静寂と混沌
序、前哨戦
ニヒロ機構本部のメインモニター室。地下深層に作られ、会議室に併設された其処には、常にオペレーターの悪魔がシフト交代で詰めている。人間に似た姿をした者も多いが、彼らを統率しているのはヒトデによく似たキウンだ。神経質そうな顔のキウンが見つめている先には、地平を埋め尽くしながら進軍してくる、マントラ軍の映り込んだモニターがあった。
「敵戦力、この映像だけでは算定不能! 最低でも、既に三万は超えています!」
「うろたえるな。 敵の戦力が三万を超えることは、既に予想済みだ。 それよりも、作戦が上手くいくか、サポートすることに全力を注げ」
「ははっ!」
「ナイトメアシステム、稼働率37%! 発動まで、後日齢にして三! 44時間ほど必要です!」
キウンは緊張している。何しろ、後ろの席では、氷川司令がノートPCを時々操作しながら、状況を見ているからだ。少しでも油断すれば、叱責されるのは目に見えている。デカラビアのようになりたくはない。
デカラビアは悲運だった。出世が遅れたからとはいえ、あのような末路を辿らなければならないのは、あまりにも気の毒すぎる。直接手を下したのはスペクターだったが、組織の戒律に殺されたようなものだ。ああはなりたくない。だから、全力を尽くさなければならない。氷川司令の見ている所では、なおさらだ。
オセが、監視室に入ってきた。モニターを一瞥すると、オペレーターに幾つかの質問をしていく。自分に直接聞けばいいものをと、キウンは苛立った。元々気が小さいのだ。こう様々なことが起こると、神経を痛めつけられて仕方がない。
「敵、進撃速度落としません! まっすぐギンザに向かってきます!」
「先頭にいるのは、やはりトールの部隊です! トールの姿、確認しました! サルタヒコ、アメノウズメの姿もあります! 上空には、龍族! 多数展開中!」
ひっきりなしに新しい情報が追加されていく。程なく、敵の数が正確に算定された。38891騎。此方が動員した52447騎よりだいぶ少ないが、兵の質を考えると、かなり微妙な戦力差になる。
「敵幹部、毘沙門天、広目天、持国天、増長天確認! マッハ、青龍、オルトロス、水天、続いて確認しました!」
「ミズチは防衛か」
「恐らくは」
オセの言葉に、それだけ応えた。キウンとしても、もっと情報が欲しいところだ。マントラ軍の戦力は凄まじい。地上に出ている幹部だけで、本当に抑えられるかどうか。
「予想以上に主力部隊が多いです! 鬼神族、約2000! 上空にはバイブ・カハ7000! 鵬200! 龍族30!」
「鬼神だけで2000だと。 おのれ、予想以上の戦力だな」
「被害が予想以上に増えそうだな。 キウン将軍、ナイトメアシステムに使用する以外のマガツヒは、全て供出できるようにしておきたまえ」
「は、氷川司令! 分かりました!」
いきなり声を掛けられたので、キウンは声をうわずらせてしまった。慌てて部下達を指導して、作業を進めさせる。一段落した時には、既に陣を組んだマダの部隊が見え始めていた。両軍の距離は、一秒ごとに接近していく。
今回は、どちらも貯金を使い切っての大勝負になる。キウンは胃を痛めないか少し心配になった。
やがて、喚声が上がり始める。
ついに、両軍が激突を開始したのだ。
ニヒロ機構将軍、邪神マダは前衛軍12000の半ばほどで、迫り来るマントラ軍38000強を見つめていた。左右には、騎乗した堕天使ベリスとエリゴールの二将。最前衛には何名かの将軍が、敵の攻撃を手ぐすね引いて待っている。
四本ある腕を回して、戦いの準備をする。作戦としては、敵の攻撃を受け流しつつ、出来るだけ疲弊させなければならない。更にじりじりと退き、敵を引きつける必要がある。恐らく、トールは引っかからないだろう。毘沙門天も、である。
この作戦の味噌は、もっと下級の兵士や指揮官達に、勝ちを錯覚させることにあるのだ。
すぐ後ろには、中軍約15000。上空には、10000程の空軍が展開している。数字的にはほぼ互角である。だが、相手は兵の質で考えると此方を凌いでおり、かなり厳しい戦いが予想される。
両軍は、じりじりと接近していく。
最初に激突したのは、空軍だった。
空を埋め尽くすかのようなバイブ・カハの大軍勢が、突出してくる。それに対し、ブリュンヒルド率いる航空部隊が、一斉に反撃に出た。堕天使部隊が一斉に術式を放ち、それをかいくぐった無数の鳥が、前線に躍り掛かる。
地響き。マントラ軍地上部隊が、トールを先頭に、一斉に突入を開始したのだ。マダは右第一腕に持っている指揮杖を振るった。
「まともにぶつかり合うな! 術式をぶつけながら、後退しろ!」
「全軍、攻撃開始!」
中級指揮官達が、一斉に指示を出す。見る間に膨大な火力が、敵前衛に集中し始めた。空軍の攻撃をかいくぐったバイブ・カハが、頭上から散発的に襲いかかってくる。そして火力の網を強引に食い破ったトールが、先頭に立って、陣に躍り掛かってきた。兵士達が、槍衾を作って防ぎに掛かる。だが、棒きれに等しかった。
「やはり、この程度の術では止めきれねえか」
戦慄と高揚が、同時に襲いかかってくる。拳を振るい、トールが最前線でニヒロ機構軍の堕天使を蹴散らし始める。僅かに出来た穴に、トールに続いて彼の配下らしい鬼神族の最精鋭達が躍り込んできた。槍隊が抜刀隊に入れ替わる隙が無い。見る間に、被害が増えていく。トールの拳を喰らった中級堕天使が、ビニール製の人形のように飛んで、何十メートルも離れた砂漠に墜落した。もちろん、即座にマガツヒへ化してしまう。
「距離を取りながら、術式を浴びせ……」
「左翼に敵部隊! 毘沙門天の指揮する機動部隊です!」
伝令の言葉に、マダは思わず振り返る。左翼と言うよりも、左僅か斜め後ろから、毘沙門天の別働隊が襲いかかってきていた。鬼神族は少ないが、砂漠での機動を得意とするナーガが主力となった部隊である。中軍が即座に対応。両者入り乱れての、凄まじい乱戦が始まった。中軍も組織戦の訓練は受けている。だが、敵の機動部隊もそれは同じであった。知将毘沙門天が、かなり高度な訓練をしていたらしい。
全体的に見れば、トールと毘沙門天は連携しつつも、無理矢理兵を押し込もうとしている。かなりの力業である。
「どういう事だ。 統一された秩序をこのままでは失うぞ。 まるで消耗戦を狙っているようだ」
「ようだじゃなくて、多分それが狙いなんだろうよ」
「はあ? そうなのでしょうか」
「そうなんだよ」
トンチキな事を言うベリスに、マダは応えた。会議で話を聞いていなかったのかと、吐き捨てたくなる。
あまり頭が良くないマダだが、作戦の趣旨は頭に入れている。何度かの会議で、敵が此方の狙いに対応する可能性がある事は示唆されていた。その場合、陣形も何もない消耗戦に持ち込んで、兵の質にものを言わせて強引に突破を計り得る。残念ながら、その場合、対処は難しい。
鬼神族も術の斉射を受けてかなりの打撃を受けているはずだが、実際に接近戦を挑まれると、かなり不利だ。堕天使達が組織的に反撃して、かろうじて戦えるという状況である。
マダが腕を振るって、上空から襲いかかってきた鵬に拳を叩き込んだ。見る間に燃え上がった鵬が、悲鳴を上げながら燃え尽きていく。肺に膨大な空気を取り込むと、炎の息を、続けて躍り掛かって来る数機のバイブ・カハに浴びせかける。灼熱の火線は、空に躍り上がる。見る間に燃え上がり、灰になっていくバイブ・カハ。
前線を突破する敵が増えてきている。地上部隊でも、それは同じだろう。ベリスが叫ぶ。焦りが、露骨ににじみ出ていた。
「前線に援軍を回せ。 このままだと、戦術的後退どころではなくなる」
「敵将トール、前線を突破! 突撃を阻止できません!」
悲鳴混じりに、飛んできた伝令が叫ぶ。マダは指揮杖を囓る。どうやら、敵の攻勢は予想を更に超えるものらしい。
しかし、ある程度派手に負けた方が、敵を誘い込めるのかも知れない。中軍のミトラから、伝令が来た。ミトラも作戦はしっかり把握しているはずだ。マダは耳打ちする伝令に、何度か頷く。
気に入らない奴だが、やはりミトラも作戦は把握していた。
指揮杖を振る。
前線で、将軍の一人が、トールに踏みつぶされるように倒されるのが見えた。あれは確か、堕天使アイムだ。かなりの使い手の筈であるのに。トール相手では完全に力不足であった。
同時に、崩れ始める味方。
マダは無言のまま、指揮所を後方へ移すべく、自らも歩き始めた。
トールは堕天使アイムの顔面に拳を叩き込み、砕いた。炎を司るアイムであったが、トールを相手にするには、少しばかり力が不足していた。
そのまま、ふらつくアイムに、左右から拳のラッシュを叩き込む。肩、腹、胸、足。拳を叩き込む。殴り、吹き飛ばし、ぶちのめす。血反吐を吐いて倒れたアイムを、踏み砕く。
それがとどめになった。
マガツヒになって散るアイム。それを吸い込むと、トールは空に雄叫び一つ。味方が一斉に唱和した。
だが、トールは内心で舌打ちしていた。脆すぎる。やはり罠だ。
追いついてきたサルタヒコが、飛んできた火球を剣で切り裂きながら、叫ぶ。
「トール様、敵が少し脆いようですな」
「恐らくは、並行追撃に持ち込ませるつもりだろう。 それで、頃合いを見て、背後を塞ぐつもりであろうよ」
「やはり、罠ですか」
「あのオセが出てきていて、前線で本気で防ぐつもりであれば、此処まで簡単に突破など出来ぬだろうな」
無数の攻撃術が飛んでくる。火力の集中が凄まじい。火球の中に、マガツヒとなって散る友軍も多くいて、もたもたはしていられない。
「距離を取らせるな! 接近戦に持ち込め!」
叫びながら、トールは突進する。最前衛にいる堕天使部隊には、屈強な者も多い。だが、トールから見れば、まだまだ貧弱だ。
跳躍しつつ、拳を叩き込む。盾を砕き、鎧を拉げさせる。膨大な圧力で、地面が吹っ飛び、砂が巻き上がる。クレーターが出来る。悲鳴を上げて飛び散る堕天使ども。翼を拡げ、退却に掛かる者も出始める。それに合わせて、毘沙門天が圧力を強めた。このまま、敵を退かせる訳にはいかない。
それでも、トールは冷静に周囲を見ていた。広目天の部隊が遅れている。上空では互角の戦闘が展開され、敵味方がばたばたと落ちてきていた。龍族が見事な奮戦を見せ、炎を吐き、或いはいかづちをまき散らし、片っ端から堕天使どもをたたき落としているが、それにも限界がある。
拳を振るって、敵を砕き回っているトールの側に、伝令の鬼神が来た。喉も枯れよと叫ぶ。
「敵が、後退を開始しました!」
「進撃速度を落とせ。 このままでは、俺の部隊が突出しすぎる。 毘沙門天と、広目天の部隊と連携を取る」
頷くと、サルタヒコが銅鑼を叩き鳴らす。手近な堕天使の頭を掴み、握りつぶす。辺りは既に、マガツヒが当てもなく漂う、地獄の戦場と化していた。
カグツチの日齢が四つ変わったところで、一度戦いは小休止を迎えた。両軍はそれぞれ陣形を保ち、距離を取ったのである。激しい攻勢を続けたマントラ軍が、流石に疲労から後退し、それに合わせてニヒロ機構軍も機動したのだ。
ニヒロ機構軍は2000を越える被害を出していた。マントラ軍は1000強程度だと予想されている。思ったよりも被害を抑えることが出来たが、前衛にいたアイム将軍は、トールに食われた。他にも二名の将軍を失った。
怪我をした部下達を後方に下げ、陣の視察をしているマダの元に、ミトラが来た。中軍も、毘沙門天の猛攻を支えていて、あまり余裕がなかったらしい。少し雑談をしたが、やはり中軍も状況は良くない。
マントラ軍は力で成り立つ組織だけのことはある。兵士の能力が非常に高い。それに対して、此方ニヒロ機構軍は。どれだけ組織的な戦闘を身につけても、兵の質には限界がある。
「回復術の使い手はフル稼働しています。 敵は特に空軍が奮戦していて、ブリュンヒルド将軍も、なかなか制空権を取れません」
「やはり強ええな。 トールの野郎、あのアイムを殆ど寄せ付けなかったぜ」
「見ていました。 アイム将軍は気の毒でしたね。 あれほどの猛者が、簡単に捻られるとは」
炎を自在に操るアイムは、加入が遅かったとはいえ、高い実力を買われていた。だから、今回最前線に配備もされたのである。ただ、少しばかり好戦的すぎた。トールとの戦いを選んでしまった事も、その表れであろう。まともな神経の持ち主であれば、あのトールと正面切って戦おうと思わない。猛者として鳴らしているマダだって、トールと一騎打ちをするのだけはごめんだ。
負傷者の後送を継続する。マダ自身も、砂漠にどっかと腰を下ろし、情報の取得に努めていた。おもむろに樽を持ってこさせると、手をかざして詠唱。見る間に、中に酒が満ちていった。度数を抑えた、疲労回復用のものだ。部下達に振る舞う。自身もマイカップを取り出して、一杯汲んだ。マダのカップは、ヴェネチアンガラスの高級品であり、東京受胎を耐え抜いた奇跡の品である。淡い紫色で、酒を受けるときらきらと輝く。上級の術者でも、これほどのものは簡単には作り出せない。何処に出かけるにも手放さない、マダにとって数少ない宝だ。
ご機嫌なまま杯を開けたマダは、ミトラに杯を掲げてみせる。
「飲むか、ミトラ将軍」
「いえ、この間の件で懲りましたので」
そういえば、ミトラもブリュンヒルドを勧誘する時に、一緒にオセに怒られた仲だった。あの時は色々面白かった。
「わはははは、堅えこと言うなよ。 あの時みたいな失敗を、繰り返さなければ良いんだよ。 幸い、今はブリュンヒルドの姉ちゃんもいねえしな」
「私が、どうかしましたか?」
「うぉ! びっくりしたあ!」
すぐ後ろに、ブリュンヒルドがいた。慌ててマイカップを取り落とすところだった。しらけた目でやりとりを見ていたらしいブリュンヒルドは、堕天使達がわいわいと酒を飲むのを見て、嘆息した。
「いつ、敵の攻撃が来るか分かりません。 ほどほどにしてくださいね」
「ああ。 分かってるよ。 だから、度数が少ない奴にしてある。 ブリュンヒルド将軍、あんたも飲むか?」
「一杯だけならいただきましょうか」
ブリュンヒルドが自分を凌ぐ蟒蛇である事を、マダは知っている。
当然のように自分専用の白磁の杯を取り出したブリュンヒルドは、樽から豪快に酒を呷った。戦いの合間の、静かな一幕であった。
1,混戦
ギンザの街は閑散としていた。忍び込むことに成功した榊秀一は、中央部に立つ無機質なニヒロ機構本部に向け、歩を進めていた。
話は聞いている。ニヒロ機構本部は、地下にこそ本質が隠されているのだという。地上部分は極限定された機能しか持たず、地下深部にこそ組織の核があるらしい。ならば、祐子先生が幽閉されているのも、其処だろう。氷川がいるのも、無論其処のはずだ。
二人とも、聞きたいことは山ほどある。
東京受胎を引き起こしたのが氷川であることは、ほぼ間違いない。殴り倒してやりたいと思う気持ちがある反面、どうしてこんな事をしたのかは聞いておきたい。祐子先生もだ。あの悲劇に関わっていることは、ほぼ間違いがない。
もう、取り返しが付かないことは分かっている。人間は全てマガツヒになってしまった。それを元に、悪魔が溢れた。今更何をしても、東京は元には戻らない。そればかりか、このマガツヒの量から言っても、滅びたのは東京だけで済んでいるかどうか。膨大なマガツヒを喰らい合う、悪魔という名の人間達。この煉獄を、生き抜かなければならない。
だが、それでもなお。二人には聞きたいことも多い。生きている勇を救うためにも、肉薄はしなければならない。
警備の悪魔が、良く整備された街路を四人一組で歩いていた。強い悪魔の気配も、所々にある。何度も隠れなければならず、秀一は著しく時間を浪費した。空になっている家に潜り込み、警備の悪魔が街路を通り過ぎるのを待つ。一緒に隠れながら、不満そうに眉をひそめるのは、リコだ。新しい淡い水色の上着を新調した彼女は、秀一に対して本当に嫌そうに言った。
「何だか、こそ泥みたいッスね。 君の実力なら、あんな堕天使、簡単に蹴散らせるんじゃないんスか?」
「これから、どんな強敵と出くわすか分からない。 消耗は最小に抑えたい」
「わしも秀一ちゃんに同感じゃあー。 それに、かっての同胞を、出来るだけ傷つけたくはないしのう」
「えー。 僕はちょっとつまみ食いしたいんだけどなあ」
フォルネウスとサナが口々に言う。何だか、それぞれに個性が出ていて面白い。
