受胎の日
序、榊秀一の朝
いつもと変わりない日常があった。
昇った陽が、部屋に色彩をもたらして、目が醒める。少し古くなったパイプベットは身じろぎするだけでぎしぎしと鳴り、五月蠅い。手を伸ばして、やかましく鳴る目覚まし時計を止める。
今日は休日だが、出かけなければならないのだ。榊秀一(さかきしゅういち)は、今日も酷く寝癖がついた髪をかき回しながら、半身を起こした。階段を下りて、一階に。隣の部屋で寝ている妹の和子は、まだ起きていない。
洗面所に行って、歯を磨く。鏡には、適当に整い、目立たない顔が映し出されていた。歯を磨き終えると、髭を剃る。伸びるのが毎日速くなっているのを感じる。今使っている電動カミソリは、時々髭を引っかけるので、なおさら鬱陶しくてかなわなかった。
旅行代理店の店長をしている父は、今日も仕事で朝からいない。まともに休日を取ることが出来ないほどに今旅行業界は仕事が厳しいと聞いているから、責めることも出来ないのだが。寂しがって和子が泣くのは嫌だった。何とかならないのかと、時々苛立つ。だが、何も出来はしない。せいぜい一緒にいてやるくらいである。たまに、遊園地に連れて行く事もある。それくらいしか出来ない自分が歯がゆくてならない。
台所では、母が朝食を作ってくれていた。高校生である秀一の母とは思えないほどに若々しい、清楚な和風美人だ。ただし、料理はあまり上手ではない。和子がそろそろ料理を出来る年になってきたので、秀一は内心ほっとしている。焦げ気味の目玉焼きをテーブルで並べる母は、いつも通り機嫌が良さそうな笑みを浮かべていた。
「秀ちゃん、どこかに出かけるの?」
「ああ。 先生が入院しているから、友達と見舞いに行く」
「あら、それは大変ね。 お土産を用意しましょうか」
「それは友達が用意したからいい」
友達。新田勇。母も知っている人物である。
彼は秀一の幼なじみだ。僅かに秀一より背が高く、だがしかし運動神経は鈍い。ただ、中学の頃にバスケ部にいた秀一と、帰宅部だった勇に差があるのは当然だ。小顔で、顔立ちはそれなりに整っているが、反面臆病な奴だ。外面にはプラスの要素があるのだが、内面には脆くて弱い点がそれ以上に多い。
勇は色気づくのが早かったから、同年代の男子に先駆けてお洒落に気を使っている。色々な女子とつきあったそうだが、今は見舞いに行く先生にぞっこんだそうだ。だから彼が、自腹でお土産を用意したのである。秀一に到っては、お土産は持ってくるなとまで言われている。気の良い奴だが、兎に角刹那的なので、時々秀一は心配していた。それに、先生はどう見ても勇を相手にしていない。徒労に終わるのは目に見えていて、何とかならないのだろうかと思ってしまう。
軽めの足音。階段を下りてくる。和子が起きてきたのだ。秀一の妹で、まだ小学六年生である。五歳差だから、少し年が離れている妹だ。目を擦りながら二階から降りてきた和子は、鈍い動きで此方を見た。秀一が先に挨拶する。
「おはよう」
「おはよう。 どこかに出かけるの?」
「先生の見舞いだ。 出来るだけ早く帰ってくる」
「うん」
大あくびをして、眠そうに洗面所に消えていく。
和子は平均より若干背が低く、髪の毛を短く切りそろえている。顔立ちは良く整っていて、母親に似たのだと分かる。基本的におとなしいのだが、怒るとかなり怖いらしく、周囲の女子に頼りにされているらしい。というのも、話半分にしか聞いたことがないからだ。妹の学校生活に干渉するような時間も暇もない。元々口数が少ない二人だから、あまり話す事もない。あの事件が起こってからは、その傾向が更に強くなった。学校の事を話さないのは、二人の間での不文律となっている。
少し苦い目玉焼きを食べ終えると、パーカーを羽織って出る。最寄り駅まで七分。其処から代々木公園駅まで、十分ほど揺られていく。乗り換えをしなくて良い電車を捕まえられたので、そのまま乗っていけるのが嬉しい。暇つぶしに持ってきた小説を読むが、特に面白い訳でもなく、すぐに飽きてしまった。最近は良書に出会えておらず、退屈を感じる事がしばしある。
乗客が少ない。つい先日、代々木公園で暴動が起き、死者が出る騒ぎになったからだ。サイバースペース・コーポレーションとかいう会社が代々木公園に電波塔を建てるとか言う計画をブチ挙げ、それに環境保護団体が噛みついたのだとかいう。だが、それにしては暴動で死者まで出るのは少しおかしい。何か裏にあるのではないかと、ネットでは既に噂になっていた。
こうして、近くを通る電車に乗ってみて、初めてそれが現実なのだと認識できる。今の時代、誰もがそうなのだ。以前、そうではないと思い知らされたはずの秀一でさえ、時々錯覚させられる。
何が起こっても、自分は大丈夫だと。
そんな事は絶対にないのに。
代々木上原を出たので、本を鞄にしまうと、席を立つ。座っていると降り損ねることがあるので、数駅前からこうして立つ事が多い。地下に入った電車は、すぐに代々木公園駅に到着。降りてみはしたが、周囲に人気は呆れるほど少なかった。キヨスクまでが、閉店してしまっている。暇つぶしに読むための剣豪小説でも入手しようと思っていたので、秀一は軽く落胆していた。
携帯が鳴る。勇からだ。相変わらず軽い調子で、好き勝手な事ばかり言っている。実害はないのだが、男子から勇が人気の無い理由がそれだ。もう一人の幼なじみである千晶ももう来ているらしい。最近また恋人を取り替えたとか聞いているのに、学校の教師の見舞いなどに良く千晶は来たものだ。特に慕っているわけでもないだろうに。
千晶は名家の娘で、兎に角気性が激しい。利己的な上に好奇心も強く、同級生達からは危険人物として見られる事が多い。事実、幼なじみの腐れ縁でなければ、絶対に近づく事のない人種だろう。
病院に向かっている事を伝えると、駅を出る。パーカーを羽織ってきて正解だった。少し肌寒い。途中、代々木公園を通りがかると、交通規制が行われていた。パトカーが数台停止して、不慣れそうな警官が並んでいる。野次馬が大勢その周囲を取り囲んで、ただ物珍しそうに中をうかがっていた。
しばらく前に、地下鉄で毒ガスを使った大規模な無差別テロがあったばかりだというのに。関西空港で、悲惨な「テロ事件」があったばかりだというのに。
この国の民は、危機感を持たないのだろうか。いつだかテレビで、外国の人間がそう言っていたのを、秀一は聞いた。同感である。日本では数少ない、テロに巻き込まれた事のある人間だから、余計にそう感じるのだろう。もはや、帯刀した人間が歩き回っていた時代の精神は、死滅したのかも知れない。
サイバー何とかという会社の作った電波塔は無事で、焦げてさえいない。暴動で死人が出たというのに、何事もなかったかのように、木々の間から天へ伸びていた。じろじろ見るのも不謹慎だろうと思って、その場を立ち去りかける。野次馬達には関わるのも嫌だったし、元々喧噪は好きではないのだ。
その時、ふと誰かに肩がぶつかった。筋肉質で雰囲気の鋭い秀一は、チンピラに絡まれる事はあまり無いが、それでも反射的に相手を見てしまう。髪の長い、三十代半ばほどの男だった。秀一に殆ど並ぶほどの長身である。精悍な顔立ちで、どことなく隙のない佇まいであった。軽く謝罪の言葉を口にして、きびすを返しかける。だが、男は意外な言葉を口にした。
「お前、どこかで見た事があるな」
「はあ、何でしょうか」
「そうだ、思い出した。 関西空港の、テロ事件の生存者。 まさか、こんなところで本人にお目に掛かるとはな」
秀一は敵意が全身に満ちるのを感じた。別に隠している事ではない。だがあの事件の後、母は何日も泣いていた。マスコミは幼い妹にさえよってたかってマイクを突きつけた。父の会社は電話が鳴りっぱなしになり、転職を余儀なくされた。顔写真が匿名掲示板に晒された母は、ストーカーにさえ遭った。
あの時以来、母はワイドショーを一切見なくなった。三ヶ月ほどは、榊一家にとって地獄だった。バスケ部も半ば強制的に辞めさせられた。二度と思い出したくないような事も、散々経験した。人生で一番多く喧嘩したのも、あの時期だったに違いない。
秀一の神経を逆なでするように、男は名刺を差し出した。やはりマスコミか。聖丈二と言うらしい。突っ返そうと思ったが、翻意した。何か普段のマスコミとは違う空気を感じたからだ。だから、受け取るだけは受け取る。無精髭だらけの口元で笑うと、縞々の目立つスーツを着ている聖は、秀一に歩調を合わせながら言う。帽子のつばの下に見える目つきは、驚くほど鋭い。
「なあ、あんたはどう思う。 この事件」
「さてね。 暴動にしては過激すぎるとは思うけど」
「その通り。 あの会社、サイバースペース・コーポレーションには、色々きな臭い噂が昔からつきまとっていてな。 あの暴動も、その影の部分に属する事ではないかって言われてるのさ」
誰がそんな事を言っていると、秀一が応えると、聖はすっとグロテスクな装丁の雑誌を差し出した。月刊アヤカシとある。見るからにマニアックな雑誌だ。少なくとも、秀一が通いつけにしている本屋では見た事がない。赤黒い色彩に、ゾンビ映画を思わせる不気味な亡骸が映り込んでいて、表紙にはサイバースペース・コーポレーションの陰謀などと、穏やかならぬ文字が躍っていた。
最近は騒ぎ立てるマスコミに対し、名誉毀損の訴訟を起こす会社も少なくない。「知る権利」にあぐらを掻き、現世の貴族を気取っていたマスコミには良い薬であると、秀一は思う。
サイバースペース・コーポレーションは東証一部に上場している会社で、業績も鰻登りの新進企業の筈だ。それに対してこのような記事を書くのは、それなりに勇気がいる事だろう。金儲けのためにゴシップばかり漁っているマスコミは大嫌いだが、この男は臆病者ではなさそうだと、秀一は思った。ただ、臆病者でない事と、善良である事は、全くの無関係だ。気を許すのは危険すぎる。
「何かの縁だ。 それ、タダでやるよ。 発売前なんだぜ。 気が向いたら、目を通してみてくれや」
「気が向いたら」
「ところで兄ちゃん、何処へ行く気だ」
「新宿衛生病院」
不意に聖が足を止める。秀一も、それに釣られて足を止めてしまう。
「……俺の目的地も其処だ。 もっとも俺は、もう少し此処を取材してから、そっちに向かうが」
「どういうことだ」
「どうやら、予想以上に縁は強いらしいな。 また後であうかも知れないが、その時はよろしく。 こんな不良中年だが、邪険にはしないでくれよ?」
立ち去りかけて、また聖は止まる。そして、肩越しに不吉な事を言った。
「兄ちゃん、悪魔っていると思うか?」
「さあ。 俺は少なくとも、遭った事はないな」
「謙虚な答えだ。 実はな。 暴動で死人が出たのはな、悪魔が出たからだ。 死んだ連中は、悪魔に殺されたんだ。 そういう証言が、複数上がってきている。 兄ちゃんは信じるかい? 悪魔なんてさ」
片手を挙げると、聖は公園に戻っていった。
どことなく不吉な空気を感じる。秀一は、新宿衛生病院に向かう足を、無意識的に早めていた。
聖の言葉が気になる。
あの時。テロが起こった時。
濛々と巻き起こる煙。肉塊となった同級生達。血に染まった床。身動きできず、地面で震えていた秀一のすぐ側に。
とても大きな影がいた。複数。二つだったと、思う。特に一つは天井に届きそうな大きさで、人間とはとても思えなかった。
あれは何だったのだろうと、時々今でも思い出す。両親は、恐怖が見せた幻影だろうと言った。妹も同じ意見だった。だが、秀一には、そうは思えなかったのだ。
ひょっとすると、あれは悪魔だったのではないか。病院へ向け歩きながら、秀一は舌打ちしていた。
まだあの日の事から、自分は逃れる事が出来ずにいる。
1,とある静かな話
その日、白海琴音(しらみことね)は久しぶりに自分の足で歩いて帰る事にした。携帯電話から、自宅に連絡を入れる。運転手さんは庭の管理も兼ねている。迎えに来なくても良い事を伝えると、少し嬉しそうだった。元々、庭を弄る方が好きな人なのだ。
通っている都内有数のお嬢様学校から、自宅はすぐ近く。電車で二駅しか離れていない。こんな距離を、運転手を使って通学するのは、やはり体にも良くない。だから、たまには歩くようにしている。もちろん人気がない方へは行かない。
腰まである黒髪を、風が撫でる。
東京の一等地に1500坪の敷地を持つ資産家である琴音は、天涯孤独の身である。両親は数年前のテロ事件に巻き込まれて他界し、遺産は全て琴音のものとなった。現在の所、財産は親戚の老夫婦が管理している。幸いにも善良な人たちで、けじめを付けるためと言って資産の様子を毎度見せてもくれている。一緒に住もうとも促してくれているのだが、今はまだ、実家から離れたくなかった。両親のぬくもりが、まだ其処にはあるような気がするからだ。
関西空港で起こったあの忌まわしいテロ事件は、琴音の心にも暗い影を植え付けていた。飛行機のエンジン音は、今でも苦手だ。中学の時の修学旅行は、沖縄行きだったから、本当に辛かった。何とか修学旅行に行く事は出来たが、帰ってきてから、洗面所で吐いた。それから体調を崩して、二日間寝込んだ。今は其処まで脆くはないが、それでも辛い事に変わりはない。
今日はボランティアもないし、自宅で静かに過ごそうと思っていた。元々、喧噪は好きではないのだ。あの日までは、そうではなかった。遊園地に行くのも好きだったし、運動会も文化祭も楽しみだった。
今では、大勢の人間が騒いでいるところは苦手だ。休み時間は図書館でじっとしている事が多い。休日も、自宅や図書館で静かにしている事が多い。静かである事は、落ち着く。ただし、立場が弱い人を救う事は嫌いではない。泣いていた子供が、笑った時。困っていたおじいさんがお礼を言ってくれた時。琴音の心は温かくなる。
家に着いた。門扉から庭を通って、屋敷に入る。明治時代に建てられたという大きな屋敷は、三棟建てである。玄関には最新式の三重セキュリティが施されているので、開くまでに少し時間が掛かる。その間、飼い犬のジャックの世話をするのは琴音の楽しみの一つだ。
ドーベルマンのジャックは、幼い頃から琴音とずっと一緒にいる。もうかなりの老犬で、時に使用人に吠え掛かる事もあるのだが、琴音の事はしっかり分かってくれているようだった。強い絆で結ばれている事が分かって嬉しい。
尻尾を振るジャックは、毛がまばらに抜け落ち始めている。鼻声を出して甘えているジャックの頭を撫でていると、玄関が開いた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま、広瀬さん」
深々と頭を下げるバトラーの広瀬さんは、まだ若い。三十代になったばかりである。英国の執事養成学校を出た本物のバトラーで、食事の管理から、ワインの整理までしてくれている。運転手の甲田さんは、裏庭で植木の剪定だろう。玄関に上がった私の背後で、広瀬さんが靴を靴箱に収めながら、言う。
「本日の夕食は、何時になさいますか?」
「いつも通り六時でお願いいたします」
「かしこまりました」
一階の一番奥へ。自室が其処にあるのだ。
屋敷には今、住み込みの警備員を含めて六人しかいない。広すぎる屋敷の管理は、とても一人では出来ない。財産は不幸にもというべきか余裕があり、今後も特に切り詰めなくても暮らしていける。
ベットに身を投げ出す。隅々まで満ちた沈黙が心地よい。目を閉じて、沈黙の中に自分を置く。
自室で音楽を聴く人間がいると、琴音は聞いた事がある。気が知れないと、思う事がある。静かな世界の、なんと美しい事か。だが、世の中には多くの苦労がある。苦労を分かち合う事は、決して悪くはないと思う。しかし、一人でいる時だけは、静かでいたい。それが琴音の本心である。
ドアがノックされた。ぼんやりしていた琴音は、半身を起こし、手元の櫛で髪を掻き上げながら、応える。
「どなたですか?」
「広瀬です。 徳山先生が来ています」
元々琴音は眼が細いが、嫌悪を感じた時には、更にそれを絞る癖がある。徳山先生は、嫌いではない。嫌いではないのだが、苦手な人だった。良くしたもので、徳山先生も琴音を嫌っている節がある。
まだ夕食まではだいぶ時間がある。仮にも先生であるし、会わない訳には行かない。着衣を整えると、スリッパを履いて、客間に。客間にはいると、既に空気が違っていた。恐怖を感じる。だが、逃げる訳には行かない。
ソファが小さく見えるほどの巨体が、広瀬さんが出した紅茶をすすっていた。髪は短く刈り込んでいるが、一切整える事もなく、縦横に向いている。口元には、白の交じった無精髭。眼光は動物園で見た虎のようだ。
