虚無に差す光

 

序、猛攻

 

カグツチ塔の下層で、着実に陣地を構築し続けていたカエデの元に、悲報が届く。

ニヒロ機構時代からの重鎮。宿将にて、常に先鋒を勤め上げた猛将。堕天使フラウロスの死である。

オセと並び、ニヒロ機構時代から双璧を謡われたフラウロス。シジマとなってからもその存在感が衰えることはなく、常に全軍の戦闘で、激戦の渦中にあった猛将は。数少ない目撃者の話によると、ムスビの強豪悪魔とほとんど相打ちになる形であったという。

生き残ったフラウロス隊は、カエデの元に集まりつつあった。天を仰ぐカエデは、心を落ち着かせる方法を、見つけられなかった。

フラウロス隊の悪魔には、泣いているものも多かった。それだけ、フラウロスが慕われていたと言うことだ。アーリマンも、報告を聞いてなんと言うだろうか。シジマの世界を造るのに、絶対に必要な人材は、あまりにもあっさり逝ってしまった。

いつも、フラウロスは良くしてくれた。荒々しかったが、頼りになる悪魔だった。多分、父親というのがいたら、こんな感じだったのだろう。そう何度も思わされた。一体何度、影から支えられたか分からない。

肩を叩かれた。振り返ると、ブリュンヒルドがいた。

「フラウロス将軍の事は聞いた。 惜しい戦士を亡くした」

「……はい」

「辛いようなら、少し休め。 指揮なら、私とニュクス将軍とで取る。 アーリマン様の側には、モト将軍とスルト将軍がいる。 あのサマエルもいる。 だから、多少なら大丈夫だ」

空での戦いは激しさを増す一方だが、塔内での戦いは比較的落ち着いている。だが、だからこそ。今が危険なのだと、カエデは看破していた。

ゆっくり、首を振る。

「駄目です。 私が休んでいたら、何もかも台無しになります」

「何か、心当たりがあるのか?」

「私がムスビの邪神ノアなら、ハイド能力が高い悪魔を、アーリマン様を暗殺するために、送り込むでしょう。 今、シジマの軍勢は、地歩を固めるので精一杯です。 だから、却ってアーリマン様の周囲には隙が出来ます」

「考えすぎではないのか?」

「いえ。 モト将軍の交戦データを分析する限り、間違いありません。 どうにかして日本武尊と名乗ったあの悪魔を屠らなければ、もし奇襲を受けてしまった場合、アーリマン様は身に巨大な呪いを受けて、カグツチを前に滅び去ることとなるでしょう」

カエデは、今までの情報から、日本武尊が滅びていないと確信していた。

日本武尊自身よりも、恐ろしいのは奴が持っている剣である。サマエルでさえ、かすっただけであれだけ危険な状態に追い込むほどのものだ。体が大きいアーリマン様の場合、もし直撃を受けたらと思うと、ぞっとする。

そんな事は、させない。

カエデの胸の内に、黒い炎が燃え始めている。今まで、組織のためにカエデは全力を尽くしてきた。みんなカエデの事を認めてくれた仲間で、家族だと思ってきた。それが純粋な勤労意欲と戦いへの意思へつながってきた。皆を守りたいと、思えていた。

だが、度重なる身内の死と、悲しみが、本人も気付かぬうちに少しずつ彼女の心をねじ曲げ始めていた。

「念には念と言うこともある。 確かに日本武尊は手強い悪魔のようだし、手を打つことは悪くないと思うが。 しかし、どのようにして防ぐ」

「ノアを、先に屠ります」

さらりと、カエデは言う。確かにノアが倒されてしまえば、コトワリの担い手たる守護がいなくなってしまう。そうなれば、日本武尊にも、戦う意味が無くなるのだ。だが、そう上手く行くだろうか。不安げな顔をしたブリュンヒルドに、カエデは更に告げる。

「もちろん、それは陽動です。 危機を感じた日本武尊が戻ってきたところを、総掛かりで仕留めます。 厄介な日本武尊さえ仕留めてしまえば、ノア自身はアーリマン様の敵ではありません。 感じる力も、ぐっと小さいですから」

「……そうか。 私にも、手伝えることがあったら言ってくれ」

ブリュンヒルドは救護班を呼んで、体を癒させると、すぐに空軍へ戻っていった。ヨスガの強力な空軍は、シジマの組織化されたそれに勝るとも劣らない実力を持つ。塔上層でヨスガ軍が地固めをしている今は、陸軍と連携が取れていないが、それでもブリュンヒルドがいないと太刀打ちできないだろう。

策のために、軍を配置していく。下層はほぼ固めた。後は中層に多く斥候を派遣して、ヨスガの奇襲に備えるのと同時に、ノアの探索を行う。ノアは巧みにその姿を隠しているだろうが、今まで鍛え抜いたシジマの精鋭が総力を挙げれば、見つけ出すことは難しくないはずだ。

問題は、トールが強襲を仕掛けてきた場合のことだ。トールの性格的にその可能性は高く、しかも通路が入り組んでいるこの塔では、その力は十全に発揮される。無策な訳ではない。下層には護衛のためにサマエルと、他にも多くの悪魔が残っているし、対トール用の戦術も授けてある。だが、その隙に日本武尊が攻め込んできたら。その際は、厳しい戦いになるだろう。

国会議事堂の戦いの後、姿が見えない人修羅も気になる。今やあの男は、トールやサマエルにも劣らない実力を得ているはずで、下手をするとそれ以上の可能性さえある。ノアの探索に手間取ると、かなり厄介なことになるだろう。

一旦防御を固め、全ての攻勢をはね除けてから、一つずつ敵を倒すという手もある。安全度としては、一見此方の方が高い。だが、ヨスガがカグツチ塔の上層を抑えていて、そこを要塞化している今。あまりのんびりしてはいられないのも、事実であった。

護衛達を連れて、カエデは塔の中層に、自ら足を踏み入れた。下層ではほぼ戦闘が止み、中層でも小康状態が続いている。何度か会議を行って、構造の把握に努めているが、まるでメトロポリスが丸ごと塔になったような規模だ。大まかな構造だけは大体把握できているが、それで精一杯である。

幾つか、探索用のピラーを配置していく。魔術をたっぷり込めた、砂を固めた柱である。高度なアンテナの役割を果たし、漠然と感じているノアの力を探索して、中央にいるカエデへ集める。三百ほど用意してきたピラーを、部下と共に配置していく。配置自体が魔法陣を描くように。或いは立体的に、時には幾何学的に、ピラーを置いていく。

広い塔だ。塔の中枢部に入り、天井を見上げて、つくづくそう思う。何百メートルもある吹き抜けは、大きなビルがまるごと入ってしまうほどのものだ。呪術的な意味を持つ模様が刻まれた壁の数々にも、それぞれとても強い力が籠もっている。

所詮、全てこの塔を作ったカグツチに、踊らされていただけだというのか。

そう思うと、やはり心に灯る黒い炎が強くなる。

少し気を抜くと、何もかも壊してしまいたくなる。

「カエデ司令!」

「はい」

振り向くと、親衛隊の堕天使が、少し青ざめたように見えた。怖い顔でもしていたのだろうか。顔をハンカチで拭うと、出来るだけ優しく笑顔を浮かべる。部下を怖がらせてはいけない。みんな、カエデの大事な家族なのだ。

「失礼しました。 どうかしましたか?」

「は、はい! トールが現れました! E3地区を、凄まじい勢いで下降しています!」

「すぐに警戒態勢を。 トールと共に、下降している戦力は?」

「精鋭の鬼神と思われる者達が、約200! 彼らの指揮を執っているのは、片腕がない黒い鬼神です」

特徴から言って、最近ヨスガに帰参を許されたオンギョウギだろう。複数の目撃証言から、顔つきがまるで以前とは違うという。何かの理由で、意識的に目覚めたのかも知れない。

「ノアの探索を急いでください」

「は。 増援は送らなくても良いのでしょうか」

「大丈夫です。 今は、ノアを直撃することを、考えてください」

親衛隊の悪魔は小首を傾げると、また周囲に散っていった。

決戦の時は近づいている。場合によっては、ノアをカエデが倒さなければならないかも知れない。

黒い炎は、まだ音もなく。カエデの胸の内にて、燃えさかっていた。

 

カエデの指示通り、堅陣をくみ上げていたニュクスは、伝令の堕天使から話を聞いて、眉をひそめていた。

カエデの様子がおかしいという。

下級の兵士達からも、カエデの人気は高い。理由は簡単で、偉ぶらないし、誰もを自分の家族だと考えているからだ。心優しいあの子を、誰もが大事に思っている。兵士達の中には、カエデのためには命が惜しくないと公言するものも少なくない。

だからこそに、彼らの観察は信頼できる。

あの子は、泣かない。身近な誰が死んでも、今まで涙を流すことは殆ど無かった。特に最近は、何があっても笑顔を絶やさないようにしていた。それが不安であった。今までため込んできたことが、何かの切っ掛けであふれ出した時。その心が、どうなるか分からない。

ひたむきで優しい心だからこそ、一度闇に染まれば、際限なく落ちる可能性がある。ニュクスは、あの優しい子が、闇に染まる事態だけは避けたかった。

それに、身近な問題もある。そのまま行くと、判断を誤る可能性も高いのだ。常勝で均してきただけに、一度判断を誤った場合、かなり大きな障害が軍自体に発生する可能性も高い。対策が必要だった。

手を叩く。すぐに部下が来た。

「スルト将軍をすぐに呼んで」

「は。 了解しました」

アーリマンの守りは、サマエルだけで充分だろう。モトとスルト、それにニュクスで、トールを撃退する。カエデから既に戦術は授けられている。二重三重の網を用いて、あの怪物を此処で屠り去る。サマエルの所までは通さない。そうすれば、如何に相手が強敵であっても。アーリマンの所までは通らないはずだ。

アーリマンよりもカエデを優先して考えていることに、ニュクスは気付く。だが今は。それでも良かった。アーリマンを偉大な存在として尊敬していることに代わりはない。だがニュクスは、それ以上に、親としての自分を強く感じるようになってきていたのだ。

スルトが、打ち合わせのために来た。カグツチ塔の規模の中では、名だたる巨人である彼も、あまり大きくは感じられない。スルトはニュクスの提案に鷹揚に頷いてくれた。彼もカエデを大事に思っている者の一人だ。もっとも、シジマのために絶対必要な、次代の光だと考えているようだが。

二三話している内に、いよいよ来るべき時に到る。

「前衛より伝令! 第一次防衛線に、トールが接触しました!」

「かねてよりの指示通りに動きなさい。 此処でトールを葬る!」

「応ッ!」

周囲の悪魔達が、一斉に喚声を上げた。今まで多くの仲間達が、あの鬼神の拳によって砕かれてきた。今こそ、奴を葬り去る時だ。

後は、カエデが警戒していた人修羅の事もある。出来るだけ素早くトールを片付けて、アーリマンの護衛に戻らなければならない。シジマの思想の根幹を成すあの方が死んでしまったら、カエデが目標を失ってしまう。

正直な話をすると、ニュクスはシジマの世界に、魅力を感じなくなりつつあった。カエデがいて、他の悪魔達がいる。今のシジマという組織だけで、充分だと思い始めていたのだ。きっとカエデもそれは同じだろう。

前衛から、次々に伝令が飛んでくる。トールは予想通り、幾つか置いてきたトラップを噛み破りながら、強引に前進してくると言う。

まずは、第一段階だ。

ニュクスは指揮を執りながら、カエデが幸せに暮らすことの出来る世界を、夢想していた。

 

1、シジマ混戦

 

カグツチ塔の桁違いの規模から比べると小さな部屋の中で、秀一は仲間と円陣を組んで、外の様子を見ていた。円陣の中央には、サナが作り出した立体映像が複数ある。何カ所かに置いてきた、偽装型の情報収集端末から、送られてきた映像を反映したものだ。

どの通路も、油断無くシジマの軍勢が固めている。兵力に驕る様子もなく、仕掛ける隙は全くない。時々、映像に入り込んでくるのは、豪奢な衣服を纏った長身の女性だ。アサクサで集めた情報から照合するに、シジマの幹部である夜魔ニュクスだろう。強い魔力を感じる。シジマでも、若き司令カエデにつぐ魔力を持つとか聞いている。元々ギリシャ神話で夜を支配する神だという話であり、その強大な神話から考えれば、無理もない話である。

「まるで仕掛ける隙がないな」

サルタヒコが言うが、これは秀一に今後の展望を尋ねるためだ。他の悪魔達が見つめる中、秀一は腕組みする。側の壁には、フラウロスの形見である大剣が、立てかけてあった。

「今の状況下、最強の勢力はどう考えてもシジマだ。 組織力、兵力、人材、その全てで他を圧倒している。 だからこそに、仕掛ける隙は必ず生じる」

「どういう意味だ、それは」

「ムスビもヨスガも、そのままではシジマには勝てない。 だから、何かしら勝つための手を打つだろう。 そろそろ、二つの組織に動きがあると、俺は見ている。 その混乱を、突く」

例えば、トールがこの状況で、攻撃を仕掛けてくる可能性は高い。あの好戦的な性格である。バアルの側でふんぞり返っているなどと言うのは、性に合わないだろう。アーリマンを倒そうと考えるかまでは分からないが、シジマの兵力を削りに来るのはまず間違いない。トールは一騎で一軍に匹敵する使い手であるし、しかも此処は野外ではなく、狭い通路で限定的にしか戦えない。如何に罠を張り巡らせても、そう簡単に撃退はできないはずだ。

ムスビもそれは同じだ。性格がねじ曲がってしまっている勇=ノアは、恐らく搦め手を突くような事を考えるだろう。手のものが少ない以上、本体が見つかってしまえば終わりだ。シジマが下層での体勢を完全に立て直す前に、動きを見せるのは間違いない。

周囲に指示を飛ばしていたニュクスの元に、親衛隊らしい堕天使が駆け寄る。ニュクスの眉根が見る間に寄り、一気に緊張が駆けめぐるのが、音声のない立体映像からも分かった。

「何かあったみたいッスね」

「ああ。 ほぼ間違いない」

膝を立てかけたリコを制して、更に詳しく状況を確認する。感じる強い力と、幾つかの映像を吟味して、アーリマンの居場所は四カ所程度に絞り込んでいる。

気になるのは、カエデを全く見かけないことだ。琴音の気配は下層に感じるのだが、カエデの方はまるで分からない。あれだけ大きな魔力だ。気配を感じないはずはないのだが。アーリマンの護衛を琴音に任せてしまって、自分は何処に行っているのだろうか。それが読めない。まさか秀一に備えているとは思えないが。

カエデと正面から戦うのは避けたい。フラウロスに任された剣のこともあるし、何より相当な消耗が予想されるからだ。秀一の見るところ、あの娘は今ボルテクス界随一の頭脳の持ち主だろう。勝てないとは思わないが、簡単に降すのは無理だ。

「シューイチ、どうするの? 動くの?」

サナが、好戦的な光を目に湛える。だが秀一は首を横に振る。まだ気配は遠いし、混乱もそれほどのものではないからだ。下手をすると、この混乱は、攻撃を誘うための罠だという可能性さえある。

「もう少し、待つ」

「えー? お腹減ったよ」

「もう、子供じゃないんだから、我慢しなさい」

口を尖らせて言うサナに、くすくすとアメノウズメが笑った。

立体映像から、ニュクスが消えた。指揮を執るために、位置を移したらしい。ほとんど間をおかず、トールが映像に入り込んできた。群がる敵を寄せ付けず、大暴れしている。少し先の通路に置いてきた映像取得装置が、暴虐の余波に晒され、吹っ飛んで壊れたらしい。映像が、かき消えた。

ふと、その横顔を見ていて、思い当たる節があった。以前、琴音が言っていた事。関西国際空港での事件。そうだ。あの顔は、確か。空港で現れた、巨大な影を、拳一つで倒した男のものだ。誰も信じはしなかったが、秀一は確かに見た。人間の倍以上も体躯がある存在を、素手で圧倒し、粉砕した者がいたことを。

全てが、つながる。

「人修羅どの、どうかしたか」

「いや、何でもない」

カザンの声に応えると、秀一は思惑を巡らせる。あの時、琴音もその場にいたという。それが、何かしらの形で、今の状況につながっている。ほぼ間違いないといえる。そして、琴音は、その深層に気付いている。

だが、恐らくは、もう問いただしている時間はないだろう。

「ムスビが、この機会に仕掛ける可能性は高い。 混乱する様子を見届けてから、俺達も出るぞ。 アーリマンがこの近辺を通るようなら最高だが、それが無理なら、今感じる奴の力の方へ、強行突破する」

いよいよ、決着を付ける時だ。

氷川も多くの積み重ねの後に、ボルテクス界を作り上げることを選んだ。世界を破滅させた大罪人ではあるが、しかし世界の方にも大きな原因があった。彼を追い詰めたのは、明らかに人間の方だ。

だから、それを詰るつもりはない。今はただ、互角の敵手として、戦い滅ぼすことだけを考える。

食い入るように立体映像を覗き込んでいたサナが、身を乗り出した。

「シューイチ!」

「ん。 サナ、今のところを巻き戻しできるか?」

「うん。 任せて」

サナが短く詠唱すると、立体映像の一つが巻き戻される。見えた。壁の中を潜むようにして進む、影がある。

多分、国会議事堂で顔を見た奴だ。

「仕掛ける?」

頷くと、秀一は立ち上がる。狭い部屋に、一気に緊張が走る。

「マダは後衛。 ニーズヘッグと一緒に、邪魔と追撃を排除して欲しい」

「応、任せろ」

「リコとサルタヒコは、俺と共に前衛。 突破口を開く際に、かなりの抵抗が予想されるから、心して欲しい。 サナとアメノウズメは中衛で支援。 同じくカザンは、中衛でカズコを護衛してくれ」

