燃え落ちるアサクサ

 

序、帝国誕生

 

大天使ミカエルの元に届いたその情報を、最初信じる者はいなかった。マントラ軍の新たなる指導者は、世界最強を名乗る存在だと。一笑に付す者が多く、事実ミカエルもそうだった。

それに真実味が出てきたのは、マントラ軍の急激な膨張が開始されてからである。マントラ軍から一度離脱した悪魔までもが戻っているのだ。宣伝効果だけの筈がない。元々力を信奉するだけあり、マントラ軍に集う悪魔達は皆現実主義者だ。神を盲信している天使ばかりを見ているミカエルとしては、羨ましいと思えるほどに。現実主義者は、いざというときにさっさと散ってしまうが、その代わり有能な輩が多いのである。

俄に、完成したばかりのシナイ塔は騒ぎ立った。コトワリを開くための人間が確保できないという点もあり、七天委員会は皆焦っていた。其処へ、ベルフェゴールが妙な提案を持ってきたのである。

マントラ軍と共に天下を取らないかというのが、その提案の具体的な内容であった。

マントラ軍には、新たなる最強の指導者、橘千晶がいる。その上、千晶は人間の要素をも持っており、コトワリを開くことが出来る。そして、最強であるが故に。絶対の法と力を信奉するという天使達も、部下として迎え入れるというのである。

ミカエルの目には、それらは極めて魅力的に映った。しかし、部下達はどうか。

会議は紛糾した。異邦の神に屈するのかと、メタトロンは吠え猛った。ミカエルにはラファエルとウリエルが賛同し、ラグエルは静観の姿勢を取った。唯一、ガブリエルだけが、冷静であった。

ガブリエルの提案により、一度千晶という悪魔を見てみると言うことになった。そして、今ミカエルは。

千晶の前にて、立ちつくしていた。

 

ようやく静天を抜け、明るくなり始めた砂漠で。戦慄を隠せず、ラファエルが生唾を飲み込む。確かに、途轍もなく強い悪魔だと、ミカエルには一目で分かった。メタトロンでさえどうにか出来るか。立ちつくすミカエルに、全てを射貫くような視線を向けながら、千晶は言う。下級の悪魔達が、長いすを運んできた。二つ。一つには五騎の天使達が掛けるための、残りはメタトロン用の大きなものであった。

「椅子を用意した。 立ちっぱなしでは疲れよう。 座れ」

「き、貴様!」

「ラファエル」

恐怖心からか、強く出ようとしたラファエルを押しとどめる。ミカエルは、本能で感じ取っていた。戦ったら、負ける。後ろであのトールが目を光らせていると言うこともあるが、もし刃を交えても、勝ち目はない。何しろ、我が強く豪腕を持ってなるマントラ軍の悪魔どもが、千晶の威光にひれ伏して、まるで完璧に整えられた軍隊のように隊列を整えているのだ。もちろん毘沙門天による組織的整備の功績もあるのだろうが、それ以上に千晶の力が強いから、この事態が到来しているのである。

もし此奴が本気になったら、シナイ塔に籠もっても凌ぎきれないだろう。そう判断したが、周囲には告げない。

ミカエルは、非常に力関係と自分の立ち位置を見抜くのに巧みである。そうやってのし上がってきた。上位の相手には媚び諂い、下位の者は徹底的に服従させた。そして機会を見ては、邪魔な者を排除していった。そうして頂点まで上り詰めたのである。情報を操作することを覚えてからは、それは更に容易になった。

今、此処でするべきは、屈服だと、ミカエルは計算を終えた。後は血の気の多いウリエルやメタトロンを、どう説得するか、だが。

マントラ軍は、力を信奉する組織だ。メタトロンを巧く使っていけば、すぐにナンバーツーの地位を確保することも出来る。奴らの政務を牛耳っていたフッキとジョカは既におらず、そのニッチを占めることが出来れば、なおさら簡単である。素早く計算を進めるミカエル。だが、相手の実力は、その予想を遙かに超えていた。

「送った書状は見ているな。 ならば、説明は不要であろう。 我に従え、天使どもよ」

「しかし、そのようなことを急に言われても。 貴方が強いのは見ていれば分かるが、神の代わりなどとは、畏れ多いにも程があろう」

「この世界に、お前達が崇める唯一神はいない。 ならば、その代わりである者がいて、何がおかしいのか」

徐々に、ペースに巻き込まれていくラファエル。ガブリエルはひたすら不安そうである。話を聞きに行くと言うことで場はまとめたが、元々ラファエルは乗り気ではなかったのかも知れない。

あるいは、唯一神ではない存在に従うと言うことに、恐怖を感じ始めたのだろうか。

つまりそれは、ラファエルが千晶の圧倒的な実力を感じ、従うことを前提とし始めているのが要因だ。ミカエルも、少し気を抜くと、すぐに飲まれそうで、冷や汗をかき始めていた。

「そもそもお前達が崇める唯一神とは、何者か」

「世界を、創造せし御方だ」

「それは違う。 世界はビッグバンによって生じた。 お前達が崇める神は、決して原初の存在ではない。 無数の宗教の神の要素を取り入れながら発展してきた、一つの神の形態に過ぎない。 世界中に広がったのは、たまたま信奉していた民族が、勢力を拡大したからに過ぎん」

ウリエルが蒼白になり、ラグエルも巨大な眼球を素早く瞬かせた。メタトロンは憤然と立ち上がろうとするところを、必死にガブリエルがなだめる。

「認めよ。 神は、人によって生み出されたのだ」

「な、ならば、我らの存在は如何にして説明づける!」

「愚かなりラファエル。 お前達もまた、人間によって生み出された存在だ。 そもそも宗教とは、人に希望を抱かせるため、社会にベクトルを定めるために作り出された、精神の緊急避難所であろう。 善行を重ねれば、神々のいる天国に行ける。 悪行を積めば地獄に堕ちる。 それらは、弱き者どもを生に向け、社会を健全に保つために機能してきた、安全弁だ」

あまりにも合理的な説明に、ミカエルは唸った。単純で、基礎的な宗教の概略説明である。だがしかし、的確すぎるほどに事象の中心点を貫いている。また、狂信者には神への冒涜ともなる言葉であろう。事実ウリエルは冷や汗を流し続けており、メタトロンに到っては今にも噛みつきそうな雰囲気だ。

「な、ならば、我らは何のためにいる!」

「簡単なことだ。 天国など存在しない。 地獄も存在しない。 ならば、我が力によって作ってやろう。 絶対的な力、つまり我そのものが正義となる世界を。 お前達は我の眷属となり、其処で我が世の春を謳歌するが良い」

すっくと、千晶は立ち上がる。砂漠が、凍り付くような威圧感が、ミカエルの全身を襲う。駄目だ。とてもではないが、取り入るどころではない。ナンバーツーどころではない。許されるのは。ただ、従うこと。この、唯一絶対神になろうとしている、最強の悪魔に。

震えが止まらない。逆らったら殺される。ただ、悲鳴を上げないようにするだけが、ミカエルに出来る精一杯であった。

「聞け! 神などいない! 世界を絶対的な力で支配し、人間を裏から操り続けてきた神など、存在しない! あるのは、人間の意識の海が作り出した、情報の固まりだ! それが多くの流れとなり、人を操ってきた! 神は死んだのではない! 最初から、存在などしないのだ!」

「う、うあ、あああ!」

「だが、神は世界に必要だ! だから、我がその神となろう! ただ一人の、絶対的な存在となってやろう! 力の帝国は、貴様らを最も忠実で有能な部下として、鬼神どもの脇に並べ、使ってやろう!」

悲鳴を上げながら、ラファエルが蹲った。メタトロンもへなへなと崩れ伏すと、混乱した様子でぶつぶつとつぶやいている。理論に屈したのではない。千晶が放っている、暴力的なまでの魔力が、意見を強引に通してしまったのだ。神学者であれば、反論は出来たかも知れない。しかし、理論は力と事実の前には、あまりにも無力であった。

余所は知らない。しかしこの世界に、確かに神はいないのだ。誰も、天使達を守ってくれはしない。

ミカエルは、いち早く頭を下げた。もはや、この状態では、交戦など不可能だ。動揺は下級の天使達にまで広がり始めている。戦っても、ひねり潰されるだけである。今まで接したどんな相手よりも、千晶は危険だ。もしも逆らうそぶりを見せたら、その時点で殺される。

今は生き残らなければならない。だから、ミカエルは土下座した。

「新たなる神の御代のため! 我ら天使、力を尽くしましょう!」

「ミカエル殿!」

「千年王国のために!」

ウリエルが頭を下げると、ラグエルもそれに習った。ガブリエルは混乱しながらも、ラファエルの頭を掴んで、一緒に下げさせる。そうしなければ、殺されると思ったのだろう。魂が抜けてしまった様子で、メタトロンが膝を屈する。

神は死んだのではない。最初からいなかったのだ。

その言葉が、ミカエルの頭の中で、ずっと反響し続けていた。

 

1、アサクサの黄昏

 

ずっと増えた支給のマガツヒを口に入れる。今回のはユリのが混じっているなと、秀一は思った。最近、少し味に区別がつくようになってきた。少し無理をしてでも、マガツヒを出して欲しいと頼むと、マネカタ達は皆頷いてくれた。彼らは知っているのだ。此処が危険であることを。

自宅を出ると、リコが待っていた。

「訓練は、もう終わったのか」

「何とか。 でも、もうやる気が無くて、苛々するッスよ」

「そういうな。 いざというときは自分の身だけでも守れるようにしてやれ」

「ラジャ、と言いたいところスけど、正直、今のままじゃあ、それさえ」

そうかとつぶやくと、秀一は城壁に向かう。

何とか、城壁だけは出来た。上空を旋回していたサナとフォルネウスが降りてくる。フォルネウスは、背中にユリを乗せていた。カズコは城壁の上に腰掛けて、足をぶらぶらさせているようだ。殆ど喋らないユリは、滅多に声を聞かせてくれない。

「最近ユリちゃんはのー。 随分積極的になってのう。 向こうが見たいって、儂に行ってきおったわい」

「そうか、何よりだな」

基本的にフォルネウスは皆に優しいが、孫を思わせる子供は特に可愛くて仕方がないようだ。だが、今、街は冷え切っている。子供でさえ、あまり遊ぼうとしていない。そんな中、マイペースなユリと、我道を行くカズコだけが、フォルネウスと遊んでくれるようだった。

「呼び出しか」

「また何かと戦うのかしら?」

「いや、今回は違う」

サルタヒコとアメノウズメに、軽く状況を説明。城壁がずしんと揺れたのは、ニーズヘッグだ。足で何度か、砂を決められたリズムで叩く。ニーズヘッグは待機了解と、砂を揺らして返してきた。

輝きを変えるカグツチだけが、以前のままだと、空を見上げた秀一は思った。

ミフナシロにフトミミがこもり始めてから、どれほど時が流れたのだろうか。アサクサでは時が止まったかのように、物流も、経済も、何もかもが沈滞してしまっていた。

既にマネカタ達の流入は止まってしまっている。人口は完全に頭打ちになっており、全てにおいて閉塞感が強くなり始めていた。誰もが気付いているのだ。間もなく、マントラ軍が、攻め寄せてくることに。アサクサは、隠れ里と言うには大きくなりすぎた。隠れ里としてなら回せた全てが、上手くいかなくなってしまった。

勇と刃を交えたあとアサクサに戻ってきた秀一は、死臭にも似たものを感じた。マネカタ達は凶熱も冷めてしまったようで、悪魔に対する敵意を霧散させてしまっている。以前、人間だった時、テレビでどうしようもない内戦下に生きる貧民を見たことがある。こんな目をしていた。何もかもを諦めて、ただ死を待つばかりの目だ。

今まで悪魔から主権を奪おうとしていたマネカタ達でさえ、意気消沈してしまっている。彼らは分かっていたのだ。マネカタだけの世界が安定しているからこそ、悪魔に対して多数派を気取れていたことに。その足下が非常に不安定だと言うことに気付いた今、もはや此処は楽園などではありえなかった。

サイク率いる若者達も、悪魔への敵意を向けなくなってきていた。そればかりか、組織が崩壊に瀕していると、カザンから秀一は聞いた。一時期はマネカタ同士の内紛さえ噂されたというのに。哀れなものである。サイクは仲間達からも白眼視され、最近は一人でいることが多いという。

フトミミは、まだ出てこない。予言の力も結構だが、こうなるくらいなら、最初からずっと外にいれば良かったのである。瞑想にこもり始めた時期が最悪であった。シロヒゲを始めとするまだ諦めていない何人かが引っ張り出そうとしているが、上手くいってはいなかった。

だから、秀一は幹部達を集めているのだ。無理にでも、フトミミを引きずり出すために。

秀一としても、まだアサクサに滅んで貰っては困る。拠点としては非常に便利だし、何よりマガツヒの供給源として最高のものだ。全員を守れるとは、最初から思っていない。ただ、弱者が蹂躙されるのを、見ているのは不愉快だ。ボルテクス界であっても、許して良い事ではないはずである。

秀一のそんな考え方を更に発展させている琴音だけが、今必死になっている。痛々しい姿だった。来た。クレガとフォンを連れた琴音は、やつれてきていた。髪にも艶が無くなり始めている。後ろには、ティルルもいた。大きなミミズのような姿をした古代の龍は、何だか悲しそうだった。アサクサの雰囲気を、敏感に感じ取っているのかも知れない。

「秀一君、私を呼びましたか?」

「すまない、集まって貰って」

「会議では言えないことですか?」

「マネカタ達は、結局フトミミの言いなりだ。 賛同するのは、カザンとシロヒゲくらいだろう」

フトミミは、瞑想するといった。

そう言ったからには、それが此処の法だ。緩やかに死のうとしているこの街の、唯一の法。それがフトミミなのだ。

「そうなると、話し合いの議題は、やはりフトミミさんですね」

「ああ。 マネカタ達は、このままでは自滅だ。 ある程度の政策が決まったとはいえ、事態は当初の予想を遙かに超えていた。 今、フトミミが出てこなければ、アサクサは失血死するぞ」

琴音は考え込む。

この娘は、若干思考に柔軟性を欠くが、多分頭の出来は秀一の上を行っている。多分千晶とも良い勝負が出来る程である。だから、意見を聞く意味でも、今回は来て貰ったのだ。

腕組みしたフォンの下で、クレガが酒瓶を口から離した。飲んだくれのこの老妖精は、最近は酒の量が増えて仕方がないらしい。この状況下では無理もない話である。マネカタの訓練に当たっている者全てが共有している感想だろう。

「同感だな。 フトミミが手綱を取っていた内は、この街ももうちっとはましじゃった」

「クレガの言うことにも一理ある。 だが、マネカタ達の闘争心の無さにも問題がある」

フォンが合わせてぼやく。こんな時だからこそ、街を守ろうと思えばいいものを。マネカタは闘争心が足りなくて、そういう風に思考を持っていけない存在らしい。度が過ぎた平和主義もある意味難儀だなと、秀一は思った。

「もしも、フトミミさんが、コトワリを開くことが出来たのならと思っていたのですが、秀一君の話を聞く限りは無理のようですね」

「難しいな。 コトワリを開く条件は、この前に伝えたとおり、制約が多い。 その上、クリアしなければならない関門もだ。 その上、コトワリを開いたところで、その後に別のコトワリを、恐らくは実力で打破しなければならない。 予知の力を持つとは言え、元々戦闘向きではないフトミミに、それが出来るのだろうか」

「そう、ですね。 秀一君の発言が正しいと、私も思います」

マネカタのコトワリの可能性を考えていた琴音も、今まで戻る度に提示してきたコトワリを開く条件の厳しさには、折れざるを得なかった。固い頭だが、どうにか切り替えてくれたのは嬉しい。しかしこの娘は元から非常に頑固だ。説得は難しいと秀一は考えていたのだが、上手くいってほっとした。

「それで、具体的にはどうするかだが」

「強引にミフナシロから引きずり出しても、フトミミさんは政務を執ったりはしないでしょう」

「そう、だな。 出すのは決定だとして、その後どうするかを考えないとまずい」

「もう一つ、相談したいことがあります」

質問を振られた琴音が、今度は別の提案をしてくる。先を促すと、この街の事実上の守護者である娘は、より深刻な話をした。

「もし此処がマントラ軍に襲撃を受けたら、支えきれません。 その場合、マネカタ達をどう避難させるかです」

サナが口笛を吹いた。性格が悪い。リコはさっと蒼白になる。思い出したのだろう。マントラ軍にとって、マネカタが何であるか。そして自分も、それに荷担していたことを。奴隷ならばまだいい。マガツヒを絞るために、積極的に虐待しなければいけない奴隷。それがマネカタなのだ。

秀一の見たところ、リコの心は揺れている。彼女はマネカタ達に感情移入していて、特に子供のマネカタをかなり可愛いと思っている節がある。もちろん好意を表立って見せないし、愛情表現は不器用だが、分かる。子供の姿を視線で追っていたり、何かあると真っ先に駆けつけたりといったことがよくあるのだ。

最初に発言したのは、意外にもサルタヒコだった。いつも寡黙なこの男は、自分の専門分野と思ったからか、饒舌になる。

「それは、どういう避難を目指す。 弱者を先に逃がすのか。 それとも、労働力や戦力になりそうな連中を温存するのか」

「前者です」

「それならば、さほど難しくない。 戦闘部隊が囮になっている間に逃がせばいい。 周囲をくまなく囲まれても、アマラ経路なら逃がすのは難しくはないだろう」

護衛のエキスパートからは、そんな極まっとうな提案が為された。勇は秀一に敵意を剥き出しにしていたが、ムスビはしばらく身動きが取れない。スペクターもいない現在、アマラ経路は安全地帯だ。その上、仮に敵が待ち伏せしていても、入り組んだアマラ経路の全てを抑えるのは不可能だ。

ただ、今の内に時間を見て、近辺のアマラ経路の地図を整備しておく必要はあるかも知れない。秀一の記憶だけでは、限界がある。

「なるほど、理にかなっているな」

「分かりました。 その時は、私が囮になって、皆を逃がす努力をします」

「白海さん、無理はするな」

「分かっています」

さらりと言ったが、多分琴音は場合によっては死ぬ気であろう。それを察したフォンとクレガの顔色が変わる。彼らは琴音と縁が深く、関係も長い。クレガに到っては、酒瓶を取り落としそうにさえなっていた。

「いざというときの、割り振りも決めておきましょうか」

「いや、それは臨機応変にやるしかないだろう。 マネカタ達に徹底しても、どうせパニックを起こすだけだ」

「随分強くなりましたね」

「そう、だな」

秀一の口から出た現実的な言葉に、琴音は少し寂しそうに笑った。

「そうなると、二手に分かれた方が良いでしょう。 まずフトミミさんを外に出す役割ですが」

「それは白海さんに頼めるだろうか。 俺はアマラ経路を調べておく」

「分かりました。 クレガ、フォン。 ティルル。 彼方に。 少し作戦を練りましょう」

一旦、解散する。此方を不審そうに見ているマネカタもいるが、何もしては来ないし、聞き耳も立てない。自分の運命を諦めきってしまっているのだと、秀一には思えた。

弱者にも生きる権利はある。というよりも、どんな存在にだってある。しかし、ボルテクス界は冷酷だ。生きる気を無くしてしまった者は、容赦なく淘汰されてしまうだろう。かっての世界では、人間は社会を作ることによって、その法から逃れてきた。世界もある程度はそれを許容した。

だが、ボルテクス界は違う。この世界では、コトワリの礎にならない存在は、基本的に価値を認められない。世界そのものが、積極的に排除に掛かってくる。そうだとしか、秀一には思えなかった。

聖の遺品となってしまった疑似アマラ輪転炉から、アマラ経絡に潜る。アサクサの地下は特に複雑になっていて、少しもぐるだけで洞窟のようになっていた。偵察代わりに全員に散ってもらい、効率よく地図を作る。いざというときを考えてツーマンセルを組むが、その必要さえ無さそうな雰囲気だった。

最近は秀一の頭も明らかに前よりも良くなってきていて、さっと見ただけで記憶を焼き付けることが出来るようになっている。多くのマガツヒを喰らった影響だろう。リコと組んだ秀一は、念入りに辺りを見て回りながら、言った。

