ヨヨギ公園無惨

 

序、闇の底

 

アーキタイプという言葉がある。原型という意味だ。

東京受胎が起こる前。世界の各国には、様々な民俗があった。信仰も、数限りなく存在した。それらは、様々な自然現象や、或いは出来事などから、人間が想像して作り上げたものだ。

だが、その場その場で、人間が考えて作り出したものではない。

悪魔にも、神にも。古代の人々が作り出した、想像の産物が色濃く受け継がれているのだ。文明は、様々な形で遺伝する。時に意味が逆になり、まるで別の存在になることもある。だが、確かに芯には、かっての思想が息づいているのである。その道しるべとなるのが、原型という存在である。

今、新田勇の周囲に浮かぶ六つの影こそ。その原型となった存在達であった。

老人の影がある。ギリシャ神話他で、天空の神として崇められた存在の原型である。その隣には、巨大な蛇。中国文明にて、今は既に失われてしまった文化の太陽神である。その隣には、大きな魚。彼の名はダゴン。古代にて信仰された、神の一柱である。他にも、同等の力を持つ影が三つ。揺らめき、呼吸を続けていた。

「まだ、力が足りぬ」

ダゴンがつぶやく。上半身裸で、傷だらけの勇の体からは、止め止めなく赤いマガツヒが流れ続けている。それを貪り食う六つの影は、いずれも飢えていた。

「お主の分身が失敗するとはな。 力が足りぬとしか、言えぬな」

「まだ、地上に蠢く蠅どもを掃除するには早いと言うことだな」

「しかし、いつまであの我らがコピーをのさばらせておけば良いのだ。 いつまで、此処に籠もればよいのだ」

憎悪の声が漏れる。勇は、引きつったような傷跡が縦横に走る頭をなで回しながら、悪鬼のごとき笑みを浮かべた。

「孤独なる世界の担い手達よ。 力を蓄えるために、するべき事がある」

「それは何だ」

「孤独なるコトワリの紡ぎ手よ、それはどのようなことか」

「俺が、さらなる力を得ることだ。 俺の半身が、今アマラ経路を彷徨っている。 そいつを、俺の元へ誘導して欲しい」

勇は、知った。アマラ経路の中を流れるマガツヒは、情報そのものなのだと。いや、アマラ経路こそ、かってのインターネットよりも巨大で正確な、超巨大情報網なのだと。

ニヒロ機構は、アマラ輪転炉とか言うものを使っているが、あれは所詮アマラ経路の情報を限定的に知ることが出来るものでしかない。アマラ経路の深奥から上を見ることにより、初めて俯瞰的な情報を得ることが出来る。そうして、ようやく世界そのものに触れることが出来るのだ。

勇は今や、何でも知っている。何処に誰がいて、これからどうなるのか。未来は、不確定要素が多くて、情報が確定していない。だが、過去に誰が何をしてきたのかは、一目瞭然だ。

同時に、人間ではなくなりつつある。食料は必要なくなりつつあるし、暑さも寒さも感じない。また、傷は治ることが無く、ずっと痛み続けていた。だが、それを悲しいことだとは、一度も思わなかった。

影の一人が、背を起こす。馬に乗っていて、片手には鋭い槍があった。

「よし、では我が、連れてくるとしよう」

「知恵の木で修行せし隻眼の騎手よ。 汝一人で、大丈夫か」

「大丈夫だ。 なぜなら」

馬は、足が八本ある。隻眼の騎手は、老いた顔に、欲望にまみれた笑みを浮かべた。

「アマラ経路を、ずっと走り続けてきたのだから」

「頼むぞ、オズよ」

勇が手をかざすと、膨大なマガツヒがこぼれ出る。まるで犬のようにそれを啜り食うと、オズと呼ばれた悪魔は、アマラ経路の彼方へ駆け去った。北欧神話の主神、オーディンの原型となった、今は形ある信仰も残らぬ神は、飢えている。必ずや、獲物を探し出してくることだろう。

ふと頭上を眺めやった勇は、面白いものを見つけてほくそえんだ。懐かしい奴が、とても楽しいことをしているではないか。

「これはこれは。 ひひひひひひ」

「どうした、孤独なるコトワリの紡ぎ手よ」

「俺のかっての友が、楽しげなことを始めたんだよ。 みろよ」

膨大な情報を取り込んだ勇は、既に魔術も使えるようになっていた。指先を空に走らせて、軽く詠唱。情報展開用のウィンドウを、空中に出現させる。彼の部下たちがのぞき込んできた。

ウィンドウには、ヨヨギ公園が映り込んでいる。そして、多くの悪魔たちを従えて、ふんぞり返る女の姿も。

橘千晶。かっての級友であり、一緒にボルテクス界に来た仲である。いわゆる幼なじみで、その凶暴な性質には常に苦労させられた。

その千晶が、どうやらヨヨギ公園を攻略しにかかったらしい。先頭に立っているのは、マントラ軍だけではなく、ボルテクス界全域にその名をとどろかせる雷神トール。さらに、上級悪魔であり、変わり者で知られる堕天使ベルフェゴールまでもが従っている。

「ヨヨギ公園には、ヤヒロヒモロギがあったな。 孤独なるコトワリの紡ぎ手よ、放置していてかまわないのか」

「かまわねえよ。 どうせ、千晶の手にははいらねえしな」

ダゴンの問いに、余裕綽々に応える勇。

かって、あれほど強大に思えた千晶なのに。今では、貧弱で強がっているだけの、哀れな人間にしか見えなかった。まるでハムスターのケージを見るような気分で、勇は千晶を眺めていた。

分厚い城壁に守られ、ニヒロ機構の攻撃さえ退けてきたヨヨギ公園は、この世界屈指の要塞国家であるともいえる。だが、それも過去形で語られることになるだろう。

これから、ヨヨギ公園には、各勢力の強者がなだれ込むことになる。ボルテクス界でも上位に入る強者のクー・フーリンが守護しているとはいえ、とても守りきれるものではない。確実に陥落する。

そして、その後が、見物だ。

ふと、新しい情報に目がいった。アサクサに逃れた、かっての教師である高尾祐子が目を覚ましたらしい。あれほど執着した女だというのに、今ではどうでもいい相手に成り下がった高尾祐子。級友であり、今では人修羅と呼ばれている榊秀一がなぜあのような雌犬に執着しているのか、勇にはわからなくなりつつあった。

目を閉じて、集中する。今は情報が少しでも多くほしい。楽しんでばかりも、いられないのだ。

彼の部下は誰もが上級悪魔以上の実力者だが、数が極端に少ない。もしもニヒロ機構かマントラ軍が本格的に攻撃を仕掛けてきたら、それなりに手こずることになる。だから、両者の力を、削れるだけ削っておかなければならない。

それに、コトワリを開くには、守護と呼ばれる超高位の悪魔を呼び出さなければならない。その準備にも、まだまだ時間がかかるのが、現実であった。

ふと、自分のことを見る存在に気づいた。アマラ輪転炉を通して、こちらをのぞいている奴がいる。確か、聖丈二。検索してみる。すると、面白いことがわかった。

聖は此方に気づいて、すぐに回線を切った。別にそれでかまわない。今は奴のような、小物にかまっている暇はない。

回線を切り替える。ニヒロ機構では、カエデという悪魔が、着実に出世し、氷川の信頼を得つつある。奴は本物の使い手で、このまま成長するとトールと並ぶ脅威になりかねない。早いうちに手を打つ必要がありそうだった。

また、別の情報を引き出す。

孤独な世界を作るのには、まだまだ膨大な努力が必要だった。

 

1,教師の孤立

 

意識が戻ると、そこは粗末な部屋の中だった。

寝台の上で身を起こす。自分に何が起こったのか、ゆっくり整理していく。思い出した。確か、氷川に、オベリスクにいけと言われたのだ。断ると、部屋にガスを流し込まれた。あれから意識がないことを思うに、催眠ガスだったのだろう。

体が思うように動かない。相当な時間、寝たきりか、それに類する状態であったのだろう。少しずつ、体を動かして、状態を確認していく。どうやら、巫女としての能力に陰りはないようである。それだけは吉事であった。

ぱたぱたと足音。顔を上げると、誰かが部屋に入ってきていた。

マネカタの女の子だ。冷たい目をした子供で、此方を監視している。遅れて入ってきたツインテールのかわいらしい少女が、最初の子の影に隠れた。

なんだか昔の自分みたいだなと、高尾祐子は思った。僅かに見つめ合う。教師時代の癖で、笑顔を作ったが。相手はにこりともしなかった。

「今、秀一呼んでくる」

子供はそういうと、部屋を出ていった。沈黙が、場に戻る。完全なる孤立。それは、自由といえなくもない。何も束縛するものはない。奇声を上げるのも、奇行を振る舞うのも、自由自在だ。

自由。美しい言葉だ。

頭に浮かんだ自由と言う言葉に、幼い頃から高尾祐子は憧れていた。

おそらく、自分には、備わっていないものであったからであろう。

父母の素性を、高尾祐子は良く知らない。物心ついた頃には、既に養護施設で暮らしていたからだ。

周囲は、全て他人だった。上手くやれなかったというわけではない。厳格に大人たちが目を光らせている中で、子供たちはむしろ上手くやっていた。祐子にも友達が何人かいたし、彼らと一緒に悪さもした。

だが、親は、いなかった。そればかりか、家族と呼べる人間は、ただの一人も存在しなかったのである。

小学校にも、通うことはできた。授業参観の日は苦痛でしかなかったし、周囲の生徒からはずっと浮いていたが。遊ぶ相手も同じ養護施設出身者くらいしかおらず、必然的に祐子の興味は勉学に向いた。

こんな環境からは脱出したいと、思い続けていた。その夢は、中学の半ばには現実になりつつあった。著しい学力向上を見せた祐子は、奨学金制度に則り、かなり偏差値の優れた高校に入ることができたのである。養護施設の仲間たちの中には、中学を出てすぐに独立する者も珍しくはなかった。だが、彼らが一様に、無意味な苦労を強いられていることを、祐子は知っていた。

高校に入った頃には、周囲の奇異の視線は失せていた。自分の出自を上手く隠せるようになってきていたし、むしろ他者と違うことが「格好いい」と思う世代にいたからである。生徒会長などの要職を歴任した後、やはり奨学金制度で、六大学の一つに入学。そこでも問題のない成績を上げた祐子は、念願の社会人になった。

選択肢はそれなりにあったが、祐子は教師になることにした。学問は好きだったし、子供も嫌いではなかったからだ。

社会人になってから、男もできた。大学に入った頃から、言い寄ってくる男は出てきていたのだが、経済的に自立するまでは交際を控えようと思っていたのだ。だが、家族と呼べる相手ではなかった。性交渉を持ちもしたが、特に感じるようなこともなく。世間一般がもてはやすような愛とやらも、理解はできなかった。男との関係は誰が相手でも長続きせず、やがて祐子は自分が結局は孤独であることに気づいた。

あれほど独立したかったのに。独立した後の方が、心は渇いていることに気づいたときの、絶望は如何ほどであったであろうか。

悩み苦しみ、それでも何も解決せず。相談できる相手などいないし、したところで理解されるとも思えない。

やがて、前向きに、祐子は考えるようになった。幼い頃から身につけていた癖だ。生きるためには、前向きに動いた方が望ましいのである。それは、本能から来ている、処世術であった。

そこで祐子は、生徒たちに期待した。自分が得られなかった自由を、彼らに分け与えたかったのだ。学問をすることにより、人生の選択肢を増やし、自由に生きてほしい。そういう願いを、祐子は子供たちに託した。

だが、願いは、見事に裏切られることになった。

ほとんどの子供は、自由など求めてはいなかった。投げ与えられた餌を貪り食うことに興味を示すことはあっても、自分で何かするなど、考えもしない者たちばかりだったのだ。そればかりか、生徒に自主性をと訴える祐子は、周囲の教師達からまで白眼視された。この国は、大人から子供に至るまで、飼い慣らされた家畜に成り下がっていたのだ。

目立つ考えはするな。出る杭は打て。近年では「格好良い相手を吊し上げる」というような行動までもが、平然と行われるようになっていた。自分の知らないことをしている相手を馬鹿だと論じる風潮は、一般的なものとなりつつあった。

そんな腐った社会を、少しでも変えたいと、祐子はあがいた。その努力の全てが、周囲からは受け入れられなかった。学級崩壊などと良く呼ばれていたが、実際には違う。崩壊しているのは、大人から子供までの、全ての人間の倫理観念であったのだ。

やがて、祐子は、孤独になっていった。彼女を成熟したメスとして理解しようとする人間はいても、その孤独と悲しみにふれようとする者などいなかった。何しろ、面倒くさいからだ。交際相手は年収で決めるような人間が大半を占めるような社会である。それも当然であったかもしれない。もちろん、体を目当てに寝言を並べ立てる男はいた。だが、祐子は嘘に敏感だった。他人の中で、暮らし続けてきたからかもしれない。

そんな時である。彼女の肩を、氷川が叩いたのは。

「先生、無事か」

懐かしい気配に顔を上げると、祐子の教え子が立っていた。榊秀一。秀一とは、やはり彼のことであったか。目が慣れてきて、気づく。もはや、教え子が、人間ではないことに。体中を覆う発光したタトゥーだけではなく、その気配の全てが、もはや人間の領域を踏み越えてしまっている。

「ええ。 あなたが助けてくれたの?」

「先生には、以前新宿衛生病院で助けられた。 その恩を返した」

「そう。 でも、それだけではないんでしょう?」

「先生は、この世界に生き残った数少ない知人でもある。 助けられる限りは、助けたいとは思っていた」

教え子に、何を期待していたのだろう。祐子は、若干の肌寒さを感じた。この青年は、考え方までもが無機的になりつつある。しかも嘆かわしいのは、かって彼女が生きていた世界に、この青年よりも倫理的に正しいことを言うような者は、ほとんどいなかったということだ。

やはり人間は滅ぶべきだったのだなと、祐子は思った。この青年の言うようなことがおかしいのではない。彼が良識的な人間で、むしろ倫理的な方に分類されてしまうことがおかしいのだ。

勧められるままに、粥を啜った。まだ、立ち歩かない方がいいと言われた。さっきの、かわいらしいツインテールの子が、世話係としてつけられた。マネカタが周囲には多くいるらしい。

「聞きたいことが山ほどある。 体調が戻ったら、話してほしい」

教え子の言葉に、祐子は何も応えず、無心に食物を口に入れた。空手形は切らない主義だ。彼の質問に答えられるかはわからないし、そんな気が起こるとも思えない。もし話すとしたら、取引が必要かもしれない。

どちらにしても、今は周囲の状況を確認して、場合によっては動けるようにならなければならない。氷川は、自分の手で殺す。あの男だけは、生かしてはおけないのだ。

妄執の炎が、祐子の目に燃え上がった。

 

オベリスクに籠もったクーデター部隊の降伏を受け入れたカエデは、ニヒロ機構に戻ってきた。ほとんど兵は失わなかったが、オベリスクは上層の七階ほどが吹き飛び、アマラ輪転炉としての機能を失ってしまっている。七層を吹き飛ばしたのはカエデ自身だが、事前の予定通り、降伏を潔しとしなかったモイライ三姉妹の仕業だと、カエデは会議で説明した。先頭に立って戦ったカエデの勇敢さをモトが褒め称えたこともあり、それで会議はスムーズに進んだ。降伏した兵の処遇が決まったことで、議題は片づいた。嘘をついたことで、カエデの胸は痛んだが、どうにか皆には誤魔化すことが出来た。

だが、会議が終わった後。氷川指令に、カエデは呼び出された。

氷川指令の部屋に、カエデは初めて入った。中は恐ろしく殺風景で、サーバールームのように全てが配置されている。机や寝具までもが、機械の部品に思えるほど、無駄なく配置されていた。唯一の無駄が、壁に掛かっている、壊れた刀だ。あれがオセ将軍の形見なのだと、カエデは知っている。

氷川はカエデが歩み寄るまで机でノートパソコンを叩いていたが、会話するのにちょうどよい距離になると、椅子を回して振り返った。カエデは気づいていた。氷川指令が、嘘を見抜いていることを。

「さて、私が君を呼び出した理由はわかっているな」

「すみません。 独断で、勝手なことをしてしまって」

「もう少し、偽装工作は上手にやりたまえ。 君は妙なところで子供だな。 策略も度胸も、並の大人では歯が立たないほどに備えているというのに」

恐縮してしまう。こういう組織で生きているから、カエデも世の中はきれい事だけでは回らないことを知っている。

「具体的に、何が起こったのか、聞かせてもらえるか?」

「はい。 モイライの三姉妹のうち、上の二人は、どうやらアマラ経路に潜む勢力に寄生されていた様子です。 彼女らは、ナイトメアシステムを使い、マントラ軍を滅ぼそうとしていました。 抑止兵器としてのナイトメアシステムの火力を見せつけて、独立国家としての実力を誇示するのが目的であったようです」

