炎の殲滅者

 

序、その紅き巨なるもの

 

何かが来る。

それは分かっていた。吹雪がかき消され、何より辺りが暑くなり始めている。海が揺らぎ、沸騰しはじめている場所さえあった。

それなのに、どうしてだろう。

何が来るか分からないと、フレイは最初思ってしまっていた。本当は、分かっていたはずなのに。

これから来るのは、破滅そのもの。

世界を滅ぼす、最強の力。

遭遇したのは、シグムンドの治めていた村の一つが存在した地点の、少し北。途中に見たのだが、シグムンドの村は完膚無きまでに破壊されていた。巨神共めと、シグムンドは憤慨していた。だが、シグムンド当人がそれを一時的に忘れたかのように黙り込んでしまうほど、凄まじい光景を目にすることとなった。

森が、燃えている。

一度凍らされた森が、その氷が溶け、そして水が全て蒸発した上で、燃え上がっているのだ。

「何が、起きていやがる……」

シグムンドが呻く。フレイも、何も言葉を発する事が出来なかった。補完的な説明をするどころか、何しろ驚いてしまったからだ。

既に巨神共は姿を見せない。このような事態である。とうの昔に、逃げ散ったことは確実だ。

「おい、逃げようぜ! 何だかヤバイ!」

ヘルギが、悲鳴混じりの声を上げた。

臆病な者は、危険感知能力が高い。ヘルギはその典型例だ。何があっても屈しなかったシグムンドでさえ、固唾を呑んでいる状況である。むしろ、踏みとどまれる方が、異常と言えた。

吹き付けてくるのは、熱い風。

フレイも、テュールにつれられて、ミズガルド南部にある砂漠へ出向いた事がある。そこで灼熱の風は体験したが、そのような次元では無い。その熱さは、もはや生物の生存そのものを拒んでいる。

燃え上がる森を押しのけるようにして、膨大な蒸気を纏ったそいつが、姿を見せた。

紅い、巨神。いや、身につけている装具を見る限り、騎士とでもいうべきか。乗騎は見当たらないが。

体は巨神に比べると、ずっと細い。だが、手にしている紅い槍は、考えられないほどの魔力を纏っている。

額からは角が生え、顔つきは無表情で、まるで何もかもが見えていないかのようだった。その表情のなさが、却って恐怖を誘う。

これは、見てはならない存在。会ってはならない者だ。具現化した破滅と言っても良いだろう。

理解する。ロキ=ユミルの言葉から、この者達の長こそが、スルトであると。そうか、この究極の軍団を従えている悪魔こそが、三悪魔の一つ、炎の騎士スルトというわけなのか。

フレイヤが、すぐにアスガルドに連絡を入れる。

フリッグが対応したようで、声が聞こえてきた。そして、すぐに動揺しきった声が、フレイの周囲にも、わんわんと響いた。

「おおっ! なんと言うことじゃ! きゃつらが、きゃつらがついにきよった!」

「落ち着いてください、フリッグ様。 一体、きゃつらとは何なのです」

「もはやおしまいじゃ! お前達に迫っているものは、神々よりも強き滅びの騎士! 終焉を招く、世界の果てに住まいし者達じゃ!」

まさか。

聞いたことがある。世界の最果てを覆うようにして存在している、炎の世界があると。その名前は、ムスペルへイム。

そこにはアスガルドの神々や巨神族でさえ及びもつかない力を持つ、ムスペルと呼ばれる謎の存在が住まうというのだ。

ムスペルの正体は分からない。そればかりか、ムスペルへイムについても、よくは分かっていない。

ユミルが忌み嫌って追放した落とし子達ともいわれる。世界の果てに住まう、神々よりも古き一族ともいわれている。

大地を焦がすどころか溶かしながら、そのもの達は進んでくる。

山が、溶ける。

森が、炭になって消えていく。

そのもの達が足を踏み下ろすと、その地点の土が本当に比喩では無く溶けているのだ。これは、一体どういう温度であれば、出来る事なのか。しかも身に纏っている魔力の凄まじさ、とてもではないが、一体一体が手を抜ける相手だとは思えない。

「フレイ!」

シグムンドに肩を叩かれて、我に返る。

震えが、とまらない。これほどの力を感じさせる相手が、存在しているのか。目の前に、それらはいる。

シグムンドに肩を叩かれなければ、そのまま踏みつぶされて、果てていたかも知れない。まだ相手は遠いとはいえ、助かった。

「あれは何だ。 尋常な相手には思えない。 巨神よりもずっと手強そうだが、何者なんだ」

「ムスペルだ……!」

「ムスペル? 聞いたこともないぞ」

人間達は、おそらく知ることさえ無かっただろう存在だ。シグムンドが驚くのも、無理は無い。

人間達に、神々が与えた神話には、幾つも秘匿されている部分がある。ムスペルへイムについても、その一つ。

その圧倒的な存在についても、だ。

「世界の果てに住まうという、炎の巨神達だ。 その力は神々さえ凌ぐといわれている、禁忌の存在だ。 世界が終わるときに姿を見せ、何もかもを焼き尽くして廻るといわれている」

「そんな奴らが存在したのか!」

「我々の間でも、存在しているかどうかは議論の的だったのです」

フレイヤも、ムスペルに視線を釘付けにしたまま言う。

幸いにも、ここ数日の偵察の間に、魔力を随分回復しているし、武具は修復が済んでいる状態だ。

戦う事だけは、出来る。

視界に入っているムスペルは四体。だが、こんな程度の数の筈が無い。

ヴェルンドが、手をかざしながら、聞いてくる。

「あの化け物共は、どれほどいる」

「何しろ、伝承の存在です。 具体的には分かっていません。 しかし、オーディン様が運命の三女神から以前聞き出したという話があります。 数は……」

「どれほどだ……」

息を飲み込むと、フレイヤは、フレイを見た。

言って良いのか、聞いて来ているのだ。今更、隠し立てしても仕方がない事である。フレイは、緩慢に頷いた。

フレイヤはわずかに躊躇した後、周囲に立ち尽くす人間達に伝える。

「二百万から、三百万……」

「に……さん……百万!?」

「おい……神々より強いって奴らが、巨神共の三倍もいるっていうのか! ハハハ、笑えて、くるぜ」

レギンが、もはやあきれ果てたようにいう。

凶猛で、恐れる事を知らない狂戦士の手が、震えているのが分かった。

流石に、あの紅い騎士達が、三百万いるわけではないだろう。ムスペルには多くの眷属がいるという話である。

あの騎士達そのものは、そう数が多くないはずだ。

紅い騎士達が踏み通った後は、溶けて何もかもが無くなっている。それだけでは無い。感じ取れるのだ。

あれは先鋒に過ぎない。

後続のムスペル達が来た時には、本格的に世界は焼き尽くされている。その時には、おそらくは海や地面と言ったものの存在そのものが、文字通り消滅してしまっていることだろう。

文字通りの破滅だ。

「今度こそ、ミズガルドもアスガルドも終わったな。 で、どうする。 このまま、突っ立って、死ぬのを待つか」

「冗談!」

ヘルギが震えながらも、大剣を引き抜く。

レギンが両手に、大斧を持つ。合流した後、まだ予備があった神々の下級武器の一つである斧だ。二丁一対の存在で、遠距離に攻撃を届かせることが出来る。

「俺たちは戦士だ! 戦士の理屈に、相手を怖れたまま、突っ立って死ぬってものはないんだよ!」

「その通りだ。 我々調停者の一族でも、そのような理屈は聞いたことがない。 だからいつも調停には苦労したのだが」

ヴェルンドが少しおどけて言うと、周りがどっと笑った。

シグムンドが頷く。

「それでこそ、北ミズガルドの戦士だ。 フレイ、フレイヤ、どうする」

「決まっている。 滅びは既に確約されてしまったかも知れない。 だが、だというのなら、せめて戦って滅びよう!」

「おおっ!」

「私も同意です。 ただ破滅するなど、いやです」

此処にいる戦士達は、人類でも屈指の使い手ばかり。

何より偵察に来て逃げ帰るだけでは、何ら意味が無い。せめて少しでも破滅回避の可能性を上げるためにも、紅い騎士達の能力や、強さ程度は理解しておかなければ意味が無いのである。

フレイはトールの剛弓を引き絞る。

フレイヤは、氷の杖を敵に向けた。

菱形の陣形を組んで歩いて来る四体の紅い騎士。まず、狙うは先頭の一体だ。

相手も、すでに此方に気付いている。

弓を引き絞るフレイだが、気付く。そして、叫んだ。

「散開しろ!」

全員が、散る。地面に、何か青い、いや紫に近い色の魔法陣のようなものが出現する。

フレイが回避するのと、地面が爆裂するのは、殆ど同時だった。

あれほどの距離から、正確に爆破の魔術を使ってくると言うのか。アスガルドにも、これほどの魔術の使い手は、そうそういない。

更に、ムスペルが槍を天に掲げると、巨神がすっぽり入りそうな火球が出現する。

無造作にそれが放られ、地面を焼き焦がしながら迫ってくるのを見て、流石にフレイも閉口した。

弓を制圧射撃用のものに切り替え、放つ。

火球を中途で相殺。

地面を揺るがす爆発が起きた。

雑兵で、この強さか。

煙幕をものともせず、炎の騎士は突き進んでくる。フレイはそのまま、制圧射撃を開始。腕を狙い撃ち、槍ごと吹き飛ばすことに成功。だが、吹き飛んだ腕が、槍ごと瞬く間に再生していく。

再生能力も、尋常では無い。

巨神族以上だ。しかも腕が生物的に修復されていくという状態ではない。明らかに、魔力を使って再構築されている。

あの体は、巨神さえ及びもつかないほどの、高密度の魔力で構成されているのだ。

「フレイヤ!」

「はい、兄様っ!」

真横に回り込んだフレイヤが、走りながら氷の杖から魔弾を連射して浴びせかける。足下が凍り付き、炎の騎士がくぐもった声を上げながら横転した。打ち倒してみて、はじめて気付く。

口はどうやら存在するらしい。

のっぺらな表情の無い顔だが、一応意思伝達の手段は存在する、というわけか。

「ハハハハハハハハ! ハーッハッハッハハッハハハハハハハ!」

どこからか、ロキ=ユミルの声が聞こえる。

倒れた紅い騎士に斉射を浴びせ続ける。更に間近に迫ったシグムンドが、頭に剣を突き刺す。

それでも、まだもがいている紅い騎士。

手も既に再生し、立ち上がろうとしているほどだ。レギンとヘルギが息を合わせて左右に散り、足を切りつける。そしてヴェルンドが喉をかっきり、シグムンドがフレイの渾身の矢にあわせて首筋を切り上げて、やっと動きが止まった。

真っ赤な蒸気が、周囲を溶かす。

紅い騎士は死してなお、破滅をばらまいている。

「アスガルドの神々の最後は近い! ムスペルへイムの炎は、さぞや珍味であろう!」

巨大な火球が飛んでくるのを、中途で撃墜。

残り三体の紅い騎士が、攻撃を開始したのだ。矢を連射しながら、近づく。一発や二発では、細い体だというのに、埒があかない。単純な意味での耐久力でも、巨神とは比較にならない存在だ。

「一番左から集中攻撃をする! フレイヤ、私が他の二体を牽制するから、集中攻撃を浴びせて欲しい!」

「分かりました、兄様!」

「畜生、神々が怖れて秘匿する訳だぜ!」

シグムンドが走るすぐ横に、紫の魔法陣が出現し、爆破。殺戮と破壊をまき散らす。

辺りの温度は、明らかにさっきよりも遙かに高くなってきている。このままだと、戦っている内に、ミズガルドそのものが蒸し焼きになりかねない。そうなれば、アスガルドも、運命は同じだろう。

