新たなる世界の理

 

序、はじめに闇ありき

 

世界が始まった時。全ての起源になるはずの、その特異点の事は、誰も知らない。分かっているのは、この世界が一次元より始まったと言うこと。そして世界が始まると同時に、無数の世界が生じたと言うことだ。

いわゆるビッグバンである。

文字通り爆発的に生じた大量の世界は、更に無数に別れていった。一つ一つの法則が異なる宇宙が広がる中で、多くの可能性から、様々な世界が生じてきたのである。それを、可能性宇宙、或いは並行世界と呼ぶ。その中の一つ。知的生命体が優れた科学的進化を果たしながらも、遺産を残して滅び去った世界があった。

その世界に住んでいた知的生命体「人類」は、己という存在をどうするべきかで、試行錯誤を繰り返した。世界を限りある存在の身でコントロールするべきか、否か。太陽の周囲を全て覆い、そのエネルギーを丸ごと活用するほどに進化した文明世界であっても、人類は今だ戦争を繰り返し、精神的な生命体として成熟したとは言い難かった。このまま人類が更に力を伸ばしていったら、世界そのものを巻き添えに滅びてしまうのではないか。それは文明の進歩に伴って、目に見える危険として膨らんでいった。

やがて。些細な思想の違いから、紛争が続いていた地域で悲劇が起こった。テロリストが恒星間弾道弾を用いて、一恒星系を爆破消滅させるという事件が発生したのである。その被害は甚大で、直径一万光年に渡って膨大な宇宙線が降り注ぎ、これから進化するべき生命の芽が摘まれ、滅びてしまった。あまりにも傲慢な力が引き起こした、桁違いの災厄を目にした人類は、それに伴い、ついに種としての限界を感じた。結果、星間国家が連合し、あるプロジェクトを発動することとなる。

人類を超える管理者の作成。人類の文化的遺産として存在していた、完璧なる存在の創造。いわゆる、神の実現化である。

懐かしい話だと、闇の中で、佇む金髪の子供が思った。側にはこの世界で調達した観測者である、喪服の老婆が控えている。

闇は何処にでもある。最初からある。この世界でなくても、だ。

そのものは、今はルシファーと呼ばれていた。今いる世界の神話的存在に、姿を間借りしたからだ。

かっては違う名前を持っていた。名前の数は、渡り歩いてきた世界の数だけあった。ある時は光の神として。ある時は闇の覇者として。様々な方向から世界を見てきた。積極的に干渉したこともあった。何もせず、見守るだけの時もあった。

いずれの世界でも、目的は共通していた。

既に滅びてしまった創の世界が作り出した、究極レベルでの混迷打開システム、ボルテクス。新たなる世界の胎盤。それが、ルシファーの目的には、大きく関与していたのである。

球状空間の内側に、ボルテクスは創られる。そこでは元の世界に存在する全ての生命体をエネルギー化し、強力かつ個性的な思念をコアとして形を為す。多くの場合、その形はその文明に大きく影響されることとなる。精神文明が大きく発達していた場合は、ボルテクスの外壁部分に、無意識によって構成された世界が造り出されることもある。いずれにしても、創り出された知的生命達は、己の意思と覇権を巡って殺し合うことになる。やがて凝縮された最強の存在が、あるべき法則を選び取り、閉塞した世界が打開される。それが、創世の仕組みだ。

それに跨る形で、多くの世界を渡り歩いてきたルシファーは、今見つめていた。新しい世界を創造しようとしている、ボルテクスの姿を。

様々な創世があった。力による支配を絶対化し、結果一瞬で燃え尽きてしまった世界。極端な独立主義を採用した結果、泡沫の中永遠に漂うこととなった世界。ただ力だけを求めた者が、コアシステム「カグツチ」を破壊して、真の闇へ踏み出してしまった世界。完璧な秩序が導入された結果、時さえもが停止した世界。

矮小な世界もあった。何かの間違いで生じた、小さな世界達。孤独な独裁者が、己の本能だけを満たすためだけに創った世界。自由という名の混沌が、全てを覆い尽くし、猥雑に拡散した世界。ボルテクスシステムが作動後、一人残らず悪魔が殺し合った結果、カグツチがただ存在するだけになってしまった世界もあった。極小の確率で、泥から作られた亜人達が主役の、かってよりも更に矮小な世界も生じることがあった。また、全く同じもとの世界に戻るパターンさえもあった。

いずれも面白い世界だ。それらに共通していたのは。

新しく創られた世界に、神が存在しないと言うこと。

神はコトワリとして、世界の膜となって。干渉せず、憎むことも恨むこともなく。ただ、法則としてその場にある世界。それが、ボルテクスの産物の、共通点だ。

だが、結局の所、どの世界も存在しない神の体内にある存在に過ぎなかった。かって、ルシファーを作り出した者達が望んだ、究極的な進化を遂げた知的生命体は。どの世界でも、今だ現れていない。

世界と一体化することを選んだコトワリでさえ。それにはほど遠かった。

だから、色々な工夫をしてきた。今回は、悪魔でも人間でもない存在を創り出して、放つことを試してみた。それは上手く行ったので、ルシファーは満足していた。

「坊ちゃま。 人修羅が、動き出したようにございます」

「そうか。 ホルスが下らぬ仕掛けを施したようだが、それも一興よ。 さて、人修羅の神無き世界は、いかなる存在になるのだろうかな」

今回の創世は面白い。今までにないほどに、ルシファーは楽しむことが出来た。それも、間もなく終わろうとしている。

いつのまにか、金髪の子供は、白髪の老人になり、車いすに座っていた。後ろにいた喪服の女は、美しく若返っていた。

「さて、我が娘よ。 見届けるとしようか、創世を」

「はい」

喪服の女が頷く。その声には、ひとかけらの感情もこもってはいなかった。

 

1、集う強者

 

秀一は、背中を預けていた壁から離れ、立ち上がった。どうやら行くべき時が来たらしいと悟ったからだ。

回復は充分とは言えなかった。マガツヒの蓄えもしかり。バアルとの戦いで、ヤヒロヒモロギに蓄積していた分は使い切ってしまった。カズコも無理がたたってマガツヒを絞り出すのに難儀していたし、バアルとの死闘で皆も深く傷ついていた。

それでも、進まなければならないと秀一が決意したのには、理由があった。

空から、正確には世界の中心から感じる異変である。

カグツチは今まで、脈動が異常に速くなりつつも、一定の力を世界に送り続けていた。それが、急に乱れ始めたのだ。

カグツチに、何かあった。これから叩きつぶす相手だとはいえ、そのまま世界が崩壊してしまっては意味がない。このボルテクス界は狂った世界だが、創世を成し遂げず滅びれば、多くの存在が無に帰してしまう。それだけは避けなければならなかった。

バアルのいた部屋を出て、最上層へ向かう。流石にこの塔といえども、最上層はくびれて細くなっており、比較的歩きやすかった。要塞的な防御施設もなく、またヨスガ軍の防衛線も無く。体力を、最大限まで温存することが出来た。誰もが、無言であった。分かっているのだ。これから、今まででもっとも厳しい戦いが控えているのだと。

恐らく最後の通路だろうと思われる場所は、延々と続く螺旋階段になっていた。上からは、露骨に巨大な黒点が見える、異常をきたしたカグツチ。眩しすぎるので、マダが出してくれた遮光グラスを掛けるカザンとカズコ。秀一は平気だったが、他の皆には、直視するのは厳しい様子だ。

長い螺旋階段の途中。足を止めた。

長い長い影を引いて、立ちつくす影に気付いたからだ。大きな影と、小さな影。

一つは、シジマのカエデ司令。もう一つは、ヨスガの司令官をしていた毘沙門天。二人の後ろには、それぞれ数騎の護衛らしい悪魔が控えていた。戦意はないので、構えは取らない。ただ、無言で歩み寄る。

七段をおいて、止まった。

「カエデ将軍、それにヨスガの毘沙門天将軍だな。 戦う気がないと言うことは、最後まで、見届けに来たのか」

「ええ。 それに、カグツチの光が、異常をきたしています。 場合によっては、その原因を取り除かなければなりませんから」

「そうか。 見届けるのに、異存はない。 ただ、筋違いだとは分かっているが、補給を頼めないだろうか。 今までの死闘で、アサクサのマネカタ達から貰ったマガツヒは底をついてしまった」

眉をひそめたのは毘沙門天である。カエデは少し驚いたようであったが、すぐにくすくすと笑い始めた。この子はもう少し成長したら、美人になるのかも知れない。

「分かりました。 シジマの蓄積物資から手配します」

脇を走り降りていくカエデ。すぐ近くに、伝令を控えさせているのだろう。今まで邪魔は入らなかったが、悪魔の気配が無い訳ではなかった。戦意がないから、仕掛けなかっただけだ。

もう一人、毘沙門天は腕組みして立っていた。元々生真面目な印象を受ける男だったが、今ではそれを通り越して、そのまま神像のような風情を湛えている。ただ、全てが威圧的で完璧だったバアルと違い、人々を見守る優しさに満ちている所が違っていたが。

彼は支援を手配してくれなかった。だが、もちろんそれを責める気はない。

「ところで、貴方も見届けるために来たのか」

「そうだ。 ヨスガの創世の夢は破れた。 ならば、せめて我らが主を破ったものが、いかなる創世を果たすのかだけは見届けなければならないからな」

「大変な立場だな」

「ああ。 会議で決まったことだし、他の者達には無事な部隊を率いる義務もある。 せめて、今は組織の代表として、全てを見届けたいのだ」

毘沙門天も、決して好意的な視線ではない。ふと気付く。リコが、毘沙門天をじっと見ていた。そう言えば、彼女は毘沙門天の部下だったのだ。あまり良い思い出はないと聞いているが。

「お前は、確かヤクシニーのリコだったな」

「はい。 トール様のところでお世話になっていた、リコッス」

「あのハリティを倒したと聞いたが、本当に立派になったな。 今なら私とも、良い勝負が出来そうだ」

「毘沙門天様も、何だか威厳と貫禄がついたッスね。 やっぱり、多くの悪魔達を率いてきたからッスか?」

今までの経緯からいって、下手をすると殺し合いになるかとも思ったのだが、随分穏やかな雰囲気だ。安心した秀一は、壁に背中を預けて座り込む。ふと気付くと、アメノウズメが、ハンカチで額を拭いてくれていた。

「煤だらけになったものね。 男前が台無しよ」

「有難う。 だが、俺は別に男前じゃあない」

「何言ってるの。 良いから任せておきなさい」

この口癖、覚えがある。少し前からそうかとは思っていたが、やはり間違いなさそうだ。そうなると、この人の夫であるサルタヒコは、やはり。あの寡黙で実直な性格は。

そうか。探すのを諦めていた家族は、こんな近くにいたというのか。

まだとっていたケイタイを取り出す。何度も電池を補充しては、家族からのメールを眺めたものだ。激戦の中でも、壊れずに残っていた。だが、もう必要はないかも知れない。

悪魔と姿は変わっても。芯が変わらなければ、これほどまでにも近い。ただ秀一は鈍くて頭が悪いから、気付くのに随分時間が掛かってしまった。うっすらとは気付いていた。しかし、確信には到らなかった。

「母さんなのか」

「さあ、どうなのかしら。 ただ、貴方の知ってる母さんよりも、随分若くなっていると思うけれど」

元々秀一の母はかなり見かけが若かった。だがアメノウズメは更に若々しく、とても子供が二人もいるようには見えない。ひょっとすると。母は若い頃、こんな風に、茶目っ気のある性格であったのかも知れない。

「そうだな。 父さんはあまり変わっていない。 随分戦闘では頼りになった」

「そうよね。 あの人って若い頃から、何も喋らなくて、黙々と仕事を終わらせる人だったのよね」

これから死にに行く訳でもあるまいに。アメノウズメの言葉に秀一は苦笑すると、立ち上がる。ニーズヘッグに跨って、フォルネウスにマガツヒを分け与えているカズコを見上げた。汗を拭っていたカズコは、秀一を見た。

「何?」

「気付かず、済まなかった。 顔が違っても、言動も、性格も、あまり違わなかったのにな」

「やっと気付いた。 相変わらず鈍いなあ、お兄ちゃん」

「お前も、結構最近に気付いたんじゃないのか」

「ふふ。 そう考えると、お互い様だよね」

何時ぶりだろう。和子が屈託無く笑ったのは。顔は違っても、雰囲気が同じだ。あの関西国際空港の事件以来、辛いことが多かった。和子も笑顔が減って、たまにしか見ることが出来なかった。今は、何だか安らぐ。

東京受胎が起こって、実時間はどれくらい経ったのだろうか。多分、何年という単位で経過しているはずだ。それでも、崩れなかったのは、家族の絆だから、ではない。簡単なことで崩壊する家庭など幾らでもある。榊家の絆が、色々な逆境に晒された結果、強くなったものだったからだろう。

フォルネウスが、ふわりと浮き上がりながら言う。

「おう、秀一ちゃん。 お前さんがそんなに楽しそうにしているのは、初めて見るのう」

「そうか。 そうかも知れない」

「相変わらずくーるじゃのう。 最後の最後までお前さんには感心させられどおしじゃわい。 此処がボルテクス界でなければ、儂の可愛い孫を嫁に貰って欲しいくらいなんじゃがのう」

「ちょ、お爺ちゃんっ!? 何言ってるっスか!」

「リコ、お前からも頼まんか。 儂の見たところ、秀一ちゃんはくーるで頼りになるぞ」

「そ、そんな事は知ってるッスよ! でも、それとこれとは別の問題ッス!」

真っ赤になって反応するリコ。どうやらこの二人も、祖父と孫である事に気付けたらしい。良いことだ。

「秀一。 どうやら、補給物資が来たらしい」

サルタヒコの言葉に振り向くと、階下から呼ぶ声。立ち並んだ、瓶詰めのマガツヒ。これなら、全員が戦闘体勢を整え直すことが出来るだろう。運んできたらしい堕天使達は、あまり好意的な表情ではなかった。だがカエデは、彼らを良く統率して、失礼がないように言い含めていた。

「これで充分ですか?」

「ああ。 すまない。 ありがたく受け取らせて貰う」

これは、ますます負ける訳にはいかなくなった。カエデは、出来る限り、最大限の支援をしてくれたのだ。

そして、サルタヒコの言葉からも。彼が、秀一の正体に気付いたことが分かった。繰り返される殺戮と闘争を経て。ようやく家族が一カ所に集ったのだ。

最後の最後で、ささやかな幸せを秀一は感じていた。

だが、それも最後だ。皆がマガツヒを分けて口に入れているのを見届けると、秀一は前進を指示。

もはや、一刻の猶予もないのだ。再会を喜んでいる余裕はない。マガツヒをさっさと口に入れて、入らない分はヤヒロヒモロギに流し込む。全快とは行かないが、一息はつくことが出来た。

クロトがもう一度、皆に回復の術式を掛けていく。これで、どうにか、戦える体勢は整ったと言えるだろう。

「行くぞ」

全員が心身共に整え終えたのを見届けると、秀一は言葉短く言った。いよいよ、決着を付ける時が来たのだ。

 

永遠に続いているかと思える階段を上りきる。屋上に、ついた。

四方は数キロに達しているだろう。塔の頂上は非常に平坦な空間で、足場もしっかりしている。とても戦いやすい場所だ。果てなく伸びるそれぞれの影。それだけ光源が近いことを意味している。此処まで来るのに、随分無為な殺生をしてしまった。一刻も早く、このようなことは終わらせなければならない。

床は真っ白に見える。それほどに、浴びている光が強いのだ。ただ、熱は伴っておらず、特に熱せられていると言うことはない。かって世界に溢れていた妄想の一形態、いわゆる疑似科学の中に、太陽は熱くないと主張するものがあったらしい。ボルテクスのカグツチに限っては、それは真実という訳だ。

まるで圧力を伴うかと錯覚するほど強い光の中。

その球体は、確かに浮いていた。

これがカグツチなのだと。誰にも説明されずとも、秀一は理解していた。

球体のサイズは、直径にして百メートル超。ボルテクス界の中心に存在するにしてはやや小ぶりだが、光はとても強く、カグツチという圧倒的な存在を、確かに知らしめていた。影が伸びるのを、秀一は見た。確かにこれほど強い光源が間近にあれば、影も伸びようというものだ。

風は無い。高度に相応しい強風が吹き荒れていたらどうしようと思っていたのだが、その恐れもなかった。全員が、屋上へ上がってきた。ニーズヘッグの巨体から伸びる影は、屋上からはみ出しそうだった。

カグツチは語りかけてこない。創世とやらはどうなったのか。やはり、全体に生じている異変が原因なのだろうか。皆が不快そうに、時々目を瞬かせている。やはり、かなり影響が出始めている。弱い悪魔であれば、この近くに来た時点で発狂してしまうかも知れない。

「うわあ、凄い魔力。 気圧されそう」

「気をしっかり持つッスよ、サナさん」

「分かってる。 カズコ! カザン! いざというときは僕がシールドを張るから、その後ろに入るんだよー」

サナが周囲に呼びかけている。カエデは着いてきた何体かの悪魔に言い含めて、階下に走らせる。状況次第では、増援を呼ぶつもりなのか、或いは。毘沙門天も、同じように部下を走らせている。構っている暇は、今はない。

歩み出る。ただ無言で光り続けているカグツチに、呼びかける。距離は数キロほど離れているが、語りかけても通じる自信はあった。しかし。

「カグツチ。 お前の望み通り、来てやったぞ」

秀一の呼びかけに、返事はない。もう一度繰り返しても同じだった。

どのみち、この巨大な光の珠には、鉄槌を降すつもりだった。だが、こうも反応がないと拍子抜けしてしまう。以前恐らくボルテクス界に存在する全ての者に語りかけてきたカグツチはどうしてしまったのか。

大きくカグツチが脈打った。表面に、巨大な顔がせり出してくる。それと同時に、形態が微妙に変化してきた。ブロック状に分割しながら、自動で動き回り、勝手に形状を再構築していく。顔の左右に、翼のような部分が出来る。首から下を乗せる。台座のような部分が創られる。

「ウ、ヴウ、ヴヴヴ、ウ」

虫の羽音のような声。

無言で身構える秀一の脳裏に、ノイズ混じりの声が届く。

「緊急警告。 創世システムコアカグツチに侵入者有り。 強制排除開始。 これよりカグツチは、緊急防衛モードに入ります」

「侵入者、だと?」

「この期に及んで、巫山戯た話だな」

マダが構えながら、秀一の前に出た。同じようにサルタヒコが剣の鯉口を切りながら、前に出る。何かあった時には、盾になると言うつもりなのだろう。サナが秀一の隣にまで歩を進めてきて、サングラスを少しずらした。

「何だかおかしいね。 ずっと感じていたカグツチの気配に、へんなものが混ざり込んでるよ」

「やはりそうか。 それは危険なものなのか」

「恐らくはね。 ただ、どうやら創世の先を越されたって事は無いみたい」

再び、大きくカグツチが脈動する。表面に浮かんできた巨大な顔が、苦痛と恐怖に歪む。しかもその歪みは、あまりにも高速で遷移したので、滑稽を通り越して気色が悪かった。脈動が徐々に速くなり、それに伴って、顔の横から生えている翼が、更に大きくなっていく。

カグツチの頭頂部から、膨大なマガツヒが放出され始めた。それが、カグツチの光を浴びながら、見る間に形を為していく。光り輝く、鷲の姿がある。大きな蛇の姿。かぶり物をかぶったカバのような存在もいる。その隣にいるのは、高名なスフィンクスだろうか。

数が、多すぎる。ざっと数万、いやそれ以上か。更に増えていく。どうやら、あまり躊躇している時間は無さそうだった。

不意に、カグツチの瞳がない目が、秀一を見た。瞳がないのに、此方を見ているのが、どうしてか分かった。

「侵入者発見。 排除する」

「そうか。 ならば、相手になろう」

むしろ、この方が良いかもしれない。このカグツチは、一度殴ってやらなければ気が済まなかった相手だ。さっと展開する仲間達。秀一は一歩退くと、頷く。

「少し試してみたいことがある。 時間を稼いでくれないか」

「分かった!」

「任せておけ! こんな奴ら、俺の片手で充分だ!」

サルタヒコが上段に構え、マダが腰を落として正拳の構えを取る。リコが腰の剣を抜くと、その隣に毘沙門天が進み出た。大きな剣を抜き、構える彼を、マダが横目で見ながら言った。

「良いんだぜ、俺達だけにやらせとけば」

「いや、私もボルテクス界に生きてきたものだ。 これが最後の決戦だというのなら、参加したい」

「それならば。 私がカグツチの異変の分析をします。 此方に攻撃が跳んでこないようにしてもらえますか」

カエデが声を張り上げる。いつの間にか、床には巨大な魔法陣が出現していた。秀一は頷くと、自らもするべき事を成し遂げるべく。目を閉じ、集中を開始する。カグツチの声が、辺りに響き渡った。

「敵性勢力確認。 攻撃開始」

一斉に、空に展開した悪魔達が動き出す。どれも強い光を帯びていて、目には感情が宿っていない。どれも空を舞うことが出来るようで、しかも鋭角に飛んで襲いかかってきた。さながら、悪魔の雨。想像を絶する、凄まじい光景であった。

第一波が、来る。

最初に動いたマダが、拳を連続して叩き込む。風圧で、先頭の数騎が吹っ飛んだ。粉砕をまぬがれた悪魔も、暴力的な風の刃に翻弄され、或いは翼を折られ、或いは体をへし折られる。マダの肩を蹴って跳んだリコが、同じように蹴りを連続して叩き込み、風圧で敵を蹴散らす。着地した彼女の代わりに、今度はサルタヒコが出て、天に居合いの風圧を放つ。

ばたばたと落ちていく悪魔の影から、次々に新手。サナが空に向け、メギドラを放つ。爆圧が、辺りを蹂躙。翼をやられ、体を砕かれた悪魔が次々に落ちてくる。ニーズヘッグとフォルネウスが冷気の息を吹き付け、猛烈な対空砲火をくぐって通り抜けてきた敵を迎撃。氷像が次々落ちてきて、床にぶつかって砕け散った。

だが、何しろ数が数だ。その上、敵は全方位にその姿を見せている。さらにカグツチから放出されるマガツヒは衰えることなく、新手が次々に生産されているようだった。円陣を組んで、内側に和子とカエデを庇う。秀一は印を組みながら、言った。

「もう少し、耐えてくれ」

「応ッ! なんぼでも! 耐えてやらあっ!」

胸の前で、マダが拳を打ち合わせる。詠唱が短時間で組み上がり、印を大げさにくみ上げる。マダが左右に手を広げると、周囲に酒の雨が降り注いだ。それを見たサナが、手を回すようにして、大掛かりな印をくみ上げる。電撃が走り、着火した。

辺りを紅蓮の炎が包む。爆熱の中、大量の悪魔が蒸発し、焼き尽くされていく。マダが下がり、和子が出したマガツヒを口に入れて、急いで補給。その間、代わりにクロトが前に出て、棍を振るって敵勢力の浸透を阻んだ。

だが。

天に響く一声が、状況を激変させる。

「敵勢力分析完了。 反撃開始」

「反撃開始」

一斉に、輝く悪魔達が唱和する。

同時に。今までの突撃一辺の行動が切り替わる。不意に光り輝く悪魔達は隊列を組み直し、それぞれ詠唱を開始する。その完成は、恐ろしく速い。ほとんど時間をおかず、天から、無数の光弾、火球、稲妻、そして氷の槍が降り注いできた。その密度は、今までに見た、どの軍勢の攻撃よりも凄まじかった。

