アスガルド燃ゆ

 

序、大攻勢

 

ただ群れをなして這い上がってきていた死者が、動きを変えたとテュールの所に連絡があった。

前線にいるトールを支援するべく、エインヘリアルを率いて出陣する準備をしていたテュールは、とりあえず編制が出来た五万を率いて、前線に出る。

そして、絶句していた。

今まで、秩序無く這い上がってきていた死者が、明らかに状況を変えているのである。

アスガルドの周囲は複数の結界に守られているが、その外側は、既に消耗しきっていた。空中を漂う首だけの巨神が、口からおぞましい腐汁を吐きかけ、ヘルの魔力で汚染し続けていた。

トールが片っ端からミョルニルを投げつけて叩き落としていたが、落としても落としてもきりが無い。

アスガルドの結界は、神々の攻撃は通すが、敵は通さないという非常に強力なものだ。健在な内は、たとえユミルでも通ることは出来ないだろう。だが、それも数の暴力の前には、あまりにもむなしい言葉でしかない。

「トール殿、今増援をつれて着陣しました」

「テュールか。 見ての通りだ。 支援を頼みたい」

「分かりました。 それぞれ結界の修復と、敵の撃退を開始せよ!」

エインヘリアルが、一斉に神の槍から光を放つ。首だけの死者が、次々に叩き落とされ、魔力に変わっていった。

だが、攻撃は空中から、だけではない。

山裾を這い上がってきた巨神の死者や、アスガルドの神々の死者も、結界に攻撃を続けている。

中には魔術を使う者もいる。アスガルドの神々の死者は、稲妻を飛ばしたり、火球を放ったりして、結界への負荷の上昇が著しい。

しかも、今はまだマシな状況だ。

おそらく敵はまだ本命の戦力を投入してきていない。

それでこれだ。一体本番になったら、どれだけの苦戦をするのか。結界がなくなった後の事は、考えたくない。

「結界の負荷上昇!」

「何が起きた!」

「北側です!」

そちらは確か、フリッグが指揮をしている場所の筈だが。

彼女は文官であり、戦は苦手なはず。だから支援のために何名か軍神をつけているのだが、異変は知らされていない。

此処は、トールに任せて大丈夫だろう。連れてきたエインヘリアル五万も、そのままおいていく。

「北側に支援を行います」

「うむ、急いでくれ」

頷くと、急いでアスガルドに戻り、編制途中のエインヘリアル五千を引き連れて、北に向かう。

其処は非常に険しい斜面になっている上、無数の魔術で作ったガーディアンが固めており、半端な攻撃で敗れるはずがない場所だ。かってヴァン神族の聖地があった高地を見下ろす場所だから、当然である。

フリッグの金切り声が聞こえてくる。

「何をしておる! はよう撃退せんか!」

「何が起きたのですか」

「おお、テュール殿! 支援に来てくれたか!」

形相を歪めて部下達を叱咤していたフリッグが、指さす。

その先には、確かにおぞましきものがあった。

無数の巨神の肉片が一カ所に固まり、風船のようにガスで膨らんで、浮遊しているという化け物であった。

しかも定期的に幾つかある口から腐汁を吐き、アスガルドを守っている結界に、負荷を掛けているようすなのだ。

「攻撃しても、埒があきません。 即座に回復してしまいます」

「死者には核があり、それを潰せば倒せる」

とにかく巨大すぎるので、今まではエインヘリアルが放つ光も、敵の肉を突破できずにいた。

そこで、テュールが出る。

大上段に剣を構えると、そのまま全力で振り下ろす。

テュールが使っている剣は、アスガルドでも最強のものだ。かって、先代フレイがもっと強力な剣を持っていたのだが。現在は、テュールが持つ剣こそが最強である。しかも先代フレイは特に剣技に優れていた事も無く、当時から総合力でテュールの方が遙かに上だった。

最強の剣と、最強の技が合わさるとき。

死肉の塊などが、それに抗する事ができようか。

真っ二つに切り裂かれた死体の塊の中に、コアが複数見える。エインヘリアル達が、それを見る間に撃ち抜く。

死体の塊が、溶けるように魔力に戻り、虚空に消えていった。

「さすがはテュールどのじゃ」

「安心なさるのは早いかと」

「なにゆえ?」

「おそらく、同型の死者を、多数投入してくるでしょう。 私がいる場合は対処できますが、そうで無い場合は。 今後は、私も前線に張り付く状況が増えましょう。 対策を今のうちに練った方がよろしいかと」

フリッグは少し不機嫌そうに頷く。

結界の修復はどうなっているだろう。見回っているが、エインヘリアル達による迎撃よりも、その外にいる死者達の攻撃の方が、ペースが速い。

計算してもらったところ、今のままだと、二日後に一つ目の結界が破られるという。

二つ目の結界は、ここより少し上だ。撤退する際に、大きな被害を出す可能性が高い。兵を出し惜しみしている余裕は無い。

「私はエインヘリアルの増援を連れて戻る。 そなた達は、此処を守り抜け」

「分かりました」

エインヘリアル達は、基本的に戦闘能力のある人形と同義の存在である。

地上の思想に従って最後まで戦い抜き、その先に待っていた運命がこれでは、報われないにもほどがある。

まだ、三十万ほどのエインヘリアルが編制の途中だ。部隊として編制し次第前衛に出しているが、全ての兵力が前線に出ても、守りきれるものではないだろう。

アスガルドと前線を往復しながら、弱点を補強し、守りが充分な地点からは兵を引き抜いていく。

オーディンも前線に出て欲しいと何度か頼んだが。

老いたアスガルドの支配者は、首を縦に振らなかった。今更臆病風に吹かれたわけではないだろう。

まだ、力を見せるタイミングではないと考えているのかも知れない。

殆ど休まず、戦い続ける。

結界の外に、ぼちぼち強力な死者が姿を見せ始めていた。骸骨のような姿なのだが、いずれも巨大で、強力な魔力を身に纏っている。コアはむき出しなのだが、どうみても他の死者とは動きが露骨に違う。

あれはおそらく、いにしえの神々の死者だろう。

連中が振るう武器は、結界を著しく傷つけている。全体の負荷が、加速度的に上がって来ているのが分かった。

「伝令を出せ。 第二の結界に、兵を退避させる」

「もう少し保ちますが」

「その時間を利用して、安全に撤退する。 失敗すれば多く兵を失い、持ちこたえられる時間が短くなる」

分からず屋の下級神に言い聞かせると、伝令を出す。

全軍が引き始めると同時に、死者達が結界への攻撃を強める。最後尾に残ったテュールは剣を振るい、強力な死者を目につく端から斬り倒して廻ったが、数が多すぎる。というよりも、斃されてもまた冥界から上がって来ているのだろう。

まさに無限の物量を誇る軍勢だ。

「テュール様!」

「ブリュンヒルデか」

無心に剣を振るい、片っ端から死者を斬っているテュールの横に、ワルキューレの精鋭部隊が降り立つ。

結界の消耗を少しでも減らすために、オーディンが派遣してきたのだろうか。

降り立った小隊の指揮をしているのはブリュンヒルデだ。ミズガルドでは、フレイ達を随分助けてくれたようで、テュールとしても感謝している。

山裾から、斬り倒しても斬り倒しても上がってくる膨大な死者。

アスガルドの全方位は、既に死臭に包囲されてしまっているようだった。

「おぞましい光景ですね」

「ミズガルドへの増援はどうなっている」

「また、若い神を一柱。 ワルキューレ隊からの増援については、まだ目処が立っておりません」

「武芸優れた者で無くても良い。 向こうはそれこそ犬の手でも借りたい状態であろう」

分かっておりますといいながら、ブリュンヒルデが槍を振るい、死者を光で貫き斃す。ばたばたと倒れ、コアを貫かれて消えていきながらも。

死者は全く怖れず、迫り来る。

腐った腕を振るい結界を叩き、さびた剣で結界を切る。既に、結界は、数の暴力によって、いつ潰れてもおかしくない状態だ。

渾身の気合いを込めて、横一線に振るう。

視界にいた死者が、全て横一文字に切り裂かれ、吹っ飛ぶ。テュールの剣の神威だ。だが、それでも。

相手の物量には、叶わない。

しかも、神の剣でコアを砕いたとしても、相手はまた冥界から上がってくるのである。もはやどうしようもない。ヘルを斃さなければ、いずれ物量に圧死させられるだけだ。わざわざ言わぬとも、それは理解できている。

「味方部隊の撤退完了!」

「よし、第二結界の内側まで引けっ!」

幾つかの小さな砦や軍事設備は廃棄しなければならない。

悔しいが、敵に渡すわけにはいかないのだから、当然のことだ。敵から下がる。結界が、壊れるのが見えた。

二番目の結界は、一番外側に比べると幾らかは頑丈だ。

だが、それでも。

いつまでも持ちこたえることなど出来ないだろう。

イズンが来た。死者共を、結界越しに斬り倒しながら、話しかける。

「フレイとフレイヤに、例の伝言はしていただけましたか」

「ええ。 若き神々を死地に追いやってしまうようで、心苦しいですが」

「何、二名ともアスガルドの誇りと言って良いほどに成長しております。 必ずや大望を果たすことでしょう」

やはり予想通り、押し寄せてきた死者の中に、巨大な肉塊状の者がいる。しかも、一体や二体ではない。

それだけではない。

明らかに、強力な骸骨の死者が増えている。中には色が紅く、非常に強力な魔力を纏っている者もいた。そういった者は、禍々しい鎧兜を身につけ、全身から強さの気配を漂わせている。

「あれは……厄介そうですな」

「始祖神直系の神々の末路でしょう。 死す前はオーディン様と同格だった神々を、あのようにするとは」

イズンが心を痛めている。

テュールでも、相手が全盛期の力を持っていたら、叶わなかったかも知れない。

だが、今ならば。

「雑魚の掃討はエインヘリアルに任せ、強力な相手から集中的に叩け!」

テュールが率先して、紅い骸骨の死者に対して、連続で剣技を浴びせる。

盾で防がれるが、それでも盾には大きな傷がつく。三度目で、盾が斬り割れた。剣から、恐ろしい魔術を放ってくるが、渾身の一撃で衝撃波を放ち、周囲の雑魚ごと吹き飛ばす。

だが、紅い骸骨は体を失っても平然と動き続け、コアを守る骨も生半可な強度ではなかった。当然同種のものを何体か、冥府では護衛として残しているはずだ。

報告が来た。

フレイヤが、冥府に向かったという。

この凶悪な敵と戦わなければならないフレイヤを思うと、心が痛む。

ようやくコアを打ち砕く。周囲が真っ赤になるほどに、凶悪な魔力が放出されながら、紅い骸骨は消えていった。

エインヘリアル達の軍勢も、続々と組織化されて、前線に出てきている。

この様子だと、数日以内に、五十万全軍が前線に勢揃いすることだろう。だが、それでもなお、敵を撃退することは難しいはずだ。

めぼしい敵は片付けたので、一端別の場所に移る。他の神が担当している地域では、やはりかなり手こずっている場所も多かった。

戦線を縮めるべきかも知れない。

だが、此処の内側にある最終防衛結界にしても、無敵とは言いがたい。一万年を掛けて備えてきたとはいえ、相手の物量は文字通り無限なのだ。そして、可能な限り敵の物量を、此方に向けさせる必要もある。

激烈な死闘は、三日にわたって続いた。

疲弊した部隊を内側に下がらせ、その間ひたすらに戦い続ける。

敵は当然死者だから、疲れなど知らない。

しかも、どれだけ斃しても、冥界から平然と上がってくる。腹立たしい事だが、何度も同じ死者を、テュールは斬り倒した。紅い骸骨の死者も、同じ相手を四度以上斬ったかも知れない。