フレイヤは時々アスガルドに戦況報告を入れているようだが、パニックになったフリッグは、話を聞ける状態ではないようだ。

ようやく、フレイヤの氷の魔弾が集中し、紅い騎士の槍を叩き落とす。だが、連続して足踏みする騎士の遠隔爆破は、容赦なく襲いかかってくる。

立て続けに辺りが吹き飛ばされる中、至近に迫ったシグムンドが矢を放ち、紅い騎士の左目を撃ち抜く。

負けてはいられないと、ヴェルンドも右目を撃ち抜いていた。

鬱陶しそうに、冷静に矢を引き抜く紅い騎士。

だがその時には、顔面の至近にまで跳躍したフレイヤが、風刃の杖の発動準備を終えていた。

打ち込まれる、殺戮の風圧。

流石の紅い騎士も、これにはひとたまりも無い。

残りは、二体。

だが、敵は怖れている様子さえない。そればかりか、この有様では。それに、伝承によれば。

敵はまだまだ、彼方此方から上陸してくることだろう。流石にこの紅い騎士が三百万いる筈は無いが、それでも充分にとてつもない脅威だ。

一瞬の油断。

火球を迎撃して、中途で撃墜した直後だった。至近に、遠隔爆破の魔法陣が出現する。とっさに横っ飛びして回避に掛かるフレイだが、間に合わない。高々と、空に吹き飛ばされる。

今、遠い方の一体に、フレイヤが攻撃を集中している。支援はとてもではないが、期待出来ない。

地面に叩き付けられ、横転。

立ち上がると、なんと至近に、紅い騎士は来ていた。巨体だというのに、とんでも無く移動速度がある。少なくとも、大巨神よりは、機動力が上だと見た方が正確な判断が出来るだろう。

あらゆる意味で、最強の敵集団だ。

槍を、突き立ててくる。

飛び退きながら、剣を振るい、槍を切りつける。ぎいんと鋭い音がして、はじき返された。だが、二撃目で、敵の腕を切り割る。三撃目で、横薙ぎに足を払った。分厚い装甲と頑強な皮膚に守られた足だが、この距離で、今のフレイの腕であれば。一息に、切り裂く事も可能だ。

倒れた紅い騎士を、滅多打ちに切りつける。

防ごうと上げてきた手を、そのまま両断。血の代わりに、マグマのような紅い液体が飛び散った。

首を叩き落とすと、息が上がっていた。

フレイヤも、その時既に紅い騎士をシグムンド達と一緒に倒していたが、皆かなりの手傷を受けている。

何か、軽口を叩こうとしたヘルギが、空を指さす。

「お、おいおい……!」

見えた。

どうやら、あれが、ムスペルの軍団における雑兵であるらしい。

一見すると、それは巨神くらいの大きさの人型だった。だが全身は赤黒い装甲で覆われており、人には似て非なる存在である事が分かる。

数は、数え切れないほど。

空に無数に浮かんだそれは、此方など気にもしてないように、ただ飛行している。まずは制空権を確保することが、目的なのだろう。

戦力は、それだけではないようだ。

人型の他にもいる。たとえるならば親指の様な形状をしている輩で、人型よりももう少し低空を飛行している。

均一な高さを常に保っており、なおかつ綺麗な編隊を組んでいることから、間違いなくこれも制空権を確保することが目的の存在だろう。人型とは、おそらくは用途が違うと、フレイは見た。

「兄様、如何なさいますか」

「仕掛ける」

「おいおい、本当かよ……」

ヘルギが、顔をくしゃくしゃにした。

気持ちは、フレイも分かる。いまの紅い騎士の戦闘力は、嫌になるほどだった。大巨神でいうと、数体分どころか、十体分以上に相当しただろう。

だが、此処で敵の特性を見極めておけば、本格的な衝突になった場合、必ず役に立つ。そのために、突出して偵察をしにきたのだ。

フレイヤが弓を構える。

精霊の弓だ。爆発で、どれくらいを撃墜できるかを、まず確認する。空に浮いている敵は、どう見ても数万はいる。

打ち込まれる、精霊の魔弾。

敵は回避する気も無いようで、真っ正面から魔弾に突っ込んできた。

耳を反射的に塞ぐシグムンド達を見ながら、フレイも状況を観察。人型に着弾した魔弾は、数十の敵を撃墜に成功。

木っ端みじんに砕けた敵が、落ちて来る。

「結構、落ちたな」

どうやら、耐久力は、リンドブルムに比べて、優れているという事も無いらしい。更に二射。今度は親指状の奴に着弾。同じ程度の数を撃墜することに成功した。

既に敵は、此方に気付いている。

しかも、動きが変則的だ。

元々どうやって浮いているのか皆目見当がつかなかった相手だが、翼がある存在よりも柔軟に空を舞い、右左と変態的な機動を見せている。

それだけではない。

いきなり、人型の腕が伸び、とんでも無い距離から此方にめがけて襲いかかってきたのである。

「お、おい、巫山戯るなっ!」

レギンが吼えた。

気持ちは分からないでもない。だが、現実として、捉えなければならないだろう。

親指型の奴は、更に低空に移行すると、光を放ってくる。親指でたとえると指の腹がある辺りに、眼球状の構造があり、其処から光を撃つことが出来るようだ。

乱射してくる上に、強い魔力を備えた光だ。リンドブルムが放つ火球よりも遙かに威力があり、当たった地点を爆破してくる。一種の魔術だろう。本来なら詠唱が必要なはずだが、それさえしていない事を考えると、よほどの力を持っているという事だ。

瞬く間に、周囲は地獄絵図となった。

フレイヤが、新しい弓を引き絞る。少し前に聞いたが、イズンから形見として受け取ったものだという。

一度に九本の、追尾する高威力の矢を放つことができる、強力なものだ。しかも一度の魔力の消耗が、極端に小さい。

フレイも、そのまま制圧射撃に入る。

ただし、後退しながらだ。

人型が打ち込んでくる伸びる腕と、爆破の光。

人間達も抵抗しているが、とてもではないが、この数の暴力と、真正面からやり合うことは出来ない。

突出してきた相手を撃ち落としながら、下がる。

流石に紅い騎士に比べると柔らかいが、その攻撃精度、とてもではないがリンドブルムの非では無い。

戦っていて、分かってくる。

人型は一度戦いが始まると、上空への移動と、地上への効果を繰り返しながら、腕を伸ばして攻撃してくる。

これに対し親指型は、一定の高度を保ちながら、光を打ち込み続ける。

これに紅い騎士の戦闘力が加わると、恐ろしい事になる。上空、地上からの反復攻撃をしてくる人型は攪乱を担当。親指型は、敵の制圧を担当。後は、悠々と紅い騎士が、凄まじい強さを見せつけながら、進撃をして行けば良い。

ひたすらに追いすがってくる敵を撃ち落としながら、下がる。

人型は動きが速く、少数が前に回り込んでくる。ヘルギが飛びかかって、鎧に大剣を叩き付けた。傷口を、レギンが更に広げて、打ち倒す。

シグムンドも立て続けに矢を放っているが、何しろ相手が大きすぎる。

「動きは読めてきた。 だが、それでも簡単に戦える相手ではないな」

「見ろ、倒すと瞬時に溶けやがる」

レギンが、衝撃波を放つことができる斧を振るって、近づいてきた人型を一刀に切り伏せると、確かに血も噴かず、周囲を溶かしながら消えていく。親指型も、それは同じの様子だ。

こっちだ。シグムンドが叫び、皆を手招きする。

最後尾に立ったフレイは、制圧射撃を敵の群れに続けながら、ゆっくり下がる。気付くと、アウズンブラとはじめて交戦した、峡谷の砦に来ていた。

敵のかなりの数は撃退したが、しかし。

また紅い騎士が、姿を見せている。しかも八体。まともに戦っていては、とても生き残ることは出来そうにない。

だが、幸いに、此処は狭い地形だ。

「フレイヤ、私が敵を引きつける。 先頭の者から、一体ずつ撃破して欲しい」

「分かりました。 兄様、気をつけて」

「無茶だ、やりあう気か!」

「この数なら、どうにか出来る」

ヴェルンドは、それを聞くと、頭を振って、何処かへ走り去った。

まさか、逃げるはずは無い。谷間に、敵が入ってきた。拡散型の矢を連射して、前方に集中した敵を、まとめて射すくめる。まだ紅い騎士が遠い内に、可能な限り仕留めておかなければならない。

フレイヤが放った精霊の魔弾が、上空に集まりつつあった敵の群れを直撃。

相当数を一気に撃墜した。

そうすると、敵は不意に散る。

リンドブルムやスヴァルトヘイムの魔物と違い、ある程度の知性を持っているという事なのか。

ヴェルンドが来る。

朽ちかけた、ヴェルンドの戦塔だ。ヘルギに押させている。

「俺も囮になる!」

「無茶はするなよ、ヴェルンド!」

「分かっている! 死ぬ場所は、いずれにしても此処では無いさ!」

紅い騎士が、迫ってくる。無数のその眷属も、谷間の前後に降り立っては、光を放ち、腕を伸ばして襲ってくる。

必死にそれを撃退しながら、フレイはL字路まで下がるように、皆を指示。

ヴェルンドと一緒に残り、紅い騎士が迫るのを待つ。

どうやら紅い騎士は、四体一組で行動するものらしい。やはり以前と同じく、菱形の陣形を組んで、ゆうゆうと迫ってくる。

その余裕が、命取りだ。

谷間に入ってきた先頭の一体。引き絞っておいたトールの剛弓から、矢を叩き込む。流石の紅い騎士も、腕を丸ごと消し飛ばされては、再生に時間が掛かるようだ。突撃し、もがくところを、足を切り払う。そして、滅多打ちに斬り伏せた。

だが、魔法陣が、周囲に無数に出現する。

遠隔爆破。即座に飛び離れ、もう一度トールの剛弓を引き絞る。腕が、足が、再生していく中、フレイは集中して、弓を引く。充分。判断した時点で、矢から指を離す。

頭を失っては、紅い騎士もひとたまりも無い。

だが、残り七体が、仲間を殺したフレイに怒りを向け、遠隔爆破の術式と、巨大火球を、次々に投擲してきていた。迎撃するだけで精一杯だ。

既にヴェルンドの戦塔は、獰猛な攻撃に晒されて破壊されていた。ヴェルンドは瓦礫の中から這い出すと、至近距離にまで来ていた親指型に剣を突き立て、倒した後は脇目もふらずに、急いで走り出す。充分に、敵は引きつけた。

L字路の向こうに先回りしている敵は、フレイヤがシグムンド達と片付けてくれている筈だ。

だが、それも時間が掛かれば、どんどん不利になる。基本は撤退しながらの敵を漸減させていくやり方を取るしか無い。何しろ相手の数が多すぎる。その上紅い騎士に至っては、一体で大巨神十体分にも迫る力の持ち主だ。

L字路に引きずり込む前に、もう一体は潰しておきたい。

此処で可能な限り敵を倒しておけば、後がぐっと楽になるのだ。だが、敵は既にフレイに狙いを定めてきている。次々飛来する巨大火球と、連続して出現する爆破の魔法陣が、攻勢に出る暇を与えてくれない。

もう一体が、谷間に入ってくる。

残りの視界が遮られるが、その代わり考えていて、先頭の一体の前に、魔法陣を連続して出現させ、爆破してくる。近づくなら、無差別に吹き飛ばす、という事か。

敵の人型や親指型はかなり数が減ってきているが、それは紅い騎士が狭い場所で戦闘を開始したから、だろう。

「兄様!」

フレイヤの声に、横っ飛びに飛び退く。

飛び出してきたフレイヤが、風刃の杖を撃ち放った。先頭の紅い騎士に直撃。その巨体が、浮き上がるほどの衝撃波が、敵を襲う。

揺らいだところに、狙い澄ましたシグムンドの矢。紅い騎士の右目に突き刺さる。

フレイは跳躍すると、敵の右側の死角に入り込み、大上段から渾身の一撃を叩き込む。袈裟に入った。うめき声を上げる紅い騎士が、膝をつく。横薙ぎに、首をかっ斬る。角の生えた首が飛び、紅い騎士が消えていく。

やった。

喜ぶが、しかし。

すぐ後ろに、次が迫っていた。

「きりが無いな……」

「紅い騎士は四体で一部隊を形成するようだ。 この谷間で、二部隊を葬っておく。 それだけで、随分味方は楽になるはずだ」

「後六体か。 気は重いが、お前達が一緒にいるなら、どうにか出来そうだ」

シグムンドが、新しい矢をつがえる。

いずれにしても、此処での迎撃は、限界だ。L字路の向こうに敵を引っ張り込んで、そこで各個撃破する他ない。

フレイヤは、まだ稼働している人型や親指型に剣を突き立てて、魔力を補給しているようだ。それほど時間は経っていないが、激しい戦いである。フレイヤの魔力も回復はしていたが、それでも補給しないと、先が危ない。

