世界を飲み込む者
序、対決の秋
巨神と戦い、死者と戦い。それでも生き延びてきた兵士達から、どよめきの声が上がる。ブルグント王都の東の平原に布陣したおよそ五万の兵士達の後方、グンター王の親衛隊に混じって戦いに備えていたラーンは、これ以上も無いほどの恐怖が、皆の中でふくれあがるのを感じた。
ラーンだって怖い。
地平の果てからせり上がるようにして現れたそれは。
もはや、存在そのものが、理不尽極まりないように思えたからである。
まるで島か山だ。
それが蛇の形を取って、此方に飛んでくる。
「もはや、人がどうにか出来る相手ではない……!」
勇猛な騎士団長ハーゲンでさえ、そんなあきらめの声を漏らす。作戦については、既に決まっているというのに、これでは、そんなもの無駄になるとしか思えない。あるだけの投石機や作ったばかりの戦塔を持ち出している。サラマンデルも四機が出てきているが、何の役に立つのか。投石機で人間大の石をぶつけたとして、とても効くとは思えないのである。
おぞましい色に染まった空の下を、巨大すぎる化け物は、動きだけは蛇のようにして泳ぎ回っていた。
ラーンも聞いている。
あの怪物ただ一匹が、アスガルドを滅ぼしたのだと。
それだけではない。巨神族さえ、あの怪物に、食い尽くされたのだと。
神でさえどうにも出来ない、文字通りの終焉の存在。ラーンは生唾を飲み下すと、それでも、作戦に沿って動こうと、思う。
フレイのことが好きだ。
だから、せめて何かの役に立ちたいのである。
「騎士団長、戦いましょう」
「分かっている……」
竜殺しのハーゲンが、恐れをなすほどの相手だ。
凡人達が、どう立ち向かえば良いのか。グンター王でさえ、蒼白になったまま、愛馬の上で固まっているほどなのに。
ラーンだって、逃げ出したい。
だが、逃げれば。
後ろには。無防備な、ブルグントの王都があるのだ。
両親の情報は無い。穀倉地帯で農民として働いていた二人の運命は明らかだ。巨神に殺されなくても、今頃は死者に殺されて、冥府にいることだろう。もし逃れていても、ブルグント王都に来ていないということは、ムスペルの餌食だ。
農民として生きるのが嫌で、武勲を立てるために軍人になって。フレイに出会うことは出来たが、それ以外には何一つ良いことも無し。
だが、逃げないという選択は出来た。
ブルグント王都には、ラーンの家族のような境遇の者達がいくらでもいる。あの化け物に、好き勝手はさせられない。可能な限り、悲劇を抑えなければならないのだ。
「騎士団長! 我々が率先して勇気を見せなければ!」
「……そうだな」
ようやく、ハーゲンも気力を取り戻したらしい。
それに、よく見れば。
大怪蛇の体には、無数の傷がついている。血が止まっていない大きな傷もあるし、顔は歪むほど酷い打撃を受けた跡もある。
連戦で、無事では済まなかった証拠だ。
しかも巨神と違って、攻撃を受ければ回復できないらしい。些細な傷でさえ残っている所を見ると、ダメージは与えれば与えるほど、意味が残るのだ。
ひょっとすれば、勝てるかも知れない。
此方には、フレイ様がいるのだから。気にくわないがフレイヤ様もいるし、他の若い神々もいる。
人間だけだったら、どうにもならない相手。
だが、神々もいるのなら、或いは。
「我々の任務は、牽制と神々の護衛だ!」
ハーゲンが、声を張り上げた。
兵士達も、あれを倒せるとは思っていない。だから、敢えてこういう。せっかくの士気に水を差してはいけないからである。
この辺りは、ラーンにも分かってきた。
近衛の兵士として採用されて、戦闘指揮の上の方をずっと見てきたからだろう。実際に近衛に採用されてからの期間はさほど長くなかったが、毎日の密度が凄まじかった。多分数年分か、それ以上の経験にはなっているはずだ。
「偵察から、スヴァルトヘイムの魔物を見かけたという声も上がっている! ヨムルンガルド=フェンリルと戦う神々に、魔物共を近づけさせるな!」
「おおーっ!」
魔物であれば、交戦経験もある。
兵士達の喚声も、微妙だったが。それでも、正面からあの大怪蛇と戦えと言うよりは、遙かにマシだ。
もはや自身のことは、囮として割り切るしか無いかも知れない。
手にしているクロスボウを、もう一度見つめる。
撃ったところで、届かないだろう。
剣を振るうほど、近づく機会があったとする。
全ての魔力を込めたところで、あの巨体だ。痛打どころか、鱗一枚飛ばせないに違いない。おそらく、あの大巨神が全力で棍棒を振るっても、ろくな打撃を与えられないだろう相手なのだ。
それでも、戦う。
フレイ様は軍の展開している、かなり前の方にいる。
其処は小高い丘になっていて、少しヨムルンガルド=フェンリルに近いのだそうだ。
トールの剛弓という、戦場でフレイ様が引いていた、まさに神域と呼べる威力の矢が、ヨムルンガルド=フェンリルに打ち込まれるのが見えた。
戦いの、始まりだ。
フレイが無言のまま放ったトールの剛弓の矢は、ヨムルンガルド=フェンリルを直撃した。狙ったのは、傷がついていない腹部である。其処から無数の光弾を放って、多くの神々を殺戮したのだと、聞いているからだ。
直撃した矢が、巨体を揺るがせる。
思った以上に、効く。
これはおそらく、大怪蛇が弱体化しているからだろう。テュール、オーディン、トールと連戦し、それなりに打撃を受けたのだ。身に帯びている魔力も弱まり、装甲も薄くなったとみるべきだろう。
「フレイヤ、聞こえるか」
「はい、兄様」
「予定通り行く。 大怪蛇は此方の想定よりも、打撃を受けている。 神々と戦って、無事では済まなかったのだ。 ならば、勝機は予想よりも大きい」
「分かりました」
再び、トールの剛弓を引き絞る。
あの巨体だ。ゆっくり引かなければならないこの剛弓でも、外しようが無い。空を蛇行する大怪蛇から、声が聞こえたのは、その時だった。
「久しぶりだね、フレイ……!」
「!」
此方を見ている、大怪蛇の感情が分からない目。
しかし、この声には、聞き覚えがある。
ロキ=ユミルを倒した時、消えてしまったヴァイキングの子供。同じようにして消えてしまったアウテンは、ヘルと融合していたと、フレイヤに聞いている。
まさかとは思っていたが。
「ウルズか……!?」
「そうだよ。 巨神族は予定通り壊滅させてやったし、世界を好き勝手にしてきたアース神族も潰してやった。 残るは、貴方たちだけだね……!」
「……」
複雑な気分だ。
ユミルの言い分も、フレイには分かる。
確かに神々に鏖殺された恨み。不安定で未完成な世界を放置出来ないという言葉。
それだけではなく、ウルズの言い分も、分かる。
彼女は平穏に民草としての生活をしていたところを、巨神族に蹂躙され、全てを失ったのだ。
それに、あの不思議な予知の力。
尋常ならざる存在と、精神的につながっていたのか、或いは憑依されていたのか。フレイにも分からないほど巧妙に行われていたのだろうが、今となってははっきり分かる。
「ヴァイキングの子供としての言い分も、其処にはあるのだな」
「勿論。 私の全てを返せ、役立たずの神々。 貴方はそれなりに頑張っているようだけれど、それでも破滅の運命を覆せなかった」
怪蛇の腹に、無数の光が点る。
トールの剛弓を叩き込み、その光の一つを潰すが、まだまだたくさんある。
撃ち放たれる、殺戮の光弾。
ジグザグに走り、避けながら、今度は拡散型の矢に切り替える。トールの剛弓でも、傷がついていない箇所に、新しく傷を穿つのは難しい。
横殴りに叩き付けられる、光の弾。
神々を鏖殺したというには、少し威力が小さい。だが、フレイも、直撃したらどうなるかは分からない。
振り返りながら、拡散型の矢に切り替え、放つ。
腹の光弾を放つ器官を、確実に潰して行く。
大怪蛇は痛くもかゆくもないようだが、それでも攻撃能力は、これで削ぐことが出来る。今の時点では、作戦通りだ。
ウルズは、まだ話しかけてくる。
「そんなに世界の支配者の座にしがみつきたいの?」
「私は、それにフレイヤは、少なくともそのように考えたことは無い。 ウルズは一緒に戦っていて、そのように私を見ていたのか。 だとしたら、残念だ」
「ううん、そうだね。 貴方は確かに違ったかも知れない」
巨体が大きく蛇行して、後ろについていた顔が見えた。
それは前の蛇のような頭とは違い、狼のような造形をしていた。口は非常に大きく、大巨神でも簡単に丸呑みできそうだった。オーディンをあの顔が、丸呑みにして殺したというのだろう。
中身がウルズだと分かったからか、不思議と怒りはあまり沸いてこない。悲劇に見舞われた彼女が、神を恨むのは当然だと、フレイは感じていたからである。復讐する権利があるかないかと問われれば、あると、或いは考える者がいてもおかしくは無い。
ただ、フレイは武を司る神だ。テュールが負傷して前線を退き、トールが命を落とした今となっては、武を背負って立たなければならない。
負けるわけにはいかない。人間達を、守るためにも。
コミュニケーションは、今の時点で成立している。
それに、精神が怪物化しているようなこともないようだ。一緒に戦っていたときのウルズと、さほど差異は感じない。
「それならば、どうして戦うの?」
「皆を、守るためだ」
「守れやしないくせに……」
確かに、そう言われても仕方が無い部分はある。
フレイの前で、多くの命が失われていった。神は全能では無く、万能でも無い。手からこぼれ落ちた命を、拾い直すことも出来なかった。
「勿論、全てを守るのは不可能かも知れない。 しかし、可能な限り、命をまもるべきだと、私は考える」
「そう、なら、私から守ってみなよ!」
無数の光弾が、降り注いでくる。
まだ、毒液は使ってこない。今までの情報を総合する限り、真に恐ろしいのは、おそらく神々の時をあるべき姿に戻す毒液だ。フレイもフレイヤもまだ若き神だとは言え、喰らったらただではすまないだろう。
ひたすら神の快速を利用して、光弾を避けながら、反撃の機会をうかがいつつ、丘の上空にヨムルンガルド=フェンリルを釘付けにする。
勿論、相手が手段を選ばなくなったら、フレイではかなわない。如何に手負いだといっても、あのトールでさえなすすべが無かった相手なのだ。
だから、コミュニケーションをとりながら、時間を稼ぐ。
今の時点では、それは上手く機能していた。
むしろ予想以上といえる。
アース神族が壊滅した戦場での生き残りから、魔術による通信で情報は得ている。ヨムルンガルド=フェンリルが話しかけてきたというのは、複数の証言から明らかだった。だが、まさか中身がウルズであったとは。
爆発が連鎖する中、振り返りざまに矢を放つ。また光弾を放つ器官を潰すが、しかし数が多すぎる。
山を相手に、矢を放っているようなものだ。
「そんなんじゃ、らちがあかないよ」
「ウルズよ」
「何? 今更、名前で呼んだりして」
「おまえはどうして欲しい。 冥界にいる両親を呼び戻すことは、神であっても不可能だろう。 かといって、神々を殺して、おまえに一体どんな利がある。 復讐は楽しかったのか?」
露骨に、雰囲気が変わる。
やはりウルズは、復讐を楽しんでいない。思う存分巨神と神々を蹂躙したはいいが、むなしくなってきている。
申し訳ないが、其処を突くしか無いだろう。
勿論、復讐に快を感じる者もいる。復讐を正当化して、悦に入る者だっているだろう。だが、ウルズは心をほとんど開いてはくれなかったが、それでも一緒に戦った仲だ。フレイは、違うと判断できた。
フレイヤの準備が整うまで、ウルズを足止めする。