「いっそのこと、今の内にアサクサを地下に移してしまうのも良いかもしれないな」

「無理ッスよ、いくら何でも」

「冗談だ」

まさかリコに突っ込まれるとは思わなかった。何個か目の通路を曲がった時であったか。リコが、後ろから声を掛けてきた。

「榊センパイ」

「何だ」

「あたし、マントラ軍が来るまでは、此処にいようと思うッス。 でもマントラ軍が来たら、ちょっとどうするか、自分でも分からないッスよ」

「ああ、それで構わない」

「……勝手で、申し訳無いッス」

「いや、難しい立場なのに、此処までついてきてくれただけでも充分だ」

リコは、元々トールに言われて秀一についてきたのだ。見聞を広めるために。何だかんだで寝食を共にしては来たが、此方と同じくらい、トールにも信頼と忠誠があるはずだ。だから、最後に去就を選ぶのは、リコ本人であり、誰にもそれを咎める権利などはない。

サルタヒコとアメノウズメもそれは同じである。ただ、あの二人は、秀一を妙に気に入っているようである。いざというときには、ついてきてくれるような気がする。変な話だが、そういう感触があるのだ。不思議な感覚は、カズコに対しても抱いている。どちらにしても、彼らに対する不安感は、あまりない。

十個目の曲がり角を調べた後、一旦戻りに掛かる。何カ所か、砂漠に出られる場所も見つけた。近場では、時々使っている洞窟などに。中にはニーズヘッグの巣穴につながるものもあった。ただ、多くのマネカタを効率的に逃がすには、これだけではとても足りない。サナ達が調べていた分を合わせても、少し物足りない。後数回は調査をしないといけないだろう。

だが、その時間があるのか、不安だ。それに、調査をしている時に、アサクサに攻撃があると、目も当てられない。それくらい、状況は逼迫していると言えるのだ。

一旦地上に出る。幸い、アサクサはまだ其処にあった。

だが、情報を集めに外に出ていたカザンの部下が、秀一の前にいた。蒼白になっていることからも、ろくでもない事があったのは目に見えている。彼は、秀一の顔を見ると、ぺこりと頭を下げた。

「人修羅さん、大変です」

「どうした」

「天使軍が、マントラ軍に吸収されました! 戦いもせず、全面的にです! 七天委員会はそのままマントラ軍の幹部となった模様です!」

「本当か、それは」

非常にまずい事態だ。元々、マントラ軍はアサクサを敵視している。今まで動かなかったのは、ニヒロ機構との戦力差を警戒してのことだ。だが、これで、戦力差は埋まった。すぐには旧マントラ軍と天使軍で連携が取れないとしても、総合的な実力はほぼ五分といえる。しかもマントラ軍を率いているのは、千晶だというではないか。あの火の玉のような気性の持ち主が、動かないはずがない。

すぐにでも、アサクサに攻め込んでくる。しかも、圧倒的な大軍を率いて、だ。

「まずい。 フトミミを力尽くでも引っ張り出して、防衛と、逃走の計画を練らなければならない」

右往左往するマネカタを、カザンの所に行かせる。

どうやら、このマネカタの街が滅びる時が来た。可及的速やかに手を打たなければ、すぐにでも、である。しかも今この街は危機的な状態にある。元々滅びる街だった。それに、マントラ軍がとどめを刺しに来る。

自身は、ミフナシロに走る。今琴音が説得をしているはずだが、それどころではない。事は一刻を争う状態だ。いつマントラ軍、いや天使が空を覆い尽くしても、おかしくないのである。

すり鉢状になっているアサクサの街を駆ける。時々、マネカタが此方を見ていた。まるで無関心で、敵意も好意も感じられない。

この街は、既に死んでいた。

 

ミフナシロに直接入るのは初めてだった。湿地帯になっているミフナシロの周囲には、もっとも強くフトミミに忠誠を誓っている、狂信的な者達があつまり、壁を作っていた。彼らだけは、信仰に基づく凶熱で、自分を支えていた。

既に琴音は通った後らしい。だが、秀一はどうしても通さないのだと、マネカタ達は言い張った。必死に壁になろうとする彼らを蹴散らすのは簡単だが、それをするのは流石にためらわれた。リコも同じようである。狂信者の中には、まだ子供のマネカタもいる。彼らの持つ槍の穂先は、必死に秀一達を阻止しようとしていた。

「めんどいな。 シューイチ、蹴散らしちゃえばいいじゃん」

「そうも行かないだろう。 彼らは命を賭けて此処を守っているのだ。 その意は汲みたいところだが」

しかし、マネカタ達は話を聞こうとさえしない。サナが脅しても退かないのだから、彼らの覚悟は本物だと言うことだ。どけ、どかないとしばし押し問答。やがて、秀一は折れた。

「多少の荒事は仕方がないか。 悪いな、説得に応じないのなら、強硬手段を執らせて貰う。 今は時間がないんだ」

サナから習った眠りの術を、辺り一帯に掛ける。眠りの術とは言うが、強制的に意識を奪うので、実質的には気絶させるのと同じだ。ばたばたとマネカタ達が倒れていって、道が出来た。秀一の熟練度では、中級の悪魔を眠らせるのがせいぜいだが、それでもマネカタ相手には充分だった。

窒息しないように、うつぶせになっているマネカタをひっくり返しながら、湿地帯を歩く。水自体が殆ど無いこの世界で、湿地帯は珍しい。靴の裏に吸い付いてくる泥の感触が懐かしかった。一番奥には祠が口を開けていて、しめ縄が着けられていた。なるほど、この中が聖地だというわけか。

入り口にいた一番屈強そうな二人をサナが眠らせると、もう障害はなかった。しめ縄を調べては貰ったが、魔法的な結界としては機能していないと言うことである。足を踏み入れようとした時、後ろから声が飛んできた。

「人修羅殿!」

「カザン」

「どうして、ミフナシロに踏み込んだ! 此処は聖地だぞ」

「今は説明している時間がない。 フトミミを一刻も早く此処から引っ張り出して指揮を執って貰わないと、アサクサが滅ぶ」

無言でサルタヒコがカザンに立ちふさがろうとするが、秀一は視線でやめるように促す。洞窟の中に踏み込む。随分ひんやりした空間だった。奥から、琴音の声がする。珍しく、怒っているようだった。

一緒にカザンも来た。秀一がフトミミに妙なことをしないように見張るつもりなのだろう。この男は忠義も篤く、正義感も強い。だが、こんな世界では、それらはただ悲しい役割しか果たさないような気もする。ましてや、カザンは秀一を高く評価している、珍しいマネカタの一人だ。様々な葛藤が渦巻いて、気が気ではないのであろう。

意外に深い洞窟である。所々に松明があり、闇の中で存在感を主張していた。岩壁はぬるぬるしているが、苔の類は無い。アマラ経路と違い、マガツヒも飛んでいないし、そうでいないと周囲が把握できない。天井から数滴が降ってくる。小さな川のようになっている場所も、何カ所かあった。

螺旋のようにうねっていた洞窟を、数分も下っただろうか。下り坂が止まる。ひんやりとした冷気が、前から吹き付けてきた。

どうやら此処が最深部らしいと、秀一は飛んできた水滴を払いのけながら思った。左右を見回す。琴音の声が反響していて、位置が分かりづらかったからである。それにしても、あの琴音がこうも激高するとは。近付くにつれて、琴音の怒りがはっきり分かってくる。琴音は大きな声を出すと言うよりも、静かに怒る。その怒りは深く、辺りを震わせるようだった。

「何度でも言います。 このままでは、アサクサはマントラ軍の圧力で、戦わずして自壊します。 いや、既にもう、街としては死んでいます! それは、貴方が此処に籠もっているせいです!」

わんわんと、地下の空間に琴音の声が響いた。いつも真面目にアサクサを守り、誰よりもマネカタを、いや弱い者達を守ることに心を砕いてきた琴音が。マネカタ達の希望となればと秀一が連れてきたフトミミに、悲しみと、やるせない怒りを叩きつけている。フトミミは、どう応じている。そう思って秀一がホールに入ると、琴音は激した感情を沈めるためか、水の術を使って、自分で浴びていた。

一番深い場所だった。泥の聖地と言うことだから、もっと湿ったところを創造していたのだが。辺りは沼になっていて、その中央部に乾いた土地がある。水は思ったよりも遙かに澄んでいるようだ。

その中央の茣蓙に、フトミミは正座していた。護衛の姿は、ない。

天井は二十メートルほどもあろうか。奥行きはその十倍以上ありそうである。沼の奥の方には流れがあるようで、水音がしていた。思ったよりも遙かに深く降りてきたわけだ。

美しい空間だが、生命の気配はない。やはりこの世界には、悪魔と人間、それにマネカタしかいないらしい。

秀一は、切り返しを期待して、フトミミを見た。獲物を狙う蛇のようにゆっくり尻尾を揺らしている琴音に、フトミミは応じる。

「だが、駄目だ。 私は何があろうと、マネカタの未来のために、コトワリを開かなければならない。 此処は、出ない」

「貴方はっ……!」

「フトミミ、状況が変わった。 すぐに此処を出て貰いたい」

琴音の肩を叩いて、前に出る。髪が濡れている琴音が振り向くと、随分綺麗だった。額にある第三の目にも見える模様がうっすら輝いている。だが、今は、殆ど心が動かない。性欲を感じたことは、ここしばらく無い。美しい異性にときめくことも、今後は恐らく無いだろう。

「秀一君?」

「落ち着いて聞いて貰いたい。 マントラ軍が、天使軍を吸収合併した。 しかも、戦力を温存したままだ。 七天委員会が真っ先に降伏したらしく、下っ端の天使達もそれに従った。 この意味が、分かるか」

見る間に琴音が真っ青になる。だがフトミミは、首を横に振るばかりだ。

「いや、私に戦の事はよく分からない」

「ならば分かり易く言う。 マントラ軍は、今ニヒロ機構にも匹敵する戦闘能力を手に入れている。 全盛期以上の実力だと思っていい。 いや、今こそがマントラ軍の全盛期だと言ってもいい。 ニヒロ機構が対外進出を控えている上、国内の要塞がことごとく無事である現状、導き出されるのは。 マントラ軍が、全力でアサクサを攻撃してくるということだけだ。 敵兵は最低でも二万、下手をすると五万を超えるぞ」

「ご、五万! 最低でも二万だと!?」

目を剥いたカザンが、目に見えて狼狽する。一万でさえ支えるのが無理だと試算が出来ているのに、敵は航空機動戦力をも確実に含んでいる上、最低でもその倍以上だ。フトミミは目をつぶると、静かに言った。殉教者という言葉が、秀一の脳裏に浮かんだ。

「ならば、私は逃げ切れまい。 私の命が、間もなく尽きることは分かっていた。 だから、コトワリを開いて、せめてマネカタ達に未来を作ろうと思っていたのだが」

「貴方の信念は立派だ。 覚悟も立派だと思う。 だが、今貴方が動かなければ、マネカタは本当に全滅するぞ」

「秀一君の言うとおりです。 フトミミさん、一刻も早く、マネカタ達を逃がす指揮を執ってください」

「予言が出来るって言うのなら、マントラ軍の動きも、早めに察知してくれれば助かったのにね」

しらけきったサナの声が、重く響いた。全くもってその通りだからだ。文字通り、ぐうの音も出ない正論である。フトミミは立ち上がると、首を鳴らした。流石に何か、思うところはあったのかも知れない。

「分かった。 どうやら、もう選んではいられないようだな」

 

ミフナシロを出ると、シロヒゲが古参のマネカタ達を連れて駆けつけてきていた。皆、会議に出ている者ばかりだ。周囲の折重なる意識を失ったマネカタ達を見て、シロヒゲは流石に驚いたようだった。

「人修羅殿、一体これは、どうしたのですじゃ」

「緊急事態だ」

「緊急事態ですと! 一体何事なのですじゃ」

「マントラ軍が攻め込んでくる。 しかも、天使軍もそれに加わる可能性が高い」

そうフトミミが言うと、シロヒゲは卒倒しそうになって、慌てて秀一が支えた。無理もない話である。マントラ軍だけでもどうにもならないのに、残虐さでは右に出るもののない天使軍までもが、それに加わるというのだ。

「そ、それで、我らはどうすれば」

「弱い者、戦えない者を、すぐに避難させるんだ。 場所はアマラ経路。 聖が残していった、疑似アマラ輪転炉を使う。 そのまま動かしても、パニックになる。 一区画ずつ、順番に避難をさせる。 軍も動かして、手伝いをさせるんだ」

アンドラスの病院にも、マネカタを走らせる。真っ先に避難が必要な者が、一番多く集まっているからだ。話を聞いたアンドラスは、すぐに飛んできた。軍にはフォンとクレガが走り、緩慢ながらも第一級防衛体制を整え始めている。マネカタが走り回る中、この街の医療そのものである悪魔は、秀一に食ってかかる。

「人修羅、無茶なことをいいおって! 病院には簡単には動かせない患者も多くいるんだぞ!」

「難しい状況だが、頼む。 急がないと、怪我人も病人も皆殺される」

「分かってる! これでもマントラ軍の恐ろしさは身に染みておるわい! だがな、どうしてこうなる前に、もっと早く手を打てなかったんだ!」

それは秀一に言われても困る。

元々秀一は、頼まれて此処で幹部のまねごとをしていたのだ。そして、雇われている分以上の仕事はしてきたつもりである。琴音もそれは同じだ。元々責任感が強いアンドラスは、この街にのめり込みすぎたのかも知れない。

むしろ責任を問われるべきは、この街を緩慢な死に追いやってしまったマネカタの首脳陣であろう。特に、再三の求めにも応じなかったフトミミの責任は大きい。だが、今それを言っても仕方がない。フトミミは泰然と構えて、皆に指示を出している。ようやく、避難計画が動き始めていた。

一旦アマラ経絡に病人や弱者を避難させるとして、問題はその次だ。脱出経路は何カ所か見つけてはいるが、脱出したところでどうなるというのだ。アサクサはもう確実に滅ぶと見て良い。コトワリが開かれ始めている今、マネカタのコミュニティを一から作っている時間は、残されてはいないだろう。

精神崩壊から少しずつ回復しつつはあるが、重度の幼児退行を起こしてしまっているクロトが、視界の端に映った。まだろくに言葉も喋れず、アンドラスになにやら訴えている。哀れなものだと、秀一は思った。琴音はもっと辛そうに、クロトを見つめている。

これから、大量の弱者が殺される。

マントラ軍の、理念に従って。

偵察に出ていたマネカタが戻ってきた。その表情を見て、秀一は悟る。ついに、来たのだと。

予想よりも遙かに早い。流石は千晶と言うところか。秀一も感じた。遠くより、圧倒的な大軍勢が近寄ってくる気配がある。

受けた報告をまとめたらしい琴音が、歩み寄ってきた。

「秀一君」

「分かっている。 来たんだな」

「はい。 敵の先鋒約5000が、姿を見せました。 この規模からいって、最低でも30000程度の兵力は来るでしょう」

惨劇の時が、幕を開けた。

 

2、攻め寄せる鬼

 

砂漠を蹴散らすようにして、マントラ軍の大軍勢が押し寄せてくる。城壁に登った琴音は、その威容に戦慄した。一矢も乱れぬ行軍とはこのことだ。毘沙門天によって組織化が行われているとは聞いているが、これほどとは。

敵兵の中には、大量の攻城兵器も見て取れる。真っ青になっているマネカタ達に、叱咤する。

「応戦準備! 味方を逃がすために、少しでも時間を稼ぎます!」

「で、でも! あんなにたくさんの悪魔に、勝てる訳がない!」

「訓練を思い出しなさい。 あの数ならば、まだ防ぐことは可能です」

そう、あの数ならば防ぎきれる。敵はまだ先鋒しか姿を見せていない。5000程度の相手ならば、何とか防げると試算は出ているのだ。

しかし、敵には後続がいること疑いなく、その戦力は先鋒の比ではないはずである。秀一から聞いている千晶という敵将の頭脳はかなり切れる。兵力の逐次投入をして、無駄に戦力を失うような愚行はしないだろう。

城壁に登ってきたフォンが、その特徴的な単眼で敵軍を見据える。彼も元はマントラ軍だ。だが、敵に戻ろうという意思がないことは、分かっている。直接聞かなくても、ずっと一緒に過ごしてきたのだ。読み取れる。

「琴音、どうする」

「私が軽く一当てしてきます。 このままでは、あの数の敵さえ支えきれないでしょうから」

「無理はするなよ」

「大丈夫です。 クレガと一緒に、少しでも守りを固めてください」

振り返ると、ティルルも他の避難民と一緒に避難をしているのが見えた。これで安心だ。避難自体は、秀一に任せてある。琴音が時間を稼ぐくらいの間は、持ちこたえてくれるはずだ。

ヒステリックなわめき声が聞こえた。困惑する兵士達に取り押さえられているのはサイクだった。目の下に、隈ができている。サイクは琴音を見ると、わめき散らした。

「お、お前のせいだ! お前が、お前が来たから、マントラ軍が攻めてきたんだ!」

「フトミミさんの手足となって働いていた貴方の台詞ではありませんね。 戦わないのなら、邪魔です。 死にたくないのなら、さっさと何処となりへ逃げなさい」

翼を拡げると、城壁から琴音は跳躍。風に乗った。後ろではまだサイクが叫いていたが、もう気にはしなかった。

刀は抜きはなっている。みるみる、マントラ軍の大軍勢が近付いてくる。一騎で突入してくる琴音に、流石に彼らも面食らったようだった。だがそれも一瞬のことである。ニヒロ機構でも、マントラ軍でも、対上級悪魔の戦術くらい徹底されているのだ。

すぐに、無数の矢が飛んできた。訓練を受けているだけあって、相当な密度だ。左右に素早く旋回しながら、唸りを上げて飛んでくる矢をかわす。何発か、体を掠める。だが、大量のマガツヒを喰らって強化した体と魔力だ。少しの矢くらいならびくともしない。

先頭に立っている、鎧を着込んだ鬼神が見えた。地面すれすれに高度を落とすと、一気に距離を詰める。風圧に当てられて、砂が大量に舞い上がる中、琴音は刀を構え直す。向こうも、上段にバトルハンマーを構え上げた。牛を一撃で粉砕できそうな、巨大な槌だ。だが、琴音には、妙にスローに見えていた。

一閃。交錯。

後ろは見ない。袈裟から真っ二つにした感触。それだけで充分だ。密集して、槍を突き出してくる敵兵にそのまま突っ込む。斬る。薙ぐ。斬り伏せる。槍の穂先が吹っ飛び、盾が砕け、鎧ごと敵を両断する。着地。わっと敵が集まってきた。槍を構えて、全方位から突き込んでくる。

一瞬早く、跳躍。ため込んでいた冷気の術を放つ。砂漠を突き破って現れた巨大な冷気の固まりが、敵を十体以上、まとめて吹き飛ばした。出来る、僅かな隙。無数の攻撃術が飛んできて、横殴りに直撃した。

濛々たる煙を突き破って、躍り出ると、流石の剛胆なマントラ軍兵士達も青ざめるのが分かった。

ふと、強い気配が上に。横っ飛びに、真上から振り落としてくる一撃を避けた。風圧に飛ばされて、しかし翼を拡げて持ちこたえる。砂漠に、十メートルほどもあるクレーターが出来ていた。直撃を受けたら、ただでは済まないと、琴音は思った。

「もう、将官が出てきましたか」

「今のをよく避けたな」

クレーターの中心で、大柄な鬼神が立ち上がる。周囲の巨人がごときマントラ軍兵士達の中でも、ひときわ目立つほどの巨体だ。

情報にあった姿。確か、増長天。今までは守備を専門としてきたはずの悪魔だが、今回は前線に出てきたという訳だ。ふと左右を見ると、兵士達が少し遠巻きにしていた。戦いに巻き込まれて、無為に戦力を削がないように、訓練されているのだろう。

まだ、少し敵の戦意と兵力を削っておきたい。だから、戦う。少し浮いたまま、琴音は剣を下段に構えた。

「マントラ軍将官、増長天だ。 貴様は」

「サマエルの琴音です」

「ほう、貴様が邪神サマエルか。 噂に違わぬ使い手よな。 その様子では、まだまるで本気は出しておるまい」

本当はまだ温存していたかったのだが、増長天が出てくるとなると、そうもいかないだろう。此処で将官を仕留めておけば、マントラ軍の士気を大いに削ぐことが出来るという事情もある。