紅い騎士の三体目が、谷間からぬっと顔を出す。

だが、その顔に、フレイがトールの剛弓から、矢を叩き込んだ。完璧なタイミングである。顔が消し飛べば、紅い騎士もひとたまりも無い。これで、三体目。だが、そこまでだった。

周囲をびっしりと覆い尽くすほど、魔法陣が出現する。

残り五体が、本気になったという事だろう。

敵も馬鹿では無い。L字路の先で待ち伏せるというなら、その先を全て破壊し尽くせば良い。

必死に下がり、距離を取る。

爆破。崖が崩れるほどの、凄まじい熱風が吹き荒れる。フレイヤを庇ったのは、シグムンドだった。

やはり、簡単にはいかない相手だ。

そして、爆炎の中から、どうだざまをみろと言わんばかりに、紅い騎士が、姿を見せたのだった。

下がるしか無い。

だが、それでも、諦めるつもりは無い。

 

1、ムスペル襲来

 

ムスペル来る。

どうにか死者の攻撃を耐え抜いたアスガルドは、その情報を得て、大混乱に陥っていた。当然の話である。ムスペルヘイムは今まで謎の土地として知られ、殆どの神々はその存在を伝説だとさえ考えていた。

あまりにも非常識な戦力から、そうして恐怖心を抑えるしか無かったのである。

だが、テュールは知っている。

それは、噂でも何でもないという事を。

世界の真実を見てしまったときに、それも知ったのだ。トールも、状況は同じである。

ただでさえ、死者の襲撃で、アスガルドの戦力は半減している。エインヘリアルの半数を失い、重鎮であったイズン他、多くの神々が戦死した。ヘルの恐怖は去ったとは言え、ムスペルの恐怖は、間違いなくそれ以上だ。

そして、殆ど無傷の巨神の軍勢と、大地を覆い尽くすほどのスヴァルトヘイムの魔物共はいまだ健在。

何より、三悪魔の最後の一つである、ヨムルンガルドの動向は未だに分からない状況なのである。

オーディンの宮殿で、御前会議が行われる。

空席が目立つ。アスガルドの重鎮は多くがまだ生きているが、中堅、下級の神々は、死者達との戦いで多くが命を失った。

特に、イズンの死が痛い。彼女がオーディンと並ぶ古株である事は、誰もが知っている。それほどの重要な存在が、命を落としたのだ。

「まずは、防衛のための結界を」

「死者の群れにも耐えられなかったのだ。 今はいっそのこと、アスガルドを放棄して逃げるべきでは無いのか」

「貴様、アスガルドの神としての誇りはどこにやった!」

「生きてこそだ! このような場所では、もはや守りきれぬ! 仮に防御用の結界を張ったとして、時間稼ぎにしかならぬ! ムスペルが死者よりも弱いと、お前は本気で思っているのか!」

オーディンが黙っていることもあって、文字通り議論は喧々である。トールは腕組みしたままむっつりとしているし、テュールもこの状況、何かを語ろうとは思わない。エインヘリアルの再編成は進めているし、結界の修復も続けてはいるが、次の攻撃が来たら、耐えきるのは難しいことくらいわかりきっている。

ムスペルが来るのが早いか、巨神か、それともヨムルンガルドか。

いずれにしても、アスガルドはこのままでは、長くは保たないだろう。

真っ青になっているのは、フリッグだ。彼女は元々さほど心が強くない。今も、叫び出しそうになるのを、こらえるので精一杯だろう。

オーディンがようやく咳払いした。

神々が、それでやっと静かになる。

「まずは、防御用の結界を修復。 エインヘリアルの再編成を進めよ。 怪我をした神々を治療し、次の戦いに備える」

「分かりました……」

そうするほかには手が無い。

誰もが分かっている事だ。中には、強くて力のある神だけがアスガルドの地下にでも逃れ、そこで静かに嵐が過ぎるのを待つ、などという事をほざく者までいた。だが、トールが一睨みして、黙らせる。

ヘルの脅威から、アスガルドを守ったのはフレイヤだ。

アスガルドの神々は、フレイヤにヘルとの戦いという大きな仕事を、結果として押しつけてしまった。

それだというのに、未だに生き残ることばかり考えて、見苦しく逃げる事ばかり。これでは、命を賭けて戦ったフレイヤに申し訳が立たない。

しかもフレイヤは、フレイと合流して、今ムスペルと交戦しているというでは無いか。世界の支配者を気取るアース神族のていたらくに、テュールはため息がこぼれるのを止められなかった。

むなしい会議が終わり、一度屋敷に戻る。

回復の術を持つ神々は少なくない。だが、もはや怪我をした者が多すぎて、対処不能な状況だ。

かろうじて残ったテュールの屋敷も、殆ど病院と同じ状況である。

中では回復術を使える神が忙しく走り回っていて、テュールは居場所が無かった。酒どころでは無い事は分かっている。だが、これでは、心を休めることも出来そうにない。

困り果てて、テュールは屋敷の庭に出て、座る。

空には星が瞬いている。ヘルの魔力が全てを覆っていたときとは違い、きちんと濃紺の星空だ。

酒でも持ちだしてくれば良かったと想いながら、剣を抜いて、膝の上に載せる。

集中するには、こうするのが一番だ。

しばらく目を閉じて、意識を集中し、先ほどの醜くどうしようも無かった会議のことは忘れてしまう。

これから雄敵と覇を競うのだと思って、心を高ぶらせ、それで心のしこりを取ってしまうことにする。

このままでは、敵が来る前に、アスガルドが自壊してしまうかも知れない。そんな考えでは、テュールまで腰が砕けてしまう。

立ち上がると、素振りをする。

戦うための動作を凝縮したものが、型だ。これを極めていけば、状況における戦い方が、自然に体に馴染んでくる。

勿論実戦に勝る訓練は無い。

だが、型を疎かにするのもまた、愚かな事なのだ。

多くの神々に教えてきたテュールだが、それは自身をも戒めるものである。

やはり、剣を振るっていると落ち着く。雑念も払うことが出来る。前の戦いでは、多くの部下や、友を失った。

だが、生きている者達もいる。

次の戦いは、勝たなければならない。たとえどれほどに敵が強大であっても、だ。

「テュール様」

「ブリュンヒルデか」

振り返らず、応える。少し前から、近づいてきていることは、分かっていたのだ。

ブリュンヒルデは激戦を生き残り、正式にワルキューレ隊の長となった。といっても、既にワルキューレ隊は激戦の中で四半減しており、その数はもはや制空権を握れるほどには存在していない。

アスガルドから、若い神々を避難させようという計画は、未だに続いている。

ブリュンヒルデは丁度昨日、また一柱の若い神を、ミズガルドのブルグント王都に送り届けてきた所だ。

しかし、ムスペルが本格的に動き出した今。世界に安全な場所など、存在していない。状況次第では、人間達と合流する必要もあるだろう。そう、テュールは考えていた。

「どうした、何か問題か」

「偵察から戻りました。 その結果、あまり良くない事が二つ分かりました」

二つもか。

だが、聞かざるを得ない。剣を一度鞘に収め、そのまま聞く。

「まずムスペルですが、ミズガルドだけでは無く、スヴァルトヘイムやヨトゥンヘイムにまで出現した様子です」

「何……!」

「スヴァルトヘイムに関しては、冥界の状況を確認しに行ったワルキューレからの通信で分かりました。 ヨトゥンヘイムについては、悲鳴混じりの通信を、偶然に傍受しました」

どちらも全滅のようです。ブリュンヒルデは、いつものように、感情の交じらぬ声でそう言い終えた。

どうしようも無い現実を聞かされると、テュールも流石に剣を取り落としそうになる。

ほとんど空になっていただろうスヴァルトヘイムは分かる。王であるニーズヘッグまでが、ミズガルドに出てきているらしいというのは、テュールも知っている。

だが、ヨトゥンヘイムには、巨神族の留守居部隊もいたはずだ。それでもなすすべが無かったというのか。

「ムスペルは確認されたとおり、眷属も含めておよそ百万が、既にミズガルドに上陸しています。 スヴァルトヘイムやヨトゥンヘイムを滅ぼした戦力も、間もなく敵に合流することでしょう。 最終的な戦力は、伝承通り三百万には達するかと。 ただし、神々以上の力を誇ると言われる紅い騎士達の数は、そう多くないようです。 多くても、数百程度かと」

「うむ……」

フレイ達による戦闘の映像は、既に届いている。

確かにまとめて懸かられると危険だが、あの強さなら、トールとテュールであれば、各個撃破にさえ持ち込めればどうにか出来る。

事実、フレイとフレイヤは、既に十体の紅い騎士を撃破したようだ。

ただし、眷属もかなり手強い上に、数が多い。

「ざっと確認したところ、おそらく四体の騎士が一部隊を編制し、その一部隊辺りに、四万の眷属が護衛を行う様子です」

「なるほど、強力な紅い騎士一体に対して、護衛が一万というわけか」

「おそらくは。 フレイ様とフレイヤ様は無事ですか」

「今の時点では。 ライン川の近くにまで、どうにか逃げ込んだらしいが、其処からどうするか、だな」

もう一つの報告について聞きたいというと、ブリュンヒルデは頷いた。

考えて見れば、ヘルの軍勢との戦いが終わってから、殆ど時間も経っていない。彼女は不眠不休で飛び回っているはずで、疲労はピークに来ているだろう。出来れば早めに休ませてやりたい。

「ヨムルンガルドが、どうやら動き始めた様子です」

「何……」

「海底に異変が少し前から起きていたようなのですが、それが本格化し、アスガルドの北西方向で大規模な隆起と、尋常では無い魔力の噴出を検知しました。 十中八九、ヨムルンガルドに間違いないかと思われます」

「そうか、分かった」

場所も示されるが、かなり近い。

アスガルドとの間に巨神族がいるが、はてさて、どうなるか。ヘルの軍勢のように無差別であったのなら、少しは巨神との戦いにおける消耗が期待出来る。だが、其処まで都合良くは行かないだろう。位置から考えて、ムスペルよりヨムルンガルドの方が、早くアスガルドに到着する可能性が高そうだ。

最初テュールは、兵力を分散させての迎撃策を考えていたのだ。

全方位からの無差別攻撃を仕掛けてきているムスペルは、おそらく最初から総攻撃の態勢である。

逆に言うと、部隊同士が連携する前に各個撃破してしまえば、勝機は見えてくる。実際フレイとフレイヤは、そうやって大きな戦果を上げたのだ。

しかし、ヨムルンガルドが来ると分かってしまった今、その策は幻と消えた。仮に敵の総兵力が三百万だとして、神々よりも強いと目される紅い騎士は三百体。そのうち十体は既にフレイとフレイヤが打ち倒したが、残りは二百九十体。