「心得た」

槍を手に、カザンが立ち上がる。天井近くに浮いていたフォルネウスを見上げると、秀一は続ける。

「フォルネウスは遊撃だ。 状況に応じて、柔軟に皆の支援をして欲しい」

「応。 任せておけい」

地図を拡げて、進撃路を指示。潜んでいるこの部屋の手前をアーリマンが通過する際に攻撃できれば最高だったのだが、流石に其処までは望めない。しかし、敵の中枢に潜むことに成功していた事は確かで、それを最大限に利用する。

振動が来た。近くでトールが戦っている。このカグツチ塔が振動するほどである。奴の桁違いなパワーがよく分かる。そして、今回は絶対、遭遇する訳にはいかない。動きを的確に見て、避けながらアーリマンに接触する必要がある。

秀一が勝ちの目を拾うには、組織間の総力戦の間を縫い、敵の指揮官を仕留めるしかない。もしアーリマンを倒すことが出来れば、一気に桁違いのマガツヒを吸収することが出来る。アマラ経絡から来た悪魔でも、ギリメカラとは比較にならないだろう高品質のマガツヒを、である。

此処さえしのげれば、突破口が開ける。とは言っても、他の組織を正面から敵に回して勝てるとも思わないが。何にしても、天文学的に低い勝率を、どうにかして拾わなければならない。無茶は、最初から承知の上。マネカタ達に託されたマガツヒを無駄にしないためにも、此処は秀一が踏ん張らなければならなかった。

全員が、戦闘態勢を整える中、フォルネウスが詠唱を実施。氷を溶かしている。アメノウズメは上着を脱ぎ捨てると、舞う準備を始めた。爆発音。ぱらぱらと、天井から埃が降ってくる。今の衝撃音からして、少し遠いか。シジマもトールを相手に一歩も引かず、猛烈な戦いを繰り広げているのだろう。

カグツチ塔が混乱しているのが分かる。サナが立体映像を消した。全力で戦うつもりだ。リコも目を閉じると、呼吸を整え、構えを取り直す。サルタヒコは鯉口を切り、太刀を引き抜いた。

秀一は自然体のまま、偽装している戸の前で立った。まだ、突入の指示は出さない。

 

トールが拳を叩きつける。数十体の悪魔が展開したシールドが、無惨に砕かれた。数体の悪魔が悲鳴もなく吹っ飛び、砕けてマガツヒになってしまう。後衛を固めていたオンギョウギが、絶叫した。

「後方、更に敵の数が増えます!」

「面白い。 俺を誘い込もうという訳か」

トールの全身からは、既に煙が上がっている。三度にわたり、数百体がかりの儀式攻撃魔法を浴びたのだ。敵は確実にトールに対する戦術に習熟し始めている。今砕いたシールドも、敵は被害を最小限に抑え、すぐに新手が出てきているほどだ。

手強い相手である。組織戦を極めきった敵。充分に、満足すべき相手であろうと、トールも思う。

だが、それでも。

やはり、雑魚ではどれだけいても、トールの渇きは飢えない。

ふと、思うことがある。どんな相手と戦えば、トールの拳は満足するのだろう。いっそ思い切って、バアルやアーリマンと戦ってみるか。それもまた、面白い。今、彼を超える悪魔は、守護しかいないと思える。サマエルはどうやら出てくる気がないようだし、人修羅は何処にいるかさっぱり分からない。

ばらばらと現れた新手が、大量の攻撃術を放ってくる。無造作に拳で払いのけながら、トールは進む。後ろの兵力はかなり消耗しているようだが、その十倍以上を屠り去っている自信がある。対費用効果は充分の筈だ。

不意に、天井と床が動き出す。サンドイッチにしようという訳か。つまらぬ罠だと、トールはつぶやく。そして床を踏みしめ、天井に拳を一閃させた。

仕掛けがある分脆い天井と床が、同時に吹っ飛び、砕け散る。

妙な臭い。今度は油が流し込まれてきた。高密度の油は、着火すると爆発に近い炎を上げる。舌打ち。

ボルテクス界に来てから、体をたゆまぬ訓練で鍛え続けてきた。だから、今更この程度の炎で堪えることはない。だが、部下共はそうではない。猛火の中耐えながら、必死に敵の追撃を防いでいる状態だ。そして完全に孤立しては、流石のトールも危ない。

顔を上げる。見つけた。サマエルの気配だ。

全力で走り出す。敵が、流石に動揺するのが見えた。シールドを走り込みながら、拳を振るって砕く。道をふさごうとした悪魔どもは、片っ端から粉砕した。ついてくる味方が、確実に減りつつある。

そして、巨大なホールに出た。

塔の数層をぶち抜いている、巨大な塔だ。上層からは強い気配がする。数百階を短時間で上り下りしたトールだが、それによる疲労はない。問題なのは、此処の構造だ。後ろから、猛火が追ってきた。そして、上層部には、空気抜きの役割を果たす、外部への天窓がある。

「ほう、考えたな」

此処は、天然の溶鉱炉というわけだ。

灼熱が、全てを包み込む。一気に燃え上がった炎の中、トールは敵を賞賛していた。

 

「敵、猛火に包まれました! 魔力反応、確実に減少中!」

ニュクスの側にいた親衛隊堕天使が、計測装置を片手に言う。あのホールそのものを溶鉱炉にし、敵を追い込んで焼き尽くす。確かに合理的な戦術である。更に、儀式攻撃魔法を数発、ホールに叩き込む。

味噌なのは、近くにアーリマンとサマエルが居ると言うことだ。正確には、トールでも破れないような分厚い壁を六つほど抜いた先なのだが、誤認させるには充分。

これならば、相手が何者だろうが死ぬだろう。カエデの容赦ない戦術は、今最終段階に掛かろうとしていた。円陣を組んでいる、魔力が強い悪魔達が、詠唱を終える。第一陣が、儀式攻撃魔法を発動させる。溶鉱炉が更に炎を噴き上げ、熱量を上げる。追撃していた悪魔達は、シールドを全力で張って後退する。

「更に熱量が上がっています! 敵反応、更に減少!」

「第二射、発射準備」

「第二射、発射準備に入りました!」

「……ニュクス将軍! 炉に異常が生じています! 気流が大幅に乱れて、これは!」

トールのことだ。無策のまま焼き尽くされるとは最初から思っていない。ニュクスは部下から計測器をひったくると、自分で情報を確認した。確かに、妙な乱気流が炉の中に生じている。これは。

「なるほど、拳の風圧で、炉の中に乱気流を生じさせたか。 なかなかやってくれるじゃないの」

溶鉱炉というものは、基本的に気流が安定していて初めて効率の良い放熱を実現するのである。トールは壁なり床なりに拳を叩き込み、それを阻害しにかかったという訳だ。元々、メギドラオンを相殺するような拳の持ち主である。簡単に仕留められる訳がない。だが、それくらい、カエデは予想していた。

「ニュクス将軍、如何なさいましょうか」

「連続して儀式攻撃魔法を叩き込みなさい。 多少の悪あがきは想定の範囲内よ」

「はっ! 第二射、準備します!」

だから、数で押し切る。如何にトールが強くとも、数万の悪魔を相手に正面から戦うには無理がある。だから精鋭を連れてきている訳だが、そちらはどのみち連続しての儀式攻撃魔法には耐えられない。このまま、一気に焼き尽くす。

その瞬間だった。馬蹄の響き。強い殺気が、迫ってくる。

「ニュクス将軍!」

「どうしたの?」

「外壁から侵入者です! 恐らくは、ムスビの悪魔かと思われます!」

ニュクスは舌打ちすると、即座に防衛体制を取るように、部下達に指示。だが、敵の行動は、それよりも更に速かった。

スルトが動く。レーヴァテインを振るって、跳躍。飛んできた槍を、たたき落とした。指揮所に入り込んでくる、八本足の馬に跨った騎士。落とされた槍は回転していたが、するりと騎士の手に戻る。

間違いない。ムスビの悪魔だ。即座に防衛体制を取る親衛隊の悪魔達。だが、何かがおかしい。

狙うのなら、アーリマンの筈だ。特にムスビの場合、戦力が少ない。わざわざ強豪悪魔が集まっているこんな所を攻撃しても、危険ばかりが大きい。そうなると、やはりこれは陽動か。

「モト将軍! アーリマン様の護衛に向かって! 此処は私とスルト将軍だけで十分よ!」

「わかった! にゅくすしょうぐんも、きをつけて!」

邪魔をしようと槍を投げかけるムスビの悪魔に、即座にスルトが斬りかかる。数合交えた後、ムスビの悪魔は笑みを浮かべると、鋭く槍を構えなおした。

「我こそは、ムスビの一将オズなり。 汝ら、シジマの名ある将か」

「私はシジマの将軍、ニュクス。 オズというと、北欧神話の、オーディンの原型となった神ね」

「同じく、シジマの将スルト。 同じ北欧の神族同士、せいぜい力を計らせて貰おうか」

北欧神話には、ラグナロクという最終戦争の思想がある。これは典型的な終末思想に基づいたものなのだが、面白いのはその展開だ。主神であるオーディンを始めとして、主要な存在は殆どが命を落としてしまうのである。神だけではなく悪魔達も。オーディンも、トールも、不死の狼フェンリルも、その父ロキも。みな戦の中で倒れていくのだ。

その中で、スルトは数少ない生き残る悪魔である。相性は、悪くないはず。ニュクスは十メートル以上を魔法の力を借りて飛び退くと、左右に孤を描くようにして印を組む。さて、どう出るかと思った時、異変が起こる。

「ニュクス様! 儀式攻撃魔法、発動しません!」

「トール、体勢を立て直しました! 防衛線に向かって突進します!」

「多少は混乱した方が、いいじゃろう?」

片眼の老騎士は、槍をぶうんと大きな音を立てて振るって見せた。

オーディンはルーン文字の発明者だとニュクスは聞いている。それならば、儀式魔法に割り込んで、発動を阻害するくらいはお手の物と言うことか。必殺の死地からトールが逃亡したとなると。もはや、サマエルに任せるしかない。

「防衛線を再構築! ただし、無為に損害を出さないように! 後続の戦力を削りながら、トールの進撃速度を遅らせなさい!」

「はっ!」

親衛隊の堕天使達が散る。スルトはレーヴァテインを構えたまま、オズをにらみ付けていた。下手な相手に槍を投げたら、即座に頭を叩き割る構えだ。オズはと言うと、余裕に満ちた態度で、槍を回し続けている。陽動ならば、此処でニュクスとスルトを無理に屠る事もない訳で、当然の態度だとも言える。

「いい顔をしておる。 何か、背負うものがある顔じゃの」

「それがはお互い様よ。 貴方ほどの神格が、何故引きこもりの究極みたいな思想に力を貸すのかしら?」

「は、は、は。 引きこもりが必ずしも悪い訳では無かろうて。 それに個々の存在が、究極的に独立し、生きていける世界も悪くはない。 儂はただそれに賭けてみたいというだけよ」

ハンドサインを周囲に出す。印は既に組み終えている。後は、仕掛ける隙だが。

不意に、後方より殺気。飛び退く。脇腹を、何かが掠めた。飛来した「それ」は、親衛隊の堕天使を数騎無造作に切り裂くと、オズの側に戻る。スルトが仕掛ける。振り下ろされるレーヴァテインを、オズは軟らかく、浮いたままの「それ」で受け止めて見せた。

それは、ククリだった。狩猟に使われる、大型のナイフだ。投擲しても用いることが出来る。だが、今の動きは。さながらブーメランだ。

「気をつけなさい! どこから攻撃が来るか、分からないわよ!」

「ほう? 見抜いたか」

「おおっ!」

スルトが雄叫びを上げ、横殴りの一撃を放つ。オズはそれも軟らかく避けながら、指を鳴らす。

その場に、百を超えるククリが、出現していた。

 

正座して、目を閉じていた琴音は気付く。幾つかの、大きな気配が接近しつつある。一つはトール。そして今ひとつは、人修羅。もう一つ、非常に希薄な気配が接近している。これは、間違いない。日本武尊だろう。あの時倒した奴は、分身体だったと言うことか。

立ち上がる。

琴音がいるのは、大海に浮かぶ船の甲板がごとく、せり出した床だ。周囲百メートルほどある、空中回廊の一角である。巨大すぎるカグツチ塔の中では、この異常な構造も、むしろ小さなギミックに見えてしまう。このせり出しの奥に、アーリマンが控えている。

敵を迎え撃つには、丁度良い場所だ。

すぐ後ろには、ケルベロスが座っている。ユリは心配そうにずっと辺りを見回していたが、一度も怖いとか、嫌だとかは言わなかった。自分で着いてくると言い出した時にはどうしようと思ったが、覚悟を決めた後はしっかり意識が変革されたらしい。あの臆病だったユリが、今では自主的に此処まで行動できるのだ。琴音としては、何一つ引き留める理由がない。

大きな気配が、至近まで来た。黒こげになった悪魔が、何騎か落ちてくる。巨体が、着地。サマエルの前で、巨躯を起こした。死骸は、その悪魔の肩から、滑り落ちたものだった。

全身から煙を上げているトールが、目を光らせる。琴音は翼を拡げると、刀を抜いた。ついに、決着の時が来た。あの様子では、かなり無理矢理押し通ってきたのだろう。瀕死の味方さえ、盾にして。おぞましいまでの執念が、トールの巨体を形作っている。

トールの後ろに付き従っているのは、いつか片腕を切り落とした黒い悪魔だ。だが、以前と違って、随分理性的な目をしている。ケルベロスが歩み出る。白銀の狼は、トールに向けて、静かな非難を発する。

「トール将軍、久しぶりですな」

「ほう。 ケルベロスか。 何か、守るものは見つけることが出来たか?」

「しかと。 貴方は、未だに拳に振り回され、彷徨い続けているのか?」

「残念ながらな」

会話は、短い。その言葉の中に、多くの思いがこもっているのが、琴音には分かる。だが、分かったところで、許せはしない。

「あちらの黒い悪魔は、俺が対処する。 サマエル、貴方はトールを倒せ」

「分かりました。 ケルベロス将軍、無理はしないでください。 見たところ、かなり手強い相手です」

「分かっている」

若干狭い空間だ。すぐに降りてきた親衛隊の堕天使が、ユリを抱えて飛び離れる。これは、事前の打ち合わせ通り。ユリを気にして戦えないのでは本末転倒だから、親衛隊堕天使の一騎に頼んでおいたのだ。

ゆっくりケルベロスは左から黒い悪魔に回り込む。トールは黒い悪魔を一瞥すると、面倒くさげに言った。

「オンギョウギ、勝とうと思わなくても良い。 足だけは止めろ」

「御意」

「さて、始めるか」

トールは、一歩を踏み出す。周囲の堕天使達が戦慄するのが、見なくても分かった。歩くだけで、圧倒的な殺気が迫ってくる。全てを打ち砕くためだけに存在している拳が、獲物を求めて疼いている。

この男は、強い。しかし、何一つ生産することはない。

ただ破壊するだけ。己のために、死骸の山を積み重ねるだけのもの。それがトールという男の本質だ。

どこかに、寂しさは感じた。先ほどの言葉には、感情がこもっていた。だが、この男は、自分の目的のためなら、感情など平気で押し殺す。大量虐殺に手を染めることをも厭わない。文字通り、生ける破壊兵器だ。

だから、今此処で倒さなければならない。これ以上、破壊をさせないためにも。

最初に仕掛けたのは、琴音からだ。跳躍。翼を拡げると、鋭角に襲いかかる。接触の瞬間、袈裟に斬る。トールは斬撃をかわしながら、肘を叩き込んでくる。

トールが肘を叩き込んだ地点が、クレーター状に抉れる。強固を極めるカグツチ塔の壁も床も、トールにしてみれば大した代物ではないらしい。

一撃に、カグツチ塔そのものが揺動した。

 

何カ所かに張られた防衛ラインを避けながら、日本武尊は塔の中を行く。音も立てず、姿も現さず。ただ一筋の影となって、闇の中を這い進む。

それが分かっているのに、対処が出来ないもどかしさを、モトは感じていた。

棺桶に入ったまま、飛ぶ。目的の場所は、もう近くだ。

幸い、奴は弱体化している。散々分身体を倒されているのから当然のことで、以前戦った時よりもだいぶ衰えているのはほぼ確実だ。

もしも日本武尊が現れた場合の対処策も、カエデには示されている。

頭が悪いことを、モトは自覚している。自分がただ力ばかり強い子供であることも、である。だから、今は他の悪魔達の指示に従うことが、恥ずかしいことだとは思わない。それに、自分に優しくしてくれる悪魔も多くて、モトには居心地の良い場所だった。このシジマという組織は。

同じ子供でも、頭が良くて、皆を束ねているカエデが羨ましいのは事実だ。だが、嫉妬に忠誠心が優先しているのも、また事実。今はただ指示に従い、モトは飛ぶ。確実に、日本武尊を待ち伏せできる地点に。モトに、足の速い親衛隊の堕天使が百騎ほど続いているが、彼らは一様に不安げな顔をしていた。

「モト将軍! まもなくカエデ司令指定の地点に到達します!」

「わかった。 みんな、ゆだんするな」

「はっ!」

そこは、狭い通路。一見すると、カグツチ塔の中に何万とある、何の変哲もない通路にしか見えない。

しかし実は違う。

分かっているのだ。日本武尊は、人型を取らない限り、平面的にしか移動できない。国会議事堂で戦った時に、カエデが痕跡を徹底的に調査した。その結果、そういう結論が出たのである。

