絶望の血戦

 

序、最悪の夢

 

どうにかヨムルンガルドから逃れた戦力をかき集めて、フルングニルは蒼白になった。

半分も、生き残っていない。四分の一もいるかどうか、分からない。

軍としてのヴァン神族は、壊滅したと言って良かった。

わずか三日で、ヨムルンガルドは八十万を越えていたヴァン神族の軍勢を、文字通り地上から消し去ってしまったのだ。

ファフナーはかろうじて生きていた。

だが、取り巻きに配置していた部下達は、殆ど全滅である。どの者も優秀な魔術師だったのだが、あの暴力的な破壊力を誇るヨムルンガルドには、まるで役に立たなかった。歯ぎしりさえ、もはやする気にはならない。

フリムは生き延びている。

だが、戦力の過半を失った現在、それが何になるだろう。

散っていた部下達が戻ってくる。

ヨムルンガルドは徹底的にヴァン神族を蹂躙し尽くすと、一度休憩をするためか、何処かへ飛び去ってしまった。

だが、いつ戻ってくるかも分からない。

恐怖を知らぬはずの戦士達の顔に、明らかなおびえとひるみが見える。フルングニルは、それを責められなかった。

「偵察の結果は」

「ヨムルンガルドはいません。 味方も、徐々に集結しつつあります」

「数は最終的にはどれほどになりそうだ」

「戦えそうな者は十万……十二万というところでしょうか。 生き残りはほぼ同数ほどいますが、精神に傷を受けたり、ヨムルンガルドの毒にやられたりして、殆ど身動きが取れない状態です」

乾いた笑いが口からこぼれてきた。

十二万では、アスガルドのエインヘリアルよりも少ないでは無いか。勿論フルングニルが直接指揮を執れば、充分に敵を蹴散らす自信はある。

だが、この壊滅的な被害が、たった一匹の怪物によってもたらされたと思うと、何もかもがむなしくなってくる。

戦略も戦術も、何のために練り上げてきたのか。

徹底的にして来た準備とは、一体何の役に立ったのか。

仮に今からアスガルドを滅ぼしたとして、ヴァン神族の天下など、続きようが無い。ヨムルンガルドとムスペルが攻めこんできたら、一巻の終わりでは無いか。

頭を振って、弱気な思考を追い払う。

フリムは平然としている。

フルングニルが見たところ、やせ我慢の類では無い。此処から充分に逆転しうる手駒を持っているという事だ。

それを信じなくてどうするか。フルングニルが、フリムを覇王にするのだ。

生き残った魔術師達を集める。足が速い騎兵と違って、鈍足な魔術師達は、ヨムルンガルドに率先して食い散らかされ、殆ど生き延びていなかった。

「お前達には、ある仕事を頼みたい」

「逆転の機会があるのなら、何でもいたしましょう」

「うむ。 ファフナーと一緒に、ヨムルンガルドを解析。 次に来たら、一矢を報いる体制を作る」

それを聞くと、勇んでいた魔術師達が、水を掛けられたたき火のようにしゅんとなった。いかん。フルングニルは、思う。

皆、負け犬根性が染みついてしまっている。

フルングニルでさえ、勝てないと思い始めてしまっているのだ。だからこそ、此処で一矢報いる方法を、見つけておかなければならない。

第一、ヨムルンガルドを此処で対処出来ないようならば、残ったスルトを倒せるとは思えないのである。

おそるおそる、魔術師の一名が手を上げた。

「ま、まだやる気なのですか」

「このままぼんやりしていれば、いずれムスペルが世界を滅ぼすのに巻き込まれ、我々も消えて無くなるだけだ。 それはそなた達も、分かっているのであろう?」

「ムスペルについては……」

「ヨムルンガルドも同じだ。 奴が去ったのは休憩のためかそれとも我々の継戦能力を奪ったと判断したためか分からぬが、どちらにしてもあの偏執的な憎悪、生きている限り我々を殺しに来るぞ。 逃げ回っていて、どうにか出来ると思うのか」

誰も、そう思わない。

フルングニルだって、そうは考えにくい。

以前ロキ=ユミルを横から足止めした、魔力を消去するための砲はどうだろう。あれの出力を単純に上げる。

そう提案すると、魔術師から無理だと言われる。

「そもそもあれは、砲身にも弾丸にも極めて貴重な材料を用いております。 何より使用している魔術が非常に複雑で、ファフナー様でも中々解析できないほどのものでありますので、これ以上改良するには、時間が必要でありまして」

「ふむ、ならば他に手は」

「単純に大きな威力の武器をぶつけるというのは……」

「俺の斧を頭に叩き込んだが、それでもびくともしなかった相手だぞ。 もしもやれるとすれば、オーディンのグングニルか、トールのミョルニルか」

少し前に、オーディンのグングニルが発動するのが観測されている。

それによると、ムスペルの紅い騎士四体を瞬時に蒸発させ、一万近い眷属も同時に消し去っているという。

確かに恐ろしい武具だ。

だが、それでもヨムルンガルドに通じるかと言われると、微妙と言わざるを得ない。

勿論フルングニルの麾下で、ヴァン神族もヨムルンガルドに対して、様々な反撃を試みたのである。

魔術も、攻撃の中には多数含まれた。

だが、ヨムルンガルドの途方も無い巨体と、分厚すぎる装甲が、その全てを阻んでしまった。

奴の本当の恐ろしさは、攻撃の火力では無い。その圧倒的な防御力と生命力では無いかと、フルングニルは思う。単独でミズガルド全域を壊滅状態に追い込んだヘルと並ぶ三悪魔として、恥ずかしくない力の持ち主だ。

これはもう、悠長に見ている場合では無いのかも知れない。

「ヨムルンガルドの居場所は解析できるか」

「時間を掛ければ、発見できる可能性はあります」

「うむ。 ならば一刻も早く発見せよ。 こうなれば、予定よりも早く、アース神族にあの怪物を押しつけるしかあるまい」

もちろん今は、アース神族が勝てるとは、フルングニルも思っていない。

当初は奴らとヨムルンガルドを共倒れにさせるつもりだった。しかし、ヨムルンガルドの非常識すぎる戦闘力を見た後は、考えも変わった。ヨムルンガルドの装甲をどうにか削るくらいにしか、アース神族は役に立たないかも知れない。

それでも、可能性に賭ける意味はある。

それに、アース神族の方でも、ムスペルとの決戦を急ぐためにも、一刻も早くヨムルンガルドと決着を付けたいことだろう。

魔術師達が動き出す。

どこかほっとしているのは、自分たちが戦わずに済む可能性が出てきたからだろう。情けないと普段なら怒るところだが、今日ばかりは彼らの気持ちがよく分かる。フルングニルでさえ、あの化け物と戦うのはごめんだと感じるほどなのだから。

 

ヨムルンガルドを発見したのは、それから四刻後。

どうやら海底にいたからだろうか。奴は水が好きなようで、ミズガルドの東にある大きな湖に身を横たえて、休んでいるようだった。ただし湖は沸騰しており、澄んだ水はどす紅く染まっているが。美しかっただろう湖は、今やまるで溶岩湖だ。勿論住んでいた生物など、生きている筈が無い。

ヨムルンガルドの巨大な存在は、行く先々を、破滅に導いている。

奴を刺激するのは逆効果だ。それに、魔力波動からして、間もなく活動を再開するだろうと、魔術師達は口を揃えて断言した。

「如何なさいますか」

「……避難しては」

ぼそりと、ファフナーが言う。

普段は無視する魔術師達も、今日ばかりはファフナーに同意するような目をしていた。情けないとは何度も思うが、今日だけは許してやることとする。あの化け物と戦って、戦意を保っていられる者は、そう多くないだろう。

「アース神族は」

「海岸近くに布陣したまま、索敵を続けている様子です」

「ならば、ヨムルンガルドの位置を教えてやれ。 それとなくだ」

「分かりました。 ただちに取りかかります」

いそいそと動き出す部下達を、恨めしげに見つめるファフナー。

お前も動けと言うと、珍しく抵抗してきた。

「フルングニル様、全力で逃げる方法を探せと言われれば、そうしますのに」

「お前は何をしにこのミズガルドに来た」

「それは……」

そういえば、此奴がどうして戦士としてここに来ているのか、まだ聞いてはいなかった。丁度良い機会かも知れない。

スヴァルトヘイムの魔物共の動向も、今は気になる。だが、だからこそ。心には、敢えて暇を作っておきたい。

「フルングニル様の夢は、何ですか」

「俺か? 俺の夢は陛下をこの世界の覇者にすることだ。 ヴァン神族の至上神が、全てを統率し、世界を変革する未来を見てみたい」

「……私は、ずっと自分の研究がして見たいです。 そのために、自分だけの小さな世界が欲しいんです」

自分だけの世界が欲しいと来たか。

確かに、フリムが至高神になれば、それくらいのことは出来るかもしれない。ユミルがニブルヘイムという独立世界を作ったように、小さいが他から干渉されない世界くらいなら、どうにか出来る可能性が高い。

そのためには、幾つかヴァン神族の秘宝が必要なのだという。

「陛下にお頼みしたところ、欲しければ戦場で働けと言われました。 だから、怖いのを我慢して、今も前線にいます」

「何をそんなに研究したいのだ」

「……それは、言えません」

ファフナーはうつむくと、それっきり黙ってしまった。

こいつ、或いは前倒しでその独立世界を造り、逃げ込む算段だったのだろうか。ならば、さっきの反応にも納得がいく。

確かに、最後の最後には、そうするのも手だろう。

しかし、今はその時では無い。

「フルングニル様、ヨムルンガルドが間もなく動き始めます」

「全軍を散らし、南下開始。 ヨムルンガルドの動きに合わせて、兵力を柔軟に運用する」

騎兵を全て斥候兼伝令として用いる。

もしもヨムルンガルドがもう一度此方に来た場合、生き残れる保証は無い。フルングニル自身は、フリムの所に赴く。

フリムは昨日もヨムルンガルドにたまたま襲われず、親衛隊を側に侍らせて、傲然と座っていた。

跪くと、フルングニルは危機を伝える。

「フリム陛下、ヨムルンガルドが目覚めました。 また此方に来る可能性がたこうございます」

「それで?」

「陛下も、避難の準備を。 わずか三日で、我が軍の三分の二以上を葬った規格外の怪物にございますれば、打つ手が存在しません」

「そなたも弱気になったものよ」

くつくつとフリムが笑った。

周囲の親衛隊の者達は、引きつった笑いを浮かべる。彼らも見ていたはずだ。ヨムルンガルドの、桁外れの凄まじさを。

アレを見てなお笑えるとすれば。

それはもはや、感情を持った存在では無い。

或いは、何か奥の手があるのか。あるはずだ。そう、フルングニルは読んでいる。フリムの余裕は、やせ我慢では無い。

本来、王者の余裕は、様々な場合に切り札として用いるものだ。だから、それを安易に暴くことは好ましくない。だが、今はその余裕の源泉を、知る必要がある。そうでなければ、部下達は、もはやヨムルンガルドと戦えない。

「スヴァルトヘイムの魔物共が、不意に姿を消したこともあり、ムスペルの到来もあって、我が軍の戦力は激減しております。 何か手を打たなければ、挽回はかなり厳しいでしょう」

「ムスペルを気にする必要は無い」

「……何か策が?」

「ふむ。 そなたら、席を外せ」

親衛隊の者達が顔を見合わせるが、フルングニルとフリムの会話である。それに、フリムの着込んでいるウートガルザの鎧は、傷を受けているとは言え、簡単に突破できるようなものではない。