警備の悪魔がいなくなった。気配もかなり遠くに去った。本部へと、息を殺して急ぐ。それにしても、本当に規則的な作りの街だ。街路は埃一つ無く掃き清められ、四角い区画が何処までも続いている。所々に避難所が設けてあるが、それも完璧なまでに四角だ。
シブヤでも感じたが、極端な秩序の街。それがニヒロ機構の特色だ。やはりリコは落ち着かないようで、時々口を尖らせる。
「何だか、杓子定規な街ッスね。 熱気とか、活力とか、感じられないッス」
「ああ。 俺もそう思う。 ただ、良く整備されているのも事実だ」
正直、双方の長所を取り入れれば、ぐっと良くなるのではないのかと、秀一は思う。結論から言えば、ニヒロ機構もマントラ軍も極端すぎるのだ。しかし、上手くいかなければ、かっての世界と同じになってしまうだろう。それではいけないのも確かだ。こういう世界である。ある程度極端である方が、生きやすいのである。
そうやって生きるものを否定するのは傲慢すぎるのではないかと、秀一は思う。だからといって、それに流されるのもあまり褒められた行動ではないはずだ。もう一度、外をうかがう。まだ、分からないことは幾つもある。それらを解決するためにも、氷川には会わなければならなかった。そして、先生の救出も、急務ではあった。
本部の近くは、流石に警備が厚い。じっくり周囲を見て回るが、どの街路にも、厳しく武装した兵士達が詰めていた。槍を構え、盾を構えているのは、中級以上の堕天使だろう。かなりの使い手であるのは、見れば分かる。それだけの人材を、本拠の留守番に回すほど、人材が充実していると言うことだ。この潜入も、事前に知らされていた、地下下水道を利用したルートからでなければ、無理であっただろう。
さて、此処からどうするか。本部を伺う、小さな家に潜り込んだ秀一は思案する。正面突破も手としてはあるが、出来るだけ避けたい。しかし、マントラ軍が此処まで攻め込んでくるのを待つのも、消極的に過ぎる。
小さな気配が近付いてきた。悪魔かと思ったが、違う。四人で頷きあう。窓から外をうかがうと、そいつはいた。
聖だった。
手を伸ばし、襟を引っ掴む。そのまま隠れている家に引きずり込むと、聖は最初目を白黒させた。だが秀一だと気付くと、無精ヒゲだらけの顔に、いつもの人を食った笑みを浮かべた。
「驚かせるなよ、兄ちゃん」
「この間は、死ぬところだった」
「わりいわりい。 俺もあの後何とかしようといろいろしてみたんだがな」
悪びれた様子もない聖に、秀一はため息が出た。この不良中年は、今更何を言われても、自分を変えない気がする。飄々としていて、紛れもない悪の一種。だが、それはどんなところでも生きていける強さでもある。
今までの事を軽く説明。此処に来た経緯は、敢えて話さない。主にマントラ軍での苦労だけを話す。
聞きながら、聖がたばこに火をつける。静かに待つ。残り少ないたばこを口にすると言うのが、かなり重要な会話に向けて気を落ち着かせようとする行動だと、秀一は理解していたからだ。煙を吐き出し、たばこを地面に押しつけるのを確認してから、秀一は口を開いた。
「聖は、どうやって、此処まで来た」
「俺は人間だぞ? 悪魔は、基本的に人間には手を出せない。 分かってるんじゃないのか?」
「ああ。 しかし、勇のような例もある」
トールにぶん殴られて、牢に投獄された勇の事を説明する。険しい顔で聞いていた聖は、メモを取り始めた。装丁が革の、高級そうなメモ帳だ。使い込まれている様子から言って、かなり大事なものなのかも知れない。
「なるほどな。 そういえば、あの千晶って嬢ちゃんも、悪魔をてなづけて色々教えさせていたっけか」
「ああ。 この世界で、固定観念を持つのは危険だ。 何があるか分からないと思った方がいいだろう」
「肝に命じとくよ」
たばこの残り本数を見て、聖は吸うのを止めた。少し機嫌が悪そうに、胸ポケットにしまう。僅かな沈黙を破ったのは、聖だった。その目に、ナイフじみた鋭い光が宿る。
「で、だ。 お前がマントラ軍についたって話があるんだが、それは本当か?」
「いや、違う」
「じゃあ、その後ろの姉ちゃんは、お目付役か? その特徴、確かマントラ軍に所属している夜叉の一族だろ」
リコを顎でしゃくる聖。肝が据わったおっさんである。しかも、視線はリコの胸やら尻やらを行ったり来たりしている。殺されないか少し不安だ。案の定、リコも露骨に不快そうに眉をひそめた。ただ、トールの話を聞く限り、この世界の悪魔は人間と同じ方法で生殖をしないはずである。これも、人間の記憶の一端なのだろうか。
「彼女はリコ。 トールが、修行のためだと言って、俺についていくように命令したから、此処にいる。 マントラ軍に情報を送っている様子はない」
「そうかい」
「聖の方こそ、氷川が目当てで此処に来たのか?」
「そうよ。 ニヒロ機構のボスが氷川だって事は確実だからな。 マントラ軍とニヒロ機構が全面戦争を始めた今が好機だ。 奴の元に乗り込んで、機会があればぶち殺してやろうと思っていたんだが」
獣じみた笑みであった。この不良中年、佇まいからして荒事の経験がそれなりにあるはずだ。ならば、拳銃の一丁くらいは、隠し持っているのかも知れない。悪魔が、人間に余程の例外を除いて手を出せないのだとすれば、氷川の側に行けば倒すことが出来る可能性は高い。
しかし、である。入り口の様子から言っても、中に簡単に入れるとはとても思えない。例えば、悪魔が人間に手を出せないとしても、分厚い扉を閉められてしまったらそれで終わりだ。機械を使えば幽閉することは難しくないだろうし、この要塞の構造からして、その危険性は極めて高い。特に人間並みの体力しかないであろう聖にとっては、危険がかなり大きいはずだ。
それなのに来たと言うことは。聖が決して臆病者ではないことを秀一は知っていたが、再確認させられた気分である。
遠くで、地響きのような音。喚声がとどろき始める。しばらく小康状態だった戦闘が、再開されたのだろう。もし増援が向かえば好機だが、はてさて、上手くいくかどうか。
「ところで秀一、しばらくは様子見をするつもりか?」
「ああ。 今は潜入するのも難しい。 状況を見て、場合によっては侵入を延期するつもりだ」
「いや、侵入は早いほうがいい。 俺一人だったら無理だが、お前が今はいる」
「どういう意味だ」
聖はわざと一度沈黙を作ってから、もったいぶっていった。
「俺の武器は今も昔も情報なんだよ。 アマラ輪転炉はな、簡単に説明すると、ボルテクス界でのパソコンみたいなもんなんだ。 表面に刻まれている文字に触れて、回転数を操作することで、様々な情報を思いのままに引き出すことが出来る。 使い方はもう既に覚えた。 情報も、散々引き出させて貰った。 その中には、ニヒロ機構が隠してる情報も、山ほどある。 その中にはな、驚くなよ。 幹部しか知らない、本部への裏道もあるんだぜ」
「そのような情報を信用しても、本当に大丈夫か?」
「任せておけ。 もう、裏も取ってある。 ただ、お前が危惧するように、並の防御じゃなくてな。 俺の腕力じゃどうにもならん。 それで、他に隙がないか、彷徨いていたところだったんだよ」
俺は運が良いと、聖はつぶやいた。
秀一は思う。千晶は悪魔よりも悪魔らしいといわれていた。だが、悪魔よりも悪魔らしいのは、何も千晶だけではない。
こんな状況でも、平然と組織を構築している氷川や、この聖も同類だ。勇はこの種の、怪物じみた強さを持っていなかった。だから、辛酸をなめることになったのだ。秀一は、肉体こそ悪魔の力を得た。だが精神では、まだこういった怪物性を身につけているとは言い難い。まだまだ修練が必要だなと、秀一は思った。
「で、利害は一致していると思うんだが、どうする?」
「……分かった。 協力する」
「良い返事だ。 裏道はこっちにある。 来な」
聖は一人歩き出した。少し遅れてついていく。リコが吐き捨てた。
「何だか、感じが悪い人間ッスね」
「あまり人当たりが良いとは言えないが、あまり敵視しないでやってくれ。 聖は残り少ない、人間なんだ」
「悪いけど、難しいんじゃないのかなー。 僕はともかく、純情なリコちゃんが、あんなエロ親父のなめ回し視線浴びたら、そりゃ怒るよ」
「そんなんじゃ無いス。 何ていうか、あのおっさん、バケモノじみたものを感じるんすよ」
秀一もそれは同感だ。意外と鈍いサナは気付いていないようだが、リコはしっかり勘づいていたらしい。繊細な部分もあるのだなと、秀一は思った。
遠くの空で、激しい光が瞬いている。悪魔の軍勢同士の総力戦だ。どんな天変地異が起こっても不思議ではないだろう。上級悪魔には、下級の悪魔がたばになってもかなわない奴もいるはずで、此処まで戦いの被害が及ぶ可能性もある。
出来るだけ急いだ方が良いなと、秀一は思った。
編隊を組んだバイブ・カハが、五騎一体となって襲いかかってくる。精密な迎撃空中陣地を組んで迎撃する下級の堕天使達。速さは向こうが上だが、此方は術が使えるものが多く、高火力だ。しかし、バイブ・カハ達はそれを承知していて、あくまで支援と攪乱に徹している。
愛馬に跨り、上空で指揮を執っていたブリュンヒルドは、好転しない戦況に焦りを感じていた。先ほどから堕天使隊が高密度の火力を浴びせているのだが、兎に角素早く立ち回るバイブ・カハ達には有効打になっていない。そればかりか、火力の網をかいくぐった黒い鳥の爪に掛けられて、落ちていく堕天使も後を絶たない。
それだけではない。バイブ・カハ達は野生の本能を強く残していて、龍族との連携をそれで行っている。時々、バイブ・カハがさっと散ると、力をため込んでいた龍族が空中砲台の役割を果たし、強烈な炎やいかづちの術式を叩き込んでくる。また、装甲が分厚い鵬は、生半可な火力ではびくともせず、下級の堕天使では相手にならなかった。
地上での戦いと違い、上空では一刻も早い制空権の確保が求められている。とはいっても、龍族をどうにかしないと難しい。今もまた、青龍が放った極太のいかづちが、前線に展開していた堕天使達数十騎を瞬く間に焼き尽くした。空中陣地を組んでいることが災いして、兎に角避けづらいのだ。
戦況は、全くの五分。落とした分を、即座に落とし返される。自分が育てた空軍に自信のあったブリュンヒルドには、屈辱的な結果であった。
伝令が飛んできた。不甲斐なさを叱責するものだろうなと、ブリュンヒルドは思った。自分を買ってくれているオセ将軍に、申し訳が立たない。必死に歯を噛んで、無表情を作る。
「ブリュンヒルド将軍!」
「何か」
「敵を軍と思わず、獣の群れと考えて戦えと、氷川司令からの命令です」
「軍と、思わず?」
意外な言葉だ。適当に返事をして、伝令を下がらせる。確かに、敵は獣であることを最大限に生かし、高度な訓練を受けた味方と互角に渡り合っている。
ふと、敵が引き上げ始めた。味方も下がらせる。二度目の後退だ。地上の味方部隊は、最初の激突と同じ程度の被害を出しているようで、かなり押し込まれていた。敵も状況はほぼ同等。しかし、味方の疲労は深刻で、恐らく次の激突で勝敗が分かれる。巧く敵の攻撃を受け流せていない。あのトールが最前線で終始暴れ回っているのが原因だ。
ブリュンヒルドは指揮をモトに任せると、地上へ降りた。防御部隊の指揮を執っているマダの側には、エリゴールとベリスが控えている。ロキやフラウロスは、まだ別働隊として行動中だ。中軍にいるミトラとスルトも、疲労の色が濃かった。
「味方の損害は大きい。 このままだと、縦深陣に引きずり込む前に、消耗しつくしちまうぞ」
「それなら、ご心配なく。 後方から、さっきマガツヒが送られてきました。 今までの蓄えです」
ミトラが指を鳴らすと、ずらりと並んだ荷駄隊が姿を見せる。彼らが引いている荷車には、マガツヒ入りの瓶が山と乗せられていた。回復術の使える悪魔達は、それでフル稼働できる。すぐに配るように指示が飛び、疲労している悪魔達が飲み干し始める。補給の点では、明らかに敵よりも有利だ。しかも、マガツヒの蓄えそのものも、此方の方が遙かに上である。
「補給にものを言わせるわけか。 しかし、ミトラ将軍。 それでも、このままだと厳しいんじゃねえか」
「ええ、マダ将軍。 それは承知していますよ。 敵に焦りと驕りを生じさせる必要がありますからね」
「つまり、鍵は私という訳ですか」
「御察しが良い」
ミトラがにやりと笑みを浮かべる。ブリュンヒルドは、ますます双肩に重しが掛かったことを感じた。
陸軍は押し込まれ気味。空軍は完全に互角。それで考えると、今後鍵を握るのは空軍だ。空軍が決定打を与えて押し込むことが出来れば、敵を心理的に圧迫できる。地上軍が其処で派手に負けてみせれば、敵は釣られるはずだ。トールは引っかからないにしても、他の悪魔は違う。そうすれば、勝負はつく。
いかにトールが強くとも。数万の悪魔を相手にして、勝てる訳がないのだ。数千ならまだしも、ニヒロ機構全軍が相手になれば、勝負は見えている。
毘沙門天の部隊も、上手くいけば一緒に引きずり込むことが出来る。予定の地点まで敵を引っ張り込めれば、別働隊の出番だ。勝負を一気に付けることが出来る。
「ブリュンヒルド将軍は、敵と互角の勝負を繰り広げているようだが……。 やっぱり手強いみてえだな」
「御察しの通りです。 兎に角、龍族に苦労しています」
「相手を軍だと思っているのが拙いんだよ。 あれは強力なリーダーに統率された獣の群れだ。 敵の空軍を統率してんのは、マッハと龍族どもだろ。 連中を潰せば、一気に片がつくはずだぜ」
どちらかと言えば力押しのマダにまでいわれた。ブリュンヒルドは少しプライドが傷つくのを感じたが、確かにいわれるとおりでもある。今までは、少し考えすぎていたのかも知れない。
自分が前線に出れば、恐らくマッハが出てくる。一騎打ちで倒せば、敵の戦力を半減させることが出来る。かなり危険だが、此処は気張らなければならないだろう。モトは腕こそいいが、精神が子供並みで、心理戦も伴う一騎打ちをさせるのは危険すぎる。
部隊に戻る。深傷のものも多い。辺りは凄まじい量のマガツヒが漂っていて、空気もどんよりとよどんでいた。
大きく息を吸い込む。辺りのマガツヒを、片っ端から吸い込む。周囲の堕天使達が、驚愕した様子で、ブリュンヒルドの行動を見ていた。
勝たなくてはならないのだ。だから、今は少しでも力がいる。オセ将軍に、無様な戦いを笑われるのだけは嫌だ。
あの方の、力になりたいのだ。
悪魔数百体分のマガツヒを、ブリュンヒルドは取り込んだ。
強大な力を一気に取り込んだことで、胸焼けがする思いである。だが、力は根源から沸き上がってくる。真似して、マガツヒを喰らっている味方の堕天使もいた。ハンカチを取り出して口を拭う。
以前、翻弄される一方だったマッハ。多分、今でも速さは向こうが上だ。だが、今度は、必ず勝つ。感覚が鋭くなる。魔力も、かなり強くなった。勝てるとは言い切れないが、しかし。以前よりは、ましな戦いが出来るはずだ。本来なら、一気に強くなると無理が出るから、その直後の戦いは避けたいところなのだが、仕方がない。
愛馬に近寄ると、悲しそうに嘶く。ブリュンヒルドが無理な行動に出たことを、敏感に察知したらしい。馬の長い首を抱いて、撫でる。これから、この愛馬にも、かなり無茶をしてもらわなければならないのだ。
全身から、禍々しい魔力が漏れ出ているのが分かる。今なら、以前より遙かに強大なチャージを繰り出せるだろう。
伝令がきた。四枚の黒い翼をはためかせ、ブリュンヒルドの側に降り立つと、跪く。
「敵が、また前進を始めました!」
「よし、陣形を変えるぞ。 フォーメーションを雁行に移行。 敵空軍の中枢に、総攻撃を仕掛ける」
「は、ははっ!」
今まではリスクの小さい空中方陣で戦っていた。だが、此処からは違う。敵の中枢を突き崩すため、攻撃主体の雁行陣を組む。
そして、馬に鞭を一つ。砂漠を、走り出す。同時に他の堕天使達も翼を拡げ、空に舞い上がった。ブリュンヒルドは、大きめの砂丘を目指して手綱を取り、速度を上げる。砂丘そのものを跳躍台にして、一気に空中へ躍り出る。そして旋回しながら、徐々に高度を上げていった。
その場で飛び上がれる堕天使達に比べて、助走が必要なブリュンヒルドは若干不利だ。だが、その代わり、直線に限定すればずっと速く飛ぶことが出来る。旋回を繰り替えして、戦闘高度に到達。心身を切り替えて、戦闘態勢に入る。
