融解覚醒

 

序,備え

 

激戦の末にカブキチョウを再制圧したマントラ軍は、ほとんど休む暇もなく、幹部を集めて会議を始める事となった。大変危険な情報が偵察部隊からもたらされたからである。突如空に出現した要塞。しかもその周囲には、万を超える白い翼の持ち主が展開しているというのだ。

カブキチョウにてテロを実施した謎の悪魔を撃退し、武勲を立てたトールも会議には参加する事になった。本当はもう少しカブキチョウにとどまって、水天の補助をしたかったのだが、状況が状況だから仕方がない。

トールは部下達には後から戻ってくるように指示を出し、鵬のかごに乗ってイケブクロに帰ってきた。リコもサルタヒコもアメノウズメも残してきたのは、防衛と復旧のために人員が幾らでも必要だからだ。特に水天の配下にいるナーガ達の実力不足が今回露呈したため、ある程度の訓練もしなければならない。リコはしばらく忙しくなるだろう。麾下の士官は皆カブキチョウに置いてきてしまったから、臨時に部隊を編成する必要も生じてくる。ただ、これは別に困らないだろう。マントラ軍に参入してくる悪魔は、それこそ幾らでもいるからだ。新しい部隊を編成するとでも思って、気楽に作業するつもりだ。

イケブクロが見えてきた。かって、人間だった頃には好きでも何でもなかった場所。東京という世界最大のインフラが整備された都市圏を構成していた一角。今では、力を至上とするマントラ軍の本営であり、トールの住処もある。そして、不思議な愛着がわき始めている場所でもある。雑然としていて、だが活力に溢れている此処が、何故か好きだ。

旋回していた鵬が、徐々に高度を落としていく。既に完成しているマントラ軍本営が、視界の隅をゆっくりと移動していく。

当然のことながら、イケブクロはいつも以上に騒然としていた。鵬は郊外に着地。そのまま待機を命じて、おもむろに本営に向かおうとするトールの前には慌ただしく鬼神達が現れた。

「トール様、お待ちしておりました」

「話は聞いている」

「は、恐れ入ります。 ゴズテンノウ様もお待ちですので、お疲れとは思いますが、お急ぎください」

わざわざ郊外に下りたのは、いきなりゴズテンノウに対面するのではなく、まず情報を集めようと思ったからだ。歩きながら、鬼神達に今の情報を聞く。辺りには殺気だっている悪魔が多く、中には何の落ち度もないマネカタを怒りにまかせて潰している者もいた。だれも弱者の哀れな末路には気も掛けない。

マネカタの生産数は増える一方で、その数はそろそろ八万に達しようかとしている。カブキチョウに配備されていた五千は三百にまで一時減ったが、今ではかっての数を回復している。それもこれも、地下でせっせと生産に励んでいるフッキとジョカの功績である。カブキチョウの復旧作業を考慮しても、労働力としてのマネカタには、そろそろ限界が来始めている。今後はマガツヒを生産するために、拷問に回される数が更に増えていくだろう。

ゆっくり歩くトールに歩調を合わせながら、鬼神の一人が説明を続ける。辺りをしきりに気にしているのが少し面白い。カブキチョウ襲撃で、セキュリティの甘さがようやく露呈し、皆意識を変えたと言う事だろう。もっとも、雑然とした力を強みにしているマントラ軍で、妙な意識変革があると、却って良くないのかも知れないが。

「天使どもの数は、既に20000に達しているという話です」

「それで、侵攻の動きは見せているのか」

「いえ、それが不思議な事に、全く見せていません。 ただ、近付いた偵察部隊が撃退されていまして、決して油断は出来ないかと」

「そうか。 引き続き警戒する必要があるだろうな」

無理もない話である。今まで、各地で跳梁跋扈していた天使共を、何度もマントラ軍は狩っている。恨みを抱かれる事さえあれ、親愛を求められるはずがない。だいたい、天使という存在の性質上、和平を結ぶ事は極めて難しい。

一般的なイメージと違い、神話に登場する天使は非常に好戦的で残虐な連中だ。神の敵とされた相手に対しては容赦のない殺戮を行うし、殆どの場合降伏も受け入れない。己を正義だと錯覚した人間は際限なく残虐になるが、それは天使という存在に集約されているとも言える。

もっとも、残虐という点では、マントラ軍やニヒロ機構も大差がない。トール自身も、敵から見れば残虐なる破壊と殺戮の魔神であろう。この世界は、心優しい存在ではない。油断すれば肉親にも喉を食いちぎられる、修羅の坩堝なのだ。

本営に着いた。入り口には毘沙門天が既にいた。ホールの脇にあるソファに腰を掛けて、わざわざトールの到着を待っていてくれていたらしい。毘沙門天は裏表のない奴で、話していて好感が持てる。物腰こそ紳士的だが、ある意味竹を割ったような性格だ。同じ武人でも、トールとは正反対である。

「トール殿、援軍が遅れて、申し訳ありません」

「いや、気にするな。 敵は撃退できたし、貴殿の部下達の働きによって、カブキチョウは一定の防御力を回復する事が出来た」

事実、後から到着した毘沙門天の本隊が、カブキチョウの修復計画の中枢を担った。マネカタのピストン輸送をしたのも、毘沙門天の部隊である。それに対し、トールは後始末をしただけ。ただ、トールが到着するのがもう少し遅れていたら、カブキチョウの戦力は全滅していただろう。

「お恥ずかしい話です。 私もトール殿ほどの行動力を身につけたいものです」

「俺よりも、マントラ軍には貴殿の重厚さが必要だろう。 俺はただ、前線で敵を砕く事しか出来ん」

実際には敵を砕く事にしか興味がないのだが、それは敢えて言わないでおく。それに、毘沙門天は、それを理解している気がした。

話しながら、エレベーターに乗る。後は、先ほどの鬼神から、続きの説明を受けた。敵の要塞は、最初空中に構築された後、徐々に地面に伸びているのだという。不可思議な構造である。何をしようとしているのだろうか。

「敵の組織構成などについては、何か分かっているのか」

「いえ、それはまだです。 何しろ天使達の中には、他の種族の紛れ込む余地がありません。 スパイを紛れ込ませるのも難しい状況でして」

「ニヒロ機構の堕天使共なら、容姿の近い奴もいる。 しかし、我らと連中は犬猿の仲だからな」

「既に、ニヒロ機構に紛れ込ませているスパイからの情報も整理を始めているのですが、なかなか難しい状況でして」

思ったより有能な対応だ。そういえば、最近新しい諜報部隊長が就任したと聞いている。名前は、何だったか。後で、一度顔を見ておく事にしようと、トールは思った。

ゴズテンノウのいる謁見の間に着いた。入る事を許されていない鬼神が、礼をしてトールを見送る。トールが最初に、毘沙門天が遅れて、謁見の間に足を踏み入れた。ゴズテンノウは、頬杖をついて報告を受けていた。報告をしている鬼神が、此方に気付き、慌ててゴズテンノウの前から退く。

跪く。鷹揚に頷くと、ゴズテンノウは言った。

「カブキチョウでの戦い、ご苦労であった。 トール将軍の武勲には、感服する次第である」

「非才の身には畏れ多いお言葉にございます」

多少格式張っているが、最近意識して使うようにしている。暗黙の了解で、皆が始めた事だ。

組織が大きくなり、ある程度の安定性が必要になってきた事もある。そのためには、ゴズテンノウに威厳が必要なのだ。どんどん成長して威厳を身につけてはいるゴズテンノウだが、配下達もそれを手助けする必要がある。まだ、時々新人の挑戦を受けているゴズテンノウは迷惑そうだが、それでも仕方がない。最近は合わせてくれるようになってきていたが、まだ少しぎこちない。

妙な話である。ある程度巨大化してくると、混沌を基幹とするマントラ軍でさえ、ある程度の秩序が必要になってくる。この世界の悪魔達は、人間の性質を多く持っている。だからこそに、世界がどれほど冷徹であっても、存在する組織はかってトールが知るものと似てくるのであろう。

他の幹部達も、続々と謁見の間に入ってきた。新参の者も多い。その中に、見慣れない奴が一人混じっていた。犬である。ケルベロスに似ているが、二回りほど小さい。此奴が新任の諜報部隊長だろうか。最後に入ってきた、準幹部級の鬼神が、大きな円卓を謁見の間に移す。此処は会議室を兼ねているので、時々こういう非効率な事を行わなければならないのだ。

ゴズテンノウに背を向ける事は出来ないので、最上席は向かって右側の、一番ゴズテンノウに近い場所になる。其処から反時計回りに、地位順に座っていく。末席に座った悪魔と目があったので、軽く目礼する。新任の諜報部隊長は、犬そのものの動作で頭を下げた。何だかつぶらな目をしていて、女子供に喜ばれそうな奴だと、トールは思った。テーブルに前足をのせて、尻尾をぱたぱた振っているので、なおさらだろう。

幹部は全員がいるわけではない。今回は状況から言っても、仕方が無いとも言える。水天を始めとして、防衛司令官をしている何体かが、欠席していた。

最初に発言したのは、当然のようにゴズテンノウであった。

「紹介しておこう。 末席がこのたび参入したオルトロスだ。 今後は新設した特務諜報部隊の長をする事になる」

「オルトロスですだ。 よろしくおねげえいたしますだど」

訛り丸出しの口調で、ぺこぺこと頭を下げる。尻尾も振る事を忘れない。何処のタレント犬だと、トールは内心でつぶやく。凄く不安になったが、短期間で実績を上げている以上、あまり侮る事も出来ない。それにしても、どういう経緯でマントラ軍に入ったのかが気になる。隣の毘沙門天が頬を赤らめていたので、咳払い。多分この犬は、この容姿と言動をも武器にして、的確に情報を集めているのだろう。これなら何処に紛れ込んでも、警戒されそうにないからだ。

ゴズテンノウが指を鳴らす。最初の頃はこれが下手で、気の抜けた音がしたのだが。今は練習の甲斐あってか、キレがあった。教えたのは持国天である。音楽にばかりうつつを抜かしている奴だが、妙なところで役に立つ。

鬼神達が入ってきて、皆に粗末な紙で作った書類を配る。報告書である。紙は術で作り出すにしても、印刷は無理だから、恐らくは手書き。鬼神達の努力が伺われる。

「今回の会議は、言うまでもなく突如出現した天使共と、対策に関するものである。 現在判明している情報は、その紙に書いてある。 何か新しい情報を持っているのなら、遠慮無く申し出るように」

「それでは、早速ですだが、新しい情報が入りましたで。 わすの部下達が集めてきた情報によると、天使達の戦力は21500から22000の間。 自分たちの要塞を、オベリスクとか名付けているそうだで」

「オベリスクか。 我らとニヒロ機構を伺う位置にあるのが面倒だな」

トールは腕組みをとくと、ゴズテンノウに向き直る。オルトロスは舌を出して体温の調節をしながら、発言を見守る。やはりこ奴は侮れない。多分この言動、全て計算尽くだろう。

「現在、カブキチョウの防衛戦力は充分ではありません。 守備部隊も再建途中で、何よりも施設が壊滅状態なのが痛い。 攻勢に出るにしても、まずこれを何とかしなければなりますまい」

「トール将軍の意見には聞くべき点がある。 それで、何か対策案があるのか」

しばしためらいが合ったが、挙手したのは毘沙門天であった。発言が許されると、生真面目なこの男は、至極常識的な意見を口にする。

「いっそのこと、カブキチョウは今までのような前線基地ではなく、防衛主体の要塞都市に切り替えた方が良いのではないでしょうか。 あくまで防衛だけを行う機能を構築し、攻撃を行う戦力はこのイケブクロに集約させる。 それでこそ、むしろ戦力の運用も上手くいくというものです」

「他に意見は」

「ええと、私もカブキチョウの様子は見てきました」

続いて発言したのはミズチである。トールが屈服させた、かってのカブキチョウの支配者だ。

「幾つかの建物は無事でしたので、要塞都市にするのなら、マネカタ共をこき使ってそれらを一つにまとめ、最終的にはマガツヒ採集施設に構成し直す事も出来るかと思います」

「なるほど。 そうなると、このイケブクロに次ぐ生産施設としても活用が可能だな」

「ええ。 残念な話ですが、もはやカブキチョウに都市機能は期待できませんので」

そういうミズチは残念そうだった。無理もない話である。元々の領土であるし、愛着もあったのだろう。トールは生憎土地に執着を持った事はごく最近までなかったのだが、今では他者がそういう感情を抱く事があるのは薄ぼんやりと理解できる。しばらく考え込んでいたゴズテンノウは、皆からの意見が止まるのを確認してから発言する。

「ふむ、機能を限定する事で、カブキチョウという拠点を生かす事が出来るか。 汝らの意見には、千金の価値があるな。 早速実行に移させよう。 フッキ、ジョカ。 マネカタの生産計画を建てよ。 毘沙門天は、輸送計画の立案だ。 短期間で、10000ほど送り込めるか」

「御意にございます」

「御意。 一度に千を輸送するとして、陸路だけでは不安ですので、空路も活用したく思います。 バイブ・カハの部隊もお貸しいただけますでしょうか」

「好きにせよ。 空輸の有効性は、この間の戦いでトール将軍が証明してくれたところであるしな」

基本的に、ゴズテンノウは非常に気前が良い。部隊を動かすためにも、マガツヒの蓄えを出す事をためらわない。この辺り、もう野盗の親玉ごときとは格が違っている。組織の長として、充分な貫禄を身につけ始めている。

カブキチョウでは、防衛部隊と、再編は権限を分ける事が決定される。忙しくなりすぎるからだ。防衛は水天が引き継ぐ事になり、再建計画はミズチが担当する事になった。ミズチは粘り強い仕事が得意なので、これは的確な人事である。もちろん、反対意見も出なかった。

後は、新規戦力の再編配分が決まる。今もマントラ軍の戦力は、順当にふくらみ続けていて、所属が曖昧な者がかなりいるのだ。ただ今回の増援の殆どはカブキチョウの防衛部隊の戦力に回される事となった。また、トールの要求通り、何体かの準幹部級の鬼神を部下に回して貰う。直属親衛部隊は規模が大きくなっており、そろそろ既存の幹部だけでは回しきれなくなっていたから、これは順当な処置である。

最後に、ニヒロ機構の動向が説明された。予想通りであったが、案の定ニヒロ機構も混乱しているようで、大規模な衝突があるとは思えなかった。トールとしては残念な話だ。ニヒロ機構にはなかなかの使い手が多く揃っている。連中を潰す瞬間を思うと、実に心が躍るというのに。

しばらく、戦いはないと思えた。少なくともこの時点では。

 

1,白い翼の要塞

 

見上げると、カグツチが輝いている。以前より、その光はずっと強いように思えた。六枚の純白の翼を持つ熾天使ミカエルは、今度は地面を見下す。砂漠に散る、幾つかの都市。それらに割拠するニヒロ機構とマントラ軍。どちらも、充分すぎるほどに成長している。

邪魔だ。そう思う。だからこそ、少し計画を早めて、姿を現す事にしたのだ。

不安定な足場だが、翼ある身としては、重力は考慮しなくて良い。無数の石材ブロックから構成される浮遊要塞、オベリスク頂上。ブロック状の石材には、カバラの秘伝が籠められた無数の文字が刻まれていて、強力な魔力を秘めている。これはアマラ経路に最終的に突き刺さり、いっきにマガツヒを吸い上げるための仕組みだ。

彼が頂点に立つ石造の要塞塔オベリスクは、順調に構築が進んでいる。これが完成すれば、一気に計画の完成に近付く事が出来る。コトワリを得るための仕組みに、いまだマントラ軍は気付いてもいない。ニヒロ機構は気付いている節があるが、いまだ表だっての行動には出ていない。