「テュール様、そろそろご休憩を」

「不要。 それよりも、他の戦線の様子は」

「やはり敵の駆除は、あまり上手く行っておりません。 トール様も奮戦為されているのですが」

悔しいが、このあたりが限界か。

オーディンに出陣を願いたいが、今の状態では、出てきてくれるだろうか。

結界の負荷も、そろそろ限界だ。敵の猛攻も増してきているし、この様子では二日以内には破られるだろう。

「最後の結界に、退避する準備をしておくように」

「分かりました。 直ちに」

伝令の下級神を走らせると、テュールは目についた相手を片端から斬り倒していく。雑魚なら数十、まとめて斬り伏せる。

しかし、山を這い上がってくる死者の数は、もはや数えることも出来ない。

概算で最低でも数百万といわれていたが、実際には桁が一つ多いのではないかとさえ思えてくる。

向こうで、稲妻が迸るのが見えた。

トールがミョルニルを投擲したのだ。凄まじい雷撃を放ちながら、巨大な槌が敵をまとめて薙ぎ払う。

トールの手に戻ったミョルニルが帯電している。幾多の敵をコアごと粉砕し、叩き潰して焼き尽くしたアスガルド最強の武具は。

だが、既にトール共々、疲弊しているように思えた。

 

1、冥界の王

 

冥界、ニブルへイム。

アスガルドの遙か下にある世界である。地底世界スヴァルトヘイムよりも更に下であり、死者に対する独特の「引力」を持っている。そしてこの世界は、そもそもユミルが作ったものではなく、完全に独立した存在なのだ。

故に、その領域は、アスガルドとミズガルド、それにヨトゥンヘイムをあわせたよりも、なおも巨大である。

巨大だからといって、平穏な世界ではない。

死者は、ニブルへイムに必ず来る。死ぬとその存在の情報が意思を持つようになり、勝手に徘徊をはじめる。だがそれは長くはなく、いずれ引力に引かれて、ニブルへイムにすとんと落ちてくるのだ。

この世界に来た者は、後はただ陰鬱なだけの生活をおくることとなる。何もするべき事が存在しないからだ。戦闘意欲も、勤労意欲も、ここに来ると奪われてしまう。人間だろうが巨神だろうが神々だろうが、後はぼんやりと濁りきった空を見つめるだけの生活になる。

魂をミズガルドなりヨトゥンヘイムなりに、循環させる仕組みが存在していないのだ。

ここに来てしまえば、最後。

それが、冥界という場所なのである。

どうしてこのように中途半端な存在なのかについては、ヘル自身が以前は知らなかった。ただ黙々とアスガルドがいうまま、仕事をこなしていた。来た死者達の名簿を造り、それに応じて住む場所を決めた。

住む場所なら、飽きるほどあった。誰をどこに押し込んでも、足りるほどに。

生きている間なら、抗議したかも知れないアスガルドの神々も、ここに来てしまってからは、おとなしい子ウサギも同然。

ただし、あまりにも時間が余りすぎるのだ。

そのため、同一の体にあっても、心が分裂し、主導権が変わっていく。人格の分裂と変遷。アスガルドやヨトゥンヘイムにいたのなら、多少は周囲に変化もあり、心に刺激も加えられただろう。

此処では、そんな変化は存在しなかった。

冥界で管理のために存在した女王、ヘルもその一つだった。同一の「冥王」という、性別も存在しない管理システムに宿った心の一つ。それ以上でも、以下でもなかった。

駐屯しているアスガルドの神々は、それを知っていたから、ヘルをぞんざいに扱っていた。だが、別に何とも思わなかった。それが普通だったからである。

しかし、つい最近のことである。

ユミルが、ヘルの体内にあった、力の全てを外部から解放した。

その結果、眠っていた管理主要人格が目覚め、今まで存在した人格の全てを吸収、主導権を握ったのである。決定打になったのは、最後に入ってきた者だった。それを取り込むことで、ヘルは完全に覚醒を遂げた。

そしてめぼしい死者を更に自身に吸収し、完全なる復活を遂げたのだ。

全てに死を与える冥府の男女王ヘルとして。

そしてその時、今更ながらに気付かされた。ヘルというのは、最初の人格が持っていた名前であったのだと。

姿も、大幅に変わった。

かっては無骨な骨の塊だったのだが。今では、生者と死者をあわせたような姿となっている。

目の前に転がっているのは、今まで自分をぞんざいに扱い続けたアスガルドの神々。

ヘルの反逆を聞きつけ、鎮圧するために駆けつけてきたのだ。いずれも、即座に死体に変えてやった。

「ヘルよ」

声が聞こえる。

それが父祖の声だと、いわれずとも理解することが出来た。

「ユミル様、ヘルにございます」

「うむ。 意識が覚醒したか」

「言われるまでも無く。 死者であり生者である私ヘルめが、為さなければならない事も」

「そうだ。 いうてみよ」

世界樹に内包された上の世界を、一度無に帰す。

存在全てをこのニブルへイムに一度移し、新しき世界の礎にする。そういうと、ユミルは愉快そうに笑った。声だけだが。

「くっくっく、よう理解できた」

「最初は、何もかも無に帰すつもりだったのではありませぬか、父祖様」

「ああ。 だがな。 一度復活した我に、果敢なる抵抗を見せた者達を見て、考えが少しずつ変わってきたのだ」

確かに、何もかもを消すのは、傲慢であったかも知れない。

それならば無理がある世界を浄化する際、構成要素は一度ニブルへイムに移行させ、そこで情報だけを残す。

そして新しく世界を作り上げるとき、その情報を元に、新しき生命を再構成する。

ユミルの言葉は創造神らしく壮大なものだ。

ヘルはそれを鵜呑みにしたわけではない。

死という概念そのものが人格を得た存在が自分だと、今では理解できている。他の二悪魔も、既に目覚めていることも。

「それで、生者を皆殺しにすることが、私の役目というわけですね」

「うむ。 特にアスガルドの神々は、絶対に許すでないぞ」

「分かりました」

父祖の声が消える。

ヘルは大きく嘆息した。けたけたと笑っている声がする。

それらは、いずれもアスガルドの神々。

自分に取り込み、大きな要素を得た存在。残虐極まりない、政争を好む者。淫蕩の権化にて、自身のみを愛する者。

「何が楽しいのです」

「決まっているだろう。 私を謀殺したアスガルドに復讐できるのだ。 これが楽しくなくて、何が面白かろうか」

「あの子も、今では立派に成長していましょう。 ここに来たら、散々もてあそんで、快楽の味を教え込んであげませんと」

ゲスどもが。

ヘルは、使えそうだからこの者達を取り込んだ。

しかし、アスガルドの神々の中でも、特に醜悪な心の持ち主だったこの者達は。ひょっとすると、取り込むべきでは無かったかも知れない。

すぐに、無数の軍勢を整える。

死そのものであるヘルは、それこそ冥界と一体化しているも同然である。魔力はいくらでもくみ上げることが出来る。

そしてくみ上げた魔力を、いくらでもいる死者に埋め込む。自身から魔力を生み出すのでもなければ、難しい作業も何ら必要ない。

ただ、右から左へと移すだけ。

それだけで、忠実なしもべ共の完成だ。

逆らおうとする者もいたが、もとよりニブルへイムに来た時点で、その精神は大半がそぎ落とされている。

コアさえ入れてしまえば、後は忠実な人形だ。逆らうそぶりを見せても、命令を出せばそれに従う。

たとえ、いにしえの神々であっても、それは同じ。

スヴァルトヘイムを先に蹂躙してやろうかと思ったのだが、先に確認したところ、そちらは完全にもぬけの殻だった。何処かに逃げ出したのか。或いは、ヨトゥンヘイムの軍勢と、合流したのかも知れない。

どちらにしても、皆殺しにするだけ。

死者達の軍勢を、次々に進発させる。まず狙うはミズガルドだ。

他の三悪魔とも連携は取れている。ヨトゥンヘイムはスルトに任せてしまえばいいし、万が一アスガルドを潰しきれない場合にも、その時にはヨムルンガルドが控えている。既に魔力は溢れるようで、ミズガルドとアスガルドの空を覆い尽くし、完全に汚染することに成功した。

死者の群れが動き出す。

ヘルの中にある無数の人格が、それぞれ好き勝手な事をいっている。歴代冥王の中には、死者と恋仲になった者もいた。

「おお。 あの者は、我が夫ではないか」

悲しげにいうは、確か七代前の冥王。死したアスガルドの神の一柱と、夫婦となっていたそうである。

だが、それを新しく入ってきた者が笑う。

「何が夫婦か。 快楽の全てを知り尽くしたわたくしからいわせれば、あのような関係は、ままごと遊びも同然ぞ」

「愛は快楽だけではありますまい」

「いいや、快楽だけぞ」

げたげたと、下品に笑う声。

主導権が強いので、七代前の冥王は逆らえず、泣くばかりである。快楽主義者のそやつは、なおも暴言を吐き続ける。

「愛など無粋! 要は如何に性行為が気持ちよいかだけが全て! 男の意味など性行為が上手いかどうかだけ! それ以外には、何ら価値も無い!」

「相変わらずだなあ、お前は」

「兄様こそ、権力さえ得られれば後は何があろうと関係無かったではありませんか。 興味本位で私と寝たようなお方が、何を批判なさいます」

「お前も喜んでいたではないか」

聞くに堪えない。

あきれ果てたヘルに、ささやきかけてくる声。

真の意味での主導権を持つ存在。

「放っておけ。 聞いているだけで、精神が汚染されるわ」

「どうやらそのようでありますね。 欲望の権化とは、どうしてこうも客観的に自分を見ることが出来ないのか」

「神々も人間も、それに小人もそれは同じではあるまいかな」

軍勢が次々に進発していく。冥界にいた存在の、大半がヘルの手で兵隊となり、兵隊となった全てが生者へと牙を剥くのだ。秩序など必要ない。何しろその数は無限なのだから、戦術も戦略も必要ない。

目についたものを、ただ押し潰していけば良い。

残したものは、万が一に備えての護衛である。

アスガルドの神々だって、黙って見てはいないだろう。兵を編制して反撃に出るか、或いは精鋭を送り込んでくるか。勿論、それには備えなければならないが、ただ進軍している死者達の目を、どこまでごまかせるのか。それはヘル自身にも、よく分からない。

死者が、地上に達する。

死者の中に、時々強いコアを入れている個体がいる。そういった者達は、視界をヘルと共有できる。

まず餌食にするのは、ミズガルドに住んでいる人間共だ。片っ端から殺させ、死者の列に加える。

巨神族との戦いで、かなり奮戦したという話もある。それならば、先に継戦能力を奪っておいた方が良いだろう。

激しい攻撃で、人間の国を、一つずつ潰す。

抵抗してくる者もいるが、それもそう多くはない。数日で、人間からは継戦能力が喪失した。

次はアスガルドだ。

アスガルドについては、その硬い守りを、ヘルもよく知っている。退屈しのぎに死者達から聞いていたし、なにより取り込んだ複数の神が詳しく知っていたからだ。

三重の分厚い結界に覆われているだけではなく、高い山の頂上付近にあり、なおかつ周囲は自動で動くガーディアンの大軍が守っている。

そして神々に加えて、五十万に達するエインヘリアル。

何より、オーディン、トール、テュールの三柱は、それぞれが絶倫の武勇を有しているとみて良いだろう。他にも優れた武芸を持つ神は、少なからず存在している。

アスガルドは、おそらくこの事態が訪れることを、知っていたのだ。

だが、それでも。

数の暴力には、叶わない。

ミズガルドを壊滅させた死者を、根こそぎアスガルドに向かわせる。一体一体の動きは鈍いが、既に地上は死者で満杯になっているような状態なのだ。

戦いが激しさを増していく。

 

数日の戦いで、三枚の結界の内、一番外側を打ち破った。

死者はかなりの数が送り返されてきているが、その度にコアを新しく与えて、また出撃させる。死者は一度斃されると、ただの情報に戻る。その状態では、誰からも攻撃を受けることはない。そして、死者の習性に従って、ニブルへイムの引力に引かれ、戻ってくるのだ。

完全に空になったスヴァルトヘイムは、制圧したも同然だ。ただ、兵を引いたという事は、当然今後、仕掛けてくる可能性があるだろう。

前衛に出している、強力な死者が、またやられた。

テュールとトールが大暴れして、此方の戦力をかなり削り取ってきている。だが、二番目の結界も、間もなく破れる。最後の結界も破れば、後はなだれ込んで、不埒な神々を皆殺しにするだけだ。

