血に染まる神の土地

 

序、最後の時に向けて

 

一体何体目の巨神だろう。

立ちふさがる、山のような体。だが、シグムンドは怖れずに立ち向かっていく。奴らは動きも速いし、力も桁違いに強い。

だが、何度も何度も倒してきた。

だから、動きのパターンは分かる。どう戦えば良いかも、体で分かっている。体が大きいこと自体が、巨神の弱点でもある。

弓を構え、速射。

両目を瞬く間に射貫いてやる。棍棒を振り回す巨神の懐に、一瞬の隙を突いて潜り込むと、アキレス腱を両断。

横転した巨神に巻き込まれないように飛びのくと、体に登り、喉に剣を突き刺す。

燃え上がりはじめた巨神が悲鳴を上げ、絶叫するのを後に。また、駆け出す。

周囲の大乱戦は、もはやどちらが勝っているのか負けているのかさえ分からない。元々三倍の兵力差。その上、スヴァルトヘイムの魔物どもまでもが、戦場に乱入してきているのだ。

シグムンドは必死に呼吸を整える。まだ幼い頃、父に山野を訓練で走り回らされた。あの時、音を上げたヘルギをなだめ励ましながら、苦しいのをこらえて、必死に走った。そしてやり遂げたとき。

シグムンドは、違う自分がいるように、感じたものである。

「どこだ、出てこい! フリム!」

たとえ相手が何であろうとも。

決して引くことはしない。戦況不利とみて、逃げる事はある。だが、それは引くこととは違う。

引くこととは、相手に勝つのを、諦めることだ。

大巨神が来る。だが、その顔面に、巨大な矢が突き刺さり、首がへし折れる。悲鳴を上げながら倒れた大巨神。シグムンドは、止まらない汗を拭いながら、気付く。少しずつ、視界が暗くなってきている。

やはり、もう限界が近いか。

だが、せめてもだ。絶対に、フリムだけは。

北ミズガルドを蹂躙し、先祖からの土地を好き勝手にした巨魁だけは。絶対に許さない。必ずや、打ち倒す。

後ろからフレイが来た。

そして、周囲の巨神を切り倒し、路を作る。今日はいつもと逆だ。フレイのために、シグムンドがいつも路を作っていたのに。

味方は、もうあまり残っていない様子だ。

ただし、それは敵も同じ。

この戦場は、歴史上最悪のものの一つだろう。もはや此処にしか生きている者はいないのに。仁義なき殺し合いは、最後の一人が倒れるまで続くのだ。戦略も戦術も、何ら意味がない。ただ、殺し合うことだけが目的化していて、原始的な闘争本能に誰もが従い、殺し合っている。

分かってはいる。それがどれだけ愚かしいかは。

此処に生きているものだけでも、せめて手を取り合って、新しい世界のために戦うべきなのかも知れない。

しかし、戦場は止まらない。

殺し合わなければ、殺されるのだ。

そしてフリムだけは、絶対に許すことが出来ない。この状況を作り上げた首魁であり、全ての元凶なのだから。

「フレイ、生きているか!」

「無論だ。 フリムまで、後少し……!」

「! 罠だ、下がれ!」

慌ててその場から下がる。

フレイも壊れてしまっている盾を構えた。爆発。閃光。

まき散らされる破壊は、巨神も何も関係無し。手当たり次第に周囲を焼き払い、命を奪い尽くしていった。

地面に倒れたシグムンドは、血を吐いているのに気付く。

口を拭って、血を取る。

立ち上がろうとするが、一度失敗した。もう、足に力が入らなくなってきている。それでも、やりとげる。

どれだけの北の民が、無念の中死んでいったことか。ウルズだって、あのような事が起きなければ。

「シグムンド……」

「やりとげる!」

フレイの言葉を、封じるように、シグムンドは叫んだ。

フリムを探す。そして走る。邪魔をしようとする巨神は、片っ端から倒した。既にこの戦場だけで、二十を超える巨神を倒してきた。だが、それでも、全ては無為な気がしてならない。

無常観と戦士としての本能が、シグムンドの中でせめぎ合っている。

今までは無かったことだ。

きっと、死が近いからだろう。苦笑も浮かんでこない。そんな余裕すらが、シグムンドの中からは無くなってきている。

フレイが何か叫んでいるのが見えた。

もう、声もよく聞こえなくなってきている。だが、それでも何となく分かる。フリムだ。見上げるような巨体。

全身に、黄金作りの、嫌みな鎧を身につけている。

ついに辿り着いた。

フリムは傲然と戦場を見下ろしていた。身につけている鎧は、いささかの輝きも衰えていないように見える。

フレイが剣を振るって、辺りの巨神を斬り伏せていく。シグムンドは走りながら、フリムの様子を観察した。

失敗は許されない。

ふと、気付く。

フリムの頭上に何かいる。というのも、影が妙に大きいからだ。そうか、先の爆発は、それだったか。

「フレイ! フリムの上に、何かいるぞ!」

フレイが頷く。

シグムンドが、もう耳も良く聞こえなくなっていることに、気付いたのだろうか。せめて、この命が尽きるまでに。

いや、そのような弱気なことでどうする。

シグムンドは果たさなければならない。今まで死んでいった者達のために。フリムを道連れに、冥府に行く。

鎧を着た巨神というのは、しかしなんと威圧的な存在か。

フレイが火山の弓を引き絞りはじめる。フリムはそれに気付いて、歩き始めた。親衛隊らしい巨神は出払っている。乱戦で、周囲の迎撃に向かっているのだろう。これは、好機だ。

それでも、フリムを守ろうとする巨神が何体かいる。

シグムンドが矢を放ったのは、まずはそいつらに、だ。フレイの火山の弓が、放つまでに相当に大きな隙が出来ることは、今までの戦いで分かっている。ましてやフレイは、この戦場で何度も火山の弓を用いているはず。負担は相当に大きくなっているだろう。

どうしてだろう。

視界も狭まり、耳も聞こえなくなりつつあるのに。

射撃の精度は、今までに無いほどに高まっている。それに、魔力の収束も。巨神の目に突き刺さった矢が、爆発的な魔力を放出。巨神がのけぞる。今まで目を貫いても、彼処まで激烈な反応が出たことは、一度もなかった。

これが、死の前の、最後の輝きか。

今の力なら。

この剣を突き立てれば、フリムの全身を、焼き払えるかも知れない。劫火の中、奴を道連れに出来る。

フリムが、手をかざす。

そうすると、辺りに光の弾が無数にばらまかれた。それぞれが爆発する。敵も味方も関係無く薙ぎ払うフリム。

外道。

叫ぶが、フリムは気にもせず、今度はフレイに向けて手をかざす。掌に、魔力が収束していく。

シグムンドは矢を即座に放つ。

収束していた魔力が爆発し、フリムがのけぞる。

フレイが、ここぞとばかりに、火山の弓から。無数の矢を放った。

灼熱が視界の全てを覆う。

爆風に、押し戻されそうだった。

態勢を低くして、炎の奔流を乗り切る。呼吸を整える。最後の一撃のために、力を蓄えるのだ。

やった、とは思わない。

以前の戦いで、フリムは火山の弓からのあの途方も無い攻撃を、耐え抜いたと聞いている。今回も耐え抜かないとは言い切れない。

案の定、煙の中、巨大な人影が立ち尽くしている。フリムに間違いなかった。フレイは火山の弓をゆっくりしまっている。アレを使った後は負担が大きく、すぐには動けないのだと、シグムンドも知っている。

辺りの地面は焼け付くようだ。実際、溶岩になって煮立っている場所もある。

踏み込んだりしたら、フリムと戦う前に、無駄死にしてしまう。シグムンドは一端目を閉じると、五まで数えた。

目を開けると、少しは視界がクリアになる。

見えてくる。フリムの所へ、どうやって辿り着くか。フリムの鎧は、案の定まだ壊れていない。

だが、シグムンドと肩を並べるようにして、フレイが飛び出す。

そして、剣を大上段から、振り下ろした。

閃光が、フリムの鎧に入る。

無敵を誇った巨神の王の鎧に、目に見える形で亀裂が走る。二度、三度、神速の切り込みをフレイが見せた。黄金作りだった鎧が、黒く変色していく。魔力を失っているのだと、シグムンドにも分かった。

フリムが再び手をかざすと、連続して爆発が巻き起こる。

吹き飛ばされながらも、シグムンドは冷静に居場所を確認。とっくに限界を超えているからか、もう痛みは全く感じない。フリムが、フレイに向き直り、爆発する光を放っている。あれは一種の魔術だろう。フレイヤが似たようなものを使っているのを、以前見た事がある。

巨神の王というだけあって、何でもありだ。

それならば、自分の世界でも作って、そちらで好き勝手をすれば良かったものを。アスガルドの神々に対する恨みは理解できなくも無い。シグムンドだって、立場が違えば、アスガルドの神々に対する恨みを爆発させていたかも知れない。人間は一種の生物兵器に過ぎず、ずっと思想から何からコントロールされていたなどという事実を知って、楽しいはずも無い。

だが、フリムはそれでもやり過ぎた。奴は力の使い方を、間違えたのだ。

フレイとフリムの一騎打ちが始まっている。フレイヤも、間もなく来るだろう。フレイとフレイヤは、離れていても会話が出来る事を、シグムンドは知っている。立ち上がると、不意に体が軽くなっているのが分かった。

これはやはり間違いない。

死の寸前の、最後の力の爆発が起きているのだ。

何度も見た事がある。獣なども、とどめを刺す寸前が一番危ないのだ。

どうやら最後は、無様な姿をさらさずとも済むらしい。血の混じった唾を吐き捨てると、シグムンドはずっと愛用して来た弓を、腰にくくりなおした。そして、剣を構える。

狙うは、フリムの鎧の罅。

出来れば致命傷が近い場所だ。

 

1、落ち行く星

 

レギンは雄叫びを上げると、斧を振り回して、連続で衝撃波を放った。一見滅茶苦茶に振り回しているようだが、的確に周囲の巨神に命中させる。肩に頭に腹に。動きが止まった巨神に、エインヘリアル達が、一斉に光の槍から一撃を叩き込み、とどめを刺す。

呼吸を整えたのは、流石に限界を感じたからだ。

既に戦闘開始から、どれほど時間が経ったか分からない。

進んで引いて、敵を効率的に狩って。

だが、敵もやられっぱなしでは無い。

巨神の大部隊がまた来る。大乱戦の中では、もはや陣形も何も無い。サラマンデルも、近くにはいない。

部下の狂戦士の名を呼ぶ。

誰もこたえない。

彼奴は死んだ。彼奴も彼奴も。みんな、アスガルドまで名を轟かせる狂戦士に相応しい勇猛の果てに、散っていった。

それを今更に思い出す。

だが、ひょっとしたら生きているかと思ったのだ。

巨神族も必死だ。奴らを滅ぼすのはレギンの使命だが、その必死さについては認める。昔だったら、無慈悲に殺すだけだっただろう。

レギンは、自分が変わった事を自覚している。

北ミズガルドで、逃げ遅れた連中を守って転戦した。ただひたすらに戦うのでは無く、逃げたり隠れたり。

気候も大きな敵になった。突然降り出した雪。急に寒冷化して、凍り付いてしまった森。訳が分からない地獄の到来だ。だが、それでもレギンは諦めなかった。何が相手でも戦い続け、大巨神も倒した。

その戦い続ける姿が、守るべき弱い者達を、勇気づけた。

何となく、レギンはそれを悟った。

強い者だけでは、この世は廻らない。村長である内から、そうだと知ってはいた。だが、理解はしていなかったように思う。

敵の大部隊は、確実に此方の司令部に進撃してきている。もうあの部隊を、食い止められる戦力は、残っていない。

神々は彼方此方に散ってしまっているし、サラマンデルも前線に出張っているはずだ。ならば、出来る事は一つ。

「面倒だな。 だが、やるしかねえな」

てめえら。レギンは声を張り上げた。

戦士としては先輩のエインヘリアル達が、此方を見た。レギンに敬意を払ってくれるのは嬉しい。

「今から彼奴らをぶっ潰す」

エインヘリアル達は、何もこたえない。バルハラに行くと言うのは、こういうことだ。人形みたいだと、レギンは何度も思った。どいつもこいつもありがたがっていたバルハラの真実が、これだ。反吐が出る。

