孤独の結実

 

序、ノアの箱船

 

邪神ノア。正確には、名前さえも失伝した、古代の神。新田勇が融合し、もはや二人しか存在しない小勢力、ムスビの長にして守護である。

二人しかいないとは言え、その戦力は充分に悪魔数個師団に相当する強大なものだ。故に、第三勢力としてその存在を確保し続けている。ただし、ノアおよび新田勇自身には、積極的に動こうという気が見られない。

それも当然である。

新田勇は、もはや外界の全てが煩わしいと思うようになっていたからだ。巨大な精神生命体ノアと融合した結果、内部だけで全て自己完結できるようになっている。わざわざ外から取り入れなくても、膨大な情報で内部完結できる。もう、外は必要ないというのが、勇の本音だ。

ノアは孤独の神だ。遙か昔に、存在そのものが失伝してしまった神。人間の信仰から外れ、その残滓が多くの宗教の中で、分散して残ってきた。故に、その存在は希薄にして孤独。逆に、何処にでも存在していると言える。

薄く引き延ばされた意識の中で、勇は思う。自分が神となり、造られる世界はどのようなものなのだろうかと。

どの存在も、干渉しあわずに生きていける世界。それは恐らく、極めて小規模なものとなるのだろう。勇という巨大な泡の中に、幾つかの意識が浮かび、等距離を保つ。そしてそれぞれが、一つ一つの世界を無し、自己完結している。

シャボン玉で創られた、虹色の世界だ。

素晴らしい。実に素晴らしい。早く達成したい。

今は、まだ外からの情報を得なければならない。それが、酷く煩わしい。何もない闇の中で、ただ一人でいたい。世界そのものが、その法則を後押しして欲しい。それが、勇の本音であった。

「ノア様」

声がした。唯一生き残っている部下、ホルスのものだ。勇は膝を抱えたまま、ノアの眼球の中で身じろぎした。巨体がそれに合わせて動く。ホルスはそれを報告しろと言う意味だと理解して、跪いたまま言葉を発する。

「シジマが体勢を整えました。 現在は防衛体制を取りつつ、今後の事を話し合っているようです」

「話し合いだぁ? アーリマンが死んだから、合議制に移行したって訳かよ」

「そのようで。 それと、もう一つ。 件の人修羅が、少し下の階層にまで迫って来ております」

人修羅。榊秀一。

かって、ヨスガの長となっている橘千晶と共に、幼なじみ三人組として、いつも一緒にいた男。寡黙で冷静で、あの千晶も一目置いていた奴だった。

かっての世界で、勇は弱者だった。世間に合わせようとして必死だったのに、弱いという理由で、排斥され、嘲笑され、迫害されていた。奴は違った。弱くなかったからだ。寡黙で自立性が強く、世間の荒波の中で、平然と自我を確保していた。

かって、三人組の中で、勇だけが弱者だった。圧倒的な能力でやりたい放題をしていた千晶。寡黙で冷静な秀一。二人は、愚劣な周囲から、充分に自分を守ることが出来た。秀一に到っては、家族ぐるみでそれを行っていた。確固たる自己を持ち、世間の中で雄々しく立っていた。

勇だけが、違ったのだ。

どうして自分だけが弱かった。周囲に合わせようとすればするほど、叩きつぶされた自分と、どうして違っていたのだ。周囲への怒りが、それでせり上がってくる。だが不思議と、嫉妬はあれども、今でも二人は憎みきれなかった。

「もうじき、来そうか」

「いえ、今は奇襲を防ぎやすい見通しの言い部屋で休憩しているようです。 アーリマンとの戦いで、かなり消耗したらしく。 ヨスガとシジマが動きを止めている今の機を利用して、少しでも体力を回復しておこうというのでしょう」

何だ、つまらんと、勇はつぶやく。ノアも身じろぎして、その意思に反応した。勇にとって、もはや他人の意思などどうでも良いものに成り下がっている。だがそれは、かって他人が、「平均的人間」達が、こぞって勇の意思をどうでも良いと思ったからだ。社会で立派に受け入れられている人間こそ、勇にとっての敵だ。そう言う連中がしたことを、勇は絶対に忘れない。

他人が一切尊重しようとしないのに。どうして、勇だけが尊重する必要がある。

自分を棚に上げ、クズだ無能だと嘲る連中に、何故土下座までして、合わせなければならないというのだ。

対人運が悪かったのではない。何処へ行っても同じだったろうという確信がある。社会の中で、勇は確実に拒絶された。それが、人間の習性だと、勇は結論している。弱者は、どんな社会でも、虐待され排斥されるものなのだ。

拒絶の中で育った勇は、今他者を拒絶し返している。ただ、僅かに彼を拒絶しなかった存在である千晶と秀一が来ないのは、少し寂しくあった。

今では敵となってしまったが。二人になら殺されてもいいだろうと、勇はどこかで思っていた。

「まあいい。 来るまで待つとしようか」

「御意」

頭を下げると、ホルスは出て行く。あくまで白々しい奴だと、勇は思った。

ホルスが何か目論んでいることは、勇には分かっていた。だが、奴が何を考えていようが、どうでもいい事である。結論から言えば、ムスビの思想で創世できれば、それでいいのだ。紆余曲折などには、興味はない。ただ、今は。静かな一人だけの思索の時を、楽しんでいた。

孤独は心地よい。孤独の中にこそ、混沌があり、自我の発露がある。

世界を孤独で満たす事こそ、勇の今の夢。そしてそれは、間もなく実現するのだった。

ふと、試してみたいことがあったので、やってみる。

効果は予想以上。勇はほくそ笑むと、作業に熱中し始めた。

 

バアルは膨大な作業を高速でこなしながら、ふと戯れに思索した。手は書類の上を動き回り、判を押し、決を下し、要塞の構築を並行で進めている。バアルの能力であれば、それくらいは朝飯前だ。右手で書類を処理し、左手で術式を行使して部下に遠隔的に指示を出しながら、バアルは退屈しのぎに思考した。

バアルの戯れの題は、勇が創ろうとしているムスビの世界は、いかなるものとなるのだろうかというものであった。

もちろん、それに迎合するつもりはない。だが元々幼なじみであり、男と見なさなかったが故に対等な存在として話すことが出来た珍しい相手の一人である。思想的に相容れないとしても、興味そのものはあった。

様々な情報から推察されるのは、孤独そのものが法となった世界である。其処では個々が完全に独立し、小規模な世界の中で、泡沫として漂う。勇自身は泡沫を包括し、外殻そのものとして、自身も究極の孤独の中に漂うのだろう。

迎合は出来ない。だが、興味深くはある。

また、一部を支配に取り込むことも、不可能では無さそうだった。

シジマの思想もそうだが、究極的には、支配の形状の一つだとも言える。ヨスガのように分かり易くはないものの、ある意味合理的だ。支配者である勇は、手を下す必要がない。そればかりか、何一つせずとも、世界は勝手に動いていく。

ふと、気がついたことがある。そして、あまりに皮肉な結論に、含み笑いを漏らしてしまった。

もしも今バアルが考えたことが真実であるとすれば。今ノア=勇の元へ向かっている秀一は、さぞや面白いものを目にすることになるだろう。究極の孤独は、結局の所、それ相応の存在に過ぎない。

そしてそれが故に、バアルの思想とは相容れないものなのだ。

戯れを思考から追い払うと、再び作業に集中する。

ヨスガが世界を支配し、創世を行う時は近い。その時に備えて、バアルの悪魔的な頭脳は、フル回転を続けていた。

 

1,負担

 

秀一は気を張ったまま、壁に背中を預けていた。

アーリマン戦では、皆が傷ついた。サナは蛹になったまま目を覚ます気配もないし、リコもサルタヒコもまともに戦えそうにない。ニーズヘッグも傷だらけで、猛攻からカズコを庇い続けたカザンも似たような有様である。アメノウズメがあまり得意ではないという回復術を使って、せっせと皆を直して回っている状況だ。

どうにか、死闘の末にアーリマンは倒すことが出来た。だが、奴のマガツヒを吸収しても、すぐに使いこなせる訳ではない。単純な足し算で力が増える訳ではないし、むしろ大きすぎる力が故に、馴染むまではかなり時間が掛かってしまう。

他にも、問題は山積みである。ヨスガの動向も気になるし、何より今の不安材料は全く動こうとしないノアだ。今の状態で、罠にはめられたら全滅する。裏を掻くことが出来ればいいのだが、敵が動かないのではそれも難しい。

氷壁で塞いだ、四メートル四方ほどの窓を見る。其処から、皆で塔に入り込んだのだ。

塔の外壁を苦労しながら登り上がり、やっと中に入り込んだのがついさっきのこと。それまではヨスガやシジマの空軍に見つからないように、苦労しながらブロックを渡り、どうにか登ってきていたのだ。すぐ近くにノアが居ることは分かっている。しかし、迎撃の気配もないのはおかしい。罠を疑うのは、自然な思考だ。

シジマは完全に動きを止め、未だ上層に侵攻してくる様子がない。ヨスガも下層へ攻撃を仕掛けてくる様子が無く、それだけは不幸中の幸いだと言えた。

足音。顔を上げると、大柄な悪魔が、通路の向こうから歩いてくるところだった。余力があり、偵察に行ってくれていたマダだ。

「人修羅、ちょっと周りを見てきたぜ」

「どうだった?」

「なーんにもねえ。 罠どころか、悪魔の気配一つねえよ。 あんたの言うとおり、何かあるとしか思えねえな」

地響きを立てて、マダがあぐらを掻く。元々体が大きいだけに、あぐらを掻くだけでこの迫力である。大きい一方繊細な心配りも出来るようで、琴音が死んでふさぎ込んでいるカズコを、慰めてくれてもいた。最も、彼の場合、琴音とはかなり古い顔なじみであった事も、原因であるらしい。

逆方向に様子を見に行ったフォルネウスも、間もなく戻って来る。エイの悪魔は傷一つ無く、いつものようにふわふわと宙を舞いながら、秀一の至近にまで降りてきた。丁度水棲生物のエイが泳ぐ時のように、ひれが波打っているのが面白い。

「秀一ちゃん、こっちも何もなかったのう。 敵性勢力どころか、罠の一つも、それに猫の子一匹、じゃわい」

「そうか」

「何じゃ、その様子じゃと、マダちゃんのほうもか。 何だか、恐ろしげな雰囲気だというのに、面妖なことじゃのう」

「ムスビは元々少数精鋭主義だって話は聞いているが、にしてもおかしいよな。 迎撃の一つも無いなんてよ」

そう言いながら、フォルネウスとマダが地図に線を引いていく。周辺の図はもう出来ており、恐らくノアが潜んでいるであろう場所も、大体特定は出来ていた。ただ、まだ完全な特定には到っていない。もう少し偵察を重ねて、検証する必要があるだろう。

それにしても、この防備の薄さはどうしたことか。楽観的に考えれば、もう戦力が尽きているのかも知れない。シジマに対して派手に正面攻撃を仕掛けていたようだし、無事で済むとは思えない。しかしながら、楽観は思考の放棄だとも言える。

一番考えられるのは、ノアである勇に、余程自信があると言うことなのだろう。守護の力は圧倒的だ。正面からの戦いでは、まずアーリマンを倒すことは出来なかった。ノアもそれに近い力を持っている事は確実で、特に、特殊能力の類をフル活用されると、かなり危ない。

魔法が得意なサナが動けないのが、非常に厳しい。かといって、シジマやヨスガが本格的に動き出してからでは遅い。特にバアルがノアの力を吸収した場合、間違いなく手に負えなくなる。早めに動かなければならないが、焦ればそれで罠にはまる可能性が高いのがむずがゆい。さて、どう動くべきか。

影が出来たことに気付いて顔を上げると、いつの間にか、至近からアメノウズメが覗き込んでいた。

「怪我を見せて」

「俺は最後でいい」

「貴方で終わりなの。 幾ら回復力が異常に優れているからといって、傷は放って置いては駄目よ」

そう言われると、逆らいがたい。元々アメノウズメの言葉には、どうしてか逆らいづらいものもある。

手を見せると、アメノウズメは念入りに調べた後、回復術を掛けてくれた。痛みはそれで和らぐ。壁の破片が入っていた場所で、さっき外壁を登る時見つけて、無理に引っこ抜いたのだ。誰にも気付かれはしなかったが、少し痛くて難儀していた。

他の悪魔達を見ると、皆回復は一段落している様子だ。マガツヒのほうはもとより足りている。後は、気力と体力が充実すれば、仕掛けられる。

「リコちゃん、手伝って」

「え? あ、はい」

アメノウズメが、何か始める。リコを立たせると、なにやら道具を二人で用意し始めた。もとより二人はトールの部下である。年長者で先輩でもあるため、リコとアメノウズメには自然な上下関係が生じている。それを見ていたサルタヒコも手伝い始める。元マントラ軍の面々で、何を始めるつもりなのか。

バックパックから出したのは、茶道具一式だ。激しい戦いの中でも、壊れずに残っていた。術式で火をつけると、カップを温め始めた。湯が沸き始めて、なにやらいろいろしているうちに、出来たらしい。香ばしい茶の香りが漂い始める。慣れた手つきで、カップに茶を注ぎ始める。非常に手際よく、人数分、配られ始める。どこかで見たことがあるような光景だ。

「はい、どうぞ。 少し飲んで、気分転換しなさい」

「お、お茶か。 あれだ、酒を入れても良いか?」

「これは緑茶よ。 緑茶にお酒を入れるのは、あまり感心しないわ」

「何だよ、つまんねえな」

本当にがっかりした様子でマダが言うので、僅かに空気が和んだ。

茶は少し熱めに入れてある。カップは大きめで、皆が充分飲むほどの量があった。茶を飲み干して、少し気分も落ち着いた。体の痛みも、少しずつ引きつつある。女は固まって茶を飲み始めたので、男子は男子で別にグループが別れる。サルタヒコが、不意に話し掛けてきた。アメノウズメが、二杯目を淹れてくれる。

「人修羅、これからどうするつもりだ」

「ノアを屠る。 だが、もう少し、状態が改善してからだ」

「ノアはお前の友人だったのだろう。 殺せるか」

「殺るしかない。 向こうも昔の交友関係は抜きで、全力で殺しに来るだろう。 手を抜けるような相手じゃない」

秀一は反論を断つようにして、茶を飲み干した。少しだけ沈黙が続いたが、それを嫌がったか。マダが頭を掻きながら言う。

「カズコに色々聞いたんだが、このボルテクス界って、狭い範囲での争いが続いてるんだな。 俺は、考えてもいなかったよ」

「そうだ、な。 ヨスガの長のバアルは、元は俺の幼なじみの橘千晶。 ムスビの長のノアも、俺の幼なじみの新田勇だ。 シジマにいた高尾祐子は俺達の教師だし、アーリマンと融合した氷川は、先生と何かしらの関係があったらしいからな。 考えてみれば、非常に狭い世界なのかも知れない」

「何だ、人修羅。 あんたは事の中心にいるんじゃねえか」

「どうやらそうらしい」

改めて言われると、その不思議な縁に驚かされる。ただ、あまりにも良くできすぎているとも思う。

新宿衛生病院に呼び出されたのが、たまたま仲良し三人組だったという事も、その妙に濃い縁の始まりだ。だが、まさかそれぞれが、思想を体現する長となるとは。偶然と言うにはできすぎている。裏でほくそ笑みながら、全ての糸を引いている奴がいてもおかしくない。これもカグツチの仕業だろうか。だとしたら万死に値する。

人間時代から、三人の思想の違いは顕著だった。それぞれの社会的な力関係も、である。秀一と勇はどちらかと言えば社会的弱者だった。千晶は暴虐的なまでに強かったが、しかし社会には馴染んでいなかった。

結局、社会からはじき出されたか、それに近い状態の者達が、此処では主導権を握っている。したり顔で社会に馴染んでいることを自負していた連中ほど、待遇は悲惨なのだろう。或いは悪魔として形を為すことさえ出来なかったのかも知れない。

世界が変わる時は、そういう状況が訪れやすい。多くのマガツヒから得た情報が、そう秀一には告げていた。

茶が無くなる。流石にこの人数だと、憩いの終わりも早い。

そして、いつのまにか。精神には随分落ち着きが戻っていた。

アメノウズメが、カズコから出して貰ったマガツヒを飲み干して、再び皆に回復術をかけ始める。もう一休みしたら、ノアの元へ向かえそうだ。茶道具を片付け始めるリコを横目で見ながら、思索を始めようとした時だった。

足音が近付いてくるのに、秀一は気付いた。

 

敵意は感じない。だが、此処まで接近されるとは。上級悪魔であることは間違いないだろう。

立ち上がり、戦闘態勢を取る。他の皆も、それに習った。視線が集中する中、現れたのは、小柄な影。見覚えのある姿だった。

「クロトじゃねーか」

「マダか。 人修羅の下についたとは聞いていたが」

そう。其処にいたのは。

しばらくアサクサで保護していた、モイライの三姉妹が末。運命の女神の一柱、クロトであった。

クロトはマダから視線を外すと、少しばつが悪そうに秀一を見た。戦闘態勢は、未だ崩す訳にはいかない。互いに、沈黙が続く。そんな中、真っ先に歩み出たのは、カズコだった。

「どうしたの? 何か用事?」

「ああ。 カエデ司令から、伝言を預かってきた」

「カエデさんから?」

やはりカズコが相手だと、クロトも話しやすいらしい。精神が崩壊して幼児退行していた時も、クロトはカズコと随分仲良くしていたのを、秀一も覚えている。その時の記憶は、クロトの中で、未だに残っているのだろう。

懐から、蝋で封印された手紙を取り出す。随分古風なことをする娘だ。あの子もひょっとすると、琴音と同じく良いところのお嬢だったのかも知れない。今になって思えば、ずいぶんと性格は違っていたようだが。

「秀一に、見て貰っても良い?」

「そうしてくれ。 用事は済んだし、私はもう帰る」

「何だ、折角来たんだ。 茶でも飲んでいけよ」

「いや、そう言う訳にも行かない。 どんな理由でも、長居は出来ない」

クロトはマダの言葉に、俯いて呟くように言う。マダがもう一度誘うと、ぼそりと事情を話してくれた。

何でも、まだリハビリが続いている状態なのだという。アンドラスの指導の下、幾つかの術を日常的に受けないと、精神的に不安定な状況が訪れやすくなるのだそうだ。一度崩壊したのだから、後遺症が出るのも当然であろう。

