踏み越えた先にあるもの

 

序、迫る軍勢

 

シブヤ要塞を出発したニヒロ機構の大軍勢は、まっすぐマントラ軍の拠点カブキチョウに向かう。兵力は47000。かって、マントラ軍がニヒロ機構に総攻撃を仕掛けた時を、更に凌ぐ大軍である。

総司令官はミトラ。副司令官にスルトが着く。カエデが司令官を任されている北部方面打撃軍団に加え、フラウロスが率いる最精鋭部隊、ブリュンヒルド麾下の空軍、ニュクス率いる混成部隊がこれに加わる。懸念事項であった天使軍は、オベリスク攻略戦で壊滅的な打撃を受けており、なおかつニヒロ機構にはこれだけの軍勢を繰り出してもまだ兵員的な余裕がある。各地の拠点には強力な防衛部隊が配置され、隙は微塵も見えなかった。

先鋒を行くフラウロスは、偵察を数多く出しながら、慎重に兵を進めていた。猛将の名を恣にする彼らしくもない慎重さだが、理由は二つある。

まず、敵にはあのトールの姿が確認できないこと。マントラ軍を離れたという事はないらしいのだが、どこかで何かしらの任務に就いているらしい。奴は一騎で万の兵を威圧することが可能な、ボルテクス界最強の悪魔の一柱だ。どれほど警戒しても、しすぎるという事はないだろう。

もう一つの理由は、既に50000を超えたという報告もある、マネカタどもの挙動が見えないと言うことだ。50000といっても、たかがマネカタである。同じ数の悪魔とは比較にもならないほどの貧弱な戦力ではある。しかし、奴らの指導者には、あの人修羅と、それに高名なサマエルがいる。奴らがどのように動くのか、フラウロスは不安であった。

この間、フラウロスは人修羅に会った。強い男であった。しかし、決して暴悪な存在ではなく、むしろ語り合うことも可能な相手に見えた。だが、奴はニヒロ機構とは相容れないと、はっきり言い切った。出来れば戦いたくはない。オセの理解者である男とは。今更に、悩みがフラウロスの心をかき乱す。戦場では、あってはならない事だというのに。

偵察に出していた部隊が戻ってくる。消耗している部隊が、散見された。すぐに部隊の幹部達を集めて、歩きながら話す。

「国境の幾つかの砦に、敵の姿が見えます! ただし戦力は、あわせても5000を超えないかと思われます!」

「補給拠点として、落としておいた方がいいだろうな」

「それがよろしいかと思います。 それに、緒戦で勝っておけば、味方の勢いに弾みを付ける事も出来ましょう」

同感である。フラウロスとしても、最初は勝っておきたい。トールの恐ろしさを知る部下達は、どこかで逃げ腰になっている所がある。この辺りで、しっかりマントラ軍に対する主体性のない恐怖を払っておきたいところだ。

そうと決まれば、ことは早いほうが良い。

部下達を指揮し、すばやく砦の包囲に掛かる。同時に、カエデの部隊も動いた。連携して、特に奇襲を警戒しての、包囲体勢をとる。敵は反撃に出る様子を見せず、砦の中に閉じこもっていた。何度か罠の可能性も考えたのだが、砦の内部に敵がいるのは確実であり、意図が読めない。マントラ軍には、後方に迂回するほどの大戦力もないはずであるし、あったとしても情報網には引っかかる。偵察部隊はかなりの数を出しているし、ブリュンヒルドの空軍も本格的に動いているからだ。

包囲が完成し、進軍が止まるのを見届けると、フラウロスは第二陣にいるカエデと共に、司令部に向かった。部隊後方へ歩く途中、補給部隊の姿が目に着いた。少し護衛が少ないかも知れないと、フラウロスは危惧を抱いたが、此処は黙っていた。

途中、カエデが、フラウロスを見上げながら、妙なことを言った。

「国境は、確か増長天将軍が固めていたはずです」

「それがどうかしたか」

「おかしいです。 増長天将軍は、どちらかと言えば副将として冷静な指揮を執るタイプでした。 進軍は知っているはずなのに、マントラ軍が指揮官を変えたという話は聞いていません」

言われてみれば、確かに妙だ。増長天の成長に期待するとか、人材がいないとか、そのような事はないはずだ。マントラ軍は確かに大きな敗戦を経験したが、司令部はほぼ健在で、毘沙門天を始めとして指揮を執ることが出来る者も多くいる。何か、裏がある可能性は高い。

「カエデ将軍はどう見る」

「私は、戦略の専門家ではないから、あまり詳しいことは分かりません。 でも、正面決戦を挑むには、マントラ軍には戦力が不足しているように思えます」

「そうだな。 もし執るとしたら、持久戦が普通だろうな」

「それにしては、前線の戦力があまりにも少ないような気がします。 罠の可能性を、考慮するべきでは無いのでしょうか」

歩いているうちに、本陣に着いた。仮に罠だったとして、カエデの発言を受け入れる度量がミトラにあるのか、少しフラウロスには不安になった。

せめて、氷川司令の親征であれば、もう少し指揮は引き締まったのにと、もう一つフラウロスは内心で悪態をついた。

司令部には、伝令を受けて、幹部達が集まっていた。一旦進軍を停止し、布陣した天幕に入る。天幕は体が大きいスルトなどの事を考えて、サーカスのテントほどもある。総指揮官の座にふんぞり返っているミトラの側で、腕組みしてスルトが立っている。ニュクスはカエデの顔を見ると途端に機嫌が良くなり、ブリュンヒルドはむっつりと黙り込んだまま、出された日本茶をすすっている。いつもの光景である。カエデが氷川司令のナンバーツーになり、皆でもり立てる体制が出来れば、もっと空気は良くなるかも知れないと、フラウロスは思った。

大小様々なパイプ椅子を並べて、長机の周囲に座る。ニヒロ機構の会議スタイルが整うと、最初にミトラが発言した。獅子の顔には、誰が見ても分かる、下品な優越感が浮かんでいた。もう勝ったと思っているのだろう。

「幸先の良いことです。 敵と我が軍の戦力差は歴然。 一気に捻り潰して、味方の勢いを増しておきましょう」

「ミトラ将軍、少し待って欲しい」

挙手したのはブリュンヒルドである。湯飲みを置くと、彼女は冷静きわまりない目で、ミトラを見据える。傷つきながらも数々の戦いで功績を挙げている彼女は、今やミトラでさえ軽視できない。実力の点でも、特に空中戦での手腕は、ボルテクス界有数とさえ言われている。

「今までの情報を総合する限り、まだマントラ軍は二から三万程度の戦力を動かせるはずだ。 しかもマガツヒは潤沢で、補給切れはほぼ考えられない。 それから考えると、国境に配置されている敵軍はあまりにも少ない。 何かの罠があるように、私には思えてならない」

「具体的には、どのような罠なのですかな」

「それを見極めるためにも、もう少し偵察をさせて欲しい。 偵察の範囲を拡げることで、敵の狙いを読めるかも知れない」

「これだけの軍勢を有していながら、そのような消極的な事ではいけないでしょう。 多少の罠なら、食い破っていけばいいのです」

何だか、この間の戦いの再現になるような気がすると、フラウロスは思った。マントラ軍もそう思って、ニヒロ機構の縦深陣を食い破ることが出来なかった。その結果大敗し、そればかりかイケブクロまで失うことになった。その失敗を、此方が繰り返しては、意味がない。

かといって、ミトラの言うことが分からない訳でもない。確かに、これだけの軍勢があるのだから、それを活用するのが用兵というものだ。それに、どのみち国境は制圧しておかなければ、これ以上は進むことが出来ない。

しばし考えた後、フラウロスは挙手した。

「ならば、まずは攻撃を仕掛けてみて、それから様子を見よう。 奇襲に備えて、全軍が臨戦態勢を取った上で。 それで、どうだろうか」

「……まあ、それが妥当なところか。 空軍は、半数を偵察に回して、早期警戒に当てたいのだが」

「分かりました。 その辺で良いでしょう」

不平満々の様子で、ミトラが許可を出す。拡げられている地図に、フラウロスは指を走らせた。

「さて、今確認されているこの四つの砦を、どの部隊が攻略するか、だが」

「配置の通りで問題ないでしょう。 フラウロス将軍と、カエデ将軍で、それぞれ攻めてください。 他の部隊は、全軍で警戒に当たります。 それで何か問題が?」

「いや、無い。」

「ならば、早速攻撃に掛かってください。 全ては、それからです」

全員が立ち上がると、めいめい己の持ち場に散る。フラウロスは途中でカエデと別れると、自陣に戻った。既に幕僚達は攻撃の準備を整えていたので、命令は一つで良かった。

「総員、攻撃開始! 砦を落とせ!」

高度に組織化された兵士達が、一斉に武具を振り上げ、歓声を上げた。フラウロスも剣を引き抜くと、その先頭に立つ。

敵の砦は、壁の高さだけで二十メートル以上はある。砦と言っても、かなりの規模であり、防衛能力は高い。一つずつの砦に、約5000の戦力が当たることになる。北部方面打撃軍団が三つ、一番奥にある一つをフラウロスの遊撃部隊が担当することになった。

敵はしんとしていて、まるで動こうという様子を見せない。ひたひたと城壁に圧していく部下達の様子を見ながら、フラウロスは剣を振り上げ。

そして、振り下ろした。

「かかれっ!」

喚声が上がる。勇敢な兵士達が、一斉に走り出す。同時に、砦の上に、弓矢を構えた敵兵が現れる。数は1000強というところか。盾を構えた兵士達の上に、一斉に降り注ぐ矢の雨。フラウロスの所にも、二本、三本と飛んでくる。無造作に払い落としながら、フラウロスは冷静に指揮を執り続けた。

盾を構えて城壁際に寄る兵士達。攻城用の梯子が、次々に城壁に掛けられる。後ろから迫ってくるのは攻城塔だ。更に、空を埋め尽くすようにして、空軍が現れる。

敵も、空軍が現れる。龍族を中心とした、少数精鋭のようだ。陸と空で、激しい戦いがかわされる。距離が近付くと、術式も多数繰り出され始めた。いかづちが、炎が、飛び交う。

フラウロスは眼を細めた。思ったよりも、遙かに敵の抵抗が頑強だ。膨大な矢を打ち込んでいるが、殆ど屈することがない。勇敢だといえばそれまでだが、何処かに引っかかる所がある。何がおかしいのか。

攻城塔が一つ、隣を通り過ぎていった。走り追いつくと、跳躍して、その中に乗り込む。矢を放っていた兵士達は驚いたようだが、フラウロスは気にせず、更に屋根にまで登った。

「そのまま進め!」

「危険です!」

「危険は皆も同じだ! お前達は防御に専念し、ただ攻城塔を進めろ!」

「は、はいっ!」

左手で塔の屋上に捕まったフラウロスを、敵も見つけた。見る間に膨大な矢が集中し始める。それを見てか、空軍も集中的に援護を開始した。あと少し。あと少しだ。矢を払い落としながら、フラウロスは心中でつぶやく。

矢を処理しきれなくなってきた。一本が肩を掠め、もう一本が頬を掠めた。剣を振るって、矢を落とす。きりがないくらい飛んでくる。だが、他への負担は小さくなる。さあ、此方を狙え。呟きながら、更に剣を振るい、矢を払う。

堀の手前まで、攻城塔が近付く。攻撃術が花火のように飛び交う中、それでも攻城塔は立っていた。

良くやったと、つぶやく。同時に、フラウロスは跳躍した。

あっけにとられた敵の真ん中に、降り立つ。そして、フラウロスは、吠えた。

「おぉおおおおおっ!」

唖然と立ちつくす、眼前の鬼神を唐竹割にする。振り返り様に、数騎を剣圧で吹き飛ばす。浴びる返り血がマガツヒになる前に、更に斬り、斬り、斬る。後は剣を旋回させ、振り回し、叩きつけ、振り下ろし。全身を真っ赤に染めて、ただひたすらに荒れ狂った。

どれくらい時間が経っただろうか。辺りには敵は一人もおらず、膨大なマガツヒが漂うだけだった。気がつくと、味方が周囲で歓声を上げていた。どうやら、この砦は墜ちたらしい。

ふと、違和感を感じる。確かに激しく荒れ狂った。だが、しかし。斬った手応えが、少なすぎる気がするのだ。

肩に突き刺さったままの矢を抜く。副将が、側で跪いた。

「お見事です。 しかし、もう少し我らを信頼していただきたい」

「ああ、すまん。 だが、これで分かっただろう」

意識が飛ぶほど暴れ回ったというのに。不思議と、疲労は小さかった。辺りに漂うマガツヒを吸い込み、養分にしていく。肩の傷を、駆け寄ってきた医療班になおさせながら、うそぶく。

「マントラ軍は、決して恐るべき相手ではない。 貴様らでも、充分に相手に出来る存在だ」

「は。 その通りかと思います」

「ところで、敵はどこから脱出した。 妙に倒した数が少ないと思うのだが。 或いは、降伏したのか?」

部下達が、困惑して、顔を見合わせる。

「それが。 城壁を完全に突破した辺りから、何処とも無く撤退していきまして。 何処を探しても、見つけることが出来ませんでした」

嫌な予感が、加速していく。

間もなく、他の砦からも、攻略完了の報告が届いた。カエデは自らのメギドラで、敵が四重に展開していた防御結界を貫通したという。めざましい働きだ。だが。

やはりそれらの砦でも、不自然に、倒した敵は少なかった。

味方の損害は417。一方敵は、400弱。

その数字も、フラウロスの嫌な予感を加速させた。損害比率から言えば、味方の圧勝の筈なのだ。しかし、これは一体どういう事なのか。4600以上の敵は、何処へ行ったというのか。

進軍を始める味方の先頭に立ち、フラウロスは不機嫌なままだった。

そしてその顔が、更に歪むのに、時間は掛からなかった。偵察に出していた、部下が戻ってきたのだ。

「フラウロス将軍!」

「どうした」

「そ、それが。 前方に、敵の砦です! 規模は先ほどと、ほぼ同等! 詰めている戦力も、恐らくは殆ど同等です!」

「何だと! ……一体、どういう事だ!」

フラウロスは部下に促されて、走った。そして、砂丘を越えて、思わず呻く。

部下の言葉通り、先ほどと同規模かと思われる砦が、堂々たる姿を、砂漠の中にさらしていたのであった。

すぐに包囲をするように命令すると、伝令を飛ばす。ひょっとすると、このような密度で、延々と砦が連なっているのではないか。

しかし、それではおかしい。敵の戦力は、一体どこから追加されているのだ。そればかりか、墜ちた砦の兵力は、どうやって脱出させている。分からないまま、会議がすぐに行われた。誰も、結論を出すことは出来なかった。

攻略戦が始まる。また、砦は頑強な抵抗を示した。

そして被害は、味方の方がやはり大きかった。

 

1,フトミミ救出作戦

 

マントラ軍とニヒロ機構の本格的な戦いが始まった情報は、すぐに秀一の元にも届いていた。第一次救出作戦を実施し、336のマネカタを無事にカブキチョウから脱出させた秀一は、仲間と共に提供されたマガツヒを食べている時に、それを聞かされたのである。話を持ってきたのは、酒瓶を片手にした、クレガだった。

第二次作戦の実施も考えていたが、少し早すぎる。思案してマガツヒを口に運ぶ手を止めた秀一に、クレガは他の仲間を見回しながら言った。

「正直な話、うちのサマエルは不安を感じとる」

「えー? と、いうと?」

「今でさえ、マネカタ達の間では、我らに対する不審と不安が大きくなってきておるからな。 フトミミとやらがそれを煽り立てたら、それこそ深刻な対立が発生するぞ」

「ふーん。 何だか、恩知らずな話ッスね」

分かってはいたことだ。だが、実際に口にされると、その重みがよく分かる。

マネカタ達は、かっての人類と殆ど同じ存在だ。より対力本願な性質が強いが、根本的な精神構造は非常に似通っている。それはつまり、異物への排斥や、差別も、同じように行うと言うことだ。

ましてや、マネカタ達は、カブキチョウやイケブクロで、マントラ軍の悪魔に虐げられ続けていたという事情もある。秀一達にマガツヒを提供するのを、快く思っていないマネカタも、多い。

流入するマネカタの数が増え、総合的な人口が50000を超えている今は特にそうだ。過激な一派になると、どうにかして秀一達を追い出せないかとさえ考えているらしい。愚かな連中である。

会議で何度も説明したというのに。今、マネカタに、自立する軍事力はないのだ。無理にマネカタ達だけで国家を作っても。いざまとまった軍が攻めてきたら、ひとたまりもなく蹂躙されてしまうことだろう。

クレガが去ると、程なく槍を持ったマネカタが来た。

「人修羅様」

「どうした」

「はい。 シロヒゲ様が、会議を行うと言うことです」

「分かった。 すぐに向かうと伝えてくれ」

瓶に入っているマガツヒを、一気に呷る。外ではニーズヘッグがゆっくり巡回しているはずで、彼にも後でご飯を食べさせてやらなければならなかった。最近では、人なつっこいマネカタの子供を背に乗せていることもある。秀一の見たところ、少しずつ、意識がはっきりしてきているようである。