徳山徹(とくやまとおる)。あのテロ事件で、琴音を助けてくれた、命の恩人。琴音に躍り掛かろうとした、500キロはありそうな大きな黒い影を、素手で叩きのめし、退散させた人。真一文字に引き結んだ口元が、笑みを浮かべるところを、琴音は見た事がない。
向かいのソファに腰掛けると、広瀬さんが運んできた紅茶の湯気を前に、琴音は言う。
「徳山先生、今日は何の用でしょうか」
「近くに寄ったから来ただけだ。 きちんと修練はしているな」
「はい」
目を伏せる。修練はしているが、強くなった気などとてもしない。もし目の前にいるこの人と戦うような事があれば、一秒ももたずに肉塊にされてしまう事だろう。
徳山先生は、護身術の師匠だ。色々な武術を教えてくれたが、最初はどれも長続きしなかった。剣道、柔道、空手、合気道と来て、現代のスポーツ武術では駄目だと、先生は結論した。それからは柔術やパンクラチオン、カラリパヤットなどにシフトしていき、結局日本の古流剣術に落ち着いた。どれも琴音に才能が無かったからだ。不思議な話で、琴音は体術も交えて相手を制圧する事を前提としている古流剣術に才があるのだという。正直実感はないのだが、武術界で恐れられているこの人が言うのだから、間違いはないのだろう。
財産がある。すなわち、よからぬ輩に狙われると言う事だ。悲しい話だが、それが世間での現実となる。だから最低でも、暴漢程度の相手からは、自分の身くらい守れるようにならなければならない。
両親を亡くした琴音を自室から引っ張り出したこの人は、一ヶ月ほど屋敷に住み込みで、武術のイロハを叩き込んだ。今でも大した上達はしていないが、それは琴音が本腰ではないからだという。気配くらい読めるようになれと、何度か怒られた。そんな事を言われても、分からないものはどうしようもない。
「お前は鍛えようと思えば、幾らでも強くなれる。 格闘技には才能が無いようだが、実戦戦術にはそれなりの力があるようだからな。 だから鍛えろ。 強くなれる人間が、そうしないのは一種の罪悪だ。 山ごもりで徹底的に鍛えてやる事も出来るが、その気はまだ無いのか?」
「申し訳ありません。 時間がある時には、修練はしているのですが」
「惰弱な理由だな」
「徳山先生、流石にそれは失礼に当たりませんか」
広瀬さんがフォローを入れてくれるが、徳山先生は気にした雰囲気も無い。ままごとの道具のように見えるカップを持ち上げて、紅茶を飲み干してしまった。まだ熱いはずなのに、吹いて冷ました雰囲気もない。
この人は、誰に対してもこうだと聞く。完全にスポーツ化している武術界に対して背を向け、肉体一つを徹底的に鍛え上げている。食わず嫌いをしているのではなく、完全にルールなどを把握した上でそうしている辺りが、徹底した姿勢を伺わせる。だが、結局は同じ事だ。苛烈すぎて誰も着いてこられないのだから。
睡眠時間は、この年まで毎日二時間程度しか取っていないという。それ以外の全ては自己練磨に費やす時間だ。強くなるのも当然だが、常人がついて行ける訳がない。カップを一瞥する徳山先生。
「代わりを頼む」
「あの、お気に召しませんでしたか?」
「いや、いい茶だ。 香りも出ているし、味も悪くない」
そういいつつ、徳山先生は笑みの一つも浮かべない。引きつった顔で、広瀬さんが代わりをカップに注ぐ。
茶の味が分かる事からも明らかであるが、元々、生活に困らない資産はあるのだという。だから可能なのかも知れない。道場破りをしては強者を探し、話を聞きに来た弟子志望の人間にも、己と同じ修練を課す。そんな事を、徳山先生はこの年になっても続けている。彼方此方の道場で恐れられているのも、無理がない事だ。
妥協のない自己研鑽によって得られた圧倒的な強さは、今でも衰える気配もない。まともに戦って勝てる人間は、日本に殆どいないとも言われている程だ。しかし、その力を学びたいと思って近づいてくる者が、二ヶ月耐えられる事は希だという。この人は、弱者は強くなる事が出来ると、常に公言している。それ自体はとても良い事だ。だが、全ての弱者が強くなれると考えている事に関しては、ついて行けない。
その理屈を元に、弱者を軽蔑している節がある点もである。
武術を教え込まれる時に、この人が琴音に対して向けていた目の冷たさは、今でも骨身に染みている。最近も、基本的にこの人の視線の冷たさは変わらない。最近では、戦術の本を薦められる。軍事用語にばかり詳しくなる自分がいる。
以前、この人が訓練中に語った事がある。
「所詮、世間では、弱者は搾取の対象だ。 どのように言葉を飾ろうと人間は他の動物と変わらない。 弱者に対する暴力は正当化され、強者のみが甘い汁を吸う事が出来るようになっている。 だが、それは努力次第で覆す事が出来る。 だから強くなれ」
昔は、その結論をただ悲しいと思いながら聞いていた。しかしながら、知識を得た今では反論もある。
進化の段階で着目された考えに、三世代による発展論というものがある。人類が発展する事が出来たのは、知識を豊富に持つ三世代目、つまり老人が生存する事になり、社会の活動がスムーズになったからだという理論だ。もちろん、老人は立場が弱い事が多く、肉体的にも脆弱だ。だが、その「弱者」を保護する事により、人類は他の動物よりも発展する事が出来たのだ。そう言う意味でも、現代の弱い方が悪いという風潮は、人間の発展の歴史を否定しているのである。
もちろん、弱者がそのままで良いとは、琴音も思わない。強くなる努力と工夫は必要だという点では同感である。しかし、この人の水準に合わせる事ができる人ばかりではないのだ。
近年流行であるのだが、直接言わなければ、相手には伝わらないというものがある。それは間違いだと、琴音は知っている。自分に対する好感度と、相手の思想次第では、言葉などどう使おうと通じない。
人間は基本的に、自分の主観で「正解」を選択しているからだ。英雄と呼ばれるごく一部の人間を除いて、自分に都合の悪い言葉など、聞こうとはしない。
あの関西空港のテロ事件で、マスコミの報道を鵜呑みにする人々を、琴音は見た。そして知った。多くの人間には、現実などどうでも良いと言う事を。重要なのは、自分にとって都合の良い主観なのだと。
「兎に角、だ。 現状維持だけでは意味がない。 殺気を読めるようにする事、周囲の気配を分析できるようになる事。 この二つだけでも、しっかり身につけておけ。 それだけで、飛躍的に身を守れる確率が上がる」
「努力はします。 でも」
「お前の環境に足りないのは、危険だ。 死線を何度かくぐれば、すぐにコツは分かるようになる」
実際に北極にて、熊を素手で叩き殺した事もあるという。殆ど身一つでエベレストに登った事さえあるという。
確かに、この人は強い。途轍もなく強い。テレビに出てくる格闘家など、ほとんど問題にもならないだろう。決別する気にはならない。否定するのもおかしいと思う。言っている事には、全面的ではないにしても、肯定できる部分が多いからだ。
「お前が強くなれば、手を伸ばして、もっと多くの弱者を救う事も可能になる」
「……」
「あまり時間は残っていないぞ。 どうするか、今の内に決めておくのだな」
徳山先生が席を立つ。訓練されたドーベルマンのジャックでさえ、この人には耳を伏せて尻尾を下げてしまう。見送りに行くが、素っ気なく屋敷を出て行ってしまう。小さなため息が漏れた。
「お気になさらないように、お嬢様」
「有難うございます、広瀬さん。 大丈夫ですから」
時計を見ると、まだ夕食まで時間が少しある。自室で、静かな空間で、心を休めようと琴音は思った。夕食の後は、勉学と、それに修練をしておきたい。徳山先生ほど苛烈な姿勢ではなくとも、己は鍛えておきたいのだ。
今は、この静寂に身をゆだねておきたい。それが琴音の静かな望みだった。
2,憎悪と破綻
何度目だっただろうか。スーツと疲労に身を包んで、就職面接より戻るのは。今回も駄目だった。もはや、ため息さえも漏れてこない。山手線に揺られながら、彼は心の中の憎悪を沸き立たせていた。
太田創(おおたはじめ)は、就職浪人である。大学を出てから、ほぼ一年。就職支援団体や、インターネットのサイトを見ては応募を続けてきたが、成果が全く上がらない日々が続いている。最近では、実家から一族の恥だと罵る声が聞こえるようになってきていた。しかも頻繁に。エリートの家系だという太田家で、彼のような者が出る事はあってはならないのだという。
いわゆる六大学の一つを出た。成績も悪くなかった。それなのに、どうしてこういう事になってしまっているのだろう。
住処にしている襤褸アパートにたどり着く。スーツを脱ぐ労力も惜しく、そのままベットに倒れ込んでしまう。
最初は、一流企業への就職が決まっていた。いわゆる「青田買い」にて、大学三年の頃から就職活動はしていた。内定も教授のコネを使って比較的簡単に決まった。大手の証券会社で、未来の「栄光」は約束されたようなものであった。しかしである。大学四年の冬に、その企業が、突然倒産してしまったのである。内部の腐敗が、業績の悪化に拍車を掛けていたらしいと、後に知った。
不意に何もかもが無くなってしまったのは、その時からだった。
四年になってからの就職活動は、あまりに遅すぎた。どの企業も、訪れた創を鼻でせせら笑った。倒産した企業に内定が決まっていた事を聞くと、更にどの企業も態度を硬化させた。
大学を卒業してしまった。だが、就職先は決まらなかった。少しずつ企業のグレードを下げていったが、何も変わりはしなかった。何処の企業でも、「今まで何をしていたの」と口にした。現在、就職浪人がどういう思いで職を探しているのは、分かりきっているくせに。
親からの支援が無くなり、仕方がないのでバイトを始めた。そうすると、ますます就職活動が難しくなった。時間を取る事も出来ないし、疲労も溜まりやすい。給料も驚くほど安い事が多い。
何もかもが上手くいかない。だから憎悪が、溜まっていった。
いわゆる社会的地盤はないが、「俊英」が揃っていると「近所で評判」の家に、創は産まれた。近所の評判を作るためだけに、創は育ってきたような気がする。
大した家ではなかった。父親は銀行員だが、万年係長。母親だって、高校時代の自慢をするばかりで、それ以外は何一つとして語ろうとしなかった。ただ口にするのは、ウチはエリートの家系だという言葉ばかりである。
いつのまにかその気になっていた。テストではいつも良い点を取れたし、運動神経だって並以上にはあった。周囲などどうでも良かった。知識を得られる事が、兎に角楽しかった。勉学に打ち込んで、すんなり六大学の合格を決めた。
大学時代も、まず順風満帆と言って良い生活が続いていた。サークルなど所属せず、「将来の生活」のために、己の知識を磨き続ける日々を送った。そうして、就職内定も決まった。
欲を掻いた事など無い。いつでも、自分の事は殺して来た。全てを未来のために擲ってきた。それなのに、いつから、全てがおかしくなったのだろう。どうして、何もかもがこうも報われないのか。
企業が倒産して、内定が取り消されて。初めて創は自分が暗闇に放り出された事に気付いた。今までは、ただ何となく生きてきただけなのだと知った。そして、社会は、一度転落した人間をゴミとしか扱わないと言う事も。
電話が鳴る。放っておくと、やがて留守電に切り替わった。この時間に電話をして来るのは、母に決まっている。もちろん、心配やねぎらいなどが目的ではない。
電話先から、憎悪の言葉がこぼれ始めた。無能。一族の恥さらし。役立たず。さっさと就職を決めろ。延々と、罵倒が続く。留守電が時間制限で切れても、すぐにまた電話が掛かってくる。母には、最初から会話などする気はなかったのだと、最近創は知った。自分の意思と目的を押しつけ、評判を得るためだけに、創に接していたのだと。
やっと電話が切れた。力任せに枕を投げつけるが、狙いは逸れた。面接先からの連絡があるかも知れないから、留守電を使わない訳には行かない。もう一度アレを聞かなければならないかと思うと、反吐が出る。何度か電話番号は変えた。だが母は、どういうコネクションを駆使しているのか、確実に探し出してはストーキングまがいの電話をし続けてくる。
血走った目で、部屋の隅にある棚を見る。かってビジネス書が鎮座していた其処には、自作の爆発物が、ずらりと並んでいた。どれもこの部屋程度なら、簡単に吹き飛ばす火力を持っているものばかりである。
大学時代に学んだ事は、決して無駄にはならなかった。その辺で入手できる材料でも、爆薬は作る事が出来るのだ。調合も決して難しくはない。極論すれば、ガソリンを詰めたビニール袋でさえ、強力な爆発物として作用するのである。
今日の面接官の顔を、創は思い出す。胃が煮えくりかえりそうだった。奴は創の出身大学の事を聞くと、鼻でせせら笑いながらこき下ろし、うちにはクズはいらないとまで言い放ったのである。そんな面接官は多くないと、就職活動を始めた頃には思っていた。今は違う。そんな面接官にばかり、創は当たる。運が悪いのではなく、世間にはそういう人間ばかりがいるとしか思えない。
もう履歴書を書く余力も残っていない。履歴書に貼る写真もない。何度か思いとどまったが、もう限界だった。今こそ、怒りを爆発させる時だった。自分自身も、焼き尽くしてしまいたかった。
創には、過去も未来もない。だから死は怖くない。未来の悪評にもおびえは感じない。迷惑を掛ける事に罪悪感を覚えるような人間もいない。両親など、地獄に堕ちればいいとさえ思っている。だからこそ、やるならば、自爆テロだろう。全部まとめて、自分と同じ地獄に引きずり込んでやる。ただそれだけで、脳裏をまとめ上げる。
人が集まる場所を考える。近場では新宿駅が適当だろう。面接用のビジネス鞄に、もっともばれにくい爆弾を詰める。見かけは少し分厚いノート。トリガーを引くだけで炸裂するタイプで、鞄から出して一秒で使用できる。後は補助用の爆発物を詰め込む。どれも爆弾には見えないものばかりだ。
流石にプラスチック爆弾のような高度なものは作れなかったが、これで充分だ。満員電車にでも潜り込めれば、百人単位で殺す事が出来る。決行は明日で良いだろう。もう何もかもうんざりだ。
確かに、レールに乗って何も考えずに生きてきた罪はある。それは認める。だが、この仕打ちはそれに見合うものなのか。プライドなど持った覚えはない。どんな会社にも面接に行った。どんな仕事でもやると言った。それなのに、今まで400を超える会社に、全て蹴られた。
鬱屈が爆発しそうだ。計画を切り上げる。別に今日でも構わないだろう。スーツのまま、外に出る。隣に住んでいる学生と鉢合わせる。創の目を見て、悲鳴を上げて退いた。どうでも良い相手だ。これから殺す価値もない。必死に逃げようとする相手には目もくれない。創が殺したいのは、もっと大きな相手だ。
最寄り駅へ走る。既に陽は落ちかけている。呼吸が荒くなってくる。それなのに、鼓動は驚くほど静かだ。殺す。みんな殺す。全部殺してやる。言い聞かせるように、口の中でつぶやく。
電車に乗った。途中、山手線に乗り換える。乗客はまばらで、爆発物を炸裂させるには速すぎる。ぎゃあぎゃあ騒いでいる女子校生どもが鬱陶しい。何度か鞄を開けかけたが、思いとどまった。
新宿駅に出る。外は、暗くなり始めていた。
思ったより人気がない。少し前に代々木公園で暴動が発生し、死者が出たと言う事が影響しているのだろうかと、創は思った。帰宅ラッシュが始まるまで、まだ少し時間がある。夕日を浴びながら、キヨスクに足を運んで、ホラー小説を買う。駅の片隅で、ぼんやりとそれを読んだ。特に何の感銘もない。人を殺すと言う事で頭がいっぱいで、他は入る余地がないのだろう。
地面が揺れたのは、その時の事だった。最初は地震かと思った。だが、雰囲気がおかしい。背筋に悪寒が這い上がる。
そうだ。あの時と同じだ。
関西空港で、テロに遭った時。異常な空気が場を満たし、濛々と沸き上がる煙の中に、その巨大な影があった。辺りを見回す。あれはいない。いないが、あの時と同じ、いやもっと濃い気配がある。しかも、周り全てに。
悲鳴を上げてしまう。揺れはまずまず激しくなっていく。やがて、彼は見た。
地平の果てが、せり上がってくる光景を。あまりにも非現実的でありながら、それは何処か美しかった。あんぐりと口を開けたまま、その光景を見やる。不思議と、逃げようという気にはならなかった。
それが、創の「最後の」記憶となった。
世界が、横転した。
3,その狂気の世界で生きる
最初にあったのは、苦痛だった。周り中が冷たい。じゃりじゃりする。身動きできない。もがく。まず、空気が欲しかった。自分がどうなっているのかも、確認したかった。こんな状況で、不思議な状況ではあった。