フレイは、冷徹に、それを実行し続ける。だがその一方で、この哀れな魂を、救いたいとも思うのだ。
ウルズが罪を犯したとは思わない。
むしろ裁かれるべきは、ウルズが言うように、無能に世界を好き勝手にしてきた、フレイとフレイヤも含む神々全てなのかも知れない。
だが、それをさせてしまっては、世界が成り立たなくなる。全てが滅んでしまう。
少しでも多くの者を救うため。
フレイは此処で、鬼にならなければならないのだ。
かといって、ウルズを冷酷に殺すだけなのも、気が進まない。コミュニケーションを取りながら、どうにかしたい。
「そんな、そんなことを、いわれる筋合いは……!」
「ウルズよ」
「何だよっ!」
「おまえにとって、私は仇か? フレイヤは、仇か? 私と共に戦おうとする戦士達は、皆許せない相手か?」
一瞬の静寂ののち。
空を切り裂くような、絶叫が轟いた。
1、大怪蛇蹂躙
フレイヤは城壁の上で、特大威力の魔術を時間を掛けて詠唱しながら、兄とウルズの会話を聞いていた。
何という悲劇か。
ヘルと戦ったときも、フレイヤは感じた。あまりにも、この世には悲劇が多すぎると。ヨムルンガルド=フェンリルは、或いは単純な殺戮だけをばらまく怪物では無いかと思っていたのだが。それも、予想が最悪の形で外れてしまった。
勝負は、一瞬だ。
傷ついているあの大怪蛇の首を、此処から叩き落とす。
動きが止まったところで、兄と、丘の周囲に伏せている若き神々の総攻撃で、もう一つの首も叩き落とす。
いかなる怪物でも、首をはねられたら、生きてはいられないだろう。
ウルズは心を開いてくれなかった。だが、それでも、多くの予言で、味方を助けてくれた。
それはきっと、フレイとフレイヤに、期待していたからだろう。
自分、いや家族の仇を討ってくれるのでは無いかと。
その期待を、裏切ってしまった。
兄と、フレイヤは同じ気持ちだ。どうにか、ウルズを救いたい。
伝令が来る。魔法陣が何重にも折り重なり、念入りに積み重ねている呪文が邪魔されないように、ある一線から此方には来ないようにと、指示は出してある。
「何事ですか」
「はい。 スヴァルトヘイムの魔物が現れました。 数は、数えることも出来ないほどです!」
そうか。もしかすると、巨神族と袂を分かったのだろうか。
いずれにしても、今は邪魔をさせるわけにはいかない。
「私も兄も、戦場からは動けません。 対処をお願いいたします」
「分かりました。 全軍を展開します」
頷くと、フレイヤは詠唱の続きに入る。
この呪文を唱え終わり、ヨムルンガルド=フェンリルに攻撃を叩き付けたとき、手にしている風刃の杖は、木っ端みじんになってしまうかも知れない。
ずっと一緒に戦って来た道具だ。愛着がわかないはずも無い。
何よりも、これが壊れてしまえば、次は無い。
失敗は、絶対に出来ない。
兄とウルズとの会話が、聞こえてくる。
「ウルズ、もう止せ。 復讐を好む下郎もいるが、おまえはそうでは無いはずだ。 心の傷から、血が流れていはしまいか」
「だまれ……!」
「それとも、世界を作り替えるという目的が重要か?」
「そうだよ。 この世界には無理が来ている。 知っているんでしょう?」
詠唱の時間は、着実に稼げている。
おそらく、世界に無理が来ているから、壊すという理屈に、論理的に反論する事は出来ないだろうと、フレイヤは思っている。
実際フレイヤは、冥府を見てきた。
冥府を見て確信できたが、世界樹を中心としたこの世界のシステムは、根本的に未完成なのだ。
それを無理矢理維持して、現在まで世界を運営してきた。世界そのものに無理が来ているというのは、反論しようが無い事実なのである。
勿論、今この世界に生きている者達を、殺す事は出来ない。
守れる者を、見捨てることもだ。
まだ、世界を守り、なおかつ皆も守る方法は思いつかない。だが、殺戮を、容認することは出来ない。
必ずや、何かの方法が見つかるはずだ。
「今まで一緒に戦って来た者達を皆殺しにしてまで、その目的は果たさなければならないのか」
「そうだよ。 寿命が来ている世界がこのまま滅べば、全ては無に帰してしまうんだから」
「何か対応策があるのなら、聞かせて欲しい。 私もアスガルドにこの後出向き、何か策が無いか、調べるつもりだ」
兄は、少しでも考えているのか。
フレイヤも、自分なりに考えてはいる。だが、まだ思いつかない。
もう少しで、詠唱は完成する。
だが、視界の隅に、見えてきた。大地を覆い尽くすほどの、凄まじい数のスヴァルトヘイムの魔物が。
数は最低でも数十万に達するだろう。
此処にいる残り全ての人間が、死力を尽くしたとて、勝てるかどうかは分からないほどの相手だ。
人間達は、あれと真っ正面から戦うのだ。
フレイと、フレイヤの勝利を信じて。
情に流されて、失敗するわけにはいかない。
詠唱の、最終段階に入る。無事だったアスガルドの神々から得た情報に出てくる、無傷な状態のヨムルンガルド=フェンリルだったら、フレイヤの大魔術でも、首を叩き落とすのは無理だっただろう。
だが、兄が削っているのを見て、魔力の減少と同時に装甲が漸減している事は、はっきりしている。
かならずやれるとは言い切れないが、それでも。
希望はあるのだ。
城壁の下で、スヴァルトヘイムの魔物が、人間達に襲いかかりはじめる。戦いは、見る間に熾烈を極めはじめていた。
目の前にいるの魔物共は、文字通り大地を埋め尽くす大軍だが、シグムンドには慣れっこだ。
北の民の戦士達も、もう残りはさほど多くは無い。それでも、誰の顔にも、悲壮感は無かった。
「多いな……」
「どんくらいいるのかな。 三十万か、四十万か」
「関係ねえ。 全部ぶっ潰すだけだ。 ムスペルに比べたら、どれだけ楽な相手かしらねえしな」
斧を振るって、レギンが不敵に笑う。
近づいてくる魔物達に対しての攻撃は、まだ行われない。できる限り引きつけるようにと、最前列第二段に控えているアルヴィルダは、指示を出していた。
アルヴィルダも戻ってきてから殆ど時間も経っていないのに、精力的なことだ。
左右には、もはや人類にとっての最後の砦ともいうべきサラマンデルと、改良型の鉄の牛が、数機並んでいる。
これを起点に戦い、フレイとフレイヤを守るのだ。
そして、神々が、あの空に浮かぶ化け物を叩き潰すまで、耐え抜く。簡単な仕事である。レギンが言うように、この魔物共がムスペルだったら、こうはいかないだろう。
ヴェルンドはサラマンデルの方で、護衛についてくれている。
側に降り立ったのは、アネットだ。他の神々とは違い、こっちで戦闘に加わってくれるらしい。
「アネット、傷は大丈夫か」
「へいきです」
相変わらずのへの字口で、こっちを見もしない。
だが、アネットが、シグムンドを信頼してくれていることは知っている。子供らしい照れ隠しだろうと、納得していた。
敵の最前列が、かなり近づいてきている。
同時に、サラマンデルが数機、同時に炎を噴き出した。そして、魔物共の足下に流されている油に、着火する。
大爆発が、巻き起こされた。
炎の地獄が、目の前に現出する。吹っ飛んだ魔物の死骸の欠片が、ばらばらと落ちてくる。
凄まじい光景だ。
奇計に近いが、こうやって少しでも戦力差を埋めなければ、戦いにならないのだ。それはシグムンドもよく分かっている。此処にいる戦士が全員北の民だったら勝ち目はもっと高いだろうが、新兵や負傷者も少なくない。
文字通り、人類に残された、最後の戦力なのだ。
炎を乗り越えて、魔物共が来る。
シグムンドは、声を張り上げた。
「進みすぎるな! 炎を踏んで怪我なんぞしても、つまらんだけだ! 引きつけてから、確実に叩け! 神々を守って、ラグナロクの勝利に貢献するぞ!」
「おおっ!」
喚声がわき上がった。
最初に躍り出てきた魔物を、アネットが両断する。元々剣技は人間よりも遙かに優れていたが、ここしばらくは更に成長が著しいようだ。水車のように剣を回して片っ端から魔物を斬り始めるアネットを避けるようにして、どっと魔物が来る。仲間の死体を踏み越えることなど、お構いなしだ。
というよりも、自身が焼け死ぬことさえ、怖れていない。
迫る魔物。シグムンドが矢を番え、放つ。
此奴らの弱点は熟知している。口に直撃した矢には、シグムンドの魔力がたっぷり籠もっている。魔物が内臓を破裂させたのか、悲鳴を上げて横転する。サソリのような姿をし、ゴキブリのように動く魔物は、足を縮めてひっくり返ると、そのまま動かなくなる。
味方も、一斉に矢を放ちはじめる。
サラマンデルも、連続して炎を放つ。鉄の牛も、上に載せている人員が、火矢を連射し、魔物共へ制圧射撃を加える。
見る間に積み上げられていく死骸の山。
しかもそれが炎に炙られ、もの凄い臭いが漂ってくる。たちまちに、この場は地獄と化していく。
被害をおそれず、突進してくる魔物は、じりじりと此方との距離を詰めていく。片っ端から射すくめるシグムンドだが、左右にも目を配る。
味方の兵士が一人、魔物のはさみにとらえられた。
無言で走り寄ると、剣を突き立てる。はさみで握りつぶそうとしていた魔物が、ぎゃっと悲鳴を上げて、痙攣する。剣を引き抜くと、燃え上がり、炭になっていった。魔物が取り落とした兵士を、味方が引きずって後方に下げる。
空では、大怪蛇が相変わらず暴れ狂っているようだ。
フレイに散々光の弾を浴びせて、鏖殺しようとしているらしい。フレイからも反撃が時々あるが、どう見ても有利には見えない。
だが、信じる。
フレイヤもいるし、武勇に優れた若い神々も戦っている。此処で、人間が足を引っ張るわけにはいかないのだ。
どっと、凄い音がした。真っ黒い魔物の群れが見えた。
今まで交戦していた群れとは、規模が違うようだ。少しずつ、味方が下がりはじめる。矢を怖れず、魔物はどんどん前に出てくる。
アネットも見かけ次第敵を斬っているようだが、手数が足りていない。このままだと、乱戦になる。
そうなれば、被害が一気に増えるだろう。
「シグムンド!」
ヴェルンドが来た。鉄の牛の周囲の敵は、他の味方に任せている、という事か。血相を変えているし、よほどのことだろう。
「どうした、何か状況が変わったか」
「敵にデカイ奴がいる」
「ドラゴンか?」
「分からんが、蛇みたいな奴だ。 全身が白くて、魔力も凄まじい。 アレは敵の首魁か、或いは上級士官とみて間違いなさそうだ」
話しながらも、二人並んで、矢を連続で放つ。
魔物を片っ端から射すくめていく様子を見て、周囲の兵士が勇気づけられるのが分かる。それでいい。シグムンドも自身の技が神業だなどとは思わないが、士気が上がれば、それだけ被害は減るのだ。
至近に来た魔物を、ヘルギが大剣で吹き飛ばす。
最下級とはいえ、神の武器だ。まるで紙細工のようにふっとぶ魔物は、それでも人間の数倍は軽くある。
兵士達が、すげえと歓声を上げた。
それでいい。調子に乗せておくくらいで、良いのだ。
「アルヴィルダ姫には伝えたか」
「伝令をやった。 あの姫様のことだ、討ち取ることを考えるだろうな」
「……」
アルヴィルダにも、神の武具が提供されたことを、シグムンドは知っている。
装飾が施された細剣で、レギンの斧と同じように、離れたところを斬る事が出来る。持ち主の魔力に威力が依存するようで、スヴァルトヘイムの魔物くらいならどうにでも出来るだろう。
前進の指示は来ない。
じりじりと、前線が押されはじめている。魔物は炎を完全に越えて、味方の死骸を踏みにじり、次々に来る。
しかも、後続は数も知れない。
これはひょっとして、数十万どころでは無いかも知れない。味方を使い捨てにしても、勝てる自信があるのだろう。
