ボルテクスの始まり

 

序、凍り付いた病院

 

世界の始まりと呼ばれるその場所に聳え立つもの。それはコンクリートで形作られた建物だ。名は新宿衛生病院。旧時代のこの土地で使われていた言葉により、そう門柱に書かれている。

砂漠に覆われたボルテクス界の中、建物が丸ごと凍り付いたそれは、どうしても目立つ。だが、ある程度の力がある存在は、一目で見抜く。それが氷ではない事を。正確には、水の温度を下げる事によって得られる固体ではない。凍っているのは、時空間だ。氷に覆われた病院の、時そのものが凍っているのである。

そんな桁外れの術を行使できる存在など、ごくごく限られている。だから、ある程度以上知能がある存在は、絶対に近付かない。超が付くほど上級の悪魔が何かしらの理由で術を行使して、時を凍らせているのは、容易に判断が付く。そんな悪魔に出会ったら、何をされるか分からない。ほんの気紛れで殺されては、たまったものではないのだ。

だから、その病院を覆う氷が、少しずつ薄くなってきている事に、気付いている者も希だった。

何度目だろうか。この病院の前を通りがかった一体の悪魔が、足を止める。ゆっくり尻尾を揺らして、見上げている。ほくそ笑んだ。多分あれは、異常に気付いている。其処までの洞察力を持つ悪魔は久しぶりだ。かなり力も増してきているようだし、今後が楽しみである。

病院の屋上。タキシードを着た金髪の子供が一人。目は碧眼。ニンゲンの子供にそっくりな容姿だが、実は違う。幾つも違うところがある。悪魔の子供には、影がない。それだけではない。重力さえも干渉できない。子供は、氷のように冷たい瞳で、病院を見上げていた悪魔を、観察していた。

喪服の老婆が、ゆっくり子供に近付く。しわがれた声で、呼びかける。顔をベールで覆っていて、表情は見えなかった。

「坊ちゃま、何か興味を抱かれるものがおありでしたか?」

「ああ。 なかなか面白そうな素材を見つけた」

殆ど子供の表情は動かない。だが、口元には、年齢にそぐわない悪魔的な笑みが一つあった。

「あれの調整はまだ時間が掛かっているのか」

「何しろ、脆弱なニンゲンを元の要素を持ったまま悪魔に作り替えるには、それなりに時間が掛かります故に」

「仕方がないことだ。 事実、今までも余程特殊な例を除けば成功しなかった事だ。 偶然で誕生させるには、いくつもの予備条件をクリアする必要があるし、それをクリアできる事例は極めてまれだ。 それに、お前の力をもってしてもそうであれば、他の誰にでも無理であろうしな」

「恐れ入ります」

深々と頭を下げる老婆を一瞥すると、子供は明滅を繰り返すカグツチをみた。天に浮かぶ巨大な光球。新たなる太陽としては不足な、中心の存在。

見飽きた光景だ。もう何千回見たか忘れてしまったほどに。

今度こそ、上手くいくはずだ。そう信じているから、あの忌々しい茶番につきあってやった。何度でも繰り返すと、誓った。そして、今は一体何度目になるのか。いい加減、うんざりしているが、それでも止める事はないだろう。一度決めた事を破る方が、プライドを傷つけるからだ。

少しずつ、介入の方法を変えてみた。試行錯誤の末、鍵になるニンゲンが早々に退場する事態は避けられるようになってきた。まだまだ、試行錯誤していかなければならない事は多い。自分が許されている介入は、限られているのだから。

「さて、そろそろ昼食にするか」

「何をご用意いたしましょうか」

「いや、大したものはいらん。 いつも通りマガツヒでかまわん。 アマラ経路から引っ張ってきた蓄えを少し出しておけ」

手を振って、自室に引き上げる金髪の子供。無表情ではあるが、しかし。苛立ちが、僅かに外に漏れだし始めていた。

どんな存在にも、焦燥はあるのだ。

 

1,マントラ軍結成

 

ゴズテンノウの輿が、イケブクロに凱旋してきた。出陣前よりも数を増した鬼神達に周囲を固めさせ、練り歩くようにして未完成の市街を歩く。威厳と権威を示すための行動だが、新しい玩具を自慢する子供のようで、多少微笑ましい。この辺りの俗っぽさは、図体が例え五メートルを超えていても、ニンゲンとあまり代わりが無くて面白い。ニンゲンも、その長い歴史の中で、戦に勝つと例外なくこれをやったものである。トールもニンゲン徳山徹の時に、それを散々見てきた。何も戦争が起こらなくても、この習性は到るところで見る事が出来るのだ。

一足先に討伐任務を終えて帰還していたトールも、正装でその行列に加わっている。楽しみで仕方がないのは、新たに加入した者達と戦う必要があるからだ。今はトールがナンバーツーをしているが、加入してきた強力な悪魔達の中には、それを良しとしない者がいるだろう。彼らを納得させるには、戦って勝つ他無い。

激しい戦いをくぐってきたゴズテンノウの巨体には、傷が増えていた。ニンゲンで言う勲章に近い存在であり、今後も癒すつもりはないだろう。狡猾なゴズテンノウだが、要所では自分が赴いて戦う。それが荒くれ揃いである部下達の忠誠を集める要因となっている。今回も、四天王寺を順番に周り、其処を縄張りにしている仏神の四天王を順次下してきたのである。唯一抵抗した毘沙門天も、二度の合戦の末に屈し、今では行列で他の四天王もろともトールの後ろを練り歩いていた。その後ろには、トールが破って連れてきたミズチも、蛇のように長い体をくねらせている。ミズチの体は水で出来ているので、透き通っていて内臓が丸見えである。

毘沙門天は長身で、トールと同じ程度。唐風の鎧を着込み、右手には宝塔を、左手には三叉戟を持っている。宝塔から様々な術を繰り出し、三叉戟から鋭い攻撃を繰り出すのだという。従軍していた鬼神から、話は聞いている。確かに、歩いているのを見るだけで分かる。かなりの使い手だ。

行列を眺めやる悪魔達に隠れるようにして、マネカタ達が働いている。粗末な衣服を身につけた、ニンゲンによく似た生き物。今後は増産が決まっていて、最終的には常時10万を超える数が働くようにするのだと、トールは聞いている。それによって効率よくマガツヒを絞り上げ、結果多くの悪魔を養えるようにするのである。怯えた視線。恨めしげな視線。どれも、負け犬の遠吠えにも及ばない。弱者である事を、打開しようとさえしない連中に、トールは興味を持てない。

本営の城も、確実に完成しつつある。住居部分は既に出来はじめていて、特にゴズテンノウの玉座を納める間は先んじて完成していた。ゴズテンノウの巨体に合わせた座は、大理石で出来ていて、術で作り上げた軟らかい毛皮が敷き詰められている。床は赤い絨毯が覆い、その鮮烈な色合いは目を奪う。天井はひたすらに高く、壁は良く磨き込まれていて、光を反射するほどである。

パレードを終えて、稼働が開始されたエレベーターに乗り、一気に玉座の間に移動。ゴズテンノウは自らの足で歩いて、どっかと玉座に腰掛けた。出かける前よりも更に大きくなっているようである。雑魚悪魔を大量に殺して、マガツヒを吸ったのだろう。この分だと、かなり大きめに作った玉座を、取り替えなければならない時が来るかも知れない。ゴズテンノウに続いて、トールがその右側に。そして毘沙門天が、その左手に立った。他の家臣達が、順次仮の順番のまま、並んでいく。幹部だけでも、遠征前のゴズテンノウ軍よりも、かなり増えていた。

既にゴズテンノウ軍の戦力は、3000を超えている。人材は更に流入を続けていて、4000を超える日も近いという。ふと、末席にいるオンギョウギに視線が止まった。焦りが顔に張り付いているのは、案の定留守を巧く回せなかったからだ。トールがミズチを力づくで屈服させて戻ってきた時には、イケブクロは凄惨な状態になっていた。オンギョウギに従わない鬼神は出るは、マネカタの一部が脱走するわで、秩序が崩壊しかけていたのだ。

ゴズテンノウは鷹揚に周囲を見回すと、出来るだけ威厳を含めようとしているのか、低い声で言う。何処か滑稽だが、トールは何も言わない。精一杯背伸びしようとしているのだし、トールにはむしろ好ましく見えるからだ。強くなろうという行為は、トールにとっては美しい。それがどんな形であってもだ。

「このたびの戦勝、皆のおかげである。 新たに加わった者も、我を今まで支えてくれた者達も、今後は等しくその力を合わせて欲しい」

ざっと音を立てて、一斉に皆が頭を下げる。ゴズテンノウはトールを見下ろしながら、言う。

「一軍を率いてミズチを下し、カブキチョウを降伏させたトール将軍の功績は明らかである。 今後も彼にナンバーツーを任せたいと、余は思っている。 しかし、今回多くの鬼神が我が軍に加わり、その中には余も唸らせる古強者が多くいる。 故に、あくまで公平に人事を決めようと思う。 不満がある者は、申し出るが良い」

「では、早速」

歩み出てきたのは、毘沙門天だ。やはりとトールは思った。

毘沙門天は、非常に強力な鬼神だ。劣勢の戦力でゴズテンノウの攻撃を一度退けた事からも、その実力は確かである。ましてや、このボルテクス界は、日本の東京をベースにしているのだ。多くの信仰を集めた神は強い。ゴズテンノウが苦戦したのも、当然だと言える。仏教系の軍神としては、かの不動明王にも勝る人気のある神である。性格も極めて好戦的だ。

「確かにトール将軍は、ゴズテンノウ様の麾下にて多くの功績を挙げてきました。 しかし我ら新参は、いまだその実力を見ておりませぬ。 是非演舞にて、その実力を見せていただきたく」

「回りくどい事を言うな。 地位を求めての戦いならいつでも受けてやろう」

「ほう? これは心強いお言葉ですな」

「まあ待て。 此処で汝らが戦っては、まだ完成しておらぬ余の城が、粉々に壊れてしまうわ」

一触即発になりかける場の空気を、見事にゴズテンノウが中和した。しかも、苦笑さえ混ぜる余裕があった。

今の行動は、本物の威厳が成し得た事だ。あの俗悪なパレードを見た時は微笑ましいと思ったが、今後は考えを改めなければならないかも知れない。確かにいまだ俗物的な要素があるが、ゴズテンノウは短期間でカリスマを身につけようとしている。

トールが知る限り、地下に作ろうとしている闘技場は、まだ未完成の筈だ。城の外には幾つかの空き地があるが、さて何処で戦えとゴズテンノウは言うのか。もちろん、戦うというのであれば、本気で潰すつもりである。折角ナンバースリーになったばかりで残念な話だが、手加減するつもりは最初から無い。

「更に言えば、折角部下にしたそなたらを殺し合わせて、どちらかが死んでは実にもったいない。 毘沙門天の実力も、トールの武腕も、余が良く知っておる。 故に、そなたらには、同じ相手と戦ってその力を示して貰おうと思う」

「ほほう、同じ相手とは?」

「行軍中に、捕らえた天使がおる。 面白い事に双子でな。 それぞれを相手に、武力を競ってみせよ」

これは面白い趣向だ。確かに殺す事を前提としていた捕虜であれば、味方の戦力を悪戯に削ぐ事もない。

「分かりました。 俺には異存がありません」

「私めも、同じにございます」

「うむ、結構。 では、幹部全員、城の外に出よ。 戦闘地点は、西のD地区が良いだろう。 すぐに準備させよう」

トールは立ち上がると、エレベーターに向かう。地位が高い悪魔から、エレベーターで移動していくから、毘沙門天とは同じ箱に乗る事になった。周囲の悪魔達はそわそわしていたが、トールと毘沙門天は談笑さえかわしている。互いに戦う意味が無くなったからである。

戦意を削がれたトールとしては、今の内に毘沙門天の人となりを知っておきたかった。今戦う事が無い以上、まず味方として共闘する可能性が高いからだ。同時に、人となりを知れば、また戦う事になった場合に、やりやすくなる。

「それが噂に名高いミヨニヨルですか。 何でも、必ず敵に命中し、しかも手元に戻ってくるのだとか」

「些細な小道具だ。 貴殿こそ、武芸だけではなく術も見事に使いこなすと聞いている」

「お恥ずかしい話です。 大日如来の加護を受けた数々の術も、ゴズテンノウ様には通じませんでな」

好戦的な反面、かなり礼儀正しい奴だと、トールは思った。或いは、頭の切り替えがとても速いのかも知れない。それに、自らの敗戦を笑って話せると言う事は、かなり余裕があると言う事だ。手強い奴だなと、トールは思った。

ああでもないこうでもないと話し合う内に、城の外に出た。如何に巨大な城と言っても、所詮は建造物。トール達の体格からすれば、どうしてもサイズには限界があるのだ。既に外ではパレードの片付けに入っており、マネカタ達が鞭を振るわれながら、必死に動き回っていた。それに張り付いている下級の鬼達が、一生懸命赤いマガツヒを掴んでは口に運んでいた。見れば、傷ついているマネカタが多い。トールの前で、絞められた鶏のような悲鳴を上げたマネカタが、泥に戻ってしまう。このままだと、増産が追いつかないのではないかと、少し不安になった。養う悪魔も増えてきているし、思い切った処置が必要かも知れない。

「トール様ー!」

近付いてくる気配。満面の笑顔で鋭い八重歯を剥き出しに手を振っているのは、ヤクシニーだ。奴に付けている鬼神共もいる。

トールの配下も、今回の遠征の際にふくれあがっている。ヤクシニーは今回の遠征で、ミズチが従えていたナーガ(半蛇半人の体を持つインド神話出身の龍族)達を相手に見事な戦いを見せたし、サルタヒコとアメノウズメも見事な戦いで存在感を見せつけた。結果、命を落とす鬼神は著しく減った。戦いが一方的なために、降伏したナーガも多かったのだ。ミズチがトールの力の前に比較的簡単に屈した事もあり、他のどの将軍よりも多く、部下を増やす事が出来たのである。ぱたぱた走ってきたヤクシニーは、毘沙門天を見てさっと顔色を変える。

「おや、これは。 私の眷属の端くれが、貴方の配下にいるとは」

「以前砂漠で拾った。 それ以降、俺が面倒を見ている」

「そうでしたか。 どちらにしても、私の下を離れたのであれば、もはや詮索しても仕方がない事。 かわいがってやってくだされ」

「此奴は才能も向上心もあるし、非常に使える。 だから、そうするつもりだ」

黙り込み、拳を固めてわなわなと震えているヤクシニー。そういえば、毘沙門天はインドの悪鬼である夜叉(男はヤクシャ、女はヤクシニーとも呼ぶ)や羅刹の支配者であった。このヤクシニーは、何かしらの理由で毘沙門天の所を離れて、逃げてきたらしいと、トールはうすうす感じていた。毘沙門天はそれほど非公正な輩には思えないのだが、何か組織内にはごたごたがあったのかも知れない。ゴズテンノウが手こずった事からも分かるように、かなり強大な勢力を築いていた毘沙門天である。やはり組織の末端には目が届かない事もあったのだろうか。そうトールは推測した。

うつむいて急に無口になったヤクシニーを従えて、トールは西区へ歩く。D地区は本当に隅の隅で、まだ廃ビルが少し手つかずのまま残っている。戦うにはもってこいの場所だ。トールと毘沙門天が他の幹部達と共に到着すると、まだ準備は出来ておらず、慌てて何体かの鬼神が走り回っていた。トール達が到着したのを見ると、彼らは仕事のペースを上げた。

まず、大きめの一人用椅子が用意される。手すりが付いて革張りの、それなりに豪華な来賓用のものだ。しかも車輪が付いていて、座ったまま動く事も出来てしまう。鬼神達が運んできた椅子を、マネカタ達がさっと拭く。マネカタ達が離れたので、鷹揚に頷いて椅子に座る。若干湿っていて気持ちが悪かったが、別に気にしない。隣の毘沙門天は露骨に顔をしかめていた。案外育ちが良い奴なのかも知れない。しばし前後に椅子を揺らして感触を楽しんでいると、毘沙門天があきれ顔で此方を見ていた。

