ピュアの探索者

 

序、旅人

 

砂塵が吹き抜ける中、ポンチョを飛ばされないように必死に掴み、一歩ずつ行く。周囲には、サボテンに似た奇怪な植物。口の中に入り込んだ砂が、喉の渇きを加速する。もうとっくの昔に水筒はカラだ。

手袋はボロボロで、体中もう砂だらけ。歩く度にじゃりじゃりと音が立つ。靴の中どころか、分厚い靴下の中にも、砂がたっぷり入り込んでいるのだ。ゴーグルももう砂まみれで、視界は最悪。さっきからもう二回、何かの骨に躓いて転びかけた。砂嵐だというのに、気温は灼熱というに相応しい。気密性が高い服を着ているため、汗の逃げ場が無く、不快指数はとっくに我慢できる限界を超えている。

執念で、また一歩。まだまだ此処で倒れる訳にはいかない。こんな未開の星まで来て、砂嵐などで倒れていたら、死んでも死にきれない。後数時間も耐え抜けば、夜が来る。そうすれば、多少はマシになる。

この星では、砂嵐は永久に止まない。しかも砂の粒子が細かく、通常の精密機器は殆ど役に立たない。宇宙船のような気密性を持つ機械類ならば稼働可能だが、そんなものを持ち込む意味がない。価値がある資源は殆ど存在しないし、主要航路からも外れている辺境だからだ。かくして、この星にはほとんど人間が住んでいない。

一部の気密性が高い主要コロニーを除くと、後は古代地球さながらの生活が営まれている。当然のことながら、犯罪者が逃げ込む事も多い。ポンチョの下に高電圧スタンガンを仕込んでいるのも、その用心のためだ。危険な動物はあまり生息していない分、怖いのはなんと言っても人間だ。

ビバークできそうな岩を見つける。駆け寄りたい気分だが、そんな余力はない。これから帰る事も考えると、無駄に走ったり叫んだりするのは自殺行為だ。岩陰に潜り込むと、位置を確認できる高精度センサーを取り出す。金がない私だが、これだけは奮発した。非常に気密性が高く、この星の砂も入り込まない。センサーで確認すると、目的地まであと少しだ。どうにかなりそうで、私は大きく胸をなで下ろした。

砂嵐は止む気配もない。バックパックを降ろすと、ラップで包んだ保存食を取り出す。燻製肉と、缶詰類ばかりだ。何カ所かにあるオアシス村に行けば食料もあるが、どれも砂っぽくて美味しいものではない。だが、誰も文句は言わない。此処で暮らしているのは、基本的に貧しい人ばかりなのだ。貧しい人たちだから、心も荒んでいる事が多い。食料や必要品を手に入れる時以外は、村には寄らない方がいいほどだ。行き倒れを介抱するようなお人好しはいない。殆どの場合、身ぐるみ剥がれて砂漠に放り出されてしまう。己の身を守れない人間は、この星に入る資格がないのだ。

無理矢理砂まみれの肉を口に入れると、じっくり時間を掛けて噛む。こうしておけば、空腹の到来が緩やかになる。ぼんやり空を見上げている。砂の分厚い膜の向こうに、ぼんやりと輝く老年期の太陽がある。

マスクをして、目を閉じる。起きると砂に半分埋まっているだろう。それを考えると少し憂鬱だが、仕方がない。体力をしっかり回復しておかないと、この先生きてはいけないからだ。

砂嵐の音が、何かの歌声のように聞こえる。此処は人間の領域ではない。それを喜ぶかのような歌。この砂嵐の歌を聴く度に、私は思う。私は、此処では邪魔者に過ぎないのだと。別にかまいはしない。故郷の学会でも、似たようなものだったのだから。孤独な歌は、むしろ心地よい。不思議な一体感が得られる。

親子二代にわたるこの偏屈な探究も、私で終わらせる事が出来るかも知れない。そう思えば、少しは気も楽だ。

目が覚めると、相変わらず砂嵐だった。体はやはり半ばまで砂に埋もれていたので、動物のように体を震わせて砂を振り落とす。口の中に入り込んでいた砂を、唾と一緒に吐き捨てる。

目的の大岩は、すぐ其処だと、言い聞かせる。岩の麓には、風が入りにくい大穴があり、其処でなら目的のものが手に入る可能性がある。この星だからこそ得られうる物質。超高純度の、水である。

また、新しい一歩を踏み出す。目的のものが、もう目前にあるはずだと信じて。

 

1,異端の子

 

砂嵐の音が遠くに聞こえる。どうやら此処が、目的の場所らしいと私は思った。懐中電灯を床に置くと、砂防帽を脱ぎ、ゴーグルを外す。細かい砂の粒子が舞い上がった。糸目を擦る。髪を梳きたい所だが、あまり砂を舞い上がらせたくない。ポンチョを脱いで、砂ごとたたむ。ブーツを脱いで、逆さにすると、多量の砂が出てきた。靴下は敢えて脱がない。此処で脱ぐと、不快指数が却って上がるからだ。

冷たい岩に背中を預けて、一息。自分が巻き上げた砂の粒子が、ゆっくり地面に落ちていくのがありありと見える。

巨岩の麓にあった、小さな穴。だが奥行きは異常なほどにある。砂嵐の向こうに見えていたこの岩が、地球のエアーズロック以上のサイズである事は、目視で分かっていた。だが、中の空洞がこれほどの規模であったとは、予想を超えていた。

岩に触れてみる。予想通り、いやそれ以上の品質だ。浄水器を取り出すと、にじみ出している水を入れて濾過する。最初から細菌の数がかなり少ない。二分ほどの浄化で、飲み水に変わった。一気に飲み下す。少し甘い。

空気が異常に澄んでいる。この星ではまずあり得ない事だ。こんな場所に人間が入り込んでしまって良いのかと、私は一瞬だけ自問自答したが、すぐに頭を切り換える。バックパックを開けて、幾つかの装備類を取り出す。安物だが、宇宙活動用を考慮した、極めて気密性が高いパック類。小型の保存容器。目的のものを見つけたら、純度を落とすことなく回収する事が出来る。

どれも父の形見だ。異端の科学者として、世間から白眼視され続けた、執念の男の。気密パックと保存容器を取り出すと、私は頬ずりした。この二つは、たとえ何があっても手放したくはない。世間から白眼視されようとかまうものか。私には、この二つは、何よりも大事なものなのだ。

いつの時代も、異端の思想というものは存在する。主流である思想に敢えて逆らい、時には迫害さえされ、なお存在する。雑草のようにしぶとく、日陰で生き続ける。それが異端というものだ。

異端と一口に言っても、様々な段階やレベルがある。例えば若い頃には、独立不羈の思想から、曲学阿世になる事も多い。だがそれは、所詮若さ故のエネルギーの発露に過ぎず、殆どの場合は大人になれば消え去ってしまう。これらは異端としては極めて純度が低く、後に残すものもあまり多くはない。本人のためにはなるかも知れないが、思想としての価値はあまり無いのが現状だ。

純度の低い異端もあるが、そうではないものもある。ガリレオの唱えた地動説はあまりにも有名だが、それに限った事ではない。いつの時代も、大なり小なり異端の思想は尽きる事がないのである。

私の父、クリスパー=フォーゲル博士も、そういった異端思想の持ち主であった。

フォーゲル博士の異端思想は、それほど大それたものではなかった。証明されたところで学会が激震する訳でもなく、画期的な新技術が作られる訳でもない。人生を掛けてはいたが、彼以外の誰もが無駄な努力だと判断するような、そんな思想であった。

いつかこの理論を証明してみせると息巻くフォーゲル博士の背中を、ずっと私は見て育った。私が幼かった頃、父は既に老人だった。遅くに出来た子供なのだという。学会で理論を発表する父の姿も、一度だけテレビで見た。真剣な父の姿と、失笑を隠そうともしない周囲の様子の差が、どこか滑稽だった。

滑稽ではあっても、私には大事な人である事に変わりはない。遅くに出来た子供だからか、父は優しかった。父に手を引かれて、遊園地にも行った。水族館にも足を運んだ。一緒に見た地球産の大王烏賊は、いまでも良く覚えている。

大きな人だった。平均よりも背は随分高く、人混みに紛れていてもすぐに分かった。幼い頃はあまり血を感じなかったが、ハイスクールを出た頃には確固たるものとして分かるようになってきていた。私自身も背が随分伸びたからだ。今も、気をつけないと天井に頭をぶつけてしまう。

この星の生態系は極めて貧弱で、人間に害をなせるような生物は殆どいない。だが、この洞窟もそうだとは限らない。生体センサなどと言う気が利いたものはないので、いざというときは銃に頼るしかない。気をつけて、ゆっくり奧へ。洞穴はうねり、くねりながら、深く深く地の底へと潜っていた。体力はあるが、運動神経も良くないし、気をつけないといけない。こんなところで遭難したら、救助が来る可能性はゼロだ。

空気が薄い。例のものがある条件は、ますます満たされてきている。期待に胸が高鳴る。私は出来るだけ空気をかき乱さないように気をつけながら、奧へ進む。なまめかしく濡れた鍾乳石から、水滴が伝っている。サンプルとして採っておく。こういう安定した環境の洞窟には、大なり小なり生物がいることが多いのだが、それも見かけない。さっき水を浄化してみて分かったのだが、恐らく理由は、栄養が殆ど無い事だ。

この洞窟の水は、栄養になるものを殆ど含んでいない。おそらくは壁や天井の土も同じだ。それでは周囲に何も栄養が行き渡らない。此処は生物を拒否する環境が整っている。文字通り、死の穴と言って良い。

大型ガス惑星の、外周リングから氷の塊を削りだした時の事を思い出した。あのときも大変だった。だが、結果は黒だった。ショックだった。あの無念を晴らすためにも、私は行かなければならない。

ほどなく、見えてきた。

遙か遠くまで広がる地底湖だ。私は思わず感嘆の声を漏らしていた。私は横穴からその空間に割り込むような形で、辺りを見回していた。素晴らしい。自然の美は、こんな所にもある。

保存器具を取り出す。アームが届くか少し不安だったが、どうにかなりそうだ。辺りに風はない。空気が沈滞しているかのようだ。湖も、まるで個体であるかのように、全く動きを見せない。

延ばしていたアームが水面につくと、ゆっくり波紋が広がった。中層が一番適しているだろう。アームを延ばす。水の中へ先端が沈んでいく。目視で、深さを判断する。この器具は父の形見だ。アームの長さは熟知している。角度から、大体どれくらいの深度まで伸びているかは分かる。頃合いを見て、私は回収ボタンを押した。アームがゆっくり戻る。そして、器具が閉じた。

地面に大の字になって転がると、私は笑った。結果はまだ分からないが、かなり期待できる。しばし今までの沈黙を吹き飛ばすかのように笑い続けた。辺りの環境を乱してしまっては悪いと思いながらも、だがしかし笑いの奔流は収まらなかった。

かって異端の存在として、嘲笑の的だった父。父は有名人であったから、逆風も強かった。同じ思想を受け継いだ私は、父に比べれば嘲笑を受けた経験は少ない。学会で発表できるほどの実績がないし、知名度も無いからだ。

笑いながら、水面を見る。また何事もなかったかのように、静寂が戻っている。腰を上げると、バックパックに保存器をしまう。これが父が求めたものかどうかは分からない。だが、とりあえず一息はつく事が出来た。

そのまま眠ってしまった事に、少しして気付いた。砂塵の中を歩きづめだったのだから、無理もない。辺りは恐ろしいほどに静かで、時計を見るまでどれくらい時間が過ぎたのかも分からなかった。大体の感覚で時間の経過を測る事が出来るのは旅慣れた人間の基本能力だが、それも超常的なものではない。明るさや湿度、体内時計や経験から総合的に判断している訳で、こういう条件が悪いところでは、時間の流れはよく分からない。疲れ切った頭は、糖分を貪欲に欲していた。目的のものを手に入れたという安堵感もあり、私はなけなしの高カロリー栄養補給食をリュックから取り出し、かぶりつく。脳が一気にクリアになるような感覚がした。食べ過ぎると太るから普段は手にしないが、元々私は甘いものが大好きだ。だから至福である。

入り口近くまで戻った時には、もう頭は平常の状態に戻っていた。ポンチョを着て、ゴーグルを掛け、再び砂の嵐の中へ。帰りが最大の難所だ。気が緩んだ隙に、バックパックを盗られないようにしなければならない。

危ないところも色々渡り歩いてきたが、決して戦闘能力が高い訳でもないし、注意力が優れているような事もない。私は父の意志を継いだだけの凡人だ。結局の所、父の遺志を果たす事だけが目的で、他に興味は持てない。持つような余裕が存在しない。私はお父さん子なのだ。それだけで、私のキャパシティは一杯一杯なのである。

砂嵐の中を歩きながら、私はずっと検査のスケジュールについて考えていた。本業であるハイスクールの教師については、今は完全に頭から追い払っている。どうすれば如何に効率よく調べる事が出来るのか、それを想像するだけで楽しかった。

帰り道は、ビバークできる位置が分かっているだけでも多少は楽だった。数日がかりでどうにか宇宙港が見えた時にはへとへとだったが、無難に辿り着く事が出来た。宇宙港の職員は砂だらけの私を見てあきれ顔だったが、チケットを見せると無言で船に乗せてくれた。

円筒形をした大型の惑星間輸送船は、料金の割に内容が安定している。内部の治安も良いし、航行中には外周部を回転させて疑似重力も作る。共用だが、トイレも浴室もある。大型の荷物を持って乗り込む人間が多いので、基本的に席は大きく作られ、荷物入れも席の上部にある。比較的過ごしやすい空間なのだ。

砂だらけのまま乗り込んだ私は、早速風呂場に向かった。ロッカーに荷物を預けて鍵を掛けると、服を脱ぐ。既に何人か、風呂に入っていた。浴槽を使う文化圏の人間と、そうでない連中がくっきり分かれるのが面白い。私が女子用に入ったので、驚くものもいるようだった。私はスレンダーと言うには少し細すぎるので、ポンチョのように分厚い服を着ていると、こういう事が時々起こる。こういう未開惑星では、危険を避けるためにこの貧弱な体型が却って都合の良い場合もあるので、世の中色々である。