全員がマガツヒを食べ終えたのを見計らうと、クレーター状の構造をもつアサクサの街を降りていく。最深部には、会議棟。何度かの拡張を経て、小さな学校の体育館くらいのサイズがある。既に主要人員はあらかた集まっていた。琴音が外で待ってので、一礼。肩を並べて、一緒に棟に入る。

「秀一君は、どう思います?」

「やはり、マネカタ達にも、焦りがあるのだろう。 フトミミは、彼らのカリスマだからな」

「ええ。 しかし、このアサクサは、マネカタ達のマガツヒ供給と、護衛をしている悪魔達という図式で成り立っています。 ここに、マネカタ達を強力に束ねるリーダーが現れると、何かおかしな事態に発展するような気がしてなりません。 それに」

琴音は眉をひそめた。最近、カズコが仲間のマネカタ達から、排斥されている節があるという。

露骨ないじめを受けている訳ではない。子供達の中には、悪魔と接することに積極的な者も多いからだ。フォルネウスは子供達を良く背中に乗せているし、アイラーヴァタは穏やかな性格でマネカタ達に信頼されている。だが、カズコはそれとは露骨に違う。悪魔である琴音とずっと一緒にいて、異形であるティルルやニーズヘッグさえ、全く恐れる様子がない。そればかりか、強い者には傲慢でさえある。

この間も、カザンに対してその件で真っ正面からやり合っていた。秀一は脇から聞いていただけだが、カズコの言葉には、マネカタの体勢に対する痛烈な批判まで混ざっていた。カザンは不快には感じていないようだったが、その取り巻きは違うようであった。大人達の間では、既にカズコを避ける空気が出来はじめているという。

カズコは、強い。子供だが、この世界で生きていけるだけの強さを、確かに持っている。

だが、それが故に。群れになってさえ、この世界で生きていけないマネカタの中では、孤立してしまう。

嘆かわしいことだと、秀一は思った。マネカタは、やはり悪いところばかり、人間と共通している点が多い。悪魔達にも同じ傾向があるが、マネカタほど酷くはない印象だ。

席に着く。幹部だけで、既に三十人を超えている。大きな長机が用意され、琴音が、その右に秀一が座る。議長席にはシロヒゲが座り、後はマネカタの幹部達と、クレガ、リコ、サナがめいめいばらばらに座った。時々医師であるアンドラスも会議に参加することがあるのだが、今日は姿を見かけない。

琴音が作った、拡声装置が、各席には置かれている。マイクほどの精度はないが、棒を建てたような形状はよく似ている。根本につまみがあって、それを回すことによって動作する。魔術で作った道具なので、時々琴音が魔力を補充しないと行けないのがちょっと不便ではある。

つまみを何度か調整してから、シロヒゲが発言する。顔色は悪く、能力に似つかわしくないこの仕事が負担になっているのが、明白だ。まだカザンの方が、マネカタの長らしい所がある。

「あ、あー。 では、会議を始める」

議題は、やはりマントラ軍とニヒロ機構の衝突。そして、それに乗じたフトミミ救出作戦についてであった。

「様々な情報を総合するに、カブキチョウの警備は、いまだかってないほどに緩くなっている。 今ならば、きっとフトミミ様を、救出することが出来るはずだ」

血気盛んなマネカタの一人が言った。若いマネカタ達の中で、リーダーに祭り上げられている人物だ。賛同の声が、複数上がる。だが、秀一が挙手すると、辺りは急にしんとした。

彼らも、分かっているのだ。どんなに威勢が良いことを言っても。秀一と琴音がへそを曲げたら、フトミミを救出することは出来ないと。今までカザンが多くのマネカタを助け出してきたが、被害は非常に大きく、小物しか救出できなかった。それを考えると、マネカタの中でもマントラ軍が特別視しているフトミミを救出するのは極めて難しいと言わざるを得ない。

「一つ、問題がある」

「何かな、人修羅殿」

「今までのマネカタ救出作戦や脱出は、マントラ軍が警戒していなかったから出来たことだ。 だが、もしもフトミミを救出すると、それも話が変わってくる」

「どういう事ですかな」

「つまり、だ。 それ以降、マネカタ達を救出するのは、極めて困難になる。 マントラ軍も、マネカタの監視に本腰を入れ始めるだろうからな。 フトミミを救うために、他の多くのマネカタは、見殺しにすることになるだろう」

我ながら残酷な事実を告げていると、秀一も思う。だが、マネカタ達の浮かれぶりを見ていると、そうして釘を刺さないと行けないのも事実である。

マネカタ達は、案の定騒然となった。蒼白になる者も多い。カザンが今度は挙手した。最近彼は、人修羅に好意的である。救出作戦で、マネカタに被害を出さなかった事が、その要因であろうか。

「確かに、人修羅殿の言葉通りだ。 我らは、残酷な決断をしなくてはならないかもしれない」

もしフトミミを救出した場合、マネカタ達の間に作られていたネットワークも警戒されて、寸断される可能性が高い。その結果、多くのマネカタが殺されるだろう。カザンの言葉に、マネカタ達は押し黙った。

更に、もう一つ、大きな問題がある。琴音が挙手した。

「もう一つ、大きな問題があります」

「邪神サマエル、それは一体」

「今まで、このアサクサは、軍事力の空白地帯に浮かぶことで、どうにか膨張を遂げてきました。 しかしフトミミさんを救出して迎えることになったら、それも終わりになるでしょう。 特にマントラ軍は此方を警戒するようになるでしょうね」

恐らく今回の会戦は、ニヒロ機構の敗北に終わるだろうと、琴音は断言した。秀一も、それには驚いた。琴音の頭が良いことは、秀一も良く知っている。後で、詳しい話を聞いておきたい所だ。

「その後は、マントラ軍が、アサクサを正式に敵対勢力と認識するでしょう。 これは予言ではなく、極めて規定の未来に近いものだと考えてください。 今、マネカタの中で、下級の悪魔とまともに戦える者は100程度。 中級の悪魔とまともに戦えるのは、そこにいるカザンさんしかいません。 軍の組織化を進めていますが、それでもマントラ軍の兵士に換算すると、1000人程度の戦力にしか匹敵しないでしょう」

現在、琴音の手引きでアサクサに来た非戦主義の悪魔、それに秀一達を換算すると、戦力は何倍にもなる。しかも、補給のリスクを考えなくても良いところが、非常に大きい。年老いたマネカタ達が、口々に反論を述べ立てる。

「し、しかし。 それでは、いつになったら、フトミミ様を助けられるのじゃ」

「そうじゃそうじゃ。 フトミミ様は、我らの希望よ」

「何とか、何とかならないのか」

シロヒゲが、静粛にと槌を叩くが、誰も黙ろうとはしなかった。歎息すると、秀一は立ち上がる。琴音が驚いたように、秀一を見た。辺りが、しんと静まりかえる。秀一が放つ無言の威圧感は、戦いそのものにむかないマネカタ達を黙らせるのには充分だった。

「これは、君たちマネカタの問題だ。 もう少し様子を見るのか、今回の状況に応じて賭けに出るのか。 その賭けに、俺達悪魔も参加して欲しいのか。 或いは、マネカタだけで、救出作戦を実行するのか。 ……それらが決まったら、また会議に呼んで欲しい」

秀一が席を立つと、サナもリコもそれに続いた。琴音も少しためらった後、席を立つ。マネカタ達は困惑して、その後ろ姿を見送っていた。

 

会議棟から出ると、カズコがいた。他のマネカタ達からは少し離れて、石に座っていたのだが。秀一を見かけると、小走りで来る。

「ねえ、秀一。 会議、まだ終わってないでしょ? どうして出てきたの?」

「マネカタの事は、マネカタに決めて欲しい。 いい加減、それくらいの自立はして欲しいんだ」

「秀一らしいね」

カズコが僅かに微笑んだので、秀一は驚いた。この子の笑顔は、滅多に見たことがない。琴音も側で驚いていたから、よほどのレアな光景だと言うことだ。

一旦皆を促して、提供されている家に戻る。琴音の家および周囲は、怪しげな発明品で埋め尽くされているので、殆ど使っていない秀一の家に。ふと見ると、サイクロプスのフォンは郊外で、やる気のあるマネカタ達を集めて、今日も訓練をしている。訓練は日ごと激しさを増し、怪我人が多くてかなわないと、時々アンドラスが不平をこぼしている。フォンはあまり喋らないのだが、訓練時は大声で指示を出す。その声が、秀一の所まで届いていた。フォルネウスが秀一の少し後ろで、カズコを乗せたまま言った。

「それにしても、秀一ちゃん。 話は聞いていたが、思い切った事を言ったのう」

「マネカタ達にも、そろそろ現実を見て欲しかった。 結局、この街は、悪魔の力によって支えられている。 軍事力だけではなく、インフラ、建築、それどころか医療技術に到るまでだ。 それを彼らが理解していないことに、一番問題がある。 フトミミが来てから理解するのでは遅い。 今の内に、ショック療法を試みた方が良い」

「同感です。 自立するにしても、もう少し軍事力を蓄えなければならないのに。 それを理解している節がありませんものね」

琴音が少し投げやり気味に言った。今はこうして協調していられるが、彼女の思惑と、秀一の目的は随分違っている。それを考えると、何だか薄ら寒いものを感じる。いつまで味方でいるのか、分からないという事だ。特に、このボルテクス界では。実際、人修羅の仲間と、サマエル一派は、明確に別れてしまっている。

秀一用の家に着いた。

昔からそうだったが、中は殺風景だ。マネカタ達が作ったこの家も、それは同じである。特に悪魔になり、明確な食事などが殆ど必要なくなった今は、その度が加速している。

「殺風景な家だが」

「いえ、新鮮です」

最初に琴音が足を踏み入れると、他の悪魔達もぞろぞろと入ってきた。木製の家だから、当然床も木張りだ。そういえば、住宅も問題になりつつある。最初からいるマネカタと、後から来たマネカタ達では、住宅に大きな差があるのだ。特に最近来たマネカタ達は、一軒家ではなく長屋に住んでいる。このままではかってと同じく、階級が発生するのも時間の問題だろう。

机を囲んで、円座を組む。リコは意固地になって秀一の隣に座った。一方サナは、面白そうにその様子を見守っている。秀一の向かいに座った琴音が、茶を淹れてくれた。全員で一服してから、話し始める。

「さて、これからどうするか、だが」

「はっきりさせておきたいことがあります」

琴音が、佇まいを正す。それと同時に、秀一も背筋を伸ばした。単体としての戦闘能力が、自分と同等以上の相手だから。戦いに身を置いているうちに、自然と身についてきた行動だ。

「私の目的は、戦いたくないものを、無理には戦わせないこと。 戦う必要があるのなら、私が矢面に立ちます。 ただ、マネカタ達は、身を守ることさえしようとしない。 それは勘弁なりません。 守るために戦う能力があるのに、それを放擲するのは見過ごせません」

「そうだな。 俺の目的は、東京で知人だった者達を救うと同時に、世界のあるべき姿を見据える事。 そのためには、幾らでも情報が欲しい。 だから、この街のコミュニティに協力している」

「もし、マネカタ達が私達を排斥しようとしたら、どうしますか」

「その時は残念だが、悪魔を敵に回すというのがどういう意味を持つか、理解して貰う事になるだろうな」

本当は、それはカブキチョウやイケブクロで、嫌と言うほど分かっているはずなのに。改めて、むしろ親マネカタ派である自分たちがそのようなことをしなければならないのは、悲しい話だ。出来るだけ、そのような事態は避けたい。しかし、難しいのかも知れない。人間の、愚かな歴史を振り返る限り。

祐子先生も、人間の歴史に絶望したのだろうかと、秀一は思った。氷川に協力したと言うことは、何かしら現世に不満があったのだろう。博識な先生は、様々な方向から人間の可能性を模索していたはずだ。

だが、結果は。先生の行動が、全てを示している。

今、先生は何処にいるのだろうか。勇の意思をまず確認したら、先生も救わなければならない。それには情報がいる。マネカタ達とは、まだコネクションを接続しておかなければならない。

場合によっては、力づくでも従わせる必要がある。それに対して、琴音はどうか。いざとなったら、この街を離れるのではないか。

秀一も、情報が一通り揃ったら、此処にいる意味はなくなる。

創世のため、弱者が犠牲にされるのは不快だ。だが、もし弱者が秀一を必要としなくなった時には。

考えておく必要が、あるかも知れなかった。

それからカグツチの日齢が二つ動いて、やっとマネカタ達は結論を出した。秀一の家に、カザンの部下が伝令としてきた。

「人修羅様!」

「結論が出たか」

「はい。 これから、カブキチョウで大規模な救出作戦を実行します。 カザン殿に協力して、フトミミ様を救出して欲しい、との事です」

立ち上がる。いよいよ、来たか。

スペクターはこの間の戦いで相当な痛手を受けたはずだから、襲撃は警戒しなくてもいい。それにマントラ軍は、前回よりも更に多くの兵士が出撃しており、カブキチョウの警戒が薄くなっている事も確認済みである。

だが、今回の作戦で助けることが出来るのは、せいぜい五百人。どれだけ頑張っても、千人は超えないだろう。残りのマネカタ達は、見殺しという事になる。それを分かった上でこの作戦を立てたというのならば。マネカタの長老達は、非情だと言えるかも知れない。

広場には、既に琴音と仲間達。秀一の仲間達が全員集まっていた。それに、作戦に参加するカザンとその部下達もおいおい集まってくる。特にカザンの部下は、五十名以上が参加する。少ないようだが、彼らは全員、下級の悪魔なら正面から戦える、コミュニティの中核を担う精鋭だ。如何に今回の作戦に、マネカタ達が力を入れているか、これだけでもよく分かる。

ふと、その中に。この間救出した、ツインテールの少女がいるのを秀一は見た。少女は秀一の視線に気付くと、怯えたようにカザンの影に隠れてしまう。表情からも強い恐怖を感じている様子が分かる。カザンは無表情のまま、秀一に言った。

「今回、マガツヒの補給のために連れて行く。 ユリだ」

「無理をさせていないか」

「大丈夫だ。 ただ、この幼さで、悪魔に拷問を受け続けたわけだからな。 傷が治った今でも、悪魔が怖いのだろう。 人修羅殿に救われたことは、この子も理解しているから、許してやって欲しい」

「そうか」

点呼を取る。それから、秀一の家に移動して、作戦会議である。今回の作戦でも、秀一と仲間全員が参加することになった。地図を拡げて、作戦の概要を確認する。ユリは外で遊んでいるようだが、他のマネカタとは距離を置いている。むしろ、カズコと馬が合うようで、一緒に何か話し込んでいた。同年代の友達が出来たのは、秀一としても嬉しい。

「おそらく、フトミミを救出した後は、時間的な余裕も無くなるだろう。 脱出する以外の行動が出来るとは思わない方が良い。 他のマネカタの救出は、諦めるしか無くなるが、いいんだな」

「長老達の決定だ」

カザンは少し無念そうに言うと、地図上に指を走らせた。

今回、救出作戦には、二つのルートを使う。アマラ経路を利用するのは以前と同じである。一つは、今までのルートと全く同じ。ばれていない以上、徹底的に使うという訳だ。もう一つのルートは、フトミミ救出作戦のための、とっておきだそうである。

一通り説明が済むと、最初にリコが挙手した。

「今回、マントラ軍との戦闘も、想定しなければならないんスかね」

「リコは戦わなくても良い。 出来るだけ、戦いが発生しないように、俺も工夫するつもりだ」

あれから二度ほど救出作戦を実施してきたが、そのいずれでも戦闘は発生していない。今回も、どうにかなる。いざというときでも、撤退は難しくない。少なくとも、リコが戦う事はないだろう。

秀一は作戦の最終盤で、勇の様子を見に行く。それが終われば、恐らくもうカブキチョウに向かうことはないだろう。そればかりか、どうアサクサを守るかに、心を砕くことになる。

琴音の予想だと、今回の戦いは、マントラ軍が勝つという。確かにニヒロ機構は激しい戦いの中、遅々として進むことが出来ない様子だ。国境線に張り巡らされた要塞地帯を抜くことがなかなか出来ないらしい。元々マントラ軍は、兵士の能力が高い。守りに徹せられると、組織力で戦うニヒロ機構は苦戦を免れないと言う訳だ。

「救出したマネカタは、以前と同じく、ニーズヘッグで順番に輸送する。 だが、今回はカブキチョウ近辺で大勢力同士が交戦中と言うこともある。 攻撃を受ける可能性が高いから、護衛を増やしたい」

「アサクサそのものが奇襲を受ける可能性は低いんじゃないかな。 僕が思うに、サマエルにも出て貰うのが一番じゃないの?」

「分かりました。 今回は私も同行することにします」

「ええっ! 本気!?」

冗談半分で言ったらしいサナが、琴音の返答には一番驚いていた。琴音の言葉を聞くと、クレガも行くと言い出す。そうなると、此処の守りが若干不安になる。まともに戦えるのが、フォンと少数の悪魔だけになってしまう。

だが、それでも良いかもしれない。悪魔の守護がない状態を、早めに経験しておくのも、彼らのためだ。もし攻撃されて、壊滅したとしたら、それはその時である。ただ、定期的に輸送を護衛してアサクサに琴音が戻るから、致命的な遅れが出る可能性は小さいだろう。

今回の作戦では、戦力の七割以上が参加する計算になる。ほんの数十が動くだけで、そうなのだ。如何にアサクサの戦力が貧弱か、よく分かる。これで危機感を抱いてくれれば良いのだがと、秀一は思った。

