ほころびのコトワリ

 

序、悪戯納め

 

アマラ経路を歩く悪魔がいた。黒い肌を持つ、逞しい大男である。名前はロキ。北欧神話における、悪戯の神である。ギリシャ神話の旅の神ヘルメスと並ぶ、神話世界におけるトリックスターとしても有名な存在だ。

少し前までニヒロ機構に所属していたロキだが、今では一戦士に戻っている。信頼してくれていた多くの仲間を裏切り、自分のために必死に研究をしてくれたカエデを欺いて、地下に潜ったのだ。その卑劣な有様は、トリックスターの名にふさわしいと、ロキは自嘲していた。

無数に流れているマガツヒを、時々つまんでは、口に入れる。

かって彼は、シブヤを納める一勢力の長だった。部下は少ないとはいえ、数百はいた。戦略的にも有利な土地であり、交易によって栄え、一つの王国を為していた。条件さえ整っていれば、ニヒロ機構に対抗できる勢力に成長していたかも知れない。だが、希望は、ただ一騎の悪魔によって、打ち砕かれた。

スペクター。

正体未だ分からぬ、アマラ経路に潜むもの。

己の分身を無数に作り出し、恐ろしい速度で進化する、強豪。ボルテクス界でも、有数の実力を持つ、恐るべき悪魔。どの勢力にも最大限に警戒されている、当代最悪のテロリストだ。

シブヤは、奴に壊滅させられた。そのほかにも、奴の悪行は数限りない。カブキチョウを一度は滅ぼし、そしてロキのかっての部下であったデカラビアを殺した。ニヒロ機構の、事実上のナンバーツーであったオセもが、奴のせいで死んだ。

シブヤが壊滅してから、ロキはスペクターを殺すためだけに生きてきたと言っても良い。無茶な出奔をしたのも、ニヒロ機構で良くしてくれた同僚や仲間達に、未練があったからだ。

豪快に男臭い友情を築いてくれたマダや、真剣にスペクターの弱点を研究してくれたカエデ。それに、広い懐で、ロキを受け入れてくれた氷川司令。皆のことを、ロキは好きだった。トリックスターとして自由気ままに傲慢に振る舞った過去が懐かしいと思えるほどに、あの日々は充実していた。

だから、振り切るために、出てきたのだ。皆には悪いと思う。だが、これだけは、他には譲れないのである。

今のロキは、一人の復讐鬼である。カエデが研究してくれた、必殺の手段を携え、アマラ経路を行く彼は、ただ復讐するためだけに、今生きていた。

太い道に入り込んだ。膨大なマガツヒが飛び交っている。無数の通路につながっており、メインストリートと言っても良い。

奴をおびき寄せるには、最上の場所だ。

「この辺りで、良いか」

一人つぶやくと、術式を唱える。

スペクターを、まずはおびき寄せる。そのための術は、自力で開発した。逆に言えば、ロキの能力では其処までしかできなかった。

術が完成すると、赤紫のキューブが出現した。形状は三角柱。ゆっくり回転しながら、怪しい気配を振りまく。スペクターが好む気配だ。多くの研究から、これだけは割り出すことが出来た。

後は、奴さえ現れれば。

本体が出てこなくても良い。出てきさえすれば、仕留めることが出来る。大きなリスクはあるが、それはどうでも良い。カエデは、奴を殺す方法を考えついてくれた。それだけで充分だ。

この間、フラウロスと人修羅に叩きのめされたスペクターは、かなりの打撃を受けているという。体の欠損を補うために、餌を欲しがるはずだ。ほぼ確実に、これには食いついてくる。

陰に隠れて、様子を見守る。

やがて、奴が現れた。

 

マダは肩にカエデを乗せて、アマラ経路を疾走した。そのすぐ後ろには、柱に巻き付いたミジャグジさまが、ケンケンをするように跳ねながら着いてくる。話によると、そのまま横にすーっと飛ぶことも出来るらしいのだが、疲れるから滅多にやらないそうである。護衛の堕天使達が十五騎ほど、遅れて着いてくる。

「嬢ちゃん、ロキの野郎が向かった先の宛てはあるのか?」

「はい。 もし、ロキ将軍がスペクターと戦うつもりならば、無駄に探し回るようなことはしないはずです」

「何か、策があるとかか」

「ロキ将軍は、スペクターを誘引する術を開発していました。 内容は、私も頭に叩き込んでいます。 その誘引物質を辿れば」

既にカエデは、探索用の術を展開して、その誘引物質をキャッチしている。

今回ニュクスに着せられたのは、「セーラー服」なる古典的な海軍制服だという。よく分からないのだが、カエデくらいの年の子供なら着ることは珍しくないそうで、「変なお洋服ではない」のだそうだ。そうなると、いつも着せられているのは変なお洋服と言うことになるのかも知れない。

ひらひらするスカートを抑えながら、カエデは展開している探査術が示す方向へ、マダを誘導する。護衛として着いてきている堕天使達は、遅れて置き去りになりそうだ。

「それで、だ。 どうやって、あのスペクターを殺すんだ」

「……ええと」

「かまわん。 もしロキが仕留め損なった時のことを考えて、儂らには知らせておいてくれまいか」

カエデは唇を噛んだ。ロキは、それほどまでに、スペクターを憎んでいたと言うことか。いつもあまり話すことはなかった。感情を他人に見せることは殆ど無く、黙々と任務をこなしていた。だから、ロキが悪戯の神だと聞いた時には、驚いたものだ。

本心は、もっと愉快な人だったのだろうか。それが、スペクターによる殺戮で部下をあらかた失い、復讐鬼と化してしまった。

やりきれない話だ。カエデには、嫌と言うほど、ロキの気持ちが分かる。だからこそに、なおやりきれない。

「スペクターは、無数に分身を作る能力を持つ悪魔です。 しかし、個が全てではなく、或いは全体が個でもありません」

「良くわからねえが、要するに、本体がいる訳じゃあねえのか?」

「かってはいたかも知れません。 しかし、今は違っています。 スペクターは、無数に分けた個体の中に、分散して自我を隠しているんです」

「そんな事が、どうして分かったんぢゃ」

答えは簡単。スペクターの分身を倒したからだ。体を構成しているマガツヒを喰らって、情報を分析した。それと、今までの無数の仮説を重ね合わせた。

「でも、それじゃあ、全部を一片に倒さないと、殺せないんじゃないのか」

「いえ、スペクターには致命的な弱点があるんです」

「それは、どういう事ぢゃ」

スペクターは、非常に組織的な戦闘が上手な悪魔だ。個体を有機的に活用し、時には捨て駒にし、或いはモザイクのようにぼかし、しかして効率の良い連携を組む。だが、それらには、ある一つの前提条件がある。

個体に、独立した自我がないこと。

もし独立自我がある場合、個の命を捨てるような命令には、どうしても反発が産まれる。つまり、何かしらの手段で、スペクターは全体をつなげているのだ。それによって、スペクターはああも見事な連携組織戦闘を実施している。そしてもし負けても、体の一部を切り離して、逃げることに成功しているのだ。

そこに、つけ込む。

カエデの知る限り、スペクターはバージョンアップを全体で同時に行っている。体が単純だから出来ることだが、もし其処に、致命的な因子が紛れ込めばどうなるか。

「いわゆる、埋伏の毒という奴ぢゃな」

「ああ、確かにそれならスペクターを潰せそうだな。 だが、どうして、今までそれを試そうとはしなかったんだ」

「欠点が、あったんです。 大きな欠点が」

そう、あまりにも大きな欠点が。

スペクターは非常に頭が良い悪魔だ。簡単に毒を喰らう訳がない。奴に毒を喰らわせるには、甘い甘い蜜で包む必要がある。

「ま、さか!」

マダが呻く。そう、そのまさかなのだ。

古代から、神が喜ぶものなど、決まっている。そう、それは人間にとって一番大事な存在。

故に、生け贄を捧げる信仰が、世界各地で産まれた。一番大事なものとは、未来を作る子供であり、美しい女であり、もっとも優秀な戦士だからだ。今、アマラ経路に潜む最悪の悪魔にも、同じ方法を用いる。それしか、ない。

「ロキ将軍は、毒を己に埋め込んだに違いありません。 もう少し研究が進めば、きっとそんな方法でなくても、スペクターを仕留めることが出来たと思うのですが」

「いや、それは無理ぢゃろうな」

冷徹にミジャグジさまが言い切った。カエデの希望的観測を打ち砕いたシブヤの司令官は、赤い舌をちろちろと出し入れする。

「ロキも、カエデお嬢ちゃんほど突き抜けてはいなかったが、それでも優れた研究者ぢゃったからの。 その方法以外に、スペクターを仕留められないという事は、分かったのぢゃろうよ。 己の復讐を果たすためというのが一番大きかったんぢゃろうが、やはり奴は」

「もういい! 全力で行くぞ! 畜生、あの野郎! 見つけたら、ぶん殴ってやる!」

マダが吠えた。カエデは目尻を擦って涙を落とすと、頷いた。

 

隠れても、無駄だった。気配は、すぐに察知された。誘因物質よりも、自分を先に見つけた敵手に、不快な奴だと、ロキはぼやく。

立ち上がったロキの周囲に、無数の緑色をした影が現れる。間違いない。スペクターだ。既に、退路は断たれている。数は三百から四百。いや、退路を塞いでいる分を考えると、更に多いだろう。

ずらりと、真っ黒い刀身を持つ剣を引き抜く。

しばらく、仕掛けては来なかったスペクター。間合いを計るロキ。数秒が経過して、ロキは舌打ちする。奴の狙いが、読めたからだ。

空気に、強い酸が含まれ始めている。呼吸する度に、肺が焼き付くようだ。

ロキの集中力が鈍った瞬間、上下左右から、スペクターが躍り掛かってきた。斬る、薙ぐ、叩きつぶす。気合いの声と共に跳躍、壁を蹴って、飛んできた酸をかわす。ため込んでいた、上級の攻撃術を撃ち放つ。冷気の固まりを四方八方に放ち、凍結させ砕く術だ。冷気系最強の術式、マハ・ブフ・ダイン。これで、巧くすれば数十匹はと思った瞬間。儚い希望が、打ち砕かれる。

数匹のスペクターが、空気を吸い込み、大きく膨らむ。冷気は、奴らを凍らせただけで、他のスペクターには届かなかった。砕けたスペクターがマガツヒになって散る中、無数のスペクターが無傷のまま、殺気をまき散らし襲いかかってくる。

デッドエアを利用した、冷気の遮断方法だ。歯がみする。まさか、高位の術式を、こんな被害で凌ぎきるとは。此奴との戦いで、誰かが冷気系の術式を使ったのだろう。腹立たしい話だ。

次の瞬間、目の前で閃光が弾けた。

床にたたきつけられる。

今の術は。威力は、小さかったが。しかし、最低でも中級以上の悪魔にしか扱えない、強力な術式だった。

「メギドだと!?」

進化が速いという話は、聞いている。しかし、メギドを、この数で使いこなすというのか。閃光が、四方八方から飛んできては弾けた。激しい衝撃に、ロキの体が、海老のように跳ねた。間断なく飛んでくるメギド。防ぐ暇がない。

駄目だ。勝ち目なし。ロキは、心中で絶望の声を上げた。

もし倒せるようなら、その場で倒すことも考えていた。しかし、予想以上の実力だ。触手が伸びてくる。それは鋭く尖っていて、腕を、肩を、腹を、容赦なく貫いた。鮮血が噴き出す。飛び退き、斬り伏せる。背中を、無数の触手が抉る。飛びついてくる。直接、強酸を浴びせかけられた。

「がああああああっ!」

悲鳴がこぼれる。抵抗力を奪ったと判断したか、無数のスペクターが、一斉に飛びついてくる。

不思議な話だ。今まで、ロキは悲鳴を上げさせる方の存在だった。シブヤを支配していた時までは、特にそうだった。生きたまま強酸に灼かれる全身の感触が、今まで与えてきた痛みの凄まじさを想起させた。もがけばもがくほど、スペクターの攻撃は狂騒を極めていった。

走馬燈が流れていく。

結局、自分が負けたため、狂わせてしまったデカラビア。自分を仲間だと認めてくれたニヒロ機構の将軍達。受け入れてくれた氷川司令。そして、自分のために、忙しい中時間を割いて、必殺の手段を割り出してくれたカエデ。

笑みがこぼれる。もう、悔いはどのみち無い。スペクターを倒しておかなければ、ニヒロ機構はいずれまた大きな損害を受けることだろう。今は、ロキにとって、ニヒロ機構は大事な存在だ。

ふと、違う光景が、周囲に広がった。

ロキは、スーツを着て、如何にもガラが悪そうな男達を従えていた。若頭と、呼ばれていた気がする。

ちまちました縄張りを争って、海外から着たマフィアや、別の土着犯罪組織と、抗争を繰り返す日々。あまりにもくだらないことで、命を落としたり、体を欠損する愚かな部下達。それらに一番嫌気が差していたのは、自分ではなかったか。刹那の快楽で、ストレスを発散した。それしか、することがなかった気さえする。

あの時に比べて。今はどれほど充実していることだろう。ふと、そんな思考がわき出してきた。もはや、痛覚もなくなりつつある。死ね、死ね、死ね、滅びろ。スペクターの合唱と悪意が、至近で聞こえる。

愚かな。滅び、消え去るのは貴様の方だ。

最後に、それだけを、心中にてつぶやいた。

 

無数に積み重なるスペクター。そして、砕けたロキの気配。間に合わなかった。間に合わなかったのだ。

「おおおおおおおおっ! ロキーッ!」

マダが絶叫する。カエデは、その肩から飛び降りると、術式を唱え始める。準備するのはメギドラだ。これならば、対応する方法がそもそも存在しない。魔力を純粋な破壊力に切り替えるメギド系統の術式は、故に必殺と言われているのだ。

無数のスペクターが、一斉に此方を睨む。その中の一匹が、たどたどしく、口を動かした。

「き、キサ、まら!? お、俺に、ナにを、した!」

スペクターの体に、亀裂が奔っていく。カエデは、あくまで冷静に、指摘する。そうでなければ、感情が激するまま、大暴れしそうだったからだ。

「貴方を倒すために、ロキ将軍は命を賭けた。 ただ、それだけのことです!」

「お、のれ! 人間ガ、人間風情が、こノ俺ヲ! 下等ナ命で、釣り合ウと言ウのか!」

「どんな命であろうと、貴方に蹂躙する権利はありません。 ロキ将軍の命の重み、貴方が無闇に奪ってきた者達の怒り、思い知りなさい!」

「その通りだ! 歯ァ食いしばりやがれ、このクズ野郎がああっ!」

吠えると、マダが躍り掛かった。身動きが取れないスペクターを、拳を振るって片っ端から砕いていく。少し遅れて到着したミジャグジさまが、強烈な集束型の超音波を放つ。それも、もはや抵抗力を無くしたスペクター達を砕くには充分だった。

あれほど、強大で、凶悪だったスペクターが、全て滅びるまで、掛かった時間はほんの数分。蹴散らし、焼き尽くし、叩きつぶした。膨大なマガツヒが、周囲に漂う。毒と言っても、スペクターにのみ作用するものだ。吸い込んでも影響ない。それに、この中には、ロキ将軍のものも含まれている。

動くスペクターが一匹もいなくなるのに気がつくと、暴れ狂っていたマダは、呆けたように言った。

「終わった、のか?」

「恐らく、何匹かは離れたところで、高みの見物をしていたのでしょう。 でも、毒は離れていても、充分作用したはずです。 もはやスペクターは、分身を増やすことも、新しい技を得ることも、それどころか高度な術を展開することだって出来ません」

一種のコンピューターウィルスに蝕まれたスペクターは、新しい力を得ることは出来ない。貧弱な悪魔のまま、アマラ経路を無様に彷徨い、苦痛に悲鳴を上げ続ける事のみが、彼に許されたことだ。この世界でワクチンソフトが開発されることはあり得ず、もはや復帰は無い。ニヒロ機構は愚か、下級の悪魔にさえ、危害を加えることは出来ないだろう。

最強のテロリスト、スペクターは死んだのだ。今生きているスペクターは、ただの哀れな残骸に過ぎない。

「なるほど。 単純にぶっ殺すよりも、遙かにこの方が良いって事か」

「ええ。 因果応報は、必ずしも世界の法則ではありませんが。 今回ばかりは、事実になったのだと思います」

「ふん、ゲスには丁度いい末路ぢゃわい。 マガツヒを食ったら、引き上げよう。 氷川司令に、報告もしなければならんでの。 それに、気は進まんが、ロキの奴の弔いもしてやらにゃあならん」

ミジャグジさまが吐き捨てる。乱暴な口調だが、その言葉には、確実に悲しみが混じっていた。

カエデは頷くと、さっさとマガツヒを吸い込み、その場を後にした。ただ一体の悪魔でありながら、ここまで各組織を恐れさせた存在は、他にはトールしか存在しない。ボルテクス界最強悪魔の一角が、これで落ちたことになる。

一度だけ、振り返る。ロキ将軍が命を賭けて力を奪ったスペクター。これで、憎しみの連鎖は、途切れたのだろうか。そうだと信じたい。

ロキ将軍は、これからも自分の中で力を貸してくれる。そう信じて、カエデは振り返るのをやめた。

 

1,小さな楽園の現実と理想

 

フトミミを救出したその帰り。アサクサのすぐ側。

秀一は、マントラ軍に所属しているはずの悪魔、サルタヒコと相対していた。マントラ軍に出入りしていた時に、何度か顔を合わせたことのある相手だ。かなりの使い手であり、トールにも信頼されていたほどの男である。それが、一騎打ちを挑んできているのだ。拒むのは、あまりにも失礼に当たる。

