蹂躙アウズンブラ

 

序、来ぬ支援

 

フレイヤの放った鷹が戻ってきた。鷹は重そうに、荷物を足にくくりつけていた。勿論、神の武具をそのまま運ぶのでは無い。魔術で重量も質量も軽減しているのだが、それでも重そうにしていると言うことは。

指定していた武具以上のものが、運ばれてきている、という事か。

鷹を撫でていたわるフレイヤ。

フレイの放った使いも、まもなく来る。

トールの剛弓の矢三百本だけではなく、様々な武具が、包みには入っていた。

求めていた武具はある。どうにかフレイは安心できるなと思ったが。フレイヤは、渋い顔をしていた。

指定した武具の内、貸し出しが認められなかったものが幾つかあるという。彼女が求めていた以外の武具が幾つか入っていて、それらもまた貴重なものなのだが。しかし、全体的な戦力で考えると、やはり最初の予定通りのものがなかったのは、少し痛い。

ただ、二日間、巨神は侵攻の手を休めていた。散発的な攻撃はあったが、いずれもシグムンド達で対応できる程度のものだった。その間にフレイヤは氷の杖を修復し終えていて、使えるようにはなっていた。

包みの中から、フレイヤが紙束を取り出す。蜜蝋には、テュールの印があった。ルーン文字で封印されていて、正しい手順を踏まないと燃えてしまう公式書類である。

「兄様。 テュール様からの書状が」

「見せてくれ」

フレイヤの表情から、大体結果は分かる。

書状を開くと、案の定だった。

テュールは最初に、心苦しいことだがと、断りを入れていた。

「残念なことだが、ワルキューレ、それにエインヘリアルの派遣は、未だに許可が下りていない。 アスガルドの神々の中には、オーディンが首を縦に振らないのならと、私やトールの言うことを聞かぬ者も多いのだ」

「オーディン様は、何を考えているのでしょうか」

「分からないが、やはり巨神族の切り札を怖れているのかも知れぬ。 兵力の逐次投入になる事を、怖れている可能性もある」

だが、それにしても、及び腰に過ぎる。

巨神は既に、北ミズガルドを殆ど制圧しているといっても良い。別働隊が南ミズガルドにも侵入してきていないという保証は無い。

もたついている内に、どんどん戦況は悪化する。

これは、確定事項だ。

オーディンは戦争を司る神だ。狡猾で冷酷な一面があるのも、それが故だと、フレイは解釈している。

だが、このままでは、勝てる戦いも勝てなくなる。

「重ねて援軍を催促しよう。 少なくともこの砦に、五千、できれば一万のエインヘリアルを派遣して貰えれば、一ヶ月は持ちこたえられる」

頷くと、書状を書き始めるフレイヤ。まず、北ミズガルドの惨状について、テュールには知ってもらう必要がある。神々のほこらは破壊され、多くの人間が殺された。このまま巨神族が南ミズガルドになだれ込むと、取り返しがつかないことになる。

フレイは妹に作業を任せると、シグムンドの所に向かう。シグムンドは大体、一番外の防壁にまで出ている。

この砦は、特異な造りをしている、自然の要塞だ。

まず、巨大な山二つの間に、谷がある。かって大河が流れ込んでいたらしい形跡もあるが、今は乾いた土地だ。

これをまるまる利用しているのである。

そして外側から、順番に世界樹の板を使ったらしい装甲防壁が並べられている。何しろ世界樹の板を使っているので、燃えないし、衝撃にも強い。

何度か戦闘を見たが、実際巨神族のタックルを浴びても、びくともしなかった。騎兵に対する対策かと思ったのだが、違うらしい。

ヴェルンドに聞いたところによると、一世代ほど前に、女神フリッグの命令で、戦塔を作った。

その際に、城壁を主に北に対して強化するようにと命じられ、世界樹の木材を渡されたのだそうだ。

もしそうなら、フリッグはラグナロクが近い事を、知っていたことになる。

ならば、どうして。もっと有効な手を、打とうとはしなかったのか。

門から外に出て、シグムンドを探す。

シグムンドは門近くの巨木に登り、其処から北を見つめていた。おそらく、早期警戒をしているのだろう。

「どうした」

「話がある」

無言で、シグムンドが降りてくる。

木登りも、木から下りるのも、大変に達者だ。巨木から殆ど危なげなく降りてくる様子は、猿も驚くほどの手際だ。

「アスガルドからの援軍は、まだ来られない。 しばらくこの砦で支える必要があるだろう」

「何……そいつは困ったな」

シグムンドが言うには、今の時点で物資については困っていないという。問題は、その後だ。

巨神の軍勢は、偵察隊の話によると、増える一方だという。しかも、なにやら準備しているようで、路を整備し、森を潰して廻っているのだとか。近々仕掛けてくるのは間違いないと、シグムンドは断言した。

「それも、確実に砦を落とせると、奴らは確信して攻めこんでくるはずだ。 何をしてくるか、見当もつかん」

「ならば、避難民を南に先に向かわせた方が良いだろう」

「しかし、ブルグントは俺たちをおそらく歓迎しないだろう。 難民が出ても、受け入れるとは思えないな」

それについては、どうにかするしか無い。

最悪の場合、フレイとフレイヤが出向いて、言うことを聞かせる必要が生じてくるだろう。

ミズガルドの人間は、信仰心が篤い。

それにつけ込むようで多少不快感はあるが。今は、手段を選んでいられないのも、事実なのだ。

「分かった。 とにかく、もしも砦が落とされた場合の事を考えて、先に避難民を出立させる。 護衛として、百名くらいは、戦士を付けた方が良いだろう」

「その辺りは任せる」

「しかし、援軍は無しか……」

「その分、私と妹が働く」

幾つか、大威力の武器を回してもらった。その中には、巨神の軍勢を相手にしても、立ち回れるものもある。

ただし、どうしても、限界はある。

相手も神々であることを、忘れてはならない。しかも高位の神は、今のところ出てきていないのだ。

シグムンドは、ヴェルンドと一緒に作戦を遂行するべく、砦の中に戻る。

フレイヤが、来た。

「兄様、手紙を出しました。 あと、気になることが一つ」

「どうした」

「仕掛けておいた探知用の術式が、次々に解除されています。 おそらくは、巨神族の魔術部隊が出てきたという事でしょう」

巨神族で最も有名な術者と言えば、ファフナーだ。

勇者フルングニルも知名度が高いが、この男はむしろ戦士として知られている。魔術師として、巨神族を率いているのであれば、ファフナーである可能性が高い。

ファフナーは臆病な性格で、才気煥発な反面、ちょっとしたことでも驚いたり逃げ出したりすることがあって、巨神族の間でも笑いものになっていた、というような話があるそうだ。

ただし、実力についても相当なもので、滅多な事では身につけられない、巨大なドラゴンになる魔術を操るとも言われている。

「今の時点では、気にしなくても良いだろう」

「探知の術式は、もう不要と?」

「敵の戦力の概要は掴めている。 問題は、別の所にある」

ファフナーの場合は、おそらく自分が出てこないで、部下か、或いは特殊な生物兵器か、そういったものを使う事を考えるだろう。

この砦は非常に特殊な地形だが、それでも上空からリンドブルムの大軍勢に襲われたり、何か通常の戦術では対抗しがたいものを連れ出されると、不利になるのは否めない。シグムンドは最善と言える動きをしてくれているが、問題はそのほかだ。

南のブルグント王国を早めに臨戦態勢にしないとならない。

もしもブルグントから援軍が来れば、かなり時間を稼ぐこともできる。しかし、今此処でフレイかフレイヤがブルグントに出向くと、非常に面倒な事になる。敵の戦力が集中している状態である。

敵に魔術師部隊がいるのであれば、フレイとフレイヤの存在に気付いている可能性も高い。

勿論、砦を離れれば、察知するだろう。

敵に、総攻撃の隙を与えてはならない。ただでさえ此方は、要害に依って持ちこたえている状態なのだから。

「フレイヤよ。 いざというときは、ブルグントに増援を出すように、使者となってほしい」

「分かりました。 兄様は、如何なさいますか」

「私はあくまで最後尾で、人間達を支えようと思う。 フレイヤよ、いつも苦労を掛けるが、頼む」

「私の心は、常に兄様と共にあります」

そうかと言い残すと、フレイはその場を離れた。

今の時点では、まだ巨神族は攻勢に出てきていない。

休める内に、少しでも力を蓄えておかねばならない。鎧の補修も、可能な限りしておくべきだろう。

偵察に出ていた兵士達が、ばらばらと戻ってくる。

どうやら、来たらしい。

「巨神族だ! 谷間を埋め尽くすほどの数で迫って来やがる!」

「リンドブルムも相当にいるぞ!」

「シグムンドに声を掛けてきてくれ。 私が、先に様子を見てくる」

北の空を見上げた瞬間。ざわりと背筋を悪寒が駆け上がるのを、フレイは感じた。

何か、とてつもない邪悪が、迫ってきている。

それは何者か分からない。

だが、簡単に対処できる相手ではないことは、確かだった。おそらくは、フレイヤも感じ取っているはずだ。

油断は、しないだろう。フレイも、妹が自分に拮抗する使い手であることは、知っている。

ヴェルンドが最初に来た。

戦塔を出すかと聞いて来たので、首を横に振った。

「敵を一撃したら、即座に引いた方が良いだろう」

「それほどに多いと?」

「いや、敵が何も考えずに押し出してきているとは思えないからだ」

何か、敵が隠し球を投入してきたのだ。

ほどなく、敵の前衛が姿を見せる。

一番外側の防壁の上で、その時には既に。フレイは、トールの剛弓を引き絞り終えていた。

 

1、巨獣出現

 

「射ろーっ!」

シグムンドが叫ぶと、戦士達が動き出す。

敵の第一陣に、フレイが矢を叩き込む。

更に近づいてきたところを、防壁の上から矢を浴びせた。一発も無駄撃ちはしない。容赦なく、敵の軍勢を削り取る。

巨神の強みである高さは一切生かすことができず、しかも大型はフレイが確実に処理してくれる。

備え付けているクロスボウも活躍を見せ、跳躍して壁を越えようとする巨神を、確実に叩き落とした。

だが、シグムンドは。

妙な違和感を感じた。巨神が、本気で戦っていないように思えたのだ。

敵の軍勢が引いていく。

フレイは、じっとその様子を見つめていた。後方に下がったままのヴェルンドとレギンは、呼ばない方が良いだろうと、シグムンドは思った。

「どうした。 敵の動きが、おかしいか」

「ああ。 まるで、此方の出方を見るかのような攻撃だった」

「捨て石になったと?」

「その意図が読めない。 私も新しい武器を補充していることくらいは、読めただろうに」

フレイは巨神を馬鹿にしているのでは無い。

何かとんでも無い事を仕掛けて来かねないと、警戒しているのだ。

既に偵察の部隊は全て収容している。これから再度出して、早期警戒しようかと、シグムンドが思った矢先だった。

巨大な、足音がした。

大巨神のものよりも、さらに大きい。

戦士達も、顔を見合わせている。ヘルギが、泣きっ面を、更に歪ませる。

「おいおい、もっと大きい巨神が来るんじゃ無いだろうなあ」

「そんな奴がいるのか」

「それは、いる」

フレイは、じっと谷の向こうを見つめている。

ふと、気付く。この足音は、四つ足のものだ。特有のリズムがあるのだ。しかも、おそらくは、草食獣。それも、とてつもなく大きな奴の足音だろう。

フレイにそれを告げる。

そうすると、見る間に顔色が変わる。

「それは、本当か」

「俺たちは狩に関しては、右に出る奴がいない。 動物の足音くらい、即座に聞き分けがつくさ」

「まずいな」

「何か、心当たりが」

足音が近づいてくる。

そして、谷を曲がって、そのとんでも無い生物が、姿を見せたのだった。

頭が、谷の上に届きそうなほどに高い。単純な背丈だけでも、大巨神をずっと上回るほどだ。

それだけではない。

シグムンドが、見た事も無い異形の生物だった。

四つ足なのだが、五本目の足とでもいうような、長大な鼻が頭からぶら下がっている。そして、口元からは、雄牛の角もかくやと言わんばかりの立派な牙が、反り返るようにして生えていた。