その後は巨神共を片付ける必要があるだろう。

ヴァン神族の王フリムは、アスガルドの神々とヘルを戦わせ、消耗させるつもりなのだろうが、そうはいかない。

戦いを続けていけば、連中はいずれ介入してくる。

そもそも、ユミルが斃された経緯が、おかしいのだ。あれは、ヴァン神族による介入があったと見た方が自然だろう。

二枚目の結界の負荷が高まっているのが分かる。

アース神族が、最後の結界の内側に、兵を引き始めた。

それと、殆ど同時だ。

幾つかの監視用死者からの通信が途切れた。どうやら、巨神族が介入を開始し始めた様子だ。

他の死者で確認すると、地面を埋め尽くす数の魔物が、死者の軍勢を横から襲っている。その中には、スヴァルトヘイムの王、悪竜ニーズヘッグの姿もある様子だった。魔物はとにかく数が多い。死者ほどではないが、その数はこの世界でも第二の座を誇る。魔物共は兵力の集中運用もしているから、一部地域においては、完全に死者の軍勢を圧倒している状況である。

「あらあ、不格好な蛇−。 あれじゃあ捕まえても、いたくてオモチャに出来なさそう」

「お前はいつもそれだな」

けたけたと、兄妹の神の意識が、下品な会話をしている。

ヘルはざっとニブルへイムにいる戦力を確認。確かにスヴァルトヘイムの戦力は相当なものだが、横撃を防ぐくらいなら、造作もない。

地上から、続々進発させる。

同時に、死せる神々を使って、スヴァルトヘイムを埋めて廻らせた。もはや必要の無い土地だし、強力な魔術で地盤沈下を起こさせ、必要な通路以外は全て塞いでしまって問題なし。

少しずつ、自分の思考が残虐になっているのが分かる。それが、何の影響かは、よく分からないが。

一部の軍勢は、スヴァルトヘイムの死者共と、血みどろの戦いを続けさせる。

本命の部隊は、相変わらずアスガルドへ進軍させる。ミズガルドの覇権については、あまり興味が無い。

敵の継戦能力を順番に失わせていけば、後は叩き潰すだけだ。

数日混乱したが、スヴァルトヘイムの敵との戦況が一進一退になった辺りを見計らい、再びアスガルドへの全面攻撃を開始させる。最後の結界を打ち破るまで、二日か三日と試算は出ていた。

スヴァルトヘイムの魔物は、しばらくは封じ込んでおくだけで良い。アスガルドが片付いたら、その時に潰せば良いだけの事である。

どうして、こういう計算が出来るのか。ヘル自身にもよく分からない。

入ってきている無数の人格の知識や、経験が統合されているといわれれば、そうなのだとも思う。

或いは、取り込んだ神々の知識だろうか。

その方が、あり得そうな話だ。

順調に戦況は推移している。アスガルドの軟弱な軍勢など、結界さえ破って中に入ってしまえば、その時点で勝ち確定だ。

「ねえねえ、ヘル」

「何だ」

淫蕩の権化が話しかけてくる。

あいにくだがヘルには性欲はないし、充足させようとも思わない。

「オーディンを見つけたら、殺し方はわたくしに選ばせてくれないかしら」

「好きにするがいい」

どのみち殺すのだ。

そして、先に死んだ死者の方が、冥界では力があるのは道理である。散々いたぶって殺したあげく、冥界でもこづき回すつもりなのだろう。趣味が悪い女である。

「後はイズンもねえ」

「お前、まだあれを根に持っているのか」

「五月蠅いわよ、お兄様」

「あれとは何か」

聞きたいような、聞きたくないような会話をしているので、割って入る。正直此奴らの話には、うんざりなのだが。ずっと喋らせるよりは少しは発散させて静かにさせた方がまだ良いだろう。

この二柱は、元々過剰に多情で強欲だった反動からか、冥界では非常におとなしくしていたのである。

生前の姿を知る神々は、同じ存在だとは思えないと呆れていたくらいだ。

だが、取り込んでからというもの、生前の強欲ぶりを完全に取り戻したらしく、好き勝手に喋る喋る。おそらく、相当にストレスが溜まっていたのだろう。ろくでもないが、しかし。此奴らの力は、正直な話、切り札としては必要だ。

案の定、妹の方が乗ってくる。

「あの子供婆、わたくしに若さのリンゴを分け与えようとはしなかったのよ」

「神々は滅多な事では老いぬし、老いても死なぬのだから、良いではないか」

「良くないわよお兄様! 性行為に肉体の若さがどれだけみずみずしい刺激を与えてくれるか分かってるの!?」

「お前、少し前は年増の方が性欲が増して面白いって言ってたじゃ無いか。 本当に勝手な奴だな」

やっぱりそれか。

ぎゃいぎゃいと騒ぎ出したので、もういいやと思い、閉口したヘルは以降会話に参加するのを辞めた。

それよりも、無心に指揮を執った方が面白い。

ミズガルドで異変があったのは、翌日。ニーズヘッグが精鋭を組織して、此方の軍勢の一部を遮断。包囲攻撃を行い、相当な痛撃を与えてきたのだ。

ニーズヘッグめ、予想よりもかなり出来る。或いは、巨神族の総司令官であるフルングニル辺りが、助言しているのかも知れない。もしくは、奴が指揮を執っている可能性もある。

スヴァルトヘイムの魔物共は、ずっと物量押しを仕掛けてくるのではない。だれが指揮を執っているのかは分からないが、集中的に攻撃を仕掛けてきては、さっと引く。魔物達もよく統率されているようで、指揮官の命令に従って、的確に動いているようだ。

人間共との戦いで、スヴァルトヘイムの魔物は、随分削られたはずだが、それでもやはり多い。

地底の空間で、一万年掛けて増えたのだ。

しかし、それでも、他の存在全ての死者の方が、遙かに多い。

対応を幾つか取ったが、敵の用兵は予想以上に柔軟で、此方の被害も増える。

面倒くさくなってきたので、温存していた古き神々の死者を、何体かニーズヘッグの対策に回す。

いずれもヘルの魔力をふんだんに込めた死者であり、戦闘力は折り紙付きだ。生半可な攻撃には屈しない。

ただし、ニーズヘッグを討つことは、今の時点では考えない。

あくまで、アスガルドが当面の主敵だ。

兵を出したことで、戦況は再び一進一退に戻った。

アスガルドの戦況は、着実に進んでいる。そろそろ、最後の結界に対する負荷も、半分を超える頃だろう。

敵は今まで殆ど損害を出していないが、それもこれまでだ。

此処からは、戦術を変える。

幾つかの死者を通して、現在の前線を確認。アスガルドはその勢力圏を半減させ、最後の結界の内側から、此方を攻撃することに終始している。

反撃として、どのような手段を執ってくるかが問題だが。

それを使う前に、叩き潰してしまえば、全てが終わる。

航空部隊、攻撃開始。

そう命じると、事前に作り上げておいた部隊が、一斉に空中に舞い上がった。

それは、死者の中でも、空を飛べるものだけで選抜した部隊である。狙うのは、立体的な攻撃だ。

たとえばアスガルドを守っている結界の頭上部分は、地上から相当に距離がある。勿論ワルキューレなどの飛行能力を持つ神々が来れば、それなりに迎撃は出来るだろうが、此方はそもそも数が違うのだ。

腐った翼を持つドラゴン十数頭が先頭に、一斉に飛ぶ。

そして、唖然とするアスガルドの神々を嘲笑うように、一気に上空にまで躍り出た。

アスガルドの直上、オーディンの宮殿真上。

其処から、攻撃開始。

敵も慌てて迎撃態勢を取ろうとするが、何もかもが遅い。

周囲からの攻勢も、一気に強めさせる。投入していなかった、いにしえの神々の死者も、此処で全てを前線に入れる。

大攻勢の開始だ。

敵が、アスガルドの神々が、大混乱しているのが分かる。前線で頑張っている奴もいるが、全体的に見れば、微々たる抵抗に等しい。

死せるドラゴンの群れが火を吐き、結界を炙りはじめる。ワルキューレの軍勢が来た。槍から光を放って迎撃してくるが、何しろタフなドラゴンである。空を舞う力を持つ他の死者達も、相当な数に上る。

「一両日中に、結界を抜けるな」

オーディンが介入を開始しても、結果は変わらない。

アスガルドは、落ちる。

そう、ヘルは確信した。

 

2、地底潜入作戦

 

死者なりの秩序を保って、進行していく異形の軍勢。

奴らがアスガルドを目指しているのだとわかりきっていても、今フレイヤは、手を出すことが出来ない。

此処にいることを、知られるわけにはいかないからだ。

スヴァルトヘイムに続く穴に潜って、既に一日が過ぎていた。ブルグント軍の陽動作戦で、周辺の死者が誘引されて、どうにか潜入には成功した。問題はその先だ。イズンが情報をくれるのだが、どうも地下の様子がおかしい。

以前満ちていた魔物が、いないのだ。

それだけではない。自分の記憶と、洞窟の形状が、随分異なっている。或いは、脇道などを、埋めてしまっているのかも知れない。そうなると、ヘルはスヴァルトヘイムの魔物と対立したのだろうか。

あり得る話だ。

ユミルの発言を分析する限り、ヘルをはじめとする三悪魔は、この世界そのものを滅ぼそうとしていると見て良さそうだ。ならば、この世界そのものに生きているスヴァルトヘイムの連中は、敵意を持っても不思議では無い。

ただし、スヴァルトヘイムと対立したくらいで、ヘルの軍勢が動きを止めるとは、とても思えないが。

また、死者の一群が来た。

フレイヤは身を潜める。鍾乳石でも、小人の住居の残骸でも、隠れ潜む場所はそれこそいくらでもある。

死者達は濁った目で前方を見つめながら、呻きつつ進んでいる。

よく見ると、一部隊ごとに、それなりに強力な死者が統率を取っているようだ。たまに見かける武装した巨大な骸骨の死者が、指揮官になっていることが多いようである。

もっとも、言葉を発して指揮をしているとは思えない。漠然とした命令が事前に与えられていて、指揮官はそれを微調整するくらいの役割なのだろう。

統率もなく、士気もない。

こんな相手に、数が多いというだけで、世界は滅ぼされようとしているのか。

苛立ち以上に、怒りがわいてくるが、どうにか押さえ込む。

此処は、怒りを爆発させるべき場所ではない。怒りをぶつけるべきは、ヘルだ。多くの死者をもてあそび、このような戦いに無理矢理かり出している邪悪の権化を、許すわけにはいかない。

いっそ鷹になって進もうかと思ったが、それだと小回りが利かない。結局、相手の隙を見ながら、静かに進んでいくしかない。

広い空間に出た。

スヴァルトヘイムの魔物の死骸が、うずたかく積まれている。以前フレイヤが来た時、駆逐した魔物だろうか。

死者達は目もくれず、黙々と歩いている。

不意に、イズンの声が聞こえてきた。

「フレイヤよ」

「イズン、どうしたのですか」

「嫌な気配を感じます。 その広間は、迂回した方が良いでしょう」

どういうことか。

しばらく観察していると、死者の一体が、行軍中にスヴァルトヘイムの魔物の死骸に触れた。

途端に、魔物の死骸が動く。体が半分千切れているのに、はさみで死者を掴んだのである。

ただし、相手が死者だと気付いたからか、すぐに魔物ははさみを放す。

あれは。

まさか、死体のふりをして放置されているトラップか。なるほど、ああいう形で、死者を活用する事も、出来ると言うことか。

おぞましさに、フレイヤは身震いした。

元々虫の類は苦手なのに、あのような状態になっているなんて。ヘルの悪趣味さは、言語を絶する。

横穴がまだ残っているので、そちらに入る。

腐臭が漂ってきている。あの広間の腐るままにされている死体が、そのまま罠になっているなんて。

あまりにもおぞましすぎる。

しかし、足を止めるわけにはいかない。

幸いにもと言うべきか、戦闘を回避して進んでいるため、魔力はたっぷり蓄えられている。鎧も修復が完了しているし、持ち込んでいる武器も、充分に力が充填されていた。戦うには、都合が良い。