「あの三人にしては頭が回りすぎるから、おかしいと思っていた。 そういうことだったのか」

むしろ楽しそうに氷川司令が言うので、カエデは不謹慎だなと思ってしまった。だがこの人は、氷のように静かで、それでいながら不遜である方が、「らしく」ある。

「それで、続きを話してくれたまえ」

「はい。 ええと、私が上層部に進入した時には、モイライの三姉妹は人修羅と交戦していました」

「ほう。 創世の巫女が目当てであったのか」

「そのようです。 もっとも、戦略上の判断ではなく、知人として助けるのが目的だったようですが。 人修羅は、邪神ダゴンの力を借りたモイライの三姉妹を実力で撃破しました。 恐ろしいほどに腕を上げています」

これは、カエデの素直な感想だ。フラウロスかマダか、優秀な前衛がいないととても戦える相手ではない。技も豊富で、しかも展開能力がすさまじい。カエデよりも、戦の才に関しては上ではないかと思わされる。できれば戦いたくない相手だと、カエデは考えている。

「それで、その後は」

「取引を、しました。 ニヒロ機構には敵対せず、マントラ軍との対決姿勢を崩さないこと。 人修羅は、取引を飲みました」

「ふむ。 戦略的には、正しい判断だな。 人修羅、それに邪神サマエルがアサクサのコミュニティにいることを考えると、マントラ軍も容易には動けん。 それに、創世の巫女は、所詮コトワリの担い手にはなれぬ存在だ。 君の判断は、正しいとはいえる」

だが、と短く氷川司令は断りを入れた。

「創世の巫女は、君が責任を持って回収したまえ。 今すぐでなくても構わないから、機会を見て出来るだけ早く、な」

「ナイトメアシステムの核として利用できるからですか?」

「違う。 彼女には、ほかにも利用できる価値がある。 それに、敵対されると、いろいろ面倒なことがあるのだ」

「わかりました。 私の独断で、ご迷惑をお掛けしました」

ぺこりと頭を下げると、氷川司令はもういいだろうと思ったのか、退出してよいと言った。部屋を出ると、壁になついてしまう。凄く緊張した。親ほども年が離れているような男の人と直接話すのは、やはり疲れる。それに、最近自覚したのだが、仕事の時の自分も、あまり好きではないのだ。どんどん冷酷に、合理的になっている気がするからである。

それにしても、器の大きさを、いつも氷川司令からは感じる。今回の件にしても、場合によっては死刑になるような話であるのに。利に通じた内容であることを判断すると、気前よく笑って許してくれた。ただし、大きな借りがまた一つ出来てしまった。今後は更に気合いを入れて忠誠を尽くさなければならないだろう。

自宅に戻る途中、ミトラとすれ違った。最近、彼は取り巻きも寄せ付けず、黙々と仕事をするようになっている。カエデと以前は目もあわせなかったが、話し掛けるようにはなってきた。何か腹に一物あるのだろうが、しかし疑ってばかりでも仕方がない。

「おお、カエデ将軍。 氷川司令とは、どのような話をしたのですかな?」

「軽く今後の事を話しました。 アサクサのマネカタ達をどうするかで、マントラ軍への対処が変わってきますから。 もっとも、当分侵攻作戦を採ることは、ありえないようですが」

「そうですか。 此方の仕事は、それなりに順調です」

ミトラは、コトワリを築く準備を進めている。主にユウラクチョウの隣にある国会議事堂跡を整備するのが、その内容だ。アマラ輪転炉を複数持ち込み、蓄えたマガツヒを多数流し込んで、守護を呼び出す下作業である。

今回は相互監視システムを採用することになっている。防衛部隊に、マダ、スルト、モトが配置され、何かおかしな動きがないか、それぞれを見張る。これはダゴンに寄生されたモイライ三姉妹の事を反省して、カエデが案を出して作り上げた体勢だ。ダゴンという名前を出してはいないのだが、強力な悪魔がアマラ経路に潜んでいることは周知の事実である。スペクターのこともあり、寄生型の悪魔がいる可能性もあると、皆には伝えてある。彼らは自分が寄生されることなどあり得ないと言ったが、念には念である。古参である彼らが相互監視する、鉄壁の体勢。これならば、必ずや守護の降臨まで、持ちこたえることが出来るだろう。

国会議事堂は、元々戦闘を意識した作りではない。今は周囲を二重三重の防御施設で固めた、大要塞地帯へ変貌しつつある。こういう作業は、元々ミトラの専売特許だ。ユウラクチョウを難攻不落の要塞に改装した実績もあるし、氷川司令も適材を適所に置いたことになる。

「ミトラ将軍、何か此方から手を回すことはありますか?」

「技術者が少し足りないですね。 アマラ輪転炉についての専門家を、何名か回して欲しいのですが」

「構いませんが、アマラ輪転炉からの、マガツヒの採集効率が悪いのですか?」

「そんなところです。 それに、敵の侵入も防いでおきたいところですからね」

それを素直に信じるほど、カエデも子供ではない。だが、技術者を派遣すること自体には、異論はなかった。内偵もさせることが出来るからだ。元々野心をぎらつかせていたミトラが、妙にしおらしくしているのは気になる。何か企んでいるのなら、尻尾を掴んでおきたい。

すぐに頭の中から、何名か見繕う。みなカエデの忠実な部下だ。自分などに忠義を尽くしてくれるのは、本当に恐縮してしまう。そんな大事な部下だから、派遣するのには勇気がいる。だが、ニヒロ機構の利益を考えると、それも仕方がない。危険が大きい任務だから、まめに連絡を取らなければならない。もし通信が途絶したら、ミトラと直接戦うことも考えなければならないだろう。もちろん、内偵をすることは、氷川司令にも告げておく必要がある。

「分かりました。 ただし、アマラ輪転炉の警備は、今まで以上に、念入りにしてください。 ある意味スペクターよりも危険な相手が現れるかも知れませんから」

「分かっていますよ」

ミトラと別れる。悪意が表に出てこなくなっただけで、前と印象は変わらない。氷川司令への忠誠だけは、維持して欲しいと思うばかりである。

後は、創世の巫女の奪回計画か。

彼女は恐らく、人修羅と一緒に、アサクサにいる事だろう。同盟を組んだ手前、軍事的な意味では手を出すことは出来ない。ただ、あまり悲観はしていない。交渉の手は幾らでもある。それに、創世の巫女のデータは、カエデも攻撃部隊の司令官に就任した時、渡して貰った。帰ってから吟味をするつもりだ。

本部から出ると、すぐに護衛の親衛隊が集まってくる。今日はコーヒーショップに寄る気にもならなかったので、自宅に直行。最近では、自宅でも護衛が周囲を固めている。面倒くさいが、地位を考えると、仕方がない。カエデは万能型の悪魔ではなく、近接戦闘に関しては素人同然だからだ。周囲に、護衛は必要である。

ソファに座り、自分で肩を揉もうとすると、年格好の似た悪魔が似てきて、肩を揉み始めた。肌が赤い、アルプと呼ばれる悪魔の一種だ。常に少し浮いている彼女は、最近お着きになった。真面目だが少し引っ込み思案であり、カエデをどうやら尊敬しているらしい。恐縮してしまう話である。

「ええと、すみません」

「いえ、お仕事に集中してください」

にこりと笑顔で返されるが、何を言っても動じそうにない。この娘は真面目な分、とても芯が強く、一度決めたことは死んでも曲げない。そんな性格だから、信頼できるし、追い払う気も起きなかった。

テーブルに持ってきた資料を並べて、吟味に掛かる。仕事外の時間だから、あくまで、軽めの分析だ。情報だけを得て、後でベットで転がりながら、じっくり考えるのである。ちなみに、情報を納めたのは紙媒体ではない。セキュリティを考慮して、魔術で情報を封印した、キューブ状の赤い物体である。触って、術式を唱えることで、情報を得ることが出来る。

肩を揉んで貰いながら、術式を唱える。すっと、脳裏に情報の含まれるウィンドウが立ち上がった。

創世の巫女。高尾祐子。

東京受胎の時の年齢は二十四歳。孤児院出身。職業は、高校教師。

一将軍だった時には、顔も知らなかった相手だ。見ると、整った容姿の持ち主である。すらりとしていて、細身の美しさが良く出ていると言える。カエデも、大きくなったらこんな風になりたいと思わせるものがある。もっとも、カエデが肉体的に成長するのかは、よく分からない。悪魔には大人も子供もない。雄雌で生殖もしない。だから、育つ必要がないのだ。無理に姿を変えることは出来るが、それは虚しいだけだとも思う。

少しずつ、細かいデータを閲覧していく。身長、体重は理想的な数値だ。殆ど贅肉がないことからも、自己制御心が強い性格であったことが伺える。交際していた男は三人。いずれも既に交際を解消している。うち二人は性交渉まで行った形跡があるが、結婚は考えていなかったそうだ。交際相手はいずれも年上の社会人。手堅い職業の人間ばかりである。いずれも交際も長続きはしておらず、七歳年上の銀行員とも、四ヶ月で別れていた。人間のオトナの世界をかいま見てしまったようで、カエデは少し頬が赤くなるのを感じた。

ガイア教に高尾祐子が入信したのは、氷川司令の手引きによるものであったらしい。元々高尾祐子は、非常に強い力を持っていて、簡単な魔術を少しの教育で使いこなすようになったらしい。ガイア教に入って半年もした頃には、上級悪魔も舌を巻くほどの魔力を身につけていた、文字通りの天才であったそうだ。ただし、ガイア教の思想に傾倒する様子は、最後まで見せなかったらしい。

徐々に、情報のセキュリティレベルが上がっていく。カエデが大幹部だから、閲覧できる情報に踏み込んでいく。

元々、高尾祐子は氷川司令のネットワークを駆使して発見した人材であった。だからこそと言うべきなのか、氷川司令がクーデターを起こしてガイア教を内部から壊滅させた時。高尾祐子は、数少ない賛同者の一人であった。高尾祐子は、氷川司令によって勧誘され、その過程で思想に共鳴したのだとも言える。

だが、セキュリティレベルが高い情報に踏み込んでいくと、その情報にも更に裏があったことが分かってくる。

高尾祐子は、自由に異常な執着を見せていた。自らを由とする事。世間一般では、万能のツールのように思われている言葉。その根源となっているのは、人間が社会的な生物であるからだろう。

だが、その社会性が過度に高まると、人間は強いストレスを感じる。それは様々な情報から、カエデが知っている真実だ。人間は蟻のようには、なかなか生きていけないのである。だから、自由という言葉が賞賛される。

元々曖昧な言葉だ。だから、定義も数多くある。その中でも、高尾祐子が執着していた自由は、自立自存する事であったらしい。だから、生徒達にも、それを叩き込もうとしていた節がある。だが。東京受胎が起こる寸前の日本は、腐敗が極限まで進行していた。中には、独裁政権によって支配されることを望む者までもが出始めていたらしい。

彼女の行動は、同僚達の間からさえ、浮いていると思われていたようだ。事実、高尾祐子の情報の数々には、同僚達からの冷たい視線を示すものが幾つもあった。生徒達も、評判は半々であった。良い先生だと思っているのはほんの僅か。殆どは、鬱陶しいとかうざいとか、幼稚で愚劣な感想を抱いていたらしい。

だからこそと言うべきか。氷川司令の掲げる、新しい世界に、高尾祐子は傾倒した。しかし、東京受胎の後。高尾祐子は、公然と氷川司令に対して、敵意を剥き出しにするようになったと、報告にはある。

ボルテクス界が出来て直後のニヒロ機構のことを、カエデは知らない。あの日。天使にアカサカが焼き払われて。ランダ様とオセ将軍に助けて貰って、ニヒロ機構に入って。それは、ニヒロ機構が出来てから、随分経った後の出来事である。当然、初期の高尾祐子と氷川司令の確執は、この情報で閲覧するしかない。

しかし、何となく分かる。

今のニヒロ機構のあり方は、法治主義だ。誰もが受け入れられる世界ではあるが、それは法の下にという条件がつく。カエデの今回の行動が見過ごされたように、完璧なまでの杓子定規ではない。だが、それでも法による所は大きい。

それは、個々人の自由を尊重する方式とは、対局的なものだ。更に言えば、ニヒロ機構のコトワリが成った暁には。下手をすると、思考すらもが必要ない、完璧なる秩序の世界が、到来するだろう。

それの是非は、カエデにはよく分からない。カエデには、思想のことが昔からよく分からないのだ。ただ、大きな恩がニヒロ機構と氷川司令にはある。ニヒロ機構には、大事な仲間達もいる。だから、カエデはニヒロ機構に尽くす。しかし、己の思想に全ての基幹をおいているであろう高尾祐子は。造反の姿勢を取り始めたというのだろう。

高尾祐子は、カエデにとって永遠に理解できない相手だと思う。しかし、だからといって接触を拒絶しては意味がない。東京受胎を引き起こした、古今屈指の術者である。抵抗されたら、簡単には捕らえられないだろう。責任は、取らなければならない。

他にも、雑多な情報を集め終えた後、情報確認を終了する。脳に直接情報を焼き付けるようなものであるから、とても疲れた。映像が消え、周囲が見慣れた自分の家に戻る。肩を揉んでいたアルプが、力が抜けたことを感じ取って、聞いてくる。

「大丈夫ですか?」

「はい。 もう休みますから、皆も分担して休憩してください」

「は。 第一分隊、休憩に入れ! 第二分隊は内部監視! 第三分隊は外を見張れ! 三シフトで交代する!」

護衛の小隊長が、素早く指示を飛ばす。全く問題のない動きをしている部下達の様子を確認してから、カエデは欠伸を一つして、自室に向かった。

高尾祐子は、だまされて東京受胎を起こしたのだろうかと、ふと思った。どうも、違うような気がする。氷川司令と決裂が生じたのは、多分此方に来てからだ。もし、それが本当だとすると。

何か、まだ裏があるとしか思えない。

マントラ軍は、今急激に勢力を回復している。此処で天使軍が彼らに加わると、ニヒロ機構の七割ほどにまで戦力が増強される可能性もあるという試算も出ている。傑出したリーダーが其処に加わると、更に兵力は増大する可能性があるという報告も出ているのだ。

それらを止める気がないと氷川司令が言っている以上、出来るだけ早く高尾祐子を抑えなければならない。

それが終わったら、氷川司令に事の真相を聞こう。そうカエデは思った。

 

2,怒濤のごとく

 

ヨヨギ公園の城壁に登っていたクー・フーリンは、いよいよその時が来たことに気づいた。愛槍ゲイボルグを握りしめる。彼の視線の先には、あの男がいた。

あまりにも堂々と、奴は現れた。ただ一人、砂漠を悠々と歩いてくる。城壁も、数百の兵士も、何の役にも立たないことが目に見えている。城壁に上がってきた兵士達が、騒ぎ始める。クー・フーリンは吠えた。

「全軍、警戒態勢を取れ! 奴が一人で攻めてくる訳がない! 他の場所から、本隊が来るぞ!」

「は、ははっ!」

副官のタムリンが、城壁の下に走り出す。圧倒的な殺気が、既に城壁の全体を覆いつつある。ヨヨギ公園は、落ちる。それを、クー・フーリンは幻視した。これでも、豊富な実戦を積んできたはずなのに。ただ、遠くから歩いてこられるだけで。飲まれそうであった。トールの目は、爛々と光っている。あの輝きを、クー・フーリンは知っている。目を灼く雷。そう、あれは。

本当に戦いが好きな者が、これから獲物を食おうとする時の光。

かって、影の国と呼ばれる場所で、クー・フーリンは修行した事がある。その時、師事した女戦士が、いつもあのような光を目に湛えていた。そしてその女戦士に、クー・フーリンは勝てた試しがなかった。

相対しているのは、敵を殺すためだけに技と肉体を磨いている、本物の戦士だ。数百メートルの距離など、何の防壁にもならない。

城壁から、飛び降りたのは、飲まれそうな自分に気合いを入れるためだ。砂漠に降り立つ。ゆっくり歩いてくるトールが、笑った。それが、この距離から分かった。全身に、戦慄が走る。

「貴様、マントラ軍の、トール将軍だな!」

「如何にも。 貴様は、名高き戦士、クー・フーリンであろう」

「そうだ。 ヨヨギ公園は、戦を好まぬ土地だ。 このボルテクス界に残った、数少ない楽園の一つと言っても良い! それを、暴虐の拳によって、砕こうというには、あまりに無体! 引け、雷神よ! 慈悲を知るものであれば!」

「笑止なことを、言ってくれるなよ。 この土地は、ヤヒロヒモロギの力によって成り立つ、偽りの楽園に過ぎん。 腐敗した王と王妃の暴政、無能なる兵士、エゴの固まりに等しい妖精ども。 かっての人間どもよりも醜く、愚かな貴様らが、何を楽園などと並べ立てるか」

距離、数十メートル。

トールが暴虐だけの男ではないと、クー・フーリンは聞いたことはあった。間近でこう見事なまでの正論で此方の理論を砕かれると、それを実感させられる。そして、もう一つ知った。