この通路は、アーリマンに平面的経路で迫ることが出来る、唯一の場所なのだ。

そして、カグツチ塔には、パイプや換気口などのライフラインが存在しない。此処で待ち伏せることにより、確実に奴を屠ることが出来るのだ。

それらも計算して、アーリマンは今、此処の近くにある巨大な空間に陣取っている。来る途中、カエデが指示した陣立ては、一分の隙もないほどに見事であった。少なくとも、モトは感嘆するばかりである。

棺桶を立て、着地する。隙間から、外をうかがう。気配がある。棺桶から手を伸ばし、光を放った。

炸裂。周囲が炎に照らされる。堕天使達が槍を構え、指笛を鳴らす。周囲の部隊が、すぐに集結してくるはずだ。床から、闇の塊がせり上がってくる。それは古風な男の姿を取る。手には禍々しい力を持つという、剣が具現化していた。

「また貴様か、魔王モト」

「ここは、とおさない」

「……」

不敵に日本武尊が微笑む。どうやら、自分が分身体であるかのように、見せかけようとしているらしい。だが、残念ながら、もう手の内は割れている。カエデが、割り出してくれたのだ。

日本武尊は狡猾な悪魔だが、頭の出来ならカエデのほうが数段上だ。だから、今此処で、此奴を捕捉することが出来た。

「おまえがかげでないことは、わかっている。 だからおまえを、ここでたおす」

「貴様のような幼い心の持ち主が、シジマに何故忠誠を誓う。 シジマは極端な管理社会で、貴様のような存在が楽しめる要素は何一つ無かろう」

「ぼくは、しじまのみんながすきだ。 それだけでじゅうぶんだ」

モトは皆が好きだ。ちょっと変わっているけど優しいニュクスも、逞しくて頼れるスルトも。強くてかっこいいアーリマンも。死んでいったみんなだって好きだった。周囲の堕天使達も、きっと同じ気持ちの筈だ。今、戦おうとしている日本武尊だって、ムスビが好きだから、今此処で戦おうとしているのではないのか。

モトに、難しいことはよく分からない。だが、分かっていることがある。自分はシジマが好きで、今更節を曲げるつもりはないこと。そして、シジマのためならば。命を捨てるのも、惜しくはないと言うことだ。

「ならば、此処で斬り捨てる」

「いのちにかえても、ここはとおさない」

フラウロスに斬られかけて、泣きわめいた弱き心の持ち主だったモトは、もはや何処にもいない。此処にいるのは、己が信じるものに命を賭けて戦える、一人の戦士であった。気合いの声を上げて、日本武尊が躍り掛かって来る。モトは部下達と共に、棺桶を回転させながら、それを迎撃した。

 

2、夢の終わりと

 

何処までも落ちていくような、深い穴の中で。壁を蹴り、所々に浮かんでいるブロックを踏みしめて、オンギョウギはケルベロスとぶつかり合っていた。

短期間とはいえ、トールから鍛え直されたオンギョウギは、片腕でありながらも体が軽いことを実感していた。ケルベロスが放ってくる火球をかわしながら間合いを詰め、蹴りを叩き込む。ケルベロスは食肉目らしい柔軟な体でそれを受け止めきると、太い前足を振るって、オンギョウギを壁に叩きつけた。更に、首筋を狙って噛みついてくる。

ふと、フラッシュバックする。

オンギョウギは、カラーギャングと呼ばれる、無法者の一人だった。

喧嘩が強くて、敵がいなかった。元々群れることしか出来ず、一人では何も出来ない周囲のアホどもの中で頭角を現したオンギョウギは、瞬く間に地歩を確保していった。両親は幼い頃から彼に興味を見せず、ただ女と酒とドラッグにだけ溺れた。

人も殺した。同じような無法者と群れて、新宿を彷徨く彼の名は、いつの間にかヤクザにも知れ渡っていた。フウキやスイキ、キンキの事も思い出す。彼らも、オンギョウギの部下だったのだ。

自分が強いという錯覚からは、結局死ぬまで逃れられなかった。いや、死んでも、である。ボルテクス界でもオンギョウギの凶行は止まらず。結局、トールに叩きつぶされて、彷徨う間も、迷妄の霧からは逃れられなかった。

そして、彼の目を覚まさせてくれたのは。

サマエルだった。何かを守るために、トールと戦うその姿は。オンギョウギの心を、闇と霧から覚まさせてくれた。

そして今。トールの元で心を入れ替え。オンギョウギは、戦っている。

噛みついてきたケルベロスを、蹴り上げる。壁を何度か蹴って、近くの浮遊ブロックに降り立ったケルベロスは、血を吐き捨てながら、感心の声を上げた。

「オンギョウギ。 かっての貴様は、ただ力が強いだけの愚物だった。 何度も呆れたものだ。 だが、今は違う。 とても澄んだ眼をしているな」

「ケルベロス殿にそう言われると嬉しいな。 こんな事で償いが出来るとは思えはしないが」

「……行くぞ」

ケルベロスの全身から、炎が吹き上がる。元々彼は地獄の番犬である。灼熱は彼の味方であり、その手足だ。オンギョウギは目を閉じると、渾身の一撃を叩き込むべく、己の全てを集中していく。

足だけ止めればいいと、トールには言われた。だが、ケルベロスはそんな余裕を与えてくれるような相手ではない。勝負に、此処は出るべきだった。

対峙は、一瞬。

そして、動へ。

跳躍。直線的に、間合いを詰める。ケルベロスが詠唱を完了。その直前で、浮遊ブロックを蹴って高々と跳躍。回転して体勢を整えると、斜め上から、全力を込めた蹴りを叩き込む。

「おおおおおおおおおおっ!」

ケルベロスは、何も言わない。吠えもしない。ただ、その全身が、赤く燃え上がっている。

蹴りが、入る。浮遊ブロックが、衝撃で木っ端微塵になる。だが、ケルベロスは。空中に浮かんだままで、蹴りを受け止めて見せた。

「全身全霊の蹴り、確かに受け取った!」

負けを悟ったオンギョウギは、ふと笑みを浮かべていた。

どうやら、此処で終わりらしい。ケルベロスは血を吐き捨てると、己の全てを炎と化す。

自分を包む炎は、どうしてか、少し心地よかった。

溶けていく意識の中で、オンギョウギは今まで虐げてきた周囲の弱者に詫びる。

素直に、謝罪の言葉が出ていた。何かを生まれて初めて成し遂げることが出来たオンギョウギは、安らかに、最後の瞬間を迎えていた。

 

傷ついているはずなのに、トールの動きは衰えない。真上から突き込んだ刀を、首を曲げるだけで避けてみせると、頭突きを直上に叩き込んできた。左腕でガードしながら、翼を使って威力を殺すが、しかし天井にまで叩きつけられる。そして、間髪入れずに跳躍して追いついてきたトールの拳が、天井を爆砕した。

天井の破片が降り注ぐ中、今の一撃をかわした琴音が、至近からトールに冷撃の魔法を叩き込む。トールは拳を振るって迎撃、相殺し合って弾かれる。翼を拡げ、距離を取りながら、連続して攻撃術を叩き込む。その全てを、トールは拳一つでたたき落としていく。

圧倒的な力で、全てをねじ伏せている。トールの戦い方は、その生き方と同じだ。今まで何度も戦った相手だから、分かりきっている。

厄介なのは、トールはそれを自覚していて、己のパワーと肉体を最大限に生かすことをためらわないという事だ。

全てを戦闘のためにつぎ込んでいる鬼神。人間の時から、本質的に全く変わらない男。許すことも認めることも出来ないが、最強の存在であったのには、それなりの理由があったと言うことだ。

壁を蹴って跳躍したトールが、正面から拳を叩き込んできた。剣を上段に構えると、下がりながら力を込める。剣先が輝くような感触は、集中している証拠だ。激突の瞬間、拳を避けながら、剣を振るい上げる。だがトールは脇腹を切り裂かれても動じず、無理矢理に蹴りを叩き込んできた。更に刃が食い込むのもまるで意に介していない。完全に、化け物だ。

この間合いでは避けようがない。

ついに、クリーンヒットが入った。

床にたたきつけられる。二度バウンドして、転がった。

それでも、跳躍して、追撃の拳から逃れる。空間をえぐり取るような拳が、壁を触れてもいないのに爆砕。必死に距離を取りながら戦機を伺う堕天使達を、少しでも守るべく。琴音は敢えて危険を冒して、至近へ飛び込む。

振り下ろした刀が、トールの肩から腹に掛けて切り裂く。カウンターの膝蹴りを何とかかわして、背中に、至近距離からのメギドラを叩き込む。流石に吹っ飛んだトールが、壁に突っ込んで、煙の中に消えた。

「今だ、撃てえっ!」

堕天使達が、一斉に攻撃術を放つ。爆発が連鎖し、トールの姿が完全に消える。ケルベロスは。一瞬だけ意識をそちらにやると、高台から飛び降りた二騎は、落ちながら激しい近接戦闘を繰り広げているようであった。

意識を戻すと、詠唱開始。トールが、何事もなかったかのように煙の中から現れ、堕天使達の猛攻を、無造作に払いのける。あまりにも圧倒的な実力。だが此処にいる堕天使達は、いずれもアーリマンの護衛を買って出た、ニヒロ機構の初期からいる強者ばかりだ。誰もひるまない。

堕天使の一騎が、大きめの術を放つ。気配を殺して、火球の影に潜り込むと、全力でトールに接近。火球が砕けるのと同時に、頸動脈に刀を突き刺しに掛かる。見る間に迫るトールの首筋。

違和感を感じた琴音が、飛び退こうとするが、遅い。

天井から落ちてきたブロックが、琴音を直撃した。

さっき、天井に向けてトールが放った一撃の余波だ。潰れることは避けたが、態勢を立て直すだけで精一杯である。まさか、こんなトリッキーな攻撃を此処で使ってくるとは。トールの拳が、追い打ちしてくる。斜め上から抉り込むように叩き込まれた拳が、琴音を地面に叩きつけていた。床材が砕け、消し飛び、クレーターが出来る。

直上に気配。トールが、全身を踏みつけたことを、琴音は知った。クレーターの中で、琴音はくぐもった声を上げた。

「あぐっ!」

「どうした、動きが鈍いな」

再び跳躍したトールが、踏みつぶしに掛かって来る。振り向きざまに、直上に集束型のメギドラを叩き込んだ。対応が遅れたトールが、天井に叩きつけられて、磔になる。更にもう一撃。どこかから、声が聞こえる。自分を心配する、ユリの声か。

「コトネ!」

「外野は黙っていろ。 これは、俺の戦いだ」

横っ飛びに逃れ、落ちてきたトールの拳を逃れる。だが、トールの反応は、この期に及んでなおも早い。左腕の裏拳が、琴音を捕らえていた。壁に叩きつけられた琴音は、トールの巨大な拳が至近にまで来ていることに気付いた。

全身に鈍痛が走る。

壁に叩きつけられ、クレーターが出来る。更にもう一つ、巨大な拳の直撃を受ける。衝撃を殺すどころではない。どんな震脚の妙技でも、こんな威力を受け流すのは無理だ。意識が、飛びかける。そして、全身を、黒い力が駆けめぐるのを感じた。

抑えていた呪いが、再び活性化し始めた事に、気付いた。

カエデは言った。守りに徹しろと。血液に呪いが浸透していて、激しい戦いになればそれがぶり返すと。トールに向け、周囲にいる堕天使達から攻撃術が集中する。効いていない、訳ではない。炸裂する火球が肌を抉り、冷気の槍が傷つけているのは見える。だがトールは意に介さず、三撃目の拳を振り上げていた。

顎を蹴り上げ、拘束から脱出。一瞬遅れて、トールのアッパーが壁に深々とめり込み、数十メートルに達する亀裂を作っていた。鉄が豆腐のように思えてくる強度のカグツチ塔を、いとも簡単に砕くその拳は。もう、生物のものとは思えなかった。

カグツチ塔は基本的に、オベリスクと同じくブロック素材の集まりで出来ている。砕けたブロックの中に立ちつくしながら、トールは振り返る。如何に焼けこげていても、鮮血にまみれていても。その姿は、陥落することのない要塞のように見えた。ワンマン・ザ・アーミーという言葉があるが、この男の場合、それさえも生ぬるい。いわば、ワンマン・ザ・キャッスルだ。

敗北感に包まれそうになる心身を、必死に立て直す。トールがどれだけ打撃を受けているのかも、よく分からない。だが、それでも。琴音は負ける訳にはいかなかった。

「粘るな。 並の上級悪魔なら、もう十度は死んでいる所だが。 多少は鈍くなっても、貴様はやはり楽しませてくれるわ」

「……貴方は、いつも、そう」

さっき、トールは俺の戦いだと言った。その言葉に、この男の全てが集約されていると、琴音は思った。いつも、いつもそうなのだ。この悪魔には、基本的に他者の存在は無いに等しい。

自分の中で、全てが完結している。他の存在は、全てが餌か、踏み台だ。昔からそうだった。琴音を育てたのも、それが理由だったのだろう。そして恐らくは。バアルに従っているのも。

そのために、どれだけ周囲が傷つこうと、構わないのだ。

社会は弱者のためにあると、琴音は思っている。弱者を大事にしてきたから、人間は世界的に発展し、広がりを見せてきたのだ。トールのような、一部の強者が好き勝手にするために、社会は存在するのではない。そうであってはならないのだ。

「そうとも。 俺はいつもこうだ。 それがどうかしたか」

トールの言葉には、何の感情もこもっていない。この男にとって、ボルテクス界はパラダイス。そして、今、更に都合が良い世界を造るために、立ちはだかる敵を皆殺しにし続けている。

活性化し始めた呪いのこともある。あまり、もう長く体は動かないだろう。今の内に、最後の攻撃を仕掛けなければならない。琴音は、こんな時にも冷静に働く自分の頭に、嫌気が差し始めていた。琴音が最終攻撃の準備に入ったことに気付いているにもかかわらず、トールは気にもせず、大胆に間合いを踏み越えてくる。

「お前にとって、武とはなんだ」

「大事な存在を守るための盾」

「そうか、ならば俺にとっては、全てを焼き尽くす炎の剣と言うところか」

トールが、腰を落とす。そして、正拳突きの体勢に入った。トールの、必殺の構え。メギドラオンさえをも相殺する、究極の体術。これの直撃を受けて生きている悪魔のことを、琴音は聞いたことがない。

もはや、この場に言葉も思いも必要はない。ただ、敵を倒すことだけがある。

目を閉じると、印を切る。

最後の技で、琴音はトールに挑む。

 

秀一は必死に抵抗するシジマの軍勢を切り伏せながら、確実にアーリマンの所を目指していた。今まで、いると思われた場所を、二つ巡って不発だった。そして今、巨大な気配同士がぶつかり合っている、三つめの候補地を目指して、走っている。

もたもたしていると、数万に達する敵が押し寄せてくる。そうなれば、あっという間に押しつぶされて全滅だ。同時多発の攻撃で、敵が混乱している今しか好機はない。

今目指しているのは、来る途中見た、袋小路になっている場所だ。確かに立てこもるには都合が良い。アーリマンが上を目指す前に、敵を全て叩きつぶすには、此処が最適だろうと秀一は思った。もっとも、そんな消極的な策を採るとは思ってはいなかったので、優先順位を下げていたのだが。予想は見事に外れたことになる。

ぶつかり合う気配が、二つとも徐々に小さくなっている。それに反比例するように、前に立ちふさがる悪魔達の壁が分厚くなる。前から迫って来る数十騎の堕天使。まともに突破していては、時間が掛かりすぎる。責任感にも戦意にも溢れた彼らには、あまり敵意は感じない。だが、突破しなければならないのが心苦しい。

秀一は床に拳を突き刺すと、叫ぶ。

「いくぞ」

全身の魔力を、一点に集中する。此処を突破すれば、アーリマンがいる場所まで、まもなくだ。そして今は、力を惜しんでいる暇はない。

顔を上げる。全身の模様が強く発光し、足下からせり上がってくる。堕天使達が、シールドを張るのが見えた。皆、責任感の強い表情をしている。此処を抜かせる訳にはいかないというのだろう。

彼らを倒すのは心苦しい。だが、シジマの思想で創世させる訳にはいかない。

「撃たせるかあっ!」

突っ込んでくる堕天使が一騎。飛び出したサルタヒコが、秀一の至近まで迫った槍先を、受け止める。もう一騎、ハンマーを振りかざして突進してきた。リコが飛び出すと、顔面にドロップキックを叩き込む。吹っ飛んだ堕天使を援護するかのように、シールドの影から、次々堕天使が飛び出してくる。秀一が大技を用意しているのは見えているだろうに、大した勇敢さだ。サナが雷撃を放ち、フォルネウスが冷気の息を吹き付ける。だが、ひるむ様子がない。次々に飛び出してくる堕天使達を、連続して雷撃を放ち払いのけながら、額から汗を飛ばすサナ。

「シューイチ、あまり長くは保たないよっ!」

「もう少しだ」

全ての魔力が、顔面に集中した。同時に一瞬、発光する全身の模様が消える。

「おおおおおおおおおおおっ!」

サルタヒコとリコが、息を合わせて飛び退く。フォルネウスが秀一の後ろに、氷の分厚い障壁を展開した。

膨大な光が放たれる。それは直線的に通路を蹂躙、堕天使達が張ったシールドを貫通して、瞬時に蒸発させた。強烈な運動エネルギーが体を揺さぶる中、秀一はだが、充分に持ちこたえる。

全てが終わった後。通路から、堕天使達の姿は消え。代わりに、膨大なマガツヒが、当たりに漂い続けていた。

至高の魔弾。螺旋の蛇の究極進化型であり、この間サナが名付けた技だ。今までは床に拳を突き刺して体を支えなければ撃てなかったが。今の感触からだと、次は立ったままでいけそうである。倦怠感も、だいぶ少なくなっていた。

