砦の攻防戦

 

序、舞い降りる鷹

 

ブルグント王国。

南ミズガルドに存在する最大国家である。人口は百三十五万。隣のゴート国に、人口では一割、兵力ではその半分ほど勝っており、名実共に南ミズガルド最強の国家である。常備兵は六万。その殆どが男性である。

女性の戦士も、いる。

強い魔力を持つ事が多い女性の戦士は、上手く魔力を使いこなせれば、弓矢でも剣でも、男性以上の破壊力が期待出来る。その一方で、体力的な問題から行軍や分厚い鎧を着ての格闘戦には向かないという現実もある。

このため、ブルグント王国の兵士ラーンは、厳しい訓練を受けて一人前の兵士となった後も、不満を囲っていた。長かった黒い髪を短く切って、わざわざ兵士になった意味が、感じられなかったのである。

彼女が派遣されたのは、ゴートとの最前線では無かった。

北の「蛮族」に対する睨みを利かせるために作られた通称最果て砦の守備要員だったのである。

ラーンは弓の腕前に関して、同期のどの兵士よりも上だった自信がある。

彼女が放つ矢は強烈な魔力が籠もっており、的の裏側まで貫通することが一再ではなく、本気で放った場合的を割り砕く事さえあった。

剣の腕は若干怪しかったが、それでも振り下ろした剣が岩を両断した事もあったのだ。常識離れした腕力があるのではない。人並み外れた魔力が、ラーンには備わっていた。その魔力が、剣も矢も、破壊力を激増させていた。

兵士になったからと言って、ラーンは男勝りの性格だったわけでもない。

彼女の家族は、どちらかと言えば貧しかった。現実問題として、兵士にならなければ、南の穀倉地帯で一生土いじりをして過ごさなければならず、婚姻相手も選べないという事情があった。

北ミズガルドの蛮族ほどではないが、ブルグントでも強い女戦士は歓迎される傾向がある。

兵士として武勲を上げれば、かなり良い相手。たとえば騎士や将軍と、婚姻の話が持ち上がる可能性があったのだ。

白馬の王子様などと言う夢を見ていたわけでは無い。

だが、ラーンも、自分の路は自分で選びたかった。

ある程度武勲を上げれば、結婚相手に、選択肢が生じるのだ。

戦いで殺し殺されるリスクは承知の上だ。ラーンも平和な国で生まれたのではない。一族の中では戦場で死んだ人間も少なくない。それでも、好きでも無い男と結婚して、最低でも三人の子供を産み育てて、一生土にまみれて生きるのは嫌だった。

土いじりが劣った仕事だとは、ラーンも思っていない。

しかし、其処には、自由意思が存在しないのも、事実だった。農民に自由意思がある国なら、まだ良かったかだろうか。しかし彼女が生まれ育ったブルグントは、仕事上の役割がはっきり決まっていた。長い事周辺諸国と争い続けてきた国なのだ。軍人の地位は、農民よりもどうしても高くなる。それも仕方が無かったかも知れない。

だから、赴任先を聞いたとき、ラーンは心底から落胆した。

そして赴任先で、更に落胆することになる。

辺境の砦にいる兵士達は、いずれもがどこかいじけている者達ばかりだった。多分期待出来ないだろうと思って赴任したラーンは、初日から痛烈な洗礼を受けることになった。

其処にあったのは、イジメや体罰ではない。

無気力である。

此処にいる兵士達は、皆知っているのだ。北ミズガルドの蛮族達が、絶対に南へは侵攻してこないことを。

今まで、何十度と侵略をかけたのは、必ず南側だった。その度に痛烈な打撃を受けて、追い返されてきた。短時間の制圧に成功した例はあったらしいのだが、それも長くは続かなかった。

この砦は、間違って侵入してきた蛮族を、追い払うためにある。

そう、誰もが知っていた。

訓練はしっかりしていたし、巡回についても行っていた。砦は戦略的に重要で有り、北の蛮族が攻めてこなくても、たとえばゴートなどが遠征軍を繰り出してきて、奇襲を仕掛けてくる可能性もあったからだ。

だが、その可能性は極小。

だから、休みも多めに取られていて、その間兵士達はだらけきっていた。

この小さな砦では、城下に街もない。男の兵士達は娼館に行こうと思えば、近くの街まで、馬を飛ばしていかなければならなかった。砦を離れられる長期休暇の数は限られていたから、必然的に兵士達の楽しみは、酒に限られた。

そんなことは、ラーンにも分かっている。

だが、いじけた心では、思ってしまうのだ。

男は酒があれば幸せなのだなあと。単純にできていて羨ましいと。

指や手足を失う覚悟もして、兵士になった。それもこれも、生きる道を自分で選びたいと思ったからだ。

夕方に、馬鹿騒ぎから抜け出したラーンは、砦の城壁に上がる。

あかね色の空が、どこまでも広がっていた。城壁の上から見ると、昼とは違う美しさに染まったどこまでも連なる山々が、とても素晴らしい。

石造りの城壁も、血の色ではない優しい色に染まっていて、幻想的である。少しは、すさんだ心も癒やされる。

この砦には、他に女兵士もいるにはいるが、皆ラーン同様、すっかりいじけている者ばかりだった。

ため息が漏れる。

十代半ばで兵士になって、この砦に赴任して二年。このままだと、二十歳を此処で迎えてしまう。

武勲を上げ、地位の高い夫を得て、前線で活躍している女性軍人もいる。確か歴代の王妃の中には、一兵卒から其処までのし上がった人物もいたはずだ。

だが、此処では、そんな事は夢物語に思えてならない。極小の侵攻の可能性に備えるだけで、老い果ててしまうことを思うと、ため息ばかりがこぼれた。

城壁に腰掛けて、何度目のため息をついた頃だろう。

ふと、ラーンが気付くと。

側に、銀色の鎧を着た戦士が立っていた。見た事もないほどに、細緻な意匠を施された鎧である。

顔立ちも、女性のように整っていた。

「誰ッ!?」

反射的に剣を構える。

ラーンは腕力がないから、支給されているのは小型のショートソードだ。ただし魔力が人並み外れているから、小型の剣でも充分な殺傷力を、斬撃に乗せることができる。銀色の戦士は、幸い敵意は無い様子だ。ただし、見るからに強い。剣の腕に関しては、ラーンでは及びもつかないだろう。

「そなたはブルグントの戦士か」

「見ての通りよ。 綺麗な人、どこから入ったの?」

「そのようなことはどうでもよい」

戦士としての訓練を受けているから、ラーンも綺麗な顔の相手を見るくらいでは、動揺しない。

だが、雰囲気があまりにも違う。

いわゆる顔の造作が整った人間は、ラーンもいくらでも見てきた。他の女性兵士達と熱狂したこともあるし、恋をした事だってある。

だが、目の前にいる存在は。

本当に人間なのか、疑わしかった。

それくらいの存在感がある。心を平静に保つのが、とても難しかった。

「北ミズガルドの戦士達と非戦闘員が、これから此処に逃げ込んでくる。 湯と、けが人の手当の用意を」

「ちょ、なによ急に……」

「急げ」

妙な強制感が、その言葉にあった。

軍人として、組織的行動をする訓練は受けている。それなのに、どうしてだろう。その言葉には、従わなければならないような気がした。

怪しい魔術を使われたのではない。それならば、元来とても強い生体魔力が必ず反応する。

言われるまま、ラーンは銀色の戦士を、司令官室に案内した。

司令官室は、砦の二階にある。司令官の地位は佐官で、確か中佐だか少佐だったはずだ。温厚な中年男性で、いつもにこにこ笑っているが、あまり主体的な命令を出している様子は無い。

司令官室には、伝令が先に来ていた。

生真面目そうな男で、銀色の戦士を見ると、敬礼する。

「アスガルドのフレイ様ですね」

「うむ」

「えっ……」

その名前は、ラーンも知っている。

確か、アスガルドの神。ただ、ラーンが聞いているフレイという神は、オーディンの側近で、かなりタチが悪い女好きだった筈だが。

この銀色の戦士には、そんな雰囲気がない。

むしろ、近寄りがたい、神々しいまでの潔癖さを感じる。

男子が思っているほど、女子は相手を容姿で決めていない。女好きは雰囲気で分かるものだ。

ラーンは、女好きな男が大嫌いだった。

フレイと呼ばれた神には、嫌悪感が沸かないのである。どうも女好きには思えない。

「ならば、本当に巨神族が!?」

「早ければ、明日には来るだろう。 一刻も早く、避難民の受け入れと、戦闘の準備に取りかかれ」

「わ、分かりました!」

司令官が、ばたばたと部屋を駆けだしていく。伝令も、敬礼すると、おそらく状況を首都に伝えるためだろう。部屋を出て行った。

ラーンはぼーっとしていた。

状況から考えて、この銀色の戦士が、アスガルドの神であることは間違いなさそうだ。

話を聞く限り、とんでもない事に巻き込まれていることも、理解できた。

どうしていいか分からないうちに、事態が動く。

本当に、千以上の避難民が、砦に押し寄せてきたのである。怪我をしている者が殆どで、対応に追われることになった。

戦士もかなりいる。

受け入れてしまって良いのかと思ったが、司令官はフレイにぺこぺこするばかりで、言うことをハイハイと何でも聞いていた。

「ラーン君」

「あ、はい」

司令官は、千名ほどいる兵士の名前を、全て覚えている。

それだけが、尊敬できる唯一の点だ。その司令官に、不意に声を掛けられる。温厚なだけの、少し太めの司令官は、声を落として言う。

「フレイ様の側についていて、何か命令があったら、私にすぐに伝えて欲しい」

「分かりました」

何だか、フレイの側にいられると思うと、それだけで少し嬉しかった。

フレイに側につく事を告げると、好きにすると良いと言われた。だが、その後、付け加えられる。

「巨神達との戦いは、激しさを増す。 私の側にいると言うことは、それだけ危険が増すと言うことだ。 くれぐれも気をつけろ。 無為に死ぬな」

「分かりました」

フレイは真顔で言う。ラーンも、敬礼して、それに応えた。

死んでたまるものか。

どうしてか、そう思う。

神と人の恋物語は、神話で幾つでも存在する。ワルキューレに至っては、最高神オーディンと人間の間に生まれた娘だというでは無いか。

そんなことを、ラーンは考えていた。

 

1、絶え間なき猛攻

 

シグムンドは、丸一日眠っていた。

ブルグント国の砦に到着して、けが人の手当などの手配をして、更に非戦闘員をブルグント王都に輸送する手続きについて、フレイから説明を受けて。

全てが終わったところで、力尽きた。

石の床はどうも寝にくかったが、疲弊が上回っていた。一度眠ってしまうと、そう簡単には起きることができなかった。

ヘルギが来たのに気付いて、目を覚ます。

戦いの時か。

「シグムンド、まだ寝てて良いんだぜ」

「いや、充分に眠った。 お前こそ、もっと寝ていろ」

「俺は交代で寝ていたから、大丈夫だ」

大柄ないとこについて歩く。

戦士達の中でも、戦える者達は、もう武器の手入れに入っていた。ヴェルンドが、砦の人間と交渉しているのが見える。

「武器の手配か?」

「いや、くいもんだ。 なんだか、小麦を料理したとか言うのを出されたんだが、みんな口に合わなくてな」

それは一大事だ。

北の民は、肉を主食にする。野草も食べるが、あくまで肉が主体なのだ。

そうすることで、力を付けて、敵との戦いに備える。特に、戦の前には、熊を屠ったり、牛を屠ったりする。

レギンは、今頃無事にしているだろうか。

フレイの話を聞く限り、戦略的な意図があって残ったような口ぶりだった。あの豪傑が、簡単に死ぬとは思えない。

歩き回ってみて気付くが、暖かみがない建物だ。

ほとんどが石で作られていて、息が詰まる。確かに頑強なのだろうが、木の建物に比べると、全体的にひんやりしていた。

実際、建物の中がいやで、わざわざ外で寝た戦士も多かったという。

尖塔に登った。

木造に比べると、石造建築は著しく強度が高く、建物も背が高い。

遙か遠くまで見通すことができる。高木に登ったときと同じくらいの距離まで、だ。

南の連中の技術は、悔しいが凄い。

「武器の供与については、話がついているか」

「それがなあ……」

ヘルギに言われるまま、案内される。

砦の中庭では、兵の修練が行われていた。あまり技量が高い戦士はいない様子だ。北の戦士と比べると、著しく見劣りする。

ただし、集団で戦う事に、連中は特化している。

実際、集団で一つの生き物のように動き回る所は凄い。

問題は、武器だ。

剣を渡されたので、振ってみる。軽すぎる。

「これは、北の戦士には軽すぎるな」

そう告げると、ブルグントの兵士は度肝を抜かれたようだった。すぐに、大きな剣を準備してくると言う。

剣ではなく、槍で戦っている戦士も多い。

更に弓矢が違う。彼らはバネを使って発射する、機械仕掛けの弓を使っている。見ると、若干魔力を乗せるのが難しいようだが、扱い自体は簡単で、威力も大きい様子だ。

「なるほど、数が多いことを生かした戦い方をする奴らだと、近くで見るとはっきり分かるな」

「随分ね、蛮族のくせに」

振り返ると、女がいた。格好からして、戦士らしい。シグムンドの肩くらいまでしか背丈がないが、身に纏っている魔力は相当に強い。剣技は兎も角、弓を使わせたら、かなりものになるかも知れない。

