最強の行く先

 

序、攻城戦

 

地響きが迫ってくる。毘沙門天は逃げ込んできた前衛の部隊を奥へ庇いながら、親衛隊を前に出した。槍を構える鬼神達に混じり、青龍が今は指揮している天使達が、通路上部に立体的な布陣を敷く。第二陣を突破はされたが、まだまだ防衛陣は分厚い。特に階段の上に陣取っている此処は、毘沙門天が指揮していることもある。簡単に抜かせるつもりはない。

敵の前衛が見えた。ほとんど同時に、階段の下から無数の攻撃術を放ってくる。鬼神達が槍を投擲し、天使達が術を放つ。階段の下に、バリケードが運ばれてくるのが見えた。火力は若干敵の方が上か。しかし、位置的な事を考えると、此方が有利だ。時々飛んでくる攻撃術を払いのけながら、毘沙門天は後方へ使者を飛ばす。此処を退いた時に、次の防御陣を敷いておく必要があるからだ。

シジマの全面攻撃が始まって、二時間ほど。陣を二つ抜かれたが、今だヨスガの軍勢に乱れは見られない。ただし、シジマの士気は想像以上に高い。迫り来る圧倒的な大軍は、実に効率的に制御されており、敵将カエデの有能さがよく分かる。毘沙門天も何度か戦場で相対したが、若くしてシジマの重鎮となっているだけのことはある。

腕組みしている毘沙門天に、前線の状況を見に来た青龍が話し掛けてくる。毘沙門天は、振り返りもせずに応えた。

「人修羅の居場所は掴めたか」

「いや、まだだ。 ただ、バアル様の話だと、シジマが人修羅を利用して一気に攻勢に出る可能性は高いと言うな。 此方としても、奴がどの通路から攻め込んでくるかは、知っておきたいところなのだが」

「西王母に期待するしかないか。 やれやれ、迂遠な事よ」

青龍はそれだけ言うと、自陣へ戻っていった。

戦い続けていた上級天使が一騎、集中砲火を浴びて撃ち落とされる。火力の集中が激しくなってきた。儀式攻撃魔法が、バリケードの向こうで準備されているのが見える。放置しておくと、かなり面倒なことになる。毘沙門天は剣を抜くと、雄叫びを上げた。

「突撃! 下の敵陣を蹴散らすぞ!」

「おおっ!」

荒々しく鬼神達が唱和する。もちろん敵も此方の突撃には備えていて、砲火が激しくなってきた。毘沙門天が先頭に立ち、剣を二振り。風圧で、飛んできた術を蹴散らすと、真っ先に階段を駆け下りる。バリケードを踏みにじり、敵軍の中に飛び込んだ毘沙門天は、しばし我を忘れて荒れ狂った。

気がつくと、敵は通路の奥に退いて、後退しつつも此方に砲火を浴びせている。味方はどうなった。周囲を見直すと、かなりの被害が出ていた。敵よりは被害が少ないだろうが、元々数は向こうが圧倒的に勝っているのだ。この程度は何のアドバンテージにもならない。儀式魔法の直撃による壊滅は避けたが、気は抜けない。

分かっているのは、この地点の確保は難しいと言うことだ。有利な階段上に待避して、バアルの指示を待つ他無い。

「階段の上に待避! 増援を待つ!」

「はいっ!」

負傷者を引きずって、味方が階段の上に待避していく。通路に仁王立ちしたまま、毘沙門天は剣を構えていた。

戦いはいい。何もかも忘れさせてくれる。ヨスガの将来が不透明なことも、自分の戦う意義が不安定になりかけている事も。突入してくる敵部隊。笑いながら、毘沙門天は単身それを迎え撃つ。斬って、斬って、斬り伏せる。

味方の待避が済んでから、毘沙門天は悠々と階段を上る。気がつくと、自身もかなり体力を消耗していた。着いた覚えのない傷も多い。いつのまにか、肩には矢も刺さっていた。愕然としてしまう。無言で矢を引き抜くと、毘沙門天は部下にこの場を任せて、一度待避することにした。

初陣の小僧みたいだと、青龍に笑われた。それも無理がない気がする。迷いの中に、毘沙門天はいた。

 

カエデが詰めている指揮所には、ひっきりなしに情報が飛び込んでくる。シジマは、やや有利に戦闘を進めているが、もちろん油断は出来ない。バアルの動きが掴めないし、上級士官の姿も毘沙門天と青龍しか確認できないからだ。

「E3地点の制圧、完了しました。 敵は徐々に後退中」

「油断しないように、確実に前進を」

空軍が造った地図を見ながら、徐々にカエデは兵を進めている。敵が迂回路を使って奇襲を掛けて来る可能性も低くはない。だからカエデが造った情報分析用の魔術具を彼方此方に配置して、敵の動きを早期に警戒するべく務めているのだが、それも絶対とは言えない。敵には術の専門家である西王母がいるし、何よりもバアル自身がそうだからだ。

前線からモトが戻ってきた。何カ所かに傷を受けているが、大したものはない。ソファに座り、回復術を受けているモトの元へ歩み寄る。

「お疲れ様です、モト将軍。 戦況はどうでしたか」

「今のところ、地力の差で少しずつ押しています。 ただ、敵はバアルが動かないから押されているだけのようにも見えます」

「そうでしょうね」

カエデは、今までの敵の動きから、ヨスガの狙いが読めていた。

敵は人修羅だけを本気で潰すつもりだ。それ以外のコトワリを持たない勢力、例えばシジマ等は相手にしないつもりなのだろう。舐められたものである。だが、それも仕方がないのかも知れない。

人修羅が倒されれば、その時点で創世は完成する可能性が高い。明確なコトワリを掲げる悪魔が、バアルだけになるからだ。

前線に幾つか指示を飛ばすと、カエデは部屋の中を動き回る。幾つかの戦略は既にあるのだが、実行するにはまだ手が足りない。バアルに創世だけはさせない。そのためには、いかなる手でも取らなければならない。

副官の一人が戻ってきた。山羊の頭部を持つ堕天使で、彼には人修羅の監視をしているクロトとの情報交換を一手に任せている。

「人修羅の動きは?」

「クロト将軍が相変わらず貼り付いています。 今は回復と、ノアのマガツヒの制御に努めているとか」

既にシジマが人修羅を攻撃する気がないことは告げている。だからか、人修羅は一旦動きを止め、じっくり回復を待っているようだ。元々人修羅は冷静で慎重な性格だと聞いている。それならば、無理もない行動であろう。

人修羅が動かないのに、総攻撃はあまり意味がない。うるさがってバアルが前線にでも出てきたら、今まで進んだ分を一気に押し戻されかねない。今は、最重要地点であるE3を完全に抑えたことで、満足するべきだった。

カエデは伝令を呼び集めると、指示を出す。

「前進は停止。 しばらくは陣地の確保に努めてください。 迂回路の類があると危険ですから、それらは一つ残らず発見するように、念入りに通路を調べて、なおかつ陣地はどこから攻撃されても問題がないように、強固に構築するように伝えてください。 一歩一歩、進んでいけばいいのです」

「は。 すぐに前線に伝えます」

伝令がすぐに指揮所を飛び出していく。最前線からは少し遠くなりつつあり、少し不便だ。そろそろ指揮所を移動させる頃合いかも知れない。副官も幾つかの命令を受けて、すぐに指揮所から出て行った。

人修羅とは距離を置くように、部下達には念を押してある。皆、アーリマンを殺した人修羅には良い思いを抱いてはいないのだ。まだシジマのコトワリで創世したいと願っている者も少なくはない。カエデも方法があるのならそうしたいとは考えてもいるが、しかし迷いも未だにある。

兎に角、今は皆が生き残ることこそが最優先だ。思想はその後で、突き詰めていけば良いのである。

塔の外側から上層までを調べてきたブリュンヒルドが、指揮所に戻ってきた。既に制空権はシジマ空軍にあり、対空砲火さえ注意すれば、比較的安全に地形を調べることが出来る。指揮所の中央にはカエデが造った立体映像のカグツチ塔があり、そちらに新たに何カ所かの地図を付け加えていく。それが終わると、ブリュンヒルドはカエデの所に歩み寄ってきた。

敬礼をかわすと、ブリュンヒルドは相変わらず無愛想に言葉を紡ぐ。

「先ほど、親衛隊の何騎かと一緒にカグツチを直接見てきた」

「どんな様子でしたか?」

「近くに行くと、まぶしくて目が開けていられないな。 遮光グラスを使って見てみると、完全な球形をしていて、脈打っていた。 温度は常温で、この世界の熱源にはなっていないらしい。 それに、途轍もない魔力を感じる。 バアルやカエデ司令よりも、ずっと上だろうな」

「それほどですか」

「世界の中心に居座り続けているのは伊達ではないと言うことだ。 確かにあれだけの力があれば、創世を成せるのかも知れない」

それを聞くと、カエデも気が重い。負ければ、バアルによって、ヨスガのコトワリが開かれてしまう事が、これで確実となったからだ。かといって、シジマの者達の心情を考えると、人修羅の全面的な支援も出来ない。師団長達は利権で釣ったが、一般の兵士達が動かなければ戦争は出来ないのだ。

部屋に血相を変えた副官が飛び込んでくる。緊迫が、一気に指揮所を満たした。

「人修羅に動きがありました! 進撃を開始した模様です!」

いよいよ来たか。カエデは唇を舐めると、前線に総攻撃の指示を出す。今、確保している塔上層への突破口は四つ。クロトに伝えて、人修羅にその一つを好きに使って良いと告げてある。他の三つでは、毘沙門天の動きを見ながら、交互に圧迫を加える。更に、頃合いを見計らい、空軍で背後からの奇襲を仕掛けるつもりだ。

前線に展開している部隊は、超音波による地形測定装置も持たせてある。奇襲に適した地形はある程度それで判別できるし、油断さえしなければ背後も突かれない。各部隊の動きを見ながら、カエデは冷静に指揮を続けた。

激しい攻撃が開始され、敵の陣地が次々と落ち始める。だが敵の抵抗も凄まじく、味方の被害も徐々に増えていった。逆襲を受けて、再奪取される陣地も少なくない。

情報士官が、人修羅を示す駒を、少しずつ進めていく。どうやら此方の指定した突破口から、正直に攻勢を掛けてくれるようだ。それなら此方も動きやすい。

人修羅が向かった先は、塔上層へ最短で向かえる通路である。もちろん、バアルが控えている可能性が高い地点もその途上にある。無論敵の防御は分厚いだろう。だから此方が総攻撃を行い、ある程度の戦力を削ぐ。

そして人修羅がいる以上、バアルは此方には出てこられない。気兼ねなく、総力での攻撃が仕掛けられるというものだ。

こう言う時には、戦力を出し惜しみしない方が良い。ふと思い立って、カエデは部下に聞いてみる。

「ケルベロス氏はどうしていますか」

「今だ、ユリ殿の側に付き添っているようですが」

「そうですか。 無理に前線に出て貰う訳にもいきませんね」

ケルベロスは文句の着けようがない強者で、大きな戦力になる。しかし、サマエルが保護していたマネカタのユリの守護こそが、自分の為すべき事だと考えているようで、今はてこでも動かないだろう。ユリがシジマのために戦いたいと言い出せば話は別だが、説得している暇も余裕もない。

それに、ケルベロスに頼らなくても、敵に比べれば戦力は遙かに充実しているのだ。此処はカエデが出るべきだろう。それに敵には、シジマの攻勢を一度跳ね返したミズチもいる。奴の幻術を破るには、カエデがいた方が良い。

「指揮所を前線に進めます。 移動の準備を」

カエデの指示で、周囲が沸き立つ。此処が、勝負所であった。

 

1、死闘の始まり

 

ノアとの戦いで、殆どヤヒロヒモロギに蓄積したマガツヒを消耗せずに済んだのは。秀一にとって、この塔に入ってから数少ない僥倖であった。死闘が続き、一刻一秒たりとも気を抜ける時間はなかったが、それが故に却って良かったとも言える。

ノアのいた重苦しい部屋から出て、少し塔を登ったところで、秀一は小休止にしていた。四方百メートルほどの、この塔にしては小さな部屋だ。通じている通路が前後に二つしか無く、奇襲を防ぎやすい上に、これと言った仕掛けが部屋にはなく、休みやすいのが特色であった。だから、此処で小休止にしたのだ。カズコは無言のまま、周囲にマガツヒを配っている。それを口に入れながら、誰もが無言だったのは。皆、体を全力で回復させるべきだと、今は考えていたからだ。

今後は更に状況が厳しくなる。言わなくても、誰もが分かりきっている事だ。

シジマは、総力戦の隙を突いて、アーリマンの下へ迫ることが出来た。ムスビは元々保有戦力が小さく、罠による足止めをくぐり抜ければ、ノアの下にまでさほど苦労せずに迫ることが出来た。

だがヨスガは。クロトの話によると、本格的に守りを固めてきており、つけいる隙が見あたらないという。バアルの性格から考えると、それもあり得る話だ。コトワリさえ得られれば、他の部下は全て使い殺しにするかも知れない。下手に上層へ進むと、全軍が秀一だけを狙って攻撃してくる可能性もある。

気配がある。シジマの親衛隊らしい。四五騎はいるが、此方への敵意はないから、別に戦闘態勢は取らない。クロトが立ち上がると、咳払いした。

「悪い。 少し外す」

「敵意がないのなら、戦う気はない。 此処へ招いても構わないぞ」

「いや、そう言う訳にはいかない。 それに、お前のことが嫌いなシジマの悪魔は結構多いんだ。 彼らにとって、此処じゃあ少し話しづらいだろう」

「そうか。 すまない」

「……あ、あのな。 お前に責任がないことは、私は分かってる。 双方命を賭けて戦った上での話だし、それにアーリマン様だって、敗れたのがお前で良かったと思ってるはずだ。 ただ、なんというか。 みんな、アーリマン様が好きだったし、簡単に心は整理できないってことだ」

たどたどしくフォローを入れてくれるクロトは、顔を真っ赤にして、部屋を出て行った。何だかよく分からない奴である。或いは、赤面症なのかも知れない。壁際に座っていたマダが、口にマガツヒを入れながら言う。

「クロトの言うことに、俺も同意するぜ。 お前に、責任はねえよ」

「ありがとう。 そう言ってくれると嬉しいよ」

「……それでよ、まだしばらくは休むのか?」

「サナが目を覚ましてから出たい所だ。 ヨスガには西王母やミズチがいる。 彼らの能力を考えると、術の専門家が欲しいところだ。 ただ、このまま事態が推移して、有利になるかと言われれば、分からないとしか応えようがない。 できるだけ急いでバアルを倒すべきなのだと、俺も思う」

ニーズヘッグの背中には、今だ繭から出てこないサナの姿がある。どのように自分の体を再構成しているかは分からない。だが、彼女がいないと、此処から戦いは厳しいものとなってくる。

クロトが戻ってきた。手には、カエデかららしい、蜜蝋の封印付きの文書を手にしていた。

「人修羅、カエデ将軍からだ」

「いただこう」

シジマの刻印が押されている蜜蝋は、カエデの生真面目で古風な性格がよく分かる。この子も、考えてみれば不幸なのかも知れない。ただし、自分で選んだ道だ。他人が彼女の境遇に対して、どうこう口を出す資格はないだろう。それに、果てしない苦労の果てとはいえ、若くして社会の上層に上り詰めたサクセスストーリーの主人公でもある。同年代にとっても、希望の星として、今後は輝くだろう。

カエデからの話には、むろん子供らしい内容など欠片もない。現在シジマが相対しているヨスガの戦力が、大小五万騎に達する事。布陣から言って、シジマの攻勢には全面的な防御態勢を貫き、秀一だけを殺すべく構えていると言うこと。今突入口を四つ用意していて、そのうち一つを秀一に開放すること、が書かれていた。

字も硬質で、あまり子供らしくない。横から覗き込んできたアメノウズメが、ひょいと手紙を取り上げる。

「あら、あの子、子供らしくない字ねえ。 とても達筆だわ」

「ちょ、それは困る! 人修羅に、今はシジマの代表になっているカエデ将軍から正式に出された手紙だぞ!」

「目を通したが、俺以外の者が見てカエデ将軍が困る事は表記されていなかった。 カエデ将軍としても、皆に見られることを前提で書いていたのだろう」

取り上げようと飛びつくクロトを、ひょいとかわすアメノウズメ。二人をやんわりと諭しながら、秀一はざっと床に展開していた図を睨む。カエデ将軍が開けてくれた突入口は、確かに上層へ直通できるコースである。ただし、相当な抵抗が予想される路でもあり、踏み込むには勇気がいる。

だが、此処を外すという選択肢はない。追撃が止んだだけでも、かなり条件は良くなったと言える。この先に突入するには、シジマの、強いて言うならカエデ将軍の支援が重要になってくる。彼女ももちろん秀一にはいい感情を抱いていないだろうし、隙あれば利用するつもりでいるだろう。しかし此処は、協調せざるをえない。そうでなければ、あのバアルが敷いた鉄壁の罠を、噛み破ることなど出来ないだろう。

「サナは、目覚めそうか」

「もう少し掛かると思う」

ニーズヘッグの背中で、サナの繭をなで続けていたカズコが応える。ある確信がカズコに対して目覚めつつあるが、今は敢えて指摘しない。周囲を見回して、確認。

「目覚めていきなり実戦というのも厳しいが、シジマの軍勢をずっと待たせるのも問題が多いな。 疲労は大丈夫か」

大丈夫だと、声が周囲から帰ってくる。リコは既にストレッチに入っているし、正座したサルタヒコは刀を磨いている。フォルネウスはひらひら舞っていて、いつも以上に元気そうである。ニーズヘッグは自慢の白い肌に着いた火傷の痕が少し痛々しいが、体を動かすのに支障はなさそうだ。カザンもリコの隣で、柔軟体操をしている。

「ならば、休憩は此処までだ。 これから、ヨスガに対して全面攻撃を掛ける」

秀一が立ち上がると、周囲に緊張が一気に走った。わざわざカエデに知らせる必要はない。此方の動きは逐一監視しているだろうから。皆の気を引き締めるため、秀一は敢えて厳しい状況を、周囲に告げていく。

「幸運な偶然が重なった今までとは違う。 敵は全力で、此方を潰しに掛かってくるだろう。 弱体化しているとはいえ、ボルテクス界を二分していた組織を正面から敵に回す事になる。 覚悟は決めて欲しい」

「ああ、武者震いがするぜ」

「大丈夫じゃ、秀一ちゃん。 今更、乗りかかった船を下りる気などないからのう」

マダが胸の前で拳を合わせた。その頭上で、フォルネウスが大きく頷く。

元マントラ軍の、リコとサルタヒコ、アメノウズメも、戦いを拒む様子はない。クロトも、自分の大型棍を手入れしていて、協力してくれる気は満々だ。

「良し、行くぞ」

「応っ!」

皆が唱和する。既に、どの通路から向かえばいいかは、皆頭に入れて貰っている。先頭に秀一が立ち、歩き始める。ヨスガが大軍勢を布陣しているのはほぼ確実だ。シジマの攻撃がそれを何処まで削いでくれるかが、突破戦の難度を左右する。

階層を上がる度に、満ちてくる戦意が強くなってきた。そして、ふと、通路を曲がった瞬間。無数の矢が飛来して、秀一は飛び下がる。壁に突き刺さった何本かの巨大な矢が、震動し続けていた。

曲がり角の奥、通路には、分厚い敵陣があった。数は最低でも数百はいる。奥には、それ以上の数が控えているだろう。しかも、陣を組んでいる鬼神達は、誰も彼もが百戦錬磨の強者達であろう。天井近くには多くの天使も滞空していて、この時を今か今かと待ちわびていたのは確実であった。

「かかれっ! 突撃!」

ヨスガ軍の指揮官が怒号を張り上げ、一斉に鬼神達が攻め込んでくる。秀一は両腕から刃を出すと、頷く。

一番最初に前に出たのは、マダである。飛び掛かってきた鬼神の顔面を拳で砕くと、次の鬼神に蹴りを見舞い、双掌打で数騎を同時に吹き飛ばす。リコが続けて宙に躍り出で、刃を振るって数騎の鬼神を斬り伏せた。フォルネウスが冷気の息を吹き出し、ニーズヘッグが頭を下げて突撃を開始。巨体にものを言わせて、突破口を開き始める。秀一は淡々と前に進みながら、斬りかかってくる相手だけを切り伏せ、打ち倒す。徐々に進んでいく。敵も戦意が衰える様子はなく、倒されても倒されても増援がわき出してきた。

