雷神と人修羅

 

序、アマラ経路にて

 

体を揺り動かされている事に気付いた。目を開けると、サナの顔が視界に飛び込んでくる。ゆっくり目を動かすと、同じように心配げにフォルネウスが覗き込んでいた。

「シューイチ、大丈夫?」

「随分派手に落っこちたからのう。 しばらくは動かん方がええて」

口々に言う、二体の悪魔。まるで他人事のように彼らの言葉を聞きながら、秀一は自分の状況を思い出していた。

背中に軟らかい感触がある。首の後ろの突起に、何かが当たっている。それに、妙に世界が赤い。何なのだろう、これは。

ゆっくり、半身を起こす。そして、自分が何処にいるのか、全く分からなくなった。

砂漠ではない。石造りが目立った、ニヒロ機構の都市でもない。まるでトンネルのような空間である。赤い通路が、前後何処までも延びている。浮遊しているのは、マガツヒだろうか。一定の流れを保って、流れている。軟らかい床。天井の高さは、三十メートルほどもあるだろう。

「此処は、どこだ」

「アマラ経路だよ、シューイチ」

「あまら、けいろ?」

そこまで言って、思い出す。

そうだ。シブヤで、聖に頼んで、イケブクロに送ってもらおうと考えたのだ。そして、聖はアマラ輪転炉を弄って、秀一をその中に招き入れた。光の中に沈むような瞬間については覚えている。

だが、その先が分からない。光が飛ぶ中を、泳ぐようにして進んでいたような気がする。だが、それは夢のようにも思える。

「全くあのヒゲ中年! 案の定ドジ踏んで!」

「まあ、危険性が高いのは、承知の上じゃったからのう。 秀一ちゃん、立てるかの」

二人の反応からして、どうやら移動の最中に、トラブルに見舞われたらしい。少しずつ、記憶が戻ってくる。確か、天井近くを気持ちよく飛んでいたはずだ。どう考えても、飛行速度は時速百キロ以上は出ていた。

そうなると、あの高さから、フルスピードの自家用車並みの速度で、床にたたきつけられたのか。

後ろを見る。どうやら当たりだ。派手な破壊痕が、床に残っていた。数度バウンドして、数十メートルほど転がったらしい。体の傷は無い。いや、今までの状況から考えて。勝手にふさがったのだ。

これも、秀一の能力の一つだと考えて良いのかも知れない。どちらにしても、もう完璧に人間を超越してしまっている。それが喜ばしく思えないのは、それでもこの世界では通用するとは限らないと、身に染みているからだろう。

「落ちた時は、どんな状態だった」

二人同時に口をつぐむ。つまり、そんな状態から、秀一は復帰したという訳か。立ち上がる。まだ少し、背中に痛みがあった。だが、耐えられないほどではない。

「聖、聞こえるか」

呼びかけてみる。反応はない。

どうやら、賭には失敗したらしかった。

「シューイチ、どうする? マガツヒは幾らでもあるから、生活には困らないけど」

「甘いの。 ニヒロ機構の幹部悪魔達も、あまり直接はアマラ経路には入りたがらんのじゃ。 なんでじゃと思う?」

「何か、危険な悪魔でも巣くっているのか?」

「正解じゃ。 正体はよく分からんのじゃが。 便宜上、儂らはそいつを、スペクターと呼んでおった」

不吉な名前だ。秀一の知る限り、それは確か幽霊か何かを意味する言葉であったはず。フォルネウスは、脅かすように、声を低くする。

「奴、スペクターは、マントラ軍からもニヒロ機構からも首を狙われている超一級のテロリストでのう。 ロキ将軍が支配していた時代のシブヤを壊滅させ、噂によるとカブキチョウを崩壊に追い込んだことまである、筋金入りの強豪悪魔じゃ」

「そんな奴に襲われたら、ひとたまりもないな」

急いで、此処を出なくてはならない。

アマラ経路について思い出す。ボルテクス界の地下を縦横に走る、血管のような存在。所々、地上への出口のような割れ目もある。脱出には、そのような場所を探るしかないだろう。

ふと気付いて、携帯を取り出す。無事だ。何とか、動く。ただ、電池の残量がそろそろ厳しくなってきている。時々しか電源を入れていないのだが、それでも限界が近い。この世界に来てから、かなり時が過ぎてしまっているのかも知れない。

兎に角、今はマントラ軍の様子を探るのが先だ。ニヒロ機構と、具体的にどう違うのか。どう世界を支配しようとしているのか。どんな秩序を作り、どういう悪魔達が集まっているのか。それを知らなければならない。

「出口の当てはあるか」

「さてのう。 儂も何度かアマラ経路には入ったことがあるが、この辺りはとんと見たことがないのう」

「僕も知らなーい。 ヨヨギ公園の周辺じゃ、アマラ経路に侵入できる場所は限られていて、それもとても狭かったから」

「具体的な地図は分からなくてもいい。 マガツヒの流れによって、出口が読めるような事はないのか」

意外と鈍い二人に、秀一は少し苛立ちを感じた。戦闘面では二人とも頼りになるのだが、頭脳労働が出来る奴が一人は欲しいものだと思う。かといって、今までの状況を見る限り、優秀な悪魔は殆どニヒロ機構かマントラ軍に所属してしまっており、野良悪魔は盗賊同然の連中ばかりだ。出くわせば殺し合いになる事が多く、スカウトはとても難しいのが現状である。少数いるサマエルの琴音のような強豪野良悪魔も、何かしらの信念を持って組織に属していないようで、ましてや秀一の声など聞きはしないだろう。

「そう言われてものう」

「確認しておきたい。 このマガツヒは、どこから流れてきている」

「それは分からんが、血管のように循環していると聞いたことはあるのう。  後、もっと深い階層から、マガツヒが溢れてきていると聞いたことはあるかの」

「それならば、流れの末端になる所であれば、外に通じる穴が開いている可能性があるな」

漂ってきたマガツヒを掴んで、口に入れてみる。甘い。若干薄味で、少し物足りない感触である。

二人を促して、歩き出す。離れないように言い聞かせたのは、もしはぐれた場合、合流できる可能性がゼロに等しいからだ。

まずは、此処から脱出しなければならない。だがさっきから背中がむずむずしてならない。多分、誰かに見られている。

「二人とも、出来るだけ、今の内に食べておいて欲しい」

「ふむ、秀一ちゃんも感じたか」

「何かいるみたいだね。 ま、何が来ても、簡単にはやられてあげないけどさ」

飛来するマガツヒを口に入れながら、秀一は頷く。

歩いていくと、時々チカチカした不定形の悪魔とすれ違った。サナによると、精霊という、世界の構成要素の最底辺だという。自我もなく、やがて様々な悪魔に変わっていくのだそうだ。

殆ど段差もなく、壁に変化もない。歩いていて、方向感覚を失いそうになる。何度か休んで、分岐に出る。流れが弱い方向へ歩き出す。そのうち、みんな無言になってきた。

長い通路を歩いていくと、ほどなく分岐に出た。典型的な三叉路だが、問題は四方八方からマガツヒが其処へ流れ込んでいることだ。かなり流れが対流していて、大量のマガツヒが吹き溜まっている。わっと声を上げたサナが、辺りのマガツヒを片っ端から掴んで口に入れているが、秀一はそんな気にはなれなかった。

「急いで、此処を離れる」

「え? どうして?」

「分からないか。 此処は多分、強力な悪魔の餌場だ」

さっき見かけた精霊は、マガツヒを見かけては口に入れていた。こんな所であれば、精霊が集まってこない訳がない。

「いや、もう遅かったようじゃの」

「囲まれたか」

さっと背中を合わせて、それぞれ死角を消す。辺りの通路に、無数の殺気が浮かび上がった。20。50。100。闇の中に、淡く輝く目の光がどんどん増える。床から天井まで全く隙のない包囲陣を敷いて、此方の様子を伺っている。

「まいったな。 凄い数だよ!」

「いや、違うの。 これは恐らく、全部で一匹じゃ」

通路から、這いだしてくる。緑色の、アメーバーのような悪魔。呻き声を上げながら、宙に漂っている。それに続いて、二匹、三匹、次々広間に入ってきた。全てが、同じ姿をしている。

なるほど、意味が分かった。此奴がそのスペクターだ。そして、この数を生かして、怒濤のような襲撃を行い、都市を壊滅に追い込んだのだろう。全てが一匹となると、非常に高いシンクロを保って、連携行動を取れるのだろうか。そうなると、恐ろしい実力を発揮するのも頷ける。

軍が守備しているような都市を壊滅させる相手である。まともに戦っても、勝てるとは思えない。一匹はそれぞれ大した相手ではないようだが、まとめて襲いかかられると対処は難しい。瞬く間に包み込まれてしまうだろう。

ふと、上を見る。光が差し込んでいた。ひょっとすると、あそこから脱出できるかも知れない。だが、その瞬間を襲われると、ひとたまりもない。腰を落として構えを取りながら、秀一は後ろの二人に語りかける。

「全力での術をぶっ放す。 直後に、真上に跳ぶ。 天井に、穴があるから、其処から抜けられるかも知れない」

「どうやら、他に対処は無さそうじゃの」

「やだなあ。 逃げるのは趣味じゃないんだけどなあ」

「当てる必要はない。 一瞬だけ、視界を塞げばいい。 それに、いつか充分な実力が付いてから、屠ってやればいい」

秀一とフォルネウスが、大きく息を吸い込む。ため息一つ付くと、サナも詠唱を終える。スペクター達が飛び掛かってくる瞬間。一斉に動く。最大火力での炎の息を吐きかける秀一。冷気のブレスを、彼らの目前に打ち込むフォルネウス。いかづちの束を、彼らの至近に叩きつけるサナ。

同時に、跳躍。これほどの高さに、一跳びで到達できるとは思わなかった。天井に拳を突っ込むと、穴に自分の体を押し込む。少し狭いので、力づくで拡げた。少し遅れていたサナに手を伸ばして、引っ張り上げる。小さな手を掴むと、全部包んでしまうかのようだ。

「ひあっ!」

「大丈夫か!?」

「やだ、靴噛まれたー!」

辺りは真っ暗である。静天らしい。周囲は見慣れた砂漠。遠くに、明かりが見える。穴から、追いかけてきたスペクターが出てくるが、全力での拳を叩き込んで吹き飛ばす。こうなると、今度は此方が有利だ。数がどれだけいようと、穴からは一匹ずつしか出てこられないのである。

三方向から穴を囲んで、出てくるスペクターに、交互に拳を叩き込み、冷気の杭を打ち込み、雷撃を放った。かなり固いが、集中攻撃を浴びせれば手強い相手ではない。その上、屠った奴はマガツヒに変じているから、そのまま補給も出来る。恐れる様子もなく出てくるスペクターだったが、十を超えた頃、ぴたりと止まった。代わりに、穴の中から、呪詛が響いてくる。戦略的に、極めて不利だと判断したらしい。頭も悪くないようだと、秀一は思った。

「オノ、れ! キサまラ、ゼッたいニユルシはしなイぞ! チのソコまデモオイツメ、カナラズやクイころしテくれる!」

秀一は、近くにあったコンクリの塊を持ち上げると、穴を塞いだ。フォルネウスがそれを念入りに冷却して、固めていく。術を発動し終えると、ぜいぜいとフォルネウスが息をしていた。相当に強い魔力を籠めたらしい。試みに、拳で数度叩いてみたが、もの凄い強度だ。病院を丸ごと凍結しただけのことはある。

これで、しばらくは、この穴から出てくることは出来ないはずだ。

悪魔が残したマガツヒを吸い込む。これで、今消耗した力くらいは回復できるはずだ。だが、しかし。口に入れた途端、秀一は吐き気を感じた。

なんだこれは。

今まで食べたこともないタイプのものだ。アマラ経路を漂っていた奴とは違う。悪魔が死んだ時、マガツヒに変わったものとも異なる。味が悪いのではない。毒になるのでもない。これを食べてはいけないと、体の方が警告してくる。

何か、一線を越えてはならないがために。

「あんまし美味しくないなあ」

サナは気付いていないらしい。無心に頬張っているフォルネウスも同じだろう。秀一だけか。このマガツヒが、一体どんなものなのか、理解しているのは。

そう、これは多分。

ふと、脳裏に、鞄を持って駅を彷徨く青年の姿が浮かんだ。

間違いない。

また、確かめなければならないことが増えた。秀一は吐き気を殺すのに苦労しながら、遠くに見える明かりを見やる。

特徴が、以前聞いたものと似ている。

どうやら、あれがイケブクロらしかった。

 

1,現実と事実とマントラ軍

 

決戦に備えて、マントラ軍は俄に活気づいていた。

各地の部隊は、熱心な調練を繰り返していた。今まで不遇をかこっていた者達は、俄然やる気を出し、修練に精を出す。また、前払いとして、戦闘要員には今までになく豊富なマガツヒが配られた。マガツヒは、すなわち力の根源である。赤い光が、湯水のように消費されていく。

それに伴い、ストックされているマネカタ達も、激しい拷問に晒されていた。そのまま命を落とす者も珍しくなく、連日泥に変わるマネカタが絶えなかった。殺気だって、吠えながらイケブクロの街を走り回る兵士も珍しくない。ある程度までなら、暴力沙汰も不問にされていた。戦いの熱気を消してはいけないという、ゴズテンノウの判断からだ。トールは、無心に自室からそれらの様子を眺める。

これから決戦だ。実に血が騒ぐ。

一時金として、トールの元にも多くの財宝が供与されている。不満を蓄えていた航空戦力も、これで充分満足させることが出来た。光り物が大好きなマッハや鵬も、不満を無くして、熱心に航空戦闘の訓練にいそしんでいる。航空主戦力であるバイブ・カハ達も、対堕天使用の戦闘訓練を積み上げ、マントラ軍の一員として恥ずかしくない動きが出来るようになってきていた。後は切り札である龍族だが、彼らも戦いに前向きになり始めていると、毘沙門天から聞いた。

トール自身も、毎日調練場に顔を出しては、兵士達の戦闘訓練を確認している。戦いの熱気に当てられたか、トールに挑んでくる者もいるので、嬉々として挑戦は受けた。新参者が多いが、中には古参の部下もいる。誰が挑んできても、トールは挑戦を回避しなかった。

休憩は充分だ。ビルを出て、調練場に向かう。隊伍を組んでランニングをしていた鬼神達が、隣を走り過ぎながら礼をしていく。片手を上げてそれに応えると、マントラ軍本営を右手に、町外れに向けて歩く。雑然とした力の街は、更に混沌の度合いを増している。

元々このマントラ軍は、強い悪魔のためにある組織だ。強いことに相応しい待遇を求めて、集まってきた悪魔が多い。だからか。戦いの前には、弱者は更に立場が悪くなる傾向があった。トールの前で、働いていたマネカタが、数体の鬼神によってなぶり者にされていた。激しい暴力が加えられ、瞬く間に泥になってしまう。飛び散ったマガツヒを貪り喰らう鬼神達は、トールを見て慌てて道を空けた。

「トール様ー!」

後ろから、リコが手を振りながら走ってきた。笑顔は浮かべていない。何か、注進に来たのだろう。ニヒロ機構が先制攻撃でも仕掛けてきたのなら、面白いのだが。

「どうした」

「はい。 警備の鬼神達が、面白い奴らを捕まえました。 今、本部の地下牢に連行してるッス。 それと」

「それと、何だ」

「人間が、本部に来てます。 どう対応したものか、悪魔達が困惑しているようッス」

これから、熱気を覚ますためにも、訓練をしようと思っていたのだが。リコが面白そうだというのなら、結構有望な連中なのだろう。更に、人間が来たのは大きい。確保しなければならない。そして、人間を確保できる悪魔は極めて限られている。

