アマラ経絡の闇

 

序、大いなる闇

 

オズが到着した闇の底に、その男は待っていた。

新田勇。かっては、無能とトールに罵られた男。マントラ軍で加えられた凄惨な拷問により、精神的に人間を一歩踏み越えてしまった存在。そして、今や、名前も失伝してしまったような古代の神々に傅かれる者。

コトワリの担い手として期待される、ボルテクス界でも数少ない存在である。

勇は洞窟状のアマラ経路の深奥で、大理石のような美しい模様を持つ盛り上がりに腰掛けていた。周囲は奇岩の展覧会場で、吹きたまったマガツヒが狂った蛍のように舞っている。それは病的ではあったが、美しい光景ではあった。

周囲に見える巨大な影はいずれ劣らぬ気配を発していて、ただ者ではないことが一目で分かる。オズを含めて、巨影は六あった。

「持ち帰りました。 これをご所望でしたか」

「ああ、それだ。 ご苦労だったな、オズ」

「新しい世界のためならば」

気怠げに、勇は立ち上がる。その目には、闇が宿っていた。かって、脆いが故に、世間一般に流布する価値観である「女にもてる事」だけを考えて、周囲に流されるだけ流されて、自分を保てなかった青年は。弱いという理由で自分を嘲笑し続けた世間そのものに徹底的な敵意を向け、そして今それを滅ぼす足がかりを得ようとしている。貧相で、傷跡が縦横に走る上半身を晒している勇は、ゆっくり歩み寄る。オズが持ち帰ってきた、スペクターの残骸に。

無惨な有様だった。かって、ボルテクス界でも最強の一角と謡われたスペクターであるのに。今では悪魔が実体化し損ねた時になるスライムも同然だった。貧弱で、脆くて、少し押すだけで壊れてしまうだろう。

だが、その中には、無限とも言える、圧倒的な実力と可能性が眠っているのだ。

「お前が、スペクターか」

「お前、ハ」

「俺は新田勇。 孤独の、全てが他に干渉されないコトワリを築くことを目的としているものだ」

スペクターが、身じろぎする。何の躊躇もなく、かっては国家軍事力にも匹敵する警戒を受けていた悪魔に、勇は無造作に手を伸ばした。

素手でスペクターを掴み上げ、顔を近づける。今や抵抗能力を持たないスペクターに、勇は傷痕だらけの顔を無理矢理歪ませて語りかける。

何故、そのようなことをするのか。それは、知っているからだ。スペクターが、己の半身にも等しい、虚無の存在だと。

「俺は、何でも知っている。 今やアマラ経路の主は、俺だからだ。 そうだな、当てて見せようか?お前、スペクターなんて呼ばれているが、違うだろ。 本当の名前は、太田創。 どうだ」

「……違わナい」

「ニヒロ機構のカエデに破れた戦いは見ていたよ。 お前に仕込まれたウィルスのことも知っている。 惜しかったなあ。 あと少しで、ニヒロ機構も、マントラ軍も、敵じゃあないほどに強くなれたのにな」

慣れないおべっかを使ってやっているのに、スペクターは反応しない。それで、勇は初めて鼻白む。どうしてスペクターが戦おうとしないのか、理解できないからだ。

勇にとって、世間は戦うべき相手だ。自分を滅ぼそうとする相手なのだ。必死に迎合し、思想的な無条件降伏までしていた勇を更に痛めつけた、怨敵だ。だから、戦って、焼き尽くして、滅ぼさなければならない。自分が生きるために。スペクターも同じ筈だ。少なくとも、アマラ経路で見た情報では、そうだったのだ。

勇には、スペクターが戦おうとしない理由が分からない。迷う意味が理解できない。同じ理由で世間に抗った存在なら。立ち向かわないのは、生きることを放棄するのと同じ事なのだ。本能のまま増え、敵を片っ端から殺してきたスペクターは、勇から見て美しかった。それなのに。どうして、戦いを辞めてしまったのか。

「どうした、何故闘志を燃え上がらせない」

「分かラナくなっタのだ。 俺ハ一体何ノタめに戦ってきタノか。 どうシて、憎くナくなっテシマったノかモ」

「……ならば、俺が思い出させてやろう。 来い、スペクター。 俺と一緒になれば、また力が手にはいる。 全てを、砕いてやろう。 全てを、虚無に落としてやろう。 俺の中で、全てを焼き尽くす力を手に入れろ、スペクター」

スペクターは動かない。躊躇している。

何故だ。何故、世界を破滅させ、新しい世界を作ることに、喜びを感じない。初めて勇は、怒りを感じた。これほどにスペクターが腑抜けてしまっているとは、思ってもいなかったのだ。

「ああ、そうかよ。 なら、強制的に一体化させて貰うぞ」

「……好きニしロ」

それにさえ、スペクターは反抗の姿勢を見せなかった。腑抜けがと、勇は舌打ちしながら、実行に移った。勇は顔の辺りまでスペクターを持ち上げると、そのまま口に入れた。窒息するようなサイズの筈だったのに、ずるりと音を立てて、喉の奥に滑り込む。粘液が口の中をぐちゃぐちゃにしたが、まるで気にならなかった。ずじゅる。ぎゅちゅる。気味の悪い音が、口の中からした。

既に、ものを消化する能力など失われてしまっている。生命活動はダゴンや他の古代神がかけた魔術でようやく保たれている状況だ。慢性的な痛みが、全身を蝕んでいる。全て、弱いという理由で、加えられた迫害の結果だ。

胃に、いやかって胃だった空洞に、スペクターが落ちた。今では其処は、マガツヒを吸収し、情報を得るための器官となっている。もちろん、スペクターを喰らったのは、一体化するためだ。

さあ、スペクターよ、復讐しよう。何もかもに。あらゆるものに。

我らを敵視し、迫害した、環境そのものに。

スペクターの意識が、勇の中に入り込んでくる。やはり、とまどっている。だが、そんなものは、意志の力でねじ伏せてしまえばいい。迷いなど不要だ。全て焼き尽くすことは決定事項だ。

その後に、新しい世界を作るのだ。

勇の中から、力が沸き上がってくる。スペクターに仕掛けられたウィルスを巧みに避けながら、情報を拾い上げていく。あらゆる攻撃への対処方法があった。あらゆる弱点を巧みに突く方法があった。

元々、太田創がとても頭の良い男だったことを、勇は今更ながらに悟った。殆どが、攻撃の性質を体で受けてから、対応策を自分の頭で考えたものばかりだ。そしてどれもが合理的。とても勇には思いつけないようなものばかりである。何かの機関で研究者として雇っていたら、間違いなく大きな業績を残していただろう。

そして。思わず、歓喜に声が漏れる。圧倒的な力を、勇は得ることが出来た。これで、いよいよだ。コトワリの守護を降ろす準備が整った。守護さえ降ろしてしまえば、後は一つで、コトワリが完成する。

ただ、今足りないものがある。

まず第一に、守護を降ろすには、膨大な餌が必要だ。餌となるものは膨大な量のマガツヒ。さらに、生け贄がいる。自身を生け贄にするのも良いのだが、出来れば守護と一体化したいと、勇は考えていた。

単純なマガツヒだけならば、ある。既に蓄えてある。今必要になるのは、生け贄と、もう一つの要素だ。マガツヒはあれば良いと言うものではない。守護を呼び出すには、それなりの手順が必要なのだ。

思いつく。アマラ経路を検索して、情報を見つけた。そうだ、これがいい。だがこれには、幾つかの駒を揃える必要がある。

ダゴンはこの間の、オベリスク戦でのダメージがあるから、まだ出すのは望ましくない。オズはまだ休息させておきたい。他の悪魔達を、今は動かすべきであろうと、勇は判断した。思考が恐ろしくクリアになってきている。太田創の、スペクターの能力が、勇を補助しているのだ。

「さて、後は例のものだが」

「未だ他勢力の手が及んでいない場所となるとアマラ神殿だが、彼処は守りが想像以上に堅いぞ。 特に古代神の侵入を防ぐ結界は強力だ」

「そういえば、貴様は侵入しようとして弾かれたのだったな、ゼウスよ」

「ショクイン、何がおかしい。 お前とて、侵入は出来なかったではないか」

いがみ合う古代神二柱を放っておいて、腕組みして勇は考え込む。誘い込む奴は、既に決まっている。問題は、どうやって誘い込むか、だ。

手はある。乗ってくるかどうかは五分五分だが、いずれにしても今後は厳しい賭が続くのだ。それに、失敗したら別の手を考えればいい。

ふと気付いた。また、奴が覗いている。しばらくは泳がせていたが、もう放っておく訳にはいかない。釣りをしている人間は、自分が狙われていることなど、気付きもしないものなのだ。愚かな奴だ。頭が良い奴は、時に誰よりも愚かになる。

一つ頷くと、勇はにらみ合っていた古代神達に顔を向けた。

「ショクイン、仕事がある」

「何なりと」

「これより、アサクサに行って、この男を捕まえてきて欲しい。 重要な鍵になる奴だから、喰らうなよ」

そういって、術を唱えた。スペクターが喰らった悪魔が持っていたものだ。今や勇は、スペクター以上の再現度で、それを使うことが出来た。空間に、絵が浮かび上がる。無精髭を浮かべた、少壮の男。情報には、放出している生体魔力などもある。それを見て、ショクインは何度か頷いていた。

「覚えた。 相手は人間だから、手は限られてくるが、問題はないか。 アサクサの防御能力などたかが知れている。 しかし、何故こ奴を?」

捕まえてみれば分かると、勇は薄く笑う。仕事が無くて退屈していたらしいショクインは、空間を滑るように進んでいった。軽く百メートルを超えている巨大な蛇は、瞬く間に見えなくなった。今まではアマラ経路の深部に潜んでいたから知られていなかったが、長さだけならば、ボルテクス界最大の存在である。質量で考えると、メタトロンには及ばないだろうが。

「後は、足止めが必要だが」

ニヒロ機構とマントラ軍を抑えておかないと、組織力にものを言わせて、先にコトワリを開かれる可能性がある。それでは困る。更に言えば、ニヒロ機構で言えばカエデやフラウロス、マントラ軍残党で言えばトールや毘沙門天は、古代神を撃破する能力を有していると、勇は睨んでいた。このまま上手くいけば、彼らを出し抜くことが出来る。しかし、念には念だ。

いざというときには、スペクターに習って、ゲリラ戦を基本としていくしかない。そう勇は判断した。恐ろしいほど頭が冴え渡っている。今まで憎悪に支配され、どうしても少なめの思考しか展開できなかった頭脳が、複数の策を同時に進めるほどに強化されている。

日本にゆかりが深い古代神を側に呼ぶと、ある道具の製造を命じる。この者の能力ならば、すぐにでも作ることが出来るだろう。

此方は組織が小さく、小回りが利くという利点がある。その上構成員は、一騎で師団にも匹敵する戦闘力の持ち主ばかりだ。あくまで静かにコトワリを開く準備を進めて、邪魔なようなら叩きつぶせばいい。

闇の深奥で、勇は静かに笑った。だが、その笑いは、間もなく引きつることになった。

マントラ軍が、新たなるリーダーの下に結集したという報告が上がってきたからである。しかもそのリーダーは、勇にゆかりの人物であった。

悪い予感が当たったことを、勇は悟ると、道具の製造を急ぐように命じた。

 

1,マントラ軍再生

 

廃墟になったイケブクロ。かってマントラ軍の首都として栄え、ナイトメアシステムによって滅ぼされた土地である。今でも防御施設は残っているが、内部は略奪で荒れ放題だ。リスクを承知で忍び込む下級の悪魔は、今でも後を絶たない。ナイトメアシステムはもはやイケブクロに影響を与えてはいないが、それでも危険な地域であることに代わりはないのだ。

その廃墟を進む三つの影。一人は、雷神トール。トールの圧倒的な気配が、周囲の悪魔達を無言で遠ざける。その後ろに続くのは、片腕を自ら切り落とし、傷口を焼いた千晶である。凄まじいバランス感覚を発揮して、片腕になったばかりであるのに、歩くことに苦労している様子はない。殿軍にいるのは、千晶をずっと側で見守り続けてきたベルフェゴール。ロングコートを着込んでいる彼女は、いつトールが千晶を殺そうとしても対応できるように、神経を張り詰めていた。

トールにはそれが分かっていたが、敢えて放っておく。トールとは違うが、それが強さの形の一つだと知っているからだ。千晶はトールについて、どんどん歩いて来る。

至近で、本営を見上げた。此処にゴズテンノウの力に屈した多くの悪魔が集い、ニヒロ機構と刃を交えた。それが昨日のことのように思える。かっての世界の基準では、一体どれくらいの年月が経過したのだろう。もはや、それを知る術もない。

ナイトメアシステムの直撃で、イケブクロが滅びてから、此処へはあまり足を運ばなかった。石になったゴズテンノウは、きっと耐えていると信じていたからだ。必ずや、後継者を連れてくると、トールは告げた。だから今、此処に来た。千晶は巨大なマントラ軍本営を眺めやると、満足そうに言う。

「私の城には、丁度良い大きさだわ」

「気に入ってくれたようで何よりだ」

千晶は、自分がゴズテンノウの力を継ぐと確信している。あまりにも不貞不貞しいその態度は、圧倒的な自信によって支えられている。そしてトールの見るところ、それは特に不遜でもなく、実力に相応しいプライドだ。

サカハギに負けたことで、千晶は一皮剥けた。全面自己肯定を脱し、力という価値に己の信念を移動させた。今の千晶は、力を求める鬼だ。それでいい。ゴズテンノウと、同じ目をしている。だからトールは、千晶に傅いたのだ。

あの後、邪魔なサカハギは勝手に死んだらしく、もう千晶を慢心に走らせる存在はいない。権力欲と、他を圧する殺意が、今の千晶を構成している。それでこそ、マントラ軍の首領に相応しい。

エレベーターは、もう死んでいる。だから、本営外側にある階段を上る。延々と続く階段だが、千晶は汗一つ掻かずに着いてきた。ベルフェゴールの方が、時々面倒くさがって、飛びたいような顔をしたほどだ。

風が強い。だが常人離れしたバランス感覚を発揮して、千晶は平然と耐え抜いて見せた。むしろ、トールに早く行くよう促す。実に面白い奴だと、トールは思う。超絶的な力で恐れられたトールに、此処まで不貞不貞しい態度を見せたのは、千晶のみだ。ゴズテンノウの器を、或いは凌ぐかも知れない。

最上階についた。どうやら此処は、荒らされることがなかったらしい。中には、近衛兵のなれの果てである、鎧が無数に散らばっていた。これを着ていた鬼神達は、皆トールが訓練し、鍛え上げた。

しばし黙祷してから、奥へ。小走りで着いてきた千晶。最深奥の玉座の間には、トールが覆いを着けておいた。石になったゴズテンノウを、他の者の目に晒させないためだ。覆いが剥がされた様子はなく、空気は元のままであった。

薄暗い広間の中、千晶は自信に満ちて歩く。トールは右手で覆いを持ち上げ、その下を千晶が通れるようにした。そして千晶が中にはいると、覆いを降ろし、座り込む。ベルフェゴールが中に入ろうとするのを、片手で制する。

「待て。 此処からは、入ってはならん」

「貴方、千晶が不安じゃないの?」

そんな不安はない。トールは少し不快感を感じた。

「この奥には、俺が主君と認めた者がいた。 そして今、新しい主君が中に入ろうとしている」

「だから、何だというの?」

「かっての主君ゴズテンノウは、他者に見せられぬ姿になっている。 俺は、ゴズテンノウに、後継者を捜すことを頼まれた。 だから、千晶を連れてきたのだ」

トールの目に、凶熱が宿る。有無を言わさぬ雰囲気に、ベルフェゴールは押し黙った。やがて、奥から地鳴りの音が響き始めた。同時に、下級の悪魔であれば心臓麻痺を起こすほどに濃密な魔力が、トールの所にまで流れ込んでくる。

「約束は果たしたぞ」

トールは心中でゴズテンノウに別れを告げ、新たな時代に思いを馳せた。

 

闇の中、巨大な石像が浮かび上がる。右腕を失っている千晶は、その巨大な姿に思わず見ほれてしまった。玉座に腰掛けたままの、巨大な鬼神。背丈は六メートル以上はあるだろう。全身は逞しい筋肉に覆われ、頭部は牛に似ている。上半身をはだけているのは、その純粋なまでの破壊力を誇示するためだろう。分厚い大胸筋は、生半可な武器では、そのままはじき返してしまいそうである。

そうだ。これがゴズテンノウだ。

かって、マントラ軍を作り上げた存在。愚直な武を用いて、猛者達を従えた、力の権化。ボルテクス界最強をうたわれた悪魔の一角。見上げれば、確かに雄々しい姿だ。マントラ軍を力で従え築き上げたのも頷ける。

ナイトメアシステムの発動で、ゴズテンノウは死んだと言われていた。だが、トールの話によると、生きていると言うことであった。己を石像にすることにより、ナイトメアシステムによるマガツヒの略奪から耐え抜いたのだという。

己のことよりも、ゴズテンノウは力が支配する理想郷のことを優先したのだと、千晶は悟った。この雄々しい悪魔が、全てを賭けるほどに、それには価値があったのだ。言われるまでもない。今、千晶は、ゴズテンノウと同じ気持ちである。

「ゴズテンノウ」

語りかける。二度、繰り返す。

ほどなく、場に強烈な魔力が、津波のように満ち始めた。石像の目が、ゆっくり開いていく。

「来てやったぞ、ゴズテンノウ! 私が、お前の後継者だ!」

「……人間よ、名は何という」

「千晶。 橘千晶よ!」

その時、ゴズテンノウが、大きく身を震わせた。埃が、千晶の所まで落ちてくる。このマントラ軍本営そのものが、激しく揺動したかのようだった。

 

目を明けたゴズテンノウは、己の名を叫ぶ人間の娘を見て、驚愕に声を詰まらせていた。まさか、そんな。そんな事が。しかし、これは現実だ。己が信じた理想に基づいて、行動しなければならない。現実は、直視するものなのだ。