だが、彼らにも、意思の残滓はある。

レギンは斧を振り上げると、狂戦士特有の鋭い雄叫びを上げた。巨神共が、此方に気付く。

走る。エインヘリアル達が、続いてくれた。

意思は、通じている。

それだけで嬉しい。レギンは飛び上がると、先頭にいた巨神に、斧を叩き付ける。衝撃波が巨神の頭から股まで抜ける。よろめく巨神の足下を抜けながら、両足を斧でたたき切った。前のめりに倒れる巨神は無視して、次に。

中巨神が、ハンマーを振り下ろしてくる。

今まで散々潰してきた中巨神よりも、遙かに速い。だが、レギンもそれは同じ。巨神を散々殺した事で、連中の動きは見きっている。

もう、自分は最後の狂戦士だろう。それはレギンも知っている。

最後まで、血に狂い。

最後まで、戦い抜く。

それが、狂戦士たるものの、生き方だ。残虐で冷酷で、だがそれでしか守れぬ存在もいるのだ。

ハンマーに飛び乗ると、柄の上を走り、中巨神の眼前へ。驚いた中巨神が、手を伸ばして掴もうとするが、斧を振るって顔面に叩き付ける。そして、伸ばしてきた手指を、全てまとめて、一息に切り落としていた。

着地。

次に向かう。数体の巨神が、途方も無い跳躍を見せ、躍りかかってきた。

だが、その着地地点に、レギンはいない。

レギンの頭脳は、戦いのためだけに昔から用いている。巨神の着地地点がどの辺りになるかは、見た瞬間に分かる。

着地して棍棒を振り下ろした巨神達の背後に回っていたレギンが、斧を振るって、手足を切り落とす。

再生する前に、エインヘリアル達がとどめを刺してくれるだろう。

振り返ろうとしたその時。

吹っ飛ばされて、地面に転がされていた。

血を吐く。

叩き付けられたとき、何処かいかれたか。いずれ来る事だとは分かっていた。連戦で疲弊も溜まっていたし、巨神だって反撃してくるのだ。棒立ちの相手を、斬り倒している訳では無い。

立ち上がり、今の一撃を打ち込んできた奴を探す。

いた。

どうやら、棍棒を至近に叩き付けられ、風圧で飛ばされたらしい。本能的に、一瞬で潰されるのは避けていた、ということか。

大巨神だ。それも、普通のと違って、兜をつけている。

間違いなく指揮官だろう。

それも、大巨神の中の指揮官とでもいうべき相手。

飛び退き、降ってきた棍棒を避ける。後ろに回り込んでいた巨神の一撃だったが、それくらいならどうにかなる。

横を通り抜けながら、今の奇襲をして来た巨神の足を両断。

血を吐き捨てると、倒すべき相手に向け、レギンは歩み寄る。体格差は十八倍という所か。

本来だったら、絶対に勝てない相手。

だが、それでも勝つのが、狂戦士だ。

「てめえがこの部隊の指揮官だな」

「いかにも。 何度も我が軍に煮え湯を飲ませてきた狂戦士と見た。 私が自ら、引導を渡してやろう」

「いいだろう。 相手には不足が無い」

大巨神が、大上段に棍棒を構えあげる。

まるで隙が無い。体格差から生まれるリーチもある。本来だったら、蠅のように潰されておしまいだ。

ただしレギンには、神々の武具である斧がある。

衝撃波を飛ばして、遠隔の敵を斬る事が出来る脅威の武具だ。これさえあれば、奴とも渡り合える。

間合いを計り合う。

周囲では乱戦が続いているが、誰も此方に目を向けない。邪魔をされれば、途方も無い怒りが叩き付けられると、悟っているからか。

大巨神が、踏み込んでくる。

棍棒が、稲妻のような速度で、振り下ろされる。

地面に、巨大なくぼみが出来るほどの一撃であった。だが、レギンは、予備動作を見切り、真横へ飛んでいた。

棍棒を掴んでいる手首を狙って、斧を振るう。

だが、大巨神は、多少手首を抉られても、気にもしない。むしろ棍棒を手から離し、払うようにしてレギンに拳を叩き付けてきた。

避けきれない。

だから、むしろ前に跳ぶ。

地面に斧を叩き付け、衝撃波で自分を空に運んだのだ。

大巨神が空いている方の手で、レギンをつかみに来る。

その手を、斧で斬り付けた。

大量の鮮血が噴き出す。

レギンが着地し、大巨神が棍棒を拾い直す。走る。一瞬前までいた地点を、大巨神が踏みつぶしていた。

更に、横殴りに棍棒を叩き付けてくる。直撃をもらえば、即死だ。

故に、衝撃波を使っての加速で、手元に潜り込む。

「はあっ! 面白いな貴様は!」

大巨神が喜ぶ。

戦士としての本能が、鎌首をもたげてきたか。衝撃波を叩き込んでやるが、多少傷がつくくらいで、埒があかない。

首筋を狙うしか無い。

レギンは、頭脳の全てを使って、そのシミュレーションをくみ上げていく。やれる。だが、おそらく。

好機は、たったの一回。

それでも、出来るならば。此奴を仕留めなければならない。

異世界に去った足弱や子供達は、レギンが守るのだ。レギンは不器用だから、こうやって戦う事でしか、弱者を守れない。いたわることは出来ない。それは別の奴がすればいいのである。

今は、ただ。

悪鬼でさえ怖れるほどに、戦って戦って、戦い抜く。

飛び退いて、互いに距離を取る。

既に大巨神は、レギンを侮り得ぬ相手だと認識している。嬉しい反面、戦いとしては面倒だ。此方を侮ってくれていた方がやりやすいのだが。相手も戦士としてはいっぱしと言う事である。不快な話だ。

此奴を、俺の最後の武勲とする。

レギンは、覚悟を決めた。

先ほど吹っ飛ばされた時、おそらく内臓をやられた。長くは動いてはいられないだろう。

大上段に、大巨神が構えた。

来いと言っているのと同じだ。あの棍棒は、想像を絶する速度で降ってくるだろう。小細工を一切通用させない、堂々たる構えだ。

レギンも、二丁の斧を、上段に構える。

にらみ合いは、一瞬。

前に、出た。

殆ど残像を残すほどの速さで、大巨神が棍棒を振り下ろした。レギンがいた位置を、正確に粉砕する一撃だった。

その時、レギンは。

上にいた。

間合いに入る寸前、斧を地面に叩き付け、衝撃波で跳んだのである。さきに同じ手を使ったが、今度は全力での一撃。

全身への負荷も、尋常では無い。

舞い上がったレギンを、巨神が視認。にやりと笑った。今の渾身の一撃を避けたとはいえ、動き得ない空中にレギンがいる。

大きく息を吸い込む大巨神。

レギンに向けて、叩き付けるように、空気の塊を肺から叩き付けてくる。押し戻されて、着地するレギンだが。

着地と同時に、前に出る。

足を振り上げた大巨神が、踏みつぶそうと叩き付けてくる。さっきの棍棒と、遜色ない速度だ。至近に着弾。吹っ飛ばされる。

だが、空中でレギンは斧を振り、飛行軌道を変える。

そして、大巨神の腕にしがみついた。

蠅を潰すように、大巨神が手を伸ばしてくるが、再び跳ぶ。斧からの衝撃波を最大限に生かし、加速して、肩まで上がる。

目が合う。

大巨神の兜は、当然首筋を守るように作られている。兜というのは、そういうものだ。だが、一つだけ。

兜には弱点がある。

首をふるって、振り落としに懸かってくる大巨神。

だが、勝敗は、既に決していた。

跳躍したレギンは、兜にしがみつき、更に跳ぶ。

跳んだのは、大巨神の眼前。

掴まれる。

寸前、渾身の一撃を振るう。そう。のど元は、どうしても首を動かすために、兜に隙が出来るのだ。これを防ごうとすると、首を自由に動かせない、重装兜になる。しかし、巨神が被っていたのは、のど元に隙があるものだった。

大巨神の首から、盛大に血が噴き出した。

自分の全身が、握りつぶされるのも分かる。根比べだ。此奴よりは、先には死なない。レギンはもう一撃、斧を振るう。

大巨神が絶叫した。

そして、倒れ込む。もはや、逃れる方法など、存在しなかった。

潰れる一瞬前。

レギンは、確かに見た。

光が満ちる、平和な世界を。だが、其処に、最初からレギンの居場所は無い。それでいいのだ。

レギンは修羅として戦い抜き、そして、その平和な世界を守ったのだから。

 

敵の攻勢が、弱まるのが分かった。

ヴェルンドは遊撃を続けながら、敵を削り取る。周囲の味方が露骨に減ってきている事をも感じるが。それでも戦いは、味方有利に傾きつつあるのが分かった。誰かが、敵の大規模攻撃部隊を潰したのだ。

レギンでは無いかと、ヴェルンドは思った。

ただの勘だが。しかし、レギンは、戦士として、戦場にしか居場所が無いと思っていた様子だった。

別世界に退避させた民や弱者達を守れれば良い。そう考えていたのなら。

此処で死ぬ気であっても不思議では無い。それを批判する権利は、誰にも無い。レギンは自分なりのやり方で、守るべき者達を守っているのだ。

ヴェルンドは、レギンとは考え方が違う。

調停者の一族であるヴェルンドには、この先のビジョンもある。生き残りたいとも思っている。

生き延びたら、世界を再建する。

フレイとフレイヤなら、オーディンの代わり、いやそれ以上に立派な神になってくれるだろう。

生き延びた戦士達に女性が少ないなら、神の力でどうにかしてもらう手もある。

焼き払われた世界も、少しずつ再生していかなければならない。まず多くの子を成し、村を増やし、生活を豊かにして行く。幸いブルグントやゴートの技術も、何より神々の支援も期待出来る。

この戦いさえ、乗り切れば。世界には、黄金の時代が待っているのだ。もはや巨神に怯えることもないし、神々との関係も以前とはずっと違うものとなる。

だが、気になることもある。

もしも人間が、神々が作ったルールを外れたら、どうなるのだろう。

邪悪で傲慢で、残虐な。巨神共を遙かに凌ぐ、化け物のような怪物になってしまうのではあるまいか。

確かに、戦士であることを強要する神々のルールには思うところもある。というよりも、憎んでさえいる。

だが、ヴェルンドは。調停者の一族として、戦乱絶えない北の民の中を、幼い頃から走り回っていたから知っている。

人間は、自由にすると、何をするか分からない生き物だ。

無論違う存在もいるが、多くの人間は、ルールという制御がかかっていて、はじめて「人間」となるのだ。

父も、言っていたものだ。

人間は、化け物だ。巨神や魔物がいたとしても、人間より恐ろしい精神は持ち合わせていないだろうと。

昔はよく分からなかったその言葉も、調停者として人間の闇を見続ける内に、正しいことだったのだと理解できた。

敵がまた、攻勢に出てくる。

騎兵を前に繰り出しての猛攻だ。味方も反撃しているが、どうも一部が崩れ始めている様子だ。

「此処を支えてくれ。 俺がグンター王の所に行ってくる」

「分かりました」

兵士達をまとめているらしい男に言い捨てると、走る。

乱戦だから、もう決まった戦線は無い。どこで敵に遭遇するかは、全く分からない。シグムンドやヘルギが側にいればいいのだが、そうも言ってはいられない。

不意に、目の前に、巨影が現れる。

魔物だ。

魔物が戦場に乱入してきていたことは知っていたが、こんな奥深くまで来ていたのか。速射して、頭を撃ち抜く。此奴らの対処法は知り尽くしている。一匹や二匹なら、遅れは取らない。

