奈落との対話

 

序、誰も知らぬ戦い

 

地球の環境をもっとも変化させた生物。それは酸素を作り出したラン藻と、それの先祖達だ。

存在するだけで、それまでいた生物に対する猛毒をまき散らし。

そして自分たちに都合が良い環境を作り出した生命体。

それが、現在に至るまで、地球の生物の歴史に関しては。最大の環境変革者であり。それ以上でも以下でもない。

地球は青い星になったが。

それは酸素が満ちているからではない。

単に青いだけだ。

酸素が満ちている星は、それほど宇宙でも多く無い可能性も高い。もしも、地球の生物が、他の星に行くとして。

それらの星に仮に生物がいて、酸素呼吸をしていなかったらどうするのだろう。

テラフォーミングという言葉があるが。

もしも、酸素呼吸していない生物が満ちた星でそれをやったら。

古参の生物を、皆殺しにするも同じである。

古き地球ではそれが行われ。

それまで主流を占めていた生物は全て猛毒である酸素に焼き払われていき。ラン藻の先祖と、ラン藻が天下を取る事になった。

生物の歴史における最大の事件。

それ以降の、生物の歴史の基点となる存在。

それが、ラン藻と、その先祖。

故に圧倒的力を持つのは自明の理。

何しろ、時間を掛けたとは言え、一度地球を完全に己の理に塗り替えた存在なのだから。圧倒的なのは当たり前だ。

それから様々な生物が、地上であるいは海中で覇権を握っていったが。

此処まで環境を激変させた生命体は他に存在していない。

人類は、負の方向に環境を変化させているが。

それでも、地球の環境を根源的に変えたラン藻には及ばないのだ。

田奈は、黙々と準備を整え。

米軍のヘリに乗り込む。

ラン藻の力の権化が、海上で待っている。そろそろ、時間を指定されてから70時間を超える。

72時間で、結論を出せ。ラン藻の力の権化たる光の者はそう言ったし。

相手の返答次第では。

地球人類が一瞬で滅びる。

そればかりか、地球が熱球状態にリセットされるかもしれない。

勿論、現在海上には急ピッチにフロートがくみ上げられていて。各国首脳もやりとりを見守る予定だが。

誰もが青ざめているだろう。

もはや、核さえ通じない相手に。

どうにかして、人類を滅ぼさないでと懇願するしかないのだから。

世界中では、報道規制が敷かれているが。

少し前の電子マネーパニックで一般人はそれどころではなく。

株価の劇的な下落や。

強烈な通貨価値の変動のせいで。

実際に何が起きているか、誰も把握していない状態だ。

滑稽な話だと田奈は思う。

この状態でも、人類の99%以上が、今何が起きているか分かっていない。一瞬後に世界が滅びるかも知れないのに。

未だにエゴを振りかざし合って。

互いに協力しようともせず。結局の所、互いの足を引っ張り合っている。

それが人間だ。

闇を見過ぎたからかも知れない。

辛辣すぎる田奈の評価に、どれだけの賛同が得られるかは分からないけれど。とにかく、これから交渉を開始する。

既に、科学者達の意見はまとめてある。

これからラン藻の力を全て得ている光の者と交渉するが。

それがどれだけ入れられるか。

そもそも、72時間という猶予がよく分からない。

光の者も、或いは。

意識の渦と話し合いながら、調整を進めているのではあるまいか。その可能性は否定出来ない。

もしも意識の渦と直接話し合えるなら。

むしろその方が良い。

相手は多少知能が高くても、思考回路が直線的だ。

長年オルガナイザーとネゴシエイターをやってきた田奈の敵ではない。幾らでも翻弄できるし。

条件次第では、それこそ無条件の撤退さえさせる事が出来るだろう。

「準備は整っていますか」

「……」

各国の技術者が、あまり好意的ではない視線を向けてくる。

どうしてあの化け物そっくりなのだ。

そう視線で告げてきている。

だが、そんなことはコッチが言いたい。どうして田奈を向こうは選んだ。地獄を見てきたからか。

それとも、この世の悪夢全てを知っているからか。

いや、流石に田奈も、この世の悪夢全てを経験したとは思わないが。

ただ、人間の最も暗い部分を、嫌になるほど見てきたのは事実だ。

その過程で心も壊れた。

客観的に人間を見る事が出来るようにもなった。

ちなみに、今は相応にラフな格好だ。

忙しすぎて、スーツを着込んでくる暇が無かったし。

何より、慣れていない服での交渉は、むしろ色々とマイナスな要素を増やす。それに最悪の場合は。

一瞬で殺されるとしても。

戦うつもりだ。

勝ち目がゼロだとしても。

やりあってから死にたい。

それが田奈としても、納得する死になるだろうから。

セッティングが終わる。

光の者が、目を見開いた頃には。既にスタッフは、あらかた引き上げていた。どうせ真正面から此奴の声を聞いたりしたら、それこそ一瞬で正気を持って行かれる。役に立たないのなら、いない方が良い。

田奈は咳払いすると。

モニタやカメラの様子を確認。

光の者は、準備が整ったことを理解したらしく。安心した様子で口を開いた。

「お前が来たか。 あのギャアギャアと五月蠅い者どもよりは余程話しやすい」

「有難うございます。 早速本題に入りたいのですが」

「良いだろう」

光の者は、感情があまり見えないが。

少なくとも今、少し安心したのは分かった。

それだけでも充分だ。

まずは、順番に話をしていく。

この辺り、ネゴのやり方は人間と同じ。ただ人間の場合、理屈以上に感情を優先する傾向が強い。

それが面倒なのだが。

光の者の場合は、それを気にしなくても良いのが嬉しい所だ。

「なるほど。 細かく案を出してきたものだな」

「まずは、貴方がどれを選びたいか、ですが」

「人口を半減させる」

「それは避けられませんか」

人間が多すぎる。

光の者は断言した。

実際問題として、田奈はそれに同意だ。

あまりにも無秩序に増えすぎた人間は、確かに色々問題を起こしすぎている。そして科学者達が言うように。

人口を減らした後は。

増えないように措置をする必要があるだろう。

エゴを振りかざしても良かったのは、そうしても大丈夫な状況だったからだ。資源も幾らでもあり。

人間が住む場所も。

食糧も。

だが今人類は、その気になれば深海の資源さえごっそりと奪い去って行くことが可能な状況になっている。

このまま人間が増え続けると。

地球は、本当の意味での死の星になる。

事実そうして、人類は滅んだのだ。

意識の渦に接触した陽菜乃の話では、別の世界では、そうやって滅びた人類がいて。その結果、この事態が到来している。

実績としてあるのだから。

此方としては、ぐうの音も出ない。

それに、である。

何よりも、統一国家の樹立は不可能だろう。

まず人間を半減させ。

ある程度統一の土台を作らない限り。人間の自主努力で、出来る事では正直な話、ないと言わざるを得ないのだ。

この世界は、もはや死に体。

現状は栄えているように見えるが。

それこそ、崖に向かって突進する車と同じ。

中でどれだけ派手に音楽を鳴らし。

車が景気よく飛ばしていても。

一瞬先には、空中に投げ出され。

海に叩き付けられて、中の人間ごと潰れて終わりだ。

「その後はどうしますか」

「統一国家を樹立させ。 そして管理者に、我が君臨する」

「貴方がですか」

「お前達に任せても良いかと思った。 だが、はっきりいうが、もはや人間に自主性を期待出来る状態には無い」

それは、そうかも知れないが。

此方は72時間で、必死に各国首脳が対話に応じられる状況を造り。そして実現して見せたのだ。

更にその後の無茶ぶりでも。

72時間という制限時間の中で、案に対する妥協案をなんとかひねり出した。

それで此方を評価しないというのは、あんまりではないだろうか。

淡々と田奈がそれを指摘すると。

ふむと、光の者は。

何処か面白そうに、鼻を鳴らした。

「随分と感情的では無いか」

「いえ、感情は一切こもっていません」

「ほう」

「貴方の発言が理不尽なので、それを指摘しているだけです。 確かに貴方は圧倒的な力を持っているし、人類を客観的に見ているとも言えるでしょう。 それに関しては、私も太鼓判を押せます。 しかし」

しかしだ。

田奈には、何だか危うく感じる。

この光の者。

世界中をあっという間に把握したのだろう。

したのだろうけれど。

その代わり、人間によって毒されたのではあるまいか。思考回路に、だんだんと人間に似たエゴがにじみ出てきているのを感じるのだ。

それは良い事だとは言えない。

世界を自分で統治する。

あの田原坂麟と同じ結論では無いか。

そう指摘すると。

光の者は、少しだけだが、苛立ちを顔に浮かべた。

「無能な前任者と同じだというか」

「少なくとも今の結論に関しては」

「いうてくれるな」

「客観的意見です」

しばし、完全に光の者は黙り込む。

やりこめた、などという事を田奈は考えていない。こうして、少しずつ、此方に有利な方向へ。

話を誘導していくのだ。

ネゴの基本テクニックである。

相手がアホの場合は使えない手段でもある。

アホの場合は、感情を優先して、こういう場合に暴発する可能性が高い。失礼だとか、コミュニケーション能力がだとか。それでいながら、実際には単純に自分の感情を害された、という理由だけで。