戦う天使は、これから運んでくると、働いていた鬼神の一柱が申し訳なさそうに言う。少し時間が余ったので、まだ無口になっているヤクシニーに語りかけておく。

「ヤクシニー」

「何ッスか」

「毘沙門天の配下には、ヤクシニーが多くいる。 このままだと不便で仕方がないから、名前を周りに告げておけ」

「……それは、トール様にも、ですか?」

何を不思議な事を言うと返すと、ヤクシニーは少し寂しそうに頷いた。よく分からない奴である。というよりも、トールには戦士以外の事はよくわからない。ニンゲン時代から、それに変化はない。理論的には分かっても、心情的には理解できないのだ。

「あたしの名前はリコ。 もう随分名乗った事は無いッスけど」

「そうか。 ではリコ。 何かの役に立つかも知れないから、毘沙門天の戦いぶりをよく見ておけ」

あの反応からしても、リコは毘沙門天に何かしらの恨みがある可能性が高い。眷属が主神に対して恨みを抱くというのは大変な事で、よほどのっぴきならぬ事情があると言う事だ。

そして、憎悪と復讐心は、大きな力を生み出す。リコは豊かな才能の持ち主で、そのまま力を伸ばせば、面白い使い手に成長する。詳しい事情に興味はない。リコが強くなる方法を、トールは選んでいくつもりだった。

車輪付きの台座に乗せられた天使が運ばれてきた。おおと声が漏れる。何と、ドミニオンである。鬼神達の話によると、ゴズテンノウが行軍中に捕らえたものだという。

「これはなかなか。 ゴズテンノウ様の実力が伺えますな」

「ああ。 少しは楽しめそうだ」

にっと笑みを浮かべると、トールは立ち上がった。毘沙門天もそれに習い、観衆で作られた円の真ん中に進み出る。見れば、ドミニオンは酷く消耗しているが、翼は無事だが、抵抗能力も残している。端正に整った顔には、深い憎悪が刻まれていた。

天使。ゾロアスター教を起源とし、主に一神教の神に仕える光の存在である。多くの場合背中に翼を持つが、姿は一定しておらず、ニンゲンに近いものから、巨大な怪物としか思えない存在もいる。特に初期のユダヤ教などに見られる天使は、力の源である翼と目を多く持つ奇怪なものだ。体中に目の付いた天使の絵なども描かれている。ニンゲン徳山徹の時代に、トールは博物館でその奇怪な絵を見た事がある。

このボルテクス界で、天使達は何をしているのかよく分かっていない。時々姿を見せる事は知られているのだが、それだけだ。強大な戦力を有しているはずの天使達が、何処で何を伺っているのかは不気味である。いまだ組織的行動をしていないのには何か理由があるに違いないと、トールは見ていた。

改めて、これから戦う天使を観察する。

ドミニオンは、キリスト教における天使の階級の一つだ。基本的に階級は九つに分かれ、更に三つずつ上中下位に別れる。その中で上級天使は極めて数が少ない存在であり、実質的に天使の軍勢と言えば中級以下である。そしてドミニオンは、その中級天使達の指揮官を務める、いわば天軍の実質的な指揮部隊だ。それだけに実力は高い。上級天使が将官クラスだとすると、彼らは大佐であり、師団長として部隊を動かすのである。

檻の中から恨めしそうに此方を見る天使二体。双子と言うだけあり、確かに顔はそっくりだった。背丈は三メートルほどと人間離れしており、顔立ちは彫刻のように整っている。どちらかというと彫りの深い顔立ちで、少女的な容姿ではなく、かなり男臭い。それでもどこかで中性的な顔立ちをしているのは、基本的に天使は両性具有だからだろう。髪は青いが、ひょっとすると染めているのかも知れない。身につけているのはゆったりとしたローブであり、全体が白っぽく、ほんの僅かに青のアクセントがあるだけ。全体的に、異様に清潔である。

既に空には、天使共の逃走を防ぐため、バイブカハの一個中隊が展開していた。空での戦いを得意とする鬼神も、少しいる。如何に翼を持つとしても、天使が空から逃げるのは不可能だ。逃げようとしたところで、瞬く間に八つ裂きにされてしまうだろう。

ゴズテンノウが、少し遅れて輿で来る。ほどなく、戦いの準備が整った。ゴズテンノウが到着したのを見計らうと、トールは檻の中へ向け話しかける。

「もし我らに勝てたら、逃がしてやろう」

「おや、トール殿。 そのような約束をしてしまって良いのですかな」

「かまわん。 勝者にはそれなりの利益があって当然だ」

ゴズテンノウに問うと、同意が得られた。これでこそゴズテンノウに付いてきている意味がある。

こうやって希望を与えておけば、天使の動きも鋭くなる。そしてそれは、戦いが楽しくなると言う意味も持つ。周囲から喚声が上がり始める。ゆっくり戟を構える毘沙門天に対し、トールは自然体だ。

さっと、周囲の喧噪が静まる。ゴズテンノウが手をふるって、喋る雰囲気を作ったのだ。静かになったのを見届けると、ゴズテンノウは宣言した。

「どちらでもいい。 兎に角先に天使を潰した方を、余の部下一位とする」

「恨みっこ無しですぞ、トール殿」

「無論だ」

一瞬の空白。鬼神達が、檻を開けた。天使達はにいっと笑う。トールの約束に、希望を抱いたのであろう。もちろんトールも、もしも此奴らが勝てたら、本当に開放してやるつもりである。

ゴズテンノウが立ち上がる。

「はじめい!」

短く、ゴズテンノウが吠え猛る。トールと毘沙門天が、同時に地を蹴った。

 

天使が一匹、後ろに飛び退く。もう一匹は詠唱を開始。その手に、光り輝く長剣が現れる。なるほど、一匹が時間を稼ぎ、もう一匹が空に舞い上がって援護するつもりか。面白い。此方は即席のコンビであり、しかも競争し合う関係にある。コンビネーションを巧く機能させれば、各個撃破が可能であるかも知れない。

だが、愚かだ。そんなものは、机上論に過ぎない。

一歩はやく前に出た毘沙門天が、戟で突きかかる。三つ叉に別れた彼の戟は、まるで獲物を襲う大蛇のような勢いで天使の胸を突こうと迫る。天使は必死に剣を振るうが、切り結ぶのが精一杯だ。

「兄者!」

下がったドミニオンが、必死の形相で叫んだ。その手に、魔術の光が集まっていく。トールは切り結ぶ毘沙門天とドミニオンを横目に走る。そして、走りながらミヨニヨルを掴んだ。

「おのれっ! 下等な異境の魔神めっ! 死ねええっ!」

突きだしたドミニオンの手から、光の束が迸る。トールは避けない。そのまま、直撃コースを突進する。

炸裂。爆発。大量の砂塵が舞い上がる。

気にしない。力づくで、魔力のいかづちを突破。全身の傷をものともせずに、驀進する。むしろ、薄ら笑いさえトールは浮かべていた。

青ざめたドミニオンが、今度は魔力の炎を放ってくる。渦を巻いて襲ってくる炎を、完全に無視。そのまま突進。力づくで突破。ガードポーズさえ取らず、己の肉体だけで魔力の炎を蹴散らす。数歩下がりながらも、まだ闘志を捨てないドミニオン。なかなかに優秀な戦士だ。中級天使の長として、実質天軍を動かしている連中だけはある。地面に手を突いたドミニオンが、詠唱を終える。その体から、急速に魔力が失われている。トールの足下の地面から、無数の氷の錐が突きだしてきたのは、次の瞬間の事であった。

大量の砂をまき散らして、氷の錐が十メートルも吹き上がる。観衆からおおと感嘆の声が漏れた。敵も味方も関係ない。鬼神達は、基本的に面白い戦いを賞賛するのだ。ドミニオンは肩を揺らして、荒い呼吸を整えながら、立ち上がろうとする。そして、顔を上げた瞬間に、固まる。無理もない。トールが拳を振るって、氷の錐を粉々に砕いたからである。

全身は傷だらけだが、それが心地よい。火傷も、凍傷もある。切り傷も、打撲もある。それらは、戦いの喜びの結果。痛みは、命の実感である。ゆっくり歩み出るトールに、蒼白になった天使が飛び上がろうとする。だが、それは残念だが予想済みだ。既に投擲しておいたミヨニヨルが、その側頭部を直撃。心地の良い骨の粉砕音。悲鳴を上げながら墜落する天使に、突貫。距離を、ゼロにする。

そして、地面に落ちる前に、顔面に拳を叩き込んだ。

回転しながら地面に直撃するドミニオン。数度バウンドして転がる。つかつかと歩み寄ると、翼に手を掛ける。中級一位の天使だけあり、二対も翼が生えている。無造作に、一枚をむしり取る。絶叫。更にもう一枚をへし折った。これで、もう飛ぶ事は出来ない。

「悪魔アアアッ!」

至近距離から、身を捻ったドミニオンが火炎の術を浴びせてくる。だがその瞬間、トールは右手をふるって、術を弾き飛ばした。手の甲が焼けこげるが、気にしない。蒼白になるドミニオンの顔面を、踏みつぶす。いい音がした。

蟹のようにもがいていたドミニオンを、担ぎ上げて、地面に叩きつける。必死に這って逃げようとする天使。ローブを背中から掴んで引きずり起こすと、顔面にもう一撃拳を叩き込む。鼻骨が砕ける。更に一撃。もう一撃。吹っ飛んで、砂に顔から突っ込む天使。立ち上がるまで待ってやる。後ろから響く剣戟の音。足音から判断するに、どうやら毘沙門天のワンサイドゲームだ。だが、気にしない。此処で敗れるようなら、別にナンバースリーでも構わない。今はこの戦いを楽しむまでだ。

天使が立ち上がった。ふらつきながらも、詠唱し、剣を出現させるドミニオン。片眼は既に潰れていた。内臓ももう役に立たないだろう。剣で斬りかかってくる。残念だが、もう哀れなほどに遅い。手加減してやる必要も理由もない。だから、無造作に、容赦なく蹴り上げた。

剣が、手首の先ごと、千切れて飛んだ。

一瞬の空白。ドミニオンが、絶叫した。

「ああ、ああああああ、ひぎゃあああああああ!」

砂地に、剣が突き刺さる。血は出ない。代わりに、大量のマガツヒがほとばしり出る。そろそろ終わりだ。戻ってきたミヨニヨルを腰にぶら下げる。もうこれに用はない。とどめは己の拳で刺さなければならない。

「ぎあああああっ!」

悲鳴を上げるドミニオンの頭を両手で掴む。全力で握り込む。だから、指が頭蓋骨に食い込む。断末魔の絶叫が上がる。心地よい音楽だ。舌なめずりする。

そして、一気に左右に引き裂いた。

マガツヒになって飛び散るドミニオン。大きく息を吸って、そのマガツヒを吸い尽くす。なかなか濃密な味だ。ゴズテンノウに捕らえられ痛めつけられる前であったなら、もう少しましに戦えただろう。天使共は侮れないと、トールは再認識した。そして、また自分の力が跳ね上がるのも。

ミズチはある程度痛めつけると、戦意喪失して降伏してしまったので、つまらなかった。その分の苛立ちも、トールの攻撃には籠もっていた。トールは戦いが大好きだ。だからこそに、相手を痛めつけるやり口に容赦はなかった。

後ろで、毘沙門天がもう一匹のドミニオンの首を跳ね飛ばした。ゆっくり振り返る。僅かな瞬間、視線が絡み合う。先に目を外したのは毘沙門天であった。毘沙門天は、トールに、たじろいでいた。

「貴方は、まるで破壊の神ですな。 人としての要素を強く残しているとはとても思えない」

「俺は昔からこうだ。 そして、この身が悪魔になった今も、それに変わりはない」

見れば、他の四天王も蒼白になってトールの戦いを見ていた。どうやら此奴らが下克上を企む事はもう無いなと、トールは思った。

「見事である!」

ゴズテンノウが立ち上がり、激賞した。実際問題、毘沙門天の戦いぶりは、トールから見ても見事であった。出来るだけ傷を作らないように、なおかつ己の得意な分野で、確実に敵を仕留めている。トールと違って、戦いの全てを楽しんでいる訳ではないようだが、それでも立派だ。此奴は強い。そして、強い奴が、トールは大好きだ。

喚声が上がる。リコが慌てて辺りの道祖神や地方神を呼び集めているのが見えた。怪我を心配しているのだろう。余計な事である。この程度の怪我など、唾でも付けていれば治る。実際問題、同格の堕天使の方が手強い印象がある。恐らく神の僕であるという驕りがないからだろう。

手加減はしなかったが、全力ではない状態で、充分に仕留める事が出来た。眼を細めて、傷の痛みを楽しむ。これこそが、戦いの余韻。新たなる力と並び、得るべき正当な報酬であった。

なおもゴズテンノウは演説した。

「トールが余の腹心である事に、異存のあるものは?」

「異議無し! トール様万歳!」

鬼神の一柱が叫ぶと、他の者達もそれに習う。毘沙門天は握手を求めてきた。満足して、それに応じる。

どうやら今後も、こいつと戦う必要はなさそうだ。残念な事である。トールはそう思った。

 

戦いの翌日、会議が招集され、その場で正式にゴズテンノウから組織の再編成が発表された。この手際の良さから言って、恐らくフッキとジョカが助言したのだろう。ゴズテンノウは、己の知能が決して高くない事を自覚している。だが、知能が高い相手を使いこなす技も、心得ている。急速な成長は、トールも舌を巻くほどだ。戦いを楽しむためにも、このリーダーはトールにとって必要不可欠だった。

トールは現状維持でナンバーツー。異論を挟む者は一人も居なかった。フッキとジョカは相変わらず顧問的な立場である事が言及された。同時に、マネカタの大増産にも触れられる。それを実現するために、百体のマネカタを常時拷問してマガツヒを絞り上げ、二柱に力を与える事も決定された。これも当然の処置である。今の生産量では、程なくマガツヒが足りなくなってくるからだ。

ゴズテンノウ軍の基盤となっているのは、マネカタから絞り上げたマガツヒである。今後は更に生産量を増やす必要があるだろう。どんな悪魔も持っている強さへの渇望と、位への欲求、それに闘争本能を満たす事が出来るからこそ、ゴズテンノウは忠誠を集めていられるのである。鬼神達もそれを理解しつつある。だから、基盤になっているフッキとジョカは、顧問的な立場のままでいられる。

幹部の地位も大幅に変化した。四天王が、側近として地位を大幅に上げた。特に毘沙門天は、トールに次ぐナンバースリーである事が確定した。トールと毘沙門天はツートップとして、ゴズテンノウの直属軍を編成する事となった。

他に、地方軍司令官として、ミズチや何体かの鬼神が任命される。毘沙門天の縄張りには、かってナンバースリーであり、四天王の討伐を進言した天が入る事になった。彼はかなり組織内での席次を落としたが、地方軍を率いる立場になった事で、面目を保ったのである。ゴズテンノウの手腕は短期間で急激に充実してきている。

当然の結果であるが、オンギョウギは、幹部から外された。理由は幾つもある。留守居役を巧くこなせなかった。多くのマネカタの逃亡を許した。それに、何体かの鬼神とつるんで、軍閥を作ろうとしていた事が判明していた。もちろん、軍閥は極めて小規模でまとまりもなく、故に簡単に情報が漏洩したのである。漏洩した情報の中には、トールの暗殺計画までもがあった。

「貴様には失望したぞ。 一兵卒からやり直せ」

ゴズテンノウの容赦ない言葉に、歯がみしながらオンギョウギは会議室を出て行った。あの歪んだプライドの塊が、まともに反省などする訳がない。むしろ逆恨みするのが関の山だ。後で様子を見に行った方が良いだろう。場合によっては、その場で殺してしまった方が良いかもしれない。

まだまだ兵力は少ないが、しかし一つの組織として形を為しつつある。一通り会議を終えると、ゴズテンノウは立ち上がる。他の鬼神達を圧する巨体が、腹の底から響くような声で言った。

「ここに余は宣言する! これから我が軍は、このボルテクス界の支配と、新たなる世界の理の構築に向けて動く!」

「おおっ!」

鬼神達が興奮して歓声を上げた。毘沙門天までもが、目を輝かせて聞き入っている。どこか、トールはそれを醒めた目で見つめていた。

「我が軍は、これよりマントラ軍と名乗る事とする! マントラとは、すなわち言葉そのもの! 世界を支配するに、これ以上ない相応しい名だ! 皆の者は、余の僕たるマントラ軍精鋭として、これからも覇道に向け動け! 活躍を期待しておるぞ!」