大股で、本部に歩く。腰から、ミヨニヨルを外した。

トールの性質を考えても、人間には簡単に手を出せない。だから、この必殺のハンマーを用いる。本部のビルが近付いてきた。同時に、声が聞こえてくる。高圧的に、ゴズテンノウに会わせろとかほざいている。何という恥知らず。そして世間知らず。十中八九、その人間だろう。

「トール様、どうするんスか?」

「捕縛する」

入り口では、警備の鬼神達が、トールを見て敬礼した。その足下。腰にも届かないような背丈の人間が、振り返った。

非実用的な服にごてごてと身を固めた、軟弱そうな男だ。顔の造作はそれなりに整っているようだが、だから何だ。青年が生唾を飲み込むのが、トールには見えた。リコはごてごて飾った男には興味がないらしく、腰に右手を当てて、成り行きを傍観していた。

「あ、あんた、マントラ軍のお偉いさんか!?」

「そうだ」

「だ、だったら! 話を聞かせてくれ! 情報が欲しいんだ!」

青年は、悪魔を明らかに侮っている。ひょっとすると、手を出せないことを知っているのかも知れない。苦笑すると、ハンマーを振り上げる。驚愕に青ざめる青年に、トールは静かに言う。

「力なき者、意思煩雑なる者よ。 貴様には、分不相応の言葉を吐く資格無し」

そして、反論を待たずして、ハンマーを振り下ろした。

吹っ飛んだ青年が、壁に叩きつけられる。もちろん、その場では人間を殺せない。本来は手も出せない。特殊な事情のあるトールだから、半殺し程度に手加減すれば、こういう事も出来ると言うだけだ。もちろん、これを何回か繰り返せば、殺すことも出来る。ただ、その場合は、トール自身も無事には済まないが。

地面で痙攣している青年は、身動きできる様子にない。食ってかかる人間に辟易していたらしい鬼神達が、口々に驚愕した。

「に、人間に、手を出したっ!?」

「さすがは、トール様です!」

「追従はいい。 地下牢に放り込んでおけ。 逃げられないように、きちんと見張っておけよ」

「勇!」

不意に、後ろから聞こえ来る声。振り返ると、鬼神数人に囲まれた、悪魔がいた。人間に極めて似ているが、全身に淡く発光するタトゥーを入れている。首の後ろには突起があり、目には強い意志の光があった。かなり魔力が強そうなピクシーと、浮遊しているエイの悪魔を連れていた。二体とも、それなりに力のある悪魔だと、トールは見た。並の鬼神では、歯が立たないだろう。良くおとなしく掴まったものだ。

「貴様は?」

「俺はいい。 勇を、どうするつもりだ」

「自分よりも、知っている者の心配をするか」

悪魔を護送してきた鬼神に目を向ける。一礼すると、鬼神は説明した。トールも知っている、実直な男だ。

「イケブクロの郊外を、歩いていました。 今は何処にニヒロ機構のスパイが紛れ込んでいるか分かりませんので、連れてきました。 抵抗はしませんでしたから、拘束はしていません」

「そうか。 貴様、何をしにマントラ軍に来た」

「ニヒロ機構とボルテクス界を二分するというマントラ軍を見に来ただけだ。 戦う気はない」

堂々とものを言う男だ。今のクジャクのように実利のない服を着込んでいた青年とは違う。面白そうだと、トールは思った。

「後で、腕試しをさせて貰う。 それを乗り越えれば、尋問した後だが、ちゃんと解放してやろう」

「……力ある者が、マントラ軍では正義だからか?」

「その通りだ」

同じように、牢へ連れて行くようにトールは命じた。リコは青年に興味津々のようで、ずっと連れて行かれる後ろ姿を見送っていた。

どうやら戦いの前に、更に面白そうな余興が出来たらしい。トールは天に向けて一つ吠える。なかなかに楽しい時が来そうであった。

 

秀一が通されたのは、イケブクロ中央にある巨大な建物の地下であった。

武骨な建物である。ニヒロ機構の建物と同じように石造りなのだが、必要な分しか加工されておらず、ビルやなにかの残骸も、露骨に建材として使っている節が伺えた。その代わり、途轍もなく頑丈である。見たところ、術による強化は何重にも施され、秀一がフルパワーで殴ってもちょっとだけしか傷が付きそうにない。スペクターのマガツヒを喰らった影響か、体の中で馴染んできている新しい能力を使っても、多分無駄だろう。乱雑ではあるが、その代わりに極めて実用的な建物だ。

地下は牢が並んでいて、悲鳴が聞こえてきている。鬼神に促されて、歩く。牢の中には、多くのマネカタが入れられていて、悪魔から拷問を受け続けていた。鞭を振るわれたり、石を抱かされたり。逆さにつるされて、棒で叩かれている者もいた。哀れな悲鳴はとぎれることもなく、秀一は眉をひそめた。

「これは、何をしているんだ」

「マガツヒを搾り取っている。 そもそもマネカタは、そのために我らが作り出した存在だ」

酷い話だと、秀一は思った。しかし、前後にいる戦力を考えると、抵抗しても彼らを救い出すのは難しい。それに、この延々と広がっている牢の規模から言って、捕らえられているマネカタは数万にも達するだろう。秀一一人が如何に暴れたところで、どうにもならないのは目に見えている。警備も極めて厳重で、何か騒ぎがあれば、瞬く間に雲霞のような数の悪魔が駆けつけてくるだろう。

考える暇も与えられず、更に奥へ。前を歩いている鬼神の話によると、秀一は懲罰牢ではなく、尋問用の部屋に通されるのだという。軽く尋問を受けた後、力を見るためにコロシアムにて戦うのだそうだ。

予備知識はあった。マントラ軍は力によって立つ組織であり、ニヒロ機構に比べて猥雑ではあるが、活力に満ちていると。しかし、此処まで徹底しているとは思っていなかった。やはり見に来て正解である。真実は、直接触れてみないと分からない。

三人が通された部屋は、奥行き十メートル、天井五メートルほどの真四角な部屋だった。中央には大きなテーブルがあり、ランプが置かれている。秀一の頭ほどもある大きなランプで、中では豪快に炎が燃えさかっている。ドアは秀一が入ってきたものの他に、奥に一つ。鬼神達は出て行ったので、ちょこんとサナが用意されている丸椅子に座った。

「あーもう。 逃げようと思えば、逃げられたのに」

「いいんだ。 マントラ軍のやり方を、しっかり見ておきたい」

「秀一ちゃんは真面目じゃのう」

「こんな世界だからこそ、真面目に生きようとしなければならない気がするんだ」

大きな声で主張はしない。だが、秀一はその考えを変える気はない。

粗末な衣服を着込んだマネカタが、茶を三人分運んできた。卑屈な笑顔を浮かべていて、露骨な媚びが行動に表れていた。カズコとはえらい違いだ。本来マネカタは他力本願な者が殆どで、カズコのように強い意志を持つ者はまずいないと聞いてはいたが、それを思い知らされるようである。

湯飲みは武骨なプラスチック製。口に入れてみると、恐ろしく濃い。茶の香りよりも、まず苦みが先に来る。奥の戸が開いて、身長四メートルほどもある鬼神が部屋に入ってきたのは、三人がお茶を飲み干した時であった。

「まず、軽く尋問させてもらうぞ」

「分かった」

こうなったら、もうじたばたしても始まらない。毘沙門天と名乗った鬼神は、トールに比べると随分紳士的な雰囲気で、質問も論理的だった。名前と種族。イケブクロに来た目的。それに戦歴など。

サナとフォルネウスも、順番に話を聞かれていく。フォルネウスは堕天使と素直に名乗ったのだが、そうすると毘沙門天は眉をひそめた。恐らくは、ニヒロ機構に堕天使の殆どが所属しているからだろう。

「なるほど、大体は分かった。 後は力試しを受けて貰って、それで解放となる」

「それで、俺の前に捕らえられた人間は、どうなった」

「人間? ああ、トール殿が捕らえたというあの青年か。 案ずるな。 殺してはいないし、今後もその気はない」

「出来れば、解放してやって欲しい。 勇は人畜無害な奴で、貴方たちに敵対するような存在ではない」

毘沙門天は応えず、尋問用の調書に何か書いていた。

しばらくはまた待たされる。サナは足をぶらぶらさせて、時々口笛を吹いていた。フォルネウスはランプに興味津々で、その周りを旋回しては、時々楽しそうに声を上げていた。秀一はそんな気になれず、ぼんやりと天井を見ていた。壁や床と同じく。雑な作りで、鉄骨がはみ出している。

次に現れたのは、秀一と同年代か少し年下くらいに思える、女の悪魔だった。ダメージのあるジーンズを穿いた、野性的かつ健康的な雰囲気の女の子だ。体には贅肉の欠片もない。口には八重歯が見える。悪魔だから、或いは犬歯かも知れない。腰には、二振りの剣をぶら下げている。

「お待たせしましたッス。 あたしはヤクシニーのリコ。 貴方は?」

「俺は、榊秀一。 種族は、恐らく人修羅だ」

「聞いたことのない種族ッスね。 そちらの二人は?」

めいめい名乗るサナとフォルネウス。快活で、感じの良い女悪魔だ。サナも普通に接している。ただ、何か妙な違和感がある。何処かで会ったことのあるような、無いような。よく分からないが、ひょっとすると。秀一が立てたあの仮説に、合致する事なのかも知れない。

「じゃ、これからコロシアムに行くッスよ。 一生懸命戦わないと、死ぬかも知れないから、気をつけて欲しいッス」

「分かった。 戦って、相手を殺せばいいのか?」

「いや、三分から五分、攻撃に耐え抜けば終わりッスよ。 今日はあたしか、ケルベロスの奴が相手をさせて貰うッス。 時間については、審判をしている持国天様の判断次第スね」

秀一が思ったよりも平和的だ。荒々しい所だが、それでもある程度の線は譲れないところなのかも知れない。もしもいちいち殺していたら、有能な人材が片っ端から死んでしまう。その辺りは、きちんと考えているという訳だ。

案内されて、コロシアムへ。前からは、歓声が聞こえてきていた。並んで歩くリコは、ちらちら視線を送ってきた。

「何か?」

「あ、何でも無いッス。 何処かで会ったような気がするんスけど」

「奇遇だな。 でも、多分気のせいだろう」

むっとサナが眉根を寄せたので、秀一は困った。女の子は気紛れだと聞いてはいるが、こうも頻繁だと肩が凝る。

長い通路を抜けると、コロシアムに出た。以前見たことがある、ローマ時代のものにそっくりだ。周囲の観客席には、多くの悪魔が集っている。皆欲望に目を輝かせ、ぎらぎらしていた。観客席の一番上には、大きな銅鑼が置かれていて、とても太った悪魔が側に着いていた。

コロシアムの中央には、巨大な狼に似た悪魔が、四肢で地を踏みしめ立ちつくしている。全身は白銀色の毛に覆われ、首には立派な鬣がある。一瞬獅子かと思ったが、よく見れば狼の特徴を備えていた。また、さっきまで戦っていたらしく、口は血に濡れている。多分、返り血だろう。

「次の相手は、そいつか、ヤクシニー」

「そうッスよ、ワン公。 持国天様、さっさと初めても良いッスか!?」

リコが言った先には、なにやら大型の管楽器らしきものを持った、さっきの毘沙門天と殆ど同じ背丈の鬼神がいた。野球の選手控え室のような、観客席下の審判席にて、だらしなく座っている。雰囲気は態度と同じく、かなり軟らかい。彼の周囲には、下半身が山羊で、それぞれ楽器を持った悪魔達が、多数侍っていた。

「そう急かない。 今日はトール様が来るって話だから、もう少し待って」

「トール様が!?」

リコの声に歓喜が籠もるのを、秀一は聞き逃さなかった。トールのことが好きなのかも知れない。

さっき、ほんの少しだけすれ違ったあの巨神が、恐らくトールだろう。とんでもない威圧感だった。秀一が今まで出会ったどの悪魔よりも、桁違いの実力者だと一目で分かった。そして、こういう世界である。強い異性に惹かれるのも、無理はない。戦国時代などの混乱期には、自然と強い男性がもてる傾向にあると、秀一は何かの本で読んだことがある。

サナとフォルネウスは、観客席に案内されていた。秀一が負けたら、彼らは何をされるか分からない。気合いが、自然に入る。

やがて、銅鑼が叩き鳴らされた。

観客席に、姿を見せるあの巨神。半裸で、背丈は四メートルほどもある。腰にはハンマーをぶら下げ、如何にも頑丈そうなベルトを巻いている。そして、顔は兜に隠れて、殆ど見えない。

冷酷さはあまり感じない。ただ、あまりにも行く道が厳しすぎて、誰も着いてこられそうにない人だなと、秀一は思った。トールはしばし無数の視線を浴びながら立ちつくしていたが、不意に審判席の持国天に声を掛けた。

「持国天」

「はーい。 トール様?」

「今日は俺が審判をする」

にやにやとしていた持国天が、一気に表情を曇らせた。そのまま、無言で席を譲る。軽そうな持国天の様子から言って、トールが如何に巨大な権力を手中にしているか、よく分かる。コロシアムに飛び降りてきたトールは、代わりに悠々と座った。居心地が悪そうにしている山羊の悪魔達に、なにやら持国天が慰めの言葉を掛けていた。

「リコ!」

「はい!」

「今日は修練の成果を見せて貰うぞ。 全力で、その青年と戦え。 制限時間は十分」

どよめきが上がる。普段は五分程度だと聞いているのだが、今日はその倍という訳だ。何を期待しているのか分からないが、秀一はあのトールに見込まれたと言うことになる。そして、今の口調から言って、リコはトールの愛弟子という訳だ。ひょっとすると、好きであるのも、恋愛感情ではなく敬愛なのかも知れない。

周囲からは凄まじい好奇の視線と野次を感じる。秀一は眉をひそめるが、選択肢は最初から無いらしい。腰の二刀を抜くリコに、秀一はためらいながらも声を掛けた。

「いいのか? まるで見せ物だ」

「此処マントラ軍では、戦わない奴に存在意義は無いんスよ。 そして、この土地にいる以上、マントラ軍の流儀には従って貰うッス。 無様な戦いをしなければ、惜しみない賞賛が為されるから、心配は無用ッスよ」

確かに、郷に入れば郷に従えと言う。秀一も、マントラ軍の流儀を確かめるために、この土地に来たはずだ。

構えを取る。頷くと、リコは軽く左右にステップしながら、間合いを取り始めた。トールが銅鑼の側にいる悪魔に向けて、親指を下に出して合図した。

再び、銅鑼が打ち鳴らされる。

リコが、人間離れした跳躍力を見せ、躍り掛かってきた。

 

殆ど一瞬にして、剽悍な戦士としての本性を現したリコに、秀一は横っ飛びに退くことで対処した。振り下ろされた剣が、地面に亀裂を穿つ。土埃が舞い上がり、地面が砕ける音が耳に鋭く飛び込んできた。

着地すると、恐るべき身のこなしで、リコは秀一に追いついて来た。右手の剣を横から、左手の剣を上から振り下ろしてくる。速い。間一髪飛び退くが、秀一の体に、浅く傷が付く。鮮血が噴き出した。

「逃げてばかりじゃ、埒が明かないッスよ」

「分かっている」

再び構えを取り直す。殆ど、見よう見まねで覚えたものだ。マガツヒで得た様々な知識に、幾つかの戦闘で得た教訓を加えたものである。無形に近いが、拳は少し強めに握り込んでいる。

じりじりと間合いを計っていたリコは、短い叫びを一つあげると、躍り掛かってきた。叫ぶことにより、全身の筋肉の、殆どの力を引き出す。スポーツマンなどでは、自然に習得している技だと聞く。

右手の剣を、突き込んでくる。軽く横に避けながら、剣の背を押さえ込む。同時に、左の視界が暗くなった。ガード。間に合わない。痛烈にはじき飛ばされ、壁に叩きつけられる。