シャワー室に入って、プラチナブロンドと言うには少し黒みがかかっている髪から、砂を洗い流す。細い体も砂まみれで、シャワーの排水溝が詰まらないか心配になった。船が出るのは四時間後だ。しっかり洗っておいて、船が出る時にはぐっすり寝てしまいたい。シャワーを浴び終えると、浴室脇の体を洗うスペースに行って、しっかり隅から隅まで洗っておく。この惑星は、まだ未知の部分が多い。変な細菌でも貰っていたらアウトだ。もっとも、空港に入る時にもちろん検査は受けているが、こういうものは気分の問題である。頭をしっかり洗い終えて、短めの髪から水を絞る。

浴槽に身を沈めると、一気にリラックスできた。無駄に長い手足を伸ばす。何人か居る他の客は、老若様々だった。教え子くらいの年の娘もいた。この星に来た旅行者ではないだろう。航路上にある星だから、宇宙船で停泊したにすぎない。あまり親近感を持つ事も出来ない。ただの通りすがりに過ぎないからだ。

しっかり体をリフレッシュさせてから、風呂を出る。風呂上がりには牛乳が一番だ。瓶のものは流石にないが、パックのものがあったので、口を付けて一気に飲み干す。私は糸目なので感情を読みにくいと自分で思っているが、それでも気分が良い事が周囲に丸わかりであったかも知れない。不安がないわけではない。詳しい調査はまだこれからだし、それで良い結果が出る保証もない。だが、砂漠を越えて手に入れたものだ。あの苦難を考えると、喜ぶなという方が無理だというものだ。

ポンチョを着ている意味はないので、よそ行き用のパンツとサマーセーターに替える。席に引き上げて、荷物を確認。さっそく保存器具を取り出し、席の前にあるフリースペースに乗せる。古い保存器具だが、このまま中を調査する事は出来る。気密性も高く、あの程度の砂ならものともしない。手持ちのPCと接続。こっちは砂が不安だったが、厳重にラップでくるんでいた事もあり、どうにか無事だった。帰るまでに簡易検査は済ませておきたい。

鼻歌交じりにPCを起動。5秒ほどでOSが起動する。後は自動検査ソフトを動かして、見ているだけだ。検査には最低でも70時間はかかる。ただ見ているだけも何なので、そのまま眠る事にした。もちろんPCと調査器具は、私と生体認証式のチェーンをつなげてある。盗難の恐れはない。

仕事場のある惑星まで、四日はかかる。帰ったらすぐ仕事という事もあり、今の内に疲れは取っておかなければならない。この時代誰もが体に入れているナノマシンのおかげで回復は早いが、それにも限度がある。リクライニングを少し倒すと、あくび。隣の女の子が、呆れたように此方を見ていた。駄目な大人だと思っているのだろう。思えばいい。

宇宙船が動き出して、眼が醒める。だが、別に宇宙船発進の瞬間など、何度も味わっている。シートベルトはついているし、PCも保存器具もしっかり固定してある。何も心配はないので、またそのまま眠ってしまう。

簡易検査はあくまで簡易検査。70時間掛けても、出来る事には限界がある。だから家に帰ってからの検査が本番だ。だから、簡易検査の推移にはあまり興味がない。そのまま、昼寝三昧の時間を過ごす。

楽しい時は、簡易検査が終わるまで続いた。

 

2,高校教師の日々

 

私が第九十三国立ハイスクールの廊下を歩いていると、その囁き声が偶然耳に飛び込んできた。かしましい女子生徒達の、うわさ話であった。

「ねえねえ、蛍先生、もの凄く機嫌が悪くない?」

「男にでもフられたんじゃないの?」

「あの科学オタクの蛍先生が? 男なんか興味無いんじゃない?」

「そうかなあ。 結構恋愛ごと好きそうだけど」

好き勝手な事を言っているので、ことさら足音を高くして歩むと、廊下で話していた生徒達は慌てて頭を下げて走り去っていった。私、クリスパー・蛍は、彼女らの背中を糸目で見送る。別に意図的に細くしている訳ではない。母からの遺伝だ。

普段と同じにしているつもりだったのだが、子供の観察力はやはり侮れないと言うべきであろう。私は確かに機嫌が極めて悪い。砂漠を越えてせっかく持ち帰ったあの水が、目的のものではないと検査の結果はっきりしたからだ。また、夢が遠のいてしまった。あれだけ整った条件の場所は他になかったのに。悔しくてため息も漏れない。旅費として吹っ飛んでしまった数ヶ月分の給金を考えると、涙が出そうだった。

腕に巻いているPCを操作し、壁の端末につなぐ。ワイヤレスだが、この近距離なら安定性に問題はない。今日のスケジュールを呼び出し、確認。夕方までに4クラスの科学実習を見てやらなければならない。既にアップロードしてある教材を確認。忘れてはいない。一応の教材が揃っている。

科学授業室は3階にあり、此処からだとかなりの距離がある。最初の授業が始まるまで職員室で教材の整理をしていた私は、いやでも学校の反対側にある其処へ向かわなければならない。挨拶をする清掃用のロボットに適当に返事をしながら、私は小走りで行く。教師が授業に遅れては、生徒に示しがつかない。手本を行動で示すのが、一番教育に良いと、私は信じている。父から受け継いだ教えの一つだ。

最初の授業で科学を教えるクラスには、この学校でも1〜2を争う問題児が居る。恵まれない家庭環境と、異常なテンションの高さで知られる、立花・S・キャムティールだ。小柄だが異常にエネルギッシュな生徒で、元気すぎて周囲を振り回す。それは休憩時間だけではなく、授業中でも変わらない。積極的に授業妨害する訳ではないのだが、パワフルすぎて制御が効かないため、この高校で1〜2を争う問題児である。だが彼女はここのところ比較的おとなしいため、授業を邪魔される事もない。行幸と言えるのかは分からない。キャムの周囲には、最近何者かの影がちらついており、本人もふさぎがちだからだ。思い詰めている雰囲気だが、経済的に苦しい彼女は学校の許可を得てバイトを幾つもこなしているはずで、並みの生徒よりはずっと打たれ強いはずだ。あまり私が口を出す問題でもないし、静観していて問題ないだろう。

三階に着く。出かける時は大体スポーツシューズなので、学校用のハイヒールには慣れない。不自然に踵が高く、走る事も難しい。不便さに内心文句を言いながら、教室の戸を開ける。まだ生徒は殆ど来ておらず、真面目な数人だけが科学教室特有の長机に着席していた。今日教えるのは、粉塵爆発の発生と火力についてだ。派手な実験を行う私の授業は生徒達に人気があるらしいのだが、あまり興味がない。ノルマがこなせればそれでいい。教職はあくまで生活費を稼ぐ手段だ。本来の目的は別にある。

教室前面の黒板にPCを接続、情報を流し込み始める私の後ろで、少しずつ生徒が集まり始めている。やがて普段はもの凄くやかましいキャムが入ってくると、全員が揃った。相変わらずキャムは静かで、周囲が気味悪がっているのが分かる。何があったのか多少の興味はあるが、授業の邪魔にはならないから由とすべきか。

「はい、それでは化学の授業を始めます。 みなさん、教科書を開くように」

生徒達がワイヤレスリンクを黒板と確立し始める。すでに教科書の設定はしてあるはずなので、机のPCでは教科書が開いているはずだ。黒板にエラーは出ていないから、問題はない。全員のリンクが済んだ事を確認して、プログラムを起動。黒板に大写しになる写真と化学式。現在の高校科学では、教育用の催眠学習システムによって、地球時代のものとは比較にならない難易度の学習が行われている。

「本日は、事前の予告通り効率の良い粉塵爆発を発生させる授業を行います。 まず、粉塵爆発の仕組みですが」

この辺りは、並みの高校生なら確実に把握している事柄だ。現在の社会的システムでは、あぶれる事が将来的に破滅につながる。昔の学校と違い、今の教育では催眠学習システムで能力が確実に上がるため、就職での考慮が非常に大きいのだ。もちろんそれでもあぶれる人間はいるが、このクラスにはいない。だから、ただの枕詞である。

生徒達の様子を見ながら、私は徐々に難しい所へ踏み込んでいく。粉塵爆発は素人が極めて大きな破壊力を出す事が出来る手段の一つで、最近は教える事が義務づけられている。危険性を避ける事もそうなのだが、将来軍に雇った時、活用するためだ。もちろん犯罪に使われる事も考慮しており、最近の警備システムでは大体粉塵爆発を防ぐシステムが導入されている。

粉塵爆発が使われたり、事故となった歴史を黒板に展開していく。地球時代の炭坑などでは、湧水と並んで粉塵爆発が非常に大きな危険となっていた。産業革命時代のイギリスでは、この粉塵爆発と鉱山病で、多くの労働者が命を落とした。もちろん軍用として利用された歴史も長い。だが、マイナスの側面ばかりではなく、様々に社会的に貢献する使い道もある。それらを一通り説明し終えると、各班のリーダーに、機材を取りに来させる。

笑顔をずっと作ってはいるが、はっきりいって退屈だ。本来の私の専門は別にあるのだが、そればかり教える訳にはいかないので、こういう授業も行っている。それが著しく苛立ちを募らせる。

私の糸目が、こういう授業では役に立つ。私の表情を、出来るだけ読ませないようにするためには、この造作が丁度いい。子供は大人の行動に敏感で、悪い事ばかり率先して真似していく生き物だ。だからマイナス面はできるだけ見せないようにしていかなければならない。特にこの時代の子供は、体はもう大人になっている事が多く、教育的には一番重要な時期だ。気は抜けない。幾ら、それが生活の手段であったとしても、である。

苦労して作り笑顔を浮かべながら、実験を開始させる。耐熱性ビニールをかぶせた漏斗に、チューブを下からつなぐ。漏斗に砂糖を入れ、下から拭き上げる。漏斗の側には火をつけたマッチを、事前にセットしておく。火が耐熱ビニールに触れないように、事前に外側には格子が組んである。

こういう実験器具だけは、地球時代のものと大した差がない。全てのチームで準備が済んだ事を確認すると、手を叩いて、生徒達に呼びかける。

「いいですかー。 勢いが強すぎても、弱すぎても上手くいきませんよ。 砂糖はたくさんありますから、何回か試して、コツを掴んでくださーい。 それでは、まず私がやってみせまーす」

生徒達の返事を受けながら、私は自分の机の上にセットした器具を確認。チューブをくわえる。

そして、息を吹き込んだ。

耐熱ビニールの内側に、巨大な炎が沸き上がった。それは瞬時にビニールの中の空気を熱し、空に浮き上がらせる。生徒達の中から歓声が上がる。気が弱い生徒の中には、思わず一歩退いている者もいた。

これが粉塵爆発の破壊力だ。たかがしれた分量の砂糖でも、これだけの炎を瞬時に作り出す事ができる。鉱山での大規模災害が、多数の死者を出したのも頷ける。

原理は気球と同じ。熱せられた空気が、軽いビニールを空に舞い上げる。やがて着地したビニールを取り上げた。相当に熱くなっている。こんなものは科学の初歩。父も小遣い稼ぎのために教師をしていて、これを良く教えていたと聞く。

皮肉な話である。専門分野と全く逆の研究を行う事で、日銭を稼いでいる。それも、二代に渡ってだ。父は粉塵爆発を生徒に教えている時、どんな気分だったのだろう。同じ科学だから、気にはならなかったのだろうか。或いは、不満を感じていたのだろうか。高校教師としては、独創性のある実験を行う人物として、父は知名度があったと聞いている。学者としては完全に黙殺されていたのに。世の中は理解できない事が多い。

「それでは、始めてください」

手を叩いて、生徒達にも実施を促す。8つある班の内、最初に成功したのは2班だけ。最後まで残った1班が終わった時には、授業の残り時間は10分を切っていた。しかも、要領がよいキャムの班が一番遅れていた。やっぱり何かあったんだなと、私は思った。ただ、様子をじっと見ていて、最後に一発で成功させたのはキャムだった。この辺りは、潜在能力の高さを伺わせる。

もっとも、私は生活指導の契約をしていない。彼女の悩みを聞くのは、担任や別の教師の仕事だ。教職は万能ではない。それぞれに専門分野があり、何もかもはできない。人間全体の能力を上げるためには分業が不可欠で、それは開拓時代からの良き伝統だ。それに関しては、銀河系に7つある人類の国家の何処でも変わらない。

一通り重要部分の後追い解説をしたところで、チャイムが鳴る。生徒達が引き上げていく中、私は実験器具を片付けはじめた。キャムが手伝い始めたので、私は少し驚いた。この子はもう少し利己的だと思っていたからだ。

結局無言で最後まで手伝ってくれたキャムは、礼に小さく頷いて、ぱたぱた走って次の授業に向かった。凝った肩を叩きながら、私は次の授業が2ブロック後にある事を思い、小さくため息をついた。

 

授業が終わった後も、幾らでも教師には仕事がある。

現在はサポートプログラムの充実により、書類作成はだいぶ楽にはなっているが、人間の負担は依然として存在している。最後の情報を音声入力すると、プログラムが書類を完成させてくれたが、しかし既に時刻はpm8:00を回っていた。

他の教師達は既に帰るか飲み会に出ており、今日は私が最後だ。PCを落とすと、色々と後始末を実施。職員室のドアを開けて、指を押しつけて認証。網膜を見せてロック。此方に来た警備ロボットに、帰る旨を告げる。

入り口の警備員に身分証を見せてから、ようやく帰宅。流石に首都星だけあって、ベルトウェイが完備されているのが嬉しい。ハイヒールで歩くのは色々と面倒くさい。家に着いた時には、それでも9:00を過ぎていた。