フレイが遅れて来る。

「フレイ様、何とか言ってやってください! ブルグントのおかげで助かったのに、随分です!」

「ラーンよ、彼らの実力は、私も認めるほどのものだ。 武芸に自信が無いものは、多少手ほどきを受ける方が良いだろう」

「え? あ、そうですよね! 私もそうだって思ってました!」

ヘルギと顔を見合わせる。

南の女は、北の女と基本的に違うと聞いていたが、どうやら噂ではなかったらしい。とにかく価値観が分かり易い北の女と違い、南ではいろいろな価値観が有るとか。基本的に気まぐれで獰猛で、非常に扱いづらいと聞いたことがあった。

言っていることがさっきと違うことからも、その凶暴性の片鱗は見て取れる。ラーンと言ったか。できれば妻にしたくない型の女である。

とりあえず、それは後だ。

フレイと幾つか戦闘についての話をする。

やはり、巨神族は、早ければ今日中に攻めこんでくる可能性が高いという。

「奴らめ、疲れを知らないようだな」

「数が多いことを生かしているとみるべきだ。 交代しながら、疲弊が少ない部隊を順番に投入してきている」

「百万、だと言ったか。 我々だけで、一万は削ったか?」

「いや、五千程度だろう。 まだ敵は、充分すぎる継戦能力を残している」

何が嬉しいのか、女戦士はにこにこフレイの方を見ていた。話は多分、聞いているとは思えない。

ブルグント側の監視役だと思うのだが。監視役が、仕事をしなくて良いのだろうか。

「迎撃の準備は充分か」

「この城は、そもそも数年は戦えるだけの物資を蓄えていたらしい。 補給については、心配いらないだろう。 ただ、懸念事項がある」

「何だ」

「巨神側が、ただ侵攻してくるだけとは思えない、ということだ。 もしも私が巨神ならば、ブルグントの中枢にくさびを打ち込みに行くだろう」

それは確かに、懸念すべき事だ。

しかも巨神側の指揮は、急に鋭くなった。フレイが言う勇者フルングニルが、前線に出てきたのかも知れない。

あの峡谷での戦いにおける、戦略的な駒の進め方は極めて厄介だった。あの調子で戦略を展開されると、此方は勝ち目が無くなるかも知れない。

「いずれにしても、この砦を守りきることは絶対事項だ。 命に代えても、此処を守り抜くぞ」

「応、任せておけ」

フレイが見回りに行くと、女戦士がついていった。

それで、此方に振り向くと、あかんべえをして行く。とんでもない女だと、シグムンドは思った。

「南の女はおっかねえなあ。 何を考えているのか、さっぱり分からん」

「同感だ。 他の戦士達の様子は」

「怪我が酷い奴は、避難民と一緒に南に行かせる予定だ。 ヴェルンドが決めていたが、いいか?」

「俺も同じ判断をしただろう。 問題ない」

砦の北口に出る。

非常に分厚い石の城壁があり、その上から向こうを一望できるようになっていた。もしも、陣取るなら此処だ。

遙か北にはライン川があるのだが、此処からは見えない。

幾つかの山が複雑に重なりあっている上に、谷状の地形が続いているからだ。視界が遮られる構造で有り、尖塔に上がっても見られる距離には限界がある。

此処を突破すると、南には広大な平原が広がっている。

巨神にとっては、もっとも戦いやすい地形だ。今の状態で巨神をなだれ込ませては、文字通り全てが終わりに叩き落とされることになる。

少なくとも、一月。

此処で耐えなければならないだろう。

ふと、袖を引く小さな手に気付く。確か、レギンが預けていった、ヴァイキングの女の子だ。

目に理性の光がない。

相変わらず、正気は戻っていない様子だ。

「どうした、迷子か」

「違う」

「ならば、なんだ」

「巨神を殺したい」

女の子の理性の光を失った目には、強烈な憎悪と復讐の炎が燃え上がっていた。

しかも、である。

シグムンドは気付いたが、この女の子、やたらに魔力が強い。ひょっとすると、ドルイドの家系の人間かも知れない。

ドルイドとは、北の民と南の民に共通した、祭祀を司る僧職の人間を意味する。自然と共にあることでその力を体に取り入れ、信仰についての知識が豊富である事から、多くの民から尊敬を受ける。

かってドルイドの中には、魔術を使いこなすものまでいたという。

今の時代、どれほど魔力が強くても、人間は魔術を使うことができない。しかし、魔力が強ければ強いほど、便利なことも多い。様々な事に活用できるのだ。子供でも、これだけ魔力が強ければ、大人を持ち上げるくらいのことはできるだろう。

だが、力が強いだけでは、戦はできない。

魔力の助けがあっても、人間は脆弱だ。この子では、巨神を殺す事はできないだろう。だが、女の子は、言う。

「手助けできる。 早めに探せる。 弱点も見つけられる。 それに、神様と、感覚を共有、できる」

「まだお前は子供だ」

「でも、ヴァイキングの、最後の一人だ」

子供の目には、とても強い意思がある。

光を失った目でも、その意思に、衰えは見えない。

北を見つめると、子供は言った。

「今日は来ない。 いや、のぞき見に来る奴が、一匹だけ」

「どうする、シグムンド」

「早期警戒ができる人材が欲しいのは事実だ。 前の負け戦で、多くの戦士が命を落としたからな」

それに、巨神との戦いが激化していくとなると、技能を生かせる人材は、非戦闘員であっても活躍して欲しいとシグムンドは思う。

ただし、実戦の場には出してはならない。これは絶対条件だ。

「ヘルギ、しばらく様子を見ていて貰えるか」

「別に良いけどよ、戦いになったら、別の奴に任せて貰えるか」

「それは安心しろ。 この砦には、子供が隠れる場所はいくらでもある」

シグムンドは子供と視線を合わせると、聞く。

それが、相手を子供とは言え、戦う者として認めたときに、するべき事だ。

「名前は」

「ウルズ」

「そうか、運命の女神と同じ名前だな。 ウルズ、案内するから来い。 まず、戦いになったら、隠れる場所。 それから、戦いが負けそうになったら、行くべき場所。 覚えられなかったら、南に行かせる」

「分かった」

大げさに頷くウルズの頭を撫でようかと思ったが、シグムンドは止めた。

相手を子供扱いするべきではないと思ったからだ。

流石にこう小さくては、武器を使うのは無理だろう。一瞬、フレイヤにお下がりの武器を貸してもらってはどうかと思ったのだが、かの女神は、今ブルグントの王都にいっている。

仮に今日敵が来ないにしても、此処は確実に激戦の舞台になる。

子供を庇う余裕はあまりなくなる。最悪の場合、自分で身を守る術を、ウルズには身につけてもらわなければならなかった。

 