敵もやられっぱなしではない。無数の矢を放ち、ニーズヘッグの体に突き立つ。マダが天使達が放ったいかづちに体を灼かれ、鬱陶しそうに叩きつけられた火球を払う。秀一も、何度か炎に包まれて、そのたびに払いのけた。徐々に、敵の攻撃が激しくなってくる。

棍を振るって天使の頭部を砕いたクロトに、秀一は炎の息を吐いて、敵の火術を相殺しつつ聞く。

「シジマの軍勢も、総攻撃を開始した頃か」

「多分、少し前から攻撃はしているはずだ。 だが、此方に援軍が目立った形で来るとは、思わない方が良い」

「最初からそれは期待していない」

跳躍して、天井近くから火球を何発か、突入してくる敵軍に叩き込む。爆発が連鎖し、着地した時には負傷兵を引きずっていく敵の姿が見えた。無数の矢が飛んでくる。リコがマダと息を合わせて、迎撃に掛かった。蹴りと拳が、風圧の壁を作り出し、矢がまとめてたたき落とされる。爆発的な風の刃に巻き込まれた天使が、何騎か落ちた。

次々と押し寄せる敵。秀一は目前の敵を蹴り砕きながら、指示を飛ばす。

「クロト、後衛に。 サルタヒコ、前に。 マダ、下がれ」

「応。 もうちっとはいけるが、良いんだな」

「ああ、早めに入れ替えながら、敵をたたいていくぞ」

まだ敵は上級の悪魔が顔を見せていない。此処は消耗を最小限に抑えながら、進むべきだ。

敵の陣地に到達。柵を組み、簡単なバリケードで武装しているが、打ち砕くのは難しくなかった。ニーズヘッグが最初に柵を押し倒し、それから皆で殴り込む。攻城用クロスボウを装備して、連続して大型の矢を放ってきていた櫓がフォルネウスの冷気の息で凍り付き、マダの拳で砕かれると、一気に抵抗は弱まっていった。乱戦の中、剣を抜いて名乗り出た敵の指揮官と、真っ正面から相対する。戦力を削ることだけが目的で配置された事は分かっているだろうに、それでも責務をきちんと全うした男だ。正面から戦わないのは失礼に当たる。

気合いと共に振り下ろされた剣を、紙一重でかわしつつ、腹に拳を叩き込む。数歩下がった後、倒れ込む鬼神。衝撃波を拳と同時に叩き込んだから、体内は一瞬でミンチだ。マガツヒに変わっていく鬼神は、最後に満足そうな笑みを浮かべていた。

「後ろにも気をつけろ」

残存勢力が後退していく中、秀一は振り返る。地雷や、それに類する術に対する警戒も必要だ。そう思っていた矢先であった。前方から水音。まだ敵の残存勢力も残っているというのに。

濁流が、通路をまるごと押し流さんばかりの勢いで迫ってくる。前に出たフォルネウス。他に方法がない。

「全ては塞ぐな!」

「わかっちょる! ヨスガの生き残った奴! 死にたくなければ、通路の左へそれるんじゃ!」

通路の右に、少しだけ穴を開ける形で、永久氷壁を張る。それしかこの濁流を防ぎ、なおかつ先へ進む方法がない。急いで下がりながら、秀一はフォルネウスの方を見た。必死に詠唱しているが、間に合うか。逃げようとしている敵の天使が、もろに濁流に巻き込まれた。ニーズヘッグが、今にも追いつかれそうである。カズコが、フードを被り直しているのが見えた。

「もうちょっとだ! 我慢しろ!」

「ランボウナヤリカタダ」

愚痴をニーズヘッグが言う。もう体の半分は、濁流に呑み込まれている。アメノウズメがニーズヘッグに飛び乗った。まだか。詠唱を続けるフォルネウス自身が、濁流にのまれかけた、そのとき。

永久氷壁の術式が、発動する。

氷が、空間を凍らせていく。まるで見えないガラスの壁を、氷の蔦が伝っていくような光景であった。

鉄砲水さながらの勢いで迫っていた水が、不意にせき止められたため、強烈な音を立てた。確かハンマー音という奴だ。穴を僅かに開けている右側から、それこそ全てを粉砕するような勢いで水が出続ける。フォルネウスは巧く氷を制御して、味方にしぶきが行かないように調整しているが、それでも大量の水が掛かった。何とか逃げ延びた天使や鬼神も、生唾を飲み込んでそれを見ている。マダが、苦笑しながら言った。

「さて、どうする? まだ殺るか? 俺はどっちでもかまわねえけどな」

流石にうなだれる彼らを、秀一は追い討つ気にはなれなかった。

ほどなく、濁流が止む。それに合わせて、生き残った敵兵は四散。殆どの者は、下層へ消えていった。流石に、ヨスガに愛想を尽かしたのだろうか。

「しっかし、手段をえらばねえなあ、バアルの奴。 恐ろしい奴だぜ」

「バアルは、千晶は頭が良い。 一番合理的だと思える方法で、此方の戦力を効率よく削るつもりなんだろう」

「だけど、こんな事をしていたら、みんな離れていくんじゃないの?」

アメノウズメが言った言葉が、逃げ散った悪魔達の姿と重なる。

もしも千晶と戦う前にヨスガが四散してくれれば、秀一としては非常に楽なのだが、そう簡単にはいかないだろう。それに千晶のことだ。他者の心は読めず制御できずとしても、それに代わる武器くらいは用意しているに違いない。もしそうでないとしても、何か考えはあるのだろう。

水浸しの床を踏んで、再び歩き始める。服の裾をカズコが絞っていた。ニーズヘッグは尻尾をぶるぶると振るって、水を落としている。クロトは自慢の一張羅がぐしょぐしょに濡れて不機嫌そうである。濡れてボディラインが露わになっているが、年相応の貧弱さで、特筆すべき事は何もない。

「この水、何だろ」

「多分、術で造ったモノッスよ。 水を使える強力な悪魔は何騎かいたし」

「見つけたら、ぶっ殺してやる」

物騒な事を言うクロト。髪の毛の水を絞っていたリコが、苦笑していた。

体勢はすぐに立て直された。秀一が歩き始め、すぐに皆が後を追う。まだまだバアルは遠い。

 

カエデが前線に出ると、俄然士気が上がった。護衛の堕天使達はそれこそ気が気ではない様子であったが。

それに対して、敵将毘沙門天は動きが鈍い。専守防衛を命じられているのだろうが、それが故に却って逆手を取るには到らず、一気に突き崩す手もなかなか打てなかった。頑丈な敵陣地に、激しい攻撃を加え続ける味方を少し後方で見ながら、カエデは腕組みする。副官が手をかざして戦闘の様子を見ながら言った。

「敵は動きが鈍いですね。 本来なら、味方が此処まで一方的に押せるとは思えないのですが」

「正面攻撃三倍則といいますからね。 しかも、空軍以外に弱体化の要素が敵には今までありません。 確かに、何かあると考えるのが自然です。 後方に、奇襲への警戒を厳重にするように伝達してください」

「申し上げます! モト将軍が担当するA19区画で、敵将青龍が現れました! 今、モト将軍と激しい一騎打ちが行われており、進軍が停滞しております!」

火球が飛んできたので、シールドではじき返す。丁度カエデがいるこのB122地点も、敵が攻勢に出ている。喚声を上げて突っ込んできた敵勢を、親衛隊の堕天使達がスクラムを組んで押し返す。アメリカンフットボールさながらの、激しい揉み合いぶつかり合いが開始される。

乱戦を押しのけ、至近にまで迫ってきた鬼神がいたので、雷撃の術を浴びせる。短時間詠唱の術だが、雑兵程度ならそれで充分。竿立ちになった鬼神が、絶叫。炭になって崩れ落ちた。

じりじりと押し返す。後方から増援を投入して、攻勢に出た敵勢を効率よく削り取る。気を見計らって、カエデは詠唱、印を切る。敵陣の中央に、メギドラを叩き込んだ。閃光が炸裂し、爆圧が辺りを蹂躙。吹っ飛んだ鬼神が、悲鳴を上げながらカエデのシールドに撃ち当たり、マガツヒになって消えていった。

爆風が収まると、陣に大穴を開けられた敵軍が、引き上げていくところだった。追撃は控えさせる。その代わりに陣をしっかり固め、着実に前進するように指示。ざっと見たところ、今の戦いで、味方よりも多く敵に被害が出た。損害は小さくないが、むしろこれは好機だ。

伝令が飛び込んできた。副官が差し出したマガツヒの瓶を傾けながら、カエデは報告を聞いた。

「ニュクス将軍が率いるC77地区攻略部隊も、激しい反撃を受けている模様です! ニュクス将軍が陣頭指揮を執り、交戦中!」

「お疲れ様です。 第六師団を、C77地点に向かわせてください。 ブリュンヒルド将軍に、H71地点を圧迫する指示を出してください」

指示を飛ばし終えると、カエデは腕組みした。常識的な補強策を今は指示したが、失敗したかと思ったのだ。此処はむしろ、一度後退する振りをして、敵を引きずり出すのが吉か。元々数は此方が多く、総合力でも上回っている。それならば、敢えて敵に勝利を錯覚させ、消耗戦に持ち込んだ方がいい。その方が、人修羅に掛かる圧力を減らすことだって出来る。

だが、どうも解せない。

バアルが何を考えているか、読み切れない。単純に人修羅を倒すことだけを考えているのならいい。何かとんでもない策を練っているとすると、対抗策があるのか不安になる。守護が此方にはいないのだ。バアルが創世とやらを成し遂げてしまったら終わりだ。

進軍が再開される。跨っている蛇の悪魔が、鎌首をもたげた。カエデもすぐにその気配を感じる。副官が、常識的な報告をした。

「前に、強い悪魔の気配があります。 味方の攻勢が、はね除けられています」

「毘沙門天将軍ですか?」

「恐らくは。 各戦線で打撃が大きいので、しびれを切らして出てきたのでしょうか」

「そうやって敵を侮るのは危険です。 ましてや、毘沙門天将軍はマントラ軍初期からの古豪。 油断せず、動向を見守ってください」

大型の攻撃術を準備する。詠唱を開始し始めたカエデの元に、激しくなる前方の戦闘音が届く。どうやらまた兵を揃えての反撃に出てきたか。いや、このタイミングは、もしかして。いずれにしても、毘沙門天が来るとなると、かなりの死闘を覚悟しなければならないだろう。

指示を飛ばしかけた、その矢先であった。

「後方、J22地点に敵影! オルトロス率いる、特務部隊かと思われます!」

「やはり来ましたか。 第四師団を後退させて、対応させてください」

ついに来た。J22地点は、今カエデがいる地点から見て、もろに退路につながっている。其処を抑えられると、かなり危険だ。攻勢に出ている味方の一部を下がらせてでも、撃退しなければ危ない。幸いにも、オルトロスはさほど戦闘能力が高くない。配下の特務部隊も、情報収集が中心の存在で、突破力は高くない。だが、迂回路を使って、その後に大軍が続く可能性がある。早めに撃退しないと危ない。

徐々に、毘沙門天の怒号が近付いてくる。此方の戦力を削るために、攻勢に出たと言う訳だ。火球が飛んできて、シールドに弾かれる。味方に動揺が出る前に、此処はさっさと決めなければならない。

「味方を陣に収容してください。 儀式攻撃魔法と、シールドを準備」

「はっ! 対上級悪魔シールド展開準備!」

サマエルとの死闘で致命傷を受けたトールを相手にする事は想定していなかったが、それでもこれくらいの準備はしている。術を得意とする悪魔達が前に出る。さっと引き上げてきた部下達が、バリケードの内側へ逃げ込んできた。カエデは中空で戦況を見ながら、毘沙門天の姿を確認していた。

毘沙門天は青ざめていた。その上、かなり無茶な戦いを繰り広げていて、まるで初陣の兵士のようである。これは、ひょっとすると。

先手を打たれているのではない。単純に、守るだけにするようにと命じられている毘沙門天が反発し、独力だけで勝とうとした結果、相互に勝手な連携が生じたのではないのだろうか。

雄叫びを上げて、毘沙門天が突っ込んできた。あわせて低空飛行しながら、天使の一軍が突撃してくる。振り下ろされた剣が、シールドを強打。十数体の悪魔が展開したシールドが、負荷に悲鳴を上げた。流石に、ヨスガを代表する将だ。カエデ自身が、シールドの術を展開。内側から、シールドを補強する。

毘沙門天と目があう。やはり、様子がおかしい。完全に自棄になっているとしか思えない。印を切り終える。群がる敵も、シールドを準備しているのが見えた。毘沙門天が指示したのではない。副官が、此方の様子を見て、慌てて対応したのだ。それくらい、戦況が混乱している。

そして、先手をとった以上、此方の術の展開が速い。逃げ腰になる部下には目もくれず、毘沙門天が第二撃をシールドに見舞った。トールの時のように、一撃で粉砕されるようなことはないが、それでもシールドが貫通される寸前にまで打撃を受ける。だが、心理的な圧迫感は、あまりない。

「毘沙門天将軍。 名高い貴方ともあろう者が、どうしたのですか」

「五月蠅い!」

どちらかと言えばヨスガでは理性的な男だったのに、帰ってきたのは怒号だった。カエデも、戦いの中にいるのだから、あまり容赦している意味がない。指を鳴らす。逃げ出す敵。しかし、間に合わない。

十騎以上の悪魔が、長時間かけて詠唱した儀式魔法が、通路に炸裂。通路そのものが消し飛ぶような爆発の中、シールドが負荷に悲鳴を上げた。

しばし時が過ぎて。数度の爆発が収まって。煙が晴れてくると、通路には、膨大なマガツヒが漂っていた。無理に攻勢に出ていたヨスガの軍勢は壊滅していたのだ。通路で儀式攻撃魔法が炸裂したこともあり、しかもシールドは間に合わなかった。この状況から言って、軽く千騎以上は消し飛んだだろう。

煙が晴れてくる。見えてきたのは、全身から煙を上げながら、びっこを引いて撤退していく毘沙門天だった。生き残りも、僅かにいるようである。耳を押さえていた副官が、カエデを見る。

「如何、いたしますか」

「今は後方の安全を確保します。 第四師団の支援に、一個連隊を回してください。 此方は陣の守りを強化して、敵の攻勢をはね除けてから反撃に出ます」

ほどなく、ニュクスが敵の攻勢を撃退したという報告が入る。続けてモトも、青龍と引き分けて、再び進軍を開始したという連絡があった。後は人修羅だ。今回、敵が攻勢に出たことで、彼の負担は多少なりとも小さくなったはず。

第四師団が、オルトロスの部隊を撃退して、安全を確保した。後方に厳重な警戒を続けるように再び連絡した後、軍を再編成。再び進撃を開始する。

今度は、攻勢に出るのは、此方の番だった。

 

2、その戦いは

 

ワインを傾けているバアルの下へ、また報告が上がってくる。味方が不利だというものであった。もう何度目か分からない。

側に控えていた持国天が、伝令を下がらせる。ちらりとバアルを見る持国天。幸いにも、気にもしていない様子であった。

毘沙門天が率いる中軍は、敵将カエデの巧みな用兵によって戦力を削り取られ、ついに三層を後退して、なおも攻勢にさらされつつある。他の部隊も似たような状況であり、シジマの前進は止まらない。人修羅にだけ注力しろとは言われているが、このままでは此処までシジマの軍勢が攻め込んでくる可能性さえある。幾十にも展開している防御陣だが、確実に引きはがされつつあり、このままでは完全崩壊も時間の問題かと思われた。バアルが前線に出れば、話は別になるのだが。

しかし、バアルに意見できる者などいない。かって、ベルフェゴールが生きていた時でさえ、である。ベルフェゴールはバアルに直言が許されてはいたが、しかし彼女の進言が取り入れられたことなど無かった。ましてや、今は。

西王母が部屋に飛び込んできた。顔が青ざめている。ワインを傾けているバアルを見て、さっと床に拝礼する。

「バアル様」

「何用か」

「水の罠に続き、火の罠も破られました。 地雷による効果はあり、人修羅は進撃を一時停止して、回復に努めておりますが。 ……味方にも、多数の被害が出ております」

「そうか。 そのまま攻撃を続けよ」

バアルは顔色を変えるどころか、眉一つ動かさなかった。人修羅は最短距離で、この部屋に迫っている。

マントラ軍から受け継いだ財宝を、山と積み上げた豪奢なこの部屋は、バアルの性格を現しているように、燦然と輝いている。玉座はゴズテンノウが愛用していたものを改装しているし、床の絨毯もそうだ。側で大きな芭蕉の団扇を仰いでいる悪魔が、同輩と交代した。それを横目で見ながら、西王母は続ける。

「あの、バアル様。 味方への被害が大きすぎるような気がいたします。 他に、人修羅の戦力を削る方法は無かったのでしょうか」

「ならば代案を示せ。 もしくは、余が策を立てた時に、何故代案を示さなかった」

返す言葉がないらしい西王母に、冷たい目をバアルは向け続けている。確かにバアルは少し前、会議を招集して意見を求めていた。其処でバアルが言った苛烈な意見に、対抗しようという者はいなかったのだ。

結果、バアルの策は強行された。今後も、更に大きな被害が出続けるのは間違いない。持国天の部下も、前線に多くが出ている。彼らの一体何騎が、生き残れるのか。悲しいが、逆らう術は無い。

恐縮して床に這い蹲っている西王母に、再びバアルは話し掛ける。まるで、ものに向けるように、その視線は冷え切っていた。

「人修羅は、何処まで来ている」

「土の罠の手前まで来ています。 味方第十三連隊が展開しておりますが、しかし敵の攻勢は鋭く、支えきれません。 そろそろ土の罠に踏み込む頃かと」

「ならば、今度こそ奴を仕留めよ。 仕留めたら、体の一部でも良いから、余の前に引きずって参れ」

「御意」

西王母が下がりかける。だがそれを制止するように、玉座の側に控えていたミズチが、鎌首をもたげた。水の罠は西王母とこの龍が作り上げたものだ。造る時に、ミズチは部下を罠に巻き込み押し流すことに、血涙を流しそうな表情をしていた。

「バアル様、いっそのこと、我々で人修羅を迎え撃ちましょうか。 西王母にこの儂、それに持国天が合わされば、勝てるとは言わずとも、確実にそれなりの打撃を与えることはできましょう」

「ならぬ。 お前達は人修羅の戦力を削り取るだけ削り取ってから出撃せよ。 今は早計だ」

「しかし、このままでは、部下が多く無駄死にすることになります故」

ミズチの言葉には痛恨の後悔が籠もっている。戦いが嫌いな持国天には、彼の悲しみが分かる。

結局闇に生きるしかない存在だと、ミズチは時々自嘲していた。

持国天も、結局戦いに興味を持てず、音楽で味方を慰めることしか出来ない。そんな自分が歯がゆい。半端者同士、辛い気持ちはよく分かるのだ。

「ふむ、罠に部下を巻き込むのが嫌か、ミズチよ」

「御意」

「それならば、現在手すきの第二、第三師団を率いて、人修羅を迎撃するか。 防衛部隊は毘沙門天に任せてある。 それくらいは出来よう」

ミズチの顔がこわばるのが分かった。もし、それをやれば。罠とは比較にならないほどの戦力を、人修羅に磨り潰されることになるだろう。最終的には、陣容にも隙が出来て、確実にシジマに横やりを入れられる。そして兵力が削り取られつつある現状、もし消耗戦に持ち込まれたら、負ける。

負けるかも知れない、ではない。負けるのだ。

ノアを倒した人修羅は、今やトールと同等か、それ以上の力量に成長している。しかも此方の最大戦力であるトールは今戦力として計算できる状態ではない。しかも人修羅の配下には、各組織の幹部並の使い手が大勢揃っている状況だ。生半可な戦力では、迎撃は出来ない。