親衛隊の者達が、距離を取る。

そして、フリムは、見せた。

フルングニルは最初ぎょっとし、そして唖然とした。

「陛下……それは……!」

「ヨムルンガルドについても、もはや気にする必要は無い。 まずは人間共を駆逐し、それからヨムルンガルドと戦い疲弊したアスガルドに攻め上る準備をせよ」

「分かりました」

そうか、そう言うことだったのか。

今まで妙に自信満々だった訳だ。これならば、あの自信も、根拠が存在した事が、納得できる。

フルングニルは、何もかもがあほらしくなってきた。

これでは、全てが茶番だったというようなものではないか。

勿論、現在の状況は、フルングニルと、部下達が、命を捨てて奮戦してきた結果である。しかしながら、いくら何でも、これは酷すぎる。

どうして、フリムは今まで、これを話してくれなかったのか。

確かにムスペルについては、全く気にする必要がなくなった。

後はスヴァルトヘイムの魔物による横やりのタイミングと、それを排除する算段。アスガルドの若い神々が荷担している人間への攻勢強化と、ヨムルンガルドとの戦いで致命傷を受けるだろうアスガルドの神々の撃破について、考えれば良い。

フリムの前から退出すると、フルングニルは空に向けて一つ、雄叫びを上げた。

これでは、今までしてきた事が。

命を散らした部下達が。

報われない。

こうなったら、せめて自分の手で、どうあってもフリムを覇王の座に押し上げなければならない。

最後の意地とも言えるが、それさえ失ったら、もはやフルングニルはただの腰抜けだ。

部下達の所に戻ると、伝達する。

「ヨムルンガルドに襲われる畏れは無くなった」

「え……それはどういうことですか」

「フリム陛下がどうにかした、ということだ。 それ以上は言えぬ」

部下達は喜ぶ前に、まず困惑した。

あの化け物を、どうやって。顔には、一様にそう書かれている。

フルングニルは怒りを押し殺しながら、兵の再編成をはじめたのだった。

 

1、炎からの撤退戦

 

優先的にけが人を回復して走り回っているアネットの顔に、疲弊が見え始めていた。シグムンドも軍の最後尾にいて、追尾してくるムスペルを警戒しつつ、時々様子を見に来るフレイにそれは話した。

だが、フレイにもどうにも出来ない。

ムスペルの軍勢は、一日に何度か襲ってくる。

幸い紅い騎士はいないが、眷属は既にライン川を越えている。しかも、相当数が、である。

二千以上いた戦士達も、既に戦える者は半数を割り込んでいる。

それだけ負傷者が多く出ているという事だ。アネットが過労で倒れないか、シグムンドは心配になった。

フレイヤはフレイに言われて、自身の魔力回復に専念している。

眷属とは言え、あのムスペルだ。フレイヤが全力で戦えなければ、損害は増えるばかりなのである。

フレイの判断は正しい。

だが、戦士達の中には、フレイヤの回復を受けられないことを、残念がるものもいるのだった。

そろそろ、ユラン平原を越えて、その南にある山脈に出る。

かってブルグントが防衛線を構築し、巨神共の侵入を防いでいた場所だ。砦は既にどれもが廃棄されている。

死者の襲撃による痕跡が生々しい。

幾つかの街は、廃墟になったまま残っていた。それらで軍需物資や兵糧は、どうにか補給できる。

いざというときには、籠城することも、できそうだった。

「小休止だ!」

前の方から、声が飛んでくる。

やれやれと、兵士達が腰砕けになって、座り込んだ。気持ちはよく分かる。

昨日だけで、三回襲撃されたのだ。そろそろ皆、ムスペル眷属への対抗策と戦闘方法を覚えはじめているが、それとずっと戦えるかは話が別。

ブルグント王都に逃げ込めば、少しは休憩も出来る。

そうおもって、耐えるしか無い。

ヘルギが来た。

「シグムンド。 巨神がまた南に動き始めてるって話だ」

「またか。 懲りない連中だな」

「ムスペルに比べれば、巨神の方がまだマシだもんな。 多少は気が楽だぜ」

座り込んだヘルギは、倉庫から見つけたらしい干し肉を差し出してきた。

火を熾して、炙って口に入れる。

北ミズガルドのものとは随分質が違うが、それなりに食べられる。一度燻製にすれば、肉は年単位でもつ。手入れさえ怠らなければ、置けば置くほど美味しくもなる。この肉は或いは、ブルグントの貴族の口に入れることを想定していたものかも知れない。

多分、もはや生きていないだろう貴族だ。遠慮無く口に入れて、かみ砕いて咀嚼する。そして、自分の力にする。

「美味いな」

「まだあるぞ。 この町は、こうなる前は、燻製肉の名産地だったらしいんだ」

「そうか。 ならばムスペルに焼かれて無くなる前に、食べてしまおう」

他にもある肉は、兵士達にも配る。

今は肉が必要だ。戦うための力が必要だからだ。

シグムンドも、歴戦で体の中にダメージが蓄積していることが感じ取れる。だが、他の兵士達よりはましだろうとも思っていた。

鍛え方が違う。

「レギンとヴェルンドは」

「狂戦士と一緒に、後ろの方を見てきてる。 どれだけムスペルが追いついてきてるか、確認しにいった。 フレイヤも一緒みたいだ」

「彼奴らにも喰わせてやりたいな」

「そうだな。 少し取っておくか」

倉庫にわらわらと群がっていた兵士達が、干し肉を持ってくる。

穀物で作った耐久食もあるようだが、それは譲る。口に合わない。その辺りにある食べられる野草の方が、シグムンドにはあっている。

食べた後は、横になる。

此処の軍が停止しているという事は、前方の部隊の撤退が滞っているという事だ。いざというときに、敵を食い止めなければならない。

シグムンドも戦士だ。

寝ているところを、そのまま敵に襲われるというようなへまはしない。ムスペル眷属や巨神の気配は覚えている。近づけば、察知できる。

そのまま、無心に寝た。

体が休息を欲している。回復しきれないほどのダメージが全身に蓄積しているのは、わかりきっている。

少しでも、休んでおかなければならない。

目を覚ますと、二刻ほどが過ぎていた。

影の向きから、そう判断できる。空は相変わらず。この辺りは、ヘルがいたときと、状況が同じだ。

以前フレイヤに、ヘルはどんな奴だったかと聞いたが、答えは無かった。

よほどにおぞましい奴だったのだろうと、ヴェルンドは言っていた。だが、シグムンドは違うと思った。

おそらくは、相当に戦うのが悲しい相手だったのだろう。

フレイもそれを察しているようで、フレイヤにはそれ以上、何も聞かなかった。

シグムンドは周囲を見回す。眠っている兵士達が多い。ヘルギも大いびきをかいて横になっていた。

シグムンドも、まだ眠気が頭の中でぐるぐる廻っている状態だ。

それくらい前後不覚に寝こけていたという事である。体のダメージが、深刻だと言うことの証左に他ならない。

回復術には限界があると、アネットが少し前に言っていた。

疲労は蓄積していくし、直しきれないダメージだって出てくる。常に化け物と戦い続けたシグムンドである。体に無理が出てきているのは、当然のことなのだろう。だが、周りよりはマシなのだと自分に言い聞かせ、歩く。

走ってきた伝令の兵士と、真正面から出くわしたのは。ヘルギが見つけたという倉庫に行こうかと思って、曲がり角を通った直後だった。

「シグムンド殿!」

「何かあったか!」

「はい、中軍が敵の襲撃を受けています! ムスペルの眷属の、親指型です! 数は一万を超えている様子です!」

「分かった、すぐに行く」

シグムンドは皆が寝ている場所に向かうと、渡されている銅鑼を叩いた。薄い金属で作られている円形の物体で、叩くと大きな音が出る。眠っている兵士達は、この音を聞くと飛び起きるように訓練されている。

すぐに起きた兵士達をまとめる。

「中軍が回り込んできた敵の襲撃を受けている! これから助けに向かうぞ!」

「くそっ! 気持ちよく寝ていたのに!」

「だからこそ、襲ってきたんだろうよ! 急げ!」

伝令に、そのまま偵察に行っているフレイヤ達にも伝言を頼む。危険度が高い任務だが、やらないとまずい。

そのまま、中軍のいる方へ走る。ついてきた兵士は百名ほど。

ヘルギも、少し遅れて走っているのが見えた。

走りながら、矢筒から矢を抜き出す。弓につがえて、そのまま走る。速射の腕前は、巨神との戦いが始まる前には、誰もに認められるものになっていたが。近年は、神がかってきていると、よく言われる。

だが、それでも、まだ力不足だ。

フレイヤに神の武具をもっと貰えないかと頼んだこともある。だが、流石にそんな数はないのだという。

何より、アスガルドも、一つでも多く武器が必要な状況だ。あまり無理は言えない。

北の戦士も何名か合流してきた。

いずれも、巨神を十体、二十体と葬ってきている歴戦の強者達だ。だが、彼らにしても、ムスペルを怖れているのが分かる。

「フレイはもう到着しているのかな」

ヘルギがぼやいた。

フレイとフレイヤがいなければ、戦いは極めて厳しいものとなる。中軍だからアルヴィルダが指揮しているだろうが、それでも難しいだろう。サラマンデルの火力も、空を飛ぶ相手には通用しないのだ。

敵が、見えてきた。

文字通り、空を覆うような数だ。背筋に寒気が走る。

だが、それでも、声を張り上げた。

「やるぞ!」

歓声を上げながら、そのまま突入していく。速射し、今まさに光を放とうとしていた、親指型の目の部分に命中させる。

だが、タイミングは合わず、爆発させることは出来なかった。地上近くまで降りてきた奴を、ヘルギがフルスイングで吹き飛ばす。

戦っているアネットが見えた。フレイはどうしている。ひょっとすると、まだ到着していないのか。

アネットの後ろに、回り込む一体。

飛びつくようにして、引き抜いた剣を突き立てる。全身が燃え上がり、それでも親指型はシグムンドを振り落とそうとする。

その力も利用して、飛び退く。

そして振り返りながら、背後に回った一体の目に、速射を浴びせた。

爆発。

今度は、タイミングが合ったらしい。だが、三十回以上撃って、二度しか成功していない。

シグムンドでさえそれだ。他の兵士達には、コツを教えてもきっと出来ないだろう。自分でも出来ないのだ。これは、偶然の奇跡と思っておくこととする。

「すげえ! 今の見たか!」

「俺たちも続け!」

勇気を奮い起こした兵士達が、敵に躍りかかる。元々、中空を飛ぶ相手だ。攻撃自体は届く。

アネットが黙々と敵を斬り倒すのを見ながら、シグムンドは全体の戦況を観察。

あまり旗色は良くない。

どうやら、アルヴィルダがいないところを襲撃されたらしい。特に五十名ほどが、敵の分厚い包囲に落ちている。

「彼奴らを助けるぞ! ヘルギ、ついてこい!」

「私も」

「お前は周囲の敵を排除してくれ!」

アネットが頬を膨らませたが、放っておいて先に行く。

レギン曰くちびっ子ワルキューレの殲滅力は貴重だが、それは背後を守るためだけに使って欲しい。突破戦力としては、アネットは好ましくない。

逃げ惑う兵士達に、思うまま光線を浴びせていた一体の背後から、剣を突き刺す。燃え滓になるそいつは無視して、もう一体に速射。振り向いたところに、目に剣を突き立てた。倒しながら、数を数えていく。

吹っ飛ばされた。

どうやら、死角から光線で撃たれたらしい。

地面でバウンドして、だが飛び起きる。今のは足下をやられたのだと、すぐに分かった。だからやれる。

ヘルギが、側に迫っていた一体を、横殴りに大剣で斬る。

それを見て、包囲されていた兵士達も、勇気を奮い起こして反撃を開始。けが人を守りながら、周囲の親指型に反撃していく。

「フレイはまだか」

口中でだけ呟いて、もう一体に矢を。目に刺さったが、落ちてこない。もう一撃。流石にピンポイントで二発目に入ると、かなり痛いらしい。動きが鈍ったところで飛びついて、剣を突き刺す。