だが、難しいかも知れない。何事も、のど元過ぎれば熱さを忘れてしまうのが、人間だ。ましてその人間よりも脆弱かも知れないマネカタはなおさらである。

作戦には早さが求められる。そして、もし成功したとしても、今度はマントラ軍と下手をすると正面決戦が強いられることになる。ニヒロ機構がもし大敗したとすると、勝利の余勢を駆って、とんでもない大軍が攻め込んでくる可能性もあるのだ。

作戦が成功しなければ、マネカタ達に未来はない。

だが、作戦が成功しても。未来があるかは、微妙なところであった。

作戦が決まったところで、全員外に出る。不安げに此方を見ているマネカタが多かった。カザンは随分ユリになつかれているようである。カズコと話していた彼女は、カザンが出てくるのを見ると、すぐ駆け寄ってきた。マガツヒがたくさん出てきたので、ひょいひょいとサナがつまみ食いする。

「あ、今度は美味しいや。 もっと出ないの?」

サナがそう言うと、ユリは怖がった。まだ、距離を縮めるのには、時間が必要になりそうだと、秀一は思った。

既にニーズヘッグは、アサクサ郊外にスタンバイしていた。

全員で乗り込み、砂漠を行く。遙か遠くの空が、赤く染まっているのが見えた。恐らく戦いの影響だろう。いつまで続くのか、不安を感じる。

砂漠をニーズヘッグは進む。ざざざざ、ざざざざと、砂を泳ぐ音が、規則的に響き続けていた。

 

フラウロスは歯ぎしりしていた。四つめの防衛線を抜いたら、またしても新たな要塞地帯が現れたからだ。

一体いつ、このような要塞を建築したのか。確かに熱心に防衛網を整備していたのは知っている。だが、これはいくら何でも異常すぎる。

既に包囲は整えているが、部下達には疲れが見え始めていた。敵の戦力はまたしても約5000。そして、此方の損害は、着実に増え続けている。正面攻撃三倍則とは良く言ったもので、既に味方の損害は敵の二倍を超え始めていた。まだ戦闘には支障がない程度であるが、しかし進軍速度は着実に鈍りつつある。

既に、味方の兵士達は、うんざりした様子で敵の要塞を見つめている。このままでは、どんな強い弓でも、最終的には薄い絹をも貫けなくなると言うことわざ通りの状態になるだろう。

伝令が来た。会議の知らせである。二つ目の砦攻略から、順番に攻めては来た。だが、この辺りで小休止が必要になるのは確かだ。

後を部下達に任せて、フラウロスは大股で本陣へ急いだ。途中、ニュクスと一緒になった。ニュクスは脇になにやら服を抱えている。ご機嫌だから、多分カエデに着せて楽しむつもりなのだろう。

変な趣味である。まあ、戦闘指揮はしっかりやっているし、むしろ城攻めはフラウロスよりも遙かに巧みなくらいなので、文句を言う筋合いもない。肝心のカエデも、構ってくるニュクスを嫌がっていない。それに用意して貰う服にまんざらでも無さそうなので、何もフラウロスが言うことはない。本人達の問題だ。

「そちらも、被害が増え続けていると聞いているが、大丈夫か?」

「状況はあまり良くないわね。 それよりも気になるのは、当初の報告よりも、遙かに砦の数が多い事かしら」

「そうだな。 しかも網を張るようにして配置されている。 嫌な予感がしてならん」

「以前、我々が使った戦法を、逆用しているとしか思えないわ。 しかも、徹底的なやり方で」

その通りだ。このままだと戦力が消耗しきったところで総反撃を行われ、ニヒロ機構の軍勢は壊滅するだろう。

もちろん。この遠征軍が全滅しても、ニヒロ機構にはまだまだ多くの戦力がある。だが、マントラ軍が勢いづくのは確実で、天使軍も攻勢に出る可能性がある。そうなると、あまり面白くない事態が来る。途中で、カエデが小走りで近寄ってきた。ぺこりと一礼するカエデを見ると、途端にニュクスが笑顔を作る。

「カエデちゃん。 見て、これ。 さっき、砦の中で見つけたのよ」

「あ、はい。 ありがとうございます。 お二人とも、兵力の消耗は大丈夫ですか?」

「あまり良くないな。 次の作戦からは、俺の部隊は外して欲しいくらいだ。 このままだと、決戦時に先鋒を務められなくなる」

「そうねえ。 私の部隊も、少し消耗が大きいわ。 それよりも、ちょっとこれを着てみて。 早く早く」

カエデが有無を言わさず手を引かれて連れて行かれるのを呆然と見送りながら、フラウロスは歎息した。やっぱり、何か言ったほうが良いのかも知れない。

本陣に着く。本幕にはいると、非情に不機嫌そうな様子で、ブリュンヒルドが着席していた。最上座は空で、まだミトラは来ていない。

「どうした、ブリュンヒルド」

「どうしたもこうしたもあるか。 私の配下達は、確かに偵察をきちんと果たしていたのに、どうして砦が発見できなかった」

「どの砦も、強力な術で防御されていたからな。 ひょっとすると、光学迷彩が掛かっていたのかも知れんぞ」

「だとしても、気配くらいは分かるものだろうに」

顔立ちが整っているだけに、ブリュンヒルドが不機嫌そうにしていると、迫力がある。其処にニュクスとカエデが来た。カエデはなにやら着物を着せられていて、袖からちょっとだけ指先を覗かせている。黒をベースにしていて、花をあしらった模様が散っている、今までで一番高そうな服だ。帯は醒めるような赤。頭には、菊を象ったかんざしを挿している。

「ニュクス将軍、またそのようなものを、カエデ将軍に着せて」

「だって、可愛いじゃない」

「……カエデ将軍も、何か言ったらどうだ。 まあ、そういう格好をさせられるのが好きだというのなら、私は何も言わないが」

おろおろしているカエデに言い放つと、ブリュンヒルドは頬杖をついてため息をついた。士官にまで疲れが蔓延し始めている。いつもより論調が激しいのは、その証拠だ。

このままでは拙いと、フラウロスは思い始めていた。

何しろ、マントラ軍は、未だ士官すら姿を見せていないのである。

 

アサクサ近くの、大きな砂丘の影に来た。カザンが手を振ると、マネカタ達が素早くニーズヘッグから飛び降り、陣形を組み始める。砂を掘り返すのは、半ば埋まった形の、陣屋を構築するためだ。仮の防御施設として、或いは救出したマネカタ達の医療設備として、此処を使う。内部はひんやりとして湿度も安定しており、怪我人を介抱するにはもってこいの状態だ。分厚い砂が邪魔をするから、発見もしづらい。

今回、アンドラスに医療の手ほどきを受けた何体かのマネカタが、従軍している。もちろん彼らだけでは役に立たないから、重傷者がいる場合はサナが奮闘することになる。もしその場で待機していた場合は、琴音にも手伝って貰うことになる。ユリは此処で、その支援だ。

決めてあることを、もう一度素早く反芻。全員が把握していることを確認すると、行動開始。

秀一が最初に、アマラ経路に飛び込む。

周囲に敵影が無いことを確認。旗を振って、味方を誘導する。頑丈な縄ばしごが降ろされ、最初にリコが飛び降りてきた。今回もリコは、此処で護衛任務だ。連れてきているマネカタ達も、多くを配置する。続いてサナとフォルネウスが来る。琴音は、外で陣屋を守るが、もし何かあった場合は、中に来てくれる。秀一と同等かそれ以上の実力を持つ琴音の増援は、心強い限りである。

素早くアマラ経路の中を駆ける。前回と同じ位置に、それぞれを配置。柱の下にまで、来た。槍を構えたマネカタ達が周囲を警戒する中、秀一は柱を見上げた。側では、カザンが腕まくりをしていた。

「まず、収容所にいるマネカタ達を、可能な限り助ける。 事前の相談通り、フトミミは最後だ」

「分かっている」

「救出のプランは、出来ているか」

「問題ない。 怪我が酷いものや、特殊スキル持ちを優先する。 脱走の意思が弱いものや、拷問に耐えられるものは、見殺しに、する」

悔しそうに、カザンが顔をゆがめた。フォルネウスが、ひれで、その肩を叩く。

「案ずるな。 まだ、機会はあるでの。 秀一ちゃんと、サマエルが揃ってる限り、きっと何とかなるわい」

「有難う。 博識な、貴方の言葉には、励まされるな」

「そうかそうか、嬉しいの」

秀一は咳払いして、会話を断ち切った。本当はもっと続けさせてやりたいのだが、時間は、あまりないのだ。

「行くぞ」

「うむ。 案内する」

柱の割れ目に潜り込むと、ロッククライミングの要領で、登り始める。今回は荒縄を装備した支援メンバーが、数名着く。崖の途中などで張り込んで、連絡を容易にするためだ。また、墜ちそうになった者がいた場合、救助を支援することになる。

上から感じる気配は、前の救出の時よりも、ぐっと少なくなっていた。これならば、計画以上の人数を、救出できるかも知れない。しかし、不自然になっては意味がない。あまり多くの期待は出来ないだろう。

まずは、収容所の四階へ。

相変わらずの惨状が、其処には広がっていた。カザンが合図をすると、事前の打ち合わせ通りに、マネカタ達が集まってくる。今回は、床下から脱出する事になる。此処の床は、随分長い時間を掛けて、マネカタ達が掘ったのだという。

努力するマネカタもいると、思い知らされる。拷問の音と、悲鳴が、秀一の所まで聞こえ来た。どうしてこの世界は、このような状態になってしまったのだろうか。新しい法に基づく世界とは、此処までの犠牲がなければ作り出せないものなのか。

「此処から、三十七人を、二回に分けて助ける」

「分かった。 ばれないうちに、順番にやるぞ」

カザンが手招きし、マネカタ達が少しずつ床下に降りてきた。着いてきたマネカタが先導し、順番に地下へ降ろしていく。一旦、縦穴がある辺りまで案内して、そこで合流。秀一が先頭に立って、降り始めた。

下からも、変な音はしない。ただ、風が吹き上げてくるだけだ。

ゆっくり降りていく。マネカタが足を踏み外すかも知れないからだ。やがて、最下層に着く。順番に柱から出てきたマネカタ達が、アマラ経路を小走りで行く。槍を持ったカザンの部下達が、彼らをアマラ経路の出口に誘導していく。

まず、第一グループは成功した。ふと不安になり、カザンに聞いてみる。

「今まで、脱走に失敗したグループはいるのか」

「過半数は、そもそも我らに連絡さえ取れない。 悪魔に発覚すれば、リーダーは確実に殺されるし、他のメンバーもただではすまん」

やりきれない。秀一は、頭を振ると、次のグループを脱出させるべく、柱の中に入り込んだ。

次の救出も、上手くいった。疲弊しているマネカタが多く、子供も少なくなかった。場合によっては、秀一が背負って上り下りする。一方、戦えそうなものには、そのまま槍を持って、警戒に当たって貰う。手は幾らでも必要なのだ。柱の中の闇を上り下りしている内に、ふと秀一はいやな予感を覚えた。何だか、上手くいきすぎているような気がしたのだ。

五回目の救出作戦が成功して、救助できた人数は百を超えた。とりあえず、第一段階成功だ。一度アマラ経路の入口まで戻る。琴音が待っていて、渋い顔をしていた。

「すみません。 早めに連絡するべきだったのですが」

「何かあったのか」

無言で、琴音が指さすその先には。

整然と陣形を組んで、砂漠の向こうへ出撃していくマントラ軍の姿があった。あれは思い切り、退路の方向だ。アサクサを襲撃するのではないだろう。恐らくは、ニヒロ機構に対する作戦行動だ。

だがどちらにしても、しばらくニーズヘッグを出せないことに代わりはない。そればかりか、下手をすると、此処まで発見される。

すぐに、全員をアマラ経路の中に避難させる。まだスペクターが戦力を取り戻すには早いはずだが、それも絶対ではない。上には最低限の監視戦力だけ残し、主要メンバーで円座を組んで会議を行う。最初に、発言したのは琴音だった。

「これを好機と見るか、それとも危機と見るか、ですね」

「そうだな。 あれだけの戦力が出撃したのだから、救出自体は楽になるだろう。 だが、展開する位置次第では、アサクサへ帰還させられなくなる。 場合によっては、アサクサそのものが危機に陥る」

「まずは退路の確保じゃのう。 ばあさん、じゃなかった。 サマエルさんや、決死隊を募って、退路を探した方がええんじゃないかの」

「そうですね。 ニーズヘッグと一緒に、状況をしっかり見極めてきます。 状況次第では、大幅に迂回する必要も生じてきますから、輸送計画に影響も出ますね」

琴音は冷静だ。それに対して、カザンは少しそわそわしていた。

「もし、スペクターが現れたら、どうする。 この状況、大きな被害が出るのは、避けられないぞ」

「恐らく、それはない。 この間、共闘したニヒロ機構のカエデ将軍に、カザンも話を聞いただろう。 スペクターは恐ろしく進化が早い強豪悪魔だが、分身を作るのはそれほど速くないし、勝てる見込みが整うまでは現れない。 今はまだ、此方の戦力を警戒して、捕捉しているとしても襲っては来ないはずだ。 もし襲われた場合は、力を合わせて戦うしかない」

我ながら根性論のような言い回しだと、秀一は思った。だが、実際問題、それしか手がないのである。

結局、退路の確保と、救出作戦を、並行で行うことになった。四階、六階と救出作戦を実施し、今度は二階だ。別棟にいるフトミミを救出するのも、状況次第では早めなければならない。そうなると、助けに来ると信じているマネカタ達を、多く見殺しにするというわけだ。

柱の罅に入り込み、登る。体を動かしていると、少しは無心になれる。だがどうしても、考えてしまう。自分を恐れるユリのあの目が、カブキチョウで何が起こっているかを、よく示している。

しばし思案した後、秀一は後ろを登るカザンに提案する。

「今後の話なのだが」

「ああ」

「マントラ軍との敵対を利用して、ニヒロ機構と手を組むこともあり得る。 選択肢としては、考慮してみてくれ」

「人修羅殿、それでは、マントラ軍がニヒロ機構にすげ代わるだけではないのか」

ニヒロ機構の思想は、秀一のものとは相容れない。だから、軍門に下るとは言っていない。

だが、カザンの危惧は最もだった。マントラ軍がもし首尾良く滅びたとして。絶対的な法による統治を目指すニヒロ機構が、マネカタ達の独立を認める訳がないのだ。

だが、それを承知で、今は手を組むしかないかも知れない。

秀一の実力は、既に各勢力の幹部悪魔並だと、フラウロスは言っていた。だがそれでも、悪魔の軍勢と正面から戦うほどではない。琴音もそれと同じだ。一個中隊くらいまでなら相手に出来るだろう。だが1000を超える悪魔が相手になった場合、勝てる見込みは少ない。

悩んでいる内に、目的地に着いた。

救出作戦を、始めた。

 

ニーズヘッグの背で、琴音は辺りを警戒していた。言われたまま砂漠を泳ぐニーズヘッグも、本能から危険を察知して、気配を出来るだけ小さくしている。後ろに乗っているクレガが、身を低くしたまま言う。

「マントラ軍の、移動経路は掴めそうか?」

「恐らく、前線に向かっているのだとは思います。 しかし、移動する方向が、どうにも妙です」

「というと?」

「微妙に、予想される交戦地点とはずれているんです。 まっすぐニヒロ機構が進軍してきているとしたら、この方角に向かう意味がありません」

そうなると、背後を突くためか。或いは、大規模な包囲網を構築するためか。ひょっとすると、補給路を断つつもりなのかも知れない。どちらにしても、移動している軍の戦力は10000を超えている。中には空軍も混じっている様子で、下手に近付くのは自殺行為だ。

やがて、軍が向きを変えた。ニーズヘッグを促して、距離を取る。まとまったまま、軍は移動していく。アサクサへの退路は、何とかなりそうだ。歎息一つ。しばらく軍の様子を見守った後、帰ろうとした、その時だった。

カグツチの光が、一瞬途切れる。反射的に刀を抜くのと、それが襲いかかってくるのは、同時だった。

剣閃。弾きあう。

殆ど間をおかず、背後から一撃。振り返り様に刀を振るい、弾く。ニーズヘッグが暴れないでくれたから、足場を固定でき、対応が容易になったが、それでも厳しい。二度、三度。斬撃を応酬。四度目の攻撃で、姿を見ることが出来た。

赤い、猛禽の姿をした悪魔。この姿、聞いたことがある。マントラ軍の幹部、マッハだ。ゆっくり、十メートルほどの距離を置いて舞い降りてきたマッハは、サマエルを見て、にやりと笑った。鳥なのに、それが分かった。刀を咥えたまま、マッハは器用に喋る。

「貴様、最近マネカタどもに荷担しているとか言う邪神サマエルだな。 まさか、これほどの大物と、此処で会うとはな。 本気で戦えないのが残念だ」

「どういう事ですか?」

「お前より先に仕留めたい相手がいると言うことだよ。 そいつと戦う時のために、力はほんの少しでも温存しておきたいんでね。 此処にいたことは、しばらくは黙っておいてやる。 もし生きていたら、次に決着を付けよう」