だからこそバアルに出て欲しいところなのだが。しかし、バアルは人修羅の戦力を削るだけ削ってから、自分が出る気でいる。

「どうした、応えよ」

「……分かりました。 バアル様の御意に従いまする」

肩を落として、ミズチが部屋を出て行く。西王母も、それに付き添うようにして出て行った。

「次は、何を奏でましょうか」

「ふむ、そうさな。 バッハにせよ」

「御意」

荘厳な曲が流れる中、堅固な防御陣地が、次々に陥落していく。シジマ側の備えはまだ良い。さながら蜂の巣のように徹底的に作り上げられた防御陣は、一朝一夕で攻略できるような代物ではない。だが、人修羅の方は違う。地獄の歴戦をくぐり抜けてきた人修羅に加え、各組織の幹部並の悪魔数騎と、高い対応能力が備わっている。

ほどなく、土の罠が敷設された場所に、人修羅が踏み込んだという報告があった。さっき報告があってから、二時間と経っていない。四個の防御陣地が、この短期間に蹂躙されたと言うことになる。

バアルの余裕は崩れない。しかし、持国天は、バッハを弾き鳴らしながら、思った。

恐らく、この戦いは負ける。

バアルが、無言でワインを傾けた。神像さながらのその顔には、表情は全く読み取れなかった。

 

跳躍した秀一が、数本の矢を切り払いつつ、火球を敵陣に吹き付ける。火に包まれて倒れる鬼神を飛び越えて、天使が剣を振りかざして躍り出た。剣を振るう天使に、腕の刃を振るい上げる。交錯。

肩から僅かに血がしぶく。地面に激突した天使は、マガツヒになって消えていった。

床に手を突き、雷撃を放つ。床を天井を這い進んだ雷撃が、数体の鬼神の全身をはい回り、瞬時に灰にした。倒れる鬼神を踏み越えて、更に進む。

マダが数騎の天使を掴んで、壁に叩きつけて押しつぶす。その隣では、数倍の体重がありそうな相手を、リコが一息に蹴り倒し、頭部を砕いていた。

駆逐戦が終了しつつある。この敵陣も、間もなく落ちる。敵の戦意は高く、増援は次々に現れるが、上級悪魔は意外と少ない。三メートルほどある金棒を持って、体格のいい鬼神が陣に踏み込んできた。柵を面倒くさそうに退けて、丸太のように太い腕を振り回す。肌は真っ赤で、昔話に出てくる鬼を思わせる姿である。ただし、腕は四本。恐らくは、仏教の戦闘神だろう。多腕という姿は、かって見たことがある水天に似ている。だが、性格は正反対に見えた。

彼は傷ついていた。肩と腹に、痛々しい凍傷がある。陣地に突入する際に、ニーズヘッグがばらまいた冷気の息を浴びたのだろう。

「人修羅ってのは、どいつだ!」

「俺だ」

「そうかっ! では死ねッ!」

名乗る気もないらしく、棍棒を高々と振り上げる鬼神。粗暴な言動だが、秀一は見ていた。

この鬼神は、負傷者を逃がすために、最後まで踏みとどまっていた。恐ろしげな容姿だが、責任感は強い。倒すのは忍びないが、しかし。今は、手加減している余裕がない。振り下ろされる棍棒が、床をしたたかに叩き、罅を入れた。かなり速い。横っ飛びに避けたところを、もう二本の腕が動く。掌の中に隠していたらしい手裏剣を投擲してきて、それを弾く間に接近してきた。本命らしい、横殴りの一撃。拳を振り下ろし、真っ正面から迎撃。

地面に、亀裂が走った。

鬼神が、顔を怒りと絶望に歪ませる。細身の秀一が見せたパワーは、常識外のものだったからだ。アーリマンとノアのマガツヒを喰らっているのだ。これくらいのことは出来る。棍棒をはじき返す。

「オオッ!」

それでも、気合いと共に蹴りを繰り出してくる鬼神。紙一重でかわしながら跳躍した秀一は、頸動脈へ一閃、刃を走らせる。大量の鮮血がばらまかれ、白目を剥いた鬼神は地面に倒れ込み、動かなくなった。

最初の交錯で、二の腕に、僅かに棍棒がかすっていた。鮮血が噴き出していたが、やがて止まる。それを見て、最後まで踏みとどまっていた悪魔達が、逃げに転じる。追わない。正確には、追う必要もない。

周囲には、バリケードの残骸や、柵の燃えかすが散らばっていた。陣屋の名残もある。どれにも悪魔の気配はなく、マダが歎息しながらどっかと座り込んだ。体中に傷があるが、すぐには回復も出来ない。

進撃速度は、速い。しかしそれは、必ずしも楽勝で進めている事を意味しない。人修羅でさえ、かなり手傷を受けているのだ。

「はあ。 しんどい戦いだな」

「ああ、千晶は部下を使い殺しにするのに躊躇がない。 このまま進むと、多分、また大規模な罠が仕掛けてあるだろうな」

水攻めの後は核地雷級の大規模な爆発物。そしてついさっき突破したのは、大量に押し寄せてくる土砂だった。単純な罠だが、規模が桁違いであり、防ぐのに随分難儀した。折角蓄えていたヤヒロヒモロギのマガツヒを、また少し使わなければ間に合わなかった。フォルネウスが特に消耗が大きく、かなりへばっていた。さっきの乱戦でも、中衛で支援を続けていたが、かなり動きが鈍い。

「厄介な奴だぜ。 人間だった時も、やっぱり性格は悪かったのか?」

「性格が悪いと言うよりも、孤独な奴だった。 家族に愛情をもらえなくて、俺達にさえ時々本心を見せなかった。 だから、心の隙間を埋めるために、強くなっていった感じだったな」

千晶も、根本的な意味では、社会に排斥された者だった。強すぎて恐怖とともに排斥されたと言う点で、秀一や勇とは違ったが。

「しかし、また罠があると思うと、気が重いのう」

「そのためにも、万全の態勢を、今の内に造っておこう」

クロトが無言で走り、回復術を掛けて回る。例によって、自分は最後で良いと指示をして、他の者を先に回復して貰う。今回もニーズヘッグの負傷が酷く、攻城用クロスボウの矢を一本背中近くに受けていた。既にマダが抜いていたが、傷跡は大きく、回復術が得意なクロトでも難儀していた。

強い光が、戦場の跡地を照らす。クロトが額から汗を流しながら、横たわっているニーズヘッグの傷を一つずつ直していく。しばらくは動けない。秀一も壁に背中を預けると、回復と休憩を始める皆を見やる。あと少し。あと少しではあるが、それが途轍もなく遠く思える。

今だからこそに思う。秀一は、一緒に来た誰をも失いたくない。それは我が儘だとは分かっている。創世に優先することも出来ない。

だから、秀一に出来るベストを尽くす。最良の選択肢を重ねていけば、きっと皆生き残ることが出来る。そうして、自分を勇気づける。

目をつぶって、しばしリラックスする。クロトが、歩み寄ってきたのが分かった。他の皆が、回復し終わったらしい。傷は治っても、体力までは回復できないものだ。あまり時間は掛けていられないのが、惜しい。

「傷見せろ、人修羅」

「皆は終わったのか」

「ああ。 一応の手当は終わってる。 だけどな、根本的な体力の消耗が大きい。 カズコがマガツヒを出してくれているが、それでも限界があるからな」

「しかし、撤退している時間もない。 苦しいと思うが、耐えてくれ」

もしじっくり休むとしたら、シジマが息切れして、攻勢が止んだ時くらいだろう。時々クロトの所に来ているシジマの伝令の話は又聞きしているが、今のところかなり順調に攻撃を進めているらしく、秀一だけ足を止めるのも難しい。何より、創世の仕組みがまだはっきりしていない部分もあり、あまりもたついてはいられない。だいたい、ここは念入りに千晶が作り上げた要塞地帯の中だ。どんな罠があるか分からない。

唯一の救いは、敵に迷いがあることだ。大規模な罠の中に、明らかに味方を巻き込んでいることに、気付いているのだろう。力を信奉するヨスガとはいえ、同胞を巻き込むことに躊躇する者は多いと言うことだ。結局の所、究極的な意味でヨスガを体現しているのは千晶だけなのかも知れない。

クロトの回復術が、全身を包んでいく。軟らかくて、温かい光だ。目を閉じて、アーリマンとノアのマガツヒを再び整理に掛かる。一度に得られた知識が膨大すぎて、今だ整理し切れていない。サナがまだ目覚めない分、自分が補わなければならなかった。

「痛いところはないか」

「大丈夫だ」

クロトが少し安心した様子で歎息した。話してみて分かったが、この子は善良だ。多分アサクサにいた時に、カズコの影響を受けたのだろう。強い者には態度を硬化させるが、弱い者にはとても優しく接するカズコには、クロトも心を許している。見ていると、それがはっきり分かる。

かってとても好戦的だったというクロトは、強い憂いを込めて言う。

「まだ、戦いは続くよな」

「そうだな。 流石に、戦いだけで成り立っているこの世界も、そろそろ終わりは近いだろう。 だが、俺は、その最後まで戦わなければならない。 皆には、それにつきあって貰わなければならないな」

通路の奥には、沈黙がある。これから押していけば、それもすぐに消え去るだろう。

もう一度、秀一はサナの繭を見た。最初からいる仲間は、いまだ目覚める気配を見せない。

「サナさん、目覚めないッスね」

「ああ、心配だな」

立ち上がると、皆に前進を指示。そろそろ、前線を終えて、敵の中枢に飛び込む事になってくる。秀一がムスビの指揮官だったら、波状攻撃を仕掛けて、戦力を削りに掛かるだろう。

その予想は当たった。

T字路に突き当たる。その左右から、膨大な気配を感じる。数千、下手をすると万に達するかも知れない。ついに、敵の中枢部まで辿り着いたことを、秀一は悟った。

「此処が正念場だな、おい」

流石に青ざめながらマダが言う。更に、後方からも気配。ほぼ同数の敵が、後方から迫りつつある。どう迂回したかは分からない。だが、兎に角今は現実を見つめる必要がある。

強い気配を感じるのは、前方右。そちらへ強行突破を計るしかない。

「ニーズヘッグ、フォルネウスは後方を塞いでくれ。 氷壁を展開して、少しでも時間稼ぎをして欲しい」

「心得たわい」

「アメノウズメ、神楽舞を頼む。 此処からは、バアルの所まで全力で駆け抜ける」

「大丈夫? バアルは今までの守護と同じか、それ以上に強いのでしょう?」

大丈夫だと応える。というよりも、余力を温存していたら、バアルの所に辿り着くことさえ出来ないだろう。

槍や刀の光をひらめかせて、敵勢が接近してくる。見えているだけでも凄まじいが、周囲に充満する気配からして、やはり数は万近いだろう。秀一は後方が氷壁でふさがれたのを確認すると、T字路に躍り出る。右へ曲がる。無数の敵がひしめいているのが見えた。マダとリコが、その背中を守るべく飛び出した。サルタヒコは、秀一の補助をすべく、前に出てくる。

アメノウズメが舞い始める。同時に、敵が一斉に矢を放った。通路を埋め尽くすような数の矢が、唸りを上げて迫ってくる。しかも、前後から同時に、だ。

サルタヒコが剣を振るって、衝撃波を放つ。矢の殆どが撃ち落とされるが、何本かは体を掠めた。第二射。飛び出したクロトが、眉間に刺さりそうになった矢を撃ち落とす。時間は出来た。合図を受けて、二人が飛び下がる。床を踏みしめ、呼吸を整えて。秀一が全力で至高の魔弾を撃ち放つ。前方が光に包まれ、一瞬置いて爆圧が当たりを蹂躙した。数歩分ずり下がるが、体勢は崩さない。後方ではマダとリコが、それぞれ風圧で矢をたたき落としているようだが、構っている暇がない。どたどたと通路に走り込んでくるニーズヘッグの気配。フォルネウスが、焦った声を挙げる。

「まずいぞ秀一ちゃん! 敵にかなり強いのがいるぞ! 氷壁が、高速で侵食されておる!」

「全力で前進する。 後方は、何としてでも防いでくれ」

ヤヒロヒモロギのマガツヒをまた口に入れて、力を無理に補給。全身が熱くなってきていた。

今の一撃で数百騎は蒸発したはずだが、しかし敵は恐れることなく、次々に現れて突進してくる。さて、どこまで行けるか。シジマが支援部隊を出してくれれば、少しは楽になるのだが、期待しない方が良いだろう。

マダとリコが少しずつ下がる。T字路の一方に、全員が入り込んだのを確認してから、フォルネウスが氷壁を再展開する。後ろから破り続けられているとはいえ、これで少しは時間が稼げる。秀一は振り返ると、再び前方から現れる敵の気配を感じながら、フォルネウスに叫ぶ。

「後方は任せる! 氷壁を破られそうになったら、すぐに言ってくれ! カズコはフォルネウスにマガツヒを! カザンは、何があってもカズコを守り切れ!」

「応っ! なんとか持ちこたえてみせるわい!」

「分かった! 人修羅殿、前は任せる!」

「よし。 他は全員で前方の敵に注力! 突破する!」

斬る。進み、斬り伏せる。飛んでくる矢を避け、斬り、弾き。そして更に前に進む。当たりに満ち始める膨大なマガツヒ。その全てが、人間を核として、この世界に生きてきた悪魔達の残骸。天井近くまで飛び、火球を連射。着地した時、爆発に吹き飛ばされた悪魔の亡骸が飛んできた。

進む。ただ進む。まだ、バアルは遠い。

 

第六通路が突破された。報告を聞いていたミズチは舌打ちして、味方の増援部隊を投入するように、伝令に指示。人修羅は確実に消耗していると言うが、あれだけの数の悪魔を叩きつけて、倒せない事自体があまりにも凄まじい。

既に戦場は、かなり近付きつつある。追撃部隊を率いている西王母も、追い切れていない。不安げに顔を見合わせる味方を叱咤して、気を引き締めさせる。だが、ミズチ自身も、迷いと不安を押し殺せず、何度も尻尾を床にこすりつけていた。

一体、この戦いの意義は何だろう。

決まっている。ヨスガのコトワリで、創世するためだ。

シジマの敗残兵と人修羅を屠ることによって、得られるのは力の世界。そして其処では、力だけが評価される。家柄もコネクションも関係ない。努力が正当に評価され、弱者は社会の底辺を這いずり、力あるものの楽園がやってくるのだ。

だが、ひょっとして。ヨスガの思想とは、ミズチの考えていたものとは微妙に違うのではないかと、今は思え始めていた。使い殺しにされていく部下を見ていると、その疑念が更に大きくなってくる。

ましてや、カブキチョウでミズチは虐殺されるマネカタを見て、仏心も感じてしまっていた。今は、迷いが大きくなりすぎて、犯意さえ芽生えつつある。

「ミズチ将軍」

「どうした」

「ヨスガの世界とは、どのようなものなのでしょうか。 私には、分からなくなってきました」

そう言ったのは、近衛として着けられている鬼神だ。仏教系の神である天の一人だが、名前は忘れた。生真面目な人柄で、大した才能はないが、歴戦を生き残ることで力を伸ばしてきた。だから近衛として、今この場にいる。

「正直な話をすると、儂にも分からなくなりつつある。 ひょっとするとバアル様が目指す所は、もっと極端な、究極的な個体しか生き残れぬ世界なのかも知れんな」

「そんな。 それでは、バアル様のためだけにある世界ではありませんか」

「……」

敢えて応えず、ミズチは会話を切った。水天はどう思っているのだろうかと、ふと感じる。同じように力を強めてきた水天は、今人修羅迎撃部隊の指揮を執っている。ただ、少し前から連絡が取れないのが不安だ。乱戦に巻き込まれているのだと、信じたい所だが。

水天は腐れ縁が続いている。反目したこともあったが、今ではこの地獄の時代を生き残ってきたことでシンパシィもある。だから、次に伝令が持ってきた情報には、文字通り飛び上がった。

「水天将軍より連絡です」

「どうした!」

「水天将軍の指揮する第四親衛連隊、壊滅しました! ……くっ。 水天将軍のお言葉をお伝えします。 今より我は、後方の部隊と合流し、人修羅に決戦を挑む! ……との事です」

「なんと! 早まるなと伝えよ!」

しかし、もう遅いのは明らかだった。ぎりぎりと歯を噛む内に、伝令が飛んできた。悲報であることは、聞かずとも分かった。

「水天将軍、戦死! 人修羅と一騎討ちの果ての、見事な討ち死にでありました!」

司令部に衝撃が走る。カブキチョウを防衛し続け、スペクターの襲撃を生き抜き、それ以降も中堅の将官として渋く堅実に軍を支え続けた水天の死には、誰もが戦慄せざるを得なかった。

「伝令! ただちにバアル様の出陣をご依頼しろ!」

「し、しかし、これでは」

「我らは駒ではないッ! もしバアル様が、自分のためだけの世界をお作りになるというのなら、我らにも考えがある!」

「まて、ミズチ。 早まるな」

不意に、場に割り込んでくる、重厚なる声。司令部の皆が注目する中、現れる血みどろの巨体。血の臭いだけではない。歴戦のミズチには分かる。明らかな死の臭いが、巨体からは漂っていた。

「トール、殿」

「俺が出る」

「しかし、そのようなお体で」

「どのみち、もう俺は長くは保たん。 それならば、せめて生の締めくくりとして、最強の敵手と戦いたい」

ミズチは戦慄する。トールが、そうまで言うほどの相手に、人修羅は成長しているというのか。そして、トールの死が近いことが、ありありと思い知らされる。常に力のコトワリの先頭に立ち続けていたこの最強の悪魔が、いよいよその最期を向かえようとしている事を。

「今、奴は何処にいる」

「水天将軍の軍が壊滅したところです。 今だったら、此処から七層ほど下の部屋で、戦闘をしている所でしょう」

「そうか。 ならば、今から向かえば六層下だな。 その周辺にいる部隊を下がらせろ」

一も二もない。すぐに部隊を動かし始める周囲の指揮官達を見つめながら、ミズチは言った。

「トール殿」

「何だ」

「一体、ヨスガのコトワリとは何なのでしょうか。 バアル様だけが生き残るために、存在するコトワリなのでしょうか」

振り返るトールの瞳には、今まで以上に強い光が宿っていた。体は死につつあるが、心はまだ折れていないことが、よく分かる。ミズチは、最強の戦士が、そう言われる所以を、知った気がした。

トールはしばし考えて込んでいた。だが、返ってきた答えは、トールらしくもないものであった。

「俺にも、今は分からなくなりつつある」

「なんと」

「世界は、力あるものによって動かされるべきだと、俺は考えていた。 事実、今でもその思いは強い。 だが、相反する思想を持つサマエルに致命傷を与えられてから、分からなくなってきたのだ。 一体、世界にあるべき思想とは何なのだろうか。 今のヨスガの思想が本当にあるべき姿なのか、俺には分からん。 かっては、拳を振るうことで迷いを払うことが出来た。 だが、今はその時間も残されてはおらん」

トールは遠くを見るような目をした。この不世出の英雄であっても、指標とすべきヨスガのコトワリが分からなくなりつつあるというのなら。他の悪魔達はどうすればよいと言うのだろうか。

やがて、トールは下の階層へ姿を消す。気まずい空気の中、更に悲報が続く。

「青龍将軍の指揮する第二戦線、シジマのモト軍に突破されつつあります! このままでは、人修羅の包囲網に接触します」

「やむをえないな。 包囲網を強化するために、第二師団を回せ」

「それは! しかしそれでは、バアル様の守りが薄くなります」

「構わぬ。 バアル様は、人修羅を屠ることだけを考えろとおっしゃった。 ならば、護衛戦力も必要あるまい」

自分なりの意趣返しをしながら、ミズチは考える。これから、どうするべきなのかを。第二師団が動き出す。司令官もミズチと同じく、今の状況には不満を覚えている。バアルはそれを止めなかったらしく、進軍はスムーズに進んだ。

ほどなく、トールと人修羅が交戦状態に入ったという報告が入った。

まだ、ミズチの迷いは晴れない。

 

2、拳の終焉

 

手広いホールに出た。少し前から、敵影がいなくなったことで、秀一はむしろ巨大な敵の接近が近いことに気づいていた。そしてホールの真ん中に、案の定、その男が待ち受けていた。

琴音の一撃で致命傷を受けたことは知っていた。そして今、死に場所を求めて、ここに来ていると言うことも。さっき、水天を同じようにして斬った。責任感が強く、勇猛な男だった。

有為な存在ばかり、命を落としていく。この戦いは、いつまで続くのだろうかと、嘆息させられる。トールも、ある意味で歴史的な意義を持つまでに至った存在だ。この戦いで、それが一段落すればいいのだが。