十体目。

だが、まだまだ周囲には、呆れかえるほどの数がいる。

フレイが来ないと、遠からず囲まれて殲滅されるだけだ。他の部隊も、襲撃を受けているのか。

爆発に吹き飛ばされる兵士が見えた。

舌打ちして、後ろに回ろうとしていた敵に、速射で二矢を立て続けに浴びせる。よろめいたところで、ヘルギが斬った。

飛び退き、わずかに遅れて自分がいた場所を光線が貫くのを見る。

危ない危ない。呟きながら、振り返りざまに剣を振るう。燃え滓になりながら、地面にぶつかり、爆発する親指型。

自然に周囲に、親指型が集まってきている。

背中をあわせてヘルギと立つ。

「どうだヘルギ、息は上がってきていないか」

「問題ない! だけど、やっぱりこええよ」

「いつものことだ。 心配ないな」

飛び離れる。

無数の光線が、今シグムンドが立っていた場所を貫く。だが、遅い。手近な一体に、剣を叩き付ける。

そいつを葬ると、ようやく見えた。

空を走る数条の光。それらが、次々に親指型を叩き落としていく。フレイによる制圧射撃が始まったのだ。

「よし、集まれ! フレイの周囲を固める! フレイが討ち漏らした相手を、処理するんだ!」

「ようやくかよ、死ぬかと思ったぜ!」

ヘルギが、けが人を担いで走ってくる。

他の兵士達も、同じように、倒れている戦友を担いだり、けが人を庇ったりして、徐々にフレイの周囲に集まっていった。

フレイが、連続して矢を放つ。以前よりも、放つ矢の数も、精度も上がっている様子だ。時々剣に持ち替えて、近づいてきた敵を斬っている。

「フレイ、遅かったな!」

「すまない。 前衛にも千体ほどの敵が来ていて、支援が遅れた」

「いいさ、来てくれただけで充分だ! よし、負傷者を戦場から下げろ! アネット、護衛を頼む!」

「分かりました」

やっぱり不機嫌な様子で、アネットが近づいてくる敵を、素早く三体、立て続けに斬り伏せた。

更に、敵の側面から、精霊の魔弾が襲いかかる。

大爆発の中、百体以上の親指型が消し飛ぶのが見えた。フレイヤも追いついてきたらしい。

しかし、敵は万を超える親指型だ。

もたついていると、人形型も追いついてくるだろう。削りながら下がるしか無い。幸い、今ので血路を開いた。後は逃げるだけだ。

アルヴィルダが来る。サラマンデルもつれていた。支援を受けながら、撤退するには丁度良いタイミングである。

「負傷者をサラマンデルに! 急いで前衛の方へ後退させよ!」

「来たか、戦姫」

「遅れてすまぬな。 戦況はどうじゃ」

「見ての通り、今逆転したところだ。 おっと」

一機が、フレイとフレイヤの射撃の網をかいくぐり、アネットの剣さえくぐって、至近に。

シグムンドが即応し、矢を放つ。

親指型の目に突き刺さり、瞬時に爆発。三度目の成功だ。

「見事。 神業よ」

「そんな風に褒めると、却って腕が鈍る。 それよりも、退却を急いでくれ」

「うむ。 全員、敵を振り切るぞ!」

まず、退路の方に固まっている親指型を排除する。路は作ったが、まだ敵が飛び交っているのだ。

最初は一方的な戦いだったが、今はもうアルヴィルダが戦い方を兵士達に教えているおかげで、だいぶましになってきていた。

アネットも協力して、間もなく完全に掃討に成功。安全な退路が出来た。

兵士達が逃げはじめる。

フレイヤも側まで来た。敵陣中央に風刃の杖から破壊の光を叩き込み、追い散らしてから、大回りして合流してきたのだ。

フレイヤはディースの弓という魔法の弓を引き絞る。かなりの魔力を消耗しているようだが、近寄る敵はレギンとヴェルンドが寄せ付けなかったらしい。手傷の類は受けていなかった。

「後は我々が敵を可能な限り削ります」

「よし、任せた。 けが人を守りながら退け! 退け!」

兵士達を先導して、シグムンドは走る。

まもなく、敵の包囲を抜ける。フレイとフレイヤなら、たとえその後敵の総攻撃を受けても、どうにか出来るだろう。

三刻ほど走って、どうにか合流。

アルヴィルダが、険しい顔をして、周囲を見回っていた。

「戻ったか、勇者シグムンド。 見よ」

アルヴィルダが指さす方は、西の海だ。

敵は、あの方角から北らしい。ラインどころか、海を迂回して、此方を追撃してきたという事か。

「空を飛ぶとは、想像以上に厄介な事よ。 それに、継戦能力も限界に近い。 そろそろブルグントに援軍を求めても良い頃じゃが」

「あんたにしては手際が悪いな。 まだ伝令を出していないのか」

「巨神族の南下が予想以上に早い。 この様子だと、ブルグント王都の辺りで鉢合わせすることだろう。 増援など出しては貰えぬ。 ムスペルの戦力を、つれて戻る訳にもいくまいて」

つまり、だ。

まずは、追撃をして来ているムスペルを、綺麗に片付ける必要がある。

フレイとフレイヤが戻ってきた。

敵の内、二千五百は撃ち落としたという。かなりの戦果だが、それでも敵の二割だ。何よりあの化け物共は畏れを知らない上に、味方が死んだことなど何とも思っていないだろう。あれが生物では無く、からくりであることは、シグムンドも理解している。

「丁度良い。 神よ、話がある」

「敵の追撃部隊を処理しなければならない、という事か。 アルヴィルダよ」

「そうだ。 このままでは、敵の部隊をブルグント王都まで連れて行ってしまう上に、巨神共と鉢合わせすることになる。 この部隊の継戦能力にも限界が近づいていて、そう長くは戦えないだろう」

今までの敵の襲撃を見る限り、どうやら紅い騎士が連れている部隊の一つが、まるまる攻撃を仕掛けてきているらしい。

どうして此方の位置が分かるのかは、判然としない。

フレイヤが敵の解析をしてくれているようなのだが、それでも分からないそうだ。それならば、全て倒すほか無い。

十回を超える襲撃を受けて、既に引きながら敵を削ったことで、残りの敵は半数を切っているはず。

それでも二万か。

しかもより手強い人形型が主体になるはずで、気が抜けない。

ブルグント軍の兵士が、挙手する。

今回一緒に出る事を希望した、まだ若い戦士だ。時々顔を見かけた。グンターの親衛隊か何かで、将来の将校候補のはずだ。

時々フレイヤを好ましそうに見ているが、それ以上に仕事を優先する男で、手を抜いている所は見たことが無い。

戦士としての素質も、シグムンドが見る限り充分に備えていた。

「この少し先に、砦の跡地があります」

「ふむ、この人数が籠もれるか」

「どうにか」

「……ブルグント式の砦については、構造を心得ておる。 ある事が分かれば、役立てる事は可能じゃ。 ふむ、作戦は一つしかあるまい」

まず、皆で其処に籠もる。その後、フレイとフレイヤが血路を開き、兵士達を脱出させる。

敵を砦の中におびき寄せ、殲滅する。

おびき寄せること自体は問題が無い。放って置いても、勝手に来るだろう。

突破も難しくは無い。フレイとフレイヤと、此処にいる人類屈指の勇士達が力を合わせれば、どうにでもなる。

問題は最後だ。

敵を一網打尽にするには、どうするべきか。

誰かが、残るしか無い。フレイとフレイヤの、どちらかが。そうなれば、決まり切っている。

「私が残ろう」

「うむ、神よ、頼むぞ。 女神は我らと一緒に突破した後、敵を鏖殺して欲しい」

「鏖殺、ですか」

「言い方を気取っても仕方があるまい。 時間が無い以上、戦をするつもりはない。 此処からは、敵を誘い込んでからの鏖殺よ。 皆も、そう心得て欲しい」

アルヴィルダの物言いは凄絶だが、戦士としては、むしろ心地よい。

レギンも斧を肩に担ぎ直すと、言う。

「先陣を切るのはフレイヤだな。 俺が護衛につく。 野郎共、腑抜けにはなるんじゃねえぞ!」

狂戦士達が、独特の甲高いかけ声を上げた。

ヴェルンドがフレイヤの背後を守り、シグムンドはヘルギと共に、北の民を率いて、兵士達の脱出を指揮する。

サラマンデルは、脱出作戦には向かない。更に言えば対空戦でも、力を発揮できない。なおかつ、連戦での疲弊が激しく、もはや前線に立たせるには厳しい状態になってきている。

故に、近くの森に隠して、「鏖殺」作戦の指揮所として機能させる。

てきぱきとアルヴィルダが指示を出していき、ほどなく作戦の準備は整う。問題は先発している荷駄だが、これは立場が危ない。進みすぎれば、巨神の部隊と遭遇し、全滅する可能性が今はより高くなっている。幸い、かなり近くにいる。

サラマンデルの周囲に伏せてもらい、安全が確認され次第、先に進んでもらう他ないだろう。

死ねと言ったも同然だ。

非常に心苦しいが、他に方法が無い。

「妾から頭を下げておく」

「アルヴィルダ様!」

「良いのじゃ。 妾の判断が間違っておった。 戦場で状況は刻一刻と変わるとは言え、彼らの命を危機にさらしたは、妾の指示の結果であるゆえな」

シグムンドにも責任はある。

故に、伝令役はシグムンドがすることにした。

 

準備が整って、三刻ほど。

ヘルの時と同じで、空がすっかりおかしくなっている今、時間がどれだけ過ぎたのかは、影を見て判断するほか無い。

シグムンドは荷駄の部隊と砦を往復した後、合図を待っていた。

砦の中はひんやりとした石造りで、以前ライン川の東で、巨神の大部隊を食い止めて籠城したときの事を思い出す。

あの時も劣悪な状況の中、フレイと一緒に頑張ったものだ。

フレイヤは目を閉じて、砦の隅で独特の姿勢のまま座っている。魔力を吸収して、武具に蓄積しているらしい。

昨日だけでかなり戦ったこともあり、鎧も修復し切れていないのに。

ただし、今回の戦闘では、「鏖殺」のために、神々の武具を全力で遣っていかなければならない。

防御よりも攻撃だ。

攻めきる覚悟で無ければ、戦いは出来ない。

フレイはというと、砦の上に出ていて、武具の最終確認をしている様子だ。シグムンドも荷駄から矢を受け取ってあるし、剣の刃こぼれなども確認済み。砥石を掛けて、状態も万全にしてある。

兵士達の噂が聞こえてくる。

辛気くさい噂は、殆ど無い。こういうときだからか、皆ゴシップの関連話ばかりをしていた。

「アルヴィルダ様の婚約者は、もう一人も生きていないらしいな」

「ああ、聞いた。 どいつもこいつも貴族の青びょうたんだったり他国のへぼ王子だったりしたらしいが」

「俺たちも活躍すれば、アルヴィルダ様の目にとまるかもしれん。 そうすれば、好機があるかもな」

「馬鹿いえ。 ……まあ、仮にそうだったとしても、あの姫様だぞ。 まあ、男を何人も侍らす中の一人だろう」

言いたい放題である。

アルヴィルダは確かに、性別を間違えて生まれてきたような風情がある。気品や風格は備えているのだが、結婚した後に、南ミズガルドの人間が喜ぶような「貞淑な」妻になるとは考えにくい。