秀一は、回りに展開した仲間達を、手で制した。一人で戦わなければならないと考えたからだ。

剣を構えたサルタヒコは、強いと一目で分かる。兎に角、打ち込む隙がないのだ。後ろで腕組みして見ているアメノウズメも、眼光が鋭い。卑怯なことなど、間違っても出来ない雰囲気だ。

じりじりと、砂を踏んで、間合いを計り合う。すぐ側にはアサクサがあり、無数のマネカタ達が見ている中。秀一は、命のやりとりをしていた。ある意味、滑稽な光景だ。

無言のまま、サルタヒコが踏み込んできた。予備動作が全くない、流れるような動きだ。刃を発生させた右腕を振るい、致命的な上段の一撃をはじき返す。二度、三度、切り結ぶ。僅かに生じた隙。サルタヒコが踏み込むと同時に、腹を容赦なく薙いできた。

刃が、止まる。腹に数センチ食い込んだところで、腹筋と左腕で刃を掴んで止めたのだ。悪魔の体だから出来る荒技である。普通だったら、掴んだ手ごと、体を真っ二つにされていただろう。

そのまま、膝蹴りを叩き込む。体が僅かに浮いたところで、回し蹴り。刀を手放し、吹っ飛ぶサルタヒコ。砂を巻き上げ、転がる。腹に刺さった刀を抜くと、もう一度構えを取る。砂を払って立ち上がったサルタヒコは、表情を微動だにさせなかった。

再び、間合いを計り合う。数秒の沈黙の後、先に構えを解いたのは、サルタヒコだった。

「恐るべき手練れだな。 噂以上だ」

「拳を、納めてくれるのか」

「ああ。 今の私では、勝てそうにない」

安心した秀一の手前で、サルタヒコは剣を拾い、鞘に収める。そして身繕いをし終えると、秀一の前に跪いた。

「しばらく、側で貴方を見定めさせて貰いたいが、構わないだろうか」

「ああ。 俺は構わない」

「ならば、私は今から、貴方の部下だ。 妻のウズメ共々、好きなように命令してくれて構わない」

「分かった。 今後はよろしく頼む」

実は、安心したのは秀一の方だ。腹を薙いだ一撃には、多分に手心が加わっていた。此方も本気ではなかったとはいえ、全力でやり合ったらどうなったかは分からない。それほどに、サルタヒコの一撃は鋭かったのである。もちろん、部下になってくれると言われて、拒む理由はない。

間諜である事を警戒する必要はあるだろうが、この愚直な言動を見せるサルタヒコが、そんな器用なことを出来るだろうか。リコよりも更に正直そうな性格であるし、不安は感じない。それにサルタヒコを疑うなら、余程サナの方が危ない。たまたま今は秀一に着いてきてくれてはいるが、見込みがないと判断したら、彼女は容赦なく離反するだろう。最初期からの仲間だというのに、悪魔というものは怖い。

怯えているマネカタ達の中で、一人フトミミだけは平然としていた。未来視とやらの能力を駆使して、結果を予知していたのだろうか。咳払いしたのは琴音だ。何事かと様子を見に来たフォンを制して、辺りを押さえ込みに掛かる。

「用事が済んだのなら、今後の対策を練りましょう。 今、いつマントラ軍が攻めてきてもおかしくない状況ですから」

「そうだな」

「フトミミ様、輿を用意しました。 どうぞお使いください」

「いや、良い。 歩く」

さっそく媚びを売ろうとする若いマネカタを一瞥すると、フトミミは自分で歩き出した。この辺りは、安心できる。簡単におべっかに乗るような奴であれば、アサクサから放り出すことも考えていたほどだ。若いマネカタは、不快そうに影で舌打ちすると、用意した輿を片付けさせていた。フトミミはそれを一瞥もせず、側を歩く琴音から、必要な情報を聞き取っている。若いマネカタに、一緒に救出してきたサイクが何か耳打ちしている。下らぬ事を企むようなら、潰すことを念頭に置かなければならないだろう。

反応を見るに、フトミミは暗愚ではない。それに、力あるものにはコトワリを築く義務があるというフトミミの言葉には、秀一にも思うところがあった。場合によっては敵になりうると言うのに、そういったアドバイスをするのは、決して臆病ではないことを示している。例え象徴としての存在だとしても、決して侮ることは出来ないなと、秀一は考え始めている。

マネカタ達がばたばたと走り回る中、幹部達はすぐに集まった。色々な祝いの準備がされていたのだが、フトミミは会議を優先するようにと言った。判断は、今のところどれも正しい。少なくとも、この時点まではそうだった。

シロヒゲがフトミミに最上座を譲り、秀一と琴音も座を少しずつずらす。重要だと考えたか、アンドラスも弟子達に患者を任せて、会議に出てきた。サルタヒコは、秀一の護衛だと言って、斜め後ろに立つ。アメノウズメは笑って、夫の好きなようにさせて欲しいと言った。どうもこの夫婦には逆らいがたい所がある。秀一は、断る理由を見つけられず、彼らの好きなようにして貰った。

「では、早速会議を行いましょうかの。 まず、現在の状況ですが」

議長をしているシロヒゲが、現在の人口と、戦力を説明する。琴音と秀一が共に席を外していたにもかかわらず、大きな混乱はなかったようである。人口は現在57000ほどで、今後はさらなる増加が見込める。急いで退出はしたが、城壁が吹っ飛んだカブキチョウからは、今後も脱出できるマネカタがいるはずである。琴音の予見では、最終的には100000を超えるのではないかと言うことであった。

人口は多いが、しかし防衛能力と、戦力は貧弱だ。具体的な戦力状況を説明し終えた後、琴音が挙手した。

「フトミミさんが来たこともありますし、今後はいつマントラ軍の組織的な攻撃があるかわかりません。 いつ攻撃があっても耐えられるように、方針として更に防衛戦力を強化しましょう。 常備軍を拡大することに加え、予備役制度を導入して、いざというときは皆が戦える状況を作るのが、第一の目的。 その後は、いざというときに指揮官をこなせる、優秀な人材の育成に移りましょう。 これが、第二目的。 最終的には、強力な術によって防衛された城壁を、アサクサの周辺に張り巡らせたい所です。 これを、第三の目的とするべきでしょう」

「確かに、邪神サマエル殿の意見には一理ある」

フトミミが琴音に賛成するのを見ると、マネカタ達がざわめく。彼らは、フトミミが「悪魔」である琴音に賛成するのが信じられなかったのだろう。秀一には、彼らの本音がだいたい分かる。恐らく、もう悪魔は必要ないと考えているのだ。

本当に、愚かな連中である。今の状況で、「悪魔が嫌い」だという感情論がどのような意味を持つというのか。自由だとか正義だとかで、生きていけるほどボルテクス界は脳天気な世界ではない。マネカタのコミュニティなど、悪魔の助力がなければ、瞬く間に滅ぼされてしまうほどの実力しか備えていないのである。

「すぐに、軍備を整えるように。 私がコトワリを開く前に、マネカタが滅ぼされてしまっては意味がない」

「おお、フトミミ様! コトワリを、開かれるのですか!?」

「それを成すためにも、私はこれからミフナシロの最深部に籠もろうと思う」

マネカタ達がざわつく。マネカタにとって、お歯黒どぶ泥が採取できるミフナシロは聖地に等しい。こういう辺りは、宗教的指導者の要素があるのだなと、秀一は思った。だが、今は他にやるべき事がある。

秀一は咳払いして、彼らを瞬時に黙らせた。提案しなければならないことがあるからだ。まだ、マネカタコミュニティには利用価値がある。潰させる訳にはいかない。

「フトミミさん、悪いが、それは後回しにするべきだと思う。 今、マネカタ達はあまりにも多くの問題を抱えている。 今までは俺や白海さんの助力で何とか組織を保たせては来たが、それもこの浮ついた状態では、いつまで出来るか」

「私が、直接指導をするべきだというのか」

「そうだ。 今、俺が一番恐れているのは、貴方が傀儡とかし、過激派が思うままに権力を振るうような状況だ。 さっき周りを見て気がついたかと思うが、マネカタ達の中にも、感情論で悪魔の排斥を望むような輩がいる」

単刀直入一刀両断過ぎるかと思ったが、秀一は敢えて指摘した。何人かのマネカタが、見る間に蒼白になる。彼らの気持ちとやらを尊重してやる義理はない。今は、安定した地盤が、秀一には必要なのだ。それは琴音も同じであるはず。そして、マネカタ達でさえ、違わないはずなのだ。

それなのに、マネカタ達は、放っておくと愚かな道ばかり選ぼうとする。いい加減、面倒を見きれないと秀一は思い始めていた。だが、それでも面倒を見てやらないと行けないのが煩わしい。

「コトワリを開くにしても、マネカタが内部から滅びてしまっては意味がない。 今まで俺も白海さんも、マネカタ達の自治には出来るだけ干渉しないように、意思は尊重するように動いてきた。 だが、もし貴方が責任を放棄すると、此処で一気に努力が無駄になる可能性がある」

「……ふむ」

「コトワリを考えるのは大いに結構だが、貴方がきちんと手綱を握ってからの方が良いのではないかと、俺は思う」

フトミミが、指先を額に当てた。この間も、この動作は見た。未来を見ると、フトミミが称する行為だ。

マネカタ達が、またざわつき始める。フトミミはしばし沈黙していたが、やがて口を開いた。

「二通りの未来が見える。 一つは滅び。 今ひとつは、闇」

「どういう意味だ」

「一つの未来は、君の言うとおり、マネカタが自滅するものだ。 私がコトワリの開発にいそしんだ結果、強硬派のマネカタが暴走する。 幾つかの悲劇が繰り返され、マネカタ達が悪魔の追い出しを強行した結果、内部からコミュニティが瓦解。 その後は穏健派の粛正を繰り返したために内戦が発生して、マントラ軍の到来を待たずして、アサクサは滅びる。 私も権力闘争の混乱の中で殺されるだろう」

マネカタ達のざわつきが、一段と大きくなった。無理もない話である。彼らは、期待していたのだ。フトミミが、自分たちに都合が良い話ばかりを持ってくるのを。そして、自分たちの苦労を、全て背負ってくれるのを。

怠惰で愚鈍な人間は、時に全てを他者にゆだねようとする。その他者が、悪意に満ちていた場合。全てを失い、路頭に迷うことになる。国レベルでそれが行われることもあり、独裁政権と呼ばれる。

苦しい時代こそ、人は信仰にすがる。現実は常に苦しく暗いことが多いから、目を背けたいのだ。それには、光に満ちた天国を説く信仰が、都合がよい。人の弱く愚かな面ばかりが強調されたマネカタではなおさらだ。その対象だったフトミミには、完全無欠な善の存在としての期待が掛けられていたという訳である。

独裁国家は、宗教国家とよく似ている。その最悪な面では、全く同じ存在だと言っても良い。

もしも、フトミミが「教祖」として独裁政権の長に収まるような存在であれば、此処はむしろすんなりまとまったかも知れない。だが、フトミミは幸いにと言うべきか、そうではない。

「もう一つの闇は、見通せぬ未来だ。 君の言うとおり、いずれマントラ軍が、万を超える軍勢で攻めてくる。 これは、回避できない。 何処に逃げようと、彼らはコミュニティが再建不能になり、私が死ぬまで追い立ててくるだろう。 待っているのは、確実な滅びだけだ」

「な、ならば、我らはどうすれば」

「まず、防衛体制を整えることだ。 かなり手強い防御が出来れば、ニヒロ機構との戦いが一段落するまで、マントラ軍は攻めては来ないだろう。 更に、内部の体制をしっかり固めて、意思を統一する。 それらが済んでから、フトミミさんがコトワリを求めればいいのではないか」

「どうやら、それしか無さそうだな」

不安そうに顔を見合わせるマネカタ達を、フトミミは見据えた。眼光は鋭く、確かに大勢力の長たるものの威厳がある。秀一が思っていた以上に、フトミミの能力は高そうである。

「これから、問題を起こしうる幹部を、降格する。 そうすることによって、意思の統一を図る」

思いも寄らぬ事態に、マネカタ達は、言葉を失っていた。フトミミは琴音と秀一を交互に見ると、軽く頭を下げた。

「軍事に関しては、これからも一任させていただきたい。 移入を望む悪魔がいたら、受け入れる姿勢も続ける。 頼めるだろうか」

「分かった」

「分かりました。 そのほかの技術提供についても、協力を続けさせていただきます」

「ありがたい」

どうやら、瞬時にマネカタコミュニティが瓦解することは無さそうだと、秀一は胸をなで下ろした。マネカタ達にとっても、これからは正念場になる。少しでも油断すれば、あっという間にこの小さな楽園は滅び去ってしまう。

会議は、間もなく解散となった。フトミミは媚びを売ろうとするマネカタ達から離れると、一人貸与された宿舎に向かった。シロヒゲが、秀一に話し掛けてくる。

「これで、良かったんですかな」

「少なくとも、瞬時にこのコミュニティが瓦解するようなことは無いだろう」

忌々しげに、此方を見る複数の視線がある。シロヒゲもそれを感じているようで、不安そうにしていた。

 

会議棟から出てきた秀一を待っていたのは、聖であった。前にカズコが腰掛けていた石に、大仰に腰掛けていた。カズコが嫌そうな目で見ていたが、気にする様子もない。大人の貫禄と言うよりも、何か無頓着なものを感じる。

飄々とした空気の中に、妙な強さを持つ男だと、以前から思っていた。最近は無精髭が伸び、更に凄みが増している。眼光は鋭く、秀一を射貫くことを躊躇しない。

「よぉ。 首尾良くフトミミを救出したそうじゃねえか。 そっちの姉ちゃんと同じく、マネカタ達の英雄様という訳だ」

「何とか、成功した」

「そうかい。 だが、勇の野郎に、コトワリを開かせちまったそうじゃねえか」

妙なことを知っているものだ。眉をひそめる秀一に、聖は言った。琴音は雰囲気を察したか、クレガと一緒に場を外してくれる。会議棟から着いてきているサルタヒコは、無言で聖の指の動きに到るまでにらみ付けていた。もし秀一に害意を為すようであれば、瞬時に斬り捨てるだろう。いや、悪魔だから、人間には手を出せないか。その場合でも、サルタヒコなら、どうにかしそうである。

「何処で、それを知った」

「俺は、何でも知ってるんだよ」

「この情報は、まだ誰にも話していない。 マネカタの中では、カザンを始めとする少数しか知らないことだ。 何故知っている」

「アマラ輪転炉に聞いたんだよ。 あいつはスゲエぜ。 未来のことでさえ、ある程度は知ってやがるんだからな。 くくくくく、アマラ輪転炉を自在に操れる俺は、ある意味予言者様という事になるかも知れねえな」

アマラ輪転炉は、ニヒロ機構の秘宝だ。以前から聖がシブヤに出入りして、触らせてもらっていることは知っていた。何だか、いやな予感がする。

知ることと、出来ることは、全く別の話だ。秀一はマガツヒをたくさん喰らったことで、多くの情報を得た。その中には、武技も少なくない。だが、だからといって、それらを完璧に再現できる訳ではないのだ。例えば、もしも剣でオセと戦ったら、絶対に勝てない。情報とは、そういうものだ。使いこなして初めて意味が出てくる代物であって、知っているだけでは大した力を持たない。

良い例がフトミミだ。仮に知っていたとしても、マントラ軍の牢から出ることは出来なかった。

ペンは剣より強いと言った者がいた。情報や、それに起因する知識は確かに力だ。だが、万能の力ではない。だというのに、聖は何かを勘違いし始めているような気がする。そもそも、この男の、貪欲な情報収集欲と、復讐心はどこから来ている。それが、不安ではあった。どうも、最近の言動を見る限り、個人的な経験が元になっているとは思えない。何か、生理的な、本能的なレベルでの行動だとしか思えない。

何よりも。あのおかしくなった勇と、同じ臭いを聖が発しているような気がしてならないのだ。

「それで、何のようだ」

「一つ、面白い情報を持ってきた。 ニヒロ機構のオベリスク要塞に、妙な動きがありやがる」

「妙な動き?」

「この間派手にニヒロ機構が負けただろう。 この機に手柄を立てようと、独走してる奴らがいるみたいなんだよ」

あり得ることだ。ニヒロ機構も一枚岩ではないだろう。キウンは自分を卑下している様子であったし、フラウロスはスカウトさえしてきた。カエデはがちがちの法治主義者という訳ではなく、自分の意思でニヒロ機構に命を捧げている雰囲気があった。である以上、己の野心で独走する奴がいてもおかしくはない。

「詳しく聞かせてくれないか」

「へ、へ、へ。 例の先生の事が心配なんだろう?」

「……」

「何でも知ってるって言っただろう? 連中が目論んでる事には、その先生が重要らしくてな。 塔の頂上に、監禁されてるって話だ」

今まで、聖がニヒロ機構の不利になる行動をしてきたことは知っている。本部に乗り込んだ時は、氷川を射殺するためだとさえ言っていた。事実、対面した時は、そのそぶりを見せていた。この様子だと、マントラ軍に自分を売り込み始めているかも知れない。今回の情報も、信用できるだろうか。

「榊センパイ、どうするんスか?」

「そうだな。 先生には、聞きたいことが幾らでもある。 それに、もしニヒロ機構が、イケブクロを滅ぼした手段をまた使おうとしているのであれば、止めさせなければならない」

「やれやれ、儂が抜けてから、ニヒロ機構では困った奴が増えたようじゃの」

心底残念そうに、フォルネウスが言う。

フトミミの予言もある。オベリスクを探ることに、損はないだろう。今のところ、マントラ軍も兵力の再編成で忙しいだろうし、動きが取れないはずだ。

ただ、いきなり乗り込むのは自殺行為だ。情報が欲しいところである。

「細かい情報が、もっと欲しい」

「おう、やる気になったか」

「ああ。 だから、侵入するには最低限必要となる情報を、ある程度集めてくれないか」

「おやすい御用さ」

聖は帽子を取ると、ふらりとどこかへ消えていく。

やはり危うさを、その背中には感じた。

 