だが敵は、そのような数では無かった。

魔物の群れが、巨神を襲っている。それ自体は別に構わない。敵対勢力同士、つぶし合ってくれればそれでいい。

問題は数が千やそこらでは効きそうにない、ということだ。勿論巨神を刈りつくしたら、彼らの狙いは人間に向くだろう。

「今は戦いに介入するな! 逃げろ、逃げろっ!」

周囲で戦っている戦士達に叫ぶ。

ヴェルンド自身も、矢を速射し、何度も魔物を打ち倒しながら走った。魔物の動きは速く、巨神より圧倒的に数が多い。巨神も魔物に比べればずっと強いが、数の差がある。次々に倒されているようだ。

気がつくと、何体かの魔物が、ヴェルンドに向かっていた。

その中に紅い奴がいる。見るからに威圧感が段違いだ。あれはおそらく、相当に手強いだろう。しかも、大きさにしても、通常の魔物の三倍くらいはある。大巨神ほどでは無いが、中巨神に匹敵するかも知れない。

紅い魔物は何度も見かけたが、その中でもずば抜けて大きい。

「全く、冗談じゃ無いぜ」

ぼやきながら、ヴェルンドは矢を放つ。

まず、雑魚を仕留める。二匹立て続けに頭を撃ち抜き、蠍のような姿をした魔物がひっくり返って転がるのを確認。大きくても、弱点である頭部を正確に貫ければ、即死させられる。勿論、生体魔力を帯びた矢が威力を増している、という理由もある。

更に、立て続けに走りながら二体仕留める。

他の戦士達は、この場を離れたか。ヴェルンド自身も、さっさとアルヴィルダやグンターがいる本陣に向かう必要がある。

今まで、こういった強襲と偵察は、何度もこなしてきた。

だが、今回は条件が違う。

森のように身を隠す場所は無く、周囲は敵だらけで孤立している。ヴェルンド自身、シグムンドには負けないと自負してきた剣と弓の使い手であり、事実神の武具もフレイから譲り受けている。

それでも、この状況はやばい。

紅い魔物の動きは速い。知性は無いようだが、ひょっとするとニーズヘッグの側近かも知れない。

以前も、大勢いる蠍のような魔物と色が違う奴や、ドラゴンのような奴とは何度も戦った。

いずれもフレイが相手をするレベルの化け物だった。人間であるヴェルンドに出来るのは、時間を稼ぐことだけだ。ましてや今追いかけてきているのは、大きさにしても蠍のような魔物とは桁違いである。

矢を、それでも放つ。

剣を使うのは、近づかれてからだ。細身の剣に見えるが、絶大な破壊力を持つこの魔剣は、リスクを伴う。

あの紅い魔物が相手となると、倒す好機は一度あるかないか。

既に、相当に距離が詰められていた。魔物共と巨神共は、どうやら互角にまで持ち直しているらしい。多分、紅い魔物が、戦場を離れたからだろう。良い傾向だ。そのまま共倒れになって欲しい。

矢を放つが、はじき返された。

頭に当たったのだが、魔力が相当に強いらしい。甲殻に撃ち当たって、跳ね返されたのだ。

ヴェルンドの魔力も歴戦で鍛え抜かれているはずなのに。

味方は、いるだろうか。

いや、味方に押しつける事は出来ない。そいつが神なら兎も角、普通の兵士だったら、束になっても蹂躙されるだけだろう。

くそっ。吐き捨てた。自分がどうにかしなければならないのなら、そうするまでのことだ。

ヴェルンドは。

いや、こんな所で言っても仕方が無い。本来何かを教えることや、コミュニケーションの方が得意だし、本分だなどと言っても、今は詮無きこと。

再び矢を放つ。

見ると、紅い奴は、矢が来るとはさみを使ってはねのけている。つまり、当たり所によっては、面倒だと言うことだ。

矢筒に手をやり、舌打ちした。

もう替えが無い。

補給は陣まで戻らないと得られない。かといって、この乱戦だ。荷駄が無事かどうかも分からなかった。

振り返ると、目の前。

普通の魔物が、後ろに回り込んでいたのだ。

間髪入れずに剣を抜き、頭に突き刺す。悲鳴を上げて、血をまき散らしながら、魔物がもがく。剣を引き抜くと、魔物の死骸に飛び乗り、踏み越えて先に。紅い魔物は、もうすぐ側まで迫ってきていた。

逃げ切れる相手ではない。

踏みとどまるしか無いか。振り返ると、剣を構える。紅い魔物は全く恐れる事無く、迫ってくる。

勝機は一度だ。

ヴェルンドとこの紅い魔物では、根本的な力が違いすぎる。一瞬でも手を間違えば、そのまま殺される。

紅い魔物は、勢いを殺さずに突っ込んできたが、不意に至近でサイドステップする。そしてはさみで薙ぐようにして、隣を通り過ぎた。

無論横っ飛びに逃れるが、掠っただけで着込んでいる皮鎧が抉られる。

飛び起きると、もう其処では、紅い魔物が回り込んできていて、はさみを振り上げている。飛び退くが、地面に突き刺さったはさみが、爆発を引き起こす。強力な魔力が全身を巡っているからの破壊力。

吹っ飛ばされる。

やはり此奴、相当に強い魔物だ。立ち上がろうとしたところを、横に薙がれる。とっさに鞘で受けたが、受けきれるものではない。吹っ飛ばされて、数度バウンドして転がった。一方的だ。

血を吐く。

今のは、効いた。

生き残らなければならないのに。

ヴェルンドがいなければ、戦闘のことしか考えていないような北ミズガルドの民達は、再起できない。彼らは最もアスガルドの思想的コントロールを受けた民だ。戦闘民族として森の中で暮らしてきたがゆえに、それ以外の生き方が分からない。ブルグントやゴートとさえ情報のやりとりをして来たヴェルンドがいなければ、もはや未来は無い。

勿論勝つには、目前の敵を倒して生き残らなければならない。だが、それでも。それは、とても困難に思えてしまう。

だが、やる。

やらなければならないのだ。

また、至近まで、魔物が迫っていた。なぶり殺しにするつもりか。立ち上がろうとしたところを、はさみで突かれる。

子供のように突き飛ばされたヴェルンドは、地面でまた転がった。

気付くと、また至近に来ている。

今度は、はさみで押し潰そうとでも言うのか、振り上げている。ヴェルンドは、動かない。

魔物が飛び退く。

舌打ちして、ヴェルンドが立ち上がった。やはり勘付いていたか。

今の一撃で、はさみをかわして、頭に剣を叩き込んでやろうと思っていたのだが。頭も回るのか、或いは野生の本能で察知したのか。

もう、まともに動けないヴェルンドに対して、魔物は全く打撃らしい打撃を受けていない。

逆転の好機を潰した魔物は、ゆうゆうと距離を測っている。

最後の一撃を叩き込んでくるまで、時間も無いだろう。ヴェルンドはしょうがねえなあと呟いた。

はさみを、無造作に横に振るってくる魔物。

そのはさみが、根元から吹っ飛んだ。

動きさえ分かれば、こんなものだ。タイミングを完全にあわせて、剣を振るったのである。これでも神の武具。これくらいは、直撃させれば出来る。ヴェルンドも、北ミズガルドの民としては、屈指の使い手なのだ。

流石にはさみが消し飛んで、魔物が硬直。まさか、此処まで追い込んでおいて、いきなり逆転されるとは思っていなかったのだろう。

悲鳴を上げようとしたときには、既に頭の至近にまで入り込んでいた。

ずぶりと嫌な音を立てて、剣が魔物の頭に潜り込む。だが、開いていたはさみで、魔物はヴェルンドを掴んだ。

押し潰しに懸かってくる。

ヴェルンドも、敵の頭に更に深く剣を突き刺す。

大量の鮮血が、まるで間欠泉のように噴き出して、ヴェルンドの全身に降りかかった。猛毒である事が、一発で分かった。

紅い魔物は死んだ。

はさみを何度か剣で突き刺して、拘束を外し、死骸から抜け出す。

傷も酷いが、それ以上に体中に廻った毒が致命的だ。この状態からでは、神の回復術でも助からないだろう。

見ると、魔物達は、巨神と互角のつぶし合いをしている。それでいい。完全につぶし合ってくれるだろう。

足を引きずって、グンターとアルヴィルダのいる本陣へ。

伝えることが、幾つもあるのだ。

視界が歪む。視界が揺らぐ。

それでも、ヴェルンドは歩く。血を吐いていた。全身の痛みが、既に無くなっている。もう、これは。長くはないだろう。

シグムンド。

ヴェルンドは呼びかける。

お前には、最後まで勝てなかったな。この戦いで、お前が死ぬつもりなのは知っていたよ。

俺は、お前が死んだ後、北ミズガルドの者達をまとめ上げる気でいたけれど。そんなことは、結局エゴによる傲慢だったのかも知れないな。

自嘲しながら、ヴェルンドは、また血を吐いた。

気がつくと、アルヴィルダが此方を覗き込んでいた。グンターはいない。そうなると、本陣も混乱しているという事か。

何より、気がつかないうちに、倒れてしまったのだろう。

「北ミズガルドの勇敢な調停者よ。 貴殿の活躍は、忘れぬ。 これで左翼方面の敵は、一気に圧力を減じた」

「そうか。 それとは別に、最前線で敵が騎兵を主体とした部隊を出して、反撃を開始している。 援軍を、出して欲しい」

「援軍は出せないが、司令部を前進させて対応しよう。 もう休め。 そなたは、充分に戦った」

アルヴィルダはこんな状況でも、王としての威厳を崩していない。

悔しいが、此奴やグンターがいれば、北ミズガルドの者達は、再起できるかも知れない。それで、良いのだろう。

「調停者の一族は、血の気が多い北ミズガルドの者達に必要だ。 俺が死んだ後、再建、してくれ」

「分かった。 約束する」

「……」

視界が、暗くなっていく。

自分が全てをやり遂げたことを悟って、ヴェルンドは満足した。

 

ヘルギは無言のまま、大剣を振るう。

羽のように軽いこの剣は、破壊力も凄まじい。走り来た騎獣の足を、一撃で両断し、横転させた。

敵の怒濤の猛攻の中、ヘルギが一人で敵を食い止め続けている。既に四騎の騎兵を打ち倒し、巨神も十五体を屠っていた。

呼吸を整えて、周囲を見ると。

既に、誰も生き残っていない。

敵の死骸も累々と転がっているが、味方の損害の方が大きい。このままだと、敵に押し切られる。

敵の部隊が来る。

汗を拭って、下がろうとして、踏みとどまる。

此処で敵が前進すれば、おそらく味方の部隊がさらなる圧力に晒されることになる。それは避けなければならない。

その程度の事は、ヘルギにも分かる。

さっさと逃げ出してしまえればいいのだけれど。そうならない。戦場を走り回って、分かるようになってしまったからだ。

ヘルギは気弱で臆病だ。それは自分でも分かっている。

だが敵からは逃げないし、責任だって捨てない。

「くっそ! なんでこうなるんだよ!」

ヘルギは、泣き顔を更にくしゃくしゃにした。

幼い頃から、とにかく恐がりだった。体の大きさは人一倍だったのだが、虫にも怯えるので、周囲から馬鹿にされ続けていた。

しけった巨木。

それがあだ名だった。薪にもならない、建材にもならない。何の役にも立たない、図体だけの奴。

そう言う意味だ。

そんなヘルギに手をさしのべてくれたのが、いとこのシグムンドだった。

シグムンドは怖がるヘルギを自分から連れ出して、戦い方を教えてくれた。幼い頃から戦士としての英才教育を受けてくれたシグムンドは、誰よりも狩への参加が早く、剣技の実力もずば抜けていた。

