが、環境音楽として聞き流すならともかく。かなり古くなっている仮説を、最新のもの、みたいに言われれば、当然頭にも来る。

テレビの前から離れると、夕食の準備に取りかかった。

備蓄は多くないので、適当に作る。

レトルトでも別に良いのだが、せっかくだからしっかりしたものを作ろう。そう思って、余っていた卵類を使って、オムレツにした。

真理もまだ夕食を食べていないというので、真理の分もさっと仕上げる。

ご飯を並行して炊いて、他にもスープをレトルトで作った。

品を並べる。

二人で並んで、夕食にした。

オムレツはそこそこに良く出来た。卵もふわふわだし、丁度良い感じに味付けも出来ている。

真理が、食べながら言う。

「勉強は順調?」

「そこそこにね。 志望校はどうにかなりそうだよ」

「そう。 それは良かった」

テレビで、また古い情報を流している。その恐竜は卵泥棒じゃねえってのと、言いたくなってきた。

苛立ってきたので、テレビはチャンネルを変える。

荒唐無稽な時代劇が映ったが、まだその方が良い。好きだからこそ、調査不足な内容を放送されると、かんに障るものだ。

たとえば、仮説として取り上げるのなら良い。それならまだ我慢も出来る。

だがクイズ番組として、仮説を真実扱いされると、イライラさせられるものがあるのだ。

真理も陽菜乃の意図が分かったらしく、何も言わない。

環境音楽だったら、時代劇でも別に良いのだ。

「もう少しまともな内容だったらねー」

「歴史のクイズも酷い内容。 昔は分からなかったけれど、最近は見ていて呆れる」

真理がぐさりと直球を投げた。

確かにおおむね同意できる。どうせ老人しか見ないだろうと高をくくって、適当に作っているのが一目で分かる。

ふと、気付く。

時代劇で、血が出るシーンが流れたのだが。

其処で、不意に目を引き寄せられた。

どうせ毎月血が出る所は目にするのだが。何だか、雰囲気が違う。真理がこっちを見ている。

普段は視線を合わさずに会話するのに。

「どうしたの?」

「今、何か欲しそうな顔をしてた」

「いや、別に何も欲しくないけれど」

「……そう」

話は途切れる。

真理は鋭い。

今、陽菜乃は。見ていて思ったのだ。

一瞬だけだが。確かに感じた。

血を見て、美味しそうだと。

 

夢を見る。

走る夢だ。左右には、同じような姿の者達が併走している。羽毛が生えた、肉食恐竜。走る速度は、時速五十キロを超えていた。

これは、分かる。

ティランノサウルスの、最新の狩のモデル。

追い立てているのは、角が立派なトリケラトプス。三本の角を生やしたトリケラトプス達が、必死に走って逃げる。逃げる速度は、子供のティランノサウルスと、あまり変わらない。

だが、それは。

追い立てているだけなのだから、当然だ。

追い立てるのは、子供達。そして、適当なところで、待ち伏せしていた親が、トリケラトプスに襲いかかる。

その顎の力は、八トンを超えるとも言われる、死のはさみ。

噛みつかれてしまえば、ひとたまりもない。

トリケラトプスの一頭が、首をかみ砕かれて、即死。大量の鮮血が噴き出す中、もはや追う必要もなくなった子供達が戻ってくる。

凄まじい顎の力で、トリケラトプスを解体。肉は美味しい。遠くから、逃げ延びたトリケラトプス達が、此方を見ていた。

積極的に狩をするばかりではない。

勿論、死肉を漁りもする。

ただし、死肉にありつける頻度はそう高くない。例えば食べがいがあるのといえばアラモサウルスをはじめとする雷竜だが。巨大な雷竜が、そう都合良く死んでくれるわけでも無い。自衛能力も備えている彼らは、百年以上も生きるのだ。