シャワーを浴びると、念のために起動しておいた分析プログラムを立ち上げる。結果は見なくても分かっている。やはり、駄目だった。どのような角度から分析しても、あれが純水だった可能性はない。

ため息をつくと、髪を掻き上げて、天井を見上げる。

やはり、駄目なのかも知れない。そんな風に考えてしまう時もある。だが、それではいけないのだ。うじうじ悩むのが許されるのは子供までだ。大人なら、行動と実績で成果を出すべきなのだ。父に笑われるとか、そういう事は関係がない。父の遺志を継ぐという事は、成果を出すという事。そのためには、落ち込んでいる暇など無い。

ウィスキーの瓶を取り出すと、生のまま呷った。酒に頼るのは気分が良くないが、これしか簡単なストレス発散手段がない。ほろ酔いになったところで、携帯端末からメロディ。メールが飛んできたので、開けてみる。この間の帰り道の宇宙船で知り合った女の子からのものだった。

酔眼でざっと目を通す。高校生らしい彼女は、数学が苦手らしい。いつも催眠学習でつらい思いをするので苦労しているのだそうだ。催眠学習は、基本的に未把握部分を強制補填するもの。補填部分が多ければ多いほど脳への負担が増える。苦手科目の催眠学習は、本当に辛い事だろう。

私だって数学は苦手だが、教師をしている以上、一通りの知識は頭に詰め込んでいる。気さくで可愛い子なので、分かる範囲では教えてあげる。頭はあまり良くない子だったのだが、私の研究をバカにしなかったところがいい。これでもあまり生活環境は良くなかったので、他人の嘘には敏感だ。あの子は少なくとも、嘘はついていなかった。ならば、手助けしてあげるのにためらいはない。

メールを送信する。そういえば、うちで使っているメイドロボットはまだ帰ってこない。今日の仕事のノルマはそれほどきつくはなかったはずだが、そうなると資料集めに手こずっているのか。既に時刻は10:00。冷凍食品を出して温め、適当に口に入れる。腹が膨れれば、眠くもなる。あくび一つ。翌日の事を考えると、そろそろ眠った方が良いだろう。結局の所、社会人は時間には逆らえない。金を得て生活するためには、仕方がない事だ。疲労も大きいし、今は寝るべきだ。

メイドロボットの帰宅など、本来は待つ必要はない。だが、うちではそんな常識は当てはまらない。勝手に私がやっている事だ。誰にも文句は言わせない。

テーブルに書き置きを残す。ぎりぎりまで待つ。だが、結局戻ってこなかった。私は髪が乾いたのを確認すると、寝床に潜り込んだ。明日の事もあるし、寝ない訳にはいかないのだ。次の研究をどうするか、どこにサンプルを取りに行くのか。まだ、プランはない。このまま高校教師を続けながら、磨り潰されてしまうのではないだろうかと、恐怖がよぎる。

私は父のように強くない。だから、父のように生ききる事が出来るかよく分からない。不安で身をよじる。誰も、私の不安に応えてくれるものはいなかった。

 

朝、私を揺らす小さな手。見上げると、メイドロボットのキノカだった。見かけは十歳ほどの女の子。紅の髪の持ち主で、今はポニーテールにしている。顔立ちは整っているが、笑顔を作るのは下手だ。目つきも良くない。

「おはようございます。 もう起きてください」

「おはよ。 ご飯できてる?」

「はい。 昨晩の内に、要求資料も揃えておきました」

曖昧に頷くと、起き出す。

キノカは私が物心ついた時からこの姿だった。かなり古い型式なのだ。性能は悪くないのだが、目つきが悪いとか、言葉遣いがぶっきらぼうに聞こえるとか、くだらない理由で普及しなかったタイプである。私から言わせれば笑顔ばかり上手なメイドロボットばかりでは気味が悪いと思うのだが、売り上げの実績を見る限り、世間ではそうではないらしい。何回かのバージョンアップをしているが、やはり最新型に比べると性能は劣る。そろそろ買い換えるべきではないのかと、家に来た人間は言う事が多い。

キノカは傷みも早い。少ない収入を補うために、主に土木系の労働を日中に行わせているからだ。メイドロボットが収入補填を行うのは、今では普通の事である。ロボットができる仕事は法で厳しく制限されており、その中でもキノカができるものは更に少ない。性能面でどうしても無理だからだ。もう少し金を貯めて、メイドロボットを増やす事も考えた。だが今の時点では、その予定もない。金を貯めるという事は、研究を遅らせるという事だからだ。

今日も、キノカの表皮はだいぶ痛んでいた。指先が傷だらけになっていて痛々しい。生体部品ではないのだが、オイルのしみこんだ損傷箇所は、人間の肌にできた瘡蓋と大差なく見える。数トンもある鉄骨を担いで運ぶのだから当然だ。バイトで稼いだ分が、修繕費で更に少なくなってしまう。効率が悪い。だが、私にキノカを手放す気はない。幼い頃からずっと一緒にいるからと言う理由が大きい。子供の頃の玩具もいまだに残っていたりする。私は結局、何も捨てる事ができない人間なのだ。社会的にはクズとか駄目な奴とか笑われるタイプである。まあ、私としても、生きていくため以上に、社会には関わりたくないが。

朝食の場につく。料理が既に並べられている。この間のバージョンアップで、キノカは料理のバリエーションを幾つか増やした。それが早速テーブルにでていた。足踏み台を使ってキッチンの水場で皿を洗っているキノカに、背中から声を掛ける。

「キノカ、私今日も遅くなるからね」

「大丈夫ですか? 今日もかなり疲労が大きかったようですが」

「へーきよ。 今までの苦労に比べれば、こんなの何でもないもの」

「あまり無理はなさらないでください」

キノカは口うるさい。主人に諫言するというこの機能も、普及しなかった要因の一つだ。多くの場合、人間は目下の存在に諫言されると機嫌を損ねる。キノカの同型には、諫言した事で、その場で廃棄処分にされたものも多いそうである。人間のロボットに対する視線などそんなものだ。奴隷が存在していた頃は、彼らがその責め苦を負っていた。同じ人間から、奴隷労働の対象をロボットに変えただけで、人間は根本的に変わっていないのかも知れない。

社会的な風潮はどうでもいい。諫言は、私にはむしろ心地がよい。ロボットのものだから、遠慮も仮借も無いため、分かり易いからだ。私は変人だと言われているが、それで構わない。

ナイフとフォークを動かす。スクランブルドエッグにはきちんと塩が効かせてあって、私好みの味だった。新鮮な野菜類を食べ終えると、私は席を立ちながら今日のスーツをチェック。さっさとパジャマを脱いで、着替える。

スーツに着替え終えると、テレビを付ける。これと言ったニュースはなく、この国で流行っている雲の形占いが映し出されていた。キノカが集めてきてくれた資料に目を通しながら、私は歯を磨く。口紅を派手にならない程度に塗っている内に、キノカの声がした。

「そろそろ時間です。 出立しないと遅れます」

「分かってる」

そういえばと、ふと思う。キノカの事を私は結局どう思っているのだろうか。キノカは良く尽くしてくれるが、それはあくまでそうプログラムされたからだ。プログラム上私を捨てる必要があったら、彼女は容赦なく去るだろう。ロボットに、人間で言うような思考は存在しない。我ながら愚かな事を考えてしまった。どんなに大事にしても、結局ロボットはロボットだ。

歯ブラシを置くと、私は鞄を手に取った。結局、私は孤独なのかも知れない。もっとも身近なはずのキノカでさえも、信頼していない。自分でさえも、信頼の対象ではない。唯一絶対信頼していた人は、もうこの世にいない。

「行ってきます」

キノカに掛けた声は、何処か乾いていた。

ベルトウェイに乗ると、キノカの集めてきた資料をチェック。ちなみに、キノカは私の研究を真っ向から否定している。資料をどう検討してもあり得ないというのが、その理由だ。これに関しては、別に腹も立たない。何故かは、私にもよく分からない。他の奴が口にしたら、絶対に許せないと思うのに。これは身内のひいき目という奴なのか。しかし、キノカは所詮ロボットだと考えている私もいる。

頭をかき回して、ため息一つ。後ろから小走りで近づいてくる人影あり。振り向くと、教え子の一人だった。二年生の女子で、成績は中の上。これと言って不可のない能力で、授業でも私を困らせる事がない。そう言う訳で、好感の持てる生徒だ。

彼女は薄く青がかかった長い髪の持ち主で、髪の先が膝まで達している。しかもいつも髪に艶がある。手入れが面倒だろうなあといつも思わされるが、同じようにしてみようとは考えられない。髪なんぞに人生捧げる訳にはいかないからだ。髪は綺麗だが、顔立ちはごく平均的で、特に目だった美少女という訳でもない。

名前は麟項情(りん・こうじょ)と言う。麟が姓だ。

「蛍先生、おはようございます」

「おはよう、麟」

「うあ、今日も、その。 機嫌が……悪そうですね」

「はっきり言うなあ。 何処を見て、そう思うのかな?」

此奴が私の機嫌を見抜いて、吹聴した犯人か。笑顔のまま苛立ちを押さえる私だが、麟はしっかり私の感情を見抜いているようだ。

「怒らないでください」

「返事次第。 で、何処で私が怒ってると思うのかな」

「その、上手くは説明できないんですけど。 先生の雰囲気がその、いつもよりぎすぎすしていて」

「そう? そんな事で分かるもんなんだなあ。 へえ、雰囲気がねえ。 これからちょっと気をつけなければいけないかな」

少しばかり驚かされた。もっと上手に感情を消せないと、今後はやっていけないかも知れない。この娘はやたらと感情を読む力が優れているようだが、それでも他の生徒達に噂が広まったという事は、私自身にも隙があったという事だ。生徒達が感覚的に私が苛立っている事に気付いていたからこそ、噂が拡散したのだ。

私が無表情になった事に、麟は明らかに動揺していた。困惑しながら、おずおずと、探るように此方を見てくる。嗜虐心と憎悪を煽る行動だ。弱者を見ると痛めつけたくなるのが人間の本能である。私は例外だと思いたい。思う内に、麟はさらりととんでもない事を言う。

「やっぱり、その、研究が上手くいかない事が原因ですか?」

「……あんた、何者? 感覚的な洞察って域を超えてるわよ」

「ひっ! ごめんなさい、そんなに怖い顔をしないでください」

恐怖に顔をゆがめる麟を見て、私は気が萎えるのを感じた。そんなに怖い顔をしていたのだろうか。生徒を威圧して脅しつけても意味がない。身を翻すと、舌打ち一つ。ベルトウェイの上を早足で行く。慌てたように、麟は着いてきた。図星を突かれると腹が立つと言うが、それは都市伝説ではなく事実だ。私にだって分かっている。研究が行き詰まり、父の夢が砕けようとしている事くらい。

高校の科学教師には、私と同じ境遇の者が少なくない。自分の研究を続けるために、大学に籍を置く事ができた学者は幸運なのだ。フリーランスと言えば聞こえは良いが、実際には殆どの場合、誰も見向きもしないような研究をしているから、スポンサーがつかないのである。軍事研究に誘われた事が何度かある。これでも水に関する知識は、その辺の科学者では及ばないレベルに達している自信がある。幾つかの論文に対する評価は、決して低くはないし、軍事兵器の転用だって難しくはない。だが、それは嫌だ。

だって、父は、ずっと軍への協力を拒み続けていた。

「先生の研究って、水に関するものだって聞いています。 どうして行き詰まってしまったんですか?」

「私が聞きたいわよ」

学校までそう距離はない。私はもう、不機嫌さを隠す事ができていないかも知れない。腹が立つ。キノカに同じ事を言われても腹は立たないだろうに。学校が見えてきた。何だか辛そうな表情を浮かべて、麟は此方を見ていた。

「何か、私に手伝える事はありませんか」

「子供は学業に精を出しなさい。 私がやっているのは、自分の責任で何もかもが決まる大人の世界の研究なの。 子供が手伝うような事はないし、それで研究がどうこうなるようなら、最初からそんな程度のものでしかなかったという事よ」

「け、研究はそうかも知れませんけど、その」

「その、何よ」

麟が泣き出しそうになったので、私は言い過ぎた事を悟った。唇を噛むと、さっさと学校へ歩く。もうすぐ其処だ。

職員室に向かう。途中、明らかにカタギではない客と校長が一緒に歩いているのを見た。何が起こっているのかは分からないが、私には関係ない。日銭を稼いで、研究を進めるだけだ。研究を進めると息巻いても、どうしたらいいのか分からない事は、とりあえず忘れる。一からデータを洗い直し、可能性がある場所を全て当たっていく。人海戦術を行うには手が足りない。だったら、消去法で対抗していくしかない。

肩を叩かれる。誰だと思って振り向くと、嫌に綺麗な女が、洗練された笑顔を向けていた。私が雑草だとすると、大輪の薔薇だろう。

「蛍先生ですね」

「そうですけど、貴方は誰でしょうか」

無言のまま、彼女は身分証を見せてくれた。見覚えがある。軍の、佐官以上の人間が持っている身分証明書だ。この若さで佐官と来たか。相当なやり手なのだろう。私のような雑草とは、頭の中身まで違う訳だ。

「許可は取ってあります。 少しお話を頂きたいのですが、よろしいでしょうか」

「拒否権は?」

「残念ながら。 すでに1時限目のブロックには、自習を入れてあります」

「嫌に手際が良いですね。 ひょっとして、さっき校長と一緒に歩いていたのも、貴方の同僚ですか?」

レイミティと言う名前らしい彼女は、部下ですと笑顔を崩さないまま言った。逆らう事はできないだろう。佐官と言えば、軍でも中堅層以上の人間だ。それがわざわざ出てきているという事は、余程重要な任務である。拒否するにしても、よほど上手くやらないと、下手すると飯のタネまで失う事になる。