或いはアルヴィルダこそ、北ミズガルドに生まれていれば、良かったのかも知れない。

北ミズガルドでは、顔の出来などどうでも良い。強いことが、婚姻相手の最大の魅力として考えられる。これは、男女ともに関係が無い話だ。

「そういえば、サラマンデルの技術者はどうなった」

「まだ一人若造が生きてるぜ。 エルファンって言ったか」

「ああ、彼奴か。 まだガキなのに、サラマンデルを作り上げた立役者の一人だって話だし、将来は出世が間違いなさそうだな」

「出世か。 その時に、世界があればだけどよ」

陰湿な笑いでは無い。

もう、世界が無くなっても仕方が無いと、皆考えている。

故に、この会話で、笑いが出てくるのだろう。

「そろそろ敵さんも来そうだ。 武器の手入れは充分か?」

「大丈夫だ。 お前の方は」

「問題ないさ。 ただなあ、あの化け物共、硬くっていけねえや。 巨神よりも面倒な相手だぜ」

銅鑼が、外から聞こえてくる。

一斉に皆が飛び起きて、戦闘態勢に入る。シグムンドは真っ先に外に出ると、空を覆う敵を視認した。

フレイは、既にトールの剛弓を構えている。

狙うは、敵の密度が一番高い場所だ。フレイヤも、すぐに出てくると、精霊の弓を構えた。

レギンも遅れて出てくる。狂戦士の長は、敵を見るなり、不敵に笑う。

「はん、とんでもねえ数だな。 感覚が麻痺しちまって、もう何ともおもわねえがよ」

「同感だ。 レギン、今日は頼むぞ」

「任せろ。 もうあのバケモン共の戦い方は覚えた。 数が多くても、雑魚相手だったら不覚はとらねえよ」

そうはいっても、やはり不測の事態が起こるのが戦場だ。

退路については、先ほど何度か確認した。鏖殺の手順についても、だ。

この砦は、谷間の間に存在する。

つまり、左右には逃げ場が無い。先に殺到してきた親指型を引きつけ、人形型で蓋をさせる。

人形型が来るまで耐えなければならないのだが、それくらいなら砦の設備で問題ないだろう。

近づいてくる親指型。

フレイが、戦闘開始の口火を切った。

トールの剛弓を打ち込み、百体以上を瞬時に爆砕する。フレイヤもそれにあわせて、精霊の魔弾を撃ち込む。

大爆発が、立て続けに空を覆った。

殺到してくる親指型。まずは反撃しながら、砦の中に誘い込む必要がある。フレイとフレイヤが大威力の攻撃を空に向かって続け、作戦を黙々と遂行し続けた。親指型は降りてこようとするが、取りこぼしの処理は、レギンとシグムンド、ヘルギの仕事だ。ヴェルンドは突破口を開くタイミングを、少し離れた所から見守りつつ、兵士達に指示を出している。

砦の屋上すれすれまで降りてくる奴を、シグムンドは立て続けに処理した。距離を取ろうとする奴は、フレイヤが精霊の弓から打ち込んだ魔弾で、数十体まとめて消し飛ばす。フレイは拡散型の弓に切り替えて、矢を連射し、制圧射撃に入る。

空を爆発が覆い、親指型のムスペル眷属が、次々に叩き落とされていく。

勿論敵も黙っていないが、今回は地理が此方にある。砦の中を走り回り、敵に継続して姿を見せない。

敵が降りてくれば面倒な事になるのだが、それもさせないこの状況だ。敵は高く飛び上がる事も出来ず、かといって降りてくることも出来ず。つるべ打ちの餌食になって、見る間に数を減らしていく。

そこに、さらなる影が、空に現れる。

人形型だ。数は一万近い。

此処までは予定通り。後は、人形型を引きつけて、親指型の蓋にさせれば良い。

この砦は崖の間にあり、先ほどからかなりの高密度飛行を繰り返している親指型は、回避にも移動にも難儀していて、此方を上手に攻撃できていない。だからフレイとフレイヤに、良いようにされている。

此処で、逃げ腰になるのを装い、親指型の高度を下げさせる。

そうすると、人形型も高度を下げることになる。後は、想定していた状況に、持っていくだけだ。

「よし、行けるぞ!」

「総員撤退開始! 神よ、支援を頼む!」

「心得た」

フレイが剣に切り替える。フレイヤは砦の中に引っ込むと、兵士達に混じって退路にしている裏口から躍り出た。そして氷の杖を持ち、近づいてくる親指型を片っ端から叩き落とす。更にアネットも飛び出し、前を塞ごうとした敵を斬り伏せた。

アネットはそのままの場所で、敵を斬り続ける。

飛び出した兵士達が、一斉に上空に矢を放ち、それから走り出す。

かなりの数の矢を受けた親指型の内、二割ほどが爆発する。魔力が籠もった矢であれば、それなりに刺されば効果があるのだ。

だが、それでも、数が違いすぎる。

追撃に懸かろうと、高度を下げてくる親指型。

だが、此処で想定外の事態が生じた。人形型が、高度を下げてこないのである。撤退の指揮を執りながら、アルヴィルダがフレイヤに言う。

「女神よ、高所の敵を、狙撃できぬか」

「引きつけるためですか」

「そうじゃ。 このままでは、策が成り立たぬ」

「分かりました。 やってみますが、援護をお願いします」

空に向けて、風刃の杖を構えるフレイヤ。

群がってくる親指型は、レギンとシグムンド、ヘルギが率先して片付ける。それでも光線は、散々フレイヤの周囲に集まってきて、爆発が連鎖する。

フレイヤが、煙の中から、姿を見せる。

その時には、詠唱が終わっていた。

打ち込まれる、暴風の殺戮光。

空に向かって伸びた極太の破壊は、そのまま射線上にいる全ての敵をなぎ倒し、爆破していった。

敵陣に穴が開く。

だが、それでも人形型は高度を保ったまま降りてこない。

これはさては。策を読まれたか。

「神に合図を。 こうなればやむなし。 妾の指示が終わり次第、親指型を殲滅するべく動いて欲しい」

「しかし大きな被害を出しているとは言え、親指型の八千はまだ残っているぞ。 しかも、人形型の部隊は無傷のままだ」

「やるしかあるまい。 巨神と一緒にムスペルが殺到したら、ブルグント王都は終わりじゃ。 そうなれば、人の希望は潰えてしまう」

人形型は、大きな被害を出している親指型を支援する気が無いらしい。

フレイヤもアルヴィルダの話を聞いて、考えを変えたのだろう。以前だったら、絶対に言わなかっただろう事を言い出す。

「兄は囮のまま、砦にいて貰いましょう。 此処から長距離砲撃で、敵を殲滅します」

「しかし女神よ、魔力がもつのか」

「危険ですが、親指型のムスペル眷属を、死なない程度に私の周囲に落とすか、運んできてください」

なるほど、補給しながら、砲撃を繰り返すという事か。

それならば確かに、敵に継続的に打撃を与えられる。人形型がもう少し高度を下げてきたら、一網打尽にする事も出来るだろう。

アネットが黙々と敵を斬っている。

ちびっ子ワルキューレに、手加減は無理か。しかし、人間達にだって、ムスペル眷属に手加減する技量の持ち主など、いない。

ならば、瀕死の敵を、引きずってくるしか無い。

「数名は、落ちてきてまだ死んでいないムスペル眷属を探し、引きずってこい。 危険だが、フレイヤの魔力補給に必要だ!」

「お、俺がやる!」

「ヘルギ!」

「俺には力くらいしか取り柄がねえんだ! おっかねえけどよ、やるしかねえだろ!」

フレイヤが無言で、第二射を空に向けて放った。

フレイのいる砦からは、制圧射撃と剣撃が続いている。しかし人間の支援要員がいなくなった事で、フレイの周囲での爆発がかなり増えているようだ。見ると、隙を見て、人形型も腕を伸ばして攻撃してきているようだ。全てあわせて、万を超える敵である。無理もない。

集まってきたところを、一網打尽に叩く。

だが、親指型が削り取られているのを見ても、人形型はやはり一定高度で滞空しているだけで、仕掛けてこない。たまに攻撃をしてくるが、組織的なものではない。

「フレイヤ、彼奴らは何をしているんだと思う」

「分かりません。 ただ、嫌な予感がします」

「俺もだ」

「捕まえてきたぞ!」

ヘルギが、数名の兵士と一緒に、半壊した親指型を抱えてくる。

まだもがいているようだが、既に無力化されている。フレイヤは剣を突き刺し、見る間に魔力を吸い上げていった。

だが、一体程度では、足りないだろう。

しなびて、まるで炭クズのように壊れていく親指型。フレイヤはそれから目を背けると、すぐに風刃の杖を、空に向けた。

フレイがかなり考えて戦ってくれているのか、空には一定周期で敵の密度が高い瞬間が出来る。

そこをフレイヤが撃つことで、効率よく敵を撃破できているのだ。

相当なコンビプレイである。

だが、此方に飛来する親指型も、かなり増えてきている。

戦闘可能な要員は、最初から千名程度しかいなかった。敵はその二十倍。このままだと、如何にフレイとフレイヤが奮戦しても、最終的には押し切られる。

それに、フレイの消耗も増してきている。

これは引き討ちして敵を削るしか無いのではと思ったが。

ブルグント王都は、この砦を南下すればすぐだ。

しかも、巨神の軍勢が、かなりの数で迫っている。このまま敵をつぶせなければ、最悪の状況が来るだろう。

アルヴィルダが剣を抜いて、自ら敵を斬る。

相当な魔力の籠もった斬撃であったらしく、一撃で唐竹になった親指型が、左右に分かたれていた。

今までこれほどの斬撃は見せなかった。

おそらく、渾身の一撃だったのだろう。

「苛立たせおる。 何か手は無いものか」

じっと、アルヴィルダが、崖の上の方を見た。

まさか。

しかし、やりかねない。

「神に合図を。 敵を引きつけながら、此方に来るようにと」

「よろしいのですか」

「もはや他に方法が無い。 廃棄した砦じゃ。 今更どうしても、問題は無かろうて」

アルヴィルダも相当焦っているのが見て取れる。

しかし、シグムンドはどうも嫌な予感が消えない。あの上空で待機したままの人形型は、一体何をもくろんでいる。

フレイが、砦の屋上から飛び降りつつ、路を塞ごうとした親指型を斬る。

アルヴィルダが、フレイヤに耳打ち。

ぎょっとした様子のフレイヤだが、すぐに詠唱を開始。風刃の杖を構えた。

フレイが戦っていた高度が下がったため、此方にも殺到してくる親指型。皆で片端から処理するが、手が足りない。

フレイヤが詠唱している間は、無防備になる。ましてや今回は、今までの術発動よりも、かなり力を込めている様子だ。

レギンが、また近づいてきた一体をたたき割る。

シグムンドが速射した矢も、三十を超えていた。その内外した矢は無いが、動きを止めるに至った敵が大半だ。目に命中させ、爆発させるのは、まだ上手く出来ない。

かなりの数が、此方に来る。

フレイヤにまだかと言いたいが、言うだけ詠唱の完成が遅くなる。

アネットが飛び込むと、踊るように廻りながら、一体、二体と、順番に来る敵を斬っていく。

だが、それが故に攻撃も集中。

連続して光弾が周辺に着弾したことで、アネットの小さなからだが、爆発の中に消えた。ヴェルンドが爆発の中に飛び込んで、意識を失ったらしいアネットを抱えて戻ってくる。その背中に、這い寄るように、親指型が数体。

フレイヤが目を開ける。

フレイが、谷間から抜け出し、周囲を囲んでいる親指型を斬りながら、退いてきているのを視認。

今だ。

叫んだのは、アルヴィルダ。

フレイヤも、躊躇する意味は無い。

全力で、今までのよりも数段太い光の柱を、打ち込む。狙った先は、崖の中腹。完全に平衡を崩された崖が崩壊しはじめる。

もの凄い地響きだ。

砦ごと、大量の岩が、その近辺にいた親指型を埋めていく。

敵の大半が、消滅。

一瞬の出来事だった。

 

2、紅い騎士の着陣

 

フレイは間一髪で襲い来る土石から逃れたらしく、珍しく真っ青になっていた。

残った親指型はわずかだ。アネットを横たえると、ヴェルンドが剣を構える。此奴らを速攻で片付けて、上にいる連中を引きずり落とす必要がある。

だが、そう考えたとき。

状態が、変わった。

人形型が、一カ所に集まっていく。凄まじい熱量が、中空に出現する。

そして、それは皆が見ている前で。

ムスペルの、紅い騎士へと変わっていった。

違う。あの熱量が、原理はよく分からないが、巨神がやっていたような、場所と場所の間を渡るような技術を可能にしているのだ。

あの人形達は、独立して動いていたのでは無い。

おそらくは、紅い騎士が操っていたのだろう。そうなると、戦略も変わってくる。あの紅い騎士こそが、優先して倒すべき敵だ。

疲弊した状態で、あれの相手は厳しい。

だが、紅い騎士はおそらく四体一組で戦闘をする。追いかけてきていたムスペル眷属の数から言っても、一チームだけが追撃を行ってきていたのだろう。此処で四匹を葬ってしまえば。