ゴズテンノウは、ずっと夢を見ていた。その夢は、ボルテクス界が出来る前のものであった。

かって、人間だった時には。ハードワークで、権力をむしり取ることに掛かりきりだったゴズテンノウ。橘という名字であった。名は泰三。それが、ゴズテンノウのもう一つの名前。力を求めた乾いた男の、かっての存在そのもの。

そう。橘千晶の、実父である。

誰もが橘泰三を恐れた。だが、其処には親愛の欠片もなかった。芸能界にも顔が利く有名なモデルを引っかけて、見事に結婚。子供も出来た。だが、構うことの出来ない間に、子供はどんどん歪んでいった。かっての自分そのままを思わせる千晶の成長を見て、泰三は思わず涙をこぼしたものだった。

これで良かったのだろうか。己のコピーが街で荒れ狂う報告は、部下から何度も上がってきた。幼なじみの二人を除くと、交友関係は性的なものだけ。ストリートファイトでは負け無し。そういった暗い報告と同時に、学業やスポーツでの圧倒的な業績も伝わってくる。教師達はその業績があるから、凶行の数々は黙認していた。また、千晶も相手が法的手段に出られないようにいつも巧みに立ち回っていた。

己のコピーの、見事な行動の数々。いや、己を既に超えているかも知れない娘の行動。だが、喜ぶことは出来なかった。どこかで、ゴズテンノウは望んでいたのかも知れない。千晶が修羅の道ではなく、平凡な人生を送ることを。だが、それは敵わなかった。千晶は、父以上の修羅だったからだ。

ボルテクス界で、ゴズテンノウとして目覚めてからも。ゴズテンノウは、権力欲と、支配本能に逆らうことは出来なかった。トールが部下になってからは、更にそれが加速した。最終的に、ナイトメアシステムの直撃で致命傷を受けて。眠ることになって。それで、ようやく自分が見えてきたような気がする。

そうだ。娘は。

千晶は、自分と同じ目をしていた。戦うことを欲する目だ。ゴズテンノウは、思わず歎息した。これが、自分の求めたことか。行動の結果か。何という乾いた目をしているのだろうと、ゴズテンノウは思った。ある意味では、トール以上だ。力による思想に、骨の髄まで染まりきっている。

だが、決意する。千晶は、自分で決めて、此処へ来たのだ。

それならば、親として出来る最期のことを、してやらなければならない。千晶が覇者となれるように、全ての力を譲り渡すのだ。そして自分は、千晶の中で生きよう。娘の覇道を、見守りながら。

初めて、親としての責務を果たすことが出来る。それを思うと、ゴズテンノウは平静を装うのが難しいほどだった。だが、それがばれては意味がない。最大限に威圧感を声に含ませながら、言う。

「千晶よ。 我はゴズテンノウ。 マントラ軍の、支配者だった者である」

「知っているわ」

「汝、何を求めて此処に来た」

「愚問ね。 私が求めるのは、圧倒的な力。 全てをねじ伏せ、強さによって立つ世界を作り上げる、最強の力よ」

ああ。そうだ。それでこそ、我が娘だ。

心中にて泣き笑う。感動と悲しみ、喜びと後悔。複雑な感情が混ざり合い、坩堝となりながらも。口調を崩さず、ゴズテンノウはなおも言う。

「ならば、人であることを捨てる勇気はあるか」

「それもまた愚問ね。 人間の肉体などに、今更興味などはないわ」

「そうか。 ならば、我が精力を受け取るがよい。 そしてマントラ軍を率い、力による世界の建設を目指すのだ」

ふと、感じる。妻も、すぐ側にいるではないか。利益のためだけに結びついた夫婦だった。だが、娘に対する感情に関しては共有していたつもりだ。互いに歩み寄ることは一切出来ず、すれ違いを続けてしまったが。

そうだ。結局愚かなこの家族は、こんな狂った世界でしか、一緒になれなかったのだ。だが、それで良い。血塗られた道は、所詮その程度のものだ。ああ、千晶よ。今、私は、全てをお前に託そうではないか。

己の全てを、マガツヒに変えていく。そして、一気に千晶へと殺到させる。周囲の空間が、深紅に染まるほどの密度。圧倒的な量のマガツヒが、千晶に注ぎ込まれる。雄叫びを上げる千晶。

無くなっていた右腕から、巨大な、異形の手が生えてくる。まるで枯れ木のような、節くれた巨大な腕だ。体色は青に変わっていき、目は食肉目のように鋭くなった。歯が尖り、口をマスクのように黒い頑丈な皮が覆い隠す。内蔵も、肉も、全てが脆弱な人間のものから、強靱な悪魔のものへ置き換わっていく。

踊るように、千晶はぐるりぐるりと回った。流石に体が根本的に作り替えられることには、膨大な苦痛が伴う。だが、千晶が上げている咆吼は、むしろ歓喜によるもの。そうだ、これでこそ我が娘よ。ゴズテンノウは、千晶の中に溶けながら、己も歓喜の声を上げていた。

ほどなく、ゴズテンノウは。

己の力を全て託した事に満足して。完全に千晶の中に溶けきったのだった。

 

激しい苦痛の中、千晶は身をよじった。膨大なマガツヒが、千晶の、脆弱な、人間としての体を作り替えていく。

榊秀一、今は人修羅とも呼ばれている幼なじみも、こんな苦痛の中にいたのだろうかと、千晶は思った。それは実にずるいことである。この程度のことで力が得られるのであれば、とても易いではないか。

ゴズテンノウの力を受け継いで、私は悪魔達の王となる。そう思うと、千晶は歓喜で絶頂に達しそうだった。どんな性技でも満足しなかった体が、火照って仕方がない。舌なめずりして、己の体が再構成していくことをひたすらに喜ぶ。艶のある長い髪は、白色に変わっていく。それは鋭利な鋸を思わせる存在になっていた。失った右手は、新しく生えた。枯れ木のような、巨大な節くれた手。それは、千晶を大いに満足させた。

今や足はどのような電車にも勝る速度を出し。手はどのような剣をも凌ぐ破壊力を持つ。

これが、力の形か。

全身から、圧倒的な魔力が溢れてくる。溢れかえっていると言ってもいい。今、千晶は人間を捨てた。悪魔からの攻撃を受けないという特権性は失われてしまっている。だが、それが何だ。この力の前では、他の悪魔など皆無力だ。まるで体の中に、活火山があるかのようだ。

玉座には、もはやゴズテンノウの影も形もなかった。全てが力と代わり、千晶の中に入ったのだ。

手鏡を取り出して、自分の姿を見る。青くなった肌。口を覆う黒い皮。鋭く尖った牙と髪の毛。そして、力の象徴である右手。全てが素晴らしい。上着を脱ぎ捨てて破り、乳房だけを最小限に、野性的に隠した。露出しても良いのだが、この方がむしろ威厳を作ることが出来る。スカートはそのままにしておいた。こっちは単純にお気に入りだからだ。

もう一度、手鏡で自分を見る。そして、大いに満足した。今や千晶は鬼神となった。ゴズテンノウの力を受け継ぎ、マントラ軍全てを統率する、最強の悪魔の一角に。

これからは、鬼神橘千晶と名乗る必要があるだろう。

ゴズテンノウが愛用していたらしい斬馬刀を右手で掴むと、ゆっくり、玉座の間を出る。どうすれば威厳が出るのか、千晶は自然に計算するようになっていた。トールがゴズテンノウの体を隠すために張り巡らせた覆いを、視線だけで吹き飛ばす。唖然とするベルフェゴールと、歓喜に目を輝かせるトールの前に歩み出ると、最初の命令を、千晶は下した。

「トール、カブキチョウへ行け。 新たなる王の誕生を、伝えるのだ」

「御意」

「ベルフェゴール。 お前はシナイ塔へ赴け。 そして、天使どもと、会合の席を設けてくるのだ」

「千晶、貴方」

千晶は、もう悟っていた。ベルフェゴールの正体を。この世界の悪魔達が、人間の精神を中核として存在していることを。もちろん、ゴズテンノウの正体が、一体何であったのかも。

今更ながら、千晶は父に愛情があったことを知ることになった。だからと言う訳ではないが。千晶は覇道を極めなければならない。あれほど憎んだ家族であったというのに。今はその意識が同調していたことに、喜びさえ感じているのが不思議だが。

トールとベルフェゴールは、すぐにその場を離れた。千晶は魔力にて禍々しい骨の翼を作ると、マントラ軍本営から飛び降り、イケブクロの街へ降り立った。郊外で待っていた部下達は、あまりにも変貌した千晶の姿に、息を呑んだ。彼らを見回し、千晶は言う。

「これから、マントラ軍を再興する。 我は鬼神橘千晶! 新たなるマントラ軍の王にて、この世界を統べる者である!」

「は、ははーっ!」

一も二もなく、悪魔達は頭を垂れる。

此処に、マントラ軍は、再興した。

 

早速イケブクロに駆けつけた毘沙門天は、あまりに強い魔力に息を呑んだ。毘沙門天だけではない。持国天も、増長天も、ミズチも、西王母も。オルトロスも控えていた。マントラ軍の幹部達は、皆同じである。新しく空軍の長に就任していた青龍も、その津波を思わせる魔力には感嘆の声を漏らし、ただ頭を垂れるばかりであった。

彼らの先頭に立つのは、トールである。毘沙門天は思った。やはりトールはやってくれたと。悪魔達の中には、涙を流す者も少なくなかった。今まで耐えてきた甲斐があったというものだ。どうだ、新たなる長の力は。何というすばらしさだ。あのゴズテンノウを、更に超えるかも知れない、最強の悪魔が長となったのだ。

千晶は、かっては人間だったとは信じられぬほどの威厳と重厚さを、辺りに振りまいていた。彼女はゆっくり集った悪魔達を睥睨すると、毘沙門天にて視線を止めた。

「毘沙門天」

「はっ!」

「今まで、留守居ご苦労であったな。 私がこれからはマントラ軍の指揮を執る。 お前には引き続き、軍部隊の総指揮を任せよう」

「ありがたき幸せにございます」

感動のあまり、毘沙門天は前が見えなくなった。今までの苦労が、これで報われた観がある。涙をこぼし、砂漠にただ跪く毘沙門天。彼の前に跪いているトールにも、千晶は言う。

「トールよ。 お前には世話になった。 お前にはこれから、独立行動権を与える。 マントラ軍の邪魔となると判断した相手は、好きに叩きつぶして構わない。 その権限は、私による命令以外の、全てに優先する。 お前が、この組織のナンバーツーだ」

「御意」

トールもまた、歓喜に満ちた声で答える。あの力の権化が、こんなしおらしい行動を取るとは。毘沙門天にも、予想外であった。

イケブクロの城外には、35000にまで兵力が回復したマントラ軍の、大半が勢揃いしている。どの悪魔も、千晶から放たれる破壊的な魔力を感じて、従う意思を示していた。特に下級の者ほどその傾向が顕著である。

ニヒロ機構が最近出兵する気配がないとはいえ、最低限の守りのみを残して、全軍が集結しているのである。それだけ、マントラ軍にとってこれが重要な祭だと言うことがよく分かる。やがて千晶は、驚くべき政策を、その口から告げた。

「そして、我が軍が最初に行うことを伝えよう。 我が軍は、天使軍を吸収合併する」

「な!」

「どうした、毘沙門天」

「そ、その。 千晶様の政策は、とても大胆にして的確かと思われます! しかし、天使どもは絶対神のみを狂信的に崇める、極めて排他的な集団です! 我が軍の招聘に応じるとは、とても」

無念そうに毘沙門天が頭を下げる。千晶はゆっくり歩み寄ると、巨大な右腕で、その頭を撫でる。頭を引きちぎられるかと思い、首をすくめた毘沙門天に、千晶は小動物でも愛でるかのように言う。

「毘沙門天よ、お前の考え方は常識的だな。 我が軍には貴重な、冷静でよく練り上げられた理性の持ち主よ」

「は。 ありがたき幸せにございます」

「だが、まだ青い。 天使どもが求めているのは、何だか今一度考えてみるが良い。 神がいないこの世界で、奴らは何を求めている? 法か? いや、それは違う。 黙示録を紐解き、連中の行動を見、そして読むがよい。 天使どもは、法や道徳などは求めてはいないのだ。 ならば奴らは、何を望んでいる」

そう、絶対的な力だと、千晶は断言した。圧倒的かつ、絶対の力が、天使どもを引きつける。

「私が、その力となろう」

「……!」

「どうした。 お前は、私の力を疑うのか」

疑える、筈がなかった。この生ける火山にも等しい力を目前にして、仮にもマントラ軍に生きてきた者が、である。どうして疑念を抱けるだろう。無言で頭を垂れる毘沙門天。他の悪魔達も、声もない様子であった。

確かにこのお方の器は、ゴズテンノウ様をも凌いでいるかも知れない。また、頭ごなしに此方の意見を否定するのではなく、きちんと論理的に反論して、その上で自分の意思を通した。ただの力に溺れた者に出来る行動ではない。

西王母も沈黙している様子を確認すると、千晶は続いての指示を出した。

「天使どもが此方の傘下に入ったところで、二つの政策を実施に移す」

「それは、いかなるものでしょうか」

「一つは、イケブクロの再興だ。 カブキチョウはマガツヒの生産地点としては優れているが、交通の便が悪い。 再び、イケブクロの本営を活用する」

おおと、悪魔達が声を上げた。このイケブクロこそは、マントラ軍がもっとも栄えていた時、その力の象徴として聳え立った本営の膝元なのだ。其処へ戻ってくることが出来るとは。まさに、ゴズテンノウ様の再来である。

「今ひとつは、コトワリを開くための準備である。 現在のマガツヒ備蓄量はトール将軍に確認したが、まだ少し足りぬだろう。 そこで、保存されているマガツヒを、奪える場所に向かう」

「そのような場所があるのでしょうか」

「ある。 すぐ近くにだ」

とても残忍な笑みを千晶様は浮かべた。それで、反射的に毘沙門天は悟る。あの右腕の話は、彼も聞いているのだ。

恐らく千晶様が落とそうとしているのは、アサクサ。

マネカタ達が築いた、彼らの狭い世界。既に人口は十万を超えていると言うが、防衛戦力の貧弱さから言っても、マントラ軍の敵手には成り得ない。

ぞくぞくする。一気にマントラ軍周辺の環境が動き始めた。このまま行けば、ニヒロ機構を撃破することも不可能ではないだろう。

悪魔達に傅かれている千晶様を、今一度毘沙門天は見た。この方が、悪魔達を力が正義となる世界へと導いてくださる。

毘沙門天は、今やそれを確信していた。

 

2、それぞれの悩み

 

マントラ軍が再生し、千晶という強力な悪魔がその長となったことは、ボルテクス界全域を瞬く間に駆けめぐった。

これにより、今まで各地で息を潜めていた旧マントラ軍出身の悪魔達が、そろって千晶の元へ参戦した。カブキチョウ会戦での勝利よりも、首領の復活という事自体が、遙かに圧倒的な宣伝効果をもたらしたのである。マントラ軍の戦力は一気にふくれあがった。

また、天使軍との接近が噂され、ニヒロ機構に対抗できる勢力の登場がささやかれ始めた。もしそうなったら、ニヒロ機構とマントラ軍は、間違いなく決戦を開始するだろう。ボルテクス界には激震が走った。それは収まることなく、全土を瞬く間に飲み込んだのである。

当然、その影響は、アサクサにも波及した。

榊秀一は、会議に出ている最中に、その情報を聞くことになった。当然会議は騒然となった。少し前から、体勢は整ったとして、フトミミがミフナシロにて瞑想を始めてしまったという事情もある。秀一と琴音が多少強引に場をまとめなければ、会議はそのまま紛糾していただろう。

一旦、自宅に戻った秀一は、友好的なマネカタに部下を集めて貰った。一通り話を聞いて、蒼白になったのはリコである。サルタヒコは表情を一切変えず、ただ愛刀を磨いているだけであった。

千晶というのが、幼なじみの橘千晶であることは明白であった。だから秀一は、それを前提として話を進めていく。戦う可能性については、脳裏から排除した。千晶はもう、充分に一人前の大人の筈だ。ならば、戦うことになるのは、仕方がないことなのだ。

「千晶はとても頭がよい。 その上、俺が知る限り、喧嘩で負けたこともない。 男が相手だろうと関係無しだった。 性格も荒々しくて、マントラ軍の悪魔達にも、気負けするような事はないだろう」

「つまり、ゴズテンノウの復活と考えて良いというわけじゃな」

「いや、下手をすると、それ以上だろう。 アサクサにとっては最悪の事態が到来したと考えた方が良いだろうな。 俺達にとっても、ニヒロ機構に匹敵する巨大勢力が再び誕生したと言うことは、あまり良くない状況だと考えた方が良い」

問題なのは、下手をするとボルテクス界が二大勢力に分割されると言うことだ。このまま行くと、コトワリの創造が更に加速する可能性が高い。ただでさえ、アラディアという強大な候補が現れた状態である。ダゴンを従えている勇の動向も気になる。今後は、厳しい局面が続くだろう。

千晶は優れた人間だ。悪魔になったら、なお手が着けられないことが予想される。頭脳面では確実に秀一の上を行く相手である。恐らくは、迷いもないだろう。大量のマガツヒさえ手に入れれば、即座にコトワリを開いて、守護を呼び出す可能性が高い。

支給品のマガツヒを呷っていたサナが、口を拭う。今や妖精女王ティターニアの力を凌いでいるであろうこの貪欲な娘は、いつも通り遠慮も容赦もなかった。

「でさ、リコ、どうするの?」

「どうするって、何がッスか?」

「マントラ軍に戻るか、此処に残るかって事だよ。 僕はちなみに、此処に残る。 千晶って娘よりも、シューイチの方が見込みありそうだからねー」

押し黙るリコは、泣きそうな顔をしていた。マントラ軍出身で、元気なことが取り柄なこのヤクシニーに、意外と繊細なところがあることを、秀一は知っている。どちらにしても、年下の女の子が辛そうにしているのは、精神的に少しきつい。