姉妹があのようなことになったのだ。精神に深い傷がつくのも仕方がない。ようやく正気を取り戻した今も、定期的に医師の診察を受けなければならないというのは、気の毒な話である。

身を翻したクロトに、秀一は声を掛けた。

「カエデ司令によろしくな」

「ああ」

ぶっきらぼうな喋り方でも、カエデとそう変わらない年に見える娘だ。あまりきつい接し方は出来ないし、しようとも思わない。今でも、やはり年下の女の子は苦手だ。どう接して良いか、よく分からない。

クロトがいなくなるのを見届けると、秀一は立ち上がる。手紙にさっと目を通すと、皆を見回した。

「これから、ノアに仕掛ける」

「応。 それはかまわねえが、どうしてだ」

「理由は二つ。 まず、今カエデからの手紙で、ノアの居場所がはっきりした。 この機を逃す意味がない」

一気に場に緊張が走る。どうやらカエデは、秀一がアーリマンと戦っていた時、これを探っていたらしい。

何故、秀一に協力するような行動に出たのかは分からない。だが、この手紙は信用できると、秀一は考えた。理由は幾つかあるが、カエデは戦術的に容赦のないところはあっても、それ以外では非常に誠実な行動を取る存在だと知っているからだ。しょうもない嘘で、足止めするとは思えない。

更に、秀一は付け加えた。

「それに、クロトが此処に現れたと言うことは、シジマは俺達の動向を掴んでいると言うことだ。 アーリマンを俺達が屠った以上、味方と考えるのは危険すぎる。 すぐに場所を移さないと、追撃の大軍に飲み込まれるぞ」

「術式の事なら、サナに任せっきりだったものねえ。 まだしばらく目覚まさないわよ、あの子」

「分かっている。 だから、その間は、俺達だけで何とかしなければな」

あのサナが、全面的な信頼をしたからこそ。必殺の間合いで、自らの危険を顧みずに、攻撃を叩き込んでくれたのだ。今度は此方が信頼に応える番である。

「フォルネウス。 一応、追撃を防ぐために、氷の壁を展開しておいてくれ。 もっとも、カエデが相手では、時間稼ぎにしかならないが」

「おう、そうじゃな」

「リコ、サルタヒコ、今回も負担が大きいが、前衛を頼む。 今回は、マダにも前衛に入って貰う。 アメノウズメは援護。 カザンはまた、カズコを守ってくれ。 フォルネウスとニーズヘッグは、状況に応じて皆を支援して欲しい」

今回は敵が至近に迫っている訳ではないから、だがそれが故に最初から総力戦体勢で行く。それに全員の疲弊が取り切れた訳ではない。シジマの動向が読み切れない以上、ノアを出来る限りの短時間で潰せなければ、詰むと考えて動く。

ノアがいるのは、この十二階層上だ。一階層当たりが数十メートルあるため、人間の体力では階段を上っているだけで力尽きてしまう。カズコはカザンが背負い、体力が少なめのアメノウズメも、ニーズヘッグに乗って行く。無数の足を動かして階段を器用に上るニーズヘッグの隣で、秀一は歩きながら、塔を改めて観察した。

巨大な吹き抜けがある。その中を、膨大なマガツヒが空へ登っていく。今頃、アマラ経路にあったマガツヒは、殆どが消滅してしまっているのではないのだろうか。空にあるカグツチが、毛細管現象の要領で、全てを吸い上げているかのようである。

創世という言葉が、この光景を見ていると現実味を増してくる。確かにこれだけのマガツヒを吸い上げていくような存在だ。新しい世界くらい、作れるのかも知れない。

それにしてもこの塔の構造は、一体何だ。登っても太くも細くもならず、延々と巨大な構造物のまま、天へと伸びている。かなり上に上がってきたはずだが、それでも周囲には軍隊が充分に展開できるほどの広さがある。ヨスガの斥候や、シジマの追撃部隊とは未だ接触がない。どちらも、今は態勢を立て直すのに必死と言うことだろうか。無論、大軍を展開して待ち伏せしている可能性もあるから、油断は出来ない。

ノアの気配が、強くなってきた。

「秀一ちゃん。 ノアめは、どう攻めてくるのかのう」

「アーリマンは単純に強かった。 それと比べると、トリッキーな戦い方をしてくるだろうな」

「やれやれ、厄介な話じゃて」

それに応えようとした、次の瞬間であった。

ぐちゃり。

何か、嫌な音がした。足の下に、嫌な感触がある。

反射的に飛び退くが、既に遅い。

周囲の光景が、塗りつぶされていく。壁が、床が、泡立つ。ブロックに、血管のようなものが侵食して、肉壁に変わっていった。

「円陣! 防御態勢!」

どうやら、既に此処はノアの勢力圏であったらしい。秀一は腕に刃を出現させると、壁に斬りつけてみた。サルタヒコもリコも、各々の武具を使って、床や壁を斬っている。フォルネウスとニーズヘッグは、冷気の息を吐き着けた。だが、殆ど応えている様子がない。凍ったところはすぐに肉が盛り上がり、切った部分は異臭を放ちながら塞がっていった。痛烈な異臭が、周囲から溢れてくる。

「野郎っ!」

マダが壁を殴りつける。腰の据わった、良い拳撃だ。だがそれも、肉の壁に大穴を開けただけで、即座にふさがってしまう。続けて炎。秀一は大きく息を吸い込むと、カザンにニーズヘッグに乗るように指示。周囲に炎を吐いて、焼き尽くしに掛かる。だが、当たりが熱くなるだけだ。焼けた肉の内側から、すぐに新しいピンク色の肉が盛り上がってくるではないか。

「幻術の類か?」

「そう決めつけるには早いな」

「その通り。 これは全部現実だぜ。 ヒャハハハハハハハハハ!」

声がとどろく。そう、この声には、聞き覚えがある。

肉の壁から、顔が盛り上がってくる。それは、忘れるはずもない顔だ。ほつれたような傷跡が縦横に走り、髪は半ばむしり取られてしまっている。左の耳たぶは引きちぎられて、残っていなかった。

以前、ノアと融合した時よりも、酷い顔になっている。幼なじみにして、親友。新田勇が、其処にいた。

「よぉおおお、秀一。 こんな所にいやがったか」

「榊センパイ! 何かやばいッスよ!」

辺りに充満し始める霧。それは恐らく、毒ガスの類だ。マダが無言で、勇の頭を踏みつぶす。だが、肉と血液が飛び散っている間に、すぐに別の場所から勇の顔が生えてきた。戦慄するマダを、肉壁から伸びてきた無数の腕が掴む。蔓のように伸びてきた血みどろの腕には大量の目がついていて、マダの足に絡みついて離れなかった。

「なっ!? て、てめえ!」

「ひひひひひひ、無駄だ無駄ぁ! てめえら全部俺の腹の中で、溶かしてやるぜ!」

「いや、それは違うな」

秀一の冷静な声が、辺りに響く。笑っていた勇が、不意に不機嫌そうな顔になる。同時に、周囲の悪魔達が、落ち着きを取り戻していった。一番冷静だったのは、悪魔達ではなく、カズコだったが。そのカズコも、天井から伸びてきた無数の手に掴まれながらも、殆ど顔色を変えていなかった。

「手品の種が割れた?」

「ああ。 これは、ノアの腹の中などではない」

「ほう、じゃあその種とやらを暴いてみろよ」

「そうさせて貰う」

秀一が上を向くと、勇が減らず口を止める。

天井近くまで跳躍した秀一が拳を叩き込む。鈍い音と共に、辺りの異変がかき消えていき、元のカグツチ塔が現れていた。周囲には、凍ったり、焦げたりした、床や壁が凄惨な姿を晒していた。

着地した秀一が手を振って、粘液を落とす。

最初から変だった。全く攻撃が応えていない様子の上に、実害のある事は何一つしてこない。これは幻術というような高度なものではなく、単なる立体映像の一種。ただ精神を消耗させるための、嫌がらせに過ぎなかったという訳だ。

その証拠に。天井から落ちてきたのは、何かの肉塊。そして最初に踏んだらしい肉塊が、床にも落ちていた。

それらには見覚えがあった。スペクターのものと、非常によく似ていたのである。

まだ蠢いている肉塊を剣で突き刺しながら、リコが振り返る。さっきまで感じていた恐怖からは、もう立ち直った様子である。

「榊センパイ、どうして分かったんスか?」

「カグツチ塔は常に微弱な魔力を壁からも床からも発している。 だが、さっきは、それに異常が殆ど混じらなかった。 あれほど激烈な変化が生じたのなら、もっと痛烈に魔力が乱れたはずだ」

サナが起きていたら即座に見破っただろうと秀一は思ったが、それは敢えて口にしない。サナが眠っている今は、秀一がそれを補えばいい。

それに、秀一が黙っていたのには、もう一つ理由がある。今回のこの些細な攻撃、ノアは此方の対応能力を試したのだ。多分それに気付いたのだろうか、ばつが悪そうに、マダが言う。

「少し、温存した方が良いかもしれねえな」

「そうだな。 最初の俺の指示にも問題があった。 こんなのは序の口だと思って、次からは警戒するしかない」

それに、意識も代えた方が良さそうだ。ノアは単独ではあるが、この様子ではあのスペクターを喰らって、その能力を己のものとしている可能性が非常に高い。以前からそうではないかと思わされる節が多々見受けられたが、これで確定したとも言える。中層は、もうノアの巣であると判断した方が良いかもしれない。

勇がスペクターを喰ったのだとすると、一度使った技は、もう二度と通じないと思う方がいい。至高の魔弾は、最後の最後まで使わない事にした。

「しかし悪趣味な幻覚ねえ」

「キモチワルカッタ」

「だからこそ、効果もある。 勇は多分、俺が知っている頃よりもずっと頭が良くなっているはずだ。 絶対に油断するな」

釘を刺すと、秀一は先頭に立って歩き出す。サナは多分、しばらく目覚めることもないだろう。

今はその分の負担を、秀一が背負わなければならなかった。

 

2、主亡き後の

 

二度目の会議が終わり、肩を叩きながらニュクスが部屋を出る。紛糾することさえないが、しかし決めることがあまりにも多い。まだまだ何度か会議を行わないと、まともに動くのは難しい。

激しい戦いを経て、アーリマンが倒れたとはいえ、いまだシジマの戦力は大小八万騎を超えている。その中核が、すっぽり抜け落ちてしまったのだ。カエデが迅速にまとめに掛かったため、混乱は最小限で済んだ。だが、今シジマという巨大な船は、嵐の中で舵と船長を同時に失ったに等しい。一刻も早く、波間の中で態勢を立て直す必要がある。しかも、嵐の中には船を虎視眈々と狙う敵がうようよ潜んでいるのだ。

不安げに視線を交わしている部下を横目に、一度自室に。用意されている支給分のマガツヒを口に入れながら、副官を呼んだ。

「お呼びでしょうか、ニュクス将軍」

「ムスビと、ヨスガの状況はどうなっているのかしら」

「偵察部隊の報告によると、中層に動きが。 どうやら人修羅を、ノアが本格的に迎撃し始めた様子です。 大きな戦闘反応が断続的に続いており、迂闊には近づけないという事です」

介入しますかという副官の言葉に、ニュクスは首を横に振る。

今、カエデが決めている戦略は、傍観だ。だから、情報収集と防衛の徹底を進め、介入はしない。

そもそも体勢がぐらついている状況で、組織的な行動が非常に難しい。守るにしても攻めるにしても、まず体勢を立て直さなければならない。人材の補填は今更出来ないから、消耗した部隊を再編成し、指揮官を配置し直して、物資を配給し、それでようやく動くことが出来る。

アーリマンがいた時は、それらの全てを把握している中核の存在で、実にスムーズに組織全体が動いていた。司令官であるカエデはいまだ健在だが、彼女にしても、シジマの全てを把握していた訳ではない。

守護だからと言う理由以上に、アーリマンの能力が如何に高かったのか、こう言う時にも思い知らされる。

カエデは良くやっている。彼女を支えることで、ブリュンヒルドもモトも同意している。師団長クラスの悪魔達も、大体意見は同じだ。意見が違ってきているのは、それとは別の方向である。

副官も、それに不安を抱えている一人だった。

「やはり、これからはヨスガかムスビに与するのですか?」

「今、それを調整中よ。 ちょっと頭が痛くなるくらい会議続けてたから、その話題は蒸し返さないでくれる?」

「失礼しました。 ただ、皆不安なのです。 それを汲んでください」

手を振って副官を追い払うと、ニュクスはマガツヒをもう一口啜った。あの副官がいなければ、オズを倒すのに、さらに多くの犠牲を払わなければならなかっただろう。そう言う意味でも邪険にしてはいけない相手なのだが、しかし今は疲労がより勝っている。それに、彼も人修羅に協力することは口にしなかった。無理もない話である。アーリマンは、それだけ慕われていたのだ。

前線で防衛陣を組んでいる部下達も、不安がこみ上げてきている頃だろう。そろそろ、結論を出さなければならないのかも知れなかった。

回復術を何回か掛けて、リフレッシュした後に、また会議室に戻る。基本的にカエデには従う体勢が出来ているから、自分がいなくても大丈夫ではあるのだが。断続的に続いている会議では、未決定事項が多く、早くそれらを解決するためにも多少の無理はしなければならなかった。

首脳陣が集まる会議室は、かってアーリマンが定座にしていた場所だ。ここならば守りは完璧に近い。人修羅が穿った穴も、既にふさがれている。念には念を入れ、外には空軍も展開しているほどだ。

座には円卓が持ち込まれ、伝統となっているパイプ椅子が人数分並べられている。既に半分以上の人員が集まっていた。

最上座のカエデは、やはり疲れ切っている様子だった。実力者でありながら、結局権力を欲しなかったケルベロスは護衛役に専念するつもりらしく、会議室の外で狛犬のように座っている。上座には既にブリュンヒルドとモトがおり、その下には都合十三名の師団長達がずらりと並んでいた。いずれも上級悪魔だが、そのうち二名は会議中にカエデが任命した者達である。先の戦いで、先代の師団長達がオズに斬り殺されたため、補充されたのだ。

今、会議を混濁させているのは、主にこの師団長達である。彼らが、それぞれ主張を違えているのだ。しかも今問題なのは。民主的な考えを主体にしようとカエデが動いているため、皆の意見を公募するあまり、会議の展開が遅くなっていることだ。

「会議を始めます」

カエデが声を張り上げる。隠しきれない疲労が、そこには籠もっていた。会議が既に三回目だ。末席には、第二会議には出席しなかったクロトの姿もある。疲れているのは、師団長達も同じだ。ブリュンヒルドは腕組みしたまま、不満そうにしている。カエデよりも、師団長達に不満が隠せないのだろう。

「まず、持ち越しになった議題から片付けましょう。 E3ブロックにおける配置について、ですが」

E3ブロックは、中層にある重要拠点である。複数の太い通路がつながっており、守るにも攻めるにも抑えなければならない。現時点で上層階に攻め込む際、もっとも重要となる地点だ。当然敵も其処に重点的な戦力を配置してくるはずで、激戦が予想される。最精鋭を配置しないと、戦線全体が崩壊する可能性さえある。今はノアが制圧している場所だが、人修羅と死闘を繰り広げている奴に、シジマとヨスガの兵を迎え撃つ余力はないだろう。

当然カエデ自身が制圧と展開の陣頭指揮を執るつもりだが、それを補助するために、幾つかの師団が配置されることが決まっている。問題は、その面々だ。アーリマンがいなくなった今、カエデが実質上シジマの支配者であり、その前で手柄を立てようと、どの師団長も躍起になっているのだ。

三つの師団を配置しようとしているところで、七つの師団が今競り合っている。中にはとても役目を果たせそうにない練度と装備の師団もあり、皆の頭を悩ませていた。今回も、早速師団長達が挙手する。会議の合間に、どの師団長も、自分たちの売り込み台詞をまとめてきていた。

合議制になった以上、それを聞かない訳にもいかない。起立した師団長達が並べ立てる利点とやらを、秘書役の悪魔が必死に書き留めている。全員分が出そろったところで、カエデが改めて全てに目を通す。ニュクスが席を寄せて、耳打ちした。

「少し、私達に負荷分散しなさい。 合議制の意味がないでしょう」

「分かっています。 でも、一番重要な部分の決断は、任せてください。 今は皆大変なところで、私だけ楽をする訳にはいきませんから」

カエデの疲労は見た目にも激しいが、しかし笑みには強い責任感があり、無理強いは出来なかった。確かに、此処を通り抜ければ、少しは楽になるだろう。

ブリュンヒルドは腕組みしたまま、にこりともせず、一言も発しない。以前は棺桶に引きこもっていたモトはというと、意外にもしっかりした口調で何度か発言しては、師団長達を巧く統率していた。日本武尊との戦いで何があったのかは分からないが、凄く頼りがいのある男に成長してくれたのは、嬉しい話である。

カエデが、三つの師団を選抜した。がっかりした師団長達も何名かいるが、おおむねは決断に同意。どうにか、分裂の危機は避けられる。そもそも、あまりもたもたしている時間はない。こんな状態の時に、ヨスガが全面攻撃を仕掛けてきたら、負けるとはいかないまでも、相当な苦戦を強いられるだろう。また、今回選抜しなかった師団長達には、優先的に他の仕事で、旨味を回す必要性も生じてくる。

それも、どうにかまとまった。後は、抜け駆けをする者が出ないように、ニュクスら上位の指揮官達が見張っていかなければならない。難儀な話である。

軽く茶休憩を入れてから、次の議題にはいる。これが、本題だ。

「次の議題です。 今後、どのコトワリに協力していくか、という事になりますが」

何か意見はありますかとカエデが言う。

意外にも、最初は静かだった。これに関しては、ニュクスもモトも、ブリュンヒルドも、それぞれ別の意見を持っているだろう。混乱はさっきの比ではないはずだ。カエデはそれを見越していたのか。額の汗をハンカチで拭いながら、まずは率先して、自分から意見を口にした。

「私なりにまとめてみました。 まずヨスガですが、我々を受け入れる可能性は低い、と考えられます」

ヨスガの思想は、力の思想だ。力さえあればいいという単純なその思想の下では、ニヒロ機構が作り上げてきた組織力は意味を持たない。仮に降伏したとしても、多くの兵士が放逐されるか、その場で殺されてマガツヒにされてしまうだろう。一部の指揮官はそのままヨスガの体勢に組み込まれるかも知れないが、それでは意味がない。特に、長年シジマに仕えて実績を積み重ねてきた悪魔などは、間違いなく受け入れられないだろうとカエデが説明すると、何名かの師団長は蒼白になっていた。