着地。飛行には、それなりに力を使うからだ。それに琴音は、地上戦の方でより多くの経験を積んできている。増長天も琴音が本気になったことを悟ったらしく、目の色を変えてきた。全力で来るつもりだ。

マントラ軍が出来た直後からいる古豪である。喰らったマガツヒの量は計り知れない。間合いを計りあう。いつの間にか、両者の距離は、琴音の歩幅にして七歩にまで接近していた。

最初に仕掛けたのは、増長天だった。

 

砂漠をふらついていた影がある。片手を失った、漆黒の鬼神。かってマントラ軍を追放され、仲間の全てをその時失った、オンギョウギであった。

片手を失ってからと言うもの、オンギョウギは正気を完全に失い、ただマガツヒを求めて日陰をはいずり回る、鼠かごきぶりのような存在になりはてていた。戦いを恐れるようにもなっていて、街にも近寄ることはなかった。いつもはアマラ経路に潜っていて、たまに砂漠に出てくる。そんな変則的な生活を送っている内に、目も満足に見えなくなり、耳も聞こえなくなりつつあった。

だから、本能で、それを察知した。

俺の腕を食った奴が、近くにいる。

反射的に身を伏せた。恐怖が全身を蝕む。震えが止まらない。

なんと言うことだ。前に腕を食われた時と、比較にもならないほどに、力の差が開いてしまっている。

見つかったら殺される。潰されて、食われる。悲鳴を上げながら、オンギョウギは後ずさった。そして、一目散に、アマラ経路に逃げ込める穴に向かった。だが、立ちはだかった者がいた。

「何だ、貴様はオンギョウギではないか」

「ひいっ!」

悲鳴を上げてしまう。その声は、その気配は。

忘れる訳がない。オンギョウギがマントラ軍を追い出される切っ掛けになった存在。そう、トールだ。

頭を掴まれ、つり上げられる。もがくが、離してもらえない。もう言葉にならない悲鳴を上げて、ただひたすらに許しを請う。かって、地位が近かったことなど、脳裏から吹っ飛んでいた。

「俺の弟子が、随分腕を上げたものだ。 お前も見るが良い」

「い、や、いや、だ、やめて、く、れ」

砂漠に、顔面を叩きつけられる。

「情けない奴に成り下がったものだ。 地下生活に適応するために、感覚まで退化したようだな。 かって俺を蹴落とそうとした気概は、もはや欠片も残ってはおらぬようだな」

両目を見開き、見ろと言われた。砂漠から顔を上げると、ぼんやりと見えてきた。倍以上も身の丈がある鬼神に挑もうとしている、サマエルの姿が。恐怖が、オンギョウギの全身を縛り上げる。もはや、目を逸らすことが出来なかった。

サマエルが、斬りかかってきた増長天の一撃を、見事にいなす。二度、三度と真上から降ってくる剣撃を、かわし続ける。しかも踏み込んで、腹に、足に、一撃を返していく。まるで剣舞でも見ているかのような鮮やかさだ。

「ほう。 これは腕を上げたものだ。 千晶と戦ったら、さぞ見物になることであろう」

トールが楽しげに笑った。オンギョウギは、まだ目を離せない。

何かが、心の奥底から沸き上がってくる。それは恐怖とは別の感情であった。

 

術を唱える暇などない。多少斬られようと、まるで増長天はびくともしない。此方は一太刀でも浴びればそれで終わりだと言うことを考えると、決して有利とは言えない。増長天の剣は鋭く重く、軽い一撃を入れるのがやっとだという事情もある。

かといって、距離をとって戦おうという気にはなれなかった。此処で明確な勝利を掴んでおかなければ、味方の士気にも関わる。まだアサクサには秀一がいるとはいえ、琴音が足止めされている間に別方向から攻撃でもされたらかなり不味い事態になる。幸い、此方は補給を気にしなくても良い。それが、多くの足かせの中で、数少ない良要素であった。

増長天は肉体に自信があるのか、実に大胆に間合いを詰めてくる。大上段に剣を構えた。此方の一撃に、耐え抜く自信があると言うことだ。ならば、此方もそれに答えなくてはならないだろう。刀を鞘に収める。そして、低い体勢のまま、間合いを詰める。

「チェストォっ!」

迸る、増長天の雄叫び。裂帛の気合いと共に、渾身の一撃が降ってくる。刀を鞘ごと振り上げ、一撃を斜めにして受け止めながら、前に走る。火花が散り、上からの圧力に動きが鈍りながらも、琴音は間合いを詰め切った。鞘から手を離し、体を半回転させて、居合いの要領で剣を抜き放つ。

横一文字に、腹を薙ぎきった。

鮮血が噴き出すなか、相手の膝を踏み、開いている左手を、腹の傷口に。わずかに動きが鈍る増長天だが、掴みに掛かってくる。目を閉じ、呼吸を入れて。一息に、全力での突きを叩き込んだ。体を振動させるようにして、一瞬にて二度の突きを。

衝撃が、増長天の全身に広がる。それが内部で反響しあい、破壊力を数倍に引き上げる。傷口に叩き込んだことで、威力は相乗。

飛び退いた。後ろ向きに、増長天が倒れ、砂漠に地響きが広がった。口から大量に吐血しながらも、増長天はなおも体を起こそうとする。内蔵が殆ど壊れたはずなのに、呆れた精神力だ。

「寸勁、いや、こ、これは浸透勁か! き、貴様、中国拳法まで出来る、のか」

「そちらは二の太刀いらずの示現流ですね。 剛剣、見事でした」

腕にはまだしびれが残っている。鞘へのダメージは深刻で、同じ一撃をもう一度は防げないだろう。今のも、危なかった。受けるタイミング、呼吸、力の入れ方、全てをゼロコンマゼロゼロ秒ミスしていたら、真っ二つにされていたのは此方だった。

浸透勁。相手の装甲を無視し、内部に打撃を浸透させる、中国拳法の秘技の一つ。実際には、以前は実用性が低くて、使い物にならなかった技だ。多くのマガツヒを喰らう過程で、様々な技術を取り込んで、実用レベルにまで引き上げた。トールに教わった技の幾つかは、こうして実用化した。今ではカラリパヤットの奥義だろうが少林寺拳法の秘技だろうが繰り出せる。もちろん、人間時代に、徳山先生ことトールに教わったからだ。最も、繰り出したところで、今のトールの練度には比較するべきもないのだが。

逆に言えば。生身の状態でこれだけの技を繰り出せてなお、我流にこだわっていたトールの凄まじさがよく分かる。あの人は、何処までも強さを求め続けていたのだ。もはや何処に行っても、敵がいないというのに。

「増長天様を守れ!」

「かかれえっ!」

副将らしい鬼神が叫び、一斉に兵士達が武具を振りかざして躍り掛かってきた。額の汗を拭うと、跳躍。術を唱える時間は、充分にあった。マガツヒは多少浪費しても構わない。だから、大きな術を躊躇無く使う。

詠唱完了。無数の矢が、攻撃術が飛んでくる。肩に矢が突き刺さった。炎の術が何度か直撃した。だが、構わない。目を見開いて、両手を前に突き出す。増長天が、此方を見て、満足して笑みを浮かべているのが分かった。それを唯一の救いとして、琴音は術を放つ。

「メギドラ!」

時を切り取ったような、僅かな空白の後。砂漠に苛烈ながらも美しい、爆発の光が咲く。密集した敵が、防御術を重ねて展開した。だが、最初から狙いは敵の殲滅ではない。分厚い防御術と、メギドラの閃光が重なり合い、相殺する。辺りを爆圧が蹂躙して、一瞬の無が生じる。その光の隙間に、琴音は翼を狭めて特攻した。

倒れている増長天に、とどめの一撃を叩き込む。急降下しつつ、喉に膝蹴りを叩き込んだのだ。増長天が、マガツヒとなって散った。その全てを、琴音は一気に吸い込んで、自分のものとした。

唖然としている鬼神達の間から、今度こそ脱出するために飛び去る。飛びながら、肩に刺さった矢を引き抜いた。増長天の思いが、伝わってくる。かっては人間だった鬼神の過去が、流れ込んでくる。

孤独な男だった。子供の頃、虐めにあったことが原因で、ただひたすら静かに生きるように自分を戒めた。むしろ能力は平均よりも優れていたのだが、ただ影に徹した。恐れていたのだ、周囲の事を。それを悟らせないようにする能力だけが発達していった。

大人になってからも存在感は皆無で、ただ影に生きた。能力だけはあったから、順調に会社の中で出世はしたが、ただそれだけだった。彼を覚えている者など誰もいない。見合いで結婚した妻も子も、彼の誕生日はおろか、好物さえ知らない有様だった。いつしか、有り余る能力を得ていたが、それは全て気配を消すために使われた。

恐怖の中で、ただ生きた。それによって得た処世術で、ボルテクス界でも生き残ってきた。だからこそ、力が全てを決定するマントラ軍は居心地が良かった。自分を隠さなくても良かったからだ。四天王という、過分な地位も得た。評価もされた。力だけが評価されるのは、本当に嬉しかった。

だから、命を賭けた。そして、満足すべき強敵と戦い、味方の模範となることが出来た。皆、増長天を模範としてくれた。まるで天国のような時だった。そんな時を作ってくれた者達を守るために、命を賭けることは怖くなかった。

本望であったのだと、最後に増長天は思ったのだ。

琴音は、倒した相手のことを忘れない。相手も同意していたなどと言うのは理由にならない。殺したことに、代わりはないからだ。だから忘れないようにして、だがすぐに意識を切り替える。城壁に着地すると、すぐにクレガに刀を差しだした。

「クレガ、鞘の修復をお願いします。 後、マガツヒを、あるだけありったけ絞り出してください」

「任せておけ。 で、すぐに敵が来たらどうする」

「その場合は、これで戦います」

術式を唱えて、フランベルジュを具現化させる。流石に虎徹には及ばないが、かなりの切れ味を出せるようになってきているのだ。充分に実用には足る。

城壁から振り返ると、敵兵が少し距離を取って、陣を敷き直している。賢明な判断である。まだ引き下がらないようなら、もう少し叩いておこうと思っていたのだ。無駄に殺さずに済んで、ほっとしたこともある。

出鼻をくじくことには成功した。差し出された大瓶のマガツヒを一気に飲み干す。腕に回復術を掛けた。少しでも回復させておかないと、第二波を支えきれないだろう。秀一の話では、敵は相当に頭が切れる。どんな手で攻め寄せるか、まるで読めない。

 

この度のアサクサ攻略戦で、千晶は天使軍10000、鬼神を中核戦力とした旧マントラ軍27000、合計37000を動員していた。ニヒロ機構の総兵力は現在110000前後と推察されているが、それでも防衛線を維持しつつ、敵を攻め滅ぼせる動員数である。兵力の逐次投入などと言う愚行には走らず、圧倒的大軍で一撃の下敵を滅ぼす。

これぞ、覇王の戦いである。

マネカタごときに、小細工など使う必要はない。千晶は最初から、圧倒的な実力で、敵を押しつぶすつもりであった。

千晶は輿に乗って、頬杖をつきながら、ワインを楽しんでいた。酒など小学生の頃から味わっており、中学を卒業する頃には並のソムリエを凌ぐ知識を得ていた。ただし、あまり多くは飲まない。だから少量だけたしなんで、香りと味を楽しむのだ。酒に強くないというのもあるのだが、酩酊は隙が出来るから好まないという事情もある。

今手元にあるワインは、なかなかブルゴーニュの十年ものに劣らない芳醇な味で、千晶は機嫌が良かった。

輿は大きな鰐の悪魔の背に乗せられていて、後ろでは持国天が眷属である音楽の下級神ガンダルヴァの楽団と共に、和楽器で四苦八苦しながらモーツアルトを奏でていた。ガンダルヴァは最初不満を漏らしたのだが、千晶が演奏の難しい古琴でベートーベンの運命を平然と奏でるのを見て沈黙、以降は文句一つ言わなくなった。そればかりか千晶は誰が何処でミスをしたか覚えていて、指摘されるので、今では皆必死だった。

下級の悪魔になるほど、千晶を骨の髄から恐れていた。

上機嫌な千晶の元に、伝令の鬼神が走り寄る。そして頭を下げた。

「ご注進!」

「どうした」

「先鋒の増長天様、敵の攻撃により戦死! 先鋒は二キロほど後退し、後衛の増援を待っています!」

「ほう。 増長天を破ったか」

千晶はほくそ笑む。最初人修羅こと級友である榊秀一かと思ったのだが、すぐに違うなと結論。恐らく此処まで積極的に動いてくるのは、噂に名高い邪神サマエルだろう。弱い者を守ろうとするとか言う、実にくだらない信念の持ち主だ。新世界には必要のない存在である。

軍としての作戦は当初の予定通り、戦力が整ってからの集中攻撃でかまわない。だが、サマエルが好き勝手に動くと面白くない。千晶は手を打つことにした。

「トールに連絡。 中軍である天使軍の到着と同時に、サマエルに攻撃せよ。 その場で潰してしまってかまわん」

「御意。 すぐに伝達いたします」

「それと、もう一つ。 アサクサには人修羅もいる。 奴の実力は、サマエルに匹敵するだろう。 此方に対する対策もある。 先鋒には、天使軍が到着するまで、攻勢には出ないように念を入れて伝達するように」

「は。 続けて伝達いたします」

兎のように伝令が駆けていく。脆弱なアサクサといえど、千晶が監督すると言うだけで、部下共はこうも身を引き締めている。それから、増長天の死について、詳しい情報が続々と入ってきた。やはりサマエルと一騎打ちの果てに、雄々しく死んだという。目立たぬ奴だったが、見事な死に様だったなと、千晶は無言で賞賛した。強い者は大好きだ。負けたからと言って、評価が落ちることは、無い。

行軍速度を上げるように、周囲に指示。手元にあるのは、ゴズテンノウから、父から受け継いだ斬馬刀である。

覇王のつとめは、常に部下へ力を示すこと。

千晶に、それをためらう理由はなかった。

 

増援が着々と到着していく。既に敵の戦力は10000に達し、包囲網を敷き始めていた。

何度か琴音は攻撃を仕掛けてみたが、挑発に乗ってこない。そればかりか、その隙に別の方角から攻撃を仕掛けてくるそぶりを見せて、戦略的な揺さぶりを掛けてくる。一人の指揮官による判断ではない。敵全体が、強力な意思によって、遠隔運用されていると考えた方が良い。

しかもその指揮官は、間もなく到着することだろう。戦力で勝る敵が、攻撃を控えている理由は、それしか思いつかない。

クレガが、直してくれた虎徹を琴音に差し出した。無言で受け取りながら、琴音は信頼する仲間に、状況を確認する。

「避難状況は、どうなっていますか?」

「人修羅がようやっとるよ。 マネカタどもも、マントラ軍が出てきて、ようやく危険察知能力に火がついたようでな。 今のところは、軍の指示に従って、おとなしく避難をし始めとる」

だが、本格的な攻撃が始まれば、パニックは避けられないだろう。クレガはそう冷静に指摘した。琴音もそう思う。だから、敵による攻撃を、少しでも遅らせなければならないのだ。未だ、非戦闘員の避難すら、完了できていないのである。

もちろん、安全な避難場所など、この世界の何処にもない。いざというときには、それぞれの思考で、好き勝手に逃げて貰うしかない。

唯一の救いは、アマラ経路の広大さだ。このアサクサの地下空間でさえ、上に住んでいるマネカタを収容しても、充分におつりが来るほどに広い。それに酷い話ではあるが、複雑なアマラ経路に逃げ込めば、全滅だけは避けられるだろう。

ティルルは既に、マネカタ達と一緒に落ち延びさせている。フォンはマネカタの軍を指揮して防衛線を指揮しながら、非戦闘員の悪魔達と共に、病院の機能を必死にアマラ経路に移していた。幼児退行しているクロトは怖がって泣いていたが、カズコがなだめて輪転炉に連れて行った。強力なマガツヒ補給源であるカズコとユリは、ぎりぎりまで避難させられないのが辛い。

アンドラスは最後まで残ると言い張ったのだが、秀一が先に落ち延びさせた。これから負傷者が大勢出るのは間違いなかったからだ。マネカタ達と一緒に落ち延びた悪魔が大半だったが、わずかに、琴音と一緒に戦うと言ってくれた者がいた。彼らが中心となり、城壁で今、守りを固めている。

カザンが、一礼した。手には大瓶に入った膨大なマガツヒがある。

「次のマガツヒだ。 人修羅殿にも、他の悪魔達にも、指示通り渡してきてある」

「お疲れ様です」

「いや、敵に突っ込んでは戻ってくるあんたの苦労に比べれば、何でもない。 あれだけ訓練してきたのに、腰が引けている味方の情けなさを思うと、本当に申し訳ない」

悔しそうに言うカザンに、琴音は悪意を抱けない。こんなマネカタもいるのだ。そして彼は恐らく。今度の戦いを、生き残れないだろう。己が持つ責任感が故に。

生き残る確率を少しでも上げるためなら、琴音は自分の命などどうなっても構わないと思っている。シブヤでケーニスが死んだ時から、その思いは強くなる一方だ。強い力は、弱い者を守るためだけにあると、琴音は本気で信じている。それが歪んでいることは分かっているのだが、それでも捨てきれない考えだ。

それでいながら、戦場を見て冷静に戦術を練り上げる自分にも、琴音は気付いている。相反する属性が内部で混ざり合い、琴音という人格を作り上げている。それは外からは、邪神サマエルとして見えている訳だ。

城壁の内側を見ると、片腕のないナーガが、マネカタ達を必死に誘導しているのが見えた。白い象の悪魔アイラーヴァタが、大荷物を引きずっている。義足だというのに、大変である。

下で指揮をしていた人修羅と目があった。

すぐに、互いに視線を外す。それぞれの戦いを、今はしているからだ。談笑している暇などはない。

それから三度琴音は敵陣に飛び立つが、いずれも挑発には乗ってこなかった。敵は着々と攻勢の準備を整え、兵力は13000を超えた。そして、更に増援が到着し、15000を超えた時。

物見櫓から、恐怖の声が上がった。

「空だ! 空から何か来た!」

いよいよ、来た。見上げた先には、そらを埋め尽くすほどの、真っ黒い何かの影。いや、カグツチの光を浴びて輝くそれは。

「天使軍だ」

「いよいよ来たか」

同時に、包囲網を敷いていた鬼神軍も、全戦線で前進を開始する。攻撃は天使軍に任せて、心理的なプレッシャーを与えることが目的だろう。ただし、隙あれば、すぐにでも城壁を越えて乗り込んでくることは間違いない。

「大石弓、用意! 敵は天使軍を主体に攻め込んできます!」

「分かった! 全軍に伝達する!」

カザンが、すぐに部下を四方へ走らせた。対空戦の準備も、一応はしてきてある。すぐに大型の投石機と、石弓が要所に配置され始めた。さて、琴音がどれだけ敵の出鼻をくじけるか、だ。マントラ軍に吸収合併されたことを、天使軍はあまり良くは思っていないはず。其処に隙があるはずなのだ。

飛び立とうとした、次の瞬間、である。

何か、とんでもない殺意が、琴音の足を掴んだ。背筋が凍り付く。この気配、この視線は。

振り返る。押し寄せる鬼神達の先頭に。それがいた。

かって徳山徹だった、最強の悪魔。マントラ軍のナンバーツー。鬼神トール。悠々と歩いてきているだけなのに。威圧感だけで、アサクサを崩壊へ導きそうだ。守護という、次元の違う存在が出現した今なお、その伝説は揺るがぬようにさえ思える。

隣で、クレガが生唾を飲み込んだ。それで、ようやく我に返る。もしも天使軍に向かえば、即座にトールはアサクサに乗り込んでくるだろう。そうなったら、秀一以外に、トールを抑えられる者はいない。客将である秀一に、あんな危険な相手を任せる訳にはいかないのだ。

琴音が向かうしかない。虎徹の鯉口を斬る。全力で、戦う覚悟を、琴音は決めた。

トールは、明らかに琴音に戦意を向けている。あの人には、師弟であることなど関係はないのだ。そもそも人間らしい情があるかさえ疑わしい。ましてや、悪魔となった今ではなおさらである。