攻撃術を準備していたクレガが、去っていくマッハを見て、脱力したように肩の力を抜いた。凄まじい実力者だ。速さだけなら、今まで琴音が見たことのある悪魔の中では、最強だろう。それに、途方もない闘気を全身にみなぎらせていた。何かと戦うために、ずっと準備をし続けていた様子であった。ほんの一瞬でも油断したら、首を飛ばされていただろう。

刀を鞘に収める琴音に、クレガが言う。びっしり額に掻いた汗を拭いながら。他のマネカタ達に到っては、微動だにさえ出来なかった。彼らに、上級悪魔が本気で叩き込んでくる殺気は、あまりにも荷が重かったのである。

「どうするね、琴音」

「一度、戻りましょう。 退路自体は、心配がありません。 しかし、時間的な問題が、これで生じました」

腰を抜かしているマネカタを助け起こしながら、琴音は返答した。

マッハは、恐らく嘘をつかない。冷酷そうな雰囲気であったが、それ以上に武人としての誇りが感じられた。しかし逆に言えば、ニヒロ機構とマントラ軍の決着がつけば、マッハは容赦なく此方に迫ってくるだろう。もちろん、軍勢の支援付きで、だ。マッハは相当な強敵との戦闘を想定していたようだから、戦死することもありうるが、それに期待するほど琴音は楽天家ではない。

ニーズヘッグを促して、人修羅の所に戻る。どうやら、計画以上の人数を助けることは、無理になってしまったようであった。

 

228人の救出に成功していた秀一は、琴音の話を聞いて、少しがっかりした。しかし、琴音でなければ、マッハに全滅させられていただろう。秀一だって、どうにか出来たかは分からない。ボルテクス界最速とも言われるマッハの実力は、秀一も聞いている。とてもではないが、勝てるなどと断言は出来ない。

既に、仮の陣屋は一杯になりつつある。アマラ経路にマネカタ達を長時間収容するのは危険すぎることもある。

最初の百人を、ニーズヘッグに乗せて送り届ける。輸送作業を急いだ方が良いと、琴音と話し合った結果だ。反論が出るような話題ではなかったので、作業を急ぐことになった。カザンは難色を示したが、他に方法がない。さらに言えば、悩んでいる時間もなかった。

収容所の警戒に当たっている悪魔の数が減った。しかし、それなりにしっかりした悪魔が巡回を続けていて、却って警戒そのものは厳しくなった感がある。天井裏に、壁の穴へ、或いは床の下へ、マネカタを引き入れる度に冷や汗が流れる。逃げる時も、足音を立てないように。或いは怪我をしているマネカタが、うめき声を漏らさないように。秀一は細心の注意を払い続けた。

救出した人数が300を超えたところで、マネカタ達を満載して、ニーズヘッグが次の輸送に出た。サマエルが護衛についたが、少しでも効率を上げるために、クレガは残った。怪我をしているマネカタが多い。特に、酷い拷問で、マガツヒを絞られたものの姿が目立った。これだけでも、戦いが近いことがよく分かる。

「人修羅殿」

「どうした」

「気になる話があった。 耳に、入れておきたい」

カザンは本当に必要な時しか、秀一に時間を取らせない。それでも、アマラ経路を歩きながら聞かないと行けない程、今は時間がない。途中で見張りをしていたサナに、二三話を聞く。今のところ、異常は無し。回復術を何度も使って疲れているサナは少し機嫌が悪そうだった。だがマガツヒ入りの瓶を渡すと、少し機嫌を直してくれた。相変わらず、現金な性格である。

とりあえず、補給を心配しなくて良いことだけが、現状の強みになりつつある。だが、そのマガツヒも、運ばれてくるマネカタの惨状にしくしく泣いているユリから取ったものだという残忍な事実もある。

サナと話し終えると、カザンは続きに入る。

「実は、最近収容所に追加されるマネカタが出始めているらしい」

「脱走したのが連れ戻されたのではないのか」

「いや、今までのマネカタとは、少し雰囲気が違うそうだ」

「そうなると、マントラ軍は、マネカタの製造技術を復活させたのかも知れないな」

マントラ軍で、マネカタ製造を牛耳っていたフッキとジョカが粛正された事は、秀一も聞いている。それ以来、マネカタの生産は滞っていたとも聞いているのだが、事情は変わったと言うことか。

悩むと、それだけ作業の精度が落ちる。いつ脱走がばれるかも分からない。

秀一は悩みをシャットアウトしようと思った。だが、泣いているユリのことや、琴音を頼むと言ったカズコの顔を思い出すと、そうもいかない。やはり、和子と同年代の女の子が悲しんでいるのを見ると、つらい。

「彼らを一人でも良いから、救出できないだろうか」

「行き当たりばったりの作戦は、やめた方が良い。 とりあえず、次の機会をうかがうべきだろう」

「そうだな」

「だが、情報が欲しいのも確かだな。 出来るだけ、そのマネカタを救出できる機会をうかがってみよう」

頷いたカザンが、少しだけ笑ってくれた。秀一もそれに釣られて笑いそうになった。

でも、出来なかった。

 

2,蜃気楼

 

腕組みして、毘沙門天は戦況を見やっていた。ついに、ニヒロ機構が進軍を止めた。此処までは、西王母の予想通りである。毘沙門天も、本当は此処まで上手くいくかは危惧していたのだが、見事にはまった事になる。

側では、ミズチが脂汗を絞り続けていた。拷問に晒されるマネカタ達の悲鳴が、ひっきりなしに響く。ミズチは複雑な魔法陣の中心で、マネカタ達から絞り上げたマガツヒを吸収しながら、広域魔術を展開し続けていた。

そう。広域に、視覚を攪乱させる術をである。砦を隠すことも、現すことも、自在に出来る。しかも、術式が掛かっていることを、悟らせることがない。あらゆる方角からの視覚も攪乱できる、極めて高度なものだ。

蜃気楼と、ミズチはその術を呼んでいる。上級悪魔であるミズチの実力をよく示している、非常に強力な広域展開術である。

本来は、此処までの精度はない。だが、上級悪魔である西王母が作り出した増幅用の道具の数々と、この無理な体勢が、精度の向上を実現している。それにも限界があり、西王母の増幅具が置かれている地点の蜃気楼を出し入れするのが限界だ。それも、一カ所の展開半径は、それほど広くない。一度に展開できる蜃気楼の数にも、限界がある。移動するものを隠すことは出来ないし、何より気配は消えない。

幾重にも張り巡らせた防衛網で、ニヒロ機構の進撃を鈍らせる。その後、全軍一丸となって、敵を屠る。それが今回の、基本的な作戦であった。それに、西王母が一案を持ち込んだ。それが、ミズチの蜃気楼を用いた、視覚的心理作戦だ。

すなわち、あらかじめ作ってある砦を、敢えて蜃気楼で隠しておく。そして一枚防衛網が破られる度に、次のものを露出させる。兵力は、あるからめ手から次の砦に移動させる。こうして、ニヒロ機構は、延々と続く防壁に、消耗させられていくのだ。

この防壁も、本来は急あしらえの欠陥品だ。一生懸命増長天が構築はしたが、半数以上は持久戦を考慮していない作りで、特にマガツヒの蓄積は致命的だった。だがこうやって単純な防壁として使えば充分な出来である。ちょっとした工夫で、作戦は成功に導くことが出来る。

伝令が来た。残っている、数少ないバイブ・カハの一騎だ。司令室に飛び込んできた大きな鴉は、ぺこりと一礼すると、朗報を告げる。

「第七防衛網、未だ健在です。 敵ニュクス隊、カエデ隊、攻めあぐねています。 当方損失、軽微!」

「うむ。 そのまま、監視を続けよ」

辺りを漂うマガツヒを乱暴に口に入れると、一声鳴いて、バイブ・カハは飛び去る。

蜃気楼には、内部に入った敵を認識する能力もある。もし蜃気楼に気付いた敵がいたとしても、領内に潜り込んでくれば道も分からなくなり、袋だたきに出来る。ただし、当然のことながら、ミズチの術には限界もある。あらかじめ指定していた位置にしか幻覚を発生させることが出来ない上に、相手は指定できず、同じような幻覚しか見せられない。更に言えば、強力な術だけあって、展開にも維持にも膨大な魔力を必要とする。事実毘沙門天の隣にいるミズチは、少し痩せたように見える。

既に、作戦は第二段階に入っている。後は隙を見て、主力が作戦の目的を達成できれば、勝ちはほぼ確定だ。

だが、優秀な人材を多く抱えているニヒロ機構は、侮れない。いつどんな反撃を仕掛けてくるか、分からない。場合によっては、毘沙門天が出る必要もあるだろう。腕組みして、毘沙門天は次の報告を待つ。

心配なのは、マッハだ。マッハは、ブリュンヒルドを必ず倒すと息巻いていた。だが、彼女の実力では、今のブリュンヒルドに勝てるかどうか。かなり厳しいのは、客観的にも分かる。何しろブリュンヒルドは七天委員会のラジエルを始め、上級悪魔を何体も屠っている強豪だ。自殺行為に出なければよいのだがと、毘沙門天は懸念を強めていた。

また、バイブ・カハの伝令が、司令室に飛び込んできた。

「ご報告、申し上げます!」

「どうした」

「トール様よりのご連絡です! 新たにマントラ軍を指揮しうる人材が、見つかったとのことです!」

「ま、まことかっ!?」

辺りから歓声が漏れた。思わず毘沙門天も聞き返してしまったほどである。これは、ひょっとすると。行けるかも知れない。

「そ、それで、その人材は! 何処にいる!」

「それが、トール様の話では、残念ながら、即座にマントラ軍を任せるには足りないとの事です。 そこで、トール様が鍛え上げてから、伴ってマントラ軍に合流するとか」

「そうか、そうか! 今すぐではないか! だがこれほどめでたいことはない!」

興奮のあまり、声が上擦るのを、毘沙門天は感じた。毘沙門天でさえそうなのだから、他の悪魔達の熱狂は凄まじいものがあった。見る間に、熱が伝染していく。毘沙門天は立ち上がると、号令をくだした。

「この戦、我らの勝ちだ! 守備要員を残し、出撃する準備をせよ!」

「おおーっ!」

周囲の悪魔達が、歓声を上げた。

 

急に要塞が騒がしくなったことに、琴音は敏感に気付いた。思わず刀に手を伸ばす。だが、殺気の向きどころが違うことを察して、納刀した。周囲のマネカタ達も、敏感に要塞の様子に気付き、右往左往していた。

「落ち着いてください。 恐らく、マントラ軍が、出撃するのでしょう」

「しゅ、出撃!? 邪神サマエル、マントラ軍は、わ、我々を、襲うつもりなのでは!?」

「大丈夫、それはありません。 ほら、要塞の様子を見てください」

要塞は、沸き立っている。戦意もそうだが、何よりも歓喜にだ。マントラ軍で、これほど歓喜を呼ぶ事態は何なのだろうと、琴音は思案する。一番可能性が高いのは、彼らが求めて止まない、新しい指導者の誕生だろう。流石にそれは突飛すぎるとしても、近い事態が生じたのは間違いがない。

どうやら、マネカタ達には、二重三重に悪い状況が来つつある。もし強力な指導者がマントラ軍に現れた場合、逃げ出して勝手に社会を作っているマネカタ達を、許しはしないだろう。

フトミミ救出に成功して。マネカタ達が、もしそれを忘れて浮かれ立ったりしたら。もはや、彼らに未来は無くなるのかも知れない。

アサクサに次ぐ新しい避難場所を考えるべきかも知れないと、琴音は思った。だが、今はそれよりも、やるべき事がある。

「陣屋にいるマネカタ達を、すぐにアマラ経路に。 ニーズヘッグは、気配を消してください」

「ラジャ」

「分かりましたー!」

慌ててマネカタ達が動き出す。怖がってしくしく泣き出したユリを抱え上げると、無造作にアマラ経路の中に飛び込んだ。浮遊の術を展開、背中に六枚の翼を作り上げて、ゆっくり着地する。

目を白黒させたユリは、ぼんやりと琴音を見上げた。少なくとも泣きやんでくれた用で、安心する。縄ばしごなど使っている暇はない。翼を拡げると、そのまま地上へ跳躍する。そしてまた怪我をしているマネカタを担ぎ上げ、アマラ経路の中に飛び込んだ。

少し前から、完全に実用化した飛行の術だ。何体か倒して喰らった天使のマガツヒから解析を完了して、飛べるまでになった。実は天使達の浮遊能力も、此処から来ている。彼らは並外れて魔力が強く、空を飛ぶ術を常時発動することが出来るのだ。ただごとではないと気付いたリコが、不安げに聞いてくる。

「どうしたッスか」

「後で、説明します」

すぐに、陣屋にいた三十名ほどのマネカタを、アマラ経路に収納し終えた。今、救出した人数は319で、既に300弱をアサクサに送り届けてある。だが、カブキチョウの様子があれでは、またニーズヘッグで輸送するのは難しいかも知れない。もちろん空軍も出てくるだろうから、下手に輸送しようとするのは自殺行為だ。

カザンが戻ってきた。20名ほどのマネカタを連れている。丁度いいので、リコも併せて、話をする。

「どうやら、マントラ軍で何かが起こったようです。 活動が、非常に活発化してきています」

「トール様が、戻ってきたんじゃ」

「いや、違うと思います。 あの様子からして、新しい指導者が、見つかったのかも知れません」

リコが、思わず顔を輝かせる。それに対して、カザンは見る間に蒼白になった。琴音の見るところ、リコはまだマントラ軍に所属していると考えている節がある。事実、いざとなったら戻るつもりかも知れない。

「兎に角、彼らはこの勢いを利用して、ニヒロ機構に決戦を挑むでしょう。 しばらくは危なくて、外に出られません。 そこで、です。 もう少し離れたアマラ経路の出口は、ありませんか?」

「ああ、それなら心当たりがある。 だが、少し遠くなる。 マネカタ達にはきついし、途中の警備も手薄になるぞ」

「私とクレガが警備に当たります。 砂漠に陣屋を造っている暇はありません。 砂漠を出たら、ニーズヘッグに直接輸送して貰いましょう」

カザンと一緒に、すぐに出口に出る。リコは外が気になるようだったが、秀一のことはもっと気になるようで、右往左往していた。縄ばしごを、引き上げさせる。陣屋は、そのまま放棄するしかない。

カザンに案内されて、アマラ経路を歩く。スペクターはまだしばらく動きが取れないはずで、それだけが救いだ。うねりくねる道を歩いていく内に、切り立った崖が見えてきた。収容所への侵入口にある崖よりも、更に厳しい。

「この上に、外に出られる場所がある。 此処ならば、収容所から距離もあるし、見つかることもないだろう」

「上を見てきます」

翼を拡げて、再び飛ぶ。数度羽ばたくと、がけの上に出た。しかし、厳しい崖だ。落差だけでも十五メートルはあり、しかも凹凸が少ない。これは、転げ落ちたら一巻の終わりだろう。

がけの上に出ると、分厚く砂が積もっていた。すぐ上に、出口が見える。もうひと飛びして出てみると、あの巨大なカブキチョウ要塞が豆粒のように見えた。確かに此処なら、余程運が悪くない限り、見つかりはしないだろう。

口笛を吹いて、ニーズヘッグを呼ぶと、中に縄ばしごをたらす。外に陣屋を造るのは予定通り止めとして、内部で治療などを済ませるしかない。幸い、まだ少し物資はある。だが、これは最後の崖が厳しすぎる。カザンが出口として採用しなかった理由が、よく分かる。

「此処を拠点としましょう。 崖を登るのが厳しいものは、私が外に運びます」

「分かった」

「時間に遅れが出ています。 急いでください」

これでカブキチョウの内部を巡回するものはもっと少なくなるだろうが、しかし動きが活発化するから、あまり意味はない。その上、マッハが帰ってくる時間のことを考えると、あまりのんびりはしていられない。

リコとクレガを配置し直す。おろおろしているユリの頭に手を置くと、琴音は出来るだけ優しい声を作った。

「大丈夫。 みんな、アサクサに帰れるからね」

「……ユリ、何か、役に立てる?」

「大丈夫、役に立てているよ。 ユリちゃんは、マガツヒを出してくれるだけでいいからね」

本当は息が合うカズコを連れてきたかったのだが、そうも行かない。極論すれば、マガツヒのタンクであるカズコはアサクサ防衛の要である。そのスペアになりうるユリには、ある程度の修羅場をくぐって貰い、なお心が合わせられるようにならなければ、今後色々と拙いのだ。

琴音は周囲を極めて警戒しづらいこの場所を要塞化するべく、辺りに結界を張り巡らせ始めた。足りなくなった魔力は、そのままユリから補給する。ユリは琴音の尻尾や翼が怖いようだったが、それでも悲鳴を上げることもなく、頑張ってマガツヒを出してくれた。こんな小さな女の子まで、戦闘行動に活用することを考えなければならないのは、本当に悲しいことだと、琴音は思う。

長く伸びきった退路の、最後の部分を、何としても守りきらなければならない。琴音は不安がマネカタ達に伝染しないよう、出来るだけ笑顔を保ち続けた。

 

ニヒロ機構の先頭に再び立ち、ついに七番目の敵砦を落としたフラウロスは、憮然として声もなかった。城壁の上で腕組みして立ちつくす彼が見つめる先には。あるのだ。敵の砦が。