実は、ヨスガに降伏した方が良いのではないかという意見はあった。だが、シジマは元々、完成された組織の元、全てが記号的に管理される社会を目指していた。組織の重要な構成員にはあまり戦闘能力が高くない者も多く、彼らをまとめて切り捨てたら、今再構成されつつある組織そのものが崩壊してしまう。基幹的な部分からして、そもそもヨスガとシジマは相容れないのである。結局は同じワンマン組織だったというのに、不思議な話である。

続いてムスビだが、此方に到ってはそもそも多数の人員を受け入れることがないだろう。彼らの思想は、究極の引きこもりだ。多くの悪魔が受け入れられる余地はそもそもないし、あったとしてもあのノアにそれだけの度量があるかどうか。今まで、何度か接触は試みているが、結論はいずれも暗いものばかりだ。

ノアの基幹となった人間は、社会から排斥され、それを恨みと思っている存在だと、カエデは分析している。カエデ自身も社会からはどちらかと言えば排斥されていた方なのだが、別に社会そのものを恨んではいないし、無くなってしまえとも思わない。ノアの基幹となった人間を否定するつもりはないのだが、相互理解、ましてや協調はとても難しいだろうと、カエデは分析している。

それらの説明が終わると、何人かの師団長は、蒼白になって俯いたままとなっていた。無理もない。彼らの中には、露骨にヨスガへの協力へ傾いている者もいたのである。悪魔としては自然な行動ではあるのかも知れない。だが、この世界の悪魔は、人間を核としている存在であることを忘れてはならない。それに、元々の世界にいた悪魔も。人間の意識から生み出された以上、大して変わらない存在ではあっただろう。

「此処までで、何か反論か意見はありますか?」

「カエデ司令官」

「何でしょうか、ニュクス将軍」

少し喋り方がよそよそしいのは、公式の場だからだ。ニュクスはこの際だから、溜まっている膿は全部出した方が良いだろうと思って、あえて泥を被ることにした。

「今まで、ヨスガと接触は試みたの? 憶測で話している部分が多いような気がするのだけれど」

「もちろん、停戦交渉は一度持ちかけました。 此方がその内容となります」

さっと秘書がテーブルに停戦交渉の内容書を配る。ヨスガ側の返答を見て、師団長達は目を剥いた。

さっきカエデが指摘したとおりの事が、其処には書かれていたのである。カエデの要求は、降伏した場合には、組織の全てを受け入れるようにと言うものであった。バアルはそれに対し、恐るべき事を返してきていた。

「見ての通り、バアルは全面降伏した場合でも、我ら幹部他数名以外は、皆殺しにするつもりです。 このような条件を受け入れる訳にはいきません。 もちろん、抜け駆けして情報を持ち出し降伏したところで、結果は変わらないでしょう。 利用だけされて、後は殺されるのが落ちです」

「こ、これは、なんと言うことだ。 バアルはどんな魔王よりも邪悪な存在なのではないか」

憤慨した様子で、師団長の一人が漏らす。彼は生真面目な男で、シジマによる創世を真剣に信じていた一人であった。これでいい。ニュクスは不満を漏らす振りをしながら、内実はほくそ笑んでいた。

ブリュンヒルドが腕組みをしたまま、鋭く目を光らせる。それほど長身ではない彼女だが、今や空中戦ではこの世界一とも言われる戦闘能力は、他の悪魔達を無言で制圧するのに充分であった。

「しかし、カエデ将軍。 ヨスガやムスビに協力しないことは私も賛成だが、現実問題として、他にコトワリを開いているものはいないぞ。 守護の圧倒的な実力は皆も知るところであるし、対立を決めた以上、何か打開策がないと、難しいぞ」

「当面は、アーリマン様がひらいたシジマを信奉する方向で動きましょう」

「当面はと言うと、他に何かあるのか」

「私は、人修羅の動きに、着目しようと思います」

カエデの言葉に、場が再び凍り付く。憤然と立ち上がった何人かの師団長が、それだけは反対だと言い出す。

どうやらまだしばらく会議は紛糾しそうだなと、ニュクスは思った。

 

三回目の会議も結局まとまりきらずに終わり、再び疲れた肩を叩きながら、ニュクスは部屋に戻った。悪魔達の不安もピークに達しつつある。今までは逃亡者も出なかったが、このまま会議がまとまらないと、どうなるか分からない。

カエデは良くやっているが、会議に政治的な意図が絡んできているので、巧くまとめ切れていない感触はある。今までアーリマンが後ろ盾になっていたから噴出しなかった問題が多々あったのは否定しがたい事実。今は試練だと、ニュクスは思う。

カエデの様子を見に行く。

彼女は会議室のすぐ近くに自室を確保して、其処でずっと執務していた。部屋は数メートル四方の小さなものであり、近衛の堕天使達が忙しく行き来している。ニュクスとカエデが昵懇の中だというのは周知の事実であり、すぐに中へ入れてもらえた。部屋にはいる時、不安げに部下の一人が言う。いつもカエデが乗騎にしている、大きな蛇の姿をした堕天使だ。

「カエデ司令は疲れておいでです。 あまりご無体はなさらないでください」

「分かっているわ」

さっきの会議でも、丁寧に意見を聞いて、それを調整するカエデは本当に良くやっていた。だが彼女は良くも悪くも真面目すぎる。いっそのこと、もっと強権を発動しても良いのではないかと、ニュクスは思う。ニュクスとモトとブリュンヒルドは、みなカエデの味方だ。いざとなれば、首脳部だけでごり押しだって出来るのだが。

だが、カエデは、そう言う思考法を好まないのだろう。

カエデは、疲れ切ってベットに突っ伏していた。疲労が濃いらしく、ニュクスが来ても目を覚ます様子もない。机の上には大量の書類が置き去りにされている。一応プロテクトに術が掛けられているようだが、不用心である。起こすのも悪いと思い、ニュクスはカエデを寝かし直すと、布団を掛けて、自身はココアを入れることにした。

湯を沸かしていると、戸をノックする音。誰かと思うと、部屋に入ってきたのはブリュンヒルドだった。ヨスガの空軍がまた活発に動いているとかで、それを叩きに出るのだという。今のところ、残した部下達が牽制を掛けているようだが、いつまでも部下に任せきりという訳にも行かないのだろう。

「私だって、人修羅の動向を見守りながらなんて、いやなんです」

ぼそりと、カエデが呟いた。起き出したのかと思ったが、寝言らしい。ブリュンヒルドが、眼を細めた。この鉄面皮が、オセが死んで以降表情を見せるなんて、一体何時ぶりか。

「でも、現状、シジマという組織が生き残るには、それしかないんです。 直接協力するわけじゃない。 場合によっては、ヨスガとの交戦も多分ある。 でも、組織のみんなが生きる方法は、そうやって漁夫の利を狙うしか、ないのに」

「真面目な子だな」

「貴方が言う?」

「ああ。 多分、私よりもこの子は真面目だろう」

うなされていたカエデは、再び静かになる。まだ数時間は起きてこないだろう。

ふと外を見ると、カグツチの明滅はますます激しくなっているようだ。塔の外に住んでいる悪魔は、精神が滅茶苦茶に乱れて、まともに動けなくなるだろう。外で激しく戦っている空軍もかなり危ない。

外に残してきた僅かな非戦闘員とマネカタ達は大丈夫だろうかと、ニュクスは思った。ブリュンヒルドは、そんなニュクスの言葉とは裏腹に、何を思ったのか、独白する。

「私は、オセ将軍が好きだった。 いや、今でも好きだ。 オセ将軍が愛したこのシジマを、命が続く限り守りたいと思っている。 私がこの組織のために戦う理由なんて、そんな程度のものだ。 だから、カエデ将軍の方が、私よりも真面目だと思う」

ブリュンヒルドの寂しそうな目を見て、ニュクスはどこかで羨ましいと思った。

性欲が殆ど消失している悪魔の中で、恋を行動の原理にしているのは、この鉄面皮くらいだろう。結局それが報われることはなかったのに。今でもその思いを胸に戦っている。鉄面皮の奥にある、一途な一面には、なかなか触れることが出来ない。

何故独白してくれたのか。その理由に気付いたニュクスは、敢えて茶化してみる。

「貴方の思いは知っているわ。 多分、シジマの誰もがね」

「……酔いどれに落ちていた私を、まともな道に戻してくれたオセ将軍のためにも。 次代を背負うカエデ将軍をもり立てないとな」

そのためなら、何とでも戦うし、どんな汚い事だってしてやろう。そうブリュンヒルドは、冷え切った声で呟いた。

それ以上言葉を交わすこともなく、ブリュンヒルドが部屋を出て行く。兜についている羽根飾りは、相も変わらず白いままだ。

ヨスガの空軍が蹴散らされ、塔上層に戻っていったのは、そのすぐ後のことであった。ブリュンヒルドからの信頼を感じたニュクスは。今後のためにも、より連携を強くしていこうと、決めたのであった。

 

四度目の会議が行われる。今のところヨスガに目立った動きはない。ブリュンヒルドが会議の場に遅れたのは、再び現れたヨスガの空軍を蹴散らしていたからだ。今回も龍族を落として、大活躍だったそうである。

ブリュンヒルドが席に着くと、会議が始まる。師団長達は、カエデが前回決まらなかった議題を提出すると、早速反発の声を挙げ始めた。

「そもそも、人修羅の思想はどういったものか、分かっているのか。 ヨスガに近いものであったら、我々は敵に塩を送るようなものだ」

「確かに人修羅が強いのは認めるが、ノアと、それにバアルと連戦して勝てるほどのものなのか。 連中の実力は、アーリマン様ほどではないにしても、人修羅よりは勝っているのではないのか」

「協力と言っても、どうするつもりなのだ。 まさか、今や貴重になりつつあるマガツヒを提供するというのか」

意見が次々に出されるが、どれも人修羅への協力姿勢への不満を述べるものばかりである。モトは頬杖をついたまま、会議の流れを見守っている。短時間で恐ろしく成長したモトのことだ。多分、意見を出すべきタイミングを計っているのだろう。

カエデが挙手した。そして、冷たい声で言う。

「勘違いして貰っては困ります。 私も、人修羅は好きではありません。 実力に関しても、高くは評価していますが、このまま創世を成せるとは思っていません」

「ならばどうして」

「それが、シジマというこの組織が生き残る、唯一の道だからです」

師団長達が、まだ不満の表情のままである。最初に挙手したのは、意外にも、ずっと黙りこくっていたクロトだった。

「私は、一時期情けない話だが、アサクサで人修羅に世話になっていた。 その縁で、サマエルとも仲が良かった。 最後の戦いの前に、サマエルから少し聞いた。 人修羅が創世しようとしている世界は、かっての世界の人類達が、何かに頼らずとも生きていけるほど精神力が強くなったもの、なのだそうだ」

「ほう。 それは興味深い話だが……」

「つまり、我らを排除する思想でもないし、その中で生きるのも難しくはないという事よね」

ニュクスが捕捉すると、クロトは頷く。これで、虐殺される恐怖からは、皆は自由になったはずだ。

新しい世界がどうなるか、良くは分からない。ただし、例え人類が信仰を必要としなくなったとしても、文化は消えないだろう。それに、人類をコアにして作り出されたのが、ボルテクス界の悪魔達だ。ならば、思想によって選別されることも、ましてや殺されることもないだろう。

続けて立ち上がったのが、ブリュンヒルドだ。彼女には、師団長達も一目置いている。だから、黙りこくる。

「私は軽く顔を合わせた程度だが、人修羅とその部下達は、かなり優れた連携を見せることが多かった。 能力的にも、直接ぶつけてやれば、バアルにも勝てるかも知れないな」

「つまり、協力すれば、創世を後押しすることが出来ると」

「そればかりか、恩を売ることも出来る。 人修羅という男は、戦闘面ではしたたかだが、恩義を反故にするような男では無いともフラウロス将軍から聞いている。 あまり心配はしなくても大丈夫だろう」

モトが挙手する。声は相変わらず子供っぽいが、喋り方はとても落ち着いていて、安心して聞くことが出来た。

「それに、もし人修羅が破れることがあっても、バアルに手傷くらいは負わせることが出来るだろう。 もし人修羅自身が敗れたとしても、バアルを滅ぼすことは、決して難しくはないはずだ」

「なるほど。 駄目な場合は、漁夫の利を占めてしまえば良いと言うことですか」

「そうだ。 カエデ将軍の貫通なら、バアルに致命傷を与えるのも難しくないはず。 でも、それを為すためには、人修羅のある程度近くに行かなければならない。 積極的に協力しなくても、彼の道を開くのを手伝うくらいは、しても良いと思う」

師団長達の目が、徐々に輝き始める。

恐怖を取り去り、利権で釣る。ブリュンヒルドもモトも、本来苦手なことをしてくれている。ニュクスは最後に挙手した。

「そして、会議が長引くと、漁夫の利を得られる機会も減ることになるわ。 そろそろ、決めてしまいましょう」

感情論で人修羅を否定していた師団長達も、利権に釣られて、さっきまでとは目の色を変えている。もしもこれでも反対する者がいるようなら、ブリュンヒルドが斬る手はずだったのだが。それもなかった。

ほどなく、人修羅への協力が、全会一致で可決した。

疲れ切った様子で、だがカエデがクロトに手紙を渡すのを、ニュクスは見た。多分、人修羅への協力第一歩であろう。中身は分からないが、人修羅を信用させるための楔であることは間違いない。それまでにも、何かしらの手助けはしていたようだが、これからは軍を使った上で、公然と動くことが出来る。

漁夫の利。それでいいのだ。所詮ボルテクス界は修羅の世界である。

そしてそれは、かっての世界とあまり変わらないことも意味している。かっての世界でも、人間を動かしていたのは、感情ではなく利権だったのだから。

眠っていたシジマという組織が、再び動き始める。頭を失っても、未だその組織力は、健在であった。

 

3、孤独の中の孤独

 

巨大な肉の塊が、蠢きながら迫ってくる。無数の顔が表面に張り付いたそれは、カグツチ塔の通路一杯に広がり、ざっと見ただけで三十以上はありそうな手足を動かしながら、ゆっくり、確実に此方へ来る。前方を突破しないと、先には進めない状況である。アメノウズメを片手で静止すると、秀一はマダとリコと一緒に、前に出た。

「出来るだけ手の内は見せない。 今までに使った技と、体術だけで潰す」

「応。 腕が鳴りやがるぜ」

実に楽しそうに、マダが拳を胸の前で合わせる。この男、ヨスガに行かなかった理由がよく分からないほどに暑苦しい。ともかく、仲間として動いてくれているのだ。あまり詮索もしてはいられない。

呻き声を上げて迫って来る肉塊。粘液まみれの手が、気持ち悪い音を立て続けている。後方にも気配。どうやら、後ろからも同じ奴が来たらしかった。長い通路の中程である。突破しなければ、進むことは出来ない。

「榊センパイ、後ろも!」

「ニーズヘッグ、しばらく抑えていてくれ。 無理そうなら、カザンも手伝って欲しい」

「分かった!」

「ラジャ」

戦力を分けるのはあまり望ましい行為ではない。前方の敵を全力で潰し、後方はその次に対処する。秀一はおもむろに火炎を前方から迫る肉塊に吹き付けた。バーナーで肉を焦がすような臭いが辺りに満ちる。密閉空間になっている以上、あまり長時間の火炎放出は望ましくない。今の狙いは、敵の視界を瞬間的に塞ぐためだ。

ハンドサインは先に済ませた。炎が途切れると同時に、マダが前に出る。素早く拳を繰り出すと、見る間に数十発の拳撃を叩き込んだ。

「おらららら、らああっ!」

焼けこげた肉に、見る間に拳の跡がついていく。大量の訳が分からない液体が放出される中、至近に滑り込んだリコが、同じように蹴りを連続で叩き込む。数十トンはありそうな肉体が、じりじりとさがり始める。秀一は腕から刃を出すと、跳躍。頭上から下まで、一気に切り裂いた。

「よし、合わせるぞ!」

「応!」

「分かったッス!」

悲鳴を上げながら下がる肉塊に、そのまま三人揃って、タイミングを合わせて蹴りを叩き込む。肉塊の全体に、衝撃が走るのが分かった。罅が縦横に走り、悲鳴が絶叫に変わっていく。

「もう一丁っ! てああっ!」

リコが至近に踏み込むと、全身のバネを生かして、痛烈に蹴り上げる。更にマダが双掌打を浴びせ、秀一がとどめと抜き手を叩き込む。断末魔の悲鳴が途切れ、肉塊が見る間に崩れていった。その殆どが、粘性を帯びた、ゲル状の肉片に変わっていく。やはりこれも、ノアの体の一部だったと言うことだ。

殆ど攻撃能力を発揮しなかった所から、単純に力を消耗させるか、技を見るために繰り出してきたのだろう。

後方では、ニーズヘッグとカザンが連打を肉塊に浴びせているが、やはり前進を阻止しきれない様子だ。じりじりと下がるニーズヘッグの背中に乗っているカズコが、天井から振ってくる埃を嫌そうに払った。

「榊センパイ、あっちも潰すッスか?」

「そうだな。 退路をふさがれると面白くないし、遅いとはいえ追撃されると面倒だ」

「! 秀一ちゃん! また来たようじゃぞ!」

フォルネウスに言われて振り向くと、どうやら潰した肉塊の奥から、新手が現れた様子である。しかも手足を動かして迫ってくる様子から、その重量がさっきよりもかなり大きい可能性がある。

その上、今崩した肉塊の残骸が、床を這いずって新手の方へ向かっているではないか。まさか、吸収されて、更に大きくなるつもりか。

予想は当たった。肉塊を吸収し、更に大きく、分厚くなっている。面倒くさそうに前に出たマダが、何か技を繰り出そうとするのを手で制止。

「当初の戦略通りだ。 あくまで、体術と、使って見せた技で対処する」

「ああ、そういう話だったな。 しかし、このままだと、体力がもたねえぞ」

「分かっている」

ニーズヘッグに、もう少し持ちこたえて欲しいと、声を掛ける。白い体を持つ巨竜は、片言で了解した旨を返事してくる。サルタヒコが無言で後ろの戦線に参加。秀一は前に出ると、粘液だらけの床を踏みしめて、進む。

「何度でも叩きつぶす。 だが、その前に」

フォルネウスにハンドサインを飛ばした。

同じ手が通用しないのは、此方も同じだ。今度は、さっきよりも遙かに小さい労力で、片付けさせて貰う。

呻き声を上げながら迫り来る肉塊を前に、秀一は肩を回して、温めた。どうやらマダとリコも、何をするべきか理解した様子だった。

 

