悲劇が始まる時

 

序、シブヤ要塞にて

 

その日、ニヒロ機構の拠点であるシブヤ要塞を巡回していた堕天使フラウロスは、部下達が騒ぐのを敏感に察知して、歩みを早めていた。下級の悪魔ではとても聞き取れないような微少な音だったが、フラウロスの感覚は確かにそれを拾ったのだ。

氷川司令の不可解な命令で送り出したフォルネウスを死なせてしまったことで、かなり苛立っていたと言うこともある。だからという訳ではないが、フラウロスはルールを破った。ちゃんと決められている道を通らず、裏道を通ることにしたのである。

シブヤは、外殻状の強力な外壁によって周囲を守り、ドーム状に張り巡らせた防御術で対空攻撃に備えている頑強な要塞である。指揮施設は六カ所に分かれ、常に最高幹部であるフラウロスとミジャグジさまは別の場所にいるように義務づけられている。これはテロ対策のためである。スペクターによる襲撃で、一度壊滅しているシブヤだが、二度と同じ手は食わない。

道は縦横に張り巡らされており、それぞれを常時警備の悪魔が回っている。高位の悪魔であっても、この道を通るようにと決まっているのだが。フラウロスは今日、それを破った。道を通らず、警備達が認識できないほどの速度で、建物の屋根伝いに、直線的に騒ぎの場を目指したのである。

この辺り、オセとはだいぶ考えが違うと、フラウロス自身も思う。もしオセにばれたら、結構きつく説教されるだろう。お前は上に立つ存在の自覚がなっていないとか、部下達に示しが付かないだとか。

だが、今は兎に角急いだ。やがて、目的地の前に到着。着地すると、怪訝そうに警備の悪魔が敬礼した。此処は、アマラ輪転炉を設置している、最重要区画の前だ。此処からは、流石に直接正面から入るしかない。

「フラウロス将軍、どうなさいました」

「何か騒ぎが起こったようだからな。 見に来た」

「そんな、将軍のお手を煩わせるような事ではありません」

「それは俺が判断する。 いいからさっさと通せ」

自分用のIDカードを出す。何騎かの術を得意とする悪魔が、それぞれにブラックボックス化した技を使い、作り出したものである。術が苦手なフラウロスにはちんぷんかんぷんな代物で、コピーしてみろと言われても絶対に不可能だ。カードを壁にあるスロットに入れると、数秒で認証される。後は手をドアにかざして、魔力の波長を読み取らせる。戸が開いた。

護衛と一緒に、闇の底まで続いていそうな階段を下りる。左右の壁には、クラシックスタイルのランプに似た照明器具がおかれている。その中には、東京受胎を生き残った骨董品までもがあるようだ。何度か此処は通ったが、なかなかに幻想的な光景である。ロキのコレクションらしいのだが、実に粋だ。

階段を下りると、広いホール状の空間がある。天井近くには大きな照明装置があり、ダクトが縦横に行き交い、一角はオペレーションルームだ。いざというときは仮の指揮所としても使える施設であるから、堅牢さは比類無い。ダクトが多いのは、自由な飛行を妨げるためでもある。

警備の悪魔達に敬礼を返しながら、さっきの音源を探す。多くの悪魔が行き交っているが、それほどの騒ぎにはなっていない。ただ、警備の悪魔達は、何だかそわそわしているようだ。

警備主任をしているのは、新任であるレヤックのカエデだ。この間オセが拾ってきたアカサカの生き残りで、意識を取り戻してからは、実に積極的に働いている。口に出すことはもちろん無いのだが、オセの読み通り、天使軍への報復を行うためらしい。そのカエデを探すが、いない。警備の悪魔の一騎が、フラウロスに気付いて駆け寄ってきた。

「フラウロス様、わざわざお越し頂きまして。 何用でしょうか」

「何か騒ぎが起こったようだから、来てみた。 アマラ輪転炉の辺りか」

「あ、はい。 それが、マガツヒの採取中に、訳の分からない輩がアマラ輪転炉から現れまして。 どうやら、人間のようなのですが」

「また、人間だと?」

舌打ちしたフラウロスは、すぐにアマラ輪転炉の方へ足を向けた。途中、大瓶にマガツヒを入れて運ぶ悪魔とすれ違う。瓶の中のマガツヒが、半分くらいしか無いのが気になる。多分、騒ぎを避けて、さっさと運び出したのだろう。

この間も、ベルフェゴールが連れてきた人間が、一悶着を起こしたばかりだというのに。どうしてこう、シブヤでばかり人間がらみのトラブルが起こるのだ。以前現れた二匹も、それは大きな迷惑を掛けてくれた。オスの方はマントラ軍に行くとかほざきだし、しつこくてかなわないので、氷川司令に許可を取ってさっさと国境線近くまで送り届けさせた。メスの方はいまだに居座り、何が不味いの気に入らないのと好き勝手なことを言っては、監視の悪魔を憤慨させている。この上、更に人間が増えるのはぞっとしない。此方が手を出せないのを良いことに、好き勝手なことばかりをする人間は、嫌いだ。

分厚い防壁に守られているアマラ輪転炉の格納室からは、言い争う声が聞こえてきていた。片方はカエデのものだ。普段は物静かな娘だが、今日は珍しく声に怒りが含まれている。もう一方は、中年の男か。此方は相手を侮る雰囲気が、露骨ににじみ出ていた。

「だから、駄目です!」

「いいじゃんかよ。 見たって減るもんじゃねえだろうに。 なあ、案内してくれよ」

「此処は、ニヒロ機構の重要拠点です! 部外者を、好き勝手に歩き回らせる訳にはいきません!」

論理的なカエデの言葉にも、男は全く心を動かされる様子がない。気配を消し、壁に背を付けて様子を伺っていたフラウロスは、怒りがせり上がってくるのを覚えた。男はなおも、しゃあしゃあという。

「じゃあ、あんたの恋人にしてくれ。 だったら、部外者じゃないだろ。 見た感じ、男とつきあったこと無いだろ。 何事も経験だしな。 怖いって言うなら、おじさんが手取り足取り指導してやるぜ?」

「……っ!」

冗談だというのは口調からも分かるのだが、ちょっとばかり洒落にならない。カエデを助けてやらなければならない。咳払いして格納室に足を踏み入れると、人間の男が、帽子を取って一礼した。無精髭を生やした、痩身の男だ。飄々とした雰囲気があり、年期の違いを感じさせる。文字通りまだまだ子供のカエデには、相手は難しかっただろう。

カエデは殆ど人間と違わない姿をした、レヤックという悪魔だ。アカサカを支配していた魔女ランダの配下であり、なかなか豊富な術の知識と、緻密に整理された頭脳の持ち主である。ただ、メンタル面は所詮子供であり、今のような場面には対応しづらかったようだ。運動神経も鈍く、時々何もないところで転んでいるのを見かける。

「カエデ、もういい。 後は俺が相手をする」

「……。 分かりました、フラウロス将軍。 カエデの力が足りなくて、申し訳ありません」

「何、得意不得意の問題だろ。 気にするな」

一礼すると、足下まであるロングスカートを引きずって、カエデは部屋を出て行った。今日は西洋の魔女スタイルだ。小走りで出て行くカエデは、目尻を拭っていた。

此処の幹部であるニュクスに気に入られて、毎日のようにいろんな服を着せられているカエデは、会う度に印象がちがう。嫌がらないところからすると、ひょっとするとファッションを変えることが好きなのかも知れない。この間飲みに行った時、造作が元々いいから、何を着ても似合うのだとか、ニュクスが楽しそうに話していた。

カエデにフラウロスは期待している。やる気はあるし、術の腕もいい。じきに幹部にもなれるだろうとも睨んでいる。眼を細めて駆け去る後輩を見送るフラウロスに、男が咳払いした。

「で、そろそろいいか?」

「ああ。 俺はフラウロス。 このシブヤ要塞の、攻撃軍部隊の司令官をしている堕天使だ」

「そうかい。 俺は聖丈二。 月刊アヤカシって雑誌の記者さ」

「月刊アヤカシ? なんだそれは」

「あんたらの言葉では、東京受胎って言うんだってか。 それが起こる前に、東京で発行されていた雑誌だよ。 もっとも、ちいとばかしマイナーすぎて、知ってる奴は殆どいないだろうがね」

帽子を直すと、聖という男は、鋭い視線を射込んできた。ただの軟派な不良中年ではない。相当な修羅場もくぐってきている様子だ。

「なあ、重要施設を見せろとはいわねえ。 歩き回るくらいはいいだろ?」

「そう言われてもな。 既にお前と同じ人間が一匹、好き放題をしていて困っている所なんだよ」

「なら、そいつと会わせて欲しい。 そうすれば、あんたらも監視がちったあしやすいだろう。 まとめてみればいいんだからよ」

「……ちょっと、待っていろ」

壁に掛けてある黒電話を手にして、ダイヤルを回す。部屋の外からは、複数の視線を感じる。カエデは赴任したばかりだが、ひたむきな勤務態度と、誠実な言動から人気がある。だから、聖とか言う男は相当な憎悪を彼らから受けている様子だ。まあ、気持ちは分かる。子供相手のあのセクハラ言動は、流石のフラウロスも怒髪天を突くものがあったからだ。冗談でもやっていいことと悪いことがある。

電話の先は、ミジャグジさまだ。数回コールした後、受付の悪魔が出る。すぐにミジャグジさまに代わって貰う。仕事中でありながら、ミジャグジさまは機嫌が悪くなることもなく、フレンドリーに電話に出てくれた。

「おお、フラウロス将軍か。 どうしたんぢゃ」

「実は、アマラ輪転炉から人間が現れた。 本人は、前現れた人間と会いたいとか抜かしていてな。 対応を軽く協議したくて、電話した」

「ほう? それは困ったものぢゃのう」

「これ以上増えると、監視の悪魔の胃に穴が開くぞ。 何とか対策は出来ないか」

此処の司令官は、名目上はミジャグジさまだ。あくまでフラウロスは此処に駐屯している攻撃専用部隊の司令官であって、筋は通すようにしている。ミジャグジさまも、きちんとフラウロスに気を使ってくれるので、今のところ問題は起こっていない。良好な関係だと言える。

「まあ、確かにまとめて監視した方が楽なのは事実ぢゃのう」

「ならば、監視用の悪魔はどうする。 今見ているデカラビアに、追加するか?」

「そうさな、デカラビアは監視チームの上位にして、五騎くらいをシフトで監視に回せば良いぢゃろうて。 元々あ奴は、そろそろもっと良い仕事をさせてもいい頃であったしのう」

まあ、それなら確かに監視もしやすいだろう。それに、人員には若干の余裕がある。閑職に就いている奴もいないわけではないので、すぐに手配してはくれるだろう。

「話はまとまったか、旦那」

「ああ。 此方だ」

「そりゃあどうも。 案内して貰って光栄ですぜ、将軍」

頭に来る物言いだが、我慢する。ひょっとして、この男。此方が手を出せないことに気付いているのではないか。東京受胎の前は、そんな縛りはなかったと聞いているのだが。不快でしょうがない。

男はカメラを手にしていて、彼方此方を機嫌良く写していた。しかも少し油断すると、すぐに見せると不味い方向に行こうとするので、気が気ではなかった。これではデカラビアがぼやく訳である。

一階に出ると、聖とか言う男は、楽しげにもっとカメラを動かしていた。フラウロスは何度も首をへし折りたくなったが、そのたびに手を止めた。我慢だ我慢。忍耐を身につけろ。

シブヤ外縁に作られている歓楽街の最高級バーに、もう一匹の千晶とか言う人間はいた。丸テーブルにベルフェゴールと向かい合って話し込んでいるのは、術を教わっているのだという。才能があるらしく、短期間で炎くらいなら熾せるようになったとか。最近は、人形を動かす術を習っているらしい。

千晶という娘は、テーブルの上にあるわら人形に手をかざしてなにやらつぶやいている。だが、人形はまだぴくぴく痙攣するくらいで、立ち上がるには到らない。ベルフェゴールが、色々指示しているが、それはとても親身で丁寧だ。ニヒロ機構でも有名な偏屈女が、何と、時々優しげな笑みまで浮かべている。フラウロスは目を擦って、頬をつねってみた。ちゃんと目は醒めている。訳が分からないが、或いは偏屈者同士気が合うのだろうかと思った。

側に浮いている、ヒトデのような姿をしたデカラビアが、疲れた様子でこっちを見た。そして、もう一匹人間が増えたのを確認して、更にげんなりしたようであった。ヒトデ状の体の真ん中にある大きな一つ目に、強い疲労が宿っている。

「あ、すまんなデカラビア。 もう一人、連れてきた」

「見れば分かる。 フラウロス将軍、貴方は私をストレス死させる気か」

やりとりに気付いて、千晶とか言う人間が顔を上げる。

にやりとした聖は、こっちの苦悩など知ったことではない様子で、千晶に歩み寄っていった。

「よお、初めまして」

「貴方は? 人間?」

「見ての通りさ。 月刊アヤカシって雑誌の記者をしている、聖丈二って言う、しがないおじさんだよ」

「そう。 私は橘千晶。 よろしく」

差し出された名刺を、千晶は受け取り、ポケットに入れた。その間、にこりともしない。噂の月刊アヤカシらしきものが、千晶の傍らにあることを、フラウロスは確認した。意外とメジャーな雑誌だったのかも知れない。聖は自分の雑誌に気付くと、にやりと口の端をつり上げた。それを突破口に、話をするつもりなのだろう。

しばらくは、フラウロスも見張りに参加することにする。氷みたいな目をした千晶に、物怖じせず聖は積極的に話し掛けていくが、カエデと同じようには行かないようだ。とりあえず、情報収集を互いに行うだろうし、しばらくは我が儘も言わないだろう。千晶も、聖の軽薄な言葉に対して冷静に応じており、今のところ修羅場になる気配はない。見た感じ、相当二人とも場慣れしている。ベルフェゴールは二人のやりとりに嘴を挟む気がないらしく、腕組みして様子を見守っていた。

換えの監視要員が来た。中級の堕天使で、責任感も強い男である。引き継ぎをすると、デカラビアを誘って、その場を離れる。ようやく監視から外れることが出来たデカラビアは、ヒトデに似た体を折り曲げて、安心した様子を表現していた。中級の悪魔では、ベルフェゴールを抑えられるか不安もあるが、すぐにもう一騎の増援が来ることになっている。後はシフトで、監視を回していくので、一騎ずつの負担はぐっと減ることになる。ただ、いきなり離れるのも無責任なので、少し距離を取って、様子を伺いながらデカラビアに語りかける。

