大河への誘い

 

序、拳豪と剣豪

 

トールが咆吼する。口元は歓喜に歪んでいた。全身は血潮にまみれているが、動きは全く鈍っていない。

数メートルをおいて対峙しているのは、直立した豹のような姿の悪魔。両手には剣があり、此方も既に全身は朱に染まっていた。構えを取り直す、豹の戦士。トールは腰を落とし、孤を描くように腕を動かしながら、言う。

「名を聞こうか、ニヒロ機構の強者よ。 俺はマントラ軍将軍、トール」

「私はニヒロ機構将官、堕天使オセ」

「ほう、貴様も将軍か。 ならば相手にとって、不足はない!」

「古風な男ですな、貴方は」

構えを取り直したトールが、心底楽しそうに笑った。それに対し、オセは呼吸を乱しながらも、あくまで静かだった。

辺りの戦いは、膠着状態に陥っている。既に双方二十以上の悪魔が倒れ、マガツヒに変わっていた。将官も何名か倒れている。遭遇戦とは思えないほどの、激しさだった。腕の前で交差するように剣を構えるオセに、トールはじりじりと間合いを詰める。

跳躍。トールが僅かに早い。

「せあっ!」

剣を振るい、衝撃波を叩き込んでくるオセ。トールは拳でそれを迎撃。強引に腕力だけで吹き飛ばし、距離を詰める。砂が盛大に吹き上がるが、何の目くらましにもならない。舌打ちしたオセは、衝撃波を乱射。数で押そうとする。だが、トールが瞬時に戦術を変える。鋭いサイドステップで、斜めの動きを主体に、間合いを侵略したのだ。

オセの額に、冷や汗が浮かぶのが、トールには見えた。そのまま、拳を叩き込む。そこで、オセは退かずに、むしろ前に出た。剣の一本が、はじき飛ばされて宙に舞う。曲がっていたその剣は、砂漠に突き刺さると同時に、マガツヒと化して砕け散った。

振り返るトールの脇腹には、鋭い一閃の跡。対し、オセの左腕は、半ばから無惨にへし折られていた。

拳。態勢を低くしてオセがかわそうとしたところに、腰からの当て身を入れる。剣を振るってくる。手甲で受け止める。力が一瞬、拮抗する。口を開けて、トールは肺から息を絞り出しながら、力任せにはじき飛ばす。しかし浅い。オセが風の術を使い、クッションにして打撃を和らげる。虫の息だった堕天使に直撃。悲鳴を上げながら、それはマガツヒと化した。

躍り掛かる。飛び退き、間合いを計りに掛かるオセ。数発の衝撃波を放ってくる。楽しい。楽しすぎる。そうだ、こうでなくては。戦いとは、こうでなくてはならない。

間合いが、ゼロになる。待避の動きを読み切ったトールは、歩法を工夫して、徐々に速度を上げていたのだ。これを縮地という。さあ、一本の剣で、どう防ぎきる。拳を、真上から叩き込む。必殺の間合い。逃げ切れるものではない。

オセは、そこで目を閉じると、全精神を剣に集中してきた。なるほど。必殺の拳を、切り割るつもりか。

だが、最後の一瞬で、邪魔が入った。

飛んでくる大剣に、トールは舌打ちしながら飛び退いた。オセもそれに習っている。間合いが一気に開き、二人の間に大剣が突き刺さった。新手だ。胸部に豹の頭が着いた戦士が、大剣の刺さった辺りに降り立つ。

「間に合ったようだな」

「すまん、フラウロス」

「それにしても、何という使い手だ。 貴様が、近接戦闘で押されるとは」

フラウロスと呼ばれたニヒロ機構の将軍が、砂漠から剣を抜く。このまま連戦しても良いが、さてどうするか。勝つ自信はある。オセは自分以上に満身創痍だし、フラウロスは良い腕をしているが、現状の自分とせいぜい五分だろう。五分ならば、後はスキルがものをいうものだ。

向こうは一気に戦意を失ったようである。此方も被害が大きいし、一度退いた方がよいかも知れない。このままだと、双方に続々援軍が到着して、収集がつかなくなる可能性がきわめて高い。そんな事になるくらいなら、一度撤退した方がいい。何、この分なら、戦う機会は今後幾らでもある。

戦いを続けるには、ゴズテンノウのバックアップは必要だ。戦士個人としてのトールには、どうしても限界がある。日本でならともかく、此処では完全な孤立をしていたら、質の良い戦いを楽しめなくなる可能性が高い。ゴズテンノウを利用している部分はあるが、価値が高いものとして尊敬はしているし、それに伴う忠誠も抱いている。ならば、忠誠に基づく行動が、今は必要なのだ。

速やかな判断を行う力は、平和な日本においても、常に戦いに身を置き続けたトールには備わっていた。

「退けい!」

一声号令を掛けると、堕天使達と血みどろの肉弾戦を行っていた鬼神達が、引き上げ始める。追撃しようとする堕天使の一匹を、ミヨニヨルでたたき落とす。見る間にマガツヒに飛散してしまう堕天使を、吸い込んで平らげた。今の分を含めて、四匹も食べた事を考えれば、遭遇戦は無駄ではなかった。安全に部下達が撤退するのを見届けると、トールは構えを解かない二人に言う。

「いずれ、決着を付けよう」

「……いいだろう」

オセ将軍が、周囲の堕天使達に撤退の指示を飛ばす。個人的な印象では、フラウロスという奴の方が、戦った時におもしろみがありそうだ。いずれにしろ、どちらもきわめてハイレベルな使い手である。今後の戦いは更に面白くなりそうで、トールは舌なめずりしていた。

撤退していく二人のニヒロ将官を見送ったトールは、ひとしきり高笑いすると、残存戦力をまとめて、イケブクロにあるマントラ軍本営へ帰還する。トールが敵司令官と戦っている間、指揮を執っていたのはサルタヒコだが、奴もかなりの深手を負って、妻に肩を借りていた。名誉の負傷である。見れば、妻に心配されている。よく分からない話だ。もっと喜べばいいものをと、トールは思った。戦いで得る傷ほど、名誉なものは他にないだろうに。

今回は典型的な遭遇戦であった。最近偵察部隊の衝突が増えており、上級士官も出てくる事が多くなっていた。トール自身も、何度か偵察隊を率いて、ギンザ近辺まで出かけていた程である。

バイブカハの一機が、今回は早く敵を見つけた。これは敵の隠密機動が足りなかったのではなく、単純に運の問題である。身を隠す場所がない砂漠では、どのような手練れでも、発見されてしまうのだ。そこで、今回はトールが一個中隊を率いて、勢力境界近辺にまで出た。そうしたら、砂丘を越えたところで、ニヒロ機構の偵察部隊ともろに正面から出くわしたのである。

後は血みどろの肉弾戦であった。オセとトールが激突するのに、さほど時間は掛からなかった。何しろオセと来たら、涎が出るほど良い動きを、トールの前でしていたからである。後二分も戦えば、勝つ事が出来た自信はある。フラウロスの見立て通り、オセの剣では、トールの拳を切り裂けなかっただろう。だが、二匹を倒した時には、トールも無事では済まなかったことも確かだ。それは別に構わないのだが、今後の戦いに響くと面倒だ。トールは、戦うべき相手と、もっと拳を交えたいのである。

イケブクロに戻ると、すぐにゴズテンノウから呼びが掛かった。慌てて回復術を持つ者達を手配していたリコに、後でいいと言い残して、本営に。もう本営の建物は、九割方完成している。今までは一基しかなかったエレベーターも、だいぶ増えていた。特に一般兵用の四基が稼働開始したのは大きい。途中で迎えに来た毘沙門天は、血だらけのトールを見てぎょっとした。

「いかがしました、その姿は」

「活きがいい獲物を見つけてな。 ついついはしゃいでしまったわ」

「それはそれは。 私も是非刃を交えてみたいものです」

「うむ。 実に面白い相手だった。 ニヒロ機構のオセと、フラウロスと言ったな。 覚えておいて損はなかろう」

一緒にエレベーターに乗る。護衛としてばらばら集まってきた鬼神達は、やはりトールの姿を見て、ぎょっとしているようだった。

ゴズテンノウの間に出る。以前よりも、飾られている戦利品で豪華になっている。ただ、ゴズテンノウは富を蓄えると言う事がなく、功績を挙げた部下には気前よく与えてしまうので、同じ宝物がずっと飾られていると言う事は殆ど無い。赤絨毯に跪くトールを見て、ゴズテンノウは頬杖をつきながら言った。牛の頭部だと、少し頬杖をつくのが難しそうだ。事実、若干窮屈そうである。

「トール、ただいま帰還しました」

「遭遇戦で、ニヒロ機構の将官と出くわしたと聞いた。 貴様がそれほどに傷つくとは、なかなか侮れぬ相手であったようだな」

「は。 手強く、それが故に実に楽しい戦いでありました」

「ほう、それは重畳」

周囲に控えていた幹部達に、ゴズテンノウは言う。その口調には、最初出会った時とは違う、本物の威厳が宿り始めている。すっと立ち上がると、他の鬼神達を圧する巨体で、ゴズテンノウは周囲を見回した。

「トール将軍の精神を、お前達も見習うように。 これでこそ、力を至上とする、マントラ軍のあるべき姿である! 強敵との遭遇を喜べ! 戦える事を誇りとせよ! 傷を厭うな! 愚かな戦いはするべきではないが、名誉ある戦いは常に求めていけ! マントラ軍は、力あるもののための組織である!」

喚声が上がる。トールは少しこそばゆいものを感じたが、悪い気分はしなかった。何だか妙である。自分の行動が認められるというのは、このマントラ軍に入る前はなかった事だ。人間徳山徹だった頃、自分の考えは狂気的なものだとされていた。拳を磨きに来るものはいたが、誰もが着いてこれなかった。親しいごく少数の人間でさえ、武術に関する事では、意見を一致させる事はなかった。それなのに、此処ではトールの考えが、規範とされているのである。

これは、ゴズテンノウの度量であるのかも知れない。だが、それにしても巧いとトールは思う。

織田信長も、初期は単なる戦場の猛将ではあったが、それだけでは勝てない相手がいる事を悟ると、やり方を変えた。調略や革新的な戦術を多々取り入れて、結果戦国有数の強豪に成長していったのだ。やり方を状況に合わせて変える事が出来る者は強い。ゴズテンノウは、信長ほどの器ではないにしても、成長力には目を見張るものがある。トールだけでなく、他の鬼神達も忠誠を誓っているのが、その証拠である。

だが、此処で慢心しては意味がない。自分の拳は、あくまで磨き上げるためのもの。強敵と戦い、相手を肉塊にしてこそ、活きてくるものなのだ。そして、トールは慢心するほどには、若くなかった。老獪ではなかった。だが、老練であった。今更慢心するほど青臭くはないのである。

倍近い数の相手と戦い、より多くの被害を出させたという事で、少し前にゴズテンノウが遠征して陥落させた将門公の塚近辺で手に入れた宝剣を授かる。古代の日本で使われていたタイプの、幅広の太刀だ。かなり強い力が籠もっていて、実用品として申し分ない。充分に満足したトールは、どう使おうかと思案した。

ゴズテンノウの前を退出すると、リコが呼び集めた回復術の専門家達が待っていた。自宅の一階、部下達の控え室に用意してある椅子に座ると、彼らに傷の手当てをさせる。サルタヒコ達は既に怪我を回復させていた。今回の件で、トールの子飼いも何体か倒されたが、補充は問題ない。今や10000を超えているマントラ軍の勢力は、日々雪だるま式にふくらんでいるからだ。各地の鬼神達は、ニヒロ機構の脅威もあって、自分から恭順を誓ってくる事さえある。

リコが不安そうに此方を見ていた。喋りたそうにしているので、顎をしゃくって促す。躊躇していたリコだが、頷く。

「トール様、おけがは痛みまないっスか?」

「どうした。 お前は出会った頃よりも、少し臆病になっていないか?」

リコに指摘。少し沈黙を流した後、リコは言う。

「分からないです。 あれから、少しは腕を上げる事が出来てきたんだと思うんスけど、でもそうしたら、悩みも増えてきて」

リコは、オンギョウギとの戦いの後、徹底的にしごいた。トール自身が何度も稽古をつけたし、実戦にも出した。だから二回り以上は強くなっている。今ならサルタヒコとも五分に戦ってみせるだろう。剣術は若干稚拙だが、足技を主体とした体術に関しては並みの鬼神では歯が立たないレベルに到達しているし、補助を専門とした幾つかの術も見事である。

だが、最近は笑顔が減った。普段こそ快活だが、時々影が表情に差すようにもなっている。部下の鬼神にも、心配する声が上がり始めていた。快活なリコは、部下達に慕われている。

オンギョウギとの戦いで、トラウマを得たのかも知れない。だとすると、解決するのはリコ自身の問題だ。そして解決できたら、リコはまた強くなる。その時が楽しみである。

「悩めるだけ、悩んでおけ。 いずれそれは、お前の価値になる」

「はい」

少し、力がない返事だった。今はそれでも良いと、トールは思った。部下達の前では、快活な姿も見せているのだから。いずれ視野を広げさせる方が良いかもしれないと、トールは考え始めていた。

急速にまとまりつつある二大勢力。ニヒロ機構でも、不安を抱えている者はいるのだろうと、トールは思った。

 

1,拡大する不安

 

ニヒロ機構は、危惧を強めていた。

シブヤを陥落させた事で、ニヒロ機構への人材流入が加速した。だが、それによってマントラ軍との激突が、増えた。そして気がついた時には、対立はもはや無視できない状況にまで激化していたのである。

現在、マントラ軍の保有戦力は10000前後と見られている。また、奴隷労働に使われているマネカタが、35000ほどいる。これに対し、ニヒロ機構は戦力が約13000。ギンザに主力軍約8000が常駐し、周辺地域には5000ほどがいる。戦力外の労働や頭脳活動担当の悪魔が、これとほぼ同数というのが現状である。人材流入速度はニヒロ機構の方が速いのだが、個々の戦闘能力はマントラ軍の方が高い。その上、使い捨ての奴隷として使えるマネカタの生産力が高く、決して状況は楽観視できない。

ここしばらくは、小競り合いが続いていた。特にオセが撃退された数日前の戦いでは、フラウロスが駆けつけるのが遅れたら、ニヒロ機構は有能な前線指揮官を失うところであった。しかも、同数の戦いでは、常に多数の被害を強いられている。

マントラ軍侮り難し。畏怖が恐怖に変わる前に、手を打つ必要がある。その認識は、高級幹部達の間では常識となりつつあった。

 

戦いの傷が癒えたオセは、出頭するように電話での指令を受けていた。あの戦いは敗北であったと言っても良く、仕方がない事だとオセは思った。誇り高い戦士であると同時に、優れた指揮官であるオセは、素直に己の敗北を認める事が出来た。すぐに身一つで本営に向かう。

ニヒロ機構本営は、少し前に完成していた。地中深くに作り上げられた、頑強な要塞である。内部構造は複雑怪奇であり、幹部クラスにはその内容把握が求められている。防衛部隊隊長はキウンに任されているのだが、その性格を反映するように、内部には陰険な罠が多数作られていた。

オセも気を使う。何しろ、何の変哲もないただの床が、急に落とし穴になったりするのである。行く途中もスイッチが複雑に絡み合っており、通路がいちいち変化するので、道筋を覚えなければ、いつまで歩いても司令部にたどり着けない。通路は狭く、足を踏み外すと溶岩に転落するような場所もあり、油断は一刻たりとも出来ない。一応、最高幹部用の直通エレベーターは用意されているが、オセには使用権限がない。使う事が出来るのは、氷川司令だけである。

途中、キウンと会ったので、敬礼する。本部の防衛司令官であるキウンは、オセより若干地位が下だから、それなりに丁寧な礼を返してくる。陰険で臆病なキウンであるが、権勢欲は薄めである。それが周囲から孤立しつつも、致命的な破滅へとつながらない理由となっていた。

「オセ将軍、今回は災難だったな」

「なんの。 これくらいの失敗を恐れていては、戦いなど出来ぬよ。 多少地位を落とすのも仕方がないとは思っている。 どちらにしても、次は遅れを取らぬ」

「そうか、将軍は勇敢だな。 私は其処まで豪放にはなれぬ」

「いや、そう悲観せぬとも良いではないか。 キウン将軍が適任だと思われたから、氷川司令は本部の防衛を任されたのだ」

キウンは巨大なヒトデの中央部に人間の顔が着いたような姿をしていて、常に空中に浮遊している。星を象徴した存在だから、そのような姿をしているのである。途中まで、軽く談笑しながら歩く。意外とキウンとオセは気が合う。それには、キウンの出身が原因となっている。