歓声が爆発する。単純な演説だが、ゴズテンノウのカリスマと、そのわかりやすさは、大衆の感情に火をつけるのに充分だったわけだ。

今このボルテクス界に、覇道を求める一つの組織が、誕生した。トールは沸き上がる歓声と拍手の中、歴史的瞬間を見つめていた。己がその立役者の一人だという自覚は、無い。沸き上がる中、何処かトールは一人、空虚だった。

 

2,それぞれの事情

 

住処にしている廃ビルに、入ってきた影が一つ。動きは力強いが緩やかで、すぐに正体が知れる。サイクロプスのフォンだった。

まだ意識が戻らないマネカタの子供の手当をしていた琴音は、顔を上げた。フォンの手には、汲んできた水の入った桶があった。フォンの大きな手から比べると、まるでままごとの玩具のようだ。

「汲んできたぞ、サマエル」

「ありがとうございます」

「しかし難儀だな、マネカタという奴は」

フォンが文句を言う。仕方のない事だと、琴音は思った。何しろ、殆どの場合、渇きさえ悪魔は感じないのだ。琴音も砂漠で意識を取り戻してから今まで、水が欲しくなったためしがない。酒を飲むのはまた別の感覚であることから考えると、どうやら様々なところでおかしな歪みがあるらしい。例外はある。「乾く事」が存在理由になっている一部の悪魔は、水を求める。だがそれは、本当にごく一部に過ぎない。

この水も、少し前に琴音が穴を掘って、ようやく掘り当てたものだ。掘った当初は泥だらけで飲めたものではなかったので、布を重ねて濾過して、更に蒸溜して飲めるようにした。細菌類は排除できたはずだ。後は水溶性の有害物だが、こればかりはどうしようもない。無い事を祈るしかない。水を作り出す術は存在しているらしいのだが、手元にはないのだ。そうして、ようやく手に入れた水だ。それなのに、マネカタの子供を助けるくらいにしか役立たない。フォンが愚痴を言うのも仕方がない事だった。

此処にはあるべきものが無い。本当であれば、必要なものが足りない。それなのに、力ばかりは異常に大きい。そして、琴音の違和感の中で、何もかもが逞しすぎるほどに生存している。異様な世界。だが、どこがおかしいのか、具体的に説明が出来ない。もどかしいのだが、おかしいと考える方がこの世界では変なのだと、ここしばらくで思い知った。どちらかといえば変わり者のフォンやクレガでさえそうなのである。

余裕が出来てきて、フォンやクレガ、ティルルの事も分かってきた。

サイクロプスというのは、ギリシャ神話に源を持つ巨人の一族だ。彼が属する邪鬼という種族は、古い神である鬼神族の中でもニンゲンや神に敵対する者達であり、巨体を持つ者が多いのだとか。

レプラコーンというのは、妖精の一種。妖精というのは、自然の力を体現化した精霊に近い存在で、民話の担い手だそうである。日本の妖怪も、どちらかといえば妖精に近い存在なのだそうだ。

ワームは極めて原始的な龍の一族である。地下に降りて手当をしたのだが、とんでもなく巨大なミミズに見える。邪龍というのは、邪鬼と同じく、神に敵対する龍族を指す。ワームは英雄物語で退治される事が多い典型的な悪役である。だがティルルは善良なので、虐められるのは気の毒だった。

琴音は桶を受け取ると、ふきんを付けて、水を絞った。丁寧に子供の額を拭いていく。助けた時に手当をして知ったが、女の子だ。綺麗にして上げないと可哀想である。髪の毛は綺麗にすると、それなりに艶が出る。滑らかな黒髪だ。そろそろお洒落の一つもして良い年頃である。

廃ビルに担ぎ込んだ後、服を全て脱がせて調べたが、蜘蛛の悪魔に噛まれていた様子はなかった。蜘蛛の毒は麻痺させるだけではなく、消化液を含んでいる。噛まれて毒を注入されていたら、まず助からなかっただろう。蜘蛛は獲物を逃がさないために糸で巻いているのではない。注入した消化液で、内部構造がどろどろに溶けて食べやすくなるのを待っているのである。

ビルの中で見つけてきたスポンジに水を含ませて、口に入れる。こうすると、少しずつ飲んでくれる。不思議そうに見ていたフォンが言う。

「訳が分からん」

「どういう事でしょうか」

「いや、そんな小さいのを、かいがいしく世話をする意味が分からない」

「……そう、なんでしょうか」

フォンもクレガも戦いは嫌いだという。戦いたがらずに、掃きだめのような此処に集まっている事は、琴音も知っている。それに、弱った仲間に優先的にマガツヒを与えて、回復を待っているではないか。それなのに、子供を労るという感覚がないのはどういう事なのだろうか。

今まで、何度か自分も含めて女性の悪魔は見た。逆に、明らかに男の悪魔だっている。性別があるのなら、生殖を前提としているのではないのだろうか。色々驚かされてきたが、聞いてみる。

「ええと、凄く基本的な事なのですが、聞かせてください。 あ、あの……その。 新しい命は、えっと。 どうやって産まれるんですか?」

「そんなものは知らない。 噂によると、地下を流れるマガツヒが自然に集まって、悪魔が形作られる事はあるって聞くが、見た事はないな」

「……そう、ですか」

ちょっぴり恥ずかしかったが、聞いてみて良かった。当然良い大人であるはずのフォンの反応から、全ての合点がいった。

驚くべき事である。この世界では、恐らく食事の概念だけではなく、生殖の概念までもが存在しないのだ。だから、子育てという意識もない。恐らく、性別はただ存在しているだけだ。しかも術の存在を考えると、性別に力の差や社会的役割は関わってこない可能性が極めて高い。

婬魔という言葉は聞いた事があるし、露骨に性の存在を表に出している神話は多い。だから性交を行う悪魔はいるだろう。だが、それが子供を産み出すためかというと、恐らくノーとなるのだろう。悪魔は生物的な要素も持っているが、此処が決定的に違う。だが、どこかでこういう形態の生を持つ存在を見た事があるような気がする。それに、神話での異様な子供の生まれ方の数々を見ていると、悪魔が普通に妊娠して子供を産んで育てる様子は想像できない。

「儂は見た事があるぞ。 新しい悪魔が産まれる様子をな」

「本当ですか?」

「ああ。 いちど地下のアマラ経路に紛れ込んでしまった事があってな。 そこで、マガツヒが集まって、人の形を為すのを見た。 それが徐々に大きくなって、しっかりした形を作って、外に出て行くのもな。 サマエル、お前さんが何に違和感を感じているのかは分からんが、この世界の理はそんなものだ」

クレガはマダから貰ってきたお酒を口に入れては、上機嫌に口笛を吹いていた。髭がてらてら濡れているのは、酒がこぼれたのだ。酔いどれの老人だが、知識は豊富。それに口は悪いが、根は良い人だ。

あれから色々とクレガに聞いて、知識を増やしてきた。違和感はそれで減ったり増えたりしているが、この世界の事は否応なしに分かり始めている。マネカタの知識も得た。どうやらマネカタとは、泥から術で作られるらしい。最初から子供は子供、大人は大人なのだとか。

一度マネカタがどういう風に作られるのかを見ておきたいと思ったのは、純粋な好奇心からだ。効率重視だというのなら、子供のマネカタなど作る意味がない。他に子供のマネカタはいるのか。そこまで考えて、ふと思い出す。どこかでそれを、見た事はないか。楽園と呼ばれた温室で、何か似たような事が為されていなかったか。

記憶が混乱しているのは、今も同じだ。やはり、まだまだ、自分についても分からない事が多かった。

ビルが揺れたのは、地下でワームのティルルがもがいているからだろう。まだ傷が癒えていないためか、苦しがって時々もがく。天井から埃が落ちてきたが、さっとクレガが杯を避ける辺り、かなり手慣れている。

マネカタの子供が、身じろぎした。今までで一番大きな反応だ。頬を撫でてやる。まぶたが揺れる。

目を、覚ました。

 

日齢が二つ動くまで、マネカタの子供は殆ど能動的な反応を見せなかった。手をかざすと瞬きしたし、指を鳴らせば目をつぶった。喋りもしなければ、逃げようともしなかった。静かに此方を見ているばかりである。

ひょっとして、幼児退行や記憶障害を起こしているのではないかと心配したが、そんな事もなかった。言葉は理解しているようであったし、水を入れたコップを渡すと、自分で飲んだ。それを見ていて少しだけ安心したのだが、いざ口を開くと大変だった。

「おばさん、誰?」

「お、おばさん!? 私が?」

さらりと言われたので、流石に反応が遅れた。今まで一度も老け顔だと言われた事はなかったのだが。ちょっとショックを受けた琴音に対し、子供は体を起こしてぺたんと座り込むと、しらけた目で周りを見ながら言う。

「あの蜘蛛の悪魔はどうしたの?」

「そのサマエルが、倒した」

フォンがショックを受けている琴音の代わりに応える。肝が据わっているのか、子供は見上げるようなサイクロプスの巨体にも、低く据わった声に対しても、全く怖がる事がなかった。

「殺したの?」

「そうだ」

「そう。 それなら、あの蜘蛛の悪魔がいた場所に案内してくれると嬉しいんだけど」

「病み上がりなんだから、しばらくはおとなしくしていなさい。 元気になってから連れて行って上げるから」

じっと見つめられる。ちょっとどぎまぎした。

ニンゲンがペットをかわいがるのは、喋らないからだという説がある。同じ小さい動物でも、ニンゲンの子供は加齢と共に生意気になるし反抗するし、言う事を聞かなくなってくる。幾ら血縁が近くても、所詮は別の存在であり、自我があるからだ。特に高等なコミュニケーションを必要とするニンゲンの場合、差異は大きい。得られる精神的な癒しよりも、負担の方が大きいパターンが多い。

その分、ニンゲンに忠実な犬や、気紛れであっても露骨に逆らう力のない猫は、都合の良い感情や思考を押しつけるには最適だ。もちろん熱帯魚や、鳥なども同じである。飼うのにデリケートな注意が必要になるパターンが多いが、喋らないというのは、それ以上に大きいのである。特に家庭用のペット動物の場合、遺伝子レベルで相手をカスタマイズする事さえ可能なのだ。

唾棄すべき事の筈なのだが、このマネカタの子供も、喋る前と後では印象が全く違う。単純に下劣だと批判するのは簡単だが、しかし何か釈然としないものを感じるのは事実だ。あってはならぬ事なのだが、それに身をゆだねてしまいそうな自分がいる。

子供は生意気なものだと相場が決まっているが、実際にそれを受け入れられるかどうかは経験がものを言うし、慣れていてもストレスは感じるものなのだ。もちろん、子供に愛情を感じるような適正的問題もある。琴音はそれをどこかで知っていたはずだったのだが。やはり、少しびっくりした。

それにしても、冷たい目の子供だ。冷徹というのとは少し違うが、非常に起伏が少ない印象を受ける。ロボット的と言うよりも、なにもかもに無遠慮だ。あらゆる意味で、子供らしくない。

其処まで考えて、やはり記憶の混乱に苦しむ。これらの知識がどこから出てきたのか、明確にたどれないのだ。子供は琴音の苦悩など知った様子ではなく、直球コースで質問を投げつけてくる。

「どうして私を助けたの?」

「困っているものがいたら、助けるのが当たり前でしょう?」

「でも、それで貴方は殺生をしたんじゃないの? それでは、何もかも意味がないような気がするけれど」

そう言われると返す言葉がない。結局の所、この子を助けた事で、あの蜘蛛の悪魔と堕天使は死ぬ事になった。そのマガツヒは琴音が喰らい、情報といくらかの技や術を得た。誰かを助けたその裏で、消えた命は、確かにあるのだ。

「助けてくれた事に礼は言うわ。 ありがとう」

「え? うん」

「でも、私を拷問しても、マガツヒは取れないわよ」

冷酷な言葉。それに、拷問される事を恐れてもいない様子だった。体に拷問の跡も特になかったのは幸いなのだが。どうしてこの子は、こうもクールなのだろうか。とても年相応の姿だとは思えない。

困惑している琴音に、フォンが助け船を出してくれる。クレガは酒を飲みながら横目で見ているばかりで、特に何もしてはくれない。じっくり子供の性格を見極めようとしているのだろうと、琴音は思った。

「マネカタ、一つ言っておく。 其処の琴音は、お前を拷問してマガツヒを取ろうと思って助けたのではない。 意味がないのに、お前をわざわざ命がけで助けた物好きだ。 そんな風には言うな」

「本当?」

「嘘を言う意味がない」

「……分かったわ。 誤解していてごめんなさい」

まだ子供は警戒をしている様子だった。だが、少しだけ安心した琴音は、改めて名乗り、他の者達も紹介する。

子供は、少しためらった後、カズコと名乗った。

 

共同生活をするには、色々な道具を揃える必要がある。特にマネカタの場合、食料が必要になる可能性がある。それに、生活必需品を揃える必要性もある。

カズコは素足だったので、出歩くために、まず靴を作る事にした。外は砂地が多いとは言っても、所々ガラスの破片が散らばっていて、素足で歩くには危険すぎる。自分はと言うと、ガラスを踏んでも屁でもないので、靴など必要ない。今更履こうとも思わなかった。

「靴なら、儂に任せておけ」

「いいのですか?」

「というよりも、そもそも儂にはこれが本職でな。 我らレプラコーンは、靴を作る妖精なんだよ」

いくらかの材料を指示されたので、集めてくる。襤褸切れ。糸。後は術の媒介にすたありふれた物質の幾つか。それだけで充分だと言う事だった。

クレガはカズコの足を何度か触って測ると、術を唱えて型紙を作り出した。後は布を折り曲げたり重ねたりしながら、懐から取り出した糸ですぐに縫い始める。ミシンのような速さで、糸を布に通して、形を整えていく。

形が整うまで、日齢一つも掛からない。息を呑むほどの手際だ。最後に、小さくて可愛い靴に、手をかざして呪文を唱え始める。

「妖精王オベロンよ、この靴を履く者に、汝の祝福あれ。 踊る時も、歩く時も、逃げる時も走る時も、主を守り、最後の時まで共にある事を」

ぱちんと、音を立てて指を鳴らす。靴が淡い光を帯びるが、すぐに消えた。

作ってもらった靴を履いて貰う。口うるさそうなカズコだが、文句一つ言わなかった。多分良くできていたのだろう。見かけは襤褸布の塊にしか見えないが、確かに温かくて履きやすそうだ。

ニンゲンの子供とは接し慣れていた記憶がある。具体的にどう接し慣れていたのかはよく分からないのだが、それに間違いはないはずだった。それなのに、カズコはどう接して良いのかよく分からない相手だった。

不意に、袖を引かれる。

「お願い。 もう大丈夫だから、連れて行って」

「え? うん。 どうしようかな」

この間、明らかにニヒロ機構の一員かと思われる堕天使を返り討ちにしてしまったから、外を歩く時は気をつけるようにしている。殺した相手には友人がいたし、上司の命令で動いていた。である以上、彼らが報復に来ないとは言い切れないのだ。

それに、この子は病み上がりだ。それにしては言動が妙にしっかりしているが、急激な運動は好ましくない。何より、この間のような実力の悪魔に襲われた時、庇いきる自信がない。

困っているサマエルを見かねてか、クレガが助け船を出してくれる。

「いいさ、儂がついていく。 いざというときには、時間くらい稼げるだろう」

「ありがとうございます」

「何、たまには外も出歩きたいでな」

今日はクレガがついてきてくれる事になった。出かける時は、流石に酒瓶は手にしていない。カズコよりも少し背が低いクレガは、赤ら顔であったが、しかし足下はしっかりしていた。

困り切ったサマエルは、ちゃんと歩けるなら連れて行ってあげるとカズコに条件を出した。カズコは頷くと、平然と外へ歩き出す。無理をしている様子はない。ため息が一つ漏れた。何だか、今まで積み重ねてきた全てが、崩れていくような気がしてならない。

砂を踏んで歩きながら、隣を歩いているカズコの頭を時々見やる。向こうは此方に、必要がない限り見向きもしない。子供らしくない反応だなと思う。しかし、マネカタの常識はよく分からないし、何とも言えない。