味方が着実に立体的な雁行陣を組んでいくのを見ながら、辺りを漂う敵味方の死骸、すなわちマガツヒを更に取り込んでいった。モトが追いついてくる。棺桶がすーっと音もなく飛んでくる光景は、ある意味シュールだ。
「私が最前列に! モト将軍は、中軍からの指揮を執れ!」
「はい! わかりました!」
「私が落とされた時は、躊躇せずに総員で敵の司令部を叩け! 今度の激突が、この戦いの峠になる!」
「おおっ!」
堕天使達が気勢を上げる。
最初に狙うは、鳥たちの統率をしているマッハだ。あの赤い猛禽の姿をした女神は、誇り高い戦士でもある。ブリュンヒルドが最前列に出れば、間違いなく自分で勝負を挑んでくるだろう。龍族も似たようなものだ。次々と戦いを挑んでくることであろう。
今、確認できているだけで、龍族は三十体。そのうち、並の堕天使では歯が立たないのは四体だ。今、前線で暴れ回っている青龍。後方に控えている黄龍。右翼に展開している白い龍ペクヨンと、左翼に控えているヴリトラだ。このうちヴリトラはマントラ軍に加入する時かなり激しい抵抗を見せたらしく、トールと戦ったため、傷がまだ回復しきっていない。奴は傷さえ負わせれば、精鋭部隊に任せてしまって大丈夫だろう。
敵が、見えてきた。また、同じように散らばって、動物特有の強みを生かした戦いをするつもりだ。まずは先頭に斉射を浴びせて、それから突入する。
しかし。
不意に、敵が動きを変えた。
バイブ・カハ達の最前列を飛んでいたマッハは、敵が戦術を変えてきたことを悟った。陣が違う。今までは組織力にものを言わせた戦闘を目論んでいる陣であった。だが、今度は違う。全部が決死の覚悟で突っ込んでくる陣形だ。
その上、先頭のブリュンヒルドはなんだ。敵味方のマガツヒを見境無く喰らったのだろうか、途轍もない禍々しき気配を放っている。
獣としての本能は、逃げろと告げてくる。戦士としての本能は、戦いたいと急かす。
綱引きの結果、止まる。鋭い一声。バイブ・カハ達が止まった。
向かい傷のある大柄なバイブ・カハが寄ってきた。部隊の長を任せている個体で、かなり戦慣れしている。
「どういたしましたか、マッハ将軍」
無言で、ブリュンヒルドを顎でしゃくる。くわえている刀がびりびりとするほどに強烈な威圧感だ。
「ほう。 なるほど。 敵は突破戦術に切り替えてきたようですな。 それで、どうしますか? 今度は我々が守勢に回り、敵の攻撃を受け流しますか」
しばしじっとバイブカハを見ていたマッハは、翼を大きくはためかせ、旋回するように指示。速度を上げるのだ。無言で部下共も着いてくる。唖然としているのは、龍族である。龍族は単体の戦闘能力も高いが、あくまで空中砲台として今回の戦闘では参加する予定であった。
だが、戦況が変わった以上、此方としても従って貰うしかない。
敵軍の射程寸前で旋回を終え、高度を少し上げて、まっすぐ突っ込む。マッハは先頭である。加速してくる、ブリュンヒルドが見える。あの速度だと、二度、三度と刃を交える時間はない。勝負は一瞬だ。
結局、何故敵の誘いを受ける気になったのか。理由は簡単である。恐怖を、戦士としての本能が、上回ったのである。それに、戦術的にも、守勢は好ましくない。敵が消極的だったから、今までは五分に戦えていたのであって、立場が変われば話は違ってくる。
ふと、思う事がある。
沸き上がってくる、この高揚感は何だろうか。マッハという女神が、元から持っていたものなのだろうか。或いは、喰らったマガツヒから得られたものなのだろうか。それとも、別の何かなのだろうか。
それは、今はどうでもいい。加速し、更に速度を上げる。翼で風を叩き、出来うる限りの速度を出す。ブリュンヒルドが、剣を抜いた。堕天使どもも、術を唱えるのではなく、まず槍を、剣を構えた。
恐ろしい勢いで、両軍の距離が縮まっていく。
咥えている刀が、震える。それは、歓喜か。恐怖からか。
雄叫びを上げた。更に、距離を詰めていく。空を駆け上がってくるブリュンヒルド。僅かに体を斜めにし、首筋を狙う。ぶれを入れることで、敵の攻撃を避けやすく、なおかつ此方の剣を当てやすくするのだ。右、左、左、右。不規則に揺れながら、マッハは血をたぎらせた。
そして、交錯。
鋭い痛みが走った。手応えはあった。あったはずなのだが。
気付くと、右の翼が、ごっそり消えていた。刀も、半ばから折れていた。
お見事。
そうつぶやくのと同時に、視界が真っ暗になる。
地面に激突したのだと、どこか遠くで思った。
「てあああああああっ!」
ブリュンヒルドは、吠えた。マッハとの交錯。そして、翼を切り落とした。脇腹から、鮮血がしぶいている。奴の刀は、かわしきれなかったのだ。
そのまま縦横に剣を振るい、前に立つ敵を片っ端から斬り伏せていく。翼が引きちぎられ、首がはね飛び、或いは真っ二つになる。そのまま、敵左翼に向かう。見えた。ヴリトラだ。真っ赤な体の、乾期を象徴する巨大な悪龍。モトと似たような神話を持つ存在で、その大きな影響を受けた悪魔でもある。造型は蛇に似ているが、鱗が真っ赤で、口の中には乱ぐい歯が無数に並んでいた。下半身にはトーガのような衣服を着けているが、手足は短く、東洋の龍を思わせる姿である。
ヴリトラはブリュンヒルドを視認すると、ざっと40メートルはあるだろう体を蠢かせ、炎の吐息を放ってくる。まるで生きた火炎放射器だ。剣圧で、切り裂く。だが、かすっただけで、鎧の金具が吹っ飛び、右肩当てがマガツヒになって散った。流石だ。トールには勝てなかったようだが、恐ろしい使い手である。しかし、大きいだけあり、懐に入ってしまえば。
続けての火炎の息。馬を繰って、どうにかかわす。後ろからついてきている堕天使が、何騎か消し炭になって消えていった。構っている暇はない。何度か軌道を修正しながら、ついに脇に潜り込む。
脇を通り抜け様に、剣一閃。
鱗を切り裂き、深々と胴を抉った。後は、後ろから来ている味方に任せればいい。そのまま左翼を突破し、抜ける。
旋回し、そのとき始めて戦況を知った。中央突破に、完全に成功。敵陣は大混乱に落ちている。マッハは。地面に落ちたマッハは、マガツヒになっていない。クレーターの中央から、担ぎ出されている。
仕留めきれなかったか。舌打ちするが、追い打ちを掛けている余裕など無い。旋回。また、速度を上げる。視界の隅。無数の堕天使にまとわりつかれたヴリトラが見えた。悲鳴を上げながら、砕け散っていく。肩で息をつきながら、カウントする。まずは、一匹だ。
次は、右翼のペクヨンを狙う。朝鮮半島で信仰されていた白龍は、象徴的な存在であって、戦闘能力はそれほどでもない。しかし防衛には極めて長けているから、落とすのは簡単ではない。見たところ、かなり強力なシールドを展開できるようで、貫くのは骨が折れそうだ。
「ブリュンヒルド様! 無茶です! 先頭はお代わりください!」
「総員、突撃! この機を逃してはなりません! 着いてこられる者だけ、来なさい!」
今度は、此方が高所を取った。中央を抜かれて混乱する敵軍に、再度突入する。坂を駆け下りるように、高さを速さに切り替える。自由落下に加速を加えて、ブリュンヒルドは生きた一つの流星と化した。
敵陣に、斬り込む。
迎撃してくるバイブ・カハ達を斬り伏せ、前に立ちはだかった鵬の頭を、一息に貫く。吠え、更に速度を上げる。斬る、斬る斬る斬る。飛び散る血肉をかき分けて、ただ一息に、敵陣を貫く。全身が焼けるように熱い。筋肉が内側から沸騰しそうだ。
見えた。ペクヨンだ。ヴリトラ同様東洋の龍に似た姿をしていて、蛇をベースに、短い手足を持っている。ただ、顔つきはヴリトラに比べると随分穏やかであり、破壊神の側面を持つ乾期の龍とは雰囲気が違う。だが、敵であることに代わりはない。澄んだ声で吠え猛る白龍は、七重にも達する分厚い防御術を展開した。だが、それがどうした。
ブリュンヒルドは剣を振り上げると、更に速度を上げ、駆け抜けた。
空軍が大混乱に陥っているのを見て取ったトールは、最前線で眼を細めた。
これは、恐らくマントラ軍を誘い込むための、布石の一端だろう。空軍を押し込みに掛かり、更に陸では派手に負けてみせることによって、攻勢を誘発するという訳だ。今、地面に叩きつけた堕天使グシオンは、紫色のローブを被った人面の猿のような悪魔で、身長三メートルを超える雄偉なる体格を誇る。だが、トールから比べれば、戦闘能力もスキルも子供だ。
「お、おのれええっ!」
猿のように身軽にとんぼを切って飛び起きるグシオンの顔面に、更に無言で拳を一撃。のけぞる堕天使に、踵落としを叩き込んだ。大量の鮮血をぶちまけながら膝を折りかけるグシオンの頭を掴むと、その半ばまで囓り取る。二口目で、頭を全部食いちぎった。噛んでいる内に、グシオンはマガツヒと化し、消えていった。
これで、トールが今日屠ったニヒロ機構の将官は、四騎目である。どいつもこいつも、腕は二流だが、しかし臆病ではなかった。だから、喰らった。そうする価値は充分にある者達であった。
逃げ腰になる堕天使どもを、グシオンのマガツヒを吸収しながら悠々と眺める。さて、どうするか。
空軍は更に戦況が悪化しており、撃墜されたペクヨンが悲鳴を上げながら消えていくのが見えた。また、トール自身もさっきから全力で戦い続けているため、全身の疲弊が激しい。今のグシオンにしても、さっきから長距離で雷撃の術を散々叩き込んできたため、接近するまでが大変だったのだ。右腕はしびれが酷くなくなりつつあるし、左のふくらはぎにもかなり深い傷がある。一端戻って、傷を癒したいところだが。戦況次第では、更に進まなければならないだろう。
敵が引き始める。それと同時に、活気づいた味方の部隊が、押し込みに掛かった。あまり良い状況ではない。毘沙門天が、軍を停止させるべく銅鑼を打っている。だが、誰も止まろうとはしない。
押し込まれつつある空軍と、勝ちつつある陸軍の様子を見て、手柄を立てる好機だと思っているのであろう。
此処は、むしろ勢いに乗って、全軍を突入させるべきか。しかしトールにいわせると、このまま進むのは自殺行為だ。むしろ攻勢は他の指揮官達に任せて、トールはこれから出てくるであろう本命の部隊の迎撃にはいるべきか。
既に、四騎もの敵将を屠っている。大した相手はいなかったが、今後はそうでもなくなる。ニヒロ機構屈指の使い手であるフラウロスとオセが出てくるのはほぼ確実で、奴らとの戦いを思うと胸が躍る。悩む内にも、戦況はめまぐるしく変化を続けた。トール自身も、微速前進せざるを得ない。
「トール様!」
「どうした、サルタヒコ」
「は。 敵軍の動きが不自然に思えます。 既に充分な打撃は与えておりますし、一度距離を取るべきかと思うのですが」
「俺も同感だが、しかし、どうやらそうも行かなくなったようだ」
トールの視線の先。何騎かの鬼神が、強烈な炎の術を喰らって、吹っ飛んだ。生きたまま丸焼きになっていく鬼神を踏みにじり、姿を見せる巨躯。腕は四本。大きな口は見えるが、目は兜に隠れている。トールに勝るとも劣らないその体格の持ち主は、二騎の上級悪魔を左右に連れていた。どちらも騎乗して、槍を構えている。
「てめえが、マントラ軍最強の戦士、トール将軍だな」
「その姿、聞いたことがあるぞ。 ニヒロ機構の将軍、邪神マダか。 左右にいるのは、将軍の堕天使エリゴールと堕天使ベリスだな」
なるほど、狙いが読めた。厄介なトールを、マダ本人で押さえ込み、作戦を成功させると言う訳か。毘沙門天は実力こそ高いが、カリスマには欠けるから、全軍をいざというときに制御できない。つまり、此処はトールに対して勝負を賭けることが重要なのだ。面白い。実に面白い。指揮官としても、戦士としても、実に楽しませてくれる奴らだ。体中の血が、沸き立つかのよう。こうも楽しいとは。
今まで、我慢してきた甲斐があった。今日は躊躇無く大暴れしてやると思っていたが、その願いが最高の形で叶っている。
「サルタヒコは、俺の部隊と共に後退しろ。 後衛の守りにつけ」
「は。 しかし」
「此奴らは、俺が屠る」
「……やはり、オセ将軍の言葉通りだな。 トール将軍! てめえだけは野放しにできねえ! 此処で、俺の命と代えてでもぶっ殺す!」
マダが四本の腕を胸の前で組み合わす。中国拳法で、死合いを挑む時の合図だ。トールもそれを受けて立つ。我流であっても、拳法のことは知り尽くしている。極めた訳ではないが、多くの中国拳法についても知識がある。エリゴールとベリスは距離を取り、じりじりと間合いを計り始めた。トールの動きが鈍ったら、チャージを浴びせるつもりであろう。
激しい乱戦の中、此処だけは誰もいないかのように静かだった。沸き立つ殺気を恐れて、誰も近付いてこないからだ。
最初に仕掛けたのは、トールであった。
2,ニヒロ機構本部の攻防
他と変わりが分からない家屋の地下から、入った小さな通路を進んでいくと、その扉はあった。サナの作り出した明かりの術が照らす先で、秀一が戸をこじ開ける。中にはいると、ひんやりした空気が流れ込んでくる。
四角い部屋。妙に近代的な空間だ。石とは思えない、金属的な材質の壁。壁には模様が無数に刻まれており、淡く発光さえしている。壁には何故か黒電話が掛かっていた。こんなもの、数えるくらいしか見たことがない。
「面白い空間だな」
「何だか堅苦しくって、窮屈ッス」
憮然としたリコの言葉も、無理がないと秀一は思った。壁も床も、完璧な測量の元に設計され、構築されている。床に埃が落ちることさえ許されない雰囲気だ。聖は、案の定一番最後に入ってきた。罠がないことを確認してから来たという訳だ。ちゃっかりした不良中年である。
部屋に入ってくると、聖は帽子を取って、ゆっくり周囲を見回した。
「此処は、ニヒロ機構本部の上層部だ。 此処から、罠だらけの通路を下りていくと、最下層にたどり着ける、はずだ」
「詳しいな」
「違う。 ニヒロ機構の悪魔にとっては、ごく一般的な知識って事だ。 要するに、罠に余程の自信があるって事なんだろうよ」
部屋の隅に、小さな扉がある。鍵は掛かっていなかった。
戸を開けてはいると、秀一は驚きのあまり、一瞬足を止めていた。其処はあまりにも巨大な、円柱状の空間だった。
例えば、鉱山などに、こういう深い穴があるのかも知れない。世界最大のダイヤモンド鉱山に水が溜まった写真を、教科書か何かで見たことがある。此処に水が溜まったら、そうなるのかも知れないと、秀一は思った。
穴の周囲には、無数の扉。円周上にある螺旋階段が、何処までも続いている。穴の底は深く、だが見えないほどではない。多分あの底から、迷路とやらに通じているのだろう。一歩ずつ、螺旋階段を下りる。階段には手すりもなく、幅は二メートルほどしかない。転ぶと危ない。
周囲に、悪魔の姿は見えなかった。最後尾に陣取ったサナが、脳天気なことをいった。
「このまま、何も無しに最下層までいけるかなあ」
「いや、そうは行かないだろう。 どうせ、もう敵に探知されている」
「その通り。 良く気付いたねえ」
あまりにも自然に声が割り込んできたので、秀一は続いて飛んできた圧縮空気の固まりを避けられなかった。壁に叩きつけられ、背骨が軋む。踏みとどまる。階段も、壁も、予想より遙かに頑丈で、助かった。
サナが詠唱を準備。後ろに聖を庇ったリコが、二本の剣を抜いている。フォルネウスは既に距離を取って、悪魔の側背に回り込む態勢を取っていた。秀一が落ちたら、即座に補助する体勢もとっている。
顔を上げて、襲撃者を見る。
ヒトデのような姿をした悪魔だった。白と藍色のカラーリングで、中央に老人の顔が着いている。デカラビアに似た造型だが、力は幾分か劣るようだ。だが、しかし。並の悪魔とは、比較にならない実力を感じる。
間違いない。此奴は、ニヒロ機構の将官だ。
「ほう、いい連携だ。 此処まで忍び込んできただけのことはある」
「忍び込んだことは謝る。 氷川司令に、会わせてもらえないだろうか」
「悪いが、それは出来ない。 今は戦時で、氷川司令はとても忙しい。 それに見たところ、マントラ軍の夜叉族もいるようだしな。 それに、後ろの人間の男からは、氷川司令に対する悪意を感じる。 通す訳には、いかんな」
じりじりと間合いを計り合う。ヒトデのような悪魔は、残忍そうな笑みを浮かべると、ふわりと距離を取った。殆ど、事前動作を感じない。非常に手慣れた相手だ。
