新たなる混沌の予感

 

序、シンジュク衛生病院

 

目が醒めた。誰に呼ばれたからでもない。ただ、いける者の肉体的反応として、単純に覚醒した。

上半身を起こす。目が醒めた以上は、起きて動かなければならない。学校に行って、授業を受けなければ。何しろ、自分は高校生なのだから。

頭に手をやる。髪の毛をなでつける。寝癖が出来ているが、不思議と、少しなでつけただけで治った。いぶかしみながら、辺りを見回す。

部屋だ。十メートル四方ほどの、小さな部屋。薄明かりに包まれていた。発光している原理は分からない。見た感じ、完全に電気は止まっているからだ。そして、自分の周囲には。

おびただしい血痕があった。体中の血液が、全て流れ出てしまったほどの。

立ち上がって見る。自分を中心に、膨大な血が流れ出た跡がある。部屋の隅にまで、飛び散った跡が残っているほどだ。動揺はない。ただ、何故そうなったのかだけが気になる。それに、床は冷たいコンクリートである。何でそんな場所に寝ていたのに、体が痛くなかったのか。

手を見る。一瞬だけ、呼吸が止まった。それから、部屋の隅にあった、全身鏡の前に歩み出る。上に着ていたパーカーが無くなっている。下に履いていたズボンだけで、上は裸だ。

そして、手と同じ。淡く発光する奇怪な模様が、全身を覆っていた。

体を傾けてみる。首の後ろから、突起が伸びていた。触ってみると、質感は殆ど肌と変わりない。ぬくもりもある。もう一度、鏡を見る。そして気付く。目が、こんなにも冷たかったか。何だか、感情が感じられない。そう思って、やっと驚きが目に宿る。

歩く。体が少し軽い。手を動かしてみた時にも感じたのだが、全身の感覚が以前と違っている。その気になれば、コンクリの壁も砕けそうだ。跳躍すれば、数メートルの塀くらいは軽く越えられそうである。

どちらも人間には不可能な事なのに。とても簡単な事に思えてならない。試しに、足下に落ちていた鉄の棒を、掴んで曲げてみる。まるで飴細工のように、鉄の棒は減し曲がり、そして折れた。鉄の棒には、くっきりと手形が残っていた。何という軟弱な物体だと思った。

捨てる。自分の体より柔らかいものなど、身を守るための武器になろうはずもないからだ。

呼吸を整え、頭に手をやる。考え込む時の癖だ。何があったのか、少しずつ思い出していく。

そもそも、此処は何処だ。新宿衛生病院。すぐにその語句が脳裏に浮かんだ。そうだ、此処は新宿の一角だった。入院したという祐子先生を、皆と一緒に見舞いに来たのだ。だが、おかしい。あの時とは、根本的に気配が違う。

そういえば、此処で殺されかけたのだった。それに、この部屋も見覚えがある。祐子先生を捜していた時、足を踏み入れた一室ではないか。そして、此処で殺されかけた。スーツの男と。とてもあり得るとは思えない異形によって。

動揺が全く浮かんでこないのが、自分でもおかしかった。まず、じっくり、何があったのか、思い出してみようと思った。そうしないと、混乱して、身動きが取れなくなるような気がしたから。

まずは、自分の名前だ。何という名前だったか。

榊秀一。

人修羅。

その二つが、同時に浮かんだ。

前者はなじみ深く。そして、後者は、新鮮だった。

 

1,その日、人生の終焉。

 

その運命の日。妙な雑誌記者と別れた榊秀一は、人混み雑多な新宿を歩いて、何度か地図を見ながら目的の新宿衛生病院へ歩いた。手にある雑誌は、読む暇がなかった。入り組んだ新宿の地形では、少しでも気を抜くと、すぐに迷子になる。

何度か見かけた交番で、居場所が正しいか確認しながら行く。やたら屈強で豪快な巡査が交番に詰めていて、凄く親切に場所を教えてくれたので、途中からはスムーズに歩けた。

日差しがやけに強い日だ。汗を掻くほどではないが、時々苛々させられる。途中、剣術道場を見かけた。如何にも屈強そうな剣術師範が、庭で難しそうな顔をして剣を振るっている。短く髪を刈り込み、中年であるのに肉体にたるみは全くなく。珍しい事に二刀流だ。踏み込み、竹刀を振るうその動作は、素人である秀一から見ても速く、そして洗練されていた。目があったので、互いに一礼して通り過ぎる。今の日本では滅多に見ない、しっかりした芯のありそうな人物だった。

街頭テレビを見ると、さっき雑誌記者が言っていた事件が報道されていた。代々木公園での惨事。声色を低く抑えている割には、現実感のないニュースキャスターの喋り方が印象的だった。確かに、この世界はどこかが病んでいるのかも知れない。どちらにしても、マスコミはみんな嫌いだ。関わり合いになりたくもない。

病院に、辿り着いた。

小さいが、しっかり整備された病院だ。いや、妙に神経質な印象も受ける。一瞥すると個人病院のようだが、その割には非常に綺麗で、しかも静かだ。いや、静かすぎる。

病院に足を踏み入れる。ひんやりした空気が、体を包んだ。

こつん、こつんと足音が響く。それほどに辺りは静かである。病院のスタッフさえ見かけない。待合いホールに足を踏み入れると、いた。千晶である。

長いすに腰掛け、大胆に足を組んで目を閉じている、自分の幼なじみ。幼い頃から、勇と一緒に遊んだ仲だ。幼なじみというと、妙な意識を周囲に持たれる事が多いが、実際は生々しくえぐいものである。幼い頃の恥ずかしいエピソードだけではなく、大体の弱みも強みも把握されている。もちろん、朝起こしに来るような事は、絶対にない。しかも、千晶は周囲からニトロ(ニトログリセリンの略)と呼ばれて恐れられるような女だ。その労苦は、説明する必要もないほどである。

千晶は此方に気付き、顔を上げる。冷たい目で秀一を見やると、続いて時計に視線を落とした。

「5分47秒の遅刻よ、秀一君」

「すまない。 途中で迷った」

勇の姿が見あたらない。それに、いくら何でも、この病院の状況は変だ。何があったのかと聞くが、千晶は感心無さそうだった。

「さあね。 特に危険は無いようだけれど」

「勇は?」

「祐子先生を探しに行ったわ」

短くそれだけ応えると、千晶は雑誌を寄こせと言い出した。退屈していたからだという。昔から、千晶はそういうところがあった。ある程度親しくなると、他者の所有物を、無造作に欲しがるのだ。一方で、自分の所有物にも、まるで愛着がないらしい。秀一や勇に対しては本当に容赦無しで、この間などは外で勇が靴を取り上げられていた。ただ、その代わりに別の何倍も高級な靴を買ってやっていたので、いわゆるジャイアニズムとは少し違う。不思議な感覚だが、秀一はそれに対して腹を立てた事がない。

と言うのも、ある程度千晶の気持ちが分かるような気がするからだ。

何度か勇と一緒に部屋に遊びに行った時。やたら広い、だが人の気配がないマンションの一室で、封も開けていないプレゼントが並んでいるのを目撃した。その異様さに息を呑んだ記憶がある。勇がどれが欲しいと口にすると、中身を見もせずに、あげると口にした千晶。あの時浮かんだ表情を、秀一は忘れない。兎に角、笑顔も怒りも、何もなかったのだ。

千晶は、途轍もない闇を心に湛えている。勇は気付いていないようだが、秀一はそれを感じ取っていた。ただ、だからどうだとは思わない。友人なのだから、困った時には支えてあげたいとだけ考えている。

「ふうん、月刊アヤカシね。 結構マニアックな事が書いてあるわ」

「俺は、勇を捜してくる」

「そう。 私は此処で、これ読んでるわ。 見つかったら呼びに来て」

それきり、千晶は此方を見向きもしなくなった。極めて身勝手だが、千晶はいつもこんな感じだ。子供の頃からの腐れ縁だから、勇も秀一も慣れている。

そういえば、この間彼氏から彼女に切り替えたとか千晶は言っていたのだが。その恋人は何処にいるのだろう。基本的に、(犬ではなくて)恋人が出来た場合、連れて歩いているのをよく見るのだが。或いは、もう飽きてしまったのかも知れない。つい三ヶ月ほど前の話だったのだが、千晶は飽きると即決である。それこそ相手をゴミのように捨てる。そして捨てられた恋人は、青ざめてその時の事を絶対に語ろうとはしない。

聞いただけで既に六回、交際相手を変えている千晶は、既に異性との同居も経験している剛の者だ。その上バイセクシャルを公言しているため、交際相手は男女を問わない。そんな様子だから、あまり噂は芳しくない。友人の間では、千晶の交際について語る事がないし、興味がないので聞きもしないので詳細は知らない。ただ、常に交際相手を屈服させ、主導権を一方的に握っているという噂がある。千晶らしいなと、秀一は思う。後面白いものとしては、殆ど興味本位で異性交遊を覚えたらしいとか、バックの中には避妊具を常備しているとか言う噂がある。何にしても、男女問わず良い意味でも悪い意味でももてる千晶である。交際相手にはことかかないだろう。ちなみに、勇も秀一も恋愛の対象にはならないらしい。それはお互い様である。

全く人気のない病院を、一人歩く。受付にも誰もいない。入院患者もである。病室を覗いてみると、やたら清潔で、何もない部屋だった。ベットはぽつんとあるが、人がいた形跡はない。

少し歩いただけで分かる。この病院は異常だ。設備は良く整っているし、とても清潔なのに。こうまで人の気配がない場所ははじめて見た。あの聖とかいう記者が言っていた事は、あながち間違っていないのかも知れない。秀一は髪を掻き上げると、足を進めた。日差しが、徐々に落ちてきている。もし夜になったら、あまり愉快ではない事態になるだろう。急ぐ必要がある。

三階まであがると、やっと人の気配があった。病室を覗き込むと、勇がいた。

病室の表札には、高尾祐子と名前がある。此処が先生の病室だったという訳だ。個室で、とても清潔である。そう。何も受け付けないほどに。まるで、無菌室ではないか。その中。やたら小綺麗で、そして実用的ではないファッションに身を包んだ、勇が立っていた。

顔立ちは整っている。だが、どうしてもひ弱な印象がぬぐえない。異性への興味は津々なのだが、今まで彼女が出来たという話は聞いた事がない。臆病な上に口を開くと失言が多いからだと、千晶は言っていた。そんなものなのかと、秀一は思ったが、本人には言っていない。

勇は今、新しい担任である祐子先生にぞっこんだ。若いし綺麗だし、スタイルもいい。勇にとっては、それだけで良いようだった。クラスでの評判も良い先生である。ただし、どこかに妙な影があるのを、秀一は感じている。勇が目をハートにして先生の事を語る時、醒めているのはそのためだ。ただ、先生としては尊敬している。実際、授業は分かり易いし、知能の高さも感じるからだ。

ベットの上を触っていた勇は、はっと顔を上げて此方を見る。秀一は、眉一つ動かさなかった。まあ、健康的な男子なら、仕方がない事だろう。もちろん祐子先生に見られたら、全てがパアだろうが。

「お、来たか。 脅かすなよ」

「おかしな病院だな。 人の気配がない」

「ああ。 何だか気味がわりいよ。 祐子先生いたか?」

「いや、見ていない」

勇は既に、三階を全て探し終えたのだという。一階はフロントスペースで、既に二階は見て回った。そうなると、屋上か地下だ。勇はもう少し三階を調べたいと言っていたので、頷いて部屋を出る。

勇には悪いが、あの部屋に祐子先生がいたとはとても思えない。生活の跡が全くないのだ。個室なのにである。白い清潔なカーテン。染み一つ無い床と壁と天井。テレビは新品。どれも生命が触れた痕跡がない。唯一、息吹を感じたのは、ベットの上の本。宗教関係の小難しい書籍だったらしいが、タイトルまで目は通さなかった。もっとも、開いたところで、中身を理解できるとは思えない。

警察を呼ぼうかと、一瞬思った。これだけ妙な病院である。何かあったとしか思えない。しかし、どういう事件性を元に警察を呼ぶべきか。誰もいないから来てくれでは、まともに取り合ってくれないかも知れない。

考えている内に、エレベーターに着いた。地下一階に。考えてみれば、このエレベーターも、不自然なほどに清潔だ。

セキュリティセンターとか書いてある小部屋を見つけた。そこで、秀一は、以前嗅いだ事のある臭いに気付いた。

書類がデスクに雑然と並べられている。その一枚を捲ってみる。

べったりと、血の跡があった。

廊下に出て、奥へ進んでみる。床に大量の血がぶちまけられた跡。血が出ている体を、引きずった跡もある。この臭いは、間違いない。死体のものだ。

奥の部屋に足を踏み入れた。死体置き場だった。ラックが一つ開いていて、苦悶の表情を浮かべた亡骸が、無造作に入れられていた。別の部屋の床には、奇怪な模様が描かれていて、大量の鮮血がぶちまけられた跡があった。そして、部屋の隅には、乾燥した人間の骨らしきものが積まれていたのである。

まずい。逃げた方が良い。

恐怖も感じるが、それ以上に冷静に頭が働いた。以前、これよりもっと怖い思いをしたからかも知れない。そもそも、無防備にこの病院を歩き回りすぎたのである。まずは三階に行って勇を回収し、それから千晶と一緒に病院を出る。気の毒だが、先生が無事だとはとても思えない。一度出て、警察を呼んで、それからだ。

だが、脱出が不可能になった事を、秀一は悟った。

背後に、人の気配。勇のものではない。振り返ると、其処にはグレーのオーダーメイドスーツに身を包んだ男がいた。額を刈り込み、一房だけ前にたらしている特徴的なヘアスタイルだ。頭半分背が高い男は、秀一を興味深げに眺めやる。意志は強そうだが、非常に冷たい瞳の持ち主である。

「どうやって入ってきた。 普通の人間には、入る事も知覚も出来ない結界を仕込んだはずだが」

「普通に、歩いて」

「ふむ。 ヤタガラスやロウサイドのサマナーではなさそうだな。 それに、あの包囲の中、粛正を免れた同胞がいるとも思えん。 どちらにせよ、見られたからには、生かして帰す訳にはいかん」

長い手を伸ばして、男が指を鳴らす。同時に、あの時と同じ気配が現出。気味の悪い唸り声が聞こえてくる。

空間そのものが、歪んだ。

男の背後の空間が、ずるりと音を立てた。闇が這いだしてくる。闇の中から、手が伸びてきた。一つ、二つ、いや無数に。それは歪みの端に手を掛け、拡げに掛かる。うなり声と共に、姿を見せる、無数の目。一歩、二歩下がる。だが、分かっていた。どうも、逃げられそうにもないと。

足が骨に当たった。山のように積まれていた骨が、崩れ落ちる。同時に、男の後ろに、得体が知れない者が具現化した。最初、まるで形らしいものがなかったのに、闇の中に浮かび上がる影は、人間の形に極めて近い。違うのは、尻尾がある事。耳が頭の上に立っている事。そして、顔が豹に似ている事。