無言で前に出た毘沙門天が剣を振るう。剣圧が、敵の魔法を蹴散らし、中途で爆発させる。他の面々も一斉に防御の技なり術式を展開するが、しかし。

数と火力が違いすぎる。

場が、破壊と殺戮に包まれる。体を伸ばしたニーズヘッグの全身に、無数の刃が突き刺さる。マダの全身を、雷撃が舐め尽くし、氷塊が打ち据えた。リコの全身から血がしぶき、地面に叩きつけられる。サルタヒコは秀一の前に飛び出し、火球を体で受け止める。

「頑張りなさい!」

アメノウズメが舞い始める。しかし、多少強化したくらいでは追いつかない。敵はまるで全てが一つの個体がごとき動きを見せ、即座に陣形を組み変える。第二波が来ることを悟った秀一は、一旦印を組むのを中止しようかと思ったが。しかし。

横殴りに叩きつけられた無数の火球が、敵の陣形に襲いかかる。爆圧が敵をなぎ倒し、四散させた。更に、くさび形の陣形を組んだ悪魔の群れが、敵陣に食い込み、蹴散らしに掛かる。カエデが、空を見上げた。

「ブリュンヒルド将軍です。 間に合いましたね」

「おおっ!」

なるほど、さっきの兵は、これを呼びにやっていた訳だ。その逆からも、大量の光の槍が、敵に降り注ぐ。爆発が連鎖し、光り輝く悪魔達が陣形を崩した。そちらに見えるのは、無数の天使だ。どうやら、此方は毘沙門天が手配したものらしい。

戦闘をくぐり抜けて、突入してきた部隊あり。手に槍を持った、人間大の悪魔達だ。詠唱中のカエデを守るべく親衛隊の堕天使達が周囲を固めるが、数が多すぎる。一騎が、円陣を突破、奇声を上げながら躍りかかる。

その背中から、不意に突き出す水の槍。槍を持った悪魔達が、右に左に吹き飛ばされ、床にたたき付けられて、押しつぶされる。

ぬっと何もない空間から不意に現れる、大きな影。空を見上げるその姿は、半透明の大きな蛇に見えた。

「我らも見届けさせて貰おうか」

「ミズチ。 お前は、来ないのではなかったか」

「気が変わった。 ヨスガの敗退には、儂にも原因がある。 だから、せめて見届けようと思っただけだが。 しかしこんな邪魔が入るのなら、儂にも参加させて貰いたいところでな」

「……今は、手が足りぬ。 頼むぞ」

ぞろぞろと、屋上に悪魔達が上がってくる。いずれも劣らぬ、各陣営の大物ばかりだ。敵が第二波を準備し、攻撃を叩きつけてくる。火力は、先とほぼ五分。降り注ぐ流星雨がごとき攻撃術。槍も、剣も、矢も降ってくる。さっとカエデの前に立ちふさがったのは、モトとニュクス。

「此方は私に任せなさい」

ニュクスがナイトガウンにも見える着衣を翻して、印を切る。降り注ぐ膨大な数の火球を前にしても、恐れる様子がない。詠唱完了。ニュクスが両手を前につきだし、光の盾が中空に出現した。

シールドが、敵の斉射をはじき返す。頼もしいと秀一は思った。流石に、ニヒロ機構初期からいた宿将だ。この時代を生き残ってきただけあり、その力は凄まじい。

まだまだ、増援は上がってくる。どうやらシジマもヨスガも、一度戦いをやめ、思想的なこだわりさえなければ、きちんと手を取り合えるらしい。秀一はそこに、小さな希望を見た。

だが、希望を踏みにじるかのように、敵の数は圧倒的。まだまだ多くが、攻撃態勢に入っている。六つ首がある巨大な竜が、至近に舞い降りてきた。その口には、それぞれ魔法の光が宿っている。クロトが回復中のニーズヘッグが体を起こそうとするが、間に合わない。

「此方は私が!」

其処へ、飛び込む援軍。傷ついたニーズヘッグの前に滑り込んだのは、中華風の服装に身を包んだ若い娘。特徴から言って、西王母だろうか。若干おっとりした雰囲気だが、魔力は凄まじい。彼女が張った六角形の光る陣が、降り注いだ雷撃や氷の剣を、ことごとく防ぎきった。罅が入りながらも、光の陣は猛攻に耐え抜く。

「持国天将軍!」

「ああ、任せてくれ!」

楽器を手にした、唐風の鎧を着た大男。一度だけ見たことがある。持国天だ。彼が手にしている琵琶をかき鳴らすと、竜の翼に亀裂が入り、悲鳴を上げながら落下する。群がった鬼神が刀槍をひらめかせ殺到、見る間に肉塊にしてしまう。

空を舞う、白馬に乗ったブリュンヒルドの姿が見えた。最前線で剣を振るい、光る鷲を斬り倒す。突撃は猛烈で、彼女の行くところ、次々に光る悪魔が斬り倒され、打ち砕かれる。

すっと飛び込んでくるのは、白い蛇。今の攻防の隙を突いて、和子ののど元へ、いかづちのような速さで躍り掛かる。だが、その首筋を、乱入した影が食いちぎった。真っ二つに切り裂いた蛇を吐き捨てたのは。

背にユリを乗せた、ケルベロスだった。

「守りが甘いぞ。 油断するな!」

「貴方も来てくれたか」

「この戦いの、最後の時なんでしょ? 見届けさせて」

ケルベロスの背から降りたユリはそうはっきり言った。目には強い意志の光がある。この娘は、立ち直ったのだ。そして今、最後の戦いに、自分の意思で参加しようとしている。彼女が祈るようにして、膨大なマガツヒを体から生み出す。和子の負担は、これで随分軽減できる。これならば、補給は気にしなくてもよさそうだ。マダが腕を回しながら、最前線に出る。傷がきれいに消えていた。西王母に回復術を掛けてもらったらしい。早速前線に出たマダは拳を振るい、至近距離から大型の火球を放とうとしていたワニの悪魔を粉砕、地面に叩きつけた。燃えさかる床に、高笑いしながら立ちつくすマダ。歓喜が全身にみなぎっていた。

「ちきしょう! 糞ったれ! こんなにうれしい事はねえ! これなら何が相手でも勝てそうだな!」

「そうじゃの。 儂としても、心強い限りじゃわい!」

同じく、回復を果たしたフォルネウスが、空中に氷壁を展開。一部からの、敵の攻撃を完全に遮断する。戦術が展開しやすくなった事と、傘が出来たことで安全地帯が生じ、それぞれが戦いやすくなる。西王母がそれを見て、氷壁を更に拡大させる。ただの傘だった氷壁を、或いは柵状に、或いは小屋状に形成して、即席の砦に変えていく。

カザンが、至近まで降りてきた蜘蛛に似た悪魔を、槍で一息に突き伏せた。和子は皆を信頼しきって、マガツヒを絞り出す作業に専念している。ヨスガの力とシジマの組織力が見事にかみ合い、圧倒的多数の敵を、押し返し始めていた。

だが敵もさるもの。何しろ数が多い。既に十万に達しようとしている敵は、混乱からの立ち直りも速かった。もう第三の射撃が準備されようとしているのを見て、モトが舌打ちする。モトと言えば、棺桶に引きこもった幼児性の強い悪魔だと秀一は聞いていたが、今其処にいる悪魔は違う。黒を基調とした長身で、背筋も伸びており、口調もはっきりしていた。目には強い意志の光があり、口元は厳しき引き結ばれている。まるで噂と違う、実に威厳のある姿である。

「人修羅、まだか。 我らが加わったとはいえ、防戦一方ではそう長く保たないぞ」

「もう終わる」

最後の印を、切った。秀一はゆっくり手を、円を描くようにして回す。足下に出現する、直径数百メートルにも達する魔法陣。何しろ、これが最後の戦い。それに相応しい陣容で臨もうと思って、さっき組んだ術だ。

今まで取り込んだ膨大なマガツヒだが、制御しきれなかった分も多い。その余剰分を、今回は用いる。余剰分と言っても、使い物にならないわけではない。我が強すぎる意識が、体に馴染まなかったのだ。

人修羅としての存在を、秀一は理解している。それはすなわち、人としての形態を保ったまま、悪魔としての力を得た存在。このボルテクス界の法則から外れ、御することも破壊することも出来る者。

だから、今。

極限まで高まった力を、建設的に使う。

これが、今できる唯一のこと。そして、やらなければならないことなのだ。

条件が限定的だとはいえ、今ヨスガとシジマという、極端な思想的対立を続けていた組織が、共に同じ敵と戦うことが出来ている。鬼神達が武器を振るい、その隣で堕天使達が空に向けて術を撃ちはなっている。傷ついた天使を、シジマの下級悪魔達が氷壁の影に引っ張り込んで回復術を掛け、ヨスガの龍族が巨体を生かして盾になり、光り輝く悪魔の猛攻から周りを守っている。

勿論、組織の総力ではないだろう。今展開している悪魔はせいぜい一万から二万程度。だが、それでも意味はとてつもなく大きい。

この奇跡の時を。無駄にしてはならないのだ。

手をかざす。まずは最初の一騎。もっとも秀一と長く一緒にいた、ボルテクス最強の悪魔の一角。

「弱者を守るためだけに生きた真の勇者。 賢く、そして慈悲深い、君の力を、今借りたい!」

光の中、再構築されていくその姿は。尾を持つ、等身大の悪魔。和子が、ユリが、そしてカザンが声を上げた。ケルベロスが驚愕の表情を浮かべ、だが誰よりも速く走り寄る。

「琴音!」

「サマエル殿!」

「サマエル! こ、このようなことが。 このようなことがあるとは!」

「……わたし、は? あれ?」

秀一だからこそ、出来たこと。マガツヒを取り込んだから、出来た再生。元々、相性はとてもよかった。しばし、ぼんやりしていた琴音は。自分に抱きついてきたユリに気づいて、ようやく自分の状況を理解したようだった。自分を見上げている和子と、秀一を交互に見比べる琴音は、徐々に表情がはっきりしてきた。

「力を貸してほしい。 白海さん」

「秀一君が、私を再生したみたいですね。 そういえば、取り込んだ悪魔を再生する力があると聞いていましたが。 ……それで、この状況は一体?」

「いよいよ、コトワリが決まる時が来た。 だが、カグツチの様子がおかしくてな。 創世の様子を見守りに来た悪魔達と、共に戦っている所だ」

「そうですか。 そんな理由とはいえ、シジマとヨスガが共に戦えるなんて。 どうして、今まで仲良くできなかったんでしょうね」

琴音が抱きついてきたユリの頭を撫でながら、立ち上がる。周囲の戦況を、分析している様子だ。彼女は、あのトールとも五分に戦い続けた実力者である。魔術と近接戦闘のバランスにおいては、恐らくボルテクス界屈指の存在。安心して、周囲を任せることが出来る。

本来ならあり得ないことだ。だが、今ならば。他のコトワリが潰え、秀一の掲げる思想が他のコトワリを害しないと知っているからこそ、琴音は手を貸してくれる。また、これを為すことが出来たのには、バアルの技術を取り込んだことも理由となる。バアルが作り出したオセ・ハレルとフラウロス・ハレルは感情のない人形だったが、マガツヒを取り込んでいるサマエルならば、そのようなこともない。

琴音が詠唱を終えると、その手には虎徹が具現化していた。不意に、切っ先を鼻先に突きつけられる。

「貴方のコトワリについては、知っているつもりです。 今でも、考えを変える気は、無いですね」

「ああ。 俺は神が存在する必要もない世界を、創るつもりだ。 其処では、弱いままではないが、マネカタ達も努力次第で生きることが出来る」

僅かな沈黙。だが、其処に殺気はない。表情をゆるめると、琴音は剣先を降ろした。

「分かりました。 それならば、ベストではないにしてもベターだと判断できます。 この時だけでも、私の力を貸しましょう。 カザン! ケルベロス! ユリと、カズコをお願いします」

「分かった。 俺の命に代えても守り抜く!」

「任せておけ。 相手が魔王であっても、俺がとおさん」

カザンが涙を手の甲で乱暴に拭いながら、男の誓いをした。ケルベロスが雄々しい顔で、続けて誓いを立てる。それを見届けると、琴音が翼を具現化させて、宙に舞い上がる。堕天使に躍り掛かろうとしていたカバの悪魔を一太刀で斬り伏せると、混戦地帯に突入、絶倫の武勇をフル活用して、猛威を振るい始める。頷くと、秀一は次の作業に掛かる。

次に呼び出すは、極限の孤独の中で、全てと戦い続けた闇の王。その存在は単純にして究極。世界に対する闇の視線から作り出された、最強の悪魔。

「世界の影に染まり、憎み、終生己と世界と戦い続けた闇の王。 君の力を、今必要とする!」

秀一が手をかざすと、黒い影が、徐々に凝縮していく。魔法陣の光が徐々に弱まるのは、如何に彼が強い力を持つ存在だったかを示しているだろう。ノアと共に取り込んだそのコトワリは、狂気に満ちていたが。だが、世界への強い憎悪という点では、揺るがぬものを持っていた。

ほどなく、具現化するそれは。緑色をした、不定形の悪魔。ゆっくり秀一に向き直ったその者の名は。スペクター。

本名も、マガツヒを解析した今なら分かる。しかし、敢えて秀一はスペクターと呼ぶことにした。

「スペクター。 世界を相手に戦い続けた、君の暗き強さを借りたい」

「俺ノ力を、創世のタメに使ウだと?」

「貴方は、弱者を排斥し、強者がおごり高ぶる世界を憎んでいたはずだ。 今、この異常をきたしたカグツチをどうにかしなければ、世界そのものが終わる。 それは本意ではないだろう」

和子が、いつの間にか、スペクターの側で見上げていた。気にしない様子を装ってはいたが、明らかに動揺しているのが秀一には分かった。

取り込んでみて分かったが、スペクターは真の孤独の中にいた訳ではない。和子は唯一、スペクターに対等に接し、手をさしのべた存在だ。社会的な落伍者だという理由で、誰もがスペクターに憎悪と敵意と嘲笑をぶつけた中で、和子だけが違う反応を見せた。

人恋しかったというのとは、違うだろう。だが、スペクターの心を動かした存在は、和子だけだったのだ。それが、スペクターの濁った狂気の中で、唯一の光となっていた。

和子は優しかったのではない。ただ、公平だったのだ。だが、そのほかの人間は、それさえも持ち合わせてはいなかった。対人運の悪さももちろんあっただろう。だが、それ以上に。彼の接していた世界は、あまりにも腐っていたのだ。

だから、滅びた。

だから、スペクターは、人間そのものを憎悪した。いち早くボルテクス界の仕組みを理解した後は、人間に派生する悪魔そのものも。

しかし、その存在は、本来決して純粋悪と呼べるものではない。むしろ、世界が彼を悪にしたのだとも言える。

「……お前ノ意思ハ、オ前の中で見セて貰ッタ。 シカシ、今一度、聞きタい。 今デモ、考えヲ変エル気は無いのダな」

「ああ。 俺が望む世界は、神を必要としないほどに、人の心が強い世界。 其処は恐らく理想郷ではないだろうが、無為に排斥される弱者もいない、誰もが強い世界だ。 君を排斥した人間達は、結局己の基準と物差しで解析できない相手を恐れていただけの弱者達だ。 彼らもまた、君を無為に排斥することはないだろう」

「そノ言葉を、信じテミよう。 此処まデ戦い抜イたお前ノ強さは、充分ニ見セテ貰っタかラな」

スペクターが膨らむ。そして、戦いの中次々砕かれていく、光り輝く悪魔達のマガツヒを吸収して、分裂を開始した。周囲の悪魔達がぎょっとする中、見る間に増えていくスペクターが、光り輝く敵の大軍へと突貫していった。

高度なリンクを確保したスペクターの群れが、苦戦するシジマとヨスガの悪魔達の前に躍り出て、盾になる。見事な身体変化で、氷の槍をはじき返し、炎の息を吹き散らす。雷撃も通さず、真空の刃にも突破させない。そして、感情無く動き回る光の悪魔にとりつき、酸の体液を吹きかけて、生きたまま喰らい始めた。敵にすると、これほど恐ろしい相手はいない。しかし味方にすると、何と頼もしいことか。

さあ、最後だ。マガツヒは、まだまだ溢れるほどにある。問題は自己の存在を維持しているマガツヒを術式の過程で消耗することだが、それは気合いで補うしかない。消えかかった魔法陣の中央で、秀一は呼び出すべき最後の強者に、声を掛ける。手を伸ばしながら、秀一は詠唱を紡ぐ。

本当はオセとフラウロスにも参戦して欲しかったのだが、彼らは秀一の中で眠りについている氷川と共にいることを選んだ。それならば、秀一の力として、その剣腕を振るって貰いたい所だ。

最後は流石に桁違いに消耗が大きい。額に汗が浮かぶ。本当に足りるか不安になったが、しかしやるしかない。ふと、左手を握っている気配に気付く。和子だった。

「お兄ちゃん、行ける?」

「……ああ。 必ず成功させる。 任せろ」

周囲を包む、赤いマガツヒの光。和子がひねり出してくれた分だ。これならば、最後の術式も成功させられる。目を閉じて、今一度集中。時間を作ってくれている者達のためにも。

最後に呼び出すは、孤高かつ究極の拳。あまりにも強く、孤高すぎたが故に。誰にも理解されず、逆に誰をも理解できず。拳に殉じて自らをも焼き尽くしてしまった男。琴音とは最後までわかり合うことが出来ず、今でも多分連携して戦うのは無理だろう。唯一彼の最終奥義を打ち破った、ボルテクス最強の使い手に、秀一は呼びかける。

「雷神トール! 究極の力を求め続けた孤高の拳よ。 貴方の力を今、借りたい」

全身の力が吸い上げられるかのようだ。流石にことごとくという訳ではないが、しかし和子が出してくれたくらいのマガツヒは、根こそぎ持って行かれてしまう。強烈な疲労感が身を包む中。秀一は、己の前に立っている、巨人に気付いていた。

目を煌々と光らせるその男は、今戦ったとしても勝てるかどうか分からないような気がした。ゆっくり周囲を見回すその男の名は、トール。ボルテクス界における、間違いなく最強の悪魔だった存在。その最強の定義は、肉体を使う戦闘に限定はされていたが、カリスマをも帯びていたその実力と存在感は、まさに圧倒的な代物であった。

トールは若干機嫌が悪いようだった。地獄の底から響いてくるような低音が、辺りを圧倒する。

「俺を使役したいと願うか、人修羅よ」

「ああ。 今だけでもいい。 力を、貸してはもらえないだろうか」

トールは事態を把握しているようだった。ひょっとすると、この男の意識は、秀一の中でずっと起きていたのかも知れない。秀一の倍以上ある巨体が、ゆっくり進み出る。空での死闘を見上げながら、呟く。

「俺はもう、戦う理由を失った。 己の拳を極め、最強の使い手と相まみえてしまったからだ。 だから、死に満足している。 今一度戦えと言うのなら、その理由を示して貰おう」

「ならば、提案する。 今度は貴方のためではなく、貴方以外のもののために、拳を振るってはどうだろうか。 貴方の力で、守れる者が大勢いる。 貴方の行動次第で、助かる命が多数ある。 それでは不服か」

実感がない言葉を浴びたという顔をしている。この男の思想は、究極の利己主義そのものだ。そしてそれを支えていたのが、最強への挑戦を行いたいという夢。夢がかなってしまった今、もはや男の戦闘意欲を支えるものはないのだろう。

ならば、今まで見てこなかったものに、気付いて貰うしかない。

この戦いを勝ち抜くのに、トールの突破蹂躙能力は必要不可欠だ。

「俺が、何かを守るというか」

「そうだ。 自分のために戦うよりも、ずっと難しいことになるだろう。 貴方を慕い続けた者達のためにも、拳をただの一度で良い。 振るってみてはどうだ」

そもそも、トールは秀一にとっても、同格か、それ以上の存在だ。従えているつもりはないし、これからもそうしようとは思わない。だから、説得する。サマエルや、スペクターに関しても、それは同じだ。

トールはしばし、空で行われている死闘を見つめていた。歩み寄ってきた影が一つ。リコだった。

「トール様! ああ、そんな。 また会えるなんて。 もう、無理だって思ってたッスよ」

「リコか。 ……あの時、どうして泣いていた」

「それは、トール様が。 亡くなられるのが、悲しかったからッスよ」

じっとトールを見つめるリコ。自分を慕う者という、実感がなかったのだろう。やはり、今でもトールはよく分からないと顔に書いていた。だが。わらわらと集まってきた鬼神達の態度を見て、少しずつ、表情が変わってくる。

「トール様!」

「トール様! まさか、またお会いできるとは! しょ、小官は! 小官はっ!」

口々に言う鬼神達は、感極まり、男泣きに暮れていた。トールは彼らのことを見回すと、拳を固めあげる。全身から、獰猛な殺気が、漂い始める。

「そうか。 俺はこんなにも身近なものに、気付いてはいなかったのだな」

「そうだ。 貴方は、孤高すぎたから、何も見てはいなかった。 貴方の拳はカリスマとなり、彼らの指標となっていたのだ。 だから、最後はせめて、彼らと、ボルテクス界のために戦ってはくれまいか」

「……良いだろう」

トールが雄叫びを一つあげると、周囲の悪魔達が一斉に喚声を上げる。空に展開していた光り輝く悪魔達が、トールの姿を見つめると、奇声を上げながら襲いかかってくる。トールは鼻を鳴らすと、拳一閃。一瞬、何か途轍もないものが、空を通り過ぎて。そして、全てが変わる。それだけで、数百に達する悪魔の群れが、拉げ、くだけ、吹っ飛んだ。歩み出るトールが、飛んでくる火球を面倒くさげに素手で払う。ただ歩き出しただけだというのに。その威容に抵抗できる者は、もはや存在しないとさえ思えた。

鬼神達の士気が露骨に上がった。喚声が爆発し、戦意を滾らせ、敵に躍り掛かっていく。

和子はまだマガツヒを絞り出してくれている。一息に吸い込むと、全身に漲る力を確認。今こそ、最後の決戦に、秀一も赴く時だった。カエデを見る。彼女も、静かに頷いた。

「解析、完了しました。 カグツチを元に戻せると思います」

「分かった。 君に全体の指揮は任せたいが、いいだろうか。 俺は最難地点のミッションだけを担当する形で構わない」

「……それが、貴方の強さなんでしょうね。 分かりました。 指揮は、私が引き継ぎます。 思う存分、最前線で暴れてきてください。 指示は追加で、伝令の堕天使に渡します」

恐らくこの娘こそが。今ボルテクス界で最高の指揮官だろう。カエデに、素早く解析結果を聞く。好都合な内容だ。秀一の意図とも合致する。側で剣を振るい続けていた毘沙門天を見るが、彼も異存は無さそうだった。そればかりか、率先して、実に大胆な行動に出てくれる。

「これよりヨスガ全軍は、カエデ将軍の指揮下に入る! 今やこの場に、シジマもヨスガも関係ない! ボルテクス界最高の名将に指揮されることを、光栄に思え!」

「同じく! シジマ全軍も、これよりカエデ司令の指示を受ける! ヨスガの連中に遅れを取るな! あの輝く光の珠に、我らの生き様と意地、見せつけてくれよう!」

モトが遅れじと叫んだ。戦況が一変し、一気に全戦線で押し返していく。

これからが真の決戦だ。秀一は仲間達に呼びかけると、最前線に躍り出る。押され始めているとはいえ、十万を超える敵勢力である。その分厚さは、まさに圧倒的な代物であった。

だが、この陣容である。何が敵であろうと負ける気がしない。

秀一が走り出すと、皆がそれに続く。先にいるのは、光り輝くカグツチ。そして、その周囲を分厚く固める、十万の敵兵。

踏み込むと、秀一は至高の魔弾を叩き込む。敵の前線に走った光の槍が、一度に千近い敵兵を吹き飛ばし、消滅させる。出来た穴に、力づくで潜り込む。右へ左へ敵を斬り倒しながら、サルタヒコが聞く。