「ご苦労だったな。 後で飲みにでも行こうか」

「私は酒を飲めない」

「そうか、それは悪かったな。 今後は、監視班のリーダーになって貰うから、負担は減る。 最終的には、別の仕事に就いて貰う予定だ」

「それは安心した」

デカラビアは、一種近寄りがたい雰囲気がある。プライドが高いと言うよりも、単純に取っつきにくいのだ。バランスが取れた高い能力を有し、上級悪魔の名前に相応しい実力の持ち主なのだが。しかし、何かが彼の全てを縛り上げている気がする。一度腹を割って、しっかり話し合ってみたいと、フラウロスは考えていた。

もう一騎の中級堕天使が来た。これで、大丈夫だろう。幾つかのことを引き継ぐと、フラウロスは自室に戻ることにする。デカラビアは疲れた様子で、歓楽街の雑踏に消えていった。今の時点では、特にすることもない。訓練を始めるまではまだ時間もあるし、ゆっくり休んだ方が良いだろう。ただでさえ、時間外労働をして、ストレスをためてしまったのだから。

後で、フラウロスは、後悔することになる。

あまりにも早く、この場を離れてしまったことに。

この時既に。後のボルテクス界の運命を大きく揺り動かすことになる、悲劇が始まっていた。

 

1,新たなる住居を求めて

 

クレガとフォンが帰ってきた。琴音は、二人の表情を見て、結果が芳しくないことを悟った。崩れかけた住居に、体を曲げて入ってきたフォンは、開口一番に言う。

「駄目だ。 どのビルにも、先客がいる。 しかも、一緒には住めそうもない」

「そうですか。 困りましたね」

拡げた地図に、×印を付ける。また増えてしまった。ため息を押し殺す。このビルを周辺にして、琴音が作り上げた地図は、×印で埋め尽くされつつあった。

また、天井からコンクリの破片が振ってくる。不安そうにティルルが唸った。罅が縦横に走った天井。毎日のように、強度が落ちている。恐ろしい速さで劣化が進んでおり、もうまもなく崩れ落ちるのは明白だ。

「一度、崩してしまった方が良いかもしれんの」

「そうですね。 この構造を維持するのは難しそうですし。 それなら、一度崩してしまって、廃材で住居を再構成した方が良さそうです」

「それなら、早くしてよ。 毎日ティルルが怯えてるんだから」

カズコにせっつかれて、琴音は苦笑いした。問題は、ケーニスだ。此処は元々、彼の住居だった。

バックベアードであるケーニスは、人語を解することも出来る。話を聞いて悲しそうにしていたが、反対はしていない様子だ。

「ケーニス、ごめんなさい」

ぺこりと一礼。だが、ケーニスは触手を伸ばして、問題ないと空に書いてくれた。本当に申し訳ないと思う。

そうと決まれば、作業を急ぐ必要がある。全員で、一度家財道具の一切を、外に運び出す。大きめのものは、既に影に移してあったから、それほど急がなくてもいい。カズコは手鏡を大事そうに抱えていた。この建物の六階で見つけたものだ。

不安そうにティルルが見つめているのに気付いたので、笑顔を向ける。片言で、ワームは話し掛けてきた。

「コトネ、ミンナノイエ、コワスノカ」

「うん。 もう保ちそうにないから。 一度壊して、新しく作るの」

「ミンナノイエ、マタナクナルノカ」

「大丈夫よ。 きっと新しい家、すぐに見つけてあげるからね。 それでも駄目なら、作ってあげるから」

頭を抱きしめて撫でると、悲しそうにティルルは唸った。片言でしか喋れないが、頭が悪い訳ではなく、きちんと話を理解も出来ている。

フォンが、大きな戸棚を抱えて、ホールから出てきた。その脇で、クレガが生活必需品を効率よく運び出してくる。ケーニスは触手が細いので、あまり大きな荷物は持ち出せない。カズコは要領が良いから、自分に運べそうなものはもうあらかた持ち出し済みだった。ふと、作業中の老妖精はカズコの足を一瞥した。この老妖精が、時々カズコをとても優しい目で見ていることを、琴音は知っている。

「新しく、靴を作ってやろうな。 そろそろ痛んできたしな」

「うん」

いつもは毒舌のカズコも、口数が少ない。住処の側には、買ってきたものの、手のつけようが無くなって放置している石材が並べられている。その影に、みんな移動して貰う。その後は、フォンとクレガと一緒に、周囲を見て回る。

一番酷いダメージを受けているのは、三階より上の主柱だ。何度か見てきたが、保っているのが不思議な状態で、いつへし折れてもおかしくない。問題は、どうやって崩すかだ。東側はもう完全に崩落していて、手が付けられない状態だ。

自重がある分、一度崩してしまえば、却って安定する可能性が高い。適切なサイズの石材を積み上げれば、皆の生活スペースくらいは作れるだろう。もちろん、前より不便にはなる。だが、仕方がないことだ。

「主柱に、攻撃術を叩き込んで、崩すしかなさそうだな」

「はい。 問題は、一気に崩れるかどうか、ですが」

琴音と相性が悪いからかはよく分からないが、攻撃術は消耗が大きい。しかも今の状況、術による破壊に失敗すると、建物が崩れないばかりか、却って不安定になって危険になるだけである。主柱を折って、なおかつ自重で一気に潰れるような崩し方が好ましい。

感覚で作業をするには経験もスキルも足りない。だから、頭を使うしかない。頭を使うと言うことは、ひらめきで事を進めると言うことではなく、入念にチェックするという事だ。

三人で額をつきあわせて、拡げたこの建物の構造図とにらめっこ。以前時間がある時に、黙々とフォンが作ったものだ。フォンは見かけよりもずっと頭が良くて、特にこういう作業が得意である。

主柱にどういう打撃を与えたら崩れるのか、念入りに考える。どうも、四階以上の構造が、妙な形で安定しているのが原因ではないかと当たりを付けた。崩落した東側が、横のベクトルを下の階に掛けているのに対し、上の階が安定しているのが、今の状況の現況だ。

それなら、不安定な柱を崩すよりも、そちらに刺激を与えた方が良いかもしれない。クレガはあごひげをしごきながら言う。

「今、攻撃術は幾つくらい使える?」

「そうですね。 まず、大きいのだと、ブフダインが撃てて二発。 でもこれは、建物の破壊には向きません」

有効射程距離が狭い上に、氷の塊を出現させるこの術では、下手をすると対象を氷結してしまうのだから当然だ。カズコのマガツヒを貰って着々と力を蓄えているが、それでもまだまだである。

後は圧搾した火球を炸裂させる術もある。これはカブキチョウで、緑色の悪魔を蹴散らすのに使った術だ。かなり威力が出るものであり、圧力も高い。だが、燃費がとても悪いので、今回の作業には向かない。この間襲撃してきた、黒い鬼神に使わなかったのも、燃費が悪いからだ。以前実戦投入した時も、いちいちカズコにマガツヒを補給して貰わなければ使えなかった。

「他には?」

「メギドが撃てます。 でもこれは、制御が難しくて」

「儂が思うに、その方が良いだろう。 お上品な攻撃よりも、此処は派手にドカンとやった方が良い」

「そうだな。 俺も同感だ」

クレガにフォンも同意した。そうなると、琴音も反対する訳にはいかない。

メギドは正体がよく分からないが、恐らく対消滅によって純エネルギーを発生させて、それで敵をなぎ払う術である。破壊力は大きいのだが、消耗が特に大きく、一度撃つとしばらく身動きが取れなくなる。今の琴音の実力では、崩れかけたマンションをまとめて消し飛ばすような事はないだろうが、それでも少し不安がある。何より、この術は、あまり好きではないのだが。

この場合は、好き嫌いを言っていられない。この術であれば、燃費の点から考えても、充分な威力を見込める。

「問題は、どの階を狙うかだが、やはり柱よりも、上の方がいいか?」

「そうですね。 私もそれに賛成です」

「じゃあ、まずは儂が術を叩き込んでみるか」

クレガが腰を上げる。

戦いは嫌っているが、元々この老レプラコーンは、ヨヨギ公園の勢力でかなりの上級士官を務めていたのだ。術はかなり得意だった上に、最近は思うところがあるらしく、鍛錬を繰り返している。簡単な攻撃術くらいはお手のものである。今でも悪魔相手には、手が震えてしまって撃てないようだが。ただ、怠け者では断じてない。その証拠に、戦い以外の時は、リーダーシップも取ってくれるし、カズコやティルル、ケーニスの面倒も見てくれる。

しばらく構えを取ったり、場所を変えたりして間合いを計っていたクレガは、やがてフォンを招き寄せた。サイクロプスの巨漢が膝を突き、その肩に小柄なフォンが登る。しっかり安定した足場を得て、充分に安定したと見るや、クレガは詠唱を開始。琴音から見ても、かなり大きな魔力である。そのまま、火球の術を撃ち放つ。反動で、フォンの巨体が大きく揺らいだ。直径一メートル近い火球は、回転しながら空を驀進、四階に飛び込んで炸裂した。

耳を塞いだ琴音の前で、残っていたガラス窓が内側から吹っ飛び、マンションの巨体が揺動する。だが、崩れるにはいたらなかった。たいして消耗した様子もなく、クレガは眉をひそめた。やはり、術との相性が、消耗に大きく影響している。今の術は琴音の火球と大差ない威力を持っているが、クレガなら連発可能であろう。

「ううむ、やはり儂の実力では、少し足らんな」

「だが、かなり傾いたぞ」

確かに、傾斜が大きくなっている。此方に崩れてくることは、これで無くなった。それに、もう住むことは絶対に不可能でもある。更に不安定になったマンションを見て、琴音としてもしっかり思い切りがついた。

続いて、五階にクレガが火球を叩き込む。結果は変わらない。火の粉が此処まで飛んでくる。隣に来て、カズコが見上げていた。

「思ったより、クレガってずっと強いね」

「うん。 でも、戦いが好きではない人よ」

「分かってる」

カズコは何か言いたそうだったが、結局沈黙で通した。

五階から噴き上げる炎が収まると、クレガは戻ってきた。特に消耗した様子もない。攻撃術を使うと、いちいち疲労が激しい琴音としては羨ましい。服に付いた埃を払うクレガは、やはりいつもと同じ、不機嫌そうな声で言った。

「交代だ。 やはり儂の力では無理だな。 琴音、四階を狙ってみてくれ。 かなり脆くなっている筈だ」

「はい」

「足場はいるか?」

フォンに大丈夫だと断って、適当な砂丘の上に陣取る。フォンには、もし破片が飛んだ時に、対応して貰わなければならない。だから、此処に残って欲しいのだ。何度か見たのだが、フォンの実力は、マントラ軍の中級鬼神にそう劣るものではない。破片が飛んできても、充分対応は可能だ。

さっきよりずっと近くで攻撃術を放てるので、だいぶ間合いが計りやすい。しばらく位置を調整して、狙いを付ける。メギドは滅多に使わない大きな術で、まだ実戦投入はしていない。練習の時も、命中率が極端に低く、特に四十メートル以上離れると、殆ど当たらない。

立ち位置を決めた。片膝を着いて。印を組み始める。体が淡く光り、全身の力が抜けていくかのようである。クレガが、カズコからマガツヒを分けて貰って頬張っている。それを横目で見ながら、詠唱を進める。

胸の前で、鋭い音と共に合掌。指を組み合わせ、両人差し指を目標に向ける。何度か意識が飛びかけるが、そのたびに支え直す。目を閉じて、詠唱を続行。額から流れ落ちてきた汗が、顎から垂れた。

辺りの、音が停まる。詠唱が、終わった。術を、解き放つ。

「メギド!」

反動で、後ろに吹っ飛ばされる。火線は見えない。この術は、目標点で不意に炸裂するからだ。わずかな空白の後、静が動へと跳躍した。手で、両耳を塞ぐ。鼓膜が破れるようなことは無いと経験から分かっているが、本能からそうしてしまう。

マンションが、火を噴いた。七階から下、全ての窓から炎が飛び出す。猛烈な衝撃波が辺りを叩き、砂を派手に巻き上げた。音は凄すぎて実感があまりない。四階は、殆ど跡形もなく吹っ飛び、辺りにコンクリの破片が降ってくる。これだ。これだから、この術は嫌だったのだ。

マンションが崩れる。激しい地鳴りと共に、ついに長かった寿命を終えて、マンションがその形を崩していく。

恐ろしい術である。出来れば、生き物相手には絶対に使いたくない。だが上級の悪魔が敵になってくると、そうも言っていられないのだろうと、琴音は思う。辺りには、マンションの破片が一杯散らばっていた。全身の脱力感が酷い。強烈な渇きを感じる。マガツヒを食べたい。肩を自分で揉みながら、みんなの所に歩いていく。

ふと、其処で気付く。誰か知らない奴がいる。二人だ。

小走りで駆け寄る。クレガとフォンが、皆を庇って、その二人と相対していた。敵意はないようだが、感じる力がかなり大きい。駆け寄る。その一人。上半身裸で、全身に入れ墨を入れている、人間に近い姿をした悪魔が、此方を見た。その隣には、随分お洒落な格好をした妖精がいる。特徴を見る限り、ピクシーだろう。

二人だと思っていたが、三人だった。と言うのも、二人の上空を、小さな影が飛んでいる。エイに近いと思ったのだが、堕天使の魔力波動を感じる。見かけよりもずっと実力は高そうだ。青年は構えるフォンとクレガから視線を外すと、琴音を見た。

「今の術は、君が撃ったのか」

「はい。 私は、サマエルの白海琴音と言います。 貴方は?」

「俺は、榊秀一。 種族名は、多分人修羅だ」

「榊、秀一君? 人修羅?」

種族名の人修羅というのは、聞いたことがない。彼方此方で教わって、主要どころは大体抑えたはずなのだが。そこで、ふと思い出す。ひょっとすると、徳山先生や、自分と似たような存在なのではないだろうか。

この世界の、あまりにもおぞましい秘密の一端。徳山先生から聞かされた時には、吐き気がしたものだ。もし。この青年にも、記憶が残っているとしたら。いや、名前からして、残っているとしか思えない。

だとすると、気の毒だなと琴音は思う。世の中には、知らない方が良いことがある。琴音はそれを思い知ったばかりだ。

「シブヤに向かっているのだが、迷ってしまった。 案内をして貰いたいと思ったんだが」

「怪しい奴だな。 これでも此方は忙しい。 帰れ!」

「俺で良ければ、手伝わせて貰う。 案内は、その後でいい」

拒否反応を示したフォンに、秀一という青年はさらりと返した。意外だ。琴音が今まで会ってきた悪魔の中で、一番謙虚かも知れない。ただ、無表情で、反応が平坦なのが気になる。落ち着いていると言うよりも、感情が欠落しているようだ。