「堕天使オセ。 仕事の時間だ。 その少年を殺せ」

オセと呼ばれた影が一歩を踏み出す。それだけで、もはや抵抗も逃走も無駄だと思い知らされる。存在の桁が違う。このオセという奴がその気になれば、瞬きする間に、千万に切り刻まれて果てる事だろう。

妙に落ち着いていた。オセと呼ばれた奴の姿が良く見えてくる。やはり直立した豹そのものだ。全く歩く速度を変えないのは、絶対に勝てる自信があるからだろう。

そして、何と驚くべき事に、人間の言葉を喋った。

「そのままにしていれば、楽に死なせてやる」

「……いやだ。 最後まであがく」

「ほう? 今時の日本人には珍しい気骨の持ち主だな。 その心意気や良し! 少年よ、武器を取れ。 私に一回でも当てられたら、この場を見逃してやる」

「オセ。 その少年を殺せと言ったはずだが」

オセと呼ばれた異形は、長身の男に振り返り、表情も変えずに言った。後ろを向いているのに、隙がまるでないのは何の冗談か。

「良いではありませんか。 どうせ、もう時間も無いのです」

「そうか、それもそうだな。 相変わらず君らしい。 伝承が如何にいい加減なのか、君を見ているとよく分かるよ」

「光栄です」

オセと呼ばれた影が、剣を一本投げて寄こす。床に投げ出された剣は、滑る事もなく投げ落とされた位置で止まった。オセから目を離さないようにして、触れた。持ち上げようとして、気付く。出来ない。なんだこの剣は。日本刀だって、標準サイズの場合一キロあるかないかだと聞く。比較的頑丈な秀一が、まったく持ち上げる事が出来ない。剣はコンクリの床に吸い付いたように、押せども引けどもびくともしないではないか。滑らなかったのは、この異常な重量が原因なのか。

「ふむ、心意気は見事だが、やはりその程度か。 残念だ、少年」

大股に歩いてきたオセが、剣を振り上げる。自分は情けない表情を浮かべているのだろうなと、秀一は思った。

しかし、オセの剣は、いつまで経っても落ちてこなかった。気付く。部屋の入り口に、誰かいる。ロングコートを着て、腕組みした祐子先生であった。

「その子に手を出さないで」

「創世の巫女、何をしに地下に来た」

「嫌な予感がして見に来たのよ、チーフオフィサー。 その子に手を出したら、私は金輪際貴方たちの手助けなんてしない」

「ふむ。 それは、困るな」

チーフオフィサーと呼ばれた男が、苦笑した。指を鳴らすと、無言で頷いたオセが、闇に消えていく。その際、秀一に、一言残していった。他の者には聞こえなかっただろう。

オセは、悔しかったら強くなれと言った。そうしないと、この後何もする事が出来ず、果てる事になるとも。

スーツのポケットに手を突っ込むと、チーフオフィサーという男は部屋を出て行った。秀一は、やっと息をする事が出来た。肩を揺らして息をしている秀一を一瞥すると、祐子先生は他人事のように言った。

「秀一君、見せたいものがあるの。 すぐに屋上へ来て」

「見せたい、もの?」

「来れば分かるわ」

気がつくと、もう祐子先生はいなかった。歩き去ったとは思えない。それとも、最初から此処にはいなかったのだろうか。自分は、異常な世界に足を踏み入れていたとしか思えない。非日常の世界が、すぐ隣にある事を、秀一は知っている。あの時も、そうだったではないか。

そして、もう一つ、今更のように気付く。

先生は、何処を悪くしていたのだろうか。歩き方、口調、格好。どれを取ってみても、健常者にしか見えなかった。授業をしている時と、なんら変化がなかったではないか。ひょっとすると、この入院が、そもそも偽装だったのではないのだろうか。

さっきの会話もおかしい。ずっと前からの、知り合いのように、あの男と話していた。一体何が起こっているというのか。聞きたい事は、それこそ幾らでもある。

部屋を出ると、むせかえるような血の臭い。さっきとは比べものにならないほど濃い。やはり、感覚がおかしくなっていたらしい。エレベーターに。このまま逃げ出したくなる衝動に駆られたが、それでも屋上へのボタンを押した。背後に視線を感じた。振り返るが、誰もいなかった。

一階にも、三階にも寄らなかった。二人には、後で話せばいいと思ったからである。

屋上に着いた。何処でもないどこからか、規則的な音がする。空気そのものが、かき乱されているかのような、不思議な音だ。気味が悪い。

祐子先生は、屋上の端に、金網のフェンスを背にして立っていた。遠近感が、よく分からない。一瞬、金網の向こうにいるかと思ったのだが、近付いてみると内側にちゃんといた。秀一が近付いていくと、にこりともせずに此方に向き直る。表情は全くなくて、まるで能面だ。

こんな表情をする人だったのだろうかと、秀一は記憶を整理してみる。だが、今までこの先生の授業を受けてきて、一度だってこんな表情は見た事がない。女は怖いなと思った。千晶を見ていても感じるが、何を隠しているか知れたものではない。

八歩ほどの距離を置いて、秀一は足を止めた。祐子先生は肩まで伸ばしている髪を掻き上げながら、口を開く。

「貴方は、この世界をどう思う?」

「そんな事を急に言われても、分からない」

「そうでしょうね。 それが、普通の反応だわ」

揺れる。何かが、壊れ始める。

「少し普通より知識のある人は、誰でも知っている事。 世界は、腐っている。 不平等からもたらされる貧困。 差別。 迫害。 エゴから引き起こされる無数の要因が重なって、巻き起こる戦争。 人間の歴史はね。 技術以外の点では、何の進歩もないの。 そしてとうとう、自滅の時を迎えようとしている」

揺れが酷くなり始める。いや、違う。揺れているのは。視界だけだ。

この病院以外の、全てが揺れている。

「だから、氷川は全てを壊す事を望んだ。 ガイア教徒の秘伝であるミロク教典を盗み出し、そこから解析した受胎の儀を執り行った。 阻止しようとした敵対勢力のサマナーも、内部での反対勢力も、強硬なクーデターで一掃してね。 激しい内部抗争と戦闘で、最後には、氷川しか残らなかったけれど。 あいつはそれでも良かったみたい」

「意味が分からない。 何を言っているんだ、先生」

「私も、世界を壊す事を望んだ一人。 どんな偉大な改革者が現れても、どうにも出来ない愚かな人間に絶望して、やり直す事を選んだ罪人」

空が、ひび割れた。

そして、地平が、せり上がり始める。

世界が、黒一色になった。

何故か、分かる。時が止まったのだと。止まった時の中で、違う法則が動き出したのだと。

その法則に、世界が根こそぎ食われていく。

激しい揺れの中、崩壊していくビル。せり上がった地平が、引き延ばされ、千切られ、伸びきっていく。

球の内側に、世界が包まれていく。

カタストロフという言葉がある。それをそのまま、秀一は目撃していた。音はしない。あまりにも静かに。全てが壊れていく。凍った時の中、今までの常識は全て溶けて消え。新しい常識が構成されていく。

光が見えた。その光を中心に。引き延ばされた世界が、己をくるんでいく。

カグツチ。何故か、その言葉が脳裏に浮かんだ。

「これから、どんな地獄のような世界が来るとしても。 貴方は生き延びて」

視界が、反転する。寝かされているのに気付く。自分を見下ろしている、二つの影。何かの虫。ムカデのように長い、気味が悪い奴を、人影は持っていた。虫は顎をならしている。足を蠢かせている。

「怖がる事はありません」

老婆の声だ。

気付く。もう一つある影は、子供のように見えた。老婆と子供。まるで、過去と、未来を示しているかのようだ。

「貴方に、ぼっちゃまがプレゼントを差し上げようとしておられます」

体が動かせない。

さっきのオセとは比較にならないほどの圧迫感で、押さえ込まれていた。この二つの影は、尋常な存在ではない。まるで、法則の一端でも体現しているかのような。

「しかし、このプレゼントはとても貴重なものなのです。 我らの世界でも、そうは採取できないほどに。 だからこそ、応えて貰いましょう。 人間では無くなるとしても、力が欲しいですか? 全てを解明する、力が」

「欲しい」

即答したことに、秀一自身が驚いていた。

事実、冷たい怒りと、決意があった。このままで終わってなるものか。巻き込まれた事に対する憤りよりも、何も出来ない事への憎悪の方が大きい。あの時と同じには、なりたくないのだ。

規模が例え、桁違いであろうとも。もう二度と、何も出来ない人間ではいたくない。今までは、機会がなかった。焦がれるばかりだった。

今、目の前に。文字通り好機がぶら下がっている。これに乗らないのは、無意味だ。罪悪でさえある。

「ようございます。 先ほどオセに抗したその気概。 世界を改革する存在に相応しいものです。 惜しむらくは、貴方は普通の人間であり、非力である事。 しかし、それもこれで解決できます」

子供が、虫を放す。落ちてきた。

眼球を食い破られた。そのまま、体の中に潜り込んでくる。痛い。体が引きちぎられるかのようだ。鼻の中を、長い触覚が動き回っているのが分かる。舌を根本から食いちぎられたのが分かった。脳みその中を、はい回られている。卵が、体中に産まれていく。それらが見る間に孵り、あっという間に無数の虫に。脊髄が、心臓が、何もかもが置き換わっていく。胃の中をはい回る長い虫。腸が端から食われていく。指先の骨を、虫が囓る。がりがり。がりがり。あまりにも大きいその音。虫の歓喜が伝わってくる。美味い。ああ、とても美味いと。虫は言っている。

「何、痛いのは最初だけでございます。 目が醒めた時には、貴方は自分に相応しい力を得ている事でしょう。 さ、ささ。 全てを受け入れなさい。 そして、生まれ変わるのです。 人から、悪魔の力を持つ人へと」

甲高い笑い声。子供のものだと分かった。

せめてもの抵抗に、歯を食いしばる。その奥歯も、何かに噛み砕かれた。全身から鮮血が噴き出していくのが分かる。体が冷えていく。逆に熱くなっていく。その感覚も、一秒ごとに変化した。焼けるようで、凍るようで。身をよじって抵抗しようにも、動けない。

声にならない絶叫。

だが、その中に歓喜が混ざる事に。秀一は気付いていた。

その日。名実共に。榊秀一は、人をやめた。

 

2,人修羅としての一歩

 

少しずつ思い出してきた、人ならぬ身へとなった経緯。榊秀一は、もはや自分が人間ではない事を、疑ってはいなかった。それに対する悲しみもない。逆に、高揚の類もなかった。

昔から秀一はそうだった。妙に冷めた子供だったのである。あの、関西国際空港でのテロ事件の前はそうでもなかった気がするが、それ以降は確実に心が冷えていた。強力な力を得た事は分かっているのだが、それを振り回して遊ぼうという気にはとてもなれない。まずは力に慣れて、それをコントロールしなければならない。

あの時、屋上で祐子先生と一緒に見た光景が真実であれば。家族がどうなったのかも気になる。父母は大人だから良いとしても、学校に行っている和子はどうなったのか。ちゃんと避難訓練に沿って逃げられただろうか。学校での避難訓練は結構重要なのだ。避難するべき場所は、確か学校そばの公民館であったか。この新宿衛生病院からは少し遠いが、歩いていけない距離ではない。此処を出たら、まず両親に連絡して、ついで和子を迎えに行かなければならないだろう。其処まで考えてから、そう言えば休日だったと思い出す。残業漬けの父はともかく、小学生の和子は学校ではないだろう。頭を振る。何かが、おかしくなっている。

携帯電話を、腰のポケットから取り出してみる。当然のように圏外だ。メールが来ているが、見る暇はない。確認優先度は、他が先だ。時間は。あれから殆ど経っていない。家族の事を考えてから、友人の事を思い出す。千晶や勇は。それに祐子先生は。無事だろうか。

はやる気持ちを抑えて、歩き出す。そして、部屋を出た。戸を出来るだけ優しく開ける。少し力を入れると、蝶番ごと吹っ飛んでしまいそうだった。

廊下に出ると、ひんやりした空気が、辺りを包んでいた。靴音がする。振り返ると、どこかで見た男が立っていた。だらしなく無精髭を伸ばしたそいつには、見覚えがある。思い出す。代々木公園の辺りで会った、新聞記者だ。奴がくれた雑誌は、千晶に取られてしまった。

「お前……確か、代々木公園で会った。 どうしたんだ、その体! その体の奴、タトゥーか何かか!? こんな短時間で、どうやって! しかも光ってるじゃねえか!」

「……どうやら、力を得たらしい」

「力だって? ……おい、後ろ!」

声と一緒に、体が動く。

非人間的なほどに柔軟に振り返ると、鞭のように足をしならせ、その影に叩きつけていた。直径八十センチほどの緑の塊は、悲鳴も上げずに飛び散ってしまう。それは引きちぎれると、赤い無数の光に散じて、漂い始めた。

猛烈な蹴りを放ったというのに、片足だけでバランスを取る事に成功している。不思議だった。足を降ろすと、呼吸を整える。まだ、筋肉の使い方に無駄があると、体のどこかで判断する事が出来た。

敵が変化した赤い光の一つをつまんで、口に入れる。何だか少し甘い。そして、体の奥から、不思議な力が沸き上がってくる。ひょいひょいと、他の赤い粒も口に入れていく。何だか楽しい作業だ。

「い、今の動き、なんだよ。 お前、格闘技でもやってるのか!?」

「言ったはずだ。 俺は力を得た」

それは、今や客観的な事実だった。赤い光を残らず口に入れてしまうと、ゆっくり手を開閉してみる。こうやって食っていけば、もっと力を充実できる。まずは情報を集めたいところだ。

「あんた、聖と言ったな。 何が起こったのか、知らないか?」

「悪いが、良くわからん。 病院の裏口から忍び込んだら、あの揺れだ。 気がついたら、一階の廊下に転がってた」

「……会社の人と、連絡は取れなかったのか?」

「無理だな。 地階でも、携帯は圏外になってた。 それに、多分携帯はもう役に立たないだろうよ」

地階に上がれば分かると、聖は言った。その口調で、とても嫌な予感がした。だが焦りはそれほど強くない。抑えようと思うと、不自然なほどに心が平らになってしまうのである。

ただ、皆を心配する気持ちは残っている。地階に上がるしかないかと思った時、手招きされた。

「ちょっと待ってくれ。 さっき、見つけたものなんだがな。 ちょうどいい。 お前にも見せておきたい」

「外の様子が気になる。 それに、家族が心配だ。 急いでいるんだが」

「そう時間はとらせねえよ」

聖は楽しそうだった。何か乱があると、それをむしろ楽しんでしまう気質なのだろうか。これだからマスコミ関係者は嫌いだ。他人の不幸は蜜の味という訳か。何を暢気そうにと、反発を感じる。此奴は少し違うようにも思えたのだが、何だか好感が急落した。だが、今は少しでも知人と協調態勢を取った方が良い。何が起こっているのか、まだよく分からないからだ。

