悪夢の天矢

 

序、ゴズテンノウ

 

マントラ軍の本拠であるイケブクロは、俄に騒然としていた。中央に聳え立つ本営からは、その喧噪の理由を、直接見て取ることが出来た。

天使軍である。数はおよそ1万。空を埋め尽くすほどの大軍が、整然たる陣形を組んで、イケブクロを伺っていた。陣形から言って、包囲する気はなく、これから攻撃し、殲滅することを目論んでいる。

兵力の空白地帯となったイケブクロを狙っての行動であろうが、あまりにも露骨すぎる。鬼神達は恐怖を感じると同時に、あきれ果てている者もいた。誇りを知らぬ、火事場泥棒がごとき行動。天使は下級ばかりだが、その中には七天委員会の一角であるラジエルの姿もある。

マントラ軍本営の頂上部から、姿を見せた巨体。それは、マントラ軍の総帥。ゴズテンノウであった。上半身裸のゴズテンノウは、空に陣を組む天使どもをみやると、おもむろに指笛を吹く。

姿を見せたのは、通常のものより、二回りも大きい鵬であった。

ゴズテンノウの騎乗用になっている、鵬一族の長である。

「ゴズテンノウ様、お呼びでしょうか」

「うむ。 愚かな食用鳩どもの、羽をむしりに行くぞ」

ゴズテンノウが手にしているのは、愛用の武具。斬馬刀と呼ばれる、超大型の刀剣である。ジョカとフッキに作らせた、マガツヒを吸収して幾らでも強くなる一品だ。奴らがマントラ軍に加入する時に、献上品として差し出してきたものである。

鵬の背に跨ると、ゴズテンノウは号令一つ。空に舞い上がる。

ゴズテンノウは、最強であることによって、マントラ軍を支配してきた。トールでさえ、ゴズテンノウとは戦いたがらない。戦闘スタイルの違いもあるのだが、それでもゴズテンノウがトールを従えている事に違いはない。

従えること。それが、マントラ軍の、唯一の法。そして、ゴズテンノウが依って立つ土台である。

ずっと昔から、そうしてきたような気がする。いつからかは、思い出すことが出来ない。だが、この地に立ってからは、ずっとそうだ。鬼神どもを腕力で従え、やがてトールとも出会った。トールを従えてからは、マントラ軍は組織としての体を成し、加速度的に部下が増えていった。やがて、イケブクロを手に入れて。其処に本拠を置いた。マントラ軍がまがりなりにも国家と呼べる存在となったのは、それからである。

今では、ニヒロ機構に決戦を挑むほどの戦力が、ゴズテンノウの元に集まっている。そして、ゴズテンノウが最強だからこそ、マントラ軍は存在しているのだ。

だから、こういう機会には、力を示さなければならない。

居残り組のバイブ・カハや龍族が、続々と空に上がっていく。天使軍の攻撃があっても凌ぎきれるように編成された部隊である。彼らの先頭に立ち、ゴズテンノウは高度を上げた。天使どもが、無数の術を放ってくる。堕天使に比べ、身体能力は若干劣る天使どもだが、術の実力に関しては上回る。

まるで驟雨のような火球をかいくぐり、ゴズテンノウは刀を抜く。膨大なマガツヒを吸った刀が、風を切り、獲物を求めるような音を立てた。

何度もは使えない。一度振るう度に、蓄えていた膨大なマガツヒを消耗するからだ。だが、今は剣を振るう時。そして、力を見せつける時なのだ。力を出し惜しみするのは愚の骨頂。初撃にて、最大の一撃を叩き込む。

「見せてやろう、我が力を! 居留守狙いの、卑しい食用鳩どもが!」

大上段に構える。鵬が、高度を天使どもに合わせた。飛んでくる術など意にもかいさない。時々鬱陶しげに手で払いのけながら、詠唱を続ける。

そして、剣に蓄えられたマガツヒを、全て破壊力に切り替えた。

赤い輝きを放つ斬馬刀を、振るい抜く。

「メギ・ドラ・オン!」

閃光が、イケブクロを漂白した。

続けて、小型の核爆発にも匹敵する火力が、炸裂する。

ゴズテンノウが剣を鞘に収めた時には、既に天使どもは戦力を半減させ、撤退を開始していた。喚声が巻き起こる。ラジエルは仕留め損ねたようだが、したたかな損害は与えた。天使どもに、しばらく侵攻の余裕はないだろう。

これで、マントラ軍の備蓄マガツヒはほとんど底を着いてしまった。カブキチョウからの輸送を待たなければ、かなり厳しいことになる。侵攻軍の様子も気になるし、本営に戻ったら一度残っている幹部を集めて会議を開かなければならないだろう。

地上は沸き立っている。鵬からそれを見下ろして、ゴズテンノウは満足した。ゴズテンノウは、自身が俗物である事を理解している。歓声を受けるのは、気持ちが良い。崇拝されるのは快感でさえある。

もちろん、そうであるとは周囲に見せない。それが支配のコツであった。

上機嫌で、ゴズテンノウは鵬を促し、本営に戻るように指示。備蓄は使い切ったが、後は吉報を待つのみ。トールならば、必ずや敵を蹴散らしてくれるはずだ。

ゴズテンノウの上機嫌は、それに気付くまで続いた。

ふと、全身が総毛立つような悪寒が、ゴズテンノウを包んだ。見上げる。何だか、色彩が無くなっている。カグツチの隣に、別の光源がある。それが、全ての光を吸い取っているように、見えた。

兵士たちも騒ぎ始める。嫌な予感を覚えたゴズテンノウは、詠唱を開始。防御術を展開するべく、印を切った。

次の瞬間。

全てが、無に包まれた。

絶叫。悪魔たちが、全身のマガツヒを吸い取られ、ばたばたと落ちていく。龍族までもが、長い体でのたうちながら、地面に激突した。イケブクロの彼方此方で、濛々と煙が上がり始める。墜落した悪魔たちが、激突したのだ。

鵬がバランスを崩すが、ゴズテンノウは耐え抜いた。今まで体に蓄えたマガツヒが、ことごとく抜き去られていくかのようだ。なんだこれは。なんなのだ。術によるものだという事は理解できる。だが、一体どうして。

ニヒロ機構の名が、鮮烈にゴズテンノウの脳裏に浮かび上がった。

おのれ、卑劣な。ゴズテンノウは跳躍。力を無くした鵬の長が、墜落していった。本営の頂上に着地。

このままでは、全身の力を吸い尽くされてしまう。防御術を唱え、展開。マカラカーンと呼ばれる、全ての魔術を反射するものなのだが、まるで効果がない。巨体がよろめく。玉座の間に、ふらつきながら、入っていく。

近衛兵たちが、点々と散らばっていた。いずれも武勲を積み上げた精鋭たちなのに。皆、為す術無く転がっていた。戦うことさえ許されず、彼らは散ることになったのだ。その無念は、いかほどであっただろう。

玉座に腰掛けると、ゴズテンノウは目を閉じる。もう、逃げる暇も余裕もない。それならば。少しでも力を温存するために、やっておかなければならないことがある。

勝ったにしても負けたにしても、トールは間もなく帰ってくるはずだ。その時、奴に託さなければならない。

この世界が、ニヒロ機構に支配されることだけは、避ける。ゴズテンノウの命に代えてもだ。

ゴズテンノウは知っている。どこか遠く。遙か昔の気もする。

権利ばかり主張する無能な弱者どもによって運営された社会が、如何に愚かな無駄の集積地であったか。あのような社会を、ニヒロ機構は更に拡大して作り出そうとしている。法などは、力で充分なのだ。それなのに、奴らは分かっていない。あのような奴らをのさばらせていては、確実に同じ事が繰り返されてしまうだろう。

ゴズテンノウは、顔を上げた。

どこかで、見えた。

笑わなくなってしまった、親しい者が。物質で心を埋め合わせようとしたが、心が離れてしまった者。

思い出せない。名前は、どうしても、脳裏に浮かんでこなかった。

 

1,悪夢の直撃した土地で

 

ギンザ近郊の死闘。後に第一次ギンザ会戦と呼ばれる主力決戦で、マントラ軍は一敗地にまみれた。

敗走を続けていたマントラ軍が、ようやくニヒロ機構軍の追撃を振り切り、国境に逃げ込んだ時には。既に戦力は半減し、無傷な者は殆どいなかった。広目天を失い、マッハは負傷。龍族の何騎かも落とされた。最後尾で逃げ込んでくる味方を守り続けていたトールの部隊も、大損害を免れることは出来なかった。

幹部の死者は多くなかったが、一般兵の損失があまりにも多い。ユウラクチョウとシブヤを包囲していた部隊も追撃を受け、最終的な損害は18000を超えた。ニヒロ機構軍も13000を超える被害を出したと推定されているが、数は最初から向こうが多い。当分、マントラ軍に侵攻の余裕はない。まず、壊滅的敗北と言っても過言ではない。

マントラ軍は、全財産を擲っての賭けに敗れた。今後は守勢を保ちつつ、マガツヒを集め、ニヒロ機構の隙をうかがっていくしかない。借金をしていないことだけが救いだが、下手をするとそれすら危うくなってくる。とりあえず、当面はカブキチョウに戦力を集中して、生命線であるマガツヒ生産施設だけは守らなければならないだろう。全ては、それからだ。

毘沙門天も同じ事を考えたらしく、カブキチョウに戻る水天に、敗残兵の多くを預けていた。不眠不休で働き続けていた毘沙門天は、流石に疲労の色が濃い。トールは、散々敵兵を殺して喰らったから、まだある程度の余裕がある。だが、毘沙門天は指揮に徹していたから、それもない。

兵士たちは、流石に毘沙門天を恨んでいる者がいるようだ。結局の所、指揮能力が足りなかったのだろうとも、トールは思う。肝心なところで、戦場の狂気を統率しきれなかった。それが、ニヒロ機構の縦深陣に、味方を引きずり込ませる結果を生んでしまった。だが、毘沙門天は常に敵の動きを読んで、手を打ち続けていた。

責任の所在は、難しい。

それに、毘沙門天を失うと、今後ニヒロ機構に対抗するのは、とても難しくなってくるのも事実だ。

額の汗を拭っている毘沙門天に、トールは歩み寄る。中軍では、眠っているアメノウズメの介抱を、サルタヒコが続けていた。彼らの様子を見に来た事もある。如何に疲労しているとはいえ、毘沙門天も、トールの接近には気がついて顔を上げた。

「トール殿」

「疲労が濃いようだな。 持国天か増長天辺りに指揮を任せて、休んだらどうだ。 或いは、俺が指揮を執っても良いのだが」

「いえ、そうも行きません。 今回の戦では、自分の失態で、こうも損害を増やしてしまったのですから」

「そういうのなら止めぬが。 だが、今貴様まで失ったら、マントラ軍は立ち直れなくなるだろう。 あまり無理はするな」

トールにはもう一つ懸念があるのだが、それには敢えて触れずにおく。今、兵士たちに不安を与える訳にはいかないからだ。罪悪感にうつむいた毘沙門天の肩を叩くと、トールはいくらかの指揮を引き受けて、味方の撤退を支援した。

残余の兵の六割ほどをカブキチョウに振り分け、先に帰らせる。比較的無事なものを選抜して、国境警備用の兵士たちを残す。指揮は増長天に任せた。増長天であれば、敵の攻撃にも、簡単には崩されないだろう。慎重に考慮した結果、兵の半数を此処に残すことにした。

多くの戦力を失った点では、ニヒロ機構も同じだ。幹部クラスの被害は向こうの方がむしろ多大である。何しろ、トールが前線で暴れ回り、片っ端からぶっ殺したからである。勝者であるニヒロ機構軍にも、即座に進撃してくる余裕はないだろう。天使軍の脅威もあるし、連中もしばらくは兵と組織の再編成に掛かりっきりになるはずだ。もちろん、マントラ軍よりも早く、戦闘態勢を整えられるだろうが。

敗軍を引き連れて、行く。負傷の酷い者はカブキチョウに向かわせた事もあり、倒れる兵は少なかったが、それでも時々出た。マガツヒに散じてしまう者もいた。

四天王寺にも兵力を振り分けると、残余の兵力は僅かになった。イケブクロには、天使軍の攻勢を考慮して、多くの兵力を残してある。しばらくは新たな兵を徴募しなければならないなと、トールは思った。その時。無事だったバイブ・カハの一騎が、戻ってきた。ゴズテンノウに敗報を届けさせるべく、放ったものだ。旋回し、トールを見つけると下りてくる。顔にはありありと焦りが浮かんでいた。

「トール将軍!」

「どうした、何事だ」

「そ、それが! それが!」

急かさず、トールはそのまま待つ。どうやら危惧が的中したらしいと、思った。だが、口には出さない。トールの部下たちは、不安げに顔を見合わせていた。

「イケブクロが、壊滅しています! ゴズテンノウ様の生死は不明です!」

「なんだとっ!」

「落ち着け、サルタヒコ。 具体的な状態を把握してから、イケブクロに入城する」

比較的無事な者が多い持国天の部隊を集める。あまり戦闘には向いておらず、後方支援ばかりしてたからだが、こう言う時には貴重だ。

「お前たちは、被害者を救援する準備をしておけ」

「トール将軍は、どうなさるのですか」

「まず、俺が中の様子を探ってくる。 毘沙門天!」

後に残していく者達を統率するのは、毘沙門天だ。というよりも、部隊を殆ど振り分けていたのが、むしろ幸いだった。国境線当たりでこの情報がもたらされていたら、殆どの兵が逃亡して、軍はそのまま消滅してしまっただろう。

「後は任せる。 しっかり、兵士どもの不安を抑えておけ」

「分かりました。 トール殿も、気をつけて」

「ああ。 お前も無理はするな。 持国天、しっかり支えてやれ」

いつも軽い雰囲気の持国天も、真剣な表情で頷く。音楽にしか興味のない男だが、今破滅すれば、それどころではない事くらい分かっているのだろう。

トールは、先ほど目を覚ましたばかりのアメノウズメと、サルタヒコと。古くからの部下だけを連れて、本拠であるイケブクロに向かう。

イケブクロは、しんとしていた。生の気配が殆ど無い。出てくる時の、猥雑なまでに生命力に溢れたイケブクロと同じ都市だとは、とても思えない。

何が起こったのだ。

城壁は、殆ど無事だ。本営に到っては、遠目で見る分には、傷一つ無い。ぱらぱらと、城門から逃げ出してくる影がある。マネカタだ。マネカタたちは、トールを見ると、ひいっと悲しげな声を上げた。サルタヒコが鬼神たちに指示を出そうとするのを、制止する。トールは大股で歩み寄ると、逃げ遅れた一匹をつまみ上げた。逃げ散る連中には、敢えて構わない。

「何があった。 正直に話せ」

「た、たすけ、助けて!」

「正直に話せば、食わずにおいてやる」

何度も頷いた中年男のマネカタは、トールに怯えながらも、少しずつ話し始めた。

イケブクロに、天使たちが攻めてきた事。ゴズテンノウが、一撃で奴らを蹴散らして、壊滅させたこと。

その直後。天から降り注いだ光が、辺りのマガツヒを、全て吸い上げ始めたこと。

光は禍々しい赤で、マントラ軍の本営を直撃したという。それと同時に、マガツヒが吸い上げられ、悪魔はばたばたと倒れていったのだとか。

トールは絶句した。それが何を意味するか、悟ったからだ。マネカタを放り捨てると、部下たちを残して、自分だけで池袋に入る。

そして、見た。

既に、イケブクロは。混沌からなる秩序を、喪失していた。

特に悪魔たちは壊滅状態であった。地面でもがいて苦しんでいる者がいる。壁により掛かって、動悸を整えようとしている者もいる。特に、上級の悪魔ほど、酷い打撃を受けているようだ。トール自身も、全身の力が吸い上げられるような感触を覚えた。だが、気合いで克服する。