横穴から顔を出すと、広場の出口付近だ。

行軍している死者が、途切れた隙を狙って、さっと別の横穴に入る。また死者の小部隊が来た。

迂遠だが、此処で見つかってしまっては、意味が無い。

イズンは、時々アドバイスをくれる。以前は通信にも苦労していたが、今回は比較的スムーズだ。スヴァルトヘイムの状態を解析して、通信できるようにしてくれたのだろうか。

「フレイヤよ」

「イズン、何があったのです」

「この少し先に、敵が待ち伏せしている様子です」

またか。

剣に手を掛けて横穴からこっそり顔を出すと、廃棄されたトロッコと、線路がある。小人が鉱石を掘り出すために使っていたものだろう。

トロッコは朽ちるままにされていて、線路も手入れされていない。あの様子では、乗っても途中で線路から外れてしまうか。

待ち伏せしているとしたら、死角になっている通路の先か。

「迂回は出来ませんか」

「かなり難しいでしょう。 強行突破するしかないでしょうね」

「……」

リスクは高いが、やるしかない。

しかし、戦うのは、あくまで最終手段だ。

鷹に身を変える。

そして天井近くまでゆっくり舞い上がると、そのまますれすれに行く。鷹の翼は繊細だ。下手に天井や壁にぶつかってしまうと、それだけでかなりの打撃になる。ゆっくり、ゆっくり。言い聞かせながら、洞窟の中を、進んでいく。

見えた。

骸骨の死者がいる。紅い骨で、非常に強い魔力を纏っていた。その周囲には、いかにも強そうな死者が、少なからずいる。

死者は鈍感だ。ただし、彼らの視界を通じて、ヘルが見ている可能性は否定できない。無音のまま、天井すれすれを行く。

この辺りは小人が整備していたからか、床も天井も綺麗に磨き抜かれている。しかしそれでも、必要に応じてかそうでは無いかは分からないが、天井からは突起物が伸びていたり、凹凸があったりする。

ぶつかったりすれば、落下は免れない。

しかも鷹くらいの鳥になってくると、ゆっくり飛行すると言うことが、高速でするよりも難しい。梟のように無音航行に特化している鳥もいるが、それはそれだ。鷹は速さと高度を武器にして獲物を狩る猛禽である。ゆえに、ゆっくり飛ぶというのは、むしろ苦手な部類に入る。

もう少し。

言い聞かせながら、敵の上空を飛ぶ。

死者の中には、気付いている者もいるようだが、此方には反応してこない。

前方から、不意に蝙蝠が飛んできた。蝙蝠は超音波を放って、物体を認識して避けることが出来る。

向こうからぶつかってくることはない。

むしろ、身を隠すのに好都合だ。そう言い聞かせた、矢先だった。

不意に下から舌が伸びてきて、蝙蝠の一匹を掴み取る。そして、口に運んだ。

見ると、腐敗した魔物だ。

ぐしゃりという、かみつぶす音がフレイヤの所まで聞こえた。流石に背筋が凍る。そういえばこの者達は、生者に対して無差別な憎悪を抱くのだ。反応してきている死者が増えている。

中の一つ。

おそらく、スヴァルトヘイムの魔物の一種の成れの果てだろう。大きなトカゲのような奴が、後ろ足二本で立ち上がり、濁った目で此方を見る。

あ、まずい。

そう思った時には、空間の天井部分は、炎に包まれていた。

悲鳴を上げて蝙蝠が焼き尽くされていく。なすすべもない圧倒的な暴力の前には、小さな命はどうすることも出来ない。

フレイヤは、呼吸を整えながら。間一髪滑り込んだ、広間の出口の影から、落ちていく蝙蝠達を見ているしか無かった。

「なんとむごい……! この殺戮に、一体何の意味があると言うのです」

「急ぎなさい。 急がなければ、同質の悲劇が、いくらでも繰り返されることとなります」

「分かっています。 イズン、この先はどうなっていますか」

「今のところ、敵の気配はないようです。 しかし気をつけて」

言われるまでも無く分かっている。

今はまだ、魔力を消耗せずに進めている。順調と言える。

冥界に入ったら、どれだけ魔力を消費してもおかしくない。今のうちに、体を休めながら、なおかつ進まなければならない。

死者達は、地面でもがいている蝙蝠には、もう興味が無い様子だった。

殺してしまえば、それでいい。

後は腐ろうが炭になろうが、知ったことではないという事か。

やはりヘルは許せない。生というものを、馬鹿にしているとしか思えない。死そのものが人格を持った存在だとしても、生に敬意を払えないというのはどういうことなのか。

ユミルがいっていたように、この世には無理が来ていたのかも知れない。

だからといって、やって良い事と悪いことがある。

フレイヤは魔力と同時に、怒りを蓄えていく。最後にヘルに叩き付けるために。この戦い、生きては帰れないかも知れない。

だが、差し違えてでも、ヘルは討たなければならなかった。

歯を食いしばって進む。

時々、死者が駐屯していた。ヘルの仕込んだコアがある限り、どれだけダメージを受けていても、死者は身動きが出来るらしい。中には体が半分溶けてしまっている人間の死体もあったのだが、他の死者同様の速度で、歩き回っていた。

死角を利用しながら、ひたすらに進む。

幸い、神の速度であれば、人間よりも遙かに素早く、死角から死角へと移動できる。影から影へと逃げ込める。

時には大きな死者の体の影に逃げ込んで、そいつが気付く前に、側を離れる。臭いは漏れないように魔術を掛けてある。臭いから、フレイヤが探知されることは、無い筈だ。少なくとも、此処にいるような弱めの死者達からは。

不意に、強い気配を感じた。

身を隠す。

進軍していく死者達。どの死者も雄大な体格を持つ骸骨の戦士であり、見るからに強そうな剣と盾を手にしている。

それが、数十体。ひとかたまりになっている。

「アスガルドに向かう精鋭部隊でしょう」

「そちらの状況は、どうなっているのです」

「攻撃は激しくなる一方です。 まだ結界は維持されていますが、これでは突破されるのも、時間の問題でしょうね」

イズンの声に、悲壮感はない。

或いは彼女も、こうなることを、ずっと昔から覚悟していたからだろうか。その覚悟も、フレイヤは無駄にしたくはない。

死者共をやり過ごすと、一息つく。

地底の闇が、濃くなってきた。

魔力も、じっとしているだけでは吸収できない。最後に幾つかの武具を確認。魔力を充填するタイプはいずれも極限まで充填して、その場でぶっ放せるようにまでしてある。特に雷鳴の槍は、ヘルとの戦いで大きな武器になってくれるはずだ。

洞窟の中では、既に光は届いていない。

闇の中でも見えるように魔術を目に掛けて凌いでいるのだが、死者達はどうやって闇の中で動いているのだろう。

気がつくと、腐肉や肉片を踏んでしまうこともしばしばだ。

体中に、死者の臭いがついてしまうようで、心苦しい。だが、もっと心苦しいのは、そんな風にもてあそばれている死者達を、救えていない事だ。

気がつくと、かってファフナーを追い詰めた地点よりも、更に深くまで潜っている。ニブルへイムは、もう少し先だ。

 

ざわざわと音がする。

無数のスヴァルトヘイムの魔物が蠢いていた。しかも、それらの全てが、既に命を無くしている。ヘルの走狗となった死者だ。

戦場で、あれだけ殺したのだ。

死者となって、一大軍勢を作り上げても、不思議では無い。

おそらくこの先にスヴァルトヘイムがあると見て良いだろう。元々イズンから教わっていた位置よりも随分と深いような気がするが、それはヘルの力による影響に違いない。

「強行突破しましょうか」

「焦ってはなりません」

「しかし、イズン。 アスガルドは、今にも陥落しそうなのでは」

「まだ持ちこたえられます。 貴方が焦って全てを台無しにしてしまっては、それこそ希望が潰えてしまいます」

その通りだ。

この先の広間は、天井も床も壁も、スヴァルトヘイムの魔物達でぎっしりと埋め尽くされている。

アスガルドから軍勢が攻めこんできたときのために、要所にはこういった防壁的な魔物の群れを配置しているのは、何度も見た。此処もその一つ。見たところ、スヴァルトヘイムの魔物しか死者はいない。

「強い力は感じませんか、イズン」

「既に探索は困難になりつつあります。 地下深すぎる上に、周囲に死者の気配が多すぎるのです」

確かに、そうだ。

この場にいなければ、フレイヤだってこのような状況は、想像も出来なかっただろう。イズンは古き神の一柱だが、その力にも限界はある。

仕方が無い。鷹になって、また飛ぶしかない。

そう決めたときだった。

何かが大きく軋むような音がする。生暖かい風が、前から吹き付けてきた。おぞましい腐臭を伴う風だ。

進み出てきたのは、なんと。

あれは、アウズンブラではないか。地底の空間で、その巨大すぎる体を揺らして、歩み出てきている。

その周囲を、どうやら死せる巨神の魔術師らしい連中が固めている。他にも、アスガルドの死せる神々もいた。

「どうだ、通せ、そうか」

「難しい。 やはり転移の魔術を、使うしか、ない」

「地上まで転移させ、ても、その後が、骨だ。 アスガルドまで、こいつを、運ぶのは、難しい、な」

兄が滅ぼしたいにしえの巨獣まで、ヘルは引きずり出したというのか。

悲しそうに鼻を振り上げて鳴くアウズンブラ。このような姿になった上に、ヘルの走狗として戦わなければならないなんて。

あれほど蹂躙され、被害を受けた相手だというのに。

フレイヤはアウズンブラに、同情さえ覚えていた。

スヴァルトヘイムの魔物の死者達は面倒くさそうに巨獣の進路からどいていた。魔術師や神々の死者は、ああでもないこうでもないと話を続けている。

今が、好機だ。

鷹になって、飛ぶ。

そして、アウズンブラの腹の下に潜り込んだ。魔術師どもは誰も気付いていない。そのまま、すっとアウズンブラの腹の下から抜けるようにして、飛び去る。まだ後ろでは、死者達が緩慢に議論を続けていた。

扉が見えてくる。

あれが、冥府の扉か。

とてつもない巨大さだ。アスガルドの周囲を覆う幾つかの城壁にも城門がついているが、これほどではない。高さは人間の背丈の二十倍から三十倍、横はその半分ほどはある。大巨神が体をかがめずに入れるほどであり、アウズンブラが出てこられたのも納得できる。

門はまだ開いている。漏れ出てくる魔力は、なんとおぞましく、そして強いことか。此処から感じる魔力だけでも、断言できる。

不完全体だったとは言え、ロキ=ユミルよりも更に魔力は上の相手だ。

此処からの戦いは、文字通りの死闘になる事だろう。

門が閉じかけている。

鷹となったまま、さっと通り抜ける。死者達の何体かが、不思議そうにフレイヤをみたようだが、もうこれ以上は関係無い。

扉を抜けると。

不意に、広い空間に出た。

イズンの声が、一度遮断される。

空が広がっている。ただし紫色の、いかにも不健康な空だ。此処はアスガルドやミズガルドがあるのとは、別の世界。

独立して形作られた、小さな世界なのだ。

此処こそが、冥府。ニブルへイム。

周囲はごつごつとした岩山ばかりで、当然の話だが、生命の気配が感じられない。枯れ木さえ、生えていないのだ。

勿論鳥も飛んでいない。

この様子では、小さな虫たちさえ、此処では暮らしていないことだろう。いるにしても、生前とは違って、増えもせずエサも必要とせず、じっとしているだけに違いない。ある意味、もっとも清潔な空間かも知れない。

空には星も太陽もない。

前に聞いたことがある。ニブルへイムは、周囲を膜のようなものが覆っていて、それが環境を整えていると。

温度、湿度も、いずれも不快ではない。

むしろ快適すぎるほどだ。

可能な限り、鷹のまま行った方が良いだろう。地上をそのまま進むのは、リスクが大きすぎる。

「フレイヤよ」

「イズン、冥界に突入しました。 そちらは」

「そうですか。 此方は、そろそろ結界が破られそうです。 敵は立体的な攻撃を仕掛けてきていて、とても支えきれません。 もしも結界を破られたら、全方位からの怒濤の攻撃に晒されることでしょう」