「トール様」

リコが辛そうに顔を伏せた。無理もない。トールの部下であったリコは、誰よりも忠誠心が篤かったと聞く。勿論、トールとは戦わせる気がない。

「リコ、サルタヒコ、アメノウズメ。 奇襲を警戒して、周囲に展開してくれ。 マダ、フォルネウス、ニーズヘッグもだ。 クロト、今のうちに、皆の傷を治しておいてほしい」

「榊センパイ!」

「心配するな。 横やりの方が怖いからな」

「相談は、済んだか?」

座っていたトールが、巨体を起こす。全身は傷だらけ。恐らくはもう、治しても無駄だと思って、回復魔法さえかけなかったのだろう。普通の精神の持ち主なら、ショック死しているような傷だ。正気を保つことさえ、相当に辛いだろうに。トールは、平然としていた。

互いに、歩み始める。距離が縮まる中、トールは喋る。

「思えば、関西国際空港の事件が、事の発端だったのであろうな」

「白海さんの記憶も、もうマガツヒから読みとった。 関西国際空港に現れたあの悪魔を、倒したのは貴方だったのだな」

「そうだ。 そしておそらく、奴の生体エネルギーを浴びたからこそ。 俺やサマエル、それにスペクターは、人間の意識を強く残したまま、悪魔となったのだろう」

いや、それは少し違うかと、トールは修正した。あのとき、既に生き残った人間達は、少し悪魔の要素を得ていたのかも知れない、と。考えてみれば、琴音やトールの異能は、それ以外に説明が出来ない。

「しかし解せないのは、その当事者達が、こうもボルテクス界で主役となった事だ。 後ろに何か大きな意志があるのやもしれんな」

「そうだな。 そんな奴がいるとしたら、これだけの命をもてあそんだ罪を、必ず償わせてやる所だが」

「それも面白い。 これだけの策謀を巡らす輩だ、多分神と呼んでも不思議ではないような奴だろうが、それでもお前になら出来るのかも知れないな」

徐々に、距離が詰まっていく。そして、足が止まった。既に、戦闘可能な間合いに、両者とも入っていた。トールは感慨深げに言う。

「結局、お前とはまともに戦う機会が今まで無かったな」

「ああ。 逆に言えば、それが幸運だった。 早いうちに貴方と正面から戦っていたら、とてもではないが生き残れはしなかっただろう」

「……俺は常に、最強の敵手を捜していた。 自分よりも強い奴が必ずいると思って、拳を磨き続けていた」

それが。トールの、戦う理由だったのだと、秀一は知った。

この男は、求道者の、行き着くところまで行き着いてしまった存在だったのかも知れない。それがたまたま血と汗と修羅の道だっただけで。結局の所、トールの不幸は、それをとことん極められる実力が備わっていたことなのだろう。

「結局、最強の相手は、足下にいた。 そして奴を倒してしまった今。 もう、俺には、最強だという肩書きだけが残ってしまった」

「悲しい男だな、貴方は」

琴音は、トールがまき散らしてきた死と悲劇に、怒りを覚えていた。だが秀一は、むしろトールの中にある、極端にまでとぎすまされた人間性に、悲しみを覚えていた。この男の行動は、むしろ人間的な意志からきたものだ。人間性が必ずしも良い方向に左右しないのだと、思い知らされながら、秀一は言った。

「貴方はおそらく、ずっと自分が見えていなかったのだと、俺は思う。 トール、貴方は誰もが認める最強の存在だった。 今も、昔も、だ。 それがさらなる強敵を求め続けたことが、悲劇を産み続けた要因だったのだろう」

「……そうかも、しれんな。 琴音を殺した今は、その言葉が、素直に受け入れられる」

戦闘態勢をとる。手加減無用と、トールの目が告げていた。むろん、最初から全力で行くつもりである。

もう、言葉はいらない。

和解の可能性は最初から無い。トールはその血塗られた修羅の生の最後に、秀一との立ち会いを求めてきた。戦士としての心意気は、秀一も理解しているつもりだ。これを、受けないのは失礼に当たる。

ゆっくり、右へ。トールはそのまま動かない。自然体で立ちつくしているが、まるで隙がない。

拳も、蹴りも、全ての一撃が必殺の破壊力を持つ存在。それがトールだ。それと正面から戦い続けた琴音の記憶は、敢えて参考にしない。自分の力だけで、トールの最後の挑戦を、受けて立ちたかったからだ。

真横に立った。未だ、トールは動きを見せない。まずは仕掛けてみるか。そう思った秀一が、踏み込みかけた、瞬間だった。

降ってきた拳が、床に直径十メートルを超えるクレーターを作っていた。

間髪入れず飛び退かなければ、一瞬で勝負がついていた。

吹き上がる床の破片。風圧が全身を叩く。何の予備動作も無い状態から、体をひねり、トールは一撃を繰り出してきたのである。途中経過を切り取ったような速さであった。戦慄する暇もない。トールの怪我がなければ、もうつぶされていたかも知れない。

飛び退いた秀一を、トールが追撃してくる。風を抉って、飛んでくる拳。真横に逃げるその数ミリ先を、拳が飛び去り、壁に直撃。再びクレーターをうがつ。吹っ飛ぶ石塊が、体を掠めた。

カグツチの塔が、揺れるような衝撃だ。

振り返りざまに、裏拳を振るうトール。僅かに掠っただけなのに、十メートル以上は弾き飛ばされた。何度か床でバウンドして、跳ね起きる。既に、至近にトールがいた。両拳を固めて、振り下ろそうという所だった。

流石に、戦慄が背骨を這い上がる。

トールの拳が、床に、ガードした秀一を叩き付ける。ガードの上から伝った衝撃で、床がクレーター状に砕かれた。床に亀裂が走り、秀一の骨に異音。両腕から、血がしぶくのが分かった。もう一度、トールが拳を振り上げた瞬間、飛び起き、顔面に飛び膝蹴りを叩き込む。僅かにトールの動きが鈍り、その隙に間合いから逃れ去る。

ふと、場に入り込んでくる気配。無粋な邪魔か。周囲に展開した皆が、引き受けてくれているらしい。体勢を低くして、刃を両腕から出す秀一。トールはゆっくり手を振りながら、目を光らせる。

「良い耐久力だ。 サマエルと比べると受け流しのスキルが足りないが、しかし殴りがいがある」

「お褒めに預かり光栄だ。 白海さんにも、こんな拳を叩き込んでいたんだな」

「こんなものはまだ序の口だ」

右肩を掴み、腕を回しながら、ゆっくりトールが近づいてくる。やんわり責めたのだが、蛙の面に小便だ。これでは琴音が怒るのも無理はない気がする。秀一は体勢を低く保ったまま、どう攻めるべきか、思惑を巡らせた。だが、トールは、考える時間など、勿論与えてはくれない。

巨体が、跳ぶ。そのまま、踏みつけに掛かってきた。着地と同時に、床が砕けた。恐らく単純に踏みつけているのではなく、床により大きな衝撃が掛かるように、工夫を凝らしているのだろう。下がりながら詠唱し、二度飛んできた拳をどうにかかわすが、絶妙のタイミングで繰り出された蹴りまでは無理だった。吹っ飛び、壁に叩きつけられる。肋骨が軋み、肺が悲鳴を上げて、一瞬意識が飛ぶ。無理矢理意識を引き戻して顔を上げると、プレスしようと、全力で迫って来るトール。体が残像でぶれるほどに速い。詠唱完了、印を切る。お構いなしに、トールは拳を繰り出してきた。

真下から突き出した氷の柱が、トールを空に跳ね上げる。だが、トールの拳の風圧が、それだけで壁を砕く。ガードが間に合わず、秀一は吐血した。しかも、トールもまた、天井を蹴って、強引に軌道修正。秀一がいた地点に、正確に蹴りを叩き込んできたのである。無理に体を壁から引きはがし、床に転がる。トールの足が、壁を豆腐のように砕いて、突き刺さる。

辺りを爆音が包む。壁から足を引き抜くトールから距離をとりつつ、再び詠唱。分かってはいたが、並の術など使うだけ無駄だ。軍を相手にいつも正面から戦い、退け続けた武力は尋常ではない。単純な駆け引きでは琴音に劣るかも知れないが、総合力ではどうか。今シジマを統率しているカエデも相当な使い手だが、トールにはかなわないだろう。

ひょっとすると、各コトワリの守護以上かも知れない。

疲労が溜まった状態だが、それでも以前よりずっと力は増しているはずだ。口の中に溜まった血を吐き捨てると、秀一は印を切り終えた。攻めるなら、一撃必殺の技を叩き込んで、勝負を決めるしかない。トールは人生そのものが戦いであった男だ。戦闘経験の蓄積で、この男に勝る存在などいない。だから、未知の技で、一気に決めるしかない。

至高の魔弾は、当てれば倒すことが出来るかも知れない。だが、当たらないだろう。トールは恐ろしく動きが速いし、超がつくほどの現実主義者だ。突っ込んできたトールの正面に、煙幕代わりに火球を吹き付ける。炸裂した爆炎を、再び拳だけで蹴散らし、視界を作るトール。

その隙に、壁を蹴って高々と飛んだ秀一が、トールを見下ろす。

トールが此方を見る。気配を察知したというのではなく、空気の流れを読んだというような印象だ。構えをとるトール。腰を落とし、右腕を引く。直上に、必殺の正拳を叩き込んで来るつもりだ。噂には聞いている。トールの正拳が、メギドラオンを相殺したと。恐らくそれは、真実だろう。さっきの拳の風圧を受けた今なら分かる。

直撃を受ければ、高い再生能力を持つこの体でも、耐え切れまい。印は切り終えた。肘を更に深く引いて、拳を打ち出す準備をするトール。真上でも前でもお構いなしか。流石、トールが終生を掛けて完成させた技である。

だが、それが狙いだ。

琴音だったら、この必殺の正拳を、発動前に潰していただろう。スペクターだったら、多分体を分散させて、まともに食らっても耐えられる状況を作っていたに違いない。秀一は、違うやり方を採用する。

僅かな空白の後、トールがにやりと微笑むのが見えた。秀一も、それにあわせて、術式の発動の、最終段階にはいる。

秀一の全身が光る。体の模様が、足から消えていく。トールの全身の筋肉が躍動し、体に蓄えられた全てのパワーを叩きつける瞬間を待つ。両者の間が、帯電するほどの、膨大な戦意が場にあふれる。視界の隅で、乱入してきた者と激しく戦う皆の姿が見えた。悪いが、破壊の余波は自力でかわしてもらうしかない。

「おおおおおおおおおおっ!」

トールが雄叫びを上げる。

同時に、秀一が、至高の魔弾を真下へ放っていた。

そう。普通に放ったのでは、確実に避けられる。だからトールにとって、必殺の拳を使いやすい状況に誘導してやればいいのだ。そして、トールの必殺技を、正面からの魔弾でねじ伏せる。手負いとはいえ、それが、トールという修羅の道を生きてきた男に対する、秀一なりの敬意の示し方であった。

圧倒的な魔力が、光の槍となってトールに降りかかる。そして一瞬遅れて、トールも拳を繰り出してきた。

圧力。瞬間的に背中が天井についた。爆発的な拳の風圧が、至高の魔弾のエネルギー流を半ばまで打ち抜き、撃ち手の秀一を天井にまで押しつけていたのだ。あのアーリマンでも、此処までの事は出来なかった。一瞬、戦術を誤ったかと思った。だが、決めたことだ。全力で、魔弾の射出を続ける。トールは赤熱した右拳を引きつけながら、今度は左腕で、第二射を放ってきた。

全身が、押しつぶされるような衝撃。天井に、蜘蛛の巣状にひびが入り、壊れたブロックがいくつも落下していく。流石だ。あまりにも凄まじい。これが、ボルテクス界で最強をうたわれた男の拳か。心が折れかける。だが、必死に立て直す。

「お、おおおおおおおおおおおっ!」

最初から出力は全開だ。二度に渡って押し返されたが、それでも力が尽きたわけではない。更に体の奥底から魔力を振り絞り、あらゆるマガツヒのデータと照合しながら、光の束をトールに叩きつける。また、トールが拳を引く。第三射を放とうと言うのか。あのような大技、幾らトールでも連発できる訳がない。既に過負荷で、全身からは煙が上がり始めている。そればかりか、全身から既に大量に出血しているのが見て取れた。

トールはそれでも、腕を脇に引きつける。

それが、トールという男の、全てであるかのように。

第三射が、放たれた。蹴散らされる魔弾のエネルギー流が、秀一に見るまに近づいて来る。これが、この世で究極の体術だというのか。

全てのエネルギーを押し返して、圧力が秀一の全身をしたたかにはり倒した。

体が、再び、押しつぶされる。呼吸が止まる。集中が切れて、至高の魔弾の射出が不可能になった。

気がつくと、天井に二メートルほども埋まっていた。平たかった天井そのものが、ドーム状の形式を思わせるものに代わってしまっていた。一辺二百メートルを超える広大な部屋だったのに。その天井が、丸ごと巨大なクレーターとなっていたのである。秀一は己の体を引っ張り出すと、着地した。

もし、トールが万全の状態であったら、どうなったのだろう。そう思ったが、敢えて口にしなかった。

秀一を見て、トールは、感慨深げに言った。

「それが、お前の、最高の技か」

「ああ。 アーリマンを倒し、ノアに致命傷を与えた、俺の奥義だ」

「今更ながら、分かった。 俺はとうの昔に、拳を極めてしまっていたのだな」

もはや、トールは顔を動かすことも出来ないようだった。体が、マガツヒになって崩れていくのが分かる。だが、どうしてか、感じる気配は、安らかだった。

トールの言葉に、嘘はない。例えカグツチがどんな力の持ち主であろうと、このような体術を使いこなせはしないだろう。まさに究極の拳であった。そして、その最期に、秀一は立ち会うことが出来た。

戦うことでしか相手を知ることが出来ない、不器用な男。トールという存在は、最期まで迷惑を周囲に掛ける存在だった。悲痛な叫び声がした。走り寄ってくるのは、リコだった。

「トール様! トール様っ!」

「……リコか。 どうした。 どうして、泣いている」

どすりと音を立てて、トールの拳が地面に落ちた。灰のように色を失い、形が無くなっていくトールに、すがりつき、声を殺して泣くリコ。顔も動かさず、トールは不思議そうに言う。

「何故泣く。 そうか、人修羅が傷ついたからか」

「違う。 貴方が、死に行こうとしているからだ」

「……分からない。 俺が死ぬことで、泣く理由などなかろう」

「トール様っ!」

ばきりと音がして、トールが腰から真っ二つに砕けた。そのまま、前のめりに、残骸が崩れ落ちる。崩れながら、トールの声が響いた。

「人修羅よ。 リコと、サルタヒコと、アメノウズメをよろしく頼む。 路を違えはしたが、それでも俺の部下だった者達だ」

「ああ」

「……生の最後で、やっと平穏を得られた。 これが、心の安らぎか。 悪くない、気分だな」

トールの声が、空に溶けていく。

また一人、英傑が、ボルテクス界から消えた。

膨大なマガツヒが、場には溢れていた。泣き崩れていたリコが、それを一粒、口に入れるのが見えた。

秀一も、マガツヒを吸い込み、口に入れる。

その生の最後まで不器用な男だった。しかし、そんな彼にも、泣いてくれる者がいたのだ。

目を擦って、リコが立ち上がる。

頷くと、秀一は。急な襲撃を掛けてきた相手に勝利した仲間の元へ、一緒に歩いていった。

 

ミズチが、バアルの住処に入ると、四苦八苦しながら持国天がモーツアルトを奏でている所であった。荘厳な音楽の中、蛇体をくねらせて、ミズチはバアルの膝元にまで寄る。多分、場の誰もが、ミズチの報告内容に気付いていただろう。

「バアル様、ご報告です」

「トールが死んだか」

「御意。 人修羅は僅かな休息の後、再び進撃を開始しております」

予定通りに迎撃せよ。バアルはただそれだけ言った。バアルにとって、トールは最大の恩人であるのに。

流石に感情が限界近くまで沸騰するのを感じたミズチは、出来るだけ声を殺しながら言った。

「バアル様、お聞きしたいことがございます」

「何か」

「ヨスガのコトワリについて、今一度聞きとうございます。 ヨスガのコトワリとは、貴方という絶対者ただ一人のためにあるものなのでしょうか。 我らはヨスガのコトワリの礎に過ぎず、人修羅を食い止めるだけの駒なのでしょうか」

場が一気に凍り付いたのを、ミズチは感じた。

この場の誰もが、戦力を使い捨てにしながら、人修羅の排除を計るバアルに不安を感じている。もちろん、ボルテクス界での戦争を生き残ってきた使い手ばかりだから、皆いざというときは自活する覚悟は出来ている。自分の実力で、この地位までのし上がってきたという自負もある。

このヨスガでは、組織によってコトワリが選ばれたのではない。無数に集った強者が、それぞれ自律的意思でコトワリを選択したという自負が、誰にでもある。それに関しては、仲が悪い鬼神系の悪魔でも、天使達でも、同じ事であろう。

だが、今の状況は違う。

このままでは、自由意思など関係無しに、バアルのためだけに使い殺しになるのではないかという恐怖が、誰にでもあるのだ。ミズチはそれを敏感に感じ取っていた。闇の中を生きてきて、今後も表に出ることはないと、ミズチは自嘲している。だからこそに。こう言う時は、率先して口を開かなければならなかった。

「不満か、ミズチ」

「……お答え次第では」

「ならば、講釈をしてやろう。 周囲の者達も、聞くが良い」

すっくと、バアルが立ち上がる。完璧な黄金比によって作り上げられた肉体。最上級の神像を思わせる顔に、誰もが圧倒される。真っ白なその背から生えている、昆虫を思わせる翼が、ゆっくり広がった。

「ヨスガのコトワリは、以前も説明したとおり、力によって世界を統べるものだ。 ヨスガの世界では、力によってのみ地位が決定される。 そして、力のもっとも強い者が、全ての上に立つ」

手を伸ばすバアル。指先までもが、美の結晶であるかのように、洗練されている。バアルに対して、不信感を覚えることはある。しかし、敵意を感じることがないのも、この完璧さ故であろうか。

「そしてそれは、我が常に玉座にいることを意味しない」

「な……」

「心せよ。 ヨスガに座を置いた以上、安全はない。 平穏はない。 ヨスガのコトワリは、力の世界の成立を意味する。 そこでは、常に力が試される。 誰もが常に競争に置かれ、衰えれば即座に取って代わられる。 もちろん、我もその法則から逃れられはしない」

それが健全な競争力と、世界の活性化を産むのだと、バアルは言った。

あまりにも苛烈。そして、己をもそれに含める潔さ。確かに、力による世界とは、そういうものであろう。

コトワリに対する疑念は消えた。少なくともバアルは、今明言したことを、翻すような存在ではない。不審は感じていても、それに対する信頼はある。

「人修羅は、力あるものの楽園を脅かす敵だ。 だから、奴を滅ぼすために、我は最善手を取る。 だが、その手は、決して理不尽なだけのものではない。 死にたくなければ、生き残れ。 どんな手を使ってでも、人修羅を殺す作戦を成功させよ。 それが出来ないものは、ヨスガには必要ない」

「なるほど。 ご講釈、確かに賜りました」

頭を下げたミズチ。これで、気持ちは決まった。

ヨスガのコトワリには、今後も忠誠を誓う。それに代わりはない。ただし、バアルの言葉通り、常に玉座が安定のものだとは、一切今後思うことはないだろう。

知っている。バアルが、トールと戦っている人修羅の所に、精鋭を向かわせたことを。更に効率よく消耗させるための手であったのだろうが、しかしあまりにも戦士の心意気を知らぬ行為であった。

今の言葉と、トールの最後の思いを踏みにじる行為。この二つが、ミズチの忠誠心にとって、致命的なものとなった。

バアルの前から退出すると、ミズチは伝令を呼び集めて、指示を出す。

「第一師団を、移動させる。 シジマの軍勢に備えさせろ」

「っ!? お、お待ちください。 第二師団に続いて第一師団も動かしては、バアル様の守りが丸裸になります」

「それでいい。 バアル様の指示では、人修羅を殺す事だけに、我らは注力すればいいのだ。 そして、バアル様も、人修羅を倒すための駒として判断しても構わない」

人修羅を追い込むには、それくらいしなければ駄目だと言うと、皆沈黙して俯いた。そして、人修羅に備えていた部隊を、幾つかバアルに内緒で移動させる。これは、人修羅が一旦後退して、体力を蓄えに掛かるのを防ぐためだ。このまま分厚い守りを固め続けていては、シジマの攻勢に合わせて、人修羅が一時後退する可能性がある。むしろ守りが薄くなったと見せかけて、バアルに直接ぶつけた方が、倒せる可能性が高い。

