虚無の魔王

 

序、失楽園の邪神

 

ニヒロ機構の本部は、琴音が情報で知っている以上に無機的で、静かだった。

何もかもが、理にかなった構造をしている。照明は抑えられ、足音でさえ響かない。雑然としていたマントラ軍の街や、兎に角脆弱だったアサクサとは何もかもが違う。恐らく、組織の完成度では、ニヒロ機構が随一だろう。創世後の事も睨んで、全てを建築しているとしか思えない。

元々マネカタ達の情報ネットワークは限定的であった。特にニヒロ機構の情報は貧弱で、琴音もはじめて見るものが多かった。前を歩いていたカエデが、足を止める。エレベーターらしい。壁についている突起を何度か押しながら、カエデは言った。

「その武具、預かりましょう。 修理しておきます」

「いえ、それは氷川さんに会ってから決めます」

「そうですか。 慎重ですね」

気を悪くした様子もなく、カエデが操作を終える。殆ど間も無く、エレベーターが来る。最初に乗ったフラウロスに促されて、琴音も足を踏み入れた。チューブ状のエレベーターの内部は、周囲の環境と同じく照明が抑えられ、温度も丁度良い。

外に待たされているマネカタ達は大丈夫だろうか。怖がっているユリの顔が、脳裏から離れない。レアスキルの持ち主だと言うことは告げてあるから、邪険にはされないだろう。だが、やはり不安だ。

「貴方ほどの使い手でも、不安は感じますか?」

「ええ。 それはいつも」

「良かった。 私もなんです。 戦う時は、いつも不安で。 相手のことを考えてしまったりしていて」

「カエデ将軍」

にこにこして相づちを打つカエデに、フラウロスが咳払いをした。何だか、父親と娘のようだ。部外者の琴音でも知っているほど武勲を積んでいることからも、指揮官としても研究者としても卓越しているだろうと推察できるカエデだが、人間関係では危なっかしい言動が目立つ。フラウロスはあまり愛想が良さそうなタイプではないのだが、逆にそれが良い方向に作用しているとも言える。

確かに無機的だが、こういう点で、とてもよく動いている組織ではある。エレベーターが止まって、カエデが最初に出る。外で誰かと挨拶をしていた。かなり大きい。腕が四本あって、ずしんずしんと足音を派手に立てながら、廊下の奧へ行く。どこかで見たことのある悪魔だと思っていたら、フラウロスに先を越された。

「あれはマダだ」

「あ、思い出しました。 マダさん、元気ですか?」

「知り合いか」

「前に、お酒を何度も分けて貰っていましたから」

マダはとても気がよい悪魔で、以前お酒を何度も快く分けてくれた。さっき、カエデ将軍と談笑している気配があったと言うことは、巧くやれているのだろう。組織の思想は極端だが、内部は上手くいっている証拠だ。

廊下が高く取られている理由が、何となく分かる。巨人のような背丈の悪魔が、かなりいるのだ。てくてくと歩いていたカエデが、再び壁の突起を操作し始める。何度もエレベーターを経由して、深くに降りていくのだ。

ほどなく、最深部らしき場所に着いた。

会議室と大書きされた部屋がある。サーバルームという場所もあった。中からは機械音が響き続けている。また、最深部はどう考えても地下深くにあるのに、かなり横の広がりが大きいらしい。通路の取り方で、それが分かった。

「此方です」

廊下の奥で、カエデが足を止めた。質素な扉だ。これだけの大組織を束ねている存在が、奥に控えているとは思えないほどに。

現代の子供だから、琴音もゲームはやったことがある。RPG等では、如何にも悪の大ボスが控えている部屋はそれらしく飾り立てられていて、趣向を凝らしていた。だが、この扉を見て、自分がいるのが現実の世界だと認識する。氷川は、悪の大ボスなどではなくて。血の通った人間なのだ。

だから、住むのは普通の部屋だ。隣にはキッチンもある。悪魔とは違って、人間は食料を必要とする。睡眠も排泄もだ。生活用のスペースは、想像以上に大きい。人間離れしたイメージのある氷川でも、それに代わりはないと言うことだ。

ノックの音には、平然と返事が返ってきた。部屋にはいる。フラウロスは、着いてこなかった。刀を持ったままである。いざというときは、対処できる自信があるのか、或いは。

サーバルームのような、機械だらけの部屋だった。奥にある机に、氷川は座っていた。パイプ椅子がやたらと愛用されているニヒロ機構には珍しく、回転するタイプの高価な椅子だ。

「座りたまえ」

「あ、はい」

側にあった椅子に、腰掛ける。体ごとぐるりと回ると、氷川は足を組んで、茶を勧めてきた。

良い香りのする茶だ。多分東京受胎で壊滅した後に、研究して作り出したものなのだろう。クリームも砂糖も入れないのは、風味を楽しもうと思ったからだ。だが、口に入れてみると、まだ若干人工もの臭い。クリームと砂糖を淹れ始めた琴音に、氷川は苦笑した。

「流石に、まだ生粋のお嬢様の口に合うほどの出来ではないか」

「!」

「人修羅から聞いているかも知れないが、私はこのボルテクス界が誕生する切っ掛けを作った男だ。 世界がどのように成り立っているかくらい、把握しているさ。 様々な報告から、君がかなり強く人間の記憶を残していて、しかも元はかなりのお嬢様だったことは分析済みだ。 間違っていないだろう?」

見透かされた琴音は、続きを言うように促した。こういう風に、相手の心を見透かして動揺を誘うのは、交渉の常套手段だ。それに乗るほど、琴音もうぶではないのだ。

互いに茶を飲み終える。氷川は何処が良くないのか聞いてきたので、味に深みが足りないことを説明した。真面目に頷いて、データをパソコンに打ち込んでいた氷川は、意外と正直な性格をしているのかも知れない。

しかし、茶の話が一段落すると、冷酷なビジネスマンとしての面を前に出してくる。氷川という人物は、琴音に容易に底を見せてはくれない。

「さて、話というのは他でもない。 君には、カエデ君の護衛について欲しいのだ」

「カエデ将軍の、ですか?」

「そうだ。 彼女はとても優れた使い手だが、なにぶん近接戦闘能力に問題がある。 今後はトールやマントラ軍首領との戦闘も想定されるし、我が軍の中核を担う彼女が、近接戦や不慮の事故で命を落とすのはあまりにももったいない。 かといってフラウロスもブリュンヒルドも、一軍を指揮する身の上で、いつまでも直属の護衛には付けていられないからな」

親衛隊の堕天使達では力不足だと、氷川は残念そうに言った。確かに、カエデの護衛をするには、あまりにも非力な悪魔ばかりに思えた。

「しかし、どうしてカエデ将軍が前線に出ることを想定しているんですか?」

「それは、本人に直接聞きたまえ。 それに、君にとっても、悪い話ではないと思うのだがな」

「……そう、ですね」

「どのみち、ニヒロ機構のコトワリ以外で、君が守ろうとして命を賭けてきた弱者達が生き残る事は出来ない。 カグツチの日齢が二つ変わる分だけ、時間を与えよう。 その間に、考えを整理しておいてくれたまえ」

そういうと、氷川はくるりと椅子を返して、ノートPCを叩き始めた。カエデの話によると、この人はかっての基準で、一日五時間程度の睡眠を取り、それ以外は全て仕事に回しているという。食事以外の休憩は無しというかなりハードな生活をしており、回復術を時々掛けて身体のダメージを抑えているそうだ。

部屋を出ると、カエデが待っていた。表情から察するに、この娘は氷川個人よりも、この組織そのものに忠義を捧げているのだろう。氷川に対しての、若干の苦手意識が透けて見える。カエデはにこりと笑うと、案内してくれた。

何個かのエレベーターを乗り継いで、ギンザの街に出る。マネカタの代表達は、此処に通されていて、他の者達も既に家屋を与えられているという。ユリは、自分の家と同じ所にして欲しいと希望すると、快くかなえてくれた。

街路を歩く。迷いそうだと思ったのは、どれもこれも同じ形の家ばかりだからだ。所々に立てられている標識だけが、現在位置を確認させてくれる。道の向こうで、家々より大きな悪魔が歩いているのが見えた。カエデが笑顔で手を振る。

「スルト将軍! お疲れ様です」

「おお、カエデ将軍か。 あまり仕事で無理をしないようにな」

手を振り返したスルト将軍の顔にも、相手を愛おしむ笑顔が浮かんでいた。この娘は愛されているのだ。それがよく分かる。

家に着いた。やはり他と同じ家だ。外から見る限り、二階建ての4LDK。ユリと一緒に暮らすのには充分だろう。カズコが来ても、一緒に暮らすことは難しくない。多少殺風景だが、内部をカスタマイズするのは自由だと言うし、思ったよりは大丈夫かも知れない。

「新聞の類は出ているのですか?」

「新聞ですか? それは残念ながら。 軍の内部では情報にレベルが設定されていて、閲覧に権限が必要な場合がありますが、貴方は若干の研修の後に幹部待遇で迎えたいと思っていますので、ほとんど困ることは無いと思います。 ただし、組織の性質上、兵を率いてもらうのはずっと後になりますけれど」

「あ、いえ。 無いのなら大丈夫です」

カエデの返答は少しベクトルが違っていたので、琴音は困惑したが、笑顔で取り繕う。今の会話から、分かってくることがある。

つまり、ニヒロ機構は軍政の性質が強く、かっての人間社会のような、高度な社会化は行われていないと言うことだ。新聞はなく、情報は個々でやりとりするのが普通なのだろう。ただ、これは仕方がないことかも知れない。なぜなら此処は、悪魔が作った街なのだから。悪魔に便利なように、完成するのは自明の理だ。

カエデは護衛を残して、自身は仕事に戻っていった。仕事が好きと言うよりも、この組織に愛情があるのだろう。家にはいる。

何もない、質素を通り越して命の気配がない家だった。奥にはキッチンがあるが、最低限の機能しかない。水も出ないようだった。キッチン自体が一般的ではなく急造のものらしい。悪魔にとって食事は嗜好品に過ぎないが、それがよく分かる家屋である。水は術でどうにでも出来るが、少し不便だなと、琴音は思った。

「ユリ、いますか?」

「コトネ? 何処?」

上から返答があった。階段を上って、部屋の一つを除くと、ユリは膝を抱えていた。心細かったらしく、琴音に抱きついてくる。

「やだ。 此処、怖いよ」

「大丈夫。 何が来ても、私が守ります」

そうだ。何が来ても、守らなければならないのだ。トールは琴音の力を引き出すためなら、どれだけの殺戮を重ねても構わないようだった。あのような鬼が生きているのを、見過ごす訳にはいかない。速やかに死を与えなければならない。

ユリが抵抗したので、手を離す。尻餅をついたユリは、蒼白になっていた。

「コトネ、鬼神と同じ顔、してた」

「え? ごめんなさい。 私、怖い顔してましたか?」

「……」

そうかも知れない。今、琴音は敵を殺すことを考えていた。ならば、怒りが顔に出るのも、ありえる事だ。

チャイムが鳴った。武具を修理するために預かりたいのだと、現れた親衛隊の堕天使は言った。

少しだけためらった後、虎徹を預ける。

今はユリを怖がらせたくないと、琴音は思った。それに今のこの刀は、もう戦闘で使い物になる状態ではない。刃はぼろぼろで、切れ味はもう死んでいる。鞘も半ばから割れかけていて、見るも無惨な状態だ。

一つずつ、片付けて行かなくては行かない。例えコトワリが開かれて、残る時間が殆ど無いとしても。琴音には、それしか出来なかった。

ユリとの間に、しばし気まずい沈黙が続く。お菓子でも作ろうかと、笑顔で言うが、反応はなかった。キッチンに向かおうとした琴音は、再びチャイムが鳴るのに気付く。玄関に出ると、堕天使が緊張した顔で立っていた。

「サマエル殿」

「どうしましたか?」

「貴方に会いたいという悪魔が来ています。 ただ、どうやら元マントラ軍の悪魔らしくて、皆判断に迷っておりまして」

そうなると、ニヒロ機構にしっかり入ってからでないと、相手にも迷惑を掛けるだろう。誰だかは分からないが、今は少しでも摩擦は避けたい。それに、心は決まっている。

「少し、待たせてください。 それと、カエデ将軍に、面会を申し込みたいのですが」

「と、いいますと」

「ニヒロ機構に入ります」

「おお、それはそれは。 カエデ将軍もお喜びになるでしょう!」

蝙蝠によく似た顔をしている堕天使は、本当に嬉しそうに破顔した。琴音も釣られて笑顔を作ると、案内を頼んだ。

 

1,大侵攻の前に

 

マントラ軍改めヨスガ軍「大」本営に招かれた毘沙門天は、緊張に顔を強張らせていた。護衛についている鬼神達も、皆不安に顔を見合わせている。バアルによる大号令により、ニヒロ機構への総攻撃が決定されたからだ。

今まで、両勢力による攻撃は、仕掛けた方が必ず失敗している。特にアマラ経路に潜んでいる第三勢力シジマの存在は、かっての天使軍に酷似していた。

攻撃を仕掛けるにしても、残った拠点の防御はどうするのか。それに、マガツヒだけは充分に存在するが、今まで力を蓄えてきたニヒロ機構軍と、組織戦を行うにはまだ訓練が必要である。

また、鉄壁を誇る敵の要塞をどう攻略すればいいのか。シブヤにしてもユウラクチョウにしても、アサクサのような貧弱な防衛施設とは訳が違う、術で何重にも防御された強固な要塞である。或いは要塞を無視し、押さえだけを置いて、本営を直撃するのか。それも割く戦力や、それとの連携が重要になってくる。他にも補給路の確保、指揮系統の統一など、問題は山積していた。

かといって、毘沙門天に侵攻を反対する意図はない。サマエルと人修羅を擁するアサクサを瞬時に壊滅させたバアルに対する信頼も強い。それに、前線に出る気満々なトールの存在も心強い。だから、不安はない。バアルがどのような指示を出してくるのか、楽しみでさえあった。

武者震いをすると、エレベーターに乗る。バアルのよりしろになった千晶の趣味は、彼方此方に反映されている。そればかりか、千晶はバアルの人格の一部として、未だに存在しているとしか思えない。色々と下される指示に、部下が困惑しているのを、毘沙門天は知っていた。それらの指示は、バアルが千晶だった時と、何一つ代わりはしないのだ。

最上階についた。きらきらした装飾が目に少し痛い。ヨーロッパ式の豪奢な装飾と、和式の精緻きわまりない細工が混在している。玉座も、ゴズテンノウの武骨なものではなく、黄金によって装飾された、輝かしいものとなっていた。

ナンバーツーには不動の存在としてトール。既に呼ばれたかの武神は、千晶の右に侍っている。ナンバースリーとしては、毘沙門天とミカエルが同格の存在として、それぞれ陸軍と空軍の指揮を担当する。それ以下は、大体横一線だ。席次が明確に決まっていた旧マントラ軍と、バアルが発表した新しい組織では、それが明確に違っていた。

会議室には、殆どの幹部が集まっていた。バアルの玉座を最上位に、長机が部屋に置かれており、奥から上位扱いで皆が席に着いていく。席に着いてみて驚いたが、非常に高級感がある。机は黒檀の最高級品だが、手触りと言い、触った時の質感と言い、以前とは異なる素晴らしさが目立つ。これも工夫の結果なのだろう。

天使軍はラファエルとウリエルを失ったため、ケルビムが何騎か幹部待遇で出てきている。ただ、気になることもある。ケルベロスが戻ってきていないのだ。奴は個人的武勇の優れた豪傑的な存在で、いなければそれで困る。殆どの悪魔が戻ってきた中、奴の空席だけが目立っていた。末席には片腕を失ったオンギョウギがいる。此方は表情が別人のように引き締まり、トールの引き立てもあって、他の悪魔達も存在を既に認めていた。

玉座にて頬杖をついていたバアルは、美しい翼を揺らめかせながら、無数に重なり合う声で言う。その中には、千晶だった時の声も混ざっていることを、毘沙門天は既に気付いていた。

「それでは、会議を始める」

悪魔達が、一斉にバアルの方へ礼をした。バアルは一糸乱れぬその動きに満足したか、指を鳴らす。

長机の上に、さっきまで丸まっていた両軍の勢力図が広がった。各拠点と、配置兵力が非常に正確に書かれている。つぶらな瞳が愛らしいオルトロスが、一生懸命調べてきたものだ。

現在、ヨスガ軍の総兵力は85000。それに対して、ニヒロ機構軍は113000という所である。兵力は敵が1.5倍という所だが、兵の質は此方が上であり、総合力は大体五分である。

その状況は、今も昔も変わっていない。問題はどうやって相手を攻めるか、だ。

中枢であるギンザを攻める場合、シブヤとユウラクチョウが非常に邪魔である。真面目に攻略に掛かれば長期戦になるし、敵は豊富に援軍を出してくる。かといってギンザを直撃しようとすると、今度は側面からの攻撃をもろに受けることになる。

結果、二つの拠点に押さえを置くことが良いかと思われるが、問題が大きい。敵はアマラ輪転炉で自在に兵力を移動できる上に、その分此方は少ない兵力を更に削られることになる。

前回の侵攻では、それが故に、決定打を欠いた。その上敵は守る立場上、幾らでも防衛線を展開することが出来る。以前のように縦深陣を敷かれると、かなり面倒くさいことになるだろう。

それらを説明すると、バアルは珍しく考え込んだ。

ミカエルが挙手する。バアルを恐れるこの男は、手柄を立てようとして、最近必死な言動が目立った。あまり他人事ではない。功績を挙げられないものは、ヨスガ軍に必要ないと、バアルは公言しているからだ。

「我が空軍にて、敵の拠点を空爆し、動きを鈍らせたいのですが」

「敵も空軍は有している。 しかも今や空戦の名手として鳴らしているブリュンヒルドは、お前達では手に負えまい。 陸軍との緊密な連携が必要になるだろう」

「は、しかし」

「単独行動は禁じる。 毘沙門天。 ユウラクチョウの側にある国会議事堂の情報は、これだけか」

国会議事堂。今そこは、ユウラクチョウを拡大するような形で、要塞化が進んでいる場所だ。ニヒロ機構は膨大なマガツヒを其処に蓄え込んでおり、最強の布陣で侵攻に備えている。だから毘沙門天としては、敵の勢いが衰えてから叩きたいと考えていたのだが。バアルの表情から言って、そうは行かないだろう。

「必要とあれば更に集めてきますが、何分警備が厳しく」

「そうであろう。 状況証拠から言って、国会議事堂がニヒロ機構が見つけた「場所」であろうな。 全軍を集結させ、攻撃する。 此処を落とせば、ニヒロ機構は守護をおろせなくなり、我が軍の勝利は確定だ」

国会議事堂を総攻撃。なるほど、そう来たかと、毘沙門天は唸った。戦略上の瑕疵がどうのこうのと言うつもりはない。守護の圧倒的な実力を目の当たりにした今では、それが戦略兵器級の価値のあるものだとよく分かる。もし、ニヒロ機構が守護を降ろすことに成功したら。

勝ち目はなくなるとは言わないが、かなり厳しい状況になるだろう。守護の力も絶対ではない。ニヒロ機構の守護に、バアルが破れるとは思わないが、総兵力の差はかなり大きい上、敵には守備をしているという地の利があるのだ。

戦略上の情報を詰める。一旦バアルが攻略目標を定めた後は簡単で、流れるようにして会議は進んだ。毘沙門天が四苦八苦して会議をまとめていた時とは雲泥の差である。胸をなで下ろす毘沙門天の前で、最後に挙手したのは西王母だった。

「ところで、カグツチについてなのですが。 少し変わった兆候が出ています」

「ほう。 それは、いかなるものか」

「脈動が強くなってきています。 理由は分からないのですが」

「あれは生き物だ。 脈動が強くなったと言うことは、何かが起こる前兆だろう。 目は離すで無いぞ」

カグツチに何かが起こる。そうなると、やはりコトワリにより、世界が作られる時が近いと言うことであろうか。この頼もしいバアルの姿を見ていると、それが良い方向へ動くとしか思えない。

部下達の間からも、不安がぬぐい去られていくのが、毘沙門天には分かった。持国天だけは浮かない顔をしているが、あれは元々変わり者だ。状況に適応すれば、いつも通りに戻るだろう。

軍が整えられていく。バアルの指示で、大胆な編成が行われた。居残り組の悔しそうな視線を、出撃組が浴びている。

毘沙門天は、出撃組に入った。ただ誇らしいと、思った。

 

砂漠を泳ぐニーズヘッグの背で、秀一は腕組みしていた。視線の先には、何処までも連なる砂丘と、照り返すカグツチの光。

何も命がない、永久の砂漠。

焼け野原になったアサクサを離れた秀一は、カズコと少数の仲間だけを連れて、ユウラクチョウに急いでいた。ユウラクチョウには、国会議事堂がある。其処の防備が妙に強化されていることを、秀一は聞いていた。

勇の言葉通り、やはり守護を降ろすには場所が重要だったのだ。ならば、ニヒロ機構にとって重要な場所は何処なのか。

国家の中枢として、無数の魑魅魍魎が覇権を競った場所。それが国会議事堂である。しかも、ここのところ強化が進んでいるという。ありとあらゆる状況証拠が示している。其処で氷川が守護を降ろすのは、ほぼ間違いなかった。

めっきり口数が減ったリコは、時々カズコに今までにはない優しい笑顔を向けて、話し掛けている。クロトは幼児並みに喋るようにはなったが、以前使っていた棍を渡すと、怖がって投げ出してしまう。まだ戦うのは無理だ。連れて行くことに、リコはいい顔をしなかったのだが、仕方がない。クロト本人がマネカタを恐れるようになっていて、置いていく訳にもいかなかったのである。

アサクサに残っていた悪魔は殆ど琴音について行ってしまったし、もはや情報源としても、マガツヒの供給源としても期待は出来ない。傷は進みながら治す。力は進みながら蓄える。

そして、今度こそ守護の光臨を阻止しなければならなかった。

街を出る時、残ったマガツヒは残らず皆と一緒に喰らってきた。全員の力はかなり上がっているはずだが、それでも十万を超えるというニヒロ機構軍と正面から事を構えるのは望ましくない。まずは近付いて、それから策を練るつもりだ。