急がなければならない。

アスガルドには、戦いに向いていない神も決して少なくない。

若い神の何名かはミズガルドに回してくれるという話であったが、非戦闘員が蹂躙されるのは、どうしても見過ごせない。

「ヘルがいる場所は分かりますか」

「おぞましい魔力の中心点に、ヘルは存在しているはずです」

はて。どういうことか。

今、ヘルについて聞いたのだが。どうして、存在している、などという返事が返ってきたのだろう。

イズンは失言に気付いただろうか。

話を聞く限り、ニブルへイムはミズガルドに匹敵するほどの広さがある筈。もたもたしていたら、ヘルに辿り着く前に、アスガルドが滅ぼされてしまうだろう。

精神を集中して、ヘルの居場所を探る。

辺り中が凄まじい魔力にて満たされているため、すぐには分からない。此処そのものが、ヘルかも知れないと思うほどだ。

ふと見ると、死者の軍勢がいる。

どうやら、一度アスガルドから追い返された者達らしい。再編成されて、また進軍する所なのだろう。

今の時点では、あれは気にしなくて良い。

それにしても、殺風景な場所だ。荒野と岩山しかない。地面もひび割れていて、温湿度の割には乾ききっている。

水はないのだろうかと思ったら、河は流れている。

噂に聞く大河ギョッルか。

冥府を流れる大河で、ミズガルドに存在するライン河に匹敵する水量を誇ると聞かされていた。その割には幅が細いようだが、そうなるとあれは支流か。

強い魔力を、不意に感じる。

周囲が強い魔力で満たされている状態だから、その中でも更に強い力、というべきだろうか。

間違いない。

ヘルの気配だ。

「ヘルを見つけました。 急ぎます」

「焦ってはなりませんよ」

自分が一番危険な状態の筈なのに、イズンはそのようなことをいう。その勇気に応えるためにも、下手は打てない。

鷹になったまま、飛ぶ。

生無き空では、むしろ目立つかも知れない。だが、今は一刻が惜しかった。

 

3、苦戦アスガルド

 

トールが投擲したミョルニルが、雷撃を纏ったまま飛び、死者の群れを薙ぎ払っていく。

戦闘開始前に、一柱で百万を片付けると豪語していたトールだが、或いは時間さえ掛ければ、それも可能かも知れないと、テュールは思った。

一撃で数百の死者を塵にした、アスガルド最強の武器も。

だが、敵を殲滅するには至らない。

仮にトールが単独で百万を相手に出来るとしても、それでもなお、追いつかないのではないかと思わされるほどに、敵の物量が圧倒的すぎるのだ。

「テュール様」

「何か」

剣を振るいながら、テュールが伝令に聞く。

テュールも、縮小している戦線で、ひたすらに剣を振るい続けているが、単独で出来る敵の撃退には限界がある。

少し前から、イズンも前線に出てきて、魔術でつくりし神の武具をふるって、死者達を撃退している。それでも手が足りていないのだ。

「結界の負荷が、八割を超えた模様です」

「予想より早いな……」

この最終結界が破られれば、もはやアスガルドを守る防壁は存在しない。

オーディンも少し前にようやく前線に出てきたが、それでも戦況は好転しない。結界という優位があってなお、これだけ押されているのだ。

敵になだれ込まれたら、一体どうなることか。

「あとどれくらい保つ」

「精々半日かと」

「ふむ……」

手近に迫ってきた、紅い骸骨の死者を斬り伏せる。

コアを叩き潰して、冥府に送り返すが。どうせ、また登ってくるだろう。一時しのぎに過ぎない。

ヘルは本腰を入れ始めた様子で、様々な戦術を駆使して、結界に攻撃を仕掛けてきている。特に上空からの攻撃は厄介で、結界の消耗速度は上がる一方だった。

だが、どうして此処で急に、攻撃に本腰を入れてきたのか。

どうも嫌な予感がする。

或いは、死したアスガルドの神から、情報を得ているのかも知れない。攻撃の効率が、妙に良いような気がするのだ。

死したアスガルドの神の中には、当然機密を握っていた者もいる。

結界の秘密や弱点を知っていた神も、いた可能性が高い。

オーディンも冥界が反逆するという展開までは、予想できていなかったのだろう。今更それを責めても、詮無きことだった。

「テュール殿、少し代わりましょう」

「ヘイムダルか」

ヘイムダルが、いつの間にか側に立っていた。

情報を司る神であるヘイムダルだが、武芸に関してはテュールやトールに比べると随分劣る。

ただし、戦闘指揮に関しては、それなりのものがあるし、常に冷静なため、安心感もある。

「分かった、任せよう。 少し私は休む」

「どうにか支えて見せます」

テュールは一端自身の屋敷に戻ると、素早く湯を浴びて、食事を口にかっ込んだ。

薄めの神酒を入れて、すぐに寝床に入る。任せていられるのは、一刻か二刻か、その程度であろうか。

テュールはここ数日、殆ど眠っていない。

一度横になると、すぐに目を閉じて、回復に取りかかる。どれだけ剣の腕を磨いても、不眠不休ではその力を全ては発揮できない。

外では、喚声が聞こえている。

だが、戦場を幾多渡り歩いて来たテュールだ。それくらいであれば、眠ることは難しくない。

少し休んで、随分回復した。

戦況を部下に聞くが、口を濁す。すぐに武具を纏って外に出ると、戦況は激変していた。

防御結界の彼方此方に、ひびが入り始めている。

この短時間で、一体何が起きたというのか。

前線に、すぐに出る。

全軍が一丸となって、怒濤のように押し寄せる死者を撃退し続けているが、それもこれではもたない。

「何があった!」

「それが、内部に不意に死者が現れまして! 結界の発生術式を破壊されました!」

絶句する。

斃された死者の所へ行って、もう一度唖然とした。死体は魔力化して蒸発し、遺留品しか残っていなかったが、それだけで誰かを特定するのは容易だった。

バルドル。

かって不死と歌われた、タフな神だ。ある理由から殆ど無敵の肉体を得て、そしてまたある理由から斃された。

色々と問題があった神で、オーディンの命令で代替わりはせず、文字通りの死を迎えた。当然、ヘルの手先になっていたのだろうが、まさかバルドルを用いて結界の破壊を行ってくるとは。

バルドルを斃したのは、トールであった。

トールは涙を流しながら、鬼のような形相となっていた。無理もない。気が良いトールにとって、友人殺しは、これ以上もない屈辱だっただろう。

「おお、我が友を! 手に掛けてしまった!」

「今は耐えよ、トール殿」

「テュール! ヘルをぶっ殺したい! どうすればいい!」

「敵を引きつけることだ!」

そうすれば、それだけフレイヤが楽になる。

トールは頷くと、雄叫びを上げながら前線に出て行った。

既に結界は崩壊しはじめ、内部に死者が入り込みはじめている。否、おそらくは、ヘルには結界内部に死者を忍び込ませることなど、最初から可能だったのだろう。心理的な効果を狙って、このタイミングで。しかもバルドルを使ったというわけだ。

ヘルの奴、予想以上に頭が回るのかも知れない。

「全軍、戦いながら後退! 事前に決めていた防御施設を中心に、防衛に移れ!」

どっと押し寄せてくる無数の死者を切り払いながら、テュールが叫ぶ。エインヘリアル達は整然と後退を開始したが、神々はそうは行かない。

戦闘経験が浅い神も多いのだ。

見る間に、死者に組み付かれ、よってたかって食いつかれ、悲鳴を上げながら魔力化していく下級神。助けようにも、とても間に合わない。

巨神の死者に薙ぎ払われ、吹っ飛んだ下級神が、空中で爆散してしまう。

エインヘリアルがいるから大丈夫。そう高をくくって、鍛錬を怠るような神も多かったのだ。

しかもそう言う神に限って、エインヘリアルを人形兵士などと見下して、馬鹿にしきっていた。

それでも命だ。テュールとしては、軍神として守らなければならない。必死に防衛体制の構築を指示しながら、敵を斬って斬って斬り倒す。

エインヘリアルも、踏みつぶされ、骸骨の死者に斬り倒され、見る間に消耗していく。トールとテュールがどれだけ奮戦しても、まるで埒があかない。

オーディンが、魔術の稲妻を放ち、千を超える死者を瞬時に焼き払った。

だが、それでも足りない。

それがどうしたとばかりに、死者の群れが次々と山を上がってくる。

その中には、強力な魔力を放つ骸骨の死者や、破壊的な巨大さを誇る腐肉の塊もいる。前線の各所で、凶悪な死者に蹂躙され、味方は被害を増す一方だ。

オーディンが前に出る。

手にしているグングニルを天にかざし、長時間の詠唱をはじめた。アスガルド全体を、オーディンの凄まじい魔力が覆い始める。

「オーディン様の詠唱を邪魔させるな!」

神々が身をもって垣根を作り、迫る死者共を防ぐ。トールがミョルニルを振り回し、投擲して死者共を叩き潰すが、数が多すぎる上に、相手は死をこれっぽっちも怖れていない。詠唱は、まだ終わらない。

真っ黒い死者が来た。骸骨だけだが、コアが体内に三つもあり、巨大な三つ叉の矛を手にしている。

原初の神であり、おそらく相当武芸に長けた存在だろう。

テュールは大上段に剣を構えると、名乗る。

「武神テュール。 お相手つかまつる」

「おお、テュールか。 立派に、なった、な」

声は途切れ途切れだが、聞き覚えがある。

これはまさか。

先代のテュールか。

それだけではなく、他の神々も何柱か統合されているとみて良いだろう。おのれ、なんと冒涜的な。テュールは、目の前が真っ赤になるかと思った。

トールはと言うと、どうやら先代のトールが来たらしい。凄まじい格闘戦を始めている。どっちももの凄く楽しそうな笑顔で殴り合い、巻き添えを食って辺りは崩壊するほどであった。

流石にメギンギョルズを締めている現トールの方が有利のようだが、先代も簡単に屈してはいない。

横目に激しい格闘戦を一瞥すると、テュールは一歩を進めた。

「今、楽にして差し上げまする」

「無駄だ。 たとえ斬られても、儂はすぐにまたヘルの走狗となり、アスガルドに害を為す事となろう」

「それでも……」

「そうさな。 お前に斬られるのなら、儂は本望よ」

会話は、それで終わった。

一撃で勝負はつく。

テュールは肩口に一撃をもらったが、剣を吹き飛ばし、返す刀でコアを砕き割った。鮮血が垂れ落ちてくる。左腕が、動かせない。

すぐに治療役の神が来るが、回復している暇は無いかも知れない。

見てしまったからだ。

アスガルドの中央に、敵が運んできたとんでもない代物が、投下されるのを。

あれは、アウズンブラだ。

ミズガルドで、フレイが人間達と協力して打ち倒した、いにしえの巨獣。死者となって、ヘルの走狗となっているとは。

オーディンが一度詠唱を止めた。

「アウズンブラは質量が大きすぎて排除できぬ。 トール、テュール、あれを打ち倒すのだ」

「心得ました」

「上空より、新たな敵軍団!」

今度は何だと、声を張り上げようとした神が、爆炎に包まれて消し飛ぶ。

上空、骨の御座を造り、其処に堂々と鎮している巨大な死者。

頭が三つもあるそれは、尋常な神には思えなかった。魔力も、並外れて強い。

「あれは俺がやる」

先代を打ち倒したトールが、ミョルニルを構える。

おそらくアレは、ユミルの時代の神。それも、今の神々の父祖に当たるような、非常に強力な古代神を、複数まとめ上げた存在だろう。

感じる魔力が尋常では無い。

テュールは、爆発の煙が上がるアスガルドの中央に急ぐ。

既に死者が入り込んでいて、エインヘリアルと死闘が行われはじめていた。死せるアウズンブラも、鼻を振り上げ、腐った足を踏みならし、大暴れしている。宮殿を体当たりで吹っ飛ばし、防ごうとした神を蹂躙し、文字通りのやりたい放題だ。