時々、辺りに警戒しながら歩く。空はもちろんだが、物陰に何が潜んでいるか分からない。この間から出来るようになった剣の具現化を、常に行っておく。炎を模したフランベルジュを片手に歩く。いざというときには、出会い頭に斬り伏せるくらいの覚悟は必要だ。此方の緊張は知らないのだろうか、カズコは恐れる様子もなく、砂を踏み踏み歩いていた。

地下道へ入り込む。この間の事を考えて、最初から灯りの術をつかって、辺りの視界を確保する。クレガに殿軍に残って貰って、まず最初に自分が入る。長い通路は、攻撃を受けた際に逃げづらい。非常に危険な場所で、しっかり安全を確認しないと、とても入る事など出来ない。

緊張する。一歩一歩踏み込む。この間の戦いの跡が、辺りには生々しく残っていた。コンクリの壁には破砕跡があったし、堕天使が燃え尽きた辺りは焦げていた。そして、蜘蛛の巣の残骸は、まだ残っていた。

改めてよく見ると分かるのだが、辺りの床には縦横に蜘蛛の糸が走っている。粘りけはないから、これは振動を感知するための糸だろう。実際に、穴などに巣を作る蜘蛛は、こういった糸を周辺に張り巡らせ、近くを通りがかる昆虫などを察知して捕らえる。しかし、分からない事も多い。こういう蜘蛛の本能が見えるのに、どうして縛るだけで済ませたのか。

しっかり奥まで確認して、奇襲を受けるおそれがない事を見極めてから、入り口に戻る。カズコはやはり大胆に歩を進めて、暗がりに入り込んできた。見ている此方が不安になるほどだ。

「怖くないの?」

「昔もっと怖い目にあった気がするから。 平気よ」

「昔、のう」

「クレガさん、どうしたの?」

クレガは何でもないと応え、油断しないようにもう一度釘を刺した。襟を正す気分である。確かに雑談している余裕はない。奇襲を受ける心配はないにしても、入り口出口をふさがれたら、逃げ道はなくなるのだ。

頭が冴えて仕方がない。具体的にどうすれば奇襲を避けられるのか。どうすればこの場所で有利に戦えるのか。理論がどんどん組み上がる。交戦意欲と裏腹に、戦闘の知識が妙にとぎすまされている。徳山先生に色々軍学書を読まされはしたが、ただ頭の中に知識を入れていただけだった。それなのに、今ではそれらが一つずつ練り上がって形になろうとしている。

辺りの地形から導き出される効率の良い戦術を練り上げているサマエルを横目に、カズコは大胆に歩く。犠牲者の残骸だったらしい布きれに歩み寄ると、一つずつ調べ始めた。この子が遭遇した、もっと怖い目とは何だったのだろう。見当もつかない。しばらく床を触って辺りを調べていたカズコは、小さく嘆息した。同時に、ぽっと灯りが生まれる。カズコから、マガツヒがこぼれたのだ。かなり量が多い。弱めの悪魔が死んだ所をこの間見たが、その時のようだ。

「ありがとう。 もう良いわ」

「捜し物は見つかったの?」

「いいえ。 見つからなかった。 だから、良かったの。 きっと逃げ延びたのね」

やはり、違和感はぬぐえない。この子の反応は、大人のそれとしか思えない。

他のマネカタはどういう者達なのだろうか。劣化したコンクリートに覆われた天井を見つめるサマエルの腿の辺りをクレガが叩いた。

「勘違いしないように言っておくぞ。 あの子は特別だ。 殆どのマネカタは臆病で貧弱で、この世界でもっとも脆弱な連中だ」

「そうなんですか?」

「そうだ。 だから、儂も驚いた。 あの子を基準に、マネカタを考えない方がいいだろうな」

カズコは聞こえていないのか、一人出口に向かって歩き出す。何だか、此方が主導権を握られてしまっているかのようだ。あのふてぶてしいまでの態度は、どこから来るのだろう。生意気な子供は何度も接してきたような気がするのだが、それとはまた違う気がしてならない。

「ちょっと待って。 出口の安全を確保するから」

「……」

カズコは琴音をじっと見つめると、小さく頷いた。分かってくれたらしい。殿軍をクレガに任せて、外に出る。カグツチの光は徐々に弱くなりつつある。悪魔はこれからおとなしくなるから、出歩くには丁度良い。

クレガは、さっきカズコからマガツヒがこぼれたのに、見向きもしなかった。あれだけの量があれば、喰らえばそれなりに力は増すはずなのに。掌の中には、さっきカズコに気付かれないうちに、素早く集めたマガツヒがある。出がけに、口に含んだ。この間喰らった堕天使のマガツヒとはまた味が違う。少し苦かった。

ビルの外に出ると同時に、冷えるような殺気を感じた。きびすを返しかけるが、すぐに思いとどまってフランベルジュを構える。この様子では、出てくるのを待っていたのだ。下手に戻ると、奥の二人を巻き込む事になる。

ふわりと、目の前に何かが降りてくる。見ると、立ち上がった豹のような姿をした、雄々しい悪魔だった。マントを風になびかせていて、両手には剣がある。あまりにも自然に間合いに入り込まれたので、それ以上の対応は出来なかった。途轍もなく強い。今の琴音では、とてもではないが勝ち目はない。しばし、にらみ合う。豹の鋭い眼光は、至近で見ると圧倒的だ。

「貴殿は、この間マダから酒を分けて貰っていた悪魔だな」

「貴方は?」

「私はニヒロ機構将軍、堕天使オセ。 この間は部下が世話になった」

息を呑む。この声、姿、覚えがある。

そうだ。マガツヒと一緒に吸収した記憶の中に、敬愛と共にこの姿があった。そうだ、琴音がやったのだ。この人の部下を、殺して喰らったのだ。沸き上がってくる罪悪感に、オセは浸る暇を与えてはくれない。ぺこりと、琴音は一礼していた。

「サマエルの琴音です。 この間は、申し訳ありませんでした。 貴方の部下を殺めてしまいました」

「気に病む事はない。 部下の報告は聞いている。 あれの力不足の結果だ。 気をつけるようにとは、言っておいたのだがな。 それなのにあれは油断し、失敗を重ねた。 原因がない敗者はいないものだ」

「……」

「そんなあいつであっても、悲しんでくれるのなら、浮かばれるだろう。 その剣でも分かるが、貴殿の中に、あいつの力は生きている。 私が言うのも何だが、大事に使ってやって欲しい」

オセが剣を降ろしたので、琴音もそれに釣られるように戦闘態勢を解く。周囲に、他の悪魔の気配はない。彼一人で来たのだろう。

根本的な意味で、紳士的な存在だと琴音は思った。非常に強い誇りを言動から感じる。こういう悪魔もいるのだなと、琴音は感心した。同時に、更に罪悪感は強くなる。オセはにやりとした。豹が笑うのは、ちょっと怖かった。

「どうやら危険な存在ではなさそうだな。 この間の不手際は、此方に原因があると言っても良い。 公式な謝罪はしかねるが、貴殿が敵対行動を取らなければ、ニヒロ機構は追わない事とする。 これからも、マダに安心して酒を分けて貰うとよい」

「ありがとうございます。 なんと言ってお詫びして良いのか」

「代わりと言っては何だが、ニヒロ機構に来てくれないだろうか。 以前見た時よりも、短期間で随分力が増しているように見受けられる。 ニヒロ機構の長である氷川司令は、有能な人物だ。 必ずや貴殿に出世の道を開いてくれるだろう。 マガツヒを恒常的に得られるようにも手配しよう」

「……すみません。 少し考えさせてもらえませんか?」

オセは快諾してくれた。そして、すぐに姿を消してしまった。どうやったのか分からなかったのだが、よく見ればさっきまで立っていた辺りが不自然にへこんでいる。跳躍力を駆使して、ビルの屋上にでも飛び移ったのだろう。ニヒロ機構は最近どんどん人員を増やしていると聞くが、その将軍をやっていると言うだけの事はある。

手には彼が残した名刺がある。紙らしき不思議な素材で出来ているが、正体はよく分からなかった。名刺自体から強い魔力を感じる。オセが術で作り出したのかも知れない。その推測は、高い確率で当たっているだろう。

一瞬の空白が訪れるが、頭を切り換える。こう言う時が一番危ない。油断無く周囲に敵影がない事を確認してから、二人を呼びに戻った。カズコは外に強力な悪魔が来ていた事に、気付いていなかったらしい。この辺り、子供である事が実感できて、少し安心した。クレガはそれに対して、緊張を隠さなかった。

「行ったか?」

「ええ。 ニヒロに来ないかって、誘われました」

「あいつは、堕天使オセだな」

「はい。 そう名乗っていました」

何か因縁があるのかも知れない。クレガがオセと口にする時に、畏怖が含まれているのを、琴音は敏感に感じ取っていた。

クレガが、居場所を移そうと言い出したのは、翌日の事だった。

 

短い間であったが、過ごしたビルから移るのは勇気が必要だった。

オセという名前を聞いた途端に、フォンも移動に同意した。元々この住処にこだわる意味もない。琴音にも、反対する理由は無かった。ただ不安なのは、移動の際に襲撃を受ける事である。

過去を詮索するのは嫌いだ。琴音も幾つか聞かれはしたが、記憶が曖昧な事が分かってからは、二人とも何も言わなかった。それなのに、色々と聞くのは失礼に当たる。そう琴音は考えた。だからオセに対する因縁に関しては、何も聞かなかった。

だが、危険がある以上、幾つか確認しておかなければならない事もある。

「まず、此処から離れるとして、何処へ向かうかです。 当ては、あるのですか?」

「そんなものはない」

「俺もだ。 行き先で決めるしかないな」

「そんな無計画な。 あのオセ将軍ほどの相手でなくとも、この世界には強力な悪魔が幾らでもいるはずです。 そういう襲撃者が少ない地域は、無いのですか?」

二人とも口をつぐんでしまう。

現在、琴音の認識では、危険地帯は二つだ。一つは、イケブクロ。強力な鬼神達が集まりつつあり、力を主体とした信条で支配を開始しているという。此処は駄目だろう。何しろマネカタを作り出し、奴隷として使っているという話だ。もう一つは、今此処であるギンザ近辺。だが、これには疑念が残る。オセと和解した以上、ニヒロ機構に属してしまった方が却って安全かも知れない。

だが、助けて貰った恩もある。ギンザ近辺は除外するしかない。それならば勢力の空白地帯になっているらしいアサクサ当たりが良いかと思い始めた琴音を唖然とさせる一言を、クレガが言った。

「イケブクロに向かおう」

「ちょっと待ってください。 力により支配を信条としている鬼神族が集まっているイケブクロは出来るだけ避けた方が良いのでは」

「此処よりはマシだ。 それに、イケブクロであれば、ニヒロも簡単には手を出す事ができないはずだ」

驚くべき事に、フォンもクレガのその言葉に賛成した。もし反論するならば、より良い代案を示さなければならないだろう。

カズコは最初から話し合いに興味がない様子で、隅っこで靴をいじくっている。糸の縫い目や、布の重ね方に執心のようだ。それを横目で見て、一安心。子供の中には、大人が話し合いをしていると、怖がる者も多いのだ。

「イケブクロに行くとなると、見つかれば当然組織に強引に組み込まれて、労働や戦闘が要求されるだろうな。 労働は俺がするとして、戦闘はどうするかだが。 クレガ、大丈夫か?」

「やるしかないだろう。 お前を盾に、儂が後方から術で支援するしかない」

そう話しているのを聞くと、琴音はこれ以上何も言えなかった。二人が戦闘を嫌っている事は、身近で見て知っている。それなのに、敢えて戦闘を行う事を前提に、イケブクロに向かいたいと言っているのだ。

「分かりました。 もう反対はしません。 戦闘が必要な場合は、私が」

「儂らが言い出した事だ。 そんな風に考えなくてもよい」

「いえ、二人より三人で戦う方が、まだ状況は良くなるはずです。 それに、二人とも、あんなに戦いを嫌っていたではないですか」

「自分が言い出した以上、責任を取るのは当然の事だ」

フォンが言い、酒樽に手を伸ばした。驚く。彼が酒に手を出すのを、琴音ははじめて見た。ぐっと一気に飲み干すのを見て、気付く。恐怖を押し殺すために、酒は必要なのだろう。

もう、何も言えなかった。それほどに、ニヒロのオセ将軍に、何かの恐怖を感じていると言う事だ。本当は、此処にいまいる事さえ、怖くて仕方がないはずだ。琴音は最初、先行して安全なルートを確認しようかと思った。だが、それも今は言い出せそうにない。

二人とも、何も分からない琴音に、色々良くしてくれた。この世界の事についてもレクチャーしてくれたし、世話も焼いてくれた、見捨てる事は出来ない。イエスマンになってしまってはいけないと思う。だが、二人の恐怖は痛々しくて、見ていられなかった。

情を捨てろ。そんな声が、脳裏に響く。だが出来ない。琴音には、それは出来なかった。

「相談は終わった?」

カズコが此方を見もせずに言った。蒼白になる。もしイケブクロにもどれば、カズコは奴隷としてまた死ぬまで使われる事になるのではないだろうか。どうしようかと思った琴音に先んじて、カズコは言った。

「イケブクロに行くのなら、私も賛成よ。 向こうで、確かめておきたい事もあるから」

「どうやら、決まりのようだな。 フォン、ティルルを起こしてきてくれ」

「ああ」

みんな、この悪魔のような世界で、色々と怖い目にあってきているのだ。いつも飄々としているクレガでさえそうだ。フォンも、利き腕の腱を切られた時には、どんな思いをした事か。

地下から、ティルルが引きずり出されてきた。嫌がっていたティルルだが、フォンがなだめながら連れ出す。ティルルは、巨大なミミズに見える悪魔だ。全長は七メートルを超え、普通のミミズよりも遙かに太い。二抱え以上はある。肉感もあり、体重は一トンを超えるだろう。頭部の先端には口があるが、小さい。目はなく、温度で周囲のものを識別する。

ティルルも、戦いを好まない悪魔だ。二人に拾われるまでは、同族にさえつまはじきにされて来た。フォンが助けた時には、体中傷ついて虫の息だったという。琴音が来る少し前にも、外に出ていたところを悪魔によって半殺しにされて、マガツヒを食べながら傷の痛みを癒していたのだ。

片言でしか喋れないが、意思の疎通は出来る。言葉も、きちんと理解してくれる。

「ごめんね、少し歩いて貰うけれど」

「ティルル、ココガイイ。 アマリ、ソトニデタクナイ。 カラダジュウイタイ」

「ごめんね。 我慢してね。 ごめんね」

顔を抱きしめて、琴音はなだめる。やりきれなかった。

オセに対する好感は、綺麗に消えてしまっていた。憎悪はない。だが、一体何があったのか、今度聞いておきたいとも思う。場合によっては、剣を向けなければならないかも知れない。

外に出る。カグツチの輝きが、消えかけていた。静天と呼ばれる状態で、もっとも灯りが弱くなる。同時に悪魔達もおとなしくなるので、今しか遠出のチャンスはない。

最低限の荷物だけ持って、外に出る。ティルルは最後まで嫌がったが、フォンが促すと、外に出た。逃げるように、道を急ぐ。イケブクロは此処からかなり距離がある。途中、危険な悪魔の集落も少なくないはずだ。一気にイケブクロに行き着くのは難しいだろう。何度か隠れ家を見つけては、日齢の変化を待って動くしかない。その途中、イケブクロに向かう事を翻意できないか、説得してみようと琴音は思った。

歩き続ける。手前に出現させた灯りが、蛍のように漂う。頼りない灯りだが、無いよりもずっと良い。途中、長い体を持った悪魔とすれ違った。下半身が蛇で、上半身はインド風の武人の体だった。手には蛇を象った模様のついた丸盾と、長い槍を持っている。蛇の悪魔は此方に興味がないらしく、ぼんやりとした様子で這いずっていった。戦いを避ける事が出来たのは、何よりである。

歩いた事のある範囲からは、すぐに出てしまった。街を出ると、砂漠が広がっている。此処を突っ切るしかない。幸い、この世界はサハラ砂漠ほど酷くはない。また、砂漠と言っても、砂から時々目印になるビルや信号の残骸が突き出ている。恐らく、迷子になる事はないだろう。

