発火点への道

 

序、前哨戦

 

苛立つ毘沙門天の下に、技術班は今日も同じ報告を持ってきた。まだ、マネカタの製造技術が、完成しないのである。トールが一撃で殺したフッキとジョカのマガツヒには、確かにマネカタの製造技術が含まれていた。それにもかかわらず。未だ、かっての四半分程度の効率でしか、新しいマネカタを作り出すことが出来なかった。しかも、かって以上に粗悪品が多いのである。

「今日も、どうしても上手くいきませぬで。 申し訳ありません」

「泣き言はいい。 研究を続けよ」

技術班の報告に、毘沙門天は難しい顔をして答えた。一礼すると、恐縮した態で技術班は謁見の間から退出していく。

トールからの連絡は時々あるが、新しい指導者の情報は含まれていない。またケルベロスも似たような目的で出て行ってから連絡無しだ。国境からは、日に日にニヒロ機構の戦力が強化されているという、絶望的な報告ばかりが届く。既に彼我の戦力差は、四倍にまで開こうとしていた。それなのに、有効な対策は、未だ打てていない。

マネカタの数も、減りつつある。脱走する者が、増えてきているのだ。出来るだけ大事に扱うようにと言う指示も飛ばしているが、それでもマガツヒを搾り取るためにはある程度乱暴な扱いも必要である。苛立った悪魔の中には、手加減を出来ない者も多い。生産量が消費量に追いつかない以上、待っているのは減退だけだ。

幸いなことに、逃亡者は減りつつある。

トールが彼方此方を彷徨き、逃亡者を連れ戻しているという噂が、その原因である。現状維持がやっとの状況にどうにか追いついているのも、トールがいての事だ。あとは、せめてもう少しマガツヒの供給が安定すれば。

給料は、充分に与えることが出来ている。少しずつ、余剰のマガツヒも出来はじめている。だが、毎日の収穫量が安定しない。だから計画がとても建てづらいのだ。

ゴズテンノウのありがたみが、今更ながらに身に染みる。そしてトールが言っていたことも、実感できる。

獣の群れには、長が必要なのだ。そして毘沙門天では、この規模の群れを統率することは出来ない。

この十分の一の群れであれば、簡単に切り回す自信がある。しかし30000を超える群れであるマントラ軍は、既に毘沙門天の能力限界を遙かに超えていた。しばらく、実務を片付ける。だが、対処療法以上のことは、出来なかった。

実務が一段落して、少し休もうと思ったところで。鬼神の一騎が、側に跪いた。

「毘沙門天様」

「どうした」

「オルトロス様が帰還しました。 重要な報告があるとのことです」

「すぐに通せ」

予想は出来ている。天使軍が壊滅的な打撃を受けた以上、ニヒロ機構が次にするべき事は決まっている。根本的な打撃を、マントラ軍に与えることだ。そしてそれが実行された暁には。

この世界は、ニヒロ機構の手に落ちるだろう。

準備は、整えてきた。カブキチョウ要塞は、50000の訓練を受けた野戦軍の攻囲に、かっての基準で言えば数年は耐えることが出来る。空軍の攻撃だって、苦労せずに退けることが出来る。スペクターによる壊滅の教訓も生かして、あらゆる防備を固めてきた。多分、現在では、シブヤ要塞につぐ防御力を持つはずだ。

だが、ニヒロ機構は最近カエデという非常に優秀な将官を得たという。アカサカの惨劇から生き残った奴らしいのだが、オベリスクを陥落させたのも、その手腕であるという。油断は出来ない。だが、敗北主義に捕らわれても仕方がない。頭を切り換えると、部屋に四つ足で入ってきたオルトロスに意識を集中する。

つぶらな瞳でちょこんと座ったオルトロスは、尻尾をぱたぱた振りながら、訛りだらけの言葉を発する。和まされる奴である。

「報告しますだ」

「ニヒロ機構の侵攻準備が整ったのか」

さしが毘沙門天様ですだ。 まだ、戦力そのものは整ってねえだけんども、近々繰るはずだで。 おそらく、規模は40000から45000。 シブヤ要塞に一旦集結してから、カブキチョウ要塞に侵攻してくるはずですだよ」

「国境の防御では抜かれるな。 放棄して兵力を集中する必要があるか、それとも遅滞戦術に切り替えるか」

分かりきっていたことだ。だから、防衛戦術に関しては徹底的に検討を続けてきた。

もちろん、最初からまともに戦うことは考えていない。何重にも防御線を張り巡らせて、敵の消耗を狙うか。或いは、本拠まで引きつけて、ゲリラ戦で補給を断つか。その両方を駆使したいところだが。残念ながら、それを行うほどの戦力がない。

特に、問題は空軍だ。マッハはこの間復帰したが、龍族は多くが行動不能で、鳥たちは殆どが逃げ散ってしまった。忠誠度の高いバイブ・カハの一部が、かろうじて残ってくれているが、それも良く訓練されたブリュンヒルドの空軍にはかなわないだろう。空を専門とする天使軍でさえ、一息に蹴散らしたという話だ。弱体化した今のマントラ軍の空軍など、相手にもならない。

オルトロスを下がらせると、幹部達を招集する。今、マントラ軍は一種の共和制に近い状態になっている。四天王寺にいる持国天、国境にいる増長天以外の幹部が集まると、流石にそれなりに壮観である。長テーブルを囲むと、毘沙門天は皆の顔を見回した。

「ニヒロ機構が、侵攻軍を整え始めている」

いよいよ来たかと、皆の顔に浮かぶ。水天が最初に挙手した。

「それで、防衛計画は?」

「本来なら、防御線を幾重にも張り巡らせて、敵の消耗を待ち、外に出したゲリラ部隊で補給を断ってから、反抗に出たいところだ。 だが、知っての通り、我らマントラ軍は、かっての三分の一に戦力を減退させている。 一方、敵は更に戦力を増強し、彼我の兵力差は四倍程度にまで開いている。 正面から戦っても勝ち目はなく、味方の戦力には限りがある。 そこで、乏しい選択肢の中から、出来ることを選んでいくことになる」

毘沙門天の説明に、水天が腕組みして唸った。

事実というものは、誰もが分かっているのだが、まとめると随分形が変わってくる。分かりきったことは、その場にあっても意味がない。誰かがまとめることで、ようやく意味を成してくるのだ。それを、毘沙門天は、若い頃は気付けなかった。

「何か、奇策はないのですかな」

「奇策は下策の別名だ。 よほど手腕のある軍師がいるのならともかく、我が軍にそんなものはいない。 だから、基本に沿って、敵を迎撃する」

ミズチの提案を一蹴。確かに魔法じみた奇策の宛てがあれば使いたいところだが、軍記物ではあるまいし、そう易々とそのような事が出来る訳がない。その上、敵は古今東西の戦術をそらんじている可能性が高く、生半可な奇策では返り討ちにあうだろう。

今はただ、時を待つしかないのだ。

この間上級将官に出世した西王母が歎息する。戦闘能力は低めだが、術式の腕を買われて、出世した。道教の神であり、本来とは違って穏やかな常識人である。

「トール将軍が帰ってきてくだされば、少しはましになるのですが」

「トール将軍は、我らの新たなる主を捜しておられる最中だ。 兎に角今は、我らで留守を守るのだ」

頷く。マントラ軍の思想を好む点で、上級幹部の見識は一致している。兎に角、ニヒロ機構の猛攻を、どうにか凌がなくてはならない。

己の羽を手入れしていたマッハが、顔を上げる。彼女の声は、滅多に聞くことが出来ない。

「敵には、ブリュンヒルドの奴もいるのか」

「ほぼ間違いなく出てくるだろうな。 奴は今や、ニヒロ機構のエースの一人だ。 この間のオベリスク会戦では七天委員会のラファエルに手傷を負わせ、ラジエルを落としたと聞く」

「上等だ。 今度は、私が借りを返してやる。 だから、マガツヒを出来るだけたくさんくれ」

「あまり特別扱いは出来ないが、私も空軍での個人戦が如何に重要かは熟知しているつもりだ。 善処する」

マッハの闘志は本物だ。これを利用しない手はない。

結局、遅滞作戦を採ることに決まった。防御網を強化して、出来るだけ敵の行動を遅らせる。そのため、カブキチョウ要塞の防御人員は減ることになる。だが、それも仕方がないことだ。

遅滞戦術を採用したのには、理由がある。カブキチョウ要塞の防御能力に、不安を感じたからだ。

今まで築いてきたものに、不安があるのではない。敵には、あのオベリスクを無力化陥落させた術者がいるのである。カブキチョウ要塞にも、当然強固な防御術が幾重にも掛けられており、それが防御能力の一端を担っている。それを破られた場合、すぐに壁を越えられるという事はなくても、危険は大きい。

それならば、出来るだけ此処に到着する前に敵の戦力をそぎ取っておいた方が、良いはずだ。

後は、トールと、ケルベロス次第だ。どちらかでも良い。新しく、ゴズテンノウの代わりをなせる人材を連れてきてくれれば。まだ、マントラ軍は再起の可能性を残している。

会議を終えると、毘沙門天は外に出た。丁度静天にさしかかったから、辺りは真っ暗だ。毘沙門天は一人遠くを見て、歎息した。とてもらしくないことをしているように、思えていた。

 

1、カブキチョウ万華鏡

 

半分気を失っていた勇は、乱暴に頭を掴まれて、引きずり起こされた。最初と違う。悪魔は、どうすれば勇を痛めつけることが出来るか、的確に学びつつある。人間を直接傷つけることは、出来ないらしい。だが、逆に言えば。それ以外のことは、何でも出来ると言うことだ。

勇の顔を覗き込んだのは、ナーガという悪魔だ、上半身は人間、下半身は蛇。サディストらしく、勇を痛めつけるのを、楽しみにしているらしい。奴が手にしている鞭は、マネカタどもが作ったものだ。彼の魔力で作り上げたものではない。だから、勇に振るうことも出来る。

「おらあっ! いい声で鳴けえっ!」

「ぎゃあっ!」

鞭が、飛んでくる。皮膚を割き、肉に食い込み、辺りに血の華が咲く。一撃ごとに、体が跳ねる。悲鳴を上げると、もっとナーガは喜んで、鞭を振るった。

頭が、苦痛でくらくらする。何度嘔吐したかわからない。ナーガが、巨大なペンチを持ってきた。悲鳴を上げてもがくが、逃げられる訳がない。手も、足も。鉄球で、つながれているのだから。

ナーガは、人間で言えば身長二メートル半はある。ただでさえ貧弱な勇など、もがいてもどうにもならない。枯れ木のような腕を、尻尾で押さえつけると、ペンチで、いとも無造作に。

へし折った。

べぎりと、骨が砕ける音がする。失神したのが、分かった。気がつくと、水を浴びせられていた。目を覗き込まれる。

「ちっ。 これ以上は壊れるな。 今日はここまでだ。 回復術を掛けて、餌を与えておけ!」

小さな悪魔が、たくさん群がっていた。手は引きちぎられたかのように痛い。感覚が完全に無くなって、どうなっているのかも分からない。妖精のような小悪魔が、顔に小便を引っかけてくる。もう、逃げる気力も、顔を庇う力も残っていなかった。けたけたと、辺りで笑い声が響く。

道祖神と言うらしい、老人の悪魔が回復の術を掛けてきた。まるでありがたくない。何しろ、また拷問するための処置なのだから。目の前に、皿がおかれる。餌だ。

既に、両手足の爪は、全て剥がされてしまった。髪の毛も、全て引き抜かれてしまい、一本も残っていない。顔は様々な鈍器で殴られて腫れ上がり、手も、足も、何度もへし折られた関係で、以前のようにスムーズには動かない。

トールは言ったらしい。勇を、徹底的に痛めつけろと。

最初は、それでもおっかなびっくりだった。拷問する奴を、くじで決めていたくらいだ。しかも選ばれた奴は、どうしていいか分からないらしく、途方に暮れていたのである。

それが、少しずつ、こうなっていった。今では、嬉々として勇を痛めつけていく。躊躇はなく、サディステックな喜びさえ浮かべている有様だ。体中が、痛い。綺麗にしていた肌は、今や内出血の跡で青黒く変色している。唇はひび割れてかさついていた。

誰も、助けてはくれない。

隣の牢で、悲鳴が上がった。それは断末魔のものだと、勇には分かった。マガツヒが一粒、飛んでくる。素早く小さな悪魔が手に取り、口に入れた。勇から出るマガツヒは、よく分からないが極上らしい。悪魔達は今では、先を争って勇の拷問に訪れる。

手を伸ばして、皿を掴み、出された餌を口に入れる。腐臭がするが、関係ない。今は、食欲が、嘔吐を上回った。しばらくそれを見ていた老人の悪魔は、皿を乱暴にひったくると、牢を出て行った。

「お前さ、世の中舐めてるだろ」

ふと、そんな声が飛んできた。顔を上げると、若いマネカタが此方を見下ろしていた。鞭やペンチを作った奴だ。精悍な顔立ちで、悪魔達もその細工の腕を見込んで、拷問はしていないらしい。

「聞いたぜ。 人間だから、何もされないって、此処に来たんだって?」

「うる、せえよ」

「はん、お前みたいな奴は、悪魔だったら瞬く間に八つ裂きにされて、食われてるだろうよ。 マネカタだったら、すぐに殺されて泥の固まりだ。 人間だからってだけで生き延びてるような奴が、誰からか庇ってもらえると思うなよ」

庇う。

そういえば。秀一は、一緒に来てくれるとか、言っていたような気がした。

妙な話だ。今のマネカタの言葉は、妙に頭に入ってきた。その通りだとも思う。ならば何故、秀一は、危険を顧みず、勇を助けようとした。

そうか。分かった。

マガツヒが、目当てだったのか。

奴の体は、もう悪魔に変わり果てている。勇のマガツヒを喰らいたいと思っても、不思議ではない。ぎりぎりと歯を噛む。体を起こそうとするが、そのたびに手足に激痛が走って、成せなかった。

「おら、楽しい拷問の時間だ!」

牢に入ってきたのは、牛頭の悪魔だ。牛頭鬼とか言うらしくて、手には巨大な棍棒を持っている。棍棒を壁に立てかけると、楽しそうに拷問危惧を物色し始めた。とろんとした目でそれを見上げる。

興ざめした様子で、牛頭鬼は舌打ちする。いつの間にか、その脇には先ほどの道祖神がいた。

「ち。 ちょっと回復が足りないな。 道祖神の爺、呼んでこい」

「儂なら此処にいるぞ。 それに、道祖神というのは、種族名だと何度も言ったじゃろう」

「うるせえ、それなら俺だって、牛頭鬼ってのは種族名なんだよ」

「ああ、そうじゃったな。 で、その小僧だが、精神の方が病んできておるわ。 しばらくは拷問しないで放っておいたほうがいいとおもうがの」

助け船とは違うと勇は思った。何しろ、道祖神は、まるでゴミか犬の糞でも見るかのような目で、勇を見ていたからだ。

多分、あのマネカタの言うことは正しい。勇は、徹底的に軽蔑されるような事を、していたのだろう。

人間である。それだけの理由で、勇は生きている。

地獄のようなこのボルテクス界を、死の危険と常に背中合わせで渡ってきている者達が、大半だというのに。ただ人間だと言うだけで、悪魔にも襲われず、のうのうとしている。そのような状況を見て、不快に思わない者などいないと言う訳か。