足はまるで丸太のようで、全体的に丸と四角を基調とした形状である。更に頭の横からは、まるで巨大な寝具のような耳が、存在感を示しながら広がっている。全身は灰色で、森の中で身を隠すつもりなど、これっぽっちもないようだった。

目はつぶらで、巨躯と威容の割には可愛らしいが。しかし、全体から発している戦気は、それが攻撃のために動員された生物であることを告げている。

「何だあれは……!」

「アウズンブラだ」

「アウズンブラ?」

「世界の始まりの溝、ギンヌンガカプから生まれたと言われる、最も巨大な獣だ。 まさか、巨神族が従えていたとは……!」

アウズンブラとやらの背中には、大巨神が跨がっている。

それも、アウズンブラのあまりの巨大さが故に、大人に肩車される幼児のようにしか見えなかった。

騎乗される獣である事を示すように、アウズンブラは武装している。

牙からは装飾らしい鈴をぶら下げ、鼻の先には、分厚い鉈がくくりつけられている。しばし唖然としていた戦士達だが、確実に近づいてくるアウズンブラを見て、騒ぎはじめた。まずい。

この防壁では、防ぎきれるわけが無い。

高さにしても、アウズンブラの膝程度までしかないのだ。頑強なユグドラジルの木板で作っているとはいっても、限界がある。

「フレイ、あんたの武器で、どうにかならないのか」

「アウズンブラは、神々より古き邪悪だ。 今ある手持ちの装備では、どうにもならない!」

試しに、フレイが剛弓を引き絞り、その矢を叩き込んでみせる。

巨神数体を撃滅するあの強烈な矢が。

アウズンブラの額に打ち込まれると、冗談のように弾かれてしまう。それほど、装甲が厚いというのか。

しかもアウズンブラには効いている様子がまるでなく、平然と此方に向けて歩いてきている。

根本的に人間とパワーが違う大型の獣、たとえば牛や熊に対して、素手で下手な攻撃を加えると、似たような反応をすることがある。

だが、武器を使って、そのような反応が返ってくるのは、流石に見たことが無い。それだけ、人間が造り出した武器は、強力なものなのだ。ましてや、フレイが扱っているのは、人間では及びもつかない神の業によって鍛えられた武器であろうに。

戦士達が、動揺の声を上げた。

「いかん、すぐに退避だ! 第二の壁まで後退!」

「私が時間を稼ぐ」

再び、フレイが剛弓を引き絞る。

シグムンドは頷くと、急いでクロスボウを防壁から降ろし、後方に運ぶように指示。数少ない重量武器だ。此処で失うわけにはいかない。

アウズンブラは、確実に迫ってきている。

しかも巨神共は、その破壊力を確信しているのか。アウズンブラの少し後ろから、悠々とついてきているのが見えた。

フレイが、矢を放つ。

今度は足下を狙ったようなのだが、なんとアウズンブラは鼻をふるって、あの剛弓から放たれた神の矢を叩き落とした。

「なんて奴だ……!」

「くそっ! 対処策は無いのか!」

「今は無い! とにかく下がれ!」

フレイが慌てている声を聞くのは、はじめてかも知れない。

二番目の防御壁なら、或いは。すぐに戦士を後ろに回して、壁を開けさせる。だが、敵は、そう簡単に、後退を許してはくれなかった。

上空。

リンドブルムとは別の影がある。

それは、巨神だ。

座って両手を左右に広げている巨神。戦士が、恐怖の声を上げた。

「魔術だ! 巨神が、魔術を使ってやがる!」

巨神の周囲に、無数のリンドブルムが出現する。文字通り、空間を割って現れたのだ。何という恐ろしい魔術。

そして、逃げ腰になった戦士達の上から、膨大な数の火球が、降り注いできた。

 

前線に出たフレイヤが見たのは、地獄絵図だった。

上空の巨神が魔術を使い、次々とリンドブルムを呼び寄せている。見ると、おそらく空間接触と呼ばれる魔術だ。離れている空間をつなげるタイプのもので、異世界のものを呼び寄せるよりも、遙かにローコストで、距離を無視して、手近に軍勢を引き寄せることができる。

無言でフレイヤは、氷の塊を、上空にばらまく。

弾幕を展開し、リンドブルムを叩き落としながら、火球で大混乱に陥っている戦士達に呼びかけた。

「急いで撤退を!」

「撤退っ! 引け引け引けっ!」

爆発音。戦士が吹っ飛ぶのが見えた。

至近に、リンドブルムが、火球を集中してきている。数は増える一方だ。あの巨神をどうにかしなければならないだろう。

側に、シグムンドが来た。

走りながら弓を引き、リンドブルムの顎の下を貫き通す。凄まじい手練れだ。一瞬だけ、隙が出来る。

杖を持ち替えると、フレイヤは容赦なく撃ち放った。

それは火球を打ち出すタイプの杖である。爆発による殲滅効果が期待出来る武器であり、容赦なく上空の魔術師巨神に、火球を連続で叩き込む。

悲鳴を上げて落ちてくる巨神に、兄がとどめを刺した。剣を振るって、胴を真っ二つに切り裂く。

リンドブルム達が、目に見えて怯む。他にも巨神の魔術師はいるが、危険を感じたか、露骨に下がる。

だが、その時には。

既に大巨獣が、一番外の防壁の、至近にまで迫っていた。

そして、驚くべき事に。

後ろ足だけで、立ち上がったのである。

あの巨体で、とんでも無い。いにしえの時代に生きていたという巨獣達でも、そんなことはできなかっただろうに。

「兄様っ!」

大爆発。

いや、地面が、振り下ろされた巨獣アウズンブラの前足によって、文字通り吹っ飛ばされたのである。

ただ、体重を掛けただけ。

それだけで、地震よりも、凄まじい破壊を周囲にもたらしたのだ。

防壁など、ひとたまりも無かった。

世界樹の板で作られた、鉄よりも頑強な防壁が。文字通りオモチャのように、蹴散らされたのである。

フレイは逃れようとしたが、間に合わなかった。吹っ飛ばされ、岸壁に叩き付けられる。無言でフレイヤは、上空のリンドブルムを制圧しながら下がる。文字通り、周囲は阿鼻叫喚。

戦意を無くしそうになる戦士達を、必死にシグムンドが叫び、指揮をつなぎ止めていた。

「けが人を担いで下がれ! 第二の防壁まで逃れるんだ!」

防壁など、役に立つはずが無い。

叫ぼうとしたが、兄が立ち上がりつつ、剣を振るって、至近まで迫っていた巨神を斬り伏せる。

一番外側の防壁が、吹っ飛んだのだ。

当然、巨神がなだれ込んできている。アウズンブラは、どうしてかその場から歩かない。鼻だけを動かして、今自分で粉々にした世界樹の板を、口に運んでいた。

世界を支えると言われる大樹、ユグドラジルを喰らうとは。

ユグドラジルの最下層には、ニーズヘッグと呼ばれる怪竜がいて、根をかじり続けていると聞く。あの巨獣は、その同類なのだろうか。

氷の杖で、氷の塊を乱射し、上空のリンドブルムをほぼ制圧。だが、兄も巨神を処理しきれない。

至近まで迫っている大軍。下がりながら、今度は火球の杖に切り替えて、乱射。凄まじい土埃。魔力が、見る間にすり減らされていくのが分かる。

兄が、側まで下がって来た。剣を振りながら、下がる下がる。

とてもでは無いが、敵を殲滅するどころでは無い。

これは、負け戦だ。

シグムンドが、けが人を抱えて、側を走り抜けていく。

二番目の防壁は、開けるのに随分手間取っていた。何しろ、このような異常事態である。慌てるのも、無理が無い事だ。

「兄様、あの獣をどうにかしなければ!」

「既に色々と試している。 トール様の剛弓を浴びせもしたが、通用しない」

「何ですって……」

流石にフレイヤも、背筋に寒気が走るのを感じた。

アレが通じないとなると、一体何が巨獣を斃すことができるのか。心が折れそうになるが、その時ふと気付く。

どうして、巨神は、アウズンブラに全てを任せない。

それに、さっきから、どうしてアウズンブラは足を止めている。

再び、巨獣が動き出す。迫る巨神を二人でどうにか食い止めながら、ちらりと後ろを見る。

まだ、防壁は開かない。

取り残された戦士が、かなりいる。シグムンドが弓を引き絞り、此方に加勢してくれたが、焼け石に水だ。

それでも、迫る巨神の数体の足を正確に居抜き、時間をわずかだが、確実に作ってくれる。

「あの化け物を、どうにかする方法を、考えるんだ。 何か無いのか」

「今の時点では、どうしようもない」

「このままだと、蹂躙される! 此処が抜かれれば、北ミズガルドは巨神の手に完全に落ちる! 一気にブルグントまでなだれ込まれるぞ」

フレイが口を固く結ぶ。

あまりにも悔しいときに、兄が見せる所作だ。フレイヤは隙を見て、アウズンブラの足下に、火球を叩き込む。

だが、中巨神が、その行動を、体を張って阻止する。自ら吹き飛ばされながらも、である。

ひょっとすると。

だが、その考えを、確認している暇は無かった。

再び、大巨獣が歩き始めたのである。悠々と鼻をふるい、邪魔な構造物。戦塔や櫓を、蹴散らしながら、此方に迫ってくる。歩み自体は遅いが、その動きを食い止められる存在など、どこにもいない。