特に疑う理由もない。そう琴音は判断した。油断しすぎるのも危険だが、神経質になりすぎることもないだろう。

「手伝って貰いましょう。 今はただでさえ、手が足りない状態です。 そのお礼として、案内くらいならします」

「琴音、本気か?」

「もし、敵意があるようなら、他に接近の方法もあるはずです。 いざというときは、私が戦います」

「いや、お前だけには押しつけられんよ」

クレガはあごひげをしごきながら、カズコとティルル、それにケーニスを読んだ。皆でまとまって、距離を取っておくつもりらしい。若干うさんくさげにしているフォンをなだめながら、崩したマンションの方へ。秀一は二匹の悪魔と一緒に着いてくる。

崩したマンションは、見事にばらばらである。彼方此方の破片からは鉄骨が飛び出していて、ガラスも散らばっている。非常に危険な状態である。ざっと目を通して、どうしたら住居に出来るのか考える。まず、大きめの破片を集めたいところだ。

「ところで、琴音。 どうして建物を壊していたんだ?」

「この間の、マントラ軍とニヒロ機構の戦いで、流れ弾を受けて。 不安定で危険な状態になっていましたから。 一度崩して、住居を建て直そうと思ったんです」

「そうか。 大規模な戦いが、起こっているんだな」

「まだまだ始まったばかりだと思いますよ。 しばらくは小康状態が続くとは思いますけれど、いざ発火したら、ボルテクス界全土を巻き込むはずです」

元々劣化していたマンションは、見事に瓦礫の山になっていた。無言でやりとりを見守っていたピクシーが、ふわりと山の上に浮いて行き、手招きしてくる。

「シューイチ、この破片、基盤に使えないかな。 結構平らで、無事に残ってるよ」

「そうだな。 使えそうだ。 運ぶから、そっちを持ってくれないか」

「ああ」

急に話を振られたフォンだが、特に嫌がることもなく。青年の依頼通り、一緒に運び始める。

驚いたのは、十メートルはあるコンクリの平たい破片を、フォンと二人がかりとはいえ、軽々と持ち運んでいくことだ。琴音は細かい破片を運びながら、お腹がすいたなと思った。マガツヒを早く食べたいが、今は我慢だ。

邪魔な破片を避けていく横から、秀一とフォンが大きく有用なものを運び分けていく。小山のような瓦礫が、見る間に整理されていった。空を舞っているエイも、色々と指示をしていて、秀一は頷きながら運び分けていた。ピクシーが、いかづちの術を使って、辺りを掃射し、ガラスの破片や小石くらいの細かい破片を吹き飛ばしている。どうやら彼女の雷撃は、物理的な圧力も伴っているらしい。

カグツチの日齢が、着々と動いていく。遠くの砂丘を見ると、クレガがみんなと一緒に此方を見ていた。作業が一段落したところで、秀一が手の埃を払いながら言った。

「あの子供、人間か?」

「いえ、マネカタです」

「マネカタ?」

「マントラ軍で生産している、人の形をした存在です。 主に奴隷労働で使われていて、マガツヒを絞るのにも活用されています」

露骨に眉をひそめた秀一に、驚く。確かに酷いことではあるのだが。同じように感じる者がいるとは思っていなかった。

「あの子は、カズコと言われていたな」

「はい。 以前、ちょっとした切っ掛けで知り合って、それから一緒にいます」

「俺の妹と同じ名前だ。 随分見かけは違うみたいだが」

喋りながらも、秀一は手を動かしている。聞いてみると、秀一の妹の和子は、素直でおとなしい子であったそうだ。カズコもそんなには悪い子ではないのだが。色々な武勇伝を思い出す限り、おとなしい子とは言い難い。苦笑いを見て、秀一も大体意味を察したようだ。そのまま作業に戻る。

一通り避けた瓦礫。少し土台用に残しておいて、その上に平らな破片を幾つか並べていく。柱の残骸を、定期的にそれから埋め込むのだが、青年の腕力はなかなかで、殆ど作業を苦にしなかった。

埋め込んだ柱を、拳で何度か軽く叩いてみる。揺れることはない。後は天井だ。柱の脇に、安定させるべく幾つか破片を並べていく。琴音は虎徹を抜くと、出っ張りを切り落として、研磨していった。後は、足下をもう少し固定しておきたい。

「熱の術を使えますか?」

「どうするつもりだ?」

「鉄骨やガラスの残骸で、溶接します。 耐久力から考えると少し心許ないですが、無いよりはましでしょう」

「ならば、俺がやる」

一度距離を取る。息を吸い込みだしたので、どうするのだろうと思ったら、何と秀一は火を吐いた。風船のようにふくらんだ胸郭から、大量の空気と同時に、高密度の火花を吐き出す。さながらバーナーのように高熱量を吹きかけて、まとめておいた鉄骨やガラスを、見る間に溶かしていく。その後、冷えるのを待ってから、柱に触ってみる。さっきよりも随分安定していた。同じ要領で、壁も固定していく。その横で、琴音は加工しやすいように、破片に虎徹を振るい続けた。更に、シブヤから買ってきた石材も、壁に使っていく。要所に置くのには充分な量があった。更に、一方向の壁は、そのまま瓦礫を積み込んで使う。端から見ると、瓦礫に半ば埋まっているような建物ができあがりつつある。

一端休憩にする。カズコに、マガツヒを出して貰った。食べると、いつもよりも随分美味しいように思えた。やはり、お腹がすくと、食べ物は美味しくなる。

秀一と、ピクシー、それにエイにもマガツヒを分ける。秀一はカズコに積極的に話し掛けていたが、首を傾げているのを見る限り、妹さんとはやはり別人なのかも知れない。それよりも、妹という概念がよく分からない。

少し休んで、マガツヒを補給して。いよいよ、メインの作業に取りかかる。

ここからが本番だ。柱と壁がしっかり出来たのを見計らって、屋根を乗せる。フォンは体が大きいので、天井も高い方が良い。雨が降ることはまず無いのだが、砂塵がどうしても大量に吹き込んでくるので、どうしても屋根は必要なのだ。

一番大きな、無事だった床材を使う。まず瓦礫の山の上に引き上げて、其処からスライドさせるようにして運ぶ。途中、周りを見ながら、琴音が虎徹を振るって、出っ張りや邪魔な部分を切り落としていく。肉厚なので、途中からフランベルジュに切り替えた。大振りの相手には、こっちの方がやりやすい。

「良い腕だな」

「え? 私なんか、まだまだです。 マントラ軍にいるトールって人が私の師匠なんですけれど、あの人は私の何百倍も強いはずです」

それを聞いて、ピクシーが真っ青になった。無理もない話である。トールの悪名は、彼方此方で聞いた。勇名を通り越した、獰猛さに起因する畏怖が、あの人のイメージを形作っている。琴音も、良い印象を受けたことは、あまりない。

あと少しだ。フォンの筋肉が盛り上がり、秀一も歯を食いしばった。一気に、柱の上にコンクリの平板をのせる。叫び声と共に、一気に降ろす。柱が保つか不安だったが、どうにかなった。

安定しているかを、何カ所か触って確認する。後は何カ所かに、柱を補強。更に、フォンの肩に乗せて貰って、天井の状態を吟味する。何カ所か、埃がこびりついていたので、フランベルジュで擦って落とす。安定性を確認。フォンが力一杯殴っても、崩れてくることはない。

後は、何カ所か溶接した後に、床を掃除すれば終わりだ。フランベルジュを何本か具現化して、要所に突き刺す。それをそのまま杭にする。要所に数本ずつ刺せば、かなり強固なつっかえになる。後は、雑巾がけをして、埃を綺麗に取る。

だいぶ小さくはなったが、住処は完成した。石を積み上げただけの代物だから、強度は不安定だが、一時的なものとしては充分すぎるほどの完成度だ。かなり分厚く柱も天井も作ったから、自重で崩れることは絶対にない。攻撃術を喰らっても、ある程度は耐えられるだろう。

近くの瓦礫の山は、今後は見張りに使える。更に、特定方向から、住居を隠す役目も果たす。思ったほど酷い結果にはならなかったので、琴音は安心した。

気がつくと、カグツチの日齢が、三つほど動いていた。煌天に向けて、かなりカグツチの光が強くなってきている。悪魔達がどんどん凶暴になる時間帯である。早めに出来て良かったと、琴音は思った。

少し休憩を取る。琴音の魔力は、殆ど底をついてしまっていた。マガツヒを頬張る。回復には、ちょっと時間が掛かる。秀一にも人修羅にも、マガツヒを分ける。しばし、無言で食事が続いた。

「約束だ。 シブヤに案内してくれないか」

「はい。 丁度用事がありましたから。 一緒に行きましょう」

ケーニスに袖を引かれた。今日は、一緒に行きたいらしい。琴音が行くとなると、住居にはフォンとクレガが残ることになる。この時間に行けば、シブヤに着く頃には、かなりカグツチの光も弱くなっていて、安全性が高くなる。琴音達のような弱体勢力では、そういった配慮が絶対に必要なのだ。それを欠くと、生き残ることが出来ない。

蓄えていたマガツヒを入れた瓶を、何個か持ち出すことにする。貴重な蓄えだが、何があるか分からない以上、仕方がないことだ。ピクシーが物欲しそうに見ていた。

出かける時に、カズコに袖を引かれた。

「ちょっと待って」

「どうしたの?」

「何だか、凄く嫌な予感がする。 気をつけてね」

この子の勘は、妙に良く当たる。

気をつけようと、琴音は思った。

 

2,蝶が羽ばたく。渦が出来る。

 

シブヤに向かう途上、秀一はサマエルの琴音とやらと、色々話した。隣でサナが面白く無さそうにしている。理由はよく分からない。

さっきサナに聞いたが、サマエルというのは、強大な堕天使もしくは邪神なのだそうだ。邪神というのは、簡単に説明すると、主系列から外れた神の一族らしい。退廃的で破滅的な思考の持ち主が殆どだという話だが、この娘はとてもそうとは思えない。

この間喰らったフォルネウスもそうだ。あの老悪魔は、とても善良な存在に、秀一には思えた。それなのに、闇に落ちた天使であるのだと考えると、色々と世の中の不備と矛盾を感じてしまう。善悪の概念が、あくまで主観的なものなのだと、強く秀一は思う。ならば、全てを見聞きした上で、判断するのが必要なのではないかとも感じてしまう。

「秀一君は、どんな術が使えるんですか?」

「ちょっと前までは、殴る蹴るしか出来なかった」

火を吐けるようになったのは、病院でフォルネウスを喰らって、少ししてからだ。体の中で、新しい力が馴染んだ印象であった。更に、もう一つ能力が身についている。丁度、空を見上げると、舞っている小さなフォルネウスが視界に入る。

これが、秀一の能力だ。

特に相性が良いものに限るようなのだが。喰らった相手を、自分の力を消耗させることで、再生、使役する事が出来るようなのだ。というのも、そう言う能力があるという事を感覚的に理解しているだけで、論理的に説明できないからである。

不便な点も多い。フォルネウスは既に独立した人格であり、秀一が力を送ることも、精神的にリンクを確保する事も出来ない。だが、それでもいい。フォルネウスの実力を考えれば、充分なほどだ。

話によると、マガツヒは情報の塊なのだという。喰らえば色々なことを知ることが出来るし、場合によっては新たな術を身につけることも出来る。ただ、それだと、今回の秀一の成長については説明が付かない。フォルネウスは氷の術を得意としているが、恐らく火を吐くことは出来ないだろうから。

秀一の思考を読み取った訳ではないだろうが、フォルネウスが下りてきた。戦った時の三分の一くらいのサイズだが、戦闘能力はあまり差がない。砂漠を彷徨いている間に、悪魔に七度ほど攻撃されたが、いずれも無難に退けることが出来ている。

「おお。 秀一ちゃんやー。 其処の子は、誰じゃったかの」

「サマエルの琴音だ。 シブヤまで案内してくれることになった」

「そうかー。 ばあさんの面影がある、綺麗な子じゃのう」

「有難うございます」

ぺこりと一礼する琴音。もの凄く礼儀正しい。挨拶の角度などが、随分しっかりしている。多分お嬢なんだろうなと、秀一は思った。同じお嬢でも、千晶とはえらい違いだとも。千晶は礼儀作法を身につけてはいるが、滅多なことでは使おうとはしない。それに対し、琴音は礼儀作法を積極的に活用している感じである。同じお嬢でも、随分違うものだと、秀一は妙に感心した。

何だか不機嫌そうなサナが、ズボンを引っ張る。

「ね、シューイチ。 シブヤに行ったら、どうやって入ろうか。 彼処、警備が結構厳しいんだよ」

「それなら、大丈夫じゃあー。 儂はこれでも、ニヒロ機構の悪魔じゃからのう。 ただ、フラウロス様には詫びに行きたいから、後で単独行動させてくれんかのー」

「私達も、何度か入ったことがありますので、多分通ることが出来ます」

良い答えだと秀一は思ったが、ますますサナは不機嫌そうになった。戦闘では手助けしてくれる上に判断力が高く、有能なのだが。普段の行動を見ていると、本当によく分からない。

シブヤまでは、カグツチの日齢が半巡するほども歩かなければならなかった。だが、それだけの長時間歩いても、全く疲れが出ないのは。もう、自分が人間ではないからなのだろう。

やがて、分厚い城壁に囲まれた、要塞が見えてきた。延々と続く砂漠の中、其処だけは文明の香りがした。

側で見上げると、途轍もなく大きい。秀一が知っているシブヤよりも、何倍も面積があるように思える。空は淡い光の幕が覆い、編隊を組んで悪魔が飛行し、周囲を見張っている。周辺は分厚い壁が覆っていて、高さは十数メートルはあるだろう。銃座の類はついていないようだが、壁からは不思議な威圧感を感じる。何かの術が掛かっていて、耐弾強度を上げているのかも知れない。

入り口は何カ所かある。ニヒロ機構の関係者だけが入れる西口は、検問所が設けてあって、非常に厳重だ。それに対して、普通の悪魔にも入れるようになっている東門は、警備は厳重だが、若干空気が軟らかい。ただし、普通の悪魔が入れると言っても、ある程度身分提示は必要らしい。更に、東門から入る場合、著しい行動制限が掛かるそうだ。中にも何カ所か検問所があって、重要な施設は、更に分厚い警備の中にあるらしい。

まさに要塞である。ちなみに、戦闘の可能性が高い場合は、東門は閉鎖される。また、東門から入れる範囲は、全体の二割にしか達しないという。

それらの説明を、歩きながら琴音から受けた。

門の前では、テントが散見された。弱い悪魔が、かなりの数巣くっているらしい。話によると、ニヒロ機構は基本的に来る者を拒まないそうだ。参加者はすぐに仕事を割り振られ、それに伴う給金としてマガツヒを与えられることになる。ただし、仕組みに逆らう行動をすることは許されない。法律は極めて厳格で、上級の悪魔でもそれほど好き勝手な事は出来ないという。門番の悪魔に、入りたいことを告げる。背中に二対の黒い翼が生えているから、堕天使であろうか。かなり強い威圧感を保つ悪魔達は、秀一が連れているフォルネウスを見て、小首を傾げていた。