だから、トールは怒ったのだろう。それに気付かず、のうのうとしている勇に。だから、徹底的な拷問を命じたのだ。性根を鍛え直すために。

笑いが漏れる。不可解そうに、牛頭鬼が此方を見た。

「どうやら、本当に壊れかけみてえだな。 此奴のマガツヒ、美味いんだけどよ、がまんするしかねえな」

「しばらくは捨て置け。 本当に壊れると、マガツヒも取れなくなるからの」

「ちっ、惜しいけど、仕方がねえ。 ……今は力を付けなくちゃあいけねえのにな」

一瞥した牛頭鬼が、転がすように蹴りを一つ叩き込んできた。くの字に体を曲げて、悲鳴を上げる。ぼっと、大量のマガツヒがこぼれ出す。

しばらく、悶えていた。道祖神が回復術を掛けていったようだが、あまり楽にはならなかった。

結局、勇は、社会では生きていけないらしい。

昔も、そうだった。中学生の頃から女が大好きで、小綺麗にしていた。それなのに、いつも女が見ているのは、勇ではなかった。あのダサい秀一でさえ、後ろから見ていた後輩はいたのだ。千晶は勇のことなど犬くらいにしか考えていなかったし、他の女子も同じであった。祐子先生に到っては、どんなにアピールしても、端にも掛けはしなかった。

女子に好かれるように、色々努力はした。様々なファッション誌はみて、流行の最先端とやらを追った。ナンパについての知識は、もし専門の大学があったら入れるくらいに勉強した。

だが、勇の事を見る女子はいなかった。女の心を知ろうと思って、少女漫画まで見た。内容は全くついて行けなかったが、それでも何とか掴もうとは努力した。自分で言うのも何だが、醜男ではないはずだ。だが、女子には相手にされなかった。少女漫画の主人公達は、相手の顔さえ整っていれば何でも良いという雰囲気があったので、それが勇には不可解だった。

もちろん、男の事を蔑ろにしたつもりはない。秀一とだって仲良くやっていたし、他の男友達だっていた。

それなのに。

結局、いつも、勇は一人だった。

此処でも、同じだ。人間だから、許せないという。人間だから、世界に特別扱いされているのが許せないと、トールは怒った。それに甘えているのが不快だと。他の者達も、考えは同じだ。その怒りは、分かる。ようやく、知ることが出来た。この苦しみの中で、他の者達がどう考えているのかは、よく分かった。

だが、だったら、どうすればいいのか。

悪魔になれとでも言うのか。危険に身をさらせと言うのか。

祐子先生を捜すために、世界を彼方此方歩き回った。空きっ腹を抱えて、宛てもなく彷徨き回った。一歩間違えば死ぬような目にだって会ったのだ。

それなのに、まだ足りないというのだろうか。

嘔吐した。さっき食べたものを、全て出してしまった。咳き込む。

ふと、見回す。辺り中、凄まじい量の血がこびりついていた。これが全部自分の体から出たものだと思うと。

悲しくはなかった。むしろ、面白くなってきた。

もう少しで、何かが分かりそうな気がする。あと少し、あと少しだと、勇は腹を抱えて、蠢いた。

傷口に集る、ウジ虫のように。

勇は地面でもがき続けた。

 

フトミミというマネカタの名前は、カブキチョウで広く知れ渡っていた。それだけではない。現時点では、ボルテクス界の各地に散っているマネカタの、誰もが知っていると言っても良かった。

現在、カブキチョウで防御仕官の一人を務めているシュテンドウジは、フトミミの事を忌々しく思っている一人だった。だから、今日も、見張りに来た。

無数の牢が並ぶ廊下。牢の中にはマネカタ達が入れられていて、拷問が加えられ、マガツヒが絞り上げられている。最近は以前ほど激しくないが、それでも悪魔達による責め苦は容赦がない。多分地獄というのは、こういう所なのだろうとも、シュテンドウジは思っている。だからといって、手は出さない。

人修羅、榊秀一と約束はした。だがそれは、過重労働を課さないという点で、だ。この拷問によって、マントラ軍は日々の糧を得ている。これを停止してしまったら、立ちゆかないのだ。

舌打ちしながら、青い肌の鬼が前から歩いてきた。馬頭鬼と呼ばれる種族の者である。その名前の通り、頭部が馬になっている存在で、牛頭鬼より陰湿な拷問を好む傾向がある。馬頭鬼はシュテンドウジに気付くと、敬礼した。

「これはこれは、毎度ご苦労様です」

「ああ。 フトミミの野郎は」

「相変わらず、痛めつけてもうんともすんとも言いませんで。 殺すなって言われてますが、正直気味が悪いでさあ」

拷問をすると、フトミミはずっと目を閉じている。殴られようが踏みつけようが、悲鳴一つあげない。拷問に慣れた悪魔達が、そろってもそうなのだ。もちろん、マガツヒを絞ることさえ出来ない。根本的に、他のマネカタと違う存在なのだ。

「俺が見てくる。 お前は、他のマネカタから絞っておけ」

「気をつけてくだせえよ。 あの野郎、何か企んでるかも知れませんぜ」

「かもな。 だが、力自体は他のマネカタと大差ねえんだ。 油断さえしなければ、大丈夫さ」

逆に言うと、屈強なシュテンドウジでさえ、油断すると危ないかも知れないと言うことだ。一体何者なのだろうかと、思わされてしまう。

廊下を歩く。辺りからは、マネカタ達の悲鳴が聞こえ来る。比較的従順なマネカタに、泥になってしまった同胞を運ばせているのに、時々すれ違う。彼らの目には、一様に怨嗟が籠もっていた。

牢の前に来る。

両手を鎖につながれているフトミミは、あぐらを掻いて目を閉じていた。だが、シュテンドウジに気付くと、目を見開く。

壮年男性のマネカタだ。顔立ちはそれなりに整っていて、最近は髪を髷のように結っている。目つきは鋭く、あの人修羅をどこかで感じさせる。しばし見つめ合った後、フトミミは言った。

「確か、貴方はシュテンドウジと言ったな」

「そうだ。 それがどうかしたか」

「早くこの街を離れた方が良いだろう」

「冗談じゃねえ。 例え死んだって、職場を放棄するもんかよ」

確かに気味が悪い奴だ。此奴が、予言の力を持っていると言う噂も、それに拍車を掛けている。

それ以上、フトミミは具体的な話をしなかった。特になにやら企んでいる様子もないから、舌打ちしてその場を離れる。保険は掛けて置いたが、効くかどうか。牢を出た後、下町に出向いて、酒場に向かった。少し飲まないと、気味が悪くてやっていられないからだ。

酒場では、様々な話が飛び交っていた。普段であればどんちゃん騒ぎをしている者もいるが、今日は静かだ。無理もない。毘沙門天が、飲みに来ているからである。寡黙に杯を傾けている毘沙門天は、シュテンドウジに気付くと手招きした。

「確か、シュテンドウジだったな。 少しいいか」

「へえ、何でしょうか」

隣の席に座る。濁酒の徳利を注文して傾けていたシュテンドウジだが、毘沙門天は大吟醸の純米酒を口にしている。ひとしきり無言で飲むと、毘沙門天は出来るだけ上から見ないようにしながら、言った。媚びるのではない、細かい気遣いが、シュテンドウジには嬉しい。

「防衛体制に、何か不満はあるか」

「へえ。 ちょっと人数が足りないかなって思いやす。 出撃して、更に人数が削られるとなると、奇襲を受けた時に厳しいかなって感じますかね」

「なるほど、留意しておこう」

毘沙門天が、酒の席で気さくに話してくれるという噂は、以前から聞いたことがあった。実際に話して貰うと、少し恐縮してしまう。だが、そうしないよりは遙かに良い。とても良い司令官なのだなと、シュテンドウジは思う。

だが、良い司令官止まりでもある。カリスマ的なものは、どうしても感じられないからだ。

「マネカタ達は、どんな様子だ」

「以前よりも活発に動いてますぜ。 脱走に成功した奴がいるからかも知れねえですけれど。 出来るだけ拷問には手心も加えてるんですけど、なかなか恩には感じないようですぜ」

「それはそうだ。 手加減しようがしまいが、拷問されていると言うことに、代わりはないのだからな」

毘沙門天と二人で苦笑し合う。吟醸を杯についでくれたので、ありがたく頂く。代わりに安い濁酒を分けて欲しいと言われたので、少しついだ。飲み干す。流石に毘沙門天の趣味は良く、とてものどごしがさわやかで芳醇な酒だ。毘沙門天は、あまり高級ではない濁酒を飲み干したが、嫌な顔一つしなかった。

「これはこれで悪くないな」

「恐縮でさ。 毘沙門天様こそ、いつもこんな良い酒飲んでるんですかい?」

「いつもという訳ではないが、最近は少し酒量が増えたな。 だが、基本的に、必要な時にしか飲まんよ」

脱線して、少し酒の談義をする。毘沙門天は魔王なる焼酎が好みらしいのだが、戒めの意味もあり、滅多に口には入れないそうだ。今度勝ったら飲もうと思っていると、言った。不安になる言葉である。次の戦いが、相当に厳しいことは感じていたが。毘沙門天も、勝てるかは分からないと思っているのだろう。

「トール様は、まだ帰ってこないんですかい」

「ああ。 ゴズテンノウ様の跡を継げる者を、今必死に探している所だそうだ」

「そんな奴が見つかれば心強いんですけどねえ。 でも、あのトール様であれば、きっとなんとかしてくれるような気がするから不思議ですか」

「そうだな。 きっとトール殿であれば、何とかしてくれるだろう」

ひとしきり飲んだので、毘沙門天が立ち上がる。マガツヒの入った大瓶を取り出して、店主に渡していた。明らかにシュテンドウジの分も含まれていたので、恐縮してしまう。だが、良いのだと、毘沙門天は言った。

店の前で、礼を言って別れる。酒気冷ましに、風に当たろうと思って、城壁に登った。途中で、何度か悪魔とすれ違う。やはり、不安を感じている者は少なくないようである。シュテンドウジだって、怖くないと言えば嘘になる。

城壁から、街の外を見回す。

何処までも、砂漠が広がっている。この世界には、不要なものは何一つ無いのだなと、この光景を見ていると思う。

トールが一刻でも早く帰ってくることを祈りながら、シュテンドウジは城壁を下りた。今日の仕事は、まだ幾らでも残っているのだから。

 

目を閉じて瞑想していたフトミミは、辺りの様子を正確に把握していた。勘が鋭いフトミミは、目を開けなくても、半径十メートル程までなら、何がいるのか正確に察知できる。天井に二匹、非常に小さな悪魔が張り付いている。あのシュテンドウジが保険として残していったものだ。

あの男、粗野なようで無能とはほど遠い。気付いているのだ。フトミミが、マネカタ達の間に、人脈を築いている事に。

此方を伺っている若いマネカタがいたので、足の指先で円を描く。監視されているから、構うなと言う合図だ。若いマネカタは、サイクと呼ばれる男である。様々な道具を器用に作ることから、悪魔達からも信用され、今ではフトミミから連絡係を任されていた。頭もなかなか良く、安心して仕事を任せることが出来る。多少激しい性格はしているが、それもまた個性である。サイクは目ざとくフトミミのサインに気付いて、遠ざかっていった。

しばらく悪魔は此方を見ていたが、やがてヤモリのように天井を這って、牢を出て行った。まだ何かの術が掛かっているかも知れないから、気をつけた方が良いだろう。周囲と連絡を取る方法を、考えておかなければならない。

痛みは、既に克服している。何をされても、耐えることが出来る。

悪魔達がマネカタを虐げるのは、マガツヒを搾り取ることが出来るからだ。元々残虐な性格の悪魔も多いのだが、フトミミが何をしてもうんともすんとも言わず、マガツヒを取られないことに気付くと、拷問の頻度は減った。かなり激しい拷問を加えられた事もあったのだが、それでもマガツヒを出さなかったら、皆飽きてしまった。悪魔とは、そういう存在だ。危険を耐え抜いたら、却って状況は安全になった。

自分が特別な存在であることに、フトミミは気付いている。たまに、マネカタの中に、優れた存在が産まれることがある。イケブクロにいた頃、傍らに置いていたカズコもそうだ。奴は膨大なマガツヒを生み出す力を持っており、逞しい精神を持っていた。フトミミは嫌われていたようだが、理由はよく分からない。カブキチョウを脱出したカザンなどもそうだし、今姿を隠したサイクもその一人である。

捕らえられ、カブキチョウに収監されてしまったのは、一生の不覚であった。だが、生きている。だから、再起も図れる。

優れたマネカタは、なかなか悪魔にも劣らぬ力を秘めている。もし、悪魔に対抗するとしたら、優良種のマネカタを集めてするしかない。まず、このカブキチョウを脱出することだ。

その機会は、近く訪れる。

明確に、ビジョンがある。鋭い目つきの、人間に似た悪魔が来る。名前は、榊秀一。彼の手引きで、脱走することが出来る筈だ。

フトミミの能力は、優れた頭脳でも、気配探知でもない。もちろん、痛みに耐えることでもない。

マネカタ達が崇めるのは、もっと神秘的な能力だ。時々、悪魔までもが話を聞きに来ることもある。

そう。フトミミは、未来を見ることが出来るのである。

的中率は百パーセントではないが、まず外れない。さっき、シュテンドウジに言ったことは本当だ。あの男は、恐らく近いうちに死ぬ。爆発に巻き込まれて、木っ端微塵に吹き飛ぶところが見えた。状況から判断して、ニヒロ機構の侵攻で、死ぬと考えるのが自然であろう。他にも、砕けて死ぬ悪魔の姿が、幾つか見えている。ニヒロ機構の猛攻が、近々始まると考えて良いのだろう。

フトミミの予言は、頭の中から沸き上がるようにして、ビジョンが見えるという形態を取る。あまり明晰な映像とはならないが、きちんとした像は結ぶし、個体の識別も出来る。それによって、未来に何が起こるのか、分かるのだ。一応、回避も可能である。アドバイスを与えた何体かのマネカタは、それで命を拾うことが出来た。また、万能ではない証拠に、以前フトミミは、トールに捕らえられてしまった。

だが、今はこの能力だけが頼りだ。あるのだから、最大限に生かしていかなければならない。

瞑想を続ける。脱出の計画を進めるのと同時に、進めておかなければならないことがある。

この凶猛なるボルテクス界で、最終的に、マネカタが救われるためには。絶対に必要なことがあるのだ。

それは、創世である。

もし創世を成し遂げることが出来れば、もうマネカタは悪魔に酷使されることもなくなり、弱者として扱われることもないだろう。もちろん、それにはニヒロ機構や、天使軍、それにマントラ軍をも出し抜かなければならない。容易ではないが、しかしこの未来を見る能力があれば。不可能ではないはずだ。

フトミミは、マネカタを憂う。だからこそ、瞑想を続けていた。

マネカタを救う事は、自分にしか出来ない。そうフトミミは考え続けていた。

 

2,サカハギ

 

槍を持った数人のマネカタが、慌ただしく走り回っている。数は十以上。見つかって、大声を上げられたらアウトだ。物陰に隠れていた男は、舌打ちして更に身を低くした。最近、やりづらくて仕方がない。

彼の能力は、操作。主に精神を操作するものだが、ほんの僅かだけ、殺した相手の肉体も操作することが出来る。今、彼が体中に纏っている衣は、殺したマネカタの皮を剥いだものだ。老若男女、様々な体格のものがある。それらの顔の皮を剥いで、縫い合わせたものが、彼の着る衣だった。普通、殺すと泥になってしまうマネカタだが。彼の能力を使えば、こうして皮を保存することが出来るのである。

ナイフをなめ回すと、物陰をこっそり出る。一旦アサクサから距離を置く必要がある。足下には、さっき隙を見て殺したマネカタの死骸。もったいないことに、皮を剥ぐ時間もなかった。うち捨てていく。