鼻歌交じりに髪の毛をずっと梳かしていたサナが、秀一のズボンを引いた。この娘が動揺するところは、今や想像できない。

「ねえ、シューイチ」

「どうした」

「シューイチのコトワリって、どんなの? そろそろ聞かせて欲しいな。 もういい加減出来てるんでしょ?」

他の悪魔達も耳を立てた。確かに、そろそろ逃げられない質問である。秀一は腕組みすると、砂丘の向こうを見つめながら応える。コトワリと呼べるのかはまだ少し自信がないのだが、既に固まっている答えはある。

「俺は、多様性のある世界を作りたいと思っている」

「ふーん。 で、前の世界とは、どう変えるつもりなの? 前の世界にも、多様性は腐るほどあったし、それで収拾がつかなかったんじゃない?」

「その通りだ。 だから俺は、「神」が、人々の心の中にも存在しない世界にするつもりだ」

ボルテクス界に、唯一の神は存在しない。今までの状況から考えて、多分他の世界にも、キリスト教が定義しているような、世界を創造した絶対神など存在はしないだろう。先生の話では、東京受胎でさえ、世界の法則に干渉する術の一種だったと聞く。強大な力を持つ外なる存在はいるかもしれないが、秀一の知ったことではない。

神は、いない。全宇宙を創造した、造物主なる存在はいないのだ。

だが、マネカタや、弱者から見て、圧倒的な力を持つ、神的存在は複数存在している。弱者から見れば、彼らは神も同然だ。逆らうことは出来ないし、気まぐれでいつでも殺される可能性がある。

そのような世界のあり方は、間違っている。

特にヨスガの作ろうとしている世界では、それが完全に正当化される。弱者は存在することさえ許されず、ただ神の作った法則のままに、徹底的なまでに淘汰されてしまう。しかも、悪として、だ。

人間の社会は、結局の所、弱肉強食を排除することで発達してきた。老人という弱者が生存することにより、豊富な知識が社会を発展させた。子供という弱者が生存することにより、社会の発展を潤滑化させた。他の弱者も、様々な方向から、社会を支えてきた。それが、人間が他の生物よりも発展できた、最大の理由だ。

これらを切り捨てるヨスガの思想は、受け入れられるものではない。

翻って、ニヒロ機構の思想はどうか。これも駄目だと、秀一は考えている。

ニヒロ機構の思想の場合、全ての存在が決定されている。完成された世界だともいえるが、とても脆弱である。何かトラブルが起こったときに、対応できるとは思えないからだ。確かに、完成された世界の、静かな暮らしは快適かもしれない。だが、其処には、熱は存在しない。

続けて、ムスビの思想はどうか。

完成された個人が、それぞれ他からの干渉を受けずに生きていく世界。これも確かに一見快適なものにも思えるが、ニヒロ機構の思想よりも更に脆弱に思える。これは泡沫の思想であり、世界そのものからの引きこもりともいえる。世界のあり方としては、確かに一つの完成系ではあるが、終わった世界とも言い換えられる。

かといって、かっての世界はどうか。これも駄目だ。行き詰まったかっての世界は、氷川が手を下さなくても、いずれ自滅していただろう。それに戻したところで、未来への展望はない。

マネカタ達が滅び去るのを見て、その考えは確信に至った。アサクサの町は、かっての人間社会の縮図、そのままだった。

「神がいない世界、ねえ」

「そうだ。 かって人は、精神的な逃げ場として宗教を必要とした。 イデオロギーや主義主張も、その一種だといえる。 それはなぜか。 人の精神は、現実を直視するには脆弱すぎたからだ」

社会を効率的に維持するには、そのもろい心を、前向きに動かす必要があった。

善いことを積み重ねれば天国へいける。悪事を行えば地獄に堕ちる。

盗む。犯す。裏切る。それらの行動は、もっとも罪深い。

そう宗教が規定することで、人の社会にはもろいながらもルールが生まれた。やがて、文章化された法である名文法が誕生して、より複雑な社会の生成を助けた。

だが、結局の所、人間は心によりどころを必要とする生物だったのだ。もちろん、ごく少数は例外もいた。だが、大多数は心によりどころがあって、初めてまともに動ける生物だったのだ。

秀一の時代は、その拠り所そのものが否定された結果、社会の清潔性が失われていた。あの惨状は目を背けるほどであった。たとえ現実に神など存在しなかったとしても、宗教は人間の社会を健全化していたのだ。不文律と明文法は、共に存在しないと社会を正常に保てない。不文律の根元が宗教に依存していた人類社会の脆弱さが、秀一の時代には露呈していたのだ。

それが、人間の限界であった。文明の進歩に、自らが追いつくことが出来なかったのだ。様々な技術が進歩した結果、世界の果てまで見通せるようになった。神などいないことが分かり、宗教は否定された。

故に、行き詰まった。

「人間は弱い生き物だった。 だから、人間が宗教を必要としない程度に、強い生物になればいい」

「ふーん。 かっての世界でそれをやろうとしたら、きっと色んな問題が噴出したんだろうね。 人間をいじる事で誕生する存在は何だったっけ、確かデザイナーチルドレンていうんだったっけ」

「ああ、思想としてはそれに近い。 そしてボルテクス界の法則では、それを誰も困ることなく世界レベルで実行することが出来る」

傲慢な発想ではあるかもしれない。人間を弱者と結論して、強制的に存在を変えようと言うのだから。

だが、事実この世界では、行き詰まった人類は滅んだのだ。手を貸したのは氷川だが、どのみち放っておいても近々そうなっただろう。滅んだ以上、何一つ偉そうなことをいう資格はない。

滅びてもなお、まだ愚かな本性をむき出しにしていたマネカタ達を見て、秀一は心底からそう思った。

琴音はそれでも、弱者を守ろうとするだろう。

だが、やはり弱者のままではいけないのだと、秀一は思う。もちろん、強くなれる者など限られている。

だから、無理矢理にでも、人間という生物のステージを上げるのだ。コトワリと、創世の力を使って。

サナはふーんと呟いた。特に不満はないようである。フォルネウスも、リコも、サルタヒコもアメノウズメも。ニーズヘッグも。皆、不満は漏らさなかった。ただし、サナは最後に、爆弾を場に投下した。

「で、いいの? このままだと、サマエルと殺し合うことになると思うけど」

「仕方がないことだ。 彼女は元々頭もいいし、信念も固い。 頭がいいやつが意固地になった場合は、ほぼひっくり返すのが不可能だ。 説得はしてみるが、そんな時間も、それに余裕も、多分無いだろう」

マネカタ達に聞いたのだが、琴音はあのトールと五分に戦って見せたそうである。あれからどこへ消えたか分からないが、もし出会うことがあったら、次は敵だろう。今までにないほどに、厳しい戦いを覚悟しなければならない。

こんな世界だからこそ、琴音の選んだ道は厳しい。世界そのものに逆らうようなものだ。秀一は否定しない。それだけのことを、生半可な覚悟で出来はしないからだ。誰が琴音の行動を笑えよう。同じ立場にいたとき、彼女ほど勇気を持って、世界に戦いを挑める存在がどれだけいるだろうか。彼女を否定することが出来るのは、同じ場所に立ち、覚悟によって練り上げられた勇気を持つ者だけだろう。

あるいは、今の秀一は、同じ場所にいるのかもしれない。だから、否定する権利はあるのかもしれない。だが、その権利を、秀一は行使しない。琴音の気持ちも、思想も、嫌と言うほど分かるからだ。

ただ、立ちふさがったら。そのときは、粉砕する。それだけだ。

小さな砦が見えてきた。ニヒロ機構の前線基地の一つである。戦う意味は何一つ無い。回避するようにニーズヘッグに指示。自身も身を低くして、気配を消した。500ほどの悪魔が詰めているらしい前線基地は、緊張した様子で警戒態勢を敷いていた。

砦をやり過ごす。この辺りからは、もう完全にニヒロ機構の警戒圏である。防備は堅く、油断も少ない。警備の状況を見ながら、慎重に進まなければならなかった。

瓶に入れたマガツヒを取り出し、口に入れる。力を蓄え、技を練る必要がある。悪魔の体を得たとき、入れられた変な虫の力だろうか。マガツヒを食えば、自然にスキルは身に付くようになっている。とはいっても、実戦でしっかり使った技は練度が違う。螺旋の蛇は必殺の威力を持つようになってきているが、それは死闘の中で練り込んできたからだ。

「サナは、俺のコトワリで良いのか?」

「僕? うん、それでいいよ。 ニヒロ機構は固っ苦しすぎるし、ヨスガは疲れるし、ムスビは論外だし」

「そうか」

「なんだかんだで、一番それがバランスとれてるよ。 大体、これからの戦いで生き残るのは多分秀一だと、僕は思ってる。 この僕が期待してるんだから、責任重大だぞ。 期待に応えてよね」

肩を叩かれた。秀一は頷くと、砂漠の向こうを見つめる。

まだ、国会議事堂は見えてこない。

 

ニヒロ機構本部は、にわかに活気づいていた。

アサクサが落ちた今、マントラ軍がいつ侵攻を開始してもおかしくない。カエデはそう分析し、部隊の展開を進めていた。先鋒はやはりフラウロスに努めてもらう。トールを押さえ込む必要があるし、敵の出鼻は挫いておきたいからだ。豪傑フラウロスは、今やニヒロ機構にとって、鉄壁の先鋒だ。彼のいない戦場など考えられない。

ニヒロ機構最深部の会議室に、カエデは籠もりっきりになっていた。様々な情報が、ひっきりなしに入ってくる。アマラ経路を経由しているものもあるし、スパイをしている者達が持ち込むものもあった。マントラ軍が、ヨスガ軍と名前を変えたことを知ったカエデは、彼らが守護を降ろしたことを悟った。今までも情報はあったのだが、これで確定である。

そうなれば、ニヒロ機構の守護降ろしを全力で阻止しに来るのは自明の理。今までにない、厳しい戦いが予想された。

額の汗を拭うと、部下が持ってきた新しい情報に目を通す。一分で把握し、次の書類へ。手を伸ばした先にあるのはコーヒー。思いっきり濃く入れてあるのは、カフェインで脳を活性化させるためだ。

いくつかの部隊の配属を決めていく。無意識のまま、判子を押した書類を、そばの影に渡した。

「これを、フラウロス将軍に」

「……大胆な作戦ですね。 国会議事堂に、主力を配置しないんですか?」

「琴音将軍」

顔を上げると、サマエルだった。琴音と呼んでほしいと言われているので、そうしている。彼女はニュクスの趣味からは「育ちすぎている」ので、着せ替え攻撃の餌食にはなっていない。羨ましい話である。多少童顔だが、持っている威厳の違いだろう。どちらかといえば小柄なのに、凛とした大人の雰囲気がある。

少し脳がオーバーヒート気味らしいと気づいて、伸びをする。コーヒーに角砂糖を三つ入れて、口にした。ものすごく濃いので、思わず噴きそうになる。だが、我慢して、胃に流し込む。

仕事が忙しくなると、苦行のような日々が始まるのはいつものことだ。カエデはニヒロ機構が好きだ。だから、耐えるのは慣れた。カエデが頑張れば頑張るほど、味方は仕事が楽になる。生き残れる兵士も増える。

そう思えば、仕事がつらい事なんて、何でもない。

「いつから、其処にいたんですか?」

「フラウロス将軍が、軍を整えるからといって、本部を出ていくときに、警備を引き継がれました」

サマエルはそう答えると、手際よく手を叩いて、親衛隊の堕天使を呼ぶ。書類を手渡して、的確に配達先を伝えながら、なおも言った。

「少し、休んだ方がいいですよ。 私が見張っていますから」

「そうしたいんですが、ヨスガの大攻勢が迫っていますし、一人だけ寝ているわけにもいきません」

「そうですか。 それなら」

サマエルは、自分の手で紅茶を入れてくれた。しかもミルクティで、大胆にジャムを入れている。

口にしてみると、もの凄く甘かった。疲れは取れるものの、何も食べる気がしなくなる。無言で目をつぶったカエデは、これが自分の疲れの形なのだなと思った。

前線では、まだ戦いは始まっていない。だが、カエデにとっての戦いは、既に開始されている。

仕事を早めに一段落させて、少し休んだ方が良いかもしれない。カエデは脳にがつんと響くサマエルの紅茶をもう一杯味わうと、そう思った。

 

2、闇の底から這い上がりくるもの

 

アマラ経路の闇の中で、金属音が響き渡る。重いその音は、剣を生成することによって生じていた。

金床の上にのせた鉄塊を、槌で叩く。赤熱した鉄は延ばされ、程なく様々な秘伝を加えられた水につけられた。焼きを入れるという行程だ。じゅっと鋭い音がして、一気に鉄が冷やされる。再び自ら上げると、鉄を叩く。叩く。

火花が散る中、闇の中に巨大な影がせり上がってくる。その眼球の中にいる人影が、呼びかけた。

守護、邪神ノアと一体化した、新田勇である。

「日本武尊。 草薙の剣の完成はまだか」

「まだしばらくは掛かる」

そう言って、剣を作っていた男は顔を上げた。

奇妙な顔であることを、男は知っている。左右で、表情が異なっている。右は笑い、左は怒っている。左目は優しげで、右目は厳しい。口元には引きつったような傷がある。左の唇は、女のそれのように芳醇であった。目鼻口の造作も、それぞれ同じ人物のものとは思えないほどに異なっているのだ。

男の名は日本武尊。日本神話における、素戔嗚尊と並ぶ最大最強の英雄である。

ただし、その存在は一人の原型を元にしているわけではない。日本武尊は、その豊富な逸話と、毎度変わる性格からも分かるように、大和朝廷に仕えた多くの名前も残らぬ将軍の業績を、権威としての名前を中核に、一つにまとめた存在なのだ。

ある時は女装して敵国の王に近づき、一刺しした策士。ある時は狂気のまま兄弟を殺した鬼神。またある時は、神を冒涜したことによって命を落とすことになった愚人。その全ての要素が、日本武尊の中には詰まっている。

故に、一人でいくつもの顔を持っているのだ。

彼のような存在は、世界の神話には珍しくない。かの高名なアーサー王にも複数のモデルがいる。また、アイルランドの伝承に残るフィン・マク・カムハルなども、同じように複数の騎士の業績をまとめた存在だと言われている。特定の名前を核にして、業績が集められた存在。それは、多くの悲劇を内包してもいるのだ。

槌を振り下ろして、鉄を打つ。神殺しの力を持つ、最強の剣草薙を、今彼は作っている。アマラ経絡から上がってくる時に、これだけは再現できなかったのだ。他の神々がノアのために動いている間も、ずっと日本武尊は、草薙を打ち続けていた。そしてそれは、未だ完成していない。

黙々と日本武尊が打ち続けるこの剣こそ、ムスビの切り札である。

あまたの伝承が残るにもかかわらず、現存しつづけた非常に珍しい剣の一つ。故に守護でさえ殺せる剣。これさえあれば、トールであろうが人修羅であろうが、一撃の下に屠る事が出来る。最大の問題は刺せるかどうかだが、ムスビの周囲に集まった強大な悪魔達の実力であれば、懸念はない。

再び、鉄を叩き続ける日本武尊。ノアは巨体を揺らしながら、彼らしい嘲弄を言葉に混ぜる。元々気弱だったノアは、様々な悲劇に直面して精神的な線が切れてからというもの、一転して獰猛きわまりない性格に変わったらしい。今では感情制御が下手な、孤独をただひたすらに求める、闇のまた闇とも言える人格を手にしている。

それは、日本武尊には、非常に親しみやすい人格でもある。とても感情移入がしやすいし、気持ちも良く理解できるのだ。

「それにしても、剣なんかずっと打ち続けて楽しいのか、お前」

「楽しいかどうかは、見ていて分かるはずだが。 主よ」

「そう、だな。 すまなかった。 完成を急いで欲しい。 ムスビは戦力が少ない分、数と質で勝負するしかないからな。 お前達には期待しているよ」

ノアは素直に詫びると、巨体を沈み込ませていく。まだ、人修羅から受けた傷が故に、体は完全ではない。不完全な状態で呼び出されたノアは、その実力を発揮しきれないでいる。アマラ経路中から集めたマガツヒで補ってはいるが、それでも不完全なことに代わりはない。

それに、ムスビに共鳴する悪魔も少ない。如何に精鋭とはいえ、十万を超える兵を保有するニヒロ機構や、精鋭で鳴る鬼神を多数抱えているヨスガとは、まともに戦っても勝ち目はない。

だから、策略で、他に対抗するのだ。

そして、策を産むが故に。結びつきなど皆無であっても、部下は大事にしなければならなかった。それを知っているから、日本武尊は、強気に出た。それにムスビでは、個人の尊厳をどの組織よりも大事にする。ノアですら、例外ではないのだ。

不思議な関係だなと、日本武尊は心中にてつぶやいた。手は、剣を打ち続けている。

日本武尊に始まったことではない。ムスビに集った悪魔は、皆孤独を求める者ばかりだ。日本武尊の場合、あまりにも繰り返された裏切りが、その性質を作り上げている。古代国家に良いように使われ、使い捨てられてきた無数の将軍達。彼らは大敵を討伐してしまえば、用済みとして処理されていった。皇室に連なる者であろうが、それは関係がない。猟犬は、狩る相手がいなくなれば煮られて食われるのが世の常だ。

今回は、どうなるのか。

ムスビの世界が作られたら、日本武尊は始末されてしまうのだろうか。

それは無い。ムスビは権力とは無縁の世界だ。新しく世界が出来た暁には、皆が他者とは関わらず、好き勝手に生きていくことが出来るようになる。日本武尊は、多分それぞれの人格ごとに、別の世界を作っていくことになるだろう。甘美な世界だ。もう、其処でなら、裏切り続けられることはない。

再び焼きを入れると、剣はじゅっと音を立てた。

草薙の剣は、鉄製の武具だ。最も原始的な鉄製剣であり、国の宝とは言っても、稚拙な技術で作り上げられた代物に過ぎない。掛かっている強力な魔術が、剣を強くしていたのである。

今、日本武尊が作っているのは、古代より語り継がれた技法に、日本で磨きに磨き上げられた製鉄技術を加え、更に最新の様々な金属加工技術を加えた代物だ。現実の草薙の剣よりも遙かに強力な、神が持つに相応しい剣。それが、今打っている、新しい草薙であった。

無数に漂うマガツヒから、日本武尊はその技術を得た。そして今、再構成して、新しく最強の剣を作り上げようとしている。日本そのものの神であるからこそ、作り上げられる剣である。

他の神々は、忙しく飛び回っている。その中の一人、オズが戻ってきて、剣を叩き続けている日本武尊の前で馬の足を止めた。

「タケル殿。 精が出ることだな」

「いかがした、オズ殿」

「うむ、これから忙しくなるぞ。 マントラ軍、いやヨスガの連中が、大攻勢を準備しているらしくてな。 貴殿も、そのカタナを振るって、戦って貰うことになるだろう」

「これはカタナではない。 サムライソード、カタナが出来る前にあった、古代の剣だ」

それは失敬したと、素直にオズは謝ったので、日本武尊は苦笑した。尊大なゼウスと違って、オズはずいぶんと分かり易く、親しみが持てる。既に斃れたショクインも、いざ喋ってみると話しやすい男だった。

「オズ殿は、どうしてムスビに参戦することを決めたのだ」

「恐らくは、そなたと同じだ。 身勝手な人間にも、好き勝手に暴れ狂う神々にも、もう嫌気が差したのだ」

「そうか。 それならば、私と同じだな」

それだけで、充分だった。会話はそれで途切れる。いや、会話でさえ無いのかも知れない。情報のやりとりであって、精神的な交流ではないからだ。

此処に集う者は、皆心に傷を抱えている。だから、ムスビの勢力を心地よく思う。不文律は過干渉の拒否。そして、他者の詮索を避けることだ。

誰にも干渉されることのない世界が来ると思うと、歓喜で身が震えるようである。だから、草薙の剣の完成を急ぐ。剣に何度も槌を叩きつけて、火花を払って更に打った。汗まみれの額に火花が映える。

やがて、黒光りする刀身が、闇の中に浮かび上がった。

素晴らしい質感が、手の中にある。長さは四尺。かなり大きい剣である。日本刀の技法を大胆に取り入れた剣は、全体が美しくとぎすまされており、強い魔力も含んでいた。何度か、素振りしてみる。空を斬る剣は、ひゅうひゅうと音を立てた。

素晴らしい剣だ。技術は日本武尊が生きた時代よりも、ずっと後のものばかりを使っている。だから、厳密には自分が作った剣だとは言い難い。何度か剣の身を翻して、念入りに確認する。

何度確認しても、ため息が出るような完成度だった。ボルテクス界に存在する中では、間違いなく最強の剣だと言える。しかしながら、違和感がある。

どうも、手に馴染まないのだ。剣にはどうしても相性というものがある。刀には様々な長さがあり、体に合わせて作られているのは、それぞれに合わせるためだ。おかしい。体に合うように、作り上げたというのに。

多くの魂が籠もっている剣だから、プライドが高いのかも知れない。ひょっとしたら、これから日本武尊がしようとしている事を、快く思っていないのではないかと、思い立つ。目をつぶって、呼吸を整える。この剣は、自分を認めないかも知れない。だとしても、使いこなすのが、あまたの戦いを乗り越えてきた、日本武尊がするべき事だ。

剣が完成したことに合わせるように、ノアが皆を収集した。ゼウス。ダゴン。オズ。日本武尊。それにもう一体の神格。また、周囲には、とても強い力を持つ闇の神々が、無数に蠢いていた。巨体で彼らを見回すと、ノアは言った。

「これから、ニヒロ機構と、ヨスガに攻撃を掛ける」

「おお。 ついに時が来ましたか」

「ああ。 だが、知っての通り、正面から戦いを挑んでも、苦戦は免れないだろう。 そこで、敵の力を今回は削ぐことに終始する」

ゼウスが、最初に進み出た。様々な神格を無理に融合させたことで、古代神らしいえぐみに満ちた性格の持ち主となった彼は、軽く一礼しながら言う。

「ノア様。 具体的には、いかなる方法を用いますか」

「ヨスガの兵の動きを確認したところ、連中は可能な限りの戦力を動員して、一気に国会議事堂を襲うつもりらしい。 そこで、我が軍は奴らが留守にしている後方拠点を一撃し、焼き尽くす」

ヨスガの拠点であるカブキチョウ、シナイ塔、四天王寺。ニヒロ機構の重要拠点であるシブヤ、オベリスク塔。ギンザやイケブクロを叩くのは難しいが、これらの拠点であれば、一撃して多くの被害を出すことが出来る。