だが、どうも愉悦に狂った感じはない。

殺して欲しい。

早く、楽にしてくれ。

物言わぬ巨獣は、そう言っているように、テュールには思えてならなかった。

テュールは無言で剣を振るい、アウズンブラの前足を両断。テュールの剣の神威は、アウズンブラが気付いたときには、もう間合いにその足を捕らえていたのだ。

前のめりに倒れる巨獣だが、しかし即座に足が再生を開始する。再生速度は、尋常では無い。

ヘルの走狗たる魔力の塊だから、出来る事なのだろう。

「動きは私が止める。 集中攻撃を浴びせ、コアを引っ張り出せ」

「分かりました」

轟音と共に、後ろでは稲妻が飛び交っている。

トールがあの死せる古代神と戦っているのだろう。オーディンが一瞬苦渋に顔を歪めるのを、確かにテュールは見た。

或いは、オーディンの父祖だったのかも知れない。

立ち上がろうとするアウズンブラの横に廻り、今度は右前足と右後ろ足を斬り倒す。倒れかかってくる巨獣の体を冷静に飛び避けた。

以前、フレイからアウズンブラについて手紙で受け取っているし、イズン自身からも話で聞いている。

あの巨獣は、背中に心臓に値する弱点があったはずだが。

現在の死せるアウズンブラの背中に、弱点らしい箇所は見当たらない。

というよりも、かっての弱点など、もはや意味は無いのだろう。

周囲にも気を配る。強めの死者を見たら、その場で容赦なく斬り伏せる。たとえまた冥界から上がってくるとしても、それで少しだけでも時間を稼ぐことが出来る。

集中攻撃を浴びせていたエインヘリアル達が、死せるアウズンブラの背中を削り取り、その中程に、ついにコアを見つける。

コアを砕くと、苦しそうな、或いは安堵したような声と共に。

横たわったまま立ち上がれなかったアウズンブラは、魔力となって消えていった。

トールはと言うと、まだ相当に苦戦しているようだ。よほど強い死者が相手と言うことだろう。

周囲は阿鼻叫喚。

若い神々を何名かミズガルドにやっておいて良かったと、テュールは思う。此処にいたら、ほぼ間違いなく死なせてしまっただろう。

ワルキューレ隊にも、被害が出始めているようだ。

オーディンの方から、強い魔力を感じる。

アウズンブラを排除したことに、気付いたのだろう。

程なく、オーディンの術式が完成する。

強烈な光が、アスガルドの中央部分から広がり、群れていた死者をまとめて薙ぎ払い、焼き尽くしていく。

悲鳴を上げて溶けていく死者達。

目を開けると、結界が復活していた。

オーディンの所へ急ぐ。

かなり疲弊しているようだが、両の足で立つには問題無さそうだ。オーディンの足下には、アスガルドの至宝の一つとされていた玉杯が、朽ち果てて転がっていた。

「少し時間は稼げたであろう。 体勢を立て直せ」

「分かりました。 トール殿」

「俺はアレを落としてから戻る」

頭が三つある死者が、王錫を手に、虚空に浮かんでいる。トールの放つミョルニルの稲妻を、防ぎきるほどの相手である。

テュールが横に並ぶと、雷神が不愉快そうに眉をひそめたが。今は、それどころではないと、納得してくれたのだろう。

二柱がかりであれば、あの恐るべき相手もどうにか出来る。

「一気に片付けるぞ」

「分かっております」

息を合わせて、テュールは飛ぶ。

左腕の感覚は、まだ戻らない。

 

自身の屋敷で、テュールは左腕の手当をさせる。

思ったより傷が酷いようで、手当に当たっている下級神は、ずっと眉をひそめ続けていた。

何とか感覚は戻った。だから、剣をひっつかんで、すぐに前線に出る。敵は当然のことだが、けが人に配慮などはしてくれない。

結界の外では、死者達が再び押し寄せては、無慈悲な攻撃を繰り返しはじめていた。

味方の損害は、決して小さくない。

アスガルドの中で息を潜めていた体の弱い神や、戦闘向きでは無い者まで、死者は容赦なく襲い、殺していた。

敵を結界越しに斬っていると、ブリュンヒルデが来る。

乱戦の中で、死せるドラゴンを四体仕留めたワルキューレ隊の星は、テュールに一礼した。

「ワルキューレ隊、損害率二割を超えました。 隊長も戦死しています」

「そうか……」

後は君が指揮を執るようにと指示。

敬礼すると、ブリュンヒルデは退出した。また、部下であり姉妹でもある者達をまとめて、戦いに赴くのである。

もとより、ワルキューレ隊の指揮は、年功序列という形であった。其処に、神々が経歴に箔を付けるためだったり、政治闘争の結果だったりで、自身の権力を割り込ませていた。良い例が先代のフレイヤである。

そのような状態でワルキューレ隊が機能したのは、普段の任務が、ミズガルドの戦士達の中から良さそうな存在を見繕い、死んだ場合冥府に行く情報をアスガルドに引き寄せる、というものだからだ。

集団戦での戦闘指揮など、ワルキューレ隊の長には求められていなかったのである。

テュールが見たところ、ワルキューレの戦士達は、個々では力量が高いが、集団戦には向いていない。

ブリュンヒルデは数少ない例外であり、否、それでも戦闘指揮に長けているとは言いがたいだろう。

少し前まで指揮を執っていたのも、あまり実戦経験が無い軍神だった。だが、毒舌家のブリュンヒルデが悪く言っていることは聞いたことがない。おそらく、若い神々に任せて、自身は後ろから見守るような指揮をしていたのだろう。

ブリュンヒルデが去るのを見送ると、テュールは嘆息する。

教えるべきかも知れないと、感じたからである。

アスガルドがなくなろうとしている今だ。ワルキューレとは何なのか、せめて死地に赴く者達には、教えておくべきかも知れない。

だが、今はその時間さえも無い。

再び、紅い骸骨の死者が上がって来た。あれは最優先で潰さないと、結界への負荷が大きすぎる。

今回は、魔術に長けた神の何柱かが、結界の維持に力を注いでいるから、前回よりは保つ。とはいえ、それにも限界がある。フレイヤによるヘルの討伐が上手く行くまでは、テュールが頑張るほか無いのだ。

無心に切り続け、紅い骸骨を魔力に返す。

呼吸を整える。

回復。叫ぶと、回復術を使える下級神達が、テュールの傷を癒やしはじめた。まだ、左腕は本調子ではない。

上を見上げると、青い光が走っている。

結界の上部を攻撃しているヘルの手下共を、ワルキューレ隊が貫いているのだろう。

アスガルドでも屈指の武闘集団。しかし、その実情は反吐が出る。

そもそもワルキューレは、オーディンと人間の間に生まれた娘達、と表向きにはされている。

それはある意味正しい。

ワルキューレ達が集めてくる勇者の情報の中から、女性の情報を、オーディンの情報と掛け合わせる。

そして、肉を与えて、半神となす。

そうして作り上げられたのが、ワルキューレだ。

言うまでも無くその存在は半分がエインヘリアルとも言えるため、相性は抜群に良い。エインヘリアルの候補たる情報をアスガルドに引っ張り上げることが出来るのも、その特性が故なのだ。

古参の神の中には、ワルキューレの実体を知っている者もいる。

そういった連中は、うそぶく。

作られた神と。

嘲笑している相手が、アスガルドの軍事的主力を担うエインヘリアルの導き手である事が、彼らにはよほど気に入らないのだろう。

ミズガルドには、二柱のワルキューレを下ろした。いずれも作られたばかりの、アスガルドに染まっていない、どちらかと言えば綺麗なままの半神だ。上手くすれば、世界崩壊の運命から、逃れられるかも知れない。

少なくとも、テュールが見てしまった世界の真実から、目の敵にされることはないだろう。

回復を終えると、テュールはまた剣を振るって、死者を斬り倒し続ける。

時間は稼ぐことが出来たが、精々二日という所だ。

その間にフレイヤがヘルを斃してくれなければ、また大きな被害が出るだろう。いや、それはもはやある程度、覚悟するべきか。

二刻ほど、激しく戦い、死者を斬り倒し続けて。

そして、一度休憩のために、屋敷に戻る。オーディンも疲弊が見え始めていた。

 

軽く仮眠を取った後、呼び出される。

オーディンの宮殿ではない。仮に作られた、戦闘指揮所である。

其処にアスガルドの支配者達が集まり、青い顔を並べて会議をする。トールもテュールも大きな傷を受けていて、回復しきっていない。トールに至っては、血を滴らせたまま、自席に着いたほどである。

幾つかの情報交換をした後、オーディンが不満げに言った。

「戦況は、著しく良くない」

「結界も、いつまでも持つ事は無いでしょう」

テュールも同意である。

トールは不満そうに吐き捨てた。

「俺を冥府に行かせて貰えないか。 ヘルの野郎のそっ首、ねじ切って来てやる」

「ならん。 まだ三悪魔の一体しか、我らに牙を剥いていないことを忘れたか」

そうだ。まだヨムルンガルド=フェンリルと、スルトが控えているのだ。オーディンの言葉を聞いて思い出し、戦慄してしまう。

そいつらが、ヘルより弱いという保証は無い。

破滅の権化であるスルトに至っては、或いは世界そのものを全て焼き尽くすほどの力がある可能性が高い。

「ヘイムダル、どう思う」

「少し調べてみたのですが」

アスガルドの良心とも言われる情報の担い手は、幾つかの資料を魔術的に提示して見せた。

机上に文字列が浮かび、順番に展開されていく。

「斃した死者を分析したところ、既にどの死者も、四度か五度はアスガルドまで上がって来ている様子です」

「予想外に行軍速度が速いな」

「いえ、ミズガルドを経由して、足で歩いて来ている、という事は無いでしょう。 おそらくアスガルドの中腹に、冥界につながる穴を直接開けられたのかと思います」

なるほど、そう言うことか。

確かに、それならば怒濤の如き波状攻撃にも納得がいく。テュールとしても、もしもヘルの立場だったら、同じ事を考えたかも知れない。

「人間共を、死者にぶつけるのはどうであろう」

フリッグが言うと、周囲がしんとなる。

彼女自身は、自分がとんでも無い事を言ったことには、気付いていない。

イズンが、悲しげに声を伏せた。

「フリッグ、それは流石に止めておきましょう」

「何故じゃ。 人間はまだ首都とやらに非戦闘員含めて二十万や三十万は生き延びているときいておるぞ。 しかも、死者を後背から突ける状況にある。 適当に餌を与えておだてれば、図に乗って時間稼ぎの役くらいには立つじゃろう」

「その人間の努力で、ヴァン神族の侵攻を大幅に遅らせ、ロキも予想外の速さで斃す事が出来た事をお忘れか」

たしなめるようにテュールが断固たる言葉をぶつけると、フリッグも流石に反省したか、それ以降は口をつぐんだ。

オーディンは大きく嘆息する。

「その穴を塞げば、少しは時間が稼げるか、ヘイムダル」

「敵の主力を、ミズガルドで行軍させることにより、到着を遅らせることが確実に出来ましょう」

「ならば、やるべきであろうな」

「俺がやる」

トールが立ち上がる。

確かに、この任務は決死のものとなるだろう。テュールも無言で立ち上がる。そうなると、此処の指揮を執るのは、誰になるか。

オーディンが面倒くさそうに、腰を上げた。

「直接此処の指揮を執ろう。 イズンよ、穴の位置は特定できるか」

「はい。 少し時間をいただければ」

「うむ。 それまでは、通常通り敵を迎撃することとする」

会議は解散となる。

戦闘指揮所を出るが、空は相変わらずおぞましい赤色にそまっている。この世界は、ヘルの手に落ちているも同然だ。この空の色も、仕方が無いのかも知れない。

ヘイムダルが、テュールを呼び止めた。

「テュール殿、少しよろしいですか」

「何か問題が生じたか」

「少し前に、得られた情報があります。 かなり確実な情報です」

「ほう……?」

それによると、終末の時、陽と月が消えるという。

今の事態のことかと一瞬思ったのだが、空の様子がおかしいだけで、きちんと月も陽も出ている。

そもそも月や陽は、この世界の外側の存在の筈だ。それが消えるというのは、どういうことなのか。

日食や月食という現象はあるが、そのようなものは起きていない。起きたところで、現実的にはたいした事は無い。天文の運行には興味が無いので、いつ起きるかもあまり詳しくは知らないが。

「その情報が正しいとなると、ヘルにより世界が滅ぶことはないという事か?」

「いえ、そうではありません。 冥界、ニブルへイムはこの世界と独立した存在である事は周知かと思われますが。 ニブルへイムには、此方の世界の月と陽とは、違うものが空に上がっているのです」

