いにしえの者降臨
序、迫る大軍
既に最終防衛線にまで、敵の軍勢が殺到していた。
打ち破られた馬防柵を修繕する暇も無い。ひっきりなしに飛んでくる火球に、逃げ惑う兵士達。
並べられたサラマンデルも、既に満身創痍の機体が目立つ。
「怖れるな! 敵の損害も大きい! 死骸を山と積み上げてやれ!」
「アルヴィルダ様のためにー!」
最前線で指揮を執るアルヴィルダ姫に勇気づけられて、戦士達が士気を振り絞る。
群れをなして襲い来るリンドブルムとスヴァルトヘイムの魔物達を、撃退して撃退して。夜明けには、死体が山のように積み重なっていた。
物資の消耗が酷い。
このままだと、兵糧より先に矢が尽きる。
前線の兵士達は、そう音を上げはじめていると、フレイは聞いた。しかし、人間のための弓矢を用意することも出来ない。フレイヤとフレイのための武器でさえ、不足しているのが現状なのだ。
どうにか、休んで戦えるところまでは、鎧を回復させた。
フレイが前線に出ると、魔物のうずたかい死骸の向こう。巨神族が隊列を組んで、今か今かと総攻撃のタイミングを待っているのが見える。
いつ、戦いが始まってもおかしくない。
隣に、フレイヤが来た。
「兄様。 封印の様子が……」
見るまでも無い。
剣に突き刺された球体からは、以前とは比較にならないほどの、強大な魔力が迸り続けている。
まもなく、あの封印の中にいる何者かが、目覚めることは疑いない。
ロキなのか。そうではないのか。
そうではないとすれば、何者なのか。
ウルズに言われたことも気になるが、それ以上に。今よみがえった化け物を相手にして、勝てるのか。
勿論、準備はしてある。それでも勝てるかは分からない。
此方に歩いて来るのは、シグムンドだ。疲れている様子が目立つ。状況からいって、夜通し戦っていたらしい。剣が少し変わっているのは、あの小人に修理してもらったからか。
「どうだ、眠れたか」
「体力は兎も角、鎧は戦えるところまでは、どうにか回復させた」
「そうか」
シグムンドが、来るように促す。
最終防衛線の一角、馬防柵が分厚く作られている場所がある。反面サラマンデルが配備されておらず、兵士達も少ない。
地盤が脆く、大人数が戦うには向かないからだ。
「此処が危ない。 何か手を打たないと抜かれるぞ」
「エインヘリアルを回そう」
「大丈夫か」
「やるしかない。 あの封印が破れたとき、出てきた奴を葬るだけの余力を残しながら、あの大軍を撃退する」
口に出すだけなら簡単だ。
実際の作業が、どれだけ困難か。
グンター王が、兵士達に休憩を交代で取らせている。前衛に出てきている巨神どもに隙を見せずに、休憩をするのは極めて困難だが。しかし夜通しの猛攻の後である。休憩をしなければ、兵士達はまともに戦えないだろう。
「仮に、敵の攻撃の最中に、封印が破れたら、どうする」
「その時は私とフレイヤのみで対処する」
「出来るのか」
「おそらく出てくるのは……」
ロキと言おうとして、口をつぐむ。
本当にそうなのか、分からないからだ。どうもそうでは無いと思えるような、状況証拠が多すぎる。
ウルズの謎の発言もある。
あの封印から出てくるのが、巨神でさえない何かとてつもなくおぞましいものであるだろう事は、フレイの中ではすでに確定事項だった。
ヘルギがヴェルンドと話し込んでいるのが見える。
巨神の棍棒で一撃されたというのに、頑丈な事だ。ふと、何か嫌な予感はしたが、気にせずにおく。
「敵が攻めこんでくる前に、可能な限りの準備はしておこう」
「そうだな。 怪我をしている奴らの応急処置をアネットにしてもらって、弓矢の手入れをして」
「あと、今のうちに寝ておくか」
からからと、ヘルギが笑っている。ヴェルンドも、それに釣られて、苦笑しているようだ。
どうやら、取り越し苦労であったらしい。
ウルズが起き出してきた。ぼんやりとして目をこすっている。フレイと視線が合う。小首をかしげられた。
昨日のことは、覚えていないのか。
シグムンドが、先に話しかける。
「ウルズ、敵がいつ攻めこんでくるか、分からないか」
「……」
ウルズが、北の空を見る。
わずかな沈黙のあと、結論は出たらしい。
「巨神よりも脅威が大きいのは封印。 封印が間もなく破れる」
「! それはいつだ」
「昼の少し前」
でも、とウルズは付け加えた。
それどころでは、なくなると。最大級の嫌な予感が、全身を駆け抜ける。封印が破れるというのが、既に尋常では無い事態だというのに。それどころではなくなるとは、一体いかなる事か。
不安そうにしているフレイヤ。だが、こんな時まで、シグムンドはやはり、いつも通りだった。
「ならばまだ大丈夫だな。 フレイ、フレイヤ、今のうちに可能な限り鎧を直しておいてくれ」
「シグムンド、そなたは平気なのか」
「そりゃあ、怖いに決まってるだろ。 だがな、俺は戦士だ。 最後の瞬間まで、戦士であるつもりだ。 それに北の民の希望のためにも、怯えてはいられん。 もう、バルハラには夢を見られないが、そんなことは関係ない」
シグムンドは、グンターの所に行く。おそらく、今の話をしに行くのだろう。優れた勇者だ。おそらく今まで地上に存在したどんな勇者にも、引けを取らない男である。特に、折れぬその心は素晴らしい。
「兄様、シグムンドは流石ですね」
「ああ。 あのような男ばかりであれば、人間にももっと大きな希望が生じていたのだろうが」
封印と敵陣が見える場所に陣取ると、フレイは鎧の修復をはじめた。
フレイヤは地面にルーン文字を書き、魔法陣を作る。その中央に座り込むと、周囲の魔力を吸収しはじめる。鎧の修復と、自身の回復を、同時に行うためだ。
昼少し前に、封印が破れるというのなら。その後は地獄になる。
兵士達の中には、これが最後の休憩となるという者も多いだろう。陣が静かなのは、騒いでいる余力も無い、というからだろうか。
うずたかく積まれた魔物の死骸は、此処が涼しい高原とは言え、そのうち異臭を放ちはじめるだろう。
そうなると、別の意味で兵士達の士気は落ちる。
いずれにしても、今日、決着がつく。
そして、更に恐ろしい事態が起きる。ウルズの予言が外れる事は少ない。一体どのような事が起きるのか。
何にしても、もはや今は、怖れている場合では無かった。
また、封印に突き刺さっている巨大な剣から、破片が剥落して、大きな音を立てた。いつの間にか、兵士達はそれに慣れはじめている。フレイは鎧の回復に集中しながら、兵士達が不安にならないよう。毅然とし続けた。
1、よみがえる邪悪
ファフナーが、慌てた様子でばたばたと駆けてくる。
フルングニルは胡座を掻いて座り込んだまま、その不格好な走り方を見ていた。だいたい、用件は予想がつく。
「フルングニル様!」
「どうした」
「封印の様子が!」
わざわざ言われなくても、状況は見えている。
禍々しい魔力がますます強くなり、胎動の間隔も短くなってきている。此処でファフナーがするべき事は、それを報告することでは無い。
「ファフナー」
「はい?」
「それで、封印はいつ破れる」
「この様子だと、いつ破れてもおかしくはないですが……」
拳骨をくれてやりたくなる。此奴は巨神族屈指の魔術師であるのに、どうしてこうも頭の働きが鈍いのか。
しかし、拳骨をくれてやれば、頭脳明晰になる訳でもない。
「お前の予想では、いつだ」
「胎動の間隔の分析からいって、昼の少し前くらい……かと」
「そうか。 ならば、リンドブルムと、スヴァルトヘイムの魔物に、散発的な攻撃を続けさせよ」
敵を休ませず、可能な限り削っておいた方が良い。
指揮官が前線に散り始める。どうすればいいか分からない様子のファフナーに、フルングニルは雷を発作的に落としそうになるが、可能な限り怒りを抑えながら、言う。此奴も、きちんと使いこなせれば、ちゃんとした戦力なのだから。
「お前は、前線に戻って、封印の様子を解析し続けろ。 封印が破れそうになったら、すぐに俺にいえ」
「分かりました」
やっぱりどたどたと、ファフナーは不格好に前線に戻っていく。
解析が出来ているのなら、さっさといえ。怒鳴りたくなるのを、フルングニルは我慢したのだが。ファフナーはそれを理解していただろうか。
もしもフルングニルが倒れたときには、彼奴が巨神の全軍指揮を執ることになる。本来、それだけ地位が高いのだ。
なのに、あの情けなさ。
今回の戦いで、フルングニルは命を落とす可能性が高いと、自分で思っている。封印されている奴が何者かは分からないが、フレイもフレイヤも、それこそ己の総力で斃しに掛かるだろう。ここぞとばかりに、切り札の一つや二つ、投入してもおかしくない。オーディン辺りが、重い腰を上げて介入に掛かる可能性もある。
それに、もっと考えたくない事態も発生しうる。
たとえば、封印されている奴にとって、巨神族がどうでもよい、といった場合は。どうなるのだろう。
少し前から、考えないようにしている事もある。
世界そのものが、何かを滅ぼそうとするとして。それがどんな形を取ろうとするのか。もしも、フルングニルが世界そのものだったとしたらどうするだろう。考えて見ても、分からない。
あの封印の中には、何がいる。
喚声が響きはじめる。
前衛の部隊が、残っている魔物を使って、散発的な攻撃を開始したのだ。人間側の抵抗は激しく、さほど効果は望めないが、それでも精神力と体力を削り取ることは可能だ。これから何が起きるか知れたものではないのである。決戦前に、敵の力を可能な限り削いでおかなければならない。
まだ、封印が破れるとされた刻限までは、時間がある。
「そろそろ、本格的な攻撃に移れ」
「よろしいのですか?」
「かまわん」
フルングニルも、前線に出ることとする。
ここからが、本番だ。
巨神族の猛攻が開始された。
最後の防衛線に、散発的な魔物の襲撃があった。休んでいた兵士達も叩き起こさざるを得なくなり、撃退をはじめた矢先である。
満を持して、という雰囲気で。巨神の軍勢が動きはじめたのである。
「サラマンデル!」
アルヴィルダ姫が、流石に疲れを見せながらも、前線で戦い続けている。
彼女の周囲にまで、既に巨神族は迫っているが。少なくとも顔には、恐怖や焦りは見えなかった。
それが、疲弊している兵士達を、少しでも勇気づけている。
フレイも、呼ばれて前線に出て。その光景を見た。
もっとも、すでに前線は、限りなく本陣に近い状態だが。
「流石だな。 フレイヤ、苦戦している箇所に加勢するぞ」
「封印は、如何いたしますか」
「今は、そうもいってはいられまい」
左翼に位置したエインヘリアルには、最も強力な敵部隊が襲いかかっている様子だ。だが、青い光が迸る度に、敵が吹き飛んでいるのも見える。ブリュンヒルデが、この間の戦いでの借りを返すとばかりに奮戦しているのだろう。
あちらは、大丈夫だ。
一方。右翼部隊は、かなり押されているようだ。
アルヴィルダが指揮を執っている中央部隊は、サラマンデル隊の奮戦もあって、互角以上の戦いを行っている。
だが右翼部隊は足場が悪く、サラマンデルを展開できずにいる。
ブルグントの精鋭が出張って必死の抵抗を繰り広げているが、それでもかなり危険な状態だ。
「まずは右翼に加勢するぞ。 フレイヤは中央部隊に加勢して、敵の攻勢を粉砕してくれるか」