見た。刀はあくまで囮だ。秀一が対応した瞬間、ブレイクダンスでもするかのような動きで、後ろ回し蹴りをアクロバティックに側頭部へ叩き込んできた。しかも、秀一が吹っ飛ぶほどの破壊力で、下手をすれば首が飛んでいた。派手な剣戟で目を引いて、本命の体術でとどめを刺すという訳だ。しかも、刀も充分な殺傷力を持っているから、そちらへの注意を割く訳にも行かない。

厄介な戦闘スタイルである。埃を払って立ち上がる秀一は、首の骨をごきりと鳴らした。リコは驚く様子もない。

「頑丈ッスねえ」

「それだけが、取り柄だ」

兎に角、あの体術を止めなければ、勝機はない。やるとすれば、不意を突いての渾身の一撃しかないだろう。それには、火炎の息では効率が悪い。一か八かだが、もう一つの技を使ってみるしかない。

口の中で、詠唱を開始する。リコは耳ざとくそれに気付き、残像を残して膝蹴りを叩き込んできた。横っ飛びに逃れるが、秀一の背中の壁が、大きくへこみ、ひび割れた。振り返り様に、右手の刀を繰り出してくる。右手で弾きながら、下がる。左の剣を、間髪入れずに繰り出してくる。此処だ。不意に前に出ると、頭突きを叩き込んだ。

激突音。ぐらりと、リコの体が揺らいだ。更に、膝蹴りを容赦なく腹に叩き込む。だが、流石に体術の大家である。とっさに僅かに重心をずらし、クリーンヒットを見事に防いで見せた。二人の距離が、ほんの僅かに、離れ掛ける。それが、異様にゆっくり見えた。

此処だ。此処で、勝負を付ける。

両手の剣を、リコが振りかぶりかける。其処へ、秀一は、炎の息を吹き付けた。火力は、以前よりも遙かに上がっている。だが、これは囮だ。至近距離からの一撃にもかかわらず、リコは瞬間的に反応。高々と跳躍して、火線から逃れる。

だが、それが秀一の狙っていた展開であった。

詠唱完了。手に、光の剣を生じさせる。この剣は、接近戦をするためのものではない。大きく振り上げて、一瞬の溜めを作る。そして、踏み込み様に、リコへ向けて、叫びと共に放った。

ヒートウェイブと、サナが名付けた技だ。

光の剣が作り出した衝撃波が、リコを襲う。空中で逃れる術もない。ガードしても何の意味もない。

光の中に、リコが消える。爆発が、巻き起こった。

 

リコはゆっくりと着地した。そう、ゆっくりと着地したのである。その体を、強い風の流れが覆っていることを、秀一は見た。これが、リコの切り札か。流石にあの状況から、地面に叩きつければ、身動きできなくなると思ったのだが。

全身傷だらけのリコは、破けた上着を見て、残念そうにため息をついた。髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回す。秀一に向けて歩み寄りながら、言う。肌の彼方此方は破けていて、鮮血が流れ落ちていた。地面に落ちる前に、血はマガツヒに変わってしまう。健康的な肌だけに、鮮血で汚れると痛々しい。

「なかなか、やってくれるッスね」

「今ので、倒せると思ったんだが」

まだ、少し時間が残っている。秀一もまだ余力がある。だが、リコは更に力を残しているだろう。

多分リコは、ヒートウェイブの一撃も、あの風のバリアで緩和した筈だ。結局の所、タイミングが悪かったと言うことになる。まだまだ、くぐった修羅場が足りないという訳だ。構えを取り直す。リコは剣を構え直すと、さっきよりも更に鋭い踏み込みと共に、斬り込んできた。

此方も目が慣れては来た。だが、それ以上に、相手が速い。

完全にリコが本気になったことに、秀一は気付いた。

袈裟の一撃を、軽く身を引いて避ける。鋭く胸に走る傷。体を一回転させて、横殴りの一撃。手刀を振り下ろし、刀身を押さえ込む。同時に、身を低くして懐に飛び込んできたリコが、低い弾道から前蹴りを叩き込んできた。インパクトの瞬間を狙って、火炎の息を浴びせる。

秀一の炎がもろにはいる。同時に、腹に痛烈な蹴りを食らって、吹っ飛ばされた。

地面に叩きつけられ、数度バウンドする。体の炎が消えてもいないのに、躍り掛かってきたリコが、剣を突き立ててくる。恐るべき闘志だ。いつの間にか、周囲の歓声が聞こえなくなってきていた。横っ飛びに逃れながら、再びヒートウェイブの詠唱を開始。態勢が整えきれない秀一に、リコは容赦なく蹴りを叩き込んでくる。ガード。その上から、衝撃が痛烈に来る。左腕が折れた。はじき飛ばされて、また背中から壁に叩きつけられた。背骨が軋む。顔を上げる。リコが蹴りを今まさに叩き込む所だった。

「らあっ!」

間一髪、必死に横に逃れる。一瞬前まで頭のあった地点が、盛大に砕かれ、壁の一部が崩落した。観客が悲鳴を上げる。とんでもない破壊力だ。

振り向くリコ。まだ、ヒートウェイブは撃てない。代わりに、もう一撃炎を浴びせかける。だが、それを無理矢理突破すると、飛び込みざまの蹴りをまた叩き込んできた。かわしきれない。また、地面に叩きつけられる。凄まじい。この短時間で、もうヒートウェイブの発動に必要な時間を分析したのか。

焦げた上着の一部を、リコが千切り捨てる。健康的な肌が露出するが、火傷が酷い。上着は乳房をかろうじて隠しているだけ。実に艶っぽい光景の筈なのに、戦慄しか覚えないのは何故だ。これだけ火炎を浴びせても、有効打になっていないからか。

リコは舌打ちすると、飛び退く。詠唱しているのが見えた。ヒートウェイブを警戒し、風の力で勝負を付けようと言うのだろう。

読みは、外れた。

印を組み終えたリコが、地面に手を突く。

最初に地割れが走り、続けて無数のつぶてが飛んできた。小石が秀一の体を、驟雨のように打つ。目を閉じ、リコの位置を掴むことだけに集中。右手に溜めた力が、極限まで高まった。

「らあああああああっ!」

殺気が、恐ろしい勢いで迫ってくる。目を開ける。土埃しか見えない。それなのに、無表情のリコが、絶叫しながら突っ込んでくる様子が分かる。そのままだ。そのまま。壁を背中にしたまま、待つ。土埃が、乱れる。リコが至近で剣を振り降ろすのが、見えた。

右肩と、左の首筋に、剣が突き刺さる。すっと手を伸ばして、リコに向ける。分かっている。これはあくまでフェイクだと。だから、恐らくこれを避けたところで、本命の蹴りを叩き込んでくるつもりであったのだと。

だから、踏み込みが足らなかった。さっきは読み違えたが、しかし今度は勝った。青ざめたリコに向けて、僅かに口の端をつり上げる。

そして、ヒートウェイブを、全力で打ち込んだ。

 

トールは大いに満足していた。十分が経過し、試合終了を告げると、銅鑼が鳴らされる。観客席からは、声も上がらなかった。

数十メートルを飛んで、観客席下の壁に叩きつけられたリコは、穿たれたクレーターを背に地面までずり落ちていた。あの大威力攻撃をもろに喰らったのだから無理もない。トールが見たところ生きているが、完全に負けだ。意識も手放している。早く手当てしてやらないと危ないだろう。

使い捨てにするには、リコは惜しい。

「リコを医務室に運んでやれ」

「は!」

スタッフの鬼神達が、ぱたぱたと走り始める。すぐに担架が運ばれてきて、リコが連れて行かれる。首と肩に突き刺さっていた剣を引き抜いた悪魔の青年は、じっとトールを見た。殆ど余力もないだろうに、気丈な奴である。鮮血は間もなく止まる。自分の血から漂い出たマガツヒを掴むと、青年は無造作に口に入れる。驚くべきタフな行動である。

片足を引きずりながら、近付いてくる。腕も一本折れているのに、大した精神力だ。見ると、細かい傷は、見る間にふさがりつつある。トールは闘技場に出ると、勇者を自らねぎらう。そうするだけの価値がある男であった。

「見事な戦いであった」

「あまり嬉しくない。 あの子に、怪我をさせてしまった」

「マントラ軍では力が全てだ。 戦いに敗れて怪我をするのも、負傷するのも、本人の責任だからな。 貴様が気にすることではない」

イケブクロを自由に歩き回って良いと言うと、青年はじっと此方を見た。まだ言いたいことがあるらしい。

「何だ、言ってみよ」

「勇を、解放してやってくれないか。 軽薄かも知れないが、無害で善良な奴だ。 貴方たちの敵にはならないと思う」

「それは、貴様が提案できることではない。 もしもそういう無理を通したいのであれば、マントラ軍に入って軍功を立てるのだな」

もっとも、トールはこの青年が、マントラ軍に入る気は無いことを見抜いていた。というよりも、ニヒロ機構に対しても同じだろう。まだ精神的な目標は決まっていないようだが、しかし強い芯を感じる。

サルタヒコが駆け寄ってくる。寡黙な部下は、青年の悪魔を一瞥すると、腰をかがめたトールに耳打ちしてくる。

「ゴズテンノウ様が、今の試合をごらんになっていました。 是非、青年を呼ぶようにと言うことです」

「無理もない話だ。 俺も楽しめるほどの、良い試合だったからな」

「何の話だ」

「我らが長が、貴様に会いたいそうだ。 失礼がないようにな」

手を叩いて、すぐに回復術を持つ悪魔を呼ぶ。青年の仲間達も含めて、別室に案内させる。青年は逆らうこともなく、鬼神に連れられてコロシアムを出て行った。すぐに修復作業が始まる。邪魔になっては悪いから、トールは自宅へ戻ることにした。

自室で含み笑い。ニヒロ機構との決戦が始まるまで、トールが退屈することは無さそうである。

ゴズテンノウは、青年に何を言うのだろうか。それには、少しだけ興味があった。

 

2,わずかな力

 

折れた腕は、もうすっかり元通りである。流石に巨大な組織だけのことはある。優れた術の使い手が、幾らでも集っている。何度か手を動かしてみて、支障が無いことを確認。謁見室から出た秀一は、サナとフォルネウスが待っているのを認めて、歩み寄る。

「シューイチ、大丈夫だった?」

「どういう意味だ」

「何、秀一ちゃんのことじゃ。 仕官の声を、蹴ったんじゃないかって、サナ嬢ちゃんと話しておっての」

「蹴った。 だが、笑って許してくれた。 イケブクロも、見て回って構わないのだそうだ」

二人が顔を見合わせる。この反応は、予想通りだった。

マントラ軍の首領、ゴズテンノウ。トールよりも更に雄大な体躯を持つ、牛頭の悪魔であった。全身は逞しい筋肉の塊で、実力はトールと同等か、それ以上に思えた。身につけているのは腰巻きだけであった。理由は簡単。己の雄偉なる肉体を惜しげもなく周囲に見せつけ、圧倒的な実力を自負し、それによってマントラ軍の首領になっていることを、周囲に理解される工夫をしていたのだ。力だけではなく、相当に頭も良いことが、このことだけでも分かる。

それ以上に、秀一が驚いたことがある。仕官を断った秀一を笑って許すほどの大器。そればかりか、素晴らしい戦いを見せてくれた褒美だと言って、大量のマガツヒまでもくれた。この辺り、秀一が東京で会ったことのない人種だ。任侠という言葉が生きていた時代のヤクザになら、そう言う人物がいたのかも知れない。しかしながら、秀一が生きていた時代の日本では、もはや絶滅してしまった存在でもあるだろう。かろうじて残滓は、ショーとなってしまったプロレスなどの中には虚構として見られるのだが。

褒美か。秀一はつぶやくと、手にしている小さな瓶をもう一度見た。中には、圧縮されたマガツヒが一杯に詰まっている。蓋を開けると、漂い出る。いつの間にか、これが魅力的な食べ物に見え始めている自分がいる事に、秀一は気付いた。

世界に適応し始めたのか。それとも。悪魔として、生きるのに慣れ始めているのか。

「食べるか?」

「いや、いいよ」

「儂らは、何も手助けできんかったからの。 秀一ちゃんが、全部食べるとええ」

「分かった。 なら、遠慮無く貰う」

瓶を傾けて、マガツヒを一気に流し込む。癖のない味で、殆ど刺激がない。また、力がみなぎってくるのを感じる。仕組みとしては、とても便利である。ただ、味気ない。それに、一度秩序が喪失すると。地獄が顕現するのは目に見えている。

何しろ、悪魔の体はマガツヒから出来ているのだ。喰らいあう事で、幾らでも強くなることが出来る。それを考えれば、これだけの大型組織が成立していることさえ、奇跡に等しいのかも知れなかった。

「それで、これからどうするつもりじゃの」

「勇を助ける」

「難しいよ。 地下牢の警備、半端じゃないもん」

「そうじゃない。 ゴズテンノウの話によると、マントラ軍に所属しなくても、役に立つことをしてくれれば、功績に応じた褒美をくれるそうだ。 積極的にマントラ軍を手伝うつもりはないが、勇を助ける方法がないか、考えてみたい」

マントラ軍に対しては、あまり良い印象がない。来る途中に見た、マネカタ達に対する虐待。強い者は何をしても良く、弱い場合は報われることはない。社会というルールの中で、弱者を守る仕組みを善として生きてきたから反発を感じるのだろうか。それは正直よく分からない。だが、マントラ軍に良い印象を受けないのも、また事実だ。

ニヒロ機構の超法治的政策も見ていて不安を覚えたが、此方もそれに近い。何というか、あまりにも極端すぎる気がしてならないのだ。だが、現実として、一大勢力としてのマントラ軍が存在している。それを考えると、脊髄反射でこの組織のことを否定するのは、間違っている。

一度、地下へ入った。さっきとは別方向の、重要地下牢へ。牢番に注意を促されたが、それも無理がない。明らかに上級の悪魔かと思われる奴が、何体か牢の中でじっと此方を伺っていたのだ。気配が尋常ではない。腕を切り落とされている者や、足の腱を切られている者もいた。だが、それでも、出来れば牢番達は近寄りたくないようだった。無理もない話である。秀一も、出来るだけ早く、此処から出たいくらいだ。

そんな中、場違いなほどに気配が小さい牢があった。前に立つ。やはり、勇だった。牢の壁に背中を預けて、ぶつぶつと呟き続けている。

「勇」

「え? あ? しゅ、秀一、か!?」

「ああ、そうだ。 どうしてこんな危険なことをしたんだ」

鉄格子に、勇は飛びついてきた。顔の左半分は、大きな痣が出来ていた。これくらいで済んだのだから、むしろ幸運かも知れない。何しろ、あのトールに殴られたのだ。

「何なんだよ、あのでかい奴! 悪魔は、人間に手を出せないんじゃなかったのかよ!?」

「……悪いが、こういう世界で、そんな風に考えて行動するのは自殺行為だ。 今後は、そんな考えは捨てた方が良い」

「知るかよっ! だ、だいたいよ、お前も何なんだよ! その気色の悪いタトゥー! 後ろにいるのも、悪魔じゃないのか!?」

「力を得た。 その結果だ」

勇は口から泡を飛ばしていたが、やがて多少はおとなしくなってきた。秀一が、全く興奮に対して反応を示さなかったからかも知れない。

「とにかく、牢から出られるように、何とかしてみる」

「頼むよ。 それと、祐子先生だ」

相変わらず、自分勝手な奴だ。好き勝手なことばかりである。祐子先生がどうしたというのか。無言で、勇の言葉の続きを待つ。そうすることで、勇はいつも補足してくれる。

「祐子先生が、ニヒロ機構に掴まってる! お前、何とかならないか」

「それが、此処に来た理由か?」

「そうだ。 創世の巫女って言ったか。 あれが、祐子先生らしいんだ。 俺、先生を助けたいんだよ。 手柄はお前に譲ってやるからさ、先生だけはどうにかして欲しいんだ」

手柄は譲ると来た。また勇は、東京にいた頃と、意識が根本的なところで変わっていないらしい。

呆れは感じる。だが、勇は親友だ。大事な幼なじみだ。

「分かった。 そちらも、何とか出来ないか、考えてみる」

「急いでくれよ! こんなこええ所、早く出たいんだよ!」

ヒステリックに叫く勇。隣の牢の悪魔が、苛立つのを感じた。かなり頑丈だが、此処の悪魔の実力は侮れない。遠隔式の術で、勇の息を止めるくらいはやってのけるかも知れない。トールにだって、出来たことだ。他の悪魔に出来ないと、どうして言い切れようか。