夜の間に、ウルズが言ったとおり、不審な梟がいた。

動きが非常に俊敏で、シグムンドが放った矢を、間一髪でかわして逃げた。そればかりか、此方の会話を拾っていた節さえある。

巨神がいると、ウルズは言っていた。

あの動き、案外嘘ではなかった可能性が高い。しかも実際問題、その日は巨神も来なかったのだ。

ただし、妙なこともある。

これほどの感知能力があるのなら、どうしてヴァイキングの村の壊滅を、防げなかったのだろう。

或いは、村が壊滅したときの精神的な衝撃で、目覚めた力なのかも知れない。

いずれにしても、ウルズの力が有益なことは、確かだった。

ブルグントの戦士達は、体が弛んでいる者も多い。だが、敵が迫っているという事で、やる気を思い出した者もまた多い様子だ。

巨神共が来るとなれば、おそらく今日、もしくは明日だろう。

城壁の上に、フレイが来る。

ウルズを一瞥だけしたが、それ以上は何も言わなかった。腰巾着のように、ラーンも一緒に来ている。

「そろそろ来そうだな」

「ああ。 敵も、前回の戦で懲りているはずだ。 少数だけを出してくるという事はなく、大軍で一気に潰しに来る事だろう」

「望むところだ」

避難民は、もう出立させた。

さすがはブルグント。多くの馬車と、それにひかせた車を有している。多くの避難民を、高い効率で王都へと避難させてくれた。

まだ、王都までは辿り着いてはいないだろうが、既に砦からは遠い。交戦範囲からは、かなり離れている。

つまり、思い切りやれるというわけだ。

「ウルズ、今日は来そうか」

「もう側まで来てる」

「え? どういうことよ」

「この子はドルイドの血を引いてる。 昨日も、幾つか有益な予知をしてくれたよ」

思い切り胡散臭そうな目で見るラーン。

ひょっとして、南アスガルドでは、ドルイドの地位が低いのか。南アスガルドにもドルイドはいて、尊敬を受けていると、ヴェルンドから聞いていたのだが。

偵察に出ていた戦士達が戻ってくる。

シグムンドを見ると、城壁の上に駆け上がってきた。

「来やがった! 獣に乗った巨人もいる!」

「数は?」

「大巨神だけで何十もいた!」

「つまり、二万や三万じゃないって事だな」

腕が鳴る。

この砦の北は、隘路が続いているが、地形が複雑で、巨神といえども視界が遮られやすい場所が多い。

つまり、戦術家の腕の見せ所というわけだ。

半信半疑だった様子のラーンだが。

その顔色が変わるまで、そう時間は掛からなかった。

「何、あれ……!?」

歩き来る大巨神。

角が生えた生き物に乗った巨神。

隊列を組んで迫り来る巨神。

凄まじい巨大さ。それよりもなにも、あまりにも数がとんでもなさ過ぎる。空を舞う鳥たちでさえ、怖れて逃げ散っていくほどだ。

城壁の上に、ブルグントの戦士達が上がってくる。

城門を慌てて彼らが閉じたのも、無理はない。これほどの威容、見るのは初めてなのだろうから。

確かに、敵の数は軽く万を越えている様子だ。

だが、それ以外に、妙なことに、シグムンドは気付いていた。

「リンドブルムがいないな」

「何か戦術的な意図がある可能性が高い。 油断するな」

「ちょっと、リンドブルムって何よ!」

「じきに、嫌でも分かる」

巨神に此方を引きつけて、機動戦で後方から強襲してくるつもりだろうか。可能性は、低くないだろう。

フレイが、大弓を引き絞りはじめる。

敵は密集隊形を取っていない。隘路での戦闘が難しいことを、最初から理解している、という事だろう。

フレイが、矢を指から離した。

空気がブチ割られるような轟音と共に、矢が飛ぶ。ラーンが思わず首をすくめていたが、こればかりは馬鹿にできない。

敵の前衛にいた騎兵が、吹き飛ぶ。

同時に、敵が地響きを立てて、一斉に突撃を開始した。

「騎兵からだ! あいつらの足を狙え!」

シグムンドは叫ぶと、弓を引き絞る。

発止と矢を放つ。矢が、敵前列にいた騎兵の、足下に吸い込まれる。

竿立ちになった騎兵。

既に弓を切り替えていたフレイが、制圧射撃を開始した。敵軍に、文字通りの矢の雨が降り始める。

おおと、ブルグントの兵士達が歓声を上げた。

「何という武勇! 本当にアスガルドの神だ!」

「怖れるな! 我らの側には、神がいる!」

ラーンが呆然と左右を見回している。

戦場は初めてなのかも知れない。矢を連続して放ちながら、シグムンドは役に立って欲しいなと思った。

敵軍の第一列が引き始める。

判断が早い。そうなると、何か仕掛けてくるとみて良いだろう。

「上空! 何か影が見えます!」

「リンドブルムか」

「いや、違うな」

シグムンドは手をかざして、相手を見据えて、正体を特定した。

あの、巨神を運ぶ、魔術師だ。しかも、分散して陣形を組み、数十が見て取れる。

砦の周囲の山々に、巨神が降り始める。

とんでも無い話だが、事実だ。そいつらは、周囲四方八方から、砦に向けて、進軍を開始した。

乾いた唇を、シグムンドは舐めた。

流石だ。指揮を執っているのは、多分フレイが言っていたフルングニルという勇者だろう。

「慌てるな! 順番に迎撃していく!」

「正門! 大巨神接近! 五、六、まだ増えます!」

巨大な体躯の大巨神が、とんでも無い大きさの棍棒を構えたまま歩いて来るのを見て、流石に意気が高揚したブルグントの兵士達も、一気に青ざめる。

フレイが、弓を引き絞った。

「此処は任せろ。 シグムンド、周囲は頼むぞ。 巨神との戦闘経験があるお前が、兵士達に手本を見せてやれ」

「おう。 ヘルギ、ついてこい!」

シグムンドが見たところ、東の山から来る敵が、一番早い。

東門を開けさせる。正気かと兵士達は言うが、敵は包囲を敷いている分、数が少ない。谷間での戦いで見た巨神の数に比べれば、これくらいは何でもない。

その上、此方は巨神と何度も何度も戦っているのだ。無事だった戦士達は、皆巨神との戦いに、習熟しはじめている。

「一人あたり、十体は斃せ!」

「へへっ! それだけでいいのかよ!」

「もっと殺ってやるぜ!」

「それでこそ北ミズガルドの民だ!」

度肝を抜かれている兵士達を促すようにして、シグムンドは雄叫びを張り上げた。

山をくだり下りてくる巨神達の前衛は、速度に差が出て、一番小さな巨神だけになっている。

人間の三倍は体躯があるが、それがなんだ。

むしろ下り坂に入ると、連中は機動力を発揮しきれない。

先頭の巨神に、シグムンドは躍りかかる。まず振り下ろされた棍棒の一撃を懐に飛び込むようにして避けつつ、アキレス腱を切って、次へ。倒れる巨神は、後ろから来る奴に任せる。

ぐっすり休んだから、全身に魔力がみなぎっている。或いは、フレイの側にずっといるから、かも知れない。

横から、跳躍して飛びかかってきた巨神に、速射して顔面を射貫く。わずかに狙いがそれた巨神に、すれ違いざまに剣を浴びせた。首筋を切るのでは無く、足をやる。前のめりに吹っ飛ぶ巨神は無視し、次。

中巨神がいる。

ハンマーを振りかざし、此方に迫ってくる。

シグムンドは、ヘルギに叫ぶ。

「邪魔を近づけさせるな!」

「合点だっ!」

弓を引き絞る。

中巨神が、巨体とは思えないほどの速さで、歩き、近づいてくる。

後ろにいるブルグントの兵士達が、怖れているのが分かる。だが、此処で奴らを斃せば、それだけ意味が生じてくる。

狩の時、族長は真っ先に、敵を仕留めなければならない。

既にシグムンドの領地は巨神に蹂躙されてしまった。だが、それでも、シグムンドは戦士達のまとめ役として、力を発揮しなければならないのだ。

ヘルギが、力任せに巨神のふくらはぎを叩ききり、横転させるのが見えた。

味方もやられている。特にブルグントの兵士達は、相手の巨大さに慌てている内に、棍棒で潰されてしまう事が多い。

だが、北の戦士達は狼のように坂道を駆け回り、巨神に飛びついては足を斬り、喉を抉り、縦横無尽に暴れ回っていた。

それが、戦い慣れないブルグントの戦士達にも、勇気を与える。

シグムンドは、敵を可能な限り近づけると。

むしろ静かに。

矢から、指を離した。

弓の技は、極めていくと、最初から当たっている状態になっていく。シグムンドはまだその境地には到達していないが。

だが、今、それに近い感触を得た。

中巨神の左目に、矢が吸い込まれ、眼球が破裂するのが見えた。続けて、もう一射。これも、柔らかく、指を矢から離す。

右目。

両目を潰された巨神が、ハンマーをめっぽうに振り回すが、その時既に、シグムンドは奴の前にはいない。

左側面に回り込んだシグムンドが、息を吸いながら、剣を振りあげ。

流れるようにして、振り抜いた。

息を吐く。

中巨神の踵が、半分、剣によって切断されていた。

バランスを崩した中巨神が、斜面に横転し、二度転がる。三度目に転がる前に、飛びついたヘルギが、分厚い剣を振り下ろして、首に食い込ませていた。

しばらくもがいていた中巨神が、手を下ろす。

動かなくなった中巨神の上で、ヘルギが血まみれの剣を振るい上げた。

「見たか! 勝てるぞ! でかくても死ぬ! 殺せるんだ!」

「おおーっ!」

敵が、引き始める。

次は、西だ。おそらく敵は、大型の巨神をけしかけることでフレイを引きつけ、周囲からの波状攻撃で、戦力を削るつもりなのだろう。

そうはさせない。

逆に、波状攻撃の欠点である、タイミングが合わなければ各個撃破の好餌になるだけという状況を、此処で見せてやる。

この間とは訳が違う。補給も戦力も、以前よりずっと多い。ましてやこの地形では、あの忌々しいアウズンブラとやらは、身動きが取れないだろう。

「追撃は不要だ! 今度は西の敵をたたく! ついてこい!」

「北の連中だけに良い格好をさせるな!」

「我らには、陛下から下賜された弓がある! 北の戦士には、技術ではまけんぞ!」

最初、巨神を怖れていた兵士達も、すぐに士気を取り戻す。

それでいい。

血に酔い、戦場で荒れ狂え。狂戦士ほどではないにしても、此処では狂気が武器になる。殺しが許される、唯一の場所だ。

獣となって、暴れ回れ。

砦の中を走りながら、矢を受け取り、筒に放り込む。

少し残ってくれた北の民の非戦闘員達は、こういった行動を的確にやってくれる。西門に出て、開くと同時に飛び出す。

今、城壁にとりつこうとしていた巨神達に、至近距離から逆撃を浴びせてやるのだ。

 

フレイは、敵が距離を保っている事に気付く。

大巨神五体が壁になって、しかも棍棒を盾に使ってフレイの矢を受け止め続けているのだ。その少し後ろには、騎兵の群れがいる。

つまり、フレイを釘付けにするための布陣だ。

フレイが動きを止めれば、騎兵の群れを突撃させ、その突進力で城壁を爆砕するつもりなのだろう。

シグムンド達は、後ろでとんでも無い大暴れをしてくれているが、それでも人間だ。武芸には限界がある。

ヴェルンドが来た。弓を引き絞りながら、フレイは聞く。視線は、巨神に向けたまま、である。

「七度目の波状攻撃が来た。 シグムンドは良くやっているし、砦の戦士達も頑張っているが、敵の巨神の魔術師をどうにかしないと、きりがない」

「だが、前を見ろ」

大巨神が、五体。

しかも、何時でも突撃できるように、騎兵が控えている。更に言えば、相手は斜面の上側だ。

騎兵にとって、坂の上から見下ろす状況は、まさに必殺の態勢である。

ましてや、あの乗騎は、馬よりも遙かに突進力を備えている。城壁など、瞬時に打ち砕いてしまうだろう。

「巨神の魔術師を、そちらでどうにかできないか」

「難しいな。 あんたが撃ち落とすところを見ていた事はあるが、感触としては普通の巨神よりも脆い事は脆いようだ。 だが、空を飛んでいることが我々にとっては厄介なんだよ。 何しろ武器が届かないからな。 あんたが、正面の敵を蹴散らすことは可能だろうか」

「それは、今の時点では無理だ」

大巨神は悠々と人員を入れ替えながら、フレイの隙をうかがっている。隙を見せれば、即座に騎兵が突入する態勢。

状況を実際に目で見て、ヴェルンドは腕組みした。

「勇者フルングニルだったか。 此方の弱点を、的確に突いてきていやがる。 一番面倒な相手だな」

「夕刻までの辛抱だ。 もう少し、耐えてくれ」

「ああ。 何とかしてみせる。 後二三日なら、どうにかできる」

だが、それは逆に言えば、それ以上は徐々に厳しくなる、ということだ。それに、敵がこんな犠牲が大きい作戦を、何日も続けるとは思えない。

明日以降は、作戦を切り替えてくる可能性が高い。

「フレイ様」

砦の司令官が、いつの間にか来ていた。

作戦開始以降、全く顔を出していなかったので、奥で指揮をしていると思っていたが。

「何か問題が生じたか」

「いえ、正面の防備を崩す事ができれば良いのですか?」

「ああ。 しかし大巨神五体が壁になっている。 それに、無理な作戦で、大きな犠牲を出すと、明日以降の守りに響くぞ」

「大丈夫です。 それに、我々の弓が、巨神にどこまで通用するか、試してみたいのです」

司令官は、何名かの魔力が強い兵士を連れていた。

そして、フレイの側についていたラーンも、来るようにと指示。

しばらく迷ったあげく、残念そうに、ラーンは司令官についていった。

フレイの側にいると、それだけ死ぬ確率があがる。その方が良いだろうと、フレイは思うのだが。

ただ、ラーンは一人前の戦士だ。

ならば、死ぬ場所を自分で選ばせてあげたいとも、フレイは思うのだ。

ブルグントの話は、少し聞いた。戦士になるのは、自分の意思で、という国であるらしい。

ならば、フレイが口出しすることではない。

膠着状態になっている前方の敵と、にらみ合いが続く。

 

司令官は、魔力が強い兵士だけ六人もつれて、こっそり城の通用口から、外に出た。

ラーンは一瞬、敵前逃亡するのではないかと不安になったが、すぐに進路を北に取る。まさか、この七人だけで、敵に正面攻撃をするのか。

嫌な予感は、程なく適中する。

城の城壁に沿って北上していたのだが、そのまま山の中に入ったのだ。森を利用して、巨神達の目を誤魔化しながら、北に進む。

「よ、よろしいですか!?」

「くれぐれも小さい声でね」

「は、はい」

慌てて、声を小さくする。

巨神も神々なのだ。小さな声で喋っても、気付かれるかも知れない。

そして、気付かれてしまえば、こんな少人数では、手も足も出ないだろう。小太りの司令官は、温厚なことと、兵士達の名前全員分を覚えていることだけが取り柄だと思っていたのだが。