「分かりました。 兄様、ご武運を」
「うむ」
右翼へ急ぐ。
柵は既に引き倒されており、一刻も早い介入が必要だ。文字通りの神速で駆けつけると、剣を振るう。棍棒を振り回して、兵士を吹き飛ばそうとしていた巨神を数体、まとめて胴斬りにする。
ラーンがクロスボウのバネを巻いているのが見えた。なるほど、シグムンドが言うように、相当に奮戦している。
数少ないサラマンデルの周囲に、敵が群がっている。
既にサラマンデルは火を吐きすぎて、放熱が必要な状態になっている。かなり危ない。フレイはサラマンデルの前に躍り込むと、飛びかかろうとしていた巨神達を、右へ左へと斬り倒す。
「神が来たぞ!」
「好機! 敵を押し返せ!」
無言でフレイは剣を構え、全力で踏み込み、横に薙ぎ払った。
十を超える巨神が瞬時に真っ二つになる。斬撃の速度が凄まじく、逃れられるものではない。
勢いを取り戻した兵士達が、確実に敵に矢を浴びせ、打ち倒していく。
サラマンデルが放熱を終え、炎をはきかけ。迫りかけていた中巨神を、即座に消し炭にした。
たいした火力だ。
グンター王は、既に苦戦を察知してか、右翼に来ていた。
昨日からの攻撃に対応し続けたためか、かなり疲弊が見て取れる。王自身も、クロスボウを手に戦っているというほどの乱戦が、周囲では続いている。
「神よ、助勢感謝する」
「うむ」
「敵、来ます! 大軍です!」
「何を今更。 全て蹴散らすまでだ!」
グンター王の鼓舞に、兵士達が歓声を上げた。
フレイは一度剣を収めると、サラマンデルの上に飛び乗る。そして、トールの剛弓を引き絞りに掛かる。
凄まじい剛弓だが、そろそろ扱いにも慣れはじめている。弓を引く速度も、少しずつだが、上がっているようだ。
指を、矢から離す。
轟音と共にぶっ放された矢が、数十体以上の巨神を吹き散らしながら、飛ぶ。そして、迫り来ていた大巨神の上半身を消し飛ばした。敵が慌てて散開するが、それは陣を乱す結果につながる。死を怖れぬ巨神も、損害は怖れる。陣が維持できなくなれば、組織戦に支障が出るからだ。
更に、拡散型の弓に切り替え、掃射に掛かる。制圧射撃を続けているうちに、今度は中軍に、敵の主力が集中しはじめた。
あちらはフレイヤが奮戦しているが、敵の数は恐ろしいほどに多い。また、右翼部隊も、敵は決してエインヘリアルの槍から放たれる光に尻込みしていない。
此処が勝負所とみたからだろう。惜しまずに兵力を投入してきているようだ。
「中央部隊に、リンドブルムの群れ、多数接近中! 上空から、巨神と協力しての攻撃を行うつもりのようです!」
「いや、これは……」
さては前線を無理矢理突破して、封印に迫るつもりか。
違う。フレイヤがサラマンデルの上に乗り、精霊の弓を引き絞るのが見えた。フレイヤを引きつけ、戦力を削るつもりだ。上空で、次々に爆発が巻き起こる。同時に、互角以上の戦いをしていたアルヴィルダの周辺に、敵の最精鋭らしい戦力が突撃を開始した。騎兵も雑多に混じっている。
フレイは無言で、右翼の指揮を任せると、中軍に向かう。途中から、敵の群れの中に飛び込むと、走りながら剣を振るい、立ちはだかろうとする敵は、片っ端から斬り伏せた。凄まじい数の敵が、それでも立ちふさがってくる。
何度も、棍棒が鎧を直撃しそうになる。
不意に、真横に、凄まじい殺気を感じた。
騎兵の部隊だ。しかも、敵の先頭に、明らかに凄まじい威圧感を放つ騎兵がいる。指揮官だろうか。
一瞬でも足を止めたら、あの部隊に蹂躙される。
封印の中から何者かが現れる前に、そのようなことになったら。しかし、今はそもそも、この猛攻を跳ね返さなければ、戦いそのものが成立しないのだ。
上空で、連続して爆発が巻き起こる。フレイヤが放った精霊の矢が、次々に爆裂しているのだ。ばたばたと落ちてくるリンドブルム。低い位置を飛んでいるリンドブルムは、兵士達が対処している。
敵の騎獣は既に相当な訓練を受けているのだろう。爆音を浴びても、まるで気にせず迫ってくる。
特に先頭にいる騎兵は、他と違って手に巨大な槍を持っており、フレイだけを見て突進してきていた。
足を止めたら、他の巨神共にも袋だたきにされる。
だが、前に大巨神が現れる。棍棒を振り上げている。これは、騎兵共に追い込まれたのか。
前に出るか、横に行くか。しかし、左は駄目だ。味方の陣に突っ込めば、おそらく騎兵も躍り込んでくる。最終防衛線に騎兵が突入したら、後は蹂躙を許すだけだ。それだけは避けなければならない。
右に飛び、敵の分厚い陣の中に飛び込む。
もはや、誰を斬ろうなどと、そもそも考えない。
無心のまま、ひたすらに殺し続ける。
そして、振り返りざまに、追ってきていた騎兵の足を薙ぎ払った。さっきまで先頭にいた奴ではない。乱戦の中、こっちに気付いて迫ってきた奴らしい。どうと、横転する気配。
だが、倒れた味方を飛び越すようにして、他の騎兵は追ってくる。特に最精鋭先頭の奴は、まるで心を乱している気配がない。
爆発音。
巨神が吹っ飛ぶのが分かった。
サラマンデルからの援護射撃だ。どうやら放熱が終わったらしい。騎兵が方向転換し、敵陣の奥へ戻っていく。
練度の高い騎兵隊だ。今度遭遇したら、必ず斃しておかなければ危ないだろう。
フレイは周囲の敵を斬りながら、自陣に向けて走る。
至近で爆発。リンドブルムの吐いた炎によるものだ。騎兵が振り回した棍棒が、何度も鎧を掠る。
陣に逃げ込んだときには、かなりの打撃を受けていた。
敵陣は乱すことが出来たが、しかし。混乱はすぐに収まり、また組織的な攻撃を仕掛けてくる。
指揮を続けながら、アルヴィルダ姫が話しかけてきた。
「フレイよ、時間を稼いでくれて感謝する」
「少し休む。 フレイヤは無事か」
「リンドブルムの対処を続けてくれている。 有り難し」
また、上空で爆発。
おそらくリンドブルムを指揮している魔術師が、被害の大きさに辟易したのだろう。一度リンドブルムが下がる。
代わりに、中巨神が中心となって、敵が一丸となって押し寄せてきた。
途方もない圧力だ。兵士達が波状攻撃で矢を浴びせかけるが、全前線が押されているのが分かる。
フレイヤが、サラマンデルの上から降りてきた。
「兄様、敵の大攻勢ですね」
「私は右翼に行く。 左翼のブリュンヒルデを支援した後、また中軍に戻って貰えるか」
「分かりました。 ご武運を」
苦戦している箇所に加勢しながら、フレイは走る。
その過程で、嫌でも鎧の消耗は増していく。このままだと、封印が破れたときには、継戦能力がなくなる可能性もある。
だが、それでは駄目だ。
密集している敵に、トールの剛弓から矢を叩き込む。吹っ飛ぶ敵。乱れる敵陣。目もくれず、次の味方の救援に向かう。敵を斬り伏せ。味方の兵士を襲う敵を倒し。ただひたすらに、敵の屍を積み上げる。
だが、その過程で、傷つく。とても無傷ではいられない。
味方も斃される。
シグムンドとすれ違う。軽く状況について情報を交わし合う。
「右翼部隊への攻勢が凄まじい。 俺たちも今から向かうところだ」
「分かった。 すぐに助勢する」
「おいおい、どれだけ敵はやる気なんだよ」
ヘルギがぼやく。
右翼に出ると、見慣れないものがいた。櫓の周囲を鉄で囲い、上に兵士達が乗って矢を放っている。
据え付けの強力な大型クロスボウで、放った矢は確実に巨神を殺傷しているようだ。
櫓の側で、ヴェルンドが忙しそうに指揮をしている。
「来たか。 加勢を頼みたい」
「その櫓は?」
「例の小人が、壊された鉄の牛を修理して作ったんだ。 かなり強いぞ」
アウテンか。奴は少し様子がおかしいが、少なくとも助力はしてくれているようで、安心した。
そのままフレイは柵際に出ると、剣を振るう。
柵に向けて棍棒を振るおうとしていた巨神を胴斬りにした。周囲の敵を掃討して、顔を上げると。全身から煙を上げながらも、進んできている大巨神が見えた。
「サラマンデルの炎、出力が落ちてきています!」
「放熱!」
「しかし、大巨神が」
「私が対処する」
兵士達の前に飛び出したフレイが、敵に突進。阻もうとする巨神達を薙ぎ払う。だが無理な突進だから、当然敵も押し返してくる。横や後ろに回った巨神が、遠慮仮借為しに、棍棒を振り回してくる。
だが、彼らの頭を、次々矢が貫く。
シグムンドだ。
「いけっ!」
「うむ!」
わずかに出来た隙を、最大限に突く。
大巨神の棍棒が、振り下ろされる。だがその時には、既に敵の上空へ、跳躍していた。
敵を唐竹に、真っ二つに切り落とす。
消えていく大巨神を見て、兵士達が歓声を上げた。
敵陣を散らし、損害を与えたところで、一度陣に戻る。兵士達は士気を挙げていたが、その一人が呟く。
「? 何だか寒くなって来てねえか?」
「今は戦闘中……あれ。 本当だ」
気がつくと、いつの間にか影は相当に短くなっていた。それなのに、異常な冷気が周囲を包みつつある。
何だろう、これは。兵士達が騒いでいる。何が起きているのかは分かるのだが、しかしそれを兵士達に告げて良いものなのか。不安を煽るわけにはいかない。
弓に切り替え、敵の掃討を続ける。冷気は更に強くなってきていた。下手をすると、雪が降り出すかも知れない。
敵が、一度引き始めた。
味方の損害はかなり大きい。防衛線を破られこそしなかったが、破壊されたサラマンデルもあるようだ。
倒れた兵士達も、とても救護している暇が無い。
ウルズは昼少し前に、封印が破れると言っていた。頃合いか。
シグムンドが、来た。敵陣でフレイほどではないが、暴れてきたらしい。受け取った矢を乱暴に矢筒に放り込みながら、言う。
「此処は任せろ。 次の攻勢があっても、必ずはねのけてみせる」
「すまない。 出来るだけ急いで戻る」
「おいおい、巨神族の首魁を、片手間に片付ける気か?」
「後ろでこれだけ頑張っている人間達を守れず、何が神か。 接敵必殺の覚悟で出向くつもりだ」
勿論、片手間になど片付けられないことは分かっている。
前線を離れ、邪悪な力に汚染されつつある封印の側に。フレイヤも来た。頷き会うと、隠しておいた武具を取り出す。
対ロキ用に温存していた、必殺の武具だ。どちらも、それぞれの格では、まだ使いこなせないほどの強力なものである。
しかも、封印から出てくる奴は、ロキではない可能性が極めて高い。一体何者なのだろうか。
ふと気付く。
ウルズとアウテンが、高台から此方を見下ろしていた。
どちらの目も冷え切っていた。まるで、残飯を漁る野良犬でも見るかのように。フレイは意識を集中し直す。
既に封印に突き刺さっていた剣は、大半が崩落している。
これは、もう、まもなくだろう。
上空に離してあるリンドブルムが、映像を送ってきている。
どうやら、もう間もなくであるらしい。
「フルングニル様」
「ファフナーか」
おどおどとしたファフナーに、振り返らずフルングニルは言う。
解析はさせていたが、ようやく結果が出たという事か。あの封印には、何が閉じ込められているのか。
「封印の中には何がいる」
「そ、それが……」
「どうした」
「……」
煮え切らない奴だ。
苛立ち紛れに振り返ると、ファフナーは真っ青になっていた。ドラゴンであるのに、それがはっきり分かる。
「何が分かった。 はっきりせい」