「さて、此処で戦っても良いんだが、空に慣れた悪魔もいるようだし、あまり利口ではないな。 私のホームグラウンドでの戦いを強要させて貰おうか」
「戦いを、避ける気は無いんだな」
「愚問ッ! 悪いが、この性格がひね曲がった私でも、氷川司令の新しい世界は見てみたいのだ。 あの方はな、私の、静寂を求める皆の希望なんだよ。 だから、敵は、この命に代えても排除する。 それには、確実に勝てる方法を使う。 ただそれだけだ」
キウンはかき消えた。恐らく、何かしらの仕掛けを使ったのだろう。或いは、元々此処にはいなかったのかも知れない。秀一は体についた壁の破片を払う。後ろを見ると、小さなクレーターが出来ていた。
「秀一、大丈夫ッスか?」
「ああ。 だが、この先は、厳しくなりそうだ」
聖はというと、なにやらメモを取っていた。歩き始めると、最後尾から、声を掛けてきた。
「兄ちゃん、アレは、おそらくキウンだな」
「キウン? 知っているのか」
「ああ。 ニヒロ機構の本部防衛を任されている悪魔だよ。 種族的には、恐らく妖魔か邪神になる奴だ。 あまり実力は高くないって話だが、性格は陰険で、迷宮の防備を一手に引き受けているそうだ」
「キウンだったら、あたしも聞いたことがあるッス。 もっとも、弱いっていっても、さっきの気配からして、あたし達が総力で挑んで勝てるかどうか」
伊達にニヒロ機構で将官をしていないという訳だ。しかも、奴が気付いたということは、この先はかなりの数の迎撃戦力が現れることが予想される。
それにしても。
陰険な性格の奴は、基本的に自己愛に走る傾向が強いと、秀一は聞いたことがある。だが、さっきのキウンは、それでも氷川のために命をなげうつ覚悟でいた。氷川のカリスマ性がそれほどにまで大きいのか。或いは、あの悪魔にとっても、静寂な世界というのは、それほどまでに魅力的なのか。
完全な法によって統率される、静かな世界。あまり想像は出来ないのだが、進歩もなければ、退廃もない所なのだろうとは思う。それがよいのか悪いのか。秀一には、まだ見極めがつかなかった。
子供のように、直感的に判断してはならない。それだけは身に染みている。今、秀一は何人もの命を背中に乗せているのだ。盲目的に突っ走って解決するような話ではない。最大限に視野を広げて、高度な判断をしていかなければならない。もし、創世とやらに道があるとしたら。それに賭けても良いのかも知れない。
階段を歩いていくと、最下層についた。周囲にはずらりと戸が並んでいた。一つずつ、調べていく。
「さ、どうやって調べようか」
「使い込まれている取っ手を探す。 それで駄目なら、粉類を撒いてみて、足跡を探してみる」
「なるほど、確かにそれが賢いな。 前から思ってたんだけどよ、兄ちゃん、あんた結構頭良いだろ」
「そんなつもりはない。 頭だったら、多分俺より千晶の方がずっと良いはずだ」
手分けして、順番に調べていく。リコは取っ手に鼻を近づけて、嗅いでいるようだ。サナは探索用の術を使い、フォルネウスは辺りを回って、奇襲を受けないように警戒してくれている。
やがて、一つ怪しいのが見つかった。取っ手を回して、引いてみると、どうやら当たりらしい。何処までも続く通路が、戸の奥に広がっていた。通路の周囲には円を思わせる模様があり、濛々たる熱気が漂ってくる。気配も異様で、明らかに何かがある。当然、迎撃戦力の襲撃も予想された。
「ここから先は、離れないで行動したほうがいい」
「まあ、それが妥当な判断じゃろうの」
敵地で戦力を分散するのは、自殺行為だ。しかも此方では、主体的に判断できる人物が、秀一しかいない。ただし、何かしらの罠にはまると、一気に全滅する恐れもあるから、全員が気を配る必要がある。
祐子先生も、この奥にいる。救出に成功しなければ、勇も救えない。それよりも、何よりもだ。氷川に肉薄することで、この悲劇の真相を知ることが出来ると思うと、気合いは嫌が応にも入った。
迷宮全体に、揺れが走ったのが、次の瞬間のこと。
何か起こったのだと、秀一は直感的に悟っていた。
モニターの幾つかがブラックアウトした。オペレーターの堕天使が、声を張り上げて、状況を伝えてくる。思わず、オセは立ち上がっていた。
「最深部東部第四モニター破損! 第六、第七、第九、順次沈黙しました!」
「状況を解析しろ」
「は! 大出力の攻撃術によるものではありません! 物理的な破壊によるものと思われます!」
「アンノウン、気配多数! これは、千、いや更にそれを越えています!」
マントラ軍は別働隊を出す余裕など無かったはずだ。仮に一部の部隊が侵入してきているとしても、監視の目をかいくぐり、いきなり地下深部に現れることなど、出来るはずがない。
そうなると。出来る可能性がある奴といえば。
「スペクターか!」
その名前が、脳裏にひらめく。可能性としては、他に考えられない。地下にあるアマラ経路の壁でも掘り進んで、いきなりニヒロ機構本部の最深部に侵入してきたという所か。それにしても、凄まじい数に増えたものだ。
普段であれば、幹部複数掛かりで返り討ちにしてやるところだ。だが、今は殆どの幹部が出払ってしまっている。キウンはさっき、侵入してきた奴の迎撃に向かうと言い残して此処を出て行った。サポートは考えないほうがいい。
最深部は、最外縁に重要度の低い通路類が配置され、内部に行くに従って重要な施設がある、複合構造である。全部で七層になっていて、それぞれの層は隔壁で封じることが出来る。今、スペクターが入ってきたのは、最外縁部。戦時である今は、立ち入り禁止になっている。
もちろん、侵入者以外に、誰もいない。それを確認すると、オセはまず最初の命令を出した。
「隔壁を閉めろ。 敵の侵入経路を、あらゆるセンサーを使って特定しろ。 侵入を防げないようならば、進入路を絞れ。 創世の巫女を、シブヤに転送するのだ」
「分かりました。 直ちに」
親衛隊の中級堕天使達が動き出す。氷川は司令官席で足を組んで状況を静かに見つめていた。
「氷川司令も、待避の準備を」
「部下を残してかね。 私を、ガイア教の無能幹部達と一緒にして貰っては困るな」
氷川は立ち上がる。すっと手を伸ばして、矢継ぎ早に指示を飛ばし始める。
「私は最後だ。 すぐにスペクターの排除を準備。 無理なようなら、まず非戦闘員から、ユウラクチョウへ逃がす準備を整えたまえ」
「はっ! 直ちに!」
「オセ将軍、君でなければ、スペクターは撃破できまい。 ニヒロ機構本部の総力を挙げて、奴を屠りたまえ」
事実上の、全権譲渡。千を超えるスペクターが侵入し、何が起こってもおかしくない状況で、なんと剛気な。
「御意。 オロバス! お前が最後の守りだ。 いざというときは、何があっても氷川司令を守り奉れ!」
「りょ、了解しました!」
「氷川司令。 何があっても、生き残ってください」
「もちろんだ。 静寂なる世界のために!」
その場の全員が、雄叫びを上げた。
そうだ、これでこそ。これでこそ、静寂なる世界を信じて、戦うことが出来る。
最近の氷川司令には、様々な疑念を抱く場面もあった。だが、少なくとも臆病者ではないことが、このことからも分かる。命を賭けて創世に向かうというのなら。同じく命を賭けて、それについていくだけだ。
オセはその誓いを、また新たなものとしていた。
オペレーターが、隔壁を閉じた。六重の分厚い隔壁は、それぞれが迷路のようになっていて、侵入者を防ぎ抜く。普通の侵入者であれば。ただ、今は状況が違う。敵の数は、千を超えているのだ。
解析に当たっていたオペレータが、驚愕の声を上げた。その報告を聞いたオセも、驚きを隠せない。
「敵の総数、特定できました。 およそ3150!」
「東の第七隔壁を集中的に狙ってきています。 酸を使って、穴を開けつつある模様!」
「隔壁に穴が開くまで、三時間程度かと思われます!」
もちろん、隔壁の周辺には、防御用のトラップもある。例えば、一番外側の隔壁で封じている第七層は、まとめて爆破することが出来る。破壊力は最大級の攻撃術であるメギドラオンに匹敵し、上級悪魔でさえ、喰らえば無事では済まない。
だが、相手の数は3000である。しかも奴は、加速度的に学習を進めて強くなっている。トラップを発動しても、何処まで頭数を減らせるか。オセにも分からない。
「よし、隔壁の防御能力が50%を切ったところで、第七層をまとめて爆破しろ。 第六層からの避難急げ! 第五層の宝物類は、アマラ輪転炉を最優先で運び出せ! 金品は後回しで構わぬ!」
「は! 爆破詠唱開始します!」
ちなみに、爆破は火薬ではなく、術によって行う。コアである第一層に控えている術を得意とする上級悪魔達が、七体掛かりで詠唱を行うのである。一時間ほども掛かるのだが、それでも破壊力は充分満足できるレベルだ。
「第六層からの避難、完了しました!」
「第五層の宝物待避、40%完了! 順次シブヤに搬送しております!」
「相手はスペクターだ。 何があるか分からん。 アマラ輪転炉は、必要なもの以外は封鎖しろ。 避難急げ!」
外の戦況はどうなっているのか。オセはモニターの一つに視線をやる。
マダが、トールを必死に押さえ込んでいる様子が見えた。マダと、エリゴールと、ベリスが三騎がかりで、何とか五分というところだ。相変わらず、とんでもない使い手である。最後にフラウロスが相手にすることになるだろうから、此処で出来るだけ疲弊させておかなければならない。陸軍は、被害が大きいが、何とか作戦通りに進展している。
一方、空軍は、完全に攻勢に転じていた。絶対的優位という程ではないが、敵軍を少しずつ押し込んでいる。ただ、ブリュンヒルドは流石に無理がたたり、前線での指揮をモトに代わって休憩しているようだ。
後は、オセが氷川司令を守りきれば、ニヒロ機構の勝ちだ。第一層には、ナイトメアシステムがある。第一層にまで入り込まれたら、全ての作戦が台無しになる。それだけは、絶対にやらせてはならない。
「爆破詠唱完了! いつでも第七層を粉砕できます!」
「よし、砕けっ!」
まだ少数生き残っていた第七層のモニターが、ことごとく沈黙する。揺れが、最深部の此処にまで伝わってきた。さて、どこまで頭数を減らすことが出来たか。
「隔壁への圧力、減りました。 敵に、かなりの打撃を与えた模様です」
「まだ分からん。 兎に角、敵の数を分析しろ」
「は。 再解析を始めます」
まだ隔壁への攻撃が続いているということは、スペクターは健在だということだ。しかも攻撃を続行しているということは、かなりの数が健在だとも考えられる。
オセの危惧は、当たった。隔壁に仕込んであるセンサー類が、とんでもない結果をはじき出したのである。
「再計測終了しました。 こ、これは! 敵、2500以上が健在! しかも、更に増えつつあります!」
「どういう事だ。 全く通じなかったはずはないと思うのだが」
「隔壁、破られます!」
「第五層からの待避を急げ! 迎撃は第四層で行うぞ。 しかし、もう少し数を減らさないと、流石に厳しいな」
宝物庫からの待避作業は進んでいる。第六層の防壁は、さっきよりもずっと厚い。爆破時の術式も、もっと強力なものが用意できる。だが、不安は消せない。一体、スペクターの奴は、どんなトリックを用いて今の爆破を凌いだのか。
「監視カメラに映像でました!」
「……そう言うことか」
オセは拳を壁に叩きつけていた。
スペクターの中に、とんでもなく巨大な個体がいる。其処から分裂するようにして、無数の小型スペクターが、あふれ出ている。
つまり、合体して抵抗力のある大型個体を作った。そして、爆発を凌ぐと、また分化して攻撃を開始している。構造が単純だからこそ出来る荒技だ。それにしても、とんでもない奴である。高い知能を持つ人食いアメーバーという訳か。
多分、同じ手は二度と通用しない。次は、更に被害が減るだろう。忌々しい話だが。しかも此奴は、今までカブキチョウとシブヤを壊滅させていて、様々な術を見てきているはずだ。
「トラップを切り替えられるか」
「爆発ではなく、他の術を使うと言うことですか」
「そうだ。 あの大型個体は、見たところ風船のように柔軟な巨体を作ることで、爆発を凌いでいる。 あれに有効打を浴びせる方法はないか」
「そう、ですね。 此方にリストがあります」
すぐにマニュアルが印刷されてくる。ざっと目を通したオセは、その中でもっとも無難なものを選んだ。
「熱膨張破壊。 これだな」
「分かりました。 すぐに指示します」
「さて、これで何処まで頭数を減らせるか、だが」
恐らく、火炎系の術も、冷撃も、喰らったことがあるはずだ。対応能力は身につけているはず。だが、間髪入れずの連続攻撃はどうだろうか。もっとも、それも第二打は通用しないだろう。もし効くようなら、それに間髪入れず、オセ自身が精鋭を連れて斬り込んだ方がいいだろう。
「親衛隊、戦闘準備! いつでも出られるようにしておけ!」
「は!」
少し早いが、第五層で出られるように、準備をしておくことにする。
後はキウンだ。キウンが上からの侵入者をどれだけ抑えておけるかだが。あいつは氷川司令には絶対の忠誠を誓っているが、横の連帯に関してははなはだ貧弱で、情報の共有に関して心許ないところがある。今も、奴がどれくらいの戦力を相手にしているのか、全く分からない。
「敵、三ヵ所の隔壁を集中攻撃しています! 最大破壊率33%!」
「詠唱は」
「後三十分ほどで終了します!」
ナイトメアシステムの様子を見る。そちらも、まだ発動まで少し時間が掛かる。元々非常にデリケートかつ巨大なシステムなのだ。特にコアの部分は、再三の調整にもかかわらず、巧く動いていない。
危険性は高いのだが、現在のコアの代替案として、とある人物を用いる計画もある。だがその場合、創世に更に時間が掛かる可能性もある。それに、発動のために大きな装置も必要になってくる。
とにかく、全ては動かしてみてからだ。
大きな揺れが来た。モニターが幾つか、ブラックアウトした。
「何事だ」
「わ、分かりません! スペクターが、また何かを始めたようなのですが!」
「解析しろ!」
また、大きな揺れ。ニヒロ機構本部が、大きく揺動する。
どうやら簡単にはいきそうもないと、オセは悟らされる。オペレータは必死に指を動かして機械類を操作し、収拾した情報を整理していた。
「わ、分かりました! 酸でダメージを受けた壁に、猛烈な物理的衝撃が連続で掛かっています! 全部で三ヵ所! 攻撃を受けていた場所です!」
「侵食率は!」
「既に55%を越えました!」
「第五層からの待避を急がせろ! 私が出る。 親衛隊も続け。 オペレーター! 何かあったら、現地の通信装置に連絡しろ!」
オセは剣を抜くと、親衛隊と共に、第六層へ走る。
揺れが酷い。スペクターの猛烈な力に戦慄しながらも、今後どうするべきか、オセは並行で考え続けていた。
ぴたりと、秀一は足を止めた。背中にぶつかるサナ。鋭い反応で、剣に手を掛けながら飛び退くリコ。ひれを波打たせて、殿を進んでいたフォルネウスも、状況に気付いたようだ。
「下がれ。 出来るだけゆっくり」
指示を出しながら自分も、そろり、そろりと下がっていく。そして、ある一点で、飛び退く。
天井と床が勢いよく動き出し、接吻したのは次の瞬間のこと。秀一が辛くも逃れなければ、サンドイッチの具にされるところであった。仮に天井と床を押し返したとしても、かなりの体力消耗を余儀なくされただろう。
聖は平然としていて、逃げようともしなかった。肝が据わっているのか、危険が認識できていないのか。秀一には分からない。もしこれが勇だったら、後者なのだろうが。
「あぶねえなあ。 兄ちゃん、どうやって気付いたんだ」
「床に、僅かに埃が積もっていた。 つまり、使っていないと言うことだ」
完全にふさがれた前面。だが、この辺りの床には使った後がある。つまり、通路として使われていると言うことだ。外から持ち込んだ粒子の細かい砂を、撒いてみる。色々な大きさの足跡が、当たりに散らばっていた。それらは規則的な動きを見せ、壁の一点に向かっている。
壁の臭いを嗅ぐリコ。手招きする。触った形跡があるのだろう。
「此処か。 へえ」
「自分から調べてみたらどうッスか? 腕利きの雑誌記者さん」
「冗談。 な、兄ちゃん」