戦況は、著しく悪い。

「オーディン様には知らせたか」

「既に」

「そうか、ならば一度休め。 休憩後、私の所に来るように」

一礼すると、夜闇にブリュンヒルデは消えた。

結局、また悩みが増えてしまった。

オーディンの所に出向く。既に話が行っていたからか、宮殿も再度の混乱に見回れていた。

テュールの顔を見ると、既に来ていたトールとオーディンは、ため息を隠さなかった。

「大敵と戦うのは武神の誉れって言うがなあ。 流石にこの状況は、俺でもどうしようもねえ」

トールが珍しくぼやく。

テュールもそれに関しては同意見だ。個人での戦いであるならば、大敵との戦いはむしろ心が躍る。

だが部下達や、同僚達の命も懸かっている状況では、そのようなことは言っていられない。

「冥界ニブルヘイムには、ムスペルは出現していないのでしょうか」

「それはなかろう。 あの地は、そもそもこの世界の外側だ」

しかも、ヘルが倒されたと言っても、生者にとって安住の地ではない事は共通している。避難場所としては、適切では無い。

それにしても、ムスペルとは。

この場にいる三名は、ムスペルの正体を知っている。

そもそも、この世界はユミルが構成した時点で、極めて未完成な代物だった。それが故に、常に自壊の危険を伴っていた。

そのため、いざというときには、破壊による被害を最小限にとどめるために、造り出された装置があったのだ。

生物の体内には、自分を殺す機構が備わっている。

それと同じ原理で造り出された存在。

世界にとっての、自喰機構。

それが、ムスペルだ。

圧倒的な力を持っているのは、当然のことだ。何しろ、文字通り世界を終わらせるための存在なのだから。

実際には、彼らは熱を纏っているのでは無い。

世界そのものを、溶かしながら進んできているのである。彼らが領地にした土地は、文字通り根本から消滅していくのだ。

やがて、全てがムスペルに消し去られる。

「何か、ムスペルを退ける方法に、心当たりはありませぬか」

「戦って倒していくほか無い」

「やはりそうか……」

神々よりも強い相手を、三百。その眷属を加えると、三百万。

各個撃破が出来る状態であれば、まだ望みはあった。だが、今、ヨムルンガルドが動き出してしまった。

報告によると、ヨムルンガルドは老いを司るというでは無いか。アスガルドの神々を、見逃すはずが無い。

「そうなると、やる事は一つだな」

「トール殿?」

「ヨムルンガルドだかって奴を、どうにかして速攻で仕留める。 その後、ムスペル共が集まる前に、どうにかして各個撃破する」

「軍勢を揃えよ」

オーディンが、玉座から立ち上がった。

遠征をするという。

ヨムルンガルドと、戦うほか無い。勝ち目があるかは分からない。だが、ヨムルンガルドと決戦を行い、可能な限り短時間で勝負を付ける。

それから、炎の軍団ムスペルを、順番に撃破していく。

幸いなのは、現時点で、敵の底が見えているという事だ。ようやくというべきか。世界を終わらせる存在が出張ってきた今、これ以上の敵が現れる事は、もはや無いだろう。今まで必死に温存してきた戦力を、ようやく全て投入することが可能となる。

「先陣はトール、お前に任せる。 中軍は余が、後衛はテュール、そなたに任せる。 フリッグにも、準備をするように伝えよ」

「分かりました。 直ちに」

フリッグは戦闘向きでは無いが、それなりの魔力は有しており、補給や回復については任せても良いだろう。

どのみちアスガルドの防衛設備は疲弊しきっていて、とてもではないが守りが有利だとは言いがたい状況である。

それならば、攻めて活路を見いだすしか無い。

此処で負ければ、後が無い。

文字通り、世界が消滅するかの瀬戸際なのである。

意気は上がらない。守るべきはずのアース神族のていたらくや、壊滅寸前の味方を思うと、なおさらだ。

だが、それでも戦う。

勇んで出て行くトールが羨ましい。戦いになって、ようやくトールは生き生きと動き回ることが出来る。

テュールは、悩みに支配されてしまった。

今更、悩み無く戦うなどと言うことは不可能だ。

屋敷に戻ると、控えていたエインヘリアルに遠征を告げる。神々が作った、死ぬまで戦う生き人形達は、出撃を拒まなかった。

しかし、中堅、下級の神々は、露骨に顔に恐怖を湛えた。

敵前逃亡が出るかも知れない。

だが、それを止める事が出来ようか。テュールだって、もう何もかもを、放り出して逃げてしまいたいほどなのだ。

フリッグが来る。形相からして、吉報とは思えない。

「テュール殿っ!」

「如何為された、宰相殿」

「またフレイヤから連絡じゃ。 追撃してくるムスペルどもと交戦し、紅い騎士二体を追加で撃破したとか」

「吉報ではありませんか」

そう聞いたのはわざとだ。

案の定、フリッグは青ざめて、顔を何度も振った。

「こ、この状況で、ムスペルを刺激するなど、おろか極まる。 どうにかして、和睦を結べぬものか」

「和睦ですと」

「そ、そうじゃ。 何なら降伏でも構わぬ。 この状況で、遠征するなど、オーディン様はどうかしてしまったのじゃ。 此処はアスガルドを奴らに差し出してでも、生き残る路を見いだせぬものか」

さも名案を思いついたかのように、フリッグが目を輝かせる。

愚かしい。

あのユミルの手で、ムスペルが動き出したのは自明の理。勿論、ヨムルンガルドも、それは同じ事だろう。

ならば彼らが、アース神族を許すわけが無い。

無条件降伏でさえ、受け入れることは無いだろう。彼らが求めるのは、アース神族の破滅。それだけだ。

フリッグを、下級の女神達が連れて行く。

どうやらオーディンが手配したらしい。彼女らは完全に精神の平衡を失っているフリッグを、なだめたり諭したりしながら、肩を優しく抱いて、宮殿へ送っていった。フリッグの宮殿は完全に破壊されてしまったから、オーディンの所に、である。

あれでも、フリッグは魔術についてはかなり高い次元にいる。イズンほどの信頼性は無いが、戦場で回復が出来る者がいるといないでは、まったく状況が違うのだ。狂気を発してしまっていても、連れて行くほか無いだろう。

翌日、出撃が開始される。

ヨムルンガルドが現れるのは、魔力の放出状況から考えて、二日後から三日後と推察されていた。

会戦は、アスガルドの北。高原を抜けた先の、海岸地帯で行う。

まだムスペルが出現していない場所で、しかも地形的な隔絶があるため、巨神族も干渉できない。つまり此処であれば、何にしろ敵の横やりが入らない。総力を結集しての戦闘になる。

此処で敗れれば、全てが終わりだ。

第一陣五万を率いたトールが先に出陣し、中軍十万をオーディンが率いる。中軍にはフリッグとワルキューレ隊、ヘイムダルも同行する。

後陣にはテュールが配置されている。率いる兵は九万。一万はアスガルドに残し、最後の時のために、戦いに出向けない神々の護衛とする。残った者達は防御結界の強化と増設に、全力を注ぐ。

もしも、ヨムルンガルドを早期に撃破する事が出来れば。

この遠征軍を使って、ムスペルを各個に撃破して廻る。巨神の軍勢については、どうするか後で考える他ない。

いずれにしても、決死の出撃だ。

テュールは、もう戻る気は無い。

光り輝く神々の軍勢が、アスガルドを出立する最後尾で、テュールは覚悟を決めていた。

一度だけ、振り返る。

暁の下、アスガルドは既に、光を失ったかのように思えた。

 

2、迫る消滅の炎

 

丸一日走り続けて、ようやく休憩を取ることが出来た。

シグムンドはヘルギを先に休ませると、鎧の修復に懸かっているフレイの所に行く。胡座を掻いてフレイは目を閉じ、集中して回復を続けている様子だった。

「大丈夫か、フレイ」

「ああ。 お前こそ、早く休め」

フレイの隣に腰を下ろす。

既に、夕暮れを過ぎて、夜になっている。ムスペルは巨神と違って、夜も平然と行軍してくるから、追いつかれる度に撃退しなければならず、殆ど寝る暇も無かった。

谷間を抜けるまでに、合計十体。

更にその後も、二体を葬った。ヴェルンドには先に行ってもらっている。アルヴィルダに状況を伝えるためだ。可能な限り敵の数を削り取りながら、ブルグント王都まで後退する。

現状では、それ以外に、打つ手が無い。

気がつくと、横になったまま、眠ってしまっていた。

フレイヤが回復の術を掛けてくれたからか、随分からだが軽い。フレイはと言うと、座ったまま武具の手入れを続けているようだ。

あの、紅い騎士。

フレイの剣を散々浴びても、けろっとしていた。

不死身では無い。

確かにこれまでに、十二体を倒している。矢も刺さるし、切る事だって出来ることはよく分かった。

しかし、あらゆる次元で高くまとまっている、今までとは桁違いの相手だ。

その上、敵の雑兵も、今までに無いほどに強い。たとえるなら、自由自在に空を飛び、遠距離から攻撃が可能な巨神とでもいうべきか。

シグムンドも、矢筒を確認して、補充をしておく。

アルヴィルダと合流すれば、矢は補給できるが、もう残りの矢は殆ど無い。使い切ったら、終わりだ。

「なあ、フレイ」

「どうした、シグムンド」

「あの紅い奴ら、一体何が目的なんだ。 巨神は何となく目的が分かったし、会話も通じる事は知ってる。 もはや滅ぼす以外に路は無いが、それでも存在は理解できる。 だが、、彼奴らは。 あのムスペルって奴らは、一体何がしたいんだ」

「分からないが、我々のことは、機械的に排除しているような印象を受けた。 追撃の際もさほど熱心では無く、邪魔だから消している。 そのように見受けられたな」

確かに、空を覆う敵が本気で此方を消すつもりだったら、もっと苛烈な攻撃になっていたはずだ。

邪魔だから、取り除いた。そんな風情だった。

ならば、奴らの目的は何だ。世界を消すことだけが、本当に目的だというのか。何のために、そんな存在がいる。

確かに、年老いた動物などは、自らが死に場所に出向くというようなことがある。シグムンドも、そう言う光景を、何度か目にしたことがある。

「仮説しか立てられないが、或いは世界にとっての自死機能のようなものかもしれない」

「自死機構? どういうものだ、それは」

「簡単に説明すると、生物の中には、駄目になった部分を自分で排除する機能が備わっているのだ」

人間にはまだ無い知識だがとフレイは断った上で、教えてくれる。

フレイが言うには、この未完成な世界をユミルが作ったとき、崩壊のことを考慮していたのかも知れないそうだ。

世界の崩壊は、他の世界にも多大な迷惑を掛けることとなる。

そのため、被害を最小限にとどめるための工夫が必要になってくる。それが、いざというときに、世界そのものを自壊させる装置。

「まいったな、文字通りのからくりか」

「そうなる。 ただし、始祖ユミルが作り上げたからくりだ。 尋常な力の持ち主では無いぞ」

そうなると、スルトとやらは、その装置の元締めというわけだ。

一度フレイの側を離れ、側の木に登る。

かなり遠くの木々が燃えている。目をこらしていると、それ以上先にある木は、地面ごと溶けてなくなってしまっているようだった。

それだけではない。

空を飛んでいた奴らが見えない。見ると、地面の辺りで、溶けているではないか。そして、一体が溶けるごとに、周囲が陥没するようにして、大きく消えていくのである。

「何だあれは。 何をしている……」

うめき声が漏れる。

故郷が、文字通り喰われていっているのだ。あれが、世界の自壊作用というのか。これでは、たとえ勝っても、帰る場所などなくなってしまう。

だが、一つ、希望も閃いた。

フレイの所に戻り、聞いてみる。

フレイはシグムンドの考えを聞くと、目を見張ったが。真面目に応えてくれた。

「確かに、あり得ることだ。 自死機構と行っても、からくりである事に変わりは無いだろう」

「勿論、単純な話じゃない事は分かっているつもりだ」

敵にも増殖する能力があるだろうし、何より制御系が生きていれば、非常に危険な事態が来る可能性も高い。

だが。

あのように、世界を自らが溶けることで一緒に消しているのだとすれば。

ムスペルどもを倒していけば、いずれ世界を滅ぼす力にも限界が来る。更に言えば、ムスペルの元締めを倒せば、全てを止める事が出来る。

いずれもが、かも知れないの域を超えない推理だが。賭けてみる可能性は、あるだろう。

「可能な限り、敵を葬りながら後退しよう。 今回はそれに大きな意味が生じてくる可能性が高い」

「だが、大丈夫か」

「トールの剛弓の矢は、充分な数を確保している。 ムスペルが世界を焼き尽くすよりも、矢が尽き果てる方が、おそらくは遅いはずだ」

「頼もしいな」

ヘルギとレギンを起こす。

フレイヤは既に起きていて、敵の様子を丁寧に探ってくれていた。

ヴェルンドも、そろそろアルヴィルダと合流している頃だろう。合流するまでに、紅い騎士をもう少し撃退しておきたいところだ。

勿論、敵には高い判断能力と、組織的な行動力が備わっていることは、きちんと理解している。

簡単にはいかない。

だが、やらなければならないのだ。

起き出してきたヘルギとレギンに、状態を説明。レギンは最初から大乗気だった。

「俺の村を溶かしやがった奴らだ。 許すわけがねえ。 目についた奴から、ぶった切ってやるぜ」

「俺は……」

ヘルギは、逆に気弱だ。

奴らが地面を溶かすのを見ていて、怖くなったのだという。だが、レギンは何も言わない。ヘルギが、そういう役回りを買って出ているのだと、何となく理解できたのか。或いは、絶望的状況の北ミズガルドで転戦を続けて、守るべき弱い者だけではなく、弱音を吐ける存在がどういう意味を持つのか、分かってきたのだろうか。