おそらく、トールやテュールが此処にいても、無理だろう。

オーディンの判断は、間違っていなかったのかも知れない。エインヘリアルの戦力を此処に投入していたら、おそらくあの化け物に蹂躙されていただけだ。

鼻についている巨大な鉈だけでも、一撃で櫓を破壊するほどなのだ。

悲鳴を上げて吹っ飛ばされる味方の戦士。

もう、至近まで、巨獣は迫っている。

防壁が開く。

味方の戦士達が、次々内側に逃げ込んだ。シグムンドは、フレイが引くことを促すまで、最後まで残って矢を放っていた。

「沼地に誘い込めないか」

「残念だが、この辺りは地盤がしっかりしていて、沼地は無い」

「兄様! 急いで!」

最後の駄賃とばかりに、フレイヤは、精霊の矢を打ち込む。

そして、防壁の内側に逃げ込んだ。

戸を閉める。

戸の向こうで、火球が炸裂し、千切れとんだ巨神の手足が吹き上げられるのが、防壁の内側からも見えた。

だが、アウズンブラは、気にもしていないらしい。

それに、二番目の防壁でも、奴は食い止められそうに無い。何しろ、足の上全部が、まるまる内側から見えているほどである。

アウズンブラは、目の前の邪魔な壁を、排除しようと考えたらしい。それこそ、無造作に。

軽くアウズンブラが頭突きをするだけで。

頑強な、それこそ鉄よりも遙かに固い世界樹の板壁が、吹っ飛ぶ。

あんぐりと口を開けている戦士達の上に、粉々に吹き飛ばされた板壁の残骸が降り注ぐ。シグムンドが吐き捨てた。

「くそっ! 引け引け! 次の防壁まで後退だ!」

「先に行け」

年老いた戦士が、弓を引き絞る。

何人かが、それに倣う。

捨て石になろうというのだろう。彼らは勇壮な歌を歌いながら、其処から一歩も動こうとはしなかった。

シグムンドが、血を吐きそうな表情で、引くように促してくる。

フレイヤは、兄が、完全に無口になったのに気付いた。

これほどの屈辱を受けたと兄が思ったのは、初めてなのではあるまいか。

巨神がなだれ込んでくる。アウズンブラは、しばらく壊した壁の残骸を食べていたが、その足下を縫うようにして、巨神が大量に迫ってくる。

それだけではない。

「奴ら! 山を越えてきたぞ!」

砦の上の山から、大量の巨神が降り注いでくる。

この砦の左右にある、鹿さえ越えられないような険しい岩山を、平然と踏破したらしい。もちろんその間には、崖や、衝立のような岩壁があったはずなのだが、それもか。小型の巨神が中心の戦力だが、それでも凄まじい心理的圧迫感がある。

殿軍をかってでた戦士達が、敵の大軍に飲み込まれるのが見えた。はじき飛ばされた戦士が、踏みにじられ、肉塊になる。

側面を突かれたシグムンド達本隊も、大混乱だ。巨神の得意とする機動戦に持ち込まれもろに、しかも横腹から直撃されたのだ。

退くしか無い。

逃げるしか無い。

「必ず、かたきは取る……!」

兄が零すように呟くのを、フレイヤは確かに聞いた。

狂戦士達がなだれ込んでくるが、文字通り焼け石に水。数が違いすぎる。血まみれになって戦いながら、それでも血路を切り開いた。

必死に皆を援護するフレイヤ。

氷の塊をばらまきつつ、兄に棍棒を振り下ろそうとした大巨神の足下に飛び込む。そして、相手の足をミンチにしながら、そのまま向かいに抜けた。

振り返りざまに、兄が大巨神の首を、下からはね飛ばすのが見えた。

至近。崖。

崖を蹴って宙返りしながら、氷の杖を腰に差し直す。

そして今度は、雷を生み出す杖を、振るいながら走った。巨神を貫く紫電の光。高圧の稲妻は、邪悪なものだけを貫くよう、事前に魔術を掛けてある。

兄が振るった剣の一撃が、数体の巨神を一気に切り飛ばす。

側面から奇襲を仕掛けてきた巨神達は、どうにかシグムンドと狂戦士達が、協力して押さえ込む。

多大な被害をだしながらも、何とか引き上げはじめようとする矢先。

膨大な数のリンドブルムが、上空に出現した。

「くそっ! きりが無い!」

「先手先手を打たれているな」

意外に冷静なシグムンドの声。

彼はレギンが足を斬り飛ばした中巨神の首筋に、剣を突き立てていた。しばらくもがいていた中巨神も、シグムンドが剣を引き抜くと、動かなくなる。

味方に守られながら、アウズンブラがまた歩き出す。

今までは、おそらく味方を踏みつぶす可能性があったからだろう。アウズンブラの上の御者も、余裕綽々だ。

いや、まて。

フレイヤが見たところ、アウズンブラの上にいる御者は、本当に何か役に立っているのだろうか。

あんな獰猛な獣、魔術で遠隔操作した方がいいに決まっている。

しかし、今はその疑問も、検証している暇が無い。

リンドブルムは今までの雑然とした行動が嘘のように統率が取れた群れで飛行しながら、シグムンド達の退路を断つように、火球を乱射しはじめる。しかも、アウズンブラが押し込んでくる。

シグムンド達の中に飛び込んだ兄が、上空に向け、弓を引きしぼった。

トールの剛弓ではない。複数の矢を、放射状に放つものだ。膨大な数の矢を、兄がばらまきはじめる。撃ち落とされていくリンドブルム。しかし、火力の滝は健在。シグムンド達は、上空に備えるように叫びながら、火の中を走る。もはや、人間達は、反撃どころでは無い。

フレイヤは必死に、後方のアウズンブラに、稲妻を叩き込む。

だが、アウズンブラは、まるで気にする事も無く悠々と進んでくる。くちゃくちゃとやっているのは、やはり破壊した岩壁や、櫓の残骸。

あれだけ巨大でも、雑食と言う事はないらしい。いや、少し様子が違う。やはり、世界樹の破片だからこそ、食べているのか。

あれは、魔獣よりも、むしろ邪神に近い存在なのだろう。

死屍累々の中、必死に下がる。

また誰かが、リンドブルムの火球に吹き飛ばされた。後方から来る巨神達は、フレイヤの制圧射撃にもまるでめげることが無い。むしろ、今までの鬱憤を晴らすように、悠々と進んできていた。

彼らは死を怖れていない。

無駄死には怖れているだろう。それは、人間達と同じだ。

防壁まで、来る。

防壁の上は、膨大な数のリンドブルムの襲撃を受けていた。今度の防壁は、相当に分厚い。しかも二重になっていて、これなら一見、アウズンブラを防げそうにも思えた。

既に戸は開いている。

残ったシグムンドが、レギンと一緒に声を張り上げている。ヴェルンドは撤退の指揮をしているらしく、この場にはいない。だが、声はした。防壁の向こう側にいるらしかった。

「まだ持ちこたえてくれ! 避難民が逃げ切れていない!」

「冗談を言うな!」

「冷静になれ、シグムンド! このまま敵になだれ込ませたら、こっちは全滅する!」

「防壁が破られるっていうのか!?」

破られるだろう。

アウズンブラは本気を出していない。あの巨獣は、その気になれば短時間、後ろ足で立てるのである。

あの巨体が突進してきたら、如何に世界樹の木片で作り上げた防壁でも、ひとたまりも無い。

「フレイヤよ。 私は防壁の上で、リンドブルムに制圧射撃を浴びせる」

「分かりました。 私は、巨神達を足止めします!」

危険は大きいが、仕方が無い。

精霊の弓を取り出す。それを見て、シグムンドが、叫ぶ。

「フレイヤを援護! 周囲に敵を近寄らせるな!」

「俺がやる!」

レギンが大股に走り寄ってきて、周囲に壁を作る。

戦士達が弓矢を揃え、近づいてくるリンドブルムに精密極まりない弓矢を浴びせた。無事な者は一人もいない。一人に至っては、左目を失っている様子だった。それでも、彼らは闘志を捨てていない。

集中。

魔力をため込んだ魔弾を、放つタイミングを計る。

狙うは、アウズンブラの足下。巨獣を守る、巨神達の隊列。もしも、此方の予想が正しければ、相手の足を止められる。

検証している時間は無い。

飛びついてくる巨神。雄叫びを上げたレギンが飛び出し、その棍棒を下から斧で迎撃した。

勿論、レギンといえども、単純なパワー勝負では勝てない。

だが、それでも、わずかに時間を稼ぐ。その隙に跳躍したシグムンドが、首筋に剣を貫き差し入れた。

横転する巨神。

ヘルギが手を回して、逃げろ、逃げろと叫んでいる。

兄の制圧射撃で、ばたばたと叩き落とされているリンドブルムだが。後方に浮いている巨神の魔術師が、次から次へと呼び込んでいるせいで、きりが無い。

かなり、アウズンブラは近い場所まで迫ってきている。

だが、やるしかない。

矢を、放つ。

「耳を塞ぎなさい」

「くそっ! なんだってんだよ!」

まだ精霊の矢の破壊力を知らないレギンが、悪態をつきながら耳を拭く。

凄まじい爆発が、敵の軍勢を蹂躙した。

フレイヤは、思わず脱力感を覚えて、膝をついてしまう。一連での戦闘で、それだけ激しく魔力を消耗したのだ。

爆炎が地面を焦がし、流石のアウズンブラも足を止める。

否、あの巨獣が足を止めた理由は、違う。

「大丈夫か、フレイヤ!」

「兄様っ!」

シグムンドには応えず、兄に叫ぶ。

兄は一目で状況を理解してくれたのだろう。トールの剛弓に切り替える。狙いは、遙か遠くで、巨神共を搬送し続けている魔術師。

防壁の上で、フレイの制圧射撃が続けられていた結果、かなりリンドブルムは目減りしていて、隙が出来ている。

更に、状況を見て取ったヴェルンドが防壁の上に上がり、戦士達を叱咤して、フレイの援護を開始した。リンドブルムを、手練れの矢が次々に叩き落とす。

兄の指が、矢から離れた。

轟音と共に飛んだ矢が、巨神の魔術師の全てを、えぐり取っていた。一体は文字通り消滅。血肉も、虚空にばらまかれた。

更にその後方にいたもう一体が、体の半分を消し飛ばされ、大量の鮮血をばらまきながら落下する。

「フレイヤ、下がれ!」

「任せろ!」

シグムンドに肩を借りて、フレイヤは下がる。もう、歩くのもおっくうなほど、魔力を消耗していた。

兄が防壁の上から、敵に対する制圧射撃を続けている。

フレイヤは、防壁の内側に落ちているリンドブルムの所に、シグムンドに肩を借りながら行く。

そして、剣を、死体に突き刺していた。

魔力はこれで一気に補給できるが、体力まではそうはいかない。大魔術を大量に使ったのである。

魔力だけでは無く、体力も著しく失っていた。

それだけではない。戦闘の最中、かすり傷は数え切れないほど受けていた。魔力は回復できても、ダメージから、すぐには立ち直れない。

兄が巨神に対する制圧射撃を続けてくれている。

やはりその間は、アウズンブラは進んでこない様子だ。仮説が一つできる。

「避難を急げ! 神が時間を稼いでくれている!」

ヴェルンドが防壁から降りてきた。内側には、上に上がれるようにはしごが付けられているのだが、それを滑るように下りてきたのである。

避難民は、まだ避難し切れていない。

それだけではない。兄の制圧射撃から逃れた少数のリンドブルムが、ひっきりなしにその上空を脅かしていた。

「あの化け物、どうにかならないのか」

「……」

イズンに、魔術で連絡を入れる。

彼女も、既に解析をはじめてくれている。仮説についても告げておく。

立体映像で、イズンが姿を見せた。

シグムンドは驚いたが、既に見た事があるらしいレギンは、何も言わなかった。

「アウズンブラについての解析は進めますが、すぐには不可能です。 あの巨獣は、どちらかといえば巨神とも我々とも違う、別種の神に近い存在。 簡単に倒せる相手ではありません」