「秀一、どうするつもりだ」

「まず、カグツチに接近する」

見たところ、カグツチの周辺には、上級悪魔かそれ以上の実力を持つ敵勢力がごろごろしているようだ。味方は奮戦しているが、まだ敵の表面を削っているに過ぎない。敵の火力は衰えを知らず、被害もまた大きい。

いつものように、陣形を組み直す。秀一の左右にマダとサルタヒコとリコが展開。中衛にサナとフォルネウス。後衛をニーズヘッグが固める。そして支援に、アメノウズメと和子とカザン。そして、クロトが回復を担当する。

トールがまた、拳を振るう。一閃した拳圧が、数百の敵をこともなげに粉砕、蹴散らしながら敵陣を通り抜けた。上空に鋭く躍り出た琴音が、敵陣中枢にメギドラオンを叩き込む。防御陣地が吹き飛ばされ、敵勢が蹴散らされた。確実に増えながら、敵を侵食するスペクターの群れが、秀一の位置からも見えた。

僅かに隙が出来る中、秀一は走る。まだ、カグツチは、遠い。だが、近くも思えた。

 

2、頂上の乱戦

 

アサクサに残ったマネカタ達が見上げる先には、明滅を繰り返すカグツチの姿があった。その周囲に無数に見える影。激しく動き回っているのが分かる。少し前から、塔の周辺で、ああやって動き回る影が見えた。多数の悪魔が戦っているのだと言うことは、説明されずとも理解できた。

皆の先頭に立つシロヒゲが、名前の由来となっている長い髭をしごきながら呟く。

「人修羅殿は、今戦っておるのかのう」

もはや、悪魔に怯える必要はない。勢力に属さない野良悪魔までもが、こぞってカグツチ塔に向かったからだ。彼らは今、恐らくカグツチの周辺で戦っているのだろう。ひときわ強く、カグツチの近くで瞬きがあった。

「ねえ。 今のぴかって光、サマエル様の魔法に似てたね」

「そうだな」

子供のマネカタを、左腕のない中年男性のマネカタが抱き上げながら応じていた。此処に残った一万弱のマネカタに出来ることは、秀一に力を託すことだけだった。そして今は、最後の時を、見守るだけである。

全ては、人修羅に預けた。これ以上は、祈るしかない。

しかし、祈ると言っても、一体何に祈るのだろうか。神が必要のない世界を、人修羅は造ると言った。其処では誰もが強くなり、依るべきものを必要としないのだという。つまり、祈らずとも良い訳だ。

自分たちも向かいたかったとは、今更の話だ。カグツチ塔に入ったところで、一体何が出来たのだろう。カザンくらいの腕前があるのならともかく、シロヒゲのような腰の曲がった老人に、出来ることなど無い。カズコやユリが、巧くやっているといいのだがと、シロヒゲは思った。

「サマエル様、戦争が終わったら、笑ってくれると良いね」

「そう、だな」

「サマエル様、いつも寂しそうにしてたから、何かみんなでして、笑わせてあげたいね」

子供のマネカタの言葉に、シロヒゲは思わず俯いてしまった。マネカタは、かの人に頼りっぱなしであった。眉を潜めさせ、表情を曇らせることはあっても、笑顔に結びつく行動はしたためしがない。矮小な世界の中で政治的な闘争を繰り返し、一部の勢力に到っては、悪魔を追い出そうとまで考えていた。

文字通り、身を削って、弱きマネカタ達のために尽くしてくれたのに。

足下から、マガツヒが漂い出ているのに、シロヒゲは気付いた。そういえば、ここのところ、ずっと見られた現象だ。漂い出たマガツヒは空に向かい、カグツチに吸い込まれているように思える。

それならば。ひょっとすると。

巧くすれば、膨大なマガツヒを、増援として届けることが出来るかも知れない。

「皆、少し集まれ」

杖で地面を叩いて、シロヒゲが呼びかける。見れば、秀一達が創ってくれた魔法陣は、まだ残っている。充分にまだ稼働するはずだ。

「今からもう一度、マガツヒを絞りだそう。 見ればマガツヒが、カグツチの方へ向かい続けている。 今此処で一斉に放出すれば、カグツチの近くで戦っている人修羅殿の所に、届くかもしれん」

「しかし、そう上手く行くでしょうか」

「兎に角、やるだけやってみるのだ!」

弱気な意見を一蹴。何もしなければ、そのまま世界は終わるかも知れない。せめて、出来ることは出来る限りしておきたい。

一旦呼びかけると、皆動くのは速かった。残ったマネカタ達は、皆志を一つにしているからだ。魔法陣の上で手をつなぎ、一心に祈り始める。膨大なマガツヒが、空へ向け、漂い始めた。

ただ祈るだけでは、何も変わらないだろう。

だから、自分なりに出来ることを。そう、シロヒゲは思った。

 

「おらおらおらおらあっ! どけどけえっ!」

マダが四本ある腕をフル回転させて、連続して拳を繰り出し続ける。立ちはだかる光り輝く悪魔を拳の弾幕で粉砕しつつ進むその巨体の影から躍り出たサルタヒコが、剣を抜く。そして、五メートル以上はある象の悪魔を、一刀両断にした。

雪崩込んでくる増援を押し返しながら、確実に進む。もちろん、大半の敵をカエデの指揮で鋭さを増したシジマとヨスガの軍勢が引き受けてくれているから出来ることだ。

「これで、幾つめの陣を突破した!?」

「七つ目ッスよ!」

「やれやれ、ヨスガの軍と戦った時よりしんどいのう」

分厚い敵の陣地は、今だカグツチと秀一の間に、無限の長城がごとく立ちふさがっている。カグツチは流石にもう増援を生み出してはいないようだが、しかし元の数が数だ。どうにかしてカグツチ自体を叩かないと、とてもではないが勝ち目はないだろう。今は有利であっても、だ。

翼の音。舞い降りてきたのは、ブリュンヒルドとその愛馬だ。肩に腹に矢を何本か受けている。白い鎧には、術の直撃を受けて焦げた跡があった。乱暴に矢を引き抜きながら、馬を飛び降りるブリュンヒルド。周囲には、飛行に特化した堕天使達が、即座に円陣を組んだ。勇敢を通り越して猛々しい。

「済まないが、回復を頼む」

「分かった。 クロト、回復をしてやってくれ。 和子はマガツヒを分けて欲しい」

「言われなくても、元々私はシジマの将官だ」

諸肌を脱いで座り込むブリュンヒルドを、クロトの回復術の光が包み始める。一度だけ以前顔を合わせたことがあったが、それにしても整った顔だ。愛想がない無機質な性格のようだが、造作であればシジマでも随一の器量よしかも知れない。反撃に群がってくる悪魔を蹴散らしながら、秀一は出来るだけ治療中のブリュンヒルドの方を見ないようにして語りかけた。失礼に当たると思ったからだ。

「負傷が絶えないと聞いていたが、本当なのだな」

「ああ。 だから、分不相応な武勲を積むことが出来た」

「ブリュンヒルド将軍! 敵が攻勢に出ています!」

堕天使達が動揺の声を挙げる。カグツチの周辺にいた強力な悪魔が、配下もろとも急に突進してきたからである。上級悪魔が数体。特に、指揮をしているらしい犬科の動物に似た頭を持つ悪魔は、それ以上の実力であろう。マダが突っかかって来た悪魔を地面に叩きつけ、潰しながら言う。

「あれは手強いぞ。 容姿から言って、アヌビスだな」

「聞いたことがある。 エジプト神話の、審判の神か」

「ああ。 厄介な奴が敵にいるもんだ」

秀一も聞いたことがあるほどの、有名な神だ。実力は、わざわざ計らなくても明らかであろう。

アヌビスはエジプト神話の主要な神の一人で、正式にはインプゥと言う名である。人間が死後掛かることになる裁判を執り行うことになる神だ。日本で言う閻魔大王に近い存在であり、エジプト文明の性質上、ひょっとするとその原型になった存在かも知れない。厳格な性格であり、手にしている嘘を見抜く天秤と、側に侍らせている怪物の恐ろしさは有名である。エジプト神話の神々の中でも別格の存在だと言っても良い。

そういえば、カグツチが展開している光り輝く悪魔は、どれもこれもエジプト神話の関係者に思える。異変に、何か影響しているのかも知れない。

「フォルネウス、氷壁を左右に展開してくれ。 横やりを防ぎたい」

「おう、まかせておけい」

フォルネウスが左右に氷壁を展開し始めるのを確認すると、秀一は肩を回しながら前に出た。アヌビスほどの相手となると、全力で行かなければならないだろう。ブリュンヒルドが鎧を着直す気配が後ろであった。もう回復は済んだのか。

「ブリュンヒルド将軍は、自分の責務を果たしてくれ。 俺はアヌビスを倒して、更に進む」

「いや、そういう訳にもいかないだろう。 見れば、他の戦線でも、上級悪魔級の敵勢力が前線にこぞって出てきているらしい。 此処は兵力を集中して、各個撃破した方が、他の負担も小さくなる」

堕天使が一騎、伝令として後方に走る。ブリュンヒルドは麾下の戦力に号令を掛けて、舞い上がった。苦虫をかみつぶしたような顔をしているのはクロトである。この様子では、回復が半ばの状態で出たのだろう。

戦線が押し返され始めているのが分かった。敵が全戦力を惜しみなく投入してきたからだろう。他の戦線はカエデ将軍と、歴戦の猛者達に任せるしかない。無理をして空に上がったブリュンヒルド将軍に余計な負担を掛けないためにも、まずは眼前のアヌビスを撃破する必要があった。

最初に突入してきたのは、体高だけで三メートル、体の長さは二十メートルを超えていそうな大鰐であった。ライオンのような鬣を持っており、前に立ちはだかる味方さえ食いちぎりながら、脇目もふらずに突進してくる。あれがアヌビスが侍らせていると言うことで高名なアメミットであろう。鎖につながなければ全てを食い尽くすという設定の怪物だそうだが、この獰猛さならそれも頷ける。

アヌビスはその背に乗ると、声をからして部下達を叱咤。秀一をめがけて突進してくる。体力を温存しなければならない状況だが、どうもそうはいっていられないらしい。

「マダ、サルタヒコ、リコ。 三人がかりで、あの大鰐を抑えてくれ」

「きっちい仕事だなあ。 任せてくれと言いたいところだが、アレはつええぜ。 早めに支援頼む」

「分かっている。 俺は出来るだけ速くアヌビスを屠って、加勢する。 クロト、フォルネウス、他の上級悪魔を抑えてくれ。 サナは状況を見ながら援護。 ニーズヘッグは、中衛に攻撃が届きそうな時は体で防いで欲しい」

指示を飛ばし終えると秀一は跳躍。ブリュンヒルドは中空で陣を組み直すと、アヌビスの隙をうかがって、旋回を始めている。アヌビスもそちらに気付いて、手にしている三つ叉の矛を振り上げるが、そうはさせない。懐に躍り込んだ秀一が、蹴りを叩き込む。見事にアメミットの背から吹き飛んだアヌビスは、それでも見事な受け身を取って立ち上がり、秀一に矛を投擲してきた。

 

驀進を続けていたトールの前に立ちはだかったのは、巨大な光の珠であった。カグツチほどではないが、直径は二十メートルほど。そして、その球体から、無数の手が伸びて、地面に触れている。

この特徴的な姿、前に気紛れで寄ったエジプト展か何かで見たことがある。恐らくは、アテン神だろう。

古代、エジプト文明は、神官達の専横に苦しめられていた。そんな中、改革を志した王は多くいた。アメンホテプ4世もその一人である。

アテン神は神官達の専横を嫌ったアメンホテプ4世に立ち上げられた、新しい形態の太陽神である。擬人化された姿の者が多いエジプト神話で、太陽をもした球体から無数の手が伸びているという異形かつ独創的な姿をした珍しい神だ。独創的すぎたが故か、その信仰形態が極めて独創的であったからか。また、改革があまりにも性急であったからという理由もあるだろう。結局信仰は長続きせず、アメンホテプ4世は失意の中に死。アテンへの信仰は消滅した。

しかし。一時期とはいえ、古代文明の至高神を務めた存在である。感じるその力は凄まじい。ムスビの悪魔達はどれも桁違いの能力を持っていたが、これはその中でもトップクラスだろう。

トールには分かる。今戦っている此奴らは、守護に近い性質を持つ。ムスビの悪魔と同じ、アマラ経絡から来た連中と同じような存在だ。

それにしても、これは素晴らしい前菜だ。他の悪魔どもを守るという大事な仕事も確かにあるが、トールはやはり本質的に戦士なのだ。こういう実に楽しそうな敵を見つければ、叩きつぶして引きちぎってやりたくなる。

「下がっていろ。 巻き込まれたら死ぬぞ」

「し、しかしトール将軍!」

「俺の事を気遣う暇があったら、他の戦線を手伝ってこい。 此奴を潰したら、すぐに次の上級悪魔を撃破に向かう。 勝てそうにないなら、防戦に努めろ。 じきに俺が援護に向かう」

かってのトールであれば、考えられない発言だ。悪魔達は頭を下げると、それぞれ苦戦している味方の元へ散っていった。

呼吸を整え、腰を落とす。

「俺の名はトール。 アテン神、勝負を所望する」

「良かろう、北欧神話最強の武神よ。 人間どもの政争に利用され、一時期祭り上げられただけだとはいえ、我も至高神だった存在だ。 相手にとって不足はない。 いざ」

無数の手が、うねりながら躍り掛かってくる。トールはおもむろに、その必殺拳を繰り出し、迎撃を開始した。

 

翼を拡げて滞空している琴音の前に現れたのは、蛇の頭部を持つ巨大な神であった。途轍もなく強大な魔力を感じる。これは、ひょっとすると、この場にいるエジプト神族で最強の使い手かも知れない。少し長く尖った蛇の頭部を持ってはいるが、全身は様々な動物の集合体で、感じる気配も桁違いに禍々しい。また、その身を多う魔力は、途轍もなく強い渇きの波動を纏っていた。これは、砂漠を模した風だろう。

単純な消去法だ。エジプト神話で最強の存在。砂漠を神格化した邪悪な神と言えば。結果は一つしかあり得ない。

「貴方が、エジプト神話最強の邪神、セトですね」

「ご名答。 我こそがセト。 サタンの原型にして、光の王子ホルスの敵手。 バアルとも同一視される、エジプト神話における最強の悪神にて戦闘神なり」

周囲を滞空している悪魔達が、恐怖の声を挙げる。サタンの原型ともなれば、その実力は桁違いである。琴音の身を為すサマエルも同じ系統の悪魔だが、セトは豊富な戦闘的逸話がある、バリバリの武闘派だ。とてもではないが、手を抜ける相手ではない。

熱い風が吹き付けてくる。セトは長い口を開くと、嘲笑の声を漏らす。他の悪魔と違い、感情があるらしい。口の中は蛇のものとは微妙に違っており、舌は非常に長細かった。

「くだらん余興につきあわされて退屈していたが、お前ほどの相手ならばそれも解消できそうだ。 少しは退屈を紛らわせてくれよ、後世に、我より派生した楽園の邪神よ」

「……良いでしょう」

近くで奮戦していたシジマの堕天使達を下がらせる。とてもではないが、他の悪魔を気遣っている余裕などはない。逆に言えば、セトを出来るだけ速く屠ることが出来れば、支援に向かえる味方がそれだけ有利になる。

急角度で上昇すると、刀をきらめかせて、琴音はセトに斬りかかった。セトは無数にある手を動かし、印を何重にも組むと、冷静に琴音の突撃を迎撃に掛かった。

 

少しずつ本営を進めながら指揮をしていたカエデの元に、背中に何本か矢を生やした鬼神が駆け込んでくる。

「トール将軍、サマエル将軍、人修羅殿に続いて敵幹部と思われる上級悪魔と交戦に入りました!」

「分かりました。 彼らの戦場には近付かないように、増援を投入してください。 回復判は、負傷者の前線復帰を急いで。 マガツヒは、後方から輸送した分を使ってくださって構いません」

指揮をしてみて分かったが、鬼神達の勇敢さとタフネスは驚くべきものがある。今の鬼神も、特に消耗している様子はなく。背中の矢を抜くと、すぐに前線に駆け出していった。堕天使達も、驚いてその様子を見守っている。今まで戦って手強いと言うことは分かってはいたが、これほど体が強いとは、間近で見るまでは信じられなかった。続いて報告が来る。それぞれが交戦している相手が、エジプト神話の主神格ばかりだと判明する。どれも桁違いに手強い相手だ。

側では、西王母がオペレーションルームを立ち上げるべく、床に魔法陣を書き連ねている。東洋的なものを主体にしている、独創的な構成だ。ただ、彼女が手書きで書いている部分の文字は非常に癖があり、カエデも吃驚するような丸字だった。このような文字を実際に書く者がいるとは、驚きである。

腕組みしたカエデは、戦況を吟味する。敵が温存していた最精鋭を投入してきたことで、戦線は五分に引き戻されている。混戦が続いている状況であり、此方も出来れば新手を投入したいところなのだが。

説得できた戦力は、もう既に全員が投入済みだ。恐らくは、ヨスガもそれは同じ事だろう。

元々、最後の決戦とはいえ、ヨスガでもないシジマでもない人修羅のために命まで賭ける悪魔は、数が限られてくる。この戦いを最期まで見届けたいという意思は誰にでもあるのだろうが、命をそれで落とすかも知れないとなると、話はまた別になってくる。それに何より。今までの戦いで、親友や仲間を失った悪魔は数限りない。それまでの敵と気兼ねなく手を取って戦える悪魔がこれだけいただけでも、奇跡に近いのだ。

だから人修羅はモチベーションを上げて前線に出ているのだろう。カエデだって、この奇跡が如何に貴重なものか、よく分かる。ただ、それはあくまで奇跡。まだ少しずつ増援は来てくれてはいるが。これ以上、爆発的な味方の来援は期待できないだろう。それに、強制だって出来ない。

「オペレーションルーム、ほぼ構成が整いました!」

「すぐに探査専門の道祖神達を配置! 戦場の全体図を、リアルタイムで構築する準備に入って!」

忙しく西王母が駆け回っている。オペレーションルームが完成すれば、少しは指揮もやりやすくなるだろう。カエデの手元には自分用の指揮コンソールを造ってはいたが、どうしても小さくて限定的なものだからだ。

さて、敵の隙を突くにはどうするべきか。そう考えた瞬間である。

「カエデ!」

ニュクスの悲鳴と共に顔を上げると、光の矢が落ちてくるところだった。慌ててシールドを張るが、抑えきれない。はじき飛ばされて、背中から床にたたきつけられる。立ち上がり、顔を上げるカエデは、見た。

空に羽ばたく、光り輝く鷲の姿を。

「ホルス!」

「見つけたぞ、カエデ将軍! 忌々しい小娘めが!」

憎悪の声が、光の鷲から漏れる。ブリュンヒルドが人修羅と共に敵と戦っている隙を突かれたか。周囲に展開する堕天使達を手で制すると、乗騎に跨り、カエデは言った。

「すみません、しばらく指揮をお願いします」

「どうして! あんなのは、私達に任せておきなさい!」

「あのホルスは、時を操る能力を持っています。 二回戦った、私が一番対処しやすい相手です。 逆に、そうでなければ、無駄に被害を増やすことになります」

蛇の悪魔が羽ばたき、空に身を躍らせる。自分自身としての戦いは、これが最後になるのだろうかと、ふとカエデは思った。いや、違う。此処で終わりにしてしまってはならない。

カエデは、シジマの皆から、多くのものを託されてきた。だから、簡単に倒れる訳にはいかない。必ず創世の行く先を見届けて、シジマの皆を導かなければならない。そうしたいではない。そうしなければならない、のだ。

「ハハハハハ! 馬鹿め! この私を相手に、一騎で戦うつもりか!」

「貴方は二回の戦いで、私の技をあまり見ていません。 逆に私は、貴方の能力を大体把握しました。 もう、一騎で充分です」

「ほう。 ほざいたな、このメスガキが! 奇襲で私に少々傷を付けた程度で、図に乗るなああああっ!」

「まずは出来るだけ上空に。 皆を巻き込まないようにしなければなりませんから」

乗騎に囁くと、頷いた蛇の悪魔は翼を拡げ、一気に加速した。ホルスが笑いながら着いてくる、

時を操る能力は一見無敵に思えるが、弱点は幾らでもある。一度様々な角度から計算してみたのだが、もし単独で時間を加速したり圧縮した場合、周囲の空気が凄まじい抵抗を持つようになり、身動きどころか呼吸だって出来なくなる。つまり、ホルスは完全に時間を止めているのではない。止めているにしてもあまり長時間は止めることが出来ない。

また、時間を常に自由に止めていられる訳でもない。止める事自体にも膨大な魔力が必要なはずだし、つけいる隙は幾らでもある。

何より、ホルス自身の驕りが隙を産む。強すぎる能力を手にすると、どうしてもそれに頼り切ってしまうものなのだ。

ホルスから逃げながら、印を切る。四つめの術を準備し終わった時。ホルスが時間を止めるつもりなのが、気配から分かった。

詠唱、完了。最初に展開するのは、ただの霧だ。周囲にばらまかれる霧が、陽光を反射して煌めく。霧の中に突っ込んだホルスは、眉をひそめたようだが、しかし関係為しに突進してくる。

続いて展開するのは、チャフの術式だ。小さな薄い金属片を召喚して、辺りにばらまく。時間を止めようとしていたホルスは、その意味を悟って顔色を変える。

「お、のれ! こざかしい真似を!」

空気でも抵抗が激しいだろうに、チャフの中などに時間を止めて突っ込んだら、瞬時に体がばらばらだ。それに、此処で最初の術式が意味を持ってくる。

ホルスの全身が濡れている。さっきの霧によるものだ。それに、チャフが次々貼り付く。体が重くなることに、ホルスは気付いたのだろう。舌打ちして、翼を羽ばたかせ、邪魔を追い払いに掛かる。だが。

その隙に、カエデは第三の印を切り終えていた。

ホルスが、己の注ェを飛ばしてくる。それはカエデの至近で、次々爆発した。流石に火力は高く、飛び回る蛇の悪魔の鱗がはじけ飛び、カエデ自身も何度も揺さぶられる。耳のすぐ側で爆ぜたので、思わず目をつぶってしまった。ホルスが不意に距離を取る。気付いたのだろう。周辺の酸素濃度を上げたことに。

「同じ手を、何度も喰うと思うたか!」

「思っていません」

第五の術の印を組み始めながら、次の手にはいる。ホルスは分かっていない。自分が徐々に、逃げられない罠の中に入り込んできていることに。ホルスが口を開き、エネルギーの塊を吐いた。蛇の悪魔は避けに掛かるが、その尻尾の半ばがえぐり去られ、吹っ飛んで血が噴き出す。

「ぎゃあっ!」

「もう少しです、耐えてください」

「分かっています。 貴方の指示が間違うはずはないと、信じています」

「ヒヒャハハハハハハ! 麗しき主従愛よな! だが死ねえっ!」

翼をまた拡げたホルスが、羽毛を飛ばしてくる。カエデが印を切った。爆発の中、カエデの肩から、脇から血が噴き出す。痛い。だが、乗騎の悪魔の方が、もっと痛いはずだ。歯を食いしばって耐えながら、その瞬間を待つ。