「お、怒らないで、いただけますか」
「お前次第だ」
泣きそうになるファフナー。本当に情けない奴だ。これでもヨトゥンヘイム最強の魔術師であり、最古参の幹部なのだから、本当にため息しか出ない。
ヴァン神族がアース神族に破れた理由は幾つかあるが、最大のものは神材不足だ。トールをはじめとするアース神族の豪傑と渡り合える神は、ヴァン神族には殆ど存在していなかった。
フルングニルだけでは、どうにもならなかった。
今は、数では少なくとも圧倒している。神材の質も、敵に劣るとは思わない。
しかし、フリム王は。こういう情けない古参をどうにか鍛えるべきだったのではないかと、思えてくる。
王への批判ではない。実際問題、アース神族と戦える状況にまで持ち込んだのは、王の手腕が大きいからだ。王も万能ではない。そう言う意味では、右腕であるフルングニルも、努力が足りなかったというべきか。
「そ、それが。 計測を続けた結果なんですが」
「早く言え」
「あ、あの中には」
何もいません。
そう、ファフナーは言った。
はあと、呆れた声が漏れた。あれだけの凶悪な魔力が漏れ出ているのに、何もいないはずが。
ファフナーは、付け加えてくる。
「何かが潜んでいるのは事実なんです。 それがヴァン神族でもなく、アース神族でもなく、巨人に近い存在である事も、解析は出来ました。 それでも、調べてみると、あの中には、どうも生体反応がないようなんです」
「死んでいるということか」
「違います、なんというか、その……」
神でも人間でも、それが生物である事には変わりは無い。
肉で作られているか、魔力で作られているか。現象が形を為したのか。そういった差はあるが、「生きたもの」であるという。それらはこの世界にいる存在に、共通する事なのだとか。
しかし、あの封印の中からは、それが感じ取られない。
「つまり、どういうことだ」
「お、お神払いを願います」
「……」
ただ事ではないことを察してか、周囲が聞き耳を立てている。
フルングニルは面倒だなと思いながらも、周囲の者達に、散るように手振りをした。巨神達が、聞こえない範囲まで下がる。
どうもおかしい。フルングニルも、ファフナーが怖がっている所は、嫌と言うほど見てきた。だが、今回は、いつもとは少し違う気がする。
「つまり彼処に封じられているのは、想像を絶する化け物、という事か」
「強いていうなら、そうです。 ロキ様などではありません」
「ロキ様などではない、か」
それにしても、ヴァン神族最強の魔術師を、これほどまでに怖れさせるとは。一体潜んでいるのは何者なのか。
それが、本当に、此方の味方をするのか。
「具体的な正体は分からないか」
「か、仮説ですが」
ロキという神は、元々トリックスターだった。神々の間を気分次第で渡り歩き、好き勝手に混乱させては嘲弄していた。道化とも言うべき存在で、悪神ではないが善神でも無く、信用できぬ者であるが憎めない、という者だったのだ。
だが、ある時期から、不意に性格が変わった。
それまでも、かなり無茶なことをする神だった。色々悪事は働いたし、残虐な事だってした。ただし、それはアース神族だったら、皆そうではあったのだが。
しかしある一時期から、急に邪悪と言えるような、禍々しい性格を帯びるようになったのである。
やがて、アース神族から、ロキは完全に粛正追放された。
その憎悪をバネにして、ロキは強くなった。ヴァン神族を束ねる長となるほどに。
過程においては、間違ってはいない。
フルングニルは、ヴァン神族の所にロキが来たことや、地位を上げていったところを、見ているからだ。
だが、封印されているのはロキではないとなると。
それに、ロキが王になっていた短い期間、ヴァン神族が平穏だったかというと、それは必ずしも正解ではない。
むしろロキは暴君に近かった。ただし、フルングニル以上の強さを持っていたのも、また事実である。
アース神族を滅ぼすのには、確かにあの強さは必要だ。
たとえ、多くのヴァン神族が粛正され、ロキの前に味方の屍が積み上げられていた事実があったとしても。
封印の中には、何がいるのだろう。
ロキの最後の姿を、フルングニルは見ていない。オーディンに封じられたことは知っているのだが。
しばらくためらった後に、ファフナーは自説を披露した。
「ロキ様には、何かがとりついたのだと思います。 そして、そのままオーディンに封じられたのではないのでしょうか」
「とりついた、だと? 仮にもヴァン神族の長に上り詰めたほどの神にか」
「は、はい」
「それは、何者だ」
見当もつかない。
もしもそんなことが出来るとすれば。
そこで、前に立てた仮説が、閃光のように頭を走った。まさか、そんなはずは。いや、しかし、あらゆる状況証拠が、それが真実だと告げている。
ロキの性格が変わったのは。
一線を越えた、邪悪な性格になったのは。
アース神族との明確な敵対、それに封印。凶暴性の増加と、何よりも、巨人に近い性質。
それらの全てが、ある一点を示している。
フリムがそれを知っていたのだとすれば。ロキの封印解除には、ある意味が生じてくる。それは、文字通り。
アース神族からの、世界の奪回ではない。
「フルングニル様!」
「何だ!」
伝令が来て、思わず怒鳴ってしまう。
自身の軽率さに苛立ちながら、フルングニルは表情を改めた。強ばる伝令に、フルングニルは謝罪する。
「すまぬ。 今、苛立っていた」
「い、いえ。 恐縮です」
「何があった」
「陛下からの通信です」
魔術師達が、通信のための魔術が掛かった大型の水晶球を運んでくる。紫色の水晶球は、強い魔力を帯びていて、禍々しい光を放っていた。巨神でも運ぶのは難しいため、台車に乗せられ、運ばれているほどだ。
毎日とは行かないが、今までもフリムとは戦況に関してのやりとりをしていた。事実上の総司令官であるフルングニルである。当然の話だ。
フリムに聞く限り、ブルグント北部の戦況は一進一退で、敵の王都は鉄壁の守りを誇っていた。此方での戦闘が片付いたら、フルングニルが一気にけりを付けるつもりであった。既に前線に展開している味方の兵力は三十万を超えているはずだが、狭隘な地形や堅固な要塞を利用して、敵は良く守りを固めている、と言うところだろう。
だが、フリムから、しかもこんなタイミングで通信が来るというのは、どういうことなのか。
既に準備は整っていたらしく、すぐにフリムが水晶球の向こうに姿を見せる。
「フリム陛下、如何なさいましたか」
「そろそろ、封印が解けるところではないかと思ってな」
「は。 間もなく、でございましょう」
「ならば、命じておこう。 封印から現れるものと、フレイとフレイヤが、相打ちになるか、もしくは斃されるようにせよ」
やはり、そうだったか。
そうだったのだ。フルングニルを派遣したのは、封印から出てきたばかりのロキが斃されないようにするためではない。
「意外ではない、という様子であるな、フルングニル」
「聞かせていただきましょう。 一体何があれから出てくるのです」
「話すわけには行かぬ。 なぜなら……」
「世界そのもの、でありましょう」
フリムが頷く。
そうだ。やはり、そうだったのだ。
通信を切るフリム。フルングニルは天を仰いで、大きく嘆息した。この軍勢は、最初からロキを奪還するためのものなどではない。
あの封印の中に封じられていたものを、暗殺するためだけのもの。
その結果、世界には、完全なる変革が訪れる。
世界による意思が動き出す。その事を知る者は、最小限で無ければならないのだ。
「ファフナーよ」
「はい」
「あれを用意せよ」
あれ、とは。
アスガルドを攻撃するために準備してきた、切り札の一つ。
今だ大半のエインヘリアルを温存しているアスガルドに取っては、これを叩き込まれることは、間違いなく破滅の第一歩となるだろう。それを、此処で試運転する。
ただ、フルングニルは思うのだ。
フリムには、本当に勝算があるのだろうかと。これは賭だ。上手く行けば、ヴァン神族は、本当の意味で世界の覇者になる事が出来る。
だが、失敗すれば。
アース神族と一緒に、世界から消えて失せる事になるだろう。
用意されてきたのは、巨大な筒状の砲である。
既に、第一射は、何時でも出来るようになっている。本当はナグルファルに搭載するつもりだったのだが、あれは役割を終えた。
「ファフナー、抱えて飛べ。 出力が足りないようなら、リンドブルム達に飛翔の手伝いをさせよ」
「え、ええっ!?」
「俺が指定したタイミングで打ち込め。 狙いは、封印だ」
まずは、フレイとフレイヤが、消耗しきるのを待つ。勿論、そのまま「ロキ」が勝ってもまずい。
中に封じられている奴の正体は、フリムとの会話ではっきりした。その存在こそは、まさに始祖の中の始祖。
勿論そのものではない。
斃された事による怨念を蓄えた、闇そのものの側面だろう。
だが、それが斃されるという事は。
フリムの狙いがよく分かった。フリムは、文字通り、全ての王となる事をもくろんでいた、という事だ。
それくらいでなければならない。フリムはヴァン神族の王だ。フルングニルが仕えてきた存在だ。覇気が満ちてくるのを、フルングニルは感じた。今こそ、虐げられしヴァン神族が、世界を握るとき。
「あくまで、封印の中にいる奴は、「フレイとフレイヤ」が斃さなければならない。 それを理解しておけ」
「は、はあ……」
もしも気付かれたら、当然反撃してくるだろう。
その場合にも、策は練ってある。
フルングニルは腕組みすると、ばたばたと不格好に羽ばたいて、空に舞い上がるファフナーを見上げた。
ここからが、正念場となる。
場合によっては、ファフナーは使い捨てる必要があるだろう。それと、もう一つ、やっておくべき事がある。
側にいる伝令を手招きする。
「スリヴァルディに連絡を取れ。 ここに来るように伝えよ」
「は。 将軍は、前線で敵とにらみ合いの最中でありますが、構いませんか」
「構わぬ」
伝令が行く。
此処からは、戦いどころでは無くなる。
生き残ることが、最重要の課題だ。そのためには、手を打ち間違える訳にはいかなかった。
2、闇の祖
辺りの空気が、露骨に変わる。
フレイは、神になってから戦慄を感じたことは、あまりない。現象の人格化というものが、神だと思っている。だから、それをそのまま、感じてきた。師に対する尊敬はあるし、オーディンに対する畏敬も持っている。だが、凄まじい力に対する恐怖と絶望というものは、味わったことがなかった。
だが、それも過去になろうとしている。
封印から、紫色の光が漏れはじめる。
物質化するほどの高密度魔力も。流れ出た魔力は霧状になり、地面に到達すると、おぞましいねじくれた結晶を作り上げていった。
既に前線では、小競り合いがまた始まっているようだ。
「兄様、封印が……」
フレイヤの言葉に、頷く。
ついに、刺さっていた剣が。
全て、砕け散った。
砕けた破片が溶けるように、空に消えていく。同時に、封印から漏れ出ている禍々しい魔力が、一気に爆発的に増加した。
辺りが、変わっていく。
霧が、ヒトの形を取っていく。
フレイが弓を構える。トールの剛弓ではない。火山の弓と呼ばれる存在だ。
小人達が総力を結集して造り出した、火山の火力をそのまま込めたという、究極の破壊力を込めた弓である。