以前、何かで読んだ事がある。協調というのは、どう考えても合いそうもない他人と妥協点を見つけて、交流を持つ事だと。ならば、我慢しなければならないだろう。気の合う仲間だけで仲良くしていられるほど、この状況は気楽でもなければ、平和でもない。今も、何か敵意のある相手が、背後に迫っていた位なのだから。

聖に続いて、部屋にはいる。丁度今いた部屋の、向かいにある小部屋である。殺風景な真四角の部屋で、隅に空調用のダクト穴がある以外には、ほとんど何もない。ただ、印象深い部屋である。まず、パイプ椅子がぽつりと置かれていた。何だかとても良く使い込まれているパイプ椅子だ。そして、部屋の中央には。ドラム缶のような、奇怪な物体があった。

形状は丁度円筒形。三本足があり、その上に土台が。土台の上に円形の物体が乗り、全周に得体が知れない文字が刻み込まれている。

「これはな。 氷川の野郎の秘蔵品だ。 良くは分からないが、アマラ輪転炉とか言うらしいぜ」

「それが、何か?」

「あんた、力を得たんだろう? 感じないか」

「……そうだな。 確かに、何だかとても強い力を感じる」

このアマラ輪転炉とやらが、強い力を放っているというよりも。何だか不思議な干渉力を感じるのだ。肌が、ぴりぴりしびれるような。無遠慮に輪転炉を触り始める聖を見て、秀一はため息をつく。

「もう良いか、聖さん」

「ああ。 俺はもう少しこれを調べてみる」

「一人で大丈夫なのか?」

「……さっきの変な影、いただろ。 さっき俺が出くわした時には、何もしてこなかったんだよ。 お前を見て、急に敵意を剥き出しにしてな」

何だか分からないが、多分大丈夫だろうと、聖は無責任な事を言った。秀一としても、そう言われてしまうと、無理には連れて行けない。

それに、千晶や勇の事も気になる。あれが聖を襲わないとしても、二人に関してはどうだか分からないからだ。

血痕が彼方此方にこびりついた廊下を行く。此処で一体、何が起こったのだろう。誰がどれくらい死んだのだろう。病院のスタッフ。入院患者。みんな生きているとは思えない。マスコミは何をしていた。芸能人がどうの、スポーツがどうのの前に、幾らでも放送するべき事はあっただろうに。こんな悲劇を埋まらせてしまうようでは、存在する意義がないではないか。

そう言う意味では、聖はまだ立派な人間である。あれでもマスコミ関係者の中では立派なのだと思うと、流石にため息が出る。

エレベーターに触れる。案の定、もう動いてはいなかった。ドアを力づくでこじ開ける。銀紙か何かで出来ているかのように、簡単に開く。真っ暗な箱の中に足を踏み入れる。同時に、左側頭部に、何かが直撃した。

さっきの影のような奴だ。奇怪な笑い声を上げながら、今度は逆方向から突撃してくる。腕をフルスイングして、真っ向から迎撃。拳が貫通すると、また飛び散って、あの赤い光になってしまった。

これは何だろう。そう思いながら、漂う光を捕まえて口に入れる。今度は少し苦い。さっきは甘かったのに。それぞれ味が違うのだろうか。

脳裏に、フラッシュバックする何かの光景。さっき、三階で見た病院の一角だろうか。何でこのようなものが見えるのか。

分からない。だが、今は外に出るのが先だ。まだ、奇襲を受けると避けきれないし、当たれば痛い。もっと強くならなければ、あのオセという奴には勝てそうもないなと、秀一は思った。

そういえば、聖はどうやって地下に下りてきたのか。非常階段があるのではないか。まあ、今は探しているよりも、確実に上に行けるエレベーターを使う方がいい。跳躍。簡単に天井に手が届く。もう少し強く跳躍。右手が天井に突き刺さる。左手も突き刺すと、右手を手刀代わりに、そのまま缶切りの要領で動かす。何回か回転して、缶をこじ開けるように、天井を斬り破った。

手には傷一つ無い。

思ったよりエレベーターの天井は複雑な構造になっていて、驚いた。ワイヤーを使って、一階へ。まず、近いところからだ。

同じように、戸をこじ開けて、飛び出る。一階も明かりは死んでいて、とても暗かった。辺りを見回す。外はどうなっているのか。

この病院は、簡単な作りで、まっすぐホールから出られるはずだ。

だが、その希望的予測は、見る間に砕かれる事となった。

ホールを、巨大な氷塊が塞いでいたのである。入り口も凍っていた。拳を振るってみるが、びくともしない。金属でもぶつけたような、凄い音を立ててはじき返されるばかりだった。汚い氷である。透き通っているとは言い難い。混じっているのは何だろうと側で目を凝らしてみると、砂だった。砂そのものは綺麗で、外からの光を浴びて、均一に輝いている。

もう一度、腰を入れて殴ってみる。やはり、びくともしない。それどころか、踏み込んだ床に罅が入ってしまった。触った感触では、そんなに温度が低い訳ではない。だが、頑強さは尋常なものではなかった。

千晶もいない。勇もだ。一端此処はおいて、離れようと決めた秀一の後ろから、声が飛んでくる。

「それ、フォルネウスの仕業だよ」

「誰だ」

振り返る。

丁度今の和子と同じくらいの背丈の、女の子がいた。床から40センチほどの高さに浮かんでいる。背中には半透明の昆虫に似た羽が四枚生えていて、ゆっくり上下しているが、ホバリングしているにしては、動きが緩やかすぎるのが気になる。

少し釣り目気味の、自己主張が強そうな子だ。茶色の髪の毛は短めに切りそろえていて、造作は少し幼い。若干デコレーションが多めのワンピースを着ていて、足下の、緑色のリボンが付いた靴が印象的である。黒い瞳は、好奇心に揺れて、ずっと秀一を見ていた。両手を腰に当てて、女の子は秀一を覗き込んでくる。よく見ると、上下している半透明の羽からは、光の粒子らしきものが、時々こぼれ落ちていた。

「見かけない悪魔だねえ」

「悪魔?」

「どうして其処で詰まるかな。 どうみてもマネカタとは思えないけれど。 かといって、人間にも見えないし。 なら悪魔じゃないの?」

「君は、その。 悪魔なのか?」

ぽかんとした女の子は、今度は拳を固めて怒り出した。何だか意味が分からない。

「見ての通りだよっ! 何、巫山戯てる? 僕より背が高いからって、バカにしてる!?」

「分かった。 悪魔、なんだな」

敵意はないようだし、戦う理由もない。それに、年下に見える女の子は苦手だ。おとなしい和子に接し慣れているせいだろうか。実際の女の子の殆どがやかましくて騒がしいという事実を知ってから、妙な苦手意識が生じてしまったのだ。

よく分からないが、これも良い機会だ。事情は知っていそうだし、それなりに機嫌は取っておかなければならない。それに、宙に浮いている所から見ても、人間では無さそうだ。さっきのオセという奴も、ひょっとすると悪魔なのだろうか。聖が言っていた事を思い出す。代々木公園での騒ぎでは、悪魔が出たのだという。それに、あの時。関西国際空港で見たものも。悪魔だった可能性が高い。

そして、今の自分の体も。悪魔のものなのかも知れない。

それでも良いとは思う。何かを為すための力が欲しかったからだ。それが悪魔のものだとしても、構わない。

「で、名前は? 僕はピクシーのサナ。 ヨヨギ公園から来た」

「榊秀一だ。 その、良く状況が分からない。 だから、怒らせるような事があるかも知れないが、勘弁して欲しい」

「……何だか、腑に落ちないなあ。 自分を悪魔だと認識していない悪魔なんて」

腑に落ちないのはこっちの方だと言いたいくらいだが、我慢する。それよりも、今は一刻が惜しい。和子や両親を驚かせてしまうかも知れないが、少しでも早く安全を確認したいのだ。

「乃木坂の周辺が、どうなっているか知らないか」

「ノギザカぁ?」

「家族が住んでいる」

「家族!? ええと、ちょっと待ってよ。 それって、一族って意味? よく分からないなあ。 あの辺りに、独立勢力ってあったかな。 アカサカの間違いじゃないの? それに、アカサカだとしたら、考えられないしなあ」

訳が分からない事を言う。苛立ちを覚えるが、此処で怒っては意味がない。少しずつ、話を聞いていくしかない。

「アカサカで、何かあったのか」

「……腑に落ちないなあ。 君、本当に何者だよ」

腑に落ちないと繰り返すサナという女の子。口癖だとしたら、随分渋い。絵文字だのでデコレーションしているメールを飛び交わさせる世代と同じとはとても思えない。

「アカサカの独立勢力は、この間天使軍に攻撃されて、壊滅したでしょ。 生存者はゼロだって聞いてるよ」

「何だって!?」

「うわっ! だ、誰だって知ってるでしょ!? 何でそんなに驚くのさ」

「す、すまない」

つかみかかってしまった。離して謝るが、露骨に不安感を女の子は湛えていた。服の一部が破けてしまっていて、もう一度済まないと謝る。だが、それは杞憂であったらしい。女の子はため息を一つつくと、なにやらぶつぶつとつぶやく。服が、破れた部分が。光の粒子に包まれたと思うと、修復されていた。

却って不安感が募ってしまった。やはり、何が起こっているのか、さっぱり分からない。今女の子がやって見せたのはなんだ。手品か何かか。それとも、先から自分が発揮している馬鹿力と同質のものか。

氷を見て、舌打ちする。今の腕力では歯が立たない。どうすればいい。廊下の窓をぶち抜いて、出るしかないか。それに、千晶と勇も探さなくては。先生も、出来れば探したい。多分、この事態の情報を多く掴んでいるはずだから。

頭を切り換える。まずは手近な所からだ。とんでもない事が起こっているのは確実だが、パニックになってしまっては意味がない。

「勇という男の子、それに千晶という女の子を捜している。 何か知らないか」

「何その名前。 ひょっとして、さっき逃げた人間かな」

「多分そうだ」

「それなら、フォルネウスと何か押し問答して、隙を見て此処から逃げたよ。 それで、フォルネウスがまた凍らせちゃった。 あーあ。 折角溶けたのにね」

指さした先に、氷の塊。フォルネウスというのが何者かは分からないが、それで腹いせにこんな事をしたという訳か。それにしても、また溶けたとはどういう事か。元から此処は凍っていたとでも言うのか。それにしては冷えていないが。

ひとまず、二人は何とか無事らしい。確認するまでは安心できないが、それでも無惨な死体を見るよりはましだ。後は、まずこの病院から脱出する事を考えなければならない。病院を出たら、この周辺を探してみて。二人を首尾良く見つける事が出来れば。或いは見つかりそうもなかったら。まずは乃木坂に向かえばいい。

自宅のある乃木坂は此処から4キロ程度しか離れていない。その気になれば、一時間も歩けばたどり着ける。さっき聞いた、赤坂が壊滅したというのが気になる。一刻でも早く外に向かいたい。

一階の外に面した廊下はどこか。歩き出すと、サナという女の子は着いてきた。やはり地面に足を付けず、浮遊したまま。ただ、移動速度はそれほどでも無いらしく、慌てた様子で後ろから声が飛んでくる。

「ちょっと待ってよ。 どこ行くのさ」

「急いでいるんだ」

足を止めたのは、窓のことごとくが、入り口と同じく凍結していたからだ。拳を叩き込もうとするが、後ろから慌てた声が飛んでくる。

「駄目だよ。 その氷、フォルネウスの術で作られたものだから。 あいつをどうにかしないと」

「では、出られないのか」

「ちょっと待ってってば」

追いついてきたサナが、ズボンの裾を掴む。困る。こういう事をされると、力づくで振り払えない。不理性的に襲いかかって来でもすれば対応は楽なのだが。むしろこういう対応を強いられる相手は面倒だ。

去年も、後輩の女の子に、こんな感じでつきまとわれて随分困った。八重歯が目立つ運動部の活発な子だったが、何故自分なんかにまとわりついたのかがよく分からない。眉をひそめたのが分かったのだろうか。サナは蕩々と説明してくれる。

「この手の術って、大掛かりな分、リスクもでかいの。 多分フォルネウス自身が、術の維持のために、病院の中に残っているはずだよ。 フォルネウスの実力から考えて、こんな大掛かりな術を展開するには、それくらいのリスクを踏まなきゃならないからね」

「つまり、そいつと話を付ければ良いんだな」

「ちょっと、簡単に言わないでってば。 相手は仮にもニヒロ機構の悪魔だよ。 あまり等級は上じゃないみたいだけれど、結構信頼も篤いって聞いてるし。 君、そんな奴をどうにか出来るの!?」

「どうにかするしかない」

どのみち、何かとんでもない事が起こっているのだ。今更尻込みしてはいられない。分からない単語が多いが、今は詮索している暇もない。

氷をすかして見える太陽が、妙に大きくて近い気がする。それも、秀一の嫌な予感を加速していた。

大きな影が、窓の外を通り過ぎる。巨大なエイに見えた。マンタの映像を、以前テレビで見た事がある。あれくらいはあるだろうか。

「あ、フォルネウスだ。 やっぱりいた。 我が物顔に泳いでるなあ」

「外は、海になっているのか?」

「うみ? 何それ」

さらりと返された。それだけに、ぞくりと来る。一体何がどうなっているのか。海は既に一般的な存在ではないのか。

秀一は天を仰ぐ。更に絶望感が、深くなっていった。

無事でいてくれ。家族の顔を一人ずつ思い浮かべながら、秀一は小走りで行く。あのエイがフォルネウスと言うのなら、今は中庭にいるという事だ。もし凍らされていないのなら、侵入口はあるはず。

足を止めた。

廊下の前から、数十体ほど、さっきの影が現れる。呻き声を上げながら、にじり寄ってくる。後ろからも。後ろから来た連中は、幼児ほどのサイズの人型に見えた。肌は灰色で、爪は鋭く、口から牙が見える。手足は異常に細く、しかし腹がふくらんでいる。気付く。肥満ではなく、これは栄養失調の特徴だ。こっちは十体程か。肌の色、微妙におかしい体のバランス、どれを見ても人間ではないのが明らかだ。

「ウィルオ・ウィスプとガキだね。 前にいる光の塊がウィルオ・ウィスプ。 どっちも最下級の野良悪魔だ」

「襲ってくる。 下がっていろ」

「冗談。 食事のチャンスを、無碍には出来ないよ」

サナの指先に、スパークが走る。空に浮くだけではなく、他の怪しい技も使えるのか。兎に角、期待はしない。今は此奴らを退けて、病院の外に出るのが先決だ。

「ね。 支援してあげるから、半分くれないかな」

「何をだ」

「決まってるじゃん。 マガツヒだよ!」

ゆっくり両手を拡げていくサナ。それと同時に、ガキの一匹が牙を剥き出しに躍り掛かる。サナは避けようともせず、手を敵に向けて突き出す。右手と左手の間に産まれた雷撃が、飛び掛かってきたガキを撃墜した。悲鳴を上げてもがくガキの頭部を、容赦なく踏みつぶすサナ。行動に、躊躇は全くなかった。