それらを攻撃し、一旦連中をそれぞれに引き上げさせる。或いは、混乱させる。そこで、戦いに傷ついた国会議事堂を、草薙の剣を持つ日本武尊が、精鋭と共に急襲する。

そうして、氷川をまず屠る。返す刀で、同じようにしてバアルを倒す。これで、何だか両組織が分からないうちに、ノアの勝利が確定するのだ。

ノアの説明を受けて、日本武尊は難しいなと思った。確かに作戦としては悪くない。だが、氷川は有名な切れ者だし、その配下にいるカエデ将軍は若くして武勲を重ねてのし上がった文字通りの英傑だ。幾多の武勲を重ねた将軍の融合体である日本武尊は、カエデが如何に優れた将軍か、様々な業績を聞くだけで判断できる。

また、ヨスガのトール将軍も、万夫不当の使い手という呼び名が相応しく、簡単に出し抜けるような相手ではない。また、ヨスガのバアルは自ら前線に立つことを厭わぬ性格だと言うことで、部下達を恐るべきカリスマでまとめ上げている。手堅く隙がない毘沙門天の存在もあり、こちらも手を焼かされるだろう。

同じ印象をオズも抱いたらしく、難しい顔をしていた。ダゴンは何を考えているか分からないし、ゼウスは腹の底が伺えない。ノアは気に入らないのなら代案を出すようにと、皆に言った。

「それならば、提案が」

「なんだ、日本武尊。 言ってみろ」

「は。 作戦は悪くないのですが、機を計るのが非常に難しいかと思われます。 ニヒロ機構とヨスガが戦いで傷ついた、その状況で、仕掛けるのがよろしいかと。 場合によっては、強引な突破を計るのも手でしょう」

「なるほどな。 俺は確かに戦争の専門家じゃねえ。 その辺は、お前に任せたいんだが、いいか?」

御意と、日本武尊は頭を下げる。

一見素晴らしく見えるノアの作戦は、実際には非常に難しい。仕掛けるタイミングを誤ると、逆に両組織から袋だたきにされかねない。戦力を消耗するばかりになりかねず、本当はあまり賛成したくなかった。

多くの戦いをこなしてきた日本武尊は、奇襲や奇策が下である事を熟知している。正攻法で押しつぶすのが、実は一番危険が少なく、勝てる確率も高いのだ。更に言えば、奇策をろうしたところで、戦略上の不利はまずひっくり返すことが出来ない。だから殆どの戦いは、数によるぶつかり合いになる。その上、奇襲ばかりしていると、変な癖がついて、まともな会戦では勝てなくなるのだ。挙げ句の果てに奇策を逆手に取られて、見るも無惨な敗北につながりかねない。彼の遠い子孫が、そうであったように。

だが、任された以上、成功させるつもりで挑む。それぞれの拠点は分厚く守りを固めているが、地下から仕掛ければある程度奇襲を成功させることが出来る。後はどれくらいの被害を出させるかを、念頭に置くかなのだが。

全ての攻撃対象拠点を壊滅させるのは無理だろうと、日本武尊は判断した。

ニヒロ機構は人材が多く、留守の拠点にも歴戦の勇者が配置されているはずだ。また、ヨスガは多くの天使を有していて、連中は高い機動力で各拠点を有機的に結んでいる。どちらも手強いが、まず仕掛けるのはヨスガからだ。上級天使は手強いが、まだニヒロ機構の精密に築かれた要塞と、それに守られた幹部に比べると御しやすい。続いて、状況を見ながらニヒロ機構の拠点を一つずつ叩く。その間も主戦場の近くには偵察を多く派遣して、攻撃を仕掛けるタイミングを計り続けなければならないだろう。

どちらにしても。今のニヒロ機構とヨスガは、どちらも相当な切れ者がトップについている。下手に仕掛けるよりも、まずは状況を見極めるのが先だ。

本当に、ムスビの世界は来るのだろうか。この厳しい状況を見ていると、不安にもなる。できあがった草薙の剣は、応えてくれない。

日本武尊は、大きく嘆息した。

 

ヨスガ軍約75000が、いよいよ満を持して、各地の拠点から進発を開始した。拠点に残す防衛戦力は最小限に、ほとんど限界まで兵力を引き出した状況である。その上、軍の先頭にはトール。そして、中軍には、ヨスガの覇王にて守護、バアルがいた。

バアルの輿は、千晶が使っていたものと同じである。幅五メートル、長さは十五メートルほどもある。人力で動く大型バスという所か。持国天が和楽器で音楽を奏でさせられているのも共通している。十段に分かれたヨスガ軍の中で、三段目に位置している中軍は、最大限の速度で敵陣へ急いでいた。

軍の指揮を執っているのはバアル本人。参謀長を毘沙門天が務め、副参謀をミカエル。後は各マントラ軍の上級将校と、天使軍の七天委員会の者達が、それぞれ軍の指揮についていた。総力戦である。ただし、ミカエルはイケブクロの守備も兼ね、オルトロスが四天王寺、ミズチがカブキチョウの防衛をそれぞれ担当する。

今回、ヨスガは戦力を出し惜しみしていない。先陣にいるトールに加え、中軍後ろにはメタトロンもいる。天軍最強の戦士であり、二十メートル以上という桁違いの体躯の持ち主は、今のところ不満を漏らさず、黙々と進軍に従っている。バアルは知っていた。今だメタトロンが悩みを抱いていることを。だが、飼い慣らせぬ獣ではない。いずれ、忠実な飼い犬に仕立ててやればいいのだ。

そう。今やヨスガの戦士達は、皆バアルの可愛い飼い犬だ。トールくらいだろう、飼い慣らすことが出来ないのは。

バアルの中には、千晶の意識が残っている。というよりも、千晶の意識が拡大したものがバアルだと言っても良い。降ろしてみて分かったのだが、守護は力の固まりだ。降ろした人間の意識に同調し、その願いを叶える事だけを考える。橘千晶は、魔神バアルとなったのだ。そして、願いは今も昔も同じ。力あるものが、正当に評価される世界の創造である。

そのためには、ニヒロ機構はただ邪魔だ。そう思うだけで、バアルは全力でニヒロ機構を憎んだ。簡単なものだと、千晶の意識は嘲弄する。

所詮、神は人が作り出した存在なのだ。だから、人の想像力を超えることは出来ない。そして、人の意識も。

伝令が輿に走り寄ってきた。三メートルほどある中堅の鬼神は、バアルに恭しく傅いた。

「ご注進にございます。 我が軍の先鋒が、敵との交戦を開始しました。 敵は約10000。 味方と、互角の戦闘を展開しています」

「ほう。 ずいぶん早いな」

「罠じゃないの? 気をつけた方が良いわ」

「そうだろうな」

そばに控えているベルフェゴールに、バアルは短くそう返した。まだ国境を越えたばかりなのだ。敵の反応はせっかちすぎる。偽装退却を行って、陣の深くに味方を引きずり込むつもりではないのか。

それならば、敵の真意を見るためにも、出来るだけ行動は急いだ方がいい。バアルはそう結論した。

「周囲に斥候を放て。 第二陣は第一陣と協力して、敵を押さえよ。 中軍はこのまま急行する。 四陣以降は、敵の奇襲に備えながら、進軍を続けよ」

「御意!」

すぐに天使達が周囲に散った。

バアルは砂漠だらけの世界の神であった。豊かな土地にて奉られていた時期も長いのだが、それ以上に不毛の土地で崇められていた方が長い。だからか、砂漠のこの乾いた空気がとても心地よい。輿を担いでいる鬼神達が速度を上げた。このまま、敵陣に切り込むつもりだから、陣形も維持したままである。揺れる輿の上で、持国天がビバルディを必死に奏でている。これだけ無茶を言われても演奏から離れないと言うことは、此奴の原型は本当に音楽が好きだったのだろう。

行く輿の上で、バアルは思惑を進める。時々飛んでくる伝令は、一陣がまだ敵を突破できないことを告げていた。第二陣が加わっても、戦況は変動しない。

第一陣にいるのはトールだが、それと五分と戦うと言うことは。噂のカエデか、あるいはフラウロスだろうか。バアルはそう予想し、的中した。

何度目かの伝令が、輿にあがった。恭しく傅くと、言う。

「ご注進。 敵の指揮官が判明いたしました」

「カエデか、フラウロスであろう」

「はい。 フラウロス将軍です。 増援も加え、12000ほどの戦力で、我が軍の攻勢をはね除け続けています」

「ほう。 なかなかにやるな」

フラウロスは陣頭の猛将として、もはやボルテクス界に知らぬ者がないほどの使い手だ。とても激しい戦いぶりは有名で、トールと戦える可能性がある数少ない悪魔だと言われている。手合わせしてみたいという欲求が持ち上がって来たが、今はそれどころではない。まず、この戦いに勝たなくてはならないのだ。

「このまま陣を進めよ。 中軍も加え、一気に粉砕する。 もし敵が撤退した場合、追撃は厳禁とする」

急げとバアルが言うと、輿は更に速度を上げた。あまりにも早すぎると、戦場に着いたときに、味方が疲弊しかねない。だから、最大戦速で加速が止まる。砂漠の上を走るヨスガの精鋭達は、目を戦意でぎらつかせていた。

やがて、戦場の喚声が聞こえてきた。

 

剣を振るい、眼前の鬼神を切り捨てたフラウロスは、敵の執拗な攻撃に舌を巻いていた。今回、彼の目的は、敵の動きを見極めることである。もしも味方の領内に引きずり込めるようなら、そうする。とてもそれが望めないようなら、味方の損害を最小限に押さえつつ、一度後退する。難しい任務である。

敵は、あのトールが率いる部隊に加え、先ほど熾天使ラグエルが率いる部隊が加わってきた。どちらも方陣を敷いて、ハンマーで叩くように、交互に圧迫を加えてくる。トール自身はというと、一気に部隊を蹴散らす好機をねらっているようで、腕組みして部隊中央に控えているようだ。

フラウロスは剣を振るって血を落とすと、横から斬りかかって来た鬼神を、振り向きもせずに切り倒す。周囲は、芋でも揉むような乱戦である。もう司令部がどこかも分からないほどだが、それでも味方は大筋では秩序を保ち、組織的な攻勢によく対応していた。

槍をそろえて、数騎の敵悪魔が突進してくる。踏み込むと、残像を残して跳躍。敵の頭上を越えながら、一騎の頭を切り割った。更に着地と同時に旋回、二騎を切り伏せ、跳躍。着地したときには、再び二騎の敵がマガツヒと化していた。

激しい戦いだから、既に傷は幾つも受けている。肩に刺さった矢もその一つだ。一息に引き抜くと、放り捨てる。トールと戦う前に消耗するのは避けたいのだが、この状況、そうも言っていられない。

大型の鬼神が、鉈を叫びと共に振り下ろしてくる。遅い遅い。余裕をもって一撃を交わしながら、敵のアキレス腱を叩き斬る。周囲で、一斉に爆発。味方が攻撃術を斉射して、辺りをなぎ払ったのだ。僅かに出来た空白を見計らい、味方の堕天使が数騎、場に飛び込んできた。

「フラウロス将軍!」

「応。 何か」

「敵の増援が迫っています。 数、およそ15000!」

「そうか、ではそろそろ引き時だな」

敵の指揮官は、予想以上に切れる。兵力の逐次投入は避け、最精鋭を一気に投入して、蹴散らしに掛かってきた。まともにぶつかり合っては、兵力を消耗するばかりだ。

敵の力量は十分に見た。その上で、互角以上に戦ったのだ。今はこれで十分だと見なすべきであろう。

「退却! 一旦敵を振り切り、味方と合流する!」

「退却! 退却するぞ!」

乱戦が急速に解けていく。さっと後退したニヒロ機構軍が、防御術を得意とする悪魔達を後衛に配置。フラウロスは最後衛に立ち、トールとラグエルの動きを見ながら、撤退を支援した。

敵は気味が悪いほどにぴたりと追撃を止め、陣の再編成に移っている。もし追撃してくるようなら、じりじりと味方の領内に引きずり込んでやろうと考えていたのだが、乗ってきそうにない。トールに到っては腕組みしたまま、悠々と様子を見ている有様である。

ある程度陣を引いてから、味方の被害を調べる。損害は軽微。だが、状況は容易ならざる事がよく分かった。すぐに後方へ、斥候を飛ばす。オーソドックスな各個撃破策は使えそうにない。危険度は多少高くなるが、カエデの策を用いるしかないだろう。

フラウロスは部隊をまとめると、さっさとユウラクチョウに撤退した。戦闘は、まだ第一段階が終わったばかりだ。

砂漠を越えて、ユウラクチョウに戻ると、兵が集結を終えていた。カエデの指示通り、国会議事堂に約30000。ユウラクチョウには、フラウロス隊も含めて20000が配置されている。残りの部隊は、指定の場所に伏せていて、指示を待っている。

司令部になっている有楽町マリオンに足を運ぶ。すでに完全にニヒロ機構の建物にカスタマイズされているこのビルでは、それぞれの上級悪魔の好みに合わせて部屋がカスタマイズされており、くつろぎやすい。ただし司令部は誰かの好みが反映されることはなく、殺風景な部屋だ。

用意されているパイプ椅子に腰掛けると、すぐに回復術を得意とする悪魔が走り寄ってきた。傷を丁寧に確認しながら、回復の術を掛けていく。淡い光が体を包む中、紅茶を出してくれたニュクスに言う。

「どうだ、作戦は順調か」

「ええ、問題ないわ。 ミトラ将軍もサボタージュする様子はないし、全軍が予定通りに動いているしね」

「それは良かった。 しかしカエデの嬢ちゃんも、大胆な策を考えつく。 それを採用する氷川司令も大物だがな」

「とても将来が楽しみよね。 私としては、今のままでいてくれると嬉しいのだけれど」

ニュクスの趣味にはついて行けないので、フラウロスは聞かない事にした。紅茶を飲み干す。いつもと違って、ちょっと甘みが強い。疲労回復には良いのだが、フラウロスにはちょっと繊細すぎる味だった。

「これは、いつもと違うな」

「ええ。 サマエルが教えてくれたそうよ」

「ほう。 奴は前線で戦い続けた歴戦の勇士のイメージがあったが、意外に繊細な所があるのかも知れないな。 戦士が飲むには、ちと繊細すぎる味だ」

ぐっと紅茶を飲み干す。思ったより熱くて噴きそうになったが、我慢した。

二杯目を頼むと、丁度そのタイミングで伝令が駆け込んできた。

「ご注進。 敵が進軍を開始しています」

「うむ」

「現在、敵は主に三部隊に別れて、領内に侵攻してきています。 先鋒はトールが率い、既に国会議事堂から三十キロの地点にまで到達しました。 数はおよそ25000!」

予想よりもかなり早いが、それでも作戦の実施に支障はない。フラウロスは急いで二杯目の紅茶を飲み干したが、舌を火傷しそうになった。味は繊細でも、熱いことに代わりはないのだ。

国会議事堂は、ユウラクチョウに併設するような形で建っている。有楽町マリオンの窓からそれを見つめて、フラウロスは武運を祈った。

 

ミトラは国会議事堂の最深部で、不機嫌に包まれていた。

今まで武勲を立て続けたカエデが、全軍の指揮を執っている。それも不愉快ではあるが、認めることが出来る。確かにカエデは有能で、ミトラよりも多くの功績を挙げているからだ。

しかし我慢できないのは、国会議事堂そのものが囮となっていることだ。アマラ輪転炉が設置されているから、いざというときには氷川司令を脱出させることも難しくない。だからといって、カエデの指示通りこの重要拠点を囮にし、なおかつ自分がその指揮を任されているとなると。やはり不快感はぬぐえなかった。

国会議事堂に配置されている兵力は30000という膨大なものであり、しかも指揮を執っているのはスルト、モト、マダという錚々たる顔ぶれだ。その上総指揮にはミトラが当たることになる。兵力だけなら30000だが、実質的な戦闘能力はそれよりも更に大きいと言える。その上、念入りに構築された要塞施設であり、様々な仕掛けが敵の侵入を阻む。例え敵将がトールであっても、簡単に攻略できるものではない。

此処に兵力を蓄え、正面から敵を迎え撃てば、簡単に勝てるものを。ミトラは舌打ちして、カエデの作戦を呪った。大胆きわまりないと周囲は口を揃えていたが、ミトラから見れば下らん策である。ミトラが構築したこの国会議事堂は、鉄壁だ。何が攻め寄せようと、落ちることはないのである。

伝令が来た。かって、内閣総理大臣が座っていた席についていたミトラは、敬礼する堕天使に、鷹揚に応じる。

「何かありましたか」

「は。 カエデ将軍よりのご指示書です。 ご確認ください」

よりにもよって奴からの指示書か。周囲のモニターには、続々と展開しつつある敵の戦力が映し出されている。先鋒軍25000の少し後ろに、30000余の主力軍が現れている事は、既にミトラにも伝達されている。後衛が20000ほどいると聞いているが、例えそれが加わっても、この国会議事堂は落ちないという自信がある。余裕綽々のまま、書類を開いたミトラは、全身の血液が沸騰する音を聞いた気がした。

「な、なっ!?」

「い、いかがいたしましたか!?」

「こ、このような、このような無礼な!」

思わず書類を床にたたきつけた。すっくと立ち上がるミトラを見て、伝令の堕天使が悲鳴を上げて部屋を出て行った。思わず拳を、マホガニーの机に叩きつける。哀れな机は、木っ端微塵になり、中身もろとも辺りに散らばった。

親衛隊の堕天使達が、ばらばらと部屋に入ってくる。いずれもミトラの子飼いの悪魔達だ。

「何事ですか、ミトラ将軍!」

「何事もありますか! この手紙を読んでみなさい!」

「し、失礼します」

拳を固めて震えるミトラの前で、忌々しい手紙を堕天使が読む。その中身たるや、思い出したくもないような代物であった。

カエデは、この要塞が内部から攻略される可能性について、言及していたのだ。そしてそれが成し遂げられるとしたら、アマラ輪転炉を使う方法しかない。だから、氷川司令が脱出する時を除き、厳重にアマラ輪転を隔離すべきだと。

この要塞は、外部の攻撃だけではなく、内部の攻撃からも鉄壁の防御を誇る。あまりにもミトラの神経を逆なでする内容であった。新参の、まだ毛も生えていないようなガキは、黙って先輩の仕事を信頼していればいいのだ。

「ミトラ将軍、そ、それで、どうしましょうか」

「警備態勢に変更はなし!」

「は、はっ! そのように周知します!」

ぎりぎりと奥歯を噛む。獅子の歯は鋭く口内で噛み合わされ、恐ろしい音を立てた。

何だか、思い出すことがある。法の権威である自分の持論が、下らぬ感情的な多数派意見にひっくり返された事があったような気がする。そのような連中にとっては、国は何もかもが悪であり、マスコミの言うことは真実であった。正論で抗弁しても誰も自分には味方せず、失意のまま酒に溺れた。やがて自分のことを誰も思い出さなくなり、権威からも滑り落ちた。

そうだ。法だ。法は自分の味方でありさえすればいい。皆のことを考えて、誰よりも法を愛していた自分を裏切ったのは、感情とエゴのままに好き勝手な事ばかりしている愚民どもなのだ。連中に自律思考能力など必要ない。法の下で、ただ平等に生きていればいいのだ。ニヒロ機構の思想は、それに相応しい。ミトラにとって、楽園が来る。そのはずなのだ。

其処まで考えて、我に返る。自分は何を思い出していたのか。

噂に聞いたことがある。この世界の、悪魔の成り立ちを。今のは、人間としての記憶だろうか。そうなると、司法神としてのこの性質も、それに起因しているのか。自分とはなんと儚い生物なのか。

カエデの指示には従えない。自分の根源的な部分を、否定する命令だからだ。だが、ニヒロ機構の法の世界で、至福の時を過ごしたいという欲求も強い。頭を抱えて、ミトラは悩む。冷静になってくると、カエデの思考があながち全面的に間違っていないことも分かっては来た。

誇りと現実の間に挟まれて、ミトラは苦悶した。

 

3,大乱戦

 

続々と集結するヨスガの軍勢は、既に四万を超えていた。後続の三万五千ほどを加えば、全軍が揃う。数自体はニヒロ機構に比べると少ないが、兵の質は折り紙付きである。また、戦意も高い。どの兵士も、ヨスガの世を求めて沸き立っていた。

トールは先鋒軍の真ん中で、腕組みしている。攻撃態勢を整えたラグエルが、何度か攻撃を共に仕掛けないかと誘ってきたが、無視する。トールの仕事は、強敵の排除だ。具体的にはフラウロスとカエデがその対象となる。また、今まで静かにしていたムスビの悪魔どもも、どう動くか分からない。流石にバアルはちょっとやそっとの敵に敗れるような柔な実力ではないが、それでももし本陣を奇襲でもされたら、トールのいる意味が無くなってしまう。

トールも、ヨスガの世界は夢にまで見るほどのものだ。力だけが評価される世界。何と甘美なものか。だからそれを作り上げるために、トールは戦う。自分なりのやり方で、全ての敵を排除するのだ。

伝令が来た。

「バアル様が到着しました!」

「そうか」

「中軍も併せて、国会議事堂に攻撃を掛けるとの事です。 トール将軍も、準備をなさってください」

「分かった」

伝令を下がらせる。

中軍も併せて攻撃をするという意味が、トールには理解できた。バアル本人が、攻撃に参加すると言うことだ。残りの部隊も、間もなく到着する。これは友軍として活用するつもりなのだろう。

バアルは、正確にはその核となっている千晶は、覇王の戦いにこだわりがあるらしく、自分の戦力を積極的に活用している。部下の士気を揚げる意味もあり、己の好戦的な欲求を満たす意味もあるのだろう。トールとしては好都合だ。バアルが前線に出ることにより、仕事がしやすくなる。雑魚の悪魔では、バアルにぶつけても無為に消耗するだけだ。必ず大物が出てくる。実に叩きやすい。

進んでくる、バアルの輿が見えた。興奮して雄叫びを上げる悪魔が周囲に多い。バアルは悠然と移動式の玉座にあり、後ろでは持国天がベートーベンを和楽器で奏で続けていた。バアルが片手を揚げると、喧噪がぴたりと収まる。

指示の意味は分かった。まず、ラグエル隊と、少し遅れて到着したガブリエル隊が仕掛けるという訳だ。ラグエルは前回の失態を挽回する意図か、勇み立って兵を進めた。ラグエルの部隊は、地上部隊と航空部隊が半々という内容である。ガブリエル隊もほぼ同じだ。だからこそ、不測の事態にも対応しやすい。