当然のように、もたらされた報告。八番目の砦が、砂漠の向こうに発見されたというものである。しかも同じように約5000の兵力が伏せており、士気旺盛のまま、此方の攻撃を手ぐすね引いているというものだった。

侵攻前に、偵察はした。それも、飽きるほどにだ。それなのに、どうしてニヒロ機構の軍勢は、敵の防衛網を突破できずにいる。報告にないはずの防御施設が、次から次に見つかるのだ。

増援がシブヤから二千ほど追加されては来ているのだが、それでも進撃速度は、確実に鈍っている。一旦砦で休息するように命じたフラウロスは、伝令に気付いて顔を上げた。

「どうした」

「カエデ将軍より、フラウロス将軍に伝令です。 すぐに来て欲しいという事です」

「分かった、すぐ行く」

「護衛は」

不要と一喝すると、フラウロスは跳躍した。何かあったのだと、幼児にも分かる。フラウロスは彼にとっての小走りで、砂漠を駆け、同じように北部方面打撃軍団が休息している砦の一つに向かった。七キロほど離れているが、フラウロスの足であれば一瞬だ。半壊状態の砦で、カエデは深刻な顔をして待っていた。周囲にいる護衛も、未だに何を見たのか訳が分からないという顔で、カエデを囲んでいた。

「どうした、何かあったのか」

「とんでもないものを、見つけました」

そのまま、砦の地下に連れて行かれる。其処には、何の変哲もない、地下倉庫があった。四方は六十メートルほど。天井は十メートル弱。無数の柱が立ち並ぶ、静寂な空間。入り口の扉は、カエデが力づくで突破した形跡があった。

一つ、おかしいことがある。すぐにフラウロスは、それに気付く。以前と違って、オセはいない。だから、頭を使うことを、いやでも覚えなければならなかった。その結果だ。

「補給物資が、まるで蓄積されていないな」

「はい。 それもおかしな点です」

「それもと、いうと?」

無言のまま、カエデは壁に手をやる。

その小さな手が。纏っている着物ごと。音もなく、壁にめり込んだ。

驚愕するフラウロスの前で、カエデは手を引き抜く。ちゃんと着いている手。何かしらの術を、使っている形跡は、無い。

「な、何だとっ!?」

「この砦の、特に地下部分。 殆どの壁が、ニセモノです。 我々は、外殻だけの、張りぼての砦を必死に攻略していたんです」

思わず、硬直する。それが何を意味するか、フラウロスには嫌と言うほど分かったのだ。敵がいなくなった仕組みも、そして今自軍がどのような状況に置かれているかも。そして敵がこんな短時間で、異常に重厚な防御線を山ほど築くことが出来た理由も。

そして、次々に防御施設が現れた理由もだ。

原理は、分からない。だが、現象が分かっただけで、充分だ。

「ニュクスには、もう連絡を取ったか? ブリュンヒルドは!」

「どちらにも、既に伝令は出しました。 わざわざお呼びしたのは、フラウロス将軍には快足があるのと、見て貰うのが一番だと思ったからです」

「よし、俺が殿軍を務める! 全軍、総力で撤退するぞ! 後は、急いでスルトにも伝令を出しておけ! ミトラに出すよりも、多分効果が期待できる!」

「スルト将軍にも、もう伝令は出しています。 ニュクス将軍が、先手を取って、突破作戦の指揮を執ってくださるそうです」

おうと、フラウロスは思わずつぶやいていた。これが、本当に少し前まで、戦略のど素人だった存在か。次々と、最善手を打っているではないか。多分、軍師には向かないタイプだが、それでももう一人前の将軍である。もう少し育てば、完全にオセの穴埋めになる。フラウロスは舌を巻くと、すぐに自軍の部隊に戻る。

そして、見た。その光景を。

砦を出た敵軍が、一斉に向かってきている。数は、10000を超えていた。15000に達するかも知れない。逃げ腰になった味方と、勝ちに乗った敵。しかも味方は疲弊しきり、その上敵は鋭気充分。

此方は奪った防御施設にいるが、そんなものは、何の役にも立たない。下手をすると、内側から敵が侵入してくる可能性さえある。脱出時と同じく、アマラ経路を利用して。いや、急に行動を開始したのも、幻影を利用して潜んでいた奴が、知らせたからに違いない。此処は敵の腹の中。周囲のどこから、敵が現れるか分からない場所だ。

フラウロスは、力の限り吠え猛った。

「総員、俺に続け! 少しでも、時間を稼ぐ! ニヒロ機構最強、フラウロス隊の意地、見せつけてやれ!」

剣を槍を振り上げ、部下達が咆吼する。

その先頭に立ち、フラウロスが走る。そして間もなく、敵と激突した。

 

500人ほどの救出が終わった時、流石に秀一も疲れ切っていた。何とか、どうにか、終わった。後は一番の難所である、フトミミの救出である。

最後は、五人のマネカタと一緒に、フトミミを救出する。彼らはいずれもこの収容所でマネカタ達のつなぎを勤めていた者達である。実際には二十人ほどまとめ役がいるのだが、残りは置いていく。

半数は彼らの希望で。残り半数には、知らせる時間がなかった。

前回と今回の救出作戦を併せて、800以上のマネカタを救った。だが、その影で、数倍に達するマネカタを救うことが出来なかった。

これも、その事実の一端である。

このボルテクス界では、かっての東京以上に、弱者は生きることが出来ない。そんな法則に逆らうのも一興だと、秀一は思っている。そして秀一には、琴音と同じく、ある程度それが出来る実力が備わってきた。

それなのに。結果はこれだ。

ボルテクス界は、弱者を拒絶している。コトワリとやらのためか。マントラ軍も、ニヒロ機構も、非常に極端な思想を掲げているのは、そのためか。いや、それは違う。厳しい時代には、極端な思想がまかり通りがちだからだろうか。或いは、人間には成し得なかった、理想郷を本当に築く事が出来るからだろうか。

ついこの間、悩んでいて、リコがニーズヘッグに半殺しにされた事を思い出す。雑念を追い払うと、改めて辺りを見た。此処は柱の真下。罅から出てすぐの所だ。

ぞろぞろと行くマネカタ達を、フォルネウスが先導していく。これで、搬送も最後だ。フトミミのいる牢は、今までになく警戒が厚い所にあるという。リコは怒るかも知れないが、救出する場合は戦闘を覚悟しなければならない。

眼前に、瓶を突きつけられる。サナだった。

「シューイチ、ほら」

「すまない。 少し疲れていた」

「無理もないって。 それにしても、ある程度は割り切らなきゃ駄目だよ。 どうせ、全部は助けられないんだから」

サナの言葉は冷酷だが、事実を直球で抉っている。カザンが咳払いしたので、顔を上げると、彼はさっき助けたマネカタの一人と話し終えた所だった。

「すまないが、状況が、変わった」

「どうかしたか」

「フトミミ様の警備が、かなり分厚くなっている。 交戦が予想される」

「リコには、聞かせられないな」

「いや、もう聞いてるッス」

そう言って、リコが歩み寄ってくる。中間点の警備を任せていたはずだったのだが。無言でそれを責めると、リコはむっとした様子で反論してきた。

「フォルネウスさんが、もう良いからって言ってくれたんスよ。 後、フトミミってマネカタで、最後なんだって」

「そうだ。 出来れば、最後まで犠牲は出さずに、救出したかったんだが、事情が少し変わった」

「それで、榊センパイは、どうするんスか? センパイの目的は、あらゆる情報を収集することだった筈ッスよ。 そのために、マントラ軍の悪魔を殺すんスか?」

「それだけじゃない。 まだ、俺の知り合いが一人、行方不明のままだ。 多分ニヒロ機構に捕まっている。 その人だって、出来れば救いたい」

リコは、ずっと悩んで、苦しんでいる。この子は力の申し子である、マントラ軍で認められて来た。正確には、暴力の権化であるトールに認められて、やっと社会的に自立した人格を得た。その経緯は、秀一も数少ない昔語りから聞いている。

そのトールが愛して止まないマントラ軍に、ここしばらく泥を塗るようなことばかりしているのだ。

更に言うと、リコはマネカタ達の相手が嫌いではなくなってきている節がある。厳しい接し方だが、出来る奴は褒めているし、出来ない奴はそうではなくなるように叱咤もしている。子供のマネカタをかわいがっているのを、何度か見たこともある。不器用なかわいがり方だったから、子供には怖がられていたが。確実に優しい空気があるのを、秀一は感じ取っていた。

だから、リコは悩んでいる。

「いい加減、気づいたらどうだ。 マントラ軍にとって、マネカタを拷問して得られるマガツヒが重要なのは俺も知っている。 彼らの活力であり、生命線であり、ニヒロ機構との戦いに不可欠なものだ。 しかし、このやり方は明らかに間違っている。 マントラ軍のためを思うのならば、やめさせるべきだろう」

「でも、そうしたら、マントラ軍は干上がってしまうッスよ」

「俺達は干上がっていない」

まだ、結論は出来ていない。だが、少なくとも、現時点では、共存に近い形で、悪魔とマネカタは一緒に暮らすことが出来ている。

リコはうつむいていた。サナがズボンを掴んだので、意図を察した秀一は頷いた。

「他のみんなを集めておいてくれ。 脱出時は忙しくなる。 ……出来るだけ、手は出さないように、俺も工夫する」

「榊センパイ」

「何だ」

「最初は、トール様の言うこと、分からなかった事もあったッスけど。 今は、信頼してるッス」

リコは、それ以上何も言わずに、ついと視線を背けた。

あまり、時間はない。サナに着いてきて貰うことにすると、秀一はカザンに続いて、柱の罅に潜り込む。もし、琴音の言葉が正しいとすると、そろそろニヒロ機構とマントラ軍の本格的な戦いが始まる。そしてそれは、あまり時を置かずに、マントラ軍の勝利に終わるという。

そこまで琴音が精密な判断をした理由は、よく分からない。ただ、そうなるのではないかと、秀一も感じてはいた。まず、ニヒロ機構が領内に侵攻したというのに、ここに来るのが遅すぎる。力を信奉するマントラ軍の悪魔達は、一方で利に聡い者達の筈なのに、脱走している様子がない。つまり、勝ちの目があると言うことだ。

秀一は、力を付けた。それが故に、ある程度視野も広がってきた。琴音の頭は秀一よりもずっと良いと、自然に理解も出来る。総合面でも、琴音の方が少し上だ。マガツヒを同じように食べている限り、差は埋まらないだろう。

カザンに続いて、くらいくらい闇の中を登る。いつもと違う脇道にそれてから、更に上に。徐々に、狭くなってきた。

「此処から、横に逸れる」

「随分複雑だな」

「フトミミ様の側には、サイクという若いマネカタがいる。 今のところ、奴が唯一の情報源だ。 ただ、正直な話、奴を連れて行くのには、俺はあまり賛成できない」

カザンの声が曇る。サイクというマネカタ、非常に野心的な存在なのだという。それでいて、悪魔を憎むこと著しいとか。カザンは少しためらった後、言った。

「俺は、マネカタだけの世界は、作れないと考えている」

「……」

「マネカタは、あまりにも弱い。 肉体面以上に、精神面で、だ。多分アサクサという限定的な世界でさえも、マネカタだけでは運用することが出来ないだろう。 だから、もしもマネカタの世界が来るとしたら、それは悪魔との共存の世界だと、俺は思っている」

「妥当なところだね。 僕ももしマネカタの世界があるとしたら、そういうのになると思うよー」

サナが相づちを打ったが、多分内容はカザンが思っているものとは違うだろう。サナは多分、最初からそんなものが来るとは考えていない。だから、カザンに同意した。あり得ないものならば、どんな風に考えても罪にはならないからだ。僅かな嘲笑と、根深い悪意がそれには籠もっている。サナとは、そういう娘だと、最近分かってきた。

悪魔の間では、秩序を重んじるロウ、混沌を愛するカオス、中庸のニュートラルという区分があると、この間琴音の部下から聞いた。妖精であるサナはニュートラルに属するそうだが、中庸が平均的でバランスが取れていると思うと大間違いだとよく分かる。過激な思想の持ち主よりも、ある意味危険だ。

少し、辺りの雰囲気が変わった。強力な悪魔の気配が、近くに幾つもある。これは、確かに相当突破が厳しいだろう。

発見されたら、終わりだ。悪魔を撃退することは出来るかも知れないが、巻き添えを食って救出対象は確実に全滅する。慎重に、天井を這う。体が埃まみれになっても、既に気にならなくなっている。

通風口から、下の廊下を覗く。鬼が四騎。更に、鬼神が一騎いる。しかも、極めてやりづらい相手だ。辺りを確認し、一旦降りられるところを見つけた。後はコンタクトを取るべく、サイクを待ちながら、声を殺して状況を確認する。鬼神を見て、眉をひそめたことにカザンは気づいていたらしく、聞いてきた。

「あの鬼神を知っているのか」

「ああ。 シュテンドウジだ。 前よりも、強くなっている感じだ」

「へー、あの時の」

「知り合いか」

知り合いと言うほどでもない。だが、出来れば戦いたくないと思わされる相手だ。多分、マネカタにとっては仇敵だろう。しかしながら、人間味もある、面白い男だ。

「荒々しいが、悪い男ではない。 以前、イケブクロでマネカタの待遇改善を求めて、城壁の修復で勝負をしたことがある。 その時、負けを認めて、からりとした態度で接してきた」

「そう、なのか。 以前から、そんな事を、してくれていたのか」

「前から言っているが、俺はマントラ軍は嫌いではない。 だが、極端な力に頼る思想と、マネカタの虐待は容認できない。 そう言うことだ」

辺りをうかがいながら、サイクが来た。きつそうな雰囲気の青年だ。目の奥に、鋭い光がある。カザンが嫌う理由が、何だか分かるような気がした。ただ、秀一は嫌いではない。それくらいの活力がなければ、ボルテクス界では生きていけない。

「状況を」

「フトミミ様の前に、護衛が十七騎。 特に五騎は前に張り付いてて、離れようともしないぜ」

カザンに対してため口である。また、ずいぶんと態度の大きなマネカタもいたものだ。

「で、そっちの旦那が、例の人修羅様か?」

「そうだ。 前にも言ったが、我らに協力してくれている貴重な戦力の一人だ。 くれぐれも、粗相がないようにな」

「ふん」

目に嘲弄と、それに隠された憎悪があったのを、秀一は見逃さなかった。この青年、悪魔を馬鹿にしている雰囲気がある。危険だ。マネカタとしては優秀であっても、悪魔から見れば下級にも劣る事を忘れたら、間違いなく破滅が待っている。

「まず先に、他のマネカタ達を集めてくれ。 フトミミは最後だ」

「他なんか、どうでも良いだろ」

「君たちの同胞だろう。 それがどうでも良いと言うようなら、俺は力をかさん」

秀一から見ても分かるほどに、露骨にサイクは舌打ちした。この男、悪魔だったら、マントラ軍で上り詰めていたかも知れない。不幸にも彼はマネカタで、故にそのような行動は自殺行為だ。現在、マネカタが唯一武器に出来るのは、団結と情報である。それを理解していないという意味で、彼は根本的に、マネカタに向いていないのかも知れない。

しばらくして、サイクが四人、マネカタを連れてきた。カザンが言っていた、まとめ役をしていた者達だろう。一人は左腕を欠損していた。彼らを、順番に天井裏に引き上げていた時。

それが起こった。

 

最初は、衝撃音だった。続けて、カブキチョウ全体に衝撃波が駆け抜けるのが分かった。天井裏で、秀一は引き上げた三人目のマネカタを奥に押し込めながら、つぶやく。

「何だ。 ニヒロ機構の攻撃、ではなさそうだな」

とんでもない魔力を感じる。秀一と琴音が二人がかりで、どうにか出来るか。そんな何者かが、カブキチョウを下から貫通した。そんな雰囲気である。下からと言うと、アマラ経路。

「カザン、その三人を連れて、すぐに戻ってくれ。 下が心配だ。 何かやばい奴がいたら、俺を呼びに来て欲しい」

「分かった」

「俺は、フトミミを救出できないか、ちょっと探ってみる。 いなかったら、此処で待機してくれ」

手を伸ばして、サイクを軽々と引っ張り上げる。悪魔達がばたばたと走り回っているのが分かった。サナが口を尖らせる。

「シューイチ、何で、僕を戻らせないのさ」

「いやな予感がする」

「え? どういう事?」

「多分、今のは、この近くに現れた。 さっき、勇がこの近くに捕まってるって、聞いただろう」

口に出すと、いやな予感は更に強くなっていった。それが事実だと確信したのは、悪魔の気配が勇が捕まっているという方向に向かい。そして、戦闘音がし始めてからだ。

飛び降りる。ひんやりしていた。強制収容所だからか、空気までもがひんやりと怨念を込めているかのようだ。

サナも続けて、床に降りてきた。壁に張り付き、気配を最大限に殺すと、奥へ。一番厄介なシュテンドウジが、目の前を走り去っていくのが見えた。眠りの術を用意して貰う。既に魔力だけなら上級悪魔並というサナの眠りの術は強烈で、十メートルはあろうかという巨体を、ころりと落としてしまう。ただし、悪魔は極めて複雑な構造を持つ存在だから、例え下級でも効かない場合もある。