私が無一文になるのはまだ良いのだが、キノカの修理費を出せず、擦り切らせてしまうのは嫌だ。ボロボロの指先で料理をするキノカをいつも見ていて、心が痛む。研究のためには少しでも多くの金がいる。結局しわ寄せはキノカに行っている。キノカが居なくなったら、研究を続けるのも難しくなる。新しいロボットに、私の研究の事を理解させる自信は、今のところ無い。

言う事を聞くしかない。最終的な決定はともかく、門前払いはできない状況だ。

素早く思惑をまとめた私は、レイと呼んでくださいと言った彼女に、曖昧に頷いた。レイ中佐はそのまま私を引っ張るようにして、生徒指導室に入った。

防音式の部屋は、いつの時代も学校にある。地球時代も、音楽室には現在と比べれば稚拙な技術ながらも、防音措置が施されていた。現在では、生徒指導室がそれに当たる。

生徒の人権が異常肥大していた時代も過去にはあったと言うが、現在は適切な状況に落ち着いている。教師には生徒を怒る権利があるし、状況に応じてびんたの一つくらいはくれてやる事ができる。過剰な体罰はもちろん論外だが、法の細かい整備はされていて、手探りで対処しなければならない時代は終わっている。ただ、生徒の人権が無視されている訳ではない。指導室が防音構造なのは、それが理由だ。

レイ中佐は机を挟んで私の向かいに座ると、早速提案にはいる。社交辞令をすっ飛ばすのは、余程自信がある証拠だろう。社交辞令は人間関係のクッションだ。それを通じて相手を把握する事ができる。つまり、社交辞令を飛ばしても、私を理解できるという自信がある訳だ。

「早速ですが、貴方と、貴方のお父様の研究を見せていただきました。 自然界に純水が存在する確率と、その環境について、ですね」

「はあ、まあ」

気のない返事と裏腹に、私は緊張していた。

「なかなか面白い着眼点の論文ですね。 奇論だという声もあるようですが、それを実践によって補おうという姿勢は実に素晴らしい。 貴方のお父様は、本当にエネルギッシュで、夢を追い求めていた人だったんでしょうね」

「お世辞は結構です。 目的は何ですか」

私の声は、自分でも驚くくらいに冷え切っていた。分かっている。このまま怒れば、レイ中佐のペースに巻き込まれるという事に。むしろ、そうする事で、この場をコントロールしようとしている事も。

だが、それでも怒らずには居られなかった。父を出汁にする輩は許せない。それがたとえ、喧嘩を売るのが危険すぎる相手でもだ。

私の瞳は、炎を湛えていたかも知れない。それに対し、レイ中佐は微笑を浮かべる余裕さえあった。怒りながらも、どうやら私は勝てそうにないと、戦う前から悟っていた。

 

3,ピュア・ウォーター

 

自然界に純水が存在するか否か。そう、それが私の父が生涯を費やし、命までも掛けた研究の内容。

純粋な水。混じりけが極端に少なく、殆ど不純物がない水が、自然界に存在するのか。そんな一種の問いかけにも近い研究が、父の全てだった。そして、今では私の全てでもある。

社会的には意義の少ない研究だ。何の社会的意味も持たず、解明されたからと言って何一つ変わる事はない。純水は工業的に非常に重要な物質であり、通常の水とはかなり性質も違っている。だが、それは安価に大量生産できる程度の代物で、別に自然の水源(存在すれば、だが)からくみ上げなくても手に入れる事は簡単なのだ。

無意味だと何度嘲笑された事か知れない。事実、私の研究の内容を聞いて、その場で笑い出した者までいた。周囲の人間全てが、私を嘲った。毒にも薬にもならない研究は、誰にとっても何の価値もないのだ。何の価値もない研究を行う人間には、社会の目は冷徹である。

父がこの研究を始めた切っ掛けは、よく分からない。元々父は、実績のある人だった。純水研究では文字通り世界のトップを行っており、革新的な新技術を開発して、製造コストを二割以上も引き下げた。彼方此方の企業が特許権を欲しがり、大金を積んだ。だから父は、男やもめで不自由なく私を育てる事ができたのだ。

だが、その金は研究で泡のように消えてしまった。父の研究が「実にくだらない」という事は、営業に来る者達全員が知っていた。そして、表情の裏側に張り付かせてもいた。彼らは「原石」を如何に活用するかで、目をぎらつかせていた。父の研究を如何に諦めさせ、自分のところで働かせるかで、必死になっていたのだ。くだらない研究をやめさせて、役に立つ仕事をさせれば一攫千金確実。私は、父の周囲に群がる連中の目が、欲望に光るのを、幼い頃から見続けていた。

父の不幸は、研究に一途であったが、頭が悪くはなかった事だろう。父は見事に嘘を見抜き、殆どの企業を門前払いした。中にはかなりダーティな手段を執ってくる相手もいたそうだが、それらも父は見事に捌いた。父が小遣い稼ぎに選んだのは、高校教師。科学を独創的なスタイルで教える父はとても人気があり、テレビでも取り上げられた。そして、影では笑われた。場合によっては、表立ってさえ笑われた。

私はいつも、「一般的で」「良心的な」人間達から、笑われる父を見て育った。誇り高い父は、一切妥協しようとはしなかった。ひょっとすると、途中からは意地だったのかも知れない。今では、私には父の真意を知る事ができない。

六年前の事故で、父は死んだ。恒星の近くにある、小惑星に調査に出かけて、事故に巻き込まれたのだ。何十年か前の会戦で破壊された宇宙戦艦の残骸が、父の調査ポットを直撃したのである。しかもその衝撃で核融合炉が炸裂し、父の亡骸は戦艦もろとも恒星に消えた。文字通り、灰すらも残らなかった。

中身のない棺を見ながら、葬式で私は聞かされた。父が重い内臓の病で、余命幾ばくもなかった事を。二重のショックは、私をごく短期間、廃人にした。

わずかばかりの遺産を受け継いだ私は、あまり長くは落ち込んでいられなかった。僅かな財産をかすめ取ろうとクズ共が群がってきていた。どうやら「バカ学者」の娘だから、与しやすいと考えたらしい。もっとも、簡単には屈服しないところを見せたら、すぐに周囲からは消えた。引きこもって泣いていられるほど時間もなかった。遺産は大した額ではなかったし、私自身の能力も同じだったからだ。せっせと働かなければ、生きていく事は出来なかった。

父の遺志を継いだのは、当然の選択肢だった。父の研究成果は全て把握していた。だから、同じ轍を踏む事もなく、更に先へ進む事を考えていれば良かった。父と同じ目にあう事は分かっていた。それでも、これ以外に道は無かったのだ。

案の定、私は全ての人間から笑われ、嘲られ、否定された。キノカでさえ、私の研究内容を現実的ではないと言った。

それでも、私は引く訳にはいかなかった。父の研究は、その人格そのものとなりはてていたからだ。研究を否定する事は、父を否定する事。それだけは我慢ならなかった。毒にも薬にもならない研究が、それほどくだらないものか。社会に貢献しない研究には、何一つ報われる事さえ許されないのか。夜中、空に向けて叫んだ事もあった。

大人になってからは、研究の事は大っぴらにしないというやり方を覚えた。それでも、どこかから嗅ぎつけて、私を否定する材料にする周囲の人間。その下劣さが、私には不愉快だった。「良識的」と周囲に見なされている人間ほど、そういう行動を積極的に行った。結局の所、人間とは相手の欠点を発見する事に血道を上げる生物ではないか。それは権勢欲に起因した、動物的な行動だ。相手より上に立つためには、欠点を探すのが一番だからだ。何が万物の霊長だ。笑わせてくれる。猿と同じだ。いや、欲望が剥き出しになっていて分かり易い分、猿の方がマシかもしれない。

笑顔を張り付かせる方法も、教師になって二年もした頃には身につけていた。もっともこれに関しては、完璧とは言い難い。小娘ごときに見抜かれるくらいだから、まだまだ修行が必要だ。

そしてもっと必要なのは、なんと言っても金だった。

研究には大金がいる。実地調査をするには恒星間輸送船に乗らなければならない。パスポートの料金だってバカにはならない。幾つかの国に入る場合は、役人に袖の下を渡さなければならない場合さえある。今の国際情勢が安定しているとは言っても、腐敗している国は幾つもあるのだ。資料だって高い。電子資料にも、今では複雑なセーフティが設定されている事が多く、著作者に金を支払わなければ閲覧は不可能だ。もちろん紙媒体に到っては、商用書とは比較にならない値段がついている事が珍しくない。

今、私の目の前にいるレイ中佐は、その金を工面してくれるという。そんな話に、裏がないと考えるほど、私は子供ではない。私の表情をたっぷり観察してから、レイ中佐はくすくす笑った。

「単刀直入に説明すると、ある仕事を引き受けていただきたいのです」

「軍事研究だったらお断りです」

「本当ならそれもお願いしたいのですが、今回は違います。 メインで動いているのは、この学校のある生徒なのですが、彼女をサポートする教職員が必要なので。 それを貴方に頼みたいと考えています」

「……内容を、聞かせて貰いましょうか」

どのみち、簡単には断れない。研究だったら私がやる気を出さなければ意味を無いのだから、交渉上の有効なカードは幾つも持っている。だが、話の内容次第によっては、私の命くらいしかカードは存在しない。もちろん社会でも上層に位置するだろうこのレイ中佐にとって、そんなカードはゴミ同然である可能性も高い。何しろこの若さで中佐だ。特務部隊か何かの指揮官だろう。そうなれば、状況次第での相手の抹殺も許可されているはずだ。

だから話を聞いた。そうでなければ、もうとっくに席を立っているところだ。レイ中佐は、相変わらずすてきな笑顔を浮かべ続けている。

「何、それほど大した内容ではありません。 立花・S・キャムティールがこれから貴方に科学面での相談を行う事が多々あると思います。 それに真剣に応じていただきたいだけです。 詮索は無しで。 ただ、軍の仕事ですので、いい加減な返答をされてもらっては困ります。 更にといえばですが、此方の提示する資料についての調査も、同時に行って貰います。 実験、研究資料については、此方で用意しましょう」

「私にも専門分野があります。 それ以外の知識に関しては、相談をうけかねるものもありますが」

「それで構いません。 貴方の科学知識が、並みの大学教授を凌いでいる事は分かっています。 それほど謙遜しなくてもよろしいですよ」

多分私は眉をひそめているはずだ。目的が読めない。困惑する私を見透かすように、レイ中佐は言う。

「それと、研究費だけではなく、キノカちゃんの負担を減らせるように、サポート用のメイドロボットも此方で購入しましょう」

「監視役、という訳ですか」

「話が早い。 しかし、これでキノカちゃんに、無理な土木労働をさせずに済むのも事実だと、貴方には分かっているはずです。 調べさせて貰いましたが、家庭での作業を行うにはまだまだキノカちゃんは充分な性能を持っていますね」

よく調べている。流石に軍の精鋭だ。そしてこれは脅しでもある。話を断るようなら、私の大事な存在を傷つける事も厭わないという訳だ。キノカを話題にしたと言うのは、それを端的に示している。

「貴方の研究を行う時間も作ります。 契約としては、これで充分なはずですが、どうでしょうか」

「……分かりました。 此方に異存はありません」

話はそれだけで終わった。キャムがどうして最近ふさぎがちだったか、その理由はよく分かった。そして、レイ中佐は大人を屈服させる術を、これ以上もなく知り尽くしている存在だった。

レイ中佐の提示してきた金額は、私が欲しいと思っていただけの量は充分以上にあった。その上、新型のアンドロイドの費用は別に出してくれると言うのだ。金の価値を知らない人間は、大人とは言えない。ましてや、守るものが無い人間は、どんなに年を重ねても半人前だ。だが大人になれば、同時に弱さを得る。巨大なリスクを背負わされた事を、私は悟った。

契約書にしっかり目を通してから印を押す。外に出ると、そろそろ2ブロック目の授業が始まるところだった。

脇に抱えているのは、早速渡された資料。これからしっかり目を通して、三日程度でレポートを提出しなければならない。歩きながら、ボロボロになっているキノカの指先を思い出す。埃を被らせてしまうよりはマシだと言っても、少し気が楽になっている自分に気付いて、私は愕然としていた。完全にレイ中佐の掌中にいる。運命を握られてしまっている。

弱みを掴まれている事に対し、やはり平静ではいられない。トイレに駆け込むと、壁を殴りつける。便器に腰掛けると、天井を仰いで呆然と一つ息を吐く。

私は何のために生きているのだろう。資料をしっかり抱えたまま、私は誰にも聞かれず、自問自答した。

 

授業とその後片付けを全て済ませて家に帰ると、新しいメイドロボットが既に到着していた。長い黒髪が美しい、成人女性型だ。顔は文字通り作り物のように美しい。事実作り物な訳だが、そうとは感じられない。最近のロボットの造型技術は素晴らしいなと私は思った。造形美術の割に体型は控えめで、そこが僅かな安心点になっている。何もかも完璧に作られているロボットには、好意を持ちにくい。キノカも同じような理由できつめの容姿にされているはずなのだが、世の中はなかなか難しいものだ。美女の基準は時代によって変わる。ロボットに要求されるものもまた、時代によって異なるのだ。

美しい娘の姿をしたロボットは、丁寧な礼をした。笑顔は洗練されていて、悪意を根こそぎ奪うかのようである。作り手は、人間の表情を本当に良く研究している。

「K−U304型です。 よろしくお願いします」

「よろしく。 私にはそんなに一生懸命仕えてくれなくてもいいから、キノカと仲良くしてくれる?」

「キノカさんには、もう挨拶しました。 ご主人様にも、精一杯仕えさせていただきますので、よろしくお願いします」

喋り方もだいぶ人間に近い。しかも滑らかで、ストレスを感じにくい。奧でキノカは洗濯をしていた。304型に上着を預けながら歩み寄ると、キノカは振り向いた。

「蛍様、これは一体、何が起こったのですか?」

「あんたは心配しなくて良いの。 これからは力仕事もしなくていい」

「説明をお願いします。 私の価値が無くなったという事なのでしょうか」

「その逆。 ただでさえ痛みが大きいあんたを、これ以上の無茶な労働で壊したくないからよ」

ロボットを相手にしていると言うのに、私はいつになく感情的になっていた。キノカはそれ以上追求しようとしない。私は無言で、自室に籠もる。キノカの反応が、プライドを傷つけられたからではなく、単なるプログラムに起因する確認行動だと分かっているからこそ、余計に腹も立つ。ついでに言えば、キノカにとっては、私が心配している事などどうでもいいだろう。プログラムには限界がある。ロボットに人間である事を期待するほど、愚かな事はない。