まだ息があるものもいた。だが、マントラ軍本営を中心とする地域は損害が凄まじい。天に向けて上り行くマガツヒ。体からこぼれるマガツヒを、必死に掴もうとしてもがいている悪魔がいた。そのまま力尽きて、マガツヒに散じてしまう。弱い悪魔たちは、既に逃げ出したようだ。皮肉な話である。強き者になればなるほど、大きな損害を受ける攻撃が、加えられたとは。

マントラ軍の思想を、完全に逆用した攻撃。トールの危惧は、当たったことになる。

本営にはいる。急いで階段を駆け上がる。地下のマネカタどもはどんどん逃げ出しているようだが、構う暇はない。ゴズテンノウはどうなった。生きているのならば、救出しなければならない。

トールが戦いを楽しめるのも、組織に君臨するゴズテンノウがいるからだ。そうでなければ、トールは組織の長に祭り上げられて、部下の面倒を見なければならないし、他にも雑務が増える。己を鍛え上げるための時間は減る。高品質の戦いをする機会はもっと少なくなる。それは、嫌だ。

結局の所、ゴズテンノウとトールは利用し合う関係であった。ゴズテンノウも、トールが心服していないことなど気付いていただろう。だが、利益がある限り、裏切ることはないとも理解していたはず。トールに関しても、それは同じだ。

しかし、もし生きているのなら、自力で脱出するのではないかとも、トールは思う。結局の所、これは危険を冒して、無為な行動をしているだけではないのか。

最上階まで、登り来た。

結局、此処まで来てしまった。息が乱れるのは、マガツヒを吸い上げられているからだろうか。周囲を見回す。近衛兵たちは既に息絶えているらしく、亡骸はなかった。武具の類も殆ど見あたらない。みな、マガツヒに散じてしまったのだろう。

天使どもも優れた技術を持っている。だが、此処までのことが出来るのは。間違いなくニヒロ機構だ。奴らが何か罠を仕掛けているのは分かっていた。だが、まさかイケブクロを瞬時に壊滅させる事が出来るほどであったとは。

謁見の間に行く。

ゴズテンノウが、其処にいた。椅子に座り、頬杖をするようにして、トールを見ていた。いや、これは違う。ゴズテンノウでありながら、そうではない。

「トール将軍か」

口を動かさずに、ゴズテンノウが言った。トールは跪いたが、同時に理解する。

空から降り注いだ何かしらの攻撃で、ゴズテンノウは致命傷を受けた。だが、まだ死ぬ訳にはいかないと思ったのだろう。

体を石像と化すことにより、破滅と消滅を防いだのだ。

膨大な憎悪を感じる。自らの体に蓄えたマガツヒを、憎悪によって増幅し、かき回すことにより、消滅の時間を少しでも遅らせようとしているのだろう。執念が、ゴズテンノウの体を支えていた。

だが、その損傷は、傍目にも大きい。体の何カ所にも、既に罅が入ってしまっている。いずれ、完全に、崩れて散るだろう。

「その様子では、負けたか」

「御意。 ニヒロ機構の将官を、多く討ち取りはしましたが」

「口惜しや、ニヒロ機構め。 奴らが提唱する、静寂の世界が、これで来てしまうと思うと、腸が煮えくりかえる。 許せぬ。 許す訳には行かぬ」

ゴズテンノウは、目を文字通り光らせた。イケブクロが揺動するほどの憎悪が迸る。

長く仕えては来たが、結局この男と心を通わせることはなかった。何がこうまで混沌と力の世界を渇望するのか、分からなかった。己の拳を極める事だけを考えている、トールとは違う。ゴズテンノウは、より強い権力志向の持ち主だったからだ。最強の俗物だと、考えていた。

だが、それでも。トールはゴズテンノウを憎んではいなかった。むしろトールは初めて、この時ゴズテンノウを知った。この男は、己の思想を、本気で愛していた。だから、ニヒロ機構とは絶対に相容れなかった。結局の所、マントラ軍は幼稚で稚拙な恐怖政治を敷いていたに過ぎない。それに対し、ニヒロ機構はかっての世界でも実現していなかった、極めて高度な法治主義を実践していた。和解の道は、最初から無かった。このマントラ軍の首領に、彼が座った事で、両者の決戦は確定していたとも言える。

トールと、力を巡る思想は微妙に異なっているかも知れない。だが、今、トールは。ゴズテンノウに、感情移入していた。彼らしくもない。戦鬼らしくもない感情に、全てが支配されていた。

「トール将軍」

「は、何か」

「もはや、このゴズテンノウは滅びる。 だが、そのまま滅びはせん」

玉座に朽ちようとしながらも、ゴズテンノウは執念のまま、怒りを迸らせる。それは、己が断たれる事に対する怒り。ニヒロ機構に破れたことよりも、己の思想が滅びようとしている事に対する憎悪。

「後継者を、探して欲しい。 儂の理想を継ぎ、ニヒロ機構の野望を砕く人材を」

「……分かりました。 このトールが、必ずや」

「頼むぞ。 そのものが来るまで、儂は死なぬ。 必ずや、此処で待つ」

声は、聞こえなくなった。自己保存に、全力を傾けることにしたのだろう。

これで、マントラ軍は滅びたも同然。現状のままでは、いずれニヒロ機構に、全てが飲み込まれることになるだろう。

トールは本営を出る。色々と、これからやることがある。残存勢力をまとめ上げるには、ジョカとフッキでは力不足だ。かといって、トールに新しい君主になる気など無い。かといって、毘沙門天にも無理だろう。奴は部隊指揮にて、ニヒロ機構に負けたという汚点がある。兵士たちは一人も着いて来まい。

途中、生き残っている奴の中から、息がある者を運び出す。その中には、以前見かけたチュルルックもいた。何度か往復する間に、何気なく地下も覗いた。其処に捕らえられていた勇とか言う人間は、まだ捕まっているようだが、放っておく。今はそれどころではない。それにあの人間は惰弱で、とても創世の大役を務められるとは、トールには思えなかった。マントラ軍には、もっと強力で欲望にぎらついた人間が必要だろう。

外で待機していた者達は、大体の事情を察したようだった。これから、マントラ軍は一気に崩壊していくことになるだろう。さて、トールはどうするか。

「トール将軍」

「情けない声を出すな、毘沙門天」

「しかし、このままでは、我が軍は」

「死にたくなければ、カブキチョウと四天王寺で戦力を整えろ。 ニヒロの思想に、力を正義とする者達は不要だ。 下手に脱走しても、いずれ各個に狩られて皆殺しにされるだけだと、兵士たちには思いこませろ」

毘沙門天は蒼白なまま頷いた。此奴はこれでいい。放っておくと、カブキチョウでは、しばらく内紛が繰り広げられるだろう。そうなる前に、トール自身が乗り込んで、やっておくべき事がある。

まず、配下を二手に分ける。比較的仕えている時間が浅い者達を、自分で率いる。信頼の篤い者達は、サルタヒコとアメノウズメに全員預けた。

「サルタヒコ、アメノウズメ」

「は、トール様」

「何用でしょうか」

「お前たちは、マントラ軍の理想を受け継ぐべき人材を捜せ。 俺はカブキチョウを片付けてから、それに続く。 見つけた人材によっては、俺の命令を待たずに、仕えても構わない。 見つけ次第、本営の謁見の間に連れて行け。 そこで、ゴズテンノウが、そいつに力を授けるだろう」

二人は頷いた。ゴズテンノウが仮に健在であっても、もうイケブクロは都市として機能していない。余程の覚悟がない限り、踏み込むことが出来ない死の都市と化してしまっている。

氷川の高笑いが聞こえるようだと、トールは思った。

「残りは俺に続け。 まずは、カブキチョウの秩序を確保する。 カブキチョウに巣くう、蛇どもを掃除しに行くぞ」

おおと、鬼神たちが歓声を上げた。彼らも、政治的な策謀ばかりで成り上がってきたジョカとフッキは毛嫌いしていたらしい。無理もない話である。何の首を幾つ取ったという経歴がものを言う世界で、後方でごそごそやっていただけなのに、出世した者がどう思われるか。何処の国の歴史でも、そう言う連中は権勢を極めた後に滅び去っていく。

四天王寺は、まだいい。彼処は元々四天王たちの領地だった場所だ。広目天は命を落としたが、それでも四天王にとってかって知ったる土地である。そう簡単に秩序を失うようなこともない。

だが、カブキチョウの秩序を回復するためには、多くの犠牲が必要だろうなと、トールは思った。

どちらにしても、マントラ軍は連合体勢から、合議制に移行させる必要がある。そうしないと、本当にニヒロ機構に蹂躙されて、全てが終わる。ゴズテンノウとは思想的にあわない部分もあった。だが、ニヒロ機構が全てを掌握するのだけは、トールも我慢できない。だから、意思を継ぐことに、異存はない。

いつのまにかマントラ軍に入れ込んでいる自分を見つけて、トールは少しおかしくなった。だが、これも乗りかけた船である。

トールはやるべき事を決めて、カブキチョウへ向かった。

 

2、それぞれの後始末

 

シブヤのモニター室で、オペレーターがどよめきの声を上げていた。彼らの目は、一様にスクリーンへ釘付けにされている。一緒に様子を見ていたカエデも、同じである。

イケブクロが、壊滅。

かねてから準備されていた最終兵器、ナイトメアシステムによる攻撃の結果であった。

オペレーターが、結果を報告する。見れば分かることだが、声に出すとまた違う。取り返しがつかないことをしたような気が、カエデにはしていた。

「イケブクロの敵戦力、沈黙! ゴズテンノウの魔力反応、消失しました」

「そうか。 結構な事ぢゃな」

ミジャグジさまが、不機嫌そうに応じる。カエデが見る限り、ミジャグジさまは、ナイトメアシステムの発動には反対であったらしい。このあまりにも無体な光景を見ると、カエデもそれが正しいように思えてしまう。

休憩にはいることをミジャグジさまに告げると、ニュクスに着せられた日本古式の千早の袖を翻し、モニター室を出て行く。技術仕官としてのカエデの仕事は終わった。シブヤにも、多くの負傷兵が運ばれてきている。回復術も使いこなせるカエデには、するべき事が幾らでもあった。一端、アマラ輪転炉を使って、ギンザに出る。

今、病院には、前回の戦闘で負傷したマダがいる。彼を前線復帰させるには、カエデのサポートが不可欠だ。

スペクターと人修羅の猛攻を退け、氷川司令を守りきったニヒロ機構本部は、しかし半壊の憂き目に合っていた。スペクターの攻撃によって、防壁の多くが貫通され、特に地下部分の復旧が進んでいない。また、氷川司令は一時的にユウラクチョウにオフィスを待避し、首脳部は分散して主要拠点の幾つかに移されていた。復旧し次第戻す予定だが、それもいつのことになるのか、分からない。

また、主力決戦に勝った軍も、著しい損害を受けて、各地の主要拠点で再編成が行われていた。文字通り壊滅したマントラ軍よりもだいぶ損害は少ないとはいえ、動員した部隊の二割を超える死者を出すという状況である。決して勝ちとは言えないのではないかと言う声も、カエデが知る限り彼方此方で聞くことが出来た。

そんな状況だから、昇進人事も多々あった。カエデも、その恩恵にあずかった一人だ。この間の戦いで、鬼神を二十四騎倒したカエデは、正式に上級将官に昇進した。地位としてはミトラには劣るが、ニュクスやロキと同格である。提供されたマガツヒも多く取り込んだから、実力も以前より跳ね上がっている。だが、力の量が増えた事だけに満足はしていられない。今も新しい術を開発するべく、訓練を続けていた。

殺風景な、四角い建物の前に、いつの間にかカエデは立っていた。考え込む内に、病院に着いてしまったらしい。

カードを入り口で見せて、中に。ふと、ブリュンヒルドとすれ違う。一礼。元々硬質な印象を受けた女神は、カエデを一瞥すると、返礼もせず歩み去っていった。最近表情が、著しく硬くなっている。オセがいなくなってから、誰もが慄然としているのは事実だ。特に彼女は、それらの中でも最も酷く落ち込んでいるようだった。

その様子を、カエデは間近で見てきた。オセが死んだことを知ったブリュンヒルドは倒れてしまい、病院に担ぎ込まれた。一時は命も危ぶまれたのだが、カエデが徹夜で回復術を掛けて、必死に癒したのだ。今では歩き回ることが出来るほどに回復している。だが、あの表情である。まるで、鬼の首でも探し求めているかのようだ。軍務には復帰しているようだが、同僚や兵士たちからは畏怖ばかりが聞こえ来ていた。

周囲の反応が不可解だ。ブリュンヒルドは悲しみのあまり、感情のコントロールが出来ていないのだと、一目で分かる。それなのに、周囲はそれが分からないようだ。怖がる意味が理解できない。ブリュンヒルドは、どうもカエデに変な対抗心を抱いていたようだが、それでも暴力を振るったりはしなかった。非常に誇り高い存在なのだ。それなのに、どうして信じてやれないのだろうか。

同じように、酷く落ち込んでいる者がもう一人居る。フラウロスである。フラウロスに到っては、酒量が露骨に多くなり、無口になった。仕事が終わると、ずっとシブヤで飲んでいると聞いている。こう言う時、男性は女性よりも脆いのだと、カエデはニュクスに聞いた。ニヒロ機構でも、重鎮のフラウロスを失う訳にはいかず、有給を多めに出して対応しているとのことであった。

戦争は嫌だなと、カエデは思う。みんな傷つく。勝った側のニヒロ機構でさえこの有様なのだ。マントラ軍は一体どれほど悲しんでいるのか、分からない。しかし、天使軍を倒すためには、戦わなければならないのも分かる。カエデは、ずっとそれについて、悩み続けていた。

病院は五階建てで、将官は四階にいる。エレベーターに乗る頃には、医師をしている悪魔が来て、カルテを見せてくれた。カエデに対処できる術の展開依頼である。さっと目を通す。少しマガツヒが足りなそうだったので、後で送るように医師に口頭で伝える。すぐに手配してくれると、医師は言った。とりあえず、これは嬉しい事だ。ニヒロ機構は、潤沢なマガツヒを各地に抱えている。

四階につく。網膜を機械に見せて、更にカードを通す。暗号を求められるので、立体映像として浮かび上がったキーボードに打ち込むと、ようやく戸が開いた。スペクターの件もあるから、セキュリティは恐ろしく強化されている。

何人かの患者を、順番に見て回る。単純で強力な回復術が必要な者から、非常に繊細で展開に時間が掛かる術が必要な者まで、様々だ。今はカエデも外を歩き回って、定期検診を行えば良い状態だが、一時期は寝る暇もないほど忙しかった。

やがて、マダの部屋に来た。

トールとの戦いで、四本あった腕の内、三本までも失った猛将は、未だベットから離れることが出来ない。再生には当分掛かるから、前線復帰はしばらく先だ。カエデが来たことを見ると、ベットでふて腐れていたマダは、憮然とした表情を、僅かにゆるめた。

「おお、カエデ嬢ちゃんか。 しかし今日もまた、珍妙な格好だな。 巫女か」

「はい。 ニュクス将軍が、着ていけって。 似合いますか?」

「ああ、よく似合ってるぜ。 でも、ちょっと浮いてるかもしれねえな」

二人で笑い合う。マダは談笑しながら、誰もが気にしているであろう事を聞いてくる。

「ナイトメアシステムは、どうなった」

「はい。 イケブクロが壊滅するのを、見ました。 恐らくゴズテンノウさんは、もう生きてはいないでしょう。 ニヒロ機構の、勝ちです」

「……そうか。 素直に、喜べねえな」

やはり、誰もがそう言う。勝つためには仕方がないことであったとはいえ。あんな光景を喜ぶようでは、神経がどうかしている。少しだけ、カエデは安心する。自分が間違っていないことを、確認できたから。