「どうやら、アレを潰して仕上げ、と言う所じゃな」

「ならば話は早い。 さっさと潰すとしようか」

「うむ、その意気や良し」

アルヴィルダが号令すると、森の中に隠していたサラマンデルが出てくる。

フレイが距離を取った頃には、予想通り四体の紅い騎士が姿を見せていた。しかも、谷間であるから、連中が得意の菱形の陣形が取れていない。

力によほどの自信があるのだろうが、それが命取りだ。

しかも、今砦の上に降り立ったが、地形が崩壊した直後で、足下が危ない。案の定、先頭のムスペルが、躓きかける。

その足下に、フレイヤが放った精霊の弓からの魔弾が直撃した。

一体目が、土煙を上げながら、前のめりに倒れる。しかもその時には、フレイが力を込めて、剣を大上段に構えていたのだ。

振り下ろされた剣が、容赦なく紅い騎士の頭を両断する。

相手も反撃してくる。

無数の遠隔爆破魔法陣を辺りにまき散らし、手にした槍から巨大な火球を打ち込んでくる。

だが、相手が一列に並んでいるから、爆破の魔法陣だけが危険だ。火球は軌道が読みやすく、シグムンドにも回避できる。

「魔法陣に気をつけろ! すぐに起爆するぞ!」

シグムンドが頷き、敵に迫る。

紅い騎士の二番目の奴が、地面に槍を激しく叩き付けた。瓦礫が、凄まじい熱を発して溶けていくのが見える。

確かに正しい判断だが、その時には既に、フレイヤが風刃の杖の詠唱を終えていたのだ。

紅い騎士の顔面に、破壊の風圧が炸裂する。

だが、流石に紅い騎士。のけぞり、尻餅はつくが、それだけでは倒されない。真っ先に躍りかかったのはレギンだ。槍を持つ手に飛びかかり、斧を振るって親指に切りつける。二度目で、大きな亀裂が出来、溶岩のような血が噴き出す。

「レギン、下がれ!」

「馬鹿野郎! 進んでやるっ!」

爆破魔法陣を見て、レギンは更に加速して、跳躍した。そして、斧を直接、紅い騎士の手首に叩き込んだ。

うっとうしがった紅い騎士が、槍を振るおうとして、取り落とす。

指の傷が再生しかけているが、まだだったのだ。レギンの至近で爆発。だが、決定的な隙が出来た。

至近に迫っていたサラマンデルが、全力での火焔放射を叩き込む。

ムスペルはどういうわけか、炎を浴びると苦しがる。サラマンデルの炎でも、例外では無い。

どうやら、この世の炎とは、違う仕組みであるらしい。

飛びついたフレイが、喉を切り飛ばし、二体目を沈黙させる。残り二体。シグムンドが、レギンに続けと、声を張り上げた。

敵も逃げる気は一切見せず、爆破の魔法陣をまき散らし、途方も無いタフネスを武器にして、迫ってくる。

しかし此処は退いた方が負けだ。

此処で此奴らさえ処理してしまえば、しばらくは追撃を阻止できる。皆を守りきれるのだ。

フレイが、紅い騎士の槍に吹っ飛ばされる。動きは鈍いと思っていたが、今の槍の動き、凄まじかった。

いや、最初の頃は、あの槍は炎を生み出すためだけに使っていたように思える。そうなると、急速に学習しているのか。

辺りが溶岩地獄のようになっていて、流石のレギンも下がる。近づけない。溶岩化した瓦礫を蹴散らすようにして進んでくる紅い騎士。全身が怒りなのか分からないが、真っ赤に燃え上がっているようだ。

「下がれ! 崖の入り口までおびき寄せ、叩く!」

アルヴィルダが叫んでいるのが聞こえる。

矢を放ちながら、シグムンドは下がった。瓦礫になってしまった砦が、今度は溶岩湖に変わってしまっている。

その中を平然と進んでくる紅い騎士は、その無機質な目を、彼方此方に興味なさげに向けていた。

怒りがわき上がってくる。

「お前にとっては、興味が無い世界かも知れないが……!」

魔力を、集中していく。

鏃の先が、一点に見えるほどだ。シグムンドは文字通り、全力を込めての一矢を放つ。

「俺たちにとっては、これでも大事な場所なんだよ! くたばりやがれ、この外道っ!」

裂帛の叫びと共に、矢が飛ぶ。

紅い騎士はそれを槍で叩き落とそうとするが、失敗。

左目に、突き刺さった。

矢は矢羽根までもが突き刺さり、シグムンドは即座に第二射を放つ。右目の少し下に突き刺さる。

どうやら、精度が落ちているらしい。

今、魔力を込めすぎたか。

サラマンデルが必死に下がる所に、紅い騎士が火球を浴びせようとする。

しかし、火球は勝手に外れた。視界が狂っていることが、影響したか。森に着弾した火球が、明々と周囲を照らす。

消火している余裕は無い。今、此処で一気に屠ってしまわなければならない。

溶岩を抜けてきた紅い騎士に、再び皆が殺到する。爆破の魔法陣が次々出現するが、時間差を付けて爆発する事は、皆が既に学習している。

フレイが剣撃を連続して叩き込むが、その全てを槍で防ぎに懸かる紅い騎士。

だが、その隙に。

ヴェルンドが放った矢が、無事だった右目を直撃していた。此方も渾身の魔力を込めた矢だ。

紅い騎士の目が、爆ぜ割れる。溶岩のような血をまき散らしながら、紅い騎士が咆哮した。

「お前にばっかり、良い格好をさせるかよ」

「そうだな! ヘルギ! お前も!」

「分かってるっ!」

飛びかかったヘルギが、レギンと息を合わせて、軸足になっていた紅い騎士の左足首をたたき割る。

倒れたところで、フレイが大上段からの剣撃を浴びせかけた。

紅い騎士の首が、すっ飛ぶ。

溶けていく紅い騎士を乗り越えるようにして、最後が来た。

仲間が殺され、猛り狂っているからか、その体を覆う凄まじい魔力が、周囲を焦がすほどだ。

だが、溶岩地帯を出てきた以上、此方にも対応策がいくらでもある。

「総攻撃! 仕留めよ!」

「おおっ!」

アルヴィルダが叫び、自らもクロスボウから矢を撃ち放つ。

紅い騎士の全身に、兵士達が放った矢が次々に突き刺さる。魔力が籠もった矢も多く、体を抉っていく。

紅い騎士は気にもしていない。

神の斬撃を受けても耐え抜くほどの相手だ。無理も無いか。

フレイヤが、呼吸を整えながら、弓を構える。精霊の弓では無く、ディースの弓の方だ。シグムンドは走りながら紅い騎士の後ろに回り込み、背中に向けて矢を放った。

紅い騎士が、足を踏み下ろす。

同時に、時ならぬ地震が周囲を襲った。

爆破の魔法陣だけでは無く、こんな芸当までこなせるのか。

槍を振るう紅い騎士。フレイが躍りかかり、剣で斬撃を相殺する。兵士達も走り回りながら、めいめいに矢を浴びせている。紅い騎士は的確に顔を庇いながらも、時々爆破の魔法陣を発生させ、時に雄叫びだけで辺りを威嚇し、容易に屈しそうにも無い。

再び、足を振り下ろしに懸かる紅い騎士。

フレイは、今の槍での一撃を受け止めたときにかなりの距離吹き飛ばされており、間に合わない。

だが、間に合った者がいる。

いつの間にか起きたのか、額から血を流しながらも、無言のまま飛び込んできたアネットだった。

アネットが、走り抜けながら、一閃。剣を振るう。

軸足の足首を深く切られた紅い騎士が、呻きながら態勢を崩す。

更にレギンがヘルギと息を合わせて追い打ち。左右から紅い騎士の足首を抉り、殆ど切断するところまで持っていった。

たまらず、紅い騎士が横転する。

フレイヤが、矢を放った。

九カ所。紅い騎士の足や手、顔などを、魔法の矢が撃ち貫く。紅い騎士の再生も、流石に追いつかない。

兵士達が群がり、とどめとばかりに矢を打ち込んでいく。

フレイが飛びかかり、立ち上がろうとする紅い騎士の顔面に、剣を突き立てた。これには流石の紅い騎士もたまらず、悲鳴を上げてフレイを取ろうとする。だが、その時には、肩にシグムンドも登っていたのである。

「これで終わりだっ!」

渾身の力を込めて、紅い騎士の首筋に剣を突き立てる。

人間だったら頸動脈のある位置だ。

突き刺さった刃は深く深く潜り込み、紅い騎士に断末魔の絶叫をあげさせる。

素早く飛び離れ、溶岩のような返り血を浴びるのを避けた。飛び降りたとき、かなりの高さからだったので、足が砕けそうになったが。

四体目の赤い騎士が消えていく。

周囲は惨状も良いところだ。鏖殺する作戦は結局頓挫したが、最終的に敵は殲滅することが出来た。

紅い騎士はこれで二十体が分かっているだけでも死んだ。

ムスペルにも、それなりの打撃を与えているはずである。無駄にはなっていないと、シグムンドは自身に言い聞かせる。

空に開いた紅い穴は、もうふさがっている。

これで、追撃されるおそれは、もう無いだろう。

アルヴィルダが手を叩き、周囲に声を張り上げる。彼女の声は、疲れ切っている兵士達の背筋を、自然と伸ばさせるようだ。

「追撃は断った! そなたらは、神よりも強いというムスペルの騎士を屠ったのだ! 誇りに思え!」

「ゴート万歳! アルヴィルダ様万歳!」

その喚声が轟くと、アルヴィルダは無表情のまま頷いた。

きっと、心中複雑だろう。

もう残敵は残っていない。紅い騎士との戦いの最中、北の民を中心とする戦力が、掃討したからだ。

被害も出たが、予想よりはずっと小さい。

むしろ、常に戦場にいたフレイと、フレイヤの疲弊の方が大きそうだった。

「神よ、此処でしばし休んでから、ブルグント王都へ向かおう。 あの城塞は、巨神族の攻撃だけであれば、簡単には陥落せぬ。 ムスペルの追撃を断った今、多少の時間的猶予はあるはずじゃ」

「そうだな。 分かった。 フレイヤ、魔力の回復に注力してくれ。 私は、鎧を修復しておく」

「分かりました、兄様」

フレイヤが地面に魔法陣を書き、その中に座り込む。

周囲の魔力を吸収するための行動だ。

兵士達もめいめい散り、その辺りで適当に休みはじめる。サラマンデルから降りてきた子供が、何かアルヴィルダに訴えかけているのが、シグムンドにも聞こえた。

「もう、燃料がないじゃと」

「はい。 補給しなければ、もう火は吐けません。 あと一回の戦いが、限界だと思います」

「そうか。 だが案ずるな。 ムスペルの追撃は断った。 後はブルグント王都近辺にいる巨神共さえどうにかできれば、補給は出来る」

不安そうにする子供。

エルファンといったか。サラマンデルを作ったという話だから、たいした奴だ。アルヴィルダに、窮状をしっかり言えるところも、また肝が据わっている証拠である。そうなれば、その不安は臆病から来るものでは無いだろう。

ブルグント王都には物資もあるから、サラマンデルを補修することも出来るだろう。この戦力、今後のためには一機でも多く欲しい。

けが人をふらふらのまま治療して廻っているアネットが、倒れそうになって、ヴェルンドに支えられていた。

「おい、無理はするな!」

「でも、怪我をしている人達が……」

「アネットを此方へ」

フレイヤが、冷静に言う。

以前は結構精神的に脆いところがあったフレイヤだが、冥界から帰ってきてから、俄然落ち着いている。

兄から離れて地獄の長征を敢行し、なおかつ生き延びたことが、大きな経験になっているのだろう。

アネットを座らせると、フレイヤが回復術を掛ける。

凄まじい光が周囲に満ちた。

魔力を枯渇するまで使い、その後回復するという行動を繰り返してきたのだ。フレイヤ自身の力も、以前とは比較にならないほどに上がっているのだと、この光を見てもよく分かる。