全ての交渉を投げ出すケースがある。

会話も成立しなくなる。

そういう相手には、そういう相手なりに、対応策があるのだが。

今回は、相手がアホでは無い。

だから、田奈としても、アホでは無い相手に対応するやり方で、会話を進めているのである。

「まあ良い。 まだ話を続けたいのではないのか。 続けよ」

「それでは、続けましょう」

というよりも。これでようやく、相手と会話が出来る状況が整った、と言うべきなのかも知れない。

咳払いすると、田奈は順番に説明していく。

まずこの地球上では、確かに人間が多すぎる。更には、政体も多すぎる。資源の乱用は止まらないし、誰かがストップを掛けないと滅亡の未来が待っているのは事実だ。これについては、声高に訴えなくてもそのまま確かな結論である。

生物学者でも、経済学者でも。

他の学者でも。

全てが同意した点だ。

しかしながら、このままでは、対話が成立する以前の問題である。

故に、地球の環境を保全しつつ。

できる限り穏当に、全てを進めていかなければならない。

そのためには、幾つもの準備がいる。

残念ながら、人間の自主努力では、統一政体の設立は不可能だ。古い時代には、その内国家という概念はなくなるのではないか、等という楽観的かつユートピア的思想がまかり通っていたこともあったが。

現実の状況を見る限り。

そんな未来は到来し得ないだろう。

やがて資源を食い尽くした人類は、共倒れする。

それを防ぐには。

やはり、手は限られてくる。

「人類が増えるのを止めましょう」

「いきなり人口を半分にするのではなく、増えるのを止めるのか」

「はい」

まずは、此処からだ。

現状、先進国では、人口減少世界が既に到来している。そして、である。増えている国に関しては、ストップを掛ければ良い。

そうすれば、人間の増殖は抑えられ。

ある程度の段階で、管理しやすい人口になる。

そして統一政体だが。

国連がまったく機能していない現在。

設立は、相当に難しいと、田奈でも認めざるを得ない。

これに関しては、光の者に協力して欲しいというのが素直な所だ。

「何故エゴを振りかざして、全体の未来を見る事が出来ない」

「それが人間なんですよ」

「理解出来ないな。 これだけ高度な技術を持つに至った生物が、何故に脳みそが一切進化せずに来ている。 お前達の脳みそは、調べる限り、投げ槍で獲物を仕留めていた頃と、一切変わっていない」

「その通りです。 倫理観念は変化してきていますが、ところがおかしな事に、人間は倫理観念を踏みにじる事を喜ぶ傾向がありましてね」

理解出来ない。

光の者は、呆れたように言う。

田奈は、しめたと思った。

やはりこの存在。

人間という生物そのものが持つ毒に、侵され始めている。深淵を覗き見るとき、深淵もまた此方を覗いている。

だが、深淵が、人間の方だったら。

どれだけ優れている存在であっても。

覗き返されたら、無事ではすまないのではあるまいか。

そう考えていたが。

どうやらその考えは当たっていた様子だ。

「人間という生物そのものにも、変革が必要なのではあるまいか」

「人間が進化するには、後数千年は確実に必要でしょうね。 外宇宙から文明と資源でも持ち込まれない限り、地球がもちません」

「それはその通りだ。 それで?」

「数千年を、圧縮できませんか」

これは、AIの研究家の話をヒントに思いついた考えだ。

だが、面白がっているのが分かる。

光の者は、どうやら。

田奈を気に入ったようだった。

まあ、田奈の姿を模している時点で、それは分かっていた。田奈自身としては、あまり気分は良くなかったが。

それでも、こういう場合。

利用できる状況は。

最大限に利用させて貰う。

それが、闇を生きてきた田奈が、出来る事だ。そして、地獄を渡って来たからこそ、やる事が可能な事だ。

田奈にとっては、周囲の全てが、客観的にみるべきもの。

いや、田奈自身でさえ。

自分自身が死ぬ事で、周囲の全てが救われるなら。

躊躇う事など、何一つないのである。

「話を続けようか」

光の者は。

話を聞く体勢になっている。

田奈は頷くと、一つずつ、提案を進めていった。

 

1、慎重に慎重に

 

冷や冷やしながら陽菜乃は、事の推移を見守っていた。

テレビモニタに映っている各国首脳は、完全に青ざめている。田奈が提案していることが、とんでもない事ばかりだからだ。

それこそ、どれほどの混乱が世界に起きるか。

この六日だけでも。

世界では、多くの死者が出た。

無茶な軍事作戦を強行せざるを得ず。

多くの軍人に死者が出たし。

民間人も、相当な数が巻き込まれていった。それが現実であり。また、電子マネーショックによる経済的打撃も深刻だ。

未来を一切見ていない。

その田奈の痛烈な指摘も。

各国首脳には、届いているだろうか。

それは、自国の将来的な戦略については、考えている国家首脳もいるだろう。だが、それはあくまで、自国について。

全世界の。

人類の存続について。

考えていた人間は、正直な所、それほど多くは無かった。

それが現実。

だからこそ、世界は此処まで荒廃した。

それぞれ好き勝手に王道だ覇道だとほざきあい。

貴重な資源を浪費し続け。

やがて、湯水のように物資を使い続ける文明を進展させていった結果。あのような怪物が降臨するのを許してしまった。

田原坂麟が現れた時点で。

この世界は詰んでいたのかも知れない。

いずれにしても、命数を使い果たしたのかも知れないなと、陽菜乃は思った。人類の文明には限界が来たのだ。

大量生産、大量消費。

その結末がこれだ。

田奈はむしろ、客観的に見ればとても良くやってくれている。

だが、その田奈でさえ。

あの化け物を止められるかは分からない。陽菜乃だって、正直な話、あの場に行こうとは思わない。

ネゴについては田奈に任せっきりだ。

昔からそうだった。

オルガナイザーとして、田奈はずっと活躍し続けていたが。その結果、精神が完全に壊れてしまった。

人間の闇を見過ぎたからだ。

それにもかかわらず。

最も優秀だという理由で、田奈にあの場を任せるしかない。

はっきりいって歯がゆいが。

それでも、今は人類の存続が掛かっている。

今は、任せるしか無い。

田奈はこの間、勝手な事をほざき合っている各国首脳に、珍しくと言うか。久しぶりに、感情を剥き出しにしてキレていた。

あの田奈が。

まあ当然だろう。

あの場を見ていた陽菜乃だって、正直心穏やかでは無かったのだ。

米国の大統領が連絡を入れてくる。

陽菜乃に直接、という事は。

田奈の交渉が不安だと言う事だろう。

「陽菜乃君かね。 君から、田奈くんに少し論調を押さえるように言って貰えないだろうか」

「田奈は良くやっていますよ」

「あ、あれでか」

「考えても見てください。 大量生産大量消費の行き着く果ては、破滅しかない。 多くの人間が、古くからそれを警告していたはずです。 そして、ついにその果ての時間が来てしまった。 それだけです」

陽菜乃としても、心苦しい。

リーダーシップは取れる。

戦いでは、最前線に立てる。

だが、ネゴやオルガナイズは、どうしても他人に一歩劣る。その結果が今の状況だ。リーダーは何でも出来る必要がある、とは思わない。

実際、人材を多く取り入れ。

そして任せていくのがリーダーの仕事だ。

むしろ客観的に見ても、陽菜乃やエンドセラスは、リーダーとして多才なほう。エンドセラスに至っては、大国のトップを充分に勤め上げ。そればかりか、その国を豊かにしていくだけの才能があるだろう。

だが、それでも。

田奈に、ネゴとオルガナイズという点では及ばない。

そういうものなのだ。

「このままでは、国内の過激派が押さえきれなくなる。 実際、多くの不満が、リアルタイムで寄せられてきている!」

「自分の利権を害されるからでしょう」

「その通りだが」

「政治というのは、個人の利益を満たすものだと勘違いしていませんか。 そもそも、国民から受け取った税金を使って、国をよくするべく金を配分して、実際に事業を進めていくのが政治ですよ。 何か勘違いした結果が、今の状況だと、どうして思い当たらないのですかね」

それは机上の空論だと、大統領は吼えるが。

陽菜乃は鼻を鳴らす。

「このままだと、過激派が暴発しかねない! 過激派の中には、軍の中に大きな派閥を作っている者もいる! 致命的な事態が来る前に、どうにかしてあの過激な論調を押さえさせないと、取り返しがつかない事になる!」

「もう無駄ですよ」

「何……」

「光の者は、恐らく既に全世界のICBMの位置と、その発射システムを掌握していると見て良いでしょうね。 原潜なども同じです。 どこから攻撃を仕掛けようと、多分攻撃する前に暴発します」