持ってきたマガツヒに術で味を付けながら、マダに手渡す。今日はヨーグルト味にしてみた。でもマダはそれを全て口に入れると、今度はリンゴ味が食べたいと言い出した。我が儘な患者は嫌いじゃない。今度育てて持ってくると約束。メモしておいた。雑談が一通り終わると、表情を引き締める。

「傷を、見せてもらえますか?」

「ああ、こんな感じだぜ」

包帯を解いて、傷口を見る。腕の凄惨な傷口は、何とか、少しずつ再生はし始めている。トールと直接顔を合わせたことはないのだが。常識を越える武力の持ち主なのだと、この傷口を見て知った。物理を超越した破壊力を発揮しなければ、このような砕き方はできない。しかもマダは自分に掛かる力を吸収し、反射する体質の持ち主なのだ。それを砕くのには、よほど特別な力を掛けなければならない。

「折角ニヒロ機構が、世界を支配する好機だってのにな。 なんで、こんなにむずむずするんだろうな」

「オセ将軍も、生きていたら、そんな事をおっしゃったんでしょうか」

「そうだな。 あいつは生真面目だったから、きっと俺達を叱責して、苦しみを一人で背負い込んだのかも知れねえな」

乾いた笑いが、マダの口から漏れた。一通り傷の状態を見てから、手当の術を展開。一礼して部屋を出る。かなりマガツヒを使ったから、肩が凝って仕方がない。自分で叩きながら、思惑を巡らす。

カエデは、一応ナイトメアシステムの仕組みを把握している。あれは正確には、術でもないし、厳密には兵器でもない。

マガツヒの流れを、コントロールするための装置だ。

ニヒロ機構は創世を行うため、膨大なマガツヒを集めるための工作を、昔からしていた。天才である氷川司令を抱えているニヒロ機構は、他のあらゆる組織よりも技術面で勝っており、法を絶対視した弱者保護の姿勢からも多くのレアスキルの持ち主が集まった。結果、この禁忌に触れることとなった。

ナイトメアシステムは、四つのアマラ輪転炉を使うことによって生じた力場を利用して、マガツヒを吸い上げるための仕組みなのだ。言うならば、アマラ輪転炉の機能を抽出して、極限まで巨大化させたものである。

この世界の力は、マガツヒによって成り立っている。そのため、マガツヒそのものを操作することは、世界そのものを作り替える事を意味する。ナイトメアシステムは、それを超局所的に行うための仕組みなのである。超局所的であっても、その破壊力は、見ての通りだ。マントラ軍を力で統率していたボルテクス界最強の一角であったゴズテンノウを葬り去り、イケブクロを壊滅させるほどの破壊力を発揮した。まさに、最終兵器と言うに相応しい。

だが、諸刃の剣とは良く言ったものである。まだ子供のカエデから見ても、あれを乱用するような事態は、絶対に招いてはいけないと分かる。氷川司令はとても聡い人だから、そんな愚はおかさないはずだ。そう信じて、仕えてきた。

カエデは天使軍を憎んでいるが、それでもあれを使って焼き尽くして欲しいとは思わない。それほどに、禁忌の名が相応しい存在であった。

自宅に戻る。

他の上級悪魔と同じ、殺風景な四角い建物だ。それぞれ好みにカスタマイズすることは許されているが、基本構造は全て同じである。誰もいないが、ただいまと一言。廊下の壁にはメモがたくさん貼り付けてある。重要なものには、更にその上から付箋も貼り付けていた。

メモに目を通してから、台所へ。蓄えてあるマガツヒを、口に入れる。貸与されているソファに腰掛ける。軟らかいのだが、カエデには大きすぎて、体が沈み込んでしまう。疲れた時には、ソファで寝ることもある。

一時期ほどではないが、やはり疲労が酷い。簡単な術だけ開発して、一眠りしようと思ったのだが、側の黒電話が鳴る。カエデには、頻繁に電話をする友人はあまりいないから、十中八九仕事だ。迷わず、受話器を手に取る。

「はい。 カエデです」

「カエデ将軍ですか? 会議が行われますので、参加をお願いいたします」

「はい。 開催の日時は?」

「急ぎではありません。 カグツチの日齢が二つ動いた後です」

オペレーターに分かりましたと返すと、受話器を置く。基本的、カエデは常に敬語で他者に応じる。だから、最近は敬語での妙な会話になりがちである。上級将官なのだから、もっと横柄に喋っても良いと周囲に言われているのだが、そんな気にはなれない。オペレーターは中級や下級の堕天使とはいえ、先輩なのだ。

忘れないように、メモに、すぐ新しい項目を追加した。

カグツチの日齢が二つ後となると、30時間後となる。仕事のタイムチャートを引っ張り出して、新たな線を追加。寝る時間を除くと、びっしり仕事が詰まっている。自分の力を高めるには、仕事をしながらか、寝る時間を削って勉強するしかない。かなり大変だが、充実はしていた。

完全に管理されている社会だが、カエデは実力でのし上がってきた。このまま昇進すれば、天使軍を滅ぼすことだって難しくない。事実、マントラ軍を無力化した今、次の相手は天使軍であろうと噂されている。そして、無傷な数少ない幹部の一人であるカエデは、その時には必ず動員されるだろう。

一通り残務を片付けると、自室へ。ベットに潜り込む。ベットの脇には、伝声管がある。電話が鳴った時に、耳元で聞こえるようにした工夫だ。ベットカバーは華やかな花柄。ニュクスに貰った品である。

世話になったニュクスは、いつのまにか地位が並んでしまった。だが、今でも良くしてくれる。ちょっと変わった服をいつも着せられるが、とても優しい人なので、カエデも悪い気はしなかった。

多くの悪魔は睡眠を必要としない。だが、例外はいる。例えばオセ将軍は気晴らしの一つだとして、睡眠をしていたと聞く。カエデにも睡眠が必要だ。脳が休憩を必要とするらしく、時々眠らないと動きが鈍くなるのである。

欠伸が出た。眠くなってくる。布団の中に潜り込んで目を閉じると、すぐに意識は落ちた。

眠ると、時々夢を見る。

どこでだか分からないが、カエデは大きな家に暮らしていた。とても仕事が出来るが、奔放で親と対立している姉。社会で確固たる地位を確保している、実業家の両親。おとなしいだけで、無能なカエデは、確実に皆の中で異質な存在だった。皆に良くされてはいた。だが、無力感に包まれて、いつも悲しい思いをしていた。いつ役立たずと罵られるか、常に怯えていた。どんな習い事をしても、身につかなかった。ピアノは特に駄目で、レッスンの日は恐怖さえ感じた。

勉強はどんなに頑張っても、並しか出来なかった。運動神経は鈍くて、常にクラスで最低の成績を出していたような気がする。神話には詳しかったが、そんなものが役に立つとはとても思えなかった。いつも笑顔を浮かべていたのは、自分の悲しみを隠すためではなかったか。

夢を見ると、そんなときのことを思い出す。どこだか分からない場所での出来事。同じ事を繰り返したくはないと思う。自分の足で歩きたいと願う。

目が醒める。時計を見ると、八時間ほど眠っていた。目を擦りながら、起きる。タイムチャートを見ると、もうすぐ仕事の時間だ。今日の職場はユウラクチョウで、大型の破壊術が必要とされている。

あまり得意ではなかった戦闘用の術も、最近はしっかり覚え込んだ。

必要とされたい。誰かの、役に立ちたい。

今は、その願いが叶う。だから、カエデは己の全てを賭けて、仕事に打ち込むのだ。もし自分を必要としてくれる人がいるのなら。カエデは自分の体など惜しくはない。役に立てないのなら。ランダ様は、何故死んだのか分からないではないか。

頬を叩いて、目を覚ます。本部に顔を出して、アマラ輪転炉を使ってユウラクチョウへ。この間の包囲戦で、城壁を破壊された場所もあるユウラクチョウは、今急ピッチに修復が進んでいた。

カエデが現場に顔を出すと、壮年の堕天使が敬礼をした。四角い顔をした、厳格そうなおじさんだ。恐縮してしまう。敬礼は何度やってもぎこちなくて格好悪いと、自分でも思う。最近は術を得意とする悪魔たちを、部下に配置されてもいるから、彼らにも申し訳がない。情けない上官でごめんなさいと、何度心中で謝ったことか。

「す、すみません。 現場を、見せて貰えますか?」

「此方になります」

分厚く赤い鎧に身を包み、三メートル以上はある大槍を持った堕天使は、機能的な返事を返すと、カエデを案内する。歩く度に鎧の音がして、カエデは緊張した。今でもカエデは、身体能力が非常に貧弱で、接近戦に持ち込まれるとひとたまりもない。腕立て伏せもろくに出来ないほどだ。

城壁は三重に連なっていて、案内されたのは中間層だ。上空からの攻撃で、破壊されたヵ所がある。かなり当たり所が悪かったため、一度崩して直さないといけないという。其処までは、レポートで把握している。

城壁の上に出る。ざっと見回して、損害を受けた地点を確認。確かに崩れている。地盤が緩い場所をアーチ状にまたいでいる構造になっていて、確かに修復は難しい。一度崩して、作り直した方が、確かに早そうだ。

しかし、である。一見して、カエデはあまり良い構造ではないなと思った。

ユウラクチョウの防御施設を完成させたのは、オセ将軍の後釜に入ったミトラ将軍だ。古参の幹部であり、非常に厳格で論理的な方だと聞いているが、ひょっとすると実務能力には欠けるのかも知れない。

構想力はざっと見ただけでも非常に高い。だが、全体的に、遊びが少ないのだ。だから、攻撃を受けて壊された場所があると、大規模な修正が必要になってくる。翼を持つ堕天使は少なくないから、修繕作業には手間が掛からないという考え方もある。だが、労力は少ない方が良いはずだ。

しばし、じっと観察する。人差し指を口元に持ってきて、その背を噛む。しばし、そうしていた。

視線を感じて振り向くと、さっきの堕天使が後ろに立っていた。殆ど表情は動いていなかったので、吃驚した。

「何か、掴めましたか?」

「あ、はい。 全体的な構造を把握していました」

「ミトラ将軍の作られた城壁は、遊びが少ないでしょう。 だから、一度壊れると、全体的な修繕が必要になってくる」

堂々とした上役批判である。真っ青になるカエデに、堕天使は初めて笑みをこぼした。悪魔的な、実に楽しそうな微笑み。

「前から思っていましたが、貴方はとても気が弱いお方のようだ。 ニヒロ機構はマントラ軍とは違う。 理にかなう批判であれば、許されていることはご存じでしょう。 そのようなことでは、部下を不安にさせますよ」

「……すみません」

頭を切り換えると、具体的な破壊案と、修復案を考える。修復用の人材は、事前に渡されたレポートを見て把握している。

単純な破壊には、火炎系の術式が適切だ。今カエデが覚えているアギ・ダインであれば、破壊されている場所を瞬時に崩すことが出来る。だが、威力が大きすぎる。雷撃系は物理的な破壊には向いていないし、冷撃系は論外だ。風も効率が悪いだろう。

爆発を巻き起こす術はどうか。幾つか種類があるが、その中から選んでいく。

デカラビアの一件以来身につけたメギドラは、膨大な力を消耗する。一度放つと、かなりの量のマガツヒを食べないと割に合わない大型の術だ。だが、コントロールは難しい反面、予定通りの破壊をもたらすことが出来る。上手くいけば、切り取ったように、目的の場所だけを壊すことが出来る。

「メギドラを、使ってみます」

「メギドラ、ですと!」

「え? あ、はい。 何か不都合がありますか?」

「その若さで使いこなすとは。 いや、天才だとは聞いていましたが」

きょとんとしたカエデに、堕天使は初めて動揺を見せた。何だか少しだけ、この堕天使に親近感が湧いた。

天才などと言われても、実感はない。無能であった記憶は、未だカエデの心を責め苛んでいる。

堕天使たちに避難して貰って、術を唱え始める。失敗は、許されない。

ランダ様のためにも。部下たちのためにも。カエデは、ニヒロ機構に尽くす。

印を切る。充分な魔力が蓄えられた。ゆっくり右手を天に向け、力を集中する。全身の魔力が、吸い上げられていくようだ。

唱える術はアジア式。目を見開く。影が、長く伸びていた。右手の指先に集中したメギドラの光が、影を引き延ばしているのだ。すっと、指先を予定破壊カ所へ向ける。額を伝う汗が、目に入った。乱暴にぬぐい去り、最後の一節を唱えあげる。

「弾けよ、そして吹き飛べ! メギドラ!」

一瞬、辺りの色彩が消え去り。そして、生じた爆発が、ぐらついていた城壁の一部を完全に吹き飛ばした。

瓦礫の破片が降ってくる。つぶてのようで、少し痛かった。頬を拭うと、血が出ていた。今の破片がぶつかった事によるものらしい。

何とか、上手くいった。後は、他の悪魔たちの仕事だ。それに、仕事はまだまだ控えている。ユウラクチョウで片付けなくてはならないものだけでも、あと三つ。

いつの間にか、側に立っていたさっきの堕天使が、ふきんを差し出してきた。よく冷えた濡れふきんで顔を拭く。生き返ったかと思った。

 

ユウラクチョウでの仕事を終えると、カエデはギンザに戻ってきていた。丁度一休みも入れていたし、マガツヒもたくさん食べた。マダの病状も回復に向かっていて、会議に出る余裕は作ることが出来た。頭の方も、しっかり働いている。でも、出る前にカフェインを取って、更に目をしっかり覚まさせることを忘れなかった。

最近、拠点にしているギンザに、ニュクスの作ったコーヒーショップが出来たのである。流石にブラックコーヒーはとても飲めないが、仕事前には向かってカフェインを脳に補給する。後で眠れなくなるのが玉に瑕だが、会議の時に眠くなるよりはましだ。もちろん、コーヒー豆などボルテクス界に存在はしない。術によって作り出すのだが、かなり複雑な技量が必要らしく、カエデにも再現できない。ニュクスの他には、二三騎しかニヒロ機構にも存在しないのだそうだ。

四角い建物に入る。カエデは頻繁に来るからか、マスターに顔を覚えられてしまっていた。マスターは頭に角を四本生やして、下半身が蛇の悪魔である。スラブ辺りの伝承にある悪魔らしいのだが、詳しくは知らない。陽気で人なつっこい笑みを浮かべるマスターに、注文すると、すぐに品を出してくれた。

カウンターについて、砂糖を二杯入れたコーヒーを飲む。体が芯から温まる。じっくりコーヒーを味わってから、本部へ。丁度五分前に着くように、歩調を調整する。

ニヒロ機構本部は、前回の戦いで蹂躙されたが、中枢部は無事だ。会議室も、以前と同じものを使う。カエデが会議室に出入りできるようになったのは最近だが、氷川司令の視線は鋭く、飛び交う意見はとても高度で、こんな場所にいて良いのか不安になる。地下に下りる際、通行禁止になっている通路が多くて、少し不安になった。戦死したキウン将軍の代わりの人材は、未だに見つかっていないのだ。

会議室に着くと、もうニュクスが来ていた。他にも、ミトラと、ブリュンヒルドの姿もある。最後に氷川司令が、最上座に着く。その右には、当然のようにミトラが座っていた。彼処にオセ将軍が座っていたら安心できるのにと、カエデは思った。

「それでは、会議を始める」

「え?」

「どうしたのかな、カエデ将軍」

「あ、はい。 この人数だけ、ですか?」

多くの幹部が前回の戦で命を落としたり負傷したとはいえ、ニヒロ機構には幹部も多い。ロキやミジャグジさま、スルトやモト、フラウロス、この間の戦で将官に出世した運命の女神モイライ三姉妹も、会議には出る資格があるはずだ。