「ほら、前っ!」

言われるまでもない。さっきは気付かなかったが、ウィルオ・ウィスプの中央には顔のようなものがあり、憎悪の雄叫びを上げていた。弾丸のような勢いで、一つ、二つ、突っ込んでくる。拳を振るって、たたき落とす。たたき落としたウィルオ・ウィスプが地面に、天井にめり込んだ。鋭く罅が入る。しばらく痙攣していたが、すぐに赤い光に変わって散ってしまう。

さっきからそうだが、命を奪う事に全く躊躇しない自分がいる。内心では驚いているが、今はそれが都合が良い。今は兎に角、無駄な戦いを避けて、出来るだけ平穏を保たなければいけない。

「散れ。 手加減できないぞ」

返答は咆吼。無数のウィルオ・ウィスプが一斉に飛び掛かってきた。テニスボールくらいのサイズに体を縮め、床を壁を乱反射しながら飛び掛かってくる。一つ、二つ、三つとたたき落とし、だが脇腹に一つ貰った。僅かによろめく。其処へ四つ同時に飛びついてきた。顔面を強打され、更に顎を突き上げられる。浮いたところを、前後左右から一斉に襲いかかられた。ガードしきれない。

床にたたきつけられる。飛び起きる。腕を振るって、一匹を無造作にたたき落とした。光が走った。後ろを見ると、飛びついてきたガキを馬跳びの要領で軽くいなしたサナが、頭に手を突いた瞬間に雷撃を叩き込んでいた。黒こげになったガキが、数歩歩き、倒れて砕け散る。

雄叫びを上げて襲いかかってくるウィルオ・ウィスプは減る気配もない。だが、だんだん速さに慣れてきた。飛んできた一匹を掴んだ。そのまま握りつぶす。顔面を向けて飛んでくるのを視認。タイミングを合わせて、頭突きを叩き込んでやる。激突。一瞬の静寂の後、飛び散ったのはウィルオ・ウィスプだった。

同時に三つが、鳩尾に自らを叩き込んできた。体が一瞬浮く。それにあわせて、他のウィルオ・ウィスプが一斉に襲いかかってきた。ガードポーズを取る。驟雨のように叩きつけられる打撃。まるでマシンガンだなと、秀一は思った。はじき飛ばされ、跳ね上げられる。床にたたきつけられた。

床にたたきつけられるのは二度目だ。立ち上がりつつ、飛んできた一匹を弾く。拳の直撃を受けたウィルオ・ウィスプは砕けて消えた。

辺りは赤い光で一杯になっていた。口の中の血を吐き捨てると、今度は此方から打って出る。拳を振るって、蠅のように飛び交うウィルオ・ウィスプをたたき落とす。次から次へと打ち落とす。

何でこんなにタフなのか、自分でも分からない。たたき落とす度に、自分も一撃を、二撃を貰う。床にたたきつけられ、そのたびに立ち上がる。腹に、後頭部に、手に、足に。連続して機関銃のような攻撃を貰う。そのたびに、床に伏す。

だが、負ける気がしない。飛び起き、吠える。つかみ、潰す。壁に張り付いた一匹に拳を叩き込む。拳を中心に、放射状に罅が入る。もう一つ吠える。飛んできた一匹を、そのまま噛み砕く。

いつしか、攻守が逆転していた。

光が走る。後ろを見ると、最後のガキを、サナが容赦なく丸焼きにしている所だった。その顔には、歓喜さえ浮かんでいる。それで、不意に凶熱が冷めていった。

辺りに、もう敵性勢力はいなかった。

あれだけ攻撃を貰ったのに。あまり痛くない。蛍のように辺りを飛び交う赤い光。これが、サナの言ったマガツヒであろうか。

無造作に赤い光を掴んで、口に入れる。甘かったり苦かったり、不思議な味だ。癖になりそうである。敵を皆殺しにしたサナも、凄く嬉しそうな顔で、マガツヒを掴んでは口に入れていた。

口にすると、僅かずつ力が充実していくのを感じる。今のままではまだ力が足りないのは、よく分かった。まだまだ食べる必要があるなと、秀一は思った。

 

それから、もう襲ってくる敵はいなかった。自分を見て隠れる悪魔はいたが、手は出さないでおく。サナは少し不満げだったが、秀一に着いて来た。

「どうして、俺に着いてくる」

「勝ち馬に乗るって聞いた事無い? シューイチ、結構強いみたいだし。 僕が一人で狩りをするよりも、効率が良さそうだからね」

秀一は応えず歩いて、新宿衛生病院の中庭に出る。窓は凍り付いていたが、用務員用の扉が一つ、開け放たれていたのである。サナによると、意図的なものらしい。自分に通じるルートを解放しないと、この術は成立しないのだという。

花壇があった。しかし、土は枯れていた。花もみな萎れていて、命の気配はない。土にも栄養分は感じられない。

よく見ると、死んだ土に、霜柱が生えている。春の風物詩だが、秀一は数えるほどしか見た事がない。こんな不自然な形でまた見る事になるとは、あまり良い気分はしなかった。

周りを見れば分かる。全てが、死んでいた。

空には、やたら大きな太陽が輝いている。中庭にはドームが着いているのだが、それを通しても存在感は圧倒的だった。やはり、世界そのものがおかしくなっているとしか思えない。そして、秀一の前に、ゆっくりそれが下りてきた。当たり前のように空をスムーズに泳いで。

大きなエイ。これが、フォルネウスなのだろうか。一歩後ろに浮いているサナは、眉をひそめている。どうするつもりなのか、不安なのだろうか。

フォルネウスは、ひれを波打たせ滞空しながら、じっくり顔を覗き込んできた。口元は半開きで、中に埋まっている無数の牙が見て取れる。敵意は感じない。むしろ、優しい雰囲気さえあった。

「貴方が、フォルネウスか」

「おお。 いかにもわしがフォルネウスじゃあー。 お前さんは、どこの誰かのう。 寂しいお爺ちゃんの、話し相手になってくれるのかの」

「俺は、榊秀一。 この病院から出たい。 氷を溶かしてくれないか」

「それはまた、急な話じゃのう」

善良そうな老人だ。エイが普通に言葉を喋る事に対して、あまり驚きはない。いや、少し違う。もはや、何を見ても驚かないと言うべきか。エイは文字通り口をぱくぱく動かして、語りかけてくる。

「わしはフラウロス様の命令で、此処から誰も出すなと言われていてのう。 それなのに、既に二人も逃がしてしもうたでのー。 これ以上は、フラウロス様の顔に泥を塗る事になってしまう。 勘弁してはくれんか」

「それは困る。 俺の家族が、今も苦しんでいるかも知れないんだ」

「そうは言ってものう。 これ以上失態を重ねたら、腹を切るくらいでは償いきれないからのー。 フラウロス様は、わしが若い頃に憧れたものをみんな持ってる、孫の夫にしたいような好漢なんじゃ。 だから、しばらくは我慢してくれないかのう」

「どうしても、氷を溶かしてはくれないのか」

回答は沈黙。つまり、その意思は明らかだった。

戦うしかない。

しかし、戦いにくい。話してみて分かったが、この老人は意思によって、この病院を氷結させている。そして忠誠によって、それを解除しない決意を固めている。秀一が外に出るためには、この老人を倒さなければいけないと言う訳か。

やりづらい。世の中に、絶対悪などと言う都合が良いものはない。人間の価値観によって発生する悪は存在するが、それも決して絶対的なものではない。この老人は、今の秀一にとっては悪だ。だが、秀一こそ、この老人にとっては悪ではないか。

和子が咳き込んでいる姿を思い出す。何年か前の、病院での事だ。マスコミはそんな時にも、カメラを向けて作り笑顔を浮かべてきた。彼らには、給料のためという大義名分があった。大義名分のためであれば、幼い人格を踏みにじる事を、何とも思っていなかった。事実、和子や秀一を中傷する記事を書いた人間さえ実在した。

自分も、それと同じではないのか。

悩みは、すぐに晴れた。決然と、顔を上げる。この老人の正義を、砕かなければならない。自分のエゴのために。今は一刻を争うのだ。

「もう一度言う。 貴方の事情も分かるが、俺は家族の元へ行かなければならない。 何か欲しいものがあるなら譲る。 礼を尽くせと言うなら、そうする。 だから、氷を溶かしてくれ」

「出来ん相談じゃ。 もしどうしてもというのなら、わしを倒して行くが良い」

「仕方がない。 そうさせて貰う」

フォルネウスの雰囲気が変わった。全身に力がみなぎるのが分かる。今までの柔和な雰囲気が消えて、鬼が内側から迫り出てきた。戦う気だ。その圧力は強烈で、物理的に押されるかとさえ思った。これが戦士の気迫か。圧される。だが、持ち直す。負ける訳には行かない。

今までは、全く体を使えている実感がなかった。今も殆ど使いこなせていないと思う。だが、少しでもましに動かないと、此奴とは戦えないだろう。飛び退いて、距離を取る。サナが羽をせわしなく動かして、更に大きめに飛び退いた。

「逃げても良いぞ」

「状況次第かな。 もし君が勝ったら、半分マガツヒ頂戴。 ニヒロの中級悪魔の味がどんなものか、楽しみだよ」

「分かった」

さっき見たが、サナは足手まといにならない程度の実力は充分に有している。そればかりか、今の自分よりもむしろ強いかも知れない。ならば、手伝ってくれれば非常に有利だ。かなり勝率を上げられる。

「行くぞ! 若者!」

大きくひれを動かしたフォルネウスが、高々と舞い上がった。

 

距離を取ったフォルネウスが口を開くと、金属をすりあわすような音が響き始める。何か良くない事をしようとしている。横目でサナを伺うと、手を素早く動かして、同じように何かつぶやいていた。

周囲を見る。枯れ果てた木が植わった、鉢がある。直径五十センチほどもある大きなものだが、担ぎ上げるととても軽かった。全身のバネを生かして投擲する。フォルネウスに直撃。大きくのけぞったエイだが、すぐにひれを動かして、姿勢を制御し直す。

空に跳ね上げられたのは、次の瞬間だった。

地面から、氷の杭が、無数に突きだしたのだと、地面に叩きつけられる前に気付いた。サナも避けきれず、服の袖を切り裂かれ、更に追撃に繰り出された杭に弾かれて、壁に叩きつけられる。

落ちる先に、尖った杭が見える。腕を振るって、へし折った。だがそのため受け身を取れず、地面に叩きつけられた。

さっきまで攻撃が効いているという実感がなかったが、これは痛烈だった。体中にしびれがある。立ち上がるが、見る。また、フォルネウスが、同じように口を動かしている事に。

なるほど。自分に有利な位置を保ったまま、遠距離攻撃で押し切るつもりか。判断は正しいと思う。秀一としては、戦術が限られてしまう。

杭を踏み台にして、跳躍。拳を振るって、殴りかかる。其処で、エイの口から漏れていた音が止む。反射的にガードをしなければ、首が飛んでいたかも知れない。

今度は真上から、直径三メートルほどもある氷の杭が降ってきた。はじき飛ばされるような形で、地面に再び叩きつけられる。杭を着地の瞬間、数本へし折っていた。

直径二メートルほどのクレーターの真ん中で、身を起こす。血を吐き捨てた。口の周りの鮮血をぬぐい取る。すぐ側には、冗談のように巨大な氷の杭が突き刺さっていて、陽光を反射していた。

感じたとおりだ。やはり強い。

「やるのう。 これを受けて、まだ立ち上がってくるか」

「まだまだ、寝ている訳にはいかないのでね」

今のを受け損ねて、左腕にしびれが残っている。見れば、大きく切り裂かれて、まだ鮮血がこぼれ落ちていた。急速に傷はふさがりつつあるのだが、体中の力が吸い上げられているのも分かる。

そう何度も保たないだろう。さっき戦った奴とは、格が違う。流石にこの病院を、丸ごと凍らせるだけの事はある。ただ、見えてきた弱点もある。あの杭さえどうにか出来れば。

再び、エイの口から、あの音が漏れ始める。最初の奴と、次ので、全く区別が付かなかった。しかしながら、直前で切り替えられるとは思えない。さて、どちらで来るか。或いは、別の技を繰り出してくるのか。

自分をはじき飛ばした、杭を抱え込む。フォルネウスは眉をひそめた。エイなのに、そうしたのがよく分かった。力を込めて、ぐっと引き抜く。みしみしと地面が音を立てた。体を弓なりにしならせ、そして投擲。多少狙いはずれたが、充分に軌道上にフォルネウスの巨体がある。回転しながら迫る巨大な杭に慌てたフォルネウスが、音を止める。そして、氷杭を出現させる。見た感じ、あの音を無くとも技は出せるようだが、代わりに消耗が大きくなるらしい。フォルネウスの体から放たれていた威圧感が、見る間に縮小するのが分かった。

唸る杭。フォルネウスの杭が迎撃。激突。

二つの杭が弾きあった。トラックの交通事故を見た事があるが、その時のような、激しい音がした。飛び散った氷が、辺りに霧状の膜を作る。

その瞬間。死角に潜り込んでいたサナが、雷撃を解放する。

紫電が走り、エイの体を斜め右後ろから直撃。更に、霧状に散っていた氷の粒子が、それを乱反射して、更に傷を拡げた。絶叫したフォルネウスの注意が、此方から逸れる。

ジグザグに走り、地面から突きだしていた杭の一つを蹴って跳躍。自分でも驚くほど、体は高く舞い上がった。フォルネウスが顔を上げた。その顔面に張り付く。振り落とそうとフォルネウスがもがく。ひれの一つを掴んだ。指がひれに食い込む。悲鳴が上がった。

すまない。口の中で謝ると、開いている左拳を振るった。

下あごに直撃。歯が何本か砕けて、吹っ飛んだ。大きく揺れたフォルネウスの、えらに更に拳を叩き込む。指をえらに潜り込ませ、引き裂いた。鮮血が飛び散る。それはすぐに、マガツヒと呼ばれた赤い光に変わっていった。

鰐が獲物を襲う時のように、フォルネウスが巨体を回転させるが、離れない。指はエイの体に食い込んで、ますます血しぶきを派手に上げた。壁に叩きつけてくる。流石に手を離しかけたが、耐える。背骨が鳴った。旋回し、今度は地面とサンドイッチしようとする。この時を待っていた。左腕で、渾身の一撃を、頭に叩き込む。頭蓋が砕ける感触。断末魔の絶叫。