赤い鎧を着たミカエルは、手に燃えさかる剣を持っている。顔はいかめしく、髪は逆立ち、威厳よりも恐怖を対面する相手に与える。これは、ミカエルの存在性質上仕方がない事だ。

元々、何処の宗教でも、役割事に、神的存在は別れているものだ。悪魔に罰を加えるものは恐ろしげな顔をしているし、人間に慈愛をもたらす者は優しげな笑みを浮かべている。一神教の場合、それが天使という存在に置換されているだけで、本質的には多神教と変わりはない。

降魔調伏を仕事とするミカエルは、多神教で言えば戦闘神に相当する。もっと苛烈な存在であるカマエルやメタトロンに到っては、悪魔以上の残虐さを持っている。かって一神教を信仰していた人間が聞いたら憤慨するかも知れないが、その存在は悪魔と、属している陣営以外に違いはないのだ。

その陣営、すなわち天の国も、今は無い。神が死んだのかは分からないが、兎に角存在を感じる事が出来ない。だから天使達は、己の新たなる崇拝対象を求めて、各地に散っていた。

だが、最近堕天使共が新たなる長を得て組織を作り始めた事、邪神共が強力な勢力にまとまり始めた事もあり、天使達も動かざるを得なくなってきた。いまだ中枢となる存在は無い。だから、熾天使七騎が中心となり、天軍を編成、今拠点の構築に移ったのだ。しばらくは第三勢力として様子を見るつもりだが、ニヒロ機構やマントラ軍に隙が見えたら、躊躇無く攻撃を加えるつもりである。

それにしても、地上を見下すというのは、なんたる甘美なる感覚か。思わず笑みがこぼれてしまう。小首を傾げたのは、かって、同じような感覚を味わったような気がするからだ。だが、思い出す事は出来なかった。

「こんな所にいたのですか」

「何用かな、ガブリエル」

振り返ると、美しい女の天使がいた。手には百合の花がある。術にて作り出したものだ。このボルテクス界で、花など自生できない。

ガブリエル。ミカエルと同じく、天使の最高階位である熾天使の一騎。現在、天使達を束ねる七熾天使の一角にて、通称「七天委員会」の一人だ。物静かな女で、権力欲が無く、ミカエルとしては都合が良い。権力はミカエルが中心になって回していけばよいのだ。本当は七天委員会も邪魔だが、天使達をまとめ上げるためにはこれでなければ無理なのだから仕方がない。だからこそ、せめて直属の部下共はしっかり躾けるつもりである。部下共は忠実でありさえすればよい。

「マントラ軍が、防備を固め始めています。 ニヒロ機構も」

「それがどうかしたか」

此方は、空にあるという圧倒的なアドバンテージがある。マントラ軍の攻撃など恐るるに足りないし、ニヒロ機構だって堕天使中心とはいえ簡単には攻められない。虫けら共がはい回るのを、今は見守るだけで良い。そう会議では告げたのだが、ガブリエルは不安を隠せないようであった。

「貴方は、地上を這うと言っていますが、彼らは侮れません。 我々と同じように考えますし、努力して力を伸ばす事だって怠っていません。 何時かは、足下を掬われるのではないでしょうか」

「我ら神の加護を受けた天使が、か? あり得ない話だ」

「……そうだと、良いのですが」

高笑いするミカエルに、ガブリエルは眉を伏せた。いつもこの女はこうだ。不愉快きわまりない。

「それで、何用だ。 そんな話だけをしに来たのではあるまい」

「会議の時間です」

舌打ちすると、ミカエルはすぐに行くと伝えた。一番煩わしいのは、この天使軍が合議制になっている事だ。七天委員会は席次があるにもかかわらず名目上各天使の権限が同等となっており、ミカエルでさえ強引に意見を通す事は出来ない。

何故そうなるのか。聖書にあるからだ。熾天使は七名だと。

オベリスクは未完成な建物である。頂上部分に開いている大穴から内部に身を躍らせると、無数のブロックが浮かぶ異質な空間に出る。まずは、要塞としての防衛機能を完成させるようにと天使達に指示した事が徒となり、特に居住空間の不便さは筆舌に尽くしがたいものがある。

殆ど垂直に落下して、途中で六枚の翼を拡げる。落下速度が減退し、ゼロになる。白い羽毛が舞うが、すぐに消えていく。ミカエルの強力な魔力が具現化したものだ。術の媒介にする事も出来るが、蓄えたマガツヒには限界があるから、出来るだけ使わない。

舞う天使達が、それぞれに礼をして通り過ぎている。最下級のエンジェルは主に肉体労働で、力が強い者は術式によって、建造を進めている。下級、中級の天使達を束ねているドミニオンの一騎が飛び寄って来て、現在の進捗状況を説明した。聞き流す。細かい作業など、ガブリエルにでも任せておけばいいからだ。

会議室は中層に建造されており、高さは八十メートル、幅は二百メートルほどもある。これには理由がある。天使の中には、巨大なものがいるからだ。七熾天使の一人、破壊の権化メタトロンなどがその一人になる。

会議室の入り口に降り立つ。辺りのブロックはまばらで、翼がなければ行き来する事さえ出来ない。数トンある扉を、天使達にあけさせる。自分でも出来るが、面倒くさいし、何より権力を行使するのが快感だからだ。

鈍い音を立てて戸が開くと、既に中にはこの天使軍を統べる熾天使が集まっていた。

第二位の座に納まっているのはラファエル。髪の毛を立てている、目つきの鋭い男だ。冷徹な謀略家で、オベリスクの設計図を書き下ろしたのも此奴である。

隣に座っているのはウリエル。此方は落ち着いた風体であり、ごく冷静な雰囲気を湛えているが、それは見かけだけである。実際には非常に精神が不安定で、簡単な事で切れやすい。この間も粗相をした天使を一匹、反論の余地さえ与えずにミンチにした。

その隣に座っているのはメタトロンである。ラファエル、ウリエルがミカエルと同じく等身大なのに、此奴は背丈だけでも三十メートルもある。翼は八枚。全身はメタリックなコーティングで覆われており、非常に寡黙で不要な事は喋らない。というよりも、神の敵を滅ぼす事にしか興味のない男だ。戦闘狂と言う点ではマントラ軍のトールに似ているが、此奴の場合は、自分で相手を選ばないのが違っている。ある意味、天軍でもっとも狂信的な存在とも言える。敵を生きたまま串刺しにする事が好きで、真面目なガブリエルはそれを見て眉をひそめる事が多い。

メタトロンの隣に座っているのは。いや、正確には浮いているのは。熾天使ラグエルだ。巨大な目玉から、無数の触手が生えており、それらの先端全てに目が着いている。本体である目の周囲からは、細い筋状の翼が十六枚、放射状に生えている。此奴は天使達の統制をするのが仕事であり、同時に監視も司る。少しでも反抗の態度を見せた天使は、瞬時に灰にしてしまうだけの、強力な魔力も持っている。非常に陰険な性格で、同類嫌悪なのか、ミカエルとは仲が悪い。

その隣はラジエルである。人畜無害そうな男の子供の姿をしていて、手には巨大な望遠鏡を象った神具がある。此奴はラグエルとは逆に、敵性勢力の監視が仕事の中心である。多くの部下を悪魔やマネカタに化けさせて、地上の状態を探っており、誰よりも周辺の状況については詳しい。

彼らにガブリエルを加えたものが、ミカエルを頂点とする七熾天使である。そして、このメンバーが、同時に七天委員会でもある。

会議室の席はコの字型になっており、一番奥がミカエル。その右、左にナンバーツー、ナンバースリーの順に座る。向かって右側の席の、奥から順番に4、5。左側の席の、奥から順番に6、7。席次は絶対。だが、発言権限は同じ。

この歪さが、七天委員会の性質を示していた。また、戦闘能力にも偏りがある。最強の存在はメタトロンであり、ミカエルではない。それなのに、彼が主席ではないのは、そう聖書に書かれているからだ。メタトロンは聖書の事を絶対と考えているために、それに背く行動は絶対に取らない。ある意味、もっとも扱いやすく、扱いにくい存在でもある。

ミカエルは鷹揚に主席に着いた。議題を一つずつ吟味していく。会議中、私語は一切無い。というよりも、今は議論が起こるような、未解決要因が一つもないのである。強力な敵性勢力が二つもあるのに、ある意味暢気だとも言える状況だが。しかし強大な援軍を期待できる状況が、奇妙な余裕を作り出していた。各地に散っている天使達は、まだまだ幾らでもいるのだ。

最後に、ミカエルに意見が求められたので、その場で立ち上がる。

「当面は、当初の戦略を継続する。 マントラ軍とニヒロ機構を相争わせ、戦力を消耗させる事で、均衡状態を作り出す。 そして、我らに都合がよいコトワリの創造を成し得る人間が現れるのを待ち、傀儡化するべく動く」

「そう上手くいけばよいのだがな」

ラグエルから揶揄が飛んでくるが、無視する。いつもの事だし、いちいち腹を立てても仕方がないからだ。

しかし、どうしてだろう。ラグエルの揶揄は、どこかで聞いた事があるような気がするのだ。此処と同じくらい広い議場で、もっと頻繁に揶揄が飛び交い、くだらない議題を必死になって答弁していたような気がする。

思い出す事は出来ない。不快感が募る。

「兎に角、会議は終了です。 皆様、各自の任務にお戻りください」

「ちっ」

ラファエルがまとめにはいると、露骨に舌打ちして、ラグエルが会議場を最初に出て行った。メタトロンとウリエルが無言でそれに続き、とてとて歩いてラジエルが出て行く。ラファエルも会議場を去ると、急に静かになった。

同格の天使は嫌いだ。ミカエルは常にそう思う。自分の思うように操る事が出来ないからだ。ミカエルは権力が好きだ。何かを成し遂げるための手段としての権力ではない。周囲の存在を自由に操り、好き勝手に生命を奪ったり与えたり出来るからだ。命乞いする相手を蹂躙した時の感触は、何事にも代え難い。神を歓喜と共に湛える天使共を自由に操れる時の喜びと来たら。

やはり、思い出せない事が多い。一体何に勝る感覚であったか。

ガブリエルが、いつの間にかいなくなっていた。ミカエルは、議長席に一人で、ふと不安に陥った。孤独なのではないか。ひょっとすると、自分の周囲には、最初から誰一人存在しなかったのではないか。

外に出ると、不審そうに天使達が此方を見た。威厳を保ちながら、再びオベリスク塔の頂上へ。

見上げると、カグツチがある。そろそろ、輝きの臨界点である煌天が近付きつつある。地上の悪魔共も、さぞ凶暴に殺し合うのだろうなと、ミカエルはほくそ笑んだ。それを我々は、ただ静かに見守っていればいい。愚かなる悪魔共は互いに殺し合い、最終的に天軍の下地になれば良いのだ。

ラジエルの伝令をしている天使が一匹、近付いてきた。かなりの巨体で、ミカエルの倍ほども上背がある。

「ミカエル様、地上の監視班より伝令です」

「何用か」

「地上で、大規模な戦闘が始まった模様です。 ニヒロ機構の一部隊に、マントラ軍が攻撃を仕掛け、現在に至っています。 戦闘は泥沼化しており、沈静化する様子は見えません」

「ほう、吉報だな。 そのまま殺し合いを監視しろ。 出来るだけ多く、つぶし合ってくれると良いのだがな」

頭を下げると、天使は他の幹部に報告するためだろうか。姿を消した。

何事もなかったかのように、天使達はオベリスク塔の建造を続けている。服従心に富んだ、狂信的な者達。ある意味、蟻のような存在である。

ミカエルはそれらが働く様を、優越感と共に見下ろしていれば良かった。

 

2,ユウラクチョウの戦い

 

ユウラクチョウ近辺に展開しているスルトの配下の悪魔達が、オセには見えた。数は400から500という所か。地方の独立勢力にしてはかなり多い。ざっと見たところ、当初思っていたよりも侮りがたい戦力だと評価できる。

今回の作戦では、ブリュンヒルドの訓練により組織戦を身につけた部下達の実力を見る事が目的である。そのために監察官として、シブヤからもニュクスが来ている。そのほかには攻撃部隊として、フラウロスの部隊も参加している。軍の総指揮はオセが行い、副官としてブリュンヒルド。キウンとマダはギンザの守備として残り、ミトラも同じである。

参加戦力はおよそ6000と、ニヒロ機構が動員した戦力としては過去最大級のものだ。それなのに、いまだ本営には余裕がある。ニヒロ機構の戦力が如何に充実しつつあるか、良い証拠となっている。人材の活用にも余裕を持たせている。シブヤはしっかりロキとミジャグジ様が守りを固めていて、不安はない。スペクターが現れても、簡単には混乱させられる事もないだろう。

ユウラクチョウはあまり守りに適した都市ではなく、敵は総力で出てきている。軍の中には、高名なレーヴァテインを構えたスルトの姿もある。陣形は雑然としているが、それなりに強力な悪魔の姿が見える。前衛にいるのは、恐らくモトだろう。非常に強力な邪神であり、油断する事は出来ない。下級の悪魔では、束になっても勝てない相手だ。

既に、敵味方共に、いつでも戦える状況が整っている。整然とした凸字陣を組んでいるニヒロ機構軍に対し、ユウラクチョウ軍は縦深陣地を敷いている。数が少ないのに、なかなかに厚みがある陣は、敵の実力を伺わせる。

「オセ殿、攻撃を開始しますか」

「うむ。 問題は、モトとスルトだな」

「モトの相手は私が。 スルトは、オセ将軍が相手をお願いいたします」

真面目な様子でブリュンヒルドが言ったので、オセは頷いた。ブリュンヒルドは白い馬に跨っていて、手には鋭い槍がある。その視線は既に、敵前衛を指揮しているモトにしっかり向いていた。

酒が抜けると、こうも美しいものだったのかと、驚かされる。まだへべれけにとぐろを巻いていた頃の不快感が残ってはいるし、妙な好意にも警戒が隠せないのは事実だが、オセは何度も副官になったブリュンヒルドには驚かされた。この女の指導で、部下の悪魔達は組織戦を身につけ、今それをためそうとしている。そして、部下達を無駄に死なせないようにするのは、オセの仕事だ。

剣を、振り上げる。そして、一気に振り下ろした。

鬨の声が上がった。敵味方が、一斉に駆け出す。砂を蹴り、6000を越える軍勢が躍り掛かる。前衛にいるブリュンヒルドが槍を横に振ると、不意に空に浮き上がった堕天使達が、空中で横一線に並んだ。

無数の火球が、同時に放たれる。そして、雑然と術を飛ばしてきている敵の前衛部隊に、圧倒的な密度で着弾した。

敵陣から悲鳴が上がった。吹っ飛んだ悪魔が、高々と舞い上がり、空中でマガツヒに分解してしまう。第二斉射で、突出しようとした高位の敵悪魔が火だるまになる。更に槍を揃えて突撃したニヒロ機構軍の悪魔達が、雑然とした装備の敵部隊を一気に蹂躙した。おうとオセが声を漏らしたほどである。見事だ。実に巧みに、部隊が有機的に連携して活動している。燃えさかり、もがいている高位の悪魔を、オセは無造作に斬り捨てた。もっと苦労すると思っていた相手を、こうも簡単に屠る事が出来るとは。幸先が良い。

「おのれ! こざかしいまねを!」

咆吼。同時に空に浮き上がったのは、モトだ。何だか、声が妙に子供っぽいのは、気のせいだろうか。

モトはシリアのウガリットという古代都市で信仰されていた死の神である。性質はキリスト教の地獄そのものである堕天使アバドンや、インド神話での乾期を意味する巨大龍ヴリトラに酷似しており、豊穣の神バアルと敵対関係にある存在である。その体内は地獄であり、主神バアルでさえ乾期には勝つ事が出来ず、飲み込まれてしまうのである。これは乾期と雨期の移り変わりを神格化した存在であり、世界各地に類を見る事が出来る。