まさか、こんな無謀な作戦を実施する男だったとは。

「我々だけで、仕掛けるんですか?」

「そうだよ」

「自殺行為じゃないんですか」

「狙うのは、一番左端にいる大巨神。 此方から見れば右端のだね」

司令官が言うには、北の民の弓矢が、巨神の足を撃ち抜いているという。

確かに、連中は強い魔力を矢に乗せて、巨神の足を撃ち抜いたり、切り裂いたりしているようだ。

凄いとは、思う。

「そこで、魔力が強い君達を選んだ。 ラーン君も、弓矢の威力は凄いじゃないか」

「そんな……」

他の兵士達の反応は、様々だ。

やる気になっている者もいるし、怖じ気づいている者もいる。ラーンはどちらかと言えば、後者だった。

近づけば近づくほど、大巨神の凄まじさが、目に見えて分かってくるのだ。

騎兵巨神も、近づいてみると、とんでも無く巨大である事がよく分かる。あんなのに襲われたら、どうにもならない。

まるで、意思を持った山だ。

「撃ったら、その、反撃してくるんじゃないですか」

「勿論してくるだろうね。 だから、北門の方に全力で走る」

「え……」

「もしも敵が頭に血を上らせて、我々を追ってきたら好機だ。 フレイ様が、敵を一気に打ち崩してくれる」

そう聞いても、ぴんと来ない。

ラーンは、どうやら作戦については、まだ理解が足りていないらしい。

ただ、一つ分かったことがある。

これで上手くやれれば。

フレイは、ラーンを多少は評価してくれるかも知れない。

もう、はっきり分かっている。

ラーンはフレイのことが好きらしい。態度がフレイの前に出ると、露骨に変わることは、自覚している。

意地悪にもなる。独占したくもなる。

相手が神という事は分かっているが、それでもこの思いは本物だ。

「いいかい、大きいと言っても、相手は人型の生物だ。 狙う急所は、人間と同じだよ」

司令官が担いでいるクロスボウは、正式支給のものよりだいぶ大きい。

体が弛んでいるおじさんだが。

考えて見れば、普段は放置されているにしても、此処は重要拠点の一つには間違いないのだ。此処を長く任されているという事は。相応の武勲を上げた武人だったのだろう。

大巨神達が、陣形を組んでいる近くまで来た。

態勢を低く保つ。

見つかったら、即死しかねないことは分かっている。敵は攻勢に備えて、大巨神達が体で作っている盾の後ろに、ひしめいている様子だ。

ぞっとする。

とんでも無い数だ。あんなのが押し寄せて、本当に砦を守りきれるのだろうか。後ろの方で暴れ回っている脳筋の蛮族共は、あんな奴らを相手に戦っていたのか。

フレイ様が、ついている。

しかも、遠いアスガルドにいるのではない。

すぐ側で、見ていてくれているのだ。

ラーンは勇気を振り絞った。

「仕掛けるよ」

司令官が、カウントをし始める。

一斉に、皆がクロスボウを構えた。ラーンも構える。

これでも、弓の破壊力は、同期で随一だったのだ。弓だけだったら、前線で戦っている他の兵士達にだって、負けない。

カウントがゼロに近づいていく。

自分の心音が、聞こえるほど、ラーンは緊張した。最初にクロスボウの試験があった時くらいだろうか。

敵は、棍棒を横に構えて、フレイの矢だけに備えている。

好機だと言うことは、ラーンにも分かっていた。

カウントが。ゼロになった。

一斉に、皆で矢を放つ。まるで大木のような大巨神の足に、矢が立て続けに吸い込まれていった。

大巨神の皮膚に刺さっただけのものが二本。

三本は肉を爆ぜさせる。魔力が強かったものだ。

そして、残り二本は、大きく肉を抉った。大巨神が、唸り声を上げて、体を傾かせる。引っ張られた。

「逃げろ!」

瞬時に、大巨神が蜂の巣になる。

フレイが矢を放ったのは確実だ。さすがは神。体勢を崩した大巨神を、見逃さなかった。

倒れ込む大巨神。他の大巨神が動こうとするより早く、フレイが大巨神の壁の穴に矢を叩き込む。

騎兵が竿立ちになった。

走りながら、振り返る。

暴れ狂う騎兵を、取り押さえようと、他の騎兵がなにやら叫んでいる。

大巨神も、増援を呼ぼうとしているようだが、ひっきりなしに飛んでくる矢の前に、身動きできない状態だ。

今度は、膠着状態に追い込まれたのは、巨神達の方だった。

被害を増やすことを嫌がったのか、巨神の壁が下がりはじめる。空を飛んでいる巨神も、それを見て、慌てて下がる。フレイの狙撃圏内に入るからだろう。追撃は無さそうだと、足を止めそうになった途端に、叱責される。

「急げ! 早く!」

「何よ、もう」

ラーンがぼやいて、抗議しようとした瞬間。

真後ろに、火球が炸裂した。

「リンドブルムだ! 急げ!」

牛よりも大きな影が、上空を舞っている。火はそいつが吐いたに違いなかった。急ぐように促してきたのは、赤い服を着ていた北の蛮族だ。

影の正体に、気付く。

ドラゴン。恐るべき、伝説の魔獣だ。巨神族は、ドラゴンまでも従えているというのか。

小型とは言え、数がとんでもない。何十もいる。フレイが制圧射撃に取りかかる。命の次に大事なクロスボウを取り落としそうになりながら、必死にラーンは走った。どんな訓練の時よりも、必死に。

周囲で爆発が何度も巻き起こる。生きた心地がしない。

城壁の内側に逃げ込む。

決死隊に、損失無し。一人は爆発に巻き込まれたが、少々火傷した程度。小太りの司令官も、無事に生還していた。兜を取ると、見事な禿頭が露わになる。

汗だくで、げんなりしそうな光景だ。

「よーし、上手く行った。 戦況はどうかね」

「リンドブルムは、こっちで引き受ける。 何人か来てくれ! 落とし方を教える!」

「ラーン君、いってきたまえ」

「ええっ!?」

呼吸をやっと整えたところだというのに。

しかし、わざわざ声が掛かると言うことは、それだけ司令官が活躍を認めてくれたという事だ。

立ち上がり、埃を払う。

巨神の肉を爆ぜさせた三本の矢の内、一つはラーンが放ったものだった。

それを思うと、少し誇り高い。

もう一本は司令官。特別製の大きなクロスボウを使っていたし、あの威力も納得である。下手をすると、薄めの城門くらいだったら、貫通できるのではないのか。

最後の一本は。

奥で蹲っている、人相が見えない兵士。いつも兜を深く被っている、変わり者と噂されている奴だった。

何も喋らず、黙々と訓練だけをしているので、変人呼ばわりされて。それでも何も言い返さないので、怖れられている人物だ。

鎧からすると男性らしいのだが、小柄で、女性兵士ではないかという噂もあった。しかし、ブルグントでは女性兵士の権利が認められていて、性別を偽る理由が分からない。

視線を謎の兵士からそらすと、ラーンは呼ばれるまま、城壁の上に。

ヴェルンドといったか。北の民の男は、ラーンに向けて、女子に向けるような甘いものではなくて、戦友に向けるような獰猛な笑みを浮かべてきた。

「いい戦士だな。 フレイの側にいても、生き残れそうだ」

「なによ、褒めたり馬鹿にしたり」

「俺たちは、お前達をあまりにも知らない。 お前達の目から見て多少無礼でも、許してくれ」

ヴェルンドという男は、どちらかと言えば北の民の中では優男に見える。

だが調停者の一族という重要なポジションにいる存在だとかで、他の戦士達からも敬意を払われている様子が見て取れた。

フレイの制圧射撃で、数十はいたリンドブルムは、殆どが既に落とされている。

流石フレイ様というラーンの頭上、一匹が高度を落として迫ってくる。城壁の上に炎を吐こうとしているのは明白だ。

「いいか、狙うのは口の中だ」

ヴェルンドが長弓を構える。

北の民が使っている弓は、狩にも使いやすい短弓が多い。その中で、ヴェルンドが構えている長弓は異様だった。

ラーンもいわれたまま、口の中を狙う。

炎が、口の中に、集まりつつあるのが見えた。

背筋に寒気が走る。

「まだだ。 もう少し、引きつけろ」

「……っ」

並んで弓を構えてみて、分かる。

この男、凄まじい技量だ。ブルグントの新兵訓練の際、歴戦をくぐってきたという荒武者達を何名も見てきた。体中傷だらけだったり、手足がない戦士もいた。

だがこのヴェルンドという男、細いのに、そういった歴戦の猛者に勝るとも劣らない迫力を、弓を構えている時に放っていた。

「よしっ!」

「てあっ!」

ラーンが、一瞬だけ遅れて矢を放つ。

ヴェルンドの矢が、一瞬だけ早く、リンドブルムの口の中に着弾した。下から上に顎を貫くように。

ラーンの矢は、そのままリンドブルムの喉の奥に入って、脊髄を傷つけ、食い破って背中に出た様子だ。

バランスを崩したリンドブルムが落下。

地面で、骨肉が砕ける音がした。

「おう、流石だ。 南の戦士も中々にできるな」

「当然よ」

少し、鼻が高い。

得意な弓が、役に立って嬉しいと言うこともある。

それに、フレイの役にも立てるはずだ。

「リンドブルムは、巨神の軍勢でいう雑兵のようなものだ。 とにかくたくさん沸いてきて、火をばらまいて来やがる。 俺たちが、フレイの側に近づくリンドブルムを叩き落とせば、それだけ戦況が有利になる」

「ふん、そんなの、簡単よ」

「今回はな。 何千もあれが沸いてくるんだ。 覚悟は、決めておけよ」

ヴェルンドが、他の兵士にも教えると言って、城壁を下りていった。

少しだけ、北の戦士を、ラーンは見直した。

夕刻まで、散発的な戦いが続く。

何度も血みどろで戻ってきたシグムンドという男だが、まるで疲弊している様子が無い。獲物を喰らっている狼みたいだと、ラーンは思った。

なによりフレイの活躍があって、味方は有利な様子だ。ただし、間断なく、延々と戦いが続いている。

一日目が終わって、被害を集計する。

決して少なくない数の兵士が、命を落としていた。

フレイの助力も有り、それよりずっと多い数の巨神を斃しているはずだが、戦慄してしまう。

一体いつまで、この砦で耐えなければならないのか。

たったの一日で、喜んだり、戦慄したり。

退屈で平穏な日常なんて、もうない。

あれほど退屈を憎んでいたラーンなのに。平凡な結婚を嫌がっていたのに。

ふと気付くと。それが、懐かしくなっている自分がいる事に、ラーンは気付いていた。

空を見上げる。

まもなく夜になる。巨神も眠って休むのだろうか。

違う。

新兵の時に教育を受けた。夜間の行軍はハイリスクだ。特に大軍の場合、身動きが一度取れなくなると、自滅する可能性がある。そうやって敗退した例が、史上幾つもある。

食事が始まった。

食べ物だけは、豊富に蓄えられている。

ラーンは他の兵士の所に行く。見慣れた顔が、幾つか欠けていた。これからもっと欠けることになると分かっていても。

戦慄と、悲しみは、とまらなかった。

 

2、王都強襲

 

アスガルドより近いとは言え、いつもより遙かに緊張を強いられる。

鷹になって空を舞いながら、フレイヤは思った。

目指すはブルグント王都。

ミズガルド最大の国家であるブルグントは、いまだ巨神の侵攻に気付いている様子は無い。巨神族の進撃があまりにも早いという事もあるのだが、そもそも北ミズガルドと南ミズガルドの文化的人間的断絶は、あまりにも大きいのだ。

仮に北ミズガルドに間諜を忍ばせていたとしても。

まだ、王都まで情報が届いていない可能性もあった。

王都の中央には小高い丘が有り、そこに立派な石造りの城が建てられている。現在の王はグンターと呼ばれる男で、かなりの高齢である。ただし未だに衰えを知らぬ武人として名高く、主な会戦では、必ず自身が出陣し、兵士達を鼓舞するのだそうだ。

これらの情報は、出立する前に、ヴェルンドから聞いていたものだ。

ヴェルンドは立場上、南ミズガルドについても、ある程度情報を持っている。勿論、フレイヤもミズガルドのことはある程度勉強していたから、それを前提として、ヴェルンドの情報を濾過し、自分なりの解釈につなげている。

城の周囲を、旋回。

戦闘に備えて作られた城だと、一目で分かる。

平城というよりも、簡易の山城だ。

また、城下町は城壁で囲まれているが、その範囲は広く、城壁の中だけで最低限の経済的な活動が成立するようになっている。ブルグント王都周辺は肥沃な土地が広がっており、相当数の畑が作られ、ラインの支流から運河も引かれているようだった。

多くの農民が、働いている。

まだ収穫期には早い様子で、麦は青いまま。

というよりも、現在のミズガルドには、四季は形だけしか存在していない。その気になれば、土地の栄養を限界まで吸い取るという前提で、一年中麦を作り続けることも可能だろう。