本営を出る。歩哨は咎めなかった。勇に食事は出すように、一応念は押した。人間は、悪魔と違って、食べないと死ぬのだ。

街の方へ出てみた。整然としたニヒロ機構の街並みと比べて、兎に角荒々しい。規模はイケブクロの方がシブヤより勝るが、雑然とした分無駄が多いのが目に着く。無意味に路地は入り組んでいるし、使われていない建物や道が散見される。胸を張って歩いているのは、如何にも強そうな悪魔ばかりだ。彼らを見て、弱そうな者達はおびえを目に宿し、そそくさと逃れるのであった。

その一方で、かっての遺跡にも思える、廃ビルの類が彼方此方に見られた。多くの悪魔が住んでいるらしく、気配が此方を伺っている。喧噪の声は何処でもとぎれることはなく、時に断末魔まで聞こえた。

街の外には、幾重にも分厚い城壁が連なっている。補修作業に酷使されるマネカタ達は、無駄な労働に命をすり減らしている様子がありありと見えた。恐らく、酷使することそのものが目的なのだろう。漂い来るマガツヒ。ひょいと掴んで口に入れたサナが、指さす。

「ね。 もう少し近付いてみない?」

「マガツヒが食べたいのか?」

「ご名答」

赤い肌の大きな鬼が、鞭を振るってマネカタを酷使していた。マガツヒの管理は、かなり雑らしい。飛び散る度に集めている悪魔もいるのだが、つまみ食いがかなり行われている。小柄な悪魔や、すばしっこそうな奴が、マネカタの周囲を彷徨いていて、体から漏れるマガツヒを猫ばばしてはさっと散る。鬼達も、それは見て見ぬふりをしているらしい。というのも、真剣に追い払おうとはしていないからだ。

「なるほど、基本的にはどんなことでも自分の才覚次第、という組織なんだな」

「ほういうほほはね」

早速マガツヒをくすねてきたサナが、嬉しそうにほおばっている。フォルネウスは少し呆れ気味にたしなめた。

「もう、その辺にしておけ。 何だかこの街は、ちと雑然としすぎておるわい」

「やはり、気になるのか」

「間近で見て分かったが、マントラ軍のやり方は、肌に合わぬの。 秀一ちゃんがどうしてもマントラ軍にいたいというのなら、従うしかないが」

秀一は応えない。そんな事よりも、マネカタを虐待することで成立しているということ自体が、気に入らないからだ。

だが、考えてみれば。東京受胎が起こる前の世界だって、発展途上国の犠牲の上に、先進国が豊かな暮らしをしていたのだ。秀一も色々な話は聞いたことがある。カカオ農場での悲惨な奴隷労働は有名だし、他にも類似の事例は幾らでもある。マントラ軍では、それが原色のまま行われているだけではないのか。

つまりこれは。かっての世界と全く同じなのではないか。むしろ成功している管理社会であるニヒロ機構の方が、異質なのかも知れない。かっての世界で管理社会と言えば、独裁国家の代名詞であったからだ。

感情論で動くのは危険すぎる。だが、鞭を振るわれて悲鳴を上げるマネカタ達を見ると、やはり不快感が強い。

サナもフォルネウスも、それに対して何も感じていない様子なのが、更に違和感を誘った。悪魔だから、なのかも知れない。しかし、である。悪魔という存在がなんなのか、秀一の中で固まり始めている仮説が、安易な結論を許してはくれない。

虐待を止めろとは言えない。マントラ軍の悪魔達は、それによって生きているからだ。しかし、其処で動きを止めるのは、あまりにも傍観的だった。

秀一はもう十代後半。社会的には大人と呼ばれる年代だ。義務教育も終えているし、行動には責任が求められる。ましてや今、二人の仲間を抱えている状態だ。彼らを路頭に迷わせてしまってはならない。

監督をしている鬼神に歩み寄る。赤ら顔で、背丈が三メートルほどもある半裸の巨人だ。彼は工事が進まないことに、苛立ちを覚えているようだった。機嫌が悪そうに、出た腹が呼吸と共に揺れている。腕や足は剛毛だらけで、年頃の女の子が見たらそれだけで回れ右をしそうだ。さっきから鬼神は工事現場の隅に座り込んで、巨大な瓶から酒を直に呷っている。時々、羨ましそうに鞭を振るう鬼達が、そちらを見ていた。

「少しいいか」

「ああん? お、おお! てめえは! トール様のとこの、リコをぶちのめした奴じゃねえか! へへへ、試合見たぜ。 あのリコに勝ちやがるたあ、粋だぜ」

「ありがとう。 それで、提案がある」

見上げた先の城壁は崩れている。単純な肉体労働でマネカタ達が補修を続けているが、修復の目処は立っていない模様だ。原始的なてこやころを使って石材を運んでいるが、明らかに雑然としすぎて、効率が悪すぎるのだ。

「俺が、少し工事監督を代わってもいい。 この城壁を直してみせる」

「あー。 どうするかな。 正直、マネカタ共が巧く動かなくて、苛々してた所だからなあ」

単純な奴だと、秀一は思った。

成果主義であるマントラ軍は、功績無ければ出世もないはずだ。それなのに、手柄を取られることに悩むのではなく、感情論で行動しようとしている。これを反面教師にしないと、成長できないなと思う。

「それならば、こうしよう。 俺はマネカタと、仲間だけで動く。 貴方は、監督の悪魔達だけを使う。 それで半分ずつ仕事して、どちらが先に仕上げられるか、競ってみよう」

「おもしれえな。 で、俺が勝ったら、どうする」

「手柄を、全部貴方のものにしていい。 その代わり、俺が勝ったら、しばらくは暴力、特に鞭を使わないで、マネカタ達を働かせてくれないか。 この場合も、手柄は八割貴方が取っていい」

「いいのか、そんな簡単な条件で。 それに、俺が勝っても負けても、事実上損はないじゃねえか」

簡単かどうかは、やってみなければ分からないのだが。秀一は頷く。ちょっと試してみたいことがあるのだ。

「いいだろう。 その話、乗った!」

鬼神が手を叩く。何処にこんなに隠れていたか分からないほどの数のマネカタが、ぞろぞろと出てきた。鬼神は鬼達を集めて、なにやら話し始める。

ざっと見た所、マネカタは百体を軽く越えていた。老若男女、子供もいる。飛び回っていたフォルネウスが、戻ってくる。

「186おるわ」

「そうか」

不安げに並んでいるマネカタ達を眺め回すと、秀一は進み出る。自分たちに近い姿。体に刻まれた淡く光る模様。その二つが、マネカタ達に興味と恐怖を同時に植え付けているようだ。

いくらかのマネカタは、酷い怪我をしている。鞭は本来非常に殺傷力が高い武器で、肌を割いて骨まで食い込む。そのような傷を受けているマネカタも、散見された。

「サナ、回復術は使えるか?」

「まあ、出来るけど」

「ならば、傷が深い者の手当をしてやって欲しい」

秀一が指さした者達を、別へ並べていく。30ほどが、それで外れた。残りを更に、男と女、子供と老人で分ける。

体力がありそうな若者達は、100程になった。それを10人ずつで班に分ける。

「これから、この班で石を運ぶ。 大きな石は、二班で当たる」

「ぼく達だけで、ですか?」

とても気弱そうに、マネカタが言った。敗北主義が、体の芯まで染みついている感じだ。自分の意思も感じられない。彼らにも問題が多いなと、秀一は思った。こういう世界では、強い意志をもって行動しなければ、強者の餌食になるだけだ。それさえも計算して作り出されたとしても、自律思考が出来るのなら、抵抗もして欲しい。事実、琴音の所にいたカズコのような、しっかりしたマネカタもいるのだ。彼らに出来ないはずがない。

「君たちは押すだけだ。 子供達と女達に、ころを運ばせ並ばせる」

「押すだけで良いんですか?」

「そうだ。 女の子と子供、それに老人は、ころを運んで並べるだけでいい」

顔を見合わせるマネカタ達。ゆっくり舞い降りてきたフォルネウスに、秀一は言う。

「上から見て、指示を出してくれ。 俺は危なそうな所に回って、手助けをする」

「おう、任せておけ。 儂も、こーゆー作業の方が得意じゃあー」

「サナは回復が一段落したら、最後の細かい調整を指示してやって欲しい。 石を置く場所や、石を並べる順番なんかを、君が判断してくれ」

「わ、楽しそう。 分かったよ」

秀一は手を叩くと、マネカタ達に、更にだめ押しの一言を告げる。

「君たちが勝てば、しばらくは鞭も暴力も振るわれなくなる。 鬼神達はみんな荒々しいが、嘘をつくような者達じゃない。 更に、一番頑張った班には、俺からボーナスを出すから、頑張ってくれ」

マネカタ達が顔を見合わせる。半信半疑の様子だ。

「くたびれもうけにならなければいいんだけど」

サナが少し不安げに言った。秀一も、正直、少し不安だった。

 

サルタヒコが妻であるアメノウズメを伴って城壁側の工事現場に出ると、異様な歓声に包まれた。自分に対する歓声ではない。出所と、向き先を探す。見れば、城壁の近くで、見物人が鈴なりになっている。最近はずっと監視任務を作業の片手間にしているのだが、こんな事態は初めてだ。

「あら、面白そう」

「そうだな」

言葉短かに応える。サルタヒコは無口だと言われるのだが、違う。単純に、無駄なことは喋りたくないのだ。何故か、昔嫌なことがあった気がしてならない。喋るのは、常に必要最小限に抑えたい。好奇心が強く、物怖じしない妻が羨ましいと時々思う。

見物人の隅に、同僚であるトール麾下の鬼神がいた。リコが今療養中なので、自主待機を命じられている一人だ。サルタヒコに気付くと、ぺこりと一礼する。

「お疲れ様です。 騒ぎを見に来たんですか?」

「そうだ。 何があった」

「それが。 見れば分かると思います」

指さす先には。確かに面白い光景が広がっていた。

マネカタ達が、息を合わせて、石を押している。隣では顔を真っ赤にした鬼達が石を運んでいるが、明らかに効率面で劣っている。彼らの監督をしていた鬼神が如何に吠えようが、どうにもならない。

空を舞っているエイが、時々マネカタ達の側に舞い降りて、細かい指導をしていた。現場を歩き回っては、油断無く目を光らせている人間に似た悪魔。闘技場で見た、リコに勝った悪魔だ。実に見事な戦いぶりだった。

「マネカタと悪魔の勝負ねえ。 数が違うとはいえ、あの鬼神は無様ね」

「見たところ、力が劣るようには見えないのですが」

「単純な腕力じゃあ、劣ってはいないわね。 マネカタ達を見なさい。 とても良く組織化されているわ」

力がない者は、細かい作業を。若くて力のある者は、石を押す単純作業を。空を舞うエイが効率の良い仕事を監視し、更に石を置くヵ所では、ピクシーが細かい指導をしている。青年の悪魔は時々石に駆け寄っては、崩れそうになる所を支えていた。それに対して鬼神の方は、力任せの作業をするばかりで、連携もなっていなかった。吠えても叫んでも、作業は進展などしない。

「トール様が気に入ったという話だけれど、無理はないわね。 大したものだわ」

「ああ」

サルタヒコは応えながら、小首を傾げた。どうもあの青年、闘技場で見る前に、どこかで会ったことがあるような気がするのだ。

それにしても、あれだけの戦いをするだけではなく、指導力も優れているというのは。マントラ軍に入ったら、瞬く間にのし上がることだろう。トール様が気に入るのも無理はない。

途中から、持久力のある悪魔達が持ち直し始めた。それに加えて、マネカタを真似して、それぞれ作業を分担して動き始める。だが、最初に着いた差は、最後まで埋められなかった。

今まで完成の目処が立たなかった城壁が。いつの間にか、できあがっていた。

誰かが拍手を始めた。口笛も聞こえる。青年は此方を見ると、どう反応して良いのか分からないらしく、眉を潜めていた。むしろその側にいるピクシーの方が、大げさに手を振って喜びを見せている。

「ま、可愛い反応ね」

「そうだな」

大喜びしている妻に、それだけ応える。

妻はあの青年を見て、どう思っているのだろうか。どうも会ったことがあるような気がすると言ったら、どんな反応をするのだろう。

「でも、妙ねえ。 あの子、どこかで会ったことがあるような気がするのだけれど」

「……そうか、お前もか」

「あら、あなたもですか」

苦笑すると、サルタヒコは修復が完了した城壁をもう一度見やる。細かい部分はもう少し手直しが必要だが、対空戦闘をしやすいように、バイブ・カハ達の出撃、休憩スペースを多く設けてある。何カ所かにある防御塔には、龍族の常駐スペースもある。対天使軍の防御施設としては申し分ない。充分に迎撃が可能だろう。

「一度戻るぞ。 トール様のお耳に入れておく」

「それが良さそうね。 ああ、あなた、聞きました? トール様の話だと、あの子、マントラ軍に入る気は無いそうよ」

「それは惜しいことだ」

品性下劣な輩であれば、此処で殺そうと考えるのかも知れない。だが良くも悪くも単純なマントラ軍では、そのような思考をする者はいないと言うことだ。

決戦の前に、面白いものを見ることが出来た。サルタヒコには、それで充分だった。

 

作業が終わった秀一は、隅にある石に腰掛けて、ぼんやりと壁を見ていた。マネカタ達は感謝していた。だが、結局それは自己満足に過ぎなかったのではないか。そう思えて仕方がなかったのだ。

ふと気付くと、隣に先ほど争った鬼神がいた。無言で差し出した瓶を受け取る。マガツヒが詰まったものだ。

「報償だ。 受け取れ」

「こんなに、良いのか?」

「今回は完全に俺の負けだからな。 八割も貰うのは、いくら何でもな。 全部は生活があるからやれねえが、それくらいは当然だろ」

気持ちのいい男だ。荒々しい部分は確かにある。危険な残虐性も秘めてはいる。だが、かって人間社会で横行していた邪悪とは別の人間性を、秀一は感じた。確かに獰猛な一面はあるが、この鬼神の方が、余程並の人間よりも、理性的なのではあるまいか。

半分ほど飲み干すと、散々回復術を使って疲弊したサナと、飛び回って苦労していたフォルネウスを呼んで分ける。それを見ていた鬼神は、頭を掻く。

「よく分からん。 そんなに分けてしまって良いのか?」

「ああ。 俺だけの力では、とてもこうはいかなかったからな」

先ほど、宝物も少し分けて貰った。それらは丸ごと一番働きが良かったマネカタの班に与えた。鬼神は、最初の約束通り、彼らにしばらくは暴力を振るわないことを約束してくれた。マネカタ達が宝を略奪されないか不安だが、そこまでとろくはないと思いたい。

それに、こういう効率的なやり方がむしろ仕事を早めることを、彼に見せることも出来た。今後は、マネカタを虐待して無理に働かせるのではなく、しっかり効率的な活用をする事が普及すればいいのだが。