もちろん、他の幹部達も、人修羅にはぶつけないように手配する。

自分の言葉には、責任を取って貰うつもりである。力の組織の長だというのなら、自ら最強の敵とぶつかり合え。そう心中で吐き捨てると、ミズチは、トールに黙祷した。

思えば、トールによってマントラ軍は組織として大成した。そしてトールが命を落とした今。かってのやり方は、もはや通用しないのかも知れなかった。

ほどなく、人修羅が最終防衛線を突破したという報告が入る。わざと守りを薄くしたのだから当然だ。以降は、どうなろうと知ったことではない。これで粛正されるとしたら、それでも別に構わない。ミズチは、シジマの軍勢の迎撃をするために前線に向かうべく、蛇体をくねらせ、通路を進み始めたのだった。

 

3、最後の守護

 

敵が混乱しているのが、秀一には分かった。シジマの猛攻によるものもあるだろうが、恐らくは敵の内部に反目があるのだろうと、雰囲気から分かる。今までの緻密な配置からは考えられないような粗雑な敵の行動が目立つ。その上、敵の戦意も、目立って落ち始めていた。

追撃部隊を氷壁で封じながら、此処まであがってきた。さっきは至近まで迫っていた追撃部隊も、どうにか引きはがすことが出来た。少しなら、時間は稼げるだろう。

リコが、顔を上げる。通路の前からわらわらと現れた敵に、視線を固定している。浅黒い肌で、両手に剣を持つその悪魔は。今まで、何度かヨスガの軍勢として目撃し、交戦経験のある存在だった。

マダが、構えを取りながら言う。

「ヤクシニーだな。 お前の旧友か?」

「冗談じゃ無いッス」

リコの言葉に、心底からの嫌悪を感じた。

そういえば、リコが以前、少しだけ話してくれたことがある。トールがリコを引き取る前、彼女はかなり辛い境遇にいたという。リコが、一人で三十騎ほどいるヤクシニーに向けて歩いていく。もちろん、相手もそれに気付いた。反応は、お世辞にも好意的とは言えなかった。

「おやあ? 其処にいるのは、小便垂れのリコじゃねーか」

「ヘタレの無能者が、挙げ句の果てに裏切りやがって、それでのうのうとしやがって!」

「クズは何処まで行ってもクズだな! ヨスガの世界に、てめえはいらねえんだよ!」

続けて、下品な罵声が飛んできた。露骨な嘲弄も含まれていた。マダが不愉快そうに眉をひそめる。リコは、眉一つ動かさなかった。

ヤクシニーは元々女性版の夜叉であり、インド神話における悪鬼である。仏教に取り入れられて、毘沙門天の配下の戦闘神となったが、それでも悪名は高く、淫乱で凶猛な邪的存在とされている。中には、上半身をはだけている者や、申し訳程度にしか布を纏っていない者もいて、秀一は眉をひそめた。

何だかんだで恥ずかしがり屋で繊細なリコとは、随分雰囲気がちがう。ひょっとすると、体育会系に見えて実は根が純情な所が、リコが彼女らに受け入れられなかった理由なのかも知れない。

ヤクシニーは元々戦闘能力がかなり高い。リコ一人で不安かと思ったのだが。

「榊センパイ、此奴らはあたしが」

「任せてしまって、構わないか」

「大丈夫ッス。 過去に、決着を付けさせて欲しいッス」

「分かった。 ただし、命を粗末にするような真似はするなよ。 バアルを倒して、そこで待っているからな」

無言で頷くリコ。今は、時間が惜しい。敵が体勢を立て直す前に、一気にバアルに迫っておきたい。ふとニーズヘッグの上から声。カズコだった。

「秀一、サナが起きそうだよ」

「そうか」

秀一はハンドサインを出して、強行突破を指示。ヤクシニーの部隊はリコに任せて、一気に突っ切る。敵の抵抗は弱い。此方の消耗も相当なものだが、それ以上に敵の戦意が弱体化している様子がありありと分かる。

ひょっとすると、使い殺しにされている事に気付いた勢力が、造反を始めたのかも知れない。あり得ることだ。恐らく、誰に対してもバアルは凶暴なまでに平等なはずだ。弱者には死を与え、強者はもり立てる。だが、その強さに、誰もがついて行ける訳ではないのである。

もしもバアルが破れる事があればと、以前秀一はマダと話したことがあった。恐らく、その強さが敗因になるだろうと。それが、今、如実に表れようとしている。しかし予言が当たっても、嬉しくはなかった。

走り込み様に、床に手を突き、氷の塊をぶちまける。床から突き上げた氷の槍に貫かれて、多くの悪魔が絶叫、息絶える。マダがそれを踏み越えて、敵の中央に。そして回転しながら、拳の乱打を放った。サルタヒコが無言のまま、立ちふさがろうとする敵を斬り伏せ、アメノウズメが汗を飛ばしながら舞う。フォルネウスが、後方から迫ろうとする敵を冷気の息ではじき飛ばしながら、叫ぶ。

「秀一ちゃん! そろそろ、守護と戦うのはきついぞい!」

「分かっている。 力が残っているうちに、強行突破だ。 消耗が激しい者から、カズコにマガツヒを貰ってくれ。 他の者は、その間の援護だ」

「分かってる!」

前線に躍り出るクロト。さっきまで回復に努めていた彼女が、最前衛に復帰したことで、一時的にまた突破力が高まる。棍で鬼神の頭を叩きつぶすクロトが、秀一の方を見ずに叫ぶ。

「お前はいいのか! トールの拳、もろに受けただろ!」

「俺のことは大丈夫だ。 アーリマンやノアのマガツヒを、伊達に喰らっていない!」

やせ我慢ではない。確かに消耗は大きいが、それでも何とかなる。むしろ今心配なのは、それらの力を、きちんと制御できるかだ。

大きな扉が見えてきた。親衛隊らしい鬼神が、何騎が詰めている。混乱しているのがよく分かった。喚声が響く。声を聞き取ってみて、混乱の理由が分かった。

カエデ隊が、不意に強行突撃に切り替えてきたらしい。それに合わせて、ブリュンヒルド率いるシジマ空軍が、後方からの強襲を仕掛けてきたというのだ。備えている部隊が必死に支えているようだが、それでも此処まで混乱が波及している。如何にシジマの猛攻が凄まじいかが、よく分かる。むしろ、それでもしっかり支えて此処まで兵を通していないヨスガの指揮官の方が、有能だと言うべきなのかも知れない。

そして、大きな扉の先には、巨大な気配がある。バアルがいる。

秀一は雄叫びを上げると、群がる敵へ、中空から躍り掛かった。

 

扉を開けると、つんと何かの香りがした。それが酒によるものだと気付いて、秀一は周囲を見回しながら部屋の中に踏み込む。

大きな部屋だ。四百メートル四方ほど。アーリマンがいた部屋とほぼ同じ規模である。カグツチ塔の中には、こんな巨大な部屋が、幾らでもあるのだろう。随分高くまで登ってきたが、それでも塔の規模が縮まる様子はないし、かっての世界とは根本的に違う法則で作られているとしか思えない。

バアルは、いた。玉座に腰掛け、ワインを口にしている。全く酔っている様子はない。ただ、嗜好品として、口にしているのだろう。周囲には、音楽を奏でる悪魔が数騎。一人には見覚えがある。マントラ軍本営で少しだけ顔を合わせた持国天だ。以前は陽気な男だったが、今ではなんだか雰囲気からして暗くなっている。

やはり、予想は当たっていた。ヨスガの中では、バアルに対する反発が産まれ始めていたのだ。

数歩、歩み出た。沈黙を破ったのは、秀一からだった。

「千晶、玉座の心地はどうだ」

「その名はもう捨てた。 我はヨスガの守護にて、創世を成すもの。 魔神バアルである」

「そうか。 ならばバアル。 玉座は、心地よいか」

「ああ。 我は王になるべく生まれ出た存在。 故に、この必然の座こそ、我の居場所である」

居場所、か。その言葉を聞いて、秀一は、やはりバアルが千晶そのものなのだと確信した。

千晶は強い女だった。学業でも体力でも、同世代の人間の中ではトップクラスの存在だった。だが、彼女が唯一恐れていた、そして憎んでいたものがあった。

幼なじみであり、散々腐れ縁を積み重ねた秀一には、それが何となく分かる。千晶は、孤独を誰よりも嫌っていたのである。

いろいろな男をとっかえひっかえしたのは、無論興味本位からだろう。だが、しかしその影には、誰かが支えてくれることを期待していた部分もあったのだろう。能力的にも劣る勇や秀一と一緒にいる事が多かったのも、それが理由であった筈だ。

「だが、今バアル。 またお前は、居場所を失いつつある」

「それはどうかな。 貴様を倒せば、ヨスガのコトワリができあがる。 そうすれば、余の周囲は熱量に満ちた世界になるだろう」

「……千晶」

その世界は、あっという間に燃え尽きて、何も残らないだろう。秀一はそう告げようとしたが、やめた。恐らく、千晶はそれでも良いと思っているはずだ。苛烈すぎる闘争の世界では、最強の存在しか生き残れない。そして恐らくそれは、即座に次の者に取って代わられる。世界はあっという間に規模を縮小し、やがて無に帰す。

だが、孤独になることは、ない。

千晶は確かに強い。そして、強さこそが正義だとも考えている。それは、弱者によってたかって排斥されたことや、家族にも省みられなかったことが、原因となっているのだろう。

そして、千晶の望みが全て叶う世界こそ。あっという間に燃焼し尽くしてしまうであろう、ヨスガの理想の世界なのだろう。それにて、自分が即座に焼き尽くされても、かまわないと言うわけだ。

「もはや、語ることはあるまい。 幸いにも、お互い、涙を流すこともない事もない体になりはてた」

「そうだな」

勇も死んだ。そして、これから、千晶とも殺し合う。

心は静かに沈んでいた。悲しみは、不思議と感じない。ただ、怒りと、虚しさだけがある。バアルが手を振ると、楽隊がさっと引いた。持国天も困惑しながら、部屋を後にする。バアルがゆっくり中空へ浮き上がる。

「最初から全力でいくぞ。 簡単には、壊れてくれるなや」

「望むところだ」

場に、圧倒的な魔力が満ちあふれる。流石だ。ヨスガの強者達を、実力で支配していただけのことはある。威圧感で、びりびりするほどだ。無言のまま、皆が戦闘態勢を取る。痛いほどの沈黙の中。最初にバアルがしたのは。両手に、光の剣を具現化させる事であった。

 

斬り伏せられたヤクシニーが、マガツヒと化しながら倒れ消える。息が流石に上がってきたリコは、額の汗を拭う。それにしても、なんと皮肉な話か。

かって、毘沙門天は独立勢力の長であった。四天王寺に拠点を構えていた彼は、神話上での眷属である夜叉や羅刹を配下に、ある程度の勢力を誇っていた。自ら討伐に乗り出してきたゴズテンノウの猛攻に、二度も耐えたほどである。

そんな毘沙門天が、抱えていた精鋭部隊が二つあった。羅刹の男性で編成された甲隊と、夜叉の女性で編成された乙隊である。このうち甲隊はゴズテンノウに挑んで木っ端みじんに叩き潰され、マントラ軍の内には再編成が出来なかった。乙隊は見ての通り生き残り、以降も最精鋭の一隊として、マントラ軍を、そしてヨスガを支えてきた。勿論三十騎で全てではなく、これは一支隊にすぎない。

その支隊に、リコは属していた時期があったのだ。

「腕を上げたじゃねえか」

「どうせあの男に、マガツヒを食わせてもらったんだろ? てめーの貧弱な体で、どんな風に媚び売ったんだ? 言って見ろやカス」

口々に罵声を上げるかっての同僚達。リコは応える気にもならない。

才能が、あったのかなかったのかは分からない。だが、いつの間にか、リコは部隊内で孤立していた。必死に努力して、一生懸命とけ込もうともした。だが、そうすればするほど、孤立は深まっていったのだ。

やがて、明確ないじめが始まった。軍の精鋭部隊での出来事とは思えないが、しかし事実であった。もちろん上司に相談はしたが、毘沙門天は部下の統率能力に問題があり、効果的な手を打ってくれなかった。

女子のいじめは、男子のそれよりも遙かに陰湿で悪質だ。真綿でのどを絞めるように、徹底的かつ容赦なく、心を壊しに掛かる。人間とか言う愚劣な生物を元にしているだけあり、悪魔の中でもいじめは厳然として存在する。リコだけに限ったことではなく、他の悪魔の中にも、いじめを受けていた者はいたらしい。やがてそれが全てマネカタに向くのだが、リコが乙隊にいたころには、まだマネカタは実用導入されていなかった。

心身共に、見る間にぼろぼろになっていった。元々団体行動を苦手としていたリコだが、こうなってしまうと日常業務にも支障を来すようになった。毘沙門天は能力にしか興味が無く、風の術を開発して、それとの混合体術を身につけたリコが、どうして成果を上げられないのか分からない様子だった。

やがて、トールがリコを引き取るという話を持ってきてくれて。地獄からは解放されたのである。

また一騎、躍りかかってきた。無造作に背骨を蹴り砕く。更に左右から襲いかかってきた二騎を、跳躍して、とんぼを切りながら、同時に切り伏せた。着地と同時に、飛んでくる刀を、皮一枚の差で避けると、流石に敵も本腰を入れる気になったようだった。

「雑魚を何匹か殺ったからって、調子にのるなよリコぉっ!」

「勘違いしているようだから、言っておくっスけどね」

「ああん?」

「あたしが恩を感じている相手は、トール様と榊センパイだけッスよ。 あんたらなんか、仲間でも同僚でもない。 何一つ、感じることは無いッス。 さんざん虐めてくれたお礼に、みんな殺してやるから、さっさと掛かって来たらどうスか」

文字通り、悪鬼の形相となった一騎が、低い体勢から飛びかかってきた。リコを率先していじめていた奴だ。間合いにはいると、低い軌道から切り上げてくる。悪いが、守護やコトワリを代表する強者と戦い続けてきたリコにとって、こんな剣撃はお遊びも同然だ。

一瞬、暗い怒りが鎌首をもたげるが、押さえ込む。

気合いと共に、首を跳ね飛ばした。いたぶって殺す暇など無い。その欲求を抑え込んだリコは、刀を構え直すと、今度は敵の群れに、自ら突進していった。

命を捨てるような真似はするなと、秀一に言われた。トールにも、リコを頼むと、秀一は言われていた。

自分は、いらない存在ではない。誰かのために、いていい存在なのだ。

明らかにひるんだ敵の中に、リコは飛び込む。同族だろうが、かっての同僚だろうが、関係ない。

今は、秀一と合流し、バアルを打ち倒すため。リコは、敵を斬り伏せ続ける。乱戦の中、何度か斬られる。

右も左も、前も後ろも敵だ。くるくると回転しながら、殺気を向けてくる相手を次々に倒す。だが、それにも限界がある。

十騎ほど、退けたところで。短く、重い声が、混乱するヤクシニー隊を打ち据えた。

「もう良い。 下がれ」

「ハリティ様!」

一騎のヤクシニーが歩み出る。威厳も、感じる気配も、今までの連中とは段違い。何度か、あったことだけがある。全ヤクシニー隊を統率している、ヨスガの将。日本では鬼子母神の名で知られる、喰人鬼、ハリティ。手にしているのは、石榴の実。人肉に対する衝動を抑えるために、釈迦に貰ったものだ。

釈迦との逸話で知られるハリティは、日本では安産と子供を守る神だ。だが、結局の所、その性質は戦闘神としてのものを強く受け継いでいる。ヨスガでも、ハリティは戦闘部隊の統率者だった。

「見事な腕に育ったな、リコよ」

「ハリティ様。 お褒めに頂いて、光栄ッス」

流石に直接は目を合わせづらい。ハリティは虐めを積極的に止めようとさえしなかったが、それ以外は色々世話にもなった相手である。他のヤクシニーには恨みしかないが、この女には、特にこれといった利害関係がない。

乱戦の中で、リコは体に多くの傷を貰っていた。流石に精鋭部隊の中に飛び込めば、無事では済まない。特に右の二の腕の傷は深く、指が何本か痺れていた。剣を握る力は、確実に弱くなっている。切り札である足も、何カ所かに切り傷。特に左腿の刀傷が酷い。

対しハリティは、無傷。万全な状態だ。

「その傷で、私と戦うこともなかろう。 投降せよ」

「お断りッスよ。 ハリティ様こそ、まさか怖じ気づいたわけじゃないッスよね」

「安い挑発だな。 そのようなものに、私が乗ると思ったか?」

「思ってないッスよ」

構えを取り直す。ハリティは強い。万全の状態で、勝てるかどうかと言う相手だ。今、敵の海の中を突っ切り、そして今、十騎以上のヤクシニーを斬って、消耗した状態で。一体何処まで出来るのか。

だが、此処でリコは、勝たなければならない。過去に決着を付けて、そして秀一の所に馳せ参じるために。

他のヤクシニーどもは斬っても何とも思わない。だが、ハリティは出来れば殺さずに済ませたい。しかし、そんな余裕があるかどうか。

「行くぞ」

ハリティが、構える。リコも弾かれたように、体勢を低くした。

 

バアルの手から、噴水のように、中空に無数の光の剣が射出されていく。数は見る間に百を超え、そして千に達しようとしていた。

様々な形状がある。日本刀に近いものもあれば、曲刀であるもの。或いは槍であったり、斧であったりもした。恐ろしいのは、それでも、魔力を目立って消耗した様子がないという事だ。

マダが、戦慄と感嘆を同時に声に込めて言う。

「スゲエ数だな」

「事前の打ち合わせ通りに攻めるぞ」

ハンドサインを飛ばしながら、秀一はそう言った。リコはいずれ追いついてくる。それを計算した上で、今後の作戦は組んでいる。指示は、戦いながら、さっき飛ばし終えている。後は、如何に連携が噛み合うか、だ。

バアルの手から、剣の射出が止まる。既に千三百を超える、光り輝く無数の武具。さて、あれをどう活用してくるつもりか。千晶の性格から言って、圧倒的な物量と質量で押し込んでくるだろう。だが、具体的な方法については、今だ分からない。

「さて、そろそろ行くぞえ」

「来い」

ちらりと、後ろを見る。カズコが頷く。防戦一方になっていたら、あまりよろしくない。此処は、無理にでも攻めるべきだろう。

バアルが手を動かすのと、秀一が踏み込むのは、同時だった。

火球を浴びせる。バアルの至近まで飛んできた盾が、炸裂する。メギドくらいの威力はあるかも知れない。濛々たる煙が晴れると、バアルの姿は其処にない。サルタヒコが無言で動き、秀一の頭上に。飛んできた数本の剣に向けて、剣から一閃を放つ。

全てが同時に爆発し、呻いたサルタヒコが地面に叩きつけられる。

あの剣全てが、触れると爆発すると言うことか。攻防共に生かせる、面倒な術式である。千晶らしいなと、秀一は思った。

「サルタヒコとマダは、中距離を維持。 一定距離まで近付いた武具を迎撃。 フォルネウスは、氷壁を展開して、爆圧をカバー。 ニーズヘッグは、いざというときは体で皆を守れ。 カザンはカズコの護衛」

ハンドサインで指示を出し終えると、秀一はクロトを招く。バアルの姿を確認。今の一瞬で、部屋の奥にまで離れていた。アメノウズメが、舞い始める。今回は長期戦になる。カズコが、無理をしてマガツヒを周囲に放出。あれが尽きた時に、味方は一気に崩されるだろう。

「さて、どうやって戦意を砕いてやろうかのう」

軟らかく、バアルが床を蹴る。だが、その姿が、途中経過を無視したように、いきなり秀一の至近へ現れる。鞭のように振るわれた蹴りが、ガードの上から痛烈に炸裂。壁に叩きつけられる。