まだ、勝てる自信はない。だが、勝たなければならなかった。

「私が、トールを、徳山先生を食い止めます」

「あの化け物を一人でか!? よせ!」

「大丈夫。 クレガ、フォンと一緒に、天使軍の先頭を叩いてください。 敵は絨毯爆撃をするために、中高度で密集陣形を組むはずです。 もちろん分厚い防御術も掛けるでしょうが、敵の防御を貫通すれば、かなりの打撃を与えて、時間を稼げます」

「ならば、俺がやる」

振り返ると、秀一がいた。腰に手を当てて、一気にマガツヒを飲み干していた。口を手の甲で拭うと、人修羅という武名をとどろかせつつある男は言う。

「任せろ、それくらいならフォルネウスと一緒にやってみせる」

「いいのですか?」

「ああ。 此処には情報収集という点で、かなり世話にはなった。 マガツヒを供給して貰った縁もある。 敵を叩くくらいは当然の義務だ」

「おう、その通りじゃわい。 それに天使軍の非道は何度も聞いておるでの。 儂のひれが疼いてならん」

フォルネウスが戯けて言ったが、目は真剣である。内と外という役割分けはしてきたが、一緒に戦ってきた間柄だ。琴音は頷くと、秀一に背中を任せることにした。この共闘関係は、しょせんアサクサという緩衝材がなければ成り立たないものである事は承知している。だが、今はその細い糸に頼るしかない。

「お願いします。 徳山先生は、私が必ず」

「ああ。 白海さんこそ、死ぬな」

ふと、その声に、何か懐かしい響きを感じた。そして思い出す。昔、人間だった頃。ある大事件の時、自分に声を掛けてきた少年のことを。だが、確かめている暇はない。確認など、後ですればいい。

城壁を、飛び降りる。航空戦術など使わない。付け焼き刃の技など、トールの前ではそよ風に等しいのだ。鞘に手を掛けたまま、砂漠を小走りで行く。まるで斥力でもあるかのように、トールに近付くのを体が拒否しているのが分かった。だが、いかなければならない。

距離、十メートル。トールが右手を挙げると、鬼神達が一斉に停止した。辺りに響いていた軍靴の音が消え、不意に静寂が訪れる。砂漠を撫でる風に髪を嬲らせながら、琴音は虎徹を抜いた。

「徳山先生、私との戦いをご所望ですか?」

「ああ。 よくも此処まで育ち上がったな、白海琴音。 育てた甲斐があったというものだ」

心底嬉しそうに言う徳山先生。いや、鬼神トール。

やはり果実を得るために、木に水と肥料をやるような感覚で、琴音を育てていたのだろう。そう思うと、心の底から怒りが湧いてきた。

下段に構えたまま、ゆっくり左側に回り込む。トールは無形のまま、身動き一つしない。どこから攻められても、対応できる自信があるということだ。

「一つ、聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」

「今は戦いの最中だが、いいのかな」

「……関西国際空港での事を、覚えていますか?」

「ああ、あれは楽しい戦いだったからな。 あの時戦った悪魔、今ある知識で照合すると、邪神バフォメットか。 あれとの殺し合いは実に楽しかった。 ……まてよ、ひょっとすると」

どうやら、間違いがないらしい。あの時起こった事件が、このボルテクス界の混迷を築き上げたと言っても間違いなさそうだ。

わずかに、トールの間合いに踏み込む。反応はしてこない。トールは腕組みして、考え込んでいる。しかし、それでもなお、打ち込む隙は見あたらない。首を捻っていたトールは、不意に琴音を見た。

「なるほど、そう言うことであったか。 あの時、生き残ったものに、いたな。 なるほど、それで、か」

「先生、それでもなお、まだ戦う気なのですか?」

「無論だ。 例え世界が滅びようと、俺は強者を求め続ける。 くだらんおしゃべりは終わりだ。 そろそろ、打ち込んでこい」

ため息が、漏れた。もはや、何を知らせても、何を聞かせても無駄だ。琴音はそう判断せざるを得なかった。

トールを倒す。そう決めはしたが、一瞬で致命傷を与えるのは難しい。浸透勁にしても寸勁にしても、トールは恐らく綺麗に外す事が出来るだろう。術式にしても、高い対応能力を持っていることはほぼ間違いない。

ならば、持久戦覚悟で、攻め込むしかない。初手はくれてやると、トールは態度で示しているのだ。そこに、つけ込む。

不意に、一歩退く。微動だにしないトールに対し、引いた足を軸に、全力で突貫を仕掛けた。静から動への急変換。間合いを瞬時に侵略すると、足を狙って切り上げる。それに対し、トールは僅かに体をずらしただけであった。

金属音。

トールの皮膚と筋肉に、虎徹がはじき返される。皮を、僅かに裂いただけ。

拳が降ってきた。直径二十、いや三十メートルにわたって、砂が吹っ飛ぶ。辺りを煙幕のごとく砂が覆い降り注ぐ中、かろうじて今の拳をかわした琴音は、詠唱をしながら上空に躍り出た。後ろに気配。振り返っている暇はない。全力で真下に回避。回避しながら、見た。今まで自分がいた空間を、巨木のような拳が抉り抜く様を。空気が猛烈な圧迫に、軋みに似た音を立てる。

しかもトールは、今右手でそれを繰り出していて、左手は開いていた。即座に使える体勢を整えている。

詠唱完了。発生させた冷気の固まりを、トールの顔面に叩きつける。だが、トールはそれを気にもせず、事もあろうに頭突きで砕くと、開いている右腕を躊躇無く振り下ろしてきた。

ガードが間に合わない。一瞬、視界が暗転。

気付くと、砂に叩きつけられて、バウンドしていた。呼吸が止まるほどの衝撃。だが、中空で翼を拡げて、強引に立て直す。頭が揺れる。脳震盪などと言う生やさしいものではない。脳をそのまま掴まれて、シェイクされたかのようだ。

真っ正面から、トールが突っ込んでくる。その口元が、笑みの形に歪んでいるのを、琴音は見た。同時に、全身がざわりと総毛立つ。半分は恐怖から。残りの半分は、心底エゴから生じた戦いを楽しんでいる、トールに対する怒り。

着地。突っ込んでくるトールに、逆にこっちから間合いを詰める。相対速度は時速400キロを遙かに超えた。

激突。交錯。

無限にも思える一瞬の後。互いに、百メートルほどの距離を置いて、止まった。

トールの脇腹から、鮮血が噴き出す。意にも介していない様子で、トールは振り返った。相変わらず、心底楽しそうな表情である。

「ほう。 俺に此処まで鋭い斬撃を浴びせるとは」

もう応えることはしない。琴音は大きく息を吐くと、全身の魔力を練り上げ始めた。この戦鬼は、今琴音が責任を持って、倒さなければならなかった。

 

3、天軍襲来

 

琴音の読みは当たった。フォルネウスの背に乗り、中空へ躍り上がった秀一の前で、天使軍が密集陣形を組み始めている。絨毯爆撃を始めるつもりだ。天使どもは、本気でアサクサを、粉みじんにする気である。

後方では、何度も激しい爆発が巻き起こっている。琴音が必死にトールを食い止めているのだ。あの必死な姿を見ても、なおも心が動かず、怯えてばかりいるマネカタ達には、心底腹が立つ。だが、だからといって蹂躙して良いというわけでもあるまい。天使軍がアカサカで行ったという悪行は、秀一も聞いている。此処アサクサで、それを再現させる訳にはいかない。必ず阻止する。

直接マントラ軍と戦うのが酷であろうリコとサルタヒコ、それにアメノウズメは避難民を先導させている。そして砂漠の下には、ニーズヘッグを待機させていた。いざというときには、手伝って貰うことになる。

フォルネウスは、更に高度を上げていく。秀一は印を組みながら、聞いてみた。

「フォルネウス、貴方は確か、堕天使だったな」

「おう、そうじゃ。 わしは誇り高き堕天使じゃぞ」

「堕天使とは、天使が闇に落ちた存在だと聞いている。 元は、どのような天使だったのだ?」

「はん、そんなものは、言ったもん勝ちのええ加減な神学で後から付け加えられた設定じゃ。 わしは元から堕天使フォルネウス。 それ以外でも以下でもないわい。 そういえば昔は、堕天使ではなく魔神と呼ばれていたような気もするのう」

笑い飛ばすフォルネウス。更に、高度は上がっていく。フォルネウスはいつも楽しい老人だが、たまに真面目な顔を見せることがある。核となっていた人間も、恐らくそんな楽しい時に厳しい老人だったのだろう。

天使達も、秀一に気付き始めた。散発的に、雷撃や火球が飛んでくる。ひらりひらりとかわし、時には魔力の壁で弾きながら、フォルネウスは言う。

「元々わしはソロモンの鍵に記された存在での」

「古代ユダヤのソロモン王が使役したという、あの72柱の魔神か」

「おう、そうじゃ。 後の世ではなにやら恐ろしい魔術書だとか言われておるようだがの、正体は何のことはない。 当時の社会体制はあまり安定しておらぬでの、王と言っても権力は極めて脆弱じゃった。 だから、盗賊や不満分子も含む各地の有力者を利権で束ね上げて、それでようやくある程度の安定した権限を得ていたわけじゃ。 それを記した書に過ぎんよ」

「なるほど、それでは72柱の魔神というのは」

そう。ソロモン王の時代にいた、支配圏、もしくは半支配圏にいた、土着の有力豪族達が神格化されたものなのだ。

それが後の神学によって、もっともらしく様々な宗教の神や悪魔と混同されたり融合させられたりして、堕天使だとか魔界の重鎮だとかの設定が付け加えられていったのである。オセやフラウロスなどもその一柱である。元々人間が元となっているのだから、その思考が人間に近いのも当然である。

徐々に、攻撃の密度が上がってきた。天使達が方形の陣を組みながら、集中砲火を浴びせて来始めたのだ。元々、組織的な行動力には定評のある天使である。その密度は凄まじく、徐々にフォルネウスも口調に余裕が無くなってきた。秀一も腰を落として、フォルネウスの負担を減らしながら、詠唱を続ける。

ある一点から、一気にフォルネウスが速度を上げる。暴風雨のように、天使達が火線をたたきつけてきた。周囲は炸裂する炎の展覧場だ。爆圧に何度か翻弄されつつも、フォルネウスは恐ろしい速度で、敵との距離を詰めていく。

ついに天使達が、防御シールドを展開し始める。秀一が左手に刃を出現させ、最後の印を切った。風圧と重力と遠心力の間で、絶妙なバランスをとりながら、一人と一騎が空を駆ける。至近を、極太の稲妻がかすめた。上級悪魔並みの実力を持つ天使も、攻撃に加わり始めているということだ。

「神話とは、元あるものが、人間の脳の中で様々な変化を起こして、伝わってきたものじゃからのう。 恐らく、他の神話の神々や悪魔も、似たようなもんじゃろう」

「勉強になる。 結局確実なのは、悪魔も天使も、人間が作り出したと言うことだな」

「その通り! さあて、カトンボどもが近づいてきたのう。 行くぞ、秀一ちゃん!」

「任せてくれ」

ぐるりと一回転して、二メートルほどもある火球を見事に曲芸飛行でかわしてみせたフォルネウスに、秀一は応えた。そのまま、天使達が展開した、分厚い魔力防壁に突入する。淡い光の壁に鋭い刃をうち立てると、激しい火花が散った。そのままガラス壁をひっかくようにして、一気に旋回。鋭く壁を切り裂いた。

大きく旋回して、距離を取り直す。一撃で貫通は無理だったかと、秀一は再び斉射に移った天使軍を横目で見ながら思った。炸裂する火球の熱波を肌で感じながら、フォルネウスに、予備の瓶を開けて、マガツヒを食べさせる。空中を泳ぎながらマガツヒをほおばったフォルネウスは、更に速度を上げて、空をばく進する。風が凄いが、目を開けていても何ともない。眼球までもが、とても強くなっていると言うことだ。

速度を上げた。先以上の加速度で、一気に間合いを詰める。時々、爆発する火球をそのまま突き破る。多少の下級魔法など、直撃しても大して痛くはない。雄叫びをあげて、敵があわてて張った防御壁に、また突入した。

天使達が、集まってきている。必死に張ったシールドは、秀一の刃が鋭く切り裂いても、何とかしのぎきった。旋回するフォルネウスの上で刃を振り抜いた秀一は、後方でシールドが崩壊するのを感じて舌打ちした。後、少しなのだが。

急激な旋回運動で、人間ならとうに腕が千切れているほどのGが掛かっている。それでも体勢を崩さず、秀一は再度刃を構えた。最初に出せるようになった頃とは、鋭さも高度も桁が違っている刃だが、それでも敵軍が張ったシールドは突破しきれない。まだまだ、力が足りない。今後守護レベルの悪魔を相手にして行くとなると、なおさらだ。

「フォルネウス!」

「応っ! 今度は、上から行くわい! 振り落とされるでないぞ!」

「任せる」

直接、シールドの内側に飛び込みさえすれば。密集陣形を逆手にとり、敵に大打撃を与えることが出来る。

だが、敵は密集しているだけあって数も多く、シールドも分厚い。軍団レベルで展開されるシールドと交戦するのは初めてだが、手強いと素直に秀一は感じた。

さっき琴音の戦いぶりを至近で見ていたカザンに聞いた。琴音は、速度でシールドをうち破ったという。

秀一とフォルネウスには、そこまでの速さはない。それならば、手数とパワーで成し遂げるしかないだろう。

大きく上空に舞い上がったフォルネウスが、縦に旋回、急降下から一気に敵軍突破を狙いに掛かる。天使達が再びシールドを展開し、少数の精鋭が槍を揃えて突きかかってきた。対空砲火では埒が明かないという判断だろう。

天使についての、詳しい話は以前琴音に聞いている。九段階に天使は分かれていて、主に戦うのは中級、下級の天使達だという。今、翼をはためかせ、秀一の突撃を阻止に掛かってきているのは、赤い鎧を着たパワーだ。能天使と邦訳される連中で、悪魔との戦いを主に担当する連中である。流石に槍先は鋭く、連携も取れている。前面に三騎が立ちはだかり、左右と後ろから残りが殺到してくる。フォルネウスはゆらりゆらりと飛行軌道を変えながら、変幻自在のフォーメーションを見せるパワーに対し速度を上げきれずにいた。下手に正面突撃を仕掛けると、左右からの猛攻を受けることになる。

無数のパワーが秀一の突入を妨げている内に、敵部隊は体勢を整えつつある。此方が手強いと見た天使達は、増援を送って前衛を固めつつあり、更に状況は困難になりつつあるように、見えた。

突きかかってきたパワーの槍を掴むと、引き寄せながら刃を振るう。秀一の刃に首を飛ばされたパワーが、マガツヒとなって散っていった。すぐに前方の一騎が補充され、後ろからも横からも距離を詰めてくる。

不意に沈み込むようにして旋回したフォルネウスが、螺旋状の複雑な軌道を描きながら、パワーに肉薄する。パワーが数騎、盾を構えて突撃を防ごうとした瞬間。横殴りに、雷撃がその体を襲った。

悲鳴を上げながら、パワーが数騎、焼き尽くされて落ちていく。

もちろん、今の攻防の隙に、伏兵として回り込んでいたサナの仕業だ。思わぬ伏兵に混乱するパワーに、突入。容赦なく刃を振るい、数騎を蹴散らす。連携が乱れたパワーが、体勢を立て直そうとして、更にサナの追撃を浴びた。横殴りに叩きつけられた雷撃が、更に数騎を焼き尽くす。膨大なマガツヒが周囲に漂う中、秀一は刃を振るい、叫ぶ。

「よし、今だ!」

「応! 突撃じゃあ!」

フォルネウスが再び旋回、ひれをつぼめ、全力での飛行形態に移行する。パワーの混乱を見ていたためか、また敵のシールド展開が遅れる。見えた。指揮官がいる。複数の翼を持つ、眼球だけの上級天使。容姿からして、恐らくはラグエルだろう。巨大な目玉から、無数の触手が生えているという、悪趣味な姿である。後方支援を主としている天使だと聞いているのだが、陣頭指揮を執っているようだ。

千晶に、使えない者はいらないと言われているのかも知れないと、秀一は思った。トップが優秀すぎると、ブレインは不遇だ。殆どの場合、意見を参考にする程度の役割しか与えられなくなる。下手な意見を言うと、首が飛ぶ場合すらある。ラグエルもある程度の実績がないと、身が危ないのかも知れない。

悲惨な境遇ではあるが、同情している暇はない。更にフォルネウスが速度を上げ、二重に展開された分厚い防御シールドが至近にまで迫ってきた。吠える。

「おおおおおおおっ!」

刃を、突き込む。フォルネウスが溜めに溜めた運動エネルギーを、一気に叩きつける。

シールドに、罅が入る。手応えが、弱くなっていく。

一枚目のシールドを貫通。二枚目に食い込む。シールドを展開している天使達が、恐怖に顔をゆがめるのが見えた。ラグエルが叱咤しているが、もう流れは此方に傾いている。後ろから槍を突きかけてこようとしたパワーが、再びサナにたたき落とされた。相変わらず、狡猾な戦いぶりだ。

シールドの、全体に罅が走っていく。悲鳴にも似た音を立て、ついにシールドが砕けた。秀一は、印を切り、いつでも放てるようにしていた螺旋の蛇を、至近距離から密集した敵軍へ叩き込んだ。目から放たれた高密度の魔力が、灼熱の蛇となって、恐怖に逃げまどう天使どもを飲み込み、焼き尽くし、たたき落とした。

敵軍が、閃光に包まれる。更に旋回しながら、密集した敵軍にもう一撃。

魔力の奔流が空を駆けめぐり、それに連なるようにして爆発が連鎖する。アサクサの空に、轟音が響き渡った。

 

かろうじて混乱をまとめたラグエルは、触手をせわしなく動かして、被害の状況を確認した。パワーが十一騎落とされた他、一般の兵が170騎ほど倒されている。大型の攻撃術を、密集隊形を取っている部隊が、至近で二発も浴びたのだから当然だ。特に直撃を受けた小隊は、三つも消滅していた。

歯がみしようにも、歯がない。生き残った前衛が集まってくる。絨毯爆撃の先頭を切るはずだった1000騎ほどの戦力は、緒戦でいきなり二割弱の被害を出してしまった。しかも、人修羅一騎を相手に、である。

再編成が必要だ。他の部隊も、人修羅の突発的な襲撃に備えて、陣をくみ直さなければならない。

その人修羅は、先鋒を叩くと、さっさと引き上げてしまっていた。此方が再編成のために時間を取られるのを見越しているのだろう。もちろん脇から狡猾な攻撃をしてきていた妖精もとっくにいない。噂以上に出来る連中だ。

今回、天使軍は地上部隊がサマエルの足止めをしている間に、アサクサに絨毯爆撃をするという戦略上の目的を与えられていた。殆ど無条件降伏に近い状態だったため、天使軍は何かしらの手柄を立てる必要があった。故に、七天委員会の旧メンバーの内、メタトロンを除く全員が、今回の戦いに参加していた。

天使達は既に、千晶に懐柔されてしまっている。神を作るという千晶のコトワリが、彼らに魅力的に映ったのだ。それがラグエルには腹立たしい。

ラグエルは元々、どんな世界でも要領よくやっていければいいと考えている。彼にとっては、はっきり言って思想など邪魔だった。地位を保持し、楽な生活が出来れば、何処でも良い。一時期は、ニヒロ機構に降伏することさえ本気で考えていたのだ。思想など、生きるためには邪魔なだけだと、ラグエルはドライに断じていた。もちろん、誰にもその論を披露した事はないのだが。

それにしても、何という軍に入ってしまったものか。極端な実力主義は、ラグエルには不快だ。地位を奪われるのは耐えられない。その上千晶は頭が極めて良く、簡単に懐柔できるような存在ではない。そればかりか、此処でもたつくと、粛正される恐れさえある。生き残るためには、全力を尽くさなければならない。それもまた、面倒だった。

何もかもがいらだたしい。無能な味方も、優秀な敵も。

血を吐くような努力の末に、この地位を手に入れたのだ。孤児院出身のラグエルは、どんなことでもしてきた。少年愛の性行を持つ官僚に尻を差し出したこともあるし、娘を望むままに差し出したことさえもある。醜聞を掴んでは強請倒し、資金は全て出世のために使った。それも全部、孤児院での惨めな思いを、二度としないためだ。