氷川司令は、しばし腕組みすると、冷徹に目を光らせる。

「君は魔術の腕はずば抜けているが、頭はまだ鍛える余地があるな。 この人数で会議を始めると言うことは、そういう事情があってのことだ」

「ご、ごめんなさい」

「詫びることはないが、しっかり頭を使う訓練をしておくように。 ミトラ将軍、会議を始めてくれたまえ」

そう言うと、氷川司令はノートパソコンに指を伸ばし、キーボードを叩き始めた。ミトラ将軍は頷くと、相変わらず少し嫌みが混じった敬語で、喋り始める。カエデを見る目には、確実な嘲弄が混じっていた。身が竦む。

あの視線は、苦手だ。怖い。

「マントラ軍が行動力を喪失している現在、我がニヒロ機構に対抗しうる戦力は、天使軍のみです。 其処で、奴らの拠点たるオベリスクを、此処で攻略し、大勢に決着を付けます」

プロジェクターに、オベリスク要塞が映し出される。

この間、イケブクロに侵攻を仕掛けて撃退されたとはいえ、今天使軍はオベリスクに30000を超える戦力を保有しているという報告が入っている。予備の部隊も含めると、その数は更に増すという。それに対して、ニヒロ機構はこの間の戦いでかなりの損害を受け、野戦用の機動戦力は50000を割り込んでいる。しかも、そのうち三割が調整中の状況だ。ニヒロ機構勝利の報で、新兵も続々と入ってきてはいるが、彼らは訓練が足りないから、すぐには戦場に連れて行けない。

正面攻撃三倍則という軍事用語は、カエデも将官になってから勉強した。要塞などの高度な防衛能力を持つ施設を攻めるには、最低でも敵の三倍の戦力が必要だという鉄則である。野戦で防御陣地を攻める場合も、それと同等の戦力が要求される。今回、此処にいるメンバーで攻城戦を行うとなると、ミトラやニュクスが前線に立つとしても、簡単に兵力差は埋められないのだろう。

この状況で、オベリスクを普通に攻めても、陥落しない。かといって、何か手があるというのだろうか。

ふと、思い出す。オセ将軍に連れられて、オベリスクを見に行った時のことを。データを丸投げしていたままであったのだが、あれはその後どうなったのか。

まさに、ミトラの狙いはそれだった。獅子の頭部を持つ魔神は、自信満々で語り出す。

「今まで採集したデータから分析するに、オベリスクの防御能力は高く、棲んでいる天使どもも侮りがたい実力を有しています。 そこで、奴らの強みである、翼を奪います」

「翼を、奪う、ですか?」

「そうです。 そして、奴らが苦手とする野戦に持ち込み、立て直しの暇を与えず一気に陥落させる。 そうすれば、オベリスクは我らの第四の拠点として、創世の大きな足がかりとなることでしょう!」

ミトラの演説を、咳払いして遮ったのは、ブリュンヒルドだった。まるで氷のような視線で、ミトラを射貫きながら言う。

「簡単に言うからには、オベリスクを地上に引きずり落とせる策があるのだろうな」

「ええ。 オセ将軍が、データを残してくれました。 魔術班が解析を進めて、オベリスクを空に浮かせている力を、そのまま消失させる術式をくみ上げてくれましたよ」

「それは、今でも通用するのか」

「追加のデータは、以前カエデ将軍が植え込んできた結界から取得し続けていますから、問題ありません。 一端地上に引きずり下ろせば、七天委員会さえ気をつければ、大した奴はいません。 天使どもは法とは名ばかりの原始的規律に縛られたような愚物の集まりですからね。 一度統率さえ崩してしまえば、ただのゴミの山です。 ユウラクチョウから増援を送り込むことも出来ますし、陥落させることは難しくないでしょう」

危険だと、カエデは思った。天使たちが規律に縛られているという点では同意だ。虫のように情がない者達だという点も、見解が一致している。

でも、侮るのは危険だ。仮に相手が、如何に。己がどれだけ憎んでいる相手だとしても。

ぎりぎりと、歯を噛む。それで思い出したのだ。天使どもが、アカサカで何をしたか。イケブクロで、それを再現しようとして。

ゴズテンノウは、それを阻止した。そして今は、カエデにも阻止しうる力がある。

ミトラは明らかにオセ将軍に比べて力量が劣る。だったら、自分が足りない分を補えばいい。天使軍を闇に葬り去り、ランダ様の仇を討つ。無能だと思われても。助けられることしかできなくても。

今は、果たす責務があるのではないか。

仮に天使軍が対応策を練ってくれば、自分が打ち消してやればいい。

「分かりました。 ただし、危険もありますから、魔術班の増強をお願いします」

「ほう。 カエデ将軍、現在の戦力では不安かね」

「陸軍と空軍は問題ないと思います。 でも、もし天使軍が、魔術的な罠を張ってきたら、対応しきれるかは分かりませむ」

最後、少し噛んでしまった。でも、言いたいことは伝わったと思う。

ちょっと赤面するカエデに、氷川司令はノートパソコンを畳みながら言う。

「ふむ、良いだろう。 ミトラ将軍、編成を少し変更だ。 モイライ三姉妹を、カエデ将軍の麾下に配属。 新設の第十四魔術兵団と併せて、オベリスク攻略作戦に追加するように手配せよ」

「は。 分かりました」

「それと、君の部隊も少し増強しよう。 戦力を2000増強し、副将にはスルト将軍を付けることにする」

「そ、それは」

狼狽するミトラ。ブリュンヒルドは、腕組みしたまま苦笑した。

「子供にも分かることだ。 敵を侮るのは感心しないな。 老練なスルト将軍が着けば、多少油断しても失点を挽回できるだろう」

「は……っ。 分かりました」

「創世は、まだ遠い。 だが、天使軍の戦力を奪い取ることで、それも少しは近付くだろう」

創世。そう言われて、カエデは思い出した。

ランダ様は、あまり創世に興味がなかったことを。ニヒロ機構に従うつもりもなく、ただ独立勢力の長になっていたのは、平穏だけを考えていたからなのだろうと。

ニヒロ機構の創世が果たされた後、世界はどうなるのか。カエデには分からない。でも、自分で決めた道だから、今更違える気はなかった。

会議が終わると、どっと疲れた。ニュクスに肩を叩かれて、笑顔を向けられる。

「お疲れ様」

「はい。 有難うございます」

「帰りに、私の店でココア飲んでいく? 少しは疲れも取れるわよ」

「いえ、大丈夫です」

不安そうにニュクスが眉をひそめたので、カエデは無理に笑顔を作って誤魔化した。

元々、此処に来てから、余裕を感じたことはない。自宅に戻る途中で、自分の肩を何度か叩いた。

老人のようだと、カエデは自嘲した。

 

3,芽生える闇

 

何も為すことなく、秀一はイケブクロに帰ってきた。聖はギンザを出た辺りでふらりと姿を消し、そのまま何処に行ったのかよく分からない。

祐子先生を助けることもなく。氷川を倒すこともなかった。肉薄は出来た。だが、あのオセの姿を見て、どうして無理に押し通れただろう。オセの姿を見た時の、氷川の表情は忘れられない。

冷血な男だと、思っていた。事実冷血な存在の筈だ。

だが、己を真に思ってくれている相手の、死に瀕した様子を見て。氷川は、確かに悲しんでいたのだ。

オセは、氷川の父親のような存在だったのではないかと、思った。

氷川によって、家族が皆殺しにされたのは、事実だ。此処で、倒すべき相手だったはずなのだ。

それなのに、どうしてあの時、非情に徹することが出来なかったのだろう。

怒りも、消え始めているからなのだろうか。

砂漠を歩きながら、考えた。だが、結論など出はしなかった。結局、そのまま、イケブクロに着いてしまった。

どうやって勇を救出するべきなのか。キウンを倒した手柄だけで、勇を解放してくれるとは思えない。オセの死は看取ったが、それだけではとても無理だろう。そうなると、しばらくマントラ軍に在籍するしかないのか。それも、あまり気が進まない。

消極的な問題ではない。根本的な点で、マントラ軍の思想には迎合しないと決めているのだ。ニヒロ機構もそれは同じである。今後はどうするべきかという点よりも、まずどちらでもない思想を模索する点に、秀一は力を割いている。

このような世界なのだ。個人の命など、ゴミのような価値しかない。だからこそ、秀一は出来るだけ守りたいと思う。だが、それよりも。世界そのものの流れの方が、重要なことも分かるのだ。

「榊センパイ」

リコに声を掛けられて、振り向く。良く肌が焼けた健康的な彼女は、帰り道ずっと無言だった。途中、マントラ軍の壊滅を聞いてからは、ずっとそうだ。トールが無事だと聞いて、少しは持ち直したのだが。

「何だか、嫌な予感がするッス。 何で、ニヒロ機構は攻めて来ないんスか?」

「確かにおかしいな」

「シューイチ、どういう事?」

「つまりだ。 マントラ軍は負けたかも知れないが、ゴズテンノウが健在の場合、再起は出来る。 そうなれば、またトールを先頭に、攻めてくることだって考えられる」

それならば、多少の損害を覚悟の上で、イケブクロを叩いておいた方がいい。それなのに、ニヒロ機構は、まとまった軍勢を動かしている形跡がないのだ。損害は大きかったとはいえ、機動戦力はまだかなり動かせるはず。それなのに、何故停止している。

「氷川司令は切れ者じゃからのう。 秀一ちゃんの言葉通り、何かどえれーえ事を考えてるのかも知れんのー」

「というよりも、俺が危惧しているのは、別の点だ」

氷川は、切れ者だ。今までの情報を総合する限り、それは間違いない。

だが、切れ者が、工夫のない消耗戦をしたことが、一番おかしいのだ。ひょっとすると、最初からマントラ軍は、侵攻のタイミングに到るまでコントロールされていたのではないのだろうか。

そうなると。最悪の予想では、イケブクロはもう。

イケブクロが、見えてきた。どうやら、予感は当たったらしい。走り出そうとするリコの肩を掴む。

「待て、落ち着け」

「で、でも、イケブクロが! 何スか、あの光! 何で、マガツヒが、空に登ってるんすか!」

「ナイトメアシステム、じゃの」

フォルネウスが、戦慄を声に含めた。ニヒロ機構の悪魔だけあり、知っていたと言うことか。

「完成しておったとはな。 あの氷川司令だからこそ、成し得たことであったんじゃろうて。 夢物語とばかりおもっておったんじゃがのう」

「爺さん、知ってるんスか!?」

「そういうもんが、開発されているという話だけは聞いておった。 本当に、恐ろしい話じゃ。 ニヒロ機構は、大きな罪を犯したのかも知れぬのう」

フォルネウスは語る。

簡単に言えば、ナイトメアシステムというのは、マガツヒの流れをコントロールするものなのだとか。つまり、悪魔の体を構成しているマガツヒも、分解して吸い上げることが可能だと言うことだ。

ゴズテンノウのことを思い出す。とても勝てる気がしない、途轍もなく強大な悪魔だった。だがその悪魔でも、核兵器が飛んできたらどうにもならないだろう。そしてあのナイトメアシステムは、ボルテクス界では核兵器に匹敵する、最悪の存在だ。

氷川のことを、少しは分かったと思ったのに。結局、自分の周囲しか見えない奴だったのか。或いは、これだけの非道を成しても、敢えて世界を己が思うままに改革したいというのか。

分からない。だが、ニヒロ機構のやり方は許せないと、今はっきり悟った。今後、連中に協力することはあり得ない。

しかしこれは、好機かも知れない。マントラ軍の悪魔たちには悪いが、勇を救出することが容易に出来る。嫌悪を覚える思考だが、今は現実的に考えて、動かなければならない。そうしなければ、救える奴まで死なせることになる。

イケブクロに踏み込んでみる。

猥雑なまでに賑やかだったイケブクロは、死の街とかしていた。

辺りに、服や器物、道具の類が散乱している。略奪されたという雰囲気ではない。持ち主が、そのまま消えて無くなったという感じだ。全身から吸い上げられるマガツヒが、体力を急速に奪っていくのを感じる。だが、雰囲気から言って、これでもナイトメアシステム発動当初に比べれば、だいぶ出力が緩和されている筈だ。身震いしたサナが、心底嫌そうに言った。

「気持ち悪。 シューイチ、早く出ようよ」

「分かっている。 まず、地下に行って、勇を助ける。 後、ゴズテンノウの様子を確認したら、すぐに出る」

前に、コロシアムに案内されたことが幸いした。道は覚えている。

巨大なマントラ軍本営も、やはり人気はなかった。入り口に落ちていた槍を見て、此処に立っていた鬼神の門番のことを思い出す。食ってかかる勇に辟易していたあの鬼神も、もう生きてはいないのだろう。

松明が燃え尽きているので、階段は暗かった。気配を察知は出来るが、それでも緊張するのは、人間の本能が残っているのか。前から、足音。刀に手を掛けるリコを、制止した。

「誰だ」

「え? その声は」

何だか、緊張感のない声。

サナが明かりの術を使い、照らし出したのは。マネカタの青年だった。

見覚えがある顔だ。ひょっとすると、城壁を修理した時にいた一人か。

「あんたは。 確か、シューイチさん。 あの時は助かりました。 有難うございました」

ぺこりと一礼したマネカタの青年。相変わらず粗末な服を着ている。そして手には、一杯財宝の類を抱えていた。

「マネカタは、この中でも無事なのか」

「はい。 僕たちは、元々マガツヒを吸い上げるために作られた存在ですから。 ちょっとくらい今更吸われても、平気です」

「そうか。 勇を、見なかったか」

「ああ、人間の。 彼なら、まだ牢にいたはずです。 鍵なら、地下室に残っていたはずです」

どうして助けてやらないんだと思ったが、考えてみればそんな余裕も無いのかも知れない。ぺこぺこ頭を下げながら去るマネカタを、リコは刺し殺しそうな視線で見ていた。

「火事場泥棒が」

「いや、悪魔たちはともかく、マネカタにはあれくらいする権利があるだろう。 マントラ軍は、彼らを奴隷以下に扱ってきたんだから」

「……」

舌打ちしたリコは黙り込む。多分、反論できないからだろう。それに、悪魔にとって財宝など大した価値も無いはずだ。その気になれば、幾らでも作り出せるのだから。

地下の松明は無事なまま残っていて、牢にたくさん入れられていたマネカタは、殆ど外に出されていた。だが、牢の中には、まだ少数の悪魔が残っていた。ぐったりした様子のものも多い。

「手分けして、出してやろう」

「しかし、襲ってきたらどうするんスか?」

「その場合は、容赦なく殺していい」

鍵束を手に取りながら、秀一は答えた。そのまま四手に散って、一つずつ牢を見て回る。途中、勇を見つけた。ぐったりした様子で、壁にもたれかかっている。しばらく食べていないのだろうか。

鍵が錆び付いていたので、力づくでこじ開けた。飴細工みたいに鉄格子が曲がるので、秀一自身が驚いてしまう。中にはいると、隈を作った目で、恐怖を浮かべて勇が此方を見た。腰をかがめて、視線の高さを合わせた。