シグムンドは、ヘルギと同じように剣を振りながら、言う。

お前の力は、俺よりも強い。

その力を生かして戦えば、お前は誰にも馬鹿にされなくなる。

ヘルギも、怖くて泣きながら、だが。辛抱強く努力して、結局誰よりも遅く、狩に参加した。

そして最初の狩で、小便を漏らしながらも。熊を仕留めたのである。

大人の誰もが驚いた。普段のヘルギの言動は誰もが知っているから、まさか本番でこれほど力を発揮できるとは思わなかったのだろう。ヘルギの実力は、この日に見直された。口は駄目だが戦士としては素晴らしい素質がある。そう、大人達は見てくれた。

その日から、ヘルギの道は開けた。

勿論、シグムンドがいてくれなければ、道が開けることは無かっただろう。だから、シグムンドには感謝している。

ずっと腰巾着と言われつつも、側にいたのも、支えたかったからだ。

此処で逃げれば。

シグムンドは困る。

だから、逃げる訳にはいかないのだ。

騎兵が凄まじい勢いで突っ込んでくる。ヘルギは恐怖で顔をくしゃくしゃにしながら、大剣を構えた。

直前で、不意に向きを変える騎兵。

そして、旋回するようにヘルギの周囲を回る。弓矢はあまり得意ではないヘルギでは、当てられないだろう。

どこから、仕掛けてくる。

真右。不意に騎兵が向きを変え、前足を振るい上げる。ヘルギは一瞬の隙をうかがい、むしろ前に飛び込む。

騎獣が振り下ろした前足が、地面を吹き飛ばす。

その衝撃さえ利用して跳んだヘルギは、騎獣の後ろ足を、斬り飛ばしていた。

倒れる騎兵。振り返りざまに飛びかかって、首を叩き落とす。

これで五騎目。巨神が十体以上、向こうから歩いてきている。あれも、どうにかしなければならないだろう。

不意に、背中に寒気が走った。

巨神の中に、とんでも無い奴がいる。

大巨神だ。大巨神そのものは、別に恐ろしくも何ともない。何度も何度も戦場で見たし、皆と協力して倒したこともある。一対一でも、倒せないことは、多分無いだろう。かなり危険な勝負になるが。

目の前にいるのは、違う。

傷だらけの騎獣に跨がった、見るからに恐ろしそうな奴だ。兜を被っていて、顔は見えない。だが、獰猛な殺気が全身から放たれていて、まるで巨大な猛獣だ。

間違いなく、巨神の上級指揮官だろう。

「ニーズヘッグを探していたら、活きが良さそうな獲物を見つけたな」

「おいおい、冗談じゃねえ」

足が震えているのが分かる。

戦力差は、大熊と兎ほどもある。とてもではないが、ヘルギ一人でどうにか出来る相手ではない。

逃げ出したい。

だが、こらえる。

敵の指揮官らしい奴が、部下をけしかけてくる。巨神が跳躍し、空に舞い上がった。一斉に躍りかかってくる巨影。

必死に棍棒を避けながら、横っ飛び。一体の足を払って、斬り伏せる。更にもう一体の振り下ろしてきた棍棒を、直上に切り上げて両断。返す刀で、足を切り倒した。走りながら、立ち回る。

此奴らと戦いながら、この化け物を、味方の中に引きずり込む。

司令官らしいから、倒せば巨神は総崩れになる筈だ。

だが、倒せるのか。

味方は散り散りに戦場で戦っている。とてもではないが、勝てる相手だとは思えない。こうなれば、ヤケだ。

巨神の足を蹴って飛び上がり、首をはね飛ばす。

だが、着地した瞬間、別の巨神のフルスイングを浴びた。大剣を盾にするが、派手に吹っ飛ばされる。

奴は、動かない。

どうにかして、味方を呼ばないと。

狼煙はある。ヘルギは臆病だからと、仲間を呼べるようにと渡されていたのだ。だが、一度も使ったことは無い。

今こそ、使うべきか。

男としてのプライドと、恐怖心がせめぎ合う。しかし敵の司令官に集中攻撃を浴びてつぶせれば、これ以上の事は無い。

だが、きっと言われるだろう。臆病者のヘルギは、怖くてちびりながら、皆に必死に助けを求めたと。

火を焚こうか。

だが、そんな場所はあるのか。立ち上がり、棍棒を振り下ろしてくる巨神を見た。前に飛び込みながら、足を切り払う。巨神達が、一度飛び退く。

そして、司令官らしい奴が、鼻を鳴らした。

「思った以上にやるな。 どれ……」

全身に、寒気が走る。

ヤバイ。逃げても、背中を貫かれる。何か、とんでも無い武器を持っている。騎獣に跨がった大巨神は、手に恐ろしげな槍を持っていた。多分、神々の武具だろう。フレイが持っているような奴だ。

「名乗っておこう。 俺はスリヴァルディ。 貴様は」

「……北ミズガルドの戦士、ヘルギだ」

「どうだ。 俺の部下にならぬか」

いきなり、何を言い出すのか。ヘルギが怪訝に眉をひそめると、スリヴァルディは笑いながら言った。

別に、人間を滅ぼす気は無いと。

「フリムは自分たちだけの世界を作るつもりのようだが、俺は違う。 お前達人間が非常に強い事は見ていてよく分かった。 新しい世界を作る時には、お前達も重要な奉仕種族として、俺の土地に生きることを許そう」

「お前、フリムって奴の部下じゃ無いのかよ……」

「フリムという巨神は、もはや存在していない」

何を言っている。

くつくつと笑いながら、スリヴァルディは手を伸ばしてくる。掌を此方に向けたのは、どういう意図か。

「少し考える時間をやろう。 俺はニーズヘッグを探すのに忙しい。 滅ぶ寸前のアスガルドの神などに荷担するくらいなら、我々の膝元で生きることを選ぶのだな」

「……」

高笑いしながら、スリヴァルディは騎獣の首を返させた。

そして、部下達と一緒に、乱戦が続いている戦場に消えた。

腰が抜けるかと思った。あの巨神、戦っていたら、絶対に勝ち目は無かった。頭がまだ混乱している。

まだ、他にも戦場はある。騎兵がかなり荒れ狂っているはずで、一体でも潰しておかなければならないだろう。

考えるのは、後だ。

ヘルギは味方の陣へ向けて、とぼとぼと歩き始めた。

あの時、一瞬でも、それは良いかもしれないと思ってしまった。アスガルドの神々がもう駄目なのは、ヘルギにも分かる。

巨神族はまだ数もたくさんいる。

フルングニルのような恐ろしい奴も、まだ残っているかも知れない。しかし、フレイとフレイヤは、戦っているでは無いか。

シグムンドにあったら、どう話そう。

そう思いながら、ヘルギは戦場を歩いていた。あてもなく。どうしても今の話を、他の誰かにする気にはなれなかった。

 

2、スヴァルトヘイムの滅び

 

戦況が著しく悪いことを、ニーズヘッグも自覚していた。

彼方此方で部下が各個撃破されている。

フルングニルが死んでも、巨神族は手強いままだ。思った以上にやる。予備戦力まで全て投入するべきかも知れない。

それに、スリヴァルディ。

彼奴は想像以上に出来る。フルングニルが後継者にしたのも、分かる気がする。ただ、どうもニーズヘッグと同じ臭いがするのだ。或いは、交渉次第では。

いや、それは別に良い。

ニーズヘッグは今、地中を進んでいる。周囲には護衛の手練れの部下達。

訳が分からない爆発で何度も叩かれたからだ。安全を考え、地中を進むことにした。これならば、爆発を浴びても、ある程度は衝撃を緩和できる。

それにしても、あの爆発は一体何なのか。あれだけは分からない。何度かの直撃を受けたが、解析も出来なかった。

今は一刻も早く、フリムを仕留めなければ。

地面から顔を出して、周囲をうかがう。

死屍累々。人間も巨神も、仁義なき殲滅戦で徹底的に殺し合い、数を減らし続けている。既に双方共に、半数を切っているようだ。

最初は巨神が優勢だったが、今は人間の方が有利と見える。激しい戦いの中、巨神族も人間も優秀な戦士を次々失っているようで、「どちらかと言えば」という基準でしか無いが。

気にくわないのは、部下の魔物がかなり倒されていることか。指揮官代わりの強力な個体が潰されたことで、混乱したところを突かれているようである。

不快感がせり上がってくる。

フリムの気配は、既に見つけている。間もなく、捕捉できるだろう。

再び地面に潜り、無数の足で土をかき分ける。地中を進むとき、土が体をこする感覚が、何よりも好みだ。

結局の所、ニーズヘッグを頂点とする竜族は、地中での生活に特化しすぎてしまったのかも知れない。

ニーズヘッグが新しい世界を作る時。その世界をどうするかは、既に決めている。新しい世界は竜族が支配し、他の種族は全てが奉仕するための存在だ。竜族が神となる世界と言っても良い。

その世界でニーズヘッグは創造神となる。

同時に、絶対者ともなる。

今の、種族の頭脳を一つの存在が担う態勢は、新しい世界でも改めるつもりはない。これこそが至上だと思っている。ただし、ニーズヘッグが何かの理由で死んでしまったら、世界そのものが崩壊してしまうから、対策が何か必要だろう。

少しずつ、フリムへと距離を詰めていく。

土から顔を出すと、見えた。

フリムはフレイ、フレイヤと、それに人間の戦士と戦っている。見覚えがある奴だ。確か、シグムンド。

ほぼ互角の形勢の様子だ。

フレイとフレイヤは、フルングニル戦での疲弊が残っている。シグムンドは見たところ、致命傷を既に受けている様子だ。

フリムはあまり動きが速くないが、連続して魔術を射出し、確実に敵を削り取っている。にやりと、ニーズヘッグは笑った。どうやらフリムという個性は、既に消滅している。これならば、後は。

土に潜る。

フレイとフレイヤなら、確実にあの巨神の王を倒せるだろう。

地中から近づく。手練れの部下達もいる。成功率は、ほぼ百だ。

「見つけたぞ」

不意に、背後から声。

飛来した熱が、手練れの部下の一体を、粉々に消し飛ばしたのが振動から分かった。地中で、ニーズヘッグの背後から来るとは。どういうことか。

深く潜る。

土を掘るというのは、前にある土を、後ろに押しのけると言うことだ。高速で掘り進み、地下深くへ。

相手が何者かは知らないが、まずい。周囲の部下の気配が、次々に消えている。

気付く。

背後から、強い熱量が迫っている。

これは、やはり。さっきの爆発の正体か。このままだと、まずい。衝撃波が、全身を叩く。

地中でも、爆発の衝撃波は来る。むしろ押し潰されて、逃げ場が無いまま倒されてしまう可能性もある。

爆発が起きた。

寸前、ニーズヘッグは地面すれすれまで出ていた。だから、地中から弾き出されるようにして、飛び出した。

つれていた護衛の部下は全滅である。

地面に叩き付けられたニーズヘッグは舌打ちする。こうなったら、周囲の部下を呼び集めて、力尽くでフリムを殺すしか無い。

フリムが手から無数の光弾を放つ。地面に当たると爆発する恐るべき破壊力を持つ光弾を、一度に数千も。

魔物を呼び集めている暇は無いかも知れない。

フレイがフリムに近づいて、剣を振るう。無敵を誇ったフリムの鎧が壊れはじめている。これは或いは、行けるか。今の一撃で、フリムは左足を斬り倒され、横転した。更にフレイヤが、稲妻を乱射して、フリムの全身を焼く。そうそう、それでいい。