ヘルギは弱音はこぼすが、しかし戦いの決意は捨てていない。それで良いと、シグムンドは思う。

「俺はやっぱり怖えよ。 でも、やるしかねえんだよな」

「決まりだな」

「分かってる。 慎重にやんよ」

レギンも、そう言ってくれる。ヘルギはずっと沈鬱な顔をしていたが、仕掛けるときには、気持ちの整理を付けてくれていた。

フレイが、トールの剛弓を引き絞る。

今の時点で、紅い騎士の姿は見えない。その隙に、空を飛ぶ者達を、多少なりと削っておかなければ。

フレイが、矢から指を離した。

敵の一部隊が、まとめて消し飛ぶ。

来るぞ。

言うまでも無く、敵が一斉に此方に気付き、飛翔しはじめる。

引きつけてから、フレイが制圧射撃を開始。フレイヤも、兄の側で、その補助をはじめた。

人型は高空と低空の移動を繰り返しながら、腕を伸ばして攻撃してくる。

腕の速度は相当に速く、油断しているとまともに喰らいかねない。地面を砕いている様子からしても、巨神の棍棒と、破壊力もさほど変わらない。

しかも知恵があり、フレイとフレイヤの背後に回ろうとしてくる。

低空を飛び回りながら、光を浴びせてくる親指型よりも、むしろ厄介かも知れない。

つまりシグムンド達の仕事は、フレイとフレイヤが取りこぼした奴の排除だ。

流石のフレイも、至近距離からあの腕を喰らえば、ただではすまない。それはシグムンド達も同じなのだが、彼奴らは此方のことなど、眼中に無い。其処を利用する。

弾幕をかいくぐった人型が一機、降りてくる。

シグムンドは飛び出すと、剣を鎧の隙間に突き刺した。昨日だけで、二十以上は殺った相手だ。どこに剣が通りやすいかは、よく分かっている。

以前フレイからもらった神々の武具の効果は絶大。シグムンドの剣は、斬った相手を燃やす。ムスペル麾下の人型でもそれは同じ。軋んだ悲鳴を上げながら、人型は燃え、溶けて落ちていく。

となりでは、ヘルギが力に物を言わせ、親指型を一刀両断に。レギンが跳躍すると、フレイヤの真上に廻ろうとした一機を叩き落としていた。

下がりながら、フレイヤが斉射を続ける。

フレイもそれを見ると、息を合わせて下がり続けた。

二刻ほどの戦いで、敵数百機を撃墜。敵の排除に成功。だが、新しい敵が、既に姿を見せている。紅い騎士はいないが、今度の数は千数百を超えている。昨日振り切った数万の敵の一部だろう。

「どうする、片付けるか」

「そうだな。 ただし、下がって敵を引きつけながら、だ」

あまり此処で戦い続けると、包囲される危険がある。

紅い騎士の戦闘力を考えると、包囲されるのは致命的だ。だが、勿論姿を見せた敵を、そのまま返す事もまずい。連中を放置していくと、文字通り世界を溶かしていくのは、見て確認している。

もう少し行くと、ライン川に出る。

ライン川は、敵を食い止めてくれるだろうか。アルヴィルダは兵をまとめてくれているはずだが、どこまで抗戦できるか。

フレイがトールの剛弓をぶっ放し、敵陣の先頭部隊を消し去る。

猛然と攻勢に移った敵を、逃げるように下がりながら、順番に叩く。こうやって引きつけながら矢を叩き込むと、敵は必然的に射線上にあつまり、効率よく排除することが、普通は出来る。

だが。

敵は二手に分かれると、射撃を無視して、最大速度で進み始めたのである。

やはり此方のやり口を学習しているとみて良い。

勿論、空を飛ぶ相手だ。

此方が下がるよりも、ずっと動きが速い。

フレイとフレイヤも、それをみて即座に動きを切り替えた。左側の敵に攻撃を集中し、撃墜しながら下がる。右は先に行かせてしまう。

平原に出てしまうと、かなり戦闘は困難になる。敵にとっては包囲が容易な上に逆に此方は逃げ場が亡くなるからだ。

猛射の末、左側の半数は撃墜。

だが、右側と合流した上で、敵は一体となって、猛然と中空からの攻撃を仕掛けてきた。

「こっちだ!」

吹雪にやられて、立ち枯れている森だが、其処に逃げ込んだ方が良い。

頭を抱えたヘルギを、急いでそちらに逃げ込ませる。

フレイが最後尾に立つと、剣に切り替え、敵を斬り伏せながら、急ぐように促してきた。

フレイの剣技は以前から凄まじかった。だが、今の剣を見ていると、以前よりも更にすごみが増している様に見える。

神も成長している、という事か。

やはり敵は障害物に阻まれ、動きづらくなっている。フレイヤがディースの弓という新しい武具を引き絞り、敵を自動追尾する矢を放って、片端から叩き落としに懸かった。一撃で九体の敵を同時に貫く恐ろしい弓である。見ていると、神々しいを通り越して、恐ろしい光が、一射ごとに放たれている。

敵も無茶苦茶に攻撃を仕掛けてくるが、枯れ果てた木々の間を飛び回りながら、此方は的確に一機ずつを仕留めていく。無理に森の中に突っ込んでくる奴は、シグムンド達が手分けして排除していった。

百機以上を失ったところで、敵は一度後退を開始する。戦術を切り替えた方が良いと考えたのかも知れない。文字通り一糸乱れずという風情で、からくりと呼ぶに相応しい精密な動きだった。

フレイヤがしばらく追撃の矢を浴びせていたが、敵は完全に逃げに徹し、やがて消えた。

ヘルギが泣き言を言う。

「冗談じゃねえよ。 これじゃあ、逃げ切れねえよ」

「あの化け物ども、頭がどんどん良くなってるみたいだな。 なあ、シグムンド、お前が彼奴らだったら、次はどうする」

「決まってる。 紅い騎士を連れてくるか、もっと大勢でくるか、だろうな」

レギンはそう告げると、流石に黙り込んだ。あの紅い騎士との戦いは、こりごりなのだろう。

シグムンドも、それは同じである。

もう少しで、アルヴィルダと合流だ。

休みたいとぼやくヘルギの腕を取って、立たせる。

そして、可能な限り早く、この立ち枯れた森を離れた。この辺りも、鹿が跳ね、鳥が歌う、美しい森だったのに。

神々の戦いが続く限り、悲劇は終わらない。

いずれにしても、もう諦めるしか無いのかも知れない。北ミズガルドは。もはや、人どころか、神々さえも住める土地では無さそうだ。

故郷が消えるというのは、こういうことなのか。

可能な限り、急いで東に。敵に追跡されている気配は無い。とはいえ、敵はかなり頭が良い。

どう動くか分からない以上、急がないと危険だ。

ようやく、森を抜ける。

丘に出ると、アルヴィルダが兵を整列させているのが見えた。敵の追撃に、備えていてくれたという事か。

いや、違う。

あれは戦陣だ。そして北からは紅い騎士が四体、眷属を連れて迫ってきている。

おそらく、ラインの橋を目指していることに気付き、先に抑えるために動き始めた敵の部隊だろう。

急いで合流しなければ、蹂躙される。フレイとフレイヤの力が無ければ、対抗できる相手ではない。

ムスペルは、もはや人が工夫して、どうにか出来る存在では無いのだ。少なくとも、今の人間の技術では、対抗手段が存在しない。悔しいが、シグムンド自身が、そう感じさせられる。

あれは文字通りの化け物だ。

フレイとフレイヤも、最初にあった頃とは、比較にならないほどに力をつけてきているのに。それでもあれほど一体一体に苦戦している。眷属も、自在に空を舞い、しかも恐ろしい戦術を駆使してくる。

「先に行け」

後ろからも、敵の気配。

さっき追い払った人型と親指型が、増援をつれて戻ってきたのだろう。もはやライン橋は放棄するしか無い。

「シグムンド、無理はするな。 私もアルヴィルダに、撤退を促すつもりだ」

「分かっている。 早く行け」

頷くと、フレイとフレイヤは鷹に変じ、空に舞って飛んでいった。

後ろの空に、無数の敵が姿を見せる。

追いつかれたら、終わりだ。

「走れっ!」

「くそっ! 逃げるしか、手がねえのか!」

「アスガルドの神々がどうしているか、だな! 今はとにかく、逃げろ!」

レギンの悔しそうな言葉には、耳が痛い。シグムンドだって、引き返して戦いたいくらいだ。

北から迫ってくる敵の本隊は、予想以上に動きが速い。

フレイ達が間に合っても、撤退支援くらいしか出来ないだろう。アネットがいても、焼け石に水だ。狭い場所で各個撃破するから、苦戦しながらも斃す事が出来たのだ。此処は広い平原で、なおかつ敵は密集している。

陣が、動き出す。

ライン橋に向けて、後退を開始した。フレイが状況を説明したのだろう。しかし、ライン橋を敵は当然越えてくるはず。その先は、どうなるのか。

振り返りつつ、矢を放つ。

至近まで迫っていた親指型の、光を放つ場所に、命中。

同時に光を放った親指型が、爆発四散した。今のは我ながら偶然の出来事だ。狙っても出来ないだろう。

「シグムンド、すげえな!」

「残念だが、二度は出来ん。 急げ!」

敵の先鋒は、既に追いついてきている。

人型に囲まれると、特に面倒な事になる。あの伸びる腕は、非常に打撃力が高い。幸い、親指型よりだいぶ動きが遅いが、それでも人間よりは。

再び、振り返る。

至近まで、親指型が迫っていたが、今度はレギンが斧を振るって、目玉の部分に刃を叩き込んだ。

遠隔で敵を斬ることが出来る斧だ。直撃させれば、致命打を浴びせられる。

「そろそろまずいな。 味方は」

「あてに出来んな、この状況では」

「なら、どうにか走って逃げ切るぞ!」

言われるまでも無い。

ヘルギが、悲鳴に近い叫び声を上げながら、前を塞ごうとした親指型の目玉部分に、大剣を叩き付ける。

フルスイングで叩き込んだ斬撃が、敵を吹き飛ばす。

更にまた新しい奴が回り込もうとしてくる。間髪入れず、シグムンドは剣を抜くと、目玉部分に突き刺す。

シグムンドは出来るが、兵士達にこれは難しいだろう。急所以外の装甲は驚くほど厚く、巨神と遜色ない耐久力がある。それが空を自在に飛んでいると思えば、その厄介さがよく分かる。

撤退をはじめている味方が見えた。

ようやく追いついた。だが、それは敵も追いついてきているという事を意味している。

最後尾の味方が、一斉に矢を放つ。

追撃してきている親指型に突き刺さるが、致命打で無い限り、敵は平然としている。そればかりか、反撃の光を浴びて、吹き飛ばされる戦士も出る。

「目玉を狙うんだ!」

「分かった!」

味方の中に入り込むと、振り返る。

殆ど健在な敵だが、速度の差でムラが出来ている。人型はまだ遠く、親指型ばかりが追いついてきていた。

フレイとフレイヤが、今頃紅い騎士は相手にしてくれているはず。

中空を自在に飛び回りながら、光を浴びせてくれる親指型は、見かけ以上にずっと手強い。

最後尾にいたサラマンデルが炎を浴びせるが、何しろ相手が散らばるようにして飛んでいるから、効果もあまり期待出来ない。

飛び出してきたのは、アネットだ。

一刀両断という風情で、数体の親指型を瞬時に斬り伏せる。

「おおっ!」

「さすがはワルキューレだ!」

兵士達の喚声にも、アネットはあまり興味が無いのか、黙々と親指型を切り続ける。だが、その背後、至近に回り込む親指型。

シグムンドが飛び込み、矢を叩き込む。

光を放とうとしていた目の部分に直撃、吹っ飛んだ。

「油断するな!」

「……っ」

アネットも、油断はしていないと、視線で抗議しながら、戦い続ける。

分かっている。相手の動きが、想像以上にいやらしいのだ。だが、これで戦況は多少変わる。

サラマンデルを守り、兵士達が下がる。

既に一部はライン橋に入り込んでいる。最後尾で、戦い続けているアルヴィルダが見えた。矢を放ち、親指型を撃墜している。既に、ヴェルンドから弱点を聞いているのだろう。しかし、彼女のように戦える者は、ごく少数。殆どは右往左往している内に、親指型の光を喰らって、吹き飛ばされてしまう。