「イズン、貴方は知恵の神の筈だ。 それでもわからないか」

「人の子よ、神は全能ではありません。 今は、苦境を耐え忍ぶのです」

映像が途切れる。

兄の制圧射撃が、いつまで保つかわからない。フレイヤは魔術を回復に切り替えて、少しでも、力を温存する。

シグムンドが、肩を貸してくれた。

防壁の内側から、少し外れた方。奥まったところに、移動する。何故かと聞くと、シグムンドは、表情一つ変えずに言う。

「無理なんだろう、あの防壁じゃあ」

「分かって、いるのですか」

「ああ、何しろあの化け物だ。 今はフレイがどうにか足を止めてくれているが、本気になったら、あんな壁など、ひとたまりも無いだろうよ」

シグムンドはフレイヤに、しばらく休んでいるように言うと。

ヘルギとレギンに声を掛け、もう少し時間を稼ぐと言って、防壁の外に駆けていった。

 

2、必死の撤退戦

 

膨大な屍を積み重ねても、巨神族はまるで恐れる事無く、次々に出てくる。

そろそろ限界だろうと、シグムンドは思った。後ろを見る。

ヴェルンドは、戦塔を重ねて、最後の防壁が破られたときの、時間稼ぎの準備をしている様子だった。

避難民は。

そういえば、レギンがヴァイキングの女の子を一人だけ救出することに成功していた。

あの子は目を覚ましてから、ずっと黙りこくっていて、今でも一言も喋っていないと聞いている。

だが、心配している余裕が無い。

夕方まで耐え抜けば、此方の勝ちだ。

大軍を有する巨神族は、事故を避けるために、暗くなってからの行軍を避ける傾向がある。

「あの化け物、進み出てこねえな!」

「防壁を怖れてるんだろ!? 今度の防壁は、厚さも高さも違うからな!」

「防壁万歳だぜ!」

「巨神共め、通れるものなら通ってみやがれってんだ!」

戦士達が、口々にはやし立てている。

だが、其処まで楽観的には、シグムンドは考えられなかった。

矢筒の矢が尽きる。

腰にぶら下げていた束を、筒に入れる。負傷した戦士に、後方からの補給を頼む。フレイの方は、大丈夫なのだろうか。昼過ぎから今まで、ずっと休まず制圧射撃を続けてくれている。

「巨獣が動き出しやがった!」

顔を上げる。

膨大な巨神族の死体を踏み越えるようにして、巨獣が進み出てくる。制圧射撃にも、限界が来たのだ。既に巨獣の前には、護衛らしい敵の戦列が、分厚い壁を作っていた。

シグムンドは、叫ぶ。

もはや、一刻の猶予も無い。

「引けっ! 防壁の内側、それも左右に避けろ!」

「あの防壁があれば、大丈夫だろ!?」

「念のためだ! 急げ!」

既に、味方の戦える人間は、あまり多く残っていない。

まだ制圧射撃を続けてくれていたフレイも、防壁から舞い降りる。階段など必要としないようだった。

防壁を閉じさせる。

大巨神でさえ、隠れてしまうほどの高さをもつ防壁である。或いは、これなら。

しかし。

希望は、打ち砕かれる。

助走を付けて、巨獣が突進してくるのが、足音から分かった。逃げろ。シグムンドが叫んだときには。

凄まじい巨大さとパワーを誇る巨獣アウズンブラが。

防壁を、木っ端みじんに蹴散らしていた。

「戦塔を放棄! 撤退だ撤退っ!」

ヴェルンドが、声をからして叫ぶ。

防壁のこちら側は、既に崖を抜けた先。巨神族が、ついにどっとなだれ込んでくる。制圧射撃どころでは無い。

だが、その時。

フレイヤが、光の弾を複数、杖から投げるように放った。

巨神族が、あっと下を見たときには。

それが、一斉に爆発していたのである。その爆発は、アウズンブラの足下にも、及んでいた。

アウズンブラが、悲痛な声を上げる。

シグムンドは、そうかと叫ぶ。やはりあの巨獣、弱点は足だ。無理も無い。大巨神以上の無茶な巨体を支えているのである。暴れる事も無く、アウズンブラはその場で膝を折るようにして態勢を低くし、いやいやと鼻を降り続けていた。

「南だ! 南へ走れ!」

ヴェルンドが叫んでいる。

レギンが狂戦士達と一緒に、敵の先頭集団に襲いかかり、打ち倒しては進撃速度を遅らせていた。

まだ残っていた避難民達が逃げる。

戦士達が体を張って守る。

だが、それにも限界がある。防衛網をついに蹂躙した巨神が、再び非戦闘員に、容赦の無い殺戮の暴力を振るいはじめていた。

アウズンブラが行動不能になった事だけが救いだ。

フレイが、此方に来る。

まだ広範囲に矢を飛ばす弓で、制圧射撃を続けてくれている。見ると、矢を放つとき、矢筒に手をやっていない。魔力で矢を作っているのかも知れない。

「フレイヤよ、すまぬ。 先に南に行き、ブルグント王に急を知らせて欲しい」

「兄様は」

「私は可能な限り、敵の進撃を遅らせる。 シグムンド、手を貸して欲しい」

「謂うまでも無い」

フレイヤは頷くと、その体が、見る間に光に包まれていく。

気付くと、其処には美しい鷹の姿があった。

鷹は地面を蹴って空に舞い上がると、二三回旋回してから、南に飛んでいく。フレイは妹を見送ると。

迫り来る大巨神数体に怖れる様子を見せず、剣を引き抜いていた。

「後退しながら、敵を可能な限りたたく。 此方に敵の注意を引きつける」

「よし。 この辺りも、俺たちの庭の内だ。 案内は任せろ」

「頼りにしている」

二人は、そのまま、敵に突入する。

降り注ぐ敵の棍棒。それに火球。巨大なハンマー。

これ以上の敵など、存在しないだろう。

むしろ喜べ。

自分に言い聞かせながら、シグムンドは、フレイの傍らで戦い続けた。

 

夕刻。

巨神族は、動きをようやく止めた。

シグムンドは、フレイと一緒に一日中走り回ったが、それでもまだ生きていた。

運が良かったのだと想う。途中、何度も死んでいておかしくない場面はあった。既に矢の備蓄はない。

南には、点々と味方の死体が散らばっている。子供の死体も少なくない。老人の死体もだ。

反吐が出そうだった。本当に非戦闘員でも、容赦なく殺していく巨神のやり方は、絶対に容認できない。

守れなくて、すまない。

死体を見る度に、シグムンドはそう呟いた。

埋葬する時間さえもない。

今は、味方に追いつかなければならないのだ。

陽が完全に落ちた頃、ヴェルンドが指揮していた避難民に追いつく。

ヴェルンドが、たき火をヘルギと一緒に囲んでいた。シグムンドがフレイと一緒に姿を見せると、良かったといって、ヘルギは泣きそうな顔をした。ヴェルンドは、冷静に、状況を説明してくれる。

避難民の先頭は、既にライン川に達しているという。

ライン川はミズガルド北と南を分断する非常に巨大な河であり、その深さも流れの速さも尋常では無い。

一カ所だけ、ライン橋とよばれる巨大な石橋があるのだが。

これは、神代に、オーディンが建造したものだという噂がある。石橋と言うことになってはいるのだが、実際には素材もよく分かっていない。フレイに聞いてみようと思ったが、彼はずっと黙って戦っていて、話しかけられる雰囲気では無かった。シグムンドにも、無駄話をする余裕は無かった。

戦士達は皆、疲れ切っていた。

ヴェルンドが来る。

説明を聞いていると、損害は、想像以上に大きかった。

「かなりの数の戦士がやられた。 それにライン川を越えたところで、ブルグントの砦を突破できなければ、その前で巨神族に皆殺しにされるだけだ」

「巨神共は、夜の内は動かないだろう。 そう思いたいが……」

「難しいな。 とにかく、橋さえ渡ってしまえば、多少は望みも出てくる。 此方は、夜の内に可能な限り進むしか無いな」

二千を超える避難民も、その数をかなり減らしている様子だ。

シグムンドが知っている高名な戦士も、何人も殺されていた。歯ぎしりしてしまう。

一体この怒りを、誰にぶつければ良いのだろう。

決まっている。巨神にだ。

フレイが誰よりも敵と戦い続けてくれたことを、この場にいる全員が知っている。誰もが、その雄々しい戦いぶりを見ていた。この場に、神々に対する怒りをぶつける人間はいない。

少なくとも、フレイとフレイヤは、動いてくれないオーディンやトールの分まで、働いてくれた。

レギンが来た。

小さな女の子を連れている。ヴァイキングの村の、生き残りらしい。

女の子の目には、光が無かった。目の前にあるものが見えていない。心が壊れてしまったのだ。

「悪いが、俺の村の女は全滅しちまってな。 そっちの村に、女はいないか。 世話ができん」

「分かった。 このヴェルンドが引き受けよう。 避難民の中に、子育てが上手い女が何人かいる」

「すまん」

たき火の側に、レギンがどっかと腰を下ろす。ヴェルンドが女の子の手を引いていき、避難民の所に連れて行った。

しばらく、皆は無言になる。それだけ疲れているという事だ。

レギンは残虐と思われがちで、実際戦闘ではその通りなのだが。シグムンドが見たところ、相当に面倒見が良いし、仲間に対しては親身にもなる。

言葉遣いは乱暴だが、避難民達の事も気遣っているし、可能な限り仲間も助けて戦っていた。

勿論、心が壊れてしまった子供を、見捨てる気も無いのだろう。

ヴェルンドが戻ってくると、フレイが話を始めた。

「今、フレイヤがブルグント王に話を付けに行っている。 ライン川南の砦に入ることは、心配しなくてもいい」

「そりゃあ助かるな」

「だが、砦に逃げ込んだ先が問題だな」

ヴェルンドが言う。

アウズンブラの凄まじい破壊力を見た後だ。無理も無い。砦なんぞで、あの巨獣の蹂躙を、防げるとは思えない。

更に、もう一つ問題がある。

シグムンドは、たき火に薪を投じながら言う。

「敵の追撃を、可能な限り遅らせないとまずいな」

「確かにその通りだ。 既に敵は、大軍の展開が可能な平原に入ってやがる。 このままだと、四方八方から攻撃されて、全滅するぞ」

ヴェルンドがフォローしてくれた。この辺りは、さすがは知恵者だ。的確にフォローをしてくれて、話を進めやすい。

ヘルギも、発言してくれる。可能な限り今は、不安要素を潰しておいた方が良い。

「それもそうだが、何だか敵の動きが不意に良くなってたな」

「指揮官が代わったのかも知れねえ」

レギンが指摘する。

シグムンドも、同じ意見だった。

「巨神族に、戦上手はいるのか」

「何故、そう思う」

「今回の戦いで、敵は戦術的では無くて、むしろ戦略的に動いていた。 確実に駒を進めて、砦の制圧という戦略上の課題を、確実に果たしていた。 あれは俺が知る限り、相当な戦上手じゃ無いとできない芸当だ」

「可能性があるとすれば、フルングニルだろうな。 巨神族の勇者として名高い男で、雷神トールと互角に戦うとまで言われている」

雷神トールと互角か。

それはまた、洒落にならない相手が出てきたものだ。

しかも、どちらかといえば、トールは単独の武勇で知られている筈である。あれだけの指揮能力を持つと言うことは。

あまり考えたくは無い。巨神族は、相当な戦力を揃えてきているという事が、再確認されたわけだ。

「ヴェルンド、今晩中に、三分の一くらいの避難民は、ライン橋を渡らせたい。 可能か」

「急ぎすぎても、動けなくなるぞ」

「もしも俺がそのフルングニルだったら、此処で徹底的な殲滅を行うだろう。 足が速い部隊を使ってな。 できれば、今晩中に避難民はライン川を渡らせて、橋で敵を逆撃し、撤退したい」