城壁は三重に作られている。

一番外側の城壁は、非常に範囲が広い。王都の穀倉地帯を、すっぽり覆うほどのもので、見張り塔も砦のような規模だ。

一番内側の城壁は、城だけを守っている。

ブルグント軍の常備兵は六万と聞いていたが、王都にはそのうちの二万程度がいる様子だ。

戦の時には、此処から軍用道路を通って、一気に戦場に主力を送り込むことができるのだろう。

ブルグントの管理には、確か現在、オーディンが直接当たっているはず。

各国のパワーバランスが崩れないようにしていると聞いているが。

これだけ発展している最大国があるとなると、他の国も、それに近いレベルで力を蓄えているのだろう。

神々の腐心がうかがえる。

しばらく様子をうかがうが、いまだ巨神の姿はないし、兵士達が警戒している様子は無い。

グンターは。

周囲を飛び回って、探す。

城の中にも、探知の術式を延ばそうかと思ったが、その必要はなかった。王は護衛らしい騎士を連れて、城壁の上に出ていたのだ。

歩きながら、何か話している。

「北ミズガルドの様子がおかしい?」

「は。 放っている斥候が、いずれも消息を絶っています。 今、調査中です」

情報通り、王は年老いた男だ。

ただし、正装は鎧。それも、強い魔力が籠もった、強力な黄金作りのものである。多分、オーディンが与えたものを、歴代の国宝として受け継いでいるのだろう。

髪も口ひげも白くなっているが、全身は分厚い筋肉で覆っており、戦士の肉体をしている。若い頃は最前線に出て、自ら剣を振るったのかも知れない。今でも、衰えは少ない様子だ。

側にいる騎士は、非常に長身で、たくましい体つきをしている。

城壁の上を歩きながら、二人は話をしている。

「北ミズガルドで大きな勢力は誕生したのか」

「いえ、群小の勢力が、未だに血みどろの争いをしていると聞いております」

「妙だな。 いずれにしても、南部への侵攻は気にしなくても良さそうだ。 調査を続けろ」

「その必要はありません」

即座に反応した騎士が、剣を抜いた。

フレイヤは、鷹の姿のまま、城壁の上に舞い降りる。

そして、その場でヒトの形に戻った。

騎士が抜いた剣は、強い魔力を秘めている。おそらくブルグントの国宝か、それに近い武器だろう。

これも、神々が鍛えた武具であろう事は間違いない。

「何者か」

「私はアスガルドのフレイヤ」

「フレイヤ様とな。 ハーゲン、剣を納めよ」

グンターが半信半疑の様子ながらも、護衛の騎士に指示。

騎士もいぶかしみながら、剣を鞘に収めた。

「愛欲の女神が、ブルグントに何の用でしょうかな」

「愛欲の女神は、先代のフレイヤです。 私は、その後を次いだ者で、未だに司る要素はありません」

「なんと……」

グンターが驚いたようで、あんぐりと口を開けた。

確かブルグントは、ミズガルドの最大国家と言うことで、かなりアスガルドからも干渉が入っている。

その規模や内容は多岐にわたっている。

噂によると、歴代のブルグント王の中には、アスガルドに対する反抗を試みた者もいるらしい。

当然、現国王のグンターも、アスガルドの研究については、熱心に行っているだろう。様々な意味で、アスガルドには影響を受けているからだ。

「それで、御用はいかなるものか」

「ラグナロクの時が始まりました。 貴方たちには、すぐに軍を整え、巨神族との決戦に出向いてもらいます」

「なんだとっ!」

「既に巨神族は、北ミズガルドに上陸。 その数は、百万に達しています。 すぐに、兵力を整えるのです」

絶句したグンターが、体勢を立て直すまで、少し待ってやる。

ハーゲンと呼ばれた騎士も、流石に言葉が無い様子だった。

だが、その時間はなかった。

フレイヤは、強烈な敵意を感じ取ったのだ。

どうやら、今まで付けられていたらしい。それも、此処まで追跡を悟らせないほどの相手だ。

ただの巨神ではないだろう。

「どうやら、もうここにも、敵の尖兵が現れたようです」

爆発音。

石で作られた家々が建ち並ぶ城下町の一角が消し飛ぶ。

其処には。

大巨神より更に二回り以上大きい、両手に斧を持った、凄まじい戦気を放つ敵の姿があった。

頭が三つもある事からも、尋常な巨神ではない。

まさか、あれが。

勇者フルングニルか。

「話は後です。 私があの者を退治します」

フレイヤは城壁を飛び降りると、何事かと騒ぐ兵士達を無視して、剣に手を掛けながら走った。

巨神は、物珍しげに、自分が吹き飛ばした一角を眺めている。

悪意なく蟻の巣を踏みつぶした、子供のような光景。

北の民の事を嫌いではなくなり始めていたフレイヤは、それを見て、怒りが爆発するのを感じた。

至近まで迫ると、気付く。

巨神は、フレイヤの方に向き直る。

側で見ると、格好からして、他の巨神とは違う。

どうやら巨獣の毛皮で作ったらしい戦衣を身に纏い、首や手足には、強い魔力が籠もった呪具を付けている。

肉厚の斧も凄まじい。斧はかなり手に密着した刃を持つタイプで、いわゆるポールウェポンではない。手斧や投げ斧が形状としては近い。もっと極端に手に引きつけたその斧の形状は。

使い手のリーチを伸ばし、その速度を最大限に生かす武器。そのとんでも無い巨大さと裏腹に、フルングニルと思われる巨神の手にしている武具はどちらかと言えば軽装に近く。そして、攻撃を最重要視しているものばかりだった。

人間達が逃げる時間を、少なくとも稼がなければならない。

あの武装、速さを生かして戦うためのものである事は間違いない。巨神が速さを生かして戦うという事が、どういう事なのか、フレイヤにはいまいち分からない。今まで戦った巨神はいずれもその巨体そのものを武器にしている連中ばかりで、防御も攻撃すらも己の肉体硬度に頼っている事が殆どであったからだ。

一瞬だけ、三つある顔の一つと、視線が合う。

フレイヤが剣を構えるのと。

巨神の姿がかき消えるのは、同時だった。

巨大な斧が、一瞬前までフレイヤがいた地点を蹂躙していた。耕すようにして、何度も叩き付けられた斧が、石畳を、家々を、瞬時に木っ端みじんに打ち砕く。人間など、いようがいまいが関係無い。

跳躍して飛び退きながら、フレイヤは悟る。

これは、総力でも勝てるか勝てないか、分からない次元の相手だ。

いや、敵の方が、おそらくは。

強い。

空中で剣を鞘に収め、杖を取り出す。

フルングニルが、わずかに身を沈めた瞬間、フレイヤはその杖を振るっていた。

周囲を貫く、紫電の無数の槍。

稲妻を周囲にばらまく、王錫と呼ばれるタイプの杖だ。しかも稲妻は魔法で制御され、人を傷つけず、巨神だけを焼き払う。

更に地面や壁で乱反射するため、街のように反射物が多い地形では、もっとも有効な武器の一つだ。

乱反射した稲妻が、フルングニルに襲いかかる。

如何に早くても、これなら。

だが。フルングニルの動きは、更にその上を行く。

フレイヤがあっと思った時には、地面に叩き付けられ、更にバウンドしていた。

一瞬で遮蔽物がない空に飛び、其処から衝撃波を打ち込んできたのだ。

フレイヤが飛び起き、飛び退くのと。空から落ちてきたフルングニルが、斧を叩き付けてくるのは同時。

流石だ。トールと互角と呼ばれるだけのことはある。

だが、今の瞬間、フレイヤは王錫を振り抜いていた。

至近から、無数の稲妻が、フルングニルを貫く。如何に巨体とは言え、この直撃を受けてしまえば。

肉が爆ぜ割れる音がして、フルングニルの左腕が吹っ飛ぶ。

やはり軽装のもろさが出る。

しかし、殆ど時間を掛けず、その左腕が斧ごと再生していくのを見て、フレイヤは瞠目していた。

本物の化け物だ。

斧を、水平に振られる。飛び退くのが一瞬遅れれば、首を飛ばされる所だった。

再び、王錫を振るった。

だが、紫電は、残像を抉るばかりである。しかし、間を置かず、フレイヤは精霊の弓を、空に向けて引き絞る。

たとえフルングニルでも、空中で機動はできないはず。

巨大な火球を三つ、同時に空に撃ち放つ。

フルングニルが、ガードポーズを取るのが見えた。

爆音が、周囲を薙ぎ払う。

神の炎が、フルングニルの全身を包むのが見えた。

フレイヤは呼吸を整えながら、下がる。とにかく、間合いを計らなければならない。奴の間合いに今度入ったら、間違いなく一瞬で両断される。

煙を斬り破り、フルングニルが着地。

全身は傷だらけだが、既に回復が始まっていた。破れた皮膚が修復しはじめている。服や武具さえも、回復の対象になっている様子だ。

上位の神々でも、此処までの芸当は中々できない。この巨神、本当に強い。実力だけだったら、オーディンさえ凌ぐかも知れない。

「ほう。 やりおる」

「喋るのですか」

「ヴァン神族とアース神族に、そもそも優劣などない。 そなた達も、知っている通りにな」

「……」

少し前から、疑念は感じていた。

確かに巨神は残虐で、知能が低そうに見えていた。だが戦術的な行動は取るし、戦略面でも間違ったことはしていない。

それに、フルングニルの戦闘指揮は。

どのような軍師が立てたものよりも的確で、いかなる猛将よりも苛烈。そして、古今の名将でさえ、舌を巻くほどの冷静さではなかったか。

「やはり、お前はフレイヤではないな。 何者だ」

「貴方がフレイヤと呼ぶ存在。 それは先代のフレイヤのことでしょう」

「先代……?」

「アース神族は、代替わりをしています。 私も、代替わりをした神の一柱です」

フルングニルが、構えを解く。

これ以上戦うつもりはないらしい。周囲は凄まじい阿鼻叫喚のちまただ。親を探して泣き叫ぶ子供の声。悲鳴を上げる人間。体の一部を這いずりながら探し回る者。だが、フルングニルにとっては、そよ風にも等しいのだろう。まるで気にしている様子が無い。

おぞましいというよりも、超然としている。

「なるほど、そういうことであったか。 あまりにもあの淫売と、雰囲気が違うと思ったわ」

「母を知っているのですか」

「知っているも何も、お前の母はヴァン神族だ。 俺とも面識がある。 俺は奴のような淫売は好きでは無かったから、手は出したことがないがな。 どうせあの女のことだ、アスガルドでも全ての神と関係したとか噂されていたのではないのか」

絶句するフレイヤの前で、既に無傷になっていたフルングニルは、斧を振るって埃を落とす。

フルングニルは、フレイヤを軽蔑していない。

視線は、戦士に対するものだった。

「お前が先代と違うことは確かなようだ。 高潔で魔術に長けた女神よ、貴様の力のほどは分かった。 貴様は俺が本気で相手にするに相応しい使い手だ。 いずれ神々が死力を尽くして戦う場を用意しよう。 そこで決着を付けたいものだ」

「……」

フルングニルが、かき消える。

おそらく、空間を渡る術式を使ったのだろう。巨神の魔術師がやっているものと、同じ術の筈だ。

ただし、本人を転送するというのは、かなり高度な技の筈。

さすがは勇者と呼ばれるだけの使い手である。

そのまま戦っていたら、高確率で負けていた。フレイヤの魔力は、既に半減するほどに消費していたのだから。

それに対して、フルングニルはまだ余裕を残しているのが明白だった。

兄と共に戦って、どうにか勝ちを拾いに行けるか。

そう言う次元の相手であった。あれといずれ戦わなければならない。そして勝たなければならない。

周囲を見回す。

巨神の襲来という悪夢が去ると、残っているのは死者と負傷者の山という更にタチが悪い現実だ。

フレイヤは回復の術はあまり得意ではないが、しかし、見捨ててもおけない。

神は無理でも、人なら助けられるかも知れない。

「けが人を此方に。 多少ならば、直すことが可能です」

周囲に呼びかける。

魔力を使い果たすことはないだろう。追撃があれ以上あったとは思いにくい。

ただ、心配なのは、兄のことだ。

フルングニルは個人の武勇だけではなく、指揮能力もずば抜けている。堅固な城塞に頼っているとしても、兄がどこまで持ちこたえられるか、分からない。

しかし、フレイヤには、今此処でするべき事がある。

兄様、どうかご無事で。

フレイヤは、ただ遠くの空に向け、祈ることしかできなかった。

 