「俺だ、勇。 遅くなって済まない」

「……はは、秀一か。 なんか、食うもの無いか?」

「サナに出して貰おう」

手を掴んで、引っ張り上げる。マッチ棒でも掴んでいるのかと思った。こんなに人間の腕とは貧弱だったのか。

「い、いてえ、秀一、いてえよ」

「すまない。 力の加減が、難しいんだ」

遠くで、爆発音。多分、牢から出した悪魔が、飢えに耐えかねてサナを襲ったのだろう。そして返り討ちにあったと言うところか。

サナが歩いてくる。さっきから、地面に足を付けて歩いているのは、少しでも力の消耗を抑えるためだろう。それぐらい、此処は危険だ。

「全く、恩知らずなんだから」

「サナ、食料を出してやってくれ。 勇が、餓死しそうだ」

「良いけど、外に出てからだよ。 此処で術を使うの、きつすぎるもん」

機嫌が悪そうに、サナが髪を掻き上げた。衰弱している勇を、ゴミのように一瞥すると、シューイチを見上げる。

「もう、僕の分は済ませたからね。 外で待ってていい?」

「いいが、今のイケブクロに秩序はないぞ。 暴力による秩序さえ無い状況だ。 何に襲われてもおかしくないから、リコやフォルネウスと一緒にいるんだ」

「分かったよ。 僕はずっとそう言うところで暮らしてきたから、平気だってば」

程なく戻ってきたフォルネウスとリコは、ぞろぞろ悪魔を連れていた。皆衰弱しきっていて、目がうつろであった。二人ともそれぞれ名が知られた悪魔だから、襲われることはなかったのだろう。サナも充分それに匹敵する実力の持ち主なのだが、ピクシーと言えば下級悪魔の代名詞らしいから、どうしても侮られるのであろうか。

フォルネウスはサナほど冷酷な反応を示さず、ぐったりしている勇を乗せて、外に出てくれた。サナとリコが、不機嫌そうにそれに続く。一人になった秀一は、忙しく動き回るマネカタたちを一瞥すると、最上階へ向かうべく、階段を登り始めた。前にゴズテンノウに謁見する時に使ったエレベーターは当然停止してしまっているので、歩くしかないのである。

途中、何カ所か鉄の扉があった。だがどれも鍵は開いていて、頼りない障壁となっていた。ひょっとすると、秀一より先に来た者がいるのかも知れない。多分トールだろうなと、秀一は思った。

どれだけ登っただろう。エレベーターだと、本営を登るのはとても楽だったのに。直接歩くと、随分大変だ。マガツヒを吸い上げられているからと言う事情もあるだろう。早く出ないと、危ないかも知れない。

最上階に着いた。結局、護衛だったらしい悪魔は、一騎もいなかった。謁見室にはいると、点々と武具が散らばっている。持ち主たちがどうなったかと思うと、忸怩たるものがある。

そして、玉座にいる、それを見た。

ゴズテンノウの石像。だが、秀一には分かった。ゴズテンノウは、生きている。己の目的を果たすために、仮死状態になり、力を温存する道を選んだのだろう。凄まじい執念。彼を其処まで力による支配に駆り立てたのは、一体何なのだろう。

秀一は、結局の所、薄っぺらなガキに過ぎない。元人間のゴズテンノウも、氷川も、大人だ。彼らは豊富な人生経験から、だが極端な思想を生み出した。一体、何がこうした。病んだ世界か。それとも、人間という生物の愚かさか。

しばらくゴズテンノウを見つめていた。だが、答えてくれることはなかった。

きびすを返すと、イケブクロを出る。少し疲れたが、マガツヒは殆ど温存することが出来た。秀一が、人間でも悪魔でもない、第三の存在だから、かも知れない。

フォルネウスたちが連れ出した悪魔は、皆イケブクロから逃げ去ったらしい。マントラ軍はまだ存続しているはずだが、ニヒロ機構にはもはや敵し得ないだろう。勇の前に歩み寄る。一心不乱に、サナが出したバナナにかぶりついていた勇は、凄絶な目で秀一を見上げた。

「大丈夫か」

「大丈夫に、見えるかよ。 だらだらしやがって、先生だって助けられなかったんだろ」

「ちょっと、何様!? 榊センパイが、あんたを助けるためにどんな相手と戦ったと思ってるんスか」

「うっせー、ガングロ女悪魔! 秀一みたいなダセー野郎に発情してるんじゃね……」

次の瞬間、勇はバナナを取り落としていた。瞬間的に沸騰したリコが、視認できないほどの速度で、寸止めの蹴りを放ったからだ。ごっ、と凄い音がした。風圧で、勇の周囲の砂が吹っ飛んだのだ。

リコの声は、冷え切っていた。勇が人間でなければ、殺していただろう。

「今の蹴り、見えたッスか? 榊センパイは、こんな蹴りじゃどうにもならないような悪魔たちと、あんたとその先生を助けるために戦って、何騎も殺したんスよ。 本当だったら、戦う理由も必要もない相手とね」

「リーコー。 もうその辺で許してあげなって。 そんなアホ、構うだけ時間の無駄ってば。 全く、シューイチもどうしてこんなの助けるために、オセの死を看取ったんだか」

冷酷なことを言うと、サナがもう二房バナナを出す。小刻みに震えている勇は、秀一を、すがるかのように見た。

一体、どうしたのだ。かって、勇は人畜無害な奴だった。今では、それに異様なプライドと、愚劣な優越感が加わっている。それが、勇を愚かな行動に駆り立てているとしか思えなかった。

「勇、何があったのか、話してくれないか」

「……わかんねえよ、お前には。 暗闇で、何も出来ずに、周り中で拷問されてて、食料もろくに出てこなくて。 それで、それで。 目の前で、マネカタが、踏みつぶされて、気がつくと、泥になってて! 断末魔の声がして、悪魔が、鉄棒を振るって、吠えて、叫いて!」

勇は、泣き出した。ハンカチを出そうにも、そんなものは無くしてしまった。

さぞ、心細かったことだろう。発狂していたかも知れない。だが、勇は中途半端に耐えてしまった。それが良かったことなのか、分からない。

同情は、するべきだ。そのはずだ。仮に勇が弱くて、世界に廃絶される存在だとしても、秀一と多くの時間を共有する存在であることに代わりはないのだ。勇は乱暴に涙を拭いながら、バナナを掴んで、立ち上がる。

「フトミミって、マネカタがいるらしい。 カブキチョウに、捕まっているって、聞いた」

「そいつが、どうかしたのか」

「未来を見ることが出来るらしい。 お前は頼りにならないしな、そいつに先生をどうやったら救えるのか、聞いてみるさ」

かって、愚かであったが、故に無垢だった親友の目には。どす黒い執念と、怒りと、憎しみが宿り始めていた。しかも、己の都合がよいように、他人を利用する気で満々だ。もはや、勇は邪悪の域に踏み込みかけている。

歪んだ形ではあるが、勇は一種の強さを手に入れていたらしい。だがそれは、闇の中で、恐怖に耐えるために生み出されたものであろう。歪んでいるし、心に悪影響をもたらすとしか思えない。このような強さでは、悲劇的な結果にしか到達できないように、秀一は思えた。

「一緒に行こうか。 そのまま向かっても、また捕まるぞ」

「結構! トールがいなければ、大丈夫なんだよ。 ひひひひっ、地下で俺は、体で勉強したさ。 悪魔は俺には手を出せない。 トールは例外みたいだが、奴さえいなければどうにでもなるからなあ」

「悪魔を侮るな、勇。 以前もそうやって、捕らえられたことを忘れたのか」

「……フン」

秀一の声は、届かなかった。このままだとのたれ死にするとしか思えない。だが、これ以上追うのも良くないと、秀一は思った。

 

勇が去ってしばらくしてからも、状況は変わらなかった。イケブクロから、ぞろぞろとマネカタたちが逃げていく。彼らはどうするつもりなのだろう。少し、気になった。

「な、なあ。 人修羅さん」

「なんだ」

振り向いた先には、さっきのマネカタの青年がいた。

そればかりか、以前シュテンドウジと勝負した時に、指揮をしたマネカタが大勢集まっていた。男も女も、老人も子供もいる。怪我をしている者も、少なくなかった。

ただ、殆ど全員揃っていると言うことは、シュテンドウジは約束を守ってくれたらしい。そう考えると、ますますやりきれなくなる。

「勝手な頼みかも知れないけれど、フトミミさんを、助けて欲しいんだ」

「悪いが、それは自分たちで行うべきことだ」

前々から思っていた。確かにマネカタは非力だが、集団になればそれなりの力を発揮することが出来る。力は人間と大差ないし、頭脳だって備えている。道具も使いこなすことが出来る。

彼らに足りないのは、自主性である。常に誰かが救ってくれる事を求めている。他力本願であることが、マネカタの最大の弱点だ。

だが、人間は何故宗教に頼ったのかを考えると、彼らを責めるのも酷な気がする。過酷な環境であればあるほど、人間は救いに依存した。飢饉、戦争、圧政、疫病。それらの恐怖から心を救い、未来への力をくれたのは、確かに宗教であったのだ。それくらいは、一般常識として、秀一も知っている。宗教を否定するのは、人間の弱さから目を背けることであり、極めて非建設的だと言うことも。そして、それが故に。人間はいずれ、宗教を克服しなければならないと言うことも。人間は弱い。このマネカタたちのように。

強い人間もいる。しかし、それはほんの一部なのだ。

氷川と、ゴズテンノウを思い出す。どちらも、退くことは、出来なかったのだろうか。やりきれない。結局人間にとって、思想や宗教は、道しるべなのだ。それを超える行動は、とても難しい。強い人間であればあるほど、芯は思想に依存するのかも知れない。

「カブキチョウは、拷問施設なんだ。 僕たちを捕まえて、虐めて、マガツヒを搾り取ってるんだ。 凄い要塞で、いっぱい悪魔もいて! 近付くだけで捕まってしまうよ」

「おねげえだ。 僕たちじゃ、どうにも出来ないんだ」

「フトミミさんは、私達の希望だ。 何とか、助けてやって欲しいんだ」

口々にマネカタが言う。身勝手である。不快げにリコが眉をひそめた。フォルネウスは醒めた目で見ている。サナに到っては、興味もないようだ。

もし、希望が得られれば。彼らは、自主的に考え、動くことが出来るのだろうか。或いは、創世を争う一翼になることが出来るのだろうか。今度はその救世主に、依存してしまうのではないだろうか。恐らくそうなる。

だが、祐子先生を救うためには、情報が必要なのも確かである。もしフトミミとやらが本当に神通力の持ち主であれば、居場所が分かるかも知れない。千晶や聖は放っておいても大丈夫だろうし、今はそれに全力を傾けたい。それに、勇の目を覚まさせるチャンスも、巡ってくるかも知れない。

「分かった。 ただし、実態を見極めてからだ」

或いは、フトミミとやらも。何かを知るために必要な存在かも知れない。

ただ、出来るだけ、力づくでの救出は避けたい。仲間たちを手招きして、意見を聞くことにする。

「今、力の空白地帯はないか」

「というと?」

「俺としても、祐子先生を救うために、情報が欲しい。 だから、フトミミとやらを助けるつもりだ。 だがそれには、行動の基礎となる地盤がいる。 彼らにも、働いて貰いたい所だ。 そこで、戦略的に価値が無く、各勢力から注目されていない空白地を拠点にしたい」

後ろ手でマネカタたちを指さす。フォルネウスが、エイの顔に、にんまりと笑みを浮かべた。

「おお、それでこそじゃ。 秀一ちゃんも、悪魔らしくなってきたのう」

「マントラ軍と敵対するつもり? あまり、気が乗らないよ」

「分かっている。 だから、正面突破ではなく、あくまで救出作戦にするつもりだ。 今後どうするかも、腰を据える地盤があると考えやすい」

「そうだね。 今独立した地域というと、殆どが砂漠だけれど。 あ、そうだ。 アサクサなんかどうだろ」

サナが手を一打ちした。話によると、アサクサはマネカタの材料となる「お歯黒どぶ泥」の原産地なのだが、今では半放棄されているという。充分な「お歯黒どぶ泥」をマントラ軍が蓄えているのが、その要因らしい。マネカタの材料が足りている以上、戦略的価値も低く、駐屯軍もいないのだそうだ。ましてや、この状況である。戦略的価値が低い場所など、真っ先に放棄されているだろう。

いわゆる聖地である。マネカタを集めるには、うってつけだ。

「彼らには、其処で情報を集めて貰おう。 ついでに、自立できる算段もして貰いたい所だ」

「シューイチってば、まるで……。 あれ、何だろ」

サナが腕組みして、小首を捻った。まるで母親みたいだねとでも言いたかったのかも知れない。

この世界が、あくまで弱者を排斥するというのなら。

それにある程度逆らってみるのも一興だと、秀一は思った。

 

イケブクロを脱出した七騎の鬼が、砂漠を彷徨っていた。マントラ軍に見切りを付けたものの、ニヒロ機構に従う気にもなれず。結局、弱者を目当ての盗賊くらいしかやることが無く、砂漠をふらつくばかりであった。

マントラ軍の支配地域を抜けたのも、トールが怖かったからである。ボルテクス界で一番恐ろしい悪魔と言えば、やはり奴であろう。マントラ軍にいたからこそ、鬼たちはトールに芯から恐怖を感じていた。もちろん、戦って勝てるはずもない。

だから、ニヒロ機構の支配圏に潜り込んだ。

あらゆる意味での迷走である。だが、それも長くは続かなかった。一騎の鬼が、遠くに小さな住居を見つけたのである。側には崩れたビルもあって、それを再利用したものだと伺えた。

「アニキ!」

「ああ、分かってる。 とりあえず、あそこに住んでる連中を襲って、食うぞ」

リーダー格である、オレンジ色の肌をした鬼神が、口の涎を拭った。一応、軍での訓練を受けた者達である。動きには無駄が無く、滑るように砂漠で身を低くして、近付いていく。

ふと、先頭にいた鬼が、顔を上げた。そして、硬直する。

既に刀を抜いた女悪魔が、立ちはだかっていたのである。蛇の尾がある以外は、人間の娘と同じ姿をしている。額には目を示すような模様。肌は赤銅色に良く焼けているのに、細くて筋肉質とはほど遠い。だが、全身からは強烈な魔力を放っていて、相当な強者である事は確実であった。おとなしそうな顔立ちだが、視線は容赦がない。

「退かねば、斬ります」

逃げ腰になった部下たちを押しのけて、巨大な金棒を担いだリーダー格の鬼神が前に出る。大上段に構え、じりじりと間合いを計る。それに合わせて、女悪魔は大きく歎息した。

その姿が、かき消える。

最後に鬼たちが感じたのは。自分たちの首が胴から離れる、その生々しい痛みであった。

 

4,アサクサへ

 

それぞれ、わずか一太刀。

刀を鞘に納めた琴音は、マガツヒになって散る鬼神たちを一瞥して、仲間を呼ぶ。クレガが最初に出てきて、辺りの危険を確認。フォンがティルルを連れて、その後に出てきた。他にも何体か、弱い悪魔がいる。

いずれも、マントラ軍やニヒロ機構から逃げてきた者達だ。気が弱くて、戦いが嫌いで、抵抗する力もない。そんな者達を、サマエルは庇った。そして、一緒に暮らしている。右腕が無いナーガが、左腕だけで不器用に漂うマガツヒを掴んで、口に入れた。本来四つある頭の二つを失っている鬼神が、あぐらを掻いて、四本ある腕でマガツヒを取る。神としての力を失ってしまっている蛙の姿をした小柄な悪魔が、弱々しく舌を伸ばして、マガツヒを絡め取った。

マガツヒを貪る彼らを見て、サマエルは目を伏せた。最近、襲撃してくる悪魔がますます多くなってきた。ニヒロ機構とマントラ軍の勢力が拮抗していた時は、今よりだいぶましだったのだ。

法と、暴力が、それなりの秩序を作っていた。今は一方が欠けて、勢力が傾いてしまっている。その結果、弱者は更に割を食うことになった。この辺りも、ニヒロ機構に降伏するつもりであったり、或いは盗賊をしているような悪魔が多く彷徨き、治安は著しく悪化した。