生きるためには、出来る事は何でもする。

それは今の時代も同じ、野生の生き物たちがするべき、基本的な事。

骨ごとかみ砕きながら、獲物を平らげると。子供達が丸まって休みはじめる。

そうなると、今度は大人達が周囲を見張る。

大人は動きが子供に比べて鈍いから、どうしても狩ではとどめが専門になってくる。子供は、群れの宝なのだ。

トリケラトプスの群れを追っていた一頭が戻ってくる。

運んできたのは、中型恐竜の死骸だ。腹が減っている個体が、二頭で引きちぎってわけ、食べ始めた。

ふと、光景が切り替わる。

いわゆるゴジラ型の、直立したティランノサウルス。走る速度は、時速八キロくらいと言われていた時代のものだ。

足跡などの状態から、今は否定されているスタイル。

もしもこのスタイルで恐竜が生きていたら。

さぞや、白亜紀は、ゆっくりした時代だったのだろう。

目が覚める。

ぐっしょりと、パジャマに汗がしみこんでいた。よだれを飲み込んだのは、どうしてだろう。

一階に下りる。

真夜中だ。誰も起きていない。両親も帰ってきてはいたが、既に寝室で、夢の中だった。

今日の夢は、何だったのだろう。

子供のティランノサウルスの視点で始まったような気がしたのに。いつの間にか視点がコロコロかわって、挙げ句の果てに古い復元図の話になっていた。

それよりも、大事なのは。

あの渇望。

肉が食べたいという、飢えの発露だ。

冷蔵庫を開けると、肉があった。焼いて食べようかと思うが。しかし今は夜中。止めた方が良いだろう。

手を引っ込めようとして。

肉に、視線が釘付けになっている自分に気付く。

ああもう。

昼間、あんな連中と、話すんじゃなかった。そんな、信念に背くことを、考えてしまう。

誰とも仲良くなりたい。

コミュニケーションを図っていきたい。

それが陽菜乃のモットーではないか。あの人達がちょっとおかしいのは認めるが、そんな事くらいで、信念を曲げるのか。

陽菜乃の信念は、そんな程度の代物だったのか。

違うはずだ。

冷蔵庫を閉じる。肉の誘惑を、断ち切るように。

明日も学校だ。勉強をしっかりして、適切な大学に行く。それだけで、未来はだいぶ変わってくる。

この外向的な性格は、社会では武器になる。

内向的というだけで、社会では差別されるものだ。外向的と言うだけで、それだけ+になるのなら。

この性格を維持していけば。

ふと、我に返る。

なんで、こんな事を考えているのだろう。

ベットに潜り込むと、丸まって眠った。

いつからだろう。こうやって丸まっていると、眠るのがとてもスムーズになった。今日も、丸まって眠る。

肉食恐竜が眠るなら、多分こういうふうに眠るのだろう。

何だか、そんな考えが、頭の片隅をかすめていた。

 

3、敵対者

 

電話が急に来たのは、学校を出た直後。

見たことが無い番号かと思ったのだが、違う。あのツインテの奴からだ。確か、亜暢といったか。

電話を取る。

不意に、空気が緊迫した。

「すぐにその場から離れて」

「え? どういうこと」

「説明は後。 駅前辺りに急いで。 このままだと、周囲にいる人間まで、巻き込まれるよ」

電話が切れる。

笑い話だとは、とても思えなかった。学校が終わった時間帯だというのが救いか。小走りで、駅の方に急ぐ。

途中、電話をかけ直してみる。

掛からない。

電話を使用中の様子だ。これはひょっとすると、本気で何かがあったのかも知れない。

駅前に出た。

いつも通りの、繁華街を通って。駅前は、いつものように、行き交う人々で満ちていた。何も無い。

ただの悪戯だったのか。

そう思った瞬間。

世界が、一変した。

 

あまりにも急激な変化だったので、何かの冗談かと思ったほどである。

一面の荒野。

赤茶けた大地に、生命の気配はない。

空までもが、異常な色をしている。青いのではなくて、どちらかと言えば、土気色に近いのだ。

雲が一面を覆っているのだが、その分厚さがおかしい。

更に妙なのは、気温だ。

春になって、暖かくなってきていたのに。どうして、肌寒くさえ感じるのか。

此処は、今までいた所とは違う。

いや、おそらくだが。

地球でさえ、無いかも知れない。

さっきまで、駅前だったのに。どうして、こんな場所に、陽菜乃はいるのか。何か、悪い夢でも、見ているのでは無いのか。

唖然として固まっている陽菜乃は、気付く。

前から歩いて来る奴がいる。

この状況。

とても、無関係とは思えない。

「誰……!?」

パーカーを着込んだそいつは、陽菜乃より少し年下の男の子に見えた。ただし鼻にピアスを付けていたり、顔の右半分に入れ墨をしていたりと、正直ろくな輩には思えない。だが、見かけで相手を判断するのは、早計だろう。

男が、十メートルほど前で、足を止める。

「もっとゴリラ見たいのを想像してたんだが。 いい女じゃねえか。 それに、不特定多数の中に紛れるつもりだったな。 案外頭も切れるみてえだな。 俺の能力は、その上を行っていただけなんだがな」

「褒めてくれているのかな? だとしたら有り難う」

「毒気が抜かれる対応だな。 まあいいけどよ」

パーカーの下に見える顔は、不良とかそういう次元ではない。どう見ても、犯罪に手を染めることに、なんら躊躇しない輩だ。

目にはらんらんと狂気が宿っている。

欲望のためであれば、他者を傷つける事など、なんら躊躇しない。文字通り、エゴの化け物。

ただ、それでも、陽菜乃はコミュニケーションを試みたい。

「それで、この世界は何? 知っているの?」

「知っているも何も。 あんた、多分ティランノサウルスだろ。 あんたが滅んだ世界の光景だよ。 分からないのか」

「……」

今度は、陽菜乃を暴君竜呼ばわりか。

この青年は何者なのだろう。

逃げられるとは思えない。バックの中には、一応防犯グッズくらいは入れてきているが。本気になった男を、どうにか出来るだろうか。

そうは思えない。

周囲にある石に、一瞬だけ目をやる。

一瞬でも相手を怯ませることが出来れば。

しかし、相手も無事で済むとは思えない。幸い、辺りは何も無い荒野。相手から見えないくらい距離を取れば、逃げ切れる可能性もある。

「何だよ、鈍い女だな。 調査によると、スポーツ万能、勉強も出来るって聞いていたのになあ。 俺たちの王になり得る器だって思ったのによぉ」

「貴男達の、王?」

「そーだよ。 俺たちは二億年も、場合によっちゃあ四億年以上も好機を待っていたんだからなあ。 分かるか? あんた達より更に三倍だぜ?」

二億年前。

これはまた、凄いことをいう相手が出てきたものだ。

二億年前と言えば、確か三畳紀。

地上にはゴンドワナ大陸という巨大大陸が存在していたはず。そして、丁度二億年前くらいに、巨大な絶滅が起きている。

恐らくは、隕石によるものだろうと、言われている現象だ。

「それで、二億年前がどうかしたの?」

「俺はあんた達からすれば被捕食者に相当するささやかな生物でな。 出来れば、この世界を取り戻した後は。 あんたたちに、俺たちの上位存在になって欲しいと思っているんだが」