グンター王が駆けつけてきたのは、騎士団を伴っての事だった。

ただし、間に合っていても、役に立ったかは疑いが残る。フレイがいてもなお、勝てるか分からなかった相手だ。

フレイヤは石材の残骸に腰を下ろし、けが人を診ていた。

どうにか救える者は、皆回復はさせた。人間の体は、神々に比べて脆いが、それが故に単純な部分も多い。

ああ、女神様。

光が溢れるようです。

そんな声が周囲から聞こえる。拝礼を、皆がしている。

民がフレイヤを崇拝しているのが分かる。信仰心は、神に力を与える。失った魔力を、多少はこれで回復できたか。

王が来ると、さっと跪いた民衆が散る。

それだけ、グンター王は尊敬を集めているという事だ。王はけが人の多さに呻くと、即座に指示を出した。

「すぐにけが人の手当と、救出を。 王都の医者を全て動員せよ」

「分かりました」

騎士達が、周囲に散る。

とても良く統率されている。おそらく血筋ではなく、能力を重視して、人材を集めているのだろう。

王は騎士達の様子を横目に、側で拝礼をする。

「神よ、あれが巨神族なのか」

「私が知る限り、巨神族の中でも上位に入る勇者でありましょう」

「そうか。 百万いるという皆があのような存在であったら如何しようかと思っていたところであったわ」

王の声には、覇気がない。

無理もないことだ。人間は、己の知識が及ばない出来事を、何よりも怖れる。ミズガルド北の民のような存在が例外的なのであって、この王の反応の方が、むしろ正しいのだろう。

「すぐに戦の準備を。 巨神は放置しておけば、すぐにでも此処に攻め寄せて来ましょう」

「それがよさそうでありますな。 ハーゲン、ゴート国に使者を。 停戦だ。 今は小競り合いなどしている場合では無い。 最悪の場合、というよりもできる限り、連合して事に当たらなければならん」

「は。 直ちに手配します」

思ったよりも物わかりが良い王で助かった。

北ミズガルドの民の中には、グンターを悪くいう人間も少なくなかったのだ。勿論対立している相手だから、という事もあったのだろう。だが、火のないところに煙は出ないものなのである。

しばらく、フレイヤは石材に腰掛けて、待つ。

王都では、すぐに巨神出現の噂が駆け巡った様子だった。フレイヤを見に来る野次馬も多くいた。

先代は、本当に悪名をばらまいてくれたのだと、こういうときによく分かる。

中には、露骨に、フレイヤを淫売として見てくる者も少なくなかった。フルングニルは幾つか気になることを言っていたが、もしもあれが正しかったとすると、先代はそれこそ一万年以上前、下手をすると子供の頃から、悪名にまみれていたことになる。

その直接の影響を受けたフレイヤとしては、たまったものではない。

だが、どうしてなのだろう。

今更、母を責めようという気にはならなかった。母の死の原因がよく分からないし、何よりすでに鬼籍に入っているという理由もあるだろう。

騎士の一人が、案内をしてきたので、いわれるままに移動する。

行った先は、フレイヤの神殿だった。

さすがは最大国家である。あらゆる主要な神の神殿があるらしい。北ミズガルドのようなほこらではなく、石造りの柱で支えた、立派なものである。

ただ、フレイヤが見るところ、かなり寂れていた。

ドルイドも、かなり年老いている者が多い。フレイヤのために世話をすると言うことだったが、正直してもらう事はなにもなかった。

神にとって、心地よい空間である事だけは確かである。

案内された部屋で、横になって、しばし休む。

兄は今、間違いなく激戦のただ中にある筈だ。休まなければならないことが、もどかしくてならない。

目を閉じても、中々眠れない。

神はほとんど眠りを必要としない。フレイヤもそれは同じだが、眠ろうと思えば、できる。

眠れば、それなりに回復も促進できる。

着込んでいる鎧は、フルングニルとの戦いで、更にダメージが大きくなっている。もしも鎧の守りの力が破られてしまえば、フレイヤなど巨神の攻撃で、一撃で木っ端みじんにされてしまうだろう。

消耗した魔力のこともある。

今は、少しでも休まなければならない。

気がつくと、部屋の戸がノックされていた。探知の魔術を使って調べると、一日の四分の一ほど眠っていたらしい。

少しは鎧も回復した。傷が減り、削られた守りの力も、戻ってきている。

「何用ですか」

「ハーゲン騎士団長からです。 すぐにお目に掛けたいものがあるそうです」

「分かりました。 すぐにうかがいます」

ハーゲンという男、生真面目な戦士に見えた。まさか、おべんちゃらのための呼び出しではないだろう。

軽く身繕いをすると、部屋を出る。

神殿の者達が食事を用意してくれていたが、謝絶。一見したが、ドルイド用の精進料理だが、神々の口に合うものではない。

勿論、食べて意味が生じないだろう。

それなら、人間達で分け合った方が良い。

年老いたドルイド達に見送られながら、神殿を後にする。呼びに来た騎士について歩きながら、街を見て廻った。

既に壊れた建物は、修復が始まっている。

ほんのわずかな時間フルングニルが暴れただけだが、それでも街の一部はそれこそ更地に近い状態になってしまっている。

それでも、修復が始まるのだ。

人間とはたくましい。良い意味でも、悪い意味でも。

城の前にある、比較的広い場所に出た。

二千ほどの兵士達が集まっている。整然と並ぶ様子には、一糸の乱れもない。さすがは、戦乱絶えない南ミズガルドで、最大国家をしているだけのことはある。軍の練度は、かなり高い。

そして、兵士達の後ろに、それはあった。

「フレイヤ様、ご足労感謝します」

「ハーゲンといいましたね。 そちらは?」

「ブルグント軍が誇る移動攻城塔、通称鉄の牛にございます」

ざっと見て廻る。

足回りは、車輪が履かされている。高さは人間の二十倍、という所か。大巨神をさえ、上から見下ろすことができる。

装甲も頑強だ。

主に木で作られている様子だが、要所要所を鉄板で補強している。

最上部には牛の頭部をかたどった意匠が有り、よく見るとそこは砲台になっている。クロスボウが複数備え付けられ、敵を見下ろしながら、攻撃ができるようだった。

「巨神を頭上から攻撃できる、というわけですね」

「はい。 全部でこれが二百ございます。 一台辺りに兵士三百が配置され、一つの戦闘単位として機能します」

なるほど、これなら多少の巨神なら、ものともせずに撃退できるだろう。

問題は大巨神以上の敵戦力だ。また、リンドブルムに対しても、対策できるように改良が欲しいところだ。

それらを説明すると、大巨神については対策ができていると、ハーゲンはいった。

彼によると、この戦塔は移動しながらの攻撃が可能で、敵の速度と相対を保ちながら後退し、足下に攻撃をする事ができるのだとか。

「リンドブルムなる飛龍については、これより対策を考えます。 我が軍の主力を編制し終えるまでには、どうにかいたします」

「良いでしょう。 決戦の準備を急がせなさい」

「分かりました」

ハーゲンが、指示を出しながら、兵士達の間に紛れていく。

思ったよりもブルグントの状況は良い。

もう一度戻り、回復に努めようかと思った矢先。どうやら、巨神族は、フレイヤを休息させてはくれない様子だった。

兵士が来る。

「伝令です! 北の上空から、浮遊する謎の影が接近中! 数は十六ないし二十!」

「すぐに戦闘準備を。 敵の魔術師です」

「分かりました! 戦闘準備! 戦闘準備急げ!」

にわかに兵士達が殺気立つ。

フレイヤは、この場はハーゲンに任せて、城壁に急ぐ。そして階段を駆け上がった。一番内側の城壁は、高さも相当にある。故に、遠くまで一瞥することができた。

確かにいる。

巨神の魔術師だろう。連中は攻撃魔術などは使えないが、空間をよそと接続することによって、膨大な援軍を呼び出すことができる。

そういった面倒くさい術を使われる前に、仕留めなければならない。

フルングニルは、短時間で幾つか仕事を的確にして行った。

フレイヤの戦力をはかり、ブルグントの人々に巨神の凄まじさを見せつけ、おそらく彼らの文明についても確認していったはずだ。

これ以上、後手を取るわけにはいかない。

もしも、態勢が整う前に、リンドブルムの群れが王都を蹂躙すれば、戦いは始まる前に終わる。

「この辺りで、一番高い場所は!?」

フレイヤの言葉に、兵士達が一斉にある場所を指さした。

 

フルングニルは、傷ついた部下達を見舞っていた。

王都を強襲するために、しぶしぶファフナーが出してきた魔術部隊である。魔術による戦闘ではなく、輸送を主体に行う。それ故に、常時リンドブルムの軍勢を用いて、身を守らせているのだが。

王都に近づいた途端、遠距離からの爆撃系の術式を浴びて、リンドブルムはことごとく衝撃波で叩き落とされ。

そして、巨神達は泣く泣く引き上げてきた、と言うわけだ。

此処は人間の賊が用いていたらしい、古びた山塞である。勿論、もとの持ち主は既に駆逐済みだ。

北ミズガルドの連中に比べると、あっけなかった。

此処はあくまで前線基地だ。詰めているのも、戦闘に向かない巨神が殆ど。今のところ、援軍をこの飛び地に呼ぶ予定もない。

ファフナーが戻ってきた。

戦闘が想定される場所では巨大なドラゴンの姿をしているこの魔術師は、戦闘の畏れがない場所では、本来の姿に戻る。

巨神ことヴァン神族は幾つかの歴史的な転機の結果、鰐の要素を体に取り込み、生きている限り際限なく巨大化する肉体を手に入れた。これは始祖神ユミルの要素を、部分的に再現した結果でもある。

しかしファフナーは、魔術師という特性もあるのだが、本来の姿はとても小さい。

フルングニルがファフナーにつらく当たっているのは、少しでも強くなって欲しいと思うからだ。

ファフナーは、辺りをおどおどと見回しながら、よてよて歩いてくる。

そして、フルングニルが怖い顔で見ているのに気付いて、ひいと情けない悲鳴を上げた。

「フルングニル様! 来ているのなら、来ているといってください! 心臓が止まるかと思いました!」

「ずいぶんな被害を出したようだな、ファフナー」

「申し訳ありません。 近づくことさえ、できませんで」

それは違うなと、フルングニルは心中にて一蹴。

その気になれば、ファフナーが王都に強襲をしかける手段など、いくらでもあった。溢れるほどいるリンドブルムを使う手もあるし、何より切り札であるスヴァルトヘイムの怪物達を、ファフナーは戦線投入していない。

怖れたのだ、ファフナーは。

超長距離からの、精密な爆撃をするほどの相手と戦うリスクを。

「フルングニル様、できればお手を拝借したく」

「俺はこれから、北部の戦線に戻る。 フレイという神の姿と、実力を、この目で確認する必要がある」

「そんな、後生です!」

「お前は最低限、ブルグントの戦力がどれほどのものか、確認するまで戻らぬように」

泣いた真似をするファフナーだが。

踏みつぶそうとして足を振り下ろすと、悲鳴を上げてこけつまろびつ逃げる。そこを、ひょいとつまみ上げる。

ファフナーの本来の姿は、文字通りの矮躯。

人間ほど小さいわけでは無いが、それでもフルングニルがつまみ上げることができるほどのサイズなのだ。

「お前が怖れる度に、部下が無駄死にすると知れ。 被害が大きいのも、怖れて及び腰になっているからだ」

「でも、怖いものは怖いです!」

「それでも行ってこい。 お前は要するに、我が身を大事に考えすぎる。 だから及び腰になって、その偉大な魔術にもかかわらず、フリム陛下の右腕になれぬのだ」

実際問題、単純な魔術でいえば、ファフナーのそれはフルングニルを遙かに凌駕している。

ファフナーを馬鹿にする巨神は多いが、その魔術を侮る者はただの一名もいない。

その性格が、全てを台無しにしているのである。

ファフナーを地面に放り出すと、監視役に付けている何名かの魔術師に言い含める。

「フレイヤの攻撃をどうにかするには、飽和攻撃で対応することだ。 事前にリンドブルムを広域から敵の索敵範囲に入れよ。 その後、スヴァルトヘイムの魔物を使って、一点突破を計れ」