「これではとてもかなわぬ! はよう退け!」

悔しそうに指示を出しながらも、アルヴィルダは自身が最後尾に残り、撤退を支援し続ける。

その周囲を囲むきんきらの鎧の親衛隊は、命を捨てる覚悟のようだった。

シグムンドも駆け寄ると、矢を放って、一体を叩き落とす。

此方を見もせずに、アルヴィルダは言う。

「よう戻った。 妾の婚約者にも、貴殿ほどの武勇の持ち主が一人でもいたらなと、今更に思うわ。 亡き父が連れてきたのは、どれもこれも雑草のような貧弱者ばかりでなあ」

「そう言って貰えるのは光栄だが、今は生き延びることを優先すべきだ」

「うむ。 軽口を叩いている場合では無さそうだ」

少し北の方では、フレイとフレイヤが、絶望的な戦いを敵と続けている。

橋を渡る兵士達が混乱している。見ると、一部の親指型が、橋の方に回り込んだのだ。アネットが走っていくが、間に合いそうに無い。

大きな被害が出るだろう。

「危険度が、リンドブルムの非では無いな。 これはなりふり構わず逃げるしかないのやも知れぬ」

「ゴートの戦姫が弱気な、と言いたい所だが、正直同感だ」

「おい、急げっ!」

追いついてきたレギンが、跳躍しながら親指型を叩き落とす。

敵はおそらく、自身の行動が陽動として有効だと気付いているのだろう。激戦で半数近くが落ちていても、全く気にせず纏わり付き続けている。

二千の戦士の内、一体どれだけが生きてライン橋をわたれるのか。

アネットが、前の方に廻っていた敵を蹴散らしているのが見えた。兵士達も、それに勇気づけられて、退路をどうにか確保する。

だが、絶望的に人手が足りない。

せめて、紅い騎士を、どうにか出来れば。

北の方で、連続して巨大な爆発が起きる。殆ど立て続けで、頭を庇っている余裕さえもない。

紅い騎士は、我が物顔に、陣形を組んで歩いてきている。

二体が遠距離攻撃を担当し、残り二体はあの遠隔爆破魔法陣で、フレイとフレイヤを翻弄しているようだ。

そうか、あれが四体で組んでいる理由か。

元々極めてタフな紅い騎士である。敵に近づきながらあの反復攻撃を行う事によって、敵を極めて効率的に削り取ることが出来る。

「あれがムスペルか。 まるで勝てる気がせぬのう。 眷属でこれだけ手強いとなると、本当に世界は終わりかも知れぬ」

「何だ、弱音か」

「いや、それでも、せめて戦って滅びようぞ。 そなたらも、同じように考えるのではあるまいか?」

後方の部隊が、撤退を続け、ようやくライン橋に入る。

親指型も、激戦の末に、ようやく処理し終えた。

だが、紅い騎士に随伴している本隊は数万もいるし、何より人型がそろそろ此方に接触する。

「あれも手強そうじゃな」

「鎧の隙間で無ければ、殆ど攻撃が通らん。 その上、腕を伸ばして、長距離から攻撃を正確にしてくるぞ」

「さすがはムスペルというところじゃ」

もはや、減らず口さえ、精彩を欠く。

勿論戦い方にさえ習熟すれば、今よりはだいぶマシに戦えるようになるだろう。

フレイが此方を見て、引きながら、トールの剛弓をぶっ放した。

此方に迫っている人型の群れの中に直撃し、数十を一瞬で蹴散らす。それで敵が散り、ある程度時間が出来た。

しかし隙も出来る。

フレイが吹っ飛ばされて、地面に叩き付けられるのが見えた。紅い騎士の、遠隔爆破の魔法陣によるものだろう。

フレイヤが、風刃の杖から殺戮の風を放ち、先頭にいた紅い騎士に直撃させる。

だが、それでも、まだ立ち上がり、動いてくる紅い騎士。

味方部隊の退路は、どうにかアネットが確保してくれている。それでも、いつまでもは保たないだろう。

紅い騎士に随伴している敵部隊が此方に来たら、文字通り詰む。

「急げ! 急いで橋を渡れ!」

声をからして、アルヴィルダが味方を叱咤する。

必死に走る兵士達。

サラマンデルも、敵に顔を向けたまま、無念そうに下がっていく。よく見れば、親指型の攻撃を散々浴びたからか、全身は既にずたずただった。あれだけ頼りになった火竜の塔も、これほど非常識な相手の前には、もはや旧時代の異物に過ぎないのか。

アネットが、戻ってきた。

肩で息をついている。相当に無理しているのが、一目で分かった。

「支援します」

「味方の状態は」

「先鋒はもう橋を抜けました。 敵はまだ、橋を塞ぐことには熱心では無く、兵士達も対応能力を付けはじめています。 少数の相手なら、どうにかなりそうです」

フレイとフレイヤが、橋に駆け込んできた。

紅い騎士は、まだ四体全てが健在。周囲に眷属どもを従え、迫ってくるその様子は、まるで。

いや、世界の終焉そのものだ。

きんきらの親衛隊達は、それでもアルヴィルダの周囲を固めているが。シグムンドには分かる。

彼らも怖れている。

唯一の望みは、アルヴィルダと一緒に死ぬこと。もはや、彼らの尊厳は、それしか残っていないのだろう。

倒れている兵士を担ぐと、ヘルギが先に走っていく。

可能な限り、負傷者は助けた。だが、これ以上は、持ちこたえられそうに無い。フレイとフレイヤも、疲弊が酷いのが、一目で見て取れるのだ。

「橋の上に誘導する」

見ると、ムスペルの紅い騎士は、ライン川を見て、入ろうとはしない。

あの豊富な水量を保つラインだ。

炎そのものともいえるムスペルといえども、簡単にはわたれないのだろう。

必然として、敵は橋に集中してくる。

既に眷属共は、此方に攻撃目標を定めている様子だ。必死に走り、逃げ続ける。最後尾のシグムンド達が追いつかれたら、もはや望みはなくなる。そのまま押し出すようにして、味方は順次壊滅していくだろう。

「よくぞ、此処まで耐え抜いた」

不意に、年老いた声が響き渡る。

フレイが、オーディン様と呟くのが聞こえた。

「少し、下がっていよ。 我がグングニルの力を、お前達に貸してやろう」

「後退しろ!」

血相を変えたフレイが、皆に促す。

言われなくても、全力で逃げているが、まだ足りないという事か。フレイが弓を引き絞り、追いすがる親指型をまとめて叩き落とす。フレイヤが額の汗を飛ばしながら、振り返り、炎の杖を連射して、ムスペルが放ってきた火球を撃ち落とした。

呼吸を整えているフレイヤ。

もはや、余裕も残っていないと言うことだ。

空に、光が走った。

それは稲妻のようにして、爆音と共に、敵に襲いかかる。

四体の紅い騎士が、絶叫する。

橋が、崩落していく。

神代に作られた巨大な橋が、その役目を終えたとでも言うように。消し飛んだ紅い騎士達。その眷属達の群れにも、大きな穴が開いていた。

「神よ、今のは……!」

「グングニル。 アスガルドの至宝。 オーディン様が持つ、世界最強の槍だ」

「あれが伝説に残るグングニル。 何という偉大なパワーなのじゃ。 あれならば……」

其処までで、アルヴィルダも言葉を飲み込む。

聞いているのだろう。

ムスペルの軍勢が、どれほど凄まじい数であるかは。それに、大きく削られたといっても、紅い騎士の眷属は、まだまだ残っている。

確かに今のグングニルは凄まじかった。

だが、それならば、最初から出し惜しみせずに、もっと使って欲しかった。いや、オーディンが現在の状況を予想していたのだとすれば、仕方が無かったのかも知れない。そう思って、諦めることとする。

後退を続ける。

味方の本隊と、一刻も早く合流しなければならない。

レギンが走りながら、言う。

「今の声、聞き覚えがあるな。 俺をそこのちびっ子ワルキューレの所まで連れて行ってくれた爺さんと同じだ。 あれは、オーディンだったんだな」

「フレイ、どういうことだ。 その時は、確か死者がアスガルドを囲んでいたのでは無かったのか」

「オーディンは、映像だけを飛ばすことが可能だ。 かってイズンが同じ事をして見せた」

「そういえば、そうだったな。 よくわかんねえが、ようやく働く気になってくれたって事か。 今は、感謝しておくぜ」

レギンも、色々と思うところがあるのだろう。オーディンがもっと早く助けてくれればと、シグムンドだって思うのだから。

「やべえ! 追いつかれたっ!」

ヘルギが、悲鳴を上げた。

敵の親指型が多数、追いついてきている。

だが、先とは状況が違う。此方には手負いとはいえ、フレイとフレイヤ、それにアネットもいるのだ。

しかし、敵についても状況が違う。敵の数は、万を軽く超えるのだ。

「可能な限り削り取るぞ」

「フレイ、傷は大丈夫か」

「問題ない。 この程度なら。 フレイヤ、叩き落とした敵から、魔力を補充しておけ」

「分かりました、兄様」

今ので一万減ったとしても、残りは三万。

更に、親指型を潰しても、人型が来る。むしろそっちの方が敵の本命戦力だろう。ムスペルの脅威は、全く衰えていない。

激しい戦いが、始まる。

まずは、これを生き抜かなければならなかった。

 

どうにか敵の追撃戦力から逃げ切って、多くの敵を削って。

シグムンドが味方と合流したときには、とっぷりと夜が暮れていた。ざっと見て廻っただけで、大きな被害を出している事が分かる。あのような非常識な相手だし、どうしようもなかったが、それにしても悔しい。フレイヤとアネットが、兵士達の怪我を回復しに懸かっているが、命を落とした者達はどうにもできない。

ヘルギは横になると、そのまま寝てしまった。いとこはずっと戦い続けたのだ。仕方がない事である。

退却部隊の指揮をしてくれていたヴェルンドが、あまり嬉しくないことを知らせてくれる。

「先に偵察に出ていた連中からの報告だ。 巨神共が、南下しているらしい」

「今度は巨神か……」

ムスペルに比べれば脅威は小さいとは言え、それでもとても手を抜ける相手ではない。何より数が凄まじい。

まだ八十万以上は健在だろう。

ブルグントに戻れば、まだ戦える可能性はある。

それでも、巨神の背後にムスペルが控えていると思うと、気が重かった。彼奴が放ってくる火球や爆破魔法陣を考えると、城壁などでは役に立たないだろう。フレイとフレイヤでも、あれほど苦戦する相手なのだ。

オーディンのグングニルは確かに素晴らしい破壊力だったが、それでもムスペルを全滅させられるかというと、微妙なところだ。連射できるならともかく、そうとはとても思えない。

しかし、そういった不安は、見せないようにする。皆が不安になっている事が分かるからだ。

補給部隊から、矢を調達する。

荷駄の一部は、先に橋の向こうに逃がしていたという事で、軍需物資は多くが無事だった。だが、しかしそれも此処までだ。

敵の追撃が、これで終わるとは思えない。

今後は、荷駄を捨てなければならない状況も出てくるだろう。もはや生き残るためには、手段を選べないかも知れない。

誰かが奇声を上げている。

恐怖のあまり、発狂してしまったのだろう。

責めることは出来ない。

補給部隊の長がいたので、声を掛ける。アルヴィルダとは少し前に話し合って、補給部隊をどうするかは決めてある。

「補給を済ませたら、進発してくれ。 敵には遭遇しないよう、気をつけろ」

「分かりました。 護衛の部隊は……」

出す余裕が無いというと、実直そうな髭を生やした隊長はうつむいた。戦士としては有能では無いが、真面目で好感が持てる男だ。だからこそに、こういうことを言うのはつらい。

「ムスペルの凄まじさを見ただろう。 我々でさえ、逃げ切れるかは分からない。 勿論フレイとフレイヤと一緒に、最大限敵を削りながら下がるが、お前達を守る余裕は、残念ながら無い」