キウンは、かの高名なるモーセがユダヤ人達を連れてエジプトを脱出し、十戒を神に授かる際に登場した魔神である。具体的には、シナイ山に登り神に十戒を授かろうとしていたモーセの帰りを待ちきれなくなった者達が、あがめた存在だ。彼らはモーセの言う唯一絶対の神を裏切り、子牛の偶像を作り出して信仰した。それがキウンだとされている。つまり、人を堕落させる邪悪な偶像というわけだ。

実際には、そう言い切るのは酷である。元々ユダヤ人は、エジプトで一種の傭兵業をしていた者達だ。モーセは彼らを、政情不安と社会的地位の不平等に乗じて連れ出したのだが、その時に「約束の地」を美辞麗句にて飾り立て、かなり強引に連れてきている。その上神に教えを授かると言って、ユダヤ人達を置いて山に籠もっているのである。

エジプト軍の追撃や飢えに苦しんでいた者達が、土着の宗教や偶像にすがったとしても無理はない話だ。キウンは、彼らが通りかかった地域の宗教か、或いはエジプトの神々の変形したもののどちらかであろう。問題はモーセによってキウン崇拝者が粛正された事。それによって悪しきものの代名詞とされたという事である。歴史の敗者は悪とされる事が多いが、古代においてそれは顕著だ。

唯一神へ、キウンが憎悪を抱くのも無理からぬ話である。これでは殆ど一方的に災厄を押しつけられたに等しい。オセも唯一神は嫌いだが、その一点において、キウンとは話が合う。元々戦闘以外では融和的なオセの性格もあり、今では会った時にはしばしば話し込むようになっていた。

迷路の出口近くで、キウンは性格が悪そうな笑みを浮かべた。禿頭の上に彫りが深い顔をしているキウンは、もろに表情が出る。それが、彼の友人を減らす結果となっている事を、オセは知っている。

「氷川司令を、オセ将軍はどう思う?」

「東京受胎の前からお仕えしているが、まず優れた司令官だと思うが。 ギンザの街を見れば構想力は確かだし、癖の強い部下達を良くまとめている。 重要な時は前線に出てくるし、指導者としての仕事を見事に果たしている」

「そうだな。 私もそう思う。 なら、耳に入れても良いだろうか」

そうして、キウンは聞き逃すには少し重大な事を言った。思わずオセは、足を止めてしまう所だった。

「実は、氷川司令に反意を抱いている将官がいるらしい」

「それは、本当か」

「まだ噂の段階だが」

「ふむ、分かった。 それとなく探りを入れてみよう」

オセは、キウンを全面的に信頼してはいない。性格の陰険さは熟知しているし、実際に他の将官に対するネガティブキャンペーンをしている事を掴んでもいる。だが、今の話は、聞き逃すには少し深刻である。

元々キウンはそれほど強大な魔神ではなく、氷川司令があってこその存在である。オセは氷川に絶対忠誠を誓っている存在として自他共に認める存在である。オセに知らせるには、今の話はリスクが高い。それを考慮すると、キウンの言葉が、少なくとも根拠がないわけではなさそうだ。

キウンと別れて、迷路を抜けると、ニヒロ機構の最深部に到着する。氷川司令は雑音を極端に嫌う傾向があり、此処はとても静かだ。既に戦闘の経過のレポートはまとめてある。後の判断は、氷川司令次第である。

氷川司令は、会議室にいると聞いている。いつも会議ばかりしている人だ。そういえば、最初に召還された時も。氷川司令は儀式を済ませると、すぐに会社の会議に出てしまった。SEとは会議をする仕事なのだろうかと、その時は思ってしまったほどだ。

会議室の戸をノックする。入るようにと言われた。中にはシブヤに出向いているミジャグジさまとフラウロスを除く幹部達が、だいたい揃っていた。最上席に座る氷川に、オセは礼をする。

「堕天使オセ、出頭しました」

「オセ将軍、堅苦しい挨拶は良い。 今回は敗退の責任を追及する会議ではない。 マントラ軍と呼称する鬼神達に対する対策会議だ」

降格はどうやら無いらしい。ほっとしたオセだが、氷川司令はこの件をかなり重く受け止めているようだ。座るように入れて、自分の席に着く。すぐ隣の席の魔神ミトラが、せせら笑うのが分かった。ミトラは情報士官であり、今後はニヒロにおける法の立案者となる事を目論んでいるらしい。政治闘争を厭わない点で、キウンとは別の意味で陰険な男であるが、氷川司令に忠誠を誓ってはいるのが幸いではある。それに、性格はともかく、オセも認める有能な男だ。

「ミトラ将軍、現在のマントラ軍情報を皆に展開して欲しい」

「は。 情報収集の結果、現在、マントラ軍は10000から10500ほどの戦力を有しております。 中軍はイケブクロにいる約4000。 残りは各地の拠点に展開しております。 中軍の指揮を執っているのは、北欧神話の雷神トール。 副将は仏教神の一人毘沙門天。 そのほか、高位の鬼神族、龍族が多数集まっています」

「今回は、その内の一個中隊が、勢力境界まで出てきたと言う事か」

「中軍の指揮官であるトールがいたことを考えれば、そうなるかと」

親衛隊士官の一人であるマダに、ミトラが応えた。二人の地位はほとんど互角だが、基本的にミトラは敬語を使って喋る。ライオンの上半身に、蛇の下半身を持つミトラは、荒々しい容姿に反して比較的紳士的な態度を取る。これは元々彼が司法神である事も関係している。

「問題は、マントラ軍に比べて、兵の質が劣っていると言う事です。 主力になる中級以上の堕天使は五分の戦いを展開できるのですが、一般の兵士達はそうも行かないのが現状でして。 特に最近は、トールが部下達に武術を仕込んでいる形跡があり、被害を増やす一因となっておりますな」

「武術、だと?」

「トールは自らの肉体で敵を仕留める事を極端に好む事が分かっていますが、あらゆる武術を身につけているらしい事も、最近判明しました。 それを、部下達に仕込んでいるようです」

「それは厄介だな、おい。 同じ身体能力だった場合、武術のスキルがある方が絶対に有利だ。 場合によっては、倍以上の身体能力が、ひっくり返される場合もあるって聞くからな」

四本ある腕を絡ませて考え込むマダ。マダは直情傾向であり、しかも戦闘方法は我流である。単純に身体能力は高いのだが、しっかりした戦い方を学んだ相手には分が悪いだろう。時々オセも武術を学べと言っているのだが、普段は酒ばかり喰らっている怠け者と言う事もあり、なかなか難しい。柔道の創始者である嘉納治五郎が巨躯のロシア人プロレスラーを一蹴したという歴史的事実もあるのだと説教したのだが、こればかりはなかなか上手くいかない。悪魔にとって、生まれついての性格は、直しがたいものなのだ。人間の性格矯正とは比較にならないほどに難しいのである。

ああでもないこうでもないと話し合っていた部下達の前で、氷川が片手を上げる。途端に、皆がぴたりと黙った。氷川が喋る事の意思表示であるからだ。

「何か、対抗策は?」

「まずは、敵よりも味方の数を増やす事です。 対抗しきれないほどの数に」

「しかし、それは難しいな。 双方の勢力は殆ど互角で、しかも思想が正反対だ。 どちらの思想も悪魔にはそれぞれ魅力的で、極端な差を付けるのは難しい」

「敵の本拠を撃滅する策ならある。 だが、これは現時点では、あまり使いたくない」

氷川の言葉に、皆が黙り込む。最終必殺兵器、ナイトメアシステム。現在完成率は60%というところで、これを使えばかなりの高位悪魔も瞬間的に滅ぼす事が可能だが、欠点が多い。最大のものは、膨大なマガツヒを使うと言う事で、乱発すると途端に此方も干上がってしまう。

氷川司令は、考え込む皆に向けて、再び言葉を発する。

「ナイトメアシステムの使用に関しては、現在は好機ではない。 対抗策として、武術の使い手で、誰かめぼしい者はいるか。 或いは、他に適切な方法はないか」

「対抗策の一つとして、組織戦の徹底が考えられます。 部隊を今以上に組織化し、連携戦闘を徹底的に仕込む事で、部隊としての戦力を引き上げる事が可能です。 マントラ軍との小競り合いで、戦闘経験については皆が積み上げていますが、やはり飛躍的な強化をするには、それが一番の近道かと思います」

「そうなると、集団戦術の専門家が欲しいところだな。 オセ将軍、めぼしい人材はいるのか?」

ミトラからの話題だったのに、マダから振り返さえされる。元々個別人材育成派のオセは少し困ったが、しかし此処は反論するのも建設的ではない。

さて、集団戦術育成に適した者はいるか。ミジャグジさまが浮かんだが、奴は謀略も含んだ防衛戦の専門家である。充分な防御力を駆使しての攻勢排除戦や、部下達を小部隊に分けてのゲリラ戦は巧いだろうが、それは味方の国家システムにも大きな打撃を与える。

かといって、在野の人材に良いものはいるだろうか。最近目を付けているサマエルは、あくまで個人の戦士として興味がある存在であって、集団戦には特に期待していない。むしろオセは、酒を通じてのマダの人脈に興味がある。

だから、逆に話を振り返した。

「マダ将軍はどうだ。 私には、今のところ心当たりがない」

「俺か? どうして俺に振る」

「将軍は、酒を通じて知り合った友が多いだろう。 中には、ニヒロ機構の所属悪魔以外の人材がいると聞いている」

「確かにいる事はいるが。 そういえば、俺にはそういう人脈があったな。 言われて気がついた」

自分の過失を素直に認めて、四本の腕で器用に頭を掻きながら、しばしマダは考え込む。ほどなく、手を一打ちした。マダは頭があまり良くないが、みていて分かり易くて、オセは嫌悪を感じた事がない。

「そういえば、いるな。 いいのが」

「誰だ、それは」

「ブリュンヒルドだ」

出された名前に、オセは思わず眉をひそめていた。

ブリュンヒルド。北欧神話の戦の女神である、バルキリーの長である。バルキリーは、北欧神話に登場する女神達で、戦場を駆け回り、めぼしい死者を見つけると、バルハラと呼ばれる天界に連れて行く。天界に連れて行かれた死者達は、来るべき最終戦争に備えて体を鍛え続ける。その内容たるや凄まじいものであり、スポーツとしての戦争を延々と行うというものだ。もちろん死者が出るが、即座に生き返り、翌日からはまた戦争を行うのである。バルキリーに連れて行かれる事は、北欧では戦士として最高の名誉とされる。

北欧神話の荒々しさを良く示すエピソードであるが、考えてみれば天界での闘争は、一種の永久闘争である。バルキリー達のリーダーであるブリュンヒルドは、飽きるほど戦場を駆け回っていた存在だから、集団戦については詳しく知っている。彼女らの仕事には、勇敢なる戦士達の歓待も含まれるから、戦術眼も磨かれる。戦場で勇敢である事は、無謀である事とは一致しないのである。

更に言えば、バルキリーの仕事には、連れてきた戦士達の指揮統率、歓待も含まれている。部下達を育て上げる事についても、専門家の筈だ。こういう人材は、今後は必要になってくるだろう。

思えば、今までは集まってくる人材を振り分ける事に終始していて、育てる事はおろそかにしすぎていたのであろう。オセは頭をかき回し、毛並みをなでつけながらマダに問う。

「ブリュンヒルドは、今どうしている」

「どうするも何も、お前の知ってるとおりだよ、オセ将軍。 バルハラも無くなって、すっかり目的が無くなっちまったからなあ。 俺の酒をかっ喰らって、毎日自堕落に過ごしてやがるよ」

「嘆かわしい話だな。 バルキリーと言えば、世界で一番有名な死神だというのに」

「そういうな。 みんな、心を折られたら悲しみもするんだよ」

マダが言ったので、オセは苦笑した。酒の神だけあって、何とも人間味のある言葉だった。酒の良い面も悪い面も、マダは体現している。周囲に人材が集まるのも、無理はないのかも知れない。

オセがブリュンヒルドを嫌悪しているのは、その自堕落な性格にあった。優れた力を持っているのに、酒に溺れるばかりで、何もしようとはしない。弱者は嫌ってはいないのだが、強いのに何もしない奴をオセは好まない。その典型例がブリュンヒルドであった。

会議は進めなければならない。体を少し机に乗り出すと、オセは幹部達を見回した。氷川司令は、黙って様子を見守っている。

「それで、誰があの酔いどれを説得するかだが」

「俺はパス。 そういうのは、苦手だ。 呼ぶだけなら出来るけど、説得は誰かやってくれると助かる」

「そうだな。 マダ将軍には、苦手そうな任務だ」

「おうよ。 俺は酒が飲めて、戦えればそれでいいんだ」

嫌みを言った将軍の一人エリゴールに、マダはさらりと返す。氷川司令が咳払いしたので、皆の視線が集まった。

氷川司令は、沈黙の使い方が巧い。敢えて数秒間黙る事で、皆が聞く態勢を作り上げる。全員の意識が集中したのを見届けると、氷川司令は指示を飛ばし始めた。

「説得は、ミトラ将軍が行うように」

「は。 私が、ですか」

「今後の組織編成の事もある。 地位の相談もしなければならないからな。 用意できる地位のリストに関しては、後で渡しておく。 それを見て、新兵達の訓練に適したものを見繕って貰いたい。 失敗は許されないから、慎重にな。 後は、集団戦についての意見を聞いて、レポートにしてまとめてくれ」

「分かりました。 仰せのままに」

深々と頭を垂れるミトラ。今度は、オセに氷川司令は向き直った。

「オセ将軍は、剣術の指導を。 技量を上げられそうな部下は、今の内に鍛えておいて欲しい。 卓絶したスキルの持ち主は、今後精鋭部隊への配属を考えよう」

「は。 お任せください」

「後は、組織の再編だな。 そろそろもう一軍を編成したいところだが、誰に任せたものか」

ニヒロ機構がシブヤを落としてから、主に人材はそちらに集まるようになってきた。定期的に兵をギンザに送らせて、それで戦力を編成するのだが、既に所属が曖昧な戦力が1000騎を超えている。一軍を編成するには丁度いい時期だ。

「誰か、これはという人材に覚えはないか」

「サマエルはどうでしょうか。 居場所も既に掴んでいますが」

「説得に応じそうか」

「すぐには難しいかと。 ただ、配下に加えれば、有能な人材として機能するかと思います」

オセには、短期的に説得する自信はない。だが、サマエル自身の思想は、ニヒロ機構に近いと考えている。奴は、仲間の弱者を守ろうとしている。この過酷なボルテクス界でそれを成し遂げるには、現時点ではニヒロ機構以外の思想はあり得ない。特に敵対組織であるマントラ軍では絶対に不可能だ。

だが、サマエルの周囲が、それを良しとしていない可能性が高い。そうなってくると話は面倒だ。長い間を掛けて、調整していくしかない。奴の潜在能力の高さは、オセが一番良く感じ取っている。時間が多少掛かっても、配下に引き入れたい悪魔だ。

「他には、有能な悪魔はいるか」

「そうですね、私の知るところでは、スルトが有望ですが」

これはまた、大物が出てきた。ミトラが挙げた名前に、オセは唸った。

スルトは北欧神話終末の巨人であり、最終戦争の時に世界を焼き尽くす存在である。また、彼が持つ炎の武器レーヴァテインはあまりにも有名である。有名なだけあって実力はなかなかだ。しかし彼はいまだ小規模ながら独立勢力を築いており、何処にも屈服はしていない。つまり、独立勢力の長であり、在野の人材ではないのだ。

現在、スルトはユウラクチョウ近辺に戦力を保っている。シブヤに比べると戦略的価値が低く、いまだに放置されていたが、そろそろ攻略の時期かも知れない。ニヒロ機構の戦力は充実しつつあり、更に拡大が可能である。問題は、マントラ軍との開戦には早いと言う事なのだ。