2,二虎競食、内憂外患

 

順調に部下の数を増やしつつある千晶は、最近目立って不機嫌だった。苛立ち紛れに、ブーツで砂を踏みつける。怯えた部下達は、自分に怒りが降りかかる前に、さっさとその場を離れていく。

修行が厳しいからではない。最近彼女に近付いてきたトールは、千晶に徹底して武術を叩き込んだ。元々覚えることが好きで、飲み込みも早い千晶は、それを楽しんでいた。殴られようが、罵られようが、気にはならなかった。トールの実力は本物で、叩き込まれる武術が、千晶好みの、殺戮と破壊に特化したものばかりであったからだ。トールは生身の武術だけではなく、剣や槍にも詳しかった。どちらも千晶好みの、荒々しい技ばかりである。

だから、トールや修行に不満はない。彼女が苛立つ要因は、別にある。

千晶の視線の先には、ヨヨギ公園がある。どうやら、彼女以外にも、彼処を狙っている者がいるらしいのである。

先ほども、二匹見張りに出していた悪魔が殺られた。ヨヨギ公園側に動きはなく、何か別の悪魔に殺されたとしか思えない。トールとベルフェゴールを除くと、従えているのは雑魚ばかりだという事を、こう言う時に思い知らされる。小勢力だから、人材が少ないのは当たり前だ。だが、少しの根性も見せないクズばかりだという事実を目の当たりにすると、苛立ちも募る。

やはり、この世に雑魚はいらない。それを、思い知らされる。

髪を掻き上げると、部下達に招集を掛ける。ヨヨギ公園の近くに、最近作り上げた、小規模な砦が、今の千晶の住処だ。現在戦力は200弱。毎日下等な悪魔を捕獲しに行っては、少しずつ殺されたりして減るので、相対的にはあまり変わっていない。粗末な砦の入り口で、敬礼するヴァーチャーに鷹揚に頷く。粗末とは行っても、大きな砂丘の影に作り、石組みで城壁もある。見張り用の物見櫓も作ってあり、部隊としての体裁は整っている。

謁見の間には、どこからか見つけてきたリクライニングシートが置いてある。丁度戻ってきたらしいベルフェゴールが、拭いているところだった。千晶が来ると、心配そうに眉をひそめる。

「何処に行っていたの?」

「偵察よ。 部下共が頼りにならないものだから」

「仕方がないわ。 まだ訓練の途中なのだから」

「ふん、どんなに訓練しても、クズはクズよ」

ブーツを脱ぎすてると、跪いたエンジェルが拾っていく。磨かせるのだ。

「トールは?」

「昨日、見張りが殺られた場所を探りに行ったわ」

「そう、熱心なことね」

「修行のノルマはこなしたの? また殴られるわよ」

そんなものは、とっくにこなした。手を振ってベルフェゴールを下がらせると、千晶はぼんやりと、靴を磨く天使を見つめた。

幼い頃から、千晶は孤独だった。どこかの有力者だとか言う父は、家に戻ってくることも滅多になく。トップモデルだとか言う母も、仕事仕事で滅多に顔を見なかった。家では家政婦が何でもしてくれたが、それだけだ。どいつもこいつも雇われ人で、良くしてくれるのは給料が出るからなのだと、幼い頃から千晶は知っていた。

どうして普通の公立校に入れられたのかは分からない。だが、すぐに孤立したのは、幼稚園の頃と同じだ。その頃から千晶は、自分と周囲に断絶があることに、気づいていた。

自分が覚えるのに一分かかる物事を、周囲は三分かかっても覚えられない。

自分が一回で出来ることを、周囲は何度やっても出来ない。

貧弱なプライドにしがみついている、周囲が滑稽でならなかった。クズはクズらしく、地べたをはい回っていろと、その頃から思っていた。喧嘩もした。勝てない相手などいなかった。千晶は見て、知っていたのだ。人間は何処を攻撃すれば、壊すことが出来るのか。それに、いざというときは、千晶には親の権力もあった。

やがて、寡黙で何処か不思議な雰囲気を持っている秀一と、周囲から妙な排斥を受けている勇と出会った。

無能な奴らだとは思ったが、それでいながら、不思議な親近感もあった。だから、つるんだ。だが、それでも。心の奥底にある飢えは、満たされることがなかった。自然と、千晶は荒れた。

テストでは常に満点を取り、体育では県内記録を何度もたたき出した。成績で、千晶を上回る人間など、国内全土を探しても数えるほどしかいなかった。だから、教師は千晶に何も言わなかった。

中学になって、性的な事に興味が出てくると、おもしろ半分に恋愛に手を出してみた。その頃は実家を離れ、親がくれたアパート丸ごと一つを自分のものとしていたから、誰も困る者はいなかった。

性行為を経験してからは、ドラッグ類や援助交際も興味本位でやってみた。だが、どれもこれも面白くも何ともなかった。漫画で描いているような悦楽も恍惚も無く、欲求のままにただ体を動かすだけ。

男に飽きてからは、女も試してみた。それも同じだった。

恨みも多く買った。だが、その全てを返り討ちにしてきた。何人かは精神病院に送り込んでやった。十人がかりで襲ってきた連中を全員殴り倒して病院送りにしてやると、もう手を出してくるものはいなくなった。

貧弱な虫の、貧弱な恨みなど、そんなものだ。踏めば潰れる。そして千晶は、踏むことをためらわなかった。

一端飽きると、興味も失せた。秀一にも勇にも言っていないが、此処しばらくは性行為をしていない。単純に面白くないから、やる気もしないのだ。テクニシャンと噂の人物と寝ても見たが、それも同じだった。頭に来たので半殺しにして、店ごと潰してやった。恋人をとっかえひっかえしていたのは、たまには気が利いた事の出来る相手がいないかと思ったからだ。残念ながら、いなかった。

もうこの年で、千晶は大人の喧嘩のやり方も、悪い意味での権力の使い方さえも、覚え始めていた。

自分が怪物と呼ばれていることを、千晶は知っていた。さもありなん。社会に保護されていることで、やっとやりたい放題に遊べている周囲の子供達と千晶は根本的に違ったからだ。人間は己の理解の範疇に無い存在を恐れるように出来ている。それを知っているから、千晶はただせせら笑った。

そして虚しい現実に、飽き飽きしていた。

秀一も勇も、腐れ縁が続いている。不思議と、この関係だけは心地よかった。しかしそれも、根本的な解決とはほど遠く。ただ虚しい、延命処置にも似ていた。

東京受胎が起こったことを、千晶は天に感謝している。

そして、一秒ごとに思い知らされる。弱者どもは、この世に生きる資格さえ無いのだと。

おずおずと、磨き終えたブーツをエンジェルが差し出した。けちを付ける所は見あたらない。無造作に履くと、外に出る。丁度トールが戻ってきたところであった。

「どうだった?」

「残留魔力が残っていた。 俺はあまり細かい作業は得意ではないから、ベルフェゴールに後で探らせると良いだろう。 現時点では、一つだけ分かったことがある」

「なに?」

「犯人は、悪魔ではないな。 恐らくは、マネカタだろう」

殺意が沸き上がるのを、千晶は実感した。周囲の悪魔達が、青ざめて遠ざかっていく。マネカタ、だと。よりにもよって、あの貧弱の代名詞、雑魚の中の雑魚であるマネカタが、自分の邪魔をしているというのか。

「千晶様、油断は禁物だ。 マネカタと言っても、ただの鼠ではないな。 中級の悪魔並みの実力は持っていると思った方が良い」

「だから何?」

「俺とベルフェゴールが不覚を取ることはまずないが、今の貴方では返り討ちにあう可能性もあると言うことだ。 しばらくは俺達だけで対処する事になる。 その間に、技を磨いておくことだ」

何という、屈辱。憤怒が、天を突くかと思った。

「良いでしょう。 これから、修練のメニューを三倍にしなさい」

「ほう? 下手をすると死ぬかも知れないが、良いのだな」

「マネカタごときに、私を凌駕しうる者がいるなどと言う事自体が、許し難い侮辱だわ」

千晶は舌なめずりすると、上着を脱いで、エンジェルに放った。許し難い。絶対に許す訳にはいかない。ただの一秒でも、マネカタなどに後れを取るなどと言う事が、許されて良いはずがないのだ。この、橘千晶が。ボルテクス界のクズであるマネカタなどに。

その時から、千晶は以前にも増して、凄まじい修練を始めた。

 

砦を出たトールは、足を止めて振り返った。後ろから着いてきていたベルフェゴールが、何か言いたそうにしていた事に、気づいていたからだ。マントラ軍では、この間マッハが命を落としたと聞いている。此奴は千晶に何処までも着いていくだろうから、邪険にするのはまずい。ニヒロ機構に対抗するためにも、戦力は一騎でも多く欲しいのだ。

「何か言いたいことがあるのだろう?」

「……貴方は、千晶をどうするつもり?」

愚問であった。トールの目的など、最初から決まっている。

自分が戦いやすい環境を作ること。そのために、マントラ軍の首領に、相応しい人物を着けることだ。

今トールが目を着けているのは、ニヒロ機構で力を伸ばしているマダやフラウロス。この二人なら、同時に掛かってくればトールと良い勝負が出来る。後は噂に聞く、カブキチョウの城壁を半壊させたダゴン、それにメタトロンという面々だ。メタトロンとは戦わなくなる可能性もあるが、その他はいずれ拳を交えることになるだろう。他にも強者はいるが、トールが戦いたい相手ではない。

ただ、戦いのために。そのために、トールは存在している。

だが、トールが戦いを楽しむそのためには、マントラ軍が力を付けなければならない。何とかこの間の会戦ではニヒロ機構の侵攻軍を押し返したが、このままではいずれ自力の差が出る。ゴズテンノウの跡を継ぎうる人材を捜し、その下で戦いに専念する。それが、トールの望みだ。

それに、マントラ軍には愛着もある。本音を言えば、マントラ軍が勝つことを、トールは望んでいる。力によるコトワリが開かれれば、トールはとても快適な世界に生きることが出来るだろう。それに、トールの部下や、仲間も、マントラ軍には多いのだ。

だから、愚問だと、トールは思ったのだ。

「決まっている、だろう。 聞くまでもなかろう」

「そうではないわ。 千晶は、元々とても危うい子よ。 貴方が下手なことを教え込むと、取り返しがつかない事になりかねないって、言っているのよ」

「取り返しがつかないことだと?」

トールが失笑すると、ベルフェゴールはじろりと睨んできた。この女、心底から千晶のことを大事に思っている。トールの見立てでは、人間時代は千晶の関係者である。

あの娘の攻撃性は、理解者が現れなかったことによるものだと、トールは分析している。話に聞くところでは、人間時代の親友としては、人修羅や他のもう一人がいたと聞いている。彼らがいたおかげで、千晶はかろうじて人間社会と関係を持てていた。もし、その二人がいなかったら。恐らくは、もっと苛烈な、人間社会との敵対を選んでいたかも知れない。

逆に言うと、恐らく関係者だったであろうベルフェゴールは、千晶の心の平安に、何一つ関与していなかったことになる。

「千晶様はな、元々非常に孤独な存在だ。 だからこそに、己の力に全ての解決を求めてきたのだろう。 幼い頃からそうだったから、今でも自分の力で道を開く以外の事は知らない。 誰も教えはしなかったからな」

「だからこそ、千晶が少しでも言うことを聞く貴方が」

「愚かしいことを言ってくれるなよ。 修羅とはかくあるべきものだ。 もっとも、今の千晶様は、修羅ともなりきれてはおらぬがな」

「貴方は一体、どうしてそのような、力の権化となってしまったの」

意外な台詞を、悪魔から聞くことになった。しかも、魔王とも呼ばれる高位の堕天使からである。

ベルフェゴールは、千晶を自分の娘か何かのように思っているらしい。しかし、千晶は捨て駒だとしか考えていない。それに気づいていてなお、千晶を気遣うベルフェゴールは、どこか哀れでさえあった。

「貴方は、千晶を、自分の分身にしようとでもしているの?」

「ふむ、そうかもしれんな。 だが、まだ今の千晶様では、俺が味わってきた苦痛と絶望の、一割も消化はしきれんだろうが」

極論すれば。

今この砦にいる他の全てが束になったとしても、トール一騎にさえ勝てない。同じ上級悪魔と言っても、ベルフェゴールでは死力を尽くして挑んできても、トールにかすり傷を着けるのがせいぜいである。その程度の実力で、トールに意見するなどおこがましいを通り越して笑止でさえある。

トールとしては、今の状態を維持したまま、更に千晶の怒りを焚きつけたいところである。それには、何かしらの挫折を味あわせるのが一番だ。

トールは、既にヨヨギ公園の周囲で蠢動しているマネカタの素性を掴んでいる。サカハギという猟奇殺人鬼であり、見立てでは今の千晶よりも二回りほど実力が上回る。此奴と戦わせて、手足の一本も失わせれば、とても面白いことになるだろう。

千晶の弱点は、敗北を知らないことだ。此処でしっかり敗北を知っておけば、怪物じみた現在を、更に上回る存在に仕上がる。舌なめずりしたくなるほどに楽しみである。

今のままでも、千晶は密林で単独生活が出来る程度のたくましさがある。それでも、まだトールの望む強さにはだいぶ足りない。あのゴズテンノウと同等、それ以上になるには、まだまだ鍛えなければならない。

サカハギの様子を見に行こうと、身を翻し掛けたトールに、ベルフェゴールが叫ぶ。

「雷神トール!」

「何かな?」

「もし、貴方が千晶を害そうとするなら。 私は、命に代えても、貴方を倒す」

「面白い。 その意気で力を高めておけ。 そうすれば、いざというときが仮に来たら、俺も楽しく戦うことが出来る」

マントラ軍に戻った時。著しく戦力も強化できる。楽しみで仕方がない。それに、千晶の言うとおり、天使軍を取り込むことが出来たのなら。一気に形勢を五分に引き戻すことが出来るだろう。

そうなれば決戦だ。思う存分、拳を振るうことが出来る。これほど楽しみなことが、あるだろうか。

トールにとって、戦いは呼吸そのもの。

そして、喜びそのものであった。

 

クー・フーリンは、王の間から退出した。控えている護衛の騎士達が、皆同情的な視線を向けてくる。端整な顔立ちには疲労が残り、白い鎧と長い髪にも、乱れが出始めている。

未だ独立を保つヨヨギ公園の、要である戦力が、妖精の大騎士クー・フーリンだ。ケルトの伝説に残る最強の英雄である。ニヒロ機構の剣豪オセと引き分けたこともある使い手で、手にする魔槍ゲイ・ボルグの破壊力はボルテクス界にも名高い。だが、彼の武力を持ってしても。このヨヨギ公園は、もう保たないのかも知れなかった。

クー・フーリンは気づいていた。最近、このヨヨギ公園を伺う、禍々しい影が二つもあることを。しかもその一つは、かの雷神トールであることを。特に雷神トールは、クー・フーリンだけでは勝ち目が無いかも知れない相手で、ヨヨギ公園を上げての対策が必要となるのだが。

何度王に進言しても、まともに聞いてはくれなかった。

王オベロンは今、王妃ティタニアと何十回目かの、夫婦喧嘩の最中である。何でも最近王妃が手に入れた美少年の侍従を巡っての争いだとかで、食事も手に着かないそうである。この夫婦は悪魔としての実力が大体同じの上に、何で結婚したのかよく分からないほどに仲が悪い。しかも、権力に双方が興味を示しており、手腕も同じくらいと言う、聞けば聞くほど頭が痛くなるような条件が揃っている。

王はそんな状態。その上、ヨヨギ公園に集うニュートラルサイドの悪魔である妖精達は基本的に気紛れで享楽的。組織が瓦解する条件は揃っている。それでも、今までは何とかヨヨギ公園も保っては来た。ニヒロ機構とマントラ軍の中間地点で、双方と的確に距離を持ちながら動いてきたからである。何度か襲来した侵攻軍に対して、頑強な抵抗を示したことも、独立の維持に一役買っている。しかし、それが油断を産む下地になってしまった。

王は、このヨヨギ公園が落ちることはないと思いこんでいる。王妃には会うことさえ出来なかった。閨で美少年の侍従とやらとお楽しみの最中という訳だ。頭が痛くなってくる話である。

自宅に戻ろうかとも思ったが、そうもいかない。トールはいつ攻め込んでくるか分からないし、他にもなにやら得体の知れない奴がいるのだ。城壁ぐらいでは、トールの猛攻を凌ぐことは出来ない。最初から、クー・フーリンが全力で対応して、他の妖精達が捨て身で掛かって。何とか退けることが出来るかも知れないというレベルの相手だ。倒すことなど、とても無理だろう。

かって、ヨヨギ公園には、有能な悪魔もいた。レプラコーンのクレガはかなりの使い手だったが、戦いに倦み、去ってしまった。今ではアサクサのマネカタコミュニティで、高名な邪神サマエルの右腕になっていると聞く。ピクシーのサナは、こんな状況に嫌気が差して、出て行ってしまった。次期ピクシー女王(メイヴ)の説もささやかれていたほどの逸材であったのに。不思議と奴も今ではアサクサにいて、かの人修羅の部下をしているのだという。

戦士としての血は騒ぐ。そのような強者達と、一緒に戦ってみたいとも思う。それに羨ましいと思う。二頭体勢でありながら、綺麗に分担を担当して、回っているアサクサが、である。

だが、クー・フーリンには、背負うものが多くなりすぎた。思えば、神話の時代にも、そうやって何もかも一人で背負わなければならなかったような気がする。いつも一人で戦わなければならない運命が、クーフーリンには科せられているような気さえした。