「分かっています。 神々が大変苦戦しているのを、遠くから見ました」

「ならば、何も言わずに、先に進んでくれ。 最悪の場合は、命を優先するように。 ブルグントまで逃げ込めば、物資はあるんだ」

「分かっています。 しかし前線で戦う男達のために、武器や兵糧を守るのが、我々の誇りです」

分かっている。

責任感のあるこの男は、ゴート国で、ずっとそうやって本分を果たしてきたのだろう。既に無くなってしまった国のためにではない。今は、世界のために、今までと同じように、努めてくれている。

アルヴィルダも、それを知っているからこそ、この男に輸送部隊を任せ続けているのだ。護衛をろくに付けず、先に戻れなんて、普通ではとても言えることでは無い。

「巨神が南下しているらしい。 もしも出くわしてしまったら、散り散りに逃げろ」

「分かりました。 ご武運を」

「……」

右手を額の上に持ってくるゴート式の敬礼をされたので、ただ頷いた。

すまないと背中に呟く。

フレイにも話したことだが、敵の部隊を少しでも削ることが出来れば、それだけ世界の存亡に大きく関わってくる可能性がある。仮にムスペルが三百万として、敵の紅い騎士四体で一部隊、紅い騎士一体ごとに一万の眷属が従えられているとする。

そうなると、敵の部隊は全部で七十五。

その内四つを(一つはグングニルの力で、だが)、既に排除した。勿論眷属はそれほど処理できてはいないが、紅い騎士を倒せれば、それだけ敵の戦力をそぎ落とすことが出来るはずだ。

アルヴィルダの所に行く。

きんきらの親衛隊に守られて、彼女は眠っていた。今寝るのは、正しい判断だ。

シグムンドは、何も声を掛けず、その場を離れる。親衛隊の者達も、交代で休んでいるようだし、これ以上言う事もない。

自分も休もう。

そう思い、木陰に移った瞬間。

異変が起きた。

空が、見る間に色を変えていく。

星空が消え、代わりに現れ来るのは、赤紫の禍々しい色。

これは、ヘルが現れたときと、同じ現象では無いか。

フレイの所へ急ぐ。

フレイとフレイヤは、既に立ち上がって、空を見つめていた。フレイヤは何か術を使って、状態を解析しているらしい。

「何が起きた!」

「おそらく、三悪魔だ。 スルトがムスペルの首魁だとすると、残りの一体。 ヨムルンガルドだろう」

「ついに最後の奴がお出ましか」

兵士達も騒ぎはじめている。

そして、最悪のタイミングで、空を覆うような数の、ムスペルの眷属が出現した。

「まずは肩慣らしと行くか……!」

たとえ、どれだけ絶望的な状態でも、最後まで戦士として生きろ。

シグムンドは、父シグルズの言葉を、ずっと守って生きてきた。そして、最後の時まで、守って行くつもりだ。

まず最初に姿を見せるのは、親指型。まだ人型は姿を見せない。

つまり、これは各個撃破の好機だ。

フレイヤも魔力をかなり回復している。フレイも、戦闘の準備は万端に整っていると、さっき言っていた。

「彼奴らを全滅させて、少しでもムスペルの力を削ぐぞ」

「ああ。 そして最後には、必ず勝つ」

フレイが、シグムンドの言葉に頷き、力強く弓を引き絞った。

 

3、躍り出る世界蛇

 

アスガルドの軍勢が出陣。二十五万の軍勢を三列に分け、前衛をトールを、中軍をオーディンが。そして、後衛をテュールが指揮している。

それを聞いて、フルングニルはやはり出てきたかと思った。

アスガルドが戦力を温存していたのは、敵の見極めのためだ。ヘルが倒れ、ムスペルが姿を見せた今、残る三悪魔はヨムルンガルドのみ。ならば、可能な限り早くヨムルンガルドを打ち破り、ムスペルを各個撃破する。

それしか、アスガルドが生き延びる路は無いのである。勿論、その後に、フリムが率い、フルングニルが指揮するヴァン神族とも決戦するつもりなのだろう。

少し前に、フリムは戻ってきている。

だが、相変わらずフルングニルに指揮を丸投げし、自身は陣の奥で親衛隊に囲まれていた。

不満は特にない。

王が常に前線に出なければならないというような事は無いのだから。それに、フリムの立てた広域戦略は、今まできちんと機能している。そして、ヨムルンガルドとアスガルドを共倒れにさせれば。

後は、ほぼ目的通りの状況が来る。

問題は、ヨムルンガルドの動向が、未だに読めないことだ。目的も分からない。そろそろ姿を見せそうだと言うことは理解できているのだが。

いずれにしても、フリムを世界の支配者にするのが、フルングニルの生涯を掛けた仕事だ。

勿論、悩みもあるし、混乱している部分もある。

だが、万年ついてきた主君である。最後の瞬間で、信じなくて如何するか。

ファフナーの所に出向く。

定時での連絡を受けたかったからだ。

ファフナーは、相変わらず周囲に部下の魔術師達を侍らせて、真ん中でごそごそとやっていた。

フルングニルでさえ理解できない複雑な魔術は、探査系のものだろう。魔術に関してだけは、ファフナーは優れている。

「ファフナー、状況はどうなっている」

「フルングニル様」

ばつが悪そうに、ファフナーが顔を上げた。

此奴は分かり易い。こんな顔をするときは、だいたい何かを隠している。

顔を近づけると、非常に動揺が露骨に出た。

「何があった。 包み隠さず話せ」

「……そ、そのう」

周囲の魔術師達も、困惑した様子である。これは、よほどのことがあったか。だが、黙っていられると、余計に面倒な事になる。

特に今は、一手でも手を間違えると、致命傷を受けかねない状況なのだ。

「ヨムルンガルドが、目覚めた様子です。 海底から、凄まじい魔力が迸っていて、間もなく世界全土に影響が出ます」

「そうか。 それで」

「魔力のパターンを解析しました。 そうしたら、我々ヴァン神族に対する憎悪が検出されました。 それも、とんでもなく高密度の」

「……!」

まさか、ピンポイントでそのような感情を抱いているとは。

対策は練った方が良いだろう。アース神族にぶつけられればと思ったのだが、此方を狙ってくる可能性がある。

その場合、対抗できるかはかなり疑わしい。ヘルの能力を考える限り、難しいと言わざるを得ない。

「陛下には伝えたか」

「今、分かったばかりですので。 あ、あのう、怒っていますか?」

「別に怒っていない。 ただし、これから急いでやらなければならない事が、幾つかあるな。 だから忙しい」

フルングニルの目を見て、怯えきった様子で竦むファフナー。

相変わらずだ、此奴は。

苛立ちを押さえ込みながら、フルングニルは部下達に指示を出す。この際、もはや手段は選んでいられない。

「これから全軍を分散させる」

集まった部下達は、怪訝そうに顔を見合わせた。

現在は、三悪魔とアスガルドを共倒れにさせる目的で、ヴァン神族とスヴァルトヘイムの魔物達は行動を停止し、状況の推移を待っている。それくらいは、フルングニルが育てた将軍達は皆知っている。

一柱が挙手する。肩鎧を着けている、古参の将軍の一名だ。

「アスガルドへ総攻撃をかけるのですか?」

「いや、三悪魔の一体ヨムルンガルドが、我々に激しい憎悪を抱いていることがはっきりした。 もしもに備えて、全軍を分散させ、壊滅を避ける」

「な……」

ロキ=ユミルの造り出した存在が、どうしてアース神族では無く、ヴァン神族を憎悪するのか。

フルングニルにもそれは分からない。

ただ、ファフナーの解析結果は信頼出来る。彼奴は戦闘面では使い物にならないが、学者として、魔術師としての能力は高いのだ。おそらく、その能力はヴァン神族の中でも随一だろう。

勿論、ヨムルンガルドがヴァン神族だけを憎悪するとは思えない。どうにか、アース神族に押しつけなければならない。

「交戦は可能な限り避け、襲われた場合は全軍を散らせて、可能な限り北部海岸へ進軍中のアース神族の方へ誘導するように」

「分かりました。 そのようにいたします」

「良いか、あのヘルの能力を考える限り、ヨムルンガルドの戦闘能力はヴァン神族全てをあわせたのと同じか、それ以上とみて良いだろう。 決して、短絡的な判断はするな」

下手に手傷を負わせれば、興奮させるだけだろう。

ただでさえ途方も無い怪物なのに、更に凶暴性が上昇したら、もはやどうしようもない。

指示を終えると、フルングニルはフリムの所に出向く。フリムは土に魔術を掛けて玉座を作らせ、其処に満足げに腰掛けていた。

着込んでいるウートガルザの鎧には、亀裂が入っている。

フレイによる一撃の結果だ。勿論修復中だが、決戦に間に合うかは微妙だと、部下達は言っていた。

「陛下、ヨムルンガルドの件についてですが、よろしいでしょうか」

「奴が我々を憎悪している、という事か」

「は。 そのため、部下達をこれから分散させます。 一カ所にまとめていると、敵の攻撃で壊滅する可能性がありますので、全軍を分け、隙を見てアース神族にヨムルンガルドをなすりつけます」

「良きようにせよ」

フリムの信頼が心地よい。

一礼だけすると、フルングニルはその場を離れようとして、足を止めた。

他の者達も気付く。

空が、赤紫に変じつつある。世界そのものが、ヨムルンガルドの凄まじい魔力に、汚染されはじめたのだ。

「これほどとは……!」

小走りで部下達の所へ急ぐ。

これは、非常に危険かも知れない。まさかこれほどの高密度魔力を放つ存在だとは、思っていなかった。

実力は、冗談抜きにヘルと同等か、それ以上とみて良いだろう。しかもヘルは本体の戦闘力がさほど高いタイプでは無かったようだが、ヨムルンガルドはおそらく違う。奴は、筋金入りの武闘派の筈だ。

空間転移を繰り返し、海岸線に出る。

派遣していた斥候の部隊と合流。既に、異変は最高潮に達しようとしていた。

「海が……!」

部下達が指さしている先で、海が沸騰している。

真っ赤に染まった海から、何かがせり上がってくる。島かと思わせるほどの巨大さで、煮立った海水を押しのけながら、堂々と姿を見せる。あまりにも巨大すぎるので、全体像が最初、把握できないほどだった。

それは、巨大な蛇。

ごつごつとした岩のような鱗で身を覆った、白銀色の怪物だ。顔の部分だけでも、大巨神の十倍か、それ以上はある。此奴に比べると、ヴァン神族の中でも巨躯を誇るフルングニルでさえ豆粒に等しいほどのあり得ない大きさだ。

空中に当然のように浮かび上がる蛇。

全身から垂れ落ちる海水だけでも、周囲に津波を引き起こしかねない。海岸線は既に滅茶苦茶だ。煮立った海水に蹂躙され、生態系は全滅。砂浜は異常な赤色に染まり、世界の終わりを予感させる空の下、まだヨムルンガルドはその全身を見せていない。海水を押しのけ、空に舞い上がる、あまりにも大きすぎる蛇。

「退け、退けッ! 味方と合流する!」

フルングニルでさえ、慌てて撤退命令を出さなければならないほどだ。

ゆっくりと上昇しつつ、奴は姿を見せる。

全身の長さは、それこそ大巨神と比べて、七十倍は軽くあるだろう。非常にずんぐりとした体型で、しかも恐ろしい事に前後に頭がついている。前方の頭は蛇というか竜というか、そのような造形だ。