聖がへらへらと言う。露骨な反感を見せているリコに対しても、この調子なのだから恐れ入る。悪魔が手を出せないというのが、絶対の法則ではないと警告したばかりだというのに。或いは、もうリコが普通の悪魔と同じで、人間に手出しできないのだと、悟っているのか。
火中の栗は拾わない。例え自分が年長者だとしても。それが、今まで聖が見せてきた処世術だ。アマラ輪転炉を転送用に使った時にも、秀一を先に実験台にした。双方向通信が可能な状況でアマラ輪転炉を使った時は、絶対に成功する自信があったのだろう。したたかな生き方にも見えるが、どこまで計算しているのか、時々分からなくなる。リコが自分がやろうかと言い出したが、秀一は首を横に振った。此処は術に知識があって、器用な者がやるべきだ。
「サナ、調べてみてくれないか」
「はいはい、僕の出番ね」
すぐ後ろに秀一は立って、何か起こった時に備える。リコもフォルネウスと一緒に左右を伺う。壁を調べていたサナが、スイッチを見つけた。やはり術式で隠されていた。しかし、此処で更に問題が立ち上がる。どうやらカードを必要とするものらしい。
壁の厚さを調べてみる。どうやら、力づくで突破は出来そうだ。結局こうなるか。だが、試さないよりはいい。
「リコ、タイミングを合わせてくれ」
「あたし一人で大丈夫ッスよ」
「負荷は分散したい」
「……分かったッス。 カウント0で、行くッスよ」
足を伸ばして、ストレッチを始めるリコ。本気で蹴りを叩き込むつもりだ。彼女の蹴りの破壊力は、闘技場で刃を交えた時に嫌と言うほど味わっている。秀一も、手は抜けない。
背中の筋肉をフル活用し、全身を躍動させて放つ秀一の拳は、何度かの実戦を経て充分使い物になるレベルに昇華されている。今まで喰らってきたマガツヒの中の、実戦経験を貪欲に取り込んで、体の動かし方を覚えたのだ。無論、自分で動かして覚えた分も加味している。
そういう事情だから、しっかりした武術を誰かに一度教わっておきたいなとも、秀一は考えている。知識が散漫でちぐはぐなのだ。充分に実戦で使えるレベルには仕上がっているが、それでも時々基礎が分かっていないことがあって、悔しい思いをしたりもする。
肩を掴んで、筋肉をほぐす。何度か腕を回して、筋肉を温める。体のタトゥーが、僅かに発光。
「よし、いいぞ」
「オッケ。 カウント、お願いするッス」
「3,2,1」
ぐっと、体勢を低くする。
ゼロの言葉と同時に、前に体をはじき出す。跳躍。背中の筋肉が、うねるように動き、ひねりの中でパワーを極限まで高め上げる。隣で、リコが跳んだ。拳を、壁に向けて繰り出す。
直撃。全エネルギーを、壁に伝達した。
一瞬の沈黙の後、直径数メートルのクレーターが、壁に出現していた。その中央部が、砕け、向こう側に抜ける。
もう、扉の痕跡など、分からなかった。
「おいおい、もうトラックよりもパワーがあるんじゃねえか?」
「さてね。 ただ、はっきりしているのは。 俺よりも遙かに強い奴が、ボルテクス界には大勢いるって事だ」
「噂に聞くトールやオセか? おいおい、これからそのオセと戦う可能性があるんじゃないのかよ」
「その場合は、逃げろ。 守っている余裕なんか無いぞ」
砕けた拳に、サナに回復の術を掛けて貰いながら、秀一は本音を吐露した。
壁の穴を抜けると、強い熱気。無理もない話である。
左側を見ると、マグマが見えた。通路の左右にマグマが煮立ち、天井には無数の棘が見えた。
そして、槍を構えた堕天使の部隊が見える。彼らはとっくの昔に此方に気付いていて、詠唱をしている者もいた。
説得などしている暇はない。悪いが、力づくで通らせて貰う。
「突破するぞ」
秀一は低い体勢から、矢のような勢いで、敵陣に躍り掛かった。
3,死闘
低く構えたマダは、流れ落ちる汗を上の右腕で拭った。四本ある腕の内、既に一本はへし折られ、もう一本は深々と傷ついている。トールは脇腹に傷口が開き、鮮血が流れ続けているが、気にしている様子もない。
「噂には聞いていたが、てめえ、バケモンかよ」
「お前もなかなかやるではないか。 ただ、それでも少し物足りんな。 三騎がかりなのだから、もっと卑怯な手を使ってもよいのだがな」
「は、それじゃ、楽勝だろうがよ」
呼吸を整えるのが難しい。さっきへし折られた肋骨が痛む。憎まれ口でさえ、精彩を欠いている。
四本の腕があるのだから、格闘戦は多少有利に運べると思っていた。奴の持つミヨニヨルをどうするかが肝心だと、考えていた。雷撃の術に対する対策も、これでも少しは練ってきていた。
その全てが、甘かった。
トールは、おそらく単純な格闘戦においては、ボルテクス界最強の存在だ。スキルの次元が違う。一体どれだけの戦闘経験を積んできた存在なのか。今まで奴は雷撃のらの字も用いていない。ただ、徒手空拳のみで戦っている。
そして、あらゆる火炎術を駆使し、騎士の突進力を生かしたチャージを浴びせている此方三騎を、ただの一騎で圧倒していた。
鬼神達は、此方に手を出してこない。トールが戦っているからだ。もし邪魔をしたら、何をされるか分からないと考えているのだろう。前線は、かなり遠くに行ってしまった。敵軍は、相当に味方を押し込んでいる。指揮はミトラに任せては来たが、それでも不安だ。仮に勝っても、この数を相手にしなければならない。
耐えるだけで良いと、考えていた。
そんな時期も、マダにはあった。
今は違う。トールを前にして、そんな事を考えたら。一瞬でミンチにされる。そして奴は、間合いを計るふりをして、休むことさえ許してはくれなかった。此方の状態を、正確に把握していたのだ。
「どうした、もう限界か? それなら、俺から行くぞ」
「舐めてんじゃねえっ! まだ、まだだあっ!」
吠え猛ったのは、己を鼓舞するため。そして、恐怖をねじ伏せるため。残った力の、全てを注ぎ込む。
「うおおおおおおおっ!」
炎の術式を起動。
マダの全身が、炎に包まれた。拳に、高密度の火力を集中する。これぞ、マダの戦闘スタイルである。拳の先に籠めた炎を直接相手に叩き込む他、生半可な攻撃では触ることさえ出来ない。あまり機動力は発揮できないが、それでも普通の相手なら充分だ。
無事な一対の拳を、胸の前で組み合わせる。火力を更に上げる。詠唱を終え、術式を解放する。
「アギ・ダイン!」
鉄を瞬時にプラズマ化できるレベルの火力を、己の体に注入。トールはじっと立ったまま、マダの動きを見つめていた。ベリスとエリゴールも、距離を取り直す。槍を構え直し、突入の機会をうかがっていた。
地面を踏みしめる。溶けた砂が、しゅうしゅうと音を立てながら、当たりに広がった。マダは大きく息を吐いて、全身の気の流れをコントロールし直すと、残った全ての力を込め、正拳の構えを取る。
時間を稼ぐなんて、余裕はない。渾身の一撃をぶち込んで、後は流れに任せるだけだ。作戦さえも、頭から取り払う。今は、ただ。この拳を敵に打ち込むことだけを、考えるのだ。
「この状況で、大した集中力だ。 それならば、俺も見せよう。 我が技を!」
トールも、正拳の構えを取る。恐怖が沸き上がる。同じ技で、あのトールに勝てる訳がない。しかし、踏ん張る。此処で負ける訳には、いかないのだ。
元々、ニヒロ機構に加入した切っ掛けは、何であったか。
オセと氷川に勧誘された時。静寂なる世界の話を聞かされた。法によって、全てが統治された世界。進歩はないが、退廃もなく、腐敗も汚濁も無い。
それを聞いて、マダは最初絵空事だと思った。だが、この世界の特質である、創世を持ってすれば、決して不可能事ではないのだ。
マダは、嫌悪を感じていた。善良で真面目な存在が、一方的に踏みにじられるばかりの現状に。優しさが愚かさの同義語であり、いい人が馬鹿の同類である事に。
腐敗がない世界。きちんとした規律の中、真面目な存在が馬鹿を見ない社会。それがどうしてか、とても魅力的で、蠱惑さえマダは感じてしまった。そんな社会が実現できるのなら。
自分には、とても実現できない。頭が悪くて、粗忽で、雑で、とても不器用だからだ。腕力しか、能がないからだ。
粗雑な自分が、そんな世界の創造に参加して良いのか。もともとマダは酒(酩酊)を始めとする各種の悪徳を司る邪神であり、インド神話における原初の混沌の存在だ。秩序とは相容れない気がした。だが、それでも。己の中の何かは、氷川の理想に引きつけられていた。
まだ復興途中のギンザに足を運んで、氷川に頭を垂れた。喜んで迎え入れてくれた氷川は、自ら手を取って、幹部の座を用意してくれた。好きな酒についても否定はしなかった。むしろマダの酒造りは、組織のために大いに役立つことになった。
マダは、感涙を流した。そして、氷川のために、全ての忠誠を捧げることにしたのだ。
静寂なる世界のためなら。マダは、死んだところで、惜しくはなかった。
「行くぜ、トール!」
「来い、大いなる酩酊の神よ!」
トールからは、とんでもない圧迫感を感じた。だが、もう引くことはない。
どこかで、思い出す。腐敗の前に、歯がみするばかりだった自分の醜態を。涙を流しながらも、何も出来ず、真の悪を見逃してしまっていた愚かさを。
融解しかけている、足下の砂を蹴り、跳躍。弾丸そのものの勢いで、トールへ躍り掛かる。見る間に距離が縮まっていく。吠え猛る。右の拳を、全身全霊を籠めた一撃を、打ち込んだ。
大量の砂が舞い上がった。
マダは、見た。
同じ正拳で、トールがマダの全身全霊を籠めた一撃を、受け止め。そして、砕き去った光景を。
腕が半ばまで複雑粉砕されている。大量の鮮血がぶちまけられた。よろめくマダ。その眼前で。全力を籠めたチャージを、ベリスとエリゴールが行った。交差するように、斜めから槍の一撃を叩き込む。そうだ、それでいい。虚脱状態になったはずのトールなら、それで、打ち倒せる筈だ。
だが、それでさえ。考えが甘かった。
一瞬早く立ち直ったトールが、チャージを浴びた。数十メートルはずり下がりながらも、両脇に槍を抱え取る。ベリスと、エリゴールが、恐怖の悲鳴を上げた。
「ば、バケモノっ!?」
「き、貴様、貴様ああっ!」
「馬鹿野郎っ! 槍を放して逃げろおおっ!」
マダの叱責は、遅きに過ぎた。
トールが、両脇に抱えた槍を、垂直に立て上げる。もちろん、ベリスとエリゴールごと、である。そして、中空に脇の力だけで放り上げた。鎧を着た、フル装備の二騎を、である。そして、それを追って、垂直に跳躍。
目を背けることは、許されなかった。マダの力が足りなかったから、起こってしまったことなのだから。
悲鳴を上げて落ちてくるのは、ベリスの方が先だった。迎え撃ったトールの拳が、その顔面をぐちゃぐちゃに砕く。そればかりか、ベリスは背骨まで瞬時に複雑骨折し、原型をとどめなかった。瞬時にマガツヒになり、爆散するベリス。
更に、トールは遅れて落ちてきたエリゴールを空中で掴むと、抱え込み、砂地に頭から全体重を掛けて叩きつける。地面に叩きつけられたまんじゅうのように潰れたエリゴールは、悲鳴もなく、その場でマガツヒになってしまった。
周囲を囲んでいる鬼神どもの中からさえ、恐怖の声が上がる。マダは恐怖を感じるより先に、涙を流してしまった。これが、力の差か。これが、躊躇を覚えない者の強さだというのか。
戦利品である、二騎分のマガツヒを吸い込むトール。流石にマダの正拳を受け止めた右腕、足腰を中心として、かなりのダメージは受けているようだが、それでも充分に戦える様子だ。勝機は、完全に失せた。マダは、覚悟を決めた。もう、逃げる術など無い。この鬼神に、生きたまま食われるほかないだろう。
マガツヒを喰らい終わると、トールは舌なめずりした。そして、ゆっくり歩み寄ってくる。
「何か、言い残すことは?」
「畜生、もっと真面目に修練しておけば良かったぜ」
「お前の才で俺に勝つつもりなら、生の全てを修練と化す位の心構えが必要だな。 お前には、覚悟が足りなかった」
トールが歩み寄ってくる。近くで見れば、マダが思ったよりも、ずっと深い打撃を受けているようだ。だがしかし、それでも恐れることもなく、拳を叩き込んでくる精神。きっとこの鬼神は、必要とあれば、首一つだけ残った状態でも闘志を捨てないのではないか。覚悟の違いと言うよりも、何かもっと別の、絶対的な差がある。
鬼神と言うよりも、此奴は戦いの神だ。そうマダは思った。そして戦いの神の名を冠することが出来るのは、ボルテクス界の中でも、この男だけかも知れない。
遠くで、信号弾が上がった。
遅い。遅すぎる。あいつらは、死んじまったんだぞ。それに早すぎる。俺は生き残っちまったじゃねえか。二つの悪態を、マダは同時についていた。
戦場の流れが、次の瞬間、露骨に変わった。
舌打ちしたトールは、後方で生じた異変を見やった。
何が起こったかは、明らかだ。補給が遮断された。後方に主力部隊が出現し、猛攻を加え始めたのだろう。
同時に、前衛も乱れ始める。
勝ちを確信した味方は、追撃を急ぐあまり、陣形を伸び切らせてしまったのだ。薄くなった兵力では、組織的なニヒロ機構の攻勢に抵抗できない。毘沙門天も制御しきれなかったのである。どうして、他の者にこの状況を打開できただろうか。
兎に角、今は一度引いて、陣形を立て直すしかない。
前後左右の全てをふさがれた。縦深陣に誘い込まれ、完全な包囲下に置かれたのだから当然だ。元々制空権は敵の手に落ち始めているし、このままでは全滅する。鬼神の一人が、トールの前に跪いた。
「毘沙門天様からの、伝令です!」
「何か」
「後方に敵主力部隊出現。 同時に敵前衛が反撃に転じ、味方は窮地に陥っています」
「見れば分かる。 それで、何処を突破するつもりだ」
身動きできずに蹲っているマダを一瞥すると、トールは舌打ち。一度引いて、兵力を蓄え直すと言うのか。このまま敵前衛を突破して、ニヒロ機構本部に殺到するという手もあるのだが。毘沙門天は、肝心なところで常識的な判断をする。まあ、確かにその方がリスクが低い。温存できる兵力も多くなるだろう。
トールとしては、あまり面白くはないが。
「分かった。 殿軍はどうする」
「広目天様が、引き受けられるそうです」
「ならば俺が退路を開く必要がありそうだな」
後衛には既にサルタヒコを向かわせている。主力も温存しているし、トールが指揮を執れば、突破も難しくない。
何より、そちらには、恐らくフラウロスかオセがいる。今の状態だとかなりギリギリだが、それでも戦ってみたい相手である。ぞくぞくする。
口笛を吹き鳴らす。傷だらけの鵬が滑空してきて、トールの肩を掴んで飛び上がる。このまま、後衛まで運ばせる。置いて行かれたマダは、呆然と立ちつくして、トールの背中を見送っていた。
上空から見れば、更に戦況をよく観察することが出来た。前衛は既に押しまくられて支離滅裂の有様だ。攻勢に強いマントラ軍も、守勢に回ればこの通りである。槍を揃えて組織的に突きかかってくるニヒロ機構精鋭の猛攻を前に、為す術無く突き倒されていく。広目天が必死に味方を叱咤して支えているが、さていつまで持ちこたえられるか。
後衛は、必死に敵の鋭鋒を支えている状態だ。あの辺りは空軍も五分の戦いを展開しており、特に殿軍についた青龍が大火力を駆使して堕天使達の攻撃を打ち払っている。炎に包まれ、ばたばたと落ちていくバイブ・カハの姿が目立つが、堕天使達の被害も小さくはない。
最終的に、両軍あわせて三万以上が命を落とすことは、既に確定だろう。トールはそう思った。
鵬がふらつきながら、トールを離した。砂地に着地したトールは、大きく翼を傷つけられている鵬が、地面に激突、マガツヒになって消えていく様子を見守った。金銭だけの上下関係だと思っていたのだが、意外に忠義は感じていたらしい。目を閉じて、黙祷。勇士として認めた相手の冥福を祈った。
傷だらけのサルタヒコと、汗みずくのアメノウズメが駆け寄ってきた。ざっと見たところ、後衛に猛攻を仕掛けてきている敵は約10000。指揮官は、動きからいってフラウロスだろう。
「状況は」
「何とか、支えていますが。 このままでは、間もなく突破されるでしょう」
「回復術。 俺達に優先的に回せ。 一撃で突破する」
一礼すると、サルタヒコはフル稼働していただろう術者を、何人か連れてきた。喚声が、徐々に近付いてくる中、トールは気にもせず、特に拳に重点的に術を掛けさせた。
ふと、フラウロスが見えた。跳躍と同時に、大剣を振るって、鬼神の首を跳ね飛ばした。そのまま空中で一回転し、避け損なった鬼神を斬り倒す。文字通り、千切っては投げ、千切っては投げという光景だ。疲労が激しい鬼神達は、フラウロスの超人的猛攻には為す術がなく、一人ずつ屠られていく。