この男、戦いが本当に好きなのだ。

トールは、ただ圧倒的な実力を振るうことを楽しんでいる。戦いそのものを、愛している。だから、理論などは二の次だ。暴虐だとわかっていて、敢えてやっている。己が愛する、戦いを楽しむために。

惜しいと思う。この男、力に対する暴虐的な信仰さえなければ、法と正義の守護者になれたのかも知れない。だが、現実は皮肉だ。この男が求めるのは、より強い相手との、高度な戦いのみ。それ以外は、全て視界の外なのだ。まさに、武神。戦うために、生まれてきた男。

ゴズテンノウに従っていたのも、おそらくは戦いを楽しむため。マントラ軍の思想など、多分二の次だったのだろう。そう、クー・フーリンは分析した。

悠々と歩いてくるトール。距離は、さらに縮まった。

「ひょっとして、俺の分析をしているつもりか?」

「そうだ」

「ならば教えておいてやる。 俺は、マントラ軍の思想を愛している。 何故ならもっとも俺が生きるのに相応しい世界が、マントラ軍のコトワリによって誕生しうるからだ」

「この、ヨヨギ公園を襲おうとしているのも、それが目的か! 貴方は、自分の嗜好によって、世界を踏みにじろうとしているだけではないか!」

トールは無言であった。それが、全ての答えになっていた。クー・フーリンの中で、恐怖を、怒りが上回る。トールが足を止めて、実に楽しそうに言った。

「さあ、見せてもらおうか。 あのオセの剣をしのぎきった、ケルト最強の英雄の力を!」

「言われずとも、見せてやろう!」

手の中で、槍が震える。魔の力を持つ、必殺の武具ゲイボルグ。投げれば必ず命中するという伝承が残る、最強の投擲槍である。

投擲槍は、弓矢が発展する以前に全盛期を迎えた、非常に古い武具である。それを得意としていることからも、クー・フーリンの原型が、遙か昔の英雄であることがよくわかる。魔術がふんだんに登場する、古代の英雄、クー・フリン。今、魔術によって成り立つ腐敗した王国を守るため、命を賭けようとしている。理由は、クー・フーリン本人にも、よくわからない。わからなくなってしまった。

トールは、投擲の体勢に入ったにもかかわらず、動こうとしない。恐らくは、ハンデを与えているつもりなのだろう。初手はくれてやると言うわけだ。それは、奢りではない。余裕でもない。多分、戦いを楽しむための、トールなりの工夫なのだろう。

「おおおおおおっ!」

雄叫びを上げて、踏み込む。大量の砂が舞い上がった。トールは無形のまま、身動きしない。ほとんどクー・フーリンの背丈ほどもある槍を高々と抱え上げるようにして、全身の筋肉をフルに稼働させる。背筋が、大腿筋が、軋みを上げるほどの、うねりが全身を流れた。

「貫け、ゲイボルグ!」

投擲。

空気を蹴散らしながら、ゲイボルグがトールに襲いかかる。トールの巨体であっても、直撃を受ければ、一撃で粉砕可能な速度だ。

そして、クー・フーリンは見た。初めて、トールが構えをとる。深々と体を沈め、左手を前に、右手を僅かに引く。十分に引きつけると同時に。拳を、打ち込んできた。

聞いている。トールは結局、肉弾戦で重要局面の勝負をつけると。特に必殺の正拳を耐え抜いた者は存在しないと。暴力的な風圧が、襲いかかってきた。後方の城壁が、空圧の平手打ちを食らって揺動する。城壁の上にいた兵士達が、悲鳴を上げるのが、聞こえた。全力での投擲により、力が抜け痺れているクー・フーリンは、ガードをとるのが精一杯だった。それでもなお、数メートルずり下がる。

風が、収まる。もうもうたる砂埃。飛んできた槍。投げ返されたのだと知って、クー・フーリンは戦慄した

煙を切り破るようにして、トールが姿を見せる。右の拳から、僅かに出血しているようだ。だが、それだけ。クー・フーリンには、もはや奴が地獄を支配する魔王にしか見えなかった。

この男、噂以上だ。小手先の術など、どれだけ撃っても無駄だ。効くわけがない。この男と戦うつもりなら。覚悟を、決めなければならないだろう。目を爛々と光らせながら、トールは言った。

「それで終わりか? ならば、今度は俺からいくぞ」

「……っ、まだ、まだだっ!」

異名となっている、犬のように。クー・フーリンは体勢を低くする。全身の細胞がざわめき出す。

「ほう。 噂に聞く、戦闘形態か」

口が耳まで裂けていく。理性が危うくなっていく。髪がさらに伸び、踵が反り返った。トールの姿が、ぶれて行く。周囲の全てが、破壊すべき対象に思えてきた。殺す、殺す、殺す、殺す!耳の奥から、命令が飛んでくる。

体が、それに従って、動いた。もはや、壊すべき対象はどれでもよかった。

 

トールは、変貌していくクー・フーリンを見て、ほくそ笑んでいた。そうだ。こうでなければならない。全ての命を注ぎ込み、戦いを挑んでくる強者との殺し合いこそが、トールの乾いた心を癒してくれる。

クー・フーリンは、戦場で姿を変えることで有名な存在だ。一種の狂戦士形態であり、その間は見境がなくなるという。守るべき者ができてしまった今は、ほとんど使う機会がなかっただろう。拳をこれからあわせるのが楽しみで仕方がない。

犬のように低く伏せ、唸っていたクー・フーリン。全身が血潮に満ち、まさに獣といった姿だ。指先で、招く。意図は通じた。

躍りかかってきた。早い。残像が残るほどだ。槍を既に体の一部としていて、瞬時に中空から数十の突きを放ってくる。対応しきれない。三戦立ちを取り、受けきる。全身から、血がしぶく。

耳まで裂けた口で、クー・フーリンが叫ぶ。大上段に振るい上げた槍を、振り下ろして来る。徐々に、動きに目が慣れてきた。槍を受け止める。そして振り回し、砂漠にたたきつけた。

理性が無くなっていても、戦闘の基本は頭にたたき込んでいるらしい。きちんと模範的な受け身をとるクー・フーリン。踏みつけようとすると、槍を離して飛び退き、三角飛びの要領で、側頭部に蹴りをたたき込んできた。かなり効く。実に面白い。これほど使える奴と戦うのは、ギンザ会戦以来だ。

「ハハハハハ! やりおる!」

飛び退いたクー・フーリンに大股で歩み寄る。槍を投げ捨てながら、右の拳を握りこむ。飛びかかってきた。此方も跳躍。膝蹴りをたたき込む。今度は此方が僅かに早い。吹っ飛んだクー・フーリンは城壁にたたきつけられ、獣じみた悲鳴を上げた。城壁にクレーターができ、縦横無尽に罅が走る。

追撃の拳を叩き込むが、一瞬の差で逃れられる。城壁の罅がさらに大きくなり、一部が崩れ落ちてきた。悲鳴を上げて、兵士どもが逃げ回っている。そろそろ、ベルフェゴールが別働隊を率いて敵中枢に乗り込んでいるはずだが。拳を城壁から引き抜くと、後頭部に向けてクー・フーリンが放ってきた回し蹴りを受け止める。そして、足を掴み、地面に投げてたたきつけた。

大量の砂が舞い上がる。

「速度をあげていくぞ!」

吠えたのは、楽しいからだ。砂煙を破って後ろに飛ぶクー・フーリンに追いつくと、顔面に拳をたたき込んだ。吹っ飛び、再び砂漠につっこむクー・フーリン。だが、瞬時に体勢を立て直すと、耳まで裂けた口で笑いながら、膝蹴りを顔面にたたき込んできた。面白い。実にすばらしい。

殴り、殴り返される。蹴り、蹴り返される。あまりにも、楽しすぎる時間が続く。足を掴んで、放り投げる。城壁につっこむ。ついに、城壁の一部が、完全に崩落した。大量のがれきに埋まるクー・フーリン。飛び退く。埋まる寸前、一瞬槍を見たので、狙いが読めた。跳躍。

そして、砂の下から現れ、槍を手に取ったクー・フーリンを、したたかに踏みつけた。

「ぐわっ!」

瞬時に、狂戦士状態が解けたクー・フーリンが、悲鳴を上げてのけぞる。その悲鳴が、嗜虐心を更に誘った。もう一撃、跳躍して踏みつける。骨が何本か、折れた気配がした。

 

遠くで、とても肉弾戦をしているとは思えない爆音が響き渡っている。あのトールが、クー・フーリンを押さえ込み始めたのは間違いない。まさか負けることはないだろうから、本当はじっくり待っても良いのだが。奇襲で一気に中枢まで迫らないと、肝心のヤヒロヒモロギを奪われる可能性がある。

ベルフェゴールは、整列して出撃を待っていた250程の部下に対して、指揮杖を振るって見せた。

「攻撃開始!」

「はっ! 総員、攻撃を開始します!」

主力は、千晶が力で従えた天使達だ。そのうちの一騎が、千晶を抱えて飛び上がる。同時に、組み上がった梯子を手に、地上部隊がかけ出す。雑多な種族構成だが、千晶を心の底から恐れているという点で共通している。だから、訓練もしやすかった。

トールが攻めたのとは、逆側から、一気に攻め上げる。先頭に立ったベルフェゴールは、蝙蝠の翼を拡げて、真っ先に城壁へ降下する。驚く敵兵達が見えた。無数の攻撃術が飛んでくるが、気にせず、ため込んだ炎を撃ち放つ。

巨大な炎の舌が、城壁を舐め上げた。悲鳴さえ残さず、灰になっていく妖精の兵士達。黒く焦げた城壁に降り立つと、隣に着地した千晶を見て、驚いた。どうやら空中で天使から手を放し、身体能力にものを言わせて、無事に降りたって見せたらしい。既に、人間の領域を超えつつある。

「何をしているの。 妖精の愚王と王妃を消してきなさい」

「千晶、分かっていると思うけれど、無理はしないで。 中級の悪魔達も着けてあるから、活用するのよ」

「無意味なことを。 私が、マネカタなどに遅れを取るものか!」

城壁の内側に千晶が飛び降り、慌てて護衛達が追った。遅れたら殺されるから、必死だ。ため息を一つ漏らすと、ベルフェゴールは次の指示を出した。

「敵を掃討しながら、王宮を目指す! ティターニアとオベロンには手を出すな! 奴らは私が始末する!」

「はっ! 総員、陣形を組み直せ! 突入する!」

敵の反撃も、激しくなりつつある。この様子だと、クー・フーリンが奇襲を察知して、トールを一人で押さえ込もうとしたか。そうなってくると、敵の数は此方を凌いでいる状況からも、油断は出来ない。体勢を立て直す前に、一気に蹂躙する方が良い。

ベルフェゴールは再び舞い上がり、辺りに容赦なく攻撃魔法を撃ち放ち始めた。妖精達が作った、雑多な街が見る間に焼け野原と化していく。元々自己中心的な妖精達は、逃げ遅れた同胞を庇うようなこともなく。さっと逃げ散っていく。兵士達の士気も低いようで、不利と見るやぱらぱらと職場放棄して逃げる者の姿が目立った。

何が楽園だ。何が唯一残された独立勢力だ。典型的な、腐敗した小国家だ。もはや誰もこの国を愛していないのは明白だ。

こんなものを守るために、クー・フーリンが命を賭けたのだと思うと、何だか哀れに思えてくる。連中はヤヒロヒモロギが生み出す力と、クー・フーリンの武力に頼り切っていた、寄生虫だ。

こんな奴らとの戦いで、千晶を危険にさらすかと思うと、ベルフェゴールは憎悪が沸き上がってくるのを感じた。更に激しく爆撃を行う。天使達も彼方此方に散り、未だ抵抗を続ける敵を容赦なく狩り立てていった。敵は混乱を立て直せないまま、どんどん後退していく。

王宮からの対空砲火は流石に激しかったが、ベルフェゴールが展開する防御を抜くほどではない。悠々と近付き、他と同じように爆撃を加える。

後は、ヤヒロヒモロギだ。千晶は大丈夫だろうか。一刻も早く、王宮を落として、手助けに行かなければならない。トールが何を企んでいるとしても、千晶は自分が守る。あの子は、これ以上闇に向けてしまってはいけないのだ。あの凶暴性も、いずれ優しさで包んで、解かしていってあげたい。

王宮の屋根を蹴り破って、突入する。ロングコートを翻して、着地する。ゆっくり立ち上がると、其処には。

剣を抜き放った男がいた。豪奢な服に身を包んでいるが、顔立ちは意外にも若々しい。剣も服も異様に豪華で、手間暇が掛かっていることが一目で分かる。その隣には、若々しい女。此方は目が醒めるほどの美人だ。緑のロングスカートを穿いていて、全身を宝石で飾っている。爪にまで、細かく美しい装飾を施しているようだ。

どちらの背中にも、美しいアゲハチョウの翼がある。間違いない。此奴らが、妖精の王。王オベロンと、王妃ティターニアだ。

この小さな独立勢力を貪り、暴威の限りを尽くした暗君。クー・フーリンの手によって、ようやく維持されていた国も、ついに終わる時が来た。

「貴様が、ここのところ辺りをうろうろしていた愚か者どもの頭領か」

「物乞いなら、素直に名乗り出てくれば良いものを。 うふふふふ」

「悪いけれど、時間がないの。 一気に決めさせて貰うわよ」

馬鹿の戯れ言につきあっている暇はない。術で此奴らと渡り合っていても、時間の無駄になるだけだ。掌に、魔力を集中。空気中の物質を集め、作り出す。それは、巨大な矛。全長二メートル半ほどもある、ま黒き矛であった。先端部分は炎のように波打っており、貫いた相手の内蔵をズタズタにすることが出来る。

何度か振り回す。術の調整を確認するためだ。充分。重さも鋭さも、自分の身体能力にベストマッチしている。ティターニアが、嘲弄の声を上げた。

「下賤の者に相応しい、おぞましい武器ですこと」

反論は、後だ。叩きつぶした後に、投げかけてやるだけでいい。今は、此奴らを殺して、一秒でも早く千晶を助けに行くことだ。問題は、如何にこの夫婦の連携を崩すか、だが。

矛を構え直す。どうやら、わざわざ其処まで考えなくても、勝てそうだった。

 

千晶は悠々と、だが小走りで、燃え上がるヨヨギ公園の中を進んでいた。辺りは妖精が作り上げた、玩具のような街並み。反吐が出ると、千晶は思った。

子供だった頃の思い出は、千晶にとっては闇だ。どうしてか、思い出すと苛々する。何があったかは克明に覚えているというのに。どうしてか、闇に震えている自分ばかりを想起してしまう。

あってはならないことだ。千晶は、帝王になるのだ。支配者になる存在が、恐怖に竦むなどと言うことが、あって良いはずがない。

遠くからは、トールの豪快な戦闘音が聞こえてきている。辺りが絶え間なく爆発しているのは、ベルフェゴールの放った無数の火球によるものだ。小気味が良いほどの炸裂音で、ぞくぞくする。思わず笑ってしまうほどだ。

後ろからは、従えた中級天使達が必死に着いてくる。時々散発的な抵抗があるが、千晶は学んだ術を炸裂させ、トールに習った殺戮武術を容赦なく繰り出し、片っ端から敵を殺しながら進んだ。拳が敵の肉を抉る感触、内蔵を潰す音。いずれも、思わず笑みを浮かべるには充分であった。

逃げようと這う妖精の兵士の頭を踏みつぶすと、飛び散ったマガツヒをそのまま啜る。舌なめずりして、千晶は見た。奥に、強い気配がある。抵抗を放棄した妖精達が逃げまどう中、千晶は目を光らせながら、走った。ふと見ると、崩壊した家屋の中に、全身鏡があった。自分の顔が映っている。その表情はもう年若い娘のものとは思えず、地獄から這い上がってきた鬼のようであった。これでよいと、千晶は思った。

ぴたりと、足を止めた。危険を本能的に察知したからだ。燃え上がる家屋に背を預けて、そいつはいた。体に纏っているのは、マネカタや、悪魔の皮を剥いで作った衣。此奴が。トールが言っていた、マネカタだろう。

その手には、円盤状の物体があった。間違いない。それが、千晶にとって必要な。力を得るためのもの。

「よお、小娘。 此奴が、欲しいのか?」

耳まで裂けるような笑みを、マネカタが浮かべた。雄叫びを上げると、千晶はマネカタに襲いかかった。

 

3,乱戦

 

会議が終わると、秀一は少し疲れを覚えて、自宅に戻った。祐子先生は既に目を覚ましているが、そういつもは会うことが出来ない。彼女にばかりかまけてはいられないのだ。内憂外患という言葉の恐ろしさを、今更秀一は思い知らされていた。

秀一が危惧していたとおり、アサクサのマネカタ達の中では、早くも亀裂が生じ始めていた。現在、フトミミを盲目的に崇拝する一団が、最大勢力を作っている。しかしながら、密かに反発する集団も、徐々に大きく成りつつあった。