たとえば、女王のように。

そう男は言うが。

とても、そのように、思っているとは感じ取れない。まるきり陽菜乃を獲物として見ているようにしか思えなかった。

本当に、一体何なのだろう。

日常が、音を立てて崩壊していく。

逃げ切る算段は。

陽菜乃は12秒半程度で100メートルを走りきる自信はある。

この不健康な男では、其処までの速度は出せないか。いや、分からない。男子だと、早い人物は、11秒台で走る。

それに、この間の、萌梨の足の速さを考えると。

逃げ切ることが出来るのかは、微妙だ。

乱暴されるのだけは、どうにか避けたい。女子にとって、乱暴されることは、本当に死ぬよりもつらいことなのだ。

この男が、会話が成立する相手だとはとても思えないが。

それでも、今の時点では、会話がどうにか成り立っている。少なくとも、相手は、陽菜乃に用件を伝えてきている。

もっとも。

陽菜乃が拒否したら、その瞬間逆上する可能性は高い。

それに、拒否しないように、予防線くらいは用意してきていても、おかしくはないだろう。

「で、返事は」

「いきなり王なんて言われても困るよ。 アンモナイトさん? それともベレムナイトさんかな」

「鋭いが、俺は海の連中とは違う」

「それじゃあほ乳類型爬虫類かな」

男の様子からして、そうだと言うのだろう。

有名所とすればディメトロドン辺りだが。いずれにしても、まともな世界の住人じゃない。

二億年も待ったなんて言っているのだ。

どうみても、二十年も生きていないだろう人なのに。

「無駄話はいい。 返事は」

「少しは待ってくれないかな。 私にも、生活とかあるんだから」

「駄目だね。 俺の経験上、仲間に引き込んだ奴は、だいたい強引に話を進めないと、逃げようとするもんだ。 殆どの奴は警察に連絡したり、保護を頼んだりな。 俺としても、あんたの家族を人質にしたりとか、手間暇掛かる事はしたくねーんでな」

ふつりと、今の瞬間、何かがキレた音がした。

真理はあれで、ぶっきらぼうで無神経で。自分さえ良ければ良いところがある。だけれど、こんなプッツン男に、好き勝手させていい子では無い。

人質に取るだと。

この男を、ぼこぼこにして警察に突き出すには、どうしたら良い。

本物のディメトロドンだったら、全長三メートルを超える、しかも四つ足の動物だ。人間などとは出力が違いすぎるし、勝てる訳がない。

人間の身体能力なんて、狒々と同程度でしかない。

家畜動物を相手にして見ればよく分かるが、牛や馬は、人間などとは比較にならないパワーを持っている。牛に渾身の打撃をプロの格闘家が撃ち込んだことがあるらしいが、牛は小揺るぎもしなかったという。

三メートル級の生物となると、その牛や馬と、同レベルの相手だと見て良い。

だが、目の前にいる奴は。

どうみても、ちょっと頭のおかしい、人間だ。

「何だ、俺とやる気なのか。 だが、能力が覚醒してもいないなら、暴君竜でも、多少スペックが高い人間程度だぜ。 俺を相手にどうにかできると……」

「とにかく、此処から出して! このヘンタイ!」

「ほう? それは挑発か」

「警察につきだしてあげるんだから、このサイコ男!」

鼻で笑った男が、大股に近づいてくる。

チャンスは、あまり多くない。

もしも掴まれたら終わりだ。陽菜乃は一応柔道も高校の授業でやったことがあるが、所詮は付け焼き刃だ。

勝てる訳がない。

ましてや、こんな犯罪に手を染めることを厭わないような奴は、他人が傷つくことを、何とも思っていない事が大半。

それだけで、戦闘能力は、ぐんと引き上げられるものなのだ。

男が、余裕綽々で近づいてきた、その時。

その鼻先に、痴漢撃退用の唐辛子スプレーを、叩き込んでやった。

流石にこの奇襲は、効果があった。

ぎゃっと悲鳴を上げて、のけぞる男。

すぐ側の石を掴むと、後ろからタックルを浴びせる。もんどり打って倒れる。体格は向こうの方が上でも、背丈はこっちと殆ど同じ。

これなら、後ろから全力で不意打ちを浴びせれば。

そして、馬乗りになったところで、石を何度も頭にぶつけた。がつん、ごつんと、嫌な感触が、手に伝わってくる。

「痛っ! いてえな、このアマっ!」

「緊急避難で、正当防衛なんだからっ!」

もう一度、顔に唐辛子スプレーをぶち込んでやる。

こっちまで少し飛散が来て、咳き込むが。相手は顔を覆って、ぶつけられる石から身を守るので必死だ。

このまま、どうにか出来るか。

もう一回り大きい石を掴む。これでぶん殴れば、或いは。

手を、掴まれたのは。

その時だった。

石を振り上げた手を、誰かが掴んでいる。それだけで、ぴくりとも動かなくなる。見上げた先には。

自分より何歳か年下らしい女の子がいた。

ずっと背丈も小さくて、顔立ちもあどけない。だが、その目に宿っているのは、明らかな狂気だ。

「ディメトロドン、何をやっているのさ」

「うっせーよ、メガテウシス! エンドセラスの姉御にでも言われて来たってのか!?」

「とにかく、覚醒前の相手に、何好き勝手されてるの」

「うっせえ!」

軽々と、自分より小さくて細い子に、放り上げられる。

悲鳴を上げたのは、パーカー男に、馬乗りになられたからだ。

それに、気付く。

相手は、石であれだけ殴られたのに、ほとんど効いているように見えない。だいたい、メガテウシスと言われた子の手に掴まれていた右手首に、走っている痛みは何だ。

メガテウシスというと、あれか。

ベレムナイトの中でも、最大級の体格を誇った。

それに、もっと嫌な名前も出てきていた。

エンドセラス。

かって、4億年前以上の海に君臨した、特大の直角貝。最大で十メートルにも達した、頭足類のご先祖様。

そんなものを名乗るのが、どんな奴なのか、想像も出来ない。

「離して、よ!」

「こう暴れられるとなあ。 いてっ!」

最後の賭け。

金的を蹴り挙げたのだが、ちょっと痛がっただけ。

これは、もう駄目かも知れない。

体を好き勝手されるくらいなら、舌を噛んでやる。それで死ねないとしても、多分大量に血が出るから、相手も頭を冷やすはずだ。

意識が飛んだのは、その後。

頭を、おそらくメガテウシスと言われた女の子に、蹴られたのだ。

 