自分が窒息しない事も、妙ではあった。だが、苦しい事には変わりがない。不意に、抵抗が軽くなる。そちらへ全力を傾けて、一気に抜けた。何かが吹き飛ぶ感触。勢い余って、はじき飛ばされたのだと分かった。
投げ出される。そして、叩きつけられる。とっさに受け身を取ったのは、本能からの行動だろう。しかし、あまり意味がなかったかも知れない。叩きつけられた先は、とても軟らかかったからだ。
ばらばらと、何かが降り来る。まだよく見えなくて、何が起こっているか分からない。徳山先生に、何かあった場合はうずくまって頭を庇えと教わった。それによって内臓と、もっとも大事な頭脳を守る事が出来るからだ。守りの体制にはいる事は、決して恥ずかしくないのだとも。あの人の言葉には賛同できない事も多いのだが、これは理論的に納得できる。
静かになるまで、少し時間が掛かった。
おそるおそる、顔を上げてみる。何がどうなっているのか、まるで理解できない。自分が砂で出来たクレーターの底にいる事に、気付くまでしばし掛かった。しかもその砂も、砂丘にあるようなとても粒子がきめ細かいものだ。
混乱の中、少しずつ、何がどうなっているのか整理していく。だが、それも次の瞬間には崩壊してしまう。妙にまぶしいと思って振り仰ぐと、其処にあったのは、異常に巨大な光の塊だった。どうみても太陽ではない。
へたり込んでしまう。混乱が収まらない。体の感覚もおかしい。何か背中の辺りに、異様な感覚がある。尻の辺りにもである。手を見ると、血に染まったかのように赤黒かった。呼吸が乱れてくる。だが、不思議とそれはあまり苦痛を伴わなかった。
誰かが、クレーターの上から覗いている事に気付いた。後ろだ。振り向くと、信じがたい者が、其処にいた。
クレーターの上から自分を覗き込んでいたのは、巨人だった。背丈は四メートル半はあるだろう。肌は緑色で、全身は屈強な筋肉の塊である。それだけでも凄いのだが、何よりも異様なのはその顔であった。
目が、一つしかないのである。額には角らしき突起もある。口は横に裂けていて、耳までありそうだ。寒気がした。一体自分は、何処で何をしているのか。それで気付く。名前がぼんやりとしか思い出せない。二つの名前が、渦を巻いて混ざり合っている。
巨人は此方を見るばかりで、何もしようとはしない。敵意も感じられない。それが却って異常だった。逃げる気になれない自分もである。気付く。空の、色がおかしい。赤いのだ。
ようやく出来たのは、喉の奥から言葉を絞りだすことだけ。それも、何だか不思議な感覚だった。声を出しているという感じがないのだ。
「貴方は、誰ですか?」
おそるおそる語りかけてみるが、一つ目の巨人は応えない。ばつが悪い。何もかも分からない。もう一度同じ問いを繰り返すと、やっと巨人は反応した。
「俺はサイクロプスのフォンだ」
「サイクロプス、ですか?」
「サイクロプスだ。 何を当たり前の事を言っている。 それより、お前は何だ」
「私? わたし、は?」
分からない。少しずつ、頭が冷えてきてはいる。だが、この状況は、全く理解できなかった。
クレーターは深さ数メートルあるだろう。このクレーターが、どうやって出来たのかも、よく分からない。敵意がないのなら、あのサイクロプスとかいう存在に、少しでも話を聞いておきたい。
クレーターから出ようと思った。一歩を踏み出すが、何だかおかしい。体が異様に軽い。踏み出すと同時に転び掛けた。慌てて態勢を立て直した途端、体が上方にはじき出された。世界が回転する。悲鳴を上げる暇もなく、不意にバランサーが働いた。
今度は、叩きつけられる事はなかった。すっと、クレーターの外の地面に降り立つ。そして、気付いた。今まで見ていたものなど、異様でも変でも無かったと言う事を。
砂漠だった。辺り全てが砂に覆われている。その上、地平がせり上がっていて、向こうまで砂が続いているのが見えているのだ。所々、建造物は見える。だが、大型の建物は全く見あたらない。
バランサーの正体に、気付く。尻尾だった。地面に触れるほど長い尻尾が、尻から生えているのだ。それも、は虫類のものを思わせる、しなやかで鋭いものだった。空を、何か大きな影が横切っていく。とても飛べそうにない、恐竜のような影が、悠々と空を泳いでいく。砂漠の向こうで、大きな影が砂の中から飛び出し、また潜っていった。混乱が収まらない。
「お前は何だ」
もう一度、サイクロプスに聞かれる。
聞かれても、やはり自分が何者なのかは、よく分からなかった。そればかりか、此処が何処なのかさえ分からない。パニックに陥りそうだった。以前だったら、確実に悲鳴を上げていただろう。
以前とは、いつだ。それさえも分からない。断片的に頭の中に語句は浮かんでくるのだが、混乱のせいで巧く統合できない。目眩がした。どうして良いのか、全く分からない。
「……こちらだ。 ついてこい」
サイクロプスと名乗る巨人が促す。躊躇したのは一瞬であった。ついていく事に決める。どうしてか、この巨人に敵意が感じられない事が理由である。言われたままに、歩き始める。
砂を踏んで歩く。あまり良い砂ではないらしく、踏んでも音はしない。今更ながらに、素足である事に気付く。服は着ている。だが、この服は何だ。歩きながら確認してみるが、まるで鎧か何かだ。素材も分からない皮のようなもので、急所をまんべんなく覆っている。尻から生えている尾はゆっくり揺れており、歩く度に自動でバランスを取っているようだった。
しばらく歩くと、砂ではなく、土に変わった。若干湿っていて、僅かに臭いがある。相変わらず踏んでも痛くないし、特に何とも思わない。不思議なのは、これだけ荒涼とした状況なのに、死骸が全く見あたらない事だ。さっきから生物がいる事は確認していた。それなのに、死骸どころか糞便さえ存在していないのだ。
何なのだろう。この世界は。汚い部分も含めて、世界は成立している。確かにグロテスクな死骸や糞便など見たくはないが、全く存在しないとまた違和感を醸し出すのだと分かった。やはりおかしい。何度もつぶやくが、答えなど出てくる訳もない。不意に、言葉が湧いて出て来る。ボルテクス界。そんな言葉、聞いた事もない。ボルテクス界とは一体何だ。
続いて、サマエルと言う言葉が出てくる。これもよく分からない。多分キリスト教関連だと思うが、詳しくは知らない。混乱の中、記憶から引き出せる言葉がもう一つ。白海琴音。それは何だ。自分の名前なのだろうか。
やがて、暗闇に足を踏み入れた。この辺りは、地形に起伏がある。土の中に、傾いたビルが埋まっているのだ。その一つに入ったのだと分かった。窓から入ったのだが、ガラスは全て割れてしまっており、遮るものは何もなかった。
大した規模のビルではないが、沈黙とはほど遠く、中には二三の気配があった。衣擦れ。呼吸している音。体をかがめて、サイクロプスが中に呼びかける。出てきたのは、しわくちゃの老人だった。老人と言っても、背丈は子供よりも更に低い。自分の腰ほどもなかった。顔は皺だらけで、白い髭は胸の辺りまでもある。つきだした鷲鼻と、猜疑心の強そうな細い目が目立つ。頭には緑色の帽子を被り、つま先がそり立った不思議な靴を履いている。
どっかと腰掛けたサイクロプスが、親友に言うように語りかける。実際、とても仲がよいのだろう。互いに敵意があるとは思えない。
「今戻った」
「おお、お帰り。 で、これは、また見た事のない悪魔だな」
「クレガにも分からないのか。 記憶が混乱しているようだから、連れてきた」
「見たところ、そう高位の悪魔でもないだろう。 大した危険はあるまいて」
自分不在のまま、勝手な会話が行われているが、不快感はなかった。それよりも、悪魔と呼ばれた事の方が気になった。
「悪魔、ですか? 私が?」
「ボルテクス界には、悪魔の他には思念体とマネカタしかいないだろうが。 ニンゲンも少しいるって聞いた事はあるが、あんたはそのどれでもない。 だから、悪魔だと判断した。 それだけだが」
「貴方たちは?」
「本当に大丈夫か? 俺はさっきも言ったが、サイクロプスのフォンだ。 そっちはレプラコーンのクレガ。 見ての通りの、悪魔だよ」
確かに、二人とも人間には見えない。フォンと言う巨漢は、とくにそうだ。こんな体格の人間は存在しないし、肌の色も常軌を逸している。どういう色の血液が流れているのか、全く見当がつかない。ふと気付く。フォンの右腕には、大きな傷跡がある。引き攣れたような無惨な溝で、今はふさがっているが、相当に深そうだ。ひょっとすると、腱まで到達してしまっているかも知れない。
クレガは忌々しそうに酒瓶を口にすると、一気に飲み干す。むっとするほど強い酒の臭いが漂ってきた。此方には興味が薄いらしく、かといってフォンを見もせず、小柄な老人は言う。
「外の様子はどうだった?」
「悪魔がだいぶ減ったな。 ヒカワって人間が作った組織が、どんどん悪魔を招いているって話は本当らしい。 みんなギンザに行ったんだろ」
「この世界に秩序が生まれるって話は本当らしいな」
「そのようだ」
全く話が分からないので、参加のしようがない。座り込んだまま、ゆっくり状況を整理していく。
気がついた時。あの状況からして、恐らく砂に埋まっていたのだろう。それを自力で吹き飛ばして、出てきた。そして一跳びでクレーターから出る事が可能なほどの身体能力が、今の自分には備わっている。
悪魔という存在である事も、間違いはなさそうだ。混乱している記憶も、少しずつ戻り始めている。それによれば、「自分」が、あんな身体能力を発揮できる訳がない。運動はそれほど得意でもなかったし、体力だって無い方だったのだ。
そして、此処では大して優れた能力ではないと言う事も、二人の反応から分かった。恐らく、この程度の能力の持ち主なら、幾らでもいるのだろう。空を飛んでいた巨大な影や、遙か遠くに見えた大きな生き物から考えても、何が起こっても不思議ではない。
普通ならパニックを起こしそうなものなのに。どうしてか、心は静かだった。混乱している自分と、平然としている何かが混じり合っている。改めて、手を見ている。赤銅色の肌。まるで漁師のような肌の色だ。
ビルの中には、僅かに灯りがあった。鏡はないかと見回してみる。奥の方に、小さな鏡があった。談笑している二人の「悪魔」から離れて、鏡を拾い上げる。半分割れてしまっている手鏡だが、それでも今は何よりもありがたかった。
顔を映してみる。暗い中、それが浮かび上がってきた。
目鼻立ちは変わっていない。見飽きた自分の顔だ。少し目は細く、鼻は小さめ。眉毛は薄い。整っていると周囲に時々言われたが、あまり実感のない自分の顔だ。額に目を示すような模様が入っている事を除けば。実際の目ではない事は、触ってみて確認できた。ただ、模様は擦っても取れなかった。
鏡を手にとって、少し落ち着いたからだろうか。異様な事が幾つも分かってくる。髪の毛の色も、以前とは少し違っていた。僅かに色が抜けている。それに尻尾があるのに、それを踏まないような座り方を自然にしていた。やはり、何かが根本的に抜け落ちているとしか思えない。
「サマエル……」
「なんだね?」
「いえ、頭の中に浮かんだ名前の一つです。 もう一つは白海琴音。 どちらかが、私の名前だと思うのですが」
「サマエルと言えば、確か楽園で最初のニンゲンに知恵の実を与えたって説がある大物悪魔だな。 あんたがそうだとは、とても思えないが」
クレガに、上から下までじっくり見られる。ちょっと気恥ずかしい。フォンは奥から取り出してきた大きな棍棒を足下に横たえると、ゆっくり手入れをし始める。あんな棍棒で殴られたら、一発で木っ端微塵になってしまいそうだ。
「私も、何だか分かりません。 二つの名前を思い出して、それで」
「何とも分からんな。 しっかりした個を持たない悪魔なんて、見た事もない。 お前さん、一体どこから来た」
「……」
「その辺にしておけ。 それよりも、ティルルはどうなった?」
助け船を出してくれたのだろうか。フォンが急に話題を切り替える。クレガは舌打ちすると、顎でしゃくる。別の気配がある方だ。地下へ通じているらしい、階段が見えた。
「マガツヒをすすっとる。 だが、あの傷だ。 あんな程度のマガツヒでは、回復には時間が掛かるだろう」
「あんたも少しは喰っておいた方がいいんじゃないのか? いざというときに、知識だけでは生き残れんぞ」
「お前がそれをいうか」
「あ、あの」
険悪な雰囲気になってきたので、今度は自分が話を変えようと思った。二人がなんだとばかりに、此方を見たので、少し緊張した。あまり対人交友は得意ではなかった気がする。曖昧な記憶の中で、それは鮮明だった。
「その、私、何も分かりません。 此処が何処で、何がどうなっているのか、知っているだけ教えていただけませんか? お願いします」
「……仕方がないな」
フォンが立ち上がり、ビルの外へ出て行く。クレガは髭を撫でながら、不信感を湛えつつも、説明を始めてくれた。
「此処はボルテクス界。 「東京受胎」によって誕生した世界だ」
「ボルテクス、界、ですか?」
「そうだ。 かって此処には東京というニンゲンの街が栄えていたという。 だが東京受胎という事件によって、全てが滅び、砂の中に消え去った。 ニンゲンはほぼ滅び去り、その代わりに無数の悪魔が現れ出た」
再び酒瓶を口に付けるクレガ。陶器製だが、一升瓶ほどもある大きなものだ。小さな体というのに、そんなに飲んで大丈夫なのだろうかと思ったが、敢えて何も言わないでおく。今は兎に角、情報が少しでも良いから欲しかった。相手の状況はよく分からないし、体を心配するような事を言っても意味がない。
「悪魔というのは、何ですか?」
「多くの種類があるが、儂らの事だ。 フォンの奴は邪鬼に属するサイクロプス。 儂は妖精に属するレプラコーン。 下にいるティルルは邪龍に属するワームだな。 種族の違いはあるが、一括して悪魔と呼ぶのが普通だ」
いずれもよく分からない。サイクロプスというのは聞いた事があるが、レプラコーンやワームというのは分からなかった。今出てきた「邪鬼」「妖精」「邪龍」という定義も、後で詳しく聞いておきたい所であった。だが、それは枝葉である。今は大筋を理解していかなければならない。
「この世界は、球体状の世界の内側にあって、中心にはカグツチが輝いておる。 悪魔なら誰でも知っている事だ」
「……すみません」
謝ってしまったのは、何故なのだろう。自分が異質な存在だと、はっきり理解したからだろうか。それとも、無知に気恥ずかしさを覚えたからだろうか。
カグツチという名前は、どこかで聞いた覚えがある。確か日本神話だったはずだ。詳しくは分からないが、初めて聞いた名前ではない。それにしても、球体の内側の世界。重力は働いているようだが、どうなって成立しているのか、とても気になる。
「すみません。 聞いてばかりで」
「本当にお前さんは何者だ? この世界の者なら、誰でも普通は知っている事ばかりなのだが」
「……」
誰もが知っている事、か。色々学識を蓄えてきたつもりだったのに、そう言われるとは思わなかった。
ざっと歩いてきたところ、この世界にまとまった文明があるとはとても思えない。何が起こったかはさっぱり分からないが、ライフラインが生きているとは思えないし、それに伴うコミュニティだって壊滅状態だろう。
「あのカグツチは、ずっと輝いているんですか?」
「本当に何も知らないのだな。 カグツチは定期的に光の強さを変える。 かっての時間単位で言うと、360時間程度で一巡するそうだ。 一番弱い時は辺りが真っ暗になるし、一番強い時は上を見られなくなる。 それにみんな凶暴になるから、外には出ない方が良いだろうな」
「凶暴に、ですか?」
「血が騒ぐのさ」
ぐっと酒瓶を傾ける。どうやらカラになってしまったらしく、クレガは舌打ちした。嗜好品として、酒を楽しんでいるとはとても思えない。何か、忘れたい辛い事があるのかも知れないなと思った。
「今度は此方の番だ。 まず、何と呼べばいい」
「……私が、聞きたいくらいです」
「じゃあサマエルの琴音と呼ぶ事にする。 それにしても、本当にサマエルか? サマエルと言えば、巨大なヘビの姿を取る悪魔だと聞いているが。 本当のサマエルなら、姿を変えるくらい朝飯前だろうし、そもそも何でもかんでも知っているだろうに。 疑う訳ではないが、何があったのかは見当もつかんな」
苦笑いを浮かべるしかない。兎に角、全く分からない事が多すぎる。サマエルという名前も、どうして浮かんできたのかが分からないのだ。
あの太陽らしきカグツチという存在は、光の強さを定期的に変える。それによって生活のサイクルが行われているのだろう。それにしても、360時間周期とは。かってだったら、とても耐えられなかっただろう。
かって?