「調略は出来そうか」

「いや、難しいでしょう。 武力による制圧が必要かと思います」

「そうか。 では、丁度いい機会だ。 まず兵士達に集団戦術を学ばせ、それをスルトの攻略戦で実施する。 多大な成果が上がる事を期待する」

つまり、ミトラは自分の言葉の責任を取らなければならない。流石にプレッシャーが強いらしく、慇懃な反面饒舌なミトラも黙り込んだ。

会議はそれで終了した。そういえば、キウンが言っていた。この中に、敵に内通している者がいると。一体誰だろうか。

今、フラウロスがこの場にいないのは痛い。今の会議で怪しい行動をしている者はいなかったし、今後時間を掛けて探っていくしかないだろう。ただ、氷川司令には一頃言っておいた方がいい。

会議が終わり、皆が戻っていくのを見届けると、ノートパソコンを開いた氷川司令に、話しかける。

「お耳に入れておきたい事があります、氷川司令」

「何かね」

「実は、まだ未確定情報なのですが。 幹部の中に、敵に内通している者がいるという噂があります。 精度は低いので、誤報である可能性も高いのですが、認識だけしていただきたく」

「ふむ、内通者の存在か」

ノートパソコンを閉じた氷川司令は、やはり沈黙を巧く使った。オセの反応を見ているのだろう。オセは今まで、氷川司令の期待を裏切った事はないと自負している。だが、未来永劫そうだとは思っていない。今回の失敗の件もあるし、出来るだけ、忠義を行動で示しておかなければならない。姑息な事はしたくないが、しかし上に流しておかなければならない情報もある。

「忙しくなるかも知れないが、君が探りを入れてくれたまえ」

「分かりました。 それでは」

オセが振り返ると、氷川司令はもう興味を失ったらしく、再びパソコンを開いていた。それを見て、オセは僅かな不安を覚えた。この人間は、組織作りには決定的な力と構想を持っているが、部下を運用する事には欠けているのではないか。今はまだ致命的な段階ではない。だが、忠臣を失い尽くした時。この人は、破滅への道を転がり落ちてしまうのではないだろうか。

まだ、計画は次の段階には移せない。それなのに、既に不安が噴出し始めている。未来に暗澹たるものを、オセは感じた。

 

一眠りして、それから起きて。仕事の準備をしていた時の事である。異様な気配に外を見ると、ふらふら歩きながら、女神がオセの家の前を通り過ぎていった。護衛の戦力がかなりの多数着いている。

あの女神は、見覚えがある。白磁の鎧を身につけ、美しい亜麻色の髪をなびかせている。兜には羽根飾りがあり、腰には細いが美しい剣。顔立ちは良く整っていて、手には槍を持っている。そう、バルキリー達の長、ブリュンヒルドだ。

窓から見下ろすと、面白い光景が広がっていた。ブリュンヒルドはかなり機嫌が悪いようで、歩きながらワインを口に入れていた。しかも瓶からラッパ飲みである。顔は真っ赤で、ろれつは回っておらず、特に足下が危ない。それをマダがなだめすかしながら、あきれ果てているミトラについて歩いていた。苦笑してしまう。ミトラは気に入らない奴だが、ブリュンヒルドに苦労させられているのを見ると、親近感が湧いてしまった。

昨日のうちに、部下達に声を掛けて、剣術を得意とする悪魔を集めてある。精鋭部隊の規模は300騎ほどと既に決定されていて、オセが今任されている2000騎の中で中核となる。指揮も、オセ自身が執るつもりである。

あの様子だと、ブリュンヒルドの酒が抜けるまで、カグツチの日齢が一つ動くまではたっぷり掛かるだろう。もちろん説得はそれからになるし、何よりあのミトラに、機嫌を損ねた女の相手が務まるとは思えない。用意周到なミトラの事だから、女の機嫌を取れそうな道具類を多数用意はしているだろうが、プライドが高いブリュンヒルドが、ものなどで心動かすかどうか。マダも散々酷い目にあう事が予想される。ご愁傷様である。

剣の手入れを済ませると、街の西の端に。既に、兵士達が集まっていた。下級の堕天使から、強い者になると上級の者までいる。オセの部下だけではなく、エリゴールの配下や、中にはシブヤから出張してきている者までいた。試運転中のアマラ経路移動システムが、このようなところでも役立っている。

既に、名簿はできあがっていた。剣の技術別に兵士達を分けると、オセは皆の前を往復して歩きながら言った。

「それでは、剣の訓練を始める。 それぞれ、剣を手に取るように」

刀を持つ者がいる。西洋剣を抜いた者がいた。両手に剣を持つ者も。それぞれで、また兵士達を分類分け。訓練のやり方が違うからだ。一応、組織行動の訓練はしているから、皆ちゃんと剣は抜いた。

まず、剣の型から見せる。基本はこれである。オセは西洋の剣術から、東洋の古流まで、あらゆる剣術を見てきているエキスパートだ。独自にそれらを再構成はしているが、完成度の高い日本式で今回は訓練する。まず、演舞を見せる。剣を振り上げ、足捌きを駆使する。下がるように見せて進み、逃げるように見せて前に跳躍する。ひとしきり、舞う。巧い奴ほど、食い入るように見た。下級の連中は、今の動きを把握しているかどうかも怪しい。

「素振り、始め! 声を出していけ!」

兵士達が、剣を振り始めた。やはり下手な連中になると、見ていてかなり危なっかしい。しばらく剣を振らせた後、特に下手な者達を分けて、もう一度ゆっくり剣の使い方を見せていく。

「良いか、重要なのはタイミングだ。 必要な時に力を入れ、そうでない時には気張るな」

「え、ええと」

「返事は押忍!」

「お、オス!」

まずは、師弟に信頼関係を作り上げなくてはならない。

剣を振らせる。下手でもパワーがある悪魔もいる。動きが速い奴もいる。少しずつ、分類をしていって、順番に訓練を見ていく。

ほどなく、体力のない悪魔達がへばり始めた。アマラ経路で集めたマガツヒを入れた瓶を配る。上級の連中は平気な顔をしているので、次の段階にはいる。ある程度学んでいる者達は、訓練官として使いたいところだ。

今回は、特に戦力外の悪魔達を鍛え上げておく事が目的だ。前線に投入できないような悪魔にも、しっかりした剣術を仕込んでおけば、戦闘での活躍が期待できる。元々ボルテクス界の住人達は、大なり小なり戦闘経験は積んでいるのだ。後はスキルさえ覚えさせれば、充分に役立てる事は出来る。

これをしっかりこなしておけば、ミトラが失敗した場合にも、ある程度のリカバリーが容易になる。奴を助けるつもりはさらさら無いが、組織が衰退してしまっては意味がない。上級の悪魔達は、流石にオセの動きを見て、瞬く間に剣をものにしていった。何体かは特に教える必要がないと判断したので、そのまま未熟な者達の指導に回した。

カグツチの日齢が動いていく。激しい訓練を続けるが、死者が出ないように気をつける。少しずつ、下位の者達もものになってきた。後はある程度の水準にまで引き上げる。それが済んだら、連携を意識した訓練を行う。

少しずつ、素振りが様になってきた。途中で休憩を入れながら、見回る。途中、何度か伝令が飛んできた。やはりミトラは、ブリュンヒルドの説得に手こずっているらしい。無理もない話である。プライドの高い女神は、基本的に極めて扱いづらい。東京受胎が起こる前に、知り合いの悪魔使いがぼやいていた事がある。女神は基本的に扱いづらくて、苦労すると。かなり腕の良い奴だったのだが、結局その考えを終始変える事はなかった。

もちろん、オセにミトラを助ける気はない。お手並み拝見という名目だが、底意地が悪い事を、オセは自覚していた。やはり悪魔も、こういう点では人間と同じ。嫌いな相手には意図的に意地が悪い行動をしたくなるのである。ただし、本当に危険な事態の時は助けに向かうつもりである。この辺り、公私の別をつける自覚はある。

休憩を入れて、訓練を続ける。途中で、かなりの悪魔が参加を希望してきた。大規模な訓練をしていると言う事で、腕を磨きたくなったのだろう。堕天使の中には剣が達者なものも多いのだが、我流で鍛えた技にはどうしても限界がある。こういう点では、人間は評価できる部分も多い。連中が編み出した剣技の数々を学ぶため、人間に変身して剣術道場に通っていた事さえあるのだ。

ある程度の水準にまで到達した悪魔は、次々に指導側に回す。手が空いてきた悪魔達は、任務に戻す。かなり回転率が良くなってきた。下等な悪魔でも、剣技さえ磨けばいい戦力になる。どうしても身体能力で劣る場合の事を考えて、三対一で敵と戦う方法も教え込む。一番腕が良い一体が正面で囮になり、残りが左右や後ろから同時に斬りかかるのだ。それによって、かなり腕が上の相手にも勝つ事が出来る。

カグツチの日齢が、丁度一巡した頃。大規模な訓練は、ひとまず終わった。

一番剣が下手だった者達も、まず見られるレベルにまで成長した。マントラ軍がどれほど兵士達を鍛えているかは分からないが、まずこれで大丈夫だろう。簡単に蹴散らされる事は、これでなくなったはずだ。後は組織戦が上手くいけば、完全にかみ合う。

伝令が飛んでくる。オロバスだった。

「オセ様!

「どうした」

「ブリュンヒルド殿が、どうやらニヒロ機構に参加してくださるようです」

「ほう。 どうやって説得した」

それが興味深い。単純に興味が湧いてきたオセは、無遠慮に聞いてみた。

「それが。 今後好きなだけ酒を飲む事が出来るように手配する事が、条件であったのだとか」

「呆れたものだ。 それが本当に、戦女神の言葉か」

「いや、それがですね」

臆病なオロバスは、頭を掻きながら、遠慮がちに言う。此処で喋った事でも、ミトラには簡単に伝わる。組織的に上位にいるミトラを怒らせる事を避けようとしているのだろう。決して無能ではないのだが、周囲に気を使いすぎて、自滅するタイプだ。

「実は、ミトラ将軍では手に負えないと判断したらしく、マダさまが、宴会を始められまして」

「それで?」

「酒豪で知られるミジャグジ様も交えて、延々と宴会を続けられて。 氷川司令や、ロキ様まで参加させられたそうです。 それでさしものブリュンヒルド殿も酔いつぶれ、契約書にサインしてくださったとか」

詐欺同然の手口である。これが誇り高き司法神のすることか。情けなくて嘆息するオセに、更に申し訳なさそうにオロバスは言った。

「今は氷川司令も含めて、幹部の多くが地下で気持ちよさそうに眠っておられます」

「分かった。 お前は地上部隊の各将軍に伝えて、敵の侵入に備えろ」

「といいますと」

「たわけが。 この状態で敵に攻撃を受けて見ろ。 ひとたまりもないわ。 私は今から地下に行って、氷川司令をお守りする。 全く、このような醜態、敵に知られたら良い笑いものだ。 何かあったら、地下まで伝令を出せ。 すぐに向かう」

オロバスが悲鳴を上げたのは、多分オセがもの凄く怖い顔をしていたからだろう。事実オセは本気で腹を立てていた。氷川司令も氷川司令だ。ミスをするのが人間とはいえ、何もアホらしい乱痴気騒ぎに加わって、自らも前後不覚になるとは。このままマントラ軍に負けでもしたら、死んだ兵士達が浮かばれない。それに、警備が甘くなったら、折角捕らえてある創世の巫女に逃げられてしまう可能性もあるではないか。基本的に、ボルテクス界の悪魔は、人間に手が出せない。いざ逃げ出すと、捕縛するのに骨が折れるのだ。

迷路を通って、急いで地下へ。キウンも宴会に参加させられたらしく、途中の迷路は殆ど初期状態だった。もとからある罠にさえ気をつければ、何も考えずに素通りできる。警備の悪魔もまばらで、オセが大股で歩み寄ると、慌てて敬礼する者が多かった。

まずいと、オセは舌打ちした。これは暗殺の好機だ。警備は緩みきっている上に、下はらんちき騒ぎの直後である。もし幹部の誰かしらが暗殺を目論んでいたら、手もなく氷川司令は殺されてしまうだろう。

急ぐ。初期化されていても、ニヒロ機構本部の地下最深部は複雑怪奇である。焦りを抑えて、トラップを踏まないように、最大限の速度で行く。この辺りは流石に考えずに進むと危ない。途中で号令を掛けて連れてきた警備の悪魔達にも、気をつけるように何度か声を掛けた。こんなところで死んだら、本当に犬死にだ。やがて、光が見えてきた。地下の会議室で、ばかげた宴会をしたわけだ。怒りがこみ上げてくる。そして、心身を戦闘モードに切り替える。

会議室に飛び込んだ時には、既に剣に手を掛けていた。

猛烈な酒気が漂ってきた。

辺りはまさに地獄絵図。何しろ、殆ど底なしの酒豪であるマダまでもが、樽に寄りかかって眠りこけているのだ。氷川司令は頭にネクタイを巻いて、ご機嫌な様子で机に突っ伏していた。ブリュンヒルドはと言うと、かなり服を着崩して、幸せそうに寝息を立てていた。前には酒瓶が林立していた。契約書もある。オセはそれを取り上げて、あまりにも酷い筆跡に目眩を覚えた。彼女の字が下手だという話は聞いた事があったのだが、酒が入っているとはいえ、これではミミズがのたくった跡だ。

他の幹部達も酷い有様である。ミトラは術によるものか、頭の上に花をたくさんさかせて、自分の尻尾を噛みながら床で寝ていた。額には漢字で肉球とか書いてある。意味が分からない。白い巨大な蛇であるミジャグジさまは側にいるロキに文字通り絡んだまま寝ていた。ロキは大蛇にぐるぐるまきにされつつも、片足を机の上に、暢気に椅子に寄りかかって大いびきである。キウンはなにやら赤い三角帽子をかぶせられて、天井からつり下がっていた。エリゴールは隠し芸の最中だったらしく、棒を大事そうに掴んで、机の上で大の字に寝ていた。辺りにはたくさんの皿が散らばっている。どれも景徳鎮だ。割れていないのが幸いである。

氷川司令は死んでいない。しかし、ある意味それ以上の惨状であった。大きく嘆息が漏れた。途中、呼び集めた兵士達は、会議室の外で待たせる。このような醜態、見せる訳には行かない。

不意に、氷川司令が目を覚ました。特徴的な髪型がずれ、大きく額が露出している。鬘のようだが、実は違う。髪を額までそり上げて、伸ばした部分を前にたらしているのだ。よく分からないのだが、氷川司令独特のファッションである。

「おや? もう宴会は終わったのか」

「お目覚めですか?」

ひくひくと頬が震えているのが分かった。氷川司令はぼんやりとオセを見ていたが、やがて現状に気付いた。慌てて周囲を見回し、自分の格好に目を剥く。頭のネクタイを取ると、首に巻き直す。酒が入るとバカになる人間がいるのは重々承知だったが、ちょっとこれは悲しかった。

「そうか、騒ぎを聞きつけてきてくれたのか」

「ストレスがたまっていたのは分かります。 しかし、発散の方法はわきまえて、二度とこのような態は晒さないでください。 部下達の士気に響きます」

「言葉もない。 ブリュンヒルドの底なしぶりに、つい私も飲まれてしまった。 あの女は化け物のように強いな。 マダ将軍でさえ、ついて行けなかった」

「分かりました。 とりあえず、こやつらは、私が叱っておきます」

二日酔いで動きが鈍くなっている氷川司令を、寝室へ連れて行く。此処は十を超える層の術による結界と、最強の物理的防壁の、複合セキュリティに守られている。高位の悪魔が攻めてきても、簡単には破れない。

ついでに、創世の巫女の部屋を覗いてみる。奴はふて寝をしていて、こっちには気付いてもいなかった。床には相変わらず「精神系」とやらの本が散らばっていて、雑然としている。どうやら騒ぎに気付きもしなかったらしい。幸いな事である。

氷川司令を休ませた後、銅鑼を外で待機していた部下共に用意させる。氷川司令のコレクションの一つで、古代中国で攻撃の合図に使われた品だ。そして、おもむろに、叩きならした。

凄まじい轟音が密室にとどろき、前後不覚に寝こけていたあほう共が飛び起きる。オセは目を光らせながら、一喝した。

「起きたかっ! あほう共っ!」

見るも哀れな狼狽が起こった。ブリュンヒルドは蒼白になって正座したし、ミトラは慌てて頭の花を引っこ抜いて自慢のたてがみを半分くらいむしり取ってしまった。キウンは飛び上がって天井に突き刺さり、ミジャグジさまはパニックになってロキの頭を飲み込みかけた。ロキは窒息しそうになって痙攣し、エリゴールは頭から床に落ちてそのまま再び気絶した。それからたっぷりカグツチの日齢が二つ動くほどの間、オセは説教した。