今、オセの眼前にいるモトは、巨大な棺桶そのものの姿をしていて、隙間から僅かに顔を覗かせている。もちろん、棺桶は強力な防御性能を持っていて、さっきから数百に達する火球を浴びながらも、びくともしない。

世の中には強豪が多いものだと、オセは感心する。馬を駆ったブリュンヒルドが、愛馬に鞭を一つ。砂を踏んで加速していた白馬が、砂丘を跳躍台にして一気に空へ舞い上がる。ヴァルキリーの乗騎だけあり、飛翔能力を持っていると言う訳だ。空を駆け、馬は更に加速していく。ブリュンヒルドは馬上にて、雄々しく名乗りを上げた。カグツチの光が、羽根飾りを付けた兜に反射して輝いた。

「我はニヒロ機構将官、バルキリーのブリュンヒルド! 死の神オセよ、いざ堂々と勝負!」

「ほう? これはすこしはてごたえがありそうなのがあらわれたか!」

加速したブリュンヒルドが槍を構え、チャージを浴びせる。激しい一撃だが、モトは僅かに揺れただけで、悠々と耐え抜いた。同じ死の神であっても、流石に格が違うか。だが、ブリュンヒルドは臆する様子もなく、即座に旋回、更に速度を上げて果敢に立ち向かっていく。モトもゆっくり回転しつつ、チャージを受け止めるべく備える。二度目の激突。痛烈な衝撃に、槍先から火花が散った。今度はブリュンヒルドがモトをはじき飛ばす。回転しながら、空中で態勢を立て直したモトは、棺桶をずらし、中からどす黒い手を伸ばした。本気で相手をするつもりになったのだろう。

何度か交差し、汗を飛ばして二騎は激しくぶつかり合う。棺桶の隙間から手を伸ばしたモトが、無数の光の塊を連続して放つ。詠唱が恐ろしく速い。更に、発生した光の弾は、それぞれがホーミングしながらブリュンヒルドを追い、至近で炸裂した。熾烈を極める迎撃を巧みな馬術でかいくぐりながら、再び強烈なチャージを浴びせるブリュンヒルド。だが、馬が保ちそうにない。モトが放つ光の弾が、何度も至近で炸裂する。そのたびに、白い馬体の各所に赤い華が咲く。

再びチャージを浴びせるブリュンヒルド。大きく吹っ飛んだモトが、今度は数十に達する光の弾を同時に発生させる。猛烈な対空砲火に、ブリュンヒルドの額に汗が浮かぶ。それでも、果敢な突撃を続けている。

必死に食いついてはいるが、ブリュンヒルドの不利は明白だ。モトの方が二段は実力が上だと、オセは見た。だが、ブリュンヒルドはそれでも全力で食らいついている。その奮闘を無駄にしてはならない。

オセは剣を振るい、全軍に突撃を命じた。上空に展開した堕天使達が火球の乱射を浴びせ、地上の悪魔部隊が槍を揃えて敵を駆逐していく。組織戦を仕込んだ部隊の戦闘能力は圧倒的だ。槍隊が下がると、今度は地上の術部隊が、水平射撃を浴びせた。盾を構えていた敵もいたが、高密度な火力になぎ払われる。態勢を立て直す前に、抜剣した攻撃隊が、一気に前線を蹴散らす。オセが仕込んだ剣術は、寄せ集めの敵兵を見る間に切り伏せるには充分だ。そしてすぐに抜剣隊が下がり、また槍隊が穂先を揃えて突入した。

波状攻撃で、士気が低い訳でもない敵軍を、ろくに犠牲も出さずに一気に追い込んでいく。剣を振り上げ吠えていたスルトが、ついにしびれをきらして前線に出てきた。それと併せて、オセも前線に飛び込む。フラウロスが指揮する特別攻撃部隊が、退路を断つべく戦場の後ろに回り込み始めた。それを阻止する戦力は、既に無い。必死の交戦を続けていた、ユウラクチョウ軍は潰走を始める。スルトが如何に炎の剣を振るって叱咤しても、もう止めようがなかった。

オセがその眼前に歩み出る。たった今、逃げ腰になっていた敵の主力の一人、冥界の番犬ガルムを斬り捨てたばかりで、剣は血に濡れている。ガルムは牛ほどもある犬であったが、逃げ腰の上、集中斉射で傷ついていた事もあり、簡単に仕留める事が出来た。

「おのれ、ニヒロ機構の飼い猫めが!」

「貴方がスルト殿ですな。 北欧神話における、滅びの巨神。 偉大なる戦士に、拝謁できて光栄です」

「ふん、礼儀は、わきまえているようだな」

多少冷静になったか、スルトは剣を構えなおした。

見上げるような巨体である。身長は六メートルほどもあり、この間交戦したトールよりも更に大きい。全身は赤銅色。白い髪は天に向けて逆立っており、口元には堂々とした髭がある。全身が強い魔力に覆われていて、周囲の空気が燃え上がっているため、体全体が炎に包まれているかのように見える。更に凄まじいのは、手にしている大剣レーヴァテイン。スルトの体ほどもあるサイズの巨剣である。全体が真っ赤であり、刀身からはスルトの体以上に激しい炎が燃えさかっているのだ。

まさに、炎の権化。生きた溶鉱炉のような存在である。噂には聞いていたが、凄まじい威圧感だ。

周囲は既に掃討戦に移行している。降伏勧告が始まっていて、剣を捨てる悪魔がかなり出ているようだ。スルトはそれを見て、ぎりぎりと歯を噛む。自分のために命を捨てようとする悪魔が、少ないからだろう。

「恩知らず共め……!」

「それは違うな、スルト殿」

「何だと?」

「このような過酷な世界だからこそ、命は惜しいのです。 そして、指導者には、皆の命を守る責任がある。 残念ながら、今の貴方は一敗地にまみれ、その責任を果たせてはいない。 部下達を詰る資格はありませんな」

スルトの雰囲気が変わった。流石に、今のオセの言葉は応えたのだろう。オセもそれに合わせて剣を構える。戦わなければ収まらないのは、最初から分かっていた。どんなに言葉を尽くしても、スルトは戦わずして剣を置きはしない。戦士であるこの男を屈服させるには、より強い力によってするしかないのだ。

北欧神話の登場人物は、古代のヒトが持っていた荒々しさを、色濃くその姿に残している。後の時代に作られた、行儀が良い神話の登場人物とは全くの別物である。欲求のために弱者を踏みにじるのは当たり前だし、奸計で敵を陥れるくらいの事は平気で行う。なぜなら、それが人間という生物の本来の姿だからだ。神話が作られた時代の、リアルな人間像が、其処にはある。

オセはそれを知っている。どんなに飾り立てても、人間は下劣で邪悪な生き物だ。悪魔と呼ばれる、堕天使であるオセでさえ、時に人間の持つ闇には怖気が走った。人間は悪魔以上に残虐で下劣な存在である。なぜなら、神話に登場する悪魔は、人間が考え出したものだからだ。考え出されたものである以上、本来の人間を越える邪悪さなど持ちようがないのである。

「戯れ言の対価は高く付くぞ、飼い猫!」

「良薬口に苦しと言います。 それに、時間がないのは此方も同じ。 上で戦っているブリュンヒルドに加勢してやらなければなりませんのでね」

じりじりと、間合いを計り合う。やはりスルトの間合いは途轍もなく巨大であり、下手に踏み込むと一撃で叩きつぶされる。だが、それでも。

オセは、今のスルトに負ける気がしなかった。

雄叫び一つ。大上段から、切り込んでくる。右に飛び退く。砂が盛大に舞い上がった。既に周囲の悪魔達は待避している。上級悪魔同士の戦いに巻き込まれれば、命はない。勝ち戦で、無駄に命を散らすのは、無意味な行動なのだ。

大上段に振り下ろした剣を、そのまま切り上げてくる。炎が砂を熱し、赤く染まった砂の粒が飛んでくる。跳躍。更に後ろに飛ぶ。一歩踏み込んだスルトが、今度は袈裟に振り下ろしてきた。此処で、始めて前に出る。右手の剣で軽くレーヴァテインの重みを受け流しながら、左手の剣で手首を狙う。そのまま、スルトの脇を駆け抜ける。

一瞬の硬直。

オセの右手の剣が、半ばからへし折れる。同時に、スルトの右手首が、盛大に鮮血を拭き上げた。短く悲鳴を漏らすスルト。詠唱して、剣を再生すると、更に速度を上げて斬りかかる。今度は守勢に回ったと見せかけ、スルトは振り向き様に豪快なスイングを叩き込んできた。この辺りの剛気は流石だ。

だが、それでもあのトールには及ばない。雄叫びを一つ。残像を残して、フルスイングされたレーヴァテインをかわす。そして、体が泳いだスルトに向け、正中線を切り裂くべく、剣を振り下ろした。

僅かに回避したスルトだが、それでも肩口から腰にかけて、深々切り裂く。更に加速。加速加速。飛び退き、踏みつぶそうとしてきたスルトの足を避け、臑にカウンターの一撃。飛んできたレーヴァテインをかわし、顔面に剣を突き込む。

「驕るな、飼い猫ッ!」

スルトはあろう事か、そのままオセの剣を噛み、砕いた。そして頭突きを叩き込んでくる。不意の一撃、かわしきれない。パワーの差は圧倒的で、砂に叩き込まれ、何度かバウンドして転がった。だが、寝ている暇はない。飛び起き、大上段から振り下ろされた剣を横っ飛びにかわす。口の中の血を吐き捨て、更に加速する。風の力を使って行う、オセの秘技だ。

砂が舞い上がる。走り、間合いを侵略する。レーヴァテインを振り下ろしてくる。最低限の回避。そして、地面に着弾する瞬間。その爆発力を逆利用して、跳躍。股ぐらから、腹にかけて、一気に切り裂いた。

「おおおおおっ!」

「がああっ!」

雄叫びが交錯。これだけ斬られても、スルトはまだ倒れない。流石だ。それに対し、オセはもう一撃でも入ると危ない。離れ際に、更に二度斬る。唸りを上げて飛んでくるレーヴァテイン。遅い。ジグザグに走りながら回避。敵の膝を蹴って跳躍し。高々と舞い上がる。顔を上げたスルトの首筋から背中にかけて切り裂く。僅かに、頸動脈は外した。

振り返り様に、スルトが当て身を浴びせてくる。鋼鉄のような肩だ。三度斬ったが、それでも勢いは止まらなかった。直撃。はじき飛ばされる。

砂丘に激突。三度、バウンドした。

頭がぐらぐらする。かなりこれは危ないかも知れないなと、オセは他人事のように思った。

「軽い! 確かに速いが、貴様の剣など、綿ほどにも感じぬわ!」

「くくっ、くくくくく」

笑いがこぼれる。立ち上がる。視界が霞むが、足に力が入らないが。それでも、オセは確信していた。

この戦いは、勝ちだ。

「何を笑っている。 傷が深すぎて、頭をやられたか!」

「それは貴方だ、スルト殿」

「な……に!?」

剣を振るって、衝撃波を放つ。怪訝そうにしているスルトの、傷に直撃。

それは、今まで皮一枚でかろうじて止まっていた傷を。拡大し。血管を盛大に傷つけた。

さっき、切り上げた時に付けた傷だ。分厚いスルトの皮を、あの時ついに撃ち抜いたのである。そしてそれは、ほんの僅かな切っ掛けで、破れるものだった。

「お、おあ、あああああっ!」

首筋を押さえ、スルトは絶叫した。オセは懐にある瓶を取り出し、蓋を開けた。中には、高密度に圧縮しているマガツヒが詰め込まれている。無造作に口に流し込む。傷はどうにもならないが、消耗した体力くらいは、これで回復する事が出来る。

「降伏して貰いましょうか。 貴方は、わがニヒロ機構に、必要な人材だ」

「ぐっ! うぐ、ぎいいっ!」

砂漠の上で悶え転がるスルトは、大量の鮮血を辺りにばらまいていた。鮮血はしばらく時間がたつと、マガツヒに変わってしまう。雑魚悪魔達が、恨めしそうに此方を見ていた。食べたいのであろう。

「どうやら、此方の手助けは必要なかったようだな。 流石だ」

「フラウロスか」

歩み寄る気配に顔を上げると、盟友が其処にいた。既にユウラクチョウは陥落させ、残る敵も残らず掃討するか降伏させたのだろう。ブリュンヒルドの方を見る。モトが放った五メートルほどもある光の槍が、百体以上の悪魔が展開した防御シールドを直撃、一気に半分以上の耐久力を削り取ったところだった。はじき飛ばされた悪魔も少なくない。今の一撃をブリュンヒルドはかろうじてかわしたが、もう息が上がっている。馬も息が乱れていて、滝のように汗を流しており、もう限界が近いだろう。オセはフラウロスに向けて、顎をしゃくった。

「あちらの助けを頼む」

「おう。 任せておけ」

フラウロスは首から大剣を抜くと、口笛を吹いた。すぐに空を舞う悪魔がやってくる。エイの姿をしたそれは、確かフォルネウスだったか。フォルネウスの背に乗り、戦場へ向かうフラウロスを見送ると、オセは剣を振るって血を落とし、スルトの側に歩み寄る。そして、傷口に剣を突きつけた。

「さあ、スルト殿。 答えを聞かせて貰おうか。 誇りに死ぬのも構わぬが、わがニヒロ機構にて、その腕を振るってみないか。 もし従うのであれば、責任をもって傷を治して差し上げよう。 ある程度のポストも約束する」

スルトはぎりぎりと歯を噛んでいたが、やがて静かにうなだれた。

正しい判断である。オセだけでも、スルトを打ち破ったのだ。このままニヒロ機構に抵抗し続けるのは無理だと考えるのはごく普通の事だ。

そして、スルトも死ぬのはやはり怖かったと言う事だ。勇者は無為な死を恐れる。無為に死を選ぶは、ただの狂人である。

見上げる。上空の戦況はどうなっているか。

空で単騎抵抗しているモトは、フラウロスの参戦で一気に劣勢に陥った。気力充分のフラウロスは、ブリュンヒルドの猛攻でそれなりに消耗していたモトの対空砲火をかいくぐり、見る間に地面へと叩きつけていた。派手に砂が舞い上がる。軟らかい砂漠だけに、今の一撃で十メートル近い直径のクレーターが出来ていた。

「大丈夫か、ブリュンヒルド」

「どうにか。 後数分もあれば、倒して見せたのですが」

肩で息をつきながら、ブリュンヒルドは言ってのける。白い鎧の彼方此方には、馬のものと、自身の血が飛び散っている。鎧の隙間から見える服は破れ、何カ所かで露出している白い肌は酷く傷ついていた。骨や内臓にもダメージが行っているかも知れない。それでも闘志を捨てなかったのだから、大したものだ。地上から見上げていたオセは感心した。フラウロスも賞賛の意を抱いたらしく、素直に言う。

「おう、オセが言っていたとおり、勇ましい女だな。 だが、命を無駄にするな。 貴様はモトを彼処まで追い詰めて、時間を稼いだ。 それで今は充分だ」

クレーターから、再び砂が吹き上がる。モトが怒りの雄叫びを上げながら、飛び出してきたのである。

だが、古代の死神は動きを止める。6000のニヒロ機構軍が、全て攻撃準備を終えている所を見たのだから、無理もない。万全の状態であれば、500くらいまでになら勝てたかも知れない。だが疲弊した今の状況で、この数を相手にすれば、即座にミンチになる。蒼白になったモトは、辺りを見回しながら、絶望の声を上げた。