ノアは舌打ちすると、次の作戦に移行する。着実に、秀一は膝元への侵攻を進めてきていた。

「破られましたか? 肉壁が」

「ああ。 思ったよりも随分簡単に抜かれやがった。 あの野郎、俺が知ってる頃よりも随分頭が良くなってやがる」

巨体を蠢かせて、ノアはホルスに返す。ホルスは苦笑したようだが、別に気にはしない。

秀一は、床を凍らせたのだ。そして摩擦係数を利用して、肉壁の動きを鈍らせた。更に自分たちは凍っていない床を踏みしめ、全力での拳を叩き込んできたのである。

文字通り、ひとたまりもなかった。通路の奥まで吹き飛ばされた肉塊は、再生不能なところまで破壊されていた。後方も同じように砕かれて、今秀一達は四方が開けた場所にまで出て、一時休憩を取っている。

下層階から此方へ向け配置してある罠も、残りは半数と言うところだ。そろそろ本腰を入れて掛からないと、足下まで迫られる。もっとも、迫られたところで、負けるとは思わないが。連中の技も、かなりの数を見た。秀一自身の技も、である。多分切り札は温存しているだろうが、それは此方も同じ事。真っ向からの勝負に持ち込めば、まず負けない。

もはやこの一帯は、ノアの体内も同じだ。秀一達の会話も全て拾わせて貰っている。ハンドサインも、大体は解析し終えた。直接での戦いでは、多分違うのを使ってくるだろうが、何処まで対処できるか。

「ところでノア様。 シジマの方ですが、混乱が停止した様子です」

「ほう。 もうまとまりやがったのか。 それで、どう動いてる」

「どうやらヨスガと協調することもなく、我らと接触する気もないようです。 そうなると、シジマとしての思想を掲げたまま、動くと言うことなのでしょうな」

「あのガキ、思った以上に頭が固かったようだな。 馬鹿な奴だぜ。 俺に降伏したら、せいぜいこき使って利用してやろうと思ってたのによ」

けたけた笑うノアに、ホルスは相変わらず愛想笑いだけを向けてきた。咳払いすると、ノアは腹に一物抱えていそうな部下に、顔を近づける。

「それで、ヨスガはどうなってやがる。 まだ守りを固めてるのか」

「たまに空軍が偵察に来るくらいで、本隊はいたっておとなしい状況です。 ただ、いざ攻めてくる場合は、相当な警戒が必要になるでしょうが」

確かに、今一番本格的に戦う可能性が高いのがヨスガだ。バアルとしても、アーリマン亡き今、一番に狙ってくるのはノアだろう。だから、罠の類も、此処から上層へ向けての道に対して、より重点的に仕掛けてある。

「あの突撃思考の千晶らしくもねえな。 あいつだったら、まずは自分で俺を殺しに来そうなもんなんだが」

「大組織の長としての自覚が目覚めたのではないでしょうか。 バアルが軽率な行動をするというような話は聞いておりません。 人間も、時に何かしらの意識改革で、別人のように変わるものです」

「ふん、分かってるよ、そんな事」

自身がそうだから、よく分かる。それに、取り込んだスペクターの意識からも、それが分かる。スペクターの基になった太田創は、元々極めて真面目な人間だった。社会による排斥が、彼をムスビと同等の思想に走らせたのだ。

「さて、如何なさいますかな」

「決まっている。 まずは秀一をぶっ殺して、アーリマンのマガツヒを頂く。 それを得てから、今度はヨスガに攻め込む。 その時はホルス、てめえが雑魚を削れ」

「御意。 その時が来たら、必ずバアルと一対一で戦える状況を創りましょう」

そんな状況が来るものかと、ホルスが言っているように感じたのは、ノアの気のせいではあるまい。

けたけた笑うと、退出させる。また、秀一が、動き出していた。

 

ノアの気配が、更に強くなってくる。死臭にも似た闇の魔力が、辺りには充満していた。一種の呪いに近いかも知れない。琴音を死に至らしめた黒い力と、それは嫌になるほど酷似していた。

先頭に立って拳を振るい続けているマダは、いい加減うんざりした様子で、また現れる罠を見やる。今度は触手の群れだ。秀一も、右手を挙げて、皆に止まるように促した。こう逃げ道の少ない通路ばかり見繕って、罠や足止めを入れてくるノアの陰険さには、いい加減苛立ちも感じ始めていた。

幼なじみだとはいえ、頭にも来る。ただ、それ以上に、哀れみの方をより強く感じていた。

「どうする。 強行突破か」

「ああ。 他に道もないし、仕方がない」

通路の奥は、殆ど有機的な肉片で包まれ、其処から無数の触手が伸びている。触手には複数の目がついていて、此方の動きを逐一見ていた。先端部から垂れ落ちているのは、多分強い酸だろう。今度は幻影ではない。カグツチ塔が、強烈な魔力で侵食されているのが、今の距離からも分かる。

ハンドサインで指示。マダが眉をひそめた。

「なあ、それ、もうばれてるんじゃねえか」

「だろうな。 承知の上だ」

「……そうか。 俺はあんまり頭が良くないから、考えるのは任せるぜ。 じゃ、ちょっくらやるか」

既に心理戦は始まっている。ハンドサインが読まれているのは、先刻承知。この辺りは既にノアの腹の中だと考えてよい。あらゆる事を見られ、そして聞かれているだろう。今更隠しても仕方がない。

此処は、苛立った方が負けだ。

触手が一斉に此方を向いて、大量の酸を浴びせてきた。数十メートルも飛ぶ酸は、前に出たリコが繰り出した蹴りの風圧で、壁に床に飛び散る。もの凄い勢いで溶けていく床を見て、流石のリコも蒼白になる。

「ちょ、これ! 洒落にならないッスよ!」

「これだけの侵食力を持つ酸となると、王水だな」

金やプラチナさえも溶かす、究極の酸である。吸い込むだけでも危険だ。風の力を使わせるべきかと思ったが、やめる。それにしても、本当に地味ながら、確実に打撃を与えてくる防壁ばかりを選んでくる。また触手が、王水を大量に吹き付けてきた。今度はマダが前に出て、拳を繰り出す。風圧が王水を蹴散らすが、しぶきは少し飛んできた。

「うわち! いてえな!」

「第三射、来るよ!」

無言で前に出たフォルネウスが、冷気を辺りに吹き付ける。床が、壁が凍っていくが、触手は平然としていた。凍らせたところで、此処を突破しないと先には進めないのだ。その上あの触手、冷気に対する体勢を身につけていると判断して良さそうだ。かといって、火炎は拙い。蒸発した王水が、辺りに充満することになる。

第三射が来た。さっき以上の放出力で、力強く手前まで飛んでくる。リコとマダが同時に拳と蹴りを繰り出すが、防ぎきれない。酸のしぶきがリコとマダの肌を掠め、煙を上げた。

その隙に秀一は印を組み終えていた。辺りを凍らせたのは、この時のためだ。床に手を着く。

そして、雷撃を触手に叩き込んでいた。

爆ぜ割れた触手。単純な氷なら電気は通さないが、散々酸をばらまいてくれたおかげで、不純物は充分だ。あまり実戦投入したことのない技であり、威力もたかが知れているから、見せたところで惜しくはない。床から壁から生えていた触手が沈黙したのを確認すると、秀一は小さくため息をついた。

「床と壁の上に、薄くもう一枚氷を張ってくれ。 触手が潰れたところで、辺りは王水だらけであることに違いはない。 空気そのものも冷やしておきたい」

「分かっておるが、しかし面倒な相手じゃのう。 どいつもこいつも大した相手ではないのに、此方の気力と体力を、確実に削り取っていきおるわ」

「仕方がない事だ」

力で勝負しても勝てない場合は、知恵で。知恵でも勝てない場合は、地の利を。

ノアは自分の体内であるという地の利を最大限に生かして戦うつもりだ。これからそれは、更に酷くなるだろう。

フォルネウスが辺りを冷やし終える。ニーズヘッグが乗っても氷が割れないことを確認すると、秀一は進むように皆に指示。体力のないカズコに、敢えて言う。

「カズコ、口を押さえろ。 この辺りの空気は、出来るだけ吸うな」

「分かった」

「あらあら、仲が良い兄妹みたいねえ」

アメノウズメに言われるが、あまり実感はない。というよりも、あまりにも普通すぎたので、指摘されてもぴんと来ない。それに、アメノウズメにそう言われても、何だか変な気分である。

そういえば、茶化した当人も、小首を捻っている。何だか変な茶化し方をした自覚はあるようだ。それに対して、真面目に応えるのはリコである。

「いいなあ。 あたし一人っ子だったから、お兄ちゃんずっと欲しかったッスよ」

「ふーん。 それで人修羅の事が好きなのか」

「なっ!? あ、あたしは、その、そんな」

「みてりゃ分かるっつーんだよ。 まあ、微笑ましくていいけどな」

「ちが! ち、違うッス! その、あの!」

平然と地雷を踏むマダに、リコが見る間に真っ赤になる。そういえば、どうやらそんなそぶりを見せてはいた。だが所詮、性欲が存在しないボルテクス界の悪魔である。「好き」という感情があったところで、それ以上は何もない。秀一も、そうなのかと思うだけだった。

枯れているというのではなく、かっての世界と此処では、法則そのものが違っているのだ。生殖によって繁殖しない以上、性そのものに意味がないのである。それは、かって世界を支配していた人間の名残としてだけ残っている。秀一自身も、その法則からは逃れることが出来ない。

氷の床を踏みしめて、通路を抜けると、大きな吹き抜けに出た。

更に気配が強くなってくる。きゃいきゃい騒いでいたリコも、状況が切迫していることに気付いて、静かになった。

このホールを抜けたところに、ノアがいる。だが、最後には、また罠が控えていた。もう、誰も驚かなかった。だが、気味が悪いその姿には、不快感を皆あらわにする。

「なんだありゃあ」

「趣味の悪いクリスマスツリーッスね」

ホール全体に根を張っているその肉塊は、確かにクリスマスツリーのようにも見えた。小山のような巨大さで、一点が天井から釣られているからかも知れない。彼方此方に飾りの代わりに目がつき、枝の代わりに触手が生えている。この肉塊の向こうに、恐らくノアの居場所に通じる路があるだろう。今のところ微動だにしていないが、しかしそのまま通してくれはしないはずだ。

ホール全体に、気味の悪い魔力が張り巡らされているのも気になる。一体何を目論んでいるのか。油断しないように、皆を周囲に散らせる。秀一はマダと一緒にじっくり間合いを計りながら、奥へ進む。

ニーズヘッグがホールに入ってくる。その瞬間に、ツリーが動いた。

ニーズヘッグの巨体が、十メートル以上も持ち上げられる。床を砕いて生えてきた触手が、絡め取ったのだ。カザンが即応、カズコを抱えて飛び退くが、ニーズヘッグ自身はそうもいかない。触手は強い粘性を帯びている上に、太く、しかも強靱だ。サルタヒコが鋭く斬りつけるが、びくともしなかった。

ツリーの一部が動き、大量の酸が噴き出された。ニーズヘッグが冷気を噴き出して、酸を途中で凍結させるが、勢いが凄まじい。凍りきらなかった分が、ニーズヘッグの体に掛かる。悲鳴を上げる巨体。白い肌に、見る間に火傷が増えていく。背中にカザンとカズコを乗せたフォルネウスも加勢するが、酸の勢いは凄まじい。

「マダ、跳べ!」

「ん? おおあっ!?」

今度はマダの下から、触手が生えてくる。飛び退いたマダのいた当たりを、大量の酸が、ほとんど時間をおかずに直撃する。この部屋は、この巨大なクリスマスツリーの巣だ。あれだけの酸を放出してくると言うことは、まだ何か隠し技を持っている可能性も高い。

舌打ちした秀一が、ハンドサインを出した。攻撃を開始する。

いきなり直接攻撃を叩き込むのは愚の骨頂だ。サルタヒコが踏み込んで、剣を振るう。衝撃波を叩き込んだのだ。続いてマダが拳を繰り出し、拳圧を浴びせる。巨体に鋭く線が入り、続いて半径数メートルのクレーターが出来た。

秀一が恐れていた事態が起こる。

攻撃を浴びせた部分が派手に爆ぜ割れて、辺りに膨大な酸をまき散らしたのである。

臭いも凄まじい。此処に人間がいたら、呼吸困難を起こしてしまうほどだ。

「ちいっ! 厄介な!」

「距離を取りながら、一点に攻撃を集中! まずあのツリーを倒す!」

視界が悪くなってきたので、声を張り上げる。この状況で、ムスビの強力な悪魔に襲われると、かなり面白くない事態になる。ニーズヘッグに吹き付けられる酸も更に強くなってきており、予断は許さない状況である。

秀一は手を胸の前で打ち合わせると、詠唱を完了した。そして床に手を突いて、冷気の塊を直接叩き込んだ。

使えるようになった頃とは、比較にならないほど威力が上がっている。半径十メートル以上が、一気に氷に砕かれ、床が吹き上がった。床が、いくら何でも脆すぎる。集まるように指示。リコとマダが、まず氷塊に飛び乗る。サルタヒコが、アメノウズメの手を引いて、それに続いた。

見ると、氷の中に、動きを止めた触手が無数。この床の下は、触手の巣だと考えて間違えなさそうだ。

「気持ちわりいなあ! 野郎っ!」

「炎は止せ」

「分かってらあ!」

マダが胸を張るような動作をすると、ぐるりと回りながら、ステップを踏む。詠唱の意味を持つ歩法らしい。最後に鋭く右足を、氷の上に踏み出す。雨が降り出したのは、直後のこと。ただの雨ではない。強い酒だ。

マダは大いなる酩酊者というあだ名を持つ、インド神話の邪神だ。酩酊、それに伴う暴力など、悪い意味での酒を司る神と言っても良い。昔から琴音が飲んべえの仲間を養うために世話になっていたと言うが、酒を造り出すのは朝飯前という訳だ。そして酒が触れている場所にあるものも、探り出すことが出来るという訳だろう。

流石にこの状況、あまり贅沢は言っていられない。ノアにはまだ見せていない、新しい技を出さざるを得ない。

「本体は俺が探る!」

「すまない!」

秀一は再び床に手を突くと、派手に氷塊を出現させた。その間にリコとサルタヒコは、剣を振るい蹴りを繰り出し、離れたところからツリーに打撃を浴びせている。ニーズヘッグももがいて触手を外そうとしているが、酸の勢いは止まらず、かなり苦労している様子だ。

リコの蹴りが、ツリーの一部を強打した瞬間。ニーズヘッグに浴びせられているような膨大な酸が、勢いよく噴き出す。即応した秀一が氷の壁を作り出す。見る間に凍っていく酸はもの凄い量で、寒気が流石に走る。

「うわっ! ご、ごめん!」

「気にするな。 今は戦いに集中しろ」

さっきリコのペースを乱したマダにも責任がある。それに乱戦の中、悪手を誰かが打つのは当然のことだ。いちいち怒ってはいられない。

「秀一ちゃん! 長くは保たんぞ!」

「舞う?」

「いや、すまない。 もう少しだけ保たせてくれ」

幸いにもと言うべきか。アーリマンのマガツヒを喰らったことで、余力はまだある。フォルネウスとアメノウズメに短く答えると、もう一撃、床に氷を叩き込む。安全圏は更に増えた。強力な魔力で固定しているから、下から触手に破られる恐れもない。

四本ある腕を拡げ、×の字を創っていたマダが顔を上げる。大きな口は、笑みの形になっていた。

「見つけたぜ!」

「何処だ!」

「ツリーの真下、十メートルという所だ! だけど、周囲に酸を発生させる内臓が集中してやがる! 破いたらえらいことになるぞ! 気をつけろ!」

「問題ない」

奴の体格は、アーリマン以上。全長で言うと五十メートルを超えている。それを全て凍らせるのは無理だが、コアを停止させるのは不可能ではない。

二十秒ほど、稼いで欲しいと指示。頷くと、マダがニーズヘッグの加勢に向かった。拳を連続で繰り出して、酸のシャワーを中途で粉砕して行く。これで、かなり勢いは弱まった。氷の壁にぶつかってくる酸は勢いを増しているが、リコがその上に飛び乗ると、踏み台にして中空へ跳躍、連続して蹴りを叩き込む。勢いを弱められ拡散した酸のシャワーが、氷壁に飛び散り、その場で凍っていく。リコ自身にも反射で酸が掛かるが、耐えてくれている。

辺りは既に氷点下に達している。カズコとカザンが寒そうにしているのが分かった。詠唱。アーリマンの知識や、琴音の知識も動員して、冷気の術を更に強化していく。

目を見開く。

凍らせた床に、もう一度手を突いた。危険を感じた仲間が、一斉に飛び退く。気勢を上げながら、秀一は術式を発動した。

「貫け!」

氷の塊が、一気に巨大化する。ばきりばきりと、氷が膨れていく音が、ホールを圧する。その全てを制御に置いた秀一が、気合いを入れると同時に、一部が巨大な槍となって、ツリーの制御をしている核を、貫通、粉砕した。

氷が拡大し、ひび割れる軋音。それは他の音を全て押しのけて、しばしホール全てを支配していた。

しばし蠕動していたツリーが、やがて萎れて、崩れていく。酸のシャワーも止み、そればかりかツリーそのものが酸によって溶けていった。異臭が酷すぎる。これでも酒の香りで中和しているのだが、それでもなお耐え難いものがある。

氷結の術式を使って、中空に路を造る。今まで創った氷も、酸が凍った部分もあるから、触れると危ない。中空に創った橋を渡りながら、損害を確認。ニーズヘッグは腕の何本かに酷い傷を負っていて、白い肌にも染み状の火傷が出来ていた。

そして、ノアの気配が、至近にある。マダが両手を振って霜を落としながら、心底嫌そうに言った。

「これで、やっとノアの所に行けるな」

「ああ」

「何だか、嫌な感じッスね。 こんな攻撃を繰り出してくる連中の親玉だって考えると、ぞっとしないッスよ」

リコが嫌がるのも無理はない。ノアの心理攻撃は、充分に効果を示している。苦手意識こそ、戦う時に大きな壁となってくる。ストレートな恐怖がベストだが、ノアはそれに近いものを再現しているとも言える。