渡された資料をデスクに拡げると、詳細に読み込んでいく。作業自体はそれほど難しくない。一通り資料をキノカに揃えさせるとして、論文を書くのは今週だけで充分であろう。ただし、高校教師は残業がいつあるか分からない仕事である。早めに仕上げておいた方がいい。

それにしても、単純に余剰元気があるだけのキャムを使って、軍は何をするつもりなのだろうか。他にも何名かの生徒に協力はさせているというのだが、具体的に誰を使っているかまでは教えてくれなかった。

作業プランを練り終えると、部屋を出る。今日は夕食をさっさと食べて、風呂に入って寝るべきであった。ストレスが蓄積していて、ろくな論文が書けそうにない。サンドバックがあったら、拳を叩き込みたい所である。

良いにおい。304型が夕食を作っているらしい。キノカも料理は上手だが、残念ながら相手は10年以上も後の型式であるし、勝ち目はないだろう。最新の型式である304型は、間違いなくプロの料理人顔負けのものを作る。楽しみなはずなのに、どうも嬉しくない。しかも最近の型式は、持ち主の微妙な好みを的確に見て取り、それに合わせて料理を作ると聞く。バージョンアップはするものの、根本的な能力が足りないキノカには、とても追いつけない領域だ。もちろん、私が作る料理などでは、及びもつかないだろう。

テーブルに着くと、さっと料理が出された。綺麗に形が整ったオムレツと、キャベツをコンソメで煮込んだスープ。それと、香ばしく焼けたロールパンだ。ロボット同士の相互リンク機能を使い、キノカとは既に作業分担がされているはずだ。それでも、キノカの姿を探してしまう。手持ちぶたさになって、寂しそうにしていないか。数秒後、視線が停止。キノカは玄関から居間に掛けて掃除をしていた。安心し、料理を口に運び始める私に、304型が言う。

「味付けはどうですか? キノカさんに聞いて、好みの味付けに調整させていただきましたが」

「美味しいわよー。 さすがは最新型ね。 たいしたもんだわ」

「ありがとうございます」

心にもない返事に、作られた感情での言葉が応える。研究のためとはいえ、我ながら虚しいやりとりだった。この子はロボットとして、きちんと私に仕えるだろう。いや、違う。非の打ち所がないレベルで、私に仕えるはずだ。もちろん軍が監視のための機能を仕込んでいるだろうが、それは疑似人格とは関係がないはずだ。敵意を抱く理由はないし、必要もない。

それなのに、どうしてか、ずっと反発が消えなかった。

美味しい料理を食べ終えて、風呂に入って。寝床に潜り込んで気付く。昼の間に外に干したのだろう。いつもよりも柔らかくて、気持ちが良かった。いつも昼間は外に土木系の仕事をしに出かけていたキノカは、こんな事をする余裕がなかった。幾ら手際が良くても、限界はある。その上、旧式のロボットであるキノカには、その上限が果てしなく近いのである。

布団の中で身を縮める。温かいはずだ。気持ちが良いはずだ。でも、やはり落ち着かない。自分の巣に異物が入り込んでいるからだろうか。私も結局動物の一種だ。己のもっともプライベートな部分に踏み込まれれば、悪意が無くとも不快になるからだろうか。

純水を探しに行きたい。不意にその思考が浮かぶ。しかし、可能性がある場所が思いつかない。ありとあらゆる場所を想定して、私は彼方此方に足を運んだ。それなのに、見つからなかった。今更何処を探すというのか。あの父でさえ見つける事ができなかったのだ。今でも私は、あらゆる面で父に勝てる気がしない。劣化コピーに過ぎない私が、父以上の業績を上げるのは無理なのではないか。ずっと心の奥底で思い続けていた事が、表層にせり上がってくる。

現実感が喪失し、私はぼんやりと薄暗い天井を見た。主人が眠りにつけば、大体ロボットは稼働を停止する。布団などでは寝ない。キノカは立ったまま充電補給するし、気が利いたものでも座ったままである。夜、マネキンが闇の中に立ち並ぶ光景を思い浮かべ、私はさらなる現実感の喪失を感じた。

美味しい料理と気持ちがよい布団。理想的な環境にいるはずなのに。私は道を見失った事で、不安と浮遊感に包まれていた。

 

4,旅

 

授業を終えると、私はその足でトイレに向かった。することがある。監視役である、レイ中佐への報告だ。以前から言及はしていたが、一週間ほどの有休を取る事ができた。別に小躍りするでもなく、安心もしない。達成感も特にはない。計画に沿ってしっかり成果を積み重ねてきた、その成果だからだ。

レイ中佐が今まで出してきた課題も、しっかり提出した。生徒達にもノルマ以上の学習効率を実現させた。土日休日にも積極的に出勤し、補習を行っている生徒達の面倒を見た。催眠学習のダメージを少しでも減らすために、休日に勉強をするため出てくる生徒は珍しくないのだ。学習塾がほぼ姿を消してから100年ほどが経つ。競争相手が居なくなって時が経ってはいるが、フロンティア時代の苦難に揉まれて育ちあがった学業システムは、今も揺らぎを見せない。教師の仕事は、幾らでもある。その代わり、労働者としての権利も、しっかり確立されている。今回の休暇は、それによって得られたものだ。今までも、長期休暇はそうやって手に入れてきた。

ただ、今回の長期休暇は、今までと少し違う。明確な目的が存在しないのである。

具体的に何処に出かけていって、どんなプランで純水を探すのか。可能性はどのくらいなのか。回収した後、どんな実験で証明を行うのか。今までと違い、それらプランの全てが存在しない。ただの小旅行だ。

さらには、余計なおまけもついてくる。リシアと名前を付けた304型が、お目付役となる。身の回りの世話という名目だが、もともと304型はかなり高度な護衛能力を有しており、逃走防止の意味合いが強いだろう。さもありなん、軍としては私にもうかなりの額を投資しているのだ。平和ぼけした小国の軍ならともかく、ここは新進の気鋭に満ちた大国だ。此処で逃げられてしまうようなヘマはしないだろう。

トイレの個室にはいると、無線機を開く。すぐに立体映像のレイ中佐が映し出された。執務中だったらしく、ペンを片手に此方を見ている。映像に映らない範囲に書類を移すのは、流石と言うべきである。

「こんにちは、蛍さん。 何用ですか」

「今週の末から、旅行に出かけます。 期間は一週間。 今までと違い、スケジュールに変更がでる予定はありません」

「スケジュールが確定しましたか。 契約ですから、リシアはちゃんと連れて行ってくださいね」

私にあわせて、レイ中佐は304型を呼んでいる。この辺り、細かい配慮ができていて、私はこの人が嫌いではない。社会的な生活を行う能力の高さが見て取れるし、少なくとも言動で相手を不快にさせる事がない。そして私がこの人を嫌いになれない理由は、こういった配慮が少なくとも嘘ではない事だ。嘘に敏感な私は、相手の挙動からそれを読み取る事ができる。この人は今まで寄ってきた連中と違い、私の研究をバカにはしていないし、かといってべた褒めもしない。冷静に客観的に見ていて、其処が却って好感を持てる。ひょっとして、他の人間を任務上の対象物としか見ていないかも知れないが、その方が私には都合がよい。

後は日程にあわせた、行動スケジュールを告げる。これに関しては事前にキノカに作らせていたものを、そのまま報告するだけだ。多少の時間的な誤差が生じる可能性はあるが、変更する気はない。純水を探しにも行きたいが、何処へ行けばいいのか見当もつかない状況に変わりはないのだ。必要とあれば太陽の中心だろうがスラムのど真ん中であろうが行く覚悟はできているが、何もないのに危険地帯に行くような自殺願望は持ち合わせていない。

更に、最大の不安要素がある。調査旅行には、キノカさえ連れて行った事がない。父が死んでからは、常に一人で旅をしてきたのだ。余計なおまけが居る今回は初めてになる事が多い。ストレスを取る事ができるか不安だが、それは表情には出さない。嘘をつかない相手とはいえ、隙を見せるのはやはり嫌だ。

「スケジュールについては分かりました」

「何か問題がありますか」

「いえ、特には。 ただ、三日目から立ち寄る事になるフリアイ星系は治安が悪いので、いつもよりもリシアの警護レベルがあがると思います。 多少不快になるかも知れませんが、その辺りは我慢していただけますか」

「何とかやってみましょう」

それから二言三言会話して、回線を切る。トイレを出ると、天井を仰いで嘆息。あの受け答えからして、此方のスケジュールを事前に把握していた可能性が高い。キノカがリシアに喋ったのか、或いは別の方法か。私は監視されているのだと、こういう些細な事からも分かる。給金の代償は、大きい。トイレさえチェックされている可能性も低くはなく、それを考えるとげんなりした。

そのまま、職員室に向けて歩き出す。しばらくはハイヒールを履かなくていいと思うと、それに関しては少し嬉しかった。

自席に着くと、PCを操作してメインサーバにアクセスし、休日のスケジュールを入力する。それが終わると、校長の所に顔を出す。この人は私に対する扱いを心得ているようで、研究には基本的に触れる事がない。一通りの注意を受けてから、私は挨拶をして、校長室を出た。後は荷物を持って、職員室を後にする。一週間の大型休暇だ。資金は潤沢。研究資金は貯めてあるし、それ以外の金もキノカの修理費を考えなくて良くなったため、余裕がある。だが、あまり気乗りはしなかった。

私は何をしに行くのだろう。自問自答は、空に流れた。歩いていると、麟とすれ違う。麟は私の顔を見ると、露骨に悲しそうに眉をひそめる。そして、何も言わずに、視線を背けた。

下駄箱に向かいかけて、足を止める。学校を出る前に、一つやっておく事があった。キャムときちんと話をしておく必要があるのだ。任務上の引き継ぎである。キャムの悩みを全て聞くように言われている以上、出かける前に何かあったか確認しておく必要がある。この時間帯、大体あの子は食堂にいる。

荷物を持ったまま食堂にはいると、案の定いた。小さな手をせわしなく動かして、ガーリックサラダを口に運んでいる。向かいに座ると、私はできるだけ優しく笑顔を作って、キャムに対する。

「食事中いいかしら?」

「はい。 なんすか?」

「何か変わった事はあった?」

「いえ、特に何もないです。 お仕事も順調ですし」

最初は色々苦労していた様子だったキャムだが、今はだいぶ落ち着いている。本調子とはいかないようだが、それでも少なくとも同世代の子供達の前では、表情に影を落とす事がない。

若いだけあって、順応力が高い。羨ましいなと私は思った。

ちなみに私は、キャムの具体的な任務内容を知らない。国家が巨費を投じるビックプロジェクトだから、ろくでもない事をさせられていると分かるが、内容を詮索する事は固く禁じられている。これでも大人である私は、それに逆らう術を持たない。

「先生は、旅行ですか?」

「ええ。 これから観光に」

「観光、ですか。 それと、先生の研究って、順調ですか? なんだか見てると、少し疲れているみたいで、不安なんですけど」

「大丈夫よ。 無理はしていないわ」

色気より食い気、考えるより動く。それが持ち味のキャムにまで心配されるとは、いよいよ末期らしい。私は食堂を出ると、ため息を一つした。しっかりリフレッシュしないといけないと思った。

 

家に戻ると、キノカが既に旅行の準備を整えていた。こればかりはリシアよりもキノカの方が優れている。今までに私の旅行準備を何度もしてきたキノカだから、経験がリシアの能力を凌駕するのだ。気分的にも、キノカにバックパックを整理して貰った方が落ち着く。

私は旅行の時、あまり大荷物を持たない。バックパックには、着替えと、父の形見の保存器具類と、それに金と緊急時のサバイバルキット程度しか入れていない。持っていくものは少ないが、その代わりにそれぞれに要求する品質は高い。その扱いの心得について、キノカはよくわきまえている。父と私と二代にわたって仕えているキノカだからこそ、何を大事にすればいいのかは、きちんと把握しているのだ。

危なげなくバックパックを整え終わると、キノカは私を見た。

「バックパックには、旅行用の荷物を詰めておきました。 内容はいつもと変わりありません」

「ありがと。 キノカ、少し休みなさい。 休み中は、仕事を入れなくても良いから、家の整理と点検だけお願いね」

「蛍様の命令とあれば。 必要があれば呼んでください」

一礼して、キノカは自室に引き上げる。自室と言っても、物置だ。さらには一人部屋ではなく、リシアと相部屋でもある。

キノカの事を大事に思う私が、物置を使わせているのには理由がある。幼い頃の出来事が原因だ。

幼い頃の私は、立ったまま寝るキノカが可哀想でならなかった。キノカの事が当時から大好きだった私は、一緒に寝るとだだをこねた事もあったが、それが却って悲劇の元となった。

立ったままスリープモードにはいる仕様のキノカにとって、人間と横になって眠るという事は、監視態勢を崩さないという意味を持つ。エネルギーの補給はできるのだが、キャッシュメモリの処理や、ファイルの削除の関係で、どうしても処理が追いつかなくなるのだ。数日もしないうちに、キノカは露骨に動きが悪くなった。一緒に寝るとキノカの負担が大きくなると理解した私は、大泣きした後、自然に一人で眠るようになった。幼い日の思い出である。今でもしっかり覚えているその事件は、トラウマとして心に焼き付いている。

そういえば、父が生きていた時に、一回だけキノカと一緒に旅行をした。あれから随分キノカを連れて外には出ていない。今度機会があったら、どこかに連れて行ってあげたいところだ。もっとも、キノカにはありがた迷惑かも知れないが。