「お、おのれ、おのれえっ!」

「指揮官が、周囲も見ず一騎打ちに熱中するからだ」

フラウロスが、フォルネウスを促し、剣を構えたまま、ゆっくり近付いていく。モト自慢の棺桶も、再三のブリュンヒルドの攻撃によって大きく傷ついていた。さらに、最後にフラウロスの浴びせた一撃は特に致命的であった。それによって棺桶の中央部に大きな亀裂が走っており、象徴的に書かれている目の模様が割れてしまっている。それと同時にモトの魔力も半減したようで、既に先ほどまでの威圧感がない。

部下達にスルトを拘束させると、オセも剣を振るって、モトへ歩み寄っていく。

「降伏せよ、モト殿! 命は保証するし、ある程度のポストも用意する!」

「ぼ、ぼくが、そんなものでばいしゅうされるとおもってるのか!」

眉をひそめたオセは、フラウロスに顎をしゃくる。フラウロスも即座に意図を察してくれた。なるほど。妙だとは思っていたが。そう言う事であったのか。

無言で剣を振るったフラウロスが、再び一撃をモトの棺桶に叩き込む。悲鳴が上がった。フラウロスの剛剣から漏れた魔力がスパークを放っている。此奴を説得するのは、オセよりもフラウロスの方が向いていると見た。だから任せたのだ。

フラウロスは目を光らせると、声にどすを効かせて、更に剣を棺桶に食い込ませる。

「ガキが。 あまり舐めた事言ってると、このままミンチにしちまうぞ。 ああん!?」

「ひっ! ひいいっ! ご、ご、ごめんなさああああい! うわあああん! ああああん!」

効果は抜群。化けの皮が剥がれたモトは、とうとう泣き出した。唖然とする周囲の悪魔。オセは嘆息すると、拘束するように周囲に命令した。

さっきの反応で分かった。どうしてかは分からないが、モトの精神は幼児退行を起こしてしまっている。ならば、利益での説得は無意味だ。恐怖によって躾けた方が遙かに速い。子供には、金貨よりも菓子が有効だ。同時に、言葉よりも鉄拳が有効な事が多い。オセは人間に紛れて日本で暮らしていた一時期、それを学んだのだ。

部隊をまとめて、ユウラクチョウに入る。城外での決戦で全てが片付いたから、街は完全に無傷だ。また、隣にあったナガタチョウは殆ど壊滅してしまっているのだが、象徴物である国会議事堂は無事である。作りのしっかりした建物だから、少し改造すれば、ニヒロ機構の第二の拠点として活用できるだろう。

少し周囲を歩き回り、抵抗の気配が無い事を確認。調査してみると、インフラもかなり丁寧に整備されていて、スルトが決して暴君ではなかった事が伺えた。それにしては悪魔達の対応は冷淡だったようにも思えるが、仕方のない事である。ボルテクス界では、そういう反応の方が普通なのだから。

スルト軍の司令部になっていた、有楽町マリオンに足を踏み入れる。14階建てのこの建物は、かって東京有楽町でシンボルとして威容を見せていた。だが残念ながら、東京受胎の際に、前面の半分ほどが崩壊してしまったのである。東京全体の地形が大きく変わったのだから、幸運にも半分で済んだと言うべきかも知れない。それを不器用に石材などで継ぎ足したために、かなり不格好な建物になっている。スルト好みらしい荒々しい作りだが、ちぐはぐな感じはぬぐえない。

防衛部隊がまだ少数残っていたが、圧倒的な戦力で押し寄せたニヒロ機構軍を見て、すぐに降伏した。彼らの意思を尊重し、スルトが座っていた王座はそのままに残しておく。それを見て、スルト軍の兵士達は、無言で頭を下げた。

自分たちは会議室に。疲れ果てた様子のブリュンヒルドとフラウロス、それに監察官のニュクスと一緒にはいる。パイプ椅子に座ると、ようやく安心できた。氷川司令につきあわされて会議室でパイプ椅子に座っている事が多いので、不思議と心が落ち着くのである。氷川司令は徹底していて、巨躯の悪魔にあわせたサイズのパイプ椅子を作らせたりもしているのだ。機能的でお気に入りなのだという。

隣では回復術を得意とする何体かの堕天使が、ブリュンヒルドを回復させていた。かなり傷は酷いらしく、しばらく回復には掛かるという。オセ自身の傷も浅くはないが、回復は後回しで良い。命の危険があるような悪魔から、先に回復するべきだからだ。

指を鳴らし、伝令将校を呼ぶ。そして、手紙を渡した。

「ユウラクチョウは制圧完了だ。 氷川司令に、守備部隊と、工兵を派遣するように連絡をしてくれ。 少し手を入れれば、要塞としてすぐに活用できる。 詳しい事は、これに書いてある」

「は。 氷川司令に手紙をお届けします」

「うむ。 それと、組織戦の滑り出しは上々だ。 此方の被害は、予想の十分の一程度で抑える事が出来たとも伝えてくれ」

会心の勝利と言っても良い。だが此処で油断すれば、勝利が台無しになる可能性も高い。急に現れた天使どもの事もあるし、マントラ軍も兵力を日夜増強しているのだ。一つの拠点を落としたくらいで浮かれていては、今後は苦労するだろう。

「オセ殿、貴方も回復してください」

「私は先に眠りたいな。 傷は大したことがないし、後でいい」

「ならば、俺が代わりに指揮をとっておく。 お前は寝てて良いぞ。 今回は最前線で苦労したしな」

「ああ、ありがたい」

眠るのは、オセにとってはストレス発散行動だ。人間にとっての飲酒に近い。楽しい戦いではあったが、色々とよく分からない事もあった。特に、ブリュンヒルドが自分のために命がけで時間稼ぎをしていたのが分かった所が、ストレスになっていた。

よく分からない。どういうつもりなのだか、理解できない。

かってモトが使っていた私室に入る。殺風景な部屋であり、東京時代に作られた幼児向けの玩具や絵本がたくさんあった。術が得意な士官を呼んで、ベットを作らせる。ごろんと横になると、かなり気持ちが良かった。尻尾をぱたぱた揺らしている内に、眠くなってくる。

今は睡眠を楽しむ事にしようと、オセは思った。

 

目を覚ましたのは、不穏な気配に気付いたからだ。以前ギンザに現れた、あの緑の悪魔か。いや、違う。

飛び起きて、外に出る。傷はあらかた治癒している。大量に取り込んだマガツヒが、傷の回復を促したのだ。だいたいカグツチの日齢が、二つ動いたくらいか。剣を手に、外に出る。案の定、慌ただしく悪魔達が動き回っていた。

「何があった!」

「あっ、オセ将軍! 実は、郊外にマントラ軍が現れました! 数はおよそ5000に達しています!」

「何だと!」

他の幹部達は、既に街の外に向かっているという。オセは声を張り上げた。

「うろたえるな! 点呼して、部隊の態勢を整えろ! 城外に布陣し、敵を迎え撃つ準備をする!」

「はっ!」

自身は、すぐに有楽町マリオンの外へ出た。カグツチはまぶしく輝き、悪魔としての本能が喚起される。心なしか、足が速くなる。周囲の悪魔達も、すぐに部隊として集まり始め、態勢を整えつつあった。

城外に飛び出す。砂漠に整然と布陣している敵は、報告通りかなりの大軍だ。シフトで警戒中だったブリュンヒルドの隊が中心となり、味方も陣を組みつつある。まずい。今総攻撃を受けると、かなりの苦戦は免れない。

「オセ殿!」

「ブリュンヒルド殿か。 何があった」

「分かりません。 不意にマントラ軍が現れて。 今まで二度ほど小規模の攻撃を受けましたが、どうにか押し返してはいます」

だが、損害も無視は出来ないようだ。ブリュンヒルド隊の被害は、かなり増え始めている。オセはそれを一瞥すると、フラウロスの隊を見た。そちらはだいたい陣を組み終えて、戦闘態勢を整えている。オセ隊も少しずつ兵力を整えつつあるから、今動けるのは4000という所か。

元々兵の質が高いマントラ軍を相手にするには、かなり心許ない。手をかざして、敵の司令官を確認。どうやらトールではない。それを確認できただけで、随分気が楽になった。この状況で敵がトールであったら、文字通り死を覚悟しなければならなかった。手強い敵である事に代わりはないが。

既に、マントラ軍幹部の手配書は行き渡っている。オセも全員の顔と名前を見るだけで一致させる事が出来る。

「敵司令官は広目天か。 副将は増長天らしいな」

「はい。 どちらもマントラ軍幹部の一柱で、かなり強力な鬼神だと聞いています」

「うむ。 だが、私の見たところ、トールよりはまだ戦いやすい相手だ」

陣構えを見ても分かる。どちらも常識的な司令官で、此方の出方をうかがいつつ、正攻法で戦おうとしている。荒々しい鬼神だが、比較的まともな性格だと言う事だ。あのトールは違う。ある程度戦力を分析したら、自分が先頭に立って爆発的な全面攻撃を仕掛けてくるだろう。奴と大規模な軍勢を率いてぶつかり合った事はないが、オセはその光景を今見たかのように思い描く事が出来た。

氷川司令の所に、すぐに援軍要請を飛ばす。マントラ軍も増援を繰り出してくる可能性があるが、別に構わない。この街を簡単には落とせない事、戦っても消耗するだけである事を、気付かせればそれでいい。

それに気付けば、まともな指揮官であれば、撤退を決意するはずだ。

歯ぎしりをする。それにしても、どうしてこんな所にマントラ軍が現れた。それだけが理解できない。

味方は続々と戦力を補強しつつある。あと千ほどが戦闘態勢を整えれば、互角に戦える自信がある。だが、敵はそれを待ってくれなかった。

動き出す敵部隊を見て、オセはすぐに指示を飛ばす。

「槍を揃えよ! 防御態勢を取れ! 堕天使隊、上空に展開! ブリュンヒルド殿、そちらの指揮を任せるぞ」

「は! 上空に……」

「敵航空部隊、多数接近! 空中と地上から、同時攻撃を仕掛けてくるつもりのようです!」

「ほう、電撃戦か」

第二次世界大戦で本格的に使用され始めた戦術の名前をつぶやくと、オセは味方を叱咤し、最前線に躍り出る。勝つ事は考えず、まずは敵を押し返す。上空の部隊の指揮を任せたブリュンヒルドが、愛馬に鞭をくれて走り出す。馬も傷が癒えきっていないだろうに、主君を篤く信頼しているのが、見て分かる。加速し、砂丘を蹴って舞い上がる。白い鎧の女戦士が、空に一つの軌跡を描いた。

「続けっ!」

「応っ!」

先頭に立ったブリュンヒルドに続いて、無数の堕天使達が翼を拡げ、空に舞い上がる。敵の航空隊はバイブ・カハを中心にしており、鵬と呼ばれる大型の悪魔も数機混じっている。航空部隊は、此方が有利に戦えるはずだ。

先頭に立ったブリュンヒルドは、さっそく無数に飛来する鳥の悪魔と戦い始めていた。戦闘の一匹を串刺しにしてたたき落とすと、雄叫びを上げて槍を繰り出し、二匹目を貫いて屠る。羽をまき散らしながら落ちていくバイブ・カハ。ふと、ブリュンヒルドの前に、鳥の悪魔が躍り出る。バイブ・カハより一回り小さいが、しかし威圧感は並のものではない。見かけは猛禽類そのもので、口には長い剣をくわえており、頭には鋭い羽根飾り。全身深紅だが、尻尾の方は若干紫に近い色彩になっている。

見覚えがある。確かあれは、アイルランド神話の軍神、マッハだ。マントラ軍に加入していたのか。

マッハは旋回すると、ブリュンヒルドの数倍に達する飛行速度で襲いかかる。戦女神は優れた反射神経を発揮して、盾をかざして突撃を防ぐも、馬体に鋭い傷が走った。堕天使部隊も、敵の大軍を前にして優勢を維持してはいるが、圧倒には到らず。むしろ数に押されてさえいた。

地上部隊は、更に状況が良くない。槍を揃えて躍り掛かる部隊を迎え撃ったのは、体格的に数倍にも達する鬼神達である。槍が退くと、抜刀隊が雄叫びを上げて躍り掛かるが、しかしほとんど真上から降ってくる巨大な剣や槍を相手にして、見る間に被害が増えていく。オセは二体、三体と鬼神を斬り伏せながら、声をからして叫び、味方を鼓舞する。しかし、前線の維持に必死だった。視界の隅で、翼を持たない味方の堕天使が、振り下ろされた巨大な鉈に叩きつぶされ、マガツヒと化してしまう。オセは鍛え上げた精鋭が倒されていく姿に、ぎりぎりと奥歯を噛んだ。

敵はそれぞれの個人が、かなり武力を磨き上げている。此方も組織戦を学んできたのと同じく、努力を重ねてきたという訳だ。トールを始めとする何体かが熱心に武術の指導をしている事は知っていたが、間近で成果を見せつけられるとぞっとしない。

前線に出てきた広目天が、オセを見つけて一騎打ちを挑んできた。唐風の鎧を着た巨人であり、トールと殆ど同じ四メートル前後の体躯を持っている。額には縦に裂けた大きな第三の目があり、体は赤い。三鈷戟と呼ばれる特殊な長柄武器を右手に持ち、対して左手には金具付きの縄をぶら下げている。堅実な指揮方針とは違い、個人としてはかなりトリッキーな戦い方をすると見た。

風を切る音と共に、縄が飛んでくる。まるで蛇のように動いて、かわしに掛かるオセを追撃してきた。剣で切り払うと、同時に戟で突きかかってくる。防ごうとした瞬間、稲妻のような前蹴りが飛んできた。ガードして飛び下がるが、威力は殺しきれず、半ば吹っ飛ぶ。多量の砂を巻き上げ、跳ね起きながらオセは舌打ちした。強い。万全の状態で、どうにか五分にやり合える相手だ。

互いに名乗りを上げ、今度はオセが攻めに出る。ジグザグにステップして、加速。蛇のようにうねる縄をかいくぐると、至近から斬り上げる。戟で剣の軌道を塞ぐ。激しい火花が散る。顔面に蹴りを二つ叩き込むと、飛び退く。真上から飛んできた戟が、オセの一瞬前までいた地点を激しく叩き伏せていた。

やはり、予想通りの実力。スルトと同等か、それ以上だ。舌なめずりすると、跳躍。二合、三合、刃をぶつけ合う。加速しようとした、その瞬間に戦いが終わった。

敵味方がどっと場になだれ込んできて、引きはがされる。広目天め、侮りがたい奴だと、オセは思った。忌々しい話だが、流石はマントラ軍である。指揮官にも、相当な実力者が揃っている。

数時間の戦いを経て、どうにか敵を押し返す。術を使う部隊が前衛に出て、さっと火球の群れを浴びせかける。だが巨躯の鬼神達には効果が薄い。敵は躍り出るようにして、煙を切り払って突撃してくる。再び槍を揃え、攻撃を受け止める。しかし、受け止めきれない。味方の被害が、どんどん増えていく。敵も次々に倒れる。だが、戦意は旺盛で、退こうとはしない。

何度か前線が破られる。そのたびに戦力を補強して、或いは自身が前線に出て立て直す。上空での戦闘はやや有利だが、完全に制空権を確保するには到らない。このままだと、消耗戦になる。まずいと、オセは思った。

激しい攻撃を、どうにか凌いだ時には。カグツチはとうに煌天を過ぎ。光が衰え始めていた。味方の陣を整え直す。200以上の損害を、僅かな時間で出していた。

態勢を整えた味方が、続々と陣に合流してきている。既に味方の数は、敵戦力を上回った。これ以降は互角の戦いが出来ると言いたいところだが、しかし。今までの攻撃で、負傷している者が多い。それに、此処で敵を大破しても、戦況に影響は殆ど無い。むしろ天使軍への備えがおろそかになりかねない。