氷で創った橋を渡って、すぐに次の通路へ。流石に別の通路に入り込むと、空気が入れ替わっているためか、多少呼吸が楽になった。顔を赤くして咳き込んでいたカズコも、だいぶ楽になったようで、乱れた呼吸を少しずつ整えている。

奥からの気配は、殆ど物質化しそうなほどに強い。この通路を進む事自体に、一種の斥力を感じてしまうほどだ。

そんな中でも、カズコはマガツヒを絞り出して、悪魔達に分け与えてくれていた。通路を、先頭に立って進む。長い長い通路の先に。

禍々しい魔力によって装飾された、光が見えた。

 

其処は、袋小路だった。四方は三百メートルほどと広い。塔の殆ど真ん中にあるらしく、通気性は最悪。よどんだ空気の中、何カ所かにある小さな採光窓から、光が差し込んでいるだけである。

床は半分ほどしか無く、残りは何処とも知れぬ闇へと落ち込んでいる。アーリマンと戦った部屋と構造が似ているが、より暗く、閉鎖的だ。

明滅する光の中、徐々に巨体がせり上がってくる。それは、文字通り小山のようなサイズであった。大きさだけなら、アーリマン以上だろう。秀一が最初に見た時よりも、明らかに大きくなっている。

これが、ノアの真の姿という訳だ。

全体的な形状は、四足獣。それも、カバや象と言った、体重を支えるのに足が非常に太くなっている動物を思わせる。体中に刻み込まれた、呪術的な意味を持つであろう模様。それらは小さな山や川を、ノアの体に創っていた。体そのものが、世界を意味しているのだと、悟る。

多くの古代神話には、始祖の巨人というようなものが登場する。始めにいた存在。或いは体を世界の材料とされて、或いは戦いに敗れて、消え去っていく存在。バビロニア神話のティアマットや、北欧神話のユミルなど、類型は枚挙に暇がない。それのベースになった存在なのではないかと、秀一は一瞬だけ思った。

「よおおおおぉ、秀一ぃ。 良く此処までたどり着けたなあ」

「陰険な罠ばかり良くも張り巡らせたものだ。 突破するのに随分苦労した」

「ヒヒャハハハハハハハハ、そういうなよ、親友じゃねえか」

リコが前に出る。その表情には、今までにないほどに激しい怒りが宿っていた。彼女は、カブキチョウに勇が幽閉された時も、率先して怒ってくれた。それは、嬉しく思う。だが、秀一は、勇の悲しみも、理解できない訳ではなかった。

「お前が、榊センパイを親友とか言うなっ! センパイがどれだけお前のために危ない目にあって、それでも身を粉にして働いたか! センパイはそれだけお前のことを思っていたのに、自分勝手に踏みにじった奴が! お前に、お前なんかに、そんなことを言う資格なんて無い!」

「ガングロ女悪魔ァ、相変わらず囀るじゃねえか。 確かにてめえの言うことは正しいかも知れねえな。 だがなあ、言わせて貰うぜ。 俺みたいな弱い奴は、思考にもミスが多いし、どんな卑劣なことでもしなけりゃ生きていけねえんだよ」

「そんな事が、言い訳になるとでも思ってるんスか!」

「いや、リコ。 もういい。 もう良いんだ」

弱いことは、悪である。秀一がいた世界で、一般的になりつつあった思考法だ。秀一はそう考える人間を軽蔑してきたが、基本的に社会では、多数は正義である。むしろ秀一の思考の方が、多数派正義の中では浮いてしまっていた。

テレビ番組などでも、笑いを誘うシーンには定番がある。何かしらの暴力が弱者に振るわれるシーンはコントと呼ばれる。「視聴者に比べて」劣った者を写すシーンはバラエティと呼ばれる。シロウトいじりなどと言って、不慣れな変人を苔にするだけの番組が流行した。いわゆるマスコミ的に犯罪者予備軍とされている層をまるで珍獣でも写すかのように報道する番組ばかりが垂れ流されていた。欲求に忠実な「平均的」視聴者と、それに迎合したマスコミが、社会の端的な現実を現していた。

それらの事実からも、如何に人間が基本的に品性下劣な生物で、欲望のたがを外すとどうなるかは一目瞭然だ。

本音では、人間は弱者をいたぶりたいのである。社会がそれでは成り立たないから、道徳や法というものが存在する。だが、秀一のいた世界では、それらさえもが力を失いつつあった。結局、人間の本質に忠実な思想ばかりがまかり通り、社会は緩やかに壊死しつつあった。

創世を行う際、世界を元通りにすると言う選択肢も、或いはあったかも知れない。だが今、秀一にその気はない。

あの社会によって虐げられた弱者の、結実。それが、ノアである、新田勇なのだと思うと、なおさらだ。人間はやり直せる生き物だなどという寝言を、最初から秀一は信用していない。

個々の人間には、優れた者もいる。自戒出来る者だっているし、反省だって出来る。だが、種としての人間は違う。そして、勇は、その種としての人間の業に晒された、弱者だったのだ。

直接的な意味で壊れたのは、このボルテクス界で、かも知れない。だが彼を根本的なところで壊したのは、かっての世界だった。

「勇。 その体が、お前の創った強さなんだな」

「そうだ。 これこそが、俺にとっての強さよ」

「ならば、もうお前は弱者ではないな」

「ああ。 此処まで来るのが随分長かったが、な。 何だか不思議な気分だぜ。 お前と、世界を争うなんてな」

会話の時は、終わりだ。もはや、ノアは創世を争う敵手であり、思想的にも根本的にも相容れない。

かっては親友だった。

だが、今はもう。歩み寄る余地は、無かった。

「恨むなよ、勇。 最初から、全力で行かせてもらう」

「ああ。 その方が、俺としても、気が楽だぜ」

ノアが、ゆっくりと首をもたげる。勇が入っている目だけが、薄暗い巨大な部屋の中で、煌々と瞬いていた。威圧感は、アーリマンに勝るとも劣らない。秀一が構えを取ると、他の仲間達も、一斉に戦闘態勢にはいる。

かっては親友同士だった者達の殺し合いが、今、此処に始まった。

 

4、舞台裏での死闘

 

ノアが交戦状態に入った事は、ヨスガでも察知していた。西王母が作り上げたオペレーションルームでは、ひっきりなしに様々な情報が集まってくる。重要なものは即座にバアルにトスアップされるが、それ以外のものはまず西王母の所に集められていた。

オペレーションルームと言っても、機械は殆ど無い。

カグツチ塔の一室を利用して作り上げられたオペレーションルームは、東洋の空気が漂う空間だ。原色のタペストリが壁には掛けられていて、燭台には蝋燭。彼方此方に書かれた、道教や東南アジアの呪術思想に基づいて書かれた魔法陣に、それぞれ術が得意な悪魔がついて、情報を抽出しては口頭で連絡を続けている。非常に原始的な形態のオペレーションルームだが、見かけ以上の機能はしていた。

オペレーターの一人が、声を張り上げる。ざんばらの髪を伸ばした、粗末な格好の下級神である。どこかの道祖神であろう。

「シジマの軍勢が動き出しました。 空軍と併せて、陸軍も進撃を開始しています」

「各地前線に、警戒を強めるように通達しなさい。 最前線にいる毘沙門天将軍には、最大限の注意を払うよう、進軍規模と合わせて連絡を」

すぐに、鬼神の一人が部屋を飛び出していく。

バアルの指示で、守りは散々固めてきた。西王母自身も、彼方此方に術によるトラップを仕掛けて回り、バリケードや陣形の配置についても助言して回った。どうしてか、シジマは空軍だけを繰り出してきていて、陸軍は微動だにしなかったが、それもこれで終わりだ。アーリマンが死んだというのに、未だ敵対姿勢を崩してはいないし、これからは全面的な衝突に発展するだろう。

バアルにも、情報はすぐトスアップした。しばしして、バアルからの指示が降りてくる。それに従って、各地に伝令を走らせた。シジマが動き出した事もあり、一気にオペレーションルームは忙しくなりつつある。

根本的な戦略に変化はない。まず敵の兵を迎え撃ち、消耗したところで反撃に出る。もっとも、西王母に告げられた動員戦力はかなり小さい。ノアか、人修羅か。戦って勝ち残った方を、本気で迎撃するつもりなのだろう。

カグツチの塔最上階には、既に何隊かの部隊が到達している。しかし其処には何もなく、ただ燦々と怪しげでさえある光が降り注いでいるだけだという。時々、この戦いに、本当に意味があるのか不安になる。カグツチは一体何を考えているのか、西王母には読めなかった。

「空軍が押されています。 また、龍族が堕とされました」

「位置的な優位を確保しているというのに、なんと無様な。 バアル様に伝達を」

「は」

伝令は頭を下げるが、西王母も彼も分かっている。空軍の情勢に、バアルは興味を示してくれない。確かに、今はコトワリの担い手同士のぶつかり合いが主体かも知れないが、削られている味方の戦力は馬鹿に出来ないのだ。ここでバアルが出て、敵空軍に痛撃を与えてくれれば、少しは味方の士気も上がろうというものなのだが。

伝令は程なく戻ってきた。残念そうに彼が言うには、やはりバアルは動いてくれなかった。空軍もガブリエルが陣頭指揮を執り始めて、少しずつ持ち直してはいる。しかし、今や空中戦においてはボルテクス界随一とも言われるブリュンヒルドの相手は厳しいものがあるだろう。空軍を任されていた青龍将軍は、今は精鋭を率いて毘沙門天軍と共に前線に張り付いている。

「シジマ陸軍、中層にて行軍を停止。 毘沙門天様の陣と、二つの階層を挟んで、にらみ合っています」

「油断しないように、各部隊に伝達を」

さて、どう出てくるか。此方はシジマが人修羅やムスビと総力戦をしている間に、徹底的に防備を固めた。正面攻撃三倍則という言葉もある。しかも、前線に詰めているのは、ヨスガ屈指の戦上手である毘沙門天だ。

しかし、敵将のカエデは、西王母から見ても毘沙門天に劣らぬ力を持ち、どんな手を打ってくるか分からない。知将と呼ぶに相応しい彼女が、単純な正面攻撃だけを仕掛けてくるとは思えない。

バアルが軍同士の激突に消極的な姿勢を示している以上、受け身に待つしかないのが、面倒でもあり、歯がゆくもあった。

 

前線の指揮所で、カエデは膨大な情報を処理しながら、考えを纏めていた。当面の敵は毘沙門天だが、彼の部隊は、堅陣を組んで、積極的に動こうとはしなかった。

元々軍の展開が難しい塔の中である。広いと言っても限界はあり、一つの通路に数万の軍勢がひしめくような展開にはならない。分厚いバリケードで守りを固め、蟻の巣のように有機的な指揮系統を構築している敵陣は、一目見ただけでも、生半可な攻撃では落とせないと分かる。

同じ階層ではノアが既に人修羅と激突しており、そちらの影響も何時出るか分からない。展開を終えている三個師団に指示を飛ばし、いつでも動けるようにしておく。一旦引き上げてきたブリュンヒルドが、前線司令部にやってきたのは、程なくのことであった。

空軍は激しく戦いながら、塔の構造についても調べてきてくれている。部下達と話し合いながら、地図を埋めていく。上層はヨスガに抑えられているとはいえ、敵も完璧に把握している訳ではないだろう。情報士官に幾つかの話をした後、ブリュンヒルドはカエデに敬礼した。

話しにくいので、確保して貰っている私室に二人ではいる。ブリュンヒルドは返り血をタオルで拭きながら言う。

「今戻った。 情勢は我が軍に有利だが、ガブリエルが出てきたことで、敵も持ち直してきている。 次の攻勢で、ガブリエルを堕とせば、我が軍は更に有利になるだろうが、リスクが大きい」

「確かに、ガブリエル将軍は七天委員会の生き残りで、かなりの抵抗が予想されますね」

ブリュンヒルド自身が戦うのはリスクが大きい。しかし、中級や下級の悪魔達が多少群がったくらいでは、被害を増やすだけだ。力に応じた戦い方というものがあり、士官を相手にするには士官をぶつけた方が良い。それが、かっての世界での戦争と、ボルテクス界での戦争の、一番の差だ。

「私とはしては一騎打ちでガブリエルを仕留めたい所だが、カエデ将軍としても奴は殺したいのではないか?」

「……私は」

部屋の隅に立てかけてある、フラウロスの剣を見てしまう。これで仇をさっさと討って、後は精神的な自由を得ろ。その言葉は、重く響いた。そして、シジマを背負っている今も、何かしらの決着は付けなければならないのだとも思う。

いずれにしても。天使には誰かが罪に相応しい罰をくれてやらなければならないのだ。

「ガブリエル隊を、外壁近くにまで誘導できますか」

「なるほど、火力で粉砕するか」

「いえ、それもありますが。 ガブリエルという方と、一度話をしておこうかと思いまして」

ガブリエルは、七天委員会の中では、唯一理性的な存在だったと聞いている。カエデは天使と殆ど話したことがない。捕虜となら少し会話したことがあるが、それくらいだ。しかも狂信的な思考の持ち主ばかりで、会話がほとんど成立しなかった。理性的な敵としての天使と、一度話して。そして仇を取るかどうか、決めたかった。

メタトロンを屠ったカエデだが、元々近接戦闘は苦手だと言うこともあるし、ガブリエルに圧勝できるとは限らない。会話が決裂した場合の時にも、備えておく必要がありそうだった。

「分かった。 やってみるが、しかし同時に毘沙門天が攻撃をしてくる可能性も否定は出来ないぞ」

「モト将軍に、その時は支えて貰います」

決戦の地点は、中層の下部。シジマの勢力圏の一角だ。そこまでガブリエルを引きずり込むのは難しいが、敢えてブリュンヒルドには無茶を言ってみる。前線の指揮は、しばらくモトに代わって貰う。日本武尊との戦いで棺桶を失った彼は、しかし以前より遙かに強くなった。今なら、安心して前線を任せることが出来る。

「分かった。 武運を祈る」

ブリュンヒルドが、部屋を出て行く。カエデは直属の精鋭と共に、階段を下りて、移動を開始した。周囲に展開している部隊は、水も漏らさぬ布陣で、ヨスガの攻勢を警戒している。カエデから見ても、隙のない状況だ。何が現れても、簡単に突破されると言うことはない。

二層下にまで上がってきていたモトに事情を話し、指揮を交代。外壁の側にまで移動した。巨大な窓がある其処からは、凄い風が吹き込んでくる。あまりにも高度があるため、もう地上は見えない。ただ雲が、視界を薄ぼんやりと遮っている状況だ。

見上げると、砲火が応酬され、鬨の声と怒号が響いていた。空軍だけが、今活発に動いている。真っ二つに切り裂かれた大きな天使が、マガツヒをばらまきながら、カエデの眼前を落下していった。途中で爆散する。カエデが跨っている蛇の悪魔が、浮き上がってきたマガツヒを、首を伸ばして無造作に喰らった。

「激しい戦いが続いておりますな」

「はい。 このままでは、ノアが死んでも、バアルが倒れても、戦いは終わらないでしょう」

戦いを本当の意味で終わらせるには、軍同士の決戦で、決定的な勝利をどこかの陣営が掴む必要がある。このボルテクス界の性質を考えると、講和はあり得ないからだ。

今度は味方の堕天使が落ちてきた。悲鳴も上げず、途中でマガツヒとなって散っていく。既に空はマガツヒで赤く染まりつつあった。徐々に、戦線は下へと移動しつつある。遠めがねで覗き込むと、くさび形の陣形を組んだ味方が、縦列を何個も組んでいるガブリエル隊に突撃を繰り返し、徐々に下へ引きずり堕としているようだ。

ガブリエルは。見えた。最前線で陣頭指揮を執っている。周囲は分厚く天使達によって固められており、攻撃の隙は見あたらない。

不意にブリュンヒルドが一騎で前に出る。数騎の敵を蹴散らすと、ガブリエルに斬りかかった。激烈な対空砲火をものともせず、一気に距離を詰める。ブリュンヒルドは空戦の名手だが、それ以上に猛将であるのだと、こう言う時に悟らされる。

すれ違った二騎が、それぞれ傷ついたようだった。ガブリエルは翼の一つを切り落とされ、ブリュンヒルドは肩から血をしぶいている。ブリュンヒルドの負傷には慣れているからか、味方空軍は全く指揮を落とさず、動揺する敵を着実に下へ押し込んでくる。そろそろ間合いだ。カエデは手を振り、周囲に展開している二個連隊に指示。更に、後ろに控えている航空戦も出来る一個連隊を振り仰ぐ。

「対空迎撃戦、準備!」

「はっ! 各自、対空砲火、準備します!」

構えを取った各悪魔が、或いは術を唱え始め、或いは手にしている巨大な弓を引く。カエデ自身は、空戦もこなせる悪魔と共に、出撃のタイミングを見計らう。

味方が、ガブリエル隊を分断した。下へ、一気に押し込んでくる。カエデが右手を挙げた。そして、ある一点を敵が突破した瞬間に、振り下ろす。

「撃て!」

膨大ないかづちが、同時に敵に襲いかかる。数十騎が瞬時に消滅。続いて炎の蛇が敵陣を舐めつくし、更に氷の弾丸が無数の穴を穿った。集中砲火が、敵陣の一角を打ち砕く。混乱する敵陣に、カエデは乗騎を叱咤して、真っ先に躍り込んだ。カタパルトから射出される戦闘機のように、次々と味方悪魔が窓から踊り出す。専門の空軍ではないが、機先を制した事は大きい。

壁を創ろうとする敵の真ん中に、メギドラを叩き込む。爆圧に張り飛ばされて吹き飛ぶ敵の中央を突破しながら、カエデは着いてくる部下達に叫ぶ。

「狙いはガブリエルです! 他の敵には目もくれないようにしてください!」

「分かりました!」

味方空軍も、今の斉射で体勢を崩した敵陣に猛攻を加え、一気に戦力を削り取っていく。落ちていくのは天使ばかりだ。しかもそれは、ガブリエルと一緒に空軍の戦線を支えていた精鋭である。形勢は一気に傾きつつあった。

不意に、至近に殺気。シールドを展開して、真上から振ってきた斬撃を受け止める。乗騎が素早く飛び下がって距離を取った。ゆっくり羽ばたきながら、間合いを計っているその相手は。

「話には聞いていましたが、シジマの今の長が本当に子供だったとは」

「見つけました。 七天委員会の一角、熾天使ガブリエル!」

噂通り、美しい女だ。ブローネットの美しい髪は肩まで掛かっており、手にしている剣までもが美しく見える。体はほっそりとしているが、潜在的な魔力は高く、また剣術も相当な腕前らしい。今のブリュンヒルドとの交錯や、斬撃の威力を見る限り、単純なセンスではミカエル以上であろう。