絶句した大統領。

陽菜乃は通話を切った。

そう、今まで人類がやってきた、暴力で相手をねじ伏せるというやり方では。もはやどうにもならない相手。

人類が史上初めて遭遇する。

暴力と軍事力で、どうにもならない存在と、今田奈は交渉しているのだ。

邪魔だけはさせられない。

そしてその結末が。

如何に血を伴うものだとしても。

勝てる相手では無い。

戦ってはいけないのだ。

少なくとも、此方からしかけてはいけない。

此方から仕掛ける事は、それすなわち人類の破滅につながる。

全世界にあるあらゆる兵器を悉くぶち込んだ所で。あの光の者には、まったく通用しないのだ。

田奈は良くやっているじゃないか。

あれだけ客観的に人類を見て。

冷酷な判断も躊躇無く出来て。

それで何が不満なのか。

勿論陽菜乃には、田奈に対する負い目もある。

それは否定しない。

だが、各国首脳の感情的な物言いと。愚かしい過激派を押さえきれない様子を見ていると、忸怩たる思いがある。

今度はロシアの首相から連絡が来る。

どうせ似たような内容だろう。

いずれにしても、陽菜乃が此処で食い止めなければならない。

田奈への邪魔は。

させるわけには行かない。

駆け寄ってきたのは、最近能力者になった例のカブトガニの子である。

耳打ちされる。

想定内だが。

どうやら、どっかの国が、特殊部隊を派遣したらしい。田奈と光の者の交渉に、水を差すつもりらしい。

どっちも暗殺するつもりなのか。

小型の原爆を搭載しているようだった。

馬鹿が。

だが、既に対策は済んでいる。

現地近くには、八カ所に精鋭をふせている。

連絡。

その一カ所。ギガントピテクス達がふせている地点の近くを、特殊部隊が通るが。その次の瞬間には。

全てが終わっていた。

「状況終了。 核は廃棄します」

「任せる」

通話を切る。

さて、田奈。

出来るだけ人間に有利な状況を引き出してくれよ。

陽菜乃は、そう呟くと。

まだまだ来るだろう愚か者どもを食い止めるべく。

あらゆる事態に備え続けていた。

 

田奈は、一瞬だけ右を見た。

交戦の気配があったからだ。かなり遠くだが、間違いない。どうせどっかの国が、トチ狂って特殊部隊でも派遣しようと思ったのだろう。

それを、陽菜乃が止めた。

そんなところに違いない。

馬鹿な連中だと思ったが。

人類の馬鹿さ加減は骨身に染みているし、今更どうでも良い。此処に来るのを阻止してくれたようだし、それで充分だ。

「話を続けましょうか」

「ああ。 それで、人類の繁殖率をコントロールして、一定数に減るまでそれを続けるのには同意ということだな。 繁殖率については、現状繁殖率が高い国ほど、減らす方向で行くと」

「その通りです。 逆に低すぎる国は、増やす方向で行きましょう」

「ふむ。 その結果、五世代ほどで、人口は40億にまで安定させられると」

更に、である。

人類そのもののトップには、政治闘争を勝ち抜いた人間では無く。

客観的に政治を行える人間を抜擢する。

更に統一政体を作る。

この二つを行う。

この二つに関しては、残念ながら現状の人類には達成不可能だ。100%不可能だと言い切っても良い。

そこで、この点については、手を入れる。

光の者に、田奈が提案した。

古代生物能力者が、人類の上位存在として君臨することになる。

ただし、古代生物能力者にもエゴはある。

このエゴをどうにかしなければならない。

人類の文明が発展するのには、エゴが必要だった。

それは紛れもない事実だ。

楽をしたい。

その考えが、楽をするための利器を産み出していき。社会のリソースを活用できるようになっていったからだ。

だが、そのエゴが、今は人類どころか、地球の首を絞めている。

「エゴについては、処理をする必要があるだろう。 だが、それはお前についても、同じ措置をする事になるが、構わぬのだな」

「構いませんよ」

「そうだろうな。 だから我はお前の姿を模した」

化け物。

田奈は何度かそう言われた。

人の心がない。

そうとも言われた。

だが、それが事実だと、田奈自身も思っている。押し殺した感情なんてものは、とっくの昔に失われた。

たまに暴発することもあるが。

今では田奈は、完全に客観的に全てを見る怪物で。

それで構わないと思っている。

そうすることによって、資源を食い荒らし、破滅に突き進んでいる人類をどうにか出来るのだから。

今はそれでいいのだ。

陽菜乃でさえ、今では田奈の行動に対して、もはあきらめの目で見ている節がある。あんなに優しかったのに、と嘆いている姿を見たこともある。陽菜乃自身は、知らないかも知れないが。

田奈は彼方此方に目を持っている。

他人が自分をどう評価しているくらいかは、知り尽くしている。

そしてそれを気にしない。

一切合切。

全てが、客観的判断の材料だ。

「人類そのものからエゴを取り去る事は。 人類に相当な反発を産む事だろうが、別に構わないのだな」

「構いません。 人間は強制進化させましょう」

「それが、数千年分の進化、か」

「一瞬でやると脳が焼き切れてしまうでしょうから、五世代ほど掛けてやっていくしかないでしょうね。 更に、資源を食い尽くすのを防ぐために、幾つか手を打つ必要がありますが。 それについては、此方で何とかします」

これで、まとまったか。

光の者は黙り込む。

そして腕組みすると、じっと海上に浮遊したまま。目を閉じた。

長考に入ったのだろう。

田奈も正座をすると、目を閉じる。

現状で、交渉は上手く行っている。

だが、何か引っ掛かる。

上手く行きすぎている気がしないか。こういうときは、だいたいの場合、何かしらのトラブルが起きるものだが。

何もかも上手く行っている場合。

トラブルが起きて、台無しになる可能性を想定しなければならない。

それがこの世界の基本的なルールだ。

実際問題、田奈は。

今まで、上手く行きかけていたものが。一気にひっくり返される場面に、何度も立ち会っている。

毎度毎度上手く行くわけじゃない。

泥と血に塗れてきたからこそ。

今の田奈があるのだし。

失敗することによるダメージと。其処からのリカバリについては、いやというほど学んでいる。

現実的な問題として。

光の者は、この世界を改革する事が出来る。

それも、一瞬で。

それが、交渉に応じている。

此処に既に不信感がある。

上手く行きすぎているのだ。

何かこの辺りでトラブルが起きるのでは無いか。起きた場合、リカバリが出来るのか。それが、田奈の懸念事項だ。

しかし、それを嘲笑うように。

トラブルは起きた。

「結論にはまだ入れないな」

「!」

「もう少し話を練り直す必要がある。 やはり今までの話を総合する限り、人間に都合が良い世界が訪れるのは確実だ。 と言うよりも、都合が良すぎる世界になる可能性が極めて高い」

「ならば、交渉を続けましょう」

光の者は、急に話の方向を変えてくる。

まず、田奈について、話を振ってきた。

「貴様の過去は、意識の渦を調べて見せてもらった。 確かにこの場にネゴシエーターとして到来し。 そして客観性を極端に強く持つのも納得がいく。 だが、我としては解せない所が一つある。 どうして、人間などを守ろうと考える」

「……それは」

「お前は心の奥底で望んでいるのではないのか。 こんな世界を支配している、こんな愚かな生物など。 一度滅びてしまえば良いのだと」

「……」

まずいな。

田奈としては、その願望は確かにある。

今は、陽菜乃が各国を押さえてくれているが。しかし、田奈に対する個人攻撃を敵が開始するとは思わなかった。田奈に対する個人攻撃の様子を見た各国は、いきなり先制攻撃に踏み切る可能性もある。

理由は二つ。

光の者は、田奈の願望を見抜く程度の力は余裕で持っている。

実際問題、今の言葉に対して、田奈は反論する言葉を持たない。

そしてもう一つ。

その願望を曝されたとき。

各国は知るのだ。

今、人類を滅亡から防ぐために交渉している者が。世界を本当は滅ぼしたがっているという、悪夢のような事実を。

それを知ったとき。

ヒステリーを起こした各国の軍部が。

無茶な先制攻撃に出かねない。

そうなったら、全てが終わりだ。

光の者は、反撃を躊躇わないだろう。

勿論核など通用しない。

奴がその気になれば、酸素の濃度を今の倍に引き上げるとか。

二酸化炭素を十倍にするとか。

簡単にやってのける。

そうなれば、一瞬で人類は死滅する。

それだけでない。

ひょっとするとだが。

ピンポイントで、人類だけを遠隔で殺す事が出来るかも知れない。それをやりかねない怪物が、此処にいるのだ。

さて、どうする。

田奈が黙っているのを見て、更に個人攻撃を続ける光の者。

「先ほどまでのよどみない言葉の連撃がウソのような沈黙だな。 どうして黙り込むのか知りたいが」

「ならば教えてあげましょうか」

「……」

「誰もが、そう心の底で思っているからですよ」

意外な返しに。

光の者が、今度は黙り込む番だった。

現在社会は、ストレスの塊だ。

勝ち組と言われる連中が、安楽に暮らしているか。それは否だ。その周辺は、いつも百鬼夜行の群れが踊り狂っている。

一瞬でも気を抜けば。

それこそ、即座に蹴り落とされる悪夢の世界だ。

かといって、貧しい者達はどうか。

同じだ。

過労死するまで酷使され。

それでも碌な生活が出来ない。

騙される方が悪い。

したり顔でそう口にする人間がのさばり。それを不快に思わない人間さえいる。むしろ、騙される人間を指さして笑い。弱者が踏みにじられるのを喜ぶ者さえいる。

最初から人間は。

狂っているのだ。

田奈は、その狂気が表に出すぎた。狂気が元々あるのを、正面から見据えすぎた。故に心も壊れた。

あるゲームでは、面白い考え方を採用している。

完全に正気の人間など存在しない。

全くの事実だ。

むしろ正直で善良な人間こそ。異常者扱いされるのが、この世界の現実であると、田奈は嫌と言うほど見続けてきた。

当たり前のように。

田奈の心の中にも、破滅願望はある。

それは恐らく、だが。

人間が技術ばかり異常発達して。

生物としてはまったく発展してこなかった歪みから生じたもの。

隙間に生まれた狂気。

そう、思うのだ。

「狂気を肯定するとは面白いな」

「誰の心にも狂気はあります。 恐らくですが、光の者。 人間を調査した貴方の心にも、狂気は宿り始めている」

「それは否定せぬ。 我はこの世界に降臨してから日が浅い。 全てを調べているうちに、影響を受けなかったとは言わぬ。 だが、そのようなものは、すぐに消し去ってくれるがな」