「俺たちだけでデカイ奴に仕掛けるか?」
「待て。 前に死者のドラゴンと戦っただろう? もしもお前が見た奴がスヴァルトヘイムの魔物の首魁だったら、あのドラゴンより弱いって事は無いだろう。 下手に仕掛けても、返り討ちにされるだけだ」
「それもそうだな。 確かに、戦力を揃えてから戦った方が良いはずだな」
レギンが雄叫びを上げて、数体の魔物を一息に真っ二つにした。
前線は下がりつつある。サラマンデルが、放熱のために少し下がったのが、それに拍車を掛けた。
もう、矢で敵を抑えるのは無理だ。
此処からは乱戦になる。被害は増えるが、仕方が無い。
「アネット、こっちは良いから、味方の薄い部分を守ってくれ!」
「大丈夫ですか? 此処は敵の層が一番厚いようですが」
「俺たちには苦にならん」
「分かりました」
アネットが走り際に数体を斬り伏せ、そのまま苦戦している味方の陣列に行く。フレイほどでは無いが、もうちびっ子などとは呼べないだろう。
以心伝心という奴か、レギンが苦笑混じりにいう。
「もうちびっ子っていうのは止めるか。 彼奴は立派な戦士だ」
「まだ未熟な所はあるが、いい戦士だな」
「ああ。 じゃあ、俺たちは。 精々派手に暴れるとするかっ!」
サラマンデルが、放熱を終えて、再び前進してくる。
炎がまき散らされ、魔物共は容赦なく焼き払われた。だが、既に各地で前線が接触し、被害が増え始めている。
一体、二体と斬り伏せながら、シグムンドは数えていく。
今日は、最低でも百は斬らなければならないだろう。そうしなければ、味方の被害はどんどん増えていく。
前線の戦況が思わしくない。
スヴァルトヘイムの王ニーズヘッグは、周囲に強力な魔物を従えながらも、舌打ちしていた。
思った以上に、人間どもは出来る。巨神共の走狗として長らく戦って来たが、確かに奴らは粘り強かった。しかしそれはあくまでフレイとフレイヤの支援を受けているからだと思っていたのだ。だが、認識を改めなければならないだろう。
戦術を細かく調整する。侮って敵に負けては、笑い話にもならないからだ。此処まで来るのに、どれだけの苦労があったか。それを思えば、こんな所で躓く訳にはいかないのだった。
現在、ムスペルを除けば最大の戦力を持つスヴァルトヘイムは、長年二番手三番手に甘んじてきた地位を覆す、最大の好機だ。ヨムルンガルドをもう少し暴れさせ、巨神と神々を殺させれば、更にそれは盤石となる。
更には、ニーズヘッグには、ムスペルを御する秘策もあった。
伊達に長年地底世界で、世界樹の根を噛んでいたわけではない。その過程で多くの知識も得てきたし、神々が失ったとされる武具の類も得てきた。
たとえば。
先代フレイが失ったとされる、最強の剣。
ニーズヘッグが、今は体内に収めているそれこそ、勝利を確約するといわれる、アース神族最強の武具の一つだったものだ。様々な紆余曲折を経て、ニーズヘッグは剣を得て、そして神々に悟られぬよう、体内に隠したのだ。
これは切り札の一枚に過ぎない。他にも、多くの手札を、ニーズヘッグは準備してきている。
巨神を裏切ったタイミングは完璧だった。
問題は、アース神族に致命打を与える作戦が、この最終段階で、思った以上に上手く行っていないという事だ。
殆どのスヴァルトヘイムの魔物達は、言葉を理解するほど賢くない。
ニーズヘッグのように、言葉を使いこなす者は少数だ。だから、直接思念波を送って、部下を操作する。
「第一部隊、第二部隊と合流、攻撃続行。 第三部隊は、敵側面を狙え」
「第三部隊、進撃できず」
「何が起きた」
「ワルキューレです。 敵の精鋭部隊もいます」
今、丘の方で戦っているフレイはいい。放って置いても、ヨムルンガルド=フェンリルの猛攻に対処する以外のことは出来ないだろう。だから城壁にいるフレイヤの方を叩こうと、側面に大部隊を回そうとしているのだが、上手く行かない。
数を揃えて突破させようとしているのだが、敵が手練れを回してきたようだ。数が多すぎる味方は、混雑して、渋滞さえしていた。
舌打ちばかりしていても仕方が無い。
「第七部隊、南に迂回。 第三部隊はそのまま攻撃を続行し、敵を引きつけ続けろ」
ならば、もっと効果的な手を試すか。そう思い、ニーズヘッグは作戦に微調整を加える。
敵は城壁には少数しか兵を配置していない。其処に揺さぶりを掛ける。
五万ほどの戦力を、南に迂回させる。城壁の中には、戦えない雑魚共が大勢詰めているはずだ。
それを直接叩けばどうなるか。
人間は陣形を崩す。そう言う生物だと、ニーズヘッグはよく知っている。
更にいえば、ニーズヘッグの軍勢は数が圧倒的に多い。その利を生かすには、多面作戦が最適だ。
この辺りの作戦指揮は、フルングニルのものを見ていて覚えた。あの巨神は確かに有能な指揮官で、学べる事は多かった。
取り入れられるものは、取り入れる。それがニーズヘッグのやり方だ。なりふりを構わないのと、同じである。
その時。
空に、極太の光が迸った。
それはさながら、グングニルを思わせる美しく、力強い、神の一撃。
思わず、ニーズヘッグも、見ほれてしまったほどである。なるほど、この時間を稼ぐために、人間共は展開していたのか。
神の光は、フレイヤの展開した、極大威力の魔術だろう。
極太の殲滅の光は、ヨムルンガルド=フェンリルを直撃。丁度腹を向けて、フレイに光弾を浴びせていた大怪蛇の、後ろの方の頭が、煙を上げながら落ちていくところが見えた。神々との戦いで脆くなっていたのだろう。
地面に、山ほどもある頭が落ちる。
地震が起きた。それほどの大質量だったという事だ。一度魔物達の行動を停止させる。
膨大な鮮血を噴き出しながら、ヨムルンガルド=フェンリルが。いや、おそらくもはやただのヨムルンガルドが、悲鳴を上げた。
「やったな、やったなーっ!」
頭の中に、大音響が直接来る。
ヨムルンガルドは相当にご立腹だ。含み笑いが漏れてくる。これは良い傾向だ。完全にキレたのなら、こっちが何もしなくても、好き勝手に暴れてくれるだろう。
彼奴はあれでも、狙った相手を順番に片付けている理性があった。
だが、声を聞く限り、どうも管理人格は子供らしい。それならば、一度頭に血が上れば、まともな判断など出来なくなる。
さて、どうするか。
一度引くのもいい。だが、奴が狙うのは、アース神族の筈。それならば、それに人間も巻き込んでやればいい。
ならば、する事は一つだ。
「全軍、攻撃を一端中止。 距離を取り、包囲を行え」
そのまま、檻になって、一定距離を保つ。
そして、怒り狂った化け蛇が、全てを食い散らかすのを見ていればいい。
ヨムルンガルドの巨体が、淡く光り始める。白銀だった体が、赤黒くなっていく。それは、あまりにも分かり易い、怒りの表現。
落とされた首からは、まるで滝のように、鮮血がこぼれ落ち続けていた。
良い傾向だ。ついでにヨムルンガルドも死ね。処理するのが、面倒で仕方が無かったのだ。
これで、生き残ったアース神族と巨神共を共倒れにさせれば、後はスルトにだけ全力を投球すればいい。
自分の中で、繰り返す。現在、総合的に見て、ムスペルの次に強大な戦力を有しているのは、ニーズヘッグだ。いよいよ、地底に甘んじてきた一族が、光を浴びる場所に出る時が来た。そもそも、魔物などという呼ばれ方そのものが、地底の一族を蔑ずんだものだ。ましてや小人などという生体兵器どもに地底を長らく好き勝手にされ、アース神族共にもどれだけ煮え湯を飲まされてきたか分からない。
今は耐えろ。いずれラグナロクの時に、必ずや積怨を晴らすことが出来る。
そういって、一族を励まし続けてきた。
日の光を浴びたいと願う者達を、ずっと説得してきた。時には、粛正という形で、同族同士で殺し合いもしなければならなかった。竜族が殆ど生き残っていないのも、プライドが高い彼らが、隷属に耐えられなかったからだ。地下を去った竜族の一部は、リンドブルムの先祖になったが、それも結局奴隷としての路だった。
地底の一族は、不遇の歴史を過ごしてきた。
長らく耐えてきたのだ。
ラグナロクが始まってからは、巨神族にも媚びを売らなければならなかった。単独ではさほど強大な戦力では無かったからだ。
どれだけ、忍耐しなければならなかったのだろう。生体兵器に自らなることを志願してきた者達を、長らく品種改良して、軍として整備するのも、思えば屈辱だった。そのように自らの民を虐げなければ、生き残れなかったのだから。
しかし、もう忍耐も終わりだ。
むしろこれからは、ニーズヘッグが他の種族に忍耐をさせる。
そう思うと、含み笑いを抑えるのに、多大な苦労が必要だった。あの子供は、復讐のつもりで、殺戮を繰り返していたのだろうか。だとすればお笑いである。最大の復讐は、相手を未来永劫奴隷としてこき使う事だ。殺してしまっては、復讐などすぐに終わってしまうでは無いか。
味方が包囲陣を作り始める。
人間共は、追撃してこない。勿論、トチ狂っているヨムルンガルドが、此方に迫ってくる可能性もあるから、包囲陣は柔軟に運用しなければならない。多少の精神的余裕はあるが、それでも予断を許さない状態だ。
まるで炎の大蛇と化したヨムルンガルドが、フレイヤに向けて一直線に進み始める。
既に、眼前の平原は、地獄と化していた。
殺戮の化身となったヨムルンガルドが、光弾を乱射しながら、真一文字に進み始める。その気になれば、蛇行しなくても、空を征くことが出来るらしい。フレイは人間達に、陣を柔軟に崩して攻撃進路から逃れるように指示を出したが、間に合わない。
エインヘリアルや神々さえ殺戮した光が、人間達に襲いかかる。
悲鳴を上げて吹き飛ぶ人間達。
首を一つ失っても、ヨムルンガルドはこうも力を発揮できるのか。フレイヤの一撃が入ったときは、勝ったとさえ思ったというのに。
隠れていた神々にも、指示を出す。
飛び出してきたマグニが、矢を放った。マグニの持つ武具は、トールの剛弓に勝るとも劣らぬ威力を持ち、巨神を充分に撃ち抜くことが出来る。他の神々も、それ相応の力を持ち、放つ魔術は、ヨムルンガルドの腹の発光器官を撃ち抜き、破裂させた。
フレイヤが、城壁から飛び降りる。
周囲を護衛しようとする兵士達もいるが、急いで離れるように指示している様子だ。大混乱の中、一秒ごとに被害が増えていく。
「殺す殺す殺す殺す殺す!」
完全に正気を失っているヨムルンガルドから、あまりにも画一的な、ウルズの狂気が漏れてきている。
それは、子供らしく単純で。それ以上に、痛々しかった。
口を大きく開けたヨムルンガルドが、大量の毒液をぶちまける。
悲鳴を上げて逃げ惑う兵士達の上に、それが容赦なく降り注いだ。しかし。
人間達は、溶けない。
毒液を浴びた兵士達は、呆然として、何が起きたという顔をしていた。無理も無い事で、彼らは時の操作を受けていない。あるべき姿のまま生きているのだから、ヨムルンガルドの毒など、効果が出るわけが無い。
だが、今は頭に血が上っているだけだ。
勿論、人間に効果がある普通の毒も、吐くことくらいは出来るだろう。それに、鏖殺の火力があまりにも凄まじすぎる。毒液が人間に効果を及ぼさなかった事くらいは、些細な出来事に過ぎなかった。
フレイヤが、連続して精霊の魔弓から魔弾を放つ。
爆裂した魔弾が、ヨムルンガルドの動きを、一瞬だけ止めた。ヨムルンガルドの眼前で爆発したからだろう。
あの顔についている巨大な傷、ミョルニルによるものだろう。