態勢を崩したフォルネウスと共に、地面に叩きつけられる。己が放った杭に串刺しになったフォルネウスは、最後につぶやく。耳を立てる。どうやら、わびているようだった。

滅私奉公。現在日本では、むしろ悪とされる行為。だが、秀一には、それがとても気高いものだと思えた。むしろ、ことある事にだるいだのうざいだのしか言えない同年代の人間の方が、よほど寒々しい。此処まで、自分の信じた者に命を賭けられる存在を、バカにする資格のあるものなど何処にもいないだろう。

フォルネウスの巨体が、赤い光に変わって、散っていく。走り寄って来たサナが、嬉しそうに跳ねた。

「すご! すごいよ! まさかフォルネウスを仕留めるなんて!」

「……君の助力があったからだ」

「あれ? 嬉しく無さそうだね」

「ああ」

今まで倒して来た悪魔とは比較にならないほどのマガツヒである。息を吸い込むと、その半数ほどを、一気に体内に納める事が出来た。

ふと、傍らを見ると、サナが幸せそうにマガツヒを頬張っている。やはり和子の事を思い出して、嘆息せざるを得ない。

病院の周囲に張られていた氷が、とけていく。

もはや、外に出る事に、障害は無いようだった。

 

3,アカサカ後始末次第

 

砂を踏んで歩く。時々、コンクリートの欠片が落ちている。オセは腰をかがめて、それを拾い上げた。高い熱量によって、飴細工のように曲げられた鉄骨がはみ出している。しかも、東京受胎の時に加えられた変化ではない。ついこの間、魔術によって与えられた地獄が、コンクリを砕き鉄骨をへし折ったのだ。

旋回して辺りを見回っていた下級堕天使が下りてきた。跪く。顔は蒼白になっていた。そして、分かりきっている事を言った。

「駄目です。 生存者、確認できません!」

「良く探せ」

「は……」

我ながら無茶な事を言っていると、オセは思った。この下級堕天使には不幸な事だが、生存者を発見できれば、大きな力になる。

今、ニヒロ機構将官であるオセは一軍を率いて、アカサカに出ていた。天使軍によって受けた爆撃の調査と、生存者の確認のためである。

アカサカはユウラクチョウと対立していた勢力で、壊滅の前には500ほどの戦力がいた。地方の割拠勢力としてはなかなかの数だ。ただし、生存基盤は貧弱であった。リーダーであるランダを中心とした寄り合い所帯の性質が強く、国家と言うにはあまりにも脆弱なのも事実である。いずれにしても、過去の話である。今は文字通りの無なのだから。

アカサカは国家としての基盤が弱く、故にユウラクチョウとの抗争も本格的ではなく、実戦経験も少なかった。ユウラクチョウとしても、本格的にアカサカを併合しようなどとは思っておらず、たまに小競り合いを繰り返していた程度であった。

周りを見る。

見事なまでに、更地になっている。この辺りには廃ビルがいくらか建ち並び、貧しい生活をしている悪魔がかなりの数いた。皆、東南アジア系の、魔的存在であった。リーダーを、バリ島を代表する存在である魔女ランダが務めていて、貧しい中もそれなりに充実した生活を送っていたのだ。

オセも何度か、しのびで来た事がある。ランダは酒を造る術を持っていて、甘くて芳醇な独特の味わいを旅人に振る舞っていた。オセはその酒のファンである部下から頼まれて、何度か分けてもらいに来たのだ。もちろん、情報収集をかねて。あまり多くの悪魔はいなかったが、情報の中間経由点としては価値のあるところだった。

砂漠の真ん中で、足を止める。その酒を売っていたのは、八階建てのビルの三階にあった、小さな店だった。ビルはもはや影も形もない。歩いていると、何か踏んだ。原色の看板の、残骸だった。半ばから千切れて、砂に埋もれていた。猥雑な看板だが、こうなってしまうと哀れだ。

此処までする意味が分からない。憤りが沸き上がってくる。

ユウラクチョウに12000の兵力が駐屯した事で、此処はニヒロ機構の勢力圏となっている。いざとなれば、5000以上の増援が、即座に駆けつける事も可能だ。だが、それでも。オセが今連れているのは100程度の護衛に過ぎない。周囲の下級堕天使達は、皆緊張の極地にあった。

今回、副官として連れてきているオロバスが、頭を下げる。臆病なこの馬は、いつも率先して消極策を口にする。

「オセ様、これ以上は」

「もう少し、探してみよう」

顔に着いた砂を、擦って落とす。この街は、もはや存在しない。インフラは完全に破壊され、居住できる空間もない。マガツヒをどうやって得ていたのかはよく分からないが、おおかたアマラ経路の切れ目が近くにあったのだろう。だがこの有様では、それも砂の下に埋まってしまっている事だろう。

オセも気配を探っているのだが、砂の下に隠れているような悪魔もいない。攻撃の時、熾天使が指揮官として出てきていたら、それでも隠れる事は無理であっただろう。それに、万が一そうして隠れた悪魔がいたとしても、今もそうしているとは思えない。諦めるしかないか。

「オセ様は、どうしてこの街にこだわるのですか?」

「いや、この街にはこだわっていない。 だがな」

天使軍のやり方が、どうしても気に入らないのだ。だが、それを応える意味も理由もない。

帰還する事にした。いつまでも此処で過ごす訳にも行かない。身を翻しかけた、その時であった。

「オセ様! 生存者です!」

その声が、聞こえた。

急ぎ足で、声の方へ向かう。部下達も慌てて着いてきた。

生存者が見つかったのは、街の外れであった。砂丘の影に隠れていて、分からなかったのだ。実際足を運んでみると、確かに実にわかりにくい場所にいる。オセはオロバスを叱咤して、全員をその場に集める。回復術を持っている悪魔も何体か連れてきているから、応急処置くらいは出来るはずだ。

堕天使達が、発見した悪魔を遠巻きにしている。オセが歩み寄ると、敬礼をした。

「お気を付けください、オセ様」

「どうした」

「スライム化しています」

砂漠の真ん中。その見苦しい塊は、赤黒い肉体を蠢かせていた。不定形であり、辺りに緩慢に触手を伸ばしては、獲物を求めているようだ。直径は六メートルほどもある。更に、砂にまみれてしまっているので、極めて醜怪だった。

スライム。悪魔が実体化に失敗するか、もしくは極端なダメージを受けたが何らかの理由で生き延びた時になる形態である。名前の通りゲル状であり、本能のみに従って、辺りのものを喰い散らす。

美の女神だろうが、醜悪な邪鬼だろうが、なれの果てはこのスライムである。魔王などの、非常に高位の悪魔になってくると、直径数十メートルにも達するスライムになる事がある。スライムはエネルギーの塊そのものであり、元の実力に応じて姿を変えるのだ。高位の悪魔になってくると、スライム化しても意識がある場合が多いのだが。目の前のこれは、どうなのだろう。オセにも、見分けが付かない。

元々オセは、フラウロスとは多少タイプが違うが、術を補助に使い、剣で勝負する悪魔だ。一応の術に対する知識はあるが、専門家には遠く及ばない。だから、推論でしか判断できない。

「なるほど、どうにか生き延びはしたが、こうなってしまったか。 不憫だな」

「いかがいたしましょうか。 いっそ、ひと思いに、死なせてやりますか」

「……補給部隊に、マガツヒを送らせろ。 出来るだけ大量にだ」

「御意」

オセも最初はそれを考えたのだが、やはり此処は元に戻してやって、使った方がいい。記憶が残っていれば、天使軍に対する圧倒的な憎悪を抱いた、非常に優秀な部下が出来る。スライム化した悪魔は、要するに極端に弱っている状態であって、餌さえ食わせてやれば復活できる事が多い。完全に死んでマガツヒ化した場合はどうにもならない事が多いのだが、この悪魔は何とかなるだろう。

すぐに二個中隊ほどの部隊が、ユウラクチョウからマガツヒを運んできた。指揮官である中級堕天使は、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。聞いてみると、ミトラに散々嫌みを言われたらしい。確かにミトラは今、スルトとモトを制御するのに精一杯で、余所に物資を回す余裕など無いだろう。元々ミトラは武人ではなく、官僚気質の悪魔だ。指揮能力も低くはないのだが、こう言うところを見ると、やはり本質的な不向きを感じてしまう。

近々、スルトとロキを、それにモトとエリゴールを部署交換する案が出ている。ユウラクチョウの土着勢力だった二人を引きはがす人事であり、もう少し状況が落ち着いたら実施する事になるだろう。今はひたすら力を蓄える時だ。マントラ軍よりも早く、富国強兵を成し遂げなければならないのである。多分、ミトラも近いうちに守備部署を変える事になるだろう。オセの見るところ、向いていない。そして氷川司令も、それに気付いている。

ミトラは思うに、創業後の国家でなら有能な官僚となるのだろう。だが、創生期の国家では、若干力が足りないような気がする。かといって、それはオセもお互い様だ。オセなどは、創業後の国家ではそれこそ飼い殺ししか道がないだろう。上手くいかないものだと、オセは苦笑した。

オセの等身大ほどもあるマガツヒの大瓶を傾けて、スライムに流し込ませる。漂い来るマガツヒを、スライムは旺盛な食欲で喰らった。もりもりと食べる音が、側で見ているオセの所まで響いてくる。

「近付きすぎるなよ。 喰われるぞ」

部下達に注意を促し、自身も油断せず見張る。二つ目の瓶を傾ける。まるで蚕のように、スライムはマガツヒを喰らい続けた。農家などにある蚕室では、雨のような音がずっと響く。蚕の幼虫が桑の葉を貪るのは、そんなにも激しい行動なのだ。以前、人間に擬態して田舎を歩いた時に、見た事がある。旺盛な生命力に、オセは感心したものだ。それを思い出す。このスライム化した悪魔は、生きようとしている。

ふと、遠くに強い気配を感じた気がした。不安を感じたオセは、周囲を偵察し、警戒を絶やさないよう命じると、スライムの再生作業を見守った。

やがて、スライムが縮んでくる。蠕動し、うごめき、徐々に形を為していく。

女の悪魔だ。ランダかと思ったが、違う。ランダなら、バリの地での魔王に近い存在であり、六メートル程度のスライムでは済まないだろう。徐々に、形が整ってくる。マガツヒの吸収効率が、どんどん悪くなっていった。流し込んだマガツヒが流れて、周囲の下級堕天使達が慌てて掴んで口に入れた。

ほどなく、裸体の女が、濡れた砂漠の真ん中に転がっていた。肌は白いが、様々な模様が縦横にのたりくねっている。呪術的な意味を持つものだろう。年は人間に換算して、せいぜい十代前半か。体の凹凸が少し貧弱な、清楚そうな雰囲気の女だ。意識はない。多分、形を再構成するだけで精一杯だったのだ。

部下に布を掛けさせる。そのまま揺らさないように、担架でユウラクチョウへ運ぶように指示。オロバスが不安そうに辺りをうかがいながら聞いてくる。

「ランダでしょうか。 それにしては年若いようですが」

アカサカに割拠していたランダは、人間年齢にして三十前後だった。ニヒロ機構のニュクスとためを張るほどに妖艶で、大人の色気を全身から発していた。残念ながら、ボルテクス界では無意味な事この上なかったが。

だから、これはランダではない。

「違うな。 多分特徴から言ってレヤックだろう」

「レヤック、といいますと?」

「ランダの配下の魔女を、レヤックという。 バリ島では、光の王子が転生した聖なる獣であるバロンと、悪の権化である闇の魔女ランダが常に戦い続けるという、相克の神話がある。 だが結局、ランダはバロンに破れる。 その時新しいランダになるのは、配下で、一番力を持つ者だ。 このレヤックがそうだとは限らないが」

あのスライムのサイズから言って、このレヤックはかなり強力な魔力の持ち主だ。だが、しかしどういう事だ。

神経質な天使達のことである。攻撃をミスして、この結果を生んだとはとても思えない。ランダがこのレヤックを助けるために、わざとスライム化する術でも掛けて、逃がしたのか。それが一番しっくり来る。

だとすると、ランダにとって大事な人物だったのだろうか。或いは、自分の跡を継ぐに相応しいと考えていたのかも知れない。

バリ島の神話は、刹那的でありながら連続的だ。ランダとバロンの闘争は永遠に続く。常に勝つのはバロンだが、ランダは殺されても即座に後継者に転生してよみがえる。光と闇の戦いは、こうして永遠に続くのである。その神話的特性は、ランダにも受け継がれていたはずだ。そうなると、己の死を、恐れてはいなかっただろう。

担架に乗せて、レヤックを本部へ運ばせる。まだ探索を続けていた部下達は、結局生存者を発見できなかった。引き上げの命令を出す。これ以上、此処にとどまっても、得られるものはない。ただでさえ守備の戦力を削って、貴重な時間も使ってきているのだ。結論が出たら、干渉に浸っている余裕はない。

多分、自分の知るランダはもう生きてはいないな。オセはそう結論した。

一度だけ、振り返る。砂丘には、ただ虚しく風が吹いていた。

 

砂丘に隠れていたチュルルックのリヤルタは、帰還していくニヒロ機構軍をずっと見送っていた。

リヤルタは白い仮面を付けている悪魔で、背丈は人間とほぼ同等。手足は細く長く、鋭く黒い爪を持っている。レヤックと同じく、ランダ配下の魔物である。つまり、アカサカの攻撃からの生き残りだ。

体を襤褸切れで隠したチュルルックは、大きく嘆息した。あのスライムを元に戻して、回収していったらしい。きっと復讐心を利用して、天使軍との戦いに使うのだろう。復讐したいという気持ちは、リヤルタにもある。だが、恐怖の方がより大きかった。

近くで見なければ、あの恐怖は分からないだろう。アカサカにいて、生き残れたのではない。たまたま所用で街を離れていて、急を聞いて帰って来て、それに出くわしたのだ。

あれは、戦闘などと呼べるものではなかった。

上空に展開した天使達は、文字通りの絨毯爆撃で、隅から隅まで街を破壊していった。抵抗していたランダと魔女達には、数百いやそれ以上の火力が集中された。流石にそれではどうしようもない。

全員焼き尽くされるのに、さほど時間は掛からなかった。少し離れた砂丘で、リヤルタは震えながらそれを見ているしかなかったのである。

どうしようもない。非力な自分には、逃げずに見届けるしか、出来なかったのだ。駆けつけて、一緒に焼き尽くされろとでも言うのか。己の罪悪感を罵る。何が出来た。自分に、何が出来たのだ。卑小なプライドが、事実とせめぎ合い、リヤルタを苦しめ続けていた。

もうニヒロ機構に逃げ込む事も出来ない。あのスライムが誰だか分からないが、どの面下げて同じ職場で働けと言うのだ。

ニヒロ機構の堕天使達が引き上げていくと、再び辺りは静かになった。あまりに静かすぎて、遠くの工事音が聞こえる。ユウラクチョウは空前の建築ラッシュに湧き、多くの下級悪魔がマガツヒ目当てで働いている。防空設備を整える作業で、皆めまぐるしく働いている。国会議事堂の防衛体制強化も余念がないようだ。