かってとはいつだ。やはり分からない。混乱する頭の中は、いまだ秩序の統一を見ない。だが、その直後にすぐ落ち着いてしまう。訳が分からない。自分が自分ではないようだ。この体の事も、色々と異様だが、それ以上に精神がおかしい。一体どうしてしまったのだろうか。
そういえば、気付いた事がある。この小さな住居に、一つ大事なものが見あたらない。存在しなければならないはずのものが、何処にもない。
「そういえば、お食事はどうしているんですか? フォンさんはかなり体も大きいようですし。 やはり、狩りか何かをするんですか?」
「マネカタみたいな事を。 悪魔のくせに、妙なことばかり言う奴だな」
「え、ええと」
「生憎儂は強くなろうとおもわんでな。 フォンの奴もそうだ。 だから、食事など必要ない。 体が弱ったティルルはマガツヒを少し喰いたがっていたが、それでも体を癒す分くらいしか欲しがらないだろう。 あれはあれで、殺生も争いも大嫌いでな」
もうカラである事を忘れたのか、酒瓶を傾けるクレガ。
どうやらじっくり時間を掛けてこの世界を理解していかなければならないようだと思った。
この世界での食事は、強くなるために行うものなのか。でもそうなると、命を落とせばいつまでも死骸が残って、不衛生きわまりない気もする。特化したスカベンジャーがいるのだろうか。或いは、何か他の理由なのか。生理的な欲求が存在しない世界である。何があっても不思議ではない。
しばらくして、フォンが戻ってきた。話の間、外を見張っていてくれたらしい。感謝の言葉と共に頭を下げるが、何も言わずにそっぽを向いてしまった。嫌われたのかと思って心配したが、どうやらただ照れているだけらしいと分かった。見かけでは分からないが、精神的にはまだ未成熟な部分があるのかも知れない。
外の照度が、じょじょに落ち始めている。「カグツチ」の光は、今は周期的に弱くなりつつあるらしい。今は夕方みたいなものなのかと、琴音は思った。さっきから、時々空から轟音が響く。何か巨大なものが飛び交っているらしい。今までいた所だったら、住民が苦情の訴訟を起こしそうだ。
違和感を感じていた理由が、少しずつ分かってくる。まず、お腹が減らない。生体サイクルが長くなっているのかと思ったが、それも違う。根本的に、食欲という概念が抜け落ちてしまっている感じだ。眠くもならない。この世界の住民達は、みんなこうなのだろうか。
さっきからクレガに聞いていたのだが、この世界で喰うという行為は、強くなると同義であるらしい。そして、悪魔が喰うのは、基本的にマガツヒと呼ばれるものだけなのだとか。よく分からない。断片的な事ばかり聞いているが、この世界で何が起こっているのか、何がどうして成立しているのかは、実際に見ない限りどうにもならないとしか思えない。怖い。何もかも分からない事が、こうも恐怖を呼び起こすとは知らなかった。
酒瓶がカラになって機嫌が悪そうなクレガは、辺りを見回していたが、不意に琴音を見る。ちょっと緊張する。
「ダメ元で聞くが、お前さん、何か術の類は持っているか?」
「術、ですか?」
「こういうのの事だ」
掌を上に向けたクレガ。何かぶつぶつと唱えると、向けた先に、突然火球が出現する。拳大の火球は、しばし何もない空間で燃えさかっていたが、不意に消えて無くなる。異常な現象だったはずなのに。驚きはなかった。
「酒が切れてしまってな。 地下で湧いてるマガツヒを、マダの野郎の所に持っていくのも面倒だし、フォンに頭を下げさせるのも気分が悪いからな。 お前さんが酒を造り出す術を持っていればと思ったんだが。 まあ、無理はいわん。 元々酒に関わる悪魔しか持っていないような術だと聞いているしな」
「私を誰だと思っている。 力衰えたといえど、酒を造り出す術程度なら、造作もないわ」
不意に、自分の喉から不思議な言葉が出てきた。あぐらを豪快に掻いて酒瓶をひったくると、驚くクレガの前で、自分も知らない言葉を唱え始める。語感からして中東系の言語らしいと、妙に冷静に、客観的に自分の言葉を反芻する。
体の中から、力が吸い出されていくようだ。体の芯がそれに反比例して熱くなってくる。だが、それも、倦怠感につながるほどではない。体から淡い光が迸る。手を酒瓶にかざす。こうすればいいと、体が知っていた。詠唱を紡ぎ終える。そして、術の発動を行った。
酒瓶が、不意に重くなる。
術の発動が終わると、呼吸が乱れてきた。酒瓶をクレガに渡す。なみなみと、瓶の中には酒が溜まっていた。見ただけで酒と分かったのが不思議だったが、アルコール独特の香りを感じ取って、続いて頭で理解できた。
やはり、感覚と思考の乖離が著しい。記憶と意識も一致していない様子だし、気持ちが悪い。何が起こっているのか、よく分からない。
「どうやら、お前さんが悪魔である事は間違いないらしいな」
「……そう、みたいですね」
クレガが酒瓶を傾ける。そして、眉をひそめた。不味いのだろうかと思って、一瞬不安になったが、違った。
「うまい。 随分濃厚で、芳醇な味だな。 香りに深みがあって、コクも強い。 マダの野郎が作る辛口とは趣が違うが、これはこれでいい。 フォン、お前も飲るか?」
「いや、俺はいい」
「そうか。 ではこれは、俺が一人で飲むとするよ」
僅かにクレガの表情が緩んだようだった。少しだけ、琴音は安心した。
自分と混じり合った、何かよく分からない要素。だが、それが道を開いてくれた。分からない事は、少しずつ理解していこう。
そう、琴音は決めていた。
4,水を得た魚と武器を得たニンゲン
砂煙の中、傷だらけの巨漢が立っていた。ギリシャ彫刻を思わせる、人間の筋肉美を極限まで追求したような半裸。腰にはベルトを巻き、顔は角が着いたフルフェイスのマスクで隠している。マスクの下からは銀色の髭が見え、そして口元は歓喜に歪んでいた。
背丈にして、ゆうに四メートルを超える男は、戦いを楽しんでいた。
最初、相手は自分を侮っていた。だが、今は違う。必死になって自分を倒そうとしている。それでいい。中空から無数のいかづちを飛ばし、着弾させた。確かに見事な手腕だった。二十発以上放たれた術が、全て着弾したのだから。
敵は翼を持つ影。全長は四メートルほどだろう。翼長は更にそれを上回る。顔は西洋の教会に飾られたガーゴイルや、日本の家屋にある鬼瓦のようで、恐ろしげに歪んでいる。爪は鋭く、口からは牙が覗いていた。全体的には、妙に腕が長く、足は短い。がに股の足は若干貧弱で、空を舞う事を前提としている作りに見えた。そして当然のように、尻尾がついている。
しばらくホバリングをしていたその悪魔は、仕掛ける前にゴズテンノウに聞いた話では、中級三位に属する「堕天使」だという。実力は同族の中では真ん中ほどだが、それでも身につけているスキルは人間離れしている。人間である時に戦ったら、勝てなかっただろう。今でさえ、確実に勝てるとは言い切れない。
砂漠に放たれた無数のいかづちは、爆発を誘発し、煙幕を作り出した。その中で、静かに待つ。詠唱などと言うものはしない。便利だと分かっていても、どうも性に合わないからだ。手にしている必殺の武具でさえ、添え物に過ぎない。
敵はやはり、己の拳で仕留めるに限る。
腰に巻いているベルトに、力が滾る。呼吸をゆっくり整えて、大気の流れに合わせる。敵は次の術の準備に入った。良い判断だ。もし生きていても、それで追撃を仕掛けられると言う訳だ。
煙が晴れる。同時に、武具を投擲する。敵とは、全く異なる方向へ。
敵が此方に気付く。上空にため挙げていた魔力の塊を、いかづちにして撃ち放つ。極大の雷撃が、直進して迫ってくる。
「おおおおおおおおおおおっ!」
息を吐き出す。大地を踏みしめる。そして、拳を振るい挙げた。
直撃。拳が、いかづちを真下から撃砕する。そして、驚愕に顔を引きつらせる堕天使の側頭部を、投擲した武具、ミヨニヨルが直撃した。姿を見せた一瞬のタイムラグを使った、一人での時間差攻撃戦術である。
声も出せずに、墜落してくる堕天使。四メートル近い巨体が激突したため、地面が盛大に砂を拭き上げた。孤を描いて飛び、手元に帰ってきたミヨニヨルを、腰にぶら下げ直す。飛行能力さえ封じてしまえば、後は素手で勝負を付ける。
それはこだわり。それ以上に、己の存在意義でもある。
「があああっ!」
砂を巻き上げ、堕天使が立ち上がる。近くで改めて見ると、恐ろしげで、角が頭から何本も生えてはいるが、なかなかの男前だ。頭蓋骨を半分撃砕しているのにまだ生きている所を見ると、ちょっとやそっとでは死なないだろう。実に素晴らしい。歩みを早める。やがて、走る。立ち上がった堕天使が、叫きながらいかづちを放とうとする。吠える。
「戦士! なら!」
至近から、いかづちが飛び来る。拳で、再び撃砕する。全身に鋭い痛みが走るが、それが却って心地よい。粉砕。堕天使と、至近で顔を合わせる。顔面に、拳を叩き込んだ。
「術なんぞに頼らず! 拳で! 語らぬかあああああっ!」
鳩尾に追撃。浮き上がった堕天使を、跳躍して追い、斜め上から打ち落とす。砂漠に再び落ちた堕天使を、踏み砕く。肋骨がへし折れる素晴らしい感覚。頭を掴んで引きずり下ろし、ヘッドバットを叩き込む。更に、顔面を掴み、地面に叩きつけた。更にラッシュを浴びせる。拳、更に拳。腕を引きちぎり、更に肋骨を砕いて、抜き手で背中まで貫いた。大量の血を堕天使が吐く。その首を、手刀で跳ね飛ばした。
不意に、手応えが無くなる。形が、赤い光の集合体に移り変わっていく。
死んだのだ。
だから、体がマガツヒに変わっていく。無数の赤い光の粒が、辺りにゆっくり散らばっていった。
大きく息を吸い込んで、空気と一緒にマガツヒを吸収していく。強力になっている肺の機能は、掃除機のごとく貪欲にマガツヒを吸い上げた。舌なめずり。また、強くなっていくのを感じる。共に、満たされていく己の欲求。そうだ。これでなければならない。戦いは拳で行われ、勝った者は正当な報酬を得るべきなのだ。新たなる強さという形で、である。
古代の戦士は、倒した相手を喰らう事で、さらなる強さを得ようとしたという。今の自分には、その意味がよく分かる。そして今の自分は、その行為によって実際に相手の力を手に入れる事が出来るのだ。何をためらう理由があろうか。
傷の痛みは、勝利の喜び。見れば、辺りのビルの残骸や、がれきの影に隠れていた下級の鬼どもが、群がって残りカスのマガツヒを頬張っていた。
鬼神族。古代の、荒ぶる、人の姿をした神々。多くは人間よりも遙かに大きな体を持つ。人間の暴力性と理想を体現しているため、荒々しくも美しい存在。非常に原始的であるが故、人に近く、そして同じように悩み苦しみもする泥臭い者達。むしろ普通の人間よりも、感情は豊かであるかも知れない。それが鬼神と呼ばれる種族だ。
鬼神族の最下級に属する鬼共は、大きい者は背丈が三メートルほどになるが、今群がっているのは人間の子供ほどしか背丈がない。体つきも貧弱だが、爪も牙も備えていて、並みの人間よりは遙かに強い。ただ、ハンターではない。顔はさっき潰した堕天使のように恐ろしげだが、行動はスカベンジャーそのものだ。
死骸漁りを放っておく。これが強くなろうという行動だと、知っているからだ。強くなろうとする者は、浅ましくとも美しい。だから、見守る事にしている。そして、強くなった時には、是非挑戦して欲しいとも思う。
意思を強制はしない。それは願いであった。
少し休もうと、ビルの影に。早速、回復と治療に特化した術を持つ下級の鬼神共が駆け寄ってくる。どれも人間大のサイズしかない小柄な連中だ。肌の色は赤かったり青かったり様々だが、女の姿をしている者が多い。どいつもこいつも、土地神であったり道祖神であったりした連中ばかりで、戦闘能力に乏しく、強力な悪魔の傷を癒す事で生き延びる事に躍起になっている。めいめい術を唱え始めて、無数の柔らかい光が体を包み、痛みが消えていく。目を閉じて、ダメージの消失を確認している内に、大きな気配が近づいてきた。
「相も変わらず、猛々しい戦いぶりよな」
「戦いは、俺に命の価値を見せてくれますがゆえ」
「ふはははははは、汝らしい物言いよな。 雷神トールよ」
ゆっくり目を開ける。鬼神共に輿を担がせ、その上であぐらを掻いている巨体。輿を支えている八体の鬼神共は、いずれも背丈が三メートルを超える巨漢ばかりだが、それが小さく見えるほどの図体だ。他の鬼神達が枯れ木のように見えるほどの屈強な肉体を持ち、肌は赤銅色。口からは長い牙が覗いていて、どこか頭部は牛に似ている。身に纏っているのは輿布だけだが、それが却って力強さを周囲に見せつけていた。
力は強くなってきている。だが、此奴には、まだ勝てる気がしない。それに、戦う理由がない。狡猾な戦いを得意とする此奴とは、あまり拳を交えても面白くないだろう。
ゴズテンノウ。今、トールに戦いの場を提供してくれた存在。
そして、このボルテクス界で、現在鬼神族の頂点に立っている悪魔だ。
ゴズテンノウは、強力な存在だ。我が強い鬼神族をまとめ上げているだけあり、その実力は絶大。今まで、何度も挑戦者を退けてきている。トールもその一人だ。もっとも、軽く手合わせしただけで引き下がったが。
ゴズテンノウの背後には、復旧しつつあるイケブクロがある。比較的無事だった地域だが、今では元の形状は見る影もない。ビルの残骸は次々に取り壊され、順次ゴズテンノウ軍本営の基礎に作り替えられている。
当然、様子を見に来る輩も多い。その中で、明確な敵対意識を持っている上、力の強い連中を狩り出すのが、トールらの仕事であった。今日は大物の堕天使が来ていたと言う事もあり、トールが駆り出されたのである。
ゴズテンノウが現れてから、今までは己の縄張りで好き勝手にしていた鬼神族がまとまり始めた。ゴズテンノウは傲慢で暴力的ではあったが、己が認めた強者には寛大であり、自らの側にいる事を許した。このボルテクス界で、強者の側にいると言う事は、それだけ力を得る機会が増えると言う事である。更にゴズテンノウが周囲に悪魔を集めた理由は、彼が従う存在には気前が良かった事にあるだろう。獲物の分け前も充分なほどにくれてやったし、力に見合った適切な住居や地位もくれてやった。
一度勢力がふくらみ始めると、後は雪だるま式であった。100体ほどの鬼神が集まるのに、六回カグツチが明滅を繰り返した。今では二回の明滅が終わった時点で、既に500体の鬼神を中心とした悪魔が集まっている。
そしてトールは、そのゴズテンノウの、腹心だった。
破滅の日の事は、よく覚えている。人間徳山徹が死んだ日の事だ。
あの日。出来の悪い弟子の邸宅から出て、適当に道場破りをしようと、街を物色していた。暇つぶしにヤクザの事務所を蹂躙していた時期もあったのだが、もう飽きてしまった。だから最近は、門下生が数百人以上いる大型の道場に狙いを定めて、道場破りをするようにしていた。
結局の所、人が集まるところにこそ、大きな道場は出来やすい。新宿の街を彷徨き、適当な相手を物色。最近、腕が錆び付くような気がして仕方がない。以前、空港のテロ事件の時。あの時戦った得体が知れない山羊のような巨大な影。あれくらいの実力がある相手ならば、少しは腕試しのしがいがあるのだが。
ロシアで、山ごもりをした時。冬眠に失敗したグリズリーと戦った。シベリア虎とも戦った。とても楽しい戦いだった。殺して喰った。水中でタイガーシャークと渡り合った事もある。胸が高鳴る戦いだった。殺して喰った。
自然保護がどうしたとかで、動物を簡単には殺せないようになってきて。結局、戦う相手は人間にシフトした。自分と戦える相手を育てようとも思った。だが、修練を施そうにも、着いてこれる人間は何処にもいなかった。銃器を持っている相手とも戦ってみた。大して結果は変わらなかった。