そこに塩をなすりつけたのだ。動きを止めることだけなら、それで充分だ。フレイも、無言で矢を放ち、腹の発光器官を潰して行く。満身創痍の大蛇は、凄絶な表情を、閃かせていた。
「そうか、あくまで邪魔を、するんだね……!」
展開していた神々の中に、光弾が着弾。
何名か死んだようだ。フレイは歯を食いしばり、矢を放つ。ヨムルンガルドは、もはや自分が傷つくことなど、意にも介していない。体の後ろからも、中央にある大きな傷からも、滝のように血を流しながら、それでも荒れ狂っている。
この怪物は、此処で殺さなければならない。
だが、ウルズも、出来れば。
マグニが、側で矢を引き絞った。傷口めがけて撃ち放たれた矢が、急所を確実に抉った。体をよじらせて、文字通り世界が揺るぐような悲鳴を上げるヨムルンガルド。
見ると、魔物共は、包囲陣を作り始めている。
この戦いを見物し、疲弊した相手を潰すつもりか。卑劣極まりないやり方だが、同時にかしこくもある。
「化け物が、落ちてきやがらねえ!」
「効いてはいる! 撃ち続けよ!」
「分かってる!」
マグニは目を血走らせて、何度も矢を放っている。今は余計な事をいわないことにする。ウルズがフレイと一緒に戦っていたなどと言っても、関係をこじらせるだけ。そしてそれが、致命傷になりかねない。
フレイヤが、此方に来る。
見れば、やはり、風刃の杖は壊れてしまったようだった。あれは、風刃の杖の、最後の光。
世界を救うために、一緒に戦って来た風刃の杖は、燃え尽きてしまった。だからこそ、先に進まなければ。
「兄様!」
「フレイヤ、此方だ!」
大蛇が、空中で向きを変える。
よほど頭に来ているからだろう。フレイヤしか見ていない。だが、それは好機でもあった。
もう一度、丘の方に誘い込む。
最悪の事態は、ブルグント王都の上で暴れられることだ。それだけは、避けなければならない。
斉射を浴びせ、腹の発光器官を討ちながら、下がる。やはりヨムルンガルドの体はかなり脆くなってきていて、確実に貫き、破壊することが出来る。だが、あの桁違いの巨体だ。それでも小揺るぎもしない。
その時、異変が起きる。
丘の方に、ずらりと並ぶ無数の魔物。
その魔物の中に、ひときわ巨大な、白い体を持つドラゴンがいるのを、フレイは見逃さなかった。
ニーズヘッグだ。
スヴァルトヘイムの首魁は、どうやら徹底的に場を混乱させなければ、気が済まない様子だった。
2、惨劇の死闘
グンターが、状況を確認させている。
今の一瞬の攻防だけで、陣の真ん中が食い破られ、相当数の死者が出た。ラーンにも分かる。
これでは、陽動さえ、人間には出来ないという事を。
「伝令です!」
「どうしたっ!」
「決戦場の丘に、魔物の主力部隊と思われる大戦力襲来! 数は最低でも五万を超えています!」
「五万だと……」
ハーゲンが絶句した。
ほんのわずかな時間、ヨムルンガルドが暴れ狂っただけで、味方の戦力は半壊状態になっているのだ。
それなのに、主戦場と目される場所を先に抑えられでもしたら。
「ハーゲン」
「はい」
「王都を守る戦力を除く、全戦力を叩き付けよ。 その後、丘を放棄して、東へ進むように」
「分かりました。 それしかありますまい」
もはや残りも少ないブルグントの騎馬隊が、各々の武器を振りかざして、喚声を挙げた。サラマンデルも一斉に向き直り、東へ進撃を開始する。動ける兵士達は、皆それに倣って、魔物との交戦を開始した。
一秒の判断の迷いが、死を招く。
ラーンも、何も言わず、作戦に従う。走りながら、見る。光弾の流れ弾に吹き飛ばされる戦友を。
もはや、此処にしか人類は生き延びていないのに。
一秒ごとに、凄まじい勢いで、削り取られていくその数。流れ弾は、容赦なくブルグント王都にも降り注いでいるようだ。
避難している人達を助ける術は。
あの巨大な蛇を倒すほかには、ない。
歯を食いしばって、走る。
既に、北ミズガルドの戦士達は、魔物と戦い始めている様子だ。最初出会った時は、不愉快な野蛮人だとしか思っていなかったが。戦場で何度か一緒に戦っているうちに、その強さだけは信頼出来るようになった。
フレイ様もフレイヤ様も、必死に戦っている。
大怪蛇の腹の下から矢の雨を浴びせ、おぞましい光の球を放つ部分を破壊し尽くしている様子だ。
それでも、相手が大きすぎる。
あの丘に大怪蛇を連れ出せば、きっと大きな技を叩き込んで、勝負を決められるはず。其処まで持っていくのは、人の仕事だ。
どっとなだれ込む軍勢。
魔物との死闘が始まる。ラーンも前衛に出る。
目の前に、巨大な紅いサソリのような魔物が躍り出てきた。無言で矢を放つ。スヴァルトヘイムの魔物の弱点は、知り尽くしている。急所を狙撃することも、慣れている。
一撃、口の中に矢を。
二撃、もう一発。
多大な魔力を込めた矢が、内側から魔物を爆破する。足を縮めてひっくり返った魔物の上に上がると、次に矢を放つ。
二つ、三つ。順番に数えていく。
騎士団長も、神の武具という盾で身を守りながら、大剣を振り回して、戦っているようだ。
見ると、流石は神の盾。魔物のはさみの直撃を受けても、ハーゲンは小揺るぎもしない。片手で大剣を振り回すハーゲンだからこそ、使える武器なのだろう。
魔物の軍勢が、じりじりと押されはじめる。
最前衛では、子供のようなワルキューレが、縦横無尽に剣を振るっているのが見えた。だが、その背中に、躍り出る魔物。
反射的に矢を放って、撃ち抜く。
ワルキューレは一瞬だけ此方を見たが、すぐに剣を振るって、魔物達を斬る作業に戻った。
「ラーン! こっちだ!」
呼ばれているのに気付いて、魔物の死骸から飛び降りる。右から襲いかかってきた魔物を無造作に撃ち抜き、そのまま走った。もう、魔物を撃ち抜いたときの音や、飛び散る体液は、何にも気にならなくなってきている。
走りながら、クロスボウに矢を装填する作業も、難なくこなせるようになってきている。ラーンはあまり自覚は無いのだが、近衛の精鋭として恥ずかしくない実力に、いつの間にかなっている様子だ。
「此処だ!」
手を振っていたのは、ヴェルンドである。
そしてその周囲には、熊の毛皮を被った狂戦士と、シグムンド、それにヘルギ。何より、アルヴィルダ姫と近衛の精鋭がいるではないか。
そして、すぐ後ろには、サラマンデルも迫っている。
「こ、これは!? 何!?」
「最精鋭を結集して、彼奴を潰す」
ヴェルンドが親指で刺したのは、巨大な白い蛇のようなドラゴン。足がたくさんあって、非常に意地悪そうだった。
周囲には、精鋭らしい魔物がうようよいる。
「あれは、敵の指揮官なの?」
「であろう。 本来はフレイやフレイヤが相手をする大物じゃ」
だからこそ、我々で潰せば、戦況に大きな意味がある。アルヴィルダはそう言うと、サラマンデルの方に、すすめと叫んでいた。
アルヴィルダの声は、戦場でもよく響く。サラマンデルも、魔物の群れに炎をはきかけながら、前進していた。
「あと、アネットとハーゲンを加えて、敵を討つ。 お前には、これを渡しておいてくれって言われててな」
「何、これ……」
手渡されのは、随分と長大なクロスボウだ。こんなものもてないと思ったのだが、持ってみると、羽のように軽い。
そして、矢そのものも、自動で装填された。まばゆく光る、フレイ様が放つような矢だ。多分魔力で出来ているのだろう。ラーン自身の、強い生体魔力を、矢に変えているというわけか。
「フレイから渡された。 最下級の神々の武具の一つだ。 お前の狙撃能力を、フレイは高く評価しているようだな」
「フレイ様が……」
女として見てくれているわけでは無いのだろうが、それでもきちんと見てくれていたのは嬉しい。
勿論、一人前になった時、下賜されたクロスボウも宝物だ。
だが、これは。
文字通りの、天からの授かり物だろう。
「進みながら、少し左に迂回して、あのおぞましきドラゴンを打ち倒す。 そなた達、抜かるでないぞ!」
「おおっ!」
アルヴィルダが号令を掛けると、皆が喚声を挙げた。
ラーンも、自然にそれに従ってしまう。きっと何となく、体が理解しているのだろう。アルヴィルダは、人を自然と従える力がある。
こんな時で無ければ、きっとゴートの王様として、素晴らしい治世を行っただろうに。悲しくなってくる。
腰に愛用のクロスボウをくくりつけると、ラーンは皆と一緒に走る。
シグムンドが最前衛で、次々に魔物を射貫いた。近づく魔物も剣で斬りすてていく。その剣技も弓も、ラーンが及ぶところでは無い。
いや、弓なら。
早速、新しいクロスボウを放つ。
打ち込むと、魔物の頭から尾まで、光が貫通した。勿論、魔物は瞬時に燃え上がって即死だ。
これは凄い。撃っているときに、思ったほど消耗も無い。
どうやら、フレイ様が制圧射撃をしているときに使っている、拡散型の弓矢に近い。その矢の一本くらいの威力は、ある様子だ。
狂戦士が突入して、敵を薙ぎ払いはじめる。
側面に、圧力。かなりの数の魔物だ。味方が押されているのが分かる。
だが、其処に降り立ったワルキューレ。アネットが、瞬時に形勢を逆転させた。無言のまま十体以上を踊るように廻りながら斬り伏せ、敵の足を止めると、跳躍して此方に来る。着地の度に一体、二体と敵を斬っているのだから凄い。
以前も彼女の活躍は見たが、明らかに腕が上がっている。
これは、単純な機動力だけなら。いや、そのようなことを考えるのは、止めておこう。
ラーンは雑念を追い払うと、前に立ちふさがろうとした一体を、無心に射貫く。はさみが吹っ飛んだが、外れた。本体は悲鳴を上げながらも、無事だったはさみを繰り出してくる。
ハーゲンが割って入り、盾ではじき返す。
そして、大剣で、魔物の頭をたたき割った。
「ガードは任せよ。 そなたは、集中して敵を射貫け」
「分かりました!」
騎士団長が、自ら守ってくれるなんて。フレイ様が守ってくれる次くらいに心強い。かってだったら、恋愛対象としてはこの上ない相手だったのだ。今はフレイ様がいるから、そうはなり得ないが。
ラーンは俄然気迫がみなぎるのを感じ、速射で二体を連続して葬る。
魔物の長らしい白いドラゴンが近づいてきた。
少し遅れてついてきていたアルヴィルダが、呻く。
「凄まじい魔力よのう。 取り巻きも侮れぬ相手ばかりじゃ」
「どうやって倒すんですか」
「決まっておる」
突入したサラマンデルを見て、白いドラゴンの周囲にいる、親衛隊らしい強そうな魔物が鎌首をもたげる。
中には、ドラゴンもいる様子だ。
先頭にいた、オオトカゲのような魔物が、大きな口を開けて、サラマンデルを威嚇した瞬間。
サラマンデルが火球を放ち、オオトカゲが吹っ飛んだ。
今までの火力と違う。
「あれは!?」
「今更、人間に対する技術制限も無いでな。 火力を上げられるだけ上げて良いと、技術者達に指示をした。 威力は見ての通り。 ただし、砲身に負担が掛かるから、連射は出来ぬが」
魔物達が、サラマンデルに殺到しはじめる。
近衛の金色の鎧を着た兵士達が、サラマンデルの周囲を固めた。別方向からもサラマンデルが突入してきて、黒い鎧のような鱗を身に纏った恐ろしそうなドラゴンが、迎え撃とうと、翼を広げた。
反射的に、ラーンが翼を撃つ。
翼の、骨が集まっている部分が、吹き飛ぶ。ドラゴンが怒りの雄叫びを上げたが、横っ面を張り倒すように、サラマンデルの炎が浴びせられる。
更にもう一機、サラマンデルが突入してきた。。
この戦場だけに。凄まじい兵力が投入されている。もはや文字通り後が無いとは言え、大胆な指揮だなと、ラーンは思った。
「もう一二匹を、あの白いのの側から引きはがしたら、突入じゃ。 味方も長くは敵の精鋭を支えられまい。 勝負は一瞬。 白いのを仕留めるのが最上じゃが、手傷を負わせて敗走させても良い」