「それは悪手ですね」

狂気を知らずして。

人間を知る事は出来ない。

田奈は、言い切る。

そして、唖然としている光の者に、更に付け加えた。

「人間は狂気によって立脚しているんですよ。 これは、人間という生物の闇の深淵を見続けてきたから断言できる事です」

「狂気によって立つ生物か。 なるほど、それならこの世界の混沌も頷ける」

「この辺りでよろしいですか?」

「何がだ」

田奈は、敢えて薄く笑う。

それを見た人間の大半は、恐らく恐怖で失禁するだろう。

田奈は、昔は儚そうな容姿だと良く言われたが。

今では、もはや。

その面影などない。

「私に対する個人攻撃など無意味です。 私はたまたま、人間世界の地獄の底を、見続けてきて。 そして、泥の奥底を這いずってきただけのこと。 多かれ少なかれ、人間は狂気の塊なだけです。 私の場合は、少し濃度が高いだけ」

「面白い奴よ」

「そう思っていただければ何より。 では、建設的な議論に戻りましょうか」

「良いだろう。 我の言葉に崩されぬその精神力、我と交渉するにふさわしい。 それでは続けるとしようか」

さて、此処からだ。

陽菜乃もあまり長くは各国首脳を押さえきれまい。

今のやりとりを見ただけで、正気をごっそり持って行かれたような奴もいるはずだ。それこそ、ヒステリーやパニックを起こして、どんな行動に出ても不思議では無い。

だからこそ。

一気に勝負を決める。

「此方からの要望は既に口にしています。 光の者、貴方の要望を今度は聞かせていただけませんか。 此方からの提案を耳にして、そしてその後判断した結論と、それに要望を、です」

「結論から言うと、お前の要望については理解した。 現状の人間を出来るだけ壊さず、かといって放置もしない、バランスの取れたものだと理解出来る。 状況から考えて、お前達のいう無条件降伏以外に無い状況で、良くも我に此処までの提案を出来たものだと感心しておるわ」

「それで、貴方の判断は」

「良いだろう。 現在の人類を放置することはもとより論外。 そして、我の提案の大半を、そなたの要望はカバーしている。 これだけの状況に持ち込んだそなたに敬意を表して、我はその言葉を聞こう」

不意に、スマホが鳴る。

片手を上げて、会話を遮ると、通話を受けた。当然だが、相手は陽菜乃だ。

「ごめん、忙しいところに」

「今、話がまとまった所ですが、何か」

「最悪の事態」

そうか、やはりそうなるか。

陽菜乃は、続けて言う。

「米国のパワーエリート達が動いた。 どうやら光の者と、古代生物能力者を、敵性勢力として見なすという結論を、大統領に伝えるつもりらしい」

「では、さっそく、此方も強攻策にでるとしましょうか」

「ちょっと、何するつもり」

「此方としても、いい加減腹に据えかねていたところです。 思い知らせてあげましょうね」

光の者は、指を鳴らす。

同時に。

地球の法則が。

書き換わっていた。

法則が、光の者のいる地点から。地球の反対側に到達するまで、一秒もかからなかっただろう。

この星の地球人類は。

既に金さえ持っていれば、何をしても良いという理屈の下で動いていた。

その理屈が、今。

崩壊した。

 

2、大変革

 

田奈はしらけた目で、視察をして廻っている。

陽菜乃は心配していたのだが。田奈は涼しい顔だった。というよりも、もはや何も興味さえ無いように見えた。

第三諸国では。

出生率3、あるいは4以上の国家さえも珍しくなかったが。

それが、突然子供がまったく生まれなくなった。

正確に言うと、妊娠しなくなったのである。

出生率が高めの先進国でも、同じ事が起きていた。

人類の強みの一つは。

その暴力的な繁殖力にあるのだが。

どうやら、田奈はそれを無理矢理に変えてしまったらしかった。

陽菜乃は、並んで歩きながら、データを調べている田奈に話しかける。

「それで、あれも改革の影響?」

「そうですよ」

田奈の言葉は素っ気ない。

今まで自分たちで富を独占していた特権階級が。

こぞって給金を下げ。

薄給でこき使っていた一般社員に、振り分けを切り替えた事が、世界中でニュースになっている。

それも驚きの声でニュースキャスターが読み上げているのでは無い。

黙々、淡々とだ。

ある意味、科学者達の中には、マルクス主義を標榜する者もいたらしいのだが。

それに近い状況が、全世界にわたって訪れた、と言うべきだろうか。

陽菜乃は唖然としたが。

まあ、これはありだ。

実際問題、どの国でも。

貧富の異常な格差は、問題になっていた。

先進国でも、勝ち組と負け組の格差は凄まじく。

早い話が、経済成長していても。結局は、金持ちが異常な金持ちになるだけで。貧乏人の生活は、いっこうに良くならない。

それがどの国においても。

資本主義を導入している以上、変わらない現実だった。

それが、である。

資本主義が、そもそもエゴに基づく制度である以上。

人間のエゴに手が入れられて。

色々と壊れた結果。

世界的な体制が、激しく揺らいだのも。無理も無い事なのだろうと、陽菜乃は思う。だがそれにしても。

衝撃的な光景ではある。

陽菜乃には影響がない。

田奈にもだ。

なお、光の者は、田奈をいたく気に入ったらしい。

精神的なリンクを確立しており。

自分の分身として、行動することを許しているし。

田奈も薄ら暗い笑みを浮かべて。

それを平然と受け入れているようだった。

色々ともう世紀末だが。

それでも強くは言えないのは。

光の者が言っていたのは正論であり。実際問題、この星にはもう未来もなかったのが、事実としてあるからだ。

どれだけきれい事を並べたところで。

実際、この星は破滅の崖に突き進んでいた。

それは冷然たる事実。

人類だけが滅ぶのだったら、それも良かっただろう。だが、人類は、他の生物も根こそぎ巻き添えにして滅びようとしていた。

それを止めるためには。

これくらいの荒療治は、必要だったのかも知れない。

各国の統一が進んでいる。

エゴがすっかり無くなった各地の政府の要人達は。

今まで金さえあれば何をしても良いを地で行っていた態度を、完全に改めていた。

例えば、推定無罪という言葉がある。

法としては立派な考えだが。

実際にはこれは。公平な裁判。公平な法。裁判に個人的思想の介入がないこと、この三つがないと成立しない。

事実、どこの国でも。

金を積んで、裁判になるべき邪悪な犯罪をもみ消すケースが、幾らでも存在しているし。そういったケースでも、推定無罪は適応されなければならない。つまり、金持ちが弱者を虐げるための方便として、推定無罪は使われていたのが実情だ。

実際、大量虐殺をしても、裁判を買収して逃れたケースなど、枚挙に暇がないし。

その場合でも、推定無罪の原則の結果、大量殺人鬼を裁くことは許されなかった。

それが現実だったのだが。

各国要人の中でも、犯罪を犯したものは、次々と裁判所に出頭。

それぞれ、適切な判決を受けているようだった。

この判決が、また早い。

というのも、法機関を光の者が精査したためである。

簡単に言えば、超強化改造が行われたのだ。

その結果、あらゆる国の裁判関係者が、光の者の手先と化し。

全員があらゆる裁判を、あっという間に公平かつ適切に運用できるようになっていた。

世界政府の統合も進んでいる。

現在、列強と呼ばれていた国々。先進国と呼ばれていた国々は。

それぞれが悉く併合を完了。

古い時代の未来予測は。

暴虐的な力によって。

ようやく現実になろうとしていた。

つまり、国家なき時代、である。

そんな時代は、歴史上存在したためしすら無かったが。

今、ようやく。

実現しようとしているのは、皮肉以外の何物でも無かっただろう。

田奈が見せてくる。

軍が展開して。

最危険地帯を、ローラー作戦で処理している。

やり方があまりにも徹底的すぎるが。

これくらいは本当はやらなければならなかったのだ。

そして、その軍も。

もはや、統一政府の軍とでも言うべき存在になっており。様々な戦車が、同じ作戦で活動を続けている様子は、ある意味不可思議でもあった。

「後、併合にまだ時間が掛かりそうな国家は、三十ほどです。 どれも中規模の、問題が多かった国家ですね」

「この機会に、無理矢理統一政府を構築するつもりなんだね……」

「勿論そのつもりですが、何か不満が?」

「ううん」

実際問題。

米国のパワーエリート達が、光の者と田奈の対談を見ていて、一番怖れたのは。彼らの資産と、特権を奪われることだった。

だから大統領をせっついて。

攻撃に出ようとしたのだ。

それに勝ち目がないことなど、どうでも良かったらしい。

金を手放すくらいなら。

死んだ方がマシだ、というのが彼らの本音だった、というわけだ。

だが、それも全ては未遂に終わった。

既に米国大統領は、過去の存在になっている。

エゴが極端に薄くなったため。

「元」各国の政治家は、続々と合流。

それぞれが力を振るって。

政治闘争では無く、政治を行い始めている。

資本主義が力を持って以降、どこの国でも見られなかった光景だ。結局人間は、こうして圧倒的な暴力に曝されなければ、変わる事は出来なかった。そう考えると、陽菜乃は嘆息してしまう。