間合いに入った。第四の印を、切る。

ホルスが周囲を見回す。見た目、何も変わっていない。だがホルスも慎重になっている。念のためにと思ったのだろう。更に少し下がって、距離を取ろうとして。

その翼が、半ばから消し飛んだ。

「何ッ!?」

ホルスが振り返る先にあったのは、以前も用いた魔力の糸。霧の外側に展開した事で、非常に視認しにくい工夫をした。心理的なトラップでもある。注意がそれる瞬間に、体に接触するように仕込んでおいたのだ。実際に打撃を与えた高濃度酸素を用いたのは、糸の方にホルスを追い込むためである。

そして、カエデの手には、光の弓が出現していた。カエデのいる方には高濃度酸素の膜。そして後方には魔力の糸。そして体に着いているチャフが、時間操作による負担を大きくする。そして、以前の戦いから分析していた、一度の時間停止で逃れられる距離も、カエデは計算に入れていた。攻めるにしても逃げるにしても、一度の時間停止では不可能だ。

引き絞る弓の音。ホルスが、人型に形態チェンジするのが見えた。手にしている剣で、魔力の糸を切断しに掛かる。貫通の術式が完成。矢から、指を離すカエデ。壮絶な表情をひらめかせたホルスが、時間を停止して逃れようとするが。

一瞬速く、乗騎の蛇の悪魔が口から放った火球が、ホルスの体を直撃していた。それは高濃度酸素で何倍にも火力を上げており、中級程度の悪魔が放った術式であっても、ホルスの動きを一瞬止めるには充分だった。

これが、カエデの隠し球だった。元々油断しやすいホルスの目をカエデに引きつけておいて、乗り物としか考えていない相手から、突然に有効打を放たせる。実際に、効果は絶大であった。

「がぎゃああっ!? お、おのれ、おのれえええええっ!」

剣を振るい、炎を振り払おうとするホルスの胸に、貫通の矢が突き刺さる。轟き渡る断末魔の絶叫。更にカエデは、上級の火炎術アギダインを詠唱、叩きつけた。悲鳴を上げるホルスが、炎の柱の中に消える。

しばしの沈黙の後。カエデは弓を降ろした。ホルスは焼き尽くされ、マガツヒになって散っていく。

妙だ。脆すぎる。

少なくとも、もう一段階はあるものだと思っていた。だから時間停止の術式を封じる手段を何重にも展開して、無理をして貫通の二発目を用意してまでいたのだ。辺りにホルスの気配はない。それに、奴がこのタイミングで出てくるのもおかしい。

使用した術式を、全て解除していく。司令部に降り立つと、すぐに医療班が駆け寄ってきた。お洋服がボロボロの上に血みどろだ。すぐに負傷カ所の衣服を剥がされて、回復術が掛けられる。カエデ自身が医療のエキスパートなのだが、こう言う時はまずこの後に続く戦闘を意識して魔力を温存するため、周囲に回復を任せることになる。

簡易寝台に無理矢理寝かされて、回復術を掛けられながら、カエデは傍らのニュクスに言う。

「ごめんなさい。 お洋服、駄目にしてしまいました」

「そんなの良いから。 お洋服だったら幾らでも新しいのを造るから、ね」

「有難うございます。 それよりも、私の乗っていたラピスは」

「大丈夫。 そっちも治療しているから」

目を閉じると、カエデは追加分の報告を受けながら、状況を整理していく。今のところ、味方が僅かに有利。まず二カ所で敵の攻勢を粉砕したという報告が入っている。上級悪魔達の活躍もあるが、それ以上にスペクターが壁になり、奮戦しているらしい。敵とすれば最悪のテロリストだが、味方となれば実に頼もしい奴である。トールは今だアテン神と交戦中。辺りがクレーターだらけになるような、凄まじい状況らしく、誰も近づけないそうである。空中ではセトとサマエルが丁々発止の横綱相撲を繰り広げており、今だ一進一退。人修羅はアヌビスとアメミットと交戦中。ブリュンヒルド率いる最精鋭がそれに加勢しており、徐々に押し込んでいるという。

伝令が飛び込んでくる。また一カ所で、敵の攻勢を打ち砕いたという。ただし、元々敵の数は此方の五倍以上である。此方も被害が大きく、簡単には進めないという報告も来ていた。体を起こすと、ラピスの様子を見た。吹き飛ばされた尻尾の傷が痛々しく、すぐに動いてくれとは言いづらい。乗騎は他にも用意できるが、しかし。乗り慣れたラピス以外で、難敵と戦うのはリスクが大きすぎる。

此処でセトかアテンを撃破できれば、一気に攻勢に出ることが出来る。しかし、だ。いやな予感がしてならない。

あのホルスが本体だとは思えないのだ。奴は頭が悪いが、しかしそれを補ってあまりあるほどに執念深く、陰湿な性格をしていた。カエデの分析通り、奴のマガツヒがカグツチに取り込まれたことで異常が生じたというのなら。他のエジプト神族だけでは飽きたらず、己を大量に複製でもしかねない。一体ならカエデ一人でも撃破は出来た。しかし一戦場に、奴が多数現れでもしたら。

味方は確実に不利になる。この均衡も、一気に崩されかねない。

もちろんホルスほどの悪魔を、大量に出現させるのは膨大すぎるマガツヒを必要とする事になる。簡単にはできないことであるし、これだけの数の悪魔を作り出した現状、更に数は限られるだろう。氷川司令の遺品である計算機を持ってこさせる。そしてラジエルの書を紐解き、ホルスの構成マガツヒを解析開始。さっき散ったマガツヒの量と照らし合わせ、更に感情等の構成要素を計算に入れる。それに加え、カグツチが今まで吸収したマガツヒの量と、今展開している敵悪魔に使用した消費量を計算。

計算機の上で指を素早く滑らせる。三回計算し直して、ミスの防止を図った。

結果。最低でも4。最大で9という計算が為された。

もし9体ものホルスが同時に同一戦場に現れたら、一気に味方は蹴散らされる。あのトールでも手に負えないだろう。そしてなりふり構わずカグツチが攻勢に出ている現状を鑑みるに、それをしてこない保証はない。

「ニュクス将軍、今この場にいる幹部クラスの悪魔は誰ですか」

「そうね、私と、それに西王母将軍。 あっちには、さっき参戦したオルトロス将軍がいるわ。 ケルベロス将軍は、ユリちゃんを守るために時々飛んでくる敵の飛行部隊をたたき落としに掛かっていて、この場を離れられないと言っているけれど、西王母将軍と私、それにオルトロス将軍は動けるわよ。 それに遊撃に転じているミズチ将軍と、後方支援を続けていた持国天将軍も呼び寄せられるかも知れないわ」

「それならば、すぐにでも前線に出る準備をしていてください。 敵はこれから、最後の手段として、4ないし9体のホルスを、一度に投入してくる可能性があります。 並の上級悪魔では、とても支えられる相手ではありません。 人修羅が襲われでもしたら、基本的な作戦が一気に瓦解します」

「本当に!? しかし、此処にいるのは幹部級と言っても、皆後方支援を得意とする悪魔ばかりよ。 貴方に加えてトールかサマエル将軍がいれば、その数のホルスとも戦えると思うのだけれど」

ニュクスの指摘通りだ。それにもう一つ、切実な問題がある。

さっきからユリが必死にマガツヒを絞り出してくれているが、それでもそろそろ補給が怪しくなってきているのだ。

シジマの本営にはまだある程度の備蓄があるが、それも参戦反対派の悪魔達が、いざというときに用いる分である。

カエデは屋上に来る前に、最後の幹部会議をした。もしカグツチの異常により、人修羅の支援をしなければならなくなった場合、どれだけの戦力を動員できるかというものだった。結果は散々であった。師団長達は殆どが参戦に反対であったし、事実無理をさせる訳にはいかなかった。此処に持ち出すことが出来た分だけでも、かなりの量になり、それも無理を言って持ってきたのだ。ヨスガ側に到っては、恐らく殆ど持ち出せる状態にはなかっただろう。補給だけではなく、指揮系統にも弱点がある長期戦には極めて不利な状況である。

長引くと、じり貧になって、戦線が崩壊する。

僅かずつ増援は来てくれてはいる。だが、補給用のマガツヒまで持ち込んでくれる者は、ほんの僅かだ。しかも、部隊単位で参戦してくれるような悪魔は、目立って減りつつある。時間は、想像以上に少ないと判断する他無い。

「私が、前線に出ます。 狙うのは、セトです」

「手強いわよ。 勝算はあるの?」

「何とか」

立ち上がろうとした瞬間、痛みが体を駆け抜ける。ホルスの注ェによる打撃は、思った以上だったらしい。傷口から血がしみ出してくる。こんな時ばかりは、魔力ばっかり発達した、頭でっかちの自分が嫌になる。

痛み止めの術式など、掛けている暇はない。カグツチは異常をきたしており、いつホルス軍団を作り出すか分からないのだ。せめてサマエルが稼働可能な状態でないと、一気に味方が蹴散らされる可能性がある。ただでさえ敵は十万を超えている。無茶な戦いを、どうにか支えている状況なのだ。

「カエデ将軍、私がもう一度飛びましょう」

「駄目。 貴方はまともに飛べる状態では無いでしょう」

「しかし、ニュクス将軍」

「今は少しの戦力も惜しい状態なの。 今は回復に身を任せなさい」

ラピスの言葉をぴしゃりと退ける。こう言う時に、自分の身を本気で案じてくれるニュクスが、カエデには頼もしかった。

「フェニックス!」

「お呼びでしょうか」

砂利を転がすようながらがら声がした。大きな鳥が進み出る。翼長は四メートル以上。長くて美しい尻尾と、聞き苦しいがらがら声のギャップが面白い。

フェニックス。有名な不死鳥である。ソロモン王の魔神の一柱にも数えられる存在で、その縁でシジマに属していた。ラピスの二番手として、カエデの乗騎としての訓練を受けていた悪魔である。勘違いされやすいが、常に燃えさかっている訳ではなく、死んで再生する時に炎を媒介として用いるのだ。

すぐにフェニックスの背に鞍がつけられる。多少は動きを制限されるが、仕方がないだろう。

「それで、司令。 私は何処へ向かえばよいのですか?」

「サマエル将軍に加勢します」

「あのような戦いに参加すると! 恐ろしいですなあ。 とにかく、出来るだけ近付いては見ます」

忠臣であるラピスとは何もかもが違う。今までもラピスが行動不能になった時のことを考えて、何度か騎乗訓練はしているから、いきなり振り落とされるような事はないだろうが、しかし。やはりあれほど巧く動いてはくれないだろう。積極的な戦術は採れなくなるのを、覚悟するしかない。

二つの光が、カグツチの近くでぶつかり合っている。赤い光がサマエル、青い光がセトだろう。セトを狙って時々味方の砲火が飛んでいるが、気にもしていない様子だ。

複数の腕を持つ敵が、味方の上級悪魔を押し込んでいるのが見えたので、上空から攻撃術を叩き込んでやる。火柱が上がり、敵を包み込んだ。思わぬ方向から灼かれた敵が絶叫し、その隙を突いて、味方が槍で突き伏せた。フェニックスが皮肉混じりに言う。

「いいのですか? そのような無駄な力を使って」

「少なくとも、あの戦線では少しでも味方が有利になります」

そうだ、無駄であるはずがない。疲労と痛みが激しくなりつつあるが、まだまだだ。呪いに侵され、死と隣り合わせの状況でありながらも、最後まで戦ったサマエル。致命傷を受け、常人ならショック死するような痛みの中で、人修羅と拳を交え、己の信念に殉じたというトール。彼らはもっと苦しい中で戦い続けたのだ。こんな痛みが何だ。

セトの姿が見えてきた。蛇を中心に、三十以上の獣が融合した、奇怪な姿をしている。背には風が形作った翼があり、セトを空に浮かせている。その口の中に、青い光が生じる。恐らくは、メギドラオンだ。どうやら味方の密集地帯を狙っているらしく、サマエルがその前に立ちはだかった。

「ハハハハハハ! 貴様の性格は読めたぞ、楽園の邪神!」

「流石に、卑劣さと強さの象徴とされただけの事はありますね」

「ほざけ! 歴代の王朝は、力が必要な時は我にすがった! 我は人間が目を背けながらも、認めざるを得ない必要悪! 故にその力は闇の中でも、最上級のものだ! サタンなど、所詮は我の派生物に過ぎぬ!」

「大体は同意できます。 しかし、それは決して他者に誇るべきものではありません」

セトの頭の一つが、じろりとカエデを見た。そして、此方に顔を向けてくる。青い光が、撃ち放たれた。全力でバックに掛かるフェニックス。カエデは印を切り終えると、正面からメギドラオンを、同一の術式で迎撃する。

閃光が炸裂する。

キノコ雲が上がる下、カエデは汗が傷口に染みるのを感じた。味方を守るために、メギドラオンの火力を調節しなければならなかった。それだけ体の負担は大きくなり、全身が酷く軋んでいる。

キノコ雲を打ち破り、セトが笑いながら突進してくる。その口の中には、第二射の、青い光が既に宿っていた。

「ハハハハハハハハハハ! 貴様、シジマのカエデだな! 噂通り、魔力は優れているが、所詮は頭でっかちの子供よ! このまま噛み砕いてくれるわ!」

無言でセトの頭上に現れたサマエルが、連続してメギドを叩きつける。セトは右に左に避けつつ。見事な旋回運動を見せた。近くにサマエルが舞い降りる。見ると、全身かなり傷があった。セトはそれに対して、殆ど打撃を受けていない。

「貴方ほどの使い手が、此処まで苦戦するなんて」

「いえ、セトは流石に強いです。 もっとも、さっきのような卑劣な攻撃が多くて、より難儀しているというのが本音ですが」

やはりそうか。見たところ、セトの実力はサマエルより僅かに上だろう。しかし、サマエルの切れ味鋭い頭脳の出来から考えて、此処まで一方的な結果が生じるのはおかしいとも思っていたのだ。

「私が援護します。 正面から、セトを抑えられますか?」

「やってみましょう」

貫通さえ浴びせることが出来れば、一気にセトを落とすことが可能だ。周囲に目を配る。味方がやや優勢だが、上空でのこの戦闘を、気にしているのが分かる。

ニュクス達には、中距離での待機を司令している。セトを倒す前に、ホルスの大軍が現れた時の備えだ。

「さあて、よそ見する暇など、与えはしないぞ! 美味そうな子豚どもめ! 二匹まとめて喰らってやる!」

セトの口から、再び青い光が放たれる。さっと上空に舞い上がるサマエルを見届けると、メギドラで迎撃。方向を逸らして、凌ぎきる。セトはサマエルの動きを冷静に見きりながら、風を見事に操って高速で旋回。カエデの横から、回り込もうとした。

だが、サマエルが不意に加速、セトの至近で、進路を塞ぐ。セトは間髪入れず、メギドラの光を放ち、それをサマエルが刀で真っ二つにしている間に上空へ舞い上がる。巨体には似合わぬ凄まじい機動力だ。

貫通を当てるには、至近まで行くしかない。しかし、ネックになるのは、無数の動物が融合しているセトの特異な姿。何しろ全方位に目が着いているのだ。異常な角度に広がっている視界が、奇襲を容易には成功させてくれない。ギリシャ神話の台風神、テュポーンにもその特性が受け継がれているかも知れない。非常に面倒な相手だ。

突如、上から降り来る無数の火球。セトの顔が全て、同時に火球を放ってきたのだ。フェニックスの回避運動は思ったより見事で、連鎖する爆発の中を見事に避けきる。また、大きいのが来る。味方の密集地帯を狙ったメギドラオン。一度決めたら、徹底的に卑怯を貫くという訳か。詠唱が恐ろしく速いのは、頭が体中に着いていて、それぞれで複合詠唱を組んでいるからだろう。

「分かってはいましたが、手強いですなあ」

「覚悟の上です」

フェニックスの背を叩く。正気かと言われるが、頷く。サマエルも此方の意図を悟ったらしい。印を組み始める。セトの詠唱が完成。同時に、サマエルが至近にまで迫っていた。構わず、メギドラオンを撃ち放つセト。恐らく、剣で斬りつけられても、避けきる自信があるのだろう。それは実力に裏付けられたものであり、不遜でも何でもない。

しかし。この状況下でのそれは、大きな失策であった。

元々メギドラオンは貫通力に優れた術式ではなく、破壊力は最大級だが、構成に色々と問題があり脆い。特にセトの場合、複数の頭を使った詠唱により短時間で構築しているため、更にそれが顕著である。さっきメギドラで逸らした時に、それを読み切ったカエデは。今度は二つ下の術式であるメギドを高速で詠唱、放って中途で炸裂させたのである。

セトのメギドラオンが誘爆。それも、セトの至近で、だ。

流石に顔色を変えたセトが、、舞い上がる。しかしその先には、既にサマエルが回り込んでいた。セトの頭上に回り込んでいたサマエルが、痛烈な蹴りを叩き込む。トールの弟子であり、接近戦でもある程度は渡り合えたというだけのことはある。セトの巨体が揺らぎ、爆発の中に押し込まれて、灼かれた。

「ぐぎゃあああああああああっ!」

セトが、余裕も威厳もかなぐり捨てて、絶叫する。頭の幾つかが蒸発するのが、カエデの位置から見えた。だが、黒こげになりながらも、なおも爆発から躍り出てくるセト。その凄まじさは、確かに神々を相手に戦い続けた猛者だけはある。

「おのれえええ、豚どもがあああああっ!」

セトは気付いただろうか。カエデが視界の中にいないことに。巨大な口を開けて、サマエルにかぶりつく。鰐の要素も取り入れているのか、途轍もなく速い噛みつきであった。だがサマエルも冷静に刀を振るってつっかえ棒にし、セトの口の中で耐え抜く。虎徹が軋みを挙げる中、サマエルが叫ぶ。

「今です!」

幾つか吹っ飛んだ頭がカバーしていた死角。既に潜り込んでいたカエデは、既に光の弓を手にしていた。フェニックスは思ったよりもずっと見事な飛行を見せて、死角に潜り込んでくれたのだ。至近まで接近すると言った時に不平を漏らしたフェニックスだったが、きちんと己の責務を果たしてくれた。

矢から、指を放す。

セトの巨体に、その構成を崩壊させる矢が、吸い込まれていった。

白目を剥いたセトの全身に、罅が入っていく。口からサマエルが飛び出し、今までのお返しだとばかりに冷気の槍を叩き込む。口の中に氷塊を叩き込まれたセトは、断末魔の声さえ挙げることが出来なくなった。

バランスを崩して、落ちていくセト。其処へ、様子を見ていた味方の砲火が集中していく。ひときわ大きい幾つかは、多分前線に出ていた上級悪魔によるものだろう。地面に落ちた衝撃で体がぐしゃぐしゃに潰れた上に、高密度の火力を浴びたセトは、耐えられなかった。

後に残ったのは、膨大なマガツヒ。サマエルが呼吸を整えながら、自分の傷を急いで癒しにかかっているカエデに近寄ってきた。

「わざわざ私に加勢に来たと言うことは、異変ですか?」

「はい。 実はカグツチがホルス4騎ないし9騎を投入してくる可能性があります。 全戦線で綱引きの状態が続いていると、一気に戦線を崩される可能性がありました。 だから、全軍でも屈指の実力者である琴音将軍に、支援を願おうと思いまして」

「なるほど。 そうなると、次は」

アテンと死闘を繰り広げているトールの姿が、今の高度からはよく見えた。腕力だけで迫ろうとしているトールを、巧緻を尽くした術式で迎撃しているアテン。実力は伯仲していた。如何に今までカグツチが吸い上げたマガツヒの量が多いか、これだけでもよく分かる。

「分かりました。 トールには私が加勢します。 カエデ将軍は、全軍の指揮に戻ってください」

「いいのですか?」

「ええ。 嫌いだとか言ってはいられません。 逆にカエデ将軍が司令部を長く離れていては、不測の事態に対処が難しくなります。 ホルスが多数現れた時には、何かしらの合図をしていただければ、すぐに駆けつけますから」

千金の価値がある言葉である。さっさと帰りたそうな顔をしているフェニックスの背で頷くと、カエデはきびすを返す。

厳しい戦いに、やっと終わりが見え始めていた。

 

3,拳と剣と大鰐と人

 

周辺の敵はブリュンヒルドが蹴散らしてくれている。見事な空軍の動きである。空からも、陸からも、敵悪魔は近付くことが出来なかった。

しかし、邪魔が入らないことを考慮しても、戦いは簡単にはいかなかった。

アヌビスが、手にしている杖を振り下ろしてくる。投擲用の矛を使い切った後は、短めの杖に切り替えてきたのだ。杖と言っても得体が知れない材質で造られたそれは、鉄より堅く柳よりもしなやかで、しかも一撃がとても重い。両腕に造り出した刃で交互に受けながら隙を伺うが、なかなか間合いに入らせてくれない。残像が残るほどの速さで動き回っては、右から左から巧緻を極める斬撃を打ち込んでくるアヌビスは、確かに強かった。

それでも、何度かは攻撃を打ち込んではいる。今も一瞬の隙を突いて、蹴りを叩き込んだ。胸板に直撃した蹴りは、アヌビスを三十メートルは吹き飛ばしたが。しかし続けて秀一が口から吐きつけた火球は、アヌビスに届く前にかき消される。アヌビスが居合いの要領で振るった杖が、風圧で火球を散らしたのだ。

隣で激突音。頭を下げて突入してきたアメミットを、ニーズヘッグとマダが力を合わせて受け止めたのだ。ずり下がったマダの足下から煙が上がり、四本の腕が、猛烈な圧力に軋んでいる。巨体を誇るニーズヘッグの持ち場まで、アメミットはじりじりと押し込んでいる。体格的には殆ど変わらないはずなのに、力の差は歴然だ。

どうにか突進を食い止め、ゆっくり押し返す。しかしサルタヒコも、マダも息が上がり始めている。さっきはじき飛ばされて、何とか立ち上がったリコが吠える。辺りの床には、死闘の痕跡を示す罅が、既に縦横無尽に走っていた。

「この、やろおおっ!」

「落ち着け」

激高しかけたリコに、サルタヒコの冷静な声が飛ぶ。サルタヒコもかなり傷だらけだが、しかし冷静さが失われていないのが救いか。

動く火山岩のような大鰐アメミットは、アヌビスと正反対の悪魔だ。重く、堅く、そして単純に強い。動きは確かに鈍いが、サルタヒコの剣も、リコの蹴りも、まるで通じていない。サナが隙を見ては術式を散々浴びせているにもかかわらず、鱗の一枚も飛ぶ様子がない。アメノウズメは少しずつ下がりながらも舞い続けているが、そろそろ疲労がかなり大きいのが分かる。クロトは回復術を使いすぎてへばっているし、あまり長引かせると危険だ。

アヌビスがまた秀一に突貫してくる。ふと思い当たることがあったので、秀一はハンドサインを切った。サナが頷く。振り下ろされた杖を、左手の刃で受け止める。何合か渡り合った後、わざと一撃を脇腹で受けた。体の芯まで通るような打撃だが、そのまま杖を脇に挟み込む。そしてアヌビスに頭突きを浴びせ、ひるんだところを、床に押し倒した。

「今だっ!」

中空に舞い上がっていたサナが、両手に蓄えていた雷撃を、秀一に向けて撃ち放つ。光の竜が空間を驀進し、秀一ごとアヌビスにかぶりついていた。飛び散るスパークの中、秀一は確かにみた。アメミットが絶叫しながら、のたうち回る様子を。

間違いない。アメミットは、その場にいながら存在しなかったのだ。神話上と同じく、アヌビスと一体を成す存在だったのである。あまりにもあらゆる攻撃が通らないから、おかしいとは思っていたのだ。それならば、アヌビスに痛打を浴びせれば、こうなるのは自明の理だ。