しかもたちが悪いことに、悪魔に対する姿勢は、どちらの集団も友好的ではない。フトミミ派はかろうじて中立。反フトミミ派は露骨な敵意を向けてきているのが現状である。カザンを始めとする少数だけが、秀一達に友好的である。琴音も苦労していると聞くが、無理もない。

反悪魔勢力を率いているのは、フトミミが新しいトップに就任した際に、幹部から除名した者達であった。自分たちが除名されたのに、何故悪魔どもは上の方に居座っている。それが、彼らの反発の理由である。幼稚すぎてあきれかえる。だが、かっての秀一がいた国はどうだったかと聞かれると、返す言葉がないのが事実である。

井の中の蛙達が、場所を争ってもがきあっている。そんなものに巻き込まれていることに、いい加減苛立ちも感じ始めていた。それなのに、有効策が打てない自分が情けない。

悩んでいる時は、修練か、仕事をするに限る。マネカタ達が集めてきた情報の数々に、目を通していく。どれも大した情報はないが、重要なものもある。マントラ軍は、離散していた戦力がどんどん復帰していて、急激に兵力を増やしている。天使軍はシナイ要塞をほぼ完成させて、起動に入っている。そして、ヨヨギ公園は、強力な敵対勢力に直面し、籠城に入っていた。

顔を上げると、サナが覗き込んでいた。どうも自宅で悩んでいる時は、隙を作りやすくて行けない。サナは難しい顔をしていた。今日は薄い緑色のワンピースを着ているが、珍しくあまり派手ではない。

何か言いたそうなので、促す。

「どうした、サナ」

「なんかさ、シューイチ、嫌気が差し始めてない?」

「そうかも知れないな」

「なら、サマエルに任せて、こんなところ出てけばいいじゃん。 情報収集なんて、他でも出来るでしょ。 マガツヒだって、他で幾らでも集められると思うよ」

一瞬、魅力的な提案にも思えた。だが、首を横に振る。

「一度築いた根拠地だ。 簡単に手放すには惜しい。 ある程度は我慢すればいい。 それに白海さんに全てを押しつけるのも、良心が咎める」

「あー。 シューイチがいうなら我慢するけどさ、最近あいつら、カズコや一緒にいるユリにまで露骨な排斥を加えるようになってきてるよ。 僕はどうでもいいけどさ、シューイチは頭に来ないの?」

それを言われると、辛いのが事実だ。

カズコは強い娘だから、多分屁とも思っていないだろう。だがこのまま状況が悪化していくと、犠牲になるマネカタが必ず出始める。フトミミは強権を振るって改革を進めているが、皆兵制度には反発も多く、訓練の際の士気は下がる一方だ。更に言えば、ユリは非常に臆病で、何をするにもカズコについて回っている。あの子は迫害にあったら、耐えられないだろう。

もしも、部下達やカズコが反対派に何かされるようなことがあったら。理性に自信が持てない。まあ、その場合は、マネカタどもに鉄の制裁を加えて、さっさとこのコミュニティを出ればいいのである。

今、悪魔はこのコミュニティ維持に絶対必要な存在だ。もしも悪魔がいなくなったらどうなるか判断できないような連中ばかりになったら、このコミュニティは存在する意味さえなくなる。その場合は、滅べばいいと、秀一は思う。

気分転換のために、会話の内容を切り替える。

「それよりも、サナは気にならないのか? ヨヨギ公園が、何か得体が知れない勢力と交戦中と言うことだが」

「別に。 あの国はね、腐敗しきって何の中身もない国でさ。 腐りきった政治に、クー・フーリンに頼り切った軍事。 滅ぶのは時間の問題だったんだよ。 だから、僕は別に気にしない」

「そうか。 何だか、マネカタのコミュニティも、このまま進むとそうなっていくのかもしれないな」

サナの冷酷かつ割り切った思考が羨ましい。情報収集のために必要だから、秀一はまだこのマネカタコミュニティにとどまっている。だがその反面、シロヒゲ達と一緒に立ち上げたこの組織に、ある程度の愛着もあるのだ。滅んでしまうのは、寂しいと思う。それに、多くの弱者が踏みにじられるのは、やはり気分も悪い。それが自業自得であっても、だ。危うい思考のバランスが、秀一を苦しめている。これからは、もっと苦しくなるだろう事は、確実であった。

「ところで、センセがシューイチのことを呼んでるよ」

「これが片付いたら行く。 少し待って貰ってくれ」

「へいへい。 じゃあ、あまり待たせないようにね」

祐子先生は大人だ。社会の中で自立し、一人で生きてきた人物だ。物理的な拘束からは解放したし、後は何をしようと本人の自由。過干渉は、却って本人の尊厳を妨げることになる。

色々な感情が希薄にはなったが、それでもこれくらいの判断は普通に働く。素早く情報に目を通していく。その中に、気になるものがあった。

ヨヨギ公園を襲っている勢力は、二つ。一つには、あの雷神トールがいるという。そしてその組織の頭領は、チアキと名乗っており、マネカタを毛嫌いしているのだそうだ。

そうなると、ほぼ千晶に間違いないだろう。千晶は一体、何の目的でヨヨギ公園を襲っているのか。盗賊集団のボスになることが望みでもあるまいし、何か狙いでもあるというのか。トールが千晶に協力しているというのも気になる。何か、とてもいやな予感がする。昔から、千晶はやることなすことスケールが大きい存在だった。盗賊の長などに収まっている訳がない。だから、途轍もなく巨大な陰謀が動いているのかも知れない。この世界で、それに該当するものというと。

やはり、コトワリか。

もう一つの勢力が、ほぼ間違いなくサカハギだという情報も、予感を加速させた。ヨヨギ公園は戦略的にさほど重要ではなく、故にニヒロ機構も本気での攻略を試みなかったという事情があると、以前集めた情報で閲覧したことがある。

情報を閲覧し終わった。外に出ると、マネカタが大量のマガツヒを入れた瓶を運んできていた。カザン配下の、比較的友好的なマネカタだ。リコに戦闘訓練を受けたことがあり、精鋭の一人としてこの街を守っている。

「人修羅さん、今回の分です」

「いつもすまない」

善良な男だが、彼もこのままでは迫害を受けるようになるのかも知れない。瓶を傾けて、マガツヒを飲む。以前の戦いによる傷はほぼ回復したが、やはり力を使い切ると、復活まで時間が掛かる。ふと郊外を見ると、ニーズヘッグがリコと一緒に巨大な石材を運んでいた。苦労を掛けて申し訳ない。まだ完成にはほど遠い城壁を横目に、病院に。途中すれ違うマネカタ達の中には、露骨な敵意の籠もった視線を向けてくる者もいた。

祐子先生が収容されているのは、アンドラスの病院である。最近は規模が拡大して、三つの棟が併設されている。最初先生は隔離病棟にいたのだが、今は違う。ある程度様態が安定し、感染症を持っている恐れもないと言うことで、アンドラスが一般病棟に移したのだ。

病院にはいると、アンドラスが助手を連れて歩き回っているのが見えた。殆ど病気をしないマネカタ達に対する対処は、多くの場合外科手術のみになってくる。ここのところの突貫工事で、怪我をしている者は少なくないそうだ。

サナも文句を言いながら、時々此処で手伝いをしている。そして報酬としてマガツヒを取っていく。面白いのは、サナはそれを独り占めしないで、リコやアメノウズメとお茶にしながら口にしていることだ。秀一の知らないところで、女の団結があるのかも知れない。

先生は三階の病棟である。何だか、三階に入った瞬間、禍々しい気配を感じたのは気のせいだろうか。先生は個室を与えられているので、奥の方になる。先生とは、意識を取り戻した時に一度会ったきりだ。今回は、色々と話を聞いておきたい。

部屋にはいると、冷気が一段と強くなった。強敵と相対した時とは、違う感覚だ。やはり、とてもいやな予感がする。

引き戸を開けて部屋にはいる。粗末だが、清潔に保たれた個室だ。先生は粗末な白衣を着て、ベットの上で半身を起こしていた。窓にはカーテンが掛かり、辺りは消毒の臭いがする。壁際には、秀一が汚してしまったロングコートが掛かっていた。それも、アンドラスが術式でクリーニングしてくれていた。

「秀一君、来てくれたのね」

「ああ」

感じの良い笑みを浮かべる先生は、座るように促した。害意も敵意も感じない。秀一も、出来るだけ友好的な声を出しながら、椅子に座る。後から、アンドラスも部屋に来た。気難しそうな堕天使は、早く済ませてくれと、視線で言っていた。祐子先生はかなり気難しい患者らしいと、カズコづてに聞いている。

まず体調の話を聞いて、アンドラスの書いたカルテを見せて貰う。正体不明の異常が幾つかあるのだが、内蔵機能の低下にはつながっておらず、致命的ではないという。また、魔力は常識外の数値を示していて、とても人間のものとは思えないそうだ。

それが一段落すると、アンドラスは助手を連れて出て行った。助手の気が弱そうなマネカタが、ぺこりと一礼して出て行く。

「秀一君は大丈夫なの?」

「俺は、もう何が起こっても、簡単には死にそうにない。 この間の戦いでは、重要臓器にまでダメージが行ったが、今はこの通りだ。 アンドラスの話では、ガンやエイズでも俺は克服する可能性が高いらしい」

「ふふ、そうなの」

「それよりも、幾つか聞かせて貰いたい」

姿勢を正す。まず、何故東京受胎を起こしたのか、だ。

あれで、秀一は家族の全てを失った。和子も、両親も。それだけではない。少なくとも、山手線の内側にいた人間は、全てが命を落としている。このような、核戦争にも匹敵する最悪の惨禍を、何故巻き起こす必要があったのか。そもそも、どうやって起こしたのか。

それらを出来るだけ軟らかく問う。ふと、祐子先生を見ると、薄笑いを浮かべていた。予想外の反応である。

「秀一君は、かってのあの世界に、未練があるの?」

「未練? それはある。 俺の家族は、皆命を落としてしまった」

関西国際空港のあの一件以来、秀一の家族は強い団結で生き抜いてきた。現代の日本では、家族など邪魔な存在だとしか考えていない者が多い中で、例外的な事象だと言っても良い。無言で家族のことを思った秀一に、やはり薄笑いを浮かべたまま、祐子先生は言う。

「そう。 幸せな家族だったのね。 でも、全体的にあの世界はどうだったと思う? 閉塞していたとは思わなかった?」

「確かに閉塞感はあった。 だが、そのために、世界そのものを滅ぼしたのか」

「いいえ、新しい世界のための、飛躍の行動だった。 少なくとも、あの時は、そう思っていたわ」

それが大人の行動かと、秀一は言いたくなった。参政権もあり、その気になれば数年で議員になることも出来た。社会的な地位も高く、子供よりも遙かに選択肢も多い。資産についても、定職にあるのだから作れたはずだ。あれだけのことを成し遂げる行動力を、そちらに行かせば良かったのに。

だが、話はまだ終わっていない。相手の話を中途で遮って説教するようなやり方は好ましくない。だから、促した。

「続きを頼む」

「……氷川は、私に約束したの。 自由を求められる世界を、作ると。 でも、東京受胎が起こってから、それが嘘だと言うことがすぐに分かったわ」

「自由?」

「そう。 私は誰もが自立自活し、未来を切り開ける世界を作りたかった。 氷川が求めていた世界は、最初から違った。 誰もが記号のように社会で役割を果たす、凍り付いた世界が、あの男の望みだったの。 そこには自由も未来も革新もそればかりか変化さえもない。 かっての東京よりも、更におぞましい世界だわ」

そういえば。祐子先生はいつも言っていた。自立自活こそ、重要なのだと。確かにそれは正しいと、秀一は思う。倦怠感と厭世気分に家畜のように飼い慣らされた同級生達を見て、これではいけないと考えたこともある。

だが、祐子先生がしたことは。

「先生は、どうやって東京受胎を起こしたんだ」

「アマラ輪転炉の力を利用したの。 並行世界論というのを、聞いたことはある?」

「世界には、無数の並行世界があるという奴か」

「そう。 それらの世界は、アマラ宇宙と言われていてね。 アマラ輪転炉は、それに限定的な干渉を行う装置なのよ」

なるほど、それで合点もいく。アマラ輪転炉を移動のために何度か使用したことがあるが、世界の中そのものを跳ぶような感触があった。その感覚は、間違いではなかったという事なのだろう。アマラ経路から、無数のマガツヒを引き出せるのも、それに従うミクロ的な力という訳だ。

「そして私は、そのアマラ宇宙から来た」

不意に、場の空気が変わる。冷気が、急激に強くなった。先生の首が、ぐるりと、回った。360度回ったその顔には。目も鼻も口もなく。代わりに、蝶のような、ガラスに走ったひび割れのような。奇怪な模様が刻まれていた。

「我が名はアラディア。 異邦より訪れし神である」

反射的に飛び退き、構える秀一。気配が違う。これは、先生ではない。いや、やはり先生か。どこかに、似た気配がある。おぞましい冷気の中、まるでマリオネットのように、物理を無視した動きで立ち上がる祐子先生。全身から、禍々しい青のマガツヒがこぼれ始めた。ざわりと、全身が総毛立つ。マガツヒは空に向けて登っていく。ナイトメアシステムの直撃を受けた、イケブクロのような光景だ。

「先生は、どうした」

「私は高尾祐子。 高尾祐子は私。 私はアラディア。 魔女達が信じ、己の導き手とした神」

ずるりと音がして、非人間的にねじれながら、祐子先生だったものが手を伸ばす。その指先は不自然に曲がりながら、秀一を指していた。敵意は感じない。ただひたすらに、おぞましい気配が全身を打つ。

「私は来訪神アラディア。 私のコトワリはジユウ。 ……今、私のコトワリを妨げようとする勢力がある。 私はそれを、排除しなければならない」

首が、手を放したゴムのようにいきおいよく回る。

そして、ヨヨギ公園と呟き、異形の神は姿を消した。空間にとけ込むように。まるで最初から、其処にはいなかったように。

いつの間にか、カズコが秀一の側に立っていた。ずっとアラディアと名乗る異形神に向き合っていたから、気付けなかった。頭に手を置くと、その手に触れながら、カズコは言った。

「狂ってるね。 何もかも」

「……狂気の連鎖だな」

何を選べばよいのか。掲げられるコトワリは、どれも異常なものばかりだ。過剰すぎる競争主義のマントラ軍。あまりにも極端な法治主義であるニヒロ機構。そして世界レベルでの引きこもりともいえる勇の思想。そして先生が提示したのは、事実上、無秩序状態の全面肯定ではないのか。美しい言葉にコーティングされた、悪夢のような世界が到来するとしか思えない。少なくとも、あのアラディアが作った世界では。

このようなコトワリでは、迎合するのは不可能だ。狂ったこの世界では、それこそがむしろ正しいのかもしれない。だが、秀一は、それらを選ぼうとは思わない。或いは、自分で作り出すしかないのか。

しかし、どのような思想を掲げればよいのか。

ヨヨギ公園に殺到している勢力達は、いずれもコトワリを作り出すのが目的だと見える。それならば、一度それを見ておく方が良いだろう。病院を出る。部下達を集めた。

「これから、ヨヨギ公園に行く」

誰も、それに反論はしなかった。

聖は、まだ帰ってこない。少し前に、ふらりと出かけて、それきりだ。何だかんだ言って、あの男の情報は頼りになる。今まで外れたことは、無かった。

だが、それも気になってきた。本当の所、奴は何者だ。普通の雑誌記者が、ああも見事にアマラ輪転炉を操れるのはおかしい。氷川に知り合いを殺されたというのが、本当の動機なのか。それ以上の、何かおかしな雰囲気を感じる。

出がけに、琴音に会った。琴音は、この間連れ帰ったクロトの世話をしてくれている。完全に心が壊れてしまったクロトは幼児退行を起こしており、病室でマネカタ達に気味悪がられながら、アンドラスのリハビリを受けている。だが、記憶が戻るかどうかは微妙だという。琴音自身も、それを良く話題にしてくるから、思い出したのだ。

「秀一君、何処へ出るの?」

「ヨヨギ公園だ。 今、彼処で少なくとも三つの勢力が、コトワリの創設を巡って争っている。 我らはコトワリについて知らなさすぎる。 これ以上異常な力を持つ存在が現れないようにも、しないとならない」

「……そう、ですか。 情報は後で共有させてください」

「分かっている」

琴音は疲れているようだ。あまりにも恩を知らないマネカタ達の行動にか。それとも、加速しすぎて一瞬後に何が起こっても不思議ではないボルテクス界の状況にか。元々、琴音は専守防衛の人だ。何かを築くよりも、守る方に力を発揮する存在である。昔よりもだいぶ現実的になってきてはいるが、それに代わりはない。

アサクサを出て、ニーズヘッグに乗り込む。

この間、ニヒロ機構と密約を結んだと会議で説明した時、一番ほっとした表情を見せてくれたのは琴音だった。彼女の思想は、ひょっとするとニヒロ機構に傾きつつあるのかも知れない。確かにニヒロ機構のコトワリであれば、誰もが生きていくことが出来る。どんな形であれ、だ。