マガツヒから得た知識によると、基本的に聖書では、天使は男性的な存在である。これは男性優位の唯一神教の思想を端的に現しており、少女然とした天使は後世に想像されたのだ。

しかしながらガブリエルだけは例外であり、女性的な側面を強く協調されている。諸説あるが、当然ながら、その解釈の中には神の愛人というものもある。

この、眼前にいるガブリエルがいかなる存在かは分からない。だが、少なくとも何かの愛人となって権力を得た存在のようには見えなかった。間合いを慎重に計りながら、カエデはガブリエルと相対する。周囲は空軍同士の激しい戦いが続いており、時々流れ弾が跳んできた。

「はて。 貴方に探される覚えはありませんが、どういう事ですか?」

「あなた方天使が、焼き滅ぼしたアカサカの街。 私は、その出身です」

ガブリエルは押し黙った。意外な反応だ。今まで捕虜にした天使どもは、腐敗と退廃の街に天誅を下しただけだとかほざいて、カエデの神経を逆なでするような連中ばかりだったのだが。

「なるほど、それで天軍を憎んでいたのですか」

「過去形ではありません」

「無益なことを」

ガブリエルの表情に、哀れみと嘲弄が浮かぶ。今度は、押し黙るのは、カエデの番だった。

「この世界は、バアル様の手によって新たなる秩序を受けるのです。 今更、少々の虐殺がどうだというのでしょう」

「少々の、虐殺……!?」

「そう、わずかな殺戮に過ぎません。 あの当時、天軍はアカサカを確かに焼き滅ぼしました。 しかしそれは、所詮このボルテクス界の中で起こった、ほんの些細な悲劇に過ぎません」

徐々に、血管の中を流れる液体の温度が上がっていくのを、カエデは感じた。ガブリエルはどこかに狂気を宿している。バアルというあまりにも巨大な存在に触れたためか。或いは。

基から狂っていたのか。

「これからは、大儀が世界を動かしていくのです。 さあ、バアル様に従いなさい、幼きシジマの指導者よ。 それが嫌なら、負け犬として、世界の法則から降りてしまうと良いでしょう。 貴方がいじけている内に、新しい世界が造られて、全ては終わっていることでしょうから」

くすくすと、目の前の女熾天使から笑い声がした。カエデは、この女が元々どんな性格であろうが、理想をもっていようが、許さないと決めた。指を鳴らすと、蛇の鞍にくくりつけていた、フラウロスの剣が浮き上がる。

これで、終わりにする。そのためにも、フラウロスに来て貰ったのだ。

「問答は無用。 貴方を、倒します」

「目先の恨みに囚われる哀れな子供よ。 幼い内から、憎悪に身を焦がすとは、何という不幸。 せめて私が美しい姿のまま、あの世に送って差し上げましょう」

ガブリエルの声には、自己陶酔さえもが含まれていた。怖気が走るとはこのことだ。そして怒りが、カエデの全身の魔力を沸騰させた。

火炎の術式を唱える。斬りかかってくるガブリエルは、笑顔のままだった。至近まで引きつけて、腿に力を入れて乗騎に意思を伝える。さっと真上に跳んだ蛇の悪魔を、ガブリエルは殆ど直角に向きを変えて追ってきた。変な歌声が聞こえる。真後ろで、ガブリエルが謡っているらしい。

どうやら賛美歌らしいと、印を組みながらカエデは気付く。だが音程が全て狂っていて、非常に聞き苦しいものになっていた。音痴なのではないだろう。意図的に音程を狂わせているのだ。

ゆらゆらと、まるで酔っぱらいのような飛び方をしていたガブリエルが、不意に速度を上げた。カエデの首を狙って切りつけてくる。間一髪、乗騎が回転しながら避けたので、剣はカエデの首を捕らえ損ねた。弾かれるように離れる。ガブリエルは笑いながら、大きく旋回して再び迫ってくる。

弓を引くように、カエデは構えた。ガブリエルが、ゆらゆらと揺れつつ、高速で向かってくる。その笑顔が、至近に迫る。剣撃。シールドを砕いた。笑いながら、ガブリエルが後ろに抜けていった。また旋回して、戻ってくる。

「どおおおおしましたああああああああ? その炎の矢は、飾りですかああああああ?」

「……哀れなひと」

呟く。そして、思い知らされる。もしも復讐に囚われて、それが全てになっていたら。自分もああなっていたのではないかと。

術式が完成。まずは一本目の矢から、手を離す。ゆっくり飛んでくる小さな矢を見て、ガブリエルがひときわ大きな笑い声を上げた。それでも最低限の理性は残っているのか、大きく迂回して、矢を避ける。術式が完成しているから、後は炎の矢を創っては放つだけ。カエデが二矢を放つ。続けて三矢。余裕を持ってかわしているガブリエルは、気付いただろうか。

全ての炎の矢が、等距離を保ったまま、自分を追ってきていることを。

再び剣を振りかぶり、斬りかかってくる。乗騎が巧く体を捻って剣を避けるが、鋭く頬を掠めた。聞き苦しい笑い声を上げながら、ガブリエルが旋回していく。十五本目の矢を放つ。

これで、勝負はついた。

ガブリエルが、等速で追ってくる矢に気付く。そして、前方をふさがれていることにも。回避しようとするが、今まで追ってきた矢が、その前をことごとく塞ぐ。じりじりと、包囲網が狭まっていく。

舌打ちしたガブリエルが、顔を歪ませる。基の造作が美しいだけに、非常にそうなると凄みがあった。剣を振るって、矢を迎撃に掛かる。衝撃波が激突。だが、何事もなかったのように、矢はゆっくり飛んでいく。ガブリエルは様々な術を連続して叩きつけるが、どれも効果は無し。

当たり前だ。カエデが全力を込めた術式だ。ガブリエルは魔力が高いかも知れないが、これに関してだけは他の誰にも負けない。

ようやく事態に気付いたガブリエルが、周囲を見回す。既に、周囲を囲んでいる矢は、二十五を超えていた。右往左往している内に、さっさと放った分である。

「遺言は?」

短く言ったカエデに、ガブリエルが狂気の笑みを向けてくる。

「どのみちこの世界はヨスガのコトワリに塗りつぶされます。 貴方はその愚かな感情に囚われたまま、バアル様が降臨するのを見ているがいい」

「そうですか。 それでは」

胸の前で、手を合わせる。

数十の火の矢が、今までの数百倍に達する速度で、ガブリエルに全方位から殺到した。連鎖する爆発の中、狂った笑いが消えていく。剣を構えたのは、この先の動きを読んでいたからだ。

側に控えていた堕天使が、生唾を飲み込む。

「終わりました……か?」

「いえ。 まだです」

爆発を切り破って、ガブリエルが現れる。全身焼けただれていて、かっての美しさはもはや何処にも残っていなかった。奇声を上げて突っ込んでくるガブリエルに向けて、軽く手を振り下ろす。

上から飛んできたフラウロスの剣が、ガブリエルをモズのハヤニエのように、貫いていた。

地面に向けて落ちていくガブリエル。死んでもなお、ガブリエルは笑みを顔に貼り付けていた。恐怖は感じない。哀れみを覚えてしまう。カエデは、心が忌まわしい鎖から解き放たれていくのを、感じた。

復讐とは、かくも恐ろしいものか。

一つの感情に狂的に囚われるのは、こうも恐ろしいことなのか。

ブリュンヒルド隊が、一旦帰還してくる。空軍だけでは、塔の上層は攻略できない。敵空軍主力は撃滅したが、陸軍は健在だ。

一旦此処は撤退して、態勢を立て直す必要があった。

戻ってきた剣は、もう充分だろうと、カエデを諫めているようだった。カエデは頷くと、自陣へ戻る。

今、生きている者達のために。しなければならないことが、山積していた。

育ての親であるランダの事は、今でも忘れていない。良くしてくれていたことも、色々教えてくれたことも。

だが、恨みはもう無い。

これからは、自分を支えてくれた者達のために生きたいと、カエデは思った。

 

消えゆきながら、ガブリエルは満足していた。これでいい。これでいいのだ。

カエデが天使に対する復讐者である事は知っていた。バアルの掲げる理想が、結局彼女だけのためにあることにも、少し前から気づいていた。

そして、バアルの性質と姿が、唯一神のものと大して代わりはしないことにも。

何もかもが、虚しくなりつつあった。あれほど焦がれた神の姿が、結局は理想と同じで、そしてそれが故にどんな悪魔よりも恐怖と暴力に満ちていた事に、ガブリエルは敏感に気づいていた。

だから、せめて、死に場所だけは選びたかったのだ。

カエデを見たとき。その静かに沈んだ瞳を見たとき。ガブリエルは悟った。この娘にとって、最後の仇が自分なのだと。ならば、仇として見るべき相手が、如何におろかなのか、見せておく必要があるのだとも思った。この子に討たれよう。その決意が、ガブリエルの狂気を、心の底から引きずり出したのである。

全てに、今は満足だった。

消えゆきながら、脳裏を巡るのは、不思議な記憶。

福祉事業に、夢を見ていた。弱者を救い、社会で支えるものだと思っていた。

福祉という言葉で思考停止する国民性を利用して、其処が魑魅魍魎のすみかに変わり果てているなどとは、思ってもいなかった。

夢はかなった。そして、直後に破れた。大学を出て就職した其処は。まさに魔の巣窟。利権と学閥がパワーゲームを演じ、如何に利潤を食い物にするかしか考えていない。悪魔の住処と呼んで良い場所だったのだ。

ガブリエルはくじけなかった。全てを滅ぼすよりも、改革する方がただしいと思った。だから、己の全てをなげうって、改革を続けた。どのような手でも使った。やがて、天下りの役人どもや、腐敗役員は全て追い出すことに成功した。その矢先に、自分の余命が残り二年もないことを知らされた。

これからだというのに。食い物にされた福祉事業を立て直すのは、これからだったというのに。

全てに絶望した時、結局宗教にすがった。そして、現実から逃避することで、ガブリエルは心の安息を得たのだった。

そうか、それが私が、神を求めた理由だったのか。

最後の思考で、弱くて、愚かだった自分に、ガブリエルは苦笑した。

そしてカエデに討たれて、悔いはないとも思ったのだった。

 

5、原初の神格

 

雨が降り注ぐ。それは見る間に激しくなり、稲光が近付いてきた。今度は豪雨と落雷か。床はどろどろで、踏みしめることも難しい。ノアが、巨体を揺るがせるのが見えた。

「来るぞ!」

「任せろっ!」

マダが数歩下がり、ニーズヘッグの前に。そして両手を前に出して、シールドを展開した。極太のいかづちが床に炸裂し、爆音を立てる。全身を電流が駆け抜け、秀一はくぐもった声をあげていた。

雨が見る間に晴れていく。ノアの姿が、水蒸気の向こうに見え始めていた。

片膝をついていたリコが、ふらつきながらも立ち上がる。サルタヒコも、剣を杖に立ち上がった。秀一は頭を振って水滴を飛ばすと、浮かび上がるような巨体をにらみ付ける。後ろは。多分ニーズヘッグごと、カザンとカズコはマダが守ってくれた筈だ。さっき竜巻でたたき落とされ掛けてから、フォルネウスは低空飛行を続けている。アメノウズメは真剣な表情で舞を続けてくれていて、それが皆の力を多少なりとも高めてくれてはいた。だが、追いつかない。

竜巻。いかづち。地震。ノアが繰り出してきたものはいずれも、自然の猛威そのもの。そして、かって神格化された現象ばかりであった。

ノアの目の中で、高笑いしている勇の姿が見える。奥歯をかみしめたリコが、床を蹴って跳躍。巨体に蹴りを叩き込む。だが、その弾性が強い肌はびくともしない。続けてサルタヒコが斬りつけるが、結果は同じだ。

「もうっ! 何て堅い奴ッスか!」

はじき飛ばされたリコが、受け身を取って、跳ね起きながら叫ぶ。秀一にも、攻略の手だてが見いだせずにいた。

「無駄だッてんだよ。 俺が融合したノアは、原初の神格そのもの。 そしてそれは、自然の力が具現化した、古代人の考えた世界そのものなんだよ。 さらに!」

ノアの巨体から肌が剥がれ、無数のスペクターが現れる。これで、何度目か。何度殲滅しても、きりがない。

「俺はスペクターの知識と、その生み出した創意工夫による防御機能も、完璧に取り込んでいる! 炎? 氷? 電気? 真空の刃か? なんでも持ってきてみろよ! スペクターが見た技は、どれも俺には通じねえ!  ヒャハハハハハハハ! もはや俺は、他の情報なんか必要としねえ! もちろん秀一、てめえなんか敵じゃねえんだよ!」

原始的が故に、それは図太く強靱だ。また、進化も速い。

そして、スペクターの経験も取り込んでいるとなると、儀式魔法や、下手をすると核兵器も通用しないかも知れない。

火力そのものは、大した事がない。だが、延々と続く長期戦に、流石に秀一も先が見えないと思え始めていた。

群がってくる無数のスペクター。舞い上がったフォルネウスが、周囲の床を一気に凍結させる。踏みしめると、リコが跳躍。両手の刀を振るって、何匹かずつまとめてたたき落としていく。だが、次から次へと湧いて出てくるスペクターは、幾ら倒してもきりがない。近付いてくる数匹を斬り伏せながら、緊迫を声に込め、サルタヒコが言う。

「どうする、このままだと、じり貧だぞ」

「前は、ロキが命がけで、ウィルスを仕込んだんだが、この様子じゃそれもワクチンで無効化されてやがるな」

後方へ迫ってきた数匹を、マダが拳でたたき落とす。ニーズヘッグが冷気の息を吹き付けるが、一度に数匹しか落とせない。膨らんだ奴が、内部のデッドエアを使って冷気を無力化してしまうのだ。また、スペクターの体は弾性がとんでもなく高く、斬っても蹴っても簡単には潰れない。

その強さを、ノアが取り込んでいるとなると。

今まで浴びせかけた攻撃がことごとく効果を示さなかったのも、無理もない。

秀一自身も、スペクターを叩きつぶしながら、今まで喰らったマガツヒから、有効打になりうる術や道具を検索する。アーリマンと氷川の知識には、以前スペクターを屠り去ったウィルスの情報が残っていた。だがそれも。倒して喰らったスペクターの新しい情報を見る限り、通用しそうもない。マダの言ったとおり、ノアの体内にある強靱な免疫機構が、それを潰してしまっている。

だが、原始的な生物には、それに見合う弱点がある。そうでなければ、生物が環境に特化して変化したりはしないのだ。大型の生物は、基本的に複雑な機構を持っている。それは、その方が有利だからである。

ニーズヘッグに、数体のスペクターが群がっている。冷気の息を防ぐべく、膨らんだ数匹を盾にして。ふと、それで思い当たる。跳躍して、膨らんでいる奴を腕の刃で斬りつける。簡単に破裂した。対応が遅れたスペクターを、まとめて冷気の息がなぎ払う。凍り付き、地面で砕けるスペクターを背に、秀一は着地した。

「タスカッタ!」

「……そうか、そういうこと、だな」

ノアに振り返る。ノアは頭から二本の触手を伸ばして、強力な魔力を、大気中に浸透させようとしていた。今までの傾向からして、今度は竜巻を起こすつもりだろう。ハンドサインを、幾つか飛ばす。怪訝そうに眉をひそめたのはリコ。だが、納得してくれたのはサルタヒコ。

一気呵成に、仕掛ける。

ニーズヘッグが、冷気の息を、全力で吹き付ける。サルタヒコとリコが、膨らんだ奴を切り伏せる。簡単な連携だが、崩すのはそれで充分だった。妙だ。スペクターと以前戦った時よりも、随分脆い気がする。そういえば、今ぶつかり合っているスペクターどもは、以前と違う。マガツヒを口に入れても、妙な罪悪感を覚えないのだ。

怒りの雄叫び。ノアが、燃えるような目で此方をにらみ付けていた。充填される魔力が、更に高まっていく。

狙うは、その触手の間だ。

竜巻を起こすつもりなら、気圧を変化させる必要がある。ならば、魔力が集中してるあの地点は、相当に気圧がおかしくなっているはずだ。それならば。

マダが、合わせてくれた。右手を前に出すと、膨大な酒を発生させて、ノアの巨体に浴びせかける。痛烈なアルコール臭が鼻をつく中、秀一は走り、跳躍。そして肺を膨らませ、中空から火球を放った。

驚愕に歪んだ勇の顔が、見えた。

高密度の酸素に引火、触手が吹っ飛ぶ。更に、ノアの巨体が、炎に包まれる。しかし、これはすぐに対応されるはずだ。多分次は、体表皮に粘液を分泌して来るだろう。サナが起きていてくれれば此処で致命傷を与えられるのだろうが、今は仕方がない。詠唱。印を組み、着地。燃えさかる敵に向け、走る。見る間に、炎が消えていく。ノアの全身が、粘液に包まれている。スペクターの残存勢力はリコとサルタヒコに任せて、秀一は跳んだ。

分かっていても、対応できないはずだ。その予想は、見事に適中した。

雷撃を纏った拳が、ノアに炸裂する。一瞬置いて、ノアの巨体を、電流が駆けめぐった。分厚い皮膚を覆った粘液が、却って伝導性を高めたのだ。

「しゅ、しゅう、秀一ィイイイイイイイイッ!」

「そういうことだな。 お前はスペクターの能力を取り込んだが、その全てを知能によって再現しているのではなく、本能で再現している。 だから、反射行動は出来ても、それ以上のことは出来ない」

だから、今、炎を消すために体が自動で粘液を分泌し、より小さい危険の雷撃には対応できなかった。分かっていても、体が炎に対する対処を優先したのだ。更に二度、三度、四度と拳を叩き込む。粘液が炎を蒸発させ、やっと電撃の対応が始まる。ノアの肌が、絶縁性の強い複層構造へと、膨らみながら移行していくのが分かる。だが、それも、予想済み。ハンドサインで、指示は出している。

リコとマダ、サルタヒコが、同時に仕掛ける。秀一が電気を流し続けている上から、リコが蹴りを連続で叩き込み、肌を強引に食い破った。その隣では、サルタヒコが、ノアの頭上から足下まで、一気に斬り伏せる。そして最後に、その切り口を、マダが二本の手で無理に拡げつつ、残りの二本の拳を、嵐が起こるほどの勢いで叩き込み続けた。