難しいところではある。だが、少しは影響を及ぼすことが出来たと思いたい。

結局、思いたいばかりだなと、秀一は少しばかり自嘲した。もし本格的に変えるのなら、マントラ軍に所属しなければならないだろう。それは、マントラ軍と共に、多くの弱者を蹂躙することも意味している。

マントラ軍に身を置く気はない。この現実を知った今は、なおさらだ。勇を助けるには、マントラ軍に貢献しないとならない。祐子先生を助けるのも同じだ。だが、それでも、マントラ軍に身を置く気はない。

「ところで、こんなに立派な城壁があるのに、更に補修をするのか」

「あん? ああ、そう言えば余所から来たんだったな。 まあ、もう秘密でもねえし、教えても大丈夫だろう」

鬼神は酒瓶を取り出すと、一口煽る。そして豪快に掌で口を拭う。

「戦が、始まるのさ。 相手が何処の誰で、どう攻めるかまでは言えねえがな」

「そうか」

この城壁の規模。さぞや強大な敵との戦いとなるのだろう。それは天使軍ではあるまい。ニヒロ機構であろう。この城壁工事は、隙を見て攻め込んでくる可能性がある、天使軍に対する備えの筈だ。

さて、どうしたものか。腰を上げ掛けた秀一は、鬼神に呼び止められた。

「兄ちゃん。 名前、教えてくれないか」

「榊秀一だ」

「そうか。 俺は、酒呑童子ってもんだ。 いずれ、また会うこともあるかもな」

握手をした。とても大きな手だった。

気の良い巨人と別れると、サナとフォルネウスを誘って、郊外へ向かう。もう、マントラ軍からは離れるつもりであった。

足を止めたのは、進路の先に、見覚えのある悪魔が現れたからである。

リコであった。

 

3,鮮血まみれの真実

 

リコはトールの住居に案内するまで、一言も喋らなかった。快活なイメージが一転して、沈鬱でさえある。秀一に対する視線も、前のものとは違った。敵意こそ感じないが、明確な拒絶があった。

トールの住居は、小さなビルであった。一階部分は配下らしい鬼神達の住居になっていて、一斉に視線を向けられる。ちょっと秀一は緊張した。この鬼神達の中でも、リコはずば抜けた実力者だと言うことは分かる。だとしても、この数を相手にするのはぞっとしない。

言われるまま、トールの居室に案内された。サナとフォルネウスは外で待たされる。トールは革張りの大きなソファに腰掛けており、マネカタの使用人が怯えながら、茶を出す。体が埋まりそうなばかでかいソファに、秀一も促されて腰掛ける。トールはしばし秀一を見つめてから、揶揄するかのように言った。

「早速、なにやら功績を立てたそうだな」

「勇を助けるためだ」

「なるほど、そうか」

「このくらいでは、勇を助けられないのは分かっている。 だが、出来ることはしておきたい」

トールは見抜いているかも知れない。マネカタ達の待遇が少しでも改善されるように、秀一が動いたことに。少し接しただけで分かったが、この男は、強いだけではなく、かなり頭も切れる。ただ、頭を使わないようにしているだけだ。

バケツのようなサイズのティーカップを、トールは傾けた。あまりにも量が多すぎて、ちょっとジョークのように思えてしまう。冷ましもせずに熱いカップを傾け終えると、トールは目を鋭く細めた。

「それにしても、あの人間の知人とはな」

「それが、何か?」

「ひょっとして貴様、あの新宿衛生病院から現れたのか? それならば、全ての説明が付くが」

口をつぐんだ秀一に、トールはからからと笑いかけた。口の中にある歯は、どんなものでもかみ砕けそうだ。

「図星か」

「俺も、その辺りはよく分からない。 新宿衛生病院は、凍っていたという話は聞いているのだが」

「凍っていたもなにも、時空間ごとな。 だから、氷が溶けた後に、ニヒロ機構がフォルネウスを調査のために送り込んだんだろうよ。 それも、貴様が砕いてしまったが」

それは、悪いことをしたものだ。フォルネウスは命を落とし、秀一の使役悪魔として余生を過ごすことになってしまった。しかし、そうなると、やはり強い力が後ろで干渉しているのを感じる。何が、どういう目的で、わざわざ病院の時を凍らせたというのか。

「貴方は、勇を殴ることが出来たな。 どうしてだ」

「その前に一つ聞きたい。 貴様、東京の記憶はあるか」

「ある」

「ならば、話しても良いだろう。 だが、これは聞くと後悔するかも知れんな」

嫌な予感がする。しかし、今更退く訳にもいかない。

わずかに身を乗り出した秀一を前に、トールは代わりの茶を持ってくるように命じた。すぐにマネカタが飛んでいって、トレイにばかでかいティーカップを乗せて戻ってくる。とても重そうだ。しかも、こぼしたら命に関わりそうである。

「話して欲しい」

「条件がある。 リコを、連れて行け」

「どういう事だ」

「リコは視野が狭い。 此処にいては、恐らくこれ以上は力を伸ばせまい。 貴様のように、グローバルにものを考えられる奴の下に付けて、修行をさせたい。 もちろん、強くなってからどうするかは、リコ次第だ」

なるほど、リコの悲しそうな表情は、それが原因という訳だ。捨てられたと思っているのかも知れない。気の毒な話ではある。

だが、好きだ惚れたで渡ってはいけないのも、この世界だ。強くなって欲しいと考えているトールの行動は、間違いなく一種の愛情であろう。だから、秀一としても、それは否定できない。

それに、リコははっきり言って強い。今後このボルテクス界を生き抜くには、非常に重要な人材になるだろう。今後実力が更に伸びるとなればなおさらだ。ただ。最終的に敵になるとしたら、ぞっとしない。

少し考え込んだが、結論は決まっていた。リコを貸してくれるというのなら、メリットの方が大きい。マントラ軍と事を構える予定は今のところないし、当面は後ろから刺される恐れもないだろう。

「分かった。 俺には異存がない」

「そうか。 では、話してやろう」

鷹揚に、トールはまた茶を一杯飲み干した。見ているだけで熱い。しかし、自分でも茶を飲んでみると、まるで平気なので、少し驚いた。明らかに、体内の器官も、人間離れした強度に変わっている。その代わり、微妙な味の変化も分からなかったので、ちょっと悲しかった。

「この世界の悪魔とは、何者だと思う?」

「分からない」

「では、マガツヒとは?」

「それも、全く分からない。 食べると力になることくらいしか。 後、悪魔の体は、基本的にマガツヒから作られているようだが」

トールはじっと秀一を見つめて、わざと間を開けてから、続ける。

「マガツヒは、エネルギーと情報の固まりだ。 そして、その情報は、どこから来たものだと思う」

「アマラ経路を流れているものが、地上に出てきたものなのだという事は聞いている」

「では、アマラ経路とは何だ」

トールは、秀一をどこかに導こうとしている。途轍もなく恐ろしい、どこかへ。それを本能的に察しながらも、退くことは出来なかった。

「分からない。 この世界の、血管のようなものだとは聞いているが」

「まあ、そんなところであろうな」

僅かな沈黙が流れた。不意に、トールが、それを破る。雷神は、明らかに楽しんでいる。秀一の反応を。そして、これから起こることを。

「もう、分かっているのではないのか? 状況証拠は、貴様の中にも揃っているはずだ」

「意味が、分からない」

「ならば、気付かせてやろう。 悪魔達が、おかしな言動をしていた事がないか。 いもしない家族の事を言い出したり、心配してみたり。 或いは、ボルテクス界のこととは思えない出来事を口にしてみたり」

「!」

駄目だ。それには。

気付いてはいけない。

理性が、必死に逃走を促す。知ってはならないことを、今眼前に突きつけられようとしている。しかし、冷や汗一つ流れようとはしない。どうした。俺の体は、どうなってしまったんだ。秀一の自問は、虚しく流れてしまう。

仮説は立てていた。トールの言うとおり、分かってはいたのだ。だが、気付かないふりをしていた。一番大事な何かを、失いたくはなかったからだ。

トールは、容赦なく、闇の中に手を伸ばしてくる。僅かな理性のたがが吹き飛ぶように。最強の殺戮者を、誕生させようとしているかのように。

「この世界の、悪魔はな」

恐怖を、感じる。だが、逃げてはいけないと、どこかで袖を引かれる。闇の中から、無数に伸びてきた手が、秀一の体を押さえつけた。もちろん、実際に起きていることではない。動悸が乱れる。トールは面白そうに眼を細めて、そして爆弾を投じた。

全て、人間のなれの果てだ

秀一は。

ついに、知ってはならないことを、知ってしまった。

 

混乱する精神を引きずって、秀一はトールの部屋を出た。サナとフォルネウスが、心配して外で待っていてくれた。だが、彼らには話せない。どうして、話すことが出来ようか。

トールの話によると。

マガツヒは、東京受胎によって滅びた人間の精神が、情報的なエネルギーと化したもの。そして強い自我を持つ人間の精神的な情報を核として、悪魔が誕生する。何故、悪魔なのか。それは人間の普遍的な無意識下に宿る、無数の神話的造型こそが、悪魔だからだ。故に、悪魔は神話的な性質に従う。眷属であれば、主人である存在の配下となる。天使であれば、聖書に従って行動する。

だが、その核には、人間であった頃の性質がより強く反映されている。何故か。それは、神話などと言うものは、所詮物語であり、極めて不完全かつ未完成なものだからだ。個々の「生きた」人格を成立させるには、人間の本物の意識によって、穴埋めをしなくてはならないのである。

無論、例外もある。トールの知る限り、東京受胎が起こる前から、存在していた悪魔も、いるのだそうだ。ただ、そう言った者達も、実体化には相性が良い人間の精神、すなわちマガツヒを核としているという。また、一部、非常に強く人間としての自我を残している悪魔も存在するという。トールの他には、以前秀一が偶然であった、あのサマエルもそうだという。これについては、理由は分からないのだそうだ。

もちろん、どうしてそうなっているかは、トールにも分からない。トールは東京の記憶を多く持ち、多数の悪魔を八つ裂きにして喰らい、それで分析することが出来たそうである。いずれにしても。これではっきりした。この世界の悪魔は、元人間なのだ。殺してマガツヒを取り込めば、それは人間の血肉を喰らうのと何一つ変わらない。アマラ経路を流れているマガツヒも同じ事。東京受胎で、無念のまま命を落とした人間達の、血肉と同じなのである。

そして、今まで喰らったマガツヒの中には、両親や、和子のものもあるかも知れない。吐き気がこみ上げてくる。だが、それも、寸前で止まってしまう。

落ち着いてしまうのだ。どんな衝撃的なものを、見聞きしても。

そのうち、平然と人間を喰らうことが出来るようになってしまうのかもしれなかった。自分が人間ではなくなりつつあることを、秀一は強く感じた。

いつの間にか、ビルを出ていた。リコはうつむいて待っていた。秀一が声を掛けると、顔を上げる。目には強い非難と悲しみがあった。

「トール様に、話は聞いたみたいッスね」

「ああ」

無言で、しばし見つめ合う。やはり年下に思える女の子は扱いにくい。リコが言っているのが、このボルテクス界に関する衝撃的な話ではなく、トールから秀一に貸し出される事だと分かっていても、声は掛けづらかった。

ふと、気付く。地獄のような世界ではあるが、それは違う。かといって、人間だけの世界でもない。

此処は、地獄でも、現世でもない。いわば、その中間。

確か、一神教では、それは煉獄と呼ばれるはずだ。

東京受胎。それは、世界を煉獄へと変換した事件だったのかも知れないなと、秀一は思った。

 

4,氷川の物語

 

カグツチの輝きがまぶしい。遮るもののない砂漠であるから、なおさらだ。オセは振り返り、部下達が脱落していないことを確認すると、もう一がんばりだと思って、額の砂を拭った。

マントラ軍の全面攻撃に備えて、軍の配備を進めていたオセは、一部隊を率いてマルノウチへ出ていた。マルノウチには、天使軍の浮遊要塞であるオベリスクがある。マントラ軍との決戦時に、水を差されないように、事前に下調べをしておく必要があったのだ。

連れてきている配下は、精鋭ばかりである。その中には、めきめきと頭角を現しているレヤックのカエデを混ぜている。今回、カエデを連れてきた理由は、将来の幹部候補をきたえる目的の他に。オベリスクの攻略を視野に入れているからだ。

オベリスクに手を出しがたい最大の理由は、空に浮いている、と言うことにある。堕天使の中には空を飛ぶことが出来る者が多くいるが、全てではない。幹部の中にも、飛翔能力を持たない悪魔は多い。オセ自身が、その一人だ。それに対し、天使共はその全てが空を飛ぶことが出来る。一騎ずつの戦闘能力はさほどでもないにしても、これは戦闘時、著しい不利として働く。

だから、本気で攻略を考える場合、オベリスクを地面に引きずり落とす必要がある。重力に逆らって飛んでいる以上、何かしらの術による補助があるのは確実で、それさえ見抜けば一気に引きずり落とすことが出来る。

今回は、それを見極めに来た。だから、カエデを連れてきた。オセ自身は術が苦手だから、専門家が欲しかったのである。

何だか辛そうに、ふらふらになりながら着いてきたカエデだが、文句一つ言わない。何事にも一生懸命だと聞いているが、目の前で見ると心が和む。ただ、出てくる前に、ニュクスに着せられたらしいメイド服はどうかと思う。黒ベースのエプロンドレスは、確かに可愛らしいが。しかし、戦闘向けではない。ニュクスの秘蔵の品だそうだが、何でこんなものを持っているのか、小首を捻りたくなる。或いは術で作り出したのかも知れないが、意図が分からない。

そろそろ、天使軍の警戒範囲にさしかかる。砂丘の向こうには、カグツチに向けて不貞不貞しくまっすぐ伸びるオベリスクの姿。近くで見ると、無数の石材ブロックを組み合わせて作っているという事がよく分かる。オセは咳払いをすると、砂丘の上で腕組み。事前に決めてある作戦を脳裏にて反芻。

無言でカエデが呼吸を整えるのを待ってから、部下達を手招きする。さっと集まった部下共を見回す。

「今まで、この辺りを偵察に来た者は」

「はい。 私が」

「私もであります!」

四騎が挙手。頷くと、地図を拡げる。

「いざというときは、この穴からアマラ経路に逃げ込む。 そうすれば、多数の天使共を一度に相手にせずとも大丈夫だ。 だが、それは最後の手段としたい。 危険は抑え、最小の時間で、調査を行うべきだ。 そこで、だ」

もちろん、この四騎は事前に経歴を調べて連れてきている。他には、防御術を特に得意としている者を、同じく四騎連れている。

「一番大柄な一騎がカエデ将軍を背に乗せて、此処から此処へ抜けるルートでオベリスクの影を通り抜ける。 カエデ将軍の話によると、真下に術としての仕掛けが施されている可能性が高い。 しかし、当然天使共の索敵に引っかかる恐れも強い。 だから、防御術を得意とする者を、ツーマンセルで組ませる。 それを二チーム作って、いざというときの補助にする。 カエデ将軍自身には、私が護衛に付く」

最大速度での、一撃離脱。カエデにはかなりきつい仕事になるが、しかし今後の勝敗を占う大事な行動だ。上級天使が出てきても、オセがいれば対応は難しくない。また、国境線には、ブリュンヒルドが率いる精鋭機動部隊が控えている。多少の軍勢くらい、其処で蹴散らすことが可能だ。もちろんこれは、出撃前に会議で決めていたことである。今こうして口にしているのは、確認のためだ。

全員が作戦を把握していることを確認すると、オセはカエデを見た。

「いけるか、カエデ将軍」

「はい、大丈夫です」

「よし。 ならば、静天を待って行動に移す」

他の悪魔達を蔑む天使共も、晴天時に極端におとなしくなる性質は変わらない。天使などと言っても、他の神話的存在と大して変わらない良い例だ。たまたま政治的に極めて利用しやすい一神教が世界に広まったから高名になっただけであり、本質的には何ら特別な存在ではない。