居間のテーブルの上でPCを操作して立体映像を呼び出し、スケジュールをもう一度確認する。早朝から宇宙港にいって、旅客船に乗り込む。自家用車を使うつもりだが、運転はリシアに任せてしまうつもりだ。彼氏がいたら運転を任せる所だが、生憎こんな偏屈女に金目当て以外で寄ってくる男などいない。

続けて航路を検索、確認する。オーソドックスなものである。超高速航行で隣の星系にでて、翌日の昼ほどに主星に到着。観光を楽しむ。そんな調子で、一週間ほどをかけて、ぐるりと周辺星系を回って帰ってくる。使用する航宙会社は実績のあるところで、事故歴はほとんど無い。いつも利用している所と同じで、信頼感がある。

続いて、立ち寄る惑星をチェック。平和なこの国らしく、何処も史跡や観光施設を持っている。今まで歓楽街や観光スポットには殆ど興味がなかったが、今回はせっかくの機会だ。行き詰まっている時は、未知の世界に踏み込んでみるのが効果的。そう分かってはいるが、何だか無理矢理観光を行おうとしているようで、心の奥底では反発がある。パンフも目を通したが、あまり面白そうではなかった。理系人間の私には、歴史も美術もぴんと来ないのだ。リシアがデータをダウンロードしているから、解説はその都度してくれるだろうが、はてさて。上手くいくかどうか。

一通り目を通し終えると、丁度眠くなっていた。大あくびをすると、私はまだ残っていたリシアに、寝る事を告げる。布団は今日も良く干されていて、温かかった。

 

早朝、荷物を持って家にでる。リシアは不愉快なくらい車の運転が上手く、擦るところはまるで想像できなかった。駐車まで完璧にこなす。見ると、早朝の第一便が、マスドライバから発車されるところだった。

星によって、外に出る方法は様々である。軌道エレベーターを使って、まず人員を大気圏外に送り出し、宇宙ステーションから宇宙船へ乗り込むもの。大規模な軍事施設などだと、この方式が多い。地上から宇宙船を飛ばすもの。此方は地上に多くの民間施設がある惑星に多い。例えば、この首都星もそうだ。後者は更に何種類かに別れる。この星では全長4キロほどの特殊なマスドライバーを使って加速、ある程度の高さまで上がったところで、エンジンを噴かして一気に大気圏外に出る。だいたいどの宇宙船も、それら全ての方法に対応しているのが現状だ。もちろん私が今から乗る船も同じである。

五千人乗りの大型宇宙船に乗る。いつもよりも座席のクラスを一つあげているのだが、前のスペースも広いし、席そのものもふかふかだ。快適である。悔しいが、金の持つ力を実感せざるを得ない。リュックを開けて、保存器具を取り出す。柔らかい布で磨き始めたその時。

「あ」

「あれ? どうしてこんな所にいるの?」

「ええと、それは……」

いきなり飛んできた声に振り向くと、そこにはキャムが居た。旅行に行くという話は聞いていないが、どうして宇宙船に乗っているのだろうか。

それにしても、ラフな格好だ。ショートパンツに半袖の上着。小柄だが、健康的な二の腕や腿を惜しむ事もなく大気に晒している。高校生とは思えないほどに大胆な格好である反面、貧弱な体型の上に健康的すぎて色気はゼロだ。背負っているリュックが小さいのは、恐らく単純な旅行を想定していて、最小限の着替えしか入っていないからだろう。後ろには、以前カタログで見たリシアと同型のアンドロイドが居るが、キャムの顔の造作が幼すぎる事もあり、年のかなり離れた姉妹に見える。それにしても、大人っぽいデザインのアンドロイドだ。異様に色っぽい事もあり、一瞬セクサロイドかと思ってしまった。

「実はレイ中佐に言われまして。 私も旅行について行けって。 迷惑だったら、遠くの席に座りますけど、其処に座ってもいいですか?」

「構わないけど、指定席よ」

「問題ありません。 以前から、その席は立花・S・キャムティール様が予約されていました」

素早く予約状況を検索したリシアが言ったので、私はやられたと思った。最初からレイ中佐は全て知った上で、私を掌で転がしていたという訳だ。私は多少の皮肉を込めて言ってみる。

「旅行は良いけど、学校はいいの?」

「だいじょぶです。 一週間くらいは、休み貰いましたから」

「一体何の目的なんでしょうね」

「よく分からないですけど、中佐の言う事には、先生が今後重要な役割を果たすから、親睦を深めておけって言う事らしいです」

よく分からないが、軍が巨費を投じる計画にスカウトされたくらいだから、私も何かしらの重要な役割を持っているのは確かなのだろう。それはうすうす感じていたのだが、今回のキャムの言葉でそれがはっきりした。それにしても、あの女狐は何を考えているのだろうか。悪意がないから読みにくいのだが、どうもろくでもない事が水面下で進行しているような気がしてならない。

ちょこんと座ったキャムを見て、キノカの事を思い出す。やはり何時かは旅行に連れてきてあげたい。私は母性を感じた事はないが、肉親に対する愛情は比較的深いらしい。父にしてもそうだし、自分の家族だと考えているキノカに対してもそうだ。少しセンチな表情を浮かべたのか、キャムが反応した。

「ところで、先生。 その保温ポットみたいの、何ですか?」

「ああ、これね。 これは父の形見で、私の一番大事なものよ。 もしも調査先で目的のものを見つけたら、これに格納するの。 内部はきちんと整備していて、格納するとすぐに分析ができるようになっているのよ」

「へえ。 触ってみてもいいですか?」

「いいけど、壊さないようにね」

といっても、滅多な事では壊れないほどに、頑丈に作ってある。以前辺境の惑星でゲリラに銃撃された事があったが、小口径の弾ではびくともしなかった。中身も時々メンテナンスをしており、壊れても補修ができる。キャムは小さな手でしばらく弄り回していたが、やがて水を収集する時に操作するメインボタンを押し、上部が開いて回収アームが出てきたので驚いていた。折りたたみ式のこのアームはかなり遠くまで伸びる。気圧差にも強く、宇宙空間でも作業を行う事が可能だ。

「宇宙空間とかで作業をする時には、このアームが便利なのよね」

「へえ、そうっすか」

「徐々に地が出てきたわねえ。 私とずっと一緒にしてきたこの保存器具だけど、もう使わなくなるかも知れないわね」

「研究が、行き詰まってしまったとか、ですか?」

無言でキャムを見る。キャムはうなだれて、ごめんなさいと言った。この子も色々辛いのだろう。友人達にガトリングガンがごときトークを展開しているのを何回か見ているから、今元気がないというのがよく分かる。

宇宙船が動き始める。大型の牽引車両が、マスドライバーまで動かし、やがて固定される。これから程なく、この船は宇宙へと放り出される。後は恒星からエネルギー補給を受けて、星間航行の開始だ。巨大な宇宙船が動くと、重量感も凄まじい。荷物を席の上にある収納スペースに入れる。メイドロボ達も、それぞれ通路側の席に着いた。監視と護衛を同時にこなせる良い位置だ。

昔の星間航行だと、睡眠薬を使って体感時間を短縮したりもしたそうだが、今はそんな事もない。多くの先人が、命を賭けて道を切り開いてきた結果だ。フロンティア時代は命の危険が大きい反面、誰もがエネルギッシュだったと聞く。父は、時代を間違えて産まれてしまったのかも知れない。いや、父があの時代に産まれても、結局研究分野でバカにされるのは避けられなかっただろう。人間なんて、そんな生物だ。

宇宙船が、マスドライバーに乗る。警告の放送が流れ、同時に半強制的にシートベルトが、体と席を固定した。赤外線でのスキャンが走り、危険物などをチェック。それらが終わると同時に、航宙会社のCMと、これから飛び立つ旨が放送される。普段の言動から考えて怖い者知らずに見えるキャムが、以外とびくびくしている様子なので、私はからかい混じりに声を掛けた。

「立花さんは、星間旅行初めて?」

「はい。 ちょっと怖いかも知れないですけど、多分大丈夫です。 おあっ!? な、なにっ!?」

「はいはい、動くわよー」

加速開始。リニアレールの力を利用し、一気に周囲の光景が後ろに吹っ飛んでいく。やがて徐々に傾いていって、程なく直上に向く。後ろに押しつけられるような強烈なGも、長くは続かない。

リニア式マスドライバーを離れると同時に、瞬間的な浮遊感。続けて、力強い推進力を感じる。真っ青になってシートに張り付いているキャムの様子が微笑ましい。そういえば、最初は私もあんなだった。

やがて、窓から見える色が、一気に深くなる。大気圏外に出たのだ。同時に、全身が楽になった。宇宙船の周囲から、ぽっ、ぽっと炎がでているのが見えた。姿勢制御装置が、宇宙船を調整しているのだ。私は気を利かせて、手元のコンソールを操作し、宇宙船の周囲状況を映し出す。お腹を大きく開いた宇宙船が、恒星からの熱放射を受け止め、エネルギー変換しているのが見えた。かなりダイナミックで、驚くべき光景だ。私も、父に連れられて最初に宇宙にでた時は、驚いた。キャムは珍しい光景に、目を見張らせていた。本来のエネルギッシュさが、少しずつ戻り始めているようである。それを見て、私も少しずつ本来の調子を思い出す。若さは良い。此方も、力を分けて貰っているかのようだ。

アナウンスが流れる。外を見ると、首都星の護衛艦隊が、此方に光信号を送ってきているのが見えた。光点になっている艦隊は、50隻以上いるだろう。それぞれに強力な武装が施されている事を考えると、私は良い気分がしなかった。考えてみればリシアも軍の備品であり、いつ背中を撃たれてもおかしくないのだ。

一通りエネルギーの補給が終わると、宇宙船の周囲が回転を開始し、疑似重力が作られる。それが完成すると、アナウンスが流れた。シートベルトが外れ、自由行動が許可される。カートを押して、メイドロボットが食物を運んできた。ジュースと野菜類がサンドされたフランスパンを買う。財布を出そうとしたキャムを制止して、自分で払った。

宇宙船で出される食物は、ここ数年で随分質が向上している。パンも悪くない。旺盛な食欲を発揮して綺麗に平らげるキャムを見ながら、私は自らもパンを口にした。

やがて宇宙船は完全に姿勢を安定させ、ゆっくり移動し始める。それは徐々に加速し、ほどなく超光速航行へと移行した。

超光速航行が始まると、宇宙空間を見ても面白くなくなる。周囲の光景が白一色になるためであり、変化が無いのだ。宇宙は美しいものだが、白一色ではつまらない。

三時間ほどで最初の目的地に着くが、それまでの時間は有意義に過ごしたい。キャムは友人達とはとても楽しそうに話しているので、家族の事を知りたいと思い、話を振ってみた。瞬間、キャムの表情が露骨な影を湛えた。

「ごめんなさい。 一人暮らし、してるんです」

「そう。 ごめんなさい」

キャムの年で一人暮らしをしていると言う事は、ろくでもない状況だという事だ。

この国では、誰もが家を持つ事ができる。その代わり、借金が課せられる。親が死んでいる子供も、メイドロボットの補助があれば生活は難しくない。その代わり、将来は収入の何割かを削られ続け、払いきれなかった場合には子供が負担をする事になる。キャムの場合、両親が既に死んでいるのか、或いは子供をほったらかしにして好き放題しているようなろくでなしなのか。反応から言って、十中八九後者だろう。

「先生は、どうなんですか?」

「私の母さんは早くに亡くなってね。 父さんと、キノカって言うメイドロボットと、ずっと一緒に暮らしてきたの。 六年前に父さんも死んだから、今ではキノカと、それとこのリシアと三人で暮らしてるわ」

「お父さんも、学者だったんですか?」

「そうよ。 研究は父さんから引き継いだの。 私は凡人だから、結局何も進展を得られなくて、今は腐ってる所だけどね」

自嘲がこぼれた。

親子で研究を行って成功した例は、歴史上幾らでもある。夫婦や、姉妹というパターンもある。キュリー夫人やライト兄弟の例は有名だ。それなのに私は、偉大なる先人達から笑われるような事しかできていない。文字通り、学者のクズだ。キャムは少し考え込んでいたが、やがて気になる事を言う。

「先生が、羨ましいです」

「どうして?」

「あたしの親父は、飲んだくれのヒモ野郎で、最低のクズです。 今だって女の所に転がり込んで、親権を放棄して好き勝手なコトしてます。 それに、私を母さんの代わりに育ててくれたメイドロボットも、権利関係でそのクズについて行ってしまいました。 あんな奴、許せないです。 でも、先生は、父さんもメイドロボットも、どっちも尊敬できる、愛せる存在じゃないですか」

子供らしい、みずみずしい考えに基づく弾劾だった。確かにその通りである。私は苦笑させられた。

「そうね。 そう言う意味では、私は幸せよね」

「凡人だっていいじゃないですか。 あたしは天才になるより、幸せな凡人になりたいです」

この子は、見た目と違い、辛い人生を送ってきたのかも知れない。

ちょっと考えさせられた。私はひょっとして、不幸に酔っていなかったか。自分の才能の無さに諦めて、努力を放棄していなかったか。父の理論が行き詰まっているのなら、新しいものを作り出せばよいのではないか。

そうだ。父であれば、そうしたはずではないか。父の理論は、絶対のものではなかったはずだ。何度も修正しながら、それにそって調査を行ってきたのではないか。そう考えてみれば、1度や2度の挫折など何だ。

ただ、この辺りが、凡人である私の限界なのだろうとも思う。苦笑して、私はキャムに返した。

「ありがとう。 元気でたわ」

「あ、先生。 随分久しぶりに、本当に笑ってくれましたね」

「そう?」

「ええ。 先生、前はそんな風に笑ってました。 良かった、これで授業がまた面白くなりそうです」

子供っぽいが、随分嬉しそうに笑うキャムを見ていると、こっちまで幸せになるような気がした。この子、ひょっとするともの凄い素質の持ち主かも知れない。パワフルな上にエネルギッシュである。何かしらの目標を見つければ、その業界で、圧倒的な実績を作り出す可能性も低くはない。