走る男の名はサカハギ。

それが、マネカタを専門に狙う、この猟奇殺人鬼の名前である。

アサクサにマネカタが集まり始めてから、サカハギもその近くに来た。最初は、楽だった。マネカタ達の用心棒をしている、人修羅とサマエルだけに気をつければ良かったからだ。だが最近はマネカタ達が戦い方を覚え始めていて、しかも数が増えている。巡邏している人数も多くなってきており、忌々しいことにサカハギの行動パターンまでもが読まれ始めていた。

マネカタだけで、こんな事が出来る訳がない。多分、切れ者と噂のサマエルが色々指示しているのだろう。不快な話である。余計な奴が、サカハギの楽しみを邪魔しているのだから。

口元をマスクのように覆っている、二人分の皮が、息で熱くなっている。もし人修羅やサマエルに出くわしたらひとたまりもない。問答無用で殺されるとは思わないが、まず勝ち目はない。身を低くして、獣のようにして走る。今はただ、さらなる殺戮を達成するために、走らなければならなかった。

どうして、殺すのかは、よく分からない。

だが、体の内側から、沸き上がってくるのだ。殺せ、殺せ、殺せと。何かの、どす黒い声が。

鮮明ではないが、何かのビジョンも見える。

鮮血まみれの部屋の中で、咆吼する自分の前に転がっている死骸。誰が死んでいるのか、分からない。だが、途轍もない怒りが、自分を満たしている。それが全てなのだと、サカハギは知っている。

鮮烈なイメージの中、自分が形作られたことは、何となく分かる。

砂漠に出た。此処まで出れば、もう追っ手を気にすることもない。

砂漠と言えば、嫌なことを思い出した。

この間、力がどれくらいついてきたか試すため、自我を持たない悪魔を二匹ほど、人修羅と、その部下にけしかけてやった。丁度カブキチョウから逃げてきたマネカタを引率しているところだったから、余計に丁度良かった。完全に狂気に陥っているオンギョウギという鬼神と、元々自我を持たないニーズヘッグという龍族であったか。それぞれを時間差で仕掛けて、人修羅にダメージを与え、逃げ散るマネカタを適当に殺そうと思っていた。

それなのに、人修羅の冷静な指揮で、マネカタは一匹残らずアサクサに逃げ込んだ。そればかりか、人修羅の部下の一匹に重傷を負わせただけで、それ以外にはさしたるダメージも与えられなかった。

あいつは化け物だと、砂漠に座り込みながら、サカハギは舌打ちした。連戦で疲弊しているにもかかわらず、あの巨大なニーズヘッグを捻り殺した時の光景は、未だに目に焼き付いている。たばこを取り出そうとして、背中に寒気を感じた。飛び起きる。振り返ると、至近に着地した者がいる。

その、人修羅だった。

「お前が、サカハギだな」

鋭い視線、冷たい声。僅かに猫背気味で、足は開いて、どんな状況にも対応できるようにしている。既に、戦闘態勢を整えているという事だ。本来なら、ナイフと相対する場合、何か武器を持って相手に向け、その直線上に自分の体を隠すことが基本となる。だが、人修羅の場合は、これがベストだ。反応速度がサカハギよりも遙かに上だから、むしろ動きを丁寧に観察した方が、対応しやすいという訳だ。突こうが振り回そうが、多分刃先は届かない。

結論は、瞬時に出た。ナイフの扱いには慣れてきている自信があるが、これだけの事でも分かる。勝ち目など、無い。サカハギが身につけているナイフ戦闘術など、通じる訳がない。反応速度にしてからが根本的に違うのだ。この男がその気になれば、一瞬で首をたたき落とされる。その上、目の前のこの男は戦闘慣れしていて、油断もしないだろう。

仮にナイフが刺さったとしても、それで致命傷になるかどうか。心臓に刺し込んでも、死ぬとは限らない。

悪魔とは、そういうものだ。

「そうだとしたら、何なんだよ」

「幾つか聞きたいことがある。 おとなしくすれば、何もしない」

「悪いが、ごめんだね。 そもそもてめえ、何で悪魔のくせにマネカタなんかに協力してるんだよ。 誇り高い悪魔様が、あんな軟弱な連中に手を貸して、利益でもあるっていうのか?」

「ある。 今、俺は情報が幾らでも欲しい。 そのためには、マネカタのネットワークは貴重だ。 それにマネカタ達は、マガツヒの貴重な供給源でもある。 それに、君だって、マネカタの筈だ」

さらりと言ってくれる。冷や汗が流れるのを、サカハギは感じていた。

辺りを見回しても、この男が跳躍した跡はない。余程の遠くから、跳んで来たと言うことだ。或いは、空を舞う悪魔に乗せて貰って、下りてきたのかも知れない。隙をうかがいたいところだが、それも出来ない。力量に差がありすぎるからだ。

イケブクロにいた時。まだ喰らったマガツヒが足りなくて、他のマネカタと同じようにむち打たれてマガツヒを絞られていた。隙を見て脱出してからは、道も開けた。マガツヒを喰らって喰らって、力は付けたが、それでも上級の悪魔にはかなわない。そして、相対している人修羅は、今まで見た中でも最強に近い存在だ。勝てるという次元ではない。そもそも、戦いが成立しない。

さて、どうする。どうやって逃げる。

大蛇に睨まれた蛙も同じ。身動きできないサカハギに、拘束しようと人修羅が歩み寄ってくる。

一度しか通じないが、仕方がない。捕らえられれば、今度はサマエルも監視に当たるだろう。恐らく術で何重にも拘束されて、情報だけ引き出されて殺される可能性も高い。そうなれば、機会は無くなる。

サカハギは、生きなければならない。生きて、殺さなければならない。心の奥底で蠢く、憎悪という溶岩が蠢く。熱を噴き上げ、ささやきかける。復讐しろ、殺せ、殺せと。

ぐっと頭を下げる。人修羅が構えるのが分かった。

不意に、顔を上げる。

そして、目から光を放った。

「むっ?」

人修羅が呻く。体の自由を、奪われたからだ。

これぞ、切り札である、瞬間精神操作。最大限まで強化した、一種の催眠術だ。拘束できるのは、普通の悪魔なら三秒程度。人修羅であれば、その三分の一以下だろう。だが、それでも充分だ。もちろん、攻撃などしない。無駄だからだ。飛び退くと、砂に潜り、泳ぐ。深く深く。いつも砂漠を移動するのに、使っている手段だ。

どれくらい、潜っただろうか。角度を変えて、浮上に掛かる。

上に、気配はない。追ってこられる訳もないのだ。砂を泳ぐのには独自のスキルがいる。普通のマネカタに出来ることではなく、砂漠に住む弱い悪魔を殺して喰らったマガツヒで、得たスキルだ。砂の上に顔を出して、辺りをうかがう。いない。

念のため、もう一度砂の中へ潜り込む。しばらく泳いで、アサクサから離れる。

当分、アサクサには近寄らない方が良いだろうなと、サカハギは思った。

 

思ったよりも、ずっと強力な精神拘束だった。力づくでそれをはじき飛ばし、体の自由を取り戻した秀一は、砂を払いながら振り返る。追いついてきたサナが見えた。

「あらら、シューイチ、あいつ逃がしちゃった?」

「ああ。 だが、奴は当分来ないだろう」

「どうして?」

「切り札を使ったからだ。 格上の相手に切り札が知られた以上、此処には近寄ることが出来ない」

もしまた来るとしたら、新しい技術を身につけるか、此方に隙が出来た時だ。そうでなければ、自殺行為になる。今までの行動を見る限り、かなり狡猾な奴だから、そんな下手を撃つような真似はしないだろう。

そう説明してから、秀一はアサクサに戻ることにした。今のところ、護衛の要請は来ていない。此処にいても仕方がないのだ。

サナと並んで歩きながら、軽く状況を整理する。襲撃によって、一人が殺され、三人が重傷を負った。重傷者は、アイラーヴァタがどうにか出来そうだが、一人はもう右腕が肩から上がらないそうである。だいぶましに戦えるマネカタも出始めているのだが、それでも襲撃があると、いつもこうだ。そしてそのたびに、秀一に対するマネカタ達の目が冷たくなる。

アサクサにも、多少の危険は、ある。だが、マネカタの人口流入は止まらない。既に40000を超えるマネカタが、アサクサの復興に当たっている。

そして数が増えると同時に。多数派だという錯覚を、彼らが抱くようになってきているのが、分かった。秀一は我慢できる。琴音も我慢できるだろう。だが、飄々としているようでプライドが高いサナは、正直腹に据えかねているようだった。

「それで、どうするの?」

「祐子先生の情報は、他では手に入らないだろう。 カブキチョウ要塞の潜入計画を進める」

「熱心だねー。 僕には良くわかんないや」

「助けられる可能性のある相手は、助けたいさ。 こんな世界だから、なおさらな」

歩いている内に、岩石砂漠に変わってきた。小高い丘から、クレーター状のへこみに沿って発展しているアサクサを見下ろす。今では工具を振るう音が絶えない。四方には琴音の指示で物見櫓が作られ、常時見張りがいる。櫓は、高さ二十メートルほどもある。かなり頑強に作っており、下位の攻撃術くらいでは小揺るぎもしない。もちろん、念入りに耐火処置も済ませてある。具体的には、表面に泥を塗り込んでいる。

一応、声を掛けていく。櫓から下りてきたマネカタ達は、最近はだいぶ要点をまとめた報告が出来るようになっていた。

「異常ありません。 さっき、四時方向に悪魔の影を見ましたけど、こっちには来ませんでした」

「そうか。 いつ襲ってくるか分からないから、気をつけてくれ」

「分かりましたー!」

術式で作り出した木材で組んだ櫓の下には、大きなライトがある。かがり火を使って作った灯りを、指向させる原始的なものだ。主に静天の時に用いるものだが、今まで出番は来ていない。静天の時には悪魔はおとなしくなるし、そもそも最近では、多くのマネカタと琴音の存在を警戒して、襲撃そのものが減っているからだ。

分厚い城壁が、出来はじめている。だが、アサクサの周囲を完全に覆うまでには到っていない。流入するマネカタが多く、街が今後どれだけ成長するかもまだ見えないからだ。今のところ、要所にしか城壁は作っていない。

アサクサにはいる。門番に敬礼すると、顔に少しおびえがある。こう言う時にも、秀一は、自分が悪い意味で恐れられていると気付かされる。

警備隊長をしているマネカタに、しばらくサカハギは来ないことを告げると、不審を浮かべながらも、ほっとしている様子であった。

後で、会議で報告する必要がある。だが、その前に。幾つかしておきたいことがあった。まず、医療施設に寄る。街の中心にある、掘っ立て小屋がそうだ。ヘルメスの杖を模した旗を立てているから、すぐに分かる。

人間と違い、構造が単純なマネカタは、病というものとは無縁である。だから、病院には、殆ど外科的な治療だけが求められる。医師は基本的に琴音が連れてきた悪魔達がこなす。

ニヒロ機構から抜けてきた、老いた堕天使が、今の院長だ。アンドラスという。本来はかなり高位の堕天使で、戦闘神的な性質も持つらしいのだが。今の彼は、年老い疲れ果てた、一人の男に過ぎない。何でも、妻を戦いの中で失って、今では怪我を癒すことだけに、生き甲斐を感じているそうだ。

白衣を着込んでいるアンドラスは、フクロウの顔をしている。背中には二対の白い翼があるのだが、一枚は途中から折れてしまっていて、ゆっくりしか飛べないそうである。

「リコは、どんな様子だ」

「元気なもんだよ。 私が幾ら止めても、動きたがって仕方がない。 もっとも、今はリハビリに入るべき時期だから、ある程度動かないといけないのは事実だけれどね」

ざっと見回すが、リコの姿はない。天井を高く取っているのは、アイラーヴァタが入れるようにするためだ。さっき、サカハギに怪我を負わされた者は、隅に寝かされている。もう、応急処置は済んでいるらしい。

「人修羅さん、あんたは大丈夫かね。 怪我はしていないか」

「問題ない」

「そうか。 あんたは己を顧みずに体を酷使して、無理矢理術で回復してまた戦うから、心配なんだよ」

アンドラスの言葉に、気をつけると答えてから、病院を出た。子供のマネカタに、アイラーヴァタがまとわりつかれている。そう言えば、象は前の世界でも人気のある動物だった。穏やかで静かなアイラーヴァタは、マネカタ達も恐れないらしい。善神としての要素が強い存在だから、原型となったインド象の良い部分だけが抽出されているという面もある。

心が和む光景だ。サナは鼻を鳴らすと、食事に行くと言って、幹部用の厩舎に戻っていった。マガツヒが定期的に届けられるので、食事をするならそちらに帰る必要があるのだ。

リコは訓練場で、カザンに稽古をつけているという。最近は、下位の術を身につけるマネカタも出てきているが、特性のある者は少ない。カザンも術は使えない。代わりに、ある程度の特性があり、リコも楽しそうに武術を教えていた。

訓練場は、医療施設のすぐ裏だ。何故すぐ近くにあるかというと、リハビリの一環として、アンドラスが取り入れているからである。

柵に囲まれている訓練場に入る。何体かの悪魔が、槍を持ってマネカタ達を訓練していた。十人縦列で並び、一斉に槍を振るう。或いは、弓矢で的を射る。一通りそれをこなすと、今度は組織戦の訓練にはいる。銅鑼を鳴らすと、マネカタ達がさっと隊列を整える。長めの槍を、列によって構える高さを変える。いわゆるファランクスだ。実際の力もさることながら、その見かけが敵に強烈な威圧感を与える。針で出来た巨大な猪が襲ってくるようなものである。下位の悪魔なら、充分にこれで蹴散らすことが出来る。最初に比べると、随分陣形を組むのが早くなってきた。まだ、盾と鎧が重そうだから、訓練して動きを機敏にしていく必要があるが。

隅の方では、精鋭部隊の育成も進んでいる。普段は琴音が稽古をつけていることも多い。今日はさっきも聞いたとおり、リコが訓練を見ているはずだ。

見回すと、いた。五人のマネカタを同時に相手にして、立ち回っている。カザンもその中にいるのだが、まるで攻め込む隙を見いだせていない。両手に訓練用の木剣を持ってくるくると待っているリコは、何処か楽しそうだ。

「ほらほら、足下がお留守になってるッスよ!」

ブレイクダンスのように軽く身を翻すと、リコは後ろに回り込もうとしたマネカタの足を払って、見事に転倒させる。そのまま全く隙を見せず、回りながら二人、両手の剣で叩き伏せる。僅かにひるんだ一人を、軽く蹴り飛ばすと。残るのはカザン一人になった。

ニーズヘッグに付けられた大きな傷を周囲に見せたくないのか、最近リコは以前よりも肌の露出が少なくなっている。今日も上着は手首まで隠れる長い袖の服だ。それに伴い、大人としての落ち着きも出てきているから、面白い。気合いの声と共に、カザンが打ち込んだ。良い太刀筋だ。だが、リコには及ばない。

すっと、カザンの眼前に、剣が突きつけられる。軟らかい、だが流れるような剣の動きであった。見事だと、秀一も思う。

カザンが剣を下げた。リコが髪を掻き上げた。

「此処まで」

順番に、アドバイスをしていく。此処の五人はかなり使えるようになってきている。下級の悪魔なら、一人で撃退できるだろう。カザンは別格である。マガツヒを熱心に取り込んでいるらしく、既に中級悪魔並みの実力を持っている。リコはスキルでも経験でも、それを遙かに凌いでいると言うだけだ。