その破壊力は、文字通り火山の噴火にも匹敵する。
ただしあまりに破壊力が大きすぎるので、使用するために長いためが必要になる。その上、魔力の消耗が大きく、今のフレイでは一度打ち込むのが精一杯だ。テュールがこの間、手配してくれた武具。
おそらくは、この時を、生き延びるためだけに。
フレイヤも、武具を構える。
此方は槍である。
トールの雷撃を封じ込めた凶悪な槍で、雷鳴の槍と言われている。このタイプの槍は何種類かアスガルドに存在しているのだが、その中でも上位のものだ。凄まじい雷撃を槍から放つ。
王錫と違っているのは、雷の密度が段違いなことで、しかも収束する、という点であろう。
一体の敵を葬ることに特化している武器なのだ。
弓を、引き絞り終える。
「フレイヤ、敵が明確な形を為した瞬間、総力を叩き込むぞ」
「はい、兄様」
周囲が、全て壊れていく。
それは錯覚だと分かっているのに。
地面に吸い込まれていくような。空に吸い出されていくような。冷や汗が、流れる。どうしてだろう。
怖いからだ。
妹が側にいても。守るべき存在がいるというのに。怖じ気づいているのか。だが、それも、此処までだ。
それは、大巨神よりも大きかった。
フルングニルよりも、なおも大きいだろう。
引き絞った弓。つがえている矢が、震えている。震えを押し殺す。少なくとも、フレイヤの側で、無様を晒すわけにはいかない。
知っているのだ。フレイヤがどれだけ弱かったか。自分が守らなければ、その形さえ保てないひ弱な妹。最悪の意味で強かった先代フレイヤとは、真逆の存在だった。自分がしっかりしていなければ、フレイヤだって、この恐るべき邪悪には立ち向かえない。
醜い顔。
巨大すぎる体格。
手足がはっきり見えてくる。武器のようなものは、持っていない。
嗚呼。
叫んでいる。そいつが、何かを喚き散らしている。それが、痛みへの憎悪だと気付いた瞬間、フレイは火山の弓の火力を全開に、炎の矢を十本、同時に打ち込んでいた。更にフレイヤも、雷撃の槍の火力を解放し、敵へ叩き込む。
一瞬、光と音が消えて。
最初に光が駆け抜け、次に衝撃波が。とどろき渡った音が、物理的な破壊力さえ伴って、フレイとフレイヤに吹き付けてくる。
まるで火山が噴火したような超火力が、完全解放されたのである。更に、其処にミョルニルに等しい雷の一撃が入ったのだ。
これを食らって無事な神など、理論上存在しない。
轟音と共に、地面が溶けている。
濛々と上がる煙は、さながら活火山の噴火口のごとし。フレイはゆっくりと、火山の弓を下ろした。
手がまだしびれている。
やはり、まだ使うには、強力すぎる武器であったか。
フレイヤも、相当な魔力を消耗したらしく、その場に膝を突く。今の雷は、殆ど閃光と呼ぶに等しかった。
「にいさま……!」
フレイヤの震える声に釣られて、顔を上げる。
其処には。
いた。
いるはずがない、巨体が。
全身が焼けただれている。流石に無事では済まなかった。だが、斃しきることも、出来なかった。
踏み出してくる。
全身が漆黒に覆われているそいつは、顔は巨神よりも更に凶悪に歪み、口元からは長い牙が覗き、目は紅く瞳孔が見えない。角も、かなりの数が生えているようだ。
「出迎えご苦労。 我の体に傷を付けるとは、アース神族も生きが良い迎えを寄越したものよ」
溶岩から、化け物が足を引き抜く。
人間達も、気付いたようだ。その化け物の、あまりにも圧倒的な威容に。
「貴様は……!」
「我が名は、ロキ。 今の名前は、だがな」
「……!? ロキではないとなると、貴方は、何者です!」
「もう分かっているのだろう? 我こそは、ロキの体に憑依し暗躍せし者。 この世界の全てを作り上げし始祖の存在。 始祖でありながら、お前達は我に敬意を払うこともなく、用が済んだ途端にその肉体を滅ぼしてくれた。 そう、我の名は」
ユミル。
その名を聞いた途端、フレイの心に、今までで最大級の衝撃が突き抜けていた。名前そのものが、とんでも無い魔力を有している。
名前が解き放たれた瞬間、空にひびが入ったようだった。
あってはならない言葉が、世界を侵食していく。ロキの体を乗っ取り、暗躍した存在は。ユミルというのか。
電撃的に、心が塗り替えられていく。今まで封じられていた言葉、出来事、記憶が、流れ込んでくる。
そうだ。どうして忘れていたのだろう。
始祖の存在が、存在していたという事を。
そのものは巨人もアース神族も、ヴァン神族も、全てを等しく造り出した、偉大なるグレートファザー。
海も陸も山も空も、何もかも何もかもが、その巨人から剥落することで誕生した。そして、世界が誕生した後。
アース神族と、ヴァン神族が、共謀して、そのものを葬り去った。世界の覇権を握るために。そして、邪魔だった巨人を世界の中心から追い払い、自らが世界の支配権を奪ったのだ。
地面が揺れる。
世界が、無理が来すぎていた場所が。
壊れようとしている。
名前が、ただ解き放たれただけだというのに。たったこれだけの言葉が、世界に満ちただけだというのに。
凄まじいなどという言葉など、あまりにも生やさしすぎる。
封印から漏れていた力は、この化け物の全身から、呼吸のように漏れていただけのものだったのだ。
心が、折れる。
膝を、フレイはついていた。
肩に、手を置かれた。
側には、怒りを目に湛えた、シグムンドがいた。ヴェルンドもヘルギも、ラーンも、それにアルヴィルダも、グンター王も。
北の民の精鋭もいる。ブルグントとゴートの精鋭達も。
「立て。 あの化け物と戦うんだ、フレイ」
「無理だ。 奴は、世界をつくりし存在。 全ての始祖だ」
「その割には、随分と禍々しいようだがなあ。 へっ、あんなうすらデカイバケモンに、世界は作られたってか」
ヘルギが、前に出る。
大きな体のヘルギだが。悠々と歩き来るロキ=ユミルの前に出てしまうと、芥子粒のようだった。
「戦士は、最後まで戦うものだ。 彼奴のように」
「しかし、勝ち目が」
痛みが走って、地面に投げ出された。
それが、殴られた結果だと、気付く。人間の貧弱な拳で殴られたというのに、どうしてこうも衝撃が大きいのだろう。
「お前は、勝てる戦いだから、戦っていたのか。 戦士は、たとえ勝てなくても、最後まで勝機を探るもんだ」
「……」
「先に行っている。 前線の連中も、そう長くは保たない。 速攻で、あの化け物を、潰すぞ」
「おう。 神でさえ心が折れる相手に、俺が立ち向かう。 吟遊詩人が、歌にしたがるぜ」
「お前だけに良い格好をさせるか」
「同感だ。 調停者の一族である俺が、怖じ気づいちゃあいられないからな」
ヘルギが、歩いて行く。既に剣を抜いていた。
シグムンドがそれに続く。ヴェルンドも。
立ち上がって、フレイは傷を撫でる。痛みが、まだ残っている。
「神よ。 あの勇士を、死なせて良いのか」
アルヴィルダが前に出る。手には剣が既にあった。
黄金の鎧を着た親衛隊も、臆せずついていく。
「妾は行くぞ。 あのような勇敢なる者どもを、妾の前で無駄死にさせるわけにはいかないからな」
「我らは常に、アルヴィルダ姫と共にあります!」
「うむ。 そなたらも、あの怪物と戦う名誉を与えよう。 何が始祖の神か。 あのようなもの、憎悪と怨念を蓄えたただの化け物にしか見えぬわ」
グンター王が、ラーンを伴って、後ろで立ち尽くしていた。
側に具現化したブリュンヒルデが、無言で見つめてくる。アネットも。二柱とも、怖れている様子は無い。
「兄様。 私、先に行きます」
「フレイヤ……」
「勝ち目がないと分かっていても、私は戦士でありたい。 兄様も、そうではありませんか」
ロキ=ユミルの全身に、黒を基調とした禍々しい鎧が纏われていく。
それでも、人間達は怖れている様子が無い。
フレイは、顔を上げた。
「そうだな。 私は、何を怖れていたというのか」
鎧を身につけると言うことは、まだ奴の力は不完全という事。
それに、あのような異変に散々見舞われて、力を取り戻している筈がない。始祖神としてのユミルであれば、勝ち目はないにしても。
闇に落ち、弱体化し、怨念を蓄え、邪悪をまき散らすだけの化け物となった、元始祖神など。
この勇者達は怖れていない。
そして彼らを導くことこそ。
此処にある神、フレイのゆくべき路だ。
フレイは剣を抜く。
火山の弓は、もう使えない。それに、あれはロキ=ユミルにきちんと打撃を与えて、役割を果たした。
ならば、後はいつも通りに戦うだけだ。
「ブリュンヒルデ、アネット。 私とフレイヤが足を止める。 そなた達は、隙を見て、全力での攻撃を叩き込め」
「承知。 それでこそ、フレイ様です」
「分かりました」
アネットが、神剣を抜く。
ユミルが、そのおぞましい顔を、更に残虐に歪めた。
「きよるきよる羽虫共が! この始祖神たるロキ=ユミルが、そなたらをまとめて冥府に送り、全てを無に帰し! 新しき世界の礎と為そうぞ!」
高笑いするロキ=ユミルが、天に向けて両手を挙げる。
戦いの、始まりだった。
フレイが、走る。
全力で、前に出る。もはや、折れた心に痛みはない。喚声を上げながら、シグムンドと、ヘルギと、ヴェルンドが、ロキ=ユミルの巨体に迫っていくのに、追いつく。
「来たなフレイ! それでこそ俺達を導き続けた神だ!」
「迷惑を掛けたな」
「誰でも心が弱る事くらいはある! 立ち直っただけ立派だ。 デカイとはいえ巨神は巨神! みな、足を狙うぞ!」
「おおっ!」
シグムンドが一声掛けると、戦士達がさっと散る。ロキ=ユミルが一瞬だけ、注意をそらす。
フレイが剣を振るった。
鈍い音と共に、鎧に直撃。足下を斬られて、鬱陶しそうにロキ=ユミルは此方を見て、目を細める。
巨体が、かき消える。
頭上。
全力で飛び退いたその場所に、空から降ってきたロキ=ユミルが、拳を叩き込んできていた。
吹っ飛ぶ地面。縦横にひびが入り、局地的な地震さえ起きる。
わっと声を上げて、散開する人間達。
「フルングニルと同じ能力か!」
「かって、全てを造り出した我は、子供達に囲まれ、幸せな時を過ごしていた。 しかし子供達は、育つにつれて欲を得た。 やがて、私に対する要求は、どんどん過剰なものとなっていった」
誰に聞かせるつもりなのか、ロキ=ユミルが蕩々と語る。
その手が閃くと、辺りが爆破される。
目が光ると、遠くまで、瞬時に吹っ飛ぶ。目から放たれた光線が、遠隔地を焼き尽くしていく。
誰かが近づくと、瞬時に姿を消してしまう。
そしてまた、遠くから光線を放ってくるのだ。まるで、抵抗するフレイ達をもてあそぶように。
フルングニルでさえ、此処まで自由自在に空間をわたれなかった。
だが、それは逆に言えば。
あのフルングニルよりも少し優れている、という基準ではかれる存在だと言うことだ。奴の名前が途方もない魔力を内包している事は分かった。世界に影響を与え、封じられていた記録を解き放つほどに。
しかし今、奴はまだ不完全体。
斃す事は、出来る。
「私から剥落した要素である子供達は、やがて世界そのものを望むようになっていったが、それには私は邪魔だった」
「何をぶつぶつほざいてやがるっ!」
シグムンドが、至近から矢を叩き込む。冷静に空間を飛び回るロキ=ユミルの動きを見ていたらしい。