暗闇の中で、ゆっくり意識が戻ってくる。

冷たい床に転がされているのが分かった。

後ろ手はガムテープで縛り上げられていて、足も逃げられないように、足首辺りで。口にもガムテープが貼られている様子だった。

悲鳴を上げたくなる。

乱暴はされていないか。

もしされていたら、ヨメに行けないどころでは無い。恐怖に、心がわしづかみにされていた。

とにかく、動けないか。

手は駄目だ、非常に頑強に縛り上げられている。

足の方は。

こっちも。四苦八苦しながら、どうにか座っている状態にまで、体を立て直すので精一杯だった。

此処は、何処か。

床があると言うことは、多分あの訳が分からない荒野では無いはず。

だいたい、どうしてあんな訳が分からない荒野に、一瞬で移動していたのか。それが既に、理解できない。

なんで、こんなことになってしまったのだろう。

確かに日常は崩壊した。

記憶がどうとか、そう言う問題ではない。

変な人達に目をつけられて、もはや嫁に行けないかも知れない。どうしてくれる。誰が責任を取ってくれるのか。

それに、こんな事までされて、生きて帰れるか分からない。

陽菜乃はどうなってしまうのだろう。

涙が零れてくる。

出来るだけ気丈に振る舞うようにとしていたのに。

神様なんていない事は分かっていたけれど。此処までの仕打ちをされる落ち度は、何かあったのだろうか。

非行の類はした事が無い。人様に顔向けできなくなるようなことなど、一つだってしていない。

世の中が不公平だって事は知っていたけれど。

これはいくら何でも、あんまりではないのか。

不意に光が差し込んでくる。

何処かの部屋に自分がいて、ドアが開いたのだと分かった。ぐっとにらみつけてやる相手は、あの女の子の方。

メガテウシスとか名乗っていた子だ。

「あ、起きてるや」

「んー! んーんー!」

「今姉御を呼んでくるからねー」

完全に無視されて、ドアを閉められた。もぞもぞと動きながら、ドアの方に。上手くすれば、逃げられるかも知れない。ドアには、鍵が掛けられる音がしなかった。

一瞬だけ見えた様子からすると、此処は何処かのビルだ。

それなら、どうにか外に出れば。

通行人に、発見して貰えるかも知れない。

とにかく、こんな状況。陽菜乃にどうにか出来るはずもない。警察に任せるしか、方法がない。

ドアに寄りかかって、苦労しながら、立ち上がる。

ノブがあるのがわかった。背中越しに後ろ手で掴む。そして、ゆっくり、廻していく。かちりと音がして、開いた。

だが、向こうからドアが引っ張られて、倒れる。

床に倒れたところで、天井が見えた。蛍光灯はちかちかしていて、しばらく変えていないようだった。

「はーん、まだ逃げようとする気力があるのか」

メガテウシスが、ドアを開けたらしい。

ひょいと、猫でもつまむようにして、抱え上げられる。この子、ちみっこいのに、なんて怪力か。

影がなかった連中といい。

これは一体、どういうことか。変なお薬でもやっていて、力のリミッターが外れてしまっているのか。

「んー! んー!」

「暴れるようなら、首をこきゃってやるよ?」

「んーんー!」

もがくが、逃してはくれない。

メガテウシスという子は、パーカー男と違って、格好はそれなりにしっかりしている。ボアのついた靴下をはいたりしているから、小学生だろうか。

とにかく、簡単に抱え上げられて、別の部屋に。

これだけ好きかってしても、誰も来ないのは、どういうことか。

ビルに子供が出入りして、勝手な事をしていて。警備員や、働いている人は、いないのか。

電気が通っている所からして、廃ビルではないだろうに。

何が起きているのか、やっぱり理解できない。

別の部屋に入ると、ソファに無理矢理座らされた。首をいやいやと振って、どうにか逃れようとするが。

ひんやりとした空気を感じて、正面からの視線に固まった。

何処かの社長室か。

ソファの向こう。

デスクについているのは、見るからにやばそうな女だった。

多分三十手前くらいだろう。ウェーブの掛かった薄紫の髪。それだけでもかなりやばそうなのに、綺麗な顔に、横一文字に走っている向かい傷。

背丈は、陽菜乃よりも、更に高そうだった。

一目で分かる。カタギじゃない。

あんな色に髪を染めているし、何より着込んでいるのは何だ。チャイナドレスか何かだろうか。

「ふん、ティランノサウルスを捕まえたって聞いたけれど、まだ覚醒もしていないようだねえ」

「あねごー、この子、どうします?」

「邪魔になるようなら殺す。 それにしてもディメトロドン、失態だったね。 覚醒もしてない相手に、馬乗りになられて、石で散々殴られたって?」

「面目ない、姉御」

見ると、デスクの側には、パーカー男もいる。

他にも何人か、護衛らしいのが控えている様子だ。これはちょっと、脱出できそうにない。

話を合わせて、隙をうかがうか。

だが、それにしても。

もう、これで最後だと、覚悟を決めた方が良いかもしれない。

護衛らしいのは、背格好も年齢も、性別もまちまちだ。スーツを着込んだSPっぽいのもいるかと思えば、メガテウシスみたいに、何処かの小学校にいても違和感がない子もいる。