「お疲れ様」

「榊センパイ、戻ってたんスか」

「ああ。 アンドラスが心配していた。 適当なところで切り上げて、休め」

「……分かったッス」

少し悲しそうに眉をひそめたリコが、剣を鞘に収めると、医療施設に戻っていく。訓練を受けていたマネカタ達が、ぺこりと一礼して、その背中を見送っていた。

むっつりと黙り込んで、剣を磨くカザンに歩み寄る。重厚な雰囲気を持つ彼は、剣を磨く様子までもがどっしりとした落ち着きの中にあった。

「腕を上げているようだな」

「貴方の言葉通り、マネカタは、このままでは、独立できない。 だから、せめて少しでも、戦える者を増やさなくてはならないからな」

「良い心がけだ」

「サカハギを、撃退したと聞いた。 礼を言う。 俺の部下も、奴には何人も殺された」

そう言われると、返す言葉がない。結局秀一はサカハギを取り逃がしたし、今回も一人殺されてしまったからだ。

力は、着いてきた。今なら、ニヒロ機構の幹部達とも渡り合えるはずだ。だが、分からないことはまだまだ多い。

迷いは、いまだ消えない。人間の要素は、どんどん抜け落ちているというのに。

リコを見舞った後は、やることもなくなってしまった。会議はまだ先だし、見回りはマネカタ達にやらせるべきだ。マガツヒでも食べて力を付けようかと思い、歩き出した秀一に、後ろから声を掛けてきた者がいた。

「よお、兄ちゃん。 久しぶりだな」

振り返ると、其処には。

以前と変わらぬ、嫌みな笑みを浮かべた、聖丈二が立っていた。

 

充分アサクサから離れたサカハギは、砂を出て、皮衣についた砂を払う。何一つ大事なものがないサカハギだが、これだけは別だ。いつかこれに、加えたい皮がある。だが、誰の皮だったのか、良く思い出せない。あれほど強い憎悪で体がやけそうなのに、肝心なそれだけが、すっぽりと記憶から抜け落ちているのだ。

影の方向から、位置を割り出す。そして、ヨヨギ公園に向けて歩き出す。

ヨヨギ公園は、この世界に残る、数少ない独立勢力である。頑強とは言えないが、それなりの規模の要塞を建てている。女王ティターニアと、王オベロンが統治している、妖精達の国。小規模だが軍は精強で、ボルテクス界でも有名な騎士クー・フーリンが統率している。それらの情報は、サカハギでも、基本的な常識として知っていた。

サカハギは、マネカタを皆殺しにしたいと考えている。理由は分からないのだが、兎に角、殺意と理性の危ういバランスの中で、そればかりが浮き上がってくるのだ。そのためには、力がいる。

初期のニヒロ機構と何度か交戦し、潰されずにヨヨギ公園は残っている。その秘密は分かっていない。だが、サカハギには、仮説があった。ヨヨギ公園には、膨大なマガツヒを蓄えた何かがあるのではないだろうか。それによって、補給を的確かつ迅速に済ませることで、ニヒロ機構の大軍と渡り合うことができたのではないか。

事実そうでもなければ、無能なことで知られるオベロンと、政治力はあるが気紛れで享楽的なティターニアが、この生き馬の目を抜くようなボルテクス界で勢力を保持できる訳がない。

逆に言えば。ヨヨギ公園に蓄えられているマガツヒを手中にすれば。自分でも、人修羅に充分対抗できる可能性がある。それだけではない。場合によっては、創世を為すことが出来るかも知れない。

舌なめずりをしてしまう。

もし、この世界を好きにすることが出来たのなら。

まず、気に入らない相手は皆殺しだ。自分以外の男は全部死ねばいい。女も半分は殺す。役に立つ奴だけを、奴隷として酷使してやる。それも、気分次第で首をはねてやる。そして、永遠に、それを繰り返すことが出来る。

まさに、サカハギにとっての天国だ。これほど素晴らしい環境があるだろうか。どうしても思い出せないが、憎悪の中に浮かんでいるあの野郎は、何億回と、無限の苦痛を与えて殺してやることも出来る。殺してはよみがえらせ、また苦痛を与えて殺す。なんと甘美な事か。俄然やる気も出てくる。是非、創世をしたいものだ。

あまり独創的な発想でないことは分かっている。誰もが望み、しかし現実と妥協することで放棄した夢だ。サカハギは違う。本能のまま、暴虐を尽くしてやる。徹底的に、そして完膚無きまでに。

それが、サカハギの。

其処まで考えて、思考がぷつりと切れてしまった。分からなくなったのだ。だが、別に構わない。サカハギは、殺し、暴虐を尽くすことが出来れば、それで良いのだ。

ヨヨギ公園が見えてきた。

サカハギは残虐で非道だが、現実主義者でもある。ヨヨギ公園を落としただけでは、創世など成せないことは、分かっている。もしヨヨギ公園にある何かを手にして創世が出来るのであれば。とっくにヨヨギ公園は、ボルテクス界随一の大勢力に成長しているはずだ。それが、このような辺境の小勢力にとどまっていると言うことは、何かしらの大きな制約があるという事に他ならない。

だが、手に入れれば、確実に大きな力を得ることが出来るのも事実だ。

城壁の側まで来た。気配を消して、砂丘の影に隠れる。それほど堅固な城壁ではないが、高い。それに配置をよく考えられた物見櫓が、合計で七つ立ち並んでいる。城壁の上には、厳しく武装した逞しい騎士の姿。精悍な青年で、長い髪を風になびかせている。間違いない。あれが、クー・フーリンだろう。

奴だけは避けて通るのが賢明だろうと、サカハギは思った。見れば分かる。強い。それも、途轍もなくだ。人修羅と同等か、それ以上だろう。見つかったら、手にしている必殺の槍ゲイボルグで、一瞬にして串刺しにされる。オセと一騎討ちをして引き分けたと聞いていたが、それも無理はない。ニヒロ機構でさえ、簡単には手を出せない訳がよく分かった。

それなりに修羅場をくぐったサカハギは、それを瞬時に理解した。再び、砂に潜って、一旦距離を取る。妖精に手を出すのも拙い。下手に警戒されると、いざというときに、忍び込むことが出来なくなる。

今は、機会をうかがうことにする。どうせ、無能で欲望に忠実な王の支配する国家である。しかも、二頭体勢という最悪の状況で、それぞれの仲が悪いと来ている。どんなにクー・フーリンが頑張っても、支えきることは、出来ないだろう。実際、今までにも散々ごたごたが起こっていると聞いている。サカハギが側で見ていれば、確実につけ込む隙は出来るはずだ。

砂に半ば埋もれたまま、サカハギは笑う。気長に、時を待つのには。慣れていた。

 

3、惑いの流れ

 

新しく技術班の長に就任した西王母が、毘沙門天に一礼する。彼女の仕事は、マネカタの量産体制を確立すること。そのために、様々な情報が与えられていた。事実、彼女は有能である。今までにっちもさっちもいかなかった研究が、急激に進展もしているのである。

そして今回の報告では、今までになく研究が進展したことが、明記されていた。興味深いと思いながら、レポートに目を通していた毘沙門天。彼も術には豊富な知識があるから、列記されている専門事項も、何とか理解することが出来た。

「すると、マネカタを生産する過程ではなく、最初の段階に問題があったと言うことなのか」

「そうなりますわ」

西王母は言う。短期間でジョカとフッキが隠蔽していたマネカタ生成の秘密を解明した才女は、他の幹部達も見守る中、蕩々と説明していく。

「そもそも、マネカタとは何か。 それから、考えてみました」

「生命を持った、泥の人形ではないのか」

「ええ、その通りです。 しかし、ではそもそも、マネカタに宿っている生命とは、何でしょうか。 そもそも何故彼らは、他力本願で、愚かで無能なのでしょうか」

そう聞き返されると、術の専門家ではないミズチは答えられない。水天も腕組みして、むっつりと黙り込むばかりだ。

其処から続く説明は、その場にいたマントラ軍達の幹部、全員を驚愕させた。

「旧世界の、遺産だと!?」

「ええ。 技術的な遺産ではありません。 旧世界に存在した、巨大な形而下のエネルギー、普遍的無意識の名残が、マネカタという存在の生成に一役買っています」

「普遍的無意識については、我らも存在は知っている。 しかし、それを利用するというのは」

「驚くことではありません。 今でも、それはアマラ経路という形で、この世界に物理的存在として現れています」

また皆が驚愕する。アマラ経路とは、そのような存在だったというのか。

今まで、誰もが力による統治と、ニヒロ機構の撃滅に気を取られていた。だから、考える暇も余裕もなかったという事もある。だが、事実を知らされると、誰もが驚かされる。毘沙門天は腕組みし直すと、言った。

「最初から、順番に説明して欲しい。 驚くべき事実だが、そうしなければ誰も着いてこれないだろう」

もう一度、西王母は頭を下げた。

誰もが注目する中、研究の成果が、順を追って説明され始めた。

 

ボルテクス界が誕生した時。

東京受胎によって、一度かっての世界は滅び去った。正確には、地球そのもの、或いはその一部が消えて無くなった。具体的な規模は分からないが、少なくとも影響を受けた地域は、消滅的な打撃を受けたのは間違いない。だが、何もかもが消えて無くなった訳ではない。多くのものは、ボルテクス界に引き継がれることになった。

それが、人間という生物が作り上げた、様々な精神的構造である。

人間の精神は、多くがマガツヒとなって散った。だが、その中で、特に強力な特性を持つものは、それぞれ寄り集まり、やがて悪魔となっていった。

「それが、我々だというのか」

「ええ。 恐らくトール将軍やニヒロ機構の上層部は知っているかと思います。 他にも、術に優れた悪魔の中には、知っている者がいるでしょう。 何故トール将軍が我らに教えてくれなかったのかは分かりませんが、あのお方のことですから、自力で見つけ出すべきだと考えていたのかも知れません」

驚愕で、声も出せない様子のミズチに代わって、毘沙門天が言う。マッハは興味なさげに羽を手入れしているが、他の幹部達は、皆茫然自失の態だ。

「そ、それで。 続きを」

「分かりました。 それで、マネカタなのですが、恐らく彼らは、突発的な人間の感情をコアとした存在でしょう」

「感情、だと?」

「ええ。 感情です」

マガツヒは、感情によって生成される。マネカタや、人間を拷問した結果、得られた一般的な情報だ。悪魔の中にも、気が昂ぶるとマガツヒをこぼす者がいる。ただ、殆どの悪魔は、自分から生成されたマガツヒは、そのまま取り込んでしまう。

西王母の説によると、マネカタはマガツヒの中から、悪魔となりうる人格形成には不的確であっても、最低限の精神を構築するには充分なものを厳選して、肉体になる泥人形に込めたものなのだという。だから殆どの者は惰弱で無能であり、なおかつ不安定で、非常に扱いやすい。逆に言えば、余程強い感情がこもらなければ、確固たる自我を持つマネカタなど産まれない。その自我が非常に強い場合は、むしろ悪魔として誕生してしまう。だから、有能な奴や、特異性を持つマネカタは極端に少ないのだ。

それらの説明を終えると、ミズチは長い首を巡らせて、半透明の体の中を泡立たせた。殆ど水で出来ているこの龍は、興奮するとそう言う挙動を見せる。

「落ち着け、ミズチ将軍」

「これが落ち着いていられるか。 我らは人間の残りカスから作られ、マネカタどもは更にその残りカスから生成されたというのか! 一体我らは、何のために、何の目的で、このような殺し合いを続けているのだ!」

「創世のためだ!」

毘沙門天の一喝で、困惑していたミズチは、黙り込む。きっとゴズテンノウ様なら、こうして場をまとめただろうと考えながら、毘沙門天は続けた。

「今は、西王母将軍の説明を最後まで聞こう。 マネカタは、我らの重要なエネルギー源であり、創世に必要な存在だ。 それに我らが何者かを知ることも、きっと無駄にはならないだろう。 我らは悪魔だ。 人間を遙かに超越し、場合によっては世界の理にすら干渉しうる存在だ。 その最後まで、伝承や迷信に振り回された人間とは違う。 だから、誇りを持て」

「……毘沙門天将軍の、仰せの通りだ。 すまぬ、西王母将軍。 続けて欲しい」

「分かりました」

西王母は平然としている。戦闘能力は低いかも知れないが、なかなかの逸材だ。単純に腕っ節が強いだけの奴よりも、遙かに役に立つかも知れない。しかし、この時、毘沙門天は一抹の不安を感じた。

こんな頭が切れる冷静な奴が、本当に力による世界を歓迎するのだろうか。ジョカとフッキとは、人格のレベルで信頼度が違うのは確かだ。だがそれも、フェイクなのではないか。それは、おびえなのかも知れないと、毘沙門天は思った。

「どうして、アサクサから採取したお歯黒どぶ泥がマネカタの原料になるのかは、分かりません。 しかし、これを媒介にすることにより、非常に希薄な感情による突発的な人格でも、定着しやすくなっているのは事実です」

「しかし、それならば、何故マネカタは自然発生しなかったのだ。 私は何度か行ったことがあるが、アサクサは、アマラ経路と何カ所かで直結している。 お歯黒どぶ泥も、その近辺に天然物があるぞ」

水天が挙手して発言した。毘沙門天も、其処が疑問だった。西王母も、自らの説に穴があることを、素直に認める。

「不可解なのは、其処です。 もしマネカタが僅かな、感情によって生じた人格を有するマガツヒによって誕生するのであれば、今でもアサクサでは新しいマネカタがわらわらとわき出していてもおかしくありません。 しかし、実際には、ジョカとフッキが行っていた儀式でしか、マネカタは誕生していない」

「奴らのマガツヒから、理由の解析は出来ないのか?」

「それが、その辺りはすっぱりと抜け落ちているのです。 理由は分かりませんが、ひょっとすると。 この件には、何か大きな裏があるのかも知れません。 とても嫌な予感がします」

「……そう、か。 とりあえず、マネカタの生産を、以前のレベルに引き戻すことは出来そうか」

ニヒロ機構の侵攻が始まるまでには必ずと、西王母は答えた。とても心強い。またマネカタの量産が出来るようになれば、マガツヒを大量に生み出すことが出来る。そうすれば、個々の戦力を大幅に強化し、上手くいけばニヒロ機構の攻勢を跳ね返すことが出来るだろう。

マントラ軍の悪魔達は、現金だ。侵攻軍を撃退すれば、また多くの戦力が戻ってくる。そこにトールが新たなる指導者を巧く見つけてくれば。形勢を逆転することも、難しくはない。

だが、しばらくは薄氷を踏むような危うい展開を逃れることは出来ないだろう。

毘沙門天は立ち上がると、幹部達を見回した。出来るだけ、上からの目線を避けながら、リーダーシップを発揮するようにして、言う。

「今、マントラ軍が生き残るには、結束しかない。 皆が力を求めていては、最終的には力で成り立つ世界は作れない。 幸い、まもなくマガツヒの量産体制は復活する事になるだろう。 だが、それまでに、幾つか手は打っておきたい」

「具体的には、どうするつもりか」

マッハが、翼から顔を上げた。猛禽に相応しい鋭い視線にも、毘沙門天は怯えることはない。

「まず、マネカタの生産技術を確立したら、四天王寺に司令拠点を移す。 カブキチョウには、戦闘能力だけを集中する。 ただ、私は、カブキチョウに残る」

「混乱が起こらないか」

「既に、手は考えてある。 このカブキチョウは、近々ニヒロ機構の猛攻を受ける可能性が高いから、もしもの事を考えて、保険を掛けるのだ」

「ふむ、確かに理にかなっている」

他の幹部達も同意してくれた。

後は、最悪の事態が発生した場合にも、主力を温存できるようにしておかなければならない。

トールが此処にいてくれれば、もう少し楽なのだがと、毘沙門天は歎息した。だが、それは望んでも仕方がない。トールには、より重要な仕事をして貰う必要がある。誰もが納得して着いてくる、最強の指導者が、今必要なのだ。

ふと、捕らえてあるフトミミの事を思い出した。マネカタにも、カリスマ的な指導者が誕生したら、厄介な敵勢力になるのだろうか。今、連中は人修羅とサマエルによって統率されている、二頭体制下にある。ある程度組織らしくはなってきているが、それもいつまで続くかはよく分からない。