徐々に、国会議事堂に、二つの部隊が迫っていく。トールも少し遅れて、進軍を開始した。最初はしずしずとした行軍だったが、やがて戦意が抑えられなくなった前衛が走り出す。それが切っ掛けとなり、全軍が怒濤となって敵要塞へと躍り掛かった。

閃光が、炸裂する。

分厚い国会議事堂の城壁の中から、メギドラオン級の術式が炸裂したのだ。前衛が分厚い防御術を連ねるが、押し返される。殆ど間をおかず、第二撃。シールドが貫通され、百体以上の悪魔が瞬時に蒸発した。

だが、その程度でひるむような弱者は、ヨスガにはいない。

キノコ雲を吹き飛ばすような勢いで、無事だった悪魔達が走り出す。だが、城壁の上に姿を現した無数の敵が、一斉に術式を放つ。更に、大石弓が唸りを上げ、巨大な矢が飛来して、戦意に滾る悪魔達を貫いた。

爆発が連鎖して、閃光が視界を灼く。

人間なら即座に黒こげになるほどの熱量の中、両軍は覇を競って喚きあう。

士気旺盛な前衛はひるまず、大きな被害を出しながらも、城壁にとりついた。同時に、数体の悪魔が瞬時に黒こげになった。高圧電流だ。どうやら城壁の前面に、高圧電流を流す仕組みが作られているらしい。

攻城用の梯子が取り付けられるが、それを待っていたように、敵が熱した油を掛けてきた。即座に火矢が放たれ、梯子はそのまま炎の塔となる。味方の攻城兵器が到着するが、城壁に向けて飛んだ石は、シールドにはじき返された。味方の魔術部隊が火力を集中するが、敵は崩れる様子がない。爆発が巻き起こっても、即座に代わりが現れ、穴を塞いだ。工兵までもが活動している節がある。城門にも火力が集まっているのだが、分厚い鉄壁は、どんな大型の攻撃術を喰らってもびくともしない。

敵ながら、なかなかの戦いぶりだ。あの高密度の火力集中と、無駄のない防衛戦術は、見覚えがある。

「城壁で指揮を執っているのは、スルトだな」

「はい。 老練の敵将にございます」

「今の大型術は、そうなると内部で準備していた儀式魔法か。 まだ俺の出番はないようだな」

スルトは体格的にはトールを若干上回るが、実力で言うとまだまだである。もちろん凡百の悪魔どもでは勝負にならないが、トールが拳を振るうほどの敵ではない。それよりも、だ。敵の本命が仕掛けてくるとしたら、そろそろだろう。

「後衛のメタトロン隊より伝令です! 奇襲を受けて、足止めされています!」

「ほう」

「更に伝令! ユウラクチョウのフラウロス隊、出撃しました! こ、これは! 我が部隊に対して、まっすぐ向かってきます!」

中軍から一軍が出て、フラウロス隊に躍り掛かったのは、その時であった。ずっと静かに控えていた、毘沙門天の部隊である。今のタイミングから言って、恐らくバアルはこれを見越していたのだろう。

トールの見るところ、毘沙門天とフラウロスの実力はほぼ互角である。そして、トールを抑えに来たと言うことは。

「西より敵軍出現! 数は、およそ18000!」

思わず、トールはそちらを振り仰いでいた。バアルのいる中軍にまっすぐ向かっているその部隊の先頭に。あまりにも食欲をそそる気配を感じたからだ。

「そうか、不肖の弟子よ。 ニヒロ機構に加わっていたか」

トールの視力が、その姿をとらえた。翼を広げて滑空しながら剣を抜く、かっての弟子。白海琴音を。今は邪神サマエルとして名をはせている弟子は、最短距離で、バアルの中軍に突っ込んでいった。

激しい戦いが巻き起こる。中軍は即座に対応を開始したが、突っ込んだ敵は最精鋭らしく、押されていた。国会議事堂を攻撃していた部隊は反転しようとしたが、猛烈な攻撃を浴びて、足止めを食らっている。無理に下がろうとしたら、追撃を受けて、一気に戦線が崩壊しかねない。

トールは側に控えていた副将に、指揮杖を放った。

「指揮は任せる。 ラグエルとガブリエルを援護しろ」

「トール将軍は」

「俺は、自分の仕事をしに向かう」

良い大義名分が出来た。強者との戦いは、トールにとって喜びとする所。

口笛を吹いて、配属されている鵬を呼ぶ。以前失ったものとは別の個体だが、今回の方が忠実である。巨大な爪が肩を掴み、空に持ち上げた。激戦の渦中にある本体へ、まっすぐ空から向かう。

前衛に、横殴りに無数の攻撃術がたたきつけられるのが、その位置からは見えた。空から、何かが現れる。

ニヒロ機構の空軍だ。

ここで、トールには目的が読めた。敵の狙いは、それぞれの部隊の連携を防ぐことだ。そして、弱い部分から各個撃破していくつもりだろう。前衛は既に崩れかけている。カエデという娘、大胆な策を練る。何重にも作り上げた陥穽に、戦意に先走ったヨスガの軍勢を見事に落とし込んだ。

だが、トールの見込んだ千晶、魔神バアルは、この程度の策には屈するまい。どう巻き返すつもりなのか、楽しみでならない。乱戦に陥っている中軍の上空に到達。既に方陣を組んで防御に入っている中軍だが、錘陣をくんだ敵は既にその中枢にまで食い込んでいる。精鋭の鬼神達を右に左に切り倒し、雄叫びを上げて突撃する琴音をとらえた。指を鳴らす。鵬は一声鳴くと、トールを乱戦のただ中に落とした。

落下しながら、トールは己を戦闘態勢に切り替える。息を大きく吸い込むと、琴音だけを見据えた。

奴だけか。他の上級悪魔はいないのか。

次の瞬間、トールの視界を、灼熱が塞いだ。

 

突入部隊の指揮を執っていたカエデは、印を組んでいた指を解き、空を見上げた。今、火術を放ったのは勿論カエデだ。そして今のは、最大級の火力で展開したマハ・ラギ・ダインである。これで、少しでも戦力を削げるといいのだが。

最前列で突破戦の指揮を執っているサマエルを、すぐに呼び戻させる。この部隊の目的は、陽動だ。まずは敵の前衛、約30000を蹴散らす。そのために、敵中軍とトールを引きつける。30000を戦闘不能に押し込めば、彼我の戦力差は倍にまで開き、まず間違いなく勝てるのだ。

空に、濛々と広がる最上級火炎魔法の余韻。その煙を突き破ってトールが姿を見せ、巨体をとどろかせて着地したとき。カエデは思わず寒気を感じた。サマエルのメギドラオンを拳で相殺したという話は聞いていたが、まさかこれほどまでとは。

周囲の堕天使達にも緊張が走る。トールの様子から見ても、効いてはいる。だが、全身から煙を上げながらも平然と立ちつくすその姿は、味方の戦意を殺ぐには十分だった。

「カエデ将軍! ト、トールが来ました!」

「かねてからの指示通りに。 繰り返しますが、絶対に、接近戦を挑んではいけません」

「は! 対トール用の戦術、予定通りに展開します!」

サマエルが戻ってくるまで、精鋭とはいえ普通の悪魔で時間を稼がなければならないのが辛いところだが、どうにかするしかない。

素早く、選抜した精鋭達が、盾を並べてトールを囲んだ。

トールが、カエデを見た。そして、まっすぐ此方に向かってくる。呼吸を整える。そして、印を切る。いつかは想定していたことだ。そして、トールをしとめることが出来れば。ヨスガの戦力は半減する。

トールが盾を並べた軍勢に突貫、そのまま拳を繰り出してくる。展開した魔術によるシールドを、ただの一撃で粉砕した。悪魔達は下がりながら、大型の者が盾を構え、他の者達は次のシールドを準備する。そのまま、真横に回り込んだ悪魔達が、トールの足をねらって、火炎系の攻撃術をたたき込んだ。トールは目を細めると、拳を一転、地面に向けてたたき込む。

大量の砂塵が吹き上がった。トールの姿が隠れる。想定済みだ。素早く後退し、陣を組み直す悪魔達の眼前に、トールが現れる。再び振るわれた拳は、まだ不十分な魔術の盾を紙のように貫通し、自分より大きな悪魔をただの一蹴りで砕いた。そのまま、奴の周囲に殺戮と破壊の嵐が吹き上げる。上級悪魔もいるのに、まるで大人と子供の差だ。

ついに、たまらず包囲が崩れた。無言で突破に掛かるトール。させじと、再び悪魔達が肉の壁を作るが、トールに蹂躙されるばかりである。不意に、包囲網の圧力が弱まる。トールが、不審に眉をひそめながらも、包囲を抜けた。

包囲の外に展開していた者達が、長時間の詠唱で練り上げた儀式攻撃術を発動させたのは、その瞬間であった。

それは、四万度を超える熱量を、瞬間的に発生させる術。その灼熱は、中型の戦術核並の破壊と死をまき散らし、辺りの空気と砂漠を蹂躙した。

キノコ雲が、戦場に出現した。

すぐに、また包囲網を再構成する。今の術は、間違いなく直撃した。伝令が、サマエルが戻ってきた旨を伝えてくる。それならば、トールは任せてしまって大丈夫だろう。如何に守護級と噂されるトールであっても、今の術の直撃を受けて、無事でいるはずがないのだ。

カエデはしばし唇に指を当てていたが、ふと、気づく。蒼白になると、周囲に指示を飛ばす。

「急いでここから離れてください! 空に!」

「は、はあ?」

「トール将軍が、同じ手を食うわけがありません! 今の包囲網は、容易な戦術では敗れないことくらい、トール将軍も悟ったはず! そうなると、次は今の煙幕を利用して、地面の下から来ます!」

カエデがそう説明すると、周りの悪魔達も、真っ青になった。司令部ともなると上級悪魔ばかりだが、それでもトールと単独で戦えると自惚れるような輩など一人も居ないのである。ましてや、今の鬼神の名にふさわしい戦いぶりを見せつけられると、その恐怖はなおさらだった。

司令部の悪魔達は、飛べる者は自力で、そうでない者は大型の飛行悪魔に掴まる。砂が盛り上がり、トールが飛び出してきたのは、直後のことだった。カエデが掴まった大きな蛇に似た飛行悪魔が、一瞬の差で捕まり掛ける。巨大な手が、迫ってくる姿は、カエデを芯から戦慄させた。至近で見ると、トールの指はカエデの首ほども太さがある。蛇の尻尾を掴み損ねたトールは舌打ちすると、着地した。

全身焼けただれているのに、まるでトールの戦意は衰えていない。

「思った以上にやるな。 小利口な子供だと思っていたが、認識を改めなければならないらしい」

「すぐに包囲網を再構築! サマエル将軍が来るまで保たせてください!」

さっと司令部が散り、カエデは自らも印を切る。親衛隊の堕天使達が周囲で壁を作るが、彼らではとてもトールを押さえることは出来ないだろう。

さっと、トールの周囲に包囲網が構築される。トールはカエデを見据えると、拳を固め、腰を落とす。来た。これこそ、トールが得意とする、必殺の突き。前の戦いでは、サマエルのメギドラオンを相殺したと聞いている。そればかりか、ヨヨギ公園を落としたときには、クー・フーリンの総力ゲイボルグをたたき落としたという。

この距離では、逃げようとしても貫かれる。以前読んだ資料では、かって人間の世界では、数メートル離れた蝋燭の火を突きで消せた格闘家は尊敬されたという話だが、そんなものとは格が違いすぎる。殺される前に殺すしかない。

サマエルはどうしている。術を必死にくみ上げながら、カエデは予想を超えていたトールの実力に、戦慄していた。

トールが、突きを放つ体勢に入った。同時に、カエデも弓の形に構えていた術を、打ち込む体勢を整える。両者が激突するかと思われた、その瞬間である。

トールの前に、滑り込んでくる影。一見人間にも見えるが、尻尾があり、背中にはコウモリを思わせる翼が。抜き身の刀をぶら下げたその影は、カエデの方を見ずに言った。

「お待たせしました。 遅れて申し訳ありません」

「ようやく来たか。 待ちかねたぞ」

「……前衛はもうすぐ突破できますが、どうしますか?」

「一度後退します」

カエデが言うと、隣に浮いていた猿の顔をした堕天使が、指揮用のラッパを吹き鳴らした。

今まで敵中軍に対して、猛烈な攻勢を仕掛けていたカエデ隊が、潮が引くようにさがり始めた。このまま押せば勝てるようにも見える状況だが、それ以上にカエデへの信頼が強いから起こる現象だ。追撃をしようにも、敵中軍は隊を整え直すのに精一杯な有様であり、カエデ隊は退きながら陣の再編を行う。

トールは舌打ちすると、サマエルに対して殴りかかる。誰もがかわせなかったトールの拳を、サマエルがふわりと跳躍してかわすのを見て、周囲から歓声が上がった。流石である。アサクサで五分に戦ったという話は嘘ではなかったのだ。

サマエルの鋭い斬撃を、トールも身を捻ってかわす。掴みに掛かるが、サマエルは空中で翼を出現させ、横滑りに逃れた。そのまま押しつけるようにして着地すると、刀を鞘に収めて、前方に跳躍。そして、再び抜刀した。

トールの拳が、真上からサマエルに落ち落とされる。サマエルは居合いの要領でそれを迎撃に掛かるが、流石にトールの一撃の方が遙かに強い。最上級の攻撃魔法が炸裂したかのように、砂漠が吹っ飛ぶ。だが、砂煙の中で、既に二人が戦っているのが、遠目からも分かった。

最後尾に残っていたカエデは、一隊をトールの監視に残すと、自らは残りを率いて、四列縦隊の長蛇陣に移動しながら再編成を実施。そのまま、疾風のように敵前衛に突撃、中央部を貫通して逆側に抜けた。

反転して振り向くカエデに呼応して、今まで敵前衛に攻撃を仕掛けていたフラウロス隊が、敵中軍を抑えに掛かる。精鋭を酷使する戦いだが、成果は上がっている。敵の前衛三万は、激しい攻撃に動揺を隠せず、少なからず戦力を消耗し続けている。ハブが噛みつくようにして、再び敵前衛に突撃を仕掛けようとしたカエデは、不意に悪寒を感じて、敵の中軍を見た。

閃光が、迸る。

フラウロス隊の一部を巻き込んで、砂漠にキノコ雲が上がった。

カエデの側に、親衛隊の一騎が飛び寄ってくる。彼は右腕に、大きな火傷を負っていた。

「伝令です! バアルによる、大威力攻撃が来ました! フラウロス隊前衛に大きな被害が出ています!」

流石は守護だ。ただの一発で、これだけの損害を出すことになるとは。

救援に向かいたいところだが、すぐには動けない。増援を出すように指示すると、カエデは蛇の悪魔を叱咤して、自らも敵の前衛に、再び突破戦を仕掛けた。

 

バアルの周囲で、歓声が上がっていた。猛攻に辟易していた所に、バアルの目から放たれた光線が砂漠を横一線になぎ払い、爆発。敵の前衛の一部は、文字通り塵とかして吹き飛んだのである。

魔術によるシールドなど、何の役にも立たなかった。守護の圧倒的な力に、鬼神達は一気に沸き立った。混乱するフラウロス隊に、一気に攻勢に出る。フラウロス隊はそれに対し、退きながら陣形を立て直し、逆撃の体勢に出ようとしていた。

「バアル様! 今一度、裁きの一撃を!」

興奮して叫く鬼神を、バアルは一瞥しただけだった。

そもそも、バアルは自分も加わって、一気に国会議事堂の壁を崩すつもりだった。それが現状はどうだ。前衛は敵の十字砲火に引きずり込まれ、中央突破を仕掛けられて、被害ばかりを増やしている。そしてバアルもトールも、敵の最精鋭に引きつけられて、身動きが取れない有様だ。

もう一撃、フラウロス隊に叩き込んでから前に出るか。そう考えたのは事実だが、しかし思いとどまった。それこそが、敵の狙いかも知れないからだ。守護の力も無限ではない。このまま大威力の攻撃を連続で放てば、力も枯渇する。もちろん大量にマガツヒは持ってきてあるが、これは城壁を潰すために用意してきたものだ。もしこれをフラウロス隊との戦いで使い切ると、ニヒロ機構が守護を降ろした時、不利になる可能性がある。かといって、力を出し惜しみしていても、敵の分厚い防衛網を突破できないだろう。

少し戦ってみて分かったが、ニヒロ機構軍を今率いているカエデの用兵手腕は味方よりも数段上だ。これほど見事に各隊を分断し、戦力の集中運用で、確実に兵力を削ぎに掛かっている。事実、それも成功しつつある。大規模な戦略的転換を図らなければならない状況に来ていると、バアルは判断した。

「中軍は、このままユウラクチョウに向かうと見せかけて、フラウロス隊を集中的に叩く」

「は。 全軍、方向を転換! ユウラクチョウへ向かえ!」

バアルの指示は、絶対である。周囲の鬼神が呼応し、すぐに伝令が彼方此方に飛ぶ。敵の最精鋭であるフラウロス隊に決定的な打撃を与えれば、だいぶ動きやすくなる。

そのまま、猛烈な勢いで、中軍はユウラクチョウへ向かう。フラウロス隊は陣を三角形に編成すると、それを阻止すべく横から突入を仕掛けてきた。引っかかった。バアルは指揮杖を一振りし、それに呼応して指示通り兵士達が動き出す。

怒濤のように、フラウロス隊に、数で勝る中軍が襲いかかった。

 

フラウロスは、バアルが直接指揮を執りだしてからの、ヨスガ軍の見事な動きに舌を巻いていた。突入を仕掛けようとした瞬間、獣用の罠が閉じるような勢いで、進軍していた部隊が、一斉に襲いかかってきたのである。

元々、敵の中軍の方が数が多い。もし包囲を敷かれたら、さっきのバアルの一撃がまた来るだろう。そうなれば部隊の損害は致命傷にまで達し、フラウロス自身もどうなるかは分からない。

「フラウロス将軍!」

「うろたえるな! 全軍、後退すると見せかけ、敵の一部を強行突破する! 全軍、俺に続け!」

「応っ!」

フラウロス周囲の悪魔達が、各々の武器を手にとって、喚声を上げる。皆、フラウロスと共に歴戦を生き抜いてきた強者達だ。フラウロスは愛剣を引き抜くと、自ら最前衛に立って、怒濤のごとく押し寄せる敵に真っ向からぶつかっていった。

強さも士気も、さっきとは段違いに思えた。矢が肩に刺さる。剣が足を、腕を掠める。疾風のように走り回りながら、フラウロスはめぼしい敵を見つけては、斬り伏せ、首を飛ばし、胴を薙いだ。部下達も闘志を燃やしてそれに続き、辺りは壮絶な肉弾戦の展示場と化す。

包囲をしきはじめていた、薄い敵陣の一角を、機先を制して突破。フラウロスは退却戦を副将に任せると、自身最精鋭と共にきびすを返す。そして、味方を逃がすべく最精鋭と共に、再び包囲網を造ろうとしている敵軍に突っ込んだ。そのまま、敵の中で縦横に暴れ回る。包囲されている味方の部隊を見つけては、猛烈な突入を仕掛けて、敵を斬る。しかし、如何にフラウロスとて限界はある。四度目の突撃を仕掛けた時、五百ほどの味方を救出した直後。退却しようとしたところで、敵の師団長らしい鬼神と正面から出くわしたのである。

まだ、味方は四分の一ほどが、包囲の中に取り残されている。カエデ隊は勢いを盛り返した敵前衛の希望を砕くかのように、再度蹂躙していたが、まだ此方には来られない。敵の鬼神は身長四メートル半を超えており、体格だけならトールとも遜色がなかった。全身は分厚い筋肉の塊で、顔は四角く、非常に厳つい。

その全身にも匹敵する長大な金棒を振り上げると、敵将は名乗りを上げた。目には、強い信念の光が伺える。一番手強いタイプの相手だ。

「ヨスガ軍の将、鬼神ニオウ」

「ニヒロ機構将官、堕天使フラウロスだ」

「貴様が名高きフラウロスか。 貴様の首を取り、このニオウの誇りとせん」

フラウロスは、乱れている呼吸を整えながら、味方の様子を見た。激しい戦いの中、確実に数を減らしつつある。特にまだ包囲を抜けていない四分の一は、何としても助けたい。既にバアルの放った閃光と激しい戦闘で被害は一割を超えているが、それでも生還者は少しでも増やしたいと思うのが、指揮官としての性だった。

辛い立場である。カエデ隊が敵中軍に再突入を仕掛けるまで、もう少し敵の注意を引かなければならない。守護であるバアルが手強いのは、最初から分かりきっている。被害がある程度出るのも、承知の上だ。敵の前衛を完全に潰すことが出来れば、後は余裕を持って戦うことが出来る。それと、味方の生存を両立もさせたい。

それらを成し遂げるには、眼前の強敵を屠る事が大前提であった。

じりじりと、間合いを詰める。辺りの死闘が嘘のように、全てがクリアになっていく。やがて、至近にいるニオウだけが見えてきた。大上段に構えを採るニオウ。マントラ軍もそうであったが、ヨスガの強者も、圧倒的な力に対する自負と、自信が目立つ。

心理戦というものもあるが、こういう状態になると、あまり意味を成さない。後は相手を如何に上回るかだ。一瞬で、勝負はつく。大きく息を吐くと、フラウロスは先に仕掛けた。

ジグザグに砂漠を走り、間合いを蹂躙。ニオウは、動かない。そして、間合いに入った瞬間に、金棒を振り下ろしてきた。

戦闘が続く砂漠で、また一つ、激しい光が瞬いた。

フラウロスが、呻いて肘を突く。肩に一撃を受けていた。後ろでは、一文字に腹を薙がれたニオウが倒れ、マガツヒと化して消える。立ち上がると、フラウロスは追いついてきた味方に指示。何とか残りの味方を救い出すことに成功した。

だが、今の一瞬で消耗した力は大きかった。攻勢を控えざるを得ない。その隙に、バアルが少数の精鋭と共に、前衛に向かったのが見えた。支給されたマガツヒを飲み干すと、フラウロスは回復術を周囲に掛けさせる。まだ、頑張らなければならない。