ミトラさえしゅんとして説教を受けていた事から見ると、どうやらこの中には暗殺者はいなかったらしい。

それが不幸中の幸いであった。

 

自室でふて寝をしていたオセの元に、来客が訪れたのは、あの忌まわしき宴会事件からしばししての事であった。流石にやる気が著しく削がれたオセは、訓練が一通り終了した事もあり、何かあったら連絡するように言い残すと、自室で寝ていたのである。

食肉目の中で、特に睡眠を欲する猫科の豹を模しているオセは、眠る事が悪魔の中では例外的に好きである。欲求が全くないので殆ど眠る事はないのだが、ごくごくたまに楽しみの一つとして眠る。今回は大きなストレスを感じたので、人間で言えば酒を飲むような感覚で、眠っていたのだ。

だから、何かの接近に気付いて目が醒めた時には、多少機嫌が悪かった。半身を起こして、目を擦りながら気配を探る。何と、ブリュンヒルドだった。

窓から顔を出すと、きちんと正装した女神と目があった。前に遠目に見た時も感じたが、やはり美しい女神である。戦士の肉体を持ちながら、美しくなる事は可能なのだ。見下ろしていた形だったので、失礼に当たると思い、一階に下りる。一応ブリュンヒルドは正式にニヒロ機構に仕官し、しかも上級指揮官待遇である。実力から言えば妥当なところであり、失礼がないように接しなければならない。寝癖をなでつけ直すと、玄関から出る。

「何用か、ブリュンヒルド殿」

「オセ将軍」

しばしためらった後、ブリュンヒルドは言う。何だかしおらしくて気味が悪い。何か企んでいるのかと思って、構えてしまった。

「この間は、醜態を見せてしまって、すまなかった」

「それならば、もう済んだ事だ。 誰でも心を折られればああなるとは聞いていたが、まさか貴公ほどの女神でも、そうなるというのは意外であったな。 今後同じ事をしなければ、それでいい」

「そうか」

気味が悪いと思った理由はもう一つある。今日のブリュンヒルドは酒が全く入っていないのである。とぐろを巻いているブリュンヒルドばかり見ていたので、新鮮と言うよりも異質である。ネコであったら尻尾を逆立てていたかも知れない。

「私は、今まですっかり意気消沈していた。 だが此処でなら、少しは力を振るえるかと思い直した。 オセ殿のような方もいるし」

「私の力など微々たるものだ。 氷川司令の理想の元、新世界をつくる一助になってくれれば、それでいい」

「そうか。 やはりオセ殿は立派な方なのだな。 この組織に入って良かった」

土産だと言って、ブリュンヒルドは小箱を押しつけて帰っていった。やはり何を考えているのかよく分からない。顔を赤らめていたのは何かの演技か。いわゆるハニートラップという奴なのか。

小箱を慎重に開けてみると、中には高価な宝石類が幾つか入っていた。何か怪しい術でも掛かっていないか、念入りに調べたが、特にそんな事もなかった。

よく分からん。オセはそう思った。

 

2,力の論理

 

琴音がカズコを伴って、ふらりとイケブクロを訪れたのは、丁度静天にカグツチがさしかかった時であった。

最近、ニヒロ機構の発展が著しく、ギンザの街が日々拡大している。機械化が進み、吹き込んでくる砂は一日おきに排除されている状況だ。住処にしているビルに、徐々に近付いてくる街。ニヒロ機構は著しい成長の中にある。だからこそに、その対立組織であるマントラ軍の本部であるイケブクロを一度見ておこうと思ったのだ。

ニヒロ機構に、時々サマエルは足を運んでおり、マダなどからマントラ軍発展の状況は聞いていた。だから、実情を目で確かめておきたいと言う事もあった。情報収集に関しては、クレガは何も言わない。打ち明けてくれてから、ぐっと態度が柔らかくもなったような気がする。

ニヒロ機構は思ったほど危険な組織ではないような気がすると、やはりサマエルは思う。それでも、悪魔の集団である以上、信頼しすぎるのは危険だ。襲撃を受けた事もあるし、オセだってしびれを切らして襲ってくるかも知れない。だから、避難訓練は何度もした。いざというときの集合場所は、既に決めてある。これでもサマエルは、砂漠を毎日歩き回って、地形やビルなどの存在は確認しているのだ。フォンもクレガも歴戦の戦士であるし、ティルルやキーニスを守りきる事は出来るだろう。

砂漠を越えて、少し小高い丘にたどり着いた。植物は全くないのだが、この辺りは地面がある程度湿っていて、砂漠化はしていない。そして、丘を越えると、見えた。

薄暗い静天でなければ、声を上げていたかも知れない。

かっての東京都庁を思わせる、巨大な建造物がイケブクロに完成していた。凄まじい高さである。しかも見たところ、石造りだ。その周辺には広大な街が広がっていて、多くの巨躯の悪魔達が行き交っているのが見えた。それに混じって、小さな人間のような姿も見える。あれが、マネカタだろうか。

カズコは冷淡にイケブクロを見ていた。噂によると、彼処でマネカタ達は奴隷として扱われているという。それなのに、この冷淡さはいかなる事なのだろうか。

カグツチが脈動し、光が強くなり始める。静天が終わったのだ。一旦離れようと思ったサマエルだったが、カズコを後ろに庇って手にフランベルジュを具現化させる。いつのまにか、後ろに回り込まれていたのだ。

「見かけない悪魔っスね」

「貴方は?」

数体の鬼神を引き連れて現れたのは、同年代に見える女の子の悪魔だった。ダメージのあるジーンズをはきこなす野性的な容姿で、目には鋭さがある。腰には二振りの剣を帯びていて、口元に見える八重歯はやたらに鋭かった。肌は褐色で、所々に傷が治った跡があった。非常に健康的な雰囲気がまぶしい女悪魔である。それでいながら、色気は妙なほどにまで無い。

「ニヒロの偵察要員、にしては様子がおかしいスね。 何でマネカタを連れて歩いているんスか?」

「最近発展著しいマントラ軍とイケブクロを、一度見ておきたくて、此処に来ました、サマエルの琴音ともうします。 よろしくお願いします」

「やはりニヒロの手先か!」

「まあ待つっス」

部下達らしい、自分の倍以上はありそうな鬼神達を、軽く制してみせる女悪魔。かなりの使い手と見えた。殺気は感じないのだが、そのまま逃がしてくれそうもない。いざというときは、カズコだけでも何とか逃がさなくてはならない。

「あたしはヤクシニーのリコ。 それであたし達は、マントラ軍筆頭将軍トール様配下、親衛部隊の者っスよ。 悪いけれど、このまま逃がす訳にもいかないから、着いてきて欲しいんスけど」

「どうする、つもりですか?」

「このマントラ軍では、能力が全て。 武力を示すか、或いは何かしらの能力で組織に貢献すれば、後はちょっと取り調べを受けて貰えば、無罪放免になって街を歩き回る事も出来るスよ」

噂通りの組織だと、琴音は思った。

それに、トールという名には聞き覚えがある。ニヒロ機構で、悪魔達が噂しているのを何度か耳にした。兎に角恐ろしい使い手で、拳で相手を潰す事にこだわるのだそうである。戦いを好み、己が傷つく事をまるで厭わず。戦って、生きて帰る事が出来た悪魔は殆どいないのだとか。

何だか、身近な誰かに似たような人物がいたような気がするのだが。思い出す事が出来ない。幾つか断片的な単語は記憶に浮き上がってくるのだが、それ以上の記憶整理は無理だった。

ともかく。この状態では、カズコを逃がす事さえままならない。あのリコという悪魔の実力は未知数だし、鬼神達だって決して弱くはないだろう。何しろ、トール配下の精鋭だというのだから。

カズコの方をちらりと見たが、別に怯えるでもなく、じっとリコを観察していた。この子は毒舌家だから、下手に相手を刺激するような事を言わないか心配だ。徐々に、カグツチの光も強くなっていく。冷や冷やする琴音の前で、カズコはリコという悪魔に、正面から言った。

「おばさん、ちょっと良い?」

「お、おばさん!? あたしがッスか!?」

「ご、ごめんなさい。 この子、ちょっと口が悪くて」

「コトネは黙っててよ。 聞きたい事があるんだけど、いい?」

唖然としている鬼神達の前で、カズコは堂々と言う。この状況で、何という命知らずな。相手の気分次第では、二人とも即座に攻撃対象となるのである。琴音は心臓が止まりそうだった。実際、リコは野性的で純真な分若々しい。多分、琴音よりは年下に見えるはずだ。それをおばさんとは。いくら何でも酷いと、琴音も思った。

「フトミミってマネカタを探しているんだけれど、知らない?」

「え? フトミミ、ねえ。 さあ。 気の毒な話ではあるけれど、この街では、マネカタは消耗品スからね」

「何だ。 親衛隊って言う割には、無知なんだ」

続けての暴言に、場が凍り付く。それきり、カズコは興味を失ったらしく、リコの方を見ようともしなかった。

「お、お前!」

「大人げないから止めるっス。 まったくもう」

度肝を抜かれていた鬼神の一人が、流石に憤然とするのを、リコが嘆息しながら止める。ぺこりと頭を下げるサマエルに、リコはもう一つため息。今回は、カズコと、教育が出来ていない琴音が一方的に悪い。

「どういう関係かは知らないけれど、マネカタが悪魔相手に喧嘩を売るのは、止めさせた方がいいっス。 子供の躾は、保護者の責任スよ」

「すみません。 根は悪い子じゃないんです」

街に下りる。カズコに、側から離れないようにと、言い聞かせた。頷いてくれたのは、此処の街でのマネカタが、非常に辛い扱いを受けていると身に染みているからだろうか。

イケブクロの街は、かなり雑然としていた。道も幅も一定していないし、何よりも全体的に汚い。清潔な空気が満ちているギンザとは、雰囲気が根本的に異なる。粗末な服を着ているマネカタ達が行き交い、時々むち打たれては悲鳴を上げていた。基幹的な労働を全てまかなっている印象だ。そして、彼らからマガツヒが飛び散ると、主に下級の悪魔達が群がっていた。キャッキャッと、とても楽しそうな声がした。なるほど、これは消耗品だ。所々に見える泥の塊は、マネカタの末路だろうか。

全体的に秩序がないが、その代わりにエネルギッシュな街である。見れば非合法の市も立っているようであり、マガツヒを詰めた瓶を基幹に売り買いをしているようだ。見るからに強そうな悪魔は、堂々と歩いていた。それに対して弱そうな悪魔は、もの凄く肩身が狭そうである。

強ければ何でも出来る。何かしたければ強くなれ。ハイリスク、しかしハイリターン。それがこの街の本質なのだろうなと、琴音は思った。そして、クレガが言っていた意味が分かった。マネカタ達は皆臆病そうで、非常にびくびくしていた。気が弱く、虐げられるだけの存在。カズコとは性格が正反対だ。

カズコは此処に、フトミミというマネカタを探しに来たのだろうか。琴音の上着の袖を掴んでいるカズコを見ると、やはり少し恐怖があるようだ。それを見ると、あまり厳しい事は言えそうにない。この子は変に賢すぎるのかも知れない。だから、叱ってもあまり意味はないような気がするのだ。自分が悪い事は分かっているのに、きちんとすることが出来ない。中途半端に賢い事が、不幸を招く事は多い。さて、どうやって怒るべきなのか。琴音には分からない。

ビルに入った。窓にはガラスが全く入っておらず、剥き出しのコンクリートが荒々しいビルだ。規模は四階建て。一階部分は鬼神達の詰め所になっているらしい。巨躯の鬼神達に混じり、古代日本風の服装に身を包んだ、如何にも武人然とした男性がいた。鬼神の一人なのだろうか。リコと同じく、背は人間並みと低いが、とても強そうだ。その後ろには、薄着でエキゾチックな格好をした、大人の色気漂う女性がいる。背は男性より少し低いくらいで、リコよりちょっと高い。雰囲気から言って、夫婦だろうか。二人を含む六名ほどが円座を組んでいて、中央にある机の上に地図を拡げて、なにやら話し合っていた。

「ただいま戻りました」

「おかえり」

男の人は、リコにそれだけ応えると、ただ無言で此方を見た。気難しく、なおかつ他人にも自分にも厳しそうな人だ。観察されているのが分かり、琴音はちょっと緊張した。女性がにこりと笑みを浮かべたので、琴音は条件反射的に頭を下げていた。

「その子達は捕虜?」

「街の郊外にいたので、捕まえてきた所っスよ、ウズメ先輩。 一旦手配書と照らし合わせて、もし怪しいところがないのなら、それから能力判断。 最後に登録をして、おしまいって所っス」

「サマエルの琴音です。 此方はカズコ。 あの、よろしくお願いします」

「私はサルタヒコ。 其方は妻のアメノウズメだ。 リコの事は知っているな」

すらすらと応えると、サルタヒコ氏はしばし考え込み、それから喋る。元々喋るのが嫌いで、必要な言葉を吟味してから喋っている雰囲気だ。

「ウズメ、二人の尋問をしておいてくれ。 リコ、此方に来て欲しい。 新参の飛行悪魔三十騎ほどを、トール様配下に組み込む話が来ていてな。 訓練の行程と、指揮系統を、今検討しているところだ」

「はい、あなた」

「ラジャっス」

ウズメという女性が立ち上がる。アメノウズメという名前は、聞いた事がある。日本神話の、有名な女神である。弟神スサノオの暴虐に、天の岩戸に隠れた天照大神を引きずり出すため、岩の前にてダンスをした存在。ちょっとカズコを見たのは、それがいわゆるストリップである事を思い出したからだ。見た感じ、さほど戦闘能力は高そうではないが、術が専門なのだろうか。

ウズメに数体の鬼神が付き従って、別のビルに連れて行かれる。隣に立っている、五階建てのビルだ。一階部分しか整備されておらず、所々血痕があった。嫌な予感がする。来客用らしいソファに座るように促され、ちょっと肩身が狭い思いをしながら、まず自分が。特に仕掛けがない事を確認してから、カズコも座らせる。鬼神の一人が、てきぱきと茶を出した。茶を口にした途端、ウズメの顔色が露骨に変わる。同時に、今までの柔和な雰囲気が吹っ飛んだ。

「これはどういう事かしら。 日本茶の適正温度は教えたでしょう?」

「すみません。 まだ慣れていなくて」

「まあ良いわ。 ただ、来客用のものは淹れなおしなさい」

ぺこぺこ頭を下げながら、鬼神の一人が茶を淹れ直す。鬼神が怯えきっているのは、琴音の目からもよく分かった。この人は、旦那さんの前では優しくとも、部下達にはそうではないのだろう。一種の人材運用術ではある。

今度はお目にかなったらしく、琴音とカズコの前に茶が並んだ。確かに美味しい茶だ。どうしてか、琴音は茶の適正温度や、味についての判別が着いた。その理由が、やはりよく分からない。

手配書が運ばれてくる。ウズメは素早く目を通していき、やがて名前も人相も一致しないと結論を出してくれた。良かった。似たような顔と名前の持ち主がいなくて。心底琴音はほっとした。続けて、尋問が始まる。名前の登録の後は、住んでいる場所や、得意とする能力など。

琴音も、ここに来るまで戦闘を避け切れた訳ではない。新しい住処を守るためにも何度か戦ったし、そのたびにマガツヒを食べた。絶対にマガツヒを口に入れたがらなかったクレガ以外の全員が、マガツヒを口にしている。皆、自分が弱い事を自覚していて、それで強くなりたいのだ。その過程で得た能力も、少しずつ増え始めている。それに伴い、自分の中のもう一人が出てくる頻度は、減りつつあった。

一通り話が終わったところで、ウズメが立ち上がる。鬼神の一人を、どこかに伝令にやった。雑然としている街なのに、この部隊だけはとても統率が取れている雰囲気がある。トールという将が、如何に良く部下達を鍛えているかが分かる。