やはり、住処を代えるしかないかも知れない。

ばっさり切って、短く揃えた髪を掻き上げる。ケーニスを救えなかったあの日。帰ってから、自分で切ったのだ。一度切ると、存在が固定されたらしく、もう伸びてくることはなかった。しかし、伸ばそうと思えば、また腰まで伸びるのだろう。

あの日、琴音は変わった。前だったら。今のように、無慈悲に鬼たちを斬り伏せることは出来なかっただろう。

弱き者を守るためなら、どんなことでもする。己の手を血に染めることを、厭いはしない。それが、悲しみから立ち直った琴音の中に産まれた、新しい強さだった。

手を叩くと、弱い悪魔たちが一斉に此方を見た。フォンの肩に乗り、手をかざして辺りを見回していたクレガが頷く。

「そろそろ引き上げてください。 結界を張り直します」

悪魔たちは少し不安げに琴音を見たが、すごすごと住居に引き上げていく。右後ろ足を失っている白い象の悪魔が住居にはいると、琴音は残っていたマガツヒを一息に吸い込んだ。敵は殺す。殺して食う。それで、初めて弱い者を守る力が得られるのだ。このボルテクス界では。

敵を探知する結界を張り直して、戻る。住居の中では、カズコが待っていた。自分の定位置にしている、柱の側に琴音が座り込むと、腰をかがめて顔を覗き込んでくる。

「大丈夫、コトネ? 怪我はしてない?」

「平気です」

カズコの顔を見ていると、僅かに表情が緩む。

逆に、琴音を見る悪魔たちが、恐怖を湛えていることに。どうしても気付いてしまう。琴音は恐れられている。だが、恐れられるくらいでなければ、皆を守ることなど出来はしないのだ。

「琴音、いいか?」

「はい」

クレガが声を掛けてきたので、連れられて外に出る。カズコの手も握って、一緒に。フォンも既に、外で待っていた。フォンの傍らには、数日前に悪魔に襲われているところを助けた、マネカタの青年がいる。気が弱そうな青年で、琴音の目をまともに見ることも出来なかった。

「実はな。 この若造から、面白い話を聞いた」

「面白い、ですか?」

「アサクサに、第三勢力を作ろうという話があるそうだ。 正確には、マネカタたちが、自分の拠点を作ろうとしているらしい」

無益な話である。もし悪魔が攻め込んできたら、ひとたまりもなく蹂躙されてしまうだろう。

マネカタの弱さは、イケブクロに行った時に見てきた。彼らは臆病で、連携して行動することを考えない存在だ。社会的な生物としての存在としてはシロアリに近く、数を増やすことで種の存続を図る、被捕食者である。余程傑出したリーダーがいなければ、ただの奴隷なのだ。

マネカタは蟻にならなければならない。蟻はそれぞれが高い戦闘能力を持ち、同じ奴隷でも随分性質が異なっている。個々でスキルを持ち、攻撃には反撃できる存在。時には活発なプレデターとして、獲物を狩る。そうならなければ、ボルテクス界で生き残ることは不可能だ。

「恐らく、長続きはしないと思いますけれど」

「僕たちだけなら、そうだと思います。 でも、フトミミさんが来てくれれば、きっと希望が見えてきます」

その名前を聞いた時、琴音が眉を跳ね上げた。

そう言えば、イケブクロに向かった時も、琴音はその名前の人物を捜していた。マネカタの中では、知られた存在なのか。

「僕たちに今、人修羅って凄い悪魔が協力してくれています。 貴方も手伝ってくれれば、鬼に金棒です。 サマエル様」

「人修羅というと、秀一君ですか?」

「そんな名前でした!」

青年が嬉しそうに答えた。

やはり、よく分からない。あの榊秀一は、クールで、どちらかと言えば厳しい雰囲気だった。自立自尊を望み、力で道を切り開くことを主としているように思えた。それが他力本願で守られることを望むマネカタに、どうして協力する気になったのだろう。

もちろん、琴音としては、戦いたくない者を戦わせるような事には同意できない。弱者は守るべきものだと、今でも考えている。

「なあ、琴音。 お前さんから聞いた限りだと、榊秀一とやらの実力は、かなりのものなのだろう? もし利害が一致すれば、心強い同志になるぞ。 それに、マネカタどもには期待出来んが、マガツヒの供給に関しては心配が無くなる」

「確かにその通りですが、同時に宙ぶらりんな状態になると思います。 もし、マネカタたちが力を得たら、あの子達が排斥の対象とならないでしょうか。 それに秀一君が敵に回る事態も考えられます」

「その場合は、お前さんが仕置きをしてやればいい。 儂もフォンも協力する」

さらりと言うクレガの声は冷え切っていた。マネカタの青年が蒼白になるのが分かった。もう一度、住居を一瞥する。確かに、もうここに住むのは、限界であった。耐久力の問題ではない。位置的に、もう無理なのだ。

「分かりました。 近いうちに、移動しましょう」

「有難うございます! きっと、みんな喜んでくれるはずです」

「ただし、条件があります」

琴音は、青年の笑顔を重苦しい声で遮った。

「まず第一に、私達の中には、戦えない者もいます。 戦えない者は、戦闘以外の仕事を割り振るようにしてください。 第二に、マネカタの中でも、屈強な者には武器を取って貰います。 術や戦闘技術は、私やクレガ、フォンが教えます。 訓練には、文句を言わずに従って貰います」

青年に、反論の余地を許さず、琴音は続けた。

「第三に、私とクレガ、それにフォン。 もし秀一君が来るのなら彼にも、組織の運営権を譲渡して貰います。 マネカタが一番多いからマネカタの言うことだけが通るなどと言う内容は、看過できません」

「え、ええと」

「以上三つです。 更に、状況に合わせて、他に条件も追加するかも知れません。 それらが飲めないというのなら、私達は力を貸しません」

困り果てた様子で、青年はうつむいた。恐らく、とても彼には判断できないのだろう。無理もない話である。

「琴音、とりあえず、アサクサまでは行こう」

「ええ、それは分かっています。 もし現地での状況次第では、私達がマネカタを駆逐することになるかも知れませんね」

さらりと言い捨てると、琴音は立ち上がった。具体的な移動のスケジュールを練らなければならない。

琴音が手を叩くと、一瞬恐怖を湛え、それから悪魔達が集まってきた。ティルルは琴音を怖がってはいないが、他の者達は違う。見回すと、これからアサクサに移動すること、それぞれ運搬物資を力に合わせて担当することを告げる。

もちろん、一番重いものを持つのはフォンだ。琴音も、その次に重いものを運搬する。弱い悪魔には、力に応じた、だがギリギリの重さの物資を運んで貰う。かなり厳しい条件だが、不意を打たれて全滅するよりはましだ。

一通り計画を告げると、外に出る。カズコが、マガツヒを瓶に出していてくれた。受け取って、口に入れる。いつの間にか側に来たクレガが、酒瓶を空けると、少し寂しそうに言った。

「琴音、お前さん、変わったな」

「……弱い者を守るのは、強い者の仕事だと、気付いただけです。 強くなるには、情は不要です。 ただ論理的で、冷酷で、圧倒的な力があればいい」

「そうだな。 お前さんは、儂らの中で一番強い。 それで、今後も、そうやって畏怖を集めていくのか?」

「ええ。 守る者に必要なのは、友愛の情ではありませんから」

友愛の情で、守れる者がいるとでもいうのか。あの時。デカラビアの凶行から、誰を守れたというのか。

琴音の呟きは、誰の耳にも届きはしないだろう。だが、身をもって知った事実。弱くては、理不尽な暴力から、仲間の一人だって守ることは出来ないのだ。ただ、強くあればいい。今更になって、徳山先生の教えを、もっと真面目に聞いておけば良かったと思う。もちろん思想は相容れない。

だが、武術は、こんなにも有用なものなのだ。

誰にも、有無は言わせない。必要だからだ。もし異論があるのなら。実績で示してみると良いのだ。そんな実績など、示せるはずもない。

翌日から、移動が始まった。

途中、何度となく、悪魔が襲撃してきた。盗賊化しているマントラ軍の脱走兵や、敗残兵が多かった。

そのいずれも、琴音は返り討ちにして。

そして食った。

 

アサクサの近辺は、砂漠ではなく、乾燥地帯である。と言っても、植物は生えておらず、ひび割れた大地が何処までも広がるばかりだ。

琴音は知っている。かって地球にあった砂漠の殆どは、このような場所であったことを。砂海よりも、岩だらけの「岩石砂漠」と呼ばれるような場所の方が本当は多いのだ。岩が朝晩の凄まじい温度差によって砕けることにより、膨大な砂が産まれる。砂だらけのボルテクス界は、そう言う意味でも地球とはだいぶ違っている。

フォンとクレガに隊列を任せて、琴音は周囲を見て回った。翼を持つ悪魔もいるのだが、彼も非戦主義者だ。だから、自分で見て回る。そろそろ、空を飛ぶ術を覚えておきたいところだ。

様々な悪魔を喰らった。その中には、形態変化をする者もいた。応用は利く。魔力で形状を変えればいいのである。髪を翼に変えるという手もあったのだが、今はもう出来ない。だから、魔力で翼を形作る。だが、あまり高速では飛べないだろう。元々飛ぶことに特化した悪魔にも、勝てるとは思えない。どうやって術を展開するか考えながら、歩き回る。

アサクサの周囲は、クレーター状にへこんでいて、その周辺にかっての街の名残がある。有名な「雷門」は健在で、大きな提灯は朽ちながらもぶら下がっていた。来る途中にマネカタの青年に聞いたのだが、クレーターの底にはマネカタの材料となるお歯黒どぶ泥がある、この世界でも珍しい湿地帯があるらしい。底から辺縁に伸びているトロッコは、随分使われていない様子だ。完全にレールは錆び付いているし、トロッコの車体も朽ちかけている。いつ崩れてもおかしく無さそうだと、琴音は思った。

アサクサの街は、復興が始まっている。木槌の音や、喧噪が琴音の元まで届いた。遠くから伺う限り、既に数十から数百のマネカタがいる。人修羅は。

まだ、いないようだ。大きな気配は、近くにはない。

向こうの出方次第では、いきなり斬り結ぶことも考えなければならない。刀を抜くと、刃先を確認。充分に実戦に耐える。一度、隊列に戻る。特に悪魔が襲ってくるようなこともなく、静かなものであった。

「琴音、どうだった」

「問題ありません。 まずアサクサの側まで行ったら、彼を伴って私が代表者と話してきます。 それから全員で街へ入りましょう」

マネカタの青年へ、先頭に立つように促す。臆病な彼は、普段は絶対に先頭に立とうとしないが、琴音の表情を見てしぶしぶ列の先頭に立った。もちろん、人質を兼ねてのことだ。

後ろ足の一本を失っている白象の悪魔が、悲しげに嘶いた。そろそろ、長距離の旅で音を上げ始めているのだ。カズコがマガツヒを提供はし続けているが、それにも限界はある。

アサクサの側にまで来ると、流石にわらわらとマネカタが出てきた。青年が手を振って呼びかけると、老人のマネカタが歩み出てくる。老若男女様々な姿のマネカタがいたが、やはり老人が指導者を買って出ているらしい。

老人に走り寄るマネカタを、後ろから冷たい目で見る。ざっと見る限り、集まってきているマネカタだけで五十を超えており、奥の方には400から600程度がいるようだ。マントラ軍は数十万のマネカタを使っていると聞くが、イケブクロが壊滅した際に脱出した分だけでも、十万は超えているだろう。それから考えると、むしろ少ないのかも知れない。

「貴方が、邪神サマエル様ですかな」

「はい。 私が、サマエルの琴音です」

「私は、今マネカタ達の指導者をしている、シロヒゲと言う者ですじゃ。 同胞を助けていただきまして、有難うございますだ」

「形式的な挨拶は結構です。 早速ですが、この街の指導者を集めていただきたいのです」

怪訝そうな顔をするシロヒゲに、青年が耳打ちする。シロヒゲは難しい表情になったが、やがて笑顔を作り直した。

「大体の事情は分かりました。 我々のために働いてくれている人修羅様は今留守にしているので、決定は先送りになってしまうのですが、よろしいでしょうか」

「それは困りましたね。 事実上の最高権力者である彼と、幾つか話しておきたいことがあったのですが」

「その、なんですじゃ。 基本的に人修羅様は、来たものは受け入れるようにと、言っておいででしてな。 貴方たちがアサクサで暮らしたいというのでしたら、問題ありませんので。 細かい相談は、その後でも良いのではないでしょうかな」

確かに、悪魔達は疲労が激しい。ナーガは槍を持つだけで精一杯の様子だし、蛙の悪魔も目を白黒させて地面でへばっている。

それに、悪魔の襲撃を考えると、シロヒゲ達にとっても、琴音が滞在することはマイナスにはならないはずだ。

利害関係で言えば、一致している。後は油断しないようにすれば、つけ込まれることもないだろう。

「分かりました。 細かいことは、人修羅さんが帰ってきてから決めましょう。 仲間達がお世話になる礼に、その間は私がこの街を見回ります」

「ありがたいことです。 下級の悪魔が襲ってきても、総掛かりで退けるのがやっとという有様でしてな」

老人は、警戒しながらも、琴音の手を取った。

何だか、ひんやりしていた。人間と殆ど質感が変わらないカズコとはえらい違いだと、琴音は思った。

 

復興しつつあるアサクサを見下ろす影二つ。どちらも女性である。

片方は、冷酷そうな目をした娘。そしてもう一人は、妖艶な肉体を持ちながら、それをロングコートでことごとく隠してしまっている、妙な悪魔であった。背中には蝙蝠に似た、長くそれでいてつややかな翼がある。

ロングコートの悪魔は、堕天使ベルフェゴール。堕天使でありながら、ニヒロ機構に所属していない変わり種だ。奔放な性格だと思われているようだが、単に組織に所属するのが苦手なだけである。

彼女が見守る先にいるのは、冷酷そうな目をした娘。東京受胎を生き延びた人間の一人、橘千晶である。千晶はブーツで岩石を踏みつけながら、アサクサの街に巣くうマネカタどもを見て、舌打ちした。

「どうやら、先を越されたみたいね」

「仕方がないことだわ。 別を探しましょう」

千晶は、ここのところ、力を付けるために動いていた。ベルフェゴールに魔術を習い、四十を超える術をものにしただけではない。その力を利用して、下等な悪魔から、順番にねじ伏せて部下にしていった。

振り仰ぐ先には。最下級の天使エンジェルが十騎。他にも、様々な種別の悪魔、合計三十騎ほどが控えている。いずれも絶対的服従を強要され、千晶には顔を上げることさえも許されてはいない。事実、口答えして、その場で殺された悪魔もいる。地面に這い蹲る部下共を見やると、千晶は鼻を鳴らした。

今はまだ小さな勢力。だがこの機に、第三勢力を起こし、あわよくば創世まで為そうという千晶の野望は、本物であった。だから、力の空白地となったアサクサを見に来たのだ。だが結果はどうだ。マネカタどもはどうでもいい。サマエルが、あまりにも邪魔だ。

サマエルはここのところ急激に実力を付けていて、既にベルフェゴールの力さえ凌いでいる。しかもベルフェゴールが見たところ、あれはトールと同じくかなり特殊な悪魔で、人間にも手を出せる可能性がある。千晶にとっては、相性が最悪の相手だと言ってもいい。もちろん、今従えている悪魔など、束になってもかなわない。

「それにしても、こんなカスばかりでは何をするにも駄目だわ。 もっと、強力な悪魔を従えたいわね」

「それならば、力の総量を増やして、新しい術を身につけないとね」

千晶はまだ弱い。魔力だけなら、既にかなりの量を保有している。だが、肉体的には、脆弱な人間そのものだ。悪魔は人間に手を出せないという利点を生かして、雑魚悪魔達をねじ伏せている。だが、今後、もっと強い悪魔になってくると。そのままの状態では、勝つことは出来ない。