砂漠に出て少しした頃には、もうカグツチの日齢が変わっていた。徐々に、明かりが強くなり始める。急がないと行けないだろう。カズコは平気で着いてきていた。ずっとティルルの側にいるのは、どうしてなのだろうか。よく分からない。

砂漠の中で、でんと立っているビルを見つけた。それほど痛んでおらず、強力な悪魔の気配もない。休むのにはもってこいの場所だ。

「一旦此処で休んでいきましょう」

「それがよさそうだ」

「そうするかな」

フォンもクレガも賛同してくれた。安心のため息。もちろん、琴音は休むつもりはない。日齢が動く前にこのビルの中をしっかり調べて、安全が確認できたら、この先の道についても調べておく。安全に進むためには必要な事だ。幸いにも、二人ともある程度ギンザから離れた事で、オセの恐怖から逃れたようである。もちろん、選択肢としては、このビルの中で静かに暮らすというものもある。イケブクロに向かうよりは、その方が遙かに安全だ。

「先に、中を調べてきます。 見張りをお願いします」

「ああ。 任せておけ」

ビルの側の岩陰に、フォンが皆を誘導した。ビルの中から覗いている奴がいる場合、身を隠せる絶好の位置だ。もちろん、何か悪意がある輩がいる場合、待ち伏せしている可能性もある。だが今調べたところ、その危険はなかった。

ビルの中は、恐ろしく静かだった。もちろん電気など生きている訳が無く、中は真っ暗である。見えている分だけで、十階以上あるから、かなり大きなビルだ。見た感じ、マンションだったのだろうか。奥行きはさほど無く、廊下は剥き出しになっていて、多くの戸が並んでいる。

廊下だったらしい場所から入り込む。入った階は砂に半ば埋もれていて、殆どの部屋は戸が壊れて使い物にならなかった。丹念に、一部屋ずつ調べていく。死骸の類は、一つも見あたらない。風化した家具類や、日常品は彼方此方に散らばってはいたのだが。最初の階は、住むのに適さない。フォンなどは入る事さえ出来ないだろう。

ぐるりと周囲を回る。ホールになっている場所を見つけた。此処なら雨露もしのげるし、フォンも入る事が出来る。問題があるとすれば、さっきからずっと此方を見ている奴が射る事だろう。

敵意はないから、今の段階では仕掛けず放っておく。向こうも一定の距離を保っていて、此方には近付いてこない。

ホールの中も砂で埋まっていたが、それほど大量ではない。掃除すれば綺麗にする事は難しくないだろう。生活用品の類は、他の階から引っ張ってくればいい。ホールを見定めてから、入念に建物を調べていく。下の階は、完全に砂に埋まっていた。此方には警戒しなくて大丈夫だろう。問題は上の階だ。

階段を上がっていく。まだガラス窓がはまっている所もある。かなり綺麗に残っている建物だ。歩く度に、ひんやりした感触が足の裏に伝わってくる。ガラスを踏んでも平気な程度の厚さはあるのだが、この懐かしい感触はどうだろう。

混ざり合った記憶の片方は、やはりニンゲンなのだろうか。気になるのは、ニンゲンだとしたら、何故強大な悪魔に押されずに、共存を果たせているのだろうか。私は、何者なのだろうか。琴音という名の人間なのか。それとも、サマエルという名前の悪魔なのか。疑念は、誰にも届かない。

ひやりと、冷たい風が前からながれてきた。曲がり角の向こうからだ。ゆっくり、踏み出す。手には既に、フランベルジュを具現化させていた。先制攻撃を受けるのは面白くない。先に、声を掛ける。

「いるのは分かっています。 出てきてください」

返答無し。だが、はっきりと動揺する気配が伝わってきた。あまり気の強い悪魔ではないらしい。感じる気配も、それほど強大ではない。それならば、何故近付いてきた。縄張りを守るためか。

「出てくれば、攻撃はしません」

もう一度、呼びかける。相手を怖がらせてしまっては本末転倒だ。戦気を弱める。急いで出て行けば、不幸な行き違いから血を見かねない。だから、ゆっくり距離を詰めていく。露骨な敵意のある相手以外とは、出来れば戦いたくなかった。あの堕天使の記憶を見て、相手が血の通った存在だとはっきり分かったからだ。

ずるりと、音がした。こわごわ此方を伺っているのが分かる。根気強く待った。

程なく、それは姿を現した。

 

ビルから出て、皆の待つところに。岩陰から顔を出したフォンは、一つしかない目を不思議そうに細めた。

「なんだそれは」

「バックベアードのケーニスさんです。 元からこのビルに住んでいたそうです」

琴音の後ろに浮かんでいるのは、黒い球体だ。直径一メートルほどで、音もなく浮いている。球体の中心には巨大な目があり、大きな向かい傷が見て取れた。クレガがあごひげを撫でながら言う。

「聞いた事があるぞ。 強力な邪眼の力を持つ悪魔だな。 妖精に近い存在だと聞いているが」

「邪眼?」

「相手を睨む、或いは視線を合わせる事によって、色々な効果をもたらす技の事だ。 簡単なのだと相手を麻痺させたりするだけだが、強力なのになると、即死させたり、石にしたりも出来る」

カズコの問いに、少し自慢げにクレガが応える。知識が足りない相手に、己の手札を披露する事は、誰でも楽しいらしい。問題は、それを楽しそうに見せない技術なのだろう。

「ケーニスさんは戦いが嫌で、このビルに一人で住んでいたそうです。 独りで住むには広すぎるから、少人数なら来ても構わないって言ってくれています」

「本当か?」

ケーニスはその巨大な球体を、くるんと前周りに一回転させた。非常にシャイな悪魔である彼は、殆ど喋らない。琴音もコミュニケーションには苦労した。幸い、通常の悪魔の可聴域外での音波なら会話してくれたので、意思の疎通が出来た。これはこの間捕食した蜘蛛の悪魔が持っていた能力である。

少し会話してみて分かったが、ケーニスは裏表がない善良な性格だ。実際、わざと帰り道に何度か隙も見せたのだが、乗ってくる様子はなかった。一網打尽という考えなのかとも疑いはしたが、それには技量が足りない。

琴音は敏感に見抜いていた。ケーニスは眼を傷つけられていて、その魔力を四半減させている。仮に奇襲しても、この場にいる全員を仕留めるのは、とても無理だ。

「私の一存では決められませんから、皆さんと相談しようと思って此方に来ました。 どうでしょうか、此処でケーニスさんの厄介になっては。 危険なイケブクロに行くよりも、此処で暮らしていく方が良いはずです」

「……そうだな。 厄介になるのを許してくれるというのなら、此処で甘えさせて貰いたい」

フォンは乗ってきた。難色を示しているクレガに、諭してさえくれる。

「フォン、おぬし」

「クレガ、もうこの辺りで良いだろう。 我らの事情で、サマエルやティルルにこれ以上迷惑はかけられん。 それに、カズコもイケブクロに用があるのであって、向こうに住みたい訳ではないのだろう?」

「その通りよ。 いつかはイケブクロで確認しておきたい事があるけれど、向こうに永住したい訳じゃあないわ」

皆には話していないが、ケーニスは此処で暮らしている事に心細さを感じていたという。だが、非戦主義者でもこれだけの人数がいれば、少しは手数が増える。多少は障害から、この住処を守り抜く事が出来るだろう。逃げるにしても、対応が早くなる可能性が高い。群れ集まるのは、弱者が生き残るための知恵だ。

「分かった。 このビルの状況から考えても、それが利口じゃろうて」

クレガは嘆息すると、折れてくれた。どうやら思ったよりも速く、致命的な危険は回避できたらしい。その場凌ぎに過ぎない事は分かっている。だがそれでも、いきなり渦中に飛び込むよりはマシなはずだ。

「コトネ、イケブクロの件、忘れないでよ」

「ええ、大丈夫よ」

カズコに釘を刺される。もちろん、それも忘れてはいない。何にしても、琴音はあまりにも知らなさすぎる。いずれ自分一人か、最小限の人数で、イケブクロは見てきたいと思っていた。

それに、オセ将軍に自分に対する敵対意識が無い今は好機だ。ニヒロ機構も、もう少し調べられるかも知れない。

生きるため。知識がある事は、絶対条件。

そのためには、聞いているだけでは駄目だ。自分の足で何もかもを知る必要があると、琴音は考えていた。

 

3,アマラ経路から来る暗雲

 

体内。そう呼称するのが相応しい場所だ。堕天使オセは配下の堕天使達と共にアマラ経路を歩きながら、そう思った。周囲は膨大な数のマガツヒが飛び交っている。巨大な血管の中を通っているかのようである。

この間の、奇怪な悪魔の襲撃があってから。定期的に、オセは配下の精鋭を連れて、アマラ経路の支配地域を警備するようになっていた。アマラ経路は、今後ニヒロ機構が拡大するために、絶対必要な存在だ。支配地域の絶対確保は、急務であった。

この世界の地下に張り巡らされた、情報の通り道。それがアマラ経路。今、オセが歩いているのは、そのもっとも浅い回廊に過ぎない。深部にはオセでは足元にも及ばないような、巨大な気配がある。とんでもない力を持つ悪魔が潜んでいる可能性が高い。だが、今はそれらと刃を交える時ではない。表層を流れているだけでも、マガツヒは膨大なのだ。

一通り、経路の探索は終わった。マガツヒをつまみ食いしている部下を叱責して、警戒を続けさせる。この過剰なまでの用心深さが、オセをデビルサマナーなるニンゲン共の追跡から守ってきたのだ。

「よし、一旦戻るぞ」

「は。 しかしオセ様、こうまで警戒する必要があるのですか?」

不満そうに応えたのは、中級の堕天使だ。最近部下に加わってきた者で、実力はそれなりにあるのだが、多少思慮が足りない。ただひねくれている訳ではないので、しっかり教えればきちんと覚える。だから、オセもよく世話を焼いていた。

「アマラ経路は、いずれこの世界の覇権に関わる重要な場所だ。 定期的にマガツヒを供給し、しかも長距離での移動を可能ともする。 いずれイケブクロに集結しつつあるという鬼神共も、眼を付けてくるだろう。 その時、完全に我らが確保できていなければ、つけいる隙を与えてしまうだろう」

「なるほど」

「分かったら一度戻るぞ。 本来なら、この五倍は戦力を投入してパトロールしたい所なのだが」

今連れてきているのは、わずか一個分隊十名である。いずれもベテランの使い手ばかりであるが、しかし耳目十対に過ぎない。視界も思考も限られているし、指揮系統も狭い。帰り道も、オセは充分に警戒した。やがて、アマラ輪転炉が見えてきたので、安心して嘆息した。

アマラ経路の中から見ると、輪転炉は光の柱のようである。此処に足を踏み入れ、流れに身を任せる事で、地上へ運ばれる。部下達から順番に返し、最後にオセの番が来た。念入りに警戒してから、外に出る。眼を閉じて、流れに身を任せる。はじき出されるような感覚。そして、眼を覚ますと、其処はもう地上だった。

かってはただの倉庫に過ぎなかった。だがあの得体が知れない悪魔が出てから、状況は変わった。

周囲は分厚い鉄の壁に囲まれ、常時強者の見張りが付いている。その一人である堕天使フラウロスに敬礼。鷹揚に敬礼を返すフラウロスと情報交換をする。上級の堕天使であるフラウロスは異形ともいうべき姿の持ち主である。ニンゲンと同じく手足は一対ずつだが、胸のある部分に大きな豹の頭部があり、首のある場所に巨大な剣を生やしている。戦いの時には、この剣を体から文字通り引き抜いて使うのだ。

体格的にも悪魔の中ではそう巨大とは言えないこのフラウロスだが、実力は折り紙付きである。ニヒロでも屈指かと思われる超一流の剣士であり、単純な剣の技量ならオセではかなわない。術を敢えて使わず、剣を使う事だけにより、強さを磨き上げてきた、変わり種の悪魔なのだ。

総合力が近い事もある。何より、そういう不器用な奴だから、オセとは気が合う。敬礼しながらも、多少笑みが浮かんだのは、それが理由だ。

「堕天使オセ、ただいま帰還した」

「オセ将軍、何か異変はあったか?」

「いや、平常通りであった。 流れるマガツヒの数も増減はしていない」

「そうか。 ならば、後は氷川司令の判断次第だな」

頷くと、部下達に解散を命じる。文字通り羽を伸ばすべく、ギンザの街に部下達は散っていった。

街は、急速に形を整えつつある。かってここにあったニンゲンの街のように、不自然に輝いてはいない。砂を術で固めた建造物が、めいめい好き勝手な形に建ち並んでいる。翼のある悪魔の住居は、大体高いところにある。背が高い悪魔のために、まるで洞窟の入り口のような巨大な建物も造られている。一方、体が細長い悪魔のために、小さな住居も用意されている。

一見すると、秩序はなく、色合いも地味。だが、これでいい。それぞれに必要な住居が、適切にあてがわれているのだ。事実、このギンザの真価は、少し離れて見る事によって分かってくる。距離を置くと、無秩序に見えた町並みが、実に規則的に配置されている事に気付くのだ。都市計画は完璧に近い。氷川司令の構想能力には、舌を巻き通しである。ただ、まだ防衛用の施設は未完成である。それらの完成を急がなくてはならないだろう。

オセをはじめとして、将官の住居は、ニヒロ機構本部の側に作られている。本部は一見するとただ横に広いだけの平凡な建物だが、地下には果てしなく広がっている、かなり特殊な建物だ。コンクリートのビルを思わせる異様に広い一階部分には、殆どの機能が存在しない。政務の機能は、地下に集中しているのだ。このスタイルにあわせて、地下部分に本拠を作る幹部も多い。だがオセは、地上二階建てにしていた。スタンダードで落ち着くからだ。

氷川司令が地下に深い建物を造っているのは、かっての文明に対する反発だからだと、オセは推察している。あの人が、かっての東京を、肯定しているところは見た事がない。かっての人類文明に対しては、滅ぶべきだとさえ明言していた。本当に嫌いだったのだろうと、この異様な形状の本部を見るとよく分かる。

本部の建物を横目に、自宅にはいる。ニンゲンのものとよく似た家だが、彼方此方に違うものもある。トイレットは存在しないし、逆に浴槽はかなり大きい。しかも水ではなく、砂を使う。これは、元となった豹の性質からである。

使う砂はきめ細かく分類し、しかも軽く温めてある。オセの好みは60度だ。このぬるい温度が、毛皮と肌に心地よい。風呂の設計は少し大きめな事を除くと、人間が使っているものと大差ない。ただ脇に大きな排砂溝がある。

シャワーの蛇口を捻るだけでは、砂は出てこない。蛇口を捻り、風の術を送り込む事で、やっと機能する。だがこれは、オセにあわせて作られたシャワーだからそれでいい。熱い砂が出てくる。毛皮にそれが気持ちいい。風呂には浅く砂をためて、それを浴びるようにして、体に掛け、すり込む。この感触が何とも良い。

軽くシャワーと風呂を浴びて、術で体に着いた砂を吹き飛ばしてから、自室に戻る。其処には氷川司令の部屋に直通する電話が設置してあるのだ。ニンゲンがかって大々的に使っていたものではなく、術を利用したものだが、機能は同じだ。見かけも、「黒電話」と呼ばれたものに酷似している。

台帳を見ながら、ダイヤルを回す。この機能を用いるためにも、ダイヤルの穴は少し大きめな黒電話が丁度良い。ボタン式は指のサイズに合わないのだ。ダイヤルを回し終えて、受話器を耳に当てる。呼び出し音が響く。

今回報告を急がなかったのは、異変がなかった事と、氷川司令が頭脳派の悪魔達と会議を行っていたからだ。いつもながら、会議が好きな方である。SEをしていた時も、毎日深夜まで作業と会議をしていたと聞く。或いは、氷川司令の職業そのものが、会議と切っても切り離せない関係なのかも知れないと、オセは思った。

三度ベルが鳴った後、氷川司令が出た。僅かに声に疲労がにじんでいる。流石に連日の会議の後だ。ニンゲンである氷川司令には、酷な労働だ。後で栄養を届けさせないといけないだろう。マグネタイト(生体エネルギー)やマガツヒで回復できないニンゲンは、不便で仕方がない。その点は、氷川司令が飼っている創世の巫女とかいうニンゲンのメスも同じであるが。