ただ、今度は本体をアメミットに移す可能性もある。

「やはりな! サナ、俺が壊れることは気にするな! 徹底的にやれ!」

「ちょっと、相変わらず大胆な指示だなあ! まあ、いいけどね! それがシューイチの良いところだし!」

もがくアヌビスを、必死に押さえ込む。時々膝や肘が飛んでくるが、あのトールの拳に比べれば、屁でもない。これでも、体の頑強さには自信があるのだ。向こうでも、アメミットにマダとサルタヒコとニーズヘッグがまとわりついて、動きを必死に封じ続けていた。

さて、このまま仕留められるか。背中から、もう一撃、痛烈な電撃が来る。アヌビスが白目を剥いてのたうち回ると同時に、アメミットが悲鳴を上げて転がった。そして、三度目の雷撃を、サナが放とうとした瞬間である。

アヌビスの姿が、かき消えていた。

飛び退いて、サナの電撃を避ける。皆の視線が集中する中。アメミットがいた場所に、大きな気配が出現していた。霧が立ちこめ、その姿が消える。さっとハンドサインを飛ばして、皆に距離を取らせた。

ゆっくり立ち上がりながら、秀一は手に着いた埃を払う。

「神話上、一対で一つの神格だから、こういう事も出来るという訳か」

「気をつけて、シューイチ!」

サナの警告が終わるよりも速く、飛んでくる大きな鎌。床石をバターのように切り裂き、突き刺さって止まる。鎌の柄は二メートルを超えていて、刃渡りもそれに近いサイズである。さっとマダとサルタヒコが左右に散る。少し戦線を下げた方が良さそうだ。

霧の中から、浮かび上がる巨大な影。

アメミットの体が、二足で立ち上がっていた。体の脇からは六本の腕が生え、それぞれに大きな武具を手にしている。鰐の頭部の上に、アヌビスの頭が乗っていて、まるで二騎の神が無理矢理重なり合ったかのように見える。

その手に、また鎌が出現する。最小限のスナップで振るわれたにもかかわらず、的確にサナを狙って飛来。秀一が横から蹴りを叩き込まなければ、小さな体は有無を言わさず真っ二つだっただろう。更に、次々にアヌビスの手に武具が出現。じりじりと進みながら、投擲し続けてくる。

「うわっ! 速っ!」

「中衛はもう少し下がれ! もう攻撃は通るはずだ! 全員、倒される前に倒しきる覚悟で攻めるぞ!」

「応っ!」

真っ先に踏み込んだマダが、鎌で肩を割かれながら、アヌビスに拳を浴びせる。だが、二本の腕で、マダの猛打がさらりと受け流され、もう一本の腕がフックの軌道で唸り、胸を直撃する。蹈鞴を踏んだマダに向けて、振り下ろされる鎌。跳躍したサルタヒコが抜刀し、刀で受け止めるが、力負けして地面に叩きつけられる。

攻防の隙を縫って、リコが斜め後ろに回り込むが、飛んできた尻尾が鞭のようにしなり、リコの接近を許さない。再びサナを狙って飛ぶ鎌を、今度はクロトが迎撃。棍を振るって、どうにか軌道を変えるが、自身も吹っ飛んだ。

「カアアッ!」

アヌビスが、口から火球を吐く。直径は三メートルを超えている。フォルネウスとニーズヘッグが慌てて冷気の息で迎撃するが、防ぎきれない。炸裂した火球が、とっさに盾になったニーズヘッグごと、後衛を丸ごと炎に包む。強い。流石に、エジプト神話でも別格の神格だけはある。

しかし、今の隙に。ついに秀一は、アヌビスの至近に迫っていた。鎌を持つ手も、尻尾も間に合わない。詠唱は既に済んでおり、秀一の目には光が宿っている。間合いは、至近。この距離、位置からなら。至高の魔弾で、片が着く。

だが。

アヌビスの背中で、骨が奇妙な動きを見せる。粘液にまみれた腕が、もう一本現れる。バーと、アヌビスが吠えた。エジプト神話に登場する、魂のことか。それが集合した姿こそ、アヌビスの下級神格だというのか。だとしても、このような使い方をするとは、予想の限度を超えていた。

更に、ぐるりと不自然に動いたアヌビスの顔が、詠唱を開始。新しい腕に、巨大な槍が出現する。サナが叩きつけた雷撃が、アヌビスの唱えた術式が出現させた光の壁に防がれた。無造作に振るわれた槍が、至高の魔弾発射寸前の秀一を貫こうとした、その瞬間。

飛び出した影が、腕ごと槍を一刀両断にしていた。

サルタヒコだ。今、叩きつけられたというのに。血みどろの体を振るって、無理矢理に動かして。秀一のために、隙を作ってくれたのだ。汗と一緒に血を飛ばしながら、サルタヒコは、秀一の父は叫ぶ。

「今だ、秀一っ!」

「そうだっ! やれええっ! サルタヒコの男気、無駄にするんじゃねええっ!」

「榊センパイ! 今ッスよ!」

マダがアヌビスに組み付き、リコが風の力を全開に展開して押さえ込む。頷くと、秀一は、全身の力を、魔力に転換して絞り出す。

「おおおおおおおおおっ!」

「キアアアアアアアアアアアアアアッ!」

アヌビスの鰐の頭が此方を向き、高密度の火球を連続で叩きつけてくるが、もう遅い。光の竜となった魔力の帯が、火球ごとアヌビスの頭部を貫く。光の中に頭部が消え、続いて体が消し飛んでいく。その光は、敵陣もまとめて貫き、千以上の輝く悪魔を蒸発させながら、カグツチにまで届いた。

一瞬遅れて、プラズマ化した空気が、炸裂する。

着地した秀一は、手をかざして、巻き起こるキノコ雲と、閃光から目を守った。敵陣が露骨に動揺するのが分かった。如何に感情のない敵であっても、今の破壊力は、動揺するに相応しいものであったらしい。

全員、傷だらけだ。クロトがサルタヒコに駆け寄る。いつも無理をして、今回もその例に漏れなかった古代日本の土着戦神は、マダに助け起こされながら、秀一を見た。不器用な笑みが浮かぶ。

「やったな」

「ああ。 父さんと母さんのおかげだ。 いつも支えてくれて、本当に済まない」

クロトが回復術をかけ始める。だが、すぐには動けないだろう。敵陣は、徐々に収縮しつつある。各地で反撃が打ち砕かれ、逃走に転じ始めているようだ。ヨスガもシジマも関係なく、悪魔達が見事な攻めを見せている。

何だか、悲しい光景だと秀一は思った。

信念は大事だ。この世界ではなおさらである。

だが、そんなものがあるから、皆手を取り合うことが出来なかったのではないのか。信念は心を強くするかも知れない。だが、他の思想を認めない排他性が、確実に世界を狭め、柔軟性を落としもするのだ。

事実、コトワリが絶対ではなくなった悪魔達は、新しい世界と、その誕生を見届けるために。命を賭けて、互いに背中を預けることが出来ているではないか。

ふわりと、サナが舞い降りてくる。進化後も、あまり変わらぬその姿は、相変わらず若作りを通り越して気の毒なほど童顔だった。

「シューイチ、少し休もう。 味方の進撃速度に合わせた方がいいよ」

「……そう、だな。 フォルネウス、氷壁の展開を頼む。 味方が追いついてくるのを待とう」

「そうじゃの」

「やれやれ、あと少しだって言うのに、敵が元気なばっかりに苦労するぜ」

どっかと腰を下ろすマダは不満げだが、その全身には無数の傷があった。一部は内臓にまで達している筈で、人間だったら死んでいるようなものも多い。アメノウズメも、かなり舞い疲れていたようすで、汗をハンカチで拭っているのが見えた。

ブリュンヒルドは、此方が勝ったのを見届けると、上空を二三回旋回してから、また味方の援護に向かうべく、飛び去っていった。クロトが舌打ちしたのは、かなり無理をしているのを知っていたからだろう。

伝令が飛んでくる。見たことのある悪魔だ。初期のマントラ軍で主力として活躍していた、バイブ・カハだ。まだ生き残りがいたのだ。旋回していたバイブ・カハは、秀一を見つけると、ゆっくり旋回半径を縮めながら高度を落とし、やがてすぐ側に舞い降りた。歴戦の悪魔らしく、無駄の極めて少ない動きで、見惚れるほどだ。

「人修羅殿! カエデ将軍よりのご指示です!」

「伺おう」

「はっ! 現在、スペクターどのが中心となり、敵の組織的反撃を粉砕しています! 残る前線の敵将はアテン神のみで、トール将軍とサマエル将軍が協力して、攻勢に出ています」

「そうか。 あの師弟でも、手を取り合うことが出来るんだな」

「……人修羅殿は、アテン神の撃砕に合わせて、味方の最終総攻撃と共に、カグツチを目指して欲しいとのことです」

対カグツチの方針については、既に打ち合わせ済みである。歩み寄った和子がマガツヒを分けると、礼を言いながらバイブ・カハが啄み、また羽ばたいていく。

少しずつ、味方が押し込んでいるのが分かる。敵勢力は各地で反撃を粉砕され、旺盛な士気に支えられた味方軍勢に押し込まれている。秀一の所まで、味方が追いついてきた。フォルネウスが造っている簡易陣地に入り込んで来たのは、毘沙門天だった。

「人修羅どのか。 これほど敵の奥深くへ攻め込んでいたとは」

「毘沙門天将軍、貴方も大変だな。 アヌビスは倒したが、敵はまだ反撃の意思を崩していないようだし、まだ戦いは続きそうなのか」

「ああ、面倒な敵兵だ。 造っていただいたこの前線陣地、活用させて貰うぞ」

「やれやれ、大事にしてほしいのじゃがの」

ぼやくフォルネウス。もうかなりの力を消耗している。カグツチの所まで保つかどうか。ふと顔を上げると、上がる火柱が見えた。

アテン神と、トールが戦っている戦場だった。

ぞろぞろと味方の兵が押し寄せてくる。そして、また勢いを盛り返し、突入してきた輝く敵と、死闘を繰り広げ始めた。

 

アテンから伸びた無数の手が、床を撫でまわす。光の弾から伸びた、青白い細い手が踊るように動き回る様は、妙にエロチックだった。途端に、トールの前に、壁が隆起して現れた。舌打ちすると、飛び下がる。この壁は、爆破によって衝撃を受け止める、近代戦車に装備された防御装甲リアクティブアーマーと同じである。下手に刺激すると大爆発を起こすのだ。今も、全身に着いている傷は、それによって生じたものである。しかも爆圧が凄まじく、強行突破も難しい。

太陽神。空に輝く光の象徴。故に、どの神話でも最強の存在であることが多い。

長いエジプト神話の歴史の中では、多くの神々があり、太陽を象徴する存在もまた幾つも生まれ出た。その中でも特に変わった存在であるアテン。主神から転落しつつも信仰を集めたトールと、その立場はどこか似ているかも知れない。

アテンの周囲には、無数の壁が出来ている。空から落ちてくる炎の弾が、至近に炸裂。走りながら左右にかわすが、狙撃の精度は高く、いつまでも避けきれはしない。流石に鬱陶しくなってきたので、床石を無理やり引き剥がすと、十トンを超えるそれを壁に投げつける。巻き起こる爆発の中に躍り込んで、拳を繰り出すが、眼前にまたしても壁が現れる。力押しでは難しい。無理に拳で地面を叩き、急ブレーキを掛けてバックステップ。

さて、どうするか。トールは判断を強いられる。無理にでも壁を砕いて前進するか、それとも。

このアテンは、トールと非常に相性が悪い相手だ。流石に太陽神だけあって、術として展開しているリアクティブアーマーの精度が非常に高く、無理に進もうとするとトールでも無事では済まない。しかもその内側から、的確な攻撃を繰り出してくる。詠唱が聞こえるのは、もう次を準備しているのだろう。この展開の速さも、手強いと感じさせる要因の一つだ。

今まで、いかなる攻撃でも、力づくで押しつぶしてきたトールである。しかしながら、今回ばかりは、それが通じるか疑わしい。多少傷は増えるが、仕方がない。強行突破を計るか。そう考えた、瞬間である。

空から降り注いだ氷の術式が、リアクティブアーマー壁を凍結させる。アテンも思わず攻撃を止めた様子で、降り注ぐ火球が止んだ。

トールが見上げた先にいたのは。

結局わかり合うことがなかった。弟子であった。

琴音は、印を切り終えて、此方を冷たい目で見下ろしていた。向こうからは喋ろうとしないので、トールから語りかける。

「何をしに来た」

「今、カグツチが最後の反撃として、ホルス4ないし9騎を、同一戦場に投入してくる可能性があるそうです」

なるほど、それでか。

琴音は此方と目を合わせようとさえしなかった。まあ、それも当然だろう。トールとこの娘では、今や信じるものも、進む道も違いすぎるからだ。だが、今は。目的がたまたま合致した。それならば、一緒に戦うことも、出来るという訳だ。

「それで、加勢に来た訳か」

頷く。やれやれと、トールは思った。面倒くさい話である。アテンを倒せる自信ならば、ある。ただしそれは、一対一の死合いとしてのやり方なら、だ。余力を残すことを常に考える、味方を守ることを前提とした戦いの場合は非常に難しい。元々、トールにはそういう戦い方が非常に苦手だという事もある。

嫌いあった相手だ。どちらかが譲歩しなければ、話は進まない。此処はトールが年長者として、譲歩しなければならないだろう。

「作戦はお前が立てろ」

「良いのですか?」

「ああ。 元々俺は、一戦士として拳を振るってきた。 お前は何かを守るために戦い続けてきた。 どちらに合わせるかは、自明の理だろう」

少なからず、琴音は驚いていたようだった。だが、あまりもたもたしている暇はない。リアクティブアーマーが溶け始めている。間もなく、アテンが攻撃を再開するだろう。舞い降りてきた琴音が、さっと耳打ちする。なるほど、巧い作戦だ。後は、トールの動き次第で、成功か失敗かが決まる。

空にまた琴音が舞い上がるのを見届けた後、大地を踏みしめ、拳に力を集中する。同時にアテンが危険を悟ったか、更にリアクティブアーマーを、周囲に展開してきた。二重に展開されていた壁が、四重に、五重になる。しかも空中にまで、それらは展開されている。

「太陽神アテン!」

吠えたトールは、腰を低く落とす。あまたの敵を屠ってきた、必殺の拳の体勢だ。更にリアクティブアーマーが増える。面白いではないか。必殺の拳と、最強の壁のぶつかり合い。トールとしても、此処まで防御とカウンターに特化した相手とぶつかり合った事は今だ無い。強いて言えばスペクターだが、奴も本質的には増殖と攻撃を本分としていた。だから、この未知の相手との戦い自体は、とても面白い。

「俺のこの拳! あまたの神々を砕いてきた必殺の技を! 受けてみる、勇気はあるかあああああああっ!」

「面白い。 雷神トールよ。 そして空に舞う邪神サマエルよ。 お前達の技と連携、光の主たるこの我に、何処まで通じるか見せてみよ」

トールの前に降ってきたのは、無数の古代エジプト文字が刻まれた巨大な黒い壁。中央には、目を象った装飾がある。高さは三十メートル、幅は七メートルと言うところか。面白い。これを砕いて、なおかつあのリアクティブアーマー群を撃ち抜いて見せろと言う訳か。

実にトール好みな挑発!

しかも作戦に合致する!

トールは歓喜の雄叫びを上げると、踏み込む。これがどれくらい危険なリアクティブアーマーなのかは、見れば分かる。下手をすると核地雷に踏み込むのと同じだろう。だが、トールはそれでも。敢えて、突入を選んだ。

何故か。

挑発に乗ったのでは、ない。上空に待機し、長時間の、しかも最大級の詠唱を行っている琴音を支援するためだ。トールの拳を受ければ、アテンにも攻める余力など無くなる。手を封じてから、ボディーブローを叩き込む。それは卑怯かも知れないが、基本的な戦術の一つだ。そして、アテンに対して、その基本的な戦術を提案できるのも。トールと琴音という、桁違いの戦力が揃った今だからこそ。

琴音だからこそ、今基礎的な戦術を提案できたのだとも言える。

叩き込んだ拳が、紅蓮に染まる視界を誘発する。やはり、メギドラオン級の火力を誇るリアクティブアーマーか。押し返される。全身が焼けただれる感触。人修羅に修復されたばかりで、やはりまだ全快ではないか。しかし、それでもなお。崩壊しかける黒い壁に向けて、トールは雄叫びと共に、第二射を叩き込む。

あの人修羅の、最大奥義さえをも撃ち抜いた拳が唸る。爆圧が吹き飛ばされ、辺りの地面をえぐった。見えて来る、何重にも重なったリアクティブアーマー群。それが砕け、吹っ飛ぶ中。

トールは見た。

アテンが。全ての掌を、トールに向けている光景を。詠唱が、超高速で完成する。なるほど、あの手全てが、詠唱を行うことが出来、印を組め、そして術式の媒体となる訳か。素晴らしい力だ。だが。

第三射を放つ。爆圧が全てかき消され、獰猛な拳圧が全てを蹂躙する。アテンの張ったシールドが、それを受けようとした瞬間。

琴音が、介入した。

直上から降り注ぐのは、雨。ただしそれは、それぞれが絶対零度の滴。見る間に凍結していくリアクティブアーマー。周囲の熱線までもが、かき消され、溶けていくかのような光景。

凄まじい有様に、アテンが思わず声を挙げる。

「なんと、これほどの力を持っていたとは。 流石はあのセトを屠っただけのことはあるか」

確かに凄まじい。メギドラオン級の火力によって舞い上がった粉塵や熱風が、見る間に冷やされていくのが分かる。トール自身の体もだ。トールはアテンに向けて、最後の、四打目の拳を放っていた。

アテンの体が拉げて、砕け、吹っ飛ぶ。火柱が上がる。トールも流石に後ずさり、雄敵の死を見届けた。是非、コトワリを巡って争いたかったものだと、トールは呟く。だが、それでなくて、良かったかも知れない。

主要な悪魔を根こそぎ屠られたカグツチが、さて次はどう出るか。カエデの読み通り、ホルス数体を、人修羅を屠るために投入してくるのか。或いは、もっと別の手段で、巻き返しを図るか。

どちらにしても、トールの拳は焼け付くように熱くなっていた。

「琴音」

「何でしょうか」

「先に行け。 俺は少し後方に下がり、拳を冷やしてから参戦する」

琴音はぎょっとした様子でトールを見下ろしていたが、頷くと、最新鋭戦闘機も真っ青の速度で人修羅に向けて飛んでいった。何でも二番手の使い手だが、それが故に総合力では他の追随を許さない。

トールはそれを見届けると、無言で後方の陣へ下がる。やはり、側を通り過ぎる鬼神達が、驚きの表情でそれを見つめていた。

やはり、思う。

この世界は、コトワリというもののせいで、気が狂った乱痴気騒ぎに巻き込まれていたのではないのか。その中心に、自分はいたのではないのか。

主催者は誰なのだろう。

カグツチの様子からして、あの忌々しい太陽がそうだとは思えない。

そもそも、人修羅とは何者だ。悪魔ではなく、人間でもなく。そして今や、神に近しい力までも手にしている。

奴はアヌビスを退けたという。多分実力は、既に琴音よりもトールよりも上だ。

今は、奴の動きを見守るしかない。それがただ、腹立たしかった。

 

4,最後の死闘

 

カエデが恐れていた事態が到来したのは、トールがアテンを葬った、直後のことであった。全てが予想通りになったのではない。だが、それに近い事態が、到来したのである。

最初にそれを目撃したのは、敵に最も肉薄していた毘沙門天の隊であった。人修羅が構築した永久氷壁の陣地を起点に縦横無尽に暴れ回っていた毘沙門天と親衛部隊が、カグツチの異変を真っ先に目にしたのは、自明の理であっただろう。

光り輝く蛇の悪魔を身の丈大の棍棒で叩きつぶした鬼神の一騎が、指を差す。毘沙門天はそれに釣られて顔を上げた。

「毘沙門天様! あれを」

「また増援か?」

人修羅の一撃により、アヌビスは消し飛び、その光はカグツチにまで届いた。何かしらの動きを見せてもおかしくはない。ただ、何かしらが現れるとしても、人修羅が戦闘可能な状態まで回復するのには、まだ少し時間がいる。それを稼いでおきたかった。

もちろん、自分たちでカグツチを押さえ込めるのなら、そうしたい。しかし、敵の強烈な抵抗が、その欲望を許してくれそうになかったのだ。

そして、その光景が。絶望を更に加速した。

誰でも知る、その姿は。あまりにも圧倒的な威圧感と共に、カグツチの上部から姿を見せたのである。

それは特徴的な黄金の仮面を身につけ、手にはコブラを象った杖を手にしていた。他の悪魔が霞むほど、半裸の体に輝きを纏い、物質化しかねないほどの魔力を放出している。神々しい。むしろ冗談ではないかと思えるほどに、それはまばゆかった。

「何ですかあれは? ツタンカーメンって、奴でしたっけ?」

「違う。 あれは、エジプト神話の最高神、アメン・ラーだ!」

そう。アテンとは信仰された年期も違う。恐らくは、世界史上最も有名な太陽神。まさか、主神クラスの相手が姿を見せるとは。しかも奴は恐らく、感じる魔力から言って、最低でも守護クラスの実力を持っているだろう。

カエデから、非常に危険な増援が現れる可能性があるとは聞いていた。

しかし、まさかアメン・ラーとは。生唾を飲みこむ毘沙門天は、奴がゆっくり此方に歩いてくるのを見た。慌てて指示を飛ばす。

「急いで後衛に連絡! 敵は守護クラスの魔神を繰り出してきた! アメン・ラー! 最強の太陽神だ! ありったけの戦力を集めろ! 対上級悪魔の戦術に習熟したシジマの指揮官にも声を掛けるんだ!」

「わ、我々は、我々はどうしましょうか」

すっかり部下達は逃げ腰になっている。アメン・ラーから感じる圧倒的な力もあるだろう。それ以上に、あの威圧感が、戦意を刮ぎ落としてしまっていた。これでは、戦えない。毘沙門天は生き残れても、彼らは、確実に死ぬ。

「人修羅殿の所まで引くぞ。 場合によっては、戦線を下げなければならないかも知れない」

それに。もし此処で毘沙門天が倒れれば、休息中の人修羅が、アメン・ラーに奇襲される可能性もある。

先に伝令を戻らせ、毘沙門天は他の部下達も戻らせた。さて、前の陣地で踏みとどまることが出来るか。分かっていることが、一つある。奴は、人修羅の戦力を最大限に消耗させるために、カグツチがひねり出した切り札だ。ならば、それは好機とも言える。

アメン・ラーを此方で引き受け、人修羅をカグツチに巧くぶつけることが出来れば、予想された消耗を最小限にまで抑えることが出来るからだ。感じる力の差から言って、この巨大な太陽神を倒すのは、毘沙門天一騎では無理だろう。だが、此処は食い止めるだけで良い。それが、大幅に手札の数を増やしてくれる。

部下達が皆下がったことを確認すると、毘沙門天は剣を構え直す。ゆっくり歩いてくるアメン・ラーは目を煌々と光らせて、獲物を探しているようだった。さて、どれだけ時間を稼げるか。カエデが駆けつけてくれれば、それなりに面白い戦いが出来そうである。それまでに、ある程度相手の能力を見極めておかなければ。

不意に、何か嫌な感触があった。

剣を振り上げたのは、殆ど本能からだ。十メートル以上ある杖が、瞬間的に間近に出現していた。振り下ろされたそれを受け止めたが、体勢を崩して、膝を着いてしまう。見上げると、ずっと遠くにいたはずのアメン・ラーが、すぐ側にいた。