城壁に上がる。辺りは砂漠が広がり、地平の彼方まで何も見えない。敬礼する兵士に鷹揚に頷くと、ゆっくり周囲を見て回る。今日も、得体の知れない気配が近くにある。つかず離れず、此方を伺っているのが分かった。

忌々しい奴だと、クー・フーリンは思った。一番クー・フーリンが苦手とするタイプだ。神話の時代も、彼を屠ったのは、謀略だった。最強の戦士ではなかった。今度も謀略によって命を落とすのかも知れないと思うと、うんざりした。

戦いは怖くない。しかし、政争によって後ろから刺されるのは嫌だ。ニヒロ機構か、マントラ軍に所属すればそんな恐れはないと、去り際に言った妖精もいた。サナだった。そんな気はないと言い返しはしたが。今では、迷いが生じ始めている。

ふと気づくと、ヤヒロヒモロギから取り出したマガツヒを入れた瓶を、差し出す手。前に、いつの間にか副官のタムリンが立っていた。彼も神話に名前が残る、優秀な妖精の騎士だ。

「お疲れのようですね。 少しはお休みになられてはいかがでしょうか」

「貴官には話したはずだ。 あの雷神トールが、このヨヨギ公園を伺っている。 奴の実力は、今の私を明らかに凌いでいる。 それなのに、主力の流出が続き、王も王妃も無気力になっている今、私しか対抗できる戦力はいないのだ。 憂鬱にもなる」

「しかし、お休みにならないと、その対抗できる力さえ残りません」

「分かってはいる。 だが、私は」

もう、謀略に殺されるのは嫌なのだと、クー・フーリンはつぶやいた。

「もしも、ヨヨギ公園が落ちるような時があったら、アサクサに行け。 クレガとサナに頭を下げて、仲間に入れて貰え」

「滅多なことを言わないでください。 貴方がいて、このヨヨギ公園が落ちる訳がないでしょう」

「さあ、それはどうだろうな」

外憂に加えて今は内患までもが、この国を蝕んでいる。タムリンは優秀な戦士だが、クー・フーリンを絶対視している所がいただけない。オセとの戦いは相手が退いてくれなければ負けた可能性も高かったし、この要塞の防御力などたかが知れている。

しばらく、辺りを見ていたが、変化はなかった。少し休むことにしようと思ったクー・フーリンは、タムリンが持ってきたマガツヒを口に入れると、城壁に背を預けて目を閉じた。

此処でなら、敵の接近にも気づきやすい。そして、いざとなれば、自分のみを盾にして、攻撃を防ぐことが出来る。

 

砂漠に潜んでいたサカハギは、クー・フーリンが城壁に寄りかかったまま眠りについたのに気づいて、舌打ちした。奴は寝ていても、サカハギが動けば察知するだろう。これでしばらくは、身動きが取れなくなってしまった。

彼の皮衣には、殺した悪魔のデスマスクも追加されている。最近この辺りを彷徨き始めた下級の悪魔どものものだ。下級の悪魔であれば、充分彼でも仕留めることが出来る。だが、徒党を組まれると、流石に面倒くさい。その上、噂に聞くトールや、上級悪魔ベルフェゴールも、この辺りにいるのを確認している。

連中とかち合ってしまったら、流石に勝ち目はない。慎重な行動を心がけなければならなかった。

何度か、新しい皮衣を撫でる。悪魔の顔の皮は、思ったよりもごわごわしていて、肌触りが悪い。憧れてはいたのだが、もう良いと言うのが正直なところだ。むしろ、完全に殺してマガツヒにして、喰らった方が都合がよい。

カグツチの灯りが、弱くなってきた。それに伴い、辺りが暗くなってくる。悪魔の動きが鈍くなってくる、今が好機だ。砂に潜って、さっとその場を離れる。この方法なら、仮にクー・フーリンに気づかれても、逃げることが出来る。

しばらく砂の中を泳いで、距離を稼ぐ。やがて、砂の上に出ると、辺りは真っ暗になっていた。周囲に敵影無し。体を砂から引き上げると、命より大事なナイフをひとなめして、獲物を探しに掛かる。

サカハギの見たところ、トールはヨヨギ公園を落とすつもりだ。その時、ヨヨギ公園の秘宝を奪取する好機が産まれる。トールはクー・フーリンにかかりっきりになるだろうし、妖精の王夫婦はベルフェゴールが相手をすることになるだろう。残りは雑魚ばかりだ。まさに稼ぎ時である。あまり多くの時間は掛からないだろうが、ヨヨギ公園の構造は把握している。何匹か妖精も殺して、マガツヒを喰らったからだ。ここしばらく、ヨヨギ公園を抜ける奴が出始めている。だから、そんな好機が産まれた。

力だ。力を得る。そして殺す。何もかも殺して、更に力を蓄える。そして、自分だけの王国を作る。生きているのは、自分だけでいい。他は何もかも奴隷にしてしまえばいい。

それが、可能なのが、この世界の素晴らしいところだ。

何故、これほど強い殺意を抱いているのか、サカハギ本人にも分からない。だが、それが一番自分に合っている気がする。真面目な人生などばかばかしいだけだ。何もかも、くだらない。

いっそ全てを焼き尽くして、自分だけが生き残る世界も良いかも知れない。

辺りを徘徊しながら、サカハギは獲物を探す。目は、マネカタとは思えないほどに。殺気にぎらついていた。

 

3,オベリスク内紛

 

最初、オベリスクの異常に気付いたのは、マダだった。見回りがてらにオベリスク塔に赴き、捕獲している創世の巫女の様子を見たいと、出迎えに出てきたモイライの三姉妹に言ったのである。そうしたら、妙な返事が返ってきたのだ。

「創世の巫女は、風邪を引いています」

「風邪ぇ?」

聞いたことはあった。人間がかかる、呼吸器および喉に炎症を起こす病気の総称だ。重篤な症状を起こすことは少ないが、誰もが必ず掛かるものであったという。そして、根絶はついにできなかったそうである。

オベリスク塔は、天使達の掛けた術を解析し、今は機能が七割ほど回復している。浮遊する正方形の石が上下するのを横目で見ながら、マダは頭を掻いた。無理に三姉妹を退けて圧し通るのも芸がない。

「まあ、人間ならそれもあるかもしれねえけどよ、何でまた急に。 バイタルは、お前らが管理してたんじゃないのか」

「分かりません。 兎に角、今は面会できません」

「……そうかい。 じゃあ、引き上げるとするがな」

マダは、それほど魔術には詳しくない。酒を造る術に関しては、例外的に誰よりも知識を持っている自信があるが、それだけである。だから、モイライの三姉妹が塔を維持するために使っている術に、あまり違和感は感じなかった。

違和感を感じたのは、三姉妹そのものに、だ。脳筋と言われるマダだが、相手の観察は戦闘で必須だから、こなすようにはしている。

あれから、ロキの弔いは、簡素に済ませた。それから、ナイーブになっている神経を、少しずつ解きほぐしてはいる。だが、まだ衝撃は大きい。そのせいかとも思ったのだが、一応報告はした方が良いだろうと思い立つ。そして、ニヒロ機構本部へと足を運んだ。もう用事は無かったので、特に気にすることもない。

攻撃部隊の総司令官に就任したカエデは、以前よりもずっと効率の良い仕事をしているし、休息もしている。本部深奥の部屋を幾つか与えられて、其処で執務をこなしていた。規則的に並んだ部屋を横目に、滑らかな床を踏んで歩く。証明は抑えられ、歩くのに非常に都合が良い。壁の色も統一されており、秩序を求める組織の内部にいるのだと、これだけでも分かる。程なく、廊下の奥に、下級中級の堕天使が行き交う様子が見て取れた。その中の一匹に、オロバスを見つけたので、声を掛ける。

「おう、オロバス。 おめえの上司は仕事中か?」

「はい。 もう少しで休憩時間に入りますので、その時話せるかと思いますが」

「そうか。 じゃあ、待たせて貰うかな」

いい加減「嬢ちゃん」じゃあ拙いかと、マダは思った。既にマダの上司なのだ。しかし、カエデ司令官というのも、何だか変である。公式にはカエデ司令官と呼ぶしかないとして、プライベートでは今まで通りにするかと、マダは決めた。

近くにある休憩室で、腕組みして待つ。程なく、目を擦りながら、カエデが司令室から出てきた。マダを見ると、眼をぱちくりさせる。マダが立ち上がると、カエデは膝までもない。しかし、この小さな娘が、信じがたい度胸と知力を駆使して、皆を守ってきた。

「どうしたんですか、マダ将軍」

「ああ。 ちょっとばかり、オベリスクの方で気になることがあってな」

カエデは、何でも話せる相手だ。酒を一緒に飲めないこと以外、マダに不満はない。

しばし、漠然とした不安について語る。真剣に話を聞いていたカエデは、やがて小走りで司令室に戻ると、氷川司令に連絡を始めた。

 

砂漠の中、立ちつくす巨塔。天使軍が建造し、ニヒロ機構が奪取した要塞。オベリスクである。

かっては空中に浮遊していたそうなのだが、今ではピサの斜塔さながらに、若干斜めになりながらも砂漠につき立っている。かなりの高さから落下したというのに、原型をほぼとどめているのだから、凄まじい強度だ。しかも、落下してからも、ニヒロ機構の猛攻にしばらく耐えたそうである。

内部には約5000の守備兵が駐留していて、防衛設備は今でも生きているという。攻略の困難さは、それらの情報からも明らかだ。

秀一は、大きな砂丘の影から、様子を伺っていた。周辺の警備は比較的緩いのだが、それは防御設備とやらが絶対だという安心感があるからだろう。その隙を突けばいいなどと言うのは、ちゃんとした情報を持っている時に言えることだ。

この塔に、祐子先生が捕らわれているという。

人間だった時の記憶は、今でもしっかり残っている。教師としてみれば、祐子先生は確かに良い人だった。教え方も上手だし、熱心だった。だが、どこかに影があった。千晶と勇、それに秀一の通称問題児三人組(何故か秀一も入れられていた)と平気で接していたし、区別も差別もしなかった。特に、千晶に向かって面と向かって指導が出来るのは、祐子先生だけだったような気がする。親の権力と凶暴性を恐れて、校長でさえ近寄らなかった千晶に、祐子先生は正面から向き合っていた。だから、千晶も、祐子先生の見舞いに同意したのだろう。

恋愛感情があったかというと、恐らく、いやほぼ確実にない。熱を上げる勇を、隣で静かに見ていたほどだ。恋をすると独占欲が働くとか言うし、一挙一動が美化されて見えるともいう。それらと祐子先生は関係がなかった。

他の生徒も、おおむね祐子先生を高く評価していたと思う。ただ、同僚の教師達がどう接していたかまでは、秀一の乏しい情報網では分からない。ただ、サナが気になることを言った。

多分その先生は、同僚達の間では、浮いていたのだと思うと。

気配を消して、塔に忍び寄る。見上げると、凄まじい高さだ。都庁や、東京タワーよりも上背があるだろう。だが、巨大であると言うことは、それだけ管理が難しいと言うことでもある。

最近、異常に情報収拾が速くなっている聖が、もたらした情報では。オベリスクには、確認できる範囲内でも、三百を超える入り口があり、そのうち30程は放棄されているという。術式で少しずつ稼働できるように調整しているらしいのだが、とても全部を復帰させるには到っていないそうだ。

其処を、侵入に利用する。

砂漠を、音無く進んで、壁に張り付いた。背中に、冷たい石の感触がある。カグツチからの光が弱い今、とてもオベリスクの壁はひんやりとしていた。目的の扉は、此処から10メートルほど上がったところにある。

近くに来てみると分かるが、オベリスクは建造物と言うよりも、ブロックを積んだような作りである。空中を漂っているブロックも多く、一片四メートルほどある石組みが、とても乱雑に積み上がっている。それでも、縦横に監視用の術が掛けられていて、下手なところを触ると即座に察知される仕組みになっていた。

だから、簡単には進めない。サナが先頭に立って、探査用の術を張り巡らせながら、登っていく。秀一はリコとサルタヒコと一緒に続き、殿軍をフォルネウスに乗ったアメノウズメが務めた。

五十メートルほど登ると、流石に下が不安になってきた。風も強くなってきている。分厚い塔は、まるで痩せる様子が無く。遙か天まで続いているようにさえ見えた。時々、脇道や入り口が見える。だが、そう言う場所には、例外なく堕天使の見張りがついていて、油断無く辺りを警戒していた。無理に圧し通れば、いずれ五千を超える警備兵の全てが殺到してくることになる。此方はかなりの使い手が揃っているとはいえ、血路を開いて逃げられれば幸運だろう。

もちろん。秀一はそんな事の為に来たのではない。帰り道はどうしようかとかんがえていると、石に触れて探査していたサナが顔を上げて、首を横に振った。

「ごめん。 行き止まり。 二つ前のブロックまで戻って」

「分かった。 サナ、ここは情報では、開いていたはずだが」

「防御を固める過程で、補強したんじゃない? まあ、しょうがないよ」

ブロックを這い降りる。時には、飛び移らなければならない場所もある。幅は軽く十メートル以上離れていて、落ちたら下まで真っ逆さまだ。

現在の身体強度であれば耐えられるかも知れないが、脱出の際に落ちたら、祐子先生は確実に死ぬだろう。それでは何の意味もない。風が強いのも懸念事項だ。フォルネウスの背中に乗って、目をつぶっていて貰うしかないかも知れない。

行ったり戻ったりを繰り返しながら、少しずつ進む。警戒のために飛び回っている堕天使もいるが、やはりこの巨大な施設を守るには、あまりにも手が足りないようだ。注意が散漫になっているのが、秀一から見ても分かる。出来るだけ刺激しないように、視界の死角を通り、少しずつ進む。

やがて、目的の扉が見えた。

辺りの足場が激しく損壊している所から見て、かなりの激戦地だったのだろう。セキュリティが働いていない事を警戒してか、四騎の堕天使が見張りに着いていた。どれも人間の形をしていて、西洋風の鎧を身に纏い、背中から蝙蝠の翼を出している。

「サナ、眠らせることが出来るか」

「へいへい。 分かってると思うけど、高値いからね」

力が足りない時は、殺してでも通らなければならなかったが。今は、殺さずとも、無力化出来る相手もいる。殺さずとも通ることが出来るのなら、そうしたい。ニヒロ機構も、マントラ軍も、明らかにおかしいとはいえ、彼らなりの信念に基づいて行動しているのだ。あまり彼らの全ては否定したくない。同調は出来ないにしても、だ。

ただ、この塔の頂上部では、三騎の強力な悪魔が見張りに着いているという。モイライの三姉妹。ギリシャ神話にて、運命を司る三柱の女神だ。彼女らの目を欺いて、そのまま行くことは出来るのだろうか。無理なら、殺すしかない。

気は進まないが。しかし。今、唯一助けを求めている人が、先にいる可能性が高いのだ。躊躇はしていられない。

丁度、八個ほどブロックが重なった足場から、見下ろすようにして入り口を見ている状態である。秀一の左右には、リコとサルタヒコが、いつでも剣を抜けるように構えていた。サナの詠唱が重なり、徐々に完成に近付いていく。

「ほい、準備完了。 ただ、あのくらいの堕天使だと、僕の眠りの術じゃ効かない可能性も二割くらいはあるよ」

「……その場合は、倒すしかないな」

サルタヒコが、鯉口を切る。静かな殺気が、びりびりと伝わってきた。サナが印を切り、術を発動させる。四騎の堕天使が、ばたばたと倒れた。一人はそのままブロックから落ちかけたので、跳躍した秀一が襟首を掴んで、落ちるのを止めた。

縛り上げて、猿轡を噛ませる。物陰に隠すと、塔に忍び込む。瓦礫でつぶれかけた入り口を無理矢理くぐって、中に。

いよいよ、ここからが本番だ。さっき、セキュリティがグレードアップしていたカ所もあった事からも、容易ならざる事が伺える。

塔の中は、ひんやりしていた。ニヒロ機構の建物は極めて規則的な、秩序を伺わせる作りであったが。このオベリスクは、何だか古典的というか、保守的な印象を受ける。天使達とは未だ交戦していないが、彼らがどういう存在なのか、ちょっと分かった気がした。

中に入ってみると、人口密度は驚くほど少ない。ブロックが無数に飛び交う中、僅かな堕天使が巡回しているだけだ。これなら、セキュリティに気をつければ、今までよりも比較的簡単に奥へ忍び込める。

だが、それが心理的なトラップとも言える。油断して、発見されたらアウトだ。先頭のサナがセキュリティの確認をして、素早く奥へ。何処までも続く階段を、延々と登り続ける。まだ、先は見えない。

 

アマラ輪転炉を使ってオベリスク塔に辿り着いたカエデは、護衛の堕天使達と一緒に、頂上へつながるチューブ状のエレベーターに乗った。薄いチューブの中を、他と同じ四角いブロックが飛翔する仕組みになっていて、音も揺れも小さく快適である。ただ、これは後から設置したものだ。天使軍は、もっと原始的なエレベーターを使っていた。

エレベーターが上がっていく途中、モイライの三姉妹から渡された、セキュリティのデータに目を通す。

順調に、復旧が進んでいる。後5000程の戦力を此処に追加することが決まっているので、最終的には万全の警備が整うことになる。だが、幾つか解せない点がある。妙な部分で、復旧の進捗が高いのだ。

特に、創世の巫女を守っている頂上部分のセキュリティは、いやに復旧進捗率が高い。確かに重要な部分だが、天井部分にはカエデを始めとする何名かが非常に強力な防御結界を展開したし、しかもすぐ下にはモイライの三姉妹が詰めている。余程の事がない限り、奪取される危険性は無いのだが。