気がつく。

共通して、全員に影がない。

「前は同士を探すのに、二十年三十年と掛かったものだがねえ。 近年はとても話が早くて、分かり易い」

無理矢理、ソファから立たされて。

そして、あねごと呼ばれている女の前に。

この女が、状況から言って、エンドセラスと呼ばれているのだろうか。エンドセラスと言えば、一時期の海を支配した王者だ。

ティランノサウルスと言われても違和感が大きいが。

この女も、また色々と、おかしいように思えてならなかった。

「無理にでも覚醒させるかねえ」

「今でもディメトロドンが手に負えないのに、大丈夫ですか? ティランノサウルスの能力が覚醒したら、何が起きてもおかしくありませんよ?」

「あたしがいてもかい?」

「いえ、失言でした」

禿頭のSP風の男が、平謝り。

立場と言うよりも、力の差から来る上下関係に思えた。

それにしても、エンドセラスと呼ばれる女性は、よほど自信があるのだろう。陽菜乃がぐっとにらみつけていても、まるで応えている様子が無い。

確かに、一時期海を支配した存在であれば。

陸上の歴史で最強の捕食者を前にしても、怖れる理由がないのかも知れない。

だが、それは狂人の妄想。

そう言いたいのだが。

さっきから見せられる怪奇現象に、脳の処理が追いつかなくなってきている。本当に此奴らが言っていることが本当だとしたら。

エンドセラスが煙草を出す。

SP風の男が、絶妙のタイミングで火を付けた。煙草をこんな所で吹かしても大丈夫という事は、火災報知器はないのか。

古いビルとは、色々難儀なものだ。

「まだ、納得していない様子だね。 誰か、特殊能力を、一つか二つ、見せてやると良い」

「じゃあ、俺が」

ディメトロドンが前に出る。

ぱちんと指を鳴らす。

やはり、いきなりだった。

周囲が、荒野に変わる。

あの時と同じ。やはり、荒野に陽菜乃を引きずり込んだのは、此奴だったのか。

目の前で見せられても、やはり信じられない。何かの幻覚の可能性もある。或いは、催眠か何かか。

どちらにしても、納得なんて出来ない。

デスクだけは、其処に残っている。じっと此方を見ているエンドセラス。

「まだ納得できないみたいだねえ。 ディメトロドン」

「えっ、これ以上、やるんですか」

「ボスの仰せだ」

「分かりましたよ、もう」

ディメトロドンは、やはりかなりエンドセラスに比べると、立場が弱いらしい。命令されれば、動くしかないという風情だ。

頭がおかしい人達にも、社会と同じ上下関係がある。

「先代のディメトロドンは、名まとめ役だったのにな」

「親父のことを言うのは止めてくださいよ。 俺だって、記憶こそ引き継いでますけど、覚醒して三ヶ月しか経ってないんですから。 そうじゃなきゃ、覚醒してない相手に、遅れなんて取りませんよもう」

SPに、ディメトロドンがぶつぶつ言いながら、息を吸い込む。

何が起きたのか、一瞬理解できなかった。

パーカー男の背中に。ディメトロドンの象徴としてあまりにも有名な、扇状の背びれが出現したのである。

それに、見るからに、プレッシャーが増した。

震えが来る。

勝てない。

肌で、分かってしまう。

「あー、しんど。 これ、まだトリックとかと思ってんの?」

「その程度だったら、まだトリックで出来るでしょ」

「メガテウシス、てめーは」

鼻を鳴らしながら、メガテウシスが、右手を振るう。

瞬間。

其処にあったのは、明らかな喰腕だった。烏賊が獲物を捕らえるために用いる、二本の長大な腕。

それで、一瞬にしてディメトロドンを捕獲すると、放り投げたのである。

四メートルは、飛んだ。

それも直上方向に、である。

そして、着地してみせるディメトロドン。気がつくと、メガテウシスの手は、元の愛らしい女の子のものに戻っていた。

「てめー! いくら何でも、そりゃあねえだろ!」

「だって分かり易いもーん」

「姉御! ちょっと今のはあんまりだ!」

「キャンキャン吼えるな。 お前の親父には世話になったから失態を見逃してきてはいるが、この間のミスのこともある。 このくらいは我慢しろ」

エンドセラスに言われると、ディメトロドンも黙らざるを得ないらしい。

押し黙ったディメトロドン。

どうやら。

本当に、此奴らは。

少なくとも、人間では無い、という事か。

「お前にも、こういう力が備わっている」

エンドセラスが、いつの間にか、陽菜乃の口のガムテープを剥がしていた。一体いつの間に。

動いたのが、全く感じ取れなかった。

呼吸を整えながら、地面を見る。

額から垂れた汗が、地面に染みを作っているのが分かった。本当にもう、日常には戻れないのだろうか。

嗚呼。

嘆きが、漏れる。

「何が……」

「うん?」

「一体何をするつもりなの? こんな訳が分からない能力で」

日常生活に、必要ない力。

これから大学受験をするのに、こんな特殊能力が、何の役に立つ。それだけじゃあない。容易に予想できるのだ。

変な力を持っている人間が、どのような末路をたどるのか。

鼻で笑うエンドセラス。

「聞いていないのか。 そこのディメトロドンから」

「言いました」

「分かっている。 比喩的な意味での言葉だ。 まあ、分かり易く説明すると、こんな感じだ。 我々は、長い事をかけて、社会的な勢力を増してきた。 最終的な目標は、この地上の覇権を奪還することだ」