それは、堕天使であるオセも同じだ。もっともオセの場合、更に存在が古く、土着の神に様々な設定を負荷した者だが。

一神教が、邪神とした存在を、堕天使としておとしめた例はあまたある。数ある下らぬ説の中には、オセが北欧神話の主神であるオーディンの零落した姿であるというものさえあるという。どうでも良いことだ。いずれも、如何に一神教が正しい存在であるか、説明するために設定された事なのだから。それが証拠に、オセはソロモン王がいた中東と、オーディンが信仰された北欧の接点が無い時代に、基本的な設定を創造された悪魔である。その名前はソロモンの鍵に見られるものであり、オーディンの零落した存在だという設定は露骨な後付だ。

オセは一神教と、天使が嫌いだ。マントラ軍がいなければ、どんな手を使ってでも、真っ先に滅ぼしてやりたいほどに。

砂丘の影で腕組みして待ちながら、オセは思う。糞忌々しい天使共だが、これは好機でもある。奴らを一気に滅ぼし去り、昔年の恨みを果たすための。側でオベリスクを見上げているカエデの目にも、自分と同じ怒りと憎悪が宿っているのを、オセは確かに見た。天使軍に、大事なもの全てを焼き尽くされたのだから、当然であろう。

ふと気付くと、カエデが側で自分を見上げていた。

「オセ将軍」

「何か」

「オセ将軍は、氷川司令にずっと仕えておられると聞いています。 噂によると、東京受胎より、前から仕えておられるとか」

「それは噂ではない。 真実だ」

別に隠すような事でもない。確かに、東京受胎の以前から一貫した自我を確保しているという点で、オセは珍しい存在だ。だが、東京受胎後、体を実体化させるために、相性が良い人間の精神と融合したという点で、他の悪魔達となんら代わりはない。

特別であることを、オセは好まない。だから、今の体には、何の不満もない。ベースになっている人間はオセと極めて相性が良く、全くと言うほど違和感がないという理由もある。

「氷川司令は、昔からああいう方だったんですか?」

「うむ? それはどういう意味かな」

「あ、いえ。 お年の割には、凄く落ち着いていて、格好良いなと思います。 ですから」

「そう、だな」

そういえば、最初に呼び出された頃の氷川司令は、彼処まで達観した存在ではなかった。今よりずっと砕けた雰囲気で、時々ジョークを言うこともあった。今でも時々羽目を外すことはあるが、滅多にあることではない。

時間もあるし、少し話しても良いだろう。氷川司令も、己の過去を隠すようなことはない。非常に真面目で信頼できるカエデになら、話しても良いかもしれない。

この娘は、次の世代の中心となる。オセやフラウロスが引退した後、ニヒロ機構の術を一手に司る存在となるのは確実だ。知っておいても、良いかも知れない。

他の堕天使達がきちんと警戒を続けているのを横目で確認すると、オセは砂丘に腰を落として、カエデと視線の高さを同じにした。話す時のマナーである。

「私が氷川司令に呼び出されたのは、あの人が二十歳になった頃だな。 丁度氷川司令の生まれた国で、バブル崩壊という経済的な大事件が起こっていた。 狂乱とも言える時代が終わって、下り坂が始まって。 そんな頃だった」

 

オセが知る限り、若い頃から氷川は、深い影のある男だった。一流の大学の理工学部に所属はしていたが、何処のサークルに所属することもなく、勉学に打ち込んでいた。海外の大学に行くくらいは簡単な学力を持っていたらしいのだが、敢えて国内にこだわったのには。理由があったのだそうだ。

いずれにしても、山羊を生け贄に上級悪魔を呼び出し、使役するような青年である。まともな生活環境ではなかったのは、事実である。

呼び出されたのは、薄暗い部屋だった。真四角で、辺りには生命の気配がない。魔法陣によって吸い出されたと思うと、もう地上だった。魔界で宰相である上級堕天使ルキフグスと二人でディナーにしていたのだが、此方の都合などお構いなしなのが人間だ。

オセをはじめて見た時、氷川は歓喜の表情を、ほんの僅かだけ浮かべた。不審に眉をひそめるオセに、氷川は言ったものだ。

「本当に、呼び出すことが出来るとは。 ガイア教徒とやらになってみて、正解ではあったな」

「それで、私を呼び出した用件は。 悪魔を呼び出すことが何を意味するか、分からないとは言わせぬぞ」

「用件など、決まっている。 私に従え」

「この私を、使役すると言うか」

自信満々、かつ不敵な応え。

一瞬その場で八つ裂きにしてやろうかと思ったオセだが、呼び出す時の術式は完璧で、逆らうと帰れなくなる可能性があった。その上、きちんと踏んだ手順で契約を行った場合、それを一方的に破棄することは、悪魔にとって最悪の恥辱である。人間がこういう術を展開する時、大体は何かしらミスをしでかすものなのだが。それもない。オセは、従う他に道がなかった。それに、提示された契約書も、悪くない条件だった。何より、ここのところまともな召還術を使用できる人間は著しく減っていて、面白そうだと思ったこともあった。

魔法陣の中で、片膝を着く。胸に手を当てて、宣誓した。

「分かりました。 従いましょう。 今後ともよろしくお願いします」

「ああ、よろしく頼む」

契約書に、血判を押す氷川。細い容姿だというのに、指先をナイフで傷つけることに何のためらいもない。それを受け取ると、オセは術式を展開。人に姿を変えた。互いに名乗りあった後、部屋を出る。氷川はオセの名を聞くと、知っていると応えた。

人間としての姿は、昔から決まっている。四角い顎の、屈強な中年男性である。この格好だと侮られることも少なく、武術の道場にも潜り込みやすい。様々な武術を愛好するオセは、特に剣術が発展している日本が昔から好きだ。日本刀もコレクションしている。和服も一人で着こなすことが出来る。

魔法陣から出る。剣術の師範という身分と、家の片隅に部屋を与えられた。

呼び出された場所は、氷川の自宅だった。東京都心の、数百坪もある家。何度か人間に化身して東京を出歩いたこともあるオセだから、その規模の凄まじさがよく分かった。家には親族は誰もおらず、僅かな使用人と、氷川だけだった。よく見ると、使用人の何体かは、人間に化けた悪魔だった。最初にオセを呼び出したという訳では無く、何度かの実験を経て、強大な悪魔に手を出したと言うことらしい。オセを見て蒼白になる使用人もいた。正体を見抜く程度の力はあると言うことだ。

書斎に案内された。天井近くには、老人の写真が掛かっている。旧日本軍の軍服を着た、屈強で頑迷そうな老人である。床を占領する最新式の如何にも高価そうなパソコン群と、その写真は、あまりにもギャップが大きかった。

「御爺様ですか?」

「いや、父だ」

あまり氷川は、その写真に多くを語りたがらなかった。オセも雰囲気を察して、追求はしない。後で、他の悪魔にでも聞こうかと思った。

パソコンを起動すると、氷川は凄まじい勢いで、キーを叩き始める。テキストエディタを駆使して、プログラムを組んでいるらしい。そのコードに、オセは見覚えがあった。

少し前から、悪魔召還プログラムと呼ばれるものが、魔界でも話題になり始めている。煩雑な召還のプロセスを、プログラムによって代行できてしまうものだという。大魔王を自称するオセの主君であるルシファーを始めとして、多くの悪魔達が注目している、人間が生み出した叡智だ。ざっとコードを横から見る限り、氷川はそれを凄まじい勢いで改良しているらしかった。

「私を、それを使って呼び出さなかった理由は?」

「前から少しずつ改良しているのだが、どうも細かいところにバグが散見されてね。 君ほどの悪魔を、呼び出してすぐ使役できるようにする自信がなかった。 だから今回は実験もかねて、少し面倒ではあったが、古来の手順をきちんと踏んだというわけさ」

振り向きもせずに、氷川は応える。手の動きは凄まじく、残像が残りそうな有様だ。面白い人物だと、オセは思った。契約をきちんと踏んだ後は、オセを信頼している。オセの性格を、即座に見抜いたのかも知れない。

それから、奇妙な生活が始まった。

氷川はオセをボディガードとして何処にでも連れて行った。大学の授業を氷川が受けている時は、近くで暇を潰した。最初は大学内にある喫茶店でコーヒーを飲んでいたが、やがて道場を覗くようになった。大学の剣道部はなかなかの使い手が揃っていたので、オセも暇つぶしには丁度良かった。臨時の師範として雇いたいという声もあったのだが、オセは謝絶した。剣道の師範は、はっきり言って性に合わないのだ。オセは自分をあくまで寡黙に鍛え上げることこそ好きであって、他人に技を授けるような行動は苦手であった。むしろ、人間が限りある命の中で練り上げた技を見ることが好きであった。

時々、氷川もオセの様子を見に来た。剣道に打ち込むオセを見て、氷川は羨ましそうにしていた。氷川の専攻を聞いたのもその頃である。彼は、社会的なシステムについて詳しく学んでいたのだ。社会的な地位を得たら、政治家になろうと思っているようであった。

資金力を自分で作り上げ、社会をしっかり知ってから、政治の道に進む。今時珍しいほどに、しっかり道を考えている人物であった。

オセの長い悪魔としての生の中でも、珍しいほどに平穏な時代であった。オセは氷川の成長を後ろから見守るだけで良かった。深い闇を抱えていたが、人間には狂気が必ず伴うものなのだ。だから、気にはならなかった。

だが、それも終わる時が来た。氷川が大学を卒業する前後から、周囲にきな臭い事件が、徐々に起こり始めるようになってきたのである。

ガイア教とか言う、一種の邪教に氷川は所属していた。混沌を至上するこの宗教団体は、ありのままに欲望を認め、力のままに生きることを教義としていた。一種動物的な生き方を推奨する連中である。このようなきな臭い組織と氷川が関わっていたのには、深い世間への絶望があるのだろうなと、オセは分析していた。

オセから言わせれば、人間の唯一の価値は自制と社会にあるのだが、ガイア教の教義はそれを真っ向から否定する思想である。氷川も教義を信じている様子はなく、ただ利用しているのが見え見えだった。ガイア教も、氷川の並外れた頭脳と手腕を利用している雰囲気があり、両者の間には常に緊張があった。

ガイア教はいわゆるロウサイド、神側の存在と常に対立し、血みどろの抗争をしていた。面白いのは、今では一神教と多神教での対立に、それがすり替わっていることである。元々一神教は非常に独善的かつ凶悪な側面があり、一概に正義だとは言い難い。オセが接してみた限り、ロウサイドの行動を憎んで、ガイア教徒になった者も少なくなかった。また、それを利用して、ガイア教には大物の堕天使や多神教の神族がこっそり支援もしていた。何度か知人と顔を合わせて、オセは苦笑いを隠せなかった。

氷川はガイア教のホープであったから、少なからずロウサイドから刺客を送り込まれた。オセは氷川を殺しに来た天使やロウサイドの悪魔を、何十体と返り討ちにした。事件性が無いように、殆ど一瞬で斬り伏せる姿を見て、氷川は無邪気に手を叩いて喜んでいた。

やがて、氷川は豊富な資金力を使い、会社を立ち上げた。盟友であるフラウロスが呼び出されたのも、その頃である。オセだけでは、氷川を守りきれなくなりつつあったのだ。それだけロウサイドから、氷川は悪い意味で着目され始めていたのである。他にも、雑魚悪魔は多く呼び出されたが、抗争の中で命を落とす者が絶えなかった。

最初、氷川コーポレーションという名前だった会社は、業績が振るわなかった。氷川自身は、並のプログラマーの数倍は働いた。だが、会社というものは、長が一人頑張ってもどうにもならないのである。

四回ほど社名が変わる過程で、オセもフラウロスも、他の使役悪魔も、みんな社員にされて、酷い残業の中毎日を過ごすようになった。会社には栄養ドリンクが常備され、自宅に戻れるのは数日に一回。更に、寝袋にくるまって寝ることも珍しくなかった。オセは睡眠を殆ど必要としなかったが、働いている人間の社員を見て、毎日気の毒だと思った。氷川が並外れて優秀であることが、作業の過酷さに拍車を掛けた。優秀すぎる氷川は、逆に弱者の気持ちや能力を理解できない所があったのだ。本人は、弱者に対する慈しみを、決して欠かしている訳ではなかったのに。弱者から見て、氷川は恐ろしい人物だと、常に思われているようであった。人間が見かけで相手の全てを判断することをオセは知っていたが、しかし歯がゆかった。

社員は定着しないことが多く、いつも氷川は頭を抱えていた。やがて、氷川はSEに転身。社名もサイバース・コミュニケーションと変えて、社長ではなく「チーフ・テクニカル・オフィサー」なる職務に就いた。社長に傀儡を据えて、自身はあくまで技術者達の長として、会社を引っ張り始めたのである。

この采配は上手くいった。元々極めて優秀な氷川を技術者として活用することにより、一気にサイバース・コミュニケーションは大企業に成長。ガイア教の支援もあって、東証一部に上場した。

それと同時に、氷川へ送り込まれる刺客も、数を増した。

そして、ついに。ガイア教の中でも、氷川を危険視し、刺客を送り込む者が出始めたのである。

酷い時には一日三回以上も、オセは刺客と戦うことになった。

 

「私は、この国を、この世界を変えたい」

いつだっただろうか。東京受胎が起こる、五年以上前だったはずである。氷川は、フラウロスとオセを伴って向かった飲み屋で、そうぼやいた。フラウロスはあまり愚痴を聞くのが好きではないので、無心におつまみのするめを頬張っていた。オセはその頃には、氷川を嫌いではなくなっていたので、意外だと思いながらも耳を傾けた。

氷川は、滅多なことでは本音を見せない。だから、自分を信頼してくれている証拠だと思ったこともある。

「私の父も、祖父もそう考えていたらしい。 皮肉な話だ」

「あの写真の老人ですな」

「ああ。 私の家は、いわゆる名門でな。 祖父はある大藩の筆頭家老。 父は旧日本軍の少将をしていた」

そうなると、氷川はかなり晩年の子供と言うことになる。時代的に考えて、氷川の父も同じであったのだろう。あまりにも特殊な環境で育つと、人間は歪みを強く持ちやすい。オセは少し同情した。

ビールが大好きなフラウロスが、氷川の意を理解せず、となりで大ジョッキを注文していた。面白いことに、フラウロスは、部下に対しては親身だが、上司に対してはこう言うところがある。以前も、魔界でルシファーに凄く怒られた事があった。

氷川はフラウロスには構わず、話し続けた。ひょっとすると、かなり強く酩酊していたのかも知れない。

「祖父も、父も、生真面目な人物だった。 祖父は幕府側の藩家老だったが、それでも日本のためを思って、人生を捧げた。 その行動を見た明治政府からスカウトされて、高位のポストを用意されたのだ。 父が産まれたのは、晩年だったらしい。 忙しすぎて、子供を作る暇など無かったそうだ。 そして、父も、そんな祖父と同じように、厳格に育ったのだが」

敗戦が、父の全てをおかしくしたと、氷川はつぶやいた。

高潔な人柄で知られた氷川少将は、大戦中も捕虜虐待などの醜態とは無縁であり、任されていた部隊も高い生還率を誇った。腐敗し派閥抗争が酷かった旧日本軍で、若くして上り詰めたのだから、その手腕が伺える。優秀な人物が血統的に続くことはあまりないのだが、氷川家ではその幸運が起こったのだ。

だが、戦争が終わって帰ってみれば。軍人は揃って悪扱いである。もちろん周辺には同情的な声もあったが、人生の全てを信念に捧げていた父の心は、折れてしまった。晩年には狂気を孕んだ言動を繰り返し、周囲から友人達も去っていった。