会議が終わり、幹部達がそれぞれの持ち場に戻っていく。

思えば、変な話である。力に依る世界を創世するために、共和制に近い体勢がとられているのだから。

ニヒロ機構でも、優秀な奴が出世しやすい環境が整えられつつあるとも聞いている。めざましい出世をしているカエデなどはその典型例だろう。それぞれ、何かしらの形で、理念に反する妥協をしているのだろうか。そうしなければ、創世など成せはしないのだろうか。

かっての世界は、そもそも、何故に滅びたのだろうか。自室に戻ると、天井を仰ぐ。

何だか、この世界がとても不格好で、不安定なものに、今更ながら思えてきた。分からないことが多すぎる。

そして、迷いが、生じ始めていた。

 

カエデは、額の汗を拭った。二つの難題を同時にこなすのは、初めてのことであった。自宅には、もう長いこと帰っていない。睡眠も、なかなか取れなかった。

ニヒロ機構本部の深層に与えられた部屋が、カエデの二つ目の家と化していた。林立している書物。床に雑多に書き散らされた魔法陣。研究用の書類と、軍編成に必要なものが混ざり合って、辺りは混沌そのものである。二十メートル四方ほどある大きな部屋だが、手狭に見えるほど、ものが林立していた。

着ているのは、研究用の白衣だ。汚れてもいいものをと思って、ニュクスに相談したら、用意してくれたものである。最初は真っ白だった白衣も、今はかなり薄汚れている。もう一がんばりだと思い、任された二個師団の編成を進める。司令部の人事は、既に決まっている。後は、中級指揮官の選別と、面接が残っていた。それらの書類をまとめるのに、かなり時間が掛かってしまっていた。

「カエデ将軍」

「ひあっ! は、はい! 寝てません! 起きてました!」

不意に後ろから声を掛けられたので、思わず飛び上がってしまう。パイプ椅子が、派手な音を立てて軋んだ。振り返ると、怪訝そうに、馬の顔をした堕天使が立っていた。かってオセ将軍の麾下にいた、オロバス将軍だ。

「眠っていないのなら、休んだ方が良いですよ。 今も、墜ちておられたようでしたし」

「またですか!? もう、私、何でこうなんだろう」

「そもそも、仕事量が無茶なんですよ。 ある程度は、部下に任せればいいじゃないですか」

「駄目です! 多くの命を、預かっているんです!」

じっと下を見てしまう。

あの後、アンドレアルフスは、何とか命を取り留めた。だが、リハビリが必要で、下手をするともう飛べない可能性もあるという。武人である以上本望だと言っていたが、怪我をさせたのは間違いなくカエデなのだ。部下達にも、多くの戦死者が出ている。それらの責任は、カエデの双肩にのしかかっていた。

オベリスク攻略戦の後、権限は更に拡大した。それは、責任が更に大きくなったことを意味している。他の将軍達も、カエデには協力すると言ってくれている。だが、それに甘えてはいけない。

ニヒロ機構には、返しきれないほどの恩があるのだから。

それに、きっと天使達は再起する。その時のためにも、準備はしておかなければならなかった。

「まあ、我ら下級将校に、上級将校である貴方に強制する権利はありませんから、これ以上強くは言えませんが。 はい、此方、ご依頼があった書類です。 スルト将軍に言われて、持ってきましたよ」

「有難うございます」

さっと、リストに目を通す。戦歴、実力共に問題ない悪魔が揃っていた。これで、どうにか中隊長の人材は揃う。後は、面接して、直に確認するだけだ。

訓練が済んだ兵を、スルト将軍に回して貰った。ギンザ会戦で打撃を受けた部隊の整理が大体済んで、再訓練が終わりつつある。部隊に復帰した兵も多いし、新たにニヒロ機構に加わった悪魔もいる。新設されるカエデの部隊は、一個師団が魔術部隊であり、遠距離からの支援と工兵任務が主流となる。もう一個師団は、その部隊の護衛が主力任務となる。小規模だが空軍も備えており、防御力の高い重装兵団と連携して魔術部隊を護衛する。大火力を有していることもあり、今後の要塞攻略戦で要となる軍団だ。更にこの軍団には、オベリスクに配置された部隊も所属している。合計戦力は22000。北部方面打撃軍団と正式に命名されている。それだけに、軍団長を任されたカエデの責任は重い。絶対に手は抜けない。

オロバス将軍が部屋を出て行くのを見送ると、肩を叩く。凝って仕方がない。しばしばする目を何度か擦ってから、今度はロキに頼まれた、スペクター撃破のための研究だ。書類を並べて、魔法陣を起動させる。複数の立体映像が、周囲に浮かび上がった。これが終わったら、一休みするつもりである。手元にあるカップを傾けて、カフェオレを胃に流し込む。クリームが足りないのか、妙に苦かった。それに、ぬるい。

カップに術式を掛けると、火力が高すぎて、突沸した。書類に掛からなかったから良かったが、不安を感じてしまう。やはり、相当に疲労が溜まっているらしい。しかし、ロキの言うことも確かだし、これ以上は無駄な時間を過ごす訳にはいかない。もう一度温め直すと、今度は上手くいった。カフェオレを飲み干してから、研究に取りかかる。

スペクターの研究は、今までにも行われてきた。カエデの元には、それらの成果に始まり、ロキの独自研究や、オセ将軍と共にスペクターと戦い生き残った堕天使達の証言までもが集められている。特に、直接スペクターと戦った悪魔には、ほぼ全員に面接をして、話を聞いた。それらのデータも、すぐに呼び出せるようにしている。

スペクターの特性は、既に頭に叩き込んでいる。

アマラ経路を住処にしているスペクターは、非常に強力な増殖力を武器にしている。この間のギンザ会戦での襲撃時は、その数は3000を超えていた。それに、高い柔軟性を持ち、高度な戦術を駆使して、オセ将軍に致命傷を与えた。

個体の能力は大したことがないが、耐久力は優れていて、汎用性も高い。酸を吐き出す能力に加え、最近は自爆する事も出来るようだ。多数を相手にすると、上級悪魔でも単体では危ない。このボルテクス界に存在する、もっとも強力な悪魔の一柱だと考えて間違いないだろう。

だが、その動きは、どうも堅い。

オセ将軍と戦った時には、どうも事前から、準備していたとしか思えない。オセ将軍を殺すためだけに戦術を練り、それにあわせて肉体改造をしていたような気がしてならないのだ。それに、おかしな事はまだある。何故、3000程度で攻撃を掛けてきたのか。

もしも無限に増えることが出来るのであれば。カエデがスペクターの立場なら、アマラ経路に満ちているマガツヒを全て喰らい、抵抗しようのない圧倒的戦力で侵攻を仕掛ける。それならば、多少攻撃を受けてもびくともしない。何故、それをしなかったのか。

しばらく、監視カメラの映像も見ながら、カエデは考え込む。

常識的に考えられるのは、サーバになる個体がいるということだ。つまり、司令塔になっている奴がいて、それが傷つくと全体が破滅する。そしてサーバには、制御できる数に限界がある。

もしそれなら簡単なのだが、どうもそうとは思えない。正確には、そこまで単純だとは思えないのである。また、奴が戦闘中に数を増やしているのを、誰も見ていないのが気になる。その理由が分かれば、一気に畳み掛けることが出来るかも知れない。

ふと、思い立ったことがある。部屋を出て、司令部に。司令室には氷川司令が詰めていて、自席に腰掛けて足を組みながら、優雅にコーヒーをすすっていた。薄汚れたカエデの白衣に目を止めた氷川司令は、眉を寄せて、表情を曇らせる。

「カエデ将軍、白衣が汚れているぞ。 噂通り、かなり無茶な仕事をしているようだな」

「はい。 でも、大丈夫です。 それで、その。 お願いがあるのですが」

「何かね」

「はい。 マントラ軍に所属していた悪魔に、接触できないでしょうか。 尋問の許可を頂きたいです」

カブキチョウが一度スペクターによって壊滅したのは、周知の事実だ。その時、スペクターを粉砕したのは、あの雷神トールだという。その時のことを知っている悪魔がいたなら、話を聞いておきたい。

「知っての通り、捕虜はシブヤ要塞に収監している。 尋問の許可はすぐにでも出そう」

「有難うございます」

「だが、その前に。 カグツチの日齢一つ分の休暇を出すから、少し寝たまえ。 これは司令としての命令だ。 目の下に隈ができているぞ。 今、君は自分の能力以上の仕事をしている。 それを自覚して、体調管理に努めよ。 ノルマは前倒ししているようだし、有能な将官が平時に倒れるようでは困るからな」

そう言われると、何も言い返せない。何しろ、氷川司令の命令だ。逆らう訳にはいかない。

自宅に戻ることにして、司令室を出る。ふと、廊下で、すれ違ったのは、等身大の鉄製ロッカーを運ぶ悪魔達だ。ロッカーには鎖が巻き付けられていて、厳重に南京錠で封がされていた。指揮をしているのは、この間退院したマダである。マダはカエデに気付くと、治ったばかりの腕を上げて、挨拶してきた。

「よお。 ……なんだよ。 噂通り、無茶な仕事してるんだな」

「え? わかり、ますか?」

「分かるさ。 目に隈は作ってるし、服は汚れてるし。 おめえくらいの年は、鏡と毎朝一時間くらいにらめっこして、男の子の行動に一喜一憂するくらいでいいんだよ。 ノルマもだいぶ前倒ししてるんだって? もう良いから、早く帰って寝な」

「氷川司令にも、そう言われました」

ぽんと、頭に手を置かれた。大きな手だ。マダは、顔を近づけてくる。耳まで裂けた口には牙が並んでいるが、とても気がいい悪魔だと分かっているので、怖くはない。

「部下を使いこなすのも、ボスの仕事なんだぜ。 おめえが仕事をしてないとか、出来てないとか、思ってる奴はどこにもいねえ。 だから、安心して、少し休むんだ。 ほら、足下も、ふらふらしてるじゃねえか」

「……わかり、ました」

言われてみれば、少し足下がふらつく。マダは心配そうに此方を見ていたが、やがて部下達を指揮して、廊下を曲がっていった。あれはアマラ輪転炉の方向だ。あのロッカーの中身を、輸送しているのかも知れない。ひょっとすると。いや、そんなはずはない。あの時決まったことだ。氷川司令が、そんな事をさせる訳がない。もしそうだとしても、保険としての運用の筈だ。

嫌な考えを頭から追い払うと、エレベーターに乗った。気付くと、背中を壁に預けてしまっていた。頭がくらくらしている。気が抜けたせいか、足下がおぼつかなくなって来ている。

外に出ると、カグツチの光がまぶしくて、何度も倒れそうになった。巡回中の兵士が何人か、敬礼して通り過ぎていく。敬礼を返すのだが、きちんと出来ているか、自信がなかった。

自宅に着くまでに、何回か転び掛けた。途中から護衛の兵士が何人か着いてきたのだが、彼らを随分慌てさせてしまった。ベットに倒れ込んでから、記憶が吹っ飛んで。目を覚ますと、十二時間以上が経過していた。

頭が溶けたようで、何も考えられない。疲労が酷すぎて、脳に掛かっていた負担が、強烈な睡眠を誘発していたのだ。

氷川司令は、評価してくれていた。それはとても嬉しい。だが、まだ弱い自分がいらだたしい。マガツヒの入った瓶を取り出すと、強引に飲み干す。もっと頑強な体が欲しい。もっと、役に立てるようになりたいのだ。

シャワーを浴びてから、別の白衣に着替える。我ながら酷い臭いがしていたので、ちょっと専門職の洗濯術を使える悪魔に任せたいところだ。それに、それだけではない。マダは、本当にカエデを心配してくれていた。部下を使いこなすのも、ボスの仕事だと、言ってくれた。

しばらく考え込んでから、黒電話に手を伸ばす。連絡先は、師団長に任命した悪魔達だ。一人は堕天使アミー。炎の術を得意とする悪魔である。姿は人間の背中に蝙蝠の翼を持つ、如何にも悪魔らしい格好をしている。もう一人は堕天使プルソン。此方は獅子の顔を持つ人間の姿をしており、知性派の悪魔である。どちらも一応の戦闘能力を有しているが、幹部をしている悪魔達には二枚ほど及ばない。

アミーは、ギンザ郊外での訓練中である。カエデが任命した士官達だけを連れての訓練だから、あまり規模が大きくない。ただし、最近は無線式の連絡装置も発達してきたから、比較的容易に連絡を取ることが出来る。

最初に、下級士官が出た。それから少し待たされた。待ち時間を利用して電話帳とメモ帳を調べ、プルソンの居場所を控えておく。比較的、作業は簡単だった。

電話に、アミーが出る。何だか露骨に嫌そうだったのは、ひょっとすると。仕事を更に取られると思ったのだろうか。

「これは軍団長殿。 無能な私めに何用ですかな」

「はい。 アミー将軍、貴方に、お任せしたい仕事があるのですが、よろしいですか?」

「これは意外ですな。 私のような無能者には、全く期待していないと思っていたのですが」

「そんな事はありません。 そうでなければ、師団長など……」

言葉を詰まらせる。やはりマダの言葉が正しかったのだと、気付いたからだ。カエデはどうやら、師団長達の仕事を奪い、プライドも傷つけていたらしい。アミー将軍は自虐的な毒舌家と言うことで有名だが、それにしても、今回はカエデに責任がある。

「ごめんなさい。 貴方の事を信頼していなかった訳ではないんです。 中隊長の選別と任命を、貴方に任せたいのですが、よろしいでしょうか」

「……ハハ、そうですか。 分かりました。 引き受けましょう」

腰を低くして言ったからか。アミーは少し不快そうにしながらも、引き受けてくれた。もちろん部隊の私物化を避けるためにも、最終的な確認は自分でしなければならない。だが、これで仕事の半分は減らすことが出来る。

つづいて、プルソンに連絡。彼は今、街郊外の研究施設で、魔術を使った攻撃戦術の講義を、将来の幹部候補に対して行っているところであった。実は一時期、カエデも彼の授業を受けたことがある。丁度時間的に、講義が終わった頃である。電話に出た彼は、間延びする特徴的なだみ声で不快そうに言った。

「何ですかい、ボス? 儂の仕事を、これ以上取るつもりですかい」

「ごめんなさい。 今まで、貴方たちの気持ちも考えずに、自分だけで仕事をしてしまっていて」

「……どういう風の吹き回しですかい」

「中隊長の選抜と任命をお任せしたいのですが、よろしいでしょうか。 後、魔術部隊の、戦術訓練もお任せします」

元々プルソンは技術畑の悪魔で、ある程度の戦術指揮経験があること、本職で大きな功績を挙げていること、それに本人の意思もあって、今回師団長に選抜されている。ニヒロ機構に所属した時期も古い。着実に実績を積み重ねていた分、意気揚々と師団長になったはずである。それが故に、新参のカエデに仕事を全て取られていたのは面白くなかったはずだ。

マダのアドバイスが身に染みる。特にニヒロ機構で、ワンマンプレイはあまり好ましくはないはずなのに。独走に気付いたカエデは、穴があったら入りたい気分だった。

「ボス、あんたが有能なのは、誰でも知っとる。 儂の授業を、あんなに早く飲み込んだ生徒は他におらんかったしな。 既に儂なんかじゃ足下にも及ばん、ニヒロ機構随一の術の使い手だって、誰もが認めとる。 でも、儂らの事は、見てくれないと思っていましたわい。 本当に、仕事を任せて貰っても、良いんですかい?」