ライン橋である程度敵の行軍を指向化させることができるし、守るのも難しくない。何しろ、橋なのだ。

ライン橋自体は、とてつもない巨大さだが、それでも大巨神が何体も横一列に歩けるほどではない。

北の民の戦士は、一人前と認められたとき、必ずライン橋を見に行く。シグムンドも、一人前になる戦士の儀式につきあって、何度も足を運んだ。だから、周辺の地形は、熟知している。

ライン橋の周辺は、都合が良いことに、鬱蒼とした森が広がっている。これは北部も南部も変わりが無い。

「朝から、敵が追撃をしてくるとして、だ。 どれだけ距離を稼げるかが、勝負になってくるな」

「家畜を使って、順番に輸送していく方法が効率的だ。 どうしても、足の弱い人間が、遅れる状況を、緩和できる」

「その辺りは任せるぜ。 俺は殿軍に残る」

レギンはそれだけ言い残すと、部下が持ってきた酒を豪快に呷り、狂戦士達の中に戻っていった。

とにかく、ライン橋を最終防衛線として設定する。

この防衛線は、敵の進撃を遅らせることだけを、目的とする。

しかし、戦うための力を失うわけにもいかない。ただでさえ多くの戦士を失っている現状、これ以上の戦死者を出すと、反撃どころでは無くなっていく。

神が直に交渉してくれるというのは有り難いが、ブルグントがどこまで動いてくれるか。北ミズガルドでは、ブルグント王グンターは、狡猾な王として認識されている。どこまで動いてくれるか、不安だ。

だが、シグムンドが不安を見せていたら、皆にそれが伝播する。

小休止を入れながら、夜の内に、可能な限り避難民の列を先に進めさせる。

戦士達は、必然的に、後ろに集まる。

夜が明けた後、戦いで使い物にならなくなっては困るからだ。避難民の先頭は、三十名ほどの、負傷した戦士達に任せる。文字通り長蛇の列となっている最後尾は、シグムンドとレギンが固めて、全体の指揮はヴェルンドにやって貰う。

星の動きを見ながら、シグムンドは、疲弊した皆を急かして、先に行かせる。

先に行った所で、助かる保証など何一つ無いのに。

フレイは寡黙に、最後尾をついてきている。

その銀色の鎧の傷が、少しずつ消えている事を、シグムンドは気付いた。

「その鎧、手入れしなくても、直るのか」

「世界に満ちている魔力を吸収して、自動的に回復する。 ただし、一瞬で回復するほどの機能は無い」

「神々の技術とは、便利なものだ」

「だが、それが神々を弱くした」

フレイが言うには、実際に戦える神々の数は、さほど多くないという。

高位の神には流石に強者が揃っているが、特に魔術が得意な神は悲惨で、実戦経験が無い者までいるのだとか。

技術が如何に優れていても、それでは役に立ち得ない。

「だからアスガルドは、エインヘリアルを必要とした」

「何? どういうことだ」

「いずれ話す」

そう言われると、聞きたくなってくる。

だが、子供のようにだだをこねて聞き出すのも、馬鹿馬鹿しい話だ。

歩いていて、この平原はこんなに広かっただろうかと、シグムンドは思う。とっくにライン橋の威容は見えているのに、いつまで経ってもたどり着ける気がしない。

ヘルギが、来た。幸い、悪い知らせでは無さそうだ。

「ヴェルンドが、避難民の半分は橋に到達したって言ってた。 ただし、橋の向こう側で休ませてる奴も少なくないらしい」

「さすがはヴェルンドだな」

「急いでくれって言ってる。 夜明けまで、もう時間が無い」

「分かってる。 戦士は、橋までついたら休憩だ。 敵が来たら、その場で迎撃しなければならないからな」

大げさに、やっと休めると、ヘルギが言う。

シグムンドも、内心は同じだ。これだけの強行軍、以前人食い熊を追って三つの山を越えたとき以来である。

フレイが、足を止めた。

まだ夜明けまでは時間がある。だが。

「ちっ! 追いついて来やがった……!」

シグムンドは舌打ちする。

北から、凄まじい足音が、此方に迫り来ている。

 

最初、それはとても乗りこなせる生き物にはみえなかった。

朝日を浴びながら此方に迫り来るそれは、体型的には牛に似ている。ただし、鼻の部分から、円錐状の角が生えていた。

何より、とんでもなく巨大。

おそらく、牛より何倍も大きいとみて良いだろう。

その背中に、鎧兜で武装した巨神が乗っているのである。しかもこの騎乗巨神、とんでもなく動きが速かった。

先頭の一騎が、真っ正面から躍り込んでくる。

これは、矢を射る暇も無い。

散れ。

そう叫ぶのが、精一杯だった。

馬よりも早く突進してきた騎兵が、暴虐の限りを尽くす。進路上にいた人間をはね飛ばし、大地を踏みにじる。

何だアレは。

あんなものを、どうやって斃せば良い。

見ると、至近。

前足を振り上げた騎兵が、シグムンドを見下ろしていた。恐ろしいほど近くで感じる、死の臭い。

だが、その時。

真後ろから、フレイが騎兵に切りつける。

バランスを崩し、横転した騎兵。シグムンドは、声をからして叫ぶ。

「とどめだ! 懸かれっ!」

戦士達が、一斉に倒れている騎兵に襲いかかる。首筋にシグムンドが剣を差し込むと、巨神の騎手は動かなくなった。ただ、問題は、乗っている獣である。フレイが斬り伏せたが。

動かなくなるまで、三度、四度と剣を振るわなければならなかった。

とんでも無い怪物だ。

大きさも耐久力も、巨神を更に凌いでいる。しかも速さが尋常では無いというおまけ付きだ。

「また来る!」

「森に誘い込め!」

今度は二体同時だ。

巨神の騎手の目に、嗜虐的な光を、シグムンドは見た。怒りに目が燃えそうになるが、今は必死にこらえる。

坂道に誘い込むが、平然と巨獣は登り上がってくる。

だが、一体が、横転した。

フレイが足を斬ったのだ。

せめてもう一体は、此方でどうにかしなければならない。

「右前足に集中!」

「おうっ!」

戦士達が、一斉に矢を放つ。シグムンドの放った矢は、巨獣の左目に。そして、年配の戦士の放った矢が敵の右前足膝に突き刺さったのを皮切りに、数本の矢が、相手の足に吸い込まれていく。

激突音。

数人の戦士が、空に飛ばされた。

だが、同時に、巨獣もバランスを崩し、頭から大岩に突っ込む。恐ろしいのは、大岩にむしろひびが入り、巨獣は生きているという事だ。

「やれっ! 生かしておくなっ!」

雄叫びを上げたレギンが飛びかかり、騎手の首に斧を食い込ませる。

もがいていた巨獣の分厚い首には、ヘルギが剣を叩き込んだ。何度も何度も。大量の血を浴びながら。

血まみれになりながらも、敵を打ち倒すと。

必死に呼吸を整える。

巨神はやはり、まだまだ隠し球を持っていた。こんな怪物を平原での戦いで繰り出されたら、人間の騎兵など、ひとたまりも無い。

「またくるぞ!」

「フレイは!」

見ると、フレイも苦闘の末ではあるが、騎兵を打ち倒していた。

神さえ苦戦させる化け物。

「避難民には近づけさせるな!」

叫びながら、シグムンドは思い知らされる。

巨神にとっての本領は、おそらくはこういった平原での会戦だ。まともに相手にしてしまっては、本当に勝負にならない。

逃げ遅れた避難民達の中に、騎兵が突っ込んでいく。

間に合わない。

フレイが、躍りかかって、大上段からの一撃を叩き込む。

竿立ちになった騎兵が、横転した。南に逃げろ。叫びながら、シグムンドは走り、騎兵のとどめを皆と一緒に刺す。

レギンが吼える。

「くそっ! こんなのがたくさん来たら勝負にならん!」

「また来たぞ!」

「俺たちも南へ! 森沿いに南に走れ!」

まだ、陽は上がってさえいない。

今は少数で来ているが、おそらく陽が上がれば、敵は本気での攻撃に乗り出してくるはずだ。

ライン橋にいたヴェルンドが、たいまつを振り回している。

急げという合図だ。遅れていた避難民を、戦士が担いで走り出す。だが、それでも足りない。

騎兵が、二体同時。

一体をフレイが斃すが、至近まで迫っていた騎兵が、猛然と前足を振り下ろす。流石のフレイもそれを避ける術は無く、吹っ飛ばされる。

シグムンドはレギンとタイミングを合わせ、敵の左前足に飛びつくと、剣を突き刺した。レギンは更に登り、巨獣の顔面に斧を叩き込む。

巨獣が凄まじい悲鳴を上げて、横転する。

騎手が逃れようとするが、追いついてきた戦士達が、滅多打ちにして殺した。フレイは立ち上がろうとしているが、全身の鎧は、くすんだように傷だらけになっている。走り来たヴェルンドが、助け起こす。

「大丈夫か!」

「問題、ない! 避難民も、戦士達も、一人でも多く、逃がせ!」

陽が昇り、視界がはっきりすれば、巨神の攻撃が本格化するのは目に見えている。今までとは比較にならない数の騎兵が押し寄せ、大小の巨神も空の星のような数で攻めこんでくる事だろう。

避難民だけでは無い。

戦士達の体力も、もう限界が近い。

シグムンドは歯を食いしばる。

誰かが此処で捨て石にならなければ、皆を逃がすことは、不可能だろう。

 

橋にようやく逃げ込むことに成功した。

騎兵が十以上、橋の南で走り回っているのが見える。避難民の群れに三回突入を許し、その度に多くの犠牲者が出た。戦士なら、仕方が無い。対等な勝負での上だ。連中が非戦闘員の死者を踏みにじっていると思うと、シグムンドの胸は怒りで張り裂けそうになる。どうしてあれだけの戦力を持ちながら、戦士としての誇りを全うしようとしない。外道そのものの戦い方をしようとする。

フレイの消耗も酷い。

橋の上で仁王立ちして、剛弓を引き絞っている。

迫っている騎兵を一騎、それで吹き飛ばした。それから騎兵は、此方に対して様子をうかがう戦法に出た。

何しろ、此方は橋の上だ。突入してくれば、まとめて消し飛ぶ。

巨神はやはり、戦術的な判断能力を持ち合わせている。戦略的な行動に関しては、むしろ人間より上かも知れない。

それなのに、どうして奴らは、卑劣な戦い方ばかりするのか。

「避難民は!」

「橋の上に、まだ半分以上残ってる! もう少し時間を稼いでくれ!」

「おのれ! せめてアスガルドの援軍があれば!」

「巨神族だ!」

誰かが叫ぶ。

このライン橋は、とんでも無く巨大だ。大巨神が並んで多数歩けるほどでは無いが、人間であれば数十人、横に並んで歩けるほどの幅。更に長さに至っては、一万歩とも一万二千歩とも言われている。

土地の古老が、神代のものだと言っているのを聞いたことがあるが、確かに橋の端についている階段は、一段一段がそれこそ人間の数倍の背丈ぶんほどもある。幸い真ん中に坂状の部分があるので人間は利用できるが、そうでなければ、階段の上に板を渡して、坂を作らなければならなかっただろう。