秀一は周囲のマガツヒを吸い込むと、少し足りないと思った。ヤヒロヒモロギを傾けて、蓄えられているマガツヒを口にする。それで、ようやく補填は出来た。

だが、蓄えてあるヤヒロヒモロギも無限ではない。走り寄って来たカズコに見上げられる。

「大丈夫? そんなに飛ばして」

「どのみち彼らのような、命を賭けて向かってくる相手は、全力で戦わないと撃退は出来ない。 仕方がないと思って、諦めるしかない」

それでも、中枢に食い込んだ状態から奇襲を掛けたから、状況はまだましだ。このまま行くと、どんどん敵が集まってきて、対処が出来なくなる。一万を超える敵が集結する前に、アーリマンを屠る。

後方では、マダとニーズヘッグが死闘を続けている。じりじりと下がる彼らにも、耐久力の限界がある。爆発音。追いついてきている敵の火力が、ますます上がっているようだ。豪傑であるマダや、巨体を誇るニーズヘッグといえども、いつまでもは持ちこたえられないだろう。

「急ぐぞ」

言葉はあくまで短く。

秀一としても、無為に殺しはしたくないのだ。立ちふさがる相手は容赦なく叩きつぶすとしても、戦いが速く終われば、消える命も減るだろう。それに、近付いてきて分かったこともある。

多分、戦っている気配は、琴音だ。もう片方は、トールだろう。

無理だと言うことは分かっている。だが、琴音は出来るだけ死なせたくない。多分戦っているから気付いていないだろうが、両者ともかなり危険な状態にまで落ち込んでいるのが分かる。トールも、もう少ししっかり話し合っておきたい相手だと思う。今になって思うと、凶猛なだけではなく、何処か悲しいところもある拳だ。トールを孤独に追い込んでいる原因が分かれば、和解の可能性もあるのかも知れない。

走る。後方から迫る気配は、数を増す一方だ。

来る途中に作った地図に、目を通しながら、サナが叫ぶ。

「シューイチ、この先、一本道になるよ。 其処を抜けると、アーリマンがいる、大きな空間に出る!」

「そうなると、其処で戦っているのが琴音とトールだな」

「つぶし合ってくれれば楽なんだけどなー」

さらりと言うサナに、リコが流石に抗議の視線を向ける。ヨスガと戦うと明言してくれたリコだが、それでもトールと戦うのは抵抗があるだろう。リコにとっては大恩人だと聞いている。

「どうする? 此処で追撃を防ぐか?」

「そうしよう。 フォルネウス、壁を作ってくれ。 マダも残って欲しい」

「おう、ありがたいこった。 流石に氷川司令に刃を向けるのは気がすすまねえからな」

フォルネウスの強力な氷壁は、短時間であれば絶対的な守りを発揮する。あのカエデか琴音でも無い限り、破ることは無理だろう。カエデはどういう訳か下層にいないようだし、琴音がいるのはこの先。ならば、二人をカウントする必要はない。戦いの音が、ますます激しくなる前方に、秀一は皆を促して向かった。

やがて、通路の先に、光が見えてくる。

至高の魔弾で焼け溶けた床を踏みしめて、通路を抜けた。

鮮血が降り注ぐ。マガツヒと化していくそれを、秀一はしばし見つめていた。

 

構えを取り直した琴音は、額から垂れてくる鮮血を気にすることもなく、トールとの間合いを計った。

勝負は、一瞬である。

トールの耐久力と練度から考えて、多段攻撃は効果を期待できない。一撃必殺の技を用いて、瞬時に屠るしかない。しかし、あのトールを瞬時に屠るとなると、可能性のある技は限られてくる。

例えば、浸透勁。

「ほう。 浸透勁か」

トールが含み笑いを漏らすと、更に間合いを詰めてきた。数センチ詰めただけなのに、威圧感が倍増する。

分かる。今、トールは全力で攻撃を仕掛けようとしている。あのトールが、である。奴に全力を引き出させた自分を誇るべきなのか、或いは。はっきりしているのは、此処で決めなければ、トールは全てを殺し尽くすと言うことだけだ。

浸透勁を使うことに、代わりはない。問題は、その使い方になる。

トールは、今のところ、気付いていない。

前に、出た。トールが踏み込む瞬間。琴音は、自分も、大きく踏み込んで、下に拳を叩き込んだ。

同時に、床が大規模な崩落を起こす。今までの戦いで、脆くなっていたところに、全力での浸透勁を叩き込んだのだ。トールは足場を失い、完全に体が泳いだ。

「むっ!」

この瞬間を、待っていた。

トールの正拳は、足場の悪いところでも撃てる、万能に近い技だ。現に今までも、砂漠であろうがアマラ経路の中であろうが、平然と放つことが出来ていた。だが、その足場がいきなり崩れたらどうなるか。

威力が必殺であるが故、崩れた後は脆い。例えトールが絶対神であったとしても、其処には隙が出来る。

そしてトールは、己のみを頼んでいる。それが、奴の絶対的な弱点なのだ。

跳躍。翼を拡げて、最大限に加速。

トールが、此方を見た。刀は既に、鞘から抜きはなっている。

「てあああああああああっ!」

「おおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

二つの叫びが、交錯。灼熱のごとき、トールの戦意をかいくぐり、懐に飛び込む。そして、腹の中央に、見事虎徹を叩き込んだ。大量に吐血するトール。そして、刀に謝りながら、全力で浸透勁を叩き込む。

虎徹が。長年使ってきた名刀が粉みじんに吹き飛び。

トールの全身から、膨大な鮮血が噴き出していた。

「お、おおおお、おおおおっ!?」

トールが下がる。二歩、三歩と。七歩の時点で踏みとどまるが、しかし戦う力はもう残っていない様子だ。だが。その時、琴音の全身を、黒い力が駆けめぐっていた。一都市を丸ごと滅ぼせるほどの、超高密度の呪い。それが、息を吹き返し、全てを飲み込もうとしているのだ。

内臓系が、駄目になっていくのが分かる。視界が、急激に暗くなっていく。誰かの声。自分を呼んでいる。トールは。トールの気配が、遠ざかっていく。撤退していくのか。斬ることは、出来なかったのか。

だが、今の技を受けて、無事で済む訳がない。琴音が最後の力を全て叩き込んだ浸透勁だ。如何に鋼の肉体を持つトールといえども、もう、長くはないはずである。もう、奴に、誰も虐げられることはない。

最強の暴力は、此処に潰えたのだ。

琴音は、微笑む。誰かが、側に歩いてきた気がした。やっと、生きているという実感を、得ることが出来た。

感じる。みんな、側にいる。

 

激突。そして、決着。

全身から血を吹き上げながら、トールが落ちていく。だが、死んではいない。途中の窓に掴まると、カグツチ塔の外縁に飛び出していった。一度撤退するつもりだろう。だが、動きがかなり鈍くなっていた。あれでは、もう長くはないだろう。

琴音は。その場で膝を突いて、動けない。琴音を呼ぶ声。ユリだ。堕天使が一騎に、側にユリを降ろした。直後、激しい炎の柱が、その堕天使を包む。無言で落ちていく堕天使を、秀一は呆然と見送っていた。

「シューイチ!」

サナに肘で小突かれて、気付く。此処は戦場だ。荒れ狂ったトールの拳に砕かれたであろうが、それでもまだ数百を超える堕天使達。侮れる戦力ではない。跳躍すると、琴音の側に着地。槍を構えたまま、じりじり下がる堕天使には、目もくれない。俯いたままの琴音に、歩み寄る。

「白海さん」

「秀一君?」

咳。ごぼごぼと、嫌な音が混じる。

元々褐色の肌をしていた琴音だが、見る間に全身が黒く染まっていくのが分かる。マガツヒから得た知識から、それが呪いによるものだと分かる。それも、とんでもない高密度の。駄目だ。助からない。ユリは泣きながら、琴音にしがみついている。もはや、何一つ、出来ることはなかった。

「みんなが、迎えに来てる。 もう、私、最後、みたいだね」

「そんな!」

リコが呻いた。カズコを背負って此方に飛び移ってきたカザンが、目を剥いた。

リコは琴音に反発さえしていたが、一目置いていた。アサクサでは、何度か琴音のことを羨ましいとぼやいていた。整理された頭脳や、確立された信念が、彼女にそう感じさせていたらしい。

その死を間近にして、本気での当惑が見て取れる。

カザンに到っては、剛胆な彼らしくもなく蒼白になっており、なりふり構わず叫んでいた。カズコも、ずっと一緒にいた琴音の有様を見て、平静ではいられないようだった。

「サマエル殿!」

「コトネ!」

二人の声に、琴音は手を挙げて、接近を制する。彼女の体は、今とても危険な状態だ。本当はしがみついているユリも、無理にでも引きはがしたい所なのだろう。だが、その力さえも、残っていないと言うことだ。

もちろん、秀一も。琴音のことは認めている。このボルテクス界を代表する戦士の一人だと思っている。

道は違えてしまったが、気高い存在だった。その最後の時に、秀一は立ち会おうとしている。

いつも間に合わない。虚しいと思う。だが、見届けなければならない。

「……何か、俺に出来ることは?」

「ごめん。  二つ、頼んで良い?」

琴音の口から、血が伝う。サナが側で状況を見て、呻いた。

下では、まだ戦いの音がしている。咆吼からして、片方はずっと以前、イケブクロで顔を合わせたケルベロスだろう。もう片方は分からない。どこかで感じた気配だが、しかし構っている暇はなかった。琴音の口元に、耳を傾ける。

「一つは、ユリを、それにシジマの皆を殺さないで。 アーリマン様を破って、もし彼らが戦いの意思を捨てたら、だけれど」

「無論だ。 交戦の意思がない相手を斬るつもりはない」

難しいことは分かっている。アーリマンが倒れても、シジマの理想を捨てようとしない悪魔だって多いだろう。だが、それでも、節を曲げる気はない。ひょっとして、軍を指揮しているカエデがそういう意思を示してくれたら。それも、難しいかも知れないが。

琴音は咳き込んだ。大量の血が、床にばらまかれる。必死に呼吸を整えると、琴音はそれでも凄惨な笑顔を作ってみせる。

「もう一つは、この呪いを、最後の力で押さえ込みたいんです。 手伝ってもらえませんか?」

確かに、今琴音の体内で荒れ狂う呪いは、放置しておいたら周辺全てをまとめて飲み込んでいくだろう。琴音から離れようとしないユリも巻き込まれる。専門家であるサナを見る。ため息を一つ付くと、サナは髪を掻き上げた。

「分かった。 いいよ。 手伝う」

いつのまにか、戦いは止んでいた。やりとりを見守っている堕天使達の前に、無言でサルタヒコが立ちふさがる。剣は抜いていないが、無言の威圧感だけで、彼らを抑えるには充分だった。

サナがチョークのような粉を指先から出して、床に円を描いていく。印を切って詠唱しながら、魔法的な文字を、円の中に刻んでいく。円が、輝き始める。琴音は床に手を突くと、大量の血を口からこぼしながらも、詠唱を続けた。

空間を押しのけるようにして、膨大な光が立ち上る。物理的な圧力さえ持っていそうな光の中に包まれた琴音は、どこか安らいでいるように見えた。

秀一も、ほんの僅かだが、クレガとフォン、それにティルルや、他の悪魔の気配を感じた。

彼らはみんな琴音が好きだった。

そして、ただ平穏に生きたかったのだ。このボルテクス界で、それが許されなかったと言うだけで。

光が収まると、其処にあったのは膨大なマガツヒのみ。

そして、アーリマンの気配が奥にある、大きな扉だけだった。

琴音は逝った。また、このボルテクス界を作ったものの掌の上で、気高い魂が散った。これで何度目か。

顔を上げた秀一の心に、炎が灯る。カグツチよ。待っているがいい。必ずや、このような世界を造り、多くの命をもてあそんだ落とし前はつけさせてやる。秀一はつぶやくと、周囲で輝いている琴音のマガツヒを、一息に吸い込んでいた。

堕天使達の中にも、涙を流しているものは多かった。彼らに交戦の意思はない。今の内に、行くしかない。

歩む。アーリマンは、この先だ。

力の差はいまだ絶望的かも知れない。しかし、負ける訳にはいかなかった。

 

3、攻防

 

見つけた。顔を上げたカエデは、すぐに伝令を司令部に走らせる。そして自身は、精鋭を率いて、その場に急行した。

跨っている蛇の悪魔が、速度を上げる。皆のことは気になるが、今はムスビに致命傷を与えることだ。そうすれば、一気にヨスガへ攻め込むことも出来る。ヨスガとの総合的な兵力差は1.5倍以上に開いており、今なら確実に勝てる。

とっさにシールドを展開したのは、今までの戦闘経験がなせる技か。飛来した光の弾が、炸裂し、当たりをなぎ払う。必死にシールドを展開する堕天使達も多かったが、それ以上の数が、何も出来ずに焼き尽くされていた。

顔を上げる。そいつは、いた。

古代エジプト風の装束を身に纏う男だった。顔には鷹によく似ていて、嘴があり、背中には光り輝く翼を持っている。上半身半裸の肌は褐色で、足下には草で編んだらしいサンダルがあった。

特徴を頭の中で検索。すぐに結論が出た。

「古代エジプトの神、ホルスですね」

「如何にも。 我はムスビの神将にて、ノア様の側近。 魔神ホルスである」

声はまだ若い男のものだが、修羅場をくぐり続けた戦士らしい、重厚な凄みがある。無理もない。カエデの知るホルスは、軍神というも生ぬるい、戦のために産まれてきたような存在だ。

「エジプト神話で、サタンの原型ともなった邪神セトを相手に一歩も引かず、神々を率いて一年以上も戦い続けた貴方ほどの存在が、何故ノアなどに従っているのですか!?」

「それは、我も他の神々と同じだ。 人間の身勝手な行動と信仰に、あきれ果てただけのことだ。 世に、自由意思を持つ多数など必要ない。 個々が独立し、究極的な平穏があれば、それでいい」

説得は不可能らしいと、カエデは判断。追いついてきた後続にハンドサインを飛ばすと、交戦準備にはいる。

エジプトは、いうまでもなく、最も古い巨大文明圏の一つである。そして、其処でも、余所と同じような、信仰の弊害があった。

神の代行者を自称する神官達の横行、政治への介入。そして腐敗。

何度も古代エジプトでは首都の交代が行われたが、それは権力が強い神官達を避けての事であった。それは古代日本で行われた、遷都と良く状況が似ている。神官達の専横を打破するため、神を作った王さえいた。古代から、人間の業は、何処の国でも地域でも変わりはしなかったのである。

それらの情報を、カエデは知っている。アマラ輪転炉から取り込んだ分もあるし、勉学で身につけたものもある。

だから、ホルスの意図は分かる。だが、認める訳にはいかない。

どこかで、意固地になっている自分に、ふと気付く。周囲の部下達が殺戮されたというのに、妙に冷え切っている頭にも。あのショクインとの戦いでも、死者は出さなかったのだ。それなのに。こんなたかが知れた奇襲で、あっさり多くの部下を失ってしまうとは。

それに、そもそも自分自身の防衛戦力が低いことも、忘れていた。どこかで、おかしくなっていたとしか思えない。

護衛戦力としてサマエルを呼び寄せた位なのである。近接戦闘を挑まれたら、どうにもならないことは分かりきっているのに。何かが、完全に狂ってしまっていた。掛け違えた歯車が、カエデの中で軋みを上げる。

愕然としたカエデを、鼻でホルスは笑った。

「そなたは如何に優れていても、所詮子供か。 そう悩みが多くては、いつ寝首を掻かれるか分からぬぞ」

「……」

子供。はっきりそう言われると、確かにその通りだ。必死に背伸びして、皆のために頑張ってきた。皆に支えられて、今まで戦えてきた。

だが、その皆がいなくなりつつある今。カエデは、己の立ち位置がとても無理のあるものだと、ようやくわかり始めてきた。

引くべきだ。ノアの居場所は確定した。ならば、一旦護衛戦力を整え直して、引く。まずは、アーリマン様の周囲に群がっている敵を、兵力にものを言わせて叩きつぶす。全てはそれからだ。

痛恨の判断ミスであった。フラウロスがいたら、叱責されていただろう。情けなくて涙が出てくる。一刻も早く、ミスはリカバリーしなくてはならない。

問題は、どうやってこの強敵を退けるか、だが。

後ろに殺気。振り向く前に、シールドを展開。だが、シールドごと吹き飛ばされて、床にたたきつけられる。再び、至近に迫る殺気。速い。いや、速いなどと言う次元ではない。翼を持っているとは言え、これほどの速さを誇る悪魔を、カエデは見たことがない。

振り返りざまに、火炎の術式を放つ。残像を貫いただけだ。はじき飛ばされ、床にたたきつけられる。何重にも展開していた防御術の殆どを、今の瞬間に貫通されていた。

立ち上がるカエデの前に、剣を抜きはなったホルスがゆっくり降りてくる。余裕綽々の様子だ。

「そなたは護衛戦力がいて、初めて力を発揮できるタイプの使い手だ。 かつての兵種で言うと空母に近いな。 私と、雑魚だけで戦おうというのは難しかろう」

「……」

「もっとも、そなた程の魔力を持つ悪魔を、私は見たことがない。 単純な魔力だけで言えば、ノア様やバアル神にも匹敵しよう。 放っておけば、重大な脅威になりかねぬしなあ。 此処で、死んで貰うか」

後ろから槍で突きかかった堕天使を、振り向きもせず、ホルスは斬り捨てる。カエデは身動き一つ出来なかった。既に此処はホルスの間合い。下手な動きをすれば、瞬時に斬り伏せられる。