「はい。 貴方を信頼して、お任せします。 書類は揃えてありますから、分からないことがありましたら、言ってください」

電話を置くと、何だか随分楽になった気がした。

ノルマは前倒ししているし、少し時間もある。ロキに頼まれた研究を丁寧に進めておきたい。だが、その前に。もっと効率がよい方法を思いついた。試してみたい。

もう一度、黒電話を取る。掛ける先は、フラウロスだ。フラウロスは丁度休みだったらしく、すぐに電話に出てくれた。

「おう、何だ」

「フラウロス将軍、カエデです。 実は、お願いしたいことがあるのですが」

「何だ。 言ってみろ」

「はい。 実は、アマラ経路に案内して欲しいんです。 スペクターと、直接戦ってみたいものですから」

フラウロスが、息を呑むのを、カエデは感じた。受話器を握りなおしたらしく、一呼吸おいて、返事がくる。

「スペクターを倒す研究をしてるって聞いてはいたが、大胆なことを考えたな」

「やっぱり、それが一番だと思いまして。 すぐに、とは言いません。 でも、カブキチョウへの侵攻作戦が始まる前には、向かいたいと考えています」

「ああ、分かった。 お前の方はノルマもだいぶ前倒ししてるって聞いてるからな。 俺の方でも、少し時間を作っておく。 氷川司令の方には、俺から話しておくから、ゆっくりしてな」

何だか、不意に肩の力が抜けたような気がする。

少し、ベットでゆっくり寝ていようと、カエデは思った。たまには、こんな日も良いかもしれない。

スペクターをおびき寄せる方法と、戦う時の戦術を考える。フラウロスは着いてきてくれるかも知れないが、それを期待していてはいけない。味方に頼ることがあっても、最後は自分で戦いたいのだ。

しばらく眠って、じっくりリフレッシュした。

迷いは、綺麗に晴れていた。

 

4,カブキチョウ潜入作戦

 

砂を泳ぐ巨大な龍の背中に乗って、秀一は地平の果てを見据えていた。そろそろ、カブキチョウが見えてくる。隣で腰を下ろしているサナが、暇そうに欠伸をした。流石にずっと飛んで着いてくるのは辛いらしい。

「いいの、リコ置いて来なくって」

「もし、マントラ軍に戻るつもりならば、それも仕方がない。 ただ、事前の説明通り、マントラ軍と戦うつもりはない」

怪我が治っていないリコだが、着いてくると言って聞かなかった。そして今は。巨大な龍の、尻尾に乗っている。最初は自分を半殺しにしたニーズヘッグに乗るのも嫌がったのだが、結局走るよりも体力を温存できると説得すると、渋々ながら承諾してくれた。

ニーズヘッグは全長二十メートルを超える。砂の中を始め、土中での戦闘に特化していて、非常にスピードは速い。体を縦にうねらせて泳ぐのだが、振動は思ったよりも小さくて、快適であった。むしろ、跳ね飛ばされる砂がカグツチの光を反射して、美しくさえある。

ニーズヘッグは、力で従えた。今、空を飛んで着いてくるフォルネウスと同じ。秀一に倒されて、再構成された悪魔である。

秀一の隣では、カザンが座り込んで、槍を磨いている。よく手入れされた業物で、鉄製だからかなりの重量がある。ずっと黙り込んでいたカザンだが、槍の手入れが終わると、秀一を見上げた。後ろの方には、彼の部下が何人か座り込んでいる。今回の潜入作戦を進めてきた、マネカタの中でも意思が強い者達だ。

「本当に、協力して、くれるんだな」

「ああ。 ただし、逃走する意思のある者だけだ」

状況に流され、悪魔に拷問を受けながらも、逃げる意思も気力もないようなマネカタを助けている余裕はない。いずれカブキチョウに大規模な攻略作戦を行うことがあるとしても、構っている暇はないだろう。

カブキチョウが見えてきた。ニーズヘッグに指示を出して、速度を落とさせる。殆ど喋ることはないニーズヘッグだが、ちゃんと言葉は通じる。隠密性の高い作戦だと言うことも理解していて、しっかり見えにくい位置を選んで巡航していた。

カブキチョウが近付いてきたこともあり、フォルネウスが高度を落とした。もし発見されたら、全力で逃げるしかなくなる。もちろん警戒レベルも引き上げられて、次の機会は無くなるだろう。

ニーズヘッグが止まった。ばらばらと、マネカタが降り始める。散開して、周囲を警戒に当たる様子は、それなりに様になってきた。最後に秀一が降りる。顔を近づけてきたニーズヘッグを、軽く撫でた。

「事前の合図通り、口笛を吹いたらすぐに迎えに来て欲しい」

「ワカッテイル。 ニーズヘッグ、ボスノ、シジニシタガウ」

「頼むぞ」

ニーズヘッグは、どうやら少しずつ理性を取り戻しつつあるらしい。秀一の言うことも聞くし、暴れることも少ない。ただ、時々一人で砂漠に行っては、咆吼しているようだ。まだ心を開いているとは言い難いところもあり、これからゆっくり信頼関係を築いていかなければならなかった。

ゆっくり歩み寄ってきたリコが、眼を細める。

「どうやら、情報は本当らしいッスね。 見張りの数は多いけど、内部の戦力は随分小さいみたいッス」

「そうなると、恐らく敵を領内に引きずり込んで戦うつもりだな。 機動部隊を展開して、正面決戦を避け、主力を要塞に引きつけて、補給線を遮断しながら、敵の疲弊を待つつもりだろう」

「積極的と言えば積極的じゃが、何というかマントラ軍らしくないのう。 昔なら、もっと積極的にこう、軍勢を前に押し出して、正面からの決戦を挑んだりしたような気がするわい」

「まあ、常識的な判断だし、いいじゃん」

フォルネウスが言うと、さっとリコが青ざめて、サナがフォローする。秀一からみていても、面白いコンビだ。カザンが無言で手招きする。砂漠の一角。砂を払っていくと、それが現れた。

アマラ経路への入り口だ。

カブキチョウはかなり警戒が強い要塞だが、内部に侵入するルートは幾つかある。その中で、もっとも発見される確率が低いのが、このアマラ経路からの進入路である。カザンはこれを使って三回出入りしており、そのたびに大なり小なり怪我をしている。アマラ経路を抜けさえすれば、後は問題なく逃げ出すことが出来る。かなりの人数を、脱出させる事も出来るだろう。

最初に、秀一が飛び降りた。高さは十メートルほど。普段は縄ばしごを使って上り下りするが、秀一の肉体強度であれば、何の問題もない。最初に此処を使って脱出した者は、もっと危険の大きいルートから逃げ出したらしいのだが、今は使われていない。

どうやら、スペクターが出るらしいからだ。

今やスペクターの名前は、ニヒロ機構やマントラ軍だけではなく、マネカタ達にまで知れ渡っている。周囲を見回す。流れてくるマガツヒを一つつまんで口に入れた。落ち着くための行動で、他意はない。

旗をズボンの尻ポケットから取り出すと、上に向けて振る。周辺に敵影無し。辺りに積もった砂の中にも、隠れている者はいない。縄ばしごを伝って、マネカタ達が降りてくる。マネカタ達の最後に、カザンが来た。脇に槍を抱えて、かなり素早い降下だった。これは、マントラ軍でも下級士官くらいならやれるかも知れない。続けて、リコが降りてくる。秀一と同じく、そのまま飛び降りてきた。リハビリもかねて、敢えて激しい運動をしたがる傾向があり、少し秀一は心配だ。最後にフォルネウスが、蓋を閉じて、サナを背に乗せてゆっくり降下してきた。

アマラ経路の、うっすら発光した床や壁が、今は頼りだ。そしてこういう薄暗いところでは、秀一の体にある模様が、発光しているのがよく分かる。マネカタ達の中には、初めて見るものもいるようで、ひそひそと話をしていた。咳払いして彼らを黙らせると、秀一は平然としているカザンに言う。

「カザン、どっちに行けばいい」

「ああ。 此方だ。 気をつけろ、あまり大きな声を出すな」

「分かっている」

スペクターが出るとなると、なおさらである。マネカタ達には、抵抗する手段も意思もないだろう。

全戦力を連れてきたのも、主に退路を確保するためだ。聖がどこからか持ってきた情報と、カザン達が文字通り屍山血河を築きながら集めた情報が合わさって、今回の作戦が成立している。

何処までも伸びるアマラ経路を、じっくり進んでいく。フォルネウスが時々、チョークで壁に模様を描いていた。以前入った時と違い、今回は出口が分かっているから、当然の処置である。

流れる大量のマガツヒ。時々精霊の姿を見かけたが、あまり此方には興味がないようだった。不自然にマガツヒが流れている様子もなく、危険も感じない。少なくとも、今の時点では大丈夫だろう。

旗を振って、最後尾にいるリコに合図。問題なしと返事が来た。また、歩き出す。

平坦な道が終わり、徐々に下り始めた。事前に聞いた話だと、此処から少しくだった後、崖を登ることになると言う。アマラ経路の中にも、そのような激しい地形がある訳だ。ふと、右手の壁が途切れる。そして、みた。

落差四十メートルほどある壁を、赤いマガツヒが流れ落ちている。下はマガツヒが噴きだまっていて、四方に流れ出ていた。かなり良い餌場らしく、無数の精霊が集っている。中には、もう悪魔としての形を為し始めている者もいるようだ。

「此処は、気をつけた方が良いな」

「どうしてだ」

「みての通りだ。 悪魔はアマラ経路の中で産まれる。 下級の悪魔なら良いが、もし上級の悪魔が此処に現れたら、ひとたまりもないぞ」

特に、産まれたばかりの悪魔の場合、学習などしていないから、マネカタを餌だと思って襲う可能性がある。

帰り道、出口近辺にはリコを配置すると決めてある。だが、悪魔の襲撃を考えて、此処にはサナにいて貰おうと、秀一は思った。丁度中間地点だから、回復術の使い手であるサナの持ち場には丁度いい。場合によっては、フォルネウスの永続氷壁で封鎖してしまうのも手かもしれない。

道自体は安定しているのに、登ったり下ったりしている中、やがてカザンが言う壁が見えてきた。ぼろぼろの縄ばしごが掛かっている。これを使って、何度も往復してきたというのなら、カザンは予想以上に勇敢だ。カザンが登り出すのを横目で見ながら、秀一は仲間を呼び集めて、小声で言った。

「身動きが取れない者を降ろすのは難しいな。 フォルネウスだけだと、輸送する人員に限界がある」

「そうじゃの。 流石に儂も、子供だけならともかく、身動きできない重傷者とかを運ぶのは骨じゃぞ」

「ちょっと、シューイチ。 逃走する能力のない奴は、ほっとくんじゃないの?」

「逃走する意思があれば、足腰が立たなくても逃がしてやるつもりだ。 肉体的に役に立てなくても、知識や精神がそうとは限らない。 それに、彼らがカリスマとしているフトミミも、怪我をしているかも知れないだろう」

歎息したサナが、少し揶揄を込めていった。

「何だか、まだ甘いよ。 悪魔らしくなってきたと思ったんだけどなあ」

「もちろん、助けた後は、治療する。 その後は、自活を考えて貰う。 自活できるようになった後は、知らない」

「んー。 そういう話を聞くと、悪魔らしいと思うんだけど。 やっぱシューイチ、人間みたいな所があるね」

「そうかも、知れないな」

会話を切り上げると、崖を見上げる。高さは十メートル強。その上の天井は、石材が露出しているのが僅かに見えた。事前の情報によると、石材はアマラ経路の床に、深々と食い込んでいるという。跳躍。崖の出っ張りを二度蹴って、それだけで上に到着した。後から遅れて、カザンが登り切る。追いついてきたマネカタは、驚愕こそしなかったが、若干の悲しみを言葉に乗せていた。

「やはり、まだ、我らでは、悪魔には勝てぬか」

「鍛錬を繰り返せばいい」

この世界なら、それで悪魔をも超えることが可能の筈だ。秀一は、見上げる。

がけの上。アマラ経路を塞ぐようにして、巨大な建造物がある。想像以上の、威圧感だ。

要塞の、支柱の一つである。巨大な一枚岩を使っているのだが、内部にはシロアリの巣のような細かい亀裂があり、それを長いこと掛けて、マネカタ達が通れるようにした。つまり、最終的には収容所の中に通じている。

非常に狭い通路を、這い上がるようにして登っていく必要があるため、体が大きな悪魔は通ることが出来ない。追撃を断つことが出来るという意味でも、都合がいい。すぐに追いついてきた仲間を見回して、指示。

「俺とカザンが一番上まで行ってみる。 通路の状態と、周囲の様子を確認してから、全員を配置して、ピストン輸送に移る。 とりあえず、今回の目標は三百人だ」

「最初の予定通り、百人ずつニーズヘッグで運ぶんだよね」

「そう言うことだ。 ほぼ確実に長丁場になるから、経路内のマガツヒは各自で食べていていい。 何かに襲撃を受けたら、すぐに連絡をしてくれ。 駆けつける」

「心強いね。 シューイチがそう言うと、重みがあるよ」

サナの言葉には、嫌みの要素はない。信頼を感じて、秀一は少し嬉しかった。

柱の穴に潜り込む。罅とはいっても、柱のサイズから考えると、何の問題も無いだろう。カザンが先に登っていく。手足を使って体を支えながら、少しずつ行く。まるで、ロッククライミングだ。

カザンの話によると、脱出経路はまだ他にもあるという。だが殆どが潰されてしまい、今確実に使えるのは此処だけだそうだ。しかし、これは難儀だ。特に身動きできないほど弱っている奴を運び出すのは。

登りながら、周辺の構造を、把握していく。降りる時、誰かを抱えて行けるように。或いは、飛び降りる時に、ぶつけないように。

上の方には、大きな気配が山とある。秀一より強いのも、いくらかあるようだ。出来るだけ、交戦は避けたい。

やがて、横道に出た。まだ上に行けるようだが、此処で出るルートが安全確認されているのだろう。

辺りは真っ暗だが、岩のざらついた感触が無くなる。

収容所の四階の、天井裏に出ると聞いてはいた。此処がそれなのだろう。前の方に光が見える。換気口であろうか。近付いてみると、確かに換気口だった。

埃が積もった天井裏を、這い進む。カザンが何度も往復しているせいか、多少埃は少ないようだ。悪魔達が談笑する声に混じって、マネカタの悲鳴が聞こえてくる。眉をひそめてしまう。

カブキチョウ要塞そのものの構造は、事前の情報で把握している。

此処は、泡状に重ねて作られている、収容所の内部だ。警戒が薄いのも、被害を受けたとして、マネカタが悲鳴を上げている間に、悪魔達が防衛体制を整えられるからだ。何しろ泡状構造の内部なので、一枚や二枚壁を破られても、心臓部はびくともしない。柱の罅を使っても、中枢には確かにたどり着けそうもない。カザンの話では、柱の中でも警戒度が高いものは、触れただけで警報が発動するという。

この街は、一度スペクターに壊滅させられたと聞く。隙は確かにあるが、根本的なところを手堅く固め、一つや二つの区画が墜ちてもびくともしないように構築はされている。もし攻めるとしたら、さぞや難儀だろうと、秀一は思った。

「まず、東棟へ行く。 そこで、十五人ほど救出する」

「潜入している者と、連絡は取れているな」

「問題ない」

必要な言葉だけを交わしながら、天井を這って東棟へ。使われていない小さな牢が、脱出口だという。

既に、その牢周囲には、マネカタ達が詰めていた。何人かが見張りで、労働している振りをしている。子供も交じっていて、痛々しいと秀一は思った。天井の、見えにくい位置にある穴から、手招きする。さっと縄ばしごを降ろして、一人ずつ、順番に引き上げた。悪魔達は、気付いていない。時間を掛けて、少しずつ、引っ張り上げていく。