矢が、鎧に突き刺さった。
やはりまだ力は完全ではない。それに最初に浴びせた火山の矢と、雷鳴の槍の稲妻が、効いているのだ。
しかし、ロキ=ユミルは動きを止めない。
「やがて、私は謀殺された。 私から剥落した忠実な者達は、それによって理性を失い、巨人と呼ばれるようになった。 反逆者どもは、ヴァン神族とアース神族と名乗り、覇を争いはじめた。 巨人は世界の覇権から転落し、そして闇に落ちた。 おお、なんという血塗られた歴史か」
「これは、呪文詠唱!? 兄様、このものは何かを行おうとしています!」
フレイヤが叫ぶ。
なるほど、あり得ることだ。しかし、それは一体何をしようとしている呪文なのか。闇の歴史を蕩々と語ることが、何かを引き起こすのか。
あり得ることだ。実際フレイも、流れ込んできた歴史のイメージを見て、愕然としていた。
オーディンが覇権を握る前の世界については、確かに不確実なことが多かった。だが、偉大なる父を皆でよってたかって殺し、その権力を奪っていたとは思わなかった。一体何故、そのような非道を。
迷っている暇は、無い。
シグムンドがロキ=ユミルの足に飛びつくと、剣を突き刺す。矢を刺した位置の罅が、広がっていく。
「私はロキと呼ばれる道化者の体に憑依すると、全面衝突寸前まで争っていたアース神族とヴァン神族を、致命傷にまで追い込もうと考えた。 だが、そこにあの忌々しいオーディンが、現れたのだ」
空間を飛ぶロキ=ユミル。
だが、一緒にシグムンドも、転送されていた。振り落とそうとするロキ=ユミルだが、シグムンドは離れない。
ヘルギも、ロキ=ユミルに追いつく。
ヴェルンドも。
手から放った魔力が、迫る人間達を吹き飛ばす。しかし直撃を免れた人間達は、立ち上がり、闘志を燃え上がらせて、ロキ=ユミルに迫る。
面倒くさげに、奴が空間を飛ぶ。
だが、それを、フレイは待っていたのだ。
ロキ=ユミルが空間を渡り終えたとき。その至近に、フレイがいた。そして、トールの剛弓を、引き絞り終えていた。
シグムンドが、ロキの足から飛び離れる。
フレイは、完璧なタイミングで、矢を放つ。
ロキ=ユミルの左足が、踝から先が、吹き飛んでいた。ロキ=ユミルが、凄まじい音と共に、倒れ伏す。
「よし、今……!」
「オーディンは、私の正体を悟ったのだろう。 私を封じ込めた。 一瞬の隙を突かれたのだ。 だが、私はその時、私から剥落し、神々によって封じられた三つのものを、解き放つための準備を終えていた!」
ロキ=ユミルの周囲に、紅い光の幕が生じる。
突進した人間が、はじき飛ばされるのが見えた。一種の防御術式か。見る間に、ロキの足が、再生していく。
人間達が、矢を射かけるが。まるで効いている様子が無い。
再び立ち上がったロキ=ユミルが、手を振るうだけで、群がっていた人間達が吹き飛ばされる。
力が、違いすぎる。
だが、それでも。
シグムンドは諦めていない。爆発のあと、一瞬の隙を突いて、再び足に組み付く。剣を突き刺したのは、さっき鎧に出来た傷。強い魔力を込めているようだが、ロキ=ユミルの魔力は、もっと遙かに強い。
再び、空間を飛ぶロキ=ユミル。
しかも、上空に奴は出る。
不意に喋らなくなったところからして、奴の詠唱は終わったのか。地面に、思い切り体を叩き付けるロキ=ユミル。
シグムンドが、吹き飛ばされるのが見えた。何度かバウンドして、転がる。
だが、その時には。
フレイが、ユミルの真後ろ、至近にまで迫っていた。
大上段から、切り落とす。
ロキ=ユミルの左腕が、肘から吹き飛ぶ。
更に其処へ、フレイヤが放った精霊の魔弾が直撃し、大爆発を引き起こす。傷口を抉られたロキ=ユミルが、うめき声を上げる。
ブリュンヒルデが放った紫の光が、傷を抉る。
空間転移など、させない。
意識の集中さえ防ぎきれば、空間の転移は阻止できるはず。
「ぐおおおおおおっ!」
「やはり、かっての力は無いようだな!」
「今が好機ぞ! 総員、あの化け物を葬れ!」
グンター王が指揮を執る。今まで、あまりにも圧倒的な化け物ぶりに気圧されていた兵士達も、ついにやる気を出す。
フレイは加速。ロキ=ユミルの懐に潜り込む。
そして、一息に、剣を振るった。
シグムンドが付けた傷に、斬撃が潜り込む。ロキ=ユミルが絶叫する中、傷口が瞬時に拡大。
二度目の斬撃で、鎧ごと、足をたたき割った。
更に其処へ、北の民達が矢を一斉に叩き込む。矢を放った中には、ブルグントの精鋭もいる。ラーンの放った矢は、特にロキ=ユミルの左目に突き刺さっていた。
「サラマンデル!」
前線から一機、サラマンデルを引き抜くことが出来たらしい。アルヴィルダ姫の指示で、傷だらけのサラマンデルが、轟音と共に炎をはき出す。
全身を焼かれたロキ=ユミルが、唸り声を上げながら倒れ伏す。
時間を作らなければならない。また、ロキ=ユミルがシールドを張ろうとするが、させない。
間一髪で、シールドの内側に潜り込む。
巨大な手のひらが降ってきた。シールドの内側となれば、至近なのだから当然だ。叩き潰される。だが、跳ね起きる。鎧の負荷が何だ。此処で此奴を斃さなければ、全てが終わる。アスガルドが終わるなどと言う次元ではない。
文字通り、世界の全てが、消されかねないのだ。
斬る。
手のひらを、真っ二つに切り裂く。
足が再生をはじめているのが分かった。だが、知ったことか。切り上げて、顔面に一文字に傷を付ける。鮮血が噴き出す。だが、ロキ=ユミルも負けてはいない。目から光線を放ってくる。爆発し、シールドに叩き付けられる。もう一撃。
だがそれがロキ=ユミルにとって、最悪の致命打となった。
シールドが、内から消し飛ぶ。自爆に等しい。
「ぎゃああああああっ! ぐぎいいいいっ!」
対等に戦える相手がいなかったのだろう。
ロキ=ユミルの戦術はお粗末だった。あまりにも圧倒的な力を持っていただろうがゆえに、起きた悲劇だ。
何となく、この偉大すぎる存在が、オーディンら原初の神々に破れた理由が分かった。きっと対等に戦える存在が、一人もいなかったのだろう。だから強すぎる力はもてあますばかりで、やがて奪われた。
ここぞとばかりに、ブリュンヒルデが全力の一撃を叩き込む。
アネットが至近に迫り、ロキ=ユミルの無事だった左手に、剣を突き刺した。ロキ=ユミルは無理矢理上体を起こすと、周囲を光線で薙ぎ払う。口から火球を乱射して、辺りを片っ端から焼き尽くす。
だが、それでも、人間達は屈しない。
全員がずたずたに傷つきながらも、なおも戦い続ける。
戦士だから。
それが、矯正の結果であったとしても。
彼らは、彼女らは。戦士として、この場に立っているから。
ラーンが冷静に矢を放ち、ついに無事だったロキ=ユミルの右目に矢が突き刺さる。見事な活躍ぶりだ。足に、ヴェルンドが剣を突き刺す。指を、ヘルギの剣が叩き落とす。雄叫び。怒りの声。咆哮。
戦闘は凄惨を極め、血の宴は終点へ向かっている。
ロキ=ユミルの回復速度は凄まじい。その場その場で再生しているが、だが全てを同時に再生しきることはできない。
フレイヤが、全力での詠唱を続けている。
次のフレイヤの一撃で、勝負を決める。
はえたたきのように、目が見えていないロキ=ユミルが辺りを叩く。それがラッキーヒットとなって、至近で戦っていたアネットが衝撃波に飛ばされる。だが、地面でバウンドしたアネットも、すぐに自力で立ち上がって、剣を振るった。
渾身の一撃を、フレイが振り下ろす。
ロキ=ユミルの顔面が、大量の鮮血を撒きながら、真っ二つに割れた。
「ごがあああああああっ! おのれ、おのれえええええっ!」
ロキ=ユミルの魔力は流石で、これだけ総力での攻撃を叩き込んで全身を切り裂き続けても、なおも再生が続いている。
それだけではない。人間達の攻撃も、浅い傷しか付けることが出来ていない。体内の魔力が凄まじいまでに巨大なので、押し返されているのだ。
不意に、ロキ=ユミルの全身が、瞬時に再生した。
そして、フレイが振り下ろした一撃が、残像を抉る。呼吸を整えながら、ロキが上空に出現し、手を空にかざした。
目が血走ったロキが、呪文を詠唱し終える。
空には、まるで太陽がその場に現れたような、巨大な魔力球が出現していた。
「もはや許さぬぞ、この虫ども! 何もかも、消し飛ばしてくれる……!」
ブリュンヒルデが槍から光を放つが、ロキ=ユミルの体に突き刺さっても、致命打にはほど遠い。
万事休すか。
目から放った光や、口から吐いた炎、手から放った力だけでもあの破壊力なのだ。あのようなものを打ち込まれたら、多分高原全体が消し飛ぶ。
オーディンは、これでも介入しようとしないのか。
一体何に備えて、力を温存している。
だが、ぼやくのは。
全てが、駄目になってからだ。
一瞬だけでも、時間が稼げれば。走りながら、フレイは思う。ロキ=ユミルは残忍に顔を歪めると、まさに巨大な魔力球を今、放とうとした。
その魔力球が、かき消される。
何が起きたか、分からない。
当のロキ=ユミルが、一番愕然としていた。どうして自分が練り上げた術が勝手に崩壊したのか、分からないと言う顔をしている。
「な、に……!?」
「喰らえ!」
何が起きたかは分からないが。これこそ、天が与えし好機。
その時既に、フレイは跳んでいた。
最大限に加速し、更にサラマンデルを跳躍台として利用したのである。そして、残った力を全て振るうつもりで、渾身の一撃を叩き込む。
袈裟に入った一撃が、今までで一番膨大な鮮血をまき散らす。ロキ=ユミルが絶叫しながら態勢を崩し、地面に激突した。
グンター王が、声を張り上げた。
「とどめだ! 残った力を、全て叩き込め!」
フレイヤの詠唱が、完成する。
ブリュンヒルデが、ここぞとばかりに、残った力を根こそぎに叩き込む。ロキ=ユミルも今の術で魔力を相当に消耗していたらしく、傷がさっきよりも明らかに深い。いや、一度傷ついた部分は、脆くなっているのかも知れない。
「よし、フレイヤ、今だ!」
「うむ! 全員、ロキから離れろ! 回避だ回避!」
「お、おの、おのれ……!」
ロキ=ユミルが、シールドを張ろうとする。だが、其処にフレイが、トールの剛弓から矢を叩き込んだ。ロキ=ユミルの左腕が、消し飛ぶ。
のたうち回るロキ=ユミルに。
満を持して、フレイヤが歩み寄っていく。
手には、雷鳴の槍があった。
どうしてだろう。
フレイヤが、ロキ=ユミルの至近から、全力で槍を叩き込み。その巨体を雷撃の束で木っ端みじんに吹き飛ばしたとき。
何故か、奴は。
これ以上もないほど、不気味で嬉しそうな笑みを浮かべていたのだった。
フルングニルは、巨大な魔力の消滅を感じていた。
「ロキ」が死んだのだ。
此処までは予想通り。殺したのはフレイとフレイヤ、それに人間達。これにより、フリムの予想通りに、事態が動くこととなる。
「ロキ様、沈黙しました」
偵察をしていた魔術師が告げてくる。リンドブルムに特殊な視界拡張の術を掛け、遠くから戦況を偵察させていたのだ。
フルングニルの側に、ファフナーが降りてくる。
抱えている巨大な魔力消去装置は、煙を上げていた。
これは神的存在にとっては、必殺の武器になるものだ。何しろ魔力をまとめて消してしまうのだから。
神は存在を消去されるも同然なのである。