周囲に展開している悪魔は多いが、これではどれだけ数がいても無意味だ。

だが、あと少し。少しだけ、時間を稼げれば。

周囲で、仕掛ける隙を狙っている堕天使達も、皆親衛隊を務める強者達だ。流石にホルスには比べるべきもないが、僅かでも隙を作れば。雑魚とホルスには一蹴されていたが、充分に有効打を与えられる者達である。ゆっくり、ホルスが剣を振り上げる。太陽を模した、豪華なものだ。その手が、途中で止まった。

「ふむ、何か仕掛けたな?」

「はい。 こういう事です」

指を鳴らす。ホルスの周囲に、無数の糸が見えた。

速いというのは、それ自体が凶器になる。飛び退くカエデを、ホルスは追えない。自分の周囲に張られた魔力の糸が、下手に動くと体をなますに切り刻んでしまうからだ。剣を振るって、糸を切りに掛かるホルス。だが、その隙に接近した近衛の堕天使達が、四方八方から槍を突き刺していた。

くぐもった声を上げて、倒れるホルス。もちろん、これで終わる訳がない。

「全員撤退! ノアの位置は掴みました! 下層のアーリマン様を、全力で支援します!」

乗騎の蛇に跨ると、カエデは朱にまみれながらも此方を見つめているホルスを一瞥。印を組み、術式を発動させる。

壁の一点が凍り始め、周囲が氷塊に覆われていく。ほどなく通路を完全に遮断。なおも拡大していく。ホルスは舌打ちすると、体を幾分か切り裂かれながらも下がった。人修羅に従っているフォルネウスが得意とする防御氷壁だ。見る間に、侵食していく氷壁が、少し前までホルスがいた地点を飲み込む。とっさに展開したとはいえ、カエデが全力で繰り出した足止めだ。簡単には破れない。例え、アマラ経絡から来た悪魔でも、だ。

ホルスの姿が変わっていく。カエデを逃がさないため、本気でくるつもりだろう。凄まじいプレッシャーだ。決してメタトロンに劣らない。額に汗をしながら、部下達の撤収を急がせ、自身は最後尾に残る。

この氷の壁は、物理的な衝撃では壊すことが出来ない。なぜなら時間に干渉しているからだ。流石に凍っている地点だけしか時間干渉できない他、生物に対しては使えないなどと言う弱点もあるが。つまり、あのまま凍らせていても、ホルスに有効打は与えられなかった。 もっとも、本家のフォルネウスの使う同じ技について、カエデはそれが同じかどうかは知らない。

どちらにしても、防御能力は絶大である。さて、ホルスはどうそれを破ろうというのか。興味と戦慄をもって、カエデは術をくみ上げた。手にしている瓶から、マガツヒを補給。乗騎に下がるように命じながらも、自身は氷壁の向こうにいるホルスから目を離さない。

ホルスが、纏っていた装束を脱ぎ捨てた。その全身が、光で覆われていく。そして、常識外のサイズにまで、ふくれあがった。

光は、収まらない。翼長十数メートルに多する巨大な鷲が、その場でゆっくり翼をはためかせて、滞空していた。

「こざかしいだけではないようだな。 どうやらこの光の王子が、全力で行かなければならぬらしい」

「……また、相手をしてあげますと言いたいところですが。 どうやら、そうも行かないようですね」

中層にいる悪魔達には、大体撤退命令を出した。周囲にいる数十騎だけを、援軍として期待できる。元々近接戦闘が苦手なカエデは、接近されてしまえばさっきのような展開になりかねない。さて、どうしたものか。

いつのまにか、ペースを取り戻していることにカエデは気付く。リカバリーならどうにか出来るかも知れない。ふと、フラウロスの気配を感じた。心強い。これなら、きっと勝てる。敵は速いが、接近さえさせなければ、どうにか出来る。追撃戦が不利なら、別の方法を考えるだけだ。

カエデは印を組み直すと、ホルスが繰り出してくるだろう古代の魔術に対抗すべく、頭脳を巡らせ始めた。

 

飛来する無数のククリ。それが肉を割き、骨を砕く。悲鳴が上がる中、オズは悠然と、愛馬に跨り皆を見下ろしていた。

もちろん、反撃も行く。無数の攻撃術が叩きつけられ、オズの全身を炎が包む。雷撃が、氷の塊が、次々とオズの体を打ち据える。だがオズ自身は、目立ったものをかわすだけで、後は殆ど身に纏う魔力だけで、悠然と受け流していた。

スルトは十本以上のククリにまとわりつかれ、それらをたたき落とすのに精一杯である。モトは日本武尊に掛かりっきりであろうし、援軍としては期待できない。カエデも、戻ってくるまではまだしばらく掛かるだろう。

斧でククリをたたき落とそうとした大柄な悪魔が、弾き会う。彼の腕力を持ってしても、簡単には迎撃できない自動攻撃武器。しかも、厄介なことに。

その胸を、オズが投擲した槍が貫く。流石は名高い神の槍グングニルである。此方の威力は、もはやどうしようもない次元にまで達している。司令部の機能は戦いながら少しずつ移し、部屋に援軍を集めているが、埒が明かない。

此処は、ニュクスが突破口を開く必要がある。

詠唱を開始。それに目ざとく気付いたオズが、数本のククリを飛ばしてくる。一つを避けながら、もう一つを手に集めた魔力で弾く。弾いた時の手応えに、違和感。これは、ひょっとすると。

また一本、ククリが飛んできた。両手に魔力を集めながら、詠唱を続ける。肩を、脇を遠慮無く切り裂いていくククリ。致命傷をどうにか避けながら、的確な一本を確認。気合いと共に、飛んできたそれを、地面に叩きつけた。

ククリがへし折れる。同時に、オズが苦しそうに声を上げた。

「むっ!?」

「やはりね、間違いないようだわ。 総員、ククリそのものに攻撃! オズはスルト将軍に任せなさい!」

「ニュクス将軍、それはどういう事でしょうか!?」

「あのククリは、オズの命そのものを使っているのよ。 威力も精度も桁違いなはずだわ」

見抜かれても、オズは動じない。そればかりか。

大きく槍を振り回す。危険を感じたニュクスが、魔力を床に流し込む。3.2.1。カウントダウンが終了すると同時に、床が大きく変形。あるブロックは剣山のようになり、乗っている悪魔を串刺しにした。ある床は瞬時に溶解し、上に乗っていた者を丸焼きにした。スルトが斬りかかって槍を止め、なおかつニュクスが床の魔力は動を止めなければ、この広大な部屋全てがそうなっていたかも知れない。だが、被害は半径二十メートルほどに抑えることが出来た。押さえ込もうとするスルトを、槍を振り回して吹き飛ばすと、オズは手綱を引き、全力での投擲姿勢に入る。狙いが自分の心臓にあることに気付いて、ニュクスは戦慄。

どういう能力だ。スルトと戦いながら床にトラップを仕込み、なおかつ魂を削っているとはいえククリを同時に操る。とても、一騎の悪魔に出来ることだとは思えない。其処で、仮説が浮かぶ。なるほど、確かにそれならば、理論的には可能だ。

やれるか。いや、やるのだ。

周囲の悪魔達が、ククリに飛びつく。一本、二本と折られ始める。だがそれ以上に、傷つく悪魔も多い。負傷者を部屋から引きずり出す者、新たに援軍として加わった途端に斬られる者、被害は大きく、そして止みそうもない。

鋭い音と共に手を打ち合わせ、ニュクスは詠唱を完成させる。

グングニルを一瞬でも止められれば、奴の能力は四半減する。投擲を止めようと、逞しい堕天使が組み付く。だが即座に投げ飛ばされ、床にたたきつけられる。だがその隙に準備を終えていた増援の悪魔達が、一斉に雷撃の術をオズに放つ。流石に苦悶の表情を浮かべるオズ。

詠唱が、完成した。

これでも、シジマで第二の力を持つ術使いだ。弓を引くようにして、構えを取る。オズは眼を細めて、白いひげだらけの口の端をつり上げる。

「ほう。 メギドラ、しかも威力収束型か。 サマエルが使いこなすと聞いていたが、カエデ将軍の他にそれを真似できる者がいるとは。 驚いたぞ」

「これでも、伊達にシジマの術使いですからね」

そう、巨大な組織力と、膨大な知識に支えられたシジマの幹部だからこそ。情報を得て、それをものに出来たのだ。同時に、小さな術をスルトに向けて、密かに放つ。スルトには、届いた。

オズが、今度こそ、グングニルを投擲する。光の槍が、音をも超えて、襲いかかってくる。

同時にニュクスが、一本の線にまで凝縮したメギドラを、放った。

オートサーチ機能付きだから、僅かに速度は落ちる。だが。その威力は。グングニルに劣らないという、自負がある。

真っ正面からぶつかり合う、赤い光と青い光。赤いグングニルを、青いメギドラが迎撃する。

「むううっ!?」

オズが呻く中、ジリジリとグングニルが速度を落としていく。徐々に速度はゼロに近くなり、そして、ついに弾かれた。だが、ニュクスも背中に壁が着くのを感じていた。後ろで部下達が支えていたが、其処まで押し込まれていたのだ。

グングニルが回転しながら、オズの手に戻る。だが、スルトが、ついに隙を見つけて、懐に入り、愛武具レーヴァンテインを振り下ろしていた。

その一撃は、オズではなく、その馬を。スレイプニルの体を、深々と抉っていた。

鮮血が噴き出す。スレイプニルが、悲痛ないななきを上げた。半分以上のククリが制御を失い、四方八方に飛び散る。やはり。あの馬はオズの第二の頭脳であり、魔術的な制御も請け負っていたのだ。さっき飛ばした術は、一種のテレパシーである。それをスルトに伝えたから、一気に形勢は傾いたのである。

或いは地面に突き刺さり、床に転がって動かなくなるククリ。悪魔達がそれに飛びつくと、砕き、或いはへし折った。口から鮮血をこぼしながら、オズは槍を手に取る。ニュクスも、第二射を用意。次の激突で、仕留めることが出来る。

だが、オズも流石の強者である。低い体勢に切り替えると、槍を小脇に抱えての、チャージに切り替えてきた。スルトは間に合わない。ニュクスの前に、部下達が壁を作り、シールドを展開。だが、チャージの威力は凄まじく。一気にシールドが突き崩される。

「その首、もろうたぞ!」

誰もが動けない瞬間だった。だが、勇敢な悪魔が一騎、無理矢理オズの体に組み付いた。ニュクスの副官をしている、ギリシャ神話の下級神だ。はじき飛ばされるが、隙が出来る。

その隙に、スルトが飛び込んできた。レーヴァテインを振りかぶる。炎を引く朱の武具が、見る間にオズに迫る。オズも、振り返り様に、槍を繰りだしていた。

同時、だった。

スルトのレーヴァテインが、オズの肩から腹にまで食い込み、切り裂く。そしてオズの槍は、スルトの腹を貫いていた。

崩れ落ちるスルト。ニュクスは、心を閉じると、術を発動させた。

オズの上半身が、レーザーと化して切り裂いたメギドラによって、ずり落ちていく。乗騎であるスレイプニルの頭部も、既に消し飛んでいた。

「今よ! とどめを差しなさい!」

あまりにも凄惨な光景に、唖然としていた部下達を叱咤。我に返った悪魔達が、高密度の火力を浴びせかける。もとより、司令部近辺に詰めているような悪魔達である。術の威力は高く、温度は万の℃数にまで達していた。オズは、火柱の中で、確かに笑った。満足しきった、笑みであった。

まだ稼働していたククリが消えていく。

オズの、最後だった。

見届けると、ニュクスは戦友に駆け寄る。グングニルに貫かれたスルトを、抱き起こす。世界を終末に焼き尽くす巨人は、全身から大量に出血しながらも、微笑む。

「やっと、儂にも、相応しい死に場所が来たか」

「スルト将軍! 駄目よ、まだ貴方には、やって貰いたいことがいくらでもあるのに!」

「いや、もういい。 それに、儂は、シジマの理想のためではなく、皆のために戦えて良かったと思っている」

スルトは、激しい戦場となった部屋を見回すと、目を閉じる。

「不思議だ。 戦いに負けたのに、とても安らかだ。 何もかも、心地良い」

最後にスルトは、カエデ将軍を頼むと言った。アーリマンのことは口にしなかった。

きっと、氷川司令がアーリマンになる前だったら、違ったのかも知れない。ニュクスには、何となく分かった。シジマという組織を愛してはいても、その理念には疑念を抱いていたのではないかと。

それについては、ニュクスも同じだ。ニュクスにとっては、今やカエデのほうが優先度が高い。あの子が幸せに暮らせる社会は、きっとシジマではない。スルトの言葉で、それに気付いた気がした。

側に、副官が駆け寄ってくる。激しい長期戦で、味方の被害は予想を遙かに超えるものだった。

「周辺陣地の被害は2000に達しています。 上級悪魔だけで17騎が戦死。 しかし、再編成は可能です」

「そう。 流石はムスビの悪魔ね。 まずは陣を固めなさい。 それと、モト将軍へ、すぐに援護を。 アーリマン様の状況も気になるわ。 的確な状況判断が必要になるから、すぐに詳しい情報を集めて」

ブリュンヒルドが空軍を率いて戦っている上、カエデが中層から帰還していない今、シジマの中枢を指揮するのはニュクスしかいない。

シジマ指導者層の人材枯渇。ふと、ニュクスはそれを感じた。上級の悪魔なら幾らでもいる。だが、トールのような、存在そのものが決戦兵器とかしているような輩とやり合えるものは、もうほとんど残っていなかった。

ただ、それはヨスガやムスビも同じ筈だ。

すぐに、何騎かの上級悪魔に、スルトの仕事を引き継がせる。一騎では無理だが、何騎かがかりならばどうにかなるはず。アーリマンに了承を取るのは後だ。今は一刻も早く、秩序を回復したい。

「クロトを呼び出しなさい」

予備兵力を任せていたクロトに招集を掛けることを決めると、ニュクスはまず状況を把握するべきだと思い、指揮を執り始めた。

 

モトの棺桶に、日本武尊が振り下ろした剣が食い込む。だが、数センチ入ったところで、激しい火花を散らしつつも、刃は止まった。以前、分身体と戦って、相性が良いことは分かっている。この本体のほうが遙かに強いが、それでも戦いかたそのものは同じだ。回転しながら、一気にはじき飛ばす。

壁に叩きつけられた日本武尊に、モトの部下達が一斉に攻撃術を叩き込む。爆発が連鎖する中、日本武尊の気配がまたロスト。気付くと、部下の一人が、悲鳴を上げる。その腹から、剣が生えていた。後ろから、剣で貫かれたのだ。

見る間に真っ黒になり、霧散してしまう部下。アレを喰らえば、モトも危ない。しかし、ここでは大威力の攻撃術は使いづらい。以前と同じく、消耗戦覚悟で、ちくちく削っていくしかない。

不意に、大きな魔力が消える。どうやらオズが、倒れたらしかった。先ほどから、サマエルの気配も感じないのが不安だが、今は戦いに集中する。

「これでこりつむえんだな、やまとたけるのみこと」

「おお、難しい言葉を覚えているのだな、子供悪魔」

群がる悪魔を右に左に斬り倒しながら、日本武尊は余裕を崩さず言う。分身体を、既に余所に出しているというのか。いや、そんな隙はないはずだ。この先は封鎖していて、そちらの防衛網にも日本武尊の見分け方については説明してある。通れる筈がない。

回転しながら、突撃する。隙間を狙うにしても、これならできない。棺桶にもかなりダメージを受けているが、まだまだ耐えられる。それに対して、敵は何度もクリーンヒットを受けている。このままなら、押し切れる。

再び、棺桶での体当たりが直撃。日本武尊は古風な装飾がされている剣で受け止めに掛かるが、思い切り吹き飛んで壁に激突。そのまま、押しつぶしに掛かる。回転しながら潰しに掛かるモトに、日本武尊は、にやりと笑った。

とっさに引かなければ、その場で勝負がついていた。

棺桶の一部が、切断されてずり落ちる。そればかりか、壁や床にまで、深々と亀裂が入った。周囲の悪魔の何騎かが、無言で消滅していく。今の一撃で、斬り倒されたらしい。

「ほう。 かわしたか。 伊達に修羅場はくぐってきていないようだな」

「お、おまえ!?」

顔が、変わっている。今まで無数の顔が融合したかと思われていた日本武尊なのに、今では残酷そうで、それでいて冷静そうな男のものへ統一されていた。これは、一体どういう事か。今までのは、遊びに過ぎなかったと言うことか。

再び、斬撃が来る。棺桶の一部が、斬り落とされた。わっと群がる部下達が、瞬時に数体ずつ斬り倒され、そのたびに壁や床に深い傷が刻まれた。もし死体が残るのなら、周囲は屍山血河と化していただろう。代わりに、膨大なマガツヒが漂う。歯を噛むと、モトは不規則にゆらりゆらりと動きながら、覚悟を決めるべきかと思った。天井近くまで跳躍した日本武尊が、高笑いしながら、剣を振り下ろす。

数十騎の悪魔が、瞬時に押しつぶされ、かき消えた。

濛々と上がる煙。その中で、モトは棺桶のダメージが修復不可能な事に気付く。時間を掛ければ直せるというものではない。もう、呪いによる汚染が酷くて、使い物にならないのだ。

出ないと死ぬ。だから、棺桶を開く。

外は怖い。視線が怖い。皆怖い。

ふと、思い出す。

切っ掛けがどんな理由かは、忘れてしまった。兎に角、小学校低学年の頃には、虐めのターゲットになっていた。子供は純粋な分残虐な生き物で、エゴの塊である。弱い生物は痛めつけていいと思っているし、自分に理解できないものは全てゴミだと考えている。大人も大差ない場合が多いが、子供の場合はより直接的に、自分の欲望を表に出す。