受付は、ケーニスという目玉だけの悪魔と、それにフォルネウスがしてくれるようであった。だから、二人に任せる。無口なケーニスだが、触手を実に器用に動かすところは、来る途中に見ている。ペンを握って字を書くくらい簡単だろう。二人は、門の側にある受付所に入っていった。書類を書くらしい。

少し失礼かとも思ったが、琴音に聞いてみる。元々この娘は雰囲気が軟らかくて、とても話し掛けやすい。

「君はニヒロ機構の悪魔なのか?」

「いいえ。 私はただの白海琴音です」

「それにしては、妙に詳しいようだが」

琴音は眉をひそめて、少しためらった後に応えてくれた。

「昔、ニヒロ機構の本部があるギンザのすぐ側に住んでいました。 それで、たまたまニヒロ機構の幹部であるオセ将軍と知り合いまして」

「あ、あんた、オセとも知り合いなの!?」

「はい。 オセさんは、私を勧誘したいらしくて。 光栄なのかなとは思います。 でも、みんなは戦いが嫌いですから」

「な、なんていうか。 もったいないっていうか、意味が分からないというか。 トールとも、オセとも知り合いだなんて」

サナはただひたすら驚いている。こんな世界でも、こういう奴がいるのだと、秀一も吊られて驚いた。

でも、そんな信念を通すには、卓越した力がいるのも事実。この娘は、とても苦労しているのだろうなと、秀一は思った。

「ところで、サナ。 オセ将軍というのは、そんなに恐ろしい奴なのか?」

「堕天使オセと言ったら、ニヒロの事実上のナンバーツーだよ。 腕ももの凄く立つんだけど、頭が切れて、部下達にも慕われてるって話。 典型的な、職業武人だね。 ニヒロの敵対勢力じゃ、本当に恐れられてる」

「そうじゃのう。 とても逞しくて、頼りがいのある司令官殿じゃあ。 儂も遠くから見て、いつも感心しておったわ。 この前なんかの、秀一ちゃんの四倍はあるような巨人と、真っ正面から戦って、勝ったんじゃぞ」

いつの間にか、フォルネウスとケーニスが戻ってきていた。とりあえず、琴音とは此処で別れた方が良いだろう。ニヒロ機構とある程度の距離を置くことで、琴音は信念と生活を成立させている。

もし、ニヒロ機構の悪魔を殺した秀一と一緒にいたら、それが成り立たなくなる可能性がある。此処からは、命がけだ。

「案内してくれて有難う。 助かった」

「何かあったら、いつでも言ってきてください」

快く、笑顔で送ってくれた。何だか、とても悲しいことだなと、秀一は思った。手を振る琴音とケーニスに一礼して、先にシブヤにはいる。門の内部は長いトンネルになっていて、警備の悪魔が大勢張り付いていた。堕天使が多いが、それ以外の悪魔もたくさんいる。みな、非常に真面目な表情で、トンネルを見張っていた。士気はとても高いようだなと、秀一は思った。

「サナ、琴音について、どう思った?」

「潜在能力は計り知れないね。 でも、腕はかなり立つけど、考え方は現実的じゃないかなあ。 さっさとニヒロに入れば、幹部も狙えるだろうに。 マントラ軍だったら、もっと出世は早いだろうにね。 僕としてはあまり評価できないかな。 役立たずは生きていけないのは、この世界の鉄則なんだから。 それを守ろうってのは、よく分からないね」

「そうなんだろうな。 ……俺も、悲しい生き方だなと思った」

多分、あの娘は長く生きられないだろうな。秀一は、静かにそんな事を考えていた。冷血かも知れないが。少しこの世界を見ただけで、そう思えてしまう。何かを守ろうとする奴は、きっとこの世界では、排斥すべき異物にみなされてしまうだろう。

トンネルの途中には、何カ所か出っ張りがあった。多分、有事には壁がせり上がってきて、通路を何重にも封鎖するのだろう。実に念の入った作りである。そして、この世界での都市が、どんな存在なのか分かった気がした。

トンネルの出口に、シャボンのような淡い光の幕が張られていた。また其処で並ばされて、光の幕を通る。幕の張られている辺りの壁にはびっしりと文字が書かれていて、渋谷に入る悪魔が抜ける度に、僅かに発光していた。

入場審査のようなものか。秀一は別にとがめられることもなく。そのまま光の幕を通り抜けた。いきなり明るいところに出たが、目が眩むこともない。やはり人間ではないのだなと、こう言う時に実感する。

トンネルを抜けると。其処は石造りの、極めて規則的な街だった。古き時代の面影を残した、西欧の都市を思わせる。

足下は石畳が整備され、辺りに立ち並ぶ建物は、どれも似た形状である。区画は完璧にまで真四角で、塵一つ無く掃き清められている。空は淡い光の幕が掛かっていて、多分通れないのだろうなと秀一は思った。

道を行き交う悪魔達も、背筋をしっかり伸ばして、歩いている。人間に似たもの、動物に近いもの。翼があるもの、尻尾があるもの。角が生えているもの、目が三つあるもの。中には、形容しがたい悪魔もいた。そのいずれもが。喧嘩もせず、ルールに沿って動き回っていた。

外とは、えらい違いだと、秀一は思った。ただ、あまりにも規則的すぎる。少し息苦しい街にも見える。

建物の中には、店もある。色々なものが置かれているが、通貨は基本的に瓶に詰めたマガツヒらしい。ただ、店の規模はそれほど大きくはない。何となく、理由は分かる気がする。この世界の住人である悪魔達には、社会的に生産される物資の殆どが必要ではないのだろう。

喉は渇かない。腹は減らない。殆ど疲れない。

それらの異常な特徴は、既に秀一がその体で経験している。辺りを見回す。歓楽街は、どうやって行けばいいのか。この様子では、極めて小規模であろう事は、ほぼ疑いない。

行き交う悪魔達には、話し掛けられる雰囲気ではない。皆、それぞれの仕事に向かう途中らしく、とても忙しそうだ。通勤途中のサラリーマンに、道など聞けないのと同じである。

「困ったな。 案内板か何かがあれば良いんだが」

「フォルネウス爺ちゃん、何処にあるか分からない? 此処って、あんたの古巣でしょ?」

「すまんのう。 何しろ儂は枯れ果てたぢぢいじゃてのー。 酒にはあまり興味がないんじゃあー。 だから分からん」

「ちっ」

冷徹に舌打ちすると、サナはため息一つ。自分が提案したことを、気に病んでいるのかも知れない。

「辺りを見回っても、損はしないだろう。 足で探そう」

その方が、これから何かあったとしても、対応が容易になる。

いつの間にか、秀一にはそんな思考法が身につくようになっていた。戦いに慣れてきたのだろうか。

歩く。いつまでも暗くならない世界。たまに光が弱くなるのは、静天の時だけ。

しばらく歩き回ると、その静天が来た。悪魔達が、一番おとなしくなる時間帯。それなのに、この街はあくまで賑やかだった。

代わり映えのない、石造りの街。規則的すぎる悪魔達の動き。人間であったら、眠くなってくるかも知れない。音さえもが規則に沿っているようで、あまりにも静かな場所だ。

退屈そうにしているサナに、話し掛けてみる。まだ、情報が足りないと言うこともあった。歩きながら色々話しては来たのだが、実際に悪魔の大きな街を目にすると、それが足りないことを思い知らされる。知識は幾らでも必要だ。

「この街は、ニヒロ機構ではナンバーツーの規模だったな」

「僕が聞く限り、そうだよ。 本部のあるギンザの方がずっと大きいらしいけれど。 単純にボルテクス界全体で比較しても、三番目に大きい街だね。 それに、規模だけじゃなくて、インフラの整備が著しい。 この辺りは、マントラ軍の都市よりも、ずっと優れている所だよ」

「……そう、か」

確かに巨大だが、そうしてみると、やはり卑小な存在にも思える。地球に幾つも存在したメトロポリスは、こんな規模ではなかったからだ。人口1000万を超えるような都市が、幾らでもあった。それに比べると。この街はスケールこそ大きいが、やはり比較級的には小さい。悪魔の数も、せいぜい数万だろう。

内壁の一つに突き当たった。関係者以外立ち入り禁止と言うことで、入り口よりも更に屈強そうな悪魔が見張りに着いている。ある程度、自分の力が分かるようにはなっている。だから判断できる。此処を力づくで突破するのは、無理だ。

「どうする、秀一ちゃん。 儂が口を利けば、入れない事もないがの」

「いや、まだいい。 確実に、安全な順番で回ろう」

「了解じゃ。 若いのに、しっかりしておるのう。 一度孫娘と会わせておきたい所じゃあー」

「孫娘も、堕天使なのか?」

ふと、フォルネウスが止まる。しばらく体を捻って考えていたが、やがて息を吐き出した。

「なんじゃろ。 孫娘って、誰じゃろ。 活発で、女らしくない奴であったような気がしたんじゃが。 ええと、誰じゃったっけ。 思い出せん。 可愛い奴だったような気がするんじゃがのー」

「大丈夫か? 俺のせいだったら、謝る」

「シューイチ、違うよ。 こういうのって時々あるの。 この世界に住んでる悪魔って、変な記憶があることが多くてね。 何も、フォルネウスじいちゃんだけに限った事じゃないんだよ」

サナも、ひょっとしてそうなのだろうかと秀一が思った横で、フォルネウスは小首を捻り続けていた。

「ね、シューイチ。 あれじゃない?」

サナが指さした先。どうやら、目的地らしい。

大通りになっている左右に、比較的賑やかな店が並んでいた。この辺りには、他と違って、雑然とした雰囲気がある。ガラの悪そうな奴も少数いて、雰囲気的にもぎすぎすしていた。

そんな中、黒い肌の大男が、悠然と歩き去っていくのを見た。そいつの前では、チンピラめいた悪魔も、遠慮している。一瞬だけすれ違うが、秀一には目もくれず、大男は歩み去っていく。圧倒的な自信が、全身から満ちあふれていた。さっきの壁の前で、衛兵達が最敬礼。両者の力量差がよく分かる。

「魔王ロキだ。 凄い大物がいるなあ」

「ニヒロ機構の悪魔か?」

「うん。 この街に、歓楽街を作ることを提案した奴だよ。 実は此処がニヒロ機構に落とされる前は、支配者だったんだって」

もの凄く強そうな奴だ。今の力では、とても勝ち目はないなと、秀一は思った。そして、あの強そうな奴でさえ、ニヒロ機構には屈服させられたという訳だ。

複雑な思いを抱きながら、一軒目に入る。

目があった。

其処には、千晶と。聖がいた。

 

部下達のシフトを割り当ててやっと解放されたデカラビアは、大きな一つ目を瞬きさせながら、ふわりふわりと歓楽街の上空を漂っていた。

先ほど、自宅に戻って、蓄えているマガツヒを全て平らげた。面白くなかった。ヒトデに似た体をくねらせて、マガツヒを貪り食いながら、デカラビアの脳裏にはあの人間の言動が焼き付いていた。

これでも、デカラビアは実力を見込まれて、ニヒロ機構の幹部候補としてスカウトされた存在である。それが、それがである。人間の小娘の監視ごときに、何故もこうも不快な思いをしなければならないのか。人間の監視が重要任務だと言うことは分かる。だが、これではまるで。使い走りではないか。

奴はデカラビアを、恐れることはなかった。それどころか、その正反対だった。事もあろうに、デカラビアを、まるで使用人のように扱ったのである。

曰く、やれ飲み物が欲しいの、やれ腹が減ったの。何が足りないの、何が気に入らないの。そのたびにデカラビアは術を使える悪魔を探して奔走し、帰ってくれば居場所を移しているという有様であった。いざ食料を用意してみれば、一口囓るだけで捨てられたり、術を使った悪魔に冷徹な罵声を浴びせたり。彼らからの恨み節も、デカラビアが引き受けなければならなかった。ベルフェゴールはデカラビアに同情しているようなそぶりを見せていたが、それだけだった。所詮は偏屈女だ。

もう少し代わりの人員が来る時間が遅ければ、完全に発狂していたかも知れない。

漂いながら、デカラビアは見下ろす。地べたを這っている下級悪魔共を眺めると、気分が良かった。本当は、上空を漂うのは違法行為だが、今はそうでもしないとやっていられなかった。

ニヒロ機構は、法の組織だと言うことは、入る前から分かりきっていた。マントラ軍と違い、入ることで即座に地位が実力と直結することがないという事も。だが、上位の攻撃術を使いこなし、並の堕天使数十を一騎で相手にする実力を持つデカラビアが、子供のお守りに神経をすり減らすなどと言うことが、あって良い訳がないのである。

重要な任務だからこそ、デカラビアに任されたことは分かる。フラウロスが状況を見て、部下を手配してくれたことにも感謝している。だが、それと腹の虫が治まらない状況は話が別だ。

この怒り、どうしてくれよう。何度、デカラビアは内心つぶやいたか分からない。怒りは発散場所もない。信頼できる親友などいないし、酒場でもマナー遵守がニヒロ機構の基本である。しかも此処しばらくは任務ばかりで、外の街にある酒場にも出られなかった。何より、お気に入りだったアカサカの酒場は、もうこの世に存在しない。

もう一つ、腹立たしいことがあった。同時期に入った、レヤックのカエデのことである。

カエデは優れた術使いである。総合力で考慮するとせいぜい中級程度の悪魔にもかかわらず、術の実力と魔力量だけは桁違いに突出していて、あのロキが驚きに目を剥いたほどだ。つまり、術の分野に関しては、並の上級悪魔を凌いでいる。

入り口の警戒結界も、カエデが来てからセキュリティが向上し、何度もスパイの侵入を阻んだ。正直な話、デカラビアよりも、術の実力は上だろう。それは認める。デカラビアも、自分を客観視することくらいなら出来る。

だが、何故奴が、マガツヒの集積場であるアマラ輪転炉の警備という重要任務を任されているのか。

それは、自分に任せて欲しかった。

「デカラビア将軍!」

そのカエデの声がした。下から呼んでいる。体を回転させながら、ゆっくり高度を落としていく。声に高圧的な雰囲気はない。

地面に立っている奴は、西洋の魔女ルックだった。濃紺のとんがり帽子にロングスカート。箒や杖は手にしていないが、誰が見ても魔女だと思うだろう。ニュクスに遊ばれているのだが、それでも嫌な顔一つしない。護衛を何騎か連れているが、彼らも新参のカエデを尊重しているのがよく分かった。