「くふふふふ、さーて、誰をナイトメアー(悪夢)の餌食にしてやろうかな」

指をわきわきさせながら、実に楽しそうにサナが言った。更に、ルーン文字を空中に書き、詠唱を進めていく。こんな状況だというのに、脳天気な奴である。もう一つ、揺れ。これは、勇に最後に会うのは、諦めた方が良さそうだ。いや、そうでもないかも知れない。

小走りで行く。フトミミの牢の前には、三騎、鬼が残っていた。サナが、曲がり角の視覚から、指先だけ向けで術を掛ける。

しばしの後、三騎の鬼は、力なく倒れた。まずは一段落。

牢の前に、歩み寄る。頑丈な鉄の牢だが、今の秀一には、大した障害ではない。腕に、力を込める。皮膚と、骨を変質させていく。少し前に使えるようになった技術だ。やがて、手の甲から、肘関節当たりをすっぽり覆った、刃が完成した。硬度は生体物質とはいえ、鉄以上だ。

牢の中の人影を見やる。向こうも、此方を見ている。

両足に枷を着けられている、中年の男性だ。目つきは鋭く、何より他のマネカタにはない凄みがある。この男がフトミミであることは、間違いないだろう。名前の割には、耳に特徴はないが。

腕を一振り、二振り、そしてもう一回。鉄格子に、人が入れるほどの穴が開く。中に入って、足かせを切断。更に、手かせも切り破った。衰弱しているようだったが、それでも自力で立ち上がると、フトミミは意志の強い瞳で、秀一を見た。

「君が、人修羅だな」

「そう呼ばれている。 無駄話をする暇はない。 急ぐぞ」

地面に転がっている悪魔は、気持ちよさそうにいびきを掻いている。彼らを踏まないようにして、戻る。また一つ、大きな揺れが来た。フトミミが、気になることを言った。

「アマラ経路より来たりし、いにしえの神。 具体的な性質さえも失伝し、ただ恐怖と邪悪の象徴として残っている存在。 虚無と絶望に引き寄せられて、現れたか」

「何だ、どういう事だ。 それが貴方の予言か」

「予言、か。 私の能力は、確かに一種の未来予知らしい。 この光景も、既に見えていた」

フトミミは目を閉じ、頭に指先を当てると、言った。

「君の友達らしいな。 まがつ神を呼んだのは」

「状況から言って、そうなのだろうな」

サナが殿軍に残り、まず秀一が天井裏に。カザンはまだ戻ってきていない。いやな予感が、ひしひしとする。フトミミを引っ張り上げ、サナが天井裏に待避してきた。何とか、救出には成功した。

だが、まだ下の状況が分かっていない。急ぐ必要がある。

下で、悪魔が駆け回る音がした。すぐにフトミミの脱出に気づかれるだろう。急いでほこりっぽい闇の中を這い、脱出に掛かる。

悪魔の怒号が、聞こえてきていた。

 

3,E(エインシェント)

 

心身共に深く傷ついていた新田勇が顔を上げる。その目には、爛々と狂気が宿っていた。

もはや、彼を拷問してマガツヒを食いに来る悪魔はいなくなっていた。勇の狂気に当てられたのかも知れない。或いは、どれだけ痛めつけても、もうマガツヒは出ないと悟ったからかも知れない。

結局、全ての生物は、自分の主観で相手を見ている。それが勇の結論だ。それならば、主観のまま、他者と関わらずに生きることこそが幸せではないのか。それもまた、結論であった。

その結論が出てしまうと、勇は妙にすっきりするのを感じた。今まで女子どもにこびへつらい、様々な格好をしてきた。どんな事をすれば相手が喜ぶのかを、必死に研究してきた。それも、必要はないではないか。

結局の所、異性の気を惹くのは、生殖のためである。その生殖が必要ないボルテクス界の現状を見ると、どの悪魔も好き勝手な格好をして自由に振る舞っている。勇も、そうでありたい。

もしそうだとすると。他者など、必要ない。

人間は脆弱な生物で、典型的な社会的性質を持つ。極論すると、他のどの生物も、生態系という巨大な社会の中で、自分の役割を果たしながら生きている。社会が無数に重なり合う中、己の立ち位置を探して、右往左往する人間ども。何という滑稽な姿だろうかと、勇は思う。

なら、それが根本的に変わればよいのだ。

そう考えると、勇はまた一つ楽になった。同時に、膨大なマガツヒが体中からあふれ出た。そしてそれは、宙にとどまることなく、床に沈んでいった。どずんと、何かの音。何度も、繰り返される。牢の前に来た大柄な鬼神が、驚愕してその様子を見守った。

「お、おい、てめえ」

「あ、う、ひ、ひひひひひ、ひゃははははははは! ひひ、ひひひひひひっ!」

笑い声が漏れた。悪魔が後ずさりして、困惑しきった様子で周囲に何か叫ぶ。マガツヒの流出が止まらない。まるで滝のような汗という表現があるが、まさにそれだ。赤いマガツヒが。血の涙が。体中からわき出して、床下に沈み込んでいく。

どすんと、大きな衝撃が来た。何だろう。分からない。だが、感じたことがある。孤独が、近付いてくる。

床を、それが突き破る。勇は歓喜に満ち、絶叫した。

 

おかしな揺れに、見回りに来たシュテンドウジは、その異常な光景に息を止めた。トール様が痛めつけるようにと指示しておいていった人間の全身から、膨大なマガツヒが溢れ続けている。しかもそれは、宙に漂うことなく、石の床に吸い込まれ続けているのだ。

恐怖がこみ上げてくる。こんな光景、見たことがない。あり得るはずもない。

人間の残骸と形容したくなるほど痛めつけられた人間が、絶叫する。全身から血を流しているかのようなその姿に、呼び集めた他の悪魔達も、息を呑んでいた。揺れが、大きくなってくる。

何か、異質なものが来る。シュテンドウジは、本能でそれを悟った。

その時、フトミミの言葉を思い出す。強烈な死の予感が、シュテンドウジの全身を包んだ。

床の石材が吹き上がる。悲鳴を上げた悪魔達の中で、シュテンドウジは見た。無数の触手が、うごめき、悪魔を捕らえている。まるで頭足類の足のような、奇怪な触手だ。無惨に、鬼が握りつぶされる。

そして、牢の中には。

何か、得体の知れない者がいた。姿は、ハタ科の魚に似ている。だが、その目は異常な光を放ち、シュテンドウジを見据えていた。異常なことに、その眼球は人間のものに酷似していた。思わず、鉄棒を握る手に力が籠もる。それは魚のように見えていて、何の苦もなく空中を泳いでいた。口の中には鋭い牙が生えており、冗談のように体は青緑である。全長は三メートルほどだが、その威圧感は桁が完全に違っていた。本来なら胸びれのあるところから、長くて白い腕が四本も生えているのも、異様な感触を後押ししている。

上級悪魔が殆ど出払っている、この時に。悪態をつくシュテンドウジの前で、人間の手足を拘束している枷が、溶けて消えていった。

「て、てめえ、何者だ! ニヒロ機構の悪魔じゃねえな!」

「我か。 我は、ダゴンと呼ばれる神なり」

「だ、ダゴン!?」

聞いたことがある。古代文明によって信仰されていた神の一柱であり、具体的な性質がほとんど失伝してしまっている存在だ。海の神だとか農耕神だとか言われているが、ユダヤ教によって排斥されたため、殆ど正体が分からない。似たような存在に、原型がもはやさっぱり分からなくなっている日本の八幡神がいる。だが、八幡は広く信仰されてきたがゆえに、原型が散逸してしまったため、根源を探る材料はある。信仰する者が長くいなかったダゴンの失伝は、更に根深いものだ。

どちらにしても、そんな強豪悪魔が、まだボルテクス界に潜んでいたとは。そして、気づく。周囲で蠢き、鬼達を握りつぶしているこの触手は。このダゴンの、体の一部であると。

「我は、この人間に引き寄せられた。 間もなく、他の神々も引き寄せられることだろう」

「な……んだと!?」

「そして、我はコトワリを担うこの人間と共にある事にする。 実にこのマガツヒは、甘美なり」

「巫山戯るなああっ!」

仮に、神だとしても。この狭い空間では、近接戦闘の訓練を散々してきたシュテンドウジに一部の理があるはず。どこかの神であった悪魔は数多い。ましてや、存在が失伝してしまっているような古代の神に、力が残っているものか。

そうやって、己を奮い立たせる。生き残っている部下達に、叫ぶ。

「逃げろ! 西王母様か、ミズチ様を連れて戻ってこい! 俺が、少しでも時間を稼ぐ!」

「は、はいっ!」

部下達が、我先に逃げ出す。左右に金棒を振るったのは、部下を捕らえようと蠢く触手をなぎ払うためだ。軟らかい触手だが、流石に金棒が直撃すると、少しひるむ。その隙に、部下達が逃げる。代わりに、シュテンドウジの逃げ道は、無くなった。

無数の触手が蠢く中、ダゴンは、手を人間の両肩に置く。その口が、少し開いた気がした。膨大なマガツヒが、魚神の口に集まっていく。ずちゅり、ぐちゅりと、おぞましい音がした。

最後が、来た。予言の通りになってしまったか。目を閉じ、呼吸を整える。

目を見開く。呼吸が、整っていた。やることも、決まっていた。少しでも、時間を稼ぐのだ。

此奴は強いが、しかし西王母様かミズチ様なら、きっと何とか出来る。それに、被害を出来るだけ小さくしなければならない。吠え、鉄棒を振り上げた。そのまま、牢を蹴り砕いて、飛び掛かる。時間がゆっくり流れていくような感触を、シュテンドウジは、覚えていた。淡々と、ダゴンが紡いだ。

「メギ・ドラ・オン」

シュテンドウジは、辺り一帯が吹っ飛ぶ感触の中、微笑んでいた。光が、自分に向けて収束したのを感じたからだ。

背後は城壁、しかも上層部。これで、被害を最小限に食い止めることが出来る。

光の中、思い浮かべたのは。何故か、優しく笑顔を浮かべる人間の女だった。手を伸ばす。どうしてか、好きだと伝えなければならない気がした。しかし、手は届かなかった。

「ゆ、り」

最後の声が、爆音の中かき消えた。

 

闇の中を降りていく時、上から今までで最大級の衝撃が来た。ばらばらと、小石が振ってくる。揺れは大規模地震並みで、これは、下手をすると、カブキチョウが吹っ飛んだのではないかと思わせる。

「急げ!」

秀一はサナとフトミミに叱咤する。戦って負けるかどうか、ではない。此処で襲われたら、何も出来ずに倒される可能性がある。それでは犬死にだ。それだけは避けなければならない。サナも珍しく真剣な表情で、せかせかと闇の中を降りていく。フトミミはつながれていた時間が長いというのに、無言で降りていく。秀一が思っていたよりも、ずっと頑健な肉体を持っているらしい。やはり、マネカタ達が光と仰ぐ存在だからだろうか。

やっと、底が見えてきた。柱の罅から、飛び出す。カザンが、走り寄ってくるのが見えた。彼はフトミミを見ると、跪こうとするが。フトミミが、すっと手を挙げて、制止する。

「良い。 何か人修羅に報告があるのではないか」

「は。 恐れ入ります。 人修羅、緊急事態だ」

「カブキチョウで、何か起こったのか」

「ああ。 カブキチョウの東側の城壁の、三分の一ほどが吹っ飛んだ。 内部で、何か巨大な爆発が起こったらしい。 お前の仕業か?」

首を横に振る。どちらにしても、これは非常に危険な事態だ。状況を収拾するために、警備の悪魔達も活発に動き出す。此方が発見される可能性も、非常に高くなる。

「ニーズヘッグは」

「もう待機している!」

「良し、すぐに脱出する」

アマラ経路にまで、揺れが伝わってきている。また一つ、大きな揺れが来た。近い。今まで這い降りていた柱に、大きな罅が入った。秀一がフトミミを、サナがカザンを抱えて、跳躍。

飛び退くと同時に、千々に砕かれた柱が、辺りを押しつぶした。強烈な力を持つ何者かが、強引に秀一を追ってきたのは、すぐに分かった。

濛々と上がる煙。砕けて、降ってきた一片三メートルほどもある岩塊を腕で支えていた秀一は、押しのけて立ち上がる。下には、とっさに術で防壁を張ったサナと、フトミミとカザンがいた。秀一の耳に、仲間の声と、そうではないものの声が届く。

「榊センパイ!」

「秀一ちゃん! 大丈夫か!」

「ほう。 なかなかの身体能力だな。 潰すつもりであったのだが」

砕けた柱を押しのけるようにして、それが姿を見せる。魚だ。胸びれのある所から、人間の腕が四本も生えている。目は人間のもので、気色悪いほどに生々しい配色。そして、空を平然と泳いでいる奴の背には。

「勇!」

「秀一か」

見るも無惨にやつれはて、骨と皮だけになった勇の姿があった。何処ぞのブランド品だとか自慢していた衣服は引きちぎられ、上半身は裸に。ズボンも無惨に破られていて、ホームレスのような姿だ。腕も、足も、何度も折られたのだろう。青黒い痣と内出血の跡が、無数に残っていた。髪の毛は殆ど残っておらず、どぶに捨てられたマネキンを思わせるほどに、哀れな姿であった。

そして、何よりも。その体から血のように流れ落ちるマガツヒが、禍々しさを後押ししている。

一目で、分かった。勇は、人間の領域を、一歩踏み抜いてしまったのだ。

昔、東京で。勇があまり女子にもてないのを、秀一は不審に思っていたことがある。女子達が喜ぶようなファッションに忠実だったし、興味津々でもあった。だが、女子達が勇を見る目は、いつも冷たかった。だから、一度聞いたことがある。何故、勇を構ってやらないのかと。

答えは、寒々しいものだった。

いわく、臭い。いわく、女にがつがつしている様子がきもい。ださい。

女である千晶がそのようなことを言ったことはないから、単に勇を嫌うための方便だったのだろう。事実、それらの罵声には、主体性がまるでなかった。単に、勇という人間を見下して、嘲弄したいから、適当に理由を付けているとしか思えなかった。勇は確かに弱い人間だったかも知れないが、必死に努力を繰り返していたのも事実なのだ。その事実は、全て無視され、踏みにじられていた。心ない言動によって。

だが、それだけではないのも分かった。勇には、周囲からの拒絶を誘う、何か特殊な因子があるのかも知れないと、秀一が感じたのも、その頃である。だから、せめて自分だけは親しく接しようとも思った。千晶はああいう性格だから、最初からまるで気にしていなかった。必然的に、三人でいることが多くなった。

「なあ、秀一。 俺はこれから、悪魔どもが言っていた、あのコトワリって奴を開く事にしたよ」

「孤独なまま、生きていける世界でも、作るつもりか」

「その通りだ。 所詮、俺がどう思おうと、歩み寄ろうと、周囲は俺を何だかんだ理由を付けて拒絶してきた。 なあ、お前が女子どもに聞いていたあの言葉、知らないとでも思っていたか? 俺はこれでも散々告ってふられてきたからな。 その途中で、聞いたんだよ。 ひひひひひひ、何だか、ばかばかしいよな。 こっちがどんだけ歩み寄ろうとしても、自分より下だって思った瞬間に、ああいう態度で拒絶するんだからよ!」

まるでどぶに腐った魚を投げ捨てるような音と共に、勇の体から大量の禍々しい色をしたマガツヒがあふれ出る。どこからともなく伸びてきた頭足類を思わせる無数の触手が、それを掴んでは、魚の口に入れる。

「考え直せ、勇。 周囲の人間の大半が、見下す対象が欲しいという理由でお前を拒絶したのは、確かに事実だ。 だが、そうではないものだっているはずだ。 祐子先生だって、お前を異性として見なかったかも知れないが、公平に扱っていただろう」

「ああ、そうだな。 だが、そんなものは、絶対的少数だ。 世界の理は、強者による弱者の蹂躙だって、歴史が告げてる。 だったら、その理を、俺が変えてやるよ。 それぞれが誰も必要としない、静かな世界を作ることによってな」

誰もが究極の存在となることにより、踏みにじられる事のない世界は、確かにあるのかも知れない。人類が究極的にまで進化していたら、例えばそれぞれが神と呼べるまで力を付けるような世界も、あり得たのだろうか。

だが、今勇が言っているのは。それとは根源的な意味で違う。コトワリによって支えられた、世界レベルの現実逃避だ。勇は、世界そのものから、引きこもろうとしているのではないか。

しかしながら、勇がそう望むのであれば。それは勇が選んだ道でもある。秀一には、止める理由がなかった。

「じゃあな。 もう、ダチとして会うことはないだろう。 次に会う時は、敵同士だ」

「押しつぶそうとしておいて、何がダチッスか! この恩知らず!」

「止せ、リコ。 いいんだ」

食ってかかろうとするリコを止める。秀一には、何だか勇の気持ちが、少し分かるような気がした。だが、同時に。絶対に、今後協調することはないだろうとも思う。勇は薄ら笑いを浮かべると、魚の背を叩く。

「行くぞ、ダゴン」

「承知した」

魚が、闇の中に、溶けるように消えていく。どこからともなく湧き出た触手と言い、恐らくは空間を操作できるのだろう。桁違いの能力だ。気配が完全に消えると、やっとサナがぺたりと床にへたり込む。彼女は分かっていたのだろう。戦っても、恐らくは勝ち目がなかったことに。