後ろから棍を叩きつけたクロトだが、振り向きもせずに、バアルは翼を動かして受け止めた。昆虫の窒思わせる薄い翼が、鬼神の頭をも打ち砕く棍を、軟らかく止めていた。吹き飛ばされるクロト。床にたたきつけられ、バウンドする、小さな体。其処へ、中空から無数の光の剣が降り注ぐ。

サルタヒコが飛び起き、剣を振るった。中途で、剣が槍が拉げて、爆発。クロトが煙の中に消える。飛び起きた秀一が火球を吹き付けるのと、腰を入れて踏み込んだマダが正拳をバアルに叩き込むのは同時。バアルは口の端をゆがめると、僅かに体勢を低くして、マダの懐に潜り込む。そしてマダの腹と肘に手を当てるようにして、孤を描き、見事に投げ飛ばしていた。

地面に叩きつけられるマダが、起き上がるより先に、秀一の火球が、バアルに炸裂する。だが、バアルは指二本を立ててシールドを展開し、吹き散らしてしまう。マダが慌てて飛び退き、降ってきた剣から逃れようとするが、連鎖して迫る爆発に、後ろから吹き飛ばされた。

「どああっ!?」

「動きが止まった奴から、串刺しぞ」

「今の動き、トールの手ほどきを受けたな」

「ほう、それだけで見抜いたか。 では、褒美に良いものをみせてやろう」

バアルが右手を天に向ける。詠唱もしていないのに、光が集中していく。メギドラか。この程度の術なら、詠唱も必要ないというのか。

「ちょっ、冗談じゃねえっ!」

メギドラをバアルが放つのと、ニーズヘッグが前に出るのは同時。冷気の息を吹き付けて、氷の壁を作り出す。フォルネウスがそれに永久氷壁の術を掛けていくが、しかし間に合わない。炸裂したメギドラが、氷壁ごとニーズヘッグの巨体を吹き飛ばす。舞っていたアメノウズメが地面に叩きつけられ、カズコを庇ったカザンが、中空に投げ出されるのが見えた。

剣が降り注ぐ。二度、三度とサルタヒコが剣を振るう。何とか、迎撃に成功。中途で全ての剣が爆発した。だが、其処へ、バアルが後ろから音もなく迫っている。手刀を振り下ろそうとするバアルを、真横から秀一が蹴り飛ばした。鉛の塊を蹴ったような感触である。数メートル弾かれたバアルは、感情のこもらない瞳で、秀一を見る。

「力が残っている状態なら、もう少しましな戦いが出来たであろうに」

「一つ聞いて良いか」

着地した秀一が、ハンドサインを飛ばす。今の一撃は、丁度いい目くらましになった。立ち上がったマダが、血の混じった唾を吐き捨てる。サルタヒコが、剣を上段に構えあげた。

「何処まで、読んでいた。 部下達が、造反行為を起こすことまでか」

「無論よ。 というよりも、あれらは絶対的指導者に、公平に支配して貰うことしか考えておらぬでな。 力あるならば、即座に造反する位のことを考えるようでなければ、ヨスガに生きる資格はないゆえ、わざと突き放したのよ」

「そうか。 ならば、そう言うことにしておこうか」

「何か言いたいのなら、はっきり言ってみよ。 余はバアルである。 何一つ、余の行動に、迷いも間違いもない」

ふわりとバアルが動く。いつの間にか後ろに回っていたクロトが、低空からの強烈な蹴りを叩き込む。同時にサルタヒコが跳躍し、太刀を袈裟に振り下ろす。バアルは表情を崩さない。右手でサルタヒコの剣を軟らかくずらし、左手でクロトの蹴りを受け止める。そして回転しながら、二人をそれぞれ右足左足で蹴り飛ばした。

剣が降り注ぐ。マダが拳を振るって、落ちてくる剣を迎撃している中、秀一は飛ぶ。あの剣の使い方も、今はカウンターに限定しているが、どこまでそれを維持してくるか。回転を終えたバアルに、正面から拳を叩き込む。逸らしに掛かった所に、火球を吹き付け、爆炎の中にバアルが消えた。飛び退くが、後ろに殺気。背中から、痛烈な蹴りを浴びて、吹き飛ばされる。受け身を、取り切れない。床に、叩きつけられた。

「どうした。 余に、言いたいことがあるのだろう?」

バアルが右手を振ると、百を超える剣が、秀一に向けて降り注いできた。バアルの顔が、勝利を確信したその瞬間。

背中から腹にかけて、光の剣が貫いていた。

 

繭から突きだした、小さな手から放たれた光の剣が、バアルを串刺しにしたその瞬間。初めて、孤高の魔神の顔に、怒りが浮かんだ。バアルが力を込めて、剣を筋肉と骨格で折り砕いたその隙に、さっと周囲に展開し、態勢を立て直す秀一。頭を振りながら立ち上がったアメノウズメが、ぼやく。

「起きるのが遅いわよ」

「ごめん」

「まあいいっ! そろそろ反撃行くぜっ!」

マダが踏み込み、虚空に向けて大量の酒を吹き付ける。そして、点火。秀一に向けて降り注いでいた光の剣に、まとめて引火、大爆発を起こした。バアルさえも、注ェを拡げて耐えに掛かったほどである。

繭が、内側から膨大な光を放ちながら、壊れていく。そして、髪の色が少し紫がかったサナが、苦労しながら這いだしてくる。服がちょっとごてごてしたくらいで、他にはあまり変わった様子がない。繭の破片を取りながら、カズコが言う。

「サナ、もう大丈夫なの?」

「へいき。 僕もそんなに柔に出来てないからね。 それよりも、だ。 起きて早々、ハードな相手と戦ってるなあ」

「手が足りなくて困っていた。 頼むぞ」

「おおおのれええ、羽虫があああっ!」

バアルの凶暴な怒声が炸裂する。同時に、空に見えていた無数の剣が、二つの塊に収束していく。

だが、その完成を待つ義理はない。

顔面の至近に向けて、秀一が火球を吹き付ける。炸裂した火球を強引に突破し、クロトが至近に躍り出た。バアルの顔が歪む。振り下ろされた棍を受け流そうとするが、クロトも流石の強者である。何度も同じ技は喰わない。

棍がバアルの手に当たった瞬間、遠心力を生かして、側頭部に蹴りを叩き込んだのである。僅かに不快そうに顔をゆがめたバアルが、クロトを右手を振るってはじき飛ばす。左手は術の構築のために使っているらしく、動かしているのは右腕だけだ。フォルネウスとニーズヘッグが、呼吸を合わせて、左側から冷気の息を吹き付ける。バアルが半回転して、右手でシールドを展開。見る間に、顔が憎悪に歪んでいく。

マダの肩を蹴って、秀一がバアルの上に出た。上で構築されつつある二騎の人造悪魔を一瞥。非常に悪趣味なやり口だ。右手の刃を、躊躇無く振り下ろす。バアルは注ェで受けるが、その一枚を、秀一は一息に叩き折った。

「ぬうっ!」

「畳み掛けろっ!」

「応ッ!」

今度は、マダが仕掛ける。四本の腕から拳のラッシュを繰り出し、バアルのガードを強引に潰しに掛かる。バアルは右手だけで見事に凌ぎ、そればかりか絶妙のタイミングで首に蹴りを叩き込む。だが、マダは床を踏みしめて、その蹴りを敢えて首で受けた。床に出来る、溝の蜘蛛の巣。バアルが、一瞬止まる。その隙に、真後ろから斬りかかったのは、今まで気配を消していたサルタヒコだった。

剣圧が、バアルの背中をえぐる。神像を思わせる白い肌が裂けて、初めて鮮血が噴き出した。バアルが頭上に躍り上がる。その。更に上。繭から既に出ていたサナが、手の中に、光の塊を作り上げていた。

振り返るバアルが、右手でシールドを展開しようとする。しかし、何しろ至近。間に合わない。

サナの手から、光の塊が炸裂する。

「メギドラ!」

一瞬の押し合い。だが、勢いが勝る。サナ自身の魔力も、以前より二割ほど増しているようで、強引に押し切った。バアルが、床にたたきつけられる。閃光が当たりを漂白し、続いて爆圧が全てをなぎ倒した。飛び退いた秀一が、無意識に背中でカズコを庇う。アメノウズメが、情熱的に、舞う速度を上げていく。

誰もが分かっている。濛々たる煙の中のバアルが、今だ余裕を残していることを。距離を取り、構える。天井の光が、ますます強さを増していく。サルタヒコが、マガツヒを口に含む。彼は額から血を流しつつも、刀から手を離さなかった。

煙が晴れてくる。直径十五メートルほどのクレーターが、戦場に出来ていた。その中央に立ちつくしていたバアルが、秀一を睨む。注ェを振るわせて降りてきたサナが、秀一の斜め後ろに立った。

「シューイチ、見てみて。 僕、上位の妖精に変化したよ」

「そうか。 悪いが、今は無駄話をしている余裕がない。 中距離からの援護を続けてくれるか」

「ちぇっ、まあいいけどさ。 確かに、無駄話してる余裕は無さそうだし」

バアルは胸を貫かれたというのに、平然としている。背中の傷も、すぐに塞がりつつあった。秀一が打ち砕いた背中の注ェだけは、治る様子がなかった。バアルが、手招きをする。

同時に、凝縮した光の塊が二騎、その場に降り立った。

いわゆる天使の輪を、頭の上に浮かべている、純白の悪魔。表情はない。ただし、その姿は、何度も見たことのあるものであった。

右手に立ったのは、両手に剣を持った、豹頭の悪魔。そして、左手に立ったのは、首のある部分に、剣を差している、同じく豹の体を持つ悪魔。

そう。堕天使オセ。それに、堕天使フラウロス。

ただし、どちらの目にも、光はない。そもそも、感情を与えられなかったという訳か。また、全身は純白で、うっすら発光さえしていた。

「紹介しよう。 オセ・ハレルとフラウロス・ハレル。 余が作り出した、人造天使の最高傑作よ」

「悪趣味なことをするな、バアル。 二人とも、シジマを代表する武人だろう」

「この高貴なる姿を悪趣味とは、相変わらず見る目がない事よ。 堕天使が天に認められて、元の力を取り戻した姿、とでも言っておこうか。 それにオセもフラウロスも、シジマのような腐ったコトワリに使われるよりも、この方が本望であろうて」

秀一は、己の中に取り込んだ、オセとフラウロスのマガツヒが、怒りを感じているのを覚えた。この二騎にしてみれば、シジマは終生の巣であり、裏切るなどとは思いもしないことであろうから。

隣に立っているマダが、より強い怒りを込めていることに、秀一は気付いた。秀一の中で再構成されたとはいえ、マダはかってのシジマのことを、非常に愛していたし、忠誠心も高かった。オセとも、フラウロスとも、終始親友であった。無理もない話である。

「おう、人修羅。 あの偽オセは、俺に任せてくれ」

「儂は、フラウロス様もどきをどうにかするかの」

フォルネウスの声も、低く沈んでいる。この優しい老悪魔も、珍しく本気で怒っている様子であった。無理もない。フラウロスは、かっての上司だ。このような形で汚されては、黙ってはいられないだろう。

「分かった。 ただし、支援する余裕はないぞ」

「ああ。 速攻で叩きつぶしてやる」

「あんな命のこもらん人形なんぞ、敵ではないわい」

「良く吠えた、でくの坊ども。 ならばその大言壮語を実現してみるが良い」

秀一は怒りと同時に、悲しみも覚え始めていた。バアルも、ノアと同じく、孤独の路を突き進み続けている。

そして、それが破滅につながっていることも、もう間近のことに思えたのだった。

 

4、それぞれの死闘

 

最初に動いたのは、オセ・ハレルだった。両手に持った剣を旋回させて、秀一に迫る。その前に立ちふさがったマダが、上二つの手を組み合わせ、拳を鉄槌として振り下ろす。体格の差もあり、剣が届くより、マダの拳が速い。それを巧みに見切ったオセ・ハレルが飛び退くのと同時に、フラウロス・ハレルが動く。大剣を首から引き抜き、正面から秀一に振り下ろそうとする。

意外な速さでその上に回り込んだフォルネウスが、毒針つきの尻尾を叩きつける。五月蠅そうに剣で払おうとしたフラウロス・ハレルは、意外な柔軟性で動いたフォルネウスの尻尾が、剣に絡みついたので、此方も秀一から距離を取る。

その間を、秀一は駆けた。すぐ後ろを、クロトとサルタヒコが続く。ニーズヘッグが、ハンドサインの通り、バアルの頭上に冷気の息を吹き付ける。鼻で笑ったバアルが、秀一が真横に飛ぶのを視線だけで追いながら呟く。

「そんな浅はかなコンビネーションで、余の守りを崩せると思うたか」

「さあてな、それは此処からのお楽しみだっ!」

クロトが、最初に仕掛けた。もう何度もバアルの一撃を食らっているのに、回復術をフル活用して、そのたびに前線に舞い戻ってきている。ただし、ガス欠もこのままでは近く訪れるだろう。

振り下ろされた棍を、バアルが掴む。蹴り技、もしくは秀一かサルタヒコの横やりを防ごうと、バアルが左腕を動かす瞬間、クロトが意外な行動に出る。バアルに掴まれた棍そのものを支柱にして、高く舞い上がったのである。

「ほう?」

「うらあっ!」

棍を再具現化させ、ニーズヘッグの造った氷の橋を蹴り、倍加した速度で躍り掛かるクロト。だが、今奪い取った棍を使って、余裕を持ってバアルは受け止めてみせる。サルタヒコが腰だめした状態から、居合いを撃つ。衝撃波が鋭い刃となって襲いかかるが、それもバアルはするりと通り抜けて見せた、やはり、一度見せた技は通じない。

バアルが、目から閃光を放つ。サルタヒコが、爆圧に吹き飛ばされた。一軍を消し飛ばすような破壊力を持ったバアルの眼光だが、不意に放ったものだから、威力はたかが知れている。それでも、サルタヒコを百メートル以上吹き飛ばし、壁にまで叩きつけるには充分だった。体から煙を上げながらずり落ちるサルタヒコ。クロトが戦慄し、それでも蹴りをバアルに叩き込むが、視線さえ向けずに手を挙げてバアルが防ぐ。反応からして、鉄でも蹴ったような感触だったのだろう。蹴った方のクロトが呻いた。

「うあっ!?」

「さっきの仕返しだ」

バアルが、クロトの足を掴んで、無造作に床にたたきつける。そして目から光を放って追撃。爆発の中に、クロトが消える。

「どうした、息切れが著しいな。 もう少し、大きな技で攻撃してきてはどうだ」

「なら、こんなのはどう?」

バアルが振り返った先には、今の間に詠唱を済ませていたサナ。今までも中距離支援には非常に巧みな所を見せていたサナだが、さっき繭から出てからと言うもの、それに磨きが掛かっている。秀一も詠唱を既に済ませていた。クロトを襲った爆発の煙を切り破り、前に出る。

前後で、バアルを挟む形になった。

オセ・ハレルが支援しようと動いた瞬間、マダが蹴りを叩き込む。剣をクロスさせてガードしたオセ・ハレルが、マダを睨んだ。フラウロス・ハレルも此方に来ようとするが、フォルネウスの冷気の息が、ことごとく進路を塞ぐ。

どちらも、眼前の敵に全力投球する気になった様子である。マダが指先でオセ・ハレルを招き、フォルネウスが速度を上げる。そんな中、秀一が、まず動く。

両手を拡げ、風の刃を叩きつける。バアルが翼を拡げて対抗しようとするが、既にその一本は折れているのだ。わずかに動きが鈍った瞬間、サナが動く。小さな手を前に突き出し、吠えた。

「これでも、喰らえっ!」

ジオダインの数倍の太さを持ついかづちの蛇が、サナの指先から放たれる。それはバアルを直撃。全身に巻き付いて、閃光を放ちながら雷撃を叩き込む。バアルが、僅かに呻く。肌の一部が爆ぜ、鮮血が噴き出す。しかし、立ち直るのはバアルが速い。右手をサナに向けると、彼女が放った以上の雷撃を返す。切り返すサナだが、流石に地力が違う。吹き飛ばされて、地面に叩きつけられた。

その間に、秀一が着地。床を踏みしめ、印を切る。バアルに向けて、目から光を放つ。最近は使用頻度が落ちていた、螺旋の蛇だ。振り返り様に、手を動かすだけで弾いてみせるバアル。だが、それは計算済みだ。

煙の中から飛び出してきたクロトが、僅かに動きが鈍ったバアルの右手を、真下から棍でしたたか打ち据える。バアルの守りは、その手によって主に行われている。蹴り込まれ、再びはじき飛ばされるクロトと入れ替わりに、秀一が腕の刃を振り上げる。バアルが手刀で迎撃。二合、三合。刃を交えるうちに、少しずつ動きが読めてきた。やはりバアルは、トールの動きをベースに、独自の武術理論を構築している。トールのマガツヒから、それを解析。僅かに、隙が見えた。

腕を掴む。そして、脇腹に、蹴りを叩き込む。

ほんの少しずつだが、打撃が入り始めていた。そして、悟る。この耐久力であれば。至高の魔弾を浴びせることが出来れば、確実に倒せる。問題は、其処まで動きを止めるのが、可能かどうかだ。

逆に腕を掴まれ、地面に投げつけられる。背中から叩きつけられた秀一に、真上から雷撃が叩きつけられていた。

 

オセ・ハレルが回転しながら、剣を叩きつけてくる。流石に速い。少しずつ下がりながら、マダは拳を固めて、斬撃を受け流す。マダの特異体質は、物理的な衝撃をことごとく受け流す事だ。だが、オセ・ハレルは急速にそれを学習、マダの防御の隙間を縫いながら、斬りつけてきている。

肘が、脇が、少しずつ血をしぶく。目に全く感情を持たないオセ・ハレルが、気合いと共に、傷口に剣を叩き込んできた。此方も気合いを入れて、傷に剣が入った瞬間、不自然にねじり上げる。

砕けたオセ・ハレルの剣。だが、即座に再生した。前蹴りを浴びせるが、跳びずさって距離を取られる。そして、残像を残しながら、再び間合いを詰めてくる。

「なあ、オセよ」

返答はないことを最初から理解した上で、マダは語りかける。近くで、バアルが秀一に対して、連続して火球を浴びせている。爆発の余波が飛んできているが、気にしない。必ず秀一ならどうにかすると、信じているからだ。

拳を左右から叩き込むが、オセ・ハレルは剣技だけでも完璧に再現されているらしい。それぞれの拳を受け流しつつ、懐に飛び込んで、切り上げてくる。剣を紙一重でかわしながら、なおもマダは言う。

「お前が死んでから、大変だったんだぜ。 ミトラがお前の後を牛耳ろうとしたり、カエデをみんなでもり立てたりしてな。 氷川司令なんか、ずっとお前の剣を取っていたんだぜ。 新しい世界に語り継ぐってな」

反応無し。膝を蹴って跳んだオセ・ハレルが、顔面に蹴りを叩き込んできた。流石に数歩下がるマダの頭上から股下に掛けて、一気に切り下げてくる。何カ所かに鋭い傷が走って、閉口したマダが蹈鞴を踏む。

躊躇無く踏み込んできたオセ・ハレル。純白の体が、マダを殺すためだけに、剣を向けてくる。一本の剣は、そのまま砕いた。だが二本目が脇から入って、三十センチほど深々と切り裂いた。

痛烈な打撃。しかし、その瞬間。

マダが、ついにオセ・ハレルの腕を捕らえていた。

「オセは、俺のダチだった。 無口で、真面目で、怒りっぽくて。 ついブリュンヒルドを説得する時に飲みすぎた時なんて、本気で怒られてよ。 正座して説教聞く羽目になってな」

「ハナ、セ」

「おお、離してやる、よっ!」

何度も肘を切り上げてくるオセ・ハレルの腕を放しつつ、全力で蹴りを叩き込む。吹っ飛んだオセ・ハレルに空中で追いつくと、両拳を固めて、振り下ろす。オセ・ハレルが、床に叩きつけられ、クレーターを造る。更にとどめとばかりに、背骨を全体重を掛けて踏みつけていた。

「だから、許せねえ。 あのオセの野郎が、ニヒロ機構を支えた俺のダチが、こんな簡単な戦術に掛かるわけがねえからなあっ! てめーはオセじゃねえ! ただの白くて格好だけ付けた、人形だっ!」