もっとも、リヤルタには関係ない。卑屈な自嘲を浮かべて、アカサカを去る。もう二度と此処に来る事はないだろう。涙がこぼれた。

砂漠の向こうから、誰かが歩いてくる。それに気付いて、はっと顔を上げた。足を止めて、観察する。数は二人。

一人は、体に模様を刻んだ人間、いや、悪魔。体から放っている魔力が、人間にしては強大すぎる。上級悪魔ほどの力はないが、それでも無視するのは難しい。もう一人は、背丈から言ってピクシーだろう。向こうも、此方に気付いたようだ。近付いてくる。

仮面を外して、涙を拭く。声を整える。何だか分からないが、間合いに入った時には、精神はきちんと整えておかなければ危ない。

十歩ほどの距離を置いて、相手が止まった。やはり、人間に似ている。だが、気配は悪魔のものだ。青年は静かに言った。僅かに、口調に焦りがにじみ出ている。

「すまない。 少し、訪ねたい」

「何さね」

「ノギザカの辺りは、どうなっているか教えて欲しい」

「ノギザカぁ?」

ぽかんとしてしまう。アカサカではなく、ノギザカか。よりにもよって、あんな場所の事を聞かれるとは。

東京受胎の時、破壊に見舞われた地区には差があった。ギンザやイケブクロなどは比較的インフラが無事に残った。アカサカやユウラクチョウは、そこそこ無事であったため、悪魔達の拠点が出来た。反面、全くと言うほど何も残らなかった地域もある。例えば、ノギザカがそうだ。

「何にもないよ、あんな所。 三大勢力が巨大化しつつある今はもう、野良悪魔だってほとんどいないさね」

「住んでいた者達がどうなったか、知らないか」

「さあ。 全滅したんじゃないかね」

青年の目に、残酷な怒りが宿ったのを感じ取り、リヤルタは一歩下がる。青年は額に手を当てると、ぎりぎりと歯を噛んだ。一緒にいるピクシーが、ズボンの裾を掴んで言った。

「だから言ったでしょ」

「……すまない。 少し、情報を整理させて欲しい。 受胎とやらで、東京の一部が法則から切り離され、悪魔の割拠する世界となった。 面積は数十倍、場所によっては数百倍にまで拡大し、殆どの場所は砂漠になり、人間は皆死んだ。 そうなのか」

「フォルネウスの爺ちゃんが言っていたけれど、生き残りはいたみたいだね。 だけど、それは例外に過ぎない。 東京にいたのは、君の話だと1000万人だっけ? その内生き残ったのは、さて何人だろうね」

砂漠に青年は座り込み、天を仰いで大きなため息をついた。

何だか、その気持ちが、少しは分かる気がした。だが、もう一つ、感じる事がある。この青年からは、危険の臭いがする。近寄らない方が良い。リヤルタはおそるおそる聞いてみる。

「もう、行ってもいいかね」

「ノギザカの、場所を教えて欲しい」

「あんたもしつこいね」

絡まれても面倒だから、詳しく方角と、途中の目印を教えてやる。ノギザカに着いたら、さぞや落胆する事だろう。この青年は、一体何故あんな所に行きたがっているのか。何度考えても、分からなかった。

世界は、急速に三大勢力に統合されつつある。各地の小勢力は、アカサカの悲劇をみて泡を食い、マントラ軍かニヒロ機構へ身売りを始めている。独立勢力を作っているのはヨヨギ公園の妖精達くらいで、その運命だって風前の灯火であろう。天使軍は、自分たち以外の全てを排除する姿勢を見せているし、最初から論外だ。ニヒロ機構へは行けない。そうなると、マントラ軍しかない。

自分には術くらいしか使えるものがない。それも、せいぜい二流のスキルだ。それでも、生きるには、他に方法がない。

砂塵が吹き付けてくる。フードを掴んで、砂漠を行く。

イケブクロまでは、まだ遠かった。

 

アマラ輪転炉は、既に稼働を始めている。ユウラクチョウに戻ったオセは、軽くミトラに挨拶だけすると、そちらへ向かった。

今回の件は、早めに氷川司令に直接報告する必要がある。アカサカの殺戮はボルテクス界の勢力構図を一変させた大事件であり、今後は政治宣伝にも活用できるからだ。オセ本人が、直接伝達する必要がある。軍本部ビルとなっている有楽町マリオンを離れて、少し歩く。辺りは急ピッチに建築工事が進み、時には上級の悪魔も汗水たらして働いていた。驚いたのは、スルトが直接作業している事だろう。レーヴァテインをふるって、術で作り出した石塊を適切な大きさに切り分け、自ら運んでいる。オセと目が会うと、スルトは目礼してきた。敬礼を返すと、部下を促して、行く。敗軍の将とはいえ、むち打つような事があってはならない。彼は誇り高くオセと戦ったのだから。

三階建てのビルの前に来る。あまりインフラは整っていないが、比較的無事で残っていた、貴重な建物だ。それをベースに、今第二指揮所へ改装しつつある。辺りは鉄条網と、術で作った防壁で固め、二個中隊が警戒に当たっていた。合い言葉を歩哨に言って、地下へ。アマラ輪転炉は、其処へ配置しているのだ。

エレベーターは現在術で稼働させている。幾つかの主要な建物には術が得意な悪魔を配置して、彼らに管理させ動かしているのだ。小さなホールで、部下達と一緒に待つ。少し埃っぽい建物で、かゆくなったので、耳の後ろを軽く掻いた。そうこうしているうちに、エレベーターが来た。マガツヒを入れた大瓶を運ぶ悪魔とすれ違う。リヤカーを引いていた悪魔は、敬礼して去っていく。等身大の瓶の中には、赤い光が無数に詰まっていた。

地下へ下りる。この辺りは、元々の地下室を改装したものだ。最終的には通路を延ばして、有楽町マリオンへも連絡路を作るつもりである。いざというときは、此処から補給されるマガツヒを直接搬送して、籠城を行うためだ。その工事の影響で、床には何カ所かに罅が入り、それを補修した跡があった。

アマラ輪転炉の周囲は、精鋭が固めている。長い地下通路を歩いて、防御司令官であるモトを探す。いた。宿直室だ。モトが入っている棺桶は横になっていたが、オセが来たのに気付くと慌てて立ちあがる。蓋を少しだけ開けて挨拶してきた。部下にしてみて分かったが、とても恥ずかしがり屋で怖がりなのだ。

「オセしょうぐん、おつとめ、ごくろうさまです」

「うむ。 前にも言ったが、これを利用してテロリストが攻め込んでくる可能性があるからな。 油断はするなよ」

「はい」

ごつんと音がした。素直に頭を下げる気配があったので、多分蓋に頭をぶつけたのだろう。オセは頷く。モトは幼児らしい我が儘さを持つ反面、素直な所がある。良くも悪くも子供なのだ。だから、今の言葉は逆に信用できる。お目付に誰かを常時付けておけば、更に信頼度は上がるだろう。

分厚い鉄で囲まれた部屋の前に来た。扉に触れると、少ししびれが走った。強烈な防御術が掛けられているのだ。解除コードをいうと、力を入れずとも戸は内側に開く。

中には、高さ二メートル半ほどあるアマラ輪転炉があった。

古めかしい三脚の上に乗ったアマラ輪転炉は、周囲に刻まれた文字を淡い緑に輝かせている。様々な魔術的効果を持つ文字であり、複数の拠点をつなげる事も可能だ。マントラ軍の拠点に設置が成功すれば、幹部級の上級悪魔を送り込んで、奇襲攻撃を掛ける事も出来る。ただ、今はあまり現実的ではない。

中で常駐している守衛が、マガツヒの採取モードから、転送モードへシステムを切り替える。現在は特定の呪文を、適切な順番で唱えるだけで、それを為すことが出来る。数分でアマラ輪転炉の回転速度と、光っている文字が変わる。準備は整った。

氷川司令が、ガイア教の幹部だった時から、これは所有物だった。前はただの骨董品だったが、今は違う。担架を運んでいる部下達が部屋に入ったのを確認すると、念を押した。

「分かっているとは思うが、事故の時の対応を復唱せよ」

「は。 あらかじめ配布されている地図に沿って、ギンザを目指します」

「うむ。 それと、スペクターと出くわしたら、戦う事は考えるな。 私と合流する事を考えろ。 奴は単体では大した実力を持たない。 振り切る事は難しくないはずだ。 囲まれたら一点に火力を集中して突破しろ」

「はっ!」

今の時点では、事故の発生率は千分の一以下に抑えられてはいる。だが、それでも時々起こってしまう。担架を担いでいる悪魔には、精鋭を選んでいるが、念には念だ。

まず、彼らを先に行かせる。アマラ輪転炉に触れると、光の粒子になって、瞬時にかき消える。十体ほどの悪魔が、順番に消えていく。最後に、オセが輪転炉に触れた。

光の中へ、投げ出されたのを感じる。そのまま、流れに身を任せる。ウォータースライダーのように、曲がりくねった流れの中、運ばれていく。酔うほどに速いが、実際には殆ど体に影響はない。どういう仕組みなのかは、オセにはよく分からない。概念的には、マガツヒが作り出す情報の流れを利用しているのだという。

気付くと、もう輪転炉からはじき出されていた。

ギンザだ。部下達は、既に整列していた。マダが四本の腕で、器用に温ふきんを取って、彼らに渡していた。気さくな奴である。その心遣いに、部下達の方が、むしろ恐縮してしまっている。レヤックも、ちゃんと転送されてきていた。

「おお、オセ将軍。 お疲れだったな。 疲れたろ。 これで顔を拭け」

「ああ、ありがとう。 結局一騎しか助けられなかったよ」

「それでも、今は充分だろ。 どうだ、たまには一杯やるか。 ワインが良いか?」

天井を見る。分厚い防壁に守られた部屋。ここは、ギンザの隅だ。ニヒロ機構本営地下のアマラ輪転炉は、帰還一方通行用に設定されている。安全のためである。

「いや、いい。 すまないな」

「あやまるなって。 まあ、飲みたくなったら、いつでも言って来いよな」

気の良い奴である。一礼すると、医療班を呼ぶべく、部屋の隅にある電話を取る。命に別状はないはずだが、早めに専門家に見せておきたいからだ。

ふと、トールの事を考えた。奴は今回の一件を、どう考えているのだろうか。

今度出くわした時に聞いてみたいと、オセは思った。もちろん、それは戦場での事になるだろうが。

医術を司る悪魔が、何体か部屋に入ってきた。

レヤックを任せると、オセは氷川司令に事の顛末を報告するべく、本部へ向かった。

 

4,内憂外患

 

しらけきったトールの前で言い争いをしているのは、毘沙門天とフッキだった。何しろ、どちらも頂点に立つゴズテンノウとナンバーツーのトールを除けば、上位に座する悪魔である。他の悪魔達は止める権限もなく、困惑しているばかりだった。

ゴズテンノウは止めようとしない。というよりも、口論に興味がない様子だった。頬杖をして、欠伸をかみ殺しているのが、トールには分かった。無理もない話である。狡猾ではあったが、それでも武力によって勝ち上がり、王座についた男である。部下の口論は、基本的に拳で解決させてきたのだ。今更、口によって解決させようなどという気は起こらないだろう。

今は、会議の最中である。以前は、決して起こらなかった事であった。戦闘が小康状態になり、危惧していた事が顕在化したのである。

「だから、護衛に割く戦力を考えると、一度に五千も運搬するのは不可能だ」

「これは勇名高い毘沙門天殿とも思えない言葉ですな」

「私の勇名と、無謀な行為はイコールではない!」

激高した毘沙門天が立ち上がると、フッキは薄ら笑いを浮かべながら、蛇体を持ち上げた。手には攻撃術の光が宿っている。よりにもよって、此処で修羅場か。ゴズテンノウは止めない。仕方がないので、トールが制止した。

「もう止せ、二人とも」

「しかし、トール殿」

「止めろといわれましてもねえ。 カブキチョウの復旧計画には、大量のマネカタ輸送が不可欠なのに、このままでは埒が明きませんぞ」

「確かにマネカタの輸送は必要だが、天使軍の脅威を侮ってはいまいか。 各地に防衛戦力を割いた事で、我が軍の兵力は手薄になっている。 毘沙門天ではなく俺でも、もし天使軍が襲撃してきた場合、マネカタ共を守りきれるか自信はないぞ」

鼻を鳴らしたフッキが、ようやく黙り込んだ。だが、此方に対する侮りが露骨に見える。マネカタを生産できる術を持っているフッキとジョカの増長はここのところ著しく、皆苦々しく思っているようだった。

兵力の流入は続いている。アカサカの虐殺以降、幾つかの小勢力は降伏し、部下達共々イケブクロに移住してきた。単独で各地を彷徨っていた悪魔達も、危険を感じたのか、マントラ軍に争って身を寄せてきている。恐らく、もうカグツチの日齢が一巡する頃には、50000を越える事だろう。だがそれに伴い兵の質は低下しているし、不協和音も出ている。何よりも、ニヒロ機構との冷戦状態が大きい。兵士達は手柄を立てる機会もなく、不満も燻り始めている。

内憂外患とはこの事だ。拳でまとめ上げる事も出来ず、ゴズテンノウも鬱憤がたまっているようであった。それはトールも同じである。恐れていた事が現実になってしまった。このままでは、内憂外患という言葉通りになるだろう。

結局、空輸計画は先送りになった。カブキチョウでは駐屯した戦力が、マネカタを大量に要求してきている。頑強なマガツヒ採取施設はほぼ完成したが、拷問するマネカタ自体の数が足りないのだ。兎に角大量に消費するため、定期的に輸送しなければならない。そのペースを上げるか上げないかで揉めていたのだが。今後も、ペースは保ったままとなるだろう。信頼できる機動部隊は、そう多くないのである。

会議が終わる。フッキとジョカは、いそいそと謁見の間を出て行った。ゴズテンノウも煩わしげに自室に戻っていく。帰り道、肩をいからせて歩きながら、毘沙門天はぼやいた。

「全く、奴らは何を考えているのだ!」

「面倒な話だ。 奴らがマネカタを作っている以上、粛正する事も容易には出来ん」

「そうですな。 トール殿には、なにか名案はありませんか」

「無い。 ただ、それではあまりにも芸がないな。 そうさな、今俺が訓練している5000が仕上がったら、2000ほどそちらに回す。 それで、多少は輸送できる量が増えるだろう」

「それはありがたい。 しかし、よろしいのですか」

別に構わない旨をトールは告げて、本部を出た。

実際、未訓練の兵士はまだ大勢おり、配置は総司令官のトールに任されている。毘沙門天の部隊は手が足りないので、優先的に増やしても問題はないだろう。ニヒロ機構が組織的な訓練をしている以上、此方も武勇をしっかり磨かせなければ対抗できない。数が増えただけでは、喜ぶ事は出来ないのだ。それに、トールはあまり大部隊を統率したくない。少数精鋭を引き連れて、敵の中核に強襲を仕掛けるような戦いだけをしたい。