どうしてだ。何故、嫌がらない。それが、いらだたしい。貴様には、プライドがないのか。

「何か」

「お疲れではないですか? 少しですが、マガツヒを用意しました。 フラウロス将軍の許可は取ってあります」

そう言って笑顔で見せるは、瓶に入ったマガツヒだ。かなりの分量がある。細身のカエデは、抱えるようにしてそれを差し出してきた。フラウロスは、これをボーナスだと言って、渡してきたという。人間の監視という任務で苦労した分の、正当な報酬だと。

好意の筈だが。しかし。更に、苛立ちが募っていく。

何故だ。何故此奴には、こうも周囲が良くする。フラウロスがデカラビアのためにしてくれたことは、せいぜい部下を手配することくらいだ。ボーナスなどと、嘘に決まっている。絶対に、そんなはずがない。此奴が、勝手な一存でしたに決まっている。

哀れみか。そう思うと、更に怒りが募ってきた。だが、フラウロスの名を出された以上、受け取らなくてはならない。

瓶に吸い付くと、ヒトデと同じように吸盤を使って開ける。デカラビアの身体構造は、ヒトデと同じである。すなわち、目の着いている裏側に口がある。蓋を投げ捨てると、瓶を傾けて、体内から胃袋を出し、マガツヒを一気に喰らった。不快だ。不快だ。不快だ。喰らっても、なお憎悪は湧き出てきた。

マガツヒを貪り食うデカラビアを見て、カエデは目を伏せた。同情、だと。殺意が、体の奥底から沸き上がってくる。

私は、たまたまニヒロ機構に入るのが遅かったから、お前などと同格に甘んじているだけだ。内心、デカラビアは吐き散らす。ニヒロ機構が大きくなる少し前に、今スペクターと呼ばれている悪魔の襲撃を受けて、不意を突かれた結果負傷した。しばらくは療養を余儀なくされた。ロキの腹心幹部として、シブヤを回していたデカラビアは、それで大きく出世が遅れた。

力を取り戻し、現状復帰した時には、既にニヒロ機構はシブヤを完璧に抑えていた。デカラビアはためらった後にスカウトを受け入れて仕官したが、その時には新参としてしか扱われなかった。幹部としての道は用意されていると言われた。だが、出世はそれほど順調ではない。何しろ、こんな小娘と同格なのだ。

「感謝する。 美味かった」

「……お休みになった方が、良いとカエデは思います」

「余計なお世話だ。 放っておいて欲しい」

悪魔としては格下だが、ニヒロ機構の地位では同格だ。だから、これ以上強気には出られない。

怒りを蓄えたまま、だが堂々と同格幹部の前で法を破る訳にもいかず。デカラビアは、自宅へ戻ることにした。更に憎悪が膨らむ。分かっているのだ。カエデが言ったことが、正論だと言うことは。悪意もないし、心配して言っているということも。

だが、それが故に腹が立つのである。格下のガキに、正論で諭されることほど、不遇な身にこたえることがあるだろうか。正しいことが、心を常に打つ訳ではない。むしろ、怒りを沸き立てる事もあるのだ。

途中、悪魔とぶつかった。歓楽街で時々見かける、ガラの悪い牛頭の堕天使だ。流石にデカラビアの事は知っているらしく、青ざめて離れる。そのままぶち殺して食ってやろうかと思ったが、それでは処罰されるのは此方だ。見逃してやると、頭を何度か下げながら、堕天使は去っていった。不愉快だ。因縁でも付けてきたら、その場で八つ裂きにしてやったものを。

じゅっと音がして、気がつくと腕の一本が触れた石畳が焦げていた。怒りが、魔力をだだ漏れにさせているのだ。いつのまにか、デカラビアを遠巻きに、何体かの悪魔が此方を伺っていた。彼らの顔は、露骨な感情で塗りつぶされていた。特に、バックベアードらしい一匹の様子が、デカラビアの不快感を煽り立てた。自らに似た容姿の悪魔が、己を恐れていることが、一線を越える切っ掛けとなる。

「巫山戯るな!」

デカラビアは絶叫した。石畳に罅が入る。白磁の住宅が、きしみを上げた。体から漏れ出した魔力が、周囲の空気を刺激し、殺戮を予見させる生暖かい風を作り出す。もはや、デカラビアの怒りは、収まりが付かなかった。誰にも言えなかったことを、巫山戯たまねをしてくれている悪魔共に、一息に叩きつける。

「貴様ら、何故私をそうも遠ざける! 途中、負傷して療養していたことが、そんなに悪いか! 出世コースから外れたことが、そんなにおかしいか! 私は、私は! 見ていてそんなに滑稽かぁっ!」

なおも吠え猛る。逃げ散る悪魔。

ついに、堪忍袋の緒が、切れた。

 

司令室の一つで、部下達に指示を出しながらも、フラウロスは嫌な予感を振り払うことが出来なかった。多数設置している監視モニターには、危険な映像は写り込んではいない。オペレーターの堕天使達も、皆勤務に精を出し、手を抜く様子はない。

デカラビアの様子がおかしいことは、フラウロスも気付いていた。だから、カエデが悲しげにマガツヒを欲しいと言ってきた時も、快く自分の給金から分け与えたのである。カエデは給金を前借りするつもりでと言ったのだが、それは拒絶した。二騎とも有望な幹部候補であり、そんな事でしこりを作るのはよろしくない。だから、人間の監視で苦労した分のボーナスだと言って渡すようにと、念を押した。

事実、デカラビアにはそれだけのボーナスを受け取る理由がある。何しろ、あの人間と来たら。少し接しただけのフラウロスでも、怒髪が天を突きそうになるほどであったのだ。ましてや、噂によるとデカラビアは出世が遅れていることを気にしているという。将来は自分の右腕にとも考えているフラウロスとしては、そんな事を足かせにして欲しくなかった。

プライドが高いという欠点はある。それはフラウロスも感じている。だが、どんな存在にも、大なり小なりの欠点はあるものなのだ。盟友のオセだって、自分だって。あの氷川司令にだってあるだろう。

だからニヒロ機構は、法と仕組みによって、皆を統制しようと考えているのではないか。それは、絶対正義と力で全てを納めようという、唯一神の思想とは違っている。だから、フラウロスは命を賭けることが出来る。

事実、今までになく、フラウロスは充実していたのではないか。

魔力の強い波動を感じて、顔を上げる。外ではない。中からだ。

「D4外地区から、魔力波動! 攻撃術によるものかと思われます!」

続いて、揺れが来た。モニターの一つがブラックアウトする。監視用に展開している術の媒介になっている、ピラーという柱が壊れたのだろう。

「魔力波動、極めて大! 上級悪魔によるものと思われます!」

「術式特定! 攻撃術メギドラです!」

メギドラは、最大級の威力を誇る術の一つである。殺傷力は極めて高く、並の悪魔であれば数十を一度に殺戮可能だ。すぐに出撃しなくてはならない。オペレーターが、なおも叫んだ。

「魔力波動特定! こ、これは!」

「どうした!」

立ち上がったフラウロスに、オペレーターは蒼白になって叫んだ。

「メギドラは、デカラビア将軍によるものです! なおも魔力波動増大! 第二射、まもなく発動します!」

「何者かが侵入したのかもしれん。 すぐに援軍を回せ! 俺もすぐに出る! ミジャグジさまに連絡して、緊急防衛体制を取れ!」

慌ただしく、堕天使達が動き始める。有事用のマニュアルは、何度かの戦いの末に整備されている。ミジャグジさまは防衛戦の専門家だけに、こう言うところは全く抜かりがない。フラウロスも恐れ入るほどのできばえで、文句を付ける場所が見あたらない。その良く整備されたマニュアルに沿って動いているから、部下達に指示することはあまりない。後は、自分が動かなくてはならない。

うすうすは、フラウロスも気付いていた。多分、デカラビアが何かしらの理由で暴発したと言うことに。だが、そうなると、フラウロスの管轄外になる。だから、あくまで敵の侵入を想定、攻撃部隊の出番があるかも知れないと説明することで、出撃を正当化した。

部下を信じたいと、フラウロスは思っていた。だから、気付かないふりをする。

駆けつけてきた親衛隊の中級堕天使達を引き連れて、司令室を飛び出す。多分最初に到着するのはカエデだが、もしデカラビアが暴れ出したのだとすると、抑え込むのは難しいだろう。

一刻も早く、現場に向かわなければならなかった。

 

3,不運なるものの死

 

まさか、いきなり千晶を見つけるとは、秀一も思っていなかった。だから思わず、足を止めてしまった。千晶も、秀一を見て、驚いたようだった。最初に、その姿に目を奪われたらしく、上下に見回される。

「秀一君?」

「無事だったか」

千晶のテーブルの側には、聖も座っていた。もう一人、よく分からない悪魔がいる。ロングコートで体の殆どを隠している女性悪魔で、かなり大人っぽい雰囲気だ。テーブルの上には飲み物やらわら人形やらが散らかっていて、カウンターの奥にいる店主の悪魔は、胃を痛めそうな表情をしていた。

無理もない。千晶は東京でも、噂によるといくつもの高級店でブラックリストに名を連ねていたらしい。親が権力者だから追い出すことも出来ず、店長が大体直接接待に当たっていたそうだ。世界がこのような状態になっても、ふてぶてしさに代わりがないとすると、ある意味極めて逞しい。千晶らしいと思って、歩み寄りながら秀一は少し安心した。

「勇は?」

「祐子先生を捜して、マントラ軍へ向かったわ。 此処で情報が無かったから、向こうで話を聞きたいんですって」

「危険だ。 マントラ軍は、力の論理で動く集団だと聞いている」

「何も考えていないのよ、勇は」

さらりとぼやいた千晶は、いつも通りだった。途轍もなく冷血で、全てを自分中心に考えている。

だが、以前よりもそれが更に加速している印象を受けた。前なら、千晶なりの心配をしたと思う。今の言葉には、それさえもない。この世界の影響だろうか。或いは。砂漠化した東京を歩いてきて、千晶は何か思うところがあったのかも知れない。だが、いつも通りの冷酷なマスクの裏にある変化を、秀一ではそれ以上読み取れなかった。

テーブルに招かれる。何か飲み物でも頼むかと言われたが、謝絶する。払えるマガツヒを持っていないからだ。今はもめ事を起こしたくない。問題は腐るほどあるが、順番に事を起こしていきたい。

「秀一君は、どうして此処に?」

「此処なら、情報が集まると思ったから。 生き残った人間が他にいないか、確認したいんだ。 家族の事が心配だから」

「そんな姿に変わっても、家族が心配なのね」

「当然だ」

千晶の表情に、影が差す。それが嫉妬と言うものである事に、秀一は気付いていた。だが、何故嫉妬を千晶が抱くのかは、よく分からない。

「ベルフェゴール。 生き残った人間の話は、聞いたことがある?」

「残念だけれど。 東京受胎で生き残ったのは、ニヒロ機構の氷川司令と、その傍らにいる創世の巫女くらいのはずよ。 千晶と、勇という子、それに其処の聖さんが現れたことで、多くの悪魔が驚いたくらいなんだから」

大きくため息をつく。どうやら、和子は。両親は。

苦しかったのだろうか。助けを求めたのだろうか。

もし、自分に助けを求めたのであれば。

許して欲しいと、秀一はつぶやいていた。涙ももう出てこないが、それでも悲しいことに代わりはなかった。

「それよりも、秀一君」

顔を上げると、千晶が野心を瞳に湛えていた。この表情、どこかで見たことがある。思い出した。千晶が、最初の男と同居を始めた頃のものだ。あの時千晶は、秀一と勇に言っていた。男が出来た。此奴を自由に操作してみたいと。

確か、秀一の知る限り。千晶に捨てられてから、その男は高校生にもかかわらず髪が真っ白になり、家から出られなくなったと聞いている。千晶は男を捨てたにもかかわらず満足げだった。恐らく、男を好きなように出来たからだろう。

あの時からだ。千晶の暴走が止まらなくなったのは。男に飽きたら女を自室に引き込んだ。ダーティな手を幾らでも使うようになり、道徳など見向きもしなくなった。そんな状況でも、幼なじみで親友でもある秀一と勇が、最後の精神的なストッパーになっていた。勇は意識していなかったようだが、秀一はうすうすそれに勘づいていた。千晶がなおも学校に来ていたのは、それが理由だった。何だかんだ言っても、千晶は秀一と勇との人間的なつながりを、大事に考えていてくれたのだ。

だが、それも今は。残っているのかどうか、不安になる。

千晶は、言う。東京が滅びたと言うのに、その表情に、悲しみは欠片もない。少し腹立たしかったが。しかし、千晶はそう言う娘だと、知ってはいた。

クラスで浮いているというよりも、超然としていた。他人はあくまで付録であり、恋人は性欲解消の道具に過ぎなかった。金銭に対する執着など無いに等しく、その場の刹那でさえ楽しんでいるとは思えなかった。

千晶の中には、一体何があるのだろう。

「創世って、知ってる?」

「創世?」

「そう。 いい、今まで集めた情報を総合するとね。 このボルテクス界は、どうやら新しい世界を生み出す胎盤らしいの」

千晶の目に、暗い炎が宿っていた。それは野心と混じり合い、元からの強烈な欲望と歪んだ意識を更に加速しているらしかった。

途轍もなく深く暗い闇を、秀一は見た気がした。

「まだ方法はよく分からないけれど。 大いなる意思が力を得た時、新しい世界を作り出すことが出来るらしいわ。 それを、創世というらしいの。 悪魔達の目的は、基本的に其処に行き着くのよ」

「新しい世界を、作り出す」

「そう。 新しい世界を、作り出す」

復唱すると、千晶は哄笑した。

聖が、面白そうに千晶の様子を見ていた。秀一は眉をひそめたが、千晶はなおも続けた。秀一の感情など、どうでも良いのだろう。

「これは、好機だわ」

「俺には、そうは思えない」

何か、巨大な意思が介在している。それに、何もかもが踊らされているような気がしてならない。千晶は、恐らく自分でその指針を決めたはずだ。しかし、その決定は、様々なデータの集積によって行われたはず。

一体、何が起こったのだろう。

ただ。今の言葉については、秀一も魅力的だと思った。創世。新しい世界を、作り出す。今はまだ見えない。例えば、ニヒロ機構の良いところと、悪いところを、今歩いてきたシブヤで見ることが出来た。他にもマントラ軍という巨大勢力があると聞く。ならば、そちらも見ておくべきなのではないか。他にも、思想があるのであれば、触れておきたい。その上で、考えたい。