やがて、使用人の一人に手を付けた結果、氷川が生まれた。その頃の父は精神病院に入れられ、財産も顧問弁護士が管理していた。

氷川は、まともな父の姿を、一度も見ずに育ったのである。

「父は、私を息子だと、認識さえしていなかったらしい」

「……」

となりで、フラウロスが無心にするめを頬張っている。オセは、何となく氷川が自分を信頼している理由が、分かった気がした。

「私は、それでも父が嫌いではなかった。 むしろ、父をおかしくした、世界の方が嫌いだった。 いや、過去形ではないな。 今でも嫌いだ」

「それで、ガイア教に?」

「そうだ。 私は、ただ父のような高潔な人間が、それに相応しい待遇を受ける社会を作りたかった。 だから、力や能力を絶対視するガイア教に賭けたのだ。 だが、ガイア教も、所詮争いを産むだけで、明確なビジョンなど持ちようのない組織に過ぎない。 悪魔が裏から支援していると聞いて、少しは期待もしていたのだがな。 中に入ってみれば、実情はどうだ」

確かに、ガイア教の実情は、笑止千万な代物であった。内部は血統とコネクションからなる利権が縦横に絡みつき、末端から中枢に到るまで腐敗しきっている。ロウサイドの勢力と、何一つ代わりはしない。中にいる悪魔達も、皆人間の深すぎる欲望に振り回されており、制御するどころではなかった。オセも、幹部として潜り込んでいる何体かの友人に、愚痴を聞かされたことが二度や三度ではない。そればかりか、不倶戴天の敵であるはずのロウサイドと、裏でつながっている幹部さえも実在していたほどだ。何度も人間達を正そうとしていた悪魔の幹部も、最近はあきれ果てて、口をつぐんでいる状態だった。

基幹思想である筈の実力主義でさえも、ここ百年ほどは形骸化してしまっていた。幹部の地位は半ば世襲制と化しており、能力も自覚もない人間が其処に収まっていた。各国とのコネクションは健在ではあったが、それも利権次第でどうとでも転んだ。中には、悪魔召還士としての力量が全くない幹部さえ存在した。

ロウサイドが腐りきった法治主義であるのなら。カオスサイドであるガイア教は、放置主義の組織に過ぎなかったのである。ロウサイドの牙城であるバチカンが、今ではただの象徴に過ぎなくなっているように。

「力を主上とするガイア教も、所詮は同じだ。 人間が支配している限り、この世界に平穏も静寂もない。 そして、それは人間が作り出し、形を与えた悪魔でさえも、同じ事だろう」

「貴方は、その現実に、今まで抗ってきたのではないのですか」

「そうだ。 それが責任ある大人の行動であり、社会的な義務を果たすことだと思っていたからな。 だが、これ以上はもう無駄だろう。 この世界は、人間は。 もはや私ではどうにも出来ないところまで腐りきってしまっている。 そして人間そのものが、そもそも腐敗の打開を望んではいない」

オセの前で、氷川はそう自嘲気味に言った。

その時は、オセも酒の席での事だと思っていた。誰だって、愚痴はこぼす。社会に不満は持つ。社会とは巨大なバケモノで、人間はそれを思いのまま制御できるほど優れた生物ではないのである。誰でも、ストレスの発散先は必ず持っている。氷川にとって、今回の酒の席がそうだと、オセは考えた。

だが、それは違った。氷川は、信頼するオセに、本音を打ち明けていたのだ。

ガイア教の本部にて、氷川がクーデターを仕掛けたのは、それから五年ほど後のこと。三回オセはいさめたが、氷川の意思は固く、ついに従うことになった。丁度ガイア教に支援をしていた悪魔達が、人間に愛想を尽かして魔界に帰るという絶好の機会も訪れていた。氷川と、彼が操る悪魔軍団はガイア教の秘宝とされるアマラ輪転炉の全てを強奪。幹部の殆ど全員を殺戮することに成功もした。更にミロク教典と呼ばれる、秘蔵の書物も、氷川の手に落ちた。武闘派を謡われるガイア教の、あまりにも呆気ない末路であった。

状況を嗅ぎつけ、ヨヨギ公園に氷川が建造した施設に攻撃を仕掛けてきたロウサイドの勢力も、まとめてオセとフラウロスが始末した。氷川の会社であるサイバース・コミュニケーションもその煽りを受けて操業停止状態に陥ったが、もはや何の意味もなかった。

こうして、数々の勢力が大混乱する中。

氷川は、以前から交流を持っていた高尾祐子を使い。東京受胎を発生させたのである。

 

静天が来て、辺りが暗くなった。話を切り上げて、立ち上がったオセは、無言で手を振るって部下達に合図する。

カエデもスカートに付いた砂を払って立ち上がると、さっきオセが指示した蛙のような顔をした堕天使の背中に乗せて貰う。六本の腕を持つ堕天使である彼は、寡黙で忠実な武人だ。翼はなく、計八本の、体の横から出た手足を蜘蛛のように使って、地面を這い進む。背中はごつごつしていて、分厚く魔術によって守られた皮膚は、生半可な術を通さない。カエデを彼が背に乗せ、いつでも出られる事を確認すると、オセは抜刀した。

「行けっ!」

号令一つ。同時に、一斉に堕天使達が駆け出す。闇に染まった砂漠の中、十を超える影が走り出した。オセも、蛙顔の堕天使に次いで走る。

二つ目の砂丘を越えたところで、見えてきた。三十を超える天使が、舞い降りてくる。どれも人間にそのまま白い翼を生やしたような連中である。下級の天使であるエンジェルおよびアークエンジェル、それに彼らを統括するプリンシパティによって構成された戦力だ。大した相手ではないが、そのままでは進撃が鈍る。それに、オセが予想したよりも、反応がずっと早い。

無数の火球が飛んできた。露払いの悪魔達が応戦。無数の火球が飛び交う中、蛙顔の堕天使が走り抜ける。何度も至近にて爆発が巻き起こるが、殆ど気にしていないのは流石だ。跳躍したオセが、指揮を執っているプリンシパティの眼前に躍り出る。対応する時間など与えない。そのまま閃光がごとき剣を走らせ、首を跳ね飛ばした。

着地するまでに、六騎の天使を斬り伏せた。逃げ散る天使共には目をくれず、蛙顔の堕天使を追う。背中にしがみついているカエデは、青ざめてはいるが、恐れてはいない。詠唱を続けて、辺りの術を探り続けている。実に有望な子だ。これくらいの若手が、ガイア教にいれば。能力に応じた、地位に就いていれば。東京受胎は、起こらなかったのかも知れないと、オセは思った。組織として老衰し腐敗したガイア教は、氷川の敵にはならなかったのだ。

オベリスクの下を、抜ける。更に三十騎、追撃の戦力が現れる。露払いの堕天使達が後ろについて、その猛烈な攻勢を受け止める。前方に、更に三十。もう三十が、オベリスクから飛び立とうとしているのが見えた。火力のシャワーを浴びせられる。

「おおおおおっ!」

味方の肩を蹴り、オセは跳躍。オベリスクの下端を蹴って、加速。思わぬ方向から襲いかかられ、硬直するプリンシパティの首を跳ね飛ばす。着地と同時に、再度飛ぶ。無数に飛来する火球を強引に切り裂くと、再び数騎の天使を斬り伏せ、群れを抜けた。カエデは既に遠くに去った。

潮時だ。部下達に、オセは吠えた。

「良し、退けっ!」

中級天使であるパワーやバーチャーを主力とする部隊が、ついに姿を見せていた。天軍の精鋭部隊であり、あれに追いつかれると厄介だ。さっと逃げ始める部下達を背に、オセは砂漠に立ちつくした。剣を十字に構えると、追い来る天使達の部隊をにらみ付ける。

「来い! ニヒロ機構将官、堕天使オセが相手になる!」

「おのれ! 醜悪な悪魔め! 我ら天軍の領土を土足で踏みにじった報い、受けるが良い!」

指揮官らしい中級天使の長ドミニオンが、四枚の翼をはためかせ、下りてきた。彫像のように整った顔で、異様に清潔なローブを身に纏っている。手には三つ叉の槍があり、首からはロザリオをかけていた。

ちらりと、後ろを見た。部下達は、もう逃げ延びた。空には、既に200を越える天使が展開している。数は今後、更に増えるだろう。

気合いの声と共に、ドミニオンが突きかかってくる。無言で踏み込むと、その槍を右手の剣で跳ね上げ、左手の剣を振るう。流石にドミニオンは中級天使の長だけあり、首を狙った一撃をかわしてみせる。だが、それが狙いだ。飛び退いた瞬間、地面を思い切り踏む。衝撃を与えられた砂漠は、吹き上がる。大量の砂で視界を塞ぐと、オセはさっさと身を翻して、逃げ始めた。大量の火球が飛んでくるが、煙幕を背にしているから、命中率は著しく低い。当たったところで、下級の天使が放った炎の術など、大して痛くもない。

天使の嘲罵が聞こえる。別に、何とも思わない。後で十倍にして返してやればいいだけだ。

オセは部下を一人も失わず、帰還に成功した。

 

国境の砦までオセが戻ってくると、ブリュンヒルドが待っていた。名高いブリュンヒルド麾下の機動部隊が勢揃いして、いつでも出られるように構えているのは、壮観であった。鳥の姿をした悪魔の他、厳しく武装し翼を持つ堕天使達が、一糸乱れぬ統率で、出撃を待って隊列を組んでいる。

彼らに敬礼した後、オセは振り向く。天使共は追ってこない。追ってきたら、したたかに叩きのめしてから帰るつもりだったので、ちょっと残念だった。だが、マントラ軍との決戦を控えている今、無為な戦力消耗は避けたい。これで良かったのだと、自分を納得させる。

国境の砦は、氷川司令をいざというときには匿うことを考慮して、ユウラクチョウから人員を派遣して作り上げた。およそ1000の兵力が駐屯できる。今は丁度ブリュンヒルドの精鋭800が駐屯しているから、元々の守備兵500程は砦の外に展開している。砦に足を踏み入れる。西欧の城塞を思わせる、武骨な石造りだ。ただし、内部は石畳も整備されていて、清潔な空間が作られている。

「オセ殿!」

「おお、ブリュンヒルド殿か」

砦にはいると、真っ先に現れたのがブリュンヒルドだった。怪我はしていないかとか聞かれたので、平気だと応える。帰還した部下達の元へ案内して貰う。一瞬何だか寂しそうな表情を浮かべたブリュンヒルドだが、すぐに部下達の所へ連れて行ってくれた。砦の中は入り組んでいて、初見であればほぼ確実に迷う。

此処は氷川司令を迎える事も考慮しているから、広間は豪勢な作りだ。其処に、戦いから帰還した悪魔達が集まっていた。既に全員にマガツヒが配られ、回復術を使える者が治療に当たっている。頷くと、カエデを探す。隅にいた。四つんばいになって、石畳の上に指を滑らせている。メイド服はボロボロだが、仕事の方が優先らしい。まあ、後で幾らでも修復は出来るからと言う理由もあるだろう。

「先ほどから、ずっとあの調子です」

「ほう。 ユダヤ人が得意としていた、カバラ式の術か。 東洋の魔術師のはずなのに、随分面白い術を知っているな」

元々、ユダヤ人の賢者ソロモン王が使役した72柱の一人でもあるオセは、カバラの魔術を多少は知っている。だから、その判断が出来た。

カエデは先ほどから床に魔力を帯びた魔術文字を指先で刻んで陣を書いていた。それが終わると、床に複雑な模様が輝きながら浮かび上がる。今度は中腰のまま、空中に指を走らせる。光の円が複数現れ、それらの中には映像が映り込んだ。多数の術を展開して、一気に解析を進めているという訳だ。展開した術の中には、オベリスクを擬似的に再現しているものもある。光の固まりが、空に浮くオベリスクを模して、浮遊していた。それだけ見ても、かなりの技量の術者だと分かる。ブリュンヒルドは一瞥すると、少し声を落とした。

「オセ殿、あの子は本当に役に立つのですか? 無防備で、弱々しく見えるのですが」

「確かにそう言うところもあるが、なかなか肝は据わっている。 中空からの天軍の掃射にも、臆することなく仕事を続けていた。 フラウロスも評価しているしな。 今回の件で、私も評価を上げた」

「そう、ですか」

ふと、ブリュンヒルドが目を伏せたので、オセは困惑した。何か困らせるようなことでも言っただろうか。

カエデが顔を上げ、展開していた術を全て消す。額には薄く汗を浮かべていた。だが、満足そうな笑みもあった。

「解析が終わりました」

「そうか。 オベリスクが浮いているからくりが、分かったのだな」

「はい。 詳しくは、氷川司令のところで説明させていただきます」

どうやら、思ったよりもずっとこの子は有能らしい。オセはフラウロスの評価が間違っていなかったことを実感した。守備隊の長である中級堕天使を呼び出すと、オセは少し厳しい表情で言った。

「此処は引き上げる。 いつ天軍が現れるか分からないから、警戒は怠るな」

「は。 お任せを」

敬礼をかわすと、オセはブリュンヒルドとカエデを促して、帰路についた。ユウラクチョウまで戻れば、其処からアマラ輪転炉で一気に帰ることが出来る。

いつマントラ軍が攻勢に出るか分からない現状、一刻でも早い帰還が望まれる。この作戦も重要ではあるが、しかし早急であった。マントラ軍を叩きつぶしてからでも、攻勢に出るのは遅くなかったのに。

最近の氷川司令が焦りを感じていることを、オセは見抜いていた。体は健康なはずだ。むしろSEだった頃よりも仕事の量は減っており、睡眠時間も増えている。食事にも、気を使っている。そうなると、何かしらの精神的な問題なのであろうか。

いずれにしても、情報が足りない。キウンが言っていた裏切り者の件も気になる。今後は更に、オセが気をつけていかなければならなかった。

気がつくと、カエデが小走り気味に追いついてきていた。顔を見上げられて、オセは歩く速度を落とす。

「オセ将軍」

「何か?」

「あ、はい。 マントラ軍に勝ったら、次は天使の軍勢を攻めるのでしょうか」

「そうなるな。 マントラ軍が消えれば、我がニヒロ機構に抵抗できる勢力は、天軍のみになる。 そして天軍は、我らと絶対的に相容れない存在だ。 戦い、滅ぼす以外に、道はない」

ふと、カエデの表情に影が差した。この娘は、アカサカにいた時、天軍に一族全てを皆殺しにされている。それなのに、どうして喜ばないのだろうか。

「カエデ将軍。 君はひょっとして、復讐を望まないのか?」

「え? ……そんな事は、ないです。 天使なんか、大嫌いです。 出来るなら、自分の手で、滅ぼしてしまいたいです」

「だが、何か悩んでいるように見えるが」

カエデはオセの指摘に、少しだけためらった後、応えた。いちいち非常に真面目な対応だ。好感が持てる。

「この間、デカラビア将軍が大暴れした事件を、思い出してしまったんです」

「そうか。 思えば、あいつも不幸であったな」

「はい。 カエデには、今でもデカラビア将軍が悪い方だとは思えないんです。 でも、あの方も、様々なことから恨みと悪意を蓄積させて、ああなってしまったのだと思うと、単純に天軍を恨んでいても、何も解決しないような気がして」

「……そうだな。 だが、それは自分の胸の内にしまって置いた方が良いだろうな。 特に、部下達の前では、そんな事は言わない方が良いだろう」

堕天使の中には、盲目的に天使を憎む者も多い。オセも、彼らの気持ちがよく分かる。だから、むしろとても良くできたカエデの言葉は、憎しみを生むことも理解できる。同時に、思う。このままでは、勝っても何かしこりが残るのではないだろうか。

ユウラクチョウに着いた。さあ、後はアマラ輪転炉で、一気にギンザに戻るだけだ。

報告が終わったら、まずは一眠りしよう。オセはそう思った。

 