ニーズヘッグが躍り出る。

フレイが、それにシグムンドが驚いて、フリムから距離を取った。翼を広げて、羽ばたきを利用して加速。

さっきから攻撃してきているのが何者かは分からないが、フリムさえニーズヘッグが殺してしまえば、それで終わりだ。

口から射出したのは、先代フレイが持っていた、完全なる勝利をもたらす剣。

フリムが体を起こそうとしている。

其処に馬乗りになると、ニーズヘッグは剣を躊躇なく、首に突き刺していた。

だが。

兜が取れて、そこには。

何も無かったのである。

当然、剣は何にもならなかった。虚空を抉っただけ。

「残念だったなあ、ニーズヘッグ」

「ど、どういう事です……」

虚空を振り仰ぐ。

フレイとフレイヤも、同じように空を見た。

「何だあれは……!」

驚きの声を、シグムンドが挙げていた。

其処に浮かんでいたのは、無数の得体が知れない肉塊が融合した、巨大な塊だったからである。

彼方此方に目玉が浮かんでいて、醜悪なことこの上ない。

一瞬、ヘルが繰り出した死人の生き残りかと思ったが、そのような存在がまだ残っている筈は無い。

あれは、何だ。

足下を見ると、小さな悲鳴が出てしまう。

鎧は、空だ。

フレイとフレイヤ、それにシグムンドは。空っぽの鎧を相手に、戦い続けていたという事か。

ならばフリムは。

気付く。

空に浮かんでいる彼奴が、フリムだというのか。

そして、高空から爆撃をして来ていたのも。さっき地中に潜って、追撃してきていたのも。

がちがちと歯が鳴る。恐怖からだ。

フリムが人格を崩壊させていることはとっくに分かっていた。だがあのような姿になっていたとは。

鎧が壊れたことで、おそらく身を隠す魔術が消えたのだろう。

そして、蠢く肉塊フリムの真ん中には、巨大な顔が一つある。それはアスガルドの神々に似た造形で、女のようだった。

いや、あれが。

全ての元凶。間違いない。

「そうか、三女神の一つ、現在を司るヴェルザンディ。 どうやら、とうに目覚めていたようですね」

「その通り。 とはいっても、私は遙か前、フリムがヴァン神族の王になった頃には、その心を乗っ取っていたのだがな」

戦慄が止まらない。

ヴェルザンディがフリムと融合して、ヴァン神族の背後にいたことは分かっていた。そして、年々力関係が、ヴェルザンディ上位に傾きつつある事も。

「貴様、蛇竜! 何もかも知っているのか!」

「まあ、きっかけは偶然から、でしたがね。 今は一時的にでも手を組みませんか? 今のこのお方の戦闘力は、三悪魔と同等か、それ以上……」

「いや、残る三悪魔とは、私自身のことだ」

再び、爆発。

気がついたときには、地面に叩き付けられていた。そして、上には、肉塊が、のしかかってきていた。

悲鳴を上げて逃れようとする。

確実な勝利をもたらす剣を突き立てようとするが、そうさせてはくれない。首も、押さえ込まれていた。

「お前の体、いただこうか。 フリムの体は、長年の私の操作に絶えられずに、少し前に崩壊してしまってな。 長い事有望な巨神を喰らうことで拡大強化してきたこの体も、軸を失ったことで、面倒な事になりつつあったのだよ」

「ひ、ひぎいいっ!」

だ、駄目だ、これは想定外だ。

このような状態、いくら何でも、思いつくはずも無かった。

触手が全身に絡みつき、見る間に体が自分のものでは無くなるつつある。助けろ。悲鳴同然の声を上げるが、フレイ達も流石に何が起きているか理解できないようで、動かなかった。

意識が、途切れる寸前、皮肉混じりの声が聞こえた。

「この世界がもう駄目なのは周知。 ならば、お前も、他の全ても。 私の新しい肉としてくれよう」

「ぎゃああああああああああああああっ!」

意識が、ぶつりと切れる。

こんな終わり、認められない。だが、どうしようもない。

 

戦場の彼方此方で、不意にスヴァルトヘイムの魔物が金切り声を上げ、その場で転がった。

ニーズヘッグが死んだことで、彼らの思考が制御不能になったからだ。生物兵器ほど、その影響が顕著だった。

かろうじて死を免れた魔物も、その場で巨神に叩き潰されていく。

スリヴァルディは目を細めた。

これでどうやら、より好機は大きくなったと見てよい。後は、勝ち誇っている阿呆を後ろから刺せば、全てが終わりだ。

部下達を促し、スリヴァルディは急ぐ。

ニーズヘッグの二の舞にならぬよう、慎重を期さなければならない。だが、ずっとずっと耐えてきたスリヴァルディにとって、それくらいはたやすいことだった。

巨人の血が濃いスリヴァルディにとって、現在のヴァン神族に牛耳られたヨトゥンヘイムは不快きわまりない場所だ。

それを、本来の姿に戻す。それがずっと抱いてきた、スリヴァルディの夢だった。

幼い頃からずっとスリヴァルディは周囲に阻害されてきた。先祖返りと言われて殴られ、何をしても馬鹿にされた。

武勲を挙げ実力を付け、そしてうかがったのだ。

気に入らない連中を根こそぎ始末する機会を。復讐を果たすために、最適の時を待ち続けた。

そして今。

待ちに待ったときが来た。

さて、行こう。

愛騎を促して、一歩を進ませようとした、その時。

背中から腹に向けて、矢が突き抜けていた。

振り返る。

其処には、アスガルドの神マグニが。奴が、第二矢を装填しているのが見えた。

くつくつと、笑いがこみ上げてくる。まさか、このような形で、躓くことになるなんて。確かに大乱戦の戦場だ。誰がどこに来ていても、おかしくは無かったが。マグニほどの使い手の接近に気付かないなんて。野望に狂って、視界が歪んだか。気配を察する力が鈍ったか。

だが、それでも。最後に一矢は必ず報いてやる。

愛騎を促し、走る。そして、槍を投擲した。マグニが矢を放つ。槍が、矢とぶつかり合って、弾き合う。

だったら、無防備なところに、チャージを浴びせてやる。

全力で加速し、愛騎の蹄に、マグニをかけようとした、その時。

愛騎が、その速度のまま、横転していた。

足を斬られたのだ。

気付くと、ヘルギとか言う人間が、見上げるようにして、肩で息をついていた。此奴が、まさか戻ってくるなんて。

乾いた笑いが漏れてくる。これで野心が終わりだなんて。だが、それも良いかもしれない。

どうせ何もかも焼き払うつもりだったのだ。自分が死ぬのも、世界が滅びるのも、スリヴァルディにとっては同じだ。

スリヴァルディが天下を取る日は来なくなった。

だが、不思議と悔いは無かった。

「今、とどめを刺してやる」

いつの間にか、ヘルギが肩にまで登ってきていた。好きにしろと、最後にスリヴァルディは皮肉混じりに吐き捨てていた。

 

3、糸をたぐる者

 

見る間に、肉体が巨神の姿を取っていく。

何者かよく分からないが、とにかくフリムのふりをしていた者であるヴェルザンディがニーズヘッグを吸収したことで、恐るべき力を手に入れた、という事なのだろうか。

運命の三女神は、それぞれユミルの三悪魔に対応する形で、世界の破滅に関わっていた。しかし、まさか残りがずっと前からフリムを操作していたとは。

フレイが剣を構えると、シグムンドが口を押さえた。

そろそろ限界なのだろう。

フレイも、大して状態は変わらない。フレイヤも、魔力がそろそろ切れてもおかしくない頃だ。

「さあて。 フレイとフレイヤ」

「何だ」

「私の作る新しい世界に、お前達を招待してやろう」

この化け物は、いきなり何を言い出すのか。

此奴は本物の怪物だ。見かけなどはどうでもいい。その中身が、今までフレイが見てきたどの化け物よりも化け物だ。

合理性という名の怪物であり、その一方でエゴを肥大化させた化け物でもある。

「此処までよく戦い抜いた。 お前達は充分に、新しい世界で我が手足となるのに相応しい存在だ。 新しい世界ではヴァン神族を主体として私と一体化したフリムが全てを支配するが、其処にお前達の居場所を作ってやろう」

シグムンドが鼻を鳴らす。

フレイがどう答えるか、分かっているからだろう。

フレイヤが此方に歩いて来る。

妹神も、相当に怒っている様子だった。

「この世界がもう駄目なことは、私も分かっている。 だが、それでもなお、貴様のような存在に従う事は出来ない」

「何故か。 既に破滅に貧したこのような世界、とっとと焼き尽くして、全てを新しくする方が合理的であろう」

「貴様はフリムをどうやって乗っ取った。 乗っ取ったときから、そのように考えていたのか」

既に、肉塊は完全に、もとのフリムの姿形を取り戻していた。

雄々しいその巨体には、簡易ながら薄い布の衣服が纏われている。既にフリムを完全に乗っ取っているのにこの姿をしているのは、どうしてなのか。何か意味があるとすれば、つけいる隙になるはずだ。

突然話を変えたことで、ヴェルザンディは怪訝に思ったのだろうか。

それでも、話に乗ってくる。

その間に、フレイヤが回復のフィールドを張る。これで、ほんの少しだけでも、フリム戦での疲弊を癒やすことが出来る。

シグムンドの限界時間も、わずかだけ伸びるはずだ。

本当は、シグムンドを救いたい。だが、救うための回復を行っている時間が無いのだ。口惜しくてならないのは、フレイだけでは無い筈。

此方の苦悩など知ってか知らずか、フリムと融合したヴェルザンディは好き勝手をほざき続ける。

「私が管理人格ではなく、独立した自我に目覚めたとき。 もっとも野心に満ち、滾る魂を持っていたのがフリムだった。 故に、私はフリムに期待した。 だが結局の所、フリムはヴァン神族の王になる事しか考えておらず、この世界を抜本的に改革しようとは、思っていなかったのだ。 だから私は、より優れたフリムを作る事にした。 最後まで、フルングニルは私がフリムであると思っていたようだが、それは正しいと同時に間違ってもいたのだ。 もっとも、私の未来絵図とフルングニルの描いたヴァン神族の覇権は、一致していたがな」

「他の三女神も事情は同様か」

「うむ。 ウルズは復讐心と怒りに引き寄せられ、スクルズーは無念と絶望に呼ばれたのであったな。 私も同様だ。 ただし私は、姉妹の中でも、自我に目覚めたのが一番早かった。 だから、ユミルが中途までしか作らなかったこの世界を、完全に仕上げようと思ったのだ。 だが、フリムは根源的な意味でおろかだった。 結局、この世界は、一からやり直すしか無くなった。 そのままのフリムであったら、おそらくスリヴァルディかフルングニルがクーデターを起こしていただろう。 それでは強固な態勢を作る前に、私の計画が破綻してしまっていた。 だからヴァン神族にも都合が良い存在として、私はフリムを「作り上げた」のだ」

ロキ=ユミルを封印から出したのも、ヴェルザンディの手引きであったという。ユミルが全ての糸をたぐっていたのでは無い。此処にいる、フリムと融合していたヴェルザンディこそが、全ての黒幕であったのだ。

確かに、アスガルドの極めて堅固な防壁に守られていたユミルを解放するのも、ニーズヘッグを吹き飛ばしたあのわけが分からない熱の技であれば、可能かも知れない。

そして、ヴェルザンディの思念は。

最強最悪の三悪魔、スルトと直結しているというのだ。

となると、スルトは遠からず目覚めていたのだろう。ユミルが余計な事をせずとも、だ。

それが、ヴァン神族をムスペルが攻撃しなかった理由か。そしてあの異常な大きさの影は、存在自体が狂っていた事の証左であった訳だ。

長広舌を振るっていたヴェルザンディだが。やがて語るにも飽いたのか、核心に入ってくる。

「で、私の身の上を聞いてなんとする。 従うのか、従わないのか」

「答えは変わらない。 ごめん被る」

「何……。 やはり理解できぬ」

「偉い神様の割に、血の巡りが悪いんだな。 ヴェルザンディって言ったら俺でも知ってる運命の女神様だって話なのに。 てめえみたいな心根のきたねえ女、願い下げだって、フレイは言っているんだよ」

シグムンドが、フレイの言いたいことを代弁してくれた。

フレイヤも頷く。

「貴方も結局、自分のエゴのために動いているだけでは無いですか。 それとも、フリムの思想に毒されでもしたのですか」

「……私が、フリム如きに毒されるだと? この私は、世界を監視し管理する存在として、全てを見続けてきたのだぞ。 今更フリム如きの幼稚な覇王論に、この私が毒されるはずが無かろう。 不敬と知れ」