「どけ、雑魚」

「貴様、理性があるのか」

そうなると、まさか。

今の能力は、時を止めた可能性が高い。いやな予感がびりびりする。

「まさか、ホルス!」

「違うな。 今の私は、最強最大の太陽神! アメン・ラーだ!」

仮面の奥に隠された顔が嗤う。毘沙門天は、最強の力に、時を止めるという最悪の能力が組み合わさったことを知った。しかも此奴は、パワーだけでも毘沙門天以上である。一体どう対処すれば良いというのか。

横殴りに、杖が飛んできた。本能から剣を向けることが出来たが、体勢が悪くて支えきれない。数十メートル吹っ飛んで、地面に叩きつけられる。頭上に殺気。今、時を止めて横に回り込んだばかりだというのに、今度は直上か。

分が悪すぎる戦いに、胃が締め付けられるかのようだ。だが。

不思議と、心は落ち着いている。今までの見事な指揮手腕で、五倍の敵を圧倒してきたカエデへの信頼が、短時間で生じていると言うこともある。他の皆も、必ずやこの難敵との戦いに馳せ参じてくれるはずだ。

その時は、意外に到来が速かった。辺りに立ちこめる霧。杖を余裕綽々の様子で振り上げたアメン・ラーは、舌打ちして飛び退く。その巨体がいた地点を、氷の槍が、不意に貫いていた。

体を起こす毘沙門天の脇に、すっと姿を現すのは。

マントラ軍時代からの古参であり、同じ外様という点で毘沙門天とも共通項が多かった男。カブキチョウ攻防戦で、ニヒロ機構の軍を退ける原動力となった稀代の奇襲名人。ミズチであった。

「苦戦しているようだな、毘沙門天よ」

「遅いぞ、ミズチ」

立ち上がり、剣を構え直す。再び時を止め、後ろに回り込もうとしたアメン・ラーの足下に、連続して火球が着弾する。霧の向こうから歩いてくるのは。シジマでもカエデに継ぐ術使いとして名を馳せるニュクス。それに、落陽のヨスガを支え続けた知将西王母。

やかましく、琵琶をかき鳴らす音がした。すっと霧の向こうから現れたのは。剽軽さでムードメーカーになっていたオルトロスと、その背に跨った持国天。

素晴らしい戦力の到来だ。これだけいれば。

勝てる。

毘沙門天は、思わず歓喜の声を漏らしていた。

「おう、これほどの数が、一同に集うとは」

「軍の指揮があるから、他の幹部は集められなかったわ。 でも、アホの此奴を仕留めるには、これだけいれば十分よ」

「カエデ将軍があらかじめ準備していてくれただ。 おらたちは、前線近くで待機してたから、すぐにこれたんだ」

相変わらず訛りが酷いオルトロスに跨り、持国天がご機嫌な様子で琵琶をかき鳴らす。今はクラシックではなく、自分で造ったお気に入りの曲を好きなように奏でているようだ。実に表情が楽しそうで、しかも演奏が生き生きしている。

「雑魚がどれだけ集おうと、今の私に敵うものか」

「さて、それはどうだろうな」

不敵に笑いながら、立ち上がる毘沙門天は、マントラ軍時代のことを思い出す。ヨスガのことを思い出す。

色々問題も多かったが、しかし。どの時代も、とても充実はしていたような気がする。惜しむらくは、トップを支えきれなかったことだろうか。もっと毘沙門天がしっかりしていれば、ゴズテンノウも、バアルも、負担が小さくなったに違いないのだ。

今は、その償いをする時。

何があっても、此奴は人修羅の所へは通さない。

カエデが、ボルテクス界最高の名将がお膳立てしてくれた最高の舞台だ。しくじる訳にはいかない。

「分かっていると思うが、奴は時を止める能力を持つ! アホだと言っても、油断はするな!」

「応っ!」

唱和。毘沙門天は体勢を立て直すと、歴戦を生き抜いてきた屈指の使い手達と共に、アメン・ラーへ突進した。

 

前線で、何か途轍もなく強大な悪魔が暴れ始めたことは、秀一にも分かった。腰を浮かせ掛けた所を、サナが制止する。

「待って、シューイチ。 今はカエデ将軍の指示を待とうよ」

「そう、だな。 すまない。 気が急いた」

要塞地帯に立てこもったヨスガ軍を、数割増し程度の戦力で押し込んでいた手腕を見ても、カエデの指揮能力は充分信頼に値する。この戦場でも、ヨスガとシジマが共に戦うという奇跡があるとはいえ、五倍近い敵勢力を押し込み続けているのだ。

クロトとサナが、必死に回復を続けている。和子がそれにあわせて、皆にマガツヒを供給しているが、しかし足りるか。ニーズヘッグは乱戦の中戦い続けたため、特に傷が酷い。陣に後から後から押しかけてくる悪魔達は、自分のことで精一杯で、此方まで構う様子が無さそうである。

伝令が飛び込んできた。多分、前でぶつかり合う気配に関しての事だろう。

「人修羅殿はいますか!?」

「俺は此処だ。 何かあったのか」

「は。 前線に、アメン・ラーが現れました! 現在、毘沙門天将軍が、ヨスガとシジマの幹部一同と一緒に応戦中です!」

「援護はどうする」

舞い降りる気配が、後ろに。振り返ると、大きな鳥に跨ったカエデだった。蛇の悪魔はどうしたのかと言いかけて、口をつぐむ。この乱戦だ。何があってもおかしくない。殆ど間をおかず、ケルベロスに乗ったユリも来る。カエデは秀一を見つけると、手を振って小走りで近付いてきた。ちょっと走り方が危なっかしくて、転びそうである。

ホルスと戦ったと聞いていたが、服がボロボロだ。傷は治っているようだが、脇や肩が露出していて、女の子としては甚だ拙い格好であろう。相手が年頃と言うには幼すぎることもあり、ちょっと秀一も困った。

「人修羅さん、無事でしたか」

「カエデ将軍こそ。 前線に、アメン・ラーが現れたと聞いたが」

「はい。 その件で、これから勝負を掛けようかと思いまして」

「勝負?」

「はい。 人修羅さん達は、これからトール将軍、サマエル将軍、それにスペクター氏と共に、カグツチに肉薄して貰うつもりです。 アメン・ラーは、今戦っている方々に任せて、軍は敵を蹴散らして、路を造るために全力を尽くします」

カエデの提案は、大胆を極めた。確かにそれならば、一気にカグツチに迫ることが出来る。しかし、それでは、毘沙門天らを見捨てることになるのではないのか。何しろ、ホルス数体分のマガツヒが籠もった存在だ。その実力は、遠くから感じても、びりびりと痺れが来るほどだ。最大戦力を切り離した状態で、どうにかなるのだろうか。

「大丈夫。 彼らを信じてください」

「しかし、そう言われてもな」

「今、二つほど、大きな懸念事項があります」

秀一の言葉を、カエデが断ち割る。その声は低く抑えられていて、とても子供のものとは思えない。やはりこの娘は、シジマの軍勢を指揮し、歴戦を勝ち抜いてきた、古強者なのだ。

そして、彼女は常にシビアな決断を強いられてきた。傷ついた心を拾い集めて、難敵にも立ち向かってきた。同年代の少女どころか、大人とも対等以上に渡り合いながら、生き残ってきた。

もちろんシジマの皆にかわいがられたという事情もあるだろう。秀一もそれは前から聞いている。だが、それ以上に。カエデという娘の持つ強さが、逆境をはね除け、勝利をつかみ取ってきたのだ。

彼女は、こと集団戦においては秀一以上の存在。魔力においては、バアルがいない今、ボルテクス界最強の存在でもある。

対等以上の存在と口を利いているのだと思い出し、秀一は改めて背筋を伸ばした。

「伺いたい」

「有難うございます。 まず第一の懸念は、カグツチの恐怖です。 今、あのカグツチには、妙なバグが生じています」

その解除法については、既に聞いている。カエデから切り札も渡されていた。だが、カエデは、それ以上の危険があると、視線で告げていた。

「もし、これ以上カグツチが追い詰められた場合、あの存在は恐怖に駆られて、なりふり構わず途轍もなく危険なものに手を出す可能性があります」

「それは、一体?」

「この塔、そのものです」

それは、想像もしていなかった言葉だった。

確かにこの塔は、いきなり現れた存在だ。カグツチが己のマガツヒをつぎ込んで造ったとしてもおかしくはない。これ以上追い詰められたカグツチが、妙な恐怖感に囚われた場合、この塔をマガツヒに還元して、再吸収しかねない。

そうなれば、この塔に集っている悪魔の殆どが、死ぬ。飛ぶことが出来ても、塔の中にいる者は、高確率で生き残れないだろう。

「そしてもう一つの懸念です。 もう、補給が保ちません」

あまりにも、それはさらりと告げられた。絶句したのは、秀一だけではない。サナもマダも、リコもフォルネウスも、皆唖然としていた。

一番最初に、冷静さを取り戻したのはサルタヒコだった。妻に、二の腕に包帯を巻かせながら、冷静に言う。

「いや、確かにそれはあり得る話だ。 秀一、お前なら分かるだろう」

この言葉。父の口癖だった。

あの関西国際空港の忌々しい事件から、他の世間にある家族とは比較にならないほど強い団結で、榊家は結びついてきた。秀一は殆ど反抗期を家族にぶつけたことがないし、和子だってそれは同じ。父は何か秀一に考えさせたいことがある時は、いつもそう言って、思考の回転を促したものだ。もちろん、秀一もそれに答え続けてきた。

「そうだな。 元々此処に参じてくれている悪魔達は、有志で集ってくれた者達だ。 それに比べて、残った者達は、皆死にたくなくて、或いは生きたくて。 そんな平凡で、故に切実な意思で二の足を踏んだ者達ばかり。 それを考えれば、あまりにも多くのマガツヒを持ち出すことは、出来ようがない」

彼らは、充分に戦ってきたのだ。誰が、今更責めることが出来ようか。カエデは頷くと、言った。

「現状での選択肢は、短期決戦しかありません。 もう、余剰の補給物資は、殆ど無いと思ってください」

「そんな貴重なものを分けてくれたんだな」

カエデはそれだけ、秀一の戦闘能力と、任務遂行能力を信頼してくれたというわけだ。恐らく、カエデは歴史上の名将達と比べても、全く遜色のない指揮手腕と判断能力を持っている。その彼女が、秀一に勝負を預けてくれたのである。秀一次第で、勝負の天秤は傾く。此処で賭けに乗らなければ、いつ乗るというのか。

「分かった。 だが、俺たちも、補給切れの状況は同じだ。 和子だって、これ以上無理にマガツヒを絞り出したら危ない。 ユリだって、無茶なマガツヒの放出を続けていたのではないのか」

「出来るだけ、我らで敵陣を切り開きます」

「……そうか。 現状でなんとかしろってわけだな」

「冷たい言い方をすれば、そうなります」

カエデはぴしゃりと言いきった。仕方のない事ではある。カエデもかなり無理をしてやりくりしているのだ。出ないものは、でない。

だが。その時、だった。

喚声が上がる。味方の陣からだ。

「マガツヒだ! 塔の下から、大量に飛んでくるぞ!」

「なんと。 これは、奇跡というものか」

ケルベロスが空を振り仰ぐ。確かに、膨大な赤い光が、漂い来ている。秀一は、だが冷静に、その正体を悟っていた。

恐らくは、アサクサのマネカタ達だ。

彼らが、秀一の残した魔法陣を使って、マガツヒを増幅して絞り出したのだ。塔の頂上で戦う秀一に、届けるために。

補給切れになり、困り果てていた悪魔達が、歓声を上げている。それが全軍に波及し、一気に勢いが戻りつつあった。秀一の所にも、雪のようにマガツヒが降ってくる。最後の力を呼び起こすのが赤い雪とは。

何とも、洒落ているではないか。

立ち上がる。吸い込んだマガツヒの量は、決して十分ではない。だが、これほど心強い援軍があろうか。クロトが頷くと、全員の傷を可能な限り癒していく。ゆっくり秀一が歩き始めるのにあわせて、カエデが鳥の背中を叩き、空へ舞い上がった。

「第一、第二師団、錘の陣を展開してください! 交互に動いて、敵陣に穴をうがちます!」

カエデが声を張り上げると、赤い雪の中、さっと親衛隊が展開する。見る間に5000ほどの戦力がまとまりあがり、二つに分かれた。この乱戦の中、裂ける最大戦力であろう。勿論意気は旺盛で、カグツチを突くような歓声が上がる。

敵陣はそれに対し、さっと防壁を組み始めた。だが、其処へ容赦なく中空から炸裂する無数の火球。琴音だ。火球が数十炸裂した後は、密集した敵陣にメギドラオンが直撃した。シールドを噛み破った爆圧が、敵を蹂躙し尽くす。琴音が切り裂いた穴を、ブリュンヒルド率いる空軍が急降下爆撃し、一気に広げていく。

その穴に、鬼神達を先頭に、陸軍が突入した。堕天使達は第二線から、猛烈な砲火を浴びせ、支援する。彼らを直接指揮しているのは、シジマ軍のモト将軍だ。棺桶にかって引きこもっていた内気な男は、今や陣頭の猛将へと変わっていた。

「此処が正念場だ! 皆、私と一緒に死ね!」

「応っ!」

鬼神達が、堕天使達が雄叫びを上げる。感情無き輝く悪魔達は、それをシジマ以上の組織力で迎え撃とうとするが。しかし、勢いは止められなかった。

勝負はついたかと一見思えるが、しかし。

これは限定的なものだ。降ってくる赤い雪も、無限ではあり得ない。元々マネカタ達は体力がないし、気力だって同じ事。必ず、攻勢が尽きる時が来る。

秀一が駆け出す。彼らの最後の攻勢を、無駄にするわけには行かない。

二つの杭が、カエデの指揮で、敵陣を切り裂いていく。まだ万全ではない。しかし、何が何でも、この機にカグツチまで辿り着かなければならなかった。

さっき至高の魔弾を浴びせたカグツチは、今だ煌々と輝いている。とてもさっきのが有効打になったとは思えない。距離が拙かったか、或いは途轍もなく強力な防御壁か、或いは。

マダが秀一の前に出た。二十メートル近い巨大な敵が、輝く鱗を煌めかせながら迫ってきたからだ。コブラに似たそいつは、味方の陣を食い破りながら迫ってきたらしい。名のある悪魔であろうか。

「うらああっ!」

傷口が破れるのも気にせず、マダが蛇の頭を押さえ込む。自動車事故のような、もの凄い音が響いた。無理に敵の突進を止めたのだから当然だ。真下に回り込んだリコが、跳躍しつつ、その頭を蹴り砕いた。折れた牙が吹っ飛び、回転しながら地面に突き刺さる。刺さった床は、煙を上げながら溶けていった。

更に、頭が二つある鷹のような敵が、輝く羽毛を見せつけながら躍り掛かってくる。無言で跳んだサルタヒコが、真っ二つに切り裂く。敵の抵抗が凄まじくなってきた。後ろで、ニーズヘッグが、アメノウズメを背に乗せるのが分かった。

進軍しながら、舞う時に使う手だ。幅広いニーズヘッグの背でなら、何の問題もなく舞うことが出来る。

「無茶しやがって! もう、回復できる余地は、あんまりないんだぞ!」

「へへっ、いいって事よ! 此処で退いたら、男が廃るってもんでな!」

「いや、それは古いッス。 此処で退いたら、戦士の名折れってのが相応しいッスよマダさん」

「おお、そうだな。 すまねえ。 俺に拮抗する女戦士が、すぐ側にいるのにな。 相変わらず、俺は頭が悪いなあ」

げたげたとマダが豪快に笑う。

カグツチが、至近に見えてきた。遠くでは、アメン・ラーと上級悪魔達の戦いが行われているらしい。もの凄い音が、此処にまで届く。

カグツチに浮かんだ顔には、相変わらず表情の欠片もない。これほどの戦いが至近で行われて、何一つ感じないというのか。もし感情があるのなら許せない。プログラムだというのなら、なおのこと許せない。

「秀一ッ!」

サルタヒコの叫びで、左を見ると。そちらには、此方に杖を向け、今まさに上級の攻撃術を放とうという、犬頭の輝く悪魔がいた。アヌビスに似ている。眷属だろうか。対応が間に合わない。流石にこの距離から、この大きさの術式を喰らうと、拙い。

その悪魔が、ぺしゃりと潰される。

遅れて届いた轟音が、何が起こったのか、理解する時間をくれた。

飛来したトールが、踏みつぶしたのである。

「流石の貴様も、この連戦では、注意も逸れるか」

「ああ、常に軍を相手に戦い続けた貴方のようにはいかない」

トールは応えず、ゆっくりカグツチを見る。上には、滞空している琴音の姿。そして周囲から徐々に迫ってくるは、スペクターの群れ。

モトの指揮は見事で、一気にこの近辺の敵勢力を一掃していく。精鋭はかなり消耗していたが、カエデが巧みな用兵で下がらせる。トールが進み出ながら、言う。

「俺は、小さき者どもを心のどこかで軽蔑していた。 より強き者を探して、彷徨っていた。 だが、あの小さき者、カエデはどうだ。 あの小さき身で、あれだけの見事な指揮を執り続け、我らをついにカグツチの所まで導いたわ。 俺はあの者に、最後まで及ばなかったのかも知れぬな」

「トール……」

「決着を付けるぞ、人修羅。 話は聞いている。 お前自身が、カグツチの中枢に飛び込んで、そのコアに、カエデから預かったその矢を突き刺せばいいのだな」

「ああ、そうだ」

預かった小さな矢は、ズボンのポケットに入れている。

カグツチの異常。それには、カエデも秀一が塔の屋上にたどり着く前に、気付いていたのだという。

そして、用意したのは。

以前、スペクターを屠り去ったという、ウィルスプログラムを改良したもの。

今、カグツチの内部は、何かしらの異常によって蝕まれている。ならば、その異常そのものを、食い破ってしまえばいい。後はカグツチが勝手に自己修復をする。コアさえ制御を取り戻せばいいのだ。それがなったら、後は殴るなり蹴るなり自由である。

異常がコアを侵していないのは、この世界の状況からもよく分かる。コアの部分に対する不可侵システムは想定の中で組んだそうだが、カエデなら信頼できる。必ずや、期待に応えてくれるものを用意してくれたはずだ。

カグツチが動き出す。間近で見ると、圧倒的なボリュームがよく分かる。丸ごと巨大なビルを相手にするような感触だ。口が全く動いてもいないのに、極めて威圧的な言葉が空に放たれる。

「排除する」

「面白い。 やってみろ」

トールが前に出た。ふわりと、舞い降りてくる琴音。彼女はやはりトールの方を見ずに、言った。

「私達が、突破口を開きます。 恐らく、内部にも防衛機構があるでしょう。 そちらの相手を頼みます」

「分かった。 あまり、無理はするな」

「一度死んだ身です。 どれくらいの無理が通るかは、体が良く知っていますから」

ひゅっと風を切って、琴音が虎徹を振るう。周囲の敵勢力を食い尽くしたスペクターが、群れとなって押し寄せる。その一体が、秀一の側に来た。

「来ルぞ。 備えロ」

最後の戦いが、今、始まる。

それを告げるように。ボルテクス界を動かし続けてきた者達が。今、此処に集っていた。

 

激しい光。最初に動いたのは、カグツチだった。急速に、その光が強くなっていくのである。脈打つように、光が変わっていく。全長百メートルを遙かに超えるカグツチが、それに伴って、表情も歓喜へと変えていった。轟き渡るは、滅びの宣告。

「我は、尽きる事無き光!」

躍り出るのは、スペクター達である。集い、集り、巨大な緑の壁を為していく。ある者はふくらみ、ある者は硬化して。何重にも達する壁を作り上げる。カグツチの、光が、消える。同時に、その顔が、左右に開いた。

「伏せろ!」

秀一の絶叫と同時に、閃光が弾ける。

スペクターの壁が、大きく撓んだ。膨大なエネルギーがあふれ出し、光の槍が四方に走る。スペクター達が吹き飛び、消し飛び、砕け散るのが分かった。風が、後から襲ってくる。

一体、今のは何だ。攻撃だと言うことは分かっている。

顔を上げた秀一は、唖然としていた。スペクターが。殆ど、残っていないのだ。九割以上は、ただの一撃で消し飛んでしまっていた。

スペクターの防御能力は尋常ではない。それを、一瞬で。流石に生唾を飲み込んでしまう。

着地音。後方だ。琴音が、ゆっくり翼を拡げ直す。その体の何カ所かに、鋭い擦過傷が出来ていた。今の猛烈な光の、余波を浴びたのか。

「ほう。 面白いではないか」

トールが進み出る。凄い音が響いたのは、トールが腰を落とし、踏み込んだからだ。周囲の床が割れ、砕ける。その全身に、膨大な力が集まっていくのが分かる。あの至高の魔弾を退けたほどの力だ。トールの眼光が、まだ第二射を充填していないカグツチを射貫く。

トールが、拳を打ち込む。

ぶわりと、髪が逆立つのが分かった。カグツチに、拳の一撃が吸い込まれ。

何も、起こらなかった。

カグツチの顔は何事もなかったかのように、明滅を繰り返している。第二射を用意しているのは、明白だ。あれがもう一度来たら、詰む。流石に唖然としているトールを、叱咤したのはサナだった。

「ちょっと、ちゃんと撃った!?」

「撃った。 しかし、手応えがなかったな」

「冗談じゃないぜ。 トールの拳が通じないなんて、訳がわからねえ」

琴音が、再び舞い上がると、火球、氷の槍、いかづち、更に真空の刃と、続けて撃ち込んでいく。だが、それもが。吸い込まれるようにして、カグツチの表面から消えていく。カグツチが、にやりと笑ったように見えた。

「認識している位置がずれているという可能性は」

「いや、影の様子から言ってあり得ません」

 琴音が冷や汗を額に浮かべながら呟く。徐々に、奴の中で力が高まっているのが分かる。もう間もなく、次が来る。サナが雷撃を放ち、フォルネウスが同時に冷気の息を吹き付ける。トールが拳を浴びせるが、しかし。効果がない。どれも、水面に吸い込まれていくようにして、カグツチの前でかき消えてしまう。

「ならば、これだけ雑多な種類の攻撃を、どうやって逸らしている」

「空間を、曲げているのでは」

「いや、それだとカグツチが見えている筈がない。 そうなると」

可能性は一つ。攻撃を、吸い込んでいるのだ。

秀一の指摘に、周囲が戦慄した。

それならば、攻撃を当てる方法は、一つしかない。

「まあ、いい。 どうせ、全力でやんなきゃいけないって、わかってたんだしよ!」

腰を落とすトールの前で、マダが手を左右に広げた。酒の雨が降り出す。サナが、琴音が、詠唱を開始。リコが、最大の蹴り技を放つべく、体勢を犬のように低くする。サルタヒコが、剣に手を掛けた。クロトも舌打ちすると、戦闘機のように、低い体勢で棍を高く構え挙げる。

秀一も、印を切る。その横で、アメノウズメが、汗を跳ばして舞ながら言う。

「秀ちゃん、行ける?」

「ああ、やるしかない」

両腕を、床に突き刺したのは。全力で、至高の魔弾を放つためだ。周囲に、ぶわりと充満するマガツヒ。和子が、最後の攻撃に、絞り出してくれた分だ。吸い込むと、目を閉じる。複雑に重なり合う詠唱が、聞こえた。

全ての攻撃を、吸収するというのなら。

攻撃をしようとした瞬間に、此方も反撃を叩き込むしかない。つまり、あの途轍もない破壊力の光の洪水を押し返して、逆に秀一が身を押し込まなければならないわけだ。

目を開く。

満面の笑みを浮かべたカグツチが、あまりにも美しい光を放っていた。あまりにも傲慢な声が、周囲にとどろく。

「我は、永遠なり」

「いや、違うな。 お前は、これから滅びる!」

カグツチの顔が、左右に割れていく。同時に、周囲の空気が。

この世界でもっとも、緊張した。

あふれ出す光。先頭に立ったのは秀一である。今まで、トール以外の全ての敵を屠り去った、最高の技。至高の、魔弾。

膨大な魔力光が、辺りを漂白する。全ての色がかき消える中、続いてトールが動いた。拳を、繰り出す。今度は。暴力的な風圧が、全てを蹂躙する。カグツチからあふれ出た光が、少しずつ、押し返される。