巨大が故に、橋の縁の高さも凄まじい。上に上がれば、遠くを見通せるほどだ。

だから、早期警戒のために、戦士を何名か、登らせていたのだ。

「数は!」

「とても数えきれん!」

もはやこれまでだな。

誰かが呟く。

だが、誰もが、戦いを諦める気など無い。

死ぬならば、戦いで。

避難民達でさえ、死ぬ事そのものは怖れていない。

バルハラに行きたいからだ。冥府に行くのはできれば避けたいというのが、この場全員の共通した意思。

フレイが、制圧射撃の体勢に入る。

だが、敵は、更にとんでも無い兵器を投入してきたのである。

上空。

何か、とてつもなく巨大なものが飛んでくる。飛行速度はそれほどではないが、何しろ障害物が無い空だ。遮ることができず、確実に来る。

それはサメのような形状をしていて、腹部に赤い球を抱え込んでいる。これが、レギンに聞いた、巨神族の戦艦か。

確か、ナグルファル。

とてつもなくでかい。

流石に、ミズガルドに、巨神の大軍勢を搬送してきただけのことはある。まるで島が一つ飛んでいるかのようだ。

「イズン! あの船を落とす手は!」

「まだ解析が終了していません」

「……っ」

フレイの顔が、焦りを湛える。

そろそろ鉄仮面も崩れはじめている。神といえど、この状況では、慌てざるを得ないのだろう。

どうしてかは分からないが、巨大戦艦ナグルファルは、橋を越えようとしない。もしも橋の向こう側に巨神の軍勢を転送されたらおしまいだと、シグムンドにも分かるのだが。橋の東側に陣取る。

そのサメのような体についている棘が、一斉に橋の方を向くのが、見えた。

「いかん! 散れっ!」

「! みな、散れーっ!」

爆音が、悲鳴をかき消す。

ナグルファルから放たれた無数の光が、橋の上にいた避難民達を、一斉に襲ったのである。

爆発。炸裂。

吹き飛んだ老人が、橋の上から投げ出され、ライン川に落ちた。助ける術など、あるわけがない。

逃げる途中の民が、見る間に動かなくなっていく。ヘルギが頭を抱えたまま、蹲っていた。

「畜生! どうなってるんだよ! 世界が終わるのか! 終わるって言うのか!?」

「敵が来るぞ!」

フレイが立ち上がる。

そして、制圧射撃を始めた。爆発が再び巻き起こる。

「走れ! ライン川の向こうまで!」

そうするしか、生き残る方法は無い。

ナグルファルは優位な位置に陣取り、制圧射撃を続けている。子供も老人も関係無く殺戮するその精神は、一体どうなっているのか。

奴らに戦士としての心は無い。

「フレイ! あの船を、少しでも静かにできないか!」

「しかし、巨神共がなだれ込んでくる」

「それは、俺に任せろ」

レギンが、前に出る。

狂戦士達も、それに倣った。誰一人、負傷していない狂戦士など、いはしないというのに。

「シグムンド、撤退を急げ」

「おい、レギン!」

「俺の村の連中は、もう戦士しか残ってねえ。 なあに、此処ではまだまだ死ぬ気はねえよ。 徹底的に暴れて、巨神共の死体を積み上げてやる。 山のようにな」

レギンの声は、むしろ静かだ。

フレイはしばらくじっとレギンを見ていたが、頷いた。

「わずかな間だけでいい。 敵を食い止めてくれるか」

「任せろ」

「……」

今は、逃げるしか無い。

シグムンドは、レギンに一言だけ、言い残した。

「死ぬなよ。 今は、死ぬべき場所と時じゃあない」

「分かってる。 俺が死ぬときは、巨神族を根絶やしにした、その時だけだ」

レギンは両手の手斧を振りかざすと、まるでトールのような、凄まじい雄叫びを上げた。

「巨神共、懸かってきやがれ! アスガルドにも名高い、狂戦士の一族が、今此処で相手になってやる!」

 

ナグルファルの側面に無数に生えている棘は、全てが砲台だ。

いずれもが魔力を収束させ、放つことができる。攻撃魔術を展開するための装置なのである。

そのようなことは、解析を待つまでも無い。

橋の前方は、既に阿鼻叫喚の地獄絵図だ。

レギンと狂戦士達は、巨神相手に一歩も引かない。最初に突入してきた騎兵の足に飛びつくと、斧を振るってたたき割り、横転させた。そしてもがいている騎兵を無視し、むしろ壁として使って、迫ってくる巨神達を迎え撃ったのである。

流石の巨神達も、全身血まみれのまま襲いかかってくる狂戦士には、絶句していた。恐怖を知らないはずの巨神達が、明らかに逃げ腰にさえなっている。それが、更に狂戦士の破壊力を、倍加させていた。

巨神の中にも、戦闘経験が無い者がいる。ずっと神々とも人間とも接する機会が無いヨトゥンヘイムにいたのだから当然だろう。見ていて、それらの事情は、理解できた。対して、人間の中に、実戦経験が無い者は一人もいない。

その差が、こういう所で、出てくるのだ。

猛獣狩りなどはしていただろうが、それでもあの数だ。実戦を経験しないで、ここに来た巨神も、相当数いるのは間違いなかった。

「ァアアアアアイイイイイイイイッ!」

「殺せーっ! 殺せ殺せ殺せ! 前にいる奴は全部殺せ! 一匹残らず、殺しつくせーっ!」

狂戦士達の叫びが、フレイの所まで轟いてくる。

フレイは拡散して魔力の矢を放つ弓に切り替えると、連続して矢をナグルファルに叩き込む。

砲台は、ざっとみただけでも、数百。

矢が炸裂する度に、砲台が一つ、二つと吹き飛ぶ。狙うのは、魔力砲を放とうとする瞬間だ。

神の業によって、その瞬間に矢を叩き込む。

剣だけでは無く、弓矢に関しても、フレイは師匠について習得している。弓矢に関してはフレイヤに一歩及ばないが、それでもこれくらいの芸当は可能だ。

だが。

砲台は、破壊しても、泡を吹きながら、再生していく。

爆発した砲台は、同時に他のものを巻き込むこともある。だが再生することも有り、焼け石に水だ。

至近に、次々魔力弾が着弾する。

それでも、フレイは怯まない。撤退戦の指揮を執ってくれているヴェルンドやシグムンド、負傷者を担いで走り回っているヘルギ、歯を食いしばって殿軍になってくれているレギンを見て、神であるフレイが怯んでいられようか。

爆発に巻き込まれる。

だが、フレイは気にせず、矢を放つ。また、敵の砲台が爆裂した。根比べだ。少しでも、注意を此方に引きつける。

傷など、気にしない。

痛みなど、どうでもいい。自分の痛みよりも、他の戦士達の事を、心配するべき時なのだ。

「フレイ、聞きなさい」

イズンの声が響く。

フレイは、弓を引き絞りながら聞いた。銀色の神の鎧は既にすすだらけで傷だらけだが、気にもしない。

「イズン、路を示して欲しい。 それ以外は、後にしてくれ」

「どちらとも言いがたい事です。 一つだけ解析できました。 あのナグルファルは、巨大に成長したヨトゥンヘイムの魚を魔術によって改造し、生体兵器としたもののようなのです。 あの棘は、おそらくは生来備わっている、発電器官だったものなのでしょう」

「無情なことをする」

「ええ、そしてそれが故に再生します。 もしも狙うのであれば、動力源を叩くしかありません。 問題なのは、敵の動力源は、おそらく体内にある事です。 しかし……何かが引っかかります」

矢を連続で放つ。

妙に硬い場所がある。

左右後方、ひれのようなものが、文字通り装甲板となっている。砲台を連続で潰して行きながら、フレイは装甲版にも射撃を加える。

駄目だ。この弓の魔力では、あの装甲は打ち抜けない。

「あの装甲は、何を守っている。 司令部か」

「分かりません。 ただ、あの装甲の内側に、禍々しい強い力を感じます」

「ならば、打ち抜く! たとえどれだけ強大であろうと!」

レギンの雄叫びは、まだ聞こえている。

大巨神を、打ち倒したようだ。凄まじい転倒音が聞こえた。さすがは怒りに燃えた狂戦士である。

フレイは、トールの剛弓を引き絞った。

ナグルファルが旋回し、艦首を向けてくる。それはすなわち、装甲を抜かれるとまずいと、自ら認めたようなものだ。

更に言えば、後方を此方に見せようともしない。それも、何か弱点につながる筈だ。

乗っている巨神は、どうも戦慣れしていないか、臆病らしい。

冷静に引き絞ってから、打ち込む。

艦首の巨大な槍が、消し飛んだ。

大爆発が巻き起こる。

ナグルファルが傾く。砲撃が止む。元が生物と言うことが、こういうときに裏目に出る。撤退するなら、いまだ。

振り返ると、レギンと狂戦士達は、既に巨神の死骸を山のように積み上げて、その上で戦っていた。

血みどろで戦う姿は、既に人間を半ば踏み越えていた。

レギンも、今の戦果は見ていてくれたらしい。

「流石だ! 今まであんたのことはあんまり信仰していなかったが、すまなかった! これからは、あんたのほこらも大事にするぜ! もちろんフレイヤのもだ!」

「何、かまわぬ」

正直なレギンの言葉に、フレイは苦笑してしまう。

拝礼をするレギン達に、不要といったのはフレイだ。だが、此処まで正直に本音を言ってくれると、それはそれで面白い。

レギンに下がれと叫ぶが、彼は首を横に振った。

「俺は、残る」

「な……」

「死ぬためじゃあ無い。 お前達は南に行け。 俺は北で、巨神共の後方を攪乱しながら、逃げ遅れた奴らを助けて廻る」

巨神が、跳躍して襲いかかってきた。

即応したフレイが、矢を放って、叩き落とす。狂戦士達が飛びかかって、細切れにしてしまう。

上空。

無数のリンドブルム。

矢を放ちながら、フレイは下がる。レギンは、こない。

「ブルグントの奴らには、すげえ数の軍隊と、悔しいが俺たちよりもずっと強力な武器、それに頭の良い王がいやがる。 お前が導けば、巨神にだって勝てる! ゴートの連中も加われば、絶対に、だ」

「捨て石に、進んでなるつもりか」

「そうじゃねえ。 だがな、敵の後ろを引っかき回す奴がいなければ、巨神の進撃速度は、絶対に落ちねえ。 非戦闘員は当然、戦士だって一人も逃げ切れねえよ」

それを、捨て石というのだ。

絶対に、言うほど簡単では無い。

ナグルファルが下がりながら、船体の修復をしている。既に、ラインの北岸は、巨神で満杯だ。

確かに、それしか、手はない。

「すまぬ。 そなたは必ずバルハラに迎えられる! 約束しよう!」

「良いって事よ! そうそう、勝った後は、俺が伝説の英雄の一人だって、語り継ぐように、ヴェルンドに言っておけよな!」

レギンが叫びながら、斧を振るって、巨神の鮮血を落とす。

フレイは更に下がりながら、矢を連射して、リンドブルムを少しでも落とした。リンドブルムは制圧射撃に閉口し、進んでこない。

息がある人間は、既に皆、逃げた後のようだ。

遠くで、まだレギンの叫び声が聞こえた。

死ぬな。

絶対に。

その場で、フレイは立ち尽くしそうになる。

前方に、巨神の魔術師が数体、浮いているのが見えた。戦場を迂回して、先回りするつもりだったのだろう。

容赦なく、矢を叩き込んで、撃ち落とす。

これで、もはやシグムンド達を追撃する者はいない。

多くの犠牲は出した。

しかし、この局面は、勝ちだ。

レギンの声は、まだ聞こえている。狭い橋を利用しての、あまりにも凄まじい戦いぶり。アスガルドの歴史にも無い、壮絶さだった。

ナグルファルが、後退するのが見えた。

橋を渡り終える。

シグムンド達に追いついたのは、夕方。

敵の追撃は、一端絶えた。

レギンのことを話すと、シグムンドは一言だけ、そうかと言った。

「すまぬ。 私の力が足りていれば」

「あんたはあの巨大な魚の化け物を怯ませて、確実な退路を作ってくれた。 多分トールやオーディンでも、あんた以上のことはできなかっただろう。 これ以上も無いほど、この場の全員が感謝しているよ。 レギンだって、同じ気持ちの筈だ」