どのような世界があるべきかを。

自分がそれをなせるかは分からない。或いは、なせる者を探すべきかさえも。

いずれにしても、知らないことには始まらない。

わずかな間続いた沈黙を破ったのは、今まで様子を見ながらメモを取っていた聖だった。

「あんちゃん、ちょっといいか」

「何だ」

「千晶の嬢ちゃんは、これからイケブクロを目指すそうだ。 ただ、世界を見て回りながらだから、歩いていきたいそうだがな。 お前さんはどうする」

「俺は、まだ分からない」

聖は口の端をつり上げる。周囲の恐ろしい姿をした悪魔達よりも、この不良中年の方が、余程深い闇を秘めているとしか思えない。

「ならば、俺を手伝って欲しい。 後で、アマラ輪転炉で試してみたいことがある」

正直、この男はまだ信用しきれない。だが、どうやって此処まで来たのかも気になる。それに。

今後のためにも、あらゆる情報は得ておきたい。

「分かった。 それで……」

爆音が響いたのは、その時だった。続いて、揺れが来る。

もろにすっ転んだ聖と違って、千晶は転ぶこともなく、耐え抜いた。知ってはいたが、恐ろしい運動神経だ。秀一は悪魔の肉体を得ているからか、平気だった。

天井から埃が降ってくる。店主らしい悪魔が、慌てて棚の酒類を抑えた。店から出ようとする秀一の前を、西洋の魔女みたいな格好をした女の子が駆け抜けようとして、見事に転ぶ。後ろから着いてきていた堕天使達が、慌てて抱き起こした。

「カエデ様、大丈夫ですか!?」

「カエデは大丈夫です。 それよりも、早く伝令を飛ばしてください」

「は!」

さっと堕天使達が散っていく。鼻を擦っていたカエデという女悪魔は、口の中でなにやらもごもごとつぶやく。赤くなっていた鼻が、すぐ元に戻った。サナが使っているのを見たことがある。回復の術だ。

秀一には見向きもせずに、カエデという女悪魔は再び駆け去っていく。が、足がもの凄く遅い。その上、運動神経が非常に鈍いらしく、何度も自分のスカートを踏んで転びそうになっていた。見ていて不安になった秀一は、右斜め上に浮いていたフォルネウスに言う。

「あの子を、送ってやってくれ。 何かあったとしか思えない」

「承知したが、いいのかの」

「構わない。 ついでに、状況を見てきて欲しい」

「シューイチ、凄い魔力だよ! 逃げなくて良いの?」

サナの言葉と同時に、また痛烈な揺れが来た。秀一は店をマイペースに出てきた千晶の様子を確認してから、応えた。

「まずは、様子を見てからだ」

秀一の視線の先には、濛々と上がる煙があった。

 

嫌な予感がした。だから琴音は、石材類の買い出しを早めに切り上げて、ケーニスを探していた。買い取った石材は、街の外に置くように手配して貰った。今は、ケーニスの事が、心配だ。

ケーニスは非常に無口だが、コミュニケーション自体は取ることが出来る。事実、最初に出会った時には、意思を琴音に伝えてきた。普通の悪魔の可聴域外でしか喋らないが、たまに琴音にはそうして話し掛けてくる。口調は丁寧語で、とても軟らかい喋り方をするのが特徴だ。ほんの数度しか琴音も喋ったことはないが、悪い印象を受けたことはない。いつもは言葉を必要としない方法で、ケーニスは皆を助けてくれる。眠ってしまったカズコに、毛布を掛けてくれていた事もある。

戦いが嫌いな皆の中でも、ケーニスは特に臆病で、守勢に徹する事が多い。決して弱い悪魔ではないのだ。確かに邪眼の力は失ってしまっているが、触手から水を出して消火活動をしてくれたこともある。様々な術の知識もある。

戦いたくない者を、戦わせてはいけない。戦わないからといって、役立たずと呼ぶのは酷い。

だが、ボルテクス界の理論では、その考えこそが異端なのだと、琴音は知っている。

だから、走る。何かに巻き込まれていた場合、ケーニスが無事でいるとは思えない。だから、自分が守らなければならない。たまたま、自分には力がある。戦える。ならば、それで弱い者を守るべきなのではないか。

爆音がとどろいたのは、その時だった。

続いて、砂混じりの熱風が全身を撫でた。激しい揺動が襲ってくる。必死に大地を踏みしめると同時に、大きな攻撃術が炸裂したのだと、琴音は冷静に分析していた。

キノコ雲が、シブヤの真ん中に上がっている。酷い光景だった。

嫌な予感が加速する。辺りは綺麗に吹っ飛んでおり、マガツヒが漂っていた。死んだ悪魔のなれの果てだ。中には、体が引きちぎられても、生きて苦しんでいる悪魔もいた。

「ケーニスさん!」

仲間を呼ぶ。三回、呼びかけた時。返事があった。

声が、かすれている。背筋が凍るかと思った。走る。また、大きな揺れが来る。土埃が、襲ってきた。踏みしめて、ガードして凌ぐ。さっきまで生きていた悪魔が、とどめをさされ、マガツヒになって消えていく。

圧力に逆らい、琴音は走った。既に虎徹を抜きはなっている。尻尾を最大限活用して、疾走の際にバランスを取り、更に加速する。跳躍。

更地になっている底で、琴音は見た。

淡い光のシールドを張って、攻撃を耐え抜いたケーニスの姿。後ろには、何体かの堕天使が頭を抱えて震えていた。中空に、魔王のごとく漂っているのは、ヒトデの姿をした悪魔。中央には大きな単眼。

「きいさまああああああ! 何処まで私を馬鹿にすれば気が済むかあああっ!」

「はやく、逃げなさい」

ケーニスが、喋った。普段は、絶対に他の悪魔の可聴域では、口を利かないのに。転がるようにして、逃げ出す数体の堕天使。

琴音が、手を伸ばす。ケーニスの名を呼ぶ。走る。ヒトデの悪魔が、露骨に力が劣るケーニスに、非情な宣告をする。印を組む。走りながら、守りの術の印を。

「殺す! 死ね!」

ヒトデの悪魔の、魔力がふくれあがる。お願い、間に合って。誰になく、祈る。印を組み終える。

その時。

ケーニスが振り返った。単眼のケーニスなのに。どうしてか。笑っているような気がした。

ヒトデ型の悪魔の目から放たれた光線が、ケーニスの体を貫く。

緑色の血が、派手に飛び散った。

そして、ケーニスの全身が、風船のように破裂した。

「あ、ああ……!」

その場に、転んでしまう。マガツヒになって飛び散るケーニス。涙がこぼれてきた。ほんのさっきまで、一緒にいたシャイな悪魔は。

砕けて、消えてしまった。

もう、元には戻らない。

嫌な予感はしたのに。警告だってされたのに。ずっと一緒にいるべきだったのに。一緒にいれば、守ることだって出来たのに。

「貴様も、貴様も! この私を、馬鹿にしに来たかああああっ!」

うずくまったままの琴音に、悪魔が再び光線の術を放ってくる。開いている左手を振るう。弾いた光線が、方向を変え、無事だった白磁の家に突き刺さった。一瞬置いて、吹っ飛ぶ。

顔を上げる。目を擦って、涙を取った。もう一撃、飛んできた。それも無造作にはじき返した。

今までにないほど、静かに。琴音は己の中に、怒りが満ちるのを感じていた。

「斬ります」

「斬るだと? やってみろ、三下が!」

分かる。相手は上級悪魔だと。それでも。琴音は今、負ける訳にはいかなかった。

相手は空中。距離は約三十メートル。

大きく息を吸い込んで、辺りのマガツヒを取り込む。ケーニスにも、力を貸して欲しかった。他の、不運な悪魔達にも。

根こそぎ吸い込むと、力が湧いてくるのを感じた。ケーニスの記憶も、流れ込んでくる。臆病で、恥ずかしがり屋で、でも優しい悪魔は。最後の瞬間まで自分が庇った者達を心配していた。

一緒に帰ろう。文字通り自分と一体となったケーニスに語りかけると。琴音は、戦闘態勢を心身共に整えた。

辺りを焦土と化した、大魔法が飛んでくる前に勝負を決める。さっきのレーザーに似た術は、力を殆ど拳に集めることではじき返すことが出来た。だがしかし、防御の術を展開しても、大規模な破壊魔法は凌ぎきる自信がない。

一声吠える。地を蹴る。

勝負は一瞬だ。敵が、二発の大規模破壊魔法で消耗している今、けりを付けなければ、討つ機会は巡ってこない。

ヒトデが、レーザーみたいな術を打ち込んでくる。右に、左に、跳躍してかわす。目が慣れてきている。こうまで集中したのは、生まれて初めてかも知れない。あと二十メートル。ヒトデが、戦術を切り替える。上から、押しつぶされるような圧迫感。重力操作か。全身を突っ張るようにして、ヒトデが発動した術で、辺りの街並みが軋む。更に、ヒトデの頂点五つに、光が宿る。この術を発動したままで、なおかつさっきの大規模破壊魔法を発動するつもりか。

さすがは上級悪魔である。術式の展開次元が違う。考えてみれば、空に浮いている時点で、重力を操作できる可能性は考慮すべきだった。だが、今は。そんな事を、悔いている暇はない。

吠える。超重力の圧迫を受けながら、なおも前に進む。ヒトデが鼻白んだ様子で、更に重力を強化してくる。クレーター状に、辺りの地面が軋む。破壊の規模が、更に広がった。だが、代わりに、発動し掛けていた攻撃術の光が、消えた。流石に片膝を着く。だが、屈する訳にはいかない。

雷撃が飛んできた。全身を打ちのめされて、叩きつけられる。血を吐き捨てると、立ち上がる。もう一度、雷撃。全身が焼き尽くされるようだ。しかし、負けはしない。負ける訳にはいかない。

立ち上がる。だが、前に進むのは、流石に無理だ。しかし、それでも、やらなければならない。

力づくで無理を押しのけて、一歩、二歩。進む。口の中で、詠唱を準備。真正面から、再び雷撃が飛んできた。腕を上げてガードして、耐えきる。また、一歩進む。上から、声がする。幼さを残した、必死な女の子の声。

「やめてください! デカラビア将軍っ!」

「うるせええええっ! 貴様、貴様もか! 貴様も、私を笑いに来たかあっ! やはりそうか! 格上の私が、無様に出世から遅れて、笑いものにされているのを知って! 嘲りに来たんだな! そうなんだなああっ!」

「フラウロス将軍は、貴方を心配していました! だから、わざわざボーナスを支給してくださったんです! カエデが、余計なことをしたのは、謝ります! だから、こんな事はもうやめてください! ニヒロ機構にも、いられなくなります!」

「黙れって、いってんだろうがああああああ!」

重力が、緩む。女の子が、悲鳴を上げた。

顔を上げる。デカラビアと呼ばれたヒトデが、フォルネウスに跨っていたカエデと自分を呼ぶ女の子に、瞬間的に発動させた火炎の攻撃術を叩き込んだ所が見えた。だが、淡い光と共に、カエデが煙を切り破って現れる。

デカラビアは、なおもそちらに注意を集中している。

だから、隙に乗じるのは、難しくなかった。

最初、何をされたか分からなかっただろう。デカラビアの単眼には、投げつけたフランベルジュが突き刺さっていた。強大な魔力の根源が、あの巨大な単眼である事は分かりきっていた。ぐらりと、揺れるデカラビアの体。続けて、詠唱開始。制止の声が、後ろから飛んでくる。

知ったことか。上級悪魔でも、至近からメギドを叩き込まれて、無事でいられる訳がない。跳躍。フランベルジュに手を掛けて、デカラビアに乗る。振り下ろそうともがく上級悪魔に、更に虎轍の刃先を突っ込んだ。青い血しぶきが上がる。悲鳴。地面に、叩きつける。フランベルジュの刃先が、更に深く、単眼に潜り込んだ。巨大な眼球が破裂して、盛大に血が飛び散った。

魔力の根源を砕かれているのに、それでもデカラビアは吠える。もがく。さすがは上級悪魔の生命力。並の悪魔とは桁が違っている。

「お、おのれ、おのれえええっ!」

「ケーニスの苦しみ、十分の一でも、味わって貰います」

この距離から、メギドを叩き込めば、自分もただではすまない。だが、それでも構わなかった。フランベルジュから手を離し、腿でデカラビアの喰腕の一つを挟んだまま、詠唱を終える。

「ち、畜生っ! 畜生ーっ!」

デカラビアが、やけになって、辺り全土を重力で押しつぶしに掛かる。だが、単眼を深く貫かれ、潰された今。その力は、どうしても貧弱だった。哀れみさえ感じる。だが、もはや、加減をするつもりはない。

横殴りに叩きつけられた炎に、吹き飛ばされたのは、次の瞬間のこと。

報復の機会が奪われたのも、そのときだった。

数度バウンドして、やっと止まった。頭を振って、上半身を起こす。見えた。炎の術ではない。コンクリを溶接するのに使った、炎の吐息を浴びせてきたのは。秀一だった。

「秀一、くん?」

「逃げろ」

言われた意味が、一瞬分からなかった。だが、そうするしかないのだと、分かった。

頭が冷えてくると、周囲の状況が見えてくる。ニヒロ機構の部隊が、すぐに駆けつけてくるはずだ。一礼すると、駆け出す。どうせ、もうデカラビアは生きられまい。仮に生き残ったとしても。ニヒロの大都市であるシブヤで、これだけの大規模殺戮をして、無事で済むとは思えない。

デカラビアがどうしてああも残虐な行動に出たのかは、よく分からない。だが、自分まで死んだら、他の皆も路頭に迷うことになる。今は屈辱に身を焦がしながらも、生きなければならなかった。

虎徹をおいてきてしまったが、取りに戻る暇はない。出口へ走る。怪訝そうに此方を見る悪魔が多かった。酷い顔をしているのだろうなと、琴音は思った。

出口のトンネルを駆け抜ける。息が切れてきた。メギドを発動し掛けたのだから、無理もない。出口には、石材があった。買い取りに応じた悪魔が、番をしてくれていた。だが、運んでいる暇はない。

ふと、此方を見ている、大型犬のような悪魔に気付く。だが、構っている暇など無い。まっすぐ自宅に戻る訳にも行かない。

シブヤを背に、琴音は走る。今はただ、悲しかった。

 

一瞬遅れて到着したフラウロスは、全てを見ていた。状況は明白。悪いのは、どう考えてもデカラビアだ。確かに惜しい奴だったが。しかし、此処で罪を問わなければ、ニヒロ機構の存在意義が歪んでしまう。

逃げるサマエルを、捕らえることは出来た。事実、部下はそれを聞いてくる。

「追いますか?」

「捨て置け。 見ていただろう。 サマエルに罪はない」

フラウロスもサマエルは知っていた。以前からオセがスカウトを試みていたからだ。気の毒な奴だとは聞いていたが、これは何というか。部外者ながら、少し同情してしまう。デカラビアに歩み寄る。刺さっている剣と、刀を引き抜く。そして目を潰されてもがいているデカラビアを引きずり起こすと、拳を叩き込んだ。