世界征服をするつもりはないと、エンドセラスは言う。

ただ、人間をコントロールする環境を作るつもりはあると、宣う。

今の社会は、あまりにも生きにくいのだと。

「昔、我々の同胞は、神々と呼ばれていた。 当然の話で、人間よりも遙かに強い力を発揮できるのだからな。 だが、残念だが、それも時代の移り変わりと共に、扱いが変わっていった。 我々は、身を隠さなければならなくなった。 かって地球を支配していたの、だ」

「……」

「お前も、すぐに身を隠さなければならなくなる。 お前の仲間の連中も、身を隠す術に長けていたはずだ。 覚えがあるのではないか」

言われて見れば、確かにそうだ。

影が無いと言うのは、どうしてだろうと思っていたが。あれも、その技術の一つなのかも知れない。

謎の敵など、存在はしない。

存在するのは、同胞。

そして、それが最大の脅威になる。

「よく考えるんだな。 仙人のような隠遁生活を送って、追っ手に怯えながら逃げる日々を過ごすか。 それとも、欲望のまま好き勝手に、楽しく人生を送るか」

解放された。

くびきを解かれる。辺りは、いつのまにか、元のビルの内部に戻っていた。

玄関まで連れて行かれて、外に突き飛ばされた。

そのビルは、意外にも。

最寄りの駅前にあって、見慣れているものだった。

 

家まで、どう帰ったか、よく覚えていない。

気がつくと、ベットの上で横になっていた。

陽菜乃にとって、日常とは何だったのだろう。誰とも仲良くしていこうと考えていたのは、ひょっとして。

自分がああいう連中だと同じだと知っていたからか。

だから怖くて、誰とでも、仲良くすることで。いざというときに、少しでも味方になってくれる人を、増やしたかったのか。

ぞっとする。

いつの間にか、口のガムテープを剥がされていたこと。

手が、触手になっていたこと。

背中からせびれ。

それどころか、空間を荒野に変えてしまう力。

あんな力が備わっていたら、良い事に用いることなんて、出来るわけがない。異常者扱いされて精神病院に入れられるか、或いは。

政府に捕まりでもしたら、何をされるか。

ホルマリン漬けにされるくらいなら、むしろラッキーかも知れない。死ぬまで子供を産むことを強いられる可能性もある。

嘆きが零れる。

いずれにしても、もう日常は終わりだ。

どうするか、身の振り方を、早いうちに考えなければならない。

そして、自分の事だけではない。

真理のことも、どうにかする必要がある。自分だけ失踪して、逃げる事は出来るかも知れないが。

真理はどうする。

明らかに、真理もヤバイ。

まだ陽菜乃は特に変な能力が出ているわけでは無いが、あの異様な記憶がある以上、ほぼ黒とみて間違いないだろう。

そして、それは真理も同じ。

身を起こす。

真理の部屋をノックした。出てきた真理は、片手に携帯ゲームを持っていた。多分何かよく分からないゲームを遊んでいたところなのだろう。

「どうしたの?」

「……何でもない」

声は掛けてみたが。

どう言って良いのか分からない。それに、変な能力が出ない可能性だって、あるじゃないか。

部屋に戻る。

真理は何か言いたそうにしていたが。結局、何も言うことは無かった。

ベッドの上で、声を押し殺して、陽菜乃は泣いた。

もう、どうしていいか分からない。

 

4、道しるべのない行く先

 