そして、社会そのものが子供への接し方を忘れている現在、学校はもはや無法地帯というに相応しい場所なのだ。

元々天体観測に興味があったことで、周囲との壁は大きかった。運が悪く、喧嘩が弱いことも、悪い方向へ作用した。一度虐めを受けるようになると、それは加速度的にエスカレートしていった。

いじめを受けて、いつの間にか外に出られなくなっていた。先生は頼りにならなかったし、親は自分が弱いのが悪いと言った。友達だと思っていた連中は、一人も助けてはくれなかった。

外が怖い。そう思う内に時が経って、二年が過ぎて。勉強も追いつけなくなって、全ての取り返しがつかなくなりつつあった。

いつのまにか、家族にもいないことにされていた。家族が集まる時も、部屋からでないように言われた。全ての家族に、いないことにされる事が、心をますます蝕んでいった。弱い方が悪い。弱い奴は死ね。一族の恥さらし。消えてしまえばいい。お前など、産まなければ良かったのだ。

そんな罵詈雑言が、全身に降り注ぐ。餌を与えているだけありがたいと思え。血統上の親から、面と向かってそうも言われた事もあった。

我に返る。今のはなんだろう。分からない。だが、分かっていることが、ある。

シジマの皆は、モトを優しく受け入れてくれたと言うことだ。カエデ将軍は姉のように接してくれたし、他の悪魔達も、モトには優しくしてくれた。ちょっと変ではあったが、ニュクスは優しかった。フラウロス将軍は怖かったが、それでも親身に接してはくれた。かっての学校の奴らのように、モトを虐めたりはしなかった。家族のように、いないことにはしなかった。

だからだろうか。いつのまにか、みんなが好きになっていた。

みんなの中の誰かが死んだことを知った時は、とても悲しかった。

今、頑張らなければ、今生きているみんなも死ぬ。そして、棺桶を出なければ、頑張ることが出来ないのだ。

仲間の死は、いやというほど経験してきた。その意味も、よく分かっている。死ぬと、何処にもいなくなる。それだけは、絶対に避けたかった。許す訳には、いかなかった。モトが頑張らなければ、みながいなくなってしまうのだ。

手を伸ばして、蓋をずらす。光が、大量に差し込んできた。部下達が、どよめきの声を上げた。

「む!?」

日本武尊の呻き声が聞こえた。棺桶からモトが出たのに気付いたか。関係ない。

立ち上がり、ゆっくり手足の感覚を確認する。全身に、力が漲ってくるのが分かる。まだ、少し怖い。僅かに足は震えている。だが、戦う。もう、逃げはしない。

全身、まだら模様に覆われていた。頭が少し重いのは、角が生えているからか。多分、相当に怖い顔をしているのだろう。続々と詰めかけてくる部下達が、どよめいているのが分かった。

「その棺桶から出てくると言うことは、いよいよ本気か」

「ちがう。 やっと、ゆうきがだせたんだ」

「そうか。 ならば、その勇気とやらを、抱いて死ねっ!」

日本武尊が、ぎらぎらする殺気を放ちながら、跳躍。剣を振り下ろす。遅い。それに、攻撃の正体が、見えた。

両手に魔力を集中。そして、一撃に合わせて、剣を受け止める。

正確には、剣から伸びていた、不可視の呪いを。剣の延長上にあったそれは、まんま巨大な刃の形をしていた。だから、挟んで受け止めるのは難しくなかった。剣と一体化していて、物理的な圧力さえ伴っていたから、余計に簡単だったのだ。

日本武尊が、目を見張る。真剣白羽取りの要領で、まさか必殺の一撃を受け止められるとは思わなかったのだろう。しかも、呪いを素手で止められるとは、思ってもいなかったに違いない。

だが、触れただけで、全身が溶けて消えるような呪いの剣だ。覚醒したモトの魔力でも、そう長くは抑えられない。モトは吠えた。

「今だ、撃て! 奴よりも、奴の剣を、だ!」

「は、はいっ!」

不思議と、言葉もしっかりしてきた。あっけにとられていた部下達が、すぐに態勢を立て直し、モトが押さえ込んでいる剣に攻撃術を浴びせ、或いは各々の武具を振るって斬りかかる。日本武尊は、それでも剣を離そうとせず、凄まじい苦悶の表情を浮かべながらも、必死に剣のコントロールを取り返そうとした。だが、呪いごとモトが押さえ込んでいるのだ。そう簡単には逃げられない。

日本武尊の全身が、焼けただれたようになっていく。やはり、剣と一体化することで、その実力を最大限に引き出していたか。しかしその剣の影響で、人格も乗っ取られて、凶暴化していたと見える。

両手に、呪いが侵食してきた。苦悶の声を上げる日本武尊が、歯を剥き出しにしていた。モトは目を閉じると、最後の力を、両手に結集させていく。部下の一人が、巨大な斧を振るって斬りかかる瞬間を狙う。タイミングは一度だ。外したら、おしまいだ。

皆のことを、思う。血統上の一族とは違った、本物の家族にも思える、皆のことを。そして、こんな自分を認めてくれた、アーリマン様の事も。

それだけで、力が湧いてきた。手には感覚がなくなりつつあるが、耐えられる。もう目を見ることも、怖くはなかった。

振り下ろされる斧と、モトの動きを見て、日本武尊が絶叫。だが、もう、遅い。

「お、おのれええええええっ!」

「うあああああああああああああああっ!」

踏み込む。そして、不自然な方向へ、一気に力を込める。

呪いごと、剣がへし折れた。

そして、折れた切っ先は回転しながら舞い上がり、日本武尊の胸に、突き刺さったのである。

天を仰いで絶叫する日本武尊が、見る間に真っ黒になっていく。人を呪えば穴二つという言葉があることを、モトは聞いたことがあった。その言葉通りだと、日本武尊の末路を見ながら思う。

へし折れた呪いの剣が消えていく。それと同時に、日本武尊も、呪詛の声を残しながら、消滅していった。ただし、呪いそのものは消えない。ブラックホールがごとく、周囲にわだかまっていた。

しっかり二本の足で立っていることを確認すると、モトは周囲で固唾を呑んでいる部下達に言った。

「急いで魔術班と医療班を。 周囲の呪いを浄化するんだ。 それと、負傷者の救助をしてくれ」

「はっ! モト将軍!」

「念のため、日本武尊の分身体が現れないか、警戒を強くして欲しい。 僕はアーリマン様の所に向かう」

そう。アーリマン様が心配だ。さっきからサマエル将軍の気配も感じないのが、余計に怖い。もしこの状況で、アーリマン様すらも失ったら。モトは一体どうして良いのか、分からない。折角外に出たのに、目的が折れてしまう。

さっきあれほど激しい戦いをしたというのに、やっぱりまだ外に恐怖はあった、だが、もう棺桶には入れない。部下達の視線にも、堪えなければならない。だが、それはもういい。

歩き出すモトを、部下達が見送る。今、モトは、ようやく長い長い闇の中から、脱していた。

 

カエデが印を切り、詠唱を始めるのと。ホルスが動き始めるのは同時だった。ホルスが翼を窄めて、羽毛を周囲にばらまき始める。まばゆい光が、ゆっくり周囲を侵食していく。光の王子と名乗ったホルスだが、その言葉に相応しい威厳が光には溢れていた。

「か、カエデ将軍! 氷が!」

「分かっています」

奴の羽毛が当たったところから、氷が。時ごと凍らせている氷が、消えて行っているのだ。

あの氷は、鉄壁を誇る。時を凍らせて固定しているという特性上、魔法だろうが物理攻撃だろうが、殆ど通用しない。しかしながらこうも易々と無効化している所を見ると、やはり時間に干渉する能力か。それで、思い当たる。あのスピードも、それを利用しているものではないのか。

術式を発動。見かけ、周囲にはなんら変化はない。そのまま、少し下がるように部下達に指示。さっきの動きからして、少し下がったくらいでは、ホルスからは逃げられない。間合いを計るためだ。

次の詠唱を始める。氷が、とけていき、やがて消えた。悠然と翼を拡げ、通路を飛び来るホルス。鋭い爪が、カエデの所からも見えた。自在にホバリングしている所からして、物理法則とは、別の方法で飛んでいるのだろう。

印を組んでいるカエデに、ホルスは悠然と迫り来る。当然だ。奴から放たれている羽毛に当たった魔力の糸が、溶けるように消えていくのを感じる。時間を進めているのだ。悪魔でも、あれほどの時間加速を浴びると危険だろう。恐らくは、時間を遅滞させることも出来るはずだ。

周囲を固めている僅かな部下達が、緊張した様子で武具を構えている。彼らも、ホルスの異様な力には気付いているはずだ。そして、接近されてしまえば終わりとも。上擦った声で、彼らの一騎が言う。

「も、もう少し下がった方が良いのではありませんか?」

「大丈夫です。 今、仕込みは終わりました」

術式を展開終了。ホルスも聞こえていたのか、鷹の顔に、精悍な笑みを浮かべてみせる。圧倒的な余裕からか、或いは力持つものの威厳だろうか。

「面白い。 その様子では、もう私の能力も見抜いたのか」

「時間操作、でしょう」

「その通りだ」

敢えて、肯定してみせる。ブラフである雰囲気は感じない。実際問題、桁違いに優秀な能力だ。敢えてブラフを掛ける必要もないのだろうと、カエデは見た。だが、其処にこそ、つけいる隙がある。

さあ、もう少し近付いてくれば。

時間は関係ない。奴のいるところで、術が発動するという事が重要なのだ。

ただ、ホルスもそれに気付いている可能性が高い。そうなると、余程自分の能力に自信があると言うことなのだろう。

ならば、受けきって見せて欲しい。もし此処でカエデが倒されたら、そしてアーリマンが滅びたら、シジマは終わる。それならば、せいぜい強敵に倒されたいではないか。

カエデが指を鳴らす。同時に、術が発動した。

ホルスの足下が光り、見る間に淡い紫色の線が床を壁を疾走する。それは巨大な魔法陣を描き上げていき、そして。

ホルスの周囲を、覆い始めた。

「ほう? これは」

「召喚魔法陣です。 もっとも、援軍を呼び出す訳ではありませんが」

わざわざタネを明かしながら、カエデは二つ目の術を発動に掛かる。ホルスは平然と、周囲の動きを見ていた。だが、その余裕が、消し飛ぶ。

この派手な魔法陣は、フェイクだ。実際には、術の発動は、カエデが指を鳴らした時点で始まっていた。

「高密度の酸素か。 まさか」

「続けて、これをどうぞ」

続けて、水素。そして第三の術は、先ほどと同じ氷壁。それを、ホルスの前後に。如何に時間を操れようが、関係ない。さっきの突破速度からいって、本気で動こうが、十秒以上掛かることは分かっている。

そして時間を如何に進めようが遅らせようが、一度発生した化学反応は止められない。水素と酸素を混ぜ合わせ、火を投じればどうなるか。逃れ得ない豪火がホルスを包むことになる。

時間がなかった。だから、出来るだけ単純な術式で、しかも有効打を浴びせ、なおかつ近寄らずにすむものを考えなければならなかった。カエデの今までの経験が、最良のパターンをはじき出すまで、十秒。そして、詠唱を組むのにも。ホルスが動き出す時のタイムラグから考えて、0.5秒程度余った。

鋭い音と共に、胸の前で手を打ち合わせる。

「着火!」

氷に前後を封じられたホルスを、閃光が包む。

カグツチ塔が、揺れた。天井の石材が、幾つか落ちてくる。周囲の悪魔達が、悲鳴を上げて蹲る中、カエデは印を切り、氷壁を更に分厚くしながら、周囲に叱咤。

「撤退します」

「は、し、しかし。 あの爆発で、なおかつその後には無酸素状態が来ます。 如何に強大な悪魔であっても、ひとたまりもないのではないでしょうか」

「いいえ。 多分、この程度ではホルスは死なないでしょう。 一度態勢を立て直してから、ノアの討伐に掛かります」

戦慄する近衛の堕天使達に言い捨てると、カエデは改めて撤退を指示。それで充分であった。

如何に倒せずとも、有効打は確実。今は退くのが最良の手だ。ただでさえ、ムスビの首魁の懐刀を務めるような悪魔だ。有能な前衛を連れた上で、総力戦を挑まなければ勝つのは難しい。サマエルかスルトか。どちらかを連れて、また挑む。まずは下の混乱を治めて、それからだ。

背後から、追撃の気配はない。カエデは振り返ることなく、下層へ急いだ。

 

4、虚無の魔王であり、氷川という人間

 

今やアーリマンと化した氷川は、気配を感じて顔を上げた。その視界の先には、小さな者がいる。

人修羅と呼ばれる、この世界でも屈指の使い手の一人と、その配下の者達だ。恐れることなく、足を進めてくるのは流石。このアーリマンと、正面から戦おうというのだから。それだけでも、賞賛に値すると言える。

今まで、ずっと思索にふけっていた。新しい世界のこと。自分がずっと考えてきたこと。その全てを天秤に掛けながら、思索していた。今まで自分の理想に殉じて、死んでいった者達の事も。

アーリマンの中には、オセの刀がある。守護と一体化する時に、取り込んだのだ。これだけは絶対に手放すことが出来ない。

そして、負ける訳にも行かなかった。

体から無数に伸びた触手を揺らしながら、氷川は自分と視線を合わせる人修羅に向き合う。ついに、此処まで来た。そして此奴を倒すことにより、シジマの理想は完成に近付くのだ。

周囲の戦況も把握している。大きな被害は出したが、トールは致命傷を受け、ムスビの将達も返り討ちにあっている。ヨスガの残存勢力は更に弱体化しているし、ムスビに到ってはもうノアとその側近のみ。

そして、明らかに自分より力が劣る人修羅さえ倒せば。創世に、手が届くのだ。

「新しい世界のことを考えていたのか、氷川」

「そうではない。 あるべき世界の事だ」

「それはあまりにも傲慢だな。 確かにかっての世界には問題が多かった。 だが、貴方が作ろうとしている世界にとてそれはあるだろう。 もちろん、俺もよりよき世界は目指すつもりだが、それが完璧だ等とは思っていない。 だれが作ろうと、完璧な世界など存在しうるものか」

確かに、その点は人修羅が言うとおりだ。完璧な世界など、存在はしえないのかも知れない。

だが、氷川は、それでも考え得る限りの完璧な世界を願う。それが、かっての世界の、愚かな人間どもが支配していた、下らぬ世界を繰り返さぬ為にも必要なのだ。

「そのようなことは、お前が決めることではなく、我が決めることでもない。 それで、人修羅よ。 我と語り合うために来たのか」

「いや、此処には、貴方を倒すために来た。 いずれにしろ、もはや互いに己の思想を譲ることも翻すこともないだろう。 此処で貴方を倒し、決着を付けることで、戦いを終わらせる一歩とする」

それでいいと、氷川は思う。所詮このボルテクス界は、力を選別するための胎盤に過ぎない。言葉による対話という路線も、ひょっとしたらあるのかも知れない。だが、今やそのような道は、無い。

この部屋の大きさは、四方四百メートルという桁違いのサイズだ。大型のビルが丸ごと入り、戦艦大和を数隻並べることが出来る。だが、それでも。この戦いを行うには、僅かに手狭に思えた。

「さあ、来るがいい。 もはや、言葉は必要あるまい」

氷川の言葉に、人修羅が頷く。

そして、戦気が炸裂した。

 

ビルほどもあるアーリマンの巨体が立ち上がる。その威容の凄まじさに、息を飲む声が上がった。不利は最初から承知の上だ。秀一は出来るだけ冷静に、事前に決めておいたハンドサインを出す。

「リコ、サルタヒコ、予定通り突破口を開いてくれ。 アメノウズメは援護。 サナは遊撃として、隙があれば攻撃を叩き込め。 カザンはカズコの援護。 カズコは出来るだけマガツヒを絞り出して欲しい。 ニーズヘッグは、アメノウズメを護衛しつつ、リコとサルタヒコの援護だ」

何かが飛んできた。さっと散るその場を直撃する。

それは直径五メートル、長さにして二百メートル以上はあろうかという触手であった。さながらミミズのように柔軟に動いている。更にもう一本。真上から振りかぶり、全力で叩きつぶしに来ている。

床材が砕け、吹っ飛ぶ。

「せああっ!」

タイミングを合わせて、リコが蹴りを叩き込む。だが、何しろとんでもない巨体だ。僅かに触手に傷を付けたが、それだけである。それに、リコ自身も、顔をゆがめていた。

「何て堅さ! 殆ど通らないッスよ!」

「そのまま終わるなよ。 せめて、此処まで来た意地を見せてみよ」

アーリマンの言葉と共に、三本目の触手が振り下ろされる。ニーズヘッグが巨体を振るって立ち上がり、巨大なそれを受け止めた。だが、パワー負けして、地面に叩き伏せられる。全力で舞っているにもかかわらず、アメノウズメの神楽舞の効果が殆ど感じられない。焦りが、いつもマイペースなアメノウズメの顔にも浮かんでいる。

触手を振るっているだけだというのに、この強さ。流石は、大勢力のコトワリを担う守護だ。桁違いにも程がある。

太鼓を叩くようにして、次々叩きつけられる触手。床が次々吹っ飛び、砕けて飛び散る。秀一は四本目の触手が振り下ろされるタイミングを計って、真下から螺旋の蛇を叩き込んでみた。激しいぶつかり合いの末、先端部分が見事に消し飛ぶ。効きは、するか。だが、直後、五本目が横殴りに秀一を吹き飛ばしていた。