吹っ飛んだデカラビアは、自らが作り出した瓦礫の山に突っ込み、哀れな悲鳴を上げる。

「ぎゃああっ!?」

「目が醒めたか。 誰もお前を、馬鹿になんてしてなかったのにな」

「そ、そんなはずは!」

「……確かに、そういう性根が卑しい阿呆はいたかもしれん。 だが、俺も、カエデも、お前を心配していたことに嘘はない。 これは、俺も庇い切れんぞ。 覚悟は、決めておくんだな」

デカラビアが、泣いているのが分かった。自分の不明を感じる。此奴のプライドを何とか尊重してやりたかった。だが、立場上、これ以上は庇えない。もし、復帰の機会があるのなら。何とか手配してやりたいところだ。

「ざっと見ただけで、数十、いや百騎以上は殺戮してくれたようだな。 街並みの被害も甚大だ。 しばらくは最上級囚人牢に入って貰うぞ。 後の処分は、それからだ。 連れて行けっ!」

連れてきた中級堕天使達が、拘束の術式を掛けて、引っ張っていく。治療しても、生き残れるかは五分五分と言うところか。それに、仮に元に戻っても、魔力は半減してしまっているだろう。

驚くことが、幾つもあった。まずは、フォルネウスだ。だいぶ小さくなっているが、間違いない。フォルネウスから緩慢に下りたカエデが、ぺこぺこと頭を下げた。

「フラウロス将軍、デカラビア将軍に、寛大な処置をお願いします」

「お前が気にする事じゃない。 氷川司令に、後は任せなければならない。 それが、法治国家というものだ。 それよりも」

「フラウロス将軍、お久しぶりですじゃあー」

「ああ。 倒されたと聞いていたのだが、無事で何よりだ」

妙な表現では、あった。

確かにフォルネウスが死んだことを、フラウロスは感じ取っていた。間違いはなかったはずだ。確かに断末魔の波動を察知した。

それなのに、どうして生きているのか。

しかも、分かる事がある。今のフォルネウスは、ニヒロ機構とは、縁が切れてしまっている。雰囲気が違うのだ。フォルネウスは、今、部下としてではなく。あくまで別勢力の所属者として、フラウロスと向かい合っている。

「新しい主君を得たんだな、フォルネウス」

「そうなのです、フラウロス将軍。 後で、お詫びと、お別れに伺うつもりだったんですじゃあ」

「そうか。 主君は、さっき、炎の息をサマエルに浴びせた悪魔か?」

無言で、フォルネウスは頷いた。

もう姿を消しているが、人間によく似た悪魔だった。もしそうだとすると、何かしらの方法で、死者をよみがえらせたと言うことになる。或いは。奴が、フォルネウスを屠り去った存在かも知れない。

かって東京で繁栄していた人間が、ネクロマンシーという魔術を発達させていたことを、フラウロスは知っている。それを何かしらの形で、復活させたのかも知れない。何にしても、それらは憶測に過ぎない。今度会うことがあったら、確認してみたい所であった。

改めて、フォルネウスを見る。多少呆け気味であったが、優秀で、勇敢な部下であった。一度失った者だ。だから、これ以上は引き留める訳にもいかない。胸部に付いている豹の髭をしごきながら、言う。

「あの青年は、良い主君か?」

「まだ荒削りながら。 とても将来が楽しみですじゃ」

「そうか。 ならば、行くがいい。 立場上祝福してやることは出来ないが。 俺とお前が、戦うことが無いことを祈る」

一礼すると、フォルネウスは空を舞って、消えていった。

しばらくかっての部下を見送ると、フラウロスは頭を切り換える。辺りの状況を確認して、嘆息。被害者の救出。それに、復興計画の立案。後は、報告書の作成。色々とやらなければならないことは山積している。

自分の不明が招いた災いだ。地位を剥奪されることくらいは、覚悟しなければならないだろう。それに関してはいい。だが、シブヤの民を多く死なせてしまったことに関しては、忸怩たるものを感じていた。

何カ所かで、まだ炎が上がっている。

一刻も早く、混乱を回復しなければならなかった。

 

4,それぞれの傷跡

 

辺りはまだ混乱が続いていて、ガラの悪い奴が、時々物欲しげに辺りをうかがってもいた。こんな治安がきっちりしている街でも、火事場泥棒はいるのだと、秀一はある意味感心した。

敢えて秀一は、その中を堂々と歩いた。不審な動きを見せれば、却って拙いと分かっていたからだ。だが、その苦労も、報われることはなかった。

戻ってきた秀一を迎えたのは、千晶の冷たい言葉であった。

「見ていたわよ、秀一君。 無駄なことをしたものね」

「無駄なこと?」

「そうよ。 このボルテクス界のルールは、身に染みているはずでしょう?」

千晶の言葉に、とがめる色はない。あくまで千晶は、疑念を言葉にして、ぶつけてきている。

ピクシーのサナも、多分同じ事を言うだろう。表情でそれが分かった。戻ってきたフォルネウスは、無言でやりとりを見守っていた。

「俺は、それが無駄な事かどうか、見極めてみたい」

「……そう。 姿が変わっても、秀一君は前のままなのね」

「そうか?」

その受け答えは意外だった。さっきの冷徹な言葉については、千晶らしいとは思ったのだが。千晶が、秀一について評するのを、初めて聞いた気がする。

「そうよ。 東京にいた頃だけれど。 勇君と、貴方だけが私を怖がらなかった。 勇君はあまり深く物事を考えていなかったのが原因だと思うけれど、貴方はどうしてだったのかしら」

「それは、子供の頃から、千晶を知っていたからだ」

知識がない奴を不要品扱いする東京の風潮に、秀一は快い印象を抱いた記憶がない。だが、知識そのものが重要だとは、感じていた。

確かに千晶を恐れなかったのは、幼い頃から一緒に接してきたことが大きい。傲慢で尊大だが、親の愛情を受けられず、屈折した心を育ててしまった千晶。心の中に蠢くものはともかくとして、根は決して闇ではないことを、秀一はどこかで理解していたのかも知れない。だから、友人として理解しようともしてきた。務めて普通に接してきた。独尊的な性格にも、腹を立てることはなかった。事実、気性が荒くても、露骨に害意のある相手意外には、手を出す娘ではないのだ。

その結果、千晶は秀一と勇と一緒にいることを嫌がらなかった。打ち明け話さえしなかったが、共にあることを楽しんでいた雰囲気さえある。

「そう。 あなたは、じっくり見極めようとしたのよ。 だから、周囲の悪評まみれの私とも、接することを怖がらなかった。 貴方が、愚民共と同じだけれど違うのは、その一点に尽きるわ」

「俺は……。 そんな風に考えたことはない。 千晶は、他とは違うと考えているのか?」

「私はね、残念だけれど、愚民共とは違うの」

さらりという。確かに千晶は、恐ろしく頭が良い。勉強なんかしているのを見たことがないにもかかわらず、模試では全国トップクラスを平然とかっさらっていた。テストも毎度殆ど満点。その圧倒的な成績が、素行の悪さにもかかわらず、教師達を黙らせる要因の一つだった。

だが、千晶が言う頭の出来とは、多分それとは無関係な部分のことだろう。周囲を愚民と呼ぶことも、以前から時々あった。

「もしまた会うことがあったら。 考えが、私と同じになっていると良いわね、秀一君」

「……」

身を翻して去っていく千晶の今の心は、よく分からない。側に着いていた美しい女悪魔は、軽く此方を一瞥すると、その後を追っていった。

一つ、分かっていたことは。千晶は、秀一と共にいることなど望まない。そして庇護無くとも、この世界で悠々と生きていけると言うことであった。

安全は確認できた。だから、今は、他に目を向けるべきかも知れないと、秀一は思った。

「何だか、悪魔よりも悪魔らしい人間だね」

「ああ。 そうかも知れない」

サナの言葉に、秀一は納得する。

以前、千晶は言っていたことがある。

この世界は、袋小路に来ていると。新しいものは何もなく、既存の権益を奪い合って愚民共が合い噛み合う、卑小な世界に過ぎないと。

ならば、このボルテクス界は。千晶にという魚にとって、大海のような存在なのかも知れない。事実、千晶はとても生き生きとしていた。失って悲しむような家族もなく。友人など最初から見極めるための存在に過ぎず。此処こそが、千晶にとって、自分を見極めることが出来る場所ではないのか。

「全く、ひでえ目に会ったぜ」

ぶつぶつ文句を言いながら、店から出てきたのは聖だった。片手には、こっそりくすねてきたらしい、ウィスキーの瓶がある。秀一に気付くと、聖はウィスキーの瓶を、見せつけるように一口傾けて見せた。

「嬢ちゃんは行っちまったか。 ありゃあ、とんでもねえタマだぜ。 世界がこんなになっちまってんのに、動じる気配もねえ。 あんた、幼なじみなんだろ? あの子、どんな人生を送ってきたんだ?」

「普通の人生の筈だ」

「んなわけねえだろ。 あんなおっかねえ女、歌舞伎町の盛り場だって、そうそう見かけやしねえよ。 まるで内戦地帯で生まれ育ったチャイルドソルジャーみてーだ。 まあ、いいか。 とにかく、だ。 約束通り、さっきの話につきあって貰おうか」

しばらく秀一は聖を見つめていた。この男も、悪魔よりも悪魔らしい存在の、一人かも知れない。彼も、世界がこのような状態になっているのに、取り乱している様子もない。むしろ眼光は鋭く、生き生きとさえしていた。

「あんたは、氷川を追っているんだったな」

「ああ。 それがどうした」

「俺は、氷川に、この事態がなぜ起こったのか、確認したい。 それに、氷川の側にいる創世の巫女とやらが、俺の知っている人のような気がしてならない。 それも確認したいんだが、その前に、創世とやらにも興味が出てきている」

相対的に、絶対正しいものなどあるはずもない。

だが、主体的に正しいものを見極めるのは重要だと、秀一は思う。

恐らく、千晶がああも迷い無く己の覇道を進めるのは、それが原因であろうから。手が血塗られようと、千晶は気にもしないだろう。それは極端であろうと、一つの強さである事に間違いはない。

だから、相対的にモアベターなものを探すためにも、全てを見極めたいと、秀一は考えていた。

「どうやって、此処まで辿り着いたんだ」

「……」

「あのアマラ輪転炉だったか。 あれを使ったんじゃないのか?」

「へ、へ。 鋭いな。 それも悪魔になった影響か?」

しばし、距離を置いて見つめ合う。秀一の推理が当たっているのは、明白だった。

そもそも、この距離を、秀一よりも早く踏破できる訳がない。そして、サナから聞いていたアマラ経路やらの情報を考慮すると、その推理が成り立つのだ。そして、聖の態度が、それを証明していた。

「なら、協力する代わりに、提案がある。 俺を、イケブクロに飛ばすことが出来ないか」

「また、どうして」

「先に、マントラ軍の実情を見ておきたい。 時間は、幾らあっても足りないから、移動の時間を短縮できるなら、それに越したことはない」

「出来ないことはないと思うが、難しいぞ。 アマラ輪転炉は、氷川の秘蔵品だ。 マントラ軍が持っているとは思えないからな」

それでも構わないと言ったのは、何故だろう。今や、少々の安全など、気にしていても仕方がないと思ったからか。

沈黙は、短かった。

「いいだろう。 だが好機が来たら、俺に協力して貰うぜ」

「ああ」

「全く、やりにくいったら無いぜ。 さっきの嬢ちゃんと言い、兄ちゃんといい。 今時の連中は、自意識ばっかり過剰に発達させて、現実には何の力もないって思ってたんだがな」

「老人みたいな物言いだ」

苦笑し合うと、聖に着いていく。一瞬、重要施設であろうアマラ輪転炉の保管場所に通して貰えるのか不安になったのだが、多分大丈夫であろうと当たりを付ける。この騒ぎの後である。人間などは、さっさと追い出してしまいたいはずだ。

予想は当たった。監視は付いたが、アマラ輪転炉のある地下空間に、通してくれた。さっきの魔女の格好をした、十代前半くらいに見える悪魔が、監視に着いた。聖に対して警戒心剥き出しなのは、この不良中年に、何かされたからかも知れない。ちょっと視線が痛かった。サナもそうだが、年下の、或いはそう見える女の子はやはり苦手だ。

「アマラ輪転炉は、街の生命線です。 出来るだけ早く、作業は済ませてしまってください」

「分かった。 善処する」

向こうで聖が一心不乱に作業をしているのを確認してから、わびておく。単純に、この視線が身に痛かったからだ。

「聖が失礼なことを言ったかも知れない。 すまない」

「え? ……いえ」

態度が若干柔らかくなったようなので、秀一は安心した。サナがまた後ろでやきもきしている様子で、今度はそっちからの視線が痛い。

「名前は? 俺は秀一という」

「カエデです」

「そうか。 カエデは、ニヒロ機構にどうして所属している? ここの思想に、合うと考えているからか?」

「……ニヒロ機構で、しなければならないことがありますから。 そんな事は考えている暇がありません」

この世界は、やはり地獄のような環境なのだなと、秀一は思った。こんな幼い女の子が、そんな思い詰めた表情で、何かに臨んでいるとは思わなかった。

誰もが、この世界ではそれなりの傷と向き合っているのかも知れない。そして、思想を度外視して、大望のために組織に仕えている悪魔も、いると言う訳だ。それは、かっての東京と、あまり代わりがないのかも知れない。ただ、悪魔が人間にすり替わったと言うだけで。

今まで接してきた悪魔達は。多分に人間的な要素を含んでいた。カエデも、それと同じという訳だ。

ふと、そこで違和感を感じる。本当にそうなのだろうか。どこかで、引っかかるものがある。

だが、違和感の正体は、分からなかった。

「おい。 出来たぞ」

聖が呼んでいる。作業中の真剣な表情は、不良中年のものと同じとは思えない。やはりこの男は、思想的に共感できない部分があるとしても、侮りがたい存在であった。

いつまでも悩んではいられない。とにかく、一刻でも早く。全てを見極めなければならなかった。

 

5,停滞が終わる時

 

トールの眼前で、虚しく何の意味もない会議が繰り広げられている。生真面目に憂国の意を剥き出しにする毘沙門天が、己の利益を優先しようとするフッキにくってかかり、荒れる。その繰り返しであった。

毘沙門天が苛立つのも無理はない。マントラ軍は、深刻な停滞に見舞われていたのである。

流入する悪魔が、露骨に減り始めていた。天使軍の暴挙によって、各地の小勢力がこぞって参入してきたまでは良かった。しかし、それが一段落してしまうと、ぴたりと参入してくる悪魔がいなくなったのである。