それよりも、むしろ不安が大きいのは、彼方此方にある入り口のセキュリティだ。まだ三割以上が復旧しておらず、見張りがそれぞれについてマンパワーで監視をしている状態である。

一度エレベーターが止まる。此処から、VIP用のエレベーターに乗り換えるのだ。

この階はセントラルコントロールルームがあるので、止まるのには丁度いい。資料を返すと、迎えに来た堕天使に、カエデは早速聞くことにした。巨大なナメクジの姿をした堕天使は、カエデが見上げるほどに大きい。彼は人語を喋ることが出来ないので、口に翻訳装置を付けている。そのため、喋る時にハウリング音が入る。

「セキュリティで妙な点があるので、モイライの三姉妹に伺いたい事があるのですが」

「承知しました。 すぐに呼んで参ります」

丁寧な応対に、カエデは恐縮してしまった。攻撃部隊の総司令官を任されているのだから、もっと堂々としろと、周囲からは言われている。だが、慣れないものは仕方がないのだ。

応接室に通される。かなり広い部屋で、部屋の隅にはレクリエーション用の物質が幾つかあった。トランプもある。少し時間があったので、部下達には自由行動を許して、自身は資料に目を通す。そうしている内に、別の堕天使が来た。鰐の姿をした堕天使で、黒電話を直接持っている。

「カエデ将軍、氷川司令から、連絡です」

「はい」

氷川司令が、直接電話をしてくるなど、滅多にないことだ。どうやら、最悪の予想が当たったらしいと、カエデは気づいた。油断無く、電話を取る。

「カエデです。 今、オベリスクの応接室にいます」

「そうか。 それなら籠城はしやすいな。 落ち着いて聞きたまえ。 君の懸念が、当たった。 今増援を送ったところだ。 到着まで持ちこたえて欲しい。 無理に収拾は図らなくても良い」

「分かりました」

電話を置くと、にこりと堕天使に笑みを浮かべる。指を鳴らすと、護衛の堕天使達が、さっとカエデを中心に円陣を組んだ。目を白黒させる鰐の堕天使に、叫ぶ。

「塔全体に、戒厳令! これから、氷川司令の命令だけを聞くように、一斉放送を流してください! しばらく軍務は停止! 侵入者に対する警戒のみを続行します!」

「は、はいっ!」

「貴方たちは、バリケードを。 私は防御用の結界を用意します。 増援が来るまで、しばし時間が掛かりますから、それまでが勝負になります」

「す、すぐに手配します!」

大あわてで、鰐の堕天使は部屋を飛び出していった。

事前に、氷川司令に連絡して、頼んだことがある。

モイライの三姉妹に、創世の巫女の引き渡しを要求してもらったのだ。三姉妹がもし拒否したら、独走している可能性がある。もちろん、創世の巫女を核にして、ナイトメアシステムをカブキチョウ辺りに発動することが目的だ。それによって、誰もが成し得ていない手柄を立てることが出来る。かなり強引な行動だが、実績があれば、文句は言えなくなる。

そして最悪の可能性として。ナイトメアシステムそのものを抑止兵器として、モイライの三姉妹が独立勢力を構築する可能性さえある。もしそれをかんがえている場合。ナイトメアシステムの矛先は、ギンザに向くかも知れない。

モイライの三姉妹は、忠誠度を信頼され、重要なポストを任された存在だ。だからこそに、その忠誠度が暴走した時には、災厄を招く可能性が高い。カエデもそれを不安視していたのだが、ニヒロ機構といえども、上級指揮官は無限に提供は出来ない。

すぐに放送が始まった。問題は、モイライの三姉妹が、どれだけ部下を掌握しているかと言うことだ。塔全体が掌握されている可能性も、否定は出来ない。堕天使が残していった黒電話から、氷川司令に連絡を取る。

上の方で、大きな破壊音が響き渡ったのは、直後のことであった。

 

見つけた空き部屋に潜んでいた秀一は、塔の雰囲気が露骨に変わったことに、気づいていた。何か起こったのだ。そして恐らく、それは秀一が発見されたのではない。

「皆はどう見る?」

「下手に動かない方が良いんじゃない?」

「ばあさんじゃなくて、サナさんに同感じゃの。 こういう妙にばたばたしている時は、慎重に様子を見極めた方がよいて。 幸いこっちは見つかっておらんようじゃし、しばらくのんびりしようかの」

サナとフォルネウスがのんびりと言うが、それに皆が同意する。アメノウズメは、さっとお茶を淹れ始めるほどだ。

「では、のんびりしましょう。 こう言う時は、落ち着くのが一番よ」

「わ、ウズメセンパイのお茶だ。 久しぶりだなあ」

「リコちゃんは美味しそうに飲んでくれるから、淹れがいがあるのよね。 秀一ちゃんはどうする?」

「俺はいい」

のんびりすることには賛成だが、茶を飲むほどにリラックスは出来ない。不安はないのだが、こう言う時こそ、色々かんがえなければならないと思うからだ。分析を進める。大きな音がしたのは、直後だった。

塔の彼方此方で、戦いが始まったようだ。ニヒロ機構の堕天使同士で、戦いが起こっているらしい。そっと覗くと、大柄な人間の姿をした堕天使が槍を振るい、鍬を持った鰐に似た同僚と切り結んでいた。他にも、翼を持った堕天使達が、激しく空中で切り結んでいる。全体的に殺気が満ち、怒号が飛び交っていた。

「戒厳令が敷かれています。 戒厳令が敷かれています。 氷川司令の指示をお待ちください。 持ち場に戻りなさい。 部署から離れた者は、敵性体とみなします」

放送が響く。茶をすすりながら、アメノウズメがつぶやく。

「まあ。 まるでクーデターね」

「まるでではなく、恐らくはクーデターそのものだろう。 この塔にいるモイライの三姉妹が、何かしたな」

「何かしたって、具体的には何だろう?」

「この塔に、何かしら彼らの目を眩ませるようなものがあるのか。 俺にはよく分からないのだが、祐子先生は創世の巫女と言われていると聞く。 それを利用して、大きな事が出来るのか? 例えば、自分たちに都合が良いコトワリを開かせるとか」

サナの言葉に応えるが、推測の域を出ない。モイライの三姉妹は、ニヒロ機構の思想に染まっているはずで、それならば氷川とコトワリも一致しているはずである。それならば、今更裏切りを働くというのも想像しにくい。

戦いは、徐々に下に移り始めているようだ。だが、塔全体で、激しい戦いが行われていることに間違いはない。好機だ。多少見られても、今なら一気に駆け抜けることが出来る。アメノウズメも、雰囲気を察したか、そそくさとティーセットをしまう。

「榊センパイ、こっちは準備万端ッスよ!」

「よし、行くぞ」

誰もいなくなったことを見届けると、さっと通路に出る。人数が多いが、いずれも劣らぬ強者揃いである。気配を消すことなど造作もない。

「セキュリティはどうする?」

「どうせこの混乱下では察知できない! 今の内に、一気に頂上を目指す! 最短距離の指示をしてくれ!」

「ラジャ! そっちの通路を右! エレベーターは使わずに、階段で行くよ!」

流石サナである。通路を全部暗記してくれているらしい。頼りになると思いながら、秀一は駆けた。

 

4,亀裂

 

古代の神々には、荒々しい存在が多い。道徳が確立されていなかった古代には、人間の本性が剥き出しになったからだ。そう言う時代の人間が想像した神々は、やはりそれに相応しい存在だった。

ギリシャ神話と共通する点が多い北欧神話は、その代表格とも言える。主神オーディンからして邪悪な策謀を用いることを全く躊躇しない性格であるし、他の神々も似たようなものだ。愛の女神フレイヤの淫蕩ぶりは有名であるし、雷神トールは豪放磊落を通り越して破壊的だ。

それらは悪辣なのではない。もちろん、おとしめられたのでもない。当時は、それが普通だったのである。当時の人間の、精神の延長線にあるのが、荒々しい剥き出しの性格であったのだ。たまたまギリシャ神話や北欧神話がメジャーであったから目立つだけであり、古代の宗教では、どれも似たような性質の神を見ることが出来る。

ギリシャ神話で運命を司る女神であるモイライも、例に漏れない。

ニヒロ機構に三姉妹が所属したのは、かなり初期である。その頃は、三姉妹ともにそれほど強大な力を有してはいなかった。だが、長く務め、力を蓄え続けて、ようやく幹部に昇進した。

だが、滾る野心は、それだけで満足はしなかった。運命を司る女神は、かっては神々から、ある意味では更に上位の存在として見られていたのだ。己の運命を左右する女神達に、神々はへつらい、様々な調略をした。

その栄光が、モイライの三姉妹を、突き動かしていた。そして、道を狂わせたのである。

 

末娘のクロトが、ぱたぱたと走る。運命の糸を作り出す彼女は、三姉妹でもっとも潜在能力が強いが、経験は当然一番浅い。その幼さが残る顔には、多分に焦りが浮かんでいた。頂上にある、大きな部屋に、彼女は駆け込む。丁度支配下に置いた創世の巫女を、姉二人が見上げていた。

「アト姉! ラケ姉!」

「何、クロト。 静かにしなさい」

「そうよ。 貴方は騒がしくていけないわ。 まず、深呼吸なさい」

姉達が、口々に言う。クロトは呼吸を整えると、必死に訴えかける。

「それどころじゃねえって! カエデの奴、気付きやがった! 戒厳令を敷いて、塔の掌握に掛かってやがる!」

「ふうん。 思ったよりずっと早かったわね」

「それだけじゃあねえ。 氷川司令が、増援を送り込んで来るって言ってた! すぐに上級悪魔が、何体か乗り込んでくるぞ! 急がねえとやばい!」

中の姉であるラケシスが振り返る。長女アトロポスは、逆さに浮かんでいる創世の巫女を見上げたままだ。

「こう言う時には、どうするか言ったわよね」

「ああ、それは分かってる。 掌握した奴らには、上に集結して守りを固めるように、指示は飛ばした」

「それなら当分は保つわ。 このオベリスクは、ニヒロ機構の総攻撃にもびくともしなかったのよ。 それに加えて、それほど時間も掛からないで、ナイトメアシステムは発動可能になる。 いざ撃てるようになれば、もはや何処の誰であっても、我ら三姉妹に逆らうことは出来なくなる。 氷川司令も、あの雷神トールでさえも、我らに屈するしか無くなるのよ」

落ち着いているラケシスの言葉を聞くと、クロトもそんな気になってきた。確かに、このまま順調にいけば、全てが上手くいく。意識がないまま逆さに浮かび、ゆっくり回転している創世の巫女からは、途方もない量のマガツヒが流れ落ちていた。時々それを掬っては、口に入れる。とても芳醇な味がする。

下の方からは、戦闘音がする。妙に近いような気がして、不安を煽られた。

「今の、かなり近くなかったか?」

「不安なら、貴方が見てきなさい。 一人でも、簡単には負けないくらいの力はあるでしょう。 いざとなったら、私達を呼ぶこと」

「ちぇっ、分かったよ」

いつまでも子供扱いされることに、クロトは不満を覚えつつも、近くにいる、掌握済みの部下達を呼び集める。

ニヒロ機構も、一枚岩ではない。確かに氷川司令は優れたリーダーだが、膨張する過程で、どうしても把握できない部分は出てくる。モイライの三姉妹はかなり早くからクーデターを目論んでいたし、賛同者も少なくなかった。そもそもこのクーデターも、抑止兵器であるナイトメアシステムと、何人かの不平派将校が揃った結果、実行に移せたものなのだ。

面白いのは、いずれの者も、ニヒロ機構が掲げる思想には心酔していることだろう。秩序の世界には、誰もが夢を見ているというのに。かといって、野心が無くならない訳ではない。悪魔とは面白い存在だと、幼い精神を持つクロトでさえ思う。

また、戦闘音がした。やはり近い。ぬるりと、空間そのものが汚染されるような気配がして、部屋から出てきた者がいる。

今回、クーデター軍の主力となっている存在。この塔に配属されている第十六防衛師団の中で、三つある連隊の一つを任されている男。邪神パズズである。

パズズは黄土色の肌をしていて、全体は人間に近いが、顔は動物的である。どの動物とも似ていないが、雰囲気としては獅子に近い。尻尾はサソリに似ていて、足は鋭い猛禽のもの。胸の辺りに鋭い傷跡がある。背中には、二対の翼。そして、全裸だが、豊富な体毛が体中を覆っていた。

元々、パズズはメソポタミアの魔王と呼ばれる存在で、古代神話の登場人物である。砂漠の風を神格化した存在であり、それが故に、空気を操る術式を得意とする。また、蝗害の神格化という説もある。いずれにしても、古代神話で致命的な損害をもたらす災害の神格化であり、強力な力を持つ邪神であることに違いはない。悪霊の統率者であるため、魔除けとして像が造られていた歴史がある。

クロトはパズズが苦手だ。嘲笑的な言動を取ることが多く、クロトの体も変な目で見ているからだ。生理的な嫌悪感が働くのである。

「クロト殿、どうしたのかな」

「何か鼠が侵入したかも知れない。 片付けに行くぞ」

「ハハハ、鼠ですか。 下の方は、我が部下がバリケードを積んで防衛線を構築しているだろうに。 どうやって入ってきたのかなあ」

「何が言いたい」

別にと言い捨てると、音もなく空を滑るように、パズズは行く。薄気味が悪い奴だと思いながら、クロトは他の部下達を集めて、下へ向かう。

丁度、三十階ほど降りたところであったか。四階層を抜いた大きなホールのある部屋である。この塔には、所々こういう場所がある。何カ所かからの通路が集まり、周囲からの一斉攻撃を受けやすい。敵を迎撃するために、天使達が作った仕掛けだ。

不意に、パズズが、吹き抜けの天井近くまで跳躍した。一瞬遅れて、クロトも横っ飛びに跳躍。

二人が一瞬前までいた辺りに、悲鳴を上げながら、堕天使が飛んできた。そして床のブロックに激突して、マガツヒになって散る。さっと散開する部下達。

「何者だ!」

「もう少し、戦闘をせずに行けると思ったんだがな」

堕天使が飛んできた階段の下から、声がした。堂々と、姿を現す者。

人間に近いが、体中に発光するタトゥーが刻まれている。纏っている気配は強力で、高位の悪魔に遜色ない。ぞろぞろと、部下らしき悪魔が現れる。どいつもこいつも、かなり強い。相当な量のマガツヒを喰らっているのだろう。面々を見て、クロトは気づく。

「貴様、人修羅だな! アサクサでマネカタども相手に猿山を作ってる奴が、こんな所に何用だ!」

「祐子先生を帰して欲しい。 そうすれば、すぐに帰る。 君たちの邪魔はしない」

「は、誰がそのような話を聞くか!」

「何故聞けない。 俺が目的とするのは、ただ恩師の解放だ。 それとも、祐子先生を、何かの目的に利用するつもりか?」

突如、図星を突かれて、クロトは返答に困った。人修羅は、眉をひそめると、ゆっくり構えを取る。どうやら、殺る気になったらしい。

「返して貰うぞ、先生を」

「パズズ! 全力で行くぞ! 手を抜ける相手じゃない!」

「ハハハ、どうやらそうのようですな。 面倒の臭い話ですが、仕方がない」

武具にしている棍を構える。人修羅の脇にいた、古代日本風の格好をしていた男が、抜刀と同時に飛び込んできた。

 

発見されたのは、塔の四分の三ほど来たところで、であった。上に行くほど封鎖されているカ所が多く、通路の殆どが封鎖されていて。ついに脇道を通ることが出来なくなったのである。

しかも先にはバリケードが構築され、気配を消して行くことは不可能であった。サナも首を横に振り、秀一は突破を決めた。今までの戦力配分から言って、この先には数百の敵がいる。どうにか、相手が出来る規模の戦力だ。

突破作戦を、開始した。まずサルタヒコとリコが突撃して、バリケードを突破。サナとフォルネウスが、連続して術式を叩き込んで、敵の戦意を奪う。同時に、上着を脱ぎ捨てたアメノウズメが、舞いを始めた。全身の力がみなぎるような感触だ。これが神楽舞というわけか。

通路と言うこともあり、敵の抵抗は比較的容易に捌くことが出来た。戦意をなくした敵は追わない。ざっと見たところ、なにやらこの塔の中で大規模な混乱が発生している。それを更に加速させるためには、パニックを起こした者を放置した方が良い。

三枚目の防衛線を抜くと、強い気配が現れた。白い服を着た、中学生くらいの娘に見える悪魔である。更に天井近くには、無数の動物が融合したような、異形の姿もあった。他にも、結構強力な堕天使が三十ほど。サルタヒコが、声を落として、言った。

「女は女神クロト。 上にいるのは、邪神パズズだ」

「聞いたことがある。 手強そうだな」

「斬るか?」

「いや、一応、話はしてみる」

進み出る。誰何は向こうから飛んできた。返答はしてみたが、要求を呑む気は無いようだった。戦いの構えを取ると、向こうも戦闘体勢をとる。仕方がない。年下の女の子と戦うのは嫌だが。手を抜ける相手ではない。頷くと同時に、サルタヒコが飛び出した。

抜刀。遮ろうとする堕天使を、一刀で両断にする。強いことは分かっていたが、流石だ。少し遅れて飛び出したリコが、高々と跳躍。空中で二体の堕天使を斬り伏せ、更に着地と同時に、一人を蹴り倒す。秀一自身はゆっくり歩きながら、壁に穴が開くのを待つ。躍り掛かってきた堕天使を一人、拳を振るって吹き飛ばした。顔面を砕かれた堕天使は、くるくる回転しながら飛んでいき、壁にぶつかってトマトのように砕けた。