意味が、テュールにもわかりはじめてきた。

つまり、終末の時。世界は、そっくりニブルへイムに引っ越す、とでもいうのか。ヘイムダルが、青ざめている。

「その情報はどこからだ」

「お答えできません。 ただし、今までかなり精度が高い情報をもたらしてきていた存在からだとは、申し上げておきます」

「……なるほどな。 理解できた」

十中八九それは、トールとテュールが見た、「世界の真相」だろう。

つまりあのおぞましき奴が、アスガルドの終わりと、世界の終焉をうそぶきはじめたと言うことになる。奴の予言は当たる。存在からして当然だ。本格的に世界は、終わりに向かっているという事だ。

前線に到着。ヘイムダルもついてきた。

諦める気は無い。テュールの弟子とその妹が、必死に戦っているのだ。師が先に諦めて、どうするというのか。

イズンが敵の出現位置を特定するまで、無心に戦うほか無い。もたついていると、結界の消耗速度が上がるだけだ。

腕のしびれはまだ取れないが、雑魚を掃討することくらいは難しくない。エインヘリアル達も、前線でずっと奮戦し続けてくれている。口だけな下級の神々よりも、よほどよい働きをしているほどだ。

ヘイムダルも戦っている。剣技はそれほど冴えてもいないし、とにかく地味だが、戦い方は堅実だ。見ていて安心できる。ただし、この戦い方では、大勢を相手にしても、おそらくは生き残れないだろう。

今更アドバイスしても、成長する事も無いだろう。一応技は達人の域に達している。真面目なヘイムダルは、鍛錬を怠ることもなかったからだ。

敵の一群が、山の麓からせり上がってくるのが見えた。

かなり大規模な飛行部隊である。

見ると、リンドブルムだ。しかも、全てが死体である。ミズガルドの戦いで、相当数が死んだ筈で、確かに物量作戦にはもってこいの飛行生物であろう。しかも、それだけではない。

頭だけになった巨神の死体や、ドラゴン。それに、翼を持った生物たちの死者も、多数混じっている。

本気で編制した航空部隊と言うことか。

だが、やられっぱなしでいるつもりはない。

「魔術が使える神に、爆発系の術式を準備させ、敵の一群がアスガルド上空に姿を見せた瞬間、一斉に射撃」

「ただちに」

ヘイムダルが伝令を飛ばしてくれる。

そう、先手ばかりを取らせてやると思うな。テュールは、無数に飛翔してくる敵を見て、そう呟いた。

 

4、再び北の地へ

 

少数で北ミズガルドに赴いたという巨神族の王フリムを討つため出立したフレイは、身動きが取りやすいと思った。

一緒についてきたのは、シグムンドとヴェルンド、ヘルギ、それに北の地出身の戦士達である。

しばらくの間北上したが、敵の姿はない。死者はこぞってアスガルドに攻めこんでいるからだろう。

それに、王都周辺の死者は、ハーゲンが陽動で引きつけてくれている。出立の少し前に到着したマグニらがいるかぎり、守るだけなら問題も無いとみて良い。勿論大多数の死者に襲われれば面倒だが、アスガルドが陥落するまでは、その怖れもないとみて良かった。そして、アスガルドが陥落したら、その時にはミズガルドももうどうしようもない。意外に、ミズガルドには状況が有利に傾いている。

ただし、ブルグントにも、もはや遠征する余力は無い。

百数十名ほどが同行しているが、彼らの兵糧と、荷駄の物資を用意してくれたのが、精一杯。それで充分であった。

巨神の軍勢との前線であった山岳地帯にまで到着。

砦はもぬけのからだ。破壊されている様子も無い。死者が暴れた形跡はあったし、そのまま放置されている死体も目だったが。

ヴェルンドとヘルギは先行して、敵の様子を見てくれている。

今の時点では、巨神とも死者に行方を阻まれてもいない様子だ。

休憩にする。

たき火を囲んで、北の民達がてきぱきと作業を始めていた。彼らは生き生きとしている。狭苦しい城壁の中で暮らすよりも、もとの北ミズガルドに近い環境で、のびのびとしている方が、嬉しいし楽しいのだろう。

シグムンドが鹿を仕留めてきたので、その場で捌いて食べる。

逆さに吊して首を斬り、血を抜いてから肉を切り分け、内臓を出して、皆で分けて食べていた。

フレイには必要ない。

魔力は大気中から吸収できる。

わいわいと騒いでいるたき火から離れ、北の方を見やる。どうやら、遠くで戦いが行われているらしい。

アスガルドとは別の方角だ。しかし、かなりの大規模な戦闘である。

「どうした、フレイ」

「何かが戦っている。 味方とは思えない」

シグムンドが手をかざして、紅い空の下に広がる大地を見つめる。

今の時点では、巻き込まれなければ良い。

「一体、何と何が。 状況から考えて、片方は巨神族か?」

「そうとも限らない。 まだミズガルドに姿を見せていない勢力もある」

見てもいないのに、状況を特定するのは賢いやり方ではない。ロキ=ユミルが言及したヘル以外の三悪魔や、それにスヴァルトヘイムの軍勢も、まだ地上には本腰を入れて出てきてはいないだろう。そういった者達が、つぶし合っているのだとすれば。少しは、人間にとっては有利になるのだが。

皆の所に戻る。

北の民は屈強だ。ブルグント軍と行軍していたときよりも、明らかに移動速度が上がっている。

食事を取って一休みしたら、すぐに出立。

どうせ時間の感覚も滅茶苦茶で、今がどんな時間かも分からないのだ。少し調べてみたのだが、影の向きも彼方此方いい加減で、とても時間を調べられる状態ではなくなりつつあった。

それから、誰にも悟られないように、影のように北上を続ける。

ライン川が見えてきた。脱落者は、今のところ無し。

そして、ヴェルンドが戻ってきた。

「丁度良いところに追いついてきたな」

「何かあったか」

「ラインの大橋が占領されている。 死者にな」

なるほど、戦略的拠点を制圧することで、軍事的な要所を押さえると言うことか。ヘルも意外に考えている。

此処は、流石に突破していくしかないだろう。

幸い、周囲は森になっている。地形を生かしての戦いが可能だ。北の民にとっては、またとない絶好の戦場である。

ヘルギと数名が、待っていた。

すぐにブルグント軍に提供された地図を広げる。ヘルギも頷くと、慣れたもので、即座に敵の配置を示してくれた。

「強そうな死者がいる。 此処、それに此処だ。 後は俺たちにでもどうにか出来そうだな」

「要所を固めてやがるな」

「強力な死者は私が対処する。 他の死者の駆逐を任せても良いだろうか」

「ああ。 片付けてやる」

作戦は、すぐに決まった。

トールの剛弓を引き絞る。

ヘルギが先に調べてくれたが、橋の手前に四体、骸骨の死者がいる。あれはいにしえの神々がヘルに操られているものであろう。流石に北の民とはいえど、人間達には任せることが出来ない。

そして奥。橋の中程。

紅い骨の骸骨戦士がいる。

非常に強い魔力を、此処からでも感じるほどの相手だ。こればかりは、どうにかして奇襲で片付けてしまいたい。

イズンに聞いて、死者の対応方法は学んでいる。

どちらの骸骨戦士も、既にアスガルドに攻め寄せ、大きな被害が出ているそうだ。しかし、その経験が、此処で生きる。

トールの剛弓を引き絞り終える。

位置を調整。まずは手前にいる四体からだ。

シグムンド達が配置につく。他には人間の死者や狼のような魔物の死者、それに巨神の死者もいる。

巨神の死者については、対応は最後でも構わないだろう。動きが鈍いし、対応策も分かっているからだ。

ヴェルンドは、側で伏せた。

ヴェルンドが家宝の剣をフレイヤに託した後の事だが。ヴェルンドにはアスガルドからおくられてきた神の武具の内、比較的ランクが劣るものを渡している。力が弱いために人間でも扱える武器であり、ヴェルンドのような達人が扱えば、それ相応の破壊力を発揮できる。

一見すると地味な装飾のショートソードなのだが。破壊力は、フルスイングでトゥーハンデッドの大剣を叩き付けるのに勝り、切れ味はそれ以上という魔剣だ。

「あいつは、このヴェルンドに任せろ」

「無理はするな」

「ああ。 この剣を受け取ったのだ。 半端な真似はしないさ」

ヴェルンドが視線で指したのは、呻きながら森の中を上半身だけで這いずる巨神の死者だ。

動きが鈍いから遠巻きに牽制するだけで大丈夫だが、しかしパワーだけは尋常では無い次元で備えている。

しかし、大口を無意味に叩いたことがないヴェルンドだ。フレイヤに剣を託してからは、悲壮感もない。

命を無駄にする事も無いだろう。

フレイが、矢を、指から離す。

位置を調節したのは、この時のため。瞬時に二体の骸骨の巨神が消し飛んだ。コアごと、である。

一気に斬る。口中で呟きながら、フレイは躍り出る。

橋の中程に伏せている紅い骸骨は、動かない。気付いていないのか、それとも味方の支援は命令されていないのか。

だが、他の死者達は、一斉に動き始める。

しかし、それよりも先に、北の民の方が躍りかかった。

死者だろうが、何だろうが、関係無い。我先に飛びかかり、敵を打ち倒す。相当彼らも鬱屈が溜まっていたらしく、攻撃には容赦が無かった。ようやく死者になれてきた、という事情もあるだろう。

狼の死者も、敏捷性を発揮できる暇も無く、そのまま飛びかかられ、斬り倒され、コアをむき出しにしたところを砕かれていく。

取りこぼしもわずかに出たが、躍りかかっただけが全員ではない。残った者達が冷静に矢を放ち、片端から動きを止めた。其処を、よってたかってずたずたにしてしまう。

流石シグムンド。容赦の無い指揮だ。

フレイは剣を振るって躍りかかってきた骸骨の死者一体を、既に粉みじんにしていたが、まだコアは残っている。もう一体が、見上げるような高さから、剣を振り下ろしてくる。横っ飛びに逃れながら、ヴェルンドを見る。

巨神の死者を相手に、距離を保ちながら、上手に戦っている。巨神の死者は不意に飛びついたり、腐った腕を鞭のようにふるってもいるが、ヴェルンドはそれらを上手にかわしながら、牽制を続けていた。

ヘルギが飛び出してくる。

ヘルギにも、アスガルドからのお下がりを渡している。元々身の丈ほどもある大剣を扱っていたヘルギに、威力と切れ味を保存したまま、羽のように軽く振り回すことが出来る神の大剣を渡したのだ。

元からのパワーがこれに合わさったとき、破壊力は想像を絶する。

実際、骸骨の死者のコアは、ヘルギの一撃でひびが入り、数度叩いている内に、砕けて魔力化して消えていった。

北の民達が集まってくる。シグムンドが声を掛けて、一斉に骸骨の死者に矢を放った。あまり効果は無いが、困惑して動きを鈍らせる死者に、フレイが大上段から渾身の一撃を叩き付ける。

頭蓋骨から真っ二つになるようにして、骸骨の死者が崩れる。

だが、骨が寄り集まり、即座にまた体を形成しようとする。

シグムンドが無言で前に出ると、剣を突き立てた。

シグムンドにも神の武具を渡している。ただし、それは剣や弓ではない。元々シグムンドが使っている剣はとても良いあつらえで、これを手放す気は無いと言っていたからだ。

そこで、手袋を渡した。

この手袋は、持った武器に、炎の魔力を付与する。

実際、骸骨の死者が、一気に燃え上がった。コアが露出し、それをヘルギがたたき割る。さて、最後は巨神の死者だ。

ヴェルンドが引きつけていた巨神の死者が、不意に躍り出たアネットの一撃を受けて、横から真っ二つになる。

露出したコアを、冷静にヴェルンドが突き抜いた。

死者が消えていく。

アネットが、剣を鞘に収める。ヴェルンドも剣を振るって腐汁を落としながら、不満を軽く口にした。

「どうした、別に俺は苦戦していなかったが」

「すみません。 戻りましたので、ついでに」

アネットは、少し先までワルキューレの快速を生かして偵察に行ってもらっていたのだ。魔力化して空を飛ぶことも出来るし、敵に気付かれずに進むことは、むしろ天分だとも言える。