フラウロスも、トールに気付いたようだ。にやりと口の端をつり上げるのが見えた。回復術を、気にせず掛けさせる。
「サルタヒコ。 アメノウズメと共に、前線に戦力を集中しろ。 フラウロスは俺が倒す」
「は。 しかし、敵にはまだロキがいます。 奴も、別働隊に加わっていたようでして」
「ロキなら、お前達二人がかりなら押さえ込めるはずだ。 他の連中は、鬼神達で充分に相手に出来る」
ぺこりと頭を下げると、サルタヒコは味方に一声張り上げ、敵陣に突撃していった。それに少し遅れて、トールも続く。
「負傷者と、回復術者を内側に庇え! 強行突破だ!」
「させるか! 全軍を敵先頭部分に集中! 突破を許すな! 一気にぶっつぶせ!」
サルタヒコの命令に、フラウロスが即座に反応する。トールはじっくり回復術を掛けさせながら、前線と自身が接触するのをただ待った。
その時は、すぐに来た。
回復術を掛けていた道祖神が、悲鳴を上げて飛び退く。トールは上空から唐竹割に剣を振り下ろしてきたフラウロスを見やると、そのまま迎撃に入る。激しい激突音がとどろく。トールの足下の砂地が、激しい陥没に見舞われた。
重い大剣の一撃を、真剣白羽取りする形で、トールは受け止めていたのである。
凄まじい力が秘められた剣だ。流石に、普段はフラウロスの体内にしまわれている事だけはある。膨大な魔力が一撃に籠もっており、掌には焼けた鉄板がごとき熱が伝わってきている。しばしの膠着。だが、トールが蹴りを叩き込もうとした瞬間、剣を離したフラウロスが飛び退く。
同時に、剣がかき消えた。
そして、フラウロスの手には、何事もなかったかのように。剣が戻っていたのである。
「ほう。 剣の魔力化と、再構成か」
「俺の一部なんでな。 俺は芸がない悪魔だが、これくらいは出来るんだよ。 さて、流石の貴様も、疲弊が隠せないようだな。 アイムやグシオンの仇、取らせてもらうぜ?」
「そうか、ベリスやエリゴールも喰らったことは知らないようだな」
元々、赤毛の多いフラウロスが、それを聞くと更に真っ赤になった。歯をむき出して、吠える。
「貴様っ! マダは、マダは殺ってないだろうな!」
「残念ながら、あ奴は喰らっておらん。 もう少しだったのだが、本当に惜しいことをしたわ」
「くっ……! おのれ!」
首筋を叩きながらトールが言うと、フラウロスは本物の怒気を剥き出しに構えた。この男、マダのように暑苦しくはないが、静かに燃えたぎる心を秘めているらしい。ただ、戦場では殺し殺されるのは当たり前だろうに。こういう事で、怒る神経がトールにはよく分からない。
いや、何だか分かる気がする。以前スペクターと戦った時。傷ついた部下共を見て、少し不快になったことを思いだした。あのような感覚なのだろうか。
前線では突破に賭けるサルタヒコに、無言のまま増長天の部隊が加勢。ロキが率いる敵精鋭と、激しい戦いが巻き起こっていた。どちらかが加勢すれば、そのまま一気に勝負がつくだろう。
「貴様が強いのは認める。 確かに、俺よりも、オセよりも強い! だが、貴様だけは、此処で屠る! この俺の、剣に賭けて!」
「それは良い心がけだ。 そうでなければ、面白くはないからな!」
飛び離れる。一瞬の間もおかず、両者の距離は、ゼロになった。フラウロスの剛剣を避けつつ、拳を叩き込む。残像を残して飛び退いたフラウロスが、砂漠をジグザグに蹴り、袈裟に斬りつけてくる。同時に、蹴りを叩き込む。どちらが先に届くかの、過酷なチキンレース。
トールの右足の腿が切り裂かれ、派手に鮮血をぶちまけた。同時に、吹っ飛んだフラウロスが、砂漠に叩きつけられる。
立ち上がり、口から伝う血を拭うフラウロス。トールは足の傷など気にもせず、歩み寄る。不意に、膨大な砂が吹き上がる。フラウロスが、剣を砂漠に叩きつけて、砂の煙幕を作ったのだ。
それを突破して、躍り掛かってくる。素晴らしい。トール相手に、こんなぎりぎりの駆け引きばかりを、連続で選んでくるとは。まさに武人。まさに闘争本能の固まり。かって、地上でもっとも優れたハンターとして成功した食肉目の姿をしているだけあり、実に面白い奴だ。思わず笑みがこぼれてしまう。
「おらあああああああっ!」
「ぬうんっ!」
振り下ろされた剣の腹を払うようにして、弾く。握りが甘ければそのまま体が泳いで大きな隙が出来るところだが、フラウロスは一撃の重みを殺さず、そのまま体ごと跳んで、横滑りに砂漠に足を付ける。砂漠であることの強みを最大限に生かし、衝撃を殺して、耐え抜く。柔軟な筋肉が、衝撃を殺しきるのを見て、トールは感嘆した。
「くっ! 流石に、駆け引きでは貴様が上か!」
「だが、向かってくる! 貴様のその性根が、俺には嬉しいぞ!」
「抜かせ! 貴様のような戦闘狂に褒められても、嬉しくも何ともない!」
認められない悲しさを少し感じながらも、しかし楽しさの方が遙かに上回る。トールは疲労が吹き飛ぶのを感じた。これだ。こうでなければ、戦いは面白くない。
突破部隊の味方が押し始めた。増長天の部隊だけではなく、広目天の部隊も、突破に加わったからだ。後衛の広目天も必死に持ちこたえており、このままだと程なく突破口は開ける。だが、味方は大きな被害を受けることを避けられまい。この戦は、負けだ。
結局、地力ではニヒロ機構が勝ったと言うことであろう。その上、奴らはこの戦いに備えて、様々な準備をしていたはずだ。今は、ゴズテンノウの安否が気になる。生半可な別働隊では、あの男は倒せはしないだろうが。それでも、急いで戻る必要は、あった。
「ところで、オセはどうした。 お前一人で、俺に勝つつもりか?」
「オセは、人事のバランスもあって、氷川司令の側にいる。 それに、貴様の相手は、俺一人で充分だと思うのだがな」
「その心意気や良し。 さあ、どうした。 掛かってこい!」
オセもまとめて相手したかったが、フラウロスの実力を考慮する限り、充分に楽しい戦闘である。このまま、いつまでも戦っていたい程だ。
再び、両者の距離がゼロになる。振るった剣をかわし、拳を叩き込み、受け止め、はじき返す。
ダメージはハンデだ。これだけ伯仲した戦いが繰り広げられるのであれば、少しくらいの傷など何でもない。
壮絶な死闘は、もはや入り込む隙もなく。延々と続いた。
4,迷宮の奥で
キウンは、欲の深い男だ。それを自分でも自覚していた。
そもそも、キウンとは何者か。神話的にはどのような存在なのか。それには、明確な答えがある。モーセがエジプトを脱出し、ユダヤの一族を連れて約束の地を目指す途中のエピソードで、キウンは登場した。
元々、ユダヤの民は、エジプトで傭兵のような仕事をしていた者達である。一種の下層民であり、被差別階級であった。現代でも、かってでも。被差別階級の苦しい生活に変わりはない。そこに、モーセは希望として光り輝いたのである。
皮肉な話である。偶像を否定し、象徴を拒む信仰なのに。モーセは確かに象徴で、一種の偶像的存在として、民を牽引したのだ。
約束の地を求めて。ユダヤ人達は、エジプトを出た。そして苦難の旅を始めた。
元々、戦いを生業とする者達である。性質は荒々しく、旅の過程ではしばしば略奪と殺戮が行われた。そんな苦しい生活の中、よりどころになるのは信仰である。現在のぬくぬくとした生活の中ではとても理解は出来ないだろうが、本当に苦しい時、人は何かにすがりたくなる。
古代社会では、身近でリアルな存在であった神こそ、その対象であったのだ。
だが、モーセが求める神は、禁欲的で、とても厳格な存在であった。だが、苦しい生活の中で、それだけでは耐えられなくなる者もいる。そんな者達があがめた神こそ、キウンであった。
モーセがシナイ山に十戒を授かりに行っている際。残った者達の一部が、新しい信仰に傾いた。星の神とも、牛の偶像とも言われる。それがキウンだ。だが、その寿命は短かった。帰ってきたモーセによって、「造反者」達は粛正され、キウンは闇に葬られた。
だからこそ、キウンは欲深い。厳格な神に耐えきれなかった者達が、新しい希望とした存在であったからだ。
キウンは、ニヒロ機構で上り詰めたかった。だからオセに造反者の話を吹き込んだ。上層部がいがみ合ってくれれば、それだけ出世の道が開けるからだ。それはニヒロ機構の思想とは、相容れないものであったかも知れない。だが、ニヒロ機構そのものに、キウンは絶対の忠誠を誓っている。
何故か。簡単なことである。
氷川は、キウンの計画を知った上で、受け入れてくれたからだ。
生真面目なオセをだましていたのは悪かったと思う。それがニヒロ機構にとって良くない事だとも分かってはいた。だが、愛するニヒロ機構で、上り詰めたいという気持ちは、確かにあるのだ。氷川のために、もっと権力を振るいたい。それが、キウンの本音であった。氷川に取って代わろうとは思わない。ただ、自分が氷川の一番の家臣として、力を振るいたかったのである。
それは、己の歪んだ欲望と、忠誠心の混合物。
キウンは、自分のことが好きではない。卑怯者とさえ考えている。忠誠心も歪んでいることは自覚している。全幅の忠誠を捧げられる、オセやフラウロスを羨ましいとも思っている。
しかし、だからこそに。己を受け入れてくれたニヒロ機構のためであれば。どんな事でもするし、命を投げ出すことさえ、惜しくはなかった。
侵入者どもが、迷路を突破してくる。罠の数々を切り抜け、途中配置した戦力も、次々に抜かれた。これ以上奥に入り込まれると、迎撃が難しくなる。だから、そろそろキウン自身が出なければならない。
地下では、侵入したスペクターを相手に、オセが手を焼いている。支援は期待出来そうにもない。此処はキウンが、命を賭けて敵を防がなければならなかった。
キウンの中では、明確な優先順位がある。氷川の生存が第一。ニヒロ機構の発展が第二。そして、最後が、キウンの出世なのだ。もし、此処で捨て石になって、氷川が助かるのであれば。キウンの腐った命など、どうなっても良かった。
地下迷宮は、キウンの体の一部だ。何処に何があるか、完璧に把握している。敵がどう動いているかも、何を考えているかさえも分かる。奴らは狡猾だ。最小限の消耗で、キウンに刻一刻と近付いてきている。
ほどなく、今キウンがいる、ここへ来るはずだ。
目を閉じ、キウンは戦術を再確認する。
降り注いできた瓦礫に、押しつぶされかけた。秀一がサナを、リコが聖を抱えて、飛び退く。フォルネウスはと言うと、少し前から天井の異変に気付いていたらしく、さっと離れていた。こう言う時に限り、要領の良い老人である。
地面と瓦礫の激しい激突音が轟き渡る。濛々と土煙が上がった。
さっきから、通路が広くなった分、罠の凶悪度も増している。壁から火炎放射がなされたり、床からマグマが噴き出したり。そして今度は、天井が崩れてきた。いい加減、周囲の痕跡から、安全地帯を割り当てるのが難しくなりつつあった。
「危なかったのう」
「ああ。 今、残りどれくらいだろうか」
「俺の事前調査だと、地下は三十四層まであって、深部の六層は防衛用の外殻だそうだから、氷川がいるのは二十七層から三十層くらいだろう」
「階段や深さから考えて、此処は地下二十二層前後だな」
秀一が言うと、聖は目を剥いた。感覚的にこういう事が分かる事自体が、そもそも人間離れしている事を、忘れかけていた。
「お前、もう中身も、完全に人間止めてるんだな」
「よく分からないが、まだ俺は人間と悪魔の要素を併せ持っていると思っている。 だが、人間であることに、こだわりがなくなりつつあるのも、事実だ」
顎でしゃくって、皆を促す。こんなところで、躊躇している暇はない。マントラ軍とニヒロ機構の戦闘がいつまで続くか分からないのだ。もたもたしていると、マントラ軍を破ったニヒロ機構軍が、万単位で殺到してくる可能性さえある。
今までは、狭い空間を利用しての各個撃破で、しかも二線級の相手だったから、撃破できてきた。これからは、それも期待できなくなる。急がなければ、ならないのだ。
「気配が、近いっスよ」
「分かっている」
すぐ近くに、あのキウンの気配がある。通路の先には、光もあった。何か、大きな空間に通じているのであろう。
瓦礫を押しのけて、歩く。もう罠はなかった。途中までは、食い止めるための罠が多く張り巡らされていた。途中からは、体力と精神力をむしり取るための罠が多く、手を焼いた。罠を抜くために、かなりの力を消耗したのは事実である。それに対し、キウンは全て知り尽くしている自分の庭で、万全の状態で待ち受けている。
力は他の幹部達に比べて弱いのかも知れないが、それでも恐ろしい相手だ。単純な武力だけで、相手を計ることは出来ない。今後も、こういう手強い戦い方を見せる相手が現れるのかも知れないと、秀一は思った。
此処は人間の世界と違う事は事実だ。だが、知略は戦闘の基礎でもある。桁違いの力を持つ上級悪魔の存在で、つい失念していた。
通路を抜ける。
そこは中型のビルがまるまる入るほどの、巨大な吹き抜けであった。
最下層には丸い床があり、その周囲にはマグマが燃えさかっている。秀一が抜けたのと同じような通路が、ホールの円周上に多数展開していた。それは何も、床と同じ高さばかりではない。事実秀一がいる場所も、床からは十メートル以上離れていた。もっと高いところに口を開けている通路もある。
天井は見えない。だが、地上まで抜けていることも無いようであった。ニヒロ機構本部の、桁違いの大きさがよく分かる。
床の側には、キウンが浮いていた。跳躍。床に降り立ち、相対する。サナとリコが続き、聖を乗せたフォルネウスが最後に追いついた。キウンはゆっくり星形の体を回転させながら、にやりと意地が悪そうな笑みを浮かべる。
「氷川司令は、この先だ。 あの扉の先にいる」
キウンが示した先には、高さ、幅ともに十メートルはありそうな扉があった。非常に分厚そうで、破壊するのには手間が掛かりそうだ。
「どういうつもりだ」
「そして、鍵は私が持っている」
「ブラフか?」
「いや、違う。 私を倒さないと、ここから先には進めないって事だよ」
秀一は慎重に相手の発言を吟味する。
ブラフの可能性はある。だがそれ以上に、キウンの言葉には、何か強い覚悟が感じられる。
「キウン。 貴方は何故、ニヒロ機構に所属している。 貴方は欲望に忠実な存在だと、俺は見た。 己の野心を満たすためであれば、マントラ軍の方が良いのではないか?」
秀一は、反応を待った。キウンはどうしたいのか、知りたい。本気でニヒロ機構のために動こうとしているのか。混乱の中、己のために生きようとしているのか。それを見極めたい。後者であれば、利用できる可能性がある。
ただし、前者であれば。ほぼ確実に、甘言は罠だ。
「古い話をしようか。 私はユダヤ教さえ無い時代に、厳しい生活の中、規律と法の教えに疲れた者達が逃げ込んだ信仰によって産まれた。 土着の神と、エジプトの神々の、信仰が入り交じる形でね」
静かな空間で、キウンは言う。狡猾そうな顔なのに。どうしてか、覚悟が見て取れた。それも、死線をくぐったことで産まれる本物の覚悟が。この男は、造反者ではない。秀一は、そう確信した。
「だから、私は狡猾で、弱い神だ。 今では私を信じるものさえいない。 それなのに、氷川司令は、私の汚さも卑劣さも分かった上で、受け入れてくれた。 だから、命を賭けて、あの方を守る。 仮に、マントラ軍の思想が、より魅力的であったとしてもだ」
「退いては、くれないんだな」
「何度も言わせるな。 それに、退けとは流石に思い上がりもはなだたしい。 消耗しきったその体で、ニヒロ機構将官である、この私に勝てるつもりか?」
更にもう一つ。この男は、死を覚悟している。死を賭して、氷川を守ろうとしている。もはや、説得は不可能であった。
秀一にも、氷川に会わなければならない事情がある。祐子先生を助けなければならないし、勇だって。それに、家族を殺したことに対する、落とし前も付けたい。もう一つあるとすれば、何故このようなことをしたのか、直接聞いても見たい。
キウンとの妥協点は見つからない。ならば、力で退けるしかなかった。
構えを取る。そのまま、後ろにいる三人に、指示を出す。ハンドサインは、今までの旅の中で、既に決めてある。さっとハンドサインで、後ろに指示を出した。