本当は、世界中の人間が、努力をして変えていかなければならない事だったのに。

人間には、そんな能力など備わっておらず。

尻を叩かれなければ、動く事さえ出来ず。

結局。変化に対して反発もしたあげく。

無理矢理変革させられたという事実が残っているからだ。

それも、麟の時とはかなり違う。

様々な譲歩を引き出した上で。

現実的な変革をもたらしている。

麟の時の、あからさまなディストピアとは違う。

恐らくディストピアの一種には違いないのだろうが。

それでも、これは。

今までの世界よりはマシだろうと、陽菜乃は考えていた。

田奈と歩きながら、空港に到着。

飛行機はというよりも。

インフラ関連は、既に完全な制御下に置かれ、寸分も狂わず運営されている。これから、統一政府の首都として設定されたニューヨークに出向くのだ。

本来だったらロシアが絶対に反対していただろうが。

ロシアは変革後。

真っ先にアメリカとの統合に応じた。

他の反アメリカの国家群も同様。

恐らく、一週間と掛からず、この世界は統一政府を樹立させるだろう。それくらい、急激に改革が進んでいるのだ。

飛行機に乗り込むと。

完璧にチューニングがされた飛行機が、飛び立つ。

陽菜乃も田奈も、散々血を浴びた身だ。

周囲を見ると。

それぞれ、今までの熱情を失ったような人々の姿が目立った。けらけら笑っているような事は無く。

同時に自分勝手なこともしない。

世界はというより。

人間は、無理にでも変革させられた。

それが、この現実だ。

ファーストクラスだから、適当に料理が出てくる。少しニューヨークに出向くには、時間が掛かる。

ちなみに統一政府の幹部は、古代生物能力者達が行う事になる。

そのために出向くのだ。

陽菜乃とエンドセラスと。

色々あって、古細菌の代表としてユリアーキオータが。

この三頭政治を行う事になる。

後は、各国に古代生物能力者が散り。

それぞれが、政治家をまとめていくことになる。

様々な案を複合した結果。

結局、このやり方。

第四のやり方として、田奈が提唱した方法で。この世界は、統治されることになったのだが。

それは果たして、最良の解決策だったのだろうか。

正直、陽菜乃には分からない。

もう、誰にも分からない、というのが事実だろう。

田奈は相談役として、これから大忙しの予定だ。

なお、光の者は。

相変わらず太平洋上に浮かんでいる。

政治に関与する気は無し。

ずっとその場に浮かび続けて。

人間に対する微調整を続けるつもりらしい。

今でも世界中を監視し、監察しているらしく。

そう思うと、陽菜乃もあまり良い気分はしなかった。ずっと覗かれているような物だから、である。

だが我慢だ我慢。

それ以外に、もはや方法は無い。

光の者に、自暴自棄の総攻撃を仕掛けたあげく。

壊滅的な打撃を受けて、全滅、という未来もあり得たのだ。

相手にしてみれば、人類だけを地上から消し。その遺物も残らずこの世から消し去るくらいは、容易にできたのだ。

それをせず。対話に応じた。

そして、現状を全面肯定せず。

しっかり対話通りに、この世を変えた。

誠実な行動を行ってくれた光の者に対しては、陽菜乃も我慢をするほかない。実際どんな政治家よりも。

誠実な対応をしてくれたのは、間違いの無い事実なのだから。

軽く飛行機で仮眠を取り。

そして起き出す。

もう少しで、統一世界政府の首都に着く。

これからが、一大事だ。

 

既に、彼方此方に散って、色々と「仕事」をしていた古代生物能力者達は、集まっていた。

此処は、ニューヨークにある世界最大の講堂。

十万人が入る事が出来る。

少数のマスコミ関係者もいる。これは、衛星放送で、これから行われる事を、流すためである。

エゴが取り去られた元各国の政治家達もいる。

これから、この星は。

出生率を管理して、人口を40億にまで減らす。

それと並行して。

資源を食い尽くす原因になっていた、過剰競争もストップする。

間違いなく、停滞の時代が来る。

そう批判していた科学者もいたが

停滞はさせない。

エゴを取り去った今、研究や開発は黙々とさせる事が出来るのである。

本来、楽をしたい、という思考は。

社会のリソースを有効活用できる、有為なものだ。決して自分だけが好き勝手をして、他を蹂躙するためのものではない。

自分だけが楽をするのでは無い。

皆が楽を出来るようにするための、技術革新が、これからは必要になる。

相談役として、力を渡されている田奈が。

無数の能力者達と、政治家達に。

壇上から呼びかけた。

それほど大きな声ではないのに。

その声は、周囲に、嫌と言うほどクリアに響き渡っていた。最高級のマイクを使っているのかと一瞬思ったが。

どうやら。

田奈自身も、能力を強化されているらしい。

元々トップクラスの能力を持っていた田奈だったのだが。

光の者が、代理人として更に力が必要、と判断したのだろう。

今は凄まじい力を感じる。

「これより新しい時代を開始します。 今まで、どこの国もエゴを振りかざすばかりで、結局達成できなかった事を、強制的に実行します」

「……」

誰も、何も言わない。

エンドセラスは腕組みしたまま。

あまり機嫌は良さそうでは無い。

「何か不満でも?」

「確かに正論だがな。 私としては、散々努力はしてきた。 その分の豊かな生活は享受したかったな」

「努力をしないで豊かな生活を享受するばかりか、金さえあれば何をしても良いと考える人間があまりにも多すぎた。 それが、この世界を此処まで腐らせた要因ですし、仕方が無いのでは」

「ティランノサウルス。 お前はそれでいいのか」

肩をすくめる陽菜乃。

エンドセラスは不満なようだけれど。正直な話、田奈がどれだけの地獄を見てきているかを、陽菜乃は知っている。

人間がどれだけ闇に満ちた生物か。

泥の中を這い回るようにして、田奈はその全てを見てきた。

その彼女が、するべきだと判断した事だ。

勿論エンドセラスも、陽菜乃も。地獄を見てきた、と言う点では何ら変わってはいないけれど。

田奈はそれよりも、更に濃い悪夢の世界に暮らしてきた者なのだ。

ならば、田奈には権利がある。

人は、変わらなければならないと。

声を上げる権利が。

「これより一月以内に、この地球から国という概念はなくなります。 統一政府による全世界の統治が開始されます。 同時に、貧富の異常な格差も改善。 資本主義の美名の下に容認されてきた不平等を、強引にでも解消します」

田奈の言葉は淡々としていて。

何より熱がない。

というよりも、人間をこれより徹底的に改革するという、暗い冷たさに満ちた言葉だった。

ぞっとするほど寒々しい恐ろしさを感じるけれど。

それもまた、人類がやらなければならない事。

今まで積み重ねた宿業を。

精算するときが来たのだ。

全ては、やるべき事をしなかったから。今、そのツケが廻って来ている。もう人類は、とっくに統一政府を造り。資源の全体的な管理と、世界に対する責任のある行動をするべきだったのに。

それを一切せず。

何よりも、どの国も、自己の覇権だけを考えていた。

エゴの怪物。

それが人間の正体だった以上。

こういった事態は、いずれ来ていた。

そしてこなければ。

人類は滅んでいたのだ。

田奈は、更に淡々と告げる。

「これより、今までの人類の歴史は終わります。 今後は、進化した人類の世界が始まることになります。 それを受け入れられない人間は、酸素に焼き尽くされて滅びていった古代の細菌類のように、この世から消えて貰います」

「過激だなあ」

田奈の言葉は、鬱屈に満ちているけれど。

間違ったことは何も言っていない。

実際問題、田奈はどうして鬱屈に満ちていたか。

それは、言うまでも無く。

この世界の人類の、アホさ加減に愛想を尽かしていたからだ。

そうでなければ、田奈は。

もっと楽にこの世界で生きる事が出来ていただろう。

田奈は優しい子だった。

だからこそ、地獄を見た。

「具体的な改革については、既にネット上に提示されています。 各自、それらを確認し、今後の世界の変革に備えてください。 以上」

壇上から田奈が下がる。

代わりに、エンドセラスが壇上に上がった。

「これより、この世界を私物化し、貪っていた豚どもの資産は予定通り根こそぎ没収する事になる。 当たり前の話だ。 世界の資産の99%を、1%の人間が独占するなんて世界が、まともだったと思うか。 これより資産の分割は、厳正かつ公平に行われる事になる」