それに対して、後方の頭は狼に近い。

この者の正式名はヨムルンガルド=フェンリルだったはず。それならば、後方についている頭が、或いはフェンリルだろうか。

「あ、あんなもの、勝てる訳がありません……」

部下がぼやく。

気持ちはよく分かる。とにかく大きすぎる。文字通り、島か山が浮いているような有様だ。

空の異変は、更に進んだ。

赤紫に染まっただけでは無い。恐ろしい事に、月が、消滅しはじめているのだ。まさか、本当に消されたわけでは無いだろうが、何かの力で隠されてしまったことは間違いない。

巨大蛇ヨムルンガルドは、空に向けてしばらくちろちろと舌を出していたが、それこそ地面の下にまで響き渡るような声で、言う。

「ヴァン神族……巨神ども……」

「……っ!」

「逃げろ! 急げ……」

部下達が恐怖に竦む。

急いで逃げるようにフルングニルは手招きする。だが、もう遅かった。

ヨムルンガルドの腹の下から、まばゆい光が放たれたと思うと、部下達は木っ端みじんに消し飛ばされていたのである。

フルングニルも危なかった。

空間転移を使わなければ、爆発に巻き込まれていただろう。

何だあれは。おそらく魔術だろうが、それにしても凄まじい。遠距離から、あれだけの大爆発を巻き起こすなど、尋常な技では無い。

空を泳ぎはじめるヨムルンガルド。

奴は間違いなく、ヴァン神族の軍勢を目指している。何故奴がヴァン神族を憎むかは分からないが、とにかく憎悪についてはよく理解できた。一刻も早く味方を退避させなければ、危ない。

空間転移を繰り返して、味方の陣に。

既に異変は彼らを混乱させていた。一番近い陣が此処だ。まず間違いなく、ヨムルンガルドは、此処に殺到してくるだろう。

「フルングニル様!」

「小部隊に別れ、逃げよ! まともに戦って勝てる相手ではない!」

指示を出すが、しかし。

すぐ側まで、ヨムルンガルドは来ていた。とんでも無いスピードだ。あれだけの巨体だというのに、距離をまるでものともしていない。

そして、攻撃にも、躊躇が無かった。

巨大な口が開かれ、放射されたのは毒液。しかも、量が異常だ。まるで河が口から溢れてくるかのようだ。

浴びた巨神が、悲鳴を上げる暇も無く、溶けてしまう。

よく見ると、少し違う。凄まじい勢いで一瞬ふくれあがり、爆発してしまっているようだった。

もしや、これは。

ヨムルンガルドは時を司ると聞いた。そして、老いも。

ならば、本来の姿に、無理矢理ヴァン神族の戦士達を加速させているのか。

巨人族と交わって強力な生命力を得たヴァン神族は、元々無理のある交配を、魔術によって補助している。

その補助を、強引に解かれてしまえば、どうなるか。

更に、ヨムルンガルドの腹の下から、無数の光弾が放たれる。一発ごとに、周囲が吹き飛び、悲鳴を上げながら巨神族の戦士が吹っ飛んだ。

逃げても無駄だ。

光弾が追いかけてくる。なんと、あれだけの数を放てるにもかかわらず、光弾に追尾機能がついているのだ。

腰が砕けそうになる。

二万の部隊が、瞬く間に壊滅。悪夢のような光景が、現出していた。しかも人間が二万では無い。巨神が二万なのに、あっというまにこの有様だ。

パニックに陥った魔術師がリンドブルムをけしかけるが、ヨムルンガルドが全身から光を放ったと思うと、万を超えていたリンドブルムが、瞬時に焼き払われていた。消し炭になって落ちてくる飛龍達。

これほど、までとは。

ヘルはむしろ、力を出し切っていなかったのかも知れない。三悪魔が一柱、ヨムルンガルドの戦闘能力は、あまりにも次元が違いすぎる。

「お前達、絶対許さない」

不意に、妙に幼い女の声が聞こえた気がする。

フルングニルは味方に退くことしか、指示を出すことが出来なかった。だが、継戦能力を奪ったと判断したらしいヨムルンガルドは、次の部隊へと容赦なくその頭を向ける。後ろについているフェンリルの口から、また盛大に毒液がばらまかれ、生き残っていた巨神達が、皆殺しにされた。

フルングニルは、目の前が真っ青になる気分だった。

こんな奴から、どうやって身を守れば良い。

フリムは、本当にこの世界の支配者になれる宛てがあるのか。残るスルトも、おそらくこのヨムルンガルドと同等かそれ以上の力を持っているはずだ。運良くアスガルドとヨムルンガルドが相打ちになったとして、それで上手く行くのか。

少しでも、進撃を遅らせる必要がある。

フルングニルは奥歯を噛むと、奴に挑むことにした。

空間転移を繰り返し、空中に。

ヨムルンガルドの頭上に、大斧を叩き込む。しかし、あまりにも分厚い鱗を前に、はじき返されるばかりだ。

そればかりか、大怪蛇が頭を振るっただけで、振り落とされる。パワーがあまりにも違いすぎる。

落ちている所に、数十の光弾が殺到してきた。空間転移を繰り返して、逃げる。だが、それでも追尾してくる。

着地し、空間転移。

転移前にいた地面で、キノコ雲が上がっていた。

これは、戦術が通じる相手ではない。

またしても、味方の部隊が化け物に蹂躙されはじめる。凄まじい火力に、抗するすべが無い。

しかも、おかしな事があった。

スヴァルトヘイムの魔物共が、いないのだ。

このタイミングを、まさか狙っていたのか。あのニーズヘッグは。おとなしくしたがっていると見せかけて、実は最初から反逆のチャンスをうかがっていたのか。あり得ることだ。そしてくせ者らしく、不愉快なほど気を見るに敏である。

「フルングニル様! お助けくださ……」

逃げようとしていた部下が、光弾に消し飛ばされる。

もはや、此処は地上に現出した地獄だ。ヨムルンガルドはまさに悪夢そのもの。二つ目の部隊二万も、殆ど時間を掛けず、大怪蛇に蹂躙されてしまった。

更に、ヨムルンガルドは殺戮を求め、他の部隊の所に行く。

もはや、狙われた部隊は、諦めるしか無いかも知れない。だが、そんな無責任なことを、フルングニルはしたくなかった。

ファフナーの所に行く。

奴は魔術師達を使った連絡通信網を構築していたはずだ。

それを上手く利用すれば、味方を効率よく逃がせる。何しろ、ヨムルンガルドは一体しかいないのだから。

しかし、その希望も、瞬時に打ち砕かれる。

ファフナーが、涙を垂れ流しながら、頭を抱えているのが見えた。他の魔術師達も、珍しく慌てきっている。

空間転移の繰り返しでフルングニルも疲弊は酷いが、正直それどころではない。

「何かあったのか!」

「魔術での、各部隊での通信が、一斉に遮断されました! とんでもなく強力な魔術による妨害かと思われます!」

確かに、魔力による通信妨害はある。

だが、相当な広域に渡って広がっている布陣の全てで同じ現象が起こるとは、一体何が起きたのか。

「化け物がきた!」

悲鳴を上げた戦士に釣られて空を見ると。

既に其処には、口を開け、毒液を放射する体勢に入った、ヨムルンガルドの姿があった。

 

4、壊滅する希望

 

シグムンドは周囲を勇気づけるため平然としていたが、内心は憂鬱だった。

再び空が異常な状態になった事で、また絶望が来たことを、兵士達は悟ったようだった。

ヘルによる蹂躙をどうにか生き延びた戦士達も、再度の絶望には相当にこたえている様子で、シグムンドが見ていても、気落ちしている者の姿が目だった。

何度か遭遇したムスペルの眷属を退けながら、後退を続ける。規模はさほど多くないが、それでも追撃は執拗で、敵が諦めていないことがよく分かった。

いや、違うかも知れない。北ミズガルドで戦ったとき、あまり敵の追撃は熱心では無かった。そうなると、敵の尖兵が、ただ此処まで来ていると言うことか。それはそれで、恐ろしい話である。

間もなく、あの紅い騎士が、此処に姿を見せると判断できるからだ。

フレイヤが戻ってくる。

アスガルドと連絡をしていたらしいのだが、どうも上手く行かないようだ。この間から、通信が何度も失敗すると言っていた。

位置的に、巨神が布陣している場所からはかなり離れている。巨神が南下している影響かと最初思ったが、どうも違うらしい。

そうなると、この空の影響だろう。つまり、ヨムルンガルドとやらの仕業と言うことだ。

ヨムルンガルドとやらは、よほど手強いのだろうなと、シグムンドは思う。

先発させた輸送部隊と、途中で何度か合流した。元々足が遅い部隊なので、どうしても追いついてしまうのだ。

戦いながらの撤退だから、どうしても物資を使う。

補給部隊を守れないのは、本当に心苦しい。

フレイヤは、鷹になって偵察すると言って、飛んで行ってしまった。代わりにフレイが戻ってきたので、気晴らしに歩きながら話す。

壊れかけのサラマンデルが、すぐ近くを進んでいる。痛々しいほどに傷ついているが、まだ攻撃機能は失っていないし、けが人も運べる。放棄する理由は無い。

けが人を乗せているからか、それとも物珍しいからか。アネットはサラマンデルの中に足を運んでは、中を見せてもらっているようだった。時々無邪気な表情をふわっと見せるアネットだが。戦場で、子供も大人もない。それが、不幸と言えば不幸か。ワルキューレでなければ、このようなことはしなくても良いだろうに。ただし、戦える能力があるのなら、徹底的に働いてもらおうとも、シグムンドは考えてはいたが。

「フレイ、ムスペルはもう、北ミズガルドを焼き尽くしたのかな」

「可能性は高いだろう。 フレイヤの通信も上手く行かない。 南ミズガルドも、彼方此方が焼かれていると見ていい」

「どうにかできないのか」

「難しい。 ブルグンドにも、遠からずムスペルは来るだろう」

わかりきったことを、確認する。

峠にさしかかった。此処からなら、周囲を見回せる。北の方がどうなっているのかは、確認した方が良いだろう。

サラマンデルを必死に押すゴート兵を、ヘルギが手伝っている。シグムンド自身は、近くの木に登って、北の方を確認。

フレイヤが鷹になって見回っている状況で、新しく何かを見つけられるとは。最初は思っていなかったのだが。

思わず。凍り付きそうになった。

空に、とんでもなく巨大な、何かがいる。

蛇か。

だとすると、あれがヨムルンガルドか。

それはぐるりと輪を描くような形で飛びながら、腹の下から光を放っている。光は着弾すると大爆発を起こし、下にいる者達を焼き払っているようだった。

フレイヤが戻ってくるのが見えた。

「フレイヤ! あれは!」

「あれが、ヨムルンガルドです」

兵士達や、戦士達も集まってきた。ヘルギは見るなり悲鳴を上げ、レギンとヴェルンドは呆然と立ち尽くした。

アネットは、珍しく青ざめて、視線をさまよわせる。

皆殺しにされているのは、何だろう。逃げ遅れた戦士達はいないはず。かといって、アスガルドの軍勢だとも思えない。

遠目に見ていても、動きが恐ろしく速い。

やがて、敵を皆殺しにしたからか。ヨムルンガルドは、悠々と空を蛇行しながら泳ぎ去って行った。

流石に、声も出ない。

あんな化け物が、今ミズガルドの空を自由自在に飛び回り、気に入らない相手を殺して廻っているのか。

しばらく無言だった。フレイヤが、ようやく解説してくれる。

「殺して廻っていたのは、巨神族のようです」

「敵がつぶし合って、此方の負担が減る、なんて簡単な話じゃなさそうだな」

レギンが毒づく。

当然だ。あんな奴を、誰かが仕留めなければならないのである。フレイが持っている神々の武器でも、フレイヤの驚天の魔法でも、あれをどうにか出来るとは、シグムンドには思えない。

アルヴィルダが遅れて来る。

兵士達の要領が得ない応答に苛立ちを見せる彼女だが、シグムンドが説明すると、流石に眉をひそめた。

「無駄だとは分かっていても、一度ブルグントに戻る方が良かろう。 それから、避難などを考えなければなるまいな」

現実的なアルヴィルダの言葉で、ようやく方針が示されて。兵士達も、動き出すことが出来ていた。

「あの化け物だぞ。 避難なんて、何の意味があるんだよ」

ヘルギが呻く。

ずっと顔をくしゃくしゃにしているいとこは、もう一度同じ事を言った。シグムンドは肩を叩くと、歩くように促す。

何故あの化け物蛇が巨神族を殺して廻っていたのかは分からないが、だからといって人間の味方というようなことも無いだろう。

どうにかして、殺す方法を考えなければならない。

それは、他のなにものでもない。

生き残るためだ。

戦士として非戦闘員を守る。そして、血を後世につなげる。

「生き残るためだ。 行くぞ」

ヘルギと一緒に歩きながら。

自分に言い聞かせ、恐怖を制御するために。シグムンドは言った。

 

(続)