「ええと、次は」

「リコと戦って貰います」

「え?」

「言ったでしょう。 マントラ軍では、力が全て。 貴方のスペックが申告通りのものなのか確認するには、戦闘が一番なの」

やはり、そう来るとは思っていた。だが、回避できるのではないかという望みもあったのだが。

あの子はかなり強いだろう。そして、此処での戦いで、手加減などはあり得ない。自分が死ねば、カズコは行き場を失う。此処から生きて帰る事は不可能だ。

覚悟は決めていた。だから、それを再確認する。

弱い者達を守るために、強くなりたいと願ったのだ。それには、多くの犠牲がいる。分かりきっている事だ。

それには、自分も含まれる。

琴音は顔を上げた。ウズメが、眉をひそめたような気がした。

「分かりました。 今すぐ、戦いますか」

「ふふふ、そう焦らない。 場所は既に用意してあるのよ」

ウズメの笑みは、女性である琴音から見ても、妖艶だった。それが、今後の容易ならざる展開を、琴音に予想させたのだった。

 

マントラ軍の本営は、非常に豪快な建物だった。

入り口からして、凄まじい。鬼神達が、いかめしい鎧と恐ろしげな武器を持って、守衛に立っている。身長が四メートルに近い者も珍しくない。顔つきも巌のようで、笑顔を浮かべるところが想像できなかった。

建物も石造りで、しかも飾りが全くない。剥き出しの石が切り出されて使われており、場所によってはビルの残骸が大胆に建材に使われていた。それなのに、近代文明の産物であるはずのエレベーターがあるのはアンバランスで面白かった。途中、すれ違う鬼神の中には、唐風の鎧を着た者もいた。リコとサルタヒコが礼をしていた所からも、上級仕官だろう。

「あちらは、将官の方ですか?」

「広目天様。 四天王のお一人ッスよ」

聞いた事がある。仏神の中で、四天王と呼ばれる強力な存在の一柱だ。漫画などで良く出てくる四天王の根本的語源となった存在である。東京ではそれぞれに信仰が盛んだったが、特にその中でも、軍神毘沙門天はかなり信仰が篤かったはず。

エレベーターに乗る。非常に天井が高いのは、巨躯の鬼神が乗る事を考えているからだろう。地下へ下りる。地下は四階まであるらしく、そこで試験を行うのだそうだ。エレベーター以外にも、階段も用意されていて、普通はそちらから地下へ下りるのだそうである。そうなると、特別待遇という訳だ。それが良いかは、話を別として。

エレベーターが止まる。同時に、カズコの腕を、サルタヒコが引いた。小さな手が、服の袖から離れる。流石に、カズコの顔に、恐怖が浮かんだ。

「終わるまで、預かる」

「少し粗相をするかも知れませんが、小さな子です。 乱暴は、しないでください」

無言でサルタヒコが頷く。この人は信頼できそうだと、琴音は思った。護衛の鬼神達に案内されて、狭い通路を歩く。サルタヒコとカズコは、途中で脇道に逸れた。照明は薄暗く、辺りには血痕があった。

悲鳴が、通路の前の方から響いてくる。ほどなく、担架で運ばれてきた。堕天使らしい。体を半分ほど食いちぎられており、傷口からはマガツヒが迸っていた。あれでは、長くは保たないだろう。

死に鈍感になりつつある自分がいる。酷い話の筈なのに、死んだら喰われるのが当然の世界にいて、感覚が麻痺しつつある。ようやく悲しいなと思え始めたのは、あの光景を見て、たっぷり十秒以上経ってからだった。ニヒロ機構で、すれ違った堕天使だったのかも知れない。そう思うと、もう少しはやりきれない気分になってきた。

「ケルベロスの奴、相変わらず乱暴だなあ」

「ケルベロス、ですか?」

「この間、ゴズテンノウ様がとっつかまえた地獄の番犬スよ。 捕虜を使って性能実験をする時に使うんスけど、相手が弱いと見ると、もう手加減無し。 すぐに襤褸雑巾。 誇り高い奴だから、トール様や毘沙門天様とか、明らかに自分より強い奴の言う事しか聞かないし、面倒な奴スよ」

何だか、それは嫌だなと、琴音は思った。弱者を悪と見なす風潮は、どうしても好きになれない。

通路の先に、光が見えた。歓声が聞こえる。これから殺し合いをするのだと、琴音は改めて思い知らされる。しかも、快活に隣で笑っている、この子とだ。やりきれないと思った。本音が漏れる。

「貴方は、平気なんですか? こんな事を、毎日繰り返していて」

「……コトネさんこそ、良く生き残れてきたもんスね。 この世界では、強い者が法であり正義なんだって事は、分かってる筈ッスよ」

それが嫌だから、琴音は抗っている。だが、世界を覆う事実は、確かにリコの言うとおりなのかも知れない。

二人並んで、光の下に出た。

マントラ軍本営地下四階は、それそのものが、巨大な闘技場になっていた。

荒々しい混沌的文化の集積。それがこの場所だ。捕虜の拷問。或いは、新たに加入した戦士の能力お披露目。或いは幹部達の戦闘力披露。もちろん、新しく開発された技術などの、実験もあるだろう。

まるでローマのコロシアムのような作りだった。今日は観客はまばらなようだが、それでも100を軽く超えているだろう。かって日本に数多くあった野球場に比べると、観客席の規模は小さいが、しかし競技スペースはほぼ拮抗する。観客の中に、カズコの姿を見つけた。すぐ側に、むっつりと仏頂面のサルタヒコが座っている。心なしか、サルタヒコがカズコを心配しているように見える。気のせいだろうか。

闘技場の中央には、銀白色のライオンのような悪魔がいた。図体はライオンより更にでかい。更に目つきは鋭く、口元は鮮血に染まっていた。近くで見ると、たてがみは獅子に似ているが、顔つきは犬に近い事が分かる。若干鼻は低いが、それでも狼の特徴があった。

「ケルベロス、邪魔だから退くっスよ」

「私に指示をするな。 私は、此処で力を見極めろと言われている」

すっと眼を細めたリコから、殺気が迸る。この子は、戦士としてかなりプライドが高いのかも知れない。

「それはあたしの仕事だって言ってる。 いいからさっさと出て行け!」

「いやだね。 盛りが付いた子猫が、吠えたところで何が出来る。 何なら、力づくでどかしてみせればどうだ」

空気が、殆ど一瞬で帯電した。この巨大狼も相当な使い手だと、琴音には一目で分かった。それに何だろう。何処か懐かしい感じがする。

リコが視線を送った先には、唐風の鎧を着た巨躯の男がいた。四天王の一柱であろうか。ただ、さっきの男に比べると、若干軟派な雰囲気がある。手には大きな弦楽器を持っていて、周囲には同じように楽器を持った下半身が山羊の男達を侍らせていた。

「持国天様、もういっそ三つどもえ戦で良いスか? 流石にあたしも、この犬、そろそろ勘弁ならないんスけど」

「いいだろう。 適当にやっちゃってくれるかい?」

そういって、弦楽器をかき鳴らす。後ろの山羊たちが、それにあわせて楽器を鳴らした。何だか、即興の楽団みたいだ。音楽を司る神なのだろうか。彼が視線を後ろにいた山羊男の一人に送ると、頷き、巨大な砂時計を取り出す。ただ、中間層はかなり大きめに取ってあり、砂が落ちる速度はかなりのものだろう。つまり、あまり多くの時間を計るものではない。

「この砂が落ちきるまで、戦い抜けばオッケー。 もちろん殺してもいいからね。 術も、汚い手も、何でもあり。 あ、観客席とかこっちに攻撃を飛ばしてもいいよ。 敢えてボクを殺そうとしてもいい。 もっともその場合は、ボクも反撃するけどね」

「分かりました」

だが、それでも、これからカズコを守りながら、無数の追撃部隊と交戦するよりは遙かにマシだ。だから、琴音はこの条件を受け入れる。それに、拒否権などはない。此処で死ねばカズコも死ぬと思えば、戦う事にためらいは感じない。悲しいとは思うが。

砂時計が、ひっくり返された。同時に、リコとケルベロスが、バックステップして距離を取った。琴音も同じく飛び退いて、フランベルジュを具現化させる。無駄に命を奪う事もない。防御を主体に、最後まで乗り切る。

そう思った瞬間だった。狼の口から、何かが漏れている。それが呪文詠唱だと気付いた時には、既に遅かった。

「我求めるは原初の炎。 蹂躙し、焦がし焼き尽くし、獣を退けし赤き剣。 そは人のもの知識なり。 プロメテウスが授けし、最強の剣よ、今此処に具現化せよ!」

膨大な魔力が、闘技場に充満する。そして、狼が、術の起動に必要な言葉を放つ。

「マハ・ラギ・ダイン!」

闘技場が、紅蓮の炎に包まれた。

 

闘技場の周囲に張られている防御結界が、カズコには見えていた。それなのに、思わず腰を上げかけたのは何故だろうか。闘技場が吹っ飛ぶような火力が、展開されて。淡く光る幕によって、それが押し返される。カズコの手を引いたのは、サルタヒコだった。

「座れ。 立ち上がると、むしろ危ないぞ」

どうしてか、その言葉には逆らいがたいものがあった。妙な暖かみを感じるのだ。

それに、もう一つ分からない。どうしてだろう。あの時。フトミミが、マネカタの未来のためだと言って。自分を見捨てた時に。何もかも吹っ切れたと思っていたのに。

どうして、あのお人好しは、こうも心をかき乱すのか。

剣戟の音。膨大な煙が、晴れてくる。見れば、刃を交えている影あり。炎の術を放ったケルベロスが、繰り出される双刀の一撃を、下がりながら爪でいなしていた。剣を振るっているのは、あいつじゃない。リコだ。

「そんなもので、このあたしを、倒せると思ったかあっ!」

振り下ろされた双刀を、飛び退いて避けようとするケルベロスに、体を旋回させたリコが回し蹴りを叩き込む。もろに顔面に入ったそれが、ケルベロスを吹き飛ばした。リコは額を手の甲で乱暴に拭う。体中火傷しているが、戦闘に支障はなさそうだ。あの火力を、どう耐え抜いたのか。血の混じった唾を吐き捨てると、ケルベロスは余裕の体で四肢を踏ん張り、立ち上がってみせる。

「ほう。 本命は体術か」

「さあてね。 術も使えるかも知れないっスよ」

「それは確かめてみれば分かる事だ」

大きく息を吸い込むケルベロス。術だけではなく、体内で火力を生産できると言う事か。悪魔らしい、無茶な能力である。だが、それを吐き出す前に。真横から放たれた光の弾が、ケルベロスの側頭部を直撃した。今度は爆発が巻き起こり、舌打ちしてリコが飛び退く。煙の中から現れたのは。琴音だった。

指先から、魔力放出の余波である、煙が立ち上っている。全身焼けこげているが、まだ戦える様子だ。焦げ付いた、砂漠で拾った上着を脱ぎ捨てる。そして、地面にフランベルジュを突き刺した。

向き合わせた掌の間に、光が集まる。それが見る間に巨大化していく。やがて、手を頭上にさしのべる。光の弾のサイズは、二メートルを超えていた。

無言で、リコが双剣の一つを投げつける。更に、煙を切り破って現れたケルベロスが、口から炎の息を吐きかける。いや、それは炎の息などという生やさしい代物ではない。赤いレーザー光線というのが、正しい形容であったかも知れない。

最初に、琴音に到達したのは、リコの刀だった。一本が琴音の肩を掠め、盛大に血をしぶかせる。もう一本が、左足に突き刺さる。避けようともしない。致命傷にならない事を、知っているからか。

つづけて、ケルベロスのブレスが炸裂。ただし、狙いは、琴音ではない。その頭上の、光の弾であった。

猛烈な爆発が、琴音を中心に巻き起こる。思わず、カズコは目を背けてしまった。何故だ。何をこうも怯えている。剣戟の音が響き始める。ブレスの総力斉射を行って、軽い虚脱状態になったケルベロスに、即座にリコが仕掛けたのだろう。踵落としを叩き込むリコだが、浅い。はじき飛ばされて、壁に叩きつけられる。だが、躍り掛かろうとしたケルベロスを、鋭く蹴り上げた。その手には、また刀が出現している。術で作り出したのだろうか。

二人同時に、今の爆発の後に視線をやったのは、何故か。

飛来した刀。慌ててはじき返すリコの頭上に、両手拳をあわせて振るい上げた琴音の姿。どういう事だ。振り下ろされた拳に、対応しきれない。地面に叩きつけられ、バウンドし、悲鳴を上げたリコ。着地と同時に、フランベルジュを具現化させる琴音の体は、少なからず傷ついている。

「どういう事だ? あの爆発の中で、無事だったというのか? いや、違うな」

横殴りの一撃を、前足を上げて防ぐケルベロス。一瞬の均衡を、琴音が破る。フランベルジュを手放し、体を旋回させた。回し蹴りか。そう思ったのだろうか。ケルベロスが態勢を低くし、それが失敗の元となった。琴音の手に、光が収束していた。それを隠すために、わざと大げさな旋回をして見せたのだ。

光弾が、伏せたケルベロスを直撃。巨体が、冗談のように吹っ飛んだ。

同時に、横から飛び掛かったリコが、琴音を組み伏せる。

「なるほど、あの時大げさな術を用意して見せたのは、幻覚だったッスか! それで、本体は土の中にでも潜んでいたと」

「結構力使うんですよ。 最初の術の防御でも、かなり消耗しましたし」

リコが拳を鳩尾に叩き込むが、琴音は抵抗しなかった。いや、カズコには分かる。もう、力を使い果たしている。そして。

鐘が鳴った。見れば、砂時計の中身が、綺麗に落ちきっていた。

 

「そこまで。 いやー、なかなかやるねえ。 みんな強いのは分かったから、そろそろ切り上げてくれるかな」

「ちっ!」

陽気ではあるが、しかし有無を言わせぬ雰囲気の持国天の言葉に、リコは乱暴に手の甲で顔を擦りながら、琴音の上から退いた。咳き込みながら立ち上がる琴音に、ゆっくりケルベロスが歩み寄る。

「最初は守りきるつもりだったな。 攻撃主体に切り替えたのは何故だ」

「守り抜けるような相手ではないと思いましたから」

「……それと、もう一つ。 お前の動き、戦いの知識があるな。 集団を相手にするとなると、合気道……いや違う。 何だ?」

「それは、古流の兵法のものだ。 古流では、剣を使うだけではなく、相手を制圧する為の術を、様々に学ぶ。 中には、集団戦での立ち回りもある。 今の行動は破天荒に見えたが、虚実を織り交ぜた、兵法の集団戦術を応用したものばかりだ」

不意に場に割り込む声。その声。聞き覚えがある。琴音が顔を上げた先には。

四メートル近い巨躯の、如何にもまがまがしい容姿の男がいた。顔は半ば兜に隠れていて、腰にはハンマーをくくりつけている。全身には傷の跡が無数にあり、そしてあくまで肉体を誇示するように、武具は殆ど着けていない。腰に巻いている布や、肩当てなど、最低限のものばかりである。

「久しぶりだな。 白海琴音」

「その声! まさか、徳山先生ですか!?」

記憶の一部がつながる。

リコが慌てて、琴音と巨神を交互に見る。この反応、間違いない。この男が、トール。そして。

「トール様、この子と知り合いですか?」

「そんなところだ」

そうか。やはりこの人が。そして、自分と同じように。

まて。いや、それだけではない。何か、もっとおぞましい何かと記憶がつながろうとしている。一体何だ。何を、自分は拒否しようとしている。何を、知ってしまったというのだ。

「少し話したい事がある。 後で、俺の部屋に来るがいい」

逆らえなかった。この人には、とてもかなわない。もしその気になられたら、数秒で叩きつぶされてしまうだろう。リコやケルベロスとは完全に役者がちがう。いや、此処にいる三人で戦いを挑んでも、とてもかなわないだろう。

恐ろしく冷たい目だ。昔と同じ。いつだか分からないが、自分はこの存在を、師匠と呼んでいた。どうしてなのだろう。そして、それは、とても悲しい記憶とともにあったような気がするのだ。

兎に角、戦いは終わった。競技スペースはまだ使うと言う事で、外に出た。殆ど力を使い切った琴音は、虚脱感に全身を掴まれながらも、何とか休憩室まで辿り着く。其処では、サルタヒコがカズコを連れて待っていてくれた。