一眠りしてから会議室に赴くと、既に幹部達は集まり始めていた。若くて真面目な者ほど早く来る傾向が強い。オセは今回、ミトラと殆ど同着だった。これに対して、マダやフラウロスは遅れることが時々ある。ブリュンヒルドは最初に来ることが多かったが、最近はカエデもかなり早いそうだ。

会議室のすぐ側に住んでいる氷川司令が来る頃には、幹部は大体全員が揃っている。今回はフラウロスもマダも早かったので、オセは安心した。氷川司令を挟んで、ミトラと左右に座る。

会議室の中央にあるプロジェクターを、エリゴールが操作した。最近カエデに地位が並ばれてしまったエリゴールは、焦っているようで、雑用じみたことまでせっせとするようになっている。デカラビアの事件は、大きな影を組織に落としていた。皆が勤勉になったのは良いのだが、焦燥を覚えている者が多いらしく、オセはそれが不安だ。何か大きな事件の引き金にならなければ良いのだが。

「では、会議を始めてくれたまえ」

「は。 ではまず、マントラ軍の様子を見てください。 少し前に、偵察部隊が撮影してきたものです」

映し出された映像。イケブクロの街の防御が、更に強化されている。これは天軍の攻撃に備えてのことだろうと、オセは判断した。氷川司令も同じ考えらしく。ノートPCを操作しながら、何度か頷いた。

「どうやら、いつ行軍を始めてもおかしくないようだな」

「はい。 最終的な敵の予想戦力は、57000程に達します。 敵の戦力では、シブヤやユウラクチョウを落としながらギンザに迫る余裕はありません。 押さえだけを置いて、主力がギンザを突いてくるかと思えます」

机上の地図に、オセが指を走らせる。

進撃してくる敵の戦力は、40000弱、恐らくは38000程と、既に試算は済んでいた。これに対して、味方は押さえを考慮し、52000ほどを用意できる。数の上では有利だが、マントラ軍は幹部級の悪魔が全員出てくる事がほぼ確実で、しかもあのトールが先鋒になるのは間違いない。ただ、朗報もある。ゴズテンノウは、イケブクロから出ないことで、ほぼ確定だ。これで、気兼ねなくナイトメアシステムを叩き込むことが出来る。

現在、出撃がほぼ確実なマントラ軍幹部の名前を挙げていく。トールを筆頭に、四天王、青龍を始めとする龍族、更に鬼神族の有名な士官が何名か。まさに、錚々たる顔ぶれだ。

「それで、迎撃計画だが」

「は。 敵がユウラクチョウとシブヤに押さえを置いて、主力がギンザに向かってくる、この地点で迎撃を仕掛けます」

「随分ギンザより手前だが、大丈夫なのか? 今回の作戦目的は、敵を縦深陣に引きずり込む事なのだろう?」

「相手がトールである事を考慮しての布陣です。 恐らく、二度や三度は負けてやらなければならないでしょう。 先鋒には過酷な戦いを強要する事になります。 トールはあしらいつつ、他の部隊を誘引することになりますが、いずれにしても、死傷率はかなり高くなるでしょう」

オセの言葉に、皆考え込む。

今回、オセは前衛に立つことが出来ない。ただでさえニヒロ機構のナンバーツーであり、今回大功を立てると、人事のバランスが非常に悪くなる。だから今回に限っては、氷川司令の側で、支援に徹する予定である。万が一にも、トールが防衛線を突破した場合、オセとフラウロスが二人がかりでなければ互角には戦えない。そう言う意味でも、オセは控えていなければならないのだ。

「ならば、俺が出る」

「マダ将軍、厳しい任務になるが、良いか」

「任せて貰いましょう、氷川司令。 俺は元々、いくさが出来る以外に取り柄がない男です。 トールの野郎を食い止めるのには、俺が適任でさあ」

「そうか。 ならば、ブリュンヒルド将軍も着いていけ。 敵の空軍に蹂躙を許すと、かなり戦況が悪くなる。 絶対に制空権を渡すな」

ブリュンヒルドが頷く。後、何名かの将軍が、補助に付けられた。彼らの多くが、生きて帰れないだろう。

布陣の計画が、地図上に示される。スルト、モト、ミトラ、ロキ、将軍達の配置も決められた。キウンは本部の防衛を担当する。フラウロスは、更に重要な任務を受けて、一軍を率いて機動する事になる。エリゴール将軍は、ベリス将軍と共に前衛に着く。張り切っている二人だが、かなり生還は難しそうだなと、オセは思った。

シブヤはミジャグジさまが。ユウラクチョウにはニュクスが、防衛に当たる。もしマントラ軍が両拠点を本気で攻略に掛かった場合は、ある程度の時間支えなければならないから、任務は重要だ。二人とも防衛を得意としているから、任務は決して難しくはないだろうが。老獪な戦闘を得意としているから、不覚を取る事もないだろう。

そして、カエデも今回は参戦する。大規模な会戦に参加するのは初めてなので、副官に老練な堕天使を付ける。位置は中衛で、フラウロスの補助をすることになる。他の士官達も、大体配置が決まった。これで、決戦をいつでも迎えることが出来る。

今回の戦いは勝てると、オセは判断している。しかし、多くの人材を失うのも、ほぼ確実である。

所詮ボルテクス界は争いが渦巻く土地。そして、オセを始め、多くの者が戦いを望んでいる。

まだしばらくは、統一の時は来ないだろう。創世も遠い。そう、オセは判断していた。

 

5,マントラ軍、進撃開始

 

ついに、ゴズテンノウの大号令が下った。四天王寺、カブキチョウ、それにイケブクロ。各地の拠点から、この日を待ちわびていた戦力が、続々と集結しつつある。それを、トールが進軍しながらまとめ上げていく。

数は既に45000を越えていた。これに、毘沙門天が整備していた部隊が加わると、大体57000に達する。ただし、ニヒロ機構も此処まではほぼ正確に予想しているだろうなと、トールは考えていた。

空は一万を超える空軍で真っ黒である。中には、龍族が何騎か見える。結局守備に残った数体を除いて、殆どが出撃に同意した。これでマッハとの連携が上手くいけば、ブリュンヒルドの率いる空軍を押さえ込めるだろう。

砂漠を歩くトールの周囲には、ひっきりなしに指示を求める悪魔達が行き交っている。何しろ、ボルテクス界で進軍するものとしては、史上空前の大軍だ。いい加減面倒くさくなってきていたトールの元に、サルタヒコが駆け寄ってきた。

「トール様」

「どうした」

「先行の部隊から連絡です。 例の青年は、国境まで送り届けたそうです」

「ふむ、それは朗報だな」

例の青年、人修羅は、あの後ニヒロ機構へ向かいたいと言ってきた。マントラ軍に荷担する気はないようだが、氷川自身には用事があるらしい。この戦いの混乱に乗じて、ニヒロ機構本部に乗り込むつもりなのだろう。

もちろん、屈強な悪魔達が守りを固めるニヒロ機構を、あの青年一人で落とせるとは、トールも思っていない。しかしながら、あれだけの実力があれば、少なからず混乱させることは可能だ。それに乗ずれば、勝機は産まれてくる。

これは、トールの独断での行動だ。トールは高い品質の戦いを楽しみたい。だが、勝ちたいという気持ちもあるにはある。だから、青年の手助けをした。後は彼が、どれだけニヒロ機構を引っかき回せるかだ。

「リコは、きちんと着いていったか?」

「はい。 多少ショックは受けていたようですが、実戦に支障はないでしょう」

「ならばよし。 後は、どの辺りで戦線を構築するか、だな」

毘沙門天も指摘していたが、敵は縦深陣を敷いて、迎撃に入るはずだ。狙いは読めているのだが、対処の手段は残念ながら無い。敵の拠点を一つずつ攻略するような余裕はないし、進撃路も限られているのだ。前衛を崩したくらいで調子に乗っていると、気がつけば敵の包囲下で袋だたきという事態になりかねない。かといって、敵の網を突破できなければ、ニヒロ機構に近付くことも出来ないだろう。

そこで、敵の主要拠点をまず混乱させる。進入路はオルトロスが探し当ててくれた。普段ならそれでも侵入は無理だが、この大戦乱下での混乱と、人修羅の実力を考慮すれば、不可能ではない。

そして、混乱を全軍に波及させる。上級の将軍を討ち取り、敵を本格的な潰走に追い込めば、勝機は見える。兵力を分散させている分だけ、完全な混乱に落ちれば、敵は対応策がない。

問題は、ゴズテンノウだ。天使軍の動きに備えて本拠に残ったゴズテンノウだが、ニヒロ機構はそれも見越している気がする。一度や二度負けても、マントラ軍は滅びない。しかし、ゴズテンノウが命を落とすようなことがあれば、かなり危険な事態が来る。

何か一つ、手を打っておきたい所だ。

「毘沙門天を呼べ」

「は。 直ちに」

此方に向かっている毘沙門天と、一度話をして置いた方が良いだろう。続々と敵地へ向け進撃する部隊の指揮を執りながら、トールは悩む。今後の展望は、開けているとは言い難かった。

 

シブヤの地下牢。上級悪魔の犯罪者が入れられている其処で、ちょっとした騒ぎがあった。

監視カメラを始め、警備は極めて厳重だ。だがら、異変に警備が気付くのも早かった。最近赴任した警備主任の中級堕天使は、カメラの奥に蠢くその影に、手にしていたコーヒーカップを取り落とし掛けた。

「スペクターだ!」

恐怖が音声の形で漏れる。奴が今までもたらしてきた被害は、雷鳴のように伝わっている。ギンザで多くの悪魔を殺傷し、シブヤとカブキチョウを壊滅に追い込んだ。だからこそに、その対策も、してきたはずなのだが。

「数が増える前に、進入路を特定しろ! ミジャグジさまに、出動をねがえ! 警備部隊出撃準備!」

「デカラビア様の反応ありません!」

「おのれ、食われたか!」

右往左往する内に、部屋にミジャグジさまが入ってきた。相も変わらず柱に巻き付いていて、けんけんをするように飛び込んでくる。ちなみに、柱は一トン近くあるため、床が割れるのを防ぐために、ミジャグジさまは専用移動ルートが作られ、ゴムが敷かれている。

「状況を教えて貰おうかの」

「は。 スペクターが、地下刑務所に侵入。 デカラビア様の反応が消えました」

「なんぢゃと。 すぐに向かえ。 儂もすぐ駆けつけるでな。 これ以上の侵入は許すでないぞ!」

精鋭部隊を引き連れ、ミジャグジさまはすぐに地下へ向かう。サイレンが鳴らされ、警戒態勢が引き上げられた。警備主任もミジャグジさまについて、専用エレベーターで地下へ下りる。既に武装した堕天使達が、地下牢から続々と囚人達を避難させていた。広いホールの中は、蜂の巣をつついたような騒ぎだ。エレベーターから出たミジャグジさまが、喉を膨らませて息を吸い込むのを見て、警備主任は思わず耳を塞ぐ。

「落ち着けい!」

ミジャグジさまが一喝すると、皆が統率を取り戻す。後ろで見ながら、警備主任は流石だと思った。威厳と言い、迫力と言い、並のものではない。流石にシブヤを統率している、ニヒロ機構の重鎮だ。ゆっくり首を回して、周囲を見回しながら、ミジャグジさまは目を光らせる。

「避難状況は、どうなっておるのぢゃ」

「は。 上級悪魔の囚人は、既に避難させました。 現在、下級中級の悪魔達を、避難させている所です」

「ふむ、様子が変ぢゃな」

「と、いいますと」

ミジャグジさまは首を伸ばすと、舌をちろちろ出す。そうやって蛇が臭いを知ることを、警備主任は知っている。

「突入しろ。 多分、もう奴は此処におらんぢゃろ」

「私も、突入班に加えてください」

「ふむ、いいぢゃろう。 油断はするな」

一礼すると、警備主任は突入班に加わる。これでも武闘派で鳴らしている中級堕天使だ。スペクターの一体くらいになら、ひけは取らない。

突入班十名と共に、刑務所の中へ。深い深い通路だ。辺りはひんやりと湿っていて、悪魔でもおそれを感じてしまう。周囲の牢の囚人達は無事だ。槍を術で出し、数度しごいている前で、突入班の隊長が鋭く指示した。

「ツーマンセル、フォーセット!」

さっと二人ずつ組む。自分は、後衛としてサポートだ。彼らと組む訓練は受けていないから、ツーマンセルの突入に加われば邪魔をしてしまう。

「よし! GO!」

隊長の一喝と共に、戸を蹴り開け、八騎の突入部隊が中へ。人間に近いサイズの、小柄で小回りが利く者が最初に。雄大な体躯で、重火力を誇る者が続く。どちらにしても、まずは様子見。いつでも撤退してくる堕天使達を支援できるように、防御用の術を準備する。数瞬の沈黙。やがて、呆然とした様子で、突入班が出てきた。

「中には、誰もいません。 スペクターも、デカラビア様も」

「まさか」

闇の中へ、飛び込む。そして、見た。

デカラビアの牢は、確かにカラになっていた。そして、床には大きな穴が開いている。状況は、分かった。

デカラビアは、脱獄を試みたのだ。穴を掘り、アマラ経路につなげようとした。其処から脱走しようと思ったのだろう。だが。先に、異常に気付いたスペクターが、すぐ下で待っていた。弱っていたデカラビアはひとたまりもなく、スペクターに食われてしまったのであろう。

そして知恵を付けてきているスペクターは、獲物を喰らうと、厄介な敵が現れる前に、さっさと引き上げたという訳だ。

牢を出て、ミジャグジさまにそう報告。すぐに魔術班が牢に入って、床の修復作業を始める。この牢の構造も、全体的に見直さなければならないかも知れない。

「ニヒロの面汚しめが。 最後まで敵を利する真似をしおって!」

ミジャグジさまが吐き捨てる。警備主任は、何だかとても悲しい事件だなと思った。中間管理職の悲哀は、彼もよく分かっている。デカラビアの事は、他人事ではないのだ。

しばらく、暗鬱として、警備主任は過ごすこととなった。

 

デカラビアを貪り食ったスペクターは、一段と数を増やしながら、集結を始めていた。大都市の地下に少しずつ斥候を張り付かせ、様子を伺っていた甲斐があった。デカラビアの情報で、それがはっきり確信できた。無数のスペクターが、一斉に笑う。

そう。ついに始まるのだ。マントラ軍とニヒロ機構の前面衝突が。

これぞ好機。あの忌々しいオセを、ついに葬ることが出来る。殺して、潰して、貪り食う。それを想像すると、性的絶頂を迎えてしまいそうだった。3000を越えるスペクターが、ギンザに向かう。直接アマラ経路からギンザに潜り込むことは出来ない。だが、警備が鈍くなっている今であれば。幾らでも、攻撃の手段などあるのだ。

この間餌場で舐めたことをしてくれた人間に似た悪魔も、この機に叩きつぶしてやりたい所である。これだけの大会戦となれば、ボルテクス界中の悪魔が集まるだろうから、その機会もあるはずだ。そして、ニヒロ機構を潰すほどに数を増やせれば。マントラ軍も、続けて屠り去ることが出来る。

全ての悪魔は、死ぬべきだ。そうだ、悪魔と形を変えた人間など、みんな腐って溶けてしまえばいいのだ。

スペクター、太田創は、人間の絶滅を夢想していた。今、それが間近に届こうとしている。何と甘美なことだろう。忌々しい人間共を、この手で滅ぼすことが出来るのだ。悪魔と形を変えているのなら。その全てを食らいつくし、滅ぼしてしまおう。

「ひひ、ひひひひひひ、ひひひひひひっ!」

無数のスペクターが、アマラ経路の中で、一斉に笑った。

間もなく、世界を滅ぼすことが出来る。その確信に満ちた、狂気の笑いであった。

 

                              (続)