何でこんなタイミングで、戦端を開いた。オセは敵を内心で罵っていた。どちらにも利益はないはずなのに。

一旦敵と離れたブリュンヒルドが、地上に降りてくる。補給部隊からマガツヒ入りの瓶を受け取り、一気に飲み下していた。額に汗が浮かんでいる。短い戦いだったが、兎に角恐ろしく速いマッハには、苦戦のさせられどうしであったらしい。馬体の傷も多い。馬から下りたブリュンヒルドは、敵の激しい攻撃に晒された相棒の頭を、しきりに撫でていた。勇敢な馬だが、しかしどうしても限界を超えては動けない。無理をすれば、どうしてもそれに相応しい報いを受けるものなのだ。

フラウロスが歩いて来る。元々攻撃用に訓練された部隊を指揮しているだけに、守勢に回っている今は、かなり苛立っているのが目に見えた。

「オセ、もっと積極的に戦わせろ。 守りに徹するのは、性にあわん」

「そういうな。 今は、出来るだけ被害を抑える事が必要だ。 敵はマントラ軍だけではない。 天使共もいる事を忘れるな」

「うむ、確かにそうなのだが」

「私もフラウロス将軍の意見に賛成です」

敵の返り血を浴びているブリュンヒルドが、生真面目な顔で言った。頭の毛をなでつけながら、オセは苛立ちを押さえ込む。とにかく、今は我慢の時だ。味方の被害を可能な限り減らし、戦闘を終結させる事を考えなければならない。声を荒げても仕方がない。出来るだけ冷静に、皆に攻勢に出る事の不合理を説く。

「此処で無為に兵を失うと、我がニヒロ機構の将来的な戦略に響く。 分からぬ貴様らでもないだろう」

「しかし、攻勢を得意とするマントラ軍を相手に、消極的な戦いをするのは」

「俺も同意見だ。 連中は、一旦勢いに乗ると厄介だぞ。 今は数も互角以上に持ち直している。 何とかやれるとおもうんだがな」

目を閉じて、腕組みする。二人とも幹部であり、オセの意見をごり押しするのは難しい。それに苦戦しているのは確かであるし、敵が攻勢に強いというのも、また事実である。だが、オセには自身の戦略的判断が正しいという自信もある。

監察官であるニュクスが歩いてきた。妖艶な美女は、話し合いが一段落したところで、割り込んでくる。

「オセ将軍。 一度攻勢に出て、敵に容易ならざる相手だと認識させた方が、結局被害は減るのではないでしょうか」

「うむ、皆の意見には一理あると、私も思う。 しかし、総攻撃は賭けに近い。 こんな勝利の価値も低い局地戦で、貴重な戦力を賭けに巻き込んで死なせる訳には行かない」

「オセ、あまり慎重に過ぎると、却って味方の士気を削ぐのではないか?」

「私も同意見です。 オセ殿、攻勢に出させてください」

妥協案に、フラウロスもブリュンヒルドも乗ってくる。確かに、折角組織戦を仕込んで鍛え上げた精鋭が、守りに徹して磨り潰されるのはあまりにも不快である。ついに、オセも折れた。

「分かった。 ただし、まず全員にマガツヒを配る。 思い切って、持ってきた補給物資の半分を供出する」

「半分だと!? それでは、長期戦は出来ないのではないか?」

「氷川司令を信じる。 あの方なら、状況を見て必ず補給物資も含めて援軍を送ってくださるはずだ」

総攻撃に出るのなら、半端な覚悟では兵力の逐次投入につながりかねない。大胆な総攻撃を一度仕掛けて、様子を見た方が良い。それがオセの結論である。

それに、ユウラクチョウをマントラ軍に落とされる事を考えれば、援軍を送るのは当たり前の事だ。持ってきたアマラ輪転炉は、まだ設置が済んでおらず、補給物資を自動供給するのは難しい。しかしながら、援軍が来れば、彼らに設置と警備を任せる事も出来る。

それに、マントラ軍もそれは同じだ。敵の援軍がより早い場合、戦況は更に不利になる。まだ数で上回っている今、ある程度の打撃を与えていた方が良いかも知れない。それに、被害が多いのは敵も同じなのだ。

敵陣をもう一度見る。敵将は、一体何を考えているのだろうか。陽動攻撃を行うには、リスクが大きすぎる。今のニヒロ機構は、40000を越える戦力を抱えており、防衛体制も整えている。ギンザもシブヤも、少々の攻撃ではびくともしない。それなのに、今何故攻撃を仕掛けてきた。

分からない。判断するには、情報が少なすぎる。兎に角、今は総攻撃に備える事だ。オセは皆にマガツヒを配るように、指示を飛ばした。

 

3,戦と、その余波

 

砂漠にぽつんと立ちつくす住処に戻った琴音とカズコを出迎えたのは、遠くを眺めやる不安げなクレガだった。理由を聞く前に、フォンが戻ってくる。やはり、一つ目には強い憂いが籠もっていた。

「また始めたようだ。 今度はニヒロ機構が押し込んでいる」

「始めたというと、ニヒロ機構と、マントラ軍の戦闘ですか?」

「そうだ」

それを聞くと、ケーニスは触手を縮め、目を閉じた。ティルルも頭を下げて、小さくうなり声を漏らす。クレガは大きく嘆息すると、頭を振る。

「大変な時に帰ってきたな、琴音」

「ええと、こほん。 情報を、整理しましょう」

咳払いすると、琴音は自分の持ち帰った情報を提示する。マントラ軍の規模。それに士気や、兵力配置。そして、続々と集まりつつあった天使達。マントラ軍と協力して、撃退した緑の不可思議な悪魔。

このボルテクス界は、混沌の地だと聞いていた。自分の目でも見た。其処に秩序が産まれようとしている。一つは暴力によって。一つは仕組みによって。それを為そうとしている。だが、それが殺戮と破壊の規模を更に大きくしている。何だろう、このパラドックスは。それに伴って、世界を覆う悪意も、大きくなる一方に思えた。

クレガもそれに併せて、情報をくれる。少し前に、まずニヒロ機構の大軍勢が現れた事。彼らは圧倒的な戦力でユウラクチョウを陥落させたが、しかし今は後から現れたマントラ軍に一進一退だと言う事。

不可解な話である。琴音の結論では、今両軍がぶつかり合う事はあり得ない。幾つか理由はあるが、その中で最たるものは現れた第三勢力に対する備えである。大規模な兵力移動は、つけ込まれる隙を与えるだけだ。加えてマントラ軍はカブキチョウの戦いで戦力を削がれており、なおさら外征しようという気は起こらないはずだ。

だが、現実には、戦争が起こっている。しかも、クレガの話を聞く分だと、双方併せて10000騎以上の戦力である。可能性として思いついたのは、ユウラクチョウがマントラ軍と同盟を結んでいることだ。しかし、琴音はそのような話など聞いていない。マントラ軍で集めた情報にも、そんな話は無かったはずなのだが。

「少し前に、マントラ軍の大部隊が此処を通りがかってな。 皆で息を殺して、お前さんを待っていたんだ」

「すみません。 肝心な時に、席を外していて」

「いや、それはいい。 マントラ軍の実情も分かったのだろう」

「はい。 ……今は、兎に角対策を練りましょう」

どちらも大軍である以上、周囲に戦闘が飛び火する可能性は大いにあり得る。今の内に、やっておくべき事は幾らでもある。

幸いに、クレガとフォンが主導して、逃げる準備は整えていてくれた。荷物の類は既にまとめてあり、逃走ルートも確認済みである。カズコはと言うと、まだ傷が癒えきっていないティルルを慰めながら、自分のマガツヒを友人の口に入れていた。ひょっとすると、この子は自分より強い相手にはふてぶてしく、弱っている者にはとても優しく接するのかも知れない。事例があまりないのでよく分からないが。それとも、単に気が強いだけなのだろうか。

空を、小さな影が横切っていった。マントラ軍のところで見たバイブ・カハだろうかと思ったが、違う。もっと小さな飛翔悪魔だ。多分この辺りに住んでいた奴が、巻き添えを恐れて逃げていくのだろう。この建物に逃げ込もうと思う奴が現れる可能性もある。最悪なのは、マントラ軍かニヒロ機構が、この建物を接収して拠点にしようと考えた場合だ。その時には、急いで逃げ出さないと危ない。

疲れているが、休んでいる暇など無い。幸いにも、魔力そのものは、そこそこ潤沢なのだ。

建物の外に出ると、結界を張る。結界と言っても、敵の大威力術攻撃を防ぐような大掛かりなものではない。何者かが侵入したら察知する類のものである。

印を切り、詠唱。ビルの周りを歩きながら、五芒星の頂点にて術を発動していく。そうこうしているうちに、カグツチの光が徐々に弱くなっていく。このまま、両方ともおとなしくなってくれればいいのだけれどと、琴音は思った。

早期警戒用の結界が完成する。額の汗を拭って、ビルに戻ろうとした、その瞬間だった。砂丘の影から、此方を覗いている影が、一瞬だけ見えた。

「誰ですか?」

問いに、影は応えない。

戦いの褒美だと言って、徳山先生がくれた刀に手を掛ける。所有の宝物の中でも、かなり良い品だというだけあり、素晴らしい切れ味の一品だ。もっと良い刀も持っているらしいのだが、琴音としてはこれで充分である。

空気がちりちりする。どう考えても、友好的な気配ではない。結界を折角張ったのに、無駄になったかも知れないと、琴音は思った。

「琴音、どうした!」

「何かいます! 気をつけて!」

クレガに応えて叫ぶのと、影が躍り出るのは同時だった。

 

オンギョウギは必死だった。

マントラ軍を放逐されてから、必死に生き残ろうと辺りをはい回ってきた。傷を癒すために弱い悪魔を見つけては襲い、殺してマガツヒを喰らった。どうしてだろう。随分それは手慣れていた。手慣れているはずなのに。地位も何もかも失い、一匹の獣に成り下がってしまったオンギョウギは、何もかもが信じられなくなっていた。

仲間はみんな死んでしまった。一緒に暴力の限りを尽くし、悪事を共有した仲間達だった。どうしてだろう。あいつらだけは、オンギョウギにとって信頼できる家族だった。何故なのかは、考えても分からない。

記憶の中から、沸き上がってくるものがある。断片的なものだ。姿が違うのに、そうだと分かるスイキやフウキ、キンキと一緒に、悪の限りを尽くした。弱者を痛めつけて金銭を奪い取り、殴って憂さ晴らしもした。殺した事さえあった。

何だろう、この感覚は。分からない。殺しなど散々してきたはずなのに。何故、殺したことに恐怖を感じているのだろうか。理解できなかった。それに、金銭とは何だろう。それも思い出す事が出来ない。

獣とかした自分を省みる暇もなく、辺りを彷徨きまわり。気がつくと、圧倒的なマントラ軍の戦力が砂漠を行軍しているの気付いた。悲鳴を上げて逃げ散る。その後ろ姿を見て、何かが笑っていた気がした。トール。そうだ、あいつだ。復讐心を感じる前に、恐怖を覚えてしまう。怖い。殺される。怖い。逃げなくてはいけない。砂漠で無様に転んで、それでも必死に這って逃げた。

気がつくと、廃ビルの側に来ていた。砂丘の影から伺うと、中に弱そうな悪魔が何匹かいる。あいつらを食えば、少しは腹が膨れるかも知れない。だが、一匹かなり強いのが混じっている。

舌打ちが漏れる。あの忌々しい戦いが無ければ、あんな奴。そう考えると、また身震いしてしまう。駄目だ。トールの事は考えるな。ただ、今は、敵を殺して食べる事だけを考えていればいい。

息を殺して、機会をうかがう。弱い獲物といっても、仕留めるのは簡単ではない。大丈夫だ。気付かれてはいない。ビルの裏に回り込もう。

そう考えた瞬間であった。

一番強いのが、ビルの外に出てくる。何か術を展開し始める。息を殺して、潜む。なんだ、どうして気付かれた。畜生。呪いの言葉が漏れた。さては誰かが裏切ったのか。俺を売ったのか。そう考えてから、もう側には誰もいない事を思い出す。

俺は、孤独だ。

それに気付いて、恐怖に絶叫しそうになった。

「誰ですか?」

女悪魔が声を発した。首をすくめた。気付かれた。完全にばれた。どうしてだ。どうしてなんだ。震える。小柄な女の形をした悪魔だ。あの糞忌々しいリコと同じ、人間型の女悪魔。奴は、他の奴に注意を促している。駄目だ。逃げなくては。いや、此処で逃げては、マントラ軍に密告される。そうなったら。

奴が、来る!

悲鳴を上げて、オンギョウギは立ち上がる。腰を低くして、剣を構える女悪魔に、躍り掛かった。嫌だ。怖い。トールは嫌だ。殺されたくない。死にたくない。食われたくない。みんなと、同じように。殺すくらいなら、殺してやる。そうだ、トールに密告される前に、殺してやる。

雄叫びを上げて、飛び掛かる。

敵が全て、トールに見えていた。違うと分かっているのに。だが、恐怖が、現実に妄想を上書きしていた。

 

奇声を上げて飛び掛かってきた大きな影に、琴音は跳び退きながら剣を振るった。当てるつもりはない。牽制のための一撃。敵も僅かに動きを止め、忌々しげに吠え猛った。全身真っ黒の、巨躯の悪魔だ。頭に角があり、体格的な特徴から言っても鬼神族だろうから、マントラ軍の構成員だろうか。それにしては、すこし様子がおかしい。

呼吸を整え、構えを取る。刀で切られても、致命傷になりにくい悪魔と戦う時、近代剣術の構えは無力だ。結局、対応しやすい無形を基本とする事になる。琴音は僅かに利き足を引いて、剣をぶら下げるようにして持つ。これによって、カウンターを入れやすくなるのだ。

クレガがフォンを呼びに戻る。それを横目に、鋭く繰り出された蹴りを、胸の前で腕をクロスしてガード。重い。しかし、避ける訳には行かない。今はこの悪魔の目を、自分に引きつけなければならないからだ。もう一撃、鳩尾に入る。急所はずらすが、胃液が逆流するかと思った。かなり動きは素人臭いが、身体能力は高い。その上、容赦も全くない。体格が極端に違う分、一撃の効きも違う。

数歩分下がる。今度は拳を固めて、殴りかかってきた。横目で確認。もう、クレガはビルに戻った。これ以上受けてやる義理はない。身を沈めて、飛んできた拳をかわしながら、剣を振るい上げる。

交錯した次の瞬間、黒い悪魔の脇腹からは鮮血が噴き出していた。身を捻って、悪魔は絶叫。凄まじい声に、琴音は眉をひそめた。それほど深い傷を付けてはいないのだが。剣を振るって、血を落とす。どす黒い血である。

「ぎぃあああああああああっ!」

「戦う気はありません。 退いてくれませんか?」

「う、うるせええっ! うるせえええええっ! こ、ころ、ころす、ころさ、れて、こ、殺す! 殺すんだあああああ!」

悪魔は、口の端から泡を吹いていた。瞳はもう焦点が定まらず、振り子のように揺れている。眉をひそめた。正気だとは思えない。恐ろしい戦いで錯乱してしまったのだろうか。だとしたら、可哀想な話だ。

ただ、可哀想だからと言って、殺されてやる訳にはいかない。琴音は聖人ではないし、死んだら守れないものもたくさんあるのだ。

動きこそ粗いが、それでも身体能力は高いし、一撃の重さは侮れない。今の琴音の技量では、油断できない相手だ。

殺すしか、無いかも知れない。だが、あの時徳山先生に聞かされた、この世界の真実。それを思い出すと、気が重い。ただでさえ、戦いは好きではないのだ。だが、殺さなければ殺されるこの世界の法則は、カブキチョウで嫌と言うほど思い知らされた。