予定の人数が、引き上げ終わった。此処で、一旦戻る。先ほどの裂け目を伝って、そろりそろりと降りていく。此処で足を滑らせて、死んだマネカタも多かっただろう。一番先に秀一が立ったのは、もし墜ちてくる者がいても、受け止められるようにするためだ。

柱の裂け目から、アマラ経路に出る。一人目のマネカタが、待っていたフォルネウスに驚いた。槍を持ったマネカタ達が急かして、順番に崖を降りていく。三番目に降りてきたマネカタはかなり衰弱していたので、フォルネウスの背に乗せた。拷問の跡が痛々しい。全員を見送る。周囲に、未だ敵影は無い。

一旦アマラ経路の出口まで出た後は、砂丘の影に作った休憩所で待機する。其処でなら、ニーズヘッグも護衛についているし、かなり安全度が高い。すぐ側にリコもいるから、かなり柔軟な判断も可能なはずだ。

ぞろぞろとアマラ経路を行くマネカタ達を、フォルネウスが護衛していく。瞬いたのは、サナに渡してある手鏡だ。頷くと、秀一はカザンに向き直る。

「次のグループ、行くぞ」

「ああ。 次は西棟だ。 十七人を助け出す」

あまり多くのマネカタが消えると、怪しまれる。だから、少人数ずつしか助けられない。更にマネカタ達は、手が込んでいる事に、お歯黒どぶ泥も持ち込んでいる。自由行動できる者達の中には、鍵を盗んでコピーしたものもいるという。すなわち、牢には泥を残し、それをフェイクに脱走するという訳だ。激しい拷問が行われているカブキチョウである。いつマネカタは死んでもおかしくない。それを逆手に取る訳だ。

西棟はさっきよりも、更に入り組んでいた。特に、換気口のすぐ側を通らなければならない場所が二つあり、かなり冷や冷やした。行きよりも、マネカタ達を通す帰りが不安だ。しかも、西棟で助けたマネカタ達は、さっきよりも衰弱が激しかった。

特に、カズコと同じくらいの年の、女の子のマネカタが、非常に弱っていた。カズコほどではないのだが、かなりのマガツヒを生産する能力を持っているそうで、激しい拷問に晒されていたのだという。サナが早く回復術を掛けなければ、危ないかも知れない。ツインテールに髪を結っている子供を引き上げると、秀一は急ぐように、指示した。

換気口の側は、何とか音を立てずに通り過ぎることが出来た。だが、帰り道。崖を、墜ちた者が一人居た。

秀一が素早く反応して助けたが、肩を強く打っていて、治療が必要であった。

 

第六次救出が終わると、最初の予定通り、百人を助けることに成功した。予定通り、ニーズヘッグに、アサクサに送り届けて貰う。正確には百七人だが、傷が深いマネカタの少女と、後は屈強で手伝えそうな者達は、残ってもらった。仕事を手伝って貰うのだ。肩を打ったマネカタは、アサクサに送る。怪我は酷いが、命には別状無い。アンドラスなら、問題なく助けられるだろう。

一旦アマラ経路から引き上げる。怪我人を順番に手当てしていったサナは、不満らしく、ぶつぶつと呟き続けていた。やけ酒のようにマガツヒを煽っている。それは、目を閉じて苦痛に呻き続けている少女のマネカタが、放出し続けているものだ。どうやら味が良くないらしくて、何度も文句を言っていた。

「あー。 渋くてちょっと。 カズコのマガツヒは美味しいのになー。  同じマネカタでも、どうしてこんなに違うんだろ」

「力はつくのだろう? ならば、我慢してくれ」

「はいはい、シューイチに着いていけば、確かにご飯には困らないもんね」

「うん、確かにちょっと渋いかも知れないッスね」

脇からつまみ食いしたリコも、眉根を寄せた。悪魔達は不平が多い。後で臨時ボーナスとして、マネカタ達にマガツヒを大量放出して貰う必要がありそうだ。

それに対して、カザンは秀一に、珍しく感謝の意思を隠さなかった。

「俺達が、脱出と潜入を、指示していた時は、毎回死人が、多く出ていた。 酷い時は、半分以上が、死んだこともあった。 やはり、手伝って貰って、良かった」

「……ああ、そうだな」

「もちろん、礼はする。 出来る限りの情報収集には、協力させて貰う」

「あの、人修羅さん。 ちょっと、気になる話を聞きまして」

振り返ると、カザンが連れてきたマネカタだった。彼は頭を掻きながら、右腕の肘から先がないマネカタを見やる。秀一が助けた時、彼は既に隻腕だった。

「あいつが言うには、人間がカブキチョウに捕まっているらしいです。 凄く嫌な奴だって話ですけれど」

「……そうか」

恐らく、勇だろう。それは、すぐに分かった。あの時、勇は秀一の制止を、自分の意思で振り払った。だから、止めはしなかった。

多分、助けることに、意味はない。どうなるか分かりきった上で、勇はカブキチョウに乗り込んだのだから。覚悟はしていたはずだし、していなかったではすまされない。それだけ、勇の行動は無謀だった。

携帯を開けて、充電して。和子のメールを見た。妹と同じ年くらいの子供が、体中酷い拷問の跡を残して、苦痛に呻いているのは辛い。こんな時、和子がいたら、どんな風に言うだろうか。

足下の砂が、ぼこりとふくれあがる。そして、ニーズヘッグの肌が見えた。戻ってきたのだ。

「全員、無事に送り届けたか」

「ボスノシジドオリ、ゼンインオクッタ。 サマエルガ、レイヲイッテイタ。 カズコガマガツヒヲクレテ、ハライッパイニナッタ」

「そうか。 此処で、待機していてくれ」

「ラジャ」

ニーズヘッグが砂に沈む。再び救出作戦に向かうことを告げると、率先してアマラ経路に入る。迷いを払うように、指示に没頭した。勇は、放っておくべきなのか。手は、さしのべるべきなのか。

この世界、特別扱いは許されない。

それが例え、幼なじみであってもだ。カザンが、後ろから聞いてきた。

「良いのか、人間を、放っておいて」

「最後に、様子だけ見に行くつもりだ」

それで、吹っ切ろう。

秀一はそう決めると、先ほどと同じフォーメーションで、マネカタ救出作戦を進めることにした。

 

白衣を翻して、ぱたぱた前を歩くカエデの背中をみながら、フラウロスは舌を巻いていた。臆病で引っ込み思案のくせに、何と大胆なことを考える娘か。ランダがこの娘に入れ込んでいたのも、分かる気がする。才能以上に、恐ろしいものを感じる。ポニーテールに縛っている髪が、一歩ごとにぶらんぶらんと揺れているのが、後ろから見ていて面白い。バランス感覚が如何に貧弱なのか、証明しているからだ。それと、展開できる術力とのギャップが、また一つ楽しい。

此処は、アマラ経路。しかも、マントラ軍の領地奥深く、カブキチョウの近辺である。

カエデは言った。スペクターを倒すためには、直接戦って、特性を確認する必要があると。だから、フラウロスを始めとする僅かな護衛だけで、こんな超危険地帯まで足を運んだ。かといって、平然としているかと思えば、そうでもなく。時々、びくびくしているのが、後ろからでも分かった。

大胆でありながら繊細。

驚くべきは、本人だけではない。護衛を頼まれたフラウロスも、幾つか注文された。

第一に、出来るだけ戦闘スタイルを見せるな。技、特に奥義になるような切り札は、絶対に見せるな。

カエデの話だと、スペクターは体が単純な構造をしている分、非常に進化が早いのだという。事実オセとの戦いでも、それは確認することが出来た。以前はみられなかった強力な術を駆使して、最終的に敗北はしながらも、オセに致命傷を与えることに成功した。

だから、本当に根源から倒す時こそに、本気を出す必要があるという。

無茶な注文である。カエデは運動音痴で、足も遅く動きも鈍い。術は確かに最強だが、歩きながら時々転ぶような運動神経の無さだ。そのドジ娘を庇いながら、全方位からの飽和攻撃を仕掛けてくる相手に、手の内を見せずに戦えと言うのである。

それに、手加減をしがたい理由が、もう一つある。

スペクターは、オセの仇だ。親友を無惨に殺した奴を相手に、理性を保てる自信が、あまりない。戦いだったから、仕方がないのは確かだ。だが、スペクターはオセを執拗につけねらい、戦士とは言い難いやり口で殺したも同然である。どうしても、納得は出来ない。

「フラウロス将軍」

「何かな、カエデ将軍」

「あれを、見てください」

言われるまま、前に出る。この辺りは一口にアマラ経路と言っても、地形の起伏が著しく、鍾乳洞の中を歩いているような錯覚を覚える。カエデが指さした先は、崖の向こう。マガツヒが滝のように、すぐ側では流れ落ちている。

広い空間の先に、小さな細い通路がある。其処を歩いている人物に、フラウロスは見覚えがあった。直接は面識がない。だが、手配書や映像などで、見たことがある。遠目にも、確か見たことがあった。

「あいつは、確か」

「アサクサのマネカタコミュニティを構築しているという人修羅です。 側を浮いているのは、確か堕天使フォルネウスさん。 フラウロス将軍の、部下だった方ですよね」

「ああ。 だがあいつら、あんなところで何をしている」

「見たところ、マネカタの脱走を手助けしているようですね。 上はカブキチョウ要塞ですから、それ以外に考えられません」

人修羅は。確か、オセの死を看取ったはずだ。それに、キウンを倒したのも、奴だという話がある。そして今、アサクサに第三勢力を作っている中心人物だという話も聞いている。何を企んでいるのか、いまいち読みづらい相手だ。

少し、話は聞いておきたい。場合によっては、仕留める。剣に、自然に手が伸びた。だが、カエデは、口元に人差し指を持ってきて、しーと音を立てた。

「フラウロス将軍、こらえてください。 今は、戦うべきではありません」

「だが、あいつは」

「オセ将軍を倒したのは、人修羅ではありません。 むしろ、これは好機です。 この辺りにスペクターが現れるという噂があるのなら、此処は黙認すべきです。 場合によっては、誘き出すための餌に出来ます」

歎息した。いざというときは、非常に冷静な娘だ。フラウロスの方がたしなめられるようではいけない。先輩として情けないと、フラウロスは内心反省した。

一旦少し下がって、様子を見ることにする。少し広く、マガツヒが吹きだまる空間があったので、其処でカエデが提案した。

「此処に、監視用の拠点を構築しましょう」

「スペクターが餌場にしているかも知れないぞ」

「その場合は、その時です。 周囲に、探査用の結界を仕掛けておきます。 よほどの数で攻めてこない限り、地形が複雑ですから、突破は難しくありません」

それに、あまり時間はないのは確かだ。カブキチョウ攻略作戦は、着実に準備が進んでおり、いつまでも留守には出来ない。今回はニヒロ機構でも最精鋭と言われるフラウロスの機動部隊も出撃することになっており、それを考えると、あまり油を売っている時間はない。

人修羅の監視に、数名を割く。そして、拠点の周辺に、もう数名を割いておく。カエデは床に魔法陣を描き、此処の位置の精密な特定と、周辺地図の割り出しを進めているようだ。

壁に、辺りの緻密な地図が浮かび上がった時、護衛の堕天使達がおおと声を上げた。立体的かつ非常に精密な地図であり、フラウロスも感心させられる。額の汗を拭っているカエデを見ていた堕天使が、フラウロスに言った。

「相変わらず、凄い手腕ですな」

「ああ。 だが近接戦闘に関しては、素人以下だ。 お前達が、いざというときは守ってやらねばならんぞ」

「は。 お任せください」

そういえば、この堕天使は、オセと一緒にスペクターと戦った、生き残りの一人だった。気合いが入るのも、当然かも知れない。

しばし、辺りのマガツヒを掴んでは、口に入れた。残り時間は、そう多くない。そろそろ、引き上げることも考えなければならないかと、フラウロスが思いだした時。動きが、あった。

「フラウロス将軍」

「何だ」

「はい、人修羅一味に、何か動きがありました。 何かと交戦しています」

「本当ですか!?」

カエデが、ぱたぱたと走り寄ってくる。すぐに護衛の堕天使達を集めて、滝の方に出る。すぐ其処では、戦ってはいなかった。左手の方。通路の奥で、戦闘の音が響いている。爆発音。かなり強力な術式が、展開されていた。マネカタの悲鳴も、聞こえてくる。

「傍観しますか?」

「もう少し近付くぞ。 カエデ将軍、俺の肩に乗れ」

「え? は、はい!」

腰をかがめて、肩にカエデを乗せる。左手でカエデをおちないように支え、右手で剣を抜くと、跳躍。四十メートルほどの距離を、一飛びで蹂躙し、着地した。着地時に、全身のバネを生かしてショックを吸収したが、それでもカエデは固まっていた。

「すまん。 痛かったか?」

「お、おしりが、砕けたかとおもいました」

「すまんな。 急ぐぞ」

体を前傾姿勢にすると、走る。一気にアマラ経路の中を、駆け抜ける。後ろから堕天使達が着いてきている。彼らと離れすぎると意味がないので、何度か後ろを確認し、それでも最大限の速度で。

広場に出た。其処で、修羅場が展開されていた。

天井からつり下がっている縄ばしご。その周囲で、円陣を組むようにして、人修羅と、その配下らしき悪魔達が、戦っていた。相手はやはりスペクターだ。数は、軽く百を超えているだろう。他にも、槍を構えてマネカタ達が必死に防衛体制を取っているが、身を守るのが精一杯の様子だ。

奇声を上げるスペクターが、暴威を思うままに振るっている。目の前が、真っ赤になった。

吠える。肩からカエデが飛び降りた。

「おおおおっ! スペクタアアアアアアアッ!」

「ナンダ、キサマハ」

「俺はニヒロ機構将官、堕天使フラウロス! わが戦友オセの仇、取らせて貰うぞ!」

覚えては、いる。

本気は出すな。技は見せるな。

だが。剣を握る手には力が籠もる。かみしめる歯は、怒りにがちがちと震えていた。スペクターの興味なさげな様子が、更に怒りを加速した。

追いついてきた堕天使達が、術を準備しようとして、カエデに睨まれた。ますます数を増しているスペクター。近付いてきた一匹を、剣一閃、斬り伏せる。二匹、三匹、ぶった切る。カエデが、後ろから叫んだ。

「そちらにいるのは、人修羅ですね!?」

「君は?」

「ニヒロ機構将官、レヤックのカエデです! 今、戦う気はありません! 対スペクターの、共同戦線を提案します!」

「分かった! 此方は非戦闘員が多い! 脱出を支援してくれ!」

人修羅が豪快に拳を叩き込み、スペクターの一匹を吹き飛ばす。広場に次々と入ってくるスペクターだが、マネカタ達にはなかなか手が届かなかった。だが、広いホールである。人修羅一味の内、飛行能力を持つのはピクシーとフォルネウスだけ。それに対して、敵は全てが空を飛ぶことが出来る。人修羅は驚異的な跳躍力を生かして、縦横無尽にホールを飛び回っているし、ヤクシニーも素早い剣捌きでスペクターどもを斬り伏せているが、限界がある。今も一人、一人と縄ばしごで脱出させているが、それでも手が回らない。

「ひぃっ!」

マネカタの一人が、悲鳴を上げた。ピクシーの雷撃と、フォルネウスの冷気をかいくぐったスペクターの一匹が、躍り掛かったからだ。巨大な口が、マネカタを丸呑みにせんばかりに広がる。人修羅も、配下も間に合わない。フラウロスは舌打ちすると、跳躍。

「やらせるか!」

剣を振り、たたき落とす。ぶった切ったスペクターは、悲鳴を上げながら同類に激突、吹っ飛んで粉々になった。

「舐めてくれたものだな、スペクターぁ!」

着地。大きく揺れている縄ばしごに尻込みしているマネカタ達に、叱責した。

「早く行け! 足手まといがいない方が、戦いやすい!」

「は、はいっ!」

臆病で、惰弱。苛々する奴らだ。だが、人修羅と一時的にでも共同戦線を張る以上、守ってやらなければならないのが面倒くさい。激しい戦いを繰り広げている部下共に、二三匹斬り伏せながら、指示を飛ばす。