以前の戦力であれば側にいて欲しかったのだが、今はシグムンド達に下級とは言え神の武具を手渡している。

この程度の戦力が相手であれば、アネットの帰還を待つ必要も無かった。

「それで、何か問題が生じたか」

「この少し先ですけれど、天候が露骨に変わっています。 吹雪いてます」

「吹雪?」

「雪が視界が見えなくなるほど激しく降る現象だ」

高地であるアスガルドで暮らしていたフレイも、そう何度も見た現象ではない。ましてや、ミズガルドの低地で暮らしていた人間にとっては、完全に未知の現象だろう。

どうやらこの先は、本格的に冬になっているとみて良い。

「もたついていると、周囲の死者共が集まってくる。 さっさと橋を突破するぞ」

シグムンドが言う。

歩きながら、話を続けた。実のところ、シグムンドも、この先の状況には興味があるのだろう。

まだ、紅い骸骨のいる場所までは、距離がある。

トールの剛弓で出会い頭に一発を叩き込み、その後集中攻撃でコアを砕く。そうして、反撃の隙を与えず、叩き潰してしまいたい。

「吹雪とやらは、それほど寒いのか」

「貴方たちが人間としては信じられないほど鍛えているのは知っていますが、それでも耐えられない筈です。 橋の先の谷間の砦跡地は綺麗に蹂躙されていますけれど、先ほど見てきたら、倉庫はまだわずかに残っていました。 毛皮も蓄えられていました。 この人数分の耐寒装備をそこで得ていくべきかと思います」

「……分かった。 それがよさそうだな」

シグムンドが、歩きながら話の内容を変える。

この巨大な構造の橋は、何度見ても不思議なのだろう。

「フレイ、これは神々が作った橋なのか」

「ああ。 正確にはオーディンではなく、今我らが戦っているヴァン神族、巨神達の先祖が、だがな」

「本当か。 この橋は大きくて荒々しいが、あの忌々しい巨神共も、昔は文化的な面があったのか」

「むしろアスガルドにいるアース神族よりも、文化的平和的な面があったらしい。 北ミズガルドにも、幾つかの遺跡があるだろう。 あれは殆どが、ヴァン神族が残した遺跡だ」

だから、ヴァン神族は敗れたのだとも言える。

昔から、アース神族の獰猛凶暴な性質には変わりが無かった。ヴァン神族は物事を話し合いで解決し、相手の意思を尊重することを貴となす考えを持っていた。

それがまずかったのだ。

アース神族は、まず相手を叩き潰すという考え方の持ち主だった。武力によって権力を得て、力によって相手を屈服させる。そうすることを旨とする神族だった。

だから、まずは対話をと訴えるヴァン神族には、相性が最悪だった。やがてアース神族は、文字通りの力尽くで、ヴァン神族をミズガルドからたたき出したのである。

ユミルの名が解放されてから、こういった知識が、どんどんフレイの中にも流れ込んできている。

かって血塗られた歴史として、それは片付けられていた。もしくは、歪められ、真実とは違う形で伝わっていた。

だが、ヴァン神族は、敗れたことで変わった。暴虐を己の中に取り込んだ。そして今、手段を選ばぬ邪神となり果てて、ミズガルドにいるのだ。

かといって、かってのアース神族だけを責めるわけにも行かない。

権力闘争の過程での事だ。

シグムンドは驚いていたが、おそらくよその世界があるとすれば、日常的に繰り返されている悲劇なのかも知れない。

先に進んでいたヘルギが手を振っている。

伏せろという合図だ。

見えてきた。

大巨神にも匹敵する巨体だ。紅い骸骨の死者。右手には上下に刃がついた槍のような武器を持ち、左手には非常に巨大な盾を持っている。あれは、強い。

トールの剛弓を引き絞る。

火山の弓を使うべきかと思ったが、あれを使ったら流石に橋が崩落してしまう。そうなっては、此処から戻れなくなる。

狙うべきは、盾か、刃か。

少し悩む。トールの剛弓とはいえど、流石に二つともまとめて吹き飛ばすことは出来ない。というよりも、弓を引いていて分かるのだ。奴の凄まじい力量が。総力戦を仕掛けるべき相手である。

「まず、盾を破壊する」

「剣は良いのか」

「アネット、私が仕掛けたら、即座に側に行って斬りかかれ。 私もそれに続く」

頷くと、ワルキューレがヘルギ達と一緒に先行する。

フレイヤが言う所によると、アネットは最近人間らしい行動が目立ちはじめたという事だが。フレイは観察力が足りないのか、あまり目だってそういう場面には出くわしたことがない。

「接近戦は危険ではないのか」

「奴の注意をそらして、畳みかける。 あの盾は、アスガルドの神々が作ったものに匹敵する強度を有している。 あの盾が残った方が、事故が起こりやすい」

何しろあの巨体の上に、元がおそらくは古き神々だ。どんな切り札を有しているか、知れたものではない。

ヘルギ達が、位置につく。

まだ、相手は気付いていない。というよりも、無理に通ろうとした場合のみ、強制排除するように命じられているのかも知れない。

矢を、指から離す。

紅い骸骨が持つ盾が、木っ端みじんに消し飛んだ。

剣を振り上げようとするが、アネットの斬撃が、その手首を打つのが見える。その隙に、フレイも文字通りの神速で、剣を抜きながら相手との間合いを詰める。

ヘルギが相手の骨の足にしがみついて、剣を突き立てる。

鬱陶しそうに足を上げた紅い骸骨が、剣を振り下ろす前に。

巨大な橋の手すりを蹴って跳んだフレイが、その上空にまで躍り上がっていた。

一気呵成に、敵の肩を両断。剣を吹っ飛ばす。

これで丸腰になった相手だが、しかし。

魔力を纏い、文字通り足を踏みならしながら、突進してくる。フレイも盾でとっさに受けるが、かなりの距離を吹っ飛ばされた。

しかも、手に、魔力が集中していくのが見える。

立ち上がりながら、叫ぶ。させるなと。剣と、盾を復活させる能力があると見て良いだろう。

しかも、橋の前後から、無数の死者が押し寄せてくるのが分かった。

これは、或いは。

罠だったのだろうか。

「くそっ! はめられたか!?」

「まずはあのデカイ奴を……!」

叫ぼうとした戦士が、高々と吹っ飛ばされる。

紅い骸骨は動きが速く、魔力を纏ったまま、文字通り辺りを蹂躙に掛かる。シグムンドが矢を立て続けに放つが、魔力が強すぎて、骨に有効打にならない。

フレイが、至近に。骸骨が、足を振り上げる。

後ろに回っていたアネットが剣を振るい、軸足を傷つけた。好機。そのまま一気に畳みかけ、よろめいた骸骨を四方八方から斬り伏せ、粉々にして行く。

コアが露出するが、瞬時に骨が集まり、下半身だけを再生してくる。

傷ついた味方を抱えて、逃げるヴェルンドの後ろから、骸骨が容赦なく足を振り下ろそうとしてきた。

フレイが割って入り、盾をかざし、強烈な踏みつけを受け止める。

だが、頑強な橋に、ひびが入るほどの一撃だ。思わず呻く。アネットが再び切りつけるが、壊すには至らない。

更に、蹴り挙げてくる骸骨。盾で防ぎきれない。フレイが、橋の手すりに叩き付けられる。鎧が軋む。

「好き勝手にさせるな!」

シグムンドが、今の隙に、軸足に剣を突き刺していた。

骸骨の全身が燃え上がり、悲鳴が上がった。

露出したコアを、今度こそヘルギが斬り、砕く。

何という奴か。此奴を斃すだけで、味方は相当な被害を出した。しかも、前後は死者の群れである。

狼の死者が、唸り声を上げながら、大軍で迫ってくる。

フレイは立ち上がると、制圧射撃を行うべく、拡散型の弓を構えた。

「前は防ぎ止めてくれ。 後方は私が処理する」

「よし、全員俺に続け!」

「アネット、大型の敵は任せるぞ」

「分かりました」

下がりながら、斉射を浴びせ、迫る体が腐った狼の大軍勢を撃ち抜いていく。

体が小さい死者は、コアを砕くのもたやすい。

この橋は何度も戦場になったこともあって、周囲に瓦礫が散乱している。身を隠す場所にも不自由しない。

いかも、都合が良いことに、路が狭い。敵を射すくめるには、調度良い環境だ。

百匹近い狼の死者を、短時間で処理する事に成功。

あまり実感はないが、フレイ自身の腕前も上がっているとみて良い。ぎりぎりの戦闘を繰り返したことで、師の庇護を受けながら戦っていたときよりも、経験の蓄積が遙かに早いのを感じる。

前方も、死んだ狼の大軍勢だ。生きているときよりもダイナミックで動きが速いくらいだが、アネットが前衛で黙々と剣を振るって、道を開くと、シグムンド達がしっかりそれを切り開いている。

「よし、突破できるぞ!」

「交代だ。 今度は私が前衛を叩く」

「お任せください」

アネットと、すれ違うようにして、位置を変える。

前方には巨神の死者も二体いたが、一体はアネットがシグムンドと協力して打ち倒した後だった。

問題は、橋の先に、千を超える人間と狼の死者がいると言うことか。

時間を稼いでくれ。そう言うと、トールの剛弓に切り替える。これで、一気に敵陣に大穴を開ける。奥の方にいる巨神の死者も、これで消し飛ばす。

後ろでは、アネットが半減した追撃部隊を寄せ付けていないのが分かる。

辺りはおぞましい魔力で充満しているが、こんな所にヘルが想像以上の大部隊を展開しているとは考えにくい。突破さえすれば、後はたいした戦力もないはずだ。

弓を引き絞る速度も、以前より上がっている。

前衛で敵を食い止めてくれているシグムンド達にも、全く不安を感じない。

指を、矢から離す。

巨神の死者が、コアごと消し飛ぶ。後は拡散型の弓に切り替えて、敵陣を制圧するだけだった。

さっきは下がりながらの射撃だったが、今度は進みながらの射撃だ。容赦なく、敵陣を矢の雨で蹂躙する。

最後の一体を、ヴェルンドが斬り倒したとき、戦いは終わった。

鎧へのダメージはかなりあるが、修復は十分に可能だ。負傷者の手当をするように、アネットに指示。

「突破できたな」

「後はフリムを捕捉する必要があるが、今は先に橋を渡りきろう」

敵の伏兵が、予想以上に多い可能性もある。

運んできた荷駄にけが人を乗せ、進む。

橋を抜けて、森に入ると、一息つくことが出来た。北の民の戦士達は、皆喜んでいる。何しろ、生まれ育った故郷に戻ってきたからだ。

だが、喜びは、長続きしなかった。

アネットが言っていた通り。北の空に、経験したこともないだろう暗雲が懸かっているのを、誰もが見たからである。

「何だよ、あれが吹雪って奴なのか」

「フレイ、一体あの吹雪って言うのは、何だ」

「ヴァン神族だ」

「何……」

現象として、巨神族は冬を意味する存在だった。

だから、彼らを追い出したことで、ミズガルドには常夏の世界がやってきたのである。ヴァン神族が戻り、しかも死によって意識を失い、ただの現象に戻れば。其処には、かってあった冬が広がるのである。

これでは、もしも逃げ延びていた民がいても、生き残ってはいないだろう。

シグムンドが悔しそうに言う。

確かに、気候の激変に、耐えられる者は多くない。

だが、この世界の、鍛えに鍛え抜かれた人間であれば。或いは。

「今は前向きに考えよう。 これならば、視界を遮られた巨神共を出し抜いて、フリムを討ち取れるかも知れぬ」

「そうだな。 フリムさえ討ち取ってしまえば……」

フレイヤがヘルを斃した後、一気に状況を改善出来るはずだ。

希望が見えてきた。

むしろ、今こそ、攻勢に出るべき時なのかも知れない。

シグムンドが立ち上がると、周囲を見回す。

「休憩が終わったら、すぐに出るぞ」

「おう、分かってる」

北の戦士達も、乗り気になっている。

フレイは頷くと、フリムを討ち取るべく、具体的な策を考えはじめたのだった。

 

(続)