砂漠を無数の足で掻いて泳ぎ出すニーズヘッグの背で、秀一は城壁に囲まれているというヨヨギ公園をどう攻略すべきなのか、思惑を巡らせ始めていた。

 

体に着いた砂を払い落としながら、トールは大股に歩み寄る。肩を揺らして息をしながら、必死に戦闘態勢を取るクー・フーリンに。

もはや、勝敗は決した。だが、あの男は超一流の戦士だ。まだ何かをやって見せてくれるに違いない。それが楽しみで仕方がない。事実、これほど楽しい戦いは久しぶりだ。わざとゆっくり歩み寄ったのも、クー・フーリンに対する期待が故である。

「どうした。 それで終わりか」

「黙れ、化け物ッ!」

「心外だな。 お前の戦闘形態も、このヨヨギ公園では、化け物呼ばわりされていたのではなかったのか。 それだけではなく、神話の時代にも」

「だ、黙れぇっ!」

激高したクー・フーリン。疲弊しているとはいえ、乗せやすい男だと、トールは思った。トールには、突かれて困るような弱みがない。戦いのことしか考えていないからだ。だが、クー・フーリンは違う。守ろうとするものが多すぎる。その中には、自分のプライドも含まれている。

そして、伝説に残るような戦士は、実力に相応しいプライドを備えていることが多い。だから、簡単に崩すことも出来る。ただ、トールの場合は、崩すために心理戦を行うのではない。

全力を引き出させるために、心理戦を駆使するのだ。

ゲイボルグを構える。さっき、それを再確保する為に、肋骨をへし折られたというのに、元気なことである。残った力を掛けて、最後の技を挑んでくるのは間違いない。ふと、トールは足を止めた。

違う。足が動かなくなった。なるほど、今まで逃げ回りながら、足を止める術式を展開していたという訳だ。感心して頷く。同時に、クー・フーリンが跳躍した。

「ほう。 そういえば、貴様はルーン文字を自在に操るのであったな」

「如何に貴様といえども! 自由に足を動かせなければ! 踏ん張りが利かず、この一撃を受け止めることは出来まい!」

数十メートルの高さまで跳躍すると、クー・フーリンは全身の力を一点に集中した。トールは足を取ったルーン文字の結界に逆らわず、無言で拳に力を蓄え込む。流石のトールも、保有する力は無限という訳ではない。心臓を貫かれれば死ぬし、限界もある。だから、常に勝てる保証など無い。だからこそ、戦いは楽しい。

右の拳には、残る力の多くを注ぎ込んでいく。トールは目を爛々と光らせ、クー・フーリンの渾身を待つ。

魔の槍ゲイボルグが、魔力そのものに変わるのを、トールは見た。なるほど。そう言う形態にするつもりかと、判断。長い髪を揺らしながら、クー・フーリンが吠え猛る。

「受けてみろ、トール! 私の、最大の一撃を!」

「見せて見ろ、クー・フーリン。 俺を失望させるなよ」

壮烈な閃光が、カグツチを一瞬、覆い隠した。トールは全身の筋肉をフル稼働状態にし、激突の瞬間に備える。

「いいいっ、けえええええええええっ!」

クー・フーリンが、魔槍を投擲した。その槍が、数百に分裂し、全方位からの飽和攻撃を仕掛けてくる。やはり、そうか。足を止めたのには、この攻撃を、最大限まで生かす意味があったのである。

トールは眼を細めると、拳を繰り出した。

爆音。膨大な量の砂が吹き上がり、辺りに雨さながらに降り注ぐ。粒子の細かい砂はそのまま煙幕となって空気中に満ち、呼吸を阻害した。一部の槍は城壁を撃ち抜き、無数の穴を穿っていた。

クー・フーリンが落ちてくる。そして、受け身も取れずに、砂に激突した。その腹には、大きな穴が開いている。トールの拳が、抉った跡だ。ルーン文字が解除される。トールは全身の痛みを確認しながら、ゆっくり歩き出す。体についた傷は、ざっと三十七カ所。いずれもかなり深いが、致命傷は一つもない。

そう、クー・フーリンが一撃を放った瞬間。トールは渾身の拳を、クー・フーリンに放ったのである。それにより、致命的な軌道を辿っていた槍を全て撃墜し、力が弱り切っていたクー・フーリン自身をも葬ることに成功したのである。

「槍を分裂させたのは、失敗だったな。 お前を貫くことで制御を失い、殆どは誤爆したわ。 それに、ルーン文字の結界も消滅したからな。 随分避けやすかったわい」

「……あく、ま、め」

「そうだ。 俺は悪魔だ。 恐らくは、ボルテクス界が出来る前から、心は既にな。 だが、人間になど最初から未練などないわ。 強敵との死合いだけが、俺の心をいやしてくれる。 俺は一人の戦鬼で、修羅であれば、それでいい」

トールは、クー・フーリンのすぐ側に立つ。自分に対して、これほどに傷を負わせた相手である。最後くらいは看取ってやりたかった。

「何か、言い残すことは?」

「出来るだけ、俺の部下達は、殺さないで、くれ」

「それは難しいな。 何しろ俺の主君は、俺以上に血に飢えた存在だ。 まあ、お前の命に免じて、俺の前にいる雑魚は無闇に踏みにじらないようにしてやる。 この戦いの間だけな」

最大限に譲歩してやると、クー・フーリンは力尽きて、マガツヒになり散じた。それを全て吸い込む。これでトールは、また強くなった。だが全身の傷はかなり深く、少し休んだ方が良いだろう。力の回復も待ちたいところだ。

さて、後は千晶だ。壮絶な特訓をしたとはいえ、まだまだサカハギの方が実力は上だろう。天性のセンスの持ち主である千晶だが、相手は本物の戦士である。生まれついて、格下の相手としか戦う機会がなかった千晶では、多分勝てないだろう。しかし、死ぬこともまたあるまい。

最初からトールは、ベルフェゴールについては心配していない。アレは今や千晶の母親も同然だ。である以上、無能なオベロンやティターニア程度に破れることはないだろう。ふと、ヨヨギ公園の西側から、逃げ出す妖精達が見えた。クー・フーリンの副官であるタムリンが率いているらしい。恐らく中立地帯であるアサクサに逃れるつもりだろう。

追いかけていって、殺すのは簡単だ。だが、クー・フーリンの最後の願いは、聞いてやるつもりだ。

だから、トールは見て見ぬふりをした。

 

マネカタが放ったナイフが、ヴァーチャーの眉間を捕らえた。はね除けはするが、続いて飛び掛かってきたマネカタの一撃が、ヴァーチャーの肩口から胸にかけて抉る。信じられない鋭さだ。

戦意をなくして、後方に下がろうとするヴァーチャーを、敢えてマネカタは追わない。彼の足下には、千晶の護衛についてきた天使どもが転がっている。残るは、千晶一人であった。

「さあて、騎士どもはいなくなったぜ、お姫様?」

「騎士ィ? アハハハハ、何を勘違いしているのやら。 私は最初からただ一人。 覇王は、常に一人であるものよ」

正直な話。護衛達が割って入ったのは幸運だったと、千晶は考えていた。このマネカタの動き、実戦で洗練されたものだ。確かに千晶より優れている。もしも修練を積んでいなければ、出会い頭に顔を半分に割られていただろう。

だが、負けるとは思わない。何しろ此奴は、中級天使を相手に、手の内を晒したからだ。全て、動きは見せて貰った。

「名前を聞いておきましょうか。 私は橘千晶。 この世界の覇王となる存在よ」

「ほう、それはそれは。 俺はサカハギ。 この世界を蹂躙し、全てを手に入れる予定の男だ」

遠くで、爆発音。大きな気配が一つ消えた。どうやら、トールがクー・フーリンを屠ったらしい。同時に、サカハギが仕掛けてきた。

「シャアッ!」

奇声と共に、右手のナイフが振り上げられる。顔面を割る目的の一撃。続けて、殆ど間をおかずに、心臓を狙って寝かせたナイフの突き。連続して放たれるナイフの閃光を、皮一枚で千晶はかわしていく。そして、不意にローキック。体勢を崩したサカハギの側頭部に、回し蹴りを叩き込んだ。

蹴り技は、千晶が最も得意とするものだ。あの口うるさいトールにも褒められた。大会でも、千晶の蹴りを叩き込まれて、立ち上がった選手はいなかった。ストリートファイトでも同じ事だ。

流石に慣れきった技だから、スムーズに入ったが。しかし、感触が軟らかい。巧く受け流された。吹っ飛びはしたが、猫科の動物を思わせる動きで、跳ね起きる。

「やるじゃねえか、姫ェ!」

「動きは見せて貰ったしねえ」

今度は、千晶から仕掛ける。さっと横に跳ぼうとしたサカハギにあっさり追いつく。動きは見た。だから、反応できる。驚愕に顔を歪ませるサカハギの、ナイフを持った手を取ると、そのまま一気に背負い投げを仕掛ける。幾多の命を吸ってきただろうナイフが、地面に激突した瞬間、離れた。凄まじい勢いで、目を剥いたサカハギが、起き上がり様に頭突きを仕掛けてくる。逆に頭突きを浴びせてやる。スピードが乗った此方の方が威力があり、サカハギは悲鳴を上げた。そのまま。左腕肘の関節を極めて、一気にへし折った。

「ぎゃああああっ!」

「さあて、そのヤヒロヒモロギを、渡して貰いましょうか」

「ハ。 何を馬鹿なことを言ってやがる」

とっさに飛び退いたのは、危険に本能が反応したからだ。いつの間にか、サカハギの手にナイフが戻っていて、飛び退かなければ頸動脈を抉られていた。これは、容易成らざる相手だ。もちろん術の手助けもあるのだろうが、千晶が直接戦った相手としては、今までの連中とは段違いの手強い存在である。

「冗談じゃねえな。 これもかわすのかよ」

「覇王の力を侮って貰っては困るわ」

「は、覇王ね。 どっちにしても、確かに戦闘のセンスでは俺より上っぽいな。 だが、上級の悪魔が相手なら、どうだ?」

ヤヒロヒモロギを、さっとサカハギが口にくわえる。そして、撫でた。

同時に、辺りが、闇に沈み込んだ。

圧倒的な敵意が、周囲を蹂躙していく。闇の中から、地面の中から、何かがせり上がってくる。それは、巨大な象。しかも単眼で、直立している。非常に太っていて、弛んだ腹が揺れていた。体には虎縞があり、とても尋常な象だとは思えない。ゆっくり手を伸ばして、地面を掴み。闇そのものが、体を引っ張り出す。

千晶は、一目で理解した。これは、アマラ経路から這いだしてきたのだ。ヤヒロヒモロギに蓄えられた、膨大なマガツヒに誘われて。だから、空間も地面も無視して姿を見せた。そして奴は、今守護となろうとしている。

「紹介するぜェ、姫。 俺の守護。 俺のコトワリの守り手である存在だ」

全身が、しびれるような感触。呼吸が苦しくなってくる。千晶は、生まれて初めて、恐怖という存在を知った。よりにもよって、マネカタに。マネカタごときに。敵よりも、己に対する怒りが沸き上がってくる。

「自己紹介しろ、悪魔様よぉ」

「……よりにもよって、私を呼び出したが、汝のような存在とはな。 残念だが、仕方があるまい。 私はギリメカラ。 インド神話における神の定座である白象が、零落させられた存在なり」

ずるりと、後ろ足を地面から引きずり出す象の悪魔は、単眼で辺りを睥睨した。それだけで、周囲全てが凍り付くような感触がある。指一本動かせない。生唾を飲み込む千晶は、見た。自分に対して、迸る閃光を。

心臓にめがけて、ナイフが放たれたのだと、千晶は気づいた。とっさに体が反応したのは、卓越した身体能力と戦闘センスが故。だが、それが故に。それがこそに。それ以上のことは出来なかった。

右腕に激痛が走った。

 

連続して、冷気の術式を放ってくるティターニア。動きは確かに洗練されているし、優雅だが。しかし、ブランクが大きいのが、一目で分かる。膨大な冷気を秘めた魔力の固まりを矛で弾きながら、後ろに回り込んだオベロンの剣を、跳躍してかわす。此方も、実戦から離れて久しいのが一目で分かった。

ベルフェゴールは、千晶を守って、ずっと戦い続けてきた。最近はいつ何をするか分からないトールの動きを見張り、いざというときには差し違えようとも覚悟を決めてきていた。

それから比べれば、なんとたやすい相手か。

ゆっくり着地する。息が上がってきているオベロンを一瞥。あっちは後回しだ。手当たり次第に冷気の術式を放った結果、辺りは氷原さながらの光景になっている。舌なめずりすると、矛を構え直す。ティターニアが、蒼白になった。

「え、衛兵! 衛兵っ!」

「今更、貴方のために命をかける者などいるのかしら」

奇襲は完全に成功。今やヨヨギ公園は、焦土と化しつつある。元々、妖精はニュートラルな性質の存在である。享楽的で、状況を見るのに敏。クー・フーリンのような奴が変わり種なのであって、他は殆どが利に聡いものばかり。現に、ティターニアを守っていた兵士達は、形勢不利と見るやさっさと逃げ散ってしまった。

「今まで散々好き放題に遊んできたのでしょう? 覚悟を決めなさい」

「お、おのれえええっ!」

顔を般若面のようにゆがめた妖精の女王が、吠え猛る。

「あんたっ! 呪文を唱える時間を稼いで!」

「ふざけるな! 今までの戦いを見ていなかったのか! 時間稼ぎなど、出来る訳がない!」

事実、後ろに回っても、刺突を当てられないほどに腕の差がある。その上、この夫婦仲である。加えて、命を捨てて前衛になるような度胸も、オベロン王には無いだろう。前衛としての役割を期待する方が間違っている。

この状況に到っても、夫婦げんかとは。ため息を一つ付くと、顔を真っ赤にしながら詠唱を続けるティターニアに向けて、ベルフェゴールは無造作に矛を繰り出した。それは避けようとしたティターニアの胸を、容赦なく貫く。更に、この隙にと逃げようとしたオベロンに向けて、開いている右手を向ける。

「ぎゃああああああああっ!」

ティターニアが、無惨な悲鳴を上げた。ベルフェゴールの矛は、数百年分の呪詛の力を込めた業物である。強度も素晴らしいが、それ以上に良いのが特殊能力である。貫いた相手のマガツヒを根こそぎ吸い取り、ベルフェゴールのものとすることが出来る。見る間にミイラになっていくティターニア。美しい肌が皺だらけになり、服までもが破れ、塵になっていく。すぐに、痕跡すらなくして、ティターニアは消えた。緩みきっていた相手だから出来たことだ。トールには、同じ技も通じないだろう。

今吸い取った力を、術式に変えていく。妻の絶叫を聞いたオベロンは、蒼白になって振り返る。そして、ベルフェゴールの掌に集まる力を見て、絶句した。妻の敵を討とうなどと言う気は最初から無いらしい。

左右に叫き散らしているのは、盾にする部下を捜しているのだろう。妻と同レベルの存在だ。もはや、この腐敗した王国に殉じようなどと言うものはいない。

「死になさい」

メギドラを放つ。オベロンはとっさに避けようとしたが、今までの攻防で動きは見せて貰った。逃げる経路まで予想しての一撃である。

もちろん、直撃。メギドラの閃光が、愚かな妖精王を包み込む。灼熱がその全身を、豪奢な服ごと焼き尽くす。

木っ端微塵に吹っ飛んだオベロンの断末魔が聞こえ来る。マガツヒを喰らっている暇はない。今は、千晶だ。さっきから、強力な邪気を感じるのも、戦いを急いだ理由だ。いやな予感が全身を駆けめぐっている。

翼を拡げて、飛ぶ。部下達は良くやっている。ヨヨギ公園の攻略は、あらかた済んだ印象だ。残敵はほぼ存在しない。だが、強い気配が一つ残っている。其処へ向けて、飛ぶ。それほど広い街ではない。すぐに、辿り着いて、そして見た。

巨大な黒い象の悪魔の前で、千晶が蹲っている。右腕には、深々と突き刺さったナイフ。大量の鮮血を見て、ベルフェゴールは理性が吹っ飛ぶのを感じた。

「ああああああああっ!」

象の悪魔めがけて、無数の雷撃を撃ち放つ。鬱陶しそうに単眼を向けてきた虎縞の象は、長い鼻を振るって、たたき落としに掛かってきた。間一髪、鋭い鼻の一撃を避けると、蹲っている千晶を抱え上げ、飛ぶ。振り向き様に、また雷撃の術を叩き込んでいく。だが、敵の巨体のこともある。殆ど効いていないようであった。