どのみち、すぐに新しい理論が組み立てられる訳でもない。今回向かう先にある、幾つかの観光スポットで、時間を見ながらアイデアを練るとしよう。私はそう思うと、今後のスケジュールについて、キャムと話し始めた。今回は多少のスケジュール変更も、間近に監視役が居るから問題がない。提示したスケジュールを見て、キャムは眉をひそめた。

「なんてゆーか。 もっとぱーっと遊べそうなトコ、無いですか? 博物館と資料館ばっかじゃないっすか。 水族館は無理でも、遊園地とか、公営カジノとか、そーゆーとこは行かないんですかね」

「遊園地は行っても良いけど、お金は自分で払いなさいよー。 それと、カジノは却下」

「うっわ、ひどっ! いたいけな生徒に、おごってくれないんすか!?」

「あのねえ。 立花さん、貴方もレイ中佐から山ほどお給金貰ってるでしょうが。 今回の旅行だって、子供の小遣いでこれるような代物じゃないっての。 大体貴方くらいの年になると、友達や男と一緒じゃなきゃ、遊園地なんて楽しくないでしょうに」

公営カジノを口に出すとは、この子は将来やはり大物に育ちそうだと、私は思った。そのまま、幾つか娯楽施設に、行き先を変更する。もちろん教育上良くないから、公営カジノは入れない。もう半分公務員をしているとはいえど、所詮は高校生。今からカジノの味を覚えてしまっては、ろくでなしだったという彼女の父と同じ道を歩みかねない。人間は快楽に溺れると、エネルギーの大半を消耗してしまうのだ。学生の頃に「恋愛結婚」した人間が周囲に何人か居たか、事実ろくな人生を送っていない。

結局、キャムの要望を入れる場所は、シガレット星系第三惑星にある、地球時代の魚類を復元して飼育している巨大水族館に決定。目玉は大王烏賊だ。生きている大王烏賊が見られる数少ない水族館である此処は、なんと丸ごと一つの無生物湖を水族館に改装し、水底に降りていく形で周囲の光景を楽しむ事ができるという、桁違いの場所だ。ここなら見に行っても良いかなと私は思った。周囲は水だらけだし、何かの参考になるかも知れない。しかも元の湖よりもかなり深く掘り下げてあり、深海生物も直接見て楽しむ事ができるのだ。

まもなく超光速航行が終わると、アナウンスが流れる。窓の外の光景も、それに伴って色彩を帯びてきた。キャムが歓声をあげる。周囲の星空は、実に美しかった。

「先生」

「何?」

「世界って、綺麗ですね」

キャムは闇を知っているはずだ。悲しみの中にいる事も多かったはずだ。多くのバイトをこの年からこなし、半分独立して生きている。それなのに、こんな台詞をどうして吐く事ができるのだろう。

私は宇宙の美しさよりも、キャムの言葉に心を打たれた。私の心を写しているかのように、ただ宇宙は静かだった。

 

5,今ひとたびの挑戦

 

キャムとの楽しい旅行は、瞬く間に過ぎていった。年下の女の子は身近に見ても元気で、力を分けてもらえる。一人暮らしをしているだけあり、キャムは家事もしっかりこなす事ができて、その点羨ましい。キノカにあらかた任せている私とは、えらい違いだ。そう言えば、さっきろくでなしの父親が、権利関係でメイドロボットを連れて行ってしまったとか聞いた。今時自分で家事をするという珍しい姿勢も、このトラウマが関係しているのかも知れない。

幾つかの博物館を見て回り、美術館も通った。科学チックな博物館に比べて、ギリシャの古代建築を意識した博物館は、存在自体が現実との乖離を感じさせてくれて、面白い。床も大理石で、高く響く足音までもが興味深い。美術を見に来た人間を、多少大げさではあるが、古代地球に誘ってくれる。内部構造もアクロバティックで、半分宙づりになっている二階は、吹き抜けから下を眺める事ができて楽しかった。

数少ないルノワールの現物は、絵心がない私から見ても美しかった。長い混乱の中失われた地球期の名画は少なくない。色気よりも食い気のキャムは若干退屈そうだったが、それでも幾つかの名画には目を奪われていた。幾つかの美術品には触る事もできた。ずっしりとした重みが、指先を通じて伝わってくる。

美術館を出た後は、ランチにする。美術館の側にある、安定食屋だから、一杯食べても経済的には大して問題もない。見た目通りキャムは非常によく食べた。私の4倍以上は食べただろうか。それで太る気配がないのだから、消耗しているエネルギーが非常に多いのだろう。精算はカードで済ませる。軍から支給されているお金は潤沢で、多少贅沢をしたくらいでは、無くなる気配もない。

流石に公営カジノに出かけていく訳にもいかないので、遊園地にキャムを連れて行く。しばらくアトラクションを楽しんだ後、知る。予想通りというか何というか、キャムはもの凄い運動神経だった。ロボットと格闘戦を行うアトラクションがあったのだが、いきなり最高レベルに相手を設定し、しかも一方的に叩きのめした。拳の入れ方も、蹴りの叩き込み方も、かなり場慣れしている。生徒達からは、特に下級生からは恐れられていると言うが、それも無理はない。多分、冗談抜きで普通の男子では歯が立たないだろう。

強化ナノマシンが普及した現在は、見かけと能力が一致しないとはいえ、これは凄い。多分天性の素質に恵まれているのだろう。将来は軍で教官が務まるのではないか。

キャムが最高レベル相手に休憩も入れず五連勝した辺りから、周囲には人垣ができていた。拳を振り回しながら、キャムは好戦的な笑みを浮かべる。流石に二の腕や腿には、汗が浮かんでいた。ほんのり紅潮した肌が、実に健康的である。どこかの大作家が青春美という表現を使ったと言うが、それに近いものがある。

「二体掛かりでもいいよー。 まだ物足りないしさ」

「リシア」

「はい。 それでは私が」

進み出るリシアが、パワーセーブを掛ける。軍用でもあるリシアがフルパワーで戦闘を行ったら、流石にキャムでも勝ち目はない。だから、同等のパワーで、スキルだけで勝負する。

私としても、この子の可能性を見てみたい。同時にいざというときは、リシアを排除するための方策も練っておきたい。最新型の実力を見てみたいという事もある。キャムのお着きはと言うと、側でじっと成り行きを見守っていた。

「次は私が相手になります」

「楽しみだね」

一礼したリシアに、腰を落としたまま、キャムは間合いを計る。見た感じ、何かの拳法をやっている様子は無い。我流だろう。それで此処まで強いのだから、大したものだ。ツインテールに結っているキャムの髪が、足運びの度に揺れる。それに対し、リシアは腰も落とさず、棒立ちのままだ。

踏み込んだキャムが、下段から鋭い蹴りを見舞う。軽く前に進むように歩いただけに見えたのに、リシアは避けていた。そのままブレイクダンスを踊るように足を掬いに行くキャムの一撃も、ふわりと跳躍してかわして退ける。

今度は慌てて回避にかかったキャムだが、その動きも読み切られていた。瞬時に間合いを侵略したリシアが、首を掴んで地面に叩きつける。しばらくもがいていたキャムは、地面をタップした。地面に叩きつけてから、何かしらの関節を極めていたらしい。呆然とした様子でキャムが戻ってくる。ギャラリーは、凄いものを見たと口々に言いながら、リシアに歓声を送っていた。

リシアの実力は分かった。暴漢を撃退するなど朝飯前、その気になれば訓練を受けた軍人を二秒で捻り殺すだろう。私が此奴を倒すのなど絶対に無理だ。逃げ切るのだって難しい。どうやら、この任務から逃れる術はないらしい。

ただ、もっと今は重要な事がある。

何かが、分かりそうな気がする。キャムの肩を叩いて、ベンチに移動。タオルを出すと、汗だらけになっていたキャムは、顔や首筋を遠慮無く拭き始めた。やはり、何かのヒントが出てきそうな雰囲気だ。キャムは唇を尖らせて、私を非難する。

「何ですか、もう」

「んー、ひょっとして、何か分かるかもと思ったのよ」

「何が分かるッてんですか。 あたしがリシアに無様に負けた事が、先生の研究と何か関係でも?」

「それが分かれば苦労しないわよ。 ヒントになりそうかなとは思ったんだけど、直感の域を越えていないもの」

リシアがキャムの差し出したタオルを受け取ると、洗いに行った。すぐに戻ってくる。しっかり堅絞りされたタオルで、再び汗を拭き始めるキャム。一緒の部屋に寝泊まりしてみて分かったのだが、この子は案外きれい好きで神経質だ。髪の毛の先から垂れる汗の粒を見ていて思う。何か分かるような気がしてならない。

「先生、聞いてもいい?」

「うん? 何?」

「先生の研究って、確か純水がどうのこうのって奴ですよね。 水そのものも、好きだったりするんですか?」

「そういえば、そういう事は特にないわね。 私が研究しているのはあくまで純水で、水はそれを作り出す過程の物質くらいにしか考えてないわよ。 父は水も好きだったみたいだけど、私は味くらいにしか興味がないわ。 それがどうかしたの?」

リシアにアイスクリームを買ってくるように言う。タオルで髪の毛を拭いていたキャムは、面白い事を言った。

「いえ、さっきの戦いで、私ずっと観察されてたのも忘れて、セオリー通りに攻めて返り討ちにあったじゃないですか。 研究も同じようなものなんじゃないかなって、思ったんです」

「……一理あるかも知れないわね」

喉まで出かかっているヒントがもどかしい。後何か切っ掛けがあれば、分かるような気がしてならないのだが。

服の土埃を払うと、キャムは立ち上がった。この子には教えられる事が本当に多い。ひょっとすると、本当に何か将来大きな事をするのかも知れない。肩を叩くと、そろそろ遊園地を後にする事を告げた。

結局、その可能性に気付くに到るのは、次の星で立ち寄った水族館でのこと。私は新しい可能性に気付き、驚喜するよりも、むしろ感謝していた。

 

6,研究の結末

 

大型の海底調査船に便乗させて貰った私は、緊張を隠せなかった。もっとも信頼できる存在であるキノカが側にいないという事もある。側にいるのは、笑顔を浮かべながらも結局の所監視役でしかないリシアだ。

海底調査船は、大学の研究機関の所有物である。かなりの骨董品だ。皮肉な話だが、此処は首都星である。首都星には広大な海が広がっており、深さは13000メートルに達する。未調査の場所もあり、政府が大学に依頼して、調査を行わせているのだ。もちろん、海底都市建設の可能性や、大規模災害時のシェルターとしての活用の他に、軍事的な意味もあるだろう。

調査船の中は、快適とは言い難い。窓は存在せず、空間が閉塞的で、しかも此方をうさんくさそうに見ている大学の連中と始終顔をつきあわせていなければならないのだ。中には、私の研究を露骨にあざ笑っていく連中さえ居る。事実、この船の艦長がそう言う人間であった。私は笑顔を崩さない。今回この船に乗る事ができた事も、奇跡的なのだから。無理にレイ中佐に頼み込んで、ねじ込んで貰ったのだ。父の母校だそうだが、そのコネクションは何の役にも立たなかった。大学には鼻で笑われてしまったのだ。

研究に使って良い時間は、三時間ほどである。深海などと言う不純物だらけの空間に、純水があると私も最初は考えていなかった。だが、この間キャムとの旅行で、ひらめいたのである。

ひょっとして、何かしらの生物の中に、純水を体内で作り出して利用するものがいないだろうか。

それを思いついたのは、水族館で見ていたコブシメを見ていた時だった。コブシメは全長六十センチほど。コウイカ類の中では最大級のもので、海の忍者と異名を取る存在である。表皮の色を実に巧みに切り替える事で、擬態から求愛行動まで、様々にこなす事ができる。それを実現できるのは、体内に蓄えた様々な発色物質があるからだ。キャムが汗を掻いているのを見て、そういえば体内で様々な物質を作り出し、活用する生物は少なくないと思った。コブシメを見ていて、興味を持ち、そして天啓を得たのである。

後は、膨大な資料を取り寄せて、調査を行った。結果可能性がある生物は、数種に絞られた。その一つが、この星に生息する深海魚である。

元々この星の海は、地球のものほどではないが栄養物質があった。そして人類が到達した時には、小型の脊椎生物が発生していた。その中の深海魚の一種に、海面と海底を往復して生活するものがいる。この深海魚の水圧克服プロセスが、まだよく分かっていない。私は数ヶ月がかりの計算の結果、体内で純水を作り出して、それに応用している可能性があると結論した。そして、今この船に乗っている訳である。

この空気が悪い環境に耐えられるのも、それを試す事ができると思うと、うずうずするからだ。学者としての本能が騒ぐ。私の中で、父が抱いていたであろうプライドと同種のものが沸き上がりつつあった。

そろそろ、目的のポイントだ。緊張が走る。無理にねじ込んで貰ったとはいえ、金は払っているのだ。もし私の分の時間を無視するようなら、告訴も検討に入れる。証拠類はリシアが抑えているから、裁判になれば私が勝てる。だが、時間は無駄にする事になる。

船が止まった。すぐに歩き出す。学者達が、私を嘲りの視線で見送った。中にはヤジを飛ばしてくる人間もいる。無視して、研究ルームへ。周囲の視線は、更に冷たいものとなった。無言で側に立つリシアが、周囲を牽制する。ロボットは情報を人間とは比較にならない精度で蓄えるため、裁判ではかなり有効だ。メイドロボットがしっかり護衛についているのを見て、周囲の何人かが舌打ちして顔を背けた。

辺りの地形を周囲の機器類から確認。見たところ、理想的な場所に停泊している。ソナーを確認する。いる。かなりの数が、群れていた。

体内で純水を作る可能性があると言っても、生きたまま調べるのは無理だ。液体窒素で瞬間的に凍り付けにし、持ち帰って調べる。少し可哀想だが、仕方がない。籠を動かし、魚の群れに近づける。もともと天敵が少ないため、彼らは警戒心が小さい。