カズコが走り寄ってきた。口が悪いこの子も、今ばかりは真剣に心配してくれていた。それが琴音の心を、僅かながら楽にしてくれた。

「大丈夫?」

「うん。 カズコは、酷いことされなかった?」

「大丈夫。 怪我も暴力も慣れてるから。 それにあの人、乱暴しなかったよ」

安心したからか。カズコから大量のマガツヒが漂い始める。ありがたく頂く事にした。漂う赤い光を、つかみ取って口に入れる。今は、少しでも魔力を回復させなければならない。リコはまだ少し余裕があるようだった。刃を交えてみた感触だが、一対一の勝負なら、琴音より若干実力は上だろう。ケルベロスは、更にもう一枚上手の印象だった。消耗しあったところに奇襲を掛けなければ、とてもああは行かなかっただろう。

さっきまでの琴音の戦術は、古流の兵法に基づくものだ。先ほどトールが指摘したように。古流の兵法は、刀だけではなく体術、それに集団戦での心得まで学ぶ総合的なものだ。それらを応用して組み合わせれば、戦い方に幅は出る。戦いは嫌いでも、今はそれらを練り込まなければ、生き残る事は出来ないのだ。ただし、現在の武術と違って実戦で学ばなければ分かりづらい部分も多く、研鑽が必要になる。琴音は喰らった悪魔の経験を吸収する事で、それを補っていた。皮肉な話だ。あれほど嫌だったのに。力になっているのだから。

リコが休憩室に、少し遅れてきた。タオルで頭を拭いているのは、相当に消耗したからか。

「肩を貸すッスよ。 どうせ、同じビルに一旦帰るんだし」

「有難うございます」

「……その子、タダのマネカタじゃあ無いッスね。 そんな膨大なマガツヒが出るの、初めて見た」

ひょいひょいと、数粒のマガツヒをリコが口に入れる。ちゃっかりした子である。優れたところよりも、劣ったところに、人間味を感じる事がある。琴音が初めてリコに好感を覚えたのも、この時であったかも知れない。

帰り道は、三人で並んで談笑しながら行く。リコはトールの事が好きなようで、とても嬉しそうにその強さを語るのだった。

 

3,闇の中から浮かび上がるもの

 

最初に顔を出したのは、数匹だった。だから、あまり気にとめる者はいなかった。基本的にマントラ軍支配下の街では、知らない相手はいて当然だからだ。それが、致命的な事態の、第一歩だった。

カブキチョウ。マントラ軍支配下、第二の都市。現在、マントラ軍ナンバー9の水天が入っている。かなり古くからマントラ軍に所属している水天は、名前の通り水の支配者である。此処を以前支配していたミズチの後釜としては適任と言え、今も過不足無く街を納め続けていた。元々、至高神の別人格としての存在である。能力はそれなりにあり、ゴズテンノウも不満を感じた事はなかった。

現在は5000ほどのマネカタが入れられ、街の構築作業が進んでいる。この街を要塞化して、前線基地にするのが、マントラ軍の戦略の一つである。そのため、それなりに優秀な部隊も配置されているのだ。

だが、それが逆に油断につながったとも言える。

街中で、悲鳴が響き始めた時には。既に取り返しが付かない事態が、始まっていた。

 

トール様の部屋から、青い顔をした琴音が出てきた。そのまま床にへたり込みそうになる。慌てて、リコがその肩を支えた。

「どうしたんスか、琴音」

「いえ、大丈夫、ですから」

大丈夫にはとても見えない。元来の世話焼き気質が鎌首をもたげてきた。肩を貸して、一階へ歩かせる。そしてソファを一つあけさせて、座らせた。無言でカズコが走り寄ってきて、額を布で拭き始める。

「トール様と、何を話したんスか?」

琴音は首を横に振る。ショックでまともな思考が出来なくなっている感じだ。一体何を言われたのだろうか。

どちらにしても、既に敵対勢力ではない事も判明しているし、逆に特別扱いも出来ない。どうしたものかと思案している内に、玄関からバイブ・カハが一騎、飛び込んできた。羽を休める暇もなく、緊迫した様子で、黒い大鴉は言う。

「伝令です。 カブキチョウが、未知の勢力から攻撃を受けています。 水天様による援軍要請が、全軍に出されています」

「分かった。 すぐにトール様に伝える。 他の部隊へも、出動準備を要請してくれ」

「承知しました」

すぐに飛び去るバイブ・カハ。容易ならざる事態が起こったのは明らかだ。応対を受け持ったサルタヒコが、四階に駆け上がっていった。リコは鬼神達に、指示を飛ばす。

「すぐに臨戦態勢を。 各地の部隊に、出陣準備をさせるように」

「は。 ただちに」

鬼神達が、ビルを飛び出していく。彼らも皆小部隊の長だ。カブキチョウだったら、カグツチの日齢二つと掛からない距離である。急げば、すぐにでも到着できるだろう。後は、ゴズテンノウがどういう反応に出るかである。それによっては、出動が無くなる可能性もある。

街の上空を、バイブ・カハが飛び回っている。彼らは伝令として、マントラ軍の重要な戦力の一翼を担っている。つまり、多く飛び回っていると言う事は、それだけ街に大変な事態が起こっていると言う事だ。その様子を、ぼんやり見上げているマネカタ達が、印象的だ。

ほどなく、鬼神達の部隊が、街を走り回り始めた。リコも集合地点に集まろうとビルを飛び出し掛けて、気付く。琴音をどうするべきか。アメノウズメと話そうとしたところで、トール様が一階に下りてきた。玄関まで来ると、口笛を一つ。バイブ・カハが一騎、下りてきた。

「何用でしょうか、トール様」

「俺が精鋭を連れて直接カブキチョウに向かう。 本隊は後から手配するように、ゴズテンノウ様へ連絡してくれ」

「よろしいのですか? 独断に近いと思うのですが」

「だから、最優先でゴズテンノウ様の所へ向かえ。 その間、俺は最精鋭とともに、カブキチョウへ向かう準備をしておく」

ぺこりと一礼すると、バイブ・カハは本営に飛び去った。こうなると、後には幹部の鬼神数名を残して、トール様麾下精鋭部隊の全員がカブキチョウに向かう事になるだろう。さっきの戦いの傷は、もうだいぶ回復している。だが、すぐ出るとなると、もう少しマガツヒを食べておきたいところだ。

「リコ」

「あ、はいっ!」

「航空部隊には招集を掛けてあるか?」

「はい。 E4地点で、そろそろ集合しているはずです」

まだ忠誠度が若干低くて、信頼性が落ちる部隊だが、それなりの訓練は既に済ませている。トール様の言う事はきちんと聞くのが、救いではあるか。

戦力は、鵬と呼ばれる翼長十メートル強の鳥の悪魔を一匹。これが中心戦力となり、残りはバイブ・カハ二十五機で編成されている。後は偵察要員として、五機のチンと呼ばれる毒を持つ小型の悪魔鳥が配置されている。彼らは機動戦力であっても、打撃部隊では無く、今回の出番はないと思っていたのだが。

「連中を使って、部隊をカブキチョウまで空輸する。 だから、戦力は一個小隊でいい」

「あ、なるほど! そういう事っスか!」

「今はカブキチョウの状態も、よく分かっていない状況だ。 だから一刻も早く我らが向かい、正確な情報を把握する必要がある。 それと」

ちらりと、トール様は一階の奥のソファを見た。其処には、琴音が青い顔で座っていて、カズコに手当てされていた。

「アレも連れて行く。 役に立つはずだ」

基本的に、トール様の指示は正しい事が多い。同時に、逆らえない空気も常に作られている。そうなると、後は命令を前提として、準備を進めなければならない。

ほどなくゴズテンノウからの許可が出て、出撃する事になった。鬼神達は琴音を連れて行く事に不審を感じている者もいるようだったが、トール様が古い知り合いだと説明すると、全員が納得した。この辺りは、戦場で見せる凶暴性以上の何かが関与しているとしか思えない。トール様は凄いといつもリコは思う。あんな風に強くなりたいとも。

集合地点には、既に最精鋭が集まっていた。いずれもトール様と共に、マントラ軍の初期から戦い続けてきた者達だ。新顔もいる。もういない奴もいる。いない奴らの殆どには、もう会う事ができない。中には独立部隊を任されて、隊を離れた者もいる。もちろん、戦死したものも少なくない。

激しい戦いの中、叱責しあって、或いは励まし合って。戦いの後は、喜びを分かち合って。皆で生きてきた。

だからこそに。元々部隊の一員ではない上に、士気の低い琴音はどうしても目だった。

「トール様、大丈夫なのですか、そちらのお知り合いは」

「使えないようなら、弾避けにでもするだけだ」

さらりというトール様。だがそれでも、琴音は反応しなかった。

籠が準備されてきた。以前、移動用にマネカタ達が編まされた、ゴンドラである。結局実用化はされず、放って置かれていた。今回はこれを輸送に利用する。

鵬が大きな籠を掴む。これに、トール様と、リコと琴音が乗り込む。カズコもちゃっかり籠に潜り込んだ。後はバイブ・カハ達が、肩を掴んで運んでいく。落とすと大変だし、そもそも障害物もないから、低空で行く。

「良し、出るぞ!」

トール様の声を受けて、バイブ・カハ達が一斉に舞い上がった。一度旋回してから滑空し戻ってきて、鬼神達を掴んで飛び始める。鵬は力強い翼を一つ、二つ羽ばたくと、その場で浮き上がる。さすがは悪魔。凄まじいパワーだ。バイブカハも、明らかに自分より質量がある鬼神達を、平然と持ち上げている。生物としての鳥にはとても不可能な芸当である。

鵬は中国の伝説に出てくる巨鳥で、落とした糞で村が一つ潰れたとか、滅茶苦茶な話が幾つも伝わっている。この鵬は其処までのサイズはないが、それでも充分以上に巨大だ。姿は鷹などの猛禽に似ている。体は若干地味な色合いだが、威圧感は充分であった。

バイブ・カハも、雰囲気は英国などに生息するワタリガラスに似ている。英国を代表する鳥であり、猛禽に近い獰猛な性格の持ち主で、顔も精悍である。戦女神の化身と呼ばれるだけあり、性格はそれに相応しい荒々しさで、自分より強い者にしか従わない。それに加え、バイブ・カハは時速二百キロ以上で空を舞う。だが、流石に鬼神を掴んで持ち上げた状態では、その四分の一ほどしか出ない。

数機のバイブ・カハは早期警戒戦力として、輸送集団の周囲を旋回する。また、チンは二機の護衛バイブ・カハと共にカブキチョウに先行、偵察任務を行う。

砂漠を越え、速度をどんどん上げていく。中心にいる鵬は流石にパワーが凄まじいだけあって、トール様と更に数人を籠に乗せているにもかかわらず、まるで速度が落ちる気配がない。羽ばたくごとに、籠に打ち付けてくる風が凄い。

ふと、カズコに目が止まる。最初は酷い態度だと思ったが、しっかり琴音にしがみついている所を見ると、子供らしいところもある。それで、思い当たる。子供らしいとは、何だ。何故保護意欲が湧いてくる。そういえば、鬼神達に大人げないとか言ったような気もする。大人げないとはなんだ。分からない。

腕組みして頭を捻っている内に、戻ってきた偵察戦力。頭を切り換える。もうすぐ、戦場に到着する事を忘れてはならない。戦場で雑念がある奴は、真っ先に死んでいく事になるのだ。旋回して、鵬に追いついてくるバイブ・カハ。連れているチンが、二羽減っていた。籠に並んで飛びながら、鴉の悪魔は言う。

「申し上げます」

「うむ」

「カブキチョウの守備部隊は大混乱しています。 街中で戦闘が発生している様子で、水天様までもが、槍を振るって戦っていました」

「ニヒロ機構の奇襲か?」

サルタヒコの問いに、バイブ・カハは分からないと応えた。トール様は腕組みをすると、聞き直す。

「敵の姿は見えたか?」

「はい。 それが、緑色の、影のような奴らでした。 はじめて見る悪魔で、正体は全く見当が付きません。 それが最低でも200以上。 街中で、悪魔に手当たり次第に襲いかかっていました」

「ほう、なるほどな」

何故かトール様は、にやりと一つ笑みを浮かべる。この笑顔は知っている。楽しい戦いを前にした時に見せる表情だ。そしてこの顔が出る時に、部下達は皆酷い苦戦の中に置かれる事となる。

皆が戦慄するのを、リコは感じた。リコ自身も、武者震いを覚える。不意に、ジーンズをカズコが掴んだ。さっきから、自分より溢れるマガツヒを掴んでは、無理に琴音に食べさせていたのは、横目で見ていた。しかし、自分に何用か。

「どうしたんスか?」

「マガツヒ、今の内に食べておいて。 分けてあげるから」

今は、体力の消耗が酷い。傷はさっき応急処置をしたが、ケルベロスの火炎術を防ぐために、かなりの力を消耗し、それきりだ。

ありがたく好意に甘える事にする。カズコのマガツヒは、どうしてか少し苦い。だが、他のマネカタのよりも、随分力が出るような気がする。

煙が見え始めた。カブキチョウの方からあがっている。街全体が燃えているかのようだ。トール様が、バイブ・カハ数機を戻らせる。今分かっている状況を、出来るだけ詳しく伝えさせるためだ。

街の上空にさしかかった。凄まじい有様だ。辺りは阿鼻叫喚の渦にあり、所々で戦いが続いている。濛々とあがる煙に咳き込む。二度、街の上空を旋回した。

「ニヒロ機構の襲撃では無いようですな」

「そうだな」

サルタヒコに、トール様が言葉短かに応えた。確信する。あの悪魔を、トール様は知っている。

街の外縁で、着陸命令を出す。鵬が高度を降ろし、かなり乱暴に着地した。琴音がカズコを抱きしめて、着地の衝撃から庇う。他に冠絶した身体能力を発揮したトール様が、転ぶ事もなく、悠々と籠から飛び降りる。めいめいバイブ・カハから下りた鬼神達が、整列を始めた。

「まずは水天を救出し、指揮系統を確保する!」

「はっ!」

トール様が悠然と歩き始める。瀕死の悪魔が、道ばたに転がっていた。見た事のある、結構腕のいい鬼神である。体の彼方此方に酷い火傷があり、程なく絶息。マガツヒに変わって散ってしまった。

カブキチョウに主力として配置されているのは、ナーガ達である。インド神話の蛇人であり、コブラを神格化した存在だ。上半身が人間、下半身が蛇となっている者達が多く、術も使いこなすし、槍の腕もいい。以前ミズチと交戦した時に、このナーガ達は、トール様の獰猛な攻撃を良く支えて、必死に街を守って戦ったのだ。リコも交戦の際、随分手こずらされた記憶がある。

傷だらけのナーガが、路地裏から這い出してきた。無言で飛び出したリコは、上段から剣を振り下ろす。遅れて飛び出してきた緑色の影に直撃。しかし、両断までは行かない。奇声を上げて、体に飛びついてくる。それも、同類の緑の影が、路地裏から次々現れてきた。

「た、助けてくれえっ!」

勇敢さで知られるナーガが、無様な悲鳴を上げた。気合いの声と共に、最初の一匹を斬り伏せると、飛び掛かってきた数匹をはじき飛ばす。鬼神達がめいめい剣や斧、それに棍棒をふるって、襲いかかってきた緑色の奴らを潰す。トール様は見向きもせずに、すたすた歩いていく。

その行く手を、路地裏から飛び出してきた緑の影が塞いだ。だが、ほとんど無造作に繰り出された拳が、瞬時にマガツヒにしてしまう。舌打ちが聞こえた。

「そろそろ攻勢終末点だな。 もっと早く来れば良かったか」

「攻勢終末点、スか?」

トール様は側の瓦礫を乱暴にかき分けると、隠れていた緑の悪魔を引っ張り出し、引きちぎる。もがいていた悪魔は、悲鳴を上げて散っていった。

「見ろ。  此奴らは、一匹一匹は、そう大した力を持っていない。 その上、連戦で傷ついている。 こうやって隠れている奴までいる有様だ。 放っておいても、水天だけで対処できるわ」