出世しなければならなかった。生まれのハンデキャップを克服するためには、全てを蹴落とさなければならなかった。孤児院出身を差別する人間はまだまだ世に多い。特に上流階級の人間にはその傾向がとても強いのだ。だから、必死だった。どんな手でも使った。そのうち、観察力だけが異様に発達した。いつの間にか、部下の監視を任されるようになっていた。

ふと、ラグエルは我に返る。自分は何を考えていたのか。天界で天使達を見張るのが自分の仕事だったはず。孤児院とは何だ。娘が自分にいたのか。体そのものである眼球を傾げるラグエルに、最下級の天使エンジェルが敬礼した。

「ラグエル様! ミカエル様より、増援が送られてきました!」

「再編成を急げ!」

人修羅のことを思い出す。奴自身には、飛行能力は無いらしい。エイの堕天使、恐らくフォルネウスだろう。奴をたたき落とせば、或いは。それと、奴は恐ろしいほど戦闘経験を積んでいる。軍で勝負を挑むと、どうしてもタイムラグが出てくる。手練れが複数で抑えるしかないだろう。

戦力の増強が必要だと、ラグエルは決断した。右翼、左翼に控えているウリエル隊、ラファエル隊に前進を依頼する。最初は自分だけで手柄を独占するつもりだった。だが、負けては元も子もない。そう言う計算は、ラグエルにとってお手の物だった。保身のためには、まず実績がいるのだ。

中軍にいるガブリエルも合わせて、七天委員会が四騎掛かりで押さえ込めば、奴とてひとたまりもないだろう。さっきの戦いぶりからいっても、ニヒロ機構将官で言えばカエデに火力では及ばず、近接戦闘の技量ではフラウロスに届かない。バランスは良いが、器用貧乏であり、仕留めることは出来る。

周囲に伝令を飛ばす。急速に再編成を進める中、下でトールとまともに戦っているサマエルの姿が見えた。

どうやら、この街は簡単に落とせそうにない。

 

一度地上に戻ってきた秀一は、マネカタ達に、マガツヒの供出を頼んだ。遅れて降りてきたサナと一緒に、腰に手を当ててマガツヒを飲み込む。この街が、マントラ軍に対して勝っているものがあるとすれば、この殆ど無限に手に入れることが出来るマガツヒだけである。だからそれを利用する。大威力の術を、出し惜しみせずに使うことが出来る。

フォルネウスが、一度後退して再編成している天使軍を見やる。敵には翼がある。その気になれば、すぐにでも展開できる。大弓や投石機にすがりついているマネカタ達が、怯えた視線を交わしている。秀一に対しても、それは時々向いた。

「で、これからどうするんじゃ」

「出来れば、天軍の指揮官を落としたい。 そうすれば、敵の士気を致命的なレベルにまで落とすことが出来る」

「そうじゃな。 それがやはり一番か。 天使どもは組織行動が得意じゃが、指揮官が絶対権力者で、個々の裁量が許されておらん。 指揮官を潰せば、一気に弱体化できるじゃろうしな」

「でも、シューイチの今の戦いぶりをみて、一匹でのこのこ出てくるかな。 僕だったら三騎か四騎掛かりでシューイチを襲うけど」

サナの言うとおりである。多分、複数で確実に殺しに掛かってくるだろう。一騎はサナに引き受けて貰うとしても、三騎をフォルネウスと倒さなければならない。上級悪魔の実力は、何度も戦って身に染みている。高名な七天委員会ともなれば、その凄まじさは折り紙付きであろう。

更に、見たところ千晶はまだ到着していない。千晶が到着したら、天軍も鬼神達も目の色を変えることが疑いない。あの激しい気性の千晶のことだ。臆病者を許すようなことは絶対にないだろう。

千晶が出てくる前に、出来るだけ敵の戦力を削がなければならないのだ。

「人修羅殿、戻られたか」

「カザン、戦況はどうなっている」

轟音。琴音が、トールと戦っている音だ。加勢したいが、天使軍がどう動くか分からない現状、下手には向かえない。

「東、西、北からは、鬼神達が散発的な攻撃を繰り返してきている。 いずれも本気ではないようで、こっちの防御をじっくり見ているようだ。 南は、トールとサマエル殿の戦いが続いていて、戦闘は行われていない」

「そうなると、本気で攻めてこられると、まずもたないな」

「悔しいが、その通りだろうな」

分厚い城壁も、鬼神達を相手にしてしまったら、その力を発揮しきれないだろう。敵は中身はともかく、肉体と身体能力では人間とは言い難いのだ。中には、脚力だけで城壁を乗り越えてくるような奴もいるはずだ。

「避難を急いでくれ」

「分かっている。 非戦闘員は、もう三割ほど避難を完了している。 残りも、順次避難をしている」

フトミミは街の中央で、指示を飛ばし続けている。予想よりも避難のペースはだいぶ速いが、それでもまだ逃げられず立ち往生しているマネカタは多い。退路が細いのだから仕方がないが、口惜しいことは確かだ。それに、恐怖に駆られて避難民に潜り込もうとしている兵士までいた。兵士達を鍛えたフォンやリコが気の毒だ。マネカタが、人間の弱い部分を凝縮したような存在だと言うことは分かっている。だが、いくら何でも、ものには限度があるのだ。

「カザン、辛い立場だというのは分かるが、兵士達の監督をしっかりしてくれ。 あれでは、訓練のために手を貸した者達が不憫だ」

「分かっている。 本当にすまない」

カザンが謝ることではないのに。

弱者とはこういうものだと分かってはいる。今まで、散々思い知らされては来た。だが、それでも守ろうという琴音がいる。その強さには、秀一も心を打たれる部分がある。

何より、多様性こそが世界を発展させるという秀一のコトワリは、彼らを無視することでは成り立たないような気もするのだ。

少数だが、カザンと共に、最後まで踏みとどまろうというマネカタ達もいる。彼らを考えると、全てを切り捨てる気にはなれない秀一ではあった。

サナが、空を指さす。天使軍が、動き始めていた。

「シューイチ、天使が陣形を変え始めたよ」

「本当だ。 今まで方形陣を連ねた雁行陣だったが、全軍を一丸とし始めたな。 密集陣形だが、狙いは防御だな。 もちろん、高密度の火力を繰り出すことも出来る」

「人修羅殿、あれで突入してきたら、対抗策がないぞ。 此方の対空戦闘能力には、限界がある」

それは分かっている。秀一が向かえば、サナが言ったように、上級天使が複数掛かりで向かってくるだろう事も。だが、此処は罠を承知で出なければならないだろう。フォルネウスを促し、背中に跨る。

「また、すぐに戻る。 マガツヒは可能な限り出しておいてくれ」

「分かった。 マガツヒが豊富にあること、作り出せることだけが、我がアサクサの強みだからな」

「その通りだ。 後顧の憂いだけは、生じさせないでくれ。 サナ、フォルネウス、行くぞ。 フォーメーションはさっきと同じだ。 だが、今度は恐らく七天委員会が出てくるだろう」

「へいへい、分かってますよ。 天使のマガツヒって、何か渋くて、僕好みじゃないんだけどなあ」

無言で、秀一は地面を何度か靴先で叩いた。あらかじめ、決めてあるリズムであった。

 

再び空に舞い上がってきた人修羅を見て、ウリエルは静かに心を燃え上がらせた。天使の世界を作る。そのためには、唯一絶対の神が必要なのだ。

最終戦争の時に、その始まりを告げるという役割を得ているウリエル。キリスト教でももっとも有名な天使の一翼であり、四大天使などと呼ばれることもある。錬金術では地の守護属性を与えられていて、地獄を監視する役割も持っている。

正直な話、ウリエルは千晶という存在を信用しきっていない。確かに唯一絶対の神となることを目指しているようだ。だが、神はいなかったという恐るべき言葉を吐き、ウリエルが信じていた全てを崩壊させた。その恨みが、ウリエルの胸の奥で燻っていた。

違う。神は確かにいたのだ。しかし何処にいたと聞かれると、ウリエルは応えられない。やはり奴の言葉は正しかったのではないかとも思う。正しかったからが故に、心をかき乱したのではないかとも考えてしまう。

「人修羅、離陸しました! フォルネウスに跨り、まっすぐ此方に向かってきます!」

「よし、ソロネ隊、ケルビム隊、迎撃準備!」

ソロネは座天使と呼ばれ、燃えさかる車輪の軸に、黒いローブを着た人型が入っているという、奇怪な存在である。神のチャリオットを選ぶ天使とも言われ、その実力はかなり高い次元にある。上級三位だけあり、天使軍全体にもあまり多くはない。

また、ケルビムは智天使と言われる。こちらは獣に似た姿をしていて、七天委員会直属の親衛隊のような仕事をしている。此方は上級二位の実力者であり、ソロネよりも更に能力は高い。

彼ら合計二十騎が、雁行陣を組んで、人修羅を迎撃に掛かる。そして彼らとの戦いで消耗したところを、一気に落とす。それが、ラグエルの考えた作戦であった。確かに理には敵っている。

しかし、ウリエルは気に入らなかった。直接七天委員会が出向くような相手にも思えない。それに、ラグエルの作戦は、奴との交戦を恐れているようにも思えるのだ。たかが、元は人間。天使である自分が、どうにか出来ない相手とは思えない。

剣を抜いたのは、指揮を執るためか。或いは、戦意を抑えきれなくなったのか。

気が短い事を、ウリエルは理解している。何だか、昔からこうだったような気がする。戦いの中で、ウリエルは黒い闇が心に広がるのを感じる。それはおぞましくもありながら、心地よくもある。

天使が邪悪な心を持たないなどと言うのは、迷信だ。その証拠に、ミカエルは権謀術数の限りをつくして、己の地位を保持している。天使らしい清廉な心を持っている存在など、ガブリエルくらいだろう。そのガブリエルだって、肩身が狭くて苦労しているのだ。

戦いたい。そう思った、瞬間だった。

「ウリエル様、下を!」

「な!」

人修羅が、ソロネ隊、ケルビム隊と接触する寸前であった。

砂漠を割って現れた巨大で白い邪龍が、驚く鬼神達を押しのけて、天に向けて巨大な魔力球を放ったのである。それは中空で炸裂、無数の氷の槍となって、辺りに降り注いだ。数十メートルはあろうかという巨体である。魔力量も凄まじく、冷気の槍は次々とソロネ、ケルビムを貫く。致命傷を受けて四散するものも多くいた。

其処へ、ピクシーが放った雷撃が追い打ちを掛けた。混乱する部隊の真ん中を、人修羅が突破してくる。

笑いが漏れていた。そうだ、これでなければ。これならば、確かにウリエル達が相手するに足る。それで気付く、今までラグエルの言うことを、全く信用していなかった自分に。やはりウリエルは、戦いたい。戦うことで、自分を示したいのだ。

最前衛に立つ。左翼にラファエル、右翼にガブリエル。そして後衛にラグエルがついた。ウリエルは突進してくる人修羅に、剣を向けながら叫ぶ。

「我は七天委員会が一、熾天使ウリエル! 天の剣にて武の守護者であるこの俺の剣、受けてみよ!」

「俺は榊秀一。 人修羅と呼ぶ者もいる。 その勝負、受けた。 サナ、後ろにいる大きな目玉の天使を引きつけてくれ。 後の三騎は、俺が仕留める」

「ほいほい、任せといて」

二手に散る敵。ウリエルは、雷撃に対して防御シールドを展開するラグエルを横目で見ながら、躊躇無く人修羅に斬りかかった。

 

鬼神達の陣が、俄に騒ぎ立つ。ついに、到着したからだ。ミズチは首をもたげて、その方を見る。次に部下達を見て、失礼がないようにしている事を確認した。

現れたのは、新たなる主君にして、絶対的な力の持ち主。ゴズテンノウの力を引き継いだ、マントラ軍の首領。

誰もがひれ伏して、その言葉を待つ存在。今、恐らく唯一絶対神に、最も近い悪魔。橘千晶。千晶は輿をひらりと降りると、マントを風にはためかせながら、進み出る。

「戦況を、説明しなさい」

「は。 ご報告いたします」

前に出て拝礼をしたのは、前線で指揮を続けていた西王母である。彼女は実戦経験こそ少ないが、その緻密な頭脳に相応しい、非常に緻密な用兵を行う。今回、後方の守備を担当している毘沙門天に変わって、前線の指揮官に抜擢されたのである。

西王母は、単なる時間稼ぎしていただけではない。攻略が決まってから、今までの情報をことごとく集めて再分析し、そして有用な情報を濾し取っていた。更に、トールとサマエルの戦いに、味方が巻き込まれないように、慎重な布陣をしていた。

恐ろしい速さで、千晶が情報に目を通していく。ミズチから見ても西王母の布陣は完璧で、収拾した情報も精度が高い。このまま攻めても、確実に勝てるだろう。だが、千晶は情報を見終えると、正攻法を主張する西王母に、言った。

「ふむ、西王母よ。 確かに見事な作戦ではある。 だがこれは駄目だな」

「は、何か不備がありましたでしょうか」

「面白くない。 これは、覇王の戦ではないな」

よく分からない理屈である。千晶は攻囲陣については、けちを付けなかった。ただし、作戦については、恐るべき大胆な案を持ち出す。それを聞いて、ミズチは思わず息を呑んだ。ベルフェゴールが、一番大きい反応を示した。

「千晶、それはいけないわ。 危険が大きすぎる」

「これくらいの危険を回避できなければ、私はその程度の器だったと言うことだ。 すぐに準備せよ!」

「でも」

「ベルフェゴール将軍。 千晶様の発言は絶対。 貴方も分かっていることでしょう」

西王母が感情的になるベルフェゴールをたしなめた。千晶は気にもしていない。既に周囲に輸送用の天使を呼び集めて、作戦の準備に取りかかっている。大胆な策ではあるが、確かに効果は絶大だ。ミズチも、作戦には参加することになる。

確実に勝てる作戦だ。だが、覇王である以上、あくまで自分が最前線に立たなければいけないというのなら。それは確かに、千晶という存在を周囲に示すものだとよく分かる。戦慄するほどの圧迫感が、戦闘態勢に入った千晶から、ほとばしり始めた。それにも、物怖じせずベルフェゴールは言う。

「それならば、私もいくわ」

「それは構わぬ」

千晶は、ベルフェゴールに振り向きさえしなかった。他にも、数騎の精鋭と言って良い鬼神達が随伴員として選ばれる。皆一騎当千の古強者だ。トールが育て上げた者もいる。彼らなら、確かに信頼できる。

「作戦開始時間は」

「準備ができ次第、すぐに行うぞ」

「御意」

つまり、総攻撃も、並行して準備しなければならない。

アサクサは滅びた。それはもはや規定事項だ。問題はその後。人修羅とサマエルをどうするか。奴らは放置するにはあまりにも危険すぎる存在である。どうにか仕留めておきたいところだが。

巨大な投石機が、準備され始めた。鬼神達が槍を揃えて、突撃の準備が始まる。攻城塔が運ばれてきた。長大な梯子も、順番に並べられていく。

城壁が、派手に吹っ飛ぶ。トールの拳が、砕いたのだ。サマエルは速度を武器に、トールの猛攻を凌ぎ続けているが、とても此方に構う余裕など無い。ただし、此方も介入が出来る状況にはない。連中が戦う場所から離れた地点は、全て作戦範囲だ。

「作戦を開始する!」

「作戦開始!」

ミズチの声に、鬼神達が反応した。

大地を埋め尽くすマントラ軍の精鋭達が、一斉に動き始める。砂漠が、揺れる。最初は小刻みな揺れが。やがて大地震を思わせる、大音響へ代わり始めた。砂丘が振動に煽られて、崩れる。それを踏み越えて、四メートルを超える体躯の鬼神が走る。二メートル半を超えている鬼達が、雄叫びを上げて駆ける。

全面攻撃が、開始された。

 

4,燃え落ちる弱者の街

 

ついに来た。地平を埋め尽くし、突撃を開始した鬼神達を見て、西側城壁にいたカザンは奥歯をかみしめた。逃げ腰になるマネカタ達に、叱咤する。

「正念場だ! 全員、此処で死ねっ!」

自ら、巨大な対悪魔用石弓に飛びつくと、二メートルもある矢を放つ。フォンは東側城壁、クレガは北側城壁で防衛戦を監督してくれている。悪魔達が、力を貸してくれているというのに、まだ死ぬ気になれないマネカタ達を、カザンはこれ以上もなくふがいないと思った。

石弓の矢が、群れとなって押し寄せる悪魔どもに降り注ぐ。だが鬼神はそれを軽々と払いのけ、下級の悪魔でさえかわす者がいる。絶望的な力の差。だが、矢のいくらかは敵を打ち倒す。投石機が唸りを上げ、巨岩を放る。吠えた鬼神の一柱が、拳でそれを砕いた。絶望するな。カザンは、必死に自分に言い聞かせる。

ついに、城壁にとりつかれた。次々に、城攻め用の梯子が取り付けられた。

マントラ軍は、数、個々の強さ、練度、士気、戦闘経験、指揮官の能力、全てにおいて此方に勝っている。特に士気の差は、至近で見ると明白だった。兵士達の一体一体に到るまで、目の色が違っている。世界を作ろうという気迫に満ちている。

それに対して、マネカタ達はどうだ。漠然と生きるばかりで、己のエゴにばかり執着して、それさえ極めようという様子がない。それでも、カザンはマネカタに産まれた以上、皆を守りたい。

壁に用意された大きな鍋から、熱した油を下にばらまく。術を使える悪魔が、必死に連続しての術を浴びせているが、砂漠を覆い尽くす大軍勢の前には殆ど効果を示さない。熊手で必死に梯子を払っているが、下に落ちても殆どの悪魔は死なない。すぐに梯子を立て直して、登ってくる。

攻城塔が、来た。

無数の矢が飛んできて、必死に矢を放つマネカタ達を次々貫く。死んだマネカタはその場で泥に変わってしまう。轟音。見れば、何と城壁を飛び越えた鬼神が、拳を振るって辺りのマネカタをはじき飛ばしていた。カザンはその場の指揮を部下に任せると、雄叫びを上げながら跳躍した。

師であるヤクシニーのリコに、既に実力は中級悪魔並みと、太鼓判を押されている。しかし、体格の差は歴然で、恐怖はやはり感じてしまう。それでもカザンは、鬼神の顔面に蹴りを叩き込んだ。巨体が揺らぐ。不意を突いたとはいえ、確かに入った。そのまま足を掴むと、全力で投げに掛かった。鬼神がもがくが、させない。雄叫びを上げながら、一気に投げ落とす。逃げ遅れたマネカタを数人巻き込みながら、鬼神は城壁の外、悪魔の群れの中に落ちていった。

死んだとは思えない。だが、すぐには身動きできないだろう。隣で戦っていた、翼を失い飛べなくなった堕天使が、攻撃術を唱えながら言う。彼はムカデの頭部と昆虫に似た足、山羊に似た体を持つ。異形だが、とても気の良い奴だ。

「ナイスファイト」

「あ、ああ」

まだ心臓が激しく鼓を打っていた。リコは今、避難民を先導して、アマラ経路の奥にいるはず。娘のような年に見える快活な師が、最近は笑顔を曇らせがちだったのを、カザンは知っている。

マネカタが情けないからだ。自分も、その一人。劣等感に苦しみながら、カザンは立ち上がり、部下達に指示を飛ばした。

「攻城塔を近づけさせるな! 油を掛けて、焼き払え!」

煮立った鍋の回りにいるマネカタ達が、汗水たらしながら、柄杓で必死に油をまき散らす。火矢が打ち込まれ、辺りに火の手が上がった。灼熱地獄をものともせず、悪魔達は次から次へと躍り掛かってくる。火で打撃を受けているのは、味方だけにも思えてしまう。だが、そんな事はないはずなのだ。自分に言い聞かせて、周囲を叱咤。

必死の防戦。何カ所かで、城壁の上に登られる。だが、戦力を集中的に投入して、どうにか凌ぐ。敵は疲れる様子も見せず、狂気に憑かれたように、城壁にすがりつき続けた。圧倒的な忠誠心の成せる技だと分かる。戦場の狂気だけでは、こう行くはずがない。逃げ腰の味方は、それに反比例するように動きが鈍い。