「アネット、まだやれますか」

「……」

じっと見つめられると、アネットは視線をそらしてしまう。おそらくは、無理をしているのを見抜かれたからだろう。というよりも、誰が見ても明らかだが。

フレイヤは責めるでも無く、ただ淡々と言う。

責任感が強く、真面目なアネットの性格を、理解しているからだろう。

「兄様、私が回復を変わります。 私自身の魔力を少し消耗してしまいますが」

「出来るだけ効率的に。 アネットはその間休んで、力を回復するように」

「分かりました」

アネットも、フレイの言うことは素直に聞く。

アルヴィルダの親衛隊につれられて、壊れかけのサラマンデルの所に行く。そういえば、年格好が近いエルファンとは、よく話しているようだ。サラマンデルの説明を、無言で聞いてもいるようである。

フレイヤが回復術を使い始めると、喜ぶ兵士が多い。

気持ちは分かるが、現金なことだ。

ただ、この極限状況である。それくらいの楽しみくらいは、認めてやるべきかも知れないと、シグムンドは思った。

アルヴィルダは殆ど休まず動き回っていた。だが、流石に疲弊が溜まったからか。他の兵士が順番に休み終えた後、自身が休憩を取る。

その間に、シグムンドはヘルギとフレイを誘って、偵察に出る事にした。

ブルグント王都は、簡単には陥落しないだろう。だが、状況はしっかりみておいた方がよい。

もはや、何がいつ起きても、不思議では無いからだ。

 

3、アスガルドの終焉

 

テュールは感じ取る。

あまりにも禍々しい魔力の接近を。これは、間違いない。

偵察の部隊が伝えてきていた、ヨムルンガルドだ。八十万に達する巨神の軍勢を好き勝手に蹴散らし、踏みにじったと聞いている。まさに、想像を絶する化け物だ。ヘルの時も、このような怪物にどう対処すれば良いかと思わされたが。ヨムルンガルドの凄まじさは、テュールの想像を絶していた。

今更結界内部に引き返すことなど出来ない。

此処で、可能な限り迅速にヨムルンガルドを仕留め、その後各地に出没しているムスペルの騎士を倒していくしか無い。

だが、余力を惜しんでの戦いでは、とても勝ち目は無いだろう。

すぐに伝令を出す。

「ヨムルンガルド接近中。 オーディン様、トール殿、至急此方に来られたし」

まずは、テュールが相手をしなければならないだろう。

愛剣を抜くと、エインヘリアル達を下がらせる。少し離れたところに下げたのは、剣撃の余波に巻き込まないためだ。

テュールの剣は、相当な広範囲まで斬撃を届かせることが出来る、神々の武具の中でも最高位に属するものだ。

先代フレイは更に高性能な剣を持っていたのだが、それは既に失われた。

剣と名がつく武具で、今最強なのは、テュールが常に携帯しているこの一振りなのである。

形状は無骨な、普通の剣だ。

長さもいわゆるショートソードの域を超えていない。

だが、その斬撃は並の巨神程度なら、即座に両断するほどのもの。其処にアスガルド最強の剣豪であるテュールの技術が加わるとき、破壊力は文字通りの驚天と化す。

だが、余裕など、感じる暇は無い。

おぞましい色に染まった空の下に。その化け物が、影を現す。

エインヘリアル達が、どよめくのが分かった。あまりにも、巨大すぎるのだ。

文字通り島か山か。数千歩程度の長さはあるだろう。口を開いただけで、その中に大巨神がすっぽり入ってしまいそうだ。いや、軽々とおさめることが出来よう。あまりにも巨大すぎる、まさに神をも怖れぬ凄まじき魔物だ。

その禍々しき蛇は、ゆっくり蛇行しながら、此方に来る。

赤い目は煌々と輝き、口からは舌をちょろりちょろりと出し入れしていた。ただし、あの大きさの舌だ。その長さは、巨木ほどもあるだろう。

「アスガルドの神々。 私の前に立ちはだかるか」

不意に、ぐわんともの凄い声が聞こえた。

声そのものは幼い子供、それも女のものに聞こえたが。強烈すぎる衝撃で、文字通り脳が揺らされるかのようだった。

「私はアスガルドの武神テュール。 地の底から目覚めし三悪魔、怪蛇ヨムルンガルド=フェンリルよ、貴様の命、もらい受ける!」

「ふん。 最初に巨神を滅ぼすつもりであったのだけれど。 アスガルドの神々も、いずれは滅ぼすつもりだった。 順番が多少変わるだけだし、まあ良いか……」

一言一言ヨムルンガルドが喋る度に、あまりにも凄まじい魔力が此方に飛んでくる。エインヘリアルの中には、それだけで戦意を失うものまで出てきているようだ。

この距離なら、ヨムルンガルドには届く。

そう思った、瞬間だった。

ヨムルンガルドの腹から、数えるのも不可能なほどの、光の弾が撃ち出される。

しかも同時に放たれたというのに、全てが誘導性を持っており、軌道を変えながらテュールに迫ってくる。その上、空を舞うハヤブサのように速い。

いきなり、この凄まじさか。

テュールは剣を振るって、可能な限りを叩き落とす。

「攻撃開始! 手当たり次第に、敵を撃ち抜け!」

「了解しました!」

エインヘリアル達も、一斉に槍から光を放ちはじめる。

この状況であれば、最初に辿り着くのは、オーディンか。そう考えているときには、もう光弾の第一波が着陣してきた。

爆発。

閃光が轟き、瓦礫がテュールの体を打つ。

凄まじい。直撃をもらったら、それだけで腕の一本は持って行かれそうだ。それを、これだけの数、同時に放つとは。

悠々と空を泳いで行こうとするヨムルンガルドの顎は、もうテュールの上にさしかかろうとしていた。

見ると、尾の方にも、頭がついている。

エインヘリアルの光が、次々にヨムルンガルドの体に着弾する。テュールの斬撃も、その体を打つ。

だが。

まるで、効いていない。

鱗の一枚も、剥がすことが出来ているようには思えない。

「鬱陶しいなあ……」

本当に面倒くさそうに、ヨムルンガルドがそういった瞬間。

視界が、光に覆われた。

吹っ飛ばされたのだと、気付くまで時間が掛かる。

見ると、味方の陣営が、半壊していた。どうやらヨムルンガルドが、更に多い数の光弾を放ってきたらしい。

立ち上がり、何度も切りつける。

光弾を叩き落としながら、ヨムルンガルドに、斬撃を浴びせ続ける。

よく見ると、鎧のように大怪蛇を覆っている鱗には、少しずつ傷がついている。だが、テュールの剣技を持ってしても、少しだけ傷をつける、程度の事しか出来ていないとも言える。

戦慄を押し殺しながらも、テュールは走りつつ、剣技を浴びせ続ける。

一度傷を付けたところに、何度も何度も斬撃を浴びせていく。そうすることで、敵の鎧を剥がしていくのだ。

その間も、エインヘリアル達は勇敢に攻撃を続けているが、効いているとは思えない。

そればかりか、一秒ごとに、損害が凄まじい勢いで増えていく。

こんな、まさかこれほどまでとは。

此方に、怪蛇が顔を向けているのが見えた。

口を開いて、何をしようとするのだろうと、思った次の瞬間。

ぶちまけられた毒液が、まるで氾濫を起こした河のように、大地を蹂躙したのである。テュールは飛び退きながら、どうにか逃れる。

だが相当数のエインヘリアルが巻き込まれ、悲鳴を上げながら溶けていった。何という恐ろしい光景か。

渾身の一撃を、顔に叩き込む。

わずかな傷を付けるだけ。顔を引きながら、ヨムルンガルドは腹の方を見せてくる。其処には、既に発射態勢が整った光弾が、無数に点っていた。

一斉に放たれる光弾。

走りながら、必死に叩き落とす。だが、そうしている内に、ヨムルンガルドは次の光弾の発射準備を終えているのだ。

力が、違いすぎる。

横殴りに、怪蛇に光の渦が叩き込まれ、その巨体がわずかに揺らいだ。

どうやら、援軍が来たらしい。

今のは、オーディンのグングニルだろう。だが、グングニルは本来、相手を必ず仕留めるという性質を持っているはずだ。それなのに、怪蛇は貫かれるどころか、ぴんぴんしているではないか。

オーディンの魔力を、怪蛇が遙かに上回っている、という事か。確かに、世界を覆うほどの凄まじい力なのだ。それも納得がいく。どうやら、本当にヘルは力を使い切れていなかったらしい。

ヨムルンガルドの実力は、ヘルを明らかに越えている。

オーディンの側には、フリッグが控えていた。

やつれ果てた女神は、オーディンが持つグングニルを見て、狂気じみた声を上げた。完全に正気を失っているように見えた。

「おお! 光り輝くオーディン様の槍じゃ!」

「兵共の指揮を執れ、フリッグ」

「分かりましてございまする! 皆、オーディン様に続け! あの化け物を葬るのじゃ!」

あまりにもアバウトな命令だが、エインヘリアル達は訓練通りに陣形を組み、槍から光を放ちはじめる。

ヨムルンガルドは蛇行するようにしてポーズを変えるが、その間に着弾した光の槍は、一撃たりとも有効打にはなっていないように、テュールには思えた。

このままではまずい。

一刻もしないうちに、アスガルドの軍勢は壊滅する。

オーディンによるグングニルの投擲でさえ、多少巨体を揺るがせた程度だったのだ。

再び、オーディンがグングニルを投擲するのにあわせ、テュールは走る。さっきの一撃が入った場所に、或いは大きな傷が出来ているかも知れない。

見つける。

鎧のような鱗が、数枚剥がれている。乾いた笑いが漏れてきた。たったそれだけしか、損害を与えられなかったのか。

アスガルド最強の、グングニルの槍が。

再生能力はないらしい。見ていると、体についた傷が、回復しているようにはみえない。鱗が禿げた場所に、連続して斬撃を浴びせる。

やっと、少しずつ、傷ができはじめた。

ヨムルンガルドの巨体が揺らぐ。第二射が、直撃したのだ。しかも今度は、テュールが先ほどつけた傷を狙ったらしい。

かなりの量の血が出ているのがみえる。これは、痛打になったか。

いや。

分かる。

ヨムルンガルドは、まるでこたえていない。

魔力が弱まるばかりか、むしろ強くなってきているほどだ。

フリッグが、何処かに通信を入れている。ひょっとすると、フレイとフレイヤに、救援を頼んでいるのか。

何を馬鹿な。間に合うはずが無い。

ヨムルンガルドが、無数の光を腹から放ちはじめる。辺りは凄まじい爆発に包まれ、エインヘリアルが見る間に木っ端みじんにされていく。

それだけではない。

はき出す毒液の量が、あまりにも途方も無い。

しかも、受けてしまったものは、毒で倒されるのでは無く、溶けてしまう。

よく見ると、一瞬で老化して、そのまま骨に変わってしまうようだ。フレイに報告を受けていたが、ヨムルンガルドは時を統べる存在だとか。ならばあれは毒では無く、もしや神々の時を、あるべき姿に戻しているものなのかも知れない。