確かに、今リコが斬り伏せた奴も、動きはかなり鈍かった。もう少し動きが速かったら、よってたかって取りつかれ、かなり不味い状況になった事も疑いない。

「確かに、一度や二度なら、対処は出来ます」

そう言ったのは、鬼神に肩を借りたナーガだった。水色の肌をした蛇の悪魔は、顔に恐怖を張り付かせたまま言った。

「だけど、あいつら、何度駆逐しても湧いて出てくるんです! もう、七回目の攻撃で、我らも対処が出来なくて! な、仲間達も、あらかたやられてしまって!」

「落ち着いてください」

悲鳴を上げて、顔を手で覆うナーガの背中を、琴音が優しくなで始めた。耳元に色々ささやいて、落ち着かせているようだ。軟弱だなとリコは思ったが、特に敵意は感じない。

兎に角、一旦水天の所にまで行くのが先決だ。途中、見つけた残兵を収容しながら、中枢へ向かう。酷い火傷をしている者が多かった。奴らはとりつくと、酸を出して攻撃してくるのだという。

何度か襲撃もあったが、殆どはトール様の手を煩わせるまでもなかった。だが、気味が悪い。仲間が切り倒されても、まるで動じる様子がないのだ。そればかりか、全く犠牲を恐れずに、突っ込んでくる。時々、気圧されそうになる。

やがて、カブキチョウの中心にある、政務ビルまで到達した。かってこのカブキチョウにあった、もっとも背が高いビルが、奇跡的に倒壊せずに残ったものである。内部でも戦いは継続していたが、幸いにも味方が押し気味であった。緑の悪魔が、上の階から落ちてくる。床に着くと同時に、マガツヒとなって散った。槍をしごいて下りてくるのは、水天だった。水天は全身傷だらけだったが、トール様を見ると無理に笑顔を作って見せた。左腕は酸でも浴びたのか、肌がザクロのように裂け、筋肉が剥き出しになっていた。

「おお、トール様。 助けに来てくれましたか」

「酷く痛めつけられたな、水天。 それにしても、これは情けない有様よ。 指揮系統が完全に寸断されているではないか」

「面目ありません。 もう攻撃は七回目で、部下達も散り散りになってしまっていて」

回復の術を使える悪魔を探して、リコは辺りを見回したが、いない。戦闘能力の低い悪魔から狙われたのだろうか。

気味が悪い。あのような、本能のままに襲ってきていたような悪魔が、そんな戦術を駆使してくるのか。それともあれは末端の行動であって、どこかに行動を司る中心がいるのだろうか。

辺りの悪魔達の様子を見ていた琴音が、額を拭う。顔色もだいぶ良くなっていた。この子は、戦いが嫌いだとはいっていたが、ひょっとすると。戦場そのものには、あまり嫌悪感が無いのかも知れない。

「どこかに、頭脳の役割を果たす個体がいるのではないでしょうか」

「何でそう思うんスか?」

「さっきから緑色の悪魔達の動きを見ていましたが、動物以上の知能があるとは思えませんでした。 それなのに、戦力の消耗を狙った波状攻撃をしてきて、しかも補給を最初に断つような行動を見せたり。 明らかに、どこかに指揮をしている個体がいるとしか思えません」

分かりきった事だが、それを漠然と理解するのと、言葉でまとめるのでは雲泥の差がある。実際に言葉でまとめてみると、対策も練りやすくなるし、俄然状況は違ってくるのだ。しっかり言葉でまとめてもらえて助かった。

「あの緑色の悪魔が、どこから出てきたか、見た方はいませんか?」

カズコが包帯を巻いているナーガが、首を横に振った。どこからでも出てきたと、絶望的な証言も出てきた。ふと見ると、トール様は中央に集結するように、狼煙を上げさせていた。この状況、戦力を分散すると不利だ。出来るだけ耳目を多くして、対処を早くするしか、生き残る術はない。トール様の判断は、ただしい。

それにしても、琴音のやり方は丁寧だった。傷ついた悪魔も、出来るだけ怖がらせないように軟らかい言葉を掛けながら、話を聞いていく。これがトール様だったら、圧倒的な威圧感で喋らせようとするだろう。だが、こう言う時は逆効果の気がする。リコも同じやり方を考える筈で、悔しいが琴音には勝てない。何でも一番であろうとは思わない。しかし露骨に敗北感を味わうのは、良い気分ではなかった。

「お、俺、見ました」

左腕に包帯を巻かれていたナーガが、青ざめた顔で言う。リコは部下の鬼神達に、怪我人の手当を手伝うように指示すると、小走りで駆け寄った。琴音はゆっくり、怯えているナーガから話を聞いていく。

「街の西で、俺の小隊は警備に当たっていたんです。 そうしたら、下水道管の名残の筒から、あれが出てきました。 最初は、何もしてこなかったんです。 でも、そのうち凄く一杯出てきて、隣にいた俺の弟が!」

ナーガは涙をこぼして慟哭した。弟が、見るも無惨な殺され方をしたのだろう。

だが、このボルテクス界では日常茶飯事の筈だ。リコだって、目の前で何度も同僚が惨殺されるのを見た。このナーガだって同じだったはずだ。それなのに、どうしてこうなっている。個人戦は多々経験しているだろう猛者達が、集団でのパニックに巻き込まれると、こうも脆さを露呈するというのか。

狼煙が上がると、集まってくる悪魔は予想以上に多い。ゲリラ的な攻撃を受け続けているとはいえ、此処には1000騎以上の防衛戦力が元々いるのだ。ざっとカウントしてみたが、800以上は健在だ。傷を受けている者が多いようだが、それでもまだ二度や三度の攻撃は支えきれるだろう。

だが、回復術を使える悪魔は、数が少ないようだ。それに、もっと良くない事がある。マネカタが殆どいない。

マネカタが生み出すマガツヒは、悪魔の力の素だ。魔力も回復できるし、力の上限だって引き上げられる。傷を短期で回復するのは難しいが、体力なら回復できる。マネカタを引きずっている気が利いた悪魔もいるが、それでも百体いるかどうか。相当に激しい市街戦をしていたのだから、仕方がない。だが、ひょっとすると敵の狙いも其処にあったのだろうか。

この場にいないマネカタが、どういう末路を辿ったかなど、言うまでもないことだ。逃げ延びる事が出来た奴もいるかも知れないが、そんなものは例外に過ぎまい。冷静に、残酷な結末をリコは想像する事が出来た。それよりも問題なのは、補給路が断たれてしまったと言う事だ。歯がみするリコに、琴音が怪我している者から情報を聞き出しつつ、言った。

「これは、補給を先に断とうとしているとしか思えませんね」

「姑息なやり方だ」

サルタヒコが、心底不快そうに言う。だが、トール様はまんざらでもなさそうだった。

「いや、弱い奴なりの、面白い戦い方だ。 現に我らを翻弄し、大きな被害を与えているではないか。 むしろ、これから何をしてくるのかが、楽しみでならんわ」

「トール様、しかしこのままでは、じり貧っスよ」

「分かっている。 だから、敵の本隊を叩きつぶす どちらが先に潰しきるかの勝負になるだろうな」

トール様は、この状況を楽しんでいる。次に敵がどう出るか。それを予想するのが、楽しくて仕方がないのだろう。

リコも戦いは好きだが、トール様のようにはまだなれない。畏敬を感じるのと同時に、ほのかな恐怖もある。この方は。ひょっとすると、全ての悪魔の中で、もっとも恐ろしい心の持ち主なのかも知れない。好戦的なゴズテンノウでさえ、トール様ほどではないのではと思ってしまう。

リコのほのかな葛藤など、気付いたところで相手にもしないだろうトール様は、水天に向き直ると、軽く指示を出し始めた。

「水天。 此処の守備は任せられるか?」

「後三度か四度の攻撃なら、凌ぎきって見せます」

「そうか。 ならば、最悪の場合でも、毘沙門天の本隊が来るまでは保ちそうだな」

「はい。 しかし、戦力は既に半減しているとお考えください。 怪我人も多いですし、ある一点を越えると、後はもう押しつぶされてしまうと思います。 何とか、毘沙門天様の到着まで支えたいですが」

水天の声は冷静ではあったが、確実な絶望も含んでいた。

 

4,地底での連戦

 

アマラ経路の中。流れるマガツヒを片っ端から喰らいながら、太田創は分身を増産していた。一匹作り出す度に、うめきが漏れる。それがまた、心地よい。笑いが漏れた。いつの間にか、痛みを楽しめるようになっていたのだ。

七度目の攻撃により、当初の目的であったマネカタの殲滅および、都市機能の破壊をほぼ完遂した。守備部隊にも甚大な損害を与え、特に回復術を使う悪魔はほぼ全滅させてやった。敵には強力な増援が来たようだが、もう遅い。今回はこれで充分だ。後は二三回陽動の攻撃を仕掛けてから、この場を離れるつもりである。同じ戦術で、イケブクロも崩壊させる事が出来る。創はそう確信していた。

創の目的は、この世界に住む全ての悪魔の殲滅。自分だけの世界を作るためには、それが絶対条件であった。そのためには、ニヒロ機構だけではなく、マントラ軍も叩いておく必要があるのだ。今回はその行動パターンを読むための、良い予行演習だ。

創の本体は、以前の二倍以上の大きさにふくれあがっている。此処しばらくはマガツヒを喰らう事に専念していたためで、そのため分身の実力もじりじりと高まっていた。これならば、今後の計画もさほど苦労せずこなす事が出来る。

その時だった。カブキチョウ近くで第八次攻撃に備えていた一匹が、不意に消えた。呼びかけても反応が無い。殆ど同時に、更に数匹が消える。アマラ経路の内部にいたというのに、だ。

これが示す事態は、一つしかない。敵の反撃が始まったのだ。

しかし、それも予想済みである。そろそろ、敵の組織的な反撃があってもおかしくないと、創は考えていた。だが、この迷路のように入り組んだアマラ経路では、創の実力は最大限に発揮される。どのような大戦力でも、容易に撃退する自信があった。創はテロリストという言葉を悪魔化したような存在だ。入り組んだ地形での戦闘は十八番で、誰にも勝っている。

すぐに分身達を配置し直す。第八次攻撃の前に、愚かな虫共を捻り潰してやらなければなるまい。手ぐすね引いて待つ。居場所はすぐに掴んだ。戦慄が走る。敵は、すぐ側にまで来ていたのだ。

バカな。どうやって、此処の位置を掴んだ。

慌てる創。だが、カタストロフは始まったばかりだった。近辺に配置している分身達が次々に倒されていく事に気付き、更に困惑した。

 

琴音がどこかから引っ張り出してきた器具を使い、床に図形を書き始めた。中腰で見守るリコの前で、説明を始める。

「重要なのは、二次攻撃以降の、行動のタイミングです。 一次攻撃の時は、街中に緑の悪魔が広がっていたのが分かっています。 しかし、掃討した後の二次攻撃、三次攻撃、以降はそうではありません」

証言から割り出した時間を集め、線を引いていく。そして、円を描いていく。測量という奴なのだという。琴音の作業は手慣れていて、スピーディだった。立体図にそうやって図を加えていく能力は、驚嘆に値した。

やがて、円が重なり、一点が現れる。

「そうして、割り出されるのが、この地点です。 此処に敵の中心となっている個体がいるかと思います」

「此処って。 完全に地下じゃないっスか」

「そうです。 地下には、確かアマラ経路というものがあるんですよね。 その中に潜んでいるはずです。 問題は、地下で方向感覚を失わない方法なのですが」

「それはわたくしが」

今まで黙って様子を見守っていたアメノウズメが挙手した。そういえば激しく回って舞うウズメは、方向感覚や位置感覚を発達させているらしい。

「分かりました。 もう一つの問題は、どう攻撃を仕掛けるか、ですが」

「精鋭部隊を募って、叩くだけだ。 俺だけでも構わない。 侵入はさっき証言があった地下下水道の名残から行う。 しかし、だな」

トール様は、琴音をじっと見下ろした。琴音はつらそうに視線を逸らしてしまう。一体何を話し合ったのだろう。

「どういうつもりだ、琴音。 何故協力する気になった」

「マントラ軍のやり方には、賛同は出来ません。 イケブクロで虐待されているマネカタ達の実情も見ましたから。 でも、今カブキチョウを襲っているこの悪魔は、もっと酷いです」

何をきれい事をとリコは思ったが、だが考え直す。そう今琴音が思ったから、反撃の糸口が掴めたのである。

「相変わらずだな、お前は」

「先生も、変わっていないですね」

その言葉に、軽くリコは嫉妬を感じた。此奴は、自分の知らないトール様の身近にいた事がある。だが、今は琴音の作戦が重要だ。作戦の現実性にも問題はないし、生き残るにはそれを成功させるしかない。

トール様が号令を出す。鬼神達は此処に残し、復讐に燃えるナーガ達の中から、精鋭を選抜する。ナーガ・ラジャと呼ばれる上級の者達の中から、無傷の二体を選んで、攻撃隊に加えた。ラジャとはインドの言葉で王を意味し、ナーガの中でも特に強力な者達に冠される名である。更に、戦意が高いナーガから五体。後はサルタヒコとアメノウズメ。リコも選ばれた。最後に、琴音もである。

「お前も来い。 そちらのマネカタと一緒にな」

「分かりました。 でも、マントラ軍に加わる気はありません」

「それで構わん。 今は使える奴を、活用するだけだ」

水天が呆れたようにやりとりを見守っていた。だが、奇襲を受けたとはいえ、この街を守りきれなかった水天に、トール様のやり方に口を出す資格はない。本人もそれをしっかり理解しているらしく、何も言わなかった。

「よし、出るぞ! 吠え猛ろ! これから巫山戯たまねをしてくれた、愚かな敵を八つ裂きにする! 七代転生しようとも忘れないほどの恐怖を叩き込み、地獄の釜へと投げ込んでくれようぞ!」

雄叫びを上げるナーガ達。反撃の時が、来た。鬼神達も、気勢を上げる。カブキチョウの街中に、好戦的な雄叫びが響き渡った。雄叫びを上げるナーガ達の中を、縫うように静かに出る。これも陽動の一つだ。

素早く、先ほどナーガの一人から証言があった下水管の名残へ。かなり太いコンクリ管だ。当然内容物など残ってはおらず、入り口の岩を取り除くと、闇へ続く深い穴が姿を現した。

リコが先頭に。ナーガ達が続く。ひんやりとした空間であり、時々水滴が落ちてくる。それほど深くはない。途中、下水道管がとぎれていて、大きな裂け目があった。その下に、明るい空間がある。

そして、いた。あれだ。緑色の悪魔。壁に張り付いて、呻き声を上げている。蠢く様子は、極めて気色が悪い。定まった形がないかのようだ。

アマラ経路というのがあるとは、噂には聞いていた。大量のマガツヒが流れているのも、目で見て理解は出来ている。魅力的な場所だ。だが、あんな悪魔がうようよいるとなると、ぞっとしない。

ここから先は敵地だと判断して良い。分散するのは自殺行為だ。それに、敵が第八次攻撃に出るつもりであれば、機先を制する必要がある。問題なのは、ちらりと見ただけで、下のアマラ経路はかなり入り組んでいると言う事だ。

「どうしますか、リコ様」

「攻撃開始。 まずは見張りを潰して、橋頭堡を確保するっス。 タイミングは、あたしが攻撃してから、一斉に」

敵の立体的座標は把握している。だが、あれだけ入り組んでいると、それも修正する必要があるかも知れない。術を準備しようとしたが、ナーガに止められた。

「リコ様、お待ちください。 効かない可能性が高いです」

「え?」

「確か四次攻撃からでしたが、不意に我らナーガの術が敵に通用しなくなりました。 それが被害を増やした要因の一つです」

「体の構造が単純な分、対応速度も速いようですね」

土管の中を這って追いついてきた琴音が、会話に割り込んできた。かなり狭くなってきた。

「まず、橋頭堡を築いて、徳山……トールさんを、アマラ経路に侵入させる事が作戦の第一です。 其処からは、進撃の速さが問題になってきます。 術に対する対応速度が速いのなら、いざというときまで肉弾戦で行くしかありません」

「どうやら、そのようっスね」

頷きあう。気に入らない部分もあるが、それでも本質的には認めやすい相手だ。言う事もすんなり頭に入ってくる。

リコは覚悟を決めると、土管の切れ目から、アマラ経路に飛び込んだ。見張りが、気付く。しかし、其処までだ。

飛び降りざまに、切り下げる。しかし浅い。悲鳴を上げようとする緑の悪魔に、着地してから全身のバネを使って、膝蹴りを叩き込んだ。アマラ経路の壁は思ったよりも軟らかかったが、それでもこれを受けてはひとたまりもない。緑の悪魔が、マガツヒになって飛び散る。上に向けて、手招きした。