「千晶、千晶ッ!」

飛びながら、呼びかける。だが、ぶつぶつとつぶやくばかりで、千晶は反応を見せない。早く手当てしないと。部下達が、集まってきた。

「撤退! 敵が超上級の悪魔をアマラ経路より召喚した! この戦力では被害を増やすだけだ! 一度砦に戻り、体勢を立て直す!」

「はっ!」

指揮官達が、さっと四方に散った。この組織は、千晶の強力な指導体制もそうだが、ベルフェゴールとトールの二人が睨みを利かせている。だから、安易に脱走する兵士もいない。すぐに集まった兵士達は、整然と退却を開始した。彼らは不安そうに、腕を負傷した千晶を見ていた。ナイフは引き抜いたが、出血は止まらない。何か、タチが悪い術が掛かっていた可能性が高い。

砦に着いた。千晶をソファに横たえようとしたが、自分で座った。そして、治療しようと、手に触れようとした瞬間。

千晶はおもむろに左手を振り上げる。生唾を飲み込んだのは、何故だろうか。生々しく血が流れ続ける、負傷した千晶の右手。

それを、千晶は。手刀で、切り落とした。

「ひいっ!」

悲鳴を上げたのは、その場にいた悪魔達だ。千晶は眉一つ動かさず、肘から先が無くなった右手に対し、火炎の術を掛ける。じゅっと鋭い音がして、噴水のように血が噴き出していた傷口が、焼き尽くされた。血が止まる。同時に、回復の見込みが、無くなった。

「ち、千晶っ!」

「忘れない」

「……っ!?」

「この屈辱! マネカタごときに破れたこと、この痛みとして記憶する! 覇王に屈辱を味あわせた愚行! いずれ種族そのものに、思い知らせてくれる!」

辺りの悪魔達を圧倒しながら、片腕を失った千晶は立ち上がる。その目には、トールのものとも似た、渇望の光が宿っていた。ぎらついたその目は、悪魔以上に獰猛で、血を求めているように思えた。悪魔以上に悪魔らしいと言われていた千晶が、更に一枚上の段階に行ってしまったのは、明らかである。もはや、ベルフェゴールは、声一つあげることが出来なかった。

部屋に、トールが入ってくる。手にしているのは、ゲイボルグ。あまりにも高名な、クー・フーリンの槍だ。

顔を上げた千晶が、トールと向き合う。しばし無言で全身傷だらけのトールは千晶を見つめていたが、やがて猛獣でもかくやというような、凶暴きわまりない笑顔を作った。周囲の悪魔達が、卒倒しかける。

「どうやら、一皮剥けたようだな」

「トール、貴様。 さては最初から、こうなることを、分かっていたわね」

「俺は千晶様に話している。 お前は黙っていろ」

トールはベルフェゴールを一瞥すらしなかった。そのまま千晶の前に、片膝を突く。片腕を失った千晶と、消耗しきったボルテクス界最強の悪魔。不思議な、取り合わせであった。

「おめでとうございます、千晶様。 これで貴方は、真の覇王と成られた」

「トール。 私に敗北を味あわせる事が、お前の目的だったのね」

「その通りです。 貴方は何でも、思い通りに行く程度の世界で生きてきた。 残念ながら、それでは先に進むことは出来ない。 徹底的な敗北を味わった今、私は貴方を更に上の段階に案内しましょう」

イケブクロに行くと、トールは言う。イケブクロと言えば、ナイトメアシステムで壊滅した、マントラ軍の本拠地があった場所だ。今では廃墟が広がり、下等な悪魔でさえ近寄ろうとはしない。マントラ軍の中枢がカブキチョウに移った今は、戦略的にもなんら価値のない場所である。

「待ちなさい。 コトワリを開くための、ヤヒロヒモロギはどうするの」

「そんなものは後回しだ。 幾らでも取り返すことが出来る。 今は千晶様を、覇王として完成させる方が先だ」

「でも!」

「トール、私をイケブクロに案内しなさい」

その声は冷え切っていて。あまりにも重く、威圧に満ちていた。辺りの悪魔達が、無言で準備を始める。それほどに、徹底的な強制力があったのだ。今や、千晶は人間だからと言う理由で傷つけられない存在ではない。そのようなことは関係なく、覇王足るべき存在として、此処に君臨していた。

損害がすぐに報告された。千晶の護衛達は壊滅的な被害を受けていた。無様に逃げ帰った者もいたのだが、千晶はそれを気にもせず、再編成を行う。少し前の千晶であれば、必ず殺すか、激しい打擲を加えていただろう。確かに、千晶が一皮剥けたことを、ベルフェゴールも認めざるを得ない。

だが、それは正しい姿なのか。右腕を切り落としてまで、怒りの感情を記憶したような状況である。何かの切っ掛けで、大噴火する可能性も高い。今後、さらなる悲劇へ千晶は向かうのではないのか。暴虐と血で塗り固めた道を、驀進するのではないのか。それが怖くて仕方がない。

だが。決めたのだ。千晶と、共にあると。例えどうなろうと、千晶を守り抜くのだと。

かっては守れなかった。そんな気がする。だから、今回は何があろうと、千晶を守る。例え、この体が、砕けようとも。

もう一度、トールをにらみ付ける。此奴の陰謀通り、事は進んでいるという訳だ。だが、いつまでも同じように行くとは限らない。必ずや、一矢報いてやる。ベルフェゴールなど、トールに比べれば虫けらに過ぎないのかも知れない。だが、虫にも、命はあるのだ。

今一度、決意を固める。ベルフェゴールは例え何があろうとも、最後まで千晶と一緒にいようと、決めた。

「これより我が軍は、イケブクロに向かう。 隊伍を整えよ!」

千晶が左腕を振るって号令を掛けると、部下達が一斉に動き出す。その先頭に立ち、ベルフェゴールは歩き始めた。

 

4,コトワリと守護

 

砂漠を豪快にかき分けながら進む邪龍ニーズヘッグ。その背には、人修羅達の他、カザンとカズコが乗っていた。今回、カザンはコトワリについての情報収集のためについてきた。既に中級悪魔並みの実力を手にしているカザンだから、足手まといになる可能性は低い。カズコは重要なヒールタンクだ。激しい戦いが予想される今回、重要な補給源である。もちろん秀一はカズコの意思を尊重した。本人が来たいと言ったのである。

先生、いや先生にとりついたアラディアは言った。ジユウのコトワリを邪魔しようとする存在が、ヨヨギ公園に産まれようとしていると。いかにしてコトワリが産まれるのか、確かめておかなければならない。

ヨヨギ公園は遙か遠くであるのに。既に、この位置からも煙が上がっているのが分かった。どうやら、誰かしらが侵攻したらしい。前情報通りだとすると、戦力を整えた千晶だろう。更にサカハギも侵入していることはほぼ間違いない。ヨヨギ公園からすれば、踏んだり蹴ったりだ。同情してしまうが、どうにもできない。自分の力の無さを、実感してしまう。

大きな砂丘を越えて、ニーズヘッグが跳ぶ。無数の足を動かして、豪快に砂海に着地する。カズコが振り落とされないか不安になったが、無言でリコが庇っていたので、落ちることはなかった。

サナは最初から無関心な様子で、ただヨヨギ公園の方にばかり注意を払っていた。不意に声を掛けてきたのは、併走するように隣を飛んでいるフォルネウスである。

「時に秀一ちゃんは、コトワリを開くとしたら、どういうものを選ぶのかのう」

「それは俺も興味がある」

寡黙なサルタヒコも話に乗ってきた。サナやアメノウズメも聞き耳を立てている。滅多なことは言えないなと思いながら、秀一は言う。

「まだ考えている所だ。 だが、あまり現実的ではない思想は選びたくない」

「それは、中道の思想ということかの」

「俺は、あまり頭が良くない。 だが、俺より頭がよいはずの者達が、みな極端な思想ばかり標榜している事を考えると、時々悲しくもなる。 だから、出来るだけ極端ではない、皆が不幸にならない思想を選びたい」

しかし、極端な思想を否定してばかりでは、何も生み出せないと秀一は思う。考えてみれば、今までは極端な思想に拒否反応ばかり示してきた。しかし今後本気でコトワリを開くことを考える場合、そうも言ってはいられなくなる。

かっての世界と同じでは駄目だ。確かに先生が言っていたとおり、閉塞し、行き詰まっていたかっての世界では、未来がないのだ。未来がない世界では、これほどの犠牲を生み出して作る意味がない。世界を作るための胎盤であるこのボルテクス界である。新しい世界には、未来が欲しい。

ヨヨギ公園が、見えてきた。身を乗り出したリコが、声を上げた。

「凄い破壊痕! 多分、トール様ッスよ」

「そう、だろうな。 仮に違ったとしても、とんでもない実力者同士が戦ったんだろう」

城壁が抉れている。今まで見てきた、大勢力の要塞都市に比べると貧弱な城壁ではあるが、それでも高さは十数メートルある。それが無惨に抉れてしまっているのだから、どのような火力が展開されたのかは、想像に難くない。

砂漠は抉れてしまっていた。辺りは大火力の攻撃が炸裂し合ったのだろう事が、一目で分かる。片方がトールだとすると、もう一人はクー・フーリンか。そして、恐らく。勝ったのは、トールだろう。

すぐ側まで、近付いてみた。城壁は大きく抉れていて、しかも見張りがいない。もう攻略されたと言うことなのか。それにしては、内部に占領軍の気配がない。ただし、途轍もなく強い力の残り香がある。これは、多分トールではない。何か、別の存在だ。コトワリがどうのこうのという話もある。以前遭遇したダゴンの実力を鑑みるに、気合いを入れて望んだ方が良いと、秀一は判断した。

「侵入は、難しく無さそうだな」

「でも、何か凄く強い気配が残ってるッスよ」

「確かに、安易に足を踏み入れるのは危険そうねえ」

「ああ。 総力戦体勢で臨んだ方が良さそうだ」

最大限に警戒するように皆に指示を出すと、先頭に立って崩壊した城壁を乗り越える。壁にはクレーター状の穴が無数に開いていて、一部は亀裂が崩壊に直結していた。其処から、内部へ入り込む。

内部は凄まじい有様だった。爆撃でも受けたかのように、辺りが徹底的に破壊されている。積み木のような街並みが、或いは抉れ、砕かれ、燃やされて。一部だけを残して、後は徹底的に潰されていた。上空から攻撃術を浴びたのだなと、秀一は判断していた。冷静な思考と一緒にある、こらえようのない怒りも自覚する。

随分長いこと存在した都市だというのに、滅びるのはほんの一瞬だ。無惨を通り超えて、哀れでさえある。怪我をしているものは殆ど見かけない。動けるものは、要領よく逃げ延びたと言うことだろう。

サナは平然としている。現実主義者のニュートラル属性悪魔は、みんなこうなのだろうかと、秀一は思った。実際、都市に愛着を感じている者が多ければ、もっと残っている者がいそうだ。それは強さの一種であろう事は分かる。だが、無情な事にもつながるのだなと、秀一は思った。

肝心の破壊者は、存在しない。何かしらの理由で撤退したらしい。それは唯一の吉事だ。コトワリに関係する強力な悪魔の実力を加味するに、戦いは少しでも避けたいのだ。神経質になっている事を自覚する。それも仕方がないことだ。

少し、歩く。サナが綺麗な髪を掻き上げながら、潰れたパステルカラーの家屋の前でぼやく。どうやら彼女の家であった場所らしい。流石に自宅が潰れると、冷徹な彼女でも感慨はあると言うことか。

「あー、もう。 完璧に壊されてるなあ」

「サナ、コトワリに関連しそうな何かに、心当たりは」

「多分ヤヒロヒモロギでしょ。 それなら、最高機密だった奥の地域にあるんじゃないのかな。 僕も直接見たことはないけれど」

彼女の指さした方向から、強烈な力の余波を感じる。多分、そちらに何かがいるのだろう。

展開している部隊がいないことから、千晶が勝ったとは思えない。そうなると、アラディアが千晶を駆逐したか、或いは他の勢力か。何がその勢力に該当するのかは分からないが、少なくとも兵を有していないことは確かだ。

「ヤヒロヒモロギというのは、具体的にはどういうものだ」

「んー、そうだね。 直接は知らないんだけれど、噂には聞いていたよ。 すごく膨大なマガツヒを蓄えているとか、アマラ経路に限定的な干渉が出来るとか」

「アマラ輪転炉の一種か?」

「そんなものじゃないのかな。 ただ、それから出る膨大なマガツヒが、ヨヨギ公園の活力になっていたのは事実だから、尋常な量の蓄積マガツヒじゃなかったんだと思うけれどね」

確かに、その言葉の通りの存在だと、多くの勢力が狙うのも頷ける。同時に、大勢力が無理をして手に入れるほどの価値はないのだろうなと、判断も出来た。もしもそれほど圧倒的な力を持つ道具であれば、この街はニヒロ機構かマントラ軍に落とされていただろう。戦略的に、大きな犠牲を払ってまで確保する価値がないと判断したからこそ、彼らは手を引いたのだろうから。

禍々しい気配が、どんどん近くなってくる。それと同時に、感じた気配がある。以前砂漠でほんの少しだけ戦った、サカハギのものだ。此処にいる全員に、サカハギの事は周知してある。

「サカハギ、だな。 多分、奴がその第三勢力だろう」

「例の連続殺人鬼だったッスよね。 この人数だったら、恐れる相手じゃ無いような気もするんすけど」

「……だと良いがな。 近接戦闘のスキルは、大したことはない。 ただ、特殊能力が面倒だ。 絶対に目を合わせるなよ」

無言でサルタヒコが頷いた。他にも、幾つか打ち合わせをしておく。

公園の奥に入ってくると、東京受胎前の痕跡が見え始めた。辺りは工事現場に近い造型になり始めており、朽ちたクレーンや、横転したブルドーザーが目立った。いずれも錆が酷く浮いていて、もう動きそうにない。戦いの影響はあまり受けておらず、この辺りでは意外にもあまり激しく戦いが行われなかったことが分かる。さらに、何らかの理由で、妖精達もこの辺にはあまり手を入れてはいなかったことも明白だ。

気配が、更に強くなってきた。

秀一が足を止めたのは、見つけたからだ。サカハギだ。相変わらず、皮を剥いで作ったらしい衣を身につけて、ナイフを手にしている。左腕はぶらぶらしていた。へし折られたのだろう。

奴は、がらくたの山の上で、座り込んでいた。工事機器と資材ののなれの果てらしい、無惨な山。それに鎮座する王。ある意味、とても象徴的な光景であった。余裕を装っていたが、秀一は、サカハギの額に脂汗が浮かんでいるのを見逃さなかった。

「ちっ。 てめえまで来たのかよ、人修羅」

「その腕、千晶にやられたのか」

「千晶ぃ? ああ、あの覇王だとかって名乗ってた小娘か。 へへへ、手ひどく痛めつけて、追っ払ってやったぜ」

「違うな。 その膝の上にあるヤヒロヒモロギの力を借りて、追い払ったんだろう。 お前は何もしてはいない。 それほどに、追いつめられたと言うことだ」

指摘すると、サカハギの気配が変わった。獰猛な殺気が満ちてくる。図星を突かれたからだろう。わめき散らそうとしたサカハギが、必死に飛び退こうとする。

サカハギの後ろに回り込んでいたサルタヒコが、剣を振り降ろしたのだ。一瞬の出来事だった。わざわざ会話に乗ったのも、この機会を作るためだ。同時に、リコが仕掛ける。横っ飛びに逃げようとしたサカハギを、正面に捕らえる。そして、パワーの乗った前蹴りを、容赦なく叩き込んだ。所詮、幾ら強くなったと言えども、マネカタである。今や上級に分類されているリコの蹴りをまともに食らったら、どうなるか。

かろうじてガードだけは間に合った。だが吹っ飛んだサカハギは、がらくたの山に突っ込み、悲鳴を上げた。

「ぐわっ!」

追撃を仕掛けようとした二人が飛び退く。がらくたの山の下から、強い気配がせり上がってくる。本命のご登場だ。

がらくたの山が、派手に崩れていく。水を掛けられた、砂の山のように。廃材をかき分けるようにして、巨大な黒い手が飛び出してきた。飛び退いたリコを掴み損ねた手は、続いて廃材の雪崩を起こしながらせり上がってきた体についたゴミを取り除く。

姿は、巨大な象。二本の足で直立していて、目は一つ。体は全体的に黒いのだが、虎縞状に色の濃淡が混ざり合っていた。手には巨大な曲刀がある。かなり太っているようで、腹は脂肪がついて揺れていた。

悪魔の頭には、サカハギがしがみついていた。血走った目で、吠え猛る。

「ギリメカラ! 此奴らをぶっ殺せ! 八つ裂きだ!」

「そう怒るな。 相手の方が、一枚上手だっただけだろう」

意外に、静かな声だ。強い邪気と同時に、深く練られた知性も感じる。手強い相手だ。少しでも、観察したい。振り下ろされる曲刀が、地面に大穴を穿つ。だが、動きはそれほど鋭くない。相手はまだ本気ではない。戦闘が本格化する前に、しておく事がある。飛び退きながら、秀一は語りかけた。