後ろで、おぞましい規模の爆発が連続で起こっている。
暴れ狂う大怪蛇が、フレイ様とフレイヤ様を攻撃しているのだ。やきもきする。だが、アルヴィルダは、平然としている。まるで心を乱していないのは、凄い。
「フレイ様、無事かな……」
「無事に勝つためにも、必ずあの白いのを仕留めるぞ。 さて、そろそろじゃ」
アルヴィルダが、剣を構える。
そして、振り下ろした。
「突撃!」
一斉に皆が走り出す。
白いドラゴンは、一瞬だけ此方を見た。目が合った。
酷く冷たい目だった。爬虫類の、感情が見えない目というのとは、少し違う。根本的に、思考の熱量が違う目だ。
ラーンは無言で、立ちはだかろうとする魔物を撃ち抜く。
先頭を走るシグムンドが、左右に速射して、次々魔物を追い散らしている。路が出来、其処を狂戦士が広げた。ヴェルンドとヘルギも、討ち漏らしを確実に倒していた。他の兵士達も、命を捨てて路を作ってくれている。
「スヴァルトヘイムの王か!」
「いかにも。 余はニーズヘッグ。 まさか人間が、この余と戦えるとは、思ってもみませんでしたが」
慇懃な口調だが、不快な奴。
前の方で、シグムンドと白いドラゴンが会話している。勿論、殺気を込めた言葉同士でのやりとりだ。
それは、剣を使っての殺し合いと、なんら変わらない。
話している最中に、横からヘルギが剣を叩き込む。ニーズヘッグはしなやかな足を一本振り上げると、無造作に振り下ろした。剣を慌てて引くヘルギ。そうしなければ、踏みつぶされていただろう。
「あっぶねえ!」
「無礼者。 王の会話に剣で割り込むとは、人間は礼儀も知らないようですね」
「思ってもいない事をよく言う。 隙があったら、貴様から仕掛けたくせに」
「ふふふふ、分かっているではないですか」
話しながらも、シグムンドとニーズヘッグとか言う白いドラゴンは、互いに仕掛ける隙を伺いあっている。
ヴェルンドは右斜め前に、レギンはシグムンドと同じ前に。回り込む。
ラーンはハーゲンと一緒に、敵の後ろに迂回して、仕掛ける機会を待った。好機は、そう多くないはず。
ニーズヘッグはゆっくり体を動かして、周囲に殺気を放っている。
ラーンの位置も、既に分かっている筈だ。その上で、全員を同時に、或いは各個に撃破する機会をうかがっているという訳か。
「まだ待て」
ハーゲンが、ラーンを見ずに言う。
分かっていると、返さずとも良い。騎士団長は、ただ確認をしているだけだ。
「そろそろ、はじめるか」
「そうですねえ。 それでは、まずは、余から!」
突然、振り下ろされる尻尾。
ラーンが気付いたときには、それは至近にまで迫っていた。
慌てて横っ飛びに逃れるが、間に合わない。膝を突くようにしながら、ハーゲンが盾で受け止めてくれる。だが、それでも、周囲の地面が陥没する。
しかも、ニーズヘッグは、尻尾の反動を利用するようにして、高々と飛んだのだ。そして、宙返りをした。
ほんの一瞬の間に、包囲の外に出られた。
しかも、ラーンが振り返ったときには、白いドラゴンの巨大な口が、至近まで迫っていたのである。
がちんと、歯がかみあわされる音。ニーズヘッグは、首をS字に引いていた。
飛び出してきたアネットが、剣を振り下ろし。それを、ニーズヘッグが残像を残しながら避けた結果である。
心臓が凍るかと思ったが、これ以上はさせない。
矢を打ち込む。
残像を残して、首を横に動かしたニーズヘッグが、なんと矢を噛み取って見せる。あの首、どれだけ素早く動くのか。
「人間にしては、なかなかの腕ですねえ」
「褒めるのは……まだ早いぞ! この化け物が!」
石を蹴って跳躍したレギンが、斧を振るう。空を渡る斬撃ごと、かわしてみせるニーズヘッグ。
横に廻っていたヴェルンドが、矢を放つ。
ラーンの後ろに走ってきていたシグムンドも、速射。
だが、二本とも矢は有効打にならない。
ヴェルンドの矢は、脇腹に当たったが、貫くことかなわずはじき返された。
シグムンドの矢は、またニーズヘッグの首が素早く動いて、噛み取られてしまう。立ち直ったラーンは、敵の前から左に回り込むようにして矢を放つが、いずれも尻尾を振るだけで、ニーズヘッグは叩き落として見せた。
「ぬるいぬるい!」
せせら笑いながら、ニーズヘッグは空に浮き上がる。
飛ぶことも、出来るのか。翼が生えているとはいえ、訳が分からない生物だ。
後ろ、回り込んでいたアネットが、剣を振り下ろす。
やはり残像を残して、ニーズヘッグがそれを二度、三度とかわすが、アネットもきちんと考えている。
四度目の剣撃をかわしたニーズヘッグが、シグムンドにがら空きの背中を見せる。おそらく、そう誘導していたのだろう。
シグムンドが矢を、ここぞとばかりに放った。
ついに、矢が鱗の間に潜り込み、突き刺さる。
しかも、思っての他、かなり深くまで刺さった。ニーズヘッグが、舌打ちするのが分かった。
なるほど、避けるのが上手い、のではない。
体が元々柔らかいか、急所に受けると痛打になるか、どちらか、なのだろう。ラーンが、続けて矢を放つが、それは避けられてしまう。地面に着地したニーズヘッグは、器用に首を伸ばして、背中に刺さった矢を引き抜く。
その間、レギンが斧を振るい、ヘルギが大剣を振るって左右から斬りかかるが、まるで蛇のようになめらかに体を動かしながら、最小限の動きでかわしていく。とんでもなく、面倒くさい相手だ。
「思ったよりはやりますねえ」
「褒め言葉として受け取っておく!」
再び、シグムンドが矢を放ちながら、走る。ラーンも。
全員が矢を放ち、攻撃を仕掛けているが、まるで当たらない。ぬるぬると動き回ってかわすニーズヘッグ。攻撃には神であるワルキューレのアネットも加わっているのに、全員がかりの怒濤の猛攻でも、殆どその場から動かず、白いドラゴンはかわしてみせる。
アルヴィルダが、隣を走りながら、矢を放つ。
やはり、当たらない。
「いかんな。 時間が、もうあまりない」
「……」
ヴェルンドが放った矢が、当たる。
二度目のヒットだ。鱗を砕いて、矢は白いドラゴンの体に潜り込む。苛立ちを隠さず、ニーズヘッグは尻尾をヴェルンドに叩き付けるが、ヘルギが抱えて飛び逃れる。間髪入れずにレギンが上段から斧を叩き付けるが、それは残像を抉るのみ。
ニーズヘッグの口の中に、青い炎が宿る。
避けろ。
誰かが叫ぶ。炎が、辺りにまき散らされる。
味方の魔物を巻き込むことなど、ニーズヘッグは意にも介していない様だ。周囲の魔物が悲鳴を上げて逃げ惑う。直撃を受けた味方は、幸いいない。だが、散り散りばらばらになる。
其処を、狡猾な蛇竜は狙ってきた。
ラーンの真上。
口を大きく開いたニーズヘッグが、今まさに、かぶりつこうとして来ていた。
アネットも間に合わない。シグムンドも。
反射的に盾を振り上げようとするハーゲン。ラーンは横っ飛びに転がりながら、むしろ口の中に矢を放つ。
鈍い手応え。
ハーゲンとラーンをかみ砕こうとしたニーズヘッグの動きが、とまる。口の中に、痛打が入ったからか。
更に、シグムンドが、いつのまにかニーズヘッグの足に組み付いていた。
問答無用で、剣を突き立てる。ニーズヘッグの足の一本が、盛大に燃え上がる。
はじめて、ニーズヘッグが、鋭い悲鳴を上げた。
「アネット!」
アネットが。追いつく。
動きを止めていたニーズヘッグの背中に一閃。翼を、切り落とす。やはり、このドラゴン、体そのものは柔らかいのだ。
まるで飛び跳ねるようにしてシグムンドを振り払うと、ニーズヘッグは飛び退く。だが後ろには、狂戦士レギンが回り込んでいた。
「てめえの足癖は、もう見切ってるんだよ!」
残像を残して飛び退いた先に待っていたかのように、レギンが渾身の一撃を叩き込む。まるで丸太を抉るようにして、シグムンドが付けた傷を、正確に斬る。見事な手前だと、ラーンは感心してしまった。
ニーズヘッグの顔が、見る間に歪んでいく。
全員が、地面に叩き付けられたのは、その直後。
白いドラゴンが咆哮した瞬間である。まるで、見えない手に押し潰されたようだった。さては、魔術か何かか。立ち上がると、既にブレスを吐こうとしている体制に、ニーズヘッグは持ち込んでいた。
「おのれ小虫共! まとめて焼き払ってさしあげましょう!」
「そうはいかねえんだよ!」
尻尾に、いつの間にかヘルギがしがみついている。そして、剣を突き立てる。
痛みにも、さほど強くは無いらしい。絶叫して、ニーズヘッグは体をよじる。ラーンは既に装填していた矢を、おぞましい蛇竜の口の中に叩き込む。逃がしはしない。動く先まで読んでの一矢だ。
鈍い音と共に、矢が突き刺さる。
口の中に、二本目の矢。しかも今度のは、かなり深く突き刺さった。
アルヴィルダも間髪入れずに矢を叩き込む。目の少し下に、突き刺さる。これも、痛打になった筈だ。
尻尾を振り回し、ヘルギとレギンを吹き飛ばすニーズヘッグ。飛びかかろうとしたところを、アネットが死角から躍りかかり、首筋を狙って剣を振り下ろす。残像を残してかわしたニーズヘッグが、首を鞭のようにしならせて、アネットをはじき飛ばした。だがその時には、シグムンドが、さっき抉った傷に、もう一度剣を突き立てていたのだ。
足が、炭になって燃え落ちる。
体制を低くしたニーズヘッグが、凄まじい形相のまま、かさかさと動いて下がる。
「どうやら形勢不利のようですね」
「逃げるか! 王を気取っておいて!」
「一度の逃走は、一度の勝利で補うだけのことですよ。 此処で命を賭けて戦っても、意味はありませんからねえ。 では、雌雄を決すべき場所で、またお会いしましょう」
ニーズヘッグが雄叫びを上げると、魔物がどっと引き始める。見る間に、決戦場の丘から、敵が引いていく。
アルヴィルダが、声を張り上げた。
「総員、丘から離れよ! 神々の決戦の場は、取り戻した!」
わっと皆が走り出す。
この場にいたら、後ろの凄まじい闘争に巻き込まれてしまう。ラーンも、口中でフレイの無事を願いながら、慌ててこの場を離れる皆に、続くほか無かった。
「見事な活躍であったな」
騎士団長が褒めてくれる。
本当だったら、出世が確約されたようなものだ。良い夫も見つけて貰えて、人生万端だっただろう。
もう今は、それも意味が無いこと。
何処かで、ラーンも分かっている。振り返ったとき、既に焼け野原になっているブルグント周辺を見て、なおも悟らされる。
王都の一部からも、火が上がっていた。
無差別攻撃を繰り返すヨムルンガルドの、火力の一端を浴びたのだ。もはや助ける術さえも無い。
王宮も、既に灰と化しているようだ。
包囲に加わっていた魔物達が、引いていく。
おそらくは、此処にいると危険だと判断したのだろう。正しい判断だと、ラーンも思う。だけれども。ラーンは、不思議と、此処から逃げたいとは、思っていなかった。
焼け野原が、広がりつつある。
ムスペルとかいう恐ろしい炎の騎士が来る前に。この世界は、滅びてしまうのかも知れない。
そう、ラーンは思った。
3、果てへの路
鬼のような形相で、マグニが弓を引き、放つ。
フレイは走りながら、フレイヤに呼びかけた。既に無差別攻撃による火力を浴びて、フレイもフレイヤも、鎧はぼろぼろだ。ましてやフレイヤは、殆ど鎧を修復する時間が無かったのである。
「人間達が、スヴァルトヘイムの魔物を追い払った! 丘の方へ行くぞ!」
「分かりました、兄様」
「マグニ、生き残った神々をつれて、爆撃の範囲外に! これから最終段階に入る!」
「分かった!」