間合いを詰めようとした瞬間だった。無数の火球が、唸りを上げて飛来する。それは琴音も、黒い悪魔も、差別せずに容赦なく巻き込んでいた。火力は弱いが、数が多い。吹き飛ばされながら、見る。ビルにも数発が着弾した。崩れ落ちたコンクリートが、砂漠に落ちて、派手に砂を噴き上げた。

受け身を取って転がって、威力を殺す。燃え上がった髪を掴んで、火を消した。火球が飛んできた方を見る。遙か遠くだ。超長距離から、狙撃して来たのだろうか。そんな事よりも、みんなだ。無事だろうか。

煙を突き破って、黒い悪魔が飛び出してきた。そのままつかみかかってくる。もう、何を言っているのか分からない。拳をかわすが、足を砂に取られる。右腕を上げてガードしたところに、まともに蹴りを叩き込まれた。受けきれない。はじき飛ばされて、砂に叩きつけられる。

そのままのしかかられて、首を絞められる。大きな手だ。このままだと、窒息どころか、首の骨をへし折られるだろう。膝で腹を蹴り上げる。巧く肝臓に入った。僅かに緩んだところに、近くに転がっていた刀を取って、突き刺した。肩に浅く刺さった刀は骨に滑って、有効打にはならなかった。もう一度。今度は脇腹に突き刺さり、鎖骨の間に入り込んだ。角度が浅いから、内臓を傷つけるには到らなかった。だが、派手に血が噴き出す。

絶叫した黒い悪魔が手を離し、その隙に顎を蹴り上げる。完全に入った。だが、勢い余って、刀が手から離れてしまった。黒い悪魔の体からも抜けて、回転しながら飛ぶ。それが砂漠に突き刺さると同時に、また火球が無数に飛来した。黒い悪魔に直撃。火だるまになる。ビルにも数発が着弾して、四階部分が綺麗に吹っ飛んだ。

爆風に揺れる髪をそのままに、振り向く。逃げて。叫ぶが、届いたか自信はない。咳き込んで、立ち上がろうとする所に、火だるまになったまま黒い悪魔がタックルを浴びせてきた。ガードが間に合わない。直撃が入る。手もなく吹っ飛ぶ。

意識が一瞬飛んだ。哄笑する黒い悪魔を見上げる形になった。ビルは彼方此方から火を吹き始めていて、はやく逃げないと危ない。砂を掴んで、立ち上がる。体に着いた火を払いながら、黒い悪魔は奇声を上げていた。挙げ句、砂を被る。まるで野良犬のようだ。

「ぎっ! ぎゃ! げえっ!」

印を組む。距離は充分。此処から、一気に仕留めてやる。ビルの中には、非戦闘員であるカズコや、ティルルも、それに戦いが嫌いなみんなもいる。追撃を受けたら、死者が出る可能性も高いのだ。

黒い悪魔が、此方を見た。まだ髪が燃えているのだが、気にしない様子だ。奥歯まで見えるほど口を大きく開けて、叫きながら躍り掛かってくる。詠唱。ぎりぎりまで、引きつける。

「エデンより逃れし者達へ、この力を渡し損ねた。 我は知恵と、炎を授けしもの。 だが、我は他にもあまた知る。 今、顕現しよう、この力を。 そして見よ。 神ならぬ身にて起こされる、黒き奇跡を」

直立不動。胸の前で、大きく音を立てて、合掌。既に両手には、淡い光が宿っていた。短時間の詠唱だが、威力は適切なはずだ。体中の力が吸い上げられていく。黒い悪魔が、手を伸ばして、掴もうとしてきているのが分かった。丁度いい。掴め。

右肩を掴まれた。同時に左手を前に繰り出し、黒い悪魔に掌を向ける。更に、右手で相手の腕を掴む。そして、術式を発動させる。

「凍える刃よ、敵を撃ち抜け! ブフダイン!」

両掌から出現する数メートルにも達する氷の槍二本が、激しい勢いと共に敵を押しのける。黒い悪魔が、絶叫と共に吹っ飛んだ。

 

砂漠に膝を突いた琴音は、大きく肩で息をつきながら、右手の中でマガツヒになっていく敵の肉片をぼんやり眺めやった。出現させたブフダインの氷塊は、すぐに溶けて消えていった。肩の肉を、少し抉られた。回復術を掛けても、跡は一生残るだろう。

視界が強制的に下へ移動させられる。粗く息が漏れた。だめだ。急に大きめの術を使うと、まだ根こそぎ力を持って行かれる。今の術は、詠唱を短めにしたから、更に消耗が激しかった。基本的に詠唱というものは、術の基本威力を上げて、負担を小さくするために行うものだ。あの黒い悪魔を仕留めて、なおかつ威力を保持するとなると、どうしても消耗が大きくなってしまう。幻影の術も消耗が大きいが、攻撃系のは更に酷い。

戦う度に、新しい術を思い出す。マガツヒを喰らった悪魔の知識もあるし、多分自分が元から覚えていたものもある。だが、その多くが使いこなせない。

黒い悪魔は、どうなっただろうか。傷が無い方の肩を叩かれる。振り向くと、クレガだった。みんなもいる。無事だ。

「大丈夫か? かなり貰っていたみたいだが」

応える余力もなく、ただ何度か力なく頷くだけだった。皆が無事である事を確認できたら、一気に力が抜けてしまった。肩を借りて、ビルへ向かう。足下がおぼつかない。崩れてはいるが、何とか無事だ。ケーニスが触手から放水して、火も消しつつあった。どうやら十発以上の火球を受けていたらしく、ビルの彼方此方が酷く抉れていた。

フォンが棍棒を構えたので振り向くと、黒い悪魔の姿が見えた。這いずるようにして逃げていく。右腕は肘から先を失っていた。さっきブフダインを浴びせた時に、引きちぎれたのである。飛ぶように逃げていくその姿を見て、ヒヨケムシという単語を思い出す。何だろう。やはり、分からない。

その辺に転がっていた黒い悪魔の手を拾い上げる。手首から乱暴に引きちぎられていて、骨が露出し、断続的に鮮血が噴き出していた。それも見る間に崩壊し、マガツヒになって散っていく。吸い込んで、飲み込む。倒したからには、食べておかないといけない。そうしないと力が得られない。だが、あの悪魔も。徳山先生の言葉が正しいとすると。

吐き気がこみ上げてきた。だが、我慢する。自分がやった事なのだ。相手を殺すつもりで術を放ったのも、腕を引きちぎったのも。それを受け止めなければならない。

ビルの中で、横になる。カズコが側に座って、マガツヒを分けてくれた。まだはっきりしない意識で赤い光の粒をつまんで口に入れる。クレガが覗き込んでいるのに気付いて、何気なしに言った。

「さっきの、攻撃は」

「さてな。 多分流れ弾だろうよ。 戦いが本格化しているんだろう」

一体、戦場でどれだけの命が奪われるのだろう。悲しくなった。流れ弾であの威力では、戦場はまさに地獄と言って良い状況になっている事だろう。

また轟音。ビルの近くに着弾したらしい。だが、確実に流れ弾の数は減りつつある。フォンが、刀を拾ってきてくれた。流石に徳山先生のくれた業物だ。刃こぼれ一つしていない。

刀身を見て、美しいと思った。だが、それは不誠実な事だ。これが美しいのは、究極までに洗練された殺し合いのための道具だからだ。しかし、それに救われたのも事実。名前くらい、意識しようかと思った。確かこれは、ニセモノが極めて多い事で有名な、虎徹の一刀。本物か偽物かは分からないが、非常に良く切れる事は確かだった。

ただ、耐久力にはやはり不安が残る。普段はあのフランベルジュを実戦投入するべきだなと、琴音は思った。

いつのまにか、戦いの事ばかり考えている事に気付いて、慄然とした。あれほどいやだったのに。どこかで、やはり自分は、戦いを望んでいるのだろうか。

頭に手を置かれる。カズコも、心配そうに見つめていた。

「何も考えなくて良いから、今は休め」

「はい、すみません」

目を閉じると、意識が落ちるまで、ほとんど時間は掛からなかった。

守りきる事は出来た。

だが、まだ弱いなと、琴音は思った。

 

4,膠着へ

 

トールが部下達と合流し、2000ほどの戦力を引き連れてユウラクチョウ郊外の戦場に到着した時には。既にカグツチは静天にさしかかっており、戦いも一段落していた。負傷している悪魔が多い。既に被害は400を超えていると言う事であった。特に、敵が態勢を立て直してから仕掛けてきた大攻勢では、二体の上級悪魔が討ち取られるなど、相当な被害を出す事になった。その攻勢の被害があったから、今膠着状態になっているとも言える。敵将が先頭に立っての猛敢な突撃であったという。防御戦に参加したかったものだと、トールは思った。

彼方此方からかき集められた増援を加えて、味方の戦力は10000に達している。敵も12000を超える戦力が集結しており、ユウラクチョウを背に堂々たる布陣を敷いていた。一見すると、総合力はほぼ互角。だがしかし。見た瞬間、簡単には崩せないと分かる。一度や二度勝っても、敵を追い払うのは不可能だ。ユウラクチョウを陥落させるには、更に大きな被害が予想される。

それにしても、堅実な防御陣だ。兵法にかなった、まことに天晴れな布陣。指揮官はあのオセだろうなと、トールはほくそ笑んだ。リコは手をかざして、しきりに敵陣を観察していた。まだ兵法を勉強中のリコは未熟だが、しかし一生懸命で、覚えも早い。しきりにメモをとっている同僚を一瞥すると、サルタヒコが言う。

「トール様、いかがいたしますか」

「まずは、状況の確認だ。 俺が前線に乗り込んだとしても、この敵戦力は簡単には崩せぬだろう。 それに」

それに、この状況はおかしい。そもそも、広目天が報告してきたところによると、ユウラクチョウのスルトが著しく味方の信頼を得ていないという情報を受けたのだという。それなら簡単に陥落させる事が出来る。そしてギンザに近いユウラクチョウを制圧すれば、ニヒロ機構の注意をそちらに大きく引きつける事も出来る。今後は戦略的な選択肢が増え、戦いが有利になるはずだったのだ。

それが、実際はどうだ。ユウラクチョウは既にニヒロ機構の手に落ち、そればかりか敵は全軍の三割にも達する兵力を動員してきている。ニヒロ機構も、このユウラクチョウを狙っている事を、トールは知っていた。しかしながら、これはどういう事か。

広目天が来た。後ろには増長天の姿もある。敵陣を見据えているトールに、広目天は深々と礼をした。

「これはこれは、トール様。 これで味方の勝利は約束されたも同然です」

「いや、ここは退くべきだな」

「な、何ですと!?」

「退くべきだと言っている。 見ろ、敵の有様を。 あの堅陣は、俺でも簡単には崩せぬわ。 それに、このままだと、敵も味方も戦力を無駄に消耗し、今後の戦略に大きな支障をきたす。 余力が残っている内に、退却するぞ」

蒼白になった広目天。無口な増長天は、後ろでじっとやりとりを見守っていた。着込んでいる唐風の鎧には、何カ所かに鋭い傷が走っていた。

「そもそも、だ。 最初にユウラクチョウの情報を得たのは、広目天。 貴様の部下であったな」

「は、はっ! 確かに私の配下ですが」

「そいつは何処にいる」

「それは、分かりません。 今もユウラクチョウに潜伏していると思われますが。 奴から情報を受け取った者なら、其処に」

頭を下げたのは、諜報部にいる小柄な鬼だった。トールはしばし恐縮するそいつを見つめると、おもむろに口を開く。

「罪には問わないから、安心して応えろ。 どういう状況で、情報を受け取った」

「は、はい。 それが、ユウラクチョウの側に来た時に、そ奴に会いまして。 ユウラクチョウの詳細な情報を受け取りました」

それは知っている。その情報の精密さが、ゴズテンノウを信用させ、攻撃を決意させたのだ。そして、遠目に見る限り、その情報は間違っていない。防衛施設の類は、報告書の通りだ。

「何か、おかしな所はなかったか」

「はあ。 そういえば。 元々無口な奴なのですが、少し挙動が変でした。 普段は何も頭には被らないのに、その日に限って兜を付けておりましたし」

「……なるほど、そう言う事か」

どうやら、まんまと一杯食わされたと、トールは悟る。

多分そいつは、何かしらの悪意ある他者により、思考を操作でもされていたのだろう。その悪意ある第三者が何かは分からないが、少なくともニヒロ機構の動きをも把握していたと言う事になる。そしてマントラ軍とニヒロ機構は、そいつの思うとおりに、壮絶なつぶし合いを演じてしまったという訳だ。

それを説明すると、広目天は更に青くなった。此奴は決して愚かではないのだが、しかし短絡的なところがあり、思考に柔軟性も欠く。視野が狭く柔軟性を欠くという点ではトールも同じだが、意図的にそうしている所が決定的に違う。広目天の場合は知識が基本的に足りない。確信犯的に選択肢を絞っているトールとは違い、経験が無くて、罠にはまりやすいのだ。

おろおろする広目天は、哀れだった。戦士としては決して劣る者ではないのに。総指揮官としては、決定的に力が足りない。一部隊を指揮するのが、せいぜいだろう。とても軍団の指揮などは任せられない。

蒼白になってうずくまっていた諜報員の鬼を下がらせる。此奴を罰しても意味がない。広目天は、すがりつくかのように、哀れな声であった。

「トール様、あ、あの、私はど、どうすれば」

「一度退くぞ。 それにしても、あの新しい諜報部隊長の下に、情報網を集約する必要がありそうだな」

「しかし、敵がこのまま退却を見逃すとは思えません」

「案ずるな。 俺が殿軍にたつ」

その言葉に、全軍が一気に奮い立った。トールの直属部隊に加えて、最精鋭が殿軍に選抜される。退却部隊の指揮を執るのは増長天。広目天は責任を取って、殿軍に残ると申し出た。トールとしても、拒否する理由はない。戦士としても、賞賛できる態度だ。自らのミスを、体を張って取り返そうという姿勢には、好感が持てる。ミスをリカバリー出来るのが、プロフェッショナルの条件だ。此奴は有能とは言い難いが、プロの端くれである事は間違いない。

全軍が引き始める。トールの連れてきた2000に、更に1000を加えた部隊が残留する。最後尾にトールが立つ。静天が終わり、徐々に明かりが強くなっていく。砂丘の影が長くなっていく中、ただトールは立つ尽くす。破壊という名の彫像は、微動だにせず、拳を振るう瞬間を待ち続ける。その影が、カグツチの活性化に併せて、少しずつ濃くなっていく。

敵軍に、動きは見えない。トールの姿を見て、臆するような者の集まりではない事は分かっている。敵もこれ以上の消耗は避けたいのだろう。こういう場合、敵の賢さが不愉快だ。

トールは戦いたいのだ。

わざわざ殿軍を引き受けたのも、それが理由なのである。オセあたりが先頭に立って追撃してくれば、面白い事になるものを。わざと隙を見せてやったが、乗ってこない。やはりオセ、侮りがたい奴だ。フラウロスはどうか。血の気の多いあっちの方ならば、戦いを挑んでくるかと思ったのだが。

しかし、待てどもどの陣も動かない。

戦いたいのに、どうやらその願いはかないそうもない。仕方がない。まだ機会は幾らでもある。このままだと、退却の機を逸する。

トールはきびすを返すと、退却を開始した殿軍の最後尾を歩き始める。振り返るような、無粋はしない。

ただ、少しばかり、拳が疼いた。

 

安全圏まで陣を下げると、後は全速力でイケブクロにまで撤退するべく指示。もはや追撃がないと判断すると、トールの行動は早かった。

彼方此方からかき集めてきた戦力は、イケブクロで解散させる事になる。主力は四天王寺から駆りだしてきた連中であるため、守りが心配だ。あの緑の悪魔に対する警戒は全軍に徹底しているが、兵力が減った分、守りが薄くなるのは仕方がないのである。