「バアルが前衛に合流したことを、国会議事堂に知らせろ。 我が軍は、引き続き毘沙門天を含む中軍を抑える。 トールとの戦闘も予想される。 気を抜くな!」

「応ッ!」

周囲の部下達が、武具を振り上げて応える。再び秩序を取り戻したフラウロス隊は、方陣を敷いた敵中軍に、突撃を開始した。

 

ブリュンヒルドは、天かける愛馬の手綱を繰って、戦い続けていた。追いすがる天使達を引き離しながら、ブリュンヒルドは再び剣を振るって、後続の味方達に指示を出す。何度か目の、急降下攻撃を仕掛けるのだ。後方から、無数に攻撃術が飛んでくる。しかし、狙いがどれも甘い。左右に飛びながら、かわすのは難しくなかった。

ブリュンヒルドの愛馬は、この間の対アラディア戦で大けがをしたが、すぐに戦場に復帰した。あまり戦闘を好む性格ではないのだが、ブリュンヒルドには絶対の信頼を寄せていて、今も戦いに出ることに躊躇しない。すまないなと、いつも思う。愛馬の力がなければ、ブリュンヒルドなど、実力の三割も発揮できないだろう。

国会議事堂の猛烈な火力と防壁に辟易し、更にカエデ隊による突撃をいなしきれず、敵前衛は崩れかけている。バアルの強烈な実力に、かろうじて士気が支えられている状況だ。此処を崩すには、大物を仕留めなければなるまい。味方がくさび形の突撃陣をくみ上げたことを確認したブリュンヒルドは、声を張り上げた。

「突撃!」

「突撃する!」

急降下開始。邪魔をしようと立ちはだかったソロネを、一刀のもとに斬り捨てる。軍の先頭に立ったブリュンヒルドは、嵐のように打ち付けられる対空砲火に手綱を細かく動かして対応しながら、時々剣で術を弾きさえした。アマラ経絡の出身悪魔であるショクインのマガツヒを喰らってから、以前よりも更に勘が冴えている。見る間に、敵陣が見えてきた。

歯を食いしばる敵の姿が見えた。剣を振るって、首を飛ばす。一人、二人、三人。連続して切り捨てながら、大物を探す。強い殺気。素早く手綱を動かすが、間に合わない。獲物に飢えた虎のように飛来した火球が、ブリュンヒルドを正面から直撃した。

全身を灼く灼熱と、視界を覆う閃光。それを切り破ると、ブリュンヒルドは見た。いた。大物だ。

もと七天委員会の一柱、ラグエル。巨大な目玉に似たあの天使が、今の火術を放ったに間違いなかった。急降下した味方が敵を踏みにじる中、ブリュンヒルドは名乗りを上げてラグエルに挑み掛かる。ラグエルは触手から、無数の術を放ってきた。稲妻が足を灼く。火球が、腕を掠める。胸当てに、氷の固まりがぶつかって、思わずブリュンヒルドはのけぞるが、強引に体勢を立て直す。

愛馬が全力で駆ける。口から垂れる血を、手の甲で強引に拭うと、シールドを出現させたラグエルに、ブリュンヒルドは斬りかかった。

交錯は、一瞬。勝負も、それでついた。

愛馬が駆けながら、悲痛ないななきをあげる。今の交錯で、ブリュンヒルドの脇腹と、左腕が、深々抉られていた。愛馬の首にも、三カ所、鋭い傷がある。追いすがる対空砲火を避けながら、一旦上空へ。追いついてきた副官が、蒼白になった。古くから空軍の士官をしている堕天使だ。鴉に姿は似ているが、額にも喉にも目がある。

「ブリュンヒルド将軍!」

「私は、大丈夫だ」

目が霞む。ラグエルは、斬った。無念の声を上げながら、マガツヒとなって散るのは確認した。だが、ブリュンヒルドもただではすまなかった。愛馬もである。流石はもと七天委員会。ただではやられないと言うことか。

「此方の指揮はお任せください。 一旦国会議事堂へ。 敵もラグエルを失い、再編成が必要なはずです」

「このままでは、足手まといか。 分かった、任せる。 隙があれば仕掛けろ。 ただし、大物の悪魔は無理に倒そうとするな。 それに、まだ敵の前衛には、天使ガブリエルがいる。 奴は手強いぞ」

「分かっております」

他にも幾つかを指示すると、ブリュンヒルドは速度を落とし始めている愛馬に心中謝りながら、降下に入った。それと同時に、敵空軍も一旦引き始める。負傷している味方が、多くブリュンヒルドに続いた。

国会議事堂屋上に着陸する。上級悪魔が何体か、連続して対空砲火を放っている横への着陸である。こんな状況だから、誤爆もある。戦場では、いつ何があるか分からない。愛馬が地面に降りると、膝を折った。すぐに救護班が駆けつけてくる。医療室にはいると、鎧を脱ぐ。軽い鎧だが、傷ついた体では重く感じる。

傷は、思ったよりも遙かに重かった。丁度来ていたニュクスが眉をひそめる。カエデに次ぐ魔術の使い手である彼女は、今回は遊撃班だ。今は部隊を指揮しながら、時々医療の手助けもしてくれている。強力な回復術を掛け、ラグエルの触手に含まれていた複雑な毒素を取り除きながら、ニュクスはぼやく。

「これは酷い。 いったい何と斬り合ったの?」

「ラグエルだ。 何とか倒したが、やはり簡単には勝てなかった」

「それはおめでとう。 貴方は武勲も多いけれど、それ以上に怪我が多いわねえ。 そういう戦い方だって言うのは分かっているけれど、死んだらカエデが悲しむわよ」

「……そう、だな」

最近、ブリュンヒルドにも、フラウロスが言う事が分かってきた。ニヒロの次の世代を担うカエデをもり立てていきたい。だが、カエデはまだ幼いところもある。出来るだけ、心に傷は作りたくなかった。

絶対安静を命じられたので、寝台に入って、其処から指揮を執ることにした。

国会議事堂が揺れる。何があったのかと身を起こそうとするが、ニュクスに止められた。伝令が来た。

「ブリュンヒルド将軍! ニュクス将軍!」

「どうした」

「来ました! バアルです! 奴が、前線に出てきました!」

ついに、来た。正念場だ。フラウロスは良く押さえてくれていたが、限界が来るのは分かっていた。

ミトラが作ったこの要塞が、いったい何処まで保つか。そして、氷川司令は、いつ守護を降ろし終わるのか。

先ほどから、氷川司令は、ずっと国会議事堂の深部に籠もっている。其処には膨大なマガツヒがあって、守護を降ろすつもりなのは明らかだ。氷川司令なら必ずや最強の守護を降ろせるはずだが、しかし。バアルの実力は桁違いだと聞いている。何処まで味方が持ちこたえられるか。

もう一つ、強い揺れが来る。出ようとするが、ニュクスに止められる。

今は、味方を信じるしかなかった。

 

シブヤの司令室は、喧噪に包まれていた。

ニヒロ機構の重要拠点の一つであるシブヤは、情報の集積地点である。分厚い防壁と、非常にねばり強い用兵をすることで知られるミジャグジさまが詰めており、今も戦況次第では援軍を出すべく、逐一監視を続けていた。もちろん、いざというときには、氷川司令が逃げてくるのもシブヤだ。籠城のための準備は、既に整えてある。

最初に異変に気づいたのは、ミジャグジさまだった。無数に並ぶモニターの一つに、長い首を伸ばして見入る。オペレーターをしている堕天使が、不安げに言った。

「如何なさいましたか」

「妙な反応があるの。 地下の方ぢゃが」

「念のため、偵察の部隊を派遣しますか」

以前、スペクターにデカラビアを殺されてから、シブヤは対地下、対アマラ経路の警備を万全にしている。今、シブヤにいる兵は五千弱だが、住民はその十四倍強で、予備役兵として二割ほどを呼ぶことが可能だ。勿論、そのような事態は避けたい。

常駐の警備兵達は、むろん上級の敵性悪魔が現れた場合の訓練も受けている。しばし考え込んでから、ミジャグジさまは命じた。

「そうぢゃの。 まず、警備の段階を、一段落引き上げぢゃ。 それと、調査のために、警備隊を四個小隊、地下に派遣……」

言い終わる前に、大きな衝撃が来た。モニターが、そろいもそろって異常な数値をたたき出す。どうやら、地下から何者か、それも確実に上級悪魔以上の実力者が現れたのは、間違いないようだった。

「命令訂正。 全軍、第一級警備体制。 援軍は期待できんからの。 わしらだけで片づけるぞ。 特務中隊を、地下に派遣。 わしも出る準備ぢゃ」

「は! 総員、戦闘態勢に移行!」

「特務中隊、地下に派遣します!」

彼方此方のブロックが、即座に閉鎖される。何者かが現れたらしい地下ブロックからも、続々と情報が届き始めた。すぐに交戦が始まる。非戦闘員の避難も、並行して進められる。だが、状況は著しく悪い。

「第二小隊、通信途絶!」

「第三小隊、何者かと交戦中! こ、これは! 歯が立ちません!」

「魔力量、きわめて大! これは、おそらく、アマラ経絡から上ってきた悪魔だと思われます!」

「確か、ムスビとか名乗っておる奴らぢゃな。 これはやっかいな相手が現れたものよの」

ミジャグジさまは舌なめずりすると、いざというときに備えて、自分が巻き付いている柱の状態を確認した。

轟音。司令室まで、揺れが来た。モニターに、敵の悪魔が一瞬だけ映って消える。魚のような姿をしている、不気味な悪魔であった。既に三個以上の中隊が壊滅。更に状況が加速度的に悪くなっていく。防衛に当たる部隊はどれも歯が立たず、どんどん戦線が後退していった。

勿論、普段であれば支え切れただろう。だが、今は主力がユウラクチョウに出払ってしまっている状況だ。無差別殺戮をくい止めることは出来ず、悲痛な報告ばかりが届いてくる。

そして、敵が、ついに地上に出た。

「第四中隊、戦線崩壊の状況です! 支え切れません!」

「第五中隊、避難を誘導中に、敵に接触! 大きな被害が出ています!」

「今、シブヤにいる上級悪魔を、全員集めい」

そういうと、さっとオペレーター達が青ざめる。

ミジャグジさまは、集まってきた悪魔達を従えると、司令室を出る。此処は、いかなる手を用いても、敵を屠らなければならなかった。

 

攻撃は成功だな。口中でゼウスが呟く。

ダゴンが攻め込んだシブヤに続き、オズが攻め入ったカブキチョウ、そしてこれからゼウスが仕掛ける四天王寺でも、同じようにムスビの悪魔の襲撃が行われている。ゼウスのみ、配下を先に派遣しているが、他は全員が直接乗り込んでいる。襲撃のタイミングは完璧。それぞれの街は、援軍が期待できない状況で、ムスビの強力な悪魔達を相手にすることになり、大混乱に陥った。

だが、まだ、祭りは始まったばかりであった。これから、本格的な攻撃が始まるのである。まずは、氷川を殺す。その次はバアル。

皆、死んでしまえ。ゼウスはそう願っている。そのためには、この作戦で、どちらの有力勢力も、皆死に絶えてしまえばいい。コトワリが開かれた今、もうノアは邪魔だ。生き残るのは、ゼウス一人でいいのだ。

ゼウスは、一歩を踏み出す。四天王寺は、もう目と鼻の先であった。

 

3,国会議事堂の死闘

 

砂丘の陰に隠れて、ヨスガとニヒロ機構の死闘を見ていた秀一は、ついにバアルが前線に出たことに気づいた。僅かな精鋭を率いて、乱戦の中無理矢理押し込んだらしい。守護の圧倒的な実力と、好戦的な性格があわさって為せる技だ。

この好戦性、千晶としての人格が強く残っているのかもしれないと、秀一は思った。フォルネウスが、地面すれすれに浮きながら、ぼやく。彼の背中には、クロトが寝こけて、よだれを流していた。

「それで、秀一ちゃん。 どうやって攻め込むつもりじゃ」

「これだけの大乱戦だ、必ず隙が出来る。 そこにつけ込む」

「出来なかったら?」

「ニヒロ機構の将官は無能じゃない。 如何にバアルの実力が圧倒的でも、必ず反撃に転じるはずだ。 其処を狙う」

少々汚いやり方かもしれないが、今は手段を選んではいられない。かなり力は付いてきているが、数千の敵に襲われたらどうしようもない。あのトールでも、だ。仮にトールが圧倒的な武勇で敵を蹂躙できたとしても、それは後方に味方の支援があるからであって、彼個人で敵軍を全滅させるのは不可能である。常識離れしているトールだが、彼に迫る実力の悪魔は、それなりの数がいるのだ。

バアルの放ったらしい光が、分厚い国会議事堂の城壁を直撃した。秀一の所まで、猛烈な熱波と揺れが来る。ノアも考えると、あのような存在が更に増えることは望ましくない。氷川が守護を降ろすのは、絶対に止めなければならない。

「ね、シューイチ」

「どうした」

「いいんだね。 シューイチの価値からすれば、他のコトワリは間違ってるけど、それは他のコトワリから見たシューイチも同じだよ。 この世界の法則に従って、自分の思想を通すって事は、他を皆殺しにするって事。 覚悟は、出来てるよね」

「ああ。 アサクサの惨状を見て、決意は固まった。 殺した方も、殺された方も、どちらもあまりにも愚かすぎる。 新しい世界が出来るとしても、あんな真似は二度とさせない。 そのためには、俺に出来ることを、今は精一杯やっておきたいんだ」

体は悪魔だが、思考はまだ人間のつもりだ。人間的な欲求は殆ど無くなった。何も食べなくても平気だし、睡眠も殆ど必要ない。性欲は殆ど消滅してしまったし、休憩が欲しいとも思わない。だが、それでも、秀一は人間として、このボルテクス界で出来ることをしておきたいのだ。

バアルに向けて、無数の火線が国会議事堂から叩きつけられる。爆発が連鎖するが、数十秒後、何もなかったかのようにバアルから反撃。光が迸ったと思うと、壁の一部が吹っ飛んだ。

国会議事堂は徐々に対抗火力を落としてきており、逆にヨスガ軍は攻勢を強めてきていた。実際には、バアル一騎で戦況をひっくり返しているわけではない。火力は確かに恐ろしく高いが、それ以上にそれを見ている悪魔達の士気が旺盛になっている。

全体的に、激しい乱戦が続いているが、戦況はニヒロ機構有利から、徐々に互角に近付きつつある。そろそろ、何か事件があれば、乗り込む潮時だなと、秀一は思った。

その機会は、意外に早く来た。

不意に、ヨスガ軍の攻勢が緩んだのである。同時に、ニヒロ機構軍も、反撃の手を止めた。何か、起こったのだ。秀一は立ち上がった。

「よし、行くぞ」

「混乱を突いての、正面突破じゃな」

「ああ。 ニーズヘッグ、全力で壁に向けて突進してくれ。 さっき、バアルが開けた穴が幾つかある。 其処から乗り込む」

「ラジャ」

危ないのは分かっているが、カズコとクロトは連れて行くしかない。二人の護衛は、サルタヒコに任せる事になる。アメノウズメは中衛で、神楽舞を踊って全員を支援。サナが後衛に立ち、バックアップ。前衛のリコと秀一が、全ての敵を蹴散らして、氷川を目指す。中に入ってからは、完全に状況が未知数だ。ある程度力づくでの突破も考えなければならない。

フラウロスが出てきたら、手こずりそうだと秀一は思った。また、場合によっては守護との交戦もあり得る。だが、それでも退く訳にはいかない。守護とは、いずれ刃を交えなければならないのだ。

ニーズヘッグが、砂漠の上で巨体を滑らせ始める。もう、退くことは出来ない。

国会議事堂を囲んでいる鬼神達が、此方に気付いた。ニーズヘッグは速度を落とさず、全力で包囲網の外側から突っ込む。巨体が、鬼神達を人形のように蹴散らした。そして秀一も、体をしっかりニーズヘッグの上で固定すると、周囲をなぎ払うように螺旋の蛇を放つ。

シールドもない状態で、螺旋の蛇のエネルギーが荒れ狂う。直撃を受けた悪魔が多数蒸発し、マガツヒとなって散った。カズコが、すぐにマガツヒを蓄えた瓶を差し出してくる。素早く蓋を開けると、口に入れた。

爆走するニーズヘッグ。飛び掛かってきた鬼神がいるが、リコが無言で、正面から斬り倒す。ヤクシニーであるリコに斬り倒された鬼神は、何が起こったか分からないと顔に書きながら、消えていった。

もし、防衛体制を整えている敵だったら、此処まで簡単に食い込めなかっただろう。シールドを張られて、一撃ではとても食い破ることは出来なかった。再び、螺旋の蛇を叩き込む。目からはなった光線が、ニーズヘッグの前に立ちはだかろうとする悪魔達を、無情に焼き尽くした。三撃目。迸った魔力の蛇が、キノコ雲を作り上げる。威力は、初めて覚えた時とは比較にならないほどに上がっている。

煙を突破し、ニーズヘッグが躍り出る。混乱する敵は、まだまともな迎撃態勢を整えていない。無数の攻撃術が飛んでくるが、耐えられないほどではない。サルタヒコが剣を振るって火球を弾いているのを横目に、秀一は四撃目の準備にはいる。風を操って、飛んできた四メートルほどもある氷の槍を吹き飛ばしたリコが、叫んだ。

「見えてきたッスよ!」

「よし、ニーズヘッグ、左の穴が深そうだ。 其処から頼む」

「ラジャ。 オレハ、ドウスル?」

「今回は一緒に来てくれ。 少し狭いかも知れないが、派手に暴れて目を引きつけて欲しい。 危ないと思ったら、床を破って地下に逃げ込むんだ」

カズコの頭を抑えながら、秀一は指示。怖がって頭を抱えて震えているクロトは、サルタヒコに任せる。そのまま、壁の罅に向けて、ニーズヘッグが突撃を仕掛けた。強烈な衝撃が、全身を襲う。飛んできたコンクリの固まりをはじき返しながら、秀一は国会議事堂への突入を果たした。

内部は思ったよりも広い。天井にはクラシックな照明がぶら下げられていて、壁は白磁。床は赤い絨毯が敷かれていたが、激しい戦火で所々燃え、或いは焦げている。通路は曲がりくねっていて、強力な悪魔の気配が彼方此方にあった。ニーズヘッグを追うようにして、ヨスガの悪魔達が乗り込んでくる。ニーズヘッグが尻尾を振るって、それのいくらかをはじき飛ばす。ふと、危険を感じた秀一は、叫ぶ。

「ニーズヘッグ、全力で前に進むんだ!」

怪訝そうに通路に潜り込んだニーズヘッグが、無数の足を動かして前進。

次の瞬間、天井が落ちてきた。

ヨスガの悪魔達は、何が起こったのか分からないうちに、プレスされてしまった。悲鳴も上がらない。膨大なマガツヒが、床と壁の間から漏れてくる。床に這い蹲って、平然とそれを口にするサナを見て、秀一は歎息した。

「流石だな」

「ありがと。 シューイチも食べる?」

「いや、それどころでは無さそうだ」

サナも、それを聞き終える前に立ち上がっていた。

十体の中級、上級悪魔と共に、天井に着くほどの巨大な悪魔が現れる。四本の腕を持つ、巨大な口が印象的な悪魔だ。荒々しい容姿だが、邪悪な雰囲気は感じない。

「今の罠をかわしたか。 結構賢い奴だな」

「ニヒロ機構の、幹部悪魔か」

「ああ、俺はニヒロ機構将官の邪神マダ。 お前、その姿、噂に聞く人修羅か?」

「噂になっているかは分からないが、俺はそう呼ばれている」

会話をしながらも、マダは構えを崩さない。徒手空拳で戦うタイプのようだが、その実力は相当なものなのだと一目で分かる。マダの噂は、琴音からも聞いていた。酒を愛する気の良い巨漢だという。ギンザの近くの廃墟に暮らしていた時、随分クレガの飲むお酒を分けて貰ったのだそうだ。

改めて、戦う相手が必ずしも悪ではない事を思い知らされる。だが、殺らなければならなかった。迷いは一瞬後の死につながるのである。

左右の通路が閉じる。どうやら、戦闘は回避できないらしい。マダは此処で初めて戦ったのではないらしく、体の彼方此方を負傷していた。精鋭部隊で罠を使いながら侵入者を潰して回っていたのであろう。

「突破に手間取ると、増援が来るぞ。 速攻で片付ける」

「ああ、俺もバアルに手こずってるスルトの爺さんの援護に行きたいんでな。 一気に片付けさせて貰うぜ」

サルタヒコに、前に出て貰う。カズコとクロトの守りが無くなるが、その代わり一瞬で蹴りを着けるための布陣だ。マダは此方の覚悟を見て取ったか、大きな耳まで裂けた口を開けて笑った。

「良い意気だぜ! 肉を切らせて骨を断つか! それでこそ、名高い人修羅だな!」

「行くぞ」

「応っ! 来い!」

マダが、直径五十センチほどの火球を口から吹きかけてくる。秀一も、瞬時に炎を吹いて迎撃。中間点で、火球は互いの熱に引かれて爆裂した。降りかかる火の粉。辺りを照らす破壊の光。秀一は躊躇無く爆発の中に飛び込み、拳を繰り出す。爆発を突き破って、マダの顔が見えた。拳は顔面に炸裂。同時に、腹部に衝撃。体が浮き上がる感触を受けた。どうやら向こうも、同じように煙の中に拳を叩き込んでいたらしい。

吹っ飛ばされた勢いを利用して、飛び下がって距離を取る。一回転して、床を削りながら止まった。マダも同じようにして止まった。同時に、煙を突き破って、次々上級悪魔が躍り掛かってきた。流石に精鋭揃いで、爆発をまるで意に介していない。

即応したサナが雷撃を放ち、一騎をたたき落とす。リコが、鋭い爪を突き込んできた虎に似た悪魔を、体で止めるようにして押さえ込む。丸い盾を持った頭が三つある悪魔は、サルタヒコが押さえ込みに掛かる。牛、馬、人間の頭を持つ悪魔は、鼻息荒く、剣を振るってサルタヒコを斬り伏せようとするが、冷静沈着な迎撃を受けて、見る間に首の一つを刎ねられた。

「最初から飛ばすわよ」

手を叩くと、アメノウズメが舞い始めた。リコが気合いの声と共に、虎を投げ飛ばす。受け身を綺麗に採った虎に、二体の悪魔が加勢に掛かった。更に、サルタヒコにも、二騎が加勢。ニーズヘッグには、真横から現れた大きな象の悪魔が、鋭い声を上げながら突進し、蜂に似た悪魔がフォルネウスに飛び掛かる。