数度バウンドして、転がる。全身が砕けたような痛みだ。ただの一撃でこれとは。予想をあまりにも超えた凄まじさである。

「榊センパイ!」

「大丈夫だ。 それよりも、触手を何とかするんだ」

「くぬ、やろおおっ!」

サナが中空に舞い上がると、メギドラを発動。アーリマンの顔面至近に叩きつける。閃光が爆裂し、濛々と煙が上がる。僅かに、アーリマンの動きが鈍ったか。だが、サナ自身も、直後飛んできた触手に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。華奢なサナがバウンドして、動かなくなる。とどめとばかりに振り落とされた触手を、ニーズヘッグが受け止めた。だが巨体が、大きく軋む。

飛び出したカザンが、サナを抱えると、後方へ移送。無言で触手の半ばに剣を突き刺したサルタヒコが、走りながら三十メートルほどを一気に切り裂いた。真っ赤な血が噴き出す。其処へ、リコが蹴りを叩き込む。さっき以上の精度、それに破壊力。ついに触手の一本が、半ばから千切れ、吹き飛んだ。

煙が晴れてきて、アーリマンの顔が見えてきた。傷はついてはいるが、しかし。軽微である。メギドラの直撃を顔面に受けてこれとは。戦車砲やトマホークミサイルを喰らっても、びくともしないだろう。

まさに、生きた要塞。常識外の怪物だ。

「ふむ、これくらいは出来なければ、張り合いがないというものだ」

アーリマンから感じられる殺気が、更にふくれあがる。何という威圧感。肌がしびれるような感触に、流石の秀一も戦慄する。立ち上がると、跳躍。炎の息を、飛んでくる触手に吹き付け、更に間髪入れずに冷気を叩き込む。熱膨張破壊で半ば砕けた触手が、大量の鮮血を撒きながらのたうち回る。アーリマンは鼻で笑うと、翼を拡げた。昆虫が飛ぶ時のように、薄い注ェが高速で震動を始めた。台風を思わせる風が、至近から容赦なく叩きつけられる。

「兎に角、突破口を開くんだ!」

「分かってるッス!」

リコが先頭に立つと、風で壁を作り、アーリマンの翼から放たれる風を相殺する。奴が口を開けて、その中に光が宿った。秀一は慌てて印を切ると、リコを押しのけて前に出た。放たれる、光の弾。見る間に巨大化していくそれは、直径十メートルはあるだろう。どう低く見積もっても、威力はメギドラオン級である。対抗策は、一つしかない。踏みしめると、全力を込めて、力を放つ。体の模様が下からせり上がり、顔面にまで到達して。全てのエネルギーが解放され、撃ち放たれた。

光の弾に直撃。一瞬後、炸裂した光が、部屋の全てを覆い尽くす。秀一も此処までの至近からこの爆発を浴びたのは初めてで、リコとぶつかりながら大きく吹き飛ばされた。ニーズヘッグが受け止めてくれなければ、壁にまで叩きつけられていたかも知れない。

爆発が収まると、悠然と立ちつくすアーリマンの姿が真っ先に見えた。全身に、確かに薄い傷はついている。だがしかし、今の光弾を貫通してなお、この程度の打撃しか受けていないのか。この巨体を攻略するには、方法は一つしかない。だが、それには。

「見て、触手が!」

アメノウズメが叫ぶ。今まで傷つけた触手が、大量の泡を発しながら再生しつつある。悪夢のような光景だ。このままでは、じり貧である。ヤヒロヒモロギを傾けて、一気に飲み干す。まだ余剰分のマガツヒはあるが、このままではどれだけ戦ってもそもそも勝ち目がない。

秀一の前で、リコが立ち上がる。サルタヒコと、頷きあった。

「突破口、どうにか開くッス。 榊センパイは、あたし達を気にしないで、突入して欲しいッスよ」

「任せろ。 必ずやり遂げる」

「……分かった。 頼むぞ」

二人の覚悟を見て取った秀一は、それ以上何も言わなかった。勝率が元々天文学的に低い戦いだ。躊躇していては、更に被害を増やすことになる。アーリマンは片手を振り上げると、其処へ光を集中させ始める。

握り込むと同時に、無数の光線が、流星群のように降り注ぐ。一つ一つの光弾が、半径十メートル以上を爆破しているような状況だ。文字通り隕石の雨と表現してもいい。ニーズヘッグの影から出てきたサナが、メギドラを放つ。途中で爆発したそれが、幾つかの流星群を撃墜して、僅かな空白を作った。

「急いで! もう時間がないよ!」

サナはカズコにマガツヒを分けて貰って、無理に力を振り絞ったらしい。全身が朱にまみれているだけではなく、顔には死相に近い疲労が浮かんでいた。秀一は頷くと、走る。ニーズヘッグが、冷気の息を、アーリマンに吹き付ける。軽く右手を払うだけで、それが吹き飛ぶ。

だが、対応したことにより、僅かに時間が出来た。

三人、ニーズヘッグの影から出て、走る。アーリマンがそれに気付き、無数の触手を振るって、同時に叩きつけてきた。上から二本、左右から一本ずつ、斜めからも来ている。最初に動いたのは、リコだった。

風に乗って、高々と跳躍。その全身が、竜巻に包まれているかのように見えた。そのまま鋭く回転しながら、リコは斜め下に向けて、蹴りを放つ。

今度は、流星雨の脅威にさらされたのは、アーリマンのほうであった。触手数本が大穴を開けられ、半ばから千切れ飛ぶ。続けてサルタヒコが前に出る。大上段に構え上げると、目を閉じた。周囲の全ての雑音を断つような集中の後、踏み込み、一閃を放つ。

また触手が一本、両断されて吹き飛ばされた。それだけではなく、剣閃は飛び、アーリマンの腹をえぐり去る。

初めて、アーリマンが苦痛に顔をゆがめた。

だが、それも一瞬のこと。その両目に光が宿り、再び光弾が降り注ぐ。目から放たれた光弾は、手を使ったものと威力も質も変わらない。必殺の一撃を放ち、反動で身動きが取れなくなったリコとサルタヒコが、爆発の中に消える。後ろから必死に援護の攻撃を続けていたサナとニーズヘッグも。カザンが体を盾に、カズコを庇うのが見えた。その姿も、爆発の中に消える。

こうなると分かってはいた。分かっていたのだ。

だから、前に出る。今引いたら、全てが無駄になる。

歯を食いしばると、秀一は跳躍。圧倒的な迎撃砲火が飛んでくる。左腕のブレードで弾き、炎に包まれながらも前に進む。印を切り終わる。そして、詠唱が完成した。

「うぉおおおおおおおおおおおおっ!」

「面白い! 貴様の全力全霊、このアーリマンが、正面から受け止めてくれる!」

秀一の体の模様が、足から消えていく。光が体を伝い、頭部に集中していく。アーリマンも両手を胸の前で合わせると、秀一に両掌を向けてきた。力は、アーリマンのほうが、明らかに大きい。恐らく切り札の威力も。琴音のマガツヒを得た今でも、だ。まさに万事休すか。

だが、それでもやる。

秀一が全力で至高の魔弾を放つと同時に、アーリマンもその手から、淡い光を放つ破滅の矢を撃ち出していた。このタイミングで、切り返してくるか。この距離まで迫ったというのに。やっと皆が創ってくれた有利を、瞬時にひっくり返される。だが、それでも、無いよりはましだ。

激突する二つの光。スパークを纏う秀一の光を、徐々にアーリマンの淡く現実感のないエネルギーが押し返していく。押され、押されて、ついに壁に激突する秀一。じりじりと、アーリマンのエネルギーが迫ってきた。アーリマンも数十メートルずり下がったようだが、翼を拡げて、いまだ体勢は崩していない。一点の密度だけであれば、何とか凌いでいるようだが、根本的な火力が違いすぎる。体全体に掛かる圧力が、徐々に増していく。このまま押しつぶされるか。

至近まで、アーリマンの光が迫っていた。全身が焼けこげるように熱い。だが、秀一は、最後まで絶望しなかった。

 

意識が飛んでいたか。頭を振って立ち上がったサナは、体の上に乗っていたニーズヘッグの足を押しのけながら、立ち上がった。手を貸してくれた者がいる。カズコだった。

ふと、気付く。似ているのだ、誰かに。顔の造作が、ではない。雰囲気が、である。まさかとは思うが。

「サナ」

「ん?」

カズコが指さす先には、今まさに、アーリマンに焼き尽くされようとしている秀一の姿。援護しようにも、もう力が残っていない。逃げることだけを以前なら考えただろう。だが、今は違う。

「出来るだけ、一杯マガツヒ出して」

「いいの? 体、保たないんじゃないの?」

確かに、その通りだ。

この傷だらけの状態で、しかも元々サナは下級の妖精から背伸びをして、際限なく力を増やしてきた。もう、元の器が限界一杯の状態だ。妖精族は拡張性の高い種族だが、それにも限界はある。

既に妖精女王メイヴの力さえも凌駕している自信はある。しかし、それでも、今は力が足りない。

今は、仲間を頼るという、自分らしくない事をしないと、勝ちの目が拾えない。ニュートラルである事を心がけてきたが。だが。それに反する行動が、必要になってくる。

「……それでも、いい」

無意識のまま、そうつぶやいていた。最大限の信頼を任せるに、秀一は充分な存在だ。だから、サナも命を賭ける。

ふと思い出す事がある。恐らくは、秀一が言う、人間であった頃の記憶であろうか。

大学生だった。今時の、何の目的意識もない生活を送る、怠惰な存在だった。勉学もいい加減、適当に趣味嗜好を満たすためにバイトして。男とはつきあったこともなく、本当に友達と呼べる相手もいない。

いつのまにか、とても現実的になっていた。人間よりも金銭や力を欲するようになっていた。色々悩んだ挙げ句、将来楽な生活をするために、公務員を目指すことにした。目的は出来たが、ただそれだけ。

結局、如何に楽に生きるか。そればかりを考える思考は変わらなかった。大学も一年が終わりつつあり、何の意味もないサークルからは抜けた。

カズコが出してくれるマガツヒを吸い込みながら、まだ思い出される記憶を、頭を振って追い払う。

人間だった頃に、どんな駄目な奴だったかは、思い出す前から、何となく予想が付いていた。

元々ニュートラルの性質が強くで現実的思考の妖精達の中でさえ、あまりにも苛烈すぎるために浮いていたサナ。今、力を必要としてくれる仲間を得て、何をためらうことがあるだろうか。結局、どこかで憧れていたのかも知れない。無条件に、全てを預けられる相手を。

それは、現実的に生きることだけを信奉するニュートラルとしてはあり得ないものだ。

「ありがと、充分だよ」

羽を広げて、飛び上がる。アーリマンは、未だ気付いていない。秀一と全力での撃ち合いをしているのだから当然だ。チャンスは一度。あれが氷川をベースとしているのなら、勝機はある。

斜め後ろから、アーリマンに潜り込む。羽ばたいている翼の風圧が凄まじく、一歩間違うとヘリのローターに巻き込まれた鴨のように木っ端微塵だ。必死に制御しながら、詠唱を続ける。そして、頭上に潜り込む。

秀一が、完全に壁に押し込まれた。印を組み終えながら、アーリマンの顔面、至近に出た。

「むっ!?」

「悪いけど、殺らせてもらうっ!」

残る力を全てつぎ込んだ、雷撃術ジオ・ダインが、光の槍となって、アーリマンの左目を貫いた。

 

「お、おおおおおおおおおおっ!?」

アーリマンの巨体がよろめく。力を使い果たし、ぐらりと体勢を崩した妖精を、触手の一本ではじき飛ばして、追い払う。奴は抵抗もせずに落ちていった。完全に集中力が途切れた事が分かった。そして、人修羅の放った光が、一気に押し返してきていた。

「む、ぐおおおおっ!?」

完全に片眼が潰れてしまった事により、距離感が掴めない。慌てて術式を再構築し、視界を補おうとするが、痛みが集中をことごとく邪魔した。焦るうちに、どんどん押し返される。

羽が、壁を削り始めた事に気付く。いつのまにか、其処まで下がっていたのか。

羽が砕けて、へし折れた。流石に分厚いカグツチ塔の壁だ。更に今になって、腹の傷から鮮血が噴き出してくる。焦りが、どんどん平静な思考を奪っていった。

こんなところで、負けるのか。

いや、こんなところで、負ける訳にはいかない。

皆、自分のために、今まで命を捨てて戦ってくれた。皆、理想のために尽力してくれた。今此処で死んだら、その全てが水泡と帰す。負ける訳にはいかない。絶対に、勝たなければならないのだ。

己の命を賭けて、父としての姿を示してくれたオセのためにも。新しい未来を紡ぐ者達のためにも。完璧な世界を造って、渡さなければならないのだ。

「秀一!」

短い叫び声。見れば、人修羅のすぐしたで、アメノウズメが舞い始めている。神楽舞の力を、人修羅だけに注ぎ込むつもりか。徐々に、人修羅からの圧力が増してくる。スパークが、至近にまで迫ってきていた。

「おおおおおおおおおおおおおおおっ!」

「がああああああああああああああっ!」

二つの叫びが、部屋に反響する。腕が、焼けてきた。全身が焼けこげている人修羅と、殆ど同じ惨状だ。汗が目に入り、また集中が途切れる。やはり、守護を降ろしても、結局自分は人間だったというのか。

こんな生理的な反応だけで、それを感じてしまう。アーリマンは、絶望に近い感覚を覚えていた。

人修羅は、最後まで屈する様子がなかった。それに対して、自分は。

悪魔と融合してなお、結局弱いままだった。

昔と同じだ。天才であるが故に、周囲に誰もいなかった。能力を評価する悪魔達には慕われたが、人間の仲間はいなかった。あの東京受胎の時、もし氷川に人望があったのなら、多くの人間スタッフが加わっていただろう。

だが、ただの一人も、氷川に着いてくる者はいなかった。育て上げた、会社の部下達でさえ、である。唯一着いてきた教師高尾祐子とは、利害関係で結ばれていただけの間柄だった。最初から期待はしていなかった。いつからだろうか。人間に対する視線が冷え切ったのは。

オセを呼び出した時には、既に冷え切っていた事を考えると、別に悪魔による影響は無かったのだろうとも思える。家庭の環境も理由となって、幼い頃から周囲からは隔絶していた。社会に対する期待も、大人になる頃には冷め切っていた。

しかし、悪魔達に関しては違った。オセとは種族を超えた絆を保っていた自信があるし、他の悪魔達も皆氷川のために尽くし、それに応えた。カエデに到っては、次代を任せてもいいとさえ思っていたのだ。

それなのに。

此処に来て、アーリマンの中にある、人間であるという要素が、己の全てを邪魔するというのか。氷川の中に残っていた人間が、全てを台無しにしようというのか。

アーリマンの中で、人間に対する憎悪が、今までになく沸き上がってくる。その時既に、人修羅の放つスパークは、どうしようもない至近にまで迫っていた。人間ごときのために。こんなところで、破れるというのか。

そのようなこと、絶対に看過する訳にはいかない。

「こ、の、まま、負けて、たまるかああああああっ! 人間など、人間などのために、我が敗れると言うことが、あってはならん!」

生まれて初めて、意地がアーリマンの心を燃やす。腕を半ば焼き尽くされながらも、押し返し始める。人修羅が何かを懐から取り出し、口にくわえるのを見た。あれは、なんだ。見覚えがある。

ヤヒロヒモロギ。そうか。奴は何かしらの方法で、あれに膨大なマガツヒを蓄えてきたのか。しかし、どうやって。

気付く。アサクサに、まだ一万程度のマネカタ達が生き残っていたと言うことに。彼らの力を使ったのか。しかし、どうやって。人修羅の性格的に、拷問したとは思えない。まさか、協力を取り付けたというのか。このボルテクス界で、説得を用いて、力を得たというのか。

「氷川ぁっ!」

ヤヒロヒモロギから口を離した人修羅の声が響く。完全に互角になった撃ち合いの中、部屋の温度は見る間に上がっていく。

「忘れていないか!?」

「何を、だ!」

「悪魔達も、芯になっているのは人間だと言うことを! 結局このボルテクス界で、貴方を慕って来た悪魔達も、人間を芯とした存在だったと言うことを!」

シジマの思想よりも、むしろ慕われてきたのは、貴方の存在だったのではないのか。人修羅はそうも言った。

そんなばかな。あり得ない。悪魔達が慕っていたのは、超人的な精力と揺るがぬ思想で組織をまとめた氷川という一つの装置であったはず。人間氷川に、魅力を感じていた訳がない。

だが、己の中に未だある人間の事をはっきりと自覚した氷川は、今更になって自信が持てなくなってきていた。

揺らぎ始める。

鉄壁だったアーリマンの思想が。体と共に。

だが、それでも。今まで信じてきたものを、裏切る訳にはいかない。最後まで、己の道を行く。

再び、人修羅の放つ猛烈なスパークが、迫り来る。奴が補給したマガツヒの量が伺える。腕が崩れて、そしてもう左目は完全に見えず、鈍痛が全身を覆っている。だがそれでも最後の力を振り絞り、アーリマンは吠え猛った。

「それでも、私は! 我道を貫く! 私が選んだ道こそが、よりよき未来を創ると、信じているからだ!」

背後の壁が砕けるのが分かった。激しい圧力に、体が押されていく。腕が完全に消し飛んだ。胸を、人修羅のスパークが貫くのが分かった。

激痛の中、全てが光に包まれていく。

最後に見えたのは。

自分のために戦ってくれた、悪魔達の姿だった。

手を伸ばすが、届かない。アーリマンではなく、氷川の姿になっていた。気付く。アーリマンの時とは、皆の視線が違うことに。今更ながらに知る。人間である自分に、こうも悪魔達が好意を向けていた事に。どうあがいても手が届かない氷川。逆に、向こうから手を伸ばしてきて、氷川を導いてくれた。氷川は、自分が安らかに笑っていることに、気付いた。