神々に対する、報い。

自分たちだけで不死や不老を独占し、好き勝手に振る舞ってきた者達への、世界そのものの復讐。

ラグナロクは、積怨の出来事なのか。

剣を振るう。

迷いを追い払わなければならない。少しずつ、傷を大きくしていく。もう一度、グングニルが入れば、或いは。

オーディンが、魔力を全力で集中しはじめる。

テュールは頷くと、自身も大上段に剣を構え上げた。

あの様子からして、オーディンはおそらく、神代以来、はじめて全力でのグングニル投擲を行うはずだ。そうなれば、おそらくヨムルンガルドを貫くことも出来るはず。

そこで、動きを止めるべく、テュールが全力での一撃を叩き込む。

トールが到着する前に、これで片付けられるはずだ。

だが、おかしい。

ヨムルンガルドは、動揺している様子が無い。来るなら来てみろとでも言わんばかりに、備えもせずに、周囲を光弾で蹂躙して回っている。

耐えろ。今は、奴を撃つことだけに、集中しろ。

自分に言い聞かせながら、大上段に構えたまま、テュールは、気迫が溜まりきるのを待つ。

そして、その時が来る。

本命の一撃は、オーディンによる全力のグングニルだ。

テュールは渾身の力と、今まで練りに練り上げた剣を、ヨムルンガルドに向け、叩き付けた。

それは、もはや二度と放てぬほどの、完璧な一撃。

傷を抉り、引き裂き、常識外の巨体に、確実なダメージを叩き込む。

一瞬とまったヨムルンガルド。

其処に、続けてオーディンが、これまた全力のグングニルを叩き込む。流石に、アスガルドの主神。トールよりは戦闘力が落ちると言われ続けたオーディンだが、それでも手にするグングニルの精度は、文字通り一撃必殺。

光の槍は、ヨムルンガルドの巨体に潜り込み、そして反対側に貫通した。

「おお! オーディン様の勝ちじゃ!」

フリッグが、目を剥いて無邪気な声を上げた。

苦笑するほか無い。全身のしびれが、テュールの体から取れない。

万年の錬磨の成果だ。二度と、このような斬撃は、放つことができないだろう。弟子に見せたかった。

あの男、フレイなら。きっと、これを越える一撃を、放てるだろうから。

ぞくりと、悪寒が背中を駆け上がる。

ヨムルンガルドが、口から大量の血を吐きながら浮かんでいたが。その巨体が、軋みながら動き出したからである。

「厄介な槍だね……」

ヨムルンガルドが、悪意を口からはき出す。

まずい。

何をするかが、テュールには読めた。オーディンに向け、叫ぶ。

「すぐにグングニルを戻してください! オーディン様!」

「む……っ!」

オーディンも、全身全霊を込めた一撃の後だ。魔力を消耗しきって、身動きが取れないのだろう。

ヨムルンガルドは、凄まじい軋み音を立てながら、体を捻る。

全力でその身を貫いていた槍に、過負荷を与えるために。

グングニルが、悲鳴を上げるように、曲がっていき。

そして、折れた。

 

光の粒になって落ちてくるグングニルの破片。唖然として空を見上げるテュールの視線の先には、血を流しながらも、まだまだ余力のあるヨムルンガルドが、蛇行しながら光を放ち、殲滅を行っていた。

今の光景が決定打になった。

アスガルドの至宝が打ち破られた今、この怪物を倒せる手段は、もはやトールの持つミョルニル以外には存在しない。しかも、破壊力に関しては、グングニルはミョルニルを越えるとさえ言われていたのだ。そのグングニルが、文字通りの木っ端みじんに打ち砕かれたのである。

戦意を失った神々は我先に逃げようとし、ヨムルンガルドはそれらを片っ端から殲滅した。

爆発音が轟く度に、アスガルドの神が消し飛んでいく。

戦意を無くしていないエインヘリアルを、ヨムルンガルドは後回しにしたらしい。まずは神々を処理すると、言うのだろう。

呆然と立ち尽くしているオーディンにヨムルンガルドが迫る。

グングニルは、もう無い。

「オーディン様!」

テュールは、動かない体を無理に動かして、斬撃を浴びせかける。ヨムルンガルドの傷口から、今も大量の鮮血が溢れていることに違いは無いのだ。それに傷口には、再生する気配は無い。

このまま攻撃を続ければ、倒せる。

グングニルが無くとも。

まだ虚脱から立ち直れないオーディンのためにも、テュールが頑張らなければならない。

ヨムルンガルドは、二度、三度と傷口を抉られて、流石に不快になったのか。テュールに向き直る。

頭にがんがん響いてくる威圧感の割に。

やはり、声は幼い女の子のものだ。

「面倒を、かけさせないで欲しいんだけれど」

「黙れ化生っ!」

「どっちが化け物だよ。 世界の理を独占し、思うままに書き換え、搾取を繰り返し、肝心なときには役に立たないくせに」

光弾が、無数に飛んでくる。

剣を無心に振るって叩き落とすが、しかし。

先の渾身の斬撃の負担が、まだ腕に残っていて。一つ、直撃コースの光弾を、防ぎ損ねる。

爆発。高々と、吹き飛ばされる。

そして、気がつくと。

右腕の肘から先が、無くなっていた。

「ぐっ、うううっ!」

「テュール様、此方へ!」

まだ戦っていたエインヘリアルが、テュールを数人がかりで担いで、走り出す。ヨムルンガルドは興味も失せたようで、そのままオーディンへと興味を移す。そして、今まで戦闘に参加していなかった、後ろの首。

狼のような姿をした首を、オーディンに向けた。

ようやく、虚脱から立ち直ったオーディンが空に浮き上がる。

差し違えるつもりだ。己の残った魔力を全て雷に変換し、手のひらに集めている。

それに対し、ヨムルンガルドは。狼のような顔の口を、全開にした。

何という巨大な口か。それこそ、城塞を一呑みにしそうな迫力がある。背筋に寒気が走った。

下級の神が来て、回復術をかけ始める。

身動きが取れない。腕が吹き飛ばされただけでは無く、直撃を至近に喰らったことで、内臓もやられているようだ。

「あんたに敬意を表して、時間加速毒では無く、直接体内であるべき姿にもどしてあげるよ、最高神オーディン」

「貴様も道連れだ、時の支配者」

「やれるものなら、やってみるといい!」

オーディンが、渾身の稲妻を、ヨムルンガルドに放つ。

さすがは魔術に関して最高の力を持つオーディン。空が真っ白になるほどの、超絶の稲妻だ。

ヨムルンガルドの全身が焼かれる。

傷口にも稲妻が迸り、蒸発した血で、空が曇るほどだ。

だが、雷撃が収まると。

既に、オーディンの姿は、其処に無かった。

そして、口を閉じた、狼の首があった。

「消去完了。 最高神オーディン、あなたも時をもてあそんで、世界を好き勝手にした存在だから許さない。 だけれども、敬意を表して、哀れな姿を部下達にさらすことだけはしないであげるよ」

「う、うわあああああああああっ!」

テュールは、離せと叫ぶ。

だが、戦場から離脱すると、部下達は話す。

もはや、テュールには、何も出来ることはない。全てはおしまいなのだと。

 

全身から煙を上げるヨムルンガルド=フェンリルは、冷静に自分が受けたダメージを計算していた。

まだ体は動く。

しかし、楽観は出来ない。ダメージは小さくないし、まだ倒すべき強豪が何体か残っている。アスガルド最強を謳われるトールに、今やそれに劣らぬ力を付けているフレイとフレイヤ。巨神族の長フリム。

いや、フリムは。

今は計算しなくても良い。最終的には、話し合って決めれば良い。配下の巨神共は皆殺しにするとしても、フリムについては事情があるのだ。

フレイとフレイヤは、おそらく無理だろう。

側で見てきて、知っている。あの者達は、真面目にこの世界のために戦っている。もっと早くあの者達が来てくれていれば。

ウルズは、このようなことをしなくても済んだかも知れないのに。

そう、ウルズの精神と一体化することで、ようやく呪縛から解放されたヨムルンガルド=フェンリルは思った。

ヨムルンガルド=フェンリルは、ユミルによって、海底の岩盤に封じられた。そこで、ゆっくりと時を司り、世界の根幹をなす要素の一つとして、影響を及ぼし続けてきた。時を一部の神々が好き勝手にしているこの世界にとっては、悪魔に等しい存在である。死や破滅を司る者達と、それは同じだ。

封じられたとき、自我も消された。

だから、身動きも出来なかった。

世界を統べる女神の一つが、体内に入ったことで、ようやく自我が戻ったのだ。そして、その女神が体を借りていた幼いヴァイキングの娘の意思が、今ヨムルンガルド=フェンリルの司令塔になっていた。

巨神の侵攻で何もかもを奪われ、そのままなすすべ無く殺された、無念の魂が。今、復讐を思うさましているわけである。

ヨムルンガルド=フェンリルとしても、この娘の純粋な復讐心は自身と合致しているから、好ましい。

このまま、良き関係を続けていきたいものだ。

さて、と。自身に言い聞かせるようにして、眼下の状態を確認。完全に戦意を無くしたアース神族は、無様に逃げ惑っている。

オーディンは死んだ。

喰らったのでは無い。口に入れて、直接あるべき時にもどしたのだ。万年を越える時を一気に叩き付けられた老神は、ひとたまりも無く塵になってしまった。魔術におけるこの世界の最高位も、時にはかなわない。

もはや、オーディンは冥府に落ちたのだ。

トールの気配が近づいてきている。

間もなく、接敵するだろう。

「傷口は痛む?」

「問題ない。 私の体は少々特別でな」

「頭二つ、落とさない、死なない」

フェンリルが、ぼそぼそとウルズにこたえた。

片言になっているのは、封じられた自我が、より強かったからだ。時の神として造り出されたとき、ヨムルンガルド=フェンリルには、二つの頭と二つの自我が備わった。その内より攻撃的なフェンリルには、強い強い封印がかけられた。グレイプニルと呼ばれる魔力の紐で、心そのものを縛られたのである。その影響だ。

「体が二つにされても、平気?」

「平気では無いが、死にはしない」

「来る。 雷神」

まだ無事な敵の部隊と、その先頭に立つ雄々しい神の姿。

雷神トール。

アスガルド最強を誇る戦の神である。軍神テュールをも凌ぐ戦闘能力を持ち、強さに関してはオーディン以上だ。

だが、ウルズは、先以上に強い怒りを露わにしていた。

「何の役にも立たない神様……っ!」

「どうした」

「お父さんも、お母さんも、毎日お祈りしていたのに! 航海安全どころか、命さえ守ってくれなかった! お供え物返せ! お父さんもお母さんも返せ!」

怒りの咆哮を上げるヨムルンガルド=フェンリルを見て、生き残った神々やエインヘリアルが、悲鳴を上げる。

何より、ヨムルンガルド=フェンリル自身が、ウルズの激しい怒りに驚いた。今まで感情が壊れたかのような風情だったのに。今まで見せていた無念とは違う。純粋な、怒りだ。

トールは下がるように、周囲に指示。

たくましい肉体をむき出しに、ハンマーを投擲する体勢に入った。

奴の武器であるミョルニルは、力を増すベルトであるメギンギョルズと、特殊な手袋があって、はじめて使いこなせるほどの重い武器である。

その破壊力は、まさに絶大。

オーディンのグングニルが魔術的に圧倒的破壊力を有する武器だとすれば、これは物理的に最強の存在だ。

だが、それでも。

ヨムルンガルド=フェンリルの方が、上だ。

「おおおっ!」

トールは流石だ。

オーディンが死に、テュールが負傷して戦線離脱しているのに、怖れる様子が無い。全力で、ミョルニルを投擲してくる。

避ける気は、最初から無い。

まだ無事だった部分で、体をしならせて受け止める。

鱗が数枚飛ぶが、充分に防ぎきれる。相手を即死させる効果も通用しない。魔力量が、桁違いだからだ。

「役立たず! そんなもの、通用しない!」

「何だかわからねえが、俺に対して不満があるようだな。 俺も神としては、確かに至らない点がたくさんあった。 だが、神も万能じゃねえんだ。 許してくれな」

また、投擲してくる。

ミョルニルは「当たる」事は当たるのだが、命中率に問題がある。

先ほどから、トールは明らかに傷口を狙ってきているが、全く当たらない。別の場所に当たっているのなら、特に気にする事も無い。

三度目の投擲で、トールは舌打ちする。

その間も、ヨムルンガルド=フェンリルは、ずっと光弾を撃ち、周囲を掃討して回っていたからだ。

「思ったよりも動きがはええな。 あたりゃしねえぜ」

「トール殿!」

進み出たのは、おそらくヘイムダル。

武芸にはさほど秀でてはいない神だ。

これらの情報は、ウルズから流れ込んできている。つまり、信用できる。世界を観測してきた女神からの情報なのだ。

「彼奴の動き、止められるか」

「お任せを」

ヘイムダルが走り出す。

いつの間にか、その手には、テュールの剣があった。なるほど、アレを使えば、傷口をえぐれるとでも言うつもりか。

考えが甘い。

光弾を浴びせかけようとした、その瞬間だった。

ヨムルンガルドの方の顔面に、ミョルニルが直撃したのである。今まで、顔に対する攻撃は全てはじき返してきたが、これは痛烈だった。思わず、空中で体をのけぞらせてしまう。