それに、レギンは生きている。

シグムンドは、断言した。

確かに、レギンは死ぬようには思えなかった。

此処からしばらくは隘路が続くという。確かにレギンが体を張って、敵の進撃速度を遅らせてくれたことには、大きな意味がある。

南に進んでいくと、ブルグントの前線砦があるそうだ。

「石で作った、いけすかねえ建物だ。 こっちから攻めこんだことは、一度もないのに、妙に警戒してやがる」

「だけど、今は心強いな。 フレイヤが先行しているから、きっと迎えてくれるはずだ」

フレイは頷く。

だが、此処は、できる限り迅速に、救援態勢を整えてもらう必要がある。

「先に私が行ってこよう。 けが人を労りながら、追いついてきてくれ」

「おお、そうか。 確かに、この状態でもめ事になるのは避けたい。 頼む」

ヴェルンドに頷くと、フレイはその場で鷹になった。

疲弊は、溜まっている。

だが、今のフレイは、何が相手でも、負ける気がしなかった。

 

3、勝者の憂鬱と敗者の束縛

 

ライン川に懸かる橋を制圧したのは、夕方の少し前。

損害は、目を覆うばかりだった。

現場を視察したフルングニルは、思わず絶句したほどである。

しかも、現場で指揮をしていた大巨神が、あきれ果てることを言う。まだ、周囲には、巨神達の死骸が片付けられず、山積していた。

「敵を逃がした、だと……!?」

「はい。 追い詰めはしたのですが、途中でライン川に揃って飛び込みまして。 残念ながら、水練に達者な戦士はおらず、リンドブルムを飛ばしても存在は確認できず……」

「たわけっ! 敵にいいように翻弄されおって! それでも貴様、数千の時を経た、誇り高きヴァン神族の戦士かっ!」

首を縮めて萎縮する大巨神。

だが、其処まで吼えたところで、フルングニルは思い直す。

「いや、すまなかった。 敵の力量が高かったのは事実。 それに北ミズガルドにいた人間達は、日常的に争いを繰り返し、これ以上も無く戦に習熟した連中であった事が分かっている。 そなたが後れを取ったのも、無理は無い」

「この屈辱は、次に必ず果たします」

「うむ、それでいい。 重ねていうが、怒鳴ってすまなかったな。 次に屈辱を晴らすべく、奮起してくれれば、それでいい」

大巨神は一礼すると、部下達の所に戻っていった。

戦略上の課題は達成できた。

しかし、このほろ苦さは、どうしたことだろう。

確かに、北ミズガルドは、これでほぼヴァン神族のものとなった。しかし、あの狂戦士と呼ばれる者ども、相当な戦闘力の持ち主だ。

もしもフルングニルが連中だったら、後方での攪乱作戦を実施し続けるだろう。損害がどれだけ増えるか、見当もつかない。

騎兵の損害も、小さくない。

これから平原戦で主力を努める騎兵の破壊力は、はっきり見ることが出来た。だが、その弱点も浮き彫りになった。

敵は当然対策してくるとみて良いだろう。勝ったといっても、此方の損害は、あらゆる意味で小さくない。

アウズンブラは弱点である足にダメージを受けているし、ナグルファルの損傷も小さくない。

決して、味方は完勝していないのだ。

部下が来たので、フルングニルは一度思考を切り替える。

「損害は、まとめることができたか」

「今集計中ですが、ざっと三千を超えるかと思います。 リンドブルムも、かなりの数を失っており……」

「……三千、か」

これで、北ミズガルドだけで、五千以上の兵を失ったことになる。

勿論人間だけで、これだけの損害を出したのでは無い。相手には二柱の神がいたことが分かっている。

だが、それにしてもだ。

これからアスガルドとの本格的な戦いが始まる時に、この損害は小さいと言えるのだろうか。

後方から進撃してきている本隊の所へ。

フリムも、戦場の跡を視察しているところだった。跪くと、フルングニルに、王は声を掛けてくる。

「大義であった。 損害は小さくなかったが、戦略上の課題は達成できたことで、よしとする」

「は。 有り難き幸せ。 時に陛下、一つ願いがございます」

「何か、申してみよ」

「敵の主力として活躍した神、フレイとフレイヤと聞いていますが、かの者どもの個人的な武勇の限界、このフルングニルが確認したく。 どうか単独での行動を許していただけませぬでしょうか」

フリムはしばらく腕組みして、遠くを見つめる。

着込んでいる黄金の鎧が、強い魔力を放っている。この賢き王が思索するとき、時々黄金の鎧は、不可思議な光を放つのだ。

この鎧は、巨神族にとって重要な秘宝である。

ウートガルザと呼ばれる存在に作られたもので、非常に強力な迎撃能力と、高い防御能力を兼ね備えている。

そして、稼働には、装着者の魔力を継続的に必要とするのだ。

「本来のフレイとフレイヤとは思えぬ。 特に峡谷での戦いでは、冷静に立ち回り、確実に此方の戦力を削いできたと聞いている。 油断だけはするな」

「は。 これからの戦いでの対策を立てるためにも、必ずや戦力をはかり、可能であれば仕留めて参ります」

王の側で、ちょこんと座っているファフナーを、フルングニルは一瞥する。

「ファフナー。 貴様も来い」

「ええっ!」

「貴様が契約したと自慢していたスヴァルトヘイムの魔物共を実戦投入する必要があるだろう。 丁度良い機会だとは思わぬのか」

「そ、それはそうですが。 しかしなんというか、その……」

助けを求めるように、上目遣いで王の機嫌を伺うファフナー。

呆れてものが言えないが、王も同じ印象を受けたらしい。

「そなたは賢い。 魔術における発展面でも、実際のナグルファル建造などの実働面でも、我らヴァン神族に多大な功績をもたらしておる。 ただし、戦士としてここに来ている以上、相応の武勲は示せ」

「そ、そんな! 後生です!」

「怖いのか、ファフナー」

「怖いに決まっております! あのナグルファルに大打撃を与えるほどの戦士なのですよ! 私のようなひ弱な魔術師などが、どうやったらあの恐ろしい攻撃に耐えることができるのでしょうか! いや、できません!」

反語でわざわざ言ってから、ぶるぶる震えるファフナー。

問題は此奴が、巨大なドラゴンの姿をしている、という事だ。

「ならば戦士としてしゃしゃり出ず、後方支援に徹していろ。 お前が言い出したことであろうが。 戦士としての武勲も欲しいから、戦場に出して欲しいと」

「だ、だって、それは」

「だってというな! 貴様はそれでもヴァン神族の戦士か!」

くすくすと、周囲で笑っている声が聞こえた。

ファフナーはそれで奮起するどころか、縮こまって本当に怯えきっている。フルングニルは諦めるかと思ったが。

フリムが、王の一声を投じる。

「ファフナーよ、選べ。 貴様は後方支援でこそ力を発揮すると、以前余は指摘したはずだ。 それを拒否し、前線での任務を選んだのは貴様だ。 余に叩いた大口を此処で示してみせるか、もしくはおとなしく後方に下がれ。 ナグルファルの強化にしても、アウズンブラの調整にしても、仕事はいくらでもあるし、腕の発揮は可能なはずだが」

「へ、陛下ぁ」

「繰り返すが、技術者としての貴様を余は認めておる。 戦士としても余に認められたいのであれば、強者との戦いで武勲を示すか、それなりの成果を上げよ。 それだけである」

フルングニルは頷くと、来るように促す。

しばらくうなだれていたファフナーだが、とぼとぼとフルングニルについてきたのだった。

一端、本陣から離れる。

此処からは、作戦上、機密が必要になる。まだ恨めしげな目で見ているファフナーが、ぼそぼそ言った。

「それで、何をすれば良いのです」

「まず、フレイヤという女神がどこに逃げたかを探知しろ。 おそらくはブルグントという人間の国に支援を求めに行ったのだろうが」

「分かりました。 すぐに取りかかります」

「お前がやるんだ」

部下に命じようときびすを返しかけたファフナーの頭を掴んで、無理矢理こっちに視線を向けさせる。

真っ青になったファフナーは、ばたばたもがいて逃げようとするが、逃がさない。

「なななな、なんで!」

「相手はあれだけの術式を使いこなす女神だ。 魔術師としては、おそらくアスガルドでも五指に入る使い手だろう。 そしてお前は自覚が無いようだが、ヴァン神族屈指の魔術師なのだが?」

「そうですけど!」

まだ不満そうなファフナーだが、フルングニルがもっと怖い顔をすると、涙目になって分かりましたと応えた。

さて、フルングニルの方は、追撃戦の指揮を執りつつ、フレイを追う。

どちらとも、一度は戦っておきたい。逃げ込んだ先がはっきりしているフレイは、まずは後回しだ。

「探知出来たら、即座に私に知らせろ」

「フルングニル様は?」

「前衛の部隊を選りすぐって、敵の砦を叩く。 明日の朝から進軍すれば、明後日の昼には到着できるだろう」

「随分とゆっくり移動なさいますね」

今回は、騎兵との連携を重視する。

もともと荒くれ揃いの騎兵達は、手に負えない状態だった。

だが、今回の戦いで、人間相手にかなりの被害を出したことから、彼らも考えを改めつつある。

文字通り、彼らに手綱を付けることが、急務なのだ。

人間を撃滅した後は、本命のアスガルドが待ち受けている。おそらく連中の主戦力であるエインヘリアルは、五十万はいると見て良いだろう。

此処で手こずっているようでは、その時どうなるか、分からない。

「手を抜いたら殺すぞ」

「分かっています! だからぶたないで!」

頭を抱えてファフナーがこわごわ言うので、フルングニルも流石に怒る気さえ失せてきたが。

それでも、此奴は貴重な戦力だ。

 

フルングニルは単独で、夜道を歩く。或いは飛ぶ。

一人で出歩く分には、何ら問題は無い。多少の相手だったら、実力で迎撃する自信もある。

いわゆる大将斥候だ。

人間達の死体は、殆ど見当たらない。けが人を庇いながら逃げていた様子が、目に浮かぶようである。

人間、か。

アース神族が、猿を進化させて、人間を造り出したことはフルングニルも事前の調査で知っていた。

最初は脆弱で小賢しいだけの種族であったようだが。一万年にわたる調整が効いたのだろう。

巨神を相手に雄々しく戦う、戦闘種族に変貌していた、というわけだ。

おそらく、それだけが理由ではあるまい。

敵が逃げ込んだ砦が見えてきた。

北と南で対立関係があると言う話は聞いていたのだが。北の人間を拒否した様子は無い。現に、既に避難民は収容し終えている様子だ。

フルングニルも、出歩くときは、戦闘形態の巨神では無い。梟の姿を取っている。これは、アスガルドのアース神族によるアウトレンジ攻撃を警戒しての事だ。如何に連中が及び腰でも、それくらいはしてくる可能性がある。