勇は、これで自分の道を、完全に独力で歩き出したことにもなる。これ以上は、完全に勇の責任だ。それに、秀一としても、今回助けようと考えていたのは、確かにお節介だった。

天井を見上げる。さぞ、カブキチョウは混乱していることだろう。後は、祐子先生か。どうにかして、居場所を特定して、助け出せればいいのだが。フトミミは予言の力を持つという。マネカタ達の情報ネットワークと併せて、活用できれば、或いは。

今は兎に角、アサクサに生きて撤退することだ。秀一は頭を切り換えると、フトミミとカザンを促して、アマラ経路の出口へ向かった。

 

4,撤退戦の果て

 

ニヒロ機構の本陣は大混乱に陥っていた。伝令が前線から飛んでくるのと、ほぼ同時に。どこからともなく後方に現れたマントラ軍の大部隊が、ニヒロ機構軍の補給を遮断したのである。そればかりではなく、退路の拠点までもが、幾つか電撃的に落とされた。決して油断はしていなかったはずなのに。

衝撃的な報告を受けたミトラが、唖然として立ちつくす隣で、スルトが決意を目に立ち上がった。

「総員、撤退の準備!」

「ま、待ちなさい! 我らの軍は敵に比べて、圧倒的な戦力を有しています! まずは一旦周囲の状態を確認して……」

「それでは、敵の思うつぼです! 良いですか、前線からの報告が正しいならば、敵はどこからも、どのようにも現れることが出来ると考えて間違いありません! このままでは、一方的に攻撃を受けて全滅します! 速やかに撤退するか、堅陣を組むか、どちらかしかありません」

兎に角、今は被害を最小限に押さえ込み、領内に戻って体勢を立て直すことだと、スルトは言った。ミトラは混乱する。確かに、スルトの言葉が正しいのは分かる。しかし、それでは。自分の軍歴に、傷がついてしまうのではないか。

そうしたら、あの忌々しいカエデに、出世街道で先を越されてしまうのではないか。或いはフラウロスか。場合によっては、降格されるかも知れないと思うと、息が止まりそうになった。

「わ、私は、私は、その」

「落ち着け!」

一喝したスルトが、ミトラを巨大な平手ではり倒す。地面に叩きつけられたミトラを、幕僚達が唖然と見やった。強烈な一撃に、しばし呆然としたミトラだが、それで不意に冷静さが戻ってきた。

「まず、空軍に伝令です。 本陣と合流させなさい。 後は、近くにいる部隊を、あらかた集結させて、それから突破を試みます。 ただし、後方にではなく、前方にです」

「なるほど、敢えて後方ではなく、前方から来ている敵を集中的に突破すると」

「そう言うことになります。 その後は、迂回して本国に戻ることになります。 一旦戦力が集結に成功しさえすれば、敵の攻撃など、ものの数ではありません」

実は、それが危険性の一番少ない方法である。敵は基本的に、奇襲でしか味方を叩くことが出来ない。前方に戦力が集中している現在、前線の部隊と合流さえ出来れば。後は選択肢を幾らでも準備できる。

すぐに伝令を飛ばすと、ミトラは味方に集結し、前進するよう命令を出す。混乱していた後続も、それに併せて動き出す。

だが、マントラ軍の攻撃はミトラの予想を遙かに超えて鋭く、獰猛だった。

 

偵察のため分散していた空軍に指示を飛ばしながら、ブリュンヒルドは中高度を滞空していた。マントラ軍の一斉反撃が開始されたのは、彼女にも分かった。既に、前線のカエデから、連絡も受けている。

上級悪魔をも欺く、超大規模な幻覚術。恐るべき能力だ。しかも、それを最も効率的な形で使いこなしている。流石に、腐ってもマントラ軍である。準備が足りなかったと見るべきなのか、或いは。非常に優秀な軍師が、抜擢されたと言うことなのか。

体が反応したのは、鍛え上げた結果であろうか。

カグツチからの光が一瞬途切れた。同時に、手綱を握り、致命的な一撃を回避していた。それでも、鎧に衝撃が走り、肩当てが吹っ飛ぶ。

「敵襲だ! 迎撃態勢を取れ!」

叫びながら、剣を抜く。見た。今、旋回して戻ってくるのは、あのマッハだ。傷は完全に癒えたらしい。それに対して、此方は肩に奇襲の一撃を受け、左腕がしびれた状態である。それでもブリュンヒルドは構わず、馬腹を蹴った。

他の敵は、どうしている。気にはなった。マントラ軍の空軍は、龍族を除いて、殆ど稼働できない状態にあると聞いている。そうなると、マッハだけで奇襲を仕掛けてきたというのか。

堕天使達が、得意とする術をそれぞれ発動する。雷が空を奔り、無数の火球が飛ぶ。風の刃が襲いかかり、氷の固まりが叩きつけられる。だが、マッハは、それらの全てをあざ笑うように回避し、ブリュンヒルドだけを目指して躍り掛かってきた。ブリュンヒルドもそれに併せて、速度を上げる。

二度目の交錯。

スピードが、まだ乗り切らない段階での交錯であった。だから、不利。それでも。

脇腹が派手に切り裂かれ、血が噴き出す。同時に、斬った手応え。速度を上げながら、ゆっくり旋回する。マッハも、首から腹にかけて、大きな傷を負っていた。既に、力はブリュンヒルドの方が上だ。今の一撃も、かってのブリュンヒルドであれば、対応できなかっただろう。

次で、決める。

決意と共に、ブリュンヒルドは加速。

「援護しろ!」

「了解!」

ようやく空中に陣形をくみ上げた堕天使達が、効率的に術を放ち始める。猛烈な密度の攻撃をかいくぐりながら、なおもマッハは迫ってくる。後方より敵襲。誰かが叫ぶ。ブリュンヒルドは、雑念を追い払う。そして、ただマッハにのみ集中した。

叫ぶ。更に速度を上げた。それに併せて、マッハも速度を上げてくる。

マッハの、ぎらついた目が、見えた。お前との決着を付けるためだけに、此処に来た。瞳は、そう告げていた。全力で回避に掛かれば、いずれ仕留められる自信はあった。何しろ、敵は一騎なのだから。

だが、ブリュンヒルドは、愚直な勝負を選ぶことにした。敵ながら、マッハの戦士としての心意気は理解できた。それに、此処で退いたら、士気に大きな傷がつくからだ。吠えたけり、そして距離を詰めていく。

三度目の交錯で、勝負がついた。

首筋から腹にかけて、閃光が走る。致命傷は回避した、と思った瞬間。今までにないほどの、大量の血が噴き出した。体が傾く。真っ二つに切り裂かれたマッハが、それでも満足げな表情で、落ちていくのが、視界の隅で見えた。剣を、取り落としそうになる。それだけは許されない。オセ殿に、笑われてしまう。

後方の敵は、どうなった。見えない。速度が、徐々に落ちていく。このままでは墜落するかも知れないなと、他人事のように思った。部下達が、追いついてきたらしい。

「後方の、敵は」

「それほどの規模ではありません。 ただ、接近を察知できず」

「急いで、本陣に、合流しろ。 後の指示は、ミトラ将軍か、スルト将軍に、いや、カエデ将軍に仰げ……」

部下達の声が、遠くなっていく。

戦いの音が、いやに強く。耳に残った。

 

本陣との合流を果たした北部方面打撃軍団は、奇襲を仕掛けてきた敵を掃討しながら、逃げてきた味方部隊を必死に収容した。二人の師団長は、とても良い動きをしている。カエデはナラギリの背で指示を飛ばしながら、何度も安心した。

だが、その安心も、一息に吹き飛ぶ。同じように味方の収容を続けているニュクスからの伝令が、ブリュンヒルドの負傷を伝えてきたのである。意識不明の重傷であり、指揮どころではないそうだ。カエデは唇を噛む。空軍は個人の技量に依存するところが大きく、傑出した力を持つブリュンヒルドが戦闘不能になってしまうと、戦闘力も機動力も四半減する。

「敵襲です!」

「すぐに応戦を!」

部下の声に応じながら、次はどうすればいいのか、考える。最前線で戦っているフラウロス将軍が時間を稼いでくれている間に、味方の体勢を整えなければならない。今、味方は本隊を中心として、七割ほどが集結している状態だ。しかし奇襲によってその三割が負傷しており、戦死者も多い。既に、何人か、師団長の戦死がカエデの耳にも届いていた。

もう少し、時間を稼がなければならない。

襲撃してきている敵の先頭に立つ毘沙門天が見えた。今回の襲撃は、本気と言うことだ。戦力を集中し、火力で押し込む。兎に角、接近戦に持ち込ませない。必死の集中砲火で、どうにか押し返すことに成功。陣形を組み直す。思わぬ所から奇襲を受けることが多いので、既に砦は全て放棄している。猛烈な攻撃をいなしながら、前線へ、前線へ移動。やがて、苦戦しているフラウロス隊が見えて来た。多数の敵を相手に一歩も退かず、しかし損害が著しい。最前線で剣を振るっているフラウロスの姿が、カエデの所からも見えた。

味方は八割方が収容できた。既に戦死者は全軍で5000を大きく超えており、このままだと10000に達するかも知れない。各地で奇襲を仕掛けてきていた敵も集結し、勢いに乗って何度も攻撃を掛けてきた。特にミトラ隊の被害が大きく、上級指揮官の戦死が何度も耳に入った。

毘沙門天が剣を振り上げると、敵が陣を組むのが見えた。卍型をした陣形である。側にいた副官が、蒼白になる。

「あれは、車懸りの陣です!」

見たことがある。具体的には、調べた資料に載っていた。

車懸り。戦国時代、かの軍神上杉謙信が得意とした攻撃陣で、間断なく回転することにより、次々に新手が敵に襲いかかる非常に危険なものだ。しかも、毘沙門天が向かっているのは、ミトラ隊。疲労が大きいミトラ隊が崩されると、味方は総崩れになる可能性がある。そして、敵中で総崩れになれば、全滅確定だ。

奇しくも、上杉謙信が信仰していた神こそ、その毘沙門天だ。火力を集中しようとした矢先、水天が指揮する別働隊が、猛烈な突撃を掛けてきた。必死に重装部隊が凌ぐ中、毘沙門天はミトラ隊へ突入成功する。

凄まじい勢いで、味方が跳ね飛ばされていくのが見えた。まるで回転鋸か何かのように毘沙門天隊が、ミトラ隊を蹂躙していく。ミトラ隊の前線指揮官である堕天使グラシャラボラスが空中にはじき飛ばされた挙げ句、無数の槍に串刺しにされるのが見えた。即死だ。グラシャラボラスの体は、マガツヒになって飛び散っていく。

「カエデ将軍! ミトラ将軍から、救援要請です!」

「分かっています!」

四つ、五つの指示を同時にこなさなければならない状況だ。気絶しそうなほどに、精神の疲労も大きい。ふと、思いつく。毘沙門天隊に通用しなくとも。それならば。車懸りの弱点は、そもそも。

「スルト将軍の隊を一キロ後退させてください! ミトラ将軍に、R2地点への、メギドラ発動を依頼してください! それも、全力で、です!」

「しかし、R2地点は、今スルト隊がいる場所ですが」

「だからこそです! 毘沙門天隊が、一度後退した瞬間を狙います!」

「分かりました! すぐに伝令を飛ばします!」

伝令が飛んでいくと同時に、カエデは術式を組み始める。猛烈な火力防壁を展開して、どうにか水天の隊を退けると、今度は増長天の隊が攻撃を仕掛けてきた。対応しきれず、疲労が大きい前線が何カ所かで崩されかける。ナラギリの所まで、矢が飛んできた。鬨の声が、すぐ側まで迫ってきている。一本はカエデの顔を掠めた。ようやく体勢を整えたニュクス隊がくさび形の陣形で横やりを入れて、追い払う。それに同時期して、前線での機動作戦を諦めたフラウロス隊が、合流してきた。

フラウロス将軍は、負傷していると言うことだった。しかも、兵の三割を死傷していた。敵の損害はほぼ同数だという。かなり良く戦った方である。意識がないのに剣を構えて立ちつくすフラウロス将軍を、やっと引っ張ってきたのだと、副官は涙ながらに言った。カエデは頷くと、印を切り終える。

時は今。ナラギリの背で、立ち上がった。

毘沙門天隊が、蹂躙していたミトラ隊から、僅かに離れる。それに併せて、スルト隊が、さっと後退した。不安なのは、ミトラがちゃんと作戦に乗ってくれるかだ。カエデも、ミトラが自分のことを嫌っていることくらいは知っている。悲しいことだと思うのだが、それは今嘆いている暇がない。

わずかな沈黙が、何年にも思えた、次の瞬間。

戦場に、閃光が走った。同時に、カエデもメギドラを、R2地点に撃ち放った。

火線が空間を蹂躙し、爆発が巻き起こる。キノコ雲が上がる中、後退した毘沙門天隊は、再突入のタイミングを逸し、足踏みした。

そう。車懸りは、回転することによって間断なく前線を入れ替える陣形。つまり、その足を止めてしまえば、威力を発揮しきれない。今戦場に大穴を開けたことで、回転する足場が亡くなった。

毘沙門天隊に直接メギドラを撃っても、防ぎきられる可能性が高かった。だから、何もない空間を、最大限に利用したのだ。

スルト隊が素早く展開し直し、ミトラ隊の前衛にはいる。同時に、これ以上の攻勢を一時断念して、マントラ軍が距離を置き始めた。ニュクス隊が辺りを駆け回り、負傷者と逃走してきた味方を収容していく。

そして、やっと陣が組み上がった。敵の領土奥へ向け、少し突破する。敵は自然に退いて、陣形を組み直していた。

着物は、既に汗でぐしゃぐしゃだ。倒れそうになるが、慌てて飛んできた副官が支える。彼は以前、ユウラクチョウでカエデに小言を言った中年の堕天使だ。ナラギリの背中に座り直すと、マガツヒの瓶を空けて、呷る。

すぐに、被害の状況が産出された。未帰還部隊は、全滅したと判定されている。

「味方の損害、推定11200! 敵は、恐らく2500に達していません」

特に被害が大きいのは、ミトラ隊とフラウロス隊だ。どちらも戦闘続行が難しい段階までダメージを受けている。ニュクス隊も被害が大きい。北部方面打撃軍団も損害は小さくなく、一割を超えていた。分散していた部隊に生き残りがいるとしても、損害は10000を割るか割らないかという所だろう。

誰が見ても、結果は同じである。完全に負けだ。

だが、それでも、まだ四万弱の戦力が味方にはある。対して、敵は勢いがあるとはいえど、此処に展開している戦力は二万五千を切っている。完全に陣形が整った今、そう簡単には手出しができない。

伝令が来た。本陣に来るようにとの事だ。

撤退を進言しよう。そうすれば、恐らくもう交戦をせずに、領内に戻れる。

足を折って腰掛けたナラギリから、もたもた降りるカエデを、副官が手助けしてくれた。情けなくて、穴があったら入りたくなる。

「ごめんなさい、情けないです」

「貴方の身体能力は確かに弱点ですが、その代わり魔力と頭脳でそれ以上の功績を挙げています。 毘沙門天隊の突撃を防ぎ抜いたのも、貴方です。 だから、胸を張りなさい」

やはり、分からない。何をもって、胸を張れるというのか。無能と罵る声が、どこかから聞こえてきそうだ。敗北を止めることは、結局出来なかったのだから。敵の罠に気づくのが、あまりにも遅すぎた。

自責に押しつぶされそうになりながら、カエデは本陣に向けて歩いた。負傷している兵士が非常に多い。途中、ブリュンヒルドと、フラウロスは、どうにか命をとりとめたという報告が入った。ただし、当分は動けないだろうと言うことであった。

天幕に入ると、疲れ切った様子のミトラがいた。驚いたのは、ニュクスが、右目を隠す形で包帯をしていたことだ。スルトも、肩から腹に掛けて、包帯を巻いている。司令部からして、この状態である。前線がどれほど悲惨かは、言われずとも明らかだ。

「ニュクス将軍!」

「大丈夫。 眼球は無事だし、傷は残らないわ。 さっき、増長天と一騎打ちしてね」

ミトラに、座るように促される。と言っても、議題など決まっている。他にも何名かの師団長が席に着くと、会議は始まった。

「今後の侵攻計画をどうするかですが、意見はありますか?」

「撤退するべきです」

「同感です。 これ以上は、味方の損害を増やすだけです」

「同じく。 戦果を上げることは、出来ないでしょう」

まだ侵攻とかほざいているミトラに、その場の全員が反対意見を提出した。ミトラの副官までもが、それに賛同する。カエデも最後までそれを見届けてから、撤退するべきだと言った。ミトラは、撤退も考えていたはずだ。軍の動きを見れば、このまま迂回しながら、自領へ戻るつもりなのだと分かる。だが、それでも、ミトラは侵攻に賛成してくれるものがいると思ったのだろう。

肩を落としたように、ミトラが言った。

「そうですか。 しかし、このまま撤退したら、マントラ軍を勢いづかせてしまうような気がしてなりません」

「それでも、遠征軍が全滅するよりはましです」

スルトがぴしゃりと言い切った。その通りだと、カエデも思う。この損害を回復するのに、ニヒロ機構は相当な時間を必要とするだろう。部隊を新設するどころではなく、新兵を全て補充に回さなければならない。これ以上傷を拡げたら、戦況が逆転する恐れさえある。