「もう少し、考えさせて欲しいッス」

「ああ。 好きなだけ、考えていい。 出来れば味方をして欲しいんだが、それは自分で決めてくれ」

戦略面でも、リコの戦力が欠けるのは考えたくない事態だ。ただでさえ途方もない強豪が周囲に集っている状況である。リコのような有能な戦士は、一人でも多く欲しいのである。

だから、秀一の言葉は本音であっても、懇願が籠もっていた。また、マントラ軍から来た悪魔は、リコだけではない。

「サルタヒコ、アメノウズメ、貴方たちはどうする。 トールは千晶に従うことを公言しているようだが」

「我々は、しばらく貴方の側にいる。 千晶という娘が貴方を超える能力を持つかどうか、しばし見極めたい」

「そうか。 では、よろしく頼む」

秀一が創造し直したフォルネウスとニーズヘッグは最初から敵となる可能性をカウントしなくても良い。それだけは救いだ。だが、様々な要因から、仲間として着いてきてくれている悪魔達は、そうではないのだ。

一旦解散する。気の毒なほど蒼白になっているリコは、心此処にあらずと言った様子で、自宅に戻っていった。外に出ると、琴音に着いてきた悪魔達が、不安そうに右往左往している様子が見えた。彼らも分かっているのだ。マントラ軍は、アサクサを見逃しはしないと言うことを。

「あ、秀一君」

見回りから戻ってきた琴音が、秀一を呼び止める。不安そうにしているのは、ベテラン勢も同じだ。クレガは落ち着きを無くしていて、向こうで訓練をしている盟友のフォンをしきりに気にしていた。

「白海さん、何か変わったことはあったか」

「あったも何も。 マントラ軍の先兵が、しきりに偵察に来ています。 どうやら千晶という人は、本気でアサクサを潰しに来ているようですね」

「由々しき事態だな」

フトミミが進めた皆兵制度によってだいぶ戦力は拡大できたが、それでも5000以上の兵が攻めてきたら支えきれないだろうと試算は出来ている。総力戦に持ち込んでも、10000以上の兵が攻めてきたらまず間違いなく終わりだ。築きあげたアサクサは、瞬く間に灰燼と帰すだろう。

ニヒロ機構と暗黙の同盟は結んでいるが、それはあくまで人修羅個人と、である。カエデは信用できる上に頼りになるが、ニヒロ機構の思想に同調したくない秀一としては、出来るだけ借りは作りたくない。それにニヒロ機構の援軍を呼ぶことが出来たとしても、それは代理戦争を誘発するだけだ。

不安そうにしているのは、マネカタ達も同じ。滑稽なのは、反応が二つに分かれていると言うことだ。

この事態を悪魔のせいにして精神的な安定を得ようというグループと、今まであれほど排斥しようとしていた悪魔に頼ることで凌ごうと考えるグループ。面白いことに、過激な悪魔排斥派だった連中ほど、後者になっている比率が高い。過激派は極端から極端に走ると秀一は聞いたことがあったが、その生きた実例が目前にある。

前者を率いているのは、サイクを筆頭とする若者の集団であった。何の実力もないのに、特定の環境では血の気ばかり多い愚かな若者。何だか、東京のことを思い出して、秀一はげんなりした。

しかし、弱者というのは、そういう存在の筈だ。守るべき価値があるかどうかと問われれば、そう答えるしかない。

「ところで、少し前からアサクサの近辺を彷徨いている上級悪魔がいるのに気づいているか」

「ええ。 以前、会ったことのある悪魔です」

かなり強い気配だが、敵意はない。秀一も姿を見たのだが、前にちょっとだけ見かけたことのあるケルベロスに似ていた。マントラ軍の幹部であったあの悪魔は、何故アサクサに来ているのか。単身で攻め滅ぼすつもりであれば、返り討ちにするだけである。

「白海さんもか。 そういえば、マントラ軍で、闘技場で戦わされた経験があるんだったな」

「そうです。 その時、リコさんと、ケルベロスと、三つどもえの戦いをさせられました」

当時、秀一はリコ一人を相手にするので精一杯だった。それを考えると、琴音の実力がよく分かる。現時点でどこまで琴音に追いつけたのかも、気になるところである。ただ、琴音とは戦う意味がない。出来れば戦いたく無いとも、秀一は思っている。

こういう世界だ。弱者のために力を振るうことだけを考える、琴音のような存在がいてもいいはずなのだ。それを力で打倒する未来は、はっきり言って考えたくない。

「どちらにしても、マントラ軍の偵察が頻繁になってきている以上、警戒を強くした方が良いだろうな」

「ええ。 城壁の構築も急ぎましょう。 上級悪魔相手には役に立たないかも知れませんが、無いよりはましです」

「後、肝心のマネカタ達が、働けるかだが」

今までの活気はどうしたことか、マネカタ達には倦怠感が宿り始めている。悪魔に対する恐怖と、脆くも崩れつつある「楽園」への悲しみが原因だと言うことはよく分かる。だが、それでは、このボルテクス界では生きていけない。もっと強くなって欲しいものだと、秀一は思った。マネカタの流入もストップしていて、アサクサには明らかに停滞期が訪れている。

歩き回っていても、それがよく分かる。無気力な連中、露骨に媚びを売ってくる者達、そして物陰からにらみ付けて来る若人。結局、何もしていない点では、どのマネカタも同じだ。少し前までは、悪魔との対立はあったとしても、誰もが精力的に働いていたというのに。

滅びの足音が、秀一には聞こえるような気がした。恐らくフトミミはそれを回避するために、ミフナシロに籠もっているのだろうが。しかし予言などで、今後のマントラ軍大攻勢を回避できるとは思えない。

解決しない問題ばかりだが、最後に一つ大きいのが残っていた。後は、聖だ。聖についても、様子がおかしい事は把握している。放置は、しておけなかった。

 

城壁に沿って、北の郊外に向かう。その辺りは一番最後に来たマネカタ達の住居が並んでいて、明らかに半スラム化している。アサクサの主要構成員がマネカタでなければ、犯罪の巣窟となっていただろう。

聖は最近、郊外に妙な装置を作って、それをしきりにいじくり回している。何でも、ニヒロ機構のアマラ輪転炉に触らせてもらえなくなったから、自前でその機能を再現したのだという。

聖が勝手に使っている襤褸屋の前に来た。前も禍々しい気配がしたが、それがますます強くなってきている。襤褸をくぐって、家の中に。

聖は、いた。以前より更に髭が伸び、目の下には隈もできていた。痩せたようである。一張羅のスーツも、汚れが目立ち始めていた。伊達男だったのだが、最近は凄惨な狂気が、少しずつ表に出始めている。特に、眼光は、既に正気を失いつつあった。

自分でくみ上げたらしい、奇妙な石の山に、聖はしがみついていた。石には無数の文字が刻まれており、一番上は回すことが出来るようになっている。ゆっくり回転しているそれを、愛おしそうに撫でながら、聖は言う。

「よーお、人修羅。 何か俺に用か?」

「大丈夫か? 何をしているのかは分からないが、少し休んだ方が良いのではないか」

「休んでなんて、いられるかよ」

愛おしそうに、石に頬ずりする。秀一はそれで気づく。石には、聖の垢がびっしりとこびりついていた。異常な愛情を寄せられ続けたのだと、一目で分かる。本当に、どうしたというのか。

前から凄みのある男ではあったが、今は何かそれとも逸脱したものを感じる。力づくで取り押さえて、アンドラスの病院に連れて行こうと秀一は思い、一歩踏み出す。だが、思わずその場で戦慄することとなった。

「知っているか? 勇の野郎、スペクターと融合しやがったぜ。 カブキチョウから逃げた時点で精神的に人間やめちまってたみたいだが、もうあらゆる意味で別の次元にいっちまったな。 ひひひひひひ」

「な、に?」

「そしてニヒロ機構は、今膨大なマガツヒを、国会議事堂に蓄えてやがる。 アマラ輪転炉をフル稼働させてな。 多分、そう遠くない時に、守護を降ろすのに充分なマガツヒが溜まることだろうよ」

聖は帽子をしていなかった。いつも伊達男の頭を飾っていたあの白い帽子は、見ればずたずたに切り裂かれて、家の隅に転がっていた。秀一の方を見もしない聖の歯は、黄色く汚れ、心なしか尖ったように見えている。眼球も濁り、視線も定まらない。以前のような鋭い観察力が、感じられない。氷川を倒すための切り札だと言っていた拳銃も、無造作に投げ出されていた。

「マントラ軍の事も、教えてやるよ。 千晶がボスになってから、連中は血眼になって膨大なマガツヒを蓄えに掛かってやがる。 残ってるマネカタはフル稼働でマガツヒを絞られてるし、他にもどこかにマガツヒがないか、必死に探し回っているな」

顔を上げた聖は、やっと秀一を見た。気圧されることはない。今まで、もっと濃厚な狂気を、至近で見てきたからだ。だが、それ故に分かる。聖は、完全におかしくなってしまっている。口の端からは涎の跡が伺えた。既に、小綺麗だった不良中年の面影は無い。今此処にいるのは。一体誰なのだろう。自信家で不貞不貞しかった聖丈二という人間は、霞のように消えてしまった。

「なあ、人修羅さんよ。 俺は、もう何でも分かる。 何でも知っている。 それは、分かるよな」

「落ち着け、聖」

「だから、俺が、この世界を改革するべきなんだよ。 守護のおろし方だって分かるし、マガツヒが蓄えられてる場所だって知ってるんだ。 俺が、俺がやるべきだ! やるべきなんだよ!」

自分で作った疑似アマラ輪転炉を、激しく殴打する聖。怯えたマネカタ達が、家を覗き込んでいるのが見えた。もう、会話する気がないのは確かだった。仕方がない。眠らせようと、秀一は歩み寄る。

精神の病なら、アンドラスも良く知っている。どうやって今の情報を知ったのかは気になるが、それどころではない。ふと、家に誰かが駆け込んできた。カズコだった。辺りを慌てきった様子で見回す。

「カズコ」

「秀一、離れて、此処から! 何か来る!」

ぎゅっとしがみつかれる。その表情を見て、冗談ではないことを、即座に悟った。元々この子は、冗談の類を全く言わない。それに、秀一自身も、強烈な気配の接近を感じたからだ。

風を感じた。マネカタ達に、逃げるように叫ぶ。ばらばらと逃げ散るマネカタ達。カズコを庇ったのは、嵐を思わせる暴力的な風を感じたからだ。アマラ輪転炉もどきが、辺りの空気を吸い込んでいる。襤褸屋ががたがたと揺れて、実際多くの小物類が、どんどん吸い込まれていく。

薄汚れた着衣をはためかせながら、聖が吠えた。

「勇の野郎、俺をアマラ経路に引きずり込むつもりだな。 そうはさせるかよ!」

「よせ、聖! アマラ輪転炉を少し弄って、どうにかできる相手ではない!」

「うるせえっ!」

聖が、アマラ輪転炉もどきに飛びつくと、素早く幾つかの文字をタッチする。だが、うんともすんとも言わない。来たと、秀一は悟った。辺りを、溶鉱炉を思わせる熱が覆う。とんでもない密度の魔力だ。それ自体が、とても強い熱を帯びている。

騒ぎを聞きつけたか、リコが小屋に飛び込んできた。

「榊センパイ!」

「周囲のマネカタ達は!?」

「避難はしたッスけど、この魔力はなんなんスか! ちょっと、尋常じゃ無いッスよ!?」

「多分、アマラ経絡から来た悪魔だろう。 守護かどうかは分からないが」

その言葉が終わるか終わらないかの内に、ぐらりと辺りの空間が歪んだ。落ちるというのとは、少し違う。

辺りごと、空間が切り替わった。空気そのものが、腐敗したような感触。

いつの間にか、秀一はアマラ経路にいた。

 

立ちつくす秀一は、それを見た。聖を尻尾の先で捕らえて、高々と持ち上げている白い蛇。とにかく大きい。シブヤにいるミジャグジさまもかなり大きいと聞いているが、それですら小蛇にさえ見えてしまうだろう。

周囲に満ちているのは、途轍もない熱だ。蛇の悪魔から発せられているのは間違いない。太陽神か何かかと、秀一は思った。火の神と言うには、炎そのものが見えない。全身がうっすら発光している事と言い、そちらの方が近いのではないかと思ったのだ。

全長は恐らく数十メートル、いやそれ以上に達する。百メートルを超えるかも知れない。鱗の一つ一つまでが、人間の頭ほどもある。ちろちろと舌を出しているその悪魔は、秀一を一瞥すると、人間の言葉で嘯く。舌を揺らすことで、言葉を発することが出来るようだ。

「ほう。 余計なおまけがついたか」

「勇の手の者か」

「如何にも。 我は勇様の元で、孤独で静かなる世界を目指すものなり」

孤独で静かな世界と来たか。秀一は眉をひそめたが、悪魔は気にする様子を見せない。まだわめき続けている聖を、ぎゅっと尻尾で締め付けて気絶させる。潰すことなく気絶させたのだから、あの巨体でありながら、恐ろしいまでに身体制御が出来ている事になる。

剣を構えるリコに、蛇の悪魔は象も丸呑みに出来そうな口を大きく開けて見せた。中に毒牙は見えないが、しかしずらりと細かい歯が並んでいる。大型の蛇は毒牙など必要としないほどに顎の力が強く、この悪魔も同じであることは容易に予想できる。もちろん人間大の悪魔がこれで噛みつかれたら、ひとたまりもないだろう。

「聖を、どうするつもりだ」

「知らぬ。 勇様は、こ奴を捕らえることだけを望んでおられた。 お前達と戦う理由もない。 退くのであれば、何もしない。 此処はアサクサの地下。 お前達なら、問題なく帰ることが出来るだろう」

ショクインの言うことは一理ある。しかし、はいそうですかと見過ごすことは出来ない。カズコの頭に手を置いて、後ろに下がるように促す。庇いながら戦う余裕はない。

聖は確実におかしくなっている。恐らく、放っておけばコトワリを開こうとさえするかも知れない。だが、勇の思想は、元々とても看過できる代物ではない。恐らく、コトワリを開く目的での行動だろう。以前言っていた生け贄に使うつもりなのだろうか。何にしても、放置できる事ではない。介入せざるを得ない。

「悪いが、そのまま見逃す訳にはいかない」

「汝一人で、このショクインを食い止めるというか」

聞いたことのない名前の悪魔だ。名前の雰囲気から言って、アジア圏の悪魔であろうか。巨大な蛇というのは、原始的な宗教の神によく見られると聞いている。ならば、その実力は段違いに高いはずだ。

ゆっくり首を持ち上げたショクインから、膨大な殺気が迸る。ただ少し動いただけで、山津波が迫ってくるような威圧感だ。秀一がリコにカズコを任せて、腰を落として構えを取る。鋭い威嚇音。びりびりと、全身が震えた。それだけで、全身が吹っ飛ばされそうだ。この間交戦したギリメカラよりも更に強い相手だと、それだけで分かる。

「勇敢な若者を殺すのは忍びないが、これも理想社会のためよ。 かって太陽神として一文明を支配したこのショクインが力、身に焼き付けるがいい!」

「いや、ショクイン、此処までだ」

何かが、場に割り込んでくる。

辺りの空間そのものが、腐敗するような気配だった。肌が、神経が、ぴりぴりした。

 

秀一はアマラ経路に、今まで何度となく潜ってきた。カブキチョウからマネカタを救い出すためにも潜ったのが主な理由である。他にも様々な要因で、潜ることがあった。何にしても多くの場合、其処はひんやりした空間で、洞窟のような印象を受ける場所であった。それなのに。今は灼熱地獄になってみたり、或いは腐臭が漂う空間になってみたり。

おかしくなりつつあるのは、ボルテクス界だけではない。この、アマラ経路もだ。そう秀一は結論せざるを得ない。

ショクインの頭の上には、いつの間にか勇がいた。上半身は裸で、全身に引きつったような傷と、顔のような肉塊が無数に浮かび上がっていた。目には狂気が宿り、それと同時に、不思議な威厳が備わっている。痩せこけているのに、どうしてかとても圧迫感がある姿だ。全身から、真っ赤なマガツヒが流れ落ちている様子も以前と変わらない。

ショクインは戦闘態勢を即座に解除し、勇の発言を待っている。これだけでも、勇が周囲に抱かせている感情がよく分かる。勇は意識を失っている聖を一瞥すると、秀一に向き直った。視線は、圧縮された闇そのものだった。

「やめておけ、秀一。 ショクインの実力は、肌で分かっているはずだ。 お前は確かにつええが、一人、ああ、其処の悪魔と二人か。 どっちにしても、そんな数でどうにか出来る相手じゃねえよ。 ニヒロ機構の一個師団でもなければ、このショクインは止められやしねえさ」

「……一体、何が目的だ」

「分かりきった事を聞くんじゃねーよ。 コトワリを開くために決まってんだろ」

「生け贄にするつもりか」

それもあるんだがと、勇は思わせぶりに言う。これから秀一を利用するつもりなのが分かって、少しげんなりした。勇は強くなった。如何にして女の気を引くかしか考えていなかったかってだったら、こんな思考法は絶対に取らなかっただろう。

もう一つ、気になることがある。勇の目には、明らかな嘲弄が浮かんでいた。何か、此方が勘違いしていることを、悟っている。何を勘違いしているのだろうか。秀一には、分からない。

それにしても、全身に浮かび上がっているあの顔は。時々動いているところから見ても、それぞれが意思を持っているのだろう。カズコが、やっと震えを押し殺したらしく、視界の隅で立ち上がろうとしていた。今まで守護クラスの悪魔を目撃はしても、殺気を浴びたことはなかったのだ。本当だったら意識を失っていてもおかしくはない。