ロキが、完全に切れて、この高原そのものを吹き飛ばそうとしたときには流石にフルングニルも肝を冷やした。
だが、備えはしていたのだ。勿論、対応をためらう理由など、みじんもなかった。
「も、もう無理、れす。 手が熱くて、重くて」
「ああそうか。 休んでいろ」
恨めしそうに此方を見ると、手をふーふーしながら、ファフナーは去って行った。
巨神達は、みな不安そうに、顔を見合わせている。
希望だったはずのロキを殺せという命令。そして、躊躇無く従うフルングニル。一体此処までの戦いは何だったのか。誰もが疑念に思っていることだろう。
「軍をまとめろ。 一端フリム陛下の部隊と合流するぞ」
「は……」
十万を超える軍勢である。連れてきていた魔物は相当消耗したが、巨神だけでも途方もない物量となる。
そして、彼らは知らない。
これから文字通り、世界が滅ぶと言うことを。
騎兵の部隊には、先行して道を開かせる準備をしている。おそらく、退路では少なからず混乱が巻き起こる。人間と争っている場合ではない。斥候を早めに出しておいて、円滑に撤退しなければならない。
「別働隊五万は如何なさいますか」
「伝令を放って引かせろ。 戦略的な意義は既になくなっている」
「分かりました」
不満そうな顔の部下に、フルングニルは何も返さない。
此処からは、本物の地獄が、地上に出現する事となる。今までの地獄など、生やさしいと思えるほどの。
何しろ、世界が。本当に滅ぶのだから。
ラグナロクは、ここからが本番だ。
ほどなく。ロキのものらしい魔力が、世界に広がりはじめた。
いよいよ、扉が開かれるらしい。
フリムから通信があった。
「フルングニルよ、首尾は」
「は。 ロキ様はフレイとフレイヤ、その導いている人間どもによって、葬られた模様です」
「予定通りだな。 可能な限り急いで、その高原から離れよ。 ヨトゥンヘイムから、観測班が悲鳴混じりの通信をしてきた」
フリムの声は冷え切っていた。
フルングニルは、分かる。フリムは冷厳なる最高神となろうとしている。己を、冷厳へ、至高へと、押し上げようとしている。
「ムスペルへイムが、姿を見せたそうだ。 近づいている、ではない」
「なるほど。 では避難を急がせましょう」
「不要。 全てが我が手に入った暁には、全ての情報さえが余の思うとおりになる。 死した巨神をよみがえらせるなど、造作もない」
「……」
通信が切れる。
そうか。これが滅びだから。その先にある創造のためには。悪鬼でさえ怖れる存在で無ければならない、ということか。
乾いた笑いが漏れてきた。
「撤退を急げ。 巻き込まれるぞ」
「い、一体何に……」
「分からんが、世界を滅ぼそうとする、具体的な力だ」
フルングニルはぶっきらぼうだと思いながらも、吐き捨てる。フリムは、冷厳な最高神となろうとしている。
フルングニルは、変わることが出来るのだろうか。自分でも、分からなかった。
3、鍵と扉
雷神トールの一撃にも等しい攻撃。しかも、至近からそれの直撃を受けて。ロキ=ユミルは、確かに粉々に砕けた。
魔力も消えた。神としての、死を意味する事だ。
しかし。フレイは、感じていた。あの化け物は、死んでいない。いや、死んだことは死んだが、何かおかしいと。
「見ろ!」
兵士の一人が、戦慄に声を震わせ、指を差した。
其処には、粉々になった筈のロキ=ユミルが巨体の一部。しかも、頭部だけが浮かんでいたのである。
よく見ると、それは実体化さえ出来ていない、希薄な魔力の塊。
だが、どうしてだろう。
何故、死んだのに。負けたのに。奴は、勝ち誇った顔をしているのか。まさか、斃されることが、最初から目的であったのか。
いや、それはおかしい。あの呪文詠唱は兎も角、奴は攻撃される度に怒りの魔力をばらまいていた。
「愚かなる人間と、アース神族よ。 これでもはやアース神族に、未来はなくなったと知れ」
「未来が、無くなっただと……」
「私は言ったはずだ。 神々が封じた三つの現象。 それを解き放つと」
「何を言っていやがる……」
シグムンドが、ヘルギに肩を借りながら立ち上がる。
毒づく人間屈指の勇士は、嫌悪と怒りをロキ=ユミルの頭部に向けていた。だが、奴は、既に余裕綽々である。
「その一つは、死! 誰もが逃れられぬ筈の現象を、アース神族とヴァン神族は、世界の法則をゆがめることで、自分に迫らぬものとした!」
背筋に、寒気が走る。
神々が死ぬのは、外的な要因によって、殺された場合だけである。
病気にもならない。なったとしても、魔術で治療は容易だし、死へつながることはない。しかしそれは。まさか、死を自分から遠ざけていたから、であったとは。
「くくくくくっ、怯えているようだな。 そして次なる現象! それこそは、時! 正確には、老い!」
時は、確かに流れている。神々は加齢しない。正確には、加齢はするが、それが致命的な老いにはつながらない。普通の生物のように、老いの結果の死というものが存在しない。神々にとっての老いとは、死への路ではないのだ。確かに外見は変わるが、それによって能力が変わったり、知恵が致命的におとろえることはない。イズンが若さを保っているのは、特殊な理由からで、別に老いても死にはしないのである。少なくともフレイは、老衰死した神を知らない。
アース神族は、自分に都合が良いように時の流れを管理していると、ロキ=ユミルは弾劾する。
時とはあらがえぬ力にて、誰もを老いに誘う恐怖。
マイナスの意味での時を、アース神族は封じ込め、自分たちだけは生を好きなだけ謳歌してきたと、ロキ=ユミルは叫んだ。
それは、その通りだ。
「そして! 最後の現象! それは滅び!」
「な……」
「お前達アース神族にとって、滅びさえも都合が良い代物に過ぎない! だが、そのお前達に封じられし滅びを、今私が解き放つ! いや、解き放った!」
そうだ、神々には。
滅びも、存在しない。
代替わりという手段によって、存在し続けている。死んだ後もである。これは、確かに普通の生物では、あり得ない事である。
ロキ=ユミルが高笑いしながら、溶けていく。
魔力が拡散しているのだ。
本当の意味での、神の死を、化け物となった創造神が迎えようとしている。高笑いが、辺りに響き続けた。
「恐怖せよ、愚かなる神々よ! お前達が好き勝手に独占してきた生と、成長と、それに不滅は、今相反する力によって相殺される! 私が造り出した三つの現象の権化、不死者男女王ヘル! 世界時間蛇ヨムルンガルド=フェンリル! そして破滅亡炎騎士スルトが、神々の名を持つ者と、そのしもべ全てに、断罪の刃を下すことだろう!」
高笑いが、消える。
兵士が、一人滑り降りてきた。血相を変えている。既に、ロキ=ユミルの残骸は、見えなくなっていた。
「で、伝令です!」
「どうした!」
「巨神族が、撤退を開始しました! 慌ただしく前線から兵を引いております!」
「どういうことだ」
此方は確かにロキ=ユミルを斃したが、全員が満身創痍に等しい状態だ。すぐにグンターが、側近と共に丘の上に向かう。アルヴィルダもそれに続いた。
フレイは躊躇した。
ロキ=ユミルが嘘をついていたとは思えない。あの呪文詠唱は、力を落としているとは言え、創造神が行ったものだ。しかも、あれだけの長時間である。どれほどとんでも無い術だったのかは、フレイ自身がよく分かっている。
シグムンド達と一緒に、丘の上に出る。
巨神は、もう一人もいなかった。
「どういう、ことだよ、おい……」
「何だかロキの野郎、ぶつぶつ呟いてやがったが、それが原因、じゃないよな」
唖然としているヴェルンドに、シグムンドが返す。
ふと、手を掴まれる。
側に、いつの間にかウルズがいた。
「やってしまったな。 とうとう。 これでこの世界には、破滅の三悪魔が解き放たれた」
「破滅の三悪魔だと」
「そうだ。 ユミルが言っていたことは嘘ではない。 無理矢理に押さえつけていた力が、目を覚ましたのだ。 神々に対する最大級の憎悪を持ったまま、な」
間もなく、此処にもその尖兵が来る。
それだけ言うと、ウルズはケタケタ笑いながら、走っていってしまった。向こうでは、アウテンが、にやにやと笑って此方を見ている。
アウテンと並ぶと、ウルズは声を張り上げた。
「全て終わる。 終わりの時だ。 このような時を回避するためにお前達に加勢はしてきたが、それもこれで終わりだ。 来てしまったからには、破滅は破滅。 巨神共を皆殺しにしてやりたかったが、それも放置していれば勝手に達成されるだろう。 スヴァルトヘイムも、運命は同じだ。 せいぜい楽しませてもらうとしよう!」
空が、紅く染まりはじめたのは。
その時だった。
いつの間にか、二人はいなくなっていた。
まるでワインを零したように、今まで昼だった空が、真っ赤に染まっていく。
あまりにも異常すぎる光景に、その場にいる皆が硬直し、或いは騒ぎ出していた。夕焼けではない。色が、違うのだ。紫を含んだあまりにも禍々しい色が、空の青に成り代わっていた。
「これは、いったい何事じゃ! 夕焼けとも違う! そなたら、このような現象を見た事は無いか! 神話にて前例はないか!?」
「わ、分かりません! 見た事もありません!」
「ええい、役に立たぬ!」
流石のアルヴィルダも取り乱して、周囲に苛立ちをぶつけている。
フレイが立ち尽くしていると、声が聞こえてきた。
イズンだ。
「フレイ、フレイヤよ……」
「イズンか。 何が起きた」
「恐ろしい事が起こりました。 冥界が反逆したのです」
「なにっ!」
死者の世界、冥界。
そこはアース神族の管理におかれ、ただ死者が陰鬱な生活を行うか、もしくは罪を償い続ける場所として、機能している。
だが、冥界が反逆したというのは、どういうことなのか。イズンは沈痛な口調で、話してくれる。
「突如冥界に、王を名乗るヘルという者が現れたのです。 かって、冥界にはヘルという女王がいた時代があったのですが、その者とは似て非なる存在のようです」
「ユミルが言っていた悪魔の一つか」
「そうですか。 ユミルから、直接聞いたのですね」
知っていたのか。
歯を噛むが、今は取り乱している場合でも、怒りをぶつけ合う時でもない。イズンに怒鳴ったところで、何も解決はしないのだ。
「反逆した冥界は、管理のために駐屯していた神を皆殺しにすると、宣戦布告をして来ました。 冥界の死者全てを、アスガルドに向け、必ずや滅ぼすという事です」
「なんと言うことだ……」
冥界は、死者の世界。
其処には、今まで生きてきた神々、巨神、それに人間の膨大な情報が保存されている。冥界では、それを自在に管理することが出来る。
死んだ者は、二度は死なない。
肉体を破壊されれば動きを止める。神々であれば、魔力を完全に拡散させるか、流出させれば、死ぬ。
しかし、冥界にいる死者には、そのような常識が通用しない。
今までは、確固たる統率者がいなかった。だから反逆は考えにくかった。しかし、今は。文字通り最強最悪の統率者が現れてしまっている。
「ヘルが放った軍勢が、既にミズガルドに達しているのを確認しています。 これより、アスガルドも全力での交戦体制を整えます。 貴方たちも、無事で……」
声が、途切れた。
そうか。
今、分かった。