マダが、胸の前で拳を合わせる。全力で戦う時に、拳法家が行う動作だと、秀一はどこかで聞いたことがあった。そうだ、琴音と雑談をしている時に聞いたのだ。

秀一も、それに合わせた。眼前のこの悪魔には、そうする価値があると思ったからだ。左腕に刃を出現させる。マダは四本の腕を回すように動かしながら、突っ込んできた。

「おらああっ!」

「……おおぉっ!」

最初に来たのは、充分に引きつけてからの正拳。右上の拳から放たれたそれは、秀一の髪を数本散らす。下に潜り込んだ秀一は、右下の拳が抉りあげてくるのを見た。横に飛び退ってかわすと、今度は引きつけてからの蹴りである。壁に左手をつくと、足を思い切り踏みしめる。

そして、蹴りを全身で受け止めた。

床に、壁に罅が入る。腕の、足の骨が軋みを揚げた。肌を貫通して、内臓にまで衝撃が来た。

間髪入れずに、マダが右の腕を二本とも、振り下ろしてきた。左腕を揚げて、刃で受け止める。鈍い音と共に、刃が打ち砕けた。それで、悟る、妙な手応えだと思ったが、マダは直撃を体質か、或いは体の表面に張り巡らせた魔力の盾か何かで弾いている。今までの錬磨によって、それでも打撃を通しているが、これを貫くには方法は一つしかない。

足を掴んだままの右腕に、魔力を集中。そして、冷気を、直接流し込んだ。

マダの足が、内側から発生した氷の槍によって、ズタズタに砕かれる。流石に顔をしかめて、体勢を崩すマダ。秀一は強引にその懐に滑り込むと、跳躍。大きな口の中に、顔を突っ込んだ。

そして、全開で、目より螺旋の蛇を叩き込んだのである。

荒れ狂う蛇は、マダの頭部を貫通、胸の辺りまで綺麗に吹き飛ばした。そのまま勢いを殺さず、通路の遙か向こうにまでその破壊の跡を拡げる。秀一は、マダに心中で詫びながら、着地。瞬時にマガツヒと化したその体を、吸い込んだ。

周囲の悪魔達は蒼白になり、逃げに掛かっていた。サナの雷撃が一騎を灼くが、他の者達は脇目もふらずに逃げ、通路の向こうへ姿を隠す。秀一は、膝を突いた。戦いを焦ったこともある。今の負担は大きかった。

「サナ、出来るだけ大きな回復の術を」

「分かった! シューイチ、今の、凄かった! 流石僕が選んだだけはあるね!」

「……」

喜んでいるサナから、秀一は視線を逸らした。

勝った。だが、ニヒロ機構のために、喜んで散っていったであろうマダの事を考えると、素直に喜べなかった。

幸いにもと言うべきなのか、マダはかなり秀一と相性が良さそうで、そのまま再生できそうである。だが、今すぐそうする気にはならなかった。いくら何でも、即座にニヒロ機構の悪魔達と戦わせるのは気の毒すぎる。サナの回復の光に包まれながら、顔を上げて、見た。

壁を数枚貫通した破壊の跡が、かなり先まで広がっていた。この様子では、トラップも全てアウトだろう。

カズコが、無言でマガツヒの瓶を差し出してきた。口にすると、先を急ぐ。怯えて隅で震えていたクロトの目に、少しずつ正気が戻り始めているのを、秀一は見た。かっての仲間が死んだのである。無理もない話かも知れない。

首に突き刺さっていた、マダの牙を抜く。さっき無理に頭を突っ込んだ時に、折れ刺さったのだ。かなり深く刺さっていたのに、抜いた時は痛くなかった。手足が動くようになったことを確認すると、秀一は前進を指示。どのみち、退路はふさがれている。無理にでも、突破する他無かった。

 

国会議事堂正面に陣取っていたスルトは、見た。ついに、視界の中にまで歩を進めてきた、バアルの姿を。周囲を精鋭の悪魔達で固め、自身は輿の上に置かれた、悪趣味に飾り立てた玉座に腰掛けている。

輿には、多数の瓶が設置されているが、スルトには確認できた。なるほど、流石のバアルも、あれほどの大型術は、連発できないと言うことだ。失った分はマガツヒから補給して、すぐに次を放つようにしている訳だ。そして守護であるため、連発のリスクはある程度避けられていると言うことなのだろう。

中軍とバアルが攻めに加わるという最悪の事態は回避できたものの、状況はあまり良くない。フラウロスと死闘を繰り返している敵中軍の戦況は、ほぼ五分。前衛は完全に押し返されているし、後衛はいつまでメタトロンを抑えられるか分からない。その上、シブヤではムスビの悪魔による襲撃があったという。今ミジャグジさまが対応中だが、援軍は一切期待できない。

ただ、カエデ隊によるたびたびの波状攻撃によって、敵の前衛は大きな被害を受けていて、組織的な攻撃は鈍りがちなのが救いだ。カエデ隊はフラウロス隊の援護をしたり、前衛に突っ込んでいったり、縦横無尽の活躍を続けている。味方もその猛攻に勇気づけられて、戦線の崩壊を免れ、何とか支え続けていた。

国会議事堂の中から、伝令が来た。表情から、あまり良くない事だと分かる。

「スルト将軍!」

「どうした」

「マダ将軍が、戦死しました。 内部の指揮は、再びミトラ将軍と、モト将軍がとられるようです。 内部には、散発的に敵の侵入があり、戦闘が行われています」

「そうか。 ならば、我らは全力で眼前の敵を支えなければならんな」

バアルの目が、光るのが分かった。ほとんど間をおかず、強い衝撃。スルトのすぐ側、百メートルほど離れた壁が、綺麗に消し飛んでいた。魔術による防御シールドが、紙のように貫通されている。

もちろん守護の力は無限ではない。だが、補給を駆使することと、精鋭でその周囲を固めることにより、敵は殆ど無尽蔵にその力を使っている。あの守護、バアルは恐ろしく切れる。己の力を最大限まで使いこなし、苦しい戦況の中、確実に勝ちへ向かって進んできているのだから。

「補給を断たねば、危険だな」

「スルト将軍、何か策が」

「次のカエデ隊の突入に合わせ、決死隊をぶつけるしかあるまい」

この距離ならば、スルトの火術であるラグナロクも届く。それで倒せるとはとても思えないが、狙いは奴が輿に常備している膨大なマガツヒだ。それさえ叩けば、連続しての大威力攻撃を停止させられる。

「精鋭を集めろ」

「は。 直ちに」

苦しい戦況だが、すぐに彼方此方から精鋭が引き抜かれてくる。スルトの側に結集した面々は、錚々たる顔ぶれだった。彼らのどれだけが生き残れるかと思うと、スルトの心は痛んだが、今は勝つことが全てに優先する。

ヨスガ軍の悪魔達が、再び城壁に群がってくる。いくらかは内部に入り込んでくるが、元々それを想定しての布陣だ。無理に防ごうとはせずに、効率的な防御を心がける。何度か壁に直撃したバアルの光が、守備隊を吹き飛ばす中、歯を食いしばってスルトは防御戦を続けた。

不意に、敵の動きが鈍った。陽動の可能性もあるから、スルトは更に敵を観察する。視界の隅に入ってきたのは、猛烈な攻撃を仕掛ける味方の姿。カエデ隊が、敵前衛を東から西にかけて、蹂躙し始めているのだ。バアルは一旦城壁への攻撃を停止し、カエデ隊への対処に切り替えようとしている。今が好機だと、スルトは判断した。左右にいる悪魔達に、スルトは叫ぶ。

「まず儂が、最大火力でのラグナロクを叩き込む。 その間にお前達は、バアルの輿と、用意されているマガツヒの瓶を破壊しろ」

「はっ! 承知しました!」

「奴の側には、持国天とベルフェゴールが控えている。 ガブリエルも今は姿が見えないが、近くにいる可能性がある。 特にベルフェゴールは忠誠心が高く、最後にバアルを守ろうとする可能性があるから気をつけろ。 家族を守ろうとする奴は、手強いぞ」

先に言っておいたことだが、改めて周知する。こうすることで、実際に仕掛ける時の成功率が更に上がるのだ。人間もそうだが、悪魔の記憶力にも限界はある。特に、強敵に命を捨てて挑むような時は、なおさらだ。

バアルの輿に、カエデ隊の攻撃が集中し始める。カエデ隊の動きは鋭く、バアルも本腰を入れようと、輿の向きを変えかけた。

その瞬間。スルトは名高き愛武器レーヴァンテインを振り、灼熱の固まりを叩き込んだのである。

巨大なプラズマの固まりが、バアルの輿を直撃する。炸裂した灼熱が、辺りの鬼神達を吹き飛ばし、はじき飛ばした。無言のまま、スルトは城壁を飛び降り、剣を振るって駆けた。十騎ほどの精鋭が、それに続く。城壁の上から、味方が一斉に攻撃術を放ち、突入を支援してくれた。

突入。煙をそのまま盾に躍り込む。

バアルを守ろうと、ヨスガの悪魔達が群がってくる。右に左に斬り倒しながら、スルトは吠えた。レーヴァンテインに宿った炎を至近から叩きつければ、バアルはともかく輿は多分壊せる。煙を払って、飛び出してきたのは持国天だ。部下の一人が、飛び掛かって、組み付く。勝てはしないでも、時間を稼ぐつもりだろう。彼の意気に感じ入ったか、追いついてきた守備隊がまとめて持国天に飛びついた。元々、それほど武勇に優れているとは聞いていない持国天である。これでは、身動き取れないだろう。

先頭に立って、スルトが敵の壁を突破。吠えたけり、剣を振り上げながら、バアルを至近で見た。性別を超越したその姿は神々しく、だが禍々しくも見えた。シールドが見えた。手を突き出して、ベルフェゴールが張っている。直撃の瞬間も、ベルフェゴールだけは冷静に動いたらしい。輿は、傷一つ無かった。

「ほう、余の至近まで迫ったか」

「名乗りたいところだが、無礼を承知で、叩かせて貰う!」

バアルの声は、脳がくらくらするほどに、強烈な威圧感を秘めていた。遅れて追いついてきた悪魔が、バアルに向けて炎の術をぶっ放す。だが、片手を軽く弾くだけで、バアルはそれを吹き飛ばした。その隙に、スルトは跳躍、レーヴァテインを振り下ろした。

間に入ったベルフェゴールが、矛を振るって、迎撃してくる。二度、三度切り結んだ。なかなかの使い手と聞いているが、今は感心している暇がない。繰り出してきた矛を、わざと避けずに、脇腹に受ける。そして、拳を振るって、顔面に叩き込んだ。

ガードがかろうじて間に合ったが、スルトの拳は勢いが充分に乗っていた。ベルフェゴールは吹き飛び、輿に叩きつけられる。平然としているバアルに向けて、スルトはため込んでいた最大級の火術を、至近から叩き込んだ。

「喰らえい!」

特大のプラズマ球が、バアルの輿を直撃。流石にこの距離である。しかもスルトは、自他共に認める、ボルテクス界随一の火術の使い手だ。放たれた炎の固まりは、輿を木っ端微塵に吹き飛ばした。バアル自身も、紅蓮の炎に包まれる。

灼熱の中、スルトは見た。無理な体勢から、バアルの前にシールドを展開するベルフェゴールを。しかしそれでは、己を守ることは出来ず、悲鳴も上げず溶けた砂が輝く砂漠に倒れ込む。バアルは神像そのものである顔で、それを一瞥。眉一つ動かさなかった。バアルが手を振ると、さっと熱が晴れる。

斃れたベルフェゴールは、無事な様子のバアルを見て、満足げに笑む。そして、マガツヒとなって消えていった。娘を守った、母のような姿だった。残念なことに、娘の方はそれで心をまるで動かさなかったようだが。

「よし、退けっ! 殿軍は儂が務める!」

スルトが手を振り、持国天に挑んでいた部下達が、さっと引き上げ始める。バアルは動かない。カエデ隊が、敵を突破して、逆側に抜けていくのが見えた。バアルが斬馬刀を抜く。スルトは上段に構えながら、ゆっくり下がった。向かい合っただけで分かる。とても勝ち目はない。隙を見て逃げ出したいところだが、それが成せない時は、せめて傷の一つでも負わせて逝きたいところだ。

ベルフェゴールの矛の一撃が、腹に響き始めている。あらゆる意味で追い詰められているスルトに対し、バアルは間合いを計ることもなく、ゆっくり歩を進めてきた。

「よくも余の輿を壊してくれたな。 勇気には敬意を表するが、生かしてはおかぬ」

「輿、か。 貴方を守って命を落とした忠勇無双のベルフェゴールには、なんら思うところはないのか」

「ない。 弱者は淘汰されるのが、余が開きしヨスガのコトワリである」

静かな怒りが、スルトの全身を満たす。必死の忠義を尽くして死んでいったベルフェゴールが、気の毒だった。武人としての誇りと、おそらく人としての怒りが、スルトの戦意をかき立てる。

「ならば、儂はニヒロ機構にいてよかったわ。 元々外様の儂でも受け入れてくれたばかりか、この老骨に生き甲斐をくれた。 頼もしい次世代の誕生も見ることが出来たし、氷川司令の理想にも惹かれた。 生の最後を飾ることが出来て、本当によかった」

「惰弱なコトワリにまとわりつく老いた蠅めが。 その愚かな生と共に消えるが良い」

バアルが、剣を振り上げた。その体勢のまま、すっと横に飛び退く。

直前までバアルがいた地点を、光の矢が抉った。爆発が巻き起こる中、スルトは命を拾ったことに複雑な気分を味わいながら、その場を離れる。見えた。空を飛ぶ蛇の悪魔にまたがり、敵陣を切り裂いていくカエデの姿。時々放たれる術の破壊力は、今までスルトが見た誰よりも大きい。

今のも、カエデが放った術だったのだろう。バアルが引いたと言うことは、奴に危険を感じさせるほどのものだったに違いない。

素晴らしい後進を得たものだと、スルトは思った。このまま行けば、あの子は火の術でもスルトを超えていくだろう。

殆ど消耗しなかった精鋭部隊を率いて、スルトは一旦城壁の守備に戻る。バアルからの猛攻は、しばし止んだ。

だが、戦況は、未だ好転しない。

国会議事堂の内部から、侵入者の警報あり。マダを屠った相手とは、また別の戦力らしい。

風雲急を告げる戦況。援護に行きたいところだが、正面をおろそかにしたら全軍が崩壊する。カエデ隊が再び中軍の援護に行く中、敵は攻勢を強めてくる。スルトは残る戦力を集中して、それを捌き続けた。

何かが高速で飛んできた。敵かと思ったが、違う。スルトの側に着地したその姿は、加入したばかりのサマエルであった。飛んでくる途中で、かなりの天使を落としてきたらしい。ただし、体は傷だらけだった。無理もない話である。トールとまともに戦っていたというのだから。

「サマエル将軍か」

「スルト将軍、戦況は」

「あまり良くはないが、ベルフェゴールは討ち取った。 バアルの輿も破壊したから、奴の攻撃はある程度抑えることが出来ている」

「そうですか。 此方はカエデ将軍からの指示で、無理にトールとの戦いを切り上げて戻ってきました。 国会議事堂の侵入者が、攻勢を強めているとか。 ミトラ将軍とモト将軍だけでは防ぎきれない可能性があるから、戻って欲しいと言われて来たのですが」

確かに、この状況で、トールと戦えるサマエルの増援は心強い限りだ。本当は激しい攻撃を続けている前方の敵を叩いて欲しいところだが、氷川司令が死んでしまっては全てが水の泡である。侵入者が、人間を殺せないという保証は何処にもない。守護は常識を越えた存在で、ムスビとか言う勢力にはそれに近しい存在が大勢いるというからだ。敵は地下から侵入してきたと、報告が来ている。そうなると、ムスビの可能性は高い。

「分かった。 此方は儂が支えてみせる。 其方は頼むぞ」

医療班を呼んで、サマエルを治療させる。大きな傷を幾つか治すと、サマエルはもう大丈夫だと言って、案内と一緒に国会議事堂の奥へ消えていった。

スルトは予備戦力であるニュクス隊に出動を依頼すると、敵へと向き直る。サマエルは新参だが、誠実な性格と優れた武力には信頼感がある。

氷川司令のことは、サマエルに任せてしまって大丈夫だろう。後は、己の持ち場を死守するだけだった。

「もう少しだ! もう少し持ちこたえれば、氷川司令が守護を降ろされる! それまで、持ちこたえろ!」

スルトの叫びに、部下達が呼応する。

希望を持てと自分に言い聞かせながら、スルトは指揮を続けた。

 

絶望的な報告が、次々にミトラの元へ上がってくる。最深部のモニター室で、ミトラは奥歯をかみしめていた。

アマラ経路からの接続は、遮断していた。警備も怠った覚えはない。アマラ輪転炉は警戒度を最大にして、厳重に監視していた。ミトラが万全だと思った通りの監視態勢だった。それなのに。

不意にアマラ輪転炉から、その悪魔は現れたという。警備兵は蹴散らされ、奴は着実に氷川司令の下へ向かっていた。

今のところ、モトが迎撃準備をしている。モトは精神こそ子供同然だが、実力はミトラも認める次元にある。だが、この状況で、人修羅と新たな侵入者を、同時に支えるのは無理だろう。かといって、戻ってきたサマエルを、氷川司令の所から離すと、いざというときの警備が無くなってしまう。

ニュクスも前線に行き、ブリュンヒルドも怪我を治している現状、もはや手駒は自分自身しか存在しなかった。

人修羅の、強引極まる突破が報告されてくる。もう一騎の相手にも、罠がことごとく通じない。難攻不落の要塞は必ず落ちるものだと知ってはいたが、自分が築いたこの国会議事堂は違うと、どこかで思いこんでしまっていた。

ミトラは、大きく息を吐いた。覚悟を決める時が来たらしい。

「人修羅を、私自身が迎撃します。 モト将軍には、アマラ経路からの侵入者を撃退するように、指示を飛ばしてください」

「ミトラ将軍!」

「もう一騎の侵入者がいなければ、私とモト将軍で戦いを挑んで、人修羅を潰すことも出来たでしょう。 しかし今は、もうそれしか手がありません。 人修羅は氷川司令の所へまっすぐ向かっていて、モト将軍は別の所に陣をしている状態。 とても、呼び戻す暇はありません」

覚悟を決める。己のミスで、この事態を招いたのだ。それならば、自分でリカバリをしなければならない。

ミトラは己の錫を手にすると、モニター室を出た。

 

イケブクロのヨスガ大本営にて、留守を任されていたミカエルは呆然としていた。かろうじて指揮官であるオルトロスは脱出したものの、四天王寺が壊滅。駐屯軍は全滅に近い打撃を受け、拠点としての戦略的価値は失われてしまった。そして今、カブキチョウも謎の敵の奇襲を受けて、陥落寸前の状況に陥っていたのである。ミズチは必死の防戦を続けていたが、それも今にも潰えそうだった。

援軍を求める悲鳴が、ひっきりなしにイケブクロに届いている。しかし、ミカエルは、バアルに此処を動かないように命じられていた。この状況で、カブキチョウまでもが落ちては、ミカエルの失点は拭いようが無くなる。かといって、バアルの命令に背くような勇気は、ミカエルにはなかった。

指示を仰ぐ使者は既に前線へと向かわせたが、いつたどり着けるかは知れたものではない。青ざめるミカエルの元に、敵がついに強制収容所にまで入り込んだことが伝えられた。ヨスガの補給基地であり、生命線でもある強制収容所が壊滅したら。ミカエルは頭を抱えていた。

とんでもない失点だ。如何に防衛力が削ぎに削がれている状態とはいえ、よりにもよってミカエルが留守を預かっている時に。新参でこれといった手柄もないのに、これほどの損害を受けることになるとは。着実に武勲を重ねている毘沙門天と、あまりに大きな差がついてしまう。バアルのことだ。今まで天軍を率いてきた実績など、見向きもしないだろう。無能だと判断されたら、その場で切り捨てられる。

その時、ようやく使いに出した天使が戻ってきた。天使は玉座の間にて、恭しく跪く。此奴はミカエルが子飼いとして育ててきた天使の一人で、今でもミカエル個人に忠誠を誓っている数少ない腹心だ。

「ミカエル様、ただいま戻りました」

「そうか。 してバアル様の返答は」

「我に余剰戦力無し。 貴様には部隊を与えているのだから、それでミズチと協力して何とかしろ。 以上です」

「な、なんと」

呻いたミカエルは、ヨスガに降伏したことを、心底から後悔した。だがラグエルが戦死したことで、すでに七天委員会の残りは三騎にまで減っている。その上、不満を抱いているメタトロンはともかく、ガブリエルを始めとして天軍の殆どもバアルに心酔してしまっており、今更反旗を翻す選択肢はない。

ただ、一つだけ、状況は好転した。此処は動いて良いと、バアルは命じてくれたのである。それに、部隊は与えているのだから、それを使っても良いと言った。

カブキチョウからの報告では、敵はオズだという。オズと言えば、オーディンの原型神であり、キリスト教が発展する過程で屠り去った神の一つだ。ある手を使った上で、ミズチと力を合わせれば、どうにか撃破することは出来るだろう。

ミカエルは玉座の間を出ると、控えていた鬼神と天使達を見回した。

「地下倉庫から、あるだけのマガツヒを持ってこい」

「は。 それをいかようになさいますか」

「私が喰らうのだ」

丁度いい機会だ。オズを潰すためだという大義名分もある。此処で力を付けておけば、いざというときの選択肢も増える。不審に思う者もいたようだが、ヨスガでは上官の命令は絶対だ。

立ち並ぶ瓶。中に蠢く赤い光。一つずつ蓋を開けて、瓶を傾ける。喉を通るマガツヒの感触が心地よい。運ばれてきたマガツヒを、まとめて喰らっていく。半分ほど平らげたところで、凄まじい力が、ミカエルの内部に沸き上がってきた。まるで体の中が活火山になったような感触である。これならば、相手が何であろうと勝てる。

ほくそ笑むと、ミカエルは側近に残りを片付けるように命じて、自らは精鋭部隊を編成した。いずれも天使だけで構成されている。

「カブキチョウに向かう! 不埒な異境の神に、鉄槌を降すぞ!」

絶対の自信が、ミカエルの顔には浮かんでいた。

 