「なあ、秀一。 此奴を帰してやるから、仕事をしないか」

「断ることは、考えてはいないのだろう」

「ああ、そうだ。 お前が甘ちゃんだって知ってるからな。 ひひひひひひ」

「……何をして欲しいか、言ってみろ」

リコが何か言いたそうに此方を見る。言いたいことは分かる。聖は此方を利用しようとすることはあっても、共に戦おうという気を見せたことはない。利用し合う関係であり、最近はそれが顕著になっていた。ボルテクス界の混乱を、煽ろうとしていたのではないかと思える節さえある。

だが、聖の情報のおかげで、助かったことは何度となくあった。だから、見捨てる訳にも行かないというのが、秀一の結論だ。リコに頷くと、彼女は無言で下がって、カズコを背中に庇う。

勇はリコの苦悩が見ていて面白いようで、終始にやにやしていた。強くなったが、同時にとことん悪辣になったものである。

「実はな、俺の部下達じゃ、どうしても入れない場所に大きな神殿がある。 其処にいる悪魔どもを仕留めて欲しいのさ」

「神殿?」

「ニヒロ機構も、マントラ軍も知らない施設だ」

その神殿は、アマラ経路の中、それもかなり深いところにあるのだという。それでは確かに知られていなくても不思議ではない。

「ダゴンやショクインで処理出来ないというのは、どういう事だ」

「神族避けの、アホみてえな強力な結界が張ってあるんだよ。 特に、アマラ経絡から上がってきた連中は、全く通ることができねえ。 かといって、俺だけでは流石に巣くってる奴らを仕留めるのは難しくてな。 お前に白羽の矢が立ったって訳だよ」

「断ったら、聖は殺すという訳か」

「それについては、後で教えてやるよ。 場所は、後で伝える。 必要があるから、このオヤジは殺さないでおいてやる。 せいぜい、牙を磨いておくんだな」

再び、一瞬のことであった。勇は最初から其処にいなかったように。不意に消えて無くなってしまった。

ショクインは舌をちろちろ出していたが、やがて巨体を揺らして、這いずって奥へ。尻尾に掴んでいた聖は、いつの間にか消えていた。地震のようなショクインの移動音が収まると、秀一はため息を深々とついた。

恐れてはいない。やってきたことに、後悔もない。だが、こう何もかも裏目に出続けると、虚しくなってくる。

未だ、秀一には、いかなるコトワリが必要なのか、判断し切れていないという事情もある。だが今後は、そうも言っていられない。もし今生まれ出ようとしているコトワリを否定するのであれば、確固たる別のコトワリが絶対に必要になってくる。それは、一体何なのか。

風が、吹き込んでいる。アマラ経路の、かなり浅いところだ。風を辿っていくと、すぐに外に出ることが出来た。アサクサのすぐ側である。

琴音が城壁の上を走り回って、防備を固めるように指示を飛ばしていた。マネカタ達は慌てて武装をとり、持ち場に向かっている。琴音は秀一を見つけると、手を振ってきた。

「秀一君、無事でしたか!?」

「ああ。 今、戻ったところだ」

城壁から、琴音がふわりと飛び降りる。十メートルほどある城壁だが、琴音は翼を出すこともなく、軟らかく着地する。周囲のマネカタ達が、度肝を抜かれていた。降りた瞬間、尻尾を振ったのは、衝撃を殺すためだろう。マネカタ達が聞き耳を立てているので、琴音は印を切って、術を発動。周囲の音を遮断した。更に念を入れて、口を押さえて話し始める。

「何が、あったんですか。 とても強い気配を感じましたが」

「勇だ。 聖を誘拐していった」

「勇さんというと、貴方の友人だという方ですね」

「ああ。 だが、もう俺のことは利用することしか考えていないようだ。 悲しい話だが、場合によっては殺すしかないだろうな」

聖もおかしくなっていたと伝えると、琴音は悲しそうに目を伏せた。こんな世界で、正気を保つのは、とても難しいことだ。むしろ正気を捨ててしまった方が、楽になれるのかも知れない。

「それで、行くのですか?」

「行かざるを得ない。 下手をすると、このまま勇はコトワリを開いてしまうだろう」

その場合は、秀一が止めなければならない。勇の思想は、世界そのものからの逃避であり、とても認められるものではないからだ。

それに、コトワリについては、まだ分からないこともある。守護を呼び出した時点で、コトワリが完成するとは思えないのだ。それならば、アラディアが現れた時点で、世界は祐子先生の手に落ちていただろう。

気まずい沈黙だった。秀一は同情した様子で此方を見ている琴音に向き直る。

「白海さんは、これからどうするつもりなんだ?」

「私ですか? 私は自分を必要としてくれる者がいるなら、皆を守り続けようと思っています」

「そうか。 立派だな。 俺は、自分のことさえ何ともならないって言うのに」

「立派じゃありません。 本当は私も、コトワリを開くべく、自分と戦わなければ行けないでしょうに」

琴音は、自分を評価していないらしい。秀一からすれば、妙な話だった。琴音こそコトワリを開けば、さぞ立派なものができあがるだろうに。

秀一が戻ってきたことが伝わると、皆がすぐに集まってきた。アマラ経路の奥にある、神殿へ向かうことを告げる。

カズコとユリが、カザンと一緒に着いてきてくれると言った。ある程度の長期戦はこれでこなすことが出来る。マネカタ達は秀一が長期間アサクサを離れると知ると非常に怯えたが、どうにか琴音から説得して貰った。

琴音が連れてきた悪魔達の中には、アサクサから逃げ出す者が出始めている。鼠は船の運命を悟り、早めに脱出するという話を聞いたことがある。彼らを責める気には、秀一にはなれなかった。

聖が作った、アマラ輪転炉もどきが動き出したのは、カグツチの日齢が二つ動いた後であった。せっせとカズコが出してくれたマガツヒを皆で頬張って、ある程度力はつけた。後は、戦って、罠を打ち破るだけだった。

 

目をつぶり、掌をアマラ輪転炉に当てていたカエデは、気づいた。極めて不自然な動きをしている、巨大なマガツヒの流れが二つある。一つは恐らく、新田勇の部下達によるものであろう。非常に巨大な悪魔が、蠢いた結果、マガツヒが揺らめいているのだ。これは今の時点では、氷川司令に手を出すなと言われている。マントラ軍が決定的な大勢力に復活した今、下手な軍事介入で戦力を失うのは愚の骨頂だからだ。

今ひとつが、カエデには気になった。アマラ輪転炉の中を、異常な高速で動き回っているのである。

多分、こっちはアラディアだ。奴はマガツヒを喰らいながら、アマラ経路を宛てもなく動き回っていると、部下達は報告してきていた。アマラ輪転炉からモニターを続けた結果である。力は大きいが、今ならば。まだ倒すことが可能だと、カエデは判断した。

息を吐くと、相手に悟られないように注意しながら、アマラ輪転炉から手を放す。分析のために専属のチームを立ち上げて、しばらくは解析をさせていた甲斐があった。世界を好き勝手に動かすとまでは行かないが、今では以前より遙かに多くの機能が使えるようになっている。敵の居場所を探り出す力も、その一つなのだ。

アマラ輪転炉は元々ニヒロ機構の最重要物資である。触るだけなら今までは許可していたのだが、今後はそれも制限しなくてはならないだろう。聖という人間が、シブヤで暇さえあれば触っていたようだが、それもこれまでだ。どのような情報が引き出されていたのか、空恐ろしいほどである。

すぐに、フラウロスとブリュンヒルドに声を掛けた。ブリュンヒルドは空軍の調整に時間が掛かっていて、まだ前線で指揮を執るほど回復していない。リハビリ代わりに、護衛になって貰う。フラウロスは陸軍が防衛体制に入っているため、あまり出番がないらしく、護衛の任務を喜んでくれる。強敵とぶつかり合うことが多いからだ。

三人で揃って、氷川司令の部屋に向かう。司令はいつものように、机に向かってノートパソコンを叩いていた。椅子ごと振り返ると、氷川司令は何処か楽しそうに言った。

「カエデ将軍。 わざわざ何用かね」

「アラディアを捕捉しました。 どうやらアサクサ近辺に潜伏していたようで、今はアマラ経路の深部に向かっているようです。 これから精鋭を投入して、捕獲します」

「良いようにしたまえ。 吉報を待っている」

敬礼すると、二人を促して、部屋を出る。フラウロスが凄く嬉しそうに言う。

「氷川司令にも普通に接することが出来るようになってきたな」

「最初は怖かったですけど、氷川司令はあまり無体なことは言わない人だって分かりましたから」

「ああ、そうだ。 あの人は昔からそうだったな」

「それよりも、どれくらいの戦力でアラディアと戦うつもりだ。 まともに戦えば、相当な犠牲が出るぞ」

「それには、考えがあります」

ブリュンヒルドは常識人らしく心配げに言ったが、大丈夫だ。もちろん、守護であるアラディアを相手に、正面から戦うつもりは、カエデには無い。きちんと策は練ってある。それにしても、この人が昔酒に溺れてとぐろを巻いていたとは、カエデには信じられない。

再び、アマラ輪転炉が設置されている部屋に来た。部下達はアマラ輪転炉にコードをつないで、複数のモニターにアラディアの姿を写していた。壊れたマリオネットのような偽りの神は、アマラ経路の中をゆらゆらと、気味の悪い動きで流れていた。

かって、キリスト教文明圏では、魔女狩りという恐怖の蛮行が吹き荒れた。教会の権威が失墜したため、分かり易い悪が必要とされたためだ。男は狼人間として。女は魔女として。どちらも悪魔の手先として、凄惨な拷問の末に殺された。文明レベルでの集団ヒステリーは、多くの無意味な殺戮を生み出した。その犠牲になったのは、コミュニケーションが苦手であった者や、先進的な思想を唱える学者が殆どであったのだ。実際の「魔女」など、殺された中には、ただの一人もいなかった。ただし、土着の大地母神信仰を守っていた者達も餌食になり、ほぼ信仰そのもの消滅させられてしまった。

魔女狩りが終わった時、元々魔女信仰と呼ばれていた土着の精霊神信仰は大きく形を変えていた。信仰復興運動も各地で起こったが、それは微妙に歪んでいた。キリスト教を悪として、敵視するという要素が加わった結果、歪になってしまったのだ。魔女狩りは、元の信仰さえも破壊し尽くしてしまったのである。粉々になった信仰は、つなぎ合わせても、元には戻らなかった。

結果、アラディアのような不可思議な存在が、自由の名の下に、信仰に潜り込んでいた。信仰の歪んだ形。自由という名の狂気。それはこの世界の異分子だ。

ふと、オペレーターの一人が声を張り上げた。

「また、強い気配を察知しました。 アラディアと同じ方向に向かっています」

「モニターに出せますか」

「はい。 やってみます」

モニターの一つの映像が切り替わる。最初はノイズが多くて砂嵐だったが、徐々にクリアになってきた。

写り込んだその男を、カエデは知っていた。

「人修羅さん」

「ほう。 これは、面白いことになりそうだな」

フラウロスが好戦的な光を目に湛える。フラウロスの、戦士としての本能が騒ぎ出すのを、敏感にカエデは感じ取っていた。

 

3,それが故の戦い

 

深い洞窟を、何処までも降りていくような感触だった。

アマラ輪転炉もどきから転送されたのは、もちろんアマラ経路の中。其処からお導きらしい光の球に従って、秀一は仲間を連れて歩いた。延々と、である。

アマラ経路を、此処まで深く潜ったのは、秀一も初めてである。アサクサの地下に、このような巨大空間があると知ったら。臆病なマネカタ達は、卒倒するに違いない。最初は規則的であった空間は、下れば下るほど、自然洞窟に姿が似てきていた。カブキチョウの地下もそうだったが、この辺りは完全に鍾乳洞だ。そして、地下へ潜るほど、マガツヒの密度は上がってきている。その代わり、得体の知れない強い気配も、増えているようだった。

どうやら、この辺りは、もう地上の悪魔達とは別種の存在が彷徨く魔境らしいと、秀一は悟った。ただ、数が決定的に少ない。時々、不自然な方向へマガツヒが流れていく。ニヒロ機構のアマラ輪転炉に、吸い寄せられているのかも知れないなと、秀一は思った。

深い崖が見えてきた。其処が見えないほどの崖で、向こう岸は遙か遠くだ。崖そのものはつかまるものが多く、比較的降りやすそうである。サルタヒコが、無言でカズコを背負う。ユリを背負ったカザンは自力で降りると言った。最初にリコが飛び降りて、下の様子を確認しに向かった。ひょいひょいと飛び降りていくリコ。カザンが半ば呆れたように言う。ユリは下を見るのも怖いようで、カザンの背中でがたがた震えていた。

「相変わらず、恐ろしい身体能力だな」

「そう、だな」

リコは強い。ヨヨギ公園の一件以来、なおもせっせとマガツヒを口に入れているから、更に腕を上げている。だが、それでも。悪魔の中では、せいぜい一流止まりだろう。彼女よりも強い悪魔など、それこそ幾らでもいる。秀一は、今ではリコを凌いではいる。だが、それでも、この間交戦したギリメカラに比べて圧倒的に勝っている訳でもない。さきほど顔を合わせたショクインなどは、まるで勝ち目が見えなかった。

単純な力が、足りないのだ。もっと強くならなければならない。

リコが戻ってきた。何処にも怪我はない。よく焼けた肌から、埃を払いながら、リコは言う。

「榊センパイ、下は大丈夫ッス。 敵性勢力らしいのはいないッスよ。 ただ」

「何かあったのか」

「多分、見て貰うのが一番早いはずッスよ。 サナさんにも、意見を貰いたいし」

「僕はいいけど、シューイチ、どうするつもりなのさ。 とりあえず、勇って奴の野望を阻止するのが目的なの? それが出来たとしても、ニヒロ機構やマントラ軍と正面切って戦うのは無理じゃない?」

何か言いたそうにしていたサナが、発言の機会を貰うと同時に、ぶちまけた。それは、触れてはならないことではあった。だが、いつかは言わなければならないことでもあった。秀一は腕組みをして、頷いた。

「前から言おうと思っていた。 俺は、コトワリを開くつもりだ」

「本当!?」

「ああ。 情報によると、悪魔はコトワリを開けないということだ。 だが、俺の中には、人間の要素もまだ残っている。 それを使えば、どうにかなるだろう」

今まで、秀一はいくつもの思想に出会ってきた。だが、それもコトワリを開き、世界を作るにはあまりにも未熟か、極端すぎるものばかりであった。後は今コトワリを開こうとしているフトミミだ。彼がもし、まともなコトワリを標榜するのなら、それに従うことも考えてはいる。だが、可能性は低いだろうと、秀一は見切りを付けていた。

サナは目を爛々と輝かせて、顔を近付かせてくる。他の悪魔達も、興味津々の様子だ。

「それで、どんなコトワリにするの」

「今、まだ考えている途中だ。 だが、元の世界よりも、ましな世界を作りたいとは思っている」

「ましな世界、ねえ」

「話は、以上だ。 まずは、下に行くぞ」

話を切ったのは、まだ具体的な案がないからと言うこともある。一応、基本部分は固め始めているのだが、公開できる段階ではない。もちろんサナはそれを見抜いていることだろう。

身体能力がさほど高くも無さそうなアメノウズメも、ひらりと崖を降りていく。支援型であっても、身体能力面では人間と比較にもならないのだ。カザンも躊躇したが、するすると降り始めた。フォルネウスは皆の中間当たりを飛んで、警戒に努める。口に出さなくても、皆の連携は綺麗に取れていた。秀一は殆どダイビングするように飛び降りて着地。

下には、平原が広がっていた。広さは、アサクサの街以上ほどもあるだろう。かなりのマガツヒが辺りを漂っていて、周囲の全てが赤い。アマラ経路の深部だからか、もう辺りは岩だらけで、上層に見られた規則的な光景はない。灯りがあちこちにあって浮遊しているせいか、影がとても薄く、神秘的な雰囲気だ。薄い影が揺れる様は、目を引く。

そして、何よりも瞠目させられたのは。奥にある、建造物だった。

よく見ると、それは岩らしき素材で出来ていた。赤いのと、白いのと、黒いのがある。形状はピラミッド型で、四角錐の頂点部分から、周囲のマガツヒを吸い込んでいる。一片は200メートルほどもあるだろう。案内らしき光の球は、其処から少し離れて浮いていた。ピラミッドの壁面は摩滅が少なく、不自然に新しい。それが、妙な安っぽさを作り出している。どこかの監督が、汚れが良い映画を作ると言ったのを、秀一は思い出した。

無数の赤い蛍が漂う地下空間に、三つ並んで立ち並ぶピラミッド。奇妙な光景であった。

髪をツインテールに結っているユリが、喚声を上げた。子供らしく、こういうものは大好きなのだろう。それに対してカズコはあまり興味が無さそうで、むしろピラミッドをずっと見つめていた。ユリの昂ぶった感情から産まれたマガツヒが飛んできたので、つまんで口に入れてみる。非常に甘い。

「此処が、勇の言っていた神殿か」

「そうだ。 アマラ経絡から来た奴らには入れない結界が張られていてな。 中に入って、結界を破ってくれよ、親友」

勇の声が響いてくる。どうやら上らしいと、秀一は悟る。カズコが顔を上げて、じっと右奥を見ていた。何か感じているのかも知れない。

「聖は帰して貰うぞ」

「ああ、分かった分かった。 最も、本人がそれを望むかどうかは、微妙だがな」

「どういう事だ」

「知りたければ、まずはその神殿のガーディアンどもをぶっ殺す事だ。 ちなみに其処にいるのも、アマラ経絡から来た連中らしいぜ。 せいぜい頑張るんだな」

一方的に通信が切られた。冗談じゃないと、サナがぼやく。神殿が三つあるとして、一つに一匹ずつガーディアンがいるとしても、ギリメカラ並かそれ以上の悪魔を、三匹相手にすると言うことだ。しかも、短期間にである。状況は最悪だ。相手の反応次第では、同時に相手にすることさえありうる。