「ギリメカラと言ったか。 貴様は、何者だ」

「私は、アマラ経絡に潜む者。 コトワリを求め、マガツヒに誘われて来た。 現世にいる悪魔達より、一段上にある存在だ」

「アマラ経絡、だと?」

「そうだ。 アマラ経路よりも、更に深度にある世界。 世界の設計図として存在する、あるいは世界そのものの意識である、深き所だ」

相手はまだ本気ではない。今の内に、他にも聞いておきたいことがある。大地を揺らすような咆吼が、辺りを圧する。相手は本気ではないのがわかるのに、芯から恐怖がせり上がってくる。象の声が、これほど威圧的だとは思わなかった。

繰り出された曲刀を受け止めようとしたリコが、はじき飛ばされる。死角から斬りつけたサルタヒコが、剣を弾かれて唖然とした。見えた。今の瞬間、肌の上に妙な魔力の膜が出来た。それが、鋭いサルタヒコの一撃を、はじき飛ばしたのだ。

少しずつ、ペースを上げていく。跳躍して、炎を吹き付ける。眼を細めたギリメカラが、剣を振るい、風圧で炎をはじき飛ばした。その隙に、サルタヒコが逃れる。

間合いを取ったアメノウズメが、舞い始めた。サナが詠唱を開始。飛んできたフォルネウスの背に乗った秀一は、構えを崩さないまま、更に問いかける。

「何故、コトワリを求める。 それほどの力があるのなら、今まで通り好きなように世界の深部で暮らしていれば良いだろう」

「守護となるためだ」

「守護、だと?」

「残念だが、これ以上は教えられんな」

ギリメカラの全身から、圧倒的な邪気が吹き上がる。探り合いが終わり、本気になったと言うことだ。此方も本腰を入れざるを得ない。力は大したことがないが、特殊な能力を持っているサカハギも侮れない。先に潰しておくべきかも知れない。

ギリメカラが、巨体からは考えられない身体能力を発揮して、跳躍した。

 

ヨヨギ公園全体が揺動するのが、秀一にはわかった。ギリメカラが繰り出した曲刀の一撃が、朽ちたパワーショベルを吹っ飛ばしたのだ。巨大な工事車両はブルドーザーに突っ込み、崩壊しながら辺りをなぎ払う。直撃を受けたら、一巻の終わりだ。

「散開! 攻撃は俺とリコで捌く! サルタヒコは後衛のガード!」

指示をとばした後、ハンドサインでさらに上書き。口笛を一つ吹く。ギリメカラは、此方が声とハンドサインによって心理戦を仕掛けてきていることを、即座に見抜いた。そのまま大上段に刀を振り上げると、刀ではなく長い鼻を振り回してきた。今まで刀一辺倒の動きであったから、意表をつかれる。飛び退いたところに、二本の刀が襲いかかってくる。崩されないように、とにかく動き回って、攪乱。攻撃を仕掛ける余裕は、なかなか生まれてこない。

「はあっ!」

リコが、それでも仕掛けていく。相手が単眼だから、できることだ。懐に飛び込み、後頭部に蹴りを見舞った。本物の象と同じく、うっすらと毛が生えている黒い頭部に、一瞬だけ薄い魔力の幕が浮かび上がる。それが、リコの蹴りを難なくはじいてしまう。

今までの悪魔とは、根本的に異なる防御方法だ。一種の術だとはわかるのだが、原理が理解できない。着地したリコは、真の切り札を使う準備に入る。だから、秀一はそれからギリメカラの目を逸らすため、突貫した。横に薙がれる刀。斜め上から飛んできた稲妻が、ギリメカラの眼球付近に直撃する。

「むうっ!?」

クレーンの残骸によじ登ったサナの、支援砲火だ。さらにもう一撃。手を挙げて、五月蠅そうにギリメカラが防ぐ。懐に飛び込んだ秀一が、至近から冷気の術式をたたき込む。魔力の幕を貫通した冷気の固まりが、ギリメカラの肌を痛烈に切り破った。

丸太のような足が飛んできて、ガードした秀一を関係なく吹き飛ばす。地面で受け身をとった秀一だが、休んでいる暇など無い。かまわず踏みつぶしに来たギリメカラの足を、横っ飛びに避ける。

今、初めてクリーンヒットが入った。だが、油断はできない。此方の攻撃を限定化させるために、わざとクリーンヒットを入れさせたのかもしれないからだ。ギリメカラの動きはいちいち理にかなっている。今も、鼻を鋭く伸ばして、第三射を放とうとしたサナに、一撃を的確に加えた。サルタヒコが無言でサナを抱えて飛び退かなければ、ミンチになっていただろう。続けて、フォルネウスがアメノウズメを抱えて飛ぶ。ギリメカラが振り下ろした刀から生じた衝撃波が、地面を砕いた。

周囲に、ひび割れが走る。とてつもないパワーである。天を仰ぎ、ギリメカラが咆吼。衝撃波だけで、押し戻されそうな勢いだ。

だが、それでも、秀一は突貫する。前衛と後衛の動きがかみ合わなければ、此奴には勝てないからだ。

跳躍。目に向けて、腕から出した刃を振り下ろす。振り上げたギリメカラの刃が、それを迎撃。火花が散る。さらに、炎の息を吹き付ける。手を挙げて、サカハギをかばう。肌が焦げる嫌な臭いがした。

無理な追撃を避けて、一度引く。代わりにリコが仕掛けた。両手の剣、さらに足技を駆使して、果敢に攻め込む。切り結びながら、ギリメカラが興奮した声を上げる。

「面白いぞ! 主従共に。すばらしい勇気だ! 私を呼びだしたのが、おまえだったらよかったのにな!」

「何だと、てめえ、ギリメカラッ!」

「冗談だ。 もちろん、貴様には従うから心配するな」

「呼び出すというプロセスがよくわからない。 サカハギがコトワリを求めたから、おまえが来たのか?」

ギリメカラの目が、勝てたら教えてやると告げていた。どのみち、手加減などできる相手ではない。今のところ、術式による攻撃は通っているが、それがふりか本当なのか、未だ判断ができていない状況だ。だから、リコにも指示は出さない。

揺れが来る。どうやら、さっきの口笛が、届いたらしい。

地面を砕き、ニーズヘッグが巨体を表す。大きな口で、ギリメカラの足にかぶりつく。ニーズヘッグの頭は特別頑丈になっていて、ギリメカラが繰り出した刀も刺さり、かえって抜けなくなった。動きが、止まる。

仕掛けるのは、今だ。

サナが、詠唱を終える。円を描くように手を回すと、術の起動に必要な、最後の一言を放つ。

「ジオ・ダイン!」

いかづちの龍が、荒れ狂いながら空を突貫、ギリメカラの全身に絡みついた。絶叫する象の悪魔。一瞬早く飛び退いたニーズヘッグの頭を蹴って、リコが高々と跳躍。そして、風の力を解放。真空の刃で、ギリメカラの全身を押さえつけ、なおかつ切り刻む。

続けて、フォルネウスが大きく身をそらして、直径数メートルに達する氷の固まりをたたきつけた。もうフォルネウスは、病院で戦ったときよりも、遙かに実力を増している。たたきつけられた氷の固まりが、ギリメカラの目を直撃。呻きながら膝を折る。同時に、後ろに回り込んだ秀一が、拳をたたき込んだ。はじかれない。拳が、肌を破って、肉にまで食い込む。

殺気。ギリメカラが無理矢理体をひねって、肘撃ちをたたき込んできたのだ。秀一は、敢えて避けない。突貫してきたサルタヒコが、横一文字に斬撃を浴びせかける。当てることができれば、腹を割いて内蔵をぶちまけることができただろう。

しかし、できなかった。秀一は見た。淡い光の幕が、サルタヒコの一撃を防ぎ抜くのを。同時に、拳を握り込む。肘撃ちを浴びせられて、吹っ飛びながらも、蓄えていた力を放出する。

周囲に、無数に出現する光の槍。

それが、四方八方から、ギリメカラに降り注いだ。

ジャベリンレイン。秀一の、切り札の一つだ。それは光の膜に遮られることなく、巨象の全身を貫いていた。一つ一つの槍は長さ二メートルほど。何度も使ったことにより、技の精度も威力も段違いに上がってきている。数本の槍は、明らかに内蔵にまで届いていた。大量の血が噴き出す。

「ぎゃああああおおおおおおおおおっ!」

よろめきながら、ギリメカラが吠える。そして、刀を振り回した。放たれた衝撃波が、周囲を無差別に破壊する。フォルネウスが地面にたたきつけられ、アメノウズメが受け身を取りながら跳ね起きる。サナは要領よくニーズヘッグの陰に隠れるが、それでも全身切り刻まれて血をしぶく。サルタヒコとリコも、渾身の一撃の後だから避けられず、吹き飛ばされる。この期に及んで、恐るべき底力だ。

だが、もう勝ちは揺るがない。秀一は、ギリメカラの防御能力を見抜いた。さっき、拳が刺さったときに、からくりがわかったのだ。ハンドサインを飛ばす。そして目をつぶり、力を蓄えにかかる。額に向けて飛んできたナイフを、指二本で掴んで受け止めたのは、ほとんど本能的な行動からだ。この期に及んでも、まだギリメカラの頭にしがみついていたサカハギの舌打ちが聞こえた。

「邪魔だ、降りろ」

「な、てめえ、召喚主様に対して、なんつう口の利き方だ!」

「そうではない。 全力で戦うには邪魔だと言っている。 死にたければ、そのまま乗っていろ」

その冷たい言葉に、サカハギが飛び退く。体中傷つき、四つんばいになっていたギリメカラから、更に強い魔力があふれ出す。なりふり構わずと言うところか。感じる力から、死闘になることは分かりきっていたが、それでも戦慄してしまう。

ギリメカラの全身から、皮膚がはじけ飛んだ。大量の脂肪も飛び散る。内部から、粘液にまみれた、痩せた男の姿が出てきた。頭は象のままだが、単眼が双眼に。背丈は変わっていないが、体格は随分変わった。

全身を組み替えるほどの形態変化であり、かなり無理をしたのは傍目からも分かる。何しろ、力が相当に衰えている。しかし、とぎすまされたような鋭さも、同時にある。犬のように体を振るって立ち上がると、今度は灰を基幹とした色調に変わったギリメカラは、剣を一本だけ手に取ると、腰布だけの姿で吠える。

「待たせたな! 決着を付けてくれる!」

次の一撃で、勝負が決まる。秀一は深く身を沈めると、構えを取り直す。ジャベリンレインを撃ったことで、力に殆ど余裕がないのは、此方も同じだ。長期戦に備えて連れてきたカズコの元にまで戻る時間はない。

「サカハギを抑えてくれ。 俺が始末を付ける」

「危なくなったら、割ってはいるよ?」

「無用だ」

大上段に構えたギリメカラと、間合いを計り合う。辺りに散乱していた瓦礫はほとんどさっきの一斉攻撃で消し飛んでしまったが、それでもまだいくらかは残っていた。ギリメカラが、その一つを下がりながら踏んだ瞬間、秀一は仕掛けた。

前に出る。ギリメカラが、刀を振り下ろしてきた。避けない。敢えて、そのまま前に出る。体格差を生かして、懐に潜り込む。頭すれすれを、刀が掠めた。

腹に、手を突く。

踏み込んで、二段の突きを叩き込んだ。だが、ギリメカラは、にやりと笑う。分かっている。体の周囲に展開した薄い魔力の膜が、弾いたのだ。

分かっていた。ギリメカラは、任意の瞬間に、極めて強力な防御の術式を展開することが出来る。それは非常に強力な防御能力を有しているが、しかし一瞬しか保たない。だから、さっきまでの連続攻撃では、ここぞの一撃を防ごうとしていた。サルタヒコの剣を必殺の一撃と見誤らせたから、秀一のジャベリンレインが通った。

跳躍。顎を、下から突き上げる。刀を捨てたギリメカラが、踏みとどまり、ベアハッグを掛けてくる。万力に潰されるような音と共に、全身が軋んだ。

「おおおおおおおおっ!」

秀一も、息を吸い込む。そして、必死に圧搾を防ぎながら、炎の息を浴びせかける。ギリメカラの全身が燃え上がった。もちろん、秀一の体も。根比べだ。炎の巨塔になりながらも、ギリメカラは力を緩めない。秀一は正直感嘆した。

「ぐ、おおおお、おあああああああああっ!」

「せあっ!」

だが、どうしても、力は緩む。渾身の力で、腕を弾いて、ベアハッグから脱出。手を伸ばし、つかみかかって来るギリメカラ。目を閉じて、集中。胸の前で、手を合わせる。

目を開くと、ギリメカラの手が、至近まで迫っていた。自身も、手を伸ばす。

「しねええええええっ!」

「……おおおおおおおおっ!」

そして、冷気を直接、相手の体内に叩き込んだ。

生きた松明と化していたギリメカラが、内側から生じた氷の杭によって、滅茶苦茶に貫かれる。一気に鎮火した彼の体に、罅が入っていった。膝を突く。肉が焼ける臭いが、辺りに広がった。

 

邪魔は、入らなかった。サカハギの気配は、辺りにはない。サルタヒコがいないと言うことは、追っていったのだろう。サルタヒコの実力なら、サカハギに遅れを取ることはないはずだ。

「教えて貰おうか。 守護とは何だ」

「……約束だったからな。 良いだろう」

仰向けに倒れたギリメカラが、とぎれとぎれに言う。

守護とは。コトワリの象徴となる、神のことだという。その世界に相応しい神が、コトワリには必要となってくる。守護は、そのために、アマラ経路の深奥、アマラ経絡から呼び出される、強大な神々だ。

その存在は、今ボルテクス界にいる悪魔とは根源的に違い、神話に登場する神々と、極めて近しいものなのだという。確かに秀一も、刃を交えてみて、一線を画する力の差を感じた。ただ、絶対だとは思わなかった。或いは、この世界に合わせて、神々も力の調整を行っているのかも知れない。

そして、コトワリの守護を呼ぶには、強い意志と、生け贄が必要なのだという。

「あのヤヒロヒモロギは、生け贄の代わりになる、極めて希少な道具だ。 もちろん膨大なマガツヒを、内部に蓄える必要があるのだがな。 限定的ではあるが、アマラ輪転炉の機能も持っている。 私は餌であるマガツヒと、サカハギの歪んではいるが一途な欲望に惹かれて、此処まで来た」

「違う世界に住む貴様が、そのような用語を、何故知っている」

「私がどこに住んでいると思っている。 アマラ経絡とは、世界の無意識下にある世界そのもの事だ。 そこは情報により構成される世界。 全ての情報は、我ら神々の、血肉なのだ」

スケールが大きな話だ。そして、それで今後の方向性も、見えてきた観がある。

秀一がコトワリを起こす場合は、膨大なマガツヒと、あのヤヒロヒモロギが必要になって来る。誰も、生け贄になどする気はないからだ。

「貴様の、名前は?」

「榊秀一。 人修羅とも呼ばれる」

「では、榊秀一。 急ぐがよい。 アマラ経絡に潜む神々は、皆焦っている。 かってお前達が住んでいた世界が、人為的に壊滅した事によって、アマラ経絡にも少なからず影響が出ているからだ。 このままでは、どうしようもない思想に惹かれた、さもしい神が全てをひっくり返す可能性さえもある。 私のような、な。 そして世界が作りかえられれば、アマラ経絡もまた生まれ変わるだろう」

「……分かった。 出来るだけ、急ぐことにする」

さもしい神などと言ってはいたが、最後まで正面から堂々と戦ったギリメカラは、尊敬すべき敵手だったと、秀一は思った。

そして、知った。恐らく、もはやかって住んでいた世界は、存在しないと。あの東京受胎が発生した時に、壊滅してしまったのだろう。悲しいと思う。一体どれだけの生命が、人間の身勝手に巻き込まれて滅んでしまったのだろうか。

不思議と、祐子先生にそれほど憎悪は感じない。祐子先生からは、濃厚な狂気を感じた。あの人は、どれだけの狂気を秘めたまま、一人で苦しんでいたのだろう。人は、道を見誤る存在だ。どうやったって、ミスをしない者はいない。心だって同じだ。正しい方向へ常に一人で生きていける者がいたとしたら。

それは人間ではないだろう。

結局の所、ボルテクス界の悪魔は、亜人間でしかない。そして恐らく、今マガツヒになって消えていくギリメカラも。意識によって成り立つ情報生命体であるのなら。それは、人間の延長線上にある生物だ。

ギリメカラは、完全に消えて無くなった。黙祷してその敢闘を湛えると、秀一は周囲を見回した。

「サカハギを追うぞ」

「ぶっ殺すの?」

「それは捕らえてから考える。 あいつは砂漠を泳ぐ能力も持っているから、この街から出したら、そう簡単には捕まえられなくなる。 何としても、この街から出る前に、捕縛するんだ」

とはいったものの、サカハギは片腕を失っていた。あの腕で、遠くまで泳ぐことが出来るとは思えない。その上、サルタヒコが追撃している。簡単に逃れられるとも思えない。

遠くから、悲鳴が聞こえた。同時に、おぞましい気配が、周囲を蹂躙した。この気配は、覚えがある。

アラディアだ。

 