離れていくマグニを視線だけで追うと、フレイは弓をつがえる。そしてバックステップしながら、丘の方へ巨大蛇を誘導していく。
ヨムルンガルドは、ゆっくりと此方に顔を向ける。
既にその顔は歪み傷だらけで、正視に耐えない惨状だった。まるで、中にいるウルズの状況を示すかのように。
大量の毒液を吐く体勢に入ったヨムルンガルド。
周囲に殺戮と破壊をまき散らしながら、此方に驀進してくる。フレイヤが、ディースの弓を引き絞り、矢を放つが、もはや目だった効果は見えなくなってきている。腹に生えていた光弾を放つ器官は、あらかた潰したが。何しろからだが大きすぎるので、死角にあったり、届かない位置にある器官はどうにも狙いようが無い。
「殺す……!」
「来い。 こっちだ」
あしらいながら、丘へ走る。
途中誘導式の光弾が、至近に何度となく着弾した。もはや敵を撃っている余裕は無く、光弾を撃墜するのが精一杯だ。フレイヤを後ろに庇いながら、フレイは丘へと走る。作戦の最終段階では、二つの過程を用いて、敵を屠る。
まずは、一つ目。
ヨムルンガルドを、地面に叩き落とす。
毒液が、ヨムルンガルドの口から吐き出される。凄まじい量で、まるで洪水のような有様だ。
走って、逃げる。
だが、飛散が鎧に付着。瞬時に腐食していく鎧を見て、フレイは目を見張った。これでは、修復しきれないかもしれない。
あまり今までは意識してこなかったが、神々は本当に時の呪縛から自由だったのだ。だからこそ、怒る者達もいた。
フレイヤが、たまらず鷹に化身して、先に飛んでいく。
それを狙おうとする光弾が、四つ飛んでいった。剣に持ち替え、素早くふるって撃墜するが。
しかし、フレイに、後ろから飛んできた光弾が直撃した。
意識が飛ばされる。
どうやら、地面に叩き付けられ、何度かバウンドしたらしい。
気がつくと、丘の中腹に、転がっていた。鎧はもはや、修復不可能なほどに、傷つけられていた。
ヨムルンガルドが来る。
口から膨大な血を流しながら。
巨大な口を開いているのは、オーディンのように、フレイを飲み込むつもりか。側に駆け寄ってきたフレイヤが、炎の杖から乱射を浴びせるが、まるで巨体には効いていない。雷鳴の槍を取り出すフレイヤ。
フレイは手を借りて立ち上がりながら、迫り来る巨大な口を、ぎりぎりまで引きつける。全身に酷い痛みがあるが、まだだ。
「オーディンと同じように、してあげるよおっ!」
「マグニ!」
いまだ。
叫んで、合図を送る。マグニが、遠くで雄叫びを上げるのが分かった。
ヨムルンガルドの巨体が揺らぐ。狙うは、アスガルドの神々がつけた、腹の大きな傷。其処にマグニら若き神々が、総力での攻撃を集中する。ヨムルンガルドが、此方に意識を全て向けている今こそ、好機。
連鎖する爆発が、ついに島のような巨体を、揺るがせた。
鷹になって、上空に。フレイヤに少し遅れて、フレイもヨムルンガルドの口から、逃れた。
上空に躍り出て、見下ろして分かる。
ヨムルンガルドの体の上には、山や河を思わせる構造物が、たくさんあった。おそらく、この体は。
始祖ユミルの一部なのだろう。
世界を作る材料とされたというユミルは、その体の全てが、山になり大地になり、川になり、世界を構成する要素となった。
しかしそれでも未完成な世界だ。
使われなかった要素が寄り集まって、時そのものであるヨムルンガルドという強大な古代神格の体を作る一つとなったのか。
ヨムルンガルドが、地面に激突。
辺りを大地震が襲っていることは、容易に想像がつく。ブルグント王都が、致命傷を受け、崩れていくのが、此処からも見えた。
被害を少しでも抑えるために、主戦場を離したのに。これでは、意味が。
しかし、ためらっている時間は無い。
ヨムルンガルドの上に、着地。
火山の弓を、引く。
鎧が完全に破壊されたことで、神としての力が、急速に失われつつある。火山の弓が通じなかったら、死を覚悟しなければならないだろう。
ウルズの絶叫が聞こえた。
許せない殺してやる。そう叫んでいる。
だが、どうしてだろう。
その声が、ぴたりと止んだ。動きも、とまったように思えた。
フレイヤが、隣で雷鳴の槍を、全力で放つ準備を、既に終えていた。この位置からなら、頭を後ろから狙うことが出来る。
躊躇は、許されない。
「フレイヤ、タイミングを合わせていくぞ」
「はい、兄様」
ヨムルンガルドは、まだ生きているにもかかわらず、動きを止めた。理由は分からないが、文字通り今が、最後の好機だ。
此方にももう余力は無い。
フレイヤも、雷鳴の槍を全力で放てば、余剰魔力はない。これ以上力を使えば、確実に魔力の漏出が始まる。それは神の死を意味しているのだ。
火山の弓を、引き終える。
そして、全力で、敵の頭に向け、打ち込んだ。
轟音の中、ウルズは気付く。
全てが溶けていく。
側に浮かんでいる二つの光は、何だろう。ヨムルンガルドとフェンリルだと、どうしてだか分かった。
「ウルズ、終わりだ」
「どうして最後に邪魔をしたの」
気付いていた。
最後に、動きを止めたのは、ヨムルンガルドだ。だが、不思議と、怒る気にはならなかった。
「もう充分だろう。 復讐するべき相手は殺し尽くし、お前が憎むべき相手は、もはや存在しない。 お前は憎悪を暴走させていただけだ」
「……」
運命の三女神の一つが、どうしてウルズの体に入ったのか、理由は何となく分かる。
怒りに惹かれたのでは無いだろう。
ウルズは、死の瞬間、呪ったのだ。この理不尽すぎる世界のあり方を。その呪いはあまりにも画一的で、ゆえに世界の管理者は引きつけられた。
「私は、どうなるの」
「もはや人として、生きる、無理」
フェンリルに言われずとも、そんなことは分かっている。もし人が受け入れてくれると言っても、ウルズの方から恥ずかしくて願い下げだ。
冥界に行くしか無いのだろうか。そう思っていたとき、ヨムルンガルドは言う。
「我らと共にいて、なおかつ運命の神と融合していたお前は、時を経れば、いずれ世界そのものとなろう」
「……意味が分からないよ」
「この世界とは別の、泡沫の世界。 それを構成する主体要素として、お前はやがて昇華する。 新しい世界では、きっとお前は」
ヨムルンガルドが、消えていく。
否、ただの時に戻っていく。
フェンリルも。
そして、ウルズは、この世界からはじき出された。
外は完全な闇だった。何も無い、ただ其処にあるだけの、空っぽの空間。目を閉じると、伝わってくる。
無から、有に変わりたいという欲求が。
もしも、世界を作るというのなら。
こじんまりとしていてもいい。小さくても構わない。
平和で、静かな、穏やかな世界がいい。
そう、ウルズは思った。
ヨムルンガルドの首が、壊れて、溶けていく。
両の首を失った大怪蛇は、地面に横たわり、その体は土塊へと変わりつつあった。あれだけ流れていた血は、いつのまにか清浄な水へと変わっていた。
文字通りの、生きた島。だったのだろう。
神々でさえ、勝てなかった訳だ。
空が、青に戻っていく。世界を汚染していた魔力は、消えていった。
マグニは、激戦を生き延びていた。ヨムルンガルドの横たわった体を見て、トールの子は、呻いていた。
「一体何だ。 醜い化け物だったと思ったのに。 殺してみれば、ただの島になりやがって……」
「我々は、憎悪と怨念と戦っていたのだ。 この巨体と戦っていたのでは無い」
「お前は、許せるのか。 此奴は、テュール様の腕を……!」
「許せるさ。 神々が人にしてきた事は、その比では無い。 それに……」
フレイは、フレイヤを見る。
妹も、感じ取っていたようだ。ウルズの意識が二つ上の次元に行き、この世界を離れた事を。
人から神へ。神から、創造者へ。
世界の外側に出たという事は、もうこの世界に戻ってくることは無いだろう。世界を管理してきた女神と一体化したのだ。人という枠を飛び越えたのは、自然なことであったのか。
いずれにしても、ウルズを殺さずに済んだのは、フレイにとっては嬉しかった。口には出せないが、それが本音だ。孤独な魂を救わず、消去するだけが、神のすべき結末では無い。
気持ちを整理し終えると、フレイは周囲を見回した。
まずは、被害を確認しなければならない。
ヨムルンガルド墜落のダメージで、ブルグント王都は凄まじい被害を受けている。可能な限り、復旧に手を貸さなければならないだろう。
生き残った人間の軍勢は、どれくらいいるだろうか。
開戦時は、五万を数えていたが。
マグニは、無言で泣いていた。フレイヤが手を引くが、フレイは首を横に振って、一人にしてやるようにと視線で促した。
泣いている姿を、他人に見せたくないだろう。男が、ましてや神が。
手を振っているシグムンドが見えた。
まずは、勝利を報告しなければならない。フレイは、鎧の状態を確認しながら、歩いて行く。
その過程で、状況を整理するべく、フレイヤに探知の魔術で、周囲を確認してもらった。
「無事か、フレイ」
「ぎりぎりだった。 しばらくは戦える状態には無い」
「そうか。 酷い被害だったが、よくやってくれたな」
そのまま、軍部隊が集結を開始していた、平原南へと案内してもらう。青ざめたグンターが、伝令からの報告を聞いていた。
グンターはフレイを見ると、汗が浮かんだ額を拭う。
「神よ、勝ってくれて感謝する。 だが、被害が大きすぎた」
「どれほどだ」
「王都に避難していた民の多くが、もはや帰らぬ。 王宮は崩落し、城壁は潰れ、全ては瓦礫の下に埋まった。 かろうじて助け出せそうな民は助け出しているが、出来れば手伝って欲しい」
「分かった。 すぐに向かう」
歩きながら、兵士達の状況も聞く。
生き延びた兵士は、一万を少し超える程度。サラマンデルは全機が無事だが、大きく壊された機体も多く、すぐには動かせないという。
ヨムルンガルド=フェンリルの攻撃能力は、桁違いだった。来るのがもう少し遅れていれば、もっとブルグント王都から離れて戦う事も出来たのだろう。しかし、全てのタイミングが悪すぎた。
此処で、巨神に襲われたら、ひとたまりも無い。
王都に入ると、悲惨すぎる現状が目に飛び込んできた。何しろすぐ近くの平原に、島が落下したも同然の衝撃が走ったのである。可能な限り被害を減らすために、距離と取ってこれだ。もしもブルグント王都の至近にヨムルンガルドが墜落していたら、人間は全滅していただろう。
城壁は全てが崩れ、家も倒壊していないものはない。
ワルキューレのサーニャがいた。
彼女は、周囲の惨状におろおろするばかりで、どうして良いかも分からないらしい。ワルキューレ隊から、此方に回された理由が、よく分かる。気が弱いとは思っていたが、これでは戦場で使い物にならない。
遅れて来たアネットが、サーニャの手を引いて連れて行く。
こういうときにしかりつけても逆効果だ。まずはやるべき事を示して、少しずつ落ち着かせていく。アネットはどうやらそれを知っているらしく、フレイが手を出さずとも、ちゃんとサーニャに指示を出していた。
確かにサーニャは弱いかも知れない。
しかしながら、彼女の回復魔術は大変に有用だ。
大槌にフレイは持ち変える。瓦礫の下の生存者は、フレイの力を持ってすれば、見つけることは難しくない。
瓦礫を大槌で吹き飛ばし、一人ずつ救っていく。救った生存者は、アネットとサーニャ、それに生き延びた神々に治療してもらった。サーニャは機械的に回復術を使う事で、ようやく少しずつ落ち着いてきたようだった。
丸一日働いて、生存者はどうにか救い出す。
全てをあわせても、五万程度。これだけが、ミズガルドに生存している全ての人間といってよかった。