「オセ将軍か。 時間通りだな」

「は。 報告ですが、アマラ経路には、特に異変は見あたりませんでした。 計画の遂行に、支障は無いかと思われます」

「そうか。 それは何よりだ」

紙を捲り、メモを書き込む音が聞こえた。氷川司令の部屋には、電気が通っている。発電機を東京の時代から持ち込んでいるのもある。だが最近は老朽化が目立ってきたので、何体かの悪魔が術で発電しているのだ。手持ちのノートパソコンもそろそろ挙動が怪しくなってきたというし、修理が必要な時期に来ているかも知れない。しかし、パソコンを修理するスキルを持った悪魔など聞いた事もない。今の内に、紙の書類に移行するのが賢いかも知れないと、オセは密かに考えている。紙なら、多くの悪魔が作り出す事が出来るのだ。

「では、そろそろ計画を次の段階に移す。 準備を進めるように」

「御意。 パトロールの増援については、どうなりましょうか」

「それについても、此方から手配しておく」

細かい打ち合わせを二三してから、電話が切られる。氷川の事だから、増援はちゃんと手配してくれるだろう。今までも、前線で戦い続けたオセが、氷川に裏切られた事はない。冷徹な氷川だが、こう言うところではきちんと筋を通す。

増援を当てにしながら、準備を開始。まずは、本部の倉庫に連絡。用意して置いて貰ったアマラ輪転炉を、自宅まで持って来て貰う。これには少し時間が掛かる。様々な手続きが介在するからだ。面倒くさいが、氷川司令の構築する緻密な世界には必要不可欠だから、仕方がない。

アマラ輪転炉が届くまでに、配下の隊長達何名かに、電話で連絡を取る。今回の作戦では、オセ隊だけではなく、フラウロス隊も動く事になる。これにより、戦力は千騎を超える。

過剰すぎるほどの戦力にも思えるが、大半は下等な堕天使達な上に、現在目的地のシブヤには魔王の一柱とも呼ばれるロキが居座っているという報告がある。奴を屈服させるには、少々の戦力では心許ない。出来れば最近加入したキウンの部隊も連れて行きたいところだが、これには許可が下りるかどうか。此処の守りは、マダとミトラの部隊で充分であろうし、オセが気を使わなくても良いはずだ。

既にニヒロ機構の戦力は、4000騎を超えている。非戦闘員をカウントすれば8000を超える勢力で、現時点ではこのボルテクス界最大の人員を抱える大型国家だ。今の内に、新しい勢力が誕生しても対抗できないほどに、勢力を高め挙げて置いた方がよいのである。

電話が掛かってきた。フラウロスからだ。フラウロスは、将軍として若干オセより高位にいる。ただし、古くからの親友と言う事もあり、二人で話す時には砕けた口調になりやすい。

「オセ、話は聞いた。 いよいよシブヤに攻め込むんだな」

「ああ。 ただ向こうには、知っての通り魔王ロキがいる。 奴を屈服させるためにも、戦力は多めに用意した方が良い」

「相も変わらず慎重な事だ。 ロキくらい、俺が一人で仕留めてみせるのだがな」

「油断は禁物だぞ、フラウロス。 マガツヒを喰らって幾らでも強くなれる此処ボルテクス界では、何がどう作用するか分かったものではない。 男子三日会わざれば刮目して見よとかいうニンゲンのことわざがあるが、此処に関しては至言だ」

くどくどいうオセに、フラウロスはいつものように苦笑した。二人の関係は、いつもこうだ。突っ走り掛けるフラウロスの手綱を、オセが引く。そういえば、ヨヨギ公園に巣くっている妖精共に攻撃を仕掛けた時もそうであった。あの時の攻撃は結局失敗したが、大きな戦果をあげて、フラウロスとオセの名を高めたのだった。フラウロスは妖精の英雄騎士クーフーリンと勝負が付けられずに歯がみしていたが、あの時深追いしなくて正解だったのだと、今でもオセは思っている。

懐かしいなと思いながら、オセは編成についての話に移る。陣は二段構え。先陣はフラウロスが務めて、中軍はオセが守る。後陣をどうするかが問題だ。氷川司令が貸してくれる戦力の司令官によっては、配置を譲らなければならなくなってくる。向こうにキャッチホンが入ったので、一旦断ってフラウロスが電話を切る。しばし、待たされた。

再び電話が切り替わったのは、たっぷり数分後だった。フラウロスの声は緊張に弾んでいて、ただごとではない事がすぐに分かった。

「オセ、た、大変な事になったぞ!」

「どうした」

「親征だ。 氷川司令が、自ら攻略に出向くつもりだ」

息を呑む。そうなると、最精鋭が着いてくると言う事になる。それだけ今回の作戦を重要視していると言う事だ。

「後の守りには、マダとミトラが当たる。 キウンも守りにつくようだな。 残りの戦力は、全部シブヤ攻略戦に参加だ。 ええと、どれくらいの数になる」

「ざっと2800という所だ」

「壮観よ。 それだけに、負けたら眼も当てられないが」

氷川司令が直接来ると言う事は、もし負けでもしたら、後でどのような事になるか分からない。ニヒロ機構は、氷川司令という非常に高い構想力を持つトップがいる事でまとまっている組織だ。もし氷川司令を失いでもしたら、組織は確実に瓦解する。親衛隊の邪神や高位堕天使達がいるから、それはまず無いだろうが、氷川司令は肉体的には脆弱なニンゲンだ。どんな事故が起こるか分からない。

いっそ氷川司令が、悪魔になってくれれば、話は楽なのだが。そう思って、オセは歯がみした。

「オセ、攻撃部隊の編成には、慎重を期する必要があるな」

「ああ。 王を守ろうとするばかりに、部隊が身動き取れなくては意味がない。 ニンゲンの歴史でも、そういう状況で、身動きが取れなくなって敗退した例が幾つもあったはずだ」

「分かってるよ。 だから、作業を分担しよう。 オセ、氷川司令の護衛を頼む。 俺が攻撃部隊を率いて、ロキの野郎をぶっつぶす」

かなり粗い作戦だが、今回の戦力差であれば、それでどうにかなるだろう。シブヤにいる悪魔は200に達しないという偵察の報告が来ているのだ。その全てをロキが掌握していたとしても、簡単に押しつぶせる。それに、オセ自身も、フラウロスがロキに後れを取るとは思わない。これで決着が付くはずだ。もしロキが単騎で特攻してきた場合には、オセ自身が迎撃し、たたき落とす。問題は、連れて行く他の悪魔達だ。彼らが功を焦って勝手に攻撃を開始しては意味がない。

「色々悩んでも仕方がない。 オセ、腹をくくろう。 部隊の統率は氷川司令に任せるしかないな」

「ああ。 しかし、統率が取れない場合はどうする?」

「その場合は、氷川司令は其処までの人物だったと言う事だ」

フラウロスの言葉は冷徹であったが、事実でもあった。一度の失敗で見捨てるには、氷川司令はあまりにも惜しい逸材だが、肝心なところで失敗するようなら役に立たないと言い切ってしまっても良いかも知れない。

しばし考え込んだ。やはり惜しい。しかし、フラウロスの言葉も正しい。天井を見て、壁を見て。悩み抜いた後に、オセは結論した。

「分かった、いいだろう。 指揮は氷川司令に任せよう」

「それがいいだろうな」

「だが、いざというときは、私が氷川司令を守り抜く。 その時は、何があっても、フラウロス。 貴様が、ロキを仕留めろ」

「お前らしくもない作戦だな。 武人の意地という奴か?」

口の端をつり上げると、オセはそうだと短く答える。

これから忙しくなる。戦いは、もう目の前であった。

 

氷川司令が、シブヤ攻撃の指揮を執るべく、本営から出てきた。既にカグツチの日齢は一巡し、すっかり準備は整っていた。定座も用意してある。大通りの真ん中にて膝を折っているのは、ヴェータラと呼ばれるインドの悪魔だ。姿は象に似ていて巨大であり、首が若干長い。一種の餓鬼であり、非常に操りやすいのが特徴だ。死体に憑依して操るのを好む悪魔なのだが、この世界に死体は殆ど存在しないので、いつも欲求不満そうにしている気の毒な奴である。

ヴェータラの背中には質素で、だが周囲を良く見回せる輿が備え付けてある。四騎の精鋭がその周囲を固め、直接の護衛としては邪神のミジャグジさまが当たる事になる。ミジャグジさまは手を変え品を変え名前まで変えて、様々な攻撃から身を守り続けた防衛のエキスパートだ。必ずや氷川司令を守り抜いてくれる事だろう。もちろん、ミジャグジさままで、オセが到達はさせないが。

気怠そうにカグツチの光を手で遮る氷川司令が、ヴェータラの背の輿に乗った。中軍の指揮を任されたオセが、深々と頭を下げた。

「出立します」

「ああ。 出してくれたまえ。 出来るだけ静かにな」

「御意」

氷川は基本的に雑音を嫌う。部隊は整然と動き出し、雑音は殆ど立てなかった。圧倒的な兵力であり、しかも手練れが多くいる。シブヤにいる強力な悪魔はロキくらいであり、奴一体ではどうにも出来ないだろう。

部隊は主に飛行部隊と地上部隊に別れている。ヴェータラは空も飛べるので、いざというときには飛行部隊に合流できる。警戒すべきは地中からの奇襲であるが、オセがそれは気を配ればよい。

すぐに、ギンザの街を出た。見送る民衆は殆どいない。砂漠に入り、そのまま進軍を続ける。氷川司令はノートパソコンを叩きながら、今後の計画を練っているようだ。砂が入るのではないかと心配になったが、よく見ればミジャグジさまが防御用のフィールドを張っており、砂は其処で弾かれている。

ニンゲンとは比較にならない行軍速度であるとはいえ、それでも時間はかなり掛かる。退屈そうに欠伸をしている堕天使もいたので、咳払いをして無言の圧力を掛ける。空に影。すぐに迎撃態勢を取る味方。姿が見えてきた。味方の伝令だ。中級の堕天使で、鎧兜を身につけている。黒い翼は、翼長六メートル以上に達しているだろう。味方の真ん中に降り立つと、彼はオセの前に跪いた。

「偵察部隊から伝令です!」

「うむ」

「シブヤ周辺に敵部隊無し! そればかりか、街には白旗が揚がっています!」

「白旗、だと?」

ヴェータラの背から、氷川司令が顔を出す。聞いていたのだろう。

「恐らくは罠だろうな。 オセ将軍、油断しないようにしたまえ」

「御意。 前衛に伝えよ。 中軍が到着するまで、攻撃は控えるようにと。 偵察部隊を増やして、奇襲に対しての備えを強化せよ」

「は! フラウロス将軍に伝えます!」

深々と礼をすると、伝令は飛び去っていった。警戒レベルを一段階あげる。いきなり中軍に奇襲を仕掛けてくる可能性も捨てきれないからだ。

「ロキは、北欧神話の悪戯の神であったな」

「御意。 ただし、神話の後期では邪悪に支配され、神々の敵となったと言われております」

そう言う意味では、我らと同じだなと、オセは思った。悪戯の神と言っても、ロキは狡猾な上に強い力を持っており、高名な神と悪魔の最終戦争であるラグナロクでは、光の神ヘイムダルと相打ちになる。だから、分類としては魔王になり、シブヤに君臨している訳だ。

シブヤは東京受胎の大破壊の際にも、比較的無事な形で残っており、インフラの整備や都市計画も比較的簡単に済む。また少し改装すれば要塞としても機能させる事が出来るため、攻略しがいのある都市だ。此処を早めに抑えておけば、後々ボルテクス界の支配がかなり楽になる。大した戦力がいない今こそ、攻略のし時なのだ。

伝令が頻繁に飛んでくるようになった。いずれも、敵影が無い事を告げるものばかりだ。このままだと、士気が落ちかねない。ロキも、それを狙っているのだろう。そうオセは判断した。

ヴェータラの側に駆け寄ると、並んで歩きながら、オセは氷川司令に語りかける。

「進軍を早めましょう、氷川司令」

「どういうことかね、オセ将軍」

「このままだと、味方の士気が保てません。 強力な堕天使達といえど、気が緩めば失敗もします。 早めに前衛と合流し、総攻撃の準備をするべきかと思います。 もちろん、奇襲に対する警戒は最大限にしたまま、です」

「ふむ」

氷川司令は薄めの額をなで上げると、ノートパソコンのキーボードを数度叩いた。何かのソフトを動かしているのだろうか。氷川司令に代わり、ヴェータラの側をホッピングでもするかのように跳びながら着いてきていたミジャグジさまが言う。柱に巻き付いた十メートル以上はある白蛇が、口をぱくぱくさせて喋るのは、ある意味滑稽だ。

「オセ将軍やー。 わしはのう、敵に何かとんでもない事がおこったんじゃないかなーとか、思うのぢゃがの」

「ミジャグジさま、それはどういう事ですか?」

「どうも敵に戦意が感じられんからのー。 例えばぢゃ。 奇襲を仕掛けるなら、幾つかの戦術が考えられるが、どれも実現にはかなりの危険が伴う。 街に誘い込んでから叩くか、士気が緩んでから中枢に奇襲を仕掛けるか、それとも中軍に不意に攻撃を掛けてくるか。 どれも必殺の作戦ではあるが、危険も大きいからの。 敵もそれなりに気を張るはずなんぢゃ。 それなのに、まるでそんな様子がない」

確かに、それにも一理ある。ミジャグジさまは防衛のエキスパートだ。その意見を無視する訳には行かないだろう。

「氷川司令は、どう思われますか?」

「どちらにしても、全軍を早めに合流させた方がよいだろう。 進軍を急がせろ」

「御意」

その通りだ。一旦軍を終結させて、詳細な情報を更に整理した方が良いだろう。

カグツチの日齢がもう一巡した頃、軍はシブヤの側に着いた。既に陣形を組んで展開させていたフラウロスが、配下の隊長達と一緒に歩み来る。部下達の前だから、口調も公用のものだ。

「遅かったな、オセ将軍」

「状況を聞かせて貰いたい」

「見ての通りだ。 敵には全く戦意がない」

忌々しげに振り返り、シブヤを顎でしゃくるフラウロス。シブヤの中心にある、渋谷駅には、白旗が翻っている。それだけではない。街から感じる気配が、非常に希薄だ。奇襲のために気配を消しているにしても、異様すぎる。

「氷川司令。 精鋭を連れて、中の様子を見てきたいと思います。 許可をいただけますでしょうか」

「俺も一緒に行きます」

「分かった。 オセ将軍、フラウロス将軍、親衛隊を連れて行きたまえ。 ミジャグジさまは、此処で防衛を続けよ」

「御意ですぢゃ」

口を動かして喋っていたミジャグジさまは、ニンゲンそのものの動作で頷くと、舌をちろりと出した。やはり何処か滑稽である。

この様子では、後衛には出番がないだろう。だがそれで良いはずだ。戦えば、それだけ多くのマガツヒを消費する事になる。

今、アマラ経路を使ってのマガツヒ供給計画は、最終段階に来ている。シブヤを落とせば大々的に実用化でき、更に多くの戦力を養えるようになるはずだ。今、此処で勝つ事に、意義は大きい。

精鋭二個小隊を連れて、シブヤに近付く。街の入り口に、驚くべき光景があった。

どっかりとあぐらを掻いて、ロキが座っていたのである。

黒い肌の魔王は、隻眼になっていた。ざんばらの髪を伸ばし放題にし、筋が盛り上がった美しい肉体を惜しげもなく晒しているロキは、じっと此方を睨んでいた。背丈は四メートル近いだろう。肌は全身黒く、まさに魔王の名が相応しい姿だ。堂々たる威丈夫だが、疲労が濃く表に出ていた。傷も多く、特に顔面は深く抉られていた。マガツヒが漏出する事態にまでは至っていないが、もう戦える状態ではない。