千晶は、基本的にベルフェゴールには頼らない。術式を覚えることはベルフェゴールの手ほどきで行うが、悪魔を従える時も、決断する時も、全て自分だけでする。それが、ベルフェゴールには少し寂しいのと同時に、見守る楽しみもあった。

千晶は、実力に裏打ちされたプライドの固まりだ。確かに知識は豊富で、才能も図抜けている。格闘戦闘も身につけていて、普通の人間が相手であれば、絶対に遅れを取ることはないだろう。

だが、危ういのだ。最強であるが故に、その芯が折られた時、どうなるか分からない。それが楽しみでもあり、不安でもあった。

ベルフェゴールは悪魔だ。しかも、闇に属する堕天使の一族であり、彼らの王とも言える存在、魔王の一柱に数えられることもある。だから、千晶が落ちるのを見てみたいという欲求が確かにある。だが同時に。娘を見守るように、千晶が歩くのを後ろから見ていたいという気持ちもあるのだ。

不思議な感覚である。今まで、好き勝手に生きてきたベルフェゴールは、どうして自分がこんな感覚を抱いたのか、よく分からない。ずっと昔に、何かあったような気がする。忙しくて、社会での地位を保持するのが大変で。子供を見守る余裕が無く、一緒に過ごすことも出来ず。結局、放ったらかしにしてしまった。プレゼント漬けにして、それで何とか満足させようとした。マンションを一つ与えて、好きなようにもさせて。

それで、娘は、どうなった。

頭を振る。分からない。どうも混在しているこの記憶の正体が、理解できない。上級悪魔である自分が、何故記憶ごときに苦しめられるのか。

だが、この記憶と、千晶への情愛が、共存しているのは確かだ。

「ベルフェゴール。 行くわよ」

「はいはい。 今度は何処へ行くの」

「ヨヨギ公園」

これはまた、意外な地名が出てきた。

ヨヨギ公園は、妖精族が集まって作り上げている小勢力だ。兵力は1000騎にも満たないのだが、何度かのニヒロ機構の攻撃を退け、未だに独立を保っている珍しい勢力でもある。統治が上手く行っているかと言えばそうでもなく、女王ティターニアと王オベロンの間には確執が絶えないとベルフェゴールは聞いている。

「そもそも、あんな所に独立勢力がある事が、不可解だと思っていたのよ。 ニヒロ機構とも何度か交戦して、無事に生き残っているそうじゃないの。 その秘密を探りに行くわ」

「クーフーリンがかなりの使い手だという話は聞いているけれど、まあ、それだけではなさそうね」

「場合によってはその秘密を奪い取って、奴らを膝下に組み伏せるわよ。 ティターニアはかなりの術の使い手だとも聞くし、従えるのが楽しみだわ」

くっくっくと、楽しそうに千晶は笑った。

「この世界は、私のものよ」

千晶の言葉には、やはり危うさが宿っていると、ベルフェゴールは思った。

 

5、粛正劇と……

 

血に染まった床を踏みしめて、トールが進む。その拳は、既に鮮血にまみれていた。

側の床に転がっているジョカは、既に死に瀕し、痙攣していた。無口で夫に仕えるばかりだった蛇神は、最後まで自己主張をすることなく消えた。元の人間の性質が、大きく関係していたのだろう。中国の古代神話に登場するジョカは鼻っ柱の強い女神であり、夫の言いなりなどという存在ではなかったのだから。

ジョカを殴り殺したトールの視線の先には、急あしらえのみっともない玉座からずり落ちたフッキの姿。トールはマガツヒになって散っていくジョカを一瞥すると、低い声で言った。

「次はお前だ、フッキ」

「よ、良いのか! わ、わ、私を殺せば! マネカタは、も、もう生産できなくなるんだぞ!」

「そう思って、術が得意な悪魔を何匹か連れてきた。 修練をずっとサボり、政争に現を抜かしていたお前に出来て、他の悪魔に出来ないという理由もないだろう。 マガツヒを食えば、ノウハウは分かるからな。 わざわざ助命する意味もない」

歩み寄る。

カブキチョウで、王を気取っていたフッキ。愚かにもこの蛇神は、留守に残していたミズチの不意を突いて監禁し、後から来た悪魔達も強引に指揮下に入れていた。ゴズテンノウの後継者を気取ったらしい。そして、トールが帰って来るや、裏切り者呼ばわりして捕らえようとまでしたのだ。

もちろん、稚拙で下劣な企みは上手くいかなかった。近衛兵達はトールに睨まれるとすくみ上がってしまい、むしろ率先してフッキとジョカを裏切った。

抵抗もあるにはあったが。トールの前進を止めることなど、出来はしなかった。そして、今の状況に到っている。

「ま、まてトール。 そういきり立つな。 ゴズテンノウが気に入らなかったのは、お前も同じなのだろう。 手、手を組もう。 軍事は貴様に一任する。 わ、私は、政治だけさせてもらえれば、それでいい。 お前は政治が苦手なはずだ。 な、なあ! 悪くない提案だろう!?」

「それで?」

「ふ、二人で手を組めば、ゴズテンノウの遺産を全て手中に収めるのも難しくない。 だ、だから、な!」

「だから?」

無様な言い訳を聞き逃し、トールはフッキの胸ぐらを掴み挙げた。道服を着込んでいたフッキの頭から冠が取れた。乾いた音が響く。そして、悲鳴が響き渡る前に。恐怖にまみれたフッキのひげ面を、トールの拳が粉砕していた。

マガツヒが散っていく。トールが指を鳴らすと、術を得意とする悪魔達が、ジョカのものと合わせてがつがつと食い始める。こんな汚れたマガツヒ、トールは食おうとも思わなかった。

謁見室を出ると、遅れて着いてきていた毘沙門天と顔を合わせた。毘沙門天はトールの顔を見て、全ての事態を悟ったようであった。

「何も、殺さなくとも。 今は、人材が一人でも必要な時期でしょうに」

「将官の人材は足りている。 今、足りないのは、総司令官になるべき存在と、優秀な兵士達だ。 それに、此奴はいるだけで有害だ。 さっさと消すに限る」

牢から出してやったミズチが、空をうねりながら来た。半透明の龍族であるミズチは、この間の戦いで多くの龍族が戦死したため、必然的に彼らのリーダーに収まっている。今回、彼が捕まっていたことが、フッキとジョカの凶行を更にスムーズに進ませた要因であった。

かってカブキチョウを支配していた存在でもあるミズチだが、トールには長い戦いの末、心酔してくれている。トールとしても、最近は背中を任せても良いかと思えるようになってきていた。

「トール様、ジョカとフッキに従っていた者は、あらかた捕らえましたぞ。 処置について、相談したいのですが」

「降伏する者は許してやれ。 逆らう奴は殺してマガツヒにしろ。 それで、怪我人の治療に回せ」

「御意」

「トール殿……」

悲しげな毘沙門天の声に、トールは鼻を鳴らした。強い苛立ちを感じる。

そもそも、あのような輩を、トールがわざわざ処分しなければならない事自体がおかしいのだ。毘沙門天も、時にはからめ手からの行動も身につけて欲しいものである。正面からの実務能力は確かに高い。トールにはない、まぶしさも持っている。だがそれだけでは、ボルテクス界では生きてはいけない。

毘沙門天は、人間だった頃にも、苦労していたのかも知れないと、トールは思った。真面目な人間は社会を動かす。だが社会にとって、体の良い食い物である事も確かなのだ。毘沙門天は、典型的な食い物にされる真面目な男だった可能性が高い。

トールは玉座の間を出る。蛇神に準じた者はほんの僅かで、殆どはトールの圧倒的な武力に歓声を上げた。万歳という声が、彼方此方から聞こえる。仕方がないので、大通りを練り歩いてやった。

カブキチョウの混乱は、急速に収まっていった。イケブクロから逃れてきた悪魔も、三割くらいは吸収することが出来た。四天王寺は持国天達が押さえ込んでいるから、ほぼ脱走兵はいない。それでも、かっての三分の一程度の乏しい戦力だが、どうにか全滅は免れたと言える。後は、国境を縮小して、再起のために力を蓄える必要がある。その辺りは、毘沙門天にやって貰うしかない。

「俺はこれから、ゴズテンノウ様の意思を継ぐ者を探す。 お前は、その時のために、戦力を維持し、ニヒロ機構の攻撃を耐え抜いてくれ」

「トール殿、まだそんな事を言っているのですか。 今の戦力から、巻き返せるとはとても思えません。 言葉が悪いが、正気とは思えぬ」

「俺は正気だ、毘沙門天。 武を志したのなら、死の瞬間まで修練を怠らず、希望を捨ててはならぬ。 鉄則であろう」

それに、とトールはわざと一端言葉を句切った。毘沙門天が聞く体勢を作るまで待ってから、再び口を開く。

「ニヒロ機構が創世をして、お前は満足か? 法によって全てが統御され、力ある者が非の目を見ることのない世界が来ても、お前は良いのか? 俺は、そんなものは、まっぴらごめんだ」

「確かに、私もそんな世界は望みません」

「ならば、留守を頼む。 俺と、俺の部下達が、必ずやゴズテンノウ様の跡を継ぐ者を探し出す」

もう、毘沙門天は、何も言わなかった。

カブキチョウ要塞を、歩いて出る。此処を殆ど無傷のまま保持できたのは大きい。見たところ、あのナイトメアシステムは、乱発できる兵器ではない。あれをもう一度使えるほど、ニヒロ機構は潤沢な力を持ってはいないだろう。

玄関近くまで出ると、騒ぎが起こっているのに気付いた。困惑して、トールを呼びに来た鬼神と出くわす。確か、シュテンドウジという腕利きだ。

「トール様、探しておりやした」

「どうした」

「それが、人間が入り口に来ておりまして。 中に入れろと叫いております。 フトミミとか言うマネカタとの接見を望んでいるとか」

「そんな愚か者は、恐らく一匹しかおるまい。 本当に馬鹿な奴だ、折角拾った命だというのに。 人修羅も、下らぬ奴のために、命を賭けたものだな」

必殺のハンマー、ミヨニヨルを腰から外す。普段は逃走を防ぐため位にしか使わないが、こう言う時にはとても便利だ。トールには、騒いでいるという人間に、心当たりがあった。

そしてそれは、当たっていた。

玄関まで出る。トールを見て、随分やつれていたその人間、新田勇は悲鳴を上げた。

最初捕らえた時は、まだ利用価値があるかとも思っていた。だが、今は違う。もはや此奴に、マガツヒを絞る以上の価値はない。

あまりにも、愚劣。あまりにも、無能。それがボルテクス界で、どういう意味を持つか。人間だと言うだけで、のうのうと生きてきたこういう輩に、トールは芯からの軽蔑と、憎悪を覚える。

トールは容赦なくハンマーを振り上げると、勇に叩きつける。

十メートルも吹っ飛んだ新田勇は、砂漠に叩きつけられ、半分尻を出した無様な格好で砂に突っ込んで、意識を失った。ひくひくと痙攣しているが、命に別状はないだろう。掴みあげると、唖然としている部下共の中へ、放り投げる。

「道具を使えば、お前達にも痛めつけることが出来るはずだ。 身の程をわきまえぬ愚物に用は無し! 徹底的に拷問して、マガツヒを搾り取れ! 場合によっては、殺してしまってもかまわん。 こんなクズが、創世の役に立つとは思えぬからな」

蒼白になっている悪魔達にそう指示すると、トールは砂漠へ出る。

この時、トールは新田勇を、全く評価していなかった。

 

秀一が基盤を築いたアサクサに、百、二百と、マネカタが集まりつつあった。態勢を整えていないマントラ軍に追撃の余裕はなく、ニヒロ機構もまだ大規模侵攻が出来る状況にないはずだ。秀一は、組織の構成にだけは力を貸す。後は、マネカタ達次第である。マネカタの王になる事などに興味はない。

逃げてくるマネカタ達を、何度か護衛もした。そのために、マントラ軍を離れて盗賊化している悪魔を、追い払い、時には斬り伏せもした。幾つか新しい技を使えるようにもなっているが、必要もなかった。

帰ったら、マネカタ達がさしだしてくるマガツヒを喰らって、また出撃する。出る度にアサクサの人口が増えるのは面白くもあり、虚しくもあった。秀一自身は、しばらく前からアサクサには入っていない。情報のやりとりと、マガツヒの受け取りであれば、側の砂漠で充分だからだ。

今、アサクサでは、防御施設の建造が始まっている。その様子を岩に座ってぼんやりと眺めていた秀一は、すぐ後ろにリコが立っているのに気付いて、振り返る。

「どうした?」

「榊センパイ、マネカタが知らせてきたんスけど、アサクサに客人らしいッス」

「客人?」

「サマエルのコトネと言えば分かるとか」

綺麗な女の子らしいッスよと、何だか嫉妬を含ませた口調で、リコは言う。やはり年下の女の子は面倒だなと、秀一は思った。よく分からないことですぐ機嫌を悪くするし、その逆もしかり。女がどうのこうのと騒いでいる連中の気が知れないと、いつも秀一は思う。悪魔になってからも、それは変わらない。

そういえば、アサクサに大きな気配が幾つかあると思っていたのだ。マネカタ達の中から、そこそこに戦える者が出てきたのかと考えていたが、違ったらしい。確かに琴音であれば、気配が大きいのも頷ける。

久しぶりにアサクサに出向くかと、秀一は腰を上げた。

まだ、カブキチョウからフトミミとやらを救出するには、情報が足りない。カブキチョウ要塞の概略図は分かったが、それくらいである。正面突破するには、秀一の実力が不足している。今なら上級悪魔の一騎くらいなら倒せる自信もあるが、複数掛かりで攻めてきたらもうどうにもならない。もちろん正面突破する気など無いから、これは最初から想定していないが。

もし、琴音が協力してくれるのなら、これ以上心強いこともない。戦略上の選択肢が著しく増える。

岩陰で寝ていたフォルネウスに声を掛けて、アサクサに向かう。サナは途中の岩場で、合流するつもりだ。彼女はこの間、カブキチョウから逃げてきた鬼神が持っていたお洋服を強奪して、それからずっと機嫌が良い。今も着替えに丁度いい洞窟を見つけたとかで、其処で新しいお洋服の袖に手を通している所だった。もちろん、洞窟に危険な存在がいないことは、事前に確認している。

リコを呼びに行かせようかとも思ったが、わざわざ其処までするのも面倒くさい。洞窟に踏み込むのも論外だから、側の岩壁に背を預けて、呼びかける。

「おい、サナ」

「今着替え中ー」

「アサクサに行くぞ。 出来るだけ早く着替えを済ませてくれ」

「はいはい、ちょっと待ってねー」

と言ってから、たっぷり一時間以上は待たされた。

最近嬉しかったことが一つだけある。携帯の充電器を手に入れたことだ。手動でハンドルを回して充電できるタイプであり、和子から来たメールを見ることが出来るようになった。電池を気にしなくても良くなったので、他のメールにも、目を通すようにしている。千晶や勇からのメールも、今見れば懐かしい。二人とも道は違ってしまったが、無事にやっているだろうか。

「お待たせー」

「遅かったな」

リコはいつも以上にフリフリの着いたスカートを穿いていて、ちょっと度肝を抜かれた。色彩もピンクがメインである。更に、ばかでかい青いリボンでさらさらの髪をまとめている。これで子供っぽくないと主張するのだから、時々困る。くるりんと回ったサナが、胸を張って言う。