慟哭がこだましている。
また、誰も守れなかった。フレイは空を仰ぐ。役立たずの神様と、ウルズは罵っていたが。
その言葉に嘘は無かった。
度重なる戦いで心も鍛え上げられてきたフレイだが、それでも苦しい。だが、此処でフレイが動かなくなっては、皆が死ぬのは確定だ。動かなければならない。導いていかなければ、ならないのだ。
周囲を見回り、けが人にはすぐに手配をして行く。
倉庫も潰れてはいたが、中の物資は無事だ。食糧は、どうにかなる。
問題は、巨神族が来なかったとしても、間もなく此処にムスペルが来ると言うことだ。早ければ、数日以内。遅くても、一週間以内には、押し寄せてくる事だろう。
助け出した民の事は、グンターに任せ。フレイは鎧を修復しながら、生き残った若い神々を集める。
マグニは無事だが、此方に逃れてきた他の神は多くが死んだ。
この戦力で、ムスペルの軍勢を迎え撃つのは不可能だ。各個撃破でさえ、容易には出来ないだろう。
「もう終わりよ……」
若い女神がぼやく。
彼女はフレイと同じ世代の一番若い神の一柱。探査能力に優れている。
彼女によると、ミズガルドの半分ほどが、既に消滅しているという。誰に言われるまでも無い。ムスペルの仕業だ。
「此方に向かっているムスペルは」
「紅い騎士なら、二十体以上。 ミズガルド全域には、八十体以上がいるわ」
「あのバケモンみたいな紅い騎士が、二十以上……」
「いやまて、どういうことか」
挙手したフレイは、女神に問いただす。
確かムスペルは、三百万に達する軍勢を有しているはず。紅い騎士一体につき一万の眷属が従っているとして、それだと八十万程度しかいないことになる。
フレイの目に、熱が宿る。
これは、不幸の中に生まれた、好機かも知れない。
「ムスペルは、自分が溶けることで、世界を消し去っているらしい。 つまり、紅い騎士は、世界を消す過程で目減りしている、ということだ」
「それでも八十体もいるんだろ」
「私とフレイヤ、それに北ミズガルドの戦士達と人間の精鋭で協力し、此方に向かっているムスペルだけでも全滅させる」
南から来ているムスペルの軍団が、一番近く接敵する。接敵するまでには、二十から更に目減りしているとみて良いだろう。
此方も南へ移動し迎え撃つ場合、だいたい二日後に接敵すると聞いて、フレイは頷く。
それならば、鎧を戦える状態にまで修復できる。各個撃破に持ち込むのも、可能なはずだ。
そして、もう一つのことについても、準備が可能だ。
「スルーズ、頼みがある」
「何かしら」
端っこで、膝を抱えて座っていた女神が顔を上げる。
彼女はトールの娘である。此方に避難してきた若き神の一柱で、かってはワルキューレ隊の隊長をしていた事もある。
兄のマグニと違い、トールの敵討ちにはさほどの興味も無かったようだ。理由については、よく分からない。
「アスガルドへ、此処の民全員を移動させる術式の準備をして貰えるか」
「出来るけど、いいの、そんなことをして」
「かまわん。 もはや味方勢力を分散させている場合では無い。 フリッグは私が説得する」
といっても、フレイヤの話を聞く限り、もうフリッグが正気を保っているとはとても思えない。彼女の取り巻きと話すことになるかも知れないが。
他にも幾つか細かい事を打ち合わせし終える。
もはや、この世界に安全な場所など、どこにも無い。
アスガルドも例外ではない。
故に、フレイは。手段を選んではいられなかった。
南から来るムスペルを迎撃する。
それを説明すると、難色を示したのはグンターだ。というよりも、グンターは十歳は老け込んだかのように見えた。
無理もない。
長年守り抜いてきた国が、文字通り壊滅したのである。生きている人間は数万にまで減少し、信仰していた神々まで失ったのだ。
「話は分かった。 しかし、もはや勝ち目があるとは思えん」
「それでも可能性に賭けてみる価値はある」
「俺はやる」
シグムンドが言う。そう言ってくれると思っていた。ヘルギとヴェルンド、レギンも賛意を示してくれる。
ハーゲンも、やる気は失っていない様子だ。
「陛下、私も同意見です。 ムスペルは存在を対価に世界を消し去っているという話ですし、ここに来る者達を削るだけでも、世界にとって大きな意味があるかと思います」
「どうやら、選択の時間も余地もなさそうじゃな」
アルヴィルダが、側に控えていた親衛隊を呼ぶと、幾つか指示を出していく。
グンターは呆然としている様子だ。
フレイは、老け込んでしまったかのような王の目をまっすぐに見つめた。
「今、若い神の一柱に、アスガルドへの移動術式を準備してもらっている。 此処にいる民全員を、移動させる」
「そ、そのようなことが可能なのか」
「可能だ。 もはやこの城壁と兵力では、相手がスヴァルトヘイムの魔物であったとしても支えきれぬ。 だが、アスガルドの要害であれば」
それに、もう一つ希望がある。
アスガルドには、最悪の場合に備えて、神々を収容できる地下施設があると聞いている。神々が確実に負けるとなった場合に用意されたものらしく、数年の籠城が可能だという話だ。
そこであれば、スヴァルトヘイムの魔物が来ようが、巨神族が来ようが、民をこれ以上害させることは無いだろう。
ただしムスペルを防げるとは思えない。
また、迎撃に出る者達が全滅した場合も、彼らの運命は決まってしまう。
「まだわずかに残っているエインヘリアルと合流することが出来れば、戦力の補填も可能になる」
「だが、ヨムルンガルドとやらの強さを見たであろう。 最後の三悪魔とやらが来て、対処は可能なのか」
フレイは無言で、グンターを見つめた。
出来るだろうか、ではない。
やらなければならないのだ。
大きく肩で息をついたグンターは、嘆くように言った。
「分かった。 自害するのも趣味では無い。 此処に向かっているというムスペルの迎撃が終わるまでには、出立の準備はさせておく」
「頼む。 これは、そなたにしか出来ぬ事だ」
「……」
力なく、グンターは頷いた。
連れて行ける人員は限られる。なぜなら、スヴァルトヘイムの魔物が、襲撃をかけてくる可能性があるからだ。
兵士達は苦労の末、千名を選抜できた。
指揮は、アルヴィルダにとってもらう。グンターの側には、ハーゲンに残ってもらう事にした。若き神々も、アネットを除いた全員がグンターの側に残る。
フレイはフレイヤと、北ミズガルドの戦士達。それにアネットと、サラマンデルを一機だけつれて、南へ向かう事とする。
ラーンが南に出る部隊に志願したと聞いて、フレイはそうかとだけ呟いた。
あの戦いを生き延びたのは、たいしたものだ。
ムスペルは、やはり紅い騎士が四体ずつで一隊を組み、前進してきているという。しかも、一隊ずつが離れている。
これならば、決死の覚悟での戦いを挑めば、各個撃破も可能だ。
ただし、撃滅した後は、すぐに移動しなければならない。休む暇も無い、生き残る可能性が著しく低い戦いになる事だろう。
だが、それでもやらなければならない。
少しでも、生き残る可能性をあげるためにも。
一つ気になるのは、巨神族の動向だ。まだ十万以上の戦力を保持しているという話であるし、目を離すのは危険だろう。
移動を開始した軍を見守っているフレイの側に、フレイヤが来たので、言っておく。
「フレイヤ」
「兄様、如何なさいました」
「アスガルドと連絡を密にとって欲しい。 巨神の動向が気になる」
「分かりました」
意志が通じ合っているから、会話は最低限で済む。
すぐに通信を開始するフレイヤを横目に、フレイは、ムスペルとの戦いで、執るべき手段について、模索しはじめていた。
4、終焉の階段
フルングニルは、残った戦力の再編成を終えて、フリムの前に出た。
ヨムルンガルド=フェンリルを倒すための分析をさせていたのだが、それは無駄になった。幸いにも、と言うべきかも知れない。現在の戦力では、どれだけ効率よく戦っても、壊滅は免れないというのが結論だったからだ。
ただし、倒すための切り札は手に入れてはいた。
使う機会は、ある。
これから、アスガルドへの最終攻撃を開始する。スヴァルトヘイムの魔物共の動向が全く掴めない上に、ムスペルが確実に世界を消し去っている。確かにムスペルは巨神への攻撃をしてこない。気にする必要は無いが、それでも世界の崩壊に巻き込まれてしまえば、おしまいだ。
実際問題、ヨトゥンヘイムで留守をしていた巨神族は、攻撃も受けたようだが、それ以上に世界崩壊に巻き込まれて滅んでしまったらしいと、ファフナーから報告を受けている。ムスペルにして見れば、世界を消し去る際に、非攻撃対象をいたわるようなことはしないのだろう。
大変に迷惑な存在だ。
フリムが既にムスペルをヴァン神族に対して無力化していても、危険性には変わりが無いのだ。
どうにか整備できた実戦戦力は十二万三千。
昔日の面影は無い。支援部隊として、十一万がいるが、彼らは恐怖をヨムルンガルド=フェンリルに叩き込まれてしまい、戦士としては使い物にならない。もはや、この十二万だけが、ヴァン神族の総兵力だった。
ただし、悲観材料だけでは無い。
フリムが報告を求めてきたので、フルングニルは跪いたまま説明する。
「偵察の結果、アスガルドの軍勢は三万から四万程度にまで目減りしていることが分かりました。 トールとオーディン、主要な神々の殆ども、既に命を落としております。 敵側の要注意戦力として懸念されていたテュールは片腕を失い、フリッグは既に正気を保てていないという報告もあるようです。 現在はヘイムダルがまとめをしているようなのですが、奴はもとより武勇の存在ではありません。 アスガルドの戦力は、既に事実上壊滅していると言って良いでしょう」
「ふむ、当初の想定通りだな」
「は……」
歯切れが悪い返事をしてしまう。
確かに、ヨムルンガルド=フェンリルをアース神族と共倒れにさせる予定であった。だが、味方まで壊滅してしまった今では、あまりにも意味が無い予定になってしまった気がする。
いずれにしても、今はニーズヘッグがどう動くかが気になる。
どう見ても、現在のムスペルを除く最大戦力は奴だ。この間の、ブルグント王都での攻防で多少の被害は出したようだが、それでも圧倒的な戦力を有している事に変わりは無い。ただし、弱点もある。
ニーズヘッグによる完全トップダウンで動いているスヴァルトヘイムの魔物共は、首を失えば単なる雑兵に成り下がるはずだ。
いずれにしても、今するべき事は。介入の余地さえ無い速度で、アスガルドを攻略する。ただそれだけだ。
「それで、アスガルド攻略の具体的な作戦は」
「まずは、魔力消去装置で、アスガルドを守る結界を破壊します」
ロキ=ユミルをフレイとフレイヤが葬ったとき、横やりを入れるために使った装置を、此処で投入する。
ヨムルンガルド=フェンリル戦では間に合わなかったが、ファフナーに改良は進めさせている。
しかも、死者との戦闘で、アスガルドの結界がどう崩壊するかの観察も行わせていた。その際のデータを取り込むことで、より効率よく破壊することも出来るはずだ。
片腕を失ったテュールと、ヘイムダル。それに魔術に優れていると言っても、元々戦闘向けでは無いフリッグでは、此方の敵にはなり得ない。
「攻略にはどれほどかかる」
フリムが視線を向けたのは、アスガルドだ。
今布陣しているのは、アスガルドの麓。
勿論アース神族は、既に此方に気付いている事だろう。だが、もはや組織的に反撃が出来る状況には無い。
「軍を進めるのに二日。 結界を破壊するのに一日。 決戦に一日。 以上で充分かと思われます」
「四日か」