モトは部下達の報告に右往左往していた。人修羅という悪魔については分かる。だが、もう一体。アマラ経路から現れたという悪魔の方が、よく分からないのだ。部下達が必死に探し回っているのだが、見つからない。時々、小隊が襲われる。しかし、援軍が駆けつけると、もういなくなっている。隔壁も、何も関係ない。そして、いつの間にかまた他の場所で、部下が襲われるのだ。

魔力探査も続けているのだが、殆どの悪魔が首を傾げる一方だった。まっすぐ進んできている人修羅は分かり易いのだが、その得体が知れない悪魔は、どう対処して良いのか分からない。モトの所に現れれば、一揉みに潰す自信はあった。だが、これではどうしようもない。

十騎ほどの部下を連れて、モトは辺りに厳重な陣を張り巡らせる。要塞である国会議事堂だが、警備する過程で構造は完璧に覚えている。何処にいれば敵を防げるかは、重々承知している。どうもその裏を掻かれているような気がしてならないのだが、手が読めない以上、仕方がなかった。

通路の向こうから、誰かが来る。身構える部下達は、殺気立っていた。皆、不安なのだ。

「誰だ!」

「私です」

「あ、サマエルしょうぐんだ。 てつだいにきてくれたの?」

「いえ、氷川司令の護衛に来ました。 途中で寄ったものですから、様子を見に来たのですが」

サマエルは辺りを見回すと、部下から報告書を受け取る。モトはサマエルがするに任せていた。頭を使う仕事は苦手だ。サマエルの頭が良いのは、カエデから聞いている。カエデはモトより少しお姉さんで、いつも遊んでくれるので好きだ。だから、カエデの言うことなら信頼できる。

「これは、難しいですね」

「サマエルにもわからないの? じゃあ、ぼくじゃあどうにもならないよ」

「いえ、そんな事はないはずです。 もう少し資料を見せてください」

サマエルは、敵との交戦記録に目を通して、そのたびに頷いていた。モトにはさっぱり分からない。

「多分、敵は通気口を利用して来ています。 それならば、この移動経路も納得できますね」

「でも、つうきこうはへびのあくまでもとおれないし、まほうでげんじゅうにまもってるってきいているよ」

「それを上回る術を持った相手だと言うことです。 この地点に、重点的に陣を敷いてみてください。 きっと引っかかるはずです。 ただ、敵が他にも突破の手段を持っている可能性はありますから、その時は氷川司令を私が守ります」

半信半疑だが、モトは皆を指揮して、陣を張り替えた。頭が悪いことは自覚しているが、軍を指揮する経験はそれなりに積んでいる。ほどなく、陣替えが終わった。サマエルは、氷川司令の所に行ってしまったが。

数分後。警戒していた通気口から、黒い固まりが流れ出してきた。どよめく悪魔達に、モトは戦闘態勢を取らせた。

 

通路に沿って、歩いている暇はなかった。

カズコに無理を言ってマガツヒを出して貰いながら、秀一は強引に壁を破りながら進んだ。時々ばらばらと現れる迎撃戦力は、リコとサルタヒコに任せてしまう。薄そうな壁はニーズヘッグに任せて、後方はフォルネウスとサナに任せた。アメノウズメは力を温存して貰わないとならないから、今は休んでもらっている。決戦まで、どこまで体力を温存できるかが勝負だ。

完全に迷路とかしている国会議事堂は、方向感覚を失わせる作りになっていた。二度、侵入した辺りに戻ってしまってから、強引に壁を破る方法に切り替えたのだ。もう何枚壁と床を抜いたかは分からない。だが、着実に、強い気配に近付いていた。

「シューイチ、思ったよりも強引なやり方だね」

「手段は選んでいられない。 ヨスガとの戦闘にけりがついたら、ニヒロ機構軍は一斉に反転してくる。 そうしたら、いくら何でも太刀打ちできない」

「今でも、もうグロッキーだってのに。 たまんないッスね、それは」

壁に背中を預けたリコがぼやく。さっきのマダとの戦いでもかなり消耗したのに、連戦続きだ。体中傷だらけである。サルタヒコも無言のまま腕をさすっていた。秀一が知っているだけでも、もう十騎以上は斬っている。

秀一自身も、左腕の刃が再生してこない。無理に回復魔法で直して、また力押しをしているからだ。如何に常識外れの回復能力が備わっているといっても、限界はある。しかも、これからさらなる乱戦が予想される現状、これ以上の無理は出来ない。

だが、良いこともある。

恐らく、今日十度目であろうか。壁を無理に破って侵入した先で、大きな気配を感じたのだ。かなりの数の悪魔も、此方に迫ってきている。螺旋の蛇で貫いた壁と床の先に、大きな扉があった。手で押すと、簡単に開く。

どうやら、中枢に近付いたらしい。ずっとさっきから祈るような格好でカズコはマガツヒを絞り続けている。漂い来る赤い光を口に入れると、秀一は振り返る。他の面々も、それぞれ立ち上がると、戦闘態勢を取った。

中にはいると、巨大な会議場だった。国会中継で、よく見た場所だ。今更ながらに、この要塞があの国会議事堂なのだと思い知らされる。今は議員は一人も座っておらず、ただ静かな広い空間だけが残っている状態だが。

広々とした空間だ。秀一が先頭に立って侵入し、後衛をサルタヒコが固める。追撃を断つためである。強い気配は、この部屋の向こうから感じる。当然のことながら、敵は此処に此方を閉じこめて、密封した上での殲滅を計るだろう。ニーズヘッグは、部屋の外に、カズコとクロトと一緒に残って貰う。部屋に入れないというのもそうだが、部屋の中身が粉々になるほどの戦いが、これから起こる可能性があるからだ。

此方を伺っている気配には、少し前から気付いていた。機先を制して、此方から声を掛ける。

「いるんだろう。 出てきたらどうだ」

「私自身が相手をしなければならないかと思ってはいましたが。 想像以上の実力を持っているようですね」

天井近くから、光が降りてくる。光の粒は無数。やがてそれらは寄り集まり、議長席にて形を為していった。

上半身は獅子、下半身は蛇。手には法の象徴である錫杖。

全身から、非常に強い魔力を感じる。ニヒロ機構にとって、間違いなく最上級の悪魔の一柱であろう。

「私は司法神ミトラ。 ニヒロ機構にて、防衛部隊の司令官をしています」

「榊秀一だ。 この先に氷川がいることは分かっている。 悪いが、力づくでも通して貰うぞ。 それにしても、迎撃戦力が少ないようだが」

「ちょっとあなた方以外にもお客さんがいるようでしてね。 手兵のいくらかはそちらかに向かわせています」

「ミトラと言えば、政治的な策謀を得意とすると聞いていたのだが、何故真っ向勝負を挑んできた。 やはり、罠を張っているのか」

それは、秀一にとって、ただの確認のつもりだった。だがミトラは、首をゆっくり振る。妙な悲しみが、それには籠もっていた。

「この要塞を設計したのは私です。 私は要塞の防御力に、絶対の自信を持っていました」

「確かに、優れた要塞だ。 だから、状況を利用した上に、力技で無理に破らせて貰った」

「……それだけではないのです。 今、地下からも、別の侵入者が出ています。 絶対に大丈夫だと思っていたセキュリティを破ってね。 カエデ将軍が、不安があるから強化をしておくようにと忠告してくれていたのに。 私は、誇りと仕事を天秤に掛けて、結局誇りを選んでしまった」

だから、と。ミトラは言葉を句切る。

「誇りによって生じたミスは、誇りによって取り返すだけのこと。 私の自慢の要塞を、こんな力技で破って攻め込んできた貴方ですが、その力も無限ではないでしょう。 ニヒロ機構の未来のため、此処で果てて貰います」

ミトラは、己の命を賭けている。秀一にはそれがよく分かった。それならば、此方もそれに全力で応じなければ失礼に当たる。

不意にミトラが、右手の錫杖を振るう。視界が真っ白に染まった。

爆発が生じたのだと、秀一はすぐに気付いた。だからガードをするが、吹き飛ばされて壁に叩きつけられる。激しい衝撃の中、それでもガードを続けたのは、第二射に気付いたからだ。

腕に、数本の何かが刺さった感触があった。多分矢だろう。視界が晴れてきたので、辺りを確認する。横に倒れているリコが、呻きながら立ち上がろうとしていた。腕に刺さったものを抜く。矢だと思っていたが、違った。

ミトラの尾が伸びて、突き刺さっていたのだ。すぐにミトラの尾は、本体の所へ戻っていった。どうやら伸縮自在の上に、先が何股にも別れているらしい。再び、ミトラが錫を天に掲げる。今度は押しつぶされるような圧力と共に、床にたたきつけられた。

「アメノウズメ!」

「分かっているわ」

サルタヒコが庇った事を期待して声を掛けると、アメノウズメが舞い始める気配があった。この異常な速さの魔術展開、どうやっているかは分からないが、何か仕掛けがある。それさえ破れば、近接戦闘はあまり得意では無さそうなミトラを、一気に攻めることが出来る。

立ち上がると、机や椅子がばらばらに砕ける中、ミトラが錫杖を掲げていた。床から、リコが剣を投げつける。それを、ミトラは余裕を持って、尻尾でたたき落とした。

「悪あがきを!」

「ああ。 だが、あがかせてもらう!」

閃光と同時に、踏み込んで全力での右拳を繰り出す。今度は、タイミングがあった。拳が砕けるような痛みはあったが、代わりに破壊の閃光と相殺、押し返すことに成功する。爆圧の中、吠え蹴った秀一は、無理矢理敵へ距離を詰めた。

追いついてきたリコが、後ろで蹴りを繰り出した。床を突き破って飛び出してきたミトラの尾が、秀一の頭部を貫こうとしていたのだ。それを強引に弾いた。秀一は着地すると、再び錫を天に掲げようとしているミトラを見た。リコが足から血を流したまま、剣を投げつける。同時に、秀一はミトラの尾を一本掴んだ。

「むっ!」

ミトラの反応が、一瞬遅れる。尻尾を無理に引き抜きつつ、剣をかわすために身を捻る。その隙に、フォルネウスが真上に回り込んでいた。だが、ミトラは恐ろしいほどに冷静である。

氷の固まりを放ったフォルネウス。ミトラが右腕を振るって、一撃をはじき返す。それだけではなく、今の攻防の間に後ろに回り込んでいたサルタヒコを、大きな拳の一撃で壁まで吹き飛ばす。流れるような連続動作だ。

なかなかどうして。近接戦闘が苦手どころか、やってくれる。秀一は走りながら内心で賞賛した。

サルタヒコは受け身をとったが、壁にクレーターが出来るほどの一撃である。その場で呻いて、力なく崩れ落ちる。更にミトラは口から火球を連続で放ち、右斜め後ろに回り込もうとしていたサナに叩きつける。この状況で、サナに気付いていたのも驚きだが、その火力は凄まじい。吹き飛ばされたサナは、シールドも間に合わず、床にたたきつけられた。

だがその隙に、秀一はリコと共に、ミトラの懐にまで入り込んでいた。更に、上空には、回り込んだフォルネウスが、充填した魔力を整えている。しかし、ミトラは余裕を崩さない。せせら笑いさえ、浮かべてみせる。

鞭が振られるような音と共に、ミトラの尾がしなり、フォルネウスを襲う。複数に別れているのなら、それを同時に操れるのも当然か。避け損なったフォルネウスが天井に叩きつけられた。蹴り掛かったリコが、毛だらけの巨大な手で、床に蠅のように叩きつけられる。床が砕けて、リコの体がめり込んだ。思わず、リコが苦悶の声を上げた。

「がはっ!」

「腐っても、このミトラはニヒロ機構の重鎮! 貴様らがどれだけ集ろうが、恐れるものではない!」

「だが、少々妙だな」

勝ち誇ったミトラの裏拳を、秀一は体で受け止めた。数メートル吹っ飛び、並ぶ高級な椅子を蹴散らして、止まる。やはり凄い打撃なのだが、何かの違和感がある。ふと、足元を見て、それで気付いた。

違和感というのは、他でもない。上半身と下半身で、動きが違いすぎるのだ。対応も、脳から指令を送っているにしては速すぎる。秀一は椅子の破片を払いながら立ち上がると、看破した。

「そうか、分かった。 司法神ミトラ、最初から貴方は二人いたのだな」

「今更それに気付いたところで、どうにかなるものですか。 今、貴様は最上級の悪魔を、二体同時に相手にしている事に代わりはない!」

「だが、それにしてはおかしい。 それほどの力を発揮できるにしては、貴方の経歴も戦歴もあまりに貧弱すぎる」

もしこれほどの力を常時発揮できるのなら、今外で戦っているのは、カエデではなくてミトラだっただろう。ミトラは確かにニヒロ機構の重鎮だが、かってはオセに武で劣り、今では彗星のごとく現れたカエデに地位も人気も取られている。ニヒロ機構の内情は分からないが、故に今の武を見ると、その不可解さが却って良く分かる。

秀一の冷静な指摘に、ミトラは見る間に青ざめた。恐怖に、ではない。怒りに、である。これは、分かる。命を賭けた誇りを、汚された時の表情だ。秀一は、目を閉じると、今なら出来るかも知れないと思った。

今まで散々使って来た技、螺旋の蛇は、目から膨大な魔力を打ち込む術だ。だが、これを思考の源泉である頭全体から放てばどうなるか。消耗はさぞ凄まじかろうが、代わりに破壊力も超絶たるものとなるだろう。

螺旋の蛇に習熟した、今なら出来る。

ただし、モーションが大きい上に、発動までの時間をかなり見込まなければならない。連射も効かない。外したら終わりだ。そして何より、ここから先に進むためには、少し休憩もしなければならなくなる。一刻が惜しいから、無理な突破戦をしてきたのに、それが全て無駄になるかも知れないのだ。

だが、やるしかない。ミトラの使っているトリックは大体読めたが、それも封じなければ、串刺しにされるだろう。越えなければならないハードルは多い。ゆっくり歩み寄る秀一に、奥歯を剥き出しにしたミトラが、火球を撃ち放とうとする。

次の瞬間であった。

床から無理矢理体を起こしたリコが、ミトラの顎を真下から蹴り上げたのである。至近からの、しかもリコが一番得意とする蹴りだ。数本の歯が砕け、ミトラの巨体がのけぞった。更に、サナが残った力を絞り上げたらしい雷撃を叩き込む。ミトラが絶叫した。

「リコ、避けろ!」

短くそれだけ言うと、秀一は周囲の床に、火炎の息を吹き付ける。熱せられた床が、爆ぜながら悲鳴を上げた。ミトラが、頭を抱えて絶叫する。慌てて飛び離れるリコを確認しながら、秀一は走った。

「ミトラ! 己の力の全てを、この部屋そのものに注ぎ込んだな。 そして、部屋と一体化することによって、その中の全てを自分とした! 違うか!」

「お、おのれええっ!」

そう。この部屋の全てが、ミトラの目であり、手足なのだ。おそらく床から突きだして襲ってきた尻尾が、その制御を。頭部が、見えている部分の攻撃を担当していたのだろう。そして、部屋の中でだけ最強になることで、ミトラは今まで蓄えてきた力の殆どを捨てた。強いニヒロ機構への忠誠がなければ、出来ないことであっただろう。

走る。見る間に距離がゼロになる。唖然とするミトラに、秀一のひねりを加えた拳が炸裂。今度は、吹っ飛ぶのはミトラの番だった。だが、この部屋そのものがミトラである。それに、全てを捨てて戦いを挑んだ男は、その程度では屈しなかった。

「人修羅ああああああっ!」

ミトラは錫を咥えると、床に両手を突き、下半身をたわませた。そして全身をバネとして、秀一に突貫してくる。巨大な赤い獅子が、牙を剥いて、裂帛の気合いと共に躍り掛かってくる中。秀一は不意に足を止め、印を切り終えた。拳を左右とも床に突っ込み、体を強引に固定。そして、顔を、ミトラに向けた。

全身に刻まれた模様が、激しく発光する。それは足下から顔へと徐々にせり上がっていき、やがて全て消えた。

一瞬の空白の後。部屋の全ての灯りが、秀一に集束。顔どころか、全身を一つの砲として、光が放たれる。

ミトラは牙を剥いて、それを無理矢理に砕こうと飛び掛かってくる。巨大な光の蛇と、赤い獅子が一瞬絡み合い。そして、徐々に押し返されながらも、ミトラは吠えた。

「わ、私は、わたし、は!」

「おぉおおおおおおおおおおおっ!」

全身の力を絞り尽くすようにして、絶叫。秀一は残る力を、全て叩きつける。部屋の隅から隅まで吹き飛ばされたミトラは壁に叩きつけられ、もがきながら、やがて壁の外に。そして光に押し出されながら、壁を貫通し、天井を破り、国会議事堂の外にまで吹っ飛んだ。

秀一が、ふと脱力感を覚えた瞬間。

国会議事堂の外で、太陽が出現したような爆発が生じた。ミトラの最期であった。

策謀を巡らし続けた前半生はともかく、少なくとも誇りに全てを捧げた貴方は、優れた戦士だった。そう秀一は、全身を掴む脱力感の中で、静かに空へと消えたミトラを賞賛していた。徐々に、体に模様が戻ってくるが、輝きは少し弱々しい。

たくさんの手で器用に扉を空けたニーズヘッグが、困り果てた様子でいた。カズコが、小走りに駆け寄ってくる。

「秀一、大変だよ。 クロトが、正気になって、いなくなっちゃった」

「そうか。 正気になったら離れるかも知れないとは思っていたが、仕方がないな」

場合によっては、戦わなければならないかも知れない。そう思うと気が重いが、クロトも将としてニヒロ機構に身を置いていた者だ。判断は大人のものと変わらず、道を選ぶならば妨げる権利はない。

やっと足腰が立つだけという状態だが、もう時間はない。サルタヒコに手を貸して、立ち上がらせる。手を握った時に、妙に懐かしい感触があった。続いて、リコに肩を貸す。サナは遠くからの攻撃だったこともあり、怪我は浅かったが、問題はフォルネウスだ。天井に叩きつけられた一撃は想像以上にきつかったらしく、ニーズヘッグの頭にへばりついて、しばらく休むとぼやいた。

奥からの気配は、更に強くなり続けている。カズコに、今の戦いで蓄えていた分のマガツヒを出して貰う。全員に配って、自分も口に入れる。とても甘い味がした。カズコが必死に、マガツヒを出してくれた証拠だ。

今までに無いほどに厳しい戦いを強いられるのは分かっていた。だが、やるしかない。

「行くぞ」

自分に言い聞かせるように、秀一はつぶやいた。

 

4、虚無の魔王

 

秀一が派手に穴を開けたためか、外の喧噪が中にまで届く。激しい戦闘音は止むことが無く、時々爆音もとどろいていた。また、さっきミトラが言っていた侵入者も暴れているのだろう。時々地鳴りのように、様々な音が響いていた。

全員、かろうじて戦えるという状況である。足早に急ぐ秀一は、大きな戸を見つけた。先ほどの議場の奥にあった、長い通路。その先には、要塞の最深部とつながっているらしい、豪奢な戸があった。

中からは、桁違いの魔力を感じる。氷川は此処に間違いなかった。

カズコをニーズヘッグに任せて、戸を開ける。

内部は、巨大なホール状の空間だった。言い争う声、いやヒステリックな女性の声ばかりが聞こえる。それは、祐子先生のものに間違いない。そしてもう一方の男の声。以前、少し聞いただけだが。氷川のものに間違いなかった。

「貴方の作ろうとしている世界には、自由がない。 それでは世界は、凍り付いてしまうわ」

「自由? 愚かな事を言う」

「愚か、ですって?」

「君は自由を求めて創世に参加したと言ったな。 残念だが、それは嘘だ」

天井近くに、視線が止まる。

遙か高みに、氷川はいた。スーツ姿のまま、椅子に腰掛けている。丁度空中に張り巡らされた通路状の空間の上にいた。その側には、祐子先生が両手を後ろ手に縛られたまま、転がされているようだった。まるで時計を下から見上げているようだと、秀一は思った。

そして、そのすぐ側には。

出来れば、絶対に此処では顔を合わせたくない相手がいた。

「自由など、かっての世界には、幾らでもあった。 何処にでもあったのだ。 人類の社会は、王政と族家族による血統支配から、民主制による自由主義へと移行した。 君の年であれば選挙に出ることも出来たし、経済的にも社会を動かすことが可能だった。 もちろん貴族的な存在はいたし、社会の上層に這い上がるのは尋常ではないほどに難しい側面もあった。 だが、事実君がつきあってきた人間には、将来的には財界の雄となることが確実な者もいたではないか。 それら自由の芽を、君は自ら摘んできたのだ」

「し、しかし、それは」

「自分でも分かっているのだろう。 君は、ただどうにもならない社会から、逃げただけなのだ。 自分を受け入れず、理想にも耳を傾けない社会から。 それも、周囲の自由だという事実から目を背けて、逃げただけなのだ。 もう、分かっているはずだ。 人間などに、自由など必要はなかったのだと。 社会は、完璧な法の下で、ただ静かに運用されていけば良い。 それに、君も以前は賛同していたではないか。 だが、君は途中で逃げたのだ。 罪と、責任からな」

なるほど。氷川の言うことにも、一理はあるのかも知れない。

社会は束縛から自由へと移行していた。確かに未だ血統による束縛は有効ではあったが、それ以上に自由主義が強くなりつつあった。貴族的存在による少数支配は未だ健在であったが、貴族になるのに元の血統は多くの場合必要はなかった。あったとしても、かってほど酷く束縛はされていなかった。

社会には、自由が満ちていた。その気になれば、頭を使えば、なんだって出来たのだ。それを、出来ないと皆が思いこんでいたから、おかしくなっていたのかも知れない。確かに、氷川の言うとおり、自由が欲しくて東京受胎を起こしたという理論には、義が無い。理もない。現実からの逃避だ。そして、おそらく。東京受胎が行われてからの祐子先生の行動も、覚悟からの逃避だったのだろう。

悲しい人だなと、秀一は思った。祐子先生は、結局人間以上の存在にはなれなかったのだ。精神的にも、生物的にも。罪悪感もあったし、理想と現実の間にも苦しんだ。覚悟もしきれなかった。

確かに罪は重いが、それほどの状況に置かれて、覚悟を決められる人間がどれだけいるだろう。現代の日本に暮らしていた誰もが、行き詰まりを感じていた。その中で、それを打開しうる力を得てしまった。そして、絶望の淵にいた。悪魔の果実に手を伸ばすのも、仕方がなかった点もある。