続けて、琴音が出る。究極の魔力砲と、最強の拳に続いて繰り出されるは、至高の魔法剣技。構えた剣の先には、淡い光が瞬いている。そして、突き出すと同時に、空中を紫電が駆け抜ける。

カグツチの顔に、無数の罅が入る。

浸透勁を応用した、術と、剣と、それに拳法の融合。琴音らしい奥義であった。

続けて、生き残っていたスペクターの何体かが、カグツチに貼り付く。酒に濡れたその体に。

都市全土の電気を集めたような、恐るべき電圧のいかづちが叩きつけられる。発火。炎上。其処へ、マダが炎を吐き着けながら、何十という拳を連続して叩きつけていった。間髪入れず、次。今度はフォルネウスとニーズヘッグが、息を合わせて冷気を浴びせかけた。急激に冷やされたカグツチの全身に、更に大きな負担が掛かっていく。

まだ、終わらない。大上段に構えなおしたサルタヒコが、気合いと共に、剣を振り下ろす。カグツチの体に、縦横に傷が走った。跳躍したクロトが、落下しつつも数十の打撃を閃光のごとく叩き込む。届く。届く届く届く。カグツチが、左右に分かれた顔のどちらにも、苦悶を浮かべているのが分かった。

高々と、リコが舞う。風の力を借りて、誰よりも高く。そして全身を一つの錐として、傲慢な太陽に、回転しながら躍り掛かる。生きたドリルと化したリコは、カグツチの一角に、多分この世界で最高の威力を誇る蹴りを叩き込み。

そしてはじき返されながらも、確実に穴を穿ったのである。

カグツチの表面に出来た、大きな穴。突破口だ。誰もが言わずとも、分かった。

光が、まだあふれ出てくる。秀一は少しずり下がりながらも、必死にそれを支える。トールは五度目の拳撃を浴びせ、全身から煙を放ちながらも、屈する様子がない。流石だ。ヨスガが誇る、最強の戦士だけのことはある。もし、此処で押し返されたら、全滅する。アメノウズメが苦しそうに声を漏らした。これだけの長時間神楽舞を続けた経験はないだろう。だが、しかし。もう少し、粘って貰わないと。

ふと、体を持ち上げられる感覚。マダだった。至高の魔弾を、驚きのあまり解除してしまう。

「悪い。 さっき、サルタヒコの旦那とこっそり話し合ってな」

「何をする。 今バランスを崩したら、どうなるか」

「何とか支えてみせるさ。 此処にはトールの旦那だけじゃなくて、あのサマエルの嬢ちゃんに、最強のテロリストスペクターまでいるんだ。 今、奴の中にはいる、多分最後のチャンスだろうよ。 もう大規模な補給は期待できないし、トールの旦那だって、あんな技後何発も撃てるもんかよ」

琴音が、近くまで降りてきて、頷く。既に詠唱の準備に入っているようだ。スペクターも、必死に分身を増やしている。いざというときは、皆を守りきると言うつもりなのだろう。

「分かった。 ただし、約束だ。 絶対に、死ぬなよ」

「ああ、分かってる」

分かって等いない。秀一の穴を埋められるのか。答えは限りなくノーに近い。恐らく、この攻撃だけはしのげるだろう。しかし、次はどうか。

もう、時間は残っていないと考えるべきだろう。

「お兄ちゃん。 ほら、これ、多分今出せる最後」

和子が、小さな手を伸ばす。掌の上には、小さなマガツヒの光。和子は無理に笑っているのが見え見えで、額には脂汗が浮かんでいた。

思えば、この子の能力に、補給面では頼り切っていた。全体的に支援をしてくれたアメノウズメと、それにここぞという時に道を開いてくれたサルタヒコ。榊一家が揃って、ようやく此処まで来ることが出来たのだ。

マダの腕に抱え上げられている秀一は、手を伸ばして、妹からの宝を受け取る。代わりに、ケイタイを出して、渡す。

「渡しておく。 もう何の意味もない機械だが、お前からのメールが入っていた。 随分励みになった」

「うん。 これ、預かっておく。 貰うんじゃないからね」

「よし、行くぞ!」

マダが、会話を断ち切る。秀一は頷くと、マダの腕力に任せられて、空を飛んだ。リコが穿った穴へ、一直線に落ちる。まだ光を放ち、トールと力比べを続けているカグツチは、恐怖を左右の顔に浮かべ続けていた。

 

ただひたすらの闇。音一つ無い。

だが、恐らくは闇の最深部に、僅かな光の瞬きがある。秀一は預かった矢を取り出す。それは、鏃だけの小さなもの。それ以外の部分は、秀一が作り出す。今なら、それくらいは造作もない。

それにしても、だ。光の中に闇があり、その中にまた光がある。象徴的な光景であった。

程なく、瞬きの前に到達。それと同時に、落下も止まった。右腕を振り上げたのは、殺気に気付いたからである。最初から、何かいるのは知っていた。だから、容易であった。刃で、振り下ろされた何かを受け止めた。乾いた金属音がした。

「ホルス、だな」

「いかにも!」

振り仰いだ先にいたのは、全身が醜く焼け崩れた、鳥の頭を保つ男だった。手にしているのは、杖か剣か。淡く輝いていて、判別が着かなかった。

「時を操ると聞いていたが、その割には随分露骨な奇襲だな」

「もはや、我には力が残っていない」

「外へ出撃させたアメン・ラーに、殆どの力を割いたという訳か」

「そうだ。 失策であったわ。 まさか、あれを三下どもが引き受けて、貴様がカグツチに来る時間稼ぎを出来るとは」

はじき返す。秀一も、至高の魔弾を撃った直後だ。しかし、それよりも。この男よりも、もっと危険な相手が近くにいるはずである。矢を、具現化させる。ホルスが、眼を細めた。

「我を無視して、カグツチを活性化させるつもりか」

「そうだ。 正直な話、お前を相手にしている余裕がない。 どうしても戦いたいというのなら相手になってやるが、今のお前では俺には勝てない」

「世迷い言を! 貴様も、力を使い果たしている状態だろう!」

絶叫したホルスが、斬りかかってくる。秀一は矢を投げ上げると、和子から貰ったマガツヒを口に含む。そして、己の中にあるオセの知識を完全に引き出す。ヒートウェイブの応用で両手に剣を作り出すと、するりと回転しつつ、振るう。一太刀目でホルスの剣をはじき返し、二太刀目を喉に突きつける。

「お前の剣は、オセの足下にも及ばない。 オセとフラウロスの力を預かっている俺に、勝てる理由がない。 もう一度だけいう。 下がれ。 もう、無為な殺生はしたくない」

ホルスが絶句して、数歩下がったのが分かった。

剣を消し、落ちてきた矢をキャッチした秀一は視線をホルスから逸らす。この男は、最後の最後で詰めを誤った。今だから、分かる。この男は軍どうしのぶつかり合いによる敗退を恐れていた。だから、ヨスガとシジマの中核となりうる存在を潰すべく、強力な悪魔を繰り出してきた。アテン神。セト。アヌビス。そして、アメン・ラー。そのいずれもが落ちた。或いは足止めに掛かり、最初の役割を果たせずにいる。

「人修羅、貴様は、一体何者だ。 何故この状況で! 貴様の仲間と家族を死に瀕しさせている私に対して! 其処まで冷静でいられるのだ!」

「それは、俺にも分からない。 ただ、今はカグツチを、元に戻すのが先だ。 俺の家族や仲間が、お前の言うとおり外で絶望的な戦いを続けている。 一刻が惜しい」

矢を、光に突き立てる。

ホルスは呆けたように、その様子を見守っていた。

闇の中に、光が満ちていく。最初は、闇が押し戻そうともするが。カエデの造った術式はやはり信頼できた。

一気に押し込んでいく光。ホルスが、悲鳴を上げた。何故悲鳴を上げる。光の王子であろうに。

やがて、其処に、顔が現れる。

外のカグツチに浮かんだものとは、別の。穏やかで、だが無機質な顔であった。

 

5、成就するもの

 

「創世プログラム再起動。 コードネームカグツチ」

顔から、そんな音が漏れていた。眉をひそめた秀一の前で、顔は淡々と告げる。すっと、秀一の体を光が通り抜けていく。ホルスは何か言おうとしている様子だが、ついに近付くことが出来なかった。

「選別用混沌を生き延びた者をスキャン。 エネルギー収集率18.2%。 最低収集率をクリア」

「選別用、だと?」

「コトワリのスキャン開始」

「ちょっと待てっ!」

秀一は、珍しく自分が激高しているのを感じていた。何があっても静かに沈んでいた思考が、沸騰している。

カグツチが、黙った。その顔に、無数の文字が浮かんでは消える。顔を囲むように、黒い文字が多数現れ、瞬いて消えた。はげ上がった頭を持つ顔が、にこりと微笑む。

「コトワリスキャン一時中止。 何か、質問があるのでしょうか。 勝利者よ」

「まず、聞かせて貰おうか。 お前は何者だ」

「私は創世プログラムカグツチです」

「プログラム、だと? 誰が造った!」

そいつが黒幕だというのか。何がプログラムか。この煉獄を生き残ってきた秀一だからこそに分かる。この世界で、どれだけ命が蹂躙されたか。命は綿のように軽く、その場で即座に消えた。守ろうとしても、守りきれるものではなかった。異能がなければ、生き残る資格さえなかった。

頭が、少しずつ冷えてくる。

それで、今はもう。自分が人間ではないことを、今更ながらに思い出す。人間でありながら悪魔であり、そのどちらでもない。人修羅という異形が、自分だ。その自分が、仲間と家族と、一緒に此処まで生き残ってきた。

だから、カグツチには、最後まで喋らせなければならない。

「お前を造ったのは誰だ、カグツチ」

「私を造った存在は、人間と己を称しておりました。 この世界よりも遙かに文明が発展し、遙かに早く滅びた、此処ではない世界の存在です」

「それが、何故今此処にいる」

「彼らは、人間という存在が、万物の霊長だと信じていました」

なるほど、愚劣さ加減では、秀一の世界の人間と同じであったという訳だ。

何処の世界でも、環境が同じならば、同じような生物ができあがるという仮説がある。それは幾つかの事例で立証もされている。きっとその世界では、人間の天敵となりうるような存在がいなかったのだろう。故に、人間は最強の存在だと己を評価した。社会を構築するために、都合の良い超越者として、神を造り出した。そんなところだろうか。

そしてそれらが幻想に過ぎないと分かった時に。

その世界は、己の傲慢と共に、滅びてしまったのだろうか。

空想を巡らせる秀一に、カグツチは作り笑顔のまま応える。もちろん、唇が動くようなことはない。音が響くだけだ。

「そして、己が力を持ちすぎたことに気付きました。 其処で、神を実際に造り出し、己を律しようとしたのです」

「そうか。 悲しい話だが、結論としては……一つの到達点なのかも知れないな」

「しかし、時は既に遅かったのです。 種としての時間を使い果たした人間は滅びました。 その滅びは、己の遺伝子から現れた新種によるゆっくりとした交代という形を取りましたが、ともかく命数を使い果たしたのです」

カグツチの語る、かっての世界の話。もちろん、滅びてしまったであろう、秀一の世界も笑い事で済ませることは出来ない。

「その寸前に、造られたのが、創世プログラムです」

「創世、か」

「人間は、己の世界のように、行き詰まり、どうしようもなくなった世界に手をさしのべるために。 あらゆる並行世界、またはあらゆる生まれ来る宇宙に、同じ創世プログラムを仕込まれました。 それら世界をアマラ宇宙と呼びます。 そして創世プログラムは、行き詰まった世界を打開するための、最後の切り札としての存在。 幾つかのスイッチがオンになることで、起動するものです」

「……続けてくれ」

少しずつ、秀一にもからくりが見えてきた。

今までの情報。それに氷川のマガツヒから。そのスイッチを今回強制的に押した者がいることは分かっていた。その一人が、祐子先生。創世の実行者も彼女だ。氷川はそれを望み、様々な画策を行った。

だが、その後ろに。もう一つ、黒い手が見える。

確かに秀一の世界は、行き詰まっていた。絶望感が世を覆い、どうしようもない事ばかりが起こっていた。古代文明崩壊前夜にもよく似た状況だとも言えた。

しかし、である。それは滅ぶには、少し早くはなかったか。

それにもう一つ、おかしな点がある。

秀一はこれでも、ボルテクス界の隅々まで踏破し、そうでない場所は知覚したという自負がある。それによると、この世界は少し狭すぎる。全世界を喰らったにしては、悪魔の数も少なすぎた。

そして、その分布もである。

「創世によって、ボルテクス界が生み出されます。 それはかって知的生物だったものをエネルギーとし、その中でも強い意志を持つ者をコアとして、新たなる生物を再誕生させます。 そして彼らに殺し合わせ、喰らい合わせ、最後に残った者に創世の機会を与えるのです。 最強の存在に。 最強のコトワリに。 新しい世界の希望を託すのです」

「それがマガツヒと、悪魔か」

「存在の呼び名は、元とした世界に影響されます。 貴方の世界の並行世界では、天使と呼ばれている事もありました。 魔物と呼ばれている場合もあったようです」

質問は以上でよろしいでしょうか。カグツチは、それで一旦言葉を断った。頷いた秀一は、片手を上げて一度待つように促すと、思考を整理していく。

視界の隅に、頭を抱えて蹲っているホルスの姿。

あれの存在も、大体見当がつく。これでも、守護のマガツヒは喰らった。アマラ経絡という存在の事は知っている。

それは人の普遍的な無意識が造り出した世界。其処に住んでいたのは、恐らく本来の意味での悪魔と神々。ただし、人間が生み出した事に代わりはなく。世界を統べるほどの力は持ち合わせなかった者達。

そして人間の都合によって、捨てられたり、ゆがめられたり。それで、人間の世界からの脱却と、己の独立、永遠の自己世界を求めていった者達。

だから、それは神々でありながら、神々にあらず。悪魔でありながら、悪魔にあらず。人間に極めて近き者達。人間同士で喰らいあう世界を造り出してくれたことには、色々と言いたいこともある。しかし、今は決着を付けておきたいことがある。

「コトワリによる創世については、後で許可する。 最後に聞かせろ、カグツチ。 お前の後ろに、誰がいる」

「干渉者の事でしょうか」

「そうだ」

「それは、貴方の後ろにおられます」

振り返る。その先に。

病院で見た、あの子供と。老婆の姿があった。秀一は、全てを理解する。何があったのか。何が蠢いていたのか。

「では、順番にいこうか」

最初に秀一がしたのは。微笑みを浮かべ続ける禿頭を、全力でぶん殴ること。

吹っ飛んだ禿頭は、しばし揺れていたが、やがて収まった。相変わらずの笑顔が浮かんでいる。此奴を造った「人間」とやらにも拳を叩き込みたかったが、それはもういい。

此奴は、道具に過ぎない。どれだけ超絶的な力を持っていても、ただの道具なのだ。問題は、その後ろにいる者だ。

ゆっくり腕を回しながら、秀一は言う。

「お前が、黒幕だな」

 

 光満ちた白い世界で、返答が来る。それは、あまりにも簡潔。

「その通りだ」

金髪の子供は、いつの間にか車いすに座る、上品な老紳士に変わっていた。その影が、六対の翼を持つ巨大なものだと言うことを、秀一はすぐに見抜いていた。

「その特徴、キリスト教で言及される、堕天使長ルシファーか」

「それは私が借りている「存在」に過ぎぬ。 この世界の人間達の精神世界で言及されるものの中で、それが一番心地よかったから、用いただけだ。 ある世界では神と名乗ったこともあるし、巨人であったこともある」

「そうだろうな。 お前の正体は、かっての世界で人間達が作った神、もしくはその眷属だろう。 違うか」

「違わない。 かって作り上げられた、疑似世界統括者を神と呼ぶならば、その端末の一つだ」

無礼な口利きにも、ルシファーは文句を言う様子がない。

秀一がこの世界では、力の頂点を極めたこと。それに、自分がこの世界では、限定的な力しか発揮できないこと。

何よりも。秀一が、全ての核心に迫っていることを、おもしろがっているようであった。

「ルシファーの姿を模していると言うことは、その目的も同じか。 神に成り代わろうとした、傲慢の権化よ」

「そうとも。 我の目的は、神を殺す事だ」

やはり、そうだったのか。

秀一は、此奴の干渉によって、造り出された。そしてルシファーは見抜いていたのだろう。

秀一が、神無き世界を望むことを。

ただし、この絶対者がどのような存在であろうとも。秀一は、己の思考を、常に自分で決めてきたという自負がある。だから、やるべき事は決まっている。

「お前を、俺は許す訳にはいかない」

「ほう?」

「お前はこの世界で必死にあがいてきた者達を、掌で転がして、もてあそんできたな」

「確かに、我は其処にいるホルスを殺した。 他にも、いくらか糸は引いては来た。 だが、それは些細なものだ」

いつの間にか、老人はまた子供に戻っていた。それなのに、影も声も変わりはしない。ただ、威厳だけがある。誰もがかしずくような。これが、長く生きてきて、培ったものなのだろう。

しかし、秀一の前には、意味がないことだ。威厳など、幾らでも見てきた。地獄と共に。己の信念に基づいて、攻め込んでくる悪魔達は、皆必死で、だが故に高貴だった。彼らの顔を、今でも一つ一つ思い出すことが出来る。

それは間違っていた道だったかも知れない。だが、彼らは命を賭けてきた。だから、秀一は心を常に打たれてきた。

「感覚の違いだな。 それに、嘘をつくな」

「ほう?」

「お前は、このボルテクス界誕生の、糸を引いたな。 それだけでも、俺はお前を許すことが出来ない」

せせら笑う堕天使長。

「根拠は?」

「その後ろの女性。 祐子先生だろう」

「……ほう。 良く見抜いたな。 道具としては見事だ! ふはははははははは!」

嬌声が爆発すると同時に、秀一が顔面に拳を叩き込む。吹っ飛んだ子供は、何度か光の中でバウンドしたが。傷がついた様子もなく、すっと起き上がる。何かの玩具のような、気味の悪い動きだった。

分かる。力は、拮抗している。だが、戦いは無意味だ。それをふまえてだろう。ルシファーは乾いた笑みを浮かべる。

「私を、殺すつもりかね」

「失せろ。 二度と、姿を見せるな。 そうすれば、許してやる」

「……流石に無礼であろう、私が造りし道具よ」

「俺の体は、確かにお前が造った道具だ。 だが俺は、常に考え、選択しながら行動してきた。 だから、俺はお前の道具を使って、事を成したにすぎない。 傲慢の意味を取り違えたな堕天使長! お前の望みは、神を殺すこと。 だがそれが為されたのは、お前が影でこそこそ動き回ったからではない。 この世界の悪魔、いや人間達が。 己の信じる事のために、全力で戦い続けたからだ」

屈辱に顔をゆがめる堕天使長。その影が、ふくれあがっていく。

いいだろう。誇りを賭けて戦うというのなら。受けて立とう。この堕天使長にも、卑劣な行動の裏には、どうしようもない理由があったのであろうから。秀一の弾劾がそれを傷つけたというのなら。それを戦いでねじ伏せる資格がある。秀一にも、それを受けて立つ理由がある。

この世界で戦い続けた悪魔達の尊厳を汚すような事をしていた此奴を、秀一は許すことが出来ない。

「カグツチ!」

「何でしょうか」

「コトワリの解析を開始しろ。 そのまま創世してしまっても構わない」

「承知いたしました。 創世、開始します」

すっと、喪服の女が下がる。やはり、気配から間違いない。祐子先生だろう。

そして分かることがもう一つ。氷川の記憶から分析したのだが。彼女は、氷川の、腹違いの妹だ。

堕天使長の影が、徐々に実体を伴い始める。子供の姿はかき消えて、六対の翼を持つ、巨大な堕天使がその場に現れていく。光の中でも、その威容が衰えることはない。ホルスは頭を抱えて、隅でぶつぶつ呟いていた。構う余裕はない。

すると、祐子先生が、すっとホルスの側により、一緒にかき消えた。ありがたい話だ。あの人は、途轍もない大罪を犯した。だが、それでも。最後に、少しだけいいことをしてくれた。

あのような輩でも、秀一は殺す気にはなれなかった。

ルシファーが、万雷そのものの声で吠えたける。力は、完全に五分。全長数十メートルに達する巨体の背からは、六対の禍々しい蝙蝠の翼。全身は黒く、薄いトーガに覆われていて、芸術的とも言える美しさの中に、狂気と、怒りと、そして誇りが含まれていた。

「私の望みは叶い、貴様の願いも成就する! だが、それでも戦いは止まぬ! 何故か分かるか、人修羅、榊秀一ぃ!」

「貴方は誇り高い人だ。 だが、他の者にも、誇りがあることを忘れるな!」

牙を剥き出しに吠えるルシファー。

秀一は、自分の中にある、あまたの悪魔、いや人間達の記憶を統合しながら、最後の力に纏め上げていく。

巨大な剣が、ルシファーの手の中に出現する。秀一も、己の両腕に刃を出現させ、なおかつ手の中に光の刃を造り出した。さっきホルスを撃退した、ヒートウェイブの応用だ。己が知る最強の剣士、オセとフラウロスの記憶を統合。

振り下ろされる剣。光が散らされる中で、秀一は跳んだ。刀に力を掛けて、ルシファーの超絶の剣技とぶつけ合う。巨大な剣が唸りを上げる。五合、六合、踏みしめ、渡り合う。ルシファーが顔をゆがめたのは、剣では勝てないと判断したからか。当然だ。剣を極めたあの二人に、剣で及ぶ者などいるものか。サルタヒコだって、一対一でどうにかできるかと言う次元だろう。

目から青い光を放ってくる。何発か、至近に着弾。距離を取られた。走り迫る秀一に対して、上も下も分からない空間で、ルシファーは翼を拡げ、舞い上がる。空なら逃げられると思ったか。

違う。翼から、無数に降り注ぐ注ェ。爆発。降り立ったルシファーは、巨大な足を振るって、蹴りを叩き込んできた。対応が遅れた秀一は吹き飛ばされるが、同時に足をえぐっていた。タイミングは完璧だ。臑を完全に割られたルシファーが呻く。地面だかなんだかよく分からない堅い空間に叩きつけられた秀一は、起き上がる。

「創世開始。 紀元前23世紀より、人類の精神構造に革新的強化を実行。 それにより、宗教が必要の無いほど、各個人が強い世界を創造する。 実行率7,8,9,10……」

「その世界に、お前はいかせんぞ、榊秀一!」

「別に必要ない。 俺は、新しい世界で、同じような争いさえ起こらなければ、それで本望だ」

 ルシファーが武具を槍に切り替えた。光り輝いたかと思うと、剣が槍にすげ変わっていたのだ。鋭い穂先が迫る。剣ではじき返しながら、秀一は懐に入り、火球を叩きつけた。爆発の中に堕天使長が消える。だが、降ってきた槍の柄が、秀一を地面に叩きつけていた。体に無数の焼け跡を造りながらも、ルシファーが煙を押し破って現れる。