「は。 分かりました」

「任務を一つ付け加える。 フレイヤをお前達で釘付けにせよ」

フルングニルの見たところ、フレイとフレイヤは、互いの弱点を補い合うような戦士である。

兄のフレイも同等の実力を有しているとなると、連携で挑まれたとき、フルングニルの喉に刃が届く可能性は著しい上昇を見せるだろう。

正直、その状態の相手と戦って見たい欲求はある。

フレイヤにも、そう告げたのは、嘘ではない。

だが、戦略家としての本能は告げているのだ。此処で各個撃破しなければ、いずれ大きな被害を出すと。

「リンドブルムを相当数消耗することになりますが……」

「かまわん。 魔術でいくらでも作り出せる」

リンドブルムは現象が意思を持った神々というカテゴリの中では最下級の存在で、むしろ動物に少し毛が生えた程度のものにすぎない。

魔術によって作り出されたリンドブルムは、文字通り空気さえあれば、いくらでも作り出す事ができる。

成長するまで何千年もかかる上、それぞれが単一絶対である巨神とは、比べものにならない。

品種改良の結果、既にリンドブルムは形態の究極を極めている。全てが同じ個体のクローンなのだ。

「分かりました。 ファフナー様、明日の攻撃における作戦を練りましょう」

「いやだあああ! あんな爆発、巻き込まれたら死ぬ! 怖い!」

「だだをこねられますな。 さあ、行きますぞ」

あまりにも情けない。

その情けなさが故に、力を発揮しきれないファフナーを、フルングニルは何度も惜しいと思うのだった。

そのまま、フルングニルは空間転移を繰り返し、北へと飛ぶ。

ライン川の南側で、未だに人間の砦が頑強な防衛戦を繰り広げていると、報告があった。北ミズガルドの戦士達が、多数戦闘に加わっているらしい。其処にフレイまでいるとなれば、確かに厄介だろう。

逆に言えば、フレイさえ斃してしまえば、一気に其処を抜くことができる。

そうなれば、態勢が整わないブルグントを、蹂躙し尽くすことが可能なのだ。

戦略的にも、大変意義がある戦いである。

フリム王は、北ミズガルドで、足場固めに腐心している所で、精神的な負担を掛けたくない。

此処は是非。

可能な限りの速度で、人間共の防衛線を、突破したい所であった。

 

3、砦の死闘

 

シグムンドは足早に、石の城壁の後ろに付けられている階段を上がった。既に城壁の上には、兵士達が戦闘態勢を整えていた。

大巨神が数体、まっすぐ砦に迫ってくる。

勿論、それだけではない。騎兵は突撃の機会をうかがって岡ノ上で旋回しているし、他の巨神も戦列を組んで、確実に迫ってきていた。

兵士達も、既に怯えない。最初は、見張り塔ほどもある棍棒を持つ彼らを見て、それだけで腰が引けそうになっている者もいたのだが。

今では、無言のままクロスボウを構えて、間合いに入る瞬間を待ち構えている。

既に交戦開始から七日目。

未だ、砦が落ちる気配はない。

元々頑強な南ミズガルドの石の砦に加え、豊富な物資が蓄えられていて、しかもフレイが奮戦しているという事が大きい。

ただし、被害は着実に増え続けている。

フレイが、城壁の上に来た。ラーンもつれている。ラーンはフレイと一緒にいるだけで、幸せそうだった。

「今日は大巨神が積極的に前に出てくるな」

「あの数なら、追い払って見せます」

「……」

フレイは腕組みして様子を見ていたが、シグムンドに話を振ってくる。

「どう見る、シグムンド」

「明らかな陽動だろう。 だがそう見せかけて、この城壁を無理にでも突破するつもりかも知れないな」

ヴェルンドの意見も聞いてみたいと、シグムンドは思ったが。

かの御仁は、昨晩の夜襲で指揮を執り、外でも戦い続けて、今は寝ているところだ。起こすのは流石に気の毒である。

巨神はやはり、夜襲も混ぜてくるようになっていた。

大軍で行動するには、明るい昼間が望ましいから。偵察などで分かっていたことだが、最初にされたときは、被害が増えた。

ヘルギが、少し遅れてくる。

「また随分来たなあ……」

「出撃して戦うか」

「いや、これ以上の消耗は避けるって、シグムンドも言ってたじゃ無いか」

「その通りだ。 此処は控えていた方が良いだろう」

ヘルギは、シグムンドが言ったことは覚えている。それを再確認できて、少し嬉しい。

北の民の戦士達も、長弓を構えはじめる。

フレイは動かない。

何か、引っかかるものを感じているのだろう。

砦の方から、爆発音が轟いたのは、その時だった。何が起きたのかは、振り返った瞬間、理解できた。

大巨神よりも凄まじい体格を持つ巨神が、何の前触れもなく、いきなり砦の中に出現したのである。

両手に斧を持った、狂戦士のような革の装束を纏った巨神だ。

しかも頭が三つもある。

明らかに、普通の巨神ではない。

「フルングニル!」

「あいつがか!」

「おそらくは。 フレイヤから、魔術で先ほど連絡が来た。 ほぼ間違いなく、奴がそれだろう」

大胆なことをする。陽動で砦の戦力を引きつけておいて、自身が直接乗り込んでくるとは。

砦の司令官が、声を張り上げる。

「此方はお任せを! 必ず追い払って見せます!」

「分かった。 シグムンド、ヘルギ、ラーン。 手伝ってくれるか」

「任せておけ。 巨神族随一の勇者か。 腕が鳴る」

フレイはまるで飛ぶような速さで、敵の所へ行く。

シグムンドは他の二人を促すと、城壁を駆け下りる。駆け上がったり駆け下りたり忙しいが、それが戦場だ。

「ちょっと、何よあの化け物!」

ラーンがきゃいきゃいと吼える。

この女、生体魔力が強いため、弓矢の破壊力については折り紙付きだ。北ミズガルドの戦士にもそうそう劣らない。

ただ、やはり考え方が違いすぎるからか、いつもシグムンドに噛みついてくる。

「巨神族の勇者だ」

「おいおい、冗談じゃないぜ。 雑兵でも、あれだけ強いのによ」

実際問題、フレイとフレイヤがいなければ、とうの昔に人類はブルグントまで攻めこまれ、下手をすると滅亡していた可能性が高い。

激しい破壊音がして、ラーンが思わず首をすくめた。

もう、フレイとフルングニルは、戦いはじめている。

「やはりお前も代替わりした神か、フレイよ」

「フレイヤから聞いたか、巨神の勇者」

「然り。 何故そのようなことが起きているかは興味があるが、今は貴様の戦士としての力量、それだけを見極める」

フルングニルの姿が、突如視界に入る。

跳躍したのだ。

あの巨体で。

しかも、とんぼを切って、着地する。フレイの斬撃をかわしたらしい。

「ちょっと、嘘でしょ……」

ラーンが愕然とする。

大巨神より少し大きいだけ、などという相手では断じてない。

あの凄まじい動き、人間の軽業師を更に凌いでいる。しかもあの巨体で、軽やかに動き回っているのである。

着地の時の凄まじい音からしても、フルングニルがどれだけ重いかはよく分かる。

一体どのような筋肉が、あの巨体を動かしているのか。

大きな動物になればなるほど、初動の動きは遅くなる。その後の伸びが速いのだが、フルングニルは初速からして違っている。

フレイが吹き飛ばされるのが見えた。

斧を振るい上げたフルングニルの一撃が、もろに入ったらしい。

回転して吹っ飛んだフレイが、兵士達の宿舎に突っ込む。

屋根を突き破って中に落ちるフレイ。

フルングニルが、ゆっくり歩み寄ってくるのが見えた。

「どうした、貴様よりも、妹の方が上か?」

「フレイヤとも戦ったようだな。 既に連絡は受けている」

「かなりの使い手であった。 先代は色情狂だったが、今のフレイヤは違う。 見事な戦士のようだな」

「フレイヤは引っ込み思案な妹で、幼い頃は母の乱行のこともあって、いつも周囲に色眼鏡で見られて泣いていた。 今は私に匹敵する戦士に育って、兄としても鼻が高い」

フレイが、飛び出してくる。そして、剣を振るうと、虚空が切断されるような斬撃が放たれた。

フルングニルが、斧を振るって、それを迎撃する。

何も無い空中で、火花が三閃した。四撃目で、フルングニルの左腕に、深い傷が入る。だが、瞬時に再生する。とんでも無い回復力。普通の巨神とは、体からして違っているという事か。

そろそろ、交戦範囲内。

フルングニルが流ちょうな言葉で喋っていることには驚かされるが、それよりも優先することがある。

「ラーン、ヘルギ。 仕掛けるぞ」

「ちょっと、仕切らないでよ! 私に命令して良いのは、フレイ様だけなの!」

「しかけるっても、どうやって。 あの動きだぞ」

「近くを走り回って、隙を見つけろ。 狙うべきは、足か目だ」

ラーンは何か文句を言おうとしたが、その指示が的確だと気付いてくれたのだろう。

むすっとしたまま、クロスボウを構える。

以前と少し違ったクロスボウに見えた。

「おや、それは」

「この間の戦いで、武勲を立てたって事で、司令官からもらったの。 上級士官用の、強力なクロスボウなんだから」

「そうか、認められて良かったな。 俺も親父から、この剣をもらったときは嬉しかった」

「……」

ラーンが頷く。

少しだけ、心が通じたかも知れない。南ミズガルドの女は分からないが、人間だと言うことは、少しは共有できる部分もある筈だ。

戦士として、相手を認めるためにも。その共有できる部分は、探していかなければならない。

「よし、散るぞ!」

「おうっ!」

「もう、ヤケよ! フレイ様、私の活躍を、見ていてくださいっ!」

三者が、別々の方向に散る。

シグムンドは、正面から仕掛ける。三つある首の内、真ん中にある奴が、見下ろしてくる。

「ほう、小さきものよ。 お前は何度か見かけたぞ」

「シグムンドだ、巨神族の勇者ッ!」

走りながら、速射。

矢が目にまっすぐ飛ぶが、フルングニルは少し首を動かすだけで、矢をまぶたの少し上、骨がある場所に当てた。

人間だったらそれでも致命傷だが、何しろ巨神の勇者である。魔力をたっぷり込めたシグムンドの矢が、骨に弾かれて軌道をずらす。

その間にも、フレイが上段から、剣の一撃を振り下ろす。

だが、フルングニルはシグムンドにもある程度の警戒をしながら、フレイと互角以上に渡り合っていた。

再び速射。

今度は足。ふくらはぎに刺さる。

だが、軽い。

「なるほど、人間は戦闘種族として、大変に力強く進化している。 だが、我らヴァン神族は、さらなる高みへとその体を変革したのだ」

「化け物の間違いじゃないのか!?」

「化け物? ふむ、それも間違ってはおるまい。 我らがアース神族と、以前は姿も変わらなかったと聞けば、そう思うのも無理はない」

此奴は、何を言っている。

巨神族が、アース神族と同じ姿をしていた。それよりも、ヴァン神族という言葉が先ほどから聞こえるが、それは何だ。

まさかとは思うが。

アース神族と対になるほどの力を持つ存在が、ヴァン神族だとでもいうのか。

「何だ、おかしな事を聞いたというような顔をしているな」

斧を振り回し、フレイの攻撃をさばき続けながら、フルングニルは応えてくる。

ラーンが後ろ側面に回り込み、フルングニルの膝の裏に矢を放つが。跳躍したフルングニルの、残像を抉っただけだった。

全力で飛び退いて、側転する。

ほんの紙一重の差で、地面にフルングニルの巨大な斧が直撃。吹っ飛びつつも、シグムンドは、此処が好機と悟った。

「ヘルギっ!」

「おうっ!」

屋根の上に登っていたヘルギが、飛び降りざまに、奴の左腕に切りつける。

大木のような腕だが、皮膚を裂いた剣は、確実に肉まで抉った。

其処へ、シグムンドが矢を放つ。

矢は、傷口に吸い込まれるように、突き刺さった。

手応え有り。かなり奥まで、矢は突き刺さった。更に、少し後方にまで離れていたラーンが放った矢も、フルングニルの盛り上がった肩胛骨の下に食い込む。此方も、相当に深く、巨神の体に抉り込んだ様子だ。