受験生だと言うことなんて、忘れかけていた。

それでも、学校に向かったのは、悲しい学生の本能からだ。一体陽菜乃は、何をしているのだろうと、自問自答する。

このままでいいのか。

いいはずなどない。

だが、どうして良いかも、よく分からない。

萌梨に連絡してみる。どうやら、あちらも、大変なことになっているらしい。メールで幾らかやりとりしたが、失踪者が出ているそうだ。

ただ、元々失踪してもおかしくないような状況にいる者達だ。

ニュースになることも無い。

新聞も騒いではいなかった。

仮に騒いでも、すぐに飽きて沈静化してしまうだろう。

人間に対する考え方が辛辣になってきているのが、よく分かる。だが、それを良くない事だと、思わなくもなりつつあった。

教科書を鞄に詰めて、学校に出る。

普段通りの路を行っているはずなのに。どうしてだろう。まるで別の人達がいるように思えてきた。

挨拶をしていくが、誰も陽菜乃には興味を見せない。

いや、違う。

最初から、そうだったのだ。

陽菜乃が前向きに、人間を良い方に解釈していた。だから、挨拶すれば、返してくれると思っていた。

確か、子供に挨拶したら、通報されたという事例があったはずだ。

陽菜乃は、人間に、何を期待していたのだろう。

ため息が漏れる。

この人達は、ずっ陽菜乃を、気味が悪い女、くらいに考えていたのだろう。そして、挨拶される度に、内心で見下していた、というわけか。

笑いたくなる。

挨拶するのを、途中で止めた。

周囲からの見下す視線が、棘のように全身に突き刺さってくる。今まで、どうして気付いていなかったのだろう。

学校に到着。

光景が、一変していた。

違う。雰囲気が、変わっているのだ。

よっちやみかこ、さなちゃんは別に構わない。その他の、友達も、皆前とはさほど変わっていない。

違うのは、それ以外。

こんなに、陽菜乃は、敵視されていたのか。

敏感になったのか、理解できる。陽菜乃を敵視する視線が。憎む意思が。

八方美人の、脳タリン。

そう呟いている声が聞こえた。

主に女子からの敵意だ。誰とも仲良くしようという姿勢を、そもそも不快に思っている人達が、こんなにもいたのか。

それだけじゃあない。

成果を上げているという事を、嫉妬している声も聞こえてきた。

勉強も、ただ出来るんじゃない。陽菜乃は努力して、それでやっと一定の成績を上げている。

身繕いだってそうだ。

女子らしく、美しく繕うことに、どれだけ苦労を重ねているか。体型を維持するのも、眉毛やらを整えたり、爪を綺麗にしたりするのも。

どれだけ努力している、という事は、周囲に話しているはずだ。

それなのに、どうして。

ビッチという声も聞こえた。

複数の男子と仲良くしているというのが、その理由であるらしい。息が止まりそうになった。

この忙しい時期に、男女交際などしているはずがない。

というか、好きな男子もいない。

男子と話しただけでビッチか。いや、違う。声が聞こえてくる。自分が好きな男子に声を掛けているというのが、その理由であるらしい。自分では、話す事も無いのに、だ。

そんな馬鹿な。

此方はただ友人として接しているだけだ。好きになってもらおうという努力も何一つせず、それなのに、ただ接しているだけの相手に嫉妬するとか、その精神構造がどうなっているのか、割と本気で理解できない。

これは、一体何だ。

人間の思考回路っていうのは、こうもおぞましく、醜いものだったのか。今まで、前向きに捕らえようと頑張ってきたのに。その全ての努力を、踏みにじられたような気がした。少女漫画に出てくる陰湿なイジメなんて、本当は、最悪の意味での、ただの「お遊び」ではないのかとさえ思えてきた。。

人間は、邪魔な存在を排除したいと思う。

それが、直接的な利害関係がなくてもだ。目障りと言うだけでも、だ。

そのためにはどんな理不尽でも振り回すし、相手に何をしても気にも病まない。

「どうしたの、陽菜乃さん」

よっちが心配そうに声を掛けてきたので、適当に誤魔化しておく。

今までは見えなかったものが。

日常から外れたことで、どんどん視界に入ってくる。否、多分それは違う。今までは見えなかったのではなくて。

見えているのに。

見えていないと、自分に言い聞かせていただけ。そうなのではあるまいか。

呼吸が、乱れてくる。

一体どうして、このようなことになってしまったのだろう。胸が恐怖と悲しみで、締め付けられるようだ。

授業中も、それに変わりはない。

教師は、陽菜乃を徹底的に視線で嬲っていた。確かに陽菜乃はそこそこに発育が良い方だが、胸や首筋に、視線を酷く感じる。これでは、頭の中で、陽菜乃をどんな風にしていても、全く不思議では無い。

何度も、吐きそうになった。

これが、人間のコミュニティの実体なのか。本当は、今までも気付いていたのに。見て見ぬふりをしてきたものの、真実だというのか。

心が、音を立てて折れていくのが分かった。

 

机に突っ伏していると、みかこが側に立っていた。腕組みして、此方を見下ろしている。みかこは、しらけた目で、陽菜乃を見ていた。

「どうしたんだよ、急に」

「うん、ちょっと体調が悪くて……」

「いつもは気味が悪いくらいにアッパーテンションのくせに。 よっちが心配して、声を掛けろって言ってきたんだが。 あのヘタレモヤシが」

「ん、ごめん」

こわくて、みかこの顔が見られない。

他の人間の、今まで気付かなかった負の側面を、露骨に見せつけられるこの状況。親友が、同じように考えているのが分かってしまったら、再起不能だ。引きこもりにでもなるしかない。