魚はウナギのようにひょろ長く、目がつぶらで、全身に15のひれを持っている。赤くて、可愛い魚だ。40センチほどの細長い体を縦にして、かなりの速度で潜行浮上を行う。普通の魚であれば、浮き袋が即座に破裂してしまうほどの速さであり、此処に純水を使った水圧克服システムがあるはずなのである。

私の立てた理論では、深海にいる内に彼らは純水を蓄え、水面近くに来た頃には消費し尽くしている。だから、深海で捕獲する必要がある。環境的にとてもデリケートな魚で、飼育には成功していないから、わざわざ此処まで降りてこなければいけないという事情もある。

ストレスを与えるのもまずいから、できるだけ無理なく捕獲し、即座に冷凍しなければならない。籠にゆっくり追い込んでいく。魚たちはマイペースに体をくねらせており、此方の動きなど知った事ではないという様子だ。それでもアームを駆使して、籠に数匹を追い込む。額に汗が浮かぶ。事前にシミュレーションを行ったとはいえ、緊張はする。

ある意味宇宙空間で作業をするよりも、冷や汗を掻かされる瞬間だった。六匹目を追い込んだところで、頭の中で謝りながら、液体窒素を投入。瞬間的に籠の中を冷凍する。目標時間のおよそ半分でクリアできた。嘆息すると、アームを格納。籠を研究スペースに持ち帰る。

コンソールの前をどくと、すぐに他の学者が割り込んできた。汚物でも見るかのような視線であった。恐らく、イチャモンをつけてあざ笑うつもりが、用意良くメイドロボットを連れてきていたからだろう。彼らには、変な研究を行っている奴はバカに違いないという先入観があったに違いない。そして、此処に来た私を、痛めつけて楽しむつもりだったのだろう。

目論み通りに行かなくて残念でしたね。私は心中つぶやくと、籠が格納された船体下部へと急ぐ。暗いものと明るいもの、二つの喜びが同居していた。氷付けになった籠がしっかり格納されていた。とりあえずは一安心だ。後は冷凍したまま持ち帰り、自宅で研究を行えばいい。既に今回の研究用のスペースを自宅に用意してある。キノカに整備をさせているから、帰った頃にはもう使う事ができるだろう。

額の汗を拭う。後は、これを運び出すまで、ほぼ一日待たなければならない。調査スペースを借りる事はできなかったし、今から使う事は無理だろう。しばらくは此処で静かに過ごしているしかない。

「此処は私が見張っておりましょうか」

「ううん。 いいの」

「しかし、ほぼ一日を過ごすには、此処には変化がなさ過ぎます。 精神的に、マイナスの影響が生じかねません」

「大丈夫よ。 この研究を行うのに、私、その籠の中の魚さん達の命を奪った。 だから、それに対する責任くらいはとりたいじゃない」

冷凍スペースに籠を移すと、私は壁際にあるベンチに腰掛けて、ぼんやり天井を見上げた。焦燥感はない。非才な私でも、また新しいアイデアを思いつく事ができたのだ。だから、きっと今後も上手くいく。くだらない研究だと揶揄する奴は勝手に笑っていろ。私の人生は、私で歩むのだ。父から受け継いだものを完成させるというのも、また人生の一つの形。常識などと言う実体のない代物に縛られた連中に、あれこれ言われる筋合いなど無い。

今までの焦燥が無くなったからか、私の心は静かだった。帰ったらこの魚たちの体内を調べてみよう。ただそれだけを考えながら、私は思う。この船の中は、私にとっての社会の縮図だ。本当の意味での味方は一人もいない。

だが、別にそれでも構わなかった。

純水が見つかったのは、家に帰ったからすぐの事。自分の理論が証明されたというのに、どこか私は虚しいと感じていた。父の研究が完成したというのに、達成感は殆ど無かった。

 

案の定というべきか。学会に研究を発表してもほぼ黙殺された。最初から期待していなかったから、別に何とも思わなかった。腐敗しているしていないの問題ではなく、そもそも学会で受け入れられるには異質であったという事だ。ひょっとすると、「無意味な研究を二代にわたって完成させた変人親子」とか言われて歴史に残るかも知れないが、知った事ではない。

私は空虚な日々に戻っていた。研究をするにしても、その題材がもう無いのである。軍からは純水の研究を行わないかという依頼が来たが、まだ返答はしていない。企業からも依頼があったようだが、此方はリシアがレイ中佐の命令で全てシャットアウトしているらしい。まあ巨費を投じてのプロジェクトだから、当然の事だろう。

高校の教師を行いながら、茫洋と毎日を過ごす。枷が外れた感覚がある反面、気力が湧いてこないのも事実であった。

人間は自分勝手な生き物だ。もちろんそれには自分自身も含む。父はどんな気分だろう。研究を完成させたが、自分の中の父がどんな反応を示すのかが、全く分からない。父が研究を完成させていたらどうしただろう。嬉々として次の研究に取りかかったのだろうか。

授業が終わって、家に帰ってきて、気付く。来客があるのだ。玄関まで迎えに出てきたキノカが、不安そうに居間を視線で差しながら言う。

「お客様です」

「誰?」

「私です」

声が即座に飛んできた。レイ中佐だ。あまり直接会う事はなかったのだが、どういう事だろうか。

居間にはいると、軍の護衛二人と一緒に、レイ中佐が茶にしていた。すぐにリシアが私の分の茶も用意する。コートをキノカに預けながら、私はできるだけ影を顔に作らないようにした。無駄かも知れないが。

「レイ中佐、何の用でしょうか」

「お土産を持ってきました。 貴方の父上の関係者が、某所に預けていたものです。 最近権利関係を軍が引き取って、保管していました。 貴方が研究を完成させたら渡すようにという事でしたので」

初耳だ。緊張する私に、記憶媒体が渡される。十年以上前の型式だが、再生には問題がない。レイ中佐は多忙な身らしく、後は二言三言だけ現状確認すると、すぐに家を出て行った。

自室に飛び込む。PCに記憶媒体を突っ込む。中を見ると、幾つかの研究資料と一緒に、映像記録が残っていた。

再生してみる。立体映像であった。父はまだ髪が多く残っていて、若い頃だと言う事が分かる。どうやらテレビ局の人間が、父を写しているらしい。無遠慮に、テレビ局のキャスターがほざく。

「フォーゲル博士、そんな無意味な研究を続ける意図は何ですか?」

「失敬な男だな、君は」

「失敬? 失敬だそうです。 ははははは」

どっと笑いが起こる。私は不快になったが、父は表情を崩さない。テレビ局の下劣さ加減は、いつの時代も同じだ。メインメディアの座から転落した現在でも、それに代わりはない。ざっと見たところ、幾つか特徴がある。PCで検索して、即座に番組名を割り出し、放送局も確定。とりあえず、この放送局がどういう姿勢で番組を作っているかはよく分かった。この放送局の作る番組は、私にはご高承過ぎるから、二度と見ない事としよう。

そのまま映像を流す。キャスターの質問などそれこそどうでもいい。父が何を喋るかが、興味がある。

「例えば、君は何を残す事ができる?」

「はあ、それはどういう意味でしょうか」

「君が今、映像で残しているのは、他人に対して品位のない質問を投げかけている、三流キャスターという現実だけだ。 この番組がタブロイド並みのくだらないものだとしても、君が残すのはそれ以下の印象でしかない」

「失礼ですが、貴方の研究にも、それ以上の価値があるとは思えないのですが」

へらへら笑っているキャスターは、父をバカにしきっていた。そういえばこの男、確か見覚えがある。テレビ局から得た裏情報を元に若手のアイドルを揺すった挙げ句に、刑務所送りになった下郎だ。若い頃からクズだった訳だ。今後この男の顔は見たくもない。映像処理プログラムに、此奴の顔が出てきたらカットするように手を加えておこうと思った瞬間。男の顔が引きつった。

「私は世間の評価などに興味はない。 私のこの研究は唯一無地のもので、他の誰もが行わないものだ。 世界で唯一私だけが行うこの研究をくだらないと呼べる奴は、一体何様なのだろうな。 こんなくだらない番組のキャスターとしてふんぞり返っている君に、少なくともバカにされるいわれはない。 君の代わりなど幾らでもいる。 だが、私の代わりはどこにもいない」

しんとした番組。父は立ち上がると、カメラをにらみ付けた。苛烈な眼光が、周囲を圧倒しているのが分かる。若い頃の、私が憧れた父の姿が其処にあった。

「常識でしか価値を計る事ができない連中に用事はない。 常識上の価値観からの「変人」を食い物にして視聴率を稼ごうという番組にもだ。 では失礼する。 二度とテレビに出る事はないだろう」

父が歩き出す。カメラが唖然とそれを見送った。胸がすくような啖呵であった。実に気分がいい。同時に私は、父が何故この研究をしていたのか、明確に理解する事ができた。

父は、オンリーワンの存在になりたかったのだろう。

純水の研究では、もともと世界的にトップクラスの位置にいた父。だが、純水自体は古くから研究されているもので、父の専売特許ではなかった。しかし、父は何か一つの分野で、極めたかった。そのためには、今手が届かない過去の遺産の蓄積で成り立っている研究分野に、何かしらの風を吹き込む必要があったのだ。

そして、父の遺志も分かった。父は恐らく、私に研究を継ぐ事など、望んではいなかっただろう。私の代わりは何処にもいないという言葉が、それを裏付けている。そしておそらくは、私の事にもあまり興味がなかったのだろう。一途に研究を続けるその背中に憧れてはいた。だが、父はきっと、研究を一番愛していたのだ。

それは見ないようにしてきた事。今までも、心の奥底では理解できていたことだ。乾いた笑いがこみ上げてきた。多分父がこの場にいても、私が研究を完成させた事を喜ばなかったに違いない。

違和感の正体が、やっと分かった。いや、分かっていた事を、ようやく正面から見る事ができた。

私は、父の研究を継いだのではない。父が死んだ後も、その思想に、ずっと依存し続けていただけだったのだ。

キノカを部屋に呼ぶ。ドアを閉めて二人きりになった事を確認すると、思わず抱きついていた。困惑した様子のキノカに、私は言った。

「ごめん。 ちょっと泣かせて」

「蛍様のご自由に。 私は、ずっと此処にいます」

涙を流すのは何年ぶりだろうか。そうだ、父が死んで以来だ。私は涙腺の機能を全開にして、深夜まで泣き続けた。

 

思い切り泣いたからか、翌日からは随分晴れやかになった。学校への足取りも軽い。途中、麟と会ったので、挨拶する。麟は私の顔を見ると、ぱっと笑顔を輝かせた。

「先生、幸せそうですね」

「んー? 幸せかどうかは分からないけど、決着はついたよ」

「良かった。 みんな先生の事心配していたんですよ」

「悪いけど、それは信用できないかな。 でも、貴方が心配してくれていたのは分かったわ。 ありがとう」

そのままベルトウェイを急ぎ足に学校へ。アイデアが次々に湧いてくる。高校の教師も悪くないかも知れない。その一方で、研究してみたい事も、次から次へと思いつき始めていた。

今まで存在していた枷が、全て外れた印象を受ける。今なら何でもできそうな気がしてならない。軍の研究だろうが、細菌兵器の作成だろうがこなしてみせる。今までに得た知識を使って、ますます面白い実験授業だってできる。空でも飛べそうな気がしたが、流石にそれは実行してはならない。

職員室にはいると、私を見て何人かの教師が驚いた。頭が半分はげ上がった教頭が眼鏡を直しながら、声を掛けてくる。

「蛍先生、何かあったのですか?」

「といいますと?」

「雰囲気が明るくなったようなので」

「ははは、ありがとうございます。 いろいろありましたけど、解決しましたから。 もう大丈夫です」

今更ながら気付くが、どうやら私は、感情を隠すのが下手らしい。生徒だけではなく教師にまで気付かれていたとは。今更ながら自分の無能さに気付くが、それでも不快ではなかった。自分の無能さをしっかり理解する事ができたのだから、むしろ良い事ではないか。そんな風に、ポジティブな思考が次々に浮かんでくる。

仕事は異様にはかどり、授業の組み立ても問題なく済ませる事ができた。早速授業では、水を利用した面白い実験を行ってみる。純ナトリウムを水に入れ、爆発させる実験だ。過激で分かり易い実験の方が、高校生達は喜ぶ。爆発するナトリウムを見て生徒達は随分満足していた。楽しそうに実験をしているのを見て、私も嬉しかった。

新しい研究テーマが思いつきそうな気がする。父は父、私は私だ。結局の所、私は今まで精神的に自立できていなかったのだろう。これからは楽しく好き勝手に生きる事にしよう。

それが父と同じような生き方であるのは、遺伝子的な問題である。義務もなければ、責任もない。今でも父が好きな事には変わりないが、それは偉大な先人に対する尊敬であって、今までのような思想的依存ではないのだ。

授業が終わると、生徒達は笑顔で余所の教室に移っていった。おもしろい実験をすると、授業でも生徒達は喜ぶものなのだ。これを一事の経験とするか、興味を持って生業にするかは彼ら次第。私は縛るのではなく、ただ教えるだけでいい。

研究も、世の中の役に立つようなものでなくてもいい。むしろ常識など糞くらえだ。私は思う存分好き勝手な実験を行い、自由に生きる事としよう。それこそ社会などどうなろうと知った事ではない。私の研究を邪魔するようなら、路傍の小石として処理するだけの事。私に常識を押しつけようとするのであれば、無言で排除してくれる。

楽しい決意を固めると、私は次の授業で何を教えるべきか、プランを練り始めた。私にとっては研究が恋人だが、高校教師も友達くらいにカウントしても良いと思えるようになってきていた。

さあ、何か新しい研究をしよう。にこにこしながら、私は科学実験室を出て、職員室に向けて歩き始めた。

 

(終)