エンドセラスは元々闇の世界の住人だ。

だが、この事態は受け入れている。

不愉快だと思っていても、である。

元々、実力で世界征服を目指そうと考えていたらしいエンドセラスだが。結局の所、それは達成出来ない事になってしまった。

その腹いせもあるのだろう。

口調は荒々しく。

そして、論調も激しかった。

「これより、寿命なき我々が、徹底的に世界を管理していくことになる。 かといって、我々に許されているのは管理までだ。 我々も、常に光の者に監視を行われ続け、不的確と判断されれば前任者のように処理される。 貴様らだけが苦労するわけではないことを、知ると良いだろう」

これより処刑する人間を読み上げる。

そうエンドセラスは宣言すると。

一万人に達する人間を読み上げた。

いずれも、裁判を買収して無罪になり。悪の限りを尽くしていた者。

政府を私物化し。

自身と一族だけで、税金を懐に入れ、贅の限りを尽くしていた者。

詐欺同然で金をむしり取りながら、騙されるのが悪いと抜かしていた者。

そういった、遺伝子レベルで欠陥を持っている人間を、処理する。そうエンドセラスは指示。

実際に、今講堂にいる人間の中にも、処理者が出たが。

暴れたり。

抵抗する者は一人もいなかった。

それもそうだろう。

もはや、此処にいるのは昔の人間では無い。

これで、本当に良かったのだろうか。

連行されていく人間達を見て、陽菜乃は思う。そしてこれから処刑される人間は、更に更に増えていくだろう。

完全なる世界。

人間の手を離れた世界。

そういえば、聞こえは良いが。

これこそ、本物のディストピアなのではないか。

いや、違う。

麟の作ったものとは違って。

これは人間が、上位の存在と話し合って、作り上げたものだ。だから、安易なディストピアでは無い。

実際これを作り出さなければ。

人間は滅びていた。

実際、意識の渦も、もはや新しい干渉をしてくる様子が無い。

これでいいのだ。

いいのだと、陽菜乃は言い聞かせる。

続いて、陽菜乃の番が来る。

陽菜乃自身には、演説することはあまり多く無いのだが。まあ、一応は今後世界を支配していく幹部の一人になるのだ。

話はしていた方が良いだろう。

「ティランノサウルスの能力者、陽菜乃です。 最近は旧第三諸国で顔を合わせた方もいるかと思いますが、いや、いないかな。 ふふ、兎に角、今後私は、世界にとっての不要分子を削除する実働部隊を率いていくか、私自身がそうなるかと思います」

ぞっとする話なのだろうが。

周囲は平然と聞いている。

人形の群れに話しているようで、陽菜乃は、人間はエゴを失うだけでこうも変わるのかと、ある意味感心してしまった。

「どれだけ世界のシステムが整備されても、悪行を働くサイコパスはどうしても出てくるのが現実です。 私はそれを探し出して、この世の果てまででも追い詰めて消します」

ストレートな表現を使う事で。

誤解は避ける。

どれだけ優れたシステムでも。

桁外れのクズや馬鹿が出てくると、どうしても対応を変えなければならなくなるケースがある。

私はその対策役。

世界には、サイコパスとしか言いようが無い輩も少なくない。

それらは全て消す。

面倒だけれど、こればかりは仕方が無い。

陽菜乃が一番適任だ。

ただし、消すべき存在は、早い段階から選別する。場合によっては、子供に手を掛ける事もあるだろう。

もうそればかりは仕方が無い。

この世の理は。

地獄だったのだ。

今後は、少しでも地獄から離れるために。

改革を断行していかなければならない。

決めたことだ。

壇上から降りる。

ユリアーキオータが代わりに壇上に上がる。退屈そうにしていたユリアーキオータだが。彼女は、色々ぶっちゃけた。

「我々から世界の全てを取りあげたラン藻が、この世界を再構築するというのもまた妙な話だが。 今回ばかりはそれに乗ろうと考えている。 正直、この世界は本当に滅ぶ寸前まで行っていた。 滅びの未来を回避するには、これもまた仕方が無い事だった、と言わざるを得ない」

しんと。

周囲が静まりかえる。

誰も彼もが、恐ろしい事を言う中。

頭を掻きながら、ユリアーキオータは言う。

「わしは第三者機関として、統一政府を監視する。 もしも何かしらの不正を行う者が出たら、二目と見られぬほど悲惨な死に方をする事になる。 よく覚えておくとよかろう」

それだけ言うと、

壇上からユリアーキオータは降りた。

はあと、陽菜乃は嘆息する。

何だか、どっと疲れた気がした。

 

控え室でぼんやりしていると。

田奈が茶を淹れてくれた。

この辺り、田奈は変わっていない。

作法も完璧だ。

茶も美味しい。

「疲れましたか」

「いいや。 この世界を改革する具体案を出した田奈ほどじゃないよ」

「そうですか」

「色々と大変な思いばかりさせてすまないね」

「……」

しらけた目。

田奈としても、色々言いたいことはあるのだろう。

だが。それは此方としても、言われても困るとしか言いようが無い。いずれにしても、もう新しい世界は動き始めている。

モニターを見ると、統一できていない地域は、更に減っていた。

統一政府は、間もなく全世界に拡がる。

その結果。

先進国と第三諸国の間に拡がっていたおぞましい格差や。

それによって生じる矛盾は解消する。

社会主義に近い社会が出来上がることになるが。

その一方で、その上に立つ存在は人間では無い。

神格化された人間が、社会主義や共産主義ではトップになる事が多かった。これは古代の王政も同じだ。

だが、今度は本物の神格がトップに立つ。

それは全世界を、その気になれば一瞬で変革しうる存在であり。

実際、人間の大半は、本当に一瞬で変革されてしまった。

「ねえ、田奈」

「なんでしょう」

「本当に、これで良かったのかな」

「そう思うなら、代案を」

その通りだ。

そんなものはない。

誰もが分かっていた。このままでは、世界は滅ぶと。実際に滅びを回避する具体案が出てきて。実行されたのだ。

それを、どうして祝福できないのだろう。

「外の空気吸ってくるわ」

田奈は何も言わない。

そして、陽菜乃も。

それ以上は、何も言わなかった。

外に出ると、黙々と、寡黙に働く人々。レジャーや娯楽といったものは、今後相当に縮小される。

今後は不平等もなくなる。

だが。この世界は。

本当に、冷え切ったのだな。そう、陽菜乃は思った。

 

3、胡蝶の夢

 

あくびをして、ベッドから起き出す。

何だか、随分久しぶりに。

ゆっくり眠った気がする。

いや、実際その通りだ。

此処しばらくは、彼方此方で不満分子を潰して廻ったり。それが終わって、実際に世界が変革された後は。

忙しすぎて、目が回るようだった。

目覚ましを止めると、陽菜乃は自室を出る。

別に豪華な別荘などでは無い。

政府が支給している、蜂の巣のような、他の人間と同じ住居だ。効率を考慮し。今後はこの新型団地とでも言うべき住居が、新規に普及していくことだろう。住宅を作り直す資源の浪費を考えると、確かに効率的だからだ。