彼方此方から、悪魔が湧いてくる。主力は堕天使のようだが、他の悪魔も多くいた。高みの見物を決め込んでいるパズズに時々注意を払いながら、後方に指示を飛ばす。殿軍になっているフォルネウスを除く全員が揉むような乱戦の中でそれぞれの武器を振るっているが、簡単には突破させてもらえない。此処を抜ければ、後は一気に頂上まで行けると、さっきサナは言っていた。雷撃の術を連発しながら、サナがぼやく。

「多いなあ。 シューイチ、大きな技で、ドカンって減らせない?」

「駄目だ。 手強い相手が、まだ控えている」

秀一の眼前で、三メートルはあろうかという巨躯の堕天使を、一息にサルタヒコが斬り倒した。後ろで舞っているアメノウズメの神楽舞による強化を、相当な効率で受けている。夫婦と言うこともあり、親和率が高いのだろう。この状態のサルタヒコと戦ったら、勝てなかったかも知れないと、秀一は思った。

さっと、堕天使達の壁が割れた。両手に大型の棍を構えたクロトが、秀一めがけ突進してくる。振り下ろされた右手の棍を、左手にとっさに作った刃で受け止める。鋭い衝撃音が、床に走った。腕がしびれるほどの痛烈な一撃だ。

「はあっ!」

クロトが叫ぶ。着地と同時に、体を半回転させて、肘を見舞ってきた。左手で受け止めると、今度は踏み込んで、頭突きを顔面に叩き込んでくる。思ったより、遙かに野性的な戦い方だ。衝撃に一歩下がると、右手の棍を突き込んでくる。軽く弾きながら前に出るが、相手の体が小さいこともあって、捕らえにくい。残像を残し、再び堕天使達の間に、クロトが隠れる。味方の数を利用しての撹乱戦術という訳か。

問題なのは、格闘戦能力が低いサナやアメノウズメを狙ってきた場合だ。そしてこの戦術ならば、容易に後衛に手が届く。何とか動きを止めないと危険だ。しかも、敵には、まだパズズも控えている。

槍を繰って突きかかってきた堕天使に、前蹴りを叩き込んで吹き飛ばす。一瞬、クロトの気配を見失った。下に殺気。懐に潜り込むようにして躍り掛かってきたクロトが、棍で顎を砕かんと、振るい上げてきた。とっさに腕をクロスして、一撃を受け止める。弾かれたように飛び退いたクロトが、二回転して遠心力を付けた、強烈な回し蹴りを叩き込んできた。側頭部にクリーンヒット。地面に三回バウンドして、壁に叩きつけられる。

「よそ見とは、余裕だな!」

棍は、突いても使える武器だ。クロトは棍を、さらには格闘戦術をリコと同等の水準で知り尽くしている。そのまま、閃光のように打ち込んできた。揺れる視界を強引に立て直すと、僅かに体をずらして棍を避けつつ、炎を吹き付ける。跳躍したクロトが、降りてきていたパズズの尻尾を掴み、空中ブランコさながらの動きで、飛び退いた。

今は秀一をターゲットにしてくれているから、まだいい。この猿も顔負けの身体能力で、後衛を攻撃されると、戦線が瓦解する可能性が高い。しかも、下手な指示を出すと、クロトにそれを気づかせる可能性があり、二の足を踏まざるを得ない。パズズは何故高みの見物を決め込んでいるのか、それも気になるのだが。

追撃を仕掛けようと、巨大な鉄棒で殴りかかってきた牛のような顔をした堕天使に、拳のラッシュを叩き込む。そしてその巨体を影にして、ヒートウェイブを打ち込んだ。魔力の奔流が、数騎の堕天使をまとめて焼き払う。奔流の余波を強引に棍で払いながら、クロトが秀一の眼前に飛び込んできた。技を撃ち放ち、出来た隙を確実に狙ってきている。視野は狭いが、なかなかやる。

激しく切り結ぶ中、サルタヒコの声。秀一にギリギリ届くように、言ってきていた。

「下がる」

「頼む」

この苦境を察してくれた所は嬉しい。優れた迎撃能力を持つサルタヒコが少し下がってくれると、後衛の守りがぐっと強くなる。前衛にはリコと秀一だけになるが、むしろこの方がやりやすい。ローキックを叩き込んできたクロトに対し、むしろ踏み込み、強引に一撃を受け止める。

そして、動きを止めたクロトに、フックを効かせた拳を叩き込んだ。

棍で受け止めたが、元々体が小さいクロトは、思い切り吹っ飛んだ。数十メートル先の壁に激突、砕けた壁が濛々と煙を上げる。彼方此方の骨が軋んでいる。それだけ、クロトの攻撃は猛烈だったと言うことだ。

追撃を仕掛けようとした瞬間。周囲の堕天使達が、恐怖で顔を引きつらせる。とっさに秀一は、叫んでいた。

「全員、備えろ!」

殆ど間をおかず、獰猛なまでの風圧が、辺りを切り刻んでいた。

 

立ち上がった秀一は、周囲を見回して、眉をひそめた。滅茶苦茶だ。辺りの堕天使達を、思い切り巻き込んでいた。事実、数体が瞬時にマガツヒと化してしまっている。体中を切り刻まれてもがき苦しむ者も少なくない。まさに、地獄絵図だ。

サナがとっさに防御用の術式を展開したから、通路の奥に引っ込んでいたアメノウズメとフォルネウスが、威力が倍加した風に切り裂かれる事態だけは避けていた。だが、リコもサルタヒコも、何カ所かに重い傷を受けている。特にサナを庇ったサルタヒコの傷は深く、額から血が流れ落ち続けていた。

見上げる。今まで高みの見物を決め込んでいたパズズが、大威力の術式を発動したのは明らかであった。不敵に微笑むパズズは、音もなく降りてくる。今の打撃には、クロトも巻き込まれていて、右腕から鮮血をたらしながら、クロトは立ち上がる。怒りの声を上げる黒い女神。

「パズズ、お前!」

「何を怒っているのですかな? こうしなければ、貴方は追撃を受けて、死んでいたでしょう」

「そんな事くらいで倒れるかっ! この状況で、部下を減らしやがって、どういうつもりだ!」

「フフフフフ、これは失敬。 まあ、今の一撃で敵も少なからず打撃を受けているようですから、勘弁してもらえませんか」

意図が読めない。何を考えているのか。ともかく、組織的に戦える兵士はいなくなった。多少は此方に有利になったと言えるか。

「リコ、サルタヒコ。 クロトを抑えてくれ。 俺はパズズを叩く。 サナ、アメノウズメ、全体に支援を頼む。 フォルネウス、追撃を断ってくれ」

短く指示を出し終えると、呼吸を整える。パズズは手を抜いて戦える相手ではない。間合いを計りながら近付く秀一。パズズは右手で、挑発的に招いてきた。乗らない。そして、五メートルの距離まで近付いたところで、足を止めた。

飛び退く。三半規管が泣く。激しい衝撃音が鼓膜を叩く。暴力的な風が、床を襲い、抉り去ったのだ。石の床をである。圧力の凄まじさが、よく分かる。ほんの少し気づくのが遅れたら直撃を受けていただろう。

パズズが、初めて顔中に笑みを浮かべた。

「よくぞかわした。 流石噂に名高い人修羅ですねえ」

「なるほど、さっきから上にいたのは、時限式の術を多数仕込んでいたな」

「そう言うことですよ。 フフフフフ、どうやら、楽しませてくれそうだ」

「勝手に話を進めるな!」

飛び掛かってきたクロト。秀一と彼女の間に割って入ったリコが、両手の剣で棍を受け止める。

「悪いけど、あんたの相手はあたしッスよ」

「どけ!」

返答は、無言で横から躍り掛かったサルタヒコの斬撃だった。残像を残して飛び退いたクロトに、リコがしなりを加えた前蹴りを叩き込む。棍で防ぐが、はじき飛ばされる。二対一ながら、力量はほぼ互角と見た。どうやら、向こうは任せて問題無さそうだ。

改めて、パズズを見る。異形の悪魔は、印を組み、吠え猛った。

「さあ、砂漠の風の恐ろしさ、その身に刻みつけて貰いましょうか!」

「時間がない。 早めに決着を付けさせて貰うぞ」

此方も、構えを取る。殺気がじりじりと高まっていく。

そして、敵側の援軍が数騎、場に躍り込んでくるのを切っ掛けに。秀一とパズズは、切り結んでいた。

 

立てこもったカエデの元に、次々情報が飛び込んでくる。彼女は部下達と協力して守りを固めながら、それを整理していった。

敵、モイライの三姉妹に荷担した戦力は、塔の守備兵の三分の一ほどである。総兵力は2000を超えておらず、しかも組織的な抵抗を見せていたり、塔上部に立てこもっているのは1000を切る程度だ。他は彼方此方で右往左往しながら、散発的な抵抗を続けている。もっとも、クーデターに参加しなかった部隊も、未だ統率が回復しているとは言い難い。いくらかは、状況が理解できず途方に暮れているようである。連隊長の内、二人は出頭して氷川司令への忠誠を誓った。ただし、連隊長の一人パズズは敵についたことが明らかになっている。

味方としては、魔王モトと、スルトの率いる部隊が向かっている。特にスルトはこの要塞の攻略経験があるからとても頼りになる。兵力は二部隊を合わせて8000騎を超えているから、到着し次第一気に敵を蹴散らすことが出来る。

何度か拠点にしているこの応接室にも攻撃があったが、いずれも危なげなく退けることが出来た。しかし、安心するのは早すぎる。この要塞の防御機能を整えているのはモイライの三姉妹であり、どんな仕掛けを要しているか、知れたものではないからだ。

外に出し、クーデターへの不参加を表明した部隊の確認を取っていた親衛隊堕天使の一人が戻ってきた。

「カエデ将軍!」

「どうしましたか」

「妙なことが起こっています。 塔上層で、激しい戦闘が継続中です」

「クーデター軍と、反対派の争いではないのですか?」

そう言いながらも、カエデは違和感を敏感に感じ取っていた。感じる魔力が大きすぎるのだ。上級悪魔が数体、全力で戦っているとしか思えない。魔力のパターンは、もう少し近付かないと特定できないこともある。とりあえず現時点では、援軍が来るまでは動かない方が良い。カエデはそう結論した。

「確保範囲を拡げることに専念しましょう。 いきなりナイトメアシステムを発動させることは出来ないはずです」

「いえ、それが、どうもそうではないらしいのです」

挙手したのは、降伏した連隊長の一人である。彼は下半身が蜘蛛で、上半身がキリンという変わった姿をしている。元々下級の堕天使であったのだが、努力して力を付け、順調に出世してきた典型的な職業軍人である。彼はかなり良い条件を提示されたらしいのだが、氷川司令への忠誠心を優先し、不利にもかかわらず降伏した。もちろん利害を計算した部分もあるだろうが、それでも評価できる行動である。

「モイライの三姉妹が相談していたところによると、この塔の機能と、創世の巫女から流れ出る膨大なマガツヒを組み合わせることにより、短期間でアマラ輪転炉の機能を最大限に引き出すことが出来るとか」

「それは、本当ですか?」

本当だとすると、由々しきことだ。カエデにも内緒で、様々な機能をモイライ三姉妹は構築していたことになる。そしてクーデターにまで踏み切ったところを見る限り、情報の信憑性は高いと結論せざるを得ない。

しかし、カエデは何度かこっそり監査を入れていた。どうやって誤魔化したのか、気になる。それとも、ごく短期間で、そんな大それた仕組みをくみ上げたというのか。

いや、それはおかしい。カエデはそう結論する。あの三人に、そんな力は無いはずだ。確かに優れた魔術の使い手だが、アマラ輪転炉の研究に執心だという話も聞いたことがない。それに彼女らの書いた論文は戦闘用の魔術に関するものばかりだ。そうすると、大きな力を持つバックがいると言うことか。

候補として浮かんだのは、ミトラであった。だが、すぐに否定する。ここのところミトラは活力を無くしており、しょんぼりした様子で防衛部隊の編成を行っている。しかも氷川司令が厳しく監視しており、裏切りなど働く余裕はないはずだ。

だとすると、誰なのか。いやな予感が、どんどん大きくなっていく。

「すぐに、降伏した部隊を集めてください」

「何をするつもりですか?」

「塔頂上までの道を、確保してください。 モト将軍の隊が来次第、強引に突破を計ります。 かなり厳しい戦いになることが予想されますから、私が先頭に立ちます」

カエデがどちらかと言えば慎重な用兵をすると知っていたであろう堕天使達は、当惑した顔を見合わせた。

少し前に回線が切られてしまっているから、氷川司令に直接連絡が取れないのが痛い。アマラ輪転炉の所まで行ければ良いのだが、今手元にある戦力では、同時に上と下をつなぐことは不可能だ。

手近にいる、200ほどの信頼性が高い兵力が集まる。カエデは彼らの先頭に立つと、親衛隊と共に、抵抗を続けるクーデター軍に斬り込んだ。

 

パズズは身長三メートル半ほど。殆ど秀一の倍ほどもある巨躯の持ち主だ。その巨躯が、空中を自在に動き回り、仕込んだ術式を上から叩きつけて来る。状況は、極めて不利である。

秀一は、時々突きかかってくる堕天使をいなしながら、走り回った。風の術式は、気配を読んでかわす。だが、かわしきれるものではない。パズズが腕を動かすと、至近の床が吹っ飛んだ。飛び退いたところに、また強い気配。踏み込んで、ガードを取る。真上から、押しつぶされるような圧力。床にたたきつけられる。

「ハハハハハ、無様だ。 まるで虫ですねえ」

パズズの嘲弄が、立ち上がる秀一をなで回す。全身傷だらけになった秀一は、手足が動くことを確認しながら、無言で立ち上がる。その様子を見て、パズズは鼻白んだ様子であった。

「気味が悪いな、貴様」

「それがどうかしたか」

特に挑発してもいないのに、パズズの顔が、憎悪に歪む。バカにしている相手が、苦しんでいる様子を見せていないからだろう。意外と簡単な奴だ。これでも秀一は、それなりの戦闘経験を積んで、戦闘時の精神状態の重要性は理解している。この様子では、パズズは連隊長がせいぜいの器なのだろうと、秀一は思った。しかし、妙なのは、それの割には力の絶対量が多いことだ。

パズズが指を鳴らす。辺りに、濃厚な殺気が満ちた。来た、と秀一は眉を跳ね上げる。

「砕け散れ!」

四方八方から、風の刃が襲い来る。この瞬間を、待っていたのだ。

そのまま、全力で跳躍。パズズに向けて、一直線に飛び上がる。辺りに時限式の術を仕掛けていたのなら、パズズとの直線上が一番手薄なのは自明の理。驚愕に顔をゆがめたパズズ。無数の風の刃が体を打つが、気にしない。血しぶきを振り落としながら、秀一はパズズに肉薄した。

「き、貴様!」

掌を、分厚いパズズの腹に着ける。そして、ヒートウェイブを全力で打ち込んだ。巨体が、手もなく吹っ飛ぶ。数体の堕天使を巻き込みながら、壁に叩きつけられる。白目を剥くパズズ。大量に吐血した邪神に向け、着地した秀一は、突貫した。

「おおおおおっ!」

左手に、刃を具現化させる。顔中に焦りを浮かべたパズズは、素早く印を組む。回避はしない。パズズの全身から、真っ黒な魔力が吹き上がった。生命活動を停止させるような、凶暴な術式を放つつもりだろう。

至近に迫る秀一を見て、パズズがにやりと笑う。そして、秀一が突き込んだ刃を、残像を残してかわす。詠唱はフェイクだったという訳だ。

「ハハハ、アホらしい、こんなところで死んでたま……」

パズズの言葉が途中で止まったのには、理由がある。上を見なくても、分かる。気づいたのだ。彼の周囲を囲む、無数の光の槍に。

最初は制御が難しかった。だが、今は此処まで使いこなせるようになった。ニーズヘッグを倒し、スペクターに致命傷を与えた秀一の秘技の一つ、ジャベリンレイン。秀一は壁に突き刺さった左手はそのままに、右手を握り込んだ。最初から、パズズの狙いは分かりきっていた。何しろとても分かり易いからだ。

「弾けろ!」

「お、おの、おのれええええええええっ! ぎぎゃあああああああああっ!」

絶叫は、光に溶けた。

爆発が、塔を揺るがす。降ってくる膨大なマガツヒを、まとめて吸い込む。何だか、違和感があった。パズズという存在だけではなく、他にも何かを喰らったような気がする。口を手の甲で拭いながら、左手を壁から引き抜く。振り返ったのは、戦況を確認するためだ。

リコの鋭い回し蹴りを、クロトが低い体勢でかわす。まだ戦いは続いていた。上段に構えたサルタヒコが、気合いと共に鋭い一撃。戦況不利と見たか、クロトは此方を一瞥すると、剣撃を棍で受け止めつつ、下がる。そして追撃の、リコの前蹴りを巧く利用して、大きく跳んだ。

「パズズの奴、味方を巻き込んだばかりか、足まで引っ張りやがって!」

悪態をつくと、クロトはそのまま逃げに掛かる。敵の防壁に、穴が開いた。ざっと見回す。アメノウズメの神楽舞が皆に力を与えてくれていると言うこともあるが、まだまだ充分な余裕がある。

「フォルネウス! 追撃は!?」

「そうたいした数じゃないのう! 余裕で押さえ込んでおるわい!」

「よし、ならば行けるな。 そのまま強引に頂上まで突破するぞ。 サルタヒコ、フォルネウスの支援に回ってくれ。 リコ、サナ、前衛になって敵の防壁を抜くぞ」

サナは片っ端からぶっ殺した堕天使達のなれの果てである辺りのマガツヒを夢中になって頬張っていたが、上に行けばもっと食べられると気づいたのか、嬉々としてついてくる。リコは必要な分だけマガツヒを吸い込むと、すぐについてきた。この辺り、二人の性格差が出ていて面白い。