「ふむ……?」

大上段に振りかぶったフレイが、全力で剣を振り下ろす。

フルングニルは右腕の斧でそれを受け止めるが、周囲にクレーターが生じた。フルングニルの全身を、沈み込ませるほどの破壊力。

斧が、砕け散る。

だが、斧までもが、即座に再生を開始した。

残像を残して、フルングニルが飛び下がる。

砦の城壁の一角を、踏みつぶすようにして着地。逃げ切れなかった兵士は、当然下敷きだ。

「なるほど、力は見せてもらった。 妹の方が上と言ったは訂正しよう。 貴様ら兄妹は、この俺が直に刃を振るうに値する戦士だ」

「フルングニル! 何故巨神族は、このような残虐な侵略を行う!」

「侵略? それは違うぞシグムンド。 このミズガルドは、元々ヴァン神族のものであったのだ。 アース神族が我らをヨトゥンヘイムに追放後、猿に知能を与えた。 そして、己に都合が良い生体兵器として、一万年かけて改良した。 このミズガルドそのものを、実験場として、な。 エインヘリアルとバルハラの仕組みは、その産物だ」

何を言っている。

しかし、戯言とは思えなかった。

人と猿が似ている、いや似すぎているのは周知の事実だ。

それに、何故か各地に、誰が作ったかさっぱり分からない遺跡が存在しているのも、事実なのだ。

あれは神々が作ったものだと言われていた。

だが、以前ヴェルンドに聞かされたことがある。

アース神族が作り出した魔法の文字、ルーン文字とは明らかに違う系統の文字が書かれている遺跡が存在すると。

「そもそも、おかしいとは思わぬか。 お前達人間は、戦場であれだけ残虐に殺し合うのに、どうして非戦闘員を手に掛けることに、異常な忌避を覚える。 おかしなことはそれだけではない。 一万年も経過しているのに、どうして武具も魔術も進歩をまるで見せない。 お前達が、昔に比べて、遙かに強くなっているのにだ」

フレイが切りつけると、高笑いと共に、フルングニルは消えた。

城壁から、砦の指揮官が下りてきた。

小太りの戦士は、額の汗を拭いながら、此方に歩み寄ってくる。

「気になることが聞こえましたが。 敵は、とにかく追い払うことができた、それでよろしいのですか」

「……ああ。 だが、巨神族は、ますます本腰を入れて、この砦に攻め寄せてくるだろう」

「困りましたな」

城壁の修理を急がせるように、兵士達に指示しながら。司令官は一度、深くくらい闇を、瞳に宿らせていた。

シグムンドも、気になる。

フルングニルが、嘘をついているように思えない。それに、武具が妙なほどに進歩しないのも、確かな事実なのだ。

だからこそ、今では南ミズガルドは、北ミズガルドに攻めこんでこない。もしも武具が進歩を続けているのなら、その進んだ武器で、一気に蹂躙しに来るだろう。

頭を振って、雑念を払う。

今は、他にするべき事がある。

ざっと見るだけで、辺りは凄まじい破壊の跡で満たされていた。死傷者も少なくない。まずはけが人を手当てして、次の襲撃に備えて。やることは、いくらでもある。

「ちょっとっ!」

ラーンが、鬼のような形相で、シグムンドに詰め寄る。

「あの化け物と、何話していたの? 全然意味が分からなかったんだけど!」

「その方が幸せなこともある。 俺にも、理解できない部分は多かった」

フレイを見るが、彼もあまり今のやりとりで、良い気分はしなかった様子だ。

巨神族は、一度進軍を止め、兵の再編を行っているようだ。城壁を修復するなら、今が好機だろう。

「ヘルギ、修復を手伝うぞ」

「ああ、それが良さそうだな」

こういうときは、余計な事を考えず、手を動かす方が望ましい。

いずれ、フレイなら。話してくれるだろう。

今は、フレイに対する信頼の方が、大きかった。

 

4、無音のひととき

 

ようやくオーディンが首を縦に振った後も、テュールの困難は続いていた。

まずエインヘリアルの編制だが、そもそも地上のどの地点に展開するかで、明らかな横やりが入り続けていたのである。

テュールとしては、フレイが困難な闘いを続けているという砦に送り込んでやりたかったのだが。

しかし同時に、ブルグント王都にも、巨神族が強襲を仕掛けたという報告が入っていた。いずれの地点に送るかで、明らかにオーディンが後ろから手を回し、邪魔をさせているのである。

イズンに許可は出たと聞いていたのに、いきなりの肩すかしだ。

オーディンに真意を聞きただそうと、何度かした。

だが、いずれでも、オーディンは応えてくれない。トールにも相談してみたが、かの御仁は戦う事ばかりが頭にあるようで、それの不満を逆に聞かされる有様だった。イズンも困り果てているようで、テュールはため息が増えるばかりである。

何か様子がおかしいことは、テュールも気付いている。いっそのこと、フレイのように単身ミズガルドに下りてしまおうかと、半ば本気で考えもした。

だが、テュールには、部下達が大勢いる。

彼らの事を考えると、勝手な行動はできなかった。

テュールの執務室は、バルハラ宮殿から少し離れた場所にある。

小人が作り上げた小さな宮殿だ。武神の宮殿らしくこぢんまりとしていて、周囲には塀や堀もある。

迷惑な話だが、一時期は「物わかりが良い」テュールに取り入って、派閥を作ろうとする神々が、この宮殿に列をなしておとずれた。

彼らは宮殿を褒めながらも、内心は小さいだの質素だの馬鹿にしていた。

だが、馬鹿にしなかった者もいる。

二代目のフレイと、二代目のフレイヤ。

それに。テュールが育ててきた、何名かの武神や、ワルキューレ達である。

そのワルキューレの一柱が、宮殿を訪れた。

声を掛けておいたのだが、ようやくだ。

すぐに執務室に案内するように、部下達に指示。姿を見せたワルキューレは、傷だらけで、鎧も色がくすんでいた。

「ブリュンヒルデ! 如何したか」

ワルキューレ。

地上の戦場の上空を飛び回り、戦死者の中から有望な者を見繕って、バルハラに「連れてくる」役割を持った半女神である。

その全員が優れた武術の使い手で、オーディンと人間の間にできた娘だとされているのだが。

テュールはその真相を知っている。

だが、言う必要は、この場ではない。

ブリュンヒルデは若いながら武勇に優れたワルキューレで、少し前からフレイの手助けをさせるべく、手配をしていた。

やっと姿を見せたと思えば、この有様である。何が起きたのか。

「不覚を取りました。 スヴァルトヘイムの調査に出向いていたのですが」

「小人達の地下世界がどうかしたのか」

「連絡が取れなくなっていることは、聞いていたかと思います。 惨状は、私がこの目で見てきました」

ブリュンヒルデの美しい顔は、屈辱に歪んでいた。

彼女は器量よしが揃うワルキューレの中では、「さほど美しくない方」だとか下世話な噂をされているらしいのだが。その理由は、ブリュンヒルデが化粧や身繕いに興味を見せず、いつも武装した姿でいるためだ。テュールは、戦場で舞う彼女を充分に美しいと思っている。だからこそ、痛々しい。

最初、招集に応じなかった不満を言おうかと思ったのだが。

それどころではなかったことが、これでよく分かった。

すぐに治療班を呼ぶ。寝台に横たえ、下級の神々に治療をさせながら、隣に腰を下ろして言う。

「報告は可能か」

「はい。 まずスヴァルトヘイムですが、全滅です。 小人達は一人を残して、その全てが魔物の手に掛かりました。 一人は救出に成功したので、今バルハラで手当てさせています」

「魔物……だと」

「スヴァルトヘイムの住民さえも知らないという未知の種族です。 私も、同道したワルキューレ数名と共に交戦しました。 味方の部隊はどうにか全員が生還できましたが、全員が重傷です」

ブリュンヒルデの、薄紫色の長い髪が、土埃に汚れている。

彼女ほどの使い手になると、そんな不始末は、殆どしないのだが。

「何者かは分からないか」

「分かりませんが、可能性があるのは、地の底の世界から来たるものです。 個々の能力はたいしたことがないのですが、何しろ数が……。 今、地上に押し寄せているという、巨神族にさえ迫るかも知れません」

「ニーズヘッグの眷属か」

「はい。 おそらくは」

ニーズヘッグとは、この世界の最深奥に住まうという、邪悪な毒竜である。

世界樹の根を常にかじり続けているという怪物で、無数の死者とおぞましい魔物達を従えているという存在。

一種の魔王的な者だ。

今までも、ニーズヘッグの眷属が、スヴァルトヘイムに攻撃を仕掛けてきた例はあったのだが、いずれもが神々の手により、撃退されている。

しかし今はラグナロクだ。かの邪悪な竜が動き出してもおかしくはない。

「ならば、お前を派遣するわけには行かぬな。 フレイが危機にあるのだが」

「私も傷を治し次第、地上に向かいたく思います。 しかし、危急であるならば」

「いや、既に向かわせるものは決まっている。 アネットを先に行かせる予定だ」

ブリュンヒルデは、アネットをと、呟いた。

まだワルキューレとして活動しはじめたばかりの、若い神だ。勿論ワルキューレの中では、一番弱い部類に入る。

その上、色々と良くない話もある。

逆に言えば、だからこそ、オーディンは出撃を許可したのだろうと、テュールは思っている。

失っても、痛くもかゆくもないからだ。

逆に言うと、最初許可したエインヘリアルの出撃許可が急に出なくなったのは、このスヴァルトヘイムの報告が、オーディンの耳に入ったから、かも知れない。

無駄に戦力を失うことを、怖れた可能性が高い。だがそれは、今地上で必死に戦っている者達を、嘲笑う行動ではないのだろうか。

「アネットには、私の剣を渡してください。 それで、少しはマシになるでしょう」

「よいのか。 あれはお前の宝であろう」

「私には、オーディン様より賜った稲妻の神槍もあります。 それに対して、実績がないアネットには、身を守るための技も武具もがありません。 アネットの腕は未熟ですが、フレイ様もフレイヤ様も深く尊敬していますし、何より高い潜在力もある。 宝剣の守りがあれば、無茶はしないでしょう」

大きくテュールは嘆息する。

最初から、オーディンが全力での迎撃進軍を命じていれば、こんな苦悩はないのに。

一体オーディンは、何を怖れている。

何が起こることを知っている。

ラグナロクという出来事については、テュールも知識がある。だが、未来などは、実力で切り開けば良い。

誰よりも、そうすることで地位を得てきたオーディンが、それを知っている筈なのに。

「分かった。 お前はできる限り早くの復帰を目指せ。 復帰後は、フレイを救出するべく、出撃地点を私が指示する。 矛盾するようだが、できるだけ急いで、確実に傷を直して欲しい」

「オーディン様の横やりをおそれておいでですか」

「そうだ。 このままだと、取り返しがつかない事態が訪れる可能性が高い。 せめて、我ら主要な神々にだけでも、何が起きるのか話していただければ、対応のしようもあるのだが」

テュールはブリュンヒルデの治癒を部下達に任せると、自身は外に出る。

北の空は、今、フレイが必死に戦っている筈の場所。

そして、本来なら、自分とトールが肩を並べ、巨神と覇を競うはずの場所であったのだ。

無言で、テュールは頭を振る。

状況は、刻一刻悪くなっているように、彼には思えていた。

 

(続)