結局の所、祐子先生は現代日本に暮らした、普通の女性の域を超えられない存在だったのだ。だから、それ以上のどこかへ突き抜けてしまった氷川には及ばなかった。そういう、事なのだろう。

祐子先生の体から、力が抜けていくのが分かった。アラディアの気配が消えていく。祐子先生を見捨てて、別のどこかへ行こうというのだろう。氷川は一瞥しただけで、それを相手にもしなかった。見下ろすような形で、氷川は椅子を此方に向けた。分かる。その全身に、途轍もない力が漲っていることが。

「さて、次の客は人修羅か。 ミトラを倒すとは、恐ろしいほどに力を上げているな」

「氷川、どうしても守護を降ろすつもりか」

「そういう君はどうなのだ。 新しい世界に、何か求めるものはあるのかね」

新しい世界に必要となるコトワリなら、ある。そして氷川と接するなら、最低限でもそれは示さなければならない。だから、秀一は応える。

「ある。 俺は、人類がもっと強くあり、宗教や、主義に頼らずに生きられる世界を創造したいと考えている。 世界の行き詰まりも、様々な悲劇も、結局何かに頼らずには生きられない人間の弱さに起因していた。 俺は、その根源的な理由を、新しい世界を造るのなら払拭したい」

「ふむ、面白い意見ではあるな。 現状の世界の、悪いところだけを直そうというわけか」

「そうだ。 俺に、貴方の思想を否定するつもりはない。 ただ、どうしても新しい世界が必要なら、俺はこのコトワリに基づいた世界に住みたいと思っている」

「ならば、戦うしかあるまい。 面白い思想ではあるが、私の積み重ねてきたものとは決定的に相容れない。 私に言わせれば、何処まで行っても、人間に未来はないよ。 他の知的生命体も大して代わりはしない。 だから、私は法によって、静かに治められる世界を造るのだ。 ……サマエル将軍!」

ふわりと、氷川の側にいた人影が跳躍。そして、秀一の前に降り立った。

白海琴音。ついこの間まで、アサクサで同盟関係にあった存在。何度も共闘し、そして悲劇で立ち別れた。

まさか、こんなに早く、このような形で再会するとは思っていなかった。そして、琴音は刀を抜く。迷いの一つも、その身には無かった。

「もう少しで、守護は降りる。 時間を稼ぎたまえ」

「はい。 氷川司令」

「白海さん、どうしてニヒロ機構に力を貸す」

「ヨスガの思想でも、ムスビの思想でも、弱者は生きることが出来ません。 恐らく貴方の思想でも、それは同じでしょう」

確かに、ニヒロ機構の思想であれば、弱者は世界の礎石の一つとして、生きることが出来るかも知れない。だが、それでは結局の所、以前と変わらないような気もする。その弱者が、皆強者になれば良いのではないか。いや、それは琴音の思想と違う。そうやって造られた存在は、元の弱者とは別のものとなる。琴音は弱者の存在をありのままに認めて、生き残れる世界を望んでいたのだ。

アサクサで、多数派になったと思いこんだ途端、マネカタ達の採った愚行を、秀一は思い出す。極論すると、琴音はあまりに弱者に甘すぎるのではないのだろうか。強者の剣は、弱者を守るためにあると思うのは自由ではあるが、それがニヒロ機構と、その掲げる静止的な世界を守るというのなら。排除せざるをえない。

「どうしても、やるんだな」

「いつかは、こんな日が来るかも知れないとは思ってはいました。 私もさっきまでトールと戦っていましたから、条件は五分です。 お互い、全力を尽くしましょう」

にこりと、琴音は笑う。悲しい微笑みだなと、秀一は思った。ただ、条件は五分にはほど遠い。琴音はまだ気力が残っているが、秀一は仲間共々、立っているのがやっとだ。

場に、どんよりとした空気が入り込んでくる。どうやら、まだ客はいるらしい。闇は、人間の形をしている。サルタヒコと同じように、古代日本の装束と髪型に身を包んだ男性だ。だが、その異様な表情が、目を引いた。顔の彼方此方が、別の人間の部品を無理にくっつけたように、統一感がない。そしてその右手には、圧倒的な負の気配を持つ剣があった。

敵ではないが、味方でもない雰囲気だった。琴音は眼を細めると、戦意を全身に漲らせる。

「モト将軍を、破ったんですか?」

「いや、あの分厚い布陣を破る自信がなかったから、影を置いてきた。 しかし、この様子ではギリギリか。 途中で戦略を切り替えて、無理に突破に掛かったのは不安だったが、正解だったようだな」

「貴方は、ムスビの悪魔か」

「そうだ。 私の名前は、日本武尊。 ニヒロ機構の氷川、その首を貰うぞ」

どうやら氷川は既に儀式を始めたらしく、返答はない。ただただ、凄まじい量のマガツヒが、空中に張り出された通路へと集まっていく。日本武尊が、剣を抜き、構える。琴音は周囲に目を配りながら、一歩下がった。

それが、開戦の合図だった。

秀一と、リコが逆方向に飛び退く。だがそれよりも早く、残像を残しながら琴音が動く。飛び込みざまに、日本武尊に蹴りを叩き込む。反応はした日本武尊だが、十メートルは浮き上がった。空中でそれに追いつくと、琴音は縦に回転しながら敵の顎に蹴りを叩き込んでいた。

地面に叩きつけられた日本武尊。受け身は取ったが、とても衝撃は殺しきれず、床でバウンドした。サルタヒコが、無言で下がって、舞い始めたアメノウズメのガードに回る。サナは背中の羽を高速で動かして、一番琴音から離れた場所を探して、一目散に飛ぶ。恐ろしい速度で、詠唱を完成させた琴音が、印を切った。

「マハ・ブフ・ダイン!」

避けきれない。秀一が、吹き飛ばされる。かろうじて間に合ったフォルネウスに飛び乗ったリコが、跳躍。空中で、蹴りを叩き込む。風で加速しての、渾身の一撃。だが、琴音は無情にも、するりとかわして見せた。

「貴方の切り札が蹴りだと言うことは、普段の体重移動から分かっていました。 知らなかったら、痛撃だったでしょうが」

「そうッスか、だったら、これな……」

「圧搾空気も、貰いません」

言い切ることは出来なかった。圧縮空気を叩きつけようとしたリコの腕を取った琴音が、縦に回して、地面に叩きつけたからだ。肩を外しつつ、痛烈な打撃を与える容赦のない技である。しかも受け身を取りそこね、海老のようにはねたリコに、真上からの蹴りを叩き込みに掛かる。首を折る気だ。

「させるか!」

無理に体を起こした秀一が、琴音にタックルを浴びせる。首までほんの数ミリの所で、琴音がはじき飛ばされた。ぐったりしているリコを助け起こそうとするが、フォルネウスに叱責される。

「そっちはわしが見る! 秀一ちゃんは、琴音ちゃんをどうにかせい!」

「それが利口ですね」

反射的にガードに右腕を上げる。その上から、今の一瞬に間合いを詰めていた琴音が逆立ちして放った回し蹴りが直撃。日本武尊同様、十メートルは吹き飛ばされた。壁に背中から叩きつけられる。背骨が軋み、全身の筋肉が断裂した。

まずいと、秀一は口中でつぶやく。普段なら追いつける速度の攻撃もある。だが、今はマダとミトラとの連戦で消耗しきってしまっている。眼前に、琴音の顔があった。腹部に衝撃。両手を重ねての、掌打を受けていた。体がくの字に曲がる。更に、身を沈めた琴音が、秀一の顎を容赦なく蹴り上げ、壁を抉りながら数メートル飛んで、背中から地面に叩きつけられた。

視界がぶれる。限界だ。

速度はあるが、パワーは大したことがない。もの凄いのは、それぞれの技の練度。前に聞いたが、琴音はトールの核となった人物に、武術の手ほどきを受けていたという。完全に素人で、マガツヒの力で知識を蓄積した秀一とは、出発点が違うという訳だ。力がある状態なら、それでも対抗手段はあっただろうが、消耗しきっている今は、打つ手が見つからない。

激しい剣撃の音。日本武尊が、琴音に何度となく斬りかかり、その全てを紙一重で避けられている。

「その剣、当たるとかなり危ない品ですね。 だから、当てさせません」

「お、おのれ!」

「貴方は見たところ、古代の剣術を中心に使うようですね。 剣は最近の技術も取り入れて鍛えているようですが。 ならば現在の武術がどれだけ進歩しているか、体で味わって貰います」

体を起こし、見る。日本武尊が、膝下へ不意のローキックを浴びせられて、呻く。其処へ、横薙ぎの手刀。耳を打たれて、よろめくところに、流れるように首を掴まれ、捻りを加えつつ投げられた。人間なら首が数度複雑骨折しただろう。更に、琴音は追撃を浴びせる。倒れたところを、剣を持った腕に足を絡ませ、へし折りにかかった。数秒。それで、へし砕き折った腕を放して、琴音は立ち上がった。複雑骨折した腕は、回復術でもすぐには治りそうにない。

額の汗を拭う琴音。なるほど、向こうも消耗しているというのは嘘ではないらしい。舞い続けるアメノウズメを見る琴音。大上段に構えるサルタヒコ。拙い。この状況で、神楽舞で全員の能力を底上げしているアメノウズメを潰されたら、勝ち目は完全に消える。

体の修復は始まっているが、いつもより遙かに遅い。

琴音が上段からサルタヒコに斬りかかる。何とか受け止めたサルタヒコだが、二歩、三歩と下がった。アメノウズメは円を描くように舞っており、半径三メートル以内に近寄らせるとまずい。四合目で、秀一同様消耗しきっているサルタヒコの手から、刀が弾かれた。床に、弾かれた刀が刺さる。横薙ぎに、刀を振るいに掛かる琴音。

其処へ、秀一は床に手を突く。横殴りに、氷の固まりが琴音を襲う。サルタヒコの頸動脈ほんの数センチ手前で刀を止めた琴音は、必殺の一撃の瞬間では流石に対応しきれず。地面から突きだした氷の固まりにはじき飛ばされて、床に転がった。更に其処へ、今までずっと隠れていたサナが、雷撃を叩き込む。琴音は顔を上げると、地面に拳を叩き込み、氷の壁を作り出す。雷撃はそれに阻まれ、拡散した。

「ちっ! 分かってはいたけど、手強いなあ」

サナのぼやきが聞こえる。今の奇襲は、奇跡的に決まっただけでもよしとすべきだ。乱れる呼吸を、必死に整える。埃を払いながら立ち上がる琴音。不意に、その後ろから声が飛んできた。

「代われ。 俺が殺る」

「!?」

振り返りかけた琴音が、体勢を低くして飛び下がる。琴音の首があった空間を抉り去ったのは、一種のハイキックであったが、妙に生物的というか、原始的な雰囲気を感じさせる動作であった。

放ったのは、さっきまで腕を折られて、床で呻いていた日本武尊である。右腕はぶらりとたらしたまま、左手に剣を持っている。そして、顔のパーツが、微妙にずれているような気がした。

そう言えば、古代の英雄神は複数の人物の業績を合わせた場合があると、秀一は聞いたことがある。そうなると、高名な日本武尊も、その可能性がある。アマラ経絡から上がってきた神々は常識を越えた存在だ。元となっている人格を切り替えることが出来るのかも知れない。

回転しながら、日本武尊が琴音に蹴りを叩き込んだ。驚異的なバネと、体の柔軟性から繰り出される、ブレイクダンスのような技だ。琴音は一段目の蹴りを下がって避け、二段目の蹴りを受け手に手を重ねて受け止めた。床に罅が入る。衝撃を床に受け流した結果だ。琴音は足を掴みに掛かるが、今度は逆方向からの蹴りが飛んできて、無言のまま跳躍。頭を狙って唐竹に斬りかかるが、左手に持っている剣で難なく防がれる。

さて、どう仕掛けるか。上はそろそろ、儀式が終わりそうな雰囲気である。これを阻止できなければ、戦況は更に不利になる。

不意に、ズボンを掴む手の感触。振り返らなくても分かる。カズコだった。

「どうして、来た」

「琴音と戦うの?」

愚問だった。扉の外で、激しい戦いの音。ニーズヘッグが追っ手を食い止めてくれているのだ。危険だと判断して、カズコを部屋の中に入れたのだろう。外の気配から言って、ニーズヘッグ一騎ではいつまでももつまい。どうやら退路までも失われてしまったらしい。あまりにも痛みと疲労が激しくて、気付くことが出来なかった。

マガツヒの瓶を差し出される。今の短い攻防で、何とか出してくれたらしい。

「琴音とは、仲直りできないの?」

「無理だ。 琴音は、弱者の全てをありのままに自分で救おうとしている。 俺はその弱者を、新しい世界で変えようと思っている」

瓶を受け取って、一気に飲み干す。僅かに、体の中に力が漲る。アメノウズメも、そろそろ限界だろう。リコはまだ目を覚まさず、サルタヒコはアメノウズメを守るので精一杯だ。サナはもう、一発術を放てれば良い方だろう。

サナと、フォルネウスに、ハンドサインを飛ばす。そして、自らは跳躍。動きに気付いた琴音が、日本武尊の剣を強引にかわすと、脇腹から出る血をものともせずに延髄に蹴りを叩き込んだ。流石に呻いて崩れ伏す日本武尊。だが、妙な色に変わった血が、琴音の脇から噴き出す。琴音は眉をひそめると、印を切って術式を展開。

空から無数に降り注いだ氷の固まりが、辺りをめった打ちにする。サナと、サルタヒコの苦痛の声が聞こえた。サルタヒコは、無理をしてアメノウズメを庇ったのだ。二メートル四方はありそうな氷の塊に潰されたサルタヒコは、身動きしない。

空中に張り出した通路に着地。倒れている祐子先生は、もう息がないようだった。アラディアが抜けたからだろう。一瞬だけ哀悼の意を表すると、光に包まれ始めている氷川へ駆ける。最後の力をつぎ込んで、印を切る。叩き込むのは、さきほど実戦投入に成功した、螺旋の蛇の強化版だ。威力はミトラを吹き飛ばしたものよりは数段劣るだろうが、それでも。人間なら、殺せるはず。

琴音が、追いついてきた。刀を無言で、振り上げてくる。脇腹から体に入り込んだ刀が、肋骨にまで食い込んだ。斜め下から飛んできた雷撃が、琴音を襲う。更に頭上からは、氷の固まりが降り注いだ。

フォルネウスと、サナの、最後の力を振り絞っての攻撃だ。かわしきれず、いかづちに打たれて膝を折った琴音に、容赦なく氷の固まりが降り注いで、押しつぶした。倒せるとは思えないが、しかし、僅かに時間を稼げるはず。

体に刀を刺したまま、秀一は前に進む。印を切り終えて、体勢を低くする。吠えながら、全ての力を集中。体の下から、光がせり上がってくる。そして、顔を氷川に向けた。

膨大な光が、氷川に向けて放たれる。

見えた。強引に間に割り込んできた琴音が、印を切って、何かの術を発動するのを。淡い光の盾が、秀一の光の蛇を防ぐ。いや、空に向けて受け流される。天井が吹っ飛び、石材がばらばらと降り注いできた。

「おおおおおおおおおおおっ!」

「はああああああああっ!」

二つの叫びが、交錯する。

徐々に押し込まれていく琴音だが。しかし、だが、やはり、今の秀一では、余力があまりにも不足していた。

不意に、光が途切れる。

脱力した秀一の前で、赤熱した全身から煙を上げながらも立っている琴音。そして、その後ろでは。ついに、光が集まり、人の形を為そうとしていた。

言われなくても、分かった。守護が、降りたのだ。

 

体から刀を引き抜きながら、秀一は見た。氷川が、赤い巨人の中に取り込まれていくのを。

その巨人は、体から複数の触手を生やし、背中には昆虫のものににた翼を備えていた。目は複眼で、口元には鋭い牙が見て取れる。そして、仏教で言う、座禅に近いポーズを取っていた。全長は、二十メートル、いや三十メートルを超えているかも知れない。小さなビルほどもある巨体であった。

響き渡る、荘厳な声。それだけで、辺りが厳粛な空気に包まれた。身が自然と引き締まる。

「サマエルよ。 良く時間を稼いでくれた」

「御意」

琴音の顔は青ざめている。先ほど、日本武尊の剣を受けた腹は、血が止まっていない様子だ。その状態で、秀一の全力斉射を受け止めたのである。普通だったら、跡形もなく消し飛んでいる所だ。

座禅を組んだまま、巨人は秀一を見下ろす。目は細い。何かに近いと思ったら、いわゆるアルカイックスマイルを浮かべている仏像だ。そして、雰囲気が、氷川ともよく似ている。静かを通り越して、虚無に近い。

「貴方は、何者だ」

「私は虚無そのもの。 闇の中の闇。 サタンの原型ともなり、様々な神話で悪として語られる存在の祖先である。 アーリマンとは、私の事である」

「聞いたことがある。 ゾロアスター教の大魔王だな」

「その通りである。 人修羅よ、残念ながら、今は汝と語らう暇無し。 いずれ頂点を争う時に、また相まみえようぞ」

巨大な翼が広がる。まるで空母から発艦する戦闘機のように。大きな主翼の下には、昆虫のように透き通った副翼が三対生えていて、羽ばたくと同時にその体を空に押し上げる。秀一が開けた国会議事堂の天井から、アーリマンは羽ばたいていく。ヨスガの軍勢を蹴散らしに行くのだろうと、秀一は思った。

思うだけで、追う余力は、とても残ってはいなかった。

「お、おの、れ」

日本武尊の声。空中に張り出された廊下に、這い上がってきた。また顔が変わっていて、今度は全身の筋肉が盛り上がっており、血管が巻き付いているのが見える。手にしている草薙の剣はますます闇色濃く、強い障気が放たれ、辺りを焼いている。

「せめて、お前だけでも、首は貰っていくぞ」

「もう、氷川司令は飛び立たれました。 遠慮する理由も意味もありません」

再び、琴音が構えを取る。秀一は、マガツヒに変わりつつある祐子先生の亡骸を一瞥すると、空中廊下から身を躍らせた。どちらにしても、今は退くしかない。また戦うにしても、体を癒し、力を蓄え直してからだ。

あの様子では、日本武尊は琴音に勝てないだろう。だが、それを盾にして逃げることはできそうだ。我ながら卑怯だとも思うが、今は手段を選んでいられない。着地すると、フォルネウスが背中にぐったりしたままのリコを乗せていた。傷だらけのサルタヒコにアメノウズメが肩を貸し、サナは片足を引きずっている。カズコはじっと、琴音を見つめ続けていた。戸の外での戦闘音は、未だ続いていた。

「もう少しだけ、力を振り絞って欲しい。 途中の標識から言って、すぐ近くにアマラ輪転炉があったはずだ。 そこから脱出する」

「シューイチ、これからどうするの?」

「一度体勢を立て直すしかない。 アサクサの周囲まで退いて、其処から状況を確認しよう」

もう情報は集まりようがないが、それでもアサクサにはそれなりの物資が残っている。身を休めるのなら、そこしかなかった。

ふと、足下に落ちているものに気付いて拾い上げる。祐子先生の亡骸から落ちてきたものらしい。ヤヒロヒモロギ。膨大なマガツヒを蓄え、生け贄の役割を果たす道具だ。祐子先生は結局何も為すことが出来ずに逝ったが、その人生は彼女なりに考え抜いてのものだったのだろう。秀一はヤヒロヒモロギを持ったまま、まったく力が入らない足を進めた。

気付いて、振り返る。

「カズコ、どうするんだ。 白海さんの所に残るか?」

「ううん。 私も、秀一のコトワリの方が正しいと思う。 でも、出来れば殺して欲しくない」

「……そう、か」

それ以上は言えなかった。大人が意見を違えて、それをどうしても合わせられない時。待っている事など、決まっている。そんな非道な事情をカズコに味あわせるのは口惜しい。

部屋を出ると、さっき体当たりを仕掛けてきた象の悪魔に、ニーズヘッグがかぶりついている所であった。残った力を振り絞り、血路を開くと、促してこの場を去る。為すことなく、また。

 

砕け果てた国会議事堂の上空に、無音で佇む二つの影有り。一つは少年。もう一つは喪服を着た老婆。まるで空に地面があるように、二人は立っていた。

二人はずっと見ていた。国会議事堂周辺から広がり、ボルテクス界全土を巻き込んでいる戦いの帰趨を。

アーリマンが飛び立ったことで、ニヒロ機構は一気に攻勢に出た。ヨスガ軍は大きな被害を出しながらも、致命傷は避け、砂漠に布陣。ようやく合流を果たした後陣と合わせて、決戦の構えを見せている。ムスビのゲリラ戦に手を焼いている各地の拠点も、それぞれの工夫を行って、必死の反撃に出ている様子だ。

「今回は、とても面白い」

金髪の子供がつぶやく。喪服の老婆がそれに問う。

「何がでございますか、坊ちゃま」

「青年は、我が望む世界を、我が想像もしない方法で作り上げようとしている。 他の者達も、陳腐なコトワリではあるが、類を見ないほどにそれぞれ工夫して覇を競おうとしている。 どれが勝っても、興味深い世界が造られそうだ」

「さようにございますか。 坊ちゃまが楽しいのであれば、ばあやは常に満足にございます」

鼻を鳴らすと、子供は空を見上げた。輝き続けているのは、カグツチ。その光は、ますます禍々しくボルテクス界を照らしていた。

「そろそろ、良いだろう。 カグツチを目覚めさせるぞ」

「はい、坊ちゃま」

老婆が頷く。

コトワリの見守り手であるカグツチは、どのボルテクス界でも、戦況が佳境にはいると目を覚ます。自然に起きる場合もあるのだが、今回は、子供の手で、少し早く目を覚まさせるつもりだ。

子供は、アラディアに近い存在だ。様々な世界を渡り歩き、多くのボルテクス界誕生に立ち会ってきた。そして、今はとある神話的存在に姿を借りている。その意識の影響も受けているが、それでも変わらぬ事はある。

己の信念を、貫くことである。そして、表だって干渉できないその身を呪いながら、常に裏方に徹してきた。

「あの悪魔と化した青年は、坊ちゃまを楽しませましたか?」

「ああ。 素晴らしい活躍だ。 もし奴が勝ったら、挨拶にいかなければならないな」

「それはそれは。 楽しみにございますな」

金髪の少年は頷くと、空を歩き出す。その影が、地面に落ちていた。

六対の翼と、禍々しい角を持つ、闇の存在の影が。

 

(続)