空で、爆発音。続いて、南の方で。人修羅とサマエルが、敵を必死に減らしてくれている。此処で、自分たちだけ先に負けたら、末代までの恥だ。

「此処で死ね! 此処で死ぬんだ!」

カザンは叫ぶ。誇りが、彼を恐怖に打ち克たせ、突き動かしていた。

その時。

街の一角で、爆音がとどろいた。思わず振り返るカザンは、見た。街のほぼ中央部分で、数騎の天使が、何かを落とすのを。そんな馬鹿な。そんな奴は、いなかったはずだ。それなのに、どうして。

また爆音。避難民はまだ残っているのだ。それなのに。

悲鳴が響き始める。老幼のものが、それには含まれていた。何よりフトミミが、街の中央部で指揮を執っている。一瞬、脳裏が空白状態になった。現実を見なければならないと分かっているのに、何も考えることが出来ない。

「カザン殿、行け! 此処は私が支える!」

隣の堕天使が、叱責する。正気に戻り、はっとして顔を上げると、堕天使はムカデの顔に、不器用に口を動かして笑みらしきものを浮かべていた。多分、今生の別れになるだろう。

此処で引いては男ではない。他のマネカタ達と一緒になってはならないのだ。カザンは、己の誇りで、奮い立った。

すまないと言い残すと、カザンは城壁を駆け下りて、街へ走った。フトミミを、救わなければならない。上空では、編隊を組み直した天使達が、街の端へ爆撃を加え始めていた。文字通りの無差別殺戮の炎が、アサクサを焦がし始める。もちろん対空迎撃をしている部隊もいるが、火力が違いすぎる。人修羅は敗れたのか。見上げると、まだ戦っていた。大物天使が複数掛かりで人修羅を押さえ込んで、その隙に雑魚が絨毯爆撃を始めたらしい。この手で来られると、流石の人修羅も打つ手がないという訳か。

逃げまどう避難民を、何度か見かけた。逆行して走り抜ける。少しでも多く逃げ延びるように祈りながら、カザンはフトミミの元へ向かった。フトミミが死んだら、敗退が決定的なものとなる。

未来視だか何だか知らないが、成し遂げさせる訳にはいかない。

カザンは足も千切れよと、全力で走り続けた。

 

ウリエルと刃を交える。ウリエルは流石に優れた剣の使い手で、秀一の拳や剣を、何度となくはじき返した。足場が不自由だという事情もあるが、それを差し引いても充分に強い。左右に回り込みながら、術を放ってくる二騎の上級天使も、それに劣らぬ使い手である。

秀一は空を飛ぶことが出来ない。足下はフォルネウスが非常に巧みに調整してくれてはいるが、回避運動も彼はしているから、完璧とはいかない。再び旋回して、フォルネウスが距離を取りに掛かった。横殴りに飛んでくる火球を何とかかわすが、その先には別の天使が待ちかまえていた。確かこっちはラファエルとか言う名前であったか。

鋭く剣を突き込んでくる。フォルネウスのひれが切り裂かれ、鮮血が飛び散った。ラファエルはさっきから、フォルネウスを集中的に狙ってきている。足を潰すつもりなのだろう。正しい判断だが、ヒットアンドアウェイを繰り返し、秀一との正面対決を避けているのが分かって、あまり気分が良くない。もう一騎の、ガブリエルと名乗った天使は、ひたすらに支援に徹していて、まだ分かり易いのだが。

「大丈夫か、フォルネウス!」

「なんの、まだまだじゃい!」

秀一は印を切り終えると、掌をウリエルに向ける。同時にウリエルも剣を振り上げて、魔力の固まりを充填し終えていた。仕掛けるのは、両者同時。ウリエルが剣を振り下ろし、青い魔力の固まりを放ってくる。秀一はヒートウェイブを撃ち出して、それに対抗。ぶつかり合った魔力は相殺しあい、大爆発を起こした。

衝撃波が、フォルネウスと秀一を翻弄する。一見互角だが、違う。敵は空中戦のエキスパートだからだ。体勢を低くして、秀一はそれを逆手に取ることを決めた。

視界の隅に、翼を窄めて、一気に突入してくるラファエルが映った。ギリギリまで、引きつける。フォルネウスが旋回して、秀一の腹めがけて、ラファエルが剣を突き出してきた瞬間。

脇腹を剣が抉り、鮮血が飛び散る感触の中、秀一はラファエルの体を掴んでいた。鋭く髪を立てたラファエルが、驚愕に顔をゆがめた。

「何ッ!?」

「空で、貴方たちの動きが鋭いのは承知の上だ。 だから、頑丈な体を利用する」

「は、離せッ!」

無言で秀一はラファエルの翼を引きちぎった。悲鳴を上げながら、剣を突き立ててくるラファエル。背中から腹に剣が抜ける。だが、体を反らして、致命傷だけは避ける。更に翼を引きちぎり、片方の翼を全て落としてから、フォルネウスから飛び降りる。絶叫するラファエルを掴んだまま、秀一は地上へ、一気に距離を詰めた。

「お、おのれ、おのれええええええっ! 離せえええっ!」

「断る」

「こ、このままでは、貴様も無事では、う、うあ、あああぎゃああああああああっ!」

ラファエルの絶叫がとどろく。無様だなと、秀一は思った。さっきの戦いぶりからして、権謀術数を駆使するタイプだったのだろう。だが、それが故に、逆に動きが読みやすかったとも言える。

そのまま、地面に激突。アサクサの街の一角に、クレーターを作った。

頭部から地面に直撃したラファエルは、粉々に砕け、残りも複雑に拉げて、即死した。秀一はラファエルの体そのものをクッションにしたが、それでも足腰が立たないほどに打撃は受けた。見れば、直径二十メートルはあるクレーターが辺りに出来ている。

ラファエルの残骸であるマガツヒを、まとめて吸い込む。だが、とても足りない。

足が少しずつ回復してくる。相変わらずの超回復力には、自分でも驚く。だが同時に、体に蓄えていたマガツヒが、急速に減っていくのが分かる。今の状態では、あまり大きな技は撃てそうにない。カズコは。無事か。何処にいる。マガツヒだ。マガツヒが欲しい。既に天使どもは絨毯爆撃を開始しているらしく、街の端は炎を上げていた。

「秀一ちゃん、無事か!?」

「あまり無事じゃない」

ひれを何カ所も切り裂かれていたフォルネウスが、降りてきた。上空では、ガブリエルが大型の攻撃術を準備しているのが見えた。サナは目玉の天使、確かラグエルだかと、五分の戦いを展開している。逆に言えば、此方に構う余裕は無さそうである。

フォルネウスに跨る。カズコの名を呼ぶが、近くには居ないらしい。フォルネウスに、作戦を囁く。信頼しているエイの悪魔は、大きく頷いた。

「危険じゃぞ。 いいんじゃな」

「ああ。 分かっている」

今までも、さんざんに危ない橋は渡ってきた。足は動かずとも、手はまだ動く。自分の耐久力の限界を、試してみたいという気持ちもある。

「秀一!」

カズコの声。とっさに手を伸ばして、飛びついてきた小さな体を、フォルネウスの背に引き上げた。どうしてそうしたのかは分からない。

カズコは秀一の背中を触った。眉をひそめたのが、振り向かずとも分かる。

「酷い怪我。 こんなになるまで、戦ったの?」

「手強い上に、空中戦を得意とする相手だ。 これくらいのリスクを覚悟していないと、とても倒せなかった」

「分かった。 だったらしょうがないよね。 カズコ、止めないよ。 マガツヒ出来るだけ出すから。 頑張って」

フォルネウスに、カズコのことを頼む。視界が真っ赤になる。それがカズコが、祈るようにして絞り出したマガツヒだと、分かった。これでもまだ足りないが、しかし最終攻撃を繰り出すには充分だ。フォルネウスと一緒に、一気にマガツヒを吸い込む。連戦で体は傷だらけだが、負ける気はしなかった。

「危険を承知で、此処までしてくれたお前の意思、無駄にはしない!」

「出来るだけ、危なくないようにやるからの! 良いか、カズコちゃんや! 絶対にわしの背中を離すでないぞ!」

「うん!」

「行くぞ、フォルネウス!」

フォルネウスの上で立ち上がると、秀一は刃を出した。勝負は一瞬だ。一瞬で決めなければ、余力から言っても、もう勝ち目はない。

燃え始めているアサクサの街の上の空を、秀一はフォルネウスとカズコと共に駆けた。ウリエルが、大上段に剣を構えているのが見える。向こうにも、負けられない理由くらいあるだろう。それを打ち砕けば、どちらかが死ぬのは当たり前だ。

覚悟は、出来ている。

無数の天使が術を打ち込んでいる。抵抗は既に潰え、逃げまどうマネカタは一方的に殺戮されていた。もちろんその中には女子供も多くいる。ウリエルに恨みはない。だが、必ず斬らなければならない。

ガブリエルは、交錯の次、隙が出来る瞬間を実に狙ってくる。何しろ、上級天使である。術は最低でも最上級魔法だろう。直撃を受ければ、死ぬ。かといって、ウリエルは手を抜ける相手ではない。

だから、また危険な手を取る。

ふと、視線に気付く。街の中央が燃え上がる。流れ弾かと思ったが、違う。何かが、街の中に忍び込んだのだ。

視線の正体に、秀一は気付いた。そうだ、千晶なら、それくらいはするだろう。琴音も秀一も手を離せない隙を突いた訳だ。

引き返す、暇はない。今は一瞬でも早く勝負を付けて、戻ることを考えなければならない。フトミミは死ぬだろう。だが、秩序の崩壊を少しでも遅らせなければ、もっと多くのマネカタが無為に死んでいくことになる。

ウリエルとの距離が、見る間に詰まっていく。ウリエルは大上段に構えたまま、動かない。速さをあえて捨て、武人としての誇りに身を任せたのだ。正面からの戦いを挑む天使。秀一は、身をかがめると。跳躍した。

フォルネウスが、ぐっと旋回する。強烈なGが掛かっていたはずだが、カズコが弾き落とされることはなかった。秀一は、まるで射出されたロケットのように飛びながら、安心して、正面のウリエルに集中した。ウリエルは驚いたようだが、しかし笑う。凄惨な笑み。多分天使軍という環境にいて、この男は武人としての魂を満足させることがなかったのだろう。

無言。相対速度は、音速を超えている。秀一は一つの火の玉となって。ウリエルは絶対零度の彫像と化して。衝突の瞬間を待つ。

相対距離が、ゼロになる。秀一が刃を振り上げ、ウリエルが振り下ろしていた。

灼熱が、秀一の胸から腹にかけて走った。鮮血が、大量にばらまかれる。同時に、フォルネウスが至近から、ガブリエルに冷気の固まりを叩きつけるのが見えた。ガブリエルが放った巨大な火球と相殺しあい、互いに交錯する。体勢を崩した秀一は、見た。満足げに笑みを浮かべたウリエルが、真っ二つに千切れ、マガツヒになって散る瞬間を。

ヒートウェイブを地面に向けて放ち、落下速度を落とす。だが、体中がしびれている上に、余力がもう無い。更に、天使達が無数の火球を降らせてきた。何発か、直撃。風に翻弄される鮹のように、左右に揺れながら落ちる。

「秀一ちゃん! 今行く! 今行くからなあああっ!」

接近してくるフォルネウスの声。意識を失いながらも、秀一はそちらに手を伸ばしていた。

 

琴音は、滝のように流れ落ちる汗を拭った。多少傷はついていても、平然としているトールは、悠然と歩を進めてくる。目には愉悦。口元には歓喜。分かる。この人は、初めてまともに戦える相手と出会って、心の底から喜んでいる。

それが自分であることは、光栄なのだろうか。琴音にはよく分からない。強さとは、他人のために使うものだと考える一方、本能では戦いを尊んでいる自分もいる。だが、総合的に。やはり琴音は、トールに賛同できなかった。

「よくも此処まで腕を上げたな。 育てた甲斐があったというものだ」

「貴方にとって、弟子とは育てて収穫するための畑に過ぎないのですか?」

「その通りだ。 だから何だ」

ぐっと唇を噛む。

やはり、許せない。この男、徳山徹は、もはや師と呼ぶには値しない相手だ。何もかも、自分のため。弟子を育てるのも、恐らくマントラ軍にて拳を振るうのも。いや、マントラ軍の思想そのものが、トールとシンクロしているとも言える。それは考え方の一つではあろう。だが、琴音には、許せないものの一つだ。

爆撃が始まった。だが、トールから一瞬でも意識を逸らそうものなら、即座に頭を砕かれる。城壁にも、砂漠にも、トールの拳が抉り去った痕が彼方此方にある。その気になれば、トールは拳だけで、分厚い城壁を粉砕できるのだ。ワンマンザアーミーという言葉があるが、身体能力だけでそれを体現する存在。その実力は、もう通常の悪魔の域を超え始めている。

トールは、城壁の奥から聞こえる阿鼻叫喚を聞いて、ただ一言だけつぶやく。もちろん、同情など欠片も見あたらない。

「邪魔だな」

「なん、ですって」

「邪魔だと言っている。 お前は一戦士として、ただ俺と戦えばいい。 背負う者など、邪魔なだけだ。 いや、いっそ復讐鬼にするのもいいか」

背筋を、悪寒と同時に、怒りが駆け上がってきた。トールが何をするつもりなのか、分かったからだ。虎徹を握りしめる。トールが笑った。

「食い止めたければ、俺を殺してみろ」

返答はしない。残った力を振り絞り、琴音は地を蹴った。

今までにないほどの速度が出る。音が、自分に追いつかずに、後からついてくるのが分かった。初めてトールの顔に、驚愕が浮かぶ。それが歓喜混じりであることが、余計に琴音には腹立たしかった。

ついに、トールの拳を見切る。

腹に、肩から体当たりを掛ける。トールを吹っ飛ばす。砂漠をジグザグにステップしてその後ろに回り込むと、回し蹴りを叩き込んだ。砂漠に突っ込んだトールが、城壁に叩きつけられる。数十メートルに渡って壁を削り取り、それでもなお止まらない。再び跳躍。体勢を立て直す前に、直上から蹴りを叩き込んだ。砂漠に叩きつけられたトール。キノコ雲が巻き起こる。

手の中に、魔力の光。自分でも考えられないくらいの速度で、詠唱を進めている。トールが跳ね起きるのが分かった。殆ど効いていない。いや、違う。僅かに動きが鈍っている。そしてトールは、その状態を心底楽しんでいた。

「来るが良い。 見せてみろ、お前の全てを!」

「せああああああああああああーっ!」

怒りの声を上げているのに、琴音は気付いた。どうしたのだろう。自分の感情が、制御できなくなりつつある。トールが直上に対する、正拳突きの体勢にはいる。知っている。あれはトールが幾多の敵を葬り去ってきた、必殺の拳だ。しかも今回、トールはそれを全身全霊で放つつもりである。

最後の一節を唱え終わり、印を斬る。完成した術は、メギドラオン。最高位の攻撃術だ。トールは微動だにしない。これを使えば、アサクサが吹っ飛ぶかも知れないのに。琴音は、気にもしていなかった。

「そうだ! 戦いの本質は破壊と滅び! さあ、俺に向かって貴様の闇を、全て解きはなって見せろ!」

「望み通りにしてやる! 死ね!」

手から、光が放たれる。トールが、迎撃の拳を繰り出す。

両者の中間点で、それは爆発した。

 

フォンは、爆圧に気付いて、身を縮めた。琴音が、トールによって全力を引っ張り出されたのだろう。それだけ凄まじい相手だと言うことだ。琴音の中に、もう一つの人格が潜んでいることを、フォンは知っている。最近は出てくることがなかった、それが。恐らく邪神としてのものであると、気付いていた。

城壁を越える敵が増え始めている。爆撃が始まり、城壁にも術が降り注ぎ始めたからだ。マネカタ達はつぎつぎに吹き飛び、石弓も、投石機も、見る間に砕かれていった。降り注ぐ火の粉をものともせずに躍り掛かってくる敵兵に対し、あまりに味方は脆弱すぎた。

フォンは巨大な棍棒を振るって、敵を倒し続ける。だが、それにも限界がある。

クレガの持ち場が、崩れるのが見えた。逃げようとするマネカタ達が、見る間に鬼神達の大軍に踏みにじられる。クレガは。クレガは無事か。見回す。サイクロプスであることは、こう言う時には不利だ。目が一つしかないのだから。

城壁の内側でも、既に破壊と殺戮が巻き起こっている。これでも、琴音と人修羅がだいぶ食い止めてくれてはいたのだが。それも限界だろう。彼方此方で城壁が乗り越えられ、もはや抗する術は無い。フォンは声を張り上げた。

「最終段階に移行する! 逃げろ!」

最後にどうするかは、集まった時に人修羅や琴音と決めた。街の一角に、脱出路を用意した。正確にはこれから用意するのだが、其処から逃げろと言うことだ。アマラ輪転炉から脱出できた非戦闘員は四割ほどだろうか。フォンは飛び掛かってきた鬼神を真っ向から叩きつぶすと、無事な味方を叱咤しながら、城壁の内側に飛び降りた。燃えさかる街。マネカタ達と共に築いてきたアサクサが、一瞬にして燃え落ちていく。どこかで、子供の悲鳴が聞こえたが、崩れる瓦礫の音が押しつぶした。

見えた。クレガが、十体以上の鬼神に囲まれている。頭から血を流している小柄なレプラコーンの老人は、もう殆ど魔力を使い果たしているようだ。周囲には、同じようにして戦っていた何体かの悪魔。皆戦いが嫌いで、それでもこの街のために剣を取ってくれた者達。

雄叫びを上げて、フォンは突撃した。単眼に映る敵を、全てなぎ払いながら進む。背中に矢が突き刺さった。肩にも、腕にも。同じくらいの体格の鬼神が、横から躍り掛かってくる。棍棒を振るい、頭を砕く。だが脇腹に、奴の振るった剣が突き刺さっていた。

それでも、フォンは、ついに包囲を突き破った。フォンが来たことに気付くと、クレガはにやりと笑った。悪魔達と一緒に円陣を組み、退路へと向かおうとする。だが、もう足が動かなかった。周囲は、十重二十重に囲まれていた。

「どれだけ逃げられたかのう」

「さあ、一割も逃げられれば良い方ではないのか」

「そうだろうな。 人修羅が、七天委員会の天使を二騎落としたぞ。 天使どもが大混乱して、爆撃がだいぶ弱ったのが、わしの方からは見えた」

「あいつには感謝してもしきれないな。 せめて琴音が戻るまでは、耐えたかったが」

辺りの鬼神達は、仕掛けてくる隙をうかがっていた。

デジャブがある。こんな雰囲気の場所に、前にもいたような気がする。戦うことを否定された国で、だが必要な存在としてそこにあった軍隊。守ろうとすれば中傷と野次が飛んでくる中、それでも守ろうと決意した場所。だが、世間の目は厳しく。歯がゆい思いばかりをしていて。いつしか、無口になっていた。

今も、同じだ。仲間と共に、ずっと歯がゆい思いをしていた。だが、どこかに達成感がある。

気付く。隠してはいたが、クレガの背中に致命的な深傷がある。マガツヒになって、血がこぼれ始めている程だ。自分と同じだなと、フォンは思った。この老人と共に逝けるのなら、悔いはない。

「なあ、フォン。 人間だったような気がせんか?」

「お前もか。 俺は、誰にも歓迎されない軍隊にいたような気がする」

「そうか。 わしはな、昔気質の靴職人だったような気がするんだ。 レプラコーンと言えば、靴職人の妖精だし、ずっと靴ばかりを作っていたのかも知れないな」

「職人が飲んだくれとは笑えないな」

冗談を自分が言うとは思えなかった。クレガも驚いたらしい。

「ああ。 酒だけは手放せなかった。 機械化の波に押されて、オーダーメイドの靴など喜ぶ奴は何処にもいなくなってなあ。 ごく僅かな需要まで、メーカーに抑えられていたわ。 メーカーにかろうじて雇われはしたが、売れることばかり考えた面白くもない靴ばかり作らされて、腐っておったわい。 酒に走って、家族からも見捨てられていたような気がする」