カズコは連れてきているが、それでも限界はある。カザンが元々厳しい顔に、更に眉根を寄せた。

「人修羅殿、どうするつもりか」

「やるしかない。 それに、勇の思うままに動くつもりもない」

聞こえているのを承知の上で、秀一は吐き捨てた。秀一は皆を促し、歩く。ピラミッドは等間隔に並んでいて、どれにも正面に入り口があり、それぞれが向かい合っていた。

三百歩ほどまでの距離に近付いた時、ふっと何かを抜けるような感覚があった。眼がちかちかしたのは、一瞬のこと。顔を上げると、景色が一変していた。

周囲を、蝶が飛び交っている。いわゆる蜆蝶で、小さな薄紫の羽が美しい。地面には色とりどりの小さな花が咲き誇り、甘い香りさえする。

ピラミッドは草に覆われ、さっきよりも色が鮮やかだった。頂点部分には、真っ白な石がはまり、それぞれ特徴的な模様が刻まれていた。歴史の授業で学んだことがある。キャップストーンという奴だ。

話によると、ピラミッドの表面は土に覆われていたという。だがこのピラミッドは、美しく彩色された石がそのまま積み上げられていた。赤いピラミッドに歩み寄り、触れてみる。妙にひんやりした。

もう一つ、変化があった。勇の気配が消えている。どうやら、何らかの手段で遠隔通信をしていたのが、遮断されたらしい。念入りに周囲を見回し、それを確認して、秀一は戦略を決めた。

仲間達は、無邪気に辺りの光景を喜んでいる。特にわびさびが好きそうなフォルネウスは、ひゅんひゅんと辺りを飛び回っていた。

「これはこれは。 風流じゃのう」

「幻術、では無さそうッスね」

「うん。 これを外部から遮断するのが目的みたいだね。 でも、本物じゃないよ。 微妙に現物とは違う」

サナの言葉に周囲をよく見る。なるほどと頷いたアメノウズメが指先を伸ばして、蝶を掴む。まるで草の上で、獲物を狙っていたカナヘビのような素早さだった。手もなく捕らえられた蜆蝶は、ふっと消えて、マガツヒに変わってしまう。

サルタヒコが、刀を抜いて、辺りの草を突くと、同じ現象が起こった。秀一は頭を振って、皆に促す。

「まず、相手に話を聞いてみよう。 ギリメカラは出会い方が悪かったが、会話は成立する相手だった。 巧くすれば、戦闘を避けることが出来るかも知れない。 だから、まず辺りの「自然」は傷つけないようにしてくれ」

「はーい。 でもさ、シューイチ。 その場合、ジョージを見捨てることになるんじゃないの」

「それも、これからの交渉次第だ」

先頭に立って、赤い神殿に入り込む。中は途轍もなく広い空間になっていて、明らかに外よりも面積があった。巨大な四角い空間の中にいるとしか思えない。空間の認識が明らかにおかしくなっている。膨大なマガツヒが辺りを飛び交っているのも、その影響であろう。

床も天井も真っ赤で、辺りは淡い光に包まれている。驚いたことに、壁際にはOA機器らしきものが並べられていた。それと同じようにして、様々な武具が散らばっている。細い糸で、天井からぶら下がっているのは、風鈴や短冊だ。

秀一はそれらを一瞥すると、入り口から見て最深奥にいる、それに視線を止めた。

人骨らしきもので作られた玉座に、腰掛けている真っ黒な肌の女である。目元と口元だけが白く塗られていて、妙に目立っている。全身は美しく金で飾り立てられていて、だが露出度は高い。足を組んでいるそのポーズは、蠱惑的だ。

戦闘態勢を取ろうとする仲間達を、手で制する。秀一は一人、ゆっくりと歩み寄っていった。玉座に腰掛けている女の悪魔は、ねめつけるように秀一を見ていた。態度は余裕たっぷりだ。

「貴方が、この建造物の主か」

「如何にも。 わらわは古き女神、スカディである」

聞いたことのない悪魔だ。追いついてきたサナが耳打ちしてくる。北欧神話の、いわゆる巨人に属する強力な女神だという。神々から婿選びをしたり、様々な逸話が伝わっている。原型となったのは、当時力を持っていた母系社会の部族長だろうとも、サナは付け加えた。

腕組みして、少し考える。それから、一人で先に歩き出す。火炎の息が届く範囲に入ったところで、話し掛ける。

「戦うつもりはない。 幾つか、話を聞かせてもらえないだろうか」

「わらわ達の庭を踏みにじっておいて、随分勝手なものいいよの」

予想通りの反応である。だから、秀一は止めさせたのである。もう少し近付きながら、秀一は軽く礼をした。

「それはすまなかった。 争い絶えない土地から来て、皆過敏になっている。 幻術かどうか、確認したかったのだ」

「ふむ、今ボルテクス界が混乱の坩堝にあることは聞いておる。 まあ、それくらいであれば良いであろう。 も少し、近うよれ」

言われるままに距離を詰める。外から全く気配が分からなかったが、建物の中にはいると状況が違ってくる。この悪魔、途轍もなく強い。ギリメカラよりも更に実力は上だろう。それでも間合いを詰めるのは、仲間を信頼しているからだ。

「そもそも、そなたはこのアマラ経路の深奥に、何をしに来た」

「俺の友人が捕らえられた。 捕らえた男は、この神殿を狙っている。 俺は貴方たちを殺すように言われたが、そうはしたくなかった。 だから、貴方たちを見に来た」

「正直な男よ。 ちなみに、わらわは嘘を見抜くことが出来る。 そなたは嘘をついていないようだのう」

流石に冷や汗が流れる。相手は余裕に相応しい実力の持ち主だ。視線が合う。飲まれないようにするのが一苦労だ。

「さて、で、どうするつもりじゃ?」

「提案がある」

さて、ここからが本番だ。さっき考えた作戦は比較的簡単なものだが、陳腐が故に効果は見込める。問題は、ある程度スカディ達にも痛みを強いることである。それが不安要素となっている。

話し始める。頬杖をして聞いていたスカディは、やがてにやりと笑みを浮かべた。

 

親衛隊を連れてアマラ経路に潜ったカエデは、後ろにいるフラウロスとブリュンヒルドを手招きした。複雑な洞窟のようになっているアマラ経路は、さながら迷宮だ。だが入念な下準備の結果、既にこの辺りの地図は出来ている。

今回はニュクスに、看護師の格好をさせられていた。真っ白な服なのはいいのだけれども、ちょっとスカートの丈が短くて恥ずかしい。カエデは時々スカートを抑えながら、崖の縁で、じっと一点を見つめている。

「どうした」

「あれを」

視線の先、崖の底には、巨体をうねらせて進む悪魔がいた。白い蛇である。全身から熱を放っていて、空気が揺らめいている。

「なんだあいつは。 例のアマラ経路に潜んでる勢力か」

「恐らくは。 特徴から言って、多分ショクインでしょう」

「ショクイン?」

「中国の伝承に残る妖怪です。 一妖怪の割にはあまりにも強大な上に、太陽を司る能力を持っていることから、今は断絶してしまった古代中国文明の残り香、恐らくは至高神である太陽神ではないかと言われているそうです」

古代中国文明と言えば、長江と黄河が有名だが、それ以外にも幾つかがあったことが判明している。ショクインはそれらの文明の神であった。

この知識は、少し前に氷川司令から貰った、ラジエルの書によって得たものだ。報酬としていただきたいと申請したら、気前よくくれた。おかげで、悪魔に対する知識は一気に増えた。

説明を聞き終えると、フラウロスは唸った。彼は強き戦士だが、勇気と無謀を取り違えるような男ではない。

「元とはいえ至高神だと。 洒落にならないな」

「ええ、とても手強い相手です。 でも、これの試運転には丁度良いはずです。 今回はかなり余裕を持ってチャージしてきています。 アラディアとショクインを屠るくらいの量はあります」

そういって、カエデは小さなペンダントを持ち上げて見せた。

これは、アマラ経絡より来た相手を倒すべく考案した道具だ。この世界の悪魔と、アマラ経絡から来た悪魔の構造の違いを利用して粉砕するもので、既に実験は済ませてある。三人がかりでアマラ経路の深部に潜って捕まえてきた悪魔に対して、一撃必殺の威力を示した。

ただし、制約が多い道具でもある。使い手の魔力を著しく吸い上げる上に、膨大なマガツヒを必要とする。親衛隊をしている中級悪魔達程度では、使った瞬間に体が分解してしまうほどだ。しかも詠唱が複雑で、簡単には覚えられない。カエデも三十回ほど繰り返して、やっと覚えたのだ。

自分で術を組んだカエデでさえそれである。もし量産するとしても、使い手はそう簡単には増やせないだろう。師団長をしている上級悪魔達に使わせるにしても、すぐには無理だ。だから、多少無理をしてでも、試運転を重ねておかなければならない。それに、アマラ経路に潜んでいる悪魔達は少数だと判明している。一匹でも屠っておけば、かなりの勢力低減を期待できる。

「それで、仕掛けるのか」

「はい。 フラウロス将軍は正面から押さえ込んでください。 ブリュンヒルド将軍は攪乱して、敵の目を逸らして。 親衛隊は、私の手伝いを。 全員で魔力増幅の魔法陣を組んでください」

「承知、と言いたいところだが。 どうやら、簡単にはいかなくなったようだな」

フラウロスが、剣に手を掛ける。ブリュンヒルドは愛馬の手綱を引いて、ひらりと跨った。はっと気づいたカエデは、火炎の術式を発動し、振り返り様に空中にある光球を焼き尽くす。狂ったような笑い声が、辺りに木霊する。ショクインが、巨大な首を持ち上げる。

「まあいい。 アラディアに仕掛ける前の、丁度いい準備運動だ」

「相手はアマラ経絡から這いだしてきた強豪悪魔です! 気をつけて!」

「分かっている!」

崖に、首から剣を引き抜いたフラウロスが跳躍した。口を開けて迎え撃つショクインが、直径三メートルはある巨大な火球で迎撃してくる。親衛隊が全員掛かりで防御術を展開するが、簡単に貫通された。カエデは目を閉じると、至近で上空へ、魔力の流れを向ける。僅か数ミリの差で間に合い、火球が天井に炸裂。辺りが激しく揺動した。

火の粉が降る中、ブリュンヒルドが愛馬を走らせる。崖をジグザグに飛び降りたフラウロスが、剛剣を振るってショクインに斬りつけた。人間大ほどもある鱗が、フラウロスの剣をはじき返す。流石に剣豪の顔が歪んだ。

「堅いな」

「ニヒロ機構の悪魔か」

「如何にも。 俺はニヒロ機構遊撃部隊隊長、堕天使フラウロス! 相手にとって、不足はない! いざ、参る!」

「よくぞ我に名乗りを上げた。 我は太陽神ショクインである。 汝らをこれより焼き尽くし、勇様への供物としてくれよう」

崖から飛び退いたフラウロスに、ショクインがかぶりついた。残像を抉った一撃は、勢い余って崖に大穴を開ける。とんでもないパワーだ。真っ青になっている親衛隊の堕天使達を叱咤して、魔法陣を組ませる。蛇らしい柔軟性をフルに発揮し、その間もフラウロスに胴体を叩きつけるショクイン。避けきれず、思い切り吹っ飛ばされたフラウロスが、崖に叩きつけられる。

稲妻のように降下したブリュンヒルドが、縦一閃、剣を振るった。だが、その華麗な剣も、強大すぎる鱗の硬度の前には、意味を成さない。その上相手は生命体だ。内部に筋肉を有する柔軟性も利して、見事に剣を弾いてしまう。

急降下していたブリュンヒルドが、今度は急上昇に転じる。鞭のようにうねった尻尾が、地面を激しく殴打するが、間一髪でかわす。印を組み、詠唱を続けるカエデの額に汗が浮かんだ。一度試した時に分かってはいたのだが、とんでもない消耗だ。体中の魔力が、吸い上げられていくようである。

ラジエルの書は、あまりにも多くの情報を内包していた。その中には、極めて危険な知識も多数あった。氷川司令はそれらの解析を既に済ませており、故に気前よくカエデにくれたのである。それでも、幾つかの情報は封印されていた。封印されていない中から選び抜いた術式を組み合わせ、自己流に再構成した。結果、この「貫通」の術式が完成したのである。

不要なものを極限までそぎ落とした術式である。だから威力は絶大。しかしとても長い詠唱を必要とする。信頼できる前衛がいないと、とても撃てない術だ。

崖の穴から這いだしてきたフラウロスが、再び跳躍する。同じくして、崖から首を引っこ抜いたショクインが、全身から強烈な熱を放った。あまりにも高い熱量が、衝撃波のようにして辺り全てを蹂躙する。崖が溶け、耐熱防御術を展開していた親衛隊の堕天使達が何騎か苦悶の声を上げながら倒れ伏す。後方支援役が、必死に安全圏まで引きずって逃げる。

陣はまだか。呟きながら、印を組む。急上昇しながら、ブリュンヒルドが軟らかい敵の腹を切り上げる。鱗の隙間を縫った一撃であったが、それでも浅く斬るにとどまっていた。

ガードして今の熱波を凌ぎきったフラウロスが、全身の魔力を剣先に集中する。再び巨大な火球を放ってくるショクイン。カエデは、フラウロスとブリュンヒルドが視線を合わせるのを見た。

フラウロスが高々と飛び上がると、剣を振り下ろした。指向性の強い衝撃波が、火球に炸裂。中途で大爆発を起こす。その爆発を強引に突破して、ブリュンヒルドがショクインの至近に躍り出た。そして、顔面を一気に斬り伏せる。剣閃がショクインの顔を横断し、そして舌に鋭い斬り痕を穿った。

「むっ!?」

「くっ、浅いな」

急降下していたブリュンヒルドが、手負ったにもかかわらず正確な追撃を仕掛けてくるショクインに対して、左右に不規則に飛びながらどうにか凌ぎ逃げ切る。ショクインの体が叩きつけられた地面が激しく爆裂して、カエデの所まで岩の固まりが飛んできた。フラウロスは速度を上げて、ショクインの体の上に乗ると、走りながら敵の体に刃を走らせた。激しい火花が散る。

再び、ショクインが全身から熱波を放つ。フラウロスが舌打ちして飛び退き、壁を蹴って更に跳躍する。辺りはもはや灼熱地獄。床が、壁が溶け始める。もう長くは保たない。カエデの周囲に、防御術を展開していた親衛隊の堕天使達が、悲鳴を上げた。

「もう、限界です!」

「負けたら全滅します! 陣の構築を急いで!」

鋭い音と共に、カエデが胸の前で手を打ち合わせる。既に手は白熱するほどの魔力に覆われていた。後は、叩き込むチャンスを待つだけだ。ぶら下げているペンダントが、淡い青光を放っている。術が、完成した。後は陣だけだ。手を高々と上げて、そして開く。

陣を必死に書いていた堕天使達が、此方を見た。

「陣、描き上がりました!」

「全員防御術に移行! 閃光に備えてください!」

右手には矢。左手には弓。どちらも淡い青光で構成され、激しいスパークを発している。

体を動かすのは苦手だ。だから、これはあくまで形式的な術である。記憶の片隅に、残っている。誰だか親しい存在が、何でも出来る人が。特に弓を得意としていた事を。これは、それを克服したいという意識の表れであろうと、カエデは理解している。だから、この形状を、敢えて使う。

ショクインが、此方を見た。無視して、弓を構え上げる。空気が熱に揺らめく中、フラウロスが降下してきた。そして、ついに剣が、ショクインの脳天に突き刺さった。ブリュンヒルドの一撃が、僅かに着けた傷を足がかりにしたのだ。

フラウロスの体が、焼けこげ始める。炎を上げながらも、フラウロスは眉一つ動かさずに、吠える。

「いまだ! 撃て!」

躊躇する理由はない。右手を、矢から放す。辺りに書き込まれた複雑な魔法陣の、あらゆる魔法言語が空中に引きはがされ、矢の先端に集まっていく。そして、矢と一体となり、光の粒子をまき散らしながら飛翔した。

矢には僅かではあるが、ホーミング性能を付加してある。それに、フラウロスが突き刺してくれた剣をターゲットにすることで、命中精度は飛躍的に上がる。

ショクインが体を激しく捻り、フラウロスをはじき飛ばす。急降下してきたブリュンヒルドが、再びショクインの体を切り下げる。フラウロスが斬りながら走った線を、あまりにも正確になぞった一撃だ。まさに神域の技。ショクインの鱗が複数、火花を上げながら吹き飛んだ。鮮血が噴き出す。

それでも、ショクインは巨大な火球を、カエデめがけて放ってくる。光の矢と火球が、正面からぶつかり合った。閃光。

あまりにもあっさり火球がかき消されたので、ショクインが目を剥く。その喉に、光の矢が、突き刺さっていた。

強烈な脱力感が、カエデの全身を貫く。だが、手応えはあった。ショクインが、絶叫する。

「お、おおおおおお、おああああああああああっ!」

今まで、フラウロスとブリュンヒルドの猛攻にも耐え続けた巨体が、見る間に溶けていく。

アマラ経絡から来た悪魔は、膨大な量のマガツヒで体を構成する。だからこそに、若干構造の密度が薄れがちになるのだ。逆に、アマラ経路で産まれた悪魔達は、力の絶対量が少ない代わりに、緻密な身体組成を持っている。その差異を利用し、体の構造そのものに楔を打ち込む。それが、貫通とカエデが名付けた術の正体だ。

壁の穴で身を起こしたフラウロスが、新しい剣を手に具現化させる。息は上がっているが、まだ闘志は溶鉱炉のように揺らめいている。凄いと、素直にカエデは感心した。もう自分は立っているのが精一杯だというのに。これが、大人と子供の差なのかも知れないと、カエデは思った。