無言の圧力の中、撤退が決まった。ニヒロ機構としては、初めての大敗となる。今までもヨヨギ公園攻略戦などで撤退は経験していると言うことだが、これほどの損害を出したのは初めてだという。

本陣に戻るカエデの足は重かった。新任の軍団長になったのに。多くの部下を死なせてしまった。ミトラはもっと辛いだろう。

カエデがナラギリに跨ると、全軍が動き始める。ゆっくりと迂回して、ニヒロ機構へと戻るのだ。敵は一定距離をおいて着いてきたが、仕掛けてはこなかった。最後尾にカエデがついて、逆撃の体勢をとり続けてはいたが、それが原因だとは思えない。

途中、おいおいとはぐれた小部隊が集まってきた。それで、少しは被害が緩和された。落とした砦は、基本的に放棄するしかない。

やがて、どうにか国境線を越えた。敵が砦にまた入るのを見ながら、陣形を整えたまま、シブヤに。

撤退時の脱落者は、いなかった。副官が、側に飛んできて、敬礼した。

「最終的な損害は、10244。 敵の損害は、2250から2300の間かと」

「分かりました。 すぐに再編成の準備をしてください」

マントラ軍は勝ったとはいえ、すぐに逆侵攻を掛けてくる余裕はないはずだ。しかし、これで日和見をしていた悪魔達が、戻るだろう。一気に戦力が強化されることは間違いない。

ただし、それでもまだニヒロ機構の戦力の方が、だいぶ大きい。しかしこの間のギンザ会戦のこともある。多少兵力が大きいくらいでは、とても油断は出来ない。

北部方面打撃軍団は、初陣を勝利で飾れなかった。被害は一割強に抑えることが出来たが、それは戦争では壊滅といえる損害である。

一旦シブヤで部隊を解散させると、どっと酷い疲労に襲われた。自宅に着いてからのことを、良く覚えていない。

それから、二十時間以上も、カエデは泥のように眠った。

起きた後は、敗戦処理が待っていた。ミトラほど悲惨ではないが、カエデの作業も、また膨大だった。

 

5,コトワリの一端

 

ニヒロ機構本部で、会議が開かれたのは、カエデがシブヤに帰還してから丁度カグツチの日齢が一巡した頃であった。

カエデは、丁度病院を回って、フラウロスとブリュンヒルドの様子を見てきたところである。フラウロスはもう意識を取り戻していたが、戦場に復帰するまでは当分掛かる。ブリュンヒルドはもっと傷が深くて、まだ意識が戻らない。敵のマッハ将軍と切り結び、殆ど相打ちに近い形であったという。命に別状はないが、不安だった。

会議室に辿り着くと、頬が痩けたミトラが、既に席に着いていた。ぶつぶつと小声で何か呟き続けている。

ミトラが、権力欲の非常に強い存在だと言うことは、カエデも知っている。フラウロスは徹底的に嫌っていたが、こうしてみると、可哀想な方なのだなと思う。権力欲という得体の知れないものに振り回されて、主体的な判断力を失い、今罪悪感に苦しんでいる。確かに、ミトラの判断ミスで、多くの兵が死んだ。だが、それは敵の幻術を見破るのが遅れたカエデにも責任がある。もっと速く幻術を見抜いていれば、被害は大きく減らせたはずなのだ。

他の幹部達も、続々と現れた。ロキだけがいない。マダが、カエデに深刻そうに声を落とした。

「嬢ちゃん、ロキの野郎、知らねえか」

「いえ、知りません」

「そういえば、忙しかったみてえだもんな」

「何か、あったんですか?」

僅かな沈黙の後、マダは言う。

「出奔しやがったんだよ、あいつ。 それも、嬢ちゃんの研究室を荒らした上でな」

「! そんな!」

「警備員は眠らされただけで、被害はでてねえ。 だが、嬢ちゃんの部屋で、何が無くなったとかはわからねえ。 それで、奴の執務デスクには、辞表が残っていたそうだ」

それだけで、カエデには分かった。ロキは、スペクターを殺すつもりなのだ。カエデの研究を使って。だが、あれはまだ未完成だ。確かにスペクターを倒せるだろうが、しかし。いや、それも分かった上だったのだろう。だから、辞表を出して。後腐れがないようにして、出て行った。説明をすると、見る間にマダは真っ青になった。聞き耳を立てていた他の将軍達も、である。

「ロキ将軍は、死ぬ気です。 スペクターと、差し違えて」

「なんてこった! あいつ、スペクターを殺すことに、賭けてたけどよ、なにもこんな……! あの馬鹿がっ!」

怒りに満ちて、マダが拳を胸の前で併せる。カエデは怒る気にはなれなかった。憎しみの連鎖に捕らわれた一人が、ロキだと理解できたからだ。そして自分も、その中にいる。今だって、ランダ様の事を思うと、胃が煮えるかと思う。

どうしたら、この悲しい世界がまともになるのか、そればかりを考えてしまうのも、事実だった。

「多人数で行けば、スペクターは現れないという判断なのでしょう。 でも」

「分かった。 会議が終わったら、俺がすぐに後を追う。 あの野郎、少しは俺らを信用しやがればいいものを!」

「儂も追うぞ。 全くあの若造めが、似合わぬ事をしおって!」

ミジャグジさまが、白い蛇体を揺らして言う。二人が追うならば。ひょっとしたら。カエデも、ロキが行きそうな所、すなわちスペクターが現れそうな所を、調べておかなければならない。

氷川司令が、部屋に入ってきた。疲弊しきったミトラを一瞥すると、最上席に着く。私語が、ぴたりと止んだ。会議が、始まる。

一通り、敗戦の報告がスルトから為される。氷川は眉一つ動かさず、損害の補填を命じた。そして。驚くべき事を言った。

「これより、ニヒロ機構では、戦略の転換を図る」

「戦略の、転換ですか?」

「これまでは、他の勢力を駆逐することによって、コトワリの独占を狙ってきた。 だが、どうもそれが成し得なくなりつつある」

「と、言いますと」

氷川司令がノートPCのキーボードを叩くと、立体映像が浮かび上がる。アマラ輪転炉から採取した情報なのだろうと、カエデは思った。その映像には、巨大な禍々しい影を無数に従える、人間の青年のものであった。髪の毛が全て抜け落ちており、目には強い闇が宿っている。何よりも、やつれきった体中から血のように流れる、どす赤いマガツヒが印象的だ。

「アマラ経路に潜むこの男が、コトワリに近付きつつある。 しかも、マントラ軍でも、ニヒロ機構でもない、別の思想をもって、だ。 更に、マントラ軍が後継者を見つけたという報告も入ってきている。 このまま、軍を使った制圧計画を進めても、彼らを潰せる可能性は低い。 下手に特殊部隊を向かわせても、むしろ成長させるだけだろう。 よって、我らは軍による圧迫を加えながら、コトワリを開く準備に入る」

緊張が、一気に場に奔った。

ボルテクス界に住む者なら誰もが知るそれは、この世界の目的。コトワリによる新世界の創造。ニヒロ機構も、ついにそれに向けて動き出すと言うことか。カエデは、思わず挙手していた。

「コトワリを開くには、何が必要なのですか?」

「アマラ輪転炉からの解析によると、守護と呼ばれる、最高位の神族を呼び出す必要がある。 彼らはアマラ経路の最深奥に、己の世界を築いて潜んでいると言うことだ。 それを此方に呼び出すためには、膨大な量の餌がいる」

つまり、マガツヒだ。

今、ニヒロ機構は膨大なマガツヒを蓄積することに成功している。だが、氷川司令の口ぶりでは、それでも足りないと言うことだろう。場合によっては、アマラ経路に対してナイトメアシステムを用い、一気にマガツヒを吸収する必要があるのかも知れない。

「カエデ将軍」

「はい!」

「これから君は、全攻撃戦闘部隊の指揮を執るように。 ミトラ将軍には、全守備部隊の総司令官を任せる」

唖然とした。これでは、まるで。

「待ってください、私は敗軍の将です! それに、攻撃部隊の指揮でしたら、フラウロス将軍の方が」

「いや、俺からも氷川司令に頼んだ」

病室にいるフラウロスの立体映像が、机上に浮かぶ。それに、他の将軍達は、皆文句がないようだった。

分からない。どうして、このような評価がされるのか。混乱するカエデに、氷川司令は静かに言う。

「あらゆる評価からも、君が一番この任務に適任であることは分かっている。 君はこれから、出来るだけマントラ軍と、他の勢力の戦力を削ることに注力して欲しい。 オベリスクを守備しているモイライ三姉妹は、君の麾下から外し、代わりにミトラ将軍の麾下に加える。 その代わり、現在ミトラ将軍が指揮している攻撃部隊は、全て君の麾下に加える」

「謹んで、承ります」

「うむ。 重い任務だが、君なら果たせるだろう」

頭がしびれて、何も考えることが出来ない。会議が終わると、机に突っ伏してしまった。ニュクスが肩を叩いて、微笑んだ。

「おめでとう」

「重責に、潰されそうです」

「貴方なら、大丈夫。 足りないところは、みんなで支えて上げるからね」

ニュクスは嬉しそうだった。

他の指揮官達も、みなカエデに好意的な笑みを浮かべてくれている。

みんなのために、頑張らなければならない。自分を必要としている、みなのためにも。

頭を切り換える。攻撃部隊の総司令官という重責の他にも、今はやらなければならない事がある。ロキ将軍の救出だ。

カエデは頬を叩くと、頭を切り換えた。今は、一刻が惜しかった。

 

遠くから、歓声が聞こえてきていた。

ニーズヘッグに乗って、帰路につく秀一は、アサクサのマネカタ達が沸き立つだろう事は分かっていた。先に帰したマネカタ達が、フトミミの脱出成功を知らせたからである。ダゴンと会った後、秀一は少しアマラ経路を移動して、敵の存在がないことを念入りに確認してから外に出た。だから帰りは少し遅れたが、安全は確保することが出来た。だが、ここからが大変なのだ。

見事に、琴音の予言は的中した。ニヒロ機構の侵攻軍は敗北した事が、様々な状況証拠からも明らかだ。マントラ軍は一気に態勢を立て直す可能性が高い。その場合、まず最初に潰しに掛かるのが、マネカタコミュニティであろう事は、想像に難くない。

場合によっては、ニヒロ機構と同盟を結ぶなどの、柔軟な戦略的外交が必要になってくる。だが、マネカタ達に、そこまでの事が出来るのか。極めて不安だと、秀一は考えている。

快調に砂を泳ぐニーズヘッグの上で。秀一は、すぐ後ろに乗っているフトミミに聞いてみる。

「フトミミ、貴方は今後、どうするつもりだ」

「マネカタ達の世界を作る」

「それは分かった。 今重要なのは、具体的に、どうマネカタコミュニティを運営するつもりかということだ。 このままでは、マネカタ達は、マントラ軍によってひねり潰されることになるぞ」

フトミミは答えない。いやな予感が、少しずつ大きくなっていくことを、秀一は感じた。

この人物は、予言の力を持つという。嘘か本当かは分からないのだが、それは問題ではない。ひょっとすると、いわゆる精神的な支柱であり、具体的な立案能力を持たない存在なのではないか。

もしそうなるとすると、彼はあくまで大規模な戦略上の目的を示す存在に過ぎず、実際のコミュニティ運営は他の者達がやることになる。そして今の現状、過激派が主導権を握る可能性が高い。もし悪魔排斥派が多数を占めでもしたら。

琴音の方を見た。今のやりとりを見ていた彼女も、渋い顔をしていた。

秀一は、まだいい。情報を得ることだけが、目的だからだ。だが、慕ってきている多くの悪魔達を救いたいと考えている琴音は。

「一つ、君の未来が見えた」

「何だ」

「君の探している人物は、女性だな。 彼女は、今、ニヒロ機構に捕らえられている」

「それは分かっている」

教えてはいないが、知っていても不思議ではない。フトミミは指先を額に当てると、続けて言った。

「巨大な塔の頂点。 そこに、監禁されているのが見える。 強大な悪魔が三匹、護衛についている」

「それ、オベリスクの事じゃないッスか? 彼処には、モイライの三姉妹って言う、強力な悪魔が配置されてるって聞いたことがあるッスよ」

「……そうか、分かった。 有難う」

「いや、少しでも恩を返せたのなら嬉しいよ」

フトミミが薄笑いを浮かべる。

オベリスクと言えば、ニヒロ機構が最近落とした、天使軍の要塞だ。元々敵対していた組織と言うこともあり、ニヒロ機構に関するリコの情報は宛てになる。問題は、どうやって潜入するかだが。それは、これから考える他無いだろう。

「君は、この世界を、どうしたい?」

「少しはましにしたい」

不意の問いかけに、秀一は即答した。だが、フトミミは、薄く笑った。

「誰もが、そう思っているだろう。 だから、多少過激であっても、強烈に方向性のあるコトワリを求めて動いている」

「俺は必ずしもそうだとは思わないが。 俺にも、コトワリが必要だと言うことか?」

「他のコトワリを選ばないというのならな。 君には、世界を導きうる力がある。 それならば、そうするのが義務ではないのかな」

「仮にそうだとしても、俺はマネカタばかり優遇される世界を作るつもりはない」

全ては、知ってからだ。まだ、秀一は何も知らない若造であることに代わりはない。力は、着いてきた。だがそれも、絶対のものではない。

アサクサが見えた。

マネカタ達がびっしり並んで、手を振っている。フトミミを迎えに来たのだ。泣いているものも珍しくないようだ。彼らを横目で見ながら、秀一は考える。今後、どうするべきなのかを。

力があるのなら、きちんと使う義務がある。それには、全面的に同意だ。

そもそも、祐子先生は、何故氷川に手を貸した。この世界は、どうしてこうなってしまったのか、知っているのか。

全ては、先生に直接聞いて、判断した方が良い。マネカタ達の中に、カズコがいないことを、秀一は見て取った。琴音も、それに気づいたようだった。

「ふーん」

醒めた声でサナが言ったのは、彼女も気づいたからだろう。フォルネウスも、クレガも、あまりいい顔をしていない。

きしみが大きくなる予兆を、此処にいる悪魔全員が感じていた。

 

アサクサ近郊の岡で、ニーズヘッグを見下ろす影二つ。人間とほぼ同じサイズのその影は。サルタヒコと、アメノウズメである。トールに言われ、有望な次世代の担い手を捜していた二人は、アサクサに寄っていたのだ。

サルタヒコは、じっと人修羅を見ていた。トールが、橘千晶という人間を選んだことは聞いている。だが、あの千晶という女は、どうも危険な臭いがしてならないのだ。それくらいで良いのだと、トールは言っていた。だが、サルタヒコは承伏できなかった。

他の鬼神は皆トールに従ったが、アメノウズメは着いてきてくれた。もう少し、考えたいと言って、トールの元を離れた時。ひょっとすると、もう二度と味方として会うことはないかも知れないとさえ思った。だが、それでも後悔はしていない。

「それで、あなた。 これからどうするの?」

「あの青年こそ、マントラ軍の担い手に、いやこの世界の導き手に相応しいと、俺は考えている。 それを試したい」

「トール様は、千晶って子だって言っているのに?」

「そうだ。 トール様でも、間違うことは、あると俺は思う」

いつになく多弁に、サルタヒコは語った。サルタヒコは、彼方此方を見て回ったから、知っている。あの千晶という娘、マントラ軍の思想を更に過激にしたような存在だ。或いは、あの娘を主に抱くことで、マントラ軍は勝つことが出来るのかも知れない。だがその先に、心地よい未来は来るのだろうか。

そうは、思えないのだ。

力が全てを決める世界に、疑念はない。だが、あの娘の思想は、更にその先へ突き抜けているような気がしてならない。どのような思想も、極端すぎると有害になる。特に、ここしばらく、アサクサで悪魔と共存できているマネカタを見ているうちに、そう感じるようになっていた。

最初はサマエルがその担い手かとも思った。だが、彼女は背負うものが多すぎる。だから、敢えて人修羅を選ぶべきだと、結論したのである。

一つ頷くと、歩き出す。アメノウズメは、着いてきてくれた。マネカタ達よりも先に、人修羅は此方に気づいた。腰の剣を抜きながら、歩み寄る。

「貴方は、マントラ軍の、サルタヒコだな」

「そうだ。 人修羅、貴様の力を試したい」

短い、それだけのやりとりで。充分だった。不思議と、心が通じる相手だ。

さっと巻き添えを恐れたマネカタ達が散る。以前と違って、随分修羅場に慣れてきている。訓練を散々していた、その成果が出てきているのだろう。人修羅の配下らしい悪魔達が戦闘態勢を取る。

サルタヒコは剣を上段に構え上げる。人修羅は腰を落とすと、右手をやや下に、左手を後ろに、やや上げて構えた。

距離は、五メートル。構えをとり、向かい合っただけで。凄まじい力が伝わってくる。いつの間に、此処まで力を上げていたというのか。舌を巻く。後は、どれだけその力を展開できるのか、見ておきたい。

場合によっては、命を落としても構わない。サルタヒコは、そんな気がしていた。

「おおおおおおおっ!」

一声上げると、間合いを詰め、斬りかかった。

閃光が、弾けた。

 

(続)