今まで何をしてもびくともしなかったノアの巨体に、穴が開き、肌が避け、血が噴き出し、肉が抉れる。

後ろでアメノウズメがここぞと舞い、全ての火力を一気に押し上げる。秀一が飛び離れ、ノアが悲鳴を上げながら後ずさる。全身の構造が変化していく。今度は打撃に強い肉厚の皮膚だが、続けて来たのはフォルネウスと、今まで防戦に徹していたニーズヘッグだ。冷気を吹き付ける。肌が見る間に凍り付いていき、ノアが絶叫した。

「ち、畜生、畜生っ!」

「単純な構造の生物は、反応も単純だ。 だから、非常に限定した空間でしか増えることが出来ない。 そうでなければ、地球上は、巨大な単細胞生物にでも支配されていただろう。 スペクターは、それに高い知能を合わせていた。 勇、お前は違う。 その反応を吸収しただけだ」

「てめえええええっ!」

ノアの肌が赤熱してくる。此処が、総攻撃の好機だ。

ハンドサイン。カザンにも、前に出て貰う。秀一はノアの体から離れ、高々と跳躍。天井を蹴って、加速しながら、ノアの頭頂部に拳を叩き込んだ。更に、リコとマダが同時に息を合わせて蹴りと拳を叩き込み、サルタヒコが腰だめしてからの衝撃波を打ち込む。カザンがリコに教わった後ろ回し蹴りを叩き込むと、巨体が揺らめき、バランスを崩す。そして、唸りながら、奈落の底へと落ちていった。

激しい衝撃音。落下速度と時間から考えて、百メートル以上は落ちただろう。本来なら、これで即死するところだが。しかし、まだ、禍々しい気配は、衰えてはいなかった。

「下がれ。 本番は、恐らく此処からだ」

「マジかよ、おい」

マダが生唾を飲み込むのが分かった。今までの激しい戦いで、皆息が上がり始めている。秀一も、だ。カズコに言って、マガツヒを出して貰う。だが、リコが急いで口に入れている内に。態勢を立て直したノアが、地の底とも思える闇の中から、這い上がってきた。ぱくぱくマガツヒを口にしていたリコが、止まるのが分かった。

吐息の音。

巨大な手が、床の縁に掛かる。

傷だらけの巨体が、せり上がってくる。誰もが絶句した。ノアの頭部に、勇の顔が大きくせり上がってきていたからだ。

雄叫び。部屋そのものが、震動するような威圧感だ。そして、頭部に浮かんだ勇の顔。あまりにも異常なその姿に、味方が気圧されている。だが、秀一は、退かない。最前列で、声を張り上げた。

「飲まれるな! 行くぞ!」

「コロス! コロシテヤル! コロシテヤルゾ、シュウイチイイイイイイイイ!」

返答は、もはや理性を無くしたとしか思えない、ノアの咆吼であった。

 

塔中層上部。狭い部屋の中に、ホルスは腕組みして立っていた。周囲には、情報を集めるために創った魔法陣が書かれ、立体映像でノアの戦いぶりが分かる。ついにノアの本気を引き出した秀一の横顔が映っていた。丁度今、ノアに炎を吹き付け、弾かれたところである。それにしても、あれだけの力を前にして、まるで焦りを感じていない様子なのは流石だ。ただし、まだ勝敗は見えない。

ああなると、ノアは一頭の獣だ。膨大な戦闘経験をスペクターから奪い、更にその創意工夫をも、本能レベルでモノにしている。反応速度も格段に向上しているから、今までのような戦術は通用しないだろう。

文字通りの高みの見物を続けていたホルスは、近付いてくる気配に気付いて顔を上げた。シジマのクロトである。まさか、絶好の位置にある此処が察知されるとは思わなかった。ただ、クロトならば力量的にも知れている。カエデならば死闘になることを覚悟しなければならないが、此奴ならばそれほど苦労せずとも対処できる。

部屋に、クロトが入ってきた。両手には大型の棍を構えている。ホルスは心理戦で不利にならないためにも、敢えて大仰に出た。

「何用かな。 シジマの残存兵」

「それは此方の台詞だ。 ムスビの将である貴様が、こんなところで何をしている」

「主君が危なくなったら、そこで加勢するつもりだが、それが何か」

「嘘をつくな!」

クロトの鋭い叱責が跳んできた。それにしても、まさかホルスを仕留めるために、単独で此処に来た訳ではあるまい。

「別に嘘はついていないさ。 ただ、もしあれで敗れるようなら、主君はそこまでだというだけだ」

「貴様……最初からそのつもりか!」

「そうだ。 それが何か」

絶句するクロト。まだまだ可愛い子猫ちゃんである。調査によると、此奴はたかが姉二人が死んだくらいで精神崩壊したような若輩。ホルスがまともに相手にするようなレベルの相手ではない。

「それで、用件は? 私は小便垂れの小娘を相手にしているほど暇ではないのだがな」

「……カエデ司令から、人修羅の支援をしろと言われた。 だから、戦場を伺っているお前を牽制しようと思った」

「それならば、別に加勢するつもりもないし、邪魔をする気もない」

「そのようだな。 失礼する」

身を翻すと、クロトは出て行く。鼻で笑い飛ばしたホルスは、再び戦況を観察しようと、立体映像に視線を向けて。

一瞬視線を外していた隙に、激変していた戦況に、驚愕していた。

「な、何っ!?」

映像に映っているのは、ノアに対して棍を振り下ろしているクロトである。ノアは吠え猛り、人修羅との死闘を演じている。ならば、今此処にいたクロトは、一体何者だったのか。

背中から腹に向けて、矢が貫通するのを、ホルスは感じていた。

「む、ぐうっ!?」

振り返る。そこには。今、矢を放ち終えた、カエデの姿があった。目は静かに怒りと、それ以上の哀れみを湛えていた。術で、姿を変えていたというのか。だが、しかし、一体これは。

「まさか、こんな幼稚な手に引っかかるとは、思いませんでした。 能力が強力すぎると、足下が見えなくなるものですね」

体から、力が抜けていく。ばかな。アマラ経絡から上がってきたこの強靱な自分の力が、分解されていくようである。

混乱する頭を必死に絞り、時間を操作。矢と、その周囲の時間を止め、無理矢理に引き抜いた。鮮血が噴き出す。何だ、今の矢は。力の半分以上を、持って行かれてしまった気がする。

「き、貴様、何、を!」

「貫通と私が名付けた術です。 貴方たち、アマラ経絡から来た悪魔達に、致命傷を与えるために作ったものですが。 流石ですね。 必殺とは行きませんか」

こぼれ落ちる血を、必死につなぎ止める。此処で戦うのは不利だ。周囲に沸き上がる無数の気配。今度は充分な護衛戦力もつれてきているという事なのか。ならば、今の状態で戦うのは、あまりにも不利すぎる。

全身から光を放ち、カエデが眼を細めた瞬間に跳躍。天井に造っておいた小さな採光窓から脱出。そのまま、振り返らずに、一気に上層にまで抜けた。

一瞬の油断。そして、絶対的な不覚。

まさか、アーリマンを失った後も、カエデがあれほどやる気を保持しているとは思わなかった。おとなしい娘なのに、いざ戦いになると、肝の据わり方が尋常ではない。これは、見誤っていたかも知れない。此処は一旦上層へ抜けて、機会をうかがうしかない。上層の偵察も、ある程度は済ませてあるのが、今は救いだ。

穴を通り抜け、通路に出た。ノアがどうなったかは気になるが、今はそれどころではない。一番大事なのは、いつでも自分だ。

力が半減したとはいえ、まだ好機はある。今は逃げて、力を蓄えなければならなかった。ムスビの世界を造るためにも。

 

咆吼をあげるノアが、体から複数の触手を伸ばす。長さは四メートルほどで、どれも攻撃用ではなく、防御用だ。それは今までの攻防で、見て理解していた。

火球を吹き付ける。ノアの寸前でかき消えた。触手が僅かに動いて、空気の密度を変化させ、真空でブロックしたのが見えた。今までは肉体でガードしていた攻撃を、自然操作ではね除けている。しかも、反応速度が段違いに向上しており、つけいる隙が見あたらない。

ノアの触手から無数の雷撃が迸り、はじき飛ばされたリコが床にたたきつけられてバウンドした。マダも全身から煙を上げており、今の一撃を腹に受けてくぐもった声を挙げる。秀一は拳に魔力を溜めて、雷撃をはじき返したが、いつまでもそんな離れ業は使えない。

「オォオオオオオオオオッ! コロス! コロス!」

巨体を揺さぶり、ノアが突進してくる。息を合わせてフォルネウスとニーズヘッグが冷気の息を吹き付けるが、突進は止まらない。空中を走ってくるのだから当然かも知れないが、真空の壁でブロックされた冷気がはじき飛ばされるのは、見ていて心臓に悪い。巨大な足を、高々と振り上げるノア。巨大な丸太のような足が、立ち上がろうとしたリコを押しつぶそうと迫る。

まるで、ビルが倒れ込んでくるかのような圧迫感。怒濤が耳を打つ。

とっさに、真横から蹴りを叩き込み、ノアの巨体を揺らがせる。だが、そのままボディプレスを仕掛けてきた。リコが飛びついてきて、巨体の下敷きになることだけは免れる。地響きの中、立ち上がる秀一は、ノアから目を離さない。

「助かった」

「い、いや、榊センパイとおあいこッス。 それより」

「ああ。 有効な攻め手が見つからないな」

今までは、肉体を使って直接攻撃を凌いできたノアだからこそ、隙もあった。だが、これでは。反応速度の向上もあり、生半可な攻撃は通らないと思った方が良い。その上、通ったところで、この巨体だ。一息に崩すことは難しいだろう。

確実に、打撃を通せる当てはある。言うまでもなく、至高の魔弾だ。単純なエネルギーをぶつけるだけの技であり、故に防ぐ手だてがない。だが至高の魔弾で突破口を開くとして、其処から続けられるか。今、琴音の知識と合わせて作り上げた、試してみたい技はある。だが、それを叩き込むには、ノアに接近し、しかも長時間の溜が必要となってくる。つまり、秀一一人では成し遂げられない。

起き上がったノアが、口を大きく開ける。勇の顔は粘土で作ったかのように歪んでいて、口も空洞と言うよりも、へこみに過ぎなかった。目にも瞳が無く、それがより一層の狂気を後押ししている。また、雷撃が触手に集中していく。効果有りと見て、更に傷口に塩をなすりつける気だろうか。

真っ先に秀一が前に出たのは、この上攻撃を受けたら、全滅につながりかねないからだ。回復の要もこなしていたサナがまだいないのは痛い。アメノウズメに、回復を無理に頼むと、自身は突貫。体が頑丈なことには自信がある。それも、最近の厳しい戦いの中では無茶が効かなくなりつつあるが、それでもやるしかない。

「シュウイチイイイイイ! クロコゲニナレエエエエエエッ!」

ノアが、誘いに乗ってくる。触手をことごとく此方に向けてくる。何とか、耐えられるか。そう思った瞬間、真横から飛んできたものがある。尻尾だ。アーリマンの触手を思わせる、長大な。

反応が遅れ、壁に叩きつけられる。ノアの雷撃はフェイクだったか。動物的な戦いばかりしてきたから、こんな単純なフェイクでも、対応し損ねた。ノアが、壁からずり落ちる秀一に、全力で突貫してくる。仲間達が冷気を風の刃を叩きつけるのが見えたが、まるで応えていない。

間に合わない。

降ってきた閃光が、ノアの触手を一本、たたき落としたのは、その瞬間である。ノアが苦痛に吠え、僅かに軌道が逸れる。前周りに飛んで、ほんの数ミリ先を、巨大なタンカーを思わせるノアの巨体が抜けるのを見た。

地響きが、辺りを蹂躙する。余波が、壁を、天井を伝った。

顔を上げると、冷や汗を拭う、クロトの姿があった。手にしている大きな棍は、ノアの鮮血に濡れている。ニーズヘッグにしがみついていたカズコが叫ぶ。

「クロト!」

「! カズコも、主戦場にでていたのか」

「シジマの指示で来たか、クロト」

「……ああ。 シジマはお前達を、間接的に支援することに決めた。 ムスビやヨスガが天下を取るよりも、お前を支援した方がましだって意見が通ったからだ。 私は、お前にカエデ将軍の指示を伝えに来たんだが、お前が負けちゃあ意味がないからな。 手伝おうと何て、最初は思っていなかったんだからな!」

クロトは複雑な表情をした。

彼女らモイライの三姉妹は、元々シジマの新参で、しかも途中で形はどうあれ裏切ったという事情がある。クロトは姉二人の無惨な死を間近にみて、一時精神を病み、秀一の保護下で、心身を休めていた。その過程で、随分カズコとも仲良くなった。この間、正気を取り戻してシジマに戻っていった。

一応の交流はしたし、病んでいた間の記憶もあったことは知っている。だがクロトの様子を見る限り、やはり、本心では秀一を許してはいないし、心を開いてもいない。だが、今は、共闘出来るだけでも充分だ。

もちろん、シジマの意図には、隙を見せたら寝首を掻くというものもあるだろう。だが、その方が却って分かり易いし、対策も立てやすい。

「クロト、回復術は使えるか」

「ああ。 その辺の上級悪魔よりも、得意なつもりだ」

「それなら丁度いい。 俺が少しの間前線を支えるから、その間に立て直しを手伝ってくれ。 それくらいの手伝いなら、頼めるか」

「ああ、やってやる」

それで充分だ。元々支援特化型のアメノウズメに、回復を任せていたこと自体が良くないことであったのだ。これからは、また戦力を整備して、一気に仕掛けることが出来る。更に言えば、サナが復帰するまでのつなぎとしては充分だ。

背後の憂いが無くなった秀一は、起き上がったノアを、指先で招く。

ノアが大口を開けて威嚇してくる。意思は通じた。此処に隙がある。多分、アーリマンと同じ意味で、人間としての弱点を突くのは難しいだろう。だが、他の方法であれば。殆ど何の予備動作もなく、ノアは飛び掛かってきた。空気を振るわせて、雄叫びが迸る。その迫力は、空間そのものを押しつぶすかのようだ。

前足が振り落とされる。至近で見ると、爪もない、本当に丸い足。表面には無数の原始的な象形文字が刻まれており、それは緻密で、だが単純な造形美を為していた。小さな世界そのものの神は、今秀一のみに殺意を向けている。

床を直撃した巨大な足が、大きなクレーターを作り出す。飛び退いて火球を浴びせるが、やはり真空の盾でふさがれる。これについては、今破る手段を思いついた。

尻尾が、横殴りに襲ってきた。跳躍。しかし、開いている左腕が、秀一を狙って振り回される。思考の速度が、琴音の分を合わせたか、格段に上昇している。火球を吐いて軌道をずらし、ほんの数ミリの差で避ける。後ろは。今、クロトが詠唱を終えたところだった。円陣を組んでいた仲間達を、軟らかい光が包んでいる。マダの焦げた肌が、リコの痣が、消えて溶けていく。だが、まだ全快には遠い。

これは、もう少し秀一が頑張る必要がある。

地面に落ちながら、印を斬った。そして、火球を吹き付ける。真空の盾が出来るが、それと同時に、大気の状態を不意に崩して、竜巻を作り出す。琴音の飛行術を参考にして作り出した技で、リコのものと比べると若干落ちるが、それでも充分だ。竜巻によって、真空の盾が打ち砕かれる。もともと、向こうもかなり無理をして大気の状態を異常な状態に陥れているのだ。

爆発。竜巻が、吹き飛ばされる。ノアの触手が空気を無理矢理電気分解し、それに着火したのだ。

ノアの肌が赤熱しているのが見えた。勝機は此処だ。

爆圧に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。跳ね起きる一瞬後に、ノアの顔が、地面を強打していた。尻尾が生き物のようにうねり、逃れた秀一を頭上から叩きつぶしに掛かる。

激突音。

床に罅が、縦横無尽に走った。

腕をクロスして、マダが長大な尻尾を受け止めていた。ぎりぎりと歯を噛みながら、マダが強がりを口にする。

「俺ぁな、あのトールともやり合ったことがあるんだよ、カバ野郎っ! んなしょっぱい攻撃、通用しねえっ! 奴の正拳に比べたら、屁でもねえんだ、よ!」

「お待たせしたッス!」

ざっと、足音。肩に手を当てて、腕を回しているリコ。鯉口を切るサルタヒコ。中空で、ゆっくりとひれを動かしているフォルネウス。そして、背中にカザンとカズコと、それにサナの繭を乗せているニーズヘッグ。アメノウズメは、力強く舞い始めていた。

クロトが額の汗を拭う。彼女も棍を構え、戦闘態勢を整えてくれていた。

秀一は頷くと、ハンドサインを出す。クロトの術が実に効果的なのはよく分かった。だが、あまりチャンスは何度も来るとは思えない。一度で、決める。その前に、カズコが、珍しく秀一にハンドサインを出してくる。

確かに、それが本当なら。突破口を開く一助になるかも知れなかった。

顔を上げる。マダが両手を弾いて、尻尾を投げ飛ばした。ノアが数歩下がる。空中を下がっているのにもかかわらず。潮が引くような、圧迫感の減少を感じた。秀一の肉体的な損害は、かなり限界に近い。回復も追いついていない。

だが、此処が、勝負所だ。だから、幾らでも無理はしてやる。皆を守るため。そして、ガラではないが、世界のためでもある。出来る力があるから、その責任を果たす。今、秀一は、背負うもののために、全てを賭ける。

「行くぞ」

短く、最終攻撃を告げる。秀一が一歩前に出ると同時に、ノアが触手を伸ばす。受けて立つと言うことだ。滾る気力を、全て乗せて、秀一も吠え猛った。後は、闘争心を如何に燃やすかの勝負になってくる。

「おおおおおおおおおおっ!」

「ギオオオオオオオオオオオオッ!」

二つ、雄叫びが重なる。それはデイジーカッターの爆発のように、部屋を蹂躙し、反響し合い。そして、最終攻撃のベルとなった。

先に、秀一から仕掛けた。数歩助走し、跳ぶ。ノアが触手から、膨大な雷撃を放ってきた。唸りを上げる紫電の鞭が、しかし切り払われる。リコが起こした風の壁が、真空状態を彼方此方に作り出し、それが雷撃を寸断したのだ。ノアのものほどの精度は無くとも、彼方此方を寸断するには充分だった。しかしこれほどの規模で、風を起こすのは、リコにとっても初めての筈だ。彼女の額が、見る間に汗に濡れていく。