血を吐くオセ・ハレル。体液まで白い。足を切り上げてきたので、飛び退くと、更に拳のラッシュを浴びせる。剣を構えて幾つかを受け流すオセ・ハレル。だが、顔面に一撃が入ると、後は一方的な展開になった。

腹にもう一撃。吹っ飛び、壁に叩きつける。ニーズヘッグの至近。構えを取るカザンと、冷たい目で此方を見ているカズコに気付く。

カズコも、オセとは面識があると聞く。膨大なマガツヒが、いつの間にか周囲に溢れていた。狙いが読める。オセが死んだ時のことを、思い出す。歩いていく。オセ・ハレルの手前に。飛び起きたオセ・ハレルが、剣を突き出してきた。

その剣先が、僅かにずれる。

膨大なマガツヒが、オセの感覚を狂わせたのだ。スペクターに殺された時も、そうだった。

そして、オセが、あの剣においてはボルテクス界随一だった男が。そのような手に、二度も引っかかる訳がない。

脇で、オセ・ハレルを受け止める。

そして、一息に、首をへし折っていた。

マガツヒになって消えていく、偽オセ。マダは大きく歎息すると、自らの傷も浅くないことを察して、びっこを引きながらカズコの所へ戻ることにした。鮮血が傷から溢れ、こぼれている。四本ある手で深い傷を押さえながら、一歩一歩、進む。

不意に、思い出す。

自分は、警官だった。酒が好きで、若干いい加減な所はあったが。職務に誇りを持ち、毎日を治安の維持と住民の安全に捧げて生きる、巡査だった。交番での勤務は充実していた。体が大きかったから、暴漢を取り押さえることもあり、老人に道を教えることもあった。

警察の腐敗は、その体で感じていた。無能なキャリアに引っかき回された警察内部の改革はしなければならないことも分かっていた。だが、難しいことを考えるのは苦手だった。だからただ、ひたすら職務をこなすことで、自分に出来ることをしたかった。

ふと、我に返る。そういえば、そうだった。自分はそんな奴だった。ニヒロ機構に入ってからも、自分に出来ることを全力で探して、こなし続けた。お酒を皆に配って士気を維持し、頑丈な体を使って部下達を守った。そして今。かっての友を侮辱した悪しき存在に、引導を降そうとしている人修羅に、最大限の支援をすることが出来る。

いつの間にか、前のめりに倒れていた。立ち上がろうとしても、体が動かない。致命傷では、無かったと思う。だが、今は動けない。

オセのことを思い出して、マダは微笑んでいた。馬鹿野郎、先に逝きやがって。そう呟くと、マダは意識を手放していた。

 

フラウロス・ハレルが自分を殺す気になった事を感じて、フォルネウスはようやく心が楽になるのを感じた。

フラウロスは良い上司だった。多少はがさつであったし、怒りっぽい所もあった。オセに良くいい加減さを責められていたし、フォルネウスも時々呆れた。だが、オセが柔の剣であれば、フラウロスは剛の剣。オセと双翼を為し、その死の後は、ニヒロ機構最強の豪傑として、組織を支え続けた男だった。

まさに英傑。好漢という言葉がこれ以上もなくよく似合う、孫の婿にしたい良い男だった。

それなのに。この目の前にいる偽フラウロスはどうだ。目には感情もなく、ただ戦闘能力だけを抽出しただけの存在。そんな輩が、あの男気溢れる好漢フラウロスと同じなものか。

静かな怒りを、出来るだけ押し殺して。フォルネウスは語りかける。

「さっさと掛かってこい、ニセモノめ。 フラウロス将軍の格好をしているだけで、虫酸が走るわ」

返答は無し。ただ、大剣を構え挙げて、突進してくる。

芸が少ないフォルネウスには、あまり好機がない。戦闘能力だけしか再現できていなくても、フラウロス・ハレルは充分以上に手強い相手だ。だが、どれだけ年老いても、枯れ果てても。

戦士には、やらなければならない時があるのだ。

跳躍したフラウロス・ハレルが、大上段から剣を振り下ろしてくる。閃光の滝のような一撃。かわすが、僅かにひれをかすった。無理に体勢をねじり、フラウロス・ハレルの剣が切り上げてくる。今度は尻尾をかする。

体勢を立て直して、冷気の息を浴びせかけようとした瞬間、直上に殺気。紙一重で避ける。フラウロス・ハレルの手を離れた大剣が、串刺しにしようと降ってきた所だった。ひれに、大きな傷が刻まれる。剣を再度手に取ったフラウロス・ハレルが、また跳躍して、躍り掛かってくる。

戦慄が背骨を駆け抜ける。だが、心は折れない。折れる訳にはいかない。

「貴方は素晴らしい方でしたぞ。 わしの出来の悪い孫の婿になってくれれば、どれほど幸せだったことか」

轟と、フラウロス・ハレルの大剣が音を立てた。再び、至近を掠める。体に、決して浅くない傷が増えていく。しかも、避けたと思った瞬間、別の方向から跳んでくる剣。剣を自在に使いこなし、剛だけではなくトリッキーな剣も見せたフラウロスの技を、見事に再現している。流石はバアルである。やり方は気に入らないが、見聞きしただけのフラウロスを、此処まで再現できることだけは評価できる。

七度目の攻防をこなした後。フォルネウスの体は、傷だらけになっていた。だが、負ける気はしない。もし本物が相手だったら。もう三度は殺されていたはずだ。

チャンスが、見えてきた。フォルネウスは、冷気の術式に関しては、この場の誰よりも習熟している自信がある。今までも、それを武器にして敵の追撃を防ぎ、味方を援護してきた。

隣で秀一がバアルに苦戦している。だが、必ず勝つと、フォルネウスは確信している。だから、フラウロス・ハレルとの戦いに、全力を集中できるのだ。

不意に床に冷気の息を吹き付け、壁を造る。フラウロス・ハレルは目もくれず、突進してくる。目には何の感情も宿っておらず、画竜点睛を欠くとはこのことだ。かわしながらも、冷気の息を吐き続ける。氷の壁は成長し続け、床も見る間に凍っていく。大上段からの一撃。ひれの一部をえぐられ、持って行かれた。しかし、無視して、更に冷気の壁を成長させる。

着地したフラウロス・ハレルが、左右を見回し、一瞬だけ動きを止める。

傷に耐えながら、冷気の息を撒き続けた甲斐があった。ようやく、というべきだが。

今まで観察した、フラウロス・ハレルのスペック。それを計算に入れ、神経を削る防戦に耐えながら、奴が跳躍し、着地できる範囲内に、ことごとく氷の床を張り巡らせた。もちろん、其処へ着地すれば、滑って身動きが取れなくなる。剣で床の氷を砕かなければ、まともに着地は出来ない。

考える時間は与えない。再び冷気の息を浴びせかける。飛び上がったフラウロス・ハレルが、剣を床に投げつけた。だが、それが狙いだ。砕かれた氷が、一気に再凍結していく。もっとも強力な氷の術式を、傷に我慢しながらかけ続けたのだ。今や床の温度は、マイナス200℃に達している。下手に触れれば、あの剣と同じ運命だ。

だが、再凍結するよりも、フラウロス・ハレルの動きの方が速い。フラウロス・ハレルが、新しい剣を出現させようとする。だが、させない。至近に接近し、全力で体当たりを浴びせる。バランスを崩したフラウロス・ハレルは、自らと同じ純白の床に、真っ逆さまに落ちていった。

「やはり貴様は、フラウロス様ではありえぬのう」

「ギ、ガ……!」

それでも、猫科の柔軟な体を利用して、フラウロス・ハレルは床に拳を叩きつけようとする。その悪あがきを、フォルネウスは尻尾の毒針を叩き込むことで中断させた。フラウロス・ハレルが尻尾を掴み、フォルネウスを道連れにしようとする。だが、フォルネウスは目を閉じると、尻尾を自ら切り落とした。切り札の一つ、自切である。もちろん多大な損害を受けるが。しかし、どうせ時間さえ置けばまた生えてくる。

尻尾を掴んだまま、フラウロス・ハレルが地面に叩きつけられた。純白の全身が、見る間に凍結していく。とどめと、フォルネウスが最後の力を振り絞り、冷気の息を浴びせかけた。断末魔の絶叫を挙げながら、白いフラウロスのニセモノは、見る間に氷像へ化していった。

氷像に罅が入り、やがて粉々に砕ける。

殆ど力は使い果たしてしまったが。かって敬愛し、今でも尊敬をしているかっての主君への侮辱は、見事に張らすことが出来た。ふらつきながらも、カズコの方へと、戻っていく。

まだ、戦いは終わっていない。バアルを倒すには、フォルネウスの努力が必要不可欠であった。

どうしてか、微笑むリコの姿が脳裏に浮かぶ。そうだ。思い出す。孫だ。

恐らくこれは。前に小耳に挟んだ、人間の記憶。

茶道の家元だった。若い頃は何に着けても腹立たしく、家を継ぐ気など無かった。伝統は旧弊だとしか思えず、家柄など糞喰らえだった。悪い仲間も出来たし、何をやったところで仕事も長続きしなかった。酒ばかり喰らい、何もかもを馬鹿にしていた。

しかし、それにも転機が来た。

両親が病に罹り、その衰えた姿を見てから、考えが変わった。寂しそうにしている両親を見て、今まで眠っていた良心がやっと目覚めたのである。両親が残した、今の世までつないできた伝統。それを中年になってから必死に学び直し、満足して逝くのをようやく見届けることが出来た。

さほど大きな流派ではないが、家元としての責務は果たし続けた。遅くなってから結婚し、子供も出来た。やがて老いて体がまともに動かなくなって。そしてその頃には、性格も別人のように円くなっていた。

孫が、目に入れても痛くないほど可愛いと思えるようにもなっていた。

不幸にも、孫はスポーツとか言うものばかりやっていて、髪をいつもぎちぎちに束ねて、肌を真っ黒に焼いていた。それでも、可愛い孫のすることだから、認めてあげたかった。せめて、素敵な婿を見繕ってやりたかった。

妻にも先立たれた頃、気付いた。呆けが来始めている事に。かって、両親が五月蠅くて仕方がなかった自分を思い出して、焦りも感じた。だが、容赦なく呆けは体を蝕んでいった。

茶道を続けられるのも、後何年だろう。そう思うと、悲しくもあり、感慨深くもあった。孫の成長だけが、今は楽しみ。願いはただ一つ。白無垢を着る孫の姿を、見ることが出来れば。妻の所へ、逝くことが出来る。

我に返る。いつの間にか、ニーズヘッグが至近にいた。その頭の上に、軟着陸する。

「フォルネウス殿!」

カザンの悲痛な叫びが聞こえた。カズコが、口を押さえて、涙を浮かべているのが見えた。リコは。そうだ、典子は。わしの可愛い孫はどこだ。無事か。ぼけつつある頭がいらだたしい。

大きな音を立てて、戸が開く。傷つきながらも、辿り着いた孫の姿。満足だった。フラウロス殿がもし生きていれば。そう思うと残念だったが、今は生きていてくれただけで、良かった。

意識を失ったフォルネウスは、満足して、笑みを口元に浮かべていた。

 

右手の剣を、するりとかわされる。戦慄するリコの懐に入り込んだハリティが、肘を腹に叩き込んできた。とっさに下がらなければ、それで内臓が潰されて、勝負がついていた。息が上がってくる。ハリティも少し呼吸が乱れてきているが、まだ余裕がある。

実力は、恐らく五分。だが、だからこそに、疲労が蓄積している分、此方が不利だ。そしてこのまま戦い続けると、加速度的に敵が有利になっていくだろう。

構えを取り直すと、ハリティは美しい顔に、素直な感嘆を浮かべていた。

「腕を上げたな。 あの弱虫リコが。 技術も力も、私とほぼ互角の領域ではないか」

「あたしだって、いつまでも、弱いままじゃないッスよ」

「それが私には驚きだ。 私が育ててきたものは、みな見立ての素質通りに成長してきたからな」

何だか、部活のセンパイのようなことを言う。女子空手部の主将だったセンパイは、冷酷な人で、後輩から恐れられていた。こんな言動を繰り返していたから、部活をやめる仲間も多かった。だが、部そのものは強豪で、何度も県大会の上位に食い込んだものだ。怖かったが、間違いなく憧れの存在であった。

其処まで思い出して、悟る。これが、きっと人間だった頃の記憶なのだろうと。

ずっと追いかけていた先輩がいた。恥ずかしくて声を掛けられなかった。孤独な思いであったが、見ているだけで幸せだった。いつも三人組で行動していたその先輩は、クールを通り越して木訥としていて、だがどこか切れ味鋭い刃物のような所があった。その鋭いところが、リコには素敵に見えていた。

あの人は、今どうしているのだろう。

決まっている。あの災厄に巻き込まれて。きっと死んでしまったのだろう。

それなりに満ち足りた生活だった。部活は充実していたとは言い難かったが、好きな人を見ていることも出来たし、優しいおじいちゃんもいた。家族とだってそれなりに上手く行っていた。

リコは、人間だった時の方が、幸せだったかも知れない。もっとも、もはやそれも帰らぬ過去だ。

今は、榊センパイのために。全力で戦い、そして勝つ。

剣を構え直す。勝とうとするのなら。余力を残すのを、考えてはいられない。少し前から、殺し損ねた奴の一人が、死んだふりをしたまま、此方の動きを伺っている。これを、利用しない手はない。

踏み込んだハリティが、中段からの蹴りを見舞ってきた。軽くかわしながら、わざと死んだふりをしている奴の前に移動。案の定、飛び起きたそいつが、斬りつけてくる。斬られたふりをしつつ、体勢を崩す。眉をひそめたハリティが、蹴り上げ、踵を振り下ろしてきた。

肩に踵を受けつつ、剣を腹に突き刺す。剣が、ハリティの体を、見事貫いていた。だが、必殺の踵の威力も凄まじく、地面に叩きつけられる。そして、残ったヤクシニーが、その場に殺到してきた。

肩の感覚がない。だが、此処で引く訳にはいかない。飛び起きると、リコは一人の修羅となった。目につく相手に襲いかかり、蹴り上げる。斬り伏せる。風の力を全開に、周囲の敵を吹き飛ばす。何太刀も体に浴びた。だが、如何に体に傷を造ろうと、リコの気力は衰えなかった。

いつの間にか、包囲を突破していた。後ろには、膨大なマガツヒが漂っていたが、喰らっている暇はない。あと少し、あと少しだ。他にも敵の部隊が幾らかいたが、リコの形相を見て、皆無言で退く。びっこを引きながら、リコは歩く。もう少しで、榊センパイのいる、あの部屋に辿り着く。

後ろに殺気。

振り返る。ぼんやりと見えるそれは、恐らくハリティ。剣を腹に刺したまま、稲妻のような蹴りを叩き込んでくる。不意に頭が静かになった。これならば、無理に対応しなくても。

体中傷だらけなのに、不思議と良く動く。すっと片足を引きながら、剣を捨てて、両手を前に出す。どう動けばいいか、体が理解していた。

蹴りを右手で捌きながら、左手をすっとハリティの腹に当てる。踏み込みながら、全ての衝撃波を叩き込む。大量に口から吐血したハリティが、笑みを浮かべた。

「見事。 私を、超えたな」

「……」

意識が、既に遠くへ行きつつある事を、リコは妙に冷静に悟っていた。今は、ただ、行かなければならない。バアルは、誰かが欠けて勝てるような相手ではない。歩む。そして、戸の前に、辿り着いた。

残った力を掛けて、押し開ける。中にはいると、戸は自然に閉じた。

戦う榊センパイの姿。辿り着いた。後は、少し傷を回復して、それから。

「リコッ!」

誰かの声。懐かしい。そうだ、この声は。振り返ると、頭から血を流して、駆け寄って来るサナの姿。少し服が豪華になって、髪が紫色を帯びて、背中の注ェがアゲハチョウぽくなった以外は、あまり変わっていない。背は低くて、童顔。だが、随分心強く見えた。

「大丈夫っ!?」

「サナさん、起きたんスね。 あ、あたし、は」

「しばらく寝てろ。 致命傷じゃないから、僕がすぐ直す!」

無理に横たえられる。ふと、ニーズヘッグの上で伸びているフォルネウスが見えた。懐かしい感じがした。ひょっとすると。

お爺ちゃんは。

一度気が抜けると、意識が落ちるまで、そう時間は掛からなかった。

ただ今は、体を休めようかと思った。

 

クレーターの中央で立ち上がった秀一を見て、露骨にバアルが眉をひそめる。何度倒しても立ち上がる秀一を見て、いい加減気味が悪くなってきたらしい。特に今は、メギドラオン級の火力が直撃したのだ。回復しつつある皮膚が、黒こげになった部分を押し上げる。何度か払っている内に、傷は綺麗に消えていく。全てが回復はしないが。

もちろん、それにはタネがある。意志の力だけで、どのような攻撃を受けても立ち上がるような存在などいない。

まず第一に、秀一は今防御に努めている。リコとマダ、フォルネウスの復帰を待ってのことだ。カズコの膨大なマガツヒと、さっき指示を出して回復を任せたサナの行動があって初めて取れる作戦行動である。そして更に重要なのが、元々の回復力と、手にしているヤヒロヒモロギに蓄えた、マガツヒの力だ。まだ少しだけ残っている。アサクサに残っていたマネカタ達のマガツヒだ。無駄には出来ない。そして、今。バアルは、確実に押され始めている。

肩を押さえ、腕を回しながら、秀一はゆっくりバアルに歩み寄る。傷は酷いが、まだまだどうにかなる。アーリマンとノアのマガツヒを取り込んだこともあるし、そう簡単には死なない。

「クロトは下がって、フォルネウスとマダの回復。 サルタヒコ、支援を頼む」

「分かった。 無理は、するなよ」

「お前もだ、クロト。 自分の傷も治しておいてくれ」

「おのれ。 貴様、一体何者だ」

バアルが、はじめて泣き言を口にする。威圧的な口調だが、千晶としての地が出ていることを、秀一は悟っていた。伊達にずっと一緒にいた訳ではない。並の兄弟よりも、ずっと良く知っている相手だ。

「知っての通り、榊秀一だ。 お前の幼なじみで、今コトワリを争う相手だ。 忘れた訳ではないだろう、千晶」

「その名を呼ぶな! 我はバアル! この世の頂点に立つ者だ!」

哀れだなと秀一は思った。さっきまでは、良かった。まだ、最強の自負があった。だが、今の千晶は。今まで味わったことのない状況に、困惑し始めている。そして、自分でも気付かぬうちに、それが怯えに代わり始めている。

千晶は強い。人間だった時も、確かに桁違いに強かった。頭も良かったし、何もかもが他人の能力を卓絶していた。

だが、それが故に。負けると言うことを知らない。

傷つくことは知っていたはずだ。だが、自分が何にも勝ってしまうから、それ以上の相手に押しつぶされる感覚を知らないのだ。どんな人間であっても、未知の存在と状況には恐怖を覚える。それは、最強に極めて近い千晶でさえ例外ではない。

そう。恐らく人類最強だったであろう徳山徹、トールの前身だった男でさえ、そうだったのだから。トールのマガツヒを取り込んだ今ならよく分かる。彼でさえそうだったのだから、恐怖を知らぬ人間などいないのだ。

バアルの体には、傷が増え始めている。至近から、至高の魔弾を浴びせれば、倒せる。耐久力では、恐らく今まで戦ってきたどの守護にも劣るだろう。だが、単純な近接戦闘能力は、今までで一番だとも言える。だから、当てるのは至難だ。

皆の力を借りるしかない。

マネカタ達の力と、皆の力を合わせて、バアルを倒す。それが、今の秀一の、基本的な方針だった。

バアルは混乱しつつある。だから、それを最大限に利用する。ただし、今まで千晶に勝負事で勝ったことはただの一度もない。どんな切り返しをしてくるか分からない。最大限に警戒しながら、事を進める必要がある。

バアルが両手を拡げて、魔力を集中し始める。そして、数秒後には、両こぶしに、光の塊をまとわりつかせていた。巨大なメリケンサックを振るうと、バアルは凶暴な笑みを浮かべる。元々完璧にも近い造型が故、その恐ろしさは言語を絶するものであった。