目に炎を宿したフラウロスが、吠える。

「とどめを刺す! 合わせろ、ブリュンヒルド!」

「応ッ!」

大上段に構え上げたフラウロスが、跳躍。苦悶の声を上げるショクインに、躍り掛かる。逆にブリュンヒルドは急上昇し、鋭く剣を振るい上げた。

ショクインの巨体に、十字の閃光が走った。

着地したフラウロスが、剣を収める。鍔が鳴る音が、辺りに鋭く響き渡った。

辺りが真っ赤に染まるほどのマガツヒが、ショクインから放出される。崩れ落ちるショクインは、最後につぶやく。

「見事だ、ニヒロ機構の者達よ。 如何に我が力を制限されているとはいえ、汝らの連携は、神域に達していると言えよう」

「有難うよ。 出来れば、至高神であった頃の貴方と、戦ってみたかった」

「ははは、嬉しいことを言ってくれる。 我が至高神であった頃の人間は、愚かではあったが純粋でもあった。 だが、東京受胎が起こった頃には、もうどうしようもないほどにまで腐敗しきっていた。 あの頃が、なにもかも懐かしい。 光の中にありたいと、ずっと思い続けていた」

ショクインの言葉に、一抹の寂しさが含まれているのを、カエデは悟る。口を挟むべきではないと思った。この悪魔は、とても孤独だ。だが、誇り高く、尊敬すべき敵手でもあった。

「汝らの健闘を称え、我はアマラ経絡に戻るとしよう。 我が同胞達は、我と同等か、それ以上の使い手ばかりだ。 努々油断するなかれ」

「……ああ。 貴方との戦いを、光栄に思う」

フラウロスが敬礼する。ブリュンヒルドも。カエデもそれに習った。

ショクインが完全に消滅した時には。辺りには、信じがたい量のマガツヒが漂い続けていた。

 

黒い神殿は、一面の闇だった。文字通り、一寸先さえも見えない。だが、入った途端、墓場のような強い死臭が鼻をついたので、秀一は感覚を最大限にして、相手を探り続けた。此処は、最後にして、最大の難関。

サナが光の術を展開しようとして、失敗したので眉をひそめた。光は確かに出たのだが、すっと闇に飲み込まれてしまったのだ。そのまま音を立てないように、ついてくるよう秀一は促す。

無数の壁が林立していて、ちょっとした迷宮だ。ちょっとでも油断すれば、あっという間に迷子になる。

今までは順調だった。だから、余計に不安は募った。そして魔力が強くなってからというもの、予感は重要なセンサーと化している。油断は、出来ない。

白い神殿にいた目鼻口の無いのっぺりした巨人は、あっさり話に乗ってきた。英国の巨石文明により信仰されていたアルビオン神である。体中に唐草色のタトゥーを刻んだ彼は温厚な人柄であり、秀一に戦う気がないことをすぐに悟り、酒を勧めてきた。少し酒を飲んで、話し合うだけで、同意してくれたのは、底抜けの陽気さと気の良い性格をよく示していただろう。酒は全然駄目だったので、途中からサルタヒコに変わって貰ったが、巨人は気を悪くする様子もなかった。

赤い神殿にいたスカディも、同様のおおらかな性格の持ち主だった。古代神は大いに人間的な性格をしていて、怒る時も笑う時も凄まじい。だが、この黒い神殿に潜む者は違う。アルビオンに聞いたところによると、此処に潜む者はキリスト教に取り込まれた者。闇の中の闇。地獄の底に潜む魔王であるという。

アルビオン神の話によると、キリスト教は唯一神教と言っているが、正確には違うという。巨大化する過程で、非常に多くの神々と宗教を取り込んできた存在であり、言うならば他神征服教とでも言うべき存在なのだという。そして屈服させられた神々は、ごく一部の例外を除き、ことごとく悪魔とされた。

キリスト教で、悪魔は人間の邪心を試すために存在するのだという。他の宗教は皆善心を惑わす為に存在するという訳だ。独善的きわまりないが、似たような思想はどんな宗教にでもあるという。一例として、ヒンズー教では仏陀を悪しき教えで悪魔を堕落させる存在だとしているとか。

仏教と神道のように、互いを尊重しあって習合するような例こそ希なのだ。インドでも、ヒンズー教とイスラム教は融和を図ったことがあったが、結局「統一教」とでも言うべき珍妙な代物を強制的に押しつけることになってしまった。

それらを話すと、酒臭い息を吐き出して、アルビオンは笑った。所詮人間は愚かな生き物だ。だからこそ、儂は好きだと。好感が持てる存在であった。もちろん、戦う理由など無い。

そんなおおらかで懐が広い神の為にも、秀一は最後まで諦めずにいきたい。

この神殿にいる魔王は、アルシエル。彼も例に漏れず、別宗教の神だった存在だ。具体的には、ユダヤ人を苦しめたバビロンの一民族の神である。それがユダヤ教からキリスト教へ受け継がれ、いつしか闇の中の闇へと変貌していった。気の毒な話である。人間は、他人の思想を、こうもむごくおとしめることが出来るのだ。

死臭が濃くなってきた。同時に、呪詛の声が聞こえ始める。身を低くした秀一は、アルシエルが此方に気づいていることを悟る。説得が出来ない場合は、戦うしかない。相当な苦戦が予想されるが、他に手はない。二柱の神に手を貸してもらえれば、何とか勇の思うようにはさせないで済むのだ。

先ほどから、しきりにカズコが左右を見回している。この子は秀一以上に勘が鋭い。センサーとしては頼りになる。置いていこうと思っていたのだが、神殿を覗き込んでから、ついてくると言い出したのだ。いざとなったら、カザンにガードを頼むつもりである。

「どうした」

「うん。 あっちこちから、視線を感じるから」

「……警戒態勢!」

さっと、全員で円陣を組む。アメノウズメとカズコ、それにカザンとユリを内側に庇い、ゆっくりフォルネウスが旋回を始めた。ゆっくり、移動していく。

不意に、相手が仕掛けてきた。

秀一の足が掴まれる。床に敵が伏せていた形跡はない。思い切り蹴り飛ばして、手を離させた。ユリとカズコをフォルネウスに押し上げる。カザンには、自分で身を守って貰う他無い。そして、呼びかけた。

「この神殿の主、アルシエルか」

返事はない。今度は、いきなり顔を掴まれた。他の仲間達も、皆四方八方から伸びてくる手を、払いのけるのに必死になっている。サナが両足を掴まれて、妙に可愛い悲鳴を上げた。

「きゃあっ! ちょ、ちょっと! シューイチ、僕を助けて!」

「敵意はない! 矛を収めてもらえないか!」

「う、ぎ、ぐぐぐ。 わ、我は、アルシエル。 アルシエルとは、何者、だ」

肩を、足を掴まれる。引きずり倒されそうになる。辺り中から、同じ問いがする。深淵から響いてくるような輪唱に、思わず耳を塞ぎたくなる。全く辺りが見えない闇の中で、それはあまりにも不気味すぎた。心が弱いものであれば、その場で発狂してしまうかも知れない。

電撃を放ったサナが、無理矢理足かせを外して、飛び上がった。だが、手は躊躇無く伸びてきて、体中を掴まれたらしい。また悲鳴が上がる。

ては、あらゆる方向から伸びてくる。しかも起点が定まらない。この闇の中、いかなる場所からも発生させられると考えた方が良い。しかも今、相手は此方を抑えようとしているだけだ。もしも牙なり爪なりを伸ばしてきたら、どうにもならないのは目に見えている。これは、予想以上の強敵だ。

「ちょっと、シューイチ! 戦わせてよ!」

「同感ッス! ひっ! ど、どこ触ってるんスか!」

「あらやだ。 いやらしい手ねえ」

「このままだと士気が著しく削がれる。 決断を急いで欲しい」

冷静なサルタヒコの言葉に、秀一はもう一度呼びかける。

アルシエルの話は、アルビオンにもスカディにもしっかり聞いておいた。それを利用する。具体的には、神としてのプライドを刺激するのだ。

「貴方はアルシエル! 古代の神だろう! 神ともあろうものが、狂気に捕らわれたままで良いのか!?」

不意に、無言になる。水を打ったような静けさが到来して、辺りから悲鳴が消えた。

気配で、周囲を探る。皆無事だ。着地したサナが、服の埃を払っているらしい。忌々しそうな悪態が聞こえた。リコは妙に静かである。サナ以上に激高するかと思ったら、妙な話である。やはり女というのはよく分からないなと、秀一は思った。

「我は、アルシエル。 魔王と呼ばれたもの。 闇の中の闇、地獄の深層の支配者。 それしか、思い出せぬ」

「違うぞアルシエル。 それはユダヤ教によって与えられた設定だろう。 貴方は元々、神であったはずだ。 今こそ唯一神の呪縛から逃れて、神に戻られよ」

「しかし、思い出せぬ」

「ならば、神であろうとすれば良いではないか。 闇が悪などと誰が決めた。 闇の神となればいい」

再び、返事が消える。

不意に、はっきりした気配が産まれたのは、その時だった。

前方に、うっすらと存在感らしきものが産まれる。闇の中だというのに、不思議とそれは見ることが出来た。手が、招いている。床から伸びた、大きな手。非常に不気味な光景ではあるが、戦闘を避けることが出来たとすれば、これ以上もない幸運だ。

「罠かも知れぬのう」

「人修羅殿、大丈夫か」

「大丈夫だと思う。 罠なら、噛み破ればいい」

誇りを取り戻そうとしているアルシエルを、秀一は信頼したかった。大きな手の気配に、ついていく。他の皆も、気配を頼りに、ついてきていた。いざというときのために、ニーズヘッグを神殿の外に待機させている。彼は非常に動物的な性格の持ち主なので、気配を察知して戦うのは得意技だ。ただ、体がとても大きいので、本気でやり合う時以外には呼びたくない。

手は床に潜ったり、壁から出てきたりと、この神殿のどこからでも現れることが出来るらしい。神殿丸ごと、アルシエルの体内という訳だ。もし戦うとなると、神殿の内部を無差別攻撃する必要があるだろう。光を差し込ませれば、案外簡単に勝てるかも知れない。だが、相手はアマラ経絡から上がってきた悪魔だ。希望的観測での楽観視は危険すぎる。

最奥らしき場所に着いた。空間が歪んでいるらしく、明らかに外から見た面積よりも、内部の方が広かった。

広い空間である。百メートル四方はあろうか。その奥に、顔があった。地面から、四メートルほどもある大きな顔が生えているのだ。目だけが爛々と輝いていて、それがサーチライトのように周囲を照らし、顔の輪郭を見ることが出来た。不自然な形状からして、どうやら頭頂部には王冠を被っているらしい。顔立ちは彫りが深く、中東形の造作が伺えた。

ずるりと、顔がせり上がる。巨大な口は円形で、放射状に牙が生えていた。牙を蠢かせながら、アルシエルが問いかけてくる。

「汝が、人修羅と、いうものか」

「そうだ」

「汝は、我を、神というか」

「貴方は元々、神だった存在だ。 ユダヤ教の発展によって、原型を失ったが、今でもその名残はあるのではないか」

獣のようなうなり声。悩んでいる。まだ戦闘態勢を崩すことは出来ないなと、秀一は思った。サナは非常に不快そうで、じっとアルシエルをにらみ付けていた。指示さえあれば、即座に雷撃を叩き込むだろう。

「分からない。 思い出せない。 我は闇の者だとしか、分からない」

「ならば、それでもいいではないか」

「そうか。 我は闇の神か」

少し嬉しそうに、アルシエルは言う。まず、相手を喜ばせるのは、交渉の基本だ。床から出たり沈んだりしているアルシエルが落ち着くのを待ってから、秀一は咳払いした。

「それで、提案がある。 この神殿を、侵そうとする者がいる。 撃退するために、力を貸して欲しい。 既にアルビオンとスカディには、協力を取り付けている」

あまり時間はない。勇は妙に頭が良くはなっているが、その代わり非常に冷酷だ。少しでも見込みがないとなれば、何をするか分からない。アサクサに大規模攻撃でも掛けられたら、かなりの被害を出すことになる。

ぺたぺたとカズコがアルシエルに走り寄っていく。不気味きわまりないアルシエルにも、臆する様子は無い。止めようかと思ったが、やめた。あの子は危険感知能力が高い。無理はしないはずだ。

「貴方が、闇の神様?」

「分からないが、そうだと言われている」

「神様なら、この世界をどうしたいの?」

アルシエルは、意外に深い問いを受けて、考え込む。

そもそもアルビオンに聞いたのだが。ここに住まう神々は、アマラ経路の深部という立地条件を利用して、局所限定的な創世を行ったのだという。スカディの神殿にOA機器があったのもそれが理由だ。アルビオンに到っては、愉快に酒盛りが出来る場所が欲しいという、とても分かり易い理由だった。

ただし、コトワリが貧弱な上に、守護となるには媒介もなく。結果、出来たのはこのような限定的すぎる世界だったという訳だ。

「我は一人になりたい。 闇の中で、静かに過ごしたい」

「本当に? その割には、随分さっき寂しそうだったけれど」

「……分からない」

自分とこの神は同じだと、秀一は思った。分からずもがいているという点で、移し身のようだ。

そして、カズコの言葉で、目が醒めた思いがした。このまま行けば、コトワリを開いても、この神殿のような世界になってしまうのではあるまいか。なれ合いは好まないが、多くの個性の存在が許される世界は、今までのコトワリにはない。それを作るしかない。

「今、この神殿を狙っている者がいる。 それは感知していると思う」

「知っている。 アマラ経絡から来たものを、多く従えている人間だ」

「そうだ。 その人間、新田勇は、何も他者に一切干渉できない世界をこれから作ろうとしている」

蒼白になった周囲を無視して、秀一は歩み寄った。アルシエルの心が揺れているのが、分かったからだ。

「それは、私は、一体、どうすれば」

「手を貸して欲しい、闇の神アルシエル。 そのような世界には、魅力がないことは分かっているはずだ。 貴方は、ずっとそんな世界にいたのだから」

カズコが、数歩下がる。明らかに、アルシエルは動揺した。目が泳いでいる。サーチライトのような光が、辺りを滅茶苦茶に照らす。呻き声が漏れた。

「憎きはユダヤの民草よ。 我を神の座から引きずり下ろし、このような闇の中へ幽閉しおった仇敵どもよ。 我は、今一度、光に登りたい。 この闇の中から出たい」

「ならば、手を貸して欲しい。 微力だが、俺が手助けする」

闇を好む者はいる。確かにいるのだ。

以前何度か顔を合わせたトールがそうだ。あの男は、本質が闇そのものだと言っても良い。千晶もそれに近い。そして、勇も後天的とはいえ、本質が闇に近しいところにあるはずだ。きっと今の勇は、この闇を心地よいと思うことだろう。

だが、この神は違った。こうも光に焦がれている。

提案を、アルシエルは呑んでくれた。後は、タイミングと、秀一の頑張り次第である。絶対に失敗は許されない。秀一は黒い神殿を出ると、サナを赤い神殿に、リコを白い神殿に向かわせた。

機会は一度だけだ。

 

カエデは負傷者の状態を確認していた。フラウロスもブリュンヒルドも、さほど傷は深くない。カエデの治癒魔法ですぐに直すことが出来た。問題は親衛隊で、三騎ほどすぐには動けない者が出ていた。

「精進せい!」

拳を固めたフラウロスの叱咤に、うつむく堕天使達。先ほどの戦いでも、陣を書く以外には殆ど役立てなかったのだから無理もない。カエデは少し焦げてしまった白衣を残念だと思って眺めながら、宿将をなだめる。苛烈なブリュンヒルドは、親衛隊達に容赦ない視線を注いでいたからだ。

「フラウロス将軍、私は大丈夫でしたから」

「いいや、カエデ将軍は甘すぎる! いいか、お前ら! 今後はトールや毘沙門天との戦いがほぼ確実に発生する! 俺には指揮の任務もあるから、カエデ将軍の前衛にいつも立てるとは限らん! もし、戦場でカエデ将軍が奴らのような難敵と遭遇した時、最後の盾になって、詠唱の時間を稼ぐのはお前達なんだぞ! 詠唱の時間も稼げなければ、そもそも勝つ可能性さえも失われるんだ!」

そうは言うが、長引く戦乱で、兵が倦んでいるのは確かなのだ。訓練にも限界がある。支給されるマガツヒを喰らうことで、親衛隊の堕天使達は力を増していて、中には下級悪魔から成り上がってきた者だっているのだ。

しかし、フラウロス将軍の言葉にも一理ある。トールとの戦いは出来るだけ考えたくない事態だが、今後決戦となると、武人として最強の存在が身近にいてくれると心強い。

そうなると、誰かをスカウトするか、或いは。

ふと、人修羅の顔が浮かぶ。だが、それは無理だ。限定条件での共闘は可能性があるが、彼はニヒロ機構の思想と相容れない。しかも、話によるとコトワリの創造を目論んでいると聞く。

戦いたくはないが、いずれは敵になる相手だ。

そうなると、やはり候補は、あの悪魔か。あの悪魔は、実績、能力とも問題ない。後はどうニヒロ機構に引きずり込むか、だが。

兎に角、親衛隊の兵士達のプライドも守ってあげたいのは事実だ。

「フラウロス将軍、その辺りにしておいてください。 陣を書くのも、負傷者を下げるのも、訓練より早くできていました。 ショクインに勝てたのは、親衛隊の力も大きかったのです」

「……だそうだ。 お前達、カエデ将軍の名誉に、泥を塗らぬようにな」

「はっ! 肝に命じます!」

親衛隊の長が敬礼した。兎の頭部と、蜘蛛の体、ムカデの尾を持つ彼は、親衛隊の指揮官だけあり上級の堕天使である。彼は下級から着実に力を伸ばしてきた努力派だ。それだけに、今回のことは悔しかっただろう。

体勢を整え直すと、更に奥へ向かう。此処に長くとどまると、ショクインの仲間が現れる可能性がある。ショクイン以上の悪魔が複数現れると、かなり面倒だ。此方も援軍を呼べるが、それでも大きな被害が出るのは避けられない。切り札の貫通は、そう何度も放てはしないのだ。