「GO! 突撃するぞ!」

「応っ!」

ナーガ達がアマラ経路に飛び込んできた。足下の柔らかな感触を確認しながら、リコは立ち上がる。敵の本隊に鉢合わせると面倒だ。どれだけの速さで展開できるかが勝負になる。

緑の悪魔は、今のところいない。細い体を利用して、ナーガ達は続々アマラ経路に入り込み、ナーガラジャ達も展開を終える。トール様が来た。かなり狭苦しそうであったが、入り口を力づくで拡張して、入ってきた。片手にカズコを抱えている。その時既に、ナーガ達に続いてアマラ経路に入ってきた琴音が、アメノウズメと相談しながら、指さす。

「こっちです!」

「応! 全員、あたしに続けっ!」

飛び出したリコは、一気に最大速度まで加速。視界に、緑の悪魔が入った。無言で間合いを侵略すると、斬り伏せる。今だけの、味方でも良い。それでも信じて、リコは道を切り開く。

ナーガ達が着いてくる。蛇体をくねらせ、槍を振るって血路を開く。しかし、敵の数が多い。何体かのナーガが、緑の悪魔に飛びつかれ、酸を浴びせられて悲鳴を上げた。後続のサルタヒコや、琴音が必死に引きはがすが、トール様は見向きもしなかった。悠々と進み、自分に飛びついてくる悪魔を、文字通り千切っては投げる。

「急げ! 敵の本体を叩ければ、この戦いは勝ちだ!」

飛びついてきた緑の悪魔を斬り伏せながら、リコは叫んだ。どれだけの味方が着いてきているのか、少し自信がない。敵の数は凄まじいまでに増えてきている。やむを得ない。術を使うしか、ない。

「下がって!」

後ろからの声に、飛び退く。飛来した光の塊が、通路の前にたまっていた緑の悪魔を、十匹以上まとめて吹き飛ばした。爆圧が、辺りを叩き伏せる。リコも立っているのが精一杯だ。熱を伴った風に翻弄されて、髪がばらけて広がった。最近、少し伸ばし気味なのだ。

琴音が膝を突くのが、視界の隅に見えた。あんな術を使えば当然だ。見ればもうウズメが舞い始めている。上着を脱ぎ捨てて、豊満で均整の取れたな体を露わに、くるくると回っていた。体の奥底から、力が沸き上がってくる。神楽。神に捧げるための踊り。それを舞う根源たる存在、アメノウズメ。当然、その力は絶大だ。

しかし、アレは相当に力を消耗する事が分かっている。敵本体まで、トール様を何とか消耗を抑えて送り届けたい。もし此処が、敵の防衛線の一つに過ぎなければ、かなりまずい。撤退を考えると、これ以上の消耗は危険だ。

「撤退など無い! 道を開くぞ!」

リコの弱気を読み取ったかのように、トール様が吠えた。ナーガ達が歓声を上げた。そうだ、これでこそトール様だ。そしてその配下にいる限りは、進み続けなければならないのだ。

リコは迫る緑の悪魔を斬り伏せ、蹴り飛ばす。一匹が右腕に絡みついてきた。無理に引きはがすが、肌の一部を持って行かれた。激痛が走る。奥歯をかみしめて、引きはがした悪魔を引きちぎった。

息が上がってくる。見れば、ナーガラジャ達も次々負傷して、援護に回り始めている。サルタヒコが後衛に周り、追撃を断っているのが見えた。このままでは、じり貧だ。

カズコの体から、膨大なマガツヒがこぼれている。それを乱雑に口に含むと、琴音がまた詠唱を開始する。次を左だと、琴音が叫んだ。通路から飛び出してきた緑の悪魔に飛びつかれて、ナーガが横転する。最初に忠告してくれた奴だ。一斉に酸を浴びせられて、鋭い悲鳴を上げた。

まだ無事なナーガ達が引きはがす。だが、もう身動きできそうにない。更に多くの緑の悪魔が飛び出してくる。雄叫びを上げると、悪魔の大軍の中へ飛び込む。剣を振り、蹴り上げ、払う。飛びつかれる。二匹、三匹、もっと多くなった。もがく。離れない。

意味を成さない呻き声が、至近で聞こえる。意味が分からない。ただ、一つ分かったものがある。

それは、底知れないまでの憎悪。

何故、憎まれるのか、分からない。一斉に放出される酸が、体を焼いた。悲鳴が漏れる。情けない。毘沙門天の所から逃げ出した時に、もう泣かないと決めたのに。同族達に受け入れられないと分かった時に、憎しみは味わい尽くしたと思ったのに。

全身の痛みが、更に加速する。もっと多くの悪魔が、寄り集まってくるのが分かった。まずい。死ぬ。殺される。溶かされて、喰われる。恐怖が、せり上がってくる。必死に引きはがそうとするが、もう体が満足に動かない。

「リコさんっ!」

叫びと殆ど同時に、琴音の詠唱が終わる。更に悪魔が数匹、とりついてくる。鼓膜が破れたのが分かった。

次の瞬間。

閃光。浴びせられる灼熱。

床にたたきつけられ、バウンドした。どうしてか、琴音が、リコを助けるためにわざと巻き込んで術を発動した事だけが分かった。体中が痛い。見上げると、緑の光。そうだ、ついに辿り着いたのだ。

だがもう、指一本、動かす事は出来なかった。

 

全身から煙を上げているリコが、アマラ経路の床に転がっている。完全に白目を剥いているが、肩は動いていて、息があるのは分かった。

そしてその先には。他の緑の悪魔とは比較にならない巨体。リコが体を張って、ついに道を切り開いたのである。後ろを見れば、雑魚を必死にサルタヒコが防いでいた。カズコに支えられながら、琴音が呼吸を整えようとしている。そして、舞うアメノウズメの額からは、既に汗が飛び始めていた。

「良くやったな。 後は俺に任せろ」

床を踏みしめ、リコの脇を通って、前に出る。拳を固めると、眼を細めた。不思議と、静かな怒りがある。だがそれ以上に、強敵へ賞賛算と、戦いへの高揚が全身を満たしていた。

「名を聞いておこうか。 俺は、マントラ軍将軍、トール」

「お、俺、オれは、お、れハ!」

「もう名前も忘れてしまったのか? まあいい。 行くぞ」

奴の周囲に残っている悪魔は、もう数少ない。だが、放っておけば増援がまだまだ殺到してくるだろう。何しろ、ナーガラジャだけで十体以上を有していたカブキチョウを壊滅させたほどの戦力だ。この程度であるわけがない。

不意に加速。本体を守ろうと出てくる緑の悪魔を、踏みにじり、蹴散らし、突貫。拳を振るって、一匹を塵にする。更に、顔に飛びつこうとしてくる一匹を無造作に剥がすと、食いちぎった。そのまま、マガツヒを喰らう。今倒した連中の分を、まとめて。肺活量にものを言わせて、口に入れた。あまりに面白いからか、つい感想が漏れた。

「酸味が強いな」

「ゲおあああアアアアアァアあアアア!」

奇声を上げ、四方八方から躍り掛かってくる緑の悪魔。バカが。トールはつぶやくと、ギリギリまで引きつける。そして、不意に最大加速。正面の数匹だけを蹴散らし、一気に敵の眼前に躍り出る。

分かっていた。先ほどから、この本体が殆ど動いていない事を。遠隔操作のためか、情報取得のためか。動く事が出来ないのだと。拳を繰り出す。顔面に炸裂。手応えが軟らかい。はじき飛ばされた緑の悪魔が、勢いよく吹っ飛ぶ。だが、致命傷にはほど遠い。それにこれは。

本体が、散った。そう、小さな個体に分裂したのだ。本体を守るための工夫という訳だ。舌なめずりすると、その中で一番強い気配を放っている個体に突進。必死にそれを守ろうとする他の奴らを、拳で砕き、踏みにじり、蹴散らし、躍り掛かる。体にひっついてくる奴が、酸を放ってくる。気にしない。戦いでの痛みはむしろ楽しみの一つ。それは喜びだ。そのまま引きはがして、放り捨てる。

突撃は、止まらない。あまりにも楽しすぎるから、止める訳がない。敵の反撃を、そのまま力づくで突破する。酸の雨を、無造作に取り払う。肌が焼け、煙を上げる。神経が痛みを警告してくる。知った事ではない。

前面の奴らが、スクラムを組んだ。更に、後方の連中が生きた網となって、飛びついてくる。狙いは読めた。鋭く、地面を踏みしめる。

「……ぉおおおおおおおっ!」

息を吐く。全身の筋肉を束ね上げ、体そのものをバネと化す。そして、渾身の一撃を籠めた、正拳を放った。辺りの空気を蹴散らし、拳が唸る。

技に名前など付けた事はない。だが、これは人間だった頃にグリズリーやタイガーシャークを仕留めた、自信の一撃だ。様々な流派の突きを組み合わせ再構成し、実戦で磨き抜いた拳。圧倒的な錬磨とパワーに裏付けられた拳が、スクラムを組んだ緑の悪魔に炸裂。着弾の瞬間、回転を僅かに入れるのがポイントだ。コークスクリューと呼ばれるボクシングの技術も、其処には取り入れている。

一瞬の沈黙の後、スクラムは粉々に吹っ飛び、めいめいの方向に、悲鳴を上げながら飛び散っていく。その半数が、マガツヒになって消えていった。回転と同時に、衝撃はまんべんなく全体に伝えた。それでもあれだけの数がまとまっていると、全部は潰しきれないか。まだ力が足りない事を実感する。

筋肉が、激しい疲労にしびれた。渾身の一撃を放ち、僅かに動きが鈍ったところに、後ろから悪魔達が殺到してくる。うむ。予想通りだ。そしてこの数にとりつかれると、流石に危ない。さて、どうするか。危機さえも、トールは楽しむ。

対抗策を思いつく。だが、それと同時に、琴音が力を振り絞って、援護の一撃。光の矢の術が、緑の悪魔達が体で作った網を直撃、根こそぎ吹き飛ばした。トールも飛ばされて、前転して受け身を取る。指揮系統が混乱する中、必死にもがいて逃げようとする緑の悪魔。トールは薄ら笑いを浮かべていた。気付いたからだ。

だが、手加減はしない。

拳を固める。息を吐いて、再び全神経を集中。全力での拳は、後二回が限度だ。それも、さっきよりも高い威力を求められるから、次は考えない方が良い。目を閉じ、雑念を消し去る。暗い闇の中に、一人立ちつくす。痛みも、喜びも、全てが無に帰す。

目を開ける。己の中が、一色に染まり上がった。そう、殺意に、である。

殺す!

トールは、見た。敵を。殺し、潰し、喰らうべき相手を。

跳躍。全神経を拳に集中。もがいて逃げようとする敵の、退路まで予想して、着弾位置を修正。集まってくる雑魚が、体にとりついてくる。気にしない。浴びせられる酸に煙を上げながら、トールは敵の中枢に、全力を籠めた拳を叩き込む。一瞬の空白。

そして、緑の悪魔を中心に、衝撃波がアマラ経路を蹂躙した。壁が、床が、ひび割れる。砕けて、吹き飛ぶ。悲鳴が無数に交差し、やがて消えていく。

軟らかいアマラ経路の床に、直径十メートルに達するクレーターが出来ていた。周囲には、今の一撃で砕け散った緑の悪魔共の亡骸であるマガツヒ。吸い込む。やはり、酸味がとても強いマガツヒであった。腕を、床の穴から引き抜く。手をふるって、しびれを取る。カグツチの日齢が三つ動くくらいの間は使い物にならないだろう。

クレーターの縁に、サルタヒコが来た。奴は最後まで無言で、敵の増援をシャットアウトし続けた。今回は道を切り開いたリコと、終始最善のタイミングで援護をし続けた琴音と、それに無言で壁になりつづけた此奴が戦功第一である。トールは彼らの作った道を通って、敵のボスを仕留めたに過ぎない。まあ、トールの目的はそれだけだったから、別に構わないのだが。

「トール様」

「逃げられた」

「何ですと」

「此処にいたのは、恐らくこの悪魔の分身の一つだ。 もっとも、本体も戦力を消耗し尽くして、当分は動けないだろうがな」

動きが鈍かったのも、それで頷ける。大した術を使ってこなかったし、何より行動が単調だった。戦術は理にかなっていたが、それは本体が遠隔指示を送っていたからだろう。

「琴音の予想は外れていなかったが、敵は更にその上を行っていた。 それだけだ」

「何とも、やりきれない話ですな」

「何を言うか。 楽しい話ではないか。 こうも見事な力を持つ敵が現れたのだ。 もっと喜べ」

「そう、ですか」

いつも冷静なサルタヒコだが、トールの言葉に、僅かに恐怖を浮かべていた。此奴もまだまだだ。もっと純粋に戦いを楽しめるようにならないと、今後は力を伸ばせないだろう。敵を殺し、潰し、砕き、そして食べる。一連の過程を楽しむ事によって、更に上へ行く事が出来る。

人間相手の戦いだった頃も、同じ事だ。食べると言う行為が、相手の知識を吸収するという内容だっただけで、基本は変わらない。ただ、中年を過ぎた頃から、それさえ無味乾燥になってしまった。

徳山徹だった頃、運が無かった。自分が最強だなどと、思った事は一度もなかった。だから、敵を探し続けた。それなのに、何処にも相手はいなかった。今は違う。周り中に、潰しがいがあり、喰いがいのある敵が存在する。

天井に向け、吠え猛る。雄叫びが、アマラ経路の隅々まで行き渡り、辺りを揺らした。トールは今、もっとも自分が充実していると感じていた。

 

5,新たなる勢力

 

カブキチョウの戦いが終わって。仕官を断り、正式に解放して貰った琴音は、帰路についていた。

トール、いや徳山先生に聞かされた、あまりにもおぞましい事実。耳から離れず、何度も心を揺さぶったあの言葉。いまだ心は揺れている。恐怖に、足下がおぼつかなくなりそうである。

他の皆には聞かせるべきではない。だが、知る権利があるような気もする。戦っている時は、全てをそれに振り分けられた。だが今は、悩みが渦巻いて、前に進む事さえ出来なくなりそうだった。

「コトネ、大丈夫?」

「ええ。 大丈夫よ」

手をつないで一緒に歩いているカズコには、無理をしてでも笑顔を作る。この子はどうしてか、子供である事を無理に止めようとしている節がある。それではいけない。これから一番大事な時期にさしかかるのに。

其処まで考えて、合点がいく。これはやはり。徳山先生が言った事は、間違っていないと言う事なのだろう。

マントラ軍の領土から出た。ここから先は、ニヒロ機構の領土でさえない。まがりなりの秩序さえない、完全に無法の野だ。頬を叩いて、頭を切り換える。ここから先、少しでも油断すれば、即座に死ぬ。

ふと、空を横切る影に気付いた。カグツチを遮るようにして、影が無数に舞っている。マントラ軍の飛行部隊か、或いはニヒロ機構の堕天使か。どちらにしても、さっさと離れた方が良い。

「ねえ、コトネ」

「急いで離れましょう」

「ちょっと待って。 あれ、鳥でも、堕天使でもないよ」

カズコに言われて、よく見る。確かに、違う。純白の翼。異様に整った顔立ち。あれは、天使か。

ここボルテクス界で、もっとも個体数が多い種族の一つである天使。しかし何処に属する事もなく、何を企んでいるかも分からない連中。それが、群れを成して飛んでいる。しかも、奴らは空中に、何かを築き上げているかのようだ。

カズコを促して、走る。一旦距離を取った方が良い。様子を見るのは、その後でも構わない。

砂丘の影に飛び込む。臨戦態勢を整えて、様子を見た。天使達は資材を組み立て、短期で見る間に空中の要塞を築いていく。しかも、数はどんどん増えていった。ざっと見ただけで、10000を越えている。

「何を、しているんだろう」

「分からない。 ただ」

マントラ軍とニヒロ機構の二大勢力の他に、このボルテクス界に新たな勢力が姿を見せつつある。それだけは確実だった。

それが抑止力になるのか、さらなる混沌の引き金になるのかは分からない。カズコを促し、その場を去る。

マントラ軍支配下の街で見た事。アマラ経路での死闘。天使達の勢力構築。皆に伝えなければならない事は、幾らでもある。出来るだけ急いで、住処に帰らなければならない。焦るな。自分に言い聞かせながら。琴音は砂漠を走った。

 

(続)