ヴェルザンディの顔が、見る間に不快感に歪んでいく。

その間に、フレイは距離を少しずつ取る。

師の剣の、最適の間合いに、相手を収めるために。おそらく勝負は一瞬になる。相手の気を会話で出来るだけそらしておく必要があった。

「従わぬか。 ならば、潰すとしよう」

即時に、フレイヤが動いた。

相手の顔面に、炎の杖から火球を投擲し、叩き込む。爆発が、視界を塞ぐ。

同時にフレイが剣を振るい、ヴェルザンディの足を切りつけた。再生したばかりの足が、脆くも両断される。

ヴェルザンディは、それでも倒れない。

足が瞬時にふさがるのが分かった。続けて腕も胸も切ってやるが、肉が即座に回復していく。

フルングニル以上の、異常すぎる回復力だ。

煙が晴れて、ぬっとヴェルザンディが顔を突き出してくる。肉体はフリムと同じだが、額に女神の顔がある。狂気に歪むと、美しい顔立ちは、恐ろしさを帯びる。

「潰すのも生ぬるい。 喰らってやろうか」

無言のまま、フレイヤが更に火球を叩き込む。だが、手で払うようにして、火球を吹き飛ばすヴェルザンディ。

後ろに回っていたシグムンドが、剣を突き刺そうとするが、残像を抉って愕然とする。シグムンドにも、気がついていたのか。

高々と跳躍したヴェルザンディの掌には、炎が集まっていた。

そして、振り下ろされる手。

辺りが、紅蓮に包まれる。

人間も巨神も関係無い。何もかもを、根こそぎ焼き払っていく。高笑いしながら、ヴェルザンディは翼を広げる。

いや、あれはもはやそんな代物では無い。

おそらくは、アレこそがスルト。

破滅亡炎騎士スルトが、あの者の正体なのだろう。ヘルやヨムルンガルドがそうだったように、運命の三女神は、そのまま滅亡の三悪魔の権化だったのだ。

高笑いしながら、着地するヴェルザンディ。その衝撃で、吹っ飛ばされ、地面に叩き付けられる。

限界だ。

「どうした。 こんなものは私の仮の肉体に過ぎぬ。 私の真の体は、今正にアスガルドへ向け、進軍している所だというのに」

「真のからだ、だと」

「そうとも。 お前達も知る破滅亡炎騎士スルトの肉体だ。 私はその肉体を用いて、アスガルドを焼き尽くし、そして世界を一端滅ぼして、全てを一度溶かし尽くすのだ」

立ち上がろうとしたところを、踏まれる。

巨神の足で、全体重を掛けて、だ。

鎧が砕けるのが分かった。高笑いするヴェルザンディに、必死にフレイヤが炎を叩き付けているようだが、効いているのだろうか。けたけたという笑い声が、フレイの所にまで響いてくる。

一瞬だけ、拘束が緩んだので、飛び出して脱出する。

もう、鎧は駄目かも知れない。ヴェルザンディは、見ると。肩に突き刺さった矢を、面倒くさそうに引き抜いている所だった。

「間に合ったようだな」

矢を放ったのは、マグニだ。

側にはアネットとブリュンヒルデもいる。

アネットが無言で駆け寄ると、回復の術をかけ始める。ブリュンヒルデは舞い上がり、フリムの顔面に槍から光を叩き込みはじめた。

「戦況が落ち着いてきたから、来た。 どうにか勝てそうだ」

「そうか」

「シグムンド!」

駆け寄ってきたのは、ヘルギである。

泣き顔を更にくしゃくしゃにしているのは、一目でシグムンドの状態に気付いたからだろう。

ヴェルザンディも、無論黙ったままでは無い。

両手に炎を宿すと、地面に叩き付けてくる。アネットが剣を振るって、炎を切り裂いて見せたが。数十発の炎弾が、連続して着弾。辺りを地獄と化した。

フレイは飛び退きながら、決める。

此奴を倒すには、至近から火山の弓を叩き込むしか無い。しかし、何度も用いた火山の弓は、既に限界が近い状態だ。フレイ自身にも、どのような負担があるか分からない。しかし、それでもやるしか無い。

フレイヤも頷く。

タイミングを合わせて、雷鳴の槍から、最大出力での稲妻を叩き込むしか無い。そうでなければ、ヴェルザンディの途方も無い回復力を、突破できないだろう。

「時間を、稼いでくれるか」

「任せろっ!」

マグニが、飛び出す。ブリュンヒルデも、高度を上げると、連続して光の槍を降らせはじめた。

鬱陶しそうに腕を振るい、辺りを手当たり次第に爆砕するヴェルザンディ。

盾を取ると、アネットが飛び出して、フレイの前に立ちはだかる。そして、大きくはじき飛ばされながらも、直撃をフレイからそらした。

火山の弓を、引き絞るフレイ。

詠唱しながら、槍に力を貯めていくフレイヤ。

ヴェルザンディが、吼えた。

手を伸ばして、ブリュンヒルデを掴もうとする。だが、わずかに体が揺らぐ。足下、ヘルギの大剣が、足を抉ったのだ。

顔を憤怒に赤く染めたヴェルザンディが、掴んだわずかにその上を、ブリュンヒルデが飛ぶが。

しかし、ヴェルザンディの口が耳まで裂けると、巨大な火球が放たれる。直撃を受け、吹っ飛ばされるブリュンヒルデ。

矢を放ったマグニが、その口の奥に直撃させる。

だが、首の後ろに矢が抜けても、ヴェルザンディは気にもしていない。足を踏みならして、マグニを潰しに懸かる。ヘルギが、足を登っているのが見えた。膝の裏に、剣を突き刺すヘルギ。

面倒くさくなってきたのか、ヴェルザンディが足をふるって、ヘルギを吹き飛ばしたが。その隙に、今度は膝の下に、マグニが矢を叩き込んでいた。

あと少し。

体勢を立て直したブリュンヒルデが、水平飛行に移り、光の槍を乱射する。全身に突き刺さった光の槍に、肉がちぎられ、血が噴き出すヴェルザンディ。だが、血しぶきを浴びながらも、恐るべき破壊の女神は目を光らせ、瞬時に全身を回復させてしまう。魔力も凄まじい。

或いは、ロキ=ユミル以上か。ヘルに匹敵するかも知れない。

手が、不意に伸びた。フレイヤを掴もうとする。だが、飛び出したアネットが、盾をかざして、自分ごと掴ませる。

アネットを握りつぶそうとするヴェルザンディ。

その時。

「う、うわあああああああっ!」

不意にその場に躍り込んできたサーニャが、上空から雷撃のような一撃を、振り下ろしていた。

ヴェルザンディの手首が、千切れ飛ぶ。

空中で解放されたアネットを、気弱なワルキューレが抱き留める。

時間、完了。何時でも放てる。

だが、ヴェルザンディには高速移動がある。どうにかして、動きを止めなければ。そう思った、矢先だった。

見えた。

ヴェルザンディの首元に、シグムンドがいる。

そして、彼は。少しだけ笑うと。何ら躊躇なく、ヴェルザンディの首に、剣を突き立てた。

巨大な化け物の頭から上が、瞬時に燃え上がる。

おそらく、炎の中には、シグムンドもいる。シグムンドは、少しでも炎を強くするため、最後の命を使ったのだ。

「が、ぐぎ、ぎゃぎあああああああっ!」

舞うようにして、ヴェルザンディが踊り狂う。

シグムンド。許してくれ。

お前の命、無駄には出来ない。

フレイはそれだけいうと。

火山の弓から、全ての矢を放った。そして、フレイヤも、タイミングを合わせて、最大出力の稲妻を、解放していた。

一瞬、世界から色が消えた。

火山の爆発に等しい破壊力が一点に収束し、超再生能力を持つヴェルザンディの肉体を、全て消し飛ばした。

爆風をこらえるのが、精一杯だった。

全てが終わったとき。

其処には、巨大なクレーターが鎮座し。

そしてクレーターの底には。

シグムンドがずっと愛用していた剣が。焦げ付きながらも、突き刺さっていたのだった。

涙が零れそうになる。フレイヤが、走り出した。所在なげに、辺りを見て廻っている。

「シグムンド! シグムンド! どこです!」

誰も、それにはこたえられない。

ヴェルザンディはおそらく死んでいない。本体としているスルトの肉体が接近しているというのなら、そちらに移ったことだろう。

だが、奴が巨神族を操ることは、もう出来ないはずだ。

シグムンドは、巨神族を葬ったのだ。

ヘルギが、呆然と立ち尽くしているのが分かった。おそらく、この世界にて生き残った最後の北ミズガルドの民か、もしくはその一人だろう。

ほどなく、アルヴィルダとグンターが来る。

「巨神共と、魔物共は総崩れになった。 掃討戦の必要も無かろう。 ただし、味方の軍勢も、生き残りはごく少数だが」

「どれほどか」

「エインヘリアルが三千。 人間の戦士が一千弱というところであろうな。 兵力の過半が、失われたわ」

若き神々も、殆どが戦死したという。

スルーズは本陣に乱入してきた大巨神と相打ちになった。マグニはそれを聞いて、そうかとだけ呟いた。

ブリュンヒルデ、アネット、サーニャのワルキューレ達は生き延びていたが。皆負傷が酷い。特にブリュンヒルデはヴェルザンディの攻撃を激しく浴びていたこともあって、戦いが終わるとすぐに地面に墜落し、エインヘリアル達に運ばれていった。意識も、戻っていない様子だ。

いずれにしても、この状態では、戦えない。兵力の九割近くを喪失したのだ。アルヴィルダやグンターまでもが負傷している状態である。五体満足な戦士など、誰一人残っていない。

もはや役にも立たないだろうが、アスガルドを守る結界の中に戻る。ムスペルが押し寄せるまで、まだ時間はわずかにある。

その間に、可能な限り、回復させなければならない。

シグムンドが死んだことを聞くと、アルヴィルダは驚きの表情を珍しく顔に浮かべた。そして、大きく嘆息した。

「そうか。 ラグナロクであれば、あれほどの勇者も死ぬのだな」

もう冥府は満杯だろう。

巨神も全滅に等しい。生き残りもわずかにいるようだが、これからムスペルが攻め寄せれば、なすすべなく焼き尽くされてしまう。

スヴェルトヘイムの魔物達も同じだ。

ニーズヘッグが死んで、混乱している彼らは、そのまま死んでしまうか、ただの獣に戻るだけである。

ムスペルが来れば、駆逐されてしまうのみだ。

引き上げが始まる。朱に染まったヴィーグリーズ平原は、死体と血と、肉片と内臓の展覧会場と化していた。

生きた存在は、アスガルドに全てが集まりつつある。

その全部が、殺し合いをしている。

最後に生き残るのは、誰なのだろう。

生き延びたとして、何になるのだろう。だが、生き残らなければならない。命を賭けて、フリムの肉体を滅ぼし、巨神族を倒してくれたシグムンドの意思を、無駄にしないためにも、だ。

麓にいるムスペルの軍勢は、既に山に登りはじめていた。

アスガルドに到着するまで、数刻。

結界が破られるまで、そう長い時間は掛からないだろう。

フレイは壊れてしまった火山の弓を一瞥する。フレイヤも、雷鳴の槍を、最後の一撃で壊してしまっていた。

絶望が加速していく。

戦いは、終わる気配を見せ始めていたが。それが勝利に結びつくとは、どうしてもフレイには思えなかった。

 