「余自ら、肉塊へ変えてくれようぞ。 流石の貴様も、頭を潰されれば無事ではいられまい」

「そう上手く行くかな」

クロトとサナの回復が、どれだけの速度で皆を回復させるか。もう少し、バアルの頭の血を上らせて、攻撃にも耐え抜かねばならない。カズコもかなり無理をしてマガツヒを絞り出している筈で、ぎりぎりの勝負になる。

バアルが高度を落とし、低い位置から躍り掛かってきた。左右に残像を残しつつ、瞬く間に間合いの中に。下から伸び上がるようにして跳んできた拳が、秀一の顔面を、紙一重の差で捕らえ損ねる。空気をえぐる音に、流石に肝が冷える。至近から、蹴りが飛んできた。受け損ねて、はじき飛ばされる。十メートルほど、床を擦りながら下がり、飛び起きると、至近にもう拳が迫っていた。

右手で弾きながら、正中線をずらす。拳が床に直撃。クレーターを造る。バアルが、吹き飛ぶ石塊の中、振り返る。今の攻防の隙に、至近に迫っていたサルタヒコが、刀を振り下ろしていた。

バアルが、手の甲を巧く使って剣の腹を押さえ、軌道をずらす。その隙に、秀一が飛び退き、火球を浴びせた。サルタヒコに蹴りを見舞い、はじき飛ばしたバアルが、唸りを上げて迫る炎の弾に真っ向から突入、力づくで吹き飛ばす。そして、上空に跳躍していた秀一を発見。流石に、同じ手は喰わないか。

顔を少し焦がしながらも、バアルが地面を蹴る。見る間に音速を超えたのが、周囲の様子から分かった。拳を繰り出してくる。そこで、バアルは、不意に目に冷静な光を取り戻した。

「そうか、そう言うことか」

振り返り様に、サナが放った雷撃を、素手で弾いてみせる。手に溜めていた魔力が相殺されて消え失せるが、意にも介していない。

「余の頭に血を上らせて、その間に部下共を治療するつもりであったか」

バアルの視線の先には、必死にマダに回復術を掛けているクロトの姿。そして、祈るようにしてマガツヒを絞り出し、周囲に充満させているカズコの姿。ニーズヘッグがその前に立ちふさがっているが、バアルが本気で突入してきたら、支えられる訳がない。

「だが、それだけとは思えぬな。 なるほど、貴様の最大奥義か何かを、余に至近距離から叩き込むつもりか。 そのための捨て石を準備するために、今まで防御を主体に耐えてきたという訳か」

「流石だな。 その通りだ」

まさか、この状態から精神的に切り返してくるとは。流石だと、秀一は思った。飛来する影。

「乗れ、秀一ちゃん!」

「こざかしい蠅が、まだこの辺りをうろうろしておったか」

無言で、飛来したフォルネウスの背に乗る秀一。バアルは翼を動かさずにホバリングしながら、忌々しそうにフォルネウスを見た。

「ならば、蠅どもを先に捻り潰しておくか」

掌を、天に掲げるバアル。メギドラオンだ。しかも、この部屋全てを、巻き込むつもりだろう。ある程度自分にも打撃が来るのを承知の上で、此方の戦力を削ごうという訳だ。まずい。負傷しているリコや、マネカタであり耐久力のないカズコは、こんな攻撃を受けたら生き残れない。残忍な笑みを浮かべるバアル。秀一も至高の魔弾の詠唱を開始するが、間に合わない。

その時。全ての時が止まる。

バアルの右腕が、途中から、切り落とされていたのだ。

 

唖然としたバアルが振り返る先には。掌を向け、静かな瞳で自分を見つめるヤクシニーのリコの姿。リコの目は静かで、なにやら一皮剥けた印象があった。秀一も、見たことのない目だった。

「今ッスよ!」

鋭い叱責。同時に。全員の総反撃が開始される。まさかこれほどの速さで、回復が終わるとは。いや、違う。少なくともリコは、相当に無理をしている。地面に落ちていく右手を呆然と眺めやっていたバアルに、最初に迫ったのは、マダだった。此処まで、跳躍してきていたのだ。

「おおらあああっ! これでも、くらえっ!」

四本の腕を二対に組んで、鉄槌として振り下ろす。金床にハンマーを振り下ろしたような音と共に、バアルが地面に落下する。其処へサルタヒコが居合いからの衝撃波を、攻撃に転じたカザンが手にしていた槍を投げつける。槍が注ェの一本をへし折って背中に突き刺さり、鋭い傷口がバアルの肩から背に掛けて走る。

途中で立て直そうとして羽を広げたバアルが呻く。槍を無理矢理引き抜いている内に、迫っていたのはクロト。棍を回転させ、至近を抜けると同時に、七発の打撃を叩き込んでいた。まさに電光の一撃。其処へ、ニーズヘッグが全力の冷気の息を、更にサナが今までため込んでいたらしい極大の電撃を叩き込む。バアルが絶叫した。

「ぎゃああああああああっ!」

だが、流石に守護。まだ無事な左腕を振るって、力づくで冷気と電撃を弾き散らす。だが、それにより、上への注意は完全に逸れる。全速力で迫るフォルネウス。そしてその背では、秀一が至高の魔弾の詠唱を終えていた。印を切る。気付くバアル。まるで狼のように歯を剥き出しながら、目を光らせる。

分かる。バアルの全身の魔力が、集中していく。これは、ニヒロ機構の軍を相手に猛威を振るったという、破壊の眼光。しかも、全力での一撃だ。かなり無理をして短期間に放とうという状況だから、消耗も凄まじかろうに。しかし、全力を込めて、秀一の一撃を迎撃しようというのだろう。

「オオオオオオオオオオッ!」

「がああああああああああっ!」

雄叫びがぶつかり合う。真上から迫る秀一と、真下から天を見上げるバアルの間に、何者も入り得ぬ、殺意のグラウンドゼロが出現した。やがて収束しきった力が、互いから全力で、しかも至近から放たれる。

離れろ。叫ぶ。フォルネウスが、まだ側に蹲っていたクロトを加えて、全速力で離脱した。ニーズヘッグが皆の前に立ち、アメノウズメが汗を跳ばしながら舞って、皆の力を最大限に増幅。サナがシールドを展開するのが、視界の隅で見えた。

ぶつかり合いは、互角。周囲の空気がプラズマ化し、憎悪と暴悪の叫びを上げながら飛び散る。今、最後の蓄えを使う。一万のマネカタ達が、作り出してくれた力を、全て口に入れる。バアルが、その光景を見て、気付いたようだった。秀一が嫌にしぶとかった理由に。

「なんだ、それは!」

「ヤヒロヒモロギ」

「お、おのれ! 貴様が、手にしていたのか!」

「そうだ。 そして此処に詰まっているのは、マネカタ達から預かり受けたマガツヒだ!」

光が、徐々に力を増していく。バアルが、少しずつ、下へ押し込まれていく。だが、流石にバアルである。その意地は凄まじく、全エネルギーを解放、秀一を天井へじりじり押し上げていく。

だが、分かる。鬼のような形相をしているバアルだが、あれは千晶が、本当にくやしそうにしている時と同じものだ。千晶は両親について殆ど語りたがらなかったが、一度だけ学校で、クリスマスの前に同じ表情をしていたことがある。一瞬だけだったが、良く覚えているのは何故だろう。

その少し前に。千晶が珍しく、浮かれていたからかも知れない。

「お前は、マネカタ達に負けるんだ」

「だ、だま、だまれえええええっ!」

更に火力が上がる。だが、秀一は、冷静に同じ火力を保ち続けた。やがて、その効果が出てくる。無理をしたバアルの全身に、罅が入り始めたのだ。徐々に、確実に、秀一の至高の魔弾が、バアルの光線を押し返していく。

「お前が馬鹿にし、否定し続けた弱い者に、お前は砕かれる!」

「ぎおああああああああああっ!」

バアルが、狂気と、怒りと、殺意を混ぜた怒号を発した。そうだ。これでいい。

唯一千晶に勝てるのは、これしかない。

どんなときにでも、冷静に事を運べる。それだけだ。勝負事で勝ったことはない。だがそれは、力量の差が大きかったからだ。今は違う。そして、頭脳の出来の差を埋め合わせるには、相手の隙を突くしかないのだ。

千晶は気付いていない。今の状況なら、魔弾を避ければ充分に勝機がある。そして、バアルならば、それも難しくないと言うことに。無理をして力比べてこられれば、秀一には有利なのだ。

千晶の全身が、崩壊していく。一気に押し返されるが、それも想定内。やがて、千晶の体が、足下から崩れ落ちていった。頭だけになってもなお、千晶は浮いていた。

空中に残った残骸を、秀一の至高の魔弾が貫く。

そして、勝敗は決した。

 

着地した秀一の側に、バアルの首が落ちてきた。傷口から血がこぼれているようなこともなく、表情もむしろ穏やかだった。それは生物の残骸という印象を与えず、ただ壊れた神像のように見えた。

プライドの塊だった千晶。彼女の寄って立つ所は、己の強さしか無かった。家族がいなかったからだ。だが寂しいから、秀一達と連んでいた。最強であったかも知れない。しかし、トールのように、孤高にはなれなかったのだ。

それを愚かと見るべきか。それは違うと、秀一は思う。秀一は、千晶を気の毒な奴だと思う。彼女がしてきたことは、許せるものではない。しかし、社会の中で、強いという理由で孤立した彼女を、責めることが出来る人間は存在しないだろう。

敵手として相まみえ、そして勝った。

その結果だけが、此処にある。正しい方が勝った訳ではない。意志の強い方が勝った訳ではない。

ただ、千晶は、己が馬鹿にしていた者達によって倒された。そして、隙を突く形で、秀一が勝った。ただ、それだけだ。

膨大なマガツヒが降ってくる。それを吸い込んでいく秀一に、バアルが静かに言う。

「余の負けだ。 それにしても、驚いた。 まさか蠅にも劣るマネカタどもの力が、これほどであったとはな」

「俺は前に、イケブクロでマネカタ達に指示をして、悪魔との工事合戦に勝ったことがある。 彼らは臆病で意志も弱いが、きちんと力のベクトルを正しい方向に向けてやれば、大きな成果を上げることも出来るんだ。 それを見抜けなかったのは、千晶。 君の過失だ」

「……そうか。 余の目は、今だ世界の末まで捉えてはいなかったか」

「確かに君は強かった。 だが、強すぎたんだ。 だから、悪魔達でさえ、君にはついていけなかった」

千晶に、異論はないようだった。

最後の最後で、他者の言葉を千晶は受け入れることが出来たのだろう。

「君はもう休め。 後は、俺がやっておくから」

バアルの頭が崩れていく。それを答えだと、秀一は受け取った。

天井を見上げる。後は、この巫山戯た世界を作り上げたカグツチと。もしいるのなら、その裏にいる奴に鉄槌を降して、叩きつぶす。

それだけだった。

 

5、終わりの時が来たる時

 

バアルの気配が消えると、必死の防戦を続けていた毘沙門天は決意を固めた。既にミズチら造反組の勢力は大きく、今更ヨスガの思想を全うしようというものもいないだろう。更に言えば、シジマの思想についても、それは同じだといえる。

四度、カエデの親衛隊と刃を交えた。その進撃を遅らせることは出来たが、しかし。結局の所、劣勢を覆すことは出来なかった。

追撃隊を率いていた西王母も、結局ミズチ派だったらしく、人修羅を見失ってからは追撃速度を露骨にゆるめ。そして前線の各将も、今は戦意をなくしている。

「最前線に出る」

「毘沙門天将軍、しかし」

「もう、戦いは終わらせなければならない。 そう言うことだ」

意図を汲んだか、部下達がほっとした様子で顔を見合わせた。

結局の所。バアルが推奨するヨスガの思想は、力によって生きてきた悪魔達でさえもたじろがせるほどに、極端な覇道だったのだ。人修羅というジョーカーが現れてから、それはより顕著になった。そして、トールが致命傷を受けてからというもの。その思想を制御するものがいなくなり、破滅は決定的な段階へ進んでしまった。

シジマの軍勢も、今は進軍を停止している様子だ。恐らくは、状況の分析をしているのだろう。剣を部下に預けると、毘沙門天は前線へ。思えば、ゴズテンノウは有能な男だった。バアルはそれをも超える存在だった。

だが、彼らを巧く制御し、方向性を与えていたのは、やはりトールだったのだろう。

優秀なナンバーツーがいなくなった後、ヨスガは暴走を始めた。逆に、シジマは最後まで優秀なナンバーツーがいたから、崩壊を免れた。

対照的だなと、毘沙門天は思った。

バリケードを踏み越える。既に部下達が、前線に走り回って意図するところを伝えているだろう。誰も、毘沙門天の行動を止めなかった。むしろ、安堵の声さえ聞こえた。寂しいものである。

通路を歩いていくと、色々思い出してしまう。イケブクロが壊滅する前の事。ゴズテンノウの男気に触れ、トールの破壊的な存在に心を打たれ。ただ戦っていれば良かった頃の事を。

涙が出てきた。全てが、過去の話だ。女々しいと思って、涙を拭うが、止まらない。どうして、こうなってしまったのか。ただ戦っていれば良かっただけの時代が懐かしい。だが、考えてみれば、それも指導者に依存していたという事なのだろう。

敵が見えてきた。槍を構えている、様々な姿の堕天使達。彼らは丸腰の毘沙門天を見て、困惑していた。

「び、毘沙門天!」

「カエデ将軍に取り次いでいただきたい。 ヨスガは、シジマとの講和を提案する」

条件は五分。今だ多数の戦力が残っており、この先は更に堅固な要塞的地形が増える。このまま総力戦を続ければ、どちらのコトワリも壊滅する。今はシジマが押しているが、ヨスガにも予備戦力は多く、上級の悪魔も多数いるのだ。

ほどなく、護衛戦力に囲まれたカエデが姿を見せる。間近で顔を合わせるのは初めてだ。それにしても、本当に小さい。人間で言うと、中学生になったばかりくらいだろうか。

はて、中学生とは、何だ。

これが人間としての記憶なのだろうか。

「私が、今シジマの指揮をしているカエデです。 高名な毘沙門天将軍と、話す機会を持つことが出来て光栄です」

ぺこりと礼をするカエデは、何故かメイド服を着ていたが、別にそれはどうでも良い。シジマにはカエデにお着替えをさせて楽しむ事が趣味だとか言うニュクスがいるのは周知の事実だ。しっかりヘッドドレスまで着けている念の入りようからして、ひょっとするとカエデ自身も着替えが嫌いではないのかも知れない。

「私も勇名高い貴方と会えて光栄だ。 それで、本題だが。 ヨスガは、これ以上の戦いを望まない。 講和を所望する」

「貴方の一存ではないのですか?」

「指揮官達の中で、最強の存在が私だ。 ヨスガでは、基本的に最強の存在が、周囲に号令をする」

しばし考え込んだ後、カエデは側にいる堕天使に耳打ち。動きを見ていると、身体能力に関しては本当に人間並だ。魔力は凄まじいようだが、これで良くも歴戦の悪魔達を退けてきたものだと感心する。

「分かりました。 ただ、正直な話、講和だの和平だのといっている時間がもう無いかも知れません」

「創世か?」

「はい。 バアルが倒れたのは、此方でも確認しました。 そうなると、明確なコトワリを持つ存在は、人修羅一人になります。 我々は、ヨスガの思想で創世されるよりはましだという理由で、彼を支援してきました。 しかしヨスガは、彼の思想を支援できるのですか?」

それは難しい話だ。そもそも、人修羅のコトワリがいかなるものか、毘沙門天は聞かされていない。バアルであれば知っていたかも知れないが。

カエデは表情を崩す。笑顔を作るが、しかし子供らしくない表情だ。大人に揉まれて成長してきたからだろうか。

「講和は受け入れます。 特に人質などの条件等は必要ありません。 対等の講和で構いません」

「そうか。 これで戦いは止むのだな」

「ええ。 ただし、一つだけ。 我々は、最後まで人修羅の戦いを見届けようと考えています。 もちろん、人修羅が変節した時には、その背中を撃とうとも考えています。 ですから、塔頂上への通路を一つ、開けてもらえないでしょうか」

「……分かった。 手配しよう」

これは、本格的に、これから考えなければならないかも知れない。通路を戻る。カエデが軍を一旦後退させていくのが分かった。本当に、戦いは終わったのだ。

自陣に戻ると、毘沙門天はすぐに幾つかの通路からの撤退を命じ、生き残った幹部を招集した。特殊部隊の長をしていたハリティが命を落とし、最前線で戦い続けていた青龍も倒れていた。だが、他の幹部達は、皆無事で、毘沙門天の元へ集まってきた。

「これから、会議を始める。 恐らく、最後の会議になるだろう」

皆の顔に、疲労の色が濃い。

毘沙門天も、様々な思いを振り切り、これからするべき事を、皆に告げた。

 

ホルスは、舌打ちしていた。バアルと人修羅との戦いに割り込む隙が無かったからである。

確かに決戦場の周辺には空白が多かったが、その外はことごとくヨスガの軍勢か、シジマの兵達が固めていた。更に、西王母とカエデが張ったらしい結界が彼方此方にあり、それをどうしても弱体化した現状ではごまかせなかったのだ。

人修羅は回復を続けており、急激に戦力を回復している。今や奴はこのカグツチ塔にいる悪魔で最強の存在。とても手が出せる相手ではない。塔の屋上へ上がると、カグツチがただ燦々と輝き続けていた。見上げていると、不意に、脳裏に声が響く。

「お前は何者だ」

「……私はホルス。 エジプトの光の王子なり」

「いや、違うな。 汝はホルスではない」

不意に自己に対する否定。苦笑したホルスは、勝手なことをほざく光の玉を見つめた。

「汝は人間の思念が作り出した普遍的無意識の中にて醸造された、設定を持つ意識の塊に過ぎない。 人間が元々空想していた太陽神ホルスという架空の存在とは違う」

「ほう。 それで、それがどうかしたか?」

ホルスにしてみれば、別にそんな事はどうでも良い。ただ、ムスビの世界が創世されれば構わない。

「カグツチよ、そのような言葉遊びなどはどうでも良い。 それよりも、取引をせぬか」

「我は与えるもの。 取引などと言う行動は行わない」

「そういうな。 今、此処に来ようとしている存在が、いかなるコトワリを携えているか、知っているのか」

「知っている。 なぜなら我は、世界を創る存在であるからだ」

「ならば知っていよう。 奴が、お前を壊すつもりだと言うことを」

カグツチの反応が、僅かに遅れる。ホルスはしてやったりと思い、続ける。

「私が創世を為した時には、お前の存在を消去せぬ」

「我に取引は無為だと告げたはずだ」

「ならば人修羅に殺されるが良い」

身を翻すと、ホルスはわざとらしく歩き出す。二歩、三歩。さて、そろそろか。そう思った、その時。

ホルスの体を、真後ろから、小さな手が貫いていた。

 

崩れ落ちるホルスの後ろに立っていたのは、育ちが良さそうな金髪の子供。傍らには、喪服の老婆が立ちつくしていた。

マガツヒとなって消えていくホルスを一瞥すると、老婆は歎息した。

「坊ちゃま、最後の最後で、殺生をなさいましたな」

「仕方がないことだ。 もはやムスビのコトワリが成ることはないし、何よりも此奴の存在は有害だ。 世界そのものにとって、な」

振り仰ぐ先には、燦々と輝き続けるカグツチ。その光が、少年の不自然に大きな影を照らし出している。六対の巨大な翼を持つ、角の生えた男の影を。

「して、如何なさいますか」

「見届ける。 今回のあいつは面白い。 それだけではなく、私が思いもしない方法で、神を殺そうとしている。 これほどに痛快なことがあろうか」

嘲笑を浮かべながら、子供が消えていく。老婆もそれに続いた。マガツヒとなり、溶けながらも、ホルスはそれを見届ける。そして、ぎりぎりと歯を噛んだ。

おのれ。

このまま、済ませると思うなよ。

歪んだ憎悪が、恨みの言葉を発する。そしてマガツヒとなりつつも、強い意識を保ったまま、カグツチに溶けていく。

ほどなくして。

カグツチからあふれ出す光に、異常が生じた。

それは、審判の角笛が奏でる終末の楽章の、最後の一節。

ほどなく此処を訪れる者に対する、最悪かつ凶暴なる歓迎の宴の、開幕を告げるものであった。

 

(続)