アラディアを仕留めるなり捕縛なりしたら、即座に帰還しなくては危険だ。偵察に出ていた親衛隊のピカイアに似ている堕天使が、ひらひらの体を折り曲げて敬礼した。体が薄いので、偵察任務を得意としている者だ。

「報告いたします。 アラディアを発見いたしました!」

「総員、戦闘態勢! 速攻で仕留めます」

いよいよ、来た。

死者は一人も出さない。カエデのミスで誕生させたような存在だ。必ずや仕留める。ニヒロ機構の者は、一人たりとて殺させはしない。

「気負うな。 俺達がついてる」

肩を叩いたフラウロスが、頼もしいことを言ってくれた。無言でブリュンヒルドが頷く。

作戦は当然練り上げてある。シミュレーションも三十回はやった。空間を好きに操るという面倒な相手だが、それでも万能ではない事は、今までの観察で判明している。ただ、判明している能力が少なすぎる。実戦では多くの未知要素が絡んでくるのは確実で、苦戦は免れないだろう。

アラディアの移動経路を、地図上で確認。待ち伏せに最適の地形を即座に割り出した。崖から見下ろせる平地だ。アマラ経路の深奥を疾駆し、伏兵する。親衛隊の堕天使達は、今度こそと、全員気合いを相当に入れていた。

見えた。アラディアだ。

まるで重力がないかのように、不気味な歩き方をしている。不自然に体をねじり、ふわりふわりと足を運び、時々ねじりを戻したり、更にねじったり。人間だとしたら、内蔵も骨もねじ切れている所だ。辺りには大きな岩が無数に転がっているのだが。それをずるりと音を立ててすり抜けたり、上を滑らかに通ったりしている。気味が悪い。

顔のあった部分には、蝶のような奇怪な模様が張り付いていた。体の全面には、うっすらと縦に裂けた後がある。観察中、何度か体を縦に裂いて、獲物を捕食していた。体の全面が、全て口になっているのだ。長い髪が揺らめいている。まるで、水死体のように。

「予定通りに」

「任せろ。 予定通りに仕留める」

フラウロスが、剣に手を掛けた。さっきの戦いのダメージはほぼ回復しているが、それでも完全ではないはずだ。足りない分は、カエデが補わなければならない。

敵が、作戦範囲に入った。カエデが立ち上がる。

「作戦開始!」

「GO!」

フラウロスが先頭に立ち、崖を滑り降りる。ぐるりと首を回して、アラディアがフラウロスを見た。殆ど同時に、ブリュンヒルドが舞い上がる。

戦いは、静かに開始された。

 

4,双つ決着

 

三つの神殿を覆っていた結界が消えた。勇はほくそ笑むと、側に控えていたゼウスとダゴンに促した。二体とも、音もなく動き始める。

ショクインがニヒロ機構の悪魔どもに倒されたのは予想外の事態であったが、そんなものはこれから幾らでも取り返せる。秀一は勘違いしているようだが、重要なのは、神殿に蓄えられているマガツヒではない。神殿の結界が解除されることなのだ。

アマラ経路のことは、もはや誰よりも知っている。あの神殿が、どうして建てられたのか。それは、あの場所が、アマラ経路の極点だからだ。勇は今のところ、マガツヒも強大な部下も必要としていない。重要なのは、二カ所ある極点の確保。そして、一カ所は既に抑えている。

神殿からは、悪魔の気配が消えている。三つの神殿の中間点に最初に降り立ったのは、ゼウスだった。誰もが知る超有名な存在だが、ギリシャ神話の同名神ほどの神々しさはない。

元々、ギリシャ神話は無数の民俗の神話が統合されていった過程で誕生したものであり、ゼウスも後付に至高神にされていった存在だ。ゆえに欲深く荒々しい人格の持ち主であり、猜疑心も強い。更に言えば、勇に仕えているゼウスは、その更に原型である。至高神のゼウスほどの力は持たず、更に性質は泥臭い。ゼウスの目が、神殿を確認していく上で、出現したダゴンが、敵を警戒した。

問題なし。二騎がほとんど同時に、連絡を送ってきた。秀一が姿を見せる。部下共と一緒に、ぞろぞろと黒い神殿から出てきた。彼処にはアルシエルが潜んでいたはずだ。戦ったのなら、さぞや苦労しただろう。

勇はダゴンの作った空間の穴に入り込み、秀一の至近に姿を見せた。流石に歩みを止めた秀一に、にやりと笑ってみせる。

「よう、親友。 助かったぜ。 紹介しておく。 こっちがゼウス。 それでこっちがダゴンだ。 ああ、ダゴンはもう知ってたか」

「それはいいから、聖を離してやれ」

鼻で笑った勇は、指を鳴らす。ダゴンが頷くと、中空に空間の穴を作り出した。

 

秀一は、空間の穴の中に、展開されている光景に眉をひそめた。

聖だ。十字架に掛けられている。その下には、プールがあり、あまりにも膨大なマガツヒが揺らめいていた。

此処ではない場所なのだと、一目瞭然である。恐らく勇の本拠地だろう。アマラ経路を知り尽くしていると嘯く勇である。マガツヒが溜まる場所は熟知していただろうから、集めるのはそう難しくなかった事は、容易に想像できる。

此処までは予想通りだ。だが、驚いた演技を続ける。勇は頭がだいぶ良くなっている。気づかれたら、終わりだ。戦力は向こうの方が、遙かに大きいのだ。ダゴンも強いが、ゼウスの実力は更にその上を行くのが、秀一には分かった。五メートルを越す半裸の巨人は、総力戦を挑んでも勝てるかどうかという次元の相手だ。

うなだれていた聖が、顔を上げる。その目には、やはり凶熱が宿っていた。

「人修羅か」

「今、助けてやる」

「不要だ。 俺は、このままでいい。 余計なことはするんじゃねえ。 もう、楽にしてくれよ」

勇の嘲弄の理由が分かった。どういう訳か知らないが、聖は死を望んでいると言うことだ。それほど驚いてはいない。勇の反応から大体想像はついていたし、心の準備も出来ていたからだ。

だから、理由だけ聞くことにする。むしろ、安心している様子の、聖に。

「理由を、聞かせて貰おうか」

「もう、疲れたんだよ」

「……具体的に言え。 氷川に復讐はしなくて良いのか」

「俺はな、呪いを受けた存在なのさ。 膨大な悪意の歴史の中で、氷川なんかはもうどうでもいい存在に成り下がったよ。 俺の後輩が氷川のせいで死んだのは事実だが、それも今では遠い昔のことに思える。 もう、復讐心も失せちまった」

見当違いの答えが返ってくる。その意味は、代わりに勇が語ってくれた。皮肉たっぷりに。

「お前は、プロメテウスって野郎を知ってるか?」

「知らない。 名前からして、ギリシャ神話の登場人物か?」

「ああ、そうだ。 人間に火の使い方を教えた阿呆だよ。 俺も知ったのは、スペクターと融合してからだから、つい最近だけどな」

体中に浮かんでいる顔を親指で示しながら勇は言い、秀一から完全に視線を外して、聖を見た。

「まさか、聖がそうだというのか?」

「正確には、此奴はプロメテウスの原型となった男なんだよ。 あまりにも頭が良すぎて、此奴は普遍的無意識の奥底にある、人間全体の共有知識にアクセスする方法を編み出しちまったのさ。 その結果、ギリシャの文明は飛躍的な発展を遂げた。 精神学も、科学もな。 だが、それは他の民や文化をことごとく蔑ずみ、バルバロイなどと呼ぶような慢心と暴虐も招いた。 敵対文明圏であるペルシアが、どのように現代に伝わっているかでも、よく分かるだろ?」

だから、此奴は呪われたと、勇は言う。神、つまり共有知識の持つ疑似意識は、文明に異常な不均衡を生じさせた聖を悪しき存在と見なした。そして見せしめのために、彼に罰を与えたのである。

人間の史上でも珍しい、神によって呪われ続けた男。それが聖なのだ。

「死んでも、死んでも、神に即座に再生され、また一から情報を集め続ける。 此奴はどんな災厄が起こるか考えもしないで、情報をばらまき続けたからな。 そんなに情報が欲しいなら、永遠に集め続けとけってわけさ。 それはボルテクス界に来てからも、変化はないんだ。 ちなみに此奴は、ボルテクス界に来てから四回も死んでいるそうだぜ」

「……それに気づいてしまったから、疲れた、死にたいってわけか」

共感できるかは別として、納得はいった。あの狂乱も、そのショックによるものであったというわけか。何でも知っていると、聖は吠えていた。それがどれほど虚しい行動の結果なのか。今では哀れみさえ感じてしまう。

プロメテウスは岩に縛り付けられ、永遠に再生する内蔵を、鳥に啄まれ続けるという罰を受けたのだという。それを解放したのは、かの高名なヘラクレスであったらしい。

何にしても、だ。勇の話が本当だとすると、かれこれ数千年も聖は彷徨い続け、ずっと情報を集め続けてきたことになる。どうして知識がよみがえったのかは分からないが、それは確かに地獄の苦しみであっただろう。

アマラ輪転炉の使い方に、妙に習熟していたのも、それで説明がつく。元からアクセスする方法を知っていたのだ。それを思い出しながら使っていたから、習得が早かったのだ。それに、話を聞く限りは途轍もない天才だったようだし、学習効率は最初から高かったのだろう。

大人が自分で決めたのだから、秀一に止める気はない。そして聖の味わってきた苦悩から考えても、止める権利もない。既に秀一は頭を切り換えて、作戦の遂行タイミングを計り始めていた。勇はそれに気づいていない。ゼウスとダゴンの力添えもあるからだろう。完全に、油断していた。

「さて、神を、呼び出させて貰うか。 プロメテウスよぉ、てめえも今は記者様だ」

「それがどうした」

「記者なんてのは、もともとえらい仕事じゃねえ。 民衆のために自分を犠牲にして、情報を集めるだけのもんだ。 それが何か勘違いしたか、東京受胎の前にはえらい仕事だと思われてたみたいだがな」

「違いない。 で、犠牲になることを、喜べってわけか」

勇が嗤って、指を鳴らす。

すぐに勇の部下らしい小悪魔が十字架に這い登り、聖を拘束している縄を鋸で切り始めた。

「てめえの考えた方法を、俺が実施してやる。 秀一、良いことを教えてやるよ。 此奴はな、俺かお前を生け贄にして、守護を呼び出すつもりだったんだぜ」

「ああ、その通りだ。 ものの見事に失敗したがな」

「このクズにも、一抹の良心は残ってたってわけだ。 お前に救助を頼まなかったのは、恥ずかしかったからだろうよ」

勇が爆笑した。秀一は目を閉じて、聖の悲しみを少しでも理解しようと努めた。気持ちなど、分かる訳もない。せめて、そう言う人生を送った悲しい男がいたのだと、記憶にとどめておかなければならないだろう。

聖が十字架から落ちた。膨大なマガツヒがため込まれているプールに、その身を投げ出す。水音。聖の体が四散して、マガツヒとなった。人間も、死ねば此処ではマガツヒになるのだと、秀一は知った。

勇が立っていた、ピラミッド三つの中心点。其処が光り始める。何かが、せり上がってくる。現れようとしている。分かっていた。勇の行動から、この位置が大事なのだと。だから、この作戦を、立案することが出来た。

此方にむいた勇が、何か言いかける。

その時、既に皆動いていた。

ゼウスの顔面に、リコが跳び膝蹴りを叩き込む。流石に奇襲を受けたゼウスが、直撃を受けないまでも、ひるむ。同時にサルタヒコが、ダゴンの左側面に回り込み、鋭い斬撃を見舞った。上着を投げ捨てたアメノウズメが、手を叩き、舞い始める。秀一の体に、力がみなぎっていく。

サナとフォルネウスが、それぞれ稲妻と冷気を、勇に叩きつける。舌打ちした勇が、詠唱を一瞬で済ませて、魔力の壁を作り上げる。しかし、それでも出力が弱い。巨大な力が勇に流れ込み続けていて、防御に全力を注げないのが、一目で分かった。

全力で突貫した秀一が、拳をシールドに叩き込む。さっきカズコに出して貰ったマガツヒを喰らって、気力は充分だ。ただでさえ今回は力を温存することに成功している。シールドに、罅が入った。勇の顔に、驚愕と、焦りが浮かぶ。もう一撃。シールドの罅が、拡大した。更に一撃。ラッシュを叩き込む度に、シールドの傷が拡大していく。

「ダゴン! ゼウス!」

慌てて双方を見た勇が、蒼白になる。ゼウスにはアルシエルが、ダゴンにはスカディが、それぞれ組み付いていたからだ。そしてアルビオンが巨大な拳を固めて、勇の後ろから振り下ろしていた。

シールドが、砕ける。一歩下がって力をため込んでいた秀一は、短く吠えた。

「喰らえ」

目から全魔力を放出する秘技、螺旋の蛇。既に準備は整っていた。勇が油断している間に、準備は全て終わっていたのだ。

膨大な光の滝が、至近距離から勇に叩きつけられる。閃光が、アマラ経路の深層を満たした。呻きながら、勇がたたらを踏む。鮮血が飛び散り、悲鳴が上がった。更に力を、頭に集める。

「おおおおおおおおおおっ!」

全身が激しく発光し、魔力が荒れ狂う。二撃目。全身から煙を上げながらも、まだ立っている勇に、螺旋の蛇を叩き込む。灼熱の光の蛇が、秀一の目から踊り出し、勇にかぶりつく。蛇は空気をプラズマ化し、灼熱の鱗をまき散らしながら、容赦なくシールドを食い尽くしていった。勇の顔に、恐怖が浮かぶ。だが、同時に歓喜も。

シールドが砕けた。同時に、螺旋の蛇も力尽きる。凌ぎきったと、凄絶な笑みを浮かべようとした勇の至近に飛び込んだ影。カザンだ。カザンは掌底を重ねて、勇の脇腹に渾身の一撃を叩き込んだ。

思いも寄らぬ方向からの想定外の攻撃には、強くなった勇とて、ひとたまりもなかった。

肋骨がへし折れる音。勇が吹っ飛び、地面に叩きつけられる。地面からせり上がってきたあまりにも巨大な半透明の何かが、勇を飲み込む。

間に合わなかったか。急いでカズコに走り寄り、マガツヒを出して貰う。せっせと赤い光の粒を口に入れながら、万事休すかとつぶやく。更にマガツヒを得るためにユリを呼ぼうとしたが、しかし、気づく。勇の体を覆っている半透明の何かの動きが、予想外に鈍いことを。勇が浮き上がる。高く高く。それで、ようやく、その何かの姿が見えてきた。

ゼウスがアルシエルをはじき飛ばした。殆ど同時に、スカディが自分から飛び退く。ダゴンの細長い手が、スカディのいた辺りを薙ぐ。空間が溶けるように揺らめくのを、秀一は見た。空間を、切り取ったのだろう。

地面に潜り込んだアルシエルが、ゼウスの放った極太の雷撃をかろうじてかわす。アルビオンが半透明の何かに押しつぶされ掛けたカザンを抱えて、間一髪で飛び退いた。時間稼ぎは何とか出来た。護衛であるゼウスとダゴンは舌打ちすると、勇を仰ぎ見る。更に勇は、高く空へ登り上がっている。

違う。

勇が座り込んでいた。その周囲に、半透明の球体が見える。更にその周囲に、輪郭が。ゆっくり視線を移していくと、分かる。勇が、小山のような半透明の何かの、その眼球の中で、座り込んでいることが。

「やってくれやがったなあ、秀一ィ!」

勇が吠える。その全身が、傷だらけなのが、秀一からも分かった。ゼウスが鼻を鳴らして、さっさと行くようにダゴンに促す。ダゴンが空中を泳いで、勇の側にまで行った。完璧にではないが、目的は果たすことが出来た。構えを解かない秀一に、勇は顔をゆがめてみせる。

「今、俺が開いたコトワリは、ムスビ! 俺の元に集う者も、今後はムスビと呼ばれる事になるだろう。 秀一、てめえは全てのムスビの敵だ! このボルテクス界で、生きていけると思うなよ!」

「吠えるな、勇。 不完全な状態で、その気味が悪い神を呼び出してしまった事が、そんなに腹立たしいか」

底が、割れた。

勇が何故そんな恫喝をしたか。今秀一を仕留める、絶対的な確信がないからだ。そして、勇がコトワリの守護として呼び出した悪魔の実力も、よく分かった。確かに、途轍もなく強い。不完全な状態でも、今の秀一では歯が立たないだろう。

だが、それでも。天井が見えない相手ではない。此処にいる仲間と組めば、更にスカディら三柱の力を合わせれば。勝率は三割程度を見込める。

ゼウスが、ゆっくり秀一達の前に立ちふさがる。その目には静かな怒りと、同時に失望が宿っていた。

「勇様、早く皆の所へ」

「ああ。 てめえも早く戻ってこい、ゼウス」

「……御意」

ゼウスは何処かやけばちだった。勇が、吠え、眼球を内側から何度も叩いた。

「秀一ぃ! 教えてやるから、お前が何を敵に回したのか、良く聞け! 此奴はな、歴史の中から葬り去られ、全ての源流に埋もれてしまった原初の神! 多くの神の中に己を残しながらも、誰からも顧みられることのない放浪の存在だ! 名前なんぞ、当然残ってねえ! だから俺が名付けてやる! ノア! そうだ、お前はノアだ!」

勇に相応しい神だ。何だか、少し安心した。もはやどうしようもない敵手ではあるが、勇は自力でやり遂げたのだ。だが、勇の思想を認める訳にはいかない。それは、世界の冷凍死を意味するからだ。

勇にとっては、それは望むべき所だろう。だが、今、秀一はノーだと言える。言わなければならない。

「勇!」

「何だよっ!」

「お前は、自分の道を行くと決めたな。 親友として、祝福させてもらう。 だが、俺も自分の道を行かなければならない。 だから、お前を必ず倒して、必ずムスビの創世は止める」