秀一が見たところ、上にはクロト以上の実力者が、まだ最低でも二人いる。前情報からして、モイライの三姉妹だろう。更に悪いことに、下の方からも強い気配が迫っている。下の気配には覚えがある。以前共闘したニヒロ機構のカエデ将軍だろう。彼女は手強い。パズズなどとは、比較にもならないほどにだ。戦うなら、此処にいる半分以上は死ぬ覚悟をしなければならないだろう。その上、単独で来ることは考えられない。最低でも千騎以上は堕天使を連れてくることが疑いない。追いつかれたら終わりだ。

だから、速攻でけりを付ける。

予想以上に厳しい状況だが、此処にいる者達と息が合えば、成し遂げられるはずだ。

塔を駆け上る。上では、どんどん禍々しい気配が強くなってきている。もはや、残された時間は、そう多くはないようであった。

 

呼吸を整えながら、塔の最上階に着いたクロトは、姉二人を捜した。噂に聞く人修羅が、何でこんな所に来ているかは分からない。だが、奴の実力はよく分かった。従えている悪魔二匹だけでも、クロトと五分の戦力の持ち主だ。しかもさっき、パズズを仕留めた技の破壊力と来たら。思い出すだけでも寒気がする。

何故、このような時に、姉たちはいないのだ。意識のないまま、逆さに浮いてマガツヒを流し続けている創世の巫女がいるだけの空間に、寒気を覚えたクロトは、思わず叫んでいた。

「ラケ姉! アト姉!」

「五月蠅いわね、どうしたの」

するりと、姉二人が後ろの空間から出てきた。そう、何もない空間からいきなり前触れもなく現れたのである。度肝を抜かれて、硬直してしまう。何事だ。このような能力、二人は持っていなかった筈だが。そう言う術があるとは聞いているが、非常にレアで、魔術のエキスパートであるカエデ将軍でさえ手が届かないはずなのだ。

何だか、おかしい。

元々クロトは、あまり頭がよい方ではない。だから、今回のクーデターも、殆ど分からないうちに話が進んでしまった。姉に逆らう選択肢は最初から無かったから、反対はしなかったが。あれよあれよという内に、姉たちの行動に巻き込まれてしまった。

野心はある。燃えたぎるような、頂点に立ちたいという野望は確かにある。だが、あれだけの強敵を目前にしてしまうと、恐怖を隠すことが出来ないのも事実だ。下手をすれば死ぬかも知れない。そう思うと、震えが来た。

「人修羅だ。 何だか知らないが、あいつが攻めてきてる」

「へえ。 マネカタどもを集めて、猿山のボスを気取ってるあいつが?」

「何の用でしょうね。 うふふふ、まあいいわ。 早速力を試してみたいことだし」

「力って、何だよ。 ナイトメアシステムは、まだ発動までに時間が掛かるんじゃないのかよ」

そう、クロトは聞いている。だから、敵が攻めてきたことに関して、焦りを感じていたのだ。だが、姉であるアトロポスは、平然とかつ妖艶と言った。

「ナイトメアシステムは、後三時間もあれば発動可能よ。 忌々しいカエデが此処まで来る前には、確実に行けるわ」

「な、何ッ!? さ、三時間!?」

いくら何でも、そんなに短いとは思ってもいなかった。もうすぐとは言っても、カグツチの日齢が一巡するくらいまでの時間は必要かと思っていたのだ。更に、衝撃的な話が続く。

「ターゲットはカブキチョウ。 更に、連射できることを示すために、四天王寺も吹き飛ばすわ」

ラケシスまでとんでもないことを言い出す。もしそれが実行できるなら、シナイ塔もアサクサも、シブヤもユウラクチョウも、それにギンザも消し飛ばすことが出来る。マントラ軍は終わりだし、ニヒロ機構も壊滅させられてしまう。

確かに、天下は取れる。しかし、それでは、誰も後には残らないのではないのか。ナイトメアシステムは核兵器も同じだ。使わないで済ませることに、意味があるのではないのか。

それよりも、不満なことが一つある。

「そ、そんな大事なこと、何であたしに話してくれなかったんだ!」

「そんな事、決まっているでしょう」

アトロポスが、今までクロトが一度も見たことのない笑みを浮かべた。背筋に寒気が走る。こんな姉の表情は、今まで見たことがない。そして、ラケシスもだ。目が光っているかと思った。

「貴方、とても愚かだもの。 大事な事なんて、話せる訳が無いじゃない」

「ラケ姉……!」

「何をもたもたしているの。 残存勢力を集めて、足止めを行いなさい。 まだ、それくらいは可能なはずよ」

「姉々達が来ないと無理だよ! パズズは、殺られちまったんだよ!」

「使えない子」

それが自分を指していることに気づいて、クロトは卒倒しそうになった。姉たちは、世間一般の姉妹と比べて、情が深い方だと信じていたのに。何があっても、最後は味方してくれると思ったのに。全ての価値観が、崩壊していく。ラケシスに服の襟を掴まれた。いつ後ろに回られたのかさえも、分からなかった。

悲鳴を上げそうになる。ラケシスとアトロポスが、全く知らない人に思えて仕方がなかった。

「ラケシス、これを盾にして、人修羅を防ぎましょう」

「そうね、アトロポスお姉様。 あの力を使えば、簡単なことだわ」

「い、いや、いやあっ!」

「何だ、あの力っていうのは。 ナイトメアシステム以外にも、切り札があるのか」

場に、強大な気配が割り込んでくる。クロトは腰を抜かしてしまっていて、それを見るのが精一杯だった。

右手に掴んでいた堕天使を放り捨てる、人修羅が其処にいた。

早すぎる。いくら何でもだ。奴の部下達も勢揃いしている。さっきはすぐに通路に引っ込んでしまった、フォルネウスも滞空していた。パニックが起こり駆ける。部下が来ない以上、もう勝ち目はない。前門の狼、後門の虎。絶体絶命の危地に落ちたことを、クロトは悟った。

あいつは敵だ。それは分かっていたはずなのに。

どうしてか、人修羅に向けて、助けを求める声を上げてしまった。

 

5、よりおぞましきもの

 

「た、助けて! 助けてっ!」

クロトの懇願に、秀一は思わず足を止めた。さっきまで戦っていた相手からの、予想もしなかった反応である。何かの罠かと思い、構えを取る秀一だが、クロトの必死な表情に、どうしても嘘は見いだせなかった。

「姉妹じゃないのか。 こんな時に、何をしている」

「ハ。 姉妹ですって」

「こんな役立たず、私達の妹ではありませんわ」

秀一と同年代に見える赤い服の女と、いくらか年上に見える白い服の女が、けたけたと笑った。黒い服を着たクロトは蒼白のまま、震えている。姉であるはずの存在を見る目は、恐怖に揺れていた。

様子がおかしい。世の中には、確かに仲の悪い兄弟姉妹がいる。秀一も、いくらか実例を見ている。だがあれは、信頼していたのを、裏切られた表情だ。フォルネウスに、聞いてみる。

「フォルネウス。 あの三姉妹は、前からああだったのか?」

「いや、わしが知る限り、とても仲がよい姉妹じゃったぞ。 今更おかしくなると言うのも、変な話じゃのう」

そうなると、何かの異変が、あの三姉妹を襲ったと言うことか。

改めて、部屋の奥を見る。祐子先生を発見。逆さに浮いている。真下には三角錐があり、祐子先生の体から溢れた膨大なマガツヒが、其処に流れ込んでいる。意識は無い様子だ。ずっと此処で、マガツヒを絞られていたのだろうか。

事情は分からないが、あれを自主的にやっているとは思えない。氷川と決裂したのだろうか。ほかにも、聞きたいことは、幾らでもある。

手を横に出したのは、サナに釘を刺しておくためだ。

「様子がおかしい。 クロトには手を出すな」

「えー? あれが一番簡単に殺れそうなのに」

「無力化しているようだし、戦意もない。 それなのに、斬る必要もないだろう。 後で話を色々と聞いておきたい。 先に姉二人を叩く」

あの二人は、降伏などしそうもないし、手加減できる相手でもない。後で恨まれるかも知れないが、仕方のないことだ。秀一が、前に一歩踏み出す。

白い服を着た女の手が、消える。とっさに飛び退くのと、火炎が辺りを蹂躙するのは、同時だった。

散った皆の中で、最初に立ち直ったのはサナだった。豊富な魔力にものを言わせて火炎の膜を突き破ると、雷撃を白い服の女に浴びせかける。赤い服の女が、今度は手を横に振る。淡い光の膜が出現、雷撃を弾き散らした。

同時に、何か鋭い飛来物。サナを抱えて、秀一が飛び退く。空を抉ったそれは、アメノウズメをガードしたサルタヒコと弾きあい、リコの髪を数本散らして、カーブを描いて白い服の女の手元に戻る。鋏だ。鋏の刃が、それぞれブーメランになっているという訳か。

白い服の女が指を鳴らすと、場に強烈な気配が無数に現れる。どれも中級以上の悪魔ばかりだ。空間から不意に現れたそれらは、自分がどうしてここにいるのかわかっていない様子であった。

「え? あの、ラケシス様? 私は、中層でのゲリラ戦を命じられていたはずでは」

「事情が変わったの。 まずは、そこの人修羅をたたきつぶしてからよ」

指を鳴らしながら、ラケシスと呼ばれた赤服の女がいう。そうなると、白服がアトロポスか。

敵の数は三十強。しかも、さらに増援がくる可能性が高い。しかも、今見せた能力。空間に、自在に穴をあけるとでもいうのか。ワームホールを自由に作り出す能力。桁違いの相手だ。

全力で戦うことに、秀一は決めた。

「あの二人は、俺とサナが押さえ込む。 皆は支援を頼む」

秀一が構えをとり直すと、奇声を上げながら、アトロポスがブーメランを放った。

 

モトと共に中層までたどり着いた戦力は600弱というところであった。強引に壁を抜いたものの、ゲリラ戦に切り替えた敵の抵抗は頑強で、組織的な兵力輸送が難しかったのである。消耗は少ないのだが、彼方此方に散らせた兵力は、ゲリラ戦を仕掛けてきている敵の対処にかかりきりだ。後続のスルト隊は、さらに時間がかかるという。

モトは部下たちを整列させた。中層はほぼ押さえたが、それでも辺りからは時々戦闘の音がする。

「カエデしょうぐん、それでぼくは、どうすればいいの?」

「最精鋭を率いて、このまま敵の陣を突破してください。 最上階にいる創世の巫女が、ターゲットです」

モトは優れた戦士だが、残念ながら子供だ。子供であるカエデからみても、精神的に幼すぎる。指揮官としては、ほとんど防衛部隊にしか回されないのも、それが要因である。だから、今回はそれを逆用する。

いざ戦いになれば、モトは最前線に立って猛烈な突破作戦を図るだろう。

「わかった。 カエデしょうぐんは?」

「私は、別ルートから進入します」

「きけんじゃないのか」

「だから、敵も警戒を緩めるんです」

そう。これは本隊を利用した陽動作戦だ。一緒につれてきた親衛隊は、いずれも一騎当千の古強者ばかりだ。必ずカエデの期待に応えてくれると信頼している。彼らも、カエデの大胆な作戦に、息をのんだようだが。しかし、敬礼で応えてくれた。

「カエデしょうぐん、なんだかだいたんになったね」

「え? そうですか?」

少し意外だと思いながら、天井を見上げる。無数に重なり合うブロックの奥から、ほとばしるような殺気。上で戦っている気配が、さっきよりも強くなっている。ニヒロ機構で幹部を張れるほどの上級悪魔が、本気で殺し合っているのだ。オベリスクが壊れるようなことはないだろうが、それ以外の不安が大きい。

「急ぎましょう。 攻撃は本気でお願いします」

「まかせて。 ぜんぶメギドラでふきとばしてやる」

棺桶の間から聞こえる無邪気で冷酷な死刑宣告に、カエデは苦笑いした。

クーデター部隊には気の毒だが、裏切った以上はそれなりのペナルティがあるのは仕方がない。それにしても、同じ裏切りだというのに。ロキと彼らで、こうも印象が違うのはなぜなのだろう。モイライの三姉妹は、カエデの部下だった時期もある。あのときは、とてもこんな大それたことをするようには見えなかったのに。

まだ、イヤな予感は収まらない。カエデは親衛隊をせかして、上に向かう。モト隊は、それを横目に、大挙して、強引に敵防衛網を突破にかかった。

 

サナが詠唱を始める。アメノウズメも、全力で神楽舞を始めた。

ふくれあがる力をみて、ラケシスがせせら笑う。そして、手を前に伸ばしかけた瞬間。驚愕に顔をゆがめた。

ブーメランを強引に突破した秀一が、眼前に迫っていたからだ。

秀一は猛烈な前蹴りを浴びせ、必死になって両腕でラケシスはガードにかかる。だが、秀一は気にせず蹴りをたたき込んだ。リコのものに比べると少し威力は落ちるが、不意をついたこともある。ラケシスは数騎の堕天使を巻き込み、吹っ飛ぶ。

同時に、炎の息をアトロポスに吹き付ける。舌打ちして、白い服の女神は飛び退いた。

着地した秀一は、丸まってふるえているクロトの服の襟を掴むと、奥へ放り投げた。さっき、ブーメランを無理矢理にはねのけたため、右腕に深い傷がうがたれて、鮮血がこぼれ落ちている。だが、気にせず、構えを取り直した。

「お、おのれ!」

「やはりな。 空間を渡るとき、一瞬隙ができる。 しかも、術式の展開に、かなり消耗が大きいと見た」

「だから何だ!」

「近距離でつかず離れず戦わせてもらうぞ」

敢えてわざとわかっていることを指摘したのは、時間稼ぎと、相手を怒らせるためだ。ラケシスが目に狂気を宿らせる。造形が美しいだけに、一度ゆがむと、そのおぞましさは度が外れていた。アトロポスの手元に、ブーメランが戻る。術を使えば、物理的な力を用いなくとも、手元に回収できるらしい。

好都合だ。

操作している間は、空間をわたれまい。

再び、ラケシスに間を詰める。飛び退こうとするが、させない。ラケシスが、手を左右に広げ、何かを放つ。跳躍して、飛び越え、天井付近でそれを見た。糸だ。鈍く光る糸が、秀一のいた辺りを滅多打ちにした。堕天使が一人それに巻き込まれ、悲鳴を上げながら八つ裂きにされる。

「おおおっ!」

「ぎきいっ!」

天井を蹴り、一直線に、跳ぶ。ラケシスが、糸を向けようとするのを横目に、ヒートウェイブをアトロポスに打ち込む。ブーメランを回収したばかりの彼女は、あわてて武具をクロスして、ヒートウェイブの盾にするが、はじき飛ばされる。今ので軌道が僅かにずれ、ラケシスの一撃は空を切った。

ラケシスの脇に着地。そのまま、回し蹴りをたたき込む。ラケシスが必死に両腕をクロスしてガード。左腕に刃を出現させながら、吠える。

「やはりな。 動きがたどたどしい。 新しい力を使いこなせていない!」

「だ、黙れ!」

「それに、近接戦闘ができるクロトを外したのは致命的だったな! 堕天使たちでは、数騎集まっても、彼女には及ばない」

「ダマレと、言っテいル!」

おぞましい気配が、ラケシスの声に混じる。だが、これで十分。刃を振り下ろし、ラケシスの糸を一刀両断。目を光らせながら、糸を再構成するラケシス。おもむろに、立ち上がろうとするアトロポス。

横っ飛びに秀一が逃れる。彼女らが、秀一の動きを追う。かなり、力の消耗が激しいが、これで体勢は決した。

サナの詠唱が終わったのだ。

「おおいなる雷帝よ、その矛を今我に貸し与えたまえ。 その光はすべてをうち砕き、神の威を三界に示すだろう。 三つ又の矛、大いなる槌、そして白き光の槍! すべては一つの、高貴なる神の武具なり!」

鋭い音と共に、サナが胸の前で両手を打ち合わせる。額には汗が浮かび、背中の羽は薄れ掛けている。術に全力を注ぎ込んでいる証拠だ。彼女が両手を上に向けると、天井近くに光の球、プラズマの固まりが出現した。

「弾け、そして焼き尽くせ! うなれ神の雷! マハ・ジオ・ダイン!」

辺りを、超高電圧の、雷撃が蹂躙した。白い光の蛇が、唖然とした堕天使たちを、かみ砕き、飲み込む。そして、爆裂した。

悲鳴を上げて、堕天使たちが吹っ飛ぶ。時間を掛けて詠唱しただけに、サナの狙いは正確無比で、リコを四騎がかりでおそっていた堕天使も、三騎がかりでフォルネウスを落とそうとしていた連中も、皆黒こげにされた。アメノウズメに迫っていた数騎は、かなり押していたのだが、いずれも吹き飛ぶ。ずっとサルタヒコと斬り結んでいた、一番強そうなやつも、呻きながら倒れ伏す。

ラケシスも、アトロポスも、ガードが精一杯だった様子である。呻きながら、やっと立ち上がる。

「まだやるか」

「だ、ダマれ!」

「我らには、もう後が無いのだ! これが失敗したら、し、うぐっ!?」

アトロポスが、胸をかきむしる。おぞましい気配が、さらに強くなっていく。秀一は飛び退くと、皆に叫ぶ。

「備えろ! 何か様子が変だ!」

「まずいぞ秀一ちゃん! 後ろから、強い気配が迫ってきておる! 多分、ニヒロ機構のモトじゃ! 今のわしらじゃ、相手にするのは厳しいぞ! もう一つ、強い気配も別から迫ってきておる! タイムリミットじゃ!」