リアルラックがないのだと、落ち込みもした。ただ強い相手と戦いたいがため、己の全てを賭けてきた。それなのに、何と運命は残酷なのか。ようやく見つけた、それなりに素質のある娘も、そもそもやる気がない。とてもではないが、自分に並び立つ使い手になるとは思えなかった。
六十まであと少し。体の衰えは、着実に迫ってきている。鍛錬だけでは、確実に追いつかなくなってきているのだ。いずれ、必ず死ぬ。だが死ぬのなら、最強の相手に殺されたい。老衰などという死に方は絶対に嫌だった。自分は戦うために生きてきて、拳を磨き抜いてきたのだから。
もっと強い相手を。
もっと戦いを楽しめる敵を。
切望は、空に流れる。近くを通りがかったチンピラが、顔を引きつらせて逃げていった。「カラーギャング」とか言う、少し前に、グループもろとも頭を軽く撫でてやった連中だ。それこそどうでもいい。強くなろうとしない弱者に興味はない。そんな輩は、踏みにじられて息絶えてしまえばいいとさえ考えている。
かって徹はひ弱だった。暴力には、為す術がなかった。だから、体を鍛え上げた。今まで暴力を振るってきた相手を、ことごとく社会の最下層にたたき落としてやった。そうすると、どんどん新しい相手が湧いてきた。戦う事が楽しくて仕方がなかった。
だが、いつのまにか、前に立つ相手がいなくなってしまった。
最強だなどとは思っていない。世の中には、まだ自分より強い相手がいると信じている。だから、今日も街をさすらう。
大地が揺れたのは、その時だった。
記憶はそれから飛ぶ。その時、何が起こったのか、具体的には分からない。分かっているのは、おそらくかっての世界が滅び去ったと言う事。気付いた時には、砂漠の真ん中で、徳山徹ではなく、鬼神トールとして立っていた。
不思議と違和感はなかった。腰に巻いているベルトが、メギンギョルズという名前である事も。ぶら下げている小さなハンマーが、ミヨニヨルという名前だと言う事も。そして自分が、雷神トールである事も。全て、理解していた。己が鬼神に属する悪魔だと言う事も。
同じように「人間だった」存在は、何処にもいなかった。少なくとも、そう知覚している存在は皆無だった。だが、そんな事はどうでもよかった。これから、戦う事が出来る。求め続けた、己以上の強さを持つ者達と。幾らでも。そう、幾らでもだ。
砂漠の真ん中で、徹、いや雷神トールは歓喜の雄叫びを上げた。それから、戦い続けて、今に至っている。
偵察に来た堕天使はまだ何体かいたはずだが、皆逃げてしまったらしい。気配が無くなったので、トールは引き上げる事とした。復旧しつつあるイケブクロは、かってと同じく猥雑。奴隷階級であるマネカタ共が、重労働を課せられ、資材を運んでいる。まるで蟻の群れのようだった。
群れる事は好まない。だからトールは、普段は一人で歩き回る事にしている。
マネカタは、トールと同じくゴズテンノウ配下の初期メンバーであるフッキとジョカが泥から作り出した、かりそめの命を持つ人形だ。鬼神の力を使えば簡単に建物を造り出せるのに、こんな効率が悪い事をさせているのには、理由がある。
額から汗を流しながら、鉄材を運んでいるマネカタの頭から、マガツヒが漂い出る。それを側で見ていた身長三メートルほどの赤い肌を持つ鬼神が反応する。羽虫のように漂う赤い光を素早く掴み、口に入れた。奴はトールに気付くと、禿頭を掻きながら礼をする。いただけない。つまみ食いしているかのようだ。
疲労に倒れたマネカタには、容赦なく鞭が飛んだ。逃げようとするでもなく、うずくまり、弱々しく頭を庇うマネカタ。鋭い悲鳴と共に、ぱっとマガツヒが漂う。小さな鬼達が群がり、マガツヒを争って口に入れた。調子に乗って、倒れているマネカタを更にけりつける者もいた。やがて、引きずり起こされたマネカタは、再び重労働に戻る。壊れるまで、これが続く。
土砂を運ぶ者。資材を運ぶ者。組み立てを行う者。マネカタ共は逃げようともせず、ただ過酷な労働に従事している。逆らおうというマネカタは一匹もいない。それがトールの不快感を誘う。舌打ちすると、その場を離れる。強くなろうとしない弱者に、用はない。
マネカタは、感情、特に苦痛と共にマガツヒを生み出す。食料を生産するための、生きた道具なのだ。だから、わざと効率の悪い労働をさせ、マガツヒの発生源としているのである。死んでもすぐに代わりを作り出せるから、効率がよくマガツヒを得る事が出来る。今ではフッキとジョカは、八段階あるカグツチの日齢が一つ変わるごとに、五十体以上の生産をしているという。既に二千を超えるマネカタが、此処では働いている。
見上げる先には、ゴズテンノウの城。高さは二十階建ての高層ビルに匹敵するが、極めて原始的な石造だ。これを作り終えたら、マネカタの運命は過酷だ。半分は雑用や、イケブクロの拡大に。もう半分は、拷問を加えて、永続的にマガツヒを絞り出すために使う。既に決まっている事である。何とも思わない。集団で反抗すれば、ゴズテンノウや自分に一矢報いる事も、戦術次第では不可能ではないのに。それをしようとしない連中に、興味はない。
自宅は与えられている。かって小さなビルだった建物を、改装したものだ。中はそっくり取り払っていて、トールが寝泊まりしているのは最上階である五階である。四階までは、トールの部下として付けられている下級の鬼神共が住み込んでいる。
一階に足を踏み入れると、車座を作って酒を口にしていた鬼神達が、一斉に立ち上がった。その中でひときわ小柄な、腰の両側に刀を付けている女の悪魔が、真っ先にびしっと頭を下げた。
「トール様、おつかれさまッス!」
「お疲れ様です!」
ざっと頭を下げる鬼神共。別にそうするように強要はしていない。
此処に配備されているのは、どれも歴戦の鬼神ばかりだが、その中でも一番強いのは、もっとも背が低い女悪魔だ。インドのヤクシニーとかいう女鬼神であり、頭は少し弱いが、兎に角腕が立つ。強くなろうという意志も貪欲で、トールは気に入っていた。此奴が、鬼神共にこういう行動を仕込んだ。よく分からないのだが、「体育会系上下関係」という奴らしい。
ヤクシニーは多くの鬼神同様人間に近い姿をしている。ヤクシニーの場合は、背丈まで人間と同じである。ダメージのあるジーンズを穿いていて、乱暴に体に巻き付けた上着も半分破れている。背丈は人間の女と大差ない。頭にはどくろを模した兜を被り、肌はよく焼いていた。大きめの目には強い意志の光があり、口の奥には、八重歯と言うには少し鋭い犬歯が見える。屈託無くよく笑うのだが、別にどうでも良い。トールが評価しているのは、此奴の強くなろうという姿勢だけである。ただ、肩まで届く長い髪は邪魔だから、切った方が良いかもしれないと時々思う。
「堕天使は追い払ってきた。 お前達は戦いがあるかも知れないから、体を鍛えるようにしておけ。 マガツヒも効率よく摂食しろ」
「ちいっす! おう、お前ら! 早速これから外に出て、戦闘訓練すっぞ! まずはランニングだ! 声出して行くぞ!」
「分かりました!」
ヤクシニーが部下共を引き連れて、外に出て行った。有無を言わせぬ空気が、その言葉にはある。まずはランニングをしてから、それぞれ組み手をするのだろう。基礎は教えてある。というよりも、トールは様々な武術の基礎までしか知らない。我流で拳を極め挙げたので、特定の武術にこだわる必要がなかったのだ。一通りの基礎知識を得た後は、自分でそれらを再構成してくみ上げ、強くなればいい。トールは敢えて何もしない。どう強くなるかが、楽しみだからだ。
一気にビルが静かになった。休憩室である二階や、部下達の物置になっている三階を通り過ぎる。窓にはガラスもはまっていない。如何に大きな力がこのビルに掛かったのか、これだけでも明らかだ。四階は、自分用の倉庫だ。訓練に使えそうな道具や、戦利品を納めている。お気に入りなのは、この間仕留めた堕天使が持っていた、大きな三つ叉の矛と、銘が無い日本刀だ。特に日本刀は、いずれヤクシニーに譲ってやろうと思っている。あれなら今後の成長次第では、見事に使いこなすだろう。
この世界は本当に楽しい。強者が充ち満ち、向上の気迫も溢れんばかりだ。満足しながら、自室に引き上げる。自室はあまり好きではないが、休むのは其処でと決めているのである。
かって社長室だったらしい其処は、トールにゴズテンノウが与えたもので埋め尽くされていた。床には豪奢な絨毯が敷かれ、壁には荒々しい絵が描かれたタペストリーがある。壁にはクローゼットや、ミヨニヨルを置くための台座まで用意されている。コンクリが剥き出しで、最低限の設備しかない一階とはえらい差だ。こういう形で忠誠に報いようとするゴズテンノウの考えは分かるが、個人的な趣味には合わないというのが、正直なところだ。
フッキが術で作り出した大きなソファが壁際にある。革製の豪華なもので、トールの体重を苦もなく支える事が出来る。他は気に入らないが、このソファだけは好きだ。腰を下ろすと、使用人代わりにしているマネカタが、壁際の酒棚から、ワインを取り出してきた。上目遣いに媚びを使う様が不愉快である。元々、トールはあまり酒が好きではない。だが、この体になってからは、不思議とそれなりに飲めるようになっていた。
ワインのグラスを二杯ほど開ける。外から、元気のいい声。かけ声を揃えて、ヤクシニーが部下共とランニングをしているらしい。
窓から空を見ると、舞っている悪魔がいる。飛行能力を持つ悪魔も、少しずつだが集まり続けている。それにしても、鬼神同様それぞれの縄張りに住み着くばかりだった堕天使が、ここのところ立て続けに様子を見に来ているのが気になる。何かボルテクス界に動きがあるのかも知れない。
窓へ、鳥が降りてきた。鳥と言っても、翼長は軽く三メートルを超える巨体だ。バイブカハと呼ばれる悪魔の一種である。全身は真っ黒で、鴉によく似ている。窓枠に止まったバイブカハは、目ざとく下から漂い飛んできたマガツヒを口にくわえると、飲み込んだ。動きは本当に鳥そのものだ。
「何か用があるのではないか?」
「失礼しました。 ゴズテンノウ様がお呼びです。 ギンザ方面に向かった偵察隊が、半分ほどもうち減らされて帰ってきたそうでして。 彼らの報告を元に、会議を行うそうです」
偵察隊を率いていたのは、確か最近加入したサルタヒコだ。雄々しい男神で、トールも一目置く剣の使い手である。寡黙な男だが、剣の腕と言い判断力と言い、なかなかの使い手である。奴を苦もなく捻るとは、何が現れたのか。
「分かった。 すぐに行こう」
「よろしくお願いいたします」
鴉そのものの鳴き声を上げると、窓枠を蹴って、バイブカハは空に。見る間に姿は遙か遠くへ消えた。
ゴズテンノウは大雑把なところがある。今回の損害をあまり大きくは見ないかも知れないが、サルタヒコを負かす相手がいるとなると、此方も油断は禁物である。トール本人としては、どんな相手がいるのか楽しみで仕方がない。
ビルを出ると、まっすぐゴズテンノウの本営に向かう。奴は普段、まだ建造途中の城の足下に作った大型の天幕にいる。陣頭指揮を執っているという形式だが、実際には設計図をジョカに書かせて、その通りにマネカタ共を働かせているだけだ。現場で指揮を執っている者もいるが、殆どは指導技術も稚拙で、意欲にも乏しく、いかにしてマネカタの体力を絞り尽くすかしか考えていない。もっとも、本営の建設よりも、マネカタを虐げる事の方が主目的なのだから、これはこれで良いのかも知れない。
天幕は高さ十メートル、周囲三十メートルと、サーカスのテントのようなサイズだ。どこからか持ってきた、巨大な鉄柱を支えにして、術で作った頑丈な布を張り巡らせている。空を数羽のバイブカハが巡回しているのが見えた。時々地面に降りているのは、マネカタが放出しているマガツヒを喰うためだろう。マネカタは死ぬと泥になってしまうので、わざわざ食べようという物好きはいない。
天幕にはいる。円卓が中には置かれていて、一番奥には既にゴズテンノウがいた。牛を思わせる頭部の下で、逞しい腕を組んでいる。その左右には、下半身がヘビで、上半身に黄色い道服を着た中年の男女。どちらも整った顔立ちで、男は黒々とした髭を床までも伸ばし、女は美しい顔に赤いアイラインを引いていた。男がフッキ、女がジョカ。中国神話の神祖だ。神祖だが、元々中国は信仰が盛んな地域ではなかったと言う事もあり、さほどの力はない、ということだが。トールが見たところ、二人ともかなり出来る。
この二人は、何を考えているかよく分からない。ゴズテンノウに従っていると言うよりは、契約に従って行動しているように見える。トールとしては、一度戦ってみたい相手だ。
ゴズテンノウの右に座る。其処がトールの座だ。しばらくすると、幹部クラスが次々に入ってくる。いずれもトールと同じか、それ以上の巨体を持つ者ばかりだ。逞しい筋肉を持つ者ばかりで、鋼の価値観がよく分かる。
最後に入ってきたのは、態度が悪い上に暴れ者のオンギョウギである。トールを良く思っていないらしく、挑発的な言動を始終繰り返す。実力はなかなかだが、青い。トールとしては面白い奴だが、組織としては置いておけない存在でもある。末席に仰々しくオンギョウギが座るのを見届けると、皆をゴズテンノウが見回した。
「揃ったようだな。 それでは、会議を始める」
恭しく礼をしてテントに入ってきたのはサルタヒコだ。彼が負けたと言う事を、オンギョウギは知っているのだろう。失笑を漏らした。サルタヒコは顔色一つ変えないが、心中穏やかでない事は明らかだ。だが、特にフォローは必要ないだろう。若造に嘲られて、どうにかなるような戦士ではない。
ジョカの側に、サルタヒコが跪く。その頭に、ジョカが手をかざして、詠唱を始めた。力のある言霊を連ねて奇跡を起こす。いわゆる術である。ジョカくらいになってくると、記憶を映像として再現するくらいの事は平気で行う。トールもいかづちの術を使う事が出来るが、そんな気にはなれない。やはりトールにとっては、戦いは拳で行ってこそ意味を持つのだ。
映像が浮かび上がる。眉をひそめたのは、数十体の堕天使が、組織的に攻撃を仕掛けてきたからだ。しかも、視界が遮られる砂丘を利用しての不意打ちである。サルタヒコは部下を散り散りに逃がすと、自身は殿軍に立った。後ろで神楽の舞をしているのは、彼の妻のアメノウズメだろう。舞と言えばこの名前が出てくるほどに有名な女神だ。豊満な肉体を持つ美女で、薄着でひらひらと舞い続ける事によって、夫の力を高め挙げている。あの舞が、そのまま能力の強化を促す術になっているのである。
サルタヒコが、低空で蝙蝠のような翼をはためかせて襲いかかってきた堕天使を、無造作に切り倒した。馬のような顔をしていたそいつは、瞬く間にマガツヒになって四散してしまう。更に一匹。カミキリムシに似た顔をしていた、六本腕の堕天使が切り倒される。更にもう一匹が後を追うと、一旦距離を取った堕天使達が、遠距離から一斉に火やいかづちの術を放った。逃げ遅れたものが、たちまち火だるまになり、そしてマガツヒになって散った。ほとんど、爆撃のような有様だ。
よくもこれで生きて戻ってくれたものだと、トールは感心した。サルタヒコ、思った以上に出来る奴かも知れない。また、夫を信頼しきって、まるで恐れる様子がないアメノウズメも見事。サルタヒコは一斉射撃が終わると、生じた煙幕を利して、自分も走り出す。そして時々とって返して追っ手を切り伏せながら、ついに勢力圏である地下道まで逃げ切った。映像がとぎれる。あまり事態が分かっていない周囲の鬼神達の中で、トールは声を上げざるを得なかった。