戦闘態勢を取るフラウロスを、オセは制止。ロキはそれを見届けると、語りかけてきた。

「遅かったな、ニヒロ機構のネコ共よ」

「その有様は何とした事だ。 街の防衛部隊はどうした」

「防衛部隊は、かなりの戦力を消耗してしまった。 俺自身も、かなりの傷を受けてしまってな。 戦うのは無理だと判断したから、白旗をあげた」

自嘲的にロキが言う。確かに、痛々しいほどに傷ついていた。

ロキは優れた術の使い手で、己の能力も高い。生半可な相手では、此処まで傷つける事が出来ないだろう。一体何に襲われたのか。

部下が拘束用の術を念入りに掛け、縛り上げる。制圧用の部隊を呼び、油断しないように言い含めて、シブヤの街に放った。部隊の指揮は、フラウロスに頼む。氷川司令の下にロキを連れて行きながら、オセは語りかける。

「何があったのだ。 貴方ほどの魔王が、こうもあっさりと」

「あっさりではないわ。 我も魔王の誇りがある。 一度や二度では屈しなかった。 だがな」

ロキは傷だらけの顔を、カグツチに向ける。無慈悲な太陽は、ただ燦々と輝き続けている。

「何十回も間断なく襲撃されては、どうにもならん」

「それはまた、ずいぶんとしつこいな。 敵は一体何者だ」

「さてな。 見た事もない奴だ。 緑色の、単細胞生物みたいな奴だった。 潰しても潰しても現れて、油断した奴から喰われていった。 二十回目の襲撃以降は、対抗戦力も減って、俺自身が毎度出たが……。 奴め、どんどん強くなっていきやがった。 いつのまにか、この街を守る戦力もいなくなっていて、みんな怯えきっていた。 命知らずの悪魔が、まるで子猫みたいにな。 笑えるだろ。 ……俺達はあいつの事を、まるで幽霊みたいな奴だってことで、スペクターと呼んでいたよ。 俺達は、幽霊に負けたのだ」

ロキの自嘲は、血を吐くようだった。オセは、眉が跳ね上がるのを感じた。ロキは悪戯を司る神であるが、戦士としての誇りも持ち合わせている。魔王の言葉から、オセはそれを敏感に悟った。だからこそに、その悔しさは嫌と言うほどに分かった。

間違いない。ロキとシブヤを打ち破ったのは、あの緑色の、得体が知れない悪魔だ。ギンザに現れないと思ったら、シブヤで猛威を振るっていたのか。

「今はどうなっている」

「少し前から、現れなくなった。 あれは、あんた達が放ったんじゃないのか」

「違う。 我らも奴には、苦しめられた」

「そうだったのか」

これだけの戦力を連れてきたのは、失敗ではなかったらしいとオセは思った。奴が現れるとなると、精鋭の常備軍が必要不可欠だ。自分か、或いはフラウロスがいた方がいいだろう。元々シブヤは非常に重要な拠点なのだ。今回の遠征軍は、そのまま防衛部隊に回しても良いくらいだ。

フラウロスがかけ足で戻ってきた。表情が暗い。並んで歩きながら、フラウロスは、深刻な事実を暴露した。

「まずいぞ。 シブヤは殆ど壊滅状態だ。 我らが当てにしていたインフラの名残も、殆どやられてる。 一から作り直すしかなさそうだ」

「そうなると、シブヤを我らの体制に組み込む事は、殆ど不可能だな」

「ああ。 この遠征は、完全に無駄骨だったと言う事か」

「いや、此処はそもそも戦略的に重要な拠点だ。 ロキ殿が特に募ってもいないのに、かなりの数の悪魔が集った事だけでも明らかだろう。 此処を抑えた事は、後々損にはならんよ。 そう信じよう」

味方に被害は出ていないのが、不幸中の幸いだった。

氷川の輿に着く。ロキは疲れ切った眼で、氷川を見上げた。ヴェータラの背の輿でノートパソコンを叩いていた氷川は、手を止めて、ロキを見つめた。

「君が魔王として名高いロキか」

「如何にも」

「話は先ほど伝令将校から聞いた。 災難であったな」

氷川は、ロキをはじめ降伏した悪魔の罪は問わない事を約束した。しかし、一兵卒からやり直すようにとも言った。ロキの実力であれば、立ち直りさえすればすぐにでも出世の道は開けるだろう。

適材を適所に。それがニヒロ機構のスタイルだ。この虚脱から立ち直りさえすれば、ロキはオセやフラウロスと拮抗する将軍として、ニヒロ機構で立場を確保できるはずだ。うかうかしていられないなと、オセは苦笑した。

「分かった。 異存ない。 だが、一つ望みがある」

「何かね」

「出来るだけ早く、シブヤに配属して欲しい。 あの不快なスペクターを、必ずや俺の手で潰してやる」

「そうか。 闘争心は、能力を嫌が応にも高め上げる。 君のその心意気を買おう」

もちろん、監視は付く。氷川が顎でしゃくると、ヴェータラの側に控えていた悪魔が立ち上がった。大人の女の色香を臭わす、長身の悪魔だ。イブニングドレスを大胆に着込んでいて、薄紫の肌は彼方此方が大気に露出している。顔の造作は挑戦的で、何とも男好きのするような造作をしていた。もっとも、殆どの悪魔が性交の概念を持たないこの世界では、まるで意味のない容姿なのだが。

ニュクス。ギリシャ神話の夜の女神である。兎に角強い魔力を持ち、術にも精通している。女神と言ってもどちらかと言えば夜の怪に近い存在であり、故にニヒロ機構とも相性が良い。比較的最近加入した悪魔だが、実力はなかなかであり、将軍の一角に名を連ねている。

「ニュクス将軍、ロキ殿を鍛えて差し上げろ」

「御意ですわ、氷川司令」

「ミジャグジさま、これからシブヤ防衛の指揮を任せる。 アマラ輪転炉の設置と、インフラの整備回復を急げ。 都市計画の実行書に関しては、伝令を使って送らせる。 統治方針は、ギンザと特に変わりなし。 弱い悪魔でも積極的に受け入れて、その知識を活用しろ」

「御意ですぢゃ、氷川司令! このわしは、防衛ならば天下一と自負させていただいておりますでのー。 必ずや期待に応えさせていただきますぞ」

やはりぱくぱく口を動かして喋るミジャグジさまは、何処か滑稽だった。ロキが横を向いて、笑いをこらえているのをオセは気付いた。ミジャグジさまは高位の邪神であり、実力はロキ以上であるし、多分問題はないだろうが。少し不安にはなった。

「ギンザに常駐する軍の指揮は、フラウロス将軍に一任する。 だがこれはあくまで常駐攻略軍であり、自治防衛を任せるミジャグジさま軍と違って攻性のものだ。 常に鍛錬を怠らず、いつでも周辺地域の攻略に乗り出せるようにしておいてもらいたい」

「はっ! 御心のままに!」

その場で、防衛部隊と攻撃部隊の割り振りが為される。防衛部隊は1800と大規模なものだが、戦闘能力は比較的低い悪魔が集められた。インフラ整備や、都市計画を行うのに便利な術を持つ者や、ミジャグジさま子飼いの蛇の悪魔達が集められている。攻撃部隊は、フラウロス隊500騎がそのまま当てられた。ロキも此処に配置される。ロキにとっては願ったりであろう。功績を挙げる機会が、嫌が応にも増すからだ。

また、権力を複数に分割する事で、独立を防ぐ意味もある。同格のフラウロスとミジャグジさまがそれぞれの任務を担当し分ける事で、統治も旨く行くわけだ。

相も変わらず、緻密な組織整備である。納得して頷いていたオセは、帰還を始めた遠征部隊の指揮を執りながら、何度かシブヤに振り返った。フラウロスとはしばらくの別れだ。任務で何度も来る事になるだろうが、それでもここのところずっと一緒にいたフラウロスと離ればなれになるのは、感慨深い。

これだけの戦力を、防衛に特化したミジャグジさまが扱うのである。その上、実力の高いフラウロスもいる。生半可な相手では、シブヤを攻略する事は出来ないだろう。不安はない。それなのに。どこかで嫌な予感がする。早くアマラ経路を抑えて、大軍を送り込めるようにしておきたいところだ。

氷川司令は堂々としていて、遠征が空振りに終わったというのに、特に不満げな様子を見せない。その様子を見ていると安心する。今はミジャグジさまがいないから、此処でオセが司令を守らなければならない。ギンザに戻るまでは、安心は出来ない。

ふと遠くに大きなビルが見えた。砂の中に埋もれているかのようなそのビルに、ふとある魔力の波動を感じる。サマエルのものだ。

最近急に姿を見なくなったサマエルだが、こんな所にいたのか。だが、何か事情があるのかも知れない。人材を得るには、根気が必要だ。下手に追い回すのではなく、粘り強く相手の出方を見る方が賢いと言える。

気付かないふりをして、オセは護衛に集中する。まだ、ギンザは遠い。此処でまとまった戦力に襲撃されると面白くない。

オセの思惑などには関係なく。相変わらず淡々と、氷川司令はヴェータラの背でノートパソコンを叩いていた。

 

4,それぞれの闇

 

最上階の窓の側に伏せて、行軍していくニヒロ機構軍を見張っていた琴音は、相手が行ってしまった事を確認して、大きくため息をついた。

琴音には分かった。あの中にはオセがいた。しかも、オセは此方に気付いていながら、わざと素通りしていった。もしも琴音を強引に屈服させるつもりなら、圧倒的な兵力で叩きつぶせば良かった。兵力を使って、威圧するという手もあった。それら効果的な手を、オセは使おうとはしなかった。

すぐ側には、同じようにしてクレガが伏せていた。クレガも気付いていたはずだ。何と声を掛けたものか、よく分からなかった。気の毒なほどに青ざめていたからである。

ホールに降りる。生活用品がようやく整い始めていた。手に棍棒を持ったままのフォンが、ずっと外をうかがっていた。隅っこに張り付いているケーニスは、時々大きな眼をつぶっていた。多分怖いのだろう。

平然としているのは、カズコだけだ。時々身じろぎするティルルをなだめてさえいる。恐ろしい胆力の持ち主だ。この子には一体何があったのだろうと、琴音は時々思う事がある。きっと、とても怖い目にあった事があるのだろう。

兎に角、場の空気を変えなければいけない。だから、琴音は少し悩んだ後、単純で効果的な言葉を選んだ。

「もう、行ってしまいました」

「そうか」

フォンが棍棒から手を離し、頭をなで上げた。大きな一つ目の上の額は、じっとりと汗に濡れていた。ケーニスも緊張がほぐれたようで、ゆっくり地面近くにまで降りてくる。一つ、はっきりした事がある。ニヒロ機構は、かなりの進出傾向を持っている。しかも、相当な軍事力を、短期間で整備しつつある。

つまりは、逃げていても、近い将来埒が明かなくなる可能性が高い。リスクが跳ね上がるという意味で、だ。

もちろん、琴音はそれでも構わない。だが相手に積極的な害意が薄い以上、逃げるにも理由を知っておきたいのが事実だ。

空が暗くなっていく。そろそろ静天が来る頃だ。時々、カズコが目をつぶって、マガツヒを体から放出しては、ティルルに食べさせている。おとなしいティルルはカズコの側にべったりで、見ていて微笑ましいほどに仲が良い。ようやくリラックスは出来てきた。そんなとき、クレガが琴音の服の袖を引っ張った。

「話がある」

「……分かりました」

二人で、二階へ移動する。カズコはちらりと此方を見たが、それだけだった。

開いている部屋に入る。戸には306と書いてある。つまり、かっては三階だったわけだ。琴音は、クレガが酒瓶を手にしていない事に気付いた。真剣に、喋るつもりだと言う事だ。

「すまんな。 迷惑ばかりかけている」

「気にしないでください」

それは本音からの言葉だ。事実、琴音は迷惑だ等と思っていない。クレガはしばらくためらった後、話し始めてくれた。

「儂はな。 かってヨヨギ公園にいたことがある。 妖精達が集まって、自治勢力を作っている所だ」

「ヨヨギ公園ですか?」

「そうだ。 今ではニヒロ機構と冷戦状態にあるんだが、前は縄張りを争って激しく戦った事があってな。 儂も、一部隊を率いて、奴らと戦った」

凄惨な戦いだったという。妖精軍は強力な堕天使達に押され気味で、英雄騎士クーフーリンをはじめとする精鋭以外は、ほとんど一方的に倒されてしまったのだとか。クレガは術で後方支援をしていたらしいのだが、前衛は簡単に蹴散らされ、オセが乱入してきたそうだ。

「閃光が走ったと思うと、部下達は、殆ど奴の剣に切り裂かれた。 戦いなんて呼べるもんじゃなかった。 戦術的には、正しかった事は分かっている。 後方支援部隊を潰してしまえば、戦闘は極めて有利に進められるからな。 クーフーリンがもう少し遅かったら、儂も首をはねられていただろう」

「……」

「戦いだったのだから、仕方がない事は分かっている。 だがあれから、儂は怖くなってしまったのだ。 戦は、もういやだ。 オセはもっと嫌だ。 オセの剣を思い出すだけで、身震いがする。 儂は、臆病者になってしまったのだ」

戦いはどうにか終わり、甚大な被害を出しながらも、ヨヨギ公園はニヒロ機構の制圧を逃れる事が出来た。傷つき、みんな苦しんでいるというのに。そんな一番大変な時に、自分は脱走したのだと、クレガは吐き捨てた。血を吐くような、悲しみが籠もっていた。

そして、逃げ回る内に、フォンと出会ったのだそうだ。同じような境遇の二人は意気投合して、一緒に暮らすようになったのだとか。

酒を飲むようになったのも、それからだという。罪悪感で、正気ではいられなかったのだそうだ。今でも、オセは怖い。それよりもっと怖いのは、逃げてしまったという事実なのだという。

現在妖精族は女王ティターニアがまとめているそうなのだが、彼女は強欲で名君とは言い難く、戻ったところで許される可能性は皆無なのだそうだ。

そして、今回も、オセに向き合う勇気は出てこない。ニンゲンであれば、涙を流していたかも知れない。それほど、クレガは沈鬱な表情をしていた。

「すまないな。 儂が臆病なばかりに、逃げ回らなければならない。 儂など、見捨ててくれて構わない。 もしニヒロ機構に居場所があるのなら、儂らを捨てて行ってしまって構わないぞ」

「そんな事を言わないでください」

クレガの痛みは、どうしてかとてもよく分かる。

何故分かるのかは、良く思い出せない。ただ、断片的な記憶の中に浮かんでくるのは、己の孤独だ。

静寂は落ち着く。だが、切り裂くような寒さの中、一人でいると辛い。きっとクレガも、それは同じなのだろう。

「大丈夫です。 ゆっくり、解決していきましょう」

クレガは、もう一度、済まないと言った。

歪んだ世界。色々足りないもののある世界。だが、世界の営みには、あまり代わりはないのだなと、琴音は思った。

分かっているのは、皆を守るには力がいると言う事だ。弱者は死ねというような考えには、絶対に賛同できない。自分の力で守れるものがあるのなら、絶対に守り抜きたい。

何故そう考えるのかは、よく分からない。断片化した記憶は、まだ完全には戻っていない。それが戻った時。自分はどうなるのだろうかという不安もある。だが、それでも、先に進まなければ行けないような気がした。

 

アマラ経路の中で、蠢く影一つ。

飢えていた。意味のない呻き声を上げながら、辺りに触手を伸ばしていた。手当たり次第にマガツヒを喰らいながら、次の作戦に向けて力を蓄えていた。スペクターと呼ばれ始めたその影は。かってギンザの街で殺戮を繰り広げた、太田創であった。

間断無い波状攻撃でシブヤの街を壊滅状態にした太田は、有力な敵の接近に気付いてからは一旦攻撃を停止していた。今の時点では、アマラ経路をゆっくり漂い、豊富にマガツヒを得られる場所を探し出しては、力を高めていた。

ギンザへの攻撃に失敗してから、創は慎重になった。何処に悪魔達が集まり、守りが弱いかも、じっくり把握していった。今や創は、常時三十を超える分身を周囲に侍らせ、情報の共有と同期化を行っている。情報量は急速に跳ね上がりつつある。そして分身を使って相互に思考を進めさせ、次の攻撃地点の、念入りな吟味を続けていた。

自分にとって有利な事は幾つもある。例えば、移動経路について。アマラ経路と、地上がつながっている場所は幾らでもあり、既に十以上を発見している。ニヒロ機構とか呼ばれている連中が保有している「アマラ輪転炉」を用いれば、それをいつでも何処にでも恒常的に具現化できる事も、把握している。