毘沙門天は、部下達の訓練を見なければいけないという理由で、途中で離れた。トールが鍛えた部下達を、目的別に更に訓練する。それが現在の、マントラ軍のスタイルとなっている。激しい訓練を行った跡、マネカタから採取したマガツヒを食わせて、全体的な力を底上げさせる。それによって兵の質は高くなるのである。

自宅に戻る途中、オルトロスが側に走り寄ってきた。犬の姿をしているこの悪魔は、外でも四つ足で、愛くるしく動き回る。そのため、どの悪魔も好意を抱いているようである。事実、敵意をかわない方法を、知り尽くしているようでもあった。今も精一杯尻尾を振って、愛嬌を振り撒いていた。

「トール様、さっきわすの部下から、新しい情報が入りましただ」

「聞かせろ」

「へえ。 実はニヒロ機構が、アカサカで生存者を救出したそうですて。 わすの聞いたところによると、ランダの側近だとかいう話だす」

「もう少し、詳しく調べろ」

頷くと、オルトロスは雑踏に消えていった。

ランダの側近をニヒロ機構が確保したとなると、政治的な宣伝に用いる可能性が高い。此方は対抗してランダを抑えたいところだが、難しいだろう。アカサカの惨状はトールも聞いている。生きているとはとても思えない。

ふと気付いて周囲を見回すと、街で働いているマネカタが随分減っている。都市構築がほぼ完成に近付いている上に、他での需要が大きいからだ。状況は刻一刻と変化はしている。しかし、以前とは比べものにならないほどに遅い。働いているマネカタの減少も、それを裏付けている。

さて、どうしたものか。考えている内に、自宅に到着。丁度ランニングから戻ってきたらしく、リコが鬼神達に何か説明していた。

「あ、トール様。 お帰りなさいませ」

「お帰りなさいませ、トール様」

一斉に鬼神達が唱和した。奥では、無言でサルタヒコが頭を下げる。アメノウズメは、今は仕事で出ているらしく、姿が見えなかった。

「何か変わった事は」

「特に何も無いッス。 訓練は順調で、もうカグツチの日齢が三つも動いた頃には、前線に出られる筈ッスよ」

「それは結構。 訓練が終わり次第、2000を毘沙門天の隊に回せ。 1000は俺の部隊に編入して、残りは四天王寺だ」

前の予定と違う編成だが、リコは不満を漏らす事もなく、唯々諾々と従った。自室に引き上げる。途中、宝物庫を覗いた。随分殺風景になっている。ここのところ、在庫が減る一方だ。戦闘が無くて、恩賞が出ないのだから仕方がない。部下達の不満を抑えるために、宝を放出し続けたら、こうなってしまった。特に航空戦力の連中は光り物が好きで、士気の維持に物資が掛かる。鵬などは欲深くて、何度もトールは腹を立てた。宝などに執着はないが、人事のバランスを考えると、あまり気前よくも渡せないのだ。

ゴズテンノウは逆に宝の使いどころが無くて困っているそうである。新しく参入してきた悪魔達が献上してくる宝物は幾らでもあるのだが、戦闘がないため、恩賞として下賜できない。暗黙の了解として、ゴズテンノウの前で宝を褒める事は禁じられている。狡猾な反面気前が良いゴズテンノウは、宝を部下にどんどん与えてしまうからだ。それが、今は逆効果になっていた。

自室で横になり、ぼんやりとカグツチを眺めた。こんなマントラ軍では、拳の振るいようがない。天使共はアカサカ以来動きを見せておらず、ニヒロ機構も守りを固めるばかりで全く攻勢に出る気配がない。ここしばらくは小競り合いすらなく、弛んでいる兵士も見かけるようになってきていた。

平和が此処まで悪しき方向に作用するとは。元々混沌の世界であったボルテクス界では、むしろ平和は罪悪なのかも知れない。少なくとも、トールにとってそれは真実だった。

ドアがノックされた。部屋を出ると、リコだった。笑顔を浮かべているので、大した用事ではない事が分かる。

「どうした」

「次に訓練する人員のリストが来ましたんで、トール様に目を通して欲しくて、持ってきましたッス」

「見せろ」

恭しく差し出されたそれを、じっくり見聞する。2500ほど見たところで、目が止まる。チュルルックという種族名があった。

チュルルックと言えば、バリ島の魔物である。ランダの配下であり、アカサカに割拠する勢力以外に、存在が確認されていない。人事担当が如何に弛んでいるか、これだけで明白だ。この名前を見ただけで、上に注進するべきであろうに。

「このリヤルタとやらを、すぐに連れてこい」

「そいつが、どうしたんスか?」

「チュルルックというのは、バリ島出身の魔物だ。 つまり、アカサカの生き残りである可能性が高い。 毘沙門天も連れてこい。 ゴズテンノウ様にも、一報を入れておいた方が良い」

すぐに事態を把握したリコが、ビルを飛び出していった。トールは舌打ちすると、腰からミヨニヨルを外して磨く。普段は滅多にしない事だ。不安に駆られたのかも知れない。リコはすぐに戻ってきた。停滞し始めているマントラ軍で、この娘だけはいつでも活力に溢れていた。

リヤルタとやらは、小豆色の粗末な衣を纏い、顔を白い仮面で隠していた。小柄な人間くらいしかサイズがなく、雰囲気から女だと分かる。結構年配である。

リヤルタは部屋に入った時から、怯えきっている様子で、トールの方をこわごわと伺っている。トールはソファに腰掛けると、遅れて到着した毘沙門天に、部屋にはいるように促す。聡明な毘沙門天は、すぐに状況に気付いたらしく、顔に緊張を湛えていた。

「貴様が、リヤルタか。 チュルルックと言う事は、ランダの配下のものだな」

「あ、あの、それが何か」

「とぼけるな。 貴様、アカサカの生き残りだな。 あの時、何があったのか教えて貰おうか。 知っている限りでいい」

「そ、その、所用でその場を離れていて、たまたまたすかりまして。 哀れな年寄りには、何も分かりません」

トールは無言で手を伸ばすと、頭を掴んだ。トールの手だと、肩くらいまで掌に包み込んでしまう。

「俺を侮るなよ、女ァ。 お前が嘘をついている事くらい、即座に分かる。 喋る時の声色や、相手を伺う気配でな。 その程度の場数を踏んだ程度で、俺を騙せるなどとは片腹痛いわ。 貴様、あの場にいただろう。 応えろ!」

「ひいっ!」

「悲鳴を上げても無駄だ。 これから、質問に答えろ。 嘘をついたら、即座に握りつぶす」

失神し掛けているチュルルックは、トールの手の中で必死に頷いた。事実トールは、嘘をつくようならひねり潰してマガツヒに変え、それを喰らって情報を得るつもりであった。戦力としては使い物にならないだろうし、それでいい。見たところ、術使いとしても大した実力はない。

まず、天使軍の攻撃スタイルから確認する。これは各地の防衛設備に不安が残るからである。既に10000を越える戦力が各地の主要拠点には配置されているが、相手はそのことごとくが航空戦力という編成であり、油断は出来ない。しっかり実力を見極めておかなければ危険である。何度も戦ったニヒロ機構は本命の相手だが、此方は戦術をある程度把握している事もあり、今の時点では対策に不備もない。

一つずつ、聞いていく。それによって、幾つかのことが判明してくる。

天使軍が行ったのは、上空で陣を組んでの、術による絨毯爆撃であった。火力は凄まじく、アカサカの防御戦力を瞬く間に沈黙させ、焼き払ったという。名うての術使いである魔女ランダを葬ったくらいだから、その火力の大きさがよく分かる。

一通り戦力を削り取った後は、建物の破壊に移ったという。まず大きな建物から焼き払い、後は順次小さなものもたたき壊して、滅ぼしていったのだとか。苛烈で、容赦のないやり口だ。相手に降伏など求めていないのであろう。敵は皆殺しという訳だ。

元々一神教は非常に排他的な所があり、他の宗教を蛇蝎のごとく憎む傾向が強いが、天使共はその走狗だけあって徹底している。

今回の戦いでは、攻撃の指揮を執ったのは、証言を総合する限りどうやらウリエルであったらしい。ウリエルと言えば、熾天使の一角としてあまりにも有名な存在だ。大地の守護者という設定を後の神学者に与えられたらしいが、それは一神教にとって都合が良いもののみを指すのだろう。事実、この間の戦いでは大地を破壊した。ヨハネ黙示録でも、似たような行為に走っていたような記憶がある。

リヤルタは、ランダの最期も見ていた。最期まで術による防壁を展開して抵抗を続けていたが、圧倒的な火力の前に、為す術無く焼き殺されたのだという。戦いだから仕方がないことだが、残念な話である。屈服させて、戦力を増強しようという考えが、天使共にはそもそも無い。残虐さではマントラ軍も大した差は無いはずなのだが、どうしてか、不快感がある

毘沙門天も同じであったらしく、腕組みして深刻な表情を作った。

「トール殿、それらの話が真実だとすると、由々しきことですな」

「そうだな。 元々我が軍は対空防御能力が極めて低い。 早いところ龍族を本格的に戦線投入し、天使共に備える必要がある」

「青龍は、協力を申し出ています。 他の龍族は、現在説得中です。 皆プライドが高いので、常備軍として活用するのに、反発を抱く者も多く。 ただ、高位の龍族は、一騎で並の天使数百に匹敵します。 マッハと協力させれば、制空権を敵に決して渡しはしないでしょう」

「うむ。 兎に角、今は急げ。 絨毯爆撃をされると、多少の戦力差はひっくり返される可能性がある。 敵に制空権を渡すと、勝ち目が無くなるぞ」

リコを呼ぶ。リコはすぐに部屋に来た。要点だけをメモさせて、ゴズテンノウの所に使いにやる。リヤルタから手を離すと、恐怖のあまり座り込んでしまう。リコに連れて行くように指示。もう用は済んだ。これ以上、こ奴に聞かせる話など無い。

リコが戻ってくる。ゴズテンノウが会議の招集を決めたことを、その口から聞いた。多少煩わしいが、此処は出ないといけないだろう。道すがら、オルトロスと合流。犬は尻尾を振りながら言った。

「話は聞きましただ。 トール様、アカサカの生き残りを見つけられたとかですて。 流石ですだ」

「いや、これは俺の功績ではなく、人事が手を抜いていただけだ。 もっとも、奴が術式で相手の名前と種族を転写する技の持ち主でなければ、見つけられなかっただろうが」

「それでも凄いだす。 名簿に全部目を通すなんて、なかなか出来る事じゃねえだ」

「媚びを売るのはそれくらいにしておけ。 今はまず、防衛戦略の見直しだ」

オルトロスの追従をシャットアウトすると、マントラ軍本営を見上げる。面倒くさいのは、どうせフッキとジョカが反対するに決まっているからだ。多分マネカタの輸送の方が先だとかごねることだろう。

一定数のマネカタが揃ったら、奴らは殺してしまおう。そうしないと、マントラ軍が内部分裂を起こす可能性がある。トールとしては、それはまずい。今でさえ、戦いから離れてしまっているのである。これ以上良質な戦いから離れることがあっては、拳が錆び付く。やはり、最高の鍛錬は、実戦なのだ。

傍らを歩く毘沙門天へ語りかける。

「さて、あの蛇どもを、どう黙らせるかだが、何か妙案はあるか」

「誠意や説得が通じる相手ではありませんし、難しいところですな」

同感である。結局連中は政治屋の域を越えていない。今回の政策を通すことによって、自分たちの地位を高めることしか考えていないのだ。誰もが苦々しくそれを思っているのに、マネカタ生産という切り札を握っているから、排除も出来ない。一番面倒な奴らであった。あの大政治家諸葛亮を輩出した国の神だというのに、この体たらくは見苦しい。もっとも、トールの見たところ、彼らの下劣さ加減には、元々のフッキとジョカの性質よりも、別の要因があるが。

潰してマガツヒにして、術が得意な奴に食わせてみるという手もある。だが、元々創造神であるこの二体ほどの効率で、マネカタを作るのは極めて難しいだろう。毘沙門天はそういう器用な術が苦手だし、誰か人材が欲しいところだ。

だが、其処で気付く。そういえば、マントラ軍では、術使いの地位が低い風潮がいつの間にか作り出されていた。ひょっとすると、それも長期を見据えた蛇共の戦略であったのかも知れない。迂闊であった。流石に保身に関しては、奴らの方が一枚上か。

出来るだけ早く殺さないといけないなと、トールはこの時決めた。

「今度、俺からゴズテンノウ様に進言してみるか」

「そうしていただけると助かります」

「いや、俺のためでもある。 気にするな」

本営にはいると、運悪く丁度噂の二匹と顔を合わせることになった。鷹揚に胸を張り、鬼神達に頭を下げさせていた二匹だが、流石にトールを見ると敬礼して道を譲る。だが、その目には、侮蔑が宿り始めていた。

まあいい。どうせもう長くは生かしておかないのだ。

ゴズテンノウはまだ来ていない。フッキが話し掛けてきた。髭の生えている顔が、嫌らしい笑みに歪んでいる。

「アカサカの生き残りを見つけたとかで。 トール殿は、いつも大きな手柄を立てられますな」

「人事の悪魔が、注意散漫になっていただけだ」

「これは手厳しい。 今度、厳しく訓戒しておく事にします」

「それで、マネカタの増産計画はどうなっている」

順調ですと、ジョカが代わりに応えた。具体的な数量を提示される。既に生産数は当初からカウントして170000に達している。殆どが使い潰してしまって、半分も残ってはいないが、かなりの数である。

此奴らを今まで生かしておいたのも、自分の仕事はきちんとこなしているからだ。事実、今まで予定生産量を下回ったことは一度もない。此奴らが権力を欲しがるような事がなければ、潰すことを考えなくても良いのに。一種の病気なのだろうなと、トールは内心で嘆息していた。

ゴズテンノウが来る。全員立ち上がって敬礼。鷹揚に玉座に着くと、マントラ軍の主は皆の顔を見回した。

「幾つか、知らせておくことがある。 まず、もう知っていると思うが、トール将軍がまた功績を立てた。 アカサカの生き残りを捜し出し、天使軍の攻撃戦術の解明を行ってくれた。 今後は対空戦略を切り替えていくことになるだろう。 いつもながら、見事な働きである。 トール将軍には、後で褒美を使わす」

「ありがたき幸せにございます」

これで、一息付ける。それから、早めに機動戦力を編成して、放棄されている小勢力の拠点を抑えておきたいところだ。それには防衛用のまとまった戦力が必要になるから、まだ実行は難しいが。