「どうだ! シューイチ、僕を見違えたか!」

「……そうだな」

凄く誇らしげなので、反論しかねる空気である。しかも、お洒落に興味なさげなリコまでもが、それに乗る。凄く羨ましそうに、目を輝かせている。

「いいなあ。 サナさんてば、造作が良いから、何着ても似合うッスよね」

「そんなことないって。 それにリコだって背が高いから、着せ替えのしがいがあると思うけどなあ」

「ええ? あたしはいいッスよ。 腹筋割れてるから、見られるとみっともないし」

「良いってそんなの。 むしろかっこいいじゃん。 スカートは似合わなくても、足長いからパンツ系は何でも良さそうだなー。 いいデザイン見つけたら、今度見繕っておくよ」

話について行けないので、秀一はしばらく待ってから、咳払いした。そういえば、服も母と妹が買ってくる奴でいつも平気であった気がする。千晶に選んで貰ったことがあったかも知れない。

咳払いしたのは、本来の目的を忘れて貰っては困るからだ。自分自身も含めて。

「そろそろ、いいか?」

「ああ、ごめんごめん。 で、アサクサがどうしたの?」

「サマエルが訪ねてきた。 もし味方になってくれるのなら、此方としても心強い。 これから話してみるつもりだ」

術式を唱えたサナの体が、淡い光に包まれる。存在形状の固定という術で、これを唱えておくと、服が破れても簡単に復元できるらしい。事実靴はそうやって何度も直しているところを見ている。

多分、全てがマガツヒから構成されているこの世界だからこそ、簡単に組める術なのだろう。

きらきらした光が収まると、サナは考え込む。

「ふーん、サマエルがねえ」

「何か、問題があるか」

「いや、味方というよりも、同盟勢力として考えた方が良いんじゃないかなって思ったからさ。 あの子、現実的じゃないけど、強い芯持ってた」

そしてサナは、不吉な予言をした。

「もしもアサクサが安定して、マネカタ達の都市が出来た場合だけれど。 きっと、サマエルには不幸なことになると思うよ。 マネカタ達、弱っちいもん。 きっと、強くて正しいサマエルが疎ましくなって、怖がるか排斥し始めると思うよー。 シューイチはあまりマネカタの統治に関わりたがらないみたいだから、多分へーきだと思うけれど」

「もしそうなったら不快だな。 もちろん、そうならないように、早くから積極的に努力してみよう」

「はは、シューイチは優しいね」

そんな自覚はない。事実、秀一は、サマエルと同盟関係を考えてはいるが、絶対に命を助けようとかは考えていない。相手も多分そうだろう。利用し、利用される関係である。利害関係の一致に過ぎないと、割り切っているのだ。

だが、それがボルテクス界での基本だと、秀一は理解し始めていた。そうやって生きながら、己の道を探す。それで良いとも、思っている。

アサクサにはいると、何騎かの悪魔が働いていた。腕が片方無いナーガが、マネカタ達を指導して、重い瓦礫をどかしている。義足を付けた白い象の悪魔が、長い牙を使って、崩れた大きなビルをどかしていた。開いたところに、術式で作ったらしい木材を使って、小柄な老人の妖精が家を建てていた。釘を咥え、木材に跨ってトンカチを振るっているあの老人は見覚えがある。確か、クレガと言ったか。

「おや、お前さんは」

「久しぶりだな。 サマエルは、元気か」

「ああ。 奥の方で、長老と話してる。 案内しようか?」

「いや、大丈夫だ。 気配で分かる」

奥へ。すれ違うと、マネカタ達は深々と礼をしてくる。悪魔に襲われているところを助けた者も多いから、秀一は感謝されている。

だが、サナが指摘するとおり。あくまで、今は、である。彼らは弱い。かって、世界にはびこっていた人間のように。

だから、もしある程度の数がそろい、勢力が安定したら。自分たちだけで、身を守れると錯覚したら。秀一への感謝よりも、悪魔への恐怖を優先して、排除に掛かってくるかもしれない。

その場合は、マネカタ達を殺すべきなのだろうか。秀一には、其処まで割り切ることは出来るのだろうか。

アサクサは、中心部のクレーターに沿って、家屋が点々と立ち並ぶ、変則的な作りとなっている街である。一番奥は「ミフナシロ」と呼ばれていて、聖地扱いされているため開発はされていない。螺旋状にゆっくり下っている街並みの、一番底に、長老達が住む長屋がある。

戸をノックして、中にはいると。長机を囲んで、シロヒゲを始めとするマネカタの指導者達と、琴音が顔を上げた。

驚いたのは、他でもない。琴音の目が、恐ろしいほど冷たい光を湛えていたからである。あの、仲間を失った事件が、影響したのだろうか。何だか、世の全ての情を失ったかのような目だ。

「秀一君?」

「久しぶりだな」

「ええ。 話には聞いていましたが、強くなられたようですね」

軽く挨拶すると、着席してシロヒゲに会議の議題を聞く。どうやら、今後の建設計画についてだという。

生活の利便性を考えた案を長老達が推しているのに対して、琴音は防衛を主題とした建築計画を主張している。秀一は、迷うことなく、後者を推した。当然の話で、いつ態勢を立て直したマントラ軍やニヒロ機構が攻めてくるか知れたものではないからだ。利便性など、後回しで良い。本当だったら、アサクサを要塞化しても良いくらいなのである。

後ろ盾になっている悪魔二人が、意見を一致させる。そうなると、マネカタ達には、意見を通すことが出来ない。長老の一人が、不満を抱えているのを、秀一は見た。どうやら、サナの懸念は、杞憂とは言い難いようであった。

次の議題が提示される。若いマネカタが持ってきたのは、手配書だった。顔をマスクで隠した、尖った髪型のマネカタである。基本的にマネカタは、髪を機能的に切りそろえている者が多い。男は殆どが坊主刈りにしているほどだ。それなのに、古き時代のパンクロッカーのようなこの髪型は、目立つ。

「このマネカタは?」

「サカハギと言われる男です。 カブキチョウでも、悪魔に混じって、牢に入れられていた、凶暴な奴です」

「最近アサクサの周辺に出没して、マネカタを殺して皮を剥ぐ、ヒドーな奴です!」

マネカタの世界の猟奇殺人鬼という訳か。それほど大きな力は感じていないが、マガツヒを貪欲に喰らうような奴なら、いつ大化けしてもおかしくない。もちろん、悪魔を狙ってくる事もあるだろう。皆には注意を促さないといけない。

「悪魔に混じって牢に入れられていたと言うことは、かなり強いのか」

「ナイフも凄いんですが、怪しい術を使うんです。 相手の精神を操作するようなもので、悪魔でさえそれでやっつけちゃったことがあるそうです」

「牢に入れられていたと言うことは、上級悪魔には通用しないと考えて良さそうだな」

「多分。 でも、今の実力はどれほどなのかはよく分からないです」

うんうんと、何人かのマネカタが賛同する。口にはしてみたが、秀一はあまりそう楽観的にはなれない。最悪の予想を、しておいた方が良いだろう。楽観論は、思考の放棄だ。戦いの中、秀一はそれを学んだ。

結局の所、マネカタ達は大勢力の空白地帯に、頼りなく浮いているに過ぎない。しっかり根を下ろすには、土台をきちんとくみ上げる必要がある。秀一は以前から頭の中でまとめておいた案を、まとめて提案していく。

「まず、そろそろ組織的な行動の訓練をした方がよいだろうな。 出かける時は、槍と弓で武装する。 最低でも五人で組む。 勝てそうなら、槍を揃えて戦う。 無理そうなら、散り散りに逃げることで、味方に情報を伝える。 悪魔に対する備えとして、いずれやっておきたかった事だが、そんな奴がいるのなら、対策を急いだ方が良いだろう。 人数もだいぶ揃ってきているから、そろそろ組織的な訓練が意味を持ってくるはずだ」

「分かりました。 訓練は、私が引き受けます」

「助かる」

琴音の提案で、随分時間が空いた。秀一としては、マネカタには情報だけ集めて貰って、自分はもっとカブキチョウの事を探っておきたいのだ。もちろん、それを通り越して、祐子先生の居場所が分かればなおいい。マントラ軍と、ニヒロ機構の動向も、しっかり掴んでおきたい。

会議が終わると、琴音と二人で残ることになった。しばし冷たい沈黙が流れる。以前の、穏やかでにこやかな雰囲気は、もはや何処にも残っていなかった。また、綺麗だった髪の毛をばっさり切ってしまっているのも、気になった。

しかし、これが普通の反応なのかも知れない。考えてみれば、家族が死んだというのに、こうも落ち着いてしまっている秀一の方がおかしいのである。仲間を惨殺されて、心に変調をきたしてしまった琴音の反応の方が、むしろ正常だ。

「シブヤの近郊で聞いたが、ニヒロ機構のデカラビアは、死んだそうだ。 詳しい経緯は聞いていないが、何かの理由で、獄死したらしい」

「そう、ですか」

「憎いという訳ではないのか」

「憎いのは、むしろ自分自身です。 有難うございます、情報をくださって」

乾いた笑み。女性は色々な笑みを浮かべることが出来ると、秀一は聞いていた。丁度、今の琴音のように。相手を気圧すようなものも、難しくはないのだろう。それを見て、秀一はむしろ、悲しくなった。琴音の笑顔は、痛々しい。

「カズコは元気にしているか」

「ええ。 私よりも、元気なくらいです」

「そうか。 あんたがしっかり守ったんだな」

会話はそれで途切れてしまった。これ以上の会話をする気がないことを視線で伝え、琴音はその場を去った。

戦いは、心を壊す。やはり悲しいことだなと、秀一は思った。

 

現在、ニヒロ機構の元には、最も多くの情報が集まってきている。当然の話である。アマラ輪転炉を有し、最大の人員を擁しているのだから。

それらの情報は整理され、最終的には氷川の元に届く。氷川はずっとノートパソコンを操作しているが、それは殆どの場合、情報を整理するためだ。もちろん、パソコンが好きだという事もある。

父は、その存在を、ほとんど覚えていない。義母は、自分を虐待した恨みしかない。

血統上の母が辿った悲劇が、最終的に氷川の凶行を後押しした。だが、それはそれ、これはこれである。

今の氷川は、新しい世界のために、命を削りながら働いていた。充実は、していた。結局の所、世界的には無意味で非人道的なだけのSE業よりも、遙かに創造的で、なおかつ生の意味を感じさせてくれる。スキルの生かしようもあって、氷川としても楽しい仕事であった。何かを創造するというのは、本当に楽しいことなのだと、仕事をする度に思い出す。

だが、オセが逝ってしまったことで、やはり氷川は思うところがあった。オセは強かった。あらゆる意味で、氷川を支えてくれていた。失態をカバーさえしてくれたのは、あいつしかいなかった。

マントラ軍には、勝つことが出来た。同時にスペクターも撃退できた。側にオセが控えていてくれなければ、今頃氷川は死んでいただろう。立派に、駒として動いてくれた。だが、それ以上の存在であったことを、氷川は今更ながらに思い出していた。

今後は、迂闊に気を抜くことも出来ない。

信用できる奴は、もう側にいない。

時々、手が止まる。

かっての世界を捨てた身らしくもないと、自嘲する。かっての世界に未練を残すような者を、ボルテクス界に連れてきたのは間違いだったなと、氷川は現れた人修羅に吐き捨てた。高尾祐子を返せとか言い出したからである。その時は一笑に付した。だが、オセが、あまりにも無惨な姿で戻ってきた時。そして、自分を守り抜いた時。

嘲笑は消えてしまった。

人間である身を、疎ましくさえ思う。オセが命まで賭けて守ってくれたのに、このままでは迷いに押しつぶされてしまいそうだ。オセを父だと思っていたのかも知れないと、氷川は悟る。事実、やりたい放題だった氷川に、控えめながらも道を示してくれたのは、オセだったのだ。

創世のためには、人間を捨てる必要性がある。氷川は、その結論に達していた。だが、鉄のような精神にも、ほころびはある。怖くないといえば、それは嘘だ。

歎息すると、ノートパソコンを閉じる。少し眠ろうと思ったのだが、部下がそうはさせてくれなかった。ベルが鳴る。リモコンの一つを手にとって、モニターを動かす。術によって動くタイプのものである。最近は改良を重ねた結果、かなり複雑な仕組みを作り出すことに成功している。

「どうした」

「は。 偵察部隊から、新しい情報が入りました。 マントラ軍で、内紛が発生。 ただし、すぐに収束しました」

「仔細を教えてくれたまえ」

「は。 マントラ軍の政務を担当していたフッキとジョカが、ゴズテンノウの消滅に乗じて、権力を強奪。 一時はカブキチョウを私物化しました。 しかし、其処へ乗り込んだトールが、二騎を殺し、実務を毘沙門天に貸与したそうです。 混乱は極めて短期で収束し、脱走者は殆ど出ておりません」

考え込む。フッキとジョカは、ニヒロ機構のスパイだった者達だ。正確にはニヒロの手先という訳ではなく、積極的にマントラ軍の情報を流してくる内通者だった。野心的な者達だが、思慮が足りなかった。今回も、少し前から連絡が絶えていて、不安は感じていたのである。

阿呆らしく、自滅していないかと。

案の定、氷川の危惧は当たった。

氷川も膨大な情報をアマラ輪転炉から集めているから、この世界の基幹的なルールは知っている。人間の意識をベースに、悪魔は生成される。フッキのように偉大な創造神も、核が阿呆であればろくな力を発揮できないのだと、これではっきりした。それだけでも、灯りに寄ってきた蛾が焼け死んだようなフッキとジョカの有様にも、意味は充分にあったと言える。

「マントラ軍の様子は」

「彼方此方の防御施設を順番に破棄しながら、カブキチョウと四天王寺に戦力を集中しています。 防衛体制は、今三割程度と言うところでしょう」

「予想通りだな。 下がってくれたまえ」

オペレーターが一礼すると、モニターがブラックアウトした。ノートパソコンをもう一度立ち上げて、データを入れる。自作の分析用ソフトを動かすと、数分で結論が出た。今こそ、オベリスク攻略の好機。一刻も早く戦力を整えて、出撃するべきである。

ミトラを呼び出す。睡眠時間が更に減っていくが、創造的な楽しみには変えられない。すぐに、執務室にいたらしいミトラはモニターに現れた。

「総司令、何事でしょうか」

「マントラ軍で、クーデター騒ぎがあった。 連中は組織と戦力の再編で、当分は動けないだろう。 元々再編まで時間は掛かると思っていたが、更に我らに有利になった。 これに乗じて、オベリスク攻略を確実に行いたい。 編成を急いでくれ」

「は。 既に15000程の機動部隊が動けます。 予定の残りも、カグツチが半巡するまでには集められるかと思います」

「よし。 兵が集まり次第、出撃できるようにしておいてくれたまえ」

「御意」

敬礼して、モニターを切る。続いて、ブリュンヒルドに。訓練の担当は、常に彼女だ。更に、カエデと、モイライ三姉妹。そしてスルトにも、連絡を取らなければならない。

全ての連絡が終わると、流石に疲れた。脳が甘いものを欲している。

自室に引き上げると、戸棚からキャンディ類を取り出した。カエデが作ったものだ。兎に角強烈に甘いので、疲れが良く取れる。子供らしい味覚だが、氷川にはそれほど不快ではなかった。

キャンディを口の中で解かしてしまうと、パジャマに着替えて、布団に潜り込む。

そういえば、59時間ほど起きっぱなしだったなと思った時には、もう意識が落ちていた。

目が醒めると、八時間以上が経過していた。随分時間が過ぎてしまったと思いながら、部屋を出る。

ふと、オセを呼びかけて、止まる。

傍らに、信頼できる者はもういないことを、改めて思い出す。氷川は無言で静かな天井を仰いだ。

 

(続)