「これは危険な事態だ」
「ほほう? これは驚いた。勇名とどろく無敵のトール様も、おそれを抱く事はあるのですな」
皮肉と嘲笑まみれのオンギョウギの言葉は相手にしない。完全に無視して、ゴズテンノウに向き直る。
「ゴズテンノウ様。 見ての通り、敵は見事な組織行動を見せています。 傑出したリーダーの下で、組織化訓練されているとしか思えません」
「確かに見事ではある。 だが、まるで人間のような戦い方よな」
「だからこそに恐ろしい。 マネカタのように非力な人間でさえ、組織戦をものにする事によって、世界を征服することが出来たのです。 強力な堕天使がそれを行ったら、どうなりますか」
堕天使は、神の国を追放された存在である。主に一神教に現れる闇であり、最古のものはゾロアスター教に見られる。
神の敵であったり、闇の面での手駒であったり様々だが、共通しているのは神の僕である天使との対立だ。殆どの場合は人間と変わらぬ精神を持つ。主に、一神教の敵対宗教の神々が、おとしめられた姿である事が多い。多くは人間と同じ姿をしているが、背中に翼を持つ事が多い。優れた身体能力を持ち、術も使いこなす。何より、空を飛ぶという圧倒的なアドバンテージがある。
ゴズテンノウも飛行部隊は有している。バイブカハは三十騎ほどいるし、他にも空を飛ぶ事が出来る鬼神はいる。だが、あれだけの数の堕天使が、不意にまとまったとは思えない。後ろに更に大きな集団があると判断するべきであろう。
堕天使は、魔王が存在しない、或いは姿を見せなかった今までは、それぞれが好き勝手に行動していた。しかしこの組織行動を見る限り、彼らを統率する魔王が現れたとしか思えない。
ゴズテンノウに相当するものが、堕天使達の間に出現したのだろうか。これからは、それを前提にして行動するべきだろう。
考え込んでいたゴズテンノウは、喉からうなり声を漏らした。この者は、決して暗愚ではない。欠点は多いが、それ以上に見るべき所のある存在なのだ。だから、トールは側を離れない。戦いを提供してくれる事が第一の理由だが、主君としての魅力もあるのだ。
「しかしな、トールよ。 我ら鬼神は、堕天使以上に我が強い。 組織的な行動を取らせるだけでも、どれほどの苦労がいるか。 それに、下手に組織的な行動を取らせても、却って鬼神族の長所を殺してしまう事になろう」
「御意。 それならば、我らは更に人材を集め、個々の能力を高め挙げる事で対抗していくしかありますまい」
「人材なら、集まってきておるではないか」
「これからは、更に過酷な人材収集競争になる事でしょう。 評判の高い悪魔は、積極的に配下に引き込むべきかと思います。 ご命令とあれば俺が赴きますが、ゴズテンノウ様自ら足をお運びになる必要もあるかと」
「なるほど、もっともな意見だ。 さすがはトールよ」
舌打ちしたオンギョウギが、悔しそうに歯ぎしりした。他の幹部達は腕組みしていたが、すぐに動き始める。挙手したのは、ナンバースリーをしている鬼神だ。トールに勝るとも劣らない体格の持ち主で、しかし肌は青い。腕は四本、額には三本の角が生えていて、何より縦に裂けた目がある。仏教の「天」と呼ばれる特殊技能神の一人だ。
「ゴズテンノウ様、それであれば、四天王を配下に加えるのがよろしいでしょう。 とかく我の強い連中ですが、ゴズテンノウ様がお出向きになれば、必ず膝を屈するかと」
「うむ、よかろう。 他に、配下に引き込めそうな者はいるか」
四天王。仏教における四柱の天。持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)を指す。独自の信仰を受ける強力な神であり、日本では上杉謙信が多聞天を信仰していた事で知られている。今まで全く動きを見せなかった、非常に縄張り意識の強い連中だ。ゴズテンノウが説得に行けば確かに配下に加えられるかも知れない。
続いて、挙手したのは、東南アジア系の赤黒い肌を持つ鬼神だ。現地神であり、首からまがまがしいどくろのネックレスをぶら下げている。若干トールよりも小柄だが、侮れない実力者である。
「このイケブクロから少し離れた所、かってカブキチョウと呼ばれた辺りに、かなり強大なミズチが住み着いていると聞いております」
ミズチは、龍族である。水神としての要素が強く、成長途中の龍ともされる。そして、原型を蛇とする龍族は、もっとも古代の神である。
蛇神信仰は非常に原始的な宗教形態であり、そう言った意味で鬼神族と相性が良い。蛇神としての要素を持つ鬼神が多い事から考えても、その親和性は明らかだ。それが故に、非常に実力が高い事が予想される。生半可な使い手が向かっても、返り討ちだろう。交渉さえ受け付けてもらえないに違いない。
「そちらはこのトールめが赴きましょう。 拠点を増やすと言う意味でも、有意義ではあるかと思います」
「うむ、トールよ、頼むぞ。 他には?」
何体かの幹部が、それぞれ有望そうな存在を挙げた。同時に、防備を固めるべく、工事のペースアップが指示される。今まではマネカタを虐待するためだけの工事だったが、今後は効率を考えなければ行けないというわけだ。オンギョウギが、工事監督と、守備部隊の再編成を命じられた。さて、お手並み拝見と行くとしようか。オンギョウギの手腕では、クーデターは愚か部下の掌握もろくに出来ないだろう。ゴズテンノウが帰ってきてからの言い訳が見物だ。
トールの配下には、サルタヒコとアメノウズメが付けられた。この間の失態により、一兵卒に降格されたのだ。其処をトールが引き取った。此奴は使えると思ったからである。良い部下を揃えておけば、より素晴らしい戦いを楽しむ事が出来る。もちろん、隙を狙って仕掛けてくるような行為も大歓迎だ。
ゴズテンノウも、直属の精鋭を率いて、これから遠征である。もちろん四天王も自衛戦力くらいは有しているはずで、場合によっては戦いになるだろう。
今まで無数に散らばっていた勢力が、急速に糾合されつつある。戦いが今後は更に大規模になっていくだろう。それに伴い、戦いの機会も増える。大規模な戦いになれば、より厳しい条件での戦闘も楽しめるようになるだろう。
トールは自室に戻ると、マネカタを追い出し、一人きりになった。
歓喜がこみ上げてくる。一人、トールは楽しくて、くつくつと声を殺して笑った。戦闘を前にしての喜びではない。
暗い喜びが、トールの体の芯から、漏れ出していた。
5,テロリストと静寂の宴
何がどうなったのか分からない。気がつくと、太田創は赤い流れの中を漂っていた。流れているのは、水ではない。血でもない。赤い無数のエネルギーの塊だった。それがトンネルのような巨大な管を、統一性を持って流れ続けている。
自らの体は不定形だった。淡い緑色。知覚は滅茶苦茶だった。周囲の何もかもが見えた。色彩も異常だった。一瞬ごとにちかちかと瞬き、どぎつい蛍光色になったかと思えば、パステル調に変わったりもした。吐こうにも、消化器官らしきものさえ無い様だった。自分がアメーバーのような存在になってしまっている事に、創は気付いた。
生きているという自覚はある。生き物と呼んで良いのか分からない。だが、自分は生きて、存在している。それは確かだ。体を伸ばして、赤い光を捕まえる。これが食物だと言う事は、感覚的に理解している。掴んで、体へ運ぶ。ゆっくり、何粒も、焦らずに捕まえて体に取り込んでいく。
意識もはっきりはしなかった。ただ動物的な本能に従って、赤い光を取り込んでいく。何か見えた。同じように、漂っている者がいる。通り過ぎて、気付く。お互いに、物理的に此処には存在していない。ただ精神体として、此処にある。つまり、自分に実体はないのだ。
じっくり、力を蓄えていった。トンネルの壁は脈動していて、まるで血管のようであった。或いは、本当に巨大な生物の体内かも知れない。そうなると、自分はウイルスという訳か。
くつくつと、乾いた笑いが漏れた。そういえば、そうだった。自分は、元からクズと呼ばれていたのだった。太田創という名前に、実体が伴ってくる。徐々に記憶がはっきりしてくる。それに伴って、人格も再生を始めた。人格は、記憶から形作られる。それがよく分かる。何しろ、体で体感する事が出来たのだから。
そうだ。元々、私は人間だった。触手を伸ばして、赤い光を体に取り込んでいく。やがて、体は巨大にふくれあがっていた。分裂が可能だと、無意識的に理解できた。だが、まだ力を蓄えたい。
大きな広場に出た。赤い光が、渦を巻いていた。影がいくらか見えた。小さいものばかりだった。それらは、創が来ると逃げ散った。触手を伸ばして捕らえようとしたが、間に合わなかった。
逃がした。逃げられた。悔しい。単純な思考が、流れて過ぎる。腹いせに、辺りの光を、伸ばして捕らえる。どんどん捕らえる速度が上がっていく。喰らう。貪り喰らう。貪欲に、全てを取り込んでいく。
この赤い光は、マガツヒという。そして此処はアマラ経路という。いつの間にか、理解している。
光には、情報が含まれているようだった。教えられてもいないのに、それらが自然と理解できた。楽しくて、創は一人笑った。しかし、笑い声は出なかった。ギギ、ギギと、機械が軋むような音がしただけだった。
体が大きくなるにつれて、余裕が出始める。どうしてこうなったのか、少しずつ思い出し始めた。
新宿駅を出た所までは記憶にある。地震が起こったのも、覚えている。それからだ。
世界を、闇が包んだような気がする。地平がせり上がってくるのを見たような気もする。それから、意識が飛んだ。
周りの人間達は、あの様子では一人も生きてはいないだろう。奇しくも、創の望みは果たされた事になる。しかし、それは本当なのだろうか。
アマラ経路の中を流れていく。血管は複雑に絡み合っていて、外へ出るものも、内に向かうものもあった。本能で分かる。内に向かうのは危険すぎる。だから、外に出てみようと思った。
大きくなった体から、一部を切り離す。感覚を共有する事が出来る事は、本能的に分かっていた。完全に分離しても、自分はそれで、それは自分なのだ。双子などとは比較にもならないほどの親和率が関係しているのかも知れない。赤い光を取り込みながら、分身を増やしていく。それが百を超えた頃、一斉に外へと送り出した。
膨大な数の分身が、一斉に外へ向かう血管へ流れ込む。途中、別の存在を見かけた。実体がある奴もいたし、そうでない場合もあった。どれも数にものを言わせて襲いかかり、力を吸い尽くした。
やがて、見つけた。外へ到る出口だ。
歓喜の声を上げながら、躍り出る。思わず本体も駆り出したくなってしまった程であった。
だが、喜びは瞬時に打ち砕かれる事になる。
外に出ると、其処に人間の街はなかった。狭苦しい空間に、ドラム缶のようなものにびっしり字が書かれた得体が知れない機械があるだけだった。
全身が焼け付くような感覚に、悲鳴が漏れる。今までと違う。蓄えたマガツヒが、体から漏れ出している。乾く。乾く。漏れた分を捕まえて体に入れはするが、すぐにそれもこぼれ落ちてしまう。いつの間にか、実体が出来ていたのだ。しかしそれは、良い方へは作用しなかった事になる。空を舞う事も出来ていた。だが何の役にも立っていない。
無念のあまり、雄叫びを上げる。このままだと、じり貧になるばかりだ。
怒濤のように、見つけた戸を突き破って、一斉に外へ流れ出る。本体のいる所に、分身を戻そうという気は起こらなかった。何が起こっているのか。この世界がどうなっているのか、確かめなければならない。
膨張した分身達が現れ出た小さな部屋から飛び出す。それで視認したのだが、部屋と思っていたのは倉庫らしい小さな建物で、外は荒廃した街だった。人ならぬ、翼を持った大きな生き物たちが行き交っている。何か建物を造っているらしい。資材を運んでいる連中は、人間に近いが、背丈はどれも人間離れしている。肌の色も赤かったり青かったりした。人間に近い背丈のものもいたが、それらも角が生えていたり、尻尾があったりする。どれも作り物だとは思えない。
此処は何処だ。こんな所は知らない。地面は砂だ。空には嫌に大きな太陽。此方に気付く周囲。無数の目が、此方を見た。そうだ、この目だ。俺を人間だと思っていない、面接官共の目。如何に嘲り、あら探しをして、落とすための努力だけをする連中の目だ。
吠え猛る。怒りが、体の内から沸き上がってきた。喰ってやる。全てくらい尽くしてやる。
躍り掛かった。一番近くにいた、四メートルほどある翼を持つ赤い肌の人型に。逃げようとするが、遅い。三十体ほどの分身体が一斉に躍り掛かり、全身に付着。消化液を一斉に放出した。体を溶かし、マガツヒを吸い尽くす。悲鳴が上がる。もがいて、払いのけようとする。だが、すぐに致死に達して、体がマガツヒに分解した。足りない。まだ足りない。乾く、乾く、乾く。
辺りから、炎が飛んできた。なんだこれは。分身の幾つかが焼き尽くされる。だが、今マガツヒを吸った分身は大きくふくれあがっていて、それらに耐え抜く。襲いかかる。何体かを捕まえ、丸ごと溶かしてマガツヒを喰らった。怒号と悲鳴が交錯。更に多くの人型が出てくる。中には、最初に喰った奴が幼児に見えるほどのサイズの奴もいた。
その中に、一人居る人間を、創は見た。なんだ。人間がいる。これはどういう事だ。分身体は辺りの人型に片っ端から襲いかかる。もはや、何でも構わない。乾きを癒せ。食い尽くせ。
何かが、人間の前に出てくる。豹だ。普通の豹でないのは、人間のように二足で立ち上がり、両手に剣を持っている事だろう。腰には鞘が着いている。剣はサーベルに近い形状で、油に濡れたように輝いていた。
「氷川司令、お下がりを」
「オセ将軍か。 見ての通り、無様な輩が騒いでいる。 見苦しくてかなわないな。 すぐに静寂を取り戻してくれたまえ」
「お任せを」
豹が跳躍した。そして、分身体が瞬く間に数体切り裂かれた。
何をされた。分からない。マガツヒを吸ってふくらんだ分身体も、ひとたまりもなかった。豹が跳び、跳ね、剣を振るう。そのたびに、切り裂かれるはずのない分身体が木っ端微塵にされていく。おのれ。叫く。捕らえようとするが、あまりにも速い。追いつけない。危険を感じた。すぐに分身体をまとめ上げる。合体した分身体が、鋭い咆吼を放つ。
「ほう、なかなかの図体だな」
「ギ、サマは、なニ、モノダ!」
「我か? 我はニヒロ機構の将官を務める堕天使オセ。 そういう貴様は?」
「オ、オれ、俺は!」
それ以上は、声が出なかった。生き残った人型共が、一斉に炎や、いかづちを此方に放ったからである。巨体であってもひとたまりもない。焼き尽くされる苦痛に、絶叫が上がる。そして、オセが跳躍した。
奴が食肉目特有の美しい体を着地させた時には、全ては終わっていた。
剣をオセが鞘に収める。
「ニヒロ機構の足下で好き勝手な事はさせん。 散れ!」
分身体が、全て吹き飛ぶ。通信も、感覚も、全てとぎれた。
呻きながら、情報を整理していく。オセという奴が、何をしたのかは分かった。剣を音速で振るう事によって、衝撃波を発生させたのだ。しかも、それを意図的に収束させて、狙ったものだけを切り裂いた。恐ろしい相手だが、もう対応策は思いついた。次に出会った時は、喰らってやる。
それに、もう一つ理解できた事がある。
何匹か喰らった中に、面白い知識を持っているものがいた。あれが本当だとすると、本当だったとすると。
アマラ経路の深奥で、創は雄叫びを上げた。
なんと言う事だ。何というしぶとい生物だ。皆殺しにしなければならない。ことごとく潰して、消し去らなければならない。