ムスペルの群れの中にいた、一体の紅い騎士が、不意に動きを止める。

その全身に、無数の眷属が集まりゆく。

鎧になり、兜になり。

そして、見る間に、他とは違う威厳を備えた、黄金の鎧を纏う騎士へと変化していた。

紅い騎士達が跪き、恭順の姿勢を見せた。当然だ。何しろ、その黄金の騎士は、彼らの王なのだから。

しばらく手を握り込んだり、首を動かしたりしていた最強の騎士だが。やがて、意思の光を、目に宿らせた。

最初の一言が、直ちにムスペルの軍勢を動かす。

「腹が減った。 血肉を用意せよ」

無言のまま、ムスペルの軍勢が散る。

そして、予備兵として待機していた巨神の負傷兵や、獣とかして逃げ散っていたスヴァルトヘイムの魔物達を、片端から刈り始めた。

それはもはや、戦いと呼べるものではなかった。一方的な捕食だった。抵抗は無意味であり、極めて機械的効率的に、作業は進められた。

運ばれてきた血肉、時には生きた獲物に、黄金の騎士が触れる。

見る間に、獲物がその肉体に取り込まれていく。わざわざ喰らうなどと言う動作は必要ない。全てまとめて吸収してしまえば良いのである。それで最も効率よく、相手の力を取り込むことが出来る。

目を細める黄金の騎士。

同じように、ヨトゥンヘイムでも、有望な巨神を何度も喰らってきた。強さを吸収し、知識を奪い、そして肉体の長所も自分のものとした。

こうして、ヴェルザンディは将来新しく作り上げる世界のため、ヴァン神族のデータをより強く取り込んでいったのだ。フルングニルら最高幹部を喰らわなかったのは、ヴァン神族の組織自体を弱体化させなかったためだったが。それももう、今では関係が無い。生き残ったヴァン神族は、全て新しい世界のための礎石だ。

そして今、黄金の騎士に、アスガルド以外の全ての生き残りが、吸収されようとしている。

既にアスガルドの外全ては、虚無に飲まれているこの現状で。

黄金の騎士の暴虐から逃れられる存在は、誰もいなかった。

山と積み上げられた贄を黄金の騎士が食べ尽くしてしまうと、進軍が開始される。それは、正に滅びへの路行き。

焼き尽くし、滅ぼし尽くせ。

劫火が歌になる。破滅の招きが、詩になる。

ムスペルの眷属達が、紅い騎士が進んだ後ろの大地を溶かしていく。やがてそれは、虚無に変わっていくのだ。

虚無の中に浮かんでいたアスガルド山が、ほどなく岩の塊へ。それは山の形状をしておらず、滑稽なほど虚無の中では小さく見えた。

岩の塊の上にある結界のみが、敵の勢力範囲内。

他は全てが、新しい世界を造り出すための虚無へと、移り変わっていった。

全てを破壊する。

本来、スルトの中にはそれしかない。だが、今では乗り移ったヴェルザンディが、その破壊衝動を掌握していた。

最後の戦いが、始まろうとしている。

戦力は、圧倒的にムスペル側が大きい。

それは戦いと言うよりも、むしろ虐殺とでもいうべきものに、なり果てようとしていた。それこそが、ヴェルザンディがコントロールしてきた、世界の終末の形。

これから、何もかもが消え去る。

その後に、新しい世界が作られるのだ。

スルトは部下達を伴ったまま、残ったアスガルドを消滅させるべく、一歩一歩歩いて行く。

最後に滅ぼすべき獲物は。

すぐ近くに、迫っていた。

 

4、最後の前のひととき

 

負傷兵達を、泣きそうな顔でサーニャが直している。だが、助かりそうに無い兵士達も多い。

兵力の大半が消し飛ぶほどの戦いだったのだ。負傷して戻ってこられただけでも、幸運だったと言える。

これは戦争と呼べるものではなかった。

互いの生存を駆けた、殲滅。

殺し合いでさえなかったかも知れない。

北の民でも、レギン、ヴェルンドの戦死が確認されていた。シグムンドの戦死も衝撃的だったが、歴戦の彼らの死は、非常に痛いものがあった。生き延びた北の民は、ヘルギ他ごく少数に過ぎなかった。

ブルグントやゴートの出身者も、打撃は著しい。

特にアルヴィルダの親衛隊は、既に生存者がいない。黄金の鎧を着た忠誠心篤い戦士達は、戦場で全員が華々しく散った。誰もがアルヴィルダのために死ぬ事を厭わなかったのである。

サラマンデルも、既に最後の一機のみとなっていた。その一機も、動いているのが不思議なほどの有様である。黙々とサラマンデルの側で働いているエルファンというまだ幼さを顔に残している技術者は、涙をこらえるのに必死なようだった。アルヴィルダのために残った技術者も、ついに彼を残すのみとなってしまっていたからだ。

心の傷を受けた戦士も多い。

膝を抱えて座っている者。

数少ない女性兵士達の中には、物陰で泣いている者もいた。

フレイは心の中に穴が開いたような気分のまま、自分の神殿跡に座り込み、空を見上げていた。

宝物庫には、今ヘイムダルが行ってくれている。

残った神々の武具、全てを運び出してくる予定だ。鎧はもう無いという話だが、まだ強力な武具は残っているかも知れない。

まだ、最強の勢力である、ムスペルが健在。そればかりか、ムスペルを率いているのは、時を司る運命の女神であるヴェルザンディと融合した、最強の魔神騎士スルトなのだ。勝ち目など、どこにあるのだろうか。

そう思うだけで、絶望が心を浸しそうになる。

だが、命を賭けてシグムンドが路を作ってくれたのだ。躊躇っているわけにはいかなかった。

ムスペルは結界の外で積極的に活動し、生き残った巨神や魔物を、片端から狩っている様子だ。

幸いというべきなのか分からないが、それで奴らは足を止めている。進軍速度を考えても、後一日ほどは余裕があるだろうと、フレイは見ていた。その間に、せめて態勢を整えておかなければならない。

鎧のダメージは深刻だが、壊れるまでには至っていなかった。

しかし問題がある。

おそらく激烈な戦闘の影響だろう。アスガルドに満ちていた魔力が、露骨に目減りしているのだ。

鎧の回復もかなり遅くなっている。

フレイヤも、魔力の回復に難儀している様子だった。

だが、フレイは少なくとも、表情は毅然としていた。絶望に包まれている戦士達を、少しでも元気づけなければならないからだ。

「フレイ様」

視線を向けると、ラーンだった。

彼女も生き延びた一人だ。ハーゲンも生き延びている。

ただし、次の戦いで生き残れるようには、どうしても思えない。だが、それでも、生き残れる可能性を、少しでもフレイは高めなければならない。

「どうした、勇敢なるラーン」

「そんな風に言って貰えると光栄です。 ヘイムダル様が呼んでおられます」

「そうか。 すぐに行く」

フレイヤを伴って、すぐに宝物庫へ。

ヘイムダルは情報を一手に握っている人物だ。宝物庫にある神の武具の中で、使えそうなものを探し出せるとしたら、彼しかいない。

ラーンもついてきた。

「良いのか、王の護衛をせずに」

「軍は解散しました」

「……?」

「王の意向です。 此処からは、各自が好きなように戦うようにと。 兵力がもう残り少なすぎて、組織的な戦闘はほぼ不可能だから、各自散開して思うように戦う方が良いだろうと」

一見やけになったようにも思えるのだが。

しかし、グンターの指示を受けても、兵士達が統率を失う事は無い様子だ。グンターが、それだけ強い求心力を持っているという事だろう。

ラーンのような行動をする方が、例外なのか。

オーディンの神殿は滅茶苦茶だったが、階段から地下に下りていくと、流石に無事な箇所も多い。

強力な魔術の防御結界のうち、幾つかは健在だ。

或いは、最後の最後には、此処に籠城するのも手か。しかし籠城したとしても、ムスペルには無力だろう。

結界の防備を利用して、少しでも敵の戦力を削り。

そして、スルトに、ありったけの力をぶつけるしか無い。そのためには、あらゆる手段を講じる必要があるだろう。

ラーンが物珍しそうに、周囲を見つめている。まだ、宝物庫は下のようだ。エインヘリアルが時々所在なげにうろついているのは、任務の一端として、此処の警備があったからだろう。

「フレイ様、オーディン様って、どんな方だったんですか?」

「冷厳で合理的な支配者だった。 手段を選ばない所はあったが、それでもアスガルドの事を愛していた」

「尊敬、していたんですか?」

「……そう、だな」

オーディンの作り上げた仕組みが、歪みを決定的にしたのも確かだ。

フレイヤは特に不満が大きい様子だ。冥界から帰還してからは、それを露骨に示すようになってもいた。もっとも、フレイの前以外で、そんなことは口にしなかったが。

だが、元々不完全な世界だったのだ。

オーディンの選択と仕組みは間違っていたかも知れない。だが、それ以外に、方法はあったのだろうか。

許せない部分も多い。

しかし、憎みきれないというのが、今の本音だった。

運命の三女神が、世界を管理するシステムだった時に、オーディンはこの光景を見せられたのだろうか。それならば、手段を選ばずに、世界を守ろうとしたオーディンの行動も頷ける。

世界は、滅びる。

ラーンとフレイヤは一言も口を利かなかったが。ラーンから、フレイヤに話しかける。大きな壁があると思っていたので、フレイは驚いた。

「貴方はどうなの、フレイヤ様」

「私は、そうですね。 兄様と同じとは、言い切れないかも知れません。 冥界で見てきたことや、今までの出来事、それに人間達への仕打ちを考えると、オーディン様を許せない気持ちは、強いです」

「そう。 何だか、安心したよ。 以前は何もかもお兄様お兄様だったから」

「何だか、今ならば、その言葉の意味が分かるような気がします」

ラーンは妙にフレイヤに対してライバル心を燃やしているようだ。フレイヤも、ラーンを何処かで嫌っているらしい。

だが、今は普通に話をしている。

多少、会話の内容はとげとげしていたが。

階段を下りていくと、少し広い空間に出た。

光が差し込んでいる。そうか、此処が話に聞いていた、ロキが封印されていた空間か。テュールが異世界に去る前に、少しだけ聞かされたのだ。

そのほかにもテュールは、去り際に色々と最高機密の話をしてくれた。フレイが知らないものも多かったのだが、実は敵と戦っている間に、知ることになった知識も多数あった。すっかり衰えていたテュールは、そうだと言う度に、老人のように嬉しそうに頷いていた。きっと、孫を見守る祖父の気持ちだったのだろう。

ヘイムダルがいた。

エインヘリアルと共に、めぼしい武器を幾つか積み上げている。その中に、青く輝く槍があった。

「ヘイムダル殿、その槍は」

「うむ、やはり真っ先に目が行くか。 この槍こそ、ゲイボルグ。 グングニルに次ぐ最強の槍だ」

もらっても良いかと聞くと、頷いてくれた。

ゲイボルグは一見すると普通の槍だ。装飾もあまり多くは無い。

だが投擲すると三十にも分裂して、敵に襲いかかる。しかもその全てが、敵に必中するという。

これは凄い武具だ。

ただし、かなり重い。一度の投擲で、かなり魔力を吸い上げていく様子だ。投げると手元には戻ってくるようだが、何度も使えはしないだろう。文字通りの切り札として、用いるしか無い。

フレイヤには、装飾がきらびやかな杖が渡されていた。

「これは、随分と古いもののようですが」

「宝物庫からだした武具では無い。 ヴェルザンディを倒した後、エインヘリアルが見つけて回収してきた」

「!」

「おそらくは、ユミルの杖だ。 これを主軸にして、ヴェルザンディはフリムと融合していたのだろう」

それは、途方も無い魔力を秘めていることが、一目で分かった。

フレイヤが触れると、淡く輝きを放つ。

さあ、誰を殺せば良い。

どうやって焼き尽くせばいいのか。そう告げているかのように。

他にも、トールの剛弓用の特殊な矢が二束。これからの戦いで、どれだけ必要になるか分からない。矢はいくらでもあった方が良いだろう。

他の武具は、神々と、残った戦士達に分けられる。

ヘイムダル自身は、何かの武具を懐にしまっていた。武芸に優れているとはいいがたいヘイムダルである。どのような武具を手にしたのかは、だいたい想像がつく。だが、フレイには、止める権利が無かった。