「俺とリコが前衛。 サナは様子を見て、必要ならば支援を。 フォルネウスは中空で待機して、いざというときには割って入って欲しい」
ふわりと、キウンが中空へ浮き上がる。
殆ど間をおかずに、圧搾空気が、秀一が一瞬前までいた場所を、押しつぶした。
精鋭の中級堕天使三十騎を連れて第五層に急いだオセは、嫌な予感を覚えていた。あの大威力攻撃を、耐え抜いたスペクターである。まだまだ切り札を隠しているとしか思えない。そのまま、単調な攻撃を続けているのは何故だ。
通路の途中にある黒電話が鳴った。オペレータールームからだ。
「オセ将軍! 詠唱準備、整いました!」
「よし! すぐに発動!」
電話を置くと同時に、ニヒロ機構本部が揺動した。大威力の攻撃術が、二連続で炸裂したからだ。
熱膨張破壊の原理である。極端な熱と冷気を連続で浴びせることにより、相手を効率よく破壊することが出来る。さて、どうなったか。再び、黒電話が鳴る。
「オセ将軍! 効果が判明しました!」
「どうなった!」
「そ、それが! 敵、1500以上が健在! まだ、組織行動能力を残しています! 隔壁への攻撃、再開され始めました! こ、これは!」
オセは、すぐ横の壁に、罅が入るのを見た。堕天使達が構える。電話の通信が、切れた。回線が切断されたという訳だ。
「総員、総力戦準備!」
「はっ!」
抜刀したオセは、構えを取る。待ちきれなかったとでも言うように、壁が吹っ飛んだ。瓦礫が崩れ、もうもうと煙があがる。
壁に、直径十メートルを超える大穴が開いた。その中から、緑色の、不定型な無数の影が踊り出してくる。スペクターだ。
「攻撃術はぎりぎりまで使うな! 接近戦で仕留める! ツーマンセルで、互いをカバーしながら戦え! 二チームは退路の確保だ! いざというときは、四層に逃げ込む!」
叫びながら、オセは至近の影へ躍り掛かる。そして、一刀の下、緑の影を斬り伏せた。跳躍。空中で二匹を斬り、壁を蹴って角度を変え、更にもう一匹。着地した時には、更に二匹を斬り伏せていた。加速。最初から全力で行く。戦う度に強くなっているスペクター相手に手を抜くほど、オセは愚かでも楽観的でもない。斬る。斬る斬る、更に斬る。瞬く間に二十を越えるスペクターを屠り去ったオセは、減る気配も無い相手に、舌打ちした。
「オセ! お、おおおお! オせええエええ!」
スペクターが吠える。数百は侵入してきたスペクターが、一斉にオセを見た。ニヒロ機構が殺気に満ちる。全て、オセへの敵意であった。
「なるほど、私だけが標的という訳か」
「オセ将軍!」
「却って戦いやすい! お前達は、補助に徹しろ! 全部私が斬ってくれるわ!」
剣を構え直す。同時に、無数のスペクターが、一斉に膨らみ、壁に、床に、酸の唾液を放出し始める。更に、二十ほどのスペクターが、果敢にオセに向けて飛び込んできた。嫌な予感。飛び退く。
眼前で、スペクターが炸裂した。
飛び退かなければ、重傷を負わされていたところだった。彼方此方に展開したスペクターは、堕天使達の攻撃など意にも介さず、酸を撒き続けている。
敵の狙いが分かった。壁や床を酸だらけにしてオセの動きを封じ、少数の部隊を特攻させる。オセを巻き込んで爆発し、ダメージを与えられれば良し。そうでなければ、動きが止まるまで幾らでも爆発を浴びせるというわけだ。
なるほど、狭い空間で、もっとも適した戦術である。だが。
飛んでくるスペクターを、一刀の下斬り伏せる。爆発するよりも早く、酸に侵されていない天井の一点を発見。其処を蹴って、地面へ。二体を斬り伏せ、跳躍。加速、更に加速。スペクターそのものを足場にして、爆発する前に飛び退く。
全開で動けば、それほど長くは保たない。これだけの数が同調するには、サーバの役割を果たす個体が近くにいるはず。そいつを切り伏せれば、後は各個撃破が出来る。穴から入り込んでくるスペクターは、ますます増えづけている。斬り、踏みにじる。だが、足場に出来る場所は、みるみる減り続けていった。
ツーマンセルで戦い続けていた堕天使達も、無数のスペクターに襲いかかられ、防戦一方である。オセの補助をするだけでも、その有様だ。スペクターが彼らを先に狙ったら、瞬く間に全滅だろう。既に、命を落とすものも出始めていた。寄って集られた堕天使が、悲鳴を上げながら地面に落ちていく。
恐らく、スペクターどもを送り込んでいるのは、穴の向こうにいる個体だ。狡猾なスペクターである。それくらいのことは、やりかねない。
卑劣な相手だが、しかし手強い。此処はあらゆる手を使ってでも、敵を屠る事を考えなければならない。
「おおおっ!」
吠える。スペクターの一匹に乗り、僅かに停止する。爆発する寸前に飛び退く。オセを狙って飛び込んできた数匹が、まとめて爆破の餌食になった。更に加速。そろそろ、自分でも体と思考にずれが生じ始めている。一瞬でも集中が解けたら、地面に激突、そこで終わりだ。
ふと、おかしな動きをしている個体が、目に入った。僅かに残った床や天井を蹴り、近付くスペクターを片っ端から斬りながら、観察する。そいつは穴の側で、じっと停止して、状況を観察している。どうもおかしい。サーバの個体としては、動きが露骨すぎる。
試しだ。
剣を投げつけ、串刺しにする。術を唱え、新しい剣を作って、左から襲いかかってきた一匹を斬り伏せた。辺りは膨大なマガツヒに満ちていて、息が詰まるようだ。特に、臭いが凄まじい。これでは、感覚も鈍る。
しまったと思った時には、もう遅かった。
スペクターの本当の狙いは、これだったのだ。酸による動きの封じ込めや、特攻自爆はあくまで本命から目を逸らすための罠。本当は、オセの感覚を鈍らせ、集中を途切れさせるために、自分の体を最初から無数に犠牲にするつもりだったのだ。
今までとは比較にならないほどに鋭い動きの一匹が、オセの脇腹に体当たりし、自爆した。
避けることはかなわず、爆破に巻き込まれていた。
更に、三十を超えるスペクターが、集ってくる。その全てが光を放ち、爆発するのを、オセは遠くの光景のように見ていた。
「けああああああっ!」
キウンが叫ぶ。同時に、無数の圧搾空気弾が、辺りを乱射した。殆どマシンガンのように、星型の体の頂点から間断なく撃てるらしい。一発はさほどの威力でもないが、無数に喰らうと。秀一やリコのように、体中傷だらけにされる。
弾丸をかいくぐって、リコが跳んだ。そのまま、唐竹割に剣の一撃を繰り出す。ふわりと避けたキウンに、見事な回し蹴りを叩き込む。直撃。吹っ飛んだキウンは、マグマの中に突っ込み、派手なしぶきを上げた。
其処へ、更に秀一がヒートウェイブを叩き込みに掛かる。だが、気配が後ろに生じる。背後のマグマから飛び出したキウンが、ひときわ強力な圧搾空気弾を叩き込んできた。振り返り様に、ヒートウェイブで迎撃。爆発が辺りを蹂躙し、煙が広がる。
真上に躍り出たキウンが、嫌らしい笑みを浮かべた。着地したリコが、飛び退く。秀一も。だが、奴が圧搾空気弾を放つ前に、真横からフォルネウスが冷気の息を、斜め下からサナが雷撃の術を叩き込んだ。再び壁に叩きつけられるキウン。だが、表皮が少し焦げているくらいである。
ただ、秀一の見たところ、内部はかなり痛んでいるはずだ。しかし、キウンの口調は、あくまで余裕綽々であった。
「ふふん、ようやく体が温まってきたくらいだな」
肩で息をつきながら、リコが立ち上がる。指先からは、鮮血が垂れ落ち続けていた。さっき、圧搾空気弾の一撃を、もろに食らったのだ。秀一も、既に二発受けている。これ以上入ると、かなり厳しい。
フォルネウスに、ハンドサインを出す。あの分厚い皮膚を突破するには、方法は一つしかない。リコもそれに気付いて、頷いてくれた。サナも、最後の仕上げに向けて、術を練り上げ始める。キウンは、あくまで余裕であった。
「さて、狙うとしたら、私の体を熱膨張破壊で粉砕するくらいだろう。 違うかね?」
「それは無駄だ。 マグマに落とした直後に、フォルネウスがブレスを浴びせているのに、びくともしていない」
「ほう? 少しは観察して考えているようではないか」
「貴方ほどではないが、それなりに修羅場はくぐっているからな」
秀一は、冷静に観察していた。そして、出た結論がある。
術による防御機能だとは思うのだが、キウンに熱による攻撃は通用しない。原理は分からないが、それは事実だ。何しろ上級悪魔である。それくらいの能力は備えていても不思議ではない。
それが証拠に、キウンは先ほどから、危ない場面に直面すると、マグマに叩き込まれるふりをして、逃げ込んでいる。
そして、もう一つ。
秀一に出来ることが、他の悪魔に出来ないとは、思えないのだ。
最初に仕掛けたのは、秀一である。ゆっくり下がるキウンに向けて突貫。息を大きく吸い込む。肋骨が、膨らむ肺に押される感触。人間では考えられないくらいに膨らむ肺。どうして炎を吐けるのか、今でも良く原理は分かっていない。そういう能力があり、使いこなすマニュアルが、脳内で整備されているのだ。
爆発的に吐き出す息と共に、あふれ出る灼熱の炎。キウンは眉をひそめると、もう隠す必要もないとばかりに、正面から受け止めて見せた。案の定、びくともしない。
「ははは、ぬくいぬくい」
「そうだろうな」
秀一は炎を噴き終えると、続けて拳を叩き込みに掛かる。ふわりと逃れながら、圧搾空気の発射準備をするキウン。その体が、不意に動きを止めた。
「何ッ!」
キウンに向け、掌を突き出し、構えているのはリコ。切り札の、風を操る能力だ。自分だけにではなく、敵にも使えると言うことだ。単にリコは、敵を抑えるくらいなら、自分を高めるために使いたがるだけである。
それは、此処まで来る過程で、既に確認はしていた。
同時に、フォルネウスが、冷気の息を吐き出す。僅かなタイムラグ。だが、それで、充分であった。
マグマが、ことごとく凍結する。病院を凍結させた、魔法の氷の術だ。更に氷は、カビが繁殖するかのようにして手を伸ばし、キウンが逃げ込みうる、無数の通路も塞いでいった。
「おおのれえええっ!」
初めて、キウンが焦りを顔中に浮かべた。力づくでリコの拘束を解くと、秀一に向けて圧搾空気を乱射してくる。だが、焦りが故か、狙いが浅い。いや、違う。秀一を狙うと見せて、床を砕きに掛かっている。
キウンが回転しながら突進してくる。まるで空を飛ぶ回転鋸だ。床を砕いて、マグマに潜り込むつもりか。秀一は腰を低く落とすと、拳に力をため込む。僅かに、間に合わない。恐ろしい勢いで、迫り来るキウン。
極太のいかづちが、横殴りにキウンを襲ったのは、秀一の寸前であった。
サナが、今までずっとため込んでいた上級攻撃術を撃ちはなったのである。
僅かに動きを鈍らせたキウンに、飛び込んできたリコが、跳び蹴りを浴びせかける。ついに、キウンの表皮に、罅が入る。同時に弾かれたリコも、右足から鮮血をしぶかせた。軽い傷だとは思えない。だが、秀一は、殆ど動揺することがなかった。双方、秀一の眼前、ほんの数センチで弾きあった。
轟音と共に、床にキウンが突き刺さる。鈍い悲鳴。軌道がずれたため、床を砕くには到らず。圧搾空気を至近の床に放ち、強引に自らを空に浮き上げるキウン。だが、その眼前には、既にヒートウェイブの術式を詠唱し終えた秀一がいた。
手に、光が宿っている。その拳を、直接キウンの顔面に叩き込む。開いている左手で、体を掴む。だが、キウンは屈しない。最後の抵抗に出る。キウンが、圧搾空気を秀一にそのまま叩き込んできた。全身がずたずたに切り裂かれる感覚。
そのまま、床に押しつける。キウンは、凄絶な笑みを浮かべた。
「私では止められなくとも、それだけの傷、それだけの消耗! 地下にいるオセに、貴様は勝てん! これで、ニヒロ機構は! 氷川司令は! 守り抜かれた!」
無言で、秀一は、ヒートウェイブを叩き込む。
至近から放たれたヒートウェイブには、流石のキウンの皮膚も、耐える術を持たなかった。
キウンの体を構成していた、膨大なマガツヒが辺りにこぼれる。氷の術を解除したフォルネウスと、リコと、サナと、秀一で四分する。口に運ぶと、非常に濃厚であった。これが、上級悪魔のマガツヒか。
トールの言葉を思い出す。キウンも、人間のとても強い自我を核として、このボルテクス界に生まれ出たはずだ。どんな奴だったのだろう。卑怯だと自分をおとしめる発言をしていたが、秀一にはそうは思えなかった。結局最後では自分が体を張って侵入者を止めに来たし、組織に対する忠誠心は本物だった。
ふと、光景が目に浮かぶ。
ダーティワークばかりやらされていた、小さな会社の専務。無能な社長と、自己主張ばかり立派な社員達に挟まれて、胃を痛め続けていた。家庭も冷え切っていて、妻は堂々と浮気をし、子供達は自分を馬鹿にしきっていた。ヤクザと渡り合ったこともあるのに、強権を家では発揮できなかった。
怖かったのだ。自分の唯一の、平和との接点を失うのは。それがどれほどに辛いものであったとしても。かといって、会社に入ってからと言うもの、ダーティワークしか知らない自分に、どんな身の建て方があっただろうか。
平穏に生きたい。静かに生きたい。キウンは誰にも弱みを見せなかったが、ずっとそう思っていた。その望みは、人間である時にはかなわなかった。しかし、ニヒロ機構でなら。キウンとしてなら。氷川が天下を取った時には。静かに、平穏に、生きていけることが出来たのに。
悲しい話だと、秀一は思った。
だが、涙が流れることは、なかった。
サナが額に汗しながら、皆に回復術を掛けて回っている。リコは足を伸ばして、深々と抉られた最後の傷を癒して貰いながら、ぼやく。
「それにしても、拙いッスね。 一度戻ることを、考えた方が良いんじゃないすか?」
「いや、最後まで一気に抜く」
「大丈夫スか?」
「恐らく、敵は此方に増援を回せない事情がある。 マントラ軍の別働隊が侵入したか、或いは他の理由かは分からないが。 そうでなければ、此方が手強いと認識した時点で、もっと万全の迎撃態勢を敷いてくる」
キウン一人で秀一らを迎え撃った状況からも、ニヒロ機構の窮状は明らかだ。
氷川を抑えることが出来れば、一気に状況を此方に傾けることが出来る。そして外の状況から言って、さっきキウンが挙げたオセ以外は、皆外に出払っている可能性が極めて高い。
ただ、時間が幾らもないのは事実であろう。
「シューイチ、回復術は」
「俺はいい。 先を急ごう」
事実、傷は既に治り始めている。回復術は、他の者に掛けた方が効率的だ。戦うには、まだ少し心許ないが、それでも歩き回るのに支障はない。今の戦闘で消耗した魔力も、キウンのマガツヒで充分すぎるほどに補充できた。
さっきまで隅っこでおとなしくしていた聖が、歩み寄ってくる。要領よく動き回っていたようで、あれだけ派手に術式が飛び交う中でも、怪我一つしていなかった。
「やるな。 それにしても、相手の事情が分かっていても容赦無しってのはしびれたぜ」
「……何が言いたい」
「いや、別に」
殺らなければ殺られたのだ。
だが、聖の言葉に、思うところがないといえば、嘘になった。リコが腿を揉んで感触を確認してから、立ち上がる。
「あまりこういう事は言いたくないんスけど。 聖さん、モチベーション下がるようなこと、言わないでもらえませんか?」
「ああ、すまんな」
それ以上、聖は何も言わなかった。ただ、微笑ましげにリコを見ていたのは事実である。
皆で、歩き始める。辺りを探り、もっともよく使われている通路に入り込む。途中から、メインルートらしい太い道に出た。恐らく、この様子からして、後はもう罠も控えていないだろう。
「有難う、リコ」
「別に。 ……ただ、何だか、分からなくなって来たッスよ。 キウンの奴、あんなに嫌な雰囲気だったのに、いざ倒してみるとちょっと悲しいし。 それに、氷川も、そんなに非道で卑劣なだけの奴だとは思えなくなり始めてる。 キウンが氷川のために命を賭けて戦ったことを侮辱する奴がいたら、腹が立つと思うし。 榊センパイ、これがトール様の言う、視野が広がるって事すかね」
「さあ、どうだろう。 俺も社会的な経験が少ない事には変わりはないし、明確な答えは提示できないと思う」
揺れが一つ。転ぶほど酷くはないが、この巨大な地下建造物が、丸ごと揺動するほどのものだ。何かとんでもないことが、更に下で起こっているのは間違いない。
「急ぐぞ」