エレベーターで一階に下りている他の人間を横目に、ひょいとベランダから飛び降りる。

三十階分ほどの高さを跳ぶと、着地。

別に大したダメージもない。

手を払うと、歩き出す。

今日は、そこそこにスケジュールが入っているのだ。

今まで地球を痛めつけてきた人類の、尻ぬぐいを始めている。世界中で、である。

陽菜乃はそれを監督する立場だ。

既に、あの日から二月が過ぎ。

統一政府は、世界の全てを支配下に収めた。

三大巨頭と呼ばれる一角になった陽菜乃は、世界の安定を主に司っている。世界中を見てまわって。

この平穏を崩す者を、見つけ出し。

消すのが仕事だ。

殺す場合もある。

だが、そうしなくても良い場合は、そうしない。

矯正施設なんてものは使わない。

単純に、その場で精神構造にダメージを入れて、様子を見る。それでもサイコパスが治らないようならば。

その場で殺す。

それだけだ。

黙々と歩いていると。

陽菜乃は、自分も心が死んで行っているのではないか、と思う。

田奈もこんな気分だったのだろうか。

エンドセラスや古細菌の勢力と争っているとき。田奈はオルガナイザーとしてもネゴシエイターとしても優秀だった。

だが、それは。

極端すぎる以上に極端に。

客観的にものを考えなければならない、という事も意味していた。

陽菜乃も、この世界を安定させるため。

異常なほど客観的にならなければならない。

あくまで陽菜乃の処理対象は例外。

それだけ、エンドセラスよりはましか。

通報。

サイコパスとしての性質が高い人間が発見された。

すぐに向かう。

走ると、十分ほどで到達。

虚ろな目で、此方を見ている男の前に降り立つと。陽菜乃は端末から、ターゲットが間違いないかを確認する。

この男は、見栄えは良く、笑顔もステキだという事で、女子からはもてていた。

しかしながら平然と不正を行い、他人を痛めつける事を何よりも好み。その悲しむ顔を見るのが大好きという、筋金入りのゲスであった。

他人が苦しんで死ぬ動画を見て大笑いしたり。

他人が嘆き悲しんでいるのを見て、舌なめずりしていたという客観的証拠が幾つも挙がっている。

更に、犯罪を犯すことを何とも思っておらず。

無免許で車を乗り回し。

大麻などの薬物を、家に蓄えている事も分かっていた。

それら全てを、のらりくらりとかわしてきた男だが。

ついに年貢の納め時だ。

家がそれなりの金持ちだったから出来ていたことだが。

その理屈も通じなくなった。

「なんだよ、誰もやってることだろ?」

指摘すると、男は言う。

罪悪感は無しか。

ならば、更正する可能性もない。

陽菜乃はデコピンを入れる。

男の頭は完全に吹っ飛び。

そして、頭を失った胴体は。失禁しながら倒れ、血だまりを作っていった。

黙々と、陽菜乃は処理班に連絡を入れた。

光の者が全世界に影響を及ぼしても。それでも、こういう例外は出てくる。だから、処理しなければならないのだ。

「此方陽菜乃。 処理せよ」

「了解」

周囲の労働者達は、何も言わない。

そして、陽菜乃は次に向かう。

今日だけで、二十五人を最低でも確認しなければならない。その中には、まだ小学生の子供もいる。

面倒と言うより気鬱だ。

さっきのような、分かり易いクズもいるが。

必ずしも、そうとは限らないのである。

正しい事は理解している。

だが、これは粛正だ。

しばし粛正を終えて、結局二十人を殺さなければならなかった。その中には、小学生も含まれていた。

家に戻ると。

シャワーを浴びる。

田奈から、連絡が来ていた。端末を取って、電話を受ける。

「どうでしたか、今日の仕事は」

「良い気分はしないね」

「毎日がそうでしたよ、私は」

「……」

分かっている。

でも、それでも、一言言わなければならない事がある。実際問題、これは、何かが何処かで間違っていないか。

正しいのだ。

それは言われなくても分かる。

間違っていないのだ。

それも分かっている。

だが、何処かで、ボタンを掛け間違えてしまっている気がする。

それが何処かが分からない。

光の者との交渉は、田奈でしか出来なかった。他のどのネゴシエーターでも、無理だっただろう。

しかし、だ。

何処かが引っ掛かるのだ。陽菜乃にも、それが分からない。何故、こうも苦しいのだろうか。

田奈は、平然としている。これが、彼女にとっての世界だから、だろう。つまり、世界は。

田奈基準の世界になり。

そして、彼女は。

いつもこれを見てきていた、という事になる。

田奈の平然とした様子からしても。

これは彼女の日常以外の何物でもなく。

だからこそ。彼女はこうして、神とネゴをする事が出来たのだ。

「科学技術の振興に、予算をぐっと増やします。 今後尽きていく資源のことを考えると、もう待ったは掛けられませんからね」

「人口を減らす処置についても、本当に出生率のコントロールだけで大丈夫、なんだね?」

「大丈夫ですよ」

そもそもだ。

人口爆発の要因は、幾つかの国に限定されたものだ。

希望が無い国には子供は増えないが。

希望が無くても、ひょっとしたら子供が養ってくれるかも知れない国では、子供は増えるのである。

それも、異常なレベルで。

それをすっぱり切り去った場合。

この世界には、とんでもない事が起きるような気がしてならないが。

「ねえ、田奈」

「はい?」

「何か見えてない」

「……」

田奈は、その言葉の意味を、理解しかねていたようだったけれど。

すぐに悟った。

「そうですね。 私が見てきた世界が、世界中に拡がっていく光景が見えている、とでもいえばよろしいですか?」

「うん、それで充分」

ダメだ。

このままだと、この世界は確かに救われる。

それは間違いないだろう。

田奈があれだけ腐心して、光の者と妥協案を作り出したのだ。その苦労は尋常ではなかったし。

何よりも、滅びの縁に瀕したこの状況。

あの光の者を撃退することは不可能でも。

どうにか黙っていて貰えるだけでも、奇蹟に等しい。

あれが動きだしたら、人類など瞬時に滅ぶのだ。

もう一度の交渉は。

それもあり得ない。

何より、前の世界は。

今以上に狂っていたのだから。

通話を切ると。

陽菜乃は、はあと大きく嘆息した。

世界を握る三人の一人になった。もはや世界統一政府の最重要顔役。だが、実際には、三人が動かなくても世界は回り。

腐りきっていた世界は。

勝手に浄化が始まっている。

後100年ほどで。

全ては綺麗に片もつく。

それなのに、どうしてだろう。

どうして、これほどまでに。

心がざわつくのだろう。

陽菜乃も、殺した殺されないの世界で生きてきた者だ。吐き気がするような悪夢は、散々見てきた。

だが。この悪夢は。

陽菜乃にしても、少しばかり、刺激が強すぎるようだった。

悶々としながら、眠る。

そして目が覚めると。

外に出る。

急ピッチに全てが進んでいる。

もはやコネや何かがものをいう世界は終わった。

最先端技術が世界中で導入され。

そこにエゴは一切絡まない。

技術競争は、世界を巻き込まず、複数ある研究室の中でだけ行われ。そして最高効率を判断されたものが、どんどん世界に導入されていく。地区地域の関係無しに。インフラの整備も凄まじい。

今まで権利関係でごたついていて、手を出さなかった建物や。

マネーロンダリングのためにパワーエリートが所有していたような物件。

特定の人間が持ちすぎていた資産。

それらが、湯水のように流出し。或いは撤去され。

その代わり、街からホームレスも消えた。

新しい世界の首都、ニューヨークは。

超高速で、インフラが再整備されつつあると同時に。

人間の気配も消えつつある。

何だか、そう陽菜乃には、思えてならない。

歩いて、議事堂に。

陽菜乃用の決裁書類が、山のように用意されていた。

だが、この程度の書類なら、さっさと片付けてしまう。

ざっと見るが。

誰かが陽菜乃を騙そうとしたり、暴利を貪ろうとしている書類は見当たらない。いずれも妥当なものばかりだ。

資産の99%を没収されたパワーエリートは。

不満の声一つあげず、資産譲渡の書類を出してきている。

ハンコを押して、はい終わり。

次。

中東の貧富の格差の根元である石油王。その資産は、99.9%を没収する事になるのだが。

それにも、抗議する様子は無かった。

少し前に、皆で殺して廻った反政府組織やら何やらの生き残りは。

自分たちから自首してきている。

死刑になると知っていても、である。

思考回路が、既に人間ではなくなっている。

陽菜乃は、汚染されていない。

する必要もないと、判断したからだろう。

田奈が、か。

それとも、光の者が、か。

書類を片付け終える。

少し、外の空気を吸いたくなった。

実際問題、一時間ほどで今日の仕事は終わってしまった。サイコパスの処理については、今日分も昨日のうちに片付けてある。前倒しでやってしまうか。そう思って、電話に手を伸ばそうとしたところに。

エンドセラスが来る。

極めて不機嫌そうだ。

気持ちは分かる。

「これが、人が到達した楽園の姿か」

「気持ちは分かりますよ」

「不愉快だが、もはや逆らう選択肢は無い。 能力者には何人かあったが。 いずれも洗脳はされていない様子だ」

「この世界を管理するから、でしょうね」

エンドセラスはこういうが。

違和感は確かにある。

なんというか、エゴが薄れている気がする。

自分の深淵を常に覗かれているような。

それがこの、ずっと続いている不快感を作り出しているのだろう。

エンドセラスに断って、電話をする。

連絡先は、サイコパスの分析研究室。そうすると、既に10日分の仕事を、割り出してくれていた。

9日目からは国外分だが。

米国本土だったら、自分の足で二日で全て見て回れる。

つまり、二日で全部片付けて。

後はゆっくり出来る、という事だ。

書類仕事も、まとめておいてくれ。

そう指示すると。エンドセラスに向き直る。

「あれだけ阿漕に弱者から生き血を啜っていたこの国のパワーエリート様達が、あっさり資産を全て差し出しているのには正直乾いた笑いも漏れないですね。 中東の石油王様も、ハレムを全て放棄して、資産も全部差し出しているとか」

「正しすぎる」

「……」

「人類はそもそも、そうやってやっていかなければ、もうこの世界の資源を食い尽くす寸前まで来ていた。 確かにそうするのが正しいが……だが、もう後戻りは、どのみち出来ないな」

その通り。

今更人間が元に戻ったりしたら。

其処から先は、悪夢でしかない。

光の者が見ている以上。

不満を言うのも、危険が残る。

いや、流石に其処まで心が狭い相手では無いか。ただ、あの光の者は。本当にこれで満足してくれているのか。

分からない。

ただ、いつひねり潰されてもおかしくない恐怖だけは。

ずっと続くのだろう。

それが人間の罪に対する罰で。

そう考えてみると。

此処は天国と言うよりも。

今まで楽園でやりたいほうだいやってきた人間に対して訪れた。

地獄なのかも知れなかった。

「それで、貴様はどうする、ティランノサウルス」

「どうにも。 もう引き返すことは出来ないし」

「いいのか、このような地獄そのものの世界で」

「仕方が無い。 田奈はずっとこれを見てきたんだと思うと、怒るに怒れない。 それに、これ以上ましな世界も思いつかない。 あの光の者を納得させて、これ以上マシな世界なんて、何か思いつくならばいいけれど。 元に戻したところで、前以上の地獄が来るだけですよ」