「貴様ら、航空支援だ! 半数はカエデ将軍を守れ! 残りはピクシーとフォルネウスを援護しろ!」

「了解しました!」

部下達の中で、飛行能力を持つ者達が、さっと舞い上がる。みな、この日のために鍛えてきた精鋭だ。それぞれ見事な連携を見せ、制空権を抑えるまではいかないが、スペクターの勢力侵食が遅れる。吠え、また一匹を斬り伏せた。この機にと、マネカタ達が縄ばしごを這い上がっていく。満足に身動きできないものは、健常な者が体に縄で縛り付けて、自分ごと運んでいった。思ったよりも、ずっと良く連携できている。

さっと、人修羅の方を見る。やる。部下共々、かなりの使い手が揃っている。戦いに勝ち続け、マガツヒを大量に喰らったからだろうか。それとも、アサクサで養っているマネカタ達から採取したマガツヒを、少数の悪魔で独占しているからだろうか。

「十二秒、稼いでください!」

カエデの声が飛んできた。大体、やりたいことは分かった。フラウロスも戦いながら、気付いていた。

カエデがさっき作った地図は、頭に叩き込んでいる。それを考慮すると、一カ所を完封することで、敵の進撃は粉砕することが出来る。印を組み、詠唱を始めるカエデ。さっとその前に立ちふさがると、大上段に剣を構え上げた。スペクターどもも、カエデの詠唱に気付き、戦術を切り替えてきた。

数体が合体。筒状に変形すると、鉄砲魚のように、酸を吹きかけてきたのである。

しかも、狙いは単一。酸の水鉄砲は、いずれもがカエデにまっすぐ向かっていた。

身を挺して盾になろうとする部下達。だが、フラウロスはゆっくり彼らの前に立ちふさがる。そして、痛烈に踏み込むと、剣を振り下ろした。

剛剣一閃。

爆発的な風圧が、酸の水鉄砲を蹴散らす。カエデの詠唱が聞こえる。もう少しだ。スペクターどもの真横から、無数の氷塊が叩きつけられる。マネカタ達の撤退支援の必要が無くなったフォルネウスが、援護を開始したのだ。続けて雷撃の束が、スペクターを襲う。弾けて吹っ飛ぶ。辺りを、膨大なマガツヒが覆っていく。

眉をひそめた。これだ。これが、速度にものを言わせて戦っていたオセの感覚を鈍らせた。同じ手が通じるとは思っていないだろうが、どう出る。

次の瞬間、不意にスペクターどもの動きが、早くなった。

「気をつけろ!」

後、四秒。鋭い動きを見せながら、襲いかかってくるスペクター達を、二匹、三匹と斬り伏せる。肌がちりちりする。そして、気付く。辺りの空気が、強い酸の霧を含んでいる。なるほど、マガツヒだけではなく、これを充満させていたか。何人かの堕天使が、胸をかきむしる。そして、動きが鈍ったところを、容赦なくスペクターが襲った。悲鳴を上げて引きはがそうとする堕天使に、何匹と無く、重なっていくスペクター。すまん、耐えてくれ。フラウロスは念じながら。剣圧で、また数匹を吹き飛ばした。

カエデが、目を見開く。

詠唱が、終わったのだ。

鋭い音と共に、カエデが胸の前で手を打ち合わせた。そのまま、前に向けて突き出す。手が光に包まれ、膨大な魔力が宿っているのが、傍目にも分かった。辺りに散っていたスペクターどもが、また違う動きを見せ始める。

「金星の主たる墜ちた天使の名において、我は力の矢を撃ち出す。 それは粉砕。 それは滅び。 そしてそれは、裁きのいかづち!」

「ギイイイイイイ! ガアアオオオオオオッ!」

鋭い音を立てて、辺りのマガツヒがカエデに収束していく。それを恨むように声を上げながら、スペクターが一カ所に集まっていった。あれは、以前報告にあった。合体して巨大化し、一撃を耐え抜くつもりか。

カエデが、術を起動する、最後の一節を唱え終える。同時に、圧倒的な光の渦が、辺りを蹂躙した。

「メギドラ!」

光が、スペクターに襲いかかる。巨体を吹き飛ばし、一気に押しつぶす。

そして、爆発が巻き起こった。

 

濛々たる煙が晴れてくると、スペクターの増援はいなくなっていた。

部下の堕天使達は、何とか全員生きている。人修羅の部下共も、傷つきながらも健在だ。

メギドラをピンポイントで撃てるとは聞いていた。しかし、此処まで威力を収束させることが出来るとは。俊英であることは分かっていたが、これほどまでとは。フラウロスは、舌を巻いていた。メギドラを使える上級悪魔は多々いるが、此処まで威力を見事に操れるのはこの娘くらいだろう。

カエデが撃ち抜いたのは、スペクターが侵攻路にしていると思われる一点。先ほど見た地図と、スペクターが現れる穴をあわせて考えた結果、自然に割り出すことが出来た場所であった。

片膝を着いて、剣を盾に爆圧を耐え抜いたフラウロスは、舌打ちする。

確かに増援は断った。だが、巨大化したスペクターは、体の半分ほどを削られただけで、無事だ。術の高い収束性が、却って災いした。肩で息をついているカエデを後ろに庇いながら、しかし気付く。奴の動きが、止まっている。

好機。剣を構え上げると、走る。

恐らく、同じ事を考えたのか。人修羅も、跳躍していた。

「合わせろ、人修羅ぁっ!」

「応っ!」

技は出来るだけ出すなと、言われている。しかし、今更そんな事も言ってはいられない。奥義になる技は見せられないが、それでも、力を抜いて戦える相手ではない。走りながら、剣に力をため込む。

魔力を込めた剣が、発火し、真っ赤に燃え上がる。

人修羅よりも、高く飛ぶ。スペクターが、唸りながら、動き始める。

大上段に振りかぶった剣の先端に、光が宿ったような気がした。

「うぉおおおおおおおおっ!」

吠える。全身の力を、極限まで引き出す。無数の触手を、スペクターが伸ばしてきた。その全てが鋭く尖っていて、フラウロスの体を掠め、抉った。鮮血がぶちまけられるが、気にしない。

この程度、何でもない。

気合いと共に、剣を振り下ろす。

オセの剣が、速き一撃だとすれば。フラウロスの剣は、必倒の一撃。深々と、スペクターの巨体に食い込む。絶叫。スペクターの動きが、止まる。続けて、触手をかいくぐった人修羅が拳を、右からスペクターに叩き込む。

凄まじい、重い拳だ。トールほどではないが、フラウロスをして目を見晴らせるほどの破壊力である。二歩飛び退くと、人修羅は開いている左手を握り込む。同時に、さっき突撃する瞬間、上にはなっていた無数の光が、槍となってスペクターに突き刺さった。

「ガ! お、オノレ、オノレエエエエエエッ! オノレエエエエエエエエエッ! ニドマデモ、オレヲ! コノオレヲオオオオ!」

「……砕けろ!」

人修羅の言葉と共に、無数の光の槍が、一斉に炸裂。

爆発が収まった時。

巨体を誇ったスペクターは、もはや影も形もなかった。

 

スペクターの気配が消滅したのを確認したフラウロスは、部下達の状況を確認しながらカエデを見るが、彼女は首を横に振る。本体は多分別の所にいるという意味か。しかし、当分再起はかなわないだろう事も、事実であった。

一旦アマラ経路を出て、砂漠の影に人修羅が作っていたらしい休憩所に潜り込む。既に百以上のマネカタが、其処に避難していた。マガツヒを分けて貰う。回復術を連続で掛けて、ふらふらになっていたサナというピクシーは、生き返ったような表情をしていた。それを見守っていたフラウロスだが、佇まいを改めて、マネカタ達の様子を確認していた人修羅に言う。

「礼を言う。 我らだけでは、大きな被害を出していただろう」

「こちらこそ。 貴方は確か、ニヒロ機構のフラウロス将軍だったな」

「ああ。 幾つか、聞かせて欲しい事がある」

フラウロスは、眼を細めた。ニヒロ機構の将軍として、此処で戦うつもりはない。だが、フラウロス個人として、聞いておきたいことはある。

「オセの最期を、看取ったんだろう? あいつは、俺の親友だった。 どんな風に、あいつは死んだんだ? 聞かせて、くれないか」

「オセは、立派だった。 剣を極めたこと。 それに息子を守り抜いたこと。 どちらにも満足していたようだった。 あんな凄い奴は、東京受胎の前には、実在する事さえも信じられなかったかも知れない」

「……そうか。 あいつらしい」

フラウロスは、涙がこぼれてくるのを覚えていた。人間の要素が影響しているのだろうか。何度か乱暴に拭う。だが、それでも、涙はこぼれてきた。

しばし、男泣きする。他にも、話を聞いて、泣いている堕天使はいるようだった。

「すまない。 傷が酷すぎて、助けることは出来なかった」

「詫びることではない。 あいつを殺したのは、お前じゃない。 あのスペクターの野郎だ。 だが、最後を見たのが、お前で良かったかも知れない」

「ニヒロ機構は、思想が極端すぎる。 何とか、現実的な創世を考えられないのか。 そうすれば、俺も、手を貸せると思う」

「悪いが、それは旧世界の観念だろう。 俺は東京で生活したことがあるが、あの世界での現実主義が、普遍的なものだとは思わなかった」

フラウロスは、それ以上は答えなかった。人修羅も、無理に答えを求めようとはしなかった。

部下達の手当が終わると、カエデを促して、帰途につくことにした。帰り道。アマラ経路を歩きながら、フラウロスは聞いてみる。

「どうだ。 何とか、なりそうか」

「はい。 幾つか分かったことがあります。 少し時間をいただければ、無力化してみせます」

「それは、心強いな」

その割に、カエデの表情は暗い。見れば分かる。何か、技術的にクリアできないものがあるのだろう。

振り返る。オセと一緒に戦ったあの堕天使は、傷ついた仲間に肩を貸していた。何だか晴れ晴れとしているのは。今度は勝つことが出来たから。誰も死なせなかったからかも知れない。

それにしても、人修羅。奴はひょっとすると、スペクター以上の敵になるかも知れない。

帰ったら、もし戦う時にはどうするべきか。戦術を練っておこうと、フラウロスは思った。

 

5,女王となりうる者

 

砂丘を踏みしめて、トールはついに辿り着いた。そして、笑みを浮かべる。側に悪魔がいたら、恐怖で卒倒するような、禍々しい笑みを。

見つけたのだ。マントラ軍の新たなる指導者になりうる存在を。

その娘は、今実力で叩きのめしたらしい中級天使ヴァーチャーの頭を踏み、無理矢理土下座させていた。サディスティックな笑み。ブーツで天使の頭を踏みにじる様子には、歓喜さえ感じられる。

名前は、既に突き止めている。橘千晶。初めて聞く名ではない。人間だった頃に、彼女の家族と、面識があったからだ。といっても、親密な関係を築いていた訳ではない。叩きつぶしたヤクザが何度か千晶の父に泣きついて、その顔を立てて許してやったことがあった。その程度である。

千晶についても、それとは別方向から知ってはいた。国体で圧倒的な成績を収めた娘で、空手の試合でも、幾つかの大会で輝かしい成績を収めていた。一度、見に行ったことがあった。だが、その時はまるで食指が動かなかった。というのも、武術に興味がないのが、目に見えていたからである。やる気のない奴は、才能があっても大成しない。そして今のレベルが低い大会で、上位に残ることなど、意味はない。

実際問題、当時の白海琴音と戦わせてみたら、一方的な戦いになっただろう。琴音には大会出場をさせなかったから、千晶は女王として君臨していた。当時の実力差は、ざっと見たところで倍以上は開きがあった。その程度の存在に過ぎなかった。

だが、今の千晶は、どうだ。

「フフフ、さあ、もう一度言いなさい!」

「貴方は、私の、主人です! 千晶よ!」

「アハハハハ! そうよ! 私が! この橘千晶が! ボルテクス界の! 支配者になるのよ!」

ぎらついた、あの目。支配に全てを注ぎたいと、真剣に考えている、あの飢えた狼のような瞳。

実力は、まだ完全とは言い難い。まだ、「人間である」という特異性に甘えている所がある。しかし、磨けば幾らでも光る。側にいる上級悪魔は、ベルフェゴールか。かなりの変わり者だと聞いていたが、人間を見る目はあるらしい。これは、面白いことになってきた。

跳躍。そして、千晶の至近に着地した。

千晶の周囲には、取り巻きらしい下級や中級がごろごろいたが、トールの突然の出現に、悲鳴を上げるばかりである。千晶は怯えることもなく、トールを見据えた。飛び退いたベルフェゴールが、緊迫に声を引きつらせる。

「千晶! 逃げなさい! そいつは!」

「雷神トールよね。 私を、迎えに来たのかしら?」

「ほう? 何故そう思う」

「ベルトはメギンギョルズ、ハンマーはミヨニヨル。 雷神トールの代表的な、シンボルとも言える武具だわ。 貴方の格好の全てが、正体を露呈しているの。 それと、私を迎えに来た、と推察した理由だけれど」

立て板に水を流すがごとく。千晶は、トールの現れた理由を、見透かしてみせる。

「中核であるゴズテンノウが欠けたマントラ軍に、新たなる指導者が必要だから、でしょう?」

「ほう、なかなかよく分かっているな」

「しかし、今は駄目だわ」

「何?」

千晶は、見据える。その先には、必死にミカエルが指揮をして建設を進めている、天使軍の拠点シナイ塔があった。

「今のマントラ軍じゃ、ニヒロ機構には力負けするって言ってるのよ。 せめて、あいつらを取り込むくらいのことをしないとね」

「ほう? 異教の神々とあれほど相性が悪い天使どもを、配下に引きずり込むと? 面白いことを考えるな」

「天使なんてものは、ゾロアスター教にて概念が作られ、様々な宗教に取り入れられている、普遍的な存在よ。 近代的にイメージされる天使はユダヤ教とキリスト教が作り上げたものだけれど、それもギリシャ神話や他の宗教からも形状を取り入れている、絶対的なオリジナルじゃない。 つまり彼らはキリスト教とユダヤ教のおかげでメジャーになっただけの、他の宗教と同じ、ごった煮の概念的存在。 そんな出自だから、特定の宗教を求めているんじゃない。 天使どもに必要なのは、唯一神に代わりうる指導者よ。 つまりそれに、私がなればいい」

そのためには、もっと強大な力がいると、千晶は愉悦を湛えながら言った。トールは、舌なめずりをしそうになった。これだ。噂通りの、力への渇望。飢えた魂は、やがて全てを食らいつくそうと、砂漠で燃え上がるだろう。

それでいい。力を求める組織の長は、それくらい貪欲なのが一番だ。

「それで、力をどうやって手に入れるつもりだ?」

「ヨヨギ公園を、攻め落とす」

なるほど、狙いはヨヨギ公園を支えているという神具、ヤヒロヒモロギか。正体については様々に噂されているが、あのニヒロ機構を何度か押し返した力の根源である。確かに、圧倒的な力を授けるには充分な代物であろう。

「協力しなさい、雷神トール。 新世界に、連れて行ってあげるわ」

「ふむ。 ……いいだろう」

しばらく、この我が儘で、だが素晴らしい素質を秘めた小娘を鍛え上げるのも良いだろう。ベルフェゴールの不審の視線を浴びながら、トールは千晶の前に片膝を着いた。千晶は天に向けて哄笑する。

既に彼女の配下には、150を超える悪魔が集っていた。

 

(続)