周囲を回りながら、様子をうかがう。

石造りの砦だ。城壁の高さも、かなりある。大巨神の背丈も超えているだろう。城壁の上から矢を撃たれると厄介だ。人間は矢を放つとき、普通に魔力を込めてくる。通常の物理的な攻撃に、それで破壊力が相当に上乗せされている。

砦を警備している人間も、見て確認。

ミズガルド北に比べると、相当に装備が整っている。それぞれが機械仕掛けの弓を手にしていて、しかもそれに強い魔力が籠もっていた。

戦闘力は、ミズガルド北の人間よりは劣るにしても、組織力は相当に高い様子だ。

これは、侮れる相手ではない。

馬を使っているのを確認。

伝令が行き来している。おそらくは、フレイとフレイヤが働きかけを行ったのだろう。事前の調査によると、ブルグントは騎兵の活用に定評がある国家だという。

これを、逆利用できるかも知れない。

馬については、知っている。

ミズガルドに人間以前から住んでいた生物であり、かなりの品種改良が加えられた結果、犬と並ぶ人間の有力な生物兵器となっている。

勿論、サンプルも確保してある。

これは、使えるかも知れない。

フルングニルは、もう少し砦に近づいてみる。

砦の城壁の上に、人間を確認。

子供だ。

避難民だろうか。他のと一緒に逃げなかったのか。

人間は、どのみち殲滅しなければならない。抵抗力の無い子供を殺すのは、正直勇者と呼ばれるフルングニルとしては、面白い事では無い。

砦にいる人間は、千名ほど。

かなり多いが、これは南アスガルドが穀倉地帯を有していて、多くの人間を養っていることが原因と思われる。

北アスガルドの戦士達も見つけた。

子供と何か話している。子供は首を横に振った。此処にいる、というのか。

違う。

フルングニルを指さしてくる。

「巨神がいる」

何。

今、なんと言った。

「梟……じゃないのか」

「早く撃って」

ためらいながらも、人間がフルングニルに対して、弓を引き絞っているのが見えた。どうして、感知された。

慌てて高度を落とし、森に逃げ込む。

それでも、狙われていることが分かる。どれだけ技量のある射手だ。

矢が、放たれた。

翼をかすめる。

地面すれすれまで高度を下げると、そのまま北へ。危ないところだった。あの子供、一体何者だ。

人間はどいつもこいつも生体魔力を有している。

それを活用して攻防を強化しているようなのだが。それにしてもあの子供。ひょっとして、巧妙に隠していたフルングニルの魔力を見抜いたというのか。

侮りがたし、人間。

森の中を飛びながら、北の味方陣地へ。

橋の南側に構築されている味方陣地まで戻ると、ようやく偽装を解いた。正直、肝が冷えた。

撃たれても死にはしないが、その時にフレイに攻撃されたら、助からなかったかも知れない。

何名かの将軍が、既に陣では待機している。

大巨神の中から武勇優れたものを選りすぐった、フルングニルの鍛え上げた精鋭である。

「偵察のご首尾は」

「人間は侮りがたい。 砦での戦いも、かなり激しくなると見た方が良いであろう」

「分かりました。 万全の備えをいたします」

最悪の場合、アウズンブラを投入する。アウズンブラを用いての制圧戦であれば、人間には対抗する術が無い筈だ。

だが、気になるのは、フレイヤが最後に放った術式。

ひょっとすると、敵は既に、アウズンブラの弱点に気付いているかも知れない。将軍の一人、角をあしらった兜を被っている巨神が挙手する。

「どれほどの戦力を投入しますか」

「五万」

「一千程度の敵要塞にですか」

「そうだ。 兵力の逐次投入は、損害を増やすだけだ。 此処で大軍を投入して、一気に敵を撃砕する」

胸鎧を着けている巨神が、挙手した。

別の将軍だ。

「隘路により、一気に投入することは難しいと思います。 魔術師部隊を活用して、後方から奇襲させては」

「それも視野に入れる」

というよりも、ナグルファルを用いての輸送も、フルングニルは考えていた。

北ミズガルドの戦士達も、あの砦にはいた。

つまり、それだけのことをする価値がある相手だ。既にフルングニルは、相手の実力を、巨神族が戦うに相応しいものであると認めていた。

兵力の編制自体は、部下達に任せる。

フルングニル自身は、三つの頭を順番に休ませながら、体の回復を図った。消耗は微々たるものだが、数日以内に、フレイと直接刃を交える可能性が高いからである。

問題は、取り逃がしたという連中だ。

早めに後方での攪乱に対する策を練っておかなければならないだろう。

「お前達も、夜の内に交代して休んでおけ。 明日からは激戦が続くぞ」

「は。 しかし、我らが故郷を取り戻すためです」

「うむ……」

彼らは、知らない。

この戦いの、本当の意味を。

かって、ヴァン神族とアース神族は、覇権を巡ってこの地で争った。だがそれは、決して領土的な野心がゆえではない。

勝ったのは、アース神族。

その時の首魁はトールだったのだが。ある理由から、オーディンがその座に取って代わった。

オーディンは、その後、道を誤った。

故に、今。戦いを余儀なくされている。フリムから聞かされた、この戦いの真相である。残された時間は、もうそう多くは無い。

本来だったら、もうヴァン神族とアース神族は、それぞれ関わることも必要なかったのだ。

全ての終わりの時は、近い。

人間が、戦士としての誇り。それも、非常に古い形でのそれを有していることは、フルングニルにとっては、むしろ羨ましい。

だが、今は。

滅びを回避するために、戦わなければならなかった。

 

4、最後の時を避けるために

 

アスガルド、バルハラ宮殿。

その深奥にある謁見の広場。玉座にある老神オーディンは、身じろぎ一つしない。

戦士としても魔術師としても、アース神族屈指の存在だった彼。他の神々が老いることも無いなか、彼だけは違った。

ただし、朽ち果てることも無い。

ずっと老人のまま。それが、オーディンの不可思議さだ。

それが不可思議では無い事を知っているアース神族は、もう残り少ない。数少ない例外であるイズンは、地上との交信を切って、オーディンに跪いた。

しばらくイズンは、此処で仕事を続けている。地上の情報収集が、主な内容だ。

「オーディン様。 地上での戦況は、著しく悪い模様です。 北部ミズガルドは、ついに巨神の手に陥落。 まもなく、南ミズガルドにも、巨神族はなだれ込むことでしょう」

「そうか」

「今からでも遅くありません。 テュールかトールに大軍を預け、巨神族との戦いを行うべきなのでは」

「ならぬ」

やはり、か。

オーディンが戦いをさせない理由を、イズンは知っている。

切実な理由があるのだ。

ヴァン神族には、どう伝わっているか分からない。

だが、それは、正義とか、悪といった次元の話では無い。

テュールが来た。既に七度目の、軍派遣の申請だ。毎度精密な計画を携えている。だが、オーディンは、いずれも許さなかった。

「オーディン様。 北ミズガルドが陥落したと聞きました」

「そのようであるな」

「もはや一刻の猶予もありません。 どうしても、エインヘリアルの軍勢を派遣すること、まかり成りませぬか」

「くどいぞ、テュール」

頭を下げたテュールは、アプローチを変えてくる。

七度も申請して、いずれもが駄目だったのだ。多少の工夫をしてくるのは、当然のことだろう。

「それならば、ワルキューレの一柱、ブリュンヒルデの派遣を許可いただきたく」

「ほう?」

ワルキューレ。

ミズガルドの戦場上空を舞う、女神である。

彼女らの目的は、ミズガルドの戦争で死んだ有能な戦士を見つけること。有能な戦士の死骸を彼女らは確認後、その情報を全て写し取る。魂という形で、である。

その後、アスガルドで魂は肉体を再び与えられ、エインヘリアルという戦士となる。

これこそが、アスガルドの軍事力の主力を担う存在。一万年の間、集められた不死のエインヘリアルは、既に五十万に達しているのだ。

他にも幾つか、ワルキューレの仕事はあるのだが、今の時点では関係が無い。

荒くれの戦士達を見極めるため、基本的にワルキューレはいずれ劣らぬ猛者揃いだ。彼女らは全てが、オーディンの情報を半分得て作られている。つまり、オーディンの娘と言っても過言ではない。

ブリュンヒルデはその中では比較的若い女神で、実力的には中の上。

ただし、才覚には極めて恵まれていて、いずれワルキューレの全てを指揮する立場になると言われていた。

「ふむ、一柱だけか」

「見習いのワルキューレを一柱、支援に付けます。 それでも、二柱のみ。 少なくとも、これだけでも、先遣として出したく」

「まあ、よいだろう」

オーディンの許可が出た。

テュールは頭を下げると、広間を出て行った。

イズンには、オーディンの心がだいたい理解できる。

「ワルキューレの中でも、中堅どころと、見習いだけ。 それならば、大勢に影響は無いとお考えですね」

「その通りだが、何か?」

「貴方はいつからそれほど冷厳になってしまったの?」

イズンは、オーディンが老神では無い頃から知っている、数少ない存在だ。

若さを特殊な方法で保つ事により、心までみずみずしいままだからだろうか。イズンには、今のオーディンが、悲しくてならない。

昔のオーディンも、冷酷なところはあったし、誰よりも狡猾だった。

アスガルドにおけるクーデターには、イズンも荷担している。その時、人間達が崇めている神々の多くが、鬼籍に入った。

その後も、様々な工作の結果。殆どの神々が、「代替わり」した。そして、オーディンの真意を知るものは、ほぼ存在しない時代が来たのだ。

その代替わりした神の中には、オーディンの妻であったフリッグさえもが含まれている。

いや、今のフリッグは。

頭を振る。

オーディンにも、立場がある。軍を派遣できない理由も、イズンは分かっている。

「余が憎いか、イズンよ」

「いいえ。 貴方は悲しい神。 どうか、貴方と私が朽ちるときには、全ての闇は一緒に持っていきたいものですね」

「それもこれも、このラグナロクに勝利してからだ。 ヴァン神族が、「あれ」をどの状況で仕掛けてくるか。 それに応じて、此方も手を打たねばならん」

もしも、オーディンが言うことが成功してしまったら、この世界は文字通り終わる。ヴァン神族にはそれが望ましいかも知れないが、実際にはそう簡単な話では無いのだ。

人間は、滅びてもまた造り出せば良い。

だが、世界そのものは、そうはいかない。

オーディンが、道を誤った事は、イズンも認める。今の世界の歪みが、その結果である事も。

しかし、だ。

それでも、世界は滅ぼさせるわけにはいかない。

「フレイとフレイヤを、できるだけ手助けしてやれ」

頷くと、イズンは広間を出る。

そして、待機させていたエインヘリアルを呼んだ。

「テュールに伝えなさい。 私の権限で、エインヘリアルの一師団を出すことを許可します」

一師団、戦力は五千。

それしか出せないことが、イズンには心苦しい。だが、これが限界だ。

これから始まる真の終わりに備えるため。

戦力は、可能な限り温存しなければならなかった。

 

(続)