「何があったか知らないけどさ、あの変なジャージ女の影響?」

「多分違う……」

それに、もしも違うのだとしたら。

みかこを、こっちに巻き込むわけにはいかないのだ。

今まで、授業の後は復習を必ずしていたのだが。それも今は、とてもする気にはなれなかった。

「こりゃ重症だわ。 まさか恋煩い?」

「だったら楽しいんだけれどね」

どうしてだろう。

こうしても、聞こえてくるのだ。

ビッチのくせに、何を繊細ぶっているんだと。

吐き気がするおぞましさ。根拠のない誹謗中傷。努力が欠ける人間からの、無意味な嫉妬。

たとえば、陽菜乃が何の努力もしないで成果を上げているとかだったら、批判されるのも理解できる。

だが今ぶつけられている誹謗中傷は、殆どが根拠のないものばかり。

努力もしないで遊びほうけて、それでいて何もかもが上手く行くと思っている人間が、どれだけこの世に多いことか。

悪意が、全身をむしばんでいるのが分かる。

このままだと、陽菜乃は壊れてしまいそうだ。

授業にも集中できない。

女教師もいるが、陽菜乃には良い印象を持っていない様子だ。見ていると、若いというだけで、敵意を向けてきている。

嗚呼。

人間とは、どこまでおぞましい存在なのか。

そんなどうしようもないことにまで、嫉妬と怒りをぶつけてくると言うのか。要するに、嫌いというのが先にあって、それを理論武装できれば良いと言うのではあるまいか。

放課後、学校を出る。

校門で、萌梨が待っていた。門柱に背中を預けている彼女に、道行く人々は誰も気付かない。

夕日が、長く影を作っている。つまり、今日ここにいるのは、本人と言うことか。

良く体を焼いている萌梨は、顎をしゃくった。

来るように、と言う意味だろう。

今日も、彼女には影がない。無言でついていくと、色々と、向こうから話し始めた。

「エンドセラスと接触したんだね」

「貴方も?」

「私は随分前から、声を掛けられてる。 仲間になれってさ」

この様子だと、仲間になるつもりはないらしい。

モササウルスやエンドセラスは、それぞれの時代で海を支配した猛者だ。確かに、戦うくらいなら、仲間にしたいというのが、平和的な考えかも知れない。

ヤクザの女親分みたいな奴だったのに。

意外に理性的に、ものを考える事が、出来ると言うことか。

「亜暢はどうしているの?」

「今、指揮系統を再編成している所だ。 エンドセラスが、何人か一気に引き抜いていったらしくてね」

「そう、なんだ」

「向こうに行くのは止めときな。 彼奴らは、本物のテロリストだ。 幾つか小さい国を支配してるっていう話もある」

そう言われても、実感が無い。

それよりも、周囲から感じる悪意が、体に突き刺さって、気持ち悪くて仕方が無かった。

「雰囲気が変わったね。 何か、見えるようになったのかい」

「うん……そうだね。 どうしてだろう。 今まで気付けなかったことが、分かるようになって、こんなに悲しいなんて思わなかった」

「そうか、あんたの場合は、感覚の鋭敏化が最初に来たか」

嘆息される。

似たような事で、以前苦労した経験がある、という事か。

「いずれ、どんどん人間じゃなくなっていく。 その内、特殊な能力も使えるようになるし、人間を敵としか思えなくなってくる。 私達はまだ良い方でね。 人間に直接滅ぼされた生物の意識が残ってると、もっと拒絶反応が強烈みたいだよ」

「一体、これは何なの? 私達は、何?」

「さてね。 私らの間でも、定説はないみたいだけれど。 オカルトなのか、科学的に説明できるのか、それさえも分からない。 ただ、一つはっきりしているのは。 人間と私らが一緒に暮らすのは、難しいって事だろうね」

公園に着く。

ベンチで足をぶらつかせている亜暢に気付いた。

周囲にいる人数が、半減している。

「はあ。 随分取られたね」

「コアトルやプレシオサウルスも、既に連絡がつかない」

亜暢がため息を零した。

考えて見れば。

陽菜乃も、此奴らとつるんでいるつもりはなかった。ただ、どうしてだろう。エンドセラスの所に行くよりは、こっちの方が、まだマシに思えてくる。

「一つ聞かせてくれる?」

「なあに」

「エンドセラスが、この世界の主導権を握ることを目的としてるんだったら。 貴方たちは、何をしようとしているの」

「そりゃあ決まってるでしょ。 人間から身を守るんだよ」

ああ、やはりそうか。

どちらにしても、もう陽菜乃の周囲に、味方はいない。

今までの友達も、いずれは敵へとすり替わっていく。今でさえ、これだけ激烈な反応が出ているのだ。

いずれ、もっと絶望的な状況に落ちていくだろう。

もはや、どうすればいいのか、分からなかった。

 

保存してあるBDを見る。

恐竜の滅亡について、最新の学説を述べている海外の番組だ。

技術の進んでいる日本だが、テレビに関しては海外の方が断然上だ。色々見た上で、そう判断できる。

恐竜を滅ぼしたのは、種としての劣化。

そして環境の激変。

隕石は、あくまで最後のとどめだった。

何だか私に似ているなと、陽菜乃は自嘲した。

ぼんやりBDを見ていると、著名な恐竜学者が出てくる。昔から好きな人物だ。ひげ面だが、しゃべり方が理性的で、自分の思想を押しつけない寛容さが気に入っている。

「恐竜は決して滅びたわけでは無く、鳥という存在になって、その命脈をつなぐことに成功しています。 同じように、完全に滅びた種族という者は珍しいのです。 何らかの形で、その痕跡が、現在に残っています」

だが、そんな彼でも。

まさか、古代生物の意識が、人間に宿っているなどとは思わないだろう。

今更ながらに気付く。

ぎゅっと抱きしめていた布団が、潰れそうになっている事に。

腕力が上がっている。それも、自分では制御が出来ないほどにだ。どうやら、もはや待ったなしの勢いで、人間ではなくなりつつあるらしい。

その内、肉ばかり食べるようになるのだろうか。

自嘲した。

もう、あらゆる意味で、陽菜乃は。人間ではないのだなと。

ティランノサウルスになるとして、その後何をすれば良いのだろう。身を守るために、似たような連中と一緒につるんで、山の中か何かで隠遁生活でも送るのか。それとも、必死に人間の中で、息を殺して生きていくのか。

明るい未来が、溢れていたはずなのに。

どうして、こんな事になってしまったのだろう。

人間だけしか生きることが出来ない社会に、どうしてなってしまったのだろう。

番組の中で、恐竜がもし滅びずにいたら、どうなったかのシミュレーションが展開されていた。

人間のように収斂進化した恐竜が、文明を作っていたら。

それはそれで、面白いかも知れない。

いずれにしても、今の陽菜乃は、大海に浮かぶ孤島。荒波に、どんどん体を削られていく。

それに、真理も守らなければならない。

時間は遅れていても、きっと同じような症状が出るのだろう。そうなれば、繊細な真理は、きっとこの世では生きていけない。

スマホに、メールが来た。

エンドセラスからだった。

覚悟は決まったか。

そうとだけ、書いてある。

陽菜乃は無言でメールを返信すると、BDをストップして、今日はもう寝ることにした。どうせ、結果など、決まっている。

この世は、もはや。

人間以外の知的生物が生きていける場所では、ないのだから。

 

(終)