「あんまり長くは保たないッスよ!」

「分かっている。 任せろ」

秀一が、ぶつかり合う烈風を無理に突破。真空の刃が荒れ狂う中を無理に突破したのである。流石に無傷では済まず、体中から鮮血がしぶく。サルタヒコが、マダと共に続く。二人とも、傷を厭わず、秀一に着いてきてくれた。

吠えたノアが、電気分解を高速で実施。着火。爆発を巻き起こし、押し返しに掛かってくる。だが、その瞬間に。ニーズヘッグとフォルネウスが冷気の息を叩きつけ、熱を一気に押し返していった。

赤熱しているノアの肌が、至近に迫る。多分数百℃に達しているはずだ。これは防御反応ではなく、ノアの処理能力が限界に近いことを意味しているはずだ。これを更にオーヴァーヒートさせてやれば、どうなるか。

如何に原初の神とはいえ、これだけ好き勝手に自然を操作して、無理が出ないはずがない。ましてや、ノアの中核になっているのは、決して強いとは言えない、人間の知性なのだ。

「おおらああっ! 熱いの行くぜえっ!」

マダが、火吹きの要領で、酒を吹き付けながら着火。アルコール度数がかなり高い酒を利用したのだろう。火炎放射器を思わせる凄まじさだ。ノアの全身が業火に包まれる。触手が何本か爆ぜ千切れ、消し飛ぶ。

尻尾が振り回される。秀一に迫る巨大な尻尾。だが、届かない。大上段に構えたサルタヒコが、今までで最大級の衝撃波を、迎撃に叩き込んだからだ。ノアが反応できない。やはり予想通りか。ぶつかり合い、弾きあう。その余波を受けながらも、傷だらけの秀一は、ついにノアの背中に到達した。

背中とは思えない場所だった。背骨のラインは見あたらず、ただ無数に刻まれた模様ばかりが、何処までも続いている。一瞬、何かの遺跡ではないかと思ってしまったほどである。

いや、それはあながち間違いでも無いだろう。ノアは、その存在そのものが、人間が不要と判断したり、摩擦の中で表向き淘汰された信仰の結晶だ。

既に、印は切り終えている。最後の詠唱。流石に熱いが、悪魔の肉体はそれにもどうにか耐え抜く。ノアが巨体を揺らして振り落としに掛かってくるが、必死に耐え抜く。ノアの体から、複数の触手が新たに生えてくる。地力は流石に凄まじい。触手の間に、スパークが走る。

ノアが全身から、手裏剣のように熱した肌を四方八方に飛ばした。スペクターの自爆能力を利用したものであろう。反射的に飛び退かなければ、吹き飛ばされていた。

周囲で爆発が巻き起こる。

耐えてくれていることを祈るしかない。詠唱がまだ続く。足下から体が燃え始めているかのようだ。だが、それでも、まだ詠唱を続ける。ノアが跳ねた。秀一を無理に振り下ろそうというのだろう。だが、そう簡単にはさせない。

目を開ける。詠唱が、終わった。

またノアが、全身から皮膚を飛ばした。辛くも逃れる。天井が、床が、壁が爆発。辺りが猛火に包まれる。

倒れているリコが見えた。まだニーズヘッグが、マダの影に落ちている。マダはまだ両手を拡げて構えていて、火をノアに吹き続けているが、全身は酷く傷ついていた。暑い中、火傷をしながらもまだアメノウズメは舞ってくれていて、彼女を守るようにニーズヘッグとサルタヒコが立ちつくしていた。

「人修羅どの! 準備は大丈夫だ!」

「やってくれっ!」

このまま打ち込んでも、多分駄目だ。だが、しかし。ノアが、一瞬でも、その生体機能を止めてくれれば。

カズコが頷く。流石にこの状況、ただでは済んでおらず、顔にも体にも火傷の痕が残っている。しかし、揺らいだ様子はない。ノアが第三射を放とうとしている中、カズコが祈るように、手を前に、祈るようにして組み合わせた。

辺りの空間が真っ赤に染まるほどの、膨大なマガツヒが放出される。いつも無理ばかりさせているのに、カズコの力は衰える様子がない。ノアが、吠える。その全身を、赤い光が包んでいく。

ノアの肌に、赤い光がしみこんでいく。秀一は、カズコの言葉が、嘘ではなかったことを悟った。

 

目覚める。

光を感じたからだ。

ずっと闇の中で、半分眠っていた。それでいいと思っていた。太田創は、ただ静かに、闇の中で生きたいと考えていたからだ。

もう何もかもがうんざりだった。失点を見つけては、嘲弄と共に攻め立てる周囲。努力を嘲笑い、自分の基準で全てを判断する人間ども。何が絆だ。そんなもの、実の親子でさえ持ち合わせていないのが現実ではないか。人間などという生物に期待したことそのものが愚かだったのだ。

だから、自分と同じように、人間を踏み越えてしまっている新田勇に喰われた時に。別にそれでも良いかもしれないと思った。事実、勇が造ろうとしている世界は、孤独に満ちていた。

しかし。どこかに未練があったのも事実だ。実際、勇に喰われるのに、抵抗した自分もいた。それに驚きもした。勇の闇の中で、創は静かに溶けていた。だが、その人格が、統合されていく。

「……いいの?」

声がする。小さな声だが、脳裏を侵食していくよう、痛烈なしろものだ。人格が、急速に統合されていく。

「それでいいの?」

今度は、より大きく。この声は、聞き覚えがある。

そうだ、マネカタだ。滅びに瀕していた自分に、素性を知りながらも、手をさしのべてくれたマネカタがいた。そのものの声。手を伸ばす。スペクターの手ではなく、どうしてか、人間太田創の手だった。

「孤独がいやなら、手を取って」

小さな手が見えた。闇の中に差す光。天から伸びる蜘蛛の糸。

分かってはいた。それが、破滅につながっていることを。だが、しかし。もう、太田創は疲れたのだ。手を掴む。

「俺が、悪かったと、いうのか」

「もう、それはいいよ。 でも、忘れないで。 貴方は、世界を大きく変えた。 貴方の力は、畏怖の中で、確実に周囲に刻まれていた。 貴方は、悪い意味でだけど、孤独ではなかったし、無価値でもなかったんだよ」

「……俺に、価値があると言ってくれたのは、お前が初めてだ」

涙が溢れてきた。

自己犠牲が最高の価値ともてはやされた社会に、太田創は生きてきた。だが、献身的な愛情を注ぐ人間など、見たことがなかった。どいつもこいつも基本的に自分のことしか考えておらず、エゴを満たすために他者と接していた。

今、手を伸ばしてきている奴はどうなのだろう。

少なくとも。利にならない行動をとって、創を救ったのは事実だ。温かくはなく、むしろ厳しい。

だが、それでも。創は満足だった。

体が崩れていく。だが、安らかに、創は微笑んでいた。

「お前は、何者だ」

「私はただのカズコ。 榊和子だよ」

光に溶けていく。満足して、創は再び眠りについていった。

 

ノアの動きが止まる。その全身に震動が走る。

ついにカズコが、やるべき事をやったのだと、秀一は知った。もはや、ためらう事は何一つ無い。

「オノレエエエエエッ! ナニヲシタアアアアアッ!」

赤い光の中、ノアが吠える。秀一はその背中に手をつく。体に流れていた、無数の本能的防御機構が停止している。周囲で荒れ狂っていた自然の猛威も、影を潜めていた。そこへ、魔力をフルにつぎ込んだ、最大の一撃をたたき込む。

叩き込んだのは、単純な衝撃波である。ただし、最初に放ったものから間髪入れず、三十回以上、波長が違うものを連続で。その結果、何が起こるか。

ノアが竿立ちになる。その全身に、罅が入っていった。

本来は、生物につかう技ではない。地面に叩き込んで、辺りの敵を掃除するものだ。だが、敢えて秀一は、ノアそのものに使った。その体が小さな世界を表しており、防御機構さえ潰せば、充分に通用すると考えたからだ。

そして、カズコがスペクターの意識とシンクロ、沈黙させた今。

秀一の考えは、成功へ結びついた。

ノアの全身から、膨大な鮮血があふれ出す。激しい震動に、罅が入り、崩れていく。絶叫が迸った。肌が崩れ、地面に落ちていく。瞳の中で、勇が絶叫しているのが分かった。印を組む。新しい術を打ち込むまで、まだ時間が掛かる。だが、ノアの暴れぶりから言って、このままにはしておけない。動けるのは。誰かいないか。

「今だ!」

「応ッ!」

床を踏みならして、マダが走る。ほとんど力を使い果たしているというのに、鋭気が全身にみなぎっていた。ノアが睨み付け、崩壊する体を振るって迎撃に掛かる。叩きつけてきた尻尾。マダは砕けて穴だらけになっている床を踏みしめる。そして、真っ正面から受け止めに掛かった。

巨体が、太い尻尾と激突。数十メートル、ずり下がる。マダは歯を食いしばり、背中から囂々と炎を噴出。その足下に、黒い跡が出来るが、徐々に下がる速度は落ちていく。そして、ニーズヘッグの至前にて、見事に踏みとどまった。

その隙に、尻尾を蹴って高々と舞い上がったのはリコである。更にサルタヒコが大上段に構え、一息に剣を振り下ろす。尻尾に閃光が走り、見事に両断された。膨大なマガツヒをまき散らしながら、消えていくノアの尻尾。前足を振り上げ、サルタヒコを踏みつぶしに掛かるノア。だが、その前足を、リコが痛烈に後ろ回し蹴りで迎撃。普段ならはじき飛ばされるのはリコだっただろう。だが崩壊が始まっているノアの体は、脆くなっていた。

砕けたのは、ノアの前足だ。絶叫するノア。リコが最後の力を振り絞り、風を味方につけ、回転しながらの蹴りを斜め上からたたき込む。一瞬の空白。ノアの上下から、閃光と爆炎が吹き上がる。着地し、前のめりに倒れるリコ。脆くなっているノアの体を、リコが貫通したのだ。

「ギャアアアアアアアアアアアッ!」

轟く悲鳴。だがノアはそれでもまだ倒れない。体に大穴をあけられ、尻尾を切り伏せられても、なおも抗う。再び触手を伸ばすノア。周囲に雷撃をばらまくつもりか。もう一撃来たら、耐えるのは不可能だ。

もう少し、詠唱に時間が掛かる。フォルネウスが、全速力でノアの頭上に。冷気をニーズヘッグと共に吹き付け、その背から飛び降りたカザンが、凍った地点に蹴りをたたき込む。ひびが入り、派手に砕け散るノアの皮膚。そして、天井近くまで跳躍したクロトが、雄叫びを上げながら、地面に向けて飛翔。棍を振るい、着地までに数十の打撃をたたき込んでいた。

崩壊していくノアの体。だが、伸びた触手に充填されていく魔力は、いまだ衰えていない。勇の嬌笑が響き渡る。

「死ね死ね死ね死ねェエエエエエエエッ! 全部、道連れにしてやるからなああああああああああああっ!」

秀一が、目を見開く。そして、数歩、前に出た。

詠唱が、完了したのだ。

響き渡る崩壊の音の中、秀一は柔らかく後ろに飛んだ。そして、勇のいるノアの瞳に、後ろから狙いを定める。元々ノアの巨体は散々観察した。どの位置に、立体的な意味でノアの瞳があるかは、背中のこの位置からも把握している。味方を誤射する危険性も、念頭には入っている。

容赦はしない。躊躇もない。

全力で、目から、そして顔そのものから、エネルギーの固まりを射出。秀一の最終奥義、至高の魔弾だ。圧倒的な火力で、ノアの肌を貫通。そして、勇のいる瞳を、狙い撃つ。断末魔の絶叫があがった。手応えあり。瞳ごと、勇の生命力が拡散するのが分かった。そのまま、至高の魔弾を、体の中枢にたたき込む。もはや再生などさせない。

ノアの巨体から、光がほとばしる。もがく巨体の彼方此方が爆発し、光がこぼれ出る。動きは徐々に小さくなっていき、やがて腕が、足が、ちぎれて闇の底へ落ちていく。秀一は反動で背中から壁に付くと、至高の魔弾の射出を停止した。

ノアの残骸の中に、今うち砕いた、瞳のかけらが残っていた。

勇の体の、半分ぐらいが、其処に散らばっている。目があった。もはや腐敗が始まっていたらしい勇の体が、見る間にマガツヒになって溶けていく。

部屋の半分以上を占めている穴を避けて、ゆっくり歩み寄る。勇が、口を開いた。血泡が声に混じっていた。

「げぼっ。 ひ、ひひっ。 容赦ねえなあ」

「お前には言われたくない」

勇は強かった。本当の意味での総力戦だった。マガツヒだけは余力が幾分かあるが、体力は限界寸前だ。それだけ勇の猛攻が容赦なく、徹底していたと言うことだ。手を抜く余地など、ありはしなかった。

ゆっくり、勇の方へ歩いていく。勇は、最後まで嘲弄する態度を崩さなかった。

「結局、弱者は死ねってのが、世界のコトワリなんだな。 だから俺は世界にとっていらなかったわけだ。 最初から、そして今でも、か。 でも、そんな世界の方こそ、俺にはいらねえ」

「仮にそうだったとしても、俺が世界そのものを変える」

「……そうか。 是非頼む。 結局、スペクターを食ったのが失敗だったか。 なんだか俺の人生、最後まで良いことがなかったぜ」

「勇、それは違う。 もっと孤独だった人間も、不運だった者もいたはずだ。 それに、お前には、俺も千晶もいた。 それだけで、ずっとましだったはずだ」

それ以上、交わす言葉はなかった。勇が力つきて、マガツヒになって散ったからだ。秀一は友人の死を今更ながらに感じると、小さくため息をついた。

まだ、これから友人を殺さなければならないのだ。

それを思うと、やりきれなかった。

結局、勇は全面的な加害者ではなかった。世界に絶対悪が存在しないように、勇の事を否定する資格は、少なくとも人間にはないのだろうとも、秀一は思う。

今はただ、これ以上の悲劇を積み重ねないために。カグツチを滅ぼして、さっさとこの下らぬ争いを終わらせる。

それが、秀一が友人のために出来る、ただ一つの事だった。

 

6、疑念

 

空軍が敗退し、ガブリエルが戦死しても動かなかったバアルが、急に動きを見せ始めた。前線の指揮所につめている毘沙門天はそれを部下から聞いて、やっとかと呟いた。如何にシジマが守護を失ったとはいえ、知将カエデを始めとする首脳陣と、何より戦力そのものは健在なのだ。軍が完敗したら、数万の悪魔にバアルが押しつぶされるかも知れない。

守護も無敵ではない。毘沙門天は、アーリマンが破れたと聞いて、それを知った。故に、バアルの余裕に疑念が生じ始めていたのだ。それに、トールのあの姿。如何に最強の存在とはいえ、いつまでもそうだとは限らないと言う、証拠のようなものではないか。

ちょうど蟻の巣のように、複雑かつ頑強な防御陣を作り上げた毘沙門天は、少し下の階層で動きを止めている敵の事も気になっていた。今のところあらゆる侵入口は塞いでいるが、何しろこの巨大なカグツチ塔である。どこから敵が現れるかは分からない。不安になった毘沙門天は、部下に茶を入れるように指示。側でとぐろを巻いていた青龍が、鼻で笑った。

「どうした。 歴戦の貴方らしくもない。 初陣前の小僧のように落ち着きがないではないか」

「ああ、そうかも知れぬな」

「何にしても、バアル様の腹次第よ。 我らが慌てたところで、どうにもならぬ」

大あくびをする青龍。たるんでいるとか、だらけているとか、そういうのとは少し違う。空軍を支え続けたこの龍族は、最近何もかもにあきらめを感じている観があった。毘沙門天にも、それが少し分かる気がする。

バアルは、有能すぎるのだ。故に、客観的な視点がきわめて作りづらい。部下としては、戦々恐々とするばかりなのである。何処が評価されて、何処が否定されるのか、さっぱり分からない。不満を感じないが、逆に恐怖は募るばかりだ。

力あるものの世界。それに異存はない。だが、毘沙門天は、こんな活気を失ったヨスガが来るとは、思ってもいなかった。

茶が来た。同時に伝令が指揮所に駆け込んでくる。

「毘沙門天様」

「如何した」

「ムスビのノアが、倒された模様です」

青龍がそれを聞いて笑い出す。ついに、来た。この時が。

残る守護は、バアルだけ。それに準ずる力を持つ人修羅が、守護を連破してきた中、今後どうなるかは全く分からない。

そしてシジマだ。多分、総攻撃が来るだろう。バアルを失ったとはいえ、大小八万騎以上。そして此方とは違い、空軍が健在なのだ。苦戦は免れまい。防戦の指示を飛ばそうと立ち上がり掛けた毘沙門天は、不意に現れた大きな気配に、慌てて敬礼していた。

其処には、鬼神達に新しい輿を担がせた、バアルの姿があった。

「こ、これはバアル様」

「よい、楽にせよ。 前線の状況は如何になっておる」

「は。 今のところは動きがありませんが、ムスビのノアが死んだことにより、シジマの全面攻撃が予想されます。 敵はアーリマンを失ったとはいえ、大小八万以上という大軍です。 バアル様は、いかなる策を用いて、これに対応するつもりでありましょうか」

バアルが、冷笑を口元にひらめかせた。そして言う。

「今後は、アーリマンとノアをしとめた人修羅のみが標的となる。 シジマの軍は相手にせず、防衛につとめよ」

「は。 しかし、それでは」

「分からぬか。 人修羅が消えれば、コトワリの担い手は余のみとなる。 そうすれば、必然的に創世はなるのだ」

人修羅は出来るだけ消耗させつつ、余の所へ誘導せよとも、バアルは言った。引き上げていく輿を見送ると、毘沙門天は思う。

やはり、言っていることは全て正しい。だが、しかし。やはり部下を消耗品としてしか、考えてくれない。

ヨスガの思想では、それが正しいことも、毘沙門天には分かっている。だが、しかし。このままでは、きっとどこかで歯車が間違ってしまうとも感じる。

喚声がわき起こる。どうやら、シジマの総攻撃が始まったらしい。

そうなると、毘沙門天にも、迷いではなく戦士としての勘が戻ってくる。

防衛戦の指揮を執りながら、毘沙門天は思う。この戦いが一刻も早く終わるようにと。何もかもが信じられなくなりつつある毘沙門天に、ヨスガの理想は、重くなり始めていた。

 

(続)