皆殺しだ。皆殺しにして、全て平らにする。そうしてこそ、自分だけが生きられる世界が来る。
さあ、力を蓄えよう。みんな殺して、世界を平穏にするために。辺りを流れるマガツヒを、片っ端から体に取り込んでいく。最初からやり直しだが、時間など幾らでもある。みんな殺すのには、そう苦労はないだろう。
その時が楽しみだ。
ギギギギギと、笑い声が漏れる。太田創は、これから全てを皆殺しにする。それは決意でも何でもない。規定された未来なのだ。
まずは、世界を知る事が必要だ。最初に、分身体を彼方此方に向け放つ。それで情報を得る。潰せそうなところから、順番に消していく。やがて、充分な数までに増やした分身を、一斉に外に放つ。基本はそれだけだ。
準備だ。準備をしよう。全てを飲み込むために、徹底的に備えよう。そうだ、それこそが望みだった。新宿駅では失敗したが、今度こそ全てを食らいつくしてやる。
そう創は思った。
剣を鞘に収めたオセは、すぐにアマラ輪転炉を調べるように部下達に指示した。彼は見ていた。あの得体が知れない悪魔が、輪転炉が納められた倉庫室から出てきた事を。一匹ずつの能力は大したことがなかったが、同じ者がまた現れないとどうして言い切れようか。対策はしっかりしておくべきであった。
このギンザの街は、まだ歴史が浅い。元はがれきの山に過ぎず、彼方此方に縄張りを作っている堕天使や鬼神でさえ、見向きもしない土地だった。そこへ乗り込んで、氷川司令と一緒に、育て上げてきたという自負が、オセにはある。多くの苦労があった。目立たぬように部下を集め、かっての同志に呼びかけ、氷川司令の下へ結集させた。それを地道に繰り返した。時には、自ら出向いて、剣を振るって従えた。ニヒロ機構などと名乗り始めたのも最近の事だ。ようやく組織としての実態が整い始めたからである。まだ、勢力は小さい。だから、オセなどの将官でさえ、土木工事に術を用いて参加する事がある。
東京がこうなる前から、オセは氷川に従ってきた。それに不満はない。氷川の組織構成能力は非常に高く、今でも忠誠心は揺らいでいない。事実、堕天使にとって都合が良い世界が来ようとしている。多くの同胞のためにも、氷川司令と一緒に、この街を育て上げなければならない。オセはそう強く思っている。
傍らに控えているのは、オロバスだ。オセが立ち上がった豹だとすると、オロバスは馬だ。此奴は非常に珍しい、人間や神的権力に友好的な堕天使である。元々滅茶苦茶な肩書きを設定されている事が多い堕天使だが、オロバスもそれは例外ではなく、大公だとか王子だとか言われている。結局、それらは人間が勝手に決めた事だ。実質的には、それほど高位の堕天使ではない。それを示すように、不必要なまでに臆病な男だ。
「あれは一体、何者だったのでしょうか」
「さてな。 我も見た事がないが。 折角アマラ経路を支配する計画が走り始めたところであったのに、それに大きな障害が出来た事に違いはないな」
アマラ経路。この世界を流れる膨大なマガツヒの道。この世界を巨大な生物とすると、血管や内臓に相当する場所だ。深部はどうなっているか分からないが、途轍もない量のマガツヒが流れているのはほぼ間違いないと見られている。更に、此処を流れているマガツヒは膨大な情報も蓄えていて、潜れば居ながらにして世界を知る事が出来るのだ。
かって、インターネットと呼ばれる情報網が、人間達の間にあった。それよりも遙かに実利的だが、存在としてはかなり近しい。そして、氷川司令が古巣から持ち出したアマラ輪転炉こそが、それを支配するために必要な道具であった。ある程度アマラ経路に干渉し、自在に情報を引き出し、時には直接潜るためのゲートともなる。
一気にこのボルテクス界を支配する好機であったというのに。あのような輩があふれ出てくると言う事は、今後は楽観的に考えられそうもない。
高い知識を持つ悪魔達が、しばし全壊した倉庫室に群がっていたが、その中の一匹が振り返る。メリクリウスと呼ばれる悪魔だ。かってヘルメスと呼ばれたギリシャの旅の神が、悪魔として零落した存在である。今では老人の頭部を持つ、サソリのような姿をしている。
「わしが調べた限りでは、特に異常は見受けられませんのう。 もし何か此処から現れたとすると、元からアマラ経路に住み着いていた輩が、強引に出てきたのでしょうて」
「それはまずいな」
氷川の計画の中には、アマラ経路を経由して、離れた地点に一気に大軍を送り込むというようなものもあった。だがもし、アマラ経路の中にあのような輩が多数住み着いているとなると、それも難しくなってくる。
氷川の元に報告に向かおう。そう決めたオセは、ギンザの中心部にある大穴に向かった。
氷川が住み着いているのは、建造途中のニヒロ機構本部地下である。非常に構造が複雑で、普通に進むだけではまず深部にはたどり着けない。おしむらくは、いまだ建造途中のため、深い縦穴になっており、高位の悪魔になると飛び込むだけで氷川のすぐ側にまでたどり着ける事だ。防備は無いに等しいが、周囲は分厚く堕天使達が固めており、入り込む隙は小さい。
穴の側に辿り着く。邪神と呼ばれる、大いなる神に反抗し闇に落ちた一族がいた。最近加入し始めた、強力な戦力だ。その中の一人であるミジャグジさまが、術を駆使して、壁材を割り砕いていた。「さま」までが名前である。彼は日本の長野県に広く伝わる邪神である。手を触れずに割っているのだが、原理はよく分からない。柱に絡みついた蛇の姿をしているミジャグジさまだが、オセのように風の力を使っている訳ではないようだ。
隣では、インド神話に由来する酒を司る邪神であるマダがいた。戦闘能力もかなり高いのだが、今はせっせと酒を造っていた。
巨大な樽のような体をしているマダは、腕が六本もあり、顔は口から上が兜で覆われている。そして腹が空洞になっていて、中には炎が燃えさかっているのだ。異形とも言えるが、彼くらいの異相は珍しくない。彼は氷川司令の命で、大量の酒を造り、労働中の悪魔や、ニヒロ機構に属していない者にせっせと配っていた。これにより士気を高め、なおかつ人脈を拡げているのだ。たまに自分の作った酒をつまみ飲みしているが、誰もが笑って許していた。無類の酒好きなのである。
見ると、人間の娘によく似た赤銅色の肌を持つ悪魔が、酒をもらいに来ていた。ぺこぺこと頭を下げている様子は気の毒である。マダは剛毅な男であるが、情も持っている。気の毒に思ったのだろうか、既に作った酒を分け与えていた。オセが目を見張ったのは、娘が一抱えもある樽をそのまま持ち上げて、帰っていった事だ。
「マダ殿」
「おお、オセ将軍か。 なんか用か?」
「あの娘は?」
「ああ、酔いどれのクレガの所に最近来たって奴だ。 サマエルとかいうらしい」
眉をひそめた。サマエルと言えば、楽園で最初の人間に知恵の実を与えたとも言われる強力な邪神だ。その割には大した力を感じなかったが、さっきの様子からして、見かけより強いらしい。
「今後はあれに、もう少し気前よく酒を分けてやって欲しい」
「あんたがそういうなら構わないが、どうせ酒を飲むって言ってもあのクレガの爺さんだけだろうし、頻繁には来ないだろうぜ。 それに今回は樽ごと分けてやったしな、しばらくは来ないだろう」
「そうか。 ならば、次に来たら我を呼んで欲しい」
「なんだ、惚れ込んだか? 確かにそこそこ顔立ちは良いようだが、大した力の持ち主じゃないぜ」
「今は人材が一人でも欲しい。 ただそれだけだ」
つまらなそうな顔をするマダを置いて、大穴の縁へ。工事が急ピッチで進んでいるのが、一望できた。かって、人間の街には天をも突こうという巨大な建物が林立していた。氷川司令が、それを嫌っていた事を、オセは知っている。しかしだからといって、巨大な地下施設を作るのは。常に静寂を求めるかの人が、子供っぽい一面を持っている事を、オセはあまり好ましく考えていない。人間が不完全なのは知っている。だがオセは、可能な限り主君には完璧であって欲しいと考えていたのだ。
鉄骨を運んでいる中級の堕天使に敬礼をし、工事の進捗を聞く。予定通りだ。まだ人材が足りないと言われたので、何とかすると応えた。実際に、人材は集まりつつある。ニヒロ機構の特色は、弱い悪魔にも従いさえすれば仕事と地位を与えると言う事だ。このため、弱肉強食に疲れ切っている連中や、腕っ節は弱いが頭の良い者が、ちょくちょくと集まりつつある。それは大きな力となっている。氷川司令の組織構築プロジェクトは見事であり、何度も再編成を繰り返しながら、的確に組織を作り上げている。
穴の縁から、身を躍らせる。何度か足場を踏み、再び跳躍。どんどん地下へ降りていく。すぐにカグツチの光が届かなくなる。深部は流石にセキュリティ上の問題があるので、高位の邪神や堕天使が直接工事に携わっていた。
氷川の居所まで降りる。幹部達が集まっていた。幾つかのプロジェクトに関する会議を行っているようだ。幹部と言っても、専門分野によって参加会議が違ってくる。今回は緊急だと判断し、邪魔をする事にした。戸を開けて部屋にはいると、氷川が顔を上げた。会議室は三十メートル四方もある広大なもので、体の大きな悪魔が入る事も考慮して天井も高く、円卓も大きい。円卓を囲んでいる悪魔達は、皆力よりも知恵が回る者達だ。
机の上には、見た事もない機械の設計図が載せられていた。どうやらこれに関係する会議であったらしい。ナイトメアシステムという文字が見えた。
氷川は鋭い目つきの男で、いつもオーダーメイドのスーツを着込んでいる。長身であるのだが、椅子に座っている事の方が多いので、あまりそれは感じられない。特徴的なのは、オールバックと鋭すぎるそり込みで、十年来この髪型を保っているらしい。少なくとも、オセが氷川に召還され仕えた時には、この髪型であった。
「オセ将軍か。 先の輩は片付いたかね」
「それは滞りなく。 ただ、調査によると、どうもアマラ経路から這いだしてきたようでして。 対策が必要かと思われます」
「そうか。 ならば、一度アマラ経路をしっかり調査して、道を確保しておかなければならないだろうな」
氷川は多少神経質なところがあるが、オセを満足させるほどに聡明である。すぐにオセの言葉の意味を理解し、意を汲んでくれた。
「御意。 それと、マダの元に時々来ている来ているサマエルという悪魔が有望だと見ました。 お言葉とあれば、強引にでも引っ立てて来ますが」
「それはまだ考えなくとも良いだろう。 今は兎に角、確実に強力だと判断できる配下を増やす事だ。 即座に評価できない者は、向こうから来るのを待つか、或いは後からゆっくり取り込んでいけばいい」
「御意。 それでは、機会を見て、余裕があるようであれば、配下に勧誘します」
「うむ、それでいい」
一礼すると、オセは会議室を出た。
見上げると、空高くカグツチが輝いていた。眼を細めて、その愛おしく忌々しい存在を見やる。そろそろあの光が最小になる。光が届かなくなる時が、もっとも氷川が穏やかになる時だ。彼はいつも言っている。世界は静寂であるべきだと。
オセも、その意見には賛同していた。
これからも、賛同し続けると思っていた。この時は、まだ。
帰る際に、部下の一人を呼ぶ。そして命じた。仮に失敗しても、大した被害は出ない、些細な命令を。
部下は、自分が実験に使われた事も知らぬまま、下等な悪魔達を引きつれて、ギンザを飛び立った。
5,凍り付いたその場所
結局、酒は足りなくなった。だから、琴音自身が酒をもらいに行く事になった。ニヒロ機構と名乗る組織に所属するマダの所まで行くのは、フォンでは困難になりつつあったという理由もあった。
酒を生産しているマダと呼ばれるインド出身の酒の神は、とても乱暴で利己的なのだと聞いていた。しかし、丁寧に頭を下げて話をしたら、思ったほど酷い性格では無い事も分かった。単純に敵意に敏感で、相手の態度次第で行動を変えていただけだったのだ。だから、腰を低くして頼んだら、意外にも素直に酒をくれて、しかもおまけまでしてくれた。
樽ほどもある酒瓶を右肩に担いで、帰路を急ぐ。こんな大きなものを軽々担いで歩ける理由が、よく分からない。だが、スムーズに体は動くし、その気になれば跳躍する事だって出来た。
どこまでも広がる砂を踏んで歩きながら、思う。自分はどうなってしまったのだろうか。何度も自問自答した。分かる筈など無いのに。
混乱する記憶が、恐怖を呼び起こす事がある。名前以外の事は、断片的にしか思い出す事が出来ない。だが、すぐに心は落ち着いてしまう。何か強大なものに、押さえ込まれてしまうかのように。
サマエルとは、何だろうか。クレガが言っていたようなものなのかどうか、確認する術が手元にはない。インターネットでもあれば、情報を検索できただろうに。図書館があれば、少しは調べもついただろうに。それらが何かさえ分からない。見たところで、判断がつくのかどうか。
自分が埋まっていた場所にも、何回か行ってみた。結局、何も分からなかった。
帰り道、凍り付いた建物を見かけた。新宿衛生病院と書かれている門柱が目立つ。これは医療施設だったのだと、サマエルには判別できた。文字の意味も理解できた。ひょっとすると、こうやって見れば、思い出していくかも知れない。
しかし、不思議な建物だ。全体がそのまま氷に閉じこめられたかのようである。近づこうとして、しかし本能が足を止めた。これはただの氷ではない。何かを閉じこめるために作られた、時の壁だ。出来るだけ近付かない方がいい。
気配に振り向くと、フォンだった。手には、例の大きな棍棒がある。
「サマエル」
「あ、迎えに来てくれたんですか? ありがとうございます」
酒瓶を置いて、ぺこりと一礼。
最近直接聞いたのだが、フォンはやはり腕の筋を壊してしまっている。生半可な回復魔術では、とても癒せないような深い傷だ。だから、多くの悪魔がいる所には足を運べない。気配を読める琴音でも、多くの悪魔が集まるニヒロ機構は、時々危険を感じる程なのだ。今日だって、用が済んだらすぐに戻ったのである。
基本的にこの世界は弱肉強食。それは毎日のように思い知らされる。フォンが酒瓶を担いでくれたので、並んで帰り道を歩く。寡黙なフォンは、基本的に話しかけない限り、何も言わない。
「あの建物は、何でしょうか。 凍り付いているようなのですが」
「あれはこの世界で、もっとも古い建物だ」
「もっとも古い、ですか?」
そう言われるには似つかわしくない、とても近代的な建物に、琴音には見えた。事実理にかなった構造のコンクリート建築で、古めかしさは見あたらないのだ。凍り付いてさえいなければ、むしろ安心しそうなほどである。
「そうだ。 あの建物の中で何かが起こって、世界がこうなったんじゃないかって、言われている。 実際、あの建物が凍っていない姿は、誰も見た事がない」
「なるほど、それで一番古い建物、ですか」
「そうだ。 ニンゲンの世界が滅んだとは言われているが、前の世界の事の詳細は誰にも分からない。 実際に見たって奴も会った事がない。 少なくとも、俺はな。 だから、あれは一番古い建物だ」
淡々とフォンは言った。琴音が口をつぐんだのは、つけてくる存在に気付いたからである。しかも、数が多い。一体や二体ではない。
戦っても、勝てる自信はない。何とか逃げられれば良いのだが、上手くいくかどうか。最近行動半径を拡げ続けてはいるが、こうも多くの悪魔につけられたのは初めてだ。戦いも経験はしたが、刃を交えた事はない。いつも相手の隙を見て、さっと逃げた。だが、いつかはこう言う時も来るとは思っていた。