鮮血が、したたり落ちていた。

城壁のすぐ側。居合いの構えのまま動けないサルタヒコを前にして、その惨劇は繰り広げられていた。

サルタヒコは、凍り付いたように動けない。さっきのギリメカラとは格が違う。あまりにも強い気配が、辺りの全てを縛り付けていた。

全ては、一瞬だった。サルタヒコが背中を切りつけたサカハギは、それでも悪鬼のように顔をゆがめて、振り返り様にナイフを投げつけてきた。はじき返し、更に袈裟に一太刀。首をはねようとしたところで、跳ばれた。追いかけようとした時に。空間が、染み渡るような嫌な気配の出現と共に、歪んだのだ。

それは、最初から其処にいたように、いつのまにかいた。人型をした、異形。いや、確かに最初からいた。あまりにも強い気配を前にして、現実逃避でいなかったと思いこもうとしたのだと、本能的に悟った。それは、指をまるで枯れ木の枝がごとく伸ばして。あまりにも無造作に。簡単すぎるほどに。サカハギを貫いたのだった。

見たことはある。高尾祐子とか言う人間だ。しかし、顔には奇怪な模様が張り付き、全身は投げ捨てたマリオネットのようにねじくれている。奴はサカハギを滅茶苦茶に引き裂くと、心臓をえぐり出した。大量の鮮血を噴き出したサカハギは、呻く。

「く、そ。 俺は、所詮。 ここ、までか、よ。 殺して、やりたかっ、た」

がくりとサカハギの首が垂れた。後ろから、複数の気配。人修羅が到着したのだ。かなりの深傷を負ってはいたが、それでも人修羅は恐れる様子もなく、前に出た。

「祐子先生!」

「その者は今眠っている。 今此処にあるのは、ジユウの神アラディアなり」

ぶちゅりと音がした。サカハギの死骸を、アラディアが食ったのだ。全身が、まるで巨大な動物の顎がごとく不自然に、縦に避けた。そして吸い込むかのように、死骸を飲み込んだ。咀嚼の音。サカハギの死骸が消えた後。アラディアの手にあったのは、ヤヒロヒモロギだった。

「これで、愚かなコトワリの担い手は滅びたり」

「先生。 先生が言う自由は、他人の思想を許せない程度のものなのか」

「この者が抱えていたコトワリを知ってなお、それを言えるかや」

アラディアは、首を一回転させ、更にもう一回転させた。とても立っていられるとは思えない体勢で、全身をまた一ひねりして、元に戻した。

「この者は、己だけが全てを独占し、他の全てを隷属させ、虐待と殺戮の限りを尽くすコトワリを求めていた。 それを汝は認めるというか」

「そんなものは認められない。 だが、それは貴方のコトワリも大差はない。 貴方のコトワリは甘美に思えるが、現実的ではない。 人間はそれほど強い生物ではないし、期待に応えられる存在でもない」

「それは旧世界での現実なり。 新世界では、それが現実となる」

嘘だと、秀一は言った。何度も繰り返されてきた言葉だが、今では確信している。それはあり得ない。

「非現実的な思想を無理に通して世界を作っても、長続きはしない。 所詮、一夜の夢に終わるだけだ」

「汝は、神の力を疑うのかや」

「神の力など、最初から信じない。 ギリメカラに聞いた。 神などというのは、所詮人の思念が作り出したものだ。 それならば、結局の所、人の領域を超えた存在にもなりはしない」

世界の法則そのものを神というのなら、それは環境に対する信頼となる。だが、環境は人間などには見向きもしない。ただそこに存在するものとして、扱うだけである。むしろ、好き勝手に環境を弄ってきたのは、人間だ。人間が、神を作ってきたのだ。自分が都合が良い時に、精神的な逃げ道にするために。

だから、宗教は古代より力を持ってきた。

秀一は、それを指摘する。カズコの言葉によって、どのコトワリも、狂気の連鎖に等しいことを悟ったからである。

「そうか。 汝は不信心者なり。 そして、汝は我の敵なり」

「そんなつもりはないが、そう思うなら、好きにするがいい。 だが、貴方の好きなようにはさせない」

「我は行く。 今度会う時は、汝の首は、胴と離れるものと知れ。 不信心者よ、我は汝を呪う。 汝は幾代先までも、我に呪われると知れ」

ふつりと、気配が消えた。今までいたはずなのに、アラディアは影も形もなくなっていた。

全身にびっしり冷や汗を掻いていたリコが、膝を突く。サルタヒコも、大きく深呼吸して、剣を鞘に収めた。サナはどう逃げようか思案していた様子である。フォルネウスが、心なしかいつもより大きく羽ばたきながら、言った。

「秀一ちゃん、参ったのう。 あれは、戦ったら、勝ち目がなかったぞ」

「ああ、分かってはいる。 だが、もうあのようなコトワリに、迎合するフリをするのも嫌だ」

弱者の生き方を、否定するつもりはない。自分の力で、道を開けない弱者は確かにいる。そう言う者達を救うために社会はあり、経済はある。思想や宗教も、同じように存在していると言える。

だが、フトミミが指摘したように、秀一には自分で何かを成し遂げる力が備わっている。それならば、迎合するのはむしろ逃避であり、悪だ。絶対に受け入れられない思想と社会のために、膝を屈することはあってはならない。

「シューイチ、確かにその言葉は正しいけど、現実問題としてどうするつもり? あのいかれた先生が呼び出した守護でさえ、あの実力だよ? サカハギみたいな雑魚が考えた、いい加減な世界のコトワリでさえ、ギリメカラが出てきちゃうんだよ?」

そうだ。破滅的かつ、極めて身勝手なサカハギでさえ、あのギリメカラを呼び出したのだ。もし何があっても折れないような、確固たる思想の持ち主が、同じ事を行ったら。

例えば、氷川が。或いは、勇が。千晶も、恐るべき存在を呼び出す可能性が、極めて高い。勇に付き従っていたダゴンも、恐るべき実力者なのだ。

加速度的に状況は悪くなっている。

もしも、コトワリを作るとしたら、それら全てと戦わなければならないのだ。今の時点では、アラディアにさえ勝てるか分からない。

「力がいるな」

単純にして、明快なる答え。

どうやらしばらくはアサクサに籠もり、マネカタ達からマガツヒを得て、力を付ける作業にいそしむ必要がありそうだった。いや、それでも足りないかも知れない。周囲と相談して、今後の方針を決めていかないと危険だ。

「一度、戻ろう」

他に選択肢はない。ニーズヘッグが、残念そうにうなだれた。

 

5、疾駆

 

アサクサに傷ついた体を引きずって秀一が戻ると、ちょっとした騒ぎが起こっていた。門番が槍を揃えて、大柄な悪魔に相対している。小走りで近寄ると、見知った顔だった。幸いにも、敵意は感じない。マネカタ達の前に立っている琴音も、交渉の途中であったらしく、周囲とは裏腹に談笑さえしていた。

「ほう、人修羅か。 久しいな」

「貴方は、ニヒロ機構のフラウロスか」

「ああ。 この間のカブキチョウ会戦で不覚にも大けがをしてな。 今日はリハビリ代わりに、司令官殿のお守りだよ」

「こんにちは、お久しぶりです」

全身に無数の傷を作り、ますます凄みを増したフラウロスの影から、カエデが顔を見せる。今日はブレザーを着ていた。小柄な彼女がブレザーを着ると、何だか妙な光景である。小学生が背伸びして制服を着ているように見える。

もう一人、見たことのない女悪魔がいた。鎧を着込んだ、美しい大人の女性だ。姿はまるで人間と変わらず、騎乗している。特徴から言って、ニヒロ機構の空軍を率いているブリュンヒルドであろうか。この間の会戦で大けがをしたと聞いているから、彼女もリハビリ代わりだろう。

「それで、何のようだ」

「申し訳ないのですが、この間引き渡した高尾祐子を、再引き渡ししていただけないかと思って、来ました」

「先生は、もう此処にはいない」

「そのようですね。 サマエルさんもそう言っていました」

数秒、見つめ合った。カエデは腕組みして考え込む。周囲では、恐れた様子でマネカタ達が槍を揃えて向けているのだが、気にもしてない。肝が据わっているというよりも、フラウロスとブリュンヒルドを信頼しているのだろう。事実この二騎は途轍もなく強い。傷ついた秀一では、勝ち目がないほどに。

「嘘をついている様子はありませんね。 ……まさか、コトワリを開き、守護を降ろしてどこかに逃亡したとか」

「隠していても仕方が無いから言うが、その通りだ。 アラディアという神を降ろして、どこかへ消えてしまった」

「素手だと言うことは、ヤヒロヒモロギも、彼女に奪われましたか?」

「鋭いな。 その通りだ」

此方がヨヨギ公園に向かったことも、見抜かれていたと言うことか。氷川も切れるが、この子は更に上を行くような気がする。直接顔を合わせたことはあまり多くないが、柔軟な判断力も、いざというときの胆力も、素晴らしい逸材だ。普段はおっとりしているようだが、氷川が大抜擢して、高位のポストを任せるのも頷ける。

いや、むしろ凄まじい速度で成長していると言うことなのかも知れない。昔シブヤで見かけた、走って転んでいたカエデと、同一人物とは思えないほどだからだ。

「知っていますか? アラディアというのは、偽りの神です」

「偽りの神? ニヒロ機構の信仰する何かの神と、宗旨が合わないと言うことか?」

「違います。 元々アラディアは、東京受胎が起こるつい近年に、魔女信仰を復活させようと考える者達が作り出した神です。 歴史も何もなく、それなのに母胎となった多神教を根源とする魔女信仰にするりと滑り込んだ、奇妙な存在です」

同じように、近年創造された神としては、クトゥルフに代表される、ラヴクラフト神話群の者達がいる。だが、アラディアはそれとも違う。奇妙きわまりない存在なのだ。

強者からの抑圧より、弱者を救うのがアラディアの役割だという。古代神話にはあまり例が見られない、民主的自由主義的な神という訳だ。それならば、祐子先生が傾倒するのも分かる気がする。

「そうか。 先生は、そんな神に」

「情報を有難うございます。 それでは」

「待て。 先生を見つけたら、どうするつもりだ」

「アラディアを滅ぼします。 その後は、残念ながら、また監禁させていただくことになると思います」

先生は、自分であの神と共にある事を選んだ。それならば、もはや手を貸す意味もないだろう。

それどころか、今後は敵として相対することを覚悟しなければならない。あまり、良い気分がしないのは、確かだった。

「そうか。 仕方がないことかも知れないな」

「お互い、武運を。 戦いにならないことを祈ります」

「じゃあな。 俺もそう願うぜ」

カエデは帰っていく。ブリュンヒルドは最後まで無言で、フラウロスは軽く手を振って殿軍になって去っていく。護衛は遠くに離れて、やりとりだけを見守っていたらしい。ある程度離れると、数百ほどの部隊が、さっとカエデを囲んだ。動きから言ってかなりの精鋭部隊だ。此方を信頼していても、いざというときには必ず備えているという訳だ。

カエデの部隊がいなくなると、サイクが叫きだした。

「あんたなあ! あんたが連れてきたあの人間のせいで、アサクサが焼け野原になるところだったじゃねえか!」

「何なら、今あたしが焼け野原にしてやろうッスか?」

「止せ、リコ」

サイクの後ろには、彼と意思を同じくするらしいマネカタ達が、大勢睨んでいた。ぎゃあぎゃあと叫いている者もいる。琴音がため息を一つ付く。

「此処は私が納めておきます。 秀一君は、早く休んでください」

「ああ、すまない。 感謝する」

琴音が交渉に乗ったのは、簡単なことだ。もし戦いになったら、アサクサが半壊するのは避けられなかったからだ。

琴音の実力から考えて、あの三人でも簡単に屠ることは出来ない。上級の魔法が飛び交う、激しい戦いになっただろう。それを見越していたから、カエデもわずか三人で交渉に来た。此方の状況を完全に見抜いての、非常に頭がよい行動だ。ただ、いざというときは、もちろん戦うつもりだったのだろう。だから、ニヒロ機構でも屈指の腕利きを、二人も連れてきたのだ。

つまり、此処が戦場になる可能性はあった。それを、琴音が体を張って回避したのである。

それだというのに、戦いの可能性が去った途端に、この有様だ。情けないを通り越して、腹立たしくなってくる。後ろでカザンが、若いマネカタを何人か殴り倒していた。いずれも秀一が護衛して、アサクサに入った者達ばかりだ。

「誰のおかげで、生きてここに来られた! お前達の中には、カブキチョウの地獄から人修羅殿に救って貰った者までいるではないか! それにサマエル殿が機転を利かせてくれたから、戦いは避けられたのだぞ! 恥を知れ!」

カザンの言葉は、秀一には少しだけ嬉しかった。だが、どちらにしても、いい加減に愛想がつき始めているのも事実である。更に腹立たしいのは、一緒に歩いているカズコが、白い目で見られていることだ。

「すまないな。 俺が融和を主体にしているばかりに」

「いいよ、そんな事。 サカハギを仕留めたっていったら、こいつらどんな風に秀一を見るんだろうね」

「カズコは此奴らとはえらい違いッスね。 こんな妹がいたら、あたしも楽できただろうなあ」

「わしの孫はめんこい子であったが、カズコちゃんの用に賢くはなかったのう」

それだけ言ってから、リコは小首を傾げる。この様子からして、人間時代、リコに姉妹はいなかったのだろう。フォルネウスは、孫と発言したことに気づいてもいないようである。東京でも、善良な老人であったのだろう。

ティルルが迎えに来たので、カズコは小走りで友人の所へ戻る。一旦解散にすると、秀一は自宅に戻ることにした。最近はカザンが気を利かせてくれて、自宅の周囲には、直属の部下を巡回させてくれている。だが、緊張は日に日に高まっているようだ。

提供されたマガツヒを口にして、少し眠った。力が、もっと必要だ。そして、更に力を求めるのであれば。この地盤に頼らない、新たな力の供給源が必要になってくる。これ以上のマガツヒ供給を求めるのも難しいし、考えなければならないだろう。

そうなると、やはりアマラ経路か。しかし、スペクターがいなくなったとは言え、安全とは言い難い場所だ。もっと深部に行く必要もあるかも知れない。しかし、そんな時間を都合良く捻出できるかどうか。今回のヨヨギ公園行きだって、かなり無理をして時間を作ったのだ。

戸がノックされた。開けると、聖だった。更に髭と髪が伸びて、ワイルドな外見になっている。

「よお。 不機嫌そうだな」

「いろいろあったからな」

「そうか。 ところで、ちょっと面白いものを作ってみた。 アマラ輪転炉の、簡易版だ」

いやな予感がする。最近怪物じみてきている聖が、どんな目的で、それを作ったのか。

着いてきて欲しいと言われたので、言われたままに後を追う。聖によると、何人かの、マネカタの幹部も来ているのだという。

加速する状況の中。聖が何を企んでいるのか、気になる。マネカタの幹部もいると言うことは、ろくな事ではないだろう。

コトワリと守護のこと、それから今後のこと。解決しなければいけない問題が、山積していた。

 

アマラ経路を疾駆していたオズは、それを見つけた。弱々しく蠢く、緑色の悪魔。触手を伸ばしてマガツヒを喰らっているが、生命維持以上のことは出来ていない様子だ。愛馬であるスレイプニルから降りると、ゆっくりと歩み寄っていく。

「貴様が、スペクターだな」

「何者、ダ」

「私の名はオズ。 お前を捜しているお方がおられる。 是非来て貰おうか」

「俺ハ、疲レたのダ。 放ってオイテハクれまイか」

オズは聞く耳を持たず、ひょいと手で掴み上げる。抵抗しようとするスペクターだが、無駄だ。オズは優れた魔法の使い手である。全身は言うまでもなく強力な防御魔法で守り抜いており、殆ど弱点は存在しない。弱体化しきったスペクターごときに、どうにか出来る防御壁ではない。

「何を、スる。 放セ」

「貴様と同じ志の持ち主が、待っておられるのだ。 悪い話ではないから、来い」

「放セ。 一人にしテクれ」

スペクターの声を無視して、オズはスレイプニルに乗り込む。そして、新幹線よりも速く、疾駆した。

目指すは、新田勇の所。

彼こそは、作り上げてくれる。それぞれが他者と関わることなく、静かに過ごすことが出来る世界を。

オズは人間の都合により、好き勝手に祭り上げられたりゆがめられたりした神々の一柱だ。元々それほど高位の神ではなかったのを、無理に至高神にされ、キリスト教の浸透に伴って悪魔とされた。同じような存在が、勇の周囲には集まっている。皆が、望んでいる。人間の好き勝手な信仰によって、いじくり回されない世界を。

それには、個々の干渉が不要な世界が望ましいのだ。

スレイプニルが駆ける。喜びのあまり、オズは雄叫びを上げた。ほどなく、アマラ経路から、その気配は消えた。

 

(続)