「……っ」

勇が、蒼白になる。そして、黙り込んだ。

狂気じみた声を勇が張り上げると、ノアはダゴンと共に、溶けるように消えていった。空間を渡る術を利用したという訳だ。しばしそれを見つめていたゼウスは、構えを取り直す。だが、秀一は構えを解いていた。

「行くと良い。 戦意がない相手を、倒す気はない」

「ほう。 なかなかの大器のようだな」

「ちょっと、榊センパイ、いいんスか!?」

「いいんだ」

状況が分かっていないらしいリコが、慌てた。サナが、代わりに解説してくれる。

「完全な状態で復活したならともかく、あのノアって神、不完全だったでしょ。 それでも、他の勢力、ニヒロ機構もマントラ軍も、当然黙ってる訳がない。 しかも、さっきのノアを見る限り、とんでもなく強いけど、絶対倒せない相手でもない。 しばらくは必死に逃げ回らなければならないわけ」

「あ、だから勇って奴、あんなに慌ててたんスか」

そう言うことだ。そして、それこそが秀一の目的だった。

当分、創世など行う余裕はないはずだ。此方は時間を利用して、体勢を整え直すことが出来る。その上、創世に必要なプロセスが、今回また幾つか分かった。生け贄についてもはっきりしたし、だいたいどれくらいのマガツヒが必要になるのかも見当がついた。ムスビのコトワリが開かれたことについてはマイナス面も大きいが、それ以上の収穫があったのだ。

そして勇は、自分が利用されたことに気づいていた。だから、あれほどに激高した。そして取り乱した勇を見て、ゼウスは失望したのではないのだろうか。

指摘すると、ゼウスはにやりと笑う。だが、その後の言動は、秀一の予想を超えていた。

「いっそのこと、貴殿がムスビの主になってはくれぬかな。 スペクターを取り込んであの程度の器しかない勇様では、底が知れている。 貴方なら、ムスビの地盤を万全としてくれるだろう」

「断る。 ムスビの思想は、俺の思想とは相容れない」

「ふん、そうか。 ならば、次会う時は首を貰う。 心しておけ」

不敵な言葉を残すと、ゼウスは地面に沈み込んでいった。空間を操る術かと思ったが、違う。強烈な電圧が、地面を伝い、稲光となって遠くへ消えていく。自身を雷としたのだと、秀一は分析した。

「どうやら、上手くいったようじゃのう」

スカディが、アルビオンと、アルシエルと共に歩み寄ってくる。秀一は世話になった彼らに、頭を下げた。

「有難う、助かった。 今後も、この神殿に手は出さないことを約束する」

「何だか、目が醒めた気分だ。 お前が創世してくれ。 マントラ軍もニヒロ機構も嫌だが、それ以上にムスビの思想には、我は共感できそうにない」

「アルシエルと同意だ。 我らは神殿を守り、この世界の行く末を見守るが、汝の勝利を祈るばかりだ」

アルビオンの大きな手を握り返す。アルシエルは黒い神殿に穴を開けて、光を取り入れると言った。良いことだと、秀一が頷くと、少し恥ずかしそうに地面に沈み込む。

ムスビのコトワリが開かれたことで、世界の動きは更に加速を早めている。だが、決戦の準備も着実に整ってきた。

さて、現在の懸念はマントラ軍がどう動くかだ。秀一は神殿を後にすると、出来るだけ早くアサクサに戻るよう、皆に伝えた。

 

眼前に着地したフラウロスに、アラディアは動きを止めた。相変わらず重力を無視した動きで体を捻りながら、おぞましい声で問いかけてくる。まるでマリオネットを相手にしているようだと、フラウロスは思った。

「汝は何者ぞ」

「俺はニヒロ機構遊撃部隊隊長、堕天使フラウロス。 悪いが、此処で死んで貰うぞ、異邦の神アラディアよ」

「愚かなり。 我はジユウがコトワリの守護である。 汝がごとき、一介の悪魔が、手に負えると思うてか」

「そんな事は、やってみなければわからんよ」

アラディアは確かに強い。だが感じる気配は、他の悪魔と同じものだ。つまり、途轍もなく強い悪魔、それ以上の存在ではない。だからこそ、軍はきちんと意味を持ってくる。守護だけを裸で置いていても、創世は出来ないという訳だ。

自分の存在意義を確認したフラウロスは、剣を上段に構え直す。フラウロスは一人で戦っているのではない。既にブリュンヒルドが持ち場についている。後は、時間さえ稼げば行ける。

「ふむ、そう言うことか。 我の防御を剥ぎ、仕留める算段か」

「ほう。 気づいたか」

「我を誰と思うておる。 汝らがごとき下等と、同列に見るなや」

あまり、感情を害した様子はなかったのに。突然、アラディアは激しく動いた。両腕を左右に限界まで開くと、その指を数十メートルも伸ばしたのである。崖に突き刺さった右手指が、岩を砕きながらカエデの方に迫る。左手指は、逆側から回り込んでいたブリュンヒルドへ襲いかかった。間髪入れず、真っ正面から一撃を打ち込むフラウロス。だが、なんと。アラディアの体は左右にそのまま裂け、剣が通り抜けると元通りくっついたのである。

流石である。常識を完全に越えている。強さは確かに有限のものだが、そこへ辿り着くのは、途轍もなく難しいように思えた。

鋭い破裂音。関節の構造を完全に無視してアラディアの足が伸び、フラウロスの側頭部を蹴り上げたのだと気付く。横転しながら、受け身を取り、殆ど本能に任せて飛び退く。真上に、アラディア。体を左右に開いているのは、口を開けているのだと気付く。覆い被さってきた。一瞬遅れたら、食われていただろう。地面がごっそり削り取られていた。

剣を振るう。右手の指を、数本切り落とした。ついでに左腕もである。だが、切り落とした分は、鞭のようにしなりながら、手を離したホースのように荒れ狂い。また、傷口からは即座に新しい肉が再生した。目の前が真っ赤になる。アラディアが、詠唱もなくアギ・ダイン並の火炎術を発動したのだと、遅まきに悟る。とても、ガードなど、間に合わない。

数十メートル、吹っ飛ばされた。

あまり長くは保たないな。フラウロスは焼け付くような痛みの中、そう冷静に考えていた。流石はコトワリの守護。ショクインを更に凌ぐ実力だ。それでも、立ち上がらなければならない。戦士の意地を掛けて。

ブリュンヒルドが、急降下からのチャージを仕掛けた。反応が遅れたアラディアが吹っ飛ぶ。体のサイズは人間と大差ないのだ。だが、反応が異常である。指先が錐のように伸び、地面に突き刺さる。そしてバネのように揺れた体は、衝撃を短時間で吸収し尽くした。

「化け物め!」

高度を上げながら、ブリュンヒルドが吐き捨てる。顔をそちらに向けたアラディアが、連続して火球を十三、放った。しかも、カエデのいる方にも、である。たちまち辺りを紅蓮の炎が覆い尽くし、火の粉が滝のように降り注いだ。火の粉を無理矢理押しのけ、フラウロスは走る。そしてカエデに向けて、もう一撃放とうとしたアラディアの首を、刎ね飛ばした。

脇を、通り抜ける。脇腹に、三本の傷が走り、鮮血が噴き出す。

狂気を多分に含んだ笑いが炸裂した。振り返ると、アラディアの右手から伸びた指が、自らの頭部を串刺しにして、首に戻しているところだった。左手の指が、フラウロスの体を傷つけたのだ。吐血したフラウロスは、追撃の火球を浴びて吹っ飛ぶ。起きようとするところに、更に一撃。もう一撃。全身が灼ける。

火球を浴び続けたブリュンヒルドが落ちてきた。地面に激突した愛馬から投げ出されて、数度転がる。灼熱の床の上を、ゆっくり歩いてくるアラディア。親衛隊が高所から必死に様々な術を叩きつけているが、水を浴びた蛙ほども効いていない。

ここまでなのか。これほどまでに、圧倒的なのか。一瞬でも勝ちを夢想したことが、アホらしくなるほどの実力差だ。フラウロスは自嘲した。こうも力に差があるのかと。

フラウロスは、それでも立ち上がる。カエデは、ニヒロ機構の希望だ。親友であるオセが守ろうとしたニヒロ機構の、次代の光なのだ。ここでフラウロスが立ち上がらなければ、光を継ぐことも出来ない。

このまま死んだら、オセにあの世で何と詫びればいいのだ。

「しぶとい奴よ。 だがもう飽いた。 そろそろ逝ね」

歩み寄ってくる、アラディア。妙に高く、灼熱の床に足音が響く。同じようにして、剣を杖にブリュンヒルドが立ち上がった。親衛隊の誰かが放った炎が、アラディアの体を焼く。だが、まるで通じていない。

炎を無視して、歩いてくるアラディア。

「フラウロス将軍、気付いているか」

「どうした」

「奴の左腕だ」

余裕綽々で歩き来るアラディアの、左腕。フラウロスは、目を見張った。鮮血が、垂れ落ちているのだ。

そういえば、さっき切り落として、再生した所だ。つまり、再生能力にも限界があると言うことであろう。そして奴は、それに気付いていない。あまりにも急激に強くなりすぎたために、足下が見えなくなっているのだ。

一瞬。ほんのそれだけ、動きを止めればいい。そうすればカエデは、ニヒロ機構が誇る才女は、必ずや奴を仕留めてくれる。もう、貫通を放つ準備は出来ているはずだ。大人の役目は、子供へ未来をつなぐこと。

跳躍。先に仕掛けたのはフラウロス。剣を突き立てると、地面を切り裂きながら走る。避けようという気配さえ、アラディアは見せない。攻撃を受けても平気だと、此方を舐めきっているのだ。

次の瞬間。ブリュンヒルドが、追いついてくる。同時に、剣を一気に振るい上げた。地面がてこになり、速度が数倍に跳ね上がった大剣が、瞬時にアラディアを両断する。けたけたと笑いながら腕を振り上げ、傷ついたフラウロスに、とどめの一撃を放とうとするアラディア。しかし、フラウロスの影から躍り出たブリュンヒルドが、更にアラディアの体を四半断した。再び、フラウロスは地面に剣を突き立てる。そして振り向き様に、地面を円上に半回転しながら抉り抜き、再び反動を着けて切り上げた。

「おおらあああっ!」

今まで、トール以外の相手には見せたこともない奥の手、三の太刀。光の龍が、地面からほとばしり、衝撃波が砕け散ったアラディアを爆砕する。更に、その破片を、無言のままブリュンヒルドが音速を凌駕する華麗な剣でことごとく粉砕した。

「ひひひひひひっ! ひひひひひひひひひひっ!」

しかし、千々に千切れても。なおも、アラディアは哄笑し続けている。残骸は空中で集まり、おぞましい障気をばらまきながら、再び壊れかけたマリオネットのような形に凝縮していく。服までもが、高尾祐子の着ていたそのままに再生していく様子は、流石のフラウロスをもたじろがせるに充分だった。

悪魔だらけの世界である。ボルテクス界は、どのような存在がいてもおかしくはない。だがそれでもなお、アラディアの怪物ぶりは群を抜いていた。

しかし、これで勝負はあった。空を舞っていた親衛隊堕天使の一騎の背に乗る小さな影。カエデだ。カエデは既に弓を構えていた。今まで、片時も油断しなかったアラディアも。粉々にされた体を再生中には、ついに周囲に注意が向かなかった。

容赦なく、カエデが矢を放つ。無数の魔法文字を織り込んだ矢が、一直線に、アラディアの体を貫く。

光の粒子が、アラディアの全身を侵食していく。アラディアを覆っていた禍々しい魔力が、霧散していくのを、フラウロスは間近で見た。凄い奴だと、素直にカエデを賞賛する。ニュクスがかわいがる理由が、少しは分かった気がした。

「お! あああああああ、ぎゃあああああああああああああっ!」

「今です!」

「応ッ! 覚悟しろ、アラディアああっ!」

もう、アラディアは無力。気を失った女を核にした、狂った悪魔が一匹いるだけだ。剣を鞘に収めると、フラウロスは拳を叩き込んだ。今度は、吹っ飛ぶのはアラディアの番であった。

地面で四度バウンドしたアラディアが動かなくなる。

高尾祐子が、その場に転がっていた。

とどめを刺そうと歩み寄るブリュンヒルドを、降り立ったカエデが制止する。激闘のせいか、顔は煤だらけで、ナースキャップはどこかになくなっていた。伸び始めている髪が、爆発の余波でぼうぼうになっている。白衣もぼろぼろで、焦げ焦げになっていた。これは後でニュクスに散々弄り回されることだろう。その姿を見て、ブリュンヒルドは何か言いたそうであったが、黙っていた。

「もはや、無力化しています。 後は私が拘束の術を掛けます。 総員、撤退準備を進めてください」

「氷川司令の所に、連れ戻すって訳か。 またアラディアが暴れ出したら、どうするつもりだ?」

「大丈夫。 もう、守護としての核は砕きました。 今のアラディアは、もはや大した力を持ちません。 いざというときは、内部から爆破できるように、術も掛けておきます」

「意外とえぐいことを考える奴だな、お前は」

カエデは首を横に振った。確かに、仕方がない処置ではある。子供が考えるには苛烈だが、カエデは今や並の大人を遙かに超えるほど、豊富な経験を積んでいるのだ。

それにしても、今回のカエデの活躍は。フラウロスは舌を巻いた。守護の一角を撃破した功績は大きい。それに、今回はアマラ経路に潜んでいる勢力の幹部であろうショクインをも仕留めている。カエデの功績は高尾祐子を自由にしてしまったミスを加味しても充分におつりが来るほどだ。

ただ、やはり彼女を支えるべき親衛隊の能力が心許ない。いつまでもリハビリ代わりと称してフラウロスやブリュンヒルドが側にいる訳にはいかないし、今後は難しい局面が続くだろう。

死闘が故に、辺りは地形が完全に変わってしまっていた。帰還ポイントまで、かっての基準で十キロほどある。カエデの見事な指揮によって味方に死者は無し。ただし重傷者は七名出ていて、いずれも担架で搬送する他無かった。

フラウロスも、痛む体を引きずってカエデを護衛しながら、悩む。今後は、どうするべきなのかを。軍の指揮をしないわけにはいかない。だが、カエデを守るべき盾になる者が、いないのだ。

一抹の不安を覚えたフラウロスだが、帰路を急ぐことにする。

此処はニヒロ機構の勢力圏ではないのだから。

 

5,翼との盟約

 

辺りは闇。カグツチが静天なのだ。ボルテクス界が最も静かに、そして沈み込む時である。

整然と整列したマントラ軍第一軍の先頭に立つ毘沙門天は、隣に立つトールに、時々視線を送っていた。不安で仕方がないからである。彼らの更に前では、千晶が腕組みしたまま、無言で立ちつくしている。

天使軍が、会談の申し込みを受けた。一体どんな条件を提示したのかも不安だが、それ以上にこんな砂漠で会談をするなどとは。空を自由に舞う天使どもにとって、この地形は格好のものだ。もし敵に戦意があれば、味方はねらい打ちにされてしまうだろう。

「トール将軍、本当に大丈夫なのだろか」

「千晶様を信じろ。 俺が手塩に掛けた、最強の指導者だ」

トールは振り返りさえもしない。腕組みし、全軍の先頭でマントを翻して立っている千晶の背中をただ見つめていた。

千晶の能力を、疑う訳ではない。だが、何かいい知れない悪寒が消えてくれないのだ。ケルベロスが戻ってこないこと、トールの部下の精鋭達がことごとく帰ってこないことも、それを加速させている。トールは気にもしていないようなのだが、毘沙門天は不安でならなかった。

マントラ軍は、この後どうなってしまうのだろうか。いつしか不安は、組織全体への悲観へと変わりつつあった。

千晶が、僅かに身じろぎする。僅かに遅れて、放っていた斥候が、血相を変えて戻ってきた。

「ご注進! 天使軍が現れました! 数、およそ30000!」

「戦闘態勢を取れ! 相手が攻撃を仕掛けてきたら、いつでも反撃を……」

「不要だ。 そのままでいろ」

千晶の声を聞くと、斥候は深々と頭を下げ、味方にそれを伝達しに行く。毘沙門天の背に冷や汗が流れる。だが、今更反論する意味もなかった。部下達は、千晶の圧倒的な力に心酔している。今や千晶の言葉こそ、どんな理論にも勝る法なのである。

力こそ全て。力こそ正義。それこそが、マントラ軍の理念。故に、千晶は瞬く間にマントラ軍を支配下に置くことが出来たのだ。

肉眼で、天使どもが見えてきた。同時に、カグツチの光が増し始める。空を覆うばかりの天使どもは、整然と隊列を組み、やがて降下してきた。その先頭に、七天委員会がいることを、毘沙門天は視認していた。戦死したラジエルが欠けているが、他は全員揃っている。着地し、先頭で歩み出たミカエルを、千晶が単身迎える。

悪魔達は、固唾を呑んで、その光景を見守った。この会談が上手くいけば、ニヒロ機構に匹敵する勢力がボルテクス界に誕生することになる。アマラ経路で蠢動している強大な悪魔達とも、五分以上に戦えるであろう勢力だ。もし失敗したら。双方戦力を消耗し尽くし、ニヒロ機構に飲み込まれることになるだろう。

天使軍30000、マントラ軍40000。悪魔の目は必ずしも二つではない。双方合わせて160000を超える目が注目する中、会談は始まる。

自信満々の千晶は、部下達に作らせた、武骨な革張りの椅子に足を組んで腰掛ける。それに対して、ミカエルは他の五人と共に、天使達に用意させた優雅な長いすに座った。トールは腕組みしたまま、その場を動かない。毘沙門天も、それに習う他無かった。

話し合いが始まる。

ボルテクス界全土を巻き込む戦いの、前哨となる話し合いが。

 

(続)