帰り道、様々な情報を吟味する。何カ所かに設置した補給地点により、物資を回収していく。術で作り出せるようなものはその場に放置したいところだが、ニヒロ機構の領地に、此方で製造した物資を残していくといろいろとまずい。技術レベルも判断されてしまうし、何より力を与える事になる。

領内に引き上げる。負けたときのことを考えて、マネカタを1000体ほど、国境線近くの緩衝地帯に待機させていた。軍がそこまで到着すると、マネカタ達は悲鳴を上げる。自分たちが何をされるか、分かっているからだろう。そいつらを見下ろしながら、トールは命令を待っている指揮官級の鬼神達に指示。

「安易に壊すな。 出来る限り生かして搾り取るだけ搾り取れ。 傷が深い者から順番に、マガツヒを分けてやれ」

「は。 しかし、負傷者など放っておけば良いのでは」

「負傷者の中には、お前よりも遙かに使える奴も珍しくない。 無能は許し難い罪だが、負傷はそうではない」

屈辱に青ざめる阿呆は掘っておいて、すぐに作業に掛からせる。見る間に彼方此方で風を切る音と共に鞭が振るわれ始め、哀れな悲鳴が上がった。気絶したマネカタに、術で作り出した汚水を被せて、更に鞭を振るう。ぱっと飛び散るマガツヒを拷問に当たっている鬼が器用につかみ取り、負傷が酷い者から順番に分けていく。砂漠に、マネカタの悲鳴が木霊した。

敵の攻勢に直面した際、増長天も負傷していた。フラウロスと一騎打ちになり、四ヵ所ほど斬られたのだ。致命的な傷ではないが、先にマガツヒを食べる権利はある。無言でマガツヒを口に運んでいる増長天を、恨めしそうに広目天が見つめていた。

サルタヒコが、総合的な損害をまとめてきた。死者449騎。負傷1911騎。航空部隊の被害が大きい。やはり堕天使を相手に、バイブ・カハや鵬だけでは厳しい。最近加入したマッハは航空部隊を率いて終始善戦していたが、ブリュンヒルドを撃墜は出来ず、そればかりか手傷も負っていた。もっと強力な飛行悪魔を複数味方に加えたいところである。防衛に当たっている青龍を始めとする、龍族を前線に投入するべきかも知れない。奴なら、堕天使共と互角以上の戦いを演じる事が出来るだろう。

力が余った鬼の拷問吏が、またマネカタを一人潰してしまった。気をつけろと叱責。幾らマネカタは大量生産できると言っても、一度に作れる数には限界がある。無駄に使い潰していたら、すぐにいなくなってしまうだろう。ただでさえ今後はマガツヒの供給源であるマネカタが大量に必要とされるのだ。

マッハが砂丘の頂点に座り、嘴で真っ赤な翼の手入れをしていた。マガツヒを運んできた鬼に、鋭い威嚇の声を上げている。遅いというのだろう。気性の荒いご婦人だ。或いは、ブリュンヒルドを仕留められなかった事に、怒りを覚えているのかも知れない。マッハは古い時代の女神だけあり、慈愛の存在などではなく、性質は極めて獰猛である。

本営の方から、バイブ・カハが飛んできた。伝令だろう。何か良くない事が起こったのだろうか。それともただの伝言か。しばし旋回していたが、トールを見つけて、下りてくる。負傷者はあらかたマガツヒを食べ終え、今度は健常者に行き渡り始めた。回復の術を使える悪魔達も、フル稼働して医療行動に当たっている。その中を、ひょこひょこと歩きながら、バイブ・カハは近付いてきた。鳥らしく、地面を歩くのは苦手なのだ。その上此処は砂漠。足を取られるから、なおさらである。

「トール様、ゴズテンノウ様のお言葉です。 口頭で伝えます」

「うむ」

「見事な撤退作戦であったそうだな。 軍は一旦イケブクロに収容し、毘沙門天に引き継げ。 後はしばし休むが良い」

「……承知しました。 と伝えよ」

ひょいとバイブ・カハを掴み上げると、空に投げ上げた。砂漠では加速が難しいから、離陸を手伝ってやったのだ。一声鳴くと、バイブ・カハは本営に飛び去っていく。内心舌打ちしていた。天使軍が攻めて来でもすれば、面白かったのに。

休息を切り上げ、イケブクロへ軍を向ける。最後尾を歩くトールの側に、リコが寄ってきた。

「トール様、何だか浮かない顔ッスね」

「そうだろうな」

「戦いは負けなかったし、トール様の失点になるような事は……」

「戦場では視野を広く持て」

リコは熱心に自分を鍛える事が出来るが、まだ視野が狭い。敢えて全体を理解した上で視野をわざと狭くする事により、トールは楽しい戦場に自らを置く事に成功している。逆に言えば、一戦士として立身するのにも、戦略の理解は重要なのだ。

「今回の戦いで、マントラ軍とニヒロ機構は本気でぶつかり合った。 結果、その実力は、伯仲している事がはっきりした。 今までは、我らマントラ軍が明らかに兵の質で上回っていたが、今後はそうも言っていられなくなる」

帰る途中に報告を受けていたし、自分で敵の布陣を見たから分かる。敵は高度な組織戦訓練を受けており、堅陣を組まれると上級悪魔でも容易には崩せない。つまり、それが何を意味するかというと。

「今後は、膠着状態になる。 互いに戦力を高め合いながら、隙をうかがう事になるだろうな。 戦いそのものは減る事になる。 もちろん、小勢力を吸収するような戦いはまだまだ続くだろう。 だが、大規模な激突で、雄敵と覇を競うような事はどんどん無くなっていく」

そして場合によっては、そのまま勢力が安定し、内部での政争が始まる。今までは明確な目的と敵がいたからまとまっていた組織は、内部で争い始めてしまう。何という忌々しい話だろうか。トールは吐き捨てて、リコは首をすくめた。

「俺は運がない」

折角、こんな理想の世界に来る事が出来たのに。結局また強敵と出会う事が出来なくなってしまうのか。もっと強い奴に出会いたい。戦うべき相手と、拳をかわしたい。

第三勢力とも言える天使軍が現れなければ、こんな事にはならなかっただろう。今回も、どちらかが滅びるまで血みどろの戦いが出来たはずなのだ。それなのに、後方を伺う忌々しい天使共のせいで、全ては台無しだ。しかし、天使共の住処は空にあり、軽々しく乗り込む事も出来ない。

イケブクロが見えてきた。浮かれる下級の兵士達。うつろな目でイケブクロを見る、傷だらけのマネカタ達。

今回の戦いを象徴しているような、無惨な光景であった。

うんざりしたトールは、戻ったら久しぶりに酒を飲もうと思った。あまり酒は好きではないのだが、鬱々とした時に少量だけたしなむ。多少の現実逃避もしたかった。だが、トールの憂鬱を追い打ちする事態が、イケブクロに辿り着いた彼を待っていた。

本営への緊急招集が掛かったのである。

何かが発生したのは、間違いがなかった。

 

ギンザのニヒロ機構本部に戻ったオセを待っていたのは、戦勝パーティでもなければ、叱責の言葉でもなかった。幹部の緊急収集命令である。

昼寝をする暇もないとはこのことだ。しかも、今回の会議には、シブヤの防衛部隊を任されているミジャグジ様を始めとして、最高幹部があらかた出動する、緊急性の高いものである。とりあえず、スルトとモトを捕縛部隊に任せたまま、オセはフラウロスとブリュンヒルドと共に、ニヒロ機構の地下へ向かう。ニュクスだけは、まだアマラ輪転炉が稼働していないユウラクチョウに残った。

途中、ロキと合流した。如何にアマラ経路を使った短時間の移動システムが幹部限定で動き始めているとはいえ、今シブヤには幹部がいないという状況である。どれほど緊急性の高い事態が発生したのか。会議が始まる前に、緊張してしまう。

罠だらけの地下通路を歩きながら、オセは傍らのロキに問う。道の脇では、煮立ったマグマが熱気を噴き上げていた。

「ロキ殿、何か聞いていないか」

「いや、俺は今来たばかりだ。 ただ」

「ただ、どうした」

「天使共の大部隊が、移動しているというのは偵察部隊に聞いた。 それが原因ではないのか」

嫌な予感がする。頷くと、地下通路を急ぐ。

地下最深部には、仮設置中のアマラ輪転炉があった。通路の脇に目立たないように配置されていて、取り外しも容易な形状だ。いざというときの、緊急待避用であろうか。見た感じ、まだ稼働には時間が必要そうである。元々高度な技術で作られた道具だ。調整には、専門の技術者が時間を掛けなければならない。今も現に、何体かの悪魔が側で作業をしていた。敬礼して、隣を通り過ぎる。

会議室の戸をノックして、中に。既に幹部達はあらかた集まっていた。シブヤでの防衛指揮を取っていたロキと、ユウラクチョウ攻撃部隊の司令官だったオセが最後だ。氷川司令は神経質そうに腕組みしていた。

「オセ、ただいま戻りました」

「うむ。 今は一刻が惜しい。 挨拶は良いから、すぐに着席してくれたまえ」

なるほど、かなり尋常ではない事態だ。オセがブリュンヒルドとフラウロスと共に、自分の席に着く。最後にロキが末席に座ると、部屋が暗くなる。プロジェクターに映像が映し出された。

どよめきが上がる。其処には、完膚無きまでに破壊された街並みが映し出されていたのである。元々どの勢力が抑えている街も荒廃はしているが、これはそのレベルが違う。原型が分からないまでに砕かれているのだ。ミトラがプロジェクターを操作しながら、深刻な表情で言う。

「これは、先ほど偵察部隊が持ち帰った映像です」

「何が起こったのだ」

「天使軍による攻撃です。 アカサカに割拠していた小勢力に対して加えられました」

「ああ、スルト軍と対立していた連中だな。 それにしても、これは一体。 皆殺しにされたとしか思えないが」

混沌たるこの状況、どんなに敵手に問題があっても、ある程度相手の戦力を取り込む事が重要である。もちろん戦闘では敵を殺す事になるが、味方の力を増やす事を考えて、ある程度は手心を加えなければならない。それなのに、これは一体どうした事か。

一神教は、多神教と相容れない存在である。それは分かっていた。だが、天使達の暴挙を見ると、それを改めて思い知らされる。正義を持った瞬間、残虐になれるのは、人間の特性だ。それを色濃く引き継いだ天使達の冷酷な行動に、オセは静かな怒りを感じた。

「生存者は、確認されていません。 此処を支配していた東南アジア系の魔族は、根こそぎ潰されています。 リーダーであった魔女ランダの行方も分かっていませんが、恐らくは……」

「天使共はどれくらいの数が攻撃に参加したか、分かるか?」

「偵察部隊の報告を総合するに、だいたい12000という所でしょう」

戦慄が走る。天使軍は全軍の半数以上を、機動戦力として活用できると言う事だ。認識が甘かったと言わざるを得ない。しかも全員が空を舞う事の出来る利点を最大限に生かし、ボルテクス界のあらゆる所に兵力を投入できる。これからは、更に強力な防御戦力を、各地の拠点に配備する必要が生じてくる。更に、対空防御戦術の訓練も重要性が増す。何度か演習を行って、全軍に周知しなければならない。

更に言えば、マントラ軍と交戦するにしても、天使軍を今まで以上に背後に意識しなければならなくなってくる。かといって、天使軍を攻撃するにしても、相手は空にいるのだ。ニヒロ機構は多くの堕天使を配下に有しているが、それでも容易に攻略は出来ない。非常に面倒な状況に、ボルテクス界は陥ったのだ。

「これは、まずいな」

「オセ殿?」

「ああ、ブリュンヒルド殿にも説明しておくか。 これで、完全に各勢力は硬直する事になる。 千日手だ。 とりあえず、至近の小勢力を膝下に納めていきながら、勢力の拡大を図るしかないが」

それでも、敵も同じ事をするのは目に見えている。今後も、打開策が得られるとはとても思えない。オセが言った言葉に、場は沈黙に包まれる。オセが口に出してみて、その深刻さが改めて理解できたのだろう。

柱に絡みついていたミジャグジ様が、氷川司令に一礼する。巨大な白蛇は、実はとてもお茶目な存在なのだと最近分かってきた。だがその愉快な老蛇も、今は目に緊張を湛えている。

「とりあえず、儂は一旦シブヤに戻りますぢゃ。 対空防御のプランを、練り直さなければなりませんでの」

「うむ。 ロキ将軍、フラウロス将軍も、すぐに戻りたまえ。 今後の戦略に関しては、おって指示する事になる。 シブヤでも加入した新兵を念入りに鍛えて、早めに実戦投入できるようにしておいてほしい」

「御意」

「分かりました。 オセ、俺はシブヤに戻る。 後は頼むぞ」

三人が席を立ち、急いでシブヤに戻る。後はユウラクチョウだ。現在6000ほどの戦力が駐留しているが、即刻増強する必要がある。

「ミトラ将軍。 ユウラクチョウの守備を任せる。 降伏したスルトとモトを君の配下に付けるが、使いこなせるか?」

「難しいですが、やってみます」

「うむ。 出来るだけ早く交代の人員を回すから、しばらくは持ちこたえて欲しい。 それと、上級指揮官の人材がいるな。 アカサカの無差別攻撃から逃れた者は、積極的に匿え。 ポストも優遇する事を伝えろ。 もし魔女ランダが生き残っているようならば、将軍の位を用意すると伝えて、すぐに引き込むのだ。 マントラ軍には先を越されないようにな」

今回、ユウラクチョウ攻撃でオセは武勲を立てた。今オセに次ぐと考えられているミトラに、勲功を稼ぐ機会を与えた氷川司令の采配は流石である。それに、もし魔女ランダが生き残っていたら、天使軍に対する憎悪を活用し、戦意の高い将軍として重宝する事になるだろう。

それにしても、だ。ミトラをユウラクチョウに派遣するとなると、此処の守りはマダだけでやる事になる。エリゴールやベリスと言った下級の将軍もいるが、彼らは任されている戦力からも、補助にしか使えない。その上、性格が雑なマダは、総司令官にはあまり向かない。オセが補助する必要がある。しばらくは人材の充実を図りながら、守りに徹する事になるだろう。

「氷川司令」

「何かね」

「今回の天使軍の暴挙を、全土に報道しましょう。 スパイ網を使えば、さほど難しくはないはずです。 そうすれば、小勢力の糾合がたやすくなるかと」

「確かにその通りだ。 しかし天使達の行動は、恐らく小勢力を我々かマントラ軍にまとめさせ、一気に叩く事にあるのだろう。 それを考えると、ぞっとしないな。 まだ、静寂は遠いか」

今、このボルテクス界の三勢力は、いずれも相容れない存在である。同盟を組む可能性は皆無であるし、余程の事がない限り、一方的な勝利は訪れようがない。だから、やっておいた方が良い、程度の提案でしかない。

それに、ニヒロ機構の最終的な目的は、ボルテクス界の制圧ではない。天使軍はどうかは分からないが、マントラ軍とは違うのだ。

後は、如何に効率よくマガツヒを集めるかだが、これも敵に先んじるのは難しいのが現状だ。アマラ輪転炉を使ってマガツヒを集めるのにも、限界がどうしてもある。天使軍は分からないが、マントラ軍もマネカタから搾り取る形で、効率よくマガツヒを得ている。圧倒的にそれを凌駕するのは、今の時点では不可能だ。

会議室から出て、自宅へ戻る。途中何度か罠を踏みそうになり、キウンに心配された。そういえば、誰かしらスパイがいる可能性もあるのだった。それについても警戒しなければならない。

皮肉な事に、今後は時間があまる事だろう。じっくり情報を吟味して、割り出していけばいい。

トールほどではないが、オセも戦いは好きだ。

しかし、こんな風な戦いには、魅力は感じない。何だか、疲れが全身を蝕むのを感じた。

 