いずれニヒロ機構を潰した時に、自分の言う事を聞く奴を数匹確保して置いて、それを使わせればいい。そうすれば、このボルテクス界の全域から、命を消す事は不可能ではない。実際にやってみて分かったが、小規模な集団を、波状攻撃で殲滅する事は難しくないのだ。相手にかなり高位の悪魔がいても、念入りな攻撃を続ければ、潰せる可能性が高い事が分かった。

移動も、攻撃も、縦横自在に行う事が出来るのだ。これほどテロリストを自認している創に有利な事はない。

創は殆どの事に興味がない。極論すれば、己の生存にさえ興味が持てない。もっとも優先度が高いのは、出来るだけ多くの命を潰す事だ。そのためであれば、どのような事でもする。分身を作り出して、それを片っ端から使い捨てにする事でさえ何とも思わない。

なぜならば。この世界に生きている、命の正体は。

最初に喰らった堕天使が持っていた情報は、いまだに創を苦しめていた。うめく。無念さに、歯がみする。もがく。憤怒に、咆吼する。

消し去らねばならない。全て滅ぼさなければならない。迸る感情が、創を突き動かしている。だがそれを冷静に制御できている自分もいる。きききききと、声が漏れた。それが喜びに基づいているのか、それとも怒りからなのか。創自身にも、よく分からない。分かるのは、感情が混沌の渦を作り出していると言う事だ。

シブヤの街は、しばらく手を出す事が出来ない。オセ一体なら何とかする自信があるが、それ以外の奴が団結して向かってくると厄介だ。二百程度しかいなかったロキの配下共にさえ、随分苦労させられたのだ。自分の力を過信するほど、創は愚かではなかった。

分身の一体が危険を知らせてきた。ニヒロ機構の連中が、最近警備用の小隊をアマラ経路内に派遣してきている事は把握している。何度かニアミスもしているのだが、気付かれてはいない。連中は簡単に手出しできないほど精鋭を揃えている事が多く、油断できない。何しろオセ自身が指揮をしている事もしょっちゅうなのだ。いざというときに備えて、退路もきちんと確保している。下手に手を出すのは危険だ。本体が多少でも攻撃を受けると、ダメージは計り知れないのである。

放ってある分身達を、すぐに引き戻す。シブヤを制圧した事で、ニヒロ機構はアマラ経路内の警備をぐっと厳重にしてきた。連中が支配している地域など僅かに過ぎないが、油断する訳にはいかない。此方では、外とは比較にならない力を発揮できるとはいえ、連中に同じ能力を持つ奴がいないとは断言できないからだ。

一旦、居場所を移す。次はヨヨギ公園を攻撃する予定だ。ニヒロ機構とは、まだ事を構えるつもりはない。力を蓄えておいて、後で一気に爆発させるべきであった。

ニヒロ機構の偵察部隊が去っていくのを見届けると、再び分身を情報収集のために周辺に放つ。アマラ経路に入り込んでくる悪魔も少なくない。自分の姿を見た奴は、必ず消す。そのためにも、情報収集は必要不可欠だった。

創は触手を伸ばす。アマラ経路の全てを、己の知的支配下に置くために。

そして、このボルテクス界と呼ばれる全てを、滅ぼし去るために。

 

気配を消して潜んでいたトールは、興味を刺激されて呻いていた。蠢きながら去っていく不定形の緑の影には、トール好みの狂気と覇気があった。いずれアレは、面白い敵手に成長するに違いなかった。だから、わざと見逃したのだ。向こうに戦意がなかったという事もあるのだが、それが最大の理由であった。

ニヒロ機構が、シブヤを制圧し、侮りがたい戦力の常備兵を配置した。それを聞いたゴズテンノウは、すぐにトールに偵察を命じた。ナンバーツーに偵察を命じる事からも、ゴズテンノウが如何に事態を深刻視しているかがよく分かる。だから、トールもそれに応えるべく、サルタヒコとリコを始めとする主要な部下達を引き連れ、来ていたのだ。

その途中で見つけた大地の穴。マガツヒがこぼれ出る中を偵察している最中であった。あの面白そうな緑の影を見つけたのは。

今は単独行動中と言う事もある。部下共は穴の縁で待たせているし、ずっと放っておく訳にも行かない。楽しそうな奴を見つけた事で、躍る心を抑えつつ、トールは戻る。もちろん奴の事はゴズテンノウに報告はするが、わざと逃がした事は黙っておく。いずれ奴が戦いを挑んできた時に、粉砕してやればいいのである。

それにしても、不思議なところだと、トールは赤いトンネル状のアマラ経路を歩きながら思った。此処には悪魔達が求めて止まないマガツヒが、無尽蔵に流れている。外ではマガツヒを巡って殺し合いが頻繁に起こるのに、此処では幾らでも手に入れる事が出来る。時々大きめの塊も見かけるので、捕まえて口に入れてみる。味は薄く、あまり食べても面白くない。だから、一度口にしてからは手を出していない。マガツヒなどは、敵を叩きつぶして、その時食べればいい。それだけで、トールは満足だ。アマラ経路は、トールには無縁な場所だ。敵を探すのに適当な場所だとは思うが、長居したいとは思わない。

眼を細めたのは、迷ったと思ったからだ。同じような通路が幾らでも続いている此処は、非常に居場所が分かりづらい。さて、どうしたものか。しばらく首を捻って考えていたが、やがてその耳に、剣戟の音が響く。これはありがたい。このままではミヨニヨルを地面にでも置いて、倒れた方向へ進むしかないと思っていたのだ。

かけ足で進む。何が殺し合いをしているかはどうでもいい。敵同士なら皆殺しにして、残した一匹に帰り道を聞けばいい。敵と味方なら、味方に参戦した後、出口に案内させればいい。どっちにしても、トールには都合が良い。

光が見えてきた。どうやら、アマラ経路の外で戦いが行われているらしい。サルタヒコの怒号が聞こえる。つまり、交戦している一方は、トールの部下共だ。面白い。どんな相手が、喧嘩を売ってきたのか。

走りながら、敵の戦力を把握。数は四。味方の戦力は十六。しかし、戦いは五分だ。分析を続ける。敵はかなり強力な悪魔ばかりである。一体何が相手なのか。心が躍る。

跳躍。アマラ経路の亀裂から飛び出す。

周囲は砂漠。小さなビルのすぐ側だ。砂を巻き上げて、豪快に着地。ゆっくり周囲を見回す。一瞬戦いの手を止めたそいつが、忌々しげに呻いた。

「ちっ! もう戻ってきやがったか!」

「ほう。 お前だったか」

立ち上がるトールの視線の先にいるのは、オンギョウギだった。その周囲にいるのは、奴の部下達だ。

オンギョウギの配下は、キンキ、フウキ、スイキとそれぞれ呼ばれる強力な鬼である。鬼族でありながら、高位の鬼神並みの実力を有しているのは、貪欲な戦闘とマガツヒを喰らった結果だと言われている。

ただし、いずれも力は強いが、乱暴者で知られている。その上仕事が粗いので、労働用のマネカタ共は逃がすわ、部下達の統率は出来ないわで、さんざんな評判だった者達だ。力が強いのなら、それを巧く使えばいいのに、それさえ出来なかった盆暗共である。ただし、個人戦の技量はなかなかのものである。たったの四人で、サルタヒコとリコを含む十名以上と五分に戦っていた事からも、それがよく分かる。

つまり、此奴らを有効活用できる好機である。あらゆる意味で、戦いしか能がない奴らなのだ。しかもそれを自分のために活用できる。素晴らしい。此奴らが反逆行為をしている事など、それこそどうでもいい。

戦気が沸き上がる。オンギョウギに対しての個人的感情など今は関係ない。此奴を自分のために有効利用し、面白い戦いが楽しめるというだけで充分だ。分不相応の欲を掻く者は、得てして身を滅ぼす。だから、トールはあまり多くは望まない。

「オンギョウギ。 ゴズテンノウ様に反逆してこんな事をするまでに俺が憎かったのだろう? かかってこい。 相手になってやろう」

「言われなくても、殺ってやる! 今まで散々コケにしやがった礼を、たっぷり返してやるからなあっ!」

身の丈ほどもある巨大な鉄の棒を振り回して、オンギョウギが吠えた。礼を返してどうするのだとトールは思ったが、指摘するのもばかばかしいので放っておく。全身が黒いオンギョウギは、個人の武勇だけならトールに引けを取らないとか、日頃から吹聴していた。それが本当ならば、トールとしてもこの戦いは楽しみで仕方がない。部下達を見回すと、指示を飛ばす。

「リコ、キンキを抑えろ。 サルタヒコ、アメノウズメ、フウキを潰せ。 残りはスイキを全員で叩け。 一匹ずつ順番に潰して、後は味方に加勢していけ」

蒼白になるスイキ。それに対して、明確な目的を与えられた鬼神達は、歓声を上げた。戦術の極初歩。戦力にわざと偏りを持たせる斜線陣だ。そして此奴ら程度なら、それで充分に叩きつぶす事が出来る。

肩で息をついていたリコは、さっきまで必死にオンギョウギを抑えていたらしく、体中傷だらけだ。何発か直撃も貰っているが、それでも耐え抜いた。それで、死者が出ていないという訳だ。かなり疲労は激しいようだが、だがまだ行けるとトールは踏んだ。もしどうにもならないようなら、それはそれだ。こんな事で死ぬようなら、トールとしても興味はもう無い。サルタヒコはずっとフウキと戦っていた。そろそろ敵の行動パターンを読んだ頃だろう。戦気は整っているはずだ。

さて、どう攻めるか。そう考えた途端、オンギョウギが先手を打つ。

鉄棒を振りかぶって、オンギョウギが躍り掛かってきた。頭を叩きつぶそうとする一撃。確かに、なかなかスピードが乗っている。スピードは乗ってはいるが。

砂埃が舞い上がる。トールの足下の地面が激しく陥没した。

肩に直撃した鉄棒。唖然としているオンギョウギ。トールはわずかに立ち位置をずらして頭への直撃を避けると、軽く右拳を上げて、オンギョウギの鉄棒を下から圧迫しただけだ。それで、ダメージを最小限にまで落とす事が出来た。

「て、てめえっ!」

飛び退いたオンギョウギが、今度は横殴りの一撃を放ってくる。眼を細めたトールは、右肘を鉄棒に振り下ろした。鉄棒は、それで脇で止まってしまう。

理由は簡単だ。此奴は武術を知らない。正確には、力は強いが、それを巧く使いこなせていない。呼吸を入れるタイミング、攻撃を入れる時の気迫、それらの全てが素人以下だ。身体能力にものを言わせて、今までは勝ててきたのだろう。だが、ある程度武術の知識のあるトールから見れば、隙だらけだった。だから、力の入っていないタイミングと支点を抑える事で、この通り簡単に攻撃を潰す事ができる。

「……これで、武勇は俺に引けを取らぬだと?」

「があああああああっ!」

吠えたオンギョウギが、鉄棒を大上段に振りかぶって叩きつけてきた。悪いが、遅い。かわした時点で、カウンターとして側頭部を蹴飛ばしてやった。分かってはいたが、防御もろくに知らなかった。吹っ飛び、盛大に砂を噴き上げる。怒りが、こみ上げてきた。アホを有効活用できると思っていただけに、感情の爆発は抑えがたかった。

必死に起き上がったオンギョウギは、顔に恐怖を貼り付けていた。それが更に怒りを煽る。力が著しく劣る相手としか戦ってこなかった事がこれではっきり分かった。しかも計算しての事ではなく、単に幸運でそうあったのだとも。

蹴り上げる。脆くも吹っ飛ぶ。踏みつける。肋骨が砕けて、へし折れた。興奮したチンパンジーみたいな声を、オンギョウギが喉から迸らせた。

後でしっかりリコは鍛え上げなければならない。パワーが数倍とはいえ、素人にこうも苦戦するとは。有望だが、まだ未開花にもほどがある。情けない悲鳴を上げるオンギョウギとは、もう戦う気もなかった。

「もういい。 貴様など、殺す価値も喰らう意味もない。 貴様に比べれば、あの傷ついたドミニオンの方が余程手応えがあったわ」

「だ、だまれえええっ!」

哀れな悲鳴を上げながら、必死にオンギョウギは這い逃げた。呆れてみているトールの前で、印を組み、詠唱するオンギョウギ。体が、カグツチの光を浴びて、四つに分身する。まさか、こんな技が最終奥義なのか。

もはや呆れを通り越して、哀れみさえ感じる。自慢げに吠えるオンギョウギ。

「ど、どうだっ! 俺が何処にいるか分かるまい!」

鼻で笑う気にさえならない。そのまま大股で歩み寄ると、本体の顔面に拳を叩き込む。砂漠で三回バウンドしたオンギョウギは、もう起き上がらなかった。

見破る事が出来た理由は幾つもある。その中でも、最大の理由は、ニセモノには影がなかった事だ。子供にも分かるような欠陥術である。こんなのが幹部を出来ていたのだから、初期のゴズテンノウ軍には如何に人材がいなかったのか、よく分かる。トールは様々な感情を込めて、吐き捨てていた。

「愚か者が」

ふと振り返ると、スイキは既に鬼神達によってよってたかって切り刻まれ、マガツヒとかしていた。大刀を振り回して戦っていたフウキは、サルタヒコ相手に防戦一方であった。アメノウズメが手を出すまでもないようであった。キンキは丁度顔面にリコの膝蹴りを喰らい、よろめいたところに足払いを喰らい、盛大に転倒したところだった。

奇襲を受けたとはいえ、こんな連中に苦労していたとは。一度、しっかり鍛え上げなければならないだろう。このような輩、パワーが如何にあると言っても、所詮は素人の集まりではないか。

大股で、立ち上がろうとするキンキに歩み寄ると、頭を蹴り砕く。更に倒れかけたところを掴んで、左右に力任せに引きちぎった。更に腰からミヨニヨルを外すと、フウキに投げつけた。わざわざ拳で潰す価値さえ感じなかったからである。サルタヒコの剣で袈裟懸けに斬られた瞬間だったフウキは、悲鳴を上げるまでもなく頭を木っ端微塵に砕かれる。キンキもフウキもほとんど即死であった。膨大なマガツヒが、辺りにあふれ出した。

戦いは終わった。瞬時に戦いを終わらせたトールを、畏怖の目で見る部下達に、苛立ちをぶつける。

「しっかり喰っておけ! そして二度と、こんな素人共に後れを取るな!」

「ははっ!」

慌ててマガツヒに群がる部下共を放って置いて、うずくまって震えるオンギョウギに歩み寄る。そして頭を掴むと、つり上げた。鼻水を流して泣いているオンギョウギに、トールは容赦なく頭突きを叩き込んだ。鼻骨が粉々に砕ける。投げ捨てた。もう、今の此奴に用はない。

「貴様は生かしておいてやる。 部下共が情け容赦なく俺に潰されて死んだ事を忘れずに生きながら、好きなところに這って失せろ」

「ひっ! ひいい、ひいいいいっ!」

這うようにして逃げるオンギョウギ。トラウマを叩き込んでやったから、後が楽しみだ。もし此処から這い上がってくるようなら、次こそは面白い戦いが出来るだろう。このまま消え去るようなら、其処までの器だったと言う事だ。その場合には戦った事自体が拳の汚れとなるが、それもまた一興だ。

肩で息をついているリコは、マガツヒをあまり食べていなかった。アメノウズメが慰めの言葉を掛けようとしていたが、トールは制する。

「悔しかったら、喰っておけ。 そして腕を磨け」

「はい」

リコは目を手の甲で擦っていた。泣いているらしい。

そういえば、トールもニンゲンだった頃、幼い時分はよく泣いていた気がする。まあ、泣くのも良いだろう。自分の無力を知る事が、強くなる第一歩だ。散々挫折して、それから立ち直れば、最強の戦士に育ち上がる。

さて、偵察任務はまだ始まったばかりだ。マガツヒを部下達が喰らい終わるのを見ると、進撃を続けるように命じる。些細なハプニングはあったが、任務停止の理由とはならない。せめてこれから、まともな敵手と遭遇できればいいのだが。トールは部下達の先頭に立って歩きながら、そう思った。

 

(続)