ミョルニルを受け止めたトールが、かなりの距離ずり下がる。

それほどの破壊力があった、という事だ。

そして、ヘイムダルが、傷口の下まで来ている。テュールの剣を振るって、傷を抉りに来る。

さほど戦闘力は高くは無いと言っても、それでもアスガルドの重鎮か。それなりに、傷には痛みが来る。

また一撃。

ミョルニルが、顔面を直撃した。

ウルズが、怒りに、却って静かになる。

「もう死んで?」

そして、二度の打撃で歪んだ顔を大きく開けると、毒液を盛大に、トールへとぶちまけたのだ。

トールはミョルニルを受け止めた直後で、それを避けることが出来なかった。

もろに、毒液に飲まれる雷神。

勝負あった。これだけの毒液に飲まれ、無事で済む神など存在しない。なぜなら、時を好き勝手にしてきたという点で、共通しているからだ。

終わった。

どうにか、ウルズを慰めてやりたい。そう思ったのだが、しかし。

飛来したミョルニルが、傷口に直撃していた。

全身を捻り、ヨムルンガルド=フェンリルは地上に落下する。これは、痛打だ。流石に、飛行を維持していられない。

地面に激突。

辺りを、隕石でも落ちたかのように、粉々に砕きながら。ヨムルンガルド=フェンリルは、さすがは雷神と、相手を称賛していた。

「何よ! そんなに頑張るなら、最初からお父さんとお母さんを助けてくれれば良かったのに!」

子供らしい激しい感情をむき出しにして、ウルズが吼える。

地面に直撃したダメージはでかいが、アース神族も壊滅した。既に奴らの軍勢は九割方が失われ、神々も殆ど生き延びていない。

これだけやれば上出来だ。

後は、フレイとフレイヤを片付ける必要がある。あの二柱も若いとは言え、時間を好き勝手にしてきたアース神族だ。

生かしておく訳にはいかない。

再び、空に浮き上がるのに、相当な労力を必要とした。

「ウルズ、言っておくことがある」

「何よ、ヨムルンガルド」

「フレイとフレイヤ、勝てるか、分からない」

今、トールによって、ヨムルンガルドも致命的な打撃を受けた。全体的な魔力も、かなり弱まっている。

魔力が弱まれば、装甲も脆くなる。

そして、不死身に思えるこの体も、頭を二つとも落とされれば、死ぬのだ。

「死ぬ事は、怖くない」

灼熱の怒りに身を焦がしていたウルズも、不意に静かになる。

覚悟は、決めているという事か。

「ヨムルンガルドとフェンリルは」

速度を上げる。

アスガルドを左目に見ながら、ヨムルンガルドはこたえた。

「我々はもとより現象だ。 本来世界に満ちているべきものであって、このように形を取る事が異常なのだ」

「だから、死、怖くない」

「そう。 お父さんとお母さんは、ずっと死ぬのを怖がってた。 私を一人にしてしまうからだって」

正確には、父は航海に出ている最中に死んだ。

トールには、航海安全の神という側面もある。だから、熱心に祈っていたのだという。父はヴァイキングらしいたくましい男で、ウルズは肩車をしてもらうのが大好きだったのだそうだ。

父が死んだ後、母は再婚もせず、ウルズを育ててくれた。

良い母だったのだ。

父のことを好きだったウルズが、大人になるのを待ってくれたのだろう。いきなり再婚したところで、新しい父を受け入れられるわけが無いと、知っていたのだ。

そして、巨神族が攻めてきた。

死んだウルズは、母が目の前で、巨神に踏みつぶされるのを見た。村の人達も、同じ運命をたどった。

「トールが死んで、せいせいしたか」

「……」

「巨神共を散々殺して、憂さ晴らしは出来たか」

もやもやすると、ウルズは言った。

もう、この辺りで、良いのかも知れない。ウルズは精神の舵取りをしているが、ヨムルンガルドはフェンリルと独自に話す事も出来る。ウルズには、内緒で、だ。

「フェンリル。 この戦いは、勝てぬかも知れん」

「そうだな。 俺も、勝てない可能性があると、認める」

「その時は、ウルズを死なせず、救ってやろう」

「神々と違って、ウルズには本来使うべきだった時間も残っている。 それが妥当だと、俺も、思う」

片言でいうフェンリルも、何処かで感じていたのだろう。

この孤独な子供が抱えていた、大きな鬱屈に。

その正体が分かった今。戦いの悲劇で、全てを終わらせるのは、出来れば避けたかった。

時を司るといっても、既に過ぎてしまった時間はどうにも出来ない。過去を変えることは出来ないのだ。

ヨムルンガルド=フェンリルは、最後に滅ぼすべきフレイとフレイヤの所に向かいながら。

いざというときには、ウルズを死なせないようにすることを、誓っていた。

 

4、近づく全ての終わり

 

ブルグント王都の周囲には、数万の巨神族が展開していた。だが、フレイとフレイヤが、アルヴィルダが指揮する軍勢を護衛しながら進むと、戦わずに退く。

だが、それは、此方を怖れたのでは無いのだと、すぐに分かった。

近づいてきているのだ。

ヨムルンガルド=フェンリルの気配が。

フレイも、妹に聞かされた。

悲鳴混じりの通信が、アスガルドの軍勢から、ずっと此方に来ていたと。既にオーディン、トールが戦死。テュールも右腕を失い、大きなダメージを与えたものの、ヨムルンガルド=フェンリルは飛び去ったのだという。

アスガルドの軍勢は壊滅状態で、主要な神も殆どが死んだ。生き残ったのは、フリッグとヘイムダルくらい。エインヘリアルの生存数は計算中だが、アスガルドの留守部隊を含めても、三万いるかどうかという惨状らしかった。

もはや、言葉も無い。

おそらくムスペルとの決戦に備え、動員可能な全ての戦力を一気に叩き付け、ヨムルンガルドを先に倒そうと考えたのだろう。だが、世界を数日で壊滅状態に追いやったヘルと同じ三悪魔、しかも武闘派であるヨムルンガルド=フェンリルの実力は、圧倒的だった、ということだ。

しかも、飛び去った先は、此方だという。

近づいている気配からして、ほぼ間違いない。

そう遠くない未来、奴は此処にやってくるだろう。

やらなければならない事は、幾つもある。

負傷した兵士達を、先に行かせる。

ブルグントの城壁はまだ壊されていなかった。巨神族との交戦を、本格的には行っていなかったから、らしい。

フレイはフレイヤを先に休むように指示。城内には、回復の術が使える神も何柱か来ている。いずれも若く技量にも欠けるものも少なくないが、全員あわせればフレイヤ単独よりも回復の効率が良いだろう。

マグニが来た。

此処に避難してきている若い神の中では、筆頭の戦闘力を持つ者だ。トールの死は既に知っているらしく、髪を逆立てるようにして怒っていた。ヨムルンガルド=フェンリルが此方に来ると聞くと、やはり予想通りのことを言う。

「俺が親父のかたきを取る!」

「気持ちは嬉しいが、アスガルドの軍勢を単独で壊滅させた化け物だ。 慎重な作戦の立案と、実行が必要だ」

「分かっているさ! フレイ、あんたは平気なのか! テュール様だって、酷い負傷をしたんだぞ!」

「平気な筈があると思うか」

静かにこたえると、マグニは押し黙る。

怒っている所を見ると、マグニは父の容姿を強く受け継いでいる事が分かる。筋肉質な長身の金髪男性であり、目鼻立ちもそっくりだ。だが、故に、ヨムルンガルド=フェンリルとの戦いでは、先陣を任せられない。

グングニルの直撃で体を抉られ、ミョルニルを何度も喰らったのに、まるで平気な様子で動いていたという。トールの最後の一撃で、地面に叩き付けられたらしいのだが、それでもまた浮き上がって、此方に向かってきているという話なのだ。トールよりも技量が劣るマグニに、倒せる相手ではない。

兵士達の様子を見ると、ほとんど負傷者はいない。アネットの後輩であるワルキューレのサーニャは、回復の術の技量が優れていると聞いているが。北に遠征に出ている間に、殆どのけが人を治癒してくれたらしい。

また、城内には、四機のサラマンデルもいた。

もうゴートも何もない。ゴートの技術者達が、ブルグントの技術者達と協力して、完成させたのだろう。

壊れかけのサラマンデルも、早速修理が始まっているようだった。

王城に出向く。

既に先行していたアルヴィルダから、話は聞いていたらしい。側にハーゲンを控えさせたグンターは、蒼白になっていた。

「神よ、無事で何よりだと、いう余裕も無い。 すまぬな」

「此方の状況は」

「物資については、充分にある。 各地の廃墟になった街から、回収も終えた。 数年は籠城できるだろう」

問題は、そんな先まで、人類が生存できそうに無い、という事だ。

アスガルドの軍勢が壊滅した事は、既にグンターも知っているらしい。此処にも、アスガルドから避難してきた神がいる。彼らから聞いたのだろう。

「ヨムルンガルド=フェンリルを、どこで迎え撃つつもりか」

「出来れば、街の外。 東に広がる平原で、決戦を挑みたい」

「そうだな。 それしかあるまい」

装備も訓練も雑多だが、それでも数万の兵士が、出陣可能な状態にあると、ハーゲンがいう。

だが、エインヘリアル二十五万が、手も足も出なかった相手である。

如何にグングニルとミョルニルで傷ついているとは言え、それで本当にどうにかなるのだろうか。

「もう少し、戦いの経緯についての情報が欲しい。 しかし、民を避難させる場所が無いのが、痛恨だ」

グンターがぼやく。

街の外に逃がしても、ヨムルンガルドから逃げられるとは思えない。

避難民の多くは、もはや逃げる場所も無く、ここに来ているのだ。

「ヨムルンガルド=フェンリルが来るまで、時間が無い。 急いで兵を出陣させて欲しい。 私も、フレイヤと共に、外に出る」

「街を守るために、だな」

「そうだ。 おそらくヨムルンガルド=フェンリルは、私とフレイヤを狙ってくる。 此処にいては、無辜の民も多く巻き込まれる事だろう」

「ならば、他に選ぶ手段はあるまい」

守備部隊も含め、全軍の出陣を、グンターが指示した。

ムスペルの到来を前にして、既にアスガルドの軍勢は壊滅。巨神の軍勢も同じような有様の筈だが、何ら気休めにならない。

そして今。

多少傷ついているとはいえ、まだ継戦能力を充分に残した、怪物の中の怪物が、此処に迫ろうとしている。

この世界には、もはや希望は失われている。

だが、それでも。

フレイは、人間を導かなければならない。

外に出ると、シグムンド達、北の民が待っていた。

フレイヤはぎりぎりまで、魔力の回復に努めてもらう。神の中の何名かは残ってもらい、負傷者の手当をする手はずとなった。

それを告げると、シグムンドはむしろ嬉しそうに言った。

「つまり俺たちは、先陣だな」

「ああ。 相手はアスガルドを滅ぼしたほどの化け物だ。 万が一にも、生きて帰ることは出来ないだろう」

オーディンが差し違えようとして、上手く行かなかったほどの相手だったという話だ。

それを告げても、シグムンドは怯まなかった。

「何、今更何が出てきても戦うだけだ」

何度、この戦士の中の戦士に、驚かされたか分からない。

そして、今回も、同じだった。

東から、気配がどんどん近づいてきている。

最強の怪物は間もなく。此処に到着すること、疑いなかった。

 

(続)