残った宝物は、あらかた運び出す。

中には、神々が鍛えた鉄や、燃料なども存在していた。サラマンデルに使えば、ムスペルと渡り合えるかも知れない。

時間は、刻一刻と過ぎている。

エインヘリアル達に運び出しを任せながら、フレイは宝物庫の武器を、全て頭に入れていく。

余るようなら、フレイが持っていく方が良いだろう。

火山の弓、雷鳴の槍を失った今、少しでも決戦に用いることが出来る武器は、多い方が良い。

ましてや、最高級の神々の武具は、使える者が限られてくるのだから。

宝物庫を出る。

空は、嫌みなほど青く澄み渡っていた。監視に当たっているエインヘリアルが来る。

「フレイ様」

「ムスペルか」

「はい。 前進を開始しました。 六刻後には、結界が攻撃の範囲内に入ります」

「……分かった。 いつかは来るのがはっきりしていた。 今更、恐れる事は、何一つ無い」

すぐに、グンターとアルヴィルダにも、今の情報を伝えさせる。

そしてフレイ自身は、結界の外縁に出た。

トールの剛弓の射程に敵が入るのが、ほぼ同じ六刻後。できる限り敵を削り取り、スルトとの決戦を少しでも有利にする。

アウトレンジの攻撃で、どれだけ敵を倒せるかが、勝敗を分けるだろう。

まだ敵は見えない。

フレイはその場に座り込むと。鎧の回復を進めながら、敵の到着を待つこととした。

 

まだ、戦いが始まるまで、時間がある。

それをアルヴィルダが告げると、まだ周囲をうろうろしていた兵士達はめいめい散っていった。酒が振る舞われることになったから、それを味わいに行く者。肉が配られるので、それを食べに行く者もいる。だがそれらはむしろ少数派。

散った者達は、誰もが所在なげに、歩き回っていた。

どうして良いか、分からないのだ。

実のところ、アルヴィルダもそれは同じである。最後の挨拶でも皆に済ませておこうと決めて、周囲を見回す。

金属を叩く音が聞こえてきた。サラマンデルの方からだ。

サラマンデルをずっと弄っているエルファンが、神々から提供された鉄を惜しみなく使っている。

此奴はこんな時まで技術者か。

煤まみれになって、自分が造り出すのに貢献したサラマンデルを、ひたすら愛でている。心底から技術者なのだ。

邪魔をしてはいけないと思い、通り過ぎようとする。

そうしたら、エルファンから声を掛けてきた。

「アルヴィルダ様」

「どうした、何か問題が起きたのか」

「い、いえ。 もうだいたいは、出来ています。 敵が来るまでには、確実に終わり、ます」

「ならば少しは休んでおけ。 サラマンデルは、最後の戦いで、切り札として活用できるだろう」

搭載している火薬も、以前とは全く別物だ。

今回は特に、神々から提供された燃料なども用いることになっている。ムスペルの紅い騎士でさえ、直撃を浴びればひとたまりも無いだろう。

ただし、紅い騎士は二十体。

それにスルトが加わる。スルトについてはアルヴィルダも聞いたが、今までの三悪魔の中でも、確実に最強の存在だという。そのような化け物と戦う事になるとは。

「あの、アルヴィルダ様。 その……」

「何じゃ。 男ならはっきりせい」

「その、戦いが終わったら。 ……僕を」

夫の一人に加えてください。

そう、気弱げな少年は言うのだった。

くすりと笑うと、アルヴィルダは良かろうとこたえた。とはいっても、この戦いが終わるまで、生きていられるとはとても思えない。

それはアルヴィルダもエルファンも同じ事。

「ただし、それはムスペル共を滅ぼした後じゃ。 妾もそろそろ身を固めようと思っていた所。 此処まで努力を続けたそなたなら、夫の一人としては申し分なかろう」

「あ、ありがたき幸せ!」

喜び勇んで、エルファンがサラマンデルの整備に戻っていく。

アルヴィルダも、何だか気分が良かった。

今では一人も生きていない親衛隊の者達も、何名か夫に加えてやろうと思っていた。女王としては、確実に子孫を残さなければならない。ゴートでは、女王は複数の夫を持つ事が珍しくも無かったから、別にアルヴィルダの考えが独特なのでは無い。だが、結局の所。夫に出来そうなのは、エルファンくらいか。

何だかおかしな事になったものだ。父王が連れてくるモヤシのような婚約者候補共を追い払い続けて、結局結婚することは無かった。最後まで戦士として生きることになってしまったが、それは幸せなのかどうか、よく分からない。

グンターの所に行く。

側にはずっとハーゲンが控えていた。アルヴィルダは知っている。ハーゲンがずっと、アルヴィルダを嫌っていたことを。

「グンター王、状況はどうじゃ」

「敵との戦力差は、一対一万というところだろう。 もはや何をしようと、生き残ることは叶うまい。 だが、せめて神々がムスペルを滅ぼす手助けをすれば。 異世界に逃れた者達は、救うことが出来よう」

「うむ……」

この世界はもう終わりだ。

並んで、空を見上げて。そう思う。

ずっとついてきた親衛隊の者達は、全てが命を落としてしまった。唯一残った臣下はエルファンのみ。

グンター王も、状況はほぼ同じだ。

精鋭部隊は壊滅し、他の戦力もほぼ全滅状態。

懐刀の騎士団長は生き延びているが、それも此処までだ。ムスペルを今まで倒せてきたのは、各個撃破をして来たから。

次の戦いでは、二十体の紅い騎士と、無数の眷属を同時に相手にしなければならない。

その上、奴らを葬っても、最強の三悪魔スルトが控えているのだ。

「妾は酒でも飲むとする。 王はどうする」

「余は此処で静かに今までの事でも思うとする。 もはや家族もおらぬ、家臣達も、殆どが冥府に去ったでな。 愚痴を言う相手もおらぬわ」

「そうか」

誰もが、やけになっている。

その一方で、高揚を感じてもいるのだろう。

ふと視界の隅に、ヘルギとラーンが映った。どちらも癖が強い戦士だが、此処まで生き延びただけのことはある者達だ。

「結局あんたは、最後までヘタレなのね」

「そうだよ、俺はヘタレだ。 だが、ヘタレらしく、意地でも生き残ってやる」

ヘルギは、シグムンドが死んでも、やはり変われないか。

だが、それが故に、生き残れてきたのも事実だ。変われる人間など、そう多くは無い。

ワルキューレのアネットが、二人に駆け寄る。

「こんな時まで、喧嘩しているの?」

「何だよ。 喧嘩じゃ、ないけどよ」

「体力の無駄。 出来るだけ、休んで」

「……分かってる。 だけど俺も、多分こいつも、どうしていいのかわからねえのさ」

何だかトンチキな会話だ。

だが、それが青臭くてよい。

流石に子供であるアネットの前で、言い争うことは出来ないと思ったのか。ふんと吐き捨てて視線をそらし、二人は離れていった。

宝物この近くで、マグニが飲んでいた。周囲には、もはやアスガルドの最後の備蓄であろう酒樽が積まれ、あるいは開けられていた。

芳香がとても強い。神々が飲む酒は、味が強烈で、アルコール成分も非常に濃い。これは彼らが、快楽を極め尽くし、行き着くところまで行ってしまったからだろうと、アルヴィルダは考えていた。

今は、そんな退廃的な酒でも、飲むのが良いかも知れない。

「マグニ神」

「おう、姫様か」

「一杯いただきたい」

酒杯を差し出してくるので、遠慮無く受け取る。

所在なげにさまよっていた戦士達も、おいおい集まってきていた。

 

フレイヤは、兄の元へは行けなかった。

何となく気付いてしまったからだ。

兄は死ぬ気だ。

今の状況で、死ぬ覚悟くらいは誰もがしている。オーディンやトールがたとえこの場にいても、絶望的な戦況に変化は無かっただろう。兄の覚悟は、そう言う意味では無い。おそらく差し違えてもスルトを屠り、人間達を守るつもりなのだ。

フレイヤは、冥府に行った。

そこで、多くのものを見てきた。

平和に暮らしている全ての種族。魔物さえもが、人間や巨神、神々と手を取り合って、平穏な生活をしていた。

怠惰で堕落した世界だったが。それでも、この世界とは違う平和が、冥府にはあった。

冥府が良いとは想わない。

だが、この世界よりは、まだマシなのでは無いだろうか。

もしも、やるべき事があるとしたら。

兄を死なせたくない。

そのためには、手は一つしか無い。

手にしたユミルの杖を見つめる。これが欲しいがために、ニーズヘッグはあれほどの策謀を巡らせていたのだろう。

つまり、この杖には。

それだけの力がある。きっと、兄を守る事も、出来るはずだ。それだけではない。この腐敗しきった世界を、破壊せずに変えることも。

兄に、死なないでとは言えない。

誰だって死にたくないのだ。それは自分のエゴだと、フレイヤは知っている。そして、フレイヤは、エゴを誰よりも憎んでいる。母がエゴの怪物だったから、かも知れない。その母がエゴから解放されたときの、冥界での光景を見て。なおさら今は、その気持ちが強くなっている。

ならば、フレイが差し違えなくても良いように、その分自分が働けば良いのである。

幾つか、まだ余っていた宝物を見繕う。

ディースの弓に、このユミルの杖。あと一つ、何か決定打になる武具が欲しい。風刃の杖や雷鳴の槍が壊れてしまった今、炎の杖、氷の杖、王錫だけでは心許ない。

シグムンドが生きてくれていれば。

今でも、信じられない。あの男が、死んだなんて。

探しに行きたい。

しかし、あの焼け焦げた剣を見て、生きていると楽観できるほど、フレイヤは子供でも無ければ、夢想家でも無かった。

ふと、目にとまるのは、小さな剣。

これは、魔の力を秘めた宝剣だ。

手に取ってみる。

フレイヤでも振るうことが出来る。ただし、これもユミルの杖と同じく、吸い上げられる魔力が著しい。

魔光の宝剣、とでもいうべきか。

見ると、どうも作ったのはオーディンであるらしい。無言でオーディンの神殿跡に向かうと、剣をオーディンの朽ち果てた玉座に突き刺す。

これで、残っていた魔力を、剣に根こそぎ吸い上げることが出来る。一発だけなら、魔力消費無しで用いることが出来るだろう。

準備は、出来るだけしておきたい。

鎧の補修はどうにか終わっている。フレイヤの魔力も、接敵するまでには回復しているだろう。

崖の方に行き、下を見上げる。

どうやらムスペルの軍勢は、一丸となって進んでくる様子だ。

しかも、もう山の裾は、完全に虚無に飲まれてしまっていて、何も残っていない。この世界は、文字通りアスガルドしか残っていないのだ。

北ミズガルドも、ブルグントも、ゴートも。

更に言えば、スヴァルトヘイムやヨトゥンヘイムまでも。

唯一残っているのだろう冥界。

スルトも、其処へ必ず送り込まなければならない。

兄を見つけた。

少し悩む。

だが、結局側に行くことにした。

死ぬなとは言えない。勝って新しい世界を作ろうとも、言いがたい。

ただ、隣に並んだ。

「フレイヤよ。 私は決めた」

「兄様。 私も、決めたことがあります」

何も言わずとも、互いの意思は伝わる。

それで良いのだと、フレイヤは思った。

間もなく、最後の敵。ムスペルの大軍勢が、アスガルドに乱入してくる。奴らさえ倒せば、全ての希望が、見えてくる。

これ以上、誰も死なせたくない。

だがその願いは、叶うことが無いだろう。生き残ることが出来る者がいるだろうか。いや、きっと。

誰も、生き残ることは叶わない。

だが、ムスペルの。いや、世界を管理していた者の、好き勝手にはさせない。絶対に、させてはならないのだ。

「シグムンドが、路を作ってくれた。 スルトは、必ず倒さなければならない」

「はい。 私も、助力します」

「うむ……」

それからは無言のまま、二柱の神は、はゆっくりと迫り来る滅びの軍団を見つめ続けたのだった。

 

(続)