多くの悪魔が集まるニヒロ機構へ何度も足を運んだのだから、こうなる事は覚悟していた。マダや他の悪魔と接してみてよく分かったのだが、やはり誰もが強くなりたいのであって、フォンやクレガの方が例外なのだ。そして強くなるためには、誰かを殺してマガツヒを喰わなければならない。
フォンの方を見ないようにしながら、歩調を乱さないように気を使いつつ、琴音は言う。相手は此方の様子を伺っている。妙な動きをすれば、即座に二人とも殺されると考えて良いだろう。
「出来るだけ自然に、先に帰るふりをしてください」
「追っ手か」
「はい。 私が何とかします」
「無理はするな」
フォンが先に歩き出す。慎重に気配を探る。前はどうしても出来なかったような気がするのに、今ではスムーズに探れる。追っ手が、そちらに気を取られる様子はない。狙いは、二人ではない。最初から自分一人だったという訳だ。
さて、問題は此処からどうするかだ。何でわざわざ自分などを狙ってきたかなどは、後回しだ。まず生き残る事を考えなければならない。
この辺りの地形は、大体把握している。古流剣術の技も、ある程度は覚えている。だが、実戦で役立てる自信はないし、追っ手を一度に相手にするのも、物理的に不可能だ。何より、手元に剣がない。
ゆっくり歩きながら、倒壊したビルに入り込む。このビルは地下が生きていて、其処から別のビルへ抜ける事が出来る。この辺りを歩き回っていて、見つけた場所だ。中も入り組んでいて、多数を相手にするには丁度良い。
ビルの中は薄暗く、身を潜めるにはもってこいだった。ビルの中に入ったのを確認したのか、数体の悪魔が舞い降りてくる。驚くべき事に、堂々たる体格の堕天使だ。蝙蝠のような翼から、その素性が分かる。頭からは鋭い角が生えていて、顔は鬼瓦のように恐ろしく、爪は長い。最初に一番強そうな一体が入ってきた。そして、ゆっくり見回しながら、奥へ足を進めてくる。
階段室の影に潜んでいたサマエルは、息を殺してその一挙一動を見つめた。堕天使は、物陰や隅をじっくり確認しながら進んできている。不意打ちを避けるために、必要な事は全てしているという感じだ。だが、慎重なその行動が、却って今はありがたい。此方には地の利があるのだ。
ゆっくり、階段を下りる。地下通路を抜けて、となりのビルに移る。何とか逃げられそうだと、思った瞬間だった。
眼前に、殺気が巻き起こる。振り下ろされる何か。慌てて飛び退く。手加減が巧く出来ず、コンクリが剥き出しの壁に、背中を叩きつけてしまった。
追撃。鋭い何かが、飛来してコンクリに食い込む。横に跳び、床を転がって、何とか凌ぐ。灯り。灯りなら、術でどうにか出来る。戦闘向きの術はまだあまり知らないが、幾つか生活用のは思い出してきている。口の中で呪文をつぶやく。鋭いものが振り下ろされる。振り返り様に、術を発動する。僅かに、鋭いものが肩をかすった。
ぼっと派手な音を立てて、光がその場に出現した。
強烈なフラッシュを浴びてのたうち回る悪魔。襲撃者の正体が分かった。六メートル以上はあろうかという、とんでもなく大きな蜘蛛だ。足を拡げれば十メートルを超えるだろう。襲いかかって来ていたのは、八本もある奴の鋭く長大な足だった。間断なく攻撃が来る訳だ。しかもおぞましい事に、腰から上は人間の女性と同じ姿をしている。いたいいたいと叫く蜘蛛の悪魔から、サマエルはいたたまれずに目を背けた。
辺りには糸が張り巡らされていて、ぐるぐるに巻かれた犠牲者の残骸らしいものが所々にあった。死ぬとマガツヒになるのは何度か見て確認しているから、糸に犠牲者の衣服が引っかかっているのだろう。つい最近見に来た時には、こんな悪魔はいなかったのに。ひょっとすると、自分の感覚よりずっと速く、時間は進んでいるのかも知れない。
目を押さえて悲鳴を上げている蜘蛛の悪魔と琴音に、ゆっくり堕天使が近付いて行く。奴の後ろには、着いてきたらしい十体近い悪魔がいた。どれも小柄だが、翼を持った人間の姿をしており、恐ろしげな顔である。振り返り、ふと気付く。まだ無事らしい、糸の塊がある。かなり乱雑に縛られているそれは、人間の子供に見えた。いや、どうなのだろうか。粗末で特徴的な服から、噂に聞くマネカタかも知れない。ぶらんと垂れた手が痛々しい。
ぐっと唇を噛む。どちらにしても、見て見ぬふりをする訳には行かない。蜘蛛の毒は消化液も兼ねているし、まず助からないかも知れないが、見捨てる事は出来なかった。
前には蜘蛛、後ろには悪魔の一個小隊。絶望的とも言える状況なのに、不思議と心が落ち着いていた。
「なるほど、この地下通路を通って、我らをまく算段であったか」
「何か、用でしょうか。 私は見ての通り、戦う力もなければ、敵を倒す術も持ってはいません」
「そんな事は、実際に殺ってみなければわからん。 それに使えないようであれば、マガツヒにして喰ってしまって構わないと言われているのでな」
堕天使が短く呪文を唱えると、手元にまがまがしい剣が現れる。刃がうねった構造の、フランベルジュという剣だ。図鑑か何かで見た事がある。ただし今堕天使が術を使って出したのは、刀身が二メートル以上もある上、血塗られたかのように真っ赤である。見れば、彼が引き連れている堕天使達も、めいめいそれぞれに武具を手にしていた。頭から三本も角を生やした、禿頭の堕天使が残忍な笑みを浮かべる。更に、蜘蛛の悪魔も、威嚇の咆吼をあげた。目が見えるようになったのだろう。
光の術の効果は、後七秒。
「さあ、抗って見せろ」
「いやです」
「妙な事を言う奴だな。 生きたくなければ、マガツヒになって、さっさと我らの腹に収まって……」
灯りの術の効果が、切れた。
動く。今の状況で、全体の位置は把握している。跳躍。そして、リーダー格の堕天使の胸に、跳び蹴りを叩き込んだ。悲鳴が上がる。全く通用しない事態も想定していたのだが、これは嬉しい事だ。
「ぐわっ!」
明から暗への急変化、更に奇襲に、堕天使が鋭い悲鳴を上げた。取り落としたフランベルジュを空中でキャッチ。着地と同時に、きびすを返す。詠唱開始。一秒。二秒。走る。恐らく、暗い方が、蜘蛛は動きやすいはず。案の定、殺気だった気配が、躍り掛かってきた。
脇腹と、肩に鋭い痛み。脇腹は、蜘蛛の足に切り裂かれた。多分肩は後ろから剣か槍かで突かれた。敵も流石に、黙ってみてくれてはいないと言う事だ。
構わず走り、古流の型を思い出しながら、フランベルジュを振るい抜く。ぼとりと、大きなものが、床に落ちる音。狙い通り、糸の塊を、蜘蛛の巣から切り離したのだ。上手く行って良かった。開いている左手で、かっさらう。後ろに向けて、フランベルジュを投擲する。悲鳴が上がる。だが、ひるまず、躍り掛かってくる気配。
至近まで引きつけてから、振り向いて、術を発動。さっきと同じ、灯りの術だ。
目前でフラッシュを焚かれた堕天使が、ぎゃっと悲鳴を上げた。隙は一瞬。だが、逃げるには充分。糸の塊を抱えて、走る。このまま、逃げ切る。何度か、転び掛ける。足下にはられた、蜘蛛の粘着糸に掴まりかけたのだ。
光が見えてきた。階段がある。跳躍しかけて、しかし足を掴まれた。糸の塊を、体で守るのが精一杯だった。受け身もなく、コンクリに叩きつけられる。くぐもった声が漏れた。糸の塊を、離してしまう。
「舐めたまねをしてくれたな!」
さっきの堕天使だ。驚くべき事に、胸の中央にフランベルジュが刺さっているのに、平然としている。更に振り上げられ、コンクリの壁に、床にたたきつけられた。痛い。星が飛んだかと思った。悲鳴も漏れない。抵抗力を失ったと見たか、堕天使は舌打ちして、琴音を離した。
頭の中で、火花が回っているかのようだ。世界がゆっくり揺れ動いているように感じられた。叩きつけられた所では、コンクリが砕けていた。後ろでは、蜘蛛の悪魔を、よってたかってなぶり殺しにしていた。おぞましい悲鳴を上げていた蜘蛛は、やがて赤い光になって消えてしまう。小さな悪魔達は、まるで残飯に群がる鴉のように、それを食べ始めた。それが、夢の中の光景のように見えた。
「こんなくだらない戦い方で、よくも我に手傷を! しかも、そんなマネカタを守るために、自分を犠牲にして怪我をするだと!?」
「……」
「許せぬ! 潰す!」
「誰を、潰すだと?」
不意に、あの声が喉から漏れる。自分の意思ではない。
指先が、堕天使の胸に刺さったフランベルジュに向く。自分でも聞き取れない詠唱が、終わる。
剣が、燃え上がった。そして、堕天使の体も。
何が起こっているか理解できていない様子の堕天使が、気の毒に思えた。もがき、悲鳴を上げて床に転がる。火を消そうとしているが、消えない。フランベルジュを抜こうとした手が、瞬時に炭になった。
炭の塊になり、溶けて、消えていく堕天使。スカベンジャーと化してマガツヒを啜っていた、小物の悪魔達が一斉に此方を見た。今ので殆ど力を使い尽くしてしまって、這い蹲って睨む事しかできない。悪魔達は小声で何か会話していたが、やがて飛び跳ねるようにして逃げていってしまった。
地面に崩れて、ゆっくり呼吸を整える。酒の時も痛感したが、やはり、自分と記憶が混じり合っている何かが、心の中に住んでいる。一方的な強さを持っている訳ではないし、自分以上の力は出せないが、それでも今回は助かった。
死骸を食べるようで嫌だが、背に腹は代えられない。漂う大量のマガツヒを、ゆっくり口に入れていく。もの凄く甘い。甘くて、体の奥から、力が沸き上がってくるかのようだ。一粒口に入れると、後は夢中だ。手を伸ばして、近くに漂うマガツヒから口に入れていく。美味しいお菓子を食べているかのようで、もう止められなかった。
蜘蛛の悪魔のマガツヒも、かなり残っていた。這うようにしてそちらに行くと、口に入れる。灯りの術を何度かかけ直して、一粒も残らず口に入れた。体の傷が、だいぶ楽になったようである。
新しい知識が入ってくる。剣を生み出す術の使い方が、クリアに頭の中で再生されてきた。分かる。これは、マガツヒに含まれていた、あの堕天使の情報だろう。それがスムーズに理解できた。他にも、いくつもの情報が入ってくる。
同時に、吐き気を覚えた。この記憶を持っていた堕天使を、自分は喰ったのだ。正当防衛などという言い訳は通用しない。殺して喰った事に代わりはないのだから。幾つかの記憶も分かる。この堕天使は、一種の中間管理職で、普段は土木工事に従事し、たまたま今回命令で琴音を襲っただけだった。人間的に喜怒哀楽を持ち、仲がよい友達もいた。もっと記憶をさかのぼると、光に包まれて、大いなる一つの存在を周りの者達と一緒にあがめてさえいた。何かを信じ、友と語り合い、感情を持つ生き物。そう、人間とほとんど同じなのだ
喉をせり上がってくる胃液の感覚。いつかと同じだ。空港で、辺り中黒こげの死体だらけだった時と。あれを、見てしまった時と。そうだ。大きな山羊のような影が。人間を持ち上げて、頭から噛み砕いて、食べていた。内臓が飛び散り、鮮血が顔に掛かった。あの時と、同じだ。
思い出してしまう。それと、今、自分は同じ事をしたのだ。
頭の中で、何かが弾けた気がした。
「げっ、うえっ!」
床に崩れて、もがく。どうしてか、喉までせり上がった胃液は、出てこなかった。ただ、地獄のように苦しかった。何より恐ろしかったのは、喰らった相手が甘くて美味しかった事だ。口に残る美食の名残が、より痛烈な精神的拷問を琴音に加えていた。
今ので、強くなった。その気になれば、もっと的確に戦いを避ける事が出来る。だが、どうしてなのだろう。殺してもっと喰いたいという感覚が、どこかにある。それに反発する部分とせめぎ合い、琴音の心を痛めつけていた。
混乱する思考の中、思い出す。そうだ。あの堕天使は、マネカタと言っていた。やはりマネカタだったか。糸の塊の所に這い寄る。もう、灯りの魔法は切れてしまっていた。
蜘蛛の糸は粘性が強い。マネカタはまだ見た事がないが、人間に近しい存在だとか聞いている。もし口が塞がれていたら、窒息死してしまう。そう思うと、背筋に寒気が走った。
早速覚えたばかりの術をつかって、フランベルジュを作り出す。糸を乱暴に掻き切る。サイズ次第では飛来するジャンボジェット機を受け止めきるとも聞く蜘蛛の糸は、強靱で、力を入れていかないと切れなかった。さっきは勢いを付けたから切れたのだ。手元で切るのはかなり難しい。兎に角柔軟なため、始末が悪い。固い糸だったら、むしろ簡単に切れたであろうに。
時には乱暴に引きはがし、あるいはむしっていく内に、柔らかい感触が手に触れる。糸を引きはがしていく速度を上げる。人間の形が残っている。生きているといいのだが。ぶつ、ぶつりと順番に音を立てて糸を切る。まだ吐き気は残っていたが、どうにか手元を誤らずに作業を進められた。
顔のある位置は、切っている内に判別していた。触ってみると、呼吸が感じられる。生きている。良かったと、胸をなで下ろした。さっき見た感じでは、生きていそうなのはこのマネカタの子供だけだ。
マネカタは死ぬとどうなるのだろうか。ふと琴音は思った。体温は若干人間よりも低いようだが、ほとんど人間と代わりがないようだ。心臓の鼓動も感じる。背負うと、足下がふらつくのを感じた。
血を失いすぎたのかも知れない。だが、体は動く。やはり様々な点で異常だ。ふと、思う。体が、人間であった頃の事を覚えていて、反応がそれに準じているのではないか。人間であった頃。それもよく分からない。
足を引きずるようにして、暗がりから出た。カグツチはさっきより少し光を失っていた。そろそろ、夜のように暗くなってくる頃だ。その方が悪魔達がおとなしくなるので、却って安全になるのは、皮肉だとしか言いようがない。
かって、人は火を扱えるようになって、獣たちから優位を得た。しかしそれは、ただ相手を威嚇できるというものに過ぎなかった。それから、人は武器を作り出した。組織戦を編み出した。それによって、初めて人は世界で最強の存在となった。
だが、今人はいない。或いは、この世界の悪魔全てが、人なのだろうか。
再び、あの凍り付いた病院の前を通りがかる。此処で、何が起こったのだろうか。何故、凍り付いているのだろうか。背負った子供が、身じろぎした。あんな状態に置かれていて、無傷だとも思えない。このままでは危険だ。出来るだけ急いで住処に戻って、傷を癒したい。
今回の件で、痛感した事が、一つある。小手先の技は、上位の悪魔には通用しない。
この世界で生き残るには、戦術だけではだめだ。単純に強い力がいる。それには、マガツヒを得なければならない。もう一人の自分が出てくる事はあるかも知れないが、それでも絶対的に勝った相手には通用しないだろう。今回のも、一種の奇襲であったから、敵を倒せたのだ。身体能力が上がるような事もないし、不安定すぎてもう一人に頼る事は出来ない。力の消耗も著しく、出来れば自力で何とかしなければならない。
遠くに人影。フォンだ。迎えに来てくれたらしい。手に棍棒を持っている。フォンが戦いを嫌っているのは知っている。それなのに、いざというときは戦うつもりだったのだろう。
悲しくなってきた。どうして自分はこう、非力なのか。戦いたくない者まで、武器を取らせてしまうのか。
戦う術は、知っているではないか。
心で、誰かを守る事が出来るというのか。言葉だけの交渉で、もめ事が回避出来るパターンなど、ほとんどありはしないのに。何かを為すには、必要なものがあるのではないか。
やる事は、決まっているのではないか。
琴音は顔を上げる。まがまがしく輝くカグツチがある。奴は、この世界を屍と血で満たさなければ、気が済まないようだと、琴音は思った。
(続)
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