オーディンは、この事態を最初から知っていたのだ。おそらく、ロキを滅ぼすことも、出来はしたのだろう。
だが、しなかった。これより巻き起こる、あまりにも巨大な敵との戦闘で、兵がどれだけいても足りないからである。そして、冥界だけではない。スルトなるものと、ヨムルンガルドなる化け物が、まだ控えているのだ。
じっと此方を見ていたシグムンドが、嘆息した。
「どうやら、ラグナロクは終わった、と言う訳じゃあ無さそうだな。 これからなんだ、あの空みたいな紅い敵でも攻めてくるのか?」
「いや、攻めてくるのは、おそらくは死者だ。 しかも、今まで死んだ存在全てであろうな」
「何……」
流石のシグムンドも絶句する。無理はない。
人間から魔術を神々が取り上げてから、随分時間が経つ。魔術によって出来た事はあまり多くはなかったが、それでも人間の中から、随分といろいろな常識が消えた。死者についても、それは同じだ。
封じられた魔術の中には、死者を好きなように操るものがあった。
似た類のものは、神々も使っている。エインヘリアルというのは、まさにそれである。ましてや、冥界の絶対支配者が誕生し、それが神々さえ統括した、死を司る存在だとしたら。
ヘルとやらは、おそらく超絶の魔力を持って、死者達にかりそめの肉体を与え、不死で不滅の軍隊として、送り込んでくる。
そして、そのターゲットは、アスガルドの神々だけではない。ミズガルドに生きる存在全てが、獲物と見なされるだろう。
「グンター! アルヴィルダ!」
フレイヤとと共に、二人の所へ行く。
冥界の話をすると、流石に二人とも顔色が変わった。意味は理解しているからだろう。もしも、死んだ相手全てが敵に回りでもしたら。その数は、文字通り想像することさえも不可能だ。
「すぐに王都に戻る必要があろう」
「うむ。 だが、このままでは身動きが出来なくなる。 途中、ハーゲンの別働隊と合流して、補給を済ませてからだ」
アルヴィルダの言葉に頷きながらも、グンターが冷静に言う。激戦を重ねた結果、既に此処の軍勢は半壊状態で、武器も兵糧も足りないのだ。卓越したグンターの指揮能力でまとめているが、本来ならとっくに秩序を失っていたことだろう。
すぐに、二人が撤退に取りかかる。
何しろ、あの巨神達が、急いで逃げ出したほどなのである。此処に留まっていたら、何が起きるか知れたものでは無い。
真っ赤に染まった空を見て、怯えているのは兵士達だけではない。
北の民達も、恐ろしい光景に震え上がっていた。むしろ戦士としては優秀だが、素朴な者達である分、より恐怖は大きいようだった。
「世界の終わりが来たんだ!」
傷ついた北の民の一人が、目を剥いて叫ぶ。
誰もそれを止めようとしない。
シグムンドでさえ、口を引き結んで、撤退する味方を見つめていた。おそらく何か喋れば、却って皆を怖がらせると感じているからだろう。シグムンド自身はどうなのだろう。怖くは、ないのか。
死を怖れていないことは知っている。
だが、素朴な民のよりどころであるバルハラの真実を見て知って。そして戦い抜いた果ての結果がこれで。心にダメージを受けないはずがない。
「フレイヤ」
「はい、兄様」
「前衛で皆を守って欲しい。 私は殿軍につく。 この様子では、いつ死者の軍勢が現れてもおかしくないだろう」
「分かりました。 それで、エインヘリアルですが……」
常に激戦の渦中にいたエインヘリアルは、既に三千を割り込んでいた。出来ればアスガルドに更に増援を派遣して欲しい所だが、状況を知っている今、そのようなことを言いだせはしなかった。
悩む前に、ブリュンヒルデが小走りで来る。
言葉を聞くまでもなく、結論は明白だ。
「フレイ様、フレイヤ様。 今、アスガルドから通信が来ました。 エインヘリアルを、すぐにアスガルドに戻すように、とのことです」
「やむを得まい」
「私も戻るようにと言われています。 それだけではなく、フレイ様、フレイヤ様も」
「そんな……」
フレイヤが、じっと此方を見た。
フレイは何も言えない。フレイも、真相はともあれ、今は自身をアース神族だと思っている。
アスガルドの危機を、見過ごせる筈がない。
しかし、人間達を、見捨てるわけにもいかなかった。先の戦いでも、一番勇敢だったのは、人間達ではないか。
「ブリュンヒルデ、私は此処に残る」
「フレイヤは常に、兄様と共にあります」
「……」
以前であったら、ブリュンヒルデは何があっても反対しただろう。だが、今の彼女は、人間達の奮闘を見ている。
だからか、反対はしなかった。
「分かりました。 地上の戦況が著しく悪く、見過ごせはしないというお二神の言葉、必ず伝えましょう」
「すまぬ」
「アネットは、おいていきます。 不出来な末妹ですが、回復の術も使えますし、少しは役に立てるでしょう。 私も、可能であれば、また地上に援護に参ります。 必ずや、お生きのびください」
後は二三やりとりをすると、ブリュンヒルデはエインヘリアル達を率いて、アスガルドに戻っていった。
肉体を魔力化して飛んでいくブリュンヒルデと、エインヘリアル。既に半減しているとは言え、大きな戦力だった。兵士達も、無言でその光景を見送る。
もはや、ミズガルドは。未曾有の危機にもかかわらず、神々の加護を受けてはいない。形だけでも派遣されていた援軍が、このような形で戻らなければならないとは。あまりにも酷すぎる。
しかし、ロキ=ユミルが生きていたら、更に酷い形で、ミズガルドは蹂躙されていただろう。
本当に、何もかもが。悪意をもって、世界に襲いかかってきているとしか、思えなかった。
「それでは、兄様。 アネットをつれて、前衛に参ります」
「武運を」
フレイヤとて、無傷ではない。
激烈な死闘で鎧を傷つけ、魔力も相当に消耗している。フレイも同様だ。このままでは、戦う前に、力を使い果たしてしまいかねない。
撤退が始まっている。
兵士達を守るため、フレイは黙々と歩き始めた。
4、この世の黄昏
フレイヤは兵士達の傷をアネットと一緒に治しながら、ほぼ二日間、無心に歩き続けていた。
騎馬隊は、既にハーゲンの部隊と連絡を取ることに成功している。今の時点では、まだ死者の軍勢は現れていない。
しかし空は夜になってもおぞましい血のような赤を湛え続けていて、そればかりか星さえも見えない。
アスガルドは何重も分厚い結界を張って、死者の軍勢を待ち構えているようだが、無限の物量を誇るに等しい死者の群れを、どこまで撃退できるのか。しかも、あのロキ=ユミルの言葉を信じるとすれば、アース神族にとっては天敵に等しい存在の筈だ。
何度かテュールに書状を出しているのだが、もう返事はない。
或いは、裏切り者とされたか。帰るようにと言われたのに、従っていないのだから、それも無理のない事である。
ようやく、前衛の部隊が、ハーゲンの陣地に到達した。
ハーゲンは疲弊した兵士達のために、かゆと肉、暖かい湯を用意してくれていた。先発隊が来て、すぐに準備をしてくれたらしい。殆どの物資を使い果たしたという事だが、此処から西は人類の生存領域だ。街などで補給が出来るし、巨神の軍が来るまでは荷駄もいたから、気にはしなくてもよい。一刻も早い王都への帰還をと考えているものも多いだろうが、こうして休止を入れておかないと、身動きが取れなくなる。
それは何も人間だけでは無い。兄やフレイヤに関しても同じだ。ロキ=ユミルとの死闘で、どちらも相当に消耗したのだ。慣れない武器を使い、常識外の魔力を前に戦い、攻撃も受けた。
「順番に眠れ! 王都は今、未曾有の危機に瀕している! 休息して少しでも体力を回復してから、王都に向かう!」
ハーゲンが兵士達に指示を出して廻っている。
アルヴィルダ姫はそれを一瞥だけすると、撤退中の味方を支援するべく、すぐに親衛隊を率いて、陣地を出て行った。休んでいるのは性に合わないのだろう。
アネットが追いついてきたので、指示を出しておく。
「アネット、貴方はアルヴィルダの護衛を。 回復の魔術を駆使して、怪我をしている兵士の行軍による負担を、少しでも減らすのです」
「分かりました。 しかし、死者の軍勢がいつ現れるか分かりません。 フレイヤ様も、お気を付けて」
「分かっています」
フレイヤはフレイヤで、陣地に辿り着いた兵士達の傷を癒やして廻る。どの兵士も、大なり小なり負傷しているような状況だ。
負傷兵の受け入れを進めながら、ハーゲンが此方に来る。表情は険しい。状況は、既に騎馬隊の先発隊に聞いているようだった。
「状況が混乱しています。 今偵察を放っていますが、巨神は前線から兵を引いているようです。 それほどの敵が来ると言うことなのですか?」
「今まで死んだ存在全てが、敵になるでしょう」
「な……。 一体神々は、何を敵に回したのです」
ロキ、いやユミルが言っていたことは、確かにもっともだった。どのような生物も、年を取り、やがては死ぬ。命数を使い果たせば滅んでいく。
神々だけは、その運命を無理矢理ねじ曲げて、繁栄を謳歌してきた。
いや、おそらくは、この世界さえがそうなのだろう。
状況を分析する限り、ユミルが創世を行ったとき、それが完全だったとはとても思えないのである。
本当にユミルが言うように、当時の神々が世界を奪ったのかはよく分からない。
だが、不完全な世界を、無理矢理維持するために、本来は必要な要素を封じ込んでしまったというのは、事実なのだろう。
一体何故、そのようなことが起きてしまったのか。
腹立たしいとは思わない。とにかく、今は現実を生きる人間達を、守らなければならないからだ。
「ハーゲン、戦えそうな兵は、どれほどいますか」
「せいぜい二万というところでありましょう。 一万以上いる負傷兵は兵士達は状態が酷く、すぐにはとても……」
「サラマンデルは」
「先ほど確認しましたが、十五機が無事です。 鉄の牛は、四機が」
壊滅状態とはこの事だ。十万を超える敵の軍勢と真っ正面から戦い続けたのだし、当然のことだろう。
だが、よくもそれだけ残っていてくれたとも言える。皆が諦めずに、戦い続けてくれたからである。
「いつ死人の軍勢が現れるか分かりません。 無事だった者達は、すぐに前線への配備を」
「ゴートの者達は、どういたしましょう」
「彼らの国を守るために、引き上げなければならないでしょう。 しかし、それまでは」
巨神共が何を考えているのかは分からない。
しかし、当面は奴らのことは、気にせずとも良いだろう。
フレイヤはハーゲンと幾つかの打ち合わせを終えると、頭を切り換えて、兵士達の回復をして廻る。
手足を失っている者も多い。どうしようもない状態の者もいる。まだ可能性がある兵士を、優先して助けるしかない。勇敢な戦いの末の負傷を、フレイヤは尊いと思う。いずれ、何かしらで報いなければとも。
今は、私情を押し殺して動く。回復をして動けるようになるならば、その方が良い。フレイヤが直接回復の魔術を掛けると、感動して涙を流す兵士達もいた。
「神自ら、奇跡を授けてくださるとは」
「お許しください。 貴方様には、吟遊詩人の歌のせいで、あまり良い印象を抱いておりませんでした」
素直にそういう兵士もいて、フレイヤも苦笑いしそうになった。
先代の乱行淫蕩の数々は、このようなところで、影を落としている。だが、今は、それどころではない。