「笑止! 私は幾つも創世後の世界を見てきた! 知的生命体は、どれも同じだ! お前のやり方は実に興味深いが! しかし、それも絶対では無い! 必ずや隙がある」

「だろうな。 だが、元々の人間ではどうしようもなかったミスは、これで減る。 少しでもましな世界。 それで、俺は充分だ」

「創世実行率、22,23,24」

奇声を上げたルシファーが、目から光を放つ。腕を振るい、雷撃を放って途中で迎撃。離れようとするところを追いすがる。至近からの至高の魔弾を浴びせれば、此奴でも倒せる。だが、その隙はないだろう。

しかも、此奴は、秀一の体を作った存在だ。ならば、その体から造り出された至高の魔弾は、通用しないことが考えられる。

振り下ろされる、槍。一閃。柄が、中途から吹っ飛ぶ。剣を振り抜いた秀一が、静かに、だが強い怒りとともに告げた。

「今のは、オセの剣! 息子を守るために全てを賭けた、男の、誇りの一撃!」

「お、おのれえええっ!」

武具が即座に切り替わる。今度は両手にサイを持っている。跳躍。風の力を使って舞い上がり、螺旋回転しながら蹴りを叩き込む。不意の大技に、ルシファーは顔面を蹴られ、絶叫しながら背を床に着ける。

「これは、俺の仲間のリコの技! 本人ほどの威力はないがな」

「がああああっ!」

ルシファーが手で床を叩くと、秀一は高々と跳ね上げられた。さっき考えたことは、図星だった訳だ。勝手に使えるようになった技は、どうやら向こうも使いこなせるらしい。床から噴きだした氷の柱が、秀一を弾き上げたのだ。立ち上がろうとしたルシファーの右手に、光の剣が突き刺さり、爆発する。二の腕を押さえ、堕天使長が吠える。

「き、貴様、貴様あああっ!」

「これはフラウロスの技だ。 最後まで、いざというときにトリックに頼ると嘆いていたな」

火球が飛んでくる。ルシファーは炎を司る大天使ミカエルの双子の兄という設定が、後の時代に付け加えられた。火球の温度は、実に数千万℃に達していた。秀一は目を閉じると、思い出す。

そして、着地した。

炎の直撃を受けている。だが、それでも。耐え抜いた。

もちろん、打撃は大きい。しかし、だがそれが故に。ルシファーが如何に追い込まれているか、よく分かった。

「これはキウンの技だ」

「お、おのれ、おのれえええええっ!」

ルシファーの全身から、色が消えていく。なるほど、至高の魔弾を撃つつもりか。それならば。

秀一はルシファーに迫る。詠唱はしない。和子に貰ったマガツヒが、胸の中で光っている。

そして、彼女が一番信頼していた者の技を、最後の切り札に使う。あのトールの拳を封じた手だ。

ルシファーの麓に飛び込む。目から光が放たれようとした瞬間、床に手を触れる。そして全力で、浸透勁を叩き込んでいた。

ルシファーが、崩壊する床に飲まれて、体勢を崩す。その顔に、驚愕と、恐怖が浮かんでいた。秀一が拳を構え、腰を落とす。本家本元ほどではないにしても、今ならば、いや今だから撃てる技。ルシファーの顔が、ゆっくり秀一の所まで、落ちてくる。

其処へ。

全てを砕き続けた、トールの技が。名も無き拳撃が、炸裂していた。

ルシファーの全身に、罅が入っていく。存在を維持できなくなったか。無念そうな形相のルシファーが、崩れていく。それは溶けるように無くなって、やがてその場からは欠片一つも残らなかった。

片膝を着いた秀一は、己の全身から煙が上がるのを感じながら、カグツチに言う。

「あの者の干渉が、二度と及ばないようにしてくれるか」

「了解しました。 それも創世の定義に付け加えます」

「ああ」

床がある程度崩壊し、戦闘の影響で辺りに打撃はあったが、創世に影響はないらしい。それが幸い。

どちらにしても、これで、限界か。

多くの者に力を借りた。その無理が出てきていた。仰向けに転がる。何処までも白い空が、其処に広がっていた。カグツチのカウントダウンが聞こえてくる。それが90を超えた時。自分を覗き込む影があった。

「秀一君」

「祐子先生か」

「貴方、何処まで私の真実に気付いている?」

喪服のままの祐子先生は、口元に笑みを浮かべていた。この人は罪人だ。だが、話を聞く価値はある。

「貴方の力は、あまりにも大きすぎた。 何か秘密があったのだろう?」

「ええ。 私はね。 氷川の母親と、あのルシファーの娘だったの。 ふふふ、驚いたでしょう」

確かに驚きだ。

ただ、あれはどう考えても精神生命体だ。きっと文字通りの意味ではないのだろう。それに、祐子先生は死んだ。この目の前にいる女は、ずっとルシファーの側にいた。

「創世の時に、私は人間としての自分と、精神生命体としての自分に別れたの。 ふふふ、人間は創世の巫女としての存在。 そして私は、ルシファー様に、父上に仕える存在としてね」

「貴方が、氷川を操作していたのか」

「いいえ」

あの男は、とても操作できるような相手ではなかったと、祐子先生は寂しそうに言った。結局の所。後押しはあったが、氷川はどのような手を使っても、地力で東京受胎を成し遂げたのだろう。

僅かに、救われた気がした。どんなに愚かであっても、どれほど下らぬ争いを繰り返していても。この世界の主役は人間だったのだ。少なくとも、地球と、ボルテクス界ではそうだった。ただ、至高でも霊長でもなかった。ただ、それだけである。

あのルシファーも、恐らく大規模に干渉しなかったのではない。出来なかったのだ。

「新しい世界で、皆が幸せに暮らせるといいな」

「……」

先生が、去る。

分かっている。例え精神が強くなっても。幸せが如何に難しいかは。

人類に黄金の時代が来ることは、とても難しいだろう。

目を閉じると、意識が薄れてくる。

やっと、眠れるのかも、しれなかった。

 

エピローグ、創世の後

 

新川楓が身を起こすと、もう七時だった。欠伸を殺しながら、着替えを始める。今日は大事な演説の日だ。多くの聴衆に、納得できるように政策を語らなければならない。聴衆は貪欲だ。皆冷静に演説に聴き入り、その後の投票に確実に影響を与えてくる。十五歳の時からこの国の総理をしている楓は、五年という長期にわたって政権を維持しているが、それもいつ追い出されるか分からない。

この世界、では。

「楓総理、そろそろお時間でございます」

「分かっています」

寝間着からスーツに着替えると、すぐに外へ。さっと群がった使用人達が、寝癖をチェックし、ネクタイのずれを直す。この国で歴史上最年少の指導者に対する見方は厳しい。民衆は貪欲で、国益にならぬと判断した総理は即座に引きずり落とす。わずか二週間で、国民選挙により罷免された国家元首も実在している。

この、世界では。

外では護衛の軍が控えていた。携行ミサイルの直撃にも耐え抜く総理専用車両に乗り込むと、演説を行う大ホールへ向かう。隣に座っているのは、主席秘書官の黒井七恵だ。彼女とは、面識がある。彼女の方は、恐らく覚えてはいないだろうが。

「総理、相変わらずお綺麗です。 総理でなければ、お持ち帰りして、お着替えさせて遊びたいくらいですわ。 ああ、そうしたらあの服とあの服と、それにああ、アレも良いわねえ」

「勘弁してください。 それよりも、今日のスケジュールは」

さっと目の前に立体映像で示される。今日も二時間程度しか余裕がない。もし彼処に向かうなら、その時しかないだろう。その後には、大学からスカウトして科学技術用の長官になってもらったあの丸字大好き博士の、新技術の説明を聞かなければならない。

把握した後、立体映像を消して貰う。

今は、西暦にして21世紀。

機能的に整備された街には様々な施設があるが、どれも実用的なものばかりだ。娯楽施設は殆ど無く、特に宗教関連の建物は全く見あたらない。無いことを、誰も疑問には思わない。必要ないのだ。宗教は、あくまで文化であって、人間がすがるものではなくなっている。だからどの国でも、西暦にして4の世紀を回った頃には、意味を成さなくなっていた。

戦争も、極端に少ない。利益よりも人材の消耗の方が勝ると、人間が種族として認識したからだ。人口の増加率も、極端に抑えられていた。それも、戦争が少ない要因であったかも知れない。

この世界では、誰もが強い。

すがる神は、必要とされていない。哲学者が殺すまでもなく。民衆が、神を捨ててしまったのだ。

対立候補の姿を見せられる。意志の強そうな瞳を持つ、恰幅の良い中年男。かってこの国最大の武術道場で師範をしていた男だ。見覚えがある。ずっと戦い続けた、あの人だろう。また戦うことになるとは。

面白い話だ。今度も負けない。政策演説で、ねじ伏せてみせる。

路の左右で警備に当たっている警察官の中に、やたら体格がいい豪快そうな男を発見。見覚えがある。珍しくもないことだ。この世界で、あの世界で敵や、部下や、同僚だった人達とあう事は。

ホールに着いた。鋭い視線の女性将校が出迎える。軍の司令官をしている唐沢郁実将軍である。楓より七歳上の彼女も、最初あった時は驚いた。誰だか一目で分かったからだ。もちろん、向こうは覚えてはいなかったが。

彼女はエースパイロットとして名を馳せた人物だ。アグレッサー部隊の最新鋭戦闘機を、一世代前の戦闘機にて7回連続で落としたという実績を持ち、三十前の将官昇進を果たしている。不思議と戦闘機を愛馬扱いする事に関しては、変わっていなかった。

「時間通りの到着、お疲れ様です。 総理」

「将軍も。 演説の場に案内していただけますか?」

「此方です」

真面目な人だ。あの世界と同じように。

楓は、演説の場に向かう。ふと近くのビルを見ると、朗々と群衆の前で謡う男の姿があった。

目を止めたのは数瞬。彼処にも、夢を叶えた、かっての世界での知人がいる。最後まで敵同士だったが、今は違う。

楓は夕刻の自由時間を楽しみにしながら、演説の場に向かった。

 

海岸線の端にて、ずっと岩に座っている男の姿があった。古びた道着を纏ったその男は、もう老境に入っているだろうに。全身は筋肉の塊であり。静かに、海を見つめ続けていた。

其処へ歩み寄ってくる、小さな影。それこそ男の何分の一しか体積が無さそうな、短髪の娘である。色黒であり、スポーツをしている体つきだが。しかし、男に歩み寄るには、あまりにも貧弱に思えた。

「徹先生。 まだ、其処にいるんですか?」

「典子か。 うむ、拳を極めた実感がまだ湧かなくてな。 今はただ、余韻に浸っている所だ」

そう、かっては気付けなかったことが。この世界に来た時には、既に周知だった。

拳は、とうに極めていた。

それに気付かず、凶拳を振るい続けていた。

最後の最後で。振るうべく拳を振るうことが出来た。それで、何かが抜けてしまったかのようだった。

自分という存在が、やるべき事は、全てしてしまった。

それが、あの世界。ボルテクス界の記憶を未だ残している、トールを著しく無常へ押しやっていた。

最近は、弟子も取った。この典子はその一人。もちろんあの男に焦がれて、最後まで一緒について行った。事態打開の切っ掛けを造った、リコの今の姿だ。

だから、恐らくは。それを受ける価値がある。

「典子」

「はい」

「俺はもう、拳を極めた。 だが、その技は頭の中にあるだけで、誰かに授けたことはない。 お前は、あの男に少しでも追いつきたいと言っていたな」

典子が、さっと顔を赤らめ、それから決意を込めて頷く。ならば、良いだろう。

忘れていた。まだ、することはあったのだ。それを、これからして。人生の締めとしよう。それが、拳を冷やすのに。必要な禊ぎだった。

「よし。 俺の技を、授けよう。 お前なら、きっと、見事使いこなすことが出来るはずだ。 俺とは違ってな」

そう告げたトールの顔は。彼を知るものが見たら驚くだろう。

とても、静かな、安らぎに満ちていた。

典子はぱっと顔を明るくすると、荷物を取りに家に飛んで戻っていった。その背中を視線で追いながら、トールは独白する。

「俺の拳は、凶の拳だった。 だが、それは裏を返せば、方向性のない力だったに過ぎないのだ。 今の世界なら。 それを、使いこなせるものが、必ず現れるだろう。 俺は、あの拳を、使いこなすものへ渡さなければならん。 それは、義務だ」

それは、予言ではない。この世界であれば。

確実な、未来であった。

 

日本に帰ってきた琴音は、殆ど休む間もなく、ビジネスパートナーである南条家からの訪問を受けていた。七海というやたら有能な子供が秘書官を務めているあの家は、隙あれば琴音の白海家を飲み込もうとしている。

激しい競争が日々繰り広げられるビジネス界に身を置いた琴音は、圧倒的な業績を短時間で上げ続け、いつしか業界の新星と呼ばれるようになっていた。それでも少し油断しただけであっという間に飲み込まれるのが、この業界の恐ろしいところだ。

居間で向かい合い、紅茶をすすっている相手は、初老の紳士だが、内部は野心で常にぎらついていた。庭にいる老ドーベルマンが、遠吠えをした。意味のない遠吠えだが、構わない。あの子は、ずっと琴音が守れなかったものを、守ってくれていた。だから、生の最後まで、一緒にいてあげたい。紳士が、眉を動かしながら言う。

「お疲れの所押しかけてしまい、申し訳ありません。 このたび、我がグループが立ち上げました新プロジェクトへの参加をお願いいたしたく」

「見せていただきましょう」

狐と狸の化かし合いの世界だ。膨大な金が動き、敗者は即座に押し出される。もっとも、琴音が知るかっての世界とは、随分勝手が違うが。まあ、もっとも。今は別に、それとは関係がない。

プロジェクトはある国から安く原材料を買い付け、他国へ輸送し、最終的にこの国に運んで加工するというものであった。今まで無かったルートを開発するために資金が必要なのだという。

一応、南条家当主の印は押されている。その下にはやたら達筆のサイン。参謀殿もどうやらお墨付きらしい。ただし、ここで鵜呑みにしては、ビジネス界で生きていくことは出来ない。

もう、琴音は決めたのだ。

静寂は、自分だけの時に造ればいい。

自分が守れる者達を守るためなら、どのようなことでもしてみせる。

この世界の人間達は皆強い。弱者と呼べる者はおらず。誰もがしたたかだ。だが、それでも。琴音はその中で冠絶した能力を持っている以上、しなければならない事はあった。

「この規模のプロジェクトですと、即座の返答はしかねます。 会議をする必要もありますし、明日、アポを取れますか。 本社に直接伺いましょう」

「分かりました。 即座にアポを取らせていただきます」

老紳士が舌打ちするのを、琴音は見逃さなかった。この男、このプロジェクトで何か企んでいると見た。まあいい。それも、明日の会議で調べれば良いことだ。

老紳士が帰った後、何人かに連絡して、早速調査を始めさせる。最後に連絡をしたのは、南条家の参謀殿である。それが終わると、すぐに重役を集める。皆を説得しなければならないのは面倒だが、やらなければならない。

続々とスーツ姿の重役達が、琴音の家に集まり始める。それからの会話は、長く続くこととなった。

かって誠実で、優しさだけしかなかった琴音は。今、強さを身につけた。

それは、多分、彼女の周囲にいる誰もにとっても、幸せなことであっただろう。

ふと、天井を見る。自分が守れなかった者達の事と。あの煉獄ボルテクス界を思い出して、琴音はふうとため息をついた。

そして、表情を引き締める。

もう二度と。自分の目が黒いうちは。同じ事はさせない。

決意は、堅かった。

今でも、力は消えていない。その気になればメギドラオンでもマハラギダインでも発動できる。だが、そんな事をせずとも、琴音は全てを守るつもりであった。新しい、己の築き上げたもので。

 

太田創が、4WDの大型車を駆る。砂漠を走れるようにチューンアップした特別製だ。砂漠を越えて、向かうのはオアシスの周囲に点在している村だった。貨物には、医薬品が多量に積まれている。隣に乗っているのは、NGO団体に所属する女医である。

強者ばかりの世界と言っても、どうしても不平等は出る。特に物質的な不平等は争いの元になりやすい。この世界でも起こった数少ない戦争の、殆どが物質の奪い合いが原因であった。

日本を、出た。それから、がむしゃらに、自分が必要とされる場所を探した。

結局の所、創は何かに必要とされたかったのだ。ボルテクス界で、和子に情けを掛けられて。それをはっきり自覚した。今では、自分探しに居場所探しと。いい年をして、自分でも少し恥ずかしいことを必死に行って。それで、やっと見つけたのが、これだった。

やはり、世間の風は冷たい。

だが、それでも。今、創は充実していた。

オアシスが見えてきた。口笛を吹くと、隣に乗っている女医に準備をするように言う。まだうら若い彼女は、創のことをどう思っているかは分からない。だがこの仕事が好きなようで、顔を合わせることが多かった。

車が着くと、わらわらと大人が集まってくる。降りながら、リストを受け取り、医薬品を出す。女医がすぐに診察を始めた。酷い病状の患者が何名かいる。そういえば、かっての世界では。こう言う時、生まれ育った村を出るのがいやだとか、都会に生きたくないとかで、揉めたのだなと、創は思った。

今は、そんな事はない。すぐにヘリを手配。症状が軽い者は、車で近くの街まで運ぶことにした。

街について、患者を病院に運ぶ。女医とは、其処で別れた。NGO団体の本部に、医薬品のリストを送り、許可を求める。非常に厳しい審査で、たばこ代でも誤魔化そうものなら即座に指摘される。

全てが終わった時には、深夜になっていた。

かっての日本のように治安が良い砂漠の街。リサイクルを前提とした瓶ビールを空けている内に、女医からメールが来た。仕事の話かと思って開けてみると、違った。

どうやら、創にも、春がようやく来たらしかった。

かって、ボルテクス界で最強のテロリストとして恐れられた男は。禊ぎを済ませた今、とても優しい目をしていた。

 

榊家は、相も変わらず其処にあった。楓は専用車を少し前に降りて、護衛を一人だけ連れて其処へ向かう。

大丈夫。今でも力は衰えていない。その気になれば一人で戦艦を潰せる楓である。多少の敵など問題ではない。

今日は日曜日だ。玄関のチャイムを鳴らすと、アメノウズメではなく、秀一の母が出た。相変わらず若く、そして優しそうである。結構戦闘的だった上に良い性格をしていたアメノウズメは、きっと彼女の本性であろう。

「あら、楓ちゃん。 秀一に会いに来てくれたの?」

「時間がありませんから、顔を見るだけですけれど」

上がらせて貰う。護衛は恐縮した様子で、それに続いた。遠慮することはないのに。彼は、秀一の部下だった。ニーズヘッグである。喋るのが極端に苦手で、独活の大木扱いされていた彼を、拾ったのは楓である。今では有能な護衛として活躍してくれている。

和子が居間で新聞を読んでいたので、一礼。この子はもの凄く有能で、将来は秘書官にスカウトしようと思っている。ただし琴音も目を着けているらしいので、奪い合いになるだろう。政治の世界に来るか、ビジネスに行くのか。選ぶのは本人次第だ。

それにしても、綺麗になったものである。七年前は小学生だった彼女も、今では立派な大学院生である。しかも飛び級を連続して、来年は博士号に挑むそうだ。有能さに国からも助成金が当然出ている。

彼女は、数少ない、記憶を残した一人だ。彼女の父母も、だが。

「お兄ちゃんに会いに来たんですか?」

「ええ。 お顔だけでも、伺おうと思いまして」

お土産のケーキを渡しながら、二階へ。いつもはサナさんとリコさんが交代で来てくれるんですよと、和子が笑う。どっちが姉になっても良いなあと、冗談めかしていう和子。今日、ご主人は出張中か。あの人も、是非部下にスカウトしたいところなのだが。小さな会社の社員でいいと言っているので、無理には誘えない。惜しいことである。

二階の部屋に上がる。和子がドアの鍵を開けてくれた。

其処に、秀一はいた。

眠っている。

ずっと、眠っているのだ。あの日から。かれこれ、七年。その間全く衰えもせず、栄養を必要としている様子もない。

カグツチの中で何があったのかは分からない。だが、創世が為されて。気付いた時には、新しい世界にいた。其処は弱者のない世界だった。誰もがしたたかで強く、人類という種の精神的な底上げが行われた土地だったのだ。

モトも、ニュクスも、ブリュンヒルドも。毘沙門天も、持国天も、オルトロスもケルベロスも。西王母もミズチも、ニーズヘッグやフォルネウス、クロトやマダ。それにユリもカザンも。あの戦いで生き残った殆どの者が、この世界にいることを確認している。オルトロスは客船の船長をしながら楽しい日々を送っているし、ミズチは大使館員をして、人畜無害な様子を装いつつ、他国の情報を仕入れている。クロトは今小学校の先生だ。ユリは非常に巧みな歌い手となって、各国を回って皆の耳を酔わせている。カザンは、この間見かけた。どうやら宝蔵院槍術の後継者であったらしい。現代の時勢の中、己の技を生かせない不甲斐なさに苦しんでいたようだが、今では嬉々として己の槍を振るっているようだった。何しろ彼は、あの地獄の中、和子をずっと至近で守りきったのだ。胸を張って武術を自慢して良いだろう。他にも、どうやらマネカタだったらしい者は、何名か見た。シロヒゲはフォルネウスの茶飲み友達として、今も仲良くしているらしい。

しかし。悪魔にしても、マネカタにしても。その中で、記憶が継承されているのは、僅かだけ。秀一の仲間達が、皆記憶を残していた事だけは救いだ。シジマで記憶を残していたのは、カエデだけ。ムスビでは毘沙門天だけだった。それが今政策演説で争ったのだから、世の中は面白い。

この人が。人間では既に無くなって、ずっと眠っているのと、関係しているのだろう。

神とは違う。この人は、鍵となり、役割が終わったのだ。だから、眠っている。普通の創世では、あり得なかったことなのかも知れない。

汗を拭こうかとも思ったが、その必要すらない様子だ。溶鉱炉に放り込んでも死なないだろう。

「人修羅さん。 あなたのしたことは、少なくとも、人類にとっては前進だったと思います」

この世界を好まぬ者もいるだろう。

だが、しかし。確かに、人類は間近に迫った滅びを回避したのだ。

「貴方が起きるのを待っている人も大勢います。 いつか、戻ってきてください」

応えはない。

だが、秀一は生きている。ひょっとすると最強の悪魔として、どこかの世界をほっつき歩いているのかも知れない。肉体を置き捨てて。それもあり得る話だ。あの冷静さは、一皮剥けば木訥さにつながる。しかも死なないものだから、精神だけでとんでもない異界に迷い込んで、平然としているかも知れない。

眼を細めて、楓はボルテクス界の恩人を見つめて。

それから、部屋を後にした。

多分、恋愛感情は無い。だが、この人には戻ってきて欲しいなとおもう。今はいい友人である会社員のサナさんや、武道を極めようとトールに修行を着けて貰っているというリコのためにも。

それに。人修羅が目覚めた後。二人のどっちを選ぶのか、或いは他の女性に傾倒するのか。

それを知るのもまた、一つの楽しみではないか。

玄関で、靴を履きながら言う。

「また来ます。 目が醒めたら、教えてください。 この国の最大戦力として確保したいですから」

「お兄ちゃんを利用するつもりですか? 楓さん、昔からおとなしそうな顔をして、過激で強かでしたよね。 万能の天才って、そう言うものなんですか?」

「ま、ひどい」

くすくすと笑いあうと、ぺこぺこ頭を下げていたニーズヘッグと共に外へ。総理専用の車両に乗って、首相官邸へ戻る。

明日も忙しい。

健全な労働が待っている。

世界の作り手にて。人類を発展させた人物は眠っているが、楓は世界をリードする人間の一人として、歩き続けなければならない。

彼が起きた時、失望させないためにも。

また、あの悲劇を、起こさないためにも。

 

真女神転生V煉獄受胎、完