「はい。 アスガルドには魔術で作られたガーディアンも多数配置されていましたが、それは死者の侵攻の際、全てが破壊されたようで、再配備もされていません。 余裕を見て一週間と考えておけば、大丈夫でしょう」
「よし、早速取りかかれ」
フリムの言葉を承ると、フルングニルは退出した。
主だった部下達を集めて、作戦について伝達する。部下達は、不満の色を隠せない様子だ。
「そもそも、どのようにしてムスペルを無力化したのです。 出来るのならば、どうしてヨトゥンヘイムを見捨てたのです」
「それらは、言えぬ」
「言えぬと。 ヨトゥンヘイムにいた留守部隊の者達も、我らヴァン神族の同胞であったというのに」
「フリム陛下は一体どうなされたのですか。 確かに合理主義な所は以前からありましたが、そのように冷酷になってしまわれたのは、何故なのです」
フルングニルも、それには色々と思うところがあるのだ。部下達の怒りはもっともだとも思う。
しかし、フリムを支配神の座に据えれば。
今までの全ては、払拭できる。
それに、戦いの中で、美学を捨て、勝つための手段を選ばずに来たのは、フルングニルも同じだ。
どうにか部下達をなだめる。フルングニルが頭まで下げたので、彼らは流石に黙り、不満を押し殺してくれた。今は耐えてもらうしか無い。悔しいし、悲しいのは、フルングニルだって同じだ。
文字通り、世界が滅ぶかどうかの瀬戸際なのだ。もはや、戦士としてのプライドがどうのと、言ってはいられない。
「アース神族を滅ぼすことは、難しくないでしょう」
顔にもの凄い向かい傷がある部下が、挙手し発言した。
彼は歴戦の戦士で、フルングニルが最も信頼する将軍の一柱である。ヨムルンガルド=フェンリルの攻撃で多くの歴戦の勇者が命を落としたが、彼が生き残ってくれたのは、フルングニルにとっては僥倖だった。
「しかし、その後確実に攻めこんでくるであろうスヴァルトヘイムの魔物を如何なさいます。 此方が疲弊した隙に、数での蹂躙を計ってくることは、ほぼ間違いないと思われますが」
「その通りだ」
「もう一つ、懸念材料があります。 フレイとフレイヤです」
それも、フルングニルは想定していた。
だが、奴らは、今は世界そのものを守るために動いているようだ。南に進発し、ブルグント王都に向かっているムスペルの殲滅に着手しているという。
奴らの力は、既に二柱あわせればトールと同等かそれ以上だろうと、フルングニルは分析していた。実際、かなりの数のムスペルを倒してきてもいるようだし、今後は最大の障壁になるとみて良い。最初戦ったときとは、別物だ。
疲弊しているところに、介入されると。非常に面倒な事になる。
フルングニルもまだ切り札を有しているが、使うべき時かも知れない。
「切り札を、使うべきかも知れぬ」
「それほどの覚悟でありますか」
「うむ……」
この切り札は、一度しか用いることが出来ない。
今のフレイとフレイヤは、それに相応しい相手だろうと、フルングニルは見ていた。アスガルドとの決戦の際に、奴らが横やりを入れてきたら。使う事に、躊躇する理由は無い。
そして、勿論。勝てない事も、視野に入れるべきだろう。
最初から負けることを前提に、状況を想定するわけでは無い。負けた場合、どうなるかを考えておくことは、司令官の義務だ。
「俺が倒れた場合は、スリヴァルディを総司令官とする」
今までずっと黙っていた騎兵部隊の長は、此方を見ると、軽く頷いた。これだけの抜擢をしたのに、無口な奴である。
だが、今更饒舌になられても困る。
スリヴァルディは勇敢で武勇にたけ、要領もいい。
現在、重要なのは、其処だけだ。
「ファフナー」
「はい、フルングニルさま」
気弱な部下を一瞥だけすると、フルングニルはあらかじめ指示を出しておく。もはやヴァン神族には、めぼしい魔術師が此奴しか存在しない。
というよりも、此奴以上の魔術師を、ヴァン神族はついに輩出できなかった。
情けない話だが、ファフナーが生き延びていなければ、ヴァン神族はこの時点で詰んでいた可能性が高かった。
「結界破壊用の魔力消去弾の準備は」
「出来ています。 三重に展開されている結界を、全て予定時間内に破壊することが可能だと思われます」
ヨムルンガルド=フェンリルに対する切り札についても、此処で用いてしまうつもりだ。如何に壊滅したとはいえど、アスガルドである。まだ切り札を隠し持っている可能性は否定できない。可能な限り短時間で、効率的に攻略する必要がある。
ファフナーに、運び出させる。
それは、大型の武器である。大巨神が三柱がかりで使うというキワモノで、本来は鉱山を露天で掘削するためのものを急いで改造した。T字の形状をした刃を、魔力の爆発で押し出すというもので、岩盤をも砕いて山ごと崩す事が可能である。
本来は戦闘における実用性が皆無なのだが、フルングニルが二柱の精鋭と一緒にヨムルンガルド=フェンリルの頭上に上がり、叩き込んで倒す予定だったのだ。
動く相手に対しては本来使い物にならないが、あれくらい大きい敵であれば、充分な効果を発揮できる可能性が高かった。もっとも、これはあくまで装甲を破るための武器であって、敵を倒すためには、媒介として内部に直接魔力を叩き込む必要があったのだが。とりあえず、今度は違う方法で用いる。
アスガルドに幾つかある頑強な防御施設を、これで突破するのだ。
「なるほど、破城槌として用いるのですね」
「そうだ。 そして、この地点」
地図を広げさせる。
アスガルドの一部に、高原がある。かなりの広さがあり、アース神族、ヴァン神族、両軍の全てが展開するには、充分だろう。
「ヴィーグリーズ平原。 此処が、最後の決戦の舞台になるはずだ」
「見晴らしが良さそうな場所ですな。 我らの命を燃やすには、絶好の舞台となりましょう」
最後に立っていたものが。
世界を統べる者となる。
スヴァルトヘイムの横やりを入れさせないためにも、決戦には極めて短時間で勝利する必要がある。
しかし、勝利を焦っては、負ける可能性も出てきてしまうだろう。
「皆の意見を聞きたい。 確実に勝つためだ」
だから、敢えてフルングニルは、此処で皆の意見を聞いておく。
今まで、あらゆる戦いで作戦を立案し、戦って来たフルングニルだが。此処で驕っては、負けるかもしれない。
最後の詰めを誤り、敗者に転落した将など、歴史上枚挙に暇が無いのだから。
部下達も、これが最後だと、分かっているからだろう。
忌憚ない意見を、次々に出してくれた。中には、フルングニルが感心するような、的確な作戦も含まれていた。
どうやら、勝つことができそうだ。
フルングニルは安心すると同時に、やはり不安を消し切れていないことに気付く。フリムの正体は見知った。その底も、把握した気がする。
だが、この世には、まだおぞましい秘密が、あるのではなかろうか。
だが、敵がたとえ何であっても。フルングニルは、負けるわけにはいかなかった。
ニーズヘッグは、全軍をアスガルドの麓に集結させていた。ヴァン神族が布陣している地点とは、山を挟んで逆側である。
既に最終作戦については、細かい所まで調整が出来ている。とはいっても、部下達に思考活動など、最初から期待していない。
全てはニーズヘッグが単身で考えたことだ。
元々スヴァルトヘイムは、その全てをもって一つの生命となす、群体世界と言ってもよい場所だ。
ニーズヘッグは暴君でも専制君主でも無い。そういったものとは根本的に概念が違っている。
強いていうならば、種族の頭脳。
生物で言えば、蟻や蜂に近い。それが更に進化した姿が、ニーズヘッグだ。女王蟻や女王蜂に近い存在である。ニーズヘッグには性別そのものが存在せず、生殖能力も無いが、魔物達の生存や繁殖は完璧にコントロールしている。
ニーズヘッグに頭脳活動を集約し、部下達はそれに疑念を抱かず動く。
勿論この方式の場合、ニーズヘッグ自身が暗愚であれば、瞬く間に世界としてのスヴァルトヘイムは、そこに住まう種族の全てごと滅びてしまう。スヴァルトヘイムが的確に立ち回り、今まで生き延びてきたのも。ニーズヘッグの手腕があってのことなのだ。
偵察に出していた魔物が戻ってきた。
触角を体に触れさせ、情報を伝達させる。スヴァルトヘイムにいる時、ニーズヘッグは言葉などと言うむだなものは殆ど使わない。高位の魔物との会話では用いることがあるが、それだけだ。
ヴァン神族が動き出した。兵力は、現在動員できる全ての数。
アスガルドとの決戦に出向くのだろう。
フレイとフレイヤが、近場に来ているムスペルを処理しに向かったことは、把握している。
時間的な問題は、どうなるか。
少し、ヴァン神族がアスガルドを滅ぼす方が早いと、ニーズヘッグは一刻ほど計算したのちに、結論を出した。主要な神々が殆ど死滅したアース神族では、いまだファフナー、フルングニルが健在なヴァン神族の猛攻を捌ききれないだろう。
それでは、駄目だ。
もう少し、消耗し合ってもらわなければ。
ムスペルと戦うのは、少しリスクが高い。
攻撃開始のタイミングで、ヴァン神族を背後から叩く。奴らの戦術については、側で見て知り尽くした。
フルングニルは侮れないが、直接対決を避ければ問題ない。そして、高山や斜面は、スヴァルトヘイムの者には苦にならない。
意思を伝えるだけで、忠実な部下達は、動き出す。
いずれも意思なき木偶ばかりだが。ニーズヘッグは、これでも部下達を愛している。
かっては、意思のある魔物も多くいた。ヨトゥンヘイムではなく、スヴァルトヘイムに逃れてきたドラゴンや、高位の魔物達。
粛正も行わなければならなかった。彼らにも意地や矜恃があり、意思を手放すことをよしとはしなかったからである。
スヴァルトヘイムは一つで全ての世界。
故に、どのような犠牲も怖れず。そして、最大の戦力を得るに至った。
だからこそ、負けるわけにはいかないのだ。
どうしても、神々には勝てない。だから、あらゆる手を使って、戦力を高めてきた。切り札も、何枚も用意してきた。
そして今。
地底に潜み、ただ隠れ住んできた者達が。
世界樹を中心とした世界の理そのものに対して、反旗を翻す。
おそらくは、フルングニルはニーズヘッグの横やりを予想している。ならば、速攻を選択するはずだ。
つまり足さえ止めてしまえば、ヴァン神族に大きな打撃を与えることが出来る。適切なところまで、兵力を削ることが出来る。
そして、アース神族と共倒れさせれば。
フリムが持っている切り札についても、把握している。如何にフリムであっても、泥沼の状態になった上で、フレイとフレイヤに強襲されれば勝てないだろう。そしてここからが重要なのだが、奴らはフリムが手にしている切り札を知らない。
戦闘後、横からかっさらうのは、決して難しいことでは無いのだ。
このまま行けば、世界は、我が手に落ちる。
ニーズヘッグは、含み笑いをしながら、部下達と共に地底に潜る。地底には多くの洞穴があり、その全てをニーズヘッグは把握している。地底の王である。その知恵と知識は、伊達では無い。
今だ、スヴァルトヘイムの軍勢は百万を遙かに超えている。
そしてその性質上、ニーズヘッグが死なない限りは、瓦解もしない。世界の覇権は当初の予想よりも遙かに近くに来ていた。
上手く行きすぎているきらいもある。
油断したものから死に、負けていくことも、ニーズヘッグはよく知っている。
だが、これこそ天の好機とみて、ニーズヘッグは、全軍と共に前進を開始していた。
(続)
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