成長を前提に組んでいた、国家的な戦略が、これで停滞してしまった。

フッキは、出来もしないことばかりをしたり顔で言う。出来ないのは、毘沙門天が無能だと、言葉の裏に潜ませつつ。権力を掌握しようという意図が透けて見えて、トールはうんざりしていた。

「とにかく、です。 この事態の打開のためには、カブキチョウで更に効率よくマガツヒを絞り上げなくてはなりますまい。 そのためには、輸送計画のさらなる進捗が」

「もうよい」

不意に、その場に割り込んできた声。驚愕して黙り込んだフッキを見下ろしているのは、ゴズテンノウであった。

「は、しかし」

「お前の言葉では、何一つ解決せぬわ。 まず第一に、分析してみよ。 何故、我が軍への、兵力流入が止まった」

「そ、それは、その」

「恐れながら」

トールは挙手する。ゴズテンノウは、顎でしゃくって、発言を許した。トールの発言を阻むことが出来る存在は、マントラ軍首領であるゴズテンノウだけだ。

「マネカタからマガツヒを搾り取る方式に、無理が出てきているのかと」

「な、そんなはずは!」

「ニヒロ機構は、三つある拠点に設置したアマラ輪転炉から、確実にマガツヒの絞り上げを行っております。 それを給金に近い形で配布しており、上下にまんべんなく行き渡っているという話です。 それに比べて我が軍では、武勲無き者にマガツヒが配布されることはなく、それが悪魔の流入を阻む原因となっております。 その上、拷問吏の腕により、一体のマネカタから採取できるマガツヒにばらつきがあり、供給が安定しておりません」

これらは、トールが自分で考えていたことではない。内定を進めさせていたアメノウズメとサルタヒコからの受け売りである。更に、オルトロスからの情報も加えてある。後は、関係者の間をリコが走り回って、一生懸命レポートを作ってくれた。

トールはあまりこういう事はやりたくないのだが、マントラ軍が潰れてしまっては元も子もない。高品質な戦いを楽しむためには、どうしても強大なスポンサーは必要なのだ。

マントラ軍とニヒロ機構の差が生じ始めているのには、国家としての完成度の違いもある。

まがりなりとはいえ、平穏が訪れている現在、ニヒロ機構の法治思想は特に力量が足りない悪魔には歓迎を受けている。シブヤやギンザ、ユウラクチョウに潜入しているスパイからは、その治安が極めて良いこと、安定した状況下で悪魔達は効率的に働いていることが報告されている。

それに対し、マントラ軍は、弱者は死ねと常々公言している。強力な悪魔は、下等な悪魔数十数百にも匹敵する力を持つから、戦時はこれで構わない。だが、平時では、むしろこれは害悪になってくる。有り余った力の振るいようがないし、今まで文官の流入が難しかった状況もある。だから、フッキやジョカの様な奸臣がのさばることにもなる。

以上を説明し終えると、ゴズテンノウは腕組みした。

「ふむ。 それで、対応策は何かあるか」

「天使軍への押さえだけを残して、全軍で撃って出るのが良いでしょうな。 ただ、ニヒロ機構の頑強な防衛能力は、既に証明されております。 何かしらの策を考える必要があるでしょうな」

「他に策は」

「恐れながら、ハードウェア面での遅れを取り戻す方策が、現状ではありません。 アマラ輪転炉の性能を凌駕する、何かしらの道具を作り出せるものがいれば良いのですが、我が軍の方式では、そのような人材も加入はしてきませんので。 敵のものを強奪する以外に、方法はないでしょう」

しかし、アマラ輪転炉を強奪するのは、あまりにも非現実的である。非常に厳重な警備下にあることが判明しており、それこそ敵の主要都市を陥落させるくらいの覚悟で攻めなければ、強奪は無理である。

「なるほど。 トール将軍の意見に、何か反論がある者は?」

ゴズテンノウが見回すが、誰も何も発言はしない。しばし長い顎の下を撫でていたゴズテンノウは、方策を決めたようであった。すっくと立ち上がると、緊張を湛えた皆に、一つずつ指示していく。

「では、フッキ、ジョカ。 貴様らは、カブキチョウに移れ」

「な、何ですと!?」

「常々公言していただろう。 マガツヒの採集効率に問題があると。 今、イケブクロではマネカタをあまり必要とはしておらぬ。 マガツヒ採集施設である、カブキチョウで直接マネカタを生産した方が早い」

正論である。佞臣どもは、今までゴズテンノウに阿ることばかりを考えていた。カブキチョウに移って生産だけに従事すれば、その機会も減る。

実際問題、総力戦を行うだけの分は、マガツヒも各主要都市に貯蔵されている。蒼白になる蛇神共には目もくれず、ゴズテンノウは次の指示を始めた。

「毘沙門天は、ニヒロ機構攻略作戦を考えよ。 敵の主力を一気に撃滅する作戦を、カグツチの日齢が二巡するまでに提出するように」

「ははっ!」

俄然精気を取り戻した毘沙門天が、威勢良く言った。

「他の者達は、主要拠点の防衛を見直せ。 出来るだけの戦力を動員したい。 天使共の奇襲を受けても、主力が帰還するまでは耐え抜けるように工夫せよ」

「ははっ!」

皆が一斉に敬礼した。一気にマントラ軍は活力を取り戻したのである。

ふと、トールは気付く。ひょっとしてゴズテンノウは平和に倦んでいたのではないかと。今、戦いが間近に迫ったことで、一気に気力を取り戻したのではないのだろうか。そう考えれば、今までの無気力ぶりと、今の精力的な行動に説明も付く。

会議はそのまま終了した。蛇神どもは、そのままカブキチョウに直行である。これで、今までの極めて非効率なマネカタ輸送作戦を行わなくて良くなった。毘沙門天は、早速四天王を集めて会議を始めると言うことである。

全てが動き始めた。後は、運が味方するかどうかである。

トールはそれ以上に、楽しくて仕方がなかった。これで、ニヒロ機構の強者共と、拳を交えることが出来る。

自宅に戻る。久々に、活力が全身にみなぎるのを感じた。

 

「カブキチョウに、フッキとジョカが移動したのを、監視部隊が確認しました。 予想通りの行動です。 マントラ軍は、近々大攻勢に出てくる可能性が高いでしょう」

オセの発言に、幹部達は皆沈黙していた。此処はニヒロ機構本部最下層、会議室である。会議室には、幹部があらかた集まっている。最上席に座っている氷川司令は、面白くも無さそうに、ノートパソコンの光学式マウスをもてあそんでいた。

薄暗く抑えられた照明。ずらりとならぶ上級悪魔達。幹部は一人も余さず、顔を揃えている。アマラ輪転炉の改良は日々進んでおり、今や転送の事故が起こる可能性は更に低くなっているのだ。だから、幹部が一同に会することが難しくない。

この辺りのアドバンテージが、今利いてきている。政策の実行も、情報の伝達も。マントラ軍とは比較にもならないほどに早い。そして今、決定的な好機が、ニヒロ機構に訪れようとしている。

「戦略的な意味では、そろそろ来てもおかしくなかったからのう。 ようやくと言う訳ぢゃな」

「腕が鳴りますな」

ミジャグジさまに、ロキが応える。確かに、戦略面では、いつ来てもおかしくなかった。

ニヒロ機構とマントラ軍の総合力には、差がつき始めている。しかも、今後は更にそれが拡大するのが明白だ。マントラ軍にとって選択肢は、大攻勢をしかけるか、切り崩ししかない。

だが、ニヒロ機構は統治システムに隙が無く、造反は極めて難しい。そうして考えると、選択肢はおのずと絞られる。それに対するため、ニヒロ機構はしばし前から、決戦の準備を進めてきた。

上手くいけば、一気にマントラ軍を、過去の存在にすることが可能だ。

「オセ将軍。 ゴズテンノウの位置を固定することは可能か」

「恐らくは、イケブクロで総指揮を執ろうとするでしょう。 故にナイトメアシステムの発動により、一気に焼き尽くすことが出来ましょう」

「うむ、それだけが懸念だな。 ナイトメアシステムは、兎に角燃費が悪い。 上手くいかなかったら、我々は一気に劣勢に立たされる」

事実、弱体化が始まっていると言っても、マントラ軍の戦力は侮りがたい。主要構成員である鬼神共の戦闘能力は、此処にいる誰もが知るところだ。その上、マントラ軍では、いよいよ虎の子である龍族を戦場に引っ張り出してくる可能性があるという。

龍族は、侮りがたい存在だ。もっとも古い宗教は、いわゆる蛇体と言われる形態の神が非常に多い。理由は、まだ完全には分かっていないが、ともかく東洋ではこれが発展する結果で、西洋では排斥する形で、様々な近代的宗教が生まれた。西洋の唯一神教で、蛇体神から発展したドラゴンが悪の化身とされたのは、それが原因だ。

ともかく、蛇の神は古き存在にて、とてつもない潜在能力を秘めた者どもだ。ニヒロ機構にもミジャグジさまが眷属として存在するが、その高い実力は周知のものである。龍族が敵として大挙押し寄せた場合、航空戦力が優勢を保てるか、オセには不安がある。一層の覚悟が必要となってくるだろう。

「迎え撃つのは、ギンザ東の、この砂漠で行います。 敵の戦力は三万から五万。 六万を超えることはないでしょう。 幹部も、ほぼ全員が出てくると判断して良さそうです」

「此方は、どれだけの兵力を用意できる」

「恐らく敵はユウラクチョウとシブヤにも抑えの戦力を送り込んでくるため、その戦力にもよりますが。 そうですな、五万から七万という所かと」

「敵が六万を超えた場合、かなり不利な戦いを強いられることになるだろうな。 しかも、ゴズテンノウが陣頭指揮を執る場合は、更に危険な状況が予想される」

もう一つ、危険な可能性がある。天使軍が総力で挑んできた場合だ。火事場泥棒のようなやり方だが、アマラ輪転炉を奪われるとかなり危険な状況になる。連中は、その高い機動力を生かして、常に何処にでも現れうる可能性がある。備えを怠ることは、すなわち破滅につながりかねない。

「対策案は、何かあるか」

「シブヤの防空体制は、完璧と言わずとも整えておりますぢゃ。 主力が決着を付けてくれた頃には、天使共が攻めてきても、追い払うことが出来るでしょう」

「それはどうでしょう。 この間、内部でデカラビアが暴れた時、対応が随分遅れたと聞いております。 シブヤと違ってユウラクチョウの防備は、既に完璧に整えておりますが」

「な、んぢゃと! おのれ!」

ミジャグジさまに、ミトラが食ってかかる。激高し掛けるミジャグジさまを、氷川司令が片手を上げて制した。同状況の責任者とも言えるフラウロスは、一瞬殺気を湛えただけで、口を開かなかった。オセはそれを見て、少し驚いた。血気盛んだった親友が、ここのところ急速に成長しているような気がする。

「では、オセ将軍。 どちらにしても、速攻で勝負を決める必要があるという訳だな」

「御意。 予定通りに作戦が推移すれば、一気に片を付けることが可能でしょう」

「しかし、ギンザの街に被害が出る可能性が大きいのは悲しいですね。 此処まで発展させたというのに」

「その辺り、戦術指導を頼むぞ、ブリュンヒルド将軍」

悲観的な予想を示したブリュンヒルドをフォローすると、氷川司令は立ち上がった。幹部達も、皆それに習う。

「いよいよ、静寂なる世界を実現する第一歩を踏み出す時が来た」

「はっ!」

一斉に唱和する幹部達。皆、目には高揚が宿っている。

静寂なる世界。すなわち、絶対的な法と、完璧なシステムが統制する国家。今まで、人間には成し得なかったそれが、ここボルテクス界では実行可能なのだ。既に、シブヤやギンザでは、それが部分的に実行され始めている。

そして、創世を成し得れば。それが完成されるのだ。

敵も馬鹿ではない。知将毘沙門天もいるし、何より現在ボルテクス界最強を噂されるトールの部隊も存在する。油断すればたちまちにして罠は食い破られ、ニヒロ機構は陥落することになるだろう。

「皆の奮戦を期待している。 静寂なる世界のために!」

「静寂なる世界のために!」

唱和した。

オセは、この時点で。勝利を確信していた。

 

砂漠を踏破して住処に帰り着いた琴音は、その場で倒れ込んでしまった。体内に取り込んだ大量のマガツヒが、焼け付くように熱い。

状況は、その様子を見ただけで、誰もが察してくれたようだった。

カグツチの日齢が二つ動く頃には、歩くことが出来るようにはなった。己の回復力の結果だ。だが、心の傷は、どうにもならなかった。

守れなかった。

弱かったから。

救えなかった。

罪悪感が、新しい住処で膝を抱えて蹲る琴音の中でのたうち回り、体を焼き尽くすかのようだった。

ふと気付くと、隣にカズコが座っていた。目が合う。目を伏せそうになる琴音の脇を、カズコがつついた。厳しい表情をしているカズコは、目を伏せることを、許してくれなかった。

「何で、琴音が悲しむの? 手を出したのは、デカラビアでしょ? 琴音は、全力で立ち向かったんでしょ?」

「私が、弱いから、守れなかったから、間に合わなかった」

「だったら、強くなればいいんじゃないの? 今度は、間に合うように」

マガツヒなら、私が幾らでも出してあげる。そうカズコは言った。

ふと、其処で気付く。この心の強さ。どこかで感じたことがある。オセがそうだ。徳山先生も。それに、この間出くわした、秀一もそうではないのか。

自分には、これがない。

いつまでも悲しんでいては、他の誰も守れなくなる。悲しみを消してしまうのも、忘れてしまうのもおかしい。だが、それで前進を止めてしまっては、何もかもが台無しではないのか。

すぐには、立ち直れないかも知れない。だが、立ち直らなければならない。

もし、ボルテクス界を生きていくのなら。今後はもっと多くの死を覚悟しなければならない。平和に生きたいなどと、この世界にそぐわぬ事を願うのなら。更にその量は増すことだろう。

覚悟が、足りなかったのかも知れない。それこそ、もっと高圧的に出ても、強大な力を振るう必要があったのだ。どうして、それに最初から気付かなかった。自分の愚昧ぶりに、嫌気が湧いてくる。

カズコの頭を撫でる。この子には、様々な事を教えられてばかりだ。

「ごめんね」

「もう、謝らないで」

やはり、カズコの目は、秀一に似ている気がした。

しかし、秀一は顔も性格も違うと断言した。

よく分からない。だが、生きないことには、その解明も、いつまで経っても出来はしないだろう。

一眠りして、気持ちを切り替えた後。

琴音は、住処の側に、ケーニスの墓を作った。余った鉄骨の一つを、突き刺しただけだが。それが墓だと言うことは、皆分かってくれたようだった。

墓を囲んで、皆で泣いた。

後は、誰も涙を流さなかった。

 

(続)