自分に言い聞かせる意味もあって、秀一はそうつぶやいた。
5,上下での決着
ついに、増長天が指揮する部隊が、ニヒロ機構の後衛を突破した。しかし、トールの見たところ、計算尽くの結果だ。追撃戦は、退路を開けておくのが定石。そうすれば逃げる方向もコントロールできるし、なおかつ効率よく戦意を削ぐことも出来る。後は広目天が、どれだけ粘れるか、だが。
その広目天の部隊も、膨大な被害を出しながら、徐々に下がりつつある。全体の統制はどうにか毘沙門天が執っているが、このままではいつまでそれも保つか。いざ群衆と化すと、軍隊は組織しなくなる。後は、狩り立てられるだけだ。
肩で息をつくフラウロスを、トールは見下ろしていた。トールも袈裟に深い一撃を貰っていて、全身血しぶきに濡れている。視界の隅で、必死にロキに挑むサルタヒコの姿が見えた。
「まだ、それだけの力が残っているか。 バケモノめ!」
「お前とオセが揃っていれば、俺に勝つことも不可能ではあるまいに。 だが、一人で挑んできたからには、それに相応しい覚悟をすることだな。 さて、俺もそろそろ余裕がない。 決めさせて貰うぞ」
相撲取りの四股のように。気合いを入れて、踏み込む。
右拳を下げ、左拳を前に。全身の気を、練り上げていく。フラウロスはそれを見ると、飛び退いた。
悟ったのだろう。本能的に。何しろ、食肉目だ。東京受胎の前、単体としては地上最強の肉食動物だった存在なのだから。あくまで、単体ではだが。そこに人間の知能が合わさっているのである。強くない筈がない。
「さあ、来い。 決めてやろう」
「……まるで、破壊の権化だな」
「素晴らしい褒め言葉だ」
自身最強の必殺技である、名も無き正拳。これを喰らって、立っていた者は未だ存在しない。トールはフラウロスの勇気と男気を確かに認めていた。だから、この技を見せる。そしてこれで屠り。喰らうのだ。
フラウロスは、しばし間合いを計っていたが、結局意味を成さなかった。やがて上空から、炎に包まれた鵬が落下してきた。それが両者の中間に墜落、爆発しながらマガツヒとなって散った。同時に、無数の敵味方がその場になだれ込んできた。殿軍が、ついに崩れたらしい。必死に味方を叱咤しながら、広目天が下がってきた。
「トール殿!」
「どうやら、頃合いか」
「もはや、これまでかと」
秩序を失いかけているマントラ軍を、必死に支えている毘沙門天の苦闘も、限界近いらしい。彼方此方で陣列が崩れ、中級、上級の悪魔達が次々に倒されていく。トールは最後尾にゆっくり歩む。そして、乱戦の中、身を躍らせた。
「かああああっ!」
吠える。拳が一閃する度に、堕天使が砕け、拉げ、吹っ飛んだ。悲鳴を上げて、下がる堕天使達。その間に、味方が陣列を整え直す。ゆっくりトールは後退を続けた。術も飛んでくるが、素手で払いのける。
もう、戦闘能力は半減している。だが、トールが立っていると言うだけで、ニヒロ機構の兵士達は、逃げ腰になった。この隙にと、広目天が叱咤し、生き残りをまとめて逃走に掛かる。
どうにかロキと引き分けたサルタヒコが追いついてきた。体中傷だらけだ。
「トール様、既に味方部隊は戦闘続行可能限界に近い状態です」
「分かっている。 ゆっくり敵を牽制しながら下がる。 アメノウズメは」
「力を使い果たしましたので、中軍で休ませております。 空軍は敵兵の浸透を阻みながら、後退を続けています」
回復術を使う者は。見回すが、考えてみれば戦闘能力が低い連中は、この状況では生き残れまい。国境まで下がれば、ある程度体勢を立て直すことが出来る。だが、この被害を立て直すのは、当分は無理だろう。
気付く。広目天は、一人最後衛に残っていた。上級悪魔としての戦闘能力をフル活用して、最後までいるつもりなのだろう。トールは声を掛けようとして、止めた。此処から動くと、他の戦線が総崩れになる。広目天は、戦死を覚悟して、残ったのだ。
「広目天様が!」
「奴の覚悟を無駄にするな。 一兵でも多く、逃がす」
ゆっくり、下がり続ける。トールが目を光らせている場所で、敵軍の追撃は積極的ではなかった。
文字通りの、十重二十重だった。広目天の周囲に、既に味方は一騎も居ない。
これで良いと、広目天は思った。最重要地点では、トールが味方を支えてくれている。後は、少しでも多くの敵を引きつけることが出来れば。それだけ、追撃は緩やかになるのである。
今まで、組織の役に立てた試しがなかった。ユウラクチョウへの侵攻軍を率いた時も、結局はトールに助けて貰った。作戦立案はいつも毘沙門天がしたし、全軍のカリスマとなっていたのはトールだった。四天王寺を落とされ、ゴズテンノウに屈服した時から、名前だけの幹部だったのだ。
だが、今、自分は役に立つことが出来ている。多くの敵兵を引きつけ、味方を少しでも多く逃がすための捨て石として活用できている。満足だと、広目天は思った。
思い出す。何処か、遠くで。無能な二世社長として、表向きだけ崇められて、裏では嘲笑されていたことを。いつもにこにこしていることから、「恵比寿様」等とあだ名を付けられていた。その意味通り、象徴だけで、存在に何の意味もないと嘲られていたのである。
ボルテクス界でも、同じだった。いつも、悔しいと思っていた。何かの役に立ちたいと、ずっと思っていた。
ゴズテンノウの思想には、正直ついて行けない所も多かった。だが、毘沙門天も、持国天も、増長天もトールも。他の幹部達も、みな広目天は好きだった。皆のために死ねると思えば、これほど嬉しいことはなかった。
飛び掛かってきた堕天使を、振り向き様に斬り捨てる。それを切っ掛けに、雑魚が大勢飛びついてきた。舞うようにして、斬る。同時に、斬られる。無数の矢が飛んできて、突き刺さる。顔面に炎の術が炸裂して、視界が真っ暗になった。何も見えない。だが、気配は分かる。動く限り、斬る。斬る。
どうだ、私は役に立っているぞ。皆は、私が捨て石になったことで、逃げられているのだから。
フラウロスが、来た。気配で、分かった。途轍もなく強く、そしてとぎすまされた気配だ。
もはや、勝ち目などない。だが、少しでも時間を稼ぐためにも。フラウロスと、戦わなければならなかった。
「勇敢な男だな。 せめて、俺が引導を渡してやろう」
勇敢だと。私を、そう呼んでくれたというのか。
あのトールとまともに戦い、殺されなかったフラウロスほどの勇者が、この情けない私を。笑顔を浮かべているだけの無能者と呼ばれた私を。勇敢だと認めてくれたのか。
「く、くくくっ」
思わず、笑ってしまった。不覚にも、涙を流していたかも知れない。悪魔だというのに。情けないことであった。
もはや、悔いなどない。これで、やっと。安らかに逝くことが、出来そうだった。
フラウロスが、剣を抜いた気配があった。何も思い残すことなく、広目天は、剣を構えて、それに対した。
連鎖的に巻き起こる爆発。様子を見るべく距離を取った太田創は、強烈な殺気を感じて硬直した。オセは、まだ生きている。だが、生きているとしても、致命的な傷を受けたことに変わりはないはずだ。それなのに、まだ、油断は出来ないとは。一体どういう事だ。
既に、数は1000を切り、800を割ろうとしていた。オセの凄まじい奮戦で、あっという間に削り取られたのである。このままニヒロ機構を滅ぼしてやろうかと思っていたのに、一度退かざるを得ないらしい。まだ奥には幹部がいる可能性があるし、抵抗を続けている中級堕天使どもも侮れない。
殺気は、どこからか自分に向けて漂い来ている。分身どもを集めて、自分の周囲に展開させる。どこから、攻撃が来ても大丈夫なように。
守勢に回ったのが失敗だったのだと、この時に気付いた。
煙を切り破り、オセが躍り出た。叫びと共に、剣を一閃。分身が、数匹、まとめて切り裂かれた。
「そこにいたかああああっ!」
全身血みどろのオセが、吠え猛る。突貫してくるその剣は、ボロボロだった。既に、剣を再構成する魔力も残っていないらしい。
丁度いい。このまま食ってやる。そう思ったが、そうはいかなかった。生き残った堕天使どもが、一斉に術式を放ったのである。火球が、雷撃が、それぞれ分身を焼き尽くし、弾けさせる。
分身どもを蹴り、オセがジグザグに跳躍して迫ってくる。その速さは、先に比べて、いささかも衰えていない。創は恐怖を感じた。分身どもをひとまとめにして、巨大な戦闘形態を形作る。アマラ経路に侵入してきた、上級悪魔を倒すために使った切り札だ。直径十メートルほどの巨体を持ち、その分厚い皮膚は生半可な攻撃では傷一つ付かない。オセが飛び退く。その前で、分身達を集めて、太田創は巨体に変貌した。
吠える。それだけで、堕天使どもは逃げ腰になった。だが、オセだけは、まるで恐怖を感じていないように、大上段から斬りかかってきた。
オセの剣が、巨体に食い込む。だが、それも刺さるだけだ。衝撃は、巨体が吸収し尽くした。そのまま、図体にものを言わせて、体当たりを浴びせる。弾かれたオセが地面に叩きつけられた。酸に灼かれるその体に、更にボディプレスを喰らわせる。
ニヒロ機構本部が、砕けるような衝撃が走った。
「ぎ、が、げ、ごっ!」
自分が、悲鳴を上げている。それに気付いた創は、戦慄した。何故だ。今、致命傷を浴びせたのは、私の筈だ。ミンチにしたオセが、何かしたのか。鋭い痛み。何故だ、何故痛い!創は、混乱の中、自問自答する。
同時に、全身が、一気に引き裂かれた。
「げぎゃあああああああああああっ!」
はじけ飛びながら、創は見た。最後の力を振り絞ったオセが、淡く輝く日本刀を天に向けているのを。ボディプレスを浴びせた瞬間、あれを作り出して、双方の力を利用して中枢に叩き込んだというのか。
分身どもは、衝撃に耐えきれず、ばらばらに散っていく。僅かに残った数十を盾に、創は侵入に用いた穴へ逃げ込もうとする。堕天使どもが追ってきて、火球を放ってきた。分身は、次々に焼き尽くされ、消滅していった。
い、いやだ。まだ、死ぬ訳にはいかない。人間どもを殺し尽くす。そう、悪魔と化した人間どもを殺し尽くしてから、やっと自分は死ぬことが出来るのだ。
「ひ、ひぎ、ぎぎゃああああっ!」
創はもう一つ悲鳴を上げた。今のオセの一撃が、本体にも致命的な打撃を通していたのだ。体が今にも砕けてしまいそうだ。溶けてしまいそうだ。ま、まだだ、まだ死ぬ訳にはいかない。まだ、死ぬには早すぎる。
アマラ経路に逃げ込んだ。
従う分身は、十を切っていた。
連中をまず喰らって、力を少しでも取り戻そうとする。だが、駄目だ。あまりにも、損傷が大きすぎる。辺りのマガツヒを喰らう。酷い痛みに、全身が引き裂かれそうだった。
お、おのれ、おのれおのれおのれ!
おのれニヒロ機構!
闇の中、太田創ことスペクターは、狂気の咆吼をあげていた。
殆ど生き残りはいなかった。オセは、自分も、もう長くは保たないことを感じた。
体から、マガツヒの流出が始まっている。これだけの損傷を回復するのは、もはや不可能だ。せめて、氷川司令が脱出したのを見届けるまでは。そう言い聞かせて、歩く。自分を支えようとした堕天使が、地面に崩れ伏してしまう。
「お前達、良くやってくれたな」
泣き出す部下がいた。何を泣くことがある。
ニヒロ機構は、氷川司令が生きている限り、不滅だ。オセはいなくとも、他に人材は幾らでもいる。次代を背負う、カエデのような存在もいる。高度な法によって制御された、理想社会は、きっと来る。
床中に撒かれた酸で、足が溶けるのも、もう気にならなくなっていた。
剣の道を究めたいと、思っていた。さっきの、スペクターに浴びせた一撃。敵には剣が輝いているように見えたかも知れない。まさに、至高の一撃であった。今まで戦ってきた中で、最高の剣。
あれを放てただけで、オセはもう、剣士としては何も思い残すことはなかった。
後は、父親としての心残りのみ。
司令室へ入る。オペレーター達は、既に待避を始めていた。だが、その中で。にらみ合う、三つの影があった。
氷川司令と、その前に立ちはだかるオロバス。視線の先にいるのは。人間のような、悪魔のような。奇妙な青年だった。
「オセ将軍!? そ、そのお体は!」
「オロバス、此処は私に任せろ。 氷川司令を、安全なところへ」
「は。 ははっ! 私めの、命に代えましても! 絶対に!」
ゆっくり歩いて、間に入り、青年の前に立ちはだかる。手にしている剣は、何だろう。コレクションしていた日本刀の一つだというのは分かるのだが。銘が思い出せない。村正か。正宗か。菊一文字宗典か。虎徹だったかも知れない。
後ろから声。氷川司令だ。
「オセ将軍」
「スペクターは退けました。 奴はもう、しばらくは戦闘不可能でしょう。 その間に、根本的な対策を練ってください」
「すまん。 君のことは、新しい世界でも語り継ごう」
「私よりも、この刀のことを是非。 スペクターの巨体を、一撃で粉砕しました。 私の、剣の道の終着点を飾った名刀です」
形見として、差し出す。怪訝そうに眉をひそめた氷川司令だが、受け取ってくれた。渡す時、妙に軽い感触だった。どうしてだろう。
氷川司令が、行くのを感じた。さて、後は、目の前の侵入者だけだ。
「氷川司令と、何を話したのかな。 青年」
「俺の知り合いが、掴まっているから解放してほしいと言いに来た。 それに、何故このような凶行に走ったのかも、確かめたかった」
「氷川司令もいったと思うが、高尾祐子は、創世の際に必要となる人材だ。 残念ながら、返す訳にはいかん。 それに、氷川司令は……」
「俺の家族を、皆殺しにした事に変わりはない。 だが、多くの悪魔が、命を賭けるには相応しい男ではあるらしいな。 貴方を見ていれば分かる」
そういえば、刀は渡してしまった。もう、刀を作り出す力も残っていない。でも、別に、それで良かった。
「私が氷川司令に渡した刀は、美しかったか」
「いや、半ばから砕けてしまっていた」
「そうか。 日本刀は美しく強いが、脆いのが欠点だな。 ははは、そうか、砕けてしまっていたか」
もう、足下もおぼつかない。立っているだけで、やっとだった。
「刀は、辺りにないか。 もう、見えないのだ」
「リコ、渡してやってくれ」
「え? でも」
「いいんだ」
手に、刀が触れる。大振りの、とても強靱な刀だ。
抜く。青年が、構えを取るのが見えた。
上段に構える。数え切れないほどに取った構えだ。だが、今はどうしてか、極みにとても近付いている気がした。
最後に、淡い光が見えた。それが、剣の道の終着なのだろうと、オセは知った。
やっと思い出すことが出来た。最後に呼び出した剣は。無銘の一刀だった。
上段に構えたオセは、途轍もない気迫であった。踏み込めば斬られると、秀一は思った。だが、それが、最後だった。
全身灼け、そして溶けて崩れていたオセは。そのまま、マガツヒと化して、散じたのである。
凄まじい気迫だった。もし万全の状態で戦っていたら、万が一にも勝ち目はなかっただろう。ニヒロ機構を支えていた男だったというのも頷ける話だ。
床に落ちた刀を拾う。リコがトールに、餞別として貰ったものらしい。墓標にしようかとも思ったが、オセの命を背負った刀は、もっていた方が良いと思った。何しろ、あの男は。死ぬ瞬間まで、剣士である事を止めなかったのだから。
「さて、どうする?」
手の中で銃をちらつかせていた聖が、多少不満げに言った。聖は氷川に食ってかかろうとしたのだが、馬のような姿をした悪魔に術を掛けられて、手が上がらないようにされてしまったのだ。多分、銃そのものに術で干渉されたのだろう。今は手を動かせるようだが、極めて不機嫌な様子である。
「一度、引き上げよう。 ニヒロ機構本部の中枢までたどり着けはしたが、これ以上此処にいることは無意味だ」
「なら、それを使うぞ」
聖が、さっき見つけたアマラ輪転炉を後ろ手で指す。何でも一方通行式になっているらしい。そこから、ギンザの街に出ることが出来るようだ。
虚しい戦いだったような気がする。結局、自分はまだ弱い。戦いに乗じて氷川に迫ることは出来たが、結局そこまでだった。これからどうして良いのかも、よく分からない。
オセの命を構成していたマガツヒを、口に入れた。強くなるしかない。たとえ悪魔の軍勢が攻め寄せてきても、押し返すことが出来るほどに。
今はただ。単純な力が欲しかった。
(続)
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