5,覚醒

 

最初に異変に気付いたのは、たまたまシンジュク衛生病院の側を通りかかった、ベルフェゴールだった。興味を抱いたベルフェゴールは、飛行するのを止め、翼をすぼめて地上に降りる。軟らかく着地。何処までも広がる砂漠に、一点の変化が訪れる。

砂漠を踏むのは久しぶりだ。黒いさらさらした髪を掻き上げて、近付く。氷が溶けた病院は、異様な気配を発している。身震いした。途轍もなく巨大な気配の、一端を感じたからだ。何か、とんでもないものが、此処にはいた。それがベルフェゴールには理解できた。

もう少し、近付いてみる。膝まである髪を揺らしながら、音もなく距離を詰める。側頭部から生えているねじくれた三対の角がかゆくて、何度か掻いた。

ベルフェゴールは何処の組織にも所属していない上級悪魔である。浅黒い肌の、人間の女の姿をしていて、如何にも古代人に好かれそうな豊満な肉体の持ち主である。背中には黒い翼があり、蝙蝠のものと形状が似ている。顔は卵形で、非常に造型が整っており、睫毛は長い。あまりにも綺麗すぎるので、現実感がないほどだ。ベルフェゴール自身も、自分の姿には、あまり愛着がない。

豊満な肉体の女悪魔は、露出度が高い格好をしている者が多い。これは見せびらかす事に、無闇に扇情的な肉体の存在意義があるからだ。しかしベルフェゴールは分厚いロングコートを着込んでおり、首から上以外の肌を一切外気に露出させていない。翼でさえ、術によって具現化させているため、背中は一切見えない。指先でさえ革手袋でガードし、下半身はロングスカートにハイソックスでガードしている。ボディラインでさえ、見せないようにしているほどなのだ。

キリスト教の堕天使であるベルフェゴールは、例に漏れず他の宗教の神が侮辱され、堕落させられた存在である。元はイスラエルの隣接地域の主要信仰神であり、キリスト教では七大悪魔の一角とされる。悪魔としては、いわゆる七つの大罪の一つである怠惰を司る。また、人間の結婚生活を監視する悪魔でもある。

それが理由か、ベルフェゴールは男という存在が大嫌いである。そして、女はもっと嫌いだ。だから体を隙無く隠している。一見矛盾しているように見えるし、自身でもそう思う。だが、何故か考えを変えようとは思わなかった。特に恋愛とか結婚とかは怖気が走るほど嫌いであり、このボルテクス界はそういうものが殆ど無いので、実に気楽である。

側で、シンジュク衛生病院を見上げる。東京受胎による破壊の被害を全く受けていないため、砂漠の中で異質に浮いている建物である。しばらく足を止めていた通りすがりの下級堕天使が、慌てて飛び去っていく。この様子では、病院の氷が溶けた事は、すぐにニヒロ機構に伝わるだろう。伝わったところで、どうなるとも思えないが。

しばらく考え込んでいたベルフェゴールは、近付いてくる気配に気付いた。空を泳いでくるのは、深青色のエイに似た悪魔。堕天使フォルネウスであった。サイズは最大級のマンタほどもある。それが実に巧みに空を泳ぐのだから面白い。

フォルネウスはイスラエルのソロモン王が従えたと言われる、七十二体の悪魔の一人である。今はニヒロ機構で下っ端として働いている筈で、何度か顔を合わせた事がある。ひらひらと泳いできたフォルネウスは、既知の存在であるベルフェゴールを目ざとく見つけると、話しかけてきた。眉をひそめたのは、苦手な相手だからだ。

「おおー。 おお、おう。 ええと、誰じゃったかのー」

「ベルフェゴールよ、フォルネウス」

「おお、そうじゃった。 ベルフェゴール。 はて、それは誰じゃったかのー」

「……で、何をしに来たのあんたは」

フォルネウスは半分呆けかけてしまっている、気の毒な老悪魔である。同じ老悪魔であっても、頭も体もしっかりしているミジャグジ様とは随分違う。根は良い奴だし、戦士としての実力も低くはない。フラウロスを乗せて対空戦闘を行う事があり、その評価が高い事がよく分かる。だが、話していると少し疲れるのが玉に瑕だ。

たっぷり数分も考えてから、フォルネウスは牙だらけの口を開けてからからと笑った。被っている冠も、それに併せて愉快に揺れる。

「おお、そうじゃったそうじゃったー。 フラウロス様に言われてのう、この病院を見張れということじゃったー」

「ふうん、フラウロスがね。 あの猪武者が、そんな事を部下にさせるなんてねえ」

「ところでばあさんやー、晩ご飯はまだじゃったかのー。 それと、なんだか若返ったかのー?」

「あー、私はあなたの「ばあさん」じゃなくて、ベルフェゴールだってば。 それに、見た感じ、あなたマガツヒ食べたばかりでしょう」

「そうじゃったかいのー。 ばあさんやー、それよりわしは、何をしにきたんじゃったかのー」

格下の悪魔と接しているのに、気疲れして仕方がない。病院に用事があるのじゃないのかと言って、さっさと会話を切り上げる。仕事を思い出したフォルネウスは、体を波打たせながら空を泳いで、シンジュク衛生病院に入っていった。入る時に巨体が災いして、入り口を少し壊してしまったのが残念だ。折角無事な建物だったのに。もったいない事である。

「さて、お手並み拝見といこうかしら」

さっと飛び退くと、翼を拡げてベルフェゴールは舞い上がる。風に自分の体をのせて、距離を取る。

ベルフェゴールが退いたのは、他でもない。先ほど感じた危険の正体を、フォルネウスをダシにする事で知りたいと考えたからだ。善良で純真なフォルネウスを盾にするのには正直罪悪感もあるのだが、自分が傷つくよりは遙かにマシだ。この世界では、お人好しは存在するだけで損をする。

少し辺りを飛び回り、砂に埋もれた小さなビルを見つける。傾いてしまっていて、コンクリートはひび割れているが、止まり木には丁度いい。拉げているフェンスの上に着地。見事なバランス感覚で、立ちつくし、様子を見守った。

カグツチの日齢が三つほど動いた頃だっただろうか。角がかゆくて掻いていたベルフェゴールは、ぴたりと手を止めた。病院から、何か出てきたのだ。

マネカタか。いや、違う。

ふわりと軟らかくフェンスを蹴り、翼を拡げる。病院から走り出て来たのは、二人。あれは、そうだ。間違いない。人間だ。砂漠を駆けてくる。気配も消せていない。人間でなければ、瞬く間に強力な悪魔の餌食になってしまうような無防備さだ。

至近に着地する。悲鳴が上がった。

人間は、男女がそれぞれ一匹ずつ。悲鳴を上げたのは、男の方だ。ハンチング帽を被っていて、やたらと臆病そうである。身なりは小綺麗だが、実用に適するとはとても思えない耐久度が低そうなものばかりだ。一方女の方は、氷のような目をしていた。長い茶色の髪はよく手入れされていて、指先の爪は長い。お洒落な格好だが、足下のブーツには鉛が仕込んであるらしく、動きにも喧嘩慣れしている様子がにじみ出ていた。服も頑丈なものを厳選して着ている。多分かなりの修羅場をくぐった事があるのだろう。着ているジャケットの内ポケットにも、武器らしい小さな機械が入っているのを、ベルフェゴールは透視した。

しばし、八歩ほどの距離を置いてにらみ合う。人間の女は冷然と此方を観察している。ベルフェゴールはおもしろがって、その様子を見ていた。男は砂漠に尻餅をついて、がたがた震えるばかりで、完全に女に主導権を握られている。

「勇君、しっかりしなさい」

「だ、だってよお、千晶ぃ! そ、そいつ、は、羽が、角が生えてるじゃねえか! 化け物、さっきみたいな化け物だろっ!? また、俺を囮に逃げるつもりかよ!? 勘弁してくれよ!」

「ふうん。 勇に、千晶ね」

男が勇、女が千晶と言うらしい。それにしても、化け物とは心外だ。これでも、悪魔の中では人間に近い容姿をしているのだが。

女が、まるで怖がっていないのが面白い。ふと、ポケットに入っているものに目が行く。おどろおどろしい装丁で、月刊アヤカシとか書かれている。驚いた。あまり現存しているものがない、本ではないか。ニヒロ機構が大量に保有はしているが、一般には滅多に流通しないものだ。ただ、実用性はあまりない。知識はマガツヒから得る事が出来るからだ。耳に掛かった髪を指先でずらしながら、女が問う。

「貴方、何者?」

「私は、堕天使ベルフェゴール。 貴方は?」

「私は橘千晶。 こっちの腰を抜かしている情けないのが、新田勇よ。 それで、堕天使ですって?」

「そうよ。 このボルテクス界では、主要な種族の一人。 もっとも私は、他の堕天使達とは違って、ニヒロ機構には所属していないけれど」

千晶が髪を掻き上げた。冷厳さは変わっていないが、さっきよりも若干警戒が抜けた気がする。会話が成立すると判断したからだろう。この娘、隣の少年と違って、相当な手練れだ。交渉ごとでも、相当な修羅場をくぐっているのがよく分かる。

「話を、聞かせてくれないかしら。 まず、此処が一体何処なのか、何が起こったのか」

「いいけれど、何か見返りは?」

「あいにくだけど、キャッシュは手持ちにないの。 というか。 キャッシュなんか、今の状況では役に立ちそうもないわね。 だから、タダで教えなさい」

あまりのふてぶてしさに一瞬唖然とするが、むしろ興味を覚えてしまった。それにキャッシュとは。そんなもの、今では紙切れの役にも立ちはしないのだが。一部にコレクターはいるが、それくらいである。

「キャッシュ、ねえ。 まあいいわ。 こんなところで話し込むのも何だし、場所を移しましょうか。 あ、面白そうだから、対価にその本寄こしなさい。 それで手を打ってあげるわ」

一瞬だけ千晶は病院を見たが、頷くと歩き出す。本も素直に差し出した。勇はもう少し未練がある様子で病院を見ていたが、千晶が歩き出すと慌てて後について来た。見た感じ、つがいでは無い様子だが、しかし面白い。どういう関係なのだろう。多くの夫婦を見てきたベルフェゴールだが、その目を持ってしても、よく分からないとしか言いようがない。友人と言うよりも、姉弟に近い。だが、普通の姉弟よりも仲がよいようにも見え、しかし距離があるようにも感じてしまう。

さっと本に目を通しながら、歩く。さて、何処へ行くべきか。すぐに結論は出る。この近くだと、自由に入る事が出来て休憩できる場所となると、シブヤになる。

今は戦時体制だから本来は難しいが、彼処には酒場もあるし、開いているスペースもたくさんある。じっくり話し込むには丁度良いだろう。ただ、フラウロスと会うと面倒くさい。

今ニヒロ機構は人材を集めていて、ベルフェゴールもターゲットになっている。この間ロキが大物堕天使であるデカラビアの勧誘に成功したとかで、かなり面倒くさいスカウト攻勢にさらされる事が予想される。まあ、逆に言えば、だから入る事も出来るのだが。しかし、監視が付くのは避けられない。

まあ、仕方がないだろう。途中にある独立勢力ヨヨギ公園は排他的だし、そこよりはマシだ。

「この本、面白いわねえ。 何処で手に入れたの?」

「友達から貰ったの。 もう読んだからいらないわ」

「その子?」

「いいえ。 頼りにならないのじゃなくて。 ……そこそこ頼りになる男の子」

酷い事を言う千晶は、くすりとさえ笑わなかった。というか、この女。ひょっとして、駆け引きの手段以外では、感情を他人に見せる事はないのではと、ベルフェゴールは思ってしまった。

それで、「頼りにならない男の子」を見ると、もうへばりかけている。カグツチの日齢は、まだ二つも動いていないのだが。体力がない事だ。もっとも、あんな非実用的な格好では、無理もないのかも知れない。

「そんなカッコじゃ、生き残れないわよ、男の子」

「うるせえ。 畜生、祐子せんせえ、何処にいるんだよ……」

「病院の中にはいなかったでしょう? 多分逃げ延びているわよ」

祐子先生というのが何者かは分からないが、一つ分かった事がある。この千晶という女、その先生に何の関心も持っていない。いや、違う。

多分、そもそも、誰にも何にも、感心を持っていないのではないか。この娘は、恐らく自分にしか興味を持っていない。家族でさえ利用して、生き残る事に専念する。そんな存在ではないか。

そうまで冷酷な人格を作り上げるには、何が起因したのか。薄ら寒い。兎に角、いろいろと聞かなければならない事がある。それには安全圏まで連れ込まなければならない。

カグツチの日齢が、三つほど動いた時だろうか。ずっと砂漠を歩き通しだが、少しずつ周囲に変化が出てくる。朽ちたビルも増えてきたし、道らしきものの残骸もある。そうこうするうちに、ヨヨギ公園を通り過ぎて、ついにシブヤが見えてきた。時々堕天使とすれ違う。マントラ軍の斥候らしいのもごくたまにいたが、此方がベルフェゴールで、連れが人間であるのを見ると、手出しはしてこなかった。それにしても、この辺も悪魔が増えたものだ。ニヒロ機構の本部になっているギンザほどではないが、以前とは比較にならない。

何か言いかけたが、それに気付いて、足を止めた。千晶が、氷のような視線を向けてくる。

「どうしたの?」

「何でもない」

再び、歩き出した。歩調が、無意識の内に早くなっている。

どうやら、判断は正しかったようだと、ベルフェゴールは悟った。

今、フォルネウスの気配が消えた。十中八九、何者かに殺された。こんな所までマントラ軍の上級士官が潜入しているとは思えないから、あの病院で感じた危険な気配によるものだろう。

何かが起こりつつある。やはりあの病院には、何か途轍もない存在が潜んでいたのだ。誰があの病院の時を止めたのかは分からない。しかし、分かっているのは。それがこの世界に変革をもたらすほどに、危険であると言う事。

人間をつれて歩きながら、ベルフェゴールはそれを感じ取っていた。

シブヤが近付いてきた。一刻も早く、此処から離れた方が良いという気持ちもある。だが、この人間達も興味深い。結局、ベルフェゴールは敢えてこの場にとどまる事を選んだ。興味によって、身を立てる。伊達や酔狂でフリーを貫いてきたベルフェゴールには、それが一番良かった。

「おい、あれがシブヤかよ!」

「そうよ。 ニヒロ機構の前線基地にて、要塞地帯」

「嘘だろッ!? ヨウサイって、何だよ! 一体、基地って何なんだよ!」

新田勇が、シブヤを見るや否や、泣き出しそうな声で言った。そういえば、シブヤはかって都市地帯だったとか聞いている。それが今では、こうだ。

分厚い城壁。上空を常時旋回する護衛部隊。淡く光っているのは術によって作られた防御結界だ。砂漠の中に、ぽつんと作り出されている、鋼と魔術の城。それが現在のシブヤなのである。内部は入り組んでいて、仮に結界と防御火力を突破できても、簡単には深奥にたどり着けない。また、内部からの造反やテロにも耐えやすいよう、主要施設は分散されていると聞いている。あらゆる意味で、戦う事を前提として、構築されている都市なのだ。

ただ、武骨なだけではなく、中には歓楽街もある。将軍の一人であるロキが考案したもので、兵士達のストレス解消に大きな効果を上げているという。人間の街とは違い性風俗は無いが、酒は飲む事が出来る。人間も酒は飲む。そして、一度アルコールが入ると、口を滑らせ易くなる。

入り口の歩哨は、ベルフェゴールを見ると、敬礼して内部に誰か呼びにいった。フラウロスが出てこないと良いのだが。もう一度、振り返る。もはや凍り付いていないシンジュク衛生病院からは、相変わらず強力な力の気配が、漂い出ていた。

 

(続)