いつのまにか。己の目的以上に、ニヒロ機構が好きになっていた。色々な悪魔がいる中で、皆をまとめるのが楽しかった。育っていくカエデを見守るのも、前線で戦うオセやフラウロスを支援するのも。何もかもが、生き甲斐になっていた。

終わってしまったが、しかし、悔いはない。せめて、みなを笑顔で迎えたい。

こんな風に笑ったのはいつ以来だろう。それが、氷川の最後の思考となった。

光に、溶ける。もはや、未練はなかった。

 

閃光が、自分が開けた大穴から入り込んでくる。外では、水爆でも落ちたかのような閃光が、いつまでも猛威を振るい続けていた。

体に大穴を開けたアーリマンが、マガツヒに溶けながらずり落ちる。真っ向の勝負では、勝てない相手だった。氷川の中の人間を突くことで、やっと倒すことが出来た。卑怯だったのだろうかと、自らも落ちながら秀一は思った。受け止めてくれたのは、ニーズヘッグだった。

「ヘイキカ、マスター」

「なん、とか、大丈夫、だ」

ヤヒロヒモロギの蓄積も、三割以上は使ってしまった。体の模様が、徐々に戻り始める。皆を見回す。リコに肩を貸して、サルタヒコが立ち上がるのが見えた。サナは。壁際に転がっていた。その体を、ゆっくり糸のようなものが覆い始めているのが見えた。

ニーズヘッグが、たくさんある手で降ろしてくれる。まともに立てず、座り込んでしまった。カズコが走り寄ってきた。後ろからは、びっこを引きながら、カザンがついてきていた。

「秀一、サナが、言ってた。 これから眠るから、起きるまで守って、って」

「眠る?」

「そのままじゃ死ぬから、悪魔としての存在を切り替えるって言ってたよ」

「……そうか」

あのサナが、根源的な段階から信頼してくれた。崩れ落ち、マガツヒに変わっていくアーリマンの体を見つめながら、秀一は思う。

氷川も、きっとそうだったのだろうと。

悪魔達の信頼を、間違いなく氷川は得ていた。氷川のために命を捨てて働いた悪魔は、幾らでもいた。人間としては、氷川はかっての世界で失格だったのかも知れない。だが、その力は、確かに他に冠絶したものだった。

氷川のために、黙祷した。敵ではあったが、最後まで単純で卑劣な悪だとは思えない相手だった。確かに彼の罪は重いが、しかし偉大な男であったことに違いはない。卑俗な人間社会は、その小さな物差しで全てを測ったから、彼を使いこなせなかったのだ。それが悲劇の始まりであった。

外の悪魔達は、どういう状況だろうか。通路はフォルネウスが塞いでくれているとはいえ、他にも進入路はあるはずだ。回復が出来るサナはこの状況である。巧く脱出できなければ、即座に全滅すると考えてもいい。

アーリマンのマガツヒを吸い込む。あまりにも濃厚で、圧倒的なマガツヒだった。他の皆にも分ける。サナはもう眠ってしまっていて、徐々に繭のようなものに包まれ始めていた。繭ごとニーズヘッグが背負い直す。

ハンカチで顔の汚れをぬぐい取ったリコが、沈痛な面持ちで言う。アーリマンの強い意志は、彼女も感じていたのだろう。勝っても、誰もが喜んではいなかった。

「榊センパイ、これからどうするんスか」

「そう、だな」

不意に、入り口の巨大扉をこじ開けて、部屋に飛び込んできた影がある。身構えるが、それはマダとフォルネウスだった。慌てきっているフォルネウスに代わって、マダが口を開く。

「えらいこったぜ。 シジマが完全に体勢を整えて、全軍で此処を囲みやがった」

「外は数万の悪魔の海じゃ。 とても出られはせんぞ」

「時間切れ、ということだな」

今、自分が開けた大穴を見る。其処から脱出するしかないだろう。もっとも、シジマには空軍もいる。しかも空軍を率いるのは、今やボルテクス界随一と言われる、空中戦の名手ブリュンヒルドだ。簡単にいかないのは分かりきっているが。

「それにしても、此処に戻ってきたと言うことは」

「おう。 氷壁が突破されてしまったわい」

「……少し、時間をくれ」

あの氷壁を突破できる人員は限られている。ならば、今やるべき事がある。

ニーズヘッグに言って、フラウロスの大剣を受け取る。

疲弊しきった今の体では、それがとても重く感じた。

 

5、シジマの行く末

 

総攻撃の準備を整えた悪魔達の第三列で、カエデは乗騎に跨り、敵の行動を見守っていた。誰も言わないが、悪魔達はみな悟っている。どうやら、アーリマンが敗退したと言うことに。

サマエルはトールに致命傷を与えて、見事にアーリマンを守りきった。見事な最後だったと、生き残った近衛の堕天使達から聞いている。ケルベロスはまだ泣いているユリの側に寄り添って、無言のまま座っていた。総力戦に勝利したニュクスとモトは、それぞれ最前列で、敵の出方をうかがっている。カエデ直属の護衛戦力としては、クロトが付き従っていた。クロトの顔は、随分精悍になっている。何か意識が変わった証拠だ。

扉が開く。姿を見せたのは、体中傷つき、回復もしていない様子の人修羅だった。

意志の強い目をしている。そうカエデは思った。だが、冷静でいられるのも、そこまでだった。

人修羅が手にしている剣に、見覚えがあったからである。

「カエデ将軍はいるか! いたら話がしたい!」

「此処にいます」

声が冷え切るのを感じた。フラウロスの死は、シジマでも見たものがいない。魔力反応が消失したことから、死んだと判断されていたのだ。あいつが、殺したのか。だとしたら、許す訳にはいかない。

前に出る。幾つかの術を、発動可能な状態にしておく。場合によっては、即座に殺す態勢を整える。アーリマンと戦って、無事で済む訳がない。負傷は見かけだけのはずがない。今なら、簡単に殺すことができるはずだ。

四歩ほどの距離を置いて、向かい合う。人修羅は、手にしていた大剣を差し出す。刀身には布が巻き付けられていた。

「フラウロス将軍から、渡してくれと頼まれた」

「貴方が殺したんですか?」

「フラウロス将軍を殺したのは、ムスビの悪魔だ。 ミカエルとフラウロス将軍の軍が壊滅しただろう。 その狙撃を行った奴だったのだろうと思う。 俺は、フラウロス将軍が、そいつを打ち倒し、自らも倒れたところに、出くわした」

沈黙の中、剣を受け取る。フラウロス将軍の事を思い出して、涙が出そうになった。だが、こらえる。

人修羅はじっとその様子を見ていたが、やがて声を意図的に抑えながら言った。

「遺言も、此処で伝えておく。 その剣で、天使どもを斬って、さっさと恨みを晴らせ、だそうだ」

「……」

「フラウロス将軍は、君が恨みに捕らわれている事を心配していた。 いや、他の悪魔も、皆そうだろう。 彼方此方で非道を繰り返した天使どもは確かに誰かが裁かなければならないが、若い君が恨みに心を汚す必要はない、と俺は思う。 どっちにしても、決めるのは、君次第だ。 フラウロス将軍は、君の側にいるし、決断を急ぐ必要はない」

そのままきびすを返すと、人修羅はアーリマンがいた部屋に戻っていった。誰も、その背を討とうとはしなかった。カエデは顔を何度か擦ると、司令官としての表情を浮かべて、側に控えていた近衛の堕天使に指示。

「ブリュンヒルド将軍を、一旦呼び戻してください」

「は。 しかし」

「アーリマン様が倒れられました。 これからのことを、幹部全員を交えて相談しなければなりません」

今更、コトワリの全てが結集する、この塔から撤退するという選択肢はない。新しいコトワリを開くにも、時間が不足しすぎている。

残った選択肢は、他のコトワリに同調するしかない。

ヨスガは問題外だ。シジマとは、あまりにも求めるものが違いすぎる。ムスビも同じく。あの思想を由とする悪魔は、ほとんど存在しないだろう。かといって、シジマのままで良いのか。守護を失った状態で、どこまでやれるのか。

ほどなく戻ってきたブリュンヒルドを交えて、会議を始める。意外なことに、シジマの悪魔達が持ち場を離れることはなかった。脱走者が多く出るかとも思ったのだが、誰一人としてそんな事はしなかった。

カエデは率先してリーダーシップを取り、会議をまとめ上げていく。手元に置いてある大剣が、力を与えてくれる。そんな気がした。

 

ノアの下に戻ったホルスは、居場所が特定されたことを主君に告げる。ホルスの体は消耗こそしていたが、傷は一つもない。ある能力を使って回復したからだ。

小山のような巨体を揺らしながら、ホルスの報告を聞き終えたノアは笑った。

「ヒャハハハハハ、シジマのメスガキもやるじゃねーか。 テメーを撃退して、アーリマンが死んだあともシジマの残党をまとめに掛かってやがるとはな」

「笑い事ではありません。 あの娘は侮れる相手ではありませんぞ」

「ああ、そうかも知れねえな。 オズも日本武尊も殺られちまったみたいだし、結構俺らも危ないかも知れねえよな」

再び笑い出すノア。ホルスは跪きながら、無言で主君の次の言葉を待つ。

ノアの元に集ったアマラ経絡の悪魔も、もはやホルス一騎となった。そして今、シジマに仕掛けた攻勢は完全に失敗し、居場所までもが特定されている。ヨスガは今のところおとなしいが、いつ攻勢を仕掛けてくるかも分からない。

そんな状態でのうのうとしているこのノア。しかも無策であることは、ホルスには分かりきっていた。ノアが無策でいる理由。それは、ノアがあくまで自己完結しているからだ。それに、仮にそうであっても。

簡単に、ノアは滅ぼせるような存在ではない。

「で、アーリマンは誰にやられたのか、探ってきたか?」

「は。 トールではない事は分かりました。 恐らくは、件の人修羅かと」

「おいおい、本当か? そうなると、あの野郎、多分俺の所に来るな。 くくくくく、手間が省けたじゃねえか」

アーリマンのマガツヒを人修羅が喰らったのなら、確かにそうとも言える。人修羅を殺せば、労せずしてアーリマンのマガツヒを、おつりも加えて手に入れることが出来るからだ。

もっとも、人修羅を殺せれば、だが。

一礼してノアの元を退出すると、ホルスは部屋の外に出る。塔の上層ではせっせとヨスガが防備を固めており、まさに鉄壁の布陣が整えられつつある。仮に人修羅が喰らったアーリマンのマガツヒを手に入れたとして、正面から攻めて落とせるとはとても思えない。ホルスが助力したところで、結果は同じだろう。簡単に負けはしないが、勝てるとも思えない。

何より厳しいのは、バアルとノアの能力差だ。バアルは強い上にかなり頭が回り、多少の特殊能力を使ったくらいでは、とてもかなわないだろう。負けはしなくても、勝てもしない。単純な力で考えても、力の組織をねじ伏せて従えているだけあり、遙かに差がある。

アーリマンでさえ、正面からの戦いでは敵わないかも知れない。

詰んでいる。そう、ホルスは感じた。

それならば、いっそのこと。

別に、ノアがいなくても、ムスビのコトワリは開くことが出来る。場合によっては、柔軟な行動を取る必要があるだろう。

神々の先頭に立ち、光の王子として戦ったホルスだが、その心は既にかってのものではない。身勝手な信仰と人間の不実が、ホルスの全てをねじ曲げてしまった。それを自覚していてなお、どうにもならない闇が、ホルスの中にあった。

さて、どうするか。完全に遊撃戦力となったシジマの残党は、単純な力だけならまだボルテクス界最大の勢力だ。だが、今更ホルスを受け入れはしないだろう。コトワリにも抵抗を示すに違いない。

ヨスガには簡単に潜り込めるだろうが、しかしバアルは出し抜ける相手ではない。また、ホルスが加入することによって、更にヨスガが強大化してしまっては意味がない。あくまでホルスの目的は、ムスビによるコトワリの創世なのだ。

それならば、一旦距離を取るべきか。

あの人修羅という男、予想外に強い。奴ならば、ノアを倒し、さらにはバアルさえも滅ぼすかも知れない。しかし、無事では済まないだろう。

漁夫の利を得る好機は、今後幾らでもある。

かって、ゼウスが似たようなことを考えていたと、ホルスには思い当たった。ゼウスが乗り移ったかのようである。苦笑が漏れてきた。どうやら、思考とは伝染するらしい。ただ、彼処までえげつなくはなれない。あくまでホルスは、策略ではなく実力でムスビのコトワリを開きたい。

そのためには、もう少し、ノアの側で事態の推移を見届けたかった。

 

死が、トールの側にまで歩み寄っていた。カグツチ塔上層にまで戻っていたトールは、不安げに言葉を交わす周囲の悪魔に見向きもせず、自室と決めている部屋に入って。壁に背中を預けて、目を閉じる。

痛みは何でもない。だが、それ以上の苦しみが、全身を満たしている。

まだ、この世界で最強ランクの力を持っている自信はある。だが、内臓も、筋肉も、大きく傷つけられた。致命傷を受けたのだと、説明されなくても分かる。このような感覚は、産まれて初めてであった。

トールは、自分の思考が混乱している事に気付いていた。琴音は、トールに、命を賭けて挑んできた。そして見事に致命傷を与えた。琴音は確実に死んだはずだが、しかし。

これでは、負けたのは、自分ではないのか。

初めて出会った、己を超える強者が、あの琴音だったというのか。

そしてその強者は死んだ。

じっと手を見る。いかなる敵をも砕いてきた、己の拳。だがそれも、琴音には通用しなかった。足下を掬われるような形で、技が敗れたことに、トールは少なからず衝撃を受けていた。

今まで、自分が築いてきたことは、何だったのだろうとも思う。悩みは何度もループしながら、トールの心をさらなる闇へと駆り立てていった。

「トール将軍!」

部屋に入ってきたのは西王母だ。血まみれのトールを見て、呻く。所詮実戦経験の少ない小娘かと思ったが、理由は違った。

「まさか、貴方がそのような傷を負うとは」

「昔から、良くあったことだ。 修行中に崖から落ちたこともあったし、人間だった頃に、素手で熊を殴り殺したこともある。 そういえば、人間時代、悪魔を素手で殺したこともあったような気がするな。 だから、怪我には、慣れている」

「いや、しかし、その傷は」

「構わぬと言っている。 唾でも付けておけば、なおる」

傷よりも、トールが負傷したと言うことそのものに衝撃を受けた西王母を部屋から追い払うと、トールは目を閉じる。このむなしさは何だ。己が求めてきた強敵を殺すと言うことは、こんな結果につながっていたのか。

ならば、さらなる強敵を求めてみるか。

だが、その時間が、もう無い。トールの体は、あまり長くは、保ちそうになかった。

回復術を掛けても、結果は同じだろう。琴音の渾身の一撃は、トールの構造そのものを砕いた。傷だけは治すことが出来ても、いずれ死ぬ。

可能性と未来の両方を、琴音との戦いで、トールは失ったのだ。

だが、それによる怒りは、不思議と無い。ただ空っぽになってしまった自分がいるのに、気付いていた。

いつのまにか、入り口に毘沙門天がいた。毘沙門天は、トールの体がいかなる状態か、見抜いているようだった。

「トール殿……」

「サマエルは潰してきた。 ムスビの悪魔どももシジマに対する攻勢に出ていた。 そして撤退する途中に、アーリマンが死んだのを感じた。 ムスビのノアは、バアル様に確実に劣っているし、我が軍は力を温存したままだ。 いずれにしても、後は守りきれば、ヨスガの天下が来る」

「貴方は、それでいいのか」

分からぬ事を言われた。目を開けて、毘沙門天を見る。毘沙門天の目には哀れみがあった。何故哀れむのか、よく分からない。それよりも、それで腹が立たない自分が一番不思議だった。

「別に構わぬ。 それに、俺の仕事は、まだ残っている」

「トール殿、貴方は……」

自分が意図していない言葉が、すらすらと出てくる。不思議だった。無意識の中でも、人は、悪魔は、喋ることが出来るらしい。

「俺は砕くもの。 そして全てを潰すものだ。 アーリマンを殺した奴は、ノアにも打ち克つだろう。 そいつが、俺にとって、砕くべき最後の存在となる」

それが、俺の夢の終着点だと、トールはつぶやいた。

自分にとっての楽園を創るという夢も、まだ残っている。だが、時間的な問題で、それはもはやかなわぬものとなりはてた。ならば、最強を目指し、階を駆け上がる若き人修羅を滅ぼすことこそ、トールにとって最後の仕事。

自分が築き上げたものは、誰かに仮託するしかない。

それが、己の弟子の一人である、バアルであることは、幸せなのではあるまいか。

自分が守りに入り始めたことに、トールは気付く。それで毘沙門天に失望を覚えさせたことにも。だが、それもいい。

毘沙門天は、いつのまにかいなくなっていた。どうやら、少しの間、眠っていたらしい。呆れられたのだろうかと、トールは苦笑した。手を叩いて、部下を呼び出す。オンギョウギと共に連れて行った部下達は全滅してしまったが、まだまだヨスガに人材は多い。部屋に入ってきた鬼神に、マガツヒを持ってくるように命じる。

大瓶に出されたマガツヒを、全て飲み干した。もうじき死ぬにしても、まだ力がいる。アーリマンを屠るほどの使い手に成長した人修羅だ。少しでも条件を整えておかなければ、勝てない可能性がある。

まさか、自分がこのような思考法をするとは。トールは沸き上がってくる苦笑を、抑えきれなかった。

もう一杯、マガツヒを飲み干す。

なんだか、とても苦いなと、トールは思った。

 

(続)