千、二千と、兵士達が来る。半数ほどの兵士が休養を終えた頃、殿軍にいた兄が来た。今、残った戦力をグンター王がまとめて此方に向かっているという。
アルヴィルダも来る。その時には、ゴートの兵達は休養を既に終えていた。
「フレイヤよ、感謝いたす。 今後生き残ることが出来れば、手厚く貴殿を信仰するように、民に手配しよう」
「これから戻るのですか」
「ああ。 既に斥候を放ったが、ゴートの国内で得体が知れない勢力が出現し、各地からの連絡が途絶えているという。 間違いなく、死者の軍勢によるものであろうよ。 妾が戻らなければ、とても対処は出来まい」
そうか、ゴートからまず現れたのか。
サラマンデルを修復してくれていたアウテンも、ウルズと一緒に姿を消してしまった。だからか、「無事な」サラマンデルも、機体の損耗が激しいようだった。死者がどのような形で姿を見せるかは分からないが、これが本当に役に立つのだろうか。
だが、サラマンデルの中を見ると、物資を詰め込んだり、負傷者を輸送したりと、戦闘以外の用途でも使えているようである。
グンターが来た。
アルヴィルダは軽く礼だけをすると、自身がまず引き上げていった。勝手だとぼやく者もいたが。グンターはそうは思っていないようだった。
フレイヤも同意だ。
そもそも、長年の宿敵であるブルグントとゴートが一時的とは言え手を組めたと言うだけでも、奇跡的なのだ。その立役者であるアルヴィルダに感謝こそすれ、恨むというのは筋違いだろう。
先に出立するゴート軍を見送ると、ハーゲンが戻ってきた。
「陛下、お疲れではありませんか」
「最前線で戦い続けた兵士達に比べれば、何のことはない」
そういうグンターだが、やはり疲労は色濃い。見るからに疲弊が顔に表れてしまっている。
老齢の上に、殆ど夜通しの指揮を続けているのである。如何に若い頃頑強であったといっても、無理がある。
回復術を掛けると言ったが、首を横に振られた。
「余は少しだけ横になるだけで構わぬ。 兵士達を一人でも多く、助けてやって欲しい」
「分かりました。 無理をしてなりませんよ」
「うむ……。 ハーゲンよ、すまぬが全軍の再編成を進めてくれ。 準備が整い次第、全速力で王都に戻り、対応を協議いたそう」
「はっ。 ただちに」
出立は翌日と決まる。
その間、戻ってきたアネットと一緒に、フレイヤは交代を入れながら兵士達を回復して廻った。
兄はシグムンド達と一緒に、先に進んで、偵察をしてくれている。引くと見せかけて巨神が待ち伏せしている可能性もあるし、死者の軍勢がいつ現れてもおかしくはないのだ。殆ど兄が休んでいないのは心苦しい。だが、此処はそれぞれの役割を果たさなければならなかった。
アネットが目をこすって眠そうにしていたので、先に休ませる。
フレイヤも少し疲労がひどい。後百名ほど回復したら寝ることにする。いつ死者の群れが現れてもおかしくない状況である。
ラーンがいた。
彼女は木に背中を預けて、ぼんやりしていた。近衛の兵士に選ばれてから、その活躍は時々目にするようになっていた。おそらく射撃に才能があるらしく、的確に敵の急所を狙い撃っている事が多い。フレイヤとしても苦手な相手だが、今失うわけにはいかない戦士だ。
「貴方は。 まさか、ずっと回復して廻っているの?」
「怪我を見せて」
「わ、私は……」
「いいから」
ざっと見るが、大きな負傷はしていない。ただし体力の消耗が激しく、内臓に負担が掛かっているようだ。
ラーンの活躍はかなり著しかった。魔力も強く、当てた攻撃はほぼ確実に有効打になっていた。
だが、それが故に、体への負担も小さくはない。
フレイヤのことを嫌っているようだから、回復されるのは嫌かも知れない。フレイヤ自身も、ラーンは苦手。
だが、今はそのようなことを言っている場合ではない。
有望な戦士を失うわけにはいかないのだ。本当の意味でのラグナロクが始まってしまった今となっては、一人でも強い戦士は必要なのである。
回復の術をかけ終えると、ラーンはばつが悪そうにそっぽを向いた。
「も、もう休んでよ」
「後百人ほど回復したら」
「……」
「神の体力は、人間とは比較になりません。 貴方こそ、少し休んでいなさい」
何か言いたそうにしていたが、ラーンはそれ以上何も言わなかった。
予定人数の回復を済ませると、提供されている天幕に行き、横になって転がっていたアネットを揺すって起こす。目をこすって起き出したアネットに、状況を伝達。こくこくと寝起きのアネットは可愛らしく頷いていたが。目が覚めると、きっちり戦士の表情に戻って、回復の作業に戻った。
代わりにフレイヤが横になる。
ハーゲンが気を利かせて、忠誠度が高い兵士達を護衛に付けてくれている。いつ、死者が現れてもおかしくない状況だ。兵士達を一人でも多く回復し、なおかつ自身も可能な限り休まなければならない。
矛盾しているように思える二つを、同時にこなさなければならない大変さよ。
しばらく眠ると、起き出す。
既に夜になっているが、禍々しい空の色は変わっていない。むしろ、酷くなっているようだった。
アネットが額の汗を拭いながら戻ってくる。
「フレイヤ様、めぼしい兵士達の回復は終わりました。 後の軽傷者達は、人間の自己治療でどうにか出来るはずです。 回復する場合でも、手間はさほど掛からないでしょう」
「お疲れ様です」
見れば、陣でも出立の準備を始めている。
ゴート軍は既に全員が出立した後らしく、兵力はかなり目減りしていた。
多分、兵士が伝達したのだろう。ハーゲンが来た。
「馬車を何台か用意できました。 近くの無事だった街から、荷駄が運んできたものです」
「我々は大丈夫です。 負傷者とグンター王が使ってください」
「有り難きお言葉です。 フレイ様の話によると、今の時点で、敵影はないとの事。 しかし、いつ王都が敵に襲われるか分かりません。 すぐにでも出立したいのですが、よろしいでしょうか」
「分かりました。 まだ残っている軽傷者は、私とアネットが道行く片手間に回復しましょう」
頷くと、ハーゲンが声を張り上げる。
出立だ。全軍、出陣の準備をせよ。
既に、防御陣地は、解体が終わっているようだった。にわかに兵士達が活発に動き始める。
こうしてみても、この部隊の練度は高い。フレイヤも、何度も感心させられるほどに。
高地を軍勢が降りはじめる。
振り返ると。
高地には、雪が降り始めていた。
はじめて見る兵士も多いのだろう。何だあれは。この世の終わりの現象かと、声が飛び交っている。
ハーゲンが、急ぐように声を張り上げる。
グンターの負担を、少しでも減らすように。この忠臣は、いつも王の事を考えて、行動しているようだった。
粛々と軍勢が動く。
完全に山を全軍が下り、平地に出て。行軍速度は上がったが、陣形を崩さないから、王都まではまだ掛かる。
偵察に出ていた兵士が、戻ってきた、直後にそれは起きた。
傷だらけの伝令が来たのである。
「で、伝令!」
「如何したか」
「王都が、謎の敵に襲撃を受けております!」
ついに、来たか。
話を聞いていると、やはりその敵は、全く得体が知れないという。巨神でもなく、魔物でもない。
「どのような者達なのだ」
「それが、あり得ない話なのですが! 全身が原型がないほどに腐り果てた、この世の終わりより来た軍勢としか思えぬ者どもです! 人間、魔物、巨神、それに考えたくは無いのですが、神々のような姿をした者達までいます! 個々の戦闘力はさほど高くはないようなのですが、王都中の地面から沸くようにして現れまして、大混乱が続いています!」
戦力を集中して王宮の中の敵だけは掃討したが、王都の民が多く襲われ、救援の目処さえ立たない状況だという。
大半の兵士が出陣しているのだから、当然か。
それにしても、死した神々までいるとは。ヴァン神族との戦いで死んだアース神族や、逆に過去の大戦で死んだヴァン神族。それに、あまりこういうことは言いたくは無いが、アスガルドの今までの歴史の間で、オーディンに粛正された神や、代替わりした神の先代も、それの中にいるのだろう。
つまり、先代のフレイとフレイヤも、いる可能性が高い。
兄が来る。
グンターも、馬車から出てきた。
「ついに来るべき時が来てしまったか」
グンターが、声を震わせる。
おそらくこの様子では、他の街も、次々に襲撃を受けることだろう。悠長に動いている暇は無い。
もはやこの世は、人間が住める場所ではなくなってしまったのだ。
それでも、生きなければならない。
「戦わなければ!」
シグムンドが声を張り上げる。
心折れぬ勇者は、更に叫んだ。
「たとえ死そのものが敵であろうと、戦士である以上、最後まで戦い抜くべきだ!」
「うむ、北の勇者の言葉やよし! 余も同意である!」
兵士達が、勇気づけられ、歓声を上げた。
他の誰かが言ったのでは、説得力がなかっただろう。どんなときでも勇士としての存在感を見せつけ続けたシグムンドの言葉であったから、誰もが勇気づけられた。
心が弱っていた北の民でさえ、それは同じだった。
兄が申し出る。
「私が行く。 精鋭を選抜して欲しい」
「神の御心のありがたさよ。 ハーゲンよ、五千の精鋭を率いて、神に加わって欲しい」
「分かりました。 必ずや王都に現れた不埒な死者共を、掃討して見せます」
この本隊にも、死者が襲ってくる可能性は極めて高い。
フレイヤは残らなければならないだろう。もしも予備知識がないまま死者の大軍勢に襲われたら、如何に勇気があってもひとたまりもない。
「アネット、兄様と一緒に行ってください」
「フレイヤ様は、大丈夫ですか」
「私は平気です」
不安そうにしていたアネットだったが、しばらくの躊躇の後、頷く。
アネットの表情が、少し前から。
具体的には、ユミルとの戦いのあとくらいから、少しずつ人間的になっている事を、フレイヤは気付いていた。
無理もない。
あの落ちた創造神は、世界に封じられていたものを、根こそぎ解放していったのだ。あの悪鬼は怨念の塊だったが、確かに言っていることは理にかなっていた。神々はあまりにも、世界に無理をさせすぎたのだ。
ただ、フレイヤは思うのである。
オーディンはどういう意図があって、そのようなことをしたのか。権力をただ独占したかったのだろうか。違うように思える。
もはや、オーディンにそれを問いただす機会はないだろう。
兄が、精鋭五千と共に、先に出立した。
グンターが残った部隊の作戦行動を決める。
「これより部隊を幾つかにわけ、各地の街を救援しつつ、王都に向かう。 民は全て王都に集めよう。 既に世界は死者に覆われつつあり、各地にいる民を守れる状況では無くなっている」
「は。 やむを得ませぬ」
「騎馬隊は、各地の街を偵察。 状況を確認。 死者による攻撃を受けている街には、優先的に兵を送る。 もしもまだ無事な街があれば状況を伝え、すぐに王都へ向かうように指示を」
てきぱきと指示を出すグンターを見て、フレイヤも安心した。
これならば、守りがいもある。
人間はまだ諦めていない。
ラグナロクが、本当の意味で始まってしまった、今であっても。
(続)
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