エンドセラスは。

牙を抜かれたなと吐き捨てると、部屋を出て行った。

気持ちは分かる。

だが、もうどうしようもない。

どうしようもないんだ。

陽菜乃は、自身に言い聞かせる。

そして、仕事を前倒しする。

この国、いや旧北米に巣くっているサイコパスを、二日で皆殺しに。そして、書類仕事も、二日で全て片付けてしまった。

それから、もう次の日には。

別の地区への仕事に出向く。

仕事を前倒ししておけば、それだけ楽になるだろう。

そうか。

仕事に逃げるサラリーマンというのは、こういう感じだったのか。

何となく、仕事に逃げるという感覚が理解出来て、陽菜乃は楽しくなった。そして、散々。この世界を乱す者を、狩って廻った。

狩られる者には、抵抗する者もいた。

中には、到来を予期して、可能な限りの武装をして、待ち構えている者もいた。

こんな状況でも、そういったことが出来るほど、エゴを捨てずにいられるのは大したものだと思ったけれど。

相手が悪すぎることに気づけないのは、どうなのだろうと陽菜乃には思える。

実際、RPG7の直撃を受けても、平然としている陽菜乃を見て。抹殺対象は呆然としていたが。

陽菜乃にして見れば。だからなんだとしかいえない。

首を掴んでつるし上げて。

無造作に首をへし折る。

そして、捨てた。

はあ。溜息が出る。

この男は、改革前は資産家で、街でも逆らえる者がいない暴君だった。没収後の家を調査すると、中からは出るわ出るわ。

どうやらカニバリズムの嗜好があったらしく。

行方不明として処理されていた人間の骨やら何やらが、家の裏庭や冷蔵庫からボロボロと出てきた。

金さえあれば、何でも出来る。

推定無罪の原理を適応して、裁くことは許されない。

資本主義の終末の光景。

やっぱり、田奈が正しいのか。

いずれにしても、このような連中が、大手を振って歩く世界には、もはや戻してはいけない。

それは事実だ。

だが。

それ以外に、本当に路は無かったのか。

ふと見ると、青白い蝶が舞っている。

気楽で羨ましい。

あの蝶達にとっては、世界は何も変わっていないのだから。

人類は、ある意味。

もはや、終わったのかも知れない。

 

4、終焉の零度

 

一月ほどで、世界を回り終えて。

一度統一政府の首都であるニューヨークに戻ってきた陽菜乃は。

もう書類仕事しかないと言われて、少しだけ安心した。

「大物」は、陽菜乃が狩りつくしたからだ。

後は、普通の能力者が、適当に対応するという。まあ、実際問題、それが一番適切な動きではあるだろうなと思ったが。

書類仕事もまた、うんざりするほど逆の意味で面倒だ。

半日どころか、一時間ほどで片がついてしまう。

後は、既に仕事がない。

「完全に仕事がなくなりました」

「分かった。 では、仕事ができたら呼んでね」

「はい」

秘書官をしている、ほんの少し前まで米国の副大統領をしていた男にそう返すと、自宅に戻る。

ぼんやりと、昔作られたゲームを遊ぶが。

魂が抜けたとしか思えない。

上の空で遊んでいると。

電話が掛かってきた。

田奈では無い。

エンドセラスでもない。

誰だ。

電話を受けると。珍しい声が聞こえてきた。

「やあ、久しぶりだね。 元気にしていたかな」

「誰?」

「聞き覚えがないのも無理はないか。 この世界では、遭遇していないかも知れないからね」

「……どなたですか?」

何を言っている。

平行世界の住民だとでもいうつもりか。

神が降臨したとはいえ。

そんなものをホイホイ信じられるか。

電話を切ろうとしたが。

電話の向こうの老人は。話があるとか、面倒な事を言い出す。

はっきりいって鬱陶しい。そのまま無言で電話を切ろうかと思ったが。それもまた大人げないか。話に乗ることにする。

「それで、その話とは」

「君が現在この世界のトップの一人だと言う事は分かっている。 最適化され、破滅を逃れた世界に君臨した気分はどうかね」

「最悪ですが、それが何か」

「ならば、力を貸してくれないか」

しばし考え込む。

この世界を壊すというのなら。

それはあり得ない。

実際問題、田奈が血を吐くような思いをして、改革をした世界だ。田奈を壊してしまった一人は陽菜乃でもある。

何より、人類が一瞬で消滅させられていてもおかしくなかった状況を、田奈はひっくり返してくれた。

これ以上マシな状況を作り出せない以上。

この世界の否定は、してはならないことだ。

「具体的に何がしたいんですか」

「この世界が一度詰んだことは知っているよ。 しかし、他の世界はどうだろう。 そうだな、平行世界といえば分かるかな」

「嫌と言うほど」

「1900年代から分岐した世界に、ある巨大国家が存在し得たとする。 その巨大国家は米国から発生し、ユーラシアを征服し、アフリカも南アメリカも版図に収めた。 結果として、世界はディストピアと化したが。 資源にはまだ余裕がある」

SFの話か。

それとも、実際に存在している異世界の話なのか。

少し気になる。

そもそも、この電話番号は。

限られた人間にしか、教えていないのだ。

しかも電話を掛けるには、幾つか複雑な手順がいる。もしもその手順を踏まない場合、面倒な事になる。

具体的には、一度目は間違い電話として処理され。

二度目以降は警察が直接電話を掛けた主の所へ出向く。

つまり、これに掛けて来ている時点で。

何者か、得体が知れない存在だ、という事だ。

「それで、私にどうしろと」

「支援を願いたい。 この世界の終焉を見た君なら。 世界が詰みを迎える前に、どうにかする事が出来るはずだ」

「ふうん、面白い話だね」

「信用しないのも当然かね。 まあ、それは仕方が無い。 それでは、こう言ったらどうだろう。 篠崎田奈は、今のような化け物にならずに済む」

すっと、陽菜乃は。

目を細めていた。

それは陽菜乃の逆鱗に触れる行為だと、この老人らしき何者かは、分かっていて言っている。

そして不愉快なことに。

効果はてきめんだ。

篠崎田奈は、今の時点では、統一政府の重要人物であり。世界を光の者による破滅から救った英雄でもある。

だから、身近な人間しか知らない。

彼女が完全に壊れてしまっていることは。

そして、ましてや知るはずもない。

田奈が壊れたことを、誰よりも陽菜乃が悔やんでいることは。

「まず、名前を」

「儂の名はオールドワン」

「ふうん、創作神話の神のような名だね」

「そう取ってくれて構わんよ。 君達が言う古代生物能力者の一人にて、未来視の能力持ちだ」

そうかそうか。

少しずつ見えてきた。

「それで、其方の世界は、今西暦何年?」

「西暦という概念は既になく、現在は統一政府歴50年。 西暦に換算すると1930年代だな」

「ふむ……」

確かにその時代に統一政府が出来ていたとすれば、資源にはまだ余裕があるというのも頷ける。

そして未来視能力者ならば。

世界がどれだけ暗い地獄へ変わっていくかも、理解しているだろう。

統一政府歴で50年というと、1880年代には世界の統一が実現した、という事にもなる。

世界大戦も発生しなかった、という事か。

此方の世界の情勢では、考えづらいが。

或いは、色々な要素が加われば、それもあり得たのかも知れない。

「ではオールドワン。 わたしが貴方を助けたとして、何か見返りは?」

「この世界の終焉はどうしようもない。 人はあらゆる意味で生物とは言えない存在となり、やがて宇宙へ旅立っていくことだろう。 人はB級映画のエイリアンのように他の生物を侵害するモンスターではなくなるが、同時に生命体とも呼べなくなる可能性が高いとも言える。 その一方で、此方の世界では、或いは人間は、此処まで無茶な変化をしなくても、世界を保持できるかも知れない。 宇宙に蝗の群れのように進出しなくても、良くなるかも知れない」

「それが見返りだと」

「貴方ならば、その意味がわかっているはずだ」

しばし、考え込む。

田奈が生まれる年代を考えれば。

手助けをして、歴史を変えることに意味はあるのかも知れない。

少なくとも、あのような化け物にはならなくて済むし。

何よりも、本人が納得しているとしても。

彼処までの、悪夢のような地獄絵図に叩き落とさなくても良くなる。

だが、だ。

具体的にどうすれば良い。

「では、改めて。 何をすれば?」

「此方の世界にお越しいただきたい。 現時点での貴方の能力は、此方の世界の古細菌能力者達をも遙かに凌いでいる。 どのみち、この世界ではもはや貴方がする仕事はないに等しい。 一月程だけお貸しいただければ、それでいい」

「……」

少し考え込む。

だけれども。

平行世界といえど、世界は世界。

もしも、其処で少しはマシな状況を作り出せるのだとしたら。

やってみる価値はあるのかも知れない。

意識の渦は、この世界に、未来無しと判断した。

平行世界でも、同じ判断をする可能性は極めて高い。

それならば。

やってみる価値は、充分にあると言える。

「まずは、見極めさせて貰いたいのだけれど」

「良いだろう。 指定の場所に来て欲しい。 儂もあまり時間がなくてね」

「此方は逆に時間が有り余っている。 すぐに行くよ」

通話を切る。

そして、元副大統領に指示。

余程の重要案件でない限り、他の能力者に仕事を廻すように、と。

後は田奈が何とかしてくれる。

それにしても。

過去からの亡霊が、このようなときに姿を見せるのは。

あまりにも業が深い。

無数の世界で、このような出来事が起きているのだとしたら。

なおさら、業が深いとしか、陽菜乃には言えなかった。

 

(続)