「フォルネウス、悪いが魔術の氷で通路を封鎖してくれ! サナ、次の術、いけるか!?」

「すぐには無理!」

辺りのマガツヒをほおばりながら、サナが叫ぶ。ほとんどの魔力を消耗したらしい。そうこうするうちに、ラケシスも、呻き始めた。そして、倒れてもがいている堕天使の一騎の頭を掴む。

そして、異変が始まった。

ずるりと音を立て、アトロポスの体から、何かがでてくる。頭足類の触手だ。ラケシスの体からも、である。意識のない堕天使に、伸びて、絡みつく。

「さ、榊センパイ! あれ、なんスか!?」

「以前、勇が連れていたやつと、気配が似ているな」

「! 邪神ダゴン!?」

前より気配が小さいのが救いか。だが、それでも。体中がふるえるような、圧倒的な実力に代わりはない。

「散開! 距離をとる!」

触手が、二人の女神の体から抜けた。それが、致命傷になったらしい。マガツヒになって消えていく女神たちを見て、クロトが悲鳴を上げる。やはり、年下の女の子が悲しそうにしているのを見るのはつらい。

衝撃波が、触手の固まりになった堕天使のなれの果てから、吹き付けてくる。腰を落として、何とかしのいだ。祐子先生は無事かと、一瞬だけ確認する。今までと全く変わらない様子で、浮いていた。

負ければ、先生も死ぬことになるだろう。それだけは、させるわけにはいかない。

体中傷だらけ。残る力も少ない。手は、一つしかない。後ろを見る。皆、秀一と似たような状態だ。

殆ど間をおかず、膨大な炎が部屋を蹂躙する。どこから現れたか分からない雷が、容赦なく追撃を仕掛けてきた。立ち上がりかけた所に、極太の触手が、秀一を叩きのめした。床にたたきつけられ、思わず呻いてしまう。続けて跳んできた触手を、横っ飛びに避ける。床が、砕けた。立ち上がりながら、後ろを見た。何とか、一人も掛けていない。だが、全員限界だ。

奴はまだまだ余裕綽々。蓄積魔力は充分。次に今の連続攻撃が来たら、どうにもならなくなる。

「連携して、一気に残る力をたたき込む!」

「ふう、後が無いというのに!」

「こいつを倒さなければ、今だってない!」

「うう、うげお、あああえおおおおおおおおおお!」

呻きながら、触手の固まりが、体を起こす。秀一は気合いを入れ直すと、奴と相対した。チャンスは、一回のみ。それも、そうちんたらはしていられない。後ろからの攻撃に、追いつかれたら終わりだ。

「倒れたら、後で運んでよ」

鈴の音が鳴る。アメノウズメが、汗みずくの体にむち打って、またくるくる舞い始める。既に全身は赤く熱を持ち始めていて、神楽舞が限界だというのは一目で分かった。秀一を、正確には秀一を信頼したサルタヒコの言葉に、命を賭けてくれている。

力が、みなぎってくる。大上段に構え上げたサルタヒコが、最初に仕掛けた。

「おおおおおっ!」

踏み込む。同時に、フォルネウスが、最大級の冷気術を撃ち込む。大きく口を開けたエイの悪魔は、詠唱を終了。無数の氷の杭を、触手の固まりに叩き込んだ。

大量の血が飛び散る。だが、柔軟性が高い触手を、貫くには到らない。退路を塞ぐ氷の術を使った故に、威力が落ちた事もあるだろうか。だが、一瞬だけ、動きが止まる。無数の氷塊が突き刺さり、ウニのような姿になった敵に、渾身の一刀をサルタヒコが振り下ろした。

鮮血が飛び散る。敵の触手が数本、両断された。

両足を踏ん張り、力をため込む秀一の前で、サルタヒコが横っ飛びに逃れ、代わりにサナが割り込む。敵が無数の触手を振り回して、逃れようとするサルタヒコをはじき飛ばす。異常に長く伸びた触手が、フォルネウスを一打ちして、床にたたきつけた。額から滝のように汗を流しながら、サナが叫ぶ。

「リコ! 同時に行くよ!」

「サナさん、了解ッス!」

リコが跳躍。無数の触手が迎撃に掛かる。錐のように尖った触手が、腕を、足を、腹を、次々に切り裂く。目の下を斬られても、リコは気にせず、両手の刃を振るって、強引に突破。

「せえああああっ!」

雷帝蹴りとリコが名付けた、一撃必殺の跳び蹴りが、斜め上から炸裂する。巨体が、苦悶の声を上げた。同時に、サナが、印を切り終えた。

「打ち抜け、神の矛! ジオ・ダイン!」

全身から放ったいかづちの蛇が、触手の固まりを貫く。電撃の余波による痛みを意に介さない様子で、リコが敵の巨体を押さえ込もうとするが、触手が無造作にはじき飛ばした。触手の殆どが、半ばから消える。

そして、秀一の周囲に、突然現れた。

最初から分かっていたのだろう。最後の一撃を、秀一が打ち込んでくることは。先端が尖った触手が、一斉に殺到してきた。全身が、四方八方から貫かれる。だが、それでいい。ぐっと、顔を相手に向ける。

勝負、あった。

全身の魔力を、顔面に集めて、目から撃ち放つ。淡い紫色をしたエネルギーの固まりが、螺旋状にうねりながら、敵の中枢を貫通する。螺旋の蛇。マガツヒを食べ続けて、体の中で練り上げた奥義である。悲鳴を上げて、もがく敵。更に、出力を上げる。膨大な光が、部屋中を漂白していく。

「おおおあああああああああああっ!」

気合いの声と共に、秀一は残るエネルギーの殆ど全てを、打ち込んだ。もがいていた触手が、更に体の奥を抉ろうと食い込んでくる。だが、秀一の方が、勝った。

前のめりに、倒れた時。触手の固まりは原型を保てなくなり、四散していくところだった。触手の何本かは、重要臓器にまで達していた。人間であれば、確実に死んでいるところだ。だが、今は不思議と、死相は感じなかった。

膨大なマガツヒが、辺りに溢れている。大きく息を吸い込んで、少しでも回復に掛かる。床にへたり込んでいるサナが、乾いた笑い声を上げた。

「どーすんの、シューイチ。 もう、僕達、逃げる力もないよ」

「フォルネウス、どれくらい、氷の壁は保つ?」

「そうじゃの。 一時間も保てば上出来じゃかの」

「ならば、三十分と言うところだな」

ごろりと横になると、目をつぶって考える。さて、どうしたものか。まず、立ち上がって、祐子先生を助けなければ行けない。

ふと、さっきの、三姉妹の喧嘩のことを思い出した。

ナイトメアシステムと、言っていなかったか。

あれから情報を集めた所によると、ナイトメアシステムというのは、アマラ輪転炉の巨大盤だという。それの力を利用して、敵地からマガツヒを強制的に吸い上げることで、原水爆にも匹敵する破壊力を実現するシステムだとか。

それならば、この塔でナイトメアシステムを使おうとしていたと言うことは。

転がったまま、両手で顔を覆って、しくしくと泣いているクロトを見る。聞いておかなければ、ならないことがある。

「クロト、聞きたいことがある。 この塔で、ナイトメアシステムを発動しようとしていたというのは、本当か?」

クロトは童女になってしまったかのように、泣きじゃくっていた。姉があんな事になってしまったのだから、無理もない。返答は出来そうにない。半身を起こす。まだ、歩き回れそうにはないが、思考は少しずつはっきりしてきた。

だから、それに気づくことも出来た。

天井の一部が、ゆっくりスライドする。そして、其処から飛び降りてくる小さな影。

万事休す、だった。

「貴方は、確か人修羅。 こんなところで会うとは。 モイライの三姉妹が戦っていたのは、貴方でしたか」

「ニヒロ機構の、カエデ将軍、か」

カエデは、セーラー服を着ていた。ある意味可憐でさえある。だが、その全身に纏う凄まじい魔力は、秀一に死を覚悟させるに充分だった。さっきの触手の固まりよりも、確実に実力は上だろう。しかも、此方は満身創痍。下級の悪魔一匹さえ、倒す力は残っていない。

カエデ将軍は、辺りを見回すと、歎息した。

「何があったのか、教えていただけませんか? そうすれば、見逃すことを、考えてあげてもいいです」

「……ニヒロ機構のカエデ将軍ともあろうものが、そんな曖昧な約束をしてもいいのか?」

カエデは答えない。ただ、じっと見つめるだけだ。その瞳に、邪悪な要素はない。この子は真面目な性格なのだなと、秀一は思った。取引に応じる気になったのは、多分性格を見抜いたからだろう。

「俺は、祐子先生を救出するために、此処に来た。 そうしたら、モイライの三姉妹と、交戦することになった。 此処までは予想していたのだが」

「何か、異変が?」

「ああ。 以前であったことのある、ダゴンか、その手下だろう。 モイライの三姉妹にとりつき、妙な能力を与えていたようだった。 彼女らがおかしくなっていたのは、それが要因だろう」

「なるほど。 ダゴンですか。 アマラ経路に、新たな勢力が生じつつあるというのは、私達も掴んでいます。 彼らの介入だというのであれば、とても危険な事態ですが」

カエデに続いて、堕天使達が降りてくる。カエデを囲む彼らは、さっきモイライの三姉妹が呼び出した連中とは、練度も実力も段違いに見えた。多分親衛隊だろう。

「……分かりました。 見逃してあげましょう。 其処にいる創世の巫女も連れて行きなさい」

「か、カエデ司令官!?」

「これは他言無用です。 それと、モト将軍に連絡。 最上階に、モイライの三姉妹が強力な爆発性の術を仕掛けた。 恐らくメギドラオンかと思われる。 塔上層から、急いで離れるように」

カエデの部下達が、侵入に使った穴から消えていく。短く切りそろえた髪を掻き上げるカエデに、秀一は立ち上がりながら言った。

「どういう、風の吹き回しだ」

「ナイトメアシステムなんて、無い方が良いんです。 それに、創世の巫女は、ニヒロ機構のコトワリを築ける存在ではありません」

「……そうか。 恩に着る」

「代わりにと言っては何ですが、マネカタコミュニティはマントラ軍や天使軍と同盟を結ばないようにお願いします。 しばらくは、マントラ軍の目をあなた方に向けておきたいのです」

なるほど、その間に敗戦の傷を癒すという訳か。思ったよりずっとちゃっかりしていると、秀一は思った。カエデはこの間見た時よりも、ぐっと成長しているようだ。男子三日会わざれば刮目して見よという言葉があるが、間違っている。刮目しなければならない相手は、男子に限らない。

「分かった。 俺の誇りにかけて、履行させて貰う」

何とか立ち上がることが出来たサナに耳打ちする。此処から脱走するにしても、歩いていくのは無理だ。カエデも、其処までの面倒は見てくれないだろう。

「この塔は、大きなアマラ輪転炉になっているはずだ。 解析できるか」

「出来るよ。 塔登ってる時に気づいたけど。 そうだね、制御室は此処かな。 だから、あのセンセを此処に捕まえてたんだろうけど」

「脱出できるか」

「そうだね、何とか。 ただ、あまり精密には出来ないから、アマラ経路でスペクターに襲われたら終わりだけど」

それでも良いと秀一が言うと、サナはカエデの方を警戒しながら、床を触り始めた。彼女の背に、羽はない。それくらい消耗が大きいと言うことだ。

カエデはというと、なにやらとんでもなく長い詠唱を始めている。さっき、メギドラオンがどうとか言っていた。確かそれは、最上級の攻撃術であったはず。今やニヒロ機構の、二大将軍の一人だと聞いているが、出来るというのか。凄まじい勢いで成長している。いずれ戦うことになると思うと、ぞっとしない。

やっと、少しずつ体が動くようになってきた。戦うことは、とても無理だが、それでもどうにか動けはした。ゆっくり、先生に歩み寄る。勇があのような事になってしまったことを知ったら、先生はどう思うだろう。千晶は今や、武装集団の頭目をしていると聞いている。それについては、どう感想を漏らすだろう。

秀一が近付くと、先生を逆さに浮かせていた力が消えた。サナが分析の過程で、操作してくれたらしい。落ちてきた先生を、抱き留める。何だか、随分軽いなと思った。人間とは、こんなに軽い生物だったのか。

先生は意識を取り戻さない。このまま背負っていくしかないだろう。白いコートを着ていた先生は、見る間に血まみれになった。そういえば秀一は血まみれだった。今更ながらにそれを思い出して、秀一は苦笑した。

詠唱が一段落したらしいカエデが、にこりと笑う。

「アマラ輪転炉としての機能を使って、脱出するつもりですか?」

「君は恐ろしいな。 その通りだ」

「追撃はしません。 天使達がこんな塔を作るから、何もかもがおかしくなったんです」

とても深い悲しみが、カエデの目には宿っていた。天使に恨みがあるのかも知れない。容赦なく、この塔の上層を吹っ飛ばすつもりだろう。

秀一は、皆を促して、この場を後にすることにした。サナの周囲に集まる。サナは敗北感を刺激されたようで。かなり悔しそうであった。確かに、サナが一人で勝てる相手ではない。しかも、向こうにはまだまだ伸びしろが幾らでもあるのだ。悔しそうなサナの言葉に、短く答える。

「帰るよ」

「頼む」

サルタヒコが、アメノウズメに肩を貸していた。フォルネウスは、リコが長い尻尾を引っ張ってきていた。泣きじゃくるばかりのクロトは、此処に置いていても殺されてしまうから、秀一が手を引いた。問題はニーズヘッグだが、ある程度時間が経って戻らないようなら、帰還するように命令はしてある。問題はない。

ふっと、体が沈み込むような感触。其処で気づく。

この塔がアマラ輪転炉だというのなら、ダゴンはそれを利用して、モイライの三姉妹に潜り込んだのではあるまいか。ニヒロ機構の生命線だったアマラ輪転炉は、今滅びの生成装置になろうとしているのではあるまいか。

ニヒロ機構に警告しようかと思ったが、辞めた。彼らは味方ではないし、思想的にも相容れない。だが、さっきのカエデとの契約は、守るつもりだ。それは、此方にも利がある提案だからである。

気づくと、アマラ経路の中にいた。アサクサの側だと、サナは言った。周囲のマガツヒを口に運びながら、今後のことを考える。どうやら、状況は悪化の一途を辿っているとしか思えなかった。

 

6,怒濤

 

アサクサの縁を、カズコは歩いていた。悪魔達にマガツヒを供出するのがメインの仕事となっているから、他に比べて暇も多い。それに、出来ればフトミミとは顔を合わせたくないのである。あの男は、どうも信頼できないことが多い。確かにカリスマはあるし、優れた頭脳の持ち主だ。だが、生き残るために、自分を蜘蛛の悪魔の餌にして逃げた。それに、どこかに、信用しがたい部分がある。

街を出る訳にはいかないから、見張りが彷徨いている少し内側辺りをふらつくのが、カズコの日課だった。琴音は最近彼方此方を飛び回りっぱなしだし、フォンはマネカタ達の訓練に生き甲斐を見いだしている様子で、邪魔をしては悪い。クレガはマネカタ達と政治的な話を詰めるのが忙しく、必然的にティルルと遊ぶしか無くなる。そのティルルも、最近は他のマネカタの子供達と遊んでいることが多くて、カズコは寂しい思いをしていた。

砂の中で、何かが蠢いた。

緑色をしている。それは、非常に弱っていた。

一度、見たことのある相手だ。確か、スペクターと言ったか。あの時は恐怖の根源のように言われていたが、どうしたことか。小さくなったスペクターは、触るだけで弾けて散りそうな有様だった。

腰をかがめて、覗き込む。向こうも、カズコに気がついたようである。

「な、ンだ」

「あなた、スペクターだよね。 何でこんな所にいるの?」

「負ケタ、かラだ。 今のオレは、再生モ出来なイ、負ケ犬だ」

「罰が、当たったんだね」

スペクターは、何も言わなかった。カズコは、ため息を一つ。

「私が誰か呼べば、君は殺される。 分かってるよね」

「好きニシロ。 オれは世界トの戦いニ敗レた。 敗者ヲ好キにするノが勝者の権利ダ」

「なら、それを行使するよ」

マガツヒを出す。少し、考えるだけで、それなりの量のマガツヒが流れ出てきた。スペクターは驚いて、声も出ないようだった。

「何ヲ、スル」

「逃がしてあげる。 だから、自分がしてきたことが、本当に正しかったのか、考えて」

スペクターの上に、マガツヒを流してやる。近くにある、アマラ経路への入り口は何処だったか。

本当に小さくなってしまったスペクターを服の下に隠して、さっとそこへ走る。襲おうと思えば出来るだろうに、スペクターは何もしなかった。

アマラ経路の入り口になっている闇の中へ、スペクターを放した。空中でしばし漂っていたスペクターは。ぼそりと聞いてくる。

「分かラナい。 何故、コのよウナことヲスる」

「……それも、考えてくれると嬉しいな」

「ふン。 何ダか知らないが、オレの事ヲ何も考エず、ただ搾取シ、タだ馬鹿ニシた世界なド、滅びテシまえバいイ。 そノ考エに、変化ガ生じルコとハないダロう」

スペクターは、闇の中に消えていった。

カズコは、ずっとそれを見送った。もしスペクターが本当にそう考えているのなら、アマラ経路から出てきた理由がない。スペクターは、明らかに死にたがっていた。どれほどの苦渋を舐めてきたのか、分からないほどだ。さぞや周囲の人間は、彼を虐待し続けたのだろう。そうして、その報復を、世界は受けたと言うことか。

スペクターは、カズコに本音を話してくれた。少し、感じるところがあった証拠だ。

アサクサで、騒ぎが起こる。人修羅と、部下達が帰ってきたのだという。人間も連れていると言うことであった。

また、大きな争いが起こるとしか思えない。カズコは頭を振ると、人修羅、榊秀一に話を聞くべく、砂漠を走り出した。

 

(続)