「そんな家族など、どうでも良いではないか。 今は琴音も、ティルルも、それにカズコもいる。 彼女らこそ、俺達の家族だ。 守るべき者達だ」

「そうだな」

飛行音。琴音だと、気付いた。包囲の外側に、逃げようとしているマネカタの一団。足弱の老人や、子供を庇おうとしている、軍の者達。気骨のあるマネカタも、まだ少しは残っていたと言うことだ。

クレガと頷きあう。彼らを守らなければ、琴音に顔向けできない。

家族に嫌われることの方が、死よりも怖い。

そして、回りの生き残った悪魔達も、同じ事を考えたようだった。

街の中央近く。土砂が吹っ飛ぶ。姿を見せたのは、ニーズヘッグだ。決めていたのだ。いざというときには、アマラ経路の浅いところと、無理矢理ニーズヘッグが穴をつなぐと。わっとマネカタ達がそちらに逃げ込んでいく。追おうとする鬼神達の間に割り込んだフォンが、無数の槍を体に受けた。もう、痛みは感じない。吠えたクレガが、体の最後の精までも絞り出して、連続して魔術を叩き込む。弱り切ったその体を、無数の矢が貫いた。

クレガが微笑みながら、仰向けに倒れる。フォンも、それに僅かに遅れて、地面に倒れた。他の悪魔達も、必死に防戦していたが、勝負は見えていた。

それなのに、鬼神達は下がった。何故なのか。

分かった。皆の中央に、傷だらけの琴音が降り立ったからだ。俺達みんなの娘。本当の家族。単眼から、止めどめもなく涙が流れた。手を伸ばす。届かない。

最後に、伝える事が、一つだけあった。

「お前と、一緒、に、守れて。 良かった、よ」

最後の言葉は、妙にクリアに、聞こえた。

それきり、フォンの意識は途切れた。

 

予想外の抵抗を見せたマネカタの街アサクサだが、直接千晶が動き出したことで、勝負はついた。

千晶はミズチに、街の外から内側に向けて、漏斗状の蜃気楼空間を作らせた。上空から地面近くまであるそれの中では、他者が認識できなくなる。もちろん自分が何処にいるかも分からなくなるので、輸送役の天使達には、風に逆らわず滑空しろと伝えた。風向き、空気の温度から、それで街の中に乗り込めるように、千晶は漏斗状の蜃気楼空間を設計した。

最大の障害である人修羅とサマエルは、それぞれ満身創痍。対して、気力充分の千晶は、無防備な敵の中枢に、悠々と降り立った。手にした斬馬刀を、蜃気楼空間から出ながら抜き放つ。父の遺産だけあって、素晴らしい一体感である。

避難中だったらしいマネカタどもが、千晶に気付いた。鬼神達が、遅れて続々と現れる。ぽかんとしていた老人のマネカタを、まずは血祭りに上げる。刀を振るうだけで、上半身が消えて無くなる。子供のマネカタの頭を叩きつぶすと、ようやく事態を把握した泥人形どもが、悲鳴を上げて逃げ始めた。

無視。掃討はいつでも出来る。周囲を鬼神達に囲ませて、千晶は悠々と進み行く。向かうは街の中心。天使の偵察によって、フトミミが其処ミフナシロの地上で、指揮を執っているのは分かっていたのだ。

槍を揃えたマネカタどもが向かってくる。手を一振りするだけで、泥の塵になった。弱い、弱い弱い弱い!新世界に生きる資格の無い弱者どもは、それでも向かってきた。弱いくせに、千晶にたてつく愚か者ども。腕の恨みを、千晶は思う存分ぶつけた。腕を振る度に、辺りは屍山血河となる。やがて、後ろから歎息が聞こえた。護衛に加わっていたミズチだった。

「もう良いではありませんか、千晶様」

「ほう。 狡猾なことで知られるお前が、不思議なことを言うな」

「いえ。 儂は確かにマネカタの命などどうでもいいと思っています。 しかし、こうも弱者を捻り潰すのは、武人の魂を汚す行為に思えてしまって」

「ふん、立派なことだ。 だが、覚えておけ。 ごきぶりも鼠も、弱者だが増える。 此奴らも同じだ。 新世界で此奴らが増殖する姿を思い浮かべてみろ。 虫酸が走るわ」

必死の防戦を、まるで紙でも引きちぎるように破りながら、千晶は進む。ミズチはそれ以上、何も言わなかった。

やがて、見えてきた。ミフナシロには洞窟があると知識として聞いてはいたが、マネカタどもは外に陣取っていた。本陣らしい所の中心には、陣椅子を据えて、腕組みしたフトミミが腰掛けている。フトミミは千晶を見ると、全ての終わりを悟ったようだった。必死に守ろうとするマネカタ達に、逃げるように言う。別に構わない。逆らうようなら、いつでも粉砕できるからだ。

「貴方が、マントラ軍の首領か」

「畏れ多いぞ、泥人形がァ!」

「構わぬ。 こ奴も害虫同然の存在とはいえ、一組織の首領だ。 遺言くらいは、好きなように囀らせてやれ」

ゆっくり歩み寄る。愛刀には、マネカタの残骸である泥や布きれがこびりついていた。フトミミは目をつぶると、言った。

「貴方は、敗れるだろう」

「ほう。 予言をすると聞いていたが、残念なことだ。 最後の予言は外れることになるのだからな」

「……」

「遺言は、それだけか?」

返答はなかった。千晶は失笑すると、一息に斬馬刀を振り下ろしていた。

 

5,魔神光臨

 

剣が、フトミミの頭上で止まる。千晶は、間に入った、怒りに目を燃え上がらせている秀一を見た。秀一も、千晶を見返す。傷だらけの秀一は、かろうじて立っているという有様であったが、気迫だけは負けていなかった。

少し前に意識を取り戻していた秀一は、まっすぐ此処へ向かったのだ。フォルネウスも殆ど同じコンディションだが、秀一の少し後ろで、カズコを乗せて待機している。マガツヒは、来る途中にある程度食べた。全然足りはしなかったが、気迫だけはそれで補ったのだ。

「あら、秀一君。 こんなところで奇遇ねえ」

「これが、君が望む世界か」

「そうだ。 これこそ、私が作る力が正当に評価される世界だ」

千晶の言葉には、愉悦さえもが含まれていた。秀一はボルテクス界に来てから初めて、心底からの怒りを感じた。だが、理性が飛ぶほどのものではない。そこまで、もう感情が沸騰しないのだ。

我ながら、感情や欲望が希薄になっている事を、口惜しいと思う。こんな時は、怒って良いはずなのだ。しばし、刀を支え続けていた秀一だが、短い気合いの声と共に、打ち払う。即座に間に割り込んできた者がいた。いつぞや見た、ベルフェゴールだ。千晶は割って入った腹心に気分を害した様子もなく、指先で招くようにしながら言う。

「秀一君は、力が作る世界のことを理解していないようだな」

「どういう意味だ」

「コトワリを開いた私は。その力で唯一絶対の神となる。 その力の下、全ての存在は正当に評価されて、不平等はなくなる。 だから、天使達は私に従った」

「そして、この虐殺は、そのための淘汰だとでもいうつもりか」

その通りだと、千晶は言う。

秀一には、何となく分かる。孤独だった千晶にとって、彼女を排斥した弱者達は、憎悪の対象なのだ。孤独のまま、生きていける人間は確かにいる。だが、千晶は違った。文句を言いながらも、幼なじみである秀一や勇と一緒にいたのが、その証拠だ。友人といるのが心地よいというのは確かにあっただろう。だが、千晶は単純に寂しいと考えていたはずだ。

その時の憎悪が、この虐殺を産んだ。もちろん、マントラ軍としては、脱走したマネカタ達を許すことが出来ないという事情もあったはず。だが、これは結局の所、千晶の心にわだかまった憎悪が生んだ結果なのだ。

唯一絶対の神が作る世界は、確かにあるかも知れない。世界史でも、王政は民主制よりも歴史がある制度だ。絶対王政と呼ばれる極端な形態の下、発展した国家だってあった。だが、それは神の気紛れ次第で、どんな不幸も巻き起こり、しかもそれが正当化される世界だ。

キリスト教の聖書で、神がノアの一族を残して人類を滅ぼした挙げ句、最終戦争で僅かな男性を残して再び人間を皆殺しにすることを、秀一は聞いたことがある。それと、同じだ。確かに神の下に秩序は産まれる。しかしそれを許容することは出来そうにない。

「千晶。 君のコトワリに、俺は賛成できない」

「そうか。 ならば、排除するしかあるまい」

千晶が指を鳴らすと、光と共に天使が降りてきた。ガブリエル。さっき討ち漏らした、天軍指揮官の一騎だ。それに蹴散らしたソロネとケルビムの群れも。そういえば、サナは。上空では、まだ激しい戦いの光が瞬いている。実力は伯仲していた。勝負はまだついていないと言うことだろう。

「秀一君なら、分かってくれると思っていたのだが、残念だ」

「千晶、君はもう立派な大人だ。 だから、その道を止めようとは思わない。 だが、一緒に歩むことは出来ない。 道を造ることに、協力することもだ」

「……殺れ。 生かしておくな」

「お任せを、千晶様」

炎の車輪が二つ、回転しながら襲いかかってきた。秀一が一つを受け止め、一つに蹴りを叩き込む。拉げて吹っ飛ぶ車輪。だが、敵は屈することもなく、次々と躍り掛かってくる。とても、フトミミを守りながら対処できる数ではなかった。それどころか、相手にするのがやっとだ。ベルフェゴールは仕掛けては来ないが、千晶との間に壁となっている。今の余力で、ベルフェゴールを抜くのは不可能だった。

千晶は、秀一が乱戦に巻き込まれたのを見ると、無造作に手を伸ばして、フトミミを貫いた。

この瞬間、アサクサは終わった。

 

戦いの振動は、アマラ経路にまで伝わってきていた。リコは何度も上を見て、唇を噛んだ。

秀一が戦っている。それなのに、自分は護衛の任務だ。秀一が気を利かせてくれたことは分かっているのだが、しかし口惜しい。

今なら言える。リコはもう、トールの下に戻る気はない。上で行われていることは、見なくても明らかだ。許せないと思う。それだけで、リコはもうマントラ軍ではないのだ。もし鬼神がなだれ込んできたら、戦うつもりだ。その覚悟は、既にあった。秀一は信頼してくれているから、此処を任せてくれた。それも分かっている。しかし、口惜しいのは確かだった。

避難中のマネカタの内、一部は既に砂漠に出て、安全圏への逃走を続けている。安全圏と言っても、マントラ軍とニヒロ機構の中間勢力圏など、もう殆ど残ってはいない。主体性も指導力もないマネカタ達に、今後生きていくことなど出来るのか、不安である。

ぴたりと、逃げてくるマネカタがいなくなった。どうやら爆撃が始まり、疑似アマラ輪転炉が吹っ飛んだらしい。そうなると、当初の予定通りニーズヘッグが穴を開けるはず。此処とは少し違う場所に、護衛に向かわなければならない。

黙々と指揮を続けていたサルタヒコに断って、あらかじめ決まっていた位置に走る。その時、何か前方で騒ぎが起こった。何か、途轍もなくいやな予感がした。あちらには、ティルルがいたはずだが。

ワームのティルルは、見かけこそ怖いが、とても善良で臆病である。カズコとは殆ど姉妹のように仲が良く、一緒にいるのを見かけることが多い。上に残ったカズコは、秀一によくなついているし、秀一も頼りにしている。口は悪いし無愛想だが、いざというときにはとても頼りになる強い子だ。ティルルに何かあったら、カズコは悲しむだろう。それは、嫌だ。

「ちょっと、見てくるッス」

「分かった。 此処は私に任せておけ。 先導は妻にやらせる」

サルタヒコに一礼すると、リコは何人かの兵士を呼び集め、彼らを連れて走った。この戦いでは、多くの者が死ぬことは確実だ。リコが育ててきた兵士達も、殆ど生き残ることは出来ないだろう。だが、それでも、防げる死は防ぎたい。

悲鳴が、聞こえた。この声は、確か幼児退行しているクロトのものではないか。怒号。洞窟状のアマラ経路だからか、声は余計に響く。いやな予感が、更に加速する。角を曲がった時、リコは思わず息を呑んだ。

白衣を着たアンドラスが、地面に倒れていた。頭から血を流している。抱き起こすと、アンドラスは震える手で、リコの腕を掴んできた。

「リ、リコ、か」

「先生、どうしたッスか!」

「わ、わしはいい。 死にはせん。 それより、奥だ。 ティルルが、このままではクロトも、殺される」

おかしい。鬼神の気配はないのに。殴打の音。クロトの鳴き声。わめき声。それに、狂気の気配。兵士達に、アンドラスの介抱を任せる。一人になったリコは、全力で現場に向かう。そして、見た。

ホールのように開けた空間で、悲劇が起こっていた。

血のついた棒や剣を持った、マネカタ達。彼らは、抵抗しないティルルの体を執拗に打ち据えていた。側では幼児のようにへたり込んだクロトが、顔を手で覆って泣いている。ティルルはもう悲鳴を上げることも出来ず、血まみれのまま転がっていた。

「何をしているっスか!」

殺気だったマネカタ達が、一斉にこっちを見た。全員、目が殺意と狂気にぎらついていた。血まみれの角材を持ったマネカタが、わめき散らす。たしか、サイクの側近をしていた奴だ。

「こいつが、この悪魔が、騒ぎ出したんだ! ギャアギャア吠えやがって! このままじゃあ悪魔に見つかるから! だから!」

何で、ティルルが騒ぎ出したのかは、分からない。だが、これは何だ。恐怖で、人間はおかしくなると聞いたことはある。マネカタも悪魔もそれは同じだ。だが、これは。こうも恩知らずになれるのか。リコは、怒りのあまり、身動きできずにいた。

「おい、こいつも殺そうぜ。 いつ暴れ出すかわかんねえからな」

「そういや此奴、ニヒロ機構の元幹部なんだろ!? こんな奴つれてたら、いつマントラ軍に襲われてもおかしくねえ」

マネカタの一人が、クロトを視線で差す。マガツヒになって消えていくティルルを見て、クロトは悲鳴を上げた。やっと少し喋れるようになったクロトが、血まみれの体にすがりつく。

「ティルルちゃん! ティルルちゃん! しなないで! しなないでえっ!」

「クロト、ニゲテ。 ミンナ、シンダ。 フォンモ、クレガモ。 クロトモシンダラ、コトネガ、モットカナシム」

「ティルルちゃんっ!」

悲鳴を上げるクロトを、振り上げられた角材が吹き飛ばした。それが、妙にスローに、リコには見えた。頭部から血を流しながら転がったクロト。叫きながら、一斉に角材やナイフを振りかざしてマネカタ達が襲いかかる。心臓が、徐々に高鳴っていく。泣きながらティルルの方へはいずって行こうとするクロトを踏みつけたマネカタが角材を振り上げて、容赦なく振り下ろしたとき。

今までにないほどの怒りが、リコの理性を吹き飛ばした。

気付くと、辺りはマネカタの残骸である泥が山となっていた。腰を抜かして転がっているマネカタが、何か恐ろしいものでも見るように、リコを見上げていた。

手足は泥だらけ。壁には、人型をした泥のシミが彼方此方にあった。自分が何をしたのか、すぐに分かった。泣いているクロトに、上着を掛けてやる。どうしよう。迷子になった子供のように、リコは天井を見て思った。秀一に、今すぐ来て欲しかった。

だが、すぐには、秀一は来てくれなかった。

リコは壁の方を見て、誰にも見られないようにして泣いた。何だか、そうしたい気分だった。

 

膨大なマガツヒが、千晶の周囲で渦巻いていた。秀一は、首を引きちぎったソロネから手を離して、その光景を見た。生き残っている天使はガブリエルだけ。フォルネウスと互角の戦いを続けていた天使は、傷だらけである。フォルネウスも、浮いているのがやっとの様子だ。

ただし、敵には精鋭の鬼神も多くいるし、何よりミズチとベルフェゴールが無傷で控えている。特にベルフェゴールは大槍を構えて秀一に向けており、隙の欠片も見せてはいなかった。この目は、分かる。命を捨ててでも守ろうというものだ。どのような事情があるかは分からないが、ベルフェゴールは千晶を肉親同然に思っているのだろう。

辺りは、真っ赤になるほどのマガツヒで覆い尽くされていた。秀一が今殺したソロネのマガツヒなど、この凄まじい光景から見れば糟も同然。違和感が、やがて確信に変わる。秀一は、不意に納得した。

そうか、これが本当の狙いだったのだ。

千晶の本当の狙いは、復讐などと言う小さなものではない。この地でマネカタを大量虐殺すること。戦いに臆病なマネカタを巻き込み、なおかつ殺戮することで、膨大な恐怖を発生させる。それにより、大量のマガツヒを一気に生成する事であったのだ。更に、もう一つ、重要なことがある。此処はマネカタにとって出生の地であるミフナシロ。ボルテクス界で唯一泥のある、聖地だ。

勇は、守護を降ろしたときに、言っていた。場所が重要なのだと。千晶は、コトワリ、場所、マガツヒ、その全ての条件をそろえた。そして、最後の一つとなる生け贄も。息絶えたフトミミを、千晶が天に掲げる。ガブリエルが天を見上げ、感嘆の声を上げた。それに対して、目を背けるベルフェゴールの姿が、対照的だった。

「おお、光が!」

光が、集まってくる。千晶へ、集まっていく。

何が、光だ。これほど光が不愉快だと思ったのは、初めてだった。千晶が、満面の笑みのまま、光に包まれていく。千晶は、いや千晶だったものは、秀一を見もせず、語りかけてくる。声は何重にも重なり合い、まるで辺りが音響ホールになったかのような錯覚を作り出す。

「それだけの数の天使が、足止めにしかならぬか。 貴様の力は、もはやトールにさえ並んでいるようだな」

「もはや、千晶ではないな。 貴方は、何者だ」

「私か。 私は原初の神にて、偉大なる存在。 砂漠の至高神にて、唯一神教の母胎となり、魔王ともなったもの」

バアル。光に包まれた魔神は、そう名乗った。正確には、その写し身、アバターだという。バアル・アバター。魔神は、光の中から、歩み出る。既に性別を超越した、人の美しさを凝縮したような姿は純白で、目だけが赤い。背中からは一対の翼。体はプロテクターのような皮膚に覆われているが、質感はなめらかで、かつとてつもなく堅固そうにも思えた。フォルネウスが間合いをとりながら、ゆっくり秀一の後ろに入った。とてもではないが、奴の攻撃があった場合、耐えきる自信がないのだろう。

「まさか、バアルとはのう」

「名前だけは、俺も聞いたことがある」

「そうじゃろうの。 魔王として名高いバエルにベルゼバブ、ユダヤ教やキリスト教の唯一神、それに東洋の様々な神霊にもその性質を受け継がせている、オリエント文明最大の神格よ」

どこの宗教でも、神の像として恥ずかしくないような姿だ。フォルネウスが、手短に説明してくれる。秀一は思わずそれを聞いて唸った。無理もない。現世文明の根元となる存在があがめていた宗教の神なのだ。全ての原型と言っても間違いのない、抽出した神の姿がそこにあった。

唯一神信仰を世界に浸透させたキリスト教は、決して原初の宗教ではない。根元にはユダヤ教がある。更に、ユダヤ教の根元には。結局彼らが憎みながらも取り入れざるを得なかった、征服者達の宗教があるのだ。

バアルはユダヤ教が憎みながらも、結局は神の性質を取り入れざるを得なかった存在。唯一神の先祖ともいえる、偉大な神格なのである。既存の神では満足しなかったであろう千晶が呼び出したのも、頷ける神格であった。

戦うにしても、少なくとも今の状態では、勝ち目がない。味方が全員そろっていたとして、体調が万全であっても、いけるかどうか。だが、秀一のことを、もはやバアルは気にしてはいなかった。