兎に角、人手だ。だがそれも難しくなりつつある。マントラ軍が活力を失い始めている今。以前のような爆発的伸張は、望めなくなりつつある。ニヒロ機構も各地の拠点をがっちり固めてきており、とてもではないが簡単に落とせるような場所はない。どうにかして、千日手を打破したいのだが。しかし、下手に動くと、先に仕掛けた方が不利になる。

「続いて、天使軍の動向だ。 既に奴らの戦力は25000を越えたという報告がある」

どよめきが上がる。その中で、トールは冷静に事態を把握していた。どうやら天使共は、ニヒロ機構とマントラ軍の共倒れを狙っている節がある。そのために、牽制に最適な戦力を維持しているとしか思えない。

トールは立ち上がると、敬礼。

「ゴズテンノウ様、提案の許可を」

「いいだろう」

「ありがたき幸せ。 オルトロス、天使共は、恐らく各地に散っている友軍戦力を、必要に応じてかき集めて、見せかけの戦力を作っている。 もし奴らが本気で兵力を集めたらどれほどになるか、調査してもらえないか」

「わすに出来る範囲であれば。 今把握しているところだと、最低でも35000から38000というところだす。 でも、わすの知らないところにも、まだいることを考えると、もっと多いと思いますだ」

そうなると、むしろ今叩いておいた方が良いのかも知れない。しかし、敵の戦力が予想以上に大きい。判断は慎重にする必要があるだろう。まだ、判断するべき時ではないなと、トールは思った。

トールが着席したのを見計らい、ゴズテンノウが続ける。

「最後に一つ。 未確認情報だが、面白い報告が届いている。 シブヤに、人間が現れたそうだ」

「人間が。 ニヒロ機構にはいると噂を聞いていますが」

「それとは別の個体らしい。 オスとメスが一匹ずつで、ベルフェゴールが連れているそうだ」

ベルフェゴールと言えば、ニヒロ機構に所属していないと言うことで知られる、偏屈者の高位堕天使だ。

「人間は、今後必要になる可能性がある。 監視をして、必要とあれば捕らえよ」

「は。 しかし、人間は」

「俺が捕らえる。 心配するな」

不安げな毘沙門天に、トールが言う。基本的に、悪魔は人間に手出しが出来ない。それはボルテクス界の基本ルールの一つであり、カグツチの満ち欠けや、マガツヒのごとき、一般的な常識的情報だ。

だが、トールであれば。人間を多少乱暴に扱うことも出来る。

「オルトロスよ。 多少忙しくはなるが、その人間の動向にも注意を払え」

「分かりますた。 すぐに部下を派遣して、監視させますだ」

「うむ。 余からは以上だ」

ゴズテンノウが発言を打ち切ったので、後は順番にそれぞれの情報を提示していくことになった。やはり会議は紛糾した。カブキチョウへのマネカタ輸送計画は、トールからの派遣人員で、多少は増員出来ることが決まった。だが、毘沙門天はフッキに無能呼ばわりされ、青筋を額に浮かべていた。

会議は終わったが、やはり不完全燃焼感がある。

早く新たな戦略がまとまらないと、マントラ軍は空中分解するかも知れないなと、トールは思った。

 

5,現実

 

何時か来るとは分かりきっていたが、実際に直面するととても悲しいものである。

ついに、物資が尽きた。琴音達の共同体では、少し前から物資の不足が深刻化していた。住居である、元マンションを見上げながら、琴音は今後のことを考えていた。痛みすぎていて、何処を修復したものか、見当が着かない有様である。

カズコのマガツヒで、食料はカバーできる。悪魔達はマガツヒさえ食べていればいいからだ。カズコも砂や泥を食べていれば大丈夫らしくて、今まで食料に困った事はない。

しかし、生活用の物資となってくると、術では作り出せないものも多いのだ。衣服類はいい。皆がそれについてはこまらない。琴音にしてみれば、カズコに少しはお洒落をさせてあげたいが、本人は今の襤褸で苦を感じていないらしい。琴音は自分の服を術で作り出すことが出来るし、ケーニスやティルルは服など欲しがらない。フォンはずっと腰布一枚のままだ。

最大の問題は、衣服などではない。この間ユウラクチョウの会戦で、流れ弾によって住居が大きく破損した事である。戦いの直後はそれほど酷くなかったのだが、急速に風化が進んできたのである。どうやら、元々内部は痛んでいて、この間の戦いが契機になって顕在化してきたらしい。修復しようにも、建材を作り出せる術の持ち主は誰もおらず、作業は遅々として進まなかった。

限界ではないだろうかと、琴音は思う。人手が足りないのだ。琴音は力が付けばつくほどいろんな術を身につけてきているが、それも万能ではない。主に戦闘用の術ばかりであり、日常生活に使えるものは驚くほど少ないのだ。酒を造る術などはその一つだが。この事態の打開に、何の役に立つというのか。

この状況に立ち会うと、ニヒロ機構の思想が正しいのではないかと感じる。ニヒロ機構には、戦闘能力はないが様々なスキルを持つ悪魔が集まっていると聞く。どんな存在にも役割を与えるという思想が、その原因だ。でも、それは極端な管理社会でもある。

カグツチの輝きが強くなってきた。一端住処に入る。ティルルの傷はほぼ回復してきていて、最近はカズコを乗せて外の砂漠で遊んでいることが多くなってきた。今日は二人寄り添って眠っている。カズコは人間同様時々眠ることがあり、ティルルもそれに合わせるように睡眠の習慣が付いたようだ。

天井近くでケーニスが滞空していて、二人を見守っていた。触手の一本を、口があるらしい辺りに持ってきて、「しー」と音を立てられた。笑顔で頷くと、二人のすぐ脇に座る。今ではすっかりケーニスも皆に馴染んだ。無口で恥ずかしがり屋だが、とても優しい事が分かっている。琴音は皆と同様に、ケーニスが好きだ。

フォンが戻ってきた。無言で外に出るように促される。丁度話があったので、ケーニスも誘って外に出た。外ではクレガが待っていた。大きなそりに、四角い石材を幾つか乗せていた。いずれも白い石で、ニヒロ機構のシブヤ要塞から買ってきたものだと一目で分かる。

5トンはあるなと、琴音は見当を付けた。しかし、とても足りない。重要部分の補強さえ出来ない有様だ。カズコに頑張ってマガツヒを出して貰ったのに。二人の交渉がまずかった訳ではないだろう。単純に、物価が上昇していると言うことだ。

恐らく、余剰の石材が減ってきている。シブヤ要塞の建築が、ほぼ完成に近付いているからだろう。非常に厳格な管理態勢を敷いているニヒロ機構では、不要な生産は殆どしないのだ。

「すまん。 これしか、買えなかった」

「気にしないでください。 これだけでも、無いよりずっとましですから」

「なあ、クレガ。 丁度皆が揃ったところだから言うんだがな。 そろそろ、決断する時ではないのか」

フォンが言った。とても言いにくいことなのだが、琴音も同感だ。ケーニスは少し悲しそうだったが、反対の意思は示していない。

「此処を捨てよう」

「しかしだな、フォン。 ニヒロ機構に入っても、マントラ軍に行っても、戦争には参加させられるぞ」

「それは分かっている。 それに、どちらも俺達のような無駄飯食いには、待遇が厳しいだろうな」

「そんな事は、私が我慢します。 戦争にも出ますし、みんなの分も働きますから」

琴音の言葉に、クレガは首を横に振った。琴音には、異存がないのに。

琴音は、何も分からない時、良くしてくれたみんなが好きだ。だから、みんなが平和に暮らせるなら、多少痛い思いをしても、怖くても構わない。だが、みんなはそれを良しとしない。それが少し悲しかった。

「これ以上、お前さんに迷惑は掛けられんよ。 此処を捨てるとして、良い場所はあるのか」

「問題は其処だ。 色々聞いてきた所なんだが、イケブクロの周辺は今アカサカ虐殺で泡を食った難民が多数集まっていて、とても治安が悪くなっているらしい。 もともとマントラ軍は治安が最悪だが」

「もう少し、シブヤよりの場所で、良いところは無いでしょうか」

「行き来している途中に物色したが、シブヤの近くの廃墟には、大体誰かが住み着いているな。 もしそう言うところに住むとなると、激しい戦いが予想される」

結局、この世界は弱肉強食だ。此処は不便だが、それでも戦いは滅多に起こらなかった。今は違う。ユウラクチョウに強力なニヒロ機構の常備軍が駐屯している以上、いつ戦いに巻き込まれてもおかしくない。

結局、その日、結論は出なかった。

重篤な損害を受けている所の補強を、買ってきた石材で行った。フォンに手伝って貰って、痛んでいるコンクリを切り外し、其処に石材を埋め込む。もっとも危険な状態な場所の修復は何とか出来た。だが、それだけだった。後100トンは石材が欲しい。

工事の音がうるさいらしくて、カズコが起き出してきた。大あくびして、琴音に歩み寄ってくる。

「どうしたの? 工事?」

「ええ。 すぐに治るからね」

「嘘ばかり言わないで。 もう駄目なんでしょ、この建物」

カズコはそう言うと、歯がゆそうにしていた。カズコも、マガツヒをもっと出せればと思っているらしい。それで責任を感じている様子が、琴音には痛々しい。

結局、翌日。住処の東部分が大崩落を起こし、修復がとても出来ない状態に陥って。引っ越しをすることが、決まった。

絶望的な状態に、まだ打開の光は見えない。

 

痕跡さえも、残っていなかった。

秀一が足を踏み入れた乃木坂は、一面の砂漠だった。オアシスさえない。喉の渇きを覚えない体質になっている事は分かってはいたが、ぞっとしない。

何も、目印になるものが残っていないのだ。あの時、外は夕刻だった。和子とは学校の事をあまり話さないから、行動は分からない。友人達と、商店街に出ていたかも知れない。でも、それももう関係ない。何処にいようと、これでは。

どれだけ、唖然としていただろうか。ズボンの裾を掴まれる。それで、我に返った。

「ね、シューイチ。 気が済んだ?」

「……少し、放っておいてくれないか」

涙さえ出ない。何でだろう。もう、これを見れば明らかだ。家族は全滅。級友も全滅。フォルネウスの言葉からして、千晶と勇だけは生きているかも知れない。だが、それ以外は、生きている筈がない。核兵器が落ちても、これよりはましなのではないか。

淡い光が、側を通りかかった。

悪魔にさえなりきれなかった、思考の塊。サナの話では、思念体というそうだ。基本的に、決まった返事しかしてこないので、話し掛けても意味がない。空を見ると、禍々しいまでに強くカグツチが輝いていた。

このボルテクス界の事は、道すがらサナに聞いた。どうしてこうなったのかは分からない。分かっているのは。

東京は文字通り滅び、住んでいた人間は全て死んだという事だ。

家族の絆というものを、意識した事はない。ただ、苦難を共に乗り越えた事で、信頼関係はあると思っている。ただ、違和感はあった。周囲の学生達が、家族を大事にしている雰囲気を全く持っていなかった事は常に感じていた。仲の良い兄弟姉妹など聞いた事もなかったし、学生は、必ず否定的な意味で親の名前を口にしていた。反論する気も無かったから聞き流していたが、今になれば疑念も多い。

彼らと迎合する気はない。ただ、変だとだけ思っていた。

そして、今悲しいと思っている自分は、彼らから見て変なのだろうと思った。そう考えると、別に変でも構わないかと、結論が出た。

病院を出てから、ずっと焦燥を感じていた。サナに話は聞いたが、それでも信じられなかった。だが。この圧倒的な現実を前にして。何を言えば良いのか。どうすればいいのか。分からない。

どうしてか、感情が爆発するという事が無くなっている。それでも、これは痛烈だった。砂漠の中、歩き出す。脳髄がしびれて、何も考えられない。サナは無言で着いてきた。どうして着いてくるのか、よく分からない。

「何処へ行くつもり?」

「分からない。 まず、千晶と勇を捜さないといけないとは思うが。 多分全てを知っているだろう祐子先生の行方も知りたい」

「それなら、シブヤにいってみれば良いんじゃないのかな。 彼処は要塞化しているけれど、中には歓楽街もあるし、情報は集めやすいんじゃないの?」

さっき聞いた話だと、シブヤはニヒロ機構の拠点である。フォルネウスを叩き殺した身で、入って大丈夫なのか不安にはなったが。しかし、情報を本格的に収集できるのは大きい。ひょっとすると、逃げ延びた家族の情報もあるかも知れない。

そう、切り替えて考えている自分に、秀一自身が一番驚いていた。我ながら冷静すぎる。さっき絶望を味わった事が、嘘のようだ。

あの子供と老婆は、自分に一体何をしたのだろう。あの虫が、体中食い荒らしたことは覚えている。だが、その結果、心までもおかしくなったのか。精神までも、食い尽くされたのか。

力を得た。その代償は決して小さくないはずだ。これもその一つなのだろうか。今後はどんな代償が身を蝕むのだろうか。

恐怖を感じるが、それも一瞬のことでしかなかった。すぐに心が平坦になってしまう。何だか、神経が形状記憶合金にでもなったかのようであった。

「シブヤに行くなら、こっちだよ」

「すまない。 良くしてくれて、助かる」

「え? そんなつもりはないよ。 見た感じ、君かなり強いし。 食事をするには、都合が良いからさ。 これからもついてくからさ、せいぜい僕にご飯を食べさせてよね」

けらけらとサナが笑う。並んで、砂漠を歩き始めた。何だか、人間で言うヒモに近い存在なのだろうが。どうしてか不快感は感じない。必要な時にはきちんと助けてくれるからだろうか。それに、手数が多い方が、無駄な殺生はしなくてすむはずであった。

「確か、さっきの話だと、サナは妖精族だったな。 妖精は、ヨヨギ公園に集まっているのではなかったか。 いいのか、帰らないで、俺に着いてきて」

「あんな閉鎖的で排他的な所、冗談じゃないね。 この状況に対する危機感もなくて、それぞれ楽しく生きる事しか考えてない連中なんだから」

「嫌になって、出てきたのか?」

「そう言う事。 もう戻る気もないよ」

その時、気付く。そういえば、病院に聖を残したままだ。

迎えに行こうかと思いかけたが、やめる。もし何かあるようなら、今更向かっても間に合わない。携帯を見ると、既に数日が過ぎている。腹も減らないし、喉も渇かないので実感はないが。

携帯を開いたので、ついでにメールを見てみる。多分、こんな体になる前に、届いていたものだ。

和子からだった。家族共用でパソコンを使っているのだが、其処からだ。つまり、東京受胎が起こった時には、家にいた可能性が高い。今頃こんな事に気付くなんて。己の迂闊さに、秀一は苛立ちを覚えた。

同級生達と違って、和子は殆ど絵文字を使わない。非常に簡素な文章を使うことが多く、読みやすくて秀一は好きだ。メールには、母さんと一緒にケーキを作ったから、早く帰ってきてと書いてあった。

このメールは、大事に取っておこう。そう秀一は決めた。

 

(続)