バアルは、遙か遠くの空を見ていたのだ。秀一には分からないのだが、強い気配があるのだろうか。その予想は当たった。

「ニヒロの虫どもが、生意気にも守護を降ろそうとしておるか。 我がコトワリ、ヨスガの障害となりうるものは、取り除かなければならぬ」

「バアル様、いかがなさいますか」

「全軍をそろえよ。 ニヒロ機構が守護を降ろす前に、攻め滅ぼす」

「承知、いたしました」

惚けているガブリエルに代わって、バアルの後ろにずっと無言で控えていた水の竜が恭しく頭を下げた。そのままバアルは、翼を拡げて、飛び去る。

目的を果たした今、もはやこの地には何の用もないというわけだ。そして、また一つ、コトワリが目覚めた。ヨスガと言うらしい。以降、マントラ軍はヨスガ軍とでも名乗るのであろう。

何もかもが終わったと、秀一は感じた。

後には、ゴミのように打ち捨てられた、フトミミの骸が転がっていた。

 

砂漠で、ぼんやりとオンギョウギは燃え落ちたアサクサを見ていた。トールに掴まれて、此処で全てを見届けるように言われた。そして見ているうちに、正気を少しずつ取り戻したのである。

全てを焼き尽くす炎。脆弱ながらも、命を賭けて運命と戦う僅かなマネカタ達。大多数は逃げ回るばかりだったが、鬼神達に命がけで立ち向かったマネカタもいたのだ。それに比べて、自分はなんと卑小なことか。己に出来ることを全力でしていたマネカタだけではない。邪神サマエルも、トールとの戦いに全てを賭けていた。天軍と戦っていたのは、人修羅であろうか。彼らに比べて、何と己は弱く、愚かであったことか。

「目が、醒めたようだな」

顔を上げると、トールがいた。サマエルの術式と大きく弾きあって、それからはどうしていたのかよく分からない。前線を卵でも潰すように砕いた後は、総指揮を執っていたのだと、トールは言った。そして、焼け野原になったアサクサを見る。

「行くぞ。 もう彼処に用はない」

「しかし、俺は」

「お前には、捨てるには惜しい力がある。 その下らぬプライドを捨てて、狂気から舞い戻れば、充分に役に立つのだ。 さあ、無くした腕の分だけ、働いて見せろ」

トールは、ついてくるようにと言い残して、撤退を開始している部下達の方へ歩いていった。オンギョウギはしばしそれを見つめていた。

ついていく事にしよう。このまま終わっては、何もかもが無駄になるような気がした。自分はクズだった。それは今、素直に認めることが出来る。ならば最後くらい、一花咲かせてみたいのだ。

見た。誇りというものを。感じた。必死に運命に立ち向かう命を。

自分もその中の一つで、ありたかった。

 

6、残されたもののそれぞれ

 

潮が引いたように、天軍も鬼神達も退いていく。ミズチは秀一を一瞥したが、それだけだった。逆に、激しい戦いを無理矢理切り上げたらしいサナは、ふらふらになりながら、こっちに飛んできた。見たところ、ラグエルと決着はつかなかったらしい。

手を振る余裕などはなかった。秀一の気持ちを察したのか、サナも何も言わない。ただ、ボロボロになってしまったお気に入りのお洋服を、残念そうにつまんだり伸ばしたりしていた。ドライなサナらしく、フトミミの死には、殆ど興味を示さなかった。

一体この世界はどれだけ血を吸えば気が済むのか。バアルはニヒロ機構の殲滅を宣言していた。千晶がベースになっている以上発言を翻すこともあり得ない。両組織の実力は、どう考えても伯仲している。これから、今までにない規模での、壮絶な殺し合いが始まるだろう。

無言でサナを迎えると、ニーズヘッグが開けた穴へ向かう。本当は、これをフォルネウスの氷で封鎖して追撃を塞ぐつもりだったのだが、マントラ軍は既に千晶の命令の下、引き上げてしまっている。燃え落ちた街を歩く。生き残ったマネカタは少数。避難した者達も、もうアサクサに戻る気はないようで、四散していった。

廃墟の中を、歩いている人影に出会う。カザンだった。どうやら、鬼神達に阻まれて駆けつけることが出来ず、フトミミの最後を遠くから見たらしい。秀一が声を掛けても、悔しそうにうつむくばかりだった。男の悲しみに、土足で踏み込むのは野暮というものである。アマラ経路に向かおうと思った秀一に、カザンは独り言でもつぶやくかのように言った。

「一体、我らは何のために生を受けたのだろう」

「カザン」

「人修羅殿、悪いがしばし一人にして欲しい」

琴音はどうしたか知らないかと聞くと、指さした。最後まで組織的な抵抗を指揮していた琴音は、クレガとフォンの最期を看取ると、彼らのマガツヒを吸い込んで、後は生き残りを連れてアマラ経路に向かったそうである。マネカタ達を、まだ救うつもりなのだろう。秀一は、戦いの際にマネカタ達が見せていた醜態にいい加減嫌気が差していたので、頼まれない限りそんな事をするつもりはなかった。カズコが無言でカザンを見つめたが、視線を逸らしてしまう。

「意気地無し」

「何とでも言うがいい」

カズコらしい、毒舌の励ましにも、カザンは応じなかった。これ以上は無意味だ。まだ何か言おうとしているカズコの服の袖を引く。

「カズコ、行くぞ」

「でも」

「いいんだ。 誰もが、お前みたいに強い訳じゃないんだ」

カズコは口をつぐんだ。そしてもう一度意気地無しとつぶやくと、目を擦った。

街の中央には、大きな穴が開いている。その周囲にも、力尽きたマネカタの亡骸が無数に散らばっていた。生きている者もいる。だが、皆呆けてしまっている様子だ。燃えている家屋もまだある。中に子供のマネカタが潜んでいたので、家を崩して助け出した。子供のマネカタは、何も言わず、ぼんやりと空を見上げていた。

アマラ経路の入り口にニーズヘッグが待っていた。崩れかかった縁を持つ大穴からは、絶え間なく砂が下へ落ち込んでいる。其処から顔を出した白い巨大な竜は、いつものようにたどたどしく言う。

「テキ、コナカッタ。 マネカタタチ、オクニニゲタ」

「そうか。 他の皆は?」

「私達なら此処にいるわよ」

ニーズヘッグの影から、ひょいとアメノウズメとサルタヒコが姿を見せる。そうなると、後はリコだが。状況から言って、戦死したとは考えにくい。琴音が合流しようという動きを見せないのも気になる。一体、何が起こったのか。

ニーズヘッグの体を伝って、穴の下に降りる。槍を構えていたマネカタが何人かいたが、皆目的意識を失って、困惑しきった顔を見合わせていた。途方に暮れて辺りを彷徨いているマネカタも多い。シロヒゲが、その中にいた。シロヒゲは最後の瞬間の寸前まで、フトミミの側にいたという。そして、彼は、リコのことを知っていた。

「人修羅殿、すまんことをした。 同胞が、愚かな真似をしてしまった」

「何があった」

「リコ殿は、そっちにいる。 慰めてやって欲しい。 儂らには、何もいう資格はないからのう」

一緒に行くかと聞くと、シロヒゲは首を横に振る。彼は此処に残るつもりだという。もはや何の価値もなくなったが故に、此処は却って安心だと、シロヒゲは言う。確かに今後、略奪に来る野良悪魔を考えなければ、命の危険はない。

どこか安心した様子だったシロヒゲが、痛々しかった。この老人は、きっとマネカタの創世など望んではいなかったのだろう。平和に暮らしたいだけだったに違いない。だが、ボルテクス界では、その思考そのものが悪だった。だから、滅びたのだ。

街に残りそうなマネカタは、数百もいるかどうか。地下に逃げ込んだ者の内、組織的に動きそうなのも、せいぜい一万か二万か。琴音はどうするのだろう。秀一は、琴音のこともリコのことも心配した。そして、シロヒゲが示した方へ歩きながら、リコを探した。

いた。

リコは、泥山の中で、座り込んでいた。膝には泣き疲れて眠ってしまったらしいクロトを乗せている。何があったのかは、一目で分かった。弱い者は、心も脆い。恐怖が、凶行を煽り、そしてリコが爆発したのは目に見えていた。ティルルも一緒にいたはずなのだが。これでは、もう生きていないだろう。

「リコ」

「榊センパイ。 あたし、センパイに着いて行くッス」

「そうか」

何故そうリコが決意したのか、秀一は何となく分かった。だが、追求するのは野暮だと思ったから、それ以上は何も言わなかった。

リコは無言で、天井を見上げていた。傷だらけになったクロトが、ただ痛々しかった。

 

砂漠で、琴音は逃げ延びてきたマネカタを集めていた。皆、呆けてしまっているようで、発狂している者もちらほら見受けられた。

側にはユリがいる。ユリは城壁の上で、最後まで走り回ってマガツヒを悪魔達に配っていた。生き残った悪魔達は、ボロボロになりながらも、必死にユリを守りきった。守るために、クレガとフォンの他にも、二騎の悪魔が死んだ。二騎とも、満足した笑顔で、琴音を見て、マガツヒになって散った。

もう、琴音は涙も出なかった。ずっと一緒に戦ってきた盟友達を、皆一度に失ってしまったのだ。ティルルの悲惨な最期も聞いている。それを告げたマネカタは、加害者であるにもかかわらず、のうのうと避難民に加わっていた。

殺してやりたいと思う気持ち。同時に、弱者を守らなければならないという信念が、琴音の中でせめぎ合っている。貧すれば鈍する。強者でさえ、追い込まれればとんでもない愚行に走るのだ。弱者であったらなおさらではないか。理屈は分かる。だが、琴音の中の怒りは、もう抑えるのが難しいところにまで来ていた。

多分、秀一と一緒に行ったカズコだけは生きている。それだけは、希望だった。

ユリは、ティルルが死んだことを聞くと、さめざめと泣いた。今も、笑顔を作れそうにない。

強者が弱者に振るう暴力は悪だ。だが、それが許される世界が、来るかも知れない。そう思うと、琴音は無念で全身が灼けそうだった。トールのことは、もはや師とは思っていない。必ず殺さなければならない。勝ち目が無くとも、殺らなければならない相手となっていた。

無心で、指揮を続けようと心がける。だが、雑念はどうしても払い切れなかった。

何とか、避難民がまとまり始めていた。武器を持った者も、少しはいる。これから、アサクサに戻るか。或いは、別の所に避難するか。アマラ経路は駄目だ。一時的には逃げ込めるかも知れないが、いずれムスビの高位悪魔達が攻め込んでくる。かといって、砂漠に居場所など無い。マネカタも、泥を食べないと死ぬのだ。

秀一が手を貸してくれればとも思ったが、首を無意識に振る。駄目だ。秀一は、琴音ほど極端な博愛主義ではない。今回の件も、マネカタに原因があることを、冷静に分析しているはずだ。それは、琴音も分かっている。だが、分かってはいけないのが、琴音の理屈なのだ。

元々、頼る者などいない。全てが、絶望的だった。もう一度マントラ軍のまとまった戦力が攻め寄せてきたら、琴音は死ぬだろう。力は、トールとの死闘でかなり消耗した。ユリのマガツヒを食べてかなり回復はしたが、体の傷はどうにもならない。虎徹もぼろぼろで、修理が必要になるくらい敵を斬った。フランベルジュでは、強敵と戦う時に力不足である。

考えれば考えるほど、袋小路に入っていく。

避難民の中に、サイクがいるのを見つけた。あいつも、守らなければならないのか。自己主張ばかりして、結局組織の寿命を著しく縮めた戦犯の一人。周囲のマネカタが、平然とした顔で歩いていたサイクを引きずり倒した。今は、スケープゴートが必要なのだ。鉄拳が、サイクの顔面に叩き込まれる。蹴りが入る。無惨に呻くサイク。もはや、誰も味方はいない。放っておこうかと思ったが、琴音は意に反して立ち上がった。自分を、理念が突き動かしているのが分かる。どうにもならなくなりつつある。

「やめなさい」

「サマエル様、しかし此奴は」

「やめるんです。 今は、どんな戦力でも必要な時です」

そう言うと、マネカタ達は、渋々サイクから離れた。露骨に媚びを売るサイクの視線を見て、琴音は吐き気さえ覚えた。

弱いとは、自分が守ろうとしたものは、こうも醜悪なのか。

違う。それは、弱さの一側面に過ぎない。ユリやカズコや、ティルルや、アンドラス先生。クロトや、善良で篤実なシロヒゲ老人。守るべき、或いは守る価値のあった弱き者は、幾らでも例があるではないか。一側面で、全てを否定してはいけない。いけないのだ。

ふと、それに気付く。遅れて、マネカタ達が騒ぎ出した。

空の彼方に。地平を埋め尽くして。それが、現れる。周囲は、すっかり囲まれていた。

マントラ軍ではない。この整然とした隊列は、一つの生き物のような秩序は。ニヒロ機構の軍だ。その先頭には、頭部がある部分に剣の柄があり、胸の部分に顔のある、豹が直立したような悪魔がいた。見かけたことが何度かある。

ニヒロ機構の重鎮にして豪傑。現在、トールと戦える可能性がある数少ない悪魔。剛剣の使い手、堕天使フラウロス。

怯えるマネカタ達に、円陣を組ませる。空にも、強い気配がある。空軍となると、女神ブリュンヒルドか。敵の数は、10000をゆうに超えていた。隊形からいって、2個師団は動員されている。もし攻撃してくるつもりなら、勝ち目は到底無い。

軍が、人垣を作るようにして、停止した。歩み寄ってきたフラウロスが、琴音の間合いの外で停止した。

「邪神サマエル」

「ニヒロ機構の、フラウロス将軍。 何用でしょうか」

「お前を迎えに来た。 正確には、お前に会いたいという奴を、此処まで護衛して来た」

人垣が割れて、小柄な悪魔が姿を見せる。人間と殆ど変わらない姿だ。セーラー服を着ているが、それがだぶだぶに見えるほど、丈があっていなかった。何の冗談かと思ったが、それで気付く。ニヒロ機構には、夜魔ニュクスに着替えさせられて、いつも変な格好をしているという悪魔がいる。その高名な悪魔は、中級程度の実力から、努力と武勲を重ねてニヒロ機構の大重鎮にまで上り詰めたという。誠実な人柄から誰からも愛されているという、ニヒロ機構の新しい星。

レヤックのカエデ。カエデは、琴音に対して、ぺこりと丁寧に一礼した。育ちが良いのだろう。礼はお嬢様育ちの琴音から見ても、完璧に近かった。

「無礼な真似をして、すみません。 ニヒロ機構攻撃軍司令官、カエデです」

「サマエルの琴音です。 何用でしょうか」

琴音にしがみついているユリが、不思議そうにカエデを見た。自分よりはお姉さんとはいえ、女の子が屈強な悪魔達に傅かれているのが不思議なのだろう。視線で、カエデは二人きりで話したいと告げてくる。

どちらにしても、選択肢はない。誠実な性格だと聞いているが、それだけで、ニヒロ機構でのし上がれる訳がない。近接戦闘は苦手なようだが、側にはフラウロスもいる。戦っても、確実に負ける。カエデは、交渉のカードとするためだけに、軍を揃えてきた。つまり、琴音を殺すか、配下にするつもりだ。

少し離れた砂丘の影に、フラウロスと三人で移動する。親衛隊らしいムカデによく似た堕天使の一騎が、いっぱいある手に三人分のパイプ椅子を抱えてきて、並べた。座るように促されたので、三角形の小さな座を組んで、腰を下ろす。

「話というのは、他でもありません。 ニヒロ機構に入る気はありませんか?」

「断ると言っても、聞く気はないのでしょう?」

「もちろん、無条件降伏を要求する気はありません」

にこりとカエデは笑う。洗練されているとは言い難く、しかし相手を安心させるような、軟らかい笑みだ。何より、裏がない。絶世の美少女ではないが、愛らしい容姿。この純真で思わず守りたくなるような雰囲気が、カエデの魅力なのだろう。そして、守られるばかりではない、本人の才能と圧倒的な実力が、彼女の運命を切り開いてきた。

傑物というのとは少し違うが、世を代表する人物の一人なのだなと、間近で見て琴音は思った。戒律が五月蠅いニヒロ機構で、出世するわけである。

「貴方のことは調べさせて貰いました。 マネカタ達をこうも必死に守り続けたのは、彼らが弱い者だったから。 違いますか?」

「いいえ」

「ならば、なおさらニヒロ機構に来るべきです。 マントラ軍のコトワリでは、マネカタ達は生きることが出来ません。 しかし、ニヒロ機構のコトワリでは、違います」

それは、琴音にも分かっている。だが、ニヒロ機構のコトワリは。

「しかし、ニヒロ機構のコトワリは、極端な法治主義、管理世界の筈です。 それでは、堅苦しすぎるのではありませんか」

「確かにそういう面もあります。 しかし、現実的に考えてください。 マネカタがこの過酷な世界に生き、なお新しい世界で生を得るには、それしか方法がないのです」

正論である。残念ながら、その通りなのだ。

マネカタは独立して生きられる存在ではない。フトミミに頼り切り、思考も理想も任せてしまっていた。その前は琴音と秀一に頼りっきりで、自主的には何一つしなかった。弱いのだ。悲しくなるほどに。カザンのような例外もいた。だが、それは圧倒的少数に過ぎなかった。

「マネカタには、マガツヒの提供と、身体能力に見合った労働をしてもらいます。 戦闘は要求しません。 虐待にならないように、私と、直接の配下が監視します。 貴方も労働状態を監視して、不備があったらトスアップしてくださって構いません」

「……そこまでするのは、私に何か要求があるからですか?」

「正直、貴方という人材が欲しいのは事実です。 しかし、ニヒロ機構はそもそも、全ての存在に公平な役割を求める組織です」

そういうと、カエデの顔に一抹の寂寥が差した。フラウロスも、少し退屈そうではある。きっとカエデは、おそらくフラウロスも、ニヒロ機構と氷川に忠義を誓っているのであって、そのコトワリに全てを捧げているのではないのだろう。

カエデという存在を支えてきた信念が、忠誠心だと言うことに、琴音は気付く。この年頃の女の子としては、信じがたい性質の一つだ。だがその特異な性質が、カエデという人格を作り上げている。ただ、同世代の友人は出来にくいだろう。人間だった時も、孤立していたのかも知れない。

「トールや、シジマの強大な悪魔と戦うには、一人でも優秀な人材が必要です。 人修羅は残念ながら、己の抱えるコトワリに依存する傾向が強く、ニヒロ機構に協力する可能性は低い。 しかし、貴方は違うと思っています」

琴音は、腕組みした。

カエデは誠実な性格である。会ってみて、それに嘘がないことははっきりした。もし琴音が断っても、多分マネカタ達を殺戮する事はないだろう。

だが。それでも、結局マネカタ達は、この世界で生き残ることが出来ない。このままでは、彼らは強者に押しつぶされていくだけだ。それならば、いっそ。己の力に相応しい場所で、静かに生きれば良いのではないか。

シロヒゲも、静かに生きたいと望んでいたはずだ。多分、ユリもそれは同じだろう。

琴音や、着いてきてくれた悪魔達は、激しい戦いに身を置く必要があるだろう。それは、仕方がない。我慢しなければならない。

「分かりました。 氷川さんから直接話を聞きたいのですが、よろしいでしょうか」

「もちろんです。 ギンザまで、護衛させていただきます」

「ただし、一つ、条件があります」

琴音は、もし自分が志半ばで戦死することがあっても、マネカタ達を受け入れてやって欲しいと頼んだ。カエデは眼を細めてその言葉を聞くと、約束しますと応えてくれた。名高いカエデの約束である。万金の価値があると言えた。

これから、マントラ軍とニヒロ機構は、壮絶な殺し合いを始めるだろう。いや、マントラ軍が退く時に、ヨスガの世のためにと叫んでいた。コトワリの名前だとすると、ヨスガ軍とでも名を変えるつもりかも知れない。

ともかく、大戦争が始まる。琴音は、それに巻き込まれるだろう。だが、それでも構わない。より弱き者達を、守ることが出来るのなら。

手など、幾らでも汚す。戦える者が戦う。それが、琴音の思う世界。弱者が生きられるコトワリが他にないのなら。選ぶものは決まっていた。

護送されて、ギンザに急ぐ。カエデの部下達は無機質な感じがあったが、誠実に約束を守った。怪我をしているマネカタは治療してくれたし、足が弱い者は背に乗せて運んでくれた。

それを見ながら、琴音は己の心を殺す。静かに、戦いだけに生きる決意をする。

ただ